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学校や職場だけのいじめなのにこの世の終わりだと絶望する理由 転校したり退職する選択肢が無くなる理由 [進化心理学、生理学、対人関係学]



学校や職場での人間関係に不具合があることはとても辛いことです。しかし、学校は一時期通学するだけですし、助けを求め続けることもできるでしょう。それでも解決しない場合は、自分が精神的に不具合を犯す前に退学することも逃げ道としては考えられることです。職場でも同じで、そのまま苦しみ続けて病気になってしまう前に退職することも理屈の上では可能です。

しかし、いじめやパワハラを受ける人の少なくない人たちは、その様な一過性な人間関係、取り替えがきく人間関係での不具合によって命をなくしています。

職務上多くの事例を見てきた私の結論としては、自ら命を落とした人たちは、その局部的な人間関係の出来事なのに、「すべての人間関係において、これからも死ぬまで同じ苦しみを感じ続けるのだろう。」と考えていたように思われます。

全ての人間関係で、未来永劫苦しみ続けると思うなら、確かに絶望してしまうことでしょう。その永遠の苦しみから逃れるため、絶望というシステムが残されていると言えるのかもしれません。

では、どうして、人生の一部分であり、一日の一部分だけの人間関係の不具合が、すべての人間関係の不具合、未来永劫の解決されない不具合だと錯覚してしまうのでしょうか。

この理由は、人間の「こころ」にあります。人間はすべてこのような「こころ」をもっていて、個性や健康状態の問題は、その悲観的な感情の強弱、つまり程度の問題の違いにしかならないと考えています。

理由を述べてゆきます。
その理由は人間の「こころ」とはそういうふうにできているということです。これは進化の過程で獲得した合理性のあった形なのです。

猿と共通の祖先から人類が分かれて600万年と言われています。人間の心が成立したのは今から200万年前と言われています。その頃の人間は生まれてから死ぬまで、基本的に一つの人間関係(群れ)で一生を過ごしていました。人間が生き残るためには、群れでいることが必要不可欠でしたが、言葉もない時代にどのようにして群れを形成できたかというと、それが「こころ」だったわけです。

その「こころ」とは
誰かと一緒にいたい、いないと不安になる
群れから追放されたくない、追放されそうになると不安になる
追放されそうになることは、自分が否定評価されたり、差別されたり、失敗したり、健康や安全を気遣われない時に感じ、不安になる。

どうやってそのような「こころ」になるのかはわかりませんが
結果としてその様な「こころ」を持った人間たちだけが群れを作って
群れのおかげで生き延びることができました。
その子孫が私たちというわけです。

本来動物は、自由に自己本位に行動したいものです。それでも群ができたのですから、群れから追放されそうになった時の不安は、相当強いものだったはずです。

200万年前のヒトが、追放の予感が強くなり、自分の否定評価などが解消されないことを悟った場合は、やはり絶望していたでしょう。追放されてしまえば、いずれにしても共同で狩猟採集ができませんので飢え死にしてしまうか、肉食獣に捕食されてしまいましたから、早晩命をなくしてしまったことでしょう。不安には根拠もあったのかもしれません。

この不安にいたる「こころ」は、単一の群れだけで生活していた当時においては、個体を群れにとどめることができ、とても合理的に機能していました。

最大の問題がここにあります。現代は、家族、学校、職場、友人関係という意識できて恒常的、継続的な人間関係だけでなく、地域、社会、国家という常に意識しない人間関係、あるいは道路上や商店など一瞬だけの人間とも関わることがあります。また、インターネットを通じて膨大な人間たちともかかわりを持っています。

しかし、人間の「こころ」は、200万年前からほとんど変化していません。単一の群れから複数の人間関係に移行したのだって、農耕が始まった1万年くらい前ですし、これほど多くの人間と何らかのかかわりを持つようになったのも、せいぜい近代化が始まってからです。インターネットに至っては100年もたっていません。「こころ」が進化するには1万年でもあまりにも短すぎるのです。進化の過程で形成された「こころ」ですが、現代の環境とは適合していないし、このために悲劇的な事態を起こしているわけです。私はこれを心と環境のミスマッチと言っています。

だから、ひとつだけの人間関係での不具合であっても、「こころ」は唯一の人間関係から自分が追放されそうになっていると感じてしまいます。一つの人間関係での追放の予感が、あたかもすべての人間関係で未来永劫追放され続けると錯覚するわけです。その不具合を起こしている人間関係だけが自分のすべての人間関係だというようにダメージが大きくなってしまうわけです。この「こころ」は、文字ができる前からあるわけですから、本能であり、イメージだけの感じ方ということになります。理屈が通用しない不安なのでしょう。

不安が起きる前であれば、自分に対する理不尽な扱いをする人間関係ならば離脱してしまおうという思考が可能です。理性が働くからです。しかし、不安が大きくなってしまうと、本能が優位になり理性が働かなくなってしまいます。ただ、不安に苦しんでいるだけの状態になります。理性が働かなくなってしまうために、その人間関係から離脱しようとできなくなります。

本能である「こころ」は200万年の状況を生きるためにできていますので、今追放されそうな人間関係に何とかとどまりたいという必死の思いがあたかも唯一の群れからの追放と捉えてしまい、そこから離脱すればよいという発想になりにくくなってしまうわけです。
本能的思考は、現代社会において、人間関係は取り替えが利くという発想を持たせてくれません。

死ぬまで苦しみ続けるか死ぬか

という不合理な選択肢しか残らなくなってしまいます。

だから放っておくと、個性や体調によって程度の違いがあるとしても、人間は実際の状態よりもはるかに悲観的に受け止めてしまい、最悪の結果が生じる危険のある生き物だとみんなが自覚するべきだと思います。

また、理性が働かない状態になったときは、誰かが外部からその人の行動を制限していくことが必要になると思います。

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「一言多い。」と言われるその「一言」とは何か。自分が過小評価されていると思うときに考えること。 [進化心理学、生理学、対人関係学]



能力があるのに、それにふさわしい役割を与えられない人がいます。能力がまともに評価されないどころか、初めから評価の対象から外されることもありそうです。仕事上のミスをしなくても、煙たがられているために悪い査定をされたり、契約の更新を拒絶されたりします。こういう場合、「もしかしたら自分は一言多い。」のかもしれないと考えてみると良いかもしれません。

また、よく「一言多い」と言われるけれど、何がその一言か分からない人も多いと思います。余計なこと、言わなくても良いことを言っているのですが、どうしてそれが言わなくても良いことなのかがわからないようです。「空気を読めない」と言われる場合も、もしかしたらこの一言余計な言葉を発しているからかもしれません。

いろいろなバリエーションがあると思うのですが、一番多いパターンは、
誰かを否定評価している
場合です。

もちろん、本人は否定評価しているつもりはありません。また、相手を傷つけようと思っているわけでもなく、不快に思わせてしまうかもしれないとは考えてもいません。

例を挙げてみましょう。
① 事例
例えば仲良し10人グループが二つのチームに分かれて、大食い大会を開いたとしましょう。ケーキでも、パスタでも、回転寿司でも何でもよいです。
この時、ひそかに闘志を燃やして、自分がチームに貢献しようと思っているAさんがいたとしましょう。二人のキャプテンが、チーム決めをして、自分のチームを勝たせようと、10人の中からメンバーを選抜していきます。そうして最後に残ったのが、そのAさんともう一人としましょう。一方のチームのキャプテンが二人を選べるのに、義理でAさんを自分のチームのメンバーに選んだ時、他方のチームのキャプテンだったあなたXさんが、「え?Aさんそんなに食べないでしょうに。」と言ってしまったという例です。

Xさんにとっては、大食は実生活で役に立つ能力ではないので、その能力を否定したところでAさんが不快な思いをするとは思わないわけです。Xさんは、純粋に有利なチームにするために戦力を調える行為をしているのだという意識を持ってしまっています。それで他方のチームのキャプテンのAさんをチームに入れる行動が純粋に理解できないので、思わず言ってしまったということになります。

大食い大会は、純然とした遊びですから、本来勝ち負けにそれほどこだわらなくても良いのですが、一時的に真剣勝負のモードにみんななっています。Xさんの疑問はある意味自然です。

しかし、Aさんにとっても、真剣モードになっていましたし、自分は自分のチームに貢献しようとひそかに思っていました。そこでのカウンターパンチを食らったので、通常はどうでも良いことなのですが、その一瞬では不快に感じ、「馬鹿にするな。」という気持ちになってしまうわけです。

XさんとAさんの受取り方の違いの理由はまだあります。
Xさんは自分がこれから言葉を発する方です。言葉を発する前からAさんに対して悪意もないし、傷つけようとしていないことを自分で知っています。このため、「発言しても悪いことはない。」と思って発言することができます。
しかし、Aさんは発言を受ける方です。Xさんが発言して初めて、Xさんの言葉だけが、あるいは語調も含めて入ってくるだけです。AさんからするとXさんの真意はわかりません。このため、「自分が低評価されている」と感じてしまうわけです。

② 事例
別の事例では、取引先に、XさんとAさんが一緒に赴いて商談をしているとします。Aさんがある言い間違いをしました。Xさんはすかさず、言い間違いを指摘してしまいます。Xさんは、Aさんが間違っていることを教えてあげようとしていたとか、取引先との信用を損なわないようにしようとしていたかもしれません。また、そういう是正をしなくてはならない場合もあるでしょう。しかし、案外どうでもよいような漢字の読み方のような間違いのような場合は、取引先から帰るときに二人だけになったときに指摘すればよいようなことです。あるいは主観の問題でどちらともいえる場合(それが変か変ではないかとか)に、取引先の面前で、あたかも致命的なミスをしたように指摘してしまうと、Aさんとしては、取引先の前で恥をかかされたという気持ちになるわけです。間違った自分が悪いとしても、そういう気持ちは出てくることを止めることはできません。

③ 事例
もう一つ例をあげます。Xさんともう一人がAさんをからかっていたとします。そのもう一人とAさんは特別仲が良いという場合はAさんからすれば、からかわれても否定評価されているわけではなく一過性の「からかい」だと認識できますのでそれほど不愉快にはなりません。しかし、そのもう一人ほど仲が良いわけではないXさんのからかいは、Aさんとしては言葉通りの受け止めをしてしまいます。また、本当はその仲の良いもう一人の人から言われることだっていやだった場合は、その仲の良いもう一人に文句を言わないで、すべての怒りをXさんに向けるということもよくあることです。

まとめますと、一言多いその一言とは、「相手に対して自分が否定評価されていると思わせる言葉」ということです。
そして、何が「相手に対して自分が否定評価されていると思わせる言葉」かは、「言葉を発する方はわからない」と考えた方が無難です。
だから、「一言多い」と言われている人は、相手に関しての評価を含む言葉はしないということが無難なわけです。どういう場合が相手に関しての評価の言葉になるかは、3つの例から考えていただくと良いと思います。

特に注意するべきは、「自分が正しい」と思っての発言とか、「相手の言動に合理性がない」という指摘をする場合です。こういう場合は、必要がなければ言わない、言ったとしても控えめな態度に終始するべきなのでしょう。

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家族の機能①「機能不全家族」から家族の機能を考えてみる [進化心理学、生理学、対人関係学]



12月の私の業務のテーマが機能不全家族とでもいうように、家族の在り方に関連する相談を多く受けました。私の仕事(依頼、相談)は、同時期にテーマが重なることが多くあります。

それで、西尾和美さんの「機能不全家族」(講談社)を読んでみました。

西尾さんの定義は、「機能不全の親」とはということで、「子どもに安全と保護を与えられない、子どもの人格を尊重できない、子どものもって生まれた気質や個性を受け入れられない、適当な規律と愛情を与えることができない親のこと」というものでした。
本質をズバリついた定義だと思います。

これに対して一般的に機能不全家族とは、家族の機能を果たせない家族ということで、暴力や精神的虐待、犯罪やアルコールや薬物依存のある家族と定義されています。

西尾さんは、子どもの立場から親子関係に焦点を当てています。子どもではなくても、夫婦に置き換えても通用する定義だと思います。

「夫または妻が、相手に対して、安全と保護を与えられない、相手の人格を尊重できない、相手の持って生まれた気質や個性を受け入れられない、適当な規律と愛情を与えることができないこと」と置き換えてみても、通用する定義です。

そうすると、家族の機能とは、安全と保護を与えるところにあるということになりそうです。その具体的方法について、西尾さんの「機能不全家族」には丁寧に記載されていますので、家族問題で悩まれている方は、専門家に相談するのも良いですが、その効率を上げるためにもこの本をお読みになることをお勧めします。

ところで、どうして、家族は、自分以外の家族という他人に対して安全と保護を与えなければならないのでしょうか。自分ひとりが生きるのに一杯いっぱいの状態で、自分以外に配慮することなどできるでしょうか。

結論から言うと、「それが人間だ」ということなのかもしれないと思っています。

今年の正月は、3日くらい、これまでに記憶がないくらい無為に過ごしていました。タイミング的に家族と離れて一人で過ごしていました。年末に珍しく超人的な忙しさがあったことの反動もありました。日付も曜日も無茶苦茶になっていました。具体的に何がどうだというわけではないのですが、これではいけないと思い、職場に行き、届いていた機能不全家族を読み、頭を動かし始めてこれを書いているわけです。

人間が家族を作る理由がここにあるというか、人間が生きるということは家族の役に立とうとするということにあるという一つのアイデアを改めて見つめ直そうと思いました。

いつものことなのですが、「何のために家族を作ったか」という問題提起は間違っていて、「家族という人間関係を作ったから人間は生き延びてきたのだと、でもそれはどういう点が有利だったのか」ということが本当の問題提起です。

家族を作らない動物がほとんどです。それは家族を作らなくても子孫を作り続けることができたからなのです。もっとも子孫を作ろうとさえしないで生き延びようとしていただけのことですが、生き延びなければ現在われわれがその生き物の存在を目にすることが無いというだけの話です。

もっとも、家族と言っても「夫婦を中心とした家族」が一般的になるのは、つい最近のことです。何をもって一般的というかは難しいところですが、3世代同居が都市部だけでなく多くの地域で少数派になった時期と言えば、早くても第二次世界大戦後というべきであろうと思います。

夫婦が同居することさえ、日本では8世紀ころまでは成立していないようです。もっともこれは文献が残っている貴族社会の中の話です。第2次世界大戦前まで多くの人口を絞めていた農村部の家族の在り方はあまり信用できる文献が無いようです。一応同様だと考えておきます。

さらに農耕社会が起きる、約1~2万年前までは、家族は必ずしも血縁を基盤としていなかったようです。これだと「家族」という名称とは少し違うかもしれません。大体200万年くらい前からこのような小集団でヒトは生きてきたようです。

この小集団をどのように定義づけるか。ちょっと難しいのですが、「狩りなどで日中別々に行動しても、日暮れ頃までには帰ってきて寝食を共にする小集団であって、構成員に変化が乏しい集団(つまりいつメン)」ということは言えるでしょう。

その小集団をどのような関係者と構成するかについては時代によって異なっているけれども、人が人として成立したころからこのような少集団を構成して人は生き続けてきた、生き続けることができた、生きることにおいて有効だったということだけは言えるのでしょう。

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家族の機能② 群れを作るツールとしての「こころ」と群れを作るメリット [進化心理学、生理学、対人関係学]



前回の記事で、ヒトは、ヒトとして成立した時にはすでに小集団で生活していたと述べました。ただ、現在の家族のように父母を中心とした家族は第二次世界大戦後に一般的になり、これまでのヒトの歴史(200万年間くらい)の大部分は必ずしも血縁関係があるわけではない集団だったと述べました。でも、昼間それぞれが行動をしても、日暮れごろになるといつもの集団の中に帰ってきて寝食を共にするという関係があったということが前回の話でした。

言葉もない時代に、どのようにしてその様な集団生活ができたのかについては、これまでもこのブログで述べていたように、「こころ」というツールを獲得したからだということです。

いつものメンバーと一緒にいたい、いつものメンバーから追放されることは怖い、追放されそうになるとたまらなく不安になり、自分の行動を修正する、いつものメンバーに対しては役に立ちたいと思う、いつものメンバーの味方をしたい、いつものメンバーを守りたい、尊重したい、

これは現在心理学的には、単純接触効果と呼ばれる効果であったり、人間の根源的な要求(バウマイスター)と呼ばれたりしています。私としては組織の論理、組織バイアスも、この「こころ」からくるものだと考えています。洗脳もこの「こころ」を利用して行うわけです。

どうしてそういう心を持つようになったかという問いは間違っており、そういう「こころ」を持つ個体だけが、群れを形成し、命を長らえ、子孫を作ることができたというだけの話だと私は今は考えています。「こころ」を持たなかったヒトは、それができずに死滅したということです。

なぜ群を形成すると生き延びることができたかということも整理しておきましょう。
即物的理由とメンタルの生理的理由があると思います。

<即物的理由>
脳の活動を維持するための栄養素を確保するため、ヒトは小動物を狩るようになったそうです。初期の段階では特に道具も持っていませんから、何人かで動物を追い続けて、動物が弱ったところで確保したようです。小集団を作らなければ脳の活動を維持できなかったと言えるでしょう。

また、小動物もこのような原始的な方法ですから、逃げ切ることができることもあったでしょうし、そもそも小動物が見つからない時もあったでしょう。その時に備えて、同じ小集団の別グループが食べられる植物を採取していたそうです。小動物の狩猟と植物の採取を別々の構成員が行うことで生き延びる栄養素を確保できたわけです(「人体」ダニエル・リーバーマン ハヤカワ) 。

また、他の動物と比べて超未熟児で生まれる人間の赤ん坊を世話するのは母親だけでは足りません。出産自体がたいそう危険なものでした。このため、群れを形成して赤ん坊や弱い者を守る人数がいることが必要でした(それに伴う人間の特性は明和政子「まねが育むヒトの心」岩波ジュニア新書)。

頑丈な家も無く、移動式の生活様式であったことから、けっこう肉食獣に対しては無防備だったわけです。しかし、ヒトという中型動物が、比較的大きな群れを作ることで、肉食獣もおいそれとは手出しできない状況を作っていたと思います。肉食獣だってリスクがなるべく少ない方法で獲物を獲得したいわけです。ここから先は私の一人説ですが、おそらくそれでも集団の中に獲物を求めて襲ってきた肉食獣もいたと思います。その場合は群れ全体が、自分が襲われているかのように、我が身が傷つくことを忘れて、怒りにまみれて肉食獣を袋叩きにしたはずです。獲物を襲っている動物は無防備な状態ですから、袋叩きをされることが一番の弱点だったという袋叩き反撃仮説というものです。(今それを見ることができるのは、プロ野球のデッドボールで両軍がグラウンドに飛び出してくる様子です。)

即物的な意味で群れを作ることで生き延びてきたということは、なんとなくわかりやすいのではないでしょうか。

ただ、そればかりではなく、メンタルというか生理的な問題というか、そういう観点からも群れを作ること、群れの形態がとても有利であったというお話は次の記事で行いましょう。

前回の記事で触れた、家族の機能としての、安全と保護ということは、ヒトがヒトとして生まれたときから行っていたことなのだなあと改めて気が付きました。

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家族の機能③ 群れを作る、生理的な、メンタル的な必然性 [進化心理学、生理学、対人関係学]



人間は、飢えや肉食獣の脅威、自然現象の脅威から常に命の危険を感じてきたわけです。それでも、相当年齢を積まないと繁殖能力を持てませんし(他の動物との比較)、そもそも生きていくための能力すら獲得できません。なるべく成体が長生きをする必要がありました。

体や脳の大きさや、食物連鎖の位置づけから考えると、ヒトはかなりがんばって長生きをしていると思います。

その秘密は、群れを作るところにあったのだと思うのです。

人間は、細胞レベルで昼と夜を区別する体内時計をもっているといわれています。朝方から夕方にかけて、交感神経が優位になり、活動しやすい状態になります。逆に夕方から朝方にかけて副交感神経が優位になり、活動で傷ついた血管など体のあらゆる臓器、仕組みを修復しているそうです。これを概日リズム(サー下で慰安リズム)と言います。このリズムがくるってしまった状態が時差ボケです。時差ボケには、太陽の光を浴びて、強制的にリセットすることが有効です。

小動物を狩ったり、植物を採取したり、肉食獣から集団を守ったりするのは、昼間に行うことは大変都合が良いことです。交感神経が活発になり、筋肉を流れる血流が増えることによって、走って逃げたり、追ったり、腕力で戦ったりすることに都合が良い状態になっているからです。夕方に群れに帰り、群れが合流して大きくなれば、肉食獣からの攻撃の可能性も低くなりますので、安心感を持つことができます。怒りを鎮めて、些細なことを気にしないことによって、副交感神経を優位にして昼間の疲れ、微細な傷つきを修復していくことを効率的に行うことができます。それによって効率的な睡眠をとることができます。

また、何があっても、自分は守られている、尊重されているという安心感はこの副交感神経をさらに優位にすることができるでしょう。

逆に、群れの中で、自分に対する風当たりが強いとか、歓迎されていないようだということがあれば、副交感神経が優位になり切れず、絶えず不安が渦巻きますから、寝ている場合ではなくなり睡眠不足にもなりますので、副交感神経による臓器修復がうまくいかなくなり、早死にしてしまいます。

これの現代的な形態が過労死です。

メンタル的な要因によって、あるいは生理的問題がメンタルに影響を与えて、概日リズムがうまくいかなければ、不安が増大し、不安解消要求も増大し、精神が破綻して自死が起きてしまうわけです。

メンタルとは、肉体から分離された何かではなくて、肉体を反映したもの、あるいは肉体の状況に直結しているものだと考えた方が良いと思います。

このように考えると、狩猟採取時代は群れという小集団を、現代では家族を作って生きることは、ヒトとして生きるために不可欠な営みであり、それは体にしみこんでいるという言い方もできるのではないかと思われます。
ただ、狩猟採取時代の群れと、現代の家族は環境がだいぶ異なります。お金さえあれば、飢えるとか、肉食獣などに襲われる心配はありません。

収入を得るための就労と家事育児を分担すれば狩猟採取時代と同じ合理的に家庭を営めるのでしょうが、現代では専業の主婦、ないし主夫は、よほど相手が良い収入が無いと成り立たないこともありますし、働いて収入を得ることが人間の価値だなどという昭和のDV夫みたいな価値観が世の中の価値観になっているようです。

家事育児と外に出て就労することの分担ができない状況になっており、これは一般的傾向としては人類史上かつてない現象だと言えるのではないでしょうか。

さて、役割分担もしないのに、夫婦を中心とした家族を形成する合理性はあるのでしょうか。合理性がないならば家族という制度は早晩消滅する定めなのでしょうか。

現代社会の中で家族というのは、200万年に及ぶ人類史で示された群れという小集団の機能と何らかの変化があるのか、どのような環境によるのかについて、また、本当に家族は必要なのかということについて次回の記事で考えていきたいと思います。

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家族の機能④ 現代という小集団を形成する必要性のない環境の中の家族 [進化心理学、生理学、対人関係学]



現代社会、特に日本では、人間は野生動物から隔離されていて、熊が街に現れればニュースになるほどです。少なくとも、家の中にいればクマに襲われるということも無いでしょうし、町中であればその心配さえ少ないわけです。この意味で、つまり、他の動物に捕捉されないという観点から群れを作る必要性は消滅したようにみえます。

お金さえあれば、食糧が見つからず飢えるという心配もありません。

子育ても、お金があれば、あるいは自治体の支援があれば、大変なことですが一人でやりきることができそうです。

小集団を形成する即物的な理由だけを見れば、家族を形成する必要のない環境であることになってしまいそうです。

では、メンタルないし生理的な理由はどうでしょうか。

昼間の交感神経が活性化されている状況を考えてみましょう。これを一言で言えばストレスを感じているということです。

昼夜の区別がない人が増えていることとは思いますが、多くの人は、昼間に学校や仕事に行って、夜に家に帰ってきます。

職場、学校、あるいは道を歩いていたり、商店で店員さんと会話をしたり、様々な人間関係を形成しています。普段は意識しませんが、ふと地域や国家の一員として人間関係を持たなければならないこともあります。

人間関係は癒しにもなりますが、ストレスにもなることは誰しも経験していることだと思います。

このようなストレスであっても、交感神経は活性化してしまい、血圧や脈拍が上がって、臓器を取り囲んでいた血流が筋肉に流れやすくなってしまいます。上司や同級生との関係でのストレスなのに、人間の体は走って逃げたり、腕力で相手を叩き伏せようとしたりする準備を始めてしまうのです。

対人関係上の不安も、生じやすくなっているともいえるでしょう。

このような生理的現象面(ストレス)から見た場合、狩猟採取時代の肉食獣が人間に置き換わったような様相すらあります。これはどういうことなのでしょうか。

狩猟採取時代の関係する人間と、現代社会でかかわりを持つ人間とは、大きく異なっている。それは環境と人間の知能によってそうなっているのです。

狩猟採取時代の人間(他人)は、生まれてから死ぬまで同じ群れで寝食を共にしていました。それ以外の人間と出会うことはほとんどなかったわけです。人数も数十人から150人程度の群れだったと言われています(ロビン・ダンバー先生の各著述及び前掲「人体」)。それぞれ個体識別ができ、それぞれの性質も熟知していたし、運命共同体という利害が一致した関係でした。よほどの突然変異的行動を起こさない限り、それぞれが助け合い、分け合って、守りあって生活していたものと思われます。人間の「こころ」というツールがよりよく機能していたわけです。

逆に、そういう「こころ」を持てない個体やグループは、厳しい自然環境に耐えられず、飢え死にしたり、肉食獣に捕食されたりして死滅していたわけです。「こころ」というツールによってぎりぎり生き延びることができたというわけです。

ところがこの環境(一つの群れ、小人数の人間関係)は、現代社会では跡形もなくなったと言えるくらい変化してしまいました。家族、学校、職場、地域、社会、国家、インターネット、商店や病院等の一時的な関係と、群れならいくらでもあるし、かかわりあう人間関係は名前も覚えられないし、初めから名前を知ろうとも思わないことでしょう。その人の個性を重視していたらきりがないからしないわけです。

このような環境の中では、我が身を捨てでも、その人を守ろうという気持ちになることは一般的には期待できないことです。自分の些細な便宜のために、誰かを攻撃してしまうことだって起きています。深刻な被害が生じることも日常ありふれています。

まさに、ストレスの観点からすれば、現代の肉食獣は人間だということになると思います。また、人数が多いために生じる孤立も、いじめやパワハラなど減らない状況です。

人間が進化の過程で獲得した「こころ」というツールは、機能しにくくなり、「こころ」を持つがために、逆に傷つきやすくなっているのが現代だと思われます。

いじめ、パワハラ、虐待、炎上、セクハラ、モラハラ、嫌味、足の引っ張り合い等々、環境によってストレスが絶え間なく存在することが現代社会の特徴であると思われます。

このような社会病理のストレスに対して、一つ一つ解決できればそれが一番ですが、解決できなくても、家族の中に戻って、狩猟採取時代の小集団のようにそれぞれが助け合い、分け合って、守りあって生活ができれば、ストレスが軽減しますし、何らかの解決方法が見つかる可能性も増えると思われます。

現代のストレス社会にこそ、家族は機能を発揮することが求められているのだと私は思います。


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家族の機能⑤ 家族の機能を妨げるもの [進化心理学、生理学、対人関係学]


弁護士として家族とかかわる場合は、離婚事件が典型であるように、家族が機能を失っている様子ばかりに立ち会っています。私の他の方と違うのは、家族の機能を復活させることにチャレンジすることです。しかし、なかなか難しいことは間違いありません。

ニュースを観れば、幼児虐待の事件もなかなか少なくならないように感じられます。人間の「こころ」というツールが家族の中においても発揮されていないように感じられます。

思いつくままに原因を取り上げていきます。

1 人間全般に対する希薄な扱いが家族に対しても影響を与えている
  あまりにも人間関係が多くなりすぎて、関わる人数も多くなりすぎてしまい、個人が他人に対する意識がどんどん希薄になってしまっているという環境になっていることが原因の一つだと思います。

他の人間関係の冷たい希薄な関係になれてしまって、およそ人間に対しては必要以上に関わらないようにするとか、特別扱いをしてはならないとか、そういう意識が知らず知らず家族にも向けられているのだと思います。

2 ストレスが家庭に持ち込まれている
つい会社の人間関係の感覚を家族に向けてみたり、上司に言われた叱責をしてみたり、自分が学校で不合理な扱いを受けていたら、家族の中の弱い者にその扱いをしてみて、自分が一番弱いのではないという確認をしたくなったり、その人に原因が無いのに尊重しない態度をとったりしてしまいがちです。

家族相手に自分を守ろうとしなくてはならないほど追い詰められているということかもしれません。

3 家族を大切にする方法が分からない
  様々な理由で家族を大切にする方法を知らないということは、常々感じます。会社のルールで家族を見たり、厳しい道徳観念で家族を評価したりということを行っているとき、それが間違いだと気が付きません。

三世代同居であれば、「家族をそういう風に扱ってはダメだ。」とか、「少し厳しすぎるのではないか。」という修正を提案してくれる人がいたわけです。都市部においては、戦前も他人のプライバシーに口を突っ込んでくる御隠居さんや世話焼きの女性等がいたようです。

核家族化は、このような家族の機能を妨げる行為を批判する視点が無くなってしまう最たる原因だと私は思います。

そのことで思い出したのですが、昭和50年代までは、マイホーム主義という言葉があって、マイホームを大切にする余り、労働組合活動など社会的活動をしなくなったという批判が労働法学会でも取り上げられていました。社会的活動をしなくなったことには理由のあることだと思うのですが、ではそのマイホームに振り分けられていたエネルギーはどこに行ってしまったのでしょうかという疑問が起きています。

その他 家族を大切にする風潮が無い。国家政策が無い。家族解体論の潜在的影響などがあげられると思いますが、総じて、自分以外の家族を大切にする心の余裕がなくなっているということかもしれないと現段階では考えています。

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家族の機能⑥ 家族の機能をどうやって復活させるか その効果として期待できること [進化心理学、生理学、対人関係学]



余りにも壮大なテーマを設定してしまい後悔しています。しかし、否定的な現象だけを述べて終わりにするということがどうしてもできない性格なので、展望を持ってみたいと思います。このため、網羅的な対策を述べることはあきらめて、思いつくまま取り上げてみたいと思います。

<家族の機能復活作戦>
1 家族の機能をきちんと把握すること
家族の機能は、現代社会においては、それぞれが助け合い、分け合って、守りあって生活することによって、そこに帰れば安心できるという人間関係を形成し、家族外でのストレス、交感神経の高まりを、家族の中で副交感神経が優位になりやすい環境を作って、量質の睡眠を確保して体内メンテナンス(自然治癒力)を活性化することです。

生理的及びメンタルのストレスを軽減することによって、社会病理を無くすとともに、社会病理の犠牲になることを防止する効果が期待できますので、現代日本においてはこの副交感神経の活性化システムは必要不可欠のものとなっていると思われます。このことを学習することが第一歩かもしれません。

2 家族全員が快適と思える人間関係を形成するための研究、成果、経験の普及を行う。
こうしなければいけないということだけでなく、私の言っていることが本当であれば、家族が副交感神経優位にする人間関係になれば、快適であり、生きる意味を持つことになるはずです。要するに楽しい人生が送れるはずなのです。
そのためにするべきちょっとしたことを情報流通することによって、快を覚え、快の方向へ流れが生まれると思うのです。

3 家族が安心していることに対しての喜び、充実感の普及
2と同じようなものですが、快自体を普及する必要があると思うのです。これまでの芸術から、転換させていくというと大げさかもしれませんが、文芸や映画、その他で家族をテーマに作成してもらいたいと思っています。その中でサンプルとして具体的な困難克服の形を見せてくれるととても参考になると思われます。

<家族の機能が復活した場合の効果>
家族の機能に価値が置かれ、機能が復活しつつあると、先ず、ストレスの中断が起きることが期待できます。家に帰っても各人が孤立していれば、外でのストレスが持続してしまいます。一瞬でも家族の思いやりに癒されれば、ストレスの持続が中断します。気休めは実は大きいことです。ストレスが持続すると、不安も持続し、思考力が減退ないし停止してしまいます。一瞬でもストレスが中断すれば、冷静になり、別の観点からの解決策が見つかるかもしれません。

過剰な防衛行動が減少する。社会病理のほとんどでみられるのは、過剰な自己防衛です。過剰な自己防衛を行使すると、それを意図しなくても誰かを攻撃することになっていることが多くあります。それが、家族の中にいれば、自分が尊重されているという認識を持つことができれば、自身を持つことができます。外で攻撃されても、家に帰るまでの辛抱だということもできます。また、家族を犠牲にするような人間関係だということがわかれば、その人間関係から離脱するというアイデアも生まれます。

家族というベース基地ができれば、人間は無駄なストレスに悩むことが減少しますので、能力を発揮しやすくなるはずです。

社会病理も減少するし、無駄に傷つくことも減少するし、人々が平穏に生活し、よこしまではない目的での行動が増えるようにも思えるのです。

理屈の上ではそうなるのだろうと思っています。

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家族の機能⑦ 具体的な家族の機能の作り方 [進化心理学、生理学、対人関係学]



また壮大なテーマを掲げてしまったと後悔しています。
これはちょいちょいこのブログで特集をしているところです。夫婦のチップスシリーズや千字式等シリーズ化してご提案しているところです。

家族の機能①のテーマに戻って、「機能不全家族」を手掛かりに総論的なことを考えてみたいと思います。

やはり、家族は、相互に、安心を与えることこそ、現代日本の家族に求められているあり方だと思われます。少なくとも「家族の中に入れば安心だ。」と思えることが必要です。

この場合の「安心」とは、暴力などの身体的攻撃が無いということよりも、人格、人間性が尊重されるということに力点を置いて考えるべきだと思います。つまり、「自分や自分にまつわることが否定されないこと」が安心の第一歩です。

先ずやみくもに、家族を否定したり、非難することはしないことです。そのためには外部ストレスを家庭に持ち込まないというが大切です。中には、「いや」とか、「でも」とか、相手を否定する言葉をまず発することが口癖になっている人がいます。この発言は神経に触ります。また、そこから話し始めると肯定する流れにはならないことになりがちです。

否定されなければ、本音を話しても大丈夫という意識が生まれやすくなります。家族の不具合をいち早く察するためには、話をすることが楽しくなることが有効だと思います。

次に、家族中では自分にとってどうでも良いことを増やし、どうでも良いことは相手の意見に従うということが有効だと思います。会社でのやり方、他人同士を規律する道徳などを過剰に家族に持ち込まないということです。また、自分の親のやり方を踏襲しようとしないことです。親のやり方を踏襲すれば安心できることがあることはよくわかります。しかし、本当にそれでなくてはならないかということは真剣に考えた方が良いです。相手は育った環境も違うし、時代も変化しています。家族は一つ一つ独立国家だと思って、新しいルールを作るという考えの方が良いと思います。

安心のためのやり方はなかなか捨てられませんが、相手の感情を優先してどうでも良いことを増やしましょう。

3番目は、それでも否定しなくてはならない時にどうするかということです。例えば、子どもがうっかり薬物に手を出しそうになっていたら、止めなければならないことは当たり前のことです。その際も、まず最初に肯定できるところは肯定してから、肝心なところを否定することが、禁止の実効性の観点からも有効です。その心情や経緯など、肯定できる部分を必死になって探すという作業をすることが、危険から家族を守る最大の方法だと私は思います。「当たり前のこと」は人によって、その人の環境によって異なります。また、逆上してしまうと、思考力が低下し、言葉による説得の能力が落ちてしまいます。相手の共感できる部分を探し出すことで、冷静になり思考力も回復していくと思います。これはしかし、なかなか難しいかもしれません。

4番目は、家族の誰かの不具合を自分個人の利害とリンクさせないということです。これはなかなか説明が難しいのですが、要するに、誰かの不具合はその誰かだけの不具合ではなく、家族全体の不具合としてみるということです。常に主語を「私たちは」と「たち」をつけて考えるということです。家族の誰かの我慢によって自分の快適さを実現しようと考えているわけではないのですが、私たちという主語が出ないと意図せずに自分の利益だけを考えてしまいがちです。

5番目は家族に過剰なストレスを与えないということです。何かを成し遂げることは大切ですが、本当にそれが必要なことか点検する必要がありますし、相手の能力も冷徹に見極める必要があります。常に要求され続け、要求を充たし続けようとすることはかなりのストレスになります。とても安心することができません。いろいろ兼ね合いが必要ですが、ストレスを過剰に与えない方法で目的を達成する方法を工夫することが必要なのかもしれません。

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「母性」の意味と由来と母性危機の効果 絶対的孤立の蔓延化 [進化心理学、生理学、対人関係学]



私たち弁護士が職務上出会う「母性」として思い浮かぶのは、刑事事件です。いわゆる凶悪犯と呼ばれる類の事件でも、母親は子どものためにあれこれできることをしてあげて、どこまでも味方になるという行動です。
これに比べて父親は、被害者がいる手前、子どもを許そうとする態度をとることは良くないという傾向があります。

もっとも、大雑把に言った場合の男女の傾向ということであって、女性だとこうだとか男性だとこうだという意味の話ではありません。また、もはやそれは昭和の話であって、現代はそういう傾向すらなくなってきたという方が正解かもしれません。

ただ、この大雑把な傾向、しかも我が子が凶悪犯罪を行ったという極限的な状況における傾向は、「母性」とは何かということを考えるにあたって、有効なヒントになると思うのです。

父親の行動との比較を抽出してみます。
子どもとの関係から見ると、母性にとって最も大切なことは、その子の絶対的感情を守ることであり、それは善悪を超えているということです。これに対して父親は、子どもの感情にも価値を置かないわけではありませんが、社会的な評価ということをより重要視して、社会の中での自分という視点が常に行動を規定してしまっています。「何とか手を差し伸べたい」というのが本音ですが、「それは社会が許さないだろう」という意識に基づいて行動をするわけです。自分が我が子に手を差し伸べないことで、我が子にも自分にも制裁をしているようです。

ここから母性を説明すると、社会という他人からの評価等行動の影響を受けにくく、自分と子どもという人間関係でものを考えるということになるでしょう。

まあ、こういうことを言うと、母性と父親の行動とどちらが優越しているかという議論になることがあります。二項対立的にものを考える傾向が世の中にはあるわけですが、何ら本質的議論ではないと思います。価値観を一つに寄せなければならないなんて言う理屈は無いと私は思います。

ひとつの可能性として、「母性」とは、自分に対する社会的評価(他人からの評価)や子どもに対する社会的評価(他人からの評価)よりも、自分の我が子を守りたいという感情を優先させる行動様式のことを言うのかもしれません。

もう少し発展させて考えると、それは「我が子」だけが対象となるのではないのではないでしょうか。つまりある人に対して、社会的評価を気にしないで、その人を守ろうとする行動様式が「母性」なのではないかと思うのです。

他者の評価を気にしない点において、「母性」は「強い」のです。

他者から見た場合、その人が悪(ないし否定評価するべき行動)であることから、かばわれるべき存在ではないのにかばうということですから、母性はすべてを許しているように見えています。本当はそもそも善悪を超越している、善か悪かを気にしないだけなのですが、そう見えてしまいます。

これは、ヒトの心が生まれたときの男女の社会的役割の違いに由来することです。男性は集団で小動物の狩りを行っていて、女性は老人や病人、子どもを守って植物を採取していたという役割分担があったそうです(例えば、「人体」ダニエル・リーバーマン ハヤカワ)。

男性は、狩り集団の共同行動に価値観を置かないと小動物に逃げられてしまいますので、共同行動、社会的評価に価値を置いて行動するようになっていきました。これに対して女性は、共同して何かの目的を達するよりも、群れから脱落者を出さないことが最大の任務ですから、社会的価値観よりも弱い者を守るという意識がより強くなっていったと考えることが理に適っているように思われます。

どちらも人間が群れを作って生き延びるために必要な行為ですから、価値の優劣などありません。女性が狩りをしなくなったのは、直立二足歩行をする関係で、流産をしやすくなり、それを避けることで出生率を上げるためだと思われます。

この当時は、我が子中心という感情ではなく、群れの弱い者を守るという意識だったと考えても差し支えないと思います。子どもは群れ全体で育てていたからです。

ところが、農耕が発達して、群れが多層構造になり、自分の基本的な群れが、「地域」ではなく、「父母を中心とした家族」に切り離されました。だから、最小単位である家族の中で、特に弱い者として我が子があり、我が子を守ろうという意識にすりかわったのではないかと私は思っています。

現代社会では、「母性」という言葉にあまり肯定的評価が集まらなくなっているように思われます。悪い奴は徹底して攻撃するという風潮が広がっているように思えてなりません。その中で、母親さえも我が子を守ろうとせず、昭和の父親像のように社会的評価を優先して行動する傾向が強くなっていないでしょうか。

深刻なことは、「母性」、母性的行動を行う人がいなければ、社会的に否定評価をされる人は、評価的に絶対的な孤立をしてしまうということです。凶悪犯という極限的状況ではなくでも、社会的に低評価を受けるたびに孤立してしまっていたら、人間は生きる意欲を無くすと思います。生きる意欲を無くすということは人間にとって、生命を放棄するだけでなく、社会的存在を放棄するということも意味します。

母性は家族(人間関係)という機能を全うするツールだと私は思います。今の世の中は狩りをする必要はありません。母性が無くなれば社会が無駄に殺伐として行ってしまうように思えてなりません。

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