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行動決定の原理 2 犯罪の行動決定と予防に効果がある対策 [刑事事件]



1 犯罪も熟慮の末に実行しているわけではなく、気が付いたら罪を犯していたということが多いこと 及びその意味
2 二次の情動と犯罪 多くの人はなぜ犯罪をしないか
3 二次の情動が働くなる要因
4 別考慮が必要な職業的犯罪と犯意の持続 犯罪環境
5 犯罪予防の有効な策

1 犯罪も熟慮の末に実行しているわけではなく、気が付いたら罪を犯していたということが多いこと 及びその意味

新聞の犯罪報道を読むと、おそらく多くの人が「なんでそんな馬鹿なことをするのだ。こんなことをしたらどうせすぐにつかまるし、ニュースで顔や名前、住所までもさらされてしまうだろうに。」と感じることが多いと思います。

しかし、刑事弁護をして感じたのは、圧倒的に多くの場合、犯罪を行った人は、それらの事故にとっての不利益を、「そこまで考えていなかった。」状態で犯罪を行っているようです。例外的に盗みをして生活をしているような、反復継続して犯罪を常習にしている人は、また別考慮が必要です。これは後から述べます。まずは圧倒的多数のそこまで考えないで犯罪を実行する場合を考えます。

万引きなどが典型例ですが、弁護の過程で本人から聴いても、自分がいつ万引きをしようと考えはじめたのかよくわからない人がほとんどです。自分の気持ち(意識)についてのメタ認知が無いという言い方もできるかもしれません。だけど、自分の行為(①対象物を定めて、②周囲を気にかけて見つからないように緊張して、③商品を手に取ってバッグに入れて、④外に出たところを職員から呼び止められる)は記憶しているのです。但し、④の段階でふと我に返り、自分が万引きという窃盗を犯していることを強く自覚するというパターンが本当に多いです。①から③については、記憶はしているけれど、①から③の時点ではあまり「自分の行為が意識に上っていない」という表現が近いようです。意識下で脳が勝手に行動をしているような、そんな感じです。

「自分は万引きをしていない。誰か他人が自分を罠にはめようとして自分がやったことにして商品を自分のバッグに入れたのだ。」という言い訳が少なくないのですが、そのように感じていることは理由が無いわけではないようです。

殺人なども同じ場合が多いのではないでしょうか。①殺害対象の人間を定める、②人の死ぬような危険な行為を行動決定する、③人の死ぬような危険な行為を実行する、④相手が苦しんだり、死んだりして自分がしたことに気が付くという流れで、①から③については、やはり無意識下で脳が勝手にやっていたという感じのことが多いようです。攻撃意志が強固ではない場合は、相手の被害を見て攻撃の意思が無くなり、蘇生活動をしたり、救急車を読んだり、あるいは危険から脱出させたりする行動をすることが実際は多いです。(控訴審の弁護をしていて気が付くことは、弁護士が「中止未遂」の主張を案外忘れていることです。)

一方的な殺人ではなく、相打ちのような場合、自分の行動(上記①から③)が記憶から欠落していることもありました。実際に自分がやったことを「覚えていない」ということは裁判上不利になりますし、そのことを十分伝えましたが「覚えていない」と言い続けていましたので、やはり覚えていないのでしょう。但し記憶に残らなかった時間はほんの1秒程度のことだと思います。

思い立ってから即時に実行できる犯罪類型では、このような「脳が勝手にやった」犯罪という一群がありそうです。

不可解な交通事故、業務上横領、万引きその他、一般市民が犯してしまいがちな犯罪に多いかもしれません。

このような犯罪は、厳密にいうと自由意思に基づいて行われるわけではないし、自由意思によって行為前に抑止することは実際にはなかなか難しいことです。しかし、「厳密に言えば自由意思の制御が不可能だった」と弁護をしても、無罪にはなりません。無罪有罪の判断基準は純理論的なものではなく、国家政策で決まるもので、国家意思の考慮要素としては刑罰の威嚇による犯罪抑止と、被害者や一般人から見て悪いことをしたら処罰されるべきだという「応報」と言われる観念も考慮されて決まるものだからです。

但し、純粋に予防の観点からすれば、この種の犯罪は、刑罰の威嚇はあまり効果が無く、予防の観点からはむしろ刑罰よりもその人たちの生活環境を改善することの方が有効だとは思っています。

2 二次の情動と犯罪 多くの人はなぜ犯罪をしないか

ところで、「どうして犯罪を実行したのか」ということを考えるにあたっては、「どうして多数の人は犯罪を実行しないのか」ということこそを考えるべきだと思います。犯罪を実行しないシステムというものがあり、この犯罪をしないためのシステムがうまく作動しないから犯罪を実行してしまうという考え方をしてみようと思います。

1)多くの幼児は罪を犯さない

例えばスーパーマーケットで、自分の好きなキャラクターがデザインされたお菓子があって、どうしても食べたいと思っても、多くの幼児は親の目を盗んで勝手にとって食べません。これはどうしてでしょう。

色々な説明方法があると思うのですが、私の説明方法は以下のとおりです。子どもは、そのような自分の家の外の物は、「親から与えられるものだ」という認識を強く持っているのではないでしょうか。自分は外から物を調達する立場ではないという認識があるということです。だから、欲しくても自分でこっそり取らないで、顔を真っ赤にして床に寝転がって、親に対してねだるわけです。

まあ、親が子どもが勝手にとらないように目を光らせているということはあるかもしれません。

2)社会の一員から脱落したくない 「二次の情動」

犯罪を実行するときに、それをすることによる様々な不利益、①自由を拘束される、②自分に対する社会(報道された範囲、及び、自分のこれまでの付き合いのある人間関係)の評価が低下する、③損害賠償を請求されるなど、を「考えないで」実行するというのが犯罪を実行する場合の多数派のようです。そうだとすると、犯罪を実行しない場合も、そこまで「考えた上で」犯罪を実行しないというわけではなさそうです。

例えば、<店の前を歩いていたら自分の欲しい服が売られていた。手に入れたいけれど、お金が無い>という場合、いちいち「これを盗んだら犯罪による不利益が生じるから盗まない」ということを考えてはいないでしょう。ただ、「お金が無いからあきらめる」ことが通常だと思います。

「盗まない」という意識による選択をして決定をしているのではなく、「『盗む』という選択肢がそもそも意識に出現していない」と考えることが私たちの感覚にもあっているのではないでしょうか。

ではなぜ選択肢が出てこないのでしょう。もちろん、法律で禁止されているからとか、不道徳な行為であるとか、お店の人に迷惑をかけるからとかいろいろ思い浮かびますが、そのような「意識による価値評価」をしているわけではなさそうです。

「無意識のうちに脳が勝手に処理している」と考えることが自然なのではないでしょうか。つまり、①欲しい、②お金が無い、③盗めばすぐに手に入るというアイデアは、意識はしないけれど脳の中で駆け巡っているのだと思います。しかし、④それは社会的に自分を不利にするからだめだという「本能的な打消し」が起きているということが私の仮説です。これらは無意識に処理されているので、意識には上ってきません。

人間は群れを作る動物です。言葉もない時代から群れを作っています。言葉が無ければ自分達の意思を外から拘束する「ルール」が存在するということは無理な話です。本能的に、社会的評価を落とす行為が何かを知っており、それを無意識下で思いついたら、本能的に(脳が勝手に)その行為を抑制するシステムが人間の脳に組み込まれているという説明の仕方を提案するわけです。このシステムを「二次の情動」と私は呼ぶことにします。

「二次の情動が健全に働いている場合、人間は犯罪行動を起こすことは無い」のではないかという仮説がここでの結論です。

ちなみに一次の情動とは、身体生命の危険を脳がキャッチした場合に、危険を避けて身体生命の安全を図る無意識のシステムです。動物全般に備わっているものです。野生動物が炎を見たら怖くて近づかないとか、何かが飛んで来たら危ないと思って腰をかがめるとかそういう自然に行動している原理です。

3 二次の情動が働くなる要因

それでは二次の情動が働くなり、犯罪を選択して行動決定してしまう理由はどこにあるのでしょう。

1)側部抑制
 
二次の情動が働かなくなる一つのパターンは、「二次の情動は一度に一つのことにしか働かない」という場合です。生理学の用語を用いて「二次の情動の『側部抑制』」と言うことにします。

二次の情動は、自分を取り巻く人間関係の中に自分の立場を維持しようとするシステムです。人間の心が生まれた今からおよそ200万年前(狩猟採取時代)の人間関係は、生まれてから死ぬまで一つの群れ、同じメンバーの少人数の群れしかありません。一つの人間関係の立場だけを考えればそれで万事解決する環境だったので、二次の情動も一つの関係に関して発動しさえすれば、他の関係では発動しないという仕組みで良かったのです。ところが、現代社会は複数の群れに人間は所属しています。すぐに思いつくだけでも、家族、学校、職場、地域、国等々、人によってはもっと様々な団体に所属しているわけです。

だから、職場での人間関係で情動が高まって葛藤が強ければ、そのことで二次の情動がフルに使われてしまい、家庭との関係での二次の情動が働きにくくなるということが起きていそうなのです。

継続的人間関係(例えば家庭や職場とか)での二次の情動が強すぎて、お店(店員と客である自分)という人間関係が希薄な場面では二次の情動が十分に機能しない状態になっているということがありそうです。一つの人間関係において二次の情動が目いっぱい使われていると二次の情動によって本来無意識に選択肢から落とされるべき万引き行為は、落とされないで選択肢が残ってしまい、さらに制御もできずつい万引きをしてしまうという流れがありそうです。弁護人として本人たちから話を聞くと、この流れがしっくりくる説明のようです。

私は万引きという犯罪類型に興味を持ち、意識的に弁護をしています。その中で感じたことがあります。万引きをした人は、ストレスを強く感じている場合が多く、その最も多い類型が「孤立」でした。高齢者の万引きでは、少なくない割合で一人暮らしが多いようです。次に多いのは不条理な扱いを受けていると感じることです。「なぜ自分だけが不運なのだろう。」と考えることと犯罪が強く関係しているようにいつも感じます。

貧困が原因になることもあるのですが、どちらかというと、貧困による生物的機関というよりも、貧困の社会的なみじめさ、疎外感という心理に対する影響が強く作用するように感じています。

2)一次の情動優位

二次の情動相互間のバッティング(複数の人間関係で自分に対する否定評価があっても、一つの人間関係だけが意識に上るということ)を述べましたが、一次の情動によって、二次の情動が働かなくなるということもあるようです。つまり襲われたので身の危険を感じてやり返すというような場面です。

このような場面では、正当防衛や緊急避難という違法性を無くす制度があるのですが、危険を招いた者に対する逆襲については要件を緩和して罪を問わないことを徹底するべきだと思います。この考えを法律化したのが盗犯防止法(盗犯等防止に関する法律)です。

また飢えをしのぐための窃盗というものがあるのですが、これは無罪にはなりません。ただ、一次の情動が勝るために二次の情動が機能不全になった例としては参考になると思います。

3 ストレス以外の情動の機能不全を招く疾患

よく知られているのですが、ある種の病気というか体調の変化が犯罪の理由として説明されることがあります。病気などによって不安や焦燥感が高まってしまい、二次の情動が機能不全になってしまって、犯罪行動という選択肢を排除できないでいる状態です。自分の何らかの(病的、生理的、その他の)変化によって、「特定の人間関係における自分の役割が果たせなくなった」という意識が強くなり、二次の情動を圧迫しているという印象を受けることがあります。

もしそうであれば、職を失うとか、大けがをしてこれまでとは同じ様に仕事ができなくなり収入が不安定になった場合も、やはり二次の情動が高まってしまい、不合理な選択肢を脳が勝手に排除するということができなくなってしまう可能性があるということになると思います。

こういう場合があれば、家族など周囲は本人を安心させ、本人に対して自分たちという絶対に見捨てない仲間がいるというメッセージを伝えて、安心さることに努めることが必要なのかもしれません。

4 別考慮が必要な職業的犯罪と犯意の持続 犯罪環境

積み残していたのは職業的な犯罪、特に常習犯罪と犯意を生じてから周到に準備をして犯罪に至るように犯意が持続している犯罪です。

1)二次の情動による抵抗を打ち破る一回目の犯罪と二回目の犯罪との違い
 
二次の情動がよりよく働くのは一度目の犯罪の時です。逆に言うと一度犯罪を実行してしまうと、繰り返してしまうことが少なくありません。具体的経験は、その犯罪の選択肢を想起しやすくなるようです。万引き、侵入窃盗、すり等の窃盗罪、業務上横領事案、あるいは放火や偽計業務妨害罪等がすぐに思いつきます。

一度その犯罪を実行してしまうと、変な表現ですが体がその行為を覚えています。そうすると、無意識で例えば万引きをしようという選択肢が浮かびやすくなってしまうし、それを実行に移してしまいやすくなるという説明がリアルだと思います。犯罪行動の選択と言っても、抽象的な選択ではなく、どこそこの(今その店にいるならこの場所で)、具体的な商品(今その店にいるならこの商品の子の手前に配置されている商品)を、具体的に手でつかんでバッグに入れるという具体的な選択肢が出現しなくてはなりません。もしこの具体的な選択肢が出現してしまっているならば、無意識下で万引きは実行できてしまいます。

1回目の犯罪では、二次の情動が機能不全になっているとはいえ、ある程度力が残存していますから、選択肢が具体化するにはそれなりの抵抗があったはずです。ところが二回目の犯罪では、二次の情動がある程度残っていたとしても、一度二次の情動を打ち破って犯罪を行ったことによって、二次の情動の力が十分働かなくなり、犯罪の選択肢が出現しやすくなり、かつ、消えにくくなっているという説明が可能なのではないでしょうか。

2回目の犯罪は1回目よりも無意識の抵抗が小さくなるという言い方をすることがあります。だから、1回やって悪いことだと分かったからもう二度としないだろうと安易に考えて合理的な対策を立てないことは間違いです。1回目だからこそ二回目の内容にきっちり対策を立てることが必要です。有効な予防策を立てる必要性が高いし、予防策の効果が上がる確率は高くなると思います。

2)犯罪環境という考え方

様々な事情で働いて収入を得ることができず、当人たちの間では「生きていくために仕方がなく」万引きなどの窃盗をしている人たちがいます。あるいは、犯罪組織に身を置いてしまい、言われるがままに犯罪を繰り返す人たちもいます。

犯罪をしたその時点だけを見れば、この人たちは冷静に、熟慮をして、準備をして、計画を立て犯罪を実行するわけです。これは二次の情動とは関係ないのでしょうか。この種の犯罪は、全体の犯罪から見れば少数です。しかしこの一群の説明ができなければ、理論は完成しないようにも思えます。

この人たちも、「二次の情動の機能不全」が起きていると説明することは可能だと思います。最初に二次の情動を打ち破ってしまって、犯罪を実行してしまった後、さらに犯罪を重ねていくと、もはや二次の情動は働くなる傾向にあるのだろうと思います。即ち、もはや守るべき自分、関係を維持すべき自分の人間関係が消滅したという感覚です。大変恐ろしいことですが実際にあるように感じます。「もういいや」という感覚です。

特に、夫婦ぐるみで、あるいは家族ぐるみで、あるいは仲間を形成して仲間ぐるみで、そのような二次の情動が消滅してしまうと、犯罪自体を後ろめたいものと思っていないような感覚で計画を立てて行動しているような印象を受けることがあります。この場合は、家族ごと社会から孤立している場合だという表現がぴったりときます。

また、犯罪集団に身を置いてしまうと、そちらの人間関係が最優先になってしまい、そちらの人間関係の中で自分の立場を維持するために、群れの外の人間を容赦なく攻撃する類型の犯罪を実行するようです。少年事件では典型的な事件類型です。仲間の一人が別のグループの人間からひどい目にあった、それではみんなで復讐しようというのが典型的なパターンです。自分たちの仲間を守ることが自分を守ることに直結しているかのような行動をしてしまいます。

窃盗常習者の事件を弁護したことがあるのですが、100件くらい住宅に入って金品を盗んで何か月か生活していたという事案でした。最初のうちは、冷蔵庫の食料を盗み食い(まさに)していたのですが、だんだんと預金を心掛けるようになってゆき、生活の安定を目指すようになったというわけがわからない行動パターンになっていました。この人は、当初濡れ衣を着せられて職場から非難を受けて仕事をやめさせられて、家族も失って生きる気力がなくなり、家に引きこもっていました。さすがに体が動かなくなってきたという極限状態に近い状態で、捕まってもいいという投げやりな気持ちで盗みに入ったらうまくいってしまい、繰り返していくうちにうまくいかなかったことに備えて貯金をするまでになってしまったようです。

肝心なことは最初の二次の情動が働かなくなった理由として、それまで自分が大事にしていた人間関係を、次々に失い、およそ人間関係全般、社会の中での自分の立場というものがどうでもよくなってしまったというところに本当の原因を求めるべき事案だったのだと思います。

私は、このように犯罪の選択肢を排除できなくなるという二次の情動が働かなくなるその人の環境を「犯罪環境」と言っています。どんな犯罪者でも生まれつきの犯罪者はめったにいません。この犯罪環境が必ずあります。この犯罪環境から抜け出すためにどうしたらよいかを本人と一緒に考えることこそ弁護人としての重要な役割だと考えています。

5 犯罪予防の有効な策

1)犯罪後の再犯の予防
ⅰ)刑罰について

犯罪を予防することだけを考えるなら、必ずしも処罰をすることは必須ではないように思います。但し、処罰があるということで、様々な道徳などのルールの中で強いルールなのだという意識づけには有効かもしれません。

しかし、本来人はまっとうに、穏やかに暮らしていれば犯罪を選択しません。また、犯罪を選択して実行するのは、実際は無意識の状態ですし、二次の情動が機能不全に陥っている事情がある場合です。「刑罰があるから犯罪をやめよう」と考える時間ないしきっかけが無いことが多いです。刑罰を重くすれば犯罪が総数として減少するということは無いというのが実感でもあります。受ける刑罰の重さまで考えていないから犯罪を行うわけです。

どちらかと言えば刑罰は、悪いことをすれば処罰されるということを知らしめて、応報感情を満足させたり、社会の安心を作っているという役割の方が大きいのかもしれません。それも国家という秩序を維持するために必要なことだと思います。

ⅱ)叱責より理由の探求

例えば万引きなどは窃盗ですから犯罪です。このことを知らないから万引きをする人はこれでの弁護士人生で扱った事件では一人もいませんでした。家族も万引きは悪いことだから一時の気の迷いだからもう二度としないだろうということ、万引きをしたことに対する、叱責、非難、嫌味などで終わりにすることがしばしばみられます。

しかし、一時の気の迷いは、これまでお話ししてきた通り再現してしまいやすいのです。やってはいけないことを知っていてやっているので、やってはいけないということを繰り返してもあまり意味はありません。

叱責をするのではなく、二次の情動が機能しなかった理由を突き止めて、それに応じた対応をするということが必要であるということになるわけです。

ⅲ)二次の情動の回復

 ひとたび二次の情動が機能不全になり、警察沙汰になり、広く報道をされてしまうと、社会的存在でいることをあきらめてしまう場合が少なくありません。社会的評価が下がったことは仕方がありませんが、二次の情動を回復させる必要はむしろ高まっています。二次の情動を高める工夫についてお話しします。

① 将来に対する希望
執行猶予になるとか刑期を終えるなどして社会復帰をした後の、生活の喜びというものを提示することによって将来に対して明るい気持ちになることが最終目標だと思います。「ここで逮捕されていろいろなことを考えられたので、逮捕されなかったよりもよりよい人生を歩めるかもしれない」という希望をもてることができれば、犯罪環境からも抜け出すことができます。

この目標は信頼関係の構築など、前提事項が多いし、自分自身で目標を持つことが必要なので、弁護人がただ提案すればよいというものではありません。

② 二次の情動の後付けの具体化

本能的に発動する二次の情動は、なかなか言葉では説明しづらいことがあります。「本来ならばここでこうすればよかった」と後付けではありますが、一応の正解パターンを考えることで、これから先の人生における二次の情動を発揮しやすくなるはずです。

例えば、被害者の心理的被害や困った事態になったことを具体的にイメージでき、話しができるようになること。これは現実に起きたことではなく、おきそうなことをシミュレーションできればよいのです。そうして、次に選択肢が来るときにすぐにそれを打ち消す意識が生まれることが期待できるようになります。

その犯罪がなぜ処罰されるのかということをなるべく具体的に思い描くことが有効だと思います。

③ 犯罪環境の自覚
 自分がなぜ考えなしに犯罪に及んだのか、「どうして止めることができなかったのか」ということを考えてもらいます。その人が犯罪環境にいたわけですから、自分にとっての犯罪環境とはどういうことだったのかということに気が付いてもらうことが有効です。その上で環境を変えること、例えば実家に戻ることで、二次の情動を妨げることができるようになることもあります。ここも抽象的ではなく、具体的に止めることができなかった要因を考えてもらうことが必要です。

④ 将来の生活の構築
犯罪環境など二次の情動が機能不全に陥らないためには、やはり今後の生活のどこに気を付けて生活するかということが必要です。具体的に実行できなくては意味がありません。だから③の考察の中で気持ちが緩んでいたとか気持ちが弱かった、流されていたという言葉にとどまっていたのでは将来設計はできません。③の考察が具体的であればあるほど、将来の生活設計は簡単に構築することができるでしょう。

2) 犯罪の前後を問わない予防
ⅰ)孤立の解消

ここで言う「孤立」とは、その人がこの世の中で、すべての人間関係で一人きりになることではありません。ある一つの人間関係で孤立するだけで、その人はこの世の中で孤立しているという意識を持ってしまうようです。二次の情動は一つの群れだけで一生を終えていた時代(狩猟採取時代)に進化によって獲得していたものですから、複数の群れで生きている現代社会においても、一つの人間関係での孤立を過大に受け止めてしまうことは十分な理由があるわけです。

家庭では円満な人間関係であったとしても、職場でひどい目にあっていると、家族の気が付かない間に孤立感を深めてしまっているかもしれません。

弁護の過程では、本格的に再犯を防止するために、その人の様々な人間関係を調べる必要があります。場合によっては生い立ちにさかのぼっての調査も有効です。これはそれほど難しいことではなく、本人は、無意識にその関係の不具合にこだわりつづけているので、自分の口から話してもらいさえすればわかることが多いです。ただ、興味を持って調べられるかどうか、そのことに気が付くかどうかにかかっています。

孤立の解消が最大の犯罪予防になると考えています。逆に言うと、普通の人がひどい孤立をしてしまうと、思わぬ犯罪を選択してしまう危険があるのだと思います。その人がどうしてよいかわからない状況に追い詰めることは、犯罪以上に否定的に評価するべき事柄だと思います。ある人に何かを改善してもらいたいときであったとしても、その人を追い詰めるようなやり方はしてはならないということです。もしその人が家族や職場の仲間だとすれば、この仲間からは外さない、否定はしないという意思を明示して改善を提案し、一緒に考えていくことが正解なのだと思います。

過剰すぎる正義は他者を追い込み孤立されることがしばしばみられます。また過剰すぎる責任感は自らを追い込み孤立させることがしばしばみられます。

ⅱ)貧困の解消
かつてのように、貧困であるから生きるために盗むという事態は少ないのではないでしょうか。絶対的貧困ではなく相対的貧困はむしろ拡大しているかもしれません。

貧困自体が、かつてよりも低く社会的に評価されてしまい、貧困自体を犯罪視するかのような意識を感じることもあります。これでは、犯罪をしたことが無くても、貧困に陥ったことによって自分が社会の一員として認められていないという意識を持ってしまう傾向が生まれやすくなります。

二次の情動が機能しなくなっているケースでは、「精神的に不安定になって働くことができず収入が無くなった場合」、「犯罪歴があるため職に就けないで収入が無い場合」、あるいは「薬物依存のため生活が破綻して貧困に陥っている場合」等のケースを担当しました。先ほどの、不条理な解雇によって精神的ダメージを受けて再就職活動ができなくなるケースもありました。

貧困それ自体が犯罪を誘発するというよりも、貧困に陥ったことで社会の一員として扱われていないという疎外感が二次の情動を圧迫して犯罪の無意識の選択を行わしめているようです。

自然な感情から「自己責任」という考え方が生まれることは仕方がないことかもしれません。必死になって、あるいはプライドを捨てて収入を得ている人から見れば、「薬物なんてやめて働け」、「万引きする度胸があるなら就職して働け」という気持ちになることももっともです。

ただ、その人たちも、貧困を選んで貧困に陥ったわけではなく、抵抗する方法が無く犯罪環境にはまってしまうということが実際です。理解はしたくないとしても、犯罪予防の観点からは、貧困による弊害を社会で防止していくという発想が求められるのではないでしょうか。

犯罪が多発して自分の身を守らなければならないということこそが、犯罪環境になっているということもあると思います。

罪が行われ、被害者が出た場合に起きる応報感情と、被害者を出さない予防政策は両立するものです。両立するということは別個に考えなければならないということを意味します。児童虐待などで、この応報感情に支配されて、強硬な、処罰的な対応ばかりが構築されて、結局有効な予防策が構築できず、児童虐待を防げないということであっては意味が無いのです。私は、被害を予防することを最優先にして政策を考えるべきだと思います。

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行動決定の原理 1 総論 人間は考えて行動しているわけではないこと 意識の生まれた時期と原因、意識とは何か [進化心理学、生理学、対人関係学]



第1 人間はできるだけ考えないようにする動物であり、考えて意思決定しているわけではないことを仕事柄感じていること
第2 情動(一次)による行動決定
第3 二次の情動
第4 意識の始まり
第5 情動の側部抑制

このシリーズ考察の最終目的は、人間の行動決定原理をある程度明らかにして、自殺、犯罪、離婚をはじめとする社会病理の行動を予防する効果的な方法を考えることです。

第1 人間はできるだけ考えないようにする動物であり、考えて意思決定しているわけではないことを仕事柄感じていること

私の仕事としては、自死の原因を後追いで調査し検討すること、犯罪の起きた原因を考えて再び犯罪を行わないためにはどうしたらよいかをその人と一緒に考えること、そして離婚に至る原因を考えて離婚を予防して、あるいは家族をそれぞれに適した形で再生させて、子どもたちが両親のもとで成長することを可能とすることが中心になっています。

私の仕事は、人の行動決定を見つめて考えていることだと言えるような気がします。

結論めいたことを先に言うと、人間は、そのような重大な行為を実行するにあたって、「それほど分析的に熟慮をして行動決定するのではなく、様々なことを考えないで一つのことに支配されて行動決定を行って行動する」ということ、そして行動をした後で自分の行動に気が付くということが多いのではないかという感想を抱いたのです。約30年の弁護士の仕事の中で、自死問題については未遂の人からの事情聴取や自死の現場の状況から、犯罪については刑事弁護を担当する被疑者被告人からの事情聴取や捜査資料、あるいはこれから自首をする人たちからの事情聴取、離婚については両当事者から事情を聴いたうえでの結論です。

例えば犯罪どうして犯罪を行ってしまうのでしょう。犯罪をすると広く報道されてしまい、自分のしたことを知られてしまったり、損害賠償を請求されたりする危険があります。そういう不利益があるのにどうしてその犯罪を実行したのかについて本人から話を聞くと、「そこまで考えていなかった」ということが多いです。また「気が付いたら罪を犯していた」という回答も実に多いのです。自死未遂者の人たちからお話を聞くと、この場合も当然考えての行動だろうと第三者が感じることを「考える余裕が無かった」ということが多かったです。離婚や別居についても、離婚後のお金の問題や子どものことをはじめとして熟慮するべきことが考えられていないことも少なくありませんし、離婚を回避しての修復の方法などについても考えていないようです。

様々な心理学実験によって、「人間は、熟慮をして分析的に考えて行動決定をしているのではなく、その時々の外界の刺激によって、自分が気が付かないうちに行動決定をしている」という知見が示されています。

いつも近くにいる人が仲間だと思ってしまう「単純接触効果」、質問の表現によって回答を誘導されてしまう「フレーミング効果」をはじめとして、ダニエル・カーネマンらが一群のヒューリスティック思考をまとめています。十分に考えないで即時に結論を出してしまい、かつ他人を信じてしまうというのが人間のようです。

それにもかかわらず私たちは、人間何か行動をする時は、①十分考察した上で判断して、判断資料に基づいて②自由意思で行動決定を行って、③行動を開始していると考えています。そうではないことが多い、私たちの常識は実は科学的ではないという科学の結果から考察が始まっています。これまでの考察が、上記①,②、③の人間像を前提にして考えられているので、原因論や対策論が間違っているのではないか、その前提を否定して新たな行動決定原理を作ってこそ、正しい分析が行われ、効果的な対策が構築できるかもしれないということです。

第2 情動(一次)による行動決定

ではどのような過程を経て行動をするかということについて、「情動」という概念と、「情動」の中でも「一次の情動」と「二次の情動」というものに突き動かされて行動決定しているということをお話しします。

情動は「エモーション」の訳語です。「エモい」という言葉の語源ですね。ほぼ「感情」と同じ意味ですが、感情については無感情があるけれど、情動については無情動が無いことが違いだなどという説明もなされることがあります。

情動は、それによって行動をする心の動きというイメージになると思います。アントニオ・ダマシオという脳科学者は、情動には今まで知られていたもののほかに、二次の情動が存在するということを明らかにして(「デカルトの誤り」)います。二次の情動について理解するためにも、先ず一次の情動についてお話しします。

一次の情動による行動決定は、私たちも理解しやすいと思います。
危険が迫ってきたことを示す情報を脳がキャッチして、怖いと思って、逃げるという場合、怖いということが情動の一つであることがわかります。歩いていたらスズメバチが飛んでいるのを見て怖いからそちらの方向に歩くのをやめるとか、何かの物体が飛んできて自分に近づいてくるのを見て腰をかがめてよけるとかということが典型です。

危険が迫ってきたことを脳がキャッチして、怖いとは思わないけれど不快だと思った場合は、怒りを感じて、攻撃を行います。怒りが情動の一つとなります。ゴキブリが出てきたので、殺虫剤をかけたり潰したりして攻撃するということですね。
逃げるか戦うかということが最も基本的な情動による行為です。

その他にも、森を歩いていて甘い果物を見つけて取って食べるというのも喜びの情動とでもいうのでしょうか。そういう報酬系での行動を起こさせる情動もあるわけです。

情動に基づく行動は、意識が介在する余地はありません。反射が典型的ですが。反射以外の情動行為もあるわけです。野生の熊が遠くに見えたので、反対方向に逃げるということも情動に基づく行為でよいと思います。本当はこの場合も、意識的に逃げ道を選択したのではなく、実際は反射的な行動みたいなものかもしれません。ただ、ここでは、情動が高まりすぎると意識は介在しにくくなり、情動が鎮まると意識が介在しやすくなると言っておこうと思います。

この一次の情動による行動は、人間が生きていく上で必須な行動決定様式です。スズメバチが近くにいて分析的な熟慮をしているうちに刺されてしまわないように、即時に決断をすることが有益であることはお分かりだと思います。知識が無くては生き残れないというシステムよりも、本能的に怖いと考えて逃げるという行動パターンが自動的に出てくる方が身体生命の安全にとっては、効果的なわけです。

特にこのような情動による行動の場合は、行動決定を行う前に①脳が行動を起こしており、脳によって既に逃げるという行動が開始されて②そのあとに逃げようと自覚して、③逃げるというパターンになるようです。意識は、あくまでも「①自分が危険を意識して、②逃げる意思決定をして、③逃げる意識決定に基づいて逃げる行動を開始した」というもののようです。脳が勝手に逃げ出したということは通常自覚できないということです。
脳の行動開始から自覚までのタイム差は0.4秒くらいというのが、リベットという人たちの実験結果であり、その後の実験でも検証されていることです。

個人的にそれで合点が行った出来事がありました。長い直線道路を自分で自動車を運転していたのですが、前を走っていた車両が急に停止してしまったのです。どうやら右折をすることを直前で思いついたようです。これからブレーキを踏んだところで止まって衝突を回避することは到底間に合わないので、私は、自分では衝突してしまうだろうと思っていました。しかし、自分が考えるより先に、思い切りハンドルを左に切っていて衝突どころか接触も避けることができました。自分でハンドルを切るという意思決定をしたという意識があまりありませんでした。自分ができる以上にハンドルを回したので、しばらく肩がとても痛かったです。私は、亡くなった父親や義父が私の腕をもってハンドルを切ってくれたのだと考えて感謝することにしました。しかし、リベットの実験を踏まえると、様々な要素を目で見て脳がキャッチして、最も合理的行動を選択してその通り実行したという無意識の行為、脳が勝手にした行為だと言われれば合理的な説明がつくことに初めて気が付きました。感謝はし続けますが。

このように熟慮をしないで情動に基づいて無意識に行動することは、現代社会においても生きていくために必要なシステムだと実感した次第です。

第3 二次の情動

二次の情動について、アントニオ・ダマシオは「デカルトの誤り」の中で、鉄道敷設の際の事故で頭蓋骨に鉄パイプを貫通させてしまったけれど生きていた男性の分析から、鉄パイプで損傷した脳の部分(前頭前野腹内側部)は、二次の情動を起こさせる脳の部分であるということを解明しました。

脳の部分的欠損によって、周囲と協調して温厚に生活することができなくなり、節度を保てなくなったり、利益にばかり目を向けて損をする確率を度外視してしまう傾向になったりという不具合が生じたと結論付けました。これは二次の情動が機能不全になったために起きた変化だというのです。

私は「二次の情動」とは、結局人間が群れを作るための情動なのだと考えています。人間は言葉を使う前から群れを作っていたわけですが、どうやって群れを作ることができたのかというと、この二次の情動があったからということになるのだと思います。厳密にいうと二次の情動があった個体群だけが生き残ることができて、生き残った人間という種の共通特徴になったということです。言葉を変えれば、突然変異が結局遺伝子に組み込まれたという結論になるのだと思います。

群れを作る動物はたくさんいます。水族館でみるイワシの大群の群れは光を浴びてキラキラと輝きとても美しいものです。この群れはイワシが「群れの内側で泳ぎたい」という本能があるために形成されているようです。何らかの群れを作る目的意識があるわけではなく、本能的な問題だそうです。馬は群れの先頭に立って走りたいという本能があるそうです。だから群れで逃げると先頭を競って早く逃げることができるようです。

人間にもこのように結果として群れを作るための本能があるわけです。つまり、
・ 群れから離れて孤立することに重大な危険の意識(不安)を感じる
・ 但し、群れにいても、群れから仲間として認められていない兆候を感じて不安になる。例えば低評価、攻撃を受けることの容認、排除の意思表示を受けること、自分に対する不合理な扱いを仲間が容認すること
・ 群れの中で尊重されると安心する
・ 自分が尊重されるべき存在だと思うと気持ちが良い。例えば群れの役に立つ行為をする。群れの仲間を助ける。群れの敵を駆逐する。
・ その結果不安が起これば原因除去のため自分の行動を修正するし、尊重されるべき自分が納得できる理由がなく否定評価されれば絶望するということが起きるようです。

これらの不安と不安に基づく行動修正は、一次の情動の発現パターンと一緒です。つまり、蜂に刺されないように蜂から遠ざかるように、自分が他者から嫌われないように自分の利益のために他者に損害を与えることをしない等という本能的行動だということになります。

これらのパターンは人間だけでなく、群れを作る動物においてある程度共通している可能性があります。但し、行動を完全に遺伝子でプログラミングされているような動物では、そもそも二次の情動を起こすような行動(群れから自分の評価が下がる危険のある行為)は行わないようにプログラミングされているのかもしれません。人間は個体の自由度を上げる代わりに、不安という心を作り、群れにとどまらせようとして群れを形成したと考えています。

人間が群れを作るようになったのは、他の群れを作る動物よりもだいぶ遅かったということになるでしょう。元々長い間個体として、群れを作らないで生活していたのに、ある時期から突然変異で二次の情動が活発となった個体群が増加して、群れを作るようになっていったということかもしれません。人類がゴリラの共通祖先から分かれても1千万年は経っていないようです。そのため、群れにいればそれでよいというわけにはゆかず。個体として生きたいという気持ちがどこかに色濃く残っているのかもしれません。

人間が群れを作るために他の動物と大きく異なることは、他者(仲間)に対する共感力、共鳴力が強いということです。「ミラーニューロン」という仲間のマネをしたいという、マネをすることを上手にさせる神経系が、仲間の感情を的確に把握して、仲間の言動、態度から不安を感じさせたり、効果的な修正行動を思い浮かばせたりしているようです。

また、人間の心が生まれた200万年前の群れの環境(狩猟採取時代)が、二次の情動を起こし、共鳴共感を活発にすることでメリットだけがあり、デメリットが無かったことが支えになっていると思います。進化人類学の知見では、当時(狩猟採取時代)は、人間は生まれてから死ぬまで一つの群れで過ごしており、その人数は平均すると150人くらいだったと言われています。他者の個体識別ができる人数が脳の白質(頭蓋骨の大きさと形)から割り出されるそうです。

つまり、自分以外の人間は、全員生まれながらの付き合いであり、一人一人にそれなりの個性があったとしても、相互に知り尽くしているわけです。ミラーニューロンも強かったことがさらに理由となり、他者の情動は、自分の情動としてとらえ、他者が困っていたら助けていたことでしょう。仲間意識は極限まで強く、極端に言えば自分と他人の区別がつかないほどだったと想像できます。野獣に襲われればみんなで反撃したでしょう。誰かに損をさせて自分だけ得をしようとそもそも思わなかったし、そういう行動をしてしまうと仲間から攻撃されたことでしょう。群れに対する依存度も高く、群れから排除されることは死に直結することはそれほど考えなくても理解できていたと思います。まさに運命共同体であり、それが可能な人数だったということです。

二次の情動も情動ですから一次の情動と同じように、十分熟慮しないで行動に移せるようにプログラムされていたということになります。

第4 意識の始まり

150人の単一の群れで生活していた時(「狩猟採取時代」と言われます。)は、情動によるプログラミングされた行動だけで十分生存することができたと思います。何か行動を迷うとか、熟慮が必要な判断を迫られるということはなかったからです。仲間は、自分にメリットをもたらすだけの存在だということに疑う必要もなかったと思います。仲間を信じて、後は情動に任せて生きて行けばよかったと思います。

狩りをする時には、自然とリーダーが生まれ、その人の言いなりに行動をすればそれでよかったし、そうしなければいけなかったので、個々人はリーダーに迎合すればよく、リーダーの指示を自分の頭で検証する必要もなかったわけです。

それでも他の動物よりも比較的遅く群れを作り始めた人間は、時折、小さな疑問や葛藤を生じさせていたかもしれません。

「あれ、こっちから回り込んで追い詰めようと思ったのに、そっちから行けと言われちゃった。」とか、「自分の行動が一番貢献度が高いはずなのに、自分の子どもへの分け前が少ないのではないか。」とか、一瞬の疑問、わだかまりというものは存在していたのではないかと想像しています。でもそれは、二次の情動によって、明確な意識とか疑問になる前に消失していたのだと思います。しかし、遺伝子に残された個体単位で生活していた時の記憶という方があったことはとても大切なことです。いくら突然変異と言っても、何もないところから突然意識が生まれたというのは無理があると思います。

この萌芽を元に意識が生まれて、発展していったのだと思います。
今から1,2万年前に、人類が農業を始めて、比較的狭い場所で150人を大きく超える人間と関りを持つようになり、同時に複数の群れが共存するようになったことをきっかけに意識が生まれたのだと思います。

意識に先行して、あるいは相互に影響しあって、言葉が生まれたのだと思います。それまで共感力、共鳴力、仲間意識と慣行とリーダーの権威によってすべて事足りていたのですが、複数の仲間が共存する場面では一人のリーダーの権威では解決しづらい問題が生じたはずです。また、ルールを定めて争いを無くして共存するためには、ある程度の期間、ルールが持続する必要があります。共通理解するために言葉(数字を含む)が必要になり、生まれたのだと考えています。
そして言葉を使って意識が生まれてきた、あるいは大きくなってきたのではないでしょうか。つまり、Aというグループにいる自分が、Bというグループとの利害調整のために行動をしなければならないという事案がたくさんできてきたはずです。その際に、双方が自分の利益だけを主張したのでは話がまとまらず、どちらかが死滅するまで戦いになってしまい、結局は人類は滅びてしまったはずです。人類は滅びませんでした。その理由は、どこかで調整をして、あるいは一方が他方を支配するという形で共存をしていくことができたからだったはずです。そうだとすると、共存の落としどころを探すためには、自分の利益、自分の情動だけでなく、双方にとって都合の良い、あるいはぎりぎり納得のできる結論を出さなければなりません。これは情動では解決しない問題です。

このために自分の情動(心の状態)を自覚するようになったり、情動を抑制する方法としての意識が発達していったのだと思います。せいぜい今から1,2万年前のことですし、そもそも人間の脳(頭蓋骨の形と大きさ)は200万年くらい前から進化をしていないそうです。狩猟採取時代の小さな意識(自分と群れとが対立しているという小さな違和感を形成する力)を発展させていく形でしか意識は形成されなかったのだと思います。また、人間がそのように情動から独立することには慣れていない、脳が進化していないということから、つい熟慮が必要な場面でも、情動によって思考を省略して行動をしてしまうことが未だに続いているのだと思います。

まだ、意識が生まれて高々2万年くらいしか経っていないので、進化が追いついておらず、その後の環境の変化(かかわりあう人間の数の膨大化と所属する群れの複数化)と脳の間にミスマッチが起きてしまっているのだと思います。

第5 情動の側部抑制

痛いと感じることも情動の一つだと思います。痛いから体を動かさないというような行動パターンが生まれる契機になると思います。ただ、「この痛みは、あちこちが痛いはずでも、一番痛いところしか感じない」という問題があるようです。これを生理学的には「側部抑制」というそうです。

側部抑制については私は大いに思い当たります。
腰が痛いので湿布を塗ったところ、スース―することもあり痛みを感じなくなった途端、肩の痛みを自覚したので湿布薬を塗ったら今度は膝の痛みを感じるということを年齢を重ねた成果良く経験しているところです。

どうも意識に上るのは、一番大きな痛みだけのようです。どうやら一番重大な、一番強い情動だけなのではないでしょうか。

後に具体的に見ていくのですが、様々な社会病理の原因は、この側部抑制の減少が二次の情動にも働いてしまい、どこかの人間関係で悩んでいると、別の人間関係のことを考えて行動することができなくなってしまって行動を起こしてしまうという理屈が良くあてはまるように感じているところです。

今日お話ししたことを道具として、犯罪、自殺、離婚の順番で行動決定の分析と予防策を考えていきます。

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行動決定の原理 序 社会病理の分析と予防策について短期シリーズのお知らせ [進化心理学、生理学、対人関係学]



次回から短期シリーズで、人間の行動決定に関するお話をさせていただきたいと考えています。いずれも長文だし、それほど興味のある人もいないかもしれないので、完全に私の自己満足ですね。

まさにその通りで、死ぬまでに(ボケる前に)、これまでの到達点を整理しておきたいという強い願望があってのシリーズです。

1回目 総論
2回目 犯罪の行動決定
3回目 自殺の行動決定
4回目 離婚の行動決定

を準備しています。5回目に補論があるかもしれませんし、ないかもしれません。

それぞれの社会病理がなぜ起きるのかを考えて、有効な予防策を提案するというパターンになっています。

これまで、社会病理の予防については、色々考えられてきたわけです。ここに掲げた犯罪、自死、離婚の件数については、確かに統計的には平成14,5年をピークに右肩下がりに減少してはいます。しかし、意識的な政策によって減少させたということではないので、またいつ上昇するかわからないということが本当のところです。

なぜ有効な政策を立てられなかったかということ、人間の行動について、十分に理解をしていなかったからだと思うのです。その最大のポイントは、犯罪についても、自死についても、離婚についても、「人間が自由意思をもってそれぞれの行動を自分が行うという意思決定をしていた」という点が間違いだというところにあります。

おそらく、「そのどこが間違いなのか」と怪しむ人も多いことでしょう。ズバリ、「人間が意識的に行動決定をしている」という点が誤りです。でも「自分は、意識していろいろなことを決定して行動している。」と思う人がほとんどで、これは理由のあることです。

ただ、これまでの認知心理学や脳科学の結論としては、「人間が意思決定をする0.4秒前に脳が行動を開始している。そのあとに意識は行動決定をする。」としています。

結論を羅列すると、脳は意識をしている以上に、様々な情報を処理しているということがまず最初です。自分たちは自覚していませんが、実際は意識をしている以上に視覚情報、嗅覚情報、皮膚感覚情報、味覚情報。聴覚情報等を脳はキャッチしています。そして、脳が勝手に、「この情報はどうでもいいから未処理。」とか、「この情報は生理的に対応しよう(例えば体内に取り込んでしまったばい菌処理)」、「この情報は、意識的に上らせよう」ということで、勝手に処理しているということです。確かに食べ物を消化については、消化しやすい生理的な変化(血流量の調整や体温調整)などを無意識に行っていますし、無意識に心臓を動かしています。

例えば「盲視」という現象があり、脳の中の視覚野という部分が損傷すると、物が見えていても意識としては見えていないのです。「『見えていない』という意識」なのに「見えている」というのは、見えていない物を質問をすることによって、あてずっぽう以上に正しい回答をすることができるという実験結果によって示されていると言われています。

次の結論としては、人間は自分が意識して行動したのではなくても、自分は意識して行動したのだというストーリーを後付けで作る、つまり作話をする動物だそうです。これも実験によって証明されています。脳の右半球と左半球の連絡が切断されてしまった人に、それぞれの脳で絵の描いたカードを選ばせると、それぞれの脳が関連のないカードを選ぶのですが、それを言語化できる脳の方に両方見せると、初めから両方の脳で見えていたように関連があって意図的に選んだのだという説明をするそうです。わかりやすく説明することができないので興味がある方は、ベンジャミンリベットの「マインドタイム」、トール・ノーレットランダージュの「ユーザーイリュージョン」をお読みください。脳が意識よりも0.4秒先行するという実験についても紹介されています。

意思決定抜きで勝手に脳が行動決定していても、私たちは、「自分が意思決定した」と考えるので、それほど支障が出てくるわけではないようです。私が体験した脳が勝手に行動決定して命拾いした経験を次回の第1 総論で書いています。その体験がこの例に当てはまるのか自信はありませんが、おそらく意思決定の遅れを自覚してしまった例で間違いないのではないかと思います。私の作話は、幽霊話でしたが、自分でも半信半疑だったのが良かったのかもしれません。

どうも西洋人は、このように自分が意思決定しないで行動するということに不安を感じて仕方が無いようです。日本人は、案外どうってことなく受け入れるのではないでしょうか。私のように、自分はご先祖様に守られており、自分が拙い判断をしないようにご先祖様とか守護霊によって守られているなんてことはよく聞く話です。

それでも、どこかしら不安が残るということも理解できます。人間は意識や人格が無くて、自分というものは実は存在せず、自然法則によって勝手に動いているだけだと思うと、心配になったことが私自身随分前にあったような気がします。その後に中途半端な考察の下で理系の学者の方と雑談した時も、「おそらく環境が人間の行動に強く影響している」という話をした時に、「人間の自己責任を否定するのか」という文脈で非難され、話がかみ合わなかった経験もありました。

しかし、人間には個性というものがありますし、客観的に同様な刺激に対して同じ反応をするとは限りません。大事に守ろうとする存在としての「自分」もあるわけですし、意識できるわけです。自分が他者から攻撃されると嫌な気持ちになるのもその一例だと思います。

ただ、個性というのは、持って生まれた生理学的諸条件の影響があるでしょうし、その後の自分以外との人間関係によって育まれるという側面が強くあると思います。行動決定の際には、そのような遠因として背景的事情が反映されており、「個性」というものの実態を形成していると思います。

遠因としての背景的事情だけでなく、まさにその時に近接した時期にあった出来事も、その行動決定に影響があるわけです。近因としての背景事情ということになりましょうか。また、遠因と近因の間にも中間的背景事情が無数にあるわけです。

さらにはその置かれた状況に対する、感じ方(事実の見え方)事態も、見えた自分に対する働きかけについての評価も背景事情によって異なって見えるでしょう。言われても気にしないで聞き流す人、真面目に受け止めて思い悩む人がいるわけです。同じ人でも、その時々の体調によっても、睡眠障害のあるなしをはじめて、違いによって決定的な違いが生まれてしまうものだと思います。

「自分の行動には理由があるが、大きい目で見れば偶然の産物だ」と思ったところで、何かが変わるわけではなく、今の感情が持続していることは間違いないので、深刻に考える必要はないと今では思っているところです。

むしろ今の自分は偶然の産物だと認識した方が、良いこともたくさんあるように思われます。自分が、今絶好調であったら、「それは偶然の産物であり、自分の力だけでこのような結果が生まれたわけではない。」と正しく把握して、謙虚に、誰かに感謝して喜ぶということができると思います。また、自分が窮地にあったとしても、「自分という存在に問題があるわけではなく、偶然の産物だ。だから、自分を否定するよりも、ここから上昇するはずだ。」と思った方が良いことがたくさんあるような気がするのです。その上昇のための道具、あるいは、破綻をしないで自分を維持する道具をシリーズでは考えていくわけです。

逆に言うと、自分が帰属している人間関係は、意識をしないと、その時の体調による考え方(受け止め方)の変化、周囲の人間の影響、あるいは社会情勢等様々な外部的要因によって壊れてしまう可能性があるということだと思います。自分というものがどの程度確かなものかについて自信を持つことはかえって危険であるかもしれません。誰でも、自死をする可能性があり、犯罪をする可能性があり、離婚等大切な人との別離を選択してしまう可能性があることは間違いないことだと思います。

ただ、知識としてどういうメカニズムで、人間はそれらの行為をしてしまうのかということを予め知ってさえいれば(情報を取得し保持するという近因的背景事情の取得)、あとで困るような行動決定はしないで済む確率が飛躍的に高まるはずです。

ただ、それは役に立つ道具であることが必要です。人間の行動決定がどのようなメカニズムで行われるか、そのことに焦点を当てて、その行動決定を選択肢に上らせないということが一番のキモだと思います。但し、本来的な主張は、「結局世界全体が他者に思いやりをもって助け合おう。」という壮大なもの、宗教的な主張にならざるを得ません。そのためにどうしたらよいかということを考えるには、時間も文字スペースも十分ではありません。その前段階、急場しのぎの対処療法、今できることを中心に論じるしかありませんでした。

一番ダメなのは、他人の社会病理の行動については、自分とは違う世界の話だと思いたくて、「それらの社会病理の行動をその人自身が意思決定をしたのだ、その人は特殊な人間であり自分は違う」という、排外主義的な考え方だと思います。これが現在の国家などの政策論も前提となっているのではないでしょうか。

対人関係学の出発点は、「生きること、生きようとすることに一番の価値を置く」ということですし、「社会に問題があったからと言って、社会のせいにしてあきらめずに、自分のできることを行い仲間と一緒に幸せになろう」ということにあります。社会病理の行動をした人を否定評価して安心するのではなく、社会のせいにして自分のできることを考えないのでもなく、何かできることを探していくということが大切だと思っています。

今回のシリーズは、意思決定に着目しないで、行動決定に着目して、分析と予防策の構築を全面的に改めてみたというのが、これから始まる短期シリーズなのです。業務時間外でコツコツと考えたことだし、なんせブログという媒体なので十分な分量ではないのですが、一応納得のゆくものができたと思っています。もしお読みいただく方がいたら、それだけで大感謝です。

いずれも長文になり申し訳ありません。

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テレビ局のJ事務所偏重問題の検証番組のあるべき視点のポイント [進化心理学、生理学、対人関係学]



テレビ朝日を除く各キー局がJ事務所(当時)問題の検証番組を制作しています。検証番組を作ったこと自体は評価されるべきだと思います。但し、批判も多く、2度目の検証番組を制作することをアナウンスしているキー局もあるようです。検証番組制作で何を検証すると良いのかということを考えてみました。

1 検証の目的をどこに置くか

先ず、検証番組制作の目的がどこにあるかということです。現実的な話、スポンサーが今後テレビ番組に巨大な費用を投下し続けてもらうということが、ぶっちゃけ目標のはずです。但し、そのためには、視聴者である国民がある程度納得して、安心してテレビの責任問題を風化させるようにしなくてはなりません。

そのためには、J事務所問題は二つの問題点があったということをはっきりさせることです。一つは児童に対する膨大な性加害問題です。もう一つが、J事務所(当時)の所属タレントの偏重問題です。もちろん二つは密接にかかわっているのですが。前者だけを強調してしまうと、自社の問題をすべてJ事務所創業者の問題としてしまい、自社に対する厳しい検証ができなくなり、結局はテレビ離れが加速し、スポンサーが巨額の費用を投下する媒体としての価値が無くなってしまうという問題が生まれます。

だから1番最初に行わなければならないのは、J事務所(当時)のタレント偏重によってどのような弊害が生まれたのか生まれないのかということを検証するべきだと思うのです。問題が無いと言い切ってしまうことは、結局再び同じようなことが起きる可能性を大いに残すということになってしまうように思われます。

また、J事務所(当時)だったからダメだったのか、児童虐待が無ければ偏重は問題ないと自己評価するのか、大いに注目したいところです。

これは芸能番組、エンターテイメント番組だけの問題ではなく、人間関係によって特定の人たちだけを偏重するという姿勢は、特定の主義主張だけを偏重し、まっとうな意見さえも封殺するという危険を示唆することになってしまうと思います。

2 原因

偏重問題に対して否定評価をする場合に次に行うべきことは、ではそのように否定する出来事をどうして当時は(あるいは現在も)行っていたのかという原因を明らかにすることです。

この点は、社会心理学の理論から考察の対象の宝庫なのですが、なかなかそういった視点からの発言は私の目には映ってきません。

例えば、J事務所(当時)の特定の人とテレビ局側の担当者との密接な関係から次第に抜き差しならない関係になったということが言われています。ただ、そういう事実はあるとしても、どうしてテレビ局という組織でそれが可能だったのかということを検証するべきです。

1 単純接触効果
先ず検証しなければならないのは単純接触効果の観点からでしょう。つまり、特定の人間同士が、長い時間交流を持つことによって、その人と自分が仲間であるという意識を持ちやすくなってしまいます。そうして、仲間に対しては便宜を図ろうという意識になってしまうということです。

2 権威に対する迎合

次は特定の人物ないし事務所の権威化を通じて、権威に迎合するのが人間だということです。私は過去の記事でミルグラム実験は人間の服従性を示したというよりも、「人間は権威に自ら迎合していく動物だ」ということを示した実験だと述べています。
Stanley Milgramの服従実験(アイヒマン実験)を再評価する 人は群れの論理に対して迎合する行動傾向がある:弁護士の机の上:SSブログ (ss-blog.jp)
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2019-01-05
これは人間の心が生まれた200万年前の狩猟採集時代を考えれば理解は簡単です。当時は、言葉が無くても、群れで生活し、集団で狩りをしていたのですが、各自がてんでんばらばらに獲物を追って行っても狩は成功しません。組織的に追い詰めて、逃げ場を無くして捕獲するということをしなくてはなりません。誰かが権威者(リーダー)として、ある程度の陣形や追い詰め方を仕切って、各自がそれに無条件に従うことが理にかなっていたわけです。その時と現代では環境は全く違いますが、残念なことに脳はそれほど進化していないのです。

だから、人間関係の中に声が大きく、実績がある人がいれば、その人に権威性を認めて、その人の指示に無条件に従って、物を考えることを省略するという習性が人間にはあるわけです。単純接触効果も、物を分析的に考えず、近くにいつもいる人は仲間だ、利害一致する運命共同体だという意識をつい持ってしまう傾向がある可能性が高いのです。

3 思考時間が無い事情

また、この物を考えないで行動する最大のメリットは、結論を迅速に出せるということです。200万年前の急がなければならない問題は、けがをするとか死んでしまうとかいう問題ですから、思考を省略して行動決定をすることが必要でした。

それを考えると、偏重の実績を作っていく過程の中で、十分にものを考えないで結論を出さなければならない事情があった可能性も検証するべきでしょう。

また、仲間意識が作り上げられた背景として、本当に単純接触効果だけだったのか、それを超えて利害共同体を形成するような事情が無かったのか、検証するべきなのでしょう。

4 分析的思考の懈怠の事情

担当者同士の人間関係の形成があったとしても、テレビ局という組織で動く場合ですから、担当者の決定に対して事後的に批判的検証が行うことは可能であり、やるべきことのはずです。結果としてこれができなかったのではないでしょうか。テレビ局の中にも権威ができてしまい、権威が個人的判断で行ったことに他の人たちも迎合していったという過程が検証されるべきです。

最終的にどちらの結論になろうとしても、そのようなチェック体制が組織としては必要だっと思うのですが、この点を検証してほしいわけです。

5 原因論に基づいた制度設計

反省の最終的な着地点は、ではこれからどうするかというところにあります。単にJ事務所が無くなったからそれでよいのかということが問題なわけです。1番最初のJ事務所忖度問題は否定評価ではないというならそういう結論になるでしょう。そうではないのならば、J事務所問題を機に、体制の問題を検証していくことは、テレビが将来的存続するかという点にとって極めて重要であるはずです。あるいはテレビ局自体が新しいコンテンツに乗り換えることを検討しているのか、今後の検証番組で視聴者は見極める必要がありそうです。

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自殺の予兆なんてわからない。同居家族は自殺計画に気が付かないものであることの理由 [自死(自殺)・不明死、葛藤]



前にも書きましたが、大事なことなので、何度でも言おうと思います。

これまで多くの自死の案件を担当しましたが、家族が自死の前触れに気が付くということはほとんどありません。離れて暮らしている事案だけでなく、同居の事案でも同じです。悩んでいるとか、苦しんでいるということは気が付いていても、まさか自殺をするとは思わないで自死が起きることが、私が担当した事案は圧倒的多数でした。

それにもかかわらず、「どうして気が付かなかったのか」ということを言い出す人たちがいて、同居の家族が、家族を失って悲しんでいるのに、無抵抗の状態で責められる苦しさを味わっています。特に結婚をしている人が自死をすると、亡くなった人の実親が同居していた妻や夫を責めるという痛ましい事例はまだまだ繰り返されているようです。

自死という、その直前までは普通に生活していたのに、次に気が付いた時には亡くなっているということは家族、親族にとっては衝撃的なことです。信じたくないし信じられないということはよくわかります。つい、誰かに原因を求めて怒りをぶつけてしまいたくなるのも、ある意味自然な感情なのかもしれません。

でも、だからこそ同居家族は自殺の予兆なんて気がつかないということについて、せめて頭では理解して、自然すぎる感情を表に出さないということが大切なのだと思います。

理由はいくつかあります。また、その人によって様々な事情の変化があるということはお断りしておきます。

1 うつ状態の人はうつを隠すということ

第1の理由は、これまでも述べてきたことですし、北海道大学名誉教授の山下格(いたる)先生も著書でお書きになっているので、理由の筆頭にあげます。うつにも重症、軽症と、その中間の中等症があるとのことですが、重症以外の「大多数のうつ病患者は、自分のうつを隠す」というのです。だから主治医でさえもうつ症状による刹那的な判断をすることに気が付かず、自死をしたり、退職をしたり、離婚をしたことを報告されて唖然とするようです。

実際私の依頼者複数名からも話を聞いていますが、自分の大切な家族の前では、自分がうつで苦しんでいるということを知られたくなくて、わざとふざけて見せて明るく振舞うのだそうです。一人暮らしをしているとむしろ楽なのですが、両親のところに行くと、全力で明るく振舞うので、精神的エネルギーが消耗してしまい、翌日は寝込んで起き上がれないという人が多かったです。

うつに気が付かないことは、患者さんがその人のことを大切に思っているということなのです。重症になってしまえば、エネルギーが残されていませんので、隠すこともできないということになるのでしょう。

家族は、思い悩んでいることに気がついるからこそ、何らかの明るい兆しを見せれば、安心したくなるのも自然な感情だと思います。ごまかしているのではないか、演技をしているのではないかと思うことはとてもできることではありません。

ちなみに、うつのこのような傾向は、本人が自ら孤立化していく結果も招くように思われます。その人にとって家族は、相談する対象とか助けてもらう対象ではなく、自分が助けたり、かばったりする対象だという認識が感じ取れます。自死者は、このように責任感が強すぎたり、まじめすぎたりする人が多いことは間違いありません。家族に迷惑をかけないという気持ちが自ら孤立化を深めて自死に向かってしまうということかもしれないと考えています。

2 自殺は、問題解決の兆しの際に起きやすい

これは厚生労働省などの説明にもあります。自死というのはうつのボトムでは起きないで、少し回復傾向になった状態で起きやすいと言われています。重症時は自死をする行動力もなくなるという説明もされることがあります。

実際これまでの事例でも、パワハラ職場から離脱する段取りができた際、まもなくパワハラ上司が職場からいなくなるなどの時、あるいは過酷な仕事がまさに終わる時等「ああ、もう大丈夫だ。」と周囲が安心しているときに自死が起きていたことが少なくありません。

3 長時間労働の過労自殺の場合は、同居の家族と満足に顔を合わせない

長時間労働をはじめとする過重労働による自死の場合は、家族が寝ているときに家を出て、家族が眠ってから帰宅するということが当たり前のように繰り返されています。休日も遅くまで眠っていて、起きてもボヤっとした表情にしかなりません。家族は疲れているとは気が付いていても、うつになっているとか、自死の危険があるなどということはとても分かりません。顔を合わす時間が無いため気が付きようがないのです。

4 自殺の行動決定は直前に行われる。

希死念慮が継続していて、自死のリスクが著しく高い状態が継続するということは珍しくありません。しかし、子細に検討すると、そのハイリスクの中でも自死の行動決定がなされておらず、実際に「この場所で、この時間に、このような方法で自死を決行するという行動決定」は、自死の直前であっただろうという事例が多くあります。それまでもうつ病などで苦しんでいるため、ずうっと思い詰めて自死決行の機会を伺っていて実行するという例も無いわけではないと思いますが、同居者の不意を突いて自死を決行したという行動パターンはむしろ多いです。

この自死の行動決定について、現在詳細な説明を準備しています。

問題解決だけでなくて、当日ないし翌日、あるいは直後に、楽しい予定が入っていたということもよくあります。「あのイベントを予定していたのだからその日に死ぬはずがない。」ということは言えないようです。

また、真面目な人が多いですから、毎日の薬はきちんと飲んでいる場合もあります。「自死をする人は、死のうとしているのだから、死ぬことと矛盾する行動はしないはずだ」ということは成り立たないようです。

さらに、飛び降りなどの確定的な自死行動が起きる場合も多いのですが、それでも、危険な行動をとっていながら、なお、死なないかもしれないというチャンスを残して危険行動に出ているかのような自死行動も少なくないようです。もしかすると、自死の意思決定をする前に行動してしまっているというケースもあるかもしれません。「自死の意思」というのは極めて複雑で多様性があるということが実際のようです。

自死の行動決定は、抱えている解決方法や死んだ後のこと等を熟慮して意思決定をしているわけではないようです。考えているのではなく「自分は死ななくてはならない」という信念にも似たような観念にとらわれて、自死以外の選択肢を持てなくなるようです。そしてそれは、不意にそういう気持ちが表れて気持ちが支配されることがあるそうです。

自殺予防に熱心な人たちは、予防は可能だ、自殺のサインを見逃すなと言うのですが、これが善意で言っていることは理解できます。しかし、そんな簡単なものではなさそうだということが多くの事案を担当した私の結論です。
自殺のサインを見逃さないという考え方の弊害は二つあります。一つは、自死が起きた以上、それはサインを見逃したのだという、家族などに対する批判、あるいは家族の自責の念を招くという効果が起きてしまうことです。前提が非科学的であることを説明してきたつもりです。
もう一つの弊害は、結局自殺の際なんてないことが多いし、通常の家族などはわからないのですから、自殺のサインに注意を傾けるということは、それが無ければ心配しないということ等、予防の役に立たない可能性があるということだと思います。



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夫婦再生の一番の障害は、「怒り『表現行動』」なのだと思う件 [家事]



どうしても、子どもを連れて黙って妻が家から出ると、だんだんと怒りがわいてきます。これは実際は、必要な感情の変化です。いつまでも解決しない自責の念を抱き続けていると、解決不能の問題を悩み続けることになりかねず、そのあとに対する重大な影響が生じるからです。重大な影響とは、うつ症状の蔓延化、生活破綻、自殺などです。こういう場合でも怒りに転じることで、自分を取り戻して、生きる活力がよみがえるという形はよく見る光景です。

怒りは生きる本能に根差しているということも一つの真理だと私は感じていますし、相手に対して反発できたことでうつ状態を解消した人たちも印象に残っています。

しかし、そのまま自分が怒っていることを自覚しないままで怒りに任せた行動を続けると、ご自分の目標と反対方向に強力に向かってしまうという矛盾もよく見ていることです。本当は、夫婦の再生、ひらったく言えばよりを戻すことが目標なのに、怒りの行動によって、ますます離れていくということもありふれた光景です。

家族再生を第一希望だと表明しているのに、監護者指定、子の引き渡し、仮処分を打診してくる人が最近増えています。インターネットの情報をもとに、裁判所によって正義が実現できると素朴に感じていらっしゃるようです。

しかし、裁判所は、めったなことで同居する母親から子どもを引き渡せと判断することはありません。母親による虐待、あるいは、結果としての虐待行為があり、子どもの将来に悪影響が出ることが必至の場合という特別な場合にだけ引き渡しが判断されると心が得た方が良いと思います。

子どもを父親や、親戚、学校、友人から引き離したことが虐待ではないかという主張はよく聞きますし、私もそう思います。しかし、裁判所はこれを母親による虐待だとは認めません。

「連れ去りは子どもに対する虐待だと主張して戦うべきだし、戦わなければ前進無し」という考え方ももちろんありうると思います。但し、夫婦再生には逆行するのです。夫婦再生ができなければ子どもは父親に会うことができません。自分は大切に思われていない人間だという意識を持ったまま大人になってしまう危険性を持ち続けて成長することになってしまいます。

どうしても、子の引き渡しを主張する場合は、相手方の虐待行為を主張しなければなりません。「裁判所は相手に落ち度(虐待行為)が無い限り現状維持の結論を出すと心がけましょう。」あるいは、「乳幼児期に一番長く接していた親を監護者とする傾向」もあります。

こう書くと「裁判所では正義は実現されないのか」と思われるでしょうが、私はその疑問を肯定するしかありません。むしろ、裁判所に何かやってもらうという考え方は捨てて、「自分で相手の心を変える」という考え方で、裁判所はあくまでも利用する「場」として考えるべきだと思います。

そもそも、(本当はDVと呼べる行為が無く、通常の夫婦の口論があるに過ぎない場合は特に)妻は、夫と生活することに安心できないから別居をして、離婚をしたいと考えているわけです。安心できないというのは、自分を否定評価されるということを常に恐れている意識から出発します。しかし、その原因は、必ずしも夫の行為にだけあるわけではなく、妻の体調や職場の人間関係に起因していることも多いということが実感です。
 
だから夫婦再生の基本戦略は、「自分に対して、妻が安心できる存在であることに気づいてもらう」(あるいは、今から自分を安心できる存在だと思ってもらう)というところにあるという戦略が、これまでの経験上正しいと確信しています。

それにも関わらず、「妻は児童虐待をしているので、子どもを手放して自分に渡すべきだ」という主張をし、調停や審判を申し立ててしまうと、「やっぱり夫は自分に対して否定評価をして、子どもからも引き離そうとしている」と妻はわが身の行動を振り返りもせずに、夫に対する警戒心や嫌悪感、恐怖感だけを募らせていくわけです。

「ほらやっぱり、夫は自分を攻撃する存在だ」と再認識して、離婚の意思が固まり、子どもに会わせないという気持ちもさらに高まっていくことは、少し考えればわかることです。しかし、この「少し考える」ということが、怒りの感情に支配されるとなかなかできないのです。

ただ、妻の側も、離婚手続きを遂行することに夢中で、自分の嫌悪感や恐怖感の出どころはあまり整理されていません。だから少しずつ工夫をして安心の記憶を植え付けていく余地があるわけです。ところが、裁判所での攻撃は書面で残りますから、妻はあやふやだった「自分の嫌悪感や恐怖感」はやっぱり正しかったという妙な確証を与えるだけになってしまいます。こちらの言動を悪く解釈して見せる「支援者」も常に妻の周囲にいます。夫の攻撃から妻と子どもを守るチームの一体感も強めてしまいます。

夫婦再生は、警察も裁判所も全く役に立ちません。自分で妻を安心させることが第一になります。では具体的にはどうするか。

・ 怒りを捨てることも簡単ではありません。夫婦再生の方針を持つことができる弁護士の話をとりあえず信じるという実務的な方法もあります。
・ それから、怒りを脇において冷静に考えるということに次第に慣れていく必要があります。もし、怒りを持たなかったらどう言う考えになり、どう行動することが通常化、もっと言えば相手が安心するのかということを考えて行動するということです。その際には相手の理不尽な夫に対する嫌悪、恐怖もそれなりに肯定した行動を考える必要があります。つまり、心を脇において行動を考えるということです。
・ そうすると安否の心配をすることが一番であることがわかります
・ 2番目は生活に不便が無いか、心細い気持ちになっていないか心配することが通常でしょう。
・ 3番目以降としては、子どもを連れ去ったことにより、こちらが逆上していないかという心配があるわけですから、気持ちは置いておいて「怒っていない」という情報を工夫して伝えることです。相手を安心させる方法があれば、警察でも裁判所でも何でも利用して伝えることを主とすることが肝心です。
大切なことは、「気持ち」ではなく、「相手に伝わるこちら側の情報」だと割り切って考えることがとても有効です。だから、悪いのは「怒りという感情をもつこと」ではなく、「怒っていると相手の思わせる表現行動」なのです。

そして急がないこと。

相手は「自分のペースで生活できていない」ことから不安を感じ、原因を夫にひとたびロックオンすると、夫が原因であるとして嫌悪感や恐怖感が沸き上がってくるようです。急がせることは、この夫原因説を裏書きするようです。地齋の例を見ると、家族再生のためには数か月以上かかることがむしろ当然だと思うべきです。これまでの再生例の教訓は相手に結論を急がせないことという共通項がありました。

結局、妻の安心感をめぐって、支援者と夫との間で綱引きをしているような感覚をいつも持ちます。妻に伝わる夫のメッセージが、自分の頭の中にある嫌悪感や恐怖感を抱かせる夫のイメージではないということに気が付くときに、綱引きの綱が強烈に夫側に傾くようです。しかし、勝負がつくまでにはためらいや確証の反芻のために時間がかかるという感じです。

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企業体が、J記者会見から学ぶべき多くのこと 会見をする場合に弁護士やコンサルを利用する場合のポイントについて 「ルールとは」もおまけで [労務管理・労働環境]


1 会見の目的を徹底させること

9月と10月に大手芸能事務所が記者会見を行い物議を醸しています。どうせ会見をやるならば、会見を行う目的を達成しなくてはなりません。この事務所の会見の目的は、創業者による児童に対する人類史上類例を見ないせい虐待があったこととメディアに圧力をかけるなどして自社の独占状態をつくり自由競争を阻害したことが、外圧などにもよってオープンな議論のテーマとなり、これまで通りスポンサー企業もメディアもスルーできなくなったため、取引が危機に陥ったことに対して、損害を最小限度にするということが目的だったはずです。

おそらくこれまでの長年の取引があったということもあって、①社名を変更して②元事務所を消滅させることによって、スポンサー企業やメディアは新しく立ち上げる新事務所との取引を行うという感触もあったのだと思います。この二つを発表して、企業やメディアも多少世論の批判があったとしても、タレントを使い続けるという観点から事務所にアドバイスをしたのかもしれません。一部そのような報道もありました。

この会見は、思い切った反省と身を切る改革をしたのだということについては言葉の文字面では十分伝えていたと思います。

ところが、すぐに指名NGリストの存在をすっぱ抜かれ、その紙に「氏名」と記載されていたことから氏名を公表してはいけないリストだという言い訳があり、案の定NGリストの氏名さえもすっぱ抜かれて、氏名非公表リストではないことも白日にさらされたことによって、さらに世論の事務所に対する反発は加速されて行きました。もっともこの言い訳をしたのは事務所ではないと思われますが、結果として反発を強めたということは間違いありません。

私はNGリストよりも指名候補リストの方が問題だと思います。たとえ候補者の人たちが、事務所と結託していないとしても、事務所が困る質問をしないだろうと信頼している人たちに発言させるという意図があからさまになり、「やらせ」という印象を固定化してしまったからです。

しかし、このNGリスト、候補者リストもそれだけでは、現実の致命的な状況を招かなかったはずです。一番の問題は、事務所に対する批判緩和の切り札のI氏の発言だったと思います。

それまでも記者とのやり取りを聞いていて、視聴者、それと視聴者の動向を気にしていたメディアとスポンサー企業は、あまりにも事務所の発言者の態度が堂々としすぎていること等、モヤモヤしていた状況でした。言葉にならないけれど、気持ちが悪い、歯に物が挟まっているような感覚を持ち続けてきたわけです。

そうしたところ、司会者から指名されないNGリストの記者たちが発言を求めていたところ、切り札のI氏が、概要「落ち着いてください。子どもたちが見ています。ルールを守っている大人の姿を子どもたちに見せたい。」というような発言があったわけです。これも実に堂々とした発言で、味方の記者からは拍手も沸きました。これが最大の悪手だったと思います。

コアなファン層は、この発言で留飲を下げたことでしょう。また、NGリストの記者に反感を持っていた人たちが拍手をしたい気持ちもわかります。そして、保守を装った職業的ユーチューバーたちも、事務所に対するコメント動画をあげることなく、NGリストの記者に対する批判動画を一斉に上げだしました。私はこれは不自然に感じました。このような流れでもできていたのかとさえ思いました。

しかし、メディアやスポンサー企業が注目していたのは、このような人たちの動向ではなく、一般人の対応でした。おそらく、企業は、このようなキャンペーンは何も評価の対象にしなかったのだと思います。

それはそうです。メディアやスポンサーはこの事務所のタレントを使うことで、これ以上自分たちが批判にさらされないかということが唯一の関心ごとだったから、元々の応援団の動向は関心の対象にはなるわけがありませんでした。

切り札のI氏の発言の何が問題だったのかについては、むしろこれまであまり視聴回数を稼ぐことのできなかったユーチューバーが雨後の筍のように動画をアップしております。
1) 子どもたちに性虐待をしていることで問題となっている会社側の人間であるにもかかわらず子どもたちを引き合いに出すことは、反省の色が全く見えない。
2) ルールを守れという立場にはないということ
私は2)について説明をしようと思います。
ルールが存在するためには、法哲学者H.LA ハートによれば、ルールの対象者が、そのルールは守るべきだということを承認していなければならないとしています。ルールを破る者が出てきても、本来は守らなければならなかったという消極的承認でもよいわけです。
ところが、一人一問方式というのは、およそ記者会見にはふさわしくないやりかたであり、これでは記者が質問をする意味がありません。質問に答えないで別の話を始めても、重ねて問いただすことができないから、質問を無にするのは実に簡単だからです。当然事務所側の人間はルールだということで守れと言うでしょうが、一般の記者としてはルールとして承認できないことであることは間違いありません。つまり、一人一問形式はルールではなく、事務所からの「お願い」だったわけです。これを破ろうとする人に、「どうか一人一問形式でお願いします」とお願いするならわかります。それをルールだから従えというのは、大学の研究者から、加害者の論理と言われても仕方がないことだったと思います。

このI氏の発言が問題だったことは、後の事務所の言い訳によって、さらにくっきり浮かび上がります。事務所の言い訳としては、リストの存在は全く知らなかったというのに、I氏はこのリストを見て「指名しなければだめだ」と否定し、その結果では前半には指名しないで公判で指名することにしましょうという話になったということが言い訳の内容でした。この言い訳が本当だとすると、I氏は、指名しない記者のリストが破棄されないで存在し続けたことを知っていて、実際リストアップされた人の一番有名な人が指名されていないことも知っていたことになります。そしてその人が指名されなければ不規則発言をするだろうことも知っていたし、不規則発言も記者が指名されないために行っていたことも知っていたわけです。つまり、自分から彼女らを興奮させておいて、興奮したら落ち着いてくださいとたしなめたというわけです。しかもルールになっていない、こちらのお願いを守れという形での攻撃でした。

本来お願いするべきことを自分が正義だという立場からたしなめれば、その理屈に気が付かないとしても、批判的視聴者はモヤモヤが高まってしまいます。このモヤモヤが、せっかくの身を切る改革に対する評価を後景に追いやってしまいました。大変もったいない話だったわけです。

メディアやスポンサー企業は、この切り札発言で、自分たちも共倒れになる危険を感じたとしても不思議ではありません。好意的に見せかけて内情を調査していた人がいたとしたならば、NGリストの存在やその使われ方についてリークをすることは本来想定しなければならないことでした。最初のすっぱ抜きが、テレビで放映されたわきに抱えた写真だけの情報で報道するわけが無いということ、どうやって報道に踏み切る裏付けを入手して、どうやって報道に踏み切ったのか、つまり自分たちはどう扱われているかについて、言い訳をするにあたっては考えなければならなかったわけです。裏リストが報道された時点で気づくこともできたはずでした。

半分しか知らないよという下手な言い訳をしたことによって、切り札の開き直りの態度(本人の希望ではないにしても)が浮かび上がってしまい、今後この切り札を切ることができなくなってしまいました。

なぜ、このような発言と言い訳をしてしまったのでしょうか。ここは想像ということになります。おそらく第1回の会見での質問がよほど腹に据えかねたということではないでしょうか。あの質問が1回目の会見をダメにしたと感じたと思っただろうということです。そして1回目の会見を構成したのが事務所の番頭格(実質的な日常業務の意思決定者)だとすれば、当然そのように考えたと思います。

そして、1回目をダメにされた恨みで、2回目でその記者に恥をかかせようとしたということであれば、NGリスト、切り札発言、拍手の意味がよく理解できます。もしそうであれば、会見の目的外のことに力を注ぎ過ぎて、会見の目的を強調することができなくなってしまったということになります。

ではどうすればよかったか。
私は、多少後知恵の感が自分でもするのですが、オープン形式の記者会見なんてやらなければまだ良かったと思っています。記者を呼ばないか、2,3名の記者だけで事務所の名称変更と解体を宣言するということです。批判をかわすことに十分ではないとしても、切り札発言と拍手ということは回避できたはずです。

もしどうしても、スポンサー企業やメディアの要請があるというならば、徹底的に攻撃を受けるということです。ひたすら謝罪を繰り返し、記者の攻撃に対して「勉強になります。検討をします。今後の事務所運営に活かしたいと思います。」と繰り返し、攻撃に無防備にさらされる姿を見せ続けることによって、さすがに「かわいそうだ」と印象付けるという選択肢があったと思います。その点は彼女らが反発することは十分計算できたし、そういう理不尽な攻撃をされて打ちひしがれている表情を作り続けることについて二人は十分できたと思います。そうすれば、「みそぎがすんだ」という評価を受けることも可能だったのではないでしょうか。将来的損失は最小限度に防げたし、憎しみは旧会社とともに消滅していくとなったことだと思います。

 あくまでも身を切る改革、社名変更と解体を前面に報道してもらわなければならなかったのに、余計な結果を招いてしまったということになろうかと思います。

2 その他の教訓
  相変わらず長くなっちゃったので、後は結論だけ述べます。
  考え得る最小限度の損害にすべく、ある程度の損害は割り切って甘んじて受け止めるということが企業としてのやるべきことですが、想定する損害の程度を少し軽く受け止めてしまったのかもしれません。
  自分を取り巻く情勢については、厳しい第三者の目を参考にして、自分の意見を通さない。だから、弁護士もコンサルも、自分に厳しい対応をするプロを厳選しなければなりません。そうではないと、童話の「裸の王様」状態になってしまいます。自分のこととなると楽観的になりすぎたり、逆に悲観的になりすぎたりしてしまうということは当たり前です。
  会見は、信頼できる幹部と信頼できる外部者(弁護士、コンサル)の少人数で進行の一切を取り決めること。有名企業には内部通報者はつきものだということを教訓化しなくてはなりません。コンサルは、結局はアドバイザーだとして心得るべきで、演出は自前で行わなければならないということです。

  なお、協力してもらえる発信者がいるならば、批判者に対する反論を展開してもらうよりも、同情論、理解できる部分がある論、部分的共感論等を発信してもらった方が、良い場合があるということ。本件はまさにこれでした。

  総じて、誰に見てもらうかという想定をきっちり行うということが大切で、その人がどう感じるかという目的にまっしぐらに企画をつくるということ、そのためにも目的を言葉にしてはっきりと共有するということが一番の基本になるのだと思います。

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隠れた離婚理由  夫婦関係恐怖症 子の連れ去り別居、不可解な離婚理由の場合に結構見られるケース [家事]

夫婦関係恐怖症というのは、名前を付けた方がわかりやすいだろうということで今作った造語です。どういう状態かというと、これまで夫婦仲にそれほど問題が無かったのに、ある時期から突然妻の方が夫婦関係を行うことを極端に嫌悪するようになるのですが、それをなかなか夫に言い出せないうちに、やがては夫そのものへの嫌悪感、恐怖感に転じてしまい、その結果どうしようもなくなり夫の元から逃げ出すという状態です。離婚問題ではこういうケースが結構あります。

妻側の代理人の時の方にはっきり言われたことがあります。こういう言いにくいデリケートなことを、いかに仏像の顔をしている老人に対してとはいえ打ち明けるわけですから切実な問題が現存しているのだと思います。

こういう事例の奥さんはまじめすぎる人が多いようです。夫婦なんだから夫婦関係には応じなければいけないことになっていると難く考えているようです。応じないことで夫に後ろめたい気持ちになることもさえもあるようです。人間は罪悪感が高じると、自分を正当化して罪悪感を減らすようにできているようです。無責任な第三者の「あなたは悪くない。」という言葉があればなおさらそうなることはよく理解できます。夫婦関係を営めないのは、そもそも夫が自分を精神的に虐待するからだというように感じるようになるようです。罪悪感を解消したい⇒そのためにはどうするか⇒そうだ夫が悪いことにして自分を正当化しようという思考では無く、自然と無意識に夫を攻撃するようになるようです。そう仕向ける第三者がいるかどうかは別問題です。

ただ「行為が嫌になったのであって、あなたが嫌いになったわけではない。」と言えればよいのですが、デリケートな問題なのでなかなか言いにくい。言ったところで、夫から浮気を疑われるとか、心変わりだと単純に結び付けられることも多いようです。応じられなくなった夫も不安なわけです。また、それを理由に離婚を言い渡されるのではないかという不安から、言えないまま過ごして、最終的には自分から子どもを連れて別居して離婚を請求する側になるのですから人間の行動は不合理です。

ややこしい話としては、弁護士が依頼者から安心されていなくて、依頼者が「こんな話をしたら変にみられるのではないか」あるいは「話をすること自体が恥ずかしい」と思われる場合は、なかなか弁護士に言い出せないのはよくわかります。弁護士から聞くこともなかなか難しい問題です。だから、弁護士から離婚理由を尋ねられても、先ほどの自己正当化の方ばかり言うしかありません。そうすると何も知識(先入観)の無い弁護士は、記憶があやふやな針小棒大のDV、精神的虐待しか聞き取ることができず、あやふやな主張をするしかなくなるという流れになるようです。「日常的に暴力暴言を受けていた。精神的虐待があった。」等という、事実が無くてもかける文章しか書けないわけです。こういう依頼者に安心されない弁護士は、夫が嫌いになったから夫婦関係を拒否するようになったのだと信じて疑いませんが、事情を聴いてみるとどちらかと言えば、夫婦関係に応じることがしんどいために、後ろめたさも手伝って夫を敬遠し、嫌悪感や恐怖感を募らせていくという順番のケースが結構多いようなのです。

そもそも離婚さえできればよいという考えでは、夫を非難すればよいのかもしれません。しかし、むしろ上手に離婚して、子どもと相手との交流を絶たないで、子どもに安心してもらうし、養育費もきっちり払ってもらうしという希望にシフトをしなければ、本当の「離婚理由」は見えてこないようです。

どうして夫婦関係に応じられなくなるかというと、純粋に生理的な問題だということが多いようです。精神的苦痛というより肉体的苦痛が発生してしまうようです。きっかけとしては出産が多いようです。10年くらい前の多い事例は第2子出産後、しばらくしてもその気になれなくなってしまったということでした。現在の主流は第1子出産後です。もしかすると、初産の年齢が高齢化していることと関係があるのかもしれません。厚生労働省によると、昭和50年の第一子出産時の母親の年齢が25.7歳でしたが、平成10年27.8歳、平成20年29.5歳、平成30年30.7歳と右肩上がりに上がってきています。

夫婦関係拒否については、その他には妻側が働いているから産休を取りづらいとか、子どもが一人増えることによる経済的負担があるとか、出産に対する将来的不安事情も心理的影響があるのかもしれません。

いずれにしても夫側の事情ではないために、夫は妻の心境の変化がなかなかわかりません。夫婦関係を連想させないスキンシップは普通に行えることが多いことも、理解ができないという事情の一つになります。真面目な人ほどパートナーに言いにくいもののようです。確かに、例えば封建的な男性が、仕事で失敗して収入が著しく減少する見通しだなんてことは言えませんものね。
とにかく、夫が嫌いになったのではない、これからの二人の関係はこうしたいということを告げることで、本当の夫婦となっていくのかもしれません。繁殖期の終わりは二人同時には来ないのでややこしくなることはどの夫婦にも起きうることだと思います。

ところで、出産の次に多いとまで言えるかどうかはともかく、結構多い理由が、妻の過去の悲惨な性体験による精神的問題です。前夫との問題だったり、婚外の出来事だったり、職場のセクシャルハラスメントだったり、あるいは何らかの目撃体験だったり、様々なのですが、真面目に夫婦関係を営もうとすると過去の悲惨な体験の際の「心情(感覚)」が記憶より先によみがえってくるようです。記憶が錯乱することがあり、本当は自分の夫との関係ではないのに、自分の夫からされたことだと思い込んでしまうことがあるようです。もっともそれは今の夫との問題ではないと思っていても、夫を責めることで心理的負担を軽減しようとしている可能性もあるような事例もありました。これは、その出来事起きた時にあった出来事が、夫との同居時は存在せず、その出来事は前に結婚していた時期に起きた出来事だったということを調査の結果判明したためにわかりました。記憶の混乱ないし混同は結構簡単に起きるようです。案外悲惨な体験自体は夫に話していることも少なくないようです。それと夫に対する嫌悪感は、自分では自覚していないことのようです。


以上、隠れた離婚理由である夫婦関係恐怖症とどうしてそれが表に出てきにくいかということをご説明しました。

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【自殺についての誤解】死ぬ前に逃げればよかった論と、調子のよいときになぜ論 [自死(自殺)・不明死、葛藤]



芸能人の自殺のニュースに接して気になる論調があったので、この機会に誤解を解きたいと思いました。

1 逃げるという選択肢が無くなるから自殺をするということ

例えばいじめやハラスメント等で自死が起きると、死ぬくらいならば逃げればよかったのではないか、その会社を辞めればよかったのではないかという発言が聞かれることがあります。

もちろん、明示の選択肢が突き付けられていたら、それは逃げる選択を誰しもするのだと思います。しかし、少なくとも自死の実行時には、「逃げる」という選択肢は亡くなっているようです。以前サバイバルシリーズの時にも報告したのですが、うつ病などの精神的な不安定になる前は、「こんな会社いつでも辞めてやる」という気持ちでいることができ、退職するという選択肢を意識していたというのです。ところが、その人はうつ病と診断されたのですが、精神的不安定になってしまうと退職するという選択肢がいつの間にか頭の中から消去されていたというのです。その結果「このまま苦しみ続けて働き続けるか、死ぬか」という二者択一の選択肢しか頭の中に浮かんでこなかったと言います。

世界で最初の女性の自死が労災だと認定された案件を担当したのですが、その事例では、来月退職届を出すということが決まっていた人が、半月後、やめるという選択肢を持っていたにもかかわらず自死しました。辞めるという選択肢がいつの間にか消去されていたことになります。

転職が決まった翌日に自死した事案もあります。形式的には退職の選択肢はあったはずなのに、そのアイデアが自死を止めることができなかったということは間違いありません。

2 ジェットコースター理論・落差理論
 
 会社内での不遇があり、その結果精神的に不安定になり周囲が大変心配していたところ、ある時期から日の目を見だしたように取り立てられるようになったので周囲も安心していたところ自死をしたという事例もあります。どうしてという疑問の声が上がります。ただ、子細にリアルに見ていくと、プラスの事情があったのに、それを打ち消す事情があった場合は、プラスの事情が起きない時よりも精神的打撃は大きくなるということが実態のようです。先ほどの例で言えば、退職を決めて周囲が安心し、ご自分の明るい気持ちになったにもかかわらず何かの事情で以前と同じようにたたきつけられたとか、あるいは以前と同じような出来事の予兆みたいなものがあり、やっぱりまた同じことの繰り返しだと思うと、深く絶望をしてしまうようです。ずうっと苦しんでいるよりも、希望を持った後でその希望の芽を摘まれてしまうことが強い精神的打撃を受けるようです。

3 自死の意思決定は矛盾に満ちていること

 私も仕事柄自死についての研究を進めてきて、自死の実態について何件も見てきたので、自死をする場合の意識、自殺の意思決定過程というものが通常は想定されないほど歪んだものであるということに気が付きました。

自分も知りませんでしたので、知らない人を非難するつもりはありません。ただわかっていただきたいだけです。自死をする人は、「よしこれから自殺をしよう。周囲に迷惑をかけたり、悲しい思いをさせたりする人たちが出るけれど仕方がない。」という冷静な判断力をもって自死するわけではないということだということです。家族にあてた遺書を読むとどうしてこういう家族思いの人が自死をしてしまうのかということに理解が苦しみます。矛盾に満ちた混乱した状況の中で自死が起きることがむしろ一般的ですし、考える力が失われている状態だから自死を行うということなのかもしれません。

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