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サイコパスと弁護士活動(刑事責任能力、愛着障害とは異なること、夫婦問題) [故事、ことわざ、熟語対人関係学]


サイコパスに関する本を読んだのでメモ代わりに雑感を述べます。

<刑事弁護とサイコパスという言葉>

サイコパスという言葉は、弁護士活動においてほとんど使ったことがありません。定義もはっきりしないように思われます。いろいろな人がいろいろな意味内容を含めて説明しているからです。一番使いそうな弁護士の活動分野では、刑事弁護を想定されるかもしれません。

「被告人はサイコパスだから犯罪をしないように自分を制御できなかったから、刑事責任能力がなく無罪である。」
という主張をするかという問題です。
しかし、実際はそのような主張はされていないと思います。

刑事責任能力が無いので無罪とは論理必然的なものではなく、その時々の刑事政策の考え方、決め方の問題です。現代の日本の刑事責任能力とは、「自分のこれからしようとしている行為が犯罪に該当しそうだと思ったら、『犯罪になるのでやっぱりやめる』というパターンを期待している。」というものです。このため、やっぱりやめたとおよそ期待できない心理的、生物的事情があれば、期待に反して行動したという非難ができないため刑事罰を課す根拠が無いとして無罪とするわけです。

あまり考えにくい話ですが、幼児の犯罪とか夢遊病の際の犯罪とかが典型場面です。2歳児が包丁投げたらたまたま人に刺さって大けがをしたとか、薬の影響で夢遊病の状態になってしまい、その時いた部屋にあった他人ものを手あたりしだいカバンに詰めてしまい、たまま財布もそれに入れて出てきてしまったというような場合が具体的事例でしょう。

では、「他者に対しての共感力が無いために、人を殺すことを止めることが期待できないから非難できない」と言えるでしょうか。これは言えないというのが現在の日本の刑事政策的考え方です。他人の苦しみに共感ができないからといって、人を殺すような行動(腹を刺すとか、致命的な毒を飲ませるとか)をしないことが期待できないとは言えないと考えるからです。

先天的に共感力を持っていないとしても、「どういうことをすれば犯罪になる」と理解することを社会的に期待されていて、理解できるはずだとされているわけです。そして「犯罪になるとわかればそれをやめる」ということも期待されているというわけです。

ただ、事案の本質を社会や被告人本人に理解してもらおうとして、弁護人があえて「責任能力が無いから無罪だ」と主張する場面はありそうです。この場合でもサイコパスという言葉は使いません。医学用語ではなく定義が不明だということが一番の理由でしょう。反社会性パーソナリティ障害という言い方をするとか、共感力の先天的欠損という言い方がなされると思います。さらには、単にそのような先天的な問題ないし生物的問題を指摘することにとどめないで、そのような問題を背負って生きてきて、犯罪に至るまでの生育の過程において、問題点を是正するような教育を受けられなかったというような、本人だけの責任ではないというような事細かな事情を説明することになると思います。

サイコパスとまでは言えないにしても、常習的に犯罪を実行してしまう人には、確かに被害者に対する共感力が(特に犯行時には)極めて不十分であるパターンが多いというのは実感としてあります。その場合でも、弁護人は、こうあるべきだということを押し付けるのではなく、どうして自分が刑事罰を受けなければならないのか、刑事罰の対象となる行為をすることがどこに原因があったのか、今後具体的にどうしていけばよいのかを一緒に考えることになります。共感する能力が極めて不十分である場合、抽象的な心構えの対策を立てても実行することができません。その人の今後に役に立ちませんし、判決でも効果がありません。具体的に、犯罪をしにくくなるような生活を考えていくということが有効だと思います。

これまでこの人はサイコパスではないかと感じた人はいました。しかし、刑事司法の歴史に残るような重大だというほどの凶悪事件を担当することがなかったためか、色々な事情を考えると、「共感力がなかったわけではない」という結論に行きつきます。サイコパスによる犯罪とは極めて例外的なものではないかということが実感です。ただ、例外的であっても、犯罪予防や受刑者の再犯防止の観点からサイコパスの研究をすることは意義のあることなのでしょう。

<愛着障害とサイコパス>

ボウルビーとエインズワースの理論である愛着障害は、「サイコパスの原因が幼少期に十分な愛着を受けて成長するという経験が無かったから」ということを説明した理論ではありません。サイコパスの原因が生育環境にあるということを言うつもりもなかったことと思います。

そうではなくて、幼少期と言っても生まれてから2歳くらいまでの間に、十分に自分を支持してくれる「特定の人間」から手をかけて世話をされた経験が無いと、対人関係一般に自信が持てなくなり、新たに出会う他者との適切な位置関係を構築することができなくなるという理論だと私は理解しています。

他者との適切な距離感が理解できないということには二つのパターンがあるようです。一つは、他者に自分との関係を継続してほしいあまり、あまりにもその他者に近づきすぎ、その他者に尽くしてしまう、べたべたとした対応を取ってしまうということで、例えば弁護士と依頼人という関係が作れず、必要以上に親密になろうとしてしまうというパターンです。もう一つは、人間全般を信じることができずに、他人とは隙あれば自分に害をもたらそうとする存在であるということで、近づこうものならばやみくもに危険を感じて自分を守るために攻撃をしてしまうというパターンです。近づきすぎるパターンと近づかないパターンということになり、適切な距離を保てないということになります。

他者を仲間だとは思いませんので、他者が苦しんでいる状態を見ても反応を示さないこともあるわけです。そうするとサイコパスのように見えるのかもしれません。

実はこのような愛着障害の、近づくと敵意を見せるというパターンは人間だけではなく、ほ乳類全般に見られるようです。もっとも野生の動物の中では、敵意を見せることが当たり前なのでその関係はわかりません。人間のそばにいる動物も、親や親のように自分を育てる存在からネグレクトをされていると、やはり情緒が安定せずに人間にも攻撃的になるそうです。

この話は友人の獣医師から直接聞いた話です。ただ、動物の場合はこの攻撃性は改善が可能であるようです。もっとも、昼夜問わず手をかけてお世話をし続けるという時間と手間暇をかけることが必須になるそうです。彼は、犬や猫の殺処分を避けるために、攻撃性を消失させて、飼い主を探しているようです。

心理学者からはボウルビーは、フロイト学派であり、フロイト的な考え方をしているという決めつけがあるようです。特に彼の初期の学説にはそのような傾向もあったようです。しかし、ボウルビーの愛着(アタッチメント)理論は、抑圧された精神リビドーがどうのこうのというのではなく、動物行動学を背景として理論化されています。第2次世界大戦に施設収容された大量の戦災孤児の観察という事実から出発した理論なのです。愛着というのは抽象的な心ではなく、特定の人に支持的に触れられること(アタッチメント)だとしているのも、行動学的なアプローチを表していると思います。

その後、愛着理論は、現実に、児童養護施設だけではなく、長期入院の病院等、世界中の子どもの施設の在り方に、第二次大戦後に急速に影響を与えてゆきました。

サイコパスという視点から愛着理論を読み直してみると、共感という生理的反応は、およそ人間全般に対して起きる反応ではなく、仲間だと思える人間に対して発動する反応ではないかと考えられそうです。少なくとも自分の敵ではない人間、自分を攻撃する人間以外の人間に発動するということなのでしょう。愛着障害を抱えた人間は、他人を仲間だと思えないだけでなく、積極的に他人は敵だ、自分に害をなす存在だと自然と思ってしまう苦しい状態を生きていらっしゃるのかもしれないと感じました。

このような生育環境がその人の後の生き方に影響を与えることを考えると、親の子育てに問題があるからと言って、安易に子どもを親から引き離して施設収容することには慎重になる必要があるということになりそうです。私の知っている児童養護施設の職員の人たちは、児童相談所よりもよほど親身に子どもたちの幸せを考えているまじめで献身的な人たちです。しかし、職員も集団であるし、子どもたちも集団であるので、年齢によっては特定の愛着の対象がないというところに、問題が生まれるということが生じる危険があるわけです。最近安易な、必要性の裏付けが無いと思われる児童相談所などによる引き離しの相談を受けることがあるので、心配なところです。

<夫婦問題とサイコパス>

先ほどの愛着障害の理論を理解すると、夫婦喧嘩はまた別の角度から理解ができるようになるかもしれません。対立している夫婦は、相互に、相手をサイコパスだとののしることがあります。

ここでの訴えは、自分の気持ちを夫は、妻は、わかってくれない。自分はこんなに苦しんでいるのに助けてくれないということなのですが、事件に現れた例では、その始まりにおいては男女で少しニュアンスが違うようです。女性に多いのは、わかってくれない、助けてくれない、優しくしてくれないというニュアンスです。味方になってくれないというものでしょうか、男性に多いのは、自分をこれだけ苦しめて平気でいることが恐ろしいというものです。自分に敵対することで安心できないという感じでしょうか。いずれにしても初期にはそのような違いがありますが、だんだん似たような主張になっていくような気がします。

先ほどの愛着障害の考え方をスライドしていくと、女性は相手に積極的な味方であることを求めていて、それがかなわないと恐ろしい相手だと感じやすいようです。男性は、自分が攻撃されることによって恐ろしさを感じるようです。

いずれにしても、この人は自分の味方とは思えないとか、自分に対して攻撃する存在であるとかという感覚の原因は、その行為自体の程度によるものではなく、相手に対する期待の高さを反映している部分が大きいような気がします。

大きな傾向としてということで述べますが、順番から言うと、先ず妻の方が自分の要求する優しさを夫に求めるのですが、同性に対してと同じ行為を夫に求めてしまうようです。それが通常の男性は、一般的に単に苦手とするところなのです。愛情が無いから、仲間として見ていないから積極的に妻を安心させる行為をしないのではなく、そのする必要性をあまり認識していないので、あるいはすることが気恥ずかしくてできないからしないだけなのです。これについて、妻は当然受けるべき優しさを夫は示さないので不安になり、不満の感情をあからさまに示したり、試し行動をしたりして夫からすると自分が妻から攻撃されているような印象を与える行為になってしまうわけです。妻の不満感情や試し行動に対して夫が真に受けて反撃に出てしまうと、どんどん泥沼にはまっていくということが深刻な夫婦喧嘩の始まりのポピュラーなパターンのような気がします。

このことを頭に入れて生活することによって離婚はだいぶ減るのではないかと思っています。つまり、対人関係の条件の中で、実際はサイコパスではないのに相手の行動を悪くとらえてしまうために、相手がサイコパスに見えるということがあるということでよいのだと思います。

総じてサイコパスという概念自体は弁護士の活動にあまり出てこない概念なのです。ただ、その考え方を勉強することによって解決することも出てくるかもしれません。無駄な勉強にはならないというべきかもしれません。


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【フェミニズム・家族解体主義についての誤解】 フェミニストは愛する夫がいることが少なくない。家族からの女性解放でいう「女性」とは、自分以外の女性をいうこと [弁護士会 民主主義 人権]

上野千鶴子氏が結婚をしていたということが週刊誌で報道されて話題になっています。話題の論調として、上野氏はフェミニストであり、夫婦という制度は女性を拘束する制度であり理解できないと言っていて、他人にも一人暮らしを勧めていたくせに、自分はそれに反する生活をしているということに対する批判が多いようです。

これ等の批判は誤解に基づくものだということを言いたい記事なのですが、決して上野氏を擁護しようという目的で書くものではありません。

先ず一人暮らしの勧めについては、私はこの人の代表的な功績だと思うのです。年配の人たちは、おひとりさまの勧めについては「なんにせよ人は他者と死別していく運命であり、やがて一人になっていくさだめがあるけれど、それも決して悪いものではない。」というメッセージだと受け止めていて、上野氏の話を聞くことで救われる人が一定数いるようです。社会貢献しているようです。自身が結婚することと矛盾はしないと私は思います。

ただ、少なくない読み手の中には、「現在独身の人は、結婚なんてしないで一人で暮らした方が良い」と言っていると受け止めていた人も多いようです。

むしろ問題は、「結婚という制度に反対していたはずなのに、自分は結婚していたではないか」というところにあるのだろうと思います。

ただ、そのように考える人は、フェミニズムの思想についての誤解があるようです。

実際のフェミニストの大家、業績を残した少なくない女性たちは、愛する夫がいることが多いのです。
入籍こそしていませんがボーボワールもサルトルというかけがえのないパートナーがいました。図らずも、結婚というのは、先ずお互いの気持ちで成立するものでありそのような人間の思考を社会が制度化したという順番であり、社会が女性に夫婦の関係を作ることを強制したものではないということを証明することになりました。また子育てをした多くの親たちは、子どもは生まれながらにしてそれぞれの性を内包して生まれてくるということを経験しているところだと思います。

今回は、あの日本の男女参画でいうところの「DVサイクル」を広めたレノア・E・ウォーカー氏と、1990年代にアメリカ司法で猛威を振るった作られた過去の記憶による身内からの性被害を思い出すということがあるかという記憶論争の一方の論客となったJ・L・ハーマン先生の例を紹介して考えたいと思います。

ウォーカー氏は、The Battered Woman(邦訳バタードウーマン 虐待される妻たち 金剛出版)の執筆者です。この著書の中で、「暴力サイクル」の理論を主張しています(理論のオリジナルは私にはよくわかりません)。つまり、夫による妻の虐待は、3つの期間を繰り返すというのです。第1期は夫の緊張が高まっていく時期、第2期は激しい虐待を行う時期、第3期は夫が妻に優しくなり、自分の暴力の悔恨を示し、愛情を注ぐ時期だというのです。そして第3期が続くと第1期となり緊張が高まり、やがて緊張が爆発して第2期が来るというサイクルを繰り返す、妻は第3期の幸せがあるために、第2期の虐待が行われても逃げようとしなくなってしまうというような理論です。

日本の男女参画や法務省関連の女性の権利の研究会では、この暴力サイクルを「DVサイクル」と言い直して定式化しています。「先ず不安を抱えている女性は夫から虐待を受けている。次に虐待を受けているはずの妻たちが夫から逃れようとしないのは、DVサイクルによって無力化しているからだ。第3に逃亡を手助けしないと女性は救われない。なぜならばDVを行う男性は今は収まっているかもしれないけれど、サイクル理論によって必ずまた暴力をふるう。その時は命が奪われるときかもしれない。」という主張を、産後うつや精神状態に影響を与える疾患や服薬の副作用等によって精神的不安定になっている女性に言って、子どもを連れて逃げ出すことを説得するわけです。

このウォーカー氏の理論を利用した日本の男女参画理論については既に詳細に批判しているところです。「DV」サイクルという学説などない。レノア・ウォーカーの暴力のサイクル理論とは似て非なるもの。 The Battered Woman ノート 3 各論 2 
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2019-12-12

この「バタードウーマン」の前書きで、著者は、亡くなった自分の夫の愛情が無ければこの著作は完成しなかったであろうと述べているのです。そして夫と男性の友人たちに対して感謝を述べるところから謝辞が始まっています。

また、この著書を普通に読めば、妻一般が夫から虐待されている等ということは言っていません。繰り返し虐待されていた妻の事例の分析がなされていることが誰でも読み取れます。また、日本の配偶者加害の事例にはこのサイクル理論が当てはまらないこともすでに私は述べています。日本の官製フェミニズムの理論は、アメリカの理論を機械的に輸入して構成されていることをわかりやすく示した事象であると思っています。

一例だけ挙げますと、欧米の家父長制度と日本の家制度は、目的も実態も次元も異なる概念ですが、安易に結び付けて論じる人間が多くいます。単に家ということばついていることと、原則として戸主は男性であることから、安易に関連付けてしまったのでしょう。また、家制度と夫婦と子供を中心とする家族制度を混同して論じている論者も少なくありません。日本の家族制度の知識が無いということと、そもそもの家父長制自体をよく理解していないことを示しています。

もう一人、ジュディス・L・ハーマン先生のTrauma AND Recovery(邦訳「心的外傷と回復」みすず書房)をあげます。

実はこの本は、私にとってとても大切な本です。節目節目で読み直して勉強している基本書の一つです。多くのことを学び続けています。それなので、ハーマン氏を先生と呼称しないわけにはいかないのです。

ハーマン先生はこの本によって、日本では賞賛されることが多いと思います。ところが、記憶論争ではとても悪名高い学者になってしまっています。アメリカでは、1980年代から90年代にかけて、成人に達した女性等が、10年前や20年前に家族などから自分が性的虐待をされた記憶がよみがえったとして刑事民事の訴訟を提起して、その主張が通って、父親らが裁判所から高額な賠償命令を出されたり、長期刑が執行されたりした時代がありました。これらの被害を主張した女性たちは、自己の不安をカウンセラーのカウンセリングを受けていて、カウンセリングを受けると10年以上前の記憶が突然よみがえり性的被害を「思い出し」、それらの人々の支援の下で法廷闘争に入るという経過をたどっていました。エリザベス・ロフタス先生らが、記憶というものの性質からそのように抑圧された記憶がよみがえるということがあり得ないことを論証して、1995年を境に、失われたせい虐待の記憶で裁判所が何らかの決定をすることがなくなったと言います。また、そのようなカウンセリング技法も実際上廃れてしまったようです。そのような記憶を「思い出した」女性たちは、精神状態が悪化してしまい、カウンセリングとしては逆効果になったことも原因のようです。

この時、記憶の真実性を否定するロフタス先生に対抗して論陣を張ったのがハーマン先生でした。記憶論争になった時点でハーマン先生に勝ち目がなかったのだと思うのですが、関与したカウンセラーのカウンセリングの実態をよく知らかなったのではないかと思います。複雑性PTSDの理論からは、記憶を自分で封印しようとする防衛機制が存在するということ、被害者の被害から目をそらさないことこそがカウンセリングの要諦だというようなことを主張させられてしまったのではないかと私は贔屓目に見てしまうのです。

いずれにしても不安を抱える女性は、家族の虐待が存在するという画一的、形式的なカウンセリング手法と、立ち直るためには裁判闘争が必要だとする手法は、日本の配偶者相談と重なってくるように感じてしまいます。

さて、この「心的外傷と回復」の冒頭の謝辞の中で、ハーマン先生が何よりも最初に感謝をするのは夫と家族だと述べているのです。

このように、日本のDV被害女性救済システムの理論的バックボーンになった学者たちの中で重要な役割を果たした著名な学者たちは、愛する夫がいて父親とも円満な関係を送っているごく普通の学者たちだということがわかります。

日本の業績を上げているジェンダー学者の女性たちの多くも夫や子供がいて家族とともに人生を歩んでいます。つまりフェミニズム=すべての家族制度の解体ではないのです。そういう理解は、正しくないということなのです。

どうして、いつの間に、フェミニズムというものは、「家族というのは女性を抑圧する社会システムであり、女性を家族から解放しなければならない。」という家族解体主義を含む理論だと誤解をする人たちが生まれてしまったのでしょうか。

ただ、実際にそのように機械的に主張するフェミニストたちもいらっしゃいます。上野氏もフェミニズムは多様性があってよいなどと言っているようです。フェミニストが結婚しても良いのか、結婚しないほうが一貫するのかなどということは、あまり表立った議論はなされていないようです。だれがどのような考え方をとろうと私はそのこと自体にはあまり関心はありません。しかしながら、日本の国家や地方自体の家族政策が、結果として、家族解体を推し進める政策になってはいないかという点について、危機的な意識を持っているということなのです。

多くの配偶者暴力相談の担当者たちも、夫や妻があり、家族を持っていることでしょう。それなのに、ろくに調べもしないで、妻を夫から逃がして行方をくらませることを主導的に手助けしているわけです。本件の問題は、自分に家族がいるのに、どうして他人の妻に対しては、「家族から逃げろ」ということができるのかということに関連していることだったのです。また、いくら多様性があるからと言って、「結婚制度は原則として女性を抑圧する社会システムだ」として自らも家族を作らない原則的主張者群と自らは夫のいるフェミニスト群は、どうやって折り合いをつけているのでしょうか。

これに対する回答は案外簡単なことかもしれません。一口に「女性」と言っているからわかりにくいだけであり、「女性」の概念には二つのカテゴリーがあると考えると誰でも理解できるようになります。即ち、家族を持つと家庭に支配されるタイプの「かわいそうな女性」と、生育過程においても恵まれた上に支配をしない夫を選ぶ能力のある女性の二種類の女性があるということになるでしょう。

夫がいて女性解放の作業を行う女性たちは、自分たちは自立できる能力のある女性であるから、「かわいそうな女性」を解放して差し上げるという考え方なのかもしれません。「あなたは悪くない。それは夫のDVだ。」というとき、「あなたは夫を選ぶ能力もなければ、夫に支配されないで対等な関係を形成する能力もない。私とは違うカテゴリーの女性だ。」と言っていることにならないでしょうか。その上で「だからあなたが解放されるためには、夫や家族から逃げなくてはならない。」という宣告をしていることと実は同じ意味なのではないかと感じているのです。

30年間の事件を担当したことを通じて、離婚調停や離婚訴訟になる事件でさえ、夫の暴力や精神的虐待に支配されていると感じられる事例はごく少数でした。実際は暴力や精神的虐待が無いにもかかわらず、行政や警察は、女性に子どもを連れて夫の元から去るように協力に「支援」をしたのです。それらの支援をした事例のうち、行政などが夫などから事情を聴いた事例は全くありませんでした。

私の実務経験からすれば、夫から事情も聴かないでDVの存在を決めつけて逃がしてあげなければならないほどかわいそうな女性は、むしろごく例外的な存在でした。それにもかかわらず、ろくに調べもしないで女性を夫から逃がし、子どもを父親に会えなくしている事例がほとんどだったということです。その中で夫が自死した例も多く、子どもたちが親を恨んだり軽蔑しながら大人になり、その過程の中で自分を見失う事例が少なくありませんでした。

精神的不安や焦燥感を抱える女性を、すべてかわいそうな女性だと決めつけて夫や父親を孤立させる形で家族を解体するという手法は、本来のフェミニストのオリジナルに近い理論からも単純に間違っているというべきです。せっかく日本のフェミニストの巨匠の結婚報道がありましたので、良い機会だと思いお話しさせていただきました。

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DV被害者支援に見る「被害者支援」の落とし穴 被害者女性だけを支援の対象にすることによって生まれる弊害 [弁護士会 民主主義 人権]




被害者支援ということは、だれも反対ができない気持ちになるでしょう。被害を受けた人が被害を回復することこそ正義だと反射的に感じてしまいます。今回の東京都の若年被害女性等支援事業の莫大な公金支出から疑問が再燃しました。この問題では、一般的な論調としては、「若年被害女性等支援事業は素晴らしいことで必要なことでこちらについては文句はない。ただ、公金の使い方が正当ではない。」という批判が主流になっていると思います。

しかし、なぜ「被害」女性だけを支援の対象とするのかということに、DV冤罪や家族再生に取り組む私としては疑問の目が向いてしまいます。

つまり、「被害があることと」、「支援が必要なこと」は決して同じではないはずです。私が問題とするのは、必ずしも被害があるとはいえないけれど支援が必要なのに、予め定められた「被害」の存在が無ければ、支援を受ける必要がある人も支援が受けられなくなる。実はこれが不合理なのではないかということです。

若年被害女性等支援事業で言えば、東京の歌舞伎町や渋谷の繁華街で若年女性への声がけをするのであれば、その若年女性が被害者であろうと、単なる親に対する過剰な反抗であろうと、ホストなどの風俗など浪費の結果であろうと、望まない性産業や反社会的勢力と結びつくことを避けるという意味では、すべて保護や支援をするする必要があるとは言えないでしょうか。その女性の背景を探っていけば、社会的風潮だったり、インターネットの影響だったり、友人関係だったり、何かしらの被害がある場合が多いと思われます。しかし東京都の用意した、あるいは委託事業者が用意した「被害」、「被害者」にあててはまらないということで支援を受けることができず、不幸に陥ることを見ないふりをすることにはならないのでしょうか。用語の「被害」が何を意味しているのか分かりませんが、被害者だけを保護するということは若年女性に限って言えば強い合理性は無いように思われます。同様に女性に限定することについても合理性がわかりません。

このような疑問を持つ理由が、DV被害者支援事業を見てきたところにあります。

これまでの実務経験での出来事を上げます。

一昔前は、DV被害者は、身体的暴力を受けたことを訴えることが必要でした。身体的暴力がないならば、法(国家、自治体)が家庭に介入することは避けようとしていたためです。身体的暴力がある場合は、家庭内にとどまる出来事とは言えないために国家や自治体が夫婦の問題に介入できるという理屈でした。また身体的暴力は、暴行罪や傷害罪という犯罪を構成するために、警察が介入するデメリットが最低限度にとどまるだろうという常識もありました。

実務では、暴力があったと主張をすれば、シェルターに入ることが認められて、様々な支援を受けられることができました。ところが、身体的暴力が無いから正直に無いというと、それらの支援は一切受けられませんでした。

しかし、長年夫婦として生活していた場合、身体的精神的暴力がなくとも、人間として尊重されないと感じたり、結局は人格を否定されていたと感じることによって、同居が精神的に耐えられなくなることがあります。一時的にであっても避難する必要がある場合は、実務的にその存在を見てきています。夫婦で合意をして女性が心身にダメージを受けることをしたが、男性が女性のダメージに無神経であったなど、DVということはできないけれど、一時でも夫と離れて暮らしたい、あるいは離婚をしたいということがあります。しかし、女性が一時的に一人で生活する場合でも、働いて生活費を得ようとしても女性の賃金は一般的に低く、働き続けていたとしても子育てなどの負担から賃金の高い責任のある地位に進出することができないなどの事情があり、自立が簡単な社会構造にはなっていません。シェルターというのは一時利用の避難所です。女性の社会的立場は共通で、経済的に一時的な分離ができないというならば、はっきりした暴力や虐待が無いとしても、支援が全く行われないということは不合理だと私は感じました。

コロナ助成金の時も弊害を感じました。コロナ助成金が全国民に支給され、住民票の世帯代表者に対して送金されました。しかし、離婚を控えるなどして当時夫と同居していない妻も多数いました。コロナ助成金は一人一人の生活に役立てるためのものですから、世帯でもらうものではなく各個人が受給するべきものです。単に行政効率の便宜上世帯代表者に送金されるだけのことでした。だから、別居の事実がはっきりしていて世帯代表者ではない別居者の意思が確認できれば、世帯代表者に送金しないで別居者個人に送金される手続きが取られるべきだと思いました。

しかし、この例外が認められたのが、DV被害女性だけでした。しかし、先に述べたように、別居をする事情は何もDVに限られません。身体的精神的DVが無ければ妻が人間として尊重されると言えるわけではありません。DV以外の事情があって別居していた世帯主ではない女性にはなかなか助成金が届かなかったようです。本当に助成金が必要な人にお金が届かなかったわけです。DV被害者だけが優遇されることに合理性はないと感じました。弁護士会などでもDV被害者に限って送金を別扱いにしろという決議が挙がりました。私は被害者限定はおかしいという意見を積極的に述べた。

このようなDV被害者限定の支援は、弊害をもたらすのです。被害があったというかどうかで、天と地の違いが生じる、つまり生活ができるかできないかという決定的な違いがあるならば、別居しても生活を成り立たせたいと言う人は、実際はDVが無くてもDVがあったと言おうとする傾向が生まれてしまうという弊害が生まれるわけです。また支援者の中には、些細なやり取りをもって、強引にDVがあったと主張させる人も生まれたことでしょう。

裁判でも同じでしょう。DVがあったと言えば裁判が有利になるなら、無理して針小棒大な説明をしてもDVがあったと主張するようになるかもしれません。DV被害だと言えば、裁判所も警戒して警備担当を配置したりします。厳重な警戒を行うことによって、無実の夫はDV加害者になっていくということを感じました。具体的事実を丹念に調査して、その事実と妻の心情の関係を丹念に考察もしないで、単にDVがあった、警察出動を求めたという主張が裁判書類に大量に出回ることになるわけです。わけのわからない警察出動の要請が多発することはこのような風潮、戦略が影響していると思われます。

何でもかんでもDVがあった、自分は被害者だと主張するようになるということです。

前回も述べたように、この被害者加害者の言葉の意味は、配偶者暴力を相談した妻のことを被害者と呼び、妻の夫等を加害者と呼ぶだけのことです(総務省事務連絡 平成25年10月18日付)。妻は相談にさえ行って、DV相談をしさえすれば、自治体から「被害者」と呼ばれるようになります。だから、DV相談をして、被害者と呼ばれて、裁判を有利にしたいと思うのはある意味自然のことかもしれません。

但し、一定の人たちにこのような被害者加害者二分法は都合の良いこともあります。被害者であれば逃がすという一本やりの方法論だけで対処ができるということです。「被害者」という言葉のマジックで、その行政の「支援」によって、被害者以外の子どもや夫が精神的なダメージを受けても「被害者支援のためだからやむを得ない。加害者が悪いから仕方がない。」と家庭崩壊をさせることを肯定する方向に誰も批判の目を向けなくなるという効果があるわけです。このような家庭崩壊一本やり、加害者に働きかけをしない、事情も聴かない、裏付けを取らないというのも被害者加害者二分法ならではのことだと思われます。

女性支援だからと言って、支援者は被害者だという決めつけは、家庭の中に被害を与えた加害者が存在しているという先入観を作り、敵対させ攻撃させあう形での家庭崩壊しか産まないと思います。快い家庭、安心して生活できる家庭を作るということを目標とした政策が実施されないのは、なぜなのか私たちは考える時期に来ていると思います。

DVというのは特殊な人間が相手を心理的圧迫することとは限らないのです。多くの夫たちは、自分は無関係だ他人事だと思っています。実は明日のあなたのことかもしれないのです。多くの人たちに関心を持っていただきたいと思います。

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若年被害女性等支援事業の本丸はDV被害女性支援事業だという須田慎一郎氏の発言の行方を見守る その二つの事業の奇妙なまでの共通性を考えてみる [弁護士会 民主主義 人権]



現在インターネット上では、東京都の若年被害女性等支援事業の公金支出が大問題となっています。しかし、この国のメディアも政治も、東京都の公金支出の問題を取り上げようとしません。かえって、このブログでそれぞれ記事にした通りに朝日や毎日は、個人の署名入り記事でつまり腰を引かせながら、事業を委託された一般社団法人擁護する記事を出して、肝心の東京都の財政支出について問題として取り上げることをタブー視しようとしている状態です。つまり、本来は東京都の公金支出の在り方の問題であるのに、「それを問題とすることは弱者攻撃である」という論調を作り出して、東京都が攻撃されることを防止する結果となる行動をしているということです。「Qアノン」もじった揶揄が大新聞でつかわれていますが、これは、朝日新聞や毎日新聞が擁護しようとしている対象が一般社団法人やNPO法人ではなく、その背後にある「なにか」だということを陰謀論だと警告して反射的に思考停止にしようとしているからだということに他ありません。そうでなければそのような他者の名誉を害するような表現をたとえ署名記事だとしても朝日新聞や毎日新聞が掲載するとは思えません。また、一団体が、次に述べる特権的な公金支出の対象と偶々なったということも常識的に考えてあり得ません。朝日新聞や毎日新聞は特定団体をかばおうとしているわけではないのです。

ジャーナリストの須田慎一郎氏だけがさらに発展し、そのマスコミなどがかばっている本体が、くだんの一般社団法人ではなく、被害女性支援事業、特にDV被害者支援事業が本丸であることに言及し調査を進める旨表明されています。大いに注目したいと思っています。

東京都の若年被害女性等支援事業の公金支出の問題の本質は、そもそも事業を委託して活動をする前から前渡しで年間数千万円に上る多額の支援金を受託事業者に交付して、その後領収書などの支出根拠の裏付けも調査せずに、未使用委託費の返還も求めないというところにあります。
通常の委託事業や補助事業では、このような扱いはなされていません。きちんとした事業計画を策定して、委託金の金額根拠を具体的に明らかにして費用が確定され、かつ、その費用が実際に支払われたことを領収書などで確定し、また実際にその事業が行われたことを報告書で提出して、初めて年度末に後払いでお金が交付されるということがほとんどだと思います。

東京都によると、このような例外的な委託支援事業の資金交付は、公法的契約だというのですが、国の方はこのような契約類型は聞いたことが無いと言っているようです。どうして、女性支援事業だけが公法的契約の締結対象となるのか、どこでそのような承認がなされたのか、そもそもそのような契約の対象とするべきなのか現在注目が集まっているわけです。

このような莫大な公金の前渡しが正当化されることについては、不可能ではないとしてもずいぶんハードルが高くなると思います。一つは、とても素晴らしい事業、必要不可欠の最優先事業であるから、活動をしやすいように前もって資金を渡す必要があるという必要性、有用性が認められることが前提となるでしょう。

「被害女性や若年被害女性の支援」という言葉を聞くと、誰しも反対できないような雰囲気が作られてしまいます。言葉のマジックです。私たちは、何をもって被害というか具体的な対象者の要件を実は知りません。また、どのような支援がなされているのかということについても何も知りません。それでも「被害者支援」と言うと何か崇高なもののように、脳が勝手に反射的に判断してしまうのです。本当にその支援を受けている人は被害を受けている人なのか
・ そもそも被害とはどういう被害なのか
・ どのような支援をしているのか
・ 本当に新たな不幸を回避するためにその支援は有効なのか

莫大な公金の支出にあたってこれらの要素については、支出をする東京都が把握していなければならないはずです。この点の報告が検証可能なほどになされていなければ、東京都が財政を支出することはできないはずです。また、ある程度情報が一般的に公開されて、都民や国民の事業承認がなされる必要があると思います。都民や国民の税金が支出されているからです。

これができていなかったというのが、令和5年1月4日に発表された東京都監査委員会の監査結果でした。

これができていない財政支出の危険性は以下のとおりです。
・ 活動報告書通りの事業がなされていなくてもわからない。
・ 被害者でない人間に対してサービスを提供していてもわからない。
・ 被害支援とは言えないことに多額の公金が支出されていてもわからない。
・ 公金が、委託の趣旨とは別の用途に使用されてもわからない。
簡単に思い浮かべるとこういう危険があると思います。

この種の公金支出問題の最初にあったのが、20世紀末期の市民オンブズマン活動です。地方自治体やそれぞれの機関において、接待費が認められていて、この接待費、つまり酒を飲んだということにして、実際は公金を支出しないで裏金としてためて、「何か」に使っていたということが大問題になりました。「官官接待」という言葉が大流行し、未だにパソコンに打ち込めば一発変換できる確立された日本語になっています。

ところが、官官接待の時はこぞって取り上げて自ら公文書開示まで行って記事にしたマスコミも、今回の東京都の公金支出問題は全く報道をせず、むしろインターネットで追及している姿勢を否定しようとさえしているのです。端的に言えば、マスコミはわずか20年くらいの間に様変わりしてしまったということになります。

ところで一般の方々であれば、被害者支援事業自体は素晴らしいのではないかと思われると思います。たとえ、その被害とは何なのかということをはっきり知らされなくてもそう思うと思います。いや知らされていないからこそそう思うのかもしれません。私はこの被害者という言葉に、弁護士としての仕事柄散々苦しめられてきた人を見ているからです。

それが須田慎一郎氏が本丸だと示唆されている、DV被害者保護事業に関することです。DV被害者保護事業についての問題点については、これまで「思い込みDV」をキーワードとして述べていますので、詳細は割愛します。簡単に言うと、DV被害者の中には相当の割合で、実際には暴力も受けていないし、精神的虐待というほど夫の行為が不適当だと評価もできない事案が多くあり、そのような事案でも子どもを連れて被害女性シェルターに逃げ込ませ、行方をくらませて、子どもを父親から引き離し、家庭崩壊とする危険があるということです。

実際にはDVがあろうとなかろうと「被害者」とされるのは、そもそもの制度設計に問題があるからです。なんと、ここで言う「被害者」とは、被害を受けた人のことではないというのです。また、「加害者」も被害者に加害行為をした人という意味ではないというのです。配偶者暴力を相談した妻のことを「被害者」と呼び、妻の夫等を「加害者」と呼んでしまうということが実態なのです。本当に被害があったのかどうかを調べることはしません。この日本語と異なる言葉の用法については総務省の事務連絡(平成25年10月18日付)で明示されています。

「被害者」と呼ぶことによって、実際に何があったのか知らなくても、支援措置が必要なことであるという印象を持ってしまいます。実際に行政窓口の担当者は、「加害者」とされた夫に対して敵対的な対応を行っていることが報告されています。全くDV等をしていない夫は、行政や警察からも敵対的な態度を取られ、犯罪者のように扱われて、全世界から孤立したような感覚をもってしまうことで、精神的に大打撃を受け、治療が必要な状態になってしまうことが多いのです。被害意識を持たされて、常に身構えている状態を作り出され、このような過剰に敏感な状態だから同居期間中も精神的虐待にあたるような行動をしたのだろうと言われてしまいますので、まさに踏んだり蹴ったりです。

支援の内容は、被害者である妻を夫から引き離してシェルターに入れ、その後も居場所を隠し、その上で離婚訴訟を提起することが中核です。少なくない事案で何の罪もない子どもたちは自分の親とも友達とも引きはされて、会うことができなくなります。被害女性支援であるから、それらはやむを得ない、正当であると人々の意識が作り上げられていくように感じます。「被害者支援」という言葉を聞くと、疑問を持つ力が奪われてしまう効果があるようです。

今回の東京都の若年被害女性等支援事業問題の感覚がデジャブーであるということはこういうことです。

一般のDV女性支援事業の公金支出の適否についてはまだ調査をしていないので、その点についてはわかりません。しかし、DV女性支援事業の中核は、夫の元から女性を引き離すというところにあります。夫にも話をして家族再生を目指そうというものではありません。引き離した先には何があるか、一定の割合で実家を頼れない、頼りにくいという事情のある女性がいて、それらの女性はシェルターに入ることになります。また、その後の生活の確立も必要になるでしょう。これを税金で行うとなれば、莫大な費用が掛かりますが、それらの事業は委託を受けた事業者が行い、その事業者に事業費用が支払われる仕組みがあるのかもしれません。おそらく須田さんが指摘しているのはこのことなのだと思います。しかし、そもそもの入り口、女性の悩みを問答用無用で家族分離につなげていく事業が、シェルターという女性保護施設の需要を人為的に高めているということは注目するべきだと思います。

また、DV女性支援事業についても、これほど長年行われているのですから、公聴会などにDV支援事業についての問題点に立ち会っている専門家が呼ばれてその弊害を是正する意見を述べる機会が作られても良いように思います。しかし、どうやら制度設計に呼ばれる審議委員や意見聴取者は、現状の制度を推進しようとしている人が中心なのではないでしょうか。この点についても若年被害女性支援事業の構造と酷似しているのかもしれません。

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共同親権に関する各弁護士会の意見についての疑問 死刑反対とのダブルスタンダード 法律家の意見となっているのか [弁護士会 民主主義 人権]



国が共同親権制度創設についての中途半端な提案をして、パブリックコメントを募集しているが、この動きに合わせた各地(都道府県)の弁護士会の会長名での意見が出されている。中には某国政政党の機関誌の見出しの表現そのままの意見を出す弁護士会もある。まず反対ありきの意見が反映され、賛成論へどれくらい配慮するかによって表現が違うだけのような印象もある。

とても不思議な問題としては、各弁護士会や日弁連が死刑廃止の意見を述べるときに、他国との比較を理由にする。つまり、「先進主要国の体制は死刑を廃止している。死刑が廃止されない日本は人権意識に遅れている。即刻死刑を廃止しよう。」という論法である。

共同親権制度についても比較法的な検討をするならば、「先進国に限らず世界の大勢は共同親権制度を取っている。共同親権制度を創設しない日本は、子どもの健全な成長に価値を置かないと評価されている。即刻共同親権制度を創設しよう」という論法になるはずだ。実際単独親権制度を強いている国は、世界的にはごく少数である(私の知る限り三か国しかない)。今回比較法的検討を加えないで共同親権に反対する弁護士会は、死刑廃止の意見の際、比較法的検討を述べないことになるはずである。そうでなければ、結局先ず何らかの賛成反対の結論が先にあって、後付けの理屈で、自分の結論に都合が良ければ比較法的な引用をするかしないか決めるということになってしまう。こんなことをしていたら、弁護士会の意見の理由なんてそんなものであり、法的な意見ではなく、一部の政治的意見が弁護士会を利用して述べられているだけということになって、弁護士会の意見に影響力は無くなるだろう。

次に法律家としての意見として情けないのは、制度の趣旨について全く理解がなされていないということだ。原則論があって、そして他の事情も考慮して原則論を修正するというのが一般的な法的な検討ということになる。法律という広く影響を持つ強力な規範は、必ずメリットがあればデメリットがある。先ず原則的な必要性について確認して、弊害をできるだけ除去するように修正をするという手法が法律家、特に実務法律家の手法であり、求められていることだ。共同親権の法案に対する意見で先ず必要なことは立法趣旨に対する見解を述べることである。ところが、共同親権制度の立法趣旨に言及がなされない。おそらく知らないのだろうと思われる。

これはどうして世界の大勢が共同親権制度を取っているかということと関連する。

世界的にみても、共同親権制度は自然に生まれるものではない。当初は単独親権制度であった国が多い。それを20世紀から21世紀にかけて共同親権制度へと変更したということが共同親権制度の歴史である。どうして、世界は単独親権制度から共同親権制度へ変更したのか。それは子どもの利益を図るという目的があったからである。

子どもの利益というものは、人類の歴史上国家制度に関しては後景に追いやられ続けた。家族に子どもの利益を図る行為をゆだね続け、家族のない子どもには一部の篤志家が世話をするという貧弱な対応だった。そもそも子どもの利益について研究自体がなされていなかった。

第二次世界大戦ころから、戦災孤児の研究が行われ、家族の中で成長することの意義が瞬く間に世界的に共有されるようになっていった。前後して発達心理学が整備されて生き、子どもの心理的成長も研究分野として世界中で取り組まれるようになった。その後、離婚という切り口から子どもの利益の研究が行われるようになり、逆説的に子ども成長における両親の関与の重要性が世界規模で研究されるようになった。そうして離婚後も子どもの双方の親が関与することが、子どもが自尊心をもって成長するために重要なことであることが世界的コンセンサスになっていった。但し、日本を除いてということらしい。日本以外は、子どもを一人の人間として認め、人格主体であり人権主体であるということを理解して、親から独立した子どもの利益として、両親から成長に関与される権利が確保されるべきであるという考え方を当然のものとして受け入れて、単独親権制度から共同親権制度へと次々と変更していった。共同親権制度は人道的な観点から創設されたものである。

このようなそもそもの議論をする弁護士会の意見書は見当たらない。ただ、弊害がある、DV事案や高葛藤事案がある場合、話し合いを強制されることになるから反対だということに尽きるようである。

物事には先に述べたようにメリットとデメリットが必ずある。デメリットがあるからとにかく反対というのでは法律家の意見にはならない、メリットを生かしながらデメリットを回避するということが法律家たるもの意見にならなければおかしいだろうと思う。

比較法的に考えるまでもなく、どの国でもDVはあり、離婚の場合には高葛藤になる。日本だけが特別DVが多いわけでもなければ、日本人だけが特に多く離婚の際に高葛藤になるわけでもない。日本だけが子どもを置き去りにして大人の感情の垂れ流しに「寄り添っている」ということは世界的に見て異常なまでに不道徳なことである。実際欧米からのこの点の日本批判はすさまじい。子どもの健全な成長のために大人はどうしたらよいかという観点から世界中の国は、理性によって共同親権制度に変えていったのである。このようなそもそもの原則論が論じられていなければ、弊害論に後付け的に飛びついて、反対することになるだろう。これが弁護士会の意見というのでは心底情けない。

何より情けないのは、弁護士会長の意見書が某政党の機関誌の見出しよろしく、共同親権制度は時期尚早であり、国民的議論が先行するべきだという表現になっている意見を述べている弁護士会があるということだ。何が情けないというと、弁護士は離婚手続きに関与し続けてきているわけだが、もちろん子どもがいて離婚をするという場面に立ち会ってきたわけだし、様々な事故や事件で片親が死亡したという事例にも立ち会ってきているはずだ。その中で傷ついたり、自信を失ったりしている子どもたちに無数に立ち会ってきたはずだ。少年事件にも立ち会ってきたはずだ。その子どもたちが、本当は両親と一緒に生活がしたいという切実な願いを持っていたり、その願いがかなわないことによって苦しい思いをしたり、間違った行動をしてしまったりという行動に立ち会い続けてきたのではないだろうか。また、家庭裁判所の研究資料や発達心理学や認知心理学の学問は一般にも公開されていて、子どもたちが健全に成長するためには何が必要かということについても弁護士であれば知ろうと思えばいつでも知ることができたはずだ。第二次大戦から何年が経過しているか。離婚後の子どもの調査結果が出てからも何十年も経過している。それらのデータや学問的到達にアクセスしようと思えばいくらでもアクセスできたし、事件において子どもの状態について見聞きしていればアクセスして子どもの問題の解決のためにどうしたらよいのか考える時間はたっぷりあったはずだ。それにもかかわらず自らアクセスもしないで、議論を作り出そうともしないで時期尚早などと言っているのであれば、これから何十年たっても時期が成熟するということはあり得ない。自らが、物を言えない子どもの代弁者となることをサボタージュして議論を起こさないにもかかわらず時期尚早とは何事だと言いたい。

世界人類は、大人の自分本位の感情を理性で抑制して一斉に共同親権制度に切り替わった。世界の中で時期に遅れているのはほぼ日本だけなのである。


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夫婦の仲を安定させるためのポイント ふたりが真面目過ぎることがけんかのタネだったという話 [家事]



<真面目さと夫婦喧嘩の流れ>

昨今、マッチング系アプリによっての結婚が増えているようです。母数が増えれば、一定割合離婚問題が増えるのも仕方がないことかもしれません。だから、今回お話しすることは、マッチングアプリ特有の問題ではないのかもしれません。ここはだれか考えてください。なんにせよ、予めつまずくポイントを押さえておいていただき、末長い幸せなご家庭を築かれることを願っているわけです。

そのような現場の事情を踏まえて言うと、昨今の夫婦喧嘩の特徴は、
・ お互いが真面目過ぎるということ
・ 自分の真面目さを相手にも求めてしまうこと
・ 自分の真面目さが受け入れられないと自分が拒否されているのではないかという被害意識を持ちやすいこと
・ 一度被害意識を持つと、安心できなくなり、相手の些細な言動を気にしてしまうこと
・ 気にしてどうしようもないとすぐにあきらめて、キレてしまうこと
・ キレた自分を見せたことによってますます不安になること

そして思い込みDVになって、子どもを連れて別居、第三者から見れば病的な拒否が起きるという構造をよく目にするようになりました。

<まじめすぎる実例>
・ 箸の上げ下ろし
これ冗談ではなくて、箸置きに箸をおくとか、おかわりをよそったしゃもじの置く場所とか、押し入れに入れた布団の端をそろえるとか、本人の年齢に不相応なことにこだわる人(主として妻)がいます。妻が家事を努力してこなしていることは夫も認めています。ただ、あまりにまじめすぎると、他人に対しても合格のハードルが高くなるようで、相手が努力してそこまでしていてもなかなか合格とされないようです。相手の努力に感謝の気持ちが持てなくなるという弊害があります。結局、全部自分でやらなければならなくなるおそれもあります。また、相手の悪意のない失敗を見過ごすこともできなくなるようです。

・ 夫婦のルール、あるべき姿、格言等
私の担当した中では、一般論を守ろうとする姿勢が強すぎるのは男性の方ですが、女性も第三者に理解できないこだわりがある方もいます。いずれにしても、それはお互いが長く共同生活をやっていくための「方法論」にすぎません。目的ではないのです。それなのに、その方法論を実践しなければすぐに夫婦の仲が崩壊するかのように、自分の方法論を厳格に守るように要求して、うるさがられるということが結構あります。例えば、家に一緒にいる時間は近くで同じことをするべきだとか、そういうことを頑固に言ってけんかになることがあるようです。言い出しにくいことも言葉にしないことを責めるのは男性が多いような気がします。その日その日で体調が違うし、昼間にあったストレスフルの出来事を落ち着かせるために一人で過ごしたいということもあります。放っておいてほしいときは放っておくことがむしろ長く共同生活をするコツのようなものかもしれません。

何か不具合があったら冷静に話しあおうなんてことを取り決めするのですが、いざエキサイトしている場合にはなかなかそんな悠長な約束は覚えていないものです。それでもどんな時でも冷静であれと要求するのは男性の方が多いかもしれません。

・ 論理性、公正性、正義みたいなもの
これは男性側が気にするところですが、妻が前に言ったことと違うことを言った場合に強く問題にすることからけんかが始まることもあります。まじめな人は、特に若い男性は、相手の一言を大切に受け止めすぎてしまい、それを自分が忠実に実行しているものですから、別のことを言われるとはしごを外されたような気になるのかもしれません。だんだん話半分に聞くポイントみたいなものを覚えていくのですが、ここまでふてぶてしくなるまでには年月がかかるようです。若いうちは真っすぐであることが美徳だと思うのですが、まじめすぎると相手は苦しくなるようです。

<真面目さから二人の仲を大切にしすぎる弊害>

これ等の真面目さの弊害は、二人の夫婦生活をいつまでも続くものにしようという気持ちから生まれるようです。その方法論にすぎないものを過度にこだわって本末転倒になるところから生まれるようです。その真面目さからくるのか、真面目さに行き着いた結果なのか、方法論にこだわる理由には二人の仲が壊れることについての不安があります。

真面目過ぎて、それを相手にも求めてしまい、相手がその水準に達しないと、二人の仲が終わるのではないかという不安が生まれてしまいます。この不安に取りつかれてしまうと、第三者からすれば気にするほどではないいろいろなものが、崩壊の前触れのような気がしてくるようです。

うっかり出張の日を伝達忘れていたり、うっかり先に食事をしてしまったりということが、自分が軽んじられているような深刻な受け止めをすることがあります。また、プレゼントを渡されるのですが、ケチられていると思って不安になるのは、女性が多いようです。夫としては一緒に食べようとして買ってきたのに、妻はプレゼントだからそれを自分だけがもらえるものと思っていて、夫も一緒に食べだすと幻滅するとかという些細な食い違いもよく見られます。小学校の道徳の時間のテレビで、プレゼントはケチってはだめだと言われたことを思い出します。男性の不満で観られるのは、食事の内容に配慮されていないとか、妻が一人で出かけてしまうということなどがあります。自分が入院とかして大変な時に面会時間外とはいえパチンコに行って悠長に遊んでいることを怒るのは妻の方です。

夫が仕事の関係で「うつ」っぽくなってふさぎ込んでいると、そういう事情で無口っぽくなっているということを十分に説明されないと妻は自分に不満があるから話さないのではないかと心配が大きくなっていったということも実際にありました。

一方が信じている「夫婦関係の在り方」に、他方が協力してくれないということでも、不安が大きくなるという事例が、これは男女あまり差が無くあるように感じます。一方が一人になりたいときは、他方は一人にされるということもあり、心細さが大きくなってしまうのでしょう。その流れはわかるような気がします。

干渉しすぎても煩わしくなり、かかわらな過ぎても不安になるということです。また、その感じ方は人それぞれです。その時の調子によっても違うようです。単純に決めつけることをせず、よく観察をし、一つ一つ修正や説明をすればよいのだと思います。

<不安をぶつけてしまう>

夫婦の仲が終わりになるかもしれないと思ったときにとる態度は二つです。一つは落胆してしまうパターンで、もう一つが攻撃するパターンです。しかし、いつまでも家庭の中で引きこもることは難しいので、最終的には相手を攻撃してしまって紛争になるということですから、最終的には相手を攻撃するというもう一つのパターンに流れ着くことが多いかもしれません。相手からするとどうして怒っているか、どうして攻撃するのかわかりませんから、逆切れだと感じてしまうようです。

最初に落胆するパターンだと、徐々に不信感が強くなっていって、それまで楽しくて仕方がなかった二人の時間が、全て噓だったと記憶が塗り替えられていく様子が、離婚訴訟で証拠として出された日記からありありと浮かび上がることもありました。最初に相手を好きすぎて、二人の仲を大切にしようと思いすぎて、自分の思いを受け入れられない場合のパターンですね。思い込みDVのパターンに強くなじむように思われました。

小出しに怒りをぶつけてくるパターンとしては、自分が相手に対して求めていることを相手が完璧に実践するという結果が確認できるまで、女性はヒステリックに、男性は暴力的に、逆切れして相手に求めてしまうということもあります。この場合は、相手の精神的ダメージが大きくなります。相手からすると何を怒っているのかわからずにとにかく自分が攻撃されてしまい、話し合いもできず、取り付く島もないという状態で、絶望を抱きやすくなるようです。

強硬に自分の希望を相手に実現させて安心感を獲得しようとしているようにも感じます。しかし相手がそれを実現したとしても、相手が自分から自発的に行ったものではないので、満足感は一瞬のもので、かえって自分が低評価されることにつながると感じますので、むしろ不安を強めてしまい、相手に対する強制をいつも行ってしまうような悪循環に陥るようです。

また、男性も女性も、自分の行為が相手にどのくらいダメージを与えているか正しく認識できないようです。自分の行為は当然のことで、正義だという意識から、徹底的に主張することを抑制することができなくなるのかもしれません。自分が攻撃されていると思っていますから、自分の反撃で相手がかわいそうだとは自然には思えなくなっている状態になるようです。

<先ず、夫婦、家族の目的の一つをはっきりさせること>

幸せの形は人それぞれです。こうでなければならないというのはないかもしれません。ただ、人間である以上、その性質から逃れられないことがあります。叩かれたら痛いし、熱したフライパンに触れば熱いと感じるようなものがあるわけです。それは、家に帰ったならば、安心してリラックスしたいということです。

人間の生理的な構造から、昼間に活動をして夜に休息することが想定されています。活動をするために、精神は研ぎ澄まされて緊張をしやすい状態になっているのです。夕方頃からこの状態は逆転して、緊張をほどいて穏やかな感情になることが最も自然な活動形態です。そしてぐっすり眠って昼間の緊張で傷ついた血管などを自然にメンテナンスするようにうまくできています(概日《サーカディアン》リズム)。

人間が他の動物に比べて長寿である理由は、このサーカディアンリズムが発動しやすい環境を構築したからだと私は思います。つまり、群れを作り、主として男たちは昼間に緊張を高めて食料を探しに出かけ、外敵から身を守って、その間女性たちも子どもや老人を守りながら植物採取をした。そして夕方になって二つの部隊が合流してより安全な体制となって安心をして夜を過ごした。これによって、昼間はより緊張しやすい状態で身を守り、夜はリラックスができる状態で緊張によってミクロ的に傷ついた血管や神経を修復していったことで、長生きができたのだと思います。これができないで緊張しっぱなしの状態ですと、今でいう過労死が起きやすい状態になり、長生きができなかったでしょう。そうすると、繁殖をしても子どもが成長する前に親が死んでしまい、人間は自然消滅していたはずです。

わたしたちは生き残ることができた祖先から遺伝子を受け継いでいるため、生理的にも心理的にもこのスタイルで生活できることが、自然に快い状態を感じるようになっているのだと思います。

つまり、家族、夫婦の役割は、一緒にいるときに、安心してリラックスできる状態を、「お互いが意識して作る」ということなのだと思います。一緒にいれば緊張を緩和させることができるという人間関係を作るということですね。

人間ができる相手に対する安心感を与えるときの安心感とは、人間関係が終わりになるかもしれないという緊張を感じなくさせること、つまり安心させることになるでしょう。このような緊張や不安は、人間は特に理由もなく感じてしまうもののようです。だから、終わりになるようなそぶりをしないというような「マイナスになることをしない」ということではなく、積極的に安心させるという「プラスになることをする」ことこそ大人の二人は行うべき行動だということになると思います。

安心させるためには、
二人の仲が終わることを自然に予感させることをしないことが前提なるでしょう。つまり自分は相手から低評価されていない、大事にされていると感じさせることです。低評価されているとか大事にされていないと感じると、二人の関係が終わりになるかもしれないと心配になることは自然なことだと思います。

相手が失敗しても責めない、相手に不十分な点があっても批判しない、欠点はできる限り目をつぶる。自分が代わってやれるところは代わって行うということをすればよいことになります。お互いがお互いの負担を軽くするような行動はプラスの行動ですね。

大事なことは、こういうことはお互いに行うことです。常日頃こういう態度でいることで、不安が少なくなり愛されているという自信が生まれます。相手が多少イレギュラーな行動をしても、自分が責められていると感じないで、相手を気遣うことができるようになります。

このように人間が自然に不安を感じてしまう動物であるため、それから複雑な社会構造からさらに不安を感じやすくなっていることから、人間関係は壊れやすいものだということを離婚事件を多く担当して思います。

それにもかかわらず、マニュアルのように結婚生活を長続きされるノウハウ本などを読んでしまい、何でも話し合うことが必要だとか、食事の後は必ずそばにいなければならないとか、秘密を持っては絶対だめだとかということになると、あるいは箸の上げ下ろしが完璧でないとかや非論理的な話はしてはならないとか、形式的な方法論にこだわってしまうと、肝心な相手を安心させるということができなくなり、無駄な緊張感ばかり与えてしまうことになってしまいます。朝から晩まで家族だけで生活できるならまだよいかもしれませんが、家族以外の職場や友人関係があるのですから、切り替えのための一人の時間ということも尊重するべきです。そして、なにか感情的になっていたとしても、暴力などに及ばない限り、そういうときもあるという余裕が持てる人間関係を構築できれば一つの幸せの形は続くと考えています。

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暇空茜氏の委託金不正「支給」疑惑の仕事は、本来東京都が行うべきことであり、都がやらないのなら都政野党やマスコミが行うことだということ なぜ女性支援事業だけが例外扱いをされるのか [弁護士会 民主主義 人権]


東京都の若年女性者等支援事業の巨大な委託金の支給について、暇空茜さんという一般男性がほぼ一人で、情報開示請求を行い監査請求を行い、行政訴訟まで提起するという。

疑惑の内容というのは、領主書などの裏付け資料が不十分であるにもかかわらず、請求通りの公金を支給しているということである。これが監査委員会で認定されたのは一団体だけであるが、他の3団体も同様かそれ以上の支給疑惑があるということで暇空さんが精力的に調査、追及を行っている。いわゆるネット上(ツイッター、ユーチューブ等)で広く問題視されているWPBC問題である。

一般的にインターネットの情報拡散は、先行情報発信者がいて、2番手の解説者がいて、3番手以降の拡散者がいて炎上するという現象が起きるようだ。この問題では、暇空さんという例外的に突出した情報収集者兼発信者がいて、ユーチューブの動画解説者が暇空さんの行動を説明して、さらに自分の興味関心に引き付けて拡散をする者がいるという構造のようだ。

オリジナルな情報源から2次、3次と派生的な発信になっていくほど、徐々に女性支援団体攻撃的要素が濃くなる傾向にあるようだが、これも心理的には無理がない話である。疑惑が真実だとすると、不正な利得を受けた者がいることになり、その利得が税金から支給された金銭だということになり、しかも、目的に合致した行動であるかどうかを不問に付して要領よく利得を受けていたということになれば、素朴な正義感が発動されるように人間ができているからだ。

本来東京都は徴収した税金を適正に管理する公法上の義務がある。暇空氏や監査委員会の指摘した疑惑については、自らがその事実を調査し、判断し、不正による東京都の損害の概要、不正支給が行われた原因を明らかにし、都民にも説明し、再発を防ぐ行動をしなければならない。小池都知事の選挙公約であった情報開示を今こそ実施するべき時である。それをしないのであれば、自分が都知事に就任する前の情報は開示するが、就任後の情報は開示しないということになってしまう。

この点について代表者のツイッターなどから見えてくる団体Cの言い分は、以下のとおりである。元々、自分たちが活動しやすいように従来通りに活動することが約束されて始めた委託事業のはずだった。それにもかかわらず東京都から会計について面倒くさい行動を要請されてやりづらくなっている。それを聞きつけた現在国会議員の当時の都議らがC代表者の要請に添うように東京都に働きかけを行った。その後は、団体Cは東京都に相談しながら活動を行っており、会計問題などについても東京都の承認を得て作成している。今更違法とか不当とか言われる筋合いはないというものである。

この点東京都監査委員会も令和5年1月4日発表の監査結果において、領収書の不存在や、非常識な支出が行われているという指摘をした。東京都が良いと言ったから問題が無いという次元の問題ではないことになっている。

通常の地方自治体の民間団体への委託事業は、このようなずさんな会計処理によって公金が支出されるということは無い。厚生労働省や内閣府の管轄の委託事業に末端で関与したことがあるが、領収書だけでなく報告書のたぐいもかなり厳しく指導されていた。私の知る限り、例外が女性支援事業ということになる。
・ 例外扱いされているのは女性支援事業だけなのかそれ以外にもあるのか
・ どうして女性支援事業が例外扱いされたのか
・ どのような例外扱いがなされていたのか
・ それを指令した根元がどこにあるのか
ということが、WPBC問題における疑惑である。

財政疑惑を徹底的に買い目するべき本来的な主人公は、税金の適正管理を公務としている東京都である。自ら都民から徴収した税金、国から受けた補助金を不正支出しないように管理をしなくてはならない。東京都は、来年度にこれまで主管だった保健福祉局の解散(分割?)を決めたらしい。疑惑追及の体制を構築するための妨害勢力の排除であると信じたい。同時に、この問題は一職員が独断でできる話ではないので、個人責任で終わらないようにしなければならない。これまで疑惑追及の事例の教訓を生かさなければならない。ただ、監査結果が出てからでも東京都の是正活動が見えてこない。

都が故意に行った不正支給であるならば、都政野党が事実調査を行って、改善を提起する役割を担っていたはずだ。しかしながら都政野党の動きも一部の自民党議員などの精力的な活動は見られるが、組織的な取り組みがなされているという印象は持てない。それよりも、国政野党の動きが全く見えてこない。財政問題を追及しないのであれば、野党としての存在意義が問われている。

政党間の結託があるというのであれば政治的な問題であるから、マスコミがこぞって取り上げて都政を批判するはずである。しかし、問題を取り上げたのは産経新聞くらいで、朝日、毎日は、一方の団体の言い分の垂れ流しに終始しており、都政問題としては取り上げていない。一時期にブームになった官官接待問題を取り上げたマスコミはもういない。

本来行うべき、東京都、都政野党、マスコミがこぞって疑惑を追及しない。監査結果が出たにもかかわらずだ。その手法は、素朴な正義感の不正利用だ。

正義感は利用される。

まず、情報拡散の2番手3番手を使って、団体Cに対する攻撃感情が起きる。団体Cの代表者の個性がこれを助長する。女性に対する攻撃に対する批判的感情が高まる。団体C擁護の動きを作る。問題を団体C問題に矮小化した上ですり替えて、東京都政の問題だという論点にたどりつかせないようにする。たどり着かないということはさすがに無理なので、時間を稼ぐということかもしれない。

最悪の事態は、旧援護局の忖度によって独走してしまったというシナリオである。

この問題について、意外な人物が擁護をしようとしている。一度パワハラで辞職したはずの関西の市長は、委託している団体は信用しているので領収書の開示を求めないというようなことを言ったらしい。市長が信用しているということで領収書を確認しなくても良いような狭い人間関係での財政支出がなされるのは、極端に人口が少ない地方自治体に限定される。市制を強いている自治体であれば、そのような曖昧な公金支出が許されてよいということにならないはずだ。そうでなければ、自分が信頼しているから手続きを省略させたという相変わらずの独善的なワンマン市制ということを宣言しているにすぎない。東京都の財政は全く次元の違う話である。委託団体に信頼があるから公金を支出するのであり、住民から預かった公金であるからきちんと管理を行うのである。

東京都の財政支出について批判的な視点を持たず、女性攻撃の問題に矮小化する団体は後年その役割を明らかにされるだろう。そのような役割を果たさないマスコミや野党は後年まで存在を継続できない恐れもあるように思える。

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党首公選の意見で除名と表現の自由を関連させることが誤りであること 付録で人間集団のトップの神格化における確証バイアスの働きについて [故事、ことわざ、熟語対人関係学]



先ず、日本国の団体の内部行為においてすべて日本国憲法が及ぶということは単純な誤りです。

代表者の選出についても、例えば宗教団体の教祖を公選制にするべきだということをおそらく誰も言わないようなことと同じです。法人ということになると、会議や機関の設置を義務付けられていますが、これは形式的なことです。

代表者の選出方法について、公で批判をした言論についてのサンクションについても、それが団体内部の行為だというのであれば憲法の及ぶ問題ではありません。団体内部で何をしてよいのか、何をすることを禁じるのかということを団体が自由に決めることが許されないと、同じ憲法21条で定められた結社の自由の保障が崩壊してしまいます。例えば政党の子会社みたいな出版社があった場合、その政党の子会社の出版社が親会社の政党を批判してはならないということを決めることも団体の自由なわけです。それが嫌な人はそのような団体に入らなければよいし、支持をしなければよいだけのことです。

もちろん制裁としてリンチをしたり、財産を強奪すれば刑事事件になりますから、それは国家が介入することが可能となる違法行為になります。団体の内部行為にとどまらないからだと説明されています。そのような違法行為でない場合まで国家である裁判所や行政が介入することが許されてしまうと、事実上国が団体の在り方を決定できることになってしまいます。結社の自由が保障されなくなるわけです。

どうしてこのようなことを書き始めたかというと、国政政党の代表の決定方式を批判した党員が、内部的な定められた手続きで意見を述べないで、公に批判をしたことを理由に除名されたというニュースがありました。問題は、それに対して江川紹子さんが、この除名処分は表現の自由に反するので、直ちに撤回するべきだと述べたというニュースを見たからです。後に毎日新聞や朝日新聞も批判する記事を出したようです。(この両紙よりも私の中では江川さんが上のため表現はそのままで進めます。)

江川さんは、憲法上の表現の自由が政党の規則に適用されないということは熟知しているはずです。ニュース記事の切り取り方が不正確だった可能性もあるのですが、なぜ敢えてそのようにとらえられる表現を江川さんが使ったのかを考えるべきだと思いました。

おそらく政党というものは、次代の内閣を構成する団体であるから、個人的な組織のような宗教団体とは異なって、政党内部にも憲法の定める民主主義や人権が機能するべきだ、それが機能しない政党が作る内閣は民主主義や人権が機能しないものになると国民にアピールしてしまいマイナス効果が生じてしまうという観点からの政党に対する助言だとするのであれば、ある程度は理解できる発言のような気がします。

但し、それは支援者の心理にすぎません。つまり、江川さんは、その政党だけを支持しているのかどうかはわかりませんが、少なくともその政党を支援したいという気持ちがあることになります。その選択をした以上、最近よく出てくる「確証バイアス」が働いてしまいます。つまり、自分が支持をすることにふさわしい政党であるという事情ばかりを集めてしまい、自分が支持するのにふさわしくないと思われる事情は見ないふりをしたり、それほど大したことがないのではないかと過小評価をしたり、無かったことにしたりしてしまうという心理です。

つまり、その政党が「江川さんの考える正しい民主主義」を実践していないという情報は、見ないふりをしたり、それほど大したことが無いと過小評価したり、そのような事情が無かったことにしていたということになります。

私の知る範囲では、その政党は党首の公選制を一貫して否定してきましたし、その理由も分派を作り組織が分裂したり弱体化したりするからだということも一貫していたと思います。

除名が必要なのかはよくわかりませんが、くだんの人の行為が処分の対象となることは、政党にとっては他に選択肢が無かったはずです。また、そのことを江川さんが知らなかったということも考えにくい話です。

つまり江川さんは、ご自分の価値観に合うように政党の実態を頭の中で作り変えてしまっていたようです。除名処分を撤回したところで、くだんの人が自由に意見を述べることができるようになるわけではないですし、組織の外から批判する人物を組織の中にとどめようとしようとはしないはずです。

単純な話、自分の価値観と合わない政党であれば、支持をやめればよいだけの話です。
それなのに、どうして述べても仕方がないことを述べ、マスコミからのその政党攻撃の材料になるような発言をしたのでしょうか。

やはり無理な希望であったとしても、相対的に他の政党ではなくその政党を支持するべきだという発想が前提としてあり、日本国のためにその政党が今よりも国民の支持を集めなければならないという強い意識があったため、思わず言ってしまったということなのだと思います。しかしもしかしたら、確証バイアスによって、その政党を正確に把握していなかったから支持していたという可能性もあるわけです。

ちなみに組織の論理とは、組織を組織外の攻撃から守ろうとするという発想の外に、組織の秩序を形成して維持しようという発想が自然に生まれてしまうものです。人間の集団の組織というのは、実際は、集団のトップに従おうという意識になっている場合がとても強いです。これは特定の集団を批判していっているわけではありません。どの組織、あるいは組織というほどしっかりしていない一時的な仲間感情を持つ人間関係でも同じです。

但し、従おうということであっても、何が何でも従属しようということになるわけではありません。そういうケースによる犯罪は多々あるのですが、それはそういう風に追い詰められる特別な事情があったからです。

そこまで追い詰められていない場合は、トップを守ろう、トップを害されるのは組織全体を害されることだというような意識を自然に(無自覚に)持つということです。もう少し平たく言えば、「トップを中心に組織を一体化させようという意識」ということになるでしょう。例外的にこのような意識にならない人もいます。典型的にはトップの座を狙っている人です。しかし大多数の人は組織秩序の維持をトップを中心に置くことで形成しようとします。

そして、確証バイアスが起きる理由に「自分の選択の正しさについて安心したい」という気持ちがありますので、集団のトップについてもその人で正しかったのだという安心をしたい気持ちから確証バイアスが起こるようになります。その人に関する悪い事情については、知らないふりをする、過小評価をする、無視をするということです。そして、高評価につながる事情は多く集めていくわけです。本来トップの職責にふさわしいことを示す事情だけでなく、なんらかの好ましい評価はすべて収集してしまうわけです。海を挟んだ隣国のトップの人(故人)については、18ホール連続ホールインワンを行ったという逸話があり、ゴルフ関係者ならみんな知っている逸話です。集団トップの神格化は自然に起こりやすいものだと理解しておく必要があります。

公選制と分派の関係についても少しだけ考えてみます。確かに公選制が分派を作りやすくする危険性はあると思います。それがどの程度組織を弱体化させるかについてはなかなか難しい問題もあるように思われます。また、その政党が言う「用意された意見を述べる権利」については、一個人が述べたことが他の仲間に伝わると可能性というものが十分確保できていたのか問題にはなると思います。一方現状トップの意見は、組織における情報伝達方法によって迅速に組織の隅々まで伝達することができのですが、その情報の共有の規模と速度の違いがあることを踏まえても、意見を述べる権利として保障されているといいうる状態と言えるのか検証が必要なのだろうと思います。

いずれにしてもくだんの方も、自己の所属していた組織について、信頼をして、良かれと思う気持ちが強すぎて、現実を踏まえると望んではいけないことを望んでしまったということになると思います。江川さんですらそうですから、ご本人はなおさらだったのでしょう。

しかし、現実は客観的に想定できる結末となりました。初めから別組織を作るなりして活動されればよかったということにしかなりません。

毎日新聞や朝日新聞が、その政党がデメリットを考慮してもメリットがあるからそのようなルールを作っているにもかかわらず、そのルールを批判することも見当はずれの社説ということでよいと思います。それはその政党の勝手であり、外部者が口を出すことではないからです。

おそらく新聞はそのようなルールを作る政党は支持できないということを言いたかったのだと思いますが、さすがにそれではあからさまに中立ではなくなるので、そうは書かなかったのだろうと思います。

そんなことを社説で言うよりも、正しさはみんなで共有して初めて正しいということになるということを助言すればよいのになあとちょっと思いました。

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思い込みDVなのに、なぜ夫に対して攻撃的感情が生まれて、持続するのか 怒りの原理と確証バイアスの構造 [家事]

 

<思い込みDVと連れ去り別居>

実際はDVというほどの身体的暴力や精神的暴力が無かったのにDVがあったと主張して、警察や役所の支援の下で、妻が子どもを連れて住んでいる場所からいなくなり、父親は子どもと会えないどころか、連絡を取ることもできなくなり、やがて妻は保護命令や離婚手続きに進むという事例が多く見られます。

妻は、多くは自治体や国の配偶者暴力センターで、「あなたは悪くない。それは夫のDVだ。」という決まり文句を聞かされて、「私はDVを受けていたのだ」と思い込むようになるようです。配偶者暴力センターの相談件数に50をかけた数字がほぼ面会交流の申立件数と同期しているということは先日お話ししています。理不尽な親子断絶を感じて、法的手段に出る夫が増加するという構造です。
私の担当事案に現れた男女参画事業の配偶者暴力相談(DV相談)が統一教会時代の信者獲得の技法に酷似していることと家族破壊という共通の問題点
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2022-12-22

<DVの具体的記憶がないにもかかわらず怒りを持つ妻たち>

実際はないのにDVがあると思い込む妻たちも、どうやら夫に対して本気で怒っているようなのです。ただ、通常、裁判上の書類にはどういう心理過程で怒りが出てくるかということは詳細には書かれていません。訴えられた夫でさえも妻が何を怒っているのか十分に理解することができません。

裁判の書類には、「DVがあった」とか、「暴言を受けた」、「人格を否定された」、「長年の積み重ね」とか抽象的な表現だけが書かれて具体性のある出来事が記載されていなかったり、どこかの事例を借用してきたような実際には存在していないことが書かれていたりします。かなり怪しい主張です。「怪しい」というのは、人間の記憶は、自分が体験して怒りの感情や恐怖の感情を持った出来事はリアリティーをもって覚えているようにできているので、離婚の成否を決めるかもしれない大切な主張書面に怒りの根拠となった出来事について何ら具体性のない記載しかないということはあり得ないからです。具体性のない主張は、そのような事実はなかったと考えるほうが合理的である場合が多いと思います。

それでも記憶のメカニズムについて素人である裁判所は、DVがあったという抽象的な妻の言葉によって、勝手に自分がイメージするDV像があったと想像してしまうようです(プロトタイプ理論、ステロタイプ)。裁判官が抱く一般的なDVのイメージの平均的な出来事があったと考えてしまい、①妻がやり直しを強固に拒んでいて、かつ、②同居をしていないという二つのことだけを理由に離婚を認める傾向にあります。

但し、慰謝料を認めるか、認めるにしてもその金額については、リアリティーの有無はとても大きく影響するようです。リアリティーのある主張や客観的事実と整合しない主張しかできない場合は、この点決定的に不利になります。しかし、DVがあると思い込んでいる妻は、もっと早く離婚が成立し、もっと多くの金銭が支払われると思っています。そのように説明されていたのに、そうはならないことでヒステリックになる人もいます。実際は、ことは慎重に進めなければならかったのです。支援者の根拠のない楽観論に振り回されている妻はずいぶん多くいらっしゃるようです。

それにしても、具体的事実の記憶もないのに、どうして夫をそんなに攻撃することができるのでしょうか。考えてみたら不思議なことなのです。
原因を探ってみましょう。

<思い込みDVの原因についてのおさらい>

先ず、これまでのおさらいなのですが、怒りを持つということは、「自分を守らなければならない」と感じているということです。自分が危険な状態にあると思った時の反応としては、「逃げる」、「立ちすくむ」、「怒って攻撃する」の三パターンがあります。いずれにしても危険を感じているときの反応です。

危険を感じれば危険が実現してしまうのではないかと心配になります。これが「不安」です。不安を持つと不安を解消したくなり、あれこれ行動を起こして危険を除去して不安を解消するのが人間をはじめとして動物の生きるためのメカニズムです。(遠くに熊が見えたら襲われるのが怖いからさっさと立ち去るとか、高い場所は落ちるかもしれないと怖くなり安全な場所に戻るとか。)

しかし、不安の原因がわからないのであれば原因を除去することができなくなりますから、いつまでも不安を感じ続けます。そうするとますます不安を除去したいという要求が増大していって、大きなストレスになります。

不安は、「何か悪いことが起きるかもしれない」という抽象的な心配だけで起きてしまいます。

自覚できない不安の原因として、これまで
体調(産後うつ等)、病気(精神疾患だけでなく、精神症状が出る内科疾患、婦人科疾患)、頭部打撲などの外傷、薬の副作用
などを挙げていました。理由はないのに体調の問題を不安感じてしまうということがあるのです。実際の離婚手続きで、具体性のない主張している妻の多くが、これ等の既往があることを自ら主張しています。しかし、本人も支援者も本当の不安の原因である可能性の諸症状についての知識は無いようです。

先に述べたように、不安を感じれば不安を解消したいという気持ちは強くなります。しかし、原因がわかりません。対処の方法が出てきません。不安と不安解消要求はどんどん大きくなってゆきます。

自分では不安を解決できないと自覚すると、人間は自分の一番身近な、一番頼りにしている人に無意識に解決してもらおうとするようです。妻の場合は通常は夫です。連れ去り別居のわずか数か月前には、妻は夫にいろいろな相談をしていることが多く、夫も親身に話を聞いているというエピソードが結構あります。それでも原因がわかりませんので、解決しません。夫が解決するべきだという感情も不安とともに増大していくことになるようです。

自分も夫も不安を解決できないとなると、さらに解決要求が高まりますので、妻は、普段ならばしないであろう行政の相談所に相談に行くわけです。配偶者暴力相談センターや女性の人権相談などは、男女参画事業として潤沢な予算が付きますので、お金をかけてポスターなどを制作し、宣伝をしているので、アクセスしやすくなっています。また、自治体や国の施設ということで、安心して相談に行きます。

<配偶者暴力相談による思い込みDVの完成と怒りの端緒>

相談所では、実は漠然とした不安があるだけだということも、あるいは体調や疾病由来の不安かもしれないという見当は一切行われません。
男女参画事業の不思議な共通性があるところです。事業評価においては、「働きかけによって家族関係を改善して」不安を解消したという評価項目はありません。男女参画局のホームページを見ていただければわかりますが、何件連れ去りをさせた、何件離婚を申立させた、何件保護命令を申立させたということだけが評価対象となっています。つまり家族再生によって女性の不安や生きづらさを取り除くという解決方法は初めから勘定に入っておらず、離婚させてなんぼということが国のホームページからは印象付けられます。

もちろん相談員の意識もそうなってしまいます。「女性の不安の背景には夫のDVがあるのではないか(あるはずだ)」と待ち構えて、夫のDVは見逃さないぞという態度で話を聞きます。だから、本来特に意味のない出来事も夫の虐待だと、相談員が自然に思ってしまうわけです。心理学的に言えば、相談を受ける前から「確証バイアス」に支配されており、DVと言えそうな事象だけを掘り出すように妻に言わせるわけです。DVではないという事情は無意識に捨象されて聞き流されます。相談担当者はいたって真面目で責任感の強い人たちです。初めから家庭を壊して女性を家庭から引っ張り出そうと思っているわけではないと信じたいです。こういう人たちが自ら確証バイアスに陥るようにうまく制度設計がなされているということがリアルだと思います。

妻の側は、役所の人たちにいろいろ尋ねられるので、自分のことを理解しようとしてくれていると感じます。それは妻も嬉しくなり、信頼も厚くなるでしょう。不安の本当の原因は置き去りにされたまま、「あなたは悪くない。夫のDVだ。」と自信たっぷりに断定されます。

<夫への怒りが発生する怒りの原理>

そこまで相談が進み、自分の不安の原因が夫にあると言われたとしても、いかに自治体の関係の相談だとか肩書のある相談担当者から言われたとしても、好きで結婚した夫に対して直ちに怒りが生まれ、離婚調停を行うほどの持続力があるのはどういうことだろうかということを考えなければなりません。

こう考えると、実際は夫のDVと呼べるような虐待があったということかと考えたくなってしまいます。しかし、ある仮説を立てることでこの流れが理解できると思います。この仮説を理解するためには補助線となる知識が必要です。以下説明していきます。

第1に妻の不安が病的であり、不安解消要求も病的なまでに強いということを理解しなくてはなりません。不安の原因に妻も夫も心当たりがありませんので、「とにかく不安が解消されればそれでよい」と、優先度が異常に高くなっているということです。常時、不安が発生していて落ち着かない状態になっているわけです。これは相当苦しい状態です。

第2に、「怒り」という感情の状態のときは「不安」が感じにくくなります。一種の「側部抑制」みたいなものかもしれません。これは、ヒポクラテスのいう「痛みが2つある時は、強い方の痛みしか感じない。」ということで説明できると考えています。妻は怒りを表明しているときは不安から一時的に解放されていることを体験します。

第3に、怒りは基本的には、戦えば自分が勝って相手を倒すことによって危険を解消することができると判断した時にしか起こりません。ここで役所の人たちや警察、さらには弁護士や裁判所まで自分の味方だと思うことによって、「勝てる」という意識になるのでしょう。怒りに向かいやすくなっているわけです。

第4、さらに、自分が悪いわけではなく夫のふるまいは自分に対する虐待だというアイデアは、夫に反撃をするべきだという意識を作り出してしまいます。

そして、自分は悪くなくて夫が悪い、自分の不安の原因は夫だ、自分には味方がいるから勝てるとなると、怒りが沸き上がり夫を攻撃しようという気持ちになるわけです。自治体の相談会では夫はいませんから、夫を攻撃するということで盛り上がることができるわけです。本当は怒りを持てたから苦しさが減っただけなのに、夫に対して攻撃したから自分を取り戻したという錯覚が起こるようです。

そうすると妻は奇妙な学習をしてしまいます。自分が夫に対する怒りを表明すると、自分の不安が感じられなくなり、解放されたような気持になるという体験です。気持ちが楽になり、不安や焦りを感じなくて済むということを覚えてしまいます。「やっぱり夫婦だし協力し合って頑張らなくてはならないかもしれない。」と考えることもあるでしょうが、そう考えるとまた不安に襲われて苦しくなってしまいます。(それほど強い不安に苦しんでいるということなのだとは理解する必要があると思います。)

この点、妻が意識して「自分の不安を感じなくするために夫を攻撃する」と考えるには無理があると思います。むしろ、夫を攻撃することが楽な感覚を得ることができるということで、「攻撃しないことができなくなる。」という感覚に近いのだろうと思います。攻撃依存に陥っているという感じなのでしょう。

<怒りの持続と確証バイアス>

さらにこの怒りが、離婚調停や訴訟などの手続きの間中持続するメカニズムがあるはずです。それが「確証バイアス」から説明できるのではないかと思います。

先ほども確証バイアスという言い方をしましたが、厳密に言えば先入観でしたでしょうか。「確証バイアス」というのは、例えばAを選ぶかBを選ぶかという選択を迫られて、どちらかを選択した場合に、選択後に、自分が選択したことが正しいことを裏付けるような都合の良い事情ばかりを集めてしまい、都合の悪い事情を無視したり、過小評価をしたりするというバイアスです。人間はこのような思考ミスをする傾向にあると言われています。

妻は、別居や離婚、あるいは子どもに会わせないことを「選択」し続ける状態になっています。そして確証バイアスによって自分の選択が正しいということを示す事情をたくさん集めたがるわけです。もともと思い込みDVの場合は不安がありますから、自分の選択が正しいということを常に思える事情を見て安心したいということになるでしょう。そうすると、なんていうこともない事情を虐待だとか、自分を苦しめた事情だと考えるようになります。本当は自分のわがままを夫に注意されたという出来事も一方的に説教された出来事という風な出来事として再構成してしまいます。また、夫婦で子どもに対して注意した出来事も、夫が一人で子どもを虐待したという出来事の記憶になり、子どもはそれを聞いて納得したのに、夫が子どもを力でねじ伏せたというエピソードに変わるわけです。

妻も、自分は間違っていたのではないか、離婚は早計だったのではないかと考えることがあります。あるいはそう考えそうになることがあります。その都度このような確証バイアスによって、自分の選択は間違っていなかったと思い返し、あるいはその思いを改めて強化していると考えると説明ができそうな気がします。

確証バイアスはこのような不安が多い人の思考ミスではなく、人間全般に見られる思考ミスです。もしかすると、確証バイアスというのは、人間は病気や体調にかかわらず、不安を抱きやすい、しょっちゅう不安を抱いている生き物であることがその由来なのかもしれません。選択をするということはもう一つの選択肢を切り捨ててしまうことです。自分の選択が正しかったのか、人間は不安になるのでしょう。そしてその不安を解消しようと、つまり安心するために自分の選択が正しいことを示す事情を強引に集めようとするということが確証バイアスの構造ではないでしょうか。

人間が理由もなく不安を抱く動物だとすれば、思い込みDVの端緒は、もしかすると体調や病気ではなく、通常の状態でも起きる可能性があり、その後の事情で思い込みが強くなるという順番もあるのかもしれません。

裁判所で観られる思い込みDVの事案は、妻に夫に対する持続的な強い怒りが見て取れます。それに見合うDVの具体的な主張はありません。そのギャップを理解するためには、もともと妻に病的な強い不安があり、原因がわからず対処の方法がなく苦しみ続けていた日常であったということを理解する必要があると思います。

単に攻撃をして正義を主張するという方法では解決する方法がないということはこういうことだからだと思います。攻撃をしないということを一歩進めて、積極的に不安を除去していくという手段が最も有効なのだと改めて感じました。


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まじめさと優しさはどちらかを選ぶことが迫れていることが案外多いこと 優しさを選択することの勧め  [進化心理学、生理学、対人関係学]



1 まじめさの副作用

あまり、まじめさと優しさのどちらを選ぶかということを考えたことは無いと思います。例えば、結婚相手を選ぶときに、まじめで優しい性格の人が良いということに、あまり異論はないかと思われます。また、まじめだけど優しくない人や優しいけれどまじめでない人というタイプも実際はいないとは思います。

しかし、局面によってはまじめさと優しさはどちらかを選ばなくてはならないことがあります。この選択を迫られる事態は案外日常的に登場してくるようです。

例えば職場の場合です。チームを作って大切な仕事をしている場合を想定してください。上司からすれば、ある部下の行動は真剣みが足りないと感じてしまうことがあると思います。同僚の間でも、自分が言われたとおりまじめにやろうとしているのに、別の同僚が全力を出そうとしないで、初めから手を抜こうとしているように見えることもあるでしょう。自分が損をしないだけならなんとなくモヤモヤするだけですむかもしれませんが、同僚や顧客に対しても迷惑をかけることになると思うと、怒りが生まれることを経験される方もいらっしゃるのではないでしょうか。

ただ、この場合の怒りをもっと分析してみると、怒りの発生経路は少し違うようです。つまり他人に迷惑をかけるから怒るのではなく、自分がまじめにやっているというそのまじめさと比べて、相手のまじめ度合いがずいぶん低いというところに怒りのポイントがあるということが実際ではないでしょうか。その怒りをぶつける言い訳として他人に迷惑をかけるということを後付けしているような気がします。

つまり自分のまじめさの水準に達しない者に怒りを感じるのです。その人間にも自分と同じ水準のまじめさを要求しているわけです。まじめに取り組むということは良いことなのですが、副作用として他人にもまじめさを要求してしまうということがありそうです。その要求の多くが、仕事の結果ではなくまじめさという方法論に対する要求のようです。本人が「まじめにやらなければ結果は出ない」という信念があるのは良いのですが、他者のやり方が必ずしも同じ方法論とは限りません。表現を変えればまじめさを発揮するポイントが違うということは大いにありうるのです。

自分のやり方で他者を拘束してしまうという傾向から、まじめな人は実は付き合いづらいと思われているかもしれません。結果を重視するのではなくまじめさという固定化された方法論を重視してしまうために、結果が出せないことも起こりうることを見過ごしてはなりません。

2 優しさの意味と弊害

 優しさとは何かということですが、親が赤ん坊に対して当たり前のように接することが優しさの基本ではないかと思います。赤ん坊は自分が生きるための必要な行動が自分では取れません。赤ん坊の不自由なところを親が見つけて、本人の代わりに行います。我が子に手をかけることがそれほど苦痛ではなく、それ自体が自己実現であるかのように喜びすら感じながらお世話をしています。多少排泄で失敗したとしても、怒る気にならずさっさと片付ける。常にそういう気持ちが持てるというわけではありませんが、こういうことが優しさであろうと思います。

もちろん、ただ相手に尽くすことが優しさではありません。ありがた迷惑なことはせずに、相手の気持ちに配慮して、相手の助けをするということだと思います。赤ん坊が泣くのはおなかがすいているだろうというように一般論で考えてしまい、本当はおむつが濡れて不快なのに、無理に授乳しようとするのは優しさとは言わないわけです。相手の具体的な気持ちを配慮しないで良かれと思って自分のやり方を押し付けるならば、それはまじめさということになります。

親と赤ん坊の関係を、大人同士の優しさまでスライドすることはなかなかイメージが付きにくいのですが、極端に言えば、相手の個別性を理解して、相手の失敗やミス、あるいは自分に対する八つ当たり等の攻撃に寛容になることが優しさなのだろうと思います。

しかし、ただ寛容さだけを示すと言っても、例えばプロジェクトチームの場合は、やる気のない人にも「よしよし」では、仕事になりません。会社の上層部は、他人にプロジェクトをゆだねるわけですから、寛容だけのチームリーダーは評価されません。それはそうだと思います。

3 「優しさ」による解決方法 会社の事例で

プロジェクトチームでまじめでないと感じる部下がいる場合はどのようにすることが正しい(効率的な)解決になるのでしょうか。

先ず、チーム全体の目標をきちんと立てて、計画を立案して、メンバーで共有します。その際に各メンバーの役割と行動計画を明確にする必要があります。その際に、役割を頭割りで機械的に割り振るのではなく、それぞれのメンバーの個性に応じた割り振りをすること①が理想です。そしてメンバー一人一人がチームの目標と自分の目標をそれぞれしっかり持つことが基本となります。

さらに理想を言えば、このように段取りを立てれば、後は上司は自分の仕事をするだけで勝手にチームが動いていくことになると思います。
それでも、計画通りに事が運ばないことがつきものです。計画通りに事が運べば機会がやっても良いですが、計画通りに事が運ばずに新たな対応が必要になるからこそ人間が仕事をするわけです。

仕事量が減ったメンバーが出てくることは当然です。ここでの上司の仕事は、どうしてだろうと考えることではないでしょうか②。ここを考えないで、「そいつは不まじめだから気合を入れる」ということをして解決しようとするならば、上司というポジションは不要です。

とある職場の実例で、どちらかというと上司の配置ミスのために部下が成果を上げられないということがあり、上司としてはその部下の能力(欠点)について知らなかったために、ただ気合を入れ続け、イライラをぶつけ続けた結果、部下はうつ病になってしまったということがありました。この手当てのためにいろいろな手続きが必要となり、会社は大損害を被りました。

経験豊富な上司であれば、部下のどこに問題があったか見抜くことを期待されています。その部下の個性、例えば能力の偏在によるものなのか、あるいは目標や計画が間違っていたのか、あるいは目標や計画段階では予測できない事態が現れたのか、それぞれの原因ごとに対策が違います。部下の個性によるものならば配置転換をすることが効率的な場合がありますし、事実関係の変化があれば計画を立て直すこと、あるいは別の能力のある人間の補強をするということを検討することが合理的です。

優しさは、物事をいい加減に終わらせるということではなくて、原因に対してその個別性をきちんと認識して、その事例に即応した手当てをするという合理的な対応なのです。こういわれれば当たり前のことなのですが、どうしてもまじめさが勝っている人は、まじめさですべてを解決しようとする傾向があることを頭に入れておくべきです。

4 事例解決 家族等の場合

会社の例えはわかりやすいので、おそらくそんなことは当たり前だと感じていらっしゃるのではないでしょうか。
案外難しいのは家族の場合です。

もちろん婚約中とか新婚の場合は自然と優しさが前面に出ますし、子どもが赤ん坊の時も先ほど述べたように優しさであふれています。問題は、夫婦で言えば繁殖期が過ぎてから、親子で言えば子どもの反抗期を迎えた後の話なのでしょう。そして、悪いことが重なるように、自分のまじめさが会社などで評価されなくなったときに悲劇は起こるわけです。

自分が会社でまじめにやっている、自分としては高評価されて当たり前だと思っている、しかし結果を出すのはずる賢い奴で、そいつはまじめさがないのに会社からは評価が高い、まじめにやっている自分ばかりが注意されている。あるいは、自分では理由がわからないのに、特定の人間から急に自分が否定評価されるようになった、周囲の人間も自分をかばってくれずに不合理な評価を放置しているなど不合理な出来事というものにぶち当たることがあると思います。

そういうあたりに苦労しているうえに、これ以上ひどい思いをしたくないので、細心の注意を払って仕事をしているわけです。ところが、家に帰ると家族が自分の神経を逆なでするような、無神経なふるまいをしている。ついつい八つ当たりをしたくなってしまうという場面も、程度の違いはあれ、実社会ではよくあることなのではないでしょうか。

怒りが生まれるわけです。

さらに、こんなにまじめにやっている自分さえも苦労しているのだから、不まじめな家族はやがてとてつもない苦労をする、今から直さなければならない。という後付けの言い訳をしながら怒りを解放してしまうということがありそうです。

いずれにしても、家族にまじめさを持つように要求してしまうわけです。

あなたが家族の中で孤立し始めるポイントです。

あなたが家族の中で孤立し始める理由は、おそらくあなたがいることが他の家族にとってストレスであり、あなたの行動、言葉、顔の表情、しぐさによって、自分の安心が奪われると感じていることかもしれません。

特に家族の中では、まじめさはプラスにならないでデメリットしかないかもしれないという考えに理解を示すということを提案します。

確かに、家族の夢の実現をバックアップするということは家族というチームの課題かもしれません。まじめな人の言い訳はここにありますし、一定の真理があると思います。

しかし、家族というチームの一番の目的は何なのでしょう。一言で言って、一緒にいて安心できるという考え方もあるわけです。一緒にいて安心するということはどういうことか。今日は結論だけを急ぎますが、「いつまでもここにいて良いのだ、いつまでも自分はこの人間関係に戻れば迎え入れられる。」という確信を持つことと仮説を立てます。逆に不安になるということは、家族という人間関係から追放されるのではないかということです。自分が失敗したり、欠点を克服できなかったり、不十分なことが多かったりすると、人間は仲間から見放されるのではないか、仲間として扱われないのではないかとい不安が生まれてくるようです。どんな失敗、欠点があっても「あなたは私のかけがえのない仲間だ」というメッセージを出し続けることが安心感につながるわけです。いろいろな個性があることを承認して、不足があれば補って、長所があれば頼りにして、個性丸ごと受け入れるということが安心感になるという仮説です。

これが家族が一緒にいる目的なのだという仮説を提案したいと思っています。

それでは、厳しい受験戦争等外の人間関係に対応できるのかという心配は当然あると思います。ただ、現在では、厳しい外の社会に対応するためには、家族の元に帰ってきたときだけは安心感に満たされることが必要だという考え方に、競争社会のコーチング技術は傾き始めているようです。家でも外の社会でも緊張の連続を強いてしまっては勝ち残れるような社会ではないということです。また、自分は変える場所があるという確信がある者こそ、思い切って外社会で戦うことができるという考え方が浸透し始めてきています。家族をモチベーションにするという考え方です。逆に常にストレスにさらされている者は、慎重になりすぎて委縮してしまうという弊害もあります。

さて、かなり偏った考え方を披露したかもしれません。人間関係においてはまじめさよりも優しさで対応した方が、メリットが多く、デメリットが小さいのではないかというお話でした。

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