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ちょっと待って、あなたのその言動をハラスメントチェックしませんか。パワハラ、DV、いじめ、クレーマー等 [進化心理学、生理学、対人関係学]


<ハラスメントの多くは気が付かないうちに行い、みんなに良いことが無い>

ハラスメントとは、「相手に対して悪意を持って、相手を傷つけようとして行う言動」ではありません。ハラスメントの加害者だとされている人は、自分がハラスメント行為をしたという自覚は通常ありません。

それでもハラスメントの相手方は精神的に傷つき、あなたとの人間関係が悪くなるうえ、あなた自身の他者からの評価が地に落ちてしまい、会社であれば回復しがたい損害が生じることもあります。

発言者の思惑にかかわらず、言われた方の受け止めを基準に物を考える必要があります。また、これはハラスメントに限らず、日常の人間関係にある場合に、本来みんなが気にしなければならないことです。

<これに気が付いてチェックを開始しよう>

先ず、どんな時に、自分の言動をチェックする必要があるかについて考えてみます。
声が大きくなったとき
自分だけが話しており、相手が口をはさめない状態になっているとき
話を続けていても、相手が自分の話に納得していない様子を見せているとき

これがあるからと言ってハラスメントでないとは言えない事情
・ 第三者が聞いていても誰も自分を注意しない
・ 言っている相手が頷いていたり、ニコニコしているように見える場合
・ 自分の話しかけのきっかけ及び内容が
業務に関連している場合(職場の場合)
子育てや家計、家事に関係している場合(家庭の場合)
自分の正当な権利に関しての発言の場合(クレーマー)
道徳や正義、常識に関する話しかけの場合(共通)

自分の言動で気が付いてハラスメントだと判断して修正したり、謝罪したりできれば理想ですが、これはなかなか難しいことです。自分が攻撃者であり、相手に効果的な攻撃をしていると感じている場合は、相手に対する攻撃はむしろ激化してしまうものだからです。

言動の後で気が付いて、謝罪し、今後は気を付けるということができれば、大分ましです。相手の傷つきは軽減されますし、あなたの評価は逆に上がるかもしれませんし、人間関係が破綻しないで済むかもしれません。

<ハラスメントチェック項目>

さて、このような場合、以下の項目に当てはまらないかチェックをすることをお勧めします。

1)自分の指示、お願いごとなどが相手にきちんと伝わっているか。
  ハラスメントの要素の一つに不可能を強いるというものがあります。「言わないことを言われた通りしろ。」という図式が成り立つ不可能を強いるパターンは実に多いのです。この要因としては、
・ 言っていないのに言ったつもりになっている
・ 言い方が下手、わかりづらい、実質的に言っていないと同じ
・ 相手にふさわしい言い方をしていない。ベテランの人にならば十分伝わる指示言動でも新人の人には伝わらないとか、職場ではそのようなコンセンサスがあったが家庭ではないのに家庭でもコンセンサスがあると勘違いしている場合、

2)話している内容がどんどん変わっていっていないか

  ハラスメント的言動は、最初に言い始めたきっかけになったことからどんどん変わっていくことが特徴です。「こういう事項については事前に報告をしろ」という話だったのに、受け答えの時の言い間違いや、誤字脱字の話になり、はては受け答えの態度の話になり収拾がつかない状態になるようです。もはや相手の弱点を探し出して攻撃しているということがほとんどです。あれやこれや話が変わっていくときは自分の今の言動はハラスメントかもしれないというチェック場面です。相手に注意、指導する場合は、関連があるかもしれない事項であっても、一度の機会は一つの話題だけで終わらせる

3)同じ話を繰り返していないか

  もう、相手を攻撃したいだけの時は、攻撃効果のあると感じた話を何度も繰り返す傾向があります。もはや、思考が停止して、攻撃本能だけで話している可能性があります。そもそも同じ話を繰り返すだけというのはコーチングになっていません。無駄な時間です。

4)過去の話をネタに攻撃していないか

 これは二種類の意味があります。
1つは、過去の失敗をネタに攻撃していないかということです。「一事が万事」等と言って今回の失敗と過去の失敗を関連付けて話すことは深刻なパワハラ被害が生じたときに多く行われています。

2つ目は、その行為があったときに言わないで、「あの時は言わなかったけど、こういうことはやめてくれ」というようなことです。何をやめてくれと言うのか全然相手に伝わりません。直しようもありません。具体的にどういうことをもって、あなたはそういうかと尋ねても答えられません。もはや事実に基づいて話しているのでもなければ、何か改善を求めているのでもなく、純粋に攻撃をしたいという意識になっている可能性があります。

5)長時間になっていないか

これが日常的な伝達事項であれば、長くて3分で済むことが通常です。10分、20分と話が長くなるのは、上のチェック項目に複数該当していることがほとんどだと思った方がよいでしょう。

<気が付いたら行うこと>

1 直ちに中止する
  話し始めてしまうと、話しが完結しなければ終わることができなくなるものです。しかし、話し続けることの方があなたの評価を下げてしまいます。唐突でも良いので「ごめん、ちょっと考えてみる。」と言って中断しましょう。これだけで、かなり解決する場合が多いようです。

2 その場を離れてチェックする。
  いったん相手から離れて、自分の言動が上のチェックリストに該当するならば、次のことを考えましょう。
 ① 相手に不可能なことを強いていないか。
自分ならばできるということはどうでも良いことです。相手の立場に立って、考えてみましょう。できないならばなぜできないのかを考えて、その理由の言語化をしなくてはなりません。
 ② 相手の責任が無いことを相手に責めていないか。
   相手に責任が無いことを責めてしまうと、相手が混乱してしまうし、あなたに対しての評価が一気に下がってしまいます。二人の関係だけでなく、周囲の雰囲気も悪くなるし、周囲の人のあなたに対する評価も下がってしまいます。
 ③ 改善点を具体的にコーチングできているか
   改善点をコーチングできずに否定評価をしているのであれば、それは単なる相手の否定評価です。何が問題なのか、それをどう解決するのかということをきちんといわなければ社会人としての評価が下がります。
 ④ 何か別の人間関係でのストレスが無いか
   怒りは、大半が別のところで抱えているストレスの解消という関係にあるようです。例えば職場でのパワハラは、自分の上司から無理難題を言われているとか、家庭で夫婦喧嘩をしていたとか、道を歩いて言いがかりをつけられた等のストレスに端を発することが結構あるようです。そのようなストレスはなかなか自覚できないのですが、人間には自分よりも弱い者を攻撃して解消しようとしてしまう行動原理があるようです。別の人間関係でストレスを抱えているときは八つ当たりの危険を意識する必要があるでしょう。
 ⑤ どうしてもしなくてはならないわけではないのに、相手を低評価していないか
低評価を自覚させようとして、不必要な人格否定をする場合が多いです。一般的な低評価をさせる必要はありません。ここもくれぐれも注意しましょう。



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第三者の無責任な支援、寄り添いが、いじめ、紛争を作り出すその構造 複雑な現代社会で他者を支援するとき忘れてはならないこと [進化心理学、生理学、対人関係学]



1 「世界」に書かれていた寄り添いの純粋形態

ネットを見ていたら、岩波出版の雑誌「世界」の2023年7月号に、以下のような文書が掲載されていたということが紹介されていました。

「♯withyou の声を多くの人があげることは、被害者の言葉に「嘘だ」というのではなく、「あなたの言葉を信じる」ということ。そして誰かが心無い言葉を浴びせた時には、「あなたは悪くない。悪いのは加害者だ。」とともに感じること。自分の被害が認められることは、被害回復の第一歩である。」

マニュアルらしきものがあるということは具体的な支援の事例から想像していて、このブログに想像したその内容を書いていました。まさかここまで私が想像していたとおりの文章が存在するとは思いもよりませんでした。

現在の日本の支援、特に女性支援も、行政も含めて、精神的ダメージを受けている女性が被害者、その相手が加害者だと二者択一的に色分けをします。「加害者」とは加害をした者というわけではないと総務省も説明しています。

少しでもご自分の頭で考えながら、冒頭の「世界」に掲載された文書を読めば、違和感に気が付くはずなのですが、ただ読んだだけでは「善いことが書いてあるな」と感じてしまうのではないでしょうか。

2 弱者を保護することが人間の共通の価値観に合致すること

この文書が何も考えないと高評価をされる理由について、先ず説明します。

ある人が誰かとの人間関係等を原因として精神的ダメージを受けて傷ついている場合、人間の本能的価値観としては、「ダメージを受けている人を力づけて、ダメージを少しでも軽減する働きかけをすること」が、「善いことだ」と感じますし、このような働きかけでその人が少しでも回復したら、「充実した気持ち」になることが一般的だと思います。

この価値観が妥当して、人間の共存にとってメリットとデメリットを比べるとはるかにメリットが大きかったのは、今から200万年前から2万年前の「狩猟採取時代」のことです。

狩猟採取時代は、人類は、数十名から150名程度の一つの群れの仲間で、生まれてから死ぬまで生活を共にしてきました。
もしその群れの中の人間関係で誰かが精神的ダメージを受けた場合は、心傷ついている人に共感を抱きやすい仲間が、自分がダメージを受けているかのようにその人のダメージを軽減しようとするのは、弱者保護という人間の本性でした。弱者保護をしないと弱い者から死んでゆくので、群れの頭数が減って、肉食獣の餌食になったり、食糧を探し出せなくなって飢え死にすることを回避できる、とても都合の良い心理傾向、行動傾向でした。弱者保護の行動を本能に組み込んだものだけが厳しい自然環境を生き抜いてきたという関係になります。

だから現代社会の人間たちも、個性による程度の違いはあるとして、このような弱者保護を「善いこと」と感じ、自分が弱者保護の行動をすると充実感を抱くようにできているわけです。

そして、弱者保護をしているという意識は、そのための行動を本能的に行ってしまい、理性的に振り返るという思考が停止してしまう要因があるのです。

3 複雑な現代境において、狩猟採取時代の支援が成立しないことを構造的に理解してみる

問題は現代社会の第三者である支援者による支援についてですが、狩猟採取時代との違いに着目して考えてみましょう。

狩猟採取時代は、生まれてから死ぬまで同じメンバーで生活して、極めて近くにいつも一緒にいるという特徴がありました。だから、精神的ダメージを受けたその経緯についても、すぐ近くで目撃していたということになります。事実関係を直接把握していたということが第1の違いです。現代の支援者は、第三者であり、当事者の関係性も、歴史も直接見るということはありません。通常どちらか一方の話だけを聞いて支援を始めます。
第2の違いは、精神的ダメージを受けている方も、その相手方も、狩猟採取時代は間に入る者からすると、どちらも同じ群れの仲間だという点に大きな特徴があります。できれば、再び仲良くなって、群れを支えてほしいと思っているわけです。だから、よほどのことが無い限り、ダメージを受けた者の相手を一方的に糾弾したり、排除したりするということはなかったと思います。よほどのことをしていたという場合は、群れを守るために容赦なく排除したということもあったのかもしれません。

その結果、おそらく狩猟採取時代では、単純にどちらかが悪で加害者で、どちらかが被害者だと認定することはよほどのことが無い限り無かったと思います。双方をなだめて仲直りをさせるということが主たる働きかけだっただろうと想像しています。

もちろんこれが人間対人間の争いではなく、群れの外の野獣が群れの仲間を傷つけたということであれば、容赦なく野獣を襲って致命的なダメージを与えるまで攻撃を続けたのだと思います(袋叩き反撃仮説)。


しかし現代は環境が著しく変化しました。通常は、人は、様々な群れに同時に帰属しています。家族、学校、職場、社会、国家、ボランティアやサークルなどに所属しています。また、誰かにダメージを与える可能性のある他人は、群れの数の大きさや、職業を分担する社会構造、インターネットの普及等により膨大なものとなっています。これが「複雑な人間関係」の本質だと思います。

人間は、このようなとてつもない環境の変化の中にいながら、先ほどのべた狩猟採取時代の価値観を有してしまっています。この心(価値観)と環境のミスマッチが様々な弊害を起こしています。

支援の関係で整理すると現代の環境では、一言で言えば、ある人の精神的ダメージを回復させようとする支援者は、全くの第三者であるということです。つまり、第1に、その精神的ダメージがどういう形で起きたのか、出来事以前のその当事者同士の関係性はどのようなものであったのかについては全く分からないという特徴があります。第2に、精神的ダメージを受けた者に対しては、支援担当者は仲間であるという感覚を持つのに対して、精神的ダメージを受けた者の相手方は、顔も知らない人間であり、仲間だという意識を持っていないという特徴もあります。

現代社会の支援は、事実関係を十分把握しないで開始されるということを意識する必要があります。

4 改めて冒頭の文章を読む

先ず、被害者の言葉に「嘘だ」と言わないで、「信じる」べきだというようなことが書かれています。なるほど、これは必ずしも支援者の心得として書かれたものではありませんが、弱者保護の集団的なムーブメントの中での心構えのようなものだと受け止めて良いのでしょう。これはかなり無責任な態度だと言わざるを得ません。

なぜならば、第三者は、そこで何が起きたのかよくわからないということから出発するべきなのに、心室性の吟味をすることを否定しているからです。被害者の主張する「被害」が事実として存在していたのかについてはわかりません。また、「被害」の程度、被害を受けるに至った事情などについてわからないのです。

また、「被害者」が複数いる場合は、解決の目指す方向もその人によって異なることは通常あることです。必ずしも同じ被害感情を持っているわけではありません。これがピアサポートの難しいところです。

もし、支援者が自らが「加害者」とされた人にとっても影響を与える行為をするならば、何らかの方法で真実を調べ、何が真実であるのか確定し、それに基づいて被害者の意思に沿った支援をする必要があるはずです。

被害者の言い分を「嘘だと疑わないで信じる」という行為は、真実か否かわからない情報によって行動を起こすということですから大変危険な行為です。仮に「被害者」の主張が、事実に反していたり針小棒大な主張であれば、罪もない人を加害者だとして、攻撃をして社会的に排除する行為になりかねません。

さらに、真実がどこにあるかもわからないのに「あなたは悪くない。悪いのは加害者だ。」ということも極めて無責任です。
「あなたは悪くない」ということはとても簡単で安直な言動です。また、人間関係を善と悪で割り切る二者択一的考え方です。例えば、二人の関係が家族どうしならば、必ずしも善と悪が対立しているわけではなく、疑心暗鬼や言葉の不足から、コミュニケーションがうまく取れていないことが多いのです。ちょっとした工夫をアドバイスすることによって、お互いが幸せな関係を築くことだって不可能ではないかもしれません。

また、この態度はアメリカのフェミニズムの精神科医で、複雑性PTSDの病名を提唱した、ジュディス ハーマンは、「あなたは悪くない」という言葉を発することで、支援者は具体的な被害者の被害、精神的打撃、絶望の恐怖を理解しなくても済む、被害感情を共有することを拒否する態度だと批判しています。

むしろ本当はどうすればよかったのか、過去の時点で別の行動をとった場合のシミュレーションを後に行うことも、絶望を回避する方法になり、精神的ダメージを受けた者の回復に役に立つのです。「あなたは悪くない」ということで、支援者は思考停止をすることができます。それは支援者の心の負担を軽減する以上の効果はありません。同時に支援対象者は、支援者への依存を深めていくという効果は確かに見られます。

つまりあなたは悪くないということは、被害回復の第一歩ではなく、被害者の絶望の淵を垣間見ることを拒否する支援者の防衛行為であり、被害者を自分に依存させるだけの効果しかないということです。あくまでも支援者の利益にしかならないと私は考えます。

5 被害者の言動を嘘だと思わないで信じた弊害 草津町議事件

実際は、様々な被害を受けている人がたくさんいます。ひとたび「加害者」とされると、それは支援者たちは仲間だと見ないで、あたかも肉食獣のように被害者を攻撃する人間だとみなしているかのように、容赦のない攻撃が加えられます。仲間だと思わないから、そういう非人道的なことを正義の感覚で遂行することができてしまうのです。
私が多く見ているのは、DV被害者保護の名目によって、子どもと会えなくなった無数の父親たちですが、これは何度もこのブログで書いていますので割愛します。

今日は、草津町という温泉の町で起きた典型的な弊害についてご紹介します。
事件の詳細は、真の被害者である町長の黒岩信忠氏を紹介するWikipediaに記載されています。要約すると、2019年に女性町議Aが、2015年に町長室で町長から性的暴行を受けたと電子書籍を出版して主張し、告発をするので、町長は辞職をしろと言う記者会見まで開いたことから始まります。Aは、町議会でも自分の主張が真実であるとして、町長に対して不信任決議案を提出しますが、賛成者が二名しかおらず否決されました。
その後、町議会は、Aの行為が品位を欠くということで、懲罰動議を発議しAは失職します。しかし、知事の裁決によって懲罰動議は無効となり、町議としての地位は回復します。2020年9月には、虚偽の事実の書籍を出版して名誉を棄損したことと、町議会議員に立候補するにあたっての居住実態が無かったことから、リコール運動が起き、圧倒的多数をもってAは解職されました。圧倒的多数でリコールが成立した背景には、Aの言っている暴行事件が、電子書籍に記載した内容と、刑事告訴をした内容と根幹部分で異なっていたことが、つまり電子書籍には事実に反することが書かれているということを刑事告発をしたことによってAが認めたことが大きな原因だと分析する町民が多いようです。

この一連の行動に対して著名人も含んだ支援者たちが、Aを支持し、草津町長ばかりではなく、草津町議会や、リコール投票をした草津町町民に対して攻撃を行い、デモが行われるほか、Aは外国人記者クラブでも記者会見を行い、この事件を世界に広めました。支援者の言い分は、現在では、町ぐるみで女性町議を強権で解職したというのは女性に対するいじめだということを根幹にしているようです。しかし、彼女らは当時はこのリコールに対して「セカンドレイプの町草津」と書いたプラカードを掲げて抗議していました。A町議のいう、町長室でレイプされたということを疑わないで信じたからそれがファーストレイプであり、リコールがセカンドレイプということになるはずです。

ちなみにAは、電子書籍に記載したことの根幹部分が虚偽であることを民事訴訟において認めています。

結局、町長は、根も葉もないことで、町長室という公的な場で、女性に性暴力を行ったということを世界中に広められてしまい、あらぬ疑いを各方面からかけられてしまったわけですから、著しい人権侵害が起きていたことは間違いありません。町政を混乱に陥れられたということも事実だと思います。さらに、「セカンドレイプの町」ということで、大々的に抗議をされて、温泉という観光業が主力の町は大ダメージを受けたことも想像に難くありません。一人の嘘が、多くの人たちに大きな損害を与えました。

この被害が拡大した要因こそが、冒頭の文章のような無責任な被害者支援の手法だったわけです。追い込まれた町長らが自死でもしたならどのように責任を取るつもりなのでしょう。町長という高い地位のある人は犯罪者とされてしまうことで、自分の立場がジェットコースターのように下がるので高い自死のリスクが発生したことになります。

当然少し考えれば、もしAの主張が虚偽であれば、このような悲惨な結果が起こるだろうということは、頭が働く状態であれば容易に想定できることです。でもセカンドレイプの町とプラカードを掲げた人たちは、想定したとしても、同じことをしたでしょう。

これは、Aが被害者であるという主張から、弱者保護の本能が発動していたしまったことと、Aは仲間であり人間として尊重をしなくてはならないという強い考えが、町長は仲間ではない、肉食獣のようなものだという、仲間からの排除の意識が強く出てしまって、町長の心情や家族の心配、草津町の人たちに対する侮辱による精神的苦痛、経済的損害などということを配慮できなくなってしまった結果なのです。

現代社会においては、誰かを支援することは、誰かを攻撃することにつながることが付いて回ることかもしれません。特に、何らかの思想や信念に基づいての弱者保護行動は、思想や信念を共通にする群を守る意識が強くなり、反射的に敵対する人間を人間扱いできなくなるという傾向があるわけです。誰かを支援する立場の人はこのことを頭に入れて話さないことが必須条件となります。

支援者が対立当事者の間に入る時は、真実について自分は知らないという態度を貫いて、その上で今何をするべきかを考えるべきです。また、国や自治体は、自分たちの支援が、このような弊害が大きな支援ではないかということを早急に見直すべきであり、立法府、政治家はそれをただすべきです。

また、草津町議事件についても、抗議デモの弊害を拡大したのは一部マスコミにも大いなる責任があります。報道姿勢にも、真実がよくわからないという自覚を常に持ち続けて、罪もない加害者の人が苦しむ報道にならないようにくれぐれも注意するべき責任があると私は思います。





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いじめやパワハラは、助け合いや弱者保護と背中合わせだということ 組織の論理(排除の論理)と袋叩き反撃仮説と [進化心理学、生理学、対人関係学]



 もしかしたら、今あなたは、人間関係の中で、不当に低く評価され、あるいは仲間から外されそうになって思い悩んでいたり、そのために経済的にも苦しい思いをさせられている等生活が困難になっているかもしれません。この文書がそんなあなたの窮地を救うことにはならないかもしれませんし、気休めにもならないかもしれません。でも、どうして自分がそのような理不尽な目にあっているのか、あなた自身に問題があるとは限らずにひどい目にあっているということをわかっていただければという思いで書いています。そして少し心に余裕が生まれ、自分を大切にしてくれる人に目が向くことを願っています。

1 対人関係学はきれいごとではない

対人関係学として、これまで私は、人間の本質は、仲間を平等に取り扱おうとすること、仲間を助けようとすること、特に弱い仲間を保護しようとすること等にあるということを述べてきましたhttp://www7b.biglobe.ne.jp/~interpersonal/。このためきれいごとではないかと反発を受けることもありました。
しかし、このような人間の本質、本能があったため、今から200万年前から2万年くらい前まで続く「狩猟採取時代」という時代の過酷な自然環境の中で、戦う牙も爪もなく、逃げる足も羽もない人間が、肉食獣から身を守って生きることができなかった人間が滅亡しないで生き延びてこられたのだと考えています。
平等取り扱いや弱い者の保護をしなければ、弱い者から死んでいく環境です。すぐに頭数が少なくなって、肉食獣に襲われたり、食料を確保できずに飢え死にしたりしたはずだからです。
 それにしても、この考えがきれいごとだと感じるのは、現代社会ではなかなかそういう人間の姿が見られず、むしろいじめやパワハラ、ネット炎上など仲間を攻撃している人間の姿ばかりが目に付くために、人間がそんなに素晴らしい生き物ではないと自然と感じてしまうことは無理もないと思います。
対人関係学は人間万歳という学問ではありません。この世の社会病理行動がどのように起きるのか、どうやって予防をして人間が幸せに生きることができるかを考えています。狩猟採取時代は人間の心は人間の生き延びるための不可欠のツールでした。しかし、現代社会では、狩猟採取時代の心が残っているために、逆に人間が苦しんで、命さえも奪われかねないということについてお話ししていきます。

2  特に袋叩き反撃仮説。肉食獣に襲われて絶滅しなかった理由。

袋叩き反撃仮説とは、対人関係学の理論の大事な柱です。(詳しくはネット炎上、いじめ、クレーマーの由来、200万年前の袋叩き反撃仮説:弁護士の机の上:SSブログ (ss-blog.jp) ) 
狩猟採取時代、野獣から仲間の一人が襲わるということがあったはずです。一部の学説によると、仲間が襲われているのをなすすべもなく見ていたように描かれることがあるのですが、これは違うと思います。そこにいた仲間たちが野獣に対して怒りの感情がわいて無意識に反撃を開始して、仲間を救おうとしたはずです。ある程度大綱の高いヒトが何人かで総攻撃をすれば、野獣の方も自分の身を守りながら攻撃をしなければなりませんから、人間の反撃から逃げて行くことになったのだと思います。これが袋叩き反撃仮説です。
人間に限らず動物全般も、通常危険を感じた場合には、自分よりも強い者に対しては怒りではなく恐れを感じて逃げ、「勝てる」と判断した場合には怒りを感じて攻撃をして危険を無くすという行動パターンになります。いわゆる「Fight or Flight」という行動パターンで、これは一瞬のうちに無意識のまま感情がわいて行動が続いていくとされています。だから肉食獣に攻撃されたら、自分ひとりでは恐怖を感じて逃げるのが行動パターンです。しかし、人間の場合は、仲間がいる、あるいは仲間を守るという場合、無意識に怒りをわきあがらせて、戦うことを選択してしまうという本能があるようです。ほかの哺乳類も、母親が子どもを守る場合には、相手が人間であろうと捕食者であろうと、怒りをもって戦うという行動傾向を見せます。

こうやって、肉食獣たちに、人間を押そうと仲間から反撃されてしまい、自分の命もなくなるかもしれないという嫌な記憶を与え続けてきたことによって、肉食獣は人間を恐れる本能を受け継ぐことになったのだと思います。元々、比較的大型の動物である人間のフォルムと、集団行動をする不気味さももちろん人間を襲いにくくした要因であるとは思います。しかし、人間を無抵抗に捕食できるという体験があれば、やはり補色の標的にされて、食べつくされていたのではないかと思うのです。

この他狩猟採取時代の、言葉の無い時代に群れを作っていたのは、孤立や群れから排除されそうになる(群れから低評価を受けることが中核)と、不安になり群れにとどまりたいと感じてしまう心とか、仲間の弱い者を保護しようとする心とか、群れの権威(群れの共通価値、必ずしも人間とは限らない)に従おうとする心(詳しくは「迎合の心理」 遺伝子に組み込まれたパワハラ、いじめ、ネットいじめ(特に木村花さんのことについて)、独裁・専制国家を成立させ、戦争遂行に不可欠となる私たちのこころの仕組み :弁護士の机の上:SSブログ (ss-blog.jp))、近くにいつもいる人を仲間だと感じる単純接触効果などがあります。このような心理状態を感じることができた大きな要因は、人間にはミラーニューロンが発達していて、他者の感情を自分の感情であるかのように感じる能力(共感力)が大きいということにあります。また当時の環境が生涯一つの群れだけで生活し、みんな顔見知りであり、少ない食料を分け与えて生き延びる運命共同体だったという環境に起因したと思います。

そうすると、袋叩き反撃仮説の反撃者の心理は、「仲間が肉食獣に襲われて、死の危険を感じての恐怖を抱いている。自分が死の危険を感じているときと同じ危険を感じている。しかし、襲われているのは自分ではなく、自分の外にも反撃する仲間がいる。だから、自分たちは野獣に勝てる。野獣に対して怒りを覚えて攻撃をする。」という一連の行動を、おそらく意識に上ることなく始めていたのだと思います。仲間を助けるために無我夢中で気が付いた攻撃に参加していたという具合です。襲われている方も、仲間がいるのだから自分を助けようとするはずだという心理状態になっていたと思われます。

3 現代社会に続いている狩猟採取時代の心

現代でも、人間の脳は進化していませんから、狩猟採取時代の心という群れを作るシステムは受け継がれています。平等取り扱いであれば、不平等や差別があれば、程度は憤激からモヤモヤまでバリエーションはあるとしても、善くないという気持ちになります。弱者保護ということに関しては、小さく弱い者に対しては「かわいい」という感情がわいてきます。これは保護の行動を起こさせる感情です。本能にかなう行動は、大雑把に言えば本能的に「善いこと」という感覚を持ってしまい、自分が「善いこと」を行うと充実した気持ちになるし、他人が善いことをするのを見ると、ほっとする気持ちや、感動をしたりするものです。どうしてこのような感情になるかというと、こういう感情になる人間の先祖だけが群れを作り生き延びることができたので、それがその子孫である私たちに遺伝子で受け継がれてきたとのだと思います。

現代社会は、環境が大きく変わりました。この環境の変化に起因して、かつては人間を生き延びらせた群れを作る本能が、パワハラやいじめを引き起こしてきていると考えます。

かつての狩猟採取時代の環境と異なる二つの大きな変化は、狩猟採取時代は一つの群れで生涯を終えていたのに、現代社会は複数の群れに同時に帰属すること、例えば家族、学校、職場、地域、あるいはSNS、ボランティア団体、趣味のサークルから、お店の店員と客、道端で目があった人等、相手を助ける関係になる場合がある人間や傷つける場合がある人間関係全てを考えると私たちは無数の人間関係に帰属していることがわかります。もう一つの変化は、多数の群れに同時に帰属するということから必然的にかかわりあう人数も莫大なものになっているということです。何百万年かを要して、人間の脳は進化したとはいえ、個体識別できる人数は概ね150人程度だとされています。その程度の人間としかかかわりを持ってこなかったので、進化がそこで止まっているわけです。
人間ではあり、自分のすぐ近くに存在しているにもかかわらず、あるいはしょっちゅう一緒にいるにもかかわらず、「仲間」だと認識できない人間が現代社会では登場しているのです。これは人間関係の希薄化の意味でもあると思っています。中島みゆきさんの「帰省」という歌の歌詞には、人は多くなるほどものに見えてくるという一節があります。見事に現代社会をとらえきった詩人の感性の鋭さには脱帽するばかりです。
このような環境の変化は、複数の人間関係の間のバランスをとることを必要とします。しかし、複数の人間関係に帰属するようになったのは、ここ1万年くらいにすぎず、脳が進化するにはあまりにも短い時間です。だから、例えば家庭と職場で、バランスをとって生活するという発想が持ちにくく、真面目な人ほど職場で全力投球をしてしまい、家庭では体力的意味でも、心理的余裕という意味でも余力が無いというような、不具合も生じてしまうわけです。人間はマルチに物事を考えることが苦手だということです。そのように脳は進化していません。このため、他の人間関係の不具合によるストレスを八つ当たりで発散しようとしてしまうわけです。

4 いじめやパワハラの「正義感」の構造

最近は熊の被害が報告されていますが、都市部では肉食獣が人間を押そうということはほぼないと言ってよいでしょう。山間部でも今年が例外的なことだとのことです。野獣に対して袋叩き反撃をする機会が無くなっているようにみえます。

しかし、この本能は、肉食獣ではなく、人間に向けられており、これが多くのいじめやパワハラの正体だと思っています。説明します。

仲間を守るということで群れを維持していた人間は、仲間以外は敵だとみなして攻撃の対象としていた可能性があります。現代でも、ジャングルの奥地などに住む他の種族と交流のない人たちは、よそ者がテリトリーに入ると怒りをもって攻撃をしていたと言います。その人たちにとっては、仲間以外の人間は敵だと認識し、脅威を感じて、攻撃して自分たちを守ろうとしたわけです。彼らにとって文明人を攻撃することは、自分たちを守ることであり、「善いこと」であり、正義という認識です。

群れを守るということは、本能に合致することですから、「善いこと」であり、正義感を呼び起こすことです。群れを害する者は、人間であっても、同僚や同級生であっても、攻撃して排除することが正義感だと思ってしまうメカニズムがここにあると思うのです。

これはおそらく狩猟採取時代もなかったわけではないのかもしれません。精神破綻した群れの構成員が暴れて仲間に攻撃をしたような場合は、もはや仲間という意識を捨てて、敵だとして排除したことは大いに考えられることです。

どこまで明確に意識をしていたかは不明ですが、当時の群れの共有している価値観は、究極的には群れの存続という低い内容だと思いますが、そのためのツールとしての心は、群れの仲間を大事にする、特に弱い者を保護するという形で究極の目的を達しようとしていたわけです。この心に反する行動をする者は仲間という認識を失い敵であると評価が変わり排除の対象となったのでしょう。

但し、この評価の転換は、その対象人物とは生まれた時から一緒にいた人間という記憶があり、かつては仲間として扱っていたこと等から、よほどのことがあったときにぎりぎり起きることだったと思います。

ところが現代社会の複雑化による人間関係の希薄化によって、仲間という認識が外されることはかなり簡単になったのだと思います。全員に不利益が無いようにすることは、かかわりあう人間の数が膨大すぎて初めから無理だと思ってしまうわけです。この考えは、人間が苦しんでいても、共感できなくなるという現象を引き起こすようになりました。

現代社会のいじめ、パワハラもこの点を理解する必要があると思います。いじめやパワハラをする人たちも、このような背景があるからこそ、職場の部下だったり、同級生だったりを、容赦なく攻撃することができる条件になっているということです。

群れの仲間から敵へ簡単に評価の転換が起きやすくなっているうえ、その群れの果たすべき内容が非常に高度になっていることから、果たすべきことを果たさないことに対して、「群れの仲間の足を引っ張る」とか、「群れに迷惑をかける」とか、「群れの構成員としての資格が無い」等という評価が下されやすくなってしまっているようです。

例えば学校では、授業中に変に体を動かしたり、集中をしていない児童がいたとしても、私のころは1クラス50人超の人数が詰め込まれていましたから、「そういう子どももいるな」ということでことさら問題視されることはなく、先生の気が向いたら注意をしたり、後で通知表に書き込まれたりということで済んでいました。現在は、それは障害だから、病院に行って治療を受けなければならないということになっているようです。成績の良い人間たちは、授業に出て出席数を稼ぎ、教師の話を聞くわけでもなく、授業中に教科書を読んで、問題を解いて自分で学力を上げていたので、同級生が何をしようとあまり気にならなかったと言います。今は、不規則な行動をする同級生に対して、イライラして、攻撃をするということが成績上位者には見られます。

例えば職場でも、何らかの不具合の結果が生まれると、後付けのような形で規則を持ち出して注意されるわけです。例えば課長の言うとおりに取引相手との交渉を進めていたのに、取引相手の都合で交渉が打ち切られたとしても、逐一報告をして相談をしなかったからだと叱責されるようなものです。年度目標を定めるときに抽象的な目標でよいとされてそう記載したところ、抽象的な文言から無理やりこじつけられて、求められる努力が足りないなどと低評価されるということもよくあることです。偶然的事情で査定が下がり、賃金が減額されるということは大企業では日常茶飯事ではないでしょうか。

このいじめやパワハラの「きっかけ」に着目すると、群れの目的が高度過ぎるという背景があるように思われます。群れの目的が人間が努力さえすれば容易に達成できることではなく、めいっぱい緊張して、運も味方につけてようやく達成できるかできないかというもので、構成員たちは日々一杯いっぱいの状態にあるということです。ただでさえ、人間関係の希薄化によって、他者を仲間だと認識することが困難になっているところに、ちょっと気を抜いたり、ちょっと運が悪かったりすれば、組織の目的を阻害する行動だと評価されてしまうような人間関係になってしまっているのだと思います。だから、組織の中で、人々は簡単に「悪」を認定され、その悪を正すことは、「善きこと」という意識が起きやすくなっているのだと思います。「悪」に対して、具体的な修正方法をレクチャーすることもできないししないので、「悪」と評価して切り捨てて敵として攻撃するという安直な行動に出てしまうのが、パワハラやいじめの「きっかけ」で、それは、人間関係の希薄化と組織の目的の行動かによって、実に些細なことがそのきっかけになりやすくなっているというのが現代日本の状態なのだと思います。

5 ひとたび始まったいじめやパワハラが強烈になる理由

いじめやパワハラは、きっかけとその過酷さは、別々の原因がある場合が多いことに注目するべきだと思います。

いじめやパワハラは、何もきっかけが無ければ起きにくいのですが、一度始まってしまうと過酷な攻撃になりやすいという特質があります。この他者への攻撃が過酷になる原因のほとんどは、八つ当たりです。つまり攻撃者が、自分が別の人間関係で追い込まれているために危機感を感じていると、その危機感をはねのけたいという感情が生まれます。危機回避の方法は逃げるか戦うかですが、その当初の危機感を与えた原因は大きなもので、親とか学校とか社会とか、あるいは上司とか社の方針であるとか、取引相手とかのために、怒りと攻撃で乗り切ることができません。そうかといって逃げ出すわけにもいかないので、耐えているしかありません。これでは、危機回避の要求ばかりが高まっていきます。ひとたび些細なことで、攻撃のターゲットを見つけていじめやパワハラを始めると、別の人間関係で生じた危機回避の要求の肥大が、そのターゲットへの怒りのエネルギーとして攻撃を行い放出されるようです。

実際のパワハラ事例では、上司や会社からのノルマ達成への圧力がパワハラの大きなエネルギーになりましたし、他の職場では和やかに仕事が進んでいたのに当該職場だけ店長がパワハラを行っていた原因として、家庭の不和があったということがあります。学校でのいじめは、進学に対するプレッシャーがエネルギーになっている事例が多く、偏差値の高い学校を受験するような生徒がいじめを行うということが少なくありませんでした。

このような、何らかの人間関係の圧が強すぎたり、人間関係の圧に対する抵抗力が少なかったりという理由から、圧を強く感じてしまい圧からの解放要求が強くなると、近くにいる人間の些細なことを口実にいじめやパワハラが大きくなっていくこともありうることだと思います。特に正当な根拠が無くても、こじつけて攻撃するということがあります。特に「なんとなく虫が好かない」というような嫌悪感や不快感が口実になる場合は、理由をでっちあげて攻撃を開始するということも見られます。

6 さらに不合理ないじめやパワハラの構造

いじめやパワハラは不合理ですが、さらに誰がどう見たって不合理だといういじめ、パワハラも少なくありません。それは以下のような構図、人間の本能を利用して成立していることがあります。

先ほど、群れを作る人間のシステムとして、「権威に従おうとする心の傾向、弱い者を守ろうとする心の傾向」を挙げました。このいわば人間の本能に由来するいじめも少なくありません。特に大人のいじめに多いようです。

典型的なメカニズムは、群れの権威者が、群れの中で自分よりも権威が上になりそうな相手に対して危機感(権威が無くなるという危機感)を感じ、その新権威候補者を貶めようとするわけです。それこそ、些細な事情、見解の違いがさも「悪」であるかのように、突如新権威候補者の非難を始めます。その話を周囲は熟慮の上賛同しているわけではありませんが、権威者に同情して権威者を支持してしまうという人間の共感力に基づく本能と、権威者が弱さを見せたことによって権威者を保護しようという本能が、特に詳しい打ち合わせもしないで、あたかも意を通じ合っているように、権威者の新権威候補者に対しての攻撃を見て見ぬふりをしたり、加担したりするということが起きます。

ひとたび攻撃が開始され、攻撃が継続しているという既成事実ができてしまうと、態度を変えて、「やっぱりその攻撃はまずいのではないか」と思わなくなるようです。攻撃を継続し、それになんとなく取り巻きも巻き込まれてしまうと、徐々に取り巻きの心も、新権威者候補に対して怒りを覚えてきて攻撃を是認し、その攻撃を内省することができなくなるようです。つまりこの時点で、新権威者候補は組織にとって「敵」であり、仲間ではなく、配慮や尊重の必要が無いと勝手に感じてしまうようです。行動を継続すると、心もそれに沿って変改しているようです。そして、ここまでやるかという相手に対する配慮の無い攻撃を組織的に始めていくわけです。

攻撃する仲間の共同行動によって、勝てるという意識が強くなり、相手が消滅するまで攻撃を続けます。相手はもはや人間ではなく、肉食獣と同じ仲間に危害を与える存在ですから、容赦のない攻撃が加えられ、排除が完成するまでそれは続き高まっていきます。ひとたび怒りに支配されると、相手が弱ればもういいだろうという気持ちにはなかなかならないようです。ゴキブリを見た場合、殺虫剤をかけたり、叩き殺そうとするわけですが、弱っていても少しでも動こうとする姿を見ると、さらに息の根を止めるまで怒りに任せた攻撃をするのですが、それと同じです。

権威者を守るということが、組織を守るということと同じ意味だと本能的にはとらえてしまうので、攻撃は「善きこと」正義になってしまうので、歯止めが利かなくなります。

こう書くと猿山のボス猿の時と同じかというと、それは違うと思います。自然界の猿山の群れは、基本的には雌猿とその子どもで構成されていて、ボス猿だけが大人の雄だそうです。この場合はボス猿が自らを守ろうとするのは、排他的生殖の権利を守ろうとしているわけです。しかし、人間は猿と異なり、男女が同じ群れで生活するように進化しています。犬歯が小さくなっていることが、女性をめぐって仲間同士が争うことをやめた証拠だとされています。
あくまでも組織を守ろう、権威を守ろうとする人間特有の心というシステムのゆがみに基づくものだと思います。

環境と心のミスマッチとはいえ、冷静に観察するととても醜い行動であると思います。当然、心権威候補者は何が起きているのかわからず、自分をかえりみても非があったとは理解できず、修正方法が思い浮かばないので、なまじ群れに帰属しようという本能があるため、精神打撃はとても深くなってしまいます。絶望を抱いても何らの不思議もありません。

7 まとめ
仲間を守ろうとするはずの本能がいじめやパワハラに転化しやすくなる環境
1)複数の群れに同時に帰属し、150人以上の人間と何らかのかかわりを持つ複雑な社会である現代社会
2)組織の要求度が高く、構成員の緊張が高まっていること
3)組織の要求度に合致しない行動に寛容が無い雰囲気
いじめやパワハラが激化しやすくなる環境
4)他の人間関係において不具合を抱えてストレスが高じている場合
5)相手が弱く抵抗を想定しなくてよい場合(相手を弱めてから攻撃する場合もある。)

さらに不合理な組織の論理
6)権威者が特定の個人になってしまっている場合(構成員の意識の問題であり、組織の定款や規約などの記載とは別の問題)
7)組織が攻撃にさらされやすく、構成員が組織を守らなければならないという意識が高まっている場合で、特定の権威者を守ることが組織を守ることだと自然に感じてしまう環境
8)組織が構成員の経済的な条件となっていたり、構成員が生きることを支えているような求心力の強い組織である場合

このような場合は、組織の権威を守るため、本能的に組織の構成員はターゲットを攻撃し、容赦なく排除しようとする。その人の人生や他の人間関係や生活については何らの排除もしない。まさに袋叩き反撃が行われてしまう。
組織の外に向かっての反撃もある。



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世にいう「複雑な社会」とは何なのか。社会病理の行動決定理論結論部分 [進化心理学、生理学、対人関係学]



離婚、自死、犯罪その他の社会病理の行動決定理論を検討してきましたので、そのまとめをいたします。

1 人間の行動決定は十分意識して行われるものではない。

人間の行動決定は、社会病理に限らず、無意識に行っていることがほとんどである。行動の前に、この行動をした時に「自分がどのようなデメリットやそれに見合うメリットがあるか」ということを十分に検討しないで行動をしてしまっていることが多い。行動を開始し、あるいは行動を終了してから、自分が行動をしていたことに気が付くことが少なくない。

2 意識しない行動なのに、多くのケースで問題行動を起こさない理由

意識によって行動決定をしないにもかかわらず、人間の行動が社会秩序の範囲内の行動をしているように見える。その理由は、人間は本能的に他の人間から攻撃されたり、否定されたりせずに、人間の輪の中にとどまっていたいという本能があるということがとても大事なポイントである。脳科学者のアントニオ・ダマシオが発見した「二次の情動」というものがある。「一次の情動」とは、命や安全などにかかわる情動で、危険を覚知すると、その危険を回避しようとする行動決定を無意識のうちに脳が決定するものだ。怯え、怒り、喜び等の感情を伴う。この一次の情動と同じように、人間関係の中で自分が低評価を受ける(究極には排除される)という危険を感じると、その行動を無意識のうちに修正するのが二次の情動である。二次の情動が健全に働いていれば、人間関係の中で自分が他者から低評価を受けるような行動をするという選択肢自体が、無意識に排除される。だから、人間は十分にものを考えて行動決定をしなくても、他者から低評価をされるような行動を行わない。

十分な検討をしないため、「群の論理」に従って、群れから低評価されたり排除されたりしないように行動をしていることになる。社会心理学で論じられる「服従の心理」は、私から言わせれば群れの権威の意思決定に迎合するという「迎合の心理」である。いつも近くにいる人に親近感を覚えて、敵対しない単純接触効果も「群れの論理」で説明できると思う。

3 二次の情動、群れの論理が働かなくなる場合

このように、本来人間は、社会的評価を下げるような行為や仲間と敵対する行為は行わないはずなのに、様々な社会病理の行動を人間はしてしまう。これはどうしてなのか。どうして二次の情動が選択肢を排除してくれなかったか。

二次の情動が働かなくなる典型は、アントニオ・ダマシオが「デカルトの誤り」の中で分析していたとおり、二次の情動をつかさどる、前頭前野腹内側部が損傷したり、腫瘍で圧迫され機能しない場合だ。しかし、社会病理はこのような脳の不具合が無くても起きる。それは、既に何か別の事情で一次の情動や二次の情動が発現されてしまっているために、新たな(後発の)二次の情動が発現しにくいという事情になってしまうということだと考えている。

例えば、肉食獣から命からがら逃げようとしている場合、怖くて逃げるという情動行為がすでに発動されているために、他人の敷地に入り込むとか、敷地内のものを壊すことを厭わない状態になっている(一次の情動が既発で、二次の情動が発現できない)。あるいは、職場で無理難題を上司から言われて、それに従わなければならず、自分の評価が不合理に低いことで二次の情動が発現している場合、家庭で八つ当たりをしてしまう(二次の情動が職場の関係で発現しているために、家庭では二次の情動が発現しにくくなっている)。

これは、痛みの部位が複数ある場合もっとも痛い部分だけに痛みを感じるという「側部抑制」を応用した。もちろん、一つの情動発現が先行している場合に、必ず後発の情動が発現しないというわけではない。しかし、発現しにくくなるということはあるのではないかと考えている。

4 二次の情動が発現する事情が重複する場合、どの群れを優先するのか、優先の基準は何か

会社のことで思い悩んで自死が起きた場合、家族のことをそれほど大事に思っていなかったのかという形で問題になる。
これはどうやら違うようだ。この事例での結論を言えば、「たまたま二次の情動が職場で発現していたために、家庭に関する二次の情動が起きにくくなってしまっていた」ということにすぎないのだろうと考える。

職場で苦しんでいると、家族に苦しみを与えるようなことを思いとどまるということができなくなる理由こそ、人間の脳が複雑な社会に対応していないということを端的に表している。

5 複雑な社会とは何か

複雑な社会とは何かということを考えるにあたっては、単純な社会とは何かということを考えることが早道だと思う。単純な社会とは、①一つだけの群れに所属して生涯を全うできることと、②人間の脳が他人の個体識別が可能な人数である150人以下の人間とだけかかわりを持っている社会を言うと考える。つまり、約200万年前、人間が心を獲得したころの生活環境である。人間の脳は、このような単純な社会で、情動や感情で行動をすれば事足りるように、進化の過程で作られた。群れの権威に迎合して行動し、いつも一緒にいる仲間を大切に扱えば、それ以上の心も言葉も不要だった。この環境に合わせて脳の働きが作り上げられた。

そうすると複雑な社会とは、対立する可能性のある複数の群れに同時に所属し、150人以上の人間と関りを持つという社会環境だということになりそうだ。

6 複雑な社会環境と人間の脳(心)のミスマッチ

複雑な社会環境で起きる解決するべき問題は、人間の脳では対応が不可能な問題なのだと思う。だから、職場でのストレスを家庭に持ち込んでしまったり、見ず知らずの人の店で自分の利益を図るために万引きをしてしまったりする。仲間と調和的な関係を結ぶことができず、近しい仲間と争いごとが起きたり、仲間を食い物にして自分の利益を図ることが可能になってしまう。

逆に、職場の人間関係なんて、その他の家族という人間関係や、友人という人間関係等と比べると、それほど大事にしなくても良いはずだという考えもありうると思う。しかし、職場の人間関係で不具合が生じ、対応することができないで思い悩むと、あたかも世界中から自分は孤立しているかのような精神的ダメージを受けてしまう。200万年前の心ができた当時は、一つの群れしかなく、およそ群れから低評価を受けることや孤立することは、この世の中で孤立することを意味したため、そのように感じてしまうのだ。これが環境と脳のミスマッチの一例だ。

情動が高まってしまうと、本当に考えなければならない人間関係を大切にするための方法などということは考えようとすることさえできなくなるようだ。

7 二次の情動を阻害して社会病理の行動を選択してしまう事情

二次の情動の発現を阻害して、自死を思いとどまることができなくなったり、犯罪を実行してしまったり、離婚を決断してしまう要因はいくつかある。それは個別に検討してきた。
特に気にしなくてはならない事情の1番目は、二次の情動を高める事情だ。どこかの人間関係において、自分が低評価を受けていること、特に理不尽な低評価であり、その低評価を覆す方法が簡単ではないことが、職場での二次の情動を高めてその他の人間関係での二次の情動を出現しにくくなる事情のようだ。

事情の2番目は孤立である。1番目の事情も自分に味方がいない状態だから、広い意味での孤立かもしれない。ある一つの人間関係で孤立しているにすぎず、他の人間関係では受け入れられているとしても、受け入れられている人間関係を第一のものとして大切にして、不合理な評価をする人間関係を切り捨てることができなくなるようだ。

事情の3番目は睡眠不足だ。上の1番目の事情や2番目の事情が起こると睡眠不足にもなります。睡眠不足になると、被害意識ないし危険と感じる度合いが強くなるうえ、悲観的な発想になりやすくなるということもありそうです。ますますものを考える力が無くなるとともに、二次の情動もゆがんだ形で表れてくるようです。

すぐに全世界の人間が一つの群れのように相手を思いやって、尊重して、配慮して、助け合うということは実現不可能だと思う。

応急処置としては、家族等安心できる基本的人間関係をつくり、他の人間関係の状態がどうあっても、この基本的人間関係において安心できるという意識を徹底して意識づけを行うという対処方法が考えられる。

なぜ家族が理想化というと、そこが帰る場所であり、夕刻から朝方までの副交感神経が優位になる時間帯に一緒にいることが多く、利害が対立しずらく、永続する人間関係になりやすいという特質があるからだ。必ずしも家族がそのような形態になっているわけではないが、全世界の人間の意識づけをするよりは、はるかに対処できる方法であると考える。

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行動決定の原理 1 総論 人間は考えて行動しているわけではないこと 意識の生まれた時期と原因、意識とは何か [進化心理学、生理学、対人関係学]



第1 人間はできるだけ考えないようにする動物であり、考えて意思決定しているわけではないことを仕事柄感じていること
第2 情動(一次)による行動決定
第3 二次の情動
第4 意識の始まり
第5 情動の側部抑制

このシリーズ考察の最終目的は、人間の行動決定原理をある程度明らかにして、自殺、犯罪、離婚をはじめとする社会病理の行動を予防する効果的な方法を考えることです。

第1 人間はできるだけ考えないようにする動物であり、考えて意思決定しているわけではないことを仕事柄感じていること

私の仕事としては、自死の原因を後追いで調査し検討すること、犯罪の起きた原因を考えて再び犯罪を行わないためにはどうしたらよいかをその人と一緒に考えること、そして離婚に至る原因を考えて離婚を予防して、あるいは家族をそれぞれに適した形で再生させて、子どもたちが両親のもとで成長することを可能とすることが中心になっています。

私の仕事は、人の行動決定を見つめて考えていることだと言えるような気がします。

結論めいたことを先に言うと、人間は、そのような重大な行為を実行するにあたって、「それほど分析的に熟慮をして行動決定するのではなく、様々なことを考えないで一つのことに支配されて行動決定を行って行動する」ということ、そして行動をした後で自分の行動に気が付くということが多いのではないかという感想を抱いたのです。約30年の弁護士の仕事の中で、自死問題については未遂の人からの事情聴取や自死の現場の状況から、犯罪については刑事弁護を担当する被疑者被告人からの事情聴取や捜査資料、あるいはこれから自首をする人たちからの事情聴取、離婚については両当事者から事情を聴いたうえでの結論です。

例えば犯罪どうして犯罪を行ってしまうのでしょう。犯罪をすると広く報道されてしまい、自分のしたことを知られてしまったり、損害賠償を請求されたりする危険があります。そういう不利益があるのにどうしてその犯罪を実行したのかについて本人から話を聞くと、「そこまで考えていなかった」ということが多いです。また「気が付いたら罪を犯していた」という回答も実に多いのです。自死未遂者の人たちからお話を聞くと、この場合も当然考えての行動だろうと第三者が感じることを「考える余裕が無かった」ということが多かったです。離婚や別居についても、離婚後のお金の問題や子どものことをはじめとして熟慮するべきことが考えられていないことも少なくありませんし、離婚を回避しての修復の方法などについても考えていないようです。

様々な心理学実験によって、「人間は、熟慮をして分析的に考えて行動決定をしているのではなく、その時々の外界の刺激によって、自分が気が付かないうちに行動決定をしている」という知見が示されています。

いつも近くにいる人が仲間だと思ってしまう「単純接触効果」、質問の表現によって回答を誘導されてしまう「フレーミング効果」をはじめとして、ダニエル・カーネマンらが一群のヒューリスティック思考をまとめています。十分に考えないで即時に結論を出してしまい、かつ他人を信じてしまうというのが人間のようです。

それにもかかわらず私たちは、人間何か行動をする時は、①十分考察した上で判断して、判断資料に基づいて②自由意思で行動決定を行って、③行動を開始していると考えています。そうではないことが多い、私たちの常識は実は科学的ではないという科学の結果から考察が始まっています。これまでの考察が、上記①,②、③の人間像を前提にして考えられているので、原因論や対策論が間違っているのではないか、その前提を否定して新たな行動決定原理を作ってこそ、正しい分析が行われ、効果的な対策が構築できるかもしれないということです。

第2 情動(一次)による行動決定

ではどのような過程を経て行動をするかということについて、「情動」という概念と、「情動」の中でも「一次の情動」と「二次の情動」というものに突き動かされて行動決定しているということをお話しします。

情動は「エモーション」の訳語です。「エモい」という言葉の語源ですね。ほぼ「感情」と同じ意味ですが、感情については無感情があるけれど、情動については無情動が無いことが違いだなどという説明もなされることがあります。

情動は、それによって行動をする心の動きというイメージになると思います。アントニオ・ダマシオという脳科学者は、情動には今まで知られていたもののほかに、二次の情動が存在するということを明らかにして(「デカルトの誤り」)います。二次の情動について理解するためにも、先ず一次の情動についてお話しします。

一次の情動による行動決定は、私たちも理解しやすいと思います。
危険が迫ってきたことを示す情報を脳がキャッチして、怖いと思って、逃げるという場合、怖いということが情動の一つであることがわかります。歩いていたらスズメバチが飛んでいるのを見て怖いからそちらの方向に歩くのをやめるとか、何かの物体が飛んできて自分に近づいてくるのを見て腰をかがめてよけるとかということが典型です。

危険が迫ってきたことを脳がキャッチして、怖いとは思わないけれど不快だと思った場合は、怒りを感じて、攻撃を行います。怒りが情動の一つとなります。ゴキブリが出てきたので、殺虫剤をかけたり潰したりして攻撃するということですね。
逃げるか戦うかということが最も基本的な情動による行為です。

その他にも、森を歩いていて甘い果物を見つけて取って食べるというのも喜びの情動とでもいうのでしょうか。そういう報酬系での行動を起こさせる情動もあるわけです。

情動に基づく行動は、意識が介在する余地はありません。反射が典型的ですが。反射以外の情動行為もあるわけです。野生の熊が遠くに見えたので、反対方向に逃げるということも情動に基づく行為でよいと思います。本当はこの場合も、意識的に逃げ道を選択したのではなく、実際は反射的な行動みたいなものかもしれません。ただ、ここでは、情動が高まりすぎると意識は介在しにくくなり、情動が鎮まると意識が介在しやすくなると言っておこうと思います。

この一次の情動による行動は、人間が生きていく上で必須な行動決定様式です。スズメバチが近くにいて分析的な熟慮をしているうちに刺されてしまわないように、即時に決断をすることが有益であることはお分かりだと思います。知識が無くては生き残れないというシステムよりも、本能的に怖いと考えて逃げるという行動パターンが自動的に出てくる方が身体生命の安全にとっては、効果的なわけです。

特にこのような情動による行動の場合は、行動決定を行う前に①脳が行動を起こしており、脳によって既に逃げるという行動が開始されて②そのあとに逃げようと自覚して、③逃げるというパターンになるようです。意識は、あくまでも「①自分が危険を意識して、②逃げる意思決定をして、③逃げる意識決定に基づいて逃げる行動を開始した」というもののようです。脳が勝手に逃げ出したということは通常自覚できないということです。
脳の行動開始から自覚までのタイム差は0.4秒くらいというのが、リベットという人たちの実験結果であり、その後の実験でも検証されていることです。

個人的にそれで合点が行った出来事がありました。長い直線道路を自分で自動車を運転していたのですが、前を走っていた車両が急に停止してしまったのです。どうやら右折をすることを直前で思いついたようです。これからブレーキを踏んだところで止まって衝突を回避することは到底間に合わないので、私は、自分では衝突してしまうだろうと思っていました。しかし、自分が考えるより先に、思い切りハンドルを左に切っていて衝突どころか接触も避けることができました。自分でハンドルを切るという意思決定をしたという意識があまりありませんでした。自分ができる以上にハンドルを回したので、しばらく肩がとても痛かったです。私は、亡くなった父親や義父が私の腕をもってハンドルを切ってくれたのだと考えて感謝することにしました。しかし、リベットの実験を踏まえると、様々な要素を目で見て脳がキャッチして、最も合理的行動を選択してその通り実行したという無意識の行為、脳が勝手にした行為だと言われれば合理的な説明がつくことに初めて気が付きました。感謝はし続けますが。

このように熟慮をしないで情動に基づいて無意識に行動することは、現代社会においても生きていくために必要なシステムだと実感した次第です。

第3 二次の情動

二次の情動について、アントニオ・ダマシオは「デカルトの誤り」の中で、鉄道敷設の際の事故で頭蓋骨に鉄パイプを貫通させてしまったけれど生きていた男性の分析から、鉄パイプで損傷した脳の部分(前頭前野腹内側部)は、二次の情動を起こさせる脳の部分であるということを解明しました。

脳の部分的欠損によって、周囲と協調して温厚に生活することができなくなり、節度を保てなくなったり、利益にばかり目を向けて損をする確率を度外視してしまう傾向になったりという不具合が生じたと結論付けました。これは二次の情動が機能不全になったために起きた変化だというのです。

私は「二次の情動」とは、結局人間が群れを作るための情動なのだと考えています。人間は言葉を使う前から群れを作っていたわけですが、どうやって群れを作ることができたのかというと、この二次の情動があったからということになるのだと思います。厳密にいうと二次の情動があった個体群だけが生き残ることができて、生き残った人間という種の共通特徴になったということです。言葉を変えれば、突然変異が結局遺伝子に組み込まれたという結論になるのだと思います。

群れを作る動物はたくさんいます。水族館でみるイワシの大群の群れは光を浴びてキラキラと輝きとても美しいものです。この群れはイワシが「群れの内側で泳ぎたい」という本能があるために形成されているようです。何らかの群れを作る目的意識があるわけではなく、本能的な問題だそうです。馬は群れの先頭に立って走りたいという本能があるそうです。だから群れで逃げると先頭を競って早く逃げることができるようです。

人間にもこのように結果として群れを作るための本能があるわけです。つまり、
・ 群れから離れて孤立することに重大な危険の意識(不安)を感じる
・ 但し、群れにいても、群れから仲間として認められていない兆候を感じて不安になる。例えば低評価、攻撃を受けることの容認、排除の意思表示を受けること、自分に対する不合理な扱いを仲間が容認すること
・ 群れの中で尊重されると安心する
・ 自分が尊重されるべき存在だと思うと気持ちが良い。例えば群れの役に立つ行為をする。群れの仲間を助ける。群れの敵を駆逐する。
・ その結果不安が起これば原因除去のため自分の行動を修正するし、尊重されるべき自分が納得できる理由がなく否定評価されれば絶望するということが起きるようです。

これらの不安と不安に基づく行動修正は、一次の情動の発現パターンと一緒です。つまり、蜂に刺されないように蜂から遠ざかるように、自分が他者から嫌われないように自分の利益のために他者に損害を与えることをしない等という本能的行動だということになります。

これらのパターンは人間だけでなく、群れを作る動物においてある程度共通している可能性があります。但し、行動を完全に遺伝子でプログラミングされているような動物では、そもそも二次の情動を起こすような行動(群れから自分の評価が下がる危険のある行為)は行わないようにプログラミングされているのかもしれません。人間は個体の自由度を上げる代わりに、不安という心を作り、群れにとどまらせようとして群れを形成したと考えています。

人間が群れを作るようになったのは、他の群れを作る動物よりもだいぶ遅かったということになるでしょう。元々長い間個体として、群れを作らないで生活していたのに、ある時期から突然変異で二次の情動が活発となった個体群が増加して、群れを作るようになっていったということかもしれません。人類がゴリラの共通祖先から分かれても1千万年は経っていないようです。そのため、群れにいればそれでよいというわけにはゆかず。個体として生きたいという気持ちがどこかに色濃く残っているのかもしれません。

人間が群れを作るために他の動物と大きく異なることは、他者(仲間)に対する共感力、共鳴力が強いということです。「ミラーニューロン」という仲間のマネをしたいという、マネをすることを上手にさせる神経系が、仲間の感情を的確に把握して、仲間の言動、態度から不安を感じさせたり、効果的な修正行動を思い浮かばせたりしているようです。

また、人間の心が生まれた200万年前の群れの環境(狩猟採取時代)が、二次の情動を起こし、共鳴共感を活発にすることでメリットだけがあり、デメリットが無かったことが支えになっていると思います。進化人類学の知見では、当時(狩猟採取時代)は、人間は生まれてから死ぬまで一つの群れで過ごしており、その人数は平均すると150人くらいだったと言われています。他者の個体識別ができる人数が脳の白質(頭蓋骨の大きさと形)から割り出されるそうです。

つまり、自分以外の人間は、全員生まれながらの付き合いであり、一人一人にそれなりの個性があったとしても、相互に知り尽くしているわけです。ミラーニューロンも強かったことがさらに理由となり、他者の情動は、自分の情動としてとらえ、他者が困っていたら助けていたことでしょう。仲間意識は極限まで強く、極端に言えば自分と他人の区別がつかないほどだったと想像できます。野獣に襲われればみんなで反撃したでしょう。誰かに損をさせて自分だけ得をしようとそもそも思わなかったし、そういう行動をしてしまうと仲間から攻撃されたことでしょう。群れに対する依存度も高く、群れから排除されることは死に直結することはそれほど考えなくても理解できていたと思います。まさに運命共同体であり、それが可能な人数だったということです。

二次の情動も情動ですから一次の情動と同じように、十分熟慮しないで行動に移せるようにプログラムされていたということになります。

第4 意識の始まり

150人の単一の群れで生活していた時(「狩猟採取時代」と言われます。)は、情動によるプログラミングされた行動だけで十分生存することができたと思います。何か行動を迷うとか、熟慮が必要な判断を迫られるということはなかったからです。仲間は、自分にメリットをもたらすだけの存在だということに疑う必要もなかったと思います。仲間を信じて、後は情動に任せて生きて行けばよかったと思います。

狩りをする時には、自然とリーダーが生まれ、その人の言いなりに行動をすればそれでよかったし、そうしなければいけなかったので、個々人はリーダーに迎合すればよく、リーダーの指示を自分の頭で検証する必要もなかったわけです。

それでも他の動物よりも比較的遅く群れを作り始めた人間は、時折、小さな疑問や葛藤を生じさせていたかもしれません。

「あれ、こっちから回り込んで追い詰めようと思ったのに、そっちから行けと言われちゃった。」とか、「自分の行動が一番貢献度が高いはずなのに、自分の子どもへの分け前が少ないのではないか。」とか、一瞬の疑問、わだかまりというものは存在していたのではないかと想像しています。でもそれは、二次の情動によって、明確な意識とか疑問になる前に消失していたのだと思います。しかし、遺伝子に残された個体単位で生活していた時の記憶という方があったことはとても大切なことです。いくら突然変異と言っても、何もないところから突然意識が生まれたというのは無理があると思います。

この萌芽を元に意識が生まれて、発展していったのだと思います。
今から1,2万年前に、人類が農業を始めて、比較的狭い場所で150人を大きく超える人間と関りを持つようになり、同時に複数の群れが共存するようになったことをきっかけに意識が生まれたのだと思います。

意識に先行して、あるいは相互に影響しあって、言葉が生まれたのだと思います。それまで共感力、共鳴力、仲間意識と慣行とリーダーの権威によってすべて事足りていたのですが、複数の仲間が共存する場面では一人のリーダーの権威では解決しづらい問題が生じたはずです。また、ルールを定めて争いを無くして共存するためには、ある程度の期間、ルールが持続する必要があります。共通理解するために言葉(数字を含む)が必要になり、生まれたのだと考えています。
そして言葉を使って意識が生まれてきた、あるいは大きくなってきたのではないでしょうか。つまり、Aというグループにいる自分が、Bというグループとの利害調整のために行動をしなければならないという事案がたくさんできてきたはずです。その際に、双方が自分の利益だけを主張したのでは話がまとまらず、どちらかが死滅するまで戦いになってしまい、結局は人類は滅びてしまったはずです。人類は滅びませんでした。その理由は、どこかで調整をして、あるいは一方が他方を支配するという形で共存をしていくことができたからだったはずです。そうだとすると、共存の落としどころを探すためには、自分の利益、自分の情動だけでなく、双方にとって都合の良い、あるいはぎりぎり納得のできる結論を出さなければなりません。これは情動では解決しない問題です。

このために自分の情動(心の状態)を自覚するようになったり、情動を抑制する方法としての意識が発達していったのだと思います。せいぜい今から1,2万年前のことですし、そもそも人間の脳(頭蓋骨の形と大きさ)は200万年くらい前から進化をしていないそうです。狩猟採取時代の小さな意識(自分と群れとが対立しているという小さな違和感を形成する力)を発展させていく形でしか意識は形成されなかったのだと思います。また、人間がそのように情動から独立することには慣れていない、脳が進化していないということから、つい熟慮が必要な場面でも、情動によって思考を省略して行動をしてしまうことが未だに続いているのだと思います。

まだ、意識が生まれて高々2万年くらいしか経っていないので、進化が追いついておらず、その後の環境の変化(かかわりあう人間の数の膨大化と所属する群れの複数化)と脳の間にミスマッチが起きてしまっているのだと思います。

第5 情動の側部抑制

痛いと感じることも情動の一つだと思います。痛いから体を動かさないというような行動パターンが生まれる契機になると思います。ただ、「この痛みは、あちこちが痛いはずでも、一番痛いところしか感じない」という問題があるようです。これを生理学的には「側部抑制」というそうです。

側部抑制については私は大いに思い当たります。
腰が痛いので湿布を塗ったところ、スース―することもあり痛みを感じなくなった途端、肩の痛みを自覚したので湿布薬を塗ったら今度は膝の痛みを感じるということを年齢を重ねた成果良く経験しているところです。

どうも意識に上るのは、一番大きな痛みだけのようです。どうやら一番重大な、一番強い情動だけなのではないでしょうか。

後に具体的に見ていくのですが、様々な社会病理の原因は、この側部抑制の減少が二次の情動にも働いてしまい、どこかの人間関係で悩んでいると、別の人間関係のことを考えて行動することができなくなってしまって行動を起こしてしまうという理屈が良くあてはまるように感じているところです。

今日お話ししたことを道具として、犯罪、自殺、離婚の順番で行動決定の分析と予防策を考えていきます。

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行動決定の原理 序 社会病理の分析と予防策について短期シリーズのお知らせ [進化心理学、生理学、対人関係学]



次回から短期シリーズで、人間の行動決定に関するお話をさせていただきたいと考えています。いずれも長文だし、それほど興味のある人もいないかもしれないので、完全に私の自己満足ですね。

まさにその通りで、死ぬまでに(ボケる前に)、これまでの到達点を整理しておきたいという強い願望があってのシリーズです。

1回目 総論
2回目 犯罪の行動決定
3回目 自殺の行動決定
4回目 離婚の行動決定

を準備しています。5回目に補論があるかもしれませんし、ないかもしれません。

それぞれの社会病理がなぜ起きるのかを考えて、有効な予防策を提案するというパターンになっています。

これまで、社会病理の予防については、色々考えられてきたわけです。ここに掲げた犯罪、自死、離婚の件数については、確かに統計的には平成14,5年をピークに右肩下がりに減少してはいます。しかし、意識的な政策によって減少させたということではないので、またいつ上昇するかわからないということが本当のところです。

なぜ有効な政策を立てられなかったかということ、人間の行動について、十分に理解をしていなかったからだと思うのです。その最大のポイントは、犯罪についても、自死についても、離婚についても、「人間が自由意思をもってそれぞれの行動を自分が行うという意思決定をしていた」という点が間違いだというところにあります。

おそらく、「そのどこが間違いなのか」と怪しむ人も多いことでしょう。ズバリ、「人間が意識的に行動決定をしている」という点が誤りです。でも「自分は、意識していろいろなことを決定して行動している。」と思う人がほとんどで、これは理由のあることです。

ただ、これまでの認知心理学や脳科学の結論としては、「人間が意思決定をする0.4秒前に脳が行動を開始している。そのあとに意識は行動決定をする。」としています。

結論を羅列すると、脳は意識をしている以上に、様々な情報を処理しているということがまず最初です。自分たちは自覚していませんが、実際は意識をしている以上に視覚情報、嗅覚情報、皮膚感覚情報、味覚情報。聴覚情報等を脳はキャッチしています。そして、脳が勝手に、「この情報はどうでもいいから未処理。」とか、「この情報は生理的に対応しよう(例えば体内に取り込んでしまったばい菌処理)」、「この情報は、意識的に上らせよう」ということで、勝手に処理しているということです。確かに食べ物を消化については、消化しやすい生理的な変化(血流量の調整や体温調整)などを無意識に行っていますし、無意識に心臓を動かしています。

例えば「盲視」という現象があり、脳の中の視覚野という部分が損傷すると、物が見えていても意識としては見えていないのです。「『見えていない』という意識」なのに「見えている」というのは、見えていない物を質問をすることによって、あてずっぽう以上に正しい回答をすることができるという実験結果によって示されていると言われています。

次の結論としては、人間は自分が意識して行動したのではなくても、自分は意識して行動したのだというストーリーを後付けで作る、つまり作話をする動物だそうです。これも実験によって証明されています。脳の右半球と左半球の連絡が切断されてしまった人に、それぞれの脳で絵の描いたカードを選ばせると、それぞれの脳が関連のないカードを選ぶのですが、それを言語化できる脳の方に両方見せると、初めから両方の脳で見えていたように関連があって意図的に選んだのだという説明をするそうです。わかりやすく説明することができないので興味がある方は、ベンジャミンリベットの「マインドタイム」、トール・ノーレットランダージュの「ユーザーイリュージョン」をお読みください。脳が意識よりも0.4秒先行するという実験についても紹介されています。

意思決定抜きで勝手に脳が行動決定していても、私たちは、「自分が意思決定した」と考えるので、それほど支障が出てくるわけではないようです。私が体験した脳が勝手に行動決定して命拾いした経験を次回の第1 総論で書いています。その体験がこの例に当てはまるのか自信はありませんが、おそらく意思決定の遅れを自覚してしまった例で間違いないのではないかと思います。私の作話は、幽霊話でしたが、自分でも半信半疑だったのが良かったのかもしれません。

どうも西洋人は、このように自分が意思決定しないで行動するということに不安を感じて仕方が無いようです。日本人は、案外どうってことなく受け入れるのではないでしょうか。私のように、自分はご先祖様に守られており、自分が拙い判断をしないようにご先祖様とか守護霊によって守られているなんてことはよく聞く話です。

それでも、どこかしら不安が残るということも理解できます。人間は意識や人格が無くて、自分というものは実は存在せず、自然法則によって勝手に動いているだけだと思うと、心配になったことが私自身随分前にあったような気がします。その後に中途半端な考察の下で理系の学者の方と雑談した時も、「おそらく環境が人間の行動に強く影響している」という話をした時に、「人間の自己責任を否定するのか」という文脈で非難され、話がかみ合わなかった経験もありました。

しかし、人間には個性というものがありますし、客観的に同様な刺激に対して同じ反応をするとは限りません。大事に守ろうとする存在としての「自分」もあるわけですし、意識できるわけです。自分が他者から攻撃されると嫌な気持ちになるのもその一例だと思います。

ただ、個性というのは、持って生まれた生理学的諸条件の影響があるでしょうし、その後の自分以外との人間関係によって育まれるという側面が強くあると思います。行動決定の際には、そのような遠因として背景的事情が反映されており、「個性」というものの実態を形成していると思います。

遠因としての背景的事情だけでなく、まさにその時に近接した時期にあった出来事も、その行動決定に影響があるわけです。近因としての背景事情ということになりましょうか。また、遠因と近因の間にも中間的背景事情が無数にあるわけです。

さらにはその置かれた状況に対する、感じ方(事実の見え方)事態も、見えた自分に対する働きかけについての評価も背景事情によって異なって見えるでしょう。言われても気にしないで聞き流す人、真面目に受け止めて思い悩む人がいるわけです。同じ人でも、その時々の体調によっても、睡眠障害のあるなしをはじめて、違いによって決定的な違いが生まれてしまうものだと思います。

「自分の行動には理由があるが、大きい目で見れば偶然の産物だ」と思ったところで、何かが変わるわけではなく、今の感情が持続していることは間違いないので、深刻に考える必要はないと今では思っているところです。

むしろ今の自分は偶然の産物だと認識した方が、良いこともたくさんあるように思われます。自分が、今絶好調であったら、「それは偶然の産物であり、自分の力だけでこのような結果が生まれたわけではない。」と正しく把握して、謙虚に、誰かに感謝して喜ぶということができると思います。また、自分が窮地にあったとしても、「自分という存在に問題があるわけではなく、偶然の産物だ。だから、自分を否定するよりも、ここから上昇するはずだ。」と思った方が良いことがたくさんあるような気がするのです。その上昇のための道具、あるいは、破綻をしないで自分を維持する道具をシリーズでは考えていくわけです。

逆に言うと、自分が帰属している人間関係は、意識をしないと、その時の体調による考え方(受け止め方)の変化、周囲の人間の影響、あるいは社会情勢等様々な外部的要因によって壊れてしまう可能性があるということだと思います。自分というものがどの程度確かなものかについて自信を持つことはかえって危険であるかもしれません。誰でも、自死をする可能性があり、犯罪をする可能性があり、離婚等大切な人との別離を選択してしまう可能性があることは間違いないことだと思います。

ただ、知識としてどういうメカニズムで、人間はそれらの行為をしてしまうのかということを予め知ってさえいれば(情報を取得し保持するという近因的背景事情の取得)、あとで困るような行動決定はしないで済む確率が飛躍的に高まるはずです。

ただ、それは役に立つ道具であることが必要です。人間の行動決定がどのようなメカニズムで行われるか、そのことに焦点を当てて、その行動決定を選択肢に上らせないということが一番のキモだと思います。但し、本来的な主張は、「結局世界全体が他者に思いやりをもって助け合おう。」という壮大なもの、宗教的な主張にならざるを得ません。そのためにどうしたらよいかということを考えるには、時間も文字スペースも十分ではありません。その前段階、急場しのぎの対処療法、今できることを中心に論じるしかありませんでした。

一番ダメなのは、他人の社会病理の行動については、自分とは違う世界の話だと思いたくて、「それらの社会病理の行動をその人自身が意思決定をしたのだ、その人は特殊な人間であり自分は違う」という、排外主義的な考え方だと思います。これが現在の国家などの政策論も前提となっているのではないでしょうか。

対人関係学の出発点は、「生きること、生きようとすることに一番の価値を置く」ということですし、「社会に問題があったからと言って、社会のせいにしてあきらめずに、自分のできることを行い仲間と一緒に幸せになろう」ということにあります。社会病理の行動をした人を否定評価して安心するのではなく、社会のせいにして自分のできることを考えないのでもなく、何かできることを探していくということが大切だと思っています。

今回のシリーズは、意思決定に着目しないで、行動決定に着目して、分析と予防策の構築を全面的に改めてみたというのが、これから始まる短期シリーズなのです。業務時間外でコツコツと考えたことだし、なんせブログという媒体なので十分な分量ではないのですが、一応納得のゆくものができたと思っています。もしお読みいただく方がいたら、それだけで大感謝です。

いずれも長文になり申し訳ありません。

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テレビ局のJ事務所偏重問題の検証番組のあるべき視点のポイント [進化心理学、生理学、対人関係学]



テレビ朝日を除く各キー局がJ事務所(当時)問題の検証番組を制作しています。検証番組を作ったこと自体は評価されるべきだと思います。但し、批判も多く、2度目の検証番組を制作することをアナウンスしているキー局もあるようです。検証番組制作で何を検証すると良いのかということを考えてみました。

1 検証の目的をどこに置くか

先ず、検証番組制作の目的がどこにあるかということです。現実的な話、スポンサーが今後テレビ番組に巨大な費用を投下し続けてもらうということが、ぶっちゃけ目標のはずです。但し、そのためには、視聴者である国民がある程度納得して、安心してテレビの責任問題を風化させるようにしなくてはなりません。

そのためには、J事務所問題は二つの問題点があったということをはっきりさせることです。一つは児童に対する膨大な性加害問題です。もう一つが、J事務所(当時)の所属タレントの偏重問題です。もちろん二つは密接にかかわっているのですが。前者だけを強調してしまうと、自社の問題をすべてJ事務所創業者の問題としてしまい、自社に対する厳しい検証ができなくなり、結局はテレビ離れが加速し、スポンサーが巨額の費用を投下する媒体としての価値が無くなってしまうという問題が生まれます。

だから1番最初に行わなければならないのは、J事務所(当時)のタレント偏重によってどのような弊害が生まれたのか生まれないのかということを検証するべきだと思うのです。問題が無いと言い切ってしまうことは、結局再び同じようなことが起きる可能性を大いに残すということになってしまうように思われます。

また、J事務所(当時)だったからダメだったのか、児童虐待が無ければ偏重は問題ないと自己評価するのか、大いに注目したいところです。

これは芸能番組、エンターテイメント番組だけの問題ではなく、人間関係によって特定の人たちだけを偏重するという姿勢は、特定の主義主張だけを偏重し、まっとうな意見さえも封殺するという危険を示唆することになってしまうと思います。

2 原因

偏重問題に対して否定評価をする場合に次に行うべきことは、ではそのように否定する出来事をどうして当時は(あるいは現在も)行っていたのかという原因を明らかにすることです。

この点は、社会心理学の理論から考察の対象の宝庫なのですが、なかなかそういった視点からの発言は私の目には映ってきません。

例えば、J事務所(当時)の特定の人とテレビ局側の担当者との密接な関係から次第に抜き差しならない関係になったということが言われています。ただ、そういう事実はあるとしても、どうしてテレビ局という組織でそれが可能だったのかということを検証するべきです。

1 単純接触効果
先ず検証しなければならないのは単純接触効果の観点からでしょう。つまり、特定の人間同士が、長い時間交流を持つことによって、その人と自分が仲間であるという意識を持ちやすくなってしまいます。そうして、仲間に対しては便宜を図ろうという意識になってしまうということです。

2 権威に対する迎合

次は特定の人物ないし事務所の権威化を通じて、権威に迎合するのが人間だということです。私は過去の記事でミルグラム実験は人間の服従性を示したというよりも、「人間は権威に自ら迎合していく動物だ」ということを示した実験だと述べています。
Stanley Milgramの服従実験(アイヒマン実験)を再評価する 人は群れの論理に対して迎合する行動傾向がある:弁護士の机の上:SSブログ (ss-blog.jp)
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2019-01-05
これは人間の心が生まれた200万年前の狩猟採集時代を考えれば理解は簡単です。当時は、言葉が無くても、群れで生活し、集団で狩りをしていたのですが、各自がてんでんばらばらに獲物を追って行っても狩は成功しません。組織的に追い詰めて、逃げ場を無くして捕獲するということをしなくてはなりません。誰かが権威者(リーダー)として、ある程度の陣形や追い詰め方を仕切って、各自がそれに無条件に従うことが理にかなっていたわけです。その時と現代では環境は全く違いますが、残念なことに脳はそれほど進化していないのです。

だから、人間関係の中に声が大きく、実績がある人がいれば、その人に権威性を認めて、その人の指示に無条件に従って、物を考えることを省略するという習性が人間にはあるわけです。単純接触効果も、物を分析的に考えず、近くにいつもいる人は仲間だ、利害一致する運命共同体だという意識をつい持ってしまう傾向がある可能性が高いのです。

3 思考時間が無い事情

また、この物を考えないで行動する最大のメリットは、結論を迅速に出せるということです。200万年前の急がなければならない問題は、けがをするとか死んでしまうとかいう問題ですから、思考を省略して行動決定をすることが必要でした。

それを考えると、偏重の実績を作っていく過程の中で、十分にものを考えないで結論を出さなければならない事情があった可能性も検証するべきでしょう。

また、仲間意識が作り上げられた背景として、本当に単純接触効果だけだったのか、それを超えて利害共同体を形成するような事情が無かったのか、検証するべきなのでしょう。

4 分析的思考の懈怠の事情

担当者同士の人間関係の形成があったとしても、テレビ局という組織で動く場合ですから、担当者の決定に対して事後的に批判的検証が行うことは可能であり、やるべきことのはずです。結果としてこれができなかったのではないでしょうか。テレビ局の中にも権威ができてしまい、権威が個人的判断で行ったことに他の人たちも迎合していったという過程が検証されるべきです。

最終的にどちらの結論になろうとしても、そのようなチェック体制が組織としては必要だっと思うのですが、この点を検証してほしいわけです。

5 原因論に基づいた制度設計

反省の最終的な着地点は、ではこれからどうするかというところにあります。単にJ事務所が無くなったからそれでよいのかということが問題なわけです。1番最初のJ事務所忖度問題は否定評価ではないというならそういう結論になるでしょう。そうではないのならば、J事務所問題を機に、体制の問題を検証していくことは、テレビが将来的存続するかという点にとって極めて重要であるはずです。あるいはテレビ局自体が新しいコンテンツに乗り換えることを検討しているのか、今後の検証番組で視聴者は見極める必要がありそうです。

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【ダイジェスト版】自分に降りかかった問題は、他人の方が解決しやすい理由 だれに協力を求めたらよいのか これまで「自分で泣き止んできたんだ」としても [進化心理学、生理学、対人関係学]



自分が今人生の岐路に立っているとか、自分の立場を失ってしまうのではないかとか今思い悩んでいる人は、誰かに相談した方が解決しやすいという当たり前のことを見失ってしまっているものです。

先ず、大きな悩みがあると人間はどのような感情を抱くかということを説明します。これは人間であれば基本は同じです。

<困難な課題がある時に湧き上がる人間の感情>
1)自分に危険が迫っている
2)この危険を排除しなければ自分は終わってしまう
3)自分を守りたい、守らなければならない

この感情の出どころは、例えばジャングルにいる場合に猛獣が近くにいる、猛獣に気づかれて襲われたら死んでしまうという感覚と基本的に同じです。しかし、現実の私たちの悩み、トラブルは、それによって死ぬようなこと、つまり身体生命の危険はあまりないのですが、あたかも身体生命の危険があるかのように不安、焦りという感情が生まれてしまうのです。

このような不安や恐れ、焦りという負の感情は、思考に影響を与えてしまうことが問題なのです。負の感情が施行に与える影響は以下のものです。

<負の感情による思考の変化>
A)思考をする力が弱くなる。
B)大雑把な思考しかできなくなる。
C)二者択一的な思考になりやすい。
D)悲観的な結論を出しやすい。
E)他人の感情などという目に見えないものについて推測ができなくなる。
F)細かい違いに気づかなくなる。

危険を感じると逃走モードになり、逃走モードになるとあえて思考力を弱めていく戦略を人間は取ったわけです。

危険察知 ⇒ 不安など負の感情 ⇒ 思考力の減退

というのは、きわめて合理的な人間の生存戦略だったということが言えると思います。このようなメカニズムのおかげで、猛獣から身を守り我々の先祖は生き残ることができて、我々が生まれることができたのです。

しかし、現代社会では、人間関係上の問題にすぎないのに、命の危険が起きているかのような感情を抱いて思考が低下することは、デメリットばかりが目立ちます。

例えば資格試験を受けるとき、この試験に落ちると自分が望む社会的立場を獲得できないという人間関係上の危険を感じるわけです。そうして不安や焦りがわいてきて大雑把な思考しかできなくなると試験に合格できない危険が高まってしまいます。
例えば仕事でミスをして上司から叱責されているとき、やはり命の危険を感じてひたすら逃げるためにあまり深く考えられないで言い訳をしてしまうと、さらに叱責される要素を作ってしまうわけです。
さらに他人に何か指摘をされたとしても、本当は善意で、仲間としてサポートしようと指摘をしたのに、自分の失敗、不十分点、欠点等を指摘されてしまうと、勝手に悲観的になり、自分が攻撃されたと思ってしまい、反撃してしまって相手から見放されるなんてこともよくあることです。

<第1の結論>
つまり人間関係のトラブルなんて、本当はトラブルではない場合もあり、悲観的思考によって勝手にトラブルがあると思い込んでいる場合があるということです。
また、同じようにそれほど大したトラブルではないのに、とても大きなトラブルであるから自分にとっては致命的であると思ってしまう傾向もあるわけです。

<第2の結論>
人間関係のトラブルの存在の錯覚と解決方法のミスを生むのは、誰が味方で誰が敵なのか判断が付かないことです。多くの人たちは味方として利用できる人を警戒したり、攻撃したり、遠ざかったりしています。

何よりも追い込まれている人は二者択一的な思考しかできなくなっていますから、解決方法も単純であることを望んでしまいます。これでは解決が難しくなるばかりです。

<第3の結論>
人間関係のトラブルを解決するにあたって、一番多い間違いは、損害を無かったことにしようとしてしまうことです。二者択一的な思考しかできなくなっているのでそういう「感情」になってしまって、つまり「思考」ができない状態になってしまいます。

<最終結論>
結局人間関係のトラブルで追い込まれている人は「思考」する力が減退しているために、「感情」で解決したいと思っているだけで、解決のための「思考」ができていません。

悩んでいるけれど、何がトラブルなのか、トラブルのうちの解決するべきところはどこなのか、切り捨てても良いところを切り捨てて大切な利益を守り抜く、そもそも一番守るべきものは何なのかということが見えなくなってしまうということなのです。

だから、自分以外の人間に協力してもらって解決をするべきなのです。

では、誰に協力をお願いするべきなのでしょうか。

第1に、あなたの利益を第一に考えてくれる人である必要があります。家族であるとか運命共同体の人であれば、あなたの問題を解決することは自分の問題として解決しようとしてくれるでしょう。

第2に、あなたと同化しすぎない人です。あなたの悩みに共鳴してしまって、自分のトラブルだという感情がわいてしまえば、他人に協力してもらう「うまみ」もなくなります。その人も思考力が減退してしまうからです。

理想を言えば、一段高みに立って、あなたがこのトラブルで致命的な損害を受けても、その損害は自分が引き受けるから心配するなというような人がいればとても心強いでしょう。

以下は技術的な細かい協力者の理想です。
・ あなたに、あなたが考えていることとは別の選択肢があるということをはっきりと提案できる人
・ あなたにあなたがこだわっている価値観を捨てることが可能であることを告げることができる人
・ 初めから選択肢を捨てるのではなく、それぞれのメリットデメリットを思いついて提案できる人
・ その行動をとることの見通し、成功する可能性を理由を挙げて説明できる人
・ あなたが一番大事だと思っていること(感情ではなく思考の結果)を尊重してくれる人(但し、それを捨てるべき時は捨てるべきと言える人)
・ 焦らないで、許される範囲で時間を一杯に使って解決することを提案できる人
・ 自分の考えに固執しない人 あなたの意見(感情ではなく思考の結果)の良いところを取り入れてくれる人

できれば、その人に協力をお願いしたのであれば、その人の提案をすべて受け入れろとは言いませんが、先ずその人の提案を落ち着いて考えてみるということが大切です。協力者を得て何とかなるという気持ちをもって、感情を鎮めて、思考を働かせることができれば80%以上、結局は解決しているわけです。

思い悩むことも人生にとっては有益なことになるのかもしれませんが、それ自体は合理的な解決に向けて有益なことではなく、デメリットだけが多いことだと言って差し支えないと思います。まずは信頼できる人間に相談をすることが理にかなっていることだという結論は間違いないと思います。

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自分に降りかかった問題は、他人の方が解決しやすい理由 だれに協力を求めたらよいのか これまで「自分で泣き止んできたんだ」としても [進化心理学、生理学、対人関係学]



今大きな悩みを抱えていない人ならば、そんなことぐらいわかっているよと思われることかもしれません。しかし、自分が今人生の岐路に立っているとか、自分の立場を失ってしまうのではないかとか今思い悩んでいる人は、案外その当たり前のことを見失ってしまうものです。

他人の力を借りることが有利だという理由には、例えば年長者が、その悩みについて既に体験しているとか、解決の知識やノウハウがあると言ったことも考えられます。しかし、自分のことを自分ひとりで解決することが困難であるのは、経験不足や知識不足などよりも大きな原因があります。

ここでは、言葉を区別して考えることがとても大切だと思います。区別するべきことは、不安や恐れ、焦りなど自然に湧き上がる「感情」と、理性を使って能動で気に論理を組み立てる「思考」ということです。通常だれでも理解していることですが、この違いを意識するだけで理解はより簡単になるはずです。

先ず、大きな悩みがあると人間はどのような感情を抱くかということを説明します。これはそれぞれの人間にとって基本は同じです。

<困難な課題がある時に湧き上がる人間の感情>
1)自分に危険が迫っている
2)この危険を排除しなければ自分は終わってしまう
3)自分を守りたい、守らなければならない

この感情の出どころは、例えばジャングルにいる場合に猛獣が近くにいる、猛獣に気づかれて襲われたら死んでしまうという感覚と基本的に同じです。現実の私たちの悩み、トラブルは、それによって死ぬようなこと、つまり身体生命の危険はあまりないのですが、あたかも身体生命の危険があるかのように不安、焦りという感情が生まれてしまうのです。

わたしたちが通常直面する問題や悩みは、人間関係の悩みです。人間関係の悩みとは、突き詰めれば、誰かとの関係が終わってしまう、自分の評価が致命的に下がってしまう、他人から一段階下に見られてしまうということです。人間関係の悩みがある場合と、身体生命の危険がある場合と、その悩み方、不安、焦りは同じ感覚であることに気が付くことは、解決の行動に出る場合に大変有益です。

このような不安や恐れ、焦りという負の感情は、思考に影響を与えてしまうことが問題なのです。

<負の感情による思考の変化>
A)思考をする力が弱くなる。
B)大雑把な思考しかできなくなる。
C)二者択一的な思考になりやすい。
D)悲観的な結論を出しやすい。
E)他人の感情などという目に見えないものについて推測ができなくなる。
F)細かい違いに気づかなくなる。

少し解説します。
先ほど述べたように、人間関係上の悩みであっても、感情は身体生命の危険と同じ感情になります。これは、群れを作る以前の人間の祖先としての動物にとっては、生き延びるために大切なメカニズムでした。つまり、熊などが近くにいるならば、生き延びるためには熊に見つかる前に逃げるしかないわけです。
 余計なことを考えないでひたすら逃げるという脳内モードにすることで、逃げるための筋肉の動きが緩やかになってしまうことを避けたのでしょう。走るのが遅い人は、余計なことを考えないで走るということが苦手なのではないでしょうか。何も考えないでひたすら逃げるということが人間の生存戦略だったわけです。

それでもわずかに、逃げ道の選択ができる程度に頭が働くのならば、少しは生存確率も高まると思います。その選択肢は右か左かという以上複雑なものは無かったのだと思います。二者択一ができれば十分であるし、それだって正しいかどうかはよくわからず、逃げ切ってみなければわからない。しかし、二者択一以上の思考が生まれてしまえば、ひたすら走ることの邪魔になるので、それ以上は考えないメカニズムが生まれたのでしょう。また、とにかく早く決断することが大事なことです。迷っているうちに熊が近づいてくるかもしれません。物事を単純化して、早く決断し、決断したら考えないでまたひたすら走り続けるということが生存戦略だったのだと思います。

悲観的な結論になりやすいことも生存戦略です。危険の相手がどの程度近くに迫っているか、あるいはすでに遠ざかったのか、よくわからないうちはとにかく逃げる。もしかしたら、まだ近くにいるかもしれないので、近くにいるかもしれないという根拠のない悲観的な思考の方が、根拠なくもう大丈夫だろうという楽観的な思考より安全な場所に逃げることができます。悲観的思考は明らかに生存可能性を高めます。

このように、逃走モードになると、あえて思考力を弱めていく戦略を人間は取ったわけです。思考力が弱くなっているため、他人の考え、他人の感情を推測する等という複雑な思考力は発揮できませんし、細部を観察するという時間をかけて意識的に集中するということができなくなることも理にかなっています。

つまり、危険察知 ⇒ 不安など負の感情 ⇒ 思考力の減退
というのは、きわめて合理的な人間の生存戦略だったということが言えると思います。このようなメカニズムのおかげで、我々の先祖は生き残ることができて、我々が生まれることができたのです。

思考力が減退したため、適切な逃走経路を選択できず、あるいは逃げなければ見つからないものを逃げてしまったので猛獣に気づかれて襲われたということはあったかもしれませんが、圧倒的多数はこのメカニズムのおかげで生き残ったのだと思います。自然のことですから完璧はありません。よりましな行動パターンの方が生き残るわけで、生き残った者が選択したパターンが遺伝子に組み込まれて我々に引き継がれたということになります。

その後人間の祖先は群れを作るようになり、群れに所属することによって外敵から身を守るという生存戦略をとるようになりました。これも理性というよりは感情を利用したものだったのでしょう。仲間から追放されるということは、熊に襲われることと同じように危険を感じ、同じようにひたすら追放されないようにしたのだと思います。追放それ自体というよりも、追放につながる群れの仲間の行動、つまり、仲間が自分を攻撃する、攻撃まであからさまにされなくても、自分だけ食料などの配分が少ないなどの差別がされる、自分の評価が下がるような失敗をして仲間に迷惑をかける、仲間の足を引っ張る等の仲間や自分の行動によって、命の危険が起こっているかのような負の感情が起きたのだと思います。

環境の変化によって、脳内システムと現実環境のミスマッチが起きてしまう事態になったわけです。
但し、このミスマッチは、群れの人数が200人弱のような少人数の時代はあまり表面化しなかったと思います。今回は詳しくのべません。ミスマッチが表面化してきたのは、これまでの話のスパンではなくてつい最近、農耕を始めて群れが大きくなった今から1万年くらい前からの話なのだと思います。

特に現代社会では、人間関係上の問題にすぎないのに、命の危険が起きているかのような感情を抱いて思考が低下することは、デメリットばかりが目立ちます。

例えば資格試験を受けるとき、この試験に落ちると自分が望む社会的立場を獲得できないという人間関係上の危険を感じるわけです。そうして不安や焦りがわいてきて大雑把な思考しかできなくなると試験に合格できない危険が高まってしまいます。
例えば仕事でミスをして上司から叱責されているとき、やはり命の危険を感じてひたすら逃げるためにあまり深く考えられないで言い訳をしてしまうと、さらに叱責される要素を作ってしまうわけです。

さらに他人に何か指摘をされたとしても、本当は善意で、仲間としてサポートしようと指摘をしたのに、自分の失敗、不十分点、欠点等を指摘されてしまうと、勝手に悲観的になり、自分が攻撃されたと思ってしまい、反撃してしまって相手から見放されるなんてこともよくあることです。

本当は違うのに攻撃されているという感情は、思考力の減退で相手に対してまずい対応をしてしまってさらに悪化する、また別の問題も引き起こしてしまうということが法律的紛争でもよく見られます。

<第1の結論>
つまり人間関係のトラブルなんて、本当はトラブルではない場合もあり、悲観的思考によって勝手にトラブルがあると思い込んでいる場合があるということです。
また、同じようにそれほど大したトラブルではないのに、とても大きなトラブルであるから自分にとっては致命的であると思ってしまう傾向もあるわけです。

半世紀以上人間をやっていると、人間関係のトラブルで命が無くなるとか、回復不可能な将来的損害があるということはほとんどないことがわかりますが、若いうちはもちろんそんなことはわかりませんでした。一言で言えば何とかなることは間違いないと思えるようになりました。さあどうやってこの致命的な問題を乗り越えるのかということが楽しみに見えてくることさえあります。

<第2の結論>
人間関係のトラブルの存在の錯覚と解決方法のミスを生むのは、誰が味方で誰が敵なのか判断が付かないことです。多くの人たちは味方として利用できる人を警戒したり、攻撃したり、遠ざかったりしています。そうして混乱している感情に乗じてあなたに損害を与えて自分の利益を得ようとする人の言いなりになるということが多いです。

何よりも追い込まれている人は二者択一的な思考しかできなくなっていますから、解決方法も単純であることを望んでしまいます。あなたに損害を与えて自分の利益を得ようとする人は、単純な解決方法で単純に解決できると提案してきます。不安や焦りがある人はつい、それで解決するのであればと他人の嘘、まあ嘘とは言わないでも解決しない方法に飛びついてしまう危険があります。

<第3の結論>
人間関係のトラブルを解決するにあたって、一番多い間違いは、損害を無かったことにしようとしてしまうことです。二者択一的な思考しかできなくなっているのでそういう「感情」になってしまって、つまり「思考」ができない状態になってしまいます。

本当は切り捨てても良いこともっても大事なもので失ってはいけないものだと思ってしまうわけです。それよりも切り捨てるものは切り捨てて、大きな利益を確保するということをしなければなかなか解決には至らないということが多くの場合でしょう。

二者択一的思考は、全部残すか全部失うかという判断を迫られていると錯覚させてしまいます。

<最終結論>
結局人間関係のトラブルで追い込まれている人は「思考」する力が減退しているために、「感情」で解決したいと思っているだけで、解決のための「思考」ができていません。

悩んでいるけれど、何がトラブルなのか、トラブルのうちの解決するべきところはどこなのか、切り捨てても良いところを切り捨てて大切な利益を守り抜く、そもそも一番守るべきものは何なのかということが見えなくなってしまうということなのです。

だから、自分以外の人間に協力してもらって解決をするべきなのです。

では、誰を協力者とするべきなのでしょうか。
最後に協力者の条件を挙げましょう。それぞれ一つ一つは当然のことだと思われるでしょうが、その条件を満たす人間はなかなかいないのかもしれません。

第1に、あなたの利益を第一に考えてくれる人である必要があります。家族であるとか運命共同体の人であれば、あなたの問題を解決することは自分の問題を解決することになるので、あなたを食い物にして自分の利益を得ようとはしないと思います。

第2に、あなたと同化しすぎない人です。あなたの悩みに共鳴してしまって、自分のトラブルだという感情がわいてしまえば、他人に協力してもらう「うまみ」もなくなります。その人も思考力が減退してしまうからです。

共鳴しすぎる人は協力者として不適当であるし、解決よりも共鳴を優先する人も大きなトラブルを解決する場合はあなたの足を引っ張るかもしれません。本当はそれを捨てて解決して大きな利益を得るべき時も、些細なこだわりを一緒に大事にしてしまい結局こじらせるだけだったという場合も多く見ています。

理想を言えば、一段高みに立って、あなたがこのトラブルで致命的な損害を受けても、その損害は自分が引き受けるから心配するなというような人がいればとても心強いでしょう。

以下は技術的な細かい協力者の理想です。
・ あなたに、あなたが考えていることとは別の選択肢があるということをはっきりと提案できる人
・ あなたにあなたがこだわっている価値観を捨てることが可能であることを告げることができる人
・ 初めから選択肢を捨てるのではなく、それぞれのメリットデメリットを思いついて提案できる人
・ その行動をとることの見通し、成功する可能性を理由を挙げて説明できる人
・ あなたが一番大事だと思っていること(感情ではなく思考の結果)を尊重してくれる人(但し、それを捨てるべき時は捨てるべきと言える人)
・ 焦らないで、許される範囲で時間を一杯に使って解決することを提案できる人
・ 自分の考えに固執しない人 あなたの意見(感情ではなく思考の結果)の良いところを取り入れてくれる人

できれば、その人に協力をお願いしたのであれば、その人の提案をすべて受け入れろとは言いませんが、先ずその人の提案を落ち着いて考えてみるということが大切です。感情的に反発することをしないということです。だから運命をゆだねることができる人が理想なのでしょうかね。何とかなるという気持ちをもって、感情を鎮めて、思考を働かせることができれば80%以上、結局は解決しているわけです。

弁護士をしていると、なんともならないという問題はあまりないことに気が付きます。確かに失うものが何もないというわけにはいかないことも多いのですが、結局は何とかなるということが圧倒的多数だと思いました。

思い悩むことも人生にとっては有益なことになるのかもしれませんが、それ自体は合理的な解決に向けて有益なことではなく、デメリットだけが多いことだと言って差し支えないと思います。まずは信頼できる人間に相談をすることが理にかなっていることだという結論は間違いないと思います。

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どうしてあの人が犯罪行為をしたのか。失敗をしないで理性的な活動をするためには、適切な睡眠時間と睡眠時刻が必要 [進化心理学、生理学、対人関係学]



そんな世間を騒がすほどの大きな事件でなくても、私たち弁護士が業務上関わる犯罪であっても、「え?どうしてあの人がそんなことを」と周囲が驚くことが少なくありません。本人は、いたって真面目な人間で、まっとうに生きているので、「魔が差した」としか言いようがないのです。しかし、犯罪には必ず理由があり、その理由を改善しないと再び犯行を行う危険が残るわけです。

実は、慢性的な睡眠不足が犯罪の背景にある場合が多いように感じています。

慢性的睡眠不足が、外国での原発事故の一つの要因とされています。失敗するはずのない失敗が起きた事故でしたが、その失敗が起きた原因が睡眠不足だったというのです。

私の業務上でも、自動車事故のケースに睡眠不足があったと思われるケースが多いです。夜勤明けに自動車を運転して帰る時に人をはねて死亡させてしまう事故がありました。人をはねる瞬間、眠っていた、つまり意識を失っていたので、見通しの良い道路で追突をしたのです。結果は大変深刻です。朝元気よく「行ってきます」と出て行った病気一つない主婦が、何の落ち度もなく歩いていて命を落としたのですから、ご遺族の無念さと悲しみは大きいものでした。

睡眠不足の場合、特に慢性的な睡眠不足の場合は、このように意識を失わなくてもミスをします。むしろ意識を失わないために、睡眠不足のために思考力が減退していても気が付かないまま、取り返しのつかない判断ミスをしてしまう危険があります。

過労死や過労自殺も睡眠不足が背景にあるため、睡眠不足の負の影響については意識的に観察をしています。その結果、睡眠不足は、思考力を奪うということが言えると思いました。

どのように思考力を奪うかというと、総論的に言えば、努力して考えるという行為ができにくくなるということかもしれません。具体的には

1 複雑な思考ができなくなる、複雑な思考とは細かい計算だけでなく、他人の気持ちや他人の立場を考えるということができにくくなります。
2 現在は目に見えない将来的な成り行きなども考えることができなくなるようです。
3 時間をかけてじっくり考えるということができなくなり、早く答えを出そうとします。
4 折衷的な考えなどの複雑な考えというか、自分の頭で考えなおすということができなくなり、あらかじめ用意された答えのどれかを選ぶという思考になりますし、イエスかノーかとか、表か裏かなど、はっきりした答えを好むようになります。あとは数字で成果がわかる方を優先してしまうようです。

この結果、奇妙に悲観的になりすべてがノーという決断になったり、奇妙に楽観的になってすべてがイケイケになったりということも起こりやすいです。まっとうにお金を稼いで目的果たすことができないと悲観的になる一方、あそこから持ってくればすぐに手に入るじゃないかという心理で、窃盗が起こされるということはよく見ています。

洗脳される場合は、意図的に睡眠不足にさせることが多いようですが、それは理にかなっていることになります。こちらの用意した「正解」に従ってしまう思考にさせるわけです。「なんだかわからないから、あなたの言う通りにしよう。それなら少し安心だ。」ということなのでしょう。

他人が意図的に洗脳する場合でなくても、「偶々その時に自分が考えていたこと」を実行してしまうことも睡眠不足の際にみられます。極端な事例を挙げると、ある商品のコレクターが事件を起こしました。ある睡眠薬とアルコールを同時に摂取し、その商品を盗もうとして逮捕された事件でした。自動車の運転をして目的地の店に到着することができ、欲しかった商品のコーナーにたどり着きました。しかし、店のものをお金を払わないで持ち出したら窃盗になるからやめようと思うことができなかったため、堂々と商品を持ち出そうとして逮捕されたのです。これは薬物の影響なのですが、結果的に薬物の影響で睡眠不足の極端な場合の思考能力が生まれてしまったのだと思います。

ここまで極端ではないものの、多くの事件で、睡眠不足が原因で、被害者の被害、被害に遭ったことでの精神的ダメージを考えることが無く、また自分も世間的に致命的に不利になるということを考えることができず、純粋に自分の欲望に従って行動し、結果的に物を盗む等の犯罪を実行するというパターンがあります。

人間が何か行動を起こそうとする時、色々な物差しでそれをしても良いのか、するべきではないのかを点検しているようです。

・ 欲望によって、何をしたいか決めるという物差し(お金が欲しいとか、何もしたくないとか)、
・ 他人の評価という物差し(これをすれば褒められるとか、これをしたら致命的に否定評価をされるとか)、
・ 道徳や法律に従うという物差し、
・ 仲間内のルールや宗教の教義などの比較的具体的な物差し、
・ 親、学校の先生、上司などの指図という物差しですね。

いつもほとんど無意識に、あるいは直感的に、それらの物差しをあて、メリット、デメリットを比較して行動を決定しているようです。

睡眠不足は、この物差しをマルチに当てはめることができなくなり、例えば欲望だけを極端に優先するようになって、他の物差しがイメージとしても出てこないという状態が生まれてしまうようです。軽い気持ちで人のものを取ったり、会社の財産を横領してしまうということが起きてしまいます。だから逮捕されても、どうして自分があんな馬鹿なことをしたのかと、悔やんでしまうのですが、理由がわからないということが起こりうるわけです。

どんなに犯罪から遠そうな温和な人でも、いくつかのアクシデントがあって、今までの生き方の修正を迫られたり、孤立が継続しているときに、眠れない日々が続いていると、つい、犯罪を実行してしまうということがどうやらあるようです。

睡眠不足は文字通り眠らないことによって起きるので誰でも起きる可能性があるのですが、睡眠不足以外にも、薬物(覚せい剤など)やアルコール等によっても起きることは仕事柄よく見ています。禁止薬物に手を出す時も睡眠不足が背景にあることも多いように感じます。

また、一定時間睡眠を確保していて睡眠不足ではないよという場合でも、よくよく聞くと昼夜逆転をしていたということもよく見られます。人間の体は細胞のレベルから体内時計があって、睡眠を効率よくとるためには夜に寝ることが必要なようです。具体的に何時から何時だということは難しいのですが、私がうかがった精神科医の話では夜の10時から2時の4時間を含む7時間だと言っていました。現代人はなかなか10時に就寝することは難しいと思いますが、11時には布団に入ることがベターのようです。そして、不足のない睡眠時間というのは個人差がありますが、成人の場合は睡眠リズムから考えて6時間半から7時間と言って間違いはないと思います。

また、最近の事例研究では、睡眠時間は必ずしも毎晩意識を失っている時間でなくても良いようです。体を横たえて、好ましいイメージを頭の中で作ってリラックスしていればよいようです。不安の種というものは誰しもあるわけで、そういうものはほっとけば頭を支配して、眠ることができなくなってしまいます。しかし人間はうまくできていて、同時に二つのことを考えられないという特質があります。意識的にリラックスできるイメージを作ることによって、心配事を考えなくするという方法論のようです。

睡眠不足によって、思考力が減退していることはなかなか自覚できません。逮捕されて生活リズムが整った後で、犯行時は今に比べるともうろうともやがかかったような思考状態だった、今は思考がクリアーになっていると気が付くといいます。睡眠不足の影響を自覚できないために、自分の行動をコントロールできないということになり、犯罪や致命的な仲たがい等取り返しのつかない行動をしてしまいます。

早寝早起きという生活リズムをいつも整えておくことは、犯罪予防の観点からも正しいということです。試験勉強や仕事という、やらなければならないこと以外の理由で、夜の10時を過ぎて活動することは意識的に避けるべきです。

なお勉強も、思考系の勉強はもちろんですが、暗記系の勉強も睡眠時間が大切です。実は記憶というのは眠っている間に整理され、整理されることによって定着されるということがわかってきています。また、暗記系は覚えこむことよりも、思い出す訓練をすることで記憶が定着していくというのが記憶学の近年の到達です。睡眠不足では、努力して考えるということができなくなりますので、思い出すということがなかなかできにくいようです。

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