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曖昧な離婚理由から見えてくる切実な妻の苦しさ 家族再生を目指す場合に行うべき「考え」の準備 [家事]



離婚原因で一番多い理由が「性格の不一致」だとされています。これは、裁判所が用意した離婚調停申立書の書式には、いくつか離婚理由が掲げられ、自分の場合に該当する理由の番号を丸で囲んで答えるようになっているのですが、その一番多かった丸がこの性格の不一致ということなのだと思います。

以前にもお話ししましたが、元々他人同士ですから客観的に性格が一致しているという夫婦はまずありません。繁殖期特有の「相手に合わせることが楽しい」時期の勘違いか、どちらか一方が努力して合わせているということが「性格が一致」することの実態だと思います。夫婦なんてそういうもの、それで良いのだと思うのですが、裁判所は、性格の不一致は離婚理由と認める可能性があると考えて、用意した書式の中に理由の一つとして掲げているのでしょう。

その夫婦の性格の不一致が(裁判では離婚理由として認められない程度だとしても)、調停申し立て上は離婚理由として挙げることができるものですから、いわば離婚申立人の申し立てにおける「救済事項」として機能しているように感じます。つまり、はっきりした離婚理由を、調停申し立ての段階にあっても言葉にすることができない人が多いこと、それでも離婚したいと思うという人が多い、そういう人は離婚理由を性格の不一致にするということが離婚調停申し立ての実態ではないでしょうか。

だったら「離婚したい」という気持ちもあやふやなのかというと、そうではなく、離婚の意思は固いという方がほとんどです。離婚調停を申し立てるくらいですからね。

このように、他人から見れば離婚理由はあやふやなことが多いのですが、それでも調停手通期の中で何とか努力をしてもう少し具体的な理由を聞き出すことに成功することもあるのですが、せいぜい以下に紹介する程度です。これらより具体的な話が出ることはめったにありません。

・ これまでの同居期間中のいろいろなことの積み重ねが理由である。
・ 私の提案に対して夫はいつも同意しない、共感しない。不快な表情をする
・ 私のすることに夫は感謝しない。些細なミスの文句を言う。ダメ出しだけされる。
・ 物を投げられる。子に当たる。子どもに厳しすぎる。
・ 私の役割(家事や年収)について評価しない。
・ 夫の判断で行動しなければならず、自分で自分のことを決めることができない。
そして
・ 自分の不満を察してくれなかった。改善してくれなかった。(自分からは不満を述べたこともなければ改善を提案したこともないことが多い)
・ 我慢を続けてきたけれど、もう限界である。

こんな感じが典型的なのです。
夫のある女性の方々、あるいは前に夫がいた女性の方々からは、もしかしたらよく共感できる話なのかもしれません。しかし、世の夫たちからすれば、「これがどうして離婚理由になるの?」という感想が多いのではないでしょうか。

統計的にあいまいな離婚理由が増えているかどうかはわかりませんが、私の担当する離婚事件には、相変わらずといった感じでこんな申立てが多いという実感があります。

肝心なことは、
離婚理由はあいまいだけれども離婚意思は強い
ということなのです。

なぜ離婚意思が強いのかという最大の理由が不明のままで離婚手続きは進行します。ここが離婚手続きがこじれる最大の原因にもなっていると思います。

そして、夫側からすれば、理由がない、理由が曖昧であるということから理屈、論理、道徳、常識、子どもの健全な成長の観点からの離婚を思いとどまるように説得するのですが、あまり意味がないということが結論というか傾向というかという状態です。それほど離婚したいという気持ちは強固です。

おそらく、離婚したいということは、理屈の問題ではなく「感情の問題」だと言ってよいのでしょう。男性は、感情の問題というならば理由としては一段弱いように扱うと思います。自分が普段行っている仕事では、感情的に嫌だからといって仕事をしないわけにはいかないし、取引をしないわけにはいきません。そんなことができるのは、とても立場が強い相手だけです。夫婦という対等の立場で、嫌だから離婚するという話はないだろうと、男性的発想ではそうなると思います(私が妻の代理人の場合、夫の代理人(男性)からは離婚したいというのは妻の「わがまま」だと指摘されたことがあります。)。

ややこしいことに、弁護士は男性女性変わりなく、先ほどの例えで言えば「取引の習慣」で裁判手続きを行いますから、妻側の弁護士は、離婚理由として裁判所が判決で認める可能性が高いと想定できる「具体的な事実」を主張してくるのです。理由が曖昧なのに言葉で説明してしまう、つまり無理をして言葉にしてしまうのです。この時、妻が「離婚したい」という心理過程をよく聞きだせていれば、離婚調停は迅速に無駄なく進んでゆき、離婚後も「しこり」が残りにくい離婚ができます。しかし、先入観とマニュアルで主張を組み立ててしまい、突っ込んで話を聞いていないし、その結果どうして離婚をしたいのかの理由を漠然とでも理解していないしとなると、事実関係が針小棒大なものとなったり、ありもしない事実まで付け加えられたりしていると夫側が感じてしまうような主張になってしまいます。だまし討ちをされている感覚ですから、言われた方は頭にきて、妻の言っている事実は全く違うということを大声で(比喩ですが)主張していきます。それに妻側も自分の主張を守るために必死に応じますから、離婚手続きは泥沼に入っていくわけです。これではせっかく離婚をしても「しこり」が双方に残ってしまいます。葛藤が鎮まらない傾向がいつまでも続いてしまいます。

夫婦を再生させたいというご希望を持つ人が、増えてきたような気がします。なかなかうまくゆきませんけれど、いくつかの成果も上がっています。親同士が同居を再開するということは夫婦の年齢が若い場合以外は実例が乏しいのですが、子どもをめぐって、子どもの成長に多く関与できるようになったという実例も増えています。夫婦としてはやり直すことはできないけれど、近くに住んで、子どものことを中心に協力し合いながら生活している元夫婦もいます。

夫側として、曖昧な離婚理由に対する対処の方法をお話しします。つまり、子どもの成長に一緒に住んでいない親がかかわるときはどうしても一緒に住んでいる親の同意が事実上必要になります。同意を勝ち取るためには、感情的に、同居親の子どもへのかかわりを承諾するに必要な、最低限度の信頼関係が必要になります。この最低限度の信頼関係、あるいはそれ以上の信頼関係を構築する方法のお話です。

妻の夫に対する不合理な感情を理解することが第一です。なかなか自分が嫌われているということを認めることは発想として難しいです。「もし、本当に自分が嫌われているとすれば」という仮説にから始めることも手段としては有効かもしれません。

口で言うのは簡単ですが、なかなか難しいことです。
なによりも、夫としては、自分では思い当たらないことを理由として攻撃を受けていますから、どうしても自分を守ろうとするのです。これは生き物である以上当然のことで、理解ができることです。また、それだけでなく、子どもを連れ去られて別居されていればなおさらのことです。そうすると、妻が言っている離婚したいという理由も嘘ではないのだろうか、あるいは離婚したいということ自体も何か別の理由があって離婚をしたいのではないか。そういう風に思ってしまうことから自由になれる人間はなかなかいません。疑心暗鬼になってしまうことはむしろ当然のことだと思われます。

しかし、離婚を申し立てる妻の多くは、感情的には切実に離婚をしたいと思っています。ここを認めないと、打開策は生まれないように感じています。妻の心情を頭の中で理解することは必要だと思います。妻は、夫が考えている以上に夫に対する嫌悪感と恐怖感を持っているようです。

夫は、妻の心がそんなことになっている事情に心当たりがありません。こういうケースであっても、たいていはDVがあったわけではない。特に暴力をふるう夫というのは令和の時代ではあまり見聞きしたことはありません。昭和の時代とは社会認識が随分変わっています。どうして妻は夫に嫌悪感だけでなく恐怖感も感じるのでしょう。それはどのくらい強いことなのでしょうか。強さだけを言いますと、裁判所を通じてでも離婚をしたいくらい強いということが残念ながら結論です。

通常は、夫の由来ではなく不安を感じやすい状態になっているように思われます。産後うつなどの体調の変化が妻に起きているようです。特に理由がなくても、漠然とした不安を感じやすくなっています。どうしても毎日安心できないという感情で落ち着かない状態になっています。そういう状態の上に様々な人間関係上のストレスにも過敏になっています。「せめて家にいるときだけでも、安心したい」ということが、どうやらこういうケースでは先行した妻の心持のようです。

しかしながら、夫は、妻の体調に問題のないとき(例えば妊娠前、例えば病気の発症前)と同じようにしか妻に接することができません。多くの夫は妻に対して対等のパートナーとしてため口をきき、妻が何か失敗したら反射的に妻を注意してしまう。あるいはからかってしまう。夫の妻に対する要求度はいつしか高くなっており、昔なら「いいよ。いいよ。俺がやるからいいよ。」といっていたことが知らないうちに少なくなっている。信頼度が高くなることで要求度や期待が高まってしまい、肯定的評価を形にするハードルが高くなっています。やって当たり前という気持ちになっていますから、感謝や慰労の言葉がなかなか出てきません。なかなか妻の提案に同意するという機会も少なくなっています。またこれも多くの事例で関係があるのではないかと感じているのは、年齢が高くなり耳が聞こえにくくなると声が大きくなります。どうやら40代くらいで夫の声は大きくなります。明らかに妻がやらかしてしまうと、夫は遠慮がなく、自信が過剰となっていますので、大きな声で叱責したと妻かららするとそう受け止められるような声で発言をしてしまうわけです。

夫が妻に対して要求度や期待値が高くなっていると同じように、妻も夫に対して自分の不安を解消して安心させてもらいたいという要求度や期待値が高くなっているわけです。現代日本の孤立した家族は、家族同士に対してしか不安の解消を求めることができないという事情もあります。家族が自分の不安を鎮めてくれる最後の砦と考えるとわかりやすいかもしれません。子どもに自分の不安を鎮めることを期待するというのも少しおかしいので、勢い不安を鎮めてもらう相手は夫しかいないということが多くの日本の夫婦関係なのです。

それにもかかわらず、家族のための妻の行動をねぎらうことも感謝することもなく、失敗については几帳面にダメ出しをするということになると、夫の発言は「常に自分に対する批判,否定の発言だ」という印象を持ってしまいます。「夫は安心できない存在」ということになります。また、なんらかの妻の失敗で夫が迷惑するとか、妻がつい攻撃的な行動と疑われる行動をすると、夫は自分が攻撃されていると真に受けてしまい、怒りが沸き上がってしまいます。それでも暴力をふるう夫は本当にほとんどいません。しかし、腹の虫がおさまらないため、家の壁やドア、ゴミ箱を蹴って八つ当たりをするという事例をよく耳にします。夫からすれば、妻に対して暴力を振るわないという意思表示なのです。妻からすれば、暴力の予告でしかありません。

こうして、妻からすれば、夫はダメ出し等による自分という存在に対して否定の言葉ばかり出す存在であり、かつ、これから暴力を行うことを予告する恐怖の存在だということになってしまうわけです。自分のすべての不安の根源が夫だという悪魔のささやきに抵抗することができなくなってしまうわけです。

そして、以上のような流れの中で、夫は自分が妻を否定する言葉を言っていることや物に八つ当たりして妻を恐怖に陥れていることに気が付かないわけです。自分にそんな攻撃的な気持ちがないため、相手がそう思っていることに気が付きにくいようです。

これが離婚調停の始まりのようです。

この流れを理解したうえで、対処方法を考えていきましょう。

離婚調停などでの相手方の主張が針小棒大であれば、あるいは虚偽であれば、正しい事実関係はこれだとしてきちんと示さなければなりません。これはできる限り事務的に行うことがコツです。そして、妻側が「虚偽の事実をでっちあげてもこちらを攻撃している」という風には受け止めないで、あくまでも「曖昧な理由で離婚の意思を強めているのだ」という現実を受け止めて、そこに対処しようとすること、これが大切です。ヒントを言えば、「事実」については正確に主張するけれども、その時の妻の「感情」については推し量ってその存在を認めるということが基本型です。「そういうことはなかったけれど、そういうことがあったような感覚、感情を持ったことは事実かもしれない。」という感じです。

(事実に反することを認めてしまうと、後々大きな問題が起きてしまいます。子どもへの関与が決定的に不利になった事案もあります。後から面会交流調停を依頼されたのですが、判決という永久に残る公文書に書かれたことはいつまでも影響を持つわけで、現在の調停と過去の判決に対する反論と二回分の手続きをしなければならないという決定的な不利な状況になってしまいます。離婚裁判と保護命令手続きでは真実が何かについては徹底して主張、立証をする必要があります。)

実際の事例でも夫も、「妻の心情」についてはどうやら認めやすいようです。そのような表現をすることに概ね賛成してもらっています。これがうまくいくと、裁判手続きは劇的にうまくいくことが多いです。

むしろ夫側代理人が、妻の代理人が気付いていない夫婦の全体像を把握して、妻の代理人よりも妻の心情に対して理解し、さらに共感を示すことはとても有効です。これはそれほど難しいことではありません。これをやりましょう。

つまり、
・ 理由が曖昧だ、だから理由がない、離婚意思も強くないと考えることは誤りです。
・ 理由が曖昧だ、離婚意思も強い、だから理由が別にあるはずだというのも誤りです。下手な妻側の代理人の発想です。これが、針小棒大やでっち上げの理由を主張せざるを得なくなる構造で、他人を、特に子どもを不幸にする訴訟活動につながるわけです。
家族再生派は、
理由が曖昧だ、しかし、離婚意思は固い。それでは、その心情を言い当てて、妻を安心させようということになります。

では、どう対処するべきなのか。
妻が漠然とした不安を抱くようになる理由としては以下の者が代表例です。
・ 体調の変化(産後うつ、内分泌系障害、精神疾患、婦人科疾患、薬の副作用等)
・ 夫の行動(始終ダメ出し。感謝、慰労の言葉が少ない。論理的な説得や合理的なしきりに反論できないことから自分で自分のことを決められない等)
・ 家族以外の人間関係(職場、実家、友人関係など)の行き詰まりによる持続的なストレスによる精神疲労
これらの理由で、結論として「夫との夫婦の関係に安心ができない」というベースになってしまうと、
それ以前の愉しい出来事の記憶が失われたり、記憶が悪く改変されたりしている
ということが多くみられるようになります。

不思議だと気が付くべきです。

何にって、どんなに警察や男女参画の相談員が、ありもしない夫のDVと殺人の危険を吹き込んでも、あるいは離婚をビジネスにする弁護士が離婚に誘導しようとしても、
あんなに仲の良かった妻が夫から遠ざかる、離婚を強く求めるということにはならないはずだということをです。

そうであれば、どうするか。つまり記憶の喪失、改変とどう戦うかです。
先ほど述べたように事実と反することは事実と違うということを継続的かつ穏当な表現で主張し続けるということも大切です。ここは「妻が言っていることは違う。でっち上げ、虚偽だ。捏造だ。」という言い方ではなく、「ほらこうだったじゃないか。こうだったよね。」ということを、視覚的、聴覚的、味覚的、そういう具体的な事実を上げていくことが大切なのです。「楽しかったじゃないか」という抽象的なこと、心情的なこと、あるいは結論的なことを言ってもあまり効果は無いようです。

もう一つの方向として、過去について忘れているならば、これからのこちら側のかかわりで、
安心できるという記憶を新たに積み重ねていく
という地道な作業を行っていくという方針を立てることがよほど建設的だと思うのです。

残されたかかわり(面会交流だったり、ラインがつながっていたりだったり、最終的には調停の場を利用して)を大いに活用して、夫側の相手を否定しない、感謝を示す、慰労を示すということをこまめに行っていくわけです。夫から発せられた言葉を聞いてもなんら傷つくことはなく、癒されていくだけだという記憶を積み重ねていくということです。

この時も、夫の方が、うつ的傾向、悲観的傾向、無力感、あるいは妻に対する怒りを抱いていると、こんなことをやっても、相手は心を動かさないだろうと思いがちです。
しかし、だからと言って、相手の言葉を何でもかんでも全面的に否定して、怒りをあらわにして、ますます嫌悪と恐怖を高めることは、どう考えてもメリットがありません。逆方向にまっしぐらです。プラスの方向に行くことで、はっきりした結果は出ないとしても、ボディーブローのように潜在的効果が蓄積されていくことは間違いありません。

離婚は避けられなかったけれど、面会交流は拡大していくという事案は、この作戦が功を奏しているケースばかりです。相手を安心させる作戦を実行する人たちです。

ぶっちゃけた話、ここだけの話をすると、離婚意思の堅い妻たちも、夫に対してやり直しの幻想を抱いていることを、一瞬だけですがはっきり見せていることをよく見かけます。第三者からすると「おや、おや、おや。」と驚く出来事が離婚調停のさなかでも見られることがあるのです。ところが、夫の方が妻に対して、わけのわからない攻撃しかしてこないという混乱をしてくるからでしょうか、妻のサインをあっさりと見逃してしまい、相変わらず感謝なし、ねぎらいなし、謝罪なしの三拍子そろった対応をしてしまうのです。善意を善意のまま受け止められなくなっているようです。ここで、妻のいじらしさ、かわいらしさに気が付けばみんなハッピーになるのにと一人で悔しがっていることが結構あるのです。

無駄でもやって損のあることではないのですが、なかなか理屈通り男も行動できないようです。

離婚の意思は固いけれど、連れ去り別居をした妻も本当は仲良くやりたいという第一希望があるようですし、離婚しても嫌われたくないという気持ちがある場合もすくなくありません。論理的ではないのです。そのサインを見逃さずに、安心させる対応をすることによって子どもへの関与の方法が拡大していくようです。

だから、成功した人たちを思い起こすと、当事者と私で調停期日の後と言わず、待ち時間と言わず、大激論をしていました。私の方で口が酸っぱくなるくらい、「妻の行動はこういう意味だ。」、「こういうことをするべきだったのに、しなかった。」、「それをやりたいのはわかるが、今はその時期ではない。かえってぶち壊してしまったらかわいそうなのは子どもだ。」と言い、それに抵抗を示されてという感じですが、自由に言い合ったことが成功につながったと思います。そういう方々は何年たってもお子さんの近況を教えてくれたりします。こういうこともできるようになったという報告も来ることがあります。仕事やっていてよかったなあと涙ぐむ瞬間です。

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子どもが安心できる居場所としての「親」とは何か。子どもが両親に安心できない事情。子を連れての別居事例から学んだこと。 [家事]



1 子どもの親の悪口を言うこと

離婚事件を多く担当するようになってつくづく思うのが、子どもがなおざりになっているということです。

昨今言われていることは、離婚が子どもに与える影響よりも、夫婦が争っている状態が子どもに悪い影響を及ぼすということです。二つにはとても大切な違いがあります。離婚をしなくても、深刻な争いがあれば子どもが不安定になりますし、離婚をした後でも、親同士が憎しみ続ければやはり子どもが不安定になるということなのです。

母親が子どもを連れて別居したけれど、子どもが独力で父親の家に帰ってきたという事例を何件か見ています。特徴的なことは、
・ 母親のもとにいるときに、母親や母親の両親や兄弟が子どもの父親に対して憎しみの感情をその子どもの前であらわにしている場合、
・ そして連れられて行った兄弟間で差別される場合
の二つの事情が、子どもが独力で父親の元に戻る多くの場合の、原因、きっかけになっています。

子どもからすれば、父親も母親も区別がつかないくらい好きですから、自分の親の悪口を言われることはとても嫌なことだとわかります。悪口を言うのが実の親だとしても、自分の親の悪口を言われることはその場にいることが耐えられないくらい嫌なことなのです。

子どもは、今は別れて暮らしているけれど、「また親子みんなで生活したい」とどうしても思ってしまうようです。それもあって、相手の悪口を言う親を見ると、その望みがかなわないことだという現実を見せられることに苦痛で仕方がないためその場所から出ていくのでしょう。悪口を言わない方の親といることが安心できるということなのでしょう。悪口を言う親は子どもの居場所になりにくく、悪くいを言わない親は子どもの居場所になりやすいということを表していると思います。

子どもが戻ってきてもしばらくは、父親は、子どもが自分に味方をして、つまり子どもが父親と母親を比較して父親を選択したから戻ってきたわけではないということをわきまえています。子どもを迎え入れた父親は母親の悪口を言いません。酸いも甘いもかみしめている父親の周囲の大人たちも気が付いており、子どもが母親のことを低評価しようとするときには、「そんなことを言わなくてよいんだよ。お母さんのことを好きで当たり前だよ。」とたしなめています。

しかし、裁判所が不可解な調査のもとで子どもを母親に引き渡すように命じるころになると、話がおかしくなってくることがあります。理由はともかく子どもが父親と生活がしたくて生活をしていたのに、裁判所が勝手にさしたる理由もなく母親に子どもを引き渡せと命じた理不尽に憤るようになっていきます。この怒りにはさすがに周囲も同調してしまいます。子どももどうして他人である裁判所がまた家族全員で暮らすという自分の切実な願いを踏みにじるのかという思いがありますから、裁判所の命令が出ても守ろうという気持ちは弱く、母親のもとに引き渡されたのちも、子どもは頻繁に父親のもとに来るようになってしまいます。

裁判所の理不尽な決定に対する怒りは、その後の離婚や財産分与にも悪い影響を与えてしまい収拾がつかなくしてしまいます。双方の感情的対立は相乗効果で激しくなっていきます。負のスパイラルは続き、当事者の親兄弟まで参加して、裁判外でも紛争がエスカレートし、警察官の出動要請という事態にも発展する場合もたびたびあります。こうなってしまうと、当事者も精神的に不安定になってしまい、結果的に、父親も母親に対しての負の感情が激しくなっていきます。そんな中、ある事例では父親も無自覚に子どもの前で、母親に対するいら立ちの感情を口に出してしまっていたようです。

どうしてそんなことを言ったかはわかりません。父親が自発的に言ったのか、母親が子どもに言い聞かせたことを子どもの口から聞いて思わず反論したのかそこまではわかりません。結果として、子どもは、信頼をしていたもう一人の親が他方の親を悪く言う声を聴いてしまいました。子どもはその後問題行動を起こしてしまいました。子どもが精神的に不安定になり、投げやりになり、人間に対してぞんざいな対応をしてしまったという流れなのでしょう。精神的に不安定になったのは、母親のもとでいたたまれなくなったときに逃げてきた父親という安心できる居場所がなくなったからかもしれません。子どもには安心できる自分の居場所がどこにもなくなってしまったと感じたのでしょうか。その後子どもは、父親の元に戻らなくなってしまいました。

元々は子どもが住んでいる場所から、親の都合で転居させられてしまうことに子どもが居場所を求めたくなる気持ちになる一つの原因があるということは言えるでしょう。
連れ去られていった子どもが自分の居場所として元の家に戻りたいというサインを出すことは本当に多いです。理由は様々です。
元居た地域に友達が大勢いるということも人間にとっては重要な理由です。連れ去りは、そのような子どもの大切な関係も一切奪ってしまいます。
お父さんと離れて暮らしたくないということもそれは多いです。母親が嫌いなわけでもないけれど、父親との別離がたまらなく寂しいということは当たり前でしょう。子どもは父親と母親とどちらを選ぶかという選択を迫られるべきではありません。
多くの子どもの願いである、また家族で暮らしたいという理由ももちろんあると思います。
今いる場所がいろいろな意味でなじめないということもよくある理由のようです。

子どもが誰よりも親を慕う感情、親に居場所を求める感情は、未熟な形で生まれてくる人間が生き延びるために不可欠な本能です。これを否定することがいかに恐ろしいことかを考えるべきです。子どもをかわいがるのであれば、子どもの前で子どもの親を否定してはなりません。昭和の時代の教養のある人たちは誰に教わることもなくみな実践してきたことです。

しかし、親の片方を支援する人たちは、事情も知らないくせに、子どもの前であることを一切気にせずに、もう一人の親の悪口を言います。教養のない人だというだけでなく、物を言わない子どもの利益をこれっぽっちも考えない人なのです。そういう人間に自分や子どもの未来を託してはなりません。やがて子どもはあなたから離れていくことになるからです。

だからと言って私は父親を責めたいわけではありません。もともと子供の居場所になっていなかった母親が悪いというつもりもありません。子どもを第一に自分の感情を制御するということはそれほど簡単ではないということだけは間違いのないことだということは理解できます。そして、タイミングとして理性的な行動ができなくなる事情が必ずあり、それはその人だけの責任ではないと感じているのです。

対立はどんな人も変えてしまうようです。初めは理性的な対応をしていた人も、争いの中にいることで、自分を守ろうとしてしまうのは無理のないことです。自分で自覚していないうちに、立ち居振る舞いや言動、考え方が荒っぽくなっていくようです。自分を守ることに精一杯になると他人に対する配慮ができなくなっていくようです。その負の結果は、常に子どもに向かいます。子どもに深刻な影響を与えてしまいます。

2 憎しみの感情を見せること

自分でも思い当たることなのですが、夫婦のもう一人に対する攻撃ではなくても、子どもにとって何か自分に関連していると感じてしまうようなことで、親の一人が他の誰かに対して憎しみの感情を高ぶらせて自分を制御できない様子を見るということが、子どもにとってその親のところは、自分の居場所として安心できる場所だとは思えなくなるのかもしれません。ネガティブな感情があらわにされていれば、もう一人の親に対する憎しみが表出していない場合でも子どもは安心できなくなるということです。

それでも感情を高ぶらせざるをえない事情はあります。会社のこと、社会のこと、地域のこと、現代社会は怒りの感情の種が、あちらこちらであるようです。連れ去り別居に伴う相手方以外に対する怒り、憎しみの感情はその最たるもののようです。
子どもを連れ去られた親は、孤立していきます。裁判所からも警察署からも、相手方の代理人弁護士からも、場合によっては職場からもDVをふるう人間だとして、みんなが自分に敵対しているように思える扱いを受けます。社会の中で自分だけが孤立しているように感じやすくなっています。そういう状況では、鬱になるか、負けないで戦うかということしか選択肢としては無いようです。

多くの子どもと別離を強いられている人たちが、裁判所や相手方の弁護士や行政などに対して怒りを持っています。その気持ちは無理がないと思います。そういう風に気持ちを張り詰めていかないと、くじけてしまうだろうことも理解できます。実際連れ去られて残された父親の自死の連絡は毎年のように届きます。別居された夫が自死することは暴力サイクルという理論を作ったレノア・ベーカーも「バタードウーマン」という著書の中で述べています。

しかし、子どもの前で「正当な」怒りを表すことで、子どもが不安になり、落ち着かない状態になるということもまたどうしようもない真実です。特にSNSでの発信は、要注意です。最近の気の利いた子どもは年齢によっては父親のSNSを探し出して閲覧していることが多いです。そこで、だれかれ構わず喧嘩を売っているような親の記事を子どもが見たら、子どもは父親が自分の安心できる居場所だとは思わなくなるでしょう。父親のもとに近寄ろうとはしなくなると思います。

純粋に怒っている親が怖いということもありますが、自分が親と同居していないことに自責の念を持っている子どもは驚くほど多いようです。怒っている親を見ていると、自分が責められているような気になるようです。とても安心できる存在ではなくなってしまうのです。

3 家族分離を避けるために

以上から家族分離の予防のためには、あるいは子どもの健全な成長のためには、
・決して家族の悪口を言わないこと、
・家族に怒りを見せないこと
ということになることは疑いようがありません。家庭が、家族にとって安心できる居場所にならなくてはなりません。それを作るのは大人である親の責任です。一方の親に精神的な不調があるためにそれができない場合は、もう一方の親が一人ででも家族一人一人が安心できる場所にするように努力をするべきです。子どもはそれを見ています。

一番陥りやすい状況は、自分が配偶者から理不尽な扱いを受けたときです。これはもう、自分を守ろうとするのは当たり前ですから、相手に対して怒りたくなるでしょうし、評価を覆そうとムキになることも当然です。しかし、子どものことを思えば、自分の感情を優先しようとせずに、子どものために、感情を制御することこそが必要なのだと思います。子どもの利益を考えずに連れ去りをすることは悪いことでしょうけれど、もしかしたら連れ去られた方も自分を守るために子どもの心に対して同じようなことをしているのかもしれないのです。それによって生じる子どもの不利益は不相応に過大なものになる危険性もあります。どうやら、「子どものために自分の感情を制御する」ということが、現代では力こぶを入れるべきポイントのようです。

連れ去られた後でこんなことを言われてもどうしようもないと感じる方も多いと思います。もっと早く発信できるように気が付けばよかったと申し訳なく思います。

しかし、第三者から見ると、「そうでもないのではないか。遅いということはないのではないか。」というケースが実は多くあります。大変無責任な話で申し訳ないのですが、これから行う努力の結果、別離をした家族を安心させる工夫、努力をするということはできるのではないか、何らかの結果が生まれることがあるのではないかと本当にそう思っています。ご本人にとって形としてうまくいかなくても、子どもにとっては何らかの良い事情が生まれることは大いにありうると思うのです。少なくとも、家族をさらに分解する方向の行為をやめることは、今の状態以上の悪化、特に子どもとの関係を悪化させることを防ぐだけではなく、ご本人にとっても大変有意義なことではないかと思っています。


多くの方に対しては、ここでとどめておいても、私の良心は痛まないです。多くの人に有効な警鐘を鳴らせたと思っています。しかし、現実として、あまりにもひどい仕打ちを受けている人はいます。その人の話を信じる限り、裁判手続きが犯罪的に見えてくるような体験をされ続けているとしか言いようのない被害者がいます。この人に対して、子どものために感情表現を抑えろということは言えるのか、かなり悩ましく答えが出ません。「親は子どものために生きるべきだ」ということが仮に言えたとしても、その人に感情的な言動をするなということは果たして言うことができるのか、答えが出ないケースもあるということはお断りしなくてはならないと思います。

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父母と子の三角関係 思い込みDV連れ去り離婚の原因の一つ? 付録:エディプスコンプレックスに日本人がピンとこない理由 [家事]


思い込みDVからの子連れ別居離婚において、面会交流調停の中で試行面会が行われると(この意味については後述*1 )、これまでの私の経験では例外なく、子どもの父親との再会を喜ぶ姿が確認できます。それまでの調停期日において調停委員会は、父親はDVの暴君ではないかという疑いを持って父親に当たっているのですが、この試行面会の様子を見て見方が逆転します。調停委員のこちら側に見せる表情が格段に柔らかくなるのです。

すべてがすべてではありませんが(例外としては父親が子、特に第1子に厳格すぎる場合)、妻が子を連れて別居を行う事例では、同居中の父子関係は良好であることが多いです。もっと突っ込んで言えば。
むしろ、父と子はとても仲が良い
ということが多いです。子が男の子でも、女の子でもあまり変わりません。

調停や裁判に出てきた妻の主張を読み込むと
妻は、同居中、夫と子が仲の良いことに複雑な感情を抱いていた。
ということになるようです。

嫉妬という言葉とは少し違うようです。妻は、複雑な感情を持っていながら、この時点では子どもに対してはもちろん、夫に対しても愛情を持っているからです。どちらかに負の感情が生まれているのではなく、どうやら妻は、夫と子が仲よくしているのを見て、
自分だけが仲間外れになっている
というような危機感(疎外感や孤立感の予感)を抱いていたと考えるとわかりやすいような気がします。

これまでこのブログでくどいくらいお話ししていますが、妻が子の連れ去りをする前段階として、妻は夫とは関係がなく、不安を感じやすい状態になっています。産後うつ、精神症状を伴う内科疾患、婦人科疾患、不安障害やパニック障害、うつ病などの精神障害、職場のトラブル、薬の副作用などがその原因です。

だから、「子どもが父親になついて、自分が解放されて楽でよい。」と感じてもよさそうな場合でも、自分が孤立してしまうのではないかという不安を感じてしまいやすくなっているようです。これはかなり切実な不安になってしまいます。

加えて、日本人の場合、伝統的に父親も子煩悩だという民族的特殊性があります。大伴家持までさかのぼらなくても、江戸幕府末期から明治維新初期に来日した外国人がこのことを指摘しています。大森貝塚を発見したウイリアム・S・モースの「日本その日その日」(講談社学術文庫)では、日本は子どもの天国だと表現していて、父親が子どもをかわいがる様子、子どもが喜ぶ様子が生き生きと描かれています。また、親子が川の字で寝るのも、アジアだけの風習のようで、例えば西洋では、子どもが幼児の段階でも子ども部屋で一人で寝かせられていることが当たり前のようです。日本の父親は子煩悩であるということが一つのポイントになると思われます。

明治初期のように、庶民の暮らしが大家族で営まれており、兄弟もたくさんいるようであれば、妻からしても夫が誰とどのように仲良くしようとあまり気にしなかったことと思います。あまりに一人の子どもをひいきしてしまうと、妻が言うまでもなく、いろいろな人間が批判したのだと思います。
ところが、現代では、住宅事情もあり、夫婦と子どもだけでの生活が営まれており、子どもの人数も多くないようです。わかりやすく、親子3人の生活の場合を念頭に置くことにします。
3人の家族という人間の群れがあると考えてみて下さい。自分以外の2人が仲良くしているというだけで、残された一人は孤立感や疎外感を抱きやすくなるのが人間の性質なのかもしれません。自分だけが楽しそうな空間の登場人物ではないと意識してしまうと、自分は群れから仲間として必要だとされていない存在かもしれないとつい考えてしまうということがあるように思われます。

その孤立感を深める事情もあります。それが先ほど述べた年齢や出産、女性という性に伴う体調の変化です。
さらには、男性と女性ではわが子に対して、出産の有無に伴う不可避的な傾向の違いがあるのではないでしょうか。

父親の子に接する態度と母親の子に接する態度は大きく異なることが多いようです。母親は、妊娠期間中、ずっと子どもが自分の体内にいて、自分と有機的に一体のつながりがあったわけです。それが月満ちて子どもが体外に出たからといっても、どうしても子どもが自分の体の延長線上のように感じることがあるのは考えてみれば仕方がないことのような気がしています。頭では、子どもも独立した人格があるということは理解していても、どうしても自分と子どもとを一体に感じているところがあるようです。子どもが何かを失敗すると、父親はかわいそうにとしか思いませんが、母親は自分が失敗して損をしたような感覚になっているような反応を見せることが見受けられます。子どもがかわいそうという気持ちももちろんあるのでしょうけれど、まさに自分のこととして悔しいという感情が生まれるようです。

これに対して父親は、基本的には子どもが生まれてきてから親になり始めるし、子どもからなつかれてはじめて親になると言われています。どうしても生理的一体感は父親の担当ではなさそうです。子どもが生まれたときには、既に子どもは自分の外の存在だということを受け入れているわけです。

この結果は、子どもとの接し方の違いとして現れます。

父親は自分とは違う存在として子どもを見て、子どもの行動についても、興味深く見ることができ、楽しむことができます。子どもがしたいことを手伝うような接し方をすることが多いです。そうするとある年齢に達した子どもからすれば、大げさに言うと、父親は自分の意思決定を肯定してくれる存在ということで、父親と遊ぶ時も緊張感を持たないで、リラックスして楽しい時間を過ごすようになります。

母親はこういう放任というか、無責任な接し方はできません。「子どもは自分の体の一部」という感覚がありますから、子どもがどう行動するかということは、自分がどう行動するかということとほぼ同じです。子どもにかわって、子どもの行動や考え方までも自分が決定しようとしてしまうわけです。言葉を悪くすれば子どもを支配したいような行動をするわけです。但し、この母親のかかわり方は、乳幼児期には子どもの成長と安全にとって必要な行動様式です。いつ、このかかわり方を後退させて子どもの独自性をはぐくんでいく方向に転換するかということはとても難しいことだと思います。父親と母親がけんかをしながら決めていくしかないと思います。父親と母親が意見を衝突させて、その間で子育てをすることは、どちらかに偏ることが避けられるという意味では子どもにとっても都合の良い意思決定システムだと思います。

そういう母子の一体感が、子どもの年齢とともに不具合が目立つようになるころに、父親と子どものフランクな関係というか、父親の無責任というか、おおざっぱな接し方は、もしかしたら母親からすればとてもうらやましいことなのかもしれません。子どもは、自立を志向し始め、母親の言う通りには行動をしようとしなくなります。子どもからすると、あれやこれや細かいところまで口を出してくる母親は緊張の対象になってしまうことがあります。そうするとなおさら、自分に対しては見せない子どもの、リラックスして楽しそうにしている様子は、父親と子どもが相性が良いからなのではないかという勘違いを生むなど、母親の不安を掻き立てることになるのかもしれません。

そして、母親はそういった不安を自分の心の中で合理化しようとしてしまいますし、よりネガティブな考えに陥っていく危険があります。流れをシミュレーションしてみると、
子どもは
・ 夫の腕力が強いから子どもは逆らえないために夫の言うことを聞く
・ 夫は娯楽ばかりで楽しいことしかしない。自分は教育やしつけなど子どもにとって面白くないこともしなくてはならない。
・ 夫は妻の至らないことについて子どもに告げ口をして自分から子どもを引き離そうとしている。
・ 夫は外で働いていて経済力があるから子どものわがままを許すが、家計を預かる自分は子どものやりたい放題をするわけにはいかない立場である。
・ 自分は子どもを産む機会、子どもの世話をする奴隷として見られていて、仲間であるとは評価されていないではないか。
等々ですね。

ここで考えなければいけないのは、このような母親の考え方は、母親の人格や性格の問題ではないということです。要領の良い母親は、良好な父子関係をラッキーととらえ、自らの仕事を軽減させて自分の自由を獲得するわけです。まじめで、夫と子どもを大切に考えている母親だけが、不安を感じやすくなっていることと合わせて、孤立の不安を感じてしまうわけです。そして大きな個人差はあるにしても、多かれ少なかれこのような孤独を妻が感じやすいということを夫などはよく知っておく必要があります。

事件から気が付いたことを上げます。
1 できる限り、親子3人の関係の時間を作ることに努める。2対1の関係を極力避けるようにする。少し声を大きくして、妻も参加している外観を作る。内緒話は絶対しない。
2 妻の体調や子どもとの志向と合わないため、父子の関係での行動がなされることは多い。こういう場合でも適宜報告を行い、欠席者の妻の追体験ができるようにしておく。写真をラインで送るとか。
3 夫婦間では情報を極力共有する。
4 子どもに対しては、ふざけていても妻に対する否定評価を告げない。フォローする。子どもは母親から叱られたりダメ出しをされたりすることで、「自分は母親から嫌われているのではないか。」という不安を抱きやすいので、そうではなく、母親が子どもを大切に考えているため、そういう風に子どもが思うようなこともするのだという説明を妻の立場に立って告げる。
5 子どもからなつかれると、無意識に優越感を抱く父親は多い。「産まなくても、授乳をしなくても子どもは自分になつく、自分に対する評価は子どもがしてくれた。」という変なコンプレックスに起因する感情を感じてはいけない。
6 まとめると、子育ては父母というチームで行うもので、自分はそのパーツであるということを常に自覚し続ける。
こういうことでしょうか。

最近私は、人間の仲間は、相互に、仲間を安心させる行動をするべきだという考えを持つようになっています。夫婦問題を論じる人たちは、あれをやってはならない、これをやってはならないということを説明しますが、どちらかというとどうやって相手を安心させるかということを考えるほうが、実践しやすいし、的を射ているような気がしています。放っておけば人間(霊長類)は不安になる動物のようです。この不安の手立てに、特に現代社会は無防備になっているような気がしています。

付録:エディプスコンプレックスが日本人にはピンとこない理由。

外国人の家庭がどうなっているかということについては、フルハウスなどのアメリカのファミリードラマや映画、小説などでしか情報がないのですが、ほとんど赤ん坊と言ってもよいような幼児が一人の部屋で寝かせられていることに驚きます。日本ではというか、私にはあまり考えられない待遇です。
家族の中で、このように子どもが孤立している時間を過ごすとすると、本編では母親が味わったのではないかと推測している孤立感を、西洋では子どもが感じているのではないか思ったのです。西洋では父親は日本ほど子どもにかかわろうとしないとすると、子どもの親に甘えていた記憶というのは、乳児のころの母親との愛着形成だけだということになるのではないでしょうか。子どもが甘えるということ自体が、安心したいということなのだと思うのですが、そうすると親離れするときに甘えたい対象は、自分の生活全般の面倒を見てくれた母親しかありません。母親から自分を引き離した対象は父親ですから、自分の安心要求を妨げるのは父親だということになるでしょう。性的な話ということではなく、このような安心を妨げる存在として父親が意識されてしまうということはありうることだと思うのです。前述のように日本では、寝るときも親子が川の字で眠りますので、いつでも子どもは母親に甘えられますし、父親も自分にかかわってきますから、父親が安心感を妨げる存在には西洋と比べると格段となりにくい事情があるように思われるのです。女児の場合のエレクトラコンプレックス、つまり母親に対する敵対的な感情は、子どもから見ると自分を支配しようとする母親に対する複雑な感情が、自分を支配しようという行動傾向のない父親に対する感情が複合して生まれたものとは説明できないのでしょうか。理論がどうこうというより、ピンとこないというレベルの話なので、ご寛容のほどを。


*1 思い込みDVからの子連れ別居離婚とは
ある日夫が家に帰ると、妻と子が家におらず、身の回りのものなどがなくなっていて、行き先もわからず、警察に届けても安全に暮らしていると言われ、キツネにつままれているうちに、家庭裁判所から連絡が来て、離婚調停が始まる。身に覚えのないDVが主張されている。子どもにも会えないまま、生活費の支払い義務と離婚が決定される。

子どもの同居親である母親(父親の場合もある)は、別居親である父親の子どもと会わせろというつつましやかな要求に対しても、頑として拒否をする。その理由として、「同居中、父親は子どもを虐待していたから、子どもが怖がって会いたくないと言っている。」という主張がよく見られる。様々な証拠を提出して、同居中の父子関係が良好であることを示す。何よりも父親は父子関係に自信を持っている。それで、裁判所で試行面会が小一時間開催されることになる。


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子どもの学費を支払わないと言ってしまう夫の心理 攻撃的感情によって客観的にわが子と対立してしまう原理 環境が人の心や認知をゆがめるという科学的把握の勧め [家事]


何人かと話していて、「あれ?変だな。」と思うことがありますよね。違和感をはっきり自覚するまで意識しなかったり、話している相手の属性かもしれないと思って深く考えなかったりするのですが、別の人から続けざまに話を聞くともしかしてと思うことがあります。

妻に子どもを連れて、突然別居されて、一人自宅に残された夫と話していて、感じたことです。

養育費を決めるときに、その養育費は、通常の生活を送っていることが念頭に置かれた養育費なので、イレギュラーなことで出費がかさむ場合に備えて、調停条項では、事故などで入院をするとか、高額の入学金が必要になった場合等は、「改めて協議を行う。」という文言を入れることがあり、むしろ多いかもしれません。
それに抵抗を示す夫がいるのです。現実にも、別居後子どもが私立の学校に入り、入学金の支払いが困難なのに、支払いの分担をすることを拒否するような事例もありました。

但し、実際に婚姻費用を払い、住宅ローンを払うととてもたくわえを作れないということも少なくないし、無謀な入学をする場合もあり、一律にそれを非難できるかというと難しいことはあるのです。

それでも金銭的に余裕があり、子どもを養育する意欲が高い場合であっても、子どもを連れて出ていかれた妻に対する感情が強くなってしまい、子どもが困ってしまうにもかかわらずに拒否するという事例があります。多くの事例では夫は自ら支払うことを望んで支払うのですが、拒否をするケースもあります。

そういう時は、やや強めに支払いをアドバイスするのですが、お金を出すのは私ではないので、どこまでいうべきか迷うときもないわけではありません。しかし、それまでに十分打ち合わせをして、この人は払うべきだと感じたときは、かなり強めにメリットデメリットを提示して、支払いを促すがほとんどです。

なんでそんな余計なことを弁護士がするのでしょうか。それは依頼者である子どもを連れされた夫が後々不利益を受けることが目に見えているからです。すべてのケースで一律に行うわけではなく、夫は本当は子どもの役に立ちたいと思っていると確信できる場合です。つまり、夫が子どもを大事に思っていて、子どもの発育に関与したいと思っている場合です。まあ、圧倒的多数の場合なのです。

実際は、そういう私が払うべきだと感じた事例では、本当にお金のない事例以外は、支払いは行われます。方法はそれほど難しくありません。

第1に、夫が拒否することで終わりにしないで、しっかりと議論の対象にすること。
第2に、学費の支払いを拒否することで、子どもが進学を断念することになるというデメリットがあることをしっかり告げること。
第3に、子どもが進学を断念したら、子どもは父親から愛情を受けていないと感じることになるという見通しを告げること。

概ね以上です。
これだけで、かたくなに拒否していた夫は、支払いに応じるようになります(私のケースでは)。

つまり、夫は、なんとなく、妻の口座に送金することに対して強い抵抗があるわけです。そしてその妻に対しての恨み、攻撃感情が強すぎて、子どもが不利益を受けるということまで、しっかりと考えることができない状態になっているようなのです。その結果、子どもが夫に対してどのような感情を抱くかなんてことまでとても考えることができないようなのです。

このことにはっきりと気が付くことはなかなか難しいことです。おそらく多くのこじれる事案では、夫側の代理人が、「ああ、こういう子どものことをかえりみないで、自分の不利益を少なくすることに必死な人なんだ。だから妻は出ていったのかもしれない。」などと思っているのかもしれません。

私は、人間的におかしい人ではないので、話せばわかるだろうというくらいの気持ちでいつも説得していました。しかし、子どものイレギュラーの出費に抵抗をする人が連続して現れ、それらの人がかなり尊敬できる行動パターン、思考パターンをしているのに、なぜか出費を拒否したということを目の当たりにして、少し考えてみました。

結局支払いに転じるのは、先に挙げた3つのパターンですが、特に「不利益を受けるのは子どもだ。」ということが頭に入れば、「あっ!」という声を上げることに気が付いたのです。そして、「もしや」と思い、次の同じパターンを示した夫に対して、「子どもを連れ去られた夫は、皆さん多かれ少なかれ、妻の口座に送金するというポイントに反応してしまい、お子さんの利益を忘れてしまうことがあるようです。」と説明したら、とても腑に落ちた様子で、早々と支払い条項を定めることに積極的に転じられたということがありました。

ここで、夫の代理人が、「子どもの利益を考えられないなんて、それはおかしい。支払わないなんて言うことがあなたできるのか。」などというネガティブな評価を依頼者にしたら、おそらく、気づくことがなく、妻に対する対抗意識で拒否し続けるのかもしれません。

本当に子どもが損をするということに気が付かないようです。

「お前の学費は払わないけれど、面会交流で楽しく振舞え。」と言っているに等しいことに気が付かないようです。私たちが気が付くのは、第三者だからなのでしょう。でも第三者でも、依頼者の妻に敵対的意識を持ちすぎてしまうと気が付かなくなるかもしれません。第三者の代理人のアドバンテージがなくなってしまいます。それだけ人間の被害感情は人の認知をゆがませるということだと代理人は肝に銘じるべきです。

元々がそういう性格なのではなく、連れ去り別居という行為によって、人の心が強い影響を受けてしまい、敵対感情が最優先となってしまい、それ以外の考えるべきことが考えられなくなってしまうというメカニズムをよく理解することも大切だと思いました。



逆もまた真なりですから。


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同居親(母親)が病的に面会交流拒否を主張する場合に、どのように面会交流調停を進めるか。DVがないのに妻が夫のDVがあると思い込む、思い込みDVの心理的メカニズム [家事]



考える必要性に迫られたので、いつもの通りご一緒に考えていただきたいと思います。

子どもの両親が別居して、子どもと同居している方の親が別居している方の親に子どもを会わせることを拒否している場合、あるいは話さえもできない場合、別居親が申し立てて面会交流調停が家庭裁判所で行われます。

理由があって別居するわけですから、子どもと同居している親は、「子どもを別居している親に合わせたくない。」という気持ちになっていることは、リアルな話だと思います。

ただ、子どもの立場で考えると、子どもがもう一人の親と会う事によって、一緒に暮らせてはないけれど別居親も変わらず自分のことを考えてくれている、一緒に暮らしていた時と何も変わらないと納得できますので、子どもにとって有益です。気持ちが安定しますし、自分が放っておかれているわけではないということを理解できれば、自分に対する評価が低くなるということも回避しやすくなります。もっとも例外的に、同居中、別居親から虐待を受けていたような場合や別居親が暴力的な恐怖感を抱かせるような行動をとっていたような場合は、様々な工夫が必要になりますので、こういう事態は除いて考えます。

ただ、こういう例外について言及すると、事実が違うのに「私の場合はそういう例外的に子どもを会わせなくてもよい場合だ。」と言ってくる同居親が出てきてしまうので、話はややこしくなります。何せ会わせたくないですし、子どもの父親の顔を見るのも嫌(ないし恐怖)ですから、子どもと同居している方の親が何とか会わせない方法がないか考えるのは当然と言えば当然のことです。まあ、それでも今回は、会わせるには細心の工夫が必要だという場合を除いて考えます。

最近、面会交流調停で、かなり高葛藤の同居親が増えているような感じがします。(だから、理性的に面会を実施する同居親の方の気持ちの努力に、自然と無条件の尊敬を感じてしまうようになっているわけです。)

子ども健全な成長を図るためには別居親との面会をさせるべきだと考えても、同居親が会わせようとしなければ、子どもは別居親に実際に会うことができません。なんとかしなくてはなりません。しかし、どうやら家庭裁判所の調停委員や調査官、裁判官は、その同居親がなりふり構わず、感情をあらわにして「絶対に会わせない。」と言う姿を見ていると、動揺して思考不能になるようなのです。そういう人間のヒステリー状態をあまり見たことがないのだろうと思います。免疫がないというか。そうして、この感情あらわな人との対応を早く終わりにしたいと、それは思うでしょうね。人間の心理としてはそうなるでしょう。そして、早く終わりにする方法を無意識に探し出すのだと思います。「同居親である母親が感情的になっていて、収拾がつかない。」とはっきり言って終わりにしようとする場合もあれば、「DVがある場合は面会交流を認めない場合もある」とか、「相手の葛藤がまだ強いので時期尚早だ。」という言い方も最近多いように思います。肝心なことは、母親の気持ちに「寄り添って」子どもの利益を図る活動を停止するということになることをどう考えているのか伝わってこないことです。

別居親からしても、それではということで審判を求めてしまうと、子どもの利益以外の事情が考慮されたような審判内容になってしまうということあるので、そのリスクを考えなければなりません。できれば調停で解決した方がリスク管理ができます。

そのうえ、別居親までもが同居親を非難し続けるだけの調停になってしまうと、調停委員は、解決の方向が全く見えなくなります。このため、ますます早くこの事件を終わらせたいと思います。その調停委員から、別居親の憎悪の話を聞いてしまう同居親は、ますます自分に対する別居親からの攻撃が現実のものとなっていると感じます。「ほらわたしの言った通りでしょう。だから怖いのよ。」と。これでは目的に近づく行動ができていないどころか、逆方向に向かってしまっているわけです。相手を非難したいのか、子どもを自分に会わせたいのか、どちらかを決めてかからなければなりません。さあ、ここが頭を使って事態をコントロールすることができるかの試金石となります。

同居親である母親の拒否の気持ちの根っこがどこにあるかということを考える必要があります。ただ、そうはいっても、別居親だけに求めてもうまくいかないという事情もあります。何せ別居親からすれば、突如妻が子どもを連れて自分の元から立ち去ったという強烈な体験をしていますから、直ちに理性的に、相手を刺激しない方法でうまく立ち回れと言ったって、難しいのです。これは、別居親が父親であろうと母親であろうとあまり大差はありません。ときには時間をかけることも必要だと思います。

気持ち的にはすっきりしなくても、せめて別居親の代理人だけは同居親の「会わせたくない理由」に思いを巡らす必要があります。準備書面かなんかで夫のDVが原因で、そのDVはいつ頃のこういうDVだということが説明されていることもあるのですが、それが真実でなければ別居親の心には響きません。それ以上に、真実かどうかを検討する以前の話として、DVに関する記述が曖昧なことが実に多くあります。どんなに読んでも、「これはDVなの?」と首をかしげることも多いです。これはおそらく、同居親の代理人が、あまり本人の話や気持ちを理解しないまま「DV」という評価に引っ掛かりそうな出来事を探して書いているからなのだろうと思います。人間の心理は、単純にこういう事実があればこういう風に反応するという関数ではありません。その事実の持つ意味は、人によって様々です。そのさまざまな事情こそ代理人は理解しなければなりません。「なりません」というか、そこを理解することによって、第三者である裁判官を説得する流れを主張することができるのです。だから、時間をかけて丁寧に聴取し、また人間の心理についてよく考える必要があるわけです。特に妻側の代理人がDVの結果となる心理状態を本当は理解しないで話を進めていて、勝てる裁判を落としているような事案が実に多く心配な状態になっています。

DVや精神的虐待を理由として離婚や面会交流拒否を主張する場合でも、必ずしも夫の行為が原因で妻の高葛藤が生じているわけではない事例がかなりの確率であります。むしろ、DVや精神的虐待が認められたケースが少ないということが実感です。夫の行為を理由に離婚に際して慰謝料が認められたケースは、私の担当している範囲では最近ではあまり記憶にありません。(不貞など別のはっきりした理由がある場合は除く)

同居親が母親である場合に高葛藤で面会交流を拒否しているケースは、母親の体調面に問題があるケースがほとんどです。医師でもない私がどうやってそのことを知ったかというと、同居親である母親の代理人が、虐待による損害を証明しようとして、診断書を証拠提出することが多くあります。この診断書を見ると、ある程度の医学的知識があれば、夫の行為によって妻の葛藤が高まったのではないということがわかってしまいます。また同居中に通院していたり、投薬を受けていたりしていることを夫は知っていますから、診断名がわかる場合もありますし、服薬している薬からおおよその疾患名が見えてきます。出される診断書の診断名は、パニック障害とか全般性不安障害とかが確かに多いのです。しかし、ある内科的疾患にり患している方がとても多い。その内科疾患は、精神的不安や焦燥感を抱かせるという症状があるのですが、内科のクリニックでは専門医であっても、がんに進行しないかという管理ばかりで、病気の生活面に与える影響についてレクチャーをするということが無いようです。本来夫婦を読んで病気の影響をレクチャーすることが必要であると私は常々痛感しているところです。

また夫婦仲の良い時期にも妻は通院していて、薬の名前から、うつ状態とか不安状態と診断されている事案も多いです。

共通して言えることは、妻には、夫を嫌悪する前から不安を感じやすくなるような体調的な問題があったということです。もともとは漠然とした不安だったわけです。それを「どこをどう経由してそうなるのか」、不安の原因がある時期を境に夫に求められるようになり、焦燥感を抱いて子どもを連れて別居するという現象になるようです。別居の半月ほど前には、行政やNPOの女性の相談や警察の相談を受けていることが、離婚調停の証拠から出てきます。

ここで考えなければならないのは、別居親である夫が、「責任がないのだから、無理やりにでも、法律で強制執行の方法を設けても、とにかく子どもを別居親に会わせるべきだ。」と声のトーンを上げても、なにもよいことがないという現実です。「責任はないけれども原因がないわけではない」ということが、むしろ面会交流を実現するための思考ツールとなります。原因を除去ないし軽減すれば、拒否が緩和されるかもしれないという風に考えることが建設的だということです。面会交流実現の可能性が高まるということです。そして、一度面会が実現されれば、そこでトラブルがなければということになりますが、案外面会交流は続いていきます。子どもはハッピーになれます。

さて、「責任がなくても別居親の夫に原因がある」とはどういうことでしょうか。

「妻の不安はもともとあったのだろう。」ということですから夫は関係ないのではないのと思われることももっともです。ここで注意しなければならないのは、論理的に因果関係を考えるという近代合理主義は棚上げしていなければならないということです。「家族というユニットは、お互いの感情を大切にして行動しなければならない。」という命題を持ってください。あなたの言うことが論理的に正しくても、「それを言うことで家族が悲しむならば、言わないで済むなら言わない」ということも命題の一つの帰結です。自分がそこまでしなければならない義務はないとしても、「それをすることで家族が喜ぶのであればしてあげましょう。」ということも帰結の一つでしょう。

夫に原因はなくても「妻は実際に不安を感じている」ということがあるということを認めることが原因探しの第一歩です。そしてそれは妻にも「責任」がないことが多いのです。さあ、夫の「原因」に切り込んでいきましょう。

同居中、夫は、妻が不安がっているならば、不安を解消してあげたいと思うし、そうするべきでしょう。妻からすれば、とても不安ですから、不安を解消したいと思うわけです。そして、不安が強くなればなるほど、不安解消の要求も高まっていきます。そして自分ではどうしようもないと思うと、他人に自分の不安を解消してもらうことを期待するようになります。誰に期待するのでしょうか。それは、身近にいて、利害共通の人間ですから、夫に期待が向くことは当たり前のことだと思います。夫に対する自分の不安解消行動を期待してしまいます。「安心させてほしい。」という気持ちです。「そう言われたって医者じゃねえし。」という夫の気持ちもそれはそうなのですが、ここで妻が求めていることは不安解消という結果をどうやって実現するかではなく、自分が不安を感じていることを共感してもらいたい、できれば一緒に心配してもらいたいようです。うまく結果が出ないとしても、夫が自分のために安心するための行動をあれやこれや試してみるという姿勢を示してもらいたいようです。その共感に基づくいたわりの行動が妻の不安軽減の特効薬の可能性があるなということなのです。

実際は、DVがないのにDVがあったと思い込む「思い込みDV」の事案は、妻が夫を嫌悪する前、割と妻の相談事を夫が一緒に考えてあげるなど、妻が夫を信頼している事情があるケースが多いです。

そうはいっても「できないことをやれと言われてもできないのだからやらない。」という思考も合理的な人間の取ってしまいがちな行動です。そんな結論を求められているのではなく、一緒に何とかしようという行動を見せることを求めている、「妻は夫に期待している」と説明すればわかりやすくなりましょうか。外食に誘うとか、音楽を聴くとか、肩を並べて散歩に行くとか、ドライブするとか、買い物するとか、前に喜んでくれたことを提案するとか、そういうことで落ち着いてくるようです。ここでのコツは、妻は忘れているのですが、過去に妻が喜んでくれたことを夫が思い出して提案するということです。まじめすぎて責任感が強すぎて頑張ってしまう我らが夫は、「結論への方向が分からないからやらない。」という行動をとりがちです。私はここがポイントなのだろうと思っています。

まじめすぎる夫は、妻が不安を解消するために、あるいは解消したくて夫に無理難題を言うと、自分が責められているような気になってしまい、逆に妻を叱ってしまうということに心当たりはないでしょうか。

まじめすぎて、責任感が強すぎて、頑張ってしまいがちの人は、自分を守ることにも敏感になっている危険があるかもしれません。梵天丸(のちの伊達政宗)の師匠の虎哉和尚は、妻に寝首をかかれる場合はあきらめろと教えたそうですが、それは現代でも気持ちの上では通用するのかもしれません。(ただし、妻による夫への精神虐待事案の場合は別。)

このように不安の対処をしてほしい、自分が何をしても夫だけは許してくれる(限度はあるけれど)という安心感を提供してほしいという妻の期待があると考えるとわかりやすいと思います。期待は、現代日本の家庭事情から、夫に集中してしまいます。期待が嫌が上にも高まっているのに、夫は期待に応えてくれいないというより、悪意はないのですが戸惑ってしまっているからなのですが、答えようともしない。むしろ沈黙や無視、あるいは取り乱した自分(妻)を責めることによって、自分の不安を煽り立てている。こうなってしまうと、妻は「自分が不安を感じているのは、夫に原因がある。」と責任転嫁するような思考になじみやすくなってしまうようです。妻の不安が夫に向かう、責任は夫にはないかもしれないけれど原因はあると言えないでしょうか。

そうやって、そもそもは漠然とした不安からはじまり、夫の冷たい態度で不安が増大し、あれやこれやがみんな「夫の冷たい態度」に理解と記憶が変容していくわけです。そこで、その不安に対して、やみくもに妻に対して「あなたは悪くない。それは夫のDVだ。」と吹き込もうとする支援者の言葉にひとたまりもなくなるというのが、簡単に夫のDVがつくりあげられてしまう流れ、思い込みDVの正体なのではないかと考えました。

まじめすぎて、誠実すぎて、自分では妻の不安を解決できないと判断する夫の冷たさと比較して、「うんうん。不安だよね。苦しかったよね。」とマニュアルに沿って話す人は、自分を理解してくれる人間だと感じてしまいやすくなっているわけです。騙されやすくなっているということです。

そうすると、ありもしない夫のDVを主張しているということは(確信犯の場合は別ですが)、まだ、夫に対する妻の期待感が残っているということになるような気がします。こういうケースの場合は、アクシデントのように面会交流が行われることもありますし、面会交流が行われると、自分と夫と子どもと楽しく時間を過ごして、自分から面会時間の延長を申し出たりすることも多いのです。ただ、残念なことに別居親である夫は、何が起きたのか自分の頭の中で整合性が取れません。妻の気まぐれに感謝をすることができないようです。この時、大げさに感謝の言葉を述べて、「またね。」と笑顔で言えたならばと思うと、つくづく残念です。第三者だから見えてくることもあるのです。

それはそうと、期待が残っているならチャンスだと私は思うんですね。やっていないからDVを反省できなくても、DVを受けたような思いをさせたことを「思いやる言葉を発すること」はできるわけです。テクニックですから代理人の腕の見せ所です。そうやって、相手のツボを押さえて、自分に対する行動制限を自分で課して見せる。時間を守るとか乱暴なことを言わないとか、当たり前のことなのですが、当たり前のことを言葉にすることで相手が安心するということが多くあります。そして、少しでも相手が子どもにとってプラスのことを言ったり、考えたり、行動したりすれば、すかさず「感謝」と「称賛」の言葉を出します。これはそういう気持ちになれというのではなく、そういう評価を言葉などわかる形で提示するということです。

安心させるという行動を、相手が認識できる形で実行するということです。

面会交流が実施されれば、そういう相手を安心させる行動のチャンスの宝庫ですから、感謝や称賛をまめにやる。そうやって、面会交流は時間的にも内容的にも拡大していくようです。そういうことができれば、結構早い段階で調停条項を超えた宿泊面会なども実現できています。しかし、これができない人が多い。自分が妻から受けた「仕打ち」が強烈すぎることが理由の一つです。

現実は、ありもしないDVを言われたこと、子どもを連れされたことから脱却できません。これも無理のないことだと思うのです。些細な刺激があると、妻の不安を煽り立ててしまい、相手の思い込みの架空DVを後付けしてしまう言動をしてしまうようです。客観的に拡大していた交流が足踏みしたり、中断したりしてしまうこともあります。

別居親側からの視点で述べていましたが、裁判所、調停委員会でも、思い込みDVの可能性がある場合は、同居親である母親の不安を下げる方法を考えてほしいと思います。まずは、不安をできるだけ言語化すること。初めから思い込みだという結論を押し付けるのではなく、警戒するべき事情とそうでもない「気持ち」の事情とを仕分けをしてあげるということですね。そして、気持ちの原因についてはわからないという態度をとっていただきながらも、そういう気持ちであることについては積極的に承認してあげるということが大切だと思います。そこに別居親に情報を提供して、さらに安心させる工夫を考えてもらい実行する。家庭裁判所は安心できるところだ、別居親もそれほど具体的に警戒するべきことはないのだという安心感をみんなで作り上げていく。

こういうことができる裁判所になれば、みんなが幸せになると思います。
子どもは両親の愛を実感することができるし、親同士の葛藤が鎮まることも子どもの安心につながることです。
同居親は、それほど心配する必要がないということを実感できれば、つまり、その後悪いことが起きないということを学習できれば、穏やかに日々を暮らせるようになるかもしれない。
別居親も子どもからも同居親からも親として認めてもらい、何よりも子どもと会えるわけですから今よりはずっと幸せになると思います。

どうしてそれができないかをみんなで考える必要があるのではないでしょうか。

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愛しているから別離を選ぶ?精神症状を伴う疾患ないし体調不良から離婚に至る過程のサンプル 解決のヒントは、あなたの態度を改め余から私たちの状態を改善しように変えること [家事]

典型的な事案10数件をもとにした仮想事例を作って深堀りしてみます。
<事案>
子どもは3歳。双方30代後半の夫婦。夫はサラリーマン。妻は結婚後も働いていたが、出産に伴い退職。出産後は育児に専念していた専業主婦。
妻は、ある内科の病気にかかっている。症状としては、良いときと悪いときの波が大きくあるが、悪いときは、疲れやすい、意欲が低下している、理由なく気分が落ち込む等。この症状のため、前にはできていた家事がどうしてもきちんとできない。見た目からは妻に病気があることがわからないため、周囲はこの苦しみを理解できない。妻本人も、それが病気のせいだということを十分に自覚していない。
妻は、いろいろなことができなくなったことから自分に落胆している。日中働いている夫から家事のことでいろいろ言われるのではないかということを始終おびえるようになる。夫は、本当は、あまり人を批判するような性格ではないが、やや細かいところがある。常識的範囲で、日中家にいるのに家事がゆき届かないことに疑問を述べることもある。
妻は自分の体調についてうまく説明できない。このため、夫の悪意のない指摘に過敏に反応してしまう。夫が何か批判めいたことを言い出そうとすると、大きな声を出して先制攻撃をするようになる。夫は、妻がどうして不機嫌なのか、何がきっかけで自分に攻撃的になるのかわからず、困惑している。理不尽だと思い始めている。時に理不尽に耐えかねず、どうして自分を攻撃するのかというポイントで怒りだすことがあった。妻もますますエキサイトしていった。
そのうち妻は、夫が夜勤の時などに子どもを連れて、車で1時間ほどの距離の実家に泊まりに行くようになる。家事をやらなくてよいということと、夫から文句を言われることを、一緒にいる時間を少なくすることによって少なくしようとしたようだ。但し、意識としては、実家にいるほうが楽だから、わがまま言えるからというくらいかもしれない。夫は、夜勤明けの週末だけ妻の実家に行って家族3人の時間をすごす状態になっていた。妻の実家に親子3人で居住することは様々な事情で不可能だった。
3人が自宅で時間を過ごすこともあったが、妻は、夫が口を開くと、自分が家事をできないことを批判するのではないかと戦々恐々としていた。些細な行動も、自分に対する批判であると受け止める傾向が出てきた。夫から具体的に何かを言われる前に、夫に対して先制攻撃的に感情的言動をすることも頻繁になってきた。
夫からすると、それでも毎回怒るということはしなかった。しかし、何回かに一度怒るときは、どうして家にいないのか、どうして家事をしないのか、どうしてすぐに怒って大声を出すのかというこれまでに蓄積していた不満を合わせて述べるようになっていた。様々な妻の行動が、自分を馬鹿にして行っているのではないか、自分を嫌っていて自分と一緒にいることが苦痛で、嫌悪行動をしているのではないかと感じるようになる。妻が、買い物に行くのもおっくうで、食事もあまりにも貧弱なものしか作らなくなり、そのことを夫が指摘しようとしたとき、敏感にそれを察して妻の防衛感情が爆発して、夫も日ごろの不満が爆発して、収拾がつかなくなり、別居に至った。
別居に至るまでの間、妻の調子が良いときに、家族で楽しく外食をしたり、旅行に行くこともあった。妻なりに、子どもと一緒に楽しく過ごすことは必要だと考えて努力していたということもあった。それでも努力がどうしてもできないこともあった。それは妻も自覚していた。たまには頑張ろうと遠出のドライブを計画したこともあった。本当は家で寝ていたかったが、そうもいかないと思い、近場に変更するならと、ドライブに応じた。しかし、夫も子どもも自分の努力を評価することはなく、遠出から近場に変更することに不満そうだった。
別居の原因となった調理の際も、本当は、記念するべき日でもあったので、凝った料理をして、夫を驚かそうと当初は思っていた。頑張って段取りを考えていた。段取りを実行に移そうとした際に、思考のエネルギーが切れたように意欲が失われていき、結局家にあったレトルト食品を出すしかなかった。自分でも、それでは夫も怒るだろうなと思っていたので、夫の帰宅が怖かった。そうしたら案の定、夫は食卓を見たとたん口数が減って、眉間にしわが寄ったように見えた。「言われる」という感覚が稲妻のように頭にとどろいた。その瞬間、自分は大声を出していた。大声を出しながら、「もう駄目だ。元に戻ることはないだろう。」というあきらめた感情がわいてきた。興奮状態は変わらないが、張り詰めた気持ちが切れてしまった。

<解説>

1 医師。医学の問題

これはあくまでも病気が原因の事例です。精神疾患ではなくとも、病気が原因で、精神症状が現れることは少なくありません。私が担当した事例で、診断書がある事例だけでも結構な事例に上ります。しかし、その病気と夫婦仲が悪くなったことの関連性に気が付いていない当事者がほとんどです。
 私は、これは医師の問題、あるいは現代日本の医学の問題があるように思われます。もし、医師が、病気がメンタルに影響を与えて、結婚生活に支障が出る可能性があるということを患者さんに告げていたら、だいぶ様相が変わることだろうと思います。あらかじめわかっていたら、自分で気を付けることもできますし、家族に援助を申し出る可能性だって広がるわけです。患者のメンタルへの影響だけでなく、その患者の症状によって家族のメンタルも影響が生じてしまうということも研究して、家族にも病気に対する説明が行われていれば、この事例の夫ならば、もっともっと配慮することができたでしょう。ところが、実際の事例では、家族どころか、本人に対しても病気のメンタルに対する影響を十分説明がなされていなかったことがほとんどでした。少なくとも本人は、病気と自分の行動、メンタルの関連性を知りませんでした。

2 妻の不幸の原因にまじめすぎることがある。夫に対する愛情をかけすぎていることがある。

本事例の妻は、夫からの現実の批判によって追い込まれたというよりも、自分で自分に対して高い最低ラインを引いて、これに到達しなかったということで自分を追い込んでいます。「妻たるものこうでなくては失格だ。」、「夫は外で働いて苦労しているのだから、自分が家の中のことをきちんとしなくては、自分の存在価値がない。」というように、夫婦の関係を維持するための「資格」みたいなことを考えているようです。そしてそれができないと、「夫から自分が否定的に評価されるだろう」という不安を抱くようになるようです。これが自分の体調によって、できないことが続くうちに、夫からの否定評価の不安も続いていくようです。その妻の考えの根本には「夫と子どもと自分が尊重されながら暮らし続けたい。」という要求があり、これができなくなるのではないかという予想をしてしまうから不安になるのだと思います。本当は家族を維持したいのに、それが強すぎて逆に不安になっているわけです。そして愛する人にあれもしてあげたい、これもしてあげたいという優しい気持ちが、あれもできない、これもできないと自分を苦しめているわけです。こういう不安が持続してしまうと、人間は不安から逃れるということが第一希望になってしまうようです。「いつまでも夫の否定評価の不安を感じ続けたくない」という気持ちが強くなって、「もうこの関係から抜けたい」という方法論に飛びついてしまっているように私には見えてしまいます。「いつまでも仲良くしていたいから、逃げ出したくなる。」という痛ましいお気持ちを見ることが多くあります。
実際に、裁判資料などで妻の日記などが出てくることがあるのですが、そこには、自分と夫だけがわかる記載があるのです。妻の代理人にそんなことは説明しないから、代理人はその意味も分からず、証拠として出してしまうんですね。その記載からすると、妻がどんなに夫のことを好きで、一緒にいたいかということが良くわかるんです。「ああ、この人は、この時確かに幸せだったんだな」とわかるんです。それと矛盾するような記述が違う筆記用具で書かれていて、ああなるほど後から書き加えたのねということもわかってしまいます。夫を好きすぎると、妻の不安は大きくなるようです。妻の代理人は、その日記の時期の夫の妻に対する無理解があったことの証拠として日記を出すのですが、妻の代理人が気が付いていない書き込みを合わせて読むと、たいてい妻は、夫の一挙手一投足に喜んだり、悲しんだりしているし、些細なことで落ち込んだりしていて、見ている方は微笑ましく感じる事情、妻が幸せを感じていた事情が証拠として出されているとしか思えないことがあります。
もし、妻の方が「他に適当な人がいなかったから結婚したまで、疲れてできないことは仕方がないから文句があれば自分でやれ。」という合理的?な発想を持っていたならば、こういう、「夫から批判されるかもしれない」という不安は抱かなかったと思います。「離婚上等」ということで、子どもを夫に押し付けて自由に暮らそうとするのではないでしょうか。逆切れする妻ほど、まじめで夫を愛しているということは、真実のようです。
妻からすると、「できないことを批判されること」も嫌だし、恐れているのですが、それよりも「頑張ってやろうとしたのに、あるいはやったのに、何もしていなかったと批判されること」が特に傷つくようです。カウンターパンチを受けたようなダメージのようです。また、妻にとってうれしいのは、感謝の気持ちよりも、感謝の言葉なのかもしれないということを感じることが多いです。

3 夫の対応が「悪い」のか

夫が、妻の対応を理不尽に思うことはよく理解できます。自分は取引先や上司の嫌味や無理難題をくぐり抜けて、心と体力を削って外で働いてきているのに、感謝もされないどころか、稼ぎが悪いと言わんばかりのお金のかからない安易なレトルト食品があまりにもぶっきらぼうに食卓に並んでいるわけです。私は馬鹿にされている?尊重されていない?あの渡した給料はどうなっているのだろう?とそれは思うでしょう。体の調子が悪くて、意欲がわかない、料理の段取りを考える力が出てこない、一歩、二歩だけ体を動かしてごみをゴミ箱に入れることができないという状態を想像することができないということもやむを得ないでしょう。夫は靴底をすり減らして歩き回っているわけです。
時々、我慢できなくなって文句を言おうとすることも、その段階では軽く甘えているような感覚で言い始めると思います。しかし、何か言おうとしたところで、妻がそれを言わせないで、逆にこちらに文句を言う。マシンガンのように言ってはならないはずの言葉が繰り出されれば、当初笑い話のような話だったのに、瞬間的に夫の眉間のしわが深くなるのも無理のない話です。
妻は、まじめすぎるから、自分が「できない」ということができないようです。自分ができないのではなく、夫が原因でできないと言わんばかりです。
夫も夫で、自分が妻から愛されていると自信たっぷりの人はそれほど多くないようです。むしろ、妻の些細な行動で、自分を嫌っているのではないだろうかという疑心暗鬼になる人が実に多くいらっしゃいます。出来合いの総菜が出されることで自分が尊重されていないと思う人、ごみ箱からあふれたごみがある部屋の状態で自分が無視されていると思う人、言ってはならない言葉だと言葉に厳格な人、様々ですが、詳しくその人の「怒り」を分析すると、「自分が尊重されていない」という危機感から始まっているように感じられます。
仮に、本当は愛人がいて、離婚をして愛人と結ばれたいと思っていたら、ご飯の用意がなされていなかったり、ゴミだらけの部屋のありさまは大歓迎で、離婚訴訟の証拠にしようと、すかさず写メを撮りだすでしょう。怒るということは、やはり、妻と仲良くしていたい、自分を尊重してほしいという気持ちがあるからだと私は思うのです。

夫が悪いとはなかなか言えないように思います。悪いとする部分あるいは修正する部分はあるのでしょうか。しかし、妻が病気のために自分の精神状態に気が付かないならば、夫が何か行動を起こさないと、夫婦は離婚に向かうことを止められないでしょう。子どもはなすすべなく、両親が仲たがいすることを経験してしまいます。また、双方に恨みや憎しみが残ってしまうと、子どもは一方の自分の親に会えなくなってしまいます。
どうしても、妻に病気や体調不良があれば夫がキーマンにならなくてはなりませんし、逆なら妻がキーマンにならなければなりません。それは可能なのでしょうか。病気に対する知識を勉強し始めなければならないのでしょうか。それは非現実的な対応です。

4 第3者は害こそあれ、役に立つことがない理由

ここでは、家族解体思想をもっていて、妻を離婚によって家族から解放することこそが女性の幸せだというような特殊の考えを持った方々や、その思想に基づいていることも知らないでせっせと夫婦を結果として離婚させようとする行政の話は割愛しておきます。

良心的な第三者でもあまり役に立ちません。まずは、夫婦のどちらから相談を受けたか、あるいは夫と妻とどちらの付き合いが長いか、などによって意見が変わるからです。自分の付き合いの長い方に注意するという第三者はあまりいません。あくまでも知り合いを助けようと善意を働かせるわけですから、その間の罪のない「子どもの利益」という視点で物申すという第三者もあまりいないわけです。家庭裁判所も似たようなものです。
また、妻や夫が、どうしてその瞬間の行動に出たのかということをあまり吟味する人もいないでしょう。妻が大声を出したという事象から、夫の支援者は妻は常識がなく精神的に不安定な人だということになり、せいぜい病院に行くべきだということになるのだろうと思います。妻の支援者からは、そこには夫のDVがあるという決めつけが行われることが通常です。支援者というのは、客観的にものごとを見聞きできる人は、どちらが悪いのかを判断して、悪い方が行動を改めるべきだということを述べるでしょう。客観的でない人は、自分の近くにいる人をいかに支援するかという発想しか持てません。いまだに日本人は、戦争遂行のために明治政府がコツコツ教育に取り入れていった勧善懲悪という子どもじみた割り切りから脱却できていないようです。
行政を含めた第三者が入ると、話がややこしくなることが圧倒的に多いのではないでしょうか。
もし、夫と妻が離婚をしないで幸せに暮らしたいと思うならば、自分たちで活動を修正しなければなりません。

5 行動修正のヒント、「私」から「私たち」という発想の切り替え

このヒントはウォーラースタインが「THE GOOD MARRIAGE」という著作で述べています。最後にお話しするのは、これを理論化したものです。今回のテーマでもあります。
私という主語でものを考えるのが普通です。私は疲れて家事ができない。私は夫から攻められたくない。私は、快適な家の中で暮らしたい。私は理不尽に妻から責められている。私は理不尽に相手から否定評価を受けている。
「だから私は自分を守らなくてはならない。」誰から?相手からということになるわけです。夫婦という人間関係の中で、自分を守ろうとすることは、相手を攻撃することにつながりやすくなるのではないでしょうか。自分を守ろうとする行動は、条件反射的に行われ、無自覚に行われていることがほとんどです。ということは、「これから自分が自分を守る行動のために相手を攻撃しようとしている」という自覚がないのですから、自分の行動を制御することが難しいということになります。夫婦のいさかいの大部分はこの仕組みでおきているようです。
これを「私たち」という主語に置き換えて考えてみましょう。
「私たちのうち、家庭の問題を担当している人間が、気力がわかず、きびきびと動くことができない、育児はなんとかこなしているが他の家事に支障が生まれている。このままでは、不衛生な家の中になってしまう。栄養状態にも偏りが出る。これを私たちは解決しなくてはならない。私たちのうちのあなた、もう少し頑張れないのか。無理。なるほど、しかし私も無理だ。これまで、あなたがやっていたことのうちのこの部分はこう省略しよう、こちらについては週一で何とかしよう。わかった。では私も調子が良いときはなるべくこうしてみる。ありがとうでも無理しないでね。」
となると美しいわけです。最初からこれができなくて途中から私たちになっても挽回できるでしょう。
「私たちは、今、普通の会話ができない状態ではないだろうか。私たちのうちの私は、何か話そうとすると話をさえぎられる気がするけれどどうだろう。私たちのうちのあなたが、そういう気持ちになることはわかる。それでも私はそうせざるをえないこころもちなのだ。それはどうしてだろう。私も苦しいけれど、あなたも苦しいのかもしれないということがなんとなくつかめてきた。私が嫌いになったとか、一緒に住むことができなくなったというわけではないのだね。少しそういう気持ちになりかけたけれど、原因は私たちのうちの一方のあなたにあるというよりも、私がいろいろできなくなったことに原因があるかもしれない。私は私たちの現状が改善されればそれほど文句はないので、あなたを責める気持ちもないし、あなただけに原因があるとも考えていない。一緒に私たちの状態を改善していこうではないか。」
と、机上の事案なので、うまくいくわけですが、うまくいく方向には無理がないような気がするのですがどうでしょう。
「あなたの態度を改めよ。」という提案から、「わたしたちの状態を改善しよう」という提案に変えることはとても有意義だと思います。
そしてそれぞれの要素を出し合うわけです。体調が悪い、こういう症状があるというのも私たちの状態を改善するためには情報開示を積極的に行う必要があるわけですし、職場でこういう目に合っていてとてもストレスを感じているということも情報開示をすることは有益です。大事なことは情報開示によって、相手を責めない、批判しない、笑わないということです。励ますつもりだとしても、相手は過敏になっていますから、悪くとらえる危険がいつもの10倍以上あると思います。慎重に、誠実に、対応をする必要があるし、その事情による相手の心情を追体験してみるという姿勢も有効だと思います。相手の不足分があれば、私たちの別の人が変わってやるという姿勢が大切です。
ただ、この発想の切り替えで一番の障害になることが、「自分を守ろうとする意識」です。どうしてもここに戻ってきてしまうわけです。
「夫婦の相手との関係では、自分を守ろうとしない。つまり自分を捨てる。」ということになるのだと思います。ジェンダーの問題があるのであまり言いたくないのですが、私は男性がそれをより多く行うべきだと思っています。この話は伊達政宗が梵天丸と名乗っていた時にさかのぼるので、今日は割愛します。まあ、男性にとって結婚するということは、妻に命を預けるということなのだという話です。
そして、多かれ少なかれ、夫婦にはそのような潔さが多少ならずともあるようです。しかし、何らかのきっかけで、自分を守るという意識が過剰になり、その結果相手を攻撃してしまうという現象が、起きてしまうようです。現代日本では、これまで以上にそのような傾向が多いのではないでしょうか。

そしてこれは離婚防止というよりも、楽しい夫婦関係を形成するための方法という方がふさわしいということを言わせていただきたいのです。離婚をされないためにという後ろ向きの方法論ではないということです。楽しい、対等平等の夫婦を作る過程の中で、離婚が起こりにくくなるということです。おそらく予防というのは、すべてそのようにマイナスを作らないようにするものではなく、プラスを目指す過程の中で達成していくものだとそんなことを考えています。


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【なぜ最近間接間接交流に誘導されるのか】裁判官も誤解している東京家裁面会交流プロジェクトの運営モデル 2 「ニュートラルフラット」という言葉が誤解のポイント 本来どうするべきか [家事]

・はじめに 前回の記事の要約
・ニュートラルフラットという言葉自体の問題点
・ニュートラルフラットという言葉の現実の効果
・そもそも調停実務においてニュートラルフラットという言葉は必要だったのか
・調停委員がニュートラルフラットを逸脱するように見える場合
・同居親から見て面会交流調停で偏った運用に見える場合
・ニュートラルフラットの本当の意味、あるべき調停運営
・もう一つだけ、人間は変化するものだということ

<はじめに 前回の記事の要約>

前回の記事で、東京家裁PTの論文が誤解されているということ、その原因の根本が、これまで東京家裁とその支部のごく一部という極限的な場面でしか行われなかったであろう、直接交流一本やりという調停実務があり、同居親の感情を無視して直接交流を押し付けてきたという反省を、無限定的に行った。ところが圧倒的多数の家裁調停実務は直接交流原則主義など行っていないのに、ますます同居親の感情を調停実務の重要要素として取り上げるようになり、その結果子どもが別居親と会う直接交流が減少していく誤った実務運用となっていると批判しました。今回はその続きです。

<ニュートラルフラットという言葉自体の問題点>

東京家裁PTの提言の冒頭部分で出てくるのが「ニュートラルフラット」という言葉です。PTは、この言葉に二つの意味を持たせており、1)同居親及び別居親のいずれの側にも偏ることなく、先入観を持つことなく、2)ひらすら子の利益を最優先に考慮する。そういう立場だと定義づけています。結論から言って、実務的にはニュートラルフラットという言葉は2)の意味が軽視される傾向に誘導する効果があるようです。ネーミングに原因があることは明らかです。
なぜならば、言葉の意味から、2)は当然に出てこないからです。さらに、提言自身が、提言の次の部分で、1)の意味でニュートラルフラットという言葉を使用しているからです。子の利益を最優先するということを強調しようとしたあまり、1)の意味で言葉を使ってしまっているように読めるということです。
どうして、「同居親、別居親の主張よりも、家庭裁判所の後見的立場から子の利益を最優先して考える」と明確にできなかったのでしょうか。世間的には、こういうと反発されることを考慮したのだとは思います。しかし、概念があいまいになり、誤解を作り出した原因になっていると感じます。

<ニュートラルフラットという言葉の現実の効果>
改めて1)の文言を再掲しますが
同居親及び別居親のいずれの側にも偏ることなく、先入観を持つことなく、
というのです。

これまでの実務で、あまり別居親に偏られた調停があったということは経験ありません。これは、別居親が男性、女性にかかわらずです。別居親が先入観、偏見を持たれたという経験ならあります。典型的には、同居親が女性で、事実に反するDVや精神的虐待を主張されて、別居親が調停委員会や裁判所によって妙に警戒されたという経験はあります。事実調査も何も行わないで同居親の言い分だけで、インカムをかぶった裁判所職員が別居親を見張っていたのです。しかし、一部の例外を除いて、概ね偏りなく扱われているように感じています。ただ、全国の当事者の方々からの相談では、同居親に偏った運用がなされているような相談を受けています。私も、面会交流調停の代理で他県の家裁の支部で、別居親が面会交流の目的はなんだと調停の冒頭で調停委員から詰問された経験があります。
 そういう意味からは、別居親にとって、ニュートラルフラットは歓迎するべき言葉になるはずなのですが、実務は違っています。提言の解説において、同居親から直接交流一本やりだという批判があって、それに対して改善を提言していると読めることが原因です。あたかもこれまでの家裁実務では、会わせたくないという同居親に、先入観をもって直接交流を押し付けてきたという反省をしているように受け止める人が少なくないのです。しかし、圧倒的な実務運用は、このような直接交流一本やりをしていません。それでもこれまでを改めて、ニュートラルフラットだといわれてしまうと、ニュートラルフラットという言葉は、会わせたくないという同居親への説得を自粛させる方向にしか働かないようなのです。

<そもそも調停実務においてニュートラルフラットという言葉は必要だったのか>

私も裁判所や弁護士会で調停委員の役割を担当していますが、あえて「どちらの当事者にも偏らず、先入観を持たない」ということを裁判所が提言することは必要だったのかということに、自分が言われる立場として疑問があります。

これ、裁判所が誰に向かって言っているかということなのです。言われているのは調停委員の人たちなんです。実際は、裁判官に対して、調停委員会をこういう風に運営しろということなのですが、主に反省を促しているのは、調停委員だということになります。当事者と直接やり取りしているのは、多くの事件で調停委員と調査官です。だから、偏っているとか先入観を持っているといわれているのは調停委員だということになるわけです。少なくとも調停委員からすればそう受け止めてしまいます。

しかし、私の実務上の経験からは、調停委員の方々は、むしろ当事者の心情に配慮して偏りがないことを第一に調停運営をされているような印象を受けます(これは必ずしも積極的に支持されることでなく、子の利益の最優先よりも親の感情を優先しているのではないかという感想なのです。)。言葉は変ですが、調停委員は本能的に、偏りのない調停運営を心掛けるという特質があります。自分の価値観を優先するような調停委員は、通常はいません。1)の意味でのニュートラルフラットな立場に立っています。
それを超えて、少なくとも別居親の立場に偏った調停委員がいるということは今まで聞いたことがありません。もしそういう実例があるならば、具体的に例示するべきだと思います。そうでなければ、もともとニュートラルフラットを心掛けている調停委員に対してあまりにも配慮を欠きすぎた提言になってはいないかという疑問があるわけです。調停委員をお願いしている立場の裁判所の言い方としては、あまりにも無礼だろうと思ってしまいます。もっとも調停員に反省を促しているとした場合のことですが。
もしかしたら、ここに裁判所の調停委員に対する誤解があるのかもしれません。もう少し検討してみましょう。

<調停委員がニュートラルフラットを逸脱するように見える場合>

調停委員が、客観的に見れば、偏りとか先入観に基づいて公平を逸脱する場合があります。それは当事者の感情に過剰に共感しすぎてしまう場合です。一方当事者が弱い立場であるとか、追い込まれて苦しんでいるとか、おびえているとか、本能的に味方にならなければいけないと感じてしまい、つい肩入れしてしまう場合です。この場合、その当事者に対して、範囲を限定するならば思う存分に共感を示すということは問題ないと思います。しかし、一方に肩入れしてしまった結果、他方に不利な対応することは厳しく戒められなければなりません。その人の感情と発言が万人からみて根拠があっての感情と発言だとは限りません。感情があるから原因があるでは調停ではなくなります。
もう一つ、偏りがうまれてしまう場面は、一方当事者が感情的になりすぎて収拾がつかず、合理的な解決に向かうことが不可能だと思うときです。こういう場合は、調停の行方に関する重要な事情ですから、事情を他方当事者に告げて進行についての意見を求めるべきです。事実を告げないで、感情的な当事者に沿う形で調停をまとめようとしてしまうことは、調停委員の都合で調停の方向を決めるということであり、これもしてはいけないことです。
そもそも、一方当事者が調停委員会に対して感情的になる場合は、その当事者の主張が実現しそうもないという事実に対して憤るという場合よりも、調停委員会が、自分にはわからない事情によって相手に偏った運用をしている、不公平な運用をしていると感じられる場合だということはよく考えてほしいと思います。
ここは調停委員会の事実認定の問題にも関連するところだと思います・

<同居親から見て面会交流調停で偏った運用に見える場合>

同居親の批判である、直接交流一本やりで強引に調停が進められたという批判には、そのような事実がないのにそう感じるだろうということは、実務家ならば理解できるところです。
子の利益を最優先として考えるならば、条件が許せば直接交流が一番望ましいということは、あまり争いがありません。そのためには、本来代理人は、双方の当事者の葛藤を高めることなく、落ち着いて両当事者が子の利益を優先して考えることができるような環境を作っていくことが求められるわけです。話し合い自体でも、無駄な争いをせず、相手の意見を尊重しながら子の利益を優先するように相手方を誘導することが求められます。また、面会自体も方法を工夫して、子どもがより安心して面会できるように同居親の安心感を構築してく努力が必要だと考えています。仙台弁護士会では、同居親の代理人の弁護士、同居親を安心させて子どもの利益を最優先するために、ボランティアで休日をつぶして面会交流に協力している人たちがいます。頭が下がります。
しかしながら、一定割合で、客観的には面会交流が制限されるべきではない事案でも、感情的に面会をさせたくないと主張する同居親が多くいます。会わせたくない理由としてあげられることは支離滅裂なことがほとんどで、子の利益からは会わせない理由がないことを隠そうとすらしない場合もあります。つまり、自己制御ができない状態であり、子どもの利益を考慮して意思決定することが不能な心理状態の同居親の場合です。それなりに理由をつける場合がありますが、簡単にそれが事実ではないことがはっきりする場合が多いです。つまり別居親(通常は父親)に、DVもなく、児童虐待もなく、精神的虐待もなく、連れ去りの危険すらない場合です。別居親からの同居親に対する敵対感情は強くなく、一方的に同居親が感情的になっている場合です。
 こういう場合、子の利益を最優先に考えた場合、同居親に対しては、理由なく子どもの面会を拒否していると調停委員会は受け止めることになるでしょう。そうすると、調停の大部分の時間は、同居親への調停委員会の説得に費やされます。事実私の代理人となっている面会交流調停期日の大部分は、待ち時間です。調停委員会は、時間をかけて同居親だけを説得するというのが毎回の調停となるわけです。同居親からすると、調停委員が自分にだけ注文を付けるのですから、「直接交流ありき」、偏った調停運営と感じるのはありうることです。これは、東京家裁PTのニュートラルフラットな調停運用の結果こうなるということが正確なのです。だからと言って問題もないのに、別居親との調停の時間をいたずらに取ったところで、面会交流の内容を下げろという話にしかならないわけです。これは、子の利益を最優先するというそもそも論から見れば本末転倒な話です。
 同居親からの批判の事実関係は、こういう流れではないかと考えることが私の実務体験(代理人実務、相談実務)からは自然のことです。だから、こういう場合、つまり同居親が理由もなく面会を拒否しているので説得されている場合でなければ、どういう場合なのか事例を上げなくてはなりません。あえてニュートラルフラットなどという言葉を使って誤解を招き、子の利益を最優先で考えられなくなるような提言をするべきではないのです。東京家裁PTは、全国の家裁運用をミスリードしないように、誤解を含んだ形での影響力が生じることを看過してはならないということを自覚するべきでしょう。

<ニュートラルフラットの本当の意味、あるべき説得スタイル>

私のブログでも何度も言っていることなのですが、意思を持つ人間の何らかの行動を求める場合は、強硬に結論を押し付けても失敗するのであって、その結論に誘導していくことが求められることだということです。提言は、システム論にこだわりすぎて、わかったようなわからないようなものになっています。ここでPDCAサイクルみたいな話をしても仕方がないのですが、若い裁判官には理解した気になる論法なのかもしれません。
 要は、まず、「同居親が別居親に子どもを会わせたくないということは、特に理由がなくても当然生じうる感情だ」というリアルを承認することから始めるということです。感情だから仕方がないと割り切るところから出発するべきです。危険だとか子どもが心配だとか言うことではなく、面白くない、不愉快だ、子どもの心を奪われたら怖いということは、普通の人間の感情だと思います。こういう感情があること自体は積極的に承認してよいと思います。こういう感情さえも否定されたら次に進みません。
 その感情を他人が否定すると、その感情主体は自分を守るために感情が生まれることには合理的理由があるということを述べなくてはならなくなります。そこに嘘や大げさな言葉が必要になる理由があります。そうではなくて、「離婚した夫には子どもは会わせたくないよね。」と始まった方が、その後スムーズになると感じています。
 ここで、調停委員から「でも子どもにとっては会わせた方が良いのだ」とか、「そんなことで子どもに申し訳ないと思わないのか」という説教が始まれば、同居親はへそを曲げてしまうし、あることないこと主張が始まって収拾がつかなくなります。調停が長期化してしまい、何も責任のない子どもが別居親に会えない状態が続いてしまいます。会わせたくないというものだということを他人から言われることで、同居親は、自分の感情が承認されたという安心感を獲得できるようになります。自分の素直な感情を話しても否定されないという安心感です。これが調停委員に対する信頼感につながるわけです。同時に、わかるけれどじゃあ、調停終わりということにならないことから、同居親は「どうにかしなくてはならないのだな」という考えが生まれる可能性が出てくるようです。
 ここで調停委員は、「会わせたくないのはわかるけれど、子どものためには会わせなくてはならないのよ。」と先を急いでしまうと、せっかくの負の感情の承認の効果がなくなってしまうかもしれません。今回の提言の良いところは、急がない、時間をかけるということです。むしろ、子どもの成育状況、母親としてのかかわりを話してもらうとか、父親に対する感情を聞き出すという回り道をするべきなのだと思います。提言にもそれらしいことが抽象的には述べられているのですが、母親の会わせたくない感情に、合理的理由があるはずだという前提に立って、調停において先々検討するいわゆる6つの課題の聴取をするようなことを述べています。これでは、面会交流阻害事由があるという主張をさせるように誘導してしまっています。ニュートラルフラットの手法とは言えません。
 徐々に、会わせたくないとはいっても、もし会わせるとしたら、どういうことを条件とするかということを考え出してもらう工夫をすることが求められると思います。つまり、無条件に会わせるわけではなく、自分が少しでも納得する形で会わせる、会わせ方をコントロールできるのだという安心感を持ってもらうということです。
 この時同時並行で別居親と話をしているわけですから、別居親に対して、同居親の安心感につながるような発言を引き出していくことが大切です。そうして、その発言を同居親にフィードバックしていくという作業が必要になるでしょう。つまり、人間には弱い部分があり、離婚をしたとしても、子どもがいる場合は、双方が親として相手の弱い部分をカバーしあうという協力関係を持つことが求められているとして、この協力関係を子の利益のために双方に努力してもらうということが調停のあるべき姿だと私は思います。
もちろん、面会交流を禁止するべき事情がある場合は、事実認定ができるか否か双方から主張立証をしてもらうことが必要となりますが、今考えているのは圧倒的多数の面会を禁止する理由のない場合です。また、偶然起きたような、人格に基づかないような行動や、主張が曖昧過ぎて事実認定ができそうもない事情しか主張されないような場合は、まずは協力関係の構築の努力をするべきであろうと私は思います。
現代の調停は、逆に、双方の非難合戦を仲介しているとみられる場面があります。これと違って、あえて主張の全部を告げないで、協力関係を形成していくためには、何が調停の方向に影響のある事実であるか、ただ調停委員は聞いておけばよいだけの事実か見極めて、調停委員会の合意が確立していなければなりません。裁判官の強いイニシアチブが必要になる場面です。
また、調停委員と当事者との間の心理学でいうところの信頼関係、ラポールの形成をもう少し意識してよいのではないかと思われます。そうでなければ、人生の一大事について、当事者が見ず知らずの調停委員に対して心を開くということはないと思います。この際注意しなければならないのは、双方に公平な関係を維持するということです。これは実際は難しいことではなく、申立人と話しているときは申立人の感情を承認し、相手方と話しているときは相手方の感情を承認するということで解決できます。両方にえこひいきするという手法です。私は昭和の時代の小学校の先生から伝授されましたが、心理学でも確立している手法のようです。双方が感情が対立しているとしても、どちらかの感情に共感することが他方の感情に共感することと矛盾しないことがほとんどですが、矛盾したとしても気にしなくてよいと思います。

<もう一つだけ、人間は変化するものだということ>

今述べたような調停運営がなされて、当事者双方が安心していくと、当事者双方は安心感を獲得することができるようになります。そのような調停に立ち会うと、人間が変化していく様子を見て感動することがあります。
だから、調停の一時点をとらえて直ちに、面会交流の方法を決定することには抵抗があります。面会交流調停は急がないというのであれば、少しずつ面会交流を始めていくことで、様子を確認して、さらに子の福祉のためにより良い方法を検討していくことが適切だと思います。一方で、過大な面会条件としないために馴れという経験が双方必要だということと、他方で、子どもにとって不十分な面会を永続化しないためです。もう一つ、無駄にお互いに不信感を抱き続けたり、景観間をもっておびえ続けなくするという効果も期待できます。

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裁判官も誤解している東京家裁面会交流プロジェクトの運営モデル 誤解されるポイントと誤解の理由 1 現状分析についての誤解 [家事]

 
<この記事を書く動機というか必要性>
<実務運用分析の誤り。極限的な実務運用がスタンダードとされて分析がなされているように読めることが原因。そしてその弊害>

<この記事を書く動機というか必要性>
面会交流については、近時、今後の実務の方法について、家庭裁判所関係者から提言された大きな二つの論文があります。
・家裁調査官研究紀要の27巻 「子の利益に関する面会交流に向けた調査実務の研究」小澤真嗣他
・家庭の法と裁判  26号 「東京家庭裁判所における面会交流調停事件の運営方針の確認及び新たな運営モデル」東京家庭裁判所面会交流プロジェクトチーム
です。
それぞれ、最初に私が読んだときは、私の考えている運用論が家庭裁判所からも支持されるようになったと、すんなりと受け止めていました。しかし、実務的には、これらの二つの論文が、昨今、子の利益よりも大人の利益を優先しようとする実務運用に使われているという実感がわいてきてしまいました。
一つは、子どもに別居親を会わせたくないという同居親に寄り添って、会わせないための調停での方法を指南している弁護士が何らかのマニュアルを書いているとのことで、その論文の中で面会拒否のテクニックとして二つの論文を指摘しろと言っているというのです。論文を読まないで都合の良いことを言っているのかなとその時は素通りしたのです。
しかし、その後、家庭裁判所で面会交流の事件をしていたら、若い裁判官から、「最近は、直接面会を裁判所も必ずしも認めない流れになっている。」というような発言がありました。どうやら、東京家裁PTの論文のことを言っているらしいのです。論文を読みもせずに雰囲気だけを拾い取っていたり、誤解をしている誰かの話をうのみにしていたりして、東京家裁PTの論文を誤解している可能性がありそうです。裁判官ですらこのありさまなのだから、弁護士やユーザーも同じように誤解をしているのではないかと心配になりました。
以下、東京家裁PTの提言の何が誤解されているのか、どうして誤解されているのかということを検討しようと思います。

<実務運用分析の誤り。極限的な実務運用がスタンダードとされて分析がなされているように読めることが原因。そしてその弊害>

1)論文の実務に対する二つの批判
論文では、これまでの実務運用が改められるべきだと述べられています。まとめると
・直接交流一本やりで同居親に配慮を欠き批判された。
・面会交流の内容が貧弱であること、実際に履行されないことを別居親から批判された
というものです。
2)同居親からの批判についての改善の提言
同居親の批判に対しては、同居親に対して説教や命令をするだけでなく、心情をくみ取ったうえで、面会交流の子どもにとっての必要性と、面会が禁止される場面があることを丁寧に説明していくという改善を提言しています。
3)分析が例外的な実務運用を一般化したこととその弊害
 この分析は、面会交流調停について全国の家裁実務を調査検討したものではありません。私の仕事は、東北地方中心ではありますが、北海道から関東まで、結構多くの家庭裁判所で面会交流事件を担当してきました。また、全国の当事者の方々から電話などで相談が寄せられています。直接交流一本やりで、面会交流調停が行われているという体験もありませんし、当事者からの報告もありません。東京家裁の事件でも同様です。同居親からの批判としてあげられた内容については、ジャンダーフリーを主張する弁護士から、直接交流一本やりの家裁実務の批判を見聞きしたことはありました。しかし、特定の政治的立場からの感じ方だろうと高をくくっていました。しかし、当の東京家庭裁判所が自分たちは配慮に欠ける強引な調停をしていたというのですから、そういうこともあったのでしょう。なんとも不思議な話です。
 少なくとも、私が相談を受けた事案の調停実務の問題点は、会いたい、会わせたくないという当事者間の争いが「どっちもどっち論」になってしまい、子どもの利益が最優先とはされない調停が進められているというものばかりです。私が担当した事案の調停でも、直接交流一本やりで、強引に同居親を説得するという運用は皆無で、会わせたくない心情を解きほぐして一緒に考えていくという運用がなされています。そうでなければ、面会交流は、現実には行われないからです。もし、直接交流一本やりの調停があったとしても、それは東京家裁とその支部の極一部の事件で行われたものだと、私の実務経験からは考えざるを得ません。
 このような、調停実務の極めて情緒的な分析が、提言の誤解の根本原因になっています。つまり、全国の家庭裁判所は、東京家裁が反省しているのだから、自分たちも同じように反省して、運用を改めなければいけないと機械的に思うようです。そもそも、東京家裁の傾向を敏感に反映した実務をしていないくせに、自分たちも同じ誤りを犯しているのだと感じるようです。これまで、子ども利益のためには、できるならば直接交流を実施した方が良いと考えて、いろいろ同居親に働きかけてきたけれど、それ自体が悪かったと誤解するようです。東京家裁の反省するべき実態が示されていないために、自分たちの実務が同居親に冷たかったとした、受け止められないわけです。しかし、二つの論文とも、直接交流が条件が許せば一番子の利益に最も効果があるといっているのです。ところが東京家裁PTの「反省」によって、他の裁判所ではこの根本が落ちてしまうようです。ますます同居親へ配慮しなくてはならないということだけが結果として見えてきてしまいます。結果として、「子の利益を最優先して調停を運営する」という根本的価値観よりも、同居親への寄り添いが優先されるという結果が起きてしまっています。
4)別居親からの批判についての改善の提言
別居親の批判に対しては、現実の課題や問題点を克服していきながら、自主的な解決を実現することも視野に入れて調停を運営するという改善方法が報告されています。
5)提言の改善ポイントについての誤解とその原因
別居親の、「調停や審判事項が守られない」という批判にどう答えるかということがあいまいだと批判されるべきでしょう。間違っているわけではないけれど、あいまいだから誤解されるのです。別居親の批判は、子どもに会いたいということが根幹にあり、「調停や審判で会えることが決まったのに会えない」という批判です。これに対して解決方法は二通り考えられます。Aは、実現不可能な取り決めをしないで、実現可能な範囲で調停、審判を行う。Bは、調停や審判を家裁の手続きが終わっても同居親が自主的に履行するように、同居親の心に働きかける調停を行うということです。PTの結論はBであることが読めばわかります。私から言わせれば、同居親の自主的な面会協力を後押しするように別居親も自分のふるまいを考えるということも大切です。しかしながら、どうも裁判所というのは、自分たちの関与に批判が来なければよいと思っているのでしょうか、Aの解決方法を、おそらく無意識に志向してしまうようです。つまり、実現可能な範囲で面会交流の方法を低くとどめようとする実務傾向が最近見られています。つまり、直接交流が守られそうもないなら、初めから間接交流で決めればよいやという安易な考え方です。子どもの利益を最優先する考えが消失しているだけでなく、当事者の利益よりも裁判所の自分が批判されないという利益を優先しているようにさえ感じられることがあります。
二つの論文とも、「子の利益を最優先する」という根本価値を繰り返し述べているのですが、どうやらそれは、読んでいる裁判所では、意味が入ってこず、枕詞のように扱われているのかもしれません。
6)この分析の現実の実務的効果
 この分析の部分の実務的効果は、先ほどのBのような選択肢が取られる理想的な調停実務が展開されるのではなく、単に同居親の感情に寄り添って、同居親に積極的に働きかけることを自粛し、「嫌なものは仕方がない。できる範囲で間接交流でまとめるか、時期尚早で面会を認めないか。」という傾向になりつつあるのではないかという危機感を感じています。

<ニュートラルフラットという言葉の弊害>
 提言の冒頭に出てくる「ニュートラルフラット」という言葉の弊害については、次回また述べたいと思います。

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家族再生を目指す場合の「専門家」の関り方。加害者プログラムの受講者さん方と話して気が付いたこと、相手のこころに働きかけるというアプローチこそが重要ではないかということ。弁護士と心理士とのすみわけとコラボレーション。 [家事]


要は、ユーザーが何をどのように利用するかという話です。

最近、男性からの離婚事件の相談を受けていると
心理的な学習をなさっているというか、
「加害者プログラム」の研修を受けている人たちが多くいます。
こういう方々はよく勉強していて、
・自分が妻に何をしたのか
・どうして自分はそういうことをしたのか
・自分の気持
については、驚くほど正確に文章として記録し、説得力あるお話をされます。
つまり「自分について」はよく語れるのです。
また、その結果妻が自分から去っていったのだ
という「結論」はご自分で語ることができます。

ただ、加害者プログラムという性質からでしょうか
自分のネガティブな側面がクローズアップされすぎているような
印象は受けています。

それよりも問題ではないかと感じるところは、
自分の行動によって妻がどういう気持ちになって、
別居という選択をして行動に出たのか
というリアルな流れの説明がかなり希薄な感じがするのです。

自分についての考察がかなり正確だからこそ
際立ってそう感じるのでしょうね。

どんなに自分について詳しく説明できるようになっても
対策は生まれません。

「自分と相手の関係」を修復したいならば
相手の気持ちを動かさなければなりません。
相手の気持ちについての理解が無ければ
相手の気持を動かしようがないので、話しが始まらないからです。

自分の気持や行動を、反省に基づいて
止めるべきところをやめただけでは
二人の関係は改善されません。

この意味で
デメリットが多くてメリットが少ない例として、
「自分の気持の中に相手に対する支配欲があったことに気が付いて
自分はなんて暴君だったのだろう。」という反省です。
そんなことに気が付いたところで
仲直りができるわけではありません。

反省の内容を手紙にして相手に届けたところで、
自分も相手も苦しくなる結果にしかならないというのが
弁護士としての経験上の実務的な実感です。

あまり現実(相手のこころ)を動かさないわけです。

(そもそもわたしは「支配欲」という欲を持っている人間がいるとは思っていません。自分を守るために、つまり自分が安定して妻との関係を維持できるために、妻の自分の否定的評価をことごとく消さなければならないという過剰な防衛行動が程度を超えると「配偶者加害」(DV)となると考えています。あなたは支配をしたいわけではない。ただ、自分に自信がない状態になっているから、相手が自分に理不尽な評価をすることを何とか無かったことにしたいと思って、後先かまわずに防衛行動を起こしているのではないでしょうか。しかし、相手があなたのそのような内心を理解することは無理です。その結果、相手からしてみると、自分がどう扱われたかだけを認識しますから、支配されている、服従を強いられているという感覚を持つということだと思います。あなた、自分の愛する人に自分の奴隷として行動してほしいと思いますでしょうか。そんな他人を支配しようなんてことを考える人がパートナーをそもそも作れるでしょうか。そうではなくて、仲良くする方法がわからないのです。本当はただ「ふたりの関係の中に安心していたい」ということなのだろうと思うのです。)

だから、相手の気持ちを考えて
「どうすれば相手は安心するだろうか。」
ということを考える方がよほど現実を動かすと思うのです。

うっとうしい夫の懺悔話なんて
誰が聞きたいと思うでしょうか。
夫の自己正当化と、
真実に気が付かなかった自分(妻)への非難と受け止められ、
逆効果になるということがこれまでの経験です。

ではどうするか。
方法論はそれほど簡単ではありません。
なぜならば、人のこころに、客観的な基準なんてないからです。
こうすればうまくいくという一般論はありません。

その一人の人がどう受け止めるのか
その一人の人のこころをどう動かすのかということがテーマです。

その回答を導くための素材は、
あなた自身が誰よりも豊富に持っていることに気が付いてください。

男女として一緒にいた時間が多かったあなた自身だからこそ
その人のこころに関する情報を誰よりも持っているのです。

あくまでも相手のこころを変えるということが唯一の目標です。
あなたの内心が変わろうと変わるまいと
あなたの働きかけに対して相手は反応するわけです。
たとえあなたが、妻に対して
二度と許せない一生恨んでやるというよこしまな気持ちがあっても
それを微塵も感じない行動をとって安心させれば
相手はあなたに近づいてくるかもしれません。

逆に、あなたが誠心誠意懺悔して、申し訳ない気持ちがいっぱいになっても
相手のこころを動かす行動をしなければ
相手があなたに対する気持ちに変化は生まれませんから
何も変わらないわけです。

どんなに攻撃的な心が内心に渦巻いていても
相手から歩み寄りがあり、信頼関係を築くことができれば
つまりあなたと相手の関係性が生まれれば、
その結果
あなたのこころも相手のことを想うように代わっていくはずです。

こころは後からついてくればよいわけです。
この点で、同じ過ちを犯さないようにするという意味では
自分の行動の反省も役に立つのかもしれません。
でも、自分の反省も、相手のこころを抜きにして行っても
あまり意味が無いと思うのです。

自分を守ることをやめて、自分のこころなんてうっちゃっておいて
相手の心を動かすことに専念する
これがあなたのやるべきことのすべてなのだと思うのです。

そうすると「自分というものが無くなってしまう」という
頼りない気持ちになるのかもしれませんが
ある意味これが対人関係学の出発点で
ここが大事なところです。

要するに
「人間というのは、いかなる意味でも
1人では生きていくことができないし
『自分』という概念ももつことはできない。
仲間の中の自分という
他者とのかかわりの中で初めて自分というものが存在し
自分という存在を感じることができる」
という側面を重視することです。

人間の紛争の解決に人間の相互作用という問題を重視するというのが
対人関係学の立場です。
この思考パターンは元々弁護士的な発想なのかもしれません。

これと違い心理学の多くは
どうしてもクライアントの心理分析が主体となっているようです。
そういうアプローチをする学問なのでしょう。

但し、これには例外があって
私も常々勉強させていただいている「家族療法」という学派は
家族の相互作用ということを大変重視されていますし、
カップルカウンセリングという学派もどうやら相互作用が
解決の指針のようであります。
これらの学派からは学ぶところが多くありそうです。

しかし、多くの依頼者のカウンセリング経験を聞くと、
この相互作用という視点がどうも足りないような感じを受けますし
クライアントの心理を重視し過ぎているような印象を受けます。
「どちらがより悪いか」ということをカウンセラーが直感で判断して
悪いと判断された方が変化するべきだというカウンセリングが
とても多く感じます。

何よりもカウンセリングが成功していないだろうなと感じるポイントは
そのカウンセリングを受けている人たちが
自分に対する内省は進めながらも
相手の行動に対する怒りがちっとも減らないで
自己の行動を制御することをあまり訓練されていないようだ
というところです。

何にも刺激のないところでは反省をしているのですが、
相手のアクションがあるとつい反応してしまうところは
あまり変わっていないというところでしょうか。

「相手のこころをどう動かすか」という視点を持っているようには
とても思えないのです。

自分で自分を大切にしているのだろうなというお話はよく聞くのですが、
自分を守ろうとする結果なんだろうと感じるのですが、
無駄な争いを目的もなく繰り広げて
家族の再生とは逆方向に歩んでいるなという姿をよく目にします。

もちろんうまくいっている加害者プログラムはあると思います。
また、プログラムは立派なものだとしても、当の本人が
まだ研修の半ばのためにうまくいかないということもありそうです。

あるいは、カウンセリングを受けたため、
ここまで前進したということも真実かもしれません。

ショックが大きすぎると、
自分が攻撃されているという意識が拡張していきますから
冷静に考えるということさえできないかもしれません。

カウンセリングのおかげで私と話ができるようになり、
次のステップを目指すことができるようになったのかもしれません。

もしかしたら対人関係学はこういうところは
あまり関心を持っておらず
その人任せにしているのかもしれません。

そうだとすると、
家族の再生に向かうための他人の関りは
複合的なものが良いのかもしれません。
つまり、何人かの専門家がフォローをすると言うことですね。

その際には、お互いのフォローがお互いに邪魔しないで
効率的に家族再生を進めるために
情報交流をした上で相互に利用し合う形が生まれると
良いのかもしれません。

つまり、認知のゆがみを是正するパートと
相手に対する働きかけを担当するパートということになるでしょう。

そうすれば、もっとうまく解決する例も増えてくるかもしれません。

但し、その最大の弱点は費用が掛かりすぎるということかもしれません。

個別の連携よりも
家族を再生させるためのプログラムを確立して
各専門家がどのように関与していくかという
サンプルを蓄積していくことが実務的ではないかと思われます。

情報を広く提供して
専門家に個別の費用をかけないで自分で解決していく
ということができれば
当事者にとってはなお良いということになるでしょう。


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ジェンダー平等の夫婦を築く方法 どういう男性と結婚するべきか。男性を操作する方法 「DV」をしやすい男性とは  [家事]


私が男性ということもあって
夫婦を楽しいものにするために
男性に対してどう自分を修正するかということばかり
お話ししてしまっているようです。
必ずしも男性だけに向けて言っているのではないのですが
表現として男性の視点で言っています。

それは自分のこととして考えて、その結果をお話ししているので
自然とそうなっているだけのことです。
ジェンダーバイアスがかかっているからではありません。
しかし、結果的に、
「女性は男性によって幸せにしてもらう」
というジェンダーバイアスを進めていることになりそうなので、
なんとか頭を絞って女性に対してお話しする表現
ということで考えてみました。

この「女性は男性によって幸せにしてもらう」ということになれば、
それは女性という性を馬鹿にしたことになる
ということをまず認識してください。

「それでも良いのじゃないの」というならば
ジェンダー云々なんてことを言わないで
男性に従属して生きて行ってください。
しかし、現代社会では
その結果、不幸になる人が多くなっている
と私が感じていることだけ頭に入れておいてください。

弁護士という仕事がら離婚の場面という切り口からお話ししていきます。

離婚理由で本当によく聞かされるのは、
「夫は自分の気持ちを察してくれなかった。」
というものです。

それを詳しく聞いてみると
「なるほど、それはガサツすぎる。無神経だ。」
という場合もあるにはあるのですが、
その妻の気持を夫が察するということは
微妙なこと過ぎて難しすぎるのではないか
というようなケースの方が多くあります。

この「察しない」ということについて
どんなに離婚訴訟の中で説明を重ねられても
夫は、「どうして妻が離婚したいのか。」について
それでは全く理解をすることができません。
私もわからないのです。
(だからもしれませんが、そのときはそれほど嫌なことではなかったのではないか。後から振り返ったときに、新たな意味づけをされたのではないかと感じるのかもしれません。)

この点妻側の代理人は、もう少し当事者とディスカッションをして
夫に伝わりやすく表現を工夫するべきだと思います。
すっきりした離婚、あるいは再生のためにはそうするべきです。

しかし、家庭裁判所はそのような曖昧な離婚理由でも
夫婦関係は「回復しがたいほど破綻している」と認定して
離婚の判決を出してしまう傾向にあります。
だから妻側の代理人の伝える技術、前提として聴き取る技術は
その必要がないと判断しているのか、向上されません。
離婚訴訟が泥沼化する大きな要因になっていると感じています。

こういう主張をされる妻の一番の問題は
離婚の問題が始まる前に、同居期間中に、
自分の何を知ってもらい、どう修正してもらいたいのか
ということについて、夫に対して全く言葉にしていないことです。

シビアな見方をすれば
・自分は夫から幸せにしてもらう客体である
・だから自分で自分の立場を改善する必要はない。
・夫は自分が何も言わなくても自分のこころを察するべきである。
・その上で夫は夫自身の行動を修正して妻である自分のこころを満足させるべきである。
と主張していることになると思います。

これでは、
夫の男性という性が、妻という女性を支配したいというのではなく、
妻という女性の性の方が、
夫に支配されたい気持ちが満々だというように聞こえてしまいます。
こういう「夫が察しない」という離婚時の主張は
男女平等なんてそんなの関係ないという主張に感じてなりません。

こんな男性依存にしがみつくような主張は
ジェンダー平等の足かせにしかならないと感じる次第です。


第1の私の主張
自分が幸せになるためには、自分の環境を自分で改善する必要がある。
それが大人というものだ。

第2の主張
他人はあなたの心の中はわからない
そのために言葉というものがあるのだ。

第3の主張
男も女も関係なく、自分で意見を言って、
共同生活を心地よいものにすること
これが二人が一緒に幸せになることだ。

<なぜ相手に改善を求められないのでしょうか>

離婚訴訟の場合は、本来夫に主たる原因がないのに
妻が自分の気持ちをうまく説明できないこと
特に自分のネガティブな気持ちの由来を説明できないため
すべての原因を夫に求めるという無茶な視点の働きかけがあり、
妻自身が自分の記憶を改変させていることもあるので、
こういうケースは除外しましょう。
今はこうならないためのお話なので必要ないと思います。

提案ができない原因の1つには、
遠慮というか恐れがあると思います。
「こんなことを言うと、相手の機嫌が悪くなるのではないか。」
「自分がわがままだと思われるのではないか。」
「相手から嫌われるのではないか。」
ということです。

2つ目は
言い方がわからないということがあると思います。
相手の貧乏ゆすりだったり、口を開けて咀嚼をする癖だったり
声が大きすぎてこちらが怖くなるとかに対して、
ただ単に「嫌だからやめて」というのは
「少しきついかな」と思うのかもしれません。
命令みたいに受け止められて空気が重くなった
という経験がしこりになっている可能性もあるでしょう。

3つ目には
自分がお願いしたことで、
自分も何かいわれたら面倒くさいな
ということもあるかもしれません。

<ではどうやって改善を提案するか>

1)心構え

自分だけが我慢することは不満が蓄積して楽しくない
その結果、二人とも幸せな感覚が薄れていく
つまり
相手に修正ポイントを教えてあげるのは、
一緒に幸せになるためだ
という心構えでいきましょう。

おっかなびっくり物申すと夫からは
「ああ、自分のことを悪く言っているのだな。」
と変な解釈をされてしまいます。
堂々とにこやかに、一緒に幸せになりましょう

言い方を工夫すれば、相手単体にとってもいいことしかありません。

2)方法論
全面否定をしない。

相手に何か行動を求める場合全般なのですが、
全面否定をすることはメリットが少なくデメリットが多いです。

「声が大きいからしゃべるな」と言いたくなる前に
「今少し声が大きすぎると思う。ちょっとびっくりしてしまった。」
という方がよほどリアルに、あるいはニュートラルに
つまりは事務連絡的に伝わると思うんです。

ここで「ごめんね」と付け足すことは潤滑油の役割を果たします。
あなたが悪いわけではないにしても、
悪意がないことがわかっているのに、他人に修正を提案することは
相手に動揺を与えるわけです。
その時、「こちらにはあなたを攻撃する気持ちはありませんよ」
という表明が「ごめんね」等の目的です。

英語のNo thank you.
のサンキュー見たいなものです。

夫からすれば「しゃべるな」と余計なことまで言われれば
自分が否定されたと思い反発するでしょうが、
ちょっとボリュームが大きいならば、改善することができますから
改善することに抵抗は少ないのではないでしょうか。

(私もよく言われるのですが、夫側は全く「大きな声」という自覚はありません。言われると意外な気持ちや、自分を攻撃しているのではないかという気持ちになりますが、「大きい」か「小さい」かは、聞いている人が決めることですから、一緒にいる人の心地よい方を選んでも、傷つく必要はありません。また、聴覚というか耳の神経の過敏な人は、少し大きい音でもかなり苦痛を感じるようです。)

また、
「貧乏ゆすりしてみっともないからやめて。」
というよりも
「あら珍しいね。なにかあったの?でもよそでせわしなく動いていると
あまり良い印象を受けないから、もったいないわよ。」
なんていう方が「すまんすまん」というようになると思うけど、どうでしょう。

マイナスを指摘してゼロを目指すように促すことよりも、
プラスを目指そうという方が相手も受け入れられやすいし、
その気になると思います。
自分が否定されているという気持ちになるのではなく
一緒にプラスを目指そうということで仲間として見られている
ということを実感できるからです。

特に相手が自分や家族のために一生懸命やった努力は
否定してはなりません。
「そんな無駄なことに時間とお金をかけてバカじゃないの」
という言い方は「臓物をえぐる悪罵」だと思います。
そこに十分感謝をした上で、あるいは努力に感謝をした上で
少し時間をおいて
「こうすればもっと良くなるのではないか」
という提案をしていくのがより良いと思います。

あるいは、全体としては称賛しつつも
部分的に修正するべき問題の所在を一緒に考える
ということならなおよいのですが、
すいません具体的な例が思い浮かばない。
どうしても否定しなければならない時は
別のことを十分肯定しておいてから切り出すということが
有効です。

要するに、
「その失敗、その不十分によって
私はあなたの評価を下げることはしない
安心して私の言うことを聞けばよいのだ。」
ということを伝える努力なのです。

相手が機嫌を損ねるポイントが
・自分を否定された
・自分の評価を下げられた
・自分の努力を否定された
というところにあるからです。
(人間が傷つくポイントがここにあるわけです。)

ただ、だからと言って
「あなたを否定するわけではないけれど、口閉じて食べて」
とか
「あなたの評価を下げるわけではないけれど、大声で話さないで」
等と言っても意味ないですからね。
ここは言葉で説明すればよいというのではなく
そう思わせない工夫をすると言うことですから。

「ジェンダーを利用する」というのも昔からの知恵です。

夫婦は、全世界、全時代の、男性と女性の代表同士の二人である。
あなた個人の問題であっても女性の性質ということで説明すればよい
という論法です。
「私はそういうの嫌なの」という代わりに
「女性はそういうのは嫌なものなのよ」
というということも相手の機嫌を損ねない工夫だと思います。

つまりあなたが悪いわけではなく
男性はそうするものだからそのことであなたの評価を下げないよと
わかってもらえば良いのだからというアッピールにもなりますね。

そうして相手があなたの話を聞いてくれれば感謝を示す。
あなたの提案で行動を修正してくれればさらに感謝を示す。

この方法は一つにあなたが嫌なことを減らすことになりますが、
相手もあなたに要求するときに、マネをするはずです。
あなたが言われるときに、必要以上にダメージを受けないように
という予防措置にもなるわけです。

こうしてこまめに修正をし合えれば
解決しやすいうちに解決できるので
不満をためることも少なくなるでしょう。

感謝ということも、実は、自分の気持を満足させることではなく、
何かをしてもらった相手に安心してもらうための言葉なのだと思います。
ちゃんと自分の努力が評価されている
自分は人間関係の中で肯定され、尊重されている
という潤滑油なのだと思います。

自分の中で一定の基準があり
この基準を超えた場合はありがとうと言おうとか
この基準を超えない場合は感謝する必要がない
と、「なんでありがとうと言わなければならないの」
という人もたまに見ますが、
どちらが楽しいか、幸せを感じるか
ということで、絶対ありがとう、ごめんなさいが
自然に言える方が幸せになれると思うのですがどうでしょう。

相互に感謝し合うことによって
あるいは自分の要求に応えようと相手が努力するのを見ることによって
とても居心地の良い、安心できる人間関係がカスタマイズできると思います。

大人どうしが人間関係を形成するということは
こういうことだと思うのです。

<夫の操作方法まとめ>

人間は、仲間の中で貢献しているという実感を持てば
本来とてもうれしい気持ちになります。
逆に否定評価をされると
悲しんだり、がっかりしたり
場合によっては評価の仕方が悪いと反発することがあります。

自分はあなたを否定評価していませんよ
ということを上手に伝えて
相手がしたことに感謝を示すことによって

相手はあなたとの人間関係に安心をして
自分の能力を発揮してあなたに貢献しようとするわけです。

おだてられて木に登った豚は
幸せに包まれているわけです。

<最後に>

ここまで読まれた方には本当に感謝します。
どういうご感想を持たれたでしょうか
そんな面倒なことをやる人はいないのではないか
というご感想を持たれた方もいらっしゃると思います。

ただ、これがうまく回り出すと
とても楽しいし、充実感をもてるし
家に帰るのも楽しみになります。

ただ、面倒にならないためには
完璧を目指さないことだと思います。
いろんなコンディションで、できない時もありますし
条件反射的に相手を否定してしまう時もあるでしょう。

そんな時は失敗を大後悔するより先に
謝っちゃえばよいのだろうと思います。

知らん顔して、相手を尊重することを示す別のことを始める
ということも、実際はよくあることです。
話しを変えるということはそういうことです。

いかに家族であっても、最低限の尊敬の念を持つべきだと思います。
自分が他人を動かすときは、敬意を払う必要がありますし、
他人が動いてくれたときは感謝を示す必要があると思います。

言葉をどうして人間が持ったのか
私は、毛づくろい説に賛成しています。
つまり、仲間を安心させるために言葉がある
ということです。
そうやって言葉を使えるようになった人間を
大人と呼べるのだと思っています。

また、相手を動かすことで
自分が幸せになるだけでなく
相手と一緒に幸せになるならば
人間もまんざらではないなと思うのですが
いかがでしょうか。

<どういう男性と結婚するべきか>

忘れるところでした。
どういう男性と結婚するべきか。

何か言われるとムキになって反論するような男性とは
結婚するべきではないでしょうね。
こちらがどんなに言い方を気遣っても伝わらないならば
確実にお互い不幸になっていくことになるでしょう。

こういう男性(女性)は、あまりにも自分に自信がなく
あらゆることが自分を攻撃していると
被害を取り込んでしまう傾向にあります。
自分を守ることに過敏になっています。

自分が何とかしてあげるということはなかなか至難の業ですし
家に帰ると常に緊張しているというのでは長続きしません。

結婚前に相手と十分やりとりをして
こちらがうまく事を運ぼうとすれば、うまくいく
という実感を持てる相手と結婚すればよいと思います。

ただ、100パーセントを目指すと結婚は無理だということも
頭の中に入れておいていただくとなおよいと思います。

自信たっぷりに見える相手というのも警戒する必要があるかもしれません。
本当に自信があれば、自信があるぞということをアッピールしません。
これをアッピールするのは、自信があることを装っているだけの
気弱な不器用な人間である可能性があります。
相手の心をつなぎとめる方法がわからず
結果として相手を否定して縛り付けようとする男性は
こういうタイプかもしれません。

柔軟な考えができて、あなたのことを1番に尊重してくれる
そういう相手をお互いに選ぶと幸せになるのではないか
また、何年経っても夫婦はそうあるように
お互いに努力するべきではないか
今のところそう考えています。

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