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特攻隊員の心情を肯定的に理解しなければ平和運動は上滑りした危ういものになるだろうということ [進化心理学、生理学、対人関係学]



<元特攻隊員の会見>

先日、ネットニュースで特攻隊員の生き残りの90歳代の兄弟が
その心情について会見を開いていました。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191122-00000037-mai-soci&fbclid=IwAR1VK_0vwCjm648jaSC8-zTZhoeX9CCxMFKZM4Knv-U1dBtZq4LTTkv_T0Y
それというのも、
娘と特攻隊の展示館で、特攻隊員の遺書が展示されていて、
娘さんは、亡くなった方々が、
「教育を受けて勇ましく死のうと思ったのね」
と言ったことがきっかけだったそうです。
その遺書には、家族にあてて心配するな
お国のためだから喜んで死ぬ
というようなことが記載されていたようです。

これは違う、
こういう誤解は生きているうちに訂正しなければならないということで、
元特攻隊員の兄弟は会見を開いたとのことでした。

<元特攻隊員の話を考えてみた>

何が「違う」のか。

第1に、死ぬのは怖かったそうです。
第2に、喜んで死ぬと書いたのは、家族に向けた配慮だそうです。
恐怖の中で嫌々死ぬと思うと家族が悲しむので、
家族の苦しみを軽減させるためにそういう
いわばリップサービスをしたとのことでした。
第3に、何か自分が死ぬことが大義を受けてのことだと思わなければ
やっていられなかった
ということを説明されています。

つまり、戦前の軍国主義教育によって死ぬことが怖くなくなったのではなく、
「家族に心配をかけない」ということで
「大義のために」ということで
死ぬ恐怖を軽減させる工夫をしていたということになります。

余裕をもって死を迎え入れたのではなく、
いずれに死ぬことになる客観的情勢なので、
少しでも死の恐怖を軽減させようと
追い込まれた結果が勇ましい遺書だったわけです。

死の恐怖を軽減する方法としては
仲間のための行動をすることが有効です。
人間はそのようにできているからです。

言葉のない群れを作ることができたのは、
襲われている仲間を
みんなで助けようとする性質があったからだと思うのです。
(袋田叩き反撃仮説)

平時に野獣を見たら逃げるでしょうが、
いざ仲間が襲われていれば
怖いという気持が不思議と消えて
みんなで野獣を袋叩きにしたという仮説です。

これがなければ、人類なんて死に絶えたことでしょう。

つまり仲間のために身を挺するというのは
人間の本能なのです。
ただここでいう「仲間」は、おそらくせいぜい数十人くらいで、
いつも一緒にいる人たちでしょう(ダンバー数と単純接触効果)。
例えば家族です。

国を守る、民族を守るというのは
人数が多すぎるのと抽象的な存在なので
守ろうとする本能はないと思います。
これは「教育」が必要なのでしょう。
それでも無理かもしれません。

おそらく、見知った親しい仲間を守ろうという強い情動が
自分を守ろうという情動を軽減させるのだと思います。

大義とはこの感情、本能から派生したものですが、
実際は、仲間を守ろうという意識に還元できるのかもしれませんが、
(たとえば国を守るという言葉であっても、
実際に念頭に置いているのは親兄弟だったりするというようなこと)
自分を奮い立たす従的な役割は果たすかもしれません。


<教訓>

1 教育によって洗脳しきらなくても特攻隊に志願することはできる。
  
戦前の軍国主義教育によっても
人間の死の恐怖という本能を打ち消すことはできなかった
ということです。

現時点で戦争は現実的ではないという考えがあります。
それは、戦争を遂行するためには
国家的な洗脳がある程度進まなければならない
戦後の民主主義教育や平和教育によって
戦争を起こすような教え込みはできなくなった
だから現実には戦争に賛成する人はいないだろうと
というものです。

戦争を遂行し、特高指令を受諾するには
そこまで高度な文明支配は必要ではなかったのです。
自分や家族の危機感を認識させれば
それでよかった可能性があるということです。
自分や家族の危機感を抱けば
仲間のために我が身をなげうつという人間の本能が発動されるので、
自分の死の抵抗も下がるし、人も殺せるのです。

現代でも例えば貿易上の軋轢で
日本の生命線が断たれた
このままでは大恐慌に陥って死者が出る
ということを宣伝すれば
戦争を少しずつ受け入れていく危険性があるということです。

戦後教育や、民主主義教育、平和教育と言いますが、
実際の学校はそうなっているのでしょうか。
強い者にまかれろ、上に歯向かうなという訓練が
着々と遂行されているということはないと誰が断言できるでしょうか。

2 特攻隊賛美に対する批判が心を打たない理由

特攻隊員が、国や大義のために死んだのではなく
死の恐怖を軽減するためには、あるいは、
家族を守るため、家族に役に立つためには
勇ましく死んだような形を作るしかなかったという
人間の本能にもとづく行為だったわけです。

賛美するかどうかはともかく
大いに共感できることだと私は思います。

否定されるべきは特攻作戦であり、
それを命じた上層部、とめなかった上層部にあるはずです。
その作戦を考えた時点で、手詰まりであることを認識して、
戦争を投了するべきだったのでしょう。
それでも戦争を継続した上層部は素人集団であったわけです。
元々戦争を始めたこと自体も疑いの目で見るべきだということを
特攻作戦が行われたという事実が有力に示している
それ程の愚策だったわけです。

特攻作戦賛美には反対しなければなりません。
しかし、その中で命を無くした若者たちが
死を恐れ、
家族のためにできる死を恐れていないと
自分は平気だという気づかいをすることによって
死の恐怖を軽減したこと
ぎりぎりの本能的行動を否定してしまったら
それは人間に対する否定になるのだと思います。

素朴で敏感な国民から遊離していくだけだと思います。

<謝意>

勇気を出して真実を語った90歳代の元特攻隊員の兄弟の方の
今回の発言は、とても勉強になりました。
目を開かせていただいたという思いです。

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ダイエットに失敗するメカニズムを理解すると人間の心が200万年前から変わらないから生きづらいということが見えてくる。 [進化心理学、生理学、対人関係学]


<ダイエットが成功しないメカニズム>

現代社会において、ダイエットは必需品のようです。
容姿を気にしたダイエットが多いのですが、
我々の年代では生活習慣病を意識したダイエットもあるし、
糖尿病や腎臓病のような死活問題である場合もあります。

いずれにしてもダイエットは失敗しがちなのですが、
誰でも経験していることは、
甘いものを見ると、つい手を伸ばしてしまうということや
一度食べてしまうと想定以上に食べてしまう
という甘いものの誘惑です。
つまり、人間は、甘いものを見ると食べたくなってしまうわけですが、
それは、人間の体がそのように設計されているからだ
ということのようなのです。

実は、甘いものを欲しがるのは人間だけではなく、
くまのプーさんははちみつをとろうとしますし、
アリも甘いものにむらがります。
ハチも蜜を求めて飛びますし、
ミミズも甘いものがあれば食べます。

甘いものというのは、化学でいえば
単糖類、二糖類である、砂糖、ブドウ糖、果糖などですね。
極めて簡単な分子結合であるところが特徴です。
複雑な消火システムを抜きに消化吸収されるので、
大変効率が良いです。

また速攻で体を動かすエネルギーになりますから、
生きるためには、どんどん摂取する方が得なのです。
ここは人間もミミズもあまり変わらないようです。

さらに糖分は、形を変えて体内に蓄積することができます。
多くとって体の中に保存した方が有利だということにもなるわけです。
この蓄積されたものが皮下脂肪などということです。

つまり、甘いものを食べようとする行動は、
みて、あるいは匂いで
単刀直入に、食べようという
感情を伴った衝動が起きるわけです。
体の仕組みで起きているから強い衝動ですね。

これに対してダイエットは、
これを食べると太る、だから食べないようにしようとか
これを食べると血圧が上がる、だからたべないようにしよう
という、もって回ったあるいは理性的な行動意欲ですから、
単刀直入の感情を伴った衝動に比べると
人間の行動パターンとしてはどうしても劣ってしまう。

このため、食べてしまってから
後で後悔をするという時系列になりやすいのです。

<甘いものを吸収するシステムの理由>

どうしてこのような迷惑なシステムが作られたのでしょうか。

それはこのようなシステムが作られた時代を考えれば
簡単に理解ができます。

先ほどの例でくまのプーさんだけでなく
アリやハチ、ミミズも甘いものを欲しがるといいましたように、
甘いものを欲しがるということはかなり前
おそらく1000万年前どころではない時代から作られていたのでしょう。

一言で言えば甘いものの極端に少ない時代です。

甘いものは、消化吸収が簡単でエネルギーになりやすい
生きるためにはとても有利なものです。
せっかく甘いものに遭遇したならば
確実にそれを体内に吸収しようとする体の仕組みがなければ、
せっかくの甘いものを素通りしてしまいます。
甘いものを食べたいという感覚を持つことができれば
甘いもの摂取するわけで、この仕組みが
甘くておいしいという感覚を持つことだと思います。

逆に言うと
甘いものをおいしく感じた動物の子孫が
生存競争を勝ち残って生き残ったというわけです。

そして、少ないチャンスを確実にものにするために
甘いものはありったけ食べて体内に蓄積するメカニズムをつくることが
とても有利です。
甘いものがなくても、体に蓄積された皮下脂肪を取り出して
エネルギーとして活用ができれば、
次に見つけるまで生き残ることができます。

特に人間は、脳を発達させて生き延びてきましたが、
この脳はかなりのエネルギーを必要としますから
どうしても糖分を体内に蓄積させて
生き延びようとしたわけです。

このように甘いものがうまい、もっと食べたいというのは、
人間をはじめとする動物の生きる仕組みだったわけです。


<なぜダイエットが必要になったのか>

それでは、生きる仕組みであるところの
甘いものを食べよう、もっと食べようという行動が
様々な病気を発症させるとして
問題になるようになったのはなぜでしょうか。

それは、1万年前くらいから人類は農業を行い始め、
体の中で糖に代わる炭水化物を人為的に生産し始め、
20世紀に入って砂糖を工場で作るようになって
大量生産が可能となり、簡単に入手しやすくなったからです。

そのように砂糖が入手しやすい環境に変わったため
本来ならばむきになって食べようとしなくてもよいし、
その都度食べれば済む話ですからもっと食べようなんて思う必要もありません。
しかし、人間の体はそう簡単に環境に適応しません。
相変わらず体は、何万年も前に形成された
砂糖を摂ろう、砂糖をもっととろうという仕組みのままだということです。

こんなに多くの砂糖を日常的に摂取できるということは
人体の想定外だというわけです。
そのため必要以上に甘いものを摂りすぎて
糖尿病、腎臓病、生活習慣病
あるいは虫歯に苦しむようになったということのようです。

体は、まだ、何万年前のバージョンのままということです。

(このセクションは、ダニエル・リーバーマン「人体600万年史」(ハヤカワノンフィクション文庫))

リーバーマンは、「人体と環境のミスマッチ」と表現しています。

砂糖は必要以上に摂るように体の仕組みができてしまっている。
現代社会は、その想定を超えて砂糖が供給されている
だから、人体に合わせた分量に摂取を抑える
これがダイエットということになりそうです。


<心も体と同じ>

このような人体と環境のミスマッチは
糖の問題だけでなく起きていても不思議ではないと思います。

対人関係学は心にも応用できる問題ではないかと考えていて、
「心と環境のミスマッチ」という概念を提唱しています。
対人関係学のページ 対人関係学の概要・用語
http://www7b.biglobe.ne.jp/~interpersonal/concept.html

心が形成されたのは200万年前だというのが認知心理学のコンセンサスです。
当時ヒトは、群を形成して生きてきました。
群を形成しなければ生存競争に敗れていたと思います。

言葉のない時代に群を形成するために必要な、
都合の良い心をもっていたはずです。

1 群れの中にいたい、孤立することが怖いという心
2 群れの仲間に共感する能力、神経
3 自分と他人が厳密には区別がつかず、群の仲間が困っていたら自分が困っているのと同様に困り、何とかしようと思う。
4 群れの一番弱い者を守ろうとする。
5 それらの結果、群の仲間が襲われていたら、自分を守ろうとする意識をもてずに集団で反撃しようとする

だいたい現段階ではこのように整理しています。

1は、人間の心理で、これが充足されないと心身に不具合が生じるということで前々回のブログで示したバウマイスターの理論の根幹です。
2 共感は、今やミラーニューロンによるという神経学的な解明が進んでいます。
3は、認知心理学でいうところの単純接触効果の局限的な状態です。当時の群れは、原則として生まれてから死ぬまで一つの群れで生活していました。また、平等が貫かれていますから、利害対立がない。このため単純接触効果が極限まで及んだのだと思います。
4は、現代人も、かわいいという心があるので、実感できるでしょう。この気持ちがなければ、赤ん坊は成人になれず、人類は早々と死滅していたでしょう。
5 袋叩き反撃仮説として、上記のページでも提唱しています。
  もともとはこのブログ記事です。
ネット炎上、いじめ、クレーマーの由来、200万年前の袋叩き反撃仮説
  https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2018-06-19

このような人間の心は、大変きれいごとのように
現代社会では感じられるかもしれませんが、
当時で言えば、死活問題で
そのような心を持たなかった人類は
死滅していったと思います。

そう、砂糖を食べよう、もっと食べようとして生き残ったようなものです。

では、現代の心を取り巻く環境の変化とは何でしょう。
それは、人間の能力を超えた人数との接触と
複数の群れに同時に帰属するということだと思います。

200万年前までは、一度にせいぜい150人くらいとしか
接触がなかったはずです(ダンバー数)。
また一つの群れでしか生活しないのが原則です。

ところが、現代の人間は家族があり、
学校に行き、職場に行く、
マンションという狭い空間に何人もの人たちと生活を共有する。
自分のやりたい行動をしようにも
どこのだれかわからない人と競争して勝ち抜かなければならない。
誰かに親切にするとかえって抗議をされてしまう。
世の中は優しくなく、常に攻撃におびえ、
自分を守るために緊張を持続させなければならない。

学校や職場という空間に同時に存在しても
単純接触効果が起こりにくい状態です。
弱い者は庇われないことが当たり前
自分や自分の家族を守ることが最優先。

誰かを攻撃し、怒りの意識をフォーカスすることによって
自分の現状の苦しさを忘れようとする。
みんな自分という単体を守ることに精いっぱいで、
共感なんてものはテレビやスマホに向かってするものだ
という現状になっているのではないでしょうか。

ネット炎上は、袋叩き反撃仮説の性質が裏目に出たと言えば
とても理解しやすいと思います。

いじめ、パワハラ、リストラ、DVが
当たり前になってしまうのも無理がないように思えてきます。
これらは、人間が調和的にいるための性質が働いているのだけど、
環境が変わったために不具合を起こしているとは考えたほうが、
合理的な解決が得られるように感じています。

現代社会の社会病理の視点として
心と環境のミスマッチは
必要不可欠の概念だと私は思います。

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加害者にPTSDが発症するメカニズム 共感の遮断と接続、対人関係的危険の概念と対人関係上の自己消滅 [進化心理学、生理学、対人関係学]

加害者にPTSDが発症するメカニズム 共感の遮断と接続、対人関係的危険の概念と対人関係上の自己消滅

PTSDとは、ひらったく言うと
危険によって精神的に強い衝撃を受けて
既にその危険が去ったにもかかわらず、
① あらゆることが危険であり、危険の兆候だと感じるようになる(過覚醒)
② 理由なく、危険を受けていた時と同じ感覚が、突然よみがえる(侵入)
③ 危険には解決方法がない、危険が現実することから逃れる手段がないと感じる(解決不能感)
という症状が中核的なもので
このほかに、抑うつ状態、不眠、悪夢、イライラなどが起きます。

ベトナム戦争の帰還米兵の研究によって概念づけられた歴史から
医学的ではなく政治的な概念であり、
独立した診断名は不要で既存の病名で足りる。
という主張が根強くされているようです。
ちなみに、この批判をする方々は
必ずしも政治的立場が共通しているわけではないようです。
また、フロイト学派の一部からの批判もあるようです。
PTSDを否定する立場からは、
うつ、解離、パーソナリティー障害等に別の疾患に当てはまる
という診断をされることがあります。

その中でも大きな論点としては、
「加害者にPTSDが発症することはありうるのか・」
というところにあるようです。

先ず、しっかり加害者という場面設定をすることが大切です。

戦争は、やるかやられるかという状態であり、
ある局面では加害者であっても、その直後の局面で被害者になる
ということがむしろ通常です。
敵に機関銃を浴びせているそのときに
隣で同僚が無残な死に方をすることも当たり前にあるでしょう。
その時同僚ではなく自分が死んでいてもおかしくないのですから
強烈な危険を感じることが通常だと思います。

おそらく、加害者にPTSDが発症することはあり得ない
と主張する論者も、
自分が属する国が加害国だからと言って
個人が被害者の局面があったこと
つまり、自分の死の危険を現実のものとして感じたことまでを
否定することはないと思われます。

問題設定を整理すると、
自分自身がそのような危険を体験せずに
「もっぱら加害者であった場合にPTSDが発症するか」
ということになるでしょう。

もう一つこの問題と関連して
被害者としてPTSDを発症するのは、
危険が存在した時点から精神的外傷が発症して
その後も継続してPTSDになるのに対して、
先の限定でいう加害者がPTSDを発症する場合
直ちに精神的外傷が起こらず
危険が去ってしばらく後であることが多い
という点も問題になっています。

この理由を説明しなければならないという批判は
実にもっともだと思います。

私はPTSDを医学的に論ずる立場にはないのですが、
この点の説明を試みようと思います。
私の立場からは、危険とPTSDの発症のタイムラグがあることが
むしろ加害者のPTSDをうまく説明できるのです。

便宜上次のAとB二つの論理に分けて説明していきます。
分けて説明しますが、同時に起きていることです。
A構成は、どちらかというと、PTSD肯定論者の説明に近いと思います。
B構成は、対人関係学独自の構成になるはずです。

<A構成 共感の遮断と接続>

加害者が、被害者を虐殺する場合に、
どうして虐殺できるのかということを考えます。
通常、人は他人を殺すことができません。
痛み、絶望、絶対的不安、無念さ
様々な被害者の心情に共感してしまい、
他人の命を奪うという残酷なことはできないということになります。

人を殺す人間は、二つの事情等によって
被害者への共感を遮断しているところに共通点があります。

一つ目は、相手を殺さなければ「自分」が死ぬという正当防衛、
あるいは自分ではなく「自分の仲間」、あるいは「自分たち」
を守るという意識を強く持つことによって
相手を攻撃しても良い存在だと無意識の評価を行い
相手への共感が遮断されます。

二つ目は「正義」です。
相手は人類の敵であり悪であると考えれば
相手に対する共感を遮断することができます。
正義は、相手を攻撃するための思考ツールなのです。

これらの概念、感覚、言い訳で武装して
人は人を殺します。
自国に敵が攻め込んでくる場合は、
直感的に敵だと認識し、共感が遮断されやすくなるでしょう。

これに対して、相手国に攻め込んで行って戦争を仕掛ける場合は
当然には正当防衛も正義も感じられませんので、
国民を守る、国を守る、民主主義を守るという
大義が必要であるという理由がここにあります。

ひとたび共感が遮断されてしまうと
相手は人間ではなく、せいぜい何らかの動物としてしか感じません。
人間でないものを人間のように扱うのが擬人化ならば
戦争はその反対の思考パターンが起こされているのでしょう。
敵国国民は、擬人化されたネズミやアヒル以下の存在になるわけです。
共感が遮断されるということはそういうことです。

戦争が終わって帰国しても
国や国民が敵を殺した英雄として扱えば
殺した相手への共感の遮断は維持されることでしょう。

ただ、加害者は被害者が死んでいく様子を見ているわけです。
音でも聞いているし、においも嗅いでいる
五感で残虐な様子を見ています。
意識に上らないとしても記憶が維持されています。

ベトナム戦争のように
戦争自体に大義名分がなかったのではないかと
敵からではなく自国民から言いだされてしまうと
もしかしたら単に平和に暮らしていた外国人を
わざわざ虐殺しに行っただけなのではないか
という考えが侵入することを防ぐことができなくなることも多いでしょう。

この時、
被害者への共感から自分を守っていた壁が崩壊するわけです。

すると被害者の死にざまの記憶が生々しくよみがえってきます。
共感が接続されてしまい
人間が死んでいく記憶に置き換えられていきます。
なすすべなく死んでいく様子であるとか、
恐怖の表情、叫び声、
被害者が自分で自分の運命をどうすることもできない様子
完全に自己消滅しつつある人間の姿を
繰り返し思い出すようになるのかもしれません。

「共感」とは、
他者が感情をあらわにしたその原因となる環境にいる状態を
自分が他者として追体験することです。
程度の差はあると思うのです。
他者が命乞いをしているときのニューロンの動きを
自分の頭の中で再現してしまっているのです。

そうすると、
被害者の精神的外傷が生じる状況を追体験してしまい、
自分の同僚が隣で殺されたときと同じように
絶望を追体験してしまうということになってしまいます。

個人差はあるでしょうが
共感のメカニズムが動き出してしまったら
それを自分の意識(理性)によって抑えることは
不可能に近いと思います。

かくして強烈な恐怖、孤立無援感、自己統制力の喪失、
完全な自己消滅の脅威を追体験して
PTSDが発症するわけです。

被害者が虐殺された時から
PTSD発症までにタイムラグがあるのは、
幸運にも共感が遮断されていた時間ということになります。
タイムラグがあるのは私からすれば不合理ではなくなります。

<B構成 対人関係的危険の概念と対人関係的自己消滅>


対人関係的危険とは、身体生命の危険に対応する概念です。
人間は、けがをするとか病気になるとか身体生命の危険を認知すると
交感神経を活性化させ、心臓の活動を活発化し、
血液を筋肉に通常よりも多く流すなど、
生理的変化を起こします。
口角が上がったり、瞳孔が開くなど体の状態が変化するわけです。
これは、危険から走って逃げるための仕組みです。
(あるいは攻撃して危険をつぶすため)
この生理的反応を「ストレス」と言います。

ところが走って逃げることが何の役にも立たないのに、
自分が所属する人間関係から分離されそうになると
同じようなストレス反応が起きてしまいます。
これが対人関係的危険を感じているということです。

バウマイスターらの論文には、
人間は、誰かとの人間関係に帰属したいという
根源的要求を持っている
これがかなわないと心身に不具合を起こすと主張しています。
「The Need to Belong : Desire for Interpersonal Attachments as a Fundamental Human Motivation 」Roy F. Baumeister Mark R. Leary(Psychological Bulletin vol.117 No.1-3 January-may 1995)

対人関係学は、この学説に影響を受けていて、
この心身の不具合は、特に
所属している人間関係からの分離を想起させるときに起きる
と主張します。
これが対人関係的危険です。

これは、人間が言葉もない時代に
群を作るために必要な人間の性質でした。
つまり人間の群れを作るためのツールである
・人間はだれかとつながっていたいと思い、分離されそうになると危険を感じ避けようとする。
・分離されそうになるかどうかは、他者に共感する能力によって感じることができる
・群れの一番弱い者を守ろうとする
・仲間と自分の区別がつきにくく、仲間の窮地については、怒りをもって我が身をなげうってでも戦う
というメカニズムが遺伝的に備わっていると主張するのですが、
分離不安はその第1のツールということになります。

もっともここでいう仲間とは数十名から200名くらいの人数(ダンバー数)であり、常時一緒にいる仲間である場合が強く妥当するということです。ヒトという「種」のためとか「国」のためとか「民族」は、ここでいう仲間には含まれません。
 
人間関係からの分離不安が起きてしまうと
それがとても強い不安になり、
その不安が持続すると思考力が低下するなどの弊害が起きてしまいます。

本来、対人関係的危険を強く感じる人間関係とは
自分のアイデンティティーの一部となっている人間関係です。
家族だったり、資格が必要な職業集団だったり
「その人間関係があっての自分だ」という人間関係ですね。
このような人間関係から離脱させられると感じる事情があると
自分自身が消滅するような恐怖すら感じてしまうようです。

離脱させられると感じる事情とは
一言で言えば自分がその人間関係の中で
「仲間として尊重されていないと感じる出来事」です。
差別されたり、発言を封じられたり
仲間の役に立つ努力をしてもねぎらわれないという他者の行為や
あるいは自分が仲間に顔を向けられない失敗をした場合等です。

さて、ベトナム戦争の帰還兵は、
戦地では、命を守り合う自分が所属する軍隊が
一番大切な人間関係です。

その軍隊では敵を虐殺するということで
お互いを守り合っているのですから
虐殺したことに多少の後ろめたさはあっても
同じ仲間の中にいる限りは非難されることもないでしょう。
だから戦地で軍隊に属している場合は
自分の虐殺行為に対して対人関係的な不安を感じることはありません。

ところが人と人が殺し合わない平和な国に帰還して、
やがて結婚して、子どもが生まれて
幸せな家庭をもつようになるわけです。
自分が戦地でどのようなことをしたかについて
妻や子ども達、あるいは孫に
正直に言うことができないという感覚に襲われるのです。

自分が行った残虐な行為を家族に知られることが怖くなります。
本当のことを知られてしまったら
家族が自分を冷たい目で見るかもしれない
あるいは軽蔑されるかもしれない
あるいは恐怖の対象としてみられるかもしれない。
これまでの平和で穏やかで笑顔が絶えない家庭が
自分の過去の真実で凍り付くかもしれない。
これまでの幸せな家族が消滅してしまうかもしれない。
それは家族の中にいる人間関係をも含めた自分
それ自体の崩壊ないし消滅と感じるかもしれません。
これこそが強烈な分離不安であり、対人関係的危険を感じている状態です。


帰還兵は、
家庭の中では孤立無援ですし
自分が他者を虐殺したという過去は
自分では修正できない事実として存在し続けます。
もし事実を知られたら
自分は、最も大切な仲間を失う
その仲間なしで自分は動物として生きているけれども
人間としては消滅してしまう。
こういう恐怖感を持つのだと思います。

こう考えると
加害者や加害国の軍隊であることは
PTSDの発症とはあまり関係がないように思われます。
肝心なことは、戦争時の行為の残虐性の程度の問題だと思います。
個人に病的な精神症状が出現することを
リアルにとらえるべきではないでしょうか。


A構成は共感による追体験としてのPTSDですが、
B構成は、「対人関係的な意味での自己消滅」としてのPTSDです。
二つの構成は光を当てる部分が異なるだけで
一人の人間の中では同時に起きているうえ、
相乗効果が生じている可能性が高いと思います。

B構成の場合、タイムラグがあることは
むしろ自然だということになります。

対人関係的危険と生命身体の危険の違いは、
生命身体の危険が一瞬で結果が出現するのに対して
対人関係的危険は、結果が出現するということがあまりなく、
結果の出現の恐れだけが持続していくことにあります。

この時間の経過は危険意識を増大していくことでしょう。
時間が経過するだけで何も解決することがないならば
それだけ絶望、自己統制不全が確定的になっていき
孤立感も深まっていくからです。

危険意識が増大すれば
危険から解放されたいという欲求も増大し
かつ持続してゆきます。

かくしてあらゆる出来事が
自分が対人関係を失う兆候のように思えてきて
自分は攻撃されているという意識が生まれ、
合理的に物事を考える力が限りなく低下し
不意に恐怖が意識にとって代わる事態となり
何事も破滅に向かっていると感じるようになるのです。
自分がそれに抵抗することができない
羽交い絞めにされて殴り続けられるようなものでしょう。
そして誰も助けてはくれないということを
絶えず自覚し続けるのです。

いじめやパワハラ、支配の意図を持ったDVなど
身体生命の侵害が少ないときには
その損害は軽く扱われることがあります。

しかし、PTSDを対人関係学の観点から理解すると
身体生命の危険を感じさせる暴行や脅迫が
必要不可欠なものではない、
むしろ本質は対人関係的な危険にあるということなので
暴行や身体に対する脅迫がなくても
重大な精神症状が生じる極めて危険なことになります。

医学的問題には言及しないと申し上げましたが
もう一言どうして言いたいことがあります。
それは、このようなもっぱらいじめの被害者の文脈で
精神病院に入院を余儀なくされた子どもたちの事例を
多すぎるほど見てきました。

病名は、統合失調症、解離、境界性パーソナリティー障害、うつ
と様々です。
そして、長く隔離室に入れられ病名と症状に応じた投薬を処方されています。

もちろん孤立や自己統制力の喪失を
さらに与えられているわけです。

現在の操作的診断基準だからこそ、
PTSDという概念を確立していただき、
適切な治療方法を確立していただきたいのです。

精神病院に入院したことによって原因が増大し
表面的な症状に対症療法をされたところで、
本人の人間の精神状態として何ら改善されない
そういう印象をどうしても持ってしまうのです。

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プロは他人の悩みを笑わない プロの支援とは何か 探すのをやめたとき見つかる理由 [進化心理学、生理学、対人関係学]


悩みは、他人からみると、
意外な原因で悩んでいることが多くあります。
典型的なことは子どもの悩みです。
大人の尺度でものを見ると
そんなことで悩んでいること自体が信じられなくなることがあるでしょう。
しかし、子どもは思い詰めています。
子どもの視線で、
どうしてそれを悩むのかということが理解できなければ
効果的なアドバイスはできないと思います。

相談会などに行くと
本人やインテークをする人が
その悩みはくだらない悩みだとか、小さいことだとか
本気か謙遜かわかりませんが、
そんなことを聞かされることがあります。

プロは、人の悩みにくだらないものとか小さいもの
ということは感じません。
その方が真剣に悩んでいて
それに自分が役に立たせてもらえるなら
それが人間としての私の喜びだ
とそう考えています。

悩んでいる方は、解決方法を知識として持っていることが多いです。
もっとも法的知識のように
それを知らなければ解決方法がないということも多いのですが、
人間関係の解決方法は「知って」いることが多いです。

ところが、それが意識に上らなかったり
その解決方法を選択して実行できないという
理由があるから解決しない
ということが実感です。

一言で言って、
人間の脳は、現代社会に適応していない
ということが言えるようです。

人間の脳の活動である意識は
一つのことにしかフォーカスをあてられない
という特徴があると考えると
その理由がうまく説明がつくようです。

悩んでいるときは、
困った、苦しいという感情にだけ
意識のフォーカスがあたっていて、
意識というか、脳は思考をしていないのです。

困難から逃れよう、逃れなくてはという焦燥感が意識に上り
それが意識のフォーカスを独占してしまっている
このため考えることができないということです。

悩んでいるとき、困っているとき、
人間は思考をすることができないのです。

悩む、困るという意識活動は
人間を危険から遠ざけて安全な場所に移動するためのシステムです。
ただ逃げるということに専念することが
逃げ切るためには有効なので、
特に危機感を抱いた時は、他のことに意識が回らないように
脳が組み立てられているようです。

これに対して、自分はいろいろなことを同時並行でやることができる
例えば、テレビを観ながら本を読んで、ご飯も食べることができる
なんてことをいう人がいますが、
実際は、それぞれ細かく分断して順番にやっているだけです。
一言で言って気が散りやすいからできるわけです。
集中が苦手ということですね。

しかし、メリットもあります。
気が散りやすいということは、
一つのことに意識のフォーカスを絞らないで
他のことにも気が付きやすくなるので、
考えるべきことが考えられるかもしれないということです。

ただし、そういう場合にも、
「逃げる」という場面の場合は、
なかなか気が散らず、悩むことに集中してしまうことが多いようです。

解決方法に移行するためには、
先ず、悩むことをやめることが必要です。

「逃げる場面で悩むのをやめる」ということは、
自分をあえて危険にさらすということです。

これは、生命身体の危険
怪我をするとか、病気になるとか
そういう場合に逃げるのをやめることができませんが、
他人との人間関係上の危険
顔がつぶれるとか、立場がなくなるとか
そういう場合の危険は、
命には別条がないので、
一瞬悩むのをやめることが本来できるはずなのです。

しかし、人間は、そのような対人関係の危険と
生命身体の危険の反応を
区別して設計していないので、
とにかく基本逃げるということを目指してしまいます。
だから、悩むだけで考えることができないわけです。

探しているように見えても
実際は目的物が見つからないので困っているだけ
ということが多くあります。
これがないと学校で恥をかくとか先生から叱られるとか
そういう逃げる意識にフォーカスがあったっていると
考えることができませんので、
見えないところにしまってあるものは見つかりません。

探すのをやめるというのは
実際には、脳にしてみれば
見つからないから困るということをやめる
ということなのです。
そうすると、ようやく思考の出番になりますので、
最後にそのものを見た場所を思い出そうとすることに
意識のフォーカスを充てることができるわけです。
そうすると、ああそうだったと照れ笑いとともに
物が見つかる確率が高くなると
こういうことになります。

岡目八目という言葉は囲碁の言葉で
囲碁を打っている当事者よりも
観戦している人の方が冷静に考えられて
その先の状況を推測することができる
ということだと思います。

負けたくない、勝ちたくないという感情にとらわれると
思考が鈍ってしまうとすれば理解ができる言葉だと思います。

困りごとの支援者とはこういうものです。
つまり、当事者は困っているから、そこの意識のフォーカスがあたってしまい、
解決方法を選んだり、それを選択したり、実行したりする
ということにフォーカスがあたりません。

支援者は、第三者として
解決に意識を集中することができる
それだけの話なのです。

もちろん弁護士などの専門家は
当事者の不足している知識を補うことも必要です。

だから、プロの支援者というのは
過度の共感をしてはならないということになります。
共感を示すべき部分は
現実に困って悩んでいるというところにするべきです。
相談者と一緒になって悩むのは
プロの支援者とは言えないのはそういうわけです。

ただ、支援者の中には
解決方法が簡単である場合は、
「そんなことで悩むことはないですよ」と
言ってしまうことがあります。

解決策があり、解決できるよと
励ましのために善意で言うのでしょうけれど、
自分の悩みを軽く扱われたという印象を持たれることがあり、
相手を傷つけることがあるので、
お互いに注意をしましょう。


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互恵的利他主義、血縁淘汰、フリーライダー論に対する疑問を述べながら、対人関係学の最弱者保護を中心とする共感力が人間が生き延びた理由だということを説明してみる。 [進化心理学、生理学、対人関係学]

私が進化論を学ぶのは、便利だからです。
家庭や学校、職場の人間関係を改善する場合や、
そもそも人間はどのようなもので、
どうすることをやめ、どうすべきなのかというお話をするときに、
人間の心が生まれた背景や、
その時と現代社会の環境の変化から考えると
とてもうまく解決方法が見えてきます。

考古学や進化生物学を学ぶことは
とてもエキサイティングなことで、
時間やお金がもっとあれば
もっと勉強ができるのにと思うことがあります。

さて、
進化論の論争において、
かつて社会進化論や群淘汰説という考えがありました。
「適者生存」の原則から
現在ある社会形態が最も適切な社会形態であるとか、
社会的弱者は適者ではないから保護をする必要がないとか、

進化は種の存続と発展のために行われているとか
誤った説が生まれ、
ナチス等に利用されたという不幸な歴史があったようです。

特に人間や他の動物の
群を助けるために我が身を犠牲にする行動
利他的行動をどう説明するかというところが問題となったようです。

群淘汰説が
素朴な正義感、道徳観に訴えて浸透し
今も形を変えて存続する
不幸があったようです。
(お国のために命を捨てるのは、人間として正しいとか。)

これらの説に反対をしなければ
進化論自体が葬り去られるという危機感を抱いたようです。

それらの説の誤りは以下の通りに整理されると思います。
・ 進化は目的をもって行われるものではない。
環境に適合するように遺伝子的変化が起きることだということ 例えば種のために進化するのではない。
・ 進化は環境に適合した結果であり、進歩という意味あいではない。
・ 進化論は、進化の経過やそれを踏まえた現状を説明するための理論であり、現在の進化の到達点に価値をおくような理論ではない。

以上は進化論のコンセンサスであり、この理由付けで群淘汰説などを批判すればよいということは理解できるところです。

しかし、群淘汰説を否定することによって、
人間や他の動物が見せる無償の愛と言える
犠牲的な行為をどう説明するか
ということが大きなテーマになってしまうようです。

私は、人間の利他行為は、
人間の性質上そういうものであり、
利他行為を行いえた先祖だけが
厳しい環境の中で生き残ってきたので、
人間の特質になっていたと考えています。

およそ200万年前の人間の住んでいた環境を想像すると、
特に弱い者を守ろうとしなければ、
弱いものから順に死んでしまい、
その結果群が小さくなり、
外敵から身を守ることも、育児も、食糧確保もできないため
死滅していったということです。

人間の力、能力ははなはだしく貧弱なため
一人では何もできず、
仲間と共同してのみ
一人一人も生きていけたということです。


人間は、
共感力(ミラーニューロン)が発達し、
仲間が困っていれば、それを認識し、
自分のこととして、仲間の窮地を助けてきたのだと思います。

その中でも、特に弱い者を助けようとする心の仕組み(行動傾向)
があるものだけが群れを作ることができ
生き延びることができたという考えを私はしています。

これに対して進化論の有力説は、
互恵的利他主義と言って、
見返りを期待して利益を与える
それが利他主義だという説があります。

それは現代社会のように希薄な人間関係では
見返りもないのに自分の利益を他者に与えないでしょうが、
当時は、原則的に一生同じ仲間と生活していたのですから、
ひもじい思いをしているならば助けたいと思うのが
自然な感覚だったという説明でよいように思われます。
仲間と自分を、情動において区別をつけられなかった
ということになると思います。

例えばあなたが、お年寄りが辛そうにして席を譲るとき、
後でまた席を譲り返してもらおうという気持があるでしょうか。
あるいは、自分が歳を取ったときに備えて
席を譲るという風習を作ろうとしてやっているのでしょうか。
私は、お年寄りの状態をおもんばかって
親切にしているという方が実感に合います。

もっとも進化論ですから
一つ一つの行為の理由を説明しようとする必要もなく、
人間が他者に気遣うときはどうしてするのかということなので、
私のような批判は邪道なのかもしれませんが、
私は見返りを期待するというのは
現代的な環境を踏まえすぎていると感じています。

あるいは、進化論は、個体の主観を問題とせずに
そのような仕組みがあるから生き残ったのであり、
客観的には互恵の仕組みがあったということを
言えなくもないかもしれません。

しかし、私は、それで群が維持できたのか疑問があります。
見返りをしないずるい個体を制裁するということが
それ程きちんと行われたとは思えないのです。
あくまでも最弱保護を基本とした共感的行動が
群を形成することができた仕組みだと思うのです。


次に血縁淘汰説ですが、
利他行為の説明として、
自分の遺伝子を残すために
各個体の遺伝子の近い血縁にあるものに利他行為をする
という説明をしています。

いくつかの理由で、人間の利他主義を考える限り、
これは積極的に間違っていると思います。

一つは、進化は目的を持たない
という原則に反しているのではないかということです。
(そもそも血縁を多く残すことが進化上有利であるとも思えない
 有性生殖自体が遺伝子を薄める最大のエピソードであり矛盾する。)
一つは、血縁が決定的なのか一緒に生活をしていることが決定的かと言えば
一緒に生活しているから、あるいは生活していてなじみがあるから
という説明の方が妥当だと思います。
利他行為の動機づけの実情にも合うでしょう。
一番の否定する根拠は、人間は嗅覚が大変衰えていることです。
嗅覚に問題がある場合、血縁か否かなどわかりません。
血縁を感じ取ることは不可能です。
血縁淘汰説はあり得ないと思います。
(日本の民法は、子どもの父親なんてしょせん分からないのだから
 証拠がない限り、母親の結婚相手を父親としてしまえ、
 早く子どもの家族関係を確定した方が子どもの利益だ
 という考え方で作られています。)

現代では、血族に対する利他行為は血縁淘汰説
血族ではない相手に対する利他行為は互恵的利他行為で
組み合わせて説明しているようですが、
双方の考え方の弱点は解消されていないように感じます。

群淘汰説を否定しようと
余計な説明をしているように思えてなりません。


私のように考えると不都合があると指摘されています。
(もちろん私に対して指摘されているわけではありません。)

もし、各個体が最弱者のために無償の奉仕をするならば、
突然変異で、利己的な行動に終始する個体が生まれたならば、
利己的な個体は、利益を独り占めしてしまい、
生存において優位になるから
利己的な個体の子孫ばかりが増えてしまうのではないか
そうなると群がつぶれているはずだろう
という不都合です。

対人関係学の進化の説明に都合がよいので、
反論をしておきます。

先ず、最弱保護を中心として共感をする仕組みですが、
遺伝されるのは、
共感をする能力をつかさどる脳
(前頭前野をはじめとする大脳新皮質)と
ミラーニューロンの仕組みです。

偶然、この部分が発達した個体が生まれ(突然変異)、
当初は細々と集団を形成していたのですが、
これが強い集団で、厳しい自然の中で生き残り、
他の集団よりも環境に適合し、
繁殖によって増えていったのでしょう。

群を形成して生きていく中で
ますます、大脳新皮質や神経が発達して行ったのだと思います。

ただ、これだけでは、
相手の気持ちはわかるけれど、
それがどうしたという傍観者のままでしょう。

特に、相手が困っても自分も困っているのだから
自分を守ることの方が大事だという態度も
生き物である以上当然あると思います。

人間の子どももそのような傾向がある場合があります。
そこで教育がなされてきたのだと思います。
もちろん学校があったわけではありません。

母親を中心とした大人たちに育てられ、
自分が保護されることが当たり前だということを
我が身を持って体験してきたわけです。

そして大人になるということが
誰かのために行動するということだということを
少しずつ学んでいったのだと思います。

それから、仲間は自分が多少の失敗をしても
許してくれることを学び、
しかし自分よりも弱いものに攻撃することを止められ
共感力が仲間への奉仕に向けられていったのだと思います。
弱い者を守り、共感によって行動するという傾向は
赤ん坊が育っていく際には、教育という効果もあったのです。

この中で不幸にして、
共感力が器質的に欠如した個体も生まれたことでしょう。
子どもの時期を過ぎても利他的行動ができない個体です。

それでも子どもの時期に仲間に害を与える行動をすれば、
大人たちから攻撃され、自分が尊重されなくなる
群にいられなくなるという因果関係は把握できたと思います。
正確に言えば、そのような群れから外されるのではないか
という不安、対人関係的危機感を持つことはできたと思います。
心はついて行かなかったかもしれませんが、
行動を律することは、ある程度可能になったと思います。

それでも、子どもの時期の教育も失敗して
利己的行動に出る個体はどうされたのでしょうか。

私は排除されたと思います。

最弱保護を中心とする共感行動ができる多数の個体は、
できない個体から、自分が仲間として尊重されていない
と感じるわけです。

こちらが空腹なのに、余るほど食料を持っているのに
分けるということをしないとか
自分が転んでけがをして動けないのに
さっさと先に行ってしまうとか
順番を待っているのに、横入りされるとか
仲間であれば当然してもらうことがしてもらえない
仲間であれば当然されない仕打ちをされる

これが、多数から尊重されていないと感じると
うつ的な傾向になりますが、
特定の個体から尊重されていないと感じる方が多数となると
怒りが生まれてきます。
尊重されていない仲間を見たら
多数は、かわいそうだと思うわけですから
怒りは共有されていきます。

勝てるという判断と
最弱者のために勝たなければならないという判断が
直感的になされ、
闘いのモードになり、怒りが随伴するのです。

共感力を持てない個体も
対人関係的危機感は持っていると思われますので、
怒りの前に行動を修正すればよいのですが、
なぜ自分は嫌われているのかわからないという個体は
攻撃の対象となったでしょう。

群から排除され、
外敵に襲われたり、食料を見つけられず
死んでいったと思います。
淘汰されていったということになるでしょう。

これは今思いついた思い付きですが、
群のための奉仕することをしない個体は
群から大人だと認められず、
繁殖を許されなかった可能性もあるのではないでしょうか。
いずれにしても性淘汰された可能性は高いと思います。

しかし何らかのアクシデントで
利己的な個体が生き延びてしまったどうなるか
おそらくその所属する群れは
先細りになり死滅したことでしょう。

だから、利己的な個体が生まれたからといて
それは環境に適応していないのだから
増殖するということはあり得ないと
考えられるのです。


私は、人間を進化の視点で考える場合、
特に心のありようを考える場合は、
時的要素に注意しなければならないと考えています。

認知心理学のコンセンサスは
人間の心は約200万年前の狩猟採集時代に形成された
というものです。

人間の心がどのように適応したのかについては、
その時代の環境、食糧や居住環境
外敵や自然環境を理解しなければならないと思います。

特に、人間の心、意思や理性、分析的思考は
対人関係の状態を理解しなければ理解できないと考えています。

心はそのときに形成された。
私もそれを承認するところから出発しています。

そしてさらに注意しなければならないのは、
200万年を経過しても、
人間の心はあまり変化をしていないということです。

それでは、どうして、現代社会は
利己的な振る舞いがこれほど蔓延しているのでしょうか、
そのために人々は苦しみ、
社会病理的行動を行うのでしょうか。

それは、環境の変化が原因だと思っています。
詳しくは、対人関係学のホームページの
心と環境のミスマッチとして検討しています。

他の動物と比べても
人間の心を取り巻く環境は
形成期と比べ物にならない変化をしている
これを念頭に置かないと
太陽系の惑星の活動には法則がないという誤解と同様の
観たままの状態が真実だという誤りをするでしょう。

先ずどのような心が形成されたのか
それが環境の変化によってどのように不具合を生じさせているか
そういう視点こそ科学的ではないかと考えています。


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人間の文明は、人間関係の板挟みが作ったのかもしれない。自我意識あるいは理性の由来 危険に接近し、群れを形成する人間 [進化心理学、生理学、対人関係学]

自我意識あるいは理性の由来 危険に接近し、群れを形成する人間

目次
1 自ら危険に近づく人間
2 群れを作る人間
3 危険接近と群れ形成の関係
4 自我意識あるいは理性とは何か

1 自ら危険に近づく人間
1) 他の動物の情動と人間の違い
人間以外の動物のほとんどは、危険を認識した場合、危険を吟味することなく、逃げる。あるいは、危険を与える相手を攻撃する。このため、そこに複雑な思考は不要である。危険の程度を考えることも不要である。判断は危険か、危険ではないかの二者択一的なもので足りる。あとは、危険から遠ざかるだけである。
そして通常の動物は、そのような大雑把な行動パターンであっても、逃走能力が十分あり、また、餌をとる能力もあるので生きていける。
ただ、他の動物もそれぞれ独自の進化をしており、一定の危険に接近しているように見えることがある。しかし、その接近パターンは類型化されているため、その都度の思考をすることは不要であり、本能的にパターンに応じた行動をしている。

2) 人間の危険に接近する必要性

人間は、危険に近づき、危険を回避しながら利益を獲得する動物である。火の使用がその典型例であろう。他の動物は、火という危険物があれば近づかない。それで事足りる。あるいは、武器という道具を使うのは主として人間である。武器は、それを使用する者も危険にさらす。
人間がこのように、自ら接近する理由は、そのような危険物の中にある利益を獲得しなければ生き残れなかったからであると思う。栄養価が高く、獲得しやすい食糧は力が強いものが獲得した。しかし、力の強い動物も危険には接近しないため、危険に近づかなければ獲得できないものは残り物として残されていた。
人間はもともと樹上生活を送っており、地球の寒冷化によりジャングルが減少し、地上に降りてきたとされている(人体600万年の歴史 ダニエル・リーバーマン ハヤカワ)。主として肥大化した脳を維持するための必要なカロリー減としてたんぱく質をとる必要に迫られた。しかし、狩りの能力を持たない人間は、屈強な肉食獣が狩りをし、食べ残した、小動物の死肉を食べていたとされている(同上)。文字通り、残り物を食べていたのである。また、肉食獣が立ち去った後で、ようやくありつけた死肉は、腐敗が進んでいたはずだ。その腐敗している肉の食べられる部分だけを食べるということもまた、危険と隣り合わせの食事だったことになる。
人間がもっと自力で餌をとり、肉食獣からの攻撃を容易に回避する体の構造があったら、好き好んで火を使うことはなかっただろう。少しでも安心して生きるために、仕方なく火を使い、道具を使いだしたのだとは考えられないだろうか。

3) 危険に近づくための条件
ⅰ)情動の抑制ないし中断
人間も、火などの危険物を認識した場合、逃げようとする感覚をもっただろう。このような危険に対する本能的対応を情動ということとする。他の動物は詳しい判断をせずにこの情動に突き動かされて逃げるわけだ。人間は、この情動が起こりながらも情動に従わず、危険に近づく。情動を抑制できなければ危険に近づくことはできない。情動の抑制が危険に近づくための第1の条件になることは理解がしやすいと思う。
後に述べるが、情動の抑制という表現が適切であるか疑問がある。私は、情動を抑制しているのではなく、情動が中断されているということが適切ではないかと考えている。

ⅱ) 危険の程度、範囲の認識、危険メカニズムの理解
危険に近づく場合に、すべての危険に近づくわけではない。燃えている火に身を投じることはしない。例えば枝が燃えている場合、燃えていない部分の枝を持ては致命的なやけどを負わないことを知っている。そして、その枝に火が映らないうちに放り投げてしまえばやけどをしないことも知っている。また、枝ではなく大木が燃えている場合は、燃えていない部分をさわっても火力でやけどをすることも知っている。
 つまり、火力の大きさによって危険の程度が変わるように、危険には程度があることを知っている。そして、どのように扱えば危険が回避できるかについて、危険のメカニズムを理解している。
 このような複雑な思考をすることができることが第2の条件である。多くの野生動物は複雑な思考ができず、危険か危険ではないかの二者択一的思考を基本としている。危険に近づかなければならない人間の知恵とはこういうものである。

ⅲ)細かい点についての記憶
まずは、一個の個体が危険のメカニズムを理解したのだろう。しかし、それをその場で理解しただけでは危険に接近することはできない。危険の程度、範囲、時期などという詳細な流れを記憶しなければならない。それがあって初めて危険を利用するために近づくことができる。

ⅳ)危険の伝達と理解のための共感力

例えば火が危険であることは、近づいた際の皮膚感覚で何となく理解することができる。しかし、本当の危険を理解するには、実際に火によって大けがをしたり、命を落としたりする者を観察することによって理解するはずだ。
やけどで苦しんでいる人間の苦しさ、その苦しさから逃げようとして逃げられない絶望などをみて、それが同じことをすれば自分も同じようになるということを理解しなければならない。また、それは、危険か危険でないかだけでなく、どの程度のやけどならば予後が良く、その程度ならば予後が不良となるのかを含めると、他者への共感力はかなり正確なものを要求されるはずである。
そして、共感力を利用して、火の利用方法を仲間に伝えていくことも、人間として火を使うための条件になるだろう。もしかすると、武道の免許皆伝のように、当初は許された特定の個人だけが火を利用していた可能性もあるのではないかと想像をたくましくしてみる。言葉のない時代であるから、火の使用法を伝達するためには相当の犠牲者が生まれたのではないか。

4) 危険に接近する人間の思考の特徴

危険に接近するようになり、人間の思考は他の動物と異なる特徴を備えるようになったはずだ。これまでの考察をまとめてみる。
第1に二者択一的な思考ではない複雑な思考ができるようになった。
第2に現実化していない近い未来について推測ができるようになった。やけどをしないような火の使い方を考えるということである。
第3に条件付けの思考や場合分けの思考ができるようになった。
第4に他者の感情など複雑かつ抽象的な思考をするようになった。

2 群れを作る人間

1) 癒しと緊張
人間とそれ以前の祖先とを区別する基準の一つが、先ほど述べた地上生活を送るようになったこと、もう一つは群れを作って共同作業をするようになったことである。これには群れのなかにいる切実な必要性があるため大きなメリットがあったはずだが、群れを形成することによる新たな緊張があったはずだ。
ⅰ) 癒し
   弱く運動能力が劣る人間も、やがて死肉をあさるだけではなく、新鮮な肉を求めて狩りを行うようになったとされている(前掲)。しかし、運動能力の劣る人間が動物を狩るのは、ほとんど偶然によるものしかなかった。そのため、人間は集団で狩りをするようになった。集団で一匹の小動物を追い詰め、小動物が疲れて、熱中症になり、弱り果てるまで囲んで追い詰めて仕留めるという方法をとっていたらしい。狩りをするにも集団でなければできなかった。防御についても、一人で肉食獣に立ち向かうことはできない。誰かが多少の犠牲を被っても、集団で立ち向かったと思う。そうでなければすぐに群れは小さくなり消滅することになる。仲間を守るためには命知らずの反撃を手段で行ったはずである。徐々に、肉食獣においても、人間が集団でいるときは危険な動物だということを学習していっただろう。
 このように人間は集団の中にいることによって、食料を調達し、わが身を守ってきた。食料調達チームが群れに復帰すれば、チームも一安心しただろうし、留守番チームも安心したに違いない。日没前の時期に、群れに復帰し、癒しの時間を迎える時刻は、ちょうど交感神経優位から副交感神経優位に切り替わるころである。緊張によってすり減った神経、血管などを効果的に修復し、睡眠をとることも可能にしたのであろう。仲間は、生理学的意味においても癒しであった。

ⅱ)緊張

ただ、群れの中にいる必要がある人間は、群れから追放されると生きていけない。自分では情動に従って行動しているだけであっても、群れの仲間との関係では、敵対するような行動になってしまうことがある。そのような場合は、自分が危険な状態にあるということを認識し、行動を修正しなければならない。
この危険な状態にあるという認識方法は、発生後ずいぶんの時間を経過したのちに、進化によって群れの行動を始めた人間には用意されていなかった。だから、生命身体の危険を感じる生理的変化がそのまま使われた。これが緊張である。生理学的に言えば、血圧の上昇、脈拍の増加、体温の上昇などの変化や、筋肉の緊張などであろう。これは、現在ではストレスと呼ばれている。群れからの追放の危険について、私は対人関係的危険と名付けてみた。
対人関係的危険の感覚も、遺伝子に組み込まれたものもあるが、学習によって形成される部分も大きいと思われる。
 癒しと緊張の関係が問題となる。群れに戻ったとたん、癒しが始まり、同時に緊張も始まるというのでは、少し無理があるように思われる。おそらく緊張は常時起きていたのではないのだろう。また、人間は、緊張を回避しようと試行していたというよりも、その逆の思考が元々各個体に組み込まれていたと考えることのほうが自然である。つまり、仲間に貢献することが喜びであり、究極の癒しだったのではないだろうか。言葉もない時代に、そのような洗脳をすることは難しい。しかし、そのように仲間に貢献しようという志向や、弱い仲間を守ろうという志向がなければ、群れとしては機能しなかったはずだ。良好な仲間関係が形成されているときに、癒しの機能がよりよく発揮させられたのだろう。そうして、本来仲間として尊重されるべき行為をしている自分が、仲間として尊重されていない、積極的な扱いを受けていないと感じるときに対人関係的危険を感じたのだろうと思う。それだけ、人間は繊細な弱い動物だということなのだろうと思われる。
<長い注意書き> われわれ人間は、その後200万年を経過した段階で、第2次世界大戦、ファシズムを経験した。ユダヤ民族をはじめとする1000万人ともいわれる人たちがホロコーストの犠牲になった。このため、ナチスにつながるあらゆる論理を排除しようとする動きが生じることは当然である。問題は、少しでもファシズムに利用された概念について、まともな論証をしないで排斥しようとする非科学的態度が副作用として生まれたことである。進化論において、群淘汰説というフィルターが存在している。群淘汰説は、生物は種を繁栄させる方向で進化をし、利他行為は種を強化するための手段であるという理論を中心とした学説一般をさす。特に明確な定義があるわけではない。ナチスに役に立ちそうな理論を排斥するためのレッテルとして使われる。しかし、利他行為の存在を否定できないために、その理屈付けとして相互互恵説とか血縁保護説とか、進化の観点からは無理があり、実感として受け入れられない議論がまかり通っているのである。
 私は、もちろん群淘汰説に立つものではない。個体の生存を確保するために群れを作るしかなかったという理論を述べている。その群れの範囲は、あくまでも個体識別ができ、単純接触効果が期待できる範囲が基本である。ロビン・ダンバーによれば、せいぜい200人くらいの人数に過ぎない。
 また、科学の態度としても、ナチスに近いからと言って排斥することは誤りで、デメリットが大きすぎると思われる。ナチスが影響力を持ったのは、人間が受け入れる素地があったからである。むしろ人間の素地を利用して影響力を拡大したのである。その利用されてしまう人間の素地がどこにあるのか、その真理を突き止めることなしに、形を変えたファシズムを排斥することはできないだろうと思うからである。
 人間は、もともと群れに貢献することを喜びと感じる動物であった。自然は厳密なコントロールを用意しなかったため、わが身を犠牲にしても仲間を助けようという行動をしばしばしてしまうものである。
 日本における特攻隊志願者の論理は、まさにこの性質を利用されたものである。自分の家族を守るためにという本音を抱いて、「お国のために」という言葉に置き換えて、わが身を犠牲に供したということが一般的であったと確信する。

2) 群れを作る条件

群れを作る条件は、奇妙なまでに危険に接近する条件と近似している。
ⅰ) 情動を抑制し又は中断する能力があること
個人の情動、空腹、怒り、恐怖の赴くままに行動することは群れを成り立たせない。群れを作るためには、個人の動物としての情動が抑制されることが群れを作る第1の条件となる。
ⅱ) 共感する能力があること
  対人関係的危険を認識し、危険を解消する行動を行うためには、群れの他者への感情を理解できていないとならない。
ⅲ) 仲間に貢献しようとする志向、最弱のものを守ろうとする志向
   自分だけが利益を得ようとする者がいては群れは成立しない。特に弱い種の群れの場合、仲間の力を奪うような個体がいたのでは、弱い仲間から死滅してしまう。そもそもの分けるべきパイが小さいためである。弱いものが死ねば、その分群れが小さくなる。その分群れの機能が低くなる。また、現代社会を見ればわかるように、自分だけが利益を得ようとする志向は途中で抑制することができない。その分群れが小さくなっていくだけである。やがては群れるうまみがなくなる。
 自分だけが利益を得ようとすることを抑制することは現実的ではない。むしろ、その逆に、仲間に貢献しよう、特に仲間の中で一番弱いものを守ろうとする志向が人間にはもともと備わっており、教育でそれを強化していたと考えるほうが自然だと思われる。

3) 群れを作る人間の方法

動物が群れを作る方法はさまざまである。イワシは群れの内側で泳ぎたいという性質があるので、群泳をする場合、巨大な蛇が泳いでいるような外観を呈し、結果的に襲われにくくなる。渡り鳥が隊列を組むのは、風圧の関係で合理的な位置取りをするために大きな鳥の形に見え、捕食者から襲われにくくなる。結果としてそうなっている。イワシも鳥も、目的をもって行動をしているわけでなく、本能的な行動をした結果利益を得ているのである。進化が目的に基づいて行われるのではなく、結果が有利なものが適応するだけだということはこういうことである。
人間も同様だと思う。群れを強化しようとか、群れを存続させようとして理性的な分析がなされ行動しているのではなく、人間の本能的行動が結果として群れの存続や強化につながり、結果として弱い個体が生存できたということである。
人間の群れを作るモジュールは以下のようなものであることになる。つまり、他者に共感する、共感してしまうモジュール。仲間のために貢献しようとするモジュール。群れの最も弱い者を守ろうとするモジュールである。

3 危険接近と群れ形成の関係

以上のように考えると、人間の群れの作る能力は、危険に接近する中で形成されていったように感じられる。完全に分離して考察することは現実的ではなく、長い年月をかけて相互に影響しあって形成されていったということが表現としてはずれのない説明かもしれない。
 しかし、私は、どちらかといえば仲間の形成が先行したのではないかと考えている。
 人間の他の動物との違いの最大のものは、情動のままに行動をしないで、情動に反する行動をすることだと考える。情動に反する行動のメカニズムを考えると、そのように考えるべきだと思った。
情動を中断させることは、理性ではない。情動は自分を守るためのメカニズムであるから、ひとたび生じた恐怖、逃げようとする志向は、安全が確保されるまで中断されることがない。例えば、熊から逃げようと東の丘に向かおうとする行動が中断される場合の典型は、東の丘に新たな捕食者、例えば狼が存在することがわかりまた別の方向に移動するときである。つまり、情動を抑えるのではなく、別の情動が最初の情動を中断させるのである。
仲間を作ることによって、動物としての危険を回避する情動を中断させるもう一つの情動を獲得したのである。それが対人関係的危険を回避しようとする情動、もっと根幹的な表現を使おうとすれば、群れを形成しようとする志向が獲得される必要があったのだ。
 先ほどの熊と狼の矛盾のように、生物的情動の対立は、瞬時にその後の行動を選択して実行しなければならない。命の危険があるのだから、分析的に考えている場合ではない。社会的情動と生物的情動の対立の場合も、おそらく誰かの命の危険があり、瞬時に実行に移すべき時が多いであろう。典型的な情動の中断は、むしろ社会的情動の対立の場面であろう。簡単に言うと板挟みである。それほど時間が迫っているわけではない。しかし、選択を誤ると群れからの追放や群れからの評価の低下が待っている。他者への共感力の高さや、どれかを選択したことにより生じる結果の推論など、情動を抑制する条件、仲間を作る条件が鍛えられる場面であると思われる。仕方なく分析的思考を行わざるを得ないのである。
 もちろん、歴史的事実ではなく比ゆ的な表現なのだが、親の夫婦喧嘩や嫁姑の板挟みで、人類は高度の思考ができる脳が発達したようなものなのである。
 また、仲間を守るための自分の命を顧みない行動ということも、仲間を作ったことから余儀なくされたもので、自分という個体を守る生物本来の本能が抑制される体験を通じて情動を離れた分析的思考の基礎を作ることに貢献したのであろう。
 人間の思考も多くの部分で感覚的即決であり、分析的な思考が行われない理由は、分析的思考がここ200万年くらいの中でようやく高められてきた新しい思考法だからであろうと思われる。
  
4 自我意識あるいは理性とは何か

ここまで話をしてきたのは、人間の自分に対する意識、理性、あるいは分析的思考とはどのように生まれてきたのかということを考えたかったからである。
 人間の自分に対する意識は、理屈の上で他者と自分を区別する際に生まれるものであるというところから考えを始めていた。
 私なりに考えを進めてきたが、どうやら群れを作るということが、人間に意識を授けるにあたって不可欠の環境だったのではないかと結論になりそうである。生物的情動の対立ではなく、社会的情動の対立の中で自分の行動を決めることが脳を発展させていったという結論である。社会的な情動の対立を解決する場合は、時間的に余裕があり、様々なこと、考慮するべき人物の感情、利害状況、利害の共通性、将来的な派生効果、自分の立場、あるいは自分が守ろうとする仲間の立場、様々な状況の整理、程度の分析をおこなう。通常は情動に従って、自分の行動を感覚的に即決で足りた。しかし、社会的情動の対立に直面して、自分がどのような行動をするのかということは、自ずと仲間と区別された自分という概念が必要になったのだろう。たとえばAという人がBとCという人間の板挟みになったとき、AはBとCとの距離を考え、BとCと自分が違う人間であるということを強烈に意識せざるを得ないのであり、自分とは何かということを意識せざるを得なかったのだろう。BとCは個人とは限らない。Bが血族の一人であり、Cが群れ全体だったかもしれない。
 ひとたび生まれた情動の中断と分析的思考は、人間の大脳皮質を発展させていった。ひとたび考える器が形成されれば、情動の対立が顕著ではない場合であっても、自ら進んで問題提起を行い、分析的思考を屈指していったのであろう。複雑な思考は、細かい記憶を糧に、文明を築いていくことを可能とした。情動から離れた思考が行われることを可能としてしまった。


 私が当初想定していた結論とそれに至る流れは、すでに踏破した。想定以上のことを考えることができた。しかし、ここまで考えると、それでは満足できないという自分の新たな心情を強く自覚している。
 一つは、分析的思考がよりよく機能するためには、平板な感情の中で考えを巡らせるよりも、何らかの高揚感や自己保全、プライドをかけて考えるなどの心理状態でいるべきことの理由が理解できたことである。もともと対立した情動に直面した場合に、情動が相殺されて消え、分析的思考が余儀なくされての思考パターンだったので、その環境を再現するほうが能力を発揮するということである。
 もう一つは、分析的思考が、まじめな思考となり、社会に役に立つ思考、弱者を害さない、人類に害悪にならないための思考となるためには、自己の情動を尊重して思考を始めることが有効ではないかということである。自分を含めた人間が生きるための思考、人類を生かすための思考は、自分の中の内なる情動の声に耳を傾けることが一番の方法であるということが結論付けられそうである。
 これらのことを今後考えてみようと思った。


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家族など仲間に怒りをぶつける前に抑える方法 人間の意識からの考察 かわいそうだからやめる実務的方法 [進化心理学、生理学、対人関係学]

家族など仲間に怒りをぶつける前に抑える方法 人間の意識からの考察 かわいそうだからやめる実務的方法

目次
序 大事な仲間を自分の怒りで失わないために
1 怒りを抑えることが難しい理由 怒りのメカニズムから
2 怒りを中断し、理性を働かせる方法 エラーパターンの認識

序 大事な仲間を自分の怒りで失わないために

私は、怒りは必要だと思うので、
怒り一般を抑えることは副作用も大きいと思うので賛成できない。

ただ、仲間に対しては、怒りをぶつけてはならないと思う。
これは未熟な私自身の反省を踏まえて、
怒ることで仲間を傷つけて後悔している人たちと
一緒に考えるページである。

仲間に対して怒りをぶちまけて
反撃されて返り討ちにあうなら
結果としてはそれでよいように思う。

逆に首尾よく自分の怒りで相手を制圧してしまうと、
相手が回復しがたいダメージを受けていることを
目の当たりに見ることになってしまう。
傷つけたのは自分だと思うと取り返しがつかない気持ちになる。

あるいは、その時その時のダメージは大きくないとしても、
怒りをぶつけられた相手が
あなたに対するどす黒い泥のような負の感情を
相手の心に深く沈殿させ、それは堆積されて
ついには相手があなたから去ってしまうこともある。
そうなると本当に取り返しがつかない。

ところが自分が怒りをぶつけたことによって
相手が傷ついたということに
気が付くなら解決の糸口がある。

しかし、けっこう多い事案では、
あなたが相手にダメージを与えていることに
気が付いてさえいない。

気が付かない理由は、
自分は理性的に相手を正したのであって、
相手が傷つく必要はないと
無意識に感じているからであることが多い。
正しくないことをして正されたなら
感謝こそされるべきだなんて思っているかもしれない。

そうすると、突然の別離や
相手方の再起不能を受け入れるという事態が起こりかねない。
そしてその理由に気が付ないならば、
不幸の感じ方が加速度的に強まってしまう。

覚えのある人にだけ理解してもらえばよいし、
一緒に考えてもらえばよい。

では、

1 怒りを抑えることが難しい理由 怒りのメカニズムから

怒りを抑えることは難しい。
魔法の呪文のようなものはない。
そのことをまず説明する。

怒りを抑えることが難しい理由は、
人間の能力が貧弱なことにある。
人間は、一度に複数の事柄に意識をフォーカスできない
ということだ。

かゆい時は暑いことを忘れ、
熱いと悲鳴を上げているときは痛いことを忘れる

転んで尻が痛いときは今まで考えていたことを忘れ、
怒っているときは、冷静な思考ができなくなる。
冗談に笑っているときは不幸も忘れる。

この貧弱さは、必ずしも悪いことばかりではない。
ただ
「かわいそうだからやめよう」という思考は
怒りが継続しているときは出てくる余地がないのである。

意識のフォーカスは一瞬にして切り替わる。
このため、感覚としては
二つが同時にフォーカスされているように思ってしまう。
しかし厳密に分析すると前後関係が必ずある。

しかも怒りは一瞬で終わることは難しい。

なぜならば、怒りは
相手を叩きのめすための
自然が用意したツールだからである。

怒りは、自分に降りかかった危険を排除する手段である。
先ず危険を意識的にか無意識にか、感じていることが前提だ。
その上で
相手に勝てるという判断、あるいは
仲間のために勝たなければならないという判断が
怒りを導く。
勝てないと思えば恐れに導き逃げる。これが生き物の原則だ。

怒りを覚えて危険を除去するためには、
相手を最後まで叩き潰さなければならない。

情けが入り手加減してしまうと
相手を逃がして、後日報復されたり、
その場で逆襲されてこちらが致命的になる。

そのため、相手を叩きのめして危険を除去するため
怒りという感情が相手を叩きのめしやすくさせてくれるわけだ。
情けや、共感や、後先という思考を排除するのが役割だ。
怒りは、「かわいそうだからやめよう」ということを
刺せない仕組みと言ってもよいだろう。

だから仲間に対して怒るときは、
怒りによって
仲間ではなく、相手は敵になってしまい、人間ではなくなってしまう。
容赦なく攻撃をしてしまう。

怒っているときも
ふと怒っている自分を自覚して
怒りをやめるということはある。

しかし、やはり厳密に考えると
怒りが中断して、その後で
理性的にものを考えることができるようになっただけである。

「いや怒っていながらやめようとした」と主張する人はいるだろう。
その感覚にも理由がある。

怒りのフォーカスが外れても、
怒りで起きる生理的変化である
心拍数の増加や血圧の上昇を
体性感覚で感じているから
怒りが持続していると意識してしまうのだ。

しかし、その体性感覚を残しつつ、
怒りのフォーカスがぼやけたから立ち止まることができる。

怒っているときは理性が働かない。
理性を働かせるためには、
順番としてまず怒りを鎮めなければならない。
理性で怒りを止めようとしても無理であるのは
そういう理由による。

ところが、市販の怒りを鎮める方法は、
理性で怒りを鎮めようとする方法であるか、
怒りを予防する方法である。
だから、ひとたび怒りだしてしまうと
止めることがなかなか難しいことは当然なのである。


2 怒りを中断し、理性を働かせる方法 エラーパターンの認識

魔法のような呪文がないのだとすれば、
事前にエラーパターンを学習するということが
怒りを中断させる方法として
有効な方法になるかもしれない。

近年ノーベル経済学賞の受賞者を多数輩出している
行動経済学の応用である。

エラーパターンは教科書を探してもみつからない。
一番の教材は、つい最近自分がやったことである。

怒ってしまったことを、きちんと反省するということである。
反省と言っても、悔やんでいただけでは何の役にも立たない。

反省というのは次の3つのことを考えることである。

第1に、自分の行為で相手がどのような気持ちになったのか
ここでかわいそうだということを考えることができなければ
相手にとってあなたが仲間であるメリットが見えなくなり、
デメリットばかりを感じるようになるだろう。

基本は相手の立場に立ってみて
相手の心細い気持ち、情けない気持ち、逃げ場のない思いを
追体験することである。
かわいそうなことをしたなと思うまで考えるべきだ。

第2は、どうして自分はそこまで怒ったのかを考える。
かけがえのない仲間の気持ち以上に大切なものが
本当に存在したのか。
怒りによって回避したいと無意識に感じたのは
危険を感じたからである。
自分はどんな危険を感じていたのかを思い出す。
(通常は、馬鹿にされる、損させられる等のつまらないこと)

実は、自分が感じていた危険の多くの部分は、
本当は職場や社会など他の人間関係のうっ憤であり、
八つ当たりしていたのではないかということを
本気で考えよう。

第3は、怒るタイミングで、この反省を思い出す工夫を考えることだ
自分の心拍が上がってきたり、
血圧が上がってきたリ
体温が上がってきた場合に、
すかさず相手がかわいそうだと思う訓練をするということだ。

怒ったら相手をかわいそうと思う
そういう条件反射をする訓練だ。

だいたい人間は、
まず怒り(心臓を中心とした生理的な反応が起き)、
その次に怒りの感情を言葉にする。
感情にまかせた行動をする。

このタイムラグが貴重である。
言葉が出る前にかわいそうだと思うようにする。
一瞬怖い顔になっても、
言葉など態度に出なければ
相手を不快にしない可能性が高くなる。

また、怒りの言葉を聞かれ、表情を見られても
その言葉に反応をして、怒りが中断できれば、
うまくいけば相手はあなたを評価してくれるだろう。

つまり、特定の仲間である例えば家族、恋人に対してだけ、
怒りを覚えたら、怒りを鎮めるという
条件反射の仕組みを作るということだ。
パブロフの犬になろうということで、

これなら、「理性で怒りを鎮める」という非科学的な方法論よりも
情動を中断させる方法論として
科学的であり、有効であると思われる。

これは同時に、相手の気持ちを考える訓練にもなる。
相手の気持ちを害することをやめ、
自分を抑える姿を見せることは
相手に対する愛情をアピールすることにもつながるかもしれない。

相手があなたの努力に気が付かなくても
徐々に、あなたに対する安心感を強めていくことだろう。

つまり、自分と仲間と協調する訓練であり、
幸せになる訓練であると考えている。


仲間に対する怒りのもととなる危険は
対人関係的危険であることが圧倒的多数である。
対人関係的危険については
対人関係学のホームページを参照していただきたい。
このページの左上にボタンもあります。

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親としての資格 : 父母は、意見、価値観が違うことが子どもにとっての生命線 かわいそうだからやめるができなくなる時 目黒事件を自分のこととして学ぶ [進化心理学、生理学、対人関係学]

弁護士をして、刑事弁護をしていると
少しのボタンの掛け違いで重大な結果を起こしてしまった
という事例が案外多いように感じます。
それでもマスコミは、
その被告人が根っからの悪人であるかのような報道をするわけです。

このような事件の一面的な取り上げられ方によって、
私たちは事件がとてつもない悪人によって起こされた
例外的なケースだと思いこまされて、
自分には関係のないことだという先入観をもたされ
安心して加害者を責めあげたあげく、
時間の経過によって忘れてしまうわけです。

原因は放置され悲劇は繰り返され、
あるいは形を変えた悲劇が生まれることになります。

しかし、もしかしたら、わずかなボタンのかけ間違いではないか
という視点で事件を見ると、
自分たちの問題として考えなければならないことかもしれないということが
見えてくるような気がします。

その典型例が目黒事件だと感じています。

目黒事件では、
幼い子、わが子を虐待したことに加えて
九九を暗記させたり、ひらがなの書き取りをさせたことも
非難されているようです。
マスコミは亡くなられたお子さんの写真に
2,3歳のころのものを使っていますので、
その当時に九九や書き取りをさせられていたような印象を持たされ、
なるほど虐待だと思いがちですが、
亡くなられたお子さんは、翌月には小学校に入学するということでしたから
写真のころよりは成長していたようです。

小学校入学前の九九や書き取りは、
小学校受験をするようなお子さんは
当然に学習していることだと思います。

それ自体は虐待とは言えないでしょう。

小学校受験だけでなく
ピアノやバレエ、その他の習い事をして、
コンクールに出場してよい成績を収めるお子さん方も
同じように親のモチベーションで無理をさせられています。

いろいろな思惑で親は必死になります。
自分と同じような人生を送ってほしいとか
自分と同じ苦労はさせたくないとか、
親の切実な思惑は限りがありません。

また、この時期の子どもたちはやれば伸びますから
無理が無理ではないと錯覚することも多くあります。

無理の中で、
例えば、この課題が終わるまでは食事をさせないとか
ケアレスミスをするたびに叩いたりするということは
結構あるはずです。

両親が一致団結して
結果を出させようと目を吊り上げて子どもにあたっていて、
子どもがストレスを抱えてしまい、
知らないうちに免疫機能が衰えてしまい、
食事ができなくなったと思ったら
重大な感染症にり患してしまっていて
明日病院に連れて行かなくてはなんて思っているうちに
あっけなく亡くなってしまうなんてことは
子どもだからこそ大いにありうることだと思います。

通常途中でストップできるわけですが
その仕組みは
結果を出そうとする親と、
見ていてかわいそうだからやめようとする親の
意見対立があるからだと思います。

結果を出すという努力がなければ何事も成り立たないでしょうが、
かわいそうだからやめるという気持ちがなければ
子どもに回復不能な損害を与えることがあるわけです。

子どもに対する感じ方の差が
あるいは目標の重要度の感じ方の差が
一方が目を吊り上げていても
他方がストップをかけられる要因となっているわけです。

このアクセルとブレーキの役割は決まっておらず、
父親の場合もあるし、母親の場合もあるようです。
また、その時によって立場が入れ替わることも多いでしょう。

常に父母の意見や価値観が一致していては歯止めがききません。
父と母は、感じ方が違うことにこそ価値があるのです。

両親のどちらかが死別しているような場合は
死別した親の代わりの役割を果たす人がいるとよいと思います。
祖父母なんていうのは、通常ストップをかける役割が期待されているでしょう。
もし、離婚しただけでもう一人の親と会えるならば、
かわいそうだからやめるでも、
もう少し頑張れでも
親として言ってくれるわけですから
子どもとしては大変貴重な人間です。

離婚した場合にはもう一人の親からすると他方の親は
目の上のたん瘤ですから
口出しをされることは大変煩わしいことなのですが、
これは子どもが生きて健全に成長するためには
とても貴重な存在だとして、
我慢しなければならないのだろうなと思います。

離婚せずに同居していても
同じことが起きて、子どもが健やかに育つわけです。
自分のことで相手から解放されることはよいとしても
子どものことでまで解放されるわけにはいかないということなのでしょう。

あとは程度の問題をコントロールするという課題を解決するべきです。
助けを得て解決するべきなのでしょう。
今から少し前までの日本は二人だけで解決してはおらず
常にみんなで解決していたようです。

目黒事件では、母親が継父に支配されていたと指摘されています。
子連れ側の親は、相手に気を使うということがあり、
迎合しやすいということは意識したほうが良いかもしれません。
継父の子どもに対する行動をストップしにくい場合があるようです。

但し、実際の多くの事例では
継父も自分の子どもとして接しており、
継父ということだけで問題が起きることはありません。

それとは別に、
母親が、それまでの人生で
例えば学校から、例えば友人から、社会から
否定され続けてきた場合に、
(あなたは劣っている、役に立たない、正しいことができない)
自分を肯定する存在が現れ、自分を評価し、
(あなたは本当はダメな人間ではない。自分はわかっている。
 チャンスがなかっただけだから、子どもにはチャンスを与えよう)
守ってくれる存在だと
自分を認めてくれる唯一の存在だと感じてしまい、
この人間関係が、自分と子どもにとってかけがえのないもので、
その人間関係の決めたルールは神のルールのように守ろうとしてしまいます。
批判的精神が失われてしまいます。

かわいそうだからやめてほしいということは
せっかく自分たちを救ってくれる人に対して
失礼なことだし、間違ったことだと感じてしまうようです。

暴力や暴言の恐怖だけで、
子どもを守らなかったことを説明することは難しいと思います。
服従の先にある迎合の背景、つまりそれ以前の人間関係の状態こそ
問題とされるべきだった可能性があると思います。


ここまで極端なことでなくても、
自分に自信のある人間はそうそういませんから、
相手が自信をもってやっていることを
何となく、かわいそうだからやめてということを言いづらく
黙ってしまうということは
少なからずあるようです。

相手も、子どものためにと思って厳しくしていますから、
止められそうになると
子どもの成長を妨害しようとする行為だと
怒りの対象になってしまいます。
ますます言いづらくなる悪循環です。

私たちは現代社会に適応しようともがいている中で、
いつしか、効率や合理性を絶対的なものとして
考える癖が身についているようです。

適応できて社会的地位を勝ち取った人ほど
そのような考え方に支配されているかもしれません。

相手の行動が正しくて
それが子どもの利益にもつながるというときほど、
親のどちらかが必ず
「かわいそうだからやめよう」
という選択肢を提起することが必要なのだと思います。
これは実の親がよりよく力を発揮できることなのです。
子どもが苦しんでいたら
自分が苦しめられているような怒りを覚える存在だからです。

言われたほうも、怒りを抑えて
「かわいそうかもしれない」
と聞く耳をもつことを選択肢として用意することが必要だと思います。
正しさゆえに無理をしていることがあるということは
自然には気が付きにくいのですから
あらかじめ頭に知識として入れておかなければなりません。

かわいそうだからやめる

いろいろな場面でこのタイミングは出てきます。
習い事が苦しいとき
学校に行くのがどうしてもつらくてできないとき
就職してからもそういうときがあることが多いようです。
親は、現代社会に適応しきらないで
生物的な親としてかわいそうだから無理をさせない
という選択肢を持ち続ける必要があるということが
現代社会のもう一つの素顔だと思います。

かわいそうだからやめる。

この選択肢をもつことが
親に限らずすべての大人の
子どもにかかわる資格なのだと思います。

かわいそうだからやめる
もしかしたら、大人と子どもの関係だけでなく、
すべての人間関係の最も大切なことなのかもしれません。

しかし、それを一番自然にできるし、しなくてはならないのは
やはり実の親、家族なのかもしれません。

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人を殺すシーンなどグロテスクな映像が有害である理由 面白くても批判しよう! [進化心理学、生理学、対人関係学]



人気テレビ番組でマンションの住人などが次々殺されるというものがあって、
リアルな死体や、殺されている場面が詳細に描写されるシーンがあり、
これはやりすぎではないかと感じました。

昔は、ちょっと暴力的な漫画の描写があっただけで、
保護者団体が意見表明などをして
問題だと大騒ぎになったものですが、
高度成長の終わりからバブルにかけての時期あたりから
あまりそういうことをいう人たちがいなくなったのか、
メディアに取り上げられなくなったような気がします。

子どものころ、自分が見ている漫画が
PTAから有害指定されたりすると、
わからずやとか、表現の自由を侵害するとか
よくわからないくせに考えていました。

しかし、いざ親の立場になると、
やはり子どもに見せたくないシーンというものがあるし、
どうしてもっと批判の声が起こらないのだろうと
不思議な気持ちになっています。

いや、本当は「北斗の拳」あたりから、
なんとなくこれは問題ではないかと思うようになってはいたのです。
漫画を見て感情移入ができず、引くようになったということですね。

同じころから、大人たちが物分かりが良すぎるのではないか
ということを時々感じるようになってゆきました。

いじめの問題に取り組むようになってからは、
教師が子どもたちの空気を読んでしまって
言うべきことを言わないようになっているのではないかという疑問が
大きくなってきていました。

さて、なぜ残虐なシーンが有害なのかですが、
ひとことで言うと、
人間は被害者に共鳴してしまうからです。
そしてそれが記憶に残るからです。

共鳴、共感というのは、
バーチャル体験をしていることです。
つまり、自分は実際には殺されるような暴行を受けていないけれど、
あたかも暴行を受けている状況にあるかのように
脳等の神経や体が反応してしまっているということなのです。
思わず手に力が入っていたり、
無意識に体をよけようとしていたり、
あるいは、血圧が上がったり脈拍が増えたり
こういう防衛反応をしてしまっていることが
共鳴です。

もちろん作り事だということは頭の中ではわかるのですが、
体は勝手に反応をしているわけです。

たまらなく不快な気持ちになるのも、
自分が逃げ場を失って絶望することの
追体験をしているからです。

そしてそれは記憶されます。
記憶の機能というのは、
危険を知って、危険のパターンを覚えて
危険に近づかなくする、危険から脱却する
ということがもともとの機能ですし、目的です。

恐怖体験は記憶され、
それを克服するために、記憶は反芻されます。

嫌な画像というものは記憶に残りやすい
ということはこういうことです。

これ自体が大変不快なことなのですが、
有害であることはそれにとどまりません。

人間は危険の記憶を維持し続けることに耐えることができず、
危険が去ったと思わないと生きていけないからです。
そのための、防衛の仕組みがあります。
絶望の共鳴から無意識に逃れようとするわけです。
そのためには、心の中で、
「これは危険ではない。大したことではない。」
という意識を持とうとしてしまうということです。

残虐シーンを何度も見ていると
徐々にこういう気持になっていきます。
外科手術のシーンを初めて見た場合は
とても怖い感じがしますが、
何度も見ているうちに感覚がマヒしてくる
ということがあります。
もっともお医者さんや医療スタッフはそうではないでしょうけれど。

ドラマの中だとしても、
人がどんどん殺されていくことを目撃していれば、
いちいちたまらなく嫌な気持ちにならないために、
「それは危険ではない、大したことではない」
という気持になってゆきます。

徐々に人の命を奪うことの抵抗が小さくなってゆくのです。

しかも、殺されていくシーン、被害者が絶望するシーンを
リアルに描けば描くほど、
心は自己防衛をしようとするので、
それは危険ではない、大したことではない
という気持になってゆきます。

この行き着く先は、人間の苦しみや恐怖を
笑って観れるようになってゆくというように
気持ちが馴れてゆくことです。

それはすなわち、
人間の命なんてそれほど価値のあるものではない、
人間なんてそれほど価値のあるものではない
という意識が育ってゆくことだと思います。

そうしないと、心が耐えられないから
無意識に心の防衛反応がおきているのです。

ちょうどギターの弦を抑えるとか
何かの作業をしていて、
指の皮が厚くなるという現象があります。
指を守るために指の皮膚が厚く固くなるわけです。
作業から指を守るためには有利ですが、
温感や被服感覚が鈍感になってゆくという不利も生まれます。

心をきたえるということは、指のように
びくびくしないように皮を厚くしてゆくことであって
心をきたえると、くよくよしなくなるかもしれませんが
センサーが鈍感になってしまいます。

「人間なんて価値がないから
守ってやる必要はない。
誰かが苦しんでいたり困っていたりしても
こちらも気に病む必要はない。」
これを、頭で考えるようになるのではなく、
体にしみこんでいくようになるということなのです。
無意識の感覚の変化なので、
自分の心がすさんで言っていることに気が付きません。

もし意図的に残虐な行為が流されていて
それを観ない自由を奪われているとしたら、
人間の心なんて自分が意識しないうちに
どんどん荒んでゆく可能性があるということなのです。

さて、そうやって、
他人の苦しみが分からなくなるということは、
大きな話をすれば
海外で戦争があって、人が殺されたり
子どもたちが苦しんでいる姿を見ても
あまり気にしなくなるということにつながります。

もっと身近な話をすれば
会社で人格を否定するようなパワハラを受けて続けている人を見ても
「あいつだから仕方がない」
「あいつがへまをしたのだから自分は関係ない」
「彼女が挑発的なふくそうしているから悪い」
という分厚い皮を心にかぶせてゆくのです。

学校ではいじめがあっても
共鳴、共感できなくなっていますから、
それこそテレビ画面でぼんやりと
見たくもないドラマを見せられているという感覚になります。

心配するとか、支えるとか、声をかけるとか
ましてやそれはやめろよというようなことを
言おうとする発想もなくなってゆくのです。

実は、それだけならまだ良いのです。
害悪はまだ続きます。

それは、人間が共感する動物だという特徴があることに関係します。

他者を、一段低く見て、
「あいつがいじめられるのは仕方がないとか、」
「あいつが悪いから、自分はもっとうまくやればよい」
とか、そういうところで止まらないということです。

あいつも自分も同じ人間なので、
自分以外の人間が苦しんでも仕方がない、どうでもよい
と思う心は、
自分を含めた人間が苦しんでも仕方がない、どうでもよい
という心になることを防ぐことが難しいのです。
無意識に起きていることだからです。

そうしていくうちに
自分をふくめて、人間の命なんてそれほど大したものではない
ということにつながっていってしまう危険があります。

究極的には自死への抵抗が低くなっていくわけですが、
それ以前に、自分を大切にしない薬物や自傷行為等が表れやすくなります。
また、人間のほこりが無くなりますから
ばれなければ良いやという形で犯罪なども起こりやすくなります。

自分はきちんとやっている、うまくやっているから大丈夫
と思っている人は、
うまくやっていることから外れてしまうと
自分はこちら側の人間ではなく
あちら側の、大切にされなくても仕方がない側の人間に
なってしまったという意識が強く起こりやすくなります。
色々な社会病理に手を出しやすくなってしまいます。
たまたま、交通事故を起こしたり、
たまたま、困難な事案に巻き込まれただけで、
自分が作っていた壁の向こう側に行ってしまうのです。

現代社会ではただでさえ、
自分の価値を低く見てしまう事情がたくさんありすぎると思います。

せめてテレビだけでも
人間の価値を低めるようなシーンは見たくないし見せたくない
そう思います。

人の命が失われる場面をウリにしている番組は
大いに批判されるべきだと思います。

昔の大人たちは、このような神経学的な話は分からなかったはずですが、
直感的に、あるいは良識的に、
ダメなものはダメだということを感じたのでしょう。
本来はそれでよかったものが、
現代では見えなくなっているのか、
言えなくなっているのか
頭で考えなければわからなくなっているのかもしれません。



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なぜ言葉も生まれていない200万年前にヒトは群れを作ることができたのか [進化心理学、生理学、対人関係学]

これは、前々回のWEB上予行演習の続きというか
修正しようと思っているところです。
では

ということで、人間とは何かということを考えなければならないのですが、
それは本来、各人が考えることであり、
誰かの考えを押し付けるということはできないと思っているので、
では皆さんよく考えておいてくださいで終わるのが筋が通っていると思うのですが、
それで帰るのも何なので、一つの考えをサンプルとして示したいと思います。

私は、人間は群れを作る動物だというところに着目したいのです。
進化生物学では、200万年前ころから人間は群れを作っていたと言われています。
もちろんそれ以前に、母と子を中心とした集団生活はあったでしょうが、
そういう血縁関係を必ずしも前提としない群れだったと言われています。
30人から100人弱くらいの群れで、
数十人の群れがいくつか関連してあったという考え方もあります。

いずれにしても、基本的には、一生涯、
同じ群れで過ごしていたようです。

そのころは、小動物を狩りしてたんぱく質を摂り
植物を採取して栄養を補充していたとされています。
群れの中でチームが分かれていたようです。

さて、当時は、言葉のない時代なのですが、

言葉もない時代にどうやって群れを作っていたか
ここが問題です。
でも、ほかの動物も言葉が無くても群れを作りますね。

イワシなんて、魚ですけれど、群れで泳ぎます。
大きな水族館でイワシが集団で泳ぐ様は
それは見事で、目を引きつけれられます。

あれ、何で群れで泳ぐかというと
イワシは、集団の内側に入ろうとする性質があるかららしいんです。
みんながみんな魚群の中に入ろうとした結果、
一つの巨大な魚のような群泳が成立していると
こういうことなようです。

集団の内側で泳ぎたいという感情というか気持ちで
成立していることになります。
水面下ではそういう事情が働いていたのですね。
もっとも、イワシは水面の下にしかいませんが。

それで、どうやってそういう都合の良い仕組みができたかというと、
それは、意外に簡単なことで、
中には気まぐれなイワシというか
自由や個性を主張するイワシがいてもよいでしょう。

あんな魚臭い中では泳ぎたくないやなんてことを思って、
ふらふらと自由に海の中で余裕をかましていると
もうそれは、マグロやカツオなんかに目を付けられて
パクっと食われてしまうわけです。

パクっと食われるから骨がのどに引っかかるなんてこともありません。
単独遊泳をしているイワシなんて
極上のスイーツみたいなものです。

そうすると、そういう自由傾向のある遺伝子は
すぐ途切れてしまう。
結果的に、群れの内側で泳ぎたいと思っているイワシの子孫だけが
生き残っていく
そしてだんだんイワシというものは
群れの内側に入り込みたいという性質のものばかりになってしまったと
まあ自然淘汰ってことですね。

哺乳類に目を向けると馬なんてのも
言葉が無くても群れを作るわけです。
これも、やはり本能があり、
群れの先頭で走りたいのだそうです。

これに目を付けて競争を成立させたのが競馬です。

あれ無理やり走らせているのではなく
本能を利用しているから成立するのです。

そうやってみんなが先頭に立ちたいから
群れ全体が早く移動できるようになり、
肉食獣から逃げられると、うまくできているようです。

だから言葉がない時代に人間が群れを作ることを
そんなに複雑にな考える必要はないと私は思いますよ。

色々難しい議論をする人たちが幅を利かせていますから
私がいくら叫んでも届かないのですが、
嗅覚をほとんど放棄した人間が
血をかぎ分けて血縁集団を作ったとか
後で他人が役に立つから最初に恩義を売っているとか
そういう相互互恵なんて小理屈が無くても群れを作れるんです。

人間もイワシや馬とおんなじで
一人でいるのが嫌なんです。
一人にならなければならないと思うと
もうそれだけで不安でたまらなくなる。
だから誰かと一緒にいようとする
基本はこれです。

では、それからどうするか
人間に他の動物と比べて違うというか特徴的なことが何かと言えば、
他者に共感する能力があるということです。

これは2歳時くらいになると
誰が教えるわけではなくそういうことをしてしまうようですね。

子どものおもちゃで、
星型や丸形、長方形などの積み木みたいなのと
その形がくりぬかれている机の小さいのみたいなのがあり、
同じ形だと下に落ちるなんてのがありますでしょう。

子どもの前で、大人が
なかなか下に落とせなくて困った顔をしながらやっていると、
子どもの中には、その人の代わりに
積み木と同じ型の方に誘導して落としてあげる
なんてことをやる坊ちゃん、嬢ちゃんがいるそうです。

同じように下に落とさないでがちがちぶつけていても
ニコニコと楽しんでやっていると、
手伝うことをしないで
自分もまねをしてがちがちたたき出して、
楽しむのだそうです。

人間は、2歳くらいになると
相手が困っているか楽しんでいるかわかり、
困っているときは助けて、
楽しんでいるときは一緒に楽しむことができるようです。
共感する能力が初めからあるわけです。

これは間違ってもサルにはできません。
サルは集団で生活しますが
心の交流というかお世話するのは
母ザルからその子どものサルへと決まているそうです。

サルと違って
共鳴共感で群れを成り立たせてきたのが
人間様だということになるようです。

なぜそんな能力があるかというと
一匹で泳ぐイワシのように、
一人で生活するにはあまりにも弱いわけです人間は。

道具を作れなかった時代には、
一人で小動物を捕まえて殺すなんてことは
とても運がよくなければできなかったでしょう。
そういう脚力も、牙も爪もなかったからです。

体毛が薄いために汗をかいててめいの体温は下げられるという利点を活かして
ひたすら追いかけて追い詰めるという狩りの方法だったようです。
小動物を熱中症にしてしとめたらしいです。

また、肉食獣に狙われたら
走って逃げる脚力も、飛んで逃げる翼もなかった。
もう集団で、
誰かが襲われたら集団で立ち向かった
無鉄砲なまでに助けようとした
こういう本能でしのいできたわけです。

そうやって集団で反撃することによって
肉食獣も
下手に攻撃したらあちらからこちらから逆襲される
という経験を蓄積して
よほど困った時でなければ人間は襲えない
ということを学習していったのだと思います。

共鳴共感というのは
相手の感情を理解するということですが、
その実態は、
相手と同じ気持ちになるということですね。

仲間が悲しんでいれば
自分も同じように元気をなくして泣いてしまい、
仲間に元気を出してもらおうといろいろ頑張る。
相手が元気が出れば、自分も元気になる。

足をくじいて痛がっていたら
自分はけがをしていないのに足が動かなくて困っている
と言うときと同じ反応を脳がしてしまうわけです。
そうして、相手を支えて歩かせることで
相手の不安を解消すれば自分も安心する。

仲間のイベントの脳内の追体験が共感なのです。

これが極限までいけば
相手と自分の区別があまりつかなくなるわけです。
特に生まれてから死ぬまで一緒に生活していると
結局仲間の誰かが困っていると自分が何とかしたくなる。
自分が困っているときも自分は何とかしようとする。
そこに違いがあまりなくなります。

そして、自分はこのくらいは平気だと思っても
相手はもっと苦しんでいるかもしれないと思うと
自分よりも相手を何とかしようと思うようになるでしょう。

だから偶然甘い果物が手に入って
自分も腹を空かせていたとしても、
一人で食べようという発想が生まれなかったのでしょうね。
仲間も腹を空かせているだろうし、
仲間がこれを食べたら喜ぶだろうなと考えると
仲間に果物を持って帰ろうということになるわけです。

親が子どもを思って食べないということと
全く同じなわけです。

そして、仲間の中で一番弱い者を守ろうとしたのも
人間の本能だと思います。
とにかく群れでいることが当時の人間の生命線だとすれば
弱い者を守らなければ弱い者は死んでしまいますから
弱い者を守ろうとしない群れは
弱い者から順番に死んでいったことでしょう。
赤ん坊なんて育たたないわけです。

そういう群れはどうなったか
動物狩猟も植物採取もできなくなり
肉食動物からはスイーツ扱いされて死滅していったでしょう
子孫を残せなかったことでしょう。
イワシと同じ理屈です。

さてさて、
認知心理学という最近ノーベル賞を受賞している学問分野では
共通認識として、
人間の心は200万年前頃完成して
今もほとんど変わらないとされています。

「ええっ!」と疑問を大きく叫ばれたい方も多いと思います。
そんな慈しみと愛情を持った生物だったとしたら
今の日本社会は人間の社会は説明つかないだろうと思っている方もいるでしょう。
大量殺人や、いじめ、パワハラ、児童虐待など
目を覆いたくなるようなことばかり起きている
200万年前と同じ人間ではないのではないか、あるいは、
そんな共感の原理なんてきれいごとじゃないかと
お考えになる方もごもっともです。

しかし、よく考えてみてください。

誰かから悪口を言われたり、誰かからとんでもないことをされて
自分という人間が当たり前に扱われなければ、
嫌な気持ちになりますよね。

解雇だ、学校来るな、家から出ていけなんて
一人ぼっちにされることは命の危険が無くても
とても怖く感じませんか。

誰かに助けてもらえばうれしいでしょうし
困っていても誰も助けてもらえなければとても怖くなります。

人間は、200万年前の一心同体の群れで過ごしていたように
仲間に自分を尊重されたいと心が思ってしまうのです。

弱い者小さいもの、児童虐待などを聞くと
とても腹が立ってしまいませんか。
これも人間の本能なのです。

逆説的に、
人間の心が200万年前と基本的には変わらないということが
よく考えると実感できると思います。

では、どうして人間は仲間のために我慢するということをやめ
弱肉強食、特に共食いのように
他人を食い物にするようになったのでしょう。

どうして共感原理で生きる人間が
他者を排斥することが「可能なのか」という命題になると思います。

色々な理由が考えられますが、
私は他者とのかかわりのあり方が
決定的に変わってしまったというところを指摘したいです。
これが環境と心のミスマッチというわけです。

ここから先も長くなるので概要だけ。あとは対人関係理論のホームページ
「心と環境のミスマッチ」をご参照ください。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~interpersonal/concept.html
(ページの下の方には要約版もあります)

一つは群れの多元化(家族、学校《クラス、部活、小グループ》、職場、地域、社会)
群れの相対化(離婚、退学、転職、その他)
である人間の膨大な数と人間に対しての希薄化

これによって、利害対立にうまく対応できず、
さらに自分の生き残りに不安があることで、防衛意識が強く働き
攻撃が可能となる


ところで、
やっぱりかなり長くなるので、
これを話すことは無理だな。




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