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なぜネアンデルタール人は墓地に花を置いたのか?Why did the Neanderthals put flowers in the cemetery? [進化心理学、生理学、対人関係学]

1960年代にイランのダール洞窟で、
ネアンデルタール人の化石とともに
大量の花粉が発見されました。
自然にある量ではないということで、
これは人為的に墓地に花を持ち込んだのだろう
と解釈されたわけです。
ネアンデルタール人は、
死者を弔うという宗教的行動をしたのか
薬草を運んで死者をいやそうとしていたのではないか
等と議論があります。
遺跡は7万年前のもののようです。

現生人類のホモサピエンスが墓地に花を置いたことが確認できるのは
それから5,6万年後の今から1万2千年くらい前
イスラエルのナトゥーフ人の墓です。
この発見がなされたのは、2013年のことです。

なんでこんなことを言い出したかというと
先日、カサブランカを車で運んでいてふと気が付いたからです。
対人関係学は、200万年前の人類の様子を想像する学問でもあります。
言葉のない時代に人間はどうやって群れを作っていたのだろう
なんていうことを考えているので、
人間とは何かということについて、文明を引き算して考える癖があるわけです。
ネアンデルタール人は数万年前まで存在したサピエンスの仲間ですから、
もちろん考察対象ですし、
花を手向けたのはどうしてかということは
ずうっと気になっていたことでした。

そして、車内のカサブランカの香りにむせながら
唐突にもしかしたらこれが正しい答えなのではないか
というひらめきが起きたので、
どうしても書いてみたくなったというわけです。

そしてその仮説を検証するべく調べていったら
ネアンデルタール人の花については、
あまり詳しい資料がなかったのですが、
ナトゥーフ人の資料に巡り合って
私の仮説が裏付けられているのではないかと
我田引水的に納得してしまいました。

ネアンデルタール人の行動の謎は、
数万年後のホモサピエンスの行動をヒントに考えれば
おそらく正しい結論にたどり着くということを発見し、
また、答え以上の重要で新しい思い付きがわいてきて
少し興奮しています。

そういうわけで答えから先にお話ししていきます。
ネアンデルタール人が死者に花を添えたのはおそらくその通りであろう。
きわめて実務的な、必要性があってそれをしたのである。
それは、死臭を消すためであるということ。

死臭はとてつもないもので、
一度つくとなかなか消えません。
当時は衛生状態も悪く、生きた人間であっても今より大変臭かったはずで
相対的に死臭はそれほどひどくは感じなかったとはいえ
やはり、その匂いにはまいってしまったことでしょう。

現在は、埋葬技術が進んでいます。
死臭ばかりではなく、病気の蔓延の原因にもなりますので、
名残は惜しいとしても、埋葬をする掟が確立されています。

当時はそのような技術はなく、
おそらく、死者が出れば、
死者を放置して移動をしたのだと思います。
(今でいう自然葬)
定住生活を始めたのは、農耕の開始と関わるとされ
今から1万年前くらいからではないかとされ、
それまではホモサピエンスも狩猟採取時代で、
定住せずに群れで移動して生活していたといわれています。

ナトゥーフ人の遺跡は都合がよすぎるくらいこの説を支持します。
先ず、ナトゥーフ人は、移動生活をせず定住生活を始めた人類であったと
遺跡から裏付けられているそうです。
時期的にも1万2千万年前ということで、符合します。
何よりも、この遺跡の草花が、セージやミントという
香りの強いものだったということが報告されているのです。
花は死臭を消すためのものだったという説が
どうしてメジャーにならないのかが不思議なくらいです。

おそらく考古学者たちは
化石ばかりを見ているので、
生身の死体を想像することができないとか、
文明の産物を前提として考えてしまっているのではないかと
マウントをとった気にさえなりました。

では、それより遡るネアンデルタール人がどうして花を置いたのか
どうして死者から立ち去ることをしなかったのか、
どうして、数万年間、花を手向ける遺跡が存在しないのか
という疑問が生じてくるわけです。

ネアンデルタール人は洞窟で暮らしていたとされています。
ホモサピエンスは、洞窟ではなく平地で生活していたようです。
ラスコー洞窟はホモサピエンス(クロマニヨン人)の洞窟ですが、
洞窟では生活していなかったということが定説になっています。

もし洞窟で暮らしていたとするならば
ある程度定住していたことになるのかもしれません。
そうすれば、死臭に対処する必要があったことになります。
洞窟であれば、地盤も固いため土葬も困難だったからです。

だから通常は、死者は
洞窟の最奥の縦穴の下の場所に置かれたか、
洞窟外に置かれ自然葬にしたはずです。

しかし、ダール洞窟のネアンデルタール人は
手元に死体を置いていたかった
それはなぜか。
今回その文献が見つからずあやふやな記憶で申し訳ないのですが、
花が置かれた死体は、子どもだったということを読んだ記憶があるのです。
そうであれば、答えは簡単です。
自分の子どもが死んだので
動物や昆虫に死体を渡すことが忍びなかったのではないか
だから手元に置きたかったのではないか
と思うのです。

親ならば、死体が壊れていっても匂いがしても
それほど気にはならなかったかもしれません。
親の悲嘆を群れの仲間は理解して大目に見たのかもしれません。

だけど、そっと匂いの強く色の鮮やかな花をおいた。

人情の機微を表現するほどの言葉はなかったはずですから、
無言で花を置いたのでしょう。
おかれた花を見て、親は(勘違いをして)
慰めを感じたのだと思います。
花には不思議なほど、人を癒す力があります。
これは文明とはあまり関係のないことなのではないでしょうか。

死者と近い人間には花は慰めになり、
死者と少し離れた関係にある人間にとっては
臭い消しになったというわけです。

その後ホモサピエンスが定住を始めるまで
死体に花を置くということは発見されていません。
何せ花粉ですから、長い間に痕跡が失われている可能性はあります。
もしかしたら、その間も死体に花を置くことはしていたかもしれませんが、
おそらく、
死体は、生活圏から離されていたというか
生活圏を死体の安置場所から移動していたのだと思います。

この間ホモサピエンスは定住を始めていませんので
ナトゥーフ人の遺跡まで花を手向けた跡がないことは当然です。

ダール遺跡のネアンデルタール人も
よほどの事情があって、それを仲間たちも承認するほどの事情があって
遺体を手元に置いていたという
ごく例外的な出来事だったと思います。
だから、花粉が保存されないことと相まって
それほど死体と花の組み合わせが発見されないのでしょう。

ちなみにネアンデルタール人が、そこまで
死者を悼む心があったかということが一応問題とはなりますが、
私は当然あったと思います。
サピエンスに心が形成されていったのは
約200万年前、ホモハピリスの頃の話なので
7万年前のネアンデルタール人が仲間を大切にしたことは
当然のことだと思います。

死者に花を手向けるのはこういう起源があったのだと想像します。
すぐに宗教の存在を考えるのは
文明人の悪い癖だと思います。

「慰められたのは遺族であって死者ではないことになる。」
「死者の実存を信じたからこそ花を手向けたのだから宗教的だ」
という反論もあるかもしれません。

私の考えは、むしろ遺族は、自分と死者との区別が
あまりつかなかったということなのではないかと考えています。
自分の一部が永遠に失われたという感覚ですから
死者が慰められることは自分を慰められることであり、
自分が慰められることによって死者が慰められたと感じるということが
自然の人間の感情ではないかと感じています。

埋葬とは、死者と遺族を切り離す行為ですが
どうしても必要な行為でした。
それを遺族に納得させる必要もあったと思います。
そして、それは遺族を慰める作業がどうしても必要だったはずです。
むしろ、ここから宗教が生まれる必要性があったのだと思います。
無神論者的には宗教が作られる必要性であり、
信仰を持つ者にとっては、啓示に目覚める契機ということになるのでしょう。

ネアンデルタール人は情に厚かったのかもしれません。
優しがあだになり滅亡した可能性もあるのではないかと想像を膨らましています。
洞窟に暮らしていたのであれば3密ですから
あっという間に滅ぶことも今では想像ができてしまいます。

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普通の夫の普通の会話は、普通の妻には怖いと思われている事実。男性脳と女性脳2 女性脳が始まるとき [進化心理学、生理学、対人関係学]


【事例:運転中の毒づき編】

後に夫と妻になる婚約中の二人が、男性の運転する自動車で移動していました。交差点の赤信号で一番前に停車していて、青になって発進しようとしたところ、青になるかならないかのうちに対面で一番前に停車していた車が突然発進してきて、自分たちの車の前を強引に右折して進行を遮っていきました。年配の男性が運転手でした。
後に夫となる男性は、「何やってやんだ。馬鹿野郎。ふざけるな。」と叫びながら、遠ざかる車を睨みつけながら直進していきました。
助手席の女性も、恐怖で青ざめながら、男性に対して、「強引な運転よね。」などと共感を示しました。
ところがこの男女がのちに結婚し、子どもが生まれましたが、その後数年で離婚の裁判となりました。女性側から離婚が申し立てられたのです。女性は、離婚原因の一つとして、男性が乱暴で怖いということを上げています。その一つの例として、この交差点での出来事をあげてきました。「相手はお年寄りの運転手なのに、つかみかかってケンカを売ろうとするような言葉を吐いて、怖いかをしていて、一緒に生活することは無理だと思った。」というのです。
言われた男性は、ではどうして結婚したのだ。結婚しなければよかったじゃないか。それが離婚理由になるなんてことはありえない。アラ探しをされ、言いがかりをつけられたと思います。だってあの時一緒に怒ってくれたじゃないかというわけです。どうして今頃そんなことを言い出すのか理解できません。

【典型的な女性脳は、争う姿、人を攻撃する言動が怖い】

前回の解説をまたこの記事の最後に載せておきます。
女性脳は、仲間の結束、調和を求めます。それが目的に適ったことであろうと、正義を主張していようと、攻撃的な言動を見聞きすると、「怖い」と感じます。仲良く楽しくいることが一番の目的ということも外れてはいないと思います。何かいさかいが起こると何とか仲直りをして仲間内の秩序を守ろうとしますので、働きかけることができないほどの怒りが近くで表現されると、どうしようもなくいやな気持ちになります。
出来事から数年以上たっても、交差点での出来事とその後の夫の言葉、憎々しげな表情を思い出すと、怖くなってしまう、どうしようもなく嫌な気持ちになるということは、どうやら本当のことのようです。

【男性脳が、乱暴な言葉を怖がらない理由】

男性脳は、多少厳しい言葉を聞いても怖くないことが多いようです。
例えばチームスポーツで、叱咤激励するとき仲間同士でも乱暴な言葉を使いますが、士気が高まることはあっても、味方の叱咤激励で委縮することはありません。それは、勝利という目的のために行われていることで、自分を攻撃しているわけではないということをよくわかっているからです。
運転中の毒づきは、安全運転ということもありますが、交通ルールを守る、あるいは交通エチケットを守るという目的に照らしてそれに反する行動する者に対しての怒りですから、毒づくのは当たり前だという意識があります。自分の身の危険があったこと、それ以上に大事な婚約者を危険な目に合わせたということから、衝突の危険から解放されて安心をしたとたんに、緊張が相手に対する怒りに変わります。
そして、助手席の婚約者も、自分と同じ気持ちだということを疑いません。

【婚約中の女性の心理】

当時女性は、やはり、強引な右折による衝突の危険の怖さを感じ、さらに男性の毒づきに怖さを感じているようです。しかし、男性と自分は強固な仲間なのだという意識がありますから、男性に対して共感を頑張って示し、二人の協調性を保とうとしてしまいます。また、前回もお話ししましたが、現代社会では男女差のある生活はあまりありませんし、男女の別なく受験競争で、目的を達することにまっしぐらに行動するという男性脳的な行動習慣を植え付けられているということもあります。あまり女性脳の傾向が強く表れないようです。ノリがよく、容量の良い女性は、男性と一緒に毒づくということもあるようです。
しかし、衝突の恐怖と、それに続く隣の人間の憎悪の姿をみることによって、自分を守らなくてはならないという興奮状態が生まれます。これは、緊張の記憶になっているようです。

【問題提起】

それでは、いつ、緊張の記憶が、恐怖と嫌悪の記憶に変化したのでしょうか。

【結論】

多くは、出産後に記憶の変化がおきたものと思われます。

【解説:女性脳が活性化する事情】

出産によって、女性は、その共感力が主に赤ん坊に向かってしまい、成人男性、つまり夫に向かわなくなっていく傾向があるということを、数年前相次いでバルセロナの大学と福井大学で発見されました。
それまでは、夫は自分の仲間であり、自分には攻撃してこないということについて、夫の気持ちを読み取って疑わないことができました。しかし、共感が夫に向かわなくなる結果、夫が何を考えているか実感としてわからなくなるようです。脳の構造と機能からそういうことになり、これは多かれ少なかれほとんどの女性におき、2年くらいは続くようです。

ここで女性は、女性脳を開花させるのではないでしょうか。子育てを意識すると、「子育てチームが仲良い状態を保ち、穏やかに平和に子育てに協力している」ということが安心の材料となります。攻撃が自分に向かっていなくても、とにかく怒っている人を見るのが怖いのです。怒りに正当な理由があろうとなかろうと、結果として不穏な状態の人を見るのが嫌なのです。それにもかかわらず、男性が生まれたままの状態で、毒づいたり、けんか腰の対応をしたりすれば、怖くてたまらなくなります。これが続くと一緒にいることが嫌になることは理解できると思います。なにせ、夫は信用されなくなっているわけです。その攻撃は、自分に向かうかもしれないとも感じているのでしょう。
男性として普通の人が、男性同士の中で許容されている語気を強めたり、強調したものの言い方をしたりしてしまうと、それまで何も感じなかったのに、出産を経験した女性は、「怖い」と感じるように変化してしまっているのだと思います。
そうすると、何かの拍子に交差点のことを思い出して、当時は緊張の記憶であったのに、今は夫に対する恐怖の記憶に変化するのです。当時は、頑張って共感してくれていたので、自分を守るために怒っているなんてことも感じ取ることができたかもしれません。しかし出産と同時に、夫に対しての共感力はなくなるのですから、自分に対して攻撃が向いていなかったという確信は持てません。
そのことを思い出しては怖くなるということは、起こりうることなのです。
そして、実際に妻の方が、殺傷能力の高い暴力や、臓物をえぐるような悪口、絶え間なく執拗に繰り返す嫌味を繰り出していることが少なくありません。だから、夫は自分を守ろうとしてしまい、自分を守るために妻に合理性を言い聞かせることが少なくありません。夫は、原因の有無、道徳に照らした場合の優越で妻を説得します。しかし、妻は原因論には関心がなく、声が大きい、乱暴な言葉を使われた、理詰めで追い込まれた等という、方法論を非難してきます。これは目的遂行第一主義の男性脳と、協調中心主義の女性脳の違いから来ているもので、話がかみ合わないことは、むしろ当然のことなのです。男性も女性も、もうどうしてよいのかわからなくなります。これは、あなただけが感じている理不尽ではなく、ごく普通にありふれた理不尽さなのです。多少の程度の違いはあれ、普通の夫婦の日常なのです。
それでも妻は怖いのです。怖いからこそ反撃するのです。

【通常出される疑問があります】

「妻が私の言動を怖がっていることはありません。なぜならば、私を挑発することを言ったり、先制攻撃をしてくるのですから。本当に怖いならば、そんなことはしないはずです。」

【それは誤解です】

こういう疑問を呈する方は、おそらく「怖い」というと、子犬が一人で震えているようなイメージを持っていらっしゃるのだと思います。しかし、野良猫が駐車場の奥でのんびりしていて、かわいいなと思って毛を撫でてあげようと手を近づけると、こちらに攻撃的意図がなくても猫はものすごい形相でこちらを威嚇してきて、時には爪でひっかいてきます。この猫のイメージの方が、気丈に反撃してくる奥さんのイメージです。
猫が攻撃してくるのは、怖いからです。自分に危険が迫ってきていることを認識し、危険を叩き潰すことによって回避しようとしているわけです。

【怖いということの解説】

奥さんが反撃してくる危険は、生命身体の危険が迫っているということではなく、対人関係的件です。自分が不当に低く評価されるのではないか、自分がけなされるのではないか、不合理に叱責されるのではないかというような、仲間として扱われない、究極的には仲間から追い出されるのではないかという危険を感じているのです。先ず、特に出産を経験した女性は、自分が尊重されるべきだということに過敏になっています。人間が子どもを育てるためには当然の反応です。過敏になると、あらゆる夫の言動が自分を否定しているのではないかと、半ば妄想的ともいえるのではないかというほど悪く受け止めるようになります。例えば、夫と妻の話の流れの中で、自分の失敗に気が付いたようなとき、例えば、自分が光熱費の支払いをすることを忘れていたのに、私が立て替えて払ったと言い張っていて、夫に金を出せと責めた挙句、「お金渡したよ」という夫に対して「卑怯者、自分のことではお金を使うくせに、家のことではケチになる。」なんて悪口を言って、夫を攻撃していたとします。すると、払い込み用紙とお金がクリアファイルに挟まれて出てきて、ああそうだ。夫に出してもらってここにしまったのだということを思い出し、バツの悪い思いをしているとします。そこで、「ごめん、私が間違っていた。」と素直に言えば良いのですが、さすがに妻もそれで許してくれないだろうという気持ちになっているわけです。「どうせ、あなたは、私が記憶力がなくて妄想的な話ばかり言っていると思っているのでしょう。」なんてことを毒づいてきたりするわけです。これが、記憶では、そういう風に言われた。夫から精神病者と言われたという記憶に改変しているのです。
この時、妻は、自分が夫から、記憶力がなくて妄想の障害を持っているなんて思われたくないという危険意識でいっぱいで、自分を守らなくてはならないという過敏な状態になっているわけです。自分が悪いのですが、夫が怖くなるポイントです。不合理なことが起きています。ここでよくできた夫ならば、「そういう間違いはあるよ。俺は何も気にしてないよ。」というのでしょうが、普通の男性で、しかもこう言うことが何度も繰り返していると、いつもこちらを攻撃する。こちらが悪くなくても攻撃を仕掛けてくる。という気持ちになることは、これも致し方がないことかもしれません。
でも、奥さんは危険を感じているから、追い詰められた猫のように攻撃をしてくるのです。自分の至らないことを自分で分かったからこそ、自分を守ろうとするのです。とても厄介なことは、自分を守るためには夫を攻撃しなければならないという反応をしてしまうことです。
怖いがために攻撃する。攻撃されればやはり自分を守るために反撃する。反撃されれば攻撃されたと思いますからさらに反撃します。本当は仲良くしたいのです。仲良くしたい気持ちが強すぎて、仲良くできない事情を見つけては、自分を守ろうと攻撃が始まってしまうのです。
そして夫は、原因論、正義論、道徳など原理論理のところで妻を諌めようとします。妻は、やはり原理論理論には興味がなく、協調論を重視しますから協調しているとは感じられない大声、理詰めの問い詰め、過剰な表現への攻撃などを指摘して、かみ合わないまま事態は深刻化していくわけです。

【ちなみにどうすればよいのか】

猫の飼い主ならわかると思いますが、多少引っかかれても怒らないということです。自分の失敗を含めて許容しているという安心感を持ってもらうことです。これは繰り返し繰り返し刷り込むことが必要です。
心構えとしては、女性は大事にしないといけないということに尽きるということでしょう。大事にするとは何かです。出産前は何も言われなかったとしても、出産後は特に、大声を出さない、誰に対しても攻撃的な態度を見せない、誰に対してもですが、特に子どもには乱暴な言葉を使わないということは鉄則なようです。子どもを守ろうという意識は強いので、思わぬ攻撃を受けることがあります。そして、大目に見るということです。とにかく、妻の身の回りの人間関係は穏やかさをキープすることを心がければよいようです。
女性と男性の違いをしっかりと意識して、一緒にいて快適に過ごしてもらう。そうすれば、あとは今までとそんなに変わらなくても良いのかなと考えています。

【付録、男性脳と女性脳が合理的であった時代】(再掲)

 人間の心が生まれた200万年前の狩猟採集の時代にヒントがありそうです。男性はチームを組んで、イノシシなどの小動物を狩りしたそうです。その間女性は子育てをしながら植物を採取していたようです。どちらかというと男性は、狩りチームの一部となり、動物を狩るという目的のもと、合理性を追求しながら目的達成に集中していたということになります。女性は、一人一人がそれぞれ食べられる植物を探しておそらく協力して刈り取って群れにもっていったのでしょう。
 ここから男性は、目的のもとに結束して目的完遂というところに価値をおく傾向が生まれたというとわかりやすいと思います。女性は、目的遂行というよりも、群れを守るという意識ですから、群れの他者との調和、群れの平和に価値観がより重く置かれるということもわかりやすいと思います。
 人間は、男性的な目的のもとで、自分をチームの一部として動かすという緊張感を長く持続させるように人間の体の仕組みはできていないようです。夕方には群れに復帰して緊張感を緩和させていたようです。群れの中では、調和の技術もノウハウも女性が上ですから、女性に従って行動していたのだと思います。屈強な男性たちが命がけで狩りをしてきても、群れの中では女性の尻に敷かれ、指図されてその通り動いている図を想像すると、なんだか笑えてきますよね。「ええ、そうなの、従わなくてはいけないの」という表情をしていたのか、「何でも言ってくれ、俺はできるぞう」と喜んでやっていたのか、どちらなのかを考えても面白いと思います。
学説では、当時は完全平等で、狩りが上手な人が偉いという意識はなかったそうです。偉ぶる人は、偉ぶったということを理由に、みんなから攻撃されたのではないかと考えられているそうです。
 元々、男性の思考パターンは狩りの場合にのみ有効で、家庭では女性脳に従ってきたのだとすると、現代においても人間の在り方は、これが自然だということになりそうな気もします。
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正しい夫が妻から疎まれる理由。男性脳と女性脳とは何か  違いを認めれば、楽しく人生を過ごすことができる。 [進化心理学、生理学、対人関係学]



男性脳と女性脳という言葉がはやりのようです。
でもぴんと来ないことも多いと思います。
男性だと必ずこう考えるとか、こう考えないと女性ではない
というものではないと思います。
ただ、大まかな傾向というのはあり、
この違いを頭に入れておくと
私たちの生活は無駄な争いをしなくて済むようになり、
お互いを理解し、尊重できるようになると思います。

なぜ違いが生じるかについては200万年前に
人間の心が生まれたころの生活様式にありますが、
興味がある人は最後に記載しますので読んでください。

ではさっそく、事例をあげて考えてみましょう

【事例:妻と妻の母の買い物に同行する夫編】

ある日曜日、妻の母である姑が同窓会用の服を買うということで、妻が子どもを連れて姑とデパートに行くことになりました。子どもが小さいということと、どうせ食料など重い荷物も買うのだろうということで、夫は車を出しがてら、買い物に同行することになりました。家族円満を志す夫は、こういう時に貢献しようという気持ちです。
ところが、いつものとおり出発をぐずぐずしていたため、デパートに到着したのは11時半ころになってしまっていました。妻と姑はさっそく服売り場に行けばよいものを、入り口に入ったところの小物売り場で品定めを始めようとしています。
夫は提案しました。昼時になれば食堂は混んでいてなかなか入れないし、食事が出てくるのも遅いので、先に食事を済ませてしまいましょう。そうして、ゆっくり買い物をしてはどうですか。夫は、「それは良い提案だ」とすぐに受け入れられると思って、そう言いました。
ところが、妻も姑もきょとんとして、なぜそう言うことを言うのだろうというという表情をしています。夫は、少し口調を強くして、再度提案をしました。ようやく、妻がとりなすようなことを言って、食堂で食事を始めました。

【問題提起】

なぜ、夫の合理的な提案に対して、
妻と姑の反応が鈍かったのでしょうか。

【結論】

夫の買い物の目的と、妻と姑の買い物の目的は別だったからです。

【解説】

夫は、買い物と食事をするのだから、より良いものを買い、より快適に食事をするという目的を設定し、目的に最も適した行動をすることが、当然であるという発想になっています。極端に言えば目的に直結する行動が善だという態度であり、目的を達する観点からは回り道であれば悪だという態度です。
妻と姑にとって、買い物をする目的は、主としては代金を出して物を購入することではありません。食事についても、短時間で栄養を補給することではないのです。実は、買うかどうかはそれほど深刻に考えておらず、デパートで品定めをすることを楽しむということが大きな目的であり、それこそが買い物なのです。食事にしても、おなかがすけばイライラするかもしれませんが、みんなで待つならそれもまた楽しいという考えなのです。
夫にはそういう知識はありませんでした。同窓会の服を買うという目的にまっしぐらに進まなければならないと固く考えてしまっています。無駄に時間をかけて食事をすることは不合理だという価値観も譲れません。それこそが男性脳の傾向です。その発想に立って、合理的でないと言って妻と姑の行動を悪く言えば批判していたことになります。夫からすれば自分の行動提起は正しく合理的で、優れている。妻と姑の行動は、計画性が無く不合理で、劣っている。そう思っているのです。
しかし、妻と姑は、楽しく品定めをしているのに、なんて無粋な男なのでしょうと感じるし、むきになって先に食事をするべきだと力説している男を持て余し、なんだか怖い人だねという感想を持ってしまいます。なんだか馬鹿にされているような気もしますので、不愉快にもなります。

【さらなる解説】

男性脳は、このように、一つの目的に対してまっすぐに進もうとします。直線距離を歩むことが正しいし、それをするべきだという考えです。
これに対して女性脳は、仲間と円満に過ごすことが目的だというとわかりやすいかもしれません。一緒に何かをすることを楽しみたいということに比重があるわけです。
どちらが正しいということはないと思います。それにもかかわらず、自分の価値観が絶対だということで、その価値観に反する行動を否定評価してしまうと、相手は不愉快な思いをします。こういうことが何度も続いていくと、相手は自分が否定されたような気持ちになっていきます。自分の行動のどこが否定されているかわからないから、自分という人格が否定されているような気持ちになっていきます。相手の顔色をうかがいながら生活することに息苦しさも感じていくでしょう。自分のことを自分で決められないという不自由感、拘束されている感覚が強くなっていきます。そうして価値観の違いを度外視した否定行動が、強い言葉を伴ったり、暴力的な行動を伴ってしまうと、それが大したことの無い口調、暴力であったとしても、恐怖の感情が起きていきます。

【ではどうすればよいの。行動を改めるのはどっち】

結論から言えば、家庭の中では、女性脳に従うべきです。
男性脳は、付録で説明する通り、狩りをするために合理的な思考パターンです。目的のためには、自分の自由を制限することも当たり前、楽しんでなあなあでやっていたのでは、小動物も必死に逃げるため狩ることはできません。狩りをするにあたってとても都合がよい思考パターンです。
女性脳は、子育てをしながら群れを守ることに適した思考パターンです。喧嘩をしない、頭数を減らさない、そうやって自分たちを守り子育てをする。家庭ではこのパターンが適しているのはよくわかると思います。
仕事の場合、今でも、企業間競争が厳しくて真剣勝負で臨まなければならず、不合理な行動は禁止されていると思います。しかし、家庭では、そんな合理性を追求して、何事も緊張感をもって行動しなければならない事情はありません。むしろ、家庭は緊張を緩和させることが求められています。家族がそろうことで安心して過ごすことこそ家庭の役割です。男性脳から見て不合理だ、失敗だ、欠点だと思っても、それで楽しく生活できるならば不合理でも、失敗でも、欠点でもないのです。
本当は職場でも、少し男性脳が優位に立ちすぎていると思います。人間の仲間がもつ癒しの機能を否定して、全力で緊張を高めていたのでは、長続きしません。深刻なフィードバックも起きてしまい、結局は生産性も上がらないのですが、これはまた別の問題ですね。

【男性脳は、男性の責任ではなく社会によって強化されている】

目的に向かってまっしぐらということは、もともと男性の遺伝的な脳の傾向ですが、現在は、男女の社会的役割があまり変わらなくなったので、必ずしも合理的なものではなくなっています。そのため本来であれば、それほど思考傾向は出ないはずで、実際、女性の中にも男性脳的な発想をする人が多くなっていると感じます。
でも、年々男性脳がもてはやされる傾向になっているような感覚があり、危機感すら感じるところです。男性脳が陥りやすい危険とは、目的至上主義になり、目的に反する行動を徹底的に否定する。一人一人を目的達成の貢献度で優劣を作る。劣後の評価を受けた人間を、感情と人格のある一人の人間として扱わない。誰かを否定しても、否定が合理的であったり、目的の観点からの正義であったりすれば非難されない。例えば経済的目的に貢献しない、生産性の低い人間は切り捨てる。そういった傾向は男性脳が悪用されているように感じるのです。
われわれ日本人の多くは、まず受験という目的にまっしぐらに努力させられます。これは男女共通です。目的にまっすぐであることによって成果が上がりますから、友達などとの調和や親睦よりも優先させられることにならされていきます。特に受験競争や就職戦線に勝ち残った人たちは、そのような考えこそが正しかったという教訓を学び取ってしまいます。
さらに、職場でも、先ほど述べたように企業の生き残りのために、無駄を排除し、徹底的な合理性を求められます。企業の価値観に反した行動をとると、始末書を書かせられたり処分されたり、解雇されたりするわけです。
こうやって、生き残るためにということで男性脳的傾向を、生まれた後で社会から押し付けられているような気がします。
そうして、一つの価値観を疑わない人間がつくられて、価値観になじまない人間を、価値観に反するということで否定し、排除する。そういう危険があるように思えるのです。殺伐とした緊張持続社会が生まれてしまうでしょう。
社会を和ませるためにも、家庭を笑いのあふれる空間にするためにも、男性脳の過剰な働きを止める必要がありそうです。
では、どうすればよいか。もしあなたが男性で奥さんがいて、奥さんがいつも不合理な行動をして、自分はいつもイライラしているというなら幸いです。奥さんの行動にイライラしない、眉を寄せないで、何が彼女の価値基準なのかよく観察して理解するようにすることで、この難問の解決を達成することができます。大丈夫です。おそらく奥さんの価値観の方が家庭では正しいのです。
また、対人関係で悩む方、学校、職場、男女関係で自分のみの所仕方がよくわからない方であれば、あなたが人気者になり、人間関係を少しまろやかにするためには、男性脳的行動を抑えて、女性脳的行動を意識的に入れていく、それが成功の秘訣です。
特定の価値観から、その人に欠点がある、不十分なことがある、致命的な失敗だという評価をしない、させないということが女性脳なのでしょう。
もっと女性脳が優位な社会、家庭になることが求められていると思います。

【付録、男性脳と女性脳が合理的であった時代】

 人間の心が生まれた200万年前の狩猟採集の時代にヒントがありそうです。男性はチームを組んで、イノシシなどの小動物を狩りしたそうです。その間女性は子育てをしながら植物を採取していたようです。どちらかというと男性は、狩りチームの一部となり、動物を狩るという目的のもと、合理性を追求しながら目的達成に集中していたということになります。女性は、一人一人がそれぞれ食べられる植物を探しておそらく協力して刈り取って群れにもっていったのでしょう。
 ここから男性は、目的のもとに結束して目的完遂というところに価値をおく傾向が生まれたというとわかりやすいと思います。女性は、目的遂行というよりも、群れを守るという意識ですから、群れの他者との調和、群れの平和に価値観がより重く置かれるということもわかりやすいと思います。
 人間は、男性的な目的のもとで、自分をチームの一部として動かすという緊張感を長く持続させるように人間の体の仕組みはできていないようです。夕方には群れに復帰して緊張感を緩和させていたようです。群れの中では、調和の技術もノウハウも女性が上ですから、女性に従って行動していたのだと思います。屈強な男性たちが命がけで狩りをしてきても、群れの中では女性の尻に敷かれ、指図されてその通り動いている図を想像すると、なんだか笑えてきますよね。「ええ、そうなの、従わなくてはいけないの」という表情をしていたのか、「何でも言ってくれ、俺はできるぞう」と喜んでやっていたのか、どちらなのかを考えても面白いと思います。
学説では、当時は完全平等で、狩りが上手な人が偉いという意識はなかったそうです。偉ぶる人は、偉ぶったということを理由に、みんなから攻撃されたのではないかと考えられているそうです。
 元々、男性の思考パターンは狩りの場合にのみ有効で、家庭では女性脳に従ってきたのだとすると、現代においても人間の在り方は、これが自然だということになりそうな気もします。

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暴力がなぜだめなのか考え、暴力がない場合でも離婚が生まれる原因を割り出し、逆に家庭が幸せになる方法を考える。子どもの連れ去りを防ぐためにできること。 [進化心理学、生理学、対人関係学]



1 暴力を受けた場合の効果。
 ①体が痛くなる。
 ②さらに暴力が加えられるのではないかという恐れを抱くことからこのまま暴力が終わらないで続くのではないかということで最悪の場合は死の恐怖を感じることがある。
 ③暴力が収まった後も、また暴力を受けるのではないかという恐れが出る。
 ④自分の主張、行動が、暴力によって阻止された不自由さから怖さを感じる。自分の安全をコントロールできない苦しさを感じる。
 ⑤自分自身の存在が力づくで否定されたということからの屈辱感を受ける。
  弁護士ですから傷害事件の弁護をすることもあれば、被害者の代理人になることもあります。一言で暴力被害と言いますけれど、様々な損害が生じていることを実感することが多くあります。
  暴力の加害者と被害者の関係も、行きずりの関係の場合もあるし、夫婦や親子という継続的な関係の場合もあり、その関係性によっても影響は変わってきます。例えば、路上で性犯罪の被害を受けた女性は、抵抗して性的には事なきを得たとしても強烈な恐怖感情が持続する場合が多くあります。その際、「犯人が自分を知っていて、自分がつけ狙われて襲われたのだろう」と感じると、また襲われるのではないかという恐怖が上乗せされていきます。「どこの誰だかは分からないけれど、路上で見つけて追ってきたのです。」というと、幾分安心されるということがありました。
  暴力の被害というと、暴力を受けたことの無い人は①だけを念頭に置くようです。いつ終わるか分からない暴力を受け続けると、②の恐怖が生まれていくことが通常です。暴力を今受けている人が物事を悪い方向で考えていくのは理由のあることです。暴力を受けていると、自分の身を守らなければならないという危険に対する反応が発動されます。わずかな時間差ですが、この反応は、危険を意識、実感するよりも先に発動されているそうです。意識をする前から、脳の信号が副腎に到達し、副腎皮質ホルモンを分泌させ、様々な反応を起こします。そのほかに、脳の働き方も変えてしまいます。すべてが基本的には走って危険から逃げることを効果的にするための変化と考えるとわかりやすいと思います。早く確実に逃げ切るための変化です。脳の思考の変化の代表例は、危険がいつまでも追ってくるような意識が生まれます。確実に逃げ切るため、危険の有無があやふやな段階で逃げることを止めないために、まだ危険が終わらないのではないかと思うことは有効です。これを言葉でいうと、悲観的思考傾向になるということです。そのため、一度危険反応が起きてしまうと、さらなる危険が生まれるのではないかという恐怖が大きくなります。それがさらに危険反応を増強してゆき、パニック発作が起きたり、失神してしまったりすることにつながるわけです。これは暴力行為者の意図とは関係ありません。暴力行為者が、単発の暴力を意図していても、暴力を受ける側はそうは思わないのです。暴力を受けるものは、時として。現実の被害に見合わない過剰反応を起こすことになります。これは確実に逃げる仕組みからは当然のことだということになると思います。
  ③も基本的には暴力という危険に対する反応です。記憶というものは、危険の存在や仕組みを覚えていて、その後に危険に力よらないというためのものだと考えるとわかりやすいと思います。一度感じた危険は,それが解消されない限り、危険の記憶として残ります。どうして暴力を受けたのかということがはっきりしていれば、その誘因行為をしないということで対処ができて、ある程度安心することができます。
しかし、暴力がどうして起きたのか分からない場合は、対処の方法が分からないために、やみくもに自分を守ろうとしてしまいます。このため一見不合理な危険反応が生じる場合があります。ある例ですが、職場で仕事をしていて、右隣の席に座っている人から突然思い切り殴られた人がいます。殴った方は精神的に問題があった人だったようです。周囲はその人を取り押さえることに夢中で、殴られた人の介抱をする人がいなかったようです。殴られたこと、理由がないこと、介抱されなかったことの3要素があったことが重要だと思います。この殴られた人は、自分の右側から災いが来るという恐怖を常に感じるようになり、また口に出して言うようになったため、統合失調症の診断を受け、強い薬の副作用の結果廃人然となり、身体障碍者手帳をもらうようになりました。実は統合失調症のように理由のない不安ではなく、理由のある不安だということを分かった別の医者が強い薬をやめたところ、廃人然とした症状は消失してしまいました。暴力を受けた者にとって理由のわからない暴力は人間の精神に深刻な影響を与えるようです。正直、他人なんて本当は信用できないわけです。ところが、理由なく暴力を受けることはないという暗黙のルールを信じて、見ず知らずの人と近くにいても人間は不安にならないようです。この暗黙のルールがはっきりと反故にされてしまうのですから、それは、人間の中にいること自体に不安が生まれることは当然なのだろうと思います。小学や中学でいじめにあった子どもが、不合理な反応をして統合失調症などの病名をつけられ、精神科病棟に多数入院しているという現実があります。
  ④は、根源的には「逃げることができない」という意識です。現実の暴力があるのだけど、暴力によって行動の自由を奪われる。②の恐怖とはまた別に、行動の自由を奪われること自体による苦しさがあるようです。人間は、他の動物と同様、自分のことは自分で決めたいという本能もあるようです。自分の行動の自由を奪われるということは、それ自体で強烈な苦しさや不安を感じてしまうようです。
  ⑤は、案外見落とされることが多くあります。暴力自体が卑劣で許しがたい場合等、人間は暴力を受けた者の被害の中身を十分に検討することができなくなるようです。実は暴力の影響で一番問題があるのはここだと私は思っています。要するに痛いから傷つくのではなく、暴力行為者が暴力を受けた者に対して、「暴力を受けても良い人間だ」という評価をしたこと、人間として認められていないという意思表示だと受け止めて屈辱を感じているという点です。
暴力は通常暴力を受けた者の行動との関係で起きています。暴力を受けた者が暴力行為者に対して行った言動を否定するため、例えば暴力を受けた者が暴力行為者に対して「そんなことだから出世しないで、給料も低いんだ。」とか、「こんなこともできないなんて役立たず」等の言葉を発したときに、逆上して暴力に及ぶということが典型的でしょう。それから、暴力を受けた者が大事なお金を遊びにつかってしまったり、子どもの不利益になることをしても平気でいたりという行動面に対する暴力行為者の制裁などということも多くあると思います。その原因になった暴力を受けた者の言動が、道徳的に非難されようとあるいは違法であろうと、暴力を受けてその言動を阻止されるということは、暴力を受けた者にとって自分自身の行動を阻止された、行動の自由を奪われたという感覚だけが残ってしまいます。これ自体が恐怖と屈辱の混じったネガティブな感情を起こさせます。
暴力行為者が自分にとって近しい人間であればあるほど、この人間として認められていないという屈辱感、疎外感を感じます。また、暴力を受けている現場に他の人間がいる場合、自分に対する否定評価が自分の関係者に知れ渡りますから、それもまた屈辱なわけです。そしてそのギャラリーが自分を助けてくれないということも、大きな弊害を生みます。
  数年前に、大阪の高校生のバスケット部のキャプテンが顧問から暴力を受けて自死をしたという事件がありました。このケースも、暴力によって痛いということよりも、自分が暴力を受けても仕方がないような仲間として認められていないということと、それを周囲に知られてしまったということからくる心の痛みのほうが大きかったのではないかと思うのです。そのこととの関連で将来に対するなんらかの絶望を感じたのではないでしょうか。
2 例えば夫婦間暴力の場合(主として夫から妻への暴力)
 1)暴力の程度が軽い場合
   暴力の程度によりますが、痛いという感覚は当然あるでしょう。ただ、それほど痛くなくこつんと叩くということがあるかもしれません。その場合、②の暴力がやまないのではないかと思う恐怖や、③の暴力の再発に対する恐れは起きにくいかもしれません。抵抗力を奪われない程度であれば④の不自由感もないかもしれません。
   しかし、⑤の屈辱は感じる場合が多いようです。男性と女性の間には体力差、筋肉量の差、あるいは軽い暴力に対する経験の差があり、男性からすればとるに足らない暴力であっても、暴力を受けた方からすれば自分が尊重されていないという気持ちが強くこみあげてくるということはあるようです。体は痛くないけれどとても不愉快だということです。
   また、この差は、暴力の軽重の評価にも関わってきます。男性からすると軽い暴力であっても、女性からすると怖いと感じることがあり、評価のギャップは生まれやすいようです。特に暴力をする方は、どの程度の力を入れてどこをたたくかなどという暴力の質量を事前に知っているわけですから、自分の行為の結果を軽く考える傾向にあります。しかし暴力を受ける方は相手の頭の中なんてわかりませんから、より重い暴力が振るわれると身構えることは仕方がありません。これも危険に対する反応なのでより悪く予想して、逃げることを確実にするための動物の反応だということになります。暴力を受けた者と暴力行為者との間で暴力の軽重については評価が分かれることは自然なのです。
 2)暴力の程度が重い場合
   暴力の程度が重い場合、あるいは暴力を受けた方が重い暴力だと認識した場合は、暴力を受けた者の側からすれば同じですから一緒に論じます。いずれの場合でも反応のもとになる危険が大きくなるわけですから、反応もまた大きくなり、過剰反応も起きやすくなります。
   先ず、①の体の痛みが重くなります。そうすると、暴力行為者の方はワンアクションの暴力だと、つまり一回殴っただけ、一回蹴っただけと思っても、暴力を受けた方はこれが続くのではないかと思ってしまうこと、あるいは一度止んでもまた同じような強い暴力が起こるのではないかという②と③の効果が起きやすくなります。
   ある女性は、夫から暴力を受けたのは2回でした。いずれも頭部を殴られたもので、眼球の周囲が腫れあがる傷害を負いました。一時的に視力の低下も起きたようです。当の女性すら意識しなかったのですが、体が夫の再度の暴力を怖がり、徐々に夫を刺激しないように、夫に逆らわないようにと行動を制御するようになり、緊張状態が持続していったのです。またいつ暴力を受けるか分からないという身構える状態が無意識のまま続いていたようです。
   この二度の殴打も女性の発言がきっかけだったようですが、おそらく夫は発言を誤解して殴打に及んだようです。女性からすると、夫を攻撃するような発言をしていないという意識なので、なぜその時夫が自分に敵意を抱いて暴力に及んだのか全く理解できませんでした。突然目の付近を殴られたという記憶しかありません。このため、女性は夫の前で発言することそのものが怖くなっていきました。自分で自分の行動を決められない。夫の顔色を窺う癖がついて行きました。こうなると、夫が近くにいること自体が苦しくなります。だんだんと言葉を発しなくても、突然殴られるのではないかという気持ちになっていきました。しかし、女性はなぜ自分が苦しいかわかりませんでした。うつ病と診断されて、長期の療養が必要となりました。数年後離婚訴訟となりましたが、女性本人が自覚していないので、暴力と療養の関係が主張されませんでした。後に私が代理人となり、話を聴き取る中で暴力とうつ病の関係に気付き、詳細な陳述書を作成することができました。女性は暴力の効果④の行動の自由を暴力後も奪われたという意識が続けていたわけです。
   また、自分が妻として尊重されていないという⑤の意識も同時に起こり、継続したようです。体の痛みは消えても、暴力の再発の恐れと尊重されないという心の痛みは継続したようです。夫と自分が仲間だという意識も消失していきました。やがては、夫と自分は同じ仲間の関係にないのだから、自分の行動の自由を奪う敵対関係にあるという意識が育っていったようです。これでは、近くにいることに安心できないことはもちろん、夫が一緒にいると何か悪いことが起こされるのではないかという、不安を招く存在であり続けることになります。それでもそのメカニズムは分からず、ただ自分は苦しいんだということだけが自覚されていたようです。やがて女性はノイローゼとなり、医師からはうつ病であり、そのストレスの原因は夫であるから夫から離れて暮らすことを勧められるようになりました。
   夫に言いようのない嫌悪と不安を感じる原因が過去の暴力にあるという事情は、なかなか自覚することが実際は難しいようです。それでも、自分が尊重されていないということは感じます。不安や不快を感じていることは分かっています。その原因になるものは何なのかがズバッと言い当てることができない。それでも離婚したいほど嫌悪を感じています。その際、このような女性に就いた代理人は、そのことが理解されないために、しばしば取るに足らないことを離婚理由として掲げます。離婚したい原因として女性があげる原因としての事実は、暴力からだいぶ経過した後の嫌悪感が完成した時期の出来事しか思い浮かばないからです。また、事実を誇張して主張することも多くあります。女性側の代理人が、女性が説明した出来事で離婚したいと考えることは納得できないし、それでは裁判で離婚が認められるとは思わないから無意識か意識的かはともかく、なるほどこれならば離婚したいですねと裁判官に思わせる程度に誇張した表現にするわけです。
これでは、言われた夫は、事実に思い当たることがないのですから、言いがかりをつけられ、自分という人間を実際とは異なり悪い人間だと言われていると感じるのですから、当然反論したくなります。嘘をつかれていると思っていますから感情も高ぶってしまいます。売り言葉に買い言葉みたいな論争に発展してしまうわけです。これでは離婚紛争が長期化し、双方の葛藤が無駄に高まるだけです。本来、女性の主張する離婚原因が納得できないならば、代理人としては意識下の苦しみを引き出すために丹念に質問をし、時間経過を意識しながら、十分に事情聴取をする必要があると思います。暴力及びその影響と真正面から向き合うためには、それなりの洞察力と時間をかけて聴取することが必要なのです。
   実際は過去の1度や2度の暴力による④および⑤の効果が女性を不快、不安、嫌悪の状態にさせていることがあるかもしれないのです。
3 暴力がないけれど暴力の効果が生じる場合(主として夫から妻への行為)
  先ず、暴力がないのだから①の体の痛みは除外します。②、③の暴力の永続  化不安と暴力の再発もしばらく置いておきます。
  しかしながら、暴力がなくても、妻が夫との関係で自分の行動の自由が奪われると感じる④の効果や、⑤の自分尊重されていないという効果が生まれることがあります。
  先ず、行動の自由が奪われると感じてしまう効果がある場合を考えましょう。
強い口調で威圧的に何かを命令する場合、逆に行為を禁じる場合がそれにあたることはわかりやすいと思います。また、強い口調ではないけれど、懲罰を示唆するような場合も行動の自由を奪われることになります。家に入れるお金を減額するとか、家から出さないとか、電話代を止めるとか、妻の夫以外の人間関係を遮断する効果を持つ行為が典型でしょう。その意味では子どもの前で恥をかかせたり、実家に報告するぞという脅かしはこの類型に入ると思います。
理詰めで命じたり禁止したりする場合もあります。「そんなことをすることは堕落している」とか、「不道徳だ」とか、「頭の悪い人間がすることだ」、「育ちの良くない人間の行動だ」とか、そういう言葉を受けてしまい、反論ができず、結果として行動の自由が奪われるという場合です。
  厄介なことに、人間の思考は、合理的にはできていません。例えば、夫が妻に禁じたことが極端な話をすれば、法律に反する行為を禁じる場合でもあるいは道徳的に間違っていることを禁じる場合でも、つまり夫の言い分が正当であっても、禁止という結論を押し付けられていると感じる場合は、押し付けられた方は行動の自由が奪われているという拘束されているという感覚を持つということです。どんな場合でも暴力はだめだという立場をとる場合は当然ですが、その原因となったことに妻に非があると多くの人が認める場合でも、身体的自由を奪われた拘束感は持ってしまいます。「自分が悪いのだからそれをやらないことは当たり前だ、言われていないことは自由にやれるから大丈夫だ」というように、都合よく、合理的な反応になることはありません。フィクションの世界でしょう。
  ポイントは、意に反する結果の押し付けということが暴力と共通する要素だということです。
  いずれの場合も、自分の行動の自由を奪われたという拘束感が生まれ、これが持続していくと不快感、不安感、嫌悪感、極端には恐怖感まで生まれてくるようです。
  次に仲間として尊重されないこと。前の行動の自由が制限されたこととよく似ています。仲間として尊重されないということの典型は、失敗、不十分点、苦手な点、欠点などを責められたり、嘲笑されたり、批判されたりすることです。これらのネガティブポイントは、多くの場合、日常的な行動、ルーティーンの中で起きているために、修正することがかなり難しいことです。あるいは、もって生まれた能力の問題があり、修正ができません。これらの批判等は、行為に対しての批判ではなく、言われた方は自分の人格に対して否定しているという気持ちになっていくのはこういうことです。もちろん、過去の出来事、親の悪口、人種や出生等、本人の力ではどうしようもないことでネガティブな評価をすることは人格そのものに対する否定になります。
  仲間として扱われていないという意識は、やがて安心できない人間がそばにいるという意識に固められていきます。そして、行動の自由が制限されているという意識とあいまって、夫に対して、継続的な危険反応が起き始めます。ちょうど重い暴力が振るわれた結果と同じような、悲観的な傾向が大きくなってゆき、どうせ自分の行動は否定されるとか自分は馬鹿にされていて、追い出されそうになっているという危機感が生まれ、持続し、膨らんでいくようです。
4 妻の夫に対する慢性的な敵対意識のまとめ
  離婚原因として主張される妻の夫に対する慢性的な敵対意識、嫌悪感、恐怖感は、結局、夫によって自分の行動が制限されているという意識と自分が仲間として認められていないという意識から、夫が近くにいることで安心できないという危険反応が生まれてくるところからきているようです。
  重要なことは、
1)妻は夫が危険なところがあると認識する。
2)危険に対する過剰反応が起きる
3)過剰反応の結果、夫は自分の行動を制限する存在だと感じる
4)過剰反応の結果、夫は自分をますます否定し続けるだろうと感じる。
5)夫の存在自体で、自分の行動や人格が否定されていると感じる。
6)夫の存在自体が安心できず、さらなる危険を意識させる。
ということです。暴力があれば、この連鎖反応は速やかに確立していくということになりますが、暴力がなくても慢性的に持続的に反応が進んでいくということになります。
  暴力がない場合でも、教科書的に言えば、妻は暴力があったときと同じように夫に対する膨れ上がった嫌悪感、恐怖感を持っています。
話を聴き取る能力はないけれど、困っている人を助けたいという意欲だけは大盛な、知識のない人たちは、これは暴力があったに違いない。暴力がなくても精神的虐待があったに違いないという先入観を持つことになります。その先入観にもとづいて根掘り葉掘り聞きだすなかで、それらしい言葉が出てくれば、「それは暴力です」と飛びついてしまうわけです。そうでない人は、なんだかわからないけれど嫌がっているから夫が何かしてきたに違いないということで、マニュアルに従った主張を始めてしまうわけです。
  実際の事例では、夫がペットの犬用のハサミをもって犬の毛を刈ろうとしたけれど道具が一つ足りずに、妻に比較的大声でどこにあるかを聞いたという出来事があったということが真実ですが、裁判の書類では、夫がハサミをもって自分を負いまわしたということに変わっていました。夫に弁護士が入らなかった事例で裁判官はこれが生命身体に重要な恐れがある暴力だとして保護命令を出しました。夫は、家の近所を散歩することさえ罰則付きで制限されてしまい、重いうつ病にかかりました。
  このような事実にもとづかない主張がだされれば、言われた方はまさかあの時のことで保護命令が出るとは思いませんし、妻が本当に離婚したいのだと感じることもできません。時間が経過して妻が復縁するつもりがないということを感じ始めても、納得することができませんので、感情が落ち着くことはありません。夫と妻双方にとって良い解決とは程遠い裁判になるわけです。
5 追い込まれる妻側の事情(危険に対する過剰反応が理由なく生まれる)
  今見た、1)から6)の連鎖反応が、夫の暴力がない場合でも起きるということは良いと思いますが、実は夫の行為がなくても起きることがあります。厳密にいえば夫の行為がないということは共同生活する場合はあり得ません。行き違いなどがあり、何らかの不快な行動があることがむしろ通常です。しかし、繁殖期などは、愛情によって根拠のない信頼関係にありますから、それらの行為が気にならないというだけなのかもしれません。いずれにしても、第三者から見ても夫になんの責められることがないとしても、過剰反応が起きることがあります。
  これは、えん罪DVともいえる事例の多くで見られますし、これから述べる理由のいくつかが重なって起きることが少なくありません。
  ①精神に影響を与える疾患
    これはうつ病や不安障害などの精神疾患が代表的なものです。認知の歪みが生じていて、理由もなく過剰反応状態になっており、悲観的、自悪的に物事を考えていきます。
    甲状腺ホルモンの分泌異常がある場合にも、このような過剰反応状態がみられる場合があります。なかなか研究者たちは、実生活上の不具合について調査研究をしないようです。
    婦人科系の疾患PMや更年期障害も過剰反応を起こす場合が見られます。
    また、肝炎の治療薬のインターフェロンやステロイドなども過剰反応を見せる場合があるそうです。
    認知がゆがむということはどういうことかということで、それをわかりやすく示す実例があります。偶然録音されていた会話がありました。その中で、妻は夫に対して、「どうせあなたは私が嘘をついたと言いたいのでしょう。」と発言していました。夫は妻が何を言っているのか理解できなかったために特に何も返事をしませんでした。しかし、裁判で提出された書類には、「あの時夫から自分が嘘つき呼ばわりされた。」と記載されていました。嘘をついているのではなく、「言われるかもしれない」という恐れが、過剰反応で「言われた」という記憶に置き換わっているのだと思います。
  ②子どもの障害
    母親は、子どもに発達上の障害がある場合、自分の責任だというように考えやすいようです。誰からも責められなくても自分で考えてしまうようです。ですから、それらしいことを言ってしまうとますます過剰反応を起こすようになるでしょう。
    障害の内容は、身体の障害でも精神的な障害でもどちらでも起きるようです。
  ③夫を好きすぎる現象
    夫に対して恋愛の感情が強すぎたり、依存傾向が強すぎたり、夫婦とか家族という人間関係をあまりに強く大事に考えすぎたりすると、悲観的傾向が表れることがあり、些細なことにも危険を感じるようになるようです。自分が望んだ二人の関係でないことに不満を持ち出しますので、夫は深刻です。
    記憶が改変されやすいのもこのタイプでしょう。自分が書いた日記の意味が分からなくなり、夫の反応や行動に満足しなかったという記載をもって虐待だと感じるようになるようです。
    そうして、夫との関係にいたずらに悲観的になってしまい、夫の行動のすべてが自分を否定する表現だととらえていくようになっていきます。自滅の感が強くあります。それでも、意欲のある支援者は、夫からの虐待があったと決めつけて調停や裁判で主張します。もちろん事実にもとづかない主張ですから、夫も感情的になりながらも、事実をもって反論していきます。弁護士がきちんと入ってこの活動をすれば、裁判所からも妻の主張を疑われてきます。これは当然のことです。やがて妻は全方面から信頼されていないということを感じ始めてしまいます。かなり追い込まれて危険な状態になります。
    初期の段階で、暴力があり虐待があり離婚原因があるという無理な筋立てをしなければこんなことにもならず、無理な筋立てをしたことによる最愛の夫からの反撃も受けなかったのですが、意欲のあり能力のない支援者によって追い込まれていったという側面もあるわけです。
  ④自分の失敗
    夫が言わなくても、自分が失敗を犯したことを自覚している場合も、過剰反応が起きることがあります。子どものころ何か失敗をして明るみだしたくなくて、些細なことにも過剰に反応したというご経験はないでしょうか。
    これもよくあるのは、お金の使い方を間違うことです。夫から渡されていた生活費を別の何かで使ってしまい、家賃や光熱費を滞納していて、電気を止められるなど発覚寸前であった場合、クレジットカードを使いこんでしまった場合、子ども学校の人間関係等の不具合が生じて、孤立した場合、自分が浮気をした場合等自分の失敗で過剰反応が起きて離婚を申し立てたり、子どもを連れて行方をくらましたりということは多いです。
    それでも、結果として妻は夫を嫌悪し、恐怖を抱いていることには変わりないのですから、支援者たちの多くは、夫の精神的虐待があったということを主張します。言われた方が感情的になることは当然です。
6 実際の連れ去り別居や離婚申立てが起きるときと「支援者」の役割
  おそらくこれまで述べた事情の出来事が複合的に作用して、妻側からの夫への慢性的な危険意識が生まれていることがほとんどだと思います。
  何らかの精神的状態の変化や育児や人付き合いなどでの困難な事情があることにより、不安を感じやすく、過剰反応を起こしやすくなっているときに、妻の些細な行動に対して夫が過剰に反応し、結果的に妻を理詰めて問い詰めたり、いささか強制的に行動を指図したり、という不自由感を与えたという事情はあったのだと思います。その際、妻は自分が仲間として尊重されていないという感覚を持ち始めたのかもしれません。夫からすれば些細なことだからつまり、それまではそういうことを言っても特に気にしていなかったのだから、今回もそれほどダメージはないだろうと考えてしまいます。しかし、妻は過剰な反応を見せるのです。夫はなぜ妻がいきり立っているのかが分からない。喧嘩をしたくないから徐々に距離を取ろうとしてしまいます。妻はますます孤立したと感じてしまい、反応も過剰になり、これ以上やっていくのは無理だという感覚を持ってしまいます。
  おそらくこういうことは、人間が一夫一婦制の婚姻形態をとり始めたころからあったのだと思います。しかし、それを修復する人たちがいたのだと思います。二人をよく知っていて、どちらにも遠慮なく意見することができる人が近くにいたわけです。そうすると、妻の認知の歪みがある場合は、妻に「それは思い違いではないかい」と意見をして、妻を励ましたのでしょう。そうして夫に対しても、夫が暴力をふるったらこっぴどく叱ったり、夫の暴力がない場合でも「あなたが悪くないとしてもあなたのたった一人の奥さんなのだから、かわいそうだという気持ちにならなくては駄目だよ」と説教の一つもしたりしたのだと思います。
  多少の昔ながらの言い回しというのが受け継がれていたとは思いますが、二人をよく知っている人であるため、事実と違う言い分を取り上げて紛争を大きくする方向での介入はあまりなかったはずです。なぜならば、妻側にも肩入れするし、夫も良くしているし、何よりも夫婦げんかで傷つく子どもたちのおびえた顔もよく見ている人が相談に乗っているからです。
  ところが現代日本では、妻の過剰反応を、マニュアル通りに夫のDVだという「支援者」が大手を振って歩いています。目の前の妻の苦悩しか見えておらず、夫の表情や子どもたちの様子などは見えていません。妻には仲間意識を持てますが、夫や子どもたちに仲間意識を持てと言ってもなかなか難しいことは人間の心理からすればそうなるでしょう。だから支援者は、夫や子供たちの事情を考慮することなく、夫が原因で苦しんでいるのだということを躊躇なく、心のおもむくままに行うのでしょう。
  その結果、妻の過剰反応は、過剰ではなく正しい反応であり、本当はもっと警戒しなければならないくらいだということになってしまいます。妻の夫に対する不快感、嫌悪感、恐怖感は固定され、増幅されてしまいます。そもそも漠然と不安を感じているだけで、その不安を夫に相談さえしていた妻も、支援者によって自分の不安は夫が原因だと不安の原因をも固定化されているということが実態です。
  そうして、夫に居場所を知られないように子どもを連れて別居することが命を守るために必要だとして、連れ去りが決行されます。実際の事例で、警察官が妻に子どもの連れ去りを説得した報告書を読んだことがあります。夫の言動は精神的虐待、DVだということを言い、DVは治らないと言い、やがて命の危険が生じている、一刻も早く子どもを連れて家を出なさいということを2時間にわたって話したというのです。もちろん妻は、暴力を受けていませんから、いったん子どもの誕生日のお祝いを家族で行ってから逃げることを考えたいなどというわけです。それに対して、そんなことよりも命が大切だという「あおり」をしていくさまが、本人の手によって詳細に記載されていました。
  そうやって、妻は子どもを連れて行方をくらまします。こうなってしまうと、妻は夫が近くにいませんから、わずかに残った仲間意識は全く失われ、徐々に恐怖感と嫌悪感が増大していきます。泥仕合のような裁判が延々と続くわけです。もう、夫も、二人の間の子どもも、やり直すというチャンスは残されていません。
7 ではどうすればよいのか。
  今まで見てきた通り、暴力があった場合は、それが一度だけのことであろうと、妻が身体生命の危険を感じる場合があり、それによって不快、嫌悪、恐怖のスパイラルに陥る可能性があるわけです。
  さらに、暴力がない場合でも、妻側の事情があり、また「支援者」が蔓延している状況もありますので、自分が気が付かないうちに子どもの連れ去りの準備が進められている可能性があります。自分は何も攻撃していないから、妻が子どもを連れて行方をくらますということがありえないと考えている人が多いと思います。実際に連れ去られた人たちもそう思っていました。
  そうならないために、いくつか考えてみました。
 1)自分の行動を点検する。
   先ず暴力を振るわない。これは鉄則です。仕方のない暴力というのが夫婦の中であったとしても、記憶が変容します。一方的な暴力という記憶に変わることは理解できると思います。
   次に、行動を制限しない。案外、夫が妻に言う指図や禁止は、どうでもよいことを言っていることが多いものです。そうでなければ、言っても仕方がないことです。それを言うメリットがないことがほとんどだと自覚しましょう。結婚して共同生活をするということは、あなたの生活の大部分が妻という他人の事情で決まるという割り切りが必要です。結婚する場合の多くが繁殖期ですから、それでも良いと思って結婚するわけですが、繁殖期を過ぎるといまさらながら不合理に感じてくる人が結構います。家族を放っておいて、好き勝手なことをしているなあと感じる人は結構いらっしゃいます。
   相手の欠点、弱点、不十分点、失敗を責めない、笑わない、批判しない。
   これらのことが頭に入ってもうっかりするのは3つのパターンです。
   1は、自分を守るときです。妻の行為によって自分に災いが生じるとき、他人の自分評価が下がるような気がするときです。あるいは、妻から馬鹿にされたことに対する反撃として行われます。
   2は、直接自分には被害がないが、妻の行為が自分の価値観に反しているとき、合理性が無い時、要領が悪い時、特に正義感情に反しているとき。
   3は、妻の行動が子どもの利益に反する場合。
   おそらく、普通の人は、暴力はだめだとは思うけれど、この3つのパターンで強く妻に言うことは当然なのではないか、これができないならば自分の人格が崩壊する、妻に従属することになると疑問を飛び越えて私に怒りを覚える方もいらっしゃることだと思います。それはよくわかります。私もそうでした。
   しかし、現実の紛争をみていると、ここが勘所であるということは間違いないと思います。そうして紛争解決機関では必ずしも合理的な解決はなされません。ある調停では、子どもと会えなくなって面会交流調停を申し立てたところ、調停委員から「どうして子どもに会いたいの?」という質問が調停の冒頭に父親に対してなされました。とんでもない話です。妻側が嘘でもDVという言葉を出すと、裁判所はアウエイです。夫の行動に合わせて職員がインカムをつけて見張りに入ることもありました。暴力の無い事案です。それを命じた裁判官が判決を書くわけですよ。また、確立された判例に乗っ取らないで審判をされても、確立されたルールがわからない高等裁判所に即時抗告をしても覆ることはないどころか、書面審査で門前払いをされることもあります。夫は自分が悪いことをしたという記憶がなくても、裁判では負ける可能性があるということは肝に銘じておいてください。
   小言を言わない、ガミガミしない、大声をあげない。相手を追い詰めない等、ほんのちょっとのことです。妻の失敗についても、許せることについては積極的に許すという態度を示すことで、信頼関係もきずなも強くなることでしょう。許さなくても、問題は解決しないことがほとんどです。結局許すことになるなら、感謝されながら許した方が得だと思います。
 2)妻の様子を気遣う
   妻が自分で過剰な反応を見せる事情を紹介しました。これは、夫には責任がないことかもしれませんが、「自分(妻)の失敗」を除いて妻にも責任がありません。ところが、夫は自分が責められるものですから、まず反発が先に立ってしまいます。しかし、妻の体調面などに異変が生じている可能性があるわけです。風邪をひいたときのように、健康面を気遣うことが正解なのです。
   優しい言葉をかける、花などを買う、してほしい希望を聞く、妻の家庭内の役割を引き受ける等、妻が夫から尊重されているという実感を持ってもらうことは、妻だけでなく、自分や子どもたちにもメリットしかありません。人間は仲間にやさしくするために生まれてきたのだと考えて、気遣うということを具体的に行動に移すことを学習しましょう。
 3)敵意を消す。
   特に繁殖期が過ぎてからは気にかけておいた方がよいのですが、ぶっきらぼうな人だとしても、感謝と謝罪とあいさつは言葉にしてこまめに言うべきです。なぜ挨拶するかということですが、これはどうやら相手に敵意がないよということを示すためのもののようです。感謝と謝罪も、基本的には同じ役割をすることばのようです。
   過剰反応をする妻は、自分が尊重されていないのではないかという不安を抱くわけです。それが自分が攻撃されているかのような感覚に育ってしまうということでした。逆に、積極的に挨拶を言われたり、感謝や謝罪が口に出されて、自分に敵意がないことが示されると、この攻撃されている感覚が薄れて、安心感を獲得していくようです。
   ここで、自分もそうしているけれど、妻から煙たがられるという人は、自分の表情をよく鏡で見るべきです。うっかり眉を寄せて、いかにもいやそうな顔をしているということがあるようです。ここが落とし穴です。本人は相手の行動に嫌悪してその表情をしているわけではなく、単に対処に困っている正直な表情をしているだけかもしれません。私の場合がそうでした。しかし、相手が過剰反応中や過剰反応一歩前の場合になると、自分に対して嫌悪感を抱いているからそういう表情をするのだと悪く受け取るもののようです。思春期はこういうことに敏感です。思春期のお子さんがいたら、自分の表情が嫌そうにしているか聞いてみると良いと思います。
8 自分だけが努力しなければならないのか
  ここまで読んでいただいて感謝します。「言っていることはわかるけれど、自分だけが努力しなくてはならない、自分だけが日々緊張しているということは何とも不合理だ。自分だけが損をしている。」との感想を多くいただきます。
  まじめで責任感の強い人がこういう感想をお話しされることが多いようです。おそらく私がやった方が良いということを100パーセントやり切ろうと思われているのだと思います。それでは、家庭の中で常に緊張をし続けなければなりませんので、それは不可能です。
  私は、3割くらい達成すればよいのではないかと思います。要するに過剰反応を起こさず、自分が尊重されていないと感じさせなければ良いのです。多くの失敗はありながら、それに気が付いて妻のことを思って自分の行動を修正するという姿を見たら、自分は尊重されていると思うのではないでしょうか。それには3割くらいが達成されることは必要だけど、8割9割ではなくても良いのではないかと考えています。今まで0だったら、2割でも、だいぶ変わったと思われるのではないでしょうか。
  それからおそらく、あなただけが努力をするということにはならないのではないかと期待をしています。人間は、自分がされてうれしいことは相手にもしたくなる動物のようです。道徳とはこうやって獲得されていくものです。相手を尊重したいのだけれど、どうしたらよいのか分からない。その具体的方法をあなたが示すことによって、まねをしてくれるようになることが期待できると思うのです。
  先ず子どもたちはまねを始めるのではないでしょうか。きちんとマネできたらほめてください。ますます立派な人間になっていくことでしょう。
  そして、家族で食卓を囲むとき、何となく笑顔の場合が増えれば、それは幸せというものではないでしょうか。子どもや奥さんが自分の失敗を相談したり、自分の欠点を助けてほしいということを言えるようになったりすれば、自分が家庭の中で役割を果たしていると実感できるのではないでしょうか。それは生きがいというものではないでしょうか。
  私は、これまで述べてきたことは、人間らしい行動することに尽きるのではないかと思うのです。言葉や文明ができる前から人間がやってきたことだと思うのです。ところが文明ができて、敵か味方かわからない人間と多く接するようになり、人間らしい行動とは何かが分からなくなってきているのだと思います。学校や職場で仲間として扱われない経験がそれに輪をかけて人間らしさを奪う事情になっていると思います。仲間に対してふさわしい行動とは何かと考えなければ実行できなくなっているのだと思います。でも、家事育児を協同する家族だけは、仲間でなければならないと思っています。特に子どもは、仲間として扱われないと健全な成長ができなくなってしまうようです。
  私が今回お話ししてきたことは、人間らしさを取り戻そうという呼びかけなのかもしれません。人間らしさを取り戻すために行動するご家庭は、人間らしい幸せが実感できる家庭になると確信しています。

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【ボビー氏の勾留請求却下に寄せて】なぜ、DV等の支援は過剰に、過激になってしまうのか [進化心理学、生理学、対人関係学]

勾留請求却下とは何か
DV支援が過激になること
理由1 仲間を守ろうとする本能は怒りを生んでしまう
理由2 相手が危険ならば自分の身を守らなければならない
理由3 マニュアル的な支援は個別事情を見ることができない
理由4 政策の成果主義的評価の弊害の可能性
理由5 国民の幸せを考えていないこと

勾留請求却下とは何か

タレントのボビーさんが、妻を指の先で叩いたという
日本語にすると奇妙であり、イメージがつくりにくい容疑で
逮捕されたと大々的に報道されました。
しかし、ボビーさんは、容疑を否認したにもかかわらず釈放されました。
裁判官が、これ以上の身柄拘束はだめだと判断したわけです。
これが勾留請求却下です。
検察官の異議申し立ても却下されていますから
複数の裁判官のダメ出しがあったわけです。
これはあまりないことです。

DV支援が過激になること

裁判官が勾留を却下したということは
警察の逮捕もやりすぎではないかと
裁判官が思っている可能性もあるように思われます。

ボビーさんを逮捕した警察だけがやりすぎだったのでしょうか。
いえ、実は、警察や行政機関のやりすぎた支援は
私のところには相談が少なくありません。
ただ、実に多くの人が泣き寝入りをしているという実感があります。

それでも、最近、岐阜県半田市の事件で(愛知県の間違いでした。ご指摘いただきました)
市役所がやりすぎをしたことを謝罪して裁判上の和解があったり、
仙台高裁秋田支部でも暴力もないのに警察が夫婦げんかに介入したとして
賠償請求をしている事案が係属したり、
東京地裁では子どもの引き渡しで有名になった事件について、
事情も知らないのに夫を暴力夫であるかのように嘘の事実を
多くの著名人が流したということでの提訴もありました。

少しずつ、人権侵害の回復に立ち上がる人たちが現れ、
少しずつそれが社会の知るところとなり
少しずつ成果が生まれ始めています。
新しい権利が生まれ始めています。

どうやら、DVの「被害者支援」というものは、
やりすぎてしまう構造を持っているのかもしれません。
その理由について考えてみます。
この過剰介入は、DV支援だけでなく、
およそ他人の紛争に介入する場合に起こりうることだと思うので、
誰かを支援する人はぜひ一緒に考えていただきたいと思います。

理由1 仲間、弱者を守ろうとする本能は怒りを生んでしまう

人間は仲間を守ろうとする動物のようです。
また弱いものを守ろうとする性質ももっています。
現代社会は仲間意識が希薄なのであまり問題は起きませんが
スイッチが入ってしまうと
仲間を守ろう、弱いものを守ろうという意識から
誰かを攻撃するということがよく起こります。

浮気をした芸能人を攻撃する場合も
はじめは被害者に同情して相手を攻撃するところから始まり、
この正義感が怒りを大きくして
攻撃をコントロールできなくするようです。

児童虐待が報道される場合も
このスイッチが入る場面としての典型だと思います。

もともとは、子どもを連れた動物、哺乳類の母親は
子どもを攻撃された場合は
自分の実力ではかなわないと思われる相手にさえも
我が身をかえりみずに戦いを挑む
という性質があります。
この性質が人間では母の子どもに対する感情にとどまらず
仲間を守ろうという感情に進化したものだと考えています。

そうすると
人間は仲間を守ろうとすると
怒りを持ち、いつもと比べて攻撃的になるようです。
そうしてひとたび怒りを持ってしまうと
その感情をコントロールすることは難しく、
弱者を守ろうとするあまり
その攻撃者とされるものに怒りを持ってしまう
攻撃者に対する怒りのコントロールが効かなくなる
やりすぎの攻撃がされてしまうのだというのが
第1の説明です。

被害者は非力な女性
加害者は力があり、経済力もある男性
という図式は、
個別的な事情が気にならなくなり
それだけで非力な女性を守るために
夫と対決しなければならないという意識にさせるのでしょう。

理由2 相手が危険ならば自分の身を守らなければならない

そうやって夫と対決しに来たのは良いけれど
DV夫ということで、凶暴な夫というイメージができてしまっています。
実際は嫌味をチクチクいうだけのことだったり、
その嫌味も、当事者なら言いたくなる嫌味だったりするのですが
精神的DVもDVだ、あいつはDV夫だということになってしまうと
嫌味を言うくらいの行為なのに
アメリカの事例をもとに研修を受けたその事例が
頭をよぎってくるわけです。

マサカリをもって追いかけてくるとか
大型トラクターでひき殺そうとするとか
そんなイメージにすり替わってしまうようです。

そう言う妄想をもってしまうと
警察官も生身の人間ですから怖いですし、
市役所の職員ならばなおさらです。
自分は暴虐卑劣な男と対決しなければならない
という悲壮な考えになるようです。

弁護士だってそうでしょうね。

自分の身を守らなければならないという考えです。
自分の身を守るためには逃げるという方法もあるのですが
それは立場上できない
そうすると相手を屈服させることによって
自分の身を守ろうということになるわけです。

自分の危険に敏感ですから
相手が何を言っても、自分を守ろうという意識から
こちらを攻撃していると感じるのもやむをえません。

そうすると
市役所の人は警察の人に依頼し
警察の人は法律的に相手の反撃を封じ込めようとするしかありません。
特にボビーさんは格闘技もやっていましたので
自分を守る過剰な意識は頂点に達していたことでしょう。

もう、大勢で取り囲んで逮捕ということになるのは
自然な流れだったということが簡単にイメージできます。
もしボビーさんが身に覚えがなく
どうして警察に自分が取り囲まれたのか分からないとなれば
それは抵抗もするでしょう
その抵抗、人として当然の反応も
警察官は自分に対して反撃をしようとしていると思ってしまい
過剰に身構えるのもよくわかります。

ちなみに、相手の男性が小柄でおとなしそうな人の場合は
双方から事情を聴いて
警察官から意見を述べて終わりにしたり
妻側がの怯えが尋常でなければ
夫から保護するということが多いのですが
そうではなくていきなりの逮捕というのは
このような事情があったのではないかなと勘繰りたくなるわけです。

理由3 マニュアル的な支援は個別事情を見ることができない

先ほどアメリカの事例に基づいた研修とありますが
実際他県の同種事例の中で警察の方とやり取りをした際に
それらしいことを言っていました。
そして、警察官が介入できるDVが
法律上原則身体的暴力があった事案だけなのに
「DVは精神的DVも含まれるという研修を受けた」
という見過ごせない発言も聞いています。
彼は、法律も通達も知らなかったことになります。

おそらくDV事案に対するマニュアルがあるのでしょう。
そのマニュアルでは、
DVとは身体的暴力が伴う事案に対する対応を想定していて
警察官も当事者も身体的な被害にあわないようにすることを目的としてとして
作成されているのだと思います。
精神的DVの場合も、極端な身体的DVがある事案のような行動が
マニュアルでは指示しているのかもしれません。

もうそうなると個別事情などは全く考慮されなくなるわけです。
ただ、嫌みが多いだけなのに
ひとたびDVと認定されるとマサカリ夫の扱いを受けるわけです。
そもそも過剰な対応は、
マニュアルでそうなっているから過剰になっている
という性質もあるのかもしれません。

理由4 政策の成果主義的評価の弊害の可能性

私、実はもう一つ疑っているのです。
公務員の人事管理が
少し前から成果主義的な人事評価制度に代わっているのです。
おそらく公務員個人だけでなく
部署においても成果を上げることによって予算が配分される
という仕組みになってきているのではないかと思うのです。

それにはインパクトのある数字を挙げることが大切です。

そうするとDV事案の検挙の数がどのくらいだとどのくらいの予算になったり、
基準以下だと予算が削られたりということがある可能性がありそうです。
ノルマに合わせて警察官が動く
ということは考えにくいのですが、
なんとなく上からの圧迫があり、
本来であれば逮捕しないような事案も逮捕する
ということがあったら怖いですね。

そうして、逮捕を報道させることでインパクトを持たせるわけです。

報道価値があるのは
ボビーさんのような有名人、タレントや文化人
一般庶民が攻撃したい公務員や医師、教師などでしょうか。

通常だと逮捕しないような無理な逮捕をしても
報道機関は報道するでしょうから
それだけでインパクトファクターになるわけです。
ああ、あそこの警察は頑張っているなと。

まさかとは思いますが
一応心配を表明しておきます。

理由5 国民の幸せを考えていないこと

新型コロナウイルスのステイホームで、
報道機関は児童虐待やDVの懸念を示し続けています。
実際は、報道するほど事件が増えているわけではないようです。

国民の願いとして
児童虐待やDVは根絶されるべきだと思うでしょう。
一人でも多くの被害者を救いたいと思うのもわかります。

しかし、それでは、そういうことを防止するための措置、てだて
というものに力を入れている人はいるのでしょうか、
力を入れた政策は誰が、どの機関が考えているのでしょうか。
誰も考えていないのではないでしょうか?

また虐待通報があった場合は、その後どうなるのでしょう。
ただ、単に家族が分離されてしまうだけではないのでしょうか。
通報してくれという呼びかけは多く聞きますが
通報したらどうなるという話はあまり効きません。
それにも関わらずまじめで責任感が強い人は
どうなるかもわからないけれど通報するわけです。

おそらく成果主義の弊害なのでしょう。
私の結論としては
家族が仲良くする方法を考える、提案する
という政策が必要であるにもかかわらず
それがないように思われます。

本来であれば家族が協力し合い補い合って幸せになることを
目標とするのが自然なのではないでしょうか。
ところが、こういう抽象的目標は
成果として評価しにくいのです。

このため、幸せになる政策は行わず
不幸を救済する政策だけが行われるわけです。

マイナスからゼロを目指すだけで
その先のプラスを目指しません。

ここに一番の問題があるように思えてなりません。

もし、家族が幸せになることが目標ならば
幸せになる知識を普及して
それが不足している人に教えてあげればよいし
幸せになるための環境を整備すればよいではないですか。

不幸を救済するだけだから
一人を救済するという意識になり
その相手は敵で攻撃の対象にするしかないのです。

そのため、知識と環境が全く普及整備されない状態が
放置され続けているわけです。

虐待を起こさなくしなくてはならないのです。
そのためには虐待が起きてからの対応では遅すぎます。

不幸にしないというだけではなく
幸せにするという視点をもって政策を立てていない
これが過剰支援の原因の根本だと思っています。


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職場での強いモラハラ、学校等でのいじめ等によるトラウマが起きた事案に対する、パーソナリティ障害、発達障害の診断についての疑問 [進化心理学、生理学、対人関係学]

不当な人事やパワーハラスメント等で強いうつ病になり
何年間も休職を余儀なくされた労働者の人たちが
「うつ病は、仕事が原因ではなく、
元々あった本人の素因によるものだ。
その証拠にパーソナリティ障害(場合によっては発達障害)
の診断書があるではないか」
ということで、労災認定されないケースがあります。

裁判などになれば、
医師の診断書の信用性を疑問視しなければならないのですが、
なかなか一度診断書に記載された病名はくつがえりません。

しかし、根本から疑問があります。

例えば、
Aさんは、有名進学校からナンバーワン私立大学に進学し
一部上場会社に採用されて以来10年以上
例外的な出世を果たすほど活躍した人です。
結婚して子どももいるのですが、
吸収合併があり、仕事を干されて重いうつ病になり
治療を受けるようになりました。
そして心理士の心理テストで、
発達障害と診断されました。

しかし、
果たして発達障害がある人が、
一部上場企業で、チームの要の位置にあり
スピード出世するように仕事ができるのでしょうか。
コンピューターをにらんで一日が終わる仕事ではなく、
取引相手との交渉や、会社の関係部署との調整も彼の仕事で
それらの対人関係も評価されての出世でした。
吸収合併までは特に人間関係でも障害はありませんでした。
どうしてそんな人が発達障害と診断を受けなければならないのでしょうか。

私の理解では、発達障害は、
1 先天的なもので
2 障害という生活上の不便さを本人が感じている
ものだと思っていました。
彼は、少なくとも40歳近くまで、
何田対人関係の問題で深刻に悩んだことはありません。
発達障害が40歳近くになってから発症したということになるのでしょうか。
それは科学的なことなのでしょうか。

Bさんは、
地方のエリートしか入れない企業に入りやはり活躍していました。
結婚もしました。
しかし、交通事故労災をきっかけに会社から退職勧奨のような
ひどい労働内容を命じられるとか、
机を取り上げられて、それをパート社員にあてがい、
自分は花瓶の台の上で仕事をさせられたとか
大変ひどい目にあいました。
交通事故の後遺症にも苦しめられました。

うつ病でも通院していたのですが
後に、境界性パーソナリティ障害だとの診断もなされました。

パーソナリティ障害と診断がつくような人が
そのような企業に採用されるものなのでしょうか。
酷い取り扱いに甘んじなければならない理由もありません。

我々過労自死を扱う弁護士は、
生前の労働者には通常出会うことはありません。
既に亡くなってから関わるわけです。

私は友人を過労自死で失くしたという経験があり
その認定裁判に関わるという貴重な経験があります。
亡くなった後に関わった人たちの感想と私の記憶は
全く違うものでした。

もしかしたら、
パワハラやモラハラ、不当な人事扱いで
深い精神的障害を発症した人は、
病前性格は良好でも、そのことによって性格や人格が変容してしまうのではないか
という疑問があるのです。

そのような強烈なトラウマ体験を考慮に入れて
パーソナリティ鑑別や発達障害鑑別がなされるのでしょうか。
本当に心因反応と内因的な障害とを区別できる心理テストなのでしょうか。

そのようなトラウマ的体験の存在を前提として
心理テストは構築されているのでしょうか。

そんな前提や考慮もなく
他者を先天的な障害として扱うことは許されるのでしょうか。
当然治療は進みません。
彼らは治療以外の事情で改善して行きました。

Aさんは、訴訟には負けましたが
自分の権利を守る戦いをする中で社会性を発揮し、
もともとあった能力の高さから
大企業の子会社に再就職をしてそれなりの役割を担うようになりました。
病前性格は、このようにバイタリティにあふれた
陽気で楽天的な人だったことがわかります。
彼はまた心理テストを受けてもらいたいです。
先天的な障害であるはずの指標が
おそらく消失していることでしょう。

Bさんも、過労死防止の社会活動に参加するなかで
社会性が強まったのですが
色々な不遇がありまだ調子に波があるようです。
しかし、活動をする前に比べると
様子が全くかわりました。

迫害された人たちが色々とこだわりを持つようになることは当然です。
特にトラウマになるほどの強い精神的打撃を受けた人は
その不合理に対する適切な対処方法を奪われていたわけですから
なにか、突拍子のないもの、合理性が見られない手段で
安心感を獲得しようとしているわけです。

こだわりがあると評価される根拠になる行動や思考は、
紛争を抱えている人たちにある程度見られる心理的反応です。

また、徹底的に追求しなければ
自分がやられてしまう
自分の権利が葬られてしまう
自分が人間として扱われなくなる
という体験は、
その人の行動を変化させます。

第三者から見れば
容赦のない過酷な言動に見える振る舞いをし、
味方か敵かの極端な主張ばかりする思考につながるわけです。

私はそれが許容されるべきで、第三者は我慢するべきだ
と言っているわけではありません。
トラウマを受けるような孤立と絶望を与えられた人は
自分を守るためにそのような反応しかできなくなるという可能性はないのか
ということを言いたいわけです。

これはちょうどいじめにあった子供たちも一緒です。
幼少期にいじめにあうと
他人は、自分を攻撃する動物だという意識が生まれてしまいます。
逃げ場のない焦燥感は奇行に見える行動をさせてしまいます。
衝動的な行動
暴力的な行動
破壊的な行動がよく見られます。

持て余した両親に連れられて受診した精神科では
発達障害
パーソナリティ(行動)障害
統合失調症
妄想性障害
等の病名がつくのですが、
私には正当な心因反応だと感じてならないのです。

しかし、彼ら、彼女らの生活上の不便さは
先天的な原因があるということで
自己責任や、親の責任になってしまっているのです。

治らない障害だと決めつけられて
かなりのハンディキャップが与えられてしまいます。

私は、精神的外傷の研究がもっともっと行われないと
このよう不合理が弱者に集中していくのではないかと危惧を抱いています。

社会に都合の悪い人間は
どんどん障害者という別枠にくくられていくような
怖い世の中になるのではないかと不安を抱いています。

私が今の時代に若者として生きていたならば
おそらく発達障害かパーソナリティ障害というレッテルを
どこかで貼られていたはずだ
と思えて仕方がないからかもしれません。

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他人の不安を否定しない=責めない、笑わない、批判しない 特に家族など仲間の不案に対して [進化心理学、生理学、対人関係学]



家族の中に極端な心配性の人がいると、なんとなく嫌な気持ちになり、つい「それは心配しすぎだ」とか、「こちらの気が滅入ってくるから黙れ」なんてことを言ったりしてしまうこともあるかもしれません。これはたいてい不安症の人を益々苦しめるだけの逆効果になります。
1 どうして心配性の人の話を聞くのが嫌なのか。
2 どうして心配性の人はますます不安になっていくのか。
3 不安の感じ方が人それぞれ違うので、心配性の人も大切だということ。
4 心配性の人にどう接するのか
というお話をしてゆきます。

1 どうして心配性の人の話を聞くのが嫌なのか。

 その人が心配していたからと言って、平気でいられればそれで済む話です。例えば、猫が顔を洗うと雨が降る等と言う迷信を信じて天候を心配する人がいても、私はそれだけでは全く雨が降る心配などしません。すべてがこうではないにしても、このように他人に心配に拒否的感情が現れる理由は、心配を共有してしまうことによって、不安を共有してしまいそうになるからであるという理由がある場合が多いと思うのです。
パターン1 自分が無意識に不安にならないように努力している
 本当は現実に向き合うと不安になるので、無意識に自己防衛システムが働いていて、不安をシャットダウンしようとしている場合に置きるパターンがあります。論理的に大丈夫だと結論を出そうとする手段とそもそも考えないようにしている手段があるでしょう。いずれにしても悲劇的な結末の可能性に向き合わない努力を、意識的あるいは無意識に行っているわけです。ところが、不安症の人間によって、その努力が無意味になってしまう。このために、不安症の人は、自分にとって頑張ろうとすることの足を引っ張られるように感じて不快な感じが起こるのだと思います。大げさに言うと生きるための仕組みが妨害されることに対する不快さなのだと思います。
パターン2 よく似ているのですが、不安であることは自覚している場合もあるでしょう。自分も不安だけれど、大人はこのような不安を人前で出すべきではないという道徳感情みたいなもので我慢している。それにもかかわらず不安を人前にさらしている。自分がせっかく努力しているのに努力しないという場面を見ると、人間は自分だけが損をしているという感情と怒りの感情が生まれやすくなるようです。
パターン3 仲間が不安になっていると、不安を解消してあげられない自分が責められている感じがして、自分が否定されていると思ってしまうというパターンがあり、自分が役立たずと評価され内容として、いわば自己防衛手段として相手の不安を否定したくなるということがあるようです。案外これが多いのではないでしょうか。
 不安は無意識に、無自覚に生じるものです。他人の心配を否定する感情の中には、自分も同じ心配を無意識にしている可能性があると思います。

2 どうして心配性の人はますます不安になっていくのか。
 不安は、心理的なものととらえがちですが、生理反応が起きていて、血圧や脈拍、それに体温などの変動が起きています。不安は気持ちの問題が大きいのでしょうが、不安になっているという状態は客観的に存在しています。
 また、不安は自己防衛のための仕組み、つまり生きるための仕組みです。危険が存在していることに気が付いた場合、不安を感じます。すると、不安を解消したくなるという仕組みが生まれ、不安解消した行動の動機づけになっているようです。不安解消行動は、意識的な行動に先行して生理的変化などの無意識の変化が起きているようです。一連の危険回避のシステムが起きるということで、不安が特に人間にとって大切な反応のようです。
 この危険回避システムが妨害されると、それだけで危機感が生まれ、大きくなってしまいます。不安感情が大きくなるわけです。
 もう少し危険回避システムを説明すると、危険に気が付くシステムとして、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、皮膚感覚という五感があります。これが妨害されるということは、例えば視覚を奪われるということは目隠しをされたり、光の当たらない真っ暗な状態におかれたりすることですから、それ自体で恐怖を感じるということはわかりやすいと思います。早く目隠しをとりたい、明るい所に行きたいという感情が大きくなっていくこともわかりやすいと思います。
 そして、危険回避行動の典型は、走って逃げることと手足を使って攻撃することです。手足を縛られるとこれができなくなります。手足を縛られただけで何か危険が迫っているような感覚になることは想像できると思います。金縛りを経験された方はこれを実感できると思います。耳の脈を打つ音が、誰かが近づいてくる足音に感じてしまうのは、恐怖で過敏状態になっているからではないでしょうか。
 この五感と手足の筋肉の反応をつなぐ大切な要素が不安と不安解消要求だということです。そうだとすると、自分の不安を否定されてしまうと、命を守るシステムである不安解消システムの最も大切な部分が否定されたことになるので、不安解消システムの作動を妨害されたような気持になります。あたかも目隠しをされたり、羽交い絞めにされるような恐怖感さえも生まれてくる可能性があるということがイメージできるのではないでしょうか。
 不安解消のための古典的な方法が逃げるか戦うかですが、人間はその後進化を遂げ、複雑な因果関係の把握という思考方法を身につけました。危険の起きるメカニズムを知り、メカニズムが揃っていなければ危険が起きないという法則があるということを理解したわけです。だから、不安があっても、危険が起きない条件があり、それを満たしていれば危険ではないと本当に納得することができれば、不安が解消されるということは確かにあります。これがベストですね。
 ところが、新型コロナウイルスの問題は、目に見えない危険が現実化する可能性があるというものです。家の外に出なければならない人の場合、どんなに危険の条件を認識して予防を尽くしても、完璧に大丈夫かというと、なかなか完璧だとは言い切れないという現実はあると思います。不安が残ること自体は、私は正当な感覚の範囲内だと思っています。

3 不安の感じ方が人それぞれ違うので、心配性の人も大切だということ。

不安を感じることが正当だと言いましたが、私はそれほど感染の不安を感じていません。もっとも、防衛手段を尽くした上でのことで、全く心配していないというわけではありません。不安の感じ方は人によって個性の違いがあると思います。
わずかでも危険の現実化の危険があれば心配になる人。
100パーセント危険の現実化が起こるということでなければ心配しない人。
概ね大丈夫なら心配しない人。
等々、人間の個体間で違いがあることはいろいろなところで感じられるでしょう。実は、このような個性の違いがある動物が、生存競争を生き残ることに適していると私は思います。
考えてもみてください。人間がすべて心配しない楽天家ばかりだったら、将来起こるかもしれない危険に備える人がいなくなり、些細なことで滅亡してしまうでしょう。逆にみんなが心配症で、あらゆる危険が怖いというならば、科学が進歩して危険なものが増えれば、ストレスで人類は滅亡してしまうでしょう。心配性の人が楽天家にブレーキをかけ、楽天家が心配性の人を励ましたり慰めたりしながら、人類は生き残ってきたのだと思っています。
この性格の違いは生まれ持った遺伝的なものも多いのかもしれませんが、群を作る動物特有の状況次第で性格が変わるということもあるようです。ハチが巣の温度を下げるために、巣の外に出て羽ばたいて気化熱で温度を下げるわけですが、必要の範囲でしか巣の外に出てきません。対して温度が高くないのに大勢で羽ばたいて必要以上に温度を下げるということをしないようです。いち早く出てくるハチ、のんびりと出てくるハチ、出てこないハチとうまく分かれているようです。働きバチはクローンですから遺伝的差がないはずなので、これは仲間の状況に応じて、行動のモチベーションが変わるのではないかと考えています。
人間もそうですよね。本当は大人も雷が怖いけれど、子どもが怖がっているのを見て、子どもを励まそうという意識をもつことによって、自分の恐怖が軽減されるということがあるのもこういう周囲の状況を見て感情が変化しているのだと思います。
 心配性の人、楽天的な人、それぞれいてよいのですし、それぞれが正しいわけです。

4 心配性の人にどう接するのか
不安になっていることを責められたり、笑われたり、批判されるということは、不安になる必要がないということを説明して不安解消する方法ではなく、不安になっている結果だけをやめろと否定されているわけです。先ほど述べた防衛システムを否定されるという恐怖感が生まれかねません。
同時に、不安を感じている自分という存在が周囲から受けいれられていないということですから、孤立感や疎外感まで感じてしまいます。当初の不安とは質の違う別の不安、余計な不安を感じてしまいます。人間の体は複数のストレスを受けることに馴れていません。金縛りで耳の脈を打つ音が化け物の近づいてくる足音に聞こえるように、危険に対して過敏な状態となってしまい、不安がエスカレートしていきます。これに周囲から自分が受け入れられていないということを感じること、自分が不安に感じていることに共感を持ってもらえていないという感じることが加わるのですから、人間のメンタルに深刻な影響が与えられるのは理解しやすいと思います。孤立感は、自分の不安を解消する方法は存在しないのだという絶望感につながりやすく大変危険です。
ではどうすればよいのか。
一つ目は、不安を解消する決定打はないということを自覚することです。人それぞれ不安の感じ方は違うのであり、他者の不安を100パーセント無くすことはできない。余計な使命感は持たないということです。
二つ目は、不安のエスカレートを絶つということです。不安はあるけれど、せめて孤立感だけはなくしてもらうということです。
このためには、不安をむしろ肯定してあげることが大切です。肯定できることだけ肯定すればよいのです。例えば、「このままでは国中失業者だらけになってしまい、日本が終わってしまうのではないか。」という不安を口にする人については、「そうだね。影響大きくてみんな心配だね。」というところまで賛同できるならばそれを口にしてあげるということです。「心配だけれど今は様子を見るしかないね。」ということが、不安を肯定されてから言われると、案外すんなりと受け入れてもらえることが多いようです。
三つ目は、人間はいつまでも不安を維持できないということです。つまり、いつしか危険に馴れていきます。ただ、これには条件があり、不安になっている危険が現実化しないことが必要です。自分だけでなく、自分の周囲で感染者や重篤な感染症状が現れないことによって、馴れが生まれていきます。これは動物一般に見られる現象です。人間も鳥もウミウシだって同じ原理です。これを信じて待ちましょう。
四つ目は、不安を否定しない態度ということで、マスク、手洗い、換気、三密の回避、睡眠の確保や規則正しい生活等やるべきことをきちんとやってみせる、これによって安心してもらうということでしょうか。

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コロナ禍によって、DV、児童虐待の加害者にされる危険、加害者になる危険が増大している。虐待しない方法ではなく優しくする方法を実行して家族でコロナ禍を利用して幸せになろう! [進化心理学、生理学、対人関係学]



目次
1 コロナ禍では、過敏な不安を招き、被害者意識が増大する
  日本赤十字社の見解
2 これまでのDVの思い込みの構造と、コロナ禍のDV対策が無駄に加害者を作る要因 二項対立的な対策の光と影
3 加害者になることをきちんと警戒する必要性 悲惨な思いをするのは大人だけど、重大な影響を受けるのは子どもであるということを理解する
4 不安をあおることをしないために
 1)総論 「責めない、笑わない、批判しない」
 2)無駄な正義感を排除する
 3)無駄な合理主義を排除する
 4)無駄な責任感を排除する
 5)無駄な目的遂行主義を排除する
5 その先の共感を示すということ
6 幸せになるということ

本文
1 コロナ禍では、過敏な不安を招き、被害者意識が増大する
  新型コロナウイルスのように、目に見えないものによって自分の身体生命が脅かされることの不安による負担は、人間の思考力をゆがめてしまいます。この不安から差別が生まれるということについて、日本赤十字社は令和2年3月26日付でわかりやすく説明しています。
 「新型コロナウイルスの3つの顔を知ろう!~負のスパイラルを断ち切るために~」http://www.jrc.or.jp/activity/saigai/news/200326_006124.html?fbclid=IwAR3uhvMWBQYQmv1XmMp4wpc1uUvz3GGS_t4l0fJRYTayxznZtYwaBc8yNGU

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  ここでは、不安から、対策を取らない人たちに対する嫌悪感が生まれ、その人たちを遠ざけようとする意識から差別攻撃が生まれるという説明がなされています。
  対人関係学的な考え方は、もうちょっと人間は論理的ではない思考をしているという説明です。
  人間は何らかの不安を感じると、その不安を解消したいという要求が生まれます。この不安解消要求にもとづいて逃げたり、戦ったりして危険を無くそうとするわけです。ところが、不安を解消する方法がなく、不安にさらされ続けてしまうと、思考力が著しく低下してしまいます。人間の考える力は案外簡単に限界を迎えてしまうようです。その結果、やみくもに危険を感じやすくなります。あれもこれも自分の危険になるのではないかと感じ易くなるわけです。この過剰な不安状態が続くと、不安解消要求はさらに強くなります。もう何でも良いから、一と記だけでも良いから不安から解消されたくなり、不安解消が最大のテーマになってしまいます。やみくもに引きこもり、引きこもりになったり、精神的に外部をシャットアウトしてしまうケースもあります。これがやみくもに逃げるパターンですね。もう一つのパターンがやみくもに怒るパターンです。自分よりも弱い者を攻撃して、ひと時の安心を得ようとしてしまうというパターンです。いわば八つ当たりです。
  怒りが生まれるパターンは、2種類のどちらかであることがほとんどです。一つは、勝てる相手であると判断した時で、もう一つは仲間を守ろうとする時です。
  コロナに無警戒の人たちでも、自分と関係の無い場所で、それほど害のあることをしていない人たちもいます。自分一人でその人たちを見ても、直ちに強い怒りにはならない人の方が多いのではないでしょうか。それが、無警戒であることに否定的な報道がなされ、コメンテーターの否定的意見が行われると、勝てるという意識から、怒りがわいてくるようです。それに、自分がそれを我慢しているのにやっている人がいるという不満が怒りを倍増させます。子どもや年寄りや病人を守るという意識がさらに怒りを募らせ、攻撃や差別が完成するという仕組みになります。
  誰かを攻撃することでひと時の安心を得ようとして怒る。これは日本赤十字社の言うとおりです。一人で注意しても防ぐことができず、死者もいるということはコロナ不安が慢性して、不安解消要求を高まらせることになります。自分にとって危険があるのではないかという不安が過剰になり、他者から逃避するという行動が増えるとともに、被害者意識から誰かを攻撃する行動も増えてゆくということをご理解ください。

2 これまでのDVの思い込みの構造と、コロナ禍のDV対策が無駄に冤罪加害者を作る要因 

  この慢性的不安と不安解消要求の過剰な高まりは、あらゆる変化を自分の危険であると把握しやすくなる危険があります。つい、誰か強い者に自分を守ってもらおうという意識が強くなります。夫婦間に実際はDVがない事例で、自分はDVを受けているということを思い込み、子どもを連れて夫の元から去っていくという思い込みDVの「連れ去り行為(外務省の用語)」は、このようにして始まります。コロナ不安がなくても、原因不明の不安障害、産後うつ、甲状腺ホルモンの乱れがある場合、このような被害者意識が事実を超えて高まることがあります。コロナ禍がなくても不安の種があるものなのです。
  そもそも夫婦間に起因しない不安が、夫のDVという言葉を獲得する過程はある程度解明されています。理由のない不安から強い者に自分を守ってもらおうという意識から、不安の強い人たちは、積極的に地方自治体の相談窓口や警察などに相談に行きます。こういう相談機関は、後に説明するように、先ずDVがあるだろうという先入観で、相談を受けます。通常の夫婦は、いろいろな意見の対立があり、それを解決する方法を知らないし。解決するサポーターがいない孤立婚の状態です。些細な夫婦喧嘩や行き違いがあるものです。また、家庭の貧困がある場合、現代日本では責任はほぼすべて夫の責任であるというジェンダーバイアスのかかった評価がなされます。そうすると、相談を受けた方は、「あなたはDVを受けています。」といとも簡単に断定するのです。「このままではDVが過激になっていってしまう。命の危険があるから必ず子どもを連れて家から出ていかなければならない」ということを簡単に言ってしまいます。妻は、自分の理由のない漠然とした不安は夫からモラルハラスメント受けていることが原因だと言われるわけです。そうすると、不安に対する言葉を獲得し、妻の不安は夫に対する嫌悪と恐怖に固定化し、大きくなっていくようです。
  今回のコロナ禍に対応するあるDV相談マニュアルを見ました。これらの危険が顕著にみられるものです。特徴は、一人のDV被害者も見逃さないという決意が表れているものです。そのために、えん罪DV加害者が生まれてもやむを得ない、子どもが無駄に犠牲になることも全く考慮されていないものです。以下、何点か見てみましょう。
  ① 客観的に明らかな暴力・暴言が存在しないように思える場合でも安易にDVがないと判断しないようにしてください。
  これが本当に記載されているのです。結局、相談者は自分の判断をするな、DVがあると思い込めと言っているようなものです。これを法律家が行っているのですから情けない。それを真に受けて相談に乗るのですから恐ろしい話です。どうして、相談を受ける側が客観的に暴力・暴言がないと判断したにもかかわらず、他人の家庭に介入できるのか考えてみてほしいと思います。暴力も有害な言動もなければDVではないのに、それでもDVと判断するなというのであれば、論理性も何もありません。その場合は端的に他人の家に口を出すべきではないのです。
  なぜ、このように何でもかんでもDVにしてしまうか、後述する思想問題とは別に、善意にもとづく要因もあります。それは、実際の相談者が目の前で苦しんでいるからです。何とか助けてあげたい、気持ちを軽くしてあげたいと思うわけです。しかし、解決方法としてDV対策しか引き出しがない。DVでなければ何もする方法が思いつかない。だから、支援したいという要求を満たすためには無理矢理DVにもっていくしかないわけです。これは無意識に行われているようです。DV以外に解決の引き出しを持たなければなりません。これを述べるのが本稿の目的でもあります。
  ② 被害者本人が被害の認識がないから、被害を自覚できるようサポートする。
  では、被害とは何なのでしょう。被害者が被害と思わないことにもかかわらず客観的被害だと言えるのはどういう場合なのでしょうか。考えてみればわからなくなります。確かに被害者は自分が被害を受けているということはわからないことがあります。しかし、実際に苦しんでいるし、苦しみから解放されたいという切実な要求もあります。こういうことは書いてありません。そうすると、相談を受けたものの価値観で、「それは被害だ。」ということを断定する危険があることになります。結局は、相談を受ける方の価値観という主観的な問題になるのです。そして、その相談を受ける人間の少なくない割合で、家族解体思想を持っている人がいます。男は金を入れて、生活は女が子どもと行うという極端なジェンダーバイアスを抱いている人たちさえもいます。その人たちが、リーダー的役割をはたしていて、普通の家庭の許容範囲が極端に狭くなっているような印象もあります。
  この他にも批判したいことはあります。反対当事者から事情を聴かないで、精神的に不安定な人の話だけからDVを認定すること、DVの解決方法が逃避行動しか用意されていないこと、それから、些細なかすり傷でも写真を撮っておけという指示があります。DVと無関係な写真が良く裁判でも出てきます。無関係な写真を出してしまうと取り返しのつかない不利益生まれてしまいますが、こういう指示のためだったのかと理解できました。
  夫に原因がなくても、こうやって思い込みDVは作られるのです。コロナ禍の中で、この傾向は強化されています。思い込みDVの加害者になるということは、実際にありうることなのです。
  妻は、夫が家にいるという変化を、過剰な不安の蔓延から自分に対する危険だととらえてしまいます。行政などの相談機関は、DVと言わなければならない相談員が増員され、マニュアルで強化されています。つい、妻が行政などに相談をすれば、日常的な些細なことをとらえられて夫であるあなたのDVだと断定されてしまいます。気が付かないうちに妻と子どもたちが家から消えているということは、他人事ではないのです。あなたが明確な暴力や暴言がなくても、あなたはDV夫にされてしまいかねません。証拠として自分で転んだ擦り傷や鉄アレルギーの字のような反応の写真が提出されるのです。最悪なケースでは、些細なことで傷害罪で逮捕されたり、自分の家なのに近づくことを禁止されたり、家の周りを散歩することも禁止されることになります。コロナがなくてもそうやって苦しんでいる人たちがたくさんいるのです。

3 加害者になることをきちんと警戒する必要性 悲惨な思いをするのは大人だけど、重大な影響を受けるのは子どもであるということを理解する
  思い込みDVは激増するでしょう。あなたは誰もいないがらんとした家に一人でいなければなりません。妻の実家に行こうとして近づくと大量の警察官に取り囲まれて取調室に入れられ、覚えのない暴力をしない旨の誓約書を書かせられたりすることもあります。妻が帰ってきたかと思うと警察官が同行して、荷物を引き取りに来ているのに、声もかけられず話し合いもできない、あるいは事故に巻き込まれているのではないかと警察に捜索願を出そうとすると、あたかも自分が原因のように無事だから探すな、探した場合にはストーカー警告を出す等と犯人扱いをされるのです。これらはすべて実際に起きたことです。そうして、自覚がないまま接近禁止が裁判所から命令されたり、離婚調停が始まったりします。子どもに会えないということが寂しいだけでなく、不安や孤立感を増大させ、想像以上の苦しみとなります。実際、このような人たちは、孤立感、絶望感から自死する人たちが多くいます。統計的な資料はありませんが、SNSで知り合った人たちが毎年何人か自死で命を無くしています。
  しかし、最大の犠牲者は子どもたちです。父親から離されるという不安は大人が想像するより強烈です。父親がいなくなれば、今度は母親もいなくなるのではないかという心理が働いてしまいます。目の前にいる母親がいなくなる不安の与えるストレスはすさまじく、母親にしがみつこうと必死になる子どももいます。それまで自分と一緒に学校生活を送っていた友達が不意にいなくなることもかなりのストレスです。それまでの安定した人間関係が知らないうちに崩壊しているのですから、極めて不安定な状態になります。それでも、唯一の肉親である母親に心配をかけたくないために、不安を表現することを自ら禁じます。これは後々成長を阻害する深刻な弊害です。また、父親が悪いためにこうなったという考えは、自我の確立する時期に、自分は悪い父親と良い母親の子どもだという意識を持たせ、自分に対する評価を低下させたり、自分という人間を自覚することを妨げたりします。子どもたちの深刻な影響は一生続く可能性があります。
  およそ人の親であれば、他人事だと思わずに、コロナ禍の中で無用の家族分離が行われ、その最大の犠牲者は我が子になるという危険をきちんと自覚するべきです。何としてもコロナから家族を守らなければなりません。
  また、DV問題だけでなく、児童虐待問題も無駄に子どもを分離する危険があります。相談を受けた限りでは、そのような傾向を持つ地域があるようです。親が弱者である場合、つまり、アジア系の在留外国人である場合、生活保護を受給している場合、地域とのつながりが弱い場合、子ども父親と離婚して子どもの血のつながりのない男性と同居している場合などは、警戒する必要があると思います。これらが複数組み合わさると、とても危険です。

4 不安をあおることをしないために
 1)総論 「責めない、笑わない、批判しない」
   出発にはコロナの不安があるということが第1に考えなければなりません。これは仕方がないことです。あなたが理論的に、やることをやっているから心配しすぎる必要がないと判断していても、それでも不安になるということは人間である限りありうることなのです。
   確かに、荒唐無稽とも思われる心配している家族の後ろ向きの発言を聞くとイライラするものです。そういう無駄な不安をしないでほしいと思うことは人情です。その結論は理解できます。しかし、そのためにも、「そんな無意味な不安を言うことはやめろ。そんなことを言っても仕方ないだろう。こっちが暗くなってしまう。」ということを言うことはメリットがなくデメリットばかりです。言われた方は、自分の不安を否定された、自分という人格を笑われたと感じますから、コロナに対する不安が無くならないばかりか、あなたから馬鹿にされるという不安が付け加えられるだけのことになるからです。
   むしろ、「そうだね不安だね。何とかなるといいね。」と感情に同調することによって、感情を共有できたという感覚を持つことができ、自分も肯定されたと感じ、仲間意識も生まれ、不安が軽減します。これによって、後ろ向きの発言が少なくなるわけです。いやだったら肯定する。これがポイントです。
   コロナ不安に、人格否定不安が加わることで不安があおられるわけです。そうだとすると、人格否定感を解消することによって、不安が少なくなり、その結果、思い込みDVの危険からみんなを守ることができるようになるのではないでしょうか。
   人格否定不安は、あなたから自分が尊重されていると思うことによって解消されます。どんなことがあっても、あなたから自分は見捨てられないという実感を持つことです。失敗しても、弱点があっても、不十分なことがあってもあなたが自分を否定しないということが、見捨てられないという実感を強くします。つまり、やるべきことは家族の失敗、弱点、不十分点を責めない、笑わない、批判しないということです。
   でも実際はこれは意外と難しいことです。私たちがこれができない要因を挙げてみます。簡単には考えない方が良いと思います。私は、10の否定行為があるとすれば、3割はこれをしないということから始めるべきで完璧を最初から求めることは無理だと考えています。また、3割成功するだけで、家族のあなたに対する感覚は天と地ほどの違いが生まれると確信しています。
 2)無駄な正義感を排除する
   家族に対して、無駄な正義感を発揮している人はとても多くいます。公衆道徳を守ることは当たり前なのです。これはそうだと思います。しかし、それが守れない場合もあるわけです。例えば自動車からティッシュペーパーを捨てる行為があると思います。これは公衆道徳違反です。これに対して、理由も聞かずに怒りだすということがやめるべきことです。もしかしたら自動車に蜘蛛かゴキブリがいて、必死になってティッシュペーパーで捕獲して車外に排除したかもしれません。もしかしたらもう十分備蓄したマスクを打っているからと言って買ってしまったかもしれません。
   つい正義感の強すぎる人は、家族に対してイラついて激しく叱責をするということをしてしまいます。しかし、家族の弱点は、別の家族がフォローするものです。別の解決方法をあなたが考えるべきですし、小さな不正義をした感情に共感をしてから次の指示をするということも考えるべきです。
   先ず叱責するのではなく、先ず共感を示し仲間であるということを示すそうしてからあなたの望む結論を出す方法を考えるということです。不安を口にするな式の結果だけを押し付ける行動はメリットがなく、デメリットしかありません。
   寛容とはこういうことです。家族は家族の犯罪を隠しても仕方がない、家族をかくまっても仕方がないという考え方こそ、日本の刑法の考え方なのです。
 3)無駄な合理主義を排除する
   現代人は、エリートと呼ばれる人ほど、無意識に合理性を追求しようとしてしまうようです。極端な話、娯楽でもこの合理性を追求したくなるようです。花見をするにしても回る順番を気にするとか、食事をどこでするのが合理的かなどと考えてしまうようです。また、のんびり回ることを追求して例えばスマホをいじることを禁止するなどの言動があったりするようです。ゲームにまで口を出す人もいます。どうも、会社等で、合理的な行動を追求することが身にしみついてしまっていて、不合理な行動を見ると我慢ができないようです。
   花見の順番なんてどうでもよいことで、また日常の家事についても厳格に行う必要性のある家事なんてそうそうありません。こういう普通の価値観、行動基準からすれば、夫などから不意にやり方を否定されることはたまったものではありません。要するに、何が合理的か突き詰めて考えれば、それは統一した結論が出るかもしれません。しかし、日常家事なんて、そこまで突き詰めて行っていたら毎日のルーチンなんてできないのです。
   例えば毎日の掃除とか片付けとか、買い物とか、通常妻が行っていることに、合理性や正義の観点から口出しするべきではないということが結果を出すための一番の方法ということになるのではないでしょうか。通常その時間にいない夫は、妻の補助、言われたとおり動く体制を作っておくことが最善の方法なのだと思います。そして文句言わない。短期間だけやるなら良いのですが、それを継続してやっている場合は労働の質も変わってくるのです。会社の場合でさえもこれが合理的な労務管理です。
 4)無駄な責任感を排除する
   過労死を研究していると責任感の強い人は他人にも責任感を要求することがあるようです。これは、普通の人はたまったものではありません。過ぎ息苦しくなり、あなたという存在が苦痛になるでしょう。
   それから、トンチンカンな責任感というのもあります。例えば生活の苦しさを訴えると、「自分の稼ぎが悪いと言われている。」と被害者意識が生まれて、つい反論したり、口封じのための行動をしてしまう行動に出てしまう人がいます。「そうだねえ。」とのんびり構えてから行動した方がよいわけです。ある程度の鈍感力や無責任を意識した方がちょうどよい男性がとても多くいます。あなたを責めるわけでもなくした発言であなたが不愉快になったら、家族はあなたが突然切れだす人だと感じてしまい、何を話しても怒られると思い、話をしたくなくなります。自分のことを責められているわけではないということをまず考えるべきです。そしてもう一歩先に足を踏み出しましょう。なんか文句を言われたからと言って、いちいち怒らないということですね。これやってみると、案外楽に生きられますよ。
5)無駄な目的遂行主義を排除する
   仕事をしていると、仕事は目的をもって行いますから、家庭の中でも何らかの目的を果たそうとしてしまいます。無駄な合理主義もここから出てくることが多いかもしれません。花見をする場合も、より多くの桜を見ようという目的を自分勝手に設定していることがあります。スーパーマーケットをはしごしようというような場合も、より効率よく物を買い、刺身や肉を腐らせないためにはどうするかなんてことを考えて合理性を追求しようとするのかもしれません。目的遂行主義は、男の悪弊です。
   どうでも良いのです。視覚野に飛び込んできた桜の数なんてどうでもよい。極端な話、桜を見上げないで、屋台のたこ焼きを食べて楽しければそれでよいではありませんか。あなたからわけのわからな小言を言われなくて、楽しい思いをしたという記憶が残ればそれでよいのです。また、多少もたもたしたからといったって、肉や魚はそんなに簡単に腐りません。思い通り売り場を回って満足すればそれでよいのです。あなたが重たい荷物を率先してもってあげたりした方がよほど楽しいのです。カーステレオで自分の好きな曲を流してもらえたらそれも楽しいわけです。
   どうしても狩りをしていたホモサピエンスのオスは、小動物をしとめるという目的で集団活動をしてきたので、合理性を追求することや他者への干渉をすること、集団が目標を持つことにならされ続けてきました。ところがメスは、特定の目的を別に持つことよりも群を分裂させないことに力を注いできました。ここを男性は理化しなければなりません。無駄な正義感、無駄な合理性、見当違いの責任感を持つのが男性なのだと言い聞かせる必要性があるようです。家族の行動の仕切りは、女性に主導権をゆだねることが進化生物学的には正しいということになります。主導権をゆだねた以上は文句を言わない。これが封建時代の男の義務でもありました。
   子育てだって、結局はけんかしても一番良い方法をというよりは、母親の納得する方法を父親がセーブする方に回るというのが合理的かもしれません。いずれにしても、子ども次第ということが結局は子育てが終わることにわかることです。あの子育てをめぐっての果てしないけん制のしあいは何だったのかと気が付いた時は子育ては終わっています。 
   男性向けに表現すると、男性は家庭の外に向かって何らかの目的を持ちたがる、しかし女性は家庭が円満であることそれ自体が目的だというと理解しやすいかもしれません。家庭なんて、進化生物学的にも生理学的にも、活動によって高まった神経を鎮めるためのユニットです。だから、家庭のことは女性にゆだねるべきだということなのです。

5 その先の共感を示すということ
  共感を示すことを軽視するのが男です。言わなくてもわかるだろうとか、共感を示すことが恥ずかしいとかいう事情があるわけです。子どもが母親に対する態度ならそれでよいでしょう。しかし、大人と子どもの違いは、子どもは大人に世話になるということですが、大人は子どもを含めて仲間の世話をすることなのです。
  家族の弱点を責めない、笑わない、批判しないということは必須ですが、その先に足を進めましょう。共感を示すということです。共感するということではないことがポイントです。相手の気持ちはわからないし、必ずしも自然に共感することができるわけではありません。ここで無駄に固く考える必要はありません。家族と言っても相手の心なんてわからないものです。同じ気持ちになるなんてファンタジーの話だと割り切りましょう。心がわからなくても、同じ気持ちにならなくてもできることが共感を示すということです。
  子どもがけんかしたということで共感できなくても、子どもから話を聞きだしてけんかをしたくなる感情をえぐり出して、「なるほどそれなら怒りたくなるなあ」と共感を示すことが有効です。共感を示してからだと、その後の指導が効果が上がります。
  相手の感情が存在したことは客観的事実です。それに根拠があるかどうかは話は別です。感情の存在自体を否定しない。これが共感の根本です。「あなたからすれば、それは怒るだろうな。」、「こういうふうに考えていたなら、心細くなるのもうなずけるねえ。」等と言うことを言葉に出すこと。言葉に出すことが大切です。
  言葉に出すことができても、目が思いっきりイラついていたら台無しになる子とは、案外自覚されていません。
  これだけで、相手は自分を否定されていない、尊重されている、自分は見捨てられないだろうと思うことができるようです。これは結構江戸時代や戦前に、男がせっせと行ってきたことのようです。最近の男性ができなくなってきたようです。誰かから誤解を与えられて、間違った知識を植え付けられている可能性があります。
6 幸せになるということ
  思い込みDVは、必ずしも妻に責任がある場合だけではありません。夫が無駄に家族に心理的圧迫を与えているならそれをやめればよいだけの話です。そこでもう一つ寛容なことは、「これくらいのことで心理的圧迫を受けるのはおかしい。」という考えは捨てるということです。これは狩りをするチームの在り方という男性特有の横並び意識です。家族の調和を優先する考え方は、その人の現状に合わせた対応をするということです。
  どうすればうまくいくのか。どうすれば心理的圧迫を与えないようになるのか。答えは、これまで繰り返し述べてきた考え方にあります。つまり、「心理的圧迫を与えないためにはどうするか。」という発想の先の「家族を幸せにするためにはどうするか。」という段階に発想を先に進めることです。
  「幸せにする。」ということはどうすればよいのか。それは人さまざまで家族と言えども違うのではないかと思われるかもしれません。しかし、家族というユニットでできる相手を幸せにするということは明確にあります。それは、家族という仲間から、自分は尊重されていると実感してもらうことです。自分はこの家族からは見捨てられることはないという実感です。
  そのためには、家族の失敗、欠点、不十分点を責めない、笑わない、批判しないということが基本であり、さらに共感を示すことです。あとは個人の事由にゆだねられていることを尊重するということでしょうか。
  このように、家族を尊重するということに気づいた家族の誰かが行動に出れば、家族は心地よい思いになるでしょう。そうすればよいのかということがわかるとまねをするのが人間です。あなたに幸せが返ってくるはずです。
  私は、人間が言葉もない時代から群れを作ってきた方法を研究している者です。その結論としては、人間は群れから孤立することをとても恐れる動物だということが一つの理由になっているということでした。そうだとすると、群から孤立する心配がないということは、人間が幸せを感じる一つの事情だということになるはずです。
  人間は200万年前から今のような心を持っていると言われています。そのころは、今のコロナに比較できないほど恐怖を抱いてきたはずです。それでも、人間は群れを作り続けて生き延びてきました。私たちもコロナくらいで家族を失うことはありませんし、家族を守って生き延びていく可能性が人間である以上あるはずだと確信しています。家族の中にいることによって安心し、家族のために行動することによって不安を軽減してきた人間は信じられる生き物だと思っています。

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良かれと思って虐待してしまわないために 虐待の本質としつけとの違い かわいそうだからやめるができない事情 2年2月11日のハートネットTVを受けて [進化心理学、生理学、対人関係学]


虐待について考えるテレビ番組がありました。
いくつか大変興味深い話も聞くことができました。

理化学研究所の研修者(医師)の分析は圧巻でしたし、
虐待親と何度かにわたって面談をしたという
カウンセラーのお話しは興味を引きました。

その内容は後にお話しします。

この番組を見て改めて思ったことは
虐待は特殊な人間が起こすものではないということです。
もちろん、子どもが死ぬくらいひどい虐待ということはレアケースでしょうが、
心が圧迫されて、苦しい思いをして
後の人間関係にマイナスの影響が残る
という程度の虐待は、
私たちも行ってしまっているかもしれないと思うのです。

そうならないために
他人の過ちから学ぶ必要があると思いました。


先ず、虐待とは何かというところから話を始めないと
まとまりのない話に終始すると思いますので、
この点からお話しします。

以前、このブログで、虐待としつけの違いは
ただ結果を押し付ける場合が虐待で
選択肢を提示して誘導するのがしつけだと言いました。

しかし、もう少し掘り下げるべきだと思うようになりました。
つまり虐待がなぜ否定されるべきなのかということから考えるべきだと思うのです。
虐待は、虐待を受けた人間の心が傷つくということに問題があり、
心が傷ついた結果様々な深刻な状態となり、
何よりも幸せになりにくいというところが問題だということになるでしょう。

ではなぜ虐待を受けると心が傷つくのか。

結論だけを言うと、
虐待被害の本質は、絶対的孤立を感じさせるところにあると思います

その人間関係(例えば家族)の中で安心して過ごしたいのだけど、
安心して存在したい人間関係から
自分が攻撃を受けて、仲間扱いされない。
自分には安心できる仲間がいない
と感じることが人間にとって強烈なダメージを受ける事情のようです。

迎え入れられて守られることを期待しているのに
逆に理不尽な暴力を受けるということは、
言葉が不要なほど、
仲間扱いされておらず
逆に敵視されているという感覚を持ってしまいます。

だから虐待の一番は暴力ですが、
暴力がなくても虐待は成立します。

無視、放置というネグレクトは、
その意味も分からない赤ん坊であっても
人間の本能によって、
今いる場所が安心できる場所ではない
ということを感じ取ってしまいます。

それ以外にも無理な要求をされること
容赦のない否定をされること等
虐待の内容に入るべきなのでしょう。

叱るとき叩くのは是か非かというような
形式的な二分法で議論することは間違っています。
叩かなくても
家族の一員ではないという態度をとれば虐待ですし、
叩いたとしても、感情をコントロールして叩き、
懲戒した後に愛情の回復をする行為をすること
これがあれば、必ずしも虐待にはならないと思います。

但し、年齢にふさわしくない過大な要求をして、
結果責任を取らせるような理不尽な叩き方はダメですし、
年齢にふさわしくない叩き方をしてはダメなことは当然のことです。

また、叩かないで教え諭すことが上策であることは間違いないと思っています。

虐待としつけの違いは
それをされてもなお子どもがその人間関係にいることに
安心し続けていられるか否かという結果の問題なのだと思うのです。

つまり虐待とは、
それによって、行為を受けた側が
行為者との関係に安心できなくなるような行為
だとするべきだと思います。
あくまでも行為を受けた側の心情を基準に考えるべきです。

善悪を厳しく教えても、
安心できる関係、愛情を感じる状態を維持することが大切で、
そのための方法として、
選択肢を提示して誘導する、誘導にのったら褒める
というのが有効だと思います。

虐待親のカウンセラーによると
最初は、教え諭していたようです。
ところが、だんだんと暴力的になり
100か所以上の虐待の跡が
少女の遺体につけられていたとのことでした。

これは異常です。

カアッとなって直情的に暴力をしたのではないと思います。
もしそういうレノア・ウォーカーの虐待サイクル的な暴行ならば、
自分の直情行動を恥じる時期が来ることになりますが、
それがなく、暴行を続けたということだからです。

DVと関連付けた暴行だと安直に結び付けてはならない
病的な行動だと直視しなければならないでしょう。

虐待親のカウンセラーの話が興味深いのはここです。

虐待親が少女とその母親と出会った時、
彼は、失意の中にいたというのです。
8年間務めた会社に行くことができなくなり退職したというのです。
会社に行こうとすると吐き気がするなどして
どうしても会社に行けなくなってしまったというのです。

これは典型的なパワハラ被害を受けた労働者の症状です。
実際にいびりや排除のようなパワハラがあったのかはともかく、
自分が会社にとって役立たずの無用な人間だと
執拗に自分を否定され続けた人間がかかる症状です。

私はこれは重要なポイントだと思います。

このように自分の価値が地に落ちた状態だと感じている時、
少女と母親と出会い、受け容れてもらったということならば、
少女と母親の役に立って、
自分は役立たずの人間ではないことを証明したかったという
推測もありうるのではないかと思うのです。

おそらく、少女の母親もやればできるけどやらなかった
だから自分は少女をきたえて立派な大人に育てようと思うことは
あながち不自然ではないと思います。

実際に彼は、小学校入学直前の少女に対して
読み書き、計算を教えて
かなりの程度まで学習を進めました。

これわかるんです。
この時期の子どもは、やることと能力の相性が良ければ
かなり習得していきます。

小学受験の勉強はもっと高度な勉強をさせると思いますし、
バイオリンやピアノなんかも、かなり高度なレベルまで上達します。
バレエや水泳、野球、サッカーなどスポーツも
やるだけ伸びるっていう時期があるのです。

コンクールみたいなところで入賞してしまうと
親も勘違いして、子どもに無理をさせるということは
結構よくあることです。

でも、ある程度以上は
本当の才能と、本当の指導者がいないと進みません。
どこかで壁に当たって伸びなくなることが通常です。

最初はそういうものだと思って頑張っていた子どもも、
そうなるともう苦痛で苦痛でやめたくなるわけです。

親も、「ああやっぱり自分の子どもだから無理なんだな。」と
そんな子どもをかわいそうに思って習い事をやめたりするわけです。
かわいそうだからやめるということができるわけです。

ところが彼はそれができなかった。
かわいそうだと思わなかったわけで、
これがどうしてかというところが、
私たちが虐待やプチ虐待をしないために学ぶべきところです。

私は、カウンセラーの話したエピソードから
二つの理由が考えられると思います。

一つは、子どもが思う通りに学習が身につかないので、
やはり自分が役に立たない人間だという思いを募らせ
それを認めたくないので、
益々頑張らせたし、
できないことで少女に怒りを抱いたということです。

自分のやり方を否定されたような感覚になって
少女や母親に辛く当たるという逆切れが一つです。

もう一つは、自分が懸命に指導をしているのに
学習が身につかない少女と
仕事をしていたときに、無能であると評価され続けていた
哀れな自分が重なったのだと思います。

これは、犯罪は自分がされたように他人に加害をする
ということが弁護士の中では言われることがあります。
先輩からタバコの火を押し付けられた人は
後輩にタバコの火を押し付けていじめるとかですね。
そのメカニズムはよくわかりません。

もしかすると、自分が同じ加害をすることで
被害を受けたときのみじめな自分を否定しないのかもしれません。
過去にタイムスリップして、自分が否定されていたという事実を
加害をすることで消して心の平衡を保とうとしたのかもしれません。

かなり根が深い心の闇を持っていたのだと思います。

いずれにしても虐待親にとって
少女は、既に仲間ではなかったわけです。
既に、否定するべき対象だということで
かわいそうだと思う心理が働かず、
執拗に否定し続け、
言葉が出なくなるたびに
暴行を加えていったのでしょう。

彼の言い訳がしつけ、教育だということは
理解ができます。
もちろん成り立たない言い訳ですが、
そういう狂信的な言い訳をしながら
自分をも洗脳しながら客観的には虐待行為を続けていたのでしょう。

誰かが止めなければならなかったということになります。

子どもが一人の大人によって育てられてしまうという環境が
一番の問題だったのだと思います。

一人の大人が、子どもに対して無理難題を行っている姿を見て
「子どもがかわいそうだ」と言い張る大人が必要だったと思います。

彼が実の親ではないということは
虐待の決定的な原因ではないと思います。
継父が子どもと良好な関係を保っていることが
圧倒的多数だからです。

ただ、本件は、少女の母親の方がいくつかの理由から
相手に遠慮をしてしまった事情がありそうです。
彼は、少女の母親には暴力を振るわなかったようです。
また、今述べたとおり、典型的な直情型DVの事案ではないようです。
DVが怖いために支配を受けたというのは
あまりにも型通りの議論です。

暴力がなくても虐待があるということを
見落としてしまう危険があるずさんな議論です。

一人の大人だけが子どもを育てる環境というのは
現代日本では、離婚をしてしまえば
そうなる可能性が多くなってしまいます。

離婚後の共同養育が私は一番有効だと思いますが、
そうでなくとも、何らかの複数の大人が関与できる
そういう環境を社会が作っていく必要があると思います。
十分な予算を投じるべきだと思います。



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なぜ宗教は、人種や民族の壁を越えて存在するのか、何時から存在するのか、不安解消行動としての原始宗教と対人関係学 [進化心理学、生理学、対人関係学]




進化生物学の学者さん方は面白いことを考えるもので、
・人種や民族、科学の到達度に関わらず、
なぜ宗教は普遍的に存在するのか
・いつから宗教は始まったのか
ということをテーマに考えを進めているようです。

この問題を考えていくうちに
宗教には、いろいろな利点があるからではないかと考え、
1)宇宙の体系的な説明が可能となる
2)人生を過ごしやすくする
3)規範(社会の約束事)を提起し社会秩序を維持する
4)共同体への参加意識を持たせる(同じ宗教を信仰する仲間)
という4点が人類にとって普遍の利益だというのです。

ここまでロビン・ダンバー先生の
「友達の数は何人?」(インターシフト)
を参考にしています。

私は、このほかに、
衛生問題とか、仕事上の便利さとか、生活の知恵とか
先人たちの経験や知恵を定着させて
人生を豊かにしている側面があると思っています。
メディアとしての機能を持つ宗教、信仰という側面ですね。

その他に、人類が宗教の存在を切実に必要とした理由として
「不安解消方法としての宗教」という側面があると思います。
これが、4つの利点と重なるのかどうかは自信がありませんが、
対人関係学的な説明ということで、お話ししたくなりました。

不安とは必ずしも死ぬことばかりではありません。

人間は好奇心が旺盛な生き物であり、
知りたいことがわからないと厄介なことになる
ということのお話しです。

漫才の春日三球照代師匠の名セリフで、
「地下鉄の電車はどこから入れたの?
それを考えてると一晩中寝られないの。」
というのがあります。

地下鉄に限らず、
一晩だけ寝られなくならよいのですが、
それ以上になるともっと深刻な話にもなりそうです。

この世界の果てはどうなっているのだろう
星はなぜ夜に輝くのだろう
人は死ぬとどうなるのだろう
誰が人間を作ったのだろう
世界の始まりと終わりはどういうものだろう。

そういう壮大な疑問もあるでしょうし、

どうして私はここでけがをしてしまったのだろう
どうして大切な友達が私から去って行ったのだろう、
私は何か悪いことをしたのだろうか等
身近なことまで考えればきりがないことが多くあります。

考えても答えが出なければ
もっと答えを知りたくなる。
答えが出ないと不安でたまらなくなる。
そう言った状態になるのでしょう。

本当に一つのテーマを段階を追って考えていけば良いのですが、
単に想像がつかないことを想像しようとして
考えるエネルギーを使い果たしてしまうと
自分がなくなってしまうほど脳が消耗してしまったりします。
これは大変危険なことです。

誰かがどこかでストップをかけなければ
もしかすると歴史的に多くの人間が
早死にしていったかもしれません。

もし宗教が、これが正解だと示すことができるのであれば、
ある程度の納得ができることでしょう。
特に考える方法がないのに考えることは無くなると思います。

ギリシャ神話にはイカロス(イーカロス)という人物が出てきます。
翼を作り空を飛びまわっていたようです。
ある日イカロスは、父の教えを破り
太陽に近づいたために翼のろうが解けて地上に墜落して亡くなります。

よくこれは人間の傲慢さを戒める話だと言われますが、
人間の力、特に脳の力を超えて考えすぎた者が、
人間の脳の限界を超えて考えすぎて自我消耗を起こした
という話のように思えるのです。

日本には和算という学問があります。
漢字の数字で微分積分等、自分で問題を出して答えを出していたようです。
とてつもなく素晴らしい問いと答えができた場合は、
絵馬に記載して神社に奉納していたようです。

おそらく脳の限界まで思考を深めることが通常なので、
素晴らしく高等な問いと答えができた場合は、
不吉なことという感情もあり、
神社で厄除けをしたという側面もあるのではないかとにらんでいます。

江戸時代に和算が庶民に広がったというのですから
人間はよほど頭を使うことが好きなのだと思います。

「わからないことはわからない」という代わりに
「神のみぞ知る」ということが言われたのでしょうが、
これは人類に必要なタームだったのでしょう。

では、何時くらいから宗教は起き始めたのでしょうか。

先ず、人間のこころが生まれた200万年前は
まだ宗教は生まれていなかったと思います。

人間のこころが成立したとされる200万年前は、
人間は身の丈に合わせた人数の他人と共同生活をしていたのであり、
生まれるから死ぬまで原則として知り合いの中で生活していました。

そう高度な原因結果の関係は考えず、
特に座禅を組まなくても
全ての人間がすべてを受け入れてきたのだと思います。
苦しみも痛みも空腹も、死も生も
すべて受け入れていたのだと思います。

時間もゆっくり過ぎていったのでしょう。
発明や発見も1万年単位で進んでいたと思われますので、
人一人の一生では、何も変わらない
という感覚だったと思います。

ところが、今から数万年位前から
人間が狩りをやめて定住をはじめたことによって、生産力も上がり、
村が作られていく中で、
150人(人間が同一性を把握できるおおよその人数、ダンバー数)
を超える規模の人間と交流を余儀なくされるようになりました。

とたんに時計が動き出します。

交流によって、あちこちの発明が
瞬時に(数年位で)入ってくるようになり、
応用することを考えていく中で
物事の仕組みについて考えるようになったのではないかと
想像をたくましくしています。

仲間は一つではなくなり、
人間同士の戦いが生まれ始めてきたのだと思います。
利害対立が生まれたのです。
これがパンドラの箱を開けた状態、
あるいは楽園からの追放というシーンが
リアリティをもって説明しているように感じます。

自分や自分の仲間を守る必要が生まれ、
あるがままを受け入れることができなくなりました。
それとともに知能が発達したということなのでしょう。

利害対立が生まれれば利害調整の知恵も生まれてくるでしょう。
紛争を避けるために、概念や物体を示す共通の言葉が生まれ
言葉の数が増えて行きます。

言葉を使うようになれば、
言葉をつかって考えるという作業が行われるようにもなります。

言葉が増えていき、
決め事が増えるとともにまた言葉が生まれて行きます。

人間関係が複雑になり、それに対応しなければなりませんので、
脳の活動も変化してきたのだと思います。

考えれば、もっと快適に生活できるという感覚が、
考える楽しさを人間に与えたのだと思います。

同時に、言葉によって、
当時は考えても仕方のないことまでも
考えるテーマとして設定されたために、
考える苦しさ、焦り、不安も感じるようになったのでしょう。

この時期あたりで原始宗教が生まれたのではないかなと
そう思っております。

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