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「迎合の心理」 遺伝子に組み込まれたパワハラ、いじめ、ネットいじめ(特に木村花さんのことについて)、独裁・専制国家を成立させ、戦争遂行に不可欠となる私たちのこころの仕組み  [進化心理学、生理学、対人関係学]

前回の記事で述べたように、人間の体の仕組みは切実な必要があったために進化の過程で獲得したという歴史がありますが、その時の環境に合わせて作られたもので、環境が変化してしまえば、無用の長物になるだけでなく、害になることさえあります。

前回は、身体の仕組みとともに群れを作るためのこころの仕組みを進化の過程で獲得したということを説明しました。しかし、前回言わなかったもう一つの群れを作る「こころのしくみ」というものがあります。これが今回の記事のテーマです。それが
「人間は群れの権威に迎合しようとする意識傾向」がある
ということです。

1 迎合の必要性、有効性(言葉がない太古の時代)

人間は種として群れを作らなければ生きていけなかった太古の時代を経験しています。肉食獣から身を守ったり、安定して食料を獲得したりするためには一定の頭数をそろえた集団で行動する必要があったということはご理解いただけるでしょう。

ただその場に群れていても、身を守るとか、食料を獲得するということはできません。群れがまとまって、一つの統一された意思の下で行動することでよりよく群れの機能を発揮することができます。

例えば当時の狩りの方法は、集団で小動物をどこまでも追って行って、獲物が熱中症などで弱ったところを集団で攻撃して仕留めるというやり方だったと言われています。狩りのメンバーが自分勝手なことをやっていたら敏捷さに勝る小動物は逃げきってしまっていたでしょう。攻撃チームで方法論を共有する必要がありました。しかしながら、太古の時代は言葉もありませんでした。打ち合わせをして一番良い方法をみんなで探し出すということはできなかったと考えるべきです。

ではどうしたか。私は
群れのリーダーのもとに統率されて、行動していたと考えています。
それはどうやってということになるでしょう。

人間は「権威に迎合する」という性格を進化の過程で獲得したのだと思います。

狩りを例に出せば、誰をどう配置して、全体をどのように共同して進めるかを考えて、小動物をしとめるかということを、動きながら考えることはとても大変なことです。エネルギーも使います。それでいて、分け前は平等です。作戦が失敗すれば仲間に責められるかもしれません。割に合う役割ではありません。むしろ、誰かの考えの通りに動けば、あまり脳を使う必要がありません。とても楽です。リーダーの表情やしぐさを見て、自分の行動を決めてもらうことの方がよほど楽です。多くの人たちは、迎合できれば迎合しようとしたのだと思います。

何か大事なこと、生活に直結することをしようとするときほど、人間は誰かに決めてもらいたくなり、自分で考えることをやめてしまうようになっていったと思われます。現代でもその傾向を感じます。

この行動傾向があったからこそ、人類は言葉もない時代に、自由分散的な行動をしないで群れの力を発揮できたのではないでしょうか。

2 スタンレイ・ミルグラムの「服従の心理」との関係

この「迎合の心理」はスタンレイ・ミルグラムの「服従の心理」を焼き直したものです。その概要についてはすでに述べています。
Stanley Milgramの服従実験(アイヒマン実験)を再評価する 人は群れの論理に対して迎合する行動傾向がある
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2019-01-05

「服従」というと権威者が出した指令を選択肢を持たずに従わなければならないという語感があるので、もっと自分から自発的に従っているということを強調したくて「迎合」の心理という言葉を使うべきだということが中核になっています。
迎合の心理は、例えば電流を流して被害者を苦しめるというミルグラムの実験においても、被験者である加害者は、強制されて、他に選択肢を持てないで強力な電流を流すとされるボタンを押したのではなく、任意に自分からボタンを押したのでした。今回の記事は、迎合の心理状態では、他者に対して残酷な行為、人間扱いをしない行為を、自ら進んで行うようになるその仕組みを検討いたします。

3 迎合がデメリットを生む現代の対人関係という環境

言葉のない太古の時代には、迎合の心理は、必要であり、ほとんど害はなかったと思います。
獲得した食料の分け前は群れの構成員で平等に分けていたようです。数十人の仲間は運命共同体で他人と自分の区別がつきませんから、群れの誰かが寂しい思いをした場合には、自分が寂しい思いをしたように感じていたことでしょう。リーダーの権威といっても「狩り限定リーダー」だったり、「植物採集限定リーダー」だったり、あるいは「群れの居住秩序を作る限定リーダー」だったりと固定されたリーダーではなく、リーダーの入れ替えも円満に行われたと思います。迎合の心理が誰かを苦しめることはなかったと思います。

ところが、現代社会は言葉のない太古の時代と人間関係が異なり、数えきれない多くの人とかかわりを持ち、群れも家族や職場、学校等々といった複数の群れに同時に帰属するようになり、群れのメンバーも交代が行われるようになってしまいました。同じ群れの仲間と言っても、言葉のない太古の時代と比べると人間関係は著しく希薄で、家族であっても対立することが珍しくなくなってしまいました。

仲間であっても味方ではなく、いつもすぐ近くにいる人間が自分を攻撃することも「できるように」なってしまいました。

このような現代では、誰かに迎合することが別の誰かと敵対することを意味してしまうことが当たり前のように起きてしまいます。そして、誰かに迎合することに夢中で、迎合することによって誰かを傷つけるということに思い至らないという現象が起きています。

迎合は、本能的に、無意識のうちに行ってしまうことで、被害者の被害を思い描く前に行動してしまっているという特徴があります。また本能的な行動であるため、その行動をとるときに理性の判断を介在させにくいという言い方もできると思います。気が付いたら迎合していた。後で考えたらそのことで誰かを傷つけていたということです。もっともそれに気が付かないことも多いことと思います。

以下具体的に迎合の心理で人が苦しむ様子を見て考察を深めてゆきます。

4 小学校のいじめと迎合の心理

2年近く、小学校のあるいじめの事例にかかわりました。弁護士としてではなく、保護者の一人としてかかわりました。被害者児童の親御さんからことを大きくしないでほしいというご希望があったことと私自身もその学校の一人の児童の保護者だったという事情もありました。
いじめを学校が知りながら放置していたため、解決には難渋しました。結局は、大人の力ではどうしようもありませんでした。実は、この事例は子どもたちが被害児童を徹底的にかばうことによって解決をすることができたという事案でした。子どもたちから多くを学びました。

事案は、クラスの同じグループの女児たちが同じグループに所属していた一人の女児をグループ全体で攻撃するというものでした。事の発端からみると、グループのリーダーが被害女児が自分に従属(迎合)しないことに腹を立てて辛く当たったということでした。だからそもそもは1対1の人間関係だったはずなのです。これがいじめという集団加害に発展した原因は、リーダーの取り巻きのグループ内の他の女児がリーダーに迎合して行為に加担した、あるいはリーダーの気持ちを忖度して自発的にいじめに加わったということでした。リーダーは加担も、いじめも明確な指示はしていなかったようです。取り巻きのほかに被害女児を追い出して自分がグループに入りたい女児も加わっていじめは大きくなりかけました。
ところが、クラスの男児が徹底して被害女児に親切にしだしたのです。いじめグループに見せつけるように様々な親切活動を始めました。だんだんとその親切隊が増えていき、ついにはいじめグループがはっきりとクラスの中で孤立していったのです。

子どもたちが行った「加害攻撃に対して加害攻撃で対抗するのではなく、味方を増やすことによって加害者を孤立させていく」という、平和行動を現代の大人たちにも教えてあげたいですね。これまで生きてきて私はいろいろな尊敬できる人たちに出会いましたが、この時の親切隊の男児たちは思い出しても感動で涙が出てくるほど尊敬できる人間たちでした。道で出会うと最敬礼していましたが、彼らはそんな私をきょとんとした顔でちらっと見て足早に通り過ぎていきました。

こういうと簡単に聞こえますが、解決まで1年半くらいかかったでしょうか。いじめが陰湿に行われていたこともあり、被害女児が苦しんだ期間は長かったです。被害女児にその数年後にお会いしたのですが、ちょっとした友達とのトラブルがありそうになると、「またあの時と同じようにいじめられるのかもしれない」と感じやすくなるというトラウマが残っていました。

リーダーに加担していじめを完成させた取り巻きたちは、特に何らかの見返りを求めたわけではありません。私から見れば、本能的にリーダーに迎合していたとしか言えないような、しかし狂気の行動でした。

そのリーダーは、特に人望があったわけでも、能力が高かったわけでもありません。どちらかというと、ずるい行動傾向があり、これに周囲が反発していて、その反発によって被害女児を助ける傾向が広まったくらいです。
どうしてこの人はリーダーとして権威を持ってしまったのでしょうか。どうして加担者は迎合してしまったのでしょうか。加担者たちの父親はインテリジェンスの必要な職業で収入も多く、子どもたちも成績が上位クラスでした。

迎合の的になったことについては、二つの理由が考えられます。一つにはリーダーの主張がはっきりしていたこと、わがままという言い方もあるでしょうが要求がストレートでわかりやすかったようです。何が迎合になるかがわかりやすかったということです。もう一つの理由はリーダーの喜怒哀楽の感情が豊かだったということがあります。共感しやすいわけですね。被害女児がなびかないことで思い通りにならないで悲しい顔をしていたら、取り巻きたちはリーダーに同情して、リーダーの代わりになって被害女児に怒りを覚えて攻撃をするということがわかりやすかったのだと思います。被害女児の方はというと、年齢相応の自己表現にとどまり、特に主張がなく、喜怒哀楽は控えめでしたので好対照でした。

このリーダーは迎合しやすい人間だったのだと思います。
「人間は、誰かに迎合しようと機会をうかがっていて、迎合しやすい人を見つければつい迎合してしまう傾向がある」
ということなのだと考えるとうまく説明できる事案だったと思います。

そしてひとたび攻撃を始めると、被害者の気持ちを切り捨てて、攻撃を継続してしまう。被害者が戸惑い、苦しむ姿を見ても、自分の行動を改めようとしなくなるという特性があるとするとわかりやすいと思います。

5 パワハラのうち、同僚の面前での容赦のない叱責

職場のパワーハラスメントで、精神疾患になったり、自死をしたりという悲劇が生まれると、まだまだ少ないですけれど職場の中では第三者委員会を設けてアンケート調査などの実態調査が行われることがあります。いくつかの事例で第三者委員会報告書を読みましたが、必ずと言ってよいほど大変驚くべきことが記載されていて、なるほどパワハラが行われると人間が孤立してしまうのかと変に納得してしまいます。

どんなことが書いてあるかというと、パワハラを見ていた同僚が、上司のパワハラを正当化しようとするのです。被害労働者が「言われたことを一回で覚えなかったから。」被害労働者にも落ち度があるとか、パワハラ上司は「一回は説明をした。」とか、被害労働者が難聴者であったにもかかわらず「話しかけられても無視をした。」とか、上司の口調は「それほどきつい口調ではない。」とか、「彼だけが言われているのではなく、みんなが言われている。」とかいう具合です。この正当化しようとして言っている言葉を丹念に読めば、逆に人権侵害のパワーハラスメントが実際に行われていたことが証明できるくらい、客観的事実の存在は認めているのです。

同僚たちは、何が起きたのか自分の目で見て、耳で聞いているのです。それでも、パワハラが繰り広げられ手被害労働者が思い悩んでいる姿も目の当たりにしている際に、自分なりに自分の心をごまかしてきたのでしょう。つまり、「やってはいけないパワハラが行われていたという残酷な出来事があったのではなく、被害者にも落ち度があったからそこまでひどい話ではない」として、自分がその人権侵害を止めなかったことを正当化していたのだと思います。そうして罪悪感を軽減しようとしているのでしょう。

それにしても、事案の多くは、第三者委員会が調査するほどの事案ですから、その時点ではパワハラの加害者は仕事を干されたり、退職したりしているのです。そこまで無理をして正当化する必要はない事案も多いのです。はっきりと悪いことをしていたと告発する方が、本当は精神的にも楽なはずなのです。

それでも、上司のパワハラに該当する行為を肯定しつつ、パワハラではないと頑張ったり、被害者の落ち度をことさらあげつらったりしています。その動機はどこにあるのでしょう。一つは今述べた自分の傍観の正当性を主張したいということもあるのでしょうけれど、私は迎合の心理があると思っています。

あるパワハラ職場では、昔から伝統的にしごきのある職場でした。実際にパワハラをした上司も若いころは全く同じようにパワハラを受けていたようです。しかし、誰もそれを改めようとしないで何年も放置されていたということになります。どんな職場か聞けば驚くと思いますけれど、この職場は全国組織ですが、実際は様々な問題を抱えていることが多い職場のようです。仕事の内容は、リーダーの指揮の元一丸となって行動をすることが強く求められる仕事でした。まさに太古の人間が命がけで狩りをしていたような、そういう仕事の内容です。

この職場と同じように仕事柄リーダーに意識的に迎合することが強く求められている職場では、やはりパワハラ事例が多くあります。実際に担当したこともありますし、判例も多く出ています。命の危険のある仕事をされる職場ではこの傾向が強くあります。

上司がすでに退職したり責任を取って閑職に追いやられてもなお、パワハラの客観的事実の認識に不足がないにもかかわらず、上司を正当化する部下は過去の権威に迎合しようとする本能的な行動をしているのではないかと考えております。パワハラ実行当時、本気で被害労働者に落ち度があるから厳しく扱われることは仕方がないことだと考えていたならば、事実関係の認識に不足が無くても素直にパワハラではないと感じていた可能性があります。

むしろ、上司の言う通り、被害労働者はダメな奴で、ダメな奴のせいでパワハラ叱責を聞かせられている、仕事の時間を奪われていると思っていた可能性もあることに気が付きました。傍観者の怒りの矛先がパワハラ上司ではなくて被害労働者に集中していたのかもしれません。

興味深いことは、同じ職場の同僚が上司を正当化するのに対して、同じ会社で違う場所の職場の人間の方に被害者をかばい上司をきちんと否定評価している人間がいるということです。

どうやら被害者の感情と同僚たちの距離に関係があるようです。同じ職場でも、被害者とあまり個人的に話をしたことのない人たちは、職場の権威である上司を正当化する傾向にあるようです。これに対して、いつもは別のところで働いている人たちでもプライベートの付き合いがあり、被害者の被害感情を知る機会がある場合は、被害者に共感を示しているのです。

ミルグラムの実験でも、この被害との距離が行動に影響を与えているということが結果として報告はされています。ただ、そのことがあまり注目を  されていないような気がしているところです。

一般的に迎合をしてしまうと被害者の感情を自分の感情から遮断することがある
一方、
権威者と自分の距離と被害者の感情と自分の距離の相関関係で遮断が強くなったり弱くなったりする
のではないでしょうか。大変興味深いことだと思います。

6 ボランティア活動での排斥行為

社会的活動という立派な理念を掲げて活動する組織でも、理不尽な排斥行為がありました。これも考察するべき事項の宝庫なので紹介します。

加害者はある社会活動をするための組織を立ち上げた人であり、その社会活動に貢献をした人でした。被害者はその加害者が立ち上げた組織にも深くかかわっていましたが、後発の関連グループの活動も支援していました。二つの組織は、それぞれ共通の目的と、異なる活動スタイルであったため、当初は協力関係にあり、交流もありました。そのうち時代の流れに乗った新グループは(被害者とは別の人が中心でした)、活動を広げて社会的な脚光を浴びるようになりました。地味に活動をしていた加害者の組織では考えられないことでした。

加害者は、次第に新グループや被害者が疎ましくなったようです。つまり、その社会活動で自分が果たしてきた役割が、その新グループと被害者の活躍が原因で小さなものとなったのではないか、被害者が自分にとって代わって権威者になるのではないか、新グループがあることで自分の組織の意味がなくなるのではないかと考えるようになったようです。そうして「加担者」を通じて新グループを分裂させ、被害者を孤立させたという恐ろしい出来事になりました。

被害者や加担者は、社会活動の目的とは何ら関係がなく、自分や自分たちの組織が脅かされるという危機感から攻撃をしたようです。つまり、自分が他者からの「迎合の的」であったにもかかわらず、迎合の的が自分から被害者に移ることを恐れたということになります。迎合の心理の裏側の心理と言えばいえるかもしれません。加担者にも共通の利益がありましたが、加害者に迎合しているということで、被害者や新グループに対しての罪悪感をごまかすことができたのだろうと思われます。

迎合の論理は、言葉が生まれる太古の時代のように、仲間以外は人間ではないという環境の中では特に問題が起きません。ところが複数の群れに同時に帰属することの多い現代社会では、これらの事例の通り権威に迎合することが他者を加害することに直結することがしばしばみられます。

最後に迎合の心理が働いてしまうと、被害者の被害を客観的には認識していながら、被害者の不安とか恐れとかあるいは体の痛みなどの感情に反応をしなくなる場合があるということについて上記の社会活動団体の事例等に照らして考えてみたいと思います。

加害者の心理としては、立派な社会活動のリーダーも、小学校の小グループのリーダーと全く同一であることには興味が惹かれます。自分が迎合の的から外されそうになっているという意識で、とってかわられるのではないかと恐れた被害者を攻撃していることには何も変わりがありません。被害者の意図とは関係がなくあくまでも加害者の主観にすぎません。

また、加担者にはっきりと攻撃加担を指示したわけではありませんが(大人の事例は本当はよくわかりませんが)、リーダーが攻撃意思を明確にすることによって、また怒りの感情をあらわにすることによって、加担者に迎合しやすいように環境を整えたということも共通です。

加担者は、直接指示されたか否か不明ですが、リーダーという権威に迎合して被害者を攻撃しました。大人の事例では被害者が関与した新グループを切り崩すという恐ろしい行動に出ましたし、その過程では被害者の職業も脅かす行為を行っています。被害者のライフワークであるその社会活動ができなくなるような行動をしていたとするならば、被害者の志まで葬ろうとしていたことになります。まるで被害者を亡き者にしようとしていたような恐ろしい活動を平気で行うということをしていたのです。

ミルグラムの服従実験でも、実験に参加した被験者らは自分が押した強い電流を流すボタンを押すことによって苦しんでいるという客観的事実を認識していたにもかかわらず、多くの被験者は被害者に最強の電流を流すことを敢行しました。

権威に迎合すると自分の行為によって生じる被害者の被害感情に心が動かなくなる

ということはミルグラムの実験でも、小学校のいじめ、職場のパワハラ、社会活動家の実際の事例でも共通でした。

事情の分からない被害者は、よく知った相手から攻撃を受け、あるいは見放されて、自分の同一性の基盤である小学校の同級生との生活、職場、社会活動から追放されそうになったため、精神的に不安定になり、かなり危険な状態まで追い込まれました。社会活動の事例も実際に加担者と被害者は、共同で活動をしたことも何度もあったようです。同じ志を持った仲間だと思っていた人間が自分に攻撃を加えてきたこと、それも嘘の話を吹き込んで新グループを分裂させるという卑劣な方法をとったことに大きなダメージを受けたようでした。

職場のパワハラの事例でも、パワハラを受けて落ち込んでいた同僚を見ているのに、被害者に落ち度があるということを言って上司のパワハラを正当化しようとしたのです。この自分の調査時の回答を読んでしまったら、被害者はどう思うかということを全く考えていません。

(情けないのは第三者委員会です。パワハラ上司のしたことについては、客観的行為としては同僚も認めて、本人も行為を概ね認めているにもかかわらず、同僚の正当化をなぜか採用してパワーハラスメントではないという無茶苦茶な答申をしていました。知識がない人間が第三者委員会に選任されていたということです。また、第三者委員会が会社に「迎合」したという可能性もあると言わざるを得ません。)

小学校のいじめの例も、基本的には同じグループの仲間から攻撃されているので、仲間だ、友達だと思っている人間から、無視をされたり、掃除を一人でやるように押し付けられたり、まったく非のないところで同級生の前で集団的に非難されたりしたわけですから、およそ自分以外の人間という存在に将来的に安心感を持たなくなってしまう危険があったと思います。小学生の例では、「学校関係者を除く」大人たちが一丸となって、児童と保護者をフォローし続けました。

迎合は、仲間でさえも、容赦なく攻撃をさせるわけですが、進化の過程で獲得したという事情を理解するとその由来も理解できます。
太古の昔に迎合をする必要性がある場合は、食料(小動物)を狩るときとか、肉食獣から仲間を守るために反撃をするとか、仲間の命のために相手の命を奪うという場面が強い迎合が起きる場面だったということになります。権威者が相手(の動物)を攻撃していて、それに迎合するのですから、迎合はすなわち攻撃の論理にそもそもなじみやすかったわけです。


逆に言うと、
誰かが攻撃されている場合に迎合しようという気持ちが強くなるのかもしれません。

「迎合」と、「迎合した戦いの相手方に対する純粋な敵対意識」はワンセットの意識だと考えるべきなのだと思います。迎合して戦いに参加してしまうと、太古の記憶が呼び起こされて加担者にとってその相手は人間ではなく肉食動物であり、捕食して食料にするべき小動物のように扱ってしまうのでしょう。被害者は感情を持つことを認めない物質になるようです。

(少し解説を補充します。多くの人間たちの中で、群れが戦闘態勢に入った場合、何も考えないで群れ《厳密に言えば戦闘を開始した者》に迎合して、何も余計なことを考えないで、つまり怒りだけの感情となり、ひたすら対象を殺そうとすると、対象を殺して利益を得る可能性が高くなったのだと思います。戦いに集中するということでしょう。そうすると、このような群れに迎合して戦いに没頭する性質をもった人間が当時の環境になじみ、このような性質を持たない自由分散的な性格を持った人間が多数の群れより、生存競争で有利だったことになります。そうすると、その有利な性質をもった人間が、生きながらえることができ、子孫を遺すことができたということになります。こうして人間の迎合して怒る性質が私たちに遺伝されたという結果になるということです。)

7 独裁の構造

独裁国家は、独裁者がいて、その周りにイエスマンばかりが配置されます。リーダーと加担者の純粋形態のようです。独裁国家は、歴史的にみると常時戦闘態勢に入っています。戦闘袋瀬にあればそれが侵略であろうと防衛であろうと、迎合が強くなることには変りがないと思います。

そうだとすると、
独裁国家を作るためには、戦闘態勢を作ることが早道なのかもしれません。
世界の大きな国では、戦争を起こすと支持率が上がるという奇妙な現象が起きます。自国の強さをアッピールできるから支持率が上がるという解説がなされることがあります。しかし、実際は、自分たちの国が戦闘態勢に入ると認識すると太古の記憶がよみがえりリーダーに迎合しやすくなるという人間の心理が働いているだけのことかもしれないと思います。このような形で支持率を上げた大統領は、延々と戦争を続けるしかなくなってしまいます。

国という大きな話ではなく、任意のグループの場合も同様でしょう。そのグループが誰かと戦っていると意識があると、構成員がリーダーに迎合する傾向が強くなり、結束が強まるようです。そして、自分たちに行為を示す人間以外を仲間とは思えなくなり、無意識に組織の人間を優先し、組織外の人間を敵視していくということはよく見られることです。宗教団体や思想集団で社会的に承認されているとは言えない団体は、権威者に対する迎合が極端に強まるため、権威者であるリーダーはなかなか後退しないという特徴が出現します。

地方の自治体の話でも迎合が見られます。仕事柄、自治体の中枢近くで仕事をすることがありました。かなり地位の高い人で、キャリアから見れば政治職よりも権威のある人のように感じられる人が、なりたての地自体の首長に迎合しているとしか表現できない発言を聞いて驚いたことがありました。

自治体の首長と言っても、万能ではありません。その道のキャリアは、その道では知識も活動も自治体の首長より上であり、上から政策を修正するくらいでなければならないと思います。それにもかかわらず、その道についての政策について、首長の方針に無条件に迎合していたのです。

その人はもうすでにコースの最上位にいて年齢的にもこれ以上の出世もないくらい出世していましたし、すぐに来る定年後の予定もきちんとあった人なのですが、迎合することが何か楽しそうでした。

迎合するということは、何ら卑しいことでも唾棄するべきことでもないのでしょう。人間の自然な感覚であり、遺伝子に組み込まれた本能なのだと思います。人間社会が成り立っているということは、現代でも90パーセント以上の大多数が迎合傾向にあるのだと思います。迎合の要素がなければ、人間の集団は成り立たないのかもしれません。

ただ、太古の時代で妥当性があった迎合の心理も、現代の関わる人数が多すぎて、所属する群れも複数あり、群れ相互の利害対立も微妙にある場合、特に対立をしているグループの権威に迎合してしまうことは、自分に何も不利益を与えていないはずの人間を不合理に傷つけて、深刻な被害を与える主体になりうるということは肝に銘じておく必要がありそうです。弁護士という職業は、その危険が常にあるということになります。人間はその人が自分の行為で苦しんでいることを知っているにもかかわらず、それでも何も罪もない人を死ぬまで追い詰めることをしてしまう存在だということです。

まさに進化と環境のミスマッチがここにも起きているわけです。

8 ネットハラスメント 木村花さんの三回忌を前にして

この記事の締めくくりです。
女子プロレスラー木村響子選手の娘さんで同じくプロレスラーだった木村花さんが、ネットの書き込みが原因である可能性がある自死をしました。本来接点のないはずの舞台の上の人間と観衆がインターネットという装置によってかかわりが生まれてしまったようです。最後に詳しく考察しますが、彼女はまったく無関係な人間の書き込みを読んで圧倒的な精神的ダメージを受けたことが推測されます。

書き込んだ人は木村花さんとは何らの関係もない人たちですから、花さんの行動について何ら論評をする立場にはなかったはずです。なぜ、書き込んだ人たちは花さんの行動に否定的書き込みをあえてしたのでしょうか。どうしてそれを読めば精神的に打撃になる表現を書き込むことが「できた」のでしょうか。
匿名だからできたということも理由となるとは思いますが、匿名だとしてもそれをやろうとした動機付けを問題にしなくてはならないはずです。

これが迎合の心理から説明ができると思います。

ドキュメントタッチで共同生活を描くテレビ番組で、些細なことをめぐって花さんと男性が対立をする場面が面白おかしく映し出されたことがきっかけのようです。男性そのものは、花さんに対して報復をしようと行動を起こしたわけではないようです。しかし、テレビの中で花さんを攻撃する論調があったようです。

番組内での花さんの対応あるいは対立の論理も、理不尽というか不自然なところがあり、そこに反発を誘引する素地があったようです。また花さんがプロレスラーということと、あまり感情的に対立しない若者の風潮から、男性に対して同情する気持ちを起こしやすい状態が演出された形になったのだと思います。

但し、書き込みをした人たちは、相手の男性に迎合したわけではないということを注意するべきでしょう。この男性は、対立姿勢を示していません。

書き込みをした人たちは、この男性ではなく、「花さんの『怒り』にむしろ問題があるという雰囲気を出した人間」に対して、その人が言っていることが正論だという支持を表明したくて、書き込みをしたのだと思います。花さんの怒りが理不尽だという論調に誘導した人に迎合をしたのだと思います。もしこれが政策側で意図したことならば、結果的には制作側が攻撃をあおった形になると思います。

ここは極めて重要で、大いに注目するべきポイントだと思います。当事者双方がそれほど対決姿勢を示していなくても、第三者がどちらかを非難して、どちらかの味方をすると、その第三者が権威の所在になり、当事者以外の他者がその権威に迎合して一方を攻撃するという図式が起こりうるということです。当事者双方は戦うことを考えていなくても、第三者がそれを利用して対立の構造を作ってしまうということです。その結果当事者たちも戦わざるを得ない状態に入る危険があるということになるわけです。

何らかのトラブルがあった時、当事者には双方言い分があることが通常ですが、第三者が権威になれば、第三者の言い分だけが迎合の的となるわけです。初めから他方当事者の言い分は考慮されない構造になっています。第三者が権威を持つことによって、私たちの怒りが第三者によって誘導されてコントロールされてしまいかねないということに最大限の注意が必要です。そして、第三者の権威に迎合して攻撃をしてしまうと、双方の当事者が望まない第三者を巻き込んだ戦闘が行われる危険があるということになります。

話を花さんに戻します。
仮に制作サイドの、視聴者に対するあおりの意図に乗ってしまい、例えばコメンテーターの示す価値観に共鳴し、花さんに対して怒りをもってしまって、怒りを表明しようという気持ちになってしまうと
戦闘態勢への迎合ですから、特に戦う相手となった人間は人間として感情があるということは初めから考慮の対象外のこととなってしまいます。本能的に攻撃対象は人間ではなく虎や狼だという意識になってしまいますから、容赦のない攻撃が繰り出されるわけです。可能な限り最大限のダメージを与えることしか考えられなくなります。容赦の一切ない純粋な怒りの結晶がぶつけられます。
無関係な人間からだとしても、そのような悪意の純粋結晶のような攻撃に耐えられることは、人間としては難しすぎることだったと思います。

特にインターネットは自室で観ることができます。いついかなる場合でも自分が見ていなくても、自分に対する攻撃が続けられていて、それが自分だけでなく誰にでも見られる状態にあったということを考えると、どこにいても気が休まらない状態になり、不安や焦燥感は極限に達していた可能性もあると思います。

このような多数から加害を受けているならば、家族や恋人などがいたとしたら、傷はいえるのでしょうか。孤立感は解消されるのでしょうか。実際の被害者の方々から話を聞くと、答えはいずれもノーです。

通常多数から攻撃を受けてしまった人間は、そのような人間扱いされていない自分というものを知られたくないと考えることが普通です。むしろ、自分の最後の砦となる家族には知られたくないと思うようです。家族からも自分が情けない価値のない人間だと思われたくないようなのです。また、家族にだけは心配をかけたくないと思うことが通常なのです。

助けてもらいたいと思う反面、知られたくないという矛盾した気持ちに苦しんだことでしょう。初めから孤立しているのではなく、このような集団加害がなされることによって人は孤立していくのです。

木村響子さんがインターネットに花さんの攻撃を書き込んだ人たちを相手に提訴をするようなお話があります。母親のお気持ちを考えれば当然のことだと思います。

ただ、私たちは、ネットの書き込みをした人と同じ行動をしてはならないということを肝に銘じるべきだと思います。世界を独裁にして戦争をするのか、罪のない人を人間扱いしない攻撃をするのか、それを決めるのは、私たちが本能のままに誰かに迎合して怒りを持つことを続けるか、理性で自分の感情をコントロールして迎合している人たちを鎮める行動をとれるかにかかっているともいえるかもしれません。

怒りを持つ構造、見ず知らずの関係のない人に対して怒りの純粋形態をぶつける構造がおよそ人間には遺伝子に組み込まれている可能性があるということをあらかじめ知るべきです。つまり、自分たちにも同じ行動をする可能性があることです。これを自覚し、怒りを感じたときに、もしかしたら現代社会ではデメリットしかない迎合による怒りで誰かを傷つけているのではないかということを予め注意することが、むやみに他人を傷つけない社会を作ることなのではないかと考えています。気が遠くなる道筋でしょうけれど、これを自覚しなければ人類は滅びるところまで行く可能性を持ってしまったということなのだと思います。

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ダイエットが失敗する理由とパワハラで鬱になる理由に共通すること、人間という動物の特徴 inspired by ‘The Story Of Human Body’ D.H.Lieberman [進化心理学、生理学、対人関係学]


1 ダイエットが失敗する理由

ダニエル・リーバーマンという、多くの学者からその人の研究論文が引用される学者さんがいます。この方は、進化生物学者、考古人類学者です。我々が入手して読みやすい文献は、ハヤカワノンフィクション文庫「人体 600万年史」上下です。私も読みだしたら止まらなくなるくらい夢中で読みました。

この本に現代に生きる人間が太りやすい理由が述べられています。その理由とは太古の時代の生き残るための必要性でした。
人間は他の動物に比べて脳が大きいために、安静時であっても脳が体内のエネルギーの多くを消費してしまうそうです。エネルギー消費に備えて、効率よく栄養を補給し、体内に蓄積しなければならなくなりました。そのためには糖、炭水化物を摂取し蓄えることがとても有効だったわけです。
糖は、単純な分子構造からできているため、とても体内に吸収しやすく、かつ、エネルギーとして使いやすいため、糖を取り込むことができることが生存に有利になります。また、過剰にとったとしても脂肪に代えて蓄積できますから、いくらでも取るべきだということになるわけです。このため糖を口に入れると、甘さによって好ましく感じ(つまりおいしいと感じ)、あるだけ食べたくなったということです。これは実は人間だけでなく、多くの動物がこのような原理で糖を摂取しています。

ただこのような仕組みが人間にとってメリットだけがあったのは、太古の時代です。太古の時代は糖なんてものは、はちみつくらいのもので、摂取するためには危険が伴いましたし、はちみつをめぐっては生物間の競争もあったことでしょう。また、いつでもあったわけではありません。甘いものと言えば自然の中にも果物があるじゃないかというのは、高度成長期以降に生まれた方々でしょう。昔の果物はそれほど甘くなく、砂糖をかけて食べるものも多かったくらいです。自然の甘みは頼りない甘みでした。どんなに糖分をとろうとしても、取りすぎるくらいはとれなかったので、糖を取り込もう、ため込もうとしても実害が起きにくかった、だからむやみに取り込もうため込もうとする構造は、有利な体の構造だったのです。

現代は、製糖工場が作られ、純粋に甘い糖が世界中にばらまかれ、安価に糖を摂取することが可能になってしまいました。ところが、体は進化せず、太古のままです。即ち、もはやムキになって糖を取り込むこともため込むことも不要なのにも関わらず、体は依然甘いものをおいしいと感じ、糖や炭水化物を食べるともっと食べたくなり、ため込んで内臓脂肪にしてしまいます。進化の過程で想定していなかった量の糖が体内に取り込まれるようになってしまいました。このため糖尿病などの成人病が起きてしまうのだそうです。
これをリーバーマンは、当時の環境(糖が手に入らなかったという環境)に適応するように進化した「身体」と現在の「環境」(安価に糖を入手できる環境)のミスマッチが起きていると表現しています。

つまり、私たちがダイエットに失敗する理由は、私たちの体が飢餓状態により良く対応できるように進化したために、現代の食料があふれている環境には適応していないということにあります。

2 パワハラで傷つく理由

パワハラもそうですが、いじめや家庭内暴力といった継続的人間関係の中から受ける攻撃には人間は十分対応できないようです。

リーバーマンの「人体」という本の副題が600万年史とあるのは、それまで同じ生物だった人間とチンパンジーが600万年前ころに、枝分かれしたからです。つまり、人間としての歴史が始まったのが今から600万年前くらいだということです。そこから、人間は独自の進化をしてきました。

脳が大きくなりエネルギーを使う臓器に進化していきましたし、二足歩行に適合した骨格になっていくなど、身体も進化していきました。

人間が進化の過程で獲得したものとして、人体の仕組み以外に、「群れを作る」という行動傾向があります。群れを作ることによって、肉食獣から自分たちを守ったり、共同で食料を獲得して飢えから守ったり、群れにいることで安心感をもってストレスを解消して長生きができたりと、群れを作ることは人間にとって必要なことだったと思います。

これが甘いものを好むとか、もっと食べたくなるという体の仕組みであれば、分解しやすい栄養素を好ましく感じるように脳の仕組みが作り上げられるということで、なんとなくそれは可能だなと理解できるような気がします。味覚のセンサーとしての舌があり、ここから甘いという情報を脳のある部分に送る。脳のある部分から大脳皮質に情報が提供されれば、大脳皮質の報酬系が刺激されて、どんどん摂取しようとする。という具合でしょうか。これが群れを作るということになると、直ちに脳の構造がどのように進化したかなど、なかなかすんなり理解できないかもしれません。

では、群れを作るということはどうやって行うことができたのでしょうか。ある程度人類普遍に群れを作っていますから、これは遺伝子の中に組み込まれていることだろうと考えることは可能だと思います。ではどういう遺伝子があるのかということですね。

私は、その遺伝子というか体の仕組みこそが「こころ」なのだと思っています。
糖を口に入れて甘いと感じるように、仲間と一緒にいることで安心感を覚え、仲間から離されそうになることで不安を覚えるという「こころのしくみ」が遺伝子に組み込まれているのだと思います。言葉が生まれる前から人間は群れを作っていたのですから、言葉による契約はなかったわけですし、おそらく理性による損得計算の結果仲間となることを選んだわけでもないだろうお思います。ただ、誰かと一緒にいたいという気持ちが仲間の中にとどめたのだと思います。そして、目に見えて一緒にいる人間を仲間と思って離れないように行動したのだと思います。もうすでに、この脳の部分は大脳皮質であり、その中でも前頭前野腹内側部であるということが解明されています。(Robin Dumber、Antonio Damasio) 

そもそも絶対的な人口が少なく、人口密度が極端に低かったため、仲間以外の人間に出会うことはほとんどなかったはずです。人間はすなわち仲間だと思ったはずです。(但し、狩猟採取の生活で定住をしていなかったため、様々な事情で仲間からはぐれてしまうことがあったはずですし、はぐれた人間を仲間に迎え入れることもあったのではないかと思っています。)

群れの仲間の多くは、生まれたときから同じ群れで生活していたし、四六時中一緒にいるわけです。そして利害がまるっきり共通します。即ち、仲間が健康でいればいるほど、肉食獣との対抗力も維持できますし、食料の獲得可能性も高まります。このため、食料を平等に分け与えた群れが強い群れとして、存続することができたはずです。困っている仲間を助けようとすることや、あまり役に立たない個体も群れとして手厚く迎え入れる群れが、頭数を減らさない強い群れということになり、やはり存続していくための条件だったはずです。

即ち人間の群れとして永続して、のちの世に子孫を遺した群れの構成員は、
・ 仲間の気持ちを手に取るようにわかっていたはずで
・ 何事も平等で、差別をせず、
・ 群れの仲間を助けようとし
・ 困っている仲間、窮地に陥っている仲間は全員で助けて
・ 一番弱い者ほどみんなで守っていたことでしょう
これによって
・ 仲間は自分を守ってくれる存在だと思い
・ 仲間の中にいると安心できると期待していた
こういう人間関係だったと思います。

このこころの仕組みは、単独では人間が生き残ることが困難な環境の中、人間と言えば自分と他人との区別がつかないような一心同体の仲間しかおらず、その人数も比較的少数であった時代には、奇跡のように環境に適合した仕組みだったと思います。このような仕組みを持たないヒトたちは滅んでしまったのだと思います。

弁護士として人間関係の紛争を観てきましたが、現代の紛争の多くは自分を守ろうという動機で起きているということが実感です。守り方が突拍子もないことも多いために直ちに理解ことがありますが、もつれた紐をほどいていくと、結局自分を守るために結果的に他者を攻撃していたということが多いようです。
太古の群れの形成期のころだと、群れの仲間全員が運命共同体ですから、自分を守るために群れの誰かを攻撃するということは極めてまれというか、実際はなかったのではないかと考えています。

仲間と仲たがいするほど、余裕をもって生きることができない厳しい環境だったと言えるのかもしれません。パワハラのようなことをしたら、他の仲間がわらわらと近寄ってきて、引き離したことでしょう。パワハラみたいなことをした方も仲間から追放されると察して、行動を修正せざるを得なかったと思います。実際は、争う実益も、仲間から自分を守らなければならないと思うような出来事もなかったと思います。パワハラは無かったのです。

では、このような進化の過程で生まれた仲間ファーストの行動傾向やこころはどこへ行ってしまったのでしょうか。

厄介なことに、この「こころ」は、太古の昔とほとんど変わらないで残っていると考えるべきでしょう。証拠はたくさんあります。それは私たちのこころの状態を見ればわかります。

つい、他人を仲間だと思って期待してしまうわけです。
・ 自分を他の人間と同じに平等に扱ってほしく差別しないでほしい
・ 自分の失敗や不十分なことに寛容であってほしい
・ 困っていたら助けてほしい
・ 自分を攻撃しないでほしい
・ 自分を邪魔にしないでほしい
・ 仲間の中にいることで安心したい
・ そして仲間から外さないでほしい
どうでしょう。まるで太古の人間関係のようなことを求めているとは感じられないでしょうか。特に、継続的に一緒にいる時間が多い、家族、職場、学校、趣味などの集まりなどでは、特に安心したいという気持ちが強くなることと思います。
(もっともそのための行動は個性による違いが大きくあります。目立たないようにするひと、人に合わせようとする人がいるかと思えば、自分の能力をアッピールして安定的な立場に立とうとする人等々。)

こころは太古の時代に進化が止まっていたようです。
変わったのは、私たちを取り巻く人間関係という環境です。
つまり、生まれてから死ぬまで同じ人といるのは家族くらいのことです。その他の学校も家族も、ある程度は継続して一緒に生活しているわけですが、特に現代化の中で交代が予定されない人間関係なんてなくなってしまったと言ってよいでしょう。家族でさえ、交代を進められるような時代になってしまいました。
また、昔は一つの群れの中で、食料を調達し、休息や睡眠をとって,群れの外の人間とは交流がなかったはずです。今は、家族だけでなく、学校、会社、地域等複数の群れで生活しています。インターネト仲間のような群れとは言えないような人間のつながりもあるわけです。そのため、実に多くの、気が遠くなるくらい多くの人たちと、自覚しているか無自覚化を問わずかかわりを持っています。

大事なことは、利害が一致する運命共同体のような群れというものが消滅しているということです。
・ どこの群れにいても、自分が誰かと交代させられる危険があるということで、
・ 自分の失敗や不十分なところ弱点が許されないことが多くあり、
・ 誰も自分を守ってくれないということが多くあり
その結果、自分を守るために他者を攻撃する必要も生じるようになったし、実際に自分を守るために他者を攻撃するということも頻繁になってしまいました。そして相手との人間関係が希薄なため、相手を攻撃しても心が痛まないということになってしまったのではないでしょうか。
継続的な人間関係の中にいても心休まらないわけです。眠るべき時間でも、昼間の悔しかったことを思い出したり、理不尽な扱いに腹が立ったり、この次に顔を合わせたら何をされるのだろうと恐怖を感じることがあるわけです。仲間の中にいたとしても眠れなくなることがあるということです。これでは、こころを管轄する脳が不具合を起こしてしまいます。

現代社会と太古の時代の環境の変化を整理すると
・ 群れが一つではなくなった。複数の群れに帰属する。
・ 群れのメンバーは代替性があることになった。
・ どこの誰とも把握しきれいない膨大な数の人間とかかわりを持つようになった。

その結果、
・ 群れの仲間は運命共同体ではなく利害対立をするようになった
・ 群れの仲間はそれほど大切に扱われなくなった
・ 場合によっては群れから追放をすることが当たり前になった
・ 誰も助けてくれないことが起きるようになった
・ 自分を守るため他者を攻撃することが起きるようになった
・ 他者の利益を害しても自分を守ろうという行動が起きるようになった

しかし、こころは太古のまま変わらないため
人は傷つくようになった。

つまり、太古の人間が切実に糖を取り込みため込むように
太古の人間は群れに入ろうとし群れの中にとどまろうとした、

太古の人間の中で糖を取り込みため込めない人間は死滅した
太古の人間で群れにとどまることのできない人間は死滅した。

製糖工場ができて安価に糖が手に入るようになった
複数の群れ、多人数の群れを形成するようになり、一人一人がかけがえのない仲間ではなくなった。

糖が簡単に摂取できるにもかかわらず糖をため込み取り込む人間の仕組みは変わらない
仲間に仲間として尊重されることが難しくなったのに、人間の心は変わらない。

糖が進化の想定外に多量に摂取し多量に体内に蓄積するようになったため体が不具合を起こして生活習慣病を起こすようになった。

仲間として尊重されたいという意識のほとんどが実現されなくなったため心が不具合を起こして精神病を発症するようになった。
その前提として仲間として尊重されたい人間から攻撃されるという現実が起きるようになった。

自死、パワハラ、いじめ、離婚、犯罪などの社会病理は、ほとんどがこの仲間として尊重されたいという人間のこころの進化の段階と、現代の人間環境のミスマッチとして起きている。これが対人関係学です。





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「ありとあらゆる兆候が出ていますね。あなたは夫から精神的DVを受けているのではありませんか?」 夫との楽しかった記憶が恐怖と嫌悪に変貌する仕組み = 配偶者暴力相談の増加と面会交流調停申し立て件数の増加が連動する理由 [進化心理学、生理学、対人関係学]

離婚事例を担当していると、特に夫側の代理人として担当すると
妻から離婚調停を申し立てられた場合、
離婚意思が固く、夫に対する嫌悪や恐怖ははっきりと伝わるのですが、
その理由が曖昧でよくわからないということが多くあります。
(最近の記事ではその分析をしています。)

今回の記事は、ただ理由が曖昧なだけでなく
客観的にその存在の裏付けが取れる同居期間中の楽しかった思い出や安心感が
記憶から抜け落ちているとしか思われないケースも多くみられるのです。
この記憶の喪失や変容について考えてみました。

妻の離婚調停や訴訟における主張には
楽しかった時の出来事が無かったことにされて
辛く苦しいことしかなかったという主張がなされているのです。

こうお話しすると、「離婚調停や訴訟を有利にするために嘘をついているだけなんじゃないの」と思われるかもしれませんが、わざわざ嘘をついてもあまり有利にならないような場面で出てくるとか、客観的に裏付けのある事実を否定してしまっているとか、その他の事情からわかるのですが、

どうやら本当に楽しかった記憶が失われているようなのです。

例えば、妻は、離婚調停や裁判で、「家族で遠出なんてしたことはなかった」と主張します。これが離婚理由の一つだというのです。
これに対して夫は、家族で遠出をして妻と子が花火を楽しんでいる写真を提出して、みんなにこにこと楽しんでいたよねと言うのです。写真が出されておそらく調停委員等から、「ここに写っている人はあなたではないのですか?」とか尋ねられて言葉に詰まるのでしょう、それでも妻は、「この時は、子どもと私だけで楽しんでいたのであり、夫は一人だけどこかに行ってしまって、子どもたちは寂しい思いをした。」とかいうのです。
なるほど、その写真に夫は写っていません。だって夫が写したのですから写らないのは当たり前です。夫が撮影したからこそ夫のスマホに写真は入っているのです。また、夫が一瞬いなくなったのは事実ですが、それは花火が始まる前のことで、数時間も一人で自動車を運転して疲れ果てて車の中で仮眠をとっていたからです。その後自力で起きて会場に駆けつけました。だから夫のスマホで家族の記念撮影ができたのです。みんな安心しきった笑顔で写真に納まっていました。

このような記憶の改変はほとんどの子どもを連れて別居して離婚調停申し立てという事例に見られます。もう少しだけ例を示しましょう。

・ 職場の人間関係で悩んでいて、夫に相談をしていたのに、相談した記憶が無くなっている。「一生懸命話したのに夫は聞いてもくれなかった」と変わっているのです。夫はもちろん親身になって聞いていましたので、その時妻がどんなことを悩んでいたか言うことができました。
・ 一方的に夫婦けんかを仕掛けてきたかと思うと、夫が突然のことで呆然としていると「どうせあなたは私が情緒不安定だと思っているんでしょう。」とか言っていながら、裁判では夫からあの時に「情緒不安定だとののしられた」というのです。これは偶然録音されていました。「言われるかもしれない」という不安が、「言われた」という記憶に変わっているのです。
・ 大きな声を出していないのに、耳元で叫ばれたなんてことを言ったりします。

・ 職場から帰宅したら、突然夫から詰め寄られて鬼の形相で大声でののしられたなんてことを妻が主張するのですが、どうやら本当に、午前2時の帰宅で遅くなるとも連絡を入れず、小さな子どもたちの夕飯も用意していなかったことを忘れているようなのです。

そうしていつの間にか、夫は、自分に対していつも怒鳴りちらしていて、気に入らないとものに当たり散らして自分を怖がらせて、何かにつけてダメ出しをして自分を否定しようとしている。夫が視界に入るだけでこれから自分が攻撃されるのだと身構えてしまう。とても安心できない。そうやって私は恐怖によって支配されていて、心休まる暇もなかった。夫との生活では人間の尊厳などとなかったなどというのです。

また、生活費をこれくらいしか渡さないことは経済的DVだとかいうのです。
生活費の問題の多くは、低賃金にあります。「それしか渡されないのですか。」と相談を受けた正規職員の公務員などはいうのですが、家計の実態を見ると「それは仕方がありませんね。」というくらい目一杯渡していることが少なくありません。また、電気、ガス、水道代やもろもろのものは銀行引き落としになっているし、食費は夫が払っているという事情があるときもありました。妻に渡したお金さえもなるべく使わせないように実家から支援を受けたりしているほどでした。渡されるお金に文句を言う妻は、この現代日本で、自分で働きに出ようとしないケースが多いのです。そのくせ、夫がもっと賃金の高いところに転職をしたら、自分の許可なく転職したなんてことが離婚理由として主張されるのです。家族が生活できる賃金が支払われないことが、夫の収入も確認しない相談員の手にかかると経済的DVだということになってしまうことが多くありました。

ずいぶんわき道にそれてしまいましたが、今回のテーマは、どうして<記憶が改変するのか>、それは可能なのかということです。

記憶の改変で思い出されるのは、Wikipediaでは「虚偽記憶」として概説が乗っているアメリカの10年余り続いた嵐のような出来事です。

不安を理由にカウンセリングを受けに来た女性たちに対して、一部のカウンセラーが
「ありとあらゆる兆候が出ていますね。あなたは幼少期に性的虐待を受けていたのではありませんか。」
と話し、催眠療法を行って、父親や兄などの性的虐待の「記憶」を「よみがえらせ」、父や兄の性的虐待を母親などの家族が追認していたなどという主張を行い、幼児のころの出来事の記憶に基づいて、多数の民事裁判、刑事裁判が行われました。多くの裁判所で遠い過去の出来事の記憶が真実であると認定し、多くの人たちが、莫大な損害賠償を命じられたり、刑事裁判で有罪とされて刑務所に収監されたりしました。裁判所においてこういう嵐が10年余り続きました。自分の娘と争うことができなかったり、そんな荒唐無稽なことを裁判所が信じるわけがないと高をくくって、真剣に争わないことも原因の一つのようです。

これは遠い昔の出来事ではなく、つい最近である1980年代から1995年にかけての出来事なのです。自称被害者は、20年前の幼児のころの記憶を細部にわたり生き生きと語り、迫真性の持った出来事の再現をします。このような発言は、「それを体験した者でなければ言えない発言であるから真実である」という認定手法によって、多くの裁判所によって記憶が真実だとされてしまいました。

この大きな流れを止めた一人が認知心理学者エリザベス・ロフタスです。人間の記憶というものは不確かであるということを解明して、「20年前の幼児のころの記憶がビデオテープのように正確に再現されるということはありえない」ということが裁判所でも理解されるようになったのです。そんな過去の記憶が鮮明で、詳細で、迫真性があることこそがむしろ疑わしいということを示す事情になることをようやく裁判所が認めたということになります。1995年ころになってからのことです。

また、この記憶が「よみがえるとき」に行われていた「催眠療法」の中でも「回復記憶セラピー」という療法については問題が大きいということで行われなくなったこともあり(予後が悪く、多くの相談者が精神科病棟からであれれなくなるほど精神状態が悪化した)、21世紀には、アメリカではこのような「よみがえる記憶」の論争自体も下火になったようです。エリザベス・ロフタスの「抑圧された記憶の神話」(誠信書房)もおすすめです。翻訳が秀逸で、途中で読むことをやめられなくなります。

なぜこのような虚偽記憶のはなしをしたかというと、実は、このころのアメリカのカウンセラーの言いぶりと、現代日本の、「DV相談」の相談員の言いぶりというかマニュアルが、とても酷似していることを説明するためです。決してこれは偶然ではないと思っています。

現代日本では、生きづらさを抱えた女性が相談に行くと
「あなたが悪いわけではありません。あなたは悪くありません」とはじまり、
「あなたのお話を聞くと、あなたにはありあらゆる兆候が確認できます。あなたは夫から精神的DVを受けているのではありませんか?」
と尋ねられるのです。
そして、夫との生活の不満を語るように促されて、どこの家庭にもある程度はある事例を挙げて「例えばこういうことはありませんか。例えばこういうことは・・・」と尋ねられていくうちに、
どんどん「夫のそういう態度は許されない態度なのだ。」
そのような扱いを受けていた「自分は夫から精神的虐待を受けていたのだ。」
と思い込むようになっていくようです。

妻が本当はDVだと思っていない夫の行動を相談員に言い出すのも理由があります。
相談員は妻が何かそれらしいことをいうまで、
あきらめずに尋ね続けるからです。

この相談を受けた結果、
「もう我慢をしなくてよいのだ。」
「自分が楽しく生きていないと子どもも健全に成長しない。」
「このまま夫と一緒に生活していくと自分は殺される。殺されないまでも精神的にダメになっていく。人間として生まれてきた甲斐がない。」
と思い込んでゆき、
「別居をすれば、夫と同居しなくても婚姻費用を裁判所が命じてくれる。離婚をすれば、慰謝料や財産分与で今お金がもらえる。保護命令が出されると離婚に有利になる。自治体からも援助金が出るから生活は何とかなる。」というような空手形を信じてしまうようです。
子どもを連れて夫から身を隠して、
保護命令を申し立てたり、離婚調停を申し立てたりするようになり、
ついには離婚ということになるという一連の流れがあります。

どうやってこのような強引な「相談活動」の内容を私が知ったのかというと、私のルートは概ね、相談を受けた「被害者」とされた女性からの情報なのです。

一つのルートは国の関連の電話相談でした。どこにも相談するところがなくった人たちのための国の関与する電話相談です。
「いろいろと離婚後のバラ色の生活を言われて言われた通り離婚しました。しかし、離婚するのも時間がかかりましたし、言われたようにお金がもらえるということもありませんでした。生活は離婚する前より苦しくなりました。離婚のアドバイスを受けた機関に『話が違う』ということで電話したのですが、『離婚はあなたが決めたことですよ。』と言われて相手にされなかった。」という相談が少なからず数寄せられているのです。「離婚はあなたが決めたことです。」という回答もマニュアルに用意されていて、マニュアル作成者はこういう事態が起きることは初めから想定しているようです。
私も直接相談を受けましたし、同じ機関の相談員たちも何回か同じような相談を受けているということを教えてくれました。

もう一つのルートは、調停や裁判手続きで妻が主張し、証拠提出をするので、これも確かなことです。
離婚を申し立てた妻から、「自分が望んで別居したわけではない。警察から強引に別居しろと言われたからだ。自分は別居に抵抗を示した」ことの証拠として、自分が情報開示請求をした行政の報告書(警察署でのやり取りの報告書)が提出されることがあります(それでも離婚請求を維持するのですから、わけがわかりません。)。それを読むと、確かに、妻は「クリスマスを家族全員で過ごしたい」、「正月を夫と迎えたい」などと言っているのですが、警察官は「2時間以上にわたり、『命の危険があるから逃げろ。DVは一生治らない』と説得し、妻にようやく逃げることに同意してもらった」と誇らしく記載していました。もちろん、この家庭では、妻以外の暴力がない事例でした。これはのちの裁判でも認定されています。当然慰謝料は認められず、別居の際に夫名義のクレジットカードで高額の借金をしていたことと、給料とボーナスを引き下ろして持って行ったため婚姻費用も支払い済みとしてほとんど認められませんでした。

このように1980年代にアメリカで起きていたことが現代の日本で起きているのです。しかもアメリカでは多くは民間のカウンセラーだったようですが、日本では、警察、自治体、NPO法人という公的団体で行われています。自治体職員の話として相談マニュアルは内閣府で作られているという情報もあります。

それにしても、アメリカの事例と違うのは、
・ 相談員たちは、催眠療法、記憶回復療法を行っているわけではないということ
・ 遠い過去の記憶ではなくて、現在進行形の夫婦の関係についての評価がくっきりと否定評価になること
・ それでも命の危険も含めて夫に対する切迫した危機意識までもつようになること
というところにあります。
妻が、これまでも何年も一緒に住んでいた夫に対して、第三者が口を出したということだけで、どうして離婚を決意するほど、嫌悪感や恐怖感を抱くようになったりするのか。ここが問題です。これが説明されなければ、「なるほどそんなことありえない。やはり、精神的DVは実際に存在したと考えるしかない。」ということが普通の考え方だと思います。

記憶が失われたり変容したりする理由を二つ考えてみました。

1 楽しかった記憶、安心の記憶が失われる事情が先行している
  
 まず、女性のいくつかの事情で夫に対する安心の記憶が失われるということが起きるようなのです。
 1番は、出産です。数年前にバルセロナ自治大学と福井大学の研究チームがそれぞれ異なる手法を使って発見し、相前後して発表した理論によると、「赤ん坊を産んだことによって女性の脳の活動が変化をする。その結果、赤ん坊の状態に対する共鳴力・共感力が強くなるのに対して、大人に対しての共鳴力・共感力は弱くなる。(失われる)」ということになるようです。

どうやらこの時、夫との楽しかった思い出、守られているという安心感が、弱くなったり消えてしまったりするということのようなのです。福井大学の研究者は、「これが産後うつの仕組みではないか」と語っていました。もちろん個性による違いはあるのですが、多かれ少なかれ2年間は出産によってこういう傾向になるということが報告されています。

確かに人間の赤ん坊ほど無防備な生物はいないかもしれません。そのくせ人間は魚や昆虫のように大量に子どもを作るということはしません。一人一人の赤ん坊を大事にするように遺伝子に組み込まれていなければ、人間は簡単に絶滅したでしょう。この母親の脳の活動の変化は進化によって勝ち取られたわけです。もっとも他の哺乳類例えばクマなどと異なり、人間は出産後も男性と同居を続けているわけですから、出産後の共同養育をさらに進化の過程で獲得したということになるのでしょう。クマと違って母親だけで子育てをする仕組みには人間はなっていないようです。

そうすると、出産直後は、脳の活動の変化によって、夫に対する感覚が極端に変わるわけです。子どもが乳児のうちは、妻は夫に対してはあまり本能的には期待していない、夫によって楽しくなりたいとはあまり思わない。夫が何かしてくれても、本能的にはうれしくもないわけです。理性によって、夫に協力させた方が自分も赤ん坊も有利だと考えるだけかもしれません。夫の気持ちより赤ん坊がくしゃみしたことの方が大問題ですし、赤ん坊が自分を見て笑ってくれると本能的に充実した喜びを感じるわけです。哺乳類である以上母親がそのような脳の構造になることは仕方がないことだと割り切るしかないようです。

このように、夫に興味関心がありませんから、夫が自分に何かをしてくれことや、夫といることで安心感を抱くということは自然には起きません。そうすると、過去の事実は「事実としては記憶していて」も、楽しかったとか、安らかな気持ちになったとかいう感覚がよみがえりにくくなります。

現在夫に対して肯定的感情をもてないということは
肯定的な事実があったことを思い出す材料がなくなっているから思い出せない
ということなのだろうと思います。

この点、少し詳しく説明をこころみましたが、本論の横道になるだけで、科学的基礎があると自信を持つ理由もほとんどないので、記載部分を後ろに回します。ほとんど妄想の世界なので、興味と時間がある方だけお読みください。

楽しい夫、安心できる夫という追体験をする材料がなくなる事情として
第2は、うつ病、パニック障害などの精神障害、うつ状態という症状を合併するような内科、婦人科疾患、頭部外傷、薬の副作用などがあると思います。

記憶が失われる原理は、結果的には産後うつと一緒でよいと思います。現在夫といることで安心できるという感覚がなくなってしまっているので、過去の楽しさを追体験できる材料がなくなっているということです。
違うのは、一緒に住んでいる夫に安心できなくなる事情が、出産に伴う脳の変化ではないということでしょう。場合によっては、夫だけでなく、人間全般に対して安心感が持てなくなるという場合もあるようです。

第3は、夫以外の対人関係による心理的圧迫です。家族以外の第三者の場合と妻自身に原因がある場合があります。
第三者との関係では、職場でいじめを受けているとか、子どもの親同士の人間関係がうまくいかないとかということが多くありました。どうやら、他人との継続的関係がうまく作れないことには妻本人の事情も少なからずあるようです。第2の事情とも関係がありそうです。
妻本人の問題とは、家族に内緒で借金をしたとか、家のお金を使い込んだとか、自分が不貞をしたとかという実際の事例がすぐに思い出されます。実家に問題が生じていたということもいくつかありました。特に自分の行動に起因する場合は、夫から馬鹿にされるのではないか、愛想をつかされるのではないかという危機感を抱くようになります。やったことはともかくとして、まじめで責任感が強いのです。しかし、自分の危機感を何とかしたいという気持ちが強くありながら現実ではどうしようもないものですから、この不自由な思いをしている原因は夫に寛容性がないからだ、夫がいるからだという意識に徐々に変容していくというケースがよく見られます。まあ、最近の私の分析では、自分の不安を夫に解決してほしいという妻の夫に対する期待の強さの表れだとは思いますが、夫にとっては何の救いにもならないようです。

第4は、夫の妻に対する「否定行動」と「肯定行動がない事実」の継続的な状態を上げておきます。
通常の記憶の変容と喪失は、第1、第2、第3と第4の組み合わせで起きるようです。妻は現在の夫に対して安心感を獲得できない状態となってしまうことから、楽しかった出来事を思い出せないという流れになるようです。
第1、第2、第3の事情が無くても、第4の事情だけで独立して起きる事情として典型的な事例は夫の虐待、暴力の継続です。こういう場合では、そもそも楽しかった事情が存在しない場合もあるので初めから安心できる材料がないということもあるでしょう。途中から虐待などが始まるケースでは、不貞行為や使い込みなど妻の行為に不信感を持つような事情があり、それに対する対抗行為を夫が継続した場合も想定できるところです。あるいは、仕事上の人間関係が家庭に影響及ぼしていることもありうることです。
この第4の事情については前々回の記事で詳しく述べました。

2 解消できない不安解消要求の高まり

妻の記憶が変容したり喪失したりする第2の理由は、「不安解消要求」にあると思います。

すぐ上の第3の事情の妻自身に原因がある場合のところでも少しふれました。1の記憶の喪失過程と同じことを別の角度で説明するという意味合いにもなるかもしれません。

人間は、その発生原因にかかわらず、
「不安を抱くと、早くその不安を解消したい」
という根源的要求を持つようです。

これは人間に限らず動物一般に言えることだと思いますが、説明の便宜のために人間を主語として話を進めます。

(この不安解消要求のメカニズムも、書いちゃったのですが、話が長くなりますから、これも後に回します。)

特に第1、第2の事情という生理的変化や病的な事情から不安を感じている場合は、それを解消する方法がなかなか見つかりません。職場のパワハラや対人関係の不具合の中にも、自分の力では危険を回避する方法がなかなか見つからない場合もありますね。

たとえば、蚊に刺されるかもしれないというような危険の場合は、危険と言っても大したことがなく、蚊をたたいて血を吸われることを防ぐこともできますし、吸われたところで大したことがないので、不安解消要求はなかなか大きくなることはありません。すぐに解消されてしまいます。

ところが、原因がない病的な不安や、立場的に解消できないような対人関係上の不安があると、不安は解消しません。不安が解消しないと、ますます不安解消要求は強くなります。先ほどの蚊の例が日本であれば、大した問題にはならないでしょう。ところが、外国で、危険な病気を感染させる蚊がいる場合は、見つけ出して殺してしまおう、あるいは蚊のいないところに避難しようとする気持ちがどんどん強くなることはイメージできると思います。

蚊の問題であれば、「逃げるか戦うか」するしかないので、比較的短期間で解決するか刺されてしまうか結論が出てしまいます。
しかし病的な不安や、会社や学校あるいは家族という継続的な人間関係における不安は、危険が避けられるか現実化するか結果が出るまでに、相当長い期間継続してしまいます。いっそのこと、退職したり転校したり離婚できて危険が現実になるなら不安がなくなります。精神的ダメージは残るかもしれません。しかし、それまでの「いつ危険が現実になるか」とイライラしが持続することで、不安も高まっていくわけです。不安が高まればそれを失くしたい不安解消要求もさらに高まるわけで、悪循環が起きてしまいます。

不安解消要求の持続が危機意識を肥大化させ、不安解消要求も肥大化させる
ということが大事なポイントです。

不安が継続し、不安解消要求が持続化し、不安と不安解消要求が肥大化すると、
「どんな方法でも良いから、とにかくこの不安を早く解消したい」
というように意識が変容していきます。

他人からみれば人間が刹那的な行動に出るのはそういう場合です。つまり、不安や不安解消要求が肥大化すると、物事を冷静に考えることができなくなります。足して二で割る折衷的なものの考え方や良いところもあれば悪いところもあるというリアルなものの見方は複雑すぎてできなくなり、「善か悪か」とか、「とどまるか逃げるか」とか、「敵か味方か」というように「二者択一的なものの見方、考え方」になってしまいます。太古の時代に人間が出会う危険なんて、例えば野獣に襲われそうになるという身体生命の危険だけですから、二者択一的にひたすら逃げるという体制になることがとても有利だったのでそうなっているのでしょう。現代社会は、危険から逃げられないことと危険発生の予感だけでなかなか危険が現実化しないことが多すぎるという人間の心にとって過酷な時代なのかもしれません。

また、確実に逃げ切るために、「悲観的なもの見方」になります。自分は被害を受けるだろう、もっと確実に逃げないといけないという発想ですから、やはり太古の危険回避には都合の良い発想だということになります。脳の発達段階と環境のミスマッチが起きているわけです。

そうすると、不安を抱えた妻は、悲観的なものの見方しかできなくなりますから、自分は夫から被害を受けるかもしれないという非現実的な見通しも受け入れやすくなっているわけです。夫から殺されるという警察官の説得も「そうかもしれない」と思いやすいわけです。その前提として、夫は敵なのか味方なのかという二者択一的判断をしやすい状態になっているということがあります。ここで、偶然にも夫は敵だという判断をしてしまえば、夫とのかかわりがすべて否定的な思い出ということになります。例えて言うと、結婚詐欺師に騙されて、楽しい思いをして幸せに思っていたのに、実は騙されていたということに気が付いたとたん、楽しい思い出は自分がまんまと騙されていたという思い出に塗り替えられるようなものかもしれません。楽しかったはずの出来事が、すべて別の意味になるわけです。

また、記憶力も減退していくのでしょう。楽しかったことをそもそも思い出せないのです。これも逃げなくてはならないという不安の継続と不安解消要求の持続によって引き起こされた脳の変化の側面があります。

論理的につじつまが合わなくてもあまり気にならなくなります。二者択一的に、「一緒にいることが嫌だ」ということから先に進むこともありません。それでも気になりません。もちろん自分の感情に基づいて行動しているだけですから、子どものこと、特に考えなければ思いつかない子どもの将来のことなんて考えることはできません。今、食べさせることで精いっぱいということは当然なのでしょう。

つまり不安解消要求が肥大化してしまったら、
考えるということができなくなるし、考えるという面倒な作業はしたくなくなるのです。
二者択一的思考で悪に塗り固められた夫を見直すという発想はどこにもありません。

<離婚のセールスマンたちに言いたいこと>

こうして、妻の不安は最大限に高まり、不安解消の方法として不退転の決意で離婚に固執するわけです。夫婦は離婚となり、子どもは一方の親との同居となります。子どもと離れた親は一緒に住んでいる親の解消されない不安と悲観的な意識から子どもと会うことができなくなり、少なくない事例で精神的な要治療状態となったり、自死に至っています。

子どもたちも、一人の親と会えず、親からの愛情を受けられず、自分は実の親からも見放されるような価値のない存在だという無意識の自損行動を起こしてしまい、自己評価が低下してしまうようです。その上同居の親や家族から別居親の悪口を聞かせられることで、その否定的な影響が大きくなってしまいます。また、自分が安心して生活できる居場所がないという感覚に陥るようです。

では肝心の妻はどうでしょうか。妻は子どもを連れて離婚できて万々歳なのでしょうか。それも違うようです。冒頭申し上げたように、新たな生活苦という不安が継続していく場合が少なくありません。また、不安が固定化されていますので、今は目の前に夫がいないけれど、近い将来に夫が自分に近づいてくるかもしれないという恐怖もまた継続してしまうのです。相当長期間を経ても病的な不安は解消されないようです。

多くの事例で、関係者全員の不幸が作られているということを、多くの離婚調停や離婚訴訟の「その後」を見ていると感じざるを得ません。この世に生まれてきた意味を見出せなくなっている人たちがたくさん生まれています。その多くが人災だと感じています。

支援者は、マニュアルとその場の感情に従って、何も確たる事情も知らないくせに「あなたは悪くない。」というわけです。不安解消要求が病的に高まっていれば、そういわれた方は「自分は悪くない。では悪いのは誰だ。」と探し出すのは当然のことです。
そこですかさず、
「ありとあらゆる兆候が出ていますね。あなたは夫から精神的DVを受けているのではありませんか?」と言われれば
自分の不安の原因は夫なのだと信じて疑わないようになるわけです。
夫と別れることができれば何でもするというように追い詰められてしまうわけです。
妻の状態によっては、誘導なんて実に簡単なようです。

そして、どの家庭でもあるような事情や、その家庭では仕方がない事情を妻が告白して、これに対する不満は「自分が悪いのでしょうか?」なんて上目遣いに言ったとき、「あなたは悪くありません。夫の精神的虐待です。」と言われれば、とにかくこの肥大化した不安解消要求を満たしたい妻にとっては、たまらず飛びつかざるを得なくなります。不安が解消されればなんでもよいと思う状態になっているからです。

夫との楽しかった出来事、安心できた心持なんてものは、思い出せないし、思い出そうともしないわけです。事実としては記憶していても、楽しかった、安心できたという肯定的感情はよみがえりません。

支援員たちのマニュアルには、相談者が曖昧なことを言ったり、つじつまが合わないことを言っても、指摘しないよう厳命しています。相談者を疑うことは「寄り添っていない」ことだということが行政的立場らしいです。これはとても気持ちが良いことでしょう。相談者にとっては、自分が100パーセント善だとされて、夫こそが100パーセント悪で、その論理的な説明はどうでもよい、自分が自覚している弱点は不問に付されるわけです。文字通りストレスフリーになることは当たり前です。この人たちと一緒にいることで、自分は解放される、不安は解消されるとそれは思うでしょう。体をくすぐったらくすぐったくなるような理の必然です。昭和の芸人は芸ではなく客をくすぐる芸は最低の芸風だと戒めたようです。

私は、安易に相談者の発言を肯定しません。そこに不安の原因がないことが確信できたからです。真の原因を言い当てて、プラスもマイナスもありのままに受け止めて、それでも楽しく生きていく方法があるのではないかと一緒に考えるだけです。

そうではなくて根拠のない不安を肯定することによって、その人の不安を固定化してしまうということの弊害を考えるべきです。原因とはなっていない事実を肯定してしまうことによって、実は不安の解消はより困難になります。解消しようがないからです。目の前から夫が見えなくなって一時的に不安を忘れても、また不安がぶり返してくるようです。

根拠のない夫への非難、正当性のない非難を肯定することによって、憎悪感情が生まれ、記憶が改変され、子どもの利益を考えなくなり、子連れ別居、離婚、生活苦となり、そのあとは誰も助けてくれない本当の解決不能の状態に陥るわけです。夫に対する攻撃は、虚実織り交ぜてすべてが善だという意識が出来上がってしまうのです。離婚意思は支援者が作り上げているという場合もあるのです。

夫からすれば、そのような事情は一切わかりません。いつの間にか妻が自分を毛嫌いするようになり、話しかけても親身に答えず、家になかなか帰ってこなくなり、こちらを見ない。たまに見れば敵意のある視線をぶつけてくる。これでは夫も自分を守ろうという意識が無自覚に芽生え、子どものためにもという気持ちから妻に対して敵対的な感情を高めてしまうのは、人間だから当たり前のことです。

支援相談員の問題点は、
・ 妻の心理的状態を肯定しようとすることばかりを考えている
・ 客観的事実を知ろうとしないため、本当にDV等夫による一方的な行為が行われていて、家族による解決が不能な状態なのか判断しないで、一律に家族解体の方針を押し付けること(それでもマニュアルに従って「離婚を決めたのはあなた自身ですよ」という逃げ道は用意している。)
・ つじつまが合わないことやあやふやことを不問に付して、感情的な行動でも是認されると妻に思わせること
・ 不安の原因はすべて夫婦関係にあるという皮相な考えに立っていること、そのために内科治療、精神科治療など、真の原因の解消のアプローチをさせないで病状を悪化させる危険のあること、
・ 妻の心理状態をすべて肯定するため、妻の考える力を奪うこと
・ 現在置かれている妻の環境を自力で改善する方法を奪っていること

こうやって、妻の不安を解消することなく、夫を攻撃する紛争の心理状態にすり替え、事実上選択肢を奪って、DVのない事案であっても家族を解体しているということです。
相談員は、困っている人を見て「大丈夫あなたは悪くないよ。不安になる必要はないよ。」と自分が言ったことで、泣いていた相手が笑えば、それは楽しいでしょう。他人のために自分は役に立っていると思うでしょう。充実しているでしょう。しかし、それはその人の家族をみんな不幸にして、特に子どもたちに取り返しのつかない発達上の問題を与えてしまう危険があるのです。

また、それは、人を馬鹿にしていることにもなると思います。

「DVを受けるような女性は、事実関係を記憶しておらず、言っていることが曖昧で、自分が夫からDVを受けているかどうかもわからない人間なのだ、その家庭は夫が悪で妻が善というどうしようもない相手と結婚してできた家庭なのだと、主として夫は治療できない精神的、人格的に問題がある人間であり、妻はそんな夫に従属して生きるしか能がないから分離して一人で生きさせなければどうしようもない人間だ」と
善意ですから自覚はしていないでしょうけれど、そういう思想が背景にあることにはならないでしょうか。

一部の相談組織は、実際にそうやって夫から分離した妻に対して精神薬を投与するために、避難所入所の条件として精神科医の受診を義務付けていることがあるやの情報がありますが、こう考えればそういうこともするかもしれません。

そもそも真実がどうあれ「寄り添う」のだという態度ほど、人を馬鹿にした態度はないと私は思います。人間をダメにする態度だと思います。

つまり相談所の使っている意味での寄り添うことや「あなたは悪くありません。」ということは、一時の快楽を呼び起こして後々深刻な悪影響が起きる阿片なのです。


マニュアルに従って相談を受けている人たちは、おそらく善意であり、目の前の苦しんでいる女性の肩の力が緩む姿を見ているから、自分の行っていることが間違っているかもしれないとは決して思わないでしょう。
しかし、肝心なことは、いま語られていることが真実ではないのではないかという想像力と、このまま離婚してしまったらこの女性の将来がどうなるのだろうかということと、目の前にいない子どもたちの将来がどうなるかということをイメージできていないことでしょう。

善意かもしれないけれど、「あなたは悪くない。夫のDVがあるのではないですか。」というマニュアル行動によって、家族解体行動をしているのかもしれないということを少しだけでもよいので考えてみてほしいと思います。また、相談を受けた人がその後どのような人生を歩んでいるのか、そのことにも興味を持っていただきたいと思います。


後回しにした二つのお話し。(逆に本文の説得力が地に落ちるかもしれませんが)

<楽しい記憶が思い出せなくなる構造の試論>

「思い出すということは、その時の体験を追体験することだ」
ということを述べました。
過去の出来事、例えばテーマパークに遊びに行ったときのことを思い出しているとき、
テーマパークのキャラクターと握手をしたときに、とてもうれしくて興奮していたという体験をしたとします。
この時の映像が頭のどこかに蓄積されているわけではなく、その時に生じた体の中の神経やホルモンの変化などの状態変化を追体験して、その神経回路のつながり具合を再現することによって、その時の状況がイメージとして再現するということが近いと思っています。神経自体が回路を自発的に形成されているとは考えにくいため神経回路自体が記憶しているのではなく、その時々の神経回路を形成している司令塔(どちらかと言えばガイドライン)のようなものが過去の神経回路のつなぎ方、ガイドの仕方を記憶しているのではないかと思っています。その最有力候補はグリア細胞です。もうこれは言い切るしか私には脳はありません。

人間が出来事に反応する場合、実際は喜びとか恐怖とか一つの単純な感情が起きているわけではなく、様々な感情が複合しているため、それぞれの出来事には個性があり、他の出来事との区別が可能になるのだと思います。我々が思い出すということをするときには、この複雑な神経回路の形成を感じ取ることができることによって、立体的に把握することができ他と識別できる像が結ばれるようです。

後々、その時体験したテーマパークやキャラクターに対して、同じような感覚を持ち続けていれば、神経回路の再形成がスムーズに行われて記憶が比較的正確に再現されるわけです。いつまでも「楽しかったなあ」と思い出すことができるわけです。

ところが、そのキャラクターが例えば犬をモチーフにしたものだとして、そのテーマパークに行った後で犬にかまれるなどして、すっかり犬に対してイメージが悪くなってしまっていれば、「犬のキャラクターと楽しんだ」という追体験はなかなかできなくなるはずです。その人の記憶では、犬は警戒するべき対象だということが優先されるようになるはずです。そうすると、犬と握手をすることは現在ではとても怖いこととして警戒するべきことだという神経回路の形成が優先されますので、「握手ができて嬉しかった」という神経回路は再形成しにくくなるわけです。

こうして楽しい記憶が追体験できなくなる、つまり思い出せなくなるという具合に考えられないでしょうか。追体験する材料が失われてしまったわけです。

対象が同一でも、対象に対する評価が変わってしまうことによって、不完全にしか追体験できないし、場合によって思い出させなくなってしまうということはこういうことだと思うのです。

さらに余計な話ですが、
数字を記憶する場合も、われわれ普通の人は語呂合わせで覚えることが多いと思います。語呂合わせをすることで何らかの感情を込めることができるため、数字であっても記憶に定着するということなのだと思います。現在の教科書からは消えましたが、「1192年の鎌倉幕府成立」と教えられていた我々は、「いいくにつくろう鎌倉幕府」と語呂合わせで覚えました。その時に、なんとなく、「平家の人たちは悪い人たちだから、平家を滅ぼして源氏が晴れて幕府を開いていい国が作れる。おめでとう」という感情をもつので、この感情の微妙な神経回路の変化で記憶が定着しやすくなったのではないかと考えています。毒にも薬にもならない「数字」自体は、我々に感情的な体験をさせませんので、神経回路をそもそも形成しません。だから回路の再形成という形での思い出しということができにくいのではないかと思っています。この点、数字の一つ一つに何らかの感情を持つ人(1は正義感、2は柔軟性、3は神秘性、4は潔さとか)は、数字についてとんでもない記憶をもつことができるはずです。



<不安解消要求の必要性と危機回避のメカニズム> 後回しその2

不安とは危険が迫っているという認識です。不安を感じることで、危険を回避しようと行動するのですから、生きていくためには必要かつ基本となるシステムです。どうやら、①危険事実の覚知 ⇒ ②危険であるという評価 ⇒ ③不安に備えた生理的変化(交感神経の活性化など) ⇒ ④不安(危険)の自覚 ⇒ ⑤不安解消要求 ⇒ ⑥不安解消行動という流れがあるようです。

もしかしたら④と⑤は、一つの事象かもしれません。つまり、不安というのは現在している危険を解消したいという心理なのかもしれないと思っています。ここでは不安解消要求に焦点を当てるので、説明のために別の事象として扱います。

例えば、蚊がブーンと飛んでくる羽音をきいたら、「あ、刺される」と思うわけです。ブーンという音は①の危険の覚知です。脳の中で、この音は血を吸い、かゆくする蚊が近づいているという評価をするわけです。これが②です。それはまだ意識としては自覚していません。その前にすでに生理的変化が体内で起きていて、蚊をたたいて殺すことに有利に、体を動きやすい状態にしているようです。これが③。そして、それにわずかに遅れて、蚊に血を吸われるのは嫌だなという意識が生まれ(④)、蚊をたたいて殺そうと思い(⑤)、蚊をたたくわけです(⑥)。

せっかく体が蚊をたたくのに都合よい状態になっても、蚊を殺して血を吸われないようにしたいという要求がなければ、蚊に刺されてしまうことになります。

不安という嫌な気持ちになって、早くこの嫌な気持ちを失くしたいという要求があることによって、危機回避行動が確実なものになるという関係にあると思います。だから不安解消要求は人間が生きていくために、基本となる大切な要求であり、この要求があることで人間はより命をながらえることができるのだとかんがえています。

何度か本文に出てきましたが、これが太古の時代であれば、人間の危険は身体生命の危険だけなので、このシステムは生きるためにうまくゆく問題のないシステムです。しかし、人間と人間(仲間と別の仲間)の利害対立等、人間の生きる環境が複雑になったため、太古の昔にはなかった人間関係に起因するストレスが人間にとって解決困難な不安を抱かせる要素として出現してしまいました。太古の昔になかった不安の継続、不安解消要求の持続というストレスに対しては人間はそれを解決する方法が進化の過程では獲得できていません。つまり、人間は太古の環境になじむように脳が深化したけれど、現在の環境には対応していないという脳と環境のミスマッチが起きていると私は考えています。

しかしながら、「脳と環境のミスマッチ」なんてこと言う学者はいないこともあって、この⑤の不安解消要求についてはあまり考察されていないようです。私(対人関係学)は、このミスマッチによって生じる、解消できない不安解消要求の存在が、自死、離婚、犯罪、多重債務など社会病理の説明に重要な概念だと思っています。

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【調査官調査を受けた元子ども達の話の分析】子どもが、離れて暮らす親の実際にはない暴力や虐待を自ら話し出す心理過程。 [進化心理学、生理学、対人関係学]

必ずこうなるという話ではなく、一つのサンプルとしてご理解いただければと思います。

子ども(10代前半)が親から隔離された事例がありました。5年間親子が切り離されたのですが、その後子どもは社会に放り込まれ、制限がなくなったので、親子の交流が当たり前のように再開しました。普通の親子よりも仲が良く、助け合って生活している微笑ましい関係がはたから見てもわかります。

それでも、離れ離れになったときの子どもの発言の記録や、家庭裁判所の調査官調査において、子どもは離れて暮らした親から毎日のように暴力を受けていたとか、暴言を吐かれていたということを言っているように記録されていました。親は子どもと一緒に生活できるようになったことがうれしいので、子どもの前では言いませんが、私の前に来ると、その時の子どもの発言に対して怒りを表明してしまうということがあるのです。子どもの「公的な」発言に傷ついていて、場合によっては親子の信頼関係もなくなる危険があるという不幸が継続している状態です。

私が親に対して「それは嘘だったんだ」と一喝すると、親も我に返ってニコニコ顔に戻るので事足りるのです。でももう少し、どうして子どもが針小棒大な発言、半ば虚偽の発言をしたかまとめっておこうと思いました。その子が、その時の自分の心情を、独特の言い回しで話してくれたのです。このお子さんは、自分を客観的に見ることができ、語ることができる能力の高い方のようです。

まず、子どもが親元から離されると、親元に帰りたいということしか考えないようです。当たり前と言えば当たり前なのですが、この子どもの当たり前の気持ちは、多くのケースで無視されます。
そして、「自分を親元に返せ」ということを強く希望するそうです。このお子さんは「泣き叫んだけど、相手にしてもらえなかった。」と言っていました。
このお子さんは性格的に、あるいは年齢的に、自分の意思をはっきり言葉にすることができた人だったのですが、おそらく多くのお子さんたちは、特に10歳未満の人たちは「帰りたい」という気持ちさえ言葉にできないのではないでしょうか。「この先、自分はどうなってしまうのだろう?」という不安に押しつぶされそうになっているのではないでしょうか。
ただ、言葉に出せるかどうかはともかく、本当に虐待されていた子ども以外は、強く家に帰りたい、元居た場所、自分の親の場所に帰りたいと思うようです。

通常この切実な子どもの要求は、かなえられません。これは子どもにとって理解が難しいことです。自分がこれまで生きていて、なじんでいた場所に帰れないということがあまり理解できません。混乱が継続するようです。「当たり前の場所に帰る」という自分の要求がかなえられないという事実だけを少しずつ受け入れていくようです。

この「受け入れ」は大きな意味を持ってしまいます。
人間は、「自分」という存在を認識する場合も、単独の個体としての自分を観念することはできません。親との関係、友達との関係、地域との関係などの他者との関係の中での自分の地位、他者との比較において、自分ということを把握しているわけです。子どもの場合は、親との関係で自分を観念しているわけです。親から尊重される自分、親から小言を言われる自分、家族の中の自分という感じですね。それにもかかわらず、家族や親を一瞬にして奪われてしまえば、「自分」という存在もあやふやになってしまうため、強烈な不安に襲われるのは当然でしょう。子どもながら、パニックになっている可能性があります。
子どもを親から引き離すことは、子どもにとって、取り返しのつかなくなるような精神的負担を課すことになりかねませんので、本当に必要のある場合に、必要性の範囲で行うことが必要だということになります。

次に、元に戻りたい。家に帰りたいという願いは、自分を返してくれという願いですから、とても切実な願い、要求です。それにもかかわらず、理由もわからないまま自分の要求が実現しないという体験をすることになります。「自分の願いはかなわない。自分の要求は実現しない。」ということを学習してしまうことになるようです。無力感に支配されるようになります。

親の離婚を経験した子どもたちも、同じような感覚になるようです。強い無力感を味わった子どもたちは、「仕方がない」ということを覚えていくようです。自分の思い通りにならないことは仕方がないことだ、それが当たり前のことだと思うようになるようです。希望を持つことをやめ、まずあきらめることから考えるようになるということは大変恐ろしいことです。

あきらめることを覚えた子どもたちが次に行うことは、自分が迎合する相手をみつけることです。誰に逆らわないことが苦しみが少なくなるのか、どういう発言が受け入れられやすいのかということを覚えていきます。

あるお子さんは一人の大人に、あるお子さんは全部の大人にこびるようになっていくようです。別のタイプのお子さんは、大人にケアされることをあきらめ、コミュニケーションを自ら断つような行動傾向になるようです。
もしかすると、あきらめによる目の前の大人とのコミュニケーションをとることを、一部の大人は順応というのかもしれません。

子どもは大人たちが、自分にどのようなことを言ってほしいか、必死になって探し当てようとします。しかし、その「言ってほしいこと」は、親の悪口であることが通常です。それは子どもにとっては、自分の存在を根底から否定することを自分の口から言わせられていることになります。

他方子どもは親に対して罪悪感を抱いているようです。

この罪悪感は、子どもが小学校入学の直前頃の年齢から見られる感情です。自分が親と住んでいないことに子どもには何の責任もないのですが、一緒に住んでいないことに後ろめたさを感じているようです。離婚事例の初めての面会交流で小さなお子さんが、別居親と会って大泣きして「ごめんなさい」と言っている様子はとても痛々しいものです。

この罪悪感から、大人の期待している発言をしないで、親を擁護する発言をするのかというと、それは違うのです。子どもは、既に親と生活することができないというあきらめがあります。また、第2希望の今いる場所で安心して暮らしたいという要求もあります。また、罪悪感を処理しなければなりません。多くの子どもたちは、親と離れて暮らしていることを合理化しようとしてしまいます。今住んでいる環境の中では、親に問題があったから親から離れて生活せざるを得ないのだという刷り込みが、どんなに注意して子どもに接していても結果的には継続して行われているのですから、子どもは親の悪口を言って、自分の罪悪感を減らそうとしてしまうようです。親の悪口を言うことで、自分の今の望まない環境を受け入れようとしてしまうようです。

それでも大事な一線は超えないようにしようとすることが多いようです。自分が親から離されている根幹の原因となった出来事については口に出そうとしません。その事実が無くても「無い」とは言いませんし、もちろんあったとも言いません。肝心の「そのこと」については語ろうとせず、その代わりに別の暴力や暴言を針小棒大に語りだすようです。調査官は肝心なことについて尋ねようとはしませんので、肝心のその事の真偽は不明のまま調査は終了します。

物理的にあり得ないことまで話し出すということがありました。どうしてそんなことを言ったの?とその本人に尋ねたところ、「確かに、そんな事実はなかった。自分がそんなことを言ったという記憶もない。でも書いてあるから言ったのかな?」ととても頼りない答えしか返ってきませんでした。何か発言の下書きがなければ言えないことなのですが、それは体験した事実でないとするならば、誰かの話をまねたということなのかなと考えています。

いずれにしても家庭裁判所の調査では、子どもの言った「言葉」が重視されてしまって、子どもの真意についてはあまり関心が無いようです。どうしてその発言を子どもがしたのかという子どもの感じ方まで掘り下げられていないようなのです。これは、実際に出来事が存在した場合でも、子どもの心理の流れ、発言に至る流れについて十分に考察がなされることによって、子どもの現在の心理状態が把握でき、親やその他の大人たちが子どもにどうかかわるのがベストかということの資料になるのです。子どもが言ったことが正しいか虚偽かにかかわらず、子どもの発言の由来をよく吟味する必要があるはずです。

これをしないのは、ある子どもが置かれている環境が子どもの心にどのような影響を与えているかという考察や、発達段階にある子どもの心理過程や成長過程についての考察が不十分で、あたかも家庭の中で子どもが平穏に生活しているかのように考えているのではないかと心配になっているところです。

この原因として、聞き取りに十分な時間が取れず、考察にも十分な時間が取れないということを背景に、調査官自身が求められた結論を忖度して、表面的にそれに沿うような資料が得られると、それを生の事実として提示して、求められた結論に結び付けるということが起きていないか、大変心配になっています。

また、子どもたちは、年齢にはよりますが、小学校中学年くらいより上の場合は、調査官調査では調査官しかいない場所での聞き取りであることは知っていますが、その調査結果はいずれ自分の生活の拠点の人間も読むことになる、いずれ知られることになるということをよく知っています。調査官調査の結果から、大人から文句を言われた経験を持つお子さんであれば「ああまたか。」というあきらめが先に立ってしまうわけです。そういうことで自分がすこしでも楽になることを言おうとするわけです。それを言うことによって罪悪感を減少させようという本能もあわさって、事実よりもそういうことを優先するわけです。

こんなことを言うと、「それでは調査官調査ができないではないか。」とご心配になる方もいらっしゃると思います。しかし、子どもとの面接の方法というのは実はよく研究されています。調査官は、子どもの言葉をそのままうのみにすることは本当はないはずなのです。いろいろな可能性をあらかじめ想定しており、子どもが発言した言葉の源流はどこにあるのか、どのような過程でそのような言葉を発したのか、本当は何を言いたいのかということを、肝心な場面、特に子どもの意思が述べられている場面においては十分に吟味するように指導されているのです。そうすることによって、調査官は子どものこれから先の長い人生に対して責任を持った意見が述べられるわけです。

「子どもはこういっている。それはこういう体験や、こういう子どもが置かれている環境からの発言である。そうするとこういう発言の真意はこういうことだと考えるべきであり、子どもはこういう希望を本当は持っている。」という流れが調査報告書の調査官の意見では記載されていることになります。
「子どもはこう言っている。だからこうするべきだ。」という単純な記載は、それはプロの記載方法ではないということになるでしょう。



親権者を決める場合の調査官調査についての考察は以下の記事で行っています。
調査官調査に対して子どもが別居親に「会いたくない」と言う理由 
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2019-01-29

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【妻の離婚理由がわからない場合のヒント】特に大きな出来事がないのに生じる妻の夫への恐怖感と嫌悪感の「理由」についてのまとめ。「一度嫌になったらもう気持ちは戻らない」とはこういうこと [進化心理学、生理学、対人関係学]

1 今回の記事はこんなことを言います。
前回の記事と取り扱う対象は同じです。離婚理由が曖昧でも離婚意思が固い場合の妻のその気持ちの理解についてです。今回は裁判所や行政機関、あるいは弁護士の「ある思考パターン」が事実を理解しにくい構造を持っているということを問題提起し、十分な理解を行うためにどうしたらよいかということから説明します。

2 夫婦問題やメンタル問題と原因の関係についての発想の落とし穴
前回の記事で述べたのですが、妻が離婚したいけれど離婚理由が曖昧だというケースで離婚事件がこじれる原因は、代理人が妻の心情を正しく理解していないこと、正しく伝えることをしないこと、裁判所が有利に見てくれそうな事情を主張してしまうこと、それらのことのために事実を針小棒大に主張したり、虚偽の事実が真実であるかのような主張をしてしまったりするためだと言いました。

裁判所や行政が、その人の心理の変化、特に対人関係によってメンタルの不調が生じる流れについて、十分に理解できないことには「ある理由」があります。ちなみに、このようなメンタル不調という損害が生じる事案は、離婚事案だけでなく、いじめ事案、パワハラ事案も代表例です。それぞれの事案に裁判所も、弁護士も、行政も、かかわるのですが、多くの場合同じ理由で十分な理解ができていないと常々感じています。

結論から言いますと、その「理由」とは
メンタルのダメージを受けるだろうエピソードやライフイベントというスポット的な出来事を探し出して、そのスポット的な出来事の強度とメンタルダメージの程度が相関関係にあるという発想をしているからです。

この思考パターンでは、スポット的な出来事の程度が強い出来事ならばメンタル不調が出現して大きくなる。その反対にスポット的な出来事が弱い出来事ならば、メンタル不調は小さくなるはずだからそれでもメンタル不調があるとすれば別の要因があるはずだ。という思考ルーティンになってしまうことです。

では、私はどのように考えているかという結論部分をお話ししましょう。
メンタル的なダメージは、その人が自覚的あるいは無自覚に、自分の大切な人間関係だと位置づけている人間関係において、「自分が尊重されていないと感じる『状態が継続』する」ために生じる。
というものです。

スポット的な出来事は、その継続する人間関係の状態を示す要素になるに過ぎない
という位置づけをしています。

3 私がメンタル事案で心掛けている行間の説明
だから、裁判でも行政認定でも、スポット的な事実を証明するだけでなく、私は行間から推測できるその人の置かれた人間関係の状態、そしてそれを反映した心理状態を説明することを心掛けています。これまでの自分が担当した裁判例、行政認定例をみても、これがとても有効だと確信しています。認定基準に示された「出来事(サンプル)」だけでは、なんともメンタル不調になる実感が持てなくても、あるいは事実が本当にそのサンプルの示すケースに該当するのか確信が持てない場合でも、行間の状態を説明することによって説得力がでてきます。行間の説明をすることによってスポット的な出来事の精神に与える強度も表現できる関係にあるようです。(ただそうだとしても、特に行政認定はマニュアルですから、スポット的出来事の該当性について主張立証をしないということは、致命的な誤りにはなります。スポット的出来事に引き付けて主張立証することは必須です。)

4 メンタル不調の原因となる「仲間」とはどういう人間関係か

ここでいう、「その人が大事に思っている(無自覚の場合も多い)人間関係」とはどんなものでしょうか。これは、人によって程度は違うということも真実だと思います。通りすがりの人との関係も大切に感じる人もいれば、毎日顔を合わせる人との人間関係もそれほど大切に思わない人もいるでしょう。しかし、概ねないし多かれ少なかれ、人間に共通する要素があると思います。

1)相手が人間だと思うと期待してしまうことがある。
人間の心が生まれたのは約200万年前だというのが認知心理学のコンセンサスです。この時代、ほとんどヒトが出会うヒトは、自分の仲間しかいなかったはずです。ヒトだけど仲間ではないヒト、自分に危害を加えるヒトはいなかったと思われます。このため、現代でもうっかりと人間であれば仲間だと思ってしまうことがあります。つい、自分に対する親切なふるまいを期待してしまうとか、相手を助けようとしてしまうことがあります。特に自分の置かれたその時の状態によっては、見ず知らずの人間に期待をしてしまい、期待が裏切られると自分が仲間から尊重されていないと思ってしまうことがあります。
例えば、お店の店員さんや、路上での通りすがりの人であっても、その人が他人に対して期待をせざるを得ない状態に陥っていたら、過剰な期待をしてしまうことがあります。期待に応えない場合は傷ついたり、怒りをもって反撃したりということが起きるのはこういう仕組みです。

2)単純接触効果
ただ、平常の精神状態だとしても、「物理的に自分の近くにいる人間、及び、反復継続して顔を合わせる人間」は放っておいても仲間だと思ってしまいます。これは心理学でいう「単純接触効果」というものです。人間は進化の過程で嗅覚が衰えてしまいましたから、200万年前であったとしても匂いで仲間かどうかを判断することが難しくなっていました。このため嗅覚でしか判断できない血縁などよりも、このような物理的な事情の方で仲間だと判断してしまうようです。その方が、群れを作りやすく、近親相姦を避けて強い群れができやすかったのではないでしょうか。

3)仲間として必須のもう一つの要件は一緒にいて安心できること
但し、いつも近くにいて嫌味ばかり言っている人に対しては単純接触効果による仲間意識は表れにくいということになることは当然です。「自分が尊重されている」、「少なくとも攻撃されることはない」という安心感があると、より仲間という意識が強くなり、その人が近くにいるだけで安心できるようになるようです。反対側から言うと、いつも近くにいて、顔を合わせている人間に対しては、自分を攻撃しないでほしい、安心させてほしいという要求が生まれているようです。

5 群れの中にいて安心することが切実な人間の要求であること

1)群れを維持するためには不安の解消が必要であること
そうだとすると
安心させてほしい相手から安心させてもらえないと、それ自体がストレスになるわけです。つまり人間は、そばにいて顔を合わせている人に、自分を安心させてほしいという要求を生まれながらに抱くようです。これは群れを作る霊長類一般にそのようであり、人間以外の霊長類は「毛づくろい」をしてお互いを安心させているとのことです。

2)不安の解消の生理学的効果
人間は、昼間に生じたストレスを癒すために、つまり安心する必要があるために、群れに戻っていたとも言えると考えています。

つまり、昼間は獲物を探すこと、獲物を倒すために戦うこと、その間肉食動物から襲われないように警戒すること、など緊張して交感神経が活発な状態で活動します。交感神経が活性化して血圧や血液の移動する量、心拍数等をはじめとする体内変化が生じます。これが「ストレス」という言葉の意味です。もし緊張が解かれないでそのまま交感神経が活性し続ければ、血管が破綻しやすくなり、破れたり詰まったりしやすくなるほか、免疫機能が低下するなど、早死にする原因になります。

ところがそうはなりにくいようにちゃんとできています。人間の体は良くしたもので、夜間は緊張を解いて体も心も休んで、副交感神経を活性化させるしくみになっています。副交感神経が活性化されることよって、昼間のストレスで傷ついた体のメンテナンスがよりよく行われるようです。

仲間の中に帰ることによって安心することは、この副交感神経を優位にするためにとても効果的だということになります。昼間と違って夜は、自分の仲間だけであり、何かあったらみんなで対処してくれるし、群れにいる限り自分は攻撃されないし、食べ物もある。こうして一人で森をさまよっているよりも格段に安心できる状態になるわけです。
群れの機能はエサを探すこと、肉食獣から身を守ることだけではなく、交感神経と副交感神経の交代をスムーズにより効果的に行うこと、特に群れの安心感によって副交感神経を有効に高めることによって、人間が長生きできるようにするという大切な機能もあるのです。出産時から成体になるまで異様に時間がかかる人類は、この成体が長生きすることは種を保存するためになくてはならないことだった思います。
いろいろなヒトが実際はいたと思います。しかし、群れに戻って安心できるという人間だけが群れを形成して長生きをして子孫を育てることができたのだと思います。即ち、そうやって、群れに戻る、群れで安心したいという要求が本能として遺伝子に刻み込まれたのだと思います。
そのことを別の側面から表現すると、群れから離れることを極度に恐れ、群れにとどまろうとすることによって群れを維持することができたのだろうと考えています。これは、概ね人間に共通の「心の形」だと思います。

6 群れの仲間から攻撃されることの心理的効果

安心できる群れの中にいたいという本能があるために、群れの仲間からの攻撃は、それだけでとてつもないストレスになるのだと思います。このストレスは二種類のものがあります。
近くに自分を攻撃する存在があれば、常に警戒をしなければならない。安心できないストレスが持続してしまうという即自的なストレスがあるでしょう。
もう一つのストレスの形は、群れの中で自分が攻撃されるということは、自分はいつまでもこの群れにいられなくなるのではないか、群れから出ていかなければならなくなるのではないか、群れを持たないで生きていかなければならないのではないかという予期不安というストレスです。

安心したいのに攻撃されるというカウンター攻撃は現在と将来に対する不安を掻き立ててしまい、群れで安心したい、群れの中で生活したいという本能を傷つけてしまいます。生理作用に直接悪影響を与えるストレスと、群れにいたいという本能を傷つけるストレスの二つのストレスが生じます。このストレスは、事態が改善しないことによって、ますます高じていき、誰か助けてくれという要求や期待が高くなり、それがかなわないことで、さらに傷ついていくわけです。

7現代人にとって大切な群れである家族
効果的に副交感神経を発揮させるためには、副交感神経が優位になる夜間の時間を共に過ごす群れが人間にとって最も大切だということになると思います。現代社会で一番ふさわしいのはもちろん家族であり、夫婦です。人間にとって家族の果たすべき機能こそ、「安心」感を与え合うということになるわけです。

8 典型例に見る妻が夫を安心できなくなる流れ

ところが妻にとって、夫の存在が安心できない存在であれば、妻のストレスは軽減されず、蓄積されていってしまうということになるでしょう。その状態が継続してしまうと、夫が仲間だという感覚が無くなっています。夫が近くにいることで苦しくてたまらなくなると思います。

どういう事情が安心できない事情かということを典型例を組み合わせた架空事例を考えてみましょう。

<暴力事例>

一口に暴力といっても、その後の流れはさまざまです。たとえば
・ 妻が八つ当たり気味に夫に対していってはいけないことをかなり言いすぎてしまったという事情があり、
・ 妻にとって夫の怒りの流れがよくわかる場合(実際の事例では、妻に夫の行為の原因となる自分の行為の記憶がなく《ヒステリー状態》、自分が暴力を受けたという記憶からしかない《我に返ったから記憶が再開》ケースが多数あります)で、
・ かつ夫の反撃も妻の身体生命に打撃を与えようとしたのではなくもっぱら妻の行動を制止しようとしたような形態で行われた場合は、
・ その後の夫の態度次第ですけれど、
妻もあまり引きずらない場合があるようです。妻の方は、何に気を付けて、どこまでなら安心なのかという基準がわかれば、今後自分の行動に気を付ければ、夫の暴力がないと予測を立て、安心することができます。

これに対して、意見の食い違いや、夫が要求したことをなかなか実現できない場合等に多いのですが、妻が夫の暴力を「予想もしなかった無防備な状態」のところに「突然」暴行を受けたという場合は、特にそれが身体的に大きなダメージを受けた場合(頭部にあざができたなど)ほど、被害者の妻自身が自覚をしなくても、夫に対する警戒感が解けにくくなる場合があります。妻自身が暴力を受けたことさえも忘れていても、妻は無意識の中で夫が予測不能に自分に危害を与える存在だという評価をしてしまっているようです。危険の因果関係が理解できない場合は、自分で危険回避の方法を腹に落とすことができません。むやみやたらに警戒してしまうようになってしまいます。この心の流れが自分自身でも自覚できないことから、妻はその後、夫の言動に対して無意識に逆らわないようにしてしまうようになっていきました。夫の存在は、自分に対して危険を与える存在だと意識に上る以前の認知の段階で評価が定まっていくようです。うっかりした自分の夫に対する行動が夫の自分への暴力のきっかけになるのではないかという恐怖と、夫からの自分への働きかけがあるとそれが不意に暴力に変化するのではないかという恐怖となるわけです。どうすれば夫が自分に暴力を振るわないようになるかわかりませんから、ありとあらゆる刺激をしないように、逆らわないように、常に神経をとがらせて心休まらない状態になってしまいます。

こうして、一緒にいることが苦しい、不自由な感じがする、どうしてなのかわからないけれど怖い、そういうことが蓄積していくようです。

但し、その後、そういう暴力が二度とないだけでなく、仲間として尊重されている実感を持てる出来事があるならば、徐々に警戒感を解くことができるようになることもあるようです。新たに安心感を獲得していくという作業が頭の中で行われるようです。無意識に頭の中で、この人は仲間なのかしら敵なのかしらということで、敵という要素もあったけれど仲間という要素もあるなというシーソーが揺れている状態ということなのでしょう。そして、人間に限らず動物は、無駄な警戒感を維持することができないようになっているようで、安心できるという体験が続いて心配しなくてよいという学習していくと警戒感を解いてしまうようです(馴化 じゅんか)。

しかし、暴力後、新たな暴力が無くても安心できるエピソードが無いということになると、この馴化がスムーズに起きないため、夫に対して警戒感が解けず、仲間であるという評価ができなくなることがあるようです。この場合、妻の限界は自分でも自覚できないまま突然やってきます。些細なきっかけで妻は離婚を決意します。

この事例での調停や訴訟などでのダメな法律論争は以下の通りです。
妻:離婚理由は夫の7年前の暴力にある。その後最近、ギャンブルをしていたことが発覚した、もう復縁は考えられない。離婚の意思は固い。
夫:15年の結婚生活の中で暴力は一度きりである。その後も夫婦は穏やかに共同生活をし続けた。あの時の暴力が今更離婚原因だなんて後付けの理屈だ。ギャンブルと言っても小遣いの範囲で投資をしただけであり、違法なことは何一つしていない。誰にも迷惑をかけていない。

もっとダメダメなケース
妻:(暴力を忘れているし、代理人も聞き出さない)離婚の理由は、自分に内緒でギャンブルをしていてことである。子どもに必要な費用も出さないで、勝手に財産を浪費していることが発覚し、子どものお年玉にも手を出していて、信頼関係が持てない。
夫:ギャンブルと言っても違法性はなく、小遣いの範囲で行っているだけだ。家のお金に手を出したこともなければ子どものお年玉を使ったこともない。手を出す必要もない。内緒とは事実に反する。投資で利益が出たときに家族で焼き肉を食べに行っている。その時は妻も投資がうまくいったことに喜んでいた。

これと似た事案で、1審妻が敗訴したのですが、控訴審から私が代理人について、丹念に過去の暴力からの妻の心情を解き明かして控訴審で和解が成立しました。

<中絶を行ったこと>

妻:経済的な理由から子どもを産むことを反対され、中絶を余儀なくされた。それにもかかわらず、夫は高価な趣味の用具を内緒で買ったり、夫の両親に買い与えてもらったりしていた。そういう事態が長年続いたため、離婚の意思は固い。
夫:中絶は二人で決めたことで、私が強制したわけではない。妻も納得していたはずだ。趣味の用具と言っても必要なものだ。両親が私に買ったことと離婚は関係がない。

なかなか難しい問題ですが、結構多く離婚のケースで離婚理由になっています。中絶の女性側の負担ということの知識も必要ですが、そのことによって体の負担以上に、自分の健康が気遣われていないという精神的負担に着目するべきだと思います。それから、中絶の施術それ自体が精神的にもダイレクトにダメージを与えるということも理解する必要があります。命を奪ったという罪悪感も女性は大きいということも当たり前なのですが、どのように大きいのかということも代理人が言葉にするお手伝いをしなければならないでしょう。当たり前のことを言葉にすることこそ難しいことです。ここが弁護士の腕の見せ所になります。

お金の使い方の問題も、妻が何を期待したのかということを考える必要があります。この場合の妻は、夫婦のお金や夫の金銭援助は、夫婦というユニットに対して援助してほしいと思うわけです。夫個人については必要でもないことにお金を使って、自分のことについては1円も使わないつもりかという感情になっているわけです。これは、自分以外のものが仲間であり自分だけ仲間として認めてもらえないという人間にとってつらい気持ちになる事情となっているわけです。
とりあえず、まず離婚理由や損害賠償といった違法性の問題と切り離して、妻の離婚の動機ということで共感できるようになることが先決です。ここでいう共感とか、むやみに感情の追体験をするのではなく、「そういう状況であればそういう感情が起きますよね」という理解をするということです。

<大きなエピソードのない事案>

1)何も大きな出来事が無くても離婚をしたくなる事情

「エピソードよりも、エピソードとエピソードの間の状態の方が重要だ」という理論は、突き詰めると、さしたるエピソードが無くても、日常生活に仲間だという意識が持てなくなるような状態が継続していたり、むしろ夫が敵だという意識を持たざるを得ない状態であったりすると、それだけで妻が夫に安心できなくなり、夫の存在が不快や恐怖になってしまい、「妻の心の中では離婚原因になる」ということにつながります。これが離婚理由の曖昧な離婚意思のなりたちです。

2)妻が夫に仲間として求めている事項
まず、人間が仲間に対して何を求めているかということを整理しましょう。

・ 仲間であると認識できる事情は、自分が仲間として尊重されていると感じる事情である。
・ それは、自分がしてほしいことをその仲間の人間にしてもらっている事情 である。
・ そうするとその仲間に対して一緒にいて安心したいという気持ちが強くなり、仲間と一緒にいることで安心したい。昼間のストレスを癒したい。ということになり仲間にそれをしてもらっているということになる。

具体的な妻(夫)の要求として、
・ 健康を気遣ってもらいたい
・ 自分一人損をさせられたくない(差別されない)(プラスの意味で特別扱いをしてほしい)
・ 自分の努力に感謝してもらいたい、労をねぎらってもらいたい
・ 自分に不利益が与えられたら謝罪してもらいたい(それがあってはならないこと、将来に向けてやらないことを約束してほしい)
・ 自分の判断を承認してもらいたい
・ 自分の感情に理解を示してほしい
・ 自分が困っているときに助けてほしい 失敗を許してほしい。
・ 自分がうれしいときに一緒に喜んでほしい
などでしょうか。

3)日常生活での典型的な妻の夫に対する要求
もう少し日常生活に引き付けて考えてみましょう

例えば、家族より早く起きて朝食の用意をしたり、お弁当を作ったりすれば、
「いつもありがとうね。」と言われたり
「今日は俺がちゃっちゃと作るわ」とか言われたいわけです。
体調が悪くて熱を計っていれば
「大丈夫?」と聞いてほしいわけです。
仕事から帰ってきたら、「お疲れ様」と言ってほしいし
夕飯を作れば「おいしかったね。」と言ってほしいわけです。
その他の家事を自分がしたとしても、ほめてほしいわけです。
花を飾れば「いいね」と言ってほしいわけです。

これは人間である以上男性も女性も基本的にこういう要求を相互に求めているようです。ただ、どちらかと言えば、女性の方が仲間扱いをしていることを「言葉で表明してほしい」と感じている傾向があるように思われます。

4)妻の求めに必要なことは夫の「言葉」

そして、男性が勘違いしているのは、そういう夫の「心」を求めているのではなく、あくまでも「言葉」等はっきりわかる形を求めているということです。心までは求めないのなら、実は要求はかなり控えめなのです。ここを男性はなかなか理解できない。感謝の言葉、謝罪の言葉、そして表情が足りないようです。(スポット的集まりにおいては、女性のパーソナリティ障害が目立たたないのですが、その理由は、スポット的な付き合いにおいて、この「言葉を出すこと」ができるからであり、相手の心情に合わせて自分の顔の表情と変化させることや、声のトーンを調整することができるからだと思うのですがいかがでしょうか。)

5)夫の行動の言い訳を妻から見たらどうなるか。
もしこういう要求を女性が持っているにもかかわらず、言葉が不足している男性が、心のままにふるまったらどうなるでしょう。

毎日のことで、心の中では感謝しているからいちいち声に出すのは煩わしい、恥ずかしい、格好悪いということで、何をしても感謝の言葉を声にしないし、表情も変えないということになるとどういう気持ちになるでしょう。あるいは、自分だって家事を分担しているのに相手だって感謝の言葉を言わないから、自分は家事を分担していないけれどその分会社で神経すり減らしているのに給料をいれても感謝されないからとか言い訳をしているわけです。
といっても、言い訳しようと思うだけマシかもしれません。自分が無口なことの何が悪いのという男性もまだ現役かもしれません。

妻は否定されないことを求めているのではなく
肯定されて安心したいのです。

妻から見れば夫の「肯定のサボタージュ」は
まるで乳幼児が母親からいろいろお世話されているように、一方的にお世話されていることが当たり前だと思っている
と受け止めていくようです。通常の夫は赤ん坊やペットみたいにかわいいものではないので、一方的なお世話を要求される存在は王様か奴隷の主人みたいな存在に見えてくるようです。

令和の時代は、女性が働くことが当たり前になっているという事情もあり、妻の夫に対する要求度ないし期待も高くなっていると考えるべきです。専業主婦が大勢だったころと現代では、女性にとっての仲間に対して求める事項も改変しているということです。妻が自分の努力を自覚している分、ねぎらいとか、感謝とかの言葉を出してほしいということになるのだと考えておいた方が無難だということになりそうです。「時代の変化に対応する」という新たな課題を現代人は課せられているのでしょう。

ある離婚事例における妻から見た夫の一日は、
朝起きても何も言わない。目も合わせない。
朝ご飯を食べるときも、新聞を読んだり、テレビを観たりしている。(これがチンパンジーならば目を合わさないことが紛争を回避することになりますが人間の場合は逆のようです)
「ごちそうさま」くらいは言うかもしれないがそれ以上言わない。
着替えをして出勤する。その間与えられた家事を行い、ゴミ袋を出したりするかもしれない。
会社から帰ってくると、玄関で「ただいま」くらいは言う。
家のレイアウトが変わっても、妻の髪型が変わっても気が付かない。
ビールを冷蔵庫から出して飲みながら夕飯を温めて食べて、風呂に入る。
インターネットを見るなり自分の時間を過ごして寝る。

休みの日も、頼まないと外出に車を出さず、旅行や外食に行っても、にこりともしないし、店の批評、大体はネガティブな批判を行ってばかり。いつも後ろからついてくるような感じ。
家族のことを相談しようとしてもタイミングが全くつかめない。

こんな状態が続いてしまっても、夫は家族のために自分は頑張っているという意識があるので、そこにしがみつくわけです。しかし、夫に何が起きているのかについては全く報告がないので、家族は職場の夫の姿を想像することも難しいです。

これでは、夫の肯定のサボタージュは、
妻を肯定しないということ以上に
妻からしてみれば「自分は夫から価値を否定されている」と感じることと同じように感じている危険が出てきます。

6)さらに妻の被害感情を高める夫の行動と妻の感情の流れ
妻を肯定しないだけならまだよいのでしょうけれど、多くのケースではそれ以上の事情を夫は作ってしまっているようです。
・ 妻の行動による家の中の変化に気が付くと、文句を言い出す。
・ 妻や子どもが失敗すると責めたり、批判したり、嘲笑したりする。
・ 妻の意見に対して、デメリットばかりをクローズアップして反対する。
・ 妻に文句を言ったとき夫が自分で誤解したりした時も謝罪しない。
・ 自分が悪いと気が付いたら逆切れする。

普段何も言わないのに、こういうことだけこまめに言い出してしまうと妻としては、
夫が何か言いだすと、いつも自分や子どもの批判ばかりなので、
「言い出すと悪いことが起きる、自分を守らなければならない」
という条件反射が起きてしまう。
これが続いていくと、夫が家にいるだけで、いつ文句を言われるか戦々恐々となり常に警戒をしてしまう。夫が留守にしていると開放感を感じてしまうようになってしまうのも自然の流れかもしれません。
そうすると、夫と離れて、ウインドウショッピングをして開放感を感じているときに、夫の背格好に似て同じような服装をしている男性を見ただけで、息が止まるようなショックを受けて、パニック症状を起こすという流れもわかるような気もします。

安心できない存在の夫と一つ屋根の下に住んでいる。安心できない家は息苦しくなり、もし夫と一緒に暮らさないでも生きていけることがわかったら、多少貧しくなっても自分の人生を生きたいと思うという流れも何となくイメージができるような気がします。

結局は暴力があった事案となかった事案は、妻の心情において変わらない結果が生まれるということは大いにありうることなのかもしれません。

9 通常は夫の行動だけで妻の感情が生まれるわけではないということ

そもそも妻も誰かから強制されないで自分から結婚したわけですから、最初は二人の安心パターンが実行されていたわけです。最初あったものがいつしか無くなっていったと考えるほうがリアルだと思います。
1)妻側の事情
一つは出産です。一つは年齢に応じた体調の生理的な変化です。それから職場などの家の外での人間関係です。
これらの事情によって、夫の行動が無くても、妻が不安を感じやすくなっていることが多いようです。離婚事例の場合、離婚問題が俎上に上る前から妻はクリニックに通院していることが多くあります。

上記の事情は、「このために自分が不安になっている」ということは、実際は自覚しにくいので、漠然とした不安と不安を解消したいという焦燥感だけが意識に上っています。

それから案外多いのは、妻が夫の言動に逆らえない事情がある場合です。
夫を好きすぎて、夫から嫌われたくないという気持ちがとても強くなって、それでも自己肯定感が低いために自分の行動に自信がなく、常に自分の行動が夫から愛想をつかされているのではないかと心配になってしまったケースがあります。その後の行動をみると、妻に何らかの事情でうつ状態が生じていた可能性があるように思われます。

妻の性格、あるいは結婚前の人間関係などから、いつしか、妻が夫の言うことに反論できないようになっていたケース。例えば、夫は会社などで部下を動かす仕事をしていて、妻は上司の言う通り作業を進めることが求められている仕事であったとか。
こういう夫が悪いとか妻が悪いとか言えないケースでも、妻は不自由な思いを抱き、自分で自分のことを決められない、両腕を縛られているような感覚をもってしまうようです。そして夫に逆らうことで何か悪いことが起きるということを不安になりますから、不安から解放されたいと思うようになるようです。夫が暴君であり、自分を支配しようとしている。仲間という対等な関係ではなく、自分は奴隷のような扱いを受けていると感じていくようです。


2)支援者の夫婦破壊
そこに来て、夫の肯定のサボタージュが起きたり、とんでもないカウンセラーや支援者の、「あなたの不安は、夫から精神的虐待を受けている場合のあらゆる要素に当てはまります。あなたは夫からモラハラを受けているのではありませんか。」という悪魔のささやきと、そもそも自然発生的に自責の念を抱いている妻に対する「あなたは悪くありません」という言葉は、自分の不安や焦燥感は「夫が悪いからだ。」という意識を植え付けて固定化します。肯定のサボタージュ、ネガティブ発言、さらには事務連絡的な発言まで、ありとあらゆる夫の行動が、離婚原因に該当する「違法な行為」ということにされてしまうわけです。

3)夫側の事情 肯定のサボタージュとネガティブ発言のルーツは職場

夫の場合も体調の変化が原因になることが多いです。しかし、これまで担当していたケースの事情を見ると、家の外、特に職場での人間関係に問題があることが多いようです。
夫の職場や取引相手との中の夫の状態に注目しなければなりません。このように夫が無口になったり、表情が変わらなくなったり、行動力が落ちる背景として、職場の長時間労働などの過重労働やパワハラが原因になっていることがよくあります。隠れた一番多い離婚原因と言ってもよいと思います。

職場で、
・ 自分の行動が正当に評価されていない、
・ 訂正を求めることができず昇進もできない。
・ 信頼関係で取引していたのに、一瞬で打ち切られて別の会社に取られてしまう。
・ 頑張ってもできないことをやれと言われてできないとののしられる。いつ辞めてもらってもよいのだというような扱いを受ける。
・ 職場の出来事が悔しくて夜眠れない。

こういうことが続くと、「およそ人間は信頼できないものだ。自分に害を与える存在だ。」という学習をしてしまいます。四六時中自分を守っていないと付け入られて不利益を与えられてしまう。そんな人間関係にどっぷりつかってしまうと、家に帰っても、妻や子どもの些細な言動も自分に対して不意打ちを打とうとしているように反射的に身構えてしまうようになるようです。「あなたなんでそんなことを怒っているの?という不思議にさえ思う怒りが確認できることがあります。」そもそも夫こそが、職場の働き方が原因で、家庭に帰っても癒されない頭の構造に変えられてしまっている可能性が大いにあります。
しかし、男は、なかなか弱いところを家族に見せられないようです。もしかすると、そういうことで悩んでいること自体に批判をされると、立ち直れなくなると思って、悩みを打ち明けられないでいるのかもしれません。
そして、自分が低評価されることが一番いやなのは妻からの低評価なのだと思います。「それは自分のせいではない。」、「それは誤解だ。」、「私はそういうことを思っていない。」と、会社では言えないことを妻にならば言えるので、むきになって相手の低評価を否定したくて、頑張ってしまうということがよくあるようです。夫も、妻との関係にも安心できない状態になっているわけです。

仕事の内容でうつ病になって、それが妻の誤解を生んで離婚になったケースもありました。会社内の人間関係には問題はなかったのですが、取引相手との関係で大きな問題があったことと極端な長時間労働から体調がおかしくなりうつ病と診断されていました。家の中では夫は行動力が極端に低下して、食事をとるとき以外は自室にこもるようになっていたようです。妻とのコミュニケーションも極端に無くなっていました。うつ病の診断については妻も知っていました。それでも妻から離婚を求められたのですが、こちらはいろいろな証拠を提示して、離婚理由はうつ病によるものだから離婚を考え直してほしいと争ったのです。ところが妻は、うつ病ではなく、妻を嫌い妻を否定する行動だと思い込んでどうしようもありませんでした。うつを否定した一つの論理として、子どもとは感情豊かに接していた。自分に対してだけ不機嫌な顔を向けていたということがあります。うつ病の人は、争うことが極端に苦痛になるようです。妻と口論になることを避けて自室にこもっていたということは事実でしょう。また、子どもはそんなうつ病の人にも希望ですから、残された精神的エネルギーを文字通り振り絞るようにして喜ばせていたのでしょう。それが妻から見たら自分だけ嫌われていると思ったポイントの一つだったようです。

今考えるとかなり象徴的な事案だったようです。

10 終わりに

人間を人間とも思わない風潮が蔓延すると、それが職場や社会を通じて、人の心を荒ませるようです。その矛盾は必ず家庭に吹き込んでくるように思います。だから、結婚した時は円満な夫婦も、長年月の中で一方がむしばまれていって他方も自分が嫌われていると自分に原因を求めてしまうことが随分多くあるのです。
現代の夫婦は、無防備な状態で小舟で荒波に漕ぎ出しているように思われます。

まずは、夫婦はお互いに、安心させあうという行動をしなくてはならないということをお話ししました。夫が妻を攻撃するときで多いのは、「妻が自分を不当に低評価している」と不安になっている時かもしれません。一方的に安心させるということはあまり効率的ではありません。また夫婦が相互に安心させる姿を子どもに見せることは、子どもが健全に成長していく何よりの特効薬だと思います。人は人を尊重するものだということを示すことで、自分に自信が持てるようになるように感じます。こういう親の行動を見るだけで、子どもは人生がとても楽しくなるはずです。

特に言いたいことは、夫や妻に不具合が生じている場合、浅はかに「相手に原因がある」という決めつけはやめるべきだということです。人間の心理は複雑です。いろいろな人間関係を形成しなくてはならない現代社会では、この複雑さが極限に達しているように思われます。他人の家庭の中のことを30分やそこいらの相談会で真実を把握することなんて不可能です。もし、「あなたが悪いわけではない。」ということをどうしても言いたいのならば、「でも相手も悪いとは限らない。」と必ず言うべきです。

現代社会は離婚だけでなく、パワハラや成果主義賃金を初めてとする働き方の問題、学校でのいじめ、学校外でのいじめ、消費者問題、健康問題と環境問題と、切れ目のないストレスが多数存在し、ストレスで不安や焦燥感が消えず、生きにくい状態となり、自死の危険もあります。それに無防備に夫婦がさらされています。夫婦や家族という核となる群れが良好に群れの機能である安心感を相互に与え合うことが客観的に求められているのではないでしょうか。それなのに家族を解体する方向だけが、公的圧力になっているように思われます。家族を強化する方向での働きかけが存在しないように思います。人間を安心させるという、社会や国家の役割が果たされていないということが大問題だとして、議論が起きるべきだと思っています。

無駄な組織、無駄な立場、無駄なグループから自由になって、家族というコアな人間関係を大切にする風潮を作ることに貢献していきたいと思っています。

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心理学(確証バイアス)・対人関係学を学べるウクライナ報道の見方の違い 主としてプーチンに怒りを持つ人と主としてバイデンを攻撃する人の違い [進化心理学、生理学、対人関係学]


<確証バイアス>
「一度支持した仮説や信念を検証する際にそれを支持する情報ばかりを集め、反証する情報を無視または集めようとしない傾向のこと」

YouTubeで面白いたとえを見つけました。

1,2,4,8と4つの数字が「ある法則」で並んでいます。その「ある法則」とはどういう法則でしょう。あなたは、無制限に法則について質問をすることができます。答えがわかった段階で質問をやめて回答してください。

そうするとたいていの気の利いた人は、
一番左の数字を起点として、隣の右の数字が左の数字の倍になっていくという法則なのではないかと思うわけです。
そこで質問として、
この数字を、2,4,8,16と置き換えてもこの法則通りでしょうか。
と尋ねます。出題者は肯定します。質問者は「やはり」と思うわけです。
一応慎重に、念のために
3.6.12.24でも法則に合致するかと尋ねます。
出題者は深くうなずきます。
ここで質問者は、正当を確信して
一番左の数字を起点として、隣の右の数字が左の数字の倍になっていくという法則と答えるわけです。

しかし出題者はそれを正当だと認めません。答えは、「左から右にかけて数字が大きくなるという法則」だと告げるというものでした。

質問者は、自分の回答が真実だと思い、自分の考えた法則に都合がよい質問だけをしてしまったということになります。こういうことが確証バイアスという先入観にとらわれて真実を見落とす見方、行動傾向ということを表しているわけです。

ウクライナ戦争に関しても、ロシア非難一色でしたが、最近はアメリカやNATOを非難する声も大きくなってきました。テレビや新聞の巨大マスコミや、革新政党も含めた日本の政党がロシア非難一色に染められている状況の中で、様々な意見が出てくることは驚きでもあります。

確証バイアスという理論を理解するうってつけのチャンスです。

A ロシア一国(プーチン単独)悪論
Aタイプの方は、テレビで流される悲惨な動画、爆撃シーンや傷ついた人たちの避難の様子、爆撃後の建物の様子、子どもが泣いている様子などを見て、ロシアに対する悪感情を高めていくわけです。CNNやAP、EP通信の情報で、プーチンは精神的に破綻しているとか、ロシアにはもともと野望があるとか、ロシアが行った悪事を過去にさかのぼって聞き出してロシアに対する憎しみを高めようとします。そして、ロシア軍が追い詰められている等の記事を探し出しても読もうとするわけです。そして、ロシアが生物化学兵器を持っているという記事を探し出し、ロシアに対する危機意識を自ら高めていくようです。もちろん、その動画が何年か前の使いまわしだという情報も偽情報だと確信してみようとしません。湾岸戦争の時の油にまみれた水鳥を使ってアメリカがイラクを悪者に仕立てようとしたことや、イラクにありもしない生物化学兵器があると言って侵攻した事実も思い出そうとしないし、日本の公安調査庁や国連や人権団体が2014年以来、非ウクライナ人で構成されているアゾフがロシア語を話す人たちに極右的な思想の元人権侵害をしていたという公的情報もアクセスしようとはしません。少し憎むことにつかれてきた人はともかく、どんどんロシア、プーチンに対する憎悪は高まるばかりです。

B 戦争の原因を作ったのはバイデン大統領であり、グローバル企業の利益のために戦争は起こされ、NATO諸国がそれを知りながら自国の利益のために協力している

Bタイプの人はへそ曲がりであり、それを誇りに思っている節があります。別にロシアに対して親近感もないのですが、マスコミがあまりにも「プーチンが悪い」一色であることから、これは違うのではないかと直感的に思い始めて、いろいろ調べ始めるわけです。

Wikipediaでウクライナとロシアの天然ガスの問題を調べたり、世界史のスラブ民族大移動なんかを復習したり、2014年問題を思い出したり調べたり、歴史を調べ始めるようです。そうして、フェイクニュースのことを調べた直後、アメリカからロシアが作るフェイクニュースの情報が流れだし、そちらは信じずに逆に余りにもわざとらしいタイミングでの情報発信だと思うのです。アメリカが作るのはフェイクニュースだけど、ロシアが作るフェイクニュースは偽物だとわけのわからないややこしいことを考え出すわけです。ウクライナの閣僚の過半数はアメリカ国籍だなどと、閣僚の名前もわからないでそういう情報を入手するわけです。バイデンの息子が、ウクライナで経営コンサルタンや貿易商をやっているという情報にも真偽を確かめないで飛びつきます。そうして前述の、2014年の日本の公安調査庁のアゾフに関する分析結果を読み、アムネスティの警告をグーグル翻訳を使って読み、2016年の国連高等弁務官の人権侵害の勧告書を読んで、やはりロシア語を話す人たちが迫害されていたと確信を持ち、迫害していたのはウクライナ人ではなくゲルマン人の白人至上主義者たちだなんてことを確信するわけです。ウクライナ侵攻の前から小麦が高騰していたのにもかかわらず、ウクライナ侵攻を原因としてというマスコミの対応はいかにもわざとらしいと思うようになるわけです。すべてが、天然ガスと小麦の生産をグローバル企業がロシアから奪ってコントロールするためだなどと思い込んでいくわけです。そして、ウクライナとアメリカの合同軍事演習があり、対洗車ミサイルであるジャベリンをバイデンがウクライナに提供したことからロシアが侵攻を始めたのだと確信していくわけです。そして、ロシア軍が劣勢だというニュースは、ロシアが劣勢を挽回するために核兵器やあるかどうかもわからない生物化学兵器を使う危険が高まったからロシアに対するアメリカやNATOの攻撃を正当化するための口実準備だなんて思うわけです。

興味深いのは、Bタイプの情報ソースとなっている論者たちは、自分の主張がロシアに同情的な論調としか思われないのに、最初か最後に、「ロシア侵攻を肯定するわけではないけれど」という、とってつけたような断りを入れることです。また、トランプが意外と平和の人であり戦争を起こさない方向で頑張っていたというような態度を示すということです。だからと言って保守派とは限らないことが面白いところです。

これはAタイプ、Bタイプどちらも言えることです。左派だから、保守だからと言って対応関係にはなっていないようです。親米保守、現政権猛烈支持という人たちは当然Aタイプです。しかし、社会党や共産党もロシア制裁決議に賛成しているので熱烈なAタイプです。保守系メディアで活躍している人が論理的なBタイプの主張をするかと思えば、革新よりだった人たちが大政翼賛会のような国会情勢や大本営発表のマスコミに疑問を呈するようになってきています。とはいえ左翼系のBタイプは元々反米的な立場を保っていた人たちのような気がします。アメリカ発信の情報に乗っかって制裁決議を上げるのですから左派政党は必ずしも反米ではなかったというなので驚きですが。

どちらにしても、自分で体験したことではないので、真実がまるで分らないことなのですが、感情的にはどちらかの主張を信じて疑わなくなっていくということが起きているわけです。ただ、被害を受けている人がウクライナ人であることはまず間違いのないことのようです。

長くなって申しわけありません。ここまでが前振りです。Aタイプが多数派になる理由について考察をするということが今日の本論です。

<対人関係学による説明>
対人関係学は、人間には群れを作るモジュールとして、
・ 弱い仲間を助けようとする。
・ 仲間を攻撃するものを敵とみなして憎しみ戦おうとする。
という本能が遺伝子に組み込まれていると主張しています。その本能の前提として群れを作ろうとする本能、群れから外されそうになると不安になるという本能があるということも言っているのですが、今回は主として上に掲げた二つです。この二つがあったために、強いものばかりが群れの財産を独り占めにして群れが縮小していくことを防ぐことができたし、戦う能力も逃げる能力も貧弱だった人間が集団で戦うことによって生き延びてきたという、200万年前には不可欠の行動パターンだったと主張しています。

そうだとすると、爆撃によって逃げ惑う人たちの動画、戦うために家族と離れていく場面の動画、病院や学校という弱い者のいる場所に対しての攻撃動画などは、特に脈絡を知らなくても、その場面を見るだけで、こういう困っている人を助けたいと思うようになるわけです。人間はそういう動物だということで説明が付きます。そうして、弱い者、悪くはないのに攻撃されている者をみると、何とかしてあげたいという焦りを伴う切迫感を持つようになります。
また、怒りという感情は、危険を感じて、危険と戦うことで危険を回避するときの感情です。基本は自分が危険であるときに起きますが、仲間を作る動物である人間は、仲間が危険に陥っているときにも怒りの感情がわきます。怒りは危険回避のためのツールですから、危険が回避されるまで消滅することはなく、怒りによる逆襲が功を奏すれば奏するほど強くなっていきます。だから、反撃して優位に立っても、相手がひるんで逃げだすか死なない限り、怒りは高まり続けるのです。仲間のために戦うことは人間の本能だと思います。
こうして、プーチンに対する怒りが起きていきます。

怒りは危機回避のツールです。危険は確実に回避されなければなりません。怒りが起きているときには、他のことを考えにくくなります。攻撃に集中するためのツールともいえるでしょう。だから、「ロシア憎し」という怒りが起これば、もしかしたらそれはフェイクかもしれない、悪いのはバイデンかもしれないなどということを考えてみたりすることはできにくくなります。また、どちらが悪く、どちらが善かという二者択一的な思考しかできなくなります。複雑な実態などどうでもよく、歴史なんてことも煩わしいだけです。ただ、怒りの感情を放出したいことに集中していくことだけが要求となります。これが人間の感情の仕組みです。ロシアに対する制裁決議を上げて、それがどうウクライナ人たちの利益に結び付くかなんてことを考えずに決議に賛成するのはこういう原理です。もはや仲間を守ることより、攻撃対象を攻撃することが優先されているわけです。

もう一つ怒りには特徴があります。それは、自分の安全が確認できないと怒りという感情は起きにくいということです。圧倒的に強い相手、対処しようのない危険だと感じたときは、怒りではなく恐れを感じて、危険が回避されるまで逃げようとするということになります。それでも、近しい群れの仲間、端的に言うと自分の子どもの危険に対しては、時にかなわない相手に対しても怒りをもって戦いを挑むことがあります。子連れの母熊などを思い出すとイメージできると思います。


Aタイプの人たちは、善意の人たちであり正義の人たちです。直感的に弱い者を守ろうとするわけですし、悪に立ち向かおうとするのですから、こういう人が多くなければ人間は滅亡していたのでしょう。200万年前はヒトの群れは数十人から150人程度の群れであり、他の群れとは出会わなかったため、自分の群れの人間を守ろうと考えても間違いが起こりうることはありませんでした。群れの仲間がほとんど人間のすべてですから、仲間を守ろうとすることと人間を守ろうとすることは一緒だと考えてよいでしょう。仲間を攻撃するのは肉食獣などですから、怒りに任せて反撃することに何のためらいも必要はありませんでした。おそらく99.9パーセントはAタイプの人間だけだったのだろうと思います。

しかし、農耕を始めてから現代まで、より狭い空間により多くの人と生活をするようになったため、世の中はたいそう複雑になりました。人間を攻撃する一番の動物は人間になったと言えるのかもしれません。そういう時に、おそらく例外的な遺伝子を持った人間の活躍する余地が出てきたのでしょう。即ち、誰かが感情的になっていると逆に冷静になる人、善意や正義感に従って行動しようと思わない人、多数の意見に従いたくない人、こういう遺伝子を持った人たち、それまではその遺伝子を隠そうとしていた人たちが、時代が進むにつれて主張を始めたのかもしれません。裁判官等の法律家というのは案外Bタイプでなければ務まらないのかもしれません。

基本としてAタイプの人がいて、補助的役割としてBタイプの人が自由に発言する。そうして、全体として行動の修正をして進んでいく。これがおそらく民主主義という制度なのではないでしょうか。Aタイプを馬鹿にせず、Bタイプを排撃せず、多様性を認め合う仲間は強い群れになり、永続性を得るというのはこういう理屈です。人間は間違うものだということを認めるのが、行動経済学をはじめとする21世紀の認知心理学の基本的スタンスです。多数は多数であるがゆえに間違いを起こしている可能性がある。だからと言って、Bタイプばかりだとギスギスしてなかなか物事が進まないということかもしれません。

日本の国会の民主主義の程度が、ウクライナ情勢ではっきりしたということは大変皮肉な話だと思います。野党としてBタイプの行動をする人がいなければ、民主主義は成り立ちません。もしかしたらBタイプの保守に民主主義の継続を期待するしかないのかもしれません。

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デッドボールで選手全員がグラウンドに出てこなくてはならない切実な理由 [進化心理学、生理学、対人関係学]

 

プロ野球を見ていると、デッドボールや、あわやデッドボールという投球があったとき、バッターが血相を変えてマウンドに走り寄る場面を見たことがあると思います。それを見てベンチから選手、コーチも飛び出してきて球場全体が騒然となります。そのあとつかみ合いになったり殴り合いになったりすることもあるようです。最後の暴力的行為はいただけませんが、その前の全選手がグラウンドに出てくることはとても大切なことです。これがなければ野球は成り立たないと言ってもよいと思うくらいです。

もしピッチャーが危険な投球をしてバッターが激高しても、誰も出てこなかったらどうなるかを考えるとその理由が見えてくると思います。

バッターの心理を考えてみましょう。
危険な投球は、二重の意味で、バッターの危機感を一瞬で高めます。
1つの意味は、もちろん生命身体の危険です。プロ野球は硬球を使いますから、ぶつかれば痛いです。それが130km毎時で飛んでくるのですから、骨に当たれば骨折の危険がありますし、頭部に当たれば生命の危険もあります。命がなくならないとしても、選手生命という形では予後不良になる可能性があります。野球というスポーツは危険を伴うスポーツであることは間違いありません。危険な球を投げられてバッターが委縮してしまうと、戦う意欲がなくなってしまい、たとえ体に異常がなくてもメンタル的に選手生命が断たれるということはあるでしょう。プロ野球に進むくらいの人たちですから、危険を感じたら委縮ではなく、怒りによって危険を除去しようとする根性を皆さん持ち合わせていると思います。

もう1つの危険の意味は、「対人関係的危機感」です。このような危険な投球をあえて意図的にピッチャーが行ったとするならば、自分がピッチャーや相手球団から、人間としてあるいは同じプロ野球選手として尊重されておらず、潰しても良い選手だと扱われているという危機感です。疎外感と言ってもよいと思います。このように、仲間として、人間として尊重されていないという危機感を「対人関係的危機感」と呼ぶことにします。ピッチャーは意図してバッターをデッドボールで潰そうとは思っていないと信じていますが、命の危険を感じたバッターからすれば、自分が意図的に攻撃されたと思いやすくなっています。

このような危機感に対して、自分の危機感を除去するために、怒りという感情をもって攻撃行動に移るのは、動物全般の生きる仕組みです。動物は植物と異なり、危険を感知したら逃げるか戦うかして危険を取り除き、生き続けようとします。さて、怒りに任せてマウンドに駆け寄ったとき、気が付いたら自分一人だったらどういう気持ちになるでしょう。

敵である相手チームから自分が尊重されていないということについては、怒りをもって攻撃することで危険を除去しようとすることができます。しかし、味方チームが、自分の危機意識を共有してくれていないと感じることは、大変なことです。敵チームには期待がそれほど大きくないのですが、味方チームには自分を尊重してくれるはずだ、自分を助けてくれるはずだ、自分の危険に対して共同して除去してくれるはずだという大きな「仲間に対する期待」があるはずです。この期待が裏切られたということになると、自分は味方チームからも、生命身体への配慮、対人関係に対する配慮がなされていない、自分は味方からもそのような扱いを受けていたという強い絶望が起きてしまいます。

これは人間の生存を脅かす条件となると思います。人間は、動物として身体生命の安全が図られることが生きる条件であることはわかりやすいと思います。同時に人間は、群れを作る動物として、群れの中で尊重されているという実感がなければ生きていくことに自信が持てなくなるようです。自分という存在は、仲間の中の自分の位置という概念で把握しているわけです。

誰も応援に来てくれなかったら、そもそも人間として、自信がなくなり、将来にわたり精神的問題が残る可能性も強いと思います。そもそも、自分の窮地を放置する相手を、これから先仲間として見ることはできなくなるでしょう。

このため、どうしても、乱闘が始まりそうになれば、味方を援助するためにグラウンドに出てくる必要があるわけです。これはチームとして活動する場合、切実に大切なことなのです。

もっとも、実際に乱闘に及ぶことは必要ではありません。暴力をふるう必要はありません。味方は、いち早くマウンドに駆け寄って、相手に対して怒りの感情をぶつけながら、本人が暴力をふるうことを制止する必要があります。本人は、自分の危機意識が共有されていいて、仲間が自分のことのように怒ってくれているということを実感できれば目的は達成されるということになります。怒りも徐々に収まってくるはずです。

乱闘シーンを見ていると、本人とは別の場所であまり関係のない人たちが暴力をふるっているような気がしますが、あれはいただけません。しかし、それよりも、あとからのんびりグラウンドに来てにやにやしている人間はもっといただけないということになると思います。こういう選手が干されるのは仕方がないことかもしれません。

野球はチームとして戦い、相手チームとゲーム上敵対する仕組みになっています。だから大変わかりやすいのだと思います。実は、日常生活でも、集団の中でデッドボールに近い危険球は良く投げられているのでしょう。言われた者の立場に立つことが難しいためそれがわかりにくく、グランドに出てくる人は少ない。日常生活では、攻撃チームと守備チームと整然とわかれておらず、味方からデッドボールが投げられるようなことが多いので、ますます混とんとしてくるのでしょう。多くの人が、誰も自分をかばってくれないと傷ついて、精神不調を起こしているのはこういう仕組みなのだと思います。

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人は追いつめられると感謝の気持ちが持てなくなり、世話になっている人を逆に攻撃し、自らを追い込んでいくことを起こしやすい理由。期待感の増大と落胆の相関関係。 [進化心理学、生理学、対人関係学]



今回の記事は、次回の記事の前振りです。次回の記事はこれを始めて説明すると長くなるので、この部分だけ予め説明しておこうというものです。

今回は、認知症、いじめ等被害者という事例をあげ、次回は夫婦問題を取り上げるという流れです。

認知症によくある症状として「ものとられ妄想」というものがあります。
本当は自分が置き場所を忘れただけなのに、「嫁が私の通帳を盗んだ」とか「財布を隠された」とか訴えて収拾がつかなくなるということです。
少し突っ込んで話を聞くと、元々息子の妻に不信感があったわけではなく、むしろ息子の妻は、かなりいろいろご苦労されて本人の世話をしていることがほとんどのようです。お嫁さん本人は、絶句し、今までの自分の苦労はなんだったのだろうと、それは落胆するわけです。しかし、認知症のご本人も自分が攻撃されたと本気で考えて切迫感があり、悲壮感もあるようです。

これはよくあることです。原因について思い当たることがあるので説明を試みます。献身的に介護している方にとっては気休めにもならないことかもしれません。納得はゆかないとは思いますが、こういうことかと腹に落としていただければ幸いです。

財布や通帳をなくした本人は、元々不安の塊の中で日常を過ごしています。本当はもうすでに他人に財産を管理してもらっていますから、財布や通帳が目の前になくても何も変わらないことも多いのですが、それ以前の習慣として財布や通帳が自分が生きていくために大切なものだという考えが残っているわけです。なくしたら困ってしまうということは消えません。ところが、通帳や財布を見て安心したいとき(不安が募ったときにこそ安心したくなります。)、それがどこを探してもないのです。おそらく不安がすでに大きくなりすぎているため、合理的な探し方もできなくなっているし、別の場所で見つけたとしてもそれが探していた通帳や財布だと認識することが困難な場合もあるでしょう。ますます不安が高まって収拾がつかなくなります。

こういう不安の極限にある場合、つまり心理的に追い込まれたとき、この方の要求は、既に財布や通帳を「見て安心したい」ということから、自分の「今抱いている不安を解消したい」という方向に偏っていっているのではないでしょうか。一般に私たちも、自分で不安が解決できない場合は、他人に解決してほしいという気持ちが強くなります。そんな時誰に助けてもらいたいと思うでしょうか。自分が助けてもらえるのではないかと期待する人です。では誰に期待するでしょうか。これが一番期待できる人ですから、自分が世話になっており、自分がしてほしいことをやってくれているという実績のある人ということになります。これが夫の妻ということになることが多いわけです。自分の子どもには期待できないということが多いようです。

息子の妻に、安心させてほしいと期待しているわけです。しかし、そういわれても、姑とはいっても他人の財布や通帳がどこにあるかなんてわかりません。加えて、既に、疑われているような扱いもされ始めているわけです。なんとも対処しようがありません。

姑からすれば、息子の嫁が頼りの綱だったわけですから、その嫁がわからない、期待できないことが分かれば、通常は絶望して落胆するわけです。しかしながら、息子の妻が近くいるからという理由で、あるいは息子の妻が反撃をしないことをよいことに、自分の不安を「怒るという方法」で解決しようとしてしまうということなのだと思います。

不安が怒りに転化する理由は以下の通りです。
不安の解決方法は怒りを持って戦うことか、恐れを抱いて逃げることです。そうやって危険をなくすということが生きる仕組みです。どちらかは瞬時に無意識、無自覚に選んでしまいます。これはかなわないなと認識できれば、逃げ出すわけです。逆に相手が自分を攻撃しないと認識していれば怒りの反応を起こしてしまいます。子どもが自分の要求を親が受け入れないときにかんしゃくを起こすこととよく似ています。共通項は、自分勝手な相手に対する期待を持ち、相手がその期待をかなえてくれないことを原因として、怒りを爆発させるということでしょうね。

だから、収拾のつかない怒りは、一歩間違えば、深刻な恐怖、萎縮、絶望に代わっていたかもしれないという危険な状態を示しているわけです。

いじめの事例も似たような現象を必ずと言ってよいほど見聞きします。いじめ相談を受けて、事情を聴いていると、大勢の中で勇気をもって手を差し伸べてくれる人が必ずいるようなのです。それでも本人の口からは、「誰も自分を助けてくれようとしない。」という訴えを聞くことになります。「あれ?でも、さっきあなた自身が、この人が自分に味方したということを言ったのではないの?」と尋ねると、その問いについてはあまり理解ができないようなのです。事実は記憶しているものの、味方になってもらったという評価ができないようです。おそらく、心理的に追い込まれすぎているため、自分の苦境を解消してもらいたいという期待が極限まで高くなっていて、次の瞬間自分がクラスから受け入れられるような行動をしない限り、味方であると評価できなくなっているような印象を受けました。

つまり、人の立場によって、「援助があったか否か」という評価が変わってしまうのです。集団の中で無視をされていたり、馬鹿にされていたりしている場合、それでもクラスの中で公然と親切にすることは、第三者である私から見れば、とても勇気のある行動だと感心してしまいます。しかし、いじめられている本人からすれば、自分の苦境をとにかく終わりにしてほしいですから、それに見合う行動を期待してしまいます。その期待に達しない場合は、自分の要求をかなえてくれていないわけですから、感謝の気持ちが起きないのです。心理的に追い込まれるということはそういうことなのでしょう。

わたしも、同じ仲間だと思っていた人から、理由がわからない攻撃を一方的にされていたということに気が付いた時があります。私の知らないところで批判がなされていたようです。その人に対して怒りを持つというより、どうしてその人の周囲の人はその人をたしなめてくれないのだろうという気持ちになりました。かなり精神的に危険な状態に私はなっていました。そういう時、その加害者ではなく、加害者の周囲にいる人に期待をしてしまい、周囲の人に怒りを持ってしまったことに気が付いたことがあります。

そしてこの追い込まれている時に、不適切な第三者の関与が入ってしまうと、取り返しのつかないことになるだろうなと思います。誰も味方がいないという被害者の自分の立場の認識を、第三者が肯定してしまい、被害者は危機感を絶対的なものとして感じてしまうでしょう。解決の展望がないということを結果的には宣告しているようなものです。そうやって、被害者の怒りをあおること、不安をあおることを始めてしまうと、被害者は、ますますさらに自分の置かれている環境が悪く、救いようのないものだと感じてしまいます。激しく落ち込み立ち直れなくなってしまうか、誰彼構わず怒りを放出してしまうかという極限的な状態に追い込まれてしまいます。現在の苦境から、第一希望の解決方法が直ちにかなえられることはないかもしれないけれど、希望の道がある。思っているよりはそんなに悪い状態でもなく、あなたのことを考えてくれている人もいる。この人とうまく付き合うことによって事態が打開できるかもしれない。というような戦略を立てた方がよほど良いような気がします。実際そういう戦略で、不登校が長期化することを回避して、進学をすることができて、社会適応をしているお子さん方もいらっしゃいます。ある学校では教頭先生が献身的にご指導されたというケースもありましたし、ある学校では保護者同士が事態打開に向けて協力し合ったというケースもあり、そういうご報告をいただくことはとてもうれしいことです。攻撃的な感情を助長していたのでは、このような解決は不可能だったはずです。周囲を攻撃することによって、さらに孤立を深めた方々もいらっしゃいます。

逆行として考えられることは、例えば献身的に毎日指導に来てくださった教頭先生に対して、期待が高まってきますから、不安を解消してほしいという期待も高まるわけです。その感情を爆発させて、「なぜうちの子は学校に行けず、いじめた方は学校に行っているんだ。」みたいな攻撃をしたら、さすがにご指導に訪れることをやめるかもしれません。人間ですからね。

さて、結論部分に入るのですが、
自分がこの人のために努力をして尽くしているにもかかわらず、どうしてこの人は自分を攻撃しているのだろうと、人間としては極めてショックな場面に遭遇したとします。
その人がまず行うべきは、自分がショックを受ける前に、「相手が心理的に追いこめられている事情があるのではないか」と想像してみることなのだと思います。そして、よほど困っているときに、自分がその人とどのような関係にあったか、もしかしたら「自分がその人から期待をされるような立場にあったのではないか」ということを考えてみることです。

自分が期待されているから、攻撃を受けても仕方がないのかと我慢する必要はありません。親子とか家族という事情がないのであれば、率直に怒りを受ける理由はないことを告げるべきだと思います。結局その方がその人の利益になることですし、その人を認知症の方とか子ども扱いしないことになるのだろうと思います。そういう人とかかわりを持たなくなることもやむを得ないでしょう。

但し、夫婦や家族になると、少し違ってくる。こういうことを次回延べたいと思っているところなのです。

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埼玉医師殺人事件報道「母親の治療に不満」という見出しに対する疑問 2 原因はマスコミが考えているそのはるか先にある。結果があるから原因があるということがどういう意味で間違いなのか。犯罪など社会病理の予防とは何か。 [進化心理学、生理学、対人関係学]

令和4年1月27日の医師殺人事件についての報道で、被害者にも落ち度があるかのような報道だと私は感じたので、前回その内容を記事にしました。今回は、なぜこのような報道がなされたかについて、別の視点で考えてみました。
その視点とは、令和3年11月の中学生の事件、12月の大阪クリニック事件、そして今回の事件の報道に共通していることとして、「加害者は合理的な理由をもって加害行為をしている。」という考えが背景にあるのではないかということです。つまり、「犯罪を実行するのはよくよくのことで、犯罪の相手つまり被害者に加害者が恨みなどを抱く強い原因があって、初めて犯罪を行う」という考えです。
しかし、犯罪というのは、
「それほど合理性のある単純明確な動機があるわけではない」
と私は感じています。
犯罪をする人に限らず、およそ人間は、自分を害する人に対して怒りを向けるわけではありません。そうではなくて、怒りを向けやすい人に対して、その人以外の人対する負の感情のエネルギーも合わせ足して、怒りを向けるということがむしろ通常です。加害者の怒りの原因と被害者の行為があまり関連しないことは実に多くあります。
例えば、会社の上司から一日中行動を監視されて心理的に追い込まれた人が性犯罪を起こすとか、暴力団員の知り合いに自分の名前や住所を使われて違法取引をされている人が放火をするとか、原因は別にあるけれど、加害しやすい相手に加害行為を行うという不条理があることがむしろ犯罪の大勢だと思います。そういう場合の警察の調書では「むしゃくしゃしてやった」と記載されます。被害者からしてみると、とばっちりの被害ということが多いわけです。
一見関係のないことが、心理的圧迫という通路を伝わって、原因のない人に被害を与えているわけです。万引きなんかが典型的ですよね。通常は店に原因はないわけです。心理的な圧迫からの解放を求めすぎて、それが一番の行動原理になってしまい、些細なきっかけで犯罪を実行するということになります。この些細なきっかけで犯罪を起こしうる状態、生活環境を私は「犯罪環境」という言葉で説明しています。これはまた別の機会に。
これは犯罪だけに限らず、夫婦問題でもあることはわかりやすいと思います。職場で上司からコテンパンに叱責されるとか、クレーム処理をしていたらこちらに怒りが向けられるとか、職場で負の感情が蓄積されている場合、家族の些細な言動が、自分を否定しているかのように深刻に聞こえてしまって、驚くほど感情的な発言をしてしま足りということもあると思います。虐待や自死をはじめ、社会病理一般には共通の側面があります。
もちろん、犯罪環境にあったから犯罪が許されるわけではありません。犯罪環境にあっても犯罪を行わない人が圧倒的多数でもあります。それでも、予防の観点からは、被害者を出さないということを第一に考えた場合はこの犯罪環境を改善していくことがどうして行われなければならないと思うのです。
しかし、3件の報道では、いじめにあっていたために刺した、トラブルがあって放火した、治療に不満があって射殺したという単純な図式で報道されているわけです。あたかも、犯人は被害者に対する怒りから犯罪を実行したかのような報道です。しかし、本当は、もしかすると3件とも、「むしゃくしゃしてやった」というパターンの犯罪だったかもしれないです。被害者はたまたまそこに居合わせただけというパターンです。それなのに、事件の全貌が明らかになっていない段階で、拙速に、被害者や家族の人権に配慮しないで、原因が被害者にもあった可能性があるという報道表現になるのか不思議でなりません。
おそらく、警察が被害者の行為に原因があるかのような発表をするということは、一つには、国民感情として、「理不尽な行き当たりばったりに人が殺されるということを認めたくない」という無意識のニーズがあるのかもしれません。「理由があったから被害にあったのだ。理由を作っていない自分たちは被害にあわないだろう」という感覚を持ちたい、少しでも安心したいというニーズです。
悲惨な事件であればあるほど、自分は同じような被害にあいたくないという気持ちを強く持ちたいものです。被害者に原因があったというならば、「原因がない私には関係がない。被害にあわないだろう。」と感じやすいわけです。しかし、それで国民が安心したとしても、原因がある可能性があると言われた被害者とその家族は傷ついているのです。通常反論の機会も与えられません。
よく言われることは、性犯罪には女性に原因があるかのような説明です。服装に乱れがあったからではないか、加害者を誘うような行為があったのではないか、などと何も知らない人たちが、その可能性としてあるいは決めつけでインターネットなどで語っています。しかし、実際は、被害者が女性であるだけの原因で被害にあっているということが実態です。だから、予防のためには、言動を慎むとか、服装に気を付けていただけで性犯罪の被害にあいにくくなるわけではありません。真夜中に、一人で外を歩かないことが一番効果があるわけです。このように、「自分が安心したいために事件を勝手に色塗りする」という論法は効果的な予防をさせなくするというミスリードにつながります。これをマスコミが行うことがいかに危険なのか想像がつくことと思われます。

怒りが原因に向かうのではなく向かいやすいところに向かうという私の考えが正しいならば、真実は、被害者の方たちが良い人だったから被害にあったということになります。つまり、包容力があって、優しい人で、自分を差別しない、自分に反撃してこないだろうという感覚を人に抱かせる人を分け隔てしない立派な人物であったために、怒りを向けられやすかった可能性があります。実際の世の中では、安心できる人、良い人、優しい人に怒りが向かうようにできているように思います。今回の事件も、犯人がどう語ろうと、治療に不満があったから殺人行為をしたわけではないと思うのです。
犯罪を実行する人は、社会との関係で、あるいは自分の絶対的に必要だと思っている人間関係の中で、自分が仲間として認められていないと感じていることが犯罪を誘発する可能性があります。収入などによって社会的な不遇にあることも、犯罪環境になりえます。

犯罪が起きる仕組みをあまり単純に考えてはいけません。いじめがなければ不合理な殺人が少なくなるわけではありませんし、夏でも暑苦しい格好をしていれば性犯罪にあわないということもありません。ピンポイントで予防ができるわけではありません。犯人の言動をうのみにして、その原因を除去しようとしても犯罪は減らないと思います。
だからと言って対症療法をしないということも間違いです。効果的な予防とは、対症療法と、犯罪環境の改善のような、根本的な人間関係の改善、社会的不遇の緩和、あるいは孤立を解消していくという地道な対策が同時に行われて行って初めて効果が上がると考えています。だから、対人関係学は必要な学問分野であり、予防法学としての意味合いも強くあるということなのです。


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怒り依存症 怒ることで幸せになれる条件と、怒り続けるしかないことになってしまう不幸を産むメカニズム [進化心理学、生理学、対人関係学]



<怒りが幸福を呼び込んだ事例>

怒りという感情も人間が生きるために必要な感情だと思います。

ある人間関係に関する事件で、
私の依頼者にも落ち度があって、
そこを攻撃されて落ち込んでしまい、
立ち直れなくなって、うつ状態になって通院していました。

ところが、怪我の功名みたいな出来事があり
突如、相手方に対して怒りが込み上げてきて
相手方と気持ちの上で決別することができるようになりました。

怒りを持てるようになった結果、
ストレスを感じ続けていた人間関係から
自分の意思で離脱をすることができました。
その結果ストレス自体が無くなったのです。
現在は、健康で、穏やかに、楽しく人生を謳歌されています。

この仕組みというのは以下のように説明ができると思います。

私の依頼者は、自分の失敗が原因で、
自分と相手の人間関係がダメになってしまいそうだ
自分がその人間関係から追放されてしまいそうだ
という感覚になっていたのだと思います。

相手方はその失敗を執拗に責めてきたわけです。
私の依頼者はますます、
その人間関係から追放されるという危機感が強くなりうつになりました。
追放されたらどういう実害があるかということをかんがえたわけではなく、
ただ、人間関係からの追放ということに危機感を感じさせられていた
ということになると思います。

しかし、怒りによって、相手を責める気持ちを持つことによって
危機感を感じることが中断したのだと思います。
だいぶ気持ちが楽になったのだと思います。

おそらく、追放の予期不安が苦しかったのですが、
実際に自分でその人間関係からの離脱を決意したとたん
離脱による実害が実はたいしたことがなく
予期不安の苦しみよりもよほど楽だった
ということを実感したということだったのだと思います。

ここでいう不安、危機感というのは
その人間関係から自分が外されそうになっているというもので
何とか外されまいとしがみつくので余計苦しいのです。

外されてしまうと考えると
何かとてつもなく悪いことが起きてしまうのではないか
ということが不安の正体のようです。
ところが、実際その関係から外れてみれば
(厳密には、自分から外れようと決断をすれば)
「なんだこんなものか。こんなものなら恐れることはなかった。」

と別離という危険が現実化したことによる危険の実態を把握できたことで
予期不安から解放されたということなのだと思います。

このケースは怒りによって危険の感覚自体が喪失したケースなので
まさに怒りが人を救った事例でした。

<怒りが依存症のようにやめられなくなってしまう事例>

危険の状態が変化がなければ怒りによって人は救われない
さらに、怒りは放っておいてはなくならないので
ずうっと怒りが持続してしまうということを
それは危険の感覚も持続して精神的に消耗するということを
今回はお話しします。

人間に限らず動物は
危険を感じた場合、3種類の方法をとります。
逃亡(flight)
闘争(fight)
凍結(freeze)
このどれかの方法を自動的に(本能的に)とることによって
危険から身を守っているわけです。

逃亡と闘争については、生理的反応が一つです。
つまり、感覚野から扁桃体に信号が出され危険を把握し
扁桃体から副腎皮質等に指令を出して
筋肉を動かしやすい血流変化を起こして
逃げたり戦ったりしやすい体の状態にするそうです。

逃亡時の感情が、恐怖の感情ということになり、
今は安全ではないと感じ続けることによって
いつまでも逃げ続ける心理状態という便利な感情が作られるようです。
簡単に安全になったと思わないので、逃げ切ることができやすくなるわけです。

闘争時の感情は、怒りの感情ということになり、
いつまでも攻撃し続けることに便利な感情になるわけです。
相手を完全に叩きのめすまで攻撃をやめないから
確実に相手を倒すことができるからです。

感情と行動は切っても切り離せないようで、
逃げるから怖くなるという順番もあるし(ウイリアム・ジェームズ)
攻撃するから怒りもわいてくるという順番もあるようです。

そうすると冒頭の例では
自分の失敗とそのための人間関係の切断が怖くて逃げてばかりいたから
逃げることばかり考えていたために益々苦しくなってうつになっていった
という側面もあるのかもしれません。
そして、怒りに転じたことで、怖さを感じなくなった
という説明もありうるのではないでしょうか。

幸いなことに、冒頭の例では責める相手と縁が切れたので
責められることが無くなり、
恐怖も怒りも必要が無くなり
穏やかに生活することができるようになった
と説明できるのではないでしょうか。

これに対して
怒りが苦しさを軽減するという事例をまず挙げて
そのメカニズムとイメージを持っていただき
怒りが持続していくという事例を順に説明していきます。

例えば
職場で自分がミスをして上司に叱責された場合、
自分が悪かったと感じるだけだと
自責の念が生まれるだけですから
職場における自分の評価がずうっと低いままかもしれないと
危機感に襲われるだけです。

これが例えば、上司の指図の仕方が悪かったのだとか
同僚に足を引っ張られたのだとか
他人に原因があるとして、他人を責めると
自責の念が少し軽くなるようです。

また、夫婦間では、
妻が夫から落ち度を指摘されることがあり
自分に対して、夫から否定評価されるという危機感に対して
「そんなことを落ち度だと思う夫が悪い」
と逆切れをすると、逃げ場がないという意識は解消されるようです。

つまり、逃亡は、逃げなければならないという意識を作り
「危険がある」という危機感に加えて、
「逃げなければならない」という
もう一つの危機感や負担感を持つようです。

逃亡の意識から闘争に意識を転換し、
感情も恐怖から怒りの感情に転換することによって
このもう一つの「逃げなければならない」という負担感から
解放されることになるようです。

これはとても精神的負担を減らすようです。

ネズミとして逃げるよりも猫として追う方が気が楽でしょう。

職場の問題と夫婦の問題と例に挙げましたが、
人間の心理はもう少し複雑なようです。
職場で、同僚が大きなミスをして会社にいられなくなり
上司からパワハラのような叱責を受ける出来事があるとします。

仲の良い同僚であればあるだけ
自分が何とかしてやらなかったかとか
これから自分がフォローしてやらなければならないのではないか
とかつい考えてしまうわけです。

どうやら人間は仲間に貢献できなかったということを感じても
危機感を感じるもののようです。
貢献できないということで自分の評価が下がる
という危機感を感じるのでしょう。

でも、実際は自分が何もしてやれないと思ったり
「気にするなよ」などと声をかけてしまったら
今度は自分が上司から目を付けられるのではないかという
現実的な、新たな危険もあります。
かばわないことで同僚に対して後ろめたさも感じるでしょう。

とにかく危険を回避しようとするのも人間のようです。

この危険を感じることを回避しようとする方法として
怒りを発動させるわけです。

つまり怒りによって
自分の危機感を感じなくさせるわけです。
「同僚が、不真面目に仕事していたから悪かったのだ」とか
「やるべき手順をしない単純ミスをするなんて
プロとしてあまりにも失格だ」とか
同僚を責めることで、
自分を責めることをしなくてすむことになります。

怒りが負担を減らすということを知っていてやるというのではなく
怒りを持ってみたら少し楽になるという学習をするのでしょう。

学習効果が高い人は、何か困ると
すぐに怒りを他者に向けるようになってしまうのかもしれません。

似たようなことはいじめでも起きます。
いじめられている子がいるとします。
当初は一人ないし少人数の主犯者グループだけがいじめているのです。

周囲の子どもたちは、いじめられている子がかわいそうですから
あるいは、正義に反することですから
いじめを止めなければならないと自然に感じます。

いじめられている子どもと近しい関係だったりすると
あるいは感受性の強い子だったりしても、
いじめられている苦しさや恐怖、強烈な孤立感に
共鳴してしまい、さらに苦しくなってしまいます。

もちろんいじめを止めたりすると
今度は自分がいじめられるという
新たな危険が来ることがわかっていますし
それは予期不安なので、
実際の不利益よりも大きな不利益を
漠然と予想してしまいます。

この場合怒りを加害者に向けることが合理的なのですが
加害者と自分の力関係を考えてしまうと
怒りは加害者に向かいません。
怒りは、勝てると感じる相手にしか向かいません。
例外的に自分の仲間だと感じる場合に
負けても仲間を守らなければならないという感覚になったときだけ
加害者に怒りは向かいます。

いじめが悪化する場合には
そこまでいじめられている子どもを仲間だとは感じないのでしょう。
あるいは加害者も被害者も仲間だと感じているのかもしれません。
いずれにしても怒りは加害者に向かいません。

いじめを止めない別の子どもに怒ったり
いじめられている子どもに怒りが向かうようです。

いじめられていることは、いじめられる理由があるからいじめられる
というようなことを心の中の言い訳にして、
さらに、いじめられている子どもを心の中で責めるわけです。
部活をさぼるとか、借りたものを返さないとか、調子に乗っているとか
そうして、いじめに加担しないにしても
いじめられている子どもに怒りを持つわけです。

怒りを持つことによって、その場をしのぐことができます。
怒りを持たないで自分を責めているような場合に比べると
とても楽になります。

でも怒りを感じ続けているということは
危険を感じ続けているということなのだと思います。

自分に危険を感じない場合は
怒りを感じる必要がないからです。

危険が去れば怒りを感じなくなるはずです。
怒りという感情もエネルギーが必要ですから
怒り続けるだけでとても疲れてしまいます。
しかも根本的に危険を感じ続けているのですから
この観点からも精神的な消耗が起き続けることになるのでしょう。

人間関係の紛争を見ていると
どうも怒りを感じ続ける理由となる
過去の危険があったことは間違いないのですが
いろいろな理由で怒りだけが継続してしまい
感情の収拾がつかなくなって
精神的に追い込まれるという現象があるように思えてならないのです。

怒り、恐怖、あるいは焦燥感などは
自分を守るための感情のシステムです。
人間の心が成立した今から200万年前は
危険といっても生命身体の危険でしょうから
こういうやみくもに危険を回避する方法が
一番有効な方法だったのでしょう。

ところが、現代は人間関係が複雑になってしまいました。
逃げたり戦ったり焦ったりという危険回避のシステムは
人間関係をさらに悪化させるという逆効果になることがあっても
有効に危険を回避することから遠ざかってしまうようです。
現代の人間の不安を解消するためには
理性を働かさなければ解決しません。
それどころかより大きな不利益を受ける危険があります。

過度の苦しみから逃れる方法としての怒りも
怒っている以上、精神的に消耗していきますし
危険から逃れられたという感覚を持ちにくいものです。

特に相手を叩きのめしたという実感がない限り
怒りは解消することができない
怒りが解消できない以上危険から逃れたという感覚を持てない
こういうデメリットがあるように感じられます。

人間関係については、決着がついてしまったのに
(それは不合理な決着であることが多い)
いつまでも、怒りを持続して、
危機意識を反芻しては、また怒るということを
延々と継続しなければならない怒りスパイラルに陥る
そんな不幸があふれているように感じられるのです。

漠然とした不安を感じている人に対して
不安の原因が特定の個人にあるということで
その特定の個人に対しての怒りをあおることをもって
「支援」だという人たちがいます。

確かに怒っているときは、
精神的負担が幾分軽減されて楽になるかもしれません。
しかし、怒りが継続していくと
終わったはずの危険意識も継続してしまい
場合によっては
怒りなのか恐怖なのかわからないような感情が
長年継続してしまう事例もたくさん見られます。

間違いなく不幸だと思います。

こういう解決しない支援をするのは
「当面の解決をすれば後は支援は終わり」
という支援がほとんどだからです。

まるで、昔の童話みたいに
王子様とお姫様が結婚してめでたしめでたしみたいな
そんな印象を受けるときもあります。

現在の感情ばかりを考えて、将来のその人を考えず
とりあえず不安を解消すればよいやというような
刹那的支援が横行しているように思います。

しかし、それでは不安が解消しているわけではなく
不安が怒りに姿を変えて継続しているだけなのではないでしょうか。
危険を解消し、怒らなくて済む状態に向かう
こういう発想の、人とのかかわり、解決の方向を
考えていかなければならないと私は思います。


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