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面会交流手続きにおける、連れ去り母の精神的不安定を理由に、申立を取り下げるべきかについての一考察 [家事]



面会交流調停というのは、親同士が離婚の前後に関わらず別居した場合、子と別居している親と子どもを面会させるための家庭裁判所の手続きです。多くは母親が子どもを連れて別居するので、父親が母親を相手に申し立てるという形を取ります。私が担当したのは父親の方が幾分多いですが、母親が別居親として面会交流調停を申し立てる際の代理人になることも少なくありません。

父親が申立の場合、特に母親による子どもを連れての逃亡のような形の別居の場合、母親が精神的不安定になっている場合が少なくありません。面会に対して激しい抵抗を示すというより、子どもが父親と面会をすることに病的な反応をするという感じです。実際に母親の方が自ら様々な診断書を裁判所に提出して、自分が精神的不安定であることを主張します。

調停は、申立人と相手方が同じ部屋で顔を会わせることはめったにありません。交代で調停委員と話をするわけです。だから申立人の代理人も、調停中の相手方の様子はわかりません。それでも、調停委員や裁判官を通じて、様々な情報が入ってくることがあります。取り付く島が無く一方的に話し続ける方、30分間泣きっぱなしでなだめるだけで期日が終わったとか、言っていることがおよそ成り立たない荒唐無稽な話を真顔で行うとか、メンタル面に問題があるのではないかという事情がうかがわれる場合が少なくありません。

調停で話し合いがつかない場合は、面会交流の場合も審判になります。審判になれば裁判所は、最終的には、面会交流阻害事由が無いと判断した場合は、面会実施の審判をすることになります。

ただ、審判の効果ですが、強制力はないため、審判で面会交流を命じても面会交流が実施される保証にはなりません。それにもかかわらず、相手方に対しての心理的影響が大きいため、このまま審判を出しても良いか関係者一同が躊躇することがあります。

子どもを連れ去った妻に対して、憎悪感情しかない場合は、妻のメンタルが悪化しようと「知ったこっちゃない」と割り切ることができます。

しかし、家族再生を求めている場合で、妻が面会交流さえ応じないために、裁判所の決定を得る場合、常に葛藤が生じてしまいます。妻のメンタルが悪化したため、今や密室となっている母子の家の中で、子どもに対して悪い影響が生まれることも考えなければなりません。

相手方の心情の考慮を最優先してしまうと、調停や審判を取り下げるという選択肢が出てきます。

ケースバイケースなので一般化することはできません。しかし例えば、変な応援団が妻側についている場合、医師だったり、教員だったり、行政だったりが、一方的な妻側の情報だけで、夫婦間の対立をとらえた上で夫を全面的な悪と決めつけて面会交流阻止を主張する場合もあります。こういう人たちは、十分な考察が無く正義感という感情によって、子どもの利益も考えずに、つまり無責任に面会交流阻止を叫んでいるわけです。こういう場合、調停や審判申し立てを取り下げてしまうと、「やはり夫は極悪人であり、妻の保護のために、面会交流を阻止できた。」となり、子どもは現状からさらに父親から物理的にも心理的にも遠ざかってしまいます。「極悪人を親に持つ自分」という観念を植え付けられてしまうわけです。

そうして、後で、本来ならば父子のきずなが復活しても良い時期になっても、「自分は父親から取り下げという形で見捨てられた。」という気持ちを抱いたまま、父親との交流の機会が未来永劫失われ、わだかまりを抱えたまま一生を送ることも考えすぎかもしれませんが、考えるべきだと思うのです。

子どもは母親(同居親)の所有物ではありません。母親を通しての評価で父親を考えなくても良いはずです。自分が同居中に直接体験した人間として、母親とは別に関係を構築することはむしろ自然なのではないでしょうか。このように、子どもを一人の人間として見た場合は、夫婦間で葛藤があったとしても子どもが別居親から愛される権利を誰も奪うことはできないと思うのです。

面会交流審判が、実際の面会交流につながらないことも良くあります。第三者である裁判所から見れば、「出しても実現しないなら出さなくても良いのではないか」と思われるかもしれません。しかし、別居親の気持ちの問題だけでなく、面会交流を実施せよという裁判所の判断が下りた事実は、妻の一方的な言い分を信じている子どもにつながる人たちに考えるきっかけを与えるのではないでしょうか。中には、子どもの世話をしている機関であるにもかかわらず、妻の一方的な話をうのみにして、夫を子どもから遠ざけようとする人たちもいます。子どもがいざというときに、父親は救いの手を差し伸べることすらできない状態になっていることもあります。こういう人たちに、面会交流審判が出ていることはとても威力を持つことになると思うのです。もっとも使い方にもよるでしょう。

考えてみれば、面会交流の調停や審判は、子どもの監護の方法についてどうあるべきかということを定める手続きです。子どもの利益をやはり最優先するべき手続きであるという大前提は崩すべきではないと思うのです。

確かに母親は精神的不安定である。しかし、審判によってどの程度悪い影響が生じるかは、実際は予測することができないと思うのです。悪化するかもしれませんがしないかもしれません。悪化したとしても、それほど重大な結果となるのか、つまり程度の問題もわからないとしか言いようがありません。

もちろん、父親と会えないことで子どもの将来が暗いものになると決まったわけでもありません。しかし、実際に父親と会えず、一方的に母親の評価を通した父親像しか持てない場合、子どもに父親を拒否する行動傾向がみられることが多いことは確かです。母親の話を真に受けなくても、母親の意をくんだ行動をしようとすることはとても多いです。

実際に父親(別居親)と交流できないことによって、程度の差はあれ、子どもに対してマイナスの影響が生まれることも確かだと思われます。

親としては、例えば発がん性の疑いのある物質だとわかれば子どもに食べさせないようにしようと思うのではないでしょうか。こちらのパズルをすれば、成績が上がるというならば、やらせてみようと思うわけじゃないですか。少しでも良い方向に、お金がかかったとしても子どものためにしようと思うのではないでしょうか。

裁判所の審判を求める場合は、子どもの育て方に対して、両親が意見を別にする場合であり、裁判所が両親に変わって結論出すということになるはずです。そうだとしたら、子どもの利益を最優先して、子どもが健全な成長を遂げられない可能性を少しでも排除する方向で明確な結論を出すべきではないか。多少それで同居親の精神的問題が生じたとしても、そのことを子どもの健全な成長に優先させるべきではないと今のところ考えております。

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