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過労死の前に見られる 体が動かなくなる地蔵病 慢性的な短時間睡眠の持続が原因ではないのだろうか [閑話休題]



<事例1>
その人は亡くなってはいないのですが、過重労働(長時間労働、上司との人間関係の不具合)とストレスの一番高まっているときに、突然立ったまま動けなくなったと言います。仁王立ちの状況で、口も動かせなかったようです。どのくらいこれが続いたかわからないのですが、家族が心配してスプーンでかゆ上のものを口の中に入れたけれど、口が動かせないので、だらだら零れ落ちてきたそうです。意識はあり、本人はこの状態を記憶しています。この人は、自分の状態を地蔵のようになったと言っています。その後救急車を呼び、救急隊員の方々にマネキン人形を運ぶように担がれて救急車内に入ったところ徐々に体が動くようになったとのことでした。
自分で体を動かせないという症状と、マネキン人形のように運ばれたということから一定の硬直があったのでしょう。

<事例2>
こちらも生存事案です。慢性的な過重労働で、数か月にわたり月120時間を超える時間外労働をしていました。発症直前2か月くらいは布団に入ってもよく眠れなくなっていたようです。
その人は朝起きて仕事に行こうとしたときに布団の上で異変が起きました。体がグラグラしだして文字通り倒れてしまったとのことです。その後、やはり体を動かすことができず、トイレに行くことができず失禁してしまったそうです。少しして家族に抱えられて自動車に載せられて病院に行ったとのことで、事例1よりは硬直や麻痺の程度は軽かったようです。記憶があります。グラグラしだしたという表現はその通りだと思いますが、その時すでに体が動かずバランスを調えようとすることもできなかったということのようです。もしかしたら硬直も起きていたのかもしれません。

<事例3>
数か月後に自死された事案です。道を歩いていて、突然倒れて動けなくなり救急車が呼ばれたようですが、やはり救急車の中で体が動くようになったようです。亡くなってしまった後に事件を担当していたので、本人から話を聞くことができません。この人も長時間労働の上に、数か月間休みを取っていませんでした。

各事例とも30代男性です。診断名は事例1は最終的にうつ病でしたが、発達障害、人格障害、統合失調症などの病名もつけられました。日本を代表する大学の病院で発症前の様子を調査しないで心理テストだけでその診断がなされたこともあるようで、医学の素人からすると少し奇異な感じを受けました。

事例2は双極性障害ないし統合失調症、事例3は妄想性障害の診断名が付いています。

この他に身体が硬直して動けなくなるという体験は重いうつ病の方からも報告を受けています。

睡眠時間の不足は、必ずしも労働していたために睡眠時間が削られたということだけでなく、その短時間睡眠が何か月か続いていくと、そもそも常時交感神経が高ぶっている興奮状態となり、横になっても眠ることができないということも関与しているようです。

事例1の方は元々大手企業の昭和の猛烈社員をほうふつさせるやり手の方で、現在は大手企業で働いていますが、そこまで回復するまでには数年以上かかりました。

事例2の方も元々幻覚幻想は無く、私がであってきた統合失調症の方とは全く違う状態ですが、向精神薬を飲んでも平気だということは、やはり何らかの精神的な問題を抱えているのかもしれません。現在も睡眠サイクルが破綻しており、就業をすることができません。

事例3の方は自死されました。

他の体が硬直することを教えてくださった方も10年以上を経てもうつ病は治癒していませんが、10年後に復職がかない、時々調子が悪くなって休むのですが、仕事は続いています。

闘病中の事例2の方の状態が一番詳しくわかるのですが、睡眠サイクルが破綻しているというのは、薬を飲まなければ眠られないようなのですが、眠る時は18時間くらい眠ってしまったり、朝起きられないなどの症状があり、規則正しい生活ができないようです。その他は、身体も鍛えているようで、はたから見たら健康体にしか見えません。一番の問題は客観的には睡眠障害です。

それぞれの共通点は、発症前2か月から数か月短時間睡眠が慢性的に継続していたということです。

必ずしも長時間労働のために睡眠時間が圧迫されるというわけではなく、事例2の方が典型的ですが、特に他にストレスが無いけれど、1日4時間程度の睡眠を、定まらない時間帯に取っているうちに(明け方から昼くらいとか、深夜から数時間とか)、布団に入っても寝付けなくなってしまい、眠っても深い眠りを得られず、中途で目覚めてしまうという状態になったようです。このため、1日あたり1,2時間程度の極端な睡眠不足が継続していたことになります。

この他にも、上司とのやり取りが葛藤を高めて、布団に入っても昼間の悔しい気持ちや怖い気持ちがよみがえってきて眠りにつくことができず、やはり1日2,3時間あるいはもっと短い睡眠状態が続いた人もいました。
さらに別の方は職場のストレス以外に、家庭生活でストレスを抱えていて、いずれにしてもゆっくり眠ることができず短時間睡眠が続いていたという事情がありました。

共通することは、脳が眠る体制になっていない状態だったということだと思います。

そのような人間の生理に反する睡眠状態が続いたため、ますます眠る体制を作ることができなくなったのでしょう。それでも生理的には睡眠を要求するというか、眠ろうとしていたのだと思います。いよいよその矛盾が大きくなり、覚醒はしているのですが、脳の一部が眠ってしまったために体が動かなくなったということは考えられないでしょうか。

一種の金縛りの状態です。金縛りは睡眠から覚醒する際に体が動かなくなる状態ですが、不完全ながら意識もあります。逆に覚醒した後に脳が眠り込むことによって、身体が動かなくなるという状態が地蔵状態なのではないかと思っています。つまり、睡眠不足が続くとレム睡眠の状態が早く始まる傾向になるとしたら、その睡眠不足が極端に慢性化した場合、覚醒した後でレム睡眠の一部が始まってしまい、脳から運動神経への神経回路が遮断してしまうという状態になってしまうのではないかという、いわば妄想的な話なのです。この不完全なレム睡眠状態というのは、逆に意識が無く運動をしてしまうレム睡眠症候群というのがあるわけですが、その逆の状態ということになると思うのですが、どんなもんでしょうか。それにしても、身体が硬直する場合は倒れてしまうことが多いか、横たわっているときに硬直することが報告されているのですが、仁王立ちで立ち続けていることができたメカニズムはよくわからないところであります。

いずれにしても、地蔵状態が起きると、その要因を放置すると死に至る可能性があるということは言わなければならないと思います。特に睡眠不足についての研究の益々の発展を願ってやまない次第です。
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ホームページのリニューアルを始めています。 [閑話休題]

久々のカテゴリーです。
現在ホームページをリニューアルするべく、時間の合間を縫って
コツコツと原稿を書いています。

というのは、先日、弁護士業務とタイアップしようとする業者さんの話を聞いたのでした。
当事務所のホームページを見てもらっていたようでした。
一言「大変もったいない」というお言葉をいただきました。

技術的なお話ももらったのですが、
何よりも、「宣伝になっていない」というご指摘でした。

ある意味目からうろこでした。
確かに私の事務所のホームページは、宣伝の要素が全くないとは言いませんが、
それが主ではなく、
どちらかと言えば、紛争予防のために日常的に意識するべきことは何か
みたいな、ある意味一般教養のような政策意図がありました。

しかし、確かに弁護士のホームページを見る人が
一般的な生活の知恵を身に着けようなんて悠長なことを考えて検索はしないでしょう。

切実に差し迫った問題に対してどのように対応するかという状態だから
弁護士のホームページを見るわけです。

つまり現在の私の事務所のホームページは、
ニーズを持っている人のニーズに対応しきれていない
という問題点があるということになります。

一般教養は対人関係学のホームページでやればよいと割り切って
法的紛争を抱えた人にクリティカルに役に立つ情報を提供することが
弁護士のホームページの役割かもしれない
と思い直したところでした。

全体のレイアウトはほぼできましたが
地の文を書くのはなかなか骨が折れます。
いっそのこと、このブログの記事を張り付けてホームページにしようかとも思いましたが
やはり、文章を吟味して誤字脱字が無く、意味の通る文章にしようと思いなおし
原稿を書いております。



コツこととやっているので、なかなか進みません。
ゴールデンウィークころまでに完成すると良いな
と思っています。

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マンスプレイニングは、「必ずしも」女性蔑視と関係するわけではないということに関する一考察 [閑話休題]


特にSNSで、マンスプレイニングだという非難を目にする。
非難されている方の人の言動に共感を持つことはないが、
非難の仕方にも違和感を覚えることがあった。
どうして男女差別の問題に引き直して批判しなければならないのだろう
というのが違和感の理由だと思っていたが
少し違う観点もあるという事情が見えてきたので、ここに記す。

マンスプレイングの定義をウィキペディアで調べると
(ウィキは、寄付を必要としているようです。)
リリー・ロスマンという人の定義が引用されている
「マンスプレイニングは通常、男性が女性に対して行うもので、相手が自分よりも多くを知っているという事実を考慮しようともせずに解説しだすことである。」というものである。

これは、自分では大うけだった。
あるあるだ。
SNSでまじめに情報提供をしているのに、
その情報は間違っているというコメントをする人たちが多くいる
事情を知らない知り合いも読むわけだから、
「何だお前間違ったこと堂々と描いているのか赤っ恥だな」
等と思われないかといたたまれない気持ちになることもある。
しかし、書き込まれたコメントは
怪しげな情報を自信たっぷりに言っていたり、
(出典は学校の教師が言っていたというようながっくりくるものもある)
まったく記事とは関係のないことを自慢げに話していたり、
そもそも定義もめちゃくちゃで論旨も不明なものまである。
それは間違っているよとか、関係ないこと言っているから削除するよ
等というのも、自分が了見の狭い人間のように
そのコメントをした人以外から見られるのも嫌だし
困ってしまう。
恥ずかしい他人のコメントはそのままさらしておくことが多い。

またウィキからの引用だが
(有用なコンテンツですから寄付をすることは有意義なことだと思います。)
マンスプレイニングは、レベッカ・ソルニットによれば、
「自信過剰と無知」の組み合わせからくるようだとされている。

この解説を読んだとたん、マンスプレイニング概念は、
やはり賛成できない、どうやら弊害の方が多いと
笑いを引っ込めることにした。

確かに先の定義によるマンスプレイニングを行う性は圧倒的に男性である。
しかし、女性も行う場合もある。
SNSなどでは見ること少ないが、
日常的な調理や裁縫、家事全や育児、あるいは倹約について
こちらが不慣れだと自己判断するととうとうと語りだす女性はいる。
(その多くに、迷信や都市伝説が含まれる)
オカルト的なことやスピリッツ(焼酎ではない)に関しても
とうとうと語りだすのは女性のほうが多いように思われる。
もっとも、そういうことを語りだして止まらない人間は
自分が信じていることがオカルトの類だという認識はないようであるから、
こう言っても自分のことだろうとは思わないだろう。

あくまでも自分の領域だと自負していることについて
親切心で解説してくれているのであれば
聞いて損はないので聞いたら良いのではないかと思う。
聞きたくなかったらスルーすればよいので、害はない。
これもマンスプレイニングだと言って非難するのは
あまりにも劣等感を感じやすくなっている
ということで自分に注意するべきかもしれない。

よく引き合いに出されるのはパソコンを選んでいたら
口出しをしてコーチをされたという場合である。
しかし、ひところ前にはそういうコーチ屋がいたけれど
最近はこのような人間はあまり見ない。
まだどこかにはいるのだろうか。

というのも、現代では、パソコンも男の領域
という意識はなくなっていると思われるからだ。
一昔前(あ、30年くらい前です)は、
電気店どころか、秋葉原全体が男しかいないような状態で、
パソコンといえば男性の領域という意識がなかったわけではない。
この時パソコンおたくは、女性だから説明を始めているのではなく
「おたくではない人間」だと感じた人間に説明を始めていたのであり、
男女差はなかったと思う。
自慢したいという気持ちはもちろんあるだろうが、
一般人の価値観は自分たちオタクとの価値観とは違うという自覚があり、
鼻高々という感じではなかったのではないだろうか。

こういう解説好きを利用していたのは、
要領の良いおばさんたちだったと思う。
私もずいぶん酒売り場で解説をさせられた。

明らかに困っている人がいるのに店員がいないため
これはこうですよと簡単に説明すると
女性は一応礼を言ってくれるが
男性は明らかに迷惑そうな表情をするから面白い。

こういう利用できる解説マンは、役に立つ。
もう私も前期高齢者に差し掛かってきたので、
教えてくれれば男性でも、女性でもありがたく感じるようになってきた。
マンスプレイニングなどといって
親切な人が困った人を助ける風潮が蔓延することは避けたい。
知らないことはたくさんあるのだから
教えられることで自分が知らないことを感じるほど
劣等感を感じさせられたと感じるのはおかしい。

この類型とは異なり
対等に議論しているのに、反論できなくなって
「わからないからそういうこと言うのだろうから教えてやるが」
等と見苦しい対応をする学者とか起業家は
どんどん非難されるべきだと思っている。
でも、そこでマンスプレイニングだという必要はあるのだろうか。

マンスプレイニングだといって非難することは
異なった論点を持ち出すことではないだろうか。
そう、学者や起業家が論点を外すために教えてやると言っていることに
奇妙に重なるような印象を受ける。
ジェンダーフェミニズムの同志に助けを求めているような
弱弱しさを感じる。

議論の相手を見下したような「教えてやる」という人間は、
マンスプレイニングというよりも
威圧的な手段での攻撃であるのでそのことで否定評価をすればよい
こういう議論の本質から離れた議論をする自分に自信の持てない人は
男女の性差とかかわりがないように感じられる。

もう一つのパターンである
自分の領域でもなく、知識もないのにコメントをする人
(先の定義に一番近い)
こういう人たちのテーマは、「承認要求」である。
多くは人間関係で不合理な思いをしている人たちであり、
「現在のこんな待遇は納得がいかない
自分はもっと評価されるべきだ」
と感じ続けている人たちだ。

スレ主に歯向かっているとか、意見に否定を表明しているというより、
このようなコメントができる自分を評価してほしい
ということのようだ。

しかし、間違った内容、焦点の定まらない主張
論点を踏み外したコメントであることや
関係のないことをコメントしだすという
空気を読む以前の言動のため
評価はダダ下がりになるだけである。
少なくともスレ主は当たり前に不愉快になっている。

それでもどちらかというと、
スレ主に仲間意識を感じている場合の方が多いようだ

自分を高く評価してほしいという思いは、
自分の実力以上の評価をしてほしいというよりも
正当な評価をしてほしいということであり、
それだけ自分は不当な評価を受け続けているという訴えなのだろう。

自分にも覚えがある。
偶然自分のタイムラインに飛び込んできた記事に
うっかりある話題のコンセンサスがある友人のスレだと勘違いして
コメントを出してしまい
スレ主を不愉快にさせたことがあった。
速攻で削除したが、遅かったようだ。

自分も不遇な思いをしていた時期の過ちであった。
ドンマイ。

承認要求が強い状態になっている人は
男性女性に関わらず、いらぬコメントを書き込んでしまう。
承認要求が強く、自分の領域を侵されたと思うと
相手が女性であろうと男性であろうと
中身が見当違いであろうと
コメントしないではいられなくなってしまうようだ。

私はマンスプレイニングと呼ばれている現象はこのようなものだと思う。
男性が行う場合が多いが、
男性の社会的役割意識とはそれは程関連額なく
男性が対人関係において不合理な評価を受ける機会が多いだけのように思える。
条件が同じなら、性差に関わりなく出現すると感じている。

女性に対して威圧的な学者や起業家の類は確かに存在する。
しかし、彼らは、あくまでも「自分よりも弱い立場」だと思う相手に対しては
男女にかかわりなく威圧的な攻撃をする。

そこをつけばよいのであって、
何も自分は女性であるから攻撃を受けているというアッピールをするのは
すでに一対一では議論に負けるから
議論の本質とは関係なく女性であるということで自分を支援してくれ
と言っている結果になることをプライドをもって気にするべきだ。

こういう威圧的な議論の犠牲者は多い。
それをマンスプレイニングという言葉を蔓延させることによって
女性だけが保護されるべきだという風潮になることは
女性の立場を拡充する志のある人ならば警戒するべきであると思われる。

マンスプレイニングという概念は
未整理であるため
何らかのコメントをされた、アドバイスをされたということを
自分が馬鹿にされた、低評価された
という意識を持たせる効果もあるのではないかという心配もある。

分断のための議論ではないかと感じている。

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【半ば宣伝】一人で悩んでいるときこそ言葉に出すことで誰かと相談した時の効果があるということが私が講演を断らない理由とこのブログが私にとって存在価値がある意味 [閑話休題]

半年以上前に書いたブログで、
言葉には二つの源流があることを述べた。
一つは、危険を教えあうことと
もう一つは、相手を安心させるための言葉
そして言葉というよりも強さとイントネーションが大切だということだ。
今思うと言葉というより、会話の始まりというほうが正確かもしれない。
それから、どうして語彙が増えたのかについて
人間が仲間と認識できる人数を超えた人間とかかわりあいを持つため
言葉が必要になり、言葉増えたということをのべた。


言葉の始まりと成り立ち 言葉を使おう!現代に生きる我々が意識して行うべきこと。 
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2019-05-24

だから私たちが悩んでいるとき、
考えているふりをしているとき
意外と言葉は使っていない。
ただ悩み、ただ不安になっているだけということが多い。

言葉も会話も、元々他人と関わるために生まれたのだから
他人の存在を前提としている。
だから、自分の悩みを正確に言い当てることは
言葉の目的ではなかったということになりそうだ。

自分の考えや着想を言葉に出し切ることはできない。
そもそも、相手が理解できる範囲で伝わるだけのことでもある。

それで十分であり、それで役割を果たしてきたし
文明を発展させてきた。

そしてここにもう一つの言葉の機能が生まれていた。

考えを言葉にしてみることで
これまで考えていたことと別の着想が生まれるということだ。
自分の考えと、あるいは感情と、言葉との間には必ずずれがある。
すると
本当は自分が考えていたことではないことが
自分の言葉の中に発見できることがある。
自分で言ったにもかかわらず、
それを耳で聞いて、目で読んで
「ああそうか。」と思う。

そうやって、考えるための武器が増えて、
知識が増えるときもある。

一人で考えているときこそ
言葉にしてみることが必要だ。
言葉にしないと、考えているようで本当はただ困っているだけの時も多い。
文字や音声にしてみることで
誰かと相談しながら考えている効果が生まれてくる。

でも、本当は誰かにその言葉を聞いてもらえる状態が
一番良いように思う。
誰かに伝えたいことを伝えようとしているとき
自分の発する言葉に刺激を受けることが多いように思える。

だから、私は、講演のお誘いはなるべく断らない
学校でも、職場でも、PTAでも、研究会でも
官庁でも、自治体でも、経営者の集まりでも
積極的にお話に行く。

人権や、自死や、過労死予防や、いじめ予防、
家族や夫婦の育て方、労働法、
私の興味関心のあることならば喜んで話に行く。

必ず新しい発見があり、新しい武器を獲得する。

しゃべっているうちに、ペロッと台本にないことを思いついて話して
聞いてくださる方々の表情や反応に驚き、
ああこういうことだったのかと気が付くことが多い。
自分が話しているのに、自分が一番勉強している。
これがとても楽しい。
だからやめられない。
どんどん呼んでほしい。

結局このブログもそういうことなのだろう。
お話の原稿をアップするのもそういう理由なのだろう。

検索しているうちに、うっかりこのブログを開いてみて
お読みになられてしまった方には申し訳ないけれど。

読んでいただけるかもしれない誰かを思いながら
今も書いている。



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【御礼】類型200万件(ビュー?)突破記念 対人関係学のページ全面リニューアルのお知らせ [閑話休題]

昨日、このブログの類型数が200万件を突破しました。
お読みいただいた方々に感謝を述べなければならないと
強く感じました。

というのも、ブログ一般では、驚くべき数ではないのかもしれませんが、
なにせこのブログの各記事は、
第1に、長い。
第2に、内容が固い。必ずしも読んでいて楽しいわけではない。
第3に、発想が飛びすぎているところがあり、
一読して理解しずらいことが多い。
それなのに、ろくに推敲もしないまま書きなぐっている。

およそ読みやすいブログではありません。
私が言うのだから間違いないでしょう。

それにもかかわらず、
10年経過しないで200万ビューというのは、
正直驚いています。
このブログをお読みいただける環境の方々の
筆者を超える教養とご寛容に
素直に頭が去ります。

200万件というのは大きな節目なので、
何か記念のことをやりたいと思っていたのですが、
ちょうど、
4月にヤフージオシティーズが閉鎖となり、
事務所のホームページを強制リニューアルするはめとなり、
ホームページビルダーを21にお金をかけてバージョンアップして、
せっかく身に着けたノウハウがあったし、

このブログと事務所のホームページと三位一体である
対人関係学のホームページが
5年前に作成していて、
体裁も乱雑だし、内容も古くなったかなと思い、
リニューアルしようと思い立ちました。

そうしたら、5年前のものがそんなに古くなっていなかったのです。
この間、進化心理学や進化生物学、認知心理学や大脳生理学など
勉強しまくったはずなのに、
それほど理論的進化はなかったことになります。
ちょっとショックでした。
5年前に既に完成されていたと思うようにすることにしました。

ただ、このブログよりは、簡潔にわかりやすくを
一応心掛けて
一度様々な論点を整理しようと思いました。

ちょうど令和に代わるときに10連休があったため
その時間を利用して作業を進めることができました。
このため(本当は過去分と区別をするために)
令和対人関係学のページという制作コードにしました。

過去分はリニューアルのアーカイブにまとめてはみましたが、
自分にとっては、史料価値があるし
この時期からこういうことを言っていたのだという
証拠みたいになるかなと思い
過去のホームページは閉鎖しないことにしました。
(ただだったもので)

新しい対人関係学のホームページは、
インデックスというか、用語の確認というか、
あると便利です(これも自分にとって)。

また、いくつかの理論のようなものは、
このブログを書いているうちに思い付いたものが多いのです。
それから実務で話していることを文字にしようと思ったのも
このブログを書いていたからだと思います。

今もそうなのですが、
誰かに読んでいただくということを念頭に
記事を書いていると、
日記を書くよりも緊張感というか、
もっと読んでもらいたい、
もっと説得力を身につけたい
もっと必要なことを考えたい
という気持になるものです。
そういう意味で、二つのホームページとこのブログは
三位一体だと感じています。

そして私一人で作成しているのではなく、
お読みいただいている方とご一緒に作り上げている
というように感じています。
そうでなければできなかったと思います。

最後に新しいページの中身を紹介します。
<トップページ> あまり内容はありません。
目次を加えました。
ただ、対人関係学をどうして作ろうとしたかを簡単に書いています。

<対人関係学概要・用語のページ>
対人関係学について、丁寧に説明しています。
ブログや各論のページでは、省略したり最小限にしたりしている
そういう大事なことを書いています。
お手数とお時間をかけさせてしまいますが、
これを読んでいただければ、他の記事もわかりやすくなります。

用語について
これも各論を読んでいただいたり、
このブログを読んでいただいたりしたときに、
あると便利だろうなと思い作りました。
正確性よりわかりやすさに力点を置いています。

<研究ノート・妄想のページ> 対人関係学の説明として
どんな勉強をしてこう考えたかということを
紹介しておいた方が便利かなと思い作りました。

今のところこのブログの記事を並べています。
これで気が付いたのですが、
対人関係学のページを作る場合は
ハーマンの「心的外傷と回復」だったり、
思い込みDVを提唱する時にはウォーラースタインだとか
けっこう勉強した成果をすぐに表現したい
という傾向が見えて我ながら面白かったです。

妄想の欄の記事が、実は一番読んでいただきたいところなのですが、
どこまで役にたつものか不明で、
かつ専門的にどこまで間違っていないのかということが
全く自信がないので、
敢えて妄想と名付けました。
ドーキンス博士の利己的遺伝子批判は、
対人関係学の内容を説明する
もう一つの概要説明となっています。

ラスコー洞窟の謎についても
これぞ対人関係学
という内容になっていると思うのですが、
いかがでしょうか。

<道徳・正義・人権のページ>
このテーマは、とても気に入っていいます。
ほとんど書き下ろしです。
誰も言わないだろうことを主張しております。

「道徳の起源・人の心の形成期に道徳はなかった」
「正義を肯定的に語ることは金輪際やめよう」
「人権として『権利が生まれる時』、『弁解する権利』『表現の自由 自分のことは自分で決める』」
という記事で、力を入れているところなのですが、
正義を否定するというと悪魔みたいで面白いと感じています。

<故事等再定義のページ>
このブログで好評をいただいた記事を中心にブログ記事をリンクさせています。
故事ことわざって、おばあちゃんの知恵袋のように、
その理由はわからないけれど
それに従って生活することで、無用な争いを避ける
無用な孤立や疎外感を防ぐ
というような生活実務上役にたつことが多いようです。
ところが現代の孤立した若夫婦には
それがなかなか伝わりません。
そういう視点で、再定義、再評価しています。

<解決のためのツールのページ> 自分で悩むとき、誰かを支援するとき、フリーハンドではなく
しっかりした武器があることが有効です。
「部分的承認の技法」
「プラスワンの技法」
「心は後からついてくる 対人関係的危険」
弁護士の技術は大事なところまで一子相伝的なところがあるので、
敢えて文字にして使えるものなら使ってもらおう
ということも、このブログの目的なのです。

<自死(自殺)のページ>
「自死に至るメカニズム」
「子どもの自死の第三者委員会は何を検証するのか」
このページは最優先で補充していくつもりです。
事務所のホームページにも自死対策のページがあるので
ここもどうすみ分けるかが課題です。

<夫婦円満の秘訣と夫婦仲が壊れる原因のページ> 「良い夫婦の条件 DV案件から考える」
「『出産したら別の人』と心得ることの意味」
産後クライシスや脳機能の変化、ホルモンバランスの変化をまとめています。

「真正DVとはなにが起きているのか」
書いてて苦しくなりましたので、読まれる場合は自己責任でお願いいたします。

書き下ろしというか、まとめを意識して、
これだけで各論点が抑えられるようにとの目的です。

<子育て・いじめ・虐待のページ> 「子どもをいじめに負けない人間に育てる家族力とは何か」
「いじめる側の分析 なぜいじめることができるのか」
「いじめのパターンと分析 わが子がいじめにあった時の対処法」
「LINE等のSNSがなぜいじめに利用されるのか 危険の所在 おとなもだけど」
「虐待の原因と予防対策」

力を入れたページです。最近力を入れています。

<職場の人間関係のページ> ここは対人関係的労務管理をやや詳しく紹介しています。
ここも補充が必要ですが、
事務所のホームページとのすみわけに悩むところです。

<クレーマー・無差別殺人のページ> 「クレーマーへの対応」
のみとなっていますので補充が必要ですね。

<医科学・脳科学への要望のページ> 「病気が生活に影響を与えることの研究と啓発をお願いしたい」
「それ本当に統合失調症という診断でよいのですか」(ブログ記事の転載)

<アーカイブのページ> 以上です。盛りだくさんですが、構想はまだまだ完成していません。
今後ブログとの連携を図りながらになるでしょうけれど
充実させていきながら
誤字脱字の訂正とかリンクとか
やっていきたいと思っています。




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【怖いもの知らずの妄想的仮説】どうしてセロトニンが不足すると抑うつ状態になるのか、 [閑話休題]



脳科学者に記憶の仕組みを語らせると
アメフラシという軟体動物が出てくる。
アメフラシは、神経が太く少ないので、
神経の観察にもってこいだからとのことである。

アメフラシにも神経があり、
水管に触られるとエラをひっこめるという反射行動をする。
エラは大事な器官なので、外敵から守るために
触られると危険があると判断し、
引っ込めるのだ。

ところが触り続けると、
エラをひっこめなくなる。
これを危険がないという記憶が生じたというかどうかはともかく、
引っ込めなくなる。
記憶の原始形態のように説明される。

この研究が進み、
引っ込めなくなるメカニズムについて解明された。
そもそも引っ込めるメカニズムは、
感覚神経が異物を感じた場合、
その信号をいくつかの神経を通って、
運動神経に伝えて、
エラ引っ込め運動をするということらしい。

その神経から神経に信号を伝える時、
セロトニンという伝達物質が必要だけど、
危険をしょっちゅう感じてセロトニンを出していると
次第にセロトニンを作れなくなる
このため、神経信号が運動神経に伝わらず、
引っ込め反射ができなくなる
こういうわけらしい。

だから、しばらく危険がなければ
やがてセロトニンの作成能力が復活して
また引っ込め反応をするとのことだ。

「セロトニンですって?」

われわれにわか勉強マンは、
セロトニンと言えば、ましてやセロトニン不足と言えば
うつ病である。

アメフラシもうつ病になるのだろうかと
短絡的な考えを抱いたことは仕方がないだろう。
短絡ついでに、
もしかしたら、
人間のうつ病のセロトニン不足も、
危険を感じすぎて
セロトニン作成能力オーバーになっているのではないかと
そう感じてしまったのも仕方がないだろう。

アメフラシはそれほど神経が多くないので
うつ病になるかどうかわからないが
人間は確実に神経が多い。
そうすると、セロトニン不足で活動が鈍ると
活動が鈍ったことを心配し、焦る神経もあるかもしれない。

その神経は、
「いざ危険が起きてもセロトニン不足のために対応できない」
という予期不安を感じているのではないだろうか
と考えてみてしまった。

つまり、精神的な抑うつ状態は、
 セロトニン不足から直結しているのではなく、
 セロトニン不足を覚知したことによる反応ではないか
 ということ

このような解決手段がないことを覚知することによる
予期不安の自然発生は比較的わかりやすい。

例えば光の刺さない真っ暗なところにいると
それだけで怖くなる。
何かに襲われたらどうしようという気持ちになる。
もっと漠然とした不安、恐怖かもしれない。

実際、山の中のトンネルを歩いたことがある。
20歳前後の男性数人で歩いたのだが
皆、怖さを口に出し、
幽霊が出たらどうしようという気持ちにさえなった。

これは暗闇の中で何かがあったら、
見えないために対応ができない
という意識ないし無意識が
恐怖を掻き立てているものではないだろうか。

狭いところに閉じ込められたり
手や足を縛られた時も
言い知れない恐怖が湧いてくる。
逃げたり戦ったりできないことの恐怖が、
ありもしない危険を感じさせるのだろう。

うつ病においてもこのような
先回り不安を抱いているのではないだろうか。

そもそも、セロトニンやノルアドレナリンが
神経の間に少なくなったとすれば
その生物学的効果は、
神経間の伝達に支障が生じるだけのことである。
それ自体が抑うつ状態を生じさせるという
メカニズムにはならないだろう。

もしかすると危険等の連続で、
セロトニン、ノルアドレナリンの放出過剰が起き、
あるいは先天的な要因で
アメフラシのようにセロトニン等の放出の不能状態が
先ず生まれているのだと思われる。

その結果、危険が生じているのに
神経間の伝達が弱くなっているということを
脳のどこかが感じるのだろう。

(セロトニン不足をある神経にチクるのは神経ではなくグリア細胞ではないか。
 チクられる神経は脳幹とかいわゆる古い脳ではないか。)


すると、光のない世界、音のない世界
からだを動かせない世界の恐怖のように
何かあった場合に対処できないという
先回り不安が生じてしまうのではないか。

そうして、何かをすることで
危険が発生することを回避しようとして、
活動をしないように体が反応してしまう。
ここでいう何かをすることとは、
生きるための活動である。

意識的な思考、無意識の行動を抑え込む必要がある。
行動に出ないように体が反応するからだ。

全精神活動が低下していき
生きるための意欲が失われていくように思われ、
生きる行動が鈍っていく。
うつ病というのはそういうことなのではないだろうか。


また、生きるということは
危険や困難を乗り越えていくことなのかもしれない。



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【怖いもの知らずの妄想的仮説】記憶想起のメカニズム仮説 [閑話休題]


貯蔵された記憶をどのようなメカニズムで想起するか
ということが現在の課題となっているようです。

記憶は、先ず海馬で記憶され(秒から分単位)
内側側頭葉に保管され(もう少し長い)
そして大脳皮質に貯蔵され、長期記憶になる
とされています。
ここまでは解明が進んだそうです。

しかし、貯蔵された記憶が
意識に上らせるメカニズムは
これからの課題とのこと。

ここで、無責任な見解を述べることは
まさに素人の醍醐味なわけです。

私は、記憶の貯蔵自体が想起のメカニズムだと
大胆な提案をしたいと思っています。

先ず記憶がどのように長期記憶へ移行していくか
ということとも関連するのですが、
その前に、記憶とは何かということを
ごくごく大胆に端折って説明すると、

物事に対して人間が反応するということは、
何らかの神経伝達活動が起きているということです。
この神経伝達活動は、無数のパターンを作ることができるそうです。
それぞれの反応のパターンを神経が再現できる
これが記憶です。

従って、同じ反応を反復継続すれば、
記憶として定着しやすくなるわけです。

しかし、生きて活動していれば
次々と刺激が現れますから、
同じ反応だけを反復するということはできません。
しかし、反復しなければ記憶として定着しない
記憶として定着している以上反復している。
いつ反復しているのか。
もう寝ている時しかありません。

一夜漬けで得た知識が翌日のテストの時間に記憶されているのに
帰るまでには失われているのは
長期記憶になっていなかったから
つまり寝ていなかったからということになります。
受験本番では役に立たないのはこういうわけです。

寝ている時の記憶はありませんが、
レム睡眠という時間は、
起きている時と同じように脳が活発に活動しています。

反応が繰り返し再現されているわけです。
しかし、あまり強い刺激の場合
例えば犬が嫌いな人がいぬから吠えられ
追われて逃げたという反応を再現すると
眠りながら駆けだしてしまったりする危険があります。

しかし、レム睡眠は「うまくできています。」
脳から運動神経への伝達が遮断されているからです。
脳が反応しても運動神経の手前で止まっているので、
隣で寝ている人が踏みつぶされることはありません。

同時にレム睡眠時は新たな反応をしないために
感覚神経も脳と遮断されています。
寒くても対応ができません。
冬山でうたた寝をすると死ぬのは、
レム睡眠の時なのでしょう。

何も気にしないで思う存分反復再現をして
皮質で長期記憶とすることができるのです。

この長期記憶への移行が
実は想起のメカニズムではないかというのが
私の主張ということになります。

つまり、ただ反復再現しているのではなく、
この時、過去の記憶との関連付けが行われているということです。
例えば、危険の大きさ、危険回避の困難さについて
過去の記憶の中にある危険の中のどの順位に位置づけられているか
おそらく、反応の状態を診て几帳面に並べ直されているのでしょう。

レム睡眠時にファイリングがなされるということが有力ですが、
それはこういうことではないかと思うのです。

危険の大きさ、危険回避の困難さが
もっとも重要なファイリングの要素だと思うのですが、
もしかしたら、他の要素もファイリングの要素になっていて
二次元的なファイリングではなく多次元的なファイリングに
なっているのかもしれません。

細かい記憶、
文字とか、機械の名前とか、色彩とか
そういう記憶もあるのだから
多次元のファイリングがなされているのだと思うのですが、
これは私の手には余ります。
というかあまり関心のないところです。
記憶の必要性というのは危険回避の手段の蓄積に
その要諦があると思うからです。

記憶自体が関連性の中での位置づけという形で貯蔵されているので、
関連事項に刺激されれば、
記憶が自然と想起されるシステムになっている
これが私の提案です。

記憶の想起とは
実は脳が勝手に同種の反応の再現している
ということになると思います。

だから思い出すという作業は
無意識に関連付けをしているということではないか
と思うのです。

卑近な例では
台所で用事を思い出し、
自分の部屋に行ったけれど、
自分の部屋に行ったとたん
何をするか忘れるということがあります。

こういう場合は、
もう一度台所に戻って
さっきしていたことと同じことをすると
「ああ、そうだった」
ということになると思います。

そうやって二度思い出す、つまり反復した場合は
自室に行って確実に用を足すことができるわけです。

これは、短期記憶の例ですが、
関連付けをすることで、意識に上らせた例
ということになると思います。

ちなみに、機械の名前とか歴史上の人物の名前とか
およそ実生活に関係しないことは
よほど反復するか、実生活に引き付けて
つまり関連付けの中に無理やり押し込めてでないと
どんどん記憶から欠落していくでしょう。

逆に、強盗に襲われたとか、震災の記憶等は
ファイリングしきれない記憶ということになります。
それでも危険の記憶ですからもっとも重要な記憶です。
ファイリングがされなければ、
いつでも危険への対処をスタンバイしていなければなりません。
これがPTSDの原理ではないかと思います。
ファイリングは危険への対処をシミュレーションして
情動を鎮める作用もあるようです。

妄想ついでに言えば
記憶が神経の伝達パターンの再現だとすると
パターンオーバーになることを心配したくなります。

おそらく、関連付けの中で
出来事が過去過ぎて、もはや脅威ではないとするべきことは、
記憶のファイルから欠落していくというか
コンパクトに再構成されていくのではないかと思っています。
どんなに片づけが苦手な人も
脳は立派に再構成して整理しているわけです。

逆に、細部にわたる記憶が延々と続く場合は
もしかしたら、神経伝達パターンの再構成がなされていて、
伝達パターンの可変部分と不変部分があるのではないかと
利根川大先生の物まねをしたくなったりしています。

妄想よりもさらに無責任な話として
これまで、ニューロンの伝達パターンばかりが注目されているようですが、
脳の可塑性については、グリア細胞が大きな役割を果たしているのではないか
という視点での研究が必要なのではないかと
吐き出してみました。

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対人関係学のピンチ 対人関係学は進化心理学の劣化版だったのか 平成30年上3半期の読書研究 [閑話休題]

今年になっての勉強から、進化心理学までたどり着いてしまった
ということなのです。

お正月休みに読んだ本が
ダニエル・カーネマンの「ファストアンドスロー」
ものすごく面白くて、
それまで読んだ行動経済学(マイケル・ルイス、リチャードセイラー)
よりも、しっくりくるというか
今年1年の収穫だと思っていたのです。

この人は、ノーベル経済学賞を取っていますが、
れっきとした心理学者で、
後で(昨日)気づいたのですが、
認知心理学者に分類されるようです。

そうしたら、すぐに、
ダニエル・リーバーマンの「人体」に夢中になってしまい、
もう、心理学をやっている場合ではないという気になってしまいました。
この人は、進化生物学の学者さんで、
ネイチャー投稿数の断トツ一位の人らしいです。

完全に対人関係学のエビデンスになっている!
と飛びついたわけです。
もうこの歳になると、
ノートを取りながら出ないと頭に入らないので
読むのに時間がかかります。

こういう本を読んでいるのは、
半分以上仕事のためです。
過労死事件は、まさに仕事ですし、
自死対策は、
私の公的活動の大部分を占めますので、
やはり、ある意味大切な仕事なのでしょう。

それから、4月に過労死弁護団の拡大幹事会で、
慢性持続性ストレス
というよだれが出るほど、待ってましたという検討課題が提案され、
初心に立ち返り、というか初めて読んだのですが、
ストレスの創始者、
キャノン「からだの知恵」
セリエ「現代社会とストレス」
を読みました。

特にキャノンが面白くて、
今まで私がおっかなびっくり
交感神経ってこうであるはずだ
と語っていたことがすべて書いてあって
感激しました。

キャノンが先行するのですが、
セリエとキャノンは交流があり、
セリエは、キャノンの人格をわざわざ論じているほどです。

そういう人間関係も面白いのですが、
キャノンは交感神経の活性化という視点で、
ストレスという言葉を使いません。

セリエは、ストレスという言葉を
現在言われているストレス反応に当てはめ
ストレッサーという言葉を作った人で
それぞれが学問を発展させてきたことがわかります。

何かのきっかけか忘れたのですが、
やはり、意識の二重構造について人に説明する必要が出てきて、
改めてファストアンドスローを読んだのですが、
ありゃりゃ、読み落としていたのか、意味を理解しなかったのか
ものすごい知識が詰め込まれていることに
改めて驚きました。

私のというか対人関係に大きな影響を与えた
バウマイスターの研究が多く引用されており、
これは何としても読みたいなと思うのですが、
彼の論文は日本語になっていません。
英語で読もうとしてもなかなか入手ができず、
何とか入手しても、
文節が長すぎてなんだかわからなくなることが多くて
うんざりするわけです。
彼の論文の邦訳がされないのに、
批判論文だけは日本語で紹介されるという
奇妙な現象があることをお知らせしておきます。

この批判論文は、題名を見ても
政治的観点からの批判であることがわかります。

過労死や自死を防止しようという熱意よりも
防止する活動を妨害しようとする熱意の方が高い
ということがうかがわれます。
こういう所は見習うべきかもしれません。

さて、意識の二重構造ですから
カーネマンが引用していた
キース・スタノビッチを読むことが自然な流れなわけです。

苦労して遠くの図書館から借りてきた本
「心は遺伝子の論理で決まるのか」<品切>の
現代版「現代世界における意思決定と合理性」が後から取り寄せられ、
大事なことがほとんど書いている上に
翻訳者が原語を翻訳する過程を脚注に事細かく書いていて
はじめからこれだけ読めばよかったのかもと思うこともありました。

キーススタノビッチは、バリバリの認知心理学者だと思うのですが、
当然受け入れながら批判する対象が
進化心理学というわけです。

ダニエル・リーバーマンが引用した
ドブジャンスキーの
「生物学におけるいかなるものも
進化の視点からでなければ何も意味をなさない」
という言葉をストレートに影響を受けていますから、
心理学だってそうだ!と意気込んでいたわけです。
これは対人関係学しかないと思っていたのに、
ああ、やっぱりあったのねということで
進化心理学にたどり着いた次第です。

進化心理学については、ウィキベディアが要領よくまとめています。
最初はわかったようなわからないような感じだったのですが、
ちょっとかじると要領よいことに気が付きます。

進化心理学者は仮説構築のためのメタ理論として一般的に次のような前提を置く。
1 体の器官はそれぞれ異なる機能を持っている。心臓はポンプであり、胃は食物を消化する。脳は体の内外から情報を得て、行動を引き起こし、生理を管理する。したがって脳は情報処理装置のように働く。脳も他の器官と同様、自然選択によって形作られた。進化心理学者は心の計算理論を強く支持する。
2 ヒトの心と行動を理解するためにはそれを生成する情報処理装置を理解しなければならない
3 我々の脳のプログラムは主に狩猟採集時代の経験と選択圧によって形成された。
4 そのプログラムが引き起こす行動が現在でも適応的だという保証はない。
5 恐らくもっとも重大な点は、脳は様々な問題に対処するために多くの異なるプログラムを持つ。異なる問題は通常、異なる進化的解法を必要とする。このプログラムの一つ一つが臓器と見なすことができる。
6 心のプログラムは我々の経験を再構成し、判断を生成し、特定の動機や概念を生み出す。また情熱を与え、他者の振る舞いや意図の理解に繋がる文化普遍的な特徴を与える。そして他の考えを合理的である、興味深い、忘れがたいと感じさせる。プログラムはこうして人間が文化を創る基盤の役割を果たす。

対人関係学のたどり着いた主張と酷似しています。
1から4までは全く異論がありません。
3なんかは、どうしてこうなるのというくらいです。
本当は、対人関係学の独自の発見だと思っていたのにと悔しいのが本音です。
5,6もほとんど異論がありません。

じゃあ、対人関係学は進化心理学であり、
今さら畑違いの素人が参戦することはないのか
ということになり、夢も希望も無くなるのか
ということになりそうなのですが、
どうやらそうでもなさそうなのです。

一つは、クロスオーバーしない部分が重要ではないかということです。
進化心理学はドーキンスの影響を強く受け過ぎているのではないか
それに対して、対人関係学は、
キャノン(後付けっぽいのですが)、リーバーマンの名前は
進化心理学ではあまり出てこない

バウマイスター、アントニオダマシオは認知心理学では引用されますが
進化心理学ではそれほどでもなさそうです。

自死に関しての知見は、あまりないようです。
過労死については特にない。

この根本的な違いがやはりありそうで、
文字通り、対人関係という環境を重視するのが
対人関係学ということになりそうです。

それから、東洋的なアドバンテージがありそうです。
スタノヴィッチもそうなのですが、
ドーキンスの影響を受けているようなのですが、
まだまだ乗り物としての割り切りがない。
遺伝子への反逆なんてことを言っている。
正直このあたりが理解が遠いところです。

禅の思想なのかどうなのか責任あることは言えませんが、
ただ、あるがままの姿を受け入れる
ということが東洋的な高次の境地ともいえるものだとすると、
こういう境地になれるかどうかはともかく
こういう考えもあるということを知っている
あるいは感覚的に理解できることが
人間に対する科学にとっての
大きなアドバンテージになるだろうと
感じた次第なのでした。






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本ブログ、および対人関係学の目的 [閑話休題]

昨日の記事は、自分自身の予想を上回る反響がありました。
少々恐縮です。

フェイスブックの方にもご意見いただきました。
フェイスブックのコメント欄というと、
なかなか柱主の意見に賛同しない意見というのは、
抵抗があって書きづらいものです。
(もっとも私の友人の名古屋の方と
 バンダナ親方は別ですが)

敢えてコメントをいただいたということは
こちらとしても、大変ありがたいことだと思っています。
例えば、
昨日の記事がどこまであっているかはともかく、
もう亡くなってしまったのだから、
今更書いても空しいだけではないか
というご意見を多く寄せられました。

そこで、今日の記事を書こうと思った次第です。
こういうきっかけとか、問題の所在については、
確かに書いているときは、なかなかそういうことに
気が付かないため大変ありがたいのです。
そういうところに気が付けば、
もっとわかりやすく書きようがあるので、
今回の記事に反映できなくても
次回以降に反映させていただくことになるし、
今日みたいにそれで一本作ることもあるわけです。

昨日の宇都宮事件については、
真実はわかりません。
DVがあったのかなかったのかについても、
私にはわかりません。

ただ、こういう構造で、こういうことが起きる可能性がある
ということは言えると思うのです。

亡くなった方が、特別な性格、人格で
例えばテレビの司会者のコメントのように
自己顕示欲が強くてこういう事件を起こした
とばかり決めつけてよいものか
という疑問があります。

一つには、子どもから引き離された父親が
自死をするケースが非常に多いということです。
自分の命を大切にできなくなっている状態ですから、
他人の命を大切にできなくなる状態と
隣り合わせにあるということに気が付くべきです。

焼身自殺をした父親に
子どもが巻き込まれて死亡したケースもありました。
報道では父親が子どもを道連れにしたとされていますが、
私の友人の番頭たま氏調べでは、
焼身自殺をしようとしている父親を助けようとして
小学生の子どもが結果として道連れになった
というのが目撃者の話だそうです。

自分の命を大切にできなくなる状態に
人を追い込まない方が良いに決まっています。

親が子から引き離されて自死が頻発するということは、
自死に至らないまでも、追い込まれて苦しんでいる人たちが
無数にいるということです。
死ななければ良いというものでもありません・

誰かの失敗、過ち、損害そういうものが
その人独特の、特殊な事情によって起きているなら
それはそれで終わりでよいでしょう。

しかし、そういうことは滅多にないと思います。
構造的な共通項があるならば、
繰り返される危険があると認識しなければならない
と思うのです。

「彼は誤っている」ということで終わりにしてしまうと
もしかしたら、同じ行動をとる人が出ることを
防ぐことができたのにみすみす許してしまうこともあるでしょう。

法律家は、人間の数々の誤り、損害、失敗に立ち会います。
それは、その人の偶然の事情を超えた共通項があるはずです。
そうだとすると、法律家は、
同じ誤り、損害、失敗を繰り返さないために、
予防を提案するべきだと思います。
二の轍を踏まないようにということです。

このブログ、対人関係学はそのためのものです。

もう一つ目的があるとすれば、
あなたと同じことで苦しんでいる人が多くいるということと
苦しみの原因はここにあるのではないかということを
提起することだと思います。
そうすることで救われたと言ってくれる方も
大勢いらっしゃいます。

そのための自死研究であり、
いじめ、過労死研究であり、
離婚研究であるわけです。
まさに私のテーマの事件だったので、
私しかこういうことは言わないだろうということでした。

蛇足になりますがもう一つ、
方法論として、誰が悪いとか
正しいから仕方がないという思考はとらないということです。

離婚問題であれば、
夫婦というチームの不具合として
チーム状態の修正方法を考える、

いじめ問題も
本質的には、学校というチームの不具合を修正する
きっかけになることを考えます。

犯罪関係についても、
個人に帰責するよりも
社会状態の不具合を修正するという発想に
たつように心がけております。

ご理解いただきますれば幸いです。

コメントをいただいた方々に心より感謝申し上げます。


累積(閲覧数だと思うけどたしかなところは・・)100万到達、感謝特集 [閑話休題]


このブログも、累積100万に達しました。
ありがとうございます。
とにかく長い文章ということが不評で、
もはやブログとは言わないのではないかと思いながら、
続けてまいりました。

その割には、よく読んでいただきました。
おひとりで、いくつもの記事を読まれる方が多いのも特徴でした。

これを記念しまして振り返りを行いたいと思います。

始めたのは、2009年10月8日 「ただだというので始めました。」
というもので、大変情けない始まりです。

元々事務所のホームページを作るという計画の元、
まずは手軽にブログを作成しようと始めたので
こうなっています。

現在事務所のホームページ、対人関係学
情動の研究と3本ただでホームページを開設しています。

このブログ、一度無期停止にしています。
平成23年6月8日の後が平成24年7月14日となっています。
それまで毎日書くようになっていて、
なんか自分で自分を拘束していた息苦しさもあったのですが、
震災の記録という使命感の息苦しさもあって
中断が必要と感じました。

今は気楽に書きたいことだけ書いています。
書きたいことが多すぎるのが悩みです。

中断前の記事は、その後も読んでいただいており、
記事の多さで言えば、
「職場に行きたくない、パワハラを受けているかもしれないと感じている方へ 同僚の方にも」 
http://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2011-05-11
がダントツで、今も新たに読んでいただいています。
震災から2か月後に書いている記事でした。

その次に多いのは、
「万引きは、根深い理由があります。放置すると繰り返され、最後は刑務所に。弁護料金。」
http://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2010-09-19
です。

なかなか理解されない苦しみというものがあって、
それは弁護人としてはかなり切実に感じていました。
この記事を読んで救われたという方もいらっしゃって
大変うれしい思い出です。

一方
面白いことに、四国の薬屋さんのホームページだかブログで
表題だけ引用されていて、
「これだけでは何を言っているかわかりません」
なんて批判がされていました。
そりゃあそうだろいうという突っ込みを入れたいのですが、
それほど怒っていません。

やはり、ノウハウ的なものの閲覧数は多く、
2010年3月5日
「夫の借金を妻が支払う義務なし 親子も一緒」
2010年4月6日
「自殺と保険金 死亡すると借金が免除される場合」
2010年4月18日
「物件事故でも実況見分調書を。写真活用の簡易図面は?警察庁にお願いします。」
警察官の方からもコメントをいただいて感激しました。
2010年4月21日
「犯罪をしたのに無罪?責任能力(心神喪失)とは。アルコールと向精神薬」
「100:0対0:100の過失割合の主張事案が、なぜ示談成立したのか 物損事故」
「逮捕されたらどうなるの 日本の人権水準 代用監獄の問題」
等、
法律実務を分かりやすく伝えるという
当初の目的は正しかったようです。

弁護士や一般の方からのお問い合わせもいただきました。
「やはり取り下げられた支払い督促」
なんていうのもロングセラーになっています。

そうかと思えば、
2010/1/27
「国際人権(自由権)規約第1選択議定書 個人通報制度 歴代内閣の怪」
という勉強チックな記事も、意外に多く読まれているようです。

なんといっても、過労死、パワハラの記事は多く読まれているようです。
「なぜ、過労自殺する前に仕事をやめないのか」
「労災弁護士から見た教師という職業の危険性 うつの原因の分析」
「こんな指導がパワハラとなり、部下をうつ病にする マニュアル 予防措置2」
「パワハラをどうやって止めさせるか。ノウハウの蓄積とアウトプット」

中断からの再開後は、まだ、それほど閲覧数が多いものはありません。
最近では、
「自分が死ななければいけないと考えている方に。それは脳の誤作動です。希死念慮に対するあるいは誤解」
http://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2015-04-07
という記事が、静かに読まれ続けているようです。
当事者の方と一緒に書いたような記事ですので、
ぜひ読んでいただきたいと思います。

中断後は離婚、面会交流の問題で多く記事を書いています。
2014/2/11「続・思い込みDV 思い込みが成立する条件」
http://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2014-02-14

「両親が別居してしまった後で、子どもが同居親をかばい壊れていく現象とその理由」
http://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2015-06-10

「離婚後の単独親権は、他方の親を排斥する制度でも、子どもを支配する制度でもない。13歳で亡くなったお子さんを追悼する。」
http://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2015-07-30

「離婚後等の面会交流について、子の父と母は誠実協議義務があることについて 」
http://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2015-08-04

等、子どもの引きこもりやリストカットの事例と付き合うようになって、つくづく子どもの健全な成長こそ、一番大事にしなければならないことだと思っています。

過労死の問題では、まず、学校の先生方の忙しさを何とか解消する
ということは、
国民的課題だと思っています。

2014/6/18「教員は、その働き方を見せることで、教え子を過労死や離婚等の家庭不和に導いている。」
挑発的な記事ですが、
周りの学校の先生方は、理解していただいているようです。

自死問題も、離婚問題も、過重労働問題も
すべては、子どもたちの健全な成長という視点で
考えるようにしています。

書きたいことがなくなったらいつでもやめます。
そうなることが、
人類が平和になることなのでしょうから、
その日が来ることを祈っております。

読書三昧と、樹木の観察の日々を
心待ちにしている次第です。


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