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【宣伝広告】明日刊行 弁護士を依頼する人、適切な相談を受けたい人に本当は読んでいただきたい一冊 「イライラ多めの依頼者・相談者とのコミュニケーション術」(遠見書房) [進化心理学、生理学、対人関係学]

私も関わった本が明日発売されます。既にAmazonをはじめとして申し込みを受け付けているようです。(遠見書房 1800円+税)
https://www.amazon.co.jp/%E6%B3%95%E5%BE%8B%E5%AE%B6%E5%BF%85%E6%90%BA%EF%BC%81%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%A9%E5%A4%9A%E3%82%81%E3%81%AE%E4%BE%9D%E9%A0%BC%E8%80%85%E3%83%BB%E7%9B%B8%E8%AB%87%E8%80%85%E3%81%A8%E3%81%AE%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%8B%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E8%A1%93/dp/4866161264
(ブックオフや、セブンネットなどの通販でも買えるのですね。)

表向きは、弁護士が、法律相談や依頼を受けた人の感情的な行動にどう対処するかなどというマニュアル本のようになっていて、弁護士救済のための本のように見えます。しかし、読んでいただければわかると思いますが、実際は、表題通りコミュニケーションの問題を扱った本です。
心理監修は、あらゆる心理学分野をマスターされた東北大学教授の若島孔文先生です。そのため、素人である我々も、安心して思いっきり執筆することができました。
この本の人間観をまず説明しましょう。
元々の性格に関わらず、紛争の当事者になれば、程度の違いはあるけれど誰でも心理的影響を受けてしまう。影響を受けた心理状態では、感情が勝ってしまって、十分な意思や情報の伝達ができなくなってしまう。これによって、本来味方である弁護士等に対しても、攻撃的な態度をしてしまうとか、裁判等の目的に反する行動を自らしてしまうことがある。この行動原理を理解できない弁護士の場合は、依頼者・相談者に対して恐怖や嫌悪だけを感じてしまい、十分なパフォーマンスを発揮できなくなる可能性がある。というか、見ていると実際このような事例を少なからず目にしています。

要するに紛争に巻き込まれた人は、解決の場面においても損をしているわけです。

例えば、妻からDVを原因として離婚調停を申し立てられた夫が、法律相談に行くと、離婚理由が身に覚えのないため理不尽な出来事に対して怒りに震えていて、弁護士と話をしていても、自分を疑っていて、妻の言い分を信じているように「みえて」しまいます。自分の言い分を通そうとして、言葉を選べばよいのに、さらに声を大きくしてしまったりするわけです。これは無意識に行われているのだからなかなか制御することができません。
言われている弁護士の方も生身の人間ですし、女性であったり経験が浅かったりすれば、怖いですし、嫌な気持ちになるのも同じ人間だから仕方がありません。よくあるのは、「このように感情的になる人なのだから、妻の主張のDVも本当にあったのかもしれないな。」と思うようになってしまう危険があるということです。

このような危険は枚挙にいとまがありません。せっかく判決で勝訴、敗訴どちらかわらないというところまで弁護士がもっていっても、本人尋問で感情を抑えることをせず、相手方に対する敵対感情をあらわにして、裁判官から「こういう行動をしていたからこうなったんだな」と、不利な証拠が無かったにもかかわらず印象を悪くして、さらに休廷中に自分の弁護士と大喧嘩をして、不利な心象を固めてしまったというケースもつい最近見ています。相手方のストーリーに説得力を与えてしまうということなのです。

細かいことでは、自分の弁護士が信じられなくなるという被害者の心理から、やらなければ良いこと、言わなければ良いことを弁護士に言わないで勝手にやってしまって、自分を不利な方向に追い込んでいくということは自分が担当する例でもありました。

本来、方針をしっかり打ち合わせをすれば、具体的な活動は専門家にゆだねる方がうまくいきます。しかし、葛藤が強くなるとそれができなくなります。しかも自分の今の心の状態が葛藤が強すぎる状態だということにはなかなか気が付きません。
葛藤が強すぎてしまうと、ご自分を追い込み、自分の弁護士を追い込み、そして自分の裁判を不利にもっていってしまうというのです。そして、追い込まれる弁護士というのは、私のように図々しい弁護士ではなく、真面目で責任感が強すぎるから追い込まれるのです。味方にすれば心強い弁護士を自分から手放しているわけです。これ以上の損はないと思います。

そこでこの本の出番なのです。

紛争の当事者になったら起こる人間として当たり前の心理反応について事例ごとに説明がなされており、その時弁護士はどうしたらよいのかマニュアル的に書いてあります。この本は、心理学の知見を踏まえて、ご本人の過剰な心理反応をコントロールして、コミュニケーションが可能とし、必要な情報提供が相互にできるようになるように誘導しています。
実際の本書の究極の目的は、紛争に巻き込まれて当たり前に心理的反応を起こしている当事者の方々の法的サービスを受ける権利をよりよく実現することにあります。まじめな弁護士の心理的負担も軽減できれば、まさにウインウインの関係が構築できるのではないでしょうか。

しかし、しかしですよ。
この本を切望するのは、いま言った通り、依頼者・相談者の心の状態に反応できる真面目な弁護士だけです。その中の何割が、この本を信じてお金を出すでしょうか。また、買った後読むでしょうか。弁護士も色々な経験を経てしまうと、「心が強く」なってしまって、あまり気にしなくなるとか、適当に当事者の言いなりに行動して結果に対しては責任を負わないという気持ちが心のどこかに芽生えてきているかもしれません。

要するにこの本はそれほど多くの弁護士には読まれないでしょうということです。

それならば、ご自分が今、対人関係などで不具合が生じ、紛争の当事者になって、弁護士の援助が必要だという方が読むほうが手っ取り早いというわけなのです。
この本の第1部には、弁護士が心が折れる事例を具体的に示しています。どういう行動があれば、弁護士はやる気をなくす危険があるかということを列挙しています。ご自分の心を見つめることは難しいですが、行動を思い出すことはそれほど難しくないでしょう。ご自分ではその気がないのに、結果として自分の弁護士を攻撃してしまい、心が離れていく危険な行為は、この本を読めば気が付くことができると思います。
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そして第2部には、どうしてそのような行動をしてしまうか、本来どう行動すれば人間紛争の解決に向かうのかということが、弁護士、心理士、精神科医師の立場から検討が加えられています。これを読んで弁護士から教えられるより、ご自分で読んで弁護士に教えた方が、よほど効率が良いと思います。

このような本はこれまであまりなかったと思います。特に、弁護士分野での研究や理解が少ないように感じていました。当事者の方々は理解されず、若手弁護士や女性弁護士は、葛藤が強くなると怖くなる人たちの相談を受け無くなり、依頼も断ってきたわけです。「どうすればよいか。」という発想はなく、細々と仲間内で愚痴を言い合って終わりということが多かったのではないでしょうか。同僚にはなかなか言えない悩みということで一人で抱えてメンタルを悪くしたという例も聞こえてきます。これでは、弁護士も当事者も救われません。なるべく、人と接しないで、葛藤の少ない企業の担当者とだけ打ち合わせをしたいと思うようになる傾向がありますが、それは必ずしも収入だけの問題ではないように感じています。しかし、紛争が起きると当事者の心は変化し、イライラがつのり、緊張やストレスが増加し、落ち着かなくなり、何とかしてほしいという気持ちが大きくなるということは、多かれ少なかれ誰でも起きることです。だったらそれはどういうことか、どう対応するべきなのかということを科学的に検討する必要があるはずです。
それをすることなく、真面目な弁護士のストレスの予防も、当事者の法的サービスをよりよく受ける権利も研究してこなかったというのなら、業界としての野蛮な対応、怠慢だと批判されてもやむを得ないと思います。
そのような研究もおそらくないわけではなく、私たちの不勉強である可能性も大いにあると思います。しかし、不幸なことに、そのような先行研究を知らないでこの本を出しました。まず一石を投じるという意味はあると思います。大いに批判されて、さらに改善されることがあれば望外の喜びということになるでしょう。

法律系の出版社ではなく、心理系の出版社である遠見書房様からの出版という理由は、このような人間の心のあたりまえの理解が前提として必要だったということを象徴的に物語っていると思われます。それにしても、心理学の本から一歩踏み出した本の出版を決断していただいた遠見書房様には感謝しきれません。また、若島先生をはじめとして、公認心理士であり、心理学の研究者の先生方、精神科医の先生の「善意」があって、初めて科学の視点を取り入れた内容とすることができました。つまり、それがあって初めて意味のある本にすることができたと思います。おそらく弁護士2名だけでは、書籍という形には永遠にならか無かったと思います。改めて感謝申し上げたいと思います。

この本で、1人でも多くの人たちの「肩の力が抜ける」ことに貢献できたら幸いです。

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「ホワイトフラジリティ」を勝手に解説 内なる差別を認めなければ差別を解消できない。差別解消に最も邪魔なものは、過剰な正義感と自己防衛本能。 [進化心理学、生理学、対人関係学]



仕事上差別についての勉強を深める必要があり、ホワイトフラジリティ(明石書店)をはじめとして、差別というか社会心理学の本を三冊緊急購入しました。その最初の本がこれ。本書は、白人のアメリカ人の著者が、レイシズムはアメリカという社会制度に構造的に存在しており、その中で育った白人にはレイシズムの考え方は見についており、必ず存在するということを、ダイバーシティ研修などの実務的経験から述べています。
私は、レイシズムに関わらない差別についての学習という観点から、本書を読み解き、以下の点を学びました。
1 差別意識、差別的思考は、意識に上らない段階で社会制度の等の環境から生まれるものであり、誰にでもあるものである。
2 差別的行動を行わないためには、自分の差別意識、差別思考を自覚し、行動に移る前に修正するしかない。
3 そのため、内なる差別意識、差別思考を認める必要があるが、真面目な人ほど頑迷にこれを認めない。
4 内なる差別意識、差別思考を認めない理由は、二項対立的思考にもとづく過度の罪悪感、自己防衛意識である。

順に勝手に解説していきます。

1 差別意識は誰にでもある。―――人間の本能に根差すという意味

それが良いことか悪いことかという議論は少し脇に置いておきましょう。
差別意識は、緻密かつ分析的な思考の結果生まれるものではなく、反射的に感覚的な反応として生まれるということから説明を始めましょう。
社会心理学の教科書を読み直していたところで、「内集団バイアス」という概念が出てきました。人間は自分の仲間の利益を図ろうとして、そのためなら仲間以外の人間の不利益によって利益を図る傾向にあるということらしいです。また、同じ行動をとっても仲間に対しては好評価を行うという、つまりえこひいきをする傾向があるようです。その集団は、何かの必然性のある仲間ではなく、ある日ある時、誰かが勝手に配属した場合でも、自分が所属する仲間に対して起きてしまう感情、意識のようです。そして、自分の所属しない集団に対して敵対的な感情持つことも多いようです。

私は、これが、人間が持って生まれた本能的な意識傾向だと考えています。人間は、今から1万年以上前では、30人くらいの小集団を作り、小集団は全体で150人くらいの緩やかな集合体を作っていたようです。この状態が約200万年前から続いていたようです。言葉の無いころから集団を作ってきたことになります。どうやって集団を作れたのでしょうか。私は、仲間を作る感情を持っていたのだろうと考えています。逆に言うとそういう感情を持った人間たちだけが群れをつくる子ができて、子孫を作ることができたということです。どのような感情かというと、
仲間の中にいないと不安でたまらなくなる。
仲間から外されないようにしたくなる。
仲間に貢献したくなる。
仲間の中の弱い者を守りたくなる。
というような感情です。こういう感情があれば、お互いに自然に助け合って、協力して、生きていくことができると思われます。当時は生まれてから死ぬまで一つの仲間ですから、どんなに仲間と助け合っても、誰にも迷惑は掛からなかったでしょう。仲間の中では実質的平等原理が働いていたようです。当時の自然環境を考えると、これはきれいごとではなく、それで初めてギリギリ生きてこられたといういべきだろうと思われます。
ところが、現代社会では無数の人と関係を持ちますし、複数の群れに人間は所属します。家族、学校、会社、趣味の集まり、地域、国等々です。200万年前は、仲間以外の存在は、人間ではなく野獣などですからよかったのですが、現代は仲間以外にも人間がたくさんいるわけです。一つのグループをひいきすると他のグループから恨まれるということが簡単に起きてしまいます。
しかし、人間の脳は200万年前と大きさや構造がほとんど変わっていないとのことです。どうしても、自分の仲間をひいきしたくなってしまうようです。自分の仲間以外は、仲間と考える能力が弱く、他者に対する共感力、配慮も失われてしまうようです。そうして自分の仲間をひいきした結果、仲間以外の人間との軋轢が生まれてしまうわけです。結果的に差別が起きる第1の原因がここにあります。

第2の原因も脳にあります。
人間の意思決定は、何となく感覚的に決めてしまうということが、自覚しないのですが、多くあるようです。分析的に緻密に考えることもできるのですが、私たちがよく経験しているように大変疲れてしまいます。この労力を省エネするために、何となく決めてしまうのです。例えば、選挙に行くか行かないか、行くとしてだれに投票するか、あるいは対立している人間関係から遠ざかるか、巻き込まれるか、巻き込まれた場合どちらに味方するか。例えば就職や結婚相手に関しても、分析的に緻密に考えるというより、運命などという言葉を使って勢いに任せて決めてしまうということがあると思います。特に、言葉に弱いという特徴があるようです。例えば「DV」という言葉を聞けば、具体的事情も知らないのに奥さんに同情をしたりし始めています。「虐待」という言葉を聞けば、子どもを守るべく親を制裁しなければならないと感じ始めてしまいます。「いじめ」と聞けば、やはり加害者を制裁しようという意識が出てきたりします。具体的にどのような行為があったのか、それはどういう背景で起きたことなのか、誰にどのような責任があるか等ということはあまり考えません。報道の範囲での情報だけで、加害者と思われる人間やその家族などへのネット攻撃が始まります。
仲間と仲間以外を瞬時に、何となく決めてしまって、仲間に対しては優遇し、仲間以外に対しては不利益も仕方ないと思うし、攻撃的気持ちまで出てくる。仲間以外は敵だという感覚にいつの間にかなってしまう。
差別なんて簡単に生まれてしまいます。

だから、肌の色は目で見てわかることですから、うっかり、自分と同じ肌の色の人間は仲間だと決めてしまったり、違う色の人間は仲間ではないと感じてしまったりすることは、よくあることなのです。

本書ホワイトフラジリティでは、レイシズムを取り上げていますので、社会構造が白人の支配を前提に作られてきたため、この構造によって白人はレイシズムを生まれたときから染みつけられているという言い方をしています。

2 差別意識を認めることが差別解消の必要条件

それでは差別は無くならないのか。差別をなくするためには人間の集団を150人に制限しなくてはならないのか。そんなことを考える必要はありません。
最近のトレンドの考え方は、例えば行動経済学もそうなのですが、人間は失敗をするということを当たり前に認める、自覚するということを前提に、どういう場面でどういう失敗をするかということを予め知っていれば、その場面で必要な対処をあらかじめ想定できるので、そうやって誤りを未然に防ぐという方法が提案されています。
これを差別問題でもやればよいということになります。

そのためには、自分は差別をする人間であるということを認めなければなりません。どんな時にどういう差別をするかというレクチャーを受ければ、それほど分析的に緻密に考えなくても、差別という失敗を回避することができます。
しかしながら、自分が差別をしない人間だということで頑張ってしまうと、せっかく対処の方法があったとしても聞く耳すら持たないので、対処ができません。みすみす差別行為をしてしまい、相手を傷つけてしまう。殺伐とした社会にしてしまうということになってしまいます。
どういうことで差別的意識を認めないのでしょうか。

3 差別的意識を認めない理由としての二項対立的発想からの過度の罪悪感

内なるレイシズムを認めない人のタイプは、真面目な人、リベラルな人、道徳的な人、宗教的な人と言った人が多いようです。そしてこの世のすべての行動は善と悪で区別されているという二項対立的な価値観を持っていることが多いようです。このため、自分が差別的意識を持っているということを認めてしまうことは、自分が忌み嫌っているはずの差別主義者という悪の烙印を押されてしまうという強烈な不安というか拒否反応を起こすようです。
そこには、差別という意識は、悪の人格、不道徳な人格によって生まれる許されないことだという思い込みがあるようです。

これは日本においても同じようなことを見ます。差別に対する裁判で、差別をしたと主張された方は、それは差別ではないと差別を訴えた相手の主張を否定します。自分には悪意はない。それが相手を傷つけるとは知らなかった。業務の必要性という理由のある言動だ。例えば障害者差別の裁判では、私は「障害者」という言葉も使ったことがないと本当に言っているのです。このような主張を見ると、ああ、この人はまた同じことをするなと思ってしまいますし、このような主張してくる団体は信じられないなと思ってしまいます。差別行為を解消しようとする意思も、合理的配慮をしようとする意思も感じられません。明確に方向が間違っています。

それが差別か否かは、差別行動をした人の主観はあまり関係がありません。差別行動を受けた方の立場に立って考えられなければならないことです。

1つ解決のヒントがここにあるのではないかと考えています。それは、差別意識、差別的思考というその人の内面の部分と、差別的行動、言動という相手に伝わる部分を切り分けるということです。あくまでも伝わった相手の問題なので、このように切り分けることができるでしょう。どんなに差別主義者であったとしても、例えば取引上、取引規則に従って公平公正に取引を行い、相手に不利益を与えなければ、とりあえず相手は傷つかないし損もしません。ここが大切です。もちろん差別的感情は生まれないに越したことがありませんが、優先順位は相手に伝わる行動、言動に置くべきなのです。そして、行動、言動を修正していきながら、そこから逆に差別意識、差別的思考を修正していくということが最も合理的な方法だと思います。

4 差別意識を認めない理由としての自己防衛意識

真面目な人、リベラルな人、道徳的な人、宗教的な人が自分の差別意識を認めない理由として、自己防衛意識が強すぎるということを本書では指摘していて、差別をなくすためには自己防衛意識を弱めるということも一つの方法だということを提案しています。
結論はその通りだと思うのですが、解説が必要だと思います。
元々差別は、人間が群れをつくる本能があって、群れの中にいたい、群れから尊重されたいという意識が高まって、勢い、自分の仲間を優遇してしまう結果として自分の仲間ではないと感じた相手に不利益を与えたり、低評価をしたり、攻撃をするという側面があります。自分を守ろう、群れにとどまろうという意識が強い人は差別になじみやすくなります。こういう意識が強くなる時は、自分が群れから尊重されていない、仲間から低評価を受けている等の危機感がある場合が多いです。自分を守ろうという意識が強くなればなるほど、他者への配慮が欠けていくという関係になるようです。
これは自分の仲間全体が攻撃を受けるときも同じです。自分の仲間集団を守ろうとする意識が強すぎて、仲間を攻撃する人や仲間以外の人に、組織の論理で攻撃しようとしてしまいます。自ら敵を作っていくということになります。
自分の内なる差別意識を認めようとしない理由も、これを認めてしまったら仲間から低評価を受けてしまうという意識が反映しているのではないでしょうか。自分が仲間から認められるために、真面目でなければならない、リベラルでなければならない、道徳的、宗教的に敬虔でなくてはならないという意識が強まっているわけです。
このような状態のとき、人は色々な誤った行動を起こしてしまい、ますます人間関係を悪化させてしまうことが多くあります。考えてみれば、差別を理由に訴えられた人はこのような状態にあるのだから、ますます自分の差別行動を認めたくないことは当然かもしれません。

それにしても、自分を大切にしすぎないということは、私も家族問題で提案したことがありますが、なかなかその意味を伝えることは難しいし、賛同を得られにくいと感じました。本当は相手を差別しないことによって、人を傷つけないこと、それが自分を本当に大切にすることなのです。

自分を大切にしないという提案よりは、意識や何となくの思考は、反射的な反応だからあまり気にしないと割り切ることが実践的ではないでしょうか。要するに影が動いたことにおびえて後ずさりしたら自分の影だったみたいなもので、間違いが起きることは仕方がないという割り切りですね。そして先ほど言ったように、実践的な修正を積み重ねていったところに高潔な思考、感じ方が約束される・・・かもしれないということですね。まあ、こういう考え方自体が著者によるところの自分を大切にしすぎないということかもしれません。

補論 差別を受ける側の危険性

ホワイトフラジリティは、白人側の説明ですから、差別を受ける側の心理、その危険性については、また別の人が記載すればよいのですが、差別を行う人間の心理が、そのまま差別被害の心理、危険性を説明しているので補論を述べます。

差別をするのは、人間が、仲間の中にいたいという本能的な要求に根差していると言いました。仲間から外されることに不安を感じてしまい、何とか仲間に貢献することによって仲間にとどまりたいという感情を持ち、反応をしてしまうということを述べました。
差別というのは、仲間から外される、仲間から低評価を受けるという人間の不安を掻き立てられる最たるものです。そんな奴初めから仲間じゃないと思えればそれほどダメージはないのですが、人間は他の人間に無条件に仲間として認められたいと感じやすい動物のようです。なんといっても人間の脳は200万年前から発展していませんから、仲間でもないのに野獣以外の動物である人間を、うっかり仲間であると感じてしまう傾向があるのです。だから社会の中で差別行為を受ければ、自然と「仲間から外される」という危機感を強く持ってしまいます。そしてその原因が、自分ではどうしようもないこと、努力しても修正できないことであれば、絶望感を抱くこともあります。差別行為を受けることによって極めて危険な心理的影響を受けてしまいかねないということを述べておきたいと思います。また、差別は、自分の不安を解消するために相手により大きな不安を与えることだという構造を持っていることも付言したいと思います。

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【家族擁護主義宣言】 現代日本の社会病理の理由と人間を守る家族というシステム [進化心理学、生理学、対人関係学]


1 現代日本の社会病理
  <攻撃、不安、不寛容、緊張、一時しのぎ>
  現代日本を特徴づけている、いじめ、虐待、パワハラ、DV、子の連れ去り、ネットいじめ、セクハラ等各種の社会病理がなぜ起こるのかということの検討をします。まず結論です。
  理由の1つは、攻撃者が、攻撃とは関係のない不安を抱えているということ、そしてその不安を一時的にも感じなくするために誰かを怒りをもって攻撃するということです。
  理由の2つは、攻撃者は反撃を受ける心配が少ないという事情があるということです。その事情としては、攻撃者が自分が誰であるかを明かさない攻撃手段を持っていることや、被害者に反撃をすることができにくい事情があること、あるいは、「世間的に」被害者が攻撃を受けても仕方が無いという評価を受けていることです。

2 怒り攻撃と不安
  怒りをもって攻撃をすると不安を感じにくくなるメカニズムは実に簡単です。
  人間は同時に違った感情を持つことができないということです。一方で不安を感じていながら、同時に怒りを持つということは苦手です。一度に一つの感情を持つしかできないのです。
  だから、進学の不安、リストラの不安、収入の不安が慢性的にあったとしても、誰かを攻撃しているときは、この不安が一時的に感じにくくなるわけです。不安が慢性的に持続すれば持続するほど、何とか不安から解放されたいという要求も強くなります。誰かを攻撃することで、一時的にも不安を感じにくくなることは、一時の清涼剤になります。これを覚えてしまうと、麻薬のように、一時の解放を求めたくなり、誰かを攻撃したくなるという心理的変化が起きるようです。

3 怒りは弱い者に向かう
  例えば、会社で上司からパワハラを受けても、上司に対して怒りをもって攻撃するということは現実には難しいです。パワハラを受けて感じる不安には、このままいけば解雇されるのではないかという不安が伴っているわけですから、上司を攻撃すれば解雇されるだろうということは単純に考えてもわかりますので実際にはできません。この不安解消のための怒りは、自分の部下、家族、劣位の取引相手、サービス業の従業員、社会的な少数者、孤立者等に向かうのはこういう仕組みです。もっとも、何らかの怒る事情はあります。しかし、不安が無ければ、何も感じないような相手の些細なミスや不十分な能力等口実を作って怒りを爆発させます。ただ、弱い者に怒りが向かうということには例外があって、仲間を守るために怒る場合は、相手に勝てるか否かという基準は無くなります。不安が慢性的に持続すると、怒る口実と怒る相手を探しているような感じになるわけです。

4 つまり自分が反撃されない状態を作り安心して攻撃する
  弱い相手に八つ当たりをする理由は、自分が反撃されて痛まないためです。そうすると、先に述べた人間感情の優位を利用する場合があるのはわかりやすいと思います。また、攻撃はするけれども、自分が誰かを明かさない形で攻撃すれば反撃を受けにくいということになります。ネット炎上は匿名性を武器にして行われているわけです。
  また、相手を孤立させて攻撃するという方法がとられます。いじめという行動はこの典型的な場面でしょう。多数対少数であれば、反撃を受ける心配はありません。差別も突き詰めればこの仕組みだと考えています。

5 社会が「弱者」を作り出す 怒りの口実
  怒りを向ける口実というのはどうしても必要なようです。人間は口実がなければ怒りを感じることができないようです。家族や部下などは些細な口実で怒りを向けます。例えば、何らかのミスをしたとか、些細な道徳違反、例えば仕事中にスマホが鳴ったこととか、勉強をしないで眠ってしまったとか、忘れ物をしたとか一応の口実はあるようです。これも、八つ当たりをする人間だけでなく、社会全体が厳しくなればなるほど、怒りの対象の口実にもなりますし、怒りの程度も大きくすることができるようになります。例えば、昔ならば、勤務中のちょっとした息抜きで前日の野球の結果等を言い合ったりすることがそれほど不道徳とは思われていませんでしたが、最近は勤務中の私語は禁止されるようになっていますから、スマートフォンを私用で見るなんてことは、着信履歴だけでも怒りを向ける口実になるようです。
  これに対してネット炎上等の場合は、見ず知らずの相手ですから、本来何もその人が攻撃する理由はないはずです。しかし、例えば不倫、例えばDV、虐待、いじめなど、その言葉に対して過敏に反応して攻撃の材料、怒りの口実となるようです。特徴的なことは、実際に何があったかわからないということです。何があったかわからないけれど、DVがあったという以上は、過激な攻撃があったと決めつけ、子どもが泣き叫んでいたら虐待と決めつけて、正義の鉄槌を下すわけです。「DV」「虐待」「いじめ」という言葉が出てしまうと、正義を口実に、何があったかわからないにもかかわらず、攻撃してよいのだという意識をもつようです。この場合、正義は口実に過ぎないと思います。正義は、人間を、敵と決めつけても良いのだないし攻撃をしてもよいのだと思わせる闘いのための口実として機能しているのです。
  多数を形成して相手を孤立させる場合も、この正義がしばしば使われることを目撃しています。部活をさぼる生徒は攻撃しても良い、受験をしないから勉強をしない子どもは攻撃しても良い、1人だけ財産があるとか、才能があるとか、美貌があるとかいう子は他人を馬鹿にしているはずだから攻撃しても良いなどのいじめの口実が、正義と結びついて怒りの口実を正当化していることを目にすることがありました。
  国籍差別では差別者は少数者ですが、差別者のコミュニティーでは多数派になります。攻撃や怒りが相乗効果で生まれますし、何らかの「正義」が導入され、ヘイトスピーチが生まれているのではないでしょうか。

6 執拗に繰り返される怒りの行動の構造
  怒りは、怒っているときだ、他者を攻撃しているときだけ不安を感じにくくするだけなので、怒りが収まったり、行動が収まったり、一時的な多数派が解散したときは、また不安がぶり返してくるわけです。不安の根源が無くならない限りは不安は消えません。
  不安を感じにくくしたいという要求もまた、その都度生まれます。一時的に不安から解放された快感は記憶に残ります。そして正義の口実も記憶に残ります。自分の怒りの行動を反省する契機はあまり存在しないという事情もあります。不安を感じなくするために何度も怒りの行動に逃げていく傾向にある理由はわかりやすいと思います。いじめも差別もパワハラ、虐待も執拗に繰り返されることになるでしょう。怒り依存とでもいうような状態かもしれません。

7 不安とは何か
  それでは元々あった不安とは何でしょう。
  これは、人それぞれ不安の原因は違うのではないかと仮説を立てることは容易です。職場の問題、学校の問題、家族の問題、その他の人間関係の問題、あるいは健康面での問題もありますし、不安を生み出す病気にかかっていたり、薬の副作用で不安がうまれたりすることもあるでしょう。
しかし、これだけ他者への攻撃行動、怒りの感情が社会にありふれているということは、人の個性を超えた何らかの共通する要因があるのではないかと考えるべきではないかと思うのです。社会に存在する不安を起こさせる共通の原因があるのではないかと考えるのです。
  不安を感じるとは、自分に対する危険が迫っていることの心理状態であり、生理的変化も起きています。この危険の典型は身体生命の危険です。しかし、身体生命の危険が、最近著しく増加したと考えることは難しいのではないでしょうか。今回は他に探してみます。不安症という精神疾患も考えるべきですが、これは理由なく増大したというよりも、社会的要因が先行して不安症にかかりやすくなっているという関係にあると仮定して、これも検討から外します。そうすると、不安とは、自分が属している人間関係から排除されるのではないかという対人関係的な不安が増大したのではないかと仮定してみます。自分が属している人間関係とは、社会、職場、学校、家族。趣味のサークル、ママ友等々のなどの人間関係を念頭に置いています。ここから排除されるのではないかという予期不安を排除の予期不安とこれから省略して述べていきます。現代日本の他者に対する攻撃、怒りの感情が増大したのは、このような排除の予期不安を感じやすい社会の在り方に原因があるのではないかという考えです。<対人関係的不安仮説>

8 排除の予期不安の由来
  排除の予期不安というシステムも、人が生きていくために進化の過程で獲得したシステムだと私は考えています。
人間は、文明成立以前は特に、群れを形成しなければ自分を守ることも食料を獲得することもできず、絶滅するようなひ弱な生き物でした。生き延びるためには群れをつくらなければならない。しかし、文明成立以前に言葉もない時代ですから、現代のような法律や道徳を作ることはできなかったでしょう。しかし、排除の予期不安を感じるという遺伝子上の仕組みがあれば、言葉が無くても群れをつくることは可能だったと思います。
自分が排除されそうになったときに不安を感じれば、不安を回避しようとする行動を起こすことができます。何とか群れにとどまるように仲間に行動で示すことができたわけです。自分だけが食料を確保して仲間に平等に渡さなければ、仲間から白い目で見られたり、攻撃を受けたりするわけです。そうすると、今この食べ物を食べられなくなるという不安と、仲間から排除されるかもしれないという不安と両方を天秤にかけるわけです。これは無意識に行われたのでしょう。どちらかというと排除の不安の方が、より行動原理となったとすれば、自分の本来の分け前を残して、あとは仲間に提供するという行動ができるわけです。排除の予期不安を感じるためには、他者の心理の洞察や将来的因果関係等をある程度理解しなければならないことになるのではないでしょうか。
実際は、自分だけ多くの食料を獲得した後に行動を修正するというよりも、自分だけズルいことをして食料を確保してしまうと、排除されることになるので、予めそれをしないという形で機能していた方が多いのだろうと想像しています。

9 排除の予期不安が起きるとき
排除の予期不安とは、このように将来の排除を予感させることで不安が生じるということです。実際に排除されたら仕方が無いと開き直ることもできるし、そうするしかありません。おそらく、不安が強まるのは、現実に排除を言い渡されるよりも、排除を言い渡されるような事情に直面したときだろうと思われます。
このような将来の排除を予感させる事情としては、仲間でいる資格が無いと仲間から低評価を受けることです。低評価がなされるきっかけとしては、自分の失敗、自分は特定の能力上の弱点、何らかの不十分な行動があったことが考えられます。「失敗して仲間に申し訳がない。」、「仲間の役に立たない自分が辛い。」という自分の行動に対して仲間の低評価を予想してしまう場合と、自分の失敗などのあるなしにかかわらず、仲間の自分に向けた感情、攻撃など仲間の自分に対する反応から低評価を受けていると感じる場合と二通りあると思います。
こうやって人間は、身体生命上の危険が無くても、自分が失敗することを恐れ、能力の向上に努め、十分な行動をしようと心がけますし、仲間を無駄に攻撃して怒らせないようにしたり、仲間の役に立とうと頑張ったりするわけです。すべては仲間としての低評価を受けないための行動原理だとまとめることができるのではないでしょうか。もっともそれはあまりにもプラグマティックな表現です。観点と表現を変えると、仲間に寛容になったり、仲間の役に立ったりすることに喜びを感じていたと表現することもできると思います。

10 不寛容の常態化と低評価の横行
人間は、仲間からの低評価によって不安を抱きやすいという特質があるにもかかわらず、現代社会の様々な人間関係において、低評価が横行しているように思われます。まず、個人の失敗、弱点、不十分点に対しては極めて不寛容です。人の個性を否定して、会社は画一的に確実な業務の遂行を望みますし、学校や家庭は学業の到達に大きな価値を子どもたちに押し付けてきます。ちょっとした失敗でも致命的なものとなり、一生涯影響を受け続けるということが多いような気がします。ちょっとした失敗で、進学をあきらめざるを得なくなったり、安定した生活を送れる企業に入れなかったりするわけです。安定した企業に入るためには、ちょっとの失敗も許されないという言い方も可能でしょう。企業に入っても、毎年一度ないし数度、人事評価の対象となり、そこで最低ランクを続けるとやがて企業から排除される危険が高まります。しかも一定割合の人間が確実に評価される仕組みになっていれば、自分の評価が最低ランクとされるのを免れるために、自分より劣るものが劣っているというアッピールをする必要もあるでしょう。安心して仕事をすることができず、評価されやすい行動ばかりを行うことも自然なのかもしれません。毎日が闘いともなれば、自分も敗れるリスクがあります。自分を評価する上司の言動は特別な意味を持つことになり、過剰に反応していくことになるでしょう。こういうぎりぎりの精神状態を押し付けられてしまうと、人間は確かなものにすがりたくなるようです。合理性の追求、正義の厳守等ルール化が厳格に守られることによって自分を守ろうとするわけです。
そして、このような社会に子どもたちを対応させるために、子どもの時間のほとんどを勉強や、推奨される遊びに費やさそうとするわけです。子どものわがままを聞いていたら子どもが脱落してしまうと思えば、子どもに対して寛容な態度はなかなかできなくなるでしょう。また、不合理なことや些細な正義違反に対しても、過敏になっていますから、不寛容になるのだと思います。
これらの事情が現代社会の特徴を形成しているのではないかと思います。多少の失敗、多少の弱点、多少の不十分点は人間である以上必ずあるものです。また、人間が画一的な能力、性格を持たず、様々な人間がいたために、社会は守られてきたと私は考えています。ところが現代社会の人間関係は人間である以上当然にあるところの、失敗、弱点、不十分点を見逃さず、それらを厳しく指摘して低評価を行い、不利益を課し、利益を奪おうとしているように感じます。だから、多くの人が、その仲間、自分が所属したい人間関係から自己に対する低評価を理由として追放される危険を現実のものとして認識し続けることが蔓延しているわけです。そうすると、ほとんどの人間が慢性的に何らかの排除の予期不安を慢性的に抱えていることになるのではないでしょうか。仲間の役に立ちたいという人間の本能は前面に出てこずに、低評価を避けたいということが最優先の行動原理になるということなのだと思います。
こうやってつくられた慢性的不安、排除の予期不安は、社会構造がそのようにつくられていますから、合理的な解決方法がなかなか見つかりません。逃げ場を失った不安は、自分より弱い者を探し、怒りの口実を探し、怒りの方法を探し続けることになります。攻撃は頻繁に繰り返され、攻撃の程度は強くなる傾向にあり、陰湿になっていくわけです。
これが、先に上げた社会病理が蔓延している根本的な原因だと思います。

第2部 現代の社会病理発生の根本理由
  <人間の能力と社会という環境のミスマッチ>
11 能力と環境のミスマッチ
昭和、平成、令和と3時代の労働現場、学校現場などを見ていると、その変化は不寛容と他者に対する低評価が増大したのではないかという感想を持つわけです。本来もう少し社会分析をするべきところですが、私はもう少し原理的観点から、「人間の脳と人間関係という環境のミスマッチ」という視点でアプローチをしてみます。このミスマッチが現代日本で増幅されるようになったという事情があれば、社会的分析にも貢献するはずです。
  人間の能力と人間関係という環境のミスマッチとは、人間の脳は、現代の社会環境に適合してはいないということです。人間の脳が形成された時の社会環境には適合していたが、その後の社会の変化によって現代社会に適合しなくなってしまったということです。

12 人間の脳が適応していたころの社会
  人の脳が形成されたのは、人類がチンパンジーの祖先と別れた約700万年前から始まり、人間が分化しきった200万年前ころだとされています。頭蓋骨から推測できる脳の容量に変化がないため、その後はほとんど脳は進化していないだろうとされています。人間の脳は、その200万年前から文明が成立する以前の社会環境に脳は適合していたことになります。その時代は、狩猟採取時代といい、今からおよそ1万年前まで続いていたとされています。つまり農業が営まれるようになるまでということです。現在まで人類が生き残った理由は、脳が200万年前頃から1万年前ころまでの人間の住んできた環境に適合してきたからだということになります。
ところで、その狩猟採取時代の環境とはどういうものかということですが、人間は狩猟採集を基本として生活し、約30人の小さな群れをつくり、その群れが数個集まって大きな群れをつくり、その対人関係がほぼすべてという生活をしていたらしいです。大きな群れと言ってもせいぜい200人弱、150名程度ではないかということが、霊長類の大脳皮質の研究から算出されています。生まれてから死ぬまで、原則としてその高々200人の群れだけで生活していたということになります。
  狩猟採集時代の人の群れは、頭数(あたまかず)が減ってしまうと途端に弱くなります。食料を獲得する場面では、多人数で小動物を取り囲んでどこまでも追い詰めていくという狩りの方法をとっていたため、頭数が減ってしまうと獲物の獲得可能性が低下してしまうという不具合があったようです。また、肉食獣などの外敵からの攻撃に対しては、反撃する頭数と仲間を守る勇気だけで対抗していたわけですから(袋叩き反撃仮説)、群れの頭数が減ってしまうと途端に弱くなります。一定程度以下の人数になってしまうと、その群れは食糧もなかなか取れないし、外敵に襲われるとほぼ確実に一定数死んでしまうわけですから、頭数が減少していって消滅していくしかなかったのです。
頭数を減らさないための最も効率よい考え方は、自分が群れにとどまろうとするということと、「群れの中の弱い者を守る」という行動パターンです。今でも、サークル勧誘などで見られるむやみやたらに仲間を大きくしようとする行動や、小さくて弱い者は「かわいい」と感じて、守りたくなる意識を持ってしまうことはどなたも経験があると思います。いまだにその遺伝子は継承されているのだと思います。
  また、生まれてから死ぬまで、仲間は顔見知りという環境でした。仲間という意識が生まれ、1人の仲間をすべての仲間で守ろうとしていたシステムを作動させるツールになったのが、個体識別により仲間だと認識する能力と中に対して「共感」するという能力です。いつも一緒にいる仲間ですから表情から仲間の感情がはっきりわかります。仲間が悲しい表情をすると自分も悲しくなり、何とか明るい気持ちにさせたいと自然に思ったでしょう。失敗や能力の未発達は、その仲間の個性であると自然と受け止めますから、失敗や能力を理由として叱責するという発想すらなかったでしょう。すべてにおいて寛容であり、すべてを受容していたはずです。そうではないと群れが維持できず、人間が滅びているはずだからです。誰かを排除するということは、おそらくめったにはなかったものと思われます。排除しようという発想すること自体がなかったのではないでしょうか。仲間は生まれてから死ぬまで一緒に生活するものということが自然の意識だったと思います。現代社会の我々からすると、200万年前の仲間の中では他人と自分の区別がそれほど明確ではなかったと考えるべきかもしれません。
  文明の無い時代ですから、1人でいると人間は恐怖を感じたでしょう。少人数の場合でも危険を意識せざるを得なかったと思います。群れは狩猟組と子育てや食物採取をする留守番組と二手に分かれて行動したとされています(狩猟採集時代)。狩猟組が外敵等の危険と闘っている時は獲物をとるため必然的に外敵の危険が高まっています。また狩猟組が留守で採取組が留守番をしているときも、守り手が少なくなるわけですから外敵から襲われるという身体生命の危険が発生するわけです。みんな命がけで生きていたのだと思います。だから、狩猟組が帰還して留守番組と合流すると、群れは密集して互いに守り合う形となるわけですから、安全度が格段に高くなります。群れに帰るということで、みんな無条件に安心を感じていたと思います。

13 人間の脳から見た現代社会
  では、これほどまで共感に満ちて、寛容と受容があふれている人間の脳がありながら、現代社会では紛争や緊張が起こるのはなぜでしょうか。それは、現代社会は、人間の脳の能力を超えた人間関係を余儀なくされているからだというのが私の主張です。人間の能力と環境のミスマッチ
  人間の脳がいま述べたような機能を十分に発揮するための条件は、
・仲間が少人数であること(せいぜい150人くらいと言われている)、
・生まれてから死ぬまで常に一緒にいること、
・利害対立がない運命共同体であること。
数百万年かけて人間の脳はこのように形成され、完成してから200万年それほど進化をしてきませんでした。このような狩猟採集生活をやめて農耕が主となったのは今からせいぜい1万年位前のことです。生物の進化のスピードからすればつい最近のことで、真価が追いつく十分な時間がなかったということなのでしょう。人間の脳は、200万年前の環境には合理的に働くけれど、今の社会ではむしろ苦しみや不安が生まれる原因になるということをもっと意識するべきだと思います。
  現代社会は狩猟採取時代の200万年間とは、人間関係の状態に着目すると、全く異なっていることがわかります。
先ず、複数の人間関係に同時に帰属します。家庭、学校、職場、大きな意味で社会、国家、その他地域や趣味やボランティアの人間関係など様々です。今現在いる人間関係、例えば職場にいても、他の人間関係、例えば家族の思惑が入り込み、職場の人間関係だけを尊重するということは難しいです。<群れの数>
  次に、圧倒的に多い人間と何らかの関係を形成しています。職場の同僚、学校の同級生、家族、家から通勤通学中にも、莫大な数の人間たちと、触れ合うほど、満員で車では体がゆがむほど近くにいるし、何かを買う時は店員と関わったりします。車を運転すれば、誰からが交通ルールを守らないと大変危険な状態になるほど、見ず知らずの人と運命共同体にならなければなりません。これでは、人間の能力では、すべての人が仲間だとは思わないし、共感や共鳴をしていたらきりがないということになるわけです。つまり他者に対する共感や共鳴が希薄になるという性質があるということです。<人間の数>
  また、それぞれの群れは、ある程度長期に継続して人間関係が継続するとしても、構成員は入れ替わりが効くようになっています。退職、退学、脱退があり、家族ですら、排斥される可能性があるわけです。なかなか一生涯メンバーが変わらないという群れはありません。<代替可能な群れ>
  まとめると、人間の脳の能力を超えた群れの数、関わる人数が膨大過ぎて、人間が一人一人の人間に対して、共感することができず、相手の苦しみを目の当たりにしても寛容になれず、自分を煩わすものを受容することができなくなっているということになります。排除の予期不安は様々な群れすべてで起きやすくなっているわけです。
  その結果、自分が所属する人間関係から自分が共感されず、寛容をもって受容されないということが起こりやすいのです。そのため自分を守るという意識が敏感になり、自分を守る、自分の不安を解消するという目的で、他者を攻撃することが「できてしまう」ということなのだと思います。他方、攻撃される被害者は、必ずしも攻撃者が仲間として生き指定ないし、共感も十分行われないという特徴があります。攻撃の手を緩めてもらえない事情がここにあるわけです。相手に対する気遣いが無くなり、正義感情にもとづく攻撃が簡単に正当化される仕組みがここにあるわけです。
  攻撃は、自分より弱い者、反撃を受ける危険が少ない者に向かう性質があります。不安を強く感じやすく防衛意識が強いものが、防衛意識と能力の低い者を攻撃するという連鎖が起きるわけです。これが現代社会病理のメカニズムないし原動力なのだと思うわけです。

14 期待される家族の役割
  <寛容、受容>
  複数の群れの中のどの群れに対しても、人間は排除の予期不安を感じます。複数の群れ、しかも代替可能な群れに所属するということに馴れていないのです。買い物をしている一回限りの関係でも、失礼な態度に過敏になってしまいます。あたかも、200万年前の群れの仲間から攻撃されているようなダメージを受けることがあります。
このダメージを受けにくくする方法、受けたダメージから回復する方法としては、理屈の上では以下のとおりになります。
・ ダメージを受けた群れは、自分の唯一絶対の群れではなく、ダメージを受ける必要がないと思考をすること、いざとなったら群れから離脱すればよいということ。これによって、特定の人間関係の対人関係的不安を感じにくくする。
・ 自分の基本となる人間関係(アンカーとなる人間関係)との結びつきを意識的に強めることによって、他の人間関係でのダメージを感じにくくする。アンカーとなる人間関係の帰属意識が強くすることによって、安心を感じ、他の人間関係の排除の予期不安を感じにくくする。
  こういうことを考えています。
そのアンカーとなる人間関係は、家族であろうと思われます。少なくとも子どもにとっては家族しかありません。
家族の住む家は、通常は眠るために帰ってくるところです。帰る場所が癒される場所であることによって、翌日良い意味での緊張感を持った活動がよりよく期待できます。家族がアンカーとなることは合理的です。
  そして、職場や学校、あるいは隣近所の不具合があったとしても、家族が機能を果たしているならば、いざとなったら退職し、退学し、引っ越しをするということもできるという選択肢を持つことができます。不具合のある人間関係をこちらから中断すればよいと考えることができることは、予期不安の解消にも有効だと思います。
  家族は、生まれてから一緒に過ごしている人間関係なので、相手の感情もわかりやすく、情も抱きやすい関係と言えるでしょう。家族のために収入を得る活動をして、家族のために頑張るということは自然な感情ということになるでしょう。
  人間関係の中で代替可能性が一番低いのも家族なのではないでしょうか。
  この反対に必ず帰る人間関係である家族に不具合があることは、深刻です。家に帰れば、今の辛い状況から解放されるという希望を持つこともできません。逃げ場のない不安になってしまいます。

15 アンカーとしての家族に必要なこと
  では家族には何が必要でしょうか。どうすればアンカーとして機能するのでしょうか。それは、共感と寛容だと思います。これは実は簡単なことではなく、どういう方向に意識するかという教科書などもない状態です。
これは、不安がどこから来るかを考えれば自然にはっきりしてきます。現代日本の不安が、排除の予期不安であり、排除の予期不安の原因が自分のマイナスポイントに対して寛容に扱われず自分の個性が受容されない、他の人間関係では自分が共感を受けられず仲間として扱われないというところにあるわけです。そして排除の予期不安が生まれるということから始まるとすれば、その逆を行うことが家族の役割ということになると思います。
根本的に、家族の誰かが失敗しても、特定の能力が低くても、不十分なところがあっても、かけがえのない家族の個性として共感し、寛容の態度を示し、受容することによって、排除の予期不安を与えないということになると思います。突き詰めて言えば、家族から絶対に見捨てられることが無いという安心感を与えるということだと思います。観点と表現を変えて言えば、不安を感じないこと、仲間が自分を受容することが、人間にとって幸せを感じる環境なのではないかと考えています。それが200万年前の人間の環境だったわけです。
  こうやって家族から受容されることによって、人間は家族に対しての帰属意識が生まれます。他の人間関係で不具合があっても、家族のために頑張ろうという気持ちが生まれたり、家族にとって退職することの方が良いかもしれないという選択肢も生まれたりします。家族以外の人間関係で不具合を起こしても、その人間関係は自分にとってそれほど重要な人間関係ではないという意識が持つように誘導して、不具合によって受けるダメージを軽減する方法につなげることができます(対人関係療法等)。
  こうやって、私は、依頼者の方々と共に、いじめやパワハラ、虐待を解決しようと家族に働きかけてきましたし、一定の成果は上がっていると思います。
  社会病理にあふれる現代社会においては、家族が有効に機能を果たしていることは大変重要なことだと言えると思います。

16 家族が機能不全になる理由
  <孤立家族、病理にさらされる家族、家族が安心できる仲間ではない>
  現代日本における家族は、必ずしもみんながみんな、このような機能を果たせているわけではなさそうです。それにはいくつかの要因があります。
  一つは、家族以外の人間関係の状態が家族に悪い影響を与える場合です。これまで述べたことから理解されると思いますが、大人が職場やその他の対人関係で、排除の予期不安を感じている場合に、家族を攻撃しようとしてしまうことです。例えば、職場で上司に理不尽な低評価をされていて、嫌みを言われ続けていると排除の予期不安を感じます。同時に他者であるその上司を通じて自分を評価してしまい、自分に対する自信も失うことがあります。そのような不安が慢性的に続くと、常に自分を守る意識が強くなってしまい、家族の些細な言葉、子どもの意味のない言葉でも、自分が馬鹿にされていると感じられてしまい、不安が怒りになり、強い言動をしてしまうということがあるようです。
  これは、現在の人間関係だけでなく、これまで人間関係、場合によっては育った環境によっても、自分を過度に守る思考パターンになっていて、些細な刺激に過敏に反応するということが起こることもありそうです。巡り巡ると安心できない人間関係の中で、自分を取り巻く家族も苦しんでいたことの結果なのかもしれません。
  また、顔の見える人間関係だけでなく、社会という漠然な人間関係でも、自分が評価されていないという不安感があると家族への影響が生じる場合もあるようです。
  このパターンは、現代社会の特徴による被害が家族に及んでいると言える典型的な場面でしょう。
  二つ目は、体の問題が、家族に対する態度に影響を与える場合です。他の人間関係の不具合のようなはっきりした原因の無いにもかかわらず不安が抑えきれない時があります。元々原因が無くても不安を感じやすい性質だったり、病気の症状として不安が出現している場合や薬の副作用などの要因がある場合です。
  このパターンも深刻な人間関係の破綻を招くことがあります。このパターンは不安を感じている本人に主として原因があるのですが、それは本人も家族も周囲も気が付くことができません。本人が家族の誰かに不安を感じている以上、その家族が本人にDV等の攻撃をしていると思われることが多いです。相手は理由もなく攻撃をされていると思いますから、反撃をしてしまうわけです。どんどん家族の間に入った亀裂が大きくなってゆきます。
  このような事情は、薬の副作用以外は古来からあるようで、現代的な特徴ではないようにも思えます。しかし、古来は、家族は、地域や親せきに囲まれていて、不条理な不安という知識も受け継がれていたし、家族を維持する方向で周囲も支援をしていたという事情がありました。現代では、家族は孤立しています。また周囲は、不安を感じている人に支援をし、本人の主張をただ受け容れるという単純な支援をすることが多く、昔の人のように本人に言って聞かせるということはしませんから、家族は分断される方向に向かうばかりです。このような「家族の孤立」が現代的特徴なのだと思います。
  三つ目は、二つ目と関連しますが、家族を壊すアドバイスが横行しているという現代的特徴があります。家族の一人が不安を感じていて、その理由として家族の誰かの行為をあげたとします。それが、不適当な行為か否かは本来その相手の人の話も聞かなければ真実は分からないわけです。しかし、一方の不安に寄り添い、その不安を疑ってはいけないという思い込みがあり、訳も分からないのに他方の家族に対する攻撃を増長してしまう。こういう現象が全国に蔓延しています。人権は個人が個人として尊重されるべきだということは正しいと思います。それがゆがんだ形で扱われていると思います。
  本来、病気の症状として不安が起きている場合は、その病気を治療することが優先されなければなりません。しかし、本人の感覚を無条件に受け入れて、家族攻撃を行うわけです。本人は、自分の勘違いではなく、アドバイスをする立場の人が攻撃、怒りに同調しているのだから、自分の勘違いではないと考えてしまいます。その結果、自分は家族から低評価をされているという考えを再構成し、強化してしまいます。感じなくても良い排除の予期不安を感じさせられているということになると思います。
  このように、周囲がわかったふりをして本人の不安に「寄り添って」、不安を慢性化させていることも現代社会の特徴でしょう。本人に対して自分の意見を言って本人に改善を提案するのではなく、稚拙なマニュアルに従って本人の不安を助長する結果を生ぜしめて、人助けをしたような高揚感を得ているというのも現代社会の特徴のような気がします。
  四つ目は、家族が孤立していることです。忙しい家族が孤立していれば、家族の異変に気が付いて、立ち止まって対策を講じるというところまで行きません。また、家族の異変に気が付いても、少ない人数の場合は解決方法を見つける可能性も低くなります。間違った方法で行動をして逆効果となったり、何もできないで事態を悪化させるということもそもそも人数が少ない上に孤立していることが原因であることが多いと思います。過去の人間の対処方法であるおばあちゃんの知恵袋なども使うことができずに、時代にうずもれてしまうというもったいないことが起きているのだと思います。家族の外に緩やかな仲間を形成しにくいということも現代日本の特徴だと思われます。

17 家族の機能不全に対抗し、人間を守り、社会を変えてゆく 自然と湧きあがらない理性という人間にしかないツールの活用
  世の中にはひどい誤解が蔓延していて、ようやく21世紀になってそれが誤解であるということが浸透してきました。それは、人間は理性によってものを考えて行動をするという誤解です。
  もちろん人間は、理性を持っています。しかし、理性を使うということはなかなか行いません。理性を使うことは大変なエネルギーを使いますので、無意識に理性を使うことを回避しようとします。その代わり、本能的な意思決定をして、思考エネルギーを節約しようとしています。この考え方を「ヒューリスティック」といいます。例えば、いつも一緒にいる人が言っているのだから賛成しておこうとか、外見の良い有名人は自分にも親切ではないかとか、自分の意見によく反対している人が言っているから、自分はその人の意見に賛成しないとか、反射的に判断をしてしまうわけです。これは多くの場合は、思考エネルギーを節約するうえに、結論としてもそれほど不具合は起こりません。
  だから、日常生活において、立ち止まって考える習慣がどんどんなくなっていくわけです。子どもが学校に行きたくないと言えば、何となく怠けているのだろうから絶対に行かなければならないと言ってしまいますし、夫が尊敬できる上司からひどく叱責されたと言えば夫が何か失敗をしたのだろうと考えてしまうのかもしれません。専業主婦の妻が片付けをしなければ、自分だけ外に出て辛い目にあって給料を得ているのに何サボっているのだとなると思います。ヒューリスティックの意思決定に任せていたのでは、とても家族に寛容になることも、失敗を許すこともできないでしょう。
  不安を持っている人たちは、どんどん家族の中で孤立していきます。家族の失敗、能力不足、行動の不十分点に寛容を示し、受容するためには、どうやらヒューリスティックの思考を排除して、理性を使う必要性がありそうなのです。
  理性を使うためには、自分は家族に貢献できていない、もっと家族に貢献しなければならない、家族から見捨てられるのではないかという自分の責任感、生真面目さも克服していくことが必要なのかもしれません。ここがもしかしたら一番難しいことなのかもしれません。

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なぜ、子どもが餓死するまで母親は他者の言いなりになったのか 一つの可能性としての「迎合の心理」 [進化心理学、生理学、対人関係学]


1 報道

母親と同居していた5歳の子どもが餓死する事件が起きました。
報道によると
母親は知人女性の言うなりに行動して
我が子に対して食事を与えず
言うなりに離婚もしたとのことです。
生活保護費も巻き上げられていたようです。

5歳の子の容体が悪くなっても病院には行かず
知人女性に相談しただけとのことでした。

真実はこれから解明されるでしょう。
ただ、あまりに、先入観をもって事件を割り切る可能性があることに
懸念があるのです。

その懸念とは、
知人女性が背後に暴力団関係者がいることを語り
母親を怖がらせて言うことをきかせていた
このために怖くて言いなりになっていた
という論調があるため、
これで説明を終わらせてしまうのではないかということです。

そういう言動もあったのでしょうが
特に母親側の要因についても分析しないと
再発は防止できないのではないと思うのです。

2 迎合の心理とは

母親側の要因として考えておかなければならないのが
「迎合の心理」です。
この心理は人間一般に多かれ少なかれあります。
しかし、その迎合の程度は人によって千差万別です。
中には、迎合を拒否する傾向の人間も確かに一定数存在します。

迎合の心理とは、
人間には、現在の人間関係に協調して
その人間関係にとどまろうとする本能があり、
その人間関係、人間集団の中の
権威を有する人間に迎合しようとする傾向が
無意識の中に存在することをさします。

オリジナルは、
スタンリー・ミルグラムの「服従の心理」です。
詳細は別の所で書きましたが、
Stanley Milgramの服従実験(アイヒマン実験)を再評価する 人は群れの論理に対して迎合する行動傾向がある
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2019-01-05

服従という言葉は、自由意思を奪われて従う
というニュアンスなのですが、
実際は
自ら権威の意思に沿うように行動しようという意欲をもって行動するので、
「服従」ではなく「迎合」という表現の方が正確だ
というのが私の立場です。

3 なぜ人間は集団の中の権威に迎合するか

人間だけではなく群れをつくる哺乳類にある程度見られる習性です。
多数の個体が集合しているだけでは集団とは言えません。
集団の秩序が形成されて初めて集団という有機体になり、
集団行動ができるわけです。
集団行動ができるから生き残るのに有利になるわけです。

人間には、
個体で単独でいると不安になり、集団に帰属して不安を解消したい
という本能があります。
そして、集団に帰属して、集団の秩序の形成に参加したいと感じ
自分がその秩序形成に役に立っていると安心し、
秩序形成を自分が害していることを自覚すると不安になります。

そういう性質をホモサピエンスが持っていたため
大きな群れをつくることができて
そのため、余裕ができるようになり
様々な発明が可能となり
現代に生き残っている
と考えています。

根本には不安解消というモチベーションがあるわけです。

人間はこの観点から大きく二つに分けることができるようです。
無条件に権威に迎合する人と
無条件に権威に反発する人
ということになりそうです。

これもうまくできていて
必ずそれぞれのパターンの人が併存しているのです。

どうして併存することが有利かというと
例えば偶然能力のない者が権威になってしまうと
みんなおバカな方針に乗ってしまい
あっという間に飢えてしまったり、
肉食獣のえさになってしまいますから
とっくに滅びているわけです。

逆に反発する人ばかりだと
群れが空中分解しますからやはり絶滅種になるわけです。

多数の迎合者(見方を変えれば協調志向の人たち)と
少ない割合の反発者がいることが
強い群れの条件になるわけです。

協調者も大切な存在だということになりますし
反発者も大切な存在なわけです。
(理想的な人間集団は、このような性質に分かれず、
 それぞれの提案のメリットデメリットを洗い出して
 デメリットをできるだけ回避してメリットを獲得する
 そういう理性的な話し合いができればよいのです。
 しかし、上は国会、国連から、下は日常の職場、家族、学校などまで
 クリアーで理性的な論議ができていませんね。
 しばらくは迎合する人と反発する人という
 自然が用意した遺伝子的な集団医師の決定が行われるのでしょうね。)

4 依存もまた権威に対する迎合

権威に対する迎合する傾向が強すぎる場合
依存性が強いという言われ方をするのだと思います。

迎合も依存もどちらも
そのモチベーションは不安解消ですから
依存心の強い人は、やはり何らかの理由で
不安が強い人なのではないでしょうか。

不安の理由は実に様々です。
健康状態がすぐれない場合
家族や職場など人間関係がうまくいっていない場合、
不安を感じやすい精神状態の場合
等々です。

不安が強いと自分の考えに自信を持つことができません。
そもそも決められないのです。
誰か具体的な人の意見にすがって
その人の指示通りに行動することで
始めて安心ができるというような心理状態になっています。

もはや自分の頭で考えようとしていません。
権威者の言うことを疑おうともしていません。
権威者を疑うくらいならば
権威者の指示にできるだけ忠実に従うためにどうしたらよいか
権威者は何を言いたいのか
ということに残された能力をすべて傾けてようとしているわけです。

今回、5歳の子が餓死したわけですが、
独立して子どもの利益を考える力は残っていなかったのでしょう。
自分が考えるより指示に従っていた方が安心だと思っていたのかもしれません。
もっとも、本当に子どもの利益を考えようとする精神活動が
行われていた場合の話です。

それすらも考えなくなっている事例が実はたくさん世の中にあるわけです。

ところが人を思いのままに動かそうなんて人は
自分に依存する人間がいることに喜びを感じるのでしょうから
どんどん自分の利益のために食い物にしていく可能性があります。
今回のケースでは、報道によると金を収奪するということらしいですが
主義主張なども「自分の利益」に入るのではないでしょうか。

意のままに動かそうとする方は
迎合している人間の子どものことなんて考えないことがむしろ通常なのです。
但し、口では「この子のためにも」と言葉には出しますけれど。

今回のケースでも
食事のことは指図していないと知人女性は言っているそうです。
もしかすると、「あまり太らせると生活保護が受給できない。」
等と言ったのを過剰にくみ取って
母親自らが積極的に食事制限をしていた可能性もあると思います。
迎合の心理とはそういうものだからです。
もっとも、そのことは知人女性は分かっていたはずで
わかっていても子どもに食事をさせなかった状態を改善しなかった
ということはあると思います。

5 どうして離婚までしたのか

もしかしたら、ここまでお読みいただいても、
そんなに簡単に他人の言いなりにならないのではないか
やはり脅かされていやいや従ったのではないか
離婚したのも夫に何か原因があったからではないか
と考えている方も多いのではないでしょうか。

しかし、この母親のように
他人の言いなりに離婚する人間は
実際はたくさんいます。

言いなりになって離婚したけれど
生活が苦しくてこんなはずではなかった。
こんなことなら離婚しなければ良かったと
その人に文句を言ったら
離婚を決めたのはあなた自身ですよ
と言われたけれどどうしたらよいですか。
という相談が私だけではなくよくあるのです。

根本には強い不安があります。

この不安を解消したいという強い要求があります。

夫と子どもと自分の家庭の中で不安が存在しているわけです。
離婚事件に見られる不安の理由の多くは
不安を抱かせる内科疾患(分泌系疾患と薬等の副作用)
パニック障害、全般性不安障害等の精神疾患
貧困
でしょうか。

夫はなかなかこういう不安に気が付きませんから
ただ妻がかんしゃくを起こしていると感じるか
自分が妻から理不尽な攻撃を受けているとしか感じません。

わかっていても
なかなか妻の不安を受け止めてあげることは難しいのです。
わからないから不安を受け止めるどころか
不安に基づく言動をする妻を叱り飛ばしたりしてしまうわけです。

「夫は自分を助けてくれない。」
妻はそう思っていくわけです。
最初は夫と関係の無いところから始まった不満が
どこに原因があるかわからないことが通常ですが、
こうやって助けてほしい夫が自分を助けてくれない
という不満は確実に認識し、その経験も重なっていくわけです。

そう思っている妻に対して
つまり不安を感じている女性に対して
今回の知人女性のような人物が
「あなたは悪くない。」
と介入するのですから、
通常の人が考えられなくなるくらい威力があるわけです。

こうして
心理学でいうところの「三角関係」が構成されてしまうのです。

夫と知人女性との、妻をめぐっての綱引きが行われるのですが
妻の不安を理解しない夫は分が悪いのは当然です。
ずるずると何もしないで知人女性に妻が引きずられて行っていることに
気が付くこともできません。
夫は、自分と妻の二人の関係しか気が付いておらず
もう一つの極があることを認識することもできません。
全く無防備な状態です。

妻は知人女性が自分の不安を理解していると思いこまされています。
この人が私の不安を解消してくれるということを
無意識に感じて依存を始めるわけです。

それとともに夫から離れていき、
離れていくと同時に知人女性との関係が自分の人間関係になってしまいます。

夫に対する不満は、嫌悪感、恐怖感に変わっていきます。

夫の嫌な面だけが記憶の中で増幅され出します。
リアルタイムでは何とも思わなかった言動の一つ一つが
そのとき振り返って思い出すととても嫌なことで、
自分は逃げようもなく嫌な夫の行動にさらされていた
という記憶の改編が起き始めるようです。

ここで「生活のことは私が面倒を見るから心配するな。」
なんてことを言われれば、とても頼もしく感じるわけです。
夫はそういうことは言えません。
誠実だからです。
そんなことを言えるのは口先だけで心がこもっていないからです。

でも不安を解消したいということが最優先課題になっている妻は
その口先だけのことをうっかり信じてしまうのです。
信じるというかすがってしまうということですね。
もはや知人女性の言葉に従うことによって
不安が解消されるという体験を重ねているのかもしれません。

こうなった段階で
あなたの夫は浮気をしている。証拠がある。
あなたの夫の行為は精神的虐待だ。モラルハラスメントだ。
等と言われてしまうと、
妻は夫に対して嫌悪感、恐怖感がさらに強くなり、
私の落ち度ばかりを夫は口に出していたな
夫は私を常に否定ばかりしていた
感謝も何もなく夫の奴隷だった
夫は自分を利用していただけだ
私だけが損をしていた
という感覚になっていくようです。

夫と一緒にいること、顔を見ること、声を聴くことが苦痛になっています。
夫が帰る家に向かう足が、どうしても動かなくなるわけです。
町で夫と同じような背格好の人間を偶然見つけると
息が止まるような恐怖で身動きができなくなるようです。

一日も早く離婚をしたいという気持ちになるのは
自然な流れだったのでしょうね。

6 どうして途中で気が付かなかったのか

それにしても話が違うわけです。
すっかりお金も吸い上げられて
とても幸せからは程遠くなった

第三者ならば気が付くわけです。

どうして、ご自分では気が付かないのでしょう。
一つは依存というものはそういうものなのだということです。

言いなりになることに安ど感を覚えているわけです。
言いなりにすれば、考えなくても良いということは
精神的にはかなり楽なことだったと思います。

だから本人は、不安がなければそれでよいという心持なのかもしれません。

幸せなんて目に見えないものですから
依存できる人間がいるということで不安がなくなれば
それが幸せなのかもしれません。

また、自分で考える力がなくなっていますから
改めて自分の境遇を顧みるということもないのかもしれません。

ただ、それはそういう側面があるとしても
うすうすは変だなと感じ始めるのではないかと思うわけです。
そういうことも折に触れあったと思います。

しかし、変だなと思い始めた途端
自分でその疑いの目を摘み取っていたことが考えられます。

これが依存行動のサンクス効果です。

ここでいうサンクスというのはありがとうということではなく
埋められた、蓄積されたということです。
これまでの努力を無駄だったと思いたくないということですね。

本件でも離婚したり、金を渡したり
そして言いなりに積極的に奉仕していったわけです。
途中で、それらはすべて何の意味もなかった
離婚前に巻き戻した方がよほど幸せだった
という自分の奉仕行動、依存行動が
マイナス効果しかなかったと思うことは
取り返しのつかないとても辛いことです。

自分が過去において行った奉仕行動、依存行動を
無駄とは思いたくないという心理が働き
無駄だという発想を打ち消そうとするように
さらに依存行動を行っていくこと
これがサンクス効果というわけです。

7 それでは知人女性の罪は軽くなるのか

これまで私が述べてきたことは
刑事責任や量刑の見通しとは
次元の違うことです。

こういう無惨な事件について言及すると
あたかも
「怒りをもって母親や知人女性を糾弾しないのはけしからん」
という趣旨のコメントが寄せられることがしばしばありました。

怒って非難しないことが
イコール弁護しているということに思ってしまうようです。

しかし、冷静に分析して
真実の選択肢を狭めないことは大切なことです。
真実を見つけることが予防につながるからです。

単に、悪質なサイコパスが、恐怖心を利用して人を洗脳して
それにやすやすと乗ってしまった母親が
我が子を餓死させた
こういう単純化した図式では、
時間が巻き戻っても本件は防止できなかったでしょう。

知人女性はサイコパスではなかったかもしれないし、
母親は恐怖心はなかったかもしれない
それでも子どもは餓死したのです。

事件の前に児相が虐待を疑わなかったのはなぜでしょう。
体重の著しい現象があったわけですから
虐待を疑うことがあっても良かったのではないでしょうか。

もしかすると児相は
典型的な虐待事案というものが
男性によるものか
孤立した女性によって行われるというマニュアルがあり、

この家庭に男性の影はなく
むしろ知人の女性も時折尋ねて支援している
だから著しく体重が減少していても
生活保護費は毎月きちんと受領していることもあり
児童虐待は行われてはいないと
用紙に記載されてチェック事項に当てはまらないから
虐待はないと判断したということはないのでしょうか。

なぜ見落としたのか
科学的な検証が必要だと思います。

それだけでなく
暴力がなく、強制が無くても
人間の不安や依存心を悪用する人間が存在する
という事実に着目しなければ

自分の利益のために他者(特に女性)を食い物にして
子どもの健全な成長を阻害してしまうという
すべての事情を排除することに
目が向かなくなってしまいます。

どうしても怒りは、問題を単純化します。
怒りも不安から生まれることは
ひとつ前の記事でも書いていますし、繰り返し書いています。

勇ましいことを言って
不安を解消したい
正義感を発揮したいというのも
人間の本能ですから
それはやむを得ない側面もあるのでしょうが、

結局、不安を解消できれば良いという行動は
問題解決を中途半端に終わらせてしまう原因だと
注意する必要があるように思われます。

私は
新たな犠牲者を生まないために
実効性ある対策は何かという
予防の方法について
できるだけリアルに考えていかなければならないと
思ってしまうわけです。

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PTSDの損害賠償の勉強  損害賠償実務の主張のために 記憶のメカニズムから [進化心理学、生理学、対人関係学]



1 問題設定

PTSDという精神障害は、とかく議論のあるようです。
私は、その精神医学的な議論及び治療には興味がありません。
あくまでも、PTSD であると診断された患者さんの
損害賠償請求をするにあたって有効な程度の
理解をすれば足りるので、そういうお話です。

PTSDの定義、症状については末尾に掲げておきます。
PTSDとは | 日本トラウマティック・ストレス学会 (jstss.org)
様より

問題は、心的外傷を起こす出来事と、症状との関係なのです。

いずれにしても、PTSDを発症する前提として
命や安全に関する重大な脅威、危険の体験ということが必要とされています。

どうしてこのような重大な脅威があった場合、
症状としての
・侵入症状
・回避症状
・認知と気分の陰性変化(抑うつ)
・覚醒度と反応の著しい変化(過覚醒)
が生じるのかということが今回の問題です。

もっと言えば、
PTSDという診断名だとしても
事情が違えば、症状も違って当たり前なのではないか。
個性等による違いはあるにしても、
脅威や危険の認識、程度の認識が重大になればなるほど
症状が出やすく、大きくなるのではないか
という問題提起なのです。

裁判官のPTSDの判例研究があるのですが
この点についてあまり考慮されていないように思えたので
少し考えてみたいということなのです。

ここで言う、脅威や危険というのは
あくまでも本人の認識です。

例えば、ビルの屋上から小さいけれど重量物が落下してきて
(もしぶつかったら確実に死ぬような場合)
本人の体ぎりぎりに落ちてきたとしても
本人がそれに気が付かないで素通りすれば
PTSDにならずに日常生活を営み続けることでしょう。

例えば、近くで動物を見られる動物園で
檻の柵越しにライオンを見ていたとして、
実は柵が壊れていて、
ライオンが襲おうと思えば襲えたけれど
たまたまライオンがその気が無くて難を免れたという場合でも
本人が柵が壊れていることを知らなければ
楽しい体験で終わったことでしょう。

逆にテレビ番組の悪ふざけで
本当は下に防護ネットがあるけれど
断崖絶壁だと思わされて突き落とされたら
そして、周囲がみんな自分の命に関心が無いようなそぶりをされると
PTSDが生じる場合もあるのではないでしょうか。

2 事例の紹介

私がこれまでPTSDと診断された方に弁護士としてかかわった事件のうち、
検討の素材として以下の3つの事件を紹介します。

<事例1>
刑事弁護人として強制わいせつ致傷事件で
被害者と示談をした事件なのですが、
事件は雨の日で、
住宅地から少し外れたバス停で深夜一人で降りたところ
あとをつけられて暴行を受けたという事件でした。
当初誰も助けがこず、
ある程度長い時間もみ合って、抵抗をして
ようやく解放されて逃げ帰ったという事件なのですが、
数か月たっても、
雨が降るだけで、抑うつ症状となり、家から出られなくなり、
その時の恐怖感が、感覚的によみがえってくるというものでした。

<事例2> 
強盗事件で、深夜、若い女性が、手足を縛られ
バールのようなもので脅かされて
数十分監禁されて、犯人が出て行った後は放置され
しばらくして解放されたという事例でした。
外に出ようと扉を開けたところで襲われたということもあり、
ドアなどの外側に何か悪い者がいるという感覚に襲われる等
PTSDの様々な症状が出現した事例です。
その後も、安全責任者の謝罪もなく
放置された事例です。

<事例3>
当初統合失調症だと診断された事例です。
左側から災いが起きるということ言いだしておびえていたのが
妄想だと診断されたのです。
遠いところから、私のところに相談に見えて、
話を聞いているうちに、
職場で左に座っている人が、突如精神疾患の症状が出てしまい
理由も前触れもなく、その人を思いっきり殴打したそうです。
非正規労働者ということもあったのかもしれませんが、
殴られた方が手当ても同情もされず
殴った方ばかりみんなケアを始めてしまったという事情があったようです。
顔の痛みは徐々に引いたのですが
不信感というか、納得できない思いが徐々に強くなっていき
左から災いが起きるというようなことを言い始めたそうです。

その後、医師と相談して減薬して
普通に日常生活を送れるようになったとのことでした。

統合失調症を新しい医師は否定することはなかったのですが
私は一種のPTSDだと思います。

その他にも、強烈ないじめ体験(学校、職場)などで
PTSD症状と同様な症状が出現しているという
相談を何件か受けたことがあります。

きれいに侵入症状、回避症状、抑うつ症状、過覚醒の症状が
確認出来て驚くことがあります。

この時の侵入症状は、具体的な記憶がよみがえるというよりも
その時の感覚、絶望感、恐怖感、孤立感、屈辱感という
感覚がダイレクトによみがえるということを
皆さんおっしゃっておられました。
その時の状況を思い出さなくても
感覚は、今この場で起きているかのように
鮮やかによみがえるとおっしゃるのです。

なお、悪夢に苦しむということもよく聞くことです。

3 記憶のメカニズムからの検討

少し検討しましょう。

私は記憶のメカニズムの観点から考えていきます。
私たちの記憶は何のためにあるかということです。
記憶があるとどういうことに役に立つかということですが、

最も素朴な話としては
危険があった場合に、
危険の起きる理由(原因、場所、危険を起こすメカニズム等)
を理解していれば
敢えて自分から危険に近づくことをしない
ということが基本なのだと思います。

これは動物一般の話なのでしょう。
(逆にえさのありかを覚えるのも記憶の効用でしょう)

但し、人間は、弱い動物ですから
敢えて危険に接近することによって
他の動物を出し抜いて、種を残してきたということがあります。
わかりやすいのは火です。

他の動物は火を怖がりますから、安全のために火を利用できたでしょうし
火によって食料を加工することによってよいこともあったでしょう。

火の外に石器なども同様に
危険を上手にコントロールする文化なのだと思います。
動物を引き裂くことには便利ですが、
使い方を間違うと人を傷つけてしまいます。

私は、また、
個体識別ができないほどの多くの人数の人間と群れを形成することも
危険ないし危機感を伴う生活スタイルだと思っています。

このように人間は
危険だということで逃げてばかりいることはできず
利用できる危険を覚えて、利用の仕方も記憶して
危険と共存してきたのだと思います。

危険があることはストレスに感じることですが
ストレスをため込んでは生きていくこともできなくなるでしょう。
危険と共存するためには
日常生活に必要な危険を
認識の中で危険の無効化をする工夫が必要だったと思います。
ストレスにしない、ストレスを軽減して無害にするということです。

表面的には、
危険の限界、危険のメカニズム、危険回避の技術を理解し、
危険のようで、危険が無いという感覚をもつことだと思います。
但し、これはいわゆる「腹に落ちる」状態に達しないと
なかなか危険の感覚を無効化できないでしょう。

その無効化している仕組みがレム睡眠時の
記憶のファイリングだと思うのです。
過去の記憶と照合し、位置づけをして
それほど危険性が無いことを腹に落とすわけです。
危険を回避する方法があるから
むやみやたらにおびえる必要が無いと腹に落とすのでしょう。

ちなみにこのファイリングができず、
ファイルからこぼれてしまう出来事が
悪夢であろうと思っています。

ちなみにを繰り返して申し訳ありませんが
どうして、侵入という症状において
その時の情景を思い出すのではなく
その時の感覚を思い出すかというと
おそらく、その危険の感覚というのは
意識ではないのだからだと思うのです。

人間においても危険を認識した後の
危険回避行動の反応は、
つまり生理的反応は、
危険を意識するよりも前に起きているというらしいのですが
おそらく、この生理反応が
PTSDにおける記憶の正体なのだと思うわけです。
それなので、意識に対する働きかけだけでは
なかなかPTSDの治療は進まず、
無意識に対する働きかけが必要になるのではないかと
そうにらんではおります。

つまり、危険のメカニズムや危険回避の方法を
頭でわかったとしても、それは意識の改革には役に立つでしょうが
生理的反応の記憶は消えないからです。
将来的には、この生理的反応の記憶にも手当てができるようになると思いますが、
現状でこれができないならば
別の発想でPTSDを克服することを目指すことが合理的だと思います。
PTGという発想ですね。

このようなオーソドックスな危険の感覚の無効化
認識における危険の無効化の外に

単純な馴化、忘却等があるでしょう。

例えば自動車は、相当の重量物であり、
それがゆるゆると近づいて衝突するだけで
人間は死ぬような危険物ですが、
交通ルールというものを設定してはいますが
すぐ近くを高速で通過しても
それほど怖くなくなっていきますね。

自働車によって負傷したことが無いという経験の積みかさねによって
自働車の危険性に対する感覚が鈍麻しているわけです。
これが馴化ですね。

嫌な人がいて、仕事上どうしても付き合わなければならず
苦痛で不快でたまらなく、
仕事が終わってしばらくは、電話が鳴るたびにびくびくしていても
やがて付き合いが全くなくなると
その人自体を忘れて快適に生活したり
その人から電話がかかってきても
普通に話ができるようになるわけです。

こうやって、人間は、
危険の感覚を軽減させ、無害化することによって
自働車の無い地域まで逃げ込むことも
取引相手が絶対来ない地域まで逃げ込むこともせず
これまで通りの環境の中で
日常生活を送ることができるわけです。

PTSDとは、
出来事が大きすぎて、記憶の処理ができず
危険の感覚の無効化をすることができない状態
ということになりそうです。

危険の感覚が存在するために
常に危険に備えるということを反応として行っているわけです。
これが過覚醒状態ではないでしょうか。
眠ってしまうと危険が現実化してしまうと思えば
無防備に眠ることなどできなくなるのは当然です。

学校や職場に行けば
理由も分からないのに、自分が攻撃されるというのであれば、
活動自体をしたくなくなり、
家に引きこもろうとするのは理にかなっていると思うのです。

トラウマを起こした特定の危険を回避したいと思うのですが、
どうして、どのような原因でその危険が発生したか理解できない場合は
むやみに危険があると感じてしまうでしょうし、
雨の日に襲われという記憶があれば
襲われないために雨の日になれば警戒するということは当然でしょう。
意識の記憶ではなく、感覚の記憶のために
不合理だと分かっていても、危険に身構えてしまうわけです。

何か整髪料の匂いと襲われたことを関連して記憶していれば
整髪料のにおいを感じただけでその時の危険がよみがえっても不思議ではないでしょう。
但し、その整髪料を付けた人物が犯人であるか
襲われた直前にその整髪料をつけた人と会っただけなのか
それはわかりません。

そして、その記憶が、危険回避のためのメカニズムだとすれば
どうして危険が生じたのかは不明でも
・危険事態が大きな危険ではない
 (蚊に刺されたとか)
・危険を感じていた時間帯が極めて短い
 (一瞬ヒヤッとしたとか)
・危険が簡単に回避された
 (事故を起こしそうだったけれど、ハンドリングで回避した)
等の危険回避の方法を経験した場合は
危険の感覚の無効化が起こりやすくなるのではないでしょうか。

だから、有害なことは
危険回避可能性が無いという絶望感なのでしょう。
人間における絶望感は極めて有害で
人間の思考上絶望感回避の方法が
幾重にも張り巡らされているようです。

絶望感を抱きやすいのは
回復手段が無いという認識ですが、
孤立感というのも絶望を抱きやすくするようです。
人間は、誰かに助けてもらえるという
無意識の期待を持つもののようです。
犯人にすら助けてもらいたいという気持ちになることがあるようです。

これは動きの中で見ると
その危険の感覚を感じている時間が長いということも
要素になるようです。

絶望感を長く感じ過ぎた場合
記憶のファイリングが起こりにくくなるということは
あり得ることだと思います。

自分の危険が回避されたという実感が持てない場合も
絶望感を抱く事情になりそうです。
ビルの下を歩いていたら、屋上から物が落ちてきた
足がすくんでしまって逃げられなくなり
もはやこれまでと気を失って倒れたら
自分のすぐ隣に落下したというような場合。

4 暫定的結論

PTSDが起こりやすく重症化しやすい要素

1 身体生命に重大な危険が発生したこと
  (私の立場では、これは、対人関係的に重大な危険が生じた場合も含まれます。ただ、その程度などについては今後の検討が必要でしょう。)
2 危険が現実化しつつあるということを認識していること
3 危険を回避したいと思っても回避が不可能であるという絶望
  孤立、原因不明、機序不明での危険の現実化はこれを高める。
4 危険が現実化して、回復不可能だという認識が一定時間持続すること

1,2の危険の程度が大きくて、危険以前の日常生活が送れなくなる程度のことが起きれば、PTSDは発症しやすく、症状は重くなりやすいのではないか。

1,2の要素が大きくなくとも
3,4の要素が大きい場合はPTSDになりやすいのではないか。

可能性として、事例2のように、暴行が身体生命への不可逆的なほどの重大な危険がなくとも、その後の危機回避可能性が無いという認識(機序不明、孤立)が連続して起きればこれらのことが事後的に起きてもPTSDの危険が発生するのではないかということも考えています。

また、交通事故の事例では、PTSDというかどうかわかりませんが、
事故を見ている人の治療は長引く傾向にあります。
以下の場合は、危険が現実化したこと及び危険を回避する方法が無かったとしてPTSD様の症状になることもありうるのかもしれません。
側方からの衝突事故を横目で見てしまった場合、
バックミラーで追突をしてくる自動車を見たが回避できなかった場合、
センターラインをはみ出して衝突してきた事故の場合

上記の事情が無くてもけっこう多いのは、追突事故で、
あとから保険会社から被害者にも過失割合があるとか、
ぞんざいな口を利かれて具合が悪くなり、
治療が長引くというケースです。
これが事例の2と同様のパターンなのかもしれません。

加害者側の保険会社は
被害者を気遣って、優しい言葉をかけて親身になることで
治療の長期化を防ぐことができるのではないかと
また、示談期間の短縮化ができるのではないかと
常々感じているところでもあります。


PTSDとは | 日本トラウマティック・ストレス学会 (jstss.org)

PTSD(心的外傷後ストレス障害)とは

<原因ないし定義>
実際にまたは危うく死ぬ、深刻な怪我を負う、性的暴力など、精神的衝撃を受けるトラウマ(心的外傷)体験に晒されたことで生じる、特徴的なストレス症状群
をいうそうです(DSM-5)。

<症状>
侵入症状
トラウマとなった出来事に関する不快で苦痛な記憶が突然蘇ってきたり、悪夢として反復されます。また思い出したときに気持ちが動揺したり、身体生理的反応(動悸や発汗)を伴います。
回避症状
出来事に関して思い出したり考えたりすることを極力避けようしたり、思い出させる人物、事物、状況や会話を回避します。
認知と気分の陰性の変化
否定的な認知、興味や関心の喪失、周囲との疎隔感や孤立感を感じ、陽性の感情(幸福、愛情など)がもてなくなります。
覚醒度と反応性の著しい変化
いらいら感、無謀または自己破壊的行動、過剰な警戒心、ちょっとした刺激にもひどくビクッとするような驚愕反応、集中困難、睡眠障害がみられます。

上記の症状が1ヵ月以上持続し、それにより顕著な苦痛感や、社会生活や日常生活の機能に支障をきたしている場合、医学的にPTSDと診断されます。
なお外傷的出来事から4週間以内の場合には別に「急性ストレス障害Acute Stress Disorder: ASD」の基準が設けられており、PTSDとは区別されています。

PTSDとは | 日本トラウマティック・ストレス学会 (jstss.org)
より。

ちなみに、ICD―10では、症状は6か月以内に出現しなくてはならないとされているようです。



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怒りの行動の対人関係的把握 加害行為としての自傷行為 自死の経路の可能性 [進化心理学、生理学、対人関係学]

どうして人間は、怒るのでしょう。
一説によると、
要求の実現が阻まれることによってフラストレーションがたまると
怒りになるというようです。

この説を批判するというのは、真意ではなく、
別の側面に光を当ててみる試みをするというのが正確でしょう。

対人関係学は、
基礎的事情としては、
欲求が充足されないと言っても
危険を感じて危険な意思不安を解消しようとして
解消できないということが基礎的事情だと考えます。

不安解消や危険は、
基本的には、自己防衛ということになります。

但し、仲間を防衛しようという時も基礎事情になる事がややこしいのですが、
情動的共感をすることによって
怒りの基礎事情になるわけです。

不安解消や危険解消の行動は、
必ずしも怒りにつながるだけではなく、
恐れやフリーズにつながる場合もあるわけです、

そうすると、怒りと恐れとその違いが生じる事情はどこにあるかが問題となります。
この点も対人関係学は、極めて単純です。
勝てるか勝てないかという無意識の判断をしているということです。
つまり、勝てると思ったら怒りになり、負けると思ったら恐れになる
ということです。

もっとも、危険が意識に登る前に、この判断は終わっていると考えています。
怒りと恐れを、自由意志による選択することはできないわけです。

仲間を守るためには、自分が攻撃の矢面に立っていないので
自分が負けると思うリアリティがないので、
怒りを起こして攻撃行動に出やすくなります。

公正さや道徳を見出すものに対しても同様に怒りを起こしやすいわけです。
この場合も、自分や仲間に対して不利益を与える行動だと思われますが、
自分が直接攻撃を受けている訳ではないので
怒りが起きやすくなる訳です。

怒りは攻撃行動をしている場合の感情だと考える訳です。
攻撃をして、危険を除去するという危険回避行動だと把握しています。

逆に自分は勝てないと思うと、
逃亡をする訳ですが、その時の感情が恐れということになります。

怒りも恐れも、危険回避反応ですから
生理的な反応は共通していて、
副腎皮質ホルモンが分泌され、交感神経が活性化します。


怒りの本質は、このように単純なものなのですが、
複雑に見せる原因がいくつかあります。

一つは今述べた、自分の防衛だけでなく、
仲間を防衛する場合も情動的共感によって発動されてしまうことです。
母熊が子熊が危険にさらされていると思うと
怒りによる報復をするような場面が典型的です。

もう一つ怒りがわかりづらくなるのは、
必ずしも危険に対して攻撃が向かわないということです。

そこの危険には二種類あって、
身体生命の危険の場合に、危険回避として怒りが選択された場合は
八つ当たりは起こりにくいのですが、
身体生命の危険はなく、対人関係的な危険だけがある場合は
八つ当たりが起こりやすくなります。

対人関係的危険とは、
人間関係の中で、顔が潰されるとか立場が悪くなるとかという負の評価が起き
究極的には、人間関係から離脱されてしまうという危険をいいます。

例えば会社で上司や取引先から理不尽な叱責を受けていると
職場での人間関係に危険を感じていても
上司や取引先を相手に怒りの行動を起こす訳には行きません。

そうすると、家に帰っても不機嫌になり、
子どもの何気ない言葉に敏感に反応してしまい
怒りを持って攻撃的言動をしてしまう
これが八つ当たりです。

なぜ八つ当たりをするかという理由ですが、
一つは、今見たような過敏な状態になっていること、
もう一つの理由は、
攻撃行動をしている時は、
対人関係的不安が一時的に緩和されるからです。

自分より弱いものを攻撃することによって
自分が感じていた対人関係的危険を
一時的に感じにくくなるようです。

このため、
八つ当たりの対象がない場合
それでも攻撃によって不安を解消できるということを覚えてしまうと
自分を攻撃することによって不安を解消しようとしてしまう
という現象が起きるようです。

自分の体を傷つけないとしても
自分の所有物を破壊するという現象が見られることがあります。
徐々に自分を守る意識がなくなっていくようです。
自分の身体を攻撃することも出てきてしまいます。

不安解消行動は、基本的には防衛行動なのですが、
合理的な解消ができない場合は、
解消要求が強くなってしまい、
自分を攻撃することになっても解消しないではいられなくなるという
矛盾した行動を起こしてしまうのです。
それだけ追い詰められたということなのでしょう。

どうも自傷行為は、自分が傷害を受ける行為という側面と
自分を加害するという側面もありそうです。

加害することによって
不安が解消されるという悲しい矛盾です。
自分の体を犠牲にして
対人関係的不安を解消しようとしているのでしょう。

死ぬことが目的ではないけれど
死んでしまいかねない行為をするタイプの自死が起きる
一つの経路となる可能性があるように考えています。

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特に定年退職後に男性が家庭内で孤立していることがあからさまになる理由。言葉には二つの起源があるということとコミュニケーション方法の性差。家庭内ラポール。柏木恵子先生「大人が育つ条件」岩波新書に触発されて。 [進化心理学、生理学、対人関係学]

特に定年退職後に男性が家庭内で孤立していることがあからさまになる理由。言葉には二つの起源があるということとコミュニケーション方法の性差。家庭内ラポール。柏木恵子先生「大人が育つ条件」岩波新書に触発されて。

多くの家庭において
男性の家族に対する会話と女性の会話では
質や目的が異なっているとのことです。

最近の男性はこのことに気が付いて
コミュニケーションの女性化を意識しているそうです。

このコミュニケーション方法の違いは
特に定年後にあからさまになり、
男性は家庭の中で孤立するし、
熟年離婚の原因になるとも指摘されています。

弁護士として離婚事件を担当していると
このような現象は確かにありまして、
男性側のより男性的な会話と
女性側のより女性的なコミュニケーションがそろってしまうと
熟年前の離婚の原因の一つになっているようです。

このことについて私なりに説明します。
是非柏木先生の名著もご一読ください。

みんながみんなそうではないとしても
男性と女性とでは家庭内の会話の目的自体が違うようです。

男性の会話の主目的は、必要な情報を提供することにあります。
そして、その情報に基づいて行動してもらうことによって
相手に良い結果をもたらそうとするわけです。
このためここでいう「情報」は、その次に出る行動に有益な情報です。

女性の会話の主目的は、相手に快適でいてもらうことにあるようです。
会話をすることで、安心してもらう、楽しんでもらうということです。
提供された情報に、差し迫った意味が無く、
むしろ、声の音色、声の大きさ、抑揚、言葉の表現などに
神経が向かうようです。

そして、柏木先生は、女性に多いコミュニケーションスタイルを
「ラポール的コミュニケーションとおっしゃいます。」
ラポールという言葉は、臨床心理でよく使う言葉です。
クライアントと心理士がラポールの関係を形成する
等という言い方をします。

要は、相手に自分を安全な仲間だと思ってもらうことだと思います。
自分の弱みをさらけ出しても、自分の悪いところを教えても
それによって、当たり前の非難をされず否定をされず、
心理士に対して警戒感を持たなくて済むようにして
必要な情報引き出して
アドバイスを素直に受け入れてもらうようにする
という効果があるのでしょう。

心理士や精神科医を警戒するあまり
自分に不利な事情を話さないという人をたくさん見てきました。
そのため、善意の第三者が傷つけられることもありました。
ラポールを形成するということは大切なのですが
なかなか難しいようです。

このコミュニケーションの違いは歴史的な理由があるようです。
それは言葉(会話)がどのように始まったか
ということと関連します。

認知心理学や進化生物学では、この言葉の起源については争いがあり
現在でも決着はついていないようです。

一説によると、
毛づくろいの代わりに言葉ができたという説があります。
サルの毛づくろいは、
お互いを安心させて落ち着かせるために行われるそうです。
ところが人間は体毛が薄くなり毛づくろいができなくなりましたし、
また、サルよりも大勢の人とコミュニケーションをとらなければならないので
一人ひとり毛づくろいをしているよりも
大勢で会話をした方が手っ取り早い
そのために会話をするようになったとしています。

発声学的にも
二足歩行をして声を出しやすい条件が整ったところ、
安堵の域を出すことで声になってしまうということは
冬のお風呂場で経験していると思います。
湯船につかってあまりにも気持ちよいので
「ああー」
とか言ってしまった経験はないでしょうか。

緊張や不快から、急速に安心に変わるとき、
つい声が出てしまうようです。
そうすると、かなりエキサイトしている仲間の元に行って
「ああー」と脱力の音声をすると
仲間も共感力を使って
思わず脱力して緊張を解いてしまう
ということになるようです。

自分が脱力している様子を見せれば
警戒感も消えてしまうでしょう。
これが会話の始まりだという説です。
ラポールの会話の始まりです。

言葉というよりも、脱力し合うということで
安心し合うということが会話の原点だという説です。
裸の人間の群れが、一斉に「ああー」と言い合っていたら
観ている方もユーモラスな気持ちになると思いませんか。

これに対する説は、むしろよくわかりやすいのですが
警戒をさせる音声が会話の始まりだという説です。
これはほかの動物でもそうですが
天敵が近づいてきたことをいち早く気が付いた仲間が
緊張のあまり、短い悲鳴のようなものを上げる
そうするとその緊張感が伝わり仲間も緊張をする。

この伝え方は空に天敵がいるのか、木にいるのか
はたまた地上にいるかで悲鳴の上げ方が変わることが
他の動物で報告されているので、
その悲鳴の上げ方によって
逃げ方が決定されるということになるようです。

つまり、その場合は、相手の気持ちなんて考えている余裕はなく
とにかく無事に逃げましょうという行動提起しかありませんから
俺は大丈夫だと思うなどという議論は必要ないのです。
行動指示の言語あるいは会話ということになるでしょう。
受け取り方によっては、命令だと思いやすくなります。

そして、ラポールの会話を大事にしているのが女性で
行動指示の会話を当然だと思うのが男性
だということになるようです。

今から200万年前は、人類は狩猟採集の時代で
男が集団で小動物を追い詰めて狩りをしていたそうです。
男は小動物に逃げられないように、肉食獣に襲われないように
短い言葉を、断定的にかわしていたのでしょう。

女性は、植物を採取して子育てをしていたので、
チームの和が生存のためには一番重要でした。
ラポールの会話が合理的でした。

こういう遺伝子上の性差があるように私は思います。

これを助長したのが軍隊と企業社会だと思います。
軍隊や生き馬の目を抜く企業活動では
何か議論をするよりもトップダウンで行動することが
効率が良いという思い込みがあります。

軍隊やそれをまねた企業スタイルの中では
会話は行動指示であり、命令そのものです。
男性はそのような社会を前提として教育を受けますし、
時代が変わっても社会価値の残存がありますから
行動指示的な会話をする訓練と教育をされるわけです。
遺伝的な発想と教育によって
行動指示的会話が当然だと思い込んでゆきます。

そしてこれが家庭の中でも行われてしまうのです。

妻の愚痴を聞いていても
頭の中で買ってに翻訳してしまい
何が彼女にとって必要なことなのかを考え
そのためにはどういう手段、行動に出るかを考え
過不足なく伝達することに努め
そしてそれを実行するため伝達する。

相手の気持ちに共感することを示しません。
共感していることが前提であり
相手を助けようという気持ちがあることが前提で話しているのですが、
それを伝える必要性を感じていないのです。

必要な言葉情報を伝達することに神経を集中していますから
声が大きくなろうが、表現が少々乱暴になろうが
気にしません。
そういう配慮をするという発想がそもそもないのです。

例えば妻が職場のトラブルについて相談すると
妻の同僚に対する憎悪が先走り
つい言葉が乱暴になり、声が大きくなり、
必要な情報提供をすぐに理解しない妻にイライラします。
考え出した自分を称賛する言葉でないこともイライラするわけです。

妻からすれば会話の主目的はラポールですから
先ずは自分を安心させてもらいたいわけです。
職場では嫌なことがたくさんあっても
家庭では安心してよいのだということを
会話によって実感したいわけです。

この主目的部分がまったく欠落していますから
夫がどんなに良い情報を提供しても
頭に入らないで不満が募るだけです。

しかも、とても残念なことは
夫が妻に命令をしているように聞こえていることです。
そして、夫が妻より自分が偉いという態度をしていると
どうしても思ってしまうようです。

知っている情報を知らない人に伝達しているだけなので
夫は自分の方が偉いとは思っていないのですが
ラポールが欠落している会話のために
偉そうに聞こえてしまうようです。

もっともベストな行動はこれしかないと思って話していますから
断定的に行動提起をしてしまいます。
妻からすれば命令だと受け止めてしまうのでしょう。

夫は妻の困りごとを
自分の困りごととして妻の話を聞いているのですが
伝わりません。
妻が自分が夫から責められていると感じられるのはこういう事情です。


夫の大きな声、乱暴な表現、
妻が自分のアドバイスを歓迎していないことを感じてのイライラの表明
それらが重なって蓄積されてしまうと
精神的DVと言われ出し、離婚の危機が生まれるわけです。

夫が色々家庭内のことに口を出す場合も
相談するという女性的スタイルの会話の技術が無いというだけで
結果的に一方的指示をしてしまい
命令とダメだしとしか受け取られないわけです。

逆に夫は妻の発言には必要な情報の伝達が鈍く
余計なことばかりを延々と聞かせられると感じるわけです。
夫は行動指示の情報提供が会話だと思っていますから
それが始まるのを待ち続けているわけです。
会話のスタイルの違いによって
相手の言葉が頭に入らないことは夫も妻も一緒なわけです。


家庭の中ではどちらのコミュニケーションが大切かというと
私は、女性のラポールコミュニケーションが
本来行われるべきコミュニケーションの形態だと思います。

それぞれメリットデメリットがあるわけです。
この使い分けを意識するということなのだと思います。
公私の区別というのはこういうことだと思っています。

長くなるので割愛しますが
様々な現代的な社会病理の中において
いじめ、パワハラ、セクハラなど家族の被害を救出すためには
ラポール的な人間関係を形成し
十分な情報を引き出し、家族で対応する必要があるということもあります。

また、統計的に生命的に寿命が長いのも
活動を長くできるのも女性です。
活動的な女性と老いが早く来る男性ということを考えると
男性は家族に受け入れられているほうが
よほどよいわけです。

絶対その方が楽しいし穏やかだと思います。

私は、本当は職場でも
もっとラポール的なコミュニケーションを作ることが
企業戦略上有意義だと思っています。
どうしても男性的な価値観を無批判に正しいものとして
時代遅れの企業活動が行われているのではないかという
不安が払しょくできません。
行動指示万能論と目先の利益第一主義はとても親和します。

これからの時代男性が行うべきことは

第1に、職場と家庭と会話の方法を切り替えるということ
第2に、会話は、先ずラポールを形成するところから始めるということ
必要な情報伝達を優先するのは例外的な事情のときだけで、
その際にも、声の大きさ、言葉遣い、話す速さなど
穏やかな会話になるよう意識する必要があると思います。
第3に、情報伝達が必要ではなくても、意識して会話をする。
相手を安心させることを話す。毛づくろいを行うという意識を持つこと。
楽しかったこと、嬉しかったことを声に出して話すということです。
特に家族の感謝、自分の謝罪は必須であるということです。

口調は、語尾を上げていくのではなく、意識的に語尾を下げていくことです。
安心させるということは警戒感を解くことですから
責めない、批判しない、嘲笑しない
感謝と謝罪を伝える。相手の良いところを探し出してでも見つけて言葉にするということです。

これができなければ夫とは、父親とは
気が向いたときにダメ出しをして否定ばかりして
何を怒っているのか分からないけれど予測不可能なときに
声を荒げて、乱暴な言葉を使い
聞いている自分たちにイライラをぶつける厄介な相手
ということになります。

また、家族には体調に波があり
精神状態が一定ではないことが人間です。

嫌がられない会話をするよりも
相手を楽しませて、安心させる会話をすることを心掛けた方が
よほど簡単です。

わかってはいるのですが
なかなかやってみると難しいことも確かです。

私は頑張ってみます。
あなたはどうしますか。
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【勝手に書評】人間の本性が善であることが紛争を生む原因だとすれば、ポール・ブルームの「反共感論」は、福音となる。(AGAINST EMPATHY PAUL BLOOM)心と環境のミスマッチ。 [進化心理学、生理学、対人関係学]

【勝手に書評】人間の本性が善であることが紛争を生む原因だという結論に対して、ポール・ブルームの「反共感論」(AGAINST EMPATHY PAUL BLOOM)は、福音となる。心と環境のミスマッチ。

性善説、性悪説という言葉ありますね。
人間の本性は、善であるか悪であるかという議論です。
これは、単純な理由で性善説を指示するべきです。

その理由としては、もし、人間の本性が善でなければ
文明ができる前の脆弱な動物としての人間は
群れをつくることができないために
とっくに死滅していたからです。

そして、善とは
仲間の痛み、喜びに共感し、
仲間と平等に分かち合い、
仲間が困っていたら助け合い、
特に一番弱い仲間を助けようとする
ということにあると思います。

証拠は、私たちの心にあります。
他人が痛い思いをしたら、
ああ、痛いだろうなあと目を背けたり、顔をゆがめたりしてしまいますよね。
誰かが、抜け駆けして、自分一人が得することをしようとすると
反感を抱いたり、怒りを感じたりしますよね。
誰か困っている人を助けたりすると
安心したり、感動したりします。
弱くて小さいものを見ると、かわいいという感情が起きるでしょう。

こういう本性を持った人間だけが
群れをつくり、自分たちを守り
子孫を遺してきたわけです。
実に単純です。

性善説と性悪説の対立は
既に文明が生じてからの人間を固定的なものととらえるところに
思考方法の間違いがあったのです。

それでは、どうして本性が善であるのが人間ならば
身近ないじめ、虐待、ハラスメントがなくならず
犯罪や自死に追い込まれることがなくならず
戦争を次々と切れ目なく起こすのか
ということが疑問となると思います。

これも最近の科学によってある程度明らかになってきています。

人間(ホモサピエンス)が、その能力を超えた人数の人間と関わるから
本性が善であっても、他の人間を傷つける行為が止められない
ということにあるようです。

1説では、人間の脳が個体識別できる人数は
150人程度、多くても200人を超えるくらいと言われています。
このくらいの人数ならば、善を貫くことができるのでしょう。
元々というか2万年以上前までは、
人間は一生のうちこの程度の人間とだけ交流があったとされているようです。
そして通常は数十人単位で生活していたようです。

群れの頭数が維持できることが人間として生きる条件でしたから、
誰かひとりが苦しむと、頭数が減り自分の生存も危うくなりますから、
平等に分け合い、抜け駆けをせず、特に弱い者を守ろうとする心であることは
どうしても必要だったわけです。
逆にこういう心を持たない群れは、簡単に滅びたのだと思います。

多少自分が損をしても
弱い者を助けようとしたのだと思います。
誰かの失敗も、不十分なところも、みんなでカバーしたのでしょうし、
それは当然のことだったはずです。
誰かが獣に襲われたら
夢中になってみんなで反撃したでしょう。
個体としては弱い人間も、
こうやって他の動物から恐れられるようになったのだと思います。

人間の本性が先ほど言った善であることは
人間の始まりの頃にはとても都合が良かったのは、
人間が自分たちの能力に見合った環境にいた
ということも言えるでしょう。

ところがおよそ1万年位前から農耕が始まり、
人間が一生涯に会う人間が飛躍的に増えていきました。
文明が発展するたびにその人数は増えていきました。
今や、自宅のマンションだって既に200人を超えた住民がいる
ということも珍しくないでしょうし、
自宅から勤め先まで移動する間に
何千人という人間とすれ違うかもしれません。

そして厄介なことに、すれ違うだけの人とも
利害関係は衝突するわけです。
典型的なことは交通事故です。
見ず知らずの人と事故を起こし、
相手がお金が無くて困っているからと言って
重大な事故を起こしたり死亡したりした場合、
「いいからいいから」と笑って済ませることはできないわけです。

損害賠償の金額の折り合いが悪ければ
そのことに対しても
相手に怒りを覚えることは当然でしょう。

特に、自分の家族が犠牲になる場合は
その負の感情が強くなります。

しかしそれは、仲間を守ろうとするという側面から見れば
まぎれもなく善の心なのです。

子どもを厳しく育てる親は、
自分が社会の荒波の中で苦労をしていて
大人になる前に身につけておけばよかったと思うことが
たくさんありすぎたのかもしれません。
子どもを社会について行かせようと思う親心も善でしょう。

もし、家族がけがをしても社会全体が保護してくれるならば
相手に対する追及はそれほど厳しくならないかもしれません。
もし子どもが学校について行けなくても、
社会的に尊重されて、生活に追われることなく
良き伴侶を得て自尊心高く生活できるならば
それほど子どもに厳しくならないで済むかもしれません。

しかし、現実の社会は
他人と生存競争を戦っている状態があるわけです。
仲間ではない人間に囲まれているわけです。

人間の中にいるからと言って必ずしも安心できるわけではありません。
この不安定さ、あるいは不安な心ゆえに
もしかしたら、太古の人間よりも
仲間に対して、多くのものを要求しているのかもしれません。
そして、仲間と仲間ではない人間との間に
厳しく深い線が引かれているのかもしれません。

ただこれは客観的な利益状態ではなく
見知った人は仲間で、見知らぬ人は敵、すなわち人間ではないという
意識が自然と生まれているのでしょう。

ネット炎上等がその典型例です。

プロレスラーの木村花さんが、テレビ番組の演出を理由に
インターネットに攻撃的書き込みをされた事件で
先日、特に悪質な書き込みを送検したというニュースが流れました。

そこには、なぜ死なないで生き続けているのか、いつ死ぬのか
という趣旨の文面があったそうです。

そんなことを言われて平気な人はいないでしょう。
けれども、この書き込み者は、善の気持ちで書き込んだのだと思います。

テレビ番組の花さん以外の共演者を仲間だと無意識に感じてしまい、
仲間を攻撃する木村さんを敵だと線引きしてしまい、
敵である以上人間ではないですから
その人格や家族などその人の仲間の存在を一切捨象することができて、
思う存分攻撃をすることができたのでしょう。

そういう感情的になって正義を振りかざす人間は
少数であり、例外的だという人もいるかもしれません。

でもこういう、人間を人間と思う能力には限界がある
限界を超えると人間を人間扱いしなくなるという現象は、
自治体や警察でも行われています。

女性が夫からDVを受けたと相談すると
その女性の言っていることが真実か否か夫から事情を聴くことがなく、
女性は、公的に「被害者」として扱われます。
当然夫も、公的に「加害者」という名称で呼ばれるようになります。
そして夫は何の反論をする機会もないまま
妻と子どもたちを知らないところにかくまわれ、
子どもとも会えなくなります。

別居が開始され、収入の少なくない部分の支払いが強制されます。

そこまで抵抗する方法を奪われて
弁解の機会も与えられずに不利益を受ける原因があったのか
疑問が大きいケースが多いです。

ここでも、仲間と敵の選別が行われています。
目の前で、苦しんでいる様子を語る女性については
なるほど保護をしたいという善の心が自然と生まれるわけです。
夫に対する怒りの感情も生まれることでしょう。

一瞬で見ず知らずの夫は敵とされてしまい、
夫がどんな苦しみを抱こうが
人間を襲ったクマをみんなで串刺しにするような正義感で
夫が苦しむ行為を躊躇なくするわけです。

「加害者」は、人間扱いをされていないということを
理屈ではなく実感するため
メンタルをやられてしまうわけです。

しかし、加害者扱いをするのですが
何が本当であるか全くわからないというべき段階で
心情的に敵対的な感情を簡単に持つのが人間です。

どこかの思慮分別の無い人間が行うのではなく、
税金で給料を得ている公務員が
こういう状態なのです。

いじめも同じような始まりを持つことが多くあります。
最初は1対1の喧嘩でも
泣き出して、友達にアッピールすることができる人が
多くの仲間を獲得して
本当は悪いかどうかわからないもう一方は、
多くの同級生から攻撃を受けます。
多くの同級生は泣いた子どもを助けようとする
善の気持ちで行っていますから
容赦がなくなります。

もしかしたらパワハラも
会社の効率を、部下の人格よりも上に置いてしまい
効率を優先させるために行われるということが
きっかけであることが多いかもしれません。

戦争であっても
色々な立場から戦争を推進するのでしょうが
正当化する口実は
仲間の救出、保護ということが挙げられます。

局面においては善の気持ちで戦争を推進する人がいるのかもしれません。
善の気持ちが利用されていることは間違いないでしょう。

なぜ、見ず知らずの人と争い、
人を人とも思わない扱いをするか

多くの場合、人間の本性が善だからだと思うのです。

もちろん誰かを守るということよりも
自分を守るために紛争が起きることが多いのですが、
それとしても、自分の立場が主張の不安定であるために
自分が攻撃されているかもしれないという
過敏な感覚を持つことが原因の大多数だと考えれば、
人間が多すぎる世の中は、人間が暮らしにくい世の中なのかもしれません。

それでは、人間の本性が善である限り
人間は人間と争い、不安を抱き、苦しみ続けるのか
これを解決する方法が無いのか
ということが問われるわけです。

私は、これまで、漠然と理性という解決方法を考えていました。
ただ、理性をどのように使うべきかということは正直
具体的に思い当たらない状態でした。

この混迷から救ったのが
ポール・ブルームの「反共感論 社会はいかに判断を誤るか」(白揚社)
です。
この本は書店の社会心理学のコーナーで見つけました。

ブルームは、いま言った私の「善」の部分を「共感」と置き換えて
共感を否定しようと呼びかけています。

心理学の立場から共感が害悪を生むメカニズムとして
共感が当たるスポットライトが狭い範囲に限られるとして
その弊害を述べています。
自分の共感しやすい人は、自分の身の回りの人であったり
自分と同質性のある人なので、
客観的に支援が必要な人よりも、共感した人に支援が偏る不公平がある
というのです。

そして、「共感は、他の人々を犠牲にして特定の人々に焦点を絞る。また、数的感覚を欠くため、道徳的判断や政策に関する決定を、人の苦痛を緩和するのではなく引き起こすような方向へと捻じ曲げる」と指摘しています。

但し、ここからがブルームの主張の本質なのですが、
それらの否定的すべき共感と、あるべき共感と、
共感には二種類あるというので。
「情動的共感」と「認知的共感」です。

情動的共感とは
その人が感じているであろう感覚を追体験してその人のために何かをしようとする感覚です。
認知的共感とは、
「他者が何を考えているのか、何がその人を怒らせたのか、他者が何を快く感じるのか、その人にとって何が恥辱的で何が誇らしいのかを理解する能力」
としています。

そして、
「他者の快や苦を自分でも感じようと努めている自分に気づいたら、その行為はやめるべきだ。その種の共感力の行使は、時に満足を与えることもあるが、ものごとを改善する手段としては不適切であり、誤った判断や悪い結果を生みやすい。それよりも距離を置いた思いやりや親切心に依拠しつつ、理性の力や費用対効果分析を行使したほうがはるかによい。」と結論付けています。

ここには道徳の本質というところと議論が重なり合っているのですが、
詳細は別の機会にいたしましょう。
既に対人関係学では、
道徳という規範は、人間の自然感覚とは別のもので、
人間の能力を超えた関りが求められるようになった
農業開始の頃に起源を求めていることだけ触れておきます。

道徳・正義・人権 | 対人関係学のページ (biglobe.ne.jp)

また、ブルームのいう情動的共感が妥当する人間関係もあるという
ことを主張しておきます。
これが家族です。
ただ、この場合、純粋な情動的共感を抽出する作業が必要で、
そのためには、相手に対する寛容が前提なのかもしれません。

親は子のために隠す、夫は妻のために正義を我慢する。論語に学ぼう。他人の家庭に土足で常識や法律を持ち込まないでほしい。必要なことは家族を尊重するということ。:弁護士の机の上:SSブログ (ss-blog.jp)

誰かのために活動をする人、誰かを支援する人
それを職業やボランティアとしている人は
ブルームの反共感論を特に読むべきです。

自分のしている善で、善良な誰かを不当に苦しめているかもしれない
そういう視点は大切です。

もう一つブルームが言っていたことを付け加えます。
情動的共感によって、他者を支援する場合の弊害として
自分も同じように苦しんでしまうことによって
メンタルを消耗してしまう危険があるということでした。

真面目な人ほど、認知的共感を使う
ということを意識して追及するべきだと思いました。

他者への共感力(情動的)の低い人こそ、
他者を支援すべき人なのかもしれません。
それは現代に生きる人間としては
とても重要な資質かもしれません。

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アルコール依存症と向き合うためのメモ [進化心理学、生理学、対人関係学]


9%缶酎ハイの売り場面積の増大など心配があったわけですが、周囲でアルコール依存症の問題が明るみに出てきました。具体的に知りえた例においては、コロナとの関連は不明です。コロナの問題以前からの蓄積の結果という事例が多いです。私の周囲の感触からすると、現状のアルコール依存症はまだ特殊事例が多いのですが、今後は、特殊事例とは言えないほど事例が多くなるような予感があります。
今のうちに、しっかりアルコール依存症と向かい合う必要がありそうです。

今日はとりとめもないメモになります。

<アルコール取得過程>

世の中の経済の基本は物々交換だそうで、
お互いの所有物が必ずしもお互いが必要なものではないと交換が成立しないため、とりあえず万能の価値のあるお金が生まれたそうです。

そうすると、アルコールを買うことは、実際は他の物を買うことをあきらめる結果となるわけです。あるいは貯蓄を放棄するということですね。
ここはちょっと押さえておきましょう。
それでもアルコールを買わずにはいられないわけです。

お金も失いますが、アルコールを飲んで、アルコールの影響下にある時間が生まれるということですから、他にやることができなくなる、あるいは不完全にしかできなくなるということです。
結果としてアルコールにお金と時間を使ってしまっているということになります。
アルコールが無いと不安だから、買わずにはいられないとなると依存症の入り口をくぐっているのかもしれません。

一昔前に、アルコール依存症の人たちが飲む典型的な酒は、
ペットボトルのウイスキー、ペットボトルの工業焼酎
紙パックの日本酒、ストロー付き
等が定番でした。

酒を飲む目的が酔うという一点に集中していますから、安くて大量に飲めればよいのですから、ある意味合理的です。
現代では9%缶酎ハイです。冷やして飲めば、単位時間の摂取量も増やすことができますので、酔うまでの時間をさらに短縮できます。

こういう酒の飲み方は、酒を口に入れたらできるだけすぐにのどの奥に流し込むという飲み方です。そもそも味わうことができにくい飲み方だと言えるでしょう。一つにはアルコール刺激を最小限にする飲み方です。これが危険な飲み方だと思います。アルコール依存症とのん兵衛のぎりぎりのメルクマールもここにあり、そんな一時に飲んだらもったいないだろうというのがのん兵衛です。

だから、アルコール依存症気味だと思う場合は、できるだけおいしいと思える酒を飲むべきです。少々高額でも、その方が安全です。また、冷やしすぎないで飲むことも考慮していただきたいと思います。意地汚く飲むということも有効ですね。私はバーに行くと、珍しいウイスキーをストレートで頼みます。先ず、くんかくんか匂いをかいで楽しみます。そしてちびりちびり時間をかけて楽しみ、口の中いっぱいで酒を感じます。そうしてひとしきり堪能しきったら水を飲んで、リセットして新たな気持ちで楽しみ、これを繰り返します。残念ながらグラスに液体がなくなったら、やはりクンカクンカ匂いを嗅いで楽しむわけです。
私は、酒にこだわる人は依存症になりにくいと思っていました。しかし、高い酒を飲んでも、金払いの良い人はアルコール依存症になる危険性が高くなるような例を見たので、今回考えてみようという気になりました。


<アルコール運搬過程>

外で、居酒屋などで酒を飲む場合は、運搬過程はありませんね。
問題は、コンビニやスーパーで酒を買う場合です。家に帰る前に飲んでしまうというのはアルコール依存症の高度な段階です。これまでにあった事例では、コンビニで紙パックの日本酒を大量に買って、物陰で隠れて飲み、容器をどこかに捨ててきたくするという事案がありました。家族に隠れて酒を飲みたい人ということですから、家族からは酒を飲むことを禁止されているとか、監視の目が厳しいという事情がある場合です。当然近所の人から通報があって、家族の知るところになったわけです。運搬過程が無い人もいると。

<アルコールの摂取・ソフト依存症>

典型的な依存症ではないソフトタイプの依存症というものがあり、おそらく典型タイプに移行しやすい予備群を構成していると思います。
ソフトタイプの依存症とは、イベントに酒を利用する傾向が強い人たちです。例えばお祝い事があると酒を飲んでお祝いするとか、悲しいことがあると酒を飲んで気を紛らわそうとするとか、怒りがあると酒を飲んでやろうという気持ちになるとかそういう人たちです。自分で書いて気が付くのですが、私もそうですね。
うれしければ喜べばよいし、悲しければ悲しめばよいのですが、アルコールの補助を、いつの間にか必要とするようになったのかもしれません。
いや、結婚式とか正月、クリスマスくらいならそれでも良いと思いますが、その補助を要する機会が増えていったり、仕事が疲れたからということで、あるいは、夕飯を食べるためにどうしてもというような場合は文字通りアルコールに依存する傾向が生まれているというべきでしょう。

どうやら感情の解放とは、イライラとかもやもやとか、言葉にならないような心理状態、感情を酒の力で解放するということのようです。
常識人であればあるほど、つまり、周囲との調和に敏感な人であればあるほど、自分の感情を解放するということに抵抗感が生まれるようです。そうして「自分の心を抑圧している」という意識を解放したいということのようです。
どうやら、脳の中に感情を高ぶらせる部分と、感情を制御する部分とが別々に存在し、制御する部分は前頭葉と呼ばれる部分で目の奥のあたりにある脳の部分らしいのです。怖いから怖がる、悲しいから悲しむ、嬉しいから喜ぶというように、感情をそのまま出す方が楽なようです。ところが、それを楽のまま行うと他者との関係で気まずくなることが多くなるわけです。幼児までは感情を解放して楽に生きているわけですが、大人として生きるためには感情を制御する必要があります。さらに、その人その人が置かれている環境でこの事情は増幅するわけです。
部下がいる人であればそれなりに権威を持たなければならないとか、お客さん相手の仕事だとにこにこしていなければならないとか、上司が理不尽なことをするからと言って怒りに任せて行動したのでは解雇されてしまうとか、いろいろと感情を解放できない事情があるようです。
どうやらアルコールの作用として、その前頭葉の制御作用を鈍らせることによって感情を解放することができるのではないかと思うのです。他者との協調性のための制御を抑制することによって、少し羽目を外して喜んだり、悲しんだり、怒ったり、あるいは不安をさらけ出したりできるようになるのだと思います。
現代人の置かれている感情抑制が必要な社会環境は、感情自体がスムーズに表現できなくなる危険があることにもなるでしょう。
そんな中で、アルコールの力を借りて、喜怒哀楽という一時的な感情を表出するのだろうと思います。
逆に言えば、アルコールの力を借りないと、感情を表出できない状態に追い込まれているのかもしれません。

ソフト依存症の人でも、唇からのどに直接入れるタイプの酒の飲み方をするようになったら大変危険な状態だと言えるでしょう。のどが乾いたら水を飲むべきです。のど越しで味わうという飲み方は、依存症になる危険が高いというべきです。

<アルコール摂取過程 ハード依存症>

ハード依存症の人も、アルコールを飲んでいない状態の時間があるようです。しかし、徐々にアルコールを飲んでいない時間は短くなるようです。飲む酒が切れたらとどうしようと不安になるので、必要以上のアルコールが自宅にはあるようです。そして、飲むことを止められない心理状態になるようです。自己抑制が効かないという言い方をします。のん兵衛やソフト依存症の人のように、ビールの栓を抜く爽快感というものはあまりないのではないでしょうか。高度な依存症になると、コップに注ぐ時間も惜しくなるのかもしれません。
前頭葉の動きを止めたいというより、前頭葉をとってしまいたいような勢いで飲んでいるのでしょう。さらに視床下部まで麻痺させようとしているような気がします。恐怖や不安を感じるという人間らしい感覚を持ちたくないようです。アルコールは飲み方によってかえって覚醒してしまいますから(自分比較)、恐怖や不安は、悲観的な傾向と合わさり倍増していくのではないでしょうか。忘れてしまいたいから飲んで忘れるということは感覚的にあっているのだと思います。こうなるとのどの刺激を伴う薬ですね。
肝心なことはちょうどよいほどに忘れたり、感じなくなったりするのではないということです。例えば防犯もしなくなったり、火の始末を忘れたりという大変危険な状態になりますが、酔っ払っていますからあまり気になりません。酔いつぶれたいのか、眠りたいだけなのか、意識がなくなることを目指して飲んでいるようにさえ思われます。外で飲んでいたら、泥棒や詐欺師の餌食になるわけです。
私はブドウ品種がわからなくなったらワインを外で飲むことはやめます。お金がもったいないからです。金持ちの依存症は、もはや味覚がなくなっていますから、二束三文の酒を高い値段で吹っ掛けられても文句を言えないわけです。ここで私たちも学ぶべきことは、苦しみや辛さは、それを感じることによって行動の修正を促している大切な人間の機能だということです。苦しいこと、辛いことはやめてしまえということですね。苦しみや辛さを感じないと、どこまでも危険な行動をやめることができず、取り返しのつかないダメージを受けてしまうわけです。酒を飲んで、嫌なこと辛いことを忘れてしまうと、必要な注意もできなくなり、破滅的な行動をしてしまうことにつながる危険が高くなります。

生きるということは、このようにつらいこと危険なことから身をそらし、楽しいことを追求することかもしれません。危険なこと、辛いことを無かったことを感じなくなってしまったら、それを回避することができません。そして恐ろしいことに楽しいことを感じることができなくなるのです。
ハードなアルコール依存が起きてしまうと、このように生きることを少しずつ放棄していくことになります。感覚的に、自分が生きることの価値を見出しがたくなるわけです。自殺の潜在能力が高まるという言い方をします(ジョイナー)。

いったいどんな辛いことを忘れたいのでしょうか。
最初に依存症の人の事件をした時は、職場の人間関係でした。本当はそこに原因があるのです。職場での不遇な扱いを忘れようとして飲んでいたのですが、本人も医療機関もそこにはあまり関心が無かったようです。
案外簡単に依存症になったのは、養子に入った男性でした。隠れて飲んでいるうちに危険な飲み方になってアルコール量が増えていきました。
夫から虐待の過去という壮絶な女性もいらっしゃいました。言葉に出すこともはばかられるような壮絶な虐待を受けた方です。精神科の治療を長年にわたり受けていたのですが、医療機関とのコミュニケーションがうまくいっておらず、本当の苦しみを医師に伝えることができませんでした。亡くなってから後追いに調査をしたところ、そのような事実がわかりました。結婚前は明るい性格で、たくさんの友達にいつも囲まれていたような方だったそうです。ご自分の身内との関係もうまく形成できなくなり、孤独を感じながら亡くなられました。最後は酒以外口にできなくなっていました。死に向かって生きていたような形かもしれません。
アルコール依存症といえば「星の王子様」です。アルコールの星で、酔っ払いの住人が酒を飲んでいました。王子がなぜ酒を飲むのかと尋ねたところ、忘れたいからだと答えました。王子な何を忘れたいのかと尋ねたと頃、酒を飲んでいる自分だと答えたのですが、それは真理だと思います。意識のある時に酒を飲むわけですから、苦しい思いをして飲んでいる自分を自覚することが残念ながらできているのです。ご自分ですらなんで飲むか分からないけれど、飲んでいる自分は自覚しているのですから、私は悲劇だと思います。

<アルコール摂取に付随する過程への依存>

アルコール依存症の診断を受けた人の中には、実際はハードな依存症とは別のタイプの依存症があるように感じていました。バーでなければ酒を飲まない人たちです。ハード依存症は、酒場に限らず、自宅で飲みますし、自宅から出られなくなります。隠れて飲んでいるときは路上でも公演でも飲みます。最近の缶の酒は、路上で飲むことの抵抗感を減らすようです。
バーでしか飲まないタイプの依存症は、おそらくアルコールだけに依存しているのではないのではないかと思えてならないのです。接待を伴う飲食店は、当然嘘に満ちた世界です。金を落とすから接待してくれるのですし、客側もそれでよいから行くわけです。このちやほやされる状態に依存しているタイプが一定限度いるようです。必ずしも異性の接待に性的な期待があるというわけではなさそうなのです。性的な接待よりも、優位な人間関係、尊重される体験、尊重されている言動を求めているような感じです。お金を払っている限りで尊重されているということでもよいから、厳しい扱いをされない、ぞんざいな扱いをされないというところに、たまらない魅力を感じてしまう人がいるようです。まさに依存症です。バーの扉をくぐることをやめることが難しい状態になっています。実生活で、人間的な関係が形成できないという人が多いように感じます。
だから、ちやほやする人に簡単に騙されていくようです。騙されていても良いから、金をむしり取られても良いからその関係の中にいたい、ちやほやされていたいというように感じます。
無銭飲食詐欺に多いタイプの依存症です。この場合は損をしないからよいのですが(店は大損です)、お金持ちで孤独な人が破滅するときにもこのタイプが多いのではないでしょうか。こういう人たち(金持ち)もアルコール依存症になり、内臓を壊します。おそらく、詐欺師たちはもう少し酔わせればもっとお金を搾り取られると思うから酒を飲ませるのでしょう。依存症の方は、だまされているという不安をお酒を飲んで紛らわせようとするから悪循環になるのでしょう。
本当の友人たちは、このような飲み方を批判してやめさせようとするのですが、だんだん耳が痛い話から遠ざかってしまい、孤立するためにどんどん無防備になっていくようです。

<メモの終わり>

アルコール依存症はすべてを失う病気とされています。酒を飲んで仕事ができなくなり、再就職もできない。そのころになると家族からも見捨てられ、孤立していきます。働けませんので、収入もなくなっていきます。肝機能が悪くなり、糖尿病も悪化すれば腎機能も低下するでしょう。糖尿病の合併症で自由な行動ができなくなるかもしれません。健康も失われてしまいます。生きる目標も失われるかもしれません。
私はそのような男性の破産申し立ての代理人になったことがあります。依存症から脱却するために、かなりの努力をしていました。彼は、すべてを失いましたが、ポケットにお子さんの写真を大切にしまっていました。そんな状態でも子どものことはあきらめきれない。人間ってそういうものだということを学ばせていただきました。再び家族を取り戻すことはできなくても、子どものために仕送りができるようになりたいという新しい夢を彼は持つことによって、再出発に向かうことができたようです。アルコール依存症の話になると、きまって彼のことを思い出すのです。遠くから子どもを見に行こうという計画があったようですが、どうなったか事後報告を聴けないまま事件が終わってしまいました。
今回、新たにアルコール依存症と診断された知人ができてしまいました。彼に向き合おうと思っています。その前に頭を整理しておこうと、とりとめのない話を書き連ねてしまいました。

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被害者の心理 3 被害者の心理が起きるのは生きる仕組みであることとなぜ過剰な反応が生まれるか(心と環境のミスマッチ)、「被害」はいつまでも継続しているということ [進化心理学、生理学、対人関係学]

前回と前々回に述べた被害者の心理をまとめると以下の通りになると思います。

・被害を受けると人間は感じ方や行動パターンが変化する。
・些細な刺激で自分が攻撃されていると感じてしまう
・このため一つ一つのことを聞き流すことができず逐一反論してしまう
・理不尽な攻撃に対する反撃ということから、感情の抑制が難しくなる
・完璧に反論しようとして、仲間に対する要求度も高くなり
・要求度に達しない仲間に対しても攻撃的になる
・仲間や相手の心理状態については合理的な考察ができなくなる
・自分が受けている攻撃が客観的な評価以上に大きく強い攻撃だと感じる。
・このためにさらに強い疎外感を感じる。

以上です。これらの反応は本能的に起きるもので、生きる仕組みです。私たちの祖先はこの生きる仕組みで、子孫を遺すことができたわけです。

例えば今から200万年前、サルから人間に代わろうとする時期の危険の代表は、野獣に襲われるときだったでしょう。野獣の存在を知ることで、人間は危険が迫っていることを理解し、危険から逃れようとします。ばかばかしいかもしれませんがここが大事です。危険に逃れるために、脳から指令が出され、筋肉を素早く動かすことができるようにホルモンが分泌されたり、心臓が活発に動いて筋肉に血液をより多く流そうとする生理的な反応が起きることはよく知られています。
同時に、脳の機能も変化を起こします。

先ず、逃げることに集中すること。つまり逃げる以外のことを考えられなくするということです。余計なことを考えるというのは気が散るということですから、全力で逃げることができなくなります。これは逃げるためには邪魔になります。逃げることだけを考える、つまり、自分に危険が迫っていて逃げなければ自分の命が終わる、逃げることによって生き延びようということですね。集中できないサルは野獣に食べられて子孫を遺せずに滅びてしまったことでしょう。
逃げることに集中するため、考えることは二者択一的になります。危険から逃げ延びたか、まだ危険が続いているか。逃げるためにはこれだけで十分です。リアルな回避可能性がなんパーセントあるかなどを正確に考えている暇などないわけです。

次に、二者択一的になったら、できるだけ悲観的な判断をすることが、逃げ延びる確率が高くなります。仲間の元に逃げ込むとか、本当に安全だと確信できるまで、まだ野獣が自分を負っているのではないかと感じる方がより確実に逃げられるわけです。逆に楽観的に考えすぎて、簡単に逃げるのをやめてしまったら、身を潜めて追っている野獣に簡単に捕食されてしまうようになったことでしょう。
些細な事情で、例えば風が吹いて葉ずれの音がしただけで、まだ肉食獣が近くにいるのではないかと過剰に敏感になった方が、逃げ続けることができるわけです。また、自分を襲っている野獣は、もしかしたらものすごい力を持っているから、確実に逃げなければ殺されてしまうと思えば、より確実に逃げ切ろうとするので、役に立つ思考パターンです。

ちなみに、このような二者択一的思考、悲観的思考となっていますから、加害者である野獣が何を考えているか等という複雑なことは考えられなくなっています。あくまでもこちらを食べようとしているのだろうと考えればそれで十分だからです。敵や第三者が人間の場合は、人間の心は複雑ですから、それを知ろうとすることは、かなりの能力が必要になるようです。危険を感じているときは、そのような能力を発揮することは不可能だということになるでしょう。
仲間に対しても、自分を安全にしてほしいという絶対的な援助を望むということも無理のないことですし、仲間はその当時、その要求に応えるべく全力を挙げて野獣と戦ったことでしょう(袋叩き反撃仮説)。

今危険があり、逃げなければならないとするならば、被害者の心理は逃げるために必要な気持ちの変化だということがお分かりになると思います。

但しその危険が身体生命の危険ということであれば、この心理変化はとても有利に働くということです。
しかし、現代社会では、被害者の心理は、被害者をますます孤立させ、被害者自身で自分を追い込む結果となるという副作用が大きく、むしろデメリットが大きくなっているということです。

これが現代社会と人間の本能のミスマッチが起きているという言い方で説明されるべき事柄です。

例えば200万年前なら、体を動かすために高カロリーの当分は貴重でした。しかし、糖分を得ることがなかなか難しい希少な栄養素だったので、糖分があれば確実にそれを摂取しようという仕組みが生まれました。糖の甘さを好むようにして、おいしいから食べたくするという仕組みです。ところが、現代社会では、糖が工場で大量生産されるものですから、簡単に入手して摂取することができます。そのため、糖を摂取しようという生きるための仕組みが糖尿病などの成人病を引き起こすというデメリットを生んでいるのです(「人体」ダニエル・リーバーマン ハヤカワ文庫)。

どのような時代変化が起こり、被害者の心理反応にデメリットが多くなってしまったのでしょうか。

被害者の心理変化のデメリットが大きくなったというミスマッチの原因として、どうやら一番大きいのは、人間にとっての危険が、野獣に襲われるなどの身体生命の危険から、対人関係上の危険、つまり自分が仲間の中で尊重されて調和的に生活できなくなるという危険に、起こりうる危険の頻度が変わってきたという事情があるようです。
農耕が始まる前ですから今から1万年前か、どんなに頑張っても2万年は前ではないつい最近のことです。人間は、それまで50人から150人くらいの同じ仲間と一生を過ごしていただろうと言われていました。そのくらいの仲間の場合は、自分と他人の区別がつかず、自分が生き延びようとするのとほぼ同じ感情で、あるいはそれより強く、仲間を助けようとしていたと思います。対人関係上の危険を感じる度合いは現代から比べるとほとんどなかったと思います。だから身体生命の危険の反応を本能的に起こしても、デメリットはあまりなかったはずです。

それから1万年くらいしかたっていないのが現代です。脳の構造が深化するにはあまりに時間が足りないので、心の反応はその時のままなのでしょう。ところが、現代社会は、朝起きてから会社に行くまででも150人以上の人たちと出会います。会社や自宅マンションだけでも150人以上の人がいるでしょう。とてもすべてを個体識別できる人はいないでしょう。また、会社でいい顔をすれば家族に無理を通さなくてはならなくなる等、複数の仲間がいて、それぞれが利害が反する関係にあることも多くあります。家庭、学校、職場、趣味のサークル、地域、その他緩いつながりの社会、国家等という複数の群れに同時に帰属しているということは、農耕が始まる前には想定されていない事態なのです。

だから、例えば、足を怪我したとしても、1万年以上前なら傷が癒えれば傷によるダメージは無くなっていたでしょう。自分の知り合いの全員が傷ついたことを気遣い、できなくなってしまったことを代わりにやってくれたと思います。体は傷ついたけれど、仲間のありがたさに癒されたというわけです。

ところが、現代では足を怪我した場合も、相手がわざと自分を怪我をさせたのではないか、自分に恨みなどがあるのではないかと考えるわけです。また、相手ではない他人に対しても、自分が足が痛いのにどうしてもっと助けてくれないのかというように考えることが起こり始めてきたのではないでしょうか。あまり人間の付き合いの幅が広いものですから、家族であっても、それほど親身に何もかも手伝ってあげるということをしなくなったのかもしれません。相手への気遣いが、1万年前と比較しても雑になっているのかもしれません。いざとなれば、夫婦でも親子でも家族を解消できるということもなにがしか影響をしているのかもしれません。また被害者からしてみても家族だからこそ要求度が高くなり、攻撃をしてしまうという傾向がうまれたのでしょう。いっそのことお金を落としてなくしてしまうならば、あきらめがついて再出発ができるのかもしれません。同じ金額でも、信じていた人に騙されたということになれば、対人関係的危険を感じ続けて苦しみ、被害者の心理が止まらないのかもしれません。
また、いろいろな不利益の中で、学校、職場、家族など、別離、悪く言えば追放の目にあった場合は、対人関係的危険がなかなか解消されないという事情もあるかもしれません。

このように、人間の能力を超えた人数の人間、多数の群れに同時に帰属しているということから、人間同士の仲間意識が薄弱となり、自分以外の他人が、絶対的な仲間と感じられなくなるでしょう。このため、その仲間から攻撃される危険を強く感じなければならない事情が生まれたようです。
無条件に人を信じることができなくなってしまい、そして極めて残念なことに、その警戒感は、多くの場合現代人が自分を守るために必要であるようです。
私から言わせれば、人間はもともと他者を攻撃するという性質があるわけではなく、人間はもともと自分の仲間以外と対立する可能性を秘めているということだと思います。そして現代社会は、仲間であって仲間でない人間ばかりが、人間の周囲にいるということ、これが現代的ストレスなのだと思います。

さて、そのような背景はあるとしても、私のお話しした生理的変化(交感神経の活性化など)及び、思考上の変化(二者択一的傾向、悲観的傾向、複雑な思考力が低下する)は、危険が現実に存在して、危険から回避する場面では有効です。しかし、危険が現実化した後ではあまり意味がありません。身体生命の危険の場合で考えると、例えばけがをしたけれど野獣が仲間に追い払われるなどして危険が去った後でいくら筋肉に血液が流れても、もはや走って逃げるということはありません。襲われた直後は、動悸もするでしょうし血圧も上がっているでしょうが、しばらくすると落ち着くわけです。
ところが、対人関係上の被害の場合は、例えば裏切りがあって何年たっても、そのことを思い出すと血圧が上がったり、恨みつらみの感情が沸き起きたりします。一方の親に子どもを連れ去られてた他方の親は、何年経っても葛藤が去ることはないでしょう。性的暴行を受けた人も、警戒感や不信感そして恐怖感が何年も続くことがあります。対人関係上の被害は、それが起きたときから少なくても心理的には長期間被害者であり続けるわけです。つまり、被害は過去のものにならない、現在でも継続しているということです。
人間は、その性質上、人間の中で生活する必要があります。しかし、一度人間の中に信頼することができない、自分に加害行為をする人間が現れると、およそ人間というものが信頼できないという心理になるということが一つの理由でしょう。特に前触れなく起きた被害、性的暴行や連れ去りなどが典型ですが、そういう被害の場合、どうやって防げばよかったかについて考察することが難しいです。記憶の仕組みからすると、そのような形の被害はなかなか記憶のファイリングに収納しきれないため心理的に昇華することができず、いつまでも現在する危険として忘れられない存在になるようです。悪夢につながりやすくなるようです。

また、対人関係的には、危険が続いているということなのかもしれません。

例えば性的暴行を受けた人は、自分が性的暴行を受けたという事実を抱えてしまって、それが自分の身近な人間に知られてしまったら自分が身近な人間たちから否定的な存在と思われるのではないか、あるいは、過度に気を使われる必要のある人間だとして扱われてしまい、これまでの仲間とは扱われず特別扱いされてしまうのではないかという不安があるようです。防衛手段を尽くさないという非難を受けることもあるのではないかと考えてしまうのかもしれません。実際はそのような対応を周囲がしない場合でも、大きな不安があることは間違いないでしょう。

例えば妻に子どもを連れ去られた男性は、家族から追放されたという行為自体は過去のものだとしても、孤立している自分が継続しているわけです。その後の家事手続きにおいて、当たり前の主張がことごとく排斥されて、自分の孤立が裁判所などで追認されてしまうのですから、少なくとも家事手続きが進行しているうちは被害が継続しているというか新たな被害が生じていることになると思います。被害者の心理の負の側面が多く出ることは自然なことなのだと思います。例えば、いったん引いて、別居を認め、自分ができることで家族に貢献して、少しずつ立場を回復していくという手段が早い段階で選択して、実行できればある程度の再生が図られるケースがあるのですが、それは自然と受け入れられる作戦ではないのも当然です。
家事手続きは終わりがあります。一応の区切りはつけられることになります。しかし、理由がわからず連れ去られた挙句、子どもには一切会えない。生活を圧迫する養育費は長年にわたって負担し続けなければならない。そういう状態になれば、被害が過去のものになるはずがありません。毎日新たな被害に苦しめられるわけです。

しかし、被害感情というのは、前回、前々回にお話しした通り、被害者自身を必要以上に傷つけて追い込んでいくものです。より正確な情報分析ができないために方針を誤る危険も高いですし、改善する行動に向かわないでより事態を悪化させる行動を引き起こすこともあります。仲間や第三者を攻撃してしまうこともあり、つい攻撃的な振る舞いや緊張感の高いあるいはテンションの高い言動が多くなり、自分を孤立させる要因になることも多く見られます。せっかくの才能をもった人たちが孤立していく姿を多く見ています。

なかなか自分が被害感情を抱いていて、自分を追い込んだり損をさせたりしているということに、被害者自身が気付くことが難しいということは、これまで述べてきた被害者の心理から承認しなければなりません。
周囲が、実際は「あなたが思うほどは悪い状態ではない。」、「自分で自分を追い込むことをやめて、正確に情勢を分析して、これ以上事態を悪化させることを防止しましょう。」とアドバイスして拡大被害を防止することが必要不可欠ということになるでしょう。
しかし、どうしても支援者は、目の前の被害者に対してできるだけ共感しようとするし、被害者以外の人たちに責任を求めて一緒になって攻撃をしてしまいます。これも、善意や正義感で行われていることなので、自分の行動を制限しようというきっかけがありません。支援感情の駄々洩れが起きているように思われます。それが結果として被害者をさらに苦しめてしまう。被害の回復から遠ざけてしまうという逆効果を生んでしまうという悲劇があるように感じます。

このことについて、さらに考え続けてみたいと思います。



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