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正義。正義感にあふれる人の他人への批判が怒りにまみれているため聞くに堪えない理由 ネット炎上から学んだ結果報告 [進化心理学、生理学、対人関係学]



解題 ネット炎上の際や、そもそもの投稿で他人に対して容赦のない批判を目にします。あんなに立派なことをしている人がどうしてそんな聞くに堪えない言葉を使うのか不思議になります。どうもそれぞれの攻撃者は、自分の攻撃が正義であると考えているようです。いじめやパワハラも、この正義感情が被害者特定の人を攻撃して容赦が無くなって起きることにも気が付きます。この怒りを伴う正義感情がどこから来る、どうして人は正義の活動をすると怒りや攻撃感情が伴うのかについて考えてみました。

1 正義という作られた概念と元々あった「義」という価値観
  「正義」という言葉は、幕末から明治にかけて明治政府側によって作られた言葉で、日本語にはもともとは無かった言葉です。JUSTICEの訳語ということになります。私はこの言葉をわざわざ作った目的は、富国強兵という国家戦略、すなわち軍備増強におけるソフト面の整備だとにらんでいますが、今回はこのことをわきにおいてお話を進めます。

  正義という言葉ができる前も、日本語には「義」という言葉がありました。道義、忠義、義理、義務と言った単語があるように、「人として従わなければならない」事項を意味しているようです。そして義が実践されることにより秩序を形成し、維持することになる効果がある場合に使われるようです。そして何らかの義に反する行為が行われれば、義憤を感じ、義の修復のために義士が立ち上がり義挙をなすという仕組みになるようです。

  この従わなければならない何かというのは、法律のようにある日誰かが決めたことではなく、人間の本能的な価値観というか、暗黙の了解によるもののように感じられます。具体的な内容としてはあまり説明されていないように思われます。言葉に置き換わる内容としてのコンセンサスがあったわけではないということです。それでも、その行為があったときに、義に反する行為だということは、多くの人に共通の理解を得られた内容になっていたわけです。どうして多くの人が共通の価値観を言葉によらずして共有していたのでしょう。
 
 ちなみに論語では義の対義語は利であると述べられています。利に走る行為は平穏な社会秩序を乱すものであるから、利に走る行為に対して否定評価をして、抑制することが義の役割だったようです。

2 義であらわされる人間の本能的価値観を考える手法
  それでは具体的に概念規定されてこなかった「義」というもの、人間ならばなんとなく共通理解が得られた人間の本能に基づく秩序、価値観とは何だったのかということを考えていきたいと思います。「義」が「利」の対義語として使われていたということもヒントになると思います。

  現在以上に、過去の一時点までは義という概念が人間の中で広く意識されていたようです。単純に現代に近づくにつれて廃れていったかどうかはわからないというしかないのですが、仮にそうだとしたらということで考えを進めていきます。この前提に立つとすると、歴史をどんどん遡っていけばいくほど、義という概念が人間の行動原理としてポピュラーな概念であったということになると思います。少なくとも論語が書かれた今から2000年以上前ではかなりポピュラーなものでした。しかし、解説が必要なほど、概念が不明確だったようです。当時の言葉というものはあまり厳密に突き詰めて使われていたものではなったのかもしれません。説明の言葉が無くても、なんとなく共通の価値観というか、感情があったということなのだと思います。

  このブログをよく読んでいらっしゃる少数の方はピンと来られたと思います。言葉で定義されないにもかかわらず、その概念を共有しているということは、人間の本能に根差した感情なのだろうと考えているわけです。人間の本能的な感情は、進化の過程で獲得した感情なのだろうと考えているわけです。つまり「その」感情をたまたま持っていた人類の祖先だけが厳しい環境の中で生き残ったため、その感情が後世まで受け継がれていったというわけです。

  その進化の過程とは、文明が起こり、言葉が発生する以前の話ですから、今から200万年前から1,2万年前の狩猟採集時代ということになるわけです。人間の脳進化は、頭蓋骨からすると約200万年前からあまり進化をしていないとされています。環境はめまぐるしく変化しましたが、心は200万年前と大差がないというわけです。
  そうであれば、人間が言葉無くても共通の感情が生まれる「義」という言葉に表現される感情も、狩猟採集時代の人間の様子、当時の環境にどのように人間の先祖がどのように適合したのかということを考えれば見えてくると思うのです。

3 狩猟採集時代の生活から義の中身について考える
  狩猟採集時代は、人間の祖先は数十人から百数十人の群れを作り、生まれてから死ぬまで原則として一つの群れで生活していたとされています。群れを二つに分けて小動物を狩ってたんぱく質とカロリーを取る集団と、狩りが失敗した時に備えて食べられる植物を採取していた集団が協力して群れの生活を営んでいたようです。群れは完全平等で、食料は平等に分配されていたようです。

  どうやって完全平等を保っていたのでしょうか。これは二方面から考える必要がありそうです。

  一つは、自然な感情として群れ全体で平等に分け合いたいという気持ちがあったためだということです。生まれてから死ぬまで同じ仲間でいると、ただでさえ仲間に対して情がわくでしょう。また、個体識別ができるぎりぎりの人数で仲間を構成していましたので、仲間の心情はすぐに共感できたわけです。不平等な分け方をされると、仲間が悲しんだり、落ち込んだりすると、我がことに様に悲しんだり落ち込んだりしたわけですから、仲間に対してそんな淋しい思いをさせたくないという気持ちが元々あったと思われます。そしてそれが共通の感情だったわけです。だから、そのような不平等をしないで平等に分けることが一番ストレスが少なかったということなのでしょう。

  二つ目は、中には共感力が乏しかった個体もいたはずです。自分だけ多くとろうとする個体が表れることはあったこととでしょう。いわゆる利に走る行動をする人です。しかし、仲間の大勢が平等分配の意識があったために、そのような仲間の意識に反する行動は自然と反発されて強く否定されたと思います。

否定のされ方は穏当な否定、物騒な否定と二種類あったと思います。穏当な否定とはまだ成人に達する以前に自分を優先してしまう行為をすることが明らかになったときの否定です。個体が小さいときは、教育的な否定だったと思います。共感力がない個体も、平等分配が必要だということを学習していったはずです。共感力が育たたなかったとしても、自分だけ多くとろうとすると仲間から追放されてしまう危険があることを学習したわけです。自分だけ多くとろうとする行動をすることは大変怖いことだという形で学習していくわけです。

物騒な否定とは教育の効果が上がらなかった場合です。成人に達しても個人的利益を優先する個体もいたはずです。自分を優先すると分配にあずからない群れの仲間も出てきてしまいます。このような利に走る個体に対する大勢の意識は、利に走るものによって自分が損をさせられるという意識だけではなく、自分より弱い仲間が損をさせられるという意識になったことでしょう。ここで大切なことは、自分だけが損をさせられるという意識ではないというところが大切です。自分が大勢の側にいるという意識は、秩序違反を許さないという意識となります。仲間の中の弱い者を守ろうという意識です。逆に自分だけが損をする場合は、自分が仲間から外されるのではないかという不安が先行しますので、どちらかというと恐れの感情が発現するようです。自分の力ではどうすることもできないので、許しを請うという行動の流れになるしかないわけです。自分だけが損をする場合ではないとすると、仲間の弱い部分が損をさせられるという意識も強くなります。この場合は怒りの感情が発現するようです。その自分優先の個体以外の群れの仲間は自分と同じ考えであるはずだという確信は、許しを請うのではなく相手に許しを請わせるまで追い詰めようという意識になるのでしょう。勝てるし、勝たなくてはならないという意識のようです。この意識をイメージしやすいのは、母熊が、子熊が襲われていると思うと、逆上して相手を攻撃する場合です。人間の場合は熊と違って、母親だけが子育てをするのではなく群れで子育てをするので、群れの共通の弱い者を自分たちで守らなければならないという意識となり、微妙に違いはありそうです。

怒りという感情によって、仲間の弱い者を守るという意識と自分の損を回避するという意識は、自分だけを優先する者に対しては「仲間と自分を加害する存在だ」という評価を瞬時に下してしまうのだと思います。元々は仲間だったという意識は消えてしまいます。自分だけを優先するものは、仲間ではなく仲間に対する攻撃者だという意識に塗り替えられるのだと思います。つまり仲間を襲撃する肉食獣のような存在として意識づけられて、肉食獣に対するものと同じような攻撃感情と攻撃が向けられるわけです。躊躇する事情が無くなるわけですから、純粋に怒りの感情に任せて容赦のない攻撃がなされたことでしょう。

もしこの思考が正しければ、義という概念は、自分たち仲間の大勢がそれを守るべきものと認識していたもの守るべきだということを意味し、それを害することに対して否定しようとさせる概念であるといえるでしょう。ここでいう守るべきものの原始的対象は「仲間の中の弱い者」であったということになると思います。義を乱したものに対する感情は、怒り、攻撃、敵対心というものであり、攻撃は躊躇なく行われるという特質があったということになります。そして損をするのが弱い者ばかりではなく、当然自分もやがて損をすることになるという場合が、怒りのエネルギーを大きくなったのではないかと考えています。

4 義の感情の歴史的推移、弱者保護から秩序維持へ
  文明が生まれる以前、狩猟採集時代で貧富の差を作りようがなかった時代は、義という感情は、自分と弱い仲間を守ろうという感情とほぼ同義だったと思います。逆上する母熊の集団バージョンということになるでしょう。やがて文明が生まれ、群れが大きく複雑になっていくにつれて、そして言葉が生まれることによって、そのような素朴だった感情も複雑になっていったと思います。
  狩猟採集時代は、公平や弱者保護自体が秩序となり、おそらくそれがほとんどすべてだったと思います。しかし、群れが大きくなり、個体識別ができない相手が他者を支配するようになると、支配者を中心とした秩序を守ろうとする意識に、平等や公正がすり替わっていったというか利用されて行ったのだと思います。

狩猟採集時代においても、人間は弱者保護と公平公正の目的とは別の目的で、秩序の存在が必要だったと考えられます。例えば小動物を狩りする場合も、多数で追い込む狩りの手法であったため、それなりの計画的な統一行動が必要になります。言葉がないので細かい打ち合わせは不可能です。結局、群れの中の誰かが判断をして、その判断に従って行動していたのでしょう。それができなければ小動物でも捕まえられなかったはずです。自分勝手な行動は群れに迷惑がかかります。また、人間関係のトラブルも、些細なことであれば、誰かを追放するまでもなく、群れの権威のある人物に従って解決したことでしょう。これらの場合の権威者は、おそらく固定していた一人の人ではなく、場面や対象によって流動的に権威者が入れ替わったと想像しています。ともかくもその時その問題で権威者となり秩序形成の的として認知されれば、その人間に無条件に従っていたと思います。ミルグラムの服従実験は、人間が服従をすることを示したものではなく、瞬間的に権威者を見つけて秩序を維持しようという自発的行動をすることを証明したものと私は考えます。

  つまり人間は、それが秩序であると大勢が認知してしまうと、それが真に守るべき秩序か否か、あるいは自分に何らかの利益を与える秩序か否かをあまり考えないで、本能的に秩序に従うという性質があるのだと思います。古い秩序を覆して新しい秩序を形成するということは、とても難しいことだという理由がここにあります。革命などの新秩序形成行為について快い肯定的な感情がわきづらく、物騒な否定的な感情がわいてくることが自然なことだということも理解できることです。

  こうして必ずしも弱者保護や公正が、人数の増加と社会構造の複雑化によって、秩序維持の本能と融合していったという動きがあると私は考えています。

5 義から正義へ
 現代の人間は、多種多様な人間と複雑な関係を形成しています。関係する人数も多ければ、所属する群れも一つではなく、無意識に多数の群れを形成しています。無数の人間関係それぞれに、いちいち義があり、それが複雑に影響しあっていることになります。それぞれの人間関係ではそれぞれ異なった秩序が形成されていることになるはずです。守らなければならない秩序がそれだけ多くあるということになります。
幕末から明治にかけて、欧米列強に追いつけ追い越せという国家政策がすすめられ、それまでの江戸幕府のような国民の多様な価値観を肯定していたのでは、国家政策が効率よく推進できないという事情が生まれたわけです。「義」という多様な意味合いを持つ言葉は、結局それぞれの人間関係にあることを承認することが前提となっていたと思うのです。これでは国単位での戦争を遂行するためには妨げになりかねません。列藩という単位を排して、国という統一的な秩序に国民を統合することが他国と戦争を起こすためには有効だと考えたのでしょう。この考えのもとで廃藩置県を行い、廃仏毀釈をすすめ、天皇という単一の最高秩序を押し出して国家秩序の形成を進めたと考えると賛否はあるにしても合理的な行動だったと思います。
 そのためには、ローカル色が強い多様性のある概念の「義」という言葉では足りず、他の事情を差し置いても最も守らなければならないという強力な秩序があるという意味で「正義」と名付けられたのだと思います。ここで言う「正」は善悪の善という意味ではなく、正室とか正一位、あるいは正大関というような、正式のという意味での正なのだと思います。つまり、国家秩序だけが正式の義として守るべきものであり、他の義は後列に置かれるもの、あるいは偽物の義という位置づけにしたわけです。

6 現代日本における社会病理の推進力としての正義
 短期集中でインターネットの炎上についての実態を調べていたのですが、予想通り大変興味深い結果が出たように感じました。私の調べた範囲について報告します。
 ある投稿に対して、それを批判する投稿や否定評価をする投稿が次々と行われて収拾がつかなくなる状態である「炎上」という状態になります。炎上になる理由として正義の感情があるように思われました。炎上が大きくなるほど素朴な正義感というか、狩猟採取時代の義の感情が発動されるパターンが見られました。
 炎上が起きやすい投稿パターンは以下の通りです。

1)そもそも誰かを攻撃する内容、ないし、誰かに損害を与える内容の投稿
2)同時に反論投稿者をする人も、その投稿によって攻撃されているという意識を与える投稿 
3)その攻撃が、なんらかの理不尽だと感じられる要素のある攻撃
4)自分だけでなく、大勢が不快だと思うことが予想される投稿(内容又は表現、あるいは選択した投稿メディア等)
5)容赦のない攻撃をしていると感じる表現、下品な攻撃表現、人格を否定するような攻撃表現
6)誰かを攻撃することによって自分だけが得するという抜け駆け的な利益を目的にしているように感じる投稿 
7)自分を含めて多くの人たちが秩序に反する立場だろうと感じられる投稿、 反秩序(不道徳、違法、不合理)を擁護する投稿
8)一定の影響力があり、部分的にでも秩序を害する恐れを感じる投稿
9)投稿文言に大きな隙があり、主張内容その他に批判する部分が多い投稿

特に初回投稿者が、自分が攻撃を受けているわけでもないのに、他者に対して極めて不寛容であり、かつ表現の品位に疑問が持たれるような攻撃をしている場合でかつ一定程度以上の支持を受けている場合に、炎上が起きやすいようです。自分の主張ないし感情こそが正式な義であるという意味での正義だと主張して、自分の主張と異なる他人の日常や悪意のないふるまい、あるいは存在自体に対して、感情的な表現や、品位を欠く表現で、相手の人格を貶めるような攻撃が炎上しやすいようです。特に不特定多数人に対する言いがかりのような攻撃が目立ちました。白を黒に塗りつぶして黒だと批判しているようなものです(オリジナル表現は平野龍一「刑法総論」)。

中には攻撃されても仕方がない行為が実在している場合もあるのですが、その行為者に対する攻撃ではなく、一定の属性(男性、女性とか、国籍とか)全体が同じ行動傾向、同じ思考、思想、人となりだと決めつけて攻撃する差別的な表現は、当然のことながらその非行行為をしない、その属性の人間から大きな反発を受けるわけです。当然、別の属性の人たちからも言い過ぎであるという主張がなされるようです。

炎上を生む投稿は、正義の多様性、相対性を認めず、差別的な思考パターンの元、攻撃しなくてよい人を攻撃している結果となっているという特徴があります。自分が正しくて、自分以外が悪だと主張しているという印象を持たれているわけです。

自分の行為に対して批判があるのであれば仕方がありませんが、自分の属性に対して批判されることは、端的に差別をされるということですから、反発を受けることは当然のことであろうと思います。

それでも自分が差別や、罪なき人に対して攻撃しているということに思い至らず、あくまでも正義を主張しているという意識ですから、自分が守ろうとしている何かのために子連れの母熊のように逆上してしまっているわけです。炎上すればするほど、他者が自分を理由なく理不尽に攻撃しているとしか思えません。反論を試みるわけですが、同じような感情的な反論ですから、論旨も不明ですし、表現も的を射ていない表現となり、ますます反発を募らせるだけであるようです。

7 正義と娯楽
 インターネットの誹謗中傷に対して提訴をした方がいて弁護団を交えて記者会見が行われました。ところが会見自体が、上記の炎上を生む要素に多くあてはまる内容でした。裁判前の会見はアドバンテージを獲得することも大事な要素だと思います。会見によって味方を増やす結果にならないと意味がないと思います。しかしながら弁護団の会見は、話している内容もさることながら、表現や姿勢などを見ても、新たな味方を増やすという意識は感じられず、元々の仲間内の結束を強固にすることが目的だったのかなと感じました。

 いくつか気になった弁護士の発言がありましたが、「インターネットで人を攻撃するのが娯楽として行われている」という発言もその一つです。

 インターネットの炎上は、一口にインターネットと言っても、ツイッターなどのSNS、ユーチューブ、インターネットテレビなど実際には様々な媒体があります。今回短期集中的にそれらの発信を読んでみたのですが、とても発信に工夫がなされていることに感心しました。特にユーチューブのゆっくり解説は、たくさんの発信者が、手段を共有しているものらしく、様式美を感じました。動画の中で、アニメキャラクターの2人ないし3人が登場し、1人ないし2人が聞き手で1人が説明するという形をとります。聞き手が時折疑問を呈して、それに話し手が答えるという手法はとても理解が助けられます。字幕も整備されていますし、画像も効果的に引用されています。とても分かりやすいのです。さらにアニメキャラクターの絵も声もそれなりに工夫されて、感情自体を伝えています。年配の人が見ればふざけた娯楽のように見えるかもしれません。そのようなものではなく、主張を明確に他者に伝えるプレゼンの要素が詰め込まれている立派なものです。中立の人を味方にしようとする努力に感心するほかありません。

 また、そのような媒体の工夫がない発信でも、読み手、利き手を引き付ける工夫がなされている発信者も多いです。相手の批判の方法にもウイットを聞かせようと意識している人たちも多いです。そういう人たちは、能力をアッピールしようという意識があって、単純に真正面から批判するだけでなく、アイデアを競うというか、能力を見せつけようとする人たちも多くいらっしゃいます。それを娯楽というかどうか難しいところです。攻撃を受けている相手から見れば、面白がって攻撃していると映ることはその通りなのでしょう。

 但し、後発参戦者になればなるほど、そのような工夫の余地が出し尽くされている感もあるため、あえて斜めに切り込んだり、攻撃の表現を激烈化したりして参戦するということが見られました。これは残念ながら確かに見られました。娯楽というかどうかはともかく、後発になればなるほど、建設的姿勢が低くなる傾向にあるように感じられます。

 いずれにしても、義を実践することに人間は喜びを感じる動物です。自分が炎上もとになった投稿や投稿者に感じるもやもやを言語化してくれることにカタルシスを覚えるようです。
 それでも炎上もとになった投稿者は、自分の正義を疑いませんから正義の主張を続けるわけです。それも自然な流れでしょう。そうするとさらにそれにかみついてくる後発参戦者がでてきてしまいます。そのころになると大勢が決していて、炎上元はごく少数者になります。それでも正義の感情は怒りの感情ですから、相手が弱ってきて、相手は反秩序でこちらが正秩序派だという意識が強くなっていきますから、攻撃性がむしろ激化していくようです。徐々に攻撃のための攻撃をする後発参戦者(コメント書き込みなど短文投稿者)が出てきてしまいます。初発の参戦者ほど、表現に工夫は無く、また工夫するメディアでもなく、純粋な攻撃に近くなってしまいます。こうなると、正義を主張して反発を受けた炎上元投稿者に対して、別の正義を押し付けて事態が収拾付かなくなるようです。

 正義という概念は、元々あった人間の性質である義を大切にする感情を利用して、それを特定の方向に誘導するために作られた概念だと思います。本来、義は複数あり、正式の義である正義なんて言うものはフィクションにすぎません。それがあたかも絶対的な正義があるように他者を排斥する手法は、戦争遂行を至上命題とした明治政府と同じ行動を、無自覚に行っているわけです。

 正義という観念がインターネットの炎上の根本原因であると私は感じました。

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非政治的視点からSNSの非組織的炎上の原因を考える なぜ集中砲火が起きるのか 正義こそ紛争の火種 [進化心理学、生理学、対人関係学]


1 SNSの論争の特徴 はじめから論理学的論争ではないということ

SNSにはSNS上の論争の場ができあがる。投稿者の投稿に対して反論投稿者が現れ、投稿者が再反論をしたり、第三者の参戦者が投稿したりする。
公序良俗に反する等、運営規約に反しない限り、論争のルールはない。

最初の投稿者の投稿、反論投稿者の投稿、あるいは後続参戦者の投稿について、多数の批判者が現れて収拾がつかなくなることを炎上というようだ。

炎上の様子を見ていると、必ずしもその投稿者の投稿自体の論理の内在的矛盾を突くことが多いわけではなく、投稿者のこれまでの投稿との整合性や投稿者の態度、表現に対する批判が多いように感じられる。

実務法学の論争においては、学者が学説を戦わせて自説の優位を主張する。しかし、そもそも法律自体が人間の作ったものであり、すべての事象を念頭に置いて作られてはいないので、様々な学説があったとしても、通常は各学説に論理破綻があることは少ない。現場への法適用や他の法律との整合性などから、学説の賛同者の増減が決せられる。但し、この学説の多数が必ずしも裁判所が採用する説とならないところも複雑なところではある。

尊敬する学者同士の論争においても、妥当性という不確かで基準があいまいな議論をするためか、勢い論者に対する人格攻撃とまではいかないが、他説に対する厳しすぎる論調がみられることがあった。学生からすれば、それほど立場の違わない学者の方々同志の厳しすぎる論争は、物騒というか、寒々しいというか嫌な感じがして辟易することもあった。それでも学者の論争には超えてはならない一線というようなものがあった。学者という社会的立場や他の学者からの評判など、感情と表現を制御させることについての共有されたものがあった。

SNSの論争も、論理学的な優劣を競う論争ではない。特に炎上が起きる場合は、論理的破綻は批判の材料であって、批判の理由にはなっていないように思われる。だから、勢い、相手よりも優位に立とうとして批判表現が苛烈になったり、同調者が膨大になり、相手の主張を圧倒しようとしてしまう条件ができてしまっている。投稿者らには、共通の要素もなく、感情と表現を制御するための装置は存在しないようである。

人間関係の紛争ということが私のテーマである以上、SNSの炎上は大変興味深い研究対象である。短期間ではあるが、特定の大きなテーマについて、後追いの形でいくつかの炎上した論争を追ってみた。

2 非組織的批判の集中は、不道徳な感情から起きえないこと

大体は、初回投稿者に投稿に対して炎上は起きる。炎上が起きる初回投稿者の投稿に批判しやすい文章であることもあって、大体は反論投稿者の投稿において大勢が決せられる。
興味深いことは、大勢が決せられたと思われた後の後続参戦者、あるいは投稿はしないけれどいいねボタンを押して何らかの意思表示をするギャラリーの態度である。反論投稿者の切れの良い反論に対して賞賛がなされるというよりも、初回投稿者の投稿が否定されたことに感情が動いているように見える。大勢が決していても、他の角度から初回投稿者を批判する投稿が行われる。これが炎上である。

こうして初回投稿者は、多くの人間から批判の集中砲火を受ける。なぜ批判者たちは、一人の人間がこれほど容赦なく切り捨てられているのに、かわいそうだと思って論争を終わりにしないで、さらに批判を続けるのか、この点について掘り下げて考えてみた。

A説
先日、SNS上の誹謗中傷を理由として、SNS投稿者を提訴したという記者会見があった。その中で、そのSNSによって攻撃された対象者が女性であり、若い女性の保護をする活動をしていることをもって、攻撃理由は女性を攻撃する差別行為であると私の同業者が代理人として発言していた。

そうだとすると、炎上という現象が起きる後続参戦者の参戦も、やはり誹謗中傷のたぐいで、主たる動機が女性差別にあり、女性の権利を主張することが疎ましく感じられていたので攻撃をしたということになってしまうのではないかという疑念が生じた。

しかし、提訴者の説明による誹謗中傷の中身を見る限り、初回投稿者の投稿の中に女性性の蔑視に直ちにつながるような発言、意思表示は見つけられない。女性の保護活動、権利擁護に反対する人格態度も見られない。投稿者らの本当の動機は知りえないが、内心が表示されてもいないのに、女性蔑視者だと決めつける評価は論理的には成り立つものではない。炎上の中身である後続参戦者の投稿表現を見ても、特徴的なことは、女性全般を対象にした発言はほとんど見当たらない(性急な一般化は見られない)。女性以外の何らかの差別的な書き込みは存在していたが、それらは他の参戦者からは相手にされていないという特徴があった。

論理的には、女性女性蔑視という動機や行為の性格付けは、あくまでも解釈上動機として考え得る可能性の一つに過ぎないはずである。

結果として、提訴者やその帰属する団体の活動に支障が出て、保護を受けるべき若い女性が保護を受けられないという事態になれば、結果的に保護を受けるべき人に損害が生じる可能性はある。ただ、そのような結果が出ることと、目的として女性蔑視があるということは論理的にはつながらない。

非難されている対象が女性であるとか、若い女性が結果として損害を被る可能性があることをもって、投稿者が女性蔑視という人格を有していると主張することは、論理の飛躍や詭弁というよりも、せいぜい当てこすりという低い評価に甘んじるべき発言であろうと思われた。

ちなみに、提訴した女性本人と団体の活動については、後続参戦者やギャラリーにおいてもその意義を否定する論調はほとんどないように感じられた。むしろ、行政では思いつかない発想の中で、やるべきことを現実的に実践しているという評価であり、否定評価はほとんどなく、行政の委託事業になっていることは当然のことであるという認識が支配的であると感じられた。

安易に、マニュアル的あるいはステロタイプ的に、差別者だというラベリングをして攻撃しているだけであれば、訴訟を繰り返したところで炎上も繰り返すだけのように思えた。

3 本当はかなり難しいSNSの発信1 寛容な忖度がなされない理由

SNS発信は難しい。一瞬で膨大な数の人間に、自分の発信が到達するからである。現状、発信と反応についてのルールは希薄である。大勢の気に入らない発信は、無視されるか、やり玉に挙がって攻撃される。ツイッターでは元々の発信を引用されて批判がなされる。

投稿者の真意を推し量って投稿の真意をくみ取る人もいるが、文字情報だけで批判が起きることも多い。あらゆる人に向かって発信している性質上それはやむを得ない。

もう少しやさしく受け止めればよいのではないかという意見もあるが、それができない事情も多い。例えば
1)発信者が、思想信条を明確にしている場合であれば、対立している思想信条を持つ人であれば、善解しようとしないので文字面だけで批判をすることになる。発信者の主張についての批判というよりも、発信者の立場や人格についての批判が混入しやすい典型的な場面である。しかし、その内心が表示されない限りは、その内心を決めつけて批判し返すことはできないだろう。それをしてしまうと、多くの論戦予備軍から総攻撃を食らうか、単に無視をされてながされてしまう。実際には女性差別を表示した攻撃もされているのかもしれないが、無視をされることがほとんどであるようだ。

2)思想信条とは関係なく、自分がその発信者から攻撃を受けていて、反撃の機会を狙っていた者とすれば、隙だらけの投稿は格好の反撃材料となる。自分が攻撃を受けた場合でなくても、自分の仲間と感じている人間が攻撃を受けても同じことが起きやすい。あるいは自分が大切にしていることについて、土足で踏みつけるような行為を感じた場合なども同様である。

3)興味深いことは、第三の厳しい解釈をする理由があることだ。それは、発信者の発信内容が過度に誰かに対して攻撃的であるとか、誰かを侮辱する内容である場合である。その攻撃対象とは何の利害関係がなくても「それはひどい」と思う場合に、発信者に対して参戦者が介入して批判をするケースがよく見られる。初回攻撃を受けた人と参戦者の間に、思想信条に共通項が無く、利害関係が無くても、理不尽な攻撃があると感じた場合には反撃に加担しようとする人が案外多い。ある意味正義感が強い人たちである。

字面の厳格解釈をして批判する場合というのはすなわち炎上が起きる場合である。だから1)ないし3)は、炎上が起きやすい事情ということになる。その中でも最後のポイントである3)の事情が多いように感じられた。最初の発信者に対して、反論をする場合は、ポイント1)ないし2)の事情があるだろう。しかし、それだけでは後続参戦者が賛成しては来ないだろう。多くは組織的な炎上ではなく、自然発生的な炎上が多いのだろうと感じている。自然に後続参戦者が多数参戦する場合は、背景事情を知らなくてもネット上から明らかである3)の事情があることが多いと感じられた。

4 群集心理は秩序形成の本能がエネルギー源である

炎上がどうして起きるのか、ポイント3)の事情が大きいことには間違いないと思われる。しかし、この3)のポイントはもう少し分析する必要がある。

後続参戦者が参戦する心理は、単純な正義感による反射行為をしているわけではないように感じられた。これらの後続参戦者は、単なる義憤だけで書き込みをするというような慎重さを欠いた行動をとらない。

感情に任せたような反論はあまり指示されない。むしろ反発を受ける。慎重さ、冷静さがある投稿こそが賛同を受けている。慎重に、冷静に、自分が多数派の立場であるという意識を感じる。それは安心感が伴っているようだ。そのために、ターゲットに対して、皮肉めいた表現、馬鹿にする表現、憐れみというある種の「余裕」をアッピールするような表現が目立ってくる。もっとも、後続参戦者が投稿をしようとするモチベーションは義憤である。さらに参戦決定に移行するためには、この多数派、秩序維持派であるという安心感が強力に後押しする。しかし、おそらくこれらの心理は、投稿者は自分では自覚していないものと思われる。自覚している部分は相手が正義に反する行為をしたことをいさめたいという正義の感情だけなのではないかとにらんでいる。ただ、厳密に言うと、そもそも正義感とはこのような秩序維持という意識を不可避的に伴うものかもしれない。

そうだとすると、もしかすると、多数派になる方がどちらかという無意識に計算して、多数派である自分を意識して、そのあとで義憤感情がわいてくるという逆モーションの価値判断をしている危険性もあることを我々は常に考える必要がありそうだ。

後続参戦者の心理はまさに群集心理である。

つまり、自分たちの主張こそが世の中の秩序であり、自分たちと敵対している者は秩序に反する者たちであり、この者たちが意見を述べることは正義に反することであるという意識を持つ。味方サイドの発言は、詭弁であろうと何であろうと受け入れていく。詭弁を受け入れる理由は、判断基準が論理性の整合性ではなく、秩序に添った意見であるという安心感を持ってしまうからだ。ひとたび秩序にかなった意見だと思い、自分たちの主張を後押しすると判断した場合は、その意見に疑問を持つことは著しく困難になる。立ち止まって評価しようとするきっかけが無くなる。詭弁を受け入れる理由は、それを聞いていると安心感が増加するからである。

後続参戦者は、そのネット上の空気、どちらが秩序を形成しているかということに対して敏感であり、自分が秩序外に立つ事態を慎重に回避する傾向にある。
だから、あからさまな女性蔑視を主張する立場には慎重に距離を置き、後続参戦や賞賛は行わない。あからさまな女性蔑視の発言をすることは、さすがに秩序に反することだという意識が存在しているようだ。だから初回投稿者が女性である場合に、その投稿が炎上したからと言って、その炎上(多数の後続参戦者の形成)が女性蔑視に基づいた女性攻撃ということはあり得ないということが私の結論である。

5 本当はかなり難しいSNSの発信1 炎上を招く投稿を行いやすい構造

慎重さが掛けて、多くの人たちの正義感に火をつける投稿が、炎上のターゲットにされやすいという投稿の重要な要素になることは間違いないと思われる。

ターゲットが無防備にSNSで発信をしてしまうということには理由がある。

・ SNS発信は簡単に発信ができてしまう。
・ 自分の考えが言語化できていなくても、それを検証するとか表現を修正するとかの前に感情が乗ってしまうと発信してしまう。
・ たいてい誰にも相談せずに一人で考えて発信しているので、自説の検証を十分に行わないで発信してしまうということも大いにある。
・ 感情が強ければ強いほど、苛烈な表現を思いとどまることが難しくなる。
・ それでもつたない表現を忖度して聞いてくれる仲間が存在する。どんなつたない文章でも、無責任に共感する相手がいることは、影響力が強い人ほど自分が危険になる。慎重に投稿しようとする態度が育ちにくいからである。本来その仲間の中だけで確認しあうような内容の発信も、仲間の存在で気が大きくなって全世界に対して発信してしまう。好意的批判者、支持的批判者がいない発信者はとても危険である。
・ 自分の意見が否定されるということを想定せずに、自分の発信が賞賛されることだけをイメージして投稿してしまう(ギャンブルをする場合、自分は勝つと根拠なくイメージをしてお金をかける場合に酷似している)。これは当然で、自分を肯定する反応を示す者は自分に近しい人であるために、イメージしやすいのである。ところが匿名で自分を否定する人間は立ち止まって考えなければイメージしにくい。自分が何らかの主張を発信しなければならないと感じている場合は、立ち止まって考える行為は極端に難しくなり、発信を歓迎する仲間ばかりをイメージしてしまう。ここはSNSの落とし穴だと思う。
・ 仲間内なら通用する表現を見ているのは仲間だけではないということ
・ 一度発信をして引用などをされてしまうと、修正、訂正ができない。削除をしても誰かがスクリーンショットなどで保存している場合もある。

正義感に燃えて、使命感を感じて投稿する場合に、ほとんど隙だらけの表現になってしまう理由がここにある。正義感に燃える人は、SNSを使うには無防備になる傾向が不可避的にある。多数の人に自分の意見を使いたいという気持ちがあれば、仲間内だけに発信するのでは物足りなくなり、公開で発信しようということは理解できる。しかし、それにふさわしい慎重さを欠いてしまい、別の意味で多くの人たちに注目されるリスクを常に負っているということなのだろうと思われる。

6 炎上のポピュラーな理由は、過剰な攻撃表現にあるという仮説
SNSの特徴からすれば大いにありうることだということはこれまで述べたとおりであるが、投稿をしてその投稿に対する批判が殺到する状態になる時は、投稿者の最初の投稿、あるいはその投稿者の従前の投稿が、過度に感情的であり、誰かを容赦なく攻撃していた場合に起こりやすいということは確かなようである。特に具体的にターゲットを明らかにして煽情的な表現で攻撃した場合は、格好の批判のターゲットになりやすい。また、他者を攻撃するという投稿が多い人もターゲットになりやすい。

そのような表現は、ご自分の主張を鮮明にするために必要なことなのかもしれないが、仲間内以外の人間たちは、案外否定評価をして反発をしている可能性が高いのである。考えを一にしない場合は、初回発信者の怒りに至る事情についてはなかなか追体験できない。しかし、人間が攻撃されていることについては、感情移入をしやすいのである。誰かを攻撃する場合、それが正義だと思っていたとしても、他者は攻撃したこと自体に反発をすることが多いということは留意する必要がある。

炎上している投稿の初回発信者が正義感の強い人である場合は、十中八九従前に他者に対して容赦のない攻撃をする投稿を発信している。その投稿が「許容できないひどい投稿」か否かは、微妙な判断が入る。しかし、後続参戦者がその判断を失敗しないところも面白い。この投稿が「許容できないひどい投稿」だと大勢が感じるだろうという判断がなされると、秩序に反する意見表明であると瞬時に判断し、その投稿を排斥することで、秩序を形成しようとして、自分がその秩序形成行為に参画することで安心感を得る。これに対して、この投稿が「許容できないひどい投稿だ」という判断に確信が持てないときは、炎上が起こりにくい。

多数の批判を浴びたくない場合は、多くの人がひどいと感じる投稿表現は行うべきではないということは真実だろう。正義を主張するとしても、そのような煽情的な表現は必要がないはずだと思われる。

そう考えると批判の的になるのは、主張本体ではなく、主張方法、表現にあるのかもしれない。また、勝手に他者をグループ分けをして特定のグループの批判になっていたり、抽象的な特質に着目して攻撃をすると、知らないうちに多くの人々に対して批判、非難をしていることもある(先の2の要素)。この場合も炎上の一つのパターンとなっているようだ。

7 なぜ他者への攻撃表現に反発した人がその発信者を容赦なく追い詰めるのか

もしかすると、私の考察には矛盾があると感じられている人もいらっしゃるかもしれない。
それは、後続参戦者が炎上ターゲットの攻撃性に反発して参戦する正義感情が理由であるとするならば、ターゲットが集中砲火を浴びていることにかわいそうと思ったり、不正義を感じたりしないのかということだ。

それは正義という感情を理解すればよくわかることである。

正義という言葉は、攻撃の動機になる。それに怒りが伴う場合は、相手の不正義が消えるまで怒りによる攻撃が終わらないという特質がある。この特質は怖いもので、正義を理由にすれば戦争も遂行することができるほどである。何の縁もゆかりもない外国人を、正義を理由に殺害することができる。このため、明治政府はそれまで日本語になかった「正義」という言葉を作り出し、文部省は日本古来の御伽草子を勧善懲悪の話に作り替え、国民に正義と正義感情の教育を徹底した。

だから、反戦を望むなら、作られた正義概念による感情の高まりをいかに抑制するかということに力を入れるべきである。口では反戦だ平和憲法だと言っていたとしても、他国の紛争について正義の観点から怒りを制御せず、強硬に一つの立場をねじ伏せようとする勢力は、実質的には戦争のための地ならしをしている勢力だと警戒しなくてはならない。

炎上、すなわち後続参戦者の果てしない参戦は、正義感情から生まれる。正義感情から生まれたために、不正義を許さないという感情に支配されるのである。不正義に対しては、共感や同情は自然発生的には起こらない仕組みになっている。

その人の発言に対して炎上を起こす人は、不思議なほどにメンタルが強い。炎上があっても、それでへこたれず同じような間違いを繰り返し起こしている。そうこうしているうちに、繰り返し問題発言をする人は不正義の人格を持つ人だという印象が固定されてしまい、何を言っても不寛容な会社のもので批判されるようになる。

8 懸念するべきこと

このように見た場合、投稿が炎上するのは理由がないわけではないと言いうるのではないだろうか。SNSはルールがないため、一人の人に対する反論、批判の数の制限はない。その批判勢力が支配的になれば、それ自体に秩序を感じてしまい、相手は秩序を害する者ということになり攻撃は激化していく。

だから、炎上を招く自分の行動をそのままにして、参戦者らを攻撃することは炎上を起こさない行動ではなく、次の炎上を招いている行為だと言える。主張をすることの妨害者には容赦しないという態度は、一般の後続参戦者の参戦動機を阻害することにはならないだろう。当初の主張に対する賛同者も、元々の仲間からの拡大はあまり期待できなくなる。

ただ、無防備な投稿者に反して論客として認知されている反撃者は、このようなSNSの反応を熟知している。今のところ悪用がなされているとは思われないが、このノウハウを利用して悪用することはそれほど難しいことではなさそうだ。

つまり、意識的にターゲットを選定し(あるいはダミーとして発言者になりすまし)、後続参戦者が参戦しやすいように、論点を選定して正義感を発動させて、あえて全面的な批判をしないで後続参戦者が参戦して役割を果たす余地を用意し、炎上状態を作り出すということは、正義感がもてはやされている以上案外簡単だということである。SNSのもう一つの特徴は、本人の様子が見えないことにある。何がその本人の意図なのかも実際のところはわかりようがない。このために、簡単に騙される可能性があるということもある。

わたしたちは、正義感情から特に他者を攻撃する投稿に賛成をしようとアクションするときには、自分の正義感情を疑ってかかり、立ち止まって考えるべきことだということが炎上したSNSから学んだことである。

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現代社会の人間の慢性的に生じる不安の状態について 【300万ヴュー記念】 [進化心理学、生理学、対人関係学]



いつの間にか閲覧数が300万件を超えていました。これほど長文でとっつきにくい文章を読まれる方がいるということに敬意を表さずにはいられません。これまでの記事の中でところどころでてきたことですが、この記念ということを言い訳として、心と環境のミスマッチ総論についてのまとめをアップさせていただきます。

【要旨】
拙文は、現代社会の生きづらさ、不具合の根本に人間の心の問題があるということ、心は人間の心は狩猟採取時代に適合したものとして作られているため現代社会には適合していない部分が大きいこと、この環境と心の不適合(ミスマッチ)が現代社会に生きる人間の生きづらさの根源であることを述べています。

【比較対照する時代】
表題の現代社会の「現代」というのはいつを言うのかというと、とりあえず今日現在ということで考えてよろしいと思います。ではいつの時代と現代を比較するのかというと、昨日までということではありません。現在からおよそ200万年前から1万年前くらいの期間、人間の祖先が狩猟採取をして生活し、数十人から200人弱の群れで生きていた時代(狩猟採取時代)を対象とします。

【二つの時代の人間の生きる環境の違いで重要な2点】
現代と狩猟採取時代の違いで重視するべきは、2点です。
・ 日常生活で関わる人数
   現代は膨大な人数の人間とかかわることを余儀なくされています。インターネットを通じての関与者の人数を含めるとさらに膨大です。これに対して狩猟採取時代は、群れの人数は200人を超えません。
・ 自分が所属する群れの数
現代は、家族、職場、学校、それらの小分けされた利害集団、趣味のサークル、町内会、インターネットのグループ等々膨大
狩猟採取時代は、一つの群れだけ。
というところです。

【不安は、生き残るためのツールであるということ】
不安を感じる能力は、進化の過程で獲得した生き残るためのツールであると私は考えています。不安は、生き残るために有効な役割を果たすという表現の方が受け入れられやすいでしょうか。

・ 生命身体の不安
現代社会でも自動車の交通量の多い道路を横断することは、命の危険もありますので、横断しようとしても不安になるはずです。だから、きちんと信号機が交通整理をしている横断歩道を渡ります。不安を抱きやすい人は、青信号になっても、まだ走行してくる自動車がいないか確認してから横断歩道を渡り始めますから、より安全に横断することができます。
この反対に酒を飲んで酔っ払って、不安を感じなくなって(=気が大きくなって)横断してしまった結果、交通事故にあうということはよく報道されている通りです。不安が交通事故を予防してくれるのです。

もう一つ例を挙げると、寒暖差が激しくて腰に違和感があると、腰痛が出てきそうだと腰痛持ちの私は不安になり、腹巻をするとか、きちんと着込むとか、激しい運動を控えるとかして、腰痛になることを防止しようとします。

不安は、身体生命を害することを防止するツールという側面があることは間違いないようです。

・ 原因不明に発生する不安の効用
不安にもいろいろな発生原因があり、体調不良を心配した不安もあれば、人間関係の不具合の不安もあるでしょう。精神疾患の一部など原因不明の不安もあります。原因不明の不安については、何かの予防にはならないようにみえますが、不安によって活動を停止することによって、紛争を避けるという効果があるという学者さんもいらっしゃいます。誰かとけんかをするほどの精神的エネルギーがない場合、紛争に耐えられない精神状態になっているというとき、無意識のうちに、活動を控える、引きこもるという行動をさせて、耐えられない精神状態となることを無意識に回避している可能性があるかもしれません。

・ 対人関係の状態から生じる不安
さて、不安のもう一つの原因は、対人関係の問題です。
この不安も、自分が例えば職場で調子に乗ってやりすぎてしまい、顰蹙を買いそうだという空気を読んで、少し行動を控えるという形で人間関係に致命的な不具合を回避できれば、身体生命の不安のように対人関係的な不具合を起こさないためのツール、自分を群れにとどめるためのツール、群れから追放されないためのツールになると思われます。

中には、信号機のある横断歩道を渡るように、不安とは関係なく習慣やルールに従って行動をしているだけだと感じている人もいると思います。しかし、習慣やルールは、目的や機能があって存在しているので、元をただせば、不安に対する対応、すなわち危険防止という側面があると考えています。

人間関係を円満に、協調して過ごすために、様々なルール、道徳や法律などが存在していると思うのです。

【狩猟採取時代に適合した対人関係的不安 群れを作るツール】
この対人関係における不安のツール、つまり人類が心を獲得したのは、まさに今から200万年前だとされています。進化の過程の中で獲得したのですから、このツールが自然環境の中で人類が生き残るために、とても有利だったという事情があります。
その有利な事情とは、「群れを作る」ということです。不安を感じる心があったからこそ、人類は群れを作ることができたのだということです。

【群れを作ることの4つのメリット】
・ 捕食の危険回避と食料の獲得
人類は、単独で当時の厳しい環境に生き残ることは不可能でした。肉食獣などから身を守るということ、食料を獲得して動物性たんぱく質を摂取することを安定して行うためには、複数人の協力が必要でした。

群れが必要な理由は、捕食を回避すること食料を獲得することの外にあと二つあります。

・ 育児
一つは育児です。他の動物と比べて、人間の新生児は極めて未発達の段階で生まれてきてしまいます。馬の仔が生まれてすぐに立ち上がり歩きだすことと比べると驚くばかりです。これも頭脳を発達させてしまったのでしかたがありません。これ以上成長してから出産することが母体には無理があるからです。人間の幼体は10年くらい続きます。母親が出産が原因で命を落とすこともあるでしょう。どうしても人間の新生児を成体まで育てるためには、集団での養育が必要であり、群れが存在していなければならなかったということになると思います。

・ 概日リズムと群れ

もう一つの群れが必要な理由は、長生きをしなくてはならないということです。何せ繁殖能力を得るために、生まれてから十数年かかるということですから、それまで大人たちが養育させなくてはなりません。例えば18歳で出産した場合、その新生児を18歳まで育てるとしたならば、30年以上は生き続けることが必須となるでしょう。

天敵のいない動物であれば穏やかに長生きができそうな気もしますが、人類は、肉食動物に襲われる恐怖があり、また、動物を獲得できない期間が続けば飢えに苦しむことになります。ストレスが強く、なかなか長生きができそうにもありません。この長生きのためにも群れを作ることは有効だったと思います。

人間に限らず地上の動物には、体内時計があり、多くは昼間に活動して夜に休息しています。体内において生理的変化が生じていて、昼間は交感神経が優位になっており、血液が筋肉に流れやすいなど動き回ることに適した状態になっています。ところが、動き回ったり、緊張をしたりすることのデメリットとして血管などの臓器が傷つきやすくなるわけです。放っておけば、心臓や脳の血管が破綻して死亡に至ります。これが現代の過労死の仕組みです。ところが、都合の良いことに体内時計で夜を感じると、交感神経は沈静化して、副交感神経が活発になります。副交感神経が優位になると、緊張や動き回ることには適していませんが、血管などの臓器のメンテナンスが行われるようになります。睡眠をとることで疲れがとれるということで実感もできるでしょう。

個体や数人の群れであれば、夜行動物に狙われればひとたまりもないのでとても落ち着いていられません。夜間でも緊張状態が続き、睡眠などがとれない状態になります。まさに過労死をする条件が整ってしまいます。ところが群れが数十人規模になれば、肉食獣の方もおいそれとは襲いにくい状態になります。こうやって群れに戻れば危険が生まれないということを学習すれば、群れに戻ることによって緊張をほぐし、安心することによって副交感神経が活性化し、心身のメンテナンスがよりよく働くようになるでしょう。こうやって、人間は群れを作ることによって、安心感を獲得して、長生きが可能になったということが大切な視点であると思います。

【狩猟採取時代に適合するツールとしての心】
狩猟採取時代は極めて単純だったと思います。以下は、ダニエルリーバーマンの「人体」早川ノンフィクション文庫を元に想像をめぐらしてみます。

群れは、二つに分かれて狩猟採取チームと植物採取チームと別れていたようです。狩猟採取チームは、リーダーの統制に従って、小動物を集団でどこまでも追い続けて、相手が暑さと疲労で弱ったところを捕獲するという手法だったようです。植物採取チームは、小動物を狩れないときに備えて食べられる植物を採取し、子育てや老人、病人の介護をしていたようです。やはりリーダーの統率を受けていたと思います。リーダーは固定していたかどうかは不明ですが、リーダー以外の人間は、率先してリーダーに従うという秩序を重んじることを志向していたはずです。それぞれのチームは昼間に交感神経を活性化させて、活動し成果を上げていたことでしょう。そして、夕方にそれぞれの成果を持ち寄って群れに合流していました。何世代にわたって、チームでいるよりも合流した方が、危険を回避し、食料を得られるということを学習していきました。自然に群れが合流すれば、安心感がわいてきて、リラックスできたのだと思います。

このころは、群れの中は完全平等だったと言われています。それも、心の作用によって、平等が保たれていたのだと思います。つまり、先ず、誰かが自分だけが食料を多くとったら、他の者から恨まれますので、群れから外されるという不安が生まれます。群れから外されるという不安を回避するために、自分だけ多くとるということをやめようとしたというのが一つの理由です。また、生まれてから死ぬまで同じ群れで育っているので、だれがどういう表情をしているときはどういう気持ちなのかよくわかったはずです。人類には共感力がずば抜けて発達しています。仲間のひもじい気持ち、寂しい気持ちを感じたら、自分も火文字い気持ち、寂しい気持ちになったはずです。だから誰かだけ多く与えられて、誰かだけ少なく与えられるということは無かったはずです。

特に弱い者、小さいものに対しては、助けてあげようという気持ちが自然と沸き上がり、大人が我慢しても弱い者には無理にでも分け与えていたと思います。

このような平等主義と弱者保護の心は、当時の自然環境にはよく適合していたと思います。なにしろ、捕食されることを回避するにも食料をとるにも、群れの頭数が足りていることが必要でした。強い者から食料をとっていってしまうと、弱い者にまで十分に食料が回らないために、弱い者は厳しい自然環境の中死んでいくしかなかったはずです。そうしてしまうと、群れの頭数がどんどん減っていきますから、どんなに強い個体が生き残ったとしても、肉食獣の餌食になりやすくなりますし、食料を確保することが難しくなってしまいます。こうやって、群れの弱体化は人類を簡単に滅亡させることになってしまいます。

もっとも当時の人類が、このような成り行きを論理的に考えて、理性的に平等主義、弱者保護の心を発揮したと考えるには無理が大きいと思います。あくまでも偶然、平等主義、他者への配慮、弱者保護の志向を持った人類の一部だけが生き残ったという方がわかりやすいことだと思います。

当時の群れは必ずしも血縁関係があったものだけではないようなのですが、現代であれば、弱者を保護しようとして自分の食料を分けてしまえば、家族から攻撃されることもありうることでしょう。取引相手につい過剰に熱を入れて相手に有利な取引をすれば会社から処分されることもあるでしょう。しかし、何と言っても群れは一つしかありませんし、群れの大方の評価、誰が弱者であり特別な配慮が必要なのかという見解はおそらく共通のものであったと思われるので、援助や協力を非難する者はいなかったと思われます。

群れの構成員は、群れの役に立つことが嬉しかったのだと思います。例えば食料をとることによって、みんなに食事をさせることができると思えば、仲間が喜ぶ顔、満ち足りた顔をすることをイメージして、自分も嬉しくなったことでしょう。

逆に、自分が群れの役に立たなくなったと思う人はいたたまれなくなったかもしれません。群れからはぐれれば捕食の危険と餓死の危険が付きまとうわけですから、いたるところ姥捨て山です。あるいはそっと自分から群れから外れようとする者もいたのかもしれません。しかし、そのことに気が付いて、その人の寂しい心を読み取り、自分がものすごく悲しい気持ちになったり、死の危険を覚悟する心に共感してしまえば、狩猟に出られなくてもいいから群れにとどまってほしいとみんなが思って引き留めたということがあるのではないでしょうか。また、狩猟採取時代は、やらなければならないこともたくさんあったので、なにがしかの仕事も分け与えられたのではないかと、そんなことを想像しました。

おそらく、狩猟採取時代は、群れと自分が区別がつかないほど、精神的にも利害が一致していたはずです。病気やけがなどによる弱者ではなく、何か失敗をしてしまったというときも、その人が失敗したことで群れから追放されるのではないかとか、群れに迷惑をかけたことを悔いている姿があれば、大目に見たのだと思います。困っている感情に共感してしまうからです。

狩猟採取時代の人類は、自分が仲間から外されることは無いという安心感を基本的には持っていたはずです。仲間は一生仲間であり続けるということを疑う者もいなかったと思われます。

こうして衣食住が極端に粗末で、衛生状態も悪く、簡単な病気でも死んでしまうような時代に、一人では肉食獣に捕食されてしまい、エサも取れない頭でっかちの人類も生き残ることができたのだと思います。

【現代でも、狩猟採取時代の心が継続しているということ】
現代社会はどうでしょうか。

現代でも人間の心は狩猟採取時代の心と基本的には変わりません。人類の心は狩猟採取時代の前から徐々に形成されてきたものである上に、狩猟採取時代が200万年くらい続いていたものですから、狩猟採取時代が終わった1万年程度では変わりようがないのです。

通常の人間は150人以上の他人の顔と名前と、性格などを識別することができません。誰かが誰かを助ける姿を見ると感心したりします。無力な赤ん坊を見るとかわいく思い、つい助けおうと思うわけです。本当は人間の心なんて何も変わっていません。頭蓋骨や脳の構造も200万年前からそれほど変化は無いそうです。

道徳でも、宗教でも、倫理でも、あるいは哲学でも、根本的な価値観は私は共通していると思います。それが狩猟採取時代の心にもとづく価値観です。

【心と環境のミスマッチの形】
現代社会と狩猟採取時代の違いをおさらいから始めます。

【かかわる人数が膨大であること】
 
例えば出勤を考えてみましょう。朝起きて家族と朝食をとるなどしながらあわただしく出勤します。駅までの道すがらすれ違う人もいるでしょうし、道端の家に人々が住んでいるということもあります。マンションなどでは道に出るまでも近くに他人がいます。電車やバスに乗れば、触れ合う距離に見ず知らずの人がいますし、電車を降りて都心に出れば大量の人間と道を共有しています。会社のビルには自分の会社の従業員だけではなく、他者の人間もたくさんいます。そして会社に付けば、会社の規模によっては名前も知らない同僚もいるわけです。外に出て取引相手と会う、それまでの通路等々、キリがありません。
 物を買うとか、病院に行くとか、ほとんど何も知らない人と会話をするということも避けられないことです。
 さらに、SNSなどでの交流がある人は、本名も顔もわからない人たちと感情を含んだやり取りをすることもあるでしょう。また、世論によって社会が動くとすれば、知らない誰かと利害が対立していることもあるでしょう。誰かの都合で自分が損をしていることもあるかもしれません。

 これに対して狩猟採取時代の他者とのかかわりは、群れの仲間とのかかわりがほとんどすべてでした。200人弱、大体150人くらいが、その時その時の関わる人数でした。狩猟採取時代と現代の一番の違いは、狩猟採取時代は関わる全ての人間を個体識別できたということです。その人の性格や、行動パターン、志向や、得意不得意、長所短所等、本人よりも把握していたでしょう。共感や援助の土台がしっかりしていました。

 現代社会の他者は、どこの誰かもわかりません。どのような生い立ちであるかとか、何を大事にしているかとか、性格がどうかとか、長所短所など全く分かりません。人間の形をしていることは間違いありません。しかし、動物種としての人間であるという認識は持てても、当たり前の感情を持った人間であるということや、その人間が不利益を受けて悲しい気持ちになるということ等は、積極的に考えようとしなければ自然に感じることは無いでしょう。

相手が見えないあるいは見えにくい犯罪類型というものもあります。自分がこの犯罪をすることで誰がどのように傷つくかということを想定しないで犯罪を実行するというパターンです。自分の事情だけで誰かを損をさせたり、傷つけることをしようとしたりしているのに、その時に相手の苦しみを想像することができません。万引きなどの窃盗、詐欺や恐喝、性犯罪等、多くの犯罪で、被害者の感情を考えないで犯罪が実行されています。

【所属する群れが複数あるということ】

 狩猟採取時代は、生まれてから死ぬまで原則として一つの群れに所属していたようです。
現代社会では、いくつもの群れに所属しています。家、学校、職場、ボランティア、サークル等や、地域、国、民族、軍事同盟等知らないうちに特定の群れに所属していることも多くあります。

 学校では仲の良い友達同士なのに、親同士は対立する会社に勤めていたりすれば、関係は複雑になっていくでしょう。この問題は、人類のテーマになっており、ロミオとジュリエット等の文化芸術作品でよく取り上げられています。

【自分を守る、自分たちを守るという本能】

現代社会で生きずらい理由を考える補助線を一つ入れるとすれば、生き物である以上自分を守るということが一つと、人間が群れを作るということから自分たちを守る、自分の仲間を守るという本能があるということです。

 狩猟採取時代は、利害対立ということが実際は起きませんし、仲間を食い物にして自分だけ利益を得ようということがそもそもできない仕組みになっていましたから、他人から自分を守るという論点がほとんどなかったはずです。子ども同士のけんかということはあったと思いますが、成人してからは無駄なけんかもなくなったはずです。
 また、仲間を守るために行った闘争は、野獣からの防衛戦であったり、獲物を捕獲するための闘争だけだったはずです。仲間を守るために他の人間と戦うという経験がなかったと思われます。
 その結果、狩猟採取時代は、自分を守る為であろうと仲間を守る為であろうと、人間と利害をかけて戦うということは無かったはずです。およそ人間は仲間であり、自分を尊重してくれる存在、自分を援助してくれる存在、自分を許してくれる存在、自分に利益を与えてくれる存在、自分が役に立ちたい存在だったはずです。

【人間、他者の意味合いが変わる現代社会】

現代社会では、狩猟採取社会とは、他人という概念が随分変わりました。

第1に、見ず知らずの人間が多数存在しているため、人間として親身な関係のない人間が存在しているということ。
第2に、所属する群れが複数存在するために、他者とはなにかしら利害対立することが通常のこととなったこと

【それでも仲間としての扱いを求めてしまう人間】

一番厄介な根本問題は、人間は人間を見ると仲間だと思ってしまうということだと思います。仲間であるから仲間として接してほしいと、つい思ってしまうこれが悲劇の始まりです。

狩猟採取時代、他人とは、生まれてから一緒にいる群れの仲間しかいませんでした。だから他人を見ると、何かの拍子に、つい、自分を平等に接してほしい、自分の苦しい感情に共感して自分を助けてほしい、自分に平等に分けわたえてほしい、自分を配慮してほしい、自分を見捨てないでほしい等と、無意識のうちに要求をしてしまうようです。それが満たされないと、いちいち傷ついたり、悲しんだり、自分に自信が無くなったりしてしまうのです。

特に、その人間が、長い期間自分の近くにいるという事情が生まれると、その仲間として扱ってほしい、仲間として尊重してほしいという要求が大きくなってしまうようです。

ところが、先ず他者は自分を仲間だとみてくれないし、利害共同体だとも見てくれない、自分に損をさせてその人が利益を得ようとする場合もある。自分を攻撃してくることがあるわけです。

ある人から攻撃を受けて、その人に反撃をするということは止めることができないでしょう。しかしややこしいことに反撃をした場合には、その反撃された人の家族であったり、友人であったり、その人を仲間だと思っている人から再反撃をされるということが起こりうるのです。

犯罪として刑罰を受けるべき行為も、その人の意識では自分を守るために行っているという意識を持つ類型があります。自分が人間として否定されたと感じたために相手に暴行をふるう形態の犯罪、少年事件の集団同士の決闘などはまさにそのような犯罪です。粗暴犯はそのような犯罪類型が多いでしょう。自分の飢えを満たすための窃盗事件などは、自分を守るための犯罪類型と言えるかもしれません。

相手を攻撃している瞬間、怒りの作用によって、相手が人間であることを忘れてしまうかのような容赦のない攻撃をします。相手が自分を襲ってきた野獣でもあるかのようにです。

犯罪にまで至らないにしても、例えば夫婦喧嘩などは、本当は仲良く関係を継続したいのに、相手からパートナー失格の烙印を押されそうだと感じて、それを否定するために口論になることが多いのです。でも口論をしているときは、相手を尊重するべき存在だということを忘却しているかのような攻撃がなされることがしばしばあるようです。

【心と環境のミスマッチの例】
この環境と心のミスマッチは、いたるところで生じてしまい、人間に不安を与えてしまいます。

・ 例えば会社の上司は、特定の部下だけを特別扱いするわけにはいきません。誰かを特別扱いすれば別の人が損をしてしまうという利害対立の関係にあります。現代の労務管理はその利害対立を利用して働かせようとするパターンもあり、意図的に孤立感情が作られやすい環境に置かれていると言えるかもしれません。
その人の失敗を上司がかぶってしまうと、上司が損をしてしまいます。上司が自分が損をしても部下を守ると言う人であったとしても、上司には家族がいます。自分が損をすることで家族まで損をしてしまうことはできないでしょうし、また会社の自分に対する評価が下がることを家族に知られたくもないでしょう。
たとえ部下に家族がいて、子どもが生まれたばかりだとしても、上司は自分を守るために部下をリストラするということも起きることです。

・ 学校でも、友達が困っていたら助けたくなるのが人間の心ですが、うっかり友達の孤立に寄り添って帰宅が遅れたり、塾に行かなかったりすると、親から叱られたりするわけです。親から叱られることが嫌だったり、親が心配することが嫌だから、そもそも友達に対して共感に基づく行動をしないということはよくあることでしょう。
また、教室の中にいくつかのグループがあると、他のグループを助けることで自分のグループやグループの仲間が損をするようなことがあれば、おいそれと他のグループに手を差し伸べることができません。

・ また、見たこともない人と利害が共通することもあれば、利害が対立することもあります。税金の徴収方法一つとっても、自分にとって有利な徴税は誰かにとって不利な徴税になるわけです。あの事業のために予算が使われれば、自分の関連する事業に予算が削られることが出てきます。

・ 戦争をしなければ生きていけない人もいるでしょうが、そうでもない人も戦争が始まれば戦争で命を落とすかもしれません。

・ 家族でさえも一生同じ群れというわけにはいかないことが多いようです。仲間の取り換えが利く時代ということにもなると思います。膨大な数の人間とのかかわりと複数の群れに同時に帰属するスタイルが定着してしまい、およそ人間だからと言って、尊重する相手だとは思わなくなってしまっているのだと思います。誓い合って結婚した夫婦でさえ、いつしか、相手を信じ切ることが怖くなってしまうのでしょう。

 人間はいつまでも同じ仲間である群れの中で、安心して暮らしたいという本能、心を持ってしまっています。ところが現代社会では、どんな人間関係でも永続して安心してその関係に所属し続けるという保証がありません。意識していると意識していないとにかかわらず、常に自分の仲間から孤立してしまうのではないかという不安を抱きながら、生きている人が圧倒的多数ではないかと思います。

 不安は、自分を守ろうという心と行動を引き起こしてしまいます。しかし、この自分を守ろうという心と行動は本能的に、感情的に発動してしまいがちであるため、他者からは自分が攻撃されたと感じることもあるでしょう。あるいは、自分としては正当な自己防衛だと思っていても、考えが足りずに犯罪になることもあるでしょう。夫婦や人間関係の紛争の火種になるものです。

また、将来的な見通しを立てられない原因としては、不安が持続することによる脳の機能低下も挙げられます。不安が持続して焦燥感が強くなると、二者択一的思考、悲観的思考、刹那的な行動傾向、衝動的な行動傾向が強くなります。
さらには、睡眠不足を引き起こし、ますます脳の機能低下が進んでしまいます。

これが社会病理の起きる仕組みであると考えています。

【若干の対策として考えられること】

本当は、本人にとって大切な群れと大切ではない群れがあるはずなのです。ところが、どの群れからも自分が尊重されたいとつい思ってしまうのが人間のようです。特に、いつも一緒にいる群れは、自分にとって狩猟採取時代の群れとして感じてしまいます。その結果、その群れに無条件にとどまろうとして、群れのために全力を尽くそうとしてしまいます。群れから外されそうになっていると感じると、無意識に群れにとどまろうと努力をしてしまのです。そして群れから外されることが決定的になってしまい、とどまる方法がないというだけで、絶望をしてしまうのが人間のようです。その群れ以外にも人間は所属している群れがあり、その群れでは良好な関係であったとしても、一つの群れで決定的な不具合が生じてしまうと、つい絶望をしてしまうということのようです。

過労自殺はまさにこうしておきます。本当は家族と良好な関係にあるにも、職場という毎日身近に存在する人間関係の中で、自分が追放されてしまうような評価をされてしまうと、つい職場にとどまろうと必死になってしまい、職場こそが自分が命を懸けてとどまる群れだという意識が無駄に強くなってしまい、無駄に絶望を感じてしまうのが人間のようなのです。

人間の脳は、複数の群れに所属することにうまく対応するほどの能力はありません。
だから、先ず、全部の群れで尊重されようとしないで、群れの序列を作るべきです。そして、基本的には一つの群れに所属するようにしか人間の脳はできていないのだから、一番大切な群れを決めて、意識して、その群れの利益を最優先にすることを意識的に行うことが必要だと思うのです。
狩猟採取時代のような群れを一つ作るということです。そこに帰れば自然に安心できる群れを作るということです。そして、その群れを何よりも優先して考える。そういう割り切った生き方をするということです。

それに一番適している群れとは家族であろうと思われます。

家族のために役に立つことで喜びを感じ、家族が喜んでいる姿を見ればわがことのように喜ぶ。家族が失敗しても許しあう。

たとえ家族から攻撃を受けても反撃をしない。耐え続け、戦いを避けて静かに身を潜め嵐が過ぎ去るのを待つ。要するに家族から攻撃されても、自分を守ろうとしないということです。

そうして、家族同士が、家族は絶対に自分を見捨てないという安心感を獲得するということが現代社会を生き残る最も効果があり、実現可能な切実な方法だと思うのです。

但し、現代社会の構造からは、先に見たように、放っておけば、家族同士でも安心できない相手だと感じるようになりがちです。

だから、人間の心の安定、充実した人生を送るためには、意識して家族を安心できる存在に育てていくことこそ必要だと思います。人類は、現代社会が人間の心とミスマッチを起こし、不具合を起こしやす構造的問題があるということを強く意識して、総がかりで対策を講じるべきだと思います。

これが現代社会において理性的な取り組みが必要な人類の課題であると考えています。

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福岡5歳児餓死事件を題材に洗脳について考える 新たな犠牲者を出さないための方法を確立するために [進化心理学、生理学、対人関係学]


福岡県で、令和2年に起きた5歳児の餓死事件について、福岡地方裁判所は実母に懲役5年(控訴中)、知人女性に懲役15年という判決をだしました。

保護責任者遺棄致死罪という罪名でした。この犯罪は保護者という身分が無ければ犯罪は成立しません。保護者は実母ですから、このような犯罪の構造からすれば、主犯はあくまでも実母のはずで、知人女性は共犯者にすぎません。それでもこれだけ極端に処断刑が異なるのは、実質的には知人女性が主犯で、実母が共犯的な役割だったと判断していることになるのだと思います。

福岡地方裁判所の第2刑事部の判決を読んでみましょう。これは最高裁判所のサイトの判例検索で誰でも読むことができます。

なぜ主犯である実母が共犯者よりも刑が軽いのかという点では、判決5頁から理由が述べられています。
1 実母が知人女性の嘘に騙されて金を巻き上げられて、知人女性に依存しなければ食料も手に入らない状態だったこと
2 家族らとの人間関係も遮断されて相談いなかったする相手がいなかったこと
3 食事と睡眠が不足し、判断力が低下していたため知人女性に従わざるを得ない状況だったこと
4 自らの楽しみを優先させて子どもを放置したとは言えないこと
5 経済的にも搾取され、心理的にも支配されていたから強く非難できないこと
とされています。

私は証拠を見ていないので、判決の当否に言及できる立場ではありません。私が言いたいことは判決の当否ではありません。私が言いたいことは、二つです。第1に、ここまで極端ではないけれども、洗脳のメカニズムによって話を真に受けて、子どもに対して深刻な不利益を与えている親というのは意外と多いものだということ。第2に、洗脳のメカニズムを解明によって対策を講じて、同じような被害者を作らないということです。

この二つの問題は、今回の事件のようなケースだけでなく、日常の母子関係、夫婦問題、職場等の人間関係、もちろん宗教などのカルト的洗脳から家族を守る問題にも応用がきく問題だと思っています。

事件の事実関係については判決を基本として、これまでの新聞報道やテレビニュースで報道された内容で補っています。

事件報道については、知人女性の方がより注目され、知人女性が一方的に実母を支配していたとして非難する傾向にあり、知人女性の情報が豊富に提供されています。しかし、私が新たな犠牲児童を無くすために注目するべきだと考えるのは、実母の方です。確かに支配は一方的に行われるものですが、大人同士において支配を可能とする人間関係形成は一方的には行われえないと思っています。この支配、被支配の人間関係形成のメカニズムこそ解明するべきだと思っています。そして支配服従関係に入らないようにすることこそ最も大切なことだと思います。嘘をついて騙されたということで、そのような関係ができるものか疑問があるわけです。なぜ嘘をつかれてそれに従ったかということこそ大切だと思います。

また、支配を受けていたからと言って、実母が、どうしてわが子がやせ細っているにもかかわらず、「長期にわたって」食事を与えないということを「繰り返す」ことができたのかということも考えなければなりません。子どもの状態を見て、もはや限界であり、すべてを投げうって救急車を呼ばなかったのかということです。あるいは呼べなかったのかということです。

そのことを考えるためには、本来は実母の人となりを知らなければなりません。少なくとも、知人女性の洗脳が始まるまでに、何らかの身体疾患が無かったかということはぜひとも知りたいところです。

但し、一つだけ情報があります。知人女性と出会ったのは、平成28年とのことです。児童が5歳で亡くなったのは令和2年4月18日です。何月生まれかはわかりませんが、死亡前4年前で知り合ったのですから、児童は1歳くらいだったということになりましょう。全くの「可能性」の範囲を出てはいませんが、産後うつの状態にあった可能性があるということは言えると思います。

産後うつに限らず、いくつかの内科疾患にかかると、わけもなく常に心配ばかりしている状態になることがあります。特に産後うつの場合は、成人男性に対して安心感を持てなくなってしまい、夫に対しても警戒をするような状態、あるいは、信用ができない状態になることがあります。多くの離婚原因あるいは離婚の背景となっていると感じています。

この常に心配ばかりしている状態、安心でいない状態という、心の状態が問題なのです。洗脳がかかりやすい人は、何らかの心配をしている人で、何を心配しているか自分でもよくわからない人です。
但し、専門的な洗脳集団の場合は、このような心配を人為的に作り出して、その心配に乗じて行動を支配します。専門的な洗脳集団とは、カルト宗教を念頭に置かれると思いますが、それだけではなく職業的な詐欺も一種の洗脳の手口を使います。母親が子どもに対して、意図しているか否かはわかりませんが、洗脳の手法を使うことも見られます。

これまでの報道を見る限り、おそらくこの事件では、知人女性に専門的な知識や技術は無かったと思われます。専門的知識のない場合でも、今回の実母のようなターゲットが元々心配を感じすぎる傾向にあれば、洗脳が成立する可能性があります。

心配をする人は、心配したくて心配をしているわけではありません。むしろ、人一倍心配から解放されたい、安心したいという強い要求をもっています。また、本人だけの力ではなかなか心配を止めることができませんし、心配ばかりすることを責めることもできません。

わけもなく心配する人は、やがて他人から疎ましく思われることがあります。赤の他人のわけのわからない心配の面倒を見るということは負担にすぎますので、近づこうとしなくなってしまうわけです。あなたの心配を自分が心配を引き受けましょうと言う人は現代日本にはめったにいないわけです。これは必ずしも不誠実な態度ではありません。心配をしている人がいれば安心させたくなるということが前提となります。自分が安心させることができないから、ただ心配を聞くのがつらくなるということであれば、誠実な人だと思います。

もし無責任に、面白がって、ターゲットの心配に共感を示すふりをして、自分に任せれば何事も大丈夫という態度を示す人がいれば、心配が止まらない人からすればとても頼もしい人、頼りになる人という気持ちが芽生えることは想像できると思います。四面楚歌の中、味方になってくれる人というのは自分を助ける蜘蛛の糸のような存在でしょう。

残念なことに、産後うつの場合は特に、夫がその蜘蛛の糸にはなれないことが多いようです。産後うつの場合、夫がいくら家事をしても、妻はそれほど感謝する気持ちはわかない傾向にあることが多いです。夫から感謝や励ましの言葉があっても、なかなか肯定的感情がわかない、あるいは持続しません。言葉が右から左へ消え去ることが多いのです。しかし、それほど懇意ではないとしても年長の経産婦から共感を示されたり、不安を肯定されたりするとひと時安心し、報われた気持ちになることが多いようです。

今回の事件の知人女性が豪放磊落な人で、上手にターゲットである実母の心配に付き合うことができていたならば、ターゲットは知人女性と一緒にいることで安心感を得るという体験をしてしまったかもしれません。

さらに、ターゲットが人づきあいが下手でPTAなどで居場所が無い状態だったりして孤立を抱えていたのであれば、知人女性がターゲットのために居場所を作るとか、ターゲットが困っていることを助けるような出来事があれば、ターゲットはこの知人女性と一緒にいれば自分は安心だという学習を積み重ねていくようになったと思われます。次第に知人女性が地獄に落ちた蜘蛛の糸のように、あるいはトンネルの先の明かりのように、ターゲットからすれば見えてきたのかもしれません。

当初のターゲットの心配が、何も理由がなくて起きていた心配だとしても、知人女性がターゲットとの関係をどんなことがあっても断ち切らない、「私はあなたを決して見捨てない」というような態度をとれば、この人と一緒にいていつまでもこの安心感を抱き続けたいという気持ちになっていくようです。「自分の唯一の命綱」だというような依存心を形成してしまうようです。つまり不安の理由は人間関係、精神的問題、内科的問題など、様々な類型の理由から発生するのですが、そのどこかで強く安心できる事情があれば、不安を忘れることができ、その安心に飛びついてしまうということなのだと思います。

こうやって、理由不明の心配を知人女性との関係の結びつきを強くして消し去り安心しようとしてしまうと、ターゲットの心配は「この知人女性から見放されるのではないか」という心配にすり替わっていきます。何せ唯一の命綱なので、それが失われることを想像すると恐ろしくなるということは理解ができることではないでしょうか。

心配をしたくない、安心したいという気持ちは、かなり強い要求のようです。不安を解消するためなら、冷静に考えると考えられない不合理な行動を起こします。犯罪が起きる最初には、よく調べれば、この不安解消行動から始まっていることが多いです。自死も、不安解消のために命を落として不安を感じなくしたいということが衝動的に起きる類型も少なくありません。人間は、心配し続けることが苦手な動物のようです。このメカニズムはもっともっと注目され、研究されるべきだと思っています。

ところで、「それはそうかもしれないけれど、好き会って結婚した夫がいるではないか、子どもまでいたのに、そんな知人女性の口車に乗って離婚なんてできるものなのか」という疑問をお持ちの方もいらっしゃるでしょう。

これは、離婚事件に立ち会う職業としては、特に現代日本では、多く見られる離婚パターンだと感じています。実際第三者の「アドバイス」によって、夫が危険な人物だと思い込み、嫌悪、憎悪して離婚を申し立てる事案は決して少なくありません。その背景として、妻に理由のない心配があることも同じです。また、産後うつの場合は、出産後脳の活動形態に変化が起きてしまい、新生児に共感が向く結果成人男性に共感が向かなくなり、結果として自分が孤立していると感じるのではないかとされているところです。出産後、夫が従来の夫では安心できない同居人という最も警戒するべき対象となってしまいかねません。出産後は、ことさら妻を安心させる努力を具体的に行う必要があるということです。

もし、本件の実母が本当に洗脳されていたのであれば、夫が浮気をしたなどとウソをつかれなくても離婚をしたと思います。知人女性がターゲットを離婚をさせたがっているということがはっきりすれば、依存しきっている知人女性の意思を先取りするでしょう。判決が示した事実よれば、どう考えたって嘘だと思う夫の不貞の内容を告げられてターゲットが信じたと言っていますが、どうなのでしょうか。離婚をすることで知人女性との結びつきが強くなるというプラスの期待と、離婚をしないことで知人女性から見捨てられる不安が相まって離婚をしない選択肢が無くなったとしたならば、とても分かりやすいと思います。

ターゲットである実母は、知人女性の明らかな虚言によって、自分の実家とも疎遠になりました。どんなに洗脳されていても本当に真に受けたとは思えませんが、それを真に受けたというよりも、自分と知人女性との結びつきを強める事情として知人女性の意図を忖度して実家との連絡を絶ち切った可能性があると思います。夫と離婚した構造と全く一緒です。

このあたり知人女性は、かなり努力してターゲットの孤立化を画策しているのですが、その努力の結果によってすべて成功したと思ったのでその後かなり調子に乗って金の巻き上げなどにエスカレートしていったことは理解しやすいと思います。

初めから金を巻き上げようとしたというよりも、何でもかんでも言いなりになるのが面白いということと、実際に支払いに困っているなど、金を使う事情があったので、金も巻き上げようということになったというとかなりリアルに理解ができるような気がします。

ここで、知人女性は架空のボスという暴力団関係者の存在をにおわして騙しにかかっているということをしているようです。ターゲットはこのことにおびえてさらに知人女性の言うことを聞いたような認定がなされているのですが、やや違和感を覚えます。つまり、ターゲットがどこまで暴力団関係者が背後にいるということを信じたのかということについて疑問があるということです。

単純に言えば、ボスという第三者が直接こちらに働きかけるのであれば、知人女性が自分を見限ったということですから、もはや見捨てられる心配はしなくてよいことになってしまうからです。ボスがどんなに怖くても、知人女性が自分を見限らないという望みが無ければ洗脳が解けてしまいます。

ボスというのは知人女性の権威付けとして作用したというならば理解できます。そういう力のある人が知人女性の味方、スタッフにいるということで、知人女性がより頼りになると思い、信頼感、安心感が増したということならば、よくわかります。

既に、子どもに食事を与え無くなる以前に、ターゲットは知人女性に洗脳され切っていたということはその通りなのだろうと思います。大切なことは、そのような人間に、洗脳されないようにすることだということになろうかと思います。

洗脳され切った後では、その人との関係が途切れないことが最優先事項となってしまい、また空腹と睡眠不足によって、思考力が低下していますので、お題目を唱えるように、知人女性から見捨てられないことが最優先の行動原理になっていたと考えられます。言われることに抵抗することができなくなってしまうのです。

それでも、丸一日5歳の子にご飯を食べさせないということですら、空腹の顔をしているわが子であり、やせ細って標準体重の60パーセントになっている子供を見ても、なお10日間も食べさせないということが、どうやってできたのかについては疑問がなお残るところです。類似の事件もあることから、実際にあったことなのでしょう。もちろんわが子を見てかわいそうだなとは思ったことでしょう。そういう感情が、子どもに適切な栄養を与えるという行動、逃げ出すという行動にならなかったことに洗脳の空恐ろしさを感じるほかありません。

何としても、次の犠牲者を出してはなりません。

キーワードは、人の心配に向き合うということです。

先ず、産後うつかそれ以外の理由かわかりませんが、実母の心配、不安を家族が吸収するシステムを強化することです。

心配のシステムをよく研究して、それをどのように吸収して安心してもらうかということをもっともっと研究して対処方法を普及する必要があります。

一言で言えば家族強化です。この場合の家族は、最終的には両親と子どもという最小単位の家族ですが、その家族を強化するためには双方の実家を含めた安心できる人間関係を積極的に構築していく必要があると思います。家族からは決して見捨てられないという安心感を相互に持たせるのが家族なのだと私は思うようになってきました。

この家族同士のコミュニケーションに背を向ける家族(本件で言えば実母)がいたならば、拡大した家族が協力してこちらを向かせる必要があると思います。

はっきり具体的に言える理由が無いのに、離婚を考えているような場合は、実際に何らかの洗脳がなされている可能性があります。拡大された家族コミュニティーによって、離婚を申し出る人の心配を意識して聞き出して、どちらが悪いなどという話を抜きに、相手にも協力してもらい、安心ができる人間関係を形成する努力をするべきです。

ところが現代日本は、理由のない心配や産後うつによる成人男性不審について、励ましたり、窘めたりすることがありません。「離婚をしたくなったら、理屈ではなくそれまでよ。あとはどうしようもならない。」という割り切りの良い人間が当事者の周囲には実に多いです。これまでの日本では考えられない風潮が存在してしまっています。妻の両親など、第三者から見ればこれを良いことにさっさと離婚をさせて、自分の老後の面倒を見させようとしている場合もあります。

家族を強くするということがないと、今回の事件が防げないばかりか、過労死などの本人の自覚しないままの健康状態の悪化を防ぐことが難しいと私は思っています。

今回の実母の離婚理由は、あまりにもばかばかしいものであるため、たとえ洗脳を受けていたとしても、それその通り信じていたとは到底思えません。離婚したいのなら仕方が無いという割り切りすぎは間違いだという良い例だと思います。

また事後的ですが、一人が孤立したり、変な人物がまとわりついているような場合は、それに気が付く本人以外の人間の協力がどうしても必要です。本件では子どもは要保護対象者になっていたようですが、保護は実際なされませんでした。実家などからの保護の要請があれば結論は変わっていたかもしれません。そのためには子どもたちの現状を知りうる状態を作ることがどうしても必要です。

親権者ではなくなったとしても、父親の保護要請を児童相談所が聞き入れる制度を作るべきだと思います。この意味でも面会交流は定期的に実施されなければなりませんし、できるならば子どもといっしょに入浴ができるような宿泊付面会が望ましいと思います。

孤立と反対の行動を多く取り入れることが有効であることはよくお分かりになると思います。

現状の家族、特に夫婦をめぐる行政傾向は、この反対の行動、すなわち、家族を孤立化させている傾向にあるように思われてなりません。確かに行政が個別家庭に介入するには限界があると思います。だからこそ、子どもの健全な成長を政策として最優先し、子どもの関係者が子どもを見守ることができるような家族を中心としたコミュニティーを形成しやすいようにすることで、児童の虐待死を防ぐという発想の転換が急務だと考えています。


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不安の原因と不安の形の小まとめ その上でネットの匿名による攻撃が自分が有能であり権威に貢献できるということを示したいという心理に基づいているということ 不安シリーズ7 [進化心理学、生理学、対人関係学]



不安の発生原因については
大きく分けると3種類あって
A) 生命身体の危険の認識
B)人間関係の中の孤立の予期不安
C)生理的変化、病気、あるいは薬の副作用による脳の誤作動

ということになりましょう。AとBは、ある意味不安の合理的な発生です。何か自分に危険が迫ったことを認識することによって、不安という生理的変化が起きるわけです。

ところが、どうやら合理的理由がないのに、つまり何も危険がないのに不安を感じてしまうのが人間のようです。理由のないうつ病、内科疾患の合併症としての不安、薬の副作用としての不安、頭部外傷による不安をはじめとして、人間は理由がない不安に苦しむということが多く見かけられます。また、この「理由はわからないけれど、不安を感じていることが確実だ」という漠然とした不安というのが一番厄介で、問題行動を引き起こす原因となったりするようです。

不安になれば人間は不安を解消したくなりたくなり、不安を解消する行動をとろうとします。
身体生命の危険がある場合は、危険の場所から離れようとすることが基本です。

対人関係の孤立を予想した場合は、孤立の原因を修正することによって何とか孤立を回避するということが合理的な行動となるでしょう。

しかし漠然とした不安は、原因がわかりません。とりあえず、「対人関係の孤立の予期不安に対する解消行動」をとろうとすることが多いようです。

さて、ひとたび不安を感じてしまうと、人間の知能や心理状態がどのように変化するかのまとめですが、基本は、「自分が所属する対人関係の中に未来永劫とどまることができるという安心」が欲しくなるということです。
<対人関係永続性の保証要求>
・ 仲間として尊重してほしい=人間として肯定的評価してほしい
・ 仲間に貢献して自分の価値を認めてもらいたい=自分の存在感をアッピールしてしまう。
・ 権威者に迎合したい(自分が権威者《ボス猿》なら権威を維持したい)
<不安の一時停止の要求>
・ 誰かを攻撃することで、自分が不安を感じている時間を少しの間でも無くしたい
<思考力の低下>
他者の感情を読み解けなくなる1。被害者への同情、共感が無くなる
他者の感情を読み解けなくなる2。自分を利用する人間を信じてしまう。
他者の感情を読み解けなくなる3。言葉態度からしか感情を想像できない。
自分の行動の妥当性の検証ができなくなる。
現在の行動による将来への影響を考えられなくなる。
折衷的な思考ができず二者択一的な考えになる。
結果として悲観的に考えてしまう傾向になる。

こう考えると、ネット炎上というのは、不安を感じた人が夢中になって弱い人を攻撃していると考えるととてもよく理解できると思い当たりました。

ネット炎上について、私はこれまでは、怒りの論理、正義の論理で、
・ 攻撃感情は相手が致命的なダメージを受けるまで続いてしまう
・ 自分が反撃されないことが怒りを面に出して攻撃する感情が生まれる条件である。だから匿名の攻撃が過激になる。
・ 攻撃に伴う怒りの感情によって一時的に不安を感じにくくすることができる
という、いわば怒りとか正義の性質から説明をしていましたし、

しかしどうやら、さらに、別角度の不安の効果を理由にすると説明されやすいと思うのです。

相手が反論できない形でネット攻撃をする心理としては、
・ 自分が正義を実現する人間であることをアッピールしたい。
・ 効率よく、要領よく、的確に相手を攻撃しているということを積極的に評価してもらいたい。
・ だから、自分は、社会全体や秩序の権威者から評価される人間であるというアッピールをしたい
という心理が働いている可能性があるということです。

ネットの書き込む場を、攻撃コンテストの会場みたいに考えているのでしょう。だから攻撃対象に対して書き込んでいるというよりは、ギャラリーに対して自己アッピールを行っているということなのだろうと思います。

そして
頭の良い人だとか、論理明快な人だとか、称賛を浴びたいと考えると、色々な発言者の発言がどうしてそういうことをそういうふうに言うのかということを理解しやすいようです。おっと、このブログもそういうところがあるのかもしれません。(但し、このブログは、権威には背を向けてひねくれているというところはありますが。ある一定の読み手を想定して、その読み手から評価をされたいということかもしれません。その意味では、同じことかもしれません。)

さらには、権威付けということを意識するようになり、自分は権威に基づいて発言しているという意識が見えるようになっていきます。常識だったり、道徳だったり、あるいは宗教かもしれませんし、政治的な党派というようなものだったりもするのかもしれませんが、自分は秩序の側の人間なのだから立場が安泰だと言いたいようなことを付け加えて攻撃するようになるという特徴があるようです。その抽象的な社会の権威に対して、自分が有能なのだということを必死にアッピールしているようにも感じられる時があります。

例えばテレビ番組を契機にネット炎上が起これば、その時の番組の支配的な論調が権威となり、その権威に積極的に賛同しようというスタイルからの攻撃になると思います。つまり権威に迎合しているわけです。また、その「権威」なんて言うものは、一時的で背景的理由のない、ただの「その場のトレンド」というものかもしれません。それでもそれが権威だと感じたら、迎合したくなるのが人間の本能なのかもしれません。

自分が権威の側にいるという安心感によって、攻撃対象者が、自分が言ったことでどのような感情を抱くかということを想像しようともしなくなります。誰かが自分を賞賛してくれれば、攻撃はエスカレートしていくでしょう。誰かの口車に乗せられて攻撃がエスカレートするということも大いにあると思います。ネットという場が、そのような文字情報、デジタル情報だけで動くため、純粋形態のように攻撃が激化していくわけです。

もしかしたら、ネット炎上だけではなく、他者に対しての攻撃の全般は、自分をある意味守るために行われているのかもしれないと感じるようになりました。つまり、攻撃している自分を賞賛してほしい、その場の仲間の中で賞賛してほしい、攻撃することによって自分の居場所を確保したいというそういうことなのかもしれません。

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出る杭を叩く原因としての不安 一番(群れの権威)ではないと心休まらない人の不安 パワハラの対象となるのは優秀な社員であるという理由 不安シリーズ6 [進化心理学、生理学、対人関係学]



出る杭を打つということは、人間が集団化すると現代ではつきもののようにあるようです。
職場の上司と部下のパワハラについては今回詳しく述べます。ただ、それだけではなく、もっとお偉いさん、団体(会社)の幹部で、自分が一番でなければ気に入らないと言う人がいて、自分の座を脅かそうとする人間をつぶしにかかるという猿山のボス猿みたいな人をよく見かけると思います。上場企業にもあるように聞きますし、ボランティアや友人関係などでも見たことがある方は多いと思います。

ボス猿のような人は、団体の創業者である場合が多いです。その人を中心として人間関係(団体、友人関係等)ができたという人で、その人でなければできなかったことをやっていったというような実績もあります。何もしなければ引退まで盤石な地位を保てると誰しもが認めている人なのです。もちろん、周囲も攻撃を受ける被害者だって、その人にとって代わろうとする気はありません。

それなのに、攻撃を受けるターゲットが団体の活動に貢献し、成果を上げて、人望を集めていくとしまうと、途端にボス猿はターゲットへの攻撃を始めてしまいます。

この結果優秀な人材が何人も団体の外に流出していきます。団体には、ボス猿の取り巻きと団体の目的とは別に自分の目的を達成するために団体を利用しようという人だけが残ってしまい、団体はどんどん先細りしていくわけです。ボス猿がすべての価値観となってしまいますので、法律や道徳よりボス猿の機嫌が優先されて、不祥事を起こすストッパーが無くなってしまいます。

リアルな話をすれば、このようなボス猿行動を起こす人たちは引退間際の人たちに多いです。いわゆる晩節を汚すということです。人間遅くとも70歳を過ぎたら、自分がボス猿化していないか自己点検をして、できるなら道を譲ることを始めるべきです。後輩に任せる準備をするほかはありません。

色々な事件、人間関係の調整にかかわった経験を踏まえて考えてみると、そういうボス猿は、仲間内の評価が「自分が一番」でないと安心できないみたいなのです。自分にとって代わることができる人が現れると不安になるようです。団体が盤石になるということよりも、自分がちやほやされていることを優先しているのです。自分が一番ちやほやされていないと不安になるということです。

「団体」という言葉を「営業所」とか、「支店」とか、「研究所」等という言葉に変えれば、リアルなパワハラの問題になります。

周囲はそんなことに気が付きません。うっかり、例えばある営業所の営業マンが成績を上げて取引先にも評判が良いので、本社の役員なんかが営業所長に対して「彼はよくやっているね。この営業所もしばらくは安泰だね。」なんて言ってしまいます。そうするとボス猿はたちまちむくれてしまいます。

実例で多いのは、新人等が、自分ではなくターゲットを頼りにして、相談をしたり、助けを求めたりすることが気に入らないようです。新人は、単にボス猿にまで話をするほどの大ごとではないと考えますし、なんか怖くて聞けないということがリアルなところだと思います。しかし、ボス猿にしてみれば、自分よりもターゲットの方が頼りがいがある、信頼できると思われていると感じてしまい、それを理由として不安になるようです。

ただ、残酷な話ですが、時間とともにボス猿は、団体の中での価値も衰えてきています。ボス猿の知識や考え方は前時代的なものであったり、過去の成功体験を根拠なく押し付けているだけだったりする場合も多いので、リアルにもあまり信用されていないことも多いのです。また、敵味方構わず攻撃し、攻撃も強烈ですから、敬遠されてもいるわけです。ある時期からどんどん自分に求心力が無くなっていることをなんとなく実感するようです。なんとなく面白くないという気持ちも蓄積しているのでしょう。その不安の積み重なりがまとまってターゲットに爆発するのでしょう。

ボス猿は、例えばこの営業所は「自分がいなければ回らない」と考えています。自分あっての営業所だというわけです。実際、誰よりも地道な努力もしていたことも間違いのないことです。でも誰も自分を言葉でも態度でもほめてくれないと不満をもっているようなのです。自分を評価する言葉を発しないにもかかわらず、本社がターゲットを賞賛する。新人はターゲットに質問に行く。そうなってしまうと、なんで自分が評価されないのだ、なぜ自分の努力、労力が評価されないのだという思いが強くなってしまうようなのです。自分のこれまでの労力や成果をかすめ取られるような気持になっているかもしれません。

会社創業者のような立派な人であっても、人は明示の評価をされ続けたいとようです。

このような状況になるとボス猿が先ずすることは、ターゲットは、本当は自分以外の人間がするほど評価には値しない人間なんだと周囲に示したくなるようです。周囲のターゲットに対する評価を下げることに全力を尽くしてしまうようです。この行動は、ボス猿も、ターゲットの能力を認めているということが示されているのです。わかっているからこそ、ターゲットの「評判」を下げることによって、自分こそがナンバーワンだという評価を盤石にしたいように感じられます。

ボス猿にとって代わろうという気持ちが無くても、攻撃の対象となるのはこのような仕組みです。

具体例を挙げれば、ボス猿は、ターゲットの些細なミスをことさら周囲にアッピールする形であげつらい、自らターゲットを叱責をします。周囲にターゲットが無能だということをアッピールすることが目的ですから、ギャラリーの目に、耳に触れる形で叱責します。叱責する場を見聞きしている人がいるからこそ大上段に、あるいは下品に、なりふり構わず攻撃するのです。

説諭が目的ではないので、同じことを何回も繰り返して怒鳴っていても気にしません。攻撃をしている形を作りたいのです。周囲はそのような事情なんて理解できるわけがありません。ボス猿が怒っていることはわかるけれど、「どうしてそんなことでしつこく騒いでいるのだろう。」と素朴に感じます。周囲の反応は鈍いですし、ボス猿に共感を示す者もいません。こうなると、ボス猿はもっと周囲にアッピールしなければならないという行動に出るために、ますます攻撃を強めてしまうのです。

攻撃し続けるしかないので、
・ 同じことを繰り返す
・ 過去の失敗を何度も言う。一事が万事とかいうわけです。
・ ネタが尽きれば人格攻撃、中傷を行います。
・ 何らかの情報があれば家族の悪口を言う場合も出てきます。
・ 特徴的なことは、それが否定評価となる理由は言わないことです。理由も言わないで(根拠などありませんから)、ダメだ、最低だ、失望した、見込み違いだった、下品だ、新人以下だ、○○の資格なし、何年この仕事をやっているのだ等の評価だけを言う場合は、こういうボス猿行動かもしれません。

あとは、陰口です。ターゲットを評価している人に、こっそりとターゲットがその人を否定しているということを告げて、怒りをあおるのです。その人は、やはりボス猿を信頼していますし(ターゲットほどではないにしろ)、権威がありますから、ボス猿から言われれば信じてしまいます。ターゲットとしては、思わぬ人が自分を攻撃してくるので、精神的ダメージが大きくなりかねません。

ターゲットが自分の攻撃によってどのようなダメージを受けているかなんていうことにはボス猿は関心ありません。すべての関心事は自分の防衛です。

些細な落ち度を捕まえて攻撃をするわけですが、ターゲットに落ち度が無い場合はどうするのでしょうか。
落ち度を作り上げるということが見られます。
実際にあった例としては、これまで団体内部の慣行として許されていた経費の使い方に難癖をつけて、業務上横領だと警察沙汰にするぞと迫った事件もありました。驚いたターゲットは精神的に異常をきたし、行動がまとまらなくなり、家庭も崩壊したという事例がありました。結局は警察沙汰にはならなかったようです。単なるボス猿のターゲットつぶしではなかったのか、今にしてみればそれが真相なら不条理だけど、疑問は解消されます。

落ち度を作ると言えば、取引先からの理不尽なクレームを取り上げて、責任を取れという迫り方をした例もありました。ターゲットとしては、当然クレームから守ってくれると思っていたところ、逆にその理不尽な言動を理由に攻撃されるのですからたまりません。長期の精神疾患が続いています。

すべては、優秀な人材が自分に反旗を翻すという不安、自分が使用済みのティッシュペーパーのように捨てられるという不安からきているとすれば、理解できた事象だったのだと思います。

このような仕組みのパワハラが深刻な精神被害となるのは、自分がどうして攻撃を受けるか理解できないからだと思います。全くボス猿の頭の中だけの出来事ですから、ターゲットは気が付くことも予防することもできません。

パワハラの被害者は仕事ができる人が多いということは間違いのないことです。会社にとっても優秀な人材が、退職したり、仕事のやる気をなくしたり、休職しがちになるわけですから深刻な被害が生じます。もしかしたら日本経済のとんでもなく中枢の部分で、このような「一番でなければ不安」シンドロームが悪さをしているということはないでしょうか。

ボス猿の周囲がボス猿をたしなめるということはあまりありません。ボス猿は確かに実績がありますし、これまでは団体を引き上げてきた人です。特に団体幹部からの信頼は依然厚いものがあります。周囲はボス猿の自己保身のためにターゲットを攻撃しているというふうには思いもつかないことだと思います。たとえ、団体が公的な目的を持った公的な団体だとしても、周囲はなかなかボス猿の方の行動修正を促そうとはしません。案外公的団体の方が影響を受け続けるということがあるのかもしれません。保身のための忖度する相手を間違えるとか。

周囲はボス猿が怖いので自己保身のためにボス猿に働きかけをしないということももちろんありますが、団体秩序の維持を最優先にしているという事情もあるようです。つまり、こういうボス猿のいる団体は、ボス猿の号令で秩序が形成されています。ボス猿が団体の権威なのです。人間は、群れを作るために権威に従って群れの秩序を作りたいという本能があります。

正義に照らして仲間の人の評価をする人間などそれほどいません。こういう正義の人は、権威を重視する人たちと大部分重なるようです。

ボス猿に対しては、秩序を形成する権威であり続けてほしいと無意識に考えてしまっています。そうなると、「ボス猿が理不尽なことをしている。」とは無意識に思わないし、そういう思いが沸き上がることに蓋をしてしまうようなのです。その団体が社会正義を実現することを目的にしている団体であっても、構成員の心理としては、団体の目的の遂行よりも、まずは団体の秩序の維持、権威の保持が優先事項とされてしまうのが人間の本能のようです。

だから、正義感に燃えているはずの団体の構成員なのに、権威者の明らかな理不尽な行動を見て見ぬふりをするわけです。ボス猿の言い分は、裏付けが無くても、反論の機会が無くても、あるいはターゲットとその人の個人的な信頼関係があっても、周囲にまかり通ってしまうのです。ターゲットは目をつけられたというだけで、何の落ち度もないのですが、周囲の心理なんて、「面倒なことを起こしてくれた厄介者」に対しての視線をターゲットに投げてしまうのです。

何の落ち度もないターゲットが精神的に打撃を受けることは当然のことです。

では、どう言う人がボス猿になって、自己保身のために出る杭を打つのでしょうか。事件がらみで情報が入る場合があります。

多くは、それまでの人生経験から、自分の立場に自信が持てない事情があるようです。生い立ち、育った環境、特別な出来事から、自分をアッピールし続けないと、自分という存在が忘れ去られるとか、一人分の勘定に入れられなくて孤立した経験があるようです。客観的には孤立していないとしても、自分が求める人から受け入れられなかったという経験がある人もいます。

このような人にとって、他人は、「賞賛する人」と「攻撃する人」、そして「自分の取り巻きとして面倒を見てやる人」しかいないようです。近づいてくる人があなたを激烈にあなたを賞賛しても、あなたを賞賛する際に、誰かと比較してその誰かを否定した上であなたを賞賛しているかもしれません。むやみに称賛をする人は警戒するべきです。やがてあなたが、否定される側に分類される危険性が高いからです。それが嫌でもその団体に加盟したいのならば、割り切って第三の立場、すなわち僕、家来になるしかないでしょう。

我々は、自分の子どもたちや、あるいは仕事上の部下に対して、過敏な不安を招くような対応をしないように注意しなければならないようです。我々がボス猿を育成しないようにするべきでしょう。

何かをしなければ、仲間として評価をされなかったという体験は、その人を通常の状態であっても不安にするようです。何もしなくても、そばにいるだけでも、苦にされず、疎ましがられず、存在を承認されているという体験を積み重ねることが円満な人間形成には不可欠のようです。

今回は本人の不安が特定の誰かの攻撃に結び付くというケースを説明するとともに、不安の出どこが、過去の体験からくるということがありうるということを考えてみました。

ちなみに、自分がボス猿のターゲットになったならばどうするか。
第1に、ボス猿の近くから離れる。ここで、かなり精神的に追いやられているときは、「その団体を離れても、ボス猿の影響下から抜けられない。」と勘違いするものです。自分の居場所を最小限削ることで、実は簡単に離れることができるのです。冷静に相談に乗ってくれる第三者に相談することがおすすめです。

ボス猿はたくさんの人の人生を台無しにします。早く離れることが肝心です。ボス猿と決別した人たちの問題点ばかりを見て、ボス猿を無意識に擁護してしまうことがありますが、立派な人が離れたら自分も覚悟を決めるべきです。人生を台無しにされるよりはよほど良いです。

第2に、ボス猿に服従を誓う。クリンチ作戦です。この時精神的には優位に立って、ボス猿とその団体を利用しようというくらいの気構えが必要なようです。


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不安と被害妄想と攻撃行動 相談会でありえない隣人からの攻撃の相談を受けた場合 不安シリーズ5 [進化心理学、生理学、対人関係学]



相談活動をしていると、一定期間の間に必ず出くわす相談類型というものに、被害妄想らしい相談があります。

多くは隣の家の人間が自分を監視しているということから始まって、スパイをしている、自分の家人や客人に対してよからぬ働きかけをしている、自分の庭の植物を傷つけたり、物を盗んだりするという訴えをするのです。類似した相談では集合住宅の上階や下の階、あるいは隣の部屋で、夜ごと何かを作成していて、物音や匂いがするというものもあります。

(但し、相談会に一人でいらっしゃる人ですので、日常生活を滞りなく営んでいらっしゃいます。また、音とか匂いとか、あるいは体の痛み、または家具の異動などが実際にはあることで、このこと自体が妄想ではないようです。結果としてそのような事実があることについての理由として、妄想的なお話しされるということです。幻覚を見たり、幻聴を聞いたりというところはないし、幻覚に支配されて何らかの行動をしているわけでもありません。)

実際にそのような犯罪が行われている可能性が皆無ではありませんので、その現象についての相談者以外の第三者の反応を確認する等を行うことが大切です。それでもどうやらその人だけが感じていることであり、実際はそのような理由付けの部分の事実はないという結論になった場合は、「いつ頃から、そのような事情が起き始めたのか。そのころ、時同じくして何か相談者に変わったことは無かったか。」と尋ねることをするようにしています。

そうすると、多くの事例で、相談者自らが、ある一時点から強い不安が継続するようになったということを語りだします。多いのは身近な人の不慮の死などの不慮の精神的に大きな影響を与えかねない出来事や、自らの体調の変化という出来事のようです。不安を抱かせた出来事について、話を聞いて素直に話し始めたら、そのことに話題をずらして相談に乗ることが建設的だと思います。話に乗ってこなければ、原則的な法律相談を完遂するほかなく、証拠が必要であるということを説明するとともに、必要以上に監視カメラを設置することなく、何台かは取り外すようにというアドバイスをして私との相談は終了に向かいます。

このような事例は、相談会には来ないバリエーションもあって、直接相手を疑って警察に届けたり、町内に言いふらしたりして攻撃をするという場合もあるようです。私も弁護士になりたての頃、このような相談を受けて、車で一時間以上かかる山の中の集落に現場検証に行ったことがありました。ビデオテープも見ました。確かに何かが写っているのですが、不鮮明でもあり、犯人が良からぬことをして侵入していたとはとても証明できないものでした。

こういうとあからさまに変な人からの相談のように聞こえてしまいますが、実際の相談者は変な感じの人ではありません。また、この隣の家とのトラブル以外は、いたって問題行動の無い人です。自宅で普通に生活をしているわけで、通院しているわけでもありません。

そうして、いったん落ち着くと、あれほど長い間エキサイトしていたことが噓のように落ち着きを取り戻すのです。

しかし、この訴えを無視していると、妄想が膨らんでいってしまい、妄想性障害から統合失調症に発展しないとも限りません。また、仮想敵とされている人が実際いるわけで、その人はわけがわからないうちに攻撃されているわけですから関係が険悪になって、新たなトラブルの火種にもなりかねません。穏便に解決をするに越したことはありません。

この場合も背景に不安があると考えると、解決や解決に向けた方向性を作るヒントになるようです。考えてみれば、隣人が自分に損害を与えるかもしれないということは、逃げることができないことで、しかも一日も休みなく不安の種がすぐ近くにいるということで、大変苦しい状況であることが理解できるような気がします。

先ほどの話で、妄想が始まったときに何があったかを尋ねる場合も、「不安」というキーワードで話を聞くと、もしかしてこれが関連がある出来事なのではないかと気が付くことがあります。体調の変化では、例えば肝炎になってインターフェロンの治療を受けていた時期と重なると、薬の副作用のうつが出現していた可能性があると気が付くわけです。大事な身内がお亡くなりになったということも、こちら側が関連付けて理解しないとただ聞き流してしまいます。夫が単身赴任になった時期と重なった例もありました。

いずれにしても、不安が生じて不安と不安解消要求が持続しているにもかかわらず、不安を解決する方法が無いということになると、ますます不安解消要求が大きく強くなってしまいます。すると、ますます思考力の低下が強くなってしまいます。自分の防衛意識ばかりが過敏になってしまいます。思考力が低下して二者択一的判断ばかりになってしまい、悲観的なものの見方が過剰になると、自分の近くにいる人間は敵か味方かに色分けして考えてしまいがちになるようです。特に何かがあったわけではなくとも、話をしたこともない付き合いの悪い隣人は、味方ではないので敵だと考えてしまうようです。男性からも女性からも、男性は敵とみなされやすいようです。

また、運悪くその隣人も、当人から見たら不審を抱くような行動を結果としてしまっていることがあるようです。この失敗を目撃した本人は、自分の隣人に対する評価が裏付けられたと感じてしまうようです。ひとたび悪人であると認定されれば、その人が自分に悪さをするだろうと感じるのは自然な流れです。

こうなってしまうと、何か悪いことが些細なことでも起きると、その隣人に原因を求めてしまうようになってしまうようです。この原理も「わけのわからない被害」を受けていると考えているより、「隣人の悪意のある攻撃」を受けていると考えるほうが、つまり原因がわかる方が当人の不安の感じ方が低下するようです。原因の無い不利益は不安をあおるのですが、犯人はこの人というと幾分安心するという側面があります。もう一つの側面として、犯人に対して怒りを持つということが不安を感じにくくするという事情があるようです。

犯人はこの人と思うと「漠然とした不安」から、「対処の相手が確定した不安」になります。しかし、常に自分の家の隣に自分に攻撃をしてくる人間がいるという意識は、不安を慢性的に繰り返し高ぶらせていることになります。不安のストレス疲れということも大きくなっていくようです。不安から解消されたくても、隣に住んでいるのでゴールの無い不安であると感じるわけです。何にも代えがたく、不安を解消したくて躍起になるわけです。

ある時怒りを感じて何らかの攻撃をすると、不安を感じにくくなるということを学習してしまうという出来事があるようです。怒りと不安は、どうやら一緒に感じるということができないようで、怒っている間は不安を感じなくて済むようなのです。一度不安を感じなかった体験は、不安を怒りに転化する行動を繰り返しとるようになるようです。

但し、本来は、怒りは自分より弱い相手であり、怒りの行動をしても相手の反撃によって痛い目に合わない相手に対して起きる感情であることが原則のようです。但し、子どもなど、自分が守るべき仲間を守るために相手を攻撃する場合にも怒りという感情が出る場合があるようです。ちなみにインターネットで匿名で誰かを攻撃する場合には、怒りの抑制が効かないのはこういう怒りの特徴からきていると考えています。

さて、隣人を仮想敵にした場合、隣人からの反撃が怖いはずだと第三者である私は思うのですが、当人は攻撃をするのです。但し、直接隣の家に殴り込みに行くという形をとらずに、隣から目に見えるように監視カメラを何台も設置したり、町内に噂話を広める形で、直接反撃をしないで攻撃をすることが多いようです。行政相談もその一環だと思います。反撃を恐れないで怒りを発現しているわけです。だから怒ることができるのだと思います。

不安が小さいうちに不安を手当てすることが大切です。相談に乗る方は、間違っても、一緒になって隣人の攻撃をしてはなりません。本人の中で妄想が裏付けられてしまうからです。ますます本人は、不安が募っていくだけです。さりとて、誰でもできるように妄想を否定して切り捨ててしまうと、本人は自分が否定されたような気持になってしまいます。自分が具体的な被害を受けているという妄想と、その加害者が隣人であるという妄想と二種類の妄想を、無責任に承認してしまうと、妄想が現実になってしまいます。これは大変危険なことだと思います。

物が壊れるとか体が痛いとかいう確かに何らかの被害があることが多いです。しかし、その被害は別の原因で起きた被害である可能性があることがほとんどです。だから被害の存在を承認することは、リアルな範囲であればよろしいのだと思います。但し、その被害は確かにあるけれど、気にしなくてよい程度のもので、時間の経過として避けられないならばそのように言うべきです。

次に隣人の犯人説に対して真っ向から否定を断定するよりも、ここは否定的な態度をとりながらもあいまいにするのも一つの便法かもしれません。その上で、本当の不安の原因にコミットしていくことが最も有効だと思います。

その時に気にかけるべきことは、「孤立」と「離別不安」というキーワードを常に準備していることです。具体的に孤立を部分的に解消する方法を探したり、協力者を探したりすることが建設的だと思います。第1希望というのはかなえられないことが多いようです。第2希望、第3希望の実現を考えていくということになろうかと思われます。



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不安と高齢者の万引き 不可解な犯行動機の背景としての不安(孤立) 「ストレス解放のための万引き・むしゃくしゃしてやった万引き」とは突き詰めるとどういうことなのか 不安シリーズ4 [進化心理学、生理学、対人関係学]



万引きという犯罪類型が、実はその動機などについてなかなか解明しがたい類型であるということについて、このブログで何度も取り上げています。特に高齢者の万引きについては、不可解なものが多いので、情状弁護にも苦労します。もし、それなりに理由がはっきりして、対策が立てられて、対策の確実性がそれなりに証明されれば、何よりもご本人が二度と万引きをしないで済みますし、有利な量刑になるとか、再度の執行猶予がつくこともあるので、弁護士としても本当はやりがいのある分野なのです。一般的な予防にも役に立てることでしょう。

特にこれまで犯罪の経験がなく、普通に生活している人が行う犯罪ということもあり、社会復帰もしやすいのです。しかし、原因がはっきりせず、有効な対策が立てられない場合に、何度でも繰り返す犯罪という特徴もあり、懲役刑まで行き着くことになります。弁護士が果たすべき役割というものも本当は大きい犯罪類型だと私は思っています。

第1回の万引き事案こそ、十分に経験のある弁護士を探し出して、根本的解決を図らなくてはならないと私は思っています。

再犯防止の手立てを講じるという観点から高齢者の万引きを見ると、これほどやっかいなことはありません。

先ず、きちんと窃盗は悪いことだし、万引きも窃盗であるという自覚があります。
犯罪歴もなく、まっとうな暮らしをしていて、それなりに社会的役割を果たしている方々です。
その商品を万引きしなくてはならないほど経済的に圧迫されているわけでもありません。
多くは、まじめで、責任感が強く、そして働き者です。ある程度の年配の方でダブルワークをしていた人もいました。

では「なぜ万引きを止められなかったのか。」
ここがよくわかりません。ご自分でもよくわかりません。

これまでのこのブログで述べてきた研究の通り、孤立というワードが当てはまるケースはとても多いです。しかし、「孤立だとどうして万引きをするのか」については実際はよくわかりません。しかし、そのメカニズムがわからなくても、弁護士の仕事として、家族に頑張ってもらい、あるいは本人が考えを改めてもらい、孤立を解消する中で再度の万引きを行わないということをある程度成功してきました。再犯防止の対策としてはそれでよいようです。

ただ、孤立とは必ずしも言えない客観的人間関係の中で、一人で問題を抱え込んでいたという例もありました。何でもかんでも孤立に結び付ける必要はないのですが、「ある意味の孤立」を感じていたととらえて、家族のきずなをもっと強く感じてもらう方法をとりうまくいったという事例もありました。

その言葉が文字通りしっくりくるかどうか自信が無いのですが、そこに不安という概念、不安解消行動という原理を絡ませてみるとヒントになるかもしれないと思いました。

考えてみると、対人関係学の立場では、「孤立」と「不安」は同じことでした。つまり、「人間は群れを作って仲間の中で暮らしたいという根源的要求」を持っていて、これが満たされない場合、つまり「孤立している場合」と、「いずれ群れから離脱させられてしまうのではないかという不安」を感じる場合に、群れに入ろうとしたり、自分の行動を修正して群れにとどまろうとするということを提唱していたのでした。最初の群れを形成したい生き物だと言い始めたのは認知心理学者のバウ・マイスターです。

そうだとすれば、「孤立しているとき」も、「群れの仲間から低評価を受けて離脱の不安を感じているとき」も、根本は同じ不安を感じていて、不安を解消しようと強く願い、不安を解消する行動をとって不安を解消するという流れは同じであるはずです。そして、不安を解消する手段が無ければ、つまり孤立を解消する手段が無ければ、(それを感じ続けることが人間はできない、耐えられないのだから、)「それを感じないようにしようとする」ほかないわけです。誰か八つ当たりができる相手がいたら攻撃をすることによって、不安をしばしば感じなくするということができますが、そういう相手もいないから孤立や不安を感じるのでしょう。

また、不安や孤立を感じ続けると、「思考力が低下」してしまいます。複雑な思考ができなくなります。物事を二者択一的に考えたり、他人の気持ちに共感をできなくなったり、あるいは将来的な見通しを持ちにくくなったりするようです。今さえよければ、後先考えずに不安を感じにくくなれればそれでいいというような刹那的な考えでの行動をしたり、自分の行動を制御できなくなったりするという特徴が表れてきます。そして、合理的な解決ができないだろうという悲観的な考えが支配的になるようです。

この考えを二つに分けると、一つは不安や孤立を感じない状態を作りたいという志向性の問題と、もう一つは不安や孤立の持続による思考力の低下と分けられると思います。これまでどちらかというと後者を重視してものを考えていたような気がしますが、前者も影響を与えているのかもしれません。考えてみましょう。

考える補助線として、万引きをまさにしている状態では、完全に思考力は低下しています。不思議な話ですが、警備員などに見つからないようにしようという気持ちはあるのですが、表情や動作があからさまに不審で、顔にこれから万引きするよと書いているようなものであることが多いです(警察の捜査による証拠から)。当然見つかったらどうしようなんて先のことは考えていません。万引きをして換金して生活するという職業的な万引きはまた違うのですが、高齢者の万引きの場合は、初めて舞台に上がり満員のお客さんから見られている俳優のようにカーっと舞い上がった状態で、そのものを盗るということしか考えられなくなっているようです。そして、途中でやっぱりやめようというきっかけが入りにくい精神状態のようなのです。

そして、孤立や不安が持続しているからと言って、必ずしもしょっちゅう万引きをしているわけではありません。何かスイッチが入ってしまうと、静かな錯乱状態のような心理状態になって万引をしてしまうわけです。どこにそのスイッチがあるかということが一番知りたいことなのです。

そして、自分がやっていることが窃盗という悪いことであり、人に迷惑をかけることであり、発覚すると逮捕されて刑務所に入れられる可能性のある重大なことで、本来思いとどまらなければならないことだということがわかっていながら、それらの理解が犯罪を思いとどまるために役に立たなくなってしまうということなのです。

また、決して何らかの精神疾患があるわけではなく、普段は日常行動を自分でコントロールして平穏に暮らしている一般の人なのです。

背景として孤立や不安を解消する、これが原動力の一つになっていることは間違いないので、根本的な対策としてはこれがあることは間違いなさそうです。しかし、これ等の原動力があっても、万引きに踏み切る引き金がどこにあるのか。

もう一つの補助線としては、商品を見てとっさに万引きを思いつくというよりは、少し前の段階から万引きのことが頭に浮かんでいることが多いようだということです。一番早いケースでは、家を出るときに万引きをしようというアイデアがあったというケースでした。このケースは、万引きがすでに繰り返されていたケースで、それまではたまたま発覚しなかったケースのようです。

多くは店に入るころに万引きを漠然と考えていたということのようでした。

一つの可能性としては、一度、結果として万引きをしてしまったということの記憶が悪さをしている可能性があると思います。つまり、万引きなど考えもしないで普通に買い物をしたつもりだったのに、うっかり買い物かごにレジを通さない商品があったという場合です。故意が無くて商品を手にしたのですから、窃盗は成立しませんが、返しに行くにも万引きを疑われそうだと思い、そのまま返さないという体験をしたとします。ずぼらな人であれば、いつしかそれを忘れてしまうのですが、まじめで責任感が強い人であると、悪いことをした、不道徳なことをした、違法なことをしたということで、事後的であっても強い緊張感に襲われるようです。その時、慢性的な不安の原因である、家族が死ぬなり独立するなりしていて孤立である自分の不遇に対する孤立感、不安感を忘れてしまったという体験があり、元々の嫌な不安を解消したということを学習してしまう可能性がありそうです。不安解消行動は合理的な行動ではなく、これまで見てきたように、アルコールの過量摂取をしたり、冷静に考えた場合はとても信じることができない宗教を信じてしまったり、突拍子もない行動を行い、そして繰り返してしまうというところに特徴がありました。元々の不安を忘れることができたという学習は、同じことを繰り返す要因になるとしても不思議ではないように私は感じました。

もう一つは、仮想万引きです。もしここで私がこの商品を万引きしたらこっぴどく叱られるかもしれない、しかし見つからないで万引きできるかもしれないという奇妙な緊張感を感じたときに、これまでの背景的な不安、孤立感を忘れるという解放感を感じるという可能性があるように思います。

よく警察官が作成した事情聴取報告書には、ストレス解放のためとか、モヤモヤしている気分を晴らすために万引きをしたという表現が記載されています。私は、これは、マニュアル通りの表現なのだろうとにらんでいたのですが、もしかしたら万引き行為者の中には自分の深層心理を分析して比較的正しく表現していたのかもしれません。要するに背景としての孤立、不安という持続的かつ慢性的なストレスこそが、解消要求を募らせている対象であり、その背景的なストレスさえ解消できれば、その手段は何でもよいという心理になっているのであれば、ストレスを「万引きという犯罪を行っている緊張感」を持つことによって感じなくさせるということがありうるのかもしれないということです。要するにそれだけ、慢性的持続的に孤立感や不安が積もり積もっているということなのかもしれません。

「ゲーム感覚」という言葉もよくつかわれます。ゲーム感覚というと軽く聞こえてしまいますが、こういう問題だとすると結構闇が深い問題なのです。冷静に考えれば、その人は人生をかけてゲームをしているわけです。かなり、その人の人生が、その人の中で安っぽく、薄っぺらいものとして扱われているとは言えないでしょうか。

従って、万引きをする場合は、それが悪いことだということがわからなくなってやってしまうというのではなく、悪いことだ犯罪だやってはいけないことだとわかっていることだからこそその行為の時に強烈なストレス負荷がかかって、逆に背景的な孤立や不安を感じなくすることができるのだということになるのかもしれません。

本来、このタイプの万引きは、厳密に言うと自由意思で行っているわけではないとは思います。不安解消、孤立解消、慢性的持続的ストレス解消で、人間としてはそれを避けることを止めることができない事情があると思っています。しかし、店側には何の責任もないことです。犯罪が成立しないということは刑事政策的にはできないことです。だから、万引きは、初回に、必ず背景となる不安を突き止めて、合理的に背景つぶしをしなければなりません。本来的にまじめな人たちに、自分の行った万引き行為によって経済的にも精神的にも多大な損害を与える具体的な人間がいるということを理解してもらうことが必要なことなのです。

万引きの背景的な不安や孤立感、その他の持続的なストレス要因が解決されなければ、一度やってしまって不安解消を楽手してしまった以上万引きは繰り返されやすくなっています。万引きが繰り返される事情も、不安解消に伴う依存的な要因があると、この意味で言えると思います。くれぐれも、もう大丈夫だろうという安易な見通しを持たないことが何よりも大切です。

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不安とアルコール依存症 アルコール依存症には2種類あるということ 不安シリーズ3 [進化心理学、生理学、対人関係学]


酒飲みの立場から言わせてもらうと、アルコール依存症についての現代医学や心理学の考察は、少々雑ではないかと思っています。アルコール依存症の行動について、正義の観点から断罪する研究、断罪型研究結果に基づく鑑別方法が多く、患者本位の研究や治療が少ないような気がしているのです。実際にアルコールの絡む事件が多く、治療を受けている人ともかかわるのですが、「自分で治せ、治らなければ見捨てる。」という形の病院が多いように思われます。それは治療なのでしょうか。

という当事者的立場から入るのですが、先ず、昨日、居酒屋の前を歩いていたら、入りたくなるような「よさげな」店があったのですが、「酔いどころ」と書いてあったのです。これにものすごい違和感を覚えました。「俺は酔いたくて酒を飲んでいるのではない。」という思いが強いからです。飲み始めてしまうと、できれば、酔わないでずうっといつまでも飲んでいたいとさえ思っています。しかし、事件でかかわるアルコール依存症の人たちは、全く違う飲み方をしています。

酒飲みには二種類いると思っています。はたで見ている分には主に笑える酒飲み(A)と、他人事ながら引いてしまう酒飲み(B)です。

Aタイプの酒飲みとBタイプの酒飲みには、酒飲みとしては譲れない大きな違いがあります。

Aタイプの酒飲みは、口先から酒を飲みます。また、酒を口に入れてから息を吸います。
Bタイプの酒飲みはのどの方から酒を飲みますし、息をしないで空気を入れないで酒だけを飲みこみます。

つまり、Aタイプの酒飲みは、アルコールの香りや味を楽しみたくて酒を飲むわけです。できれば、だらだらと酒を飲み続けていたいと思いますので、酔っぱらいたくはないのです。味もわからなくなっては、飲んでいても感動がありません。
一件グルメのようなことをいっているわけですが、うまい酒が無ければ何でもよいのです。どんなありふれた酒でも混ぜ物があっても、それなりに味わって飲むわけです。こういう輩は、注射の際の消毒の脱脂綿をかいでいても幸せな気持ちになります。

Bタイプの酒飲みは、実際はアルコールは弱いし、アルコール刺激などもそれほど好きではないようです。できるだけ味がわからないように息をしないでのどの奥に流し込む飲み方をします。アルコールを味わいたいのではなくて酔いたいのです。だからちびちび酒を飲むなんてことをしないで、強い酒を一気に流しいれるのです。味なんてどうでも良いから、昔のBタイプの依存症の人たちは安くて大量に入っている2リットル以上のペットボトル(取っ手がついているやつ)の蒸留酒(甲類焼酎、ウイスキー等)を飲んでいました。今は、9%の500ml缶酎ハイが主流です。

どちらも依存になりうるし、酔っぱらえば結局問題行動を起こすので、飲まない人にとっては同じかもしれませんが、依存の機序は全く違うと思っています。

つまり、Aタイプの依存者は、酒の味やアルコールの匂いや味、もう少し言えば嗅覚や味覚及びアルコールの作用由来の触覚を通しての、中枢神経への刺激、脳の報酬系を刺激して快楽を求める形の依存症になるのだと思います。こちらが薬物依存症の王道の依存形式です。

Bタイプの依存者は、理由はともかく、先行して不安、ストレスを抱いているようです。不安を感じないためという主目的で、酔っぱらうことによって感覚と記憶の想起を遮断したいというような酔い方をするようです。元々酒が好きなわけではありませんので、早い段階で不安に対して別の解決方法を見つければ、アルコール依存症が深まることは無かったはずです。

AタイプとBタイプの治療方法は違うはずです。それにもかかわらずBタイプの患者に対しても治療等の処方がAタイプの依存患者に対する方法ばかりが選択されてしまうと、Bタイプの依存患者に対しては効果が無いということが多いのは当たり前のような気がします。この違いを見極めないで依存症とひとくくりにするところが大雑把と言いたいわけです。

急激に体を悪化させるのはもちろんBタイプです。但し、長年酒を飲み続けるのはAタイプの方なので、アルコール由来の認知症などはAタイプの方が多いかもしれません。

Aタイプの酒飲みは嫌なことがあったからそれを忘れるために酒を飲むという行動をしません。酒を飲んでも嫌なことを忘れることがあまりないからです。但し、酒を飲めば報酬系が刺激されてどうでもよくなるということはあります。
良いことがあったから、めでたいことがあったから酒を飲むみたいなことを言っていますが、酒を飲む自分に対する理由ではなく、周囲に非難されず大手を振って酒を飲むための環境づくり、すなわち言い訳ということが正確ではないでしょうか。

これに対してBタイプの依存症者は、まじめで良識的な自己や自己の行動に対する評価ができる人が多く、酒を飲むことに罪悪感を抱いているようです。人前で酒を飲もうとしないことが多いようです。家族にも隠れて酒を飲むことが多いようです。
家族に知られないための努力も細心の工夫をするようです。証拠を残さないようにコンビニエンスストアで大量のパック酒を買って、飲み終わった容器は逐一捨ててくるとか、秘密の場所を用意して飲むとかです。ストローで酒を飲むのもBタイプの人ですね。

つまみなんて用意しないのもBタイプの依存症です。つまみというのは、酒を飲みすぎて口が馬鹿になったところをリセットするためのもので、つまりは酒を味わうためにやるものです。昔のデパートのアイスクリームに添えられたウエハスのようなものです。Bタイプの人は、初めから味わうなんてことを考えていませんので、つまみをなめる余裕があれば酒を飲んでしまうわけです。酒だけを持ち込めば隠れて飲めるわけです。アルコールは肝臓で加水分解されて解毒されるのですから、水分や炭水化物を同時に摂取しないと毒が蓄積したり、肝臓に負担をかけるのは当然のことです。

Bタイプは最初は不安を感じなくする時間を作るために酒を飲んでいたのですが、依存症の怖いところは、徐々に、酒を飲んで酔っ払っていることが通常の状態だと自分自身が感じるようになってしまうところです。これは意識ではなく、無意識の心の状態です。酒を飲まない状態であることが、不安の理由になってしまうのです。

繰り返しますが、Bタイプのアルコール依存者は、社会通念とか道徳とかそういうことに照らして自分を評価することができます。酒ばかり飲んでいると、健康に悪いということももちろん自覚していますし、他人から見てだらしない人間であるとか、軽蔑するべき人間であるということをはっきり自覚しています。飲まないでいると強烈に理由なく不安が発生する上に、酒を飲むことによって自己評価が下がり、さらには社会的に低評価を受けることやっているということに基づく不安も合わせて発生するので、収拾がつかなくなってしまいます。酒をやめたいのに、意思による抑制ができないというのがBタイプなのです。ここがこの記事のキモなのです。自分の価値観、生き方よりも、不安の回避の方を優先するということなのです。

まだ黄昏時にコンビニで珍しい缶酎ハイを見つけて、路上で飲みながら帰るなんて芸当をするのはAタイプの酒飲みの方なのです。報酬系の刺激に基づく依存は、あまり罪悪感とか自己評価とかが出てこないようです。
いやAタイプの依存者の話はもうよいでしょう。それで、アルコール由来の脳疾患になったところで、あるいは肝硬変で死のうと、プラスマイナスを考えると幸せな人生だったとも思えます。問題はBタイプのアルコール依存者です。

9パーセント500mlの缶酎ハイを一本がーっと飲んで、がーっと眠れるならまだよいのでしょう。おそらく最初はそんな感じかそれより弱い感じ、350mlの缶ビールを飲めばぐっすり眠ってしまうと言っていた人が、実際はBタイプの依存症になっていくようです。薬物は耐性が生まれてしまうということが味噌です。350mlのビール(6%くらい)1本が2本になり、6%の缶酎ハイになり、やがて9%の缶酎ハイ500mlになるわけです。それも2本になり、4本になっていくようです。それだけ飲んでも、すぐには眠気も記憶喪失も起こらなくなり、不安な気持ちだけが残るようです。そうすると無意識にあるだけ飲んでしまうようです。必ずしも初めから4本飲もうとしているわけではなく、気が付けば4本開いていた。それでも足りないときに備えて、予備を買っておく。これも足りなかったらどうしようという不安を解消するための行動のようです。昔のBタイプのアルコール依存者はケースで酒を買っていたようです。

アルコール摂取の状況をとがめられて暴力的な行動をするとか、自分では恥ずかしくて酒を買いに行けなくなって家族に対して威圧的に酒を買いに行くように強制するのもBタイプの依存者にある傾向です。否定評価をされることがわかっているので、暴力的な態度で自分を防衛しているわけです。怒りが不安解消行動だということのわかりやすいサンプルです。

Bタイプのアルコール依存者には、依存するきっかけがある場合もあります。会社での人間関係の不具合、パワハラなどがきっかけになることもあるようです。
しかしながら、主婦のBタイプのアルコール依存(女性はBタイプが多いかもしれません。)に多いのが、何となく不安だ、何となく寂しいということもきっかけとしては多いようです。なんとなく料理酒を飲んでみたら、眠くなって眠ることができたという体験が、不安解消体験として学習されるのだと思います。なかなか女性の場合は、ペットボトルの酒を買いに行きにくいので、ワインなどのおしゃれなお酒を飲むアルコール依存者が多かったのは理由があることです。昨今は、スーパーマーケットやコンビニ、生協などに行けば冷蔵庫に展示されている商品の過半数の缶酎ハイが9パーセントというのは、この気恥ずかしさというストッパーが解除されてしまうという問題点もあると思います。

私はこのような9%中心の販売は大問題だと思っています。Aタイプの酒飲みは、9%の缶酎ハイなんて口に合わないから飲みません。アルコールの味わいではなく、単なるアルコール臭のぷんぷんする飲み物で、それに人工甘味料などが味付けされているおぞましいものだと感じています。40度以上のウイスキーやブランデーなどを、水も氷も入れないでありがたがって飲んで、飲み終わってもグラスに残った香りをかぎ続けるほどアルコールを求めているのに、9%のアルコール臭は別物のような感覚なのです。

だから、純粋に酔うための商品であり、依存性のある商品を大量において、しかも他の選択肢を大幅に削って売っているということは、依存性を作出して売り続けようとしているとうがった見方をされても仕方が無いと思うのです。それでも、一部の精神科医(松本俊彦先生)が警鐘を鳴らされているのは知っていますが、なぜか世論にならない。

こう考えると3%の酒や0.5%の缶酒が売られていますが、これも9%への入り口としてアルコール依存導入商品ではないかという疑いすら浮かんできました。

以前、牛丼屋のチェーン店の経営者が、生娘をしゃぶ漬けうんぬんという話をして批判を浴びました。覚せい剤も酒も、命にかかわり、社会生活に支障が出る依存性薬物であることには変わりがありません。また、0.5%、3%の酒を飲ませて、耐性を作って結局はアルコール依存症にするとすれば、牛丼のリピーターを作るということよりももっと社会的問題として議論されるべきだと私は思います。

500ml缶4本飲むというのは、アルコール換算で40度のウイスキー700mlのボトルの64%ほど飲んだ料と同じということになります。一度の飲酒機会でウイスキーの量を短時間で半分飲んでしまうということはなかなかできません。しかし、9%の缶酎ハイ4本ならば1時間もあれば飲めるかもしれません。

前日ウイスキーをボトルで半分以上飲んだら、翌日は飲みたくないということになると思うのですが、9%の缶酎ハイ4本は翌日も飲めるのではないでしょうか。アルコールメーカーと販売店であるスーパーマーケットやコンビニ、生協がこのように依存症者を作るような販売形態をしていることを批判する人があまりいないのように感じるのは私だけでしょうか。

Bタイプのアルコール依存者は、身体の影響と精神的な不安への対処という同時並行的な働きかけが必須であると私は考えています。アルコールをやめたところで不安が解消されなければ、また別な不道徳な行為、違法な行為、危険な行為に走る可能性が残されているからです。Bタイプの人間は、それらの行為が不道徳であるとか違法であるとか、危険な行為であるということはよくわかっています。本来それらの自覚が行為を思いとどまらせる役に立つはずなのですが、人一倍効果がある性格を持っている人たちなのですが、不安を解消したいという要求は、何にもまして強いということを忘れてはならないと思います。

不安というものが人間に悪さをする仕組を説明しやすい例だと思いました。




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不安と宗教、マインドコントロールが成功する仕組み(不安解消要求と迎合の心理) 信教の自由の外縁を画する。自由意思と特別法による取消権規定の創設 不安シリーズ2 [進化心理学、生理学、対人関係学]


特定の団体の行為がすべて公序良俗違反となるなどで民事的に違法無効、行政的規制の対象となるとするのは、その団体が宗教的言動をしながらその実が犯罪集団ないしは教団幹部の私的利益を目的としているとでも認定されない限り難しいことだと思います。

ただ、いくつかの個別の勧誘やグッズの販売、献金などにおいて、裁判例などでも違法を認定された事案があり、違法無効とするべき事案があることも事実のようです。ここで被害者救済だけを旗印にして一切を規制してしまうと、不当に信教の自由を害する事態が生じてしまいます。だから、どこまでが信教の自由の範囲で裁判所の判断が及ばないのか、どこからが裁判所が介入できるのか限界を画する必要があります。

この限界を考えるにあたって、自由意思、マインドコントロール、そして不安の3点の関係を理解することが大きなヒントになると思います。
私の家は典型的な日本型宗教観ですから、その日によって宗教が変わります。葬儀・埋葬、盆、彼岸は仏教ですし、正月や結婚式は神道ですし、クリスマスはキリスト教というわけです。だから、一つの宗教を正式に信仰するということはとても不思議なことでした。

高校時代、信仰を持った友人がいましたので、信仰を持つことが特別なことではないということがおぼろげながらに感じられました。

無責任な断定的な仮説ですが、宗教の本質は、人間に必然的ついて回る不安の解消にあると思っています。そしてそこに正当性というか存在意義もあると考えています。

色々な宗教は、その時代的制限、地域的条件がありますから、昨今の科学的知見から見れば、信じることがなかなか難しい個別部分もあると思います。しかし、時代的制限や地域的条件を取り払って、本質的な部分を再構成すれば、現代でも多くの日本人も無理なく信仰の対象となりうると思っています。

世界三大宗教が生まれたころの不安は、主として病気や死に対する不安だったのかもしれません。現代社会は、対人関係不安が慢性的、多発的に生まれています。また、生理的な不安としか言いようのない漠然とした不安も起きています。

シリーズ1で述べたように、人間は生まれながらにして不安とともに生きる動物であると考えています。そして、人間は不安を感じると、不安を解消したくなり、不安を解消しようとする行動をとります。不安の根本原因を探し当て、この原因を除去できれば不安が合理的に無くなります。しかし、例えば死の不安のように原因を除去することができない不安もあります。また、漠然とした不安をはじめとして、原因がどこにあるのかわからない不安や、不安であることをそれほど自覚できないけれど苦しんでいるということもあります。

合理的に解決する方法が無い不安の場合は、価値観を転換するとか、考えないようにするなどの方法で不安を回避するとか、何らかの感情的処理をして不安を感じにくくするという方法が取るほかはありません。

このように合理的な解決を図れない不安の回避の一つの方法として宗教があると思うのです。

但し、不安解消としての宗教には2種類あるようです。
1種類目は、修養による哲学的な人生観の到達によって、死の恐怖に打ち克つという方法です。
2種類目は、死んでも自分という実態は無くならない、つまり天国であったり来世であったり、「自分」というものが消えてなくなることなく遺るということをただひたすらに信じるという世俗的宗教観です。世俗的宗教観とは、厳しい修養などをせずに、宗教に人生のすべてをささげるわけではなく、日常生活を営みながら信仰を持つ場合という意味合いです。

大きな宗教は、前者をきちんと持っているとおもうので、その本質は現代でも通用すると、勉強をするたび感じています。ただ、時代的制限や場所的条件でどうしても後者も含まれてしまうようです。

いずれにしても、不安回避という効果をもつという意味では同じことかもしれません。

だから、その人の不安が強ければ強いほど、宗教に専心していくエネルギーは強くなるでしょう。そして、不安の根源を、世俗的な物の所有、世俗的な人間関係の存続などに執着することにあるという教えであれば、不安解消のために物を手放すし、人間関係を絶つわけです。このような物理的な側面、外形だけを見れば、どんな宗教にも一定の共通項として存在するようです。すべての物や世俗の人間関係を捨てて、修養を積み高い境地に向かうという要素は宗教にはつきもののようです。だから、全財産を宗教団体に寄贈するということや家族と関係を絶つということをもって、信教の自由を否定することは難しいと私は思っています。

純粋な宗教は、時の支配者から見れば、秩序を乱す存在であることは間違いがなく、その歴史において国家や社会から弾圧される経験を持つ理由となっています。但し、国家からすれば、その影響力の強い宗教の利用方法を獲得すれば、これほど支配の道具となり得るものもないわけですから、国家に利用されていくということも宗教の定めなのかもしれません。但し、国家に利用される段階では宗教の純粋性は論理的に失われているということにはなるでしょう。

では、違法な宗教的外観の行為と信教の自由の保障を受ける宗教行為の違いがどこにあるのでしょうか。わたしは、一人一人の契約などの意思表示や、金銭の支払いや贈与のような行為が、自由意思に基づいていると言える場合は信教の自由の保障の対象であり、自由意思に基づいていると評価できない場合は民事的な違法であり、取り消しうる行為にするべきだと考えています。自由意思という言葉が大きな問題となっていますが、もともと自由意思ではない契約は、無効とされています。ところが、その売買や贈与が自由意思ではなかったということはなかなか証明できないことです。

このため、マインドコントロールが行われた外観がある場合は、自由意思ではないとして、献金や代金の支払いを取り消すという特別法が作られればよいと考えているのです。

どのような場合にマインドコントロールが行われるか、マインドコントロールはどのように行われるか、そんなに簡単に行われるものか、どうして他人の言いなりに行動してしまうかということを説明していきましょう。実はそれほど難しいことではないのです。

特定の宗教団体に限らず、また宗教に限らず、マインドコントロールは起きるようです。マインドコントロールが解けてしまえば、どうしてあんな話を真に受けてしまったのだろうとか、あんな活動をして親を泣かせてしまったのだろうなどと同じ一人の人間でも価値観が全く異なった考えを持ってしまいます。

例えば、詐欺なども一種のマインドコントロールが利用されています。解けてしまえばどうしてそんなあり得ない話に乗ってお金を出してしまったのだろうということになります。

例えば、最近裁判が始まった事件では、誰かから思考を支配されてしまって、誰かの望む行動をしようとする余り、自分や自分の子どもでさえも継続して虐待をして死なせてしまうこともできてしまうようです。これもマインドコントロールによる行動であり、完全な自由意思による行動ではないと評価できる場合がありそうです。

マインドコントロールは案外簡単な方法でできてしまいます。

1 ターゲットの不安を強くすることです。

不安が強くなると、不安から逃れたいという要求も大きくなります。この要求が高まってしまうと、最終的には何でもいいから不安から解放されればよいという状態まで不安を高めます。不安から解放する方法にどんなものでも飛びついてしまいたくなるようです。

不安が高まってしまうと複雑な思考ができなくなります。逃げるか戦うかという二者択一的な単純な思考で物事を評価、決断してしまいます。必要な情報を丁寧に評価することもできなくなるし、問題設定自体がおかしいということも気が付かなくなります。また、早く「正解」なり「結論」にたどり着きたいという焦りも生じます。放っておくと悲観的な考えになり、ますます不安が高じてきます。

2 睡眠不足に陥らせます。

 人間は睡眠不足になると、複雑な思考がますますできなくなります。ケアレスミスも増えていくことはご経験がおありでしょう。

3 空腹の状態にとどめます。

空腹の状態の場合、自然と危機感が高まり、思考も単純化し、悲観的な思考になじみやすくなるようです。

4 権威者からの否定評価が行われます。

人間はシリーズ1で述べた不安という心によって群れを形成していたと述べました。これが変化したものとして、群れが強く、持続的なものであろうとすることから、群れの中に権威を作り、その権威に従おうとする修正があります。
迎合の心理と名付けました。こうやって群れの秩序を作るわけです。
「迎合の心理」 遺伝子に組み込まれたパワハラ、いじめ、ネットいじめ(特に木村花さんのことについて)、独裁・専制国家を成立させ、戦争遂行に不可欠となる私たちのこころの仕組み
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2022-04-21

権威者とは、特別の修養を積むとか、研鑽をするという必要はありません。周囲が、その人が権威者だとか、そのルールが正しいルールだという行動を示せば、案外単純にその人、その決まりに権威が生まれるようです。

まず社会と隔絶された空間を作ります。外部の人間が入ってこない建物で、外部の人間と電話などで連絡が取れない状況に起きます。そうすると人間は自然と近くにいる人間と仲間でありたいという気持ちになっていくようです。

ターゲットに何らかの行動や発言をさせ、権威者がそれらをことごとく否定していきます。周囲もそれに同調をすれば、ターゲットは急激に無力感に陥っていきます。同時に、不安も生じます。何とか集団、特に権威者に肯定されたいという要求が高まってしまいます。親に電話一本して状況を説明すれば、「早く帰っておいで」という一言で解けるようなバカげた否定がなされるのですが、不安、睡眠不足、空腹、社会からの隔絶と否定評価によって、ターゲットはこの仲間(マインドコントロール集団)から見放されたくない、肯定されて安心して仲間でい続けたいという気持ちに勝手になっていくのです。

そして具体的にやるべきことを指示します。
このやるべきことは、托鉢のような比較的複雑なこともありますが、体操のような体を動かすこともあるでしょうし、歌を歌わせたり、文章を読ませたりすることもあるでしょう。一心不乱に何かをやることによって、否定をされない状態を作るということなのかもしれません。こうして考える時間を奪っていくわけです。

そして、時期を見て、なんでもいいから理由をつけて、承認、肯定を存分に行います。肯定されることに飢えていたわけですから、これはターゲットにとって何物にも代えがたい救いになります。

結局、冬にストーブをガンガン炊いてアイスクリームを食べるとうまいと感じるようなそんな感じです。低めておいて高めるそれだけのことなのです。あるいは、物語の冒頭でいじめられていた少年が魔法の力で難事件を解決するというか。

こうやって、その権威者から褒められることで脳の報酬系を刺激してしまします。それだけで達成感、恍惚感を味わいやすくなってしまいます。権威者に褒められようとする行動傾向を作り出すのです。権威者に認められればこのような脳の快楽が発生するということを学習してしまうので、その快楽を再び味わおうとする力は強大なものです。抵抗することができないのは、この点です。これが依存です。脳への働きと依存行動は、麻薬と同じ原理です。

また不安があおられて作り出されていますから、権威者に肯定されることは不安を回避するための手段でもあります。権威者に肯定されれば不安を感じない状態を作ることができるという体験は、不安解消の具体的な方法を示されたということですから、飢えた者が水を飲むように権威者に肯定されようとして行くわけです。このようなモデルケースでマインドコントロールが行われれば、多くの人は加害者の思い通りに行動をしてしまうでしょう。権威者だけが本当の自分を理解していると思い込まされるということはこういうことです。不安回避も人間は抵抗できません。その上に報酬系の刺激があれば、この快楽を選択するしか方法は無くなると思います。

あとは、権威者が、自分で権威を壊すことなく、ターゲットに要求を行い、ターゲットを動かしてゆけばよいわけです。

不安をあおる論理や、不安を救済する論理なんでずさんなもので構いません。すべて善解するでしょうし、権威を疑うことは報酬を得られず、不安を高めますから自分を守るために行うことができなくなります。

だから、マインドコントロールは、ひとたびかかってしまうと、なかなか解けることができないわけです。権威を否定する親族などは、自分を攻撃する者という意識になっていますから、敵対的な考えに支配されてしまっています。理屈でマインドコントロールを解くということも、薬でマインドコントロールを解くということも難しいと私は思います。宗教団体以外の事例を見ていると、巻き戻しをしている例が多いと思います。ひたすら安心させること、決して責めないこと、自分こそがターゲットの仲間であり、自分はターゲットを決して見捨てないことを少しずつ実感してもらうことが行われているように感じています。

さて、マインドコントロールの元では、とにかく権威に迎合することが第一の行動原理になってしまっています。しかも、のどが渇けば水を飲むとか、熱い物に触ったら手を引っ込めるというような、動物的反射行為のように権威者に迎合しようとしています。そして権威者に肯定され、評価されることで、不安が解消し、脳の報酬系も刺激されます。

あたかも、麻薬中毒者に、全財産を出せば麻薬を打つとか、親と連絡を取らなければ麻薬を打つといわれて言いなりになっているようなものです。
このようなマインドコントロール下の行動や意思は、自由意思に基づくものではないと評価できると思います。但し、本当にマインドことロール下に完全に入っていたかということまで証明しなければならないと、救済は難しいということになると思います。

私は特別法を作って、以下のように立証責任を軽減するべきだと考えています。

場面としては、自由意思を奪った相手、その関連団体との間で法的効果を否定するということです。マインドコントロール下で無関係な第三者に対して被害を与えた行動について、第三者が被害を全部かぶるということは公平とは言えないだろうと思います。

前提として
A 虚偽の事実を述べるなど何らかの錯覚を起こさせて、不安を抱かせたり、不安を増大させたりした場合は、通常に詐欺を原因として取り消すことができる。
B 例えばそれが宗教団体を自称していても、宗教自体が、信者の心の安寧を計ることを目的としておらず、教祖や一部の幹部の利益を図ることを目的としている場合(それが証明された場合)は、宗教活動に伴う行動、意思表示は無効としてよいと思います。

そうではない場合でも以下の外形がある場合は、マインドコントロールのかかり具合を証明することなく、本人または3親等内の親族は行為を取り消すことができるとするべきではないかと考えています。但し、一つでもその外形があれば取り消されるというわけではなく、逆に全部その外形が無ければ取り消されないというわけでもないように考えてはいます。この辺りは決め方ですね。

1 宗教勧誘ないし宗教的行動、献金の誘因が目的ないし行為者側の想定があるにもかかわらず、宗教行為であることを隠してターゲットに働きかけて人的関係を形成すること
2 ターゲットがすでに有している不安以上に高度な不安を与える働きかけを行うこと
3 働きかけが、22時から6時30分までの間の睡眠を妨げたり、一日6時間の睡眠を妨げた上で形で行われた場合
4 働きかけが、宗教団体の施設、関連する施設で行われ、48時間以上、親族や友人との連絡を妨げて行われた場合
5 働きかけが、食事の自弁購入を妨げられた場合
6 働きかけにおいて、ターゲットの人格を傷つける行為、暴力などがある場合
7 働きかける場に宗教団体の関係者、及びターゲット群しかおらず、ターゲットが中立的人物と相談ができない状態にある場合
8 ターゲットに思考力が低下する薬物などを投与した場合

上記の時間とか要素の具体的内容については、これから議論が必要だと思いますが、マインドコントロールの成立に役に立つ行動をする場合、自由意思だという反論を封じるということが眼目です。

宗教に限らず、マインドコントロールの実態などを調査研究することによって、建設的な議論が行われることを期待します。様々な場面で役に立つ研究になると思われます。

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