離婚後の親権制度について、他国に恥じることのない議論のために 子どもの権利を最優先にした議論の枠組みをするべき [家事]
8月29日に法制審議会は、離婚後の共同親権制度などのたたき台を発表し、離婚後の親権制度についての法改正が目前という状況になっています。世界ではごく例外を除いて離婚後においても共同親権制度をとっています。日本だけは、国際的に異例の単独親権制度をとっていて、今回の改正においても共同親権が曖昧な形のまま法制化される懸念があるというのが、現在の立法にまつわる政治状況だと言えるでしょう。
この状況は、国際的に見てとても恥ずかしい状況です。なぜならば、世界では子どもが一人の人格主体であると認識されていて、大人は子どもの健全な成長に責任を持たなくてはならないという理由から、両親が離婚しても子どもは父親からも母親からも愛されて育つ権利主体であると法的にも位置付けて、共同親権制度に次々に変更していったという経緯があります。日本だけが、子どもの両親から愛されるという切実な権利に価値を置かず、子どもの権利とは別の次元で子どもの権利を制約し続けているのです。日本は権利を主張できない弱者の権利擁護を考えない国だと実際にも国際的に評価されています。結論も一択しかないと思うのですが、何よりも議論の過程を世界が注目していると思います。
前回の記事では、親権概念を確認し、
・ 親権は親が子どもを思う自然な情愛に基づいて親に親権をゆだねたということ、
・ 戦後の法改正で父親と母親の双方が平等に親権主体と定められたこと、
・ しかし実際には一方の親によって他方の親の親権が侵害されているのに回復する強力な制度が無いこと
・ 父親の親権が母親によって侵害される場合に、公権力やNPOが侵害に加担していること等を述べました。
今回の記事では、
1 立法についての議論がどのような道筋で行われるべきか
2 夫婦が離婚しても、両親から積極的に愛情を受けていることがどのように子どもの利益になるのか、
3 立法趣旨との関係で共同親権制度にする必要性はどこにあるかということを述べていきます。
今回も、実際に離婚事件その他の子どもの養育に関する事件を多く担当する法実務家として、私の実務経験をもとにお話をしていきます。
1 立法の議論のあるべき道筋
親権制度は、前回お話しした通り、世界的に近代以降では、子どもが健全に成長するために親が行うべき義務がその概念の中核になっている必要があります。「子どもが健全に成長をするためにどのような親権制度とするべきか」という議論から出発しなくてはなりません。
そしてこのような子どもの利益のためになる制度を作った結果、他の観点からの不具合が生じることもあるでしょう。法律というのは、このように一方向の利益だけで定めることはできず、それによる不具合をどのように修正するかということを考えて決められる定めにあります。
離婚後の共同親権反対論は、この出発点が欠落していると言わざるを得ません。共同親権反対論の論拠は、共同親権になるとDV被害女性の保護が不十分となるということが核心になっています。つまり、子どもの権利についての議論を欠落させて、女性の利益を元に論を立てているのです。これでは、世界に顔向けできない議論をしているということになります。
また、実務経験からすると、家裁の離婚手続きで、未成年者がいるケースのほとんどがDVの存在しない事案です。DVによる慰謝料が認められないケースは少なくありません。裁判所を通さない協議離婚の場合は、もっとDVが存在しないケースが多いと推測されます。協議離婚が成立しているということは、夫婦で離婚届けを作成しているということですから、妻が子どもを連れて夫から所在を隠しているというケースよりも、離婚届の受け渡しが行われているケースが圧倒的多数であり、つまり、DVからの逃亡が不要なケースが多いからです。
いったい、未成年者がいる離婚のケースのどの程度の割合がDVがあった案件だというのでしょう。また、DVがあったからという理由で一方の親か子どもの所在を隠す必要がある案件なのでしょう。DVの定義が曖昧であることも相まって、有効な統計資料はないはずです。離婚総数の内、DVがあるために離婚後も父親と母親の協議ができない割合はごくわずかであると思います。それにもかかわらず一律に共同親権が排除されるならば、大多数の両親が離婚した子どもたちは、自分の状況と異なる状況のために、一方の親から愛情を注がれる利益ないし権利を考慮されないという事態になりかねません。どうして子どもたちは我慢しなければならないのでしょうか。
また、共同親権反対論の論拠が、母親の権利を第一に考えて立論されているということは、子どもの権利よりも母親の利益を優先する価値観によって議論がなされているということになります。何よりも子どもの権利について議論が行われないのですから、母親の利益を優先という表現よりも、子どもの権利ないし利益を欠落させて親権の在り方が議論されていることになります。つまり、これでは、母親の利益さえ図られれば子どもの利益を考慮しなくてよいという態度に外なりません。つまり、子どもは一人の人格主体として保護されるのではなく、母親の利益に従って行動するべき母親の付属物という扱いがなされていることになります。子の連れ去りとはまさにこのような現象なのです。
封建制度のイデオロギーの残存的思考であるとともに、子どもは女性が育てるべきという看過しがたいジェンダーバイアスにとらわれた議論だというほかはありません。そこに統計や発達心理学などの科学的考察はなされていません。
議論のあるべき道筋とは、
先ずDVを脇において、夫婦の離婚後に子どもはどのように育てられるべきか、同居親と別居親がそれぞれどのようにかかわるかべきかということから離婚後の親権の在り方を議論するべきです。
次に、それで制度の骨格を定め、それにより生じる不都合をどのように最小限度にするかという議論に進むことになります。その際、DVとは何か、被害実態とはどのようなものが統計的には見られるのか、件数、割合はどの程度のものなのかという統計資料に基づいてどのような制度修正をするべきかを議論することになります。
私は、民法上の共同親権制度には、DVの問題をいれることは不可能だと思います。民法の文言にDV問題を配慮した文言をもうける立法事実が認められることは無いと思っています。特別法によってDV被害対策を、統計上の必要性が認められた時に必要に応じた立法をするべきだと考えています。
また、別居親のかかわりを「認めるか認めないか」という清算的議論ではなく、DVの被害が現実化しないようなかかわり方を検討し、物的施設や親子交流支援員を設置するなどの建設的な制度創設の提案がなされるべきであると考えています。あくまでも子どもの利益を中心に考えるべきだからです。
2 離婚後にも両親から愛情を注がれる子どもの利益
離婚を経験した子どもたちの発達上の問題は、統計上確立されています。即ち、自己評価が低くなり、アイデンティティの確立に問題が生じるということです。この統計結果を世界が認めたために、国際的にわずかの例外を除いて離婚後の共同親権制度が次々と生まれて行ったのです。
自己評価やアイデンティティの問題を少し説明します。
私が直接会った、他方の親と交流のない子どもたちは、この極端な形で苦しんでいました。中学や高校のあたり、自我が確立していく頃から、不登校、自傷行為、拒食過食を繰り返し、精神科病棟での入退院を繰り返すようになり、同居親に攻撃的になり、子どもとは言えない年齢になっても社会に出て行くこともできないような状態となりました。病院での様子を見ると、特に何か健康になるためのアプローチは見られず、ただ社会から隔離されているような印象も受けました。せいぜい興奮状態を薬によって鎮めているだけでした。
そういった状態の中、荒れる子どもを心配のあまり、別居親が同居親の助けを求めようとして、同居親の代理人を通じて離婚調停が申し立てられました。別居親と代理人の私は、離婚申立てが真意ではなく、子どものことで助けを求めているということを見抜き、面会交流を復活させました。その直後から子どもの精神症状は沈静化していき、社会に出る準備を始めていきました。自分の夢を自覚して、夢に向かって進むという意欲を持ち、現在夢を実現しつつあるという状態です。
別の例では、両親の別居後、荒れて徘徊を繰り返して児童相談所に保護されることが頻回にあった小学生がいました。別居親との交流を通じてそのような行為は無くなり落ち着きを取り戻しました。親子が久しぶりに対面した場面に立ち会いました。面会が終わるまで、子どもが満面の笑みを浮かべ嬉しそうに時間を過ごしていたことが印象的でした。
私が見た実例は、子どもの自己評価が低下した様をまざまざと見せつけられました。自己評価が低下している状態とは、自分は尊重されるべきだという観念を持てず、夢や意欲を持つこともできない状態になるようです。
また、近年では、離婚それ自体というよりも、離婚後も親が離婚相手に対して精神的葛藤を抱いていることが子どもにとって悪影響を与えるという整理の仕方もされているようです。子どもは同居親の承諾の元で別居親と交流できることで、この点も安心するのだと思います。別居親の面会にあたっては、私が同居親の葛藤を下げるチャンスとして子どもとの交流を活かすことが子どもの利益になるというアドバイスを常に別居親にしているのはこういう理由があるからです。
日本を除く諸外国は、このような科学的根拠があるということで、子どもを一人の人格者であり、親の付属物ではないとして、離婚後も共同親権制度にしたのです。日本で共同親権制度になっていないのは、日本の立法府だけが統計的に科学的に見出された子どもの権利を真正面から取り上げようとしていないからと思われても仕方がない状況なのです。アジアの隣国である韓国も中国もはるか昔に共同親権制度を整備しています。
ちなみに「選択的共同親権」ということもこのような共同親権制度が世界中に広まった今となっては恥ずかしい限りです。子どもが両方の親の愛情を確認できて健全に育つか、一方の親の愛情だけで甘んじなければならないのかを親が勝手に決めて良いという制度ですから、子どもは親の付属物として扱われて仕方が無いという制度です。政治的妥協の産物ででてきた概念ですが、制度趣旨を理解できない恥ずかしい提案になります。子どもの切実な利益を政治的駆け引きで決めてはだめだと私は声を大にして言いたいのです。
3 離婚後の共同親権制度を法律で決める必要性
現状での不合理として、離婚後親権者ではない親は、親権者でない以上に無権利になっています。例えば、子どもの養育状況が心配になったり、登校の様子を知りたくて学校に問い合わせても、「親権者ではないから個人情報の観点から教えられない。」あるいは、「親権者の同意が無いから教えられない。」という回答がなされることが少なくありません。
子どもが児童相談所に一時保護されても、親であるにもかかわらず親権が無いから一時保護の様子を教えられないとの回答がなされました。
経験上言えることは、教育機関、児相、役所と警察などの公的機関では、親権を持たない親は親であっても子どもの情報を教えないという扱いがなされているようです。実際は同居親と子どもの折り合いが悪く、中には同居親がヒステリックに子どもに対して行動を制限している場合でも、もう一人の親は情報を知らされないため子どもに対する有益な対応をとることが妨げられています。
もう一人の親に情報を与えて意見を出せるようにすると、親権者の親権が妨害されるとでもいうようです。ここでも子どもの権利よりも、親の権利が優先しているように思われます。
親権を持たない親が子どもと話すことで子どもが落ち着いていくこともよくあることなのですが、一切のかかわりを禁じているのが現在の児童相談所をはじめとする公的機関です。あたかも、親権を持たないもう一人の親は、子どもと敵対しているかのようです。これはかなり失礼な話だと感じています。
これは親権者が一人に定められなければならないため、現状の親権者の問題点をもう一人の親に知らせると、親権の変更などの手続きをするのではないかという恐れも背景にあるのかもしれません。
しかし、そもそも共同親権制度を作り、もう一人の親も親として子どもにかかわれるということになれば、親権はく奪に相当するような虐待が無いのであれば、多少の失敗があっても親権の移動はありません。だからお互いが、現状のシステムよりより冷静に子どもの成長について話し合う条件が生まれるのだと思います。
いずれにしても、両親が離婚しても親子は親子だということを行政は看過しています。親権という法的地位はともかく、親であることが公権力によって否定されているということは是正されるべきです。共同親権制度は子どものために必要な制度だと思います。
名称こそ共同「親権」ですが、実態は共同「責任」制度です。子どもへの関与が増えることの一番の効果は、両親の子どもへの愛情行使が期待できることです。
現在養育費が支払われないということで、公権力は養育費の強制徴収を検討しているようです。しかし、養育費が支払われない事情は千差万別です。養育費を支払いたくても支払えない事情がある親は少なくありません。それにもかかわらず、ある自治体は支払ない親の氏名を公示するというパワハラのような方法で養育費の強制徴収を検討したようです。これは子どもの利益ではなく、生活保護などの公的援助金の支出を抑制することしか考えていないことを示す事情です。養育費を払わなくても子どもにとっては親です。どこの子どもが自分の親の不十分点を名前をさらされて公にされたいと思うでしょうか。自分の親が養育費を払わない親として自治体から名前を公表されていたたまれない気持ちになることを想像できないのでしょうか。普通に考えれば、子どものための制度設計ではないことがすぐにわかると思います。
親は、子どもにかかわることで本能的に無理をする生き物です。十分な収入は無いけれど、自分にかけるお金を削って子どもにお金を使うということは、同居、別居にかかわりなく同じだと思います。親は子どもとかかわって子どもに親にしてもらうということが私の経験からも正しいと思います。逆に言うと、子どもから引き離された親が、子ども優先にお金だけ支払おうというモチベーションを高く維持できるわけはありません。私が最初に親子問題にかかわったのは養育費の打ち切りの相談でした。支払わなくなったり、予定した期間を支払い終えたけれど養育費が継続されないと困る事案の相談でした。新たに扶養調停を申し立てるしか法的手続きは用意されておらず、しかし時間も待ったなしという事案(大学の授業料の納付期間が迫っている等)がほとんどでした。案外簡単に解決しました。子どもがもう一人の親と交流を開始するという方法でした。同居親としても背に腹は代えられない事情があるので、実行していったところ、私の知る限りの事例で経済的問題が解決したものでした。
もし共同親権制度であれば、もっと親は子どもにかかわることができるの、子どものための行動をすることでしょう。初めから交流を続けて行けば、もっと子供は楽に自分の夢を追うことができるなど、人生の可能性が広がったことでしょう。
まだまだ、法律で共同親権制度にする必要性はあるのですが、長くなりましたので、そろそろ終わります。
いずれにしても、離婚した夫婦が、現状何も働きかけをせずに子育てを協力するということは現実的ではないと思います。しかし、法律で共同親権制度を定めることによって、当初は仕方なく協力関係を形成し、時間が立つことによって、離婚をしても子どものためには協力するものだという意識が形成されてゆき、子どもの利益につながってゆくはずです。
国家が子どもの利益のための制度をだいぶ遅くなりましたが、真面目に作っていくことが求められ、世界からも注目されていると思う次第です。
親権の概念の再確認と離婚後の共同親権論争の真の問題の所在 [家事]
親権の概念と離婚後の共同親権論争の真の問題の所在
法制審議会が8月29日に離婚後の共同親権を含む家族法改正のたたき台を発表しました。離婚後の共同親権の是非を議論する前に、先ず親権概念をはっきりさせておいた方が良いと思いました。書いているうちに、筆が止まらなくなり、なぜ共同親権に反対するのかの理由まで考えてしまいました。このため大分長くなってしまいましたが、実務家としていつも感じていることを正直に書きました。
1 親権の内容
親権という概念は各国にあり、実はいろいろな意味があるようです。文明国の親権という意味で「近代的な親権」というためには、親権の内容に子どもに教育を受けさせる義務を設けるなど、子どもが幸せになるように行動をする義務が含まれなければなりません。
例を挙げると、子どもを教育する義務、子どもを監護する義務、子どもの財産を適正に管理する義務などがあります。今、議論になっているのは懲戒権です。懲戒の内容はいろいろありますが、子どもが悪い行為をしたらその行為に否定的評価を与え、今後の改めるべき行動様式を指導することが共通内容でしょう。子どもが間違った道に進まないためには、私は親の懲戒権は必要だと思います。但し、親の気分によって子どもにつらく当たったり暴力をふるったりすることは、そもそも親権の中に規定されている「懲戒」ではありません。うまく言ってわからせることができる場合は懲戒という概念は不要かもしれませんが、子どもの意思をある程度制圧しても懲戒しなければならない場合、特に子ども自身の安全のために必要な場合が現実にはあると思います。
話を戻しますが、近代における親権の内容は、どちらかというと「権利」というより「義務」に近いのですが、子どもは親の親権(指導や教育)に服しなければならないという意味もあるため「子どもに対する権利」であると説明されています。ではいっそのこと権利という言葉を使わないで「親責任」という言葉を使うべきではないかという意見もあります。実際にそのような意味の言葉を使う国も外国にはあります。しかし、親権制限、親権喪失などの法律用語との整合等を考えなければならず、そう単純には決められないという指摘も有力です。
私は、親権には、親権に対する妨害を排除するという意味での自由権的側面もあると考えていますので、親権という言葉は残すべきだと思っています。親権妨害が損害賠償や妨害排除の対象となることは裁判所でも認められていることです。
国家との関係では、最近は痛ましい虐待事例に居ても立っても居られない人たちが児童相談所の現状を苛烈に批判し、児童相談所の家庭への介入を強化し、警察との連携を主張する傾向が多くなってきました。そうすると、介入の弊害も懸念しなくてはなりません。本来虐待をしていない場合に親子分離がなされてしまうことも当然でてきます。過度な親子関係に対する公権力の介入を抑止する観点からも親権の自由権的側面を改めて強調するべきだと考えています。
2 親権を行使する主体
親権を行使するのは親であるということは明治民法の時代から規定されています。ここで指摘しておかなければならないことは、明治民法は、封建的な「家」制度を維持するための制度となっており、親権制度も家父長的な観点から定められているという誤解があることです。
家父長制という概念はヨーロッパの家族関係を知らなければその意味を正しく使用することはできません。法律を超えた文化的な考え方という根強いものです。この意味で日本の家族制度に家父長制という概念をストレートに当てはめることには無理があると私は考えています。
もし明治民法が家父長制的な「家」制度の維持のための制度設計だとするならば、親権は「家」のトップである戸主にあると定められるはずです。ところが明治民法は先ず父が親権者であり、父が親権を行使しえない事情がある場合には母が親権者になると定めているのです。親権は、子どものための制度であるから、自然な情愛に基づいて親権を行使するべきであり、それは親がふさわしいという考え方が採用されて立法化されたものです。但し、父親が第一順位というところに男女差別があることは看過できません。しかし、これをもって欧米の家父長制と共通だと考えることには無理があるのです。
3 現代社会の婚姻時の共同親権という制度
戦後親子関係に関しては民法改正がされて、親権の主体は一人ではなく、父母双方であり、父母が共同して親権を行使することが定められました。
親である以上、男女の性別にかかわらず親権の主体とされるべきだということは、男女平等の価値観の元当然のことです。子どもに対する自然の情愛に委ねるという考え方は、父と母の双方が親権を有するということがよりよくなじむと思います。
明治民法では親権者は一人でしたが、二人が親権者となると、何らかの決定をしなくてはならない場合にはどうするかという問題が出ます。制度としては、どちらかに優先順位をつけるという形です。明治民法は性別で優先順位を決めましたし、理屈の上では二人の年齢によって決めるなど決め方はいろいろありうると思います。しかし、改正民法では、親権者二人に優劣を決めず、二人で相談して決めるということになっています。父親と母親とどちらにも優劣が無く、平等に話し合いで親権行使を決めるということが、日本国憲法体系かにある民法の考え方だということです。
4 現代日本の共同親権の実態
現代日本では、多くの親権侵害が存在しています。
1)一方の親が子どもを排他的に確保して他方の親の親権行使を侵害
いわゆる連れ去り事案が典型的です。つまり、例えば子どもの母親が、子どもの父親に知られないように子どもを連れて現在の居住地から離れて別居をする場合です。子どもがどこにいるかわからなくなりますので、他方の親は親権を行使することができません。明らかな親権侵害です。
このほかにも、例えば逆に父親が、母親が精神障害にり患しているとして入院させるなどして家から退去させ、母親が退院しても家に戻ることを妨害する事例が実際には多くあります。夫の母親が嫁を嫌っていて、家から追い出すという封建時代かと思わせる女性の被害が起きています。現実には少なくない母親も親権侵害を受けていています。それどころか子どもに会うことすらできない母親も少なくないのです。
また何らかの事情で、例えば母親が夫との関係で罪悪感を持っていることを利用して母親の子どもへの関与を排除してしまう事例も実際は多く相談が寄せられています。
親権侵害の事例は、子どもと一方の親を断絶させるもので、深刻な精神的打撃を受けます。とくに連れ去り事例では、一人残された父親が自死したり、廃人のようになったりするケースを私も多く見ています。
2)親権侵害に対する公権力の加担
一方の親による他方の親の親権侵害の事例の典型的な例は母親の子の連れ去りの事案です。この事案には公権力が加担している案件が実に多くあります。「DV被害者の保護」という名目です。しかし、実際には、身体的暴力や精神的虐待があったと認められるケースは例外的です。判決や和解でもDVは無かったこととして結論が出されることが多いということが実感です。
それにもかかわらず、地方自治体や警察、NPO法人は、ありもしないDVがあったとして父親の親権侵害に加担しているのです。
一方的な母親からの事情聴取だけで「それは夫のDVです。」と宣言し、子どもを連れて父親の知らないところに逃げることを勧め、そして夫から知られないように住処を与えて、生活保護を支給して逃亡生活を援助します。そして、裁判手続きを勧め、法テラスを通じて弁護士を依頼させて、保護命令申立や離婚申立てなどを行うことを容易にしています。
「DV被害者ならば逃がすのは当然ではないか」と、この時点で結論を出す人もいるかと思います。しかし、DVという概念は広範な概念で、DVというだけでは何が起きているのか皆目見当もつかないのです。離婚調停や裁判においても、DVの具体的中身が母親側から具体的に主張立証されることはほとんどありません。
事情聴取はすることになっているのですが、あまり具体的な話は聞いていないのではないでしょうか。また、その話の事実評価も行われていないようにも思われます。私が良く例に出す実際に会った話ですが、月4万円しか夫から渡されないという妻の訴えに対して相談所は「それは夫の経済的DVだ。」と即時に断定されたと専業主婦の妻が言っていました。
しかし、夫の賃金(手取り20万円を切る)が低いうえ、光熱寮などの生活経費や教育費は夫の銀行口座から引き落としになっている上、食材なども夫が全て出していた。つまり、妻の小遣いを何とか4万円捻出していたということが真実だったのです。低賃金の社会構造に原因があるにもかかわらず、夫のDVだと決めつけるところにDV相談が何なのかを象徴していると思います。
むしろ、誰にも相談できないところで深刻なDVは起きているということが実感です。量的には男女差が無いということも感じています。
母親の連れ去り事例における相談所(役所、警察、NPO他)の問題点を整理します。
・ 裁判手続きを経ないで父親の親権侵害行為が行われていること
つまり、父親には反論する権利が無く親権侵害が行われていること
・ 連れ去りに正当性が無いことが裁判で確定しても、親権が回復しない。また親権侵害による損害賠償を請求する方法が存在しないこと
・ 父親の人権侵害に重要な役割を果たしているのは、地方自治体やNPO法人などというつまり税金を使ってのこういであること
父親の親権侵害の観点からはこれらが主たる問題だと思いますが
子どもの健全に成長する権利からはまだまだ大きな問題があります。
突然住み慣れた家、仲良しの友達、学校、地域、何より父親と父親側の祖母やいとこなどの親戚から隔絶されてしまうのですから、子どもの精神的負担は大きく、チックや睡眠障害などの精神症状が出現する例が報告されています。
本来平等だと定めた父親と母親の親権ですが、実際は母親の親権が、税金を使って排他的に優先されているのが現実です。
5 離婚後の共同親権のあり方 現状から見えてくる本当の反対論者の問題の所在
8月29日の法制審議会の改正案のたたき台では、離婚後の共同親権が議論されています。しかし、離婚後に共同親権になったからといって、私はあまり楽観できないと思っています。なぜならば、現行法では、婚姻中は共同親権と定められています。ところが述べたように離婚前から別居親、特に父親の親権侵害が公権力によって行われているのです。母親の親権が回復する方法どころか、我が子と面会する強力な公的手段も存在しません。このような現状を見ると、離婚後に共同親権制度になろうと親権侵害が終わるという楽観的な観測を持つことは私にはできません。子どもに会えない母親が子どもに会えるようになるとは思われません。
ただ、面白いことに、そうだとすると現状で父親の親権侵害を支援している人たちは、離婚後に共同親権になったとしても同じようにDVを理由として親権侵害を継続すればよいのだから、熱心に反対する必要は無いわけです。ところが、これ等の人たちは熱心に離婚後の共同親権に反対しているのです。
これには理由があります。現状では、離婚をすれば単独親権となり、親権者でなくなった親は親権を失います。本来親権は、親子という自然な情愛に基づく関係で付与されるものです。夫婦が離婚したところで親子の情愛は続くのですから、離婚をしても親権が存続しても良かったはずです。単独親権と定めた理由は、離婚をしてしまえば他人に戻るのだから親権行使の方法を話し合うことは現実的ではないという考えが大きな理由でしょう。しかし、それは親権の順位をきめればすむことです。「親権行使の意見が分かれた場合は同居している親の考えを優先する。」という決め方だってできたはずです。法改正でこれをしなかったのは、封建制度の考え方が残存していたことによると私は思います。つまり、「離婚をすると一方は家(「家」制度の家ではなく、文字通りの家)から出て行くのだから、家とは無関係になる。子どもは家の所有だから家から出て行った場合には子どもに対しての権利を失うことは当然である。」という考え方です。子どもを一人の人格主体とは見ていなかったということです。これには時代的制約があるためにやむを得ない側面があります。日本を除く世界において子どもの権利を考えるようになったのは、第2次大戦後に始まり21世紀になって定着していったからです。日本だけはまだ子どもは母親の所有物だという考えが公権力にも残っていて、子育ては女がすることだという意識が疑問を持たれないで温存されています。看過しえないジェンダーバイアスであるとともに日本の人権意識の遅れが如実に出ている問題です。
話を戻しますと、離婚後は単独親権になっている現在の制度が連れ去り型の親権侵害では極めて有効な条件で、もしかしたら不可欠な条件なのだという認識が連れ去り推進論者にはあるのでしょう。
つまり、
行政の支援を受けて子連れ別居をする
⇒ 調停などを起こして離婚を申し立てる
⇒ DVの主張が認められなくても、現在の家裁実務では
「別居の事実」と「離婚の堅い意思」があれば離婚判決を勝ち取れる
加えて、連れ去り後子どもと同居している、乳幼児のころ母親の方が父親より子どもと一緒にいる時間が長いならば、裁判所は母親に親権を定める
⇒ 離婚が認められ自分が親権者となる
⇒ 父親が子どもに、子どもが父親に愛情があっても父親の親権が離婚と同時にはく奪される
⇒ 養育費は、強制執行の威嚇の下に支払いを確保できる
⇒ ひとり親家庭ということで手厚い行政の支援金が交付される
⇒ ゴールは父親を排除して子どもとの生活
という、今やルーティンともいえるような家裁実務により、連れ去りのゴールが設定されるといううまみが離婚後の単独親権にはあるわけです。(ただし、現実には生活は同居中より格段に厳しくなり、こんなはずではなかったと相談所に抗議をしても、相談所からは「離婚はあなたが決めたことですよ。」と判で押したような返事が来るだけである。という相談を人権擁護委員の多くが聞いている。)
ところが法改正されて、離婚後も共同親権となってしまい、離婚後の父親の子どもに対する関与が認められてしまうと、ゴールが見えなくなります。離婚後のバラ色の姿(空手形ですが)を吹き込むことができなくなることによって、連れ去り別居の意欲がそがれてしまうということに危機感を抱いているのだと思います。
これが離婚後の共同親権に反対する人たちの中核の問題の所在なのです。どうして、当事者でもない支援者が危機感を抱くのか。それは、バラ色のゴールが無ければ、離婚プランの相談をしようとさえしなくなるわけです。相談所のニーズが無くなってしまいます。連れ去りの支援を受けようとしなくなれば、相談や支援を行うNPO法人の存在意義がなくなり、予算が配分されなくなるということがおそらく最大の問題なのではないかと考えることはうがちすぎでしょうか。
もう一つありました。連れ去り事例が多くなって目につくようになったのは、DV加害者に対するセミナーです。妻がいなくなった夫で、もともと真面目な人、ややうつ状態になった人は、自分に原因があって妻がいなくなり、子どもが寂しい思いをしているのではないかと自責の念に駆られる人が多いです。このため、自分のどこが悪かったのだろうか、どう直していけば良いのだろうかと悩むようです。そういう人たちがたどり着くのが加害者セミナーです。独力でたどり着くだけでなく、「離婚調停などで本当に行動を改めるつもりなら、セミナーに通え」と言い渡されて通う人もいるようです。
この種のセミナーを主宰している人に連れ去り支援に加担している人がいます。もちろん離婚後の共同親権制度の創設にも反対しています。
セミナーは長期間行われます。受講するためにはかなり高額な受講料を払わなければなりません。受講経験者から話を聞くと、いろいろ新しい知識が付くので、目からうろこが落ちた思いにはなるようですが、率直に言って効果には疑問があります。そもそも加害者セミナーという名称がその内容を表しているのではないでしょうか。
職業的な共同親権反対論者は、他でも活動をされていますが、どの分野でも共通のスキームを持っているようです。即ち、行政からの委託料ないし補助金と、高額のセミナー開催です。また、特徴として、公金の流れが、民主主義の原理によって決定されないで、情報開示請求などが無い限り公にされないというところも共通であるようです。
公的な親権侵害の特徴は、国民が知らない間にいつの間にか制度が出来上がっていて、その制度で利益を得ている人たちが行っているということです。そして、その確信犯に、心情的に追随してしまう人、正義感が強すぎる人が、一部の被害実態(あるいはアメリカの被害実態)が日本においても普遍的な事態だと思い込んでしまう人が、良心的に指示してしまっているところにあると思います。
法制審議会が8月29日に離婚後の共同親権を含む家族法改正のたたき台を発表しました。離婚後の共同親権の是非を議論する前に、先ず親権概念をはっきりさせておいた方が良いと思いました。書いているうちに、筆が止まらなくなり、なぜ共同親権に反対するのかの理由まで考えてしまいました。このため大分長くなってしまいましたが、実務家としていつも感じていることを正直に書きました。
1 親権の内容
親権という概念は各国にあり、実はいろいろな意味があるようです。文明国の親権という意味で「近代的な親権」というためには、親権の内容に子どもに教育を受けさせる義務を設けるなど、子どもが幸せになるように行動をする義務が含まれなければなりません。
例を挙げると、子どもを教育する義務、子どもを監護する義務、子どもの財産を適正に管理する義務などがあります。今、議論になっているのは懲戒権です。懲戒の内容はいろいろありますが、子どもが悪い行為をしたらその行為に否定的評価を与え、今後の改めるべき行動様式を指導することが共通内容でしょう。子どもが間違った道に進まないためには、私は親の懲戒権は必要だと思います。但し、親の気分によって子どもにつらく当たったり暴力をふるったりすることは、そもそも親権の中に規定されている「懲戒」ではありません。うまく言ってわからせることができる場合は懲戒という概念は不要かもしれませんが、子どもの意思をある程度制圧しても懲戒しなければならない場合、特に子ども自身の安全のために必要な場合が現実にはあると思います。
話を戻しますが、近代における親権の内容は、どちらかというと「権利」というより「義務」に近いのですが、子どもは親の親権(指導や教育)に服しなければならないという意味もあるため「子どもに対する権利」であると説明されています。ではいっそのこと権利という言葉を使わないで「親責任」という言葉を使うべきではないかという意見もあります。実際にそのような意味の言葉を使う国も外国にはあります。しかし、親権制限、親権喪失などの法律用語との整合等を考えなければならず、そう単純には決められないという指摘も有力です。
私は、親権には、親権に対する妨害を排除するという意味での自由権的側面もあると考えていますので、親権という言葉は残すべきだと思っています。親権妨害が損害賠償や妨害排除の対象となることは裁判所でも認められていることです。
国家との関係では、最近は痛ましい虐待事例に居ても立っても居られない人たちが児童相談所の現状を苛烈に批判し、児童相談所の家庭への介入を強化し、警察との連携を主張する傾向が多くなってきました。そうすると、介入の弊害も懸念しなくてはなりません。本来虐待をしていない場合に親子分離がなされてしまうことも当然でてきます。過度な親子関係に対する公権力の介入を抑止する観点からも親権の自由権的側面を改めて強調するべきだと考えています。
2 親権を行使する主体
親権を行使するのは親であるということは明治民法の時代から規定されています。ここで指摘しておかなければならないことは、明治民法は、封建的な「家」制度を維持するための制度となっており、親権制度も家父長的な観点から定められているという誤解があることです。
家父長制という概念はヨーロッパの家族関係を知らなければその意味を正しく使用することはできません。法律を超えた文化的な考え方という根強いものです。この意味で日本の家族制度に家父長制という概念をストレートに当てはめることには無理があると私は考えています。
もし明治民法が家父長制的な「家」制度の維持のための制度設計だとするならば、親権は「家」のトップである戸主にあると定められるはずです。ところが明治民法は先ず父が親権者であり、父が親権を行使しえない事情がある場合には母が親権者になると定めているのです。親権は、子どものための制度であるから、自然な情愛に基づいて親権を行使するべきであり、それは親がふさわしいという考え方が採用されて立法化されたものです。但し、父親が第一順位というところに男女差別があることは看過できません。しかし、これをもって欧米の家父長制と共通だと考えることには無理があるのです。
3 現代社会の婚姻時の共同親権という制度
戦後親子関係に関しては民法改正がされて、親権の主体は一人ではなく、父母双方であり、父母が共同して親権を行使することが定められました。
親である以上、男女の性別にかかわらず親権の主体とされるべきだということは、男女平等の価値観の元当然のことです。子どもに対する自然の情愛に委ねるという考え方は、父と母の双方が親権を有するということがよりよくなじむと思います。
明治民法では親権者は一人でしたが、二人が親権者となると、何らかの決定をしなくてはならない場合にはどうするかという問題が出ます。制度としては、どちらかに優先順位をつけるという形です。明治民法は性別で優先順位を決めましたし、理屈の上では二人の年齢によって決めるなど決め方はいろいろありうると思います。しかし、改正民法では、親権者二人に優劣を決めず、二人で相談して決めるということになっています。父親と母親とどちらにも優劣が無く、平等に話し合いで親権行使を決めるということが、日本国憲法体系かにある民法の考え方だということです。
4 現代日本の共同親権の実態
現代日本では、多くの親権侵害が存在しています。
1)一方の親が子どもを排他的に確保して他方の親の親権行使を侵害
いわゆる連れ去り事案が典型的です。つまり、例えば子どもの母親が、子どもの父親に知られないように子どもを連れて現在の居住地から離れて別居をする場合です。子どもがどこにいるかわからなくなりますので、他方の親は親権を行使することができません。明らかな親権侵害です。
このほかにも、例えば逆に父親が、母親が精神障害にり患しているとして入院させるなどして家から退去させ、母親が退院しても家に戻ることを妨害する事例が実際には多くあります。夫の母親が嫁を嫌っていて、家から追い出すという封建時代かと思わせる女性の被害が起きています。現実には少なくない母親も親権侵害を受けていています。それどころか子どもに会うことすらできない母親も少なくないのです。
また何らかの事情で、例えば母親が夫との関係で罪悪感を持っていることを利用して母親の子どもへの関与を排除してしまう事例も実際は多く相談が寄せられています。
親権侵害の事例は、子どもと一方の親を断絶させるもので、深刻な精神的打撃を受けます。とくに連れ去り事例では、一人残された父親が自死したり、廃人のようになったりするケースを私も多く見ています。
2)親権侵害に対する公権力の加担
一方の親による他方の親の親権侵害の事例の典型的な例は母親の子の連れ去りの事案です。この事案には公権力が加担している案件が実に多くあります。「DV被害者の保護」という名目です。しかし、実際には、身体的暴力や精神的虐待があったと認められるケースは例外的です。判決や和解でもDVは無かったこととして結論が出されることが多いということが実感です。
それにもかかわらず、地方自治体や警察、NPO法人は、ありもしないDVがあったとして父親の親権侵害に加担しているのです。
一方的な母親からの事情聴取だけで「それは夫のDVです。」と宣言し、子どもを連れて父親の知らないところに逃げることを勧め、そして夫から知られないように住処を与えて、生活保護を支給して逃亡生活を援助します。そして、裁判手続きを勧め、法テラスを通じて弁護士を依頼させて、保護命令申立や離婚申立てなどを行うことを容易にしています。
「DV被害者ならば逃がすのは当然ではないか」と、この時点で結論を出す人もいるかと思います。しかし、DVという概念は広範な概念で、DVというだけでは何が起きているのか皆目見当もつかないのです。離婚調停や裁判においても、DVの具体的中身が母親側から具体的に主張立証されることはほとんどありません。
事情聴取はすることになっているのですが、あまり具体的な話は聞いていないのではないでしょうか。また、その話の事実評価も行われていないようにも思われます。私が良く例に出す実際に会った話ですが、月4万円しか夫から渡されないという妻の訴えに対して相談所は「それは夫の経済的DVだ。」と即時に断定されたと専業主婦の妻が言っていました。
しかし、夫の賃金(手取り20万円を切る)が低いうえ、光熱寮などの生活経費や教育費は夫の銀行口座から引き落としになっている上、食材なども夫が全て出していた。つまり、妻の小遣いを何とか4万円捻出していたということが真実だったのです。低賃金の社会構造に原因があるにもかかわらず、夫のDVだと決めつけるところにDV相談が何なのかを象徴していると思います。
むしろ、誰にも相談できないところで深刻なDVは起きているということが実感です。量的には男女差が無いということも感じています。
母親の連れ去り事例における相談所(役所、警察、NPO他)の問題点を整理します。
・ 裁判手続きを経ないで父親の親権侵害行為が行われていること
つまり、父親には反論する権利が無く親権侵害が行われていること
・ 連れ去りに正当性が無いことが裁判で確定しても、親権が回復しない。また親権侵害による損害賠償を請求する方法が存在しないこと
・ 父親の人権侵害に重要な役割を果たしているのは、地方自治体やNPO法人などというつまり税金を使ってのこういであること
父親の親権侵害の観点からはこれらが主たる問題だと思いますが
子どもの健全に成長する権利からはまだまだ大きな問題があります。
突然住み慣れた家、仲良しの友達、学校、地域、何より父親と父親側の祖母やいとこなどの親戚から隔絶されてしまうのですから、子どもの精神的負担は大きく、チックや睡眠障害などの精神症状が出現する例が報告されています。
本来平等だと定めた父親と母親の親権ですが、実際は母親の親権が、税金を使って排他的に優先されているのが現実です。
5 離婚後の共同親権のあり方 現状から見えてくる本当の反対論者の問題の所在
8月29日の法制審議会の改正案のたたき台では、離婚後の共同親権が議論されています。しかし、離婚後に共同親権になったからといって、私はあまり楽観できないと思っています。なぜならば、現行法では、婚姻中は共同親権と定められています。ところが述べたように離婚前から別居親、特に父親の親権侵害が公権力によって行われているのです。母親の親権が回復する方法どころか、我が子と面会する強力な公的手段も存在しません。このような現状を見ると、離婚後に共同親権制度になろうと親権侵害が終わるという楽観的な観測を持つことは私にはできません。子どもに会えない母親が子どもに会えるようになるとは思われません。
ただ、面白いことに、そうだとすると現状で父親の親権侵害を支援している人たちは、離婚後に共同親権になったとしても同じようにDVを理由として親権侵害を継続すればよいのだから、熱心に反対する必要は無いわけです。ところが、これ等の人たちは熱心に離婚後の共同親権に反対しているのです。
これには理由があります。現状では、離婚をすれば単独親権となり、親権者でなくなった親は親権を失います。本来親権は、親子という自然な情愛に基づく関係で付与されるものです。夫婦が離婚したところで親子の情愛は続くのですから、離婚をしても親権が存続しても良かったはずです。単独親権と定めた理由は、離婚をしてしまえば他人に戻るのだから親権行使の方法を話し合うことは現実的ではないという考えが大きな理由でしょう。しかし、それは親権の順位をきめればすむことです。「親権行使の意見が分かれた場合は同居している親の考えを優先する。」という決め方だってできたはずです。法改正でこれをしなかったのは、封建制度の考え方が残存していたことによると私は思います。つまり、「離婚をすると一方は家(「家」制度の家ではなく、文字通りの家)から出て行くのだから、家とは無関係になる。子どもは家の所有だから家から出て行った場合には子どもに対しての権利を失うことは当然である。」という考え方です。子どもを一人の人格主体とは見ていなかったということです。これには時代的制約があるためにやむを得ない側面があります。日本を除く世界において子どもの権利を考えるようになったのは、第2次大戦後に始まり21世紀になって定着していったからです。日本だけはまだ子どもは母親の所有物だという考えが公権力にも残っていて、子育ては女がすることだという意識が疑問を持たれないで温存されています。看過しえないジェンダーバイアスであるとともに日本の人権意識の遅れが如実に出ている問題です。
話を戻しますと、離婚後は単独親権になっている現在の制度が連れ去り型の親権侵害では極めて有効な条件で、もしかしたら不可欠な条件なのだという認識が連れ去り推進論者にはあるのでしょう。
つまり、
行政の支援を受けて子連れ別居をする
⇒ 調停などを起こして離婚を申し立てる
⇒ DVの主張が認められなくても、現在の家裁実務では
「別居の事実」と「離婚の堅い意思」があれば離婚判決を勝ち取れる
加えて、連れ去り後子どもと同居している、乳幼児のころ母親の方が父親より子どもと一緒にいる時間が長いならば、裁判所は母親に親権を定める
⇒ 離婚が認められ自分が親権者となる
⇒ 父親が子どもに、子どもが父親に愛情があっても父親の親権が離婚と同時にはく奪される
⇒ 養育費は、強制執行の威嚇の下に支払いを確保できる
⇒ ひとり親家庭ということで手厚い行政の支援金が交付される
⇒ ゴールは父親を排除して子どもとの生活
という、今やルーティンともいえるような家裁実務により、連れ去りのゴールが設定されるといううまみが離婚後の単独親権にはあるわけです。(ただし、現実には生活は同居中より格段に厳しくなり、こんなはずではなかったと相談所に抗議をしても、相談所からは「離婚はあなたが決めたことですよ。」と判で押したような返事が来るだけである。という相談を人権擁護委員の多くが聞いている。)
ところが法改正されて、離婚後も共同親権となってしまい、離婚後の父親の子どもに対する関与が認められてしまうと、ゴールが見えなくなります。離婚後のバラ色の姿(空手形ですが)を吹き込むことができなくなることによって、連れ去り別居の意欲がそがれてしまうということに危機感を抱いているのだと思います。
これが離婚後の共同親権に反対する人たちの中核の問題の所在なのです。どうして、当事者でもない支援者が危機感を抱くのか。それは、バラ色のゴールが無ければ、離婚プランの相談をしようとさえしなくなるわけです。相談所のニーズが無くなってしまいます。連れ去りの支援を受けようとしなくなれば、相談や支援を行うNPO法人の存在意義がなくなり、予算が配分されなくなるということがおそらく最大の問題なのではないかと考えることはうがちすぎでしょうか。
もう一つありました。連れ去り事例が多くなって目につくようになったのは、DV加害者に対するセミナーです。妻がいなくなった夫で、もともと真面目な人、ややうつ状態になった人は、自分に原因があって妻がいなくなり、子どもが寂しい思いをしているのではないかと自責の念に駆られる人が多いです。このため、自分のどこが悪かったのだろうか、どう直していけば良いのだろうかと悩むようです。そういう人たちがたどり着くのが加害者セミナーです。独力でたどり着くだけでなく、「離婚調停などで本当に行動を改めるつもりなら、セミナーに通え」と言い渡されて通う人もいるようです。
この種のセミナーを主宰している人に連れ去り支援に加担している人がいます。もちろん離婚後の共同親権制度の創設にも反対しています。
セミナーは長期間行われます。受講するためにはかなり高額な受講料を払わなければなりません。受講経験者から話を聞くと、いろいろ新しい知識が付くので、目からうろこが落ちた思いにはなるようですが、率直に言って効果には疑問があります。そもそも加害者セミナーという名称がその内容を表しているのではないでしょうか。
職業的な共同親権反対論者は、他でも活動をされていますが、どの分野でも共通のスキームを持っているようです。即ち、行政からの委託料ないし補助金と、高額のセミナー開催です。また、特徴として、公金の流れが、民主主義の原理によって決定されないで、情報開示請求などが無い限り公にされないというところも共通であるようです。
公的な親権侵害の特徴は、国民が知らない間にいつの間にか制度が出来上がっていて、その制度で利益を得ている人たちが行っているということです。そして、その確信犯に、心情的に追随してしまう人、正義感が強すぎる人が、一部の被害実態(あるいはアメリカの被害実態)が日本においても普遍的な事態だと思い込んでしまう人が、良心的に指示してしまっているところにあると思います。
なぜ妻は、婦人相談所で、夫から精神的虐待を受けていると言うのか 夫が悪い、妻が悪いという二項対立をアウフヘーベンして幸せな家族を作ろう 自分たちを大切にする方法 [家事]
1 思い込みDVのパターン
ありもしない夫のDV、精神的虐待を妻が婦人相談所であると言ってしまう一つ目の理由は、思い込みDVのパターンです。
つまり、妻がもともと出来事が無くても不安や焦りを感じやすい体調になっている(パニック障害等の精神疾患、精神症状を起こす場合のある内科疾患、婦人科疾患、交通事故などの頭部外傷、お子さんに障害がある場合、住宅ローン、夫に内緒の借金や公共料金滞納、自分の過去)。
⇒ 不安や焦りを解消したい。⇒相談機関があるから相談してみる。
⇒ 夫に対する不満を話すよう誘導される(誰だって多少はある)
⇒ 「あなたは悪くない。それは夫のDVです。」
⇒ 夫からDVを受けています。
2 ミュンヒハウゼン症候群みたいな
妻がありもしないのに、婦人相談所でDVや精神的虐待を受けているという二つ目のパターンは、誰かから要するにちやほやされたいという感情が病的にある場合ということです。
しかし、そういう要求が出現することはやむを得ない事情があるようにも感じます。
これまでの人生において、姉妹、兄弟、あるいは親と比較して、自分だけが他者から肯定的な評価を受けず我慢していたとか、病気等が原因で仕事も家事もできず他者に貢献する機会がなかったことに後ろめたさを感じ続けてきたような場合(基本的にはまじめすぎる人なんだと思います)、夫の仕事の都合で見ず知らずの土地に来て地域の人と打ち解ける機会もなく孤立している場合という環境因子と、やはり本人の性格が合わさり、他人からちやほやされたいと思うようです。役所の公務員、警察、NPOの専門家然としている相談員、医師や教師などからちやほやされることに免疫のある人はいないでしょう。
⇒ 夫からDVを受けている。⇒ 大変だね。頑張っているね。あなたは悪くない。⇒ 実はもっとひどいことをされている。(離婚歴などがあり、過去にパートナーからひどい仕打ちを受けていてPTSD様の状態である場合は、過去の体験を現在の夫の行為として話し出すことが複数件でみられました。その時の様子についての説明から、結婚する前の時期の出来事だと判明。)
⇒ 早く夫から逃げなければ殺されてしまうよ。⇒ いやいやそこまででは・・・
⇒ 何を言っているの?命は大事だよ。子どもも殺されるかもよ。そんなひどい人なら一生治らないよ。
⇒ じゃ、じゃあ・・・
3 夫の正しさ
妻が婦人相談所から尋ねられて、精神的虐待やありもしない夫のDVを肯定してしまう場合に他の要因と合わさって、夫の過剰な正しさがある場合があります。
8月3日付のブログでも書いていますが、今回は妻の心理の側面から補足したいと思います。
人間は、群れの中にいたいという主としての本能がある一方、生物個体として自分の身を自分で守りたいという本能があるようです。両者は局面によっては矛盾するのですが、月と地球のように遠心力と引力が折り合っているのでしょう。
自分の身を自分で守れないと感じるとパニックになり、不安や焦燥感をいだくということは簡単に想像できると思います。真っ暗の中、どこかわからないところで目隠しをされて両手両足を縛られてしまうと、誰でもパニックになると思います。具体的危険が迫っていなくても、自分の身が危険さらされていると感じると思います。誰かが、あるいは動物が近づいてくるような足音が聞こえてきたりするかもしれません。金縛りのパターンも同じでしょうね。これをまず抑えておいてください。
夫の正しさが、妻を金縛り状態にするわけです。
「それをするな。」、「それはだめだ。」、「それはダサい。」、「常識に反する。」、「考えればわかるだろう。」、「やりなおせ。」、「謝れ。」
夫の言っていることは、場合によっては正しいことも多いのです。ただ、その正しさを貫くためには家の中でも常に緊張状態でいなければならず、安らぎなんて無いわけです。当初は結婚したほどですから、何とか夫から評価されたい、あるいは、夫から嫌われたくないと思って無意識に一生懸命やるわけですが、長続きしません。
徐々に自分が何をしても否定されるという意識になって行ってしまいます。何をするのも怖くなります。家のことなのに、自分で決めることができない状態になるわけです。あれこれ行動が制約されていくうちに、「自分で自分のことを決められない。」⇒「自分で自分のことを守ることができない。」という意識になり、
⇒「自分の行動は夫から支配されている。」と思うようになるようです。
そして、広範なダメ出しによって、自分は夫から見下されている、馬鹿にされている、対等の関係を築けない
⇒ 夫といると自分は安心できない。警戒し続けなくてはならない。
という感じになるようです。犬の嫌いな人が、大型犬と一緒にいるような落ち着きなさが日常になってしまうのでしょうね。
また、人間は成長過程によって、自己防衛を指向するようになります。つまり赤ん坊の時は、自分のことを自分で決めたいという個体はあまりいません。大人になっていくにつれて、自分のことを自分で決めたいという意識が強くなっていき、これを妨害する相手を敵視するようになるようです。結局、「何かあったら守ってもらいたい。でも日常は自分で決める。」というのが成体の人間なのでしょう。
また、夫の言い分が正しいとしても、それを発する自分の労力、それに対する否定的な感情を抱く相手の気持ち、その結果夫婦にしこりを残すという多くのデメリットを考えると、妻にやかましく言うことは結局のところ誤っているということになるかもしれません。ところが実家でのしつけの家庭や学校、職場での行動様式の静かな強要、常に神経を集中させる生活が身についてしまうと、他人である妻がいる空間でも、つい神経をとがらせてしまう行動様式を取ってしまうのかもしれません。その行為だけを見て評価をする場合は間違ってはいないのかもしれませんが、根本的な家族という人間関係を良好なものとするという観点では、端的に言うべきではない。費用対効果が見合わないということになります。
見て見ぬふりをする。まあいいかという心の中の処理をする。許す。寛容になる。相手に任せたことに男子たるもの口出ししない。こんな感じの生活が幸せを勝ち取る最善の手なのだと思うことが無難なのだと思います。
4 夫の幼さ
夫に身に覚えがないのに妻が精神的虐待を受けていると主張する4番目のパターンは、以下に述べる夫の幼さを妻が指摘して夫が感情的に反発するパターンです。
別居事例、離婚事例を見ていると、夫婦で共同生活を送る以上、一方は他方に「二人で生活している」という実感を持ってもらわなければならないと考えた方がよさそうです。意識的に実感を持ってもらう行為をするということです。
しかし、おそらく学生時代に両親と生活している感覚なのかもしれません。すぐに一人になろうとして自室にこもるとか、休日に妻を家に置いて頻繁に自分の趣味の活動に出かけてしまうとか、家事を頼まれていても忘れてしまうとか、自分のことはいろいろプランを立てるけれど夫婦共通のこととなると主体的に取り組まないとか、見たい番組ではないからと言って一緒にテレビを観ないとか、高額の趣味のものを内緒で買ってしまうとか、家のことでやらなければならないことなのにそれを妻から言い出すとなんだかんだ引き延ばして嫌々やっている感を出すとか、妻が料理をしても自分の趣味(と言ってもユーチューブ見ているとか)を優先して別々に食べることになってしまうとか。
そういう不満を最近家裁手続きの書類で読むことがあります。中には職場の過重労働やトラブルでうつ状態になり、一人の部屋に逃避している場合もあります。
それでも妻からすれば、結婚しているのに二人で行動しないでどうして自分が一人ぼっちにいつもさせられるのかという不満をもつのも理解できることです。新婚の内は別々の部屋なんて本来ない方が良いのかもしれません。
逆に妻の方がべたべたするのが嫌で、一緒に部屋にいるのは良いとしても、あれこれ詮索されることがうっとうしいというストレスが爆発したような事例もあります。
いずれにしても、男性も女性も、自分が相手から尊重されていないのではないかということを自分を軸に考えますから、相手が尊重していないわけではないとしても、感覚が違うと自分だったらこうしたいけれど相手がそうしないということだけで、たちまち不安になるということはやむを得ないところだと思います。
これを解決するためには、先ず、言葉で自分は相手を尊重している問うことを明確に伝えること、そしてお互いの生活上の希望を出し合うこと、相手が切実に一緒に行動したいというならば、やはり一緒に行動するように自分のスタイルを修正するべきだと思います。但し、自分のスタイルを相手に押し付けて、相手がそれに同意しないからと言って感情的になってしまうのもわがままであり、共同生活が難しくなるようです。
加減は難しく、時間がかかります。自分の信念や哲学、心情を捨てるということも時には必要になると思ってよいのではないでしょうか。ちなみに私もだいぶ独身時代大事にしていた心の部分を捨て去りました。大げさに言えば生き方を変えたところも結構あります。でも、歳をとった今となっては、なんであんなこだわりを持っていたのだろうと肯定的に捉えることの方が多いように思います。そのおかげでこのブログや対人関係学が結実したようなものです。結婚をすると選択した以上、ある程度家族を優先して生きていくということは不可避的な話なのだと思います。余計な話ですが、それだけ努力しても、なかなか相手には伝わらないことが唯一残念なことではあります。
家庭では意識して要領の良さを追求しないことこそが要領の良いスタイルであること 家族は安心するために一緒に生活しているということ [家事]
先日、新幹線と在来線を乗り継いで離婚調停に代理人として出席してきました。離婚をするべきか、どうすればよかったか、これからどうするか等、調停委員の先生方も一緒になって考えるという理想的な家事調停が行われたと感じました。
さて、その事案も、真面目で責任感がありすぎる夫婦が、相手のことを思い、子どものことを気に掛けるあまり、無駄な衝突を繰り返しているという多くの離婚事件に共通の出来事があり、調停委員の先生を交えてその原因について検討し、対策を話し合いました。
常々私は、夫婦喧嘩の原因が、正義感、合理性を家庭の中に持ち込んで、厳密な公平を求めすぎるところにあるということを述べてきました。ここでは合理性の弊害がまな板の上に上がりました。
合理性というと少しわかりにくいのですが、要領の良さを相手に求めるというと少し思い当たることがあるのではないでしょうか。
例えば、洗濯物を干すときに乾かすためには洗濯物と洗濯物の間をあけなければならないとして相手が干した後で干しなおすとか、風呂掃除をしているときに洗剤をつけて1分そのままにしなければならないので、その間に夜間に水を入れてお湯を沸かし始めることができるのにボーっと風呂桶を見ているなとか、無駄を省けということを家族に言ってしまうということは無いでしょうか。
液体をこぼした時に新しいティッシュを使わないで広告紙を使えとか、落語の小言隠居みたいなことをつい言ってしまうことがあるようです。落語の世界ならばうるさい爺だと相手にしないしたたかな長屋の人たちの対応が笑いにかわります。しかし、言われた相手が、真面目で責任感があって、相手から愛想をつかされたくないと考えているとき悲劇が始まるようです。
言った者の言い分が正しいように感じますから、言われた方は反論できません。そうしなければいけないのだろうなと頭では考えてしまいます。相手から失望されたくないという無意識の願いは、自分が相手から否定されたという被害意識を感じやすくなっています。さらには、相手が疲れているから休ませてあげたいと思って、本来相手の当番の洗濯物を干すことを買って出たのに後から干しなおされたり、皿洗いを買って出たのに洗いなおされたりする場合、相手のことを思いやってやったことで喜ばれると思うのに逆に否定されるアクションを受けるわけですからカウンターとなり余計にダメージが大きくなるわけです。
このように要領の良さを追求した行為で、相手が不快になることは当たり前のことだと思います。相手方を不快にするデメリットを払ってまで追求しなくてはならない要領の良さというものはあるのでしょうか。洗濯物なんてよっぽど重ねなければそのうち乾くでしょうし、食器なんてなんなら食べる直前できれいにすれば足りることでしょう。どうしても気になるのであれば、相手に気が付かれないようにそっと治しておけばよいはずです。
どうしてそのように相手の気持ちを考えることをしないのでしょうか。
つまり、そこまで考えていなかった。
ということのようです。相手の気持ちを考えないで夢中になって合理性を追求しようとしてしまっているのでしょう。それでは、わずかなバイト料を得ようとして逮捕されるということまで考えていなかった闇バイトをすることや、視聴者数を増やそうとして損害賠償を受けることまで考えていなかった迷惑系動画を発信する人とあまり変わりないということは言いすぎでしょうか。
もう少し相手の気持ちを考えてみましょう。
要領の良い行動をするためには、常に物を考えて要領の悪い行動をしていないか、もっと要領の良い在り方があるのではないかと考えている必要があります。無意識でできるひと、考えることが楽しいという人は確かにいます。
しかし、相手は必ずしもそうではない。要領よくやる必要性を感じていなければ特に考えたりしません。家事や労働につかれている人は、そこまで余裕がなく、風呂掃除の洗剤を巻いてしばしば休息が必要な状態かもしれません。体調の問題もあるでしょう。また、一つ一つ完結させてから次の仕事をしたいと言う人もいると思います。
それにもかかわらず、一人の視点の要領の良さを押し付けられてしまうと、自分の視点では何をどう要領よくやればよいかわからなくなります。何をやっても要領が悪いと非難される危険もあるわけです。相手のやった行動を見て後付けで要領の良い方法に気が付くこともあるでしょう。
それにもかかわらず、いちいち非難されてしまうと、自分のやることすべてに自信が無くなり、相手が返ってくると何か言われるのではないかとびくびくして、常に相手の顔色を気にしている状態になる危険があるわけです。これだけでそういう気持ちにならないかもしれませんが、要領の良さの「指導の仕方」によっては、他の体調面の問題、他の人間関係での問題と相まって、家族であるはずの相手を嫌悪する要因の一つになりかねないようです。
では逆に合理性、要領の良さを犠牲にしてまで家族に気を使わなければならない理由があるのでしょうか。
あるというのが私の結論です。
そんなことに科学的裏付けは本来不要だと思うのですが、一つの考え方として読んでください。家庭では要領の良さを追求しないことが合理的だという理論的根拠です。
夜勤をされている方々には申し訳ないのですが、夜に寝て朝に起きて仕事に行って夕方ないし夜に帰ってくるという生活スタイルを前提にお話をします。
人間は、概日リズムというものが体内にあり、細胞レベルで、朝と夜を知る体内時計があるそうです。脳の仕組みも、明け方から夕方にかけては、活動する仕様になっていて、夕方から明け方にかけては休息をする仕様になっているそうです。活動する仕様というのは、交感神経が活性化し、緊張して集中し、諸活動をうまくこなすことに都合が良い状態になっているということです。これに対して、休息をする仕様というのは、昼間の緊張によって血管をはじめとして体の部分を酷使しているわけですから、休息をして心身のメンテナンスをする仕様になっているようです。
本来副交感神経が優位になって効果的に休息をする体の状態になっている時間帯に、緊張が連続して起きてしまうと、身体の様々な部分に不具合が起きてきてしまい、このような不自然な状態が極端に続くとメンテナンスができなくなり、過労死をしたり過労自死をしたりするわけです。
つまり、夕方から明け方にかけては、極力緊張をしない、させないということが長生きするためには要領が良いスタイルなのです。また、脳が休息モードになっていれば、細かい配慮などもできにくくなります。緊張をして要領の良さを追求すること自体が要領が悪いということになるでしょう。そうして、結果的にメンタルにおいて圧迫をし続けてしまうと相手はあなたと一緒にいることが苦痛になり、あなたという存在を嫌悪するようになってしまいます。
要領の良さを追求するだけでこのようなことになることはめったにないでしょう。妊娠・出産及びその後2年くらい、頭部外傷があった場合、ホルモン分泌異常やうつ病などの疾患がある場合、お子さんに障害がある場合、勤務先での人間関係の不具合、睡眠不足と相まって不安の原因を誰かに求めようとしてしまうようです。その時、休息を妨げて緊張を強制する相手が自分の唯一のストレッサーだと決めつけるということをよく見ています。
その結果別居になって二重に生活費がかかったり、財産分与で老後の計画が崩壊したりということは、洗濯物を干したり食器に汚れが遺ったりするよりもよほど要領の悪いことになってしまいます。
どうやら人間にとって家族とは、一日の活動を終えて同じ場所に帰ってくることによって自分も安心するし、相手も安心するという存在のようです。家族と合流することで安心を増幅して、心身の休息の効果を増大させるという役割があるようです。
本来の家族の役割は他の家族を安心させること、緊張から解放することにあると言えるのではないでしょうか。大いに安心してリラックスして休息して心身のメンテナンスを行い、明日の活動の体力、活力、集中力につながるのだと思います。
ところが、職場や学校などで、要領の良さや集中力を発揮しなくてはならないようにさせられてしまうと、ついそれがすべての人間関係で同じように行わなければならないと勘違いしてしまうのでしょう。余計なものを家庭の中につい持ち込んでしまうようです。
だから、家庭の中では細かいことは言わないし、相手の行動を否定する言動をしない。すべてを大目に見て家族でいることに安心してもらう。これを意識的に行う必要が現代日本では必要であるようです。
子の連れ去り事案で、相手方ないし相手方代理人と連絡が取れる場合にするべきこと、してはいけないこと [家事]
「ある日、妻が子どもを連れて家を出てしまっていて、どこに行ったか分からない」といういわゆる子の連れ去り案件は決して減ってはいない状態です。しかしながら、奇妙なことに残された夫側の代理人技術というものはあまり進化していないように感じられます。ただ、連れ去り側の代理人の行動がシステマティックに練られているっているような印象を受けます。
連れ去りがあっても、妻とラインがつながっていることもありますし、本人とは連絡が取れなくても妻側の代理人の受任通知が届くこともあります。ここが肝心です。ここで、純粋な本心で対応できれば良いのですが、それがなかなかできない。あたかもその弁護士が連れ去りをそそのかしたかのように攻撃的になってしまうことが、むしろ多いのではないでしょうか。
しかし、その結果は、当然妻の代理人の夫への態度を硬化させますし、代理人は聞かされた妻の思い込みのように夫は暴言や誹謗中傷を毎日のように妻にぶつけていたのだろうという偏った見方を固定化してしまいます。また、妻は、夫の怒りの対応を代理人から告げられると、やっぱり夫は怖い存在であり、嫌悪するべき存在だという思い込みが、真実だと確信してしまう効果しかありません。メリットは何もなくデメリットしかありません。
先ず、家族再生を目指すのか、きれいさっぱり離婚するのか、腹を決めなければなりません。以下は家族再生を目指すことを選択した場合になすべきことを述べます。
家族再生を目指すならば怒りを少し他所(よそ)に置いておく必要があります。
気持ちはわかりますから私から「怒るな」とは言いづらいので、しばし他所に置いておくという言い方をしました。連れ去りなんかしなければ、怒りが出てこないので本当はうまくいくのになあといつも残念に思っています。
他所に置くということは、
1 怒りの気持ちを相手や相手方代理人にみせないということ
2 怒りの発想でこれからするべきことを計画しないということ
です。
1 まずは無事を確認出来て安心したはずです。安心したということをしっかり伝えることが最優先です。つまり心配していたということを伝えるということです。しばしばこれが省略されてしまいます。怒りに変わっているから忘れているわけです。
次に、連絡をいただいたことの感謝を伝えることです。感謝をしろと言っているのではなく、無事を伝えていただいたことに感謝を伝えるだけです。気持ちはどうでもよいのです。
そして、心配していることを伝えましょう。経済的問題や健康問題、さらにはメンタル上の問題です。怠薬していないかとか、お金が無くて通院できないのではないか、子どもはそれまで環境から一方的に別の環境に置かれてしまっているので戸惑っていないか。などでしょうね。
つまり、怒ることによって崩れそうな自分を支えているために、本当の気持ちが自分でも見えなくなっているわけです。だから、怒りを捨てることはできないとしても、怒りを他所において、「妻と子どもが突然いなくなって、どんな状態かまるで分らなかったのに、とりあえず妻の代理人から連絡があり妻が無事であることが確認できた場合、どういう風に行動することがあるべき行動か」ということを冷静に考えて、その考えに従って行動しなくてはならないということなのです。
そうすると、突然の子連れ別居をしているということは、相当精神的に不安定になっていることは間違いありませんから、味方になる弁護士がいるということであれば、自分の妻子が世話になるのですから、感謝の言葉を伝えることが当たり前のことになるわけです。しつこいですが、本心は別で構わないのです。
本人から連絡が来たら来たで、かなりの努力をして連絡をしてきているのですから感謝やねぎらいの言葉を発するということが大事です。
本人は、色々な事情で夫と同居することに不安や不快、嫌悪を感じています。必ずしも夫に原因が無いことや主たる原因が別にあることがほとんどです。だから、家族再生を目指すのであれば、目標は一つです。「妻を安心させること」これに尽きます。不安がらせる行動を行わないで、安心させる言動を意識的に行うことです。
そうすると、いなくなって当然心配するわけですから、先ずは心配していたということをはっきりと述べることが必要ですし、無事がわかれば安心したということをはっきり述べることが必要です。相手方代理人は、夫について妻から思い込みによる歪んだ情報しか得ていませんから、怒りではなく、「一番良い方法で」対処しようとしているという姿勢を示さなければなりません。
但し、連れ去り側のマニュアルでは、夫は狡猾に紳士を装うというものがありますから、直ちに連れ去り側の弁護士が安心することはありません。決して怒りを見せず、心配を言葉にし続けることが肝心になります。
2 怒りの発想で対応のプランを立てない
怒りは、自分が被害を受けた場合だけではなく、道理や道徳、法律や合理性に反する行動に対しても起きてしまいます。だから連れ去りで怒りが生まれるのは当然です。さらに、放っておくとうつ状態になってしまってとても苦しい状態になるけれど、怒りを持つことによって自分を保つことができるということを経験的に覚えてしまい、相手に対して無制限の怒りを抱いてしまう場合があります。
そうするとこれからどうしようということで、まず考えてしまうことは相手に対する制裁です。
だからと言って相手を襲うことを考える人はいません。警察や裁判所を通じて相手を制裁することをどうしても考えてしまいがちです。まじめな人、責任感が強い人ほど裁判所を通じて当たり前を実現したいという気持ちになります。場合によっては本人以上に家族がそういう考えになることも少なくないでしょうね。
その真面目さに従って、ネットで調べて、監護指定・子の引き渡しの審判を申し立てたり、仮処分を申し立てたりするのですが、私は今の家庭裁判所の実務ではメリットはなく、デメリットは確実にあるというのが感想です。(ただ、それでもやらなければならない場合がありますので、それはまたいつかの機会にお話します。)
メリットが無いというのは、それでまず裁判所がこちらに子どもを引き渡せという命令が通常は出ないということです。私は代理人として、一度どうしても必要であったため子の引き渡しの審判を申立てて、認められたことがありました。しかし、諸事情で控訴審の代理人に選任されなかったところ、控訴審で逆転敗訴になったようです。妻の「子どもに夫を面会させる」という空手形で判断が逆転したみたいです。当然妻は約束を実行しません。約束を実行する人か、裁判を有利にするための口から出まかせかもわからない人たちが高等裁判所の裁判官をやっているわけです。
デメリットというのは、子の連れ去りを裁判所がお墨付きを与えた形になること、妻側の夫に対しての敵対的姿勢を固定化すること、何よりも夫は安心できない存在だという気持ちも固定化してしまい、家族再生がさらに遠のくこと、そして弁護士費用が掛かることでしょうか。自分の妻に対する敵意も高まってしまうことも結局はデメリットだと思います。
怒りに基づく行動は、家族再生という目的と反対方向に向かう効果を生む行動を起こしやすいという弊害があるわけです。
私の依頼者ではありませんが、妻に対して報復をして子どもを取り返した夫は、それまで聞いたどんな人よりも妻に対しての憎しみと怒りを言葉にしていた人でしたが、妻に対しては全くそのようなそぶりを見せず、過剰なほどサービスまでして目的を実現していました。
ただ、なかなか怒りを制御することは難しいことです。どうしても人間である以上、自分を守りたくなることは本能的に仕方が無いと思います。その人が怒りを持ちやすいのではなく、怒りを持たされやすい環境に叩き落されたからだと思っています。
そういう場合は、自分で自分をコントロールするという無茶をしないで、代理人に窓口になってもらうということも選択肢とをしてお持ちになった方が良いと思います。
但し、怒り他所に置いていて家族再生を目指すという代理人活動がなかなかメジャーになりません。そもそも妻が子どもを連れて別居するのは、夫のDVが原因ではないかという思い込みを持った法律家があまりにも多すぎるような気がします。夫のDVが無くても子連れ別居はあるという認識を持てる弁護士もいるのですが、その多くが正義の弁護士が多く、戦う戦略をとることが多いようです。なかなか遠方の依頼者に紹介できる弁護士がいないということが目下の悩みです。
保護命令手続きの合法性についての疑義 要件を満たさないのに命令が出される仕組みと弁護士を依頼することが困難である仕組み だから普通の夫に保護命令が出される可能性があるということ [家事]
保護命令申立ては、相手方弁護士がきちんと対応をすれば、取り下げになることが増えてきたように思います。つまり、相手方代理人の主張、立証を見て、裁判官が「この申し立ては認められる可能性はないので、取り下げた方が良い。」と申立人代理人を説得するのだと思います。はっきりと「取り下げを説得した」という裁判官もいました。
それでも、もし相手方が弁護士を依頼していなければ保護命令が通ってしまう可能性があるし、相手方が弁護士を依頼しずらい手続き上の問題があるということを述べてゆきます。
保護命令とは、「暴行または脅迫があった場合」で、かつ、「申立人の身体生命に重大な危害を受ける可能性がある」という二つの事情がある場合に、裁判所が相手方に対して、申立人や二人の子どもに接近をすることを禁じたり、今住んでいる家から退去することを命じたりする手続きです。これに違反すると、現在は1年以下の懲役または100万円以下の罰金ですが、5月に改正され2年以下の懲役または200万円以下の罰金が科されることになりました。全会一致で決められたというのですから、国会議員は法律の執行の現状について何も知らないで法改正をしているのだなあと改めてあきれるばかりです。
保護命令の効果は、接近禁止や退去をよぎなくされるだけではありません。離婚調停や離婚訴訟が圧倒的に不利になりますし、慰謝料の金額などにも影響を与えます。何よりも、子どもとの面会におおける高い壁になってしまいます。この影響は将来的にも及んでしまいかねません。不当な保護命令は、子どものためにも出させてはなりません。
1 本当は要件を満たさないのに保護命令が出されてしまう可能性がある手続き上の問題
保護命令申立書の用紙は、シェルターやNPO法人の事務所などに備え置いてあるそうです。通常は、代理人がいても本人がその用紙にアンケートの回答の要領で書き込んで、本人の名前で申し立てることが多いようです。書き方を指導する人がいることはわかるのですが、おそらく法律家ではないようです。なぜならば、一応のことは書かれているのですが、書いてあることが相互に矛盾していたり、明らかに過剰なことが書かれていたり、到底あり得ないだろうということがすぐにわかることが書かれているわけです。しかし、これは、弁護士であり、保護命令について研究しており、さらに保護命令が出されてしまうと致命的な被害を受ける相手方の立場で読むことができるからそのような申立書の問題点に気が付くのかもしれません。
保護命令の更新手続きで、保護命令を出した同じ裁判官が、今度は弁護士がついてきちんと対応をしたところ、相手方に取り下げするように強く説得したということがありました。この時、翌代理人に就いてくれたと裁判官からなぜか感謝されました。
相手方代理人弁護士が行うべきことは以下のとおりです。
1 申立人の主張する事実が真実か虚構か、過剰表現かを明確にすること、及び申立人の主張が曖昧であり印象操作にすぎないことの具体的な指摘
2 保護命令は保全処分ではなく、疎明では足りず証明が必要であること
3 保護命令を棄却した先例の提示と当該事件との共通点の指摘
4 重大な危害を受ける可能性が無いことの主張と事実に基づく立証
5 保護命令はひとたび出ると違反した場合は刑事罰が科されるということから、手続きにおいても憲法上の要請を充たすべきこと
6 申立書に描かれている家族の日常と、実際の日常の隔たりの具体的な証明活動
7 余力があれば合理的に考えられるところの保護命令が申し立てられた本当の理由ないし目的
これ等のやるべきことがたとえわかっていても、なかなか当事者の方は必要な反論反証をすることができません。一番の理由は法的知識が無いことではなく、「こんなありもしない虚構の主張で裁判所が保護命令という過酷な命令が出すことはあり得ない」という油断があるからです。
そして、実際、先ほどの保護命令更新の事件では、相手方弁護士から見れば穴だらけで要件をまるで満たさない初回の申立て(弁護士不在)が現実に通ってしまっていたわけです。
2 弁護士を依頼することが不可能な手続きの問題点。
なぜか保護命令手続きは裁判が火曜日か水曜日に行われることが多いようです。ところが、裁判所からの呼び出し状は、相手方の元に水曜日か木曜日に届きます。普通郵便で来るので気が付かないことが多いのです。そして慌てて、早ければ木曜日に弁護士を探し始めます。しかし、当然仕事もあるわけですから、急に休むこともできないで、後手後手になってしまいます。金曜日の夜に封筒を開けた場合は、もはや土、日になってしまい、引き受けてくれる弁護士を探すことができません。また、その時点で弁護士とコンタクトが取れたとしても、既に予定が入っていて翌週の裁判に同行できないことが多いですし、十分な反論書の作成(通常月曜日か火曜日までに反論書を出せという無理なことを裁判所は要求しています。)や反証計画を策定することはほぼ望み薄になってしまいます。
そうすると弁護士抜きで裁判所の呼び出しに臨んで、必要な地道な反論反証活動ができないまま保護命令が出されてしまうわけです。
こういった事情があるため、弁護士は保護命令の代理人の経験者は少ないようです。
しかし、考えてもみてください。それまで普通に家族として同居していて、例えばディズニーランドに出かけたりして過ごしている家族の中で、多少の衝突、夫婦喧嘩があったとしても、生命身体に重大な危害を受ける可能性がある事情なんてよほどのことが無ければありえないじゃないですか。それにもかかわらず、このような常識を持ち合わせていないのか、簡単に生命身体に重大な危害を受ける可能性があるとして保護命令は出されているのです。
いかに弁護士をつけさせないで、保護命令申立ての認容件数を増やそうかというなみなみならぬ立法者の思惑を感じざるを得ません。また、それを担当する裁判所の部署が、保全部で行われていることも大問題です。保護命令は保全手続きではありません。これも先ほどの生命身体に重大な危害を受ける可能性があるということが正式な証明がなされていなくても、保全手続きのように省略された簡易な証明で、証明されたことにしてしまう要因となっており、手続き上の重大な問題です。
こうやって、夫は、ありもしない事実を根拠に、刑罰の威嚇によって妻や子どもと会えなくなってしまい、汗水流して働いて住宅ローンを払っている我が家から数か月も立ち退かなければならなくなります。もちろんその間の住宅ローンや家賃も払わなければなりません。
先ほど述べたように今年5月の国会で保護命令の刑罰が重くなるなどの改正がなされました。政治家は何を考え、何を調査しているのかわかりません。全会一致ですからね。
おそらく保護命令の認容率が低いということが問題意識なのでしょう。認容率が低いのは保護命令の要件を満たさない、目的外の申立てが多いからだというのが、偽らざる実務家の感想です。妻によって挑発されて夫婦喧嘩をして、それを妻に録音されれば保護命令が出されてしまうというような暗黒な世の中にならないようにしなければならないでしょう。
つまり、夫婦喧嘩をしている多くの夫たちは保護命令が出される可能性があるということであり、自分に関係が無いと言う人はおそらく例外的ではないでしょうか。普通の夫に保護命令が出される可能性があるということです。
裁判実務では、妻の不倫が原因の離婚であっても、結構親権者を母と定める判決が実際は多い [家事]
ちらっとインターネットの見出しを見て、法実務家の肩書がある人が、間違ったことを言っているようなので、訂正だけしようと思いました。
某芸能人女性が離婚するにあたって、裁判所を通さず協議で離婚をして、親権を母親が取得したことを受けて、裁判だったら不貞をした方が親権を得ることは無いというコメントがあったようですが、裁判実務上は違います。不貞をした母親が親権者と定められることはむしろ多いのではないでしょうか。
不貞相手との関係を継続中であっても母親が親権者になることも普通にあります。
これはそうあるべきだという意味の記事ではありません。裁判ではそのようなことが実際起きているという告発めいた記事なのかもしれません。
むしろ、裁判所の判決での離婚ではなく、協議離婚や調停離婚の方が、不貞下当事者は後ろめたさがあって、相手方の強硬な意見に押し切られて不貞を理由に親権をあきらめるということが起きやすいようです。
妻に不貞をされた夫は、妻に不貞をされた上に子どもを取られる形になり、悲惨な扱いを受けます。その上面会交流が拒否されて子どもにも会えないのであれば地獄のような生活となることは簡単に想像できると思います。
子どもの年齢にもよりますが、母性神話は女性のためにもそろそろ終わりにした方が良いと思います。根本には単独親権制度があり、離婚後の親権者が一人だけとなり、他の親は親にもかかわらず子どもとにかかわる権利が否定されるところに問題があると思います。
妻が子どもを連れて出て行った時の夫に対するサポートの見落としがちな取り返しのつかなくなるポイント [家事]
妻が子どもを連れて出て行った直後は、夫は呆然としますし、何が起きたのかという実感もあまりない状態だと言います。警察や行政が自分を否定評価しているという実感を持つ出来事が起きるたびに、不安や恐れの気持ちが高まっていくようです。ここまでが前回の記事です。
ところが、弁護士から受任通知が届いたり、家庭裁判所から通知が来ることによって、妻が自分と離婚をしたいと考えていることを知ります。家庭裁判所の通知に同封された申立書に記載されている「離婚をしたい理由」を読んで、記載してある事実に心当たりが無かったり、針小棒大な書き方をしているのを読めばなおさらなのですが、不安や恐れが急激に怒りに変わってしまうことが少なくありません。但し、怒りに転化しないで、そのまま不安や恐れが増大し、慢性化してしまう場合もあります。
不安や恐れが慢性化して、睡眠不足や拒食、過食になるような場合で、抑うつ状態になっている場合は精神科の治療が必要なことが多くあります。精神的体力を作っておかないと、離婚の手続きも投げやりになってしまい、真実ではない事実に基づいて手続きが進んでしまい、後で取り返しがつかないことになることがあるからです。ここで失敗して後々子どもとの面会を望んでも極めて不利になっていたということがありました。
しかし、もう一つの怒りが優位になってしまうことも問題です。依頼者の方が、本当はどうしたいのかということを冷静に考えて、決めた方向に向かって手続きに対応していくこと、あるいは手続きをリードしていくことが上策だということになるのですが、方向性を決めることができなかったり、自分の本心とは違う方向に向かってしまったりすることが一番の落とし穴になります。
本当は、家族再生を願っているという場合が一番大きな問題になります。
私の事務所にご相談にいらっしゃる方々は、妻からかなりひどい目にあっていても、やはりまた親子で一緒に暮らしたいという希望を持つ場合が少なくありません。妻の行動について私が分析して解説していく中で、これまで不条理に思えていた妻の仕打ちにも原因があることであり、妻の行動についても見方が変わったという方が多いのですが、そのことも再出発の希望を後押ししているのかもしれません。それでも、私から「本当にやり直しても大丈夫か」ということを尋ねることもあります。
それでも、夫は、家族で生活をしていきたいという意思を持つことが多いのです。
妻の行動について、私でさえ「それはひどい。」、「それは妻に改めてもらいたい。」と激しく思うのですから、一般の方は、他人ごとながらその人の妻に対して怒りがわいてくることは無理がありません。
事案を聴けば、特に第三者からすれば、妻に対して怒りの感情を持つことは自然なことだと思います。問題は怒りの感情を持った後のことです。攻撃的にならない夫は不自然だと思うことも一般の方ならば仕方がないことかもしれません。だから善意で、怒ることを自然に勧めてしまったり、怒りを妻に向けるような雰囲気を作ってしまったりすることが多いようです。
結局は、ここでも「あなたは悪くない。」という形の支援が起きてしまっているのです。
また、様々なインターネット情報を検索すると、どうしても怒りを掻き立てるような方向での投稿が多いとのことです。当事者は自然に怒りの感情に同機してしまうことになりがちです。
ただ、怒ることを止めることは無理でも、怒りの感情のまま行動することは、家族再生を目指すならば絶対にしてはならないことです。
子どもとの面会交流とその先にある家族再生の実現のためには、「妻が夫といることに安心できるようにすること」が鉄則です。そのためには、平等とか、道徳とか、禁反言とかあるいは正義すらも有害な物差しになります。相手の感情を尊重して不安や焦燥感を抱かせないという物差しで自分の行動を評価して、妻にとって夫の存在自体が居心地のよいものに戻す方向の行動をすることが必要なのです。
妻に対する怒りに基づく行動は、常に逆効果になるわけです。
家族再生、あるいは面会交流を遠ざける行為を自ら行うことになってしまいます。
そうすると、家族再生を志す人に対するサポートをする者としては、依頼者である夫の自然な感情に基づく行動に対しては、厳しく警告をすることこそがその役割になります。当事者の方も、頭ではわかっても、感情は理性よりも早く動きだしてしまうものですから、ついつい怒りに任せた行動を選択しようとするのも自然なことなのです。だから第三者がサポートをするわけです。
このことを理解しない第三者からすると、こういったサポートは当事者の心情に寄り添っていないとか、感情を理解しないように映るようです。打ち合わせの時は理解できても、例えば帰宅して友人や両親などと話して、「やっぱり打ち合わせは無かったことにしたい」などということもよくあることです。しかし、その行動をしてしまうと相手をおびえさせてしまい、あるいは怒らせてしまうだけで、いずれにしても夫と近くにいることを妻が拒否する方向にしか働かない上に、家族再生にあたっても離婚訴訟上もメリットがないということがよくあります。だから、メリットはないし目標に逆行することになりますよと言わなければ職務放棄になってしまいます。言い方の問題はもちろんありますが、自然な感情に対してストップをかけるのですから、構造的に反発を受けることは必然的に生じることだと私は思います。
実際に一度離婚をして、面会交流を発展させて後に再婚した事例では、怒りと失望の両方の感情に揺れ動きながら、何度も同じ話を繰り返しながら、妻を安心させる行動に終始して、それが見事に当たって、どんどん心が近づいて行ったわけですが、そこに行くまでにはかなり激しい論争になりました。こちらとしてもかなり気が重く、辛い時間だったわけですが、彼はやり切りました。代理人は離婚と面会交流まででしたが、その後度々連絡をいただいて、再生が進んだ様子をご報告いただいています。
もう一つのケースは、奥さんが一時的に精神的に明らかに異常をきたしていたケースです。夫がそれをよく理解して、奥さんの言動をまともに取り合わないで、ひたすら安心させて、こちらのケースは離婚を回避したまま再同居となりました。
結局奥さんの病的な不安や焦燥感に寄り添った「支援者」たちが「あなたは悪くない、悪いのは夫だ」ということを繰り返し述べることによって、妻は夫から逃れることで不安や焦燥感を解消しようとして別居に踏み切ったようです。別居をしても、夫から何ら攻撃や批判をされず、おそらく精神状態(厳密に言えば精神に影響を与える身体状態)が回復していく過程だということもあったのだと思います、どんどん「支援者」たちから勧められた自分の行動に疑問を持ち始め、少しずつ夫の方に心を寄せて行ったようです。夫も、奥さんのペースを辛抱強く待ち続けて行って、試し期間を経て再同居となりました。
二つのケースとも、ご自分の自然な感情に反した行動をすることができた結果、家族再生の目的を達することができたということになります。
弁護士がそこに関与する場合は、夫からすれば事件後に知り合った人間ということで、理論的にはわかるけれど、感情に反する行動ばかりしろと言っているようなものなので、どうしてもアドバイスが心で受け入れられがたいということです。これに対して、同じことを言っても、友人からアドバイスをもらうことがとても有益です。
その友人が、夫に対して言ったことは、「何があったとしても、君が彼女に対してそんな攻撃的になってしまってよいのか。人が変わったようになってはいないか。」というようなことだったらしいです。それを聞いた夫が、妻を憎んで攻撃的になっている自分に気が付いたというのです。それで「はっ」として、家族再生という目標を固めたと言います。似たようなアドバイスを受けたというケースを最近も一件聞きました。
心理学的にはメタ認知に成功したということなのでしょう。その友人は、夫からして、おそらく長く続いた、大切な人だったのでしょう。夫は、その友人との関係で「自分」とは何か(自己概念)ということをはぐくんでいたのかもしれません。結局その友人の存在自体によって、彼は精神的な不安定さもだいぶ軽減されたようです。下手な弁護士や、カウンセラーよりも、こういう存在の友人がいることがどれだけ有益なのか計り知れません。また一般の方なのに視点がとても鋭い人だと思います。友人にも本人にも、その関係にも感動しました。
「とてもかなわない」という気持ちを持てた自分にも少しほっとしました。
妻が子どもを連れて出て行った際の夫のサポートの必要性について(その1 連れ去りの直後の精神的ダメージの由来) [家事]
ある時仕事から帰宅したら、妻と子どもがいなかった。身の回りのものが無くなっていて、どこに行ったかわからない。こういう事案は後を絶ちません。
夫からすると、いると思って帰宅したのに、いるはずの人間がいないということで、何が何だかわからない状態になります。心理学的混乱が生じます。無理に楽観的に考えて、電話をしてもラインを送信しても反応がありません。着信拒否になっている場合もあります。
大きなところではこのパターンということになりますが、バリエーションはあります。置手紙がある場合、家財道具がごっそり運び出されている場合、クレジットカードが限度額まで使われている場合、後から警察官を同行させて荷物を運び出す場合、家賃や光熱費の滞納が数か月分ある場合等です。
あるべきものがないということ、これ自体が大きなトラウマになるわけです。繰り返し訪れるはずだと思うから日々の暮らしに安心しているのですから、それが途切れるということは日常生活に安心ができなくなるのは当然です。
夫は実家に戻ったのではないかと思い、妻の実家に行こうとする場合があります。この場合、実家近くまで来たらわらわらと警察官たちが表れて、警察署に連行されることが少なくありません。実際は10名弱程度でも、突然現れる警察官は20名以上に感じてしまうようです。10名弱でも、罪を犯したわけでもなく、武器を携行しているわけでもない一般男性に対して出動するということは、その目的以上の威嚇の要素を受けて取ってしまいます。それにしても、武器を携行して犯行を行っている人間よりも、丸腰の一般市民の方がより警戒されるというのが現代日本です。
警察署ではやってもいない暴力を「もう二度としません」という誓約書を書かせられます。暴力はしていないと突っぱねることができる人はそうそういません。このまま警察署から帰ることができなくなるという恐怖もあり、屈辱にまみれて必要もない誓約書を書くことになることが通常の人間だと思います。
子どもが無事かどうかを確認したいがために、実家近くに行って様子を見ようとすると、通報されて警察に連行されストーカー警告を受けるケースが最近多いようです。ストーカー規制法は、裁判所の判断もないのに、ただその場所に存在するだけで警察署長から罰則の警告付きで禁じられるわけです。これは結果的に問題の多い法律になっています。
また、捜索願を出そうと警察に行く場合もあります。警察は、なんとも奥歯にものが挟まったような言い方で、「奥さんとお子さんは無事で元気にしています。心配しなくてよいです。」と夫に告げるわけです。捜索願など受理してくれません。夫は、警察が妻子の行方を知っているということは想定していませんから、強烈な違和感をもってその言葉を聞きますし、心配しなくてよいと言われて安心する人はいません。
警察が味方になってくれないということは、一般市民としてはとてつもなく恐怖を感じてしまいます。常日頃は、いざとなったら警察がいるということが大きな安心感になっていたことに気づかされます。トラウマを大きくする要因がここにもあるようです。
妻の現在の居場所に関することは、市役所でも徹底的に隠されます。居場所のことを調べようとしたわけでもないのに、居場所に関連する問い合わせをしただけで、自分が妻に危害を加えに居場所を知ろうとしていると認定されて、激しく拒否されます。いったんつれされられた子どもが一人で帰ってきて、保険証が妻のところにあるので相談をしに行ったところ、「あなたには話すことは無い。」と区役所の職員から大声を出されたと言う人もいます。
それまで中立的に考えていた行政からも自分が敵視されているように感じてしまいます。自分が犯罪者として扱われているようだと皆さん感じるようです。
これまで経験したことのない圧倒的な疎外感、孤立感に苦しみます。
子どもとの関係が良好な父親の場合に連れ去り事件は起きることが多いです。ここは重要な特徴だと思います。だから、子どもが今どこでどういう状態でいるのか、自分と一緒にいないことでどうしているのかということがとても心配になります。しかし、味方がいないのです。わけのわからない不条理の世界の主人公になっていることはとても精神的に混乱させられることです。
子どもの姿を確認できない、子どもと会うことができないという苦しみは想像を絶する苦しみのようです。当面会えないと悟っても、一日でも早く子どもと会いたいという気持ちは強烈なもので、また今日も会えなかったということが焦燥感を高めますし、絶望感を上書きしていくようです。
夫は何も犯罪をしていないし、税金など国民の義務も果たしていますが、子どもや家族との関係では無権利状態になっています。それを強烈に自覚しています。
DVが無くても、DVがあると妻が一方的に警察や行政に相談するだけで、夫は「加害者」と呼ばれるようになります。相談をしただけで妻は「被害者」です。
妻は被害者として、警察や行政から支援を受けて、その居場所を隠してもらえます。夫が妻の居場所を知って近づこうとするとストーカー規制法によってその場所にいることすら罰則付きで禁じられます。繰り返しますけれど、夫が実際は暴力をふるっていなくてもです。夫は警察や行政に抗議することも、不服申し立てする手段もありません。まさに無権利状態です。
社会が自分に敵対していると強烈に実感してしまうことになります。
日本人は、例えば西洋人と比べて人権意識が低いと言われているのではないでしょうか。こういうことがまかり通り、政治的にこのことを問題視しているのは、かなりの保守派しかいない状況です。
おそらく、こういう典型的な人権侵害がまかり通っている理由は、真にDVを受けている人が、DV夫から解放されるために必要なことだという理屈なのでしょう。予防的措置ということが正当化根拠になると思います。しかし、単なるの夫婦の喧嘩に子どもも巻き込んで、警察や行政がサービスを行い、そして一方の人間の精神破壊を伴うことを許す根拠にはならないと私は思います。
運よく私のような専門家と話すことができれば、精神的に危険な状態を理解されて、精神科医を紹介してもらえます。しかし、そのような解決まですぐにたどり着ける人はそんなにいないようです。インターネットの情報があるとしても、無駄な情報がありすぎて、そしておおうにして無駄な情報が優先して飛び込んでくるために、なかなか必要な情報にたどり着くことができないことが多いようです。
事情を知っている専門家、精神科医や心理士などに巡り合わなければ、「どうして」という言葉が頭の中で無限に繰り返されて止まらなくなり、現実社会が安心して生活する場所ではないという感覚になり、精神が壊れていくことは想像がつくことだと思います。
妻が子どもを連れて出て行った場合、家族だけではなく、自分を理解してくれる人で、この話ができる人で、現実に会って話ができる人からのサポートを受ける必要があります。一人で解決できることではないと私は思います。
次回は精神的ダメージが怒りに変わったときのサポートの必要性について話すつもりです。
傾聴、受容、共感シリーズ2 夫婦に応用するカウンセリングの基礎技術 相手の小言は夫婦円満の千載一遇のチャンスであること [家事]
カウンセリングの基礎を勉強して、直後に夫婦問題の相談を受けていたら、カウンセリングの技法を夫婦の会話の技術に応用することができれば、円満な夫婦になるし、子どもに対して応用すれば問答無用でしかりつけることを回避して合理的なしつけができると感じました。
ただ、「こういう技術があるから応用しなさい」と言われてもなかなかぴんと来ないと思いますので、応用方法を考えてみます。
先ずは傾聴です。
「傾聴」とは、深く相手の話に耳を傾け、その人に焦点を当てて、相手の存在そのものを知ろうとすることである。表情、姿勢、ジャスチャー、感情、考え、話しの内容、沈黙さえも十分に観察し、その意味を考えていく。
いつも傾聴しているわけにはいかないのですが、ここぞというとき、相手が話を聞いてほしそうなとき、このスキルを応用しましょう。まずは聞く態度を作るということです。「あなたの話を聞いていますよ」というアッピールを態度で示すということです。
先ずは、リビングの椅子にでも腰かけましょう。その時間は話を聞く以外のことをしてはいけません。スマホは手放しましょう。近くにあるとつい触ってしまうので、手の届かないところに置きましょう。
「聞いてますよアッピール」としては相手の目を見ることが考えられますが、相手の目を見ることはなかなか苦しくなることがあります。必ずしも目を見て聞く必要はないと思います。少し視線を下を向けて顎のあたりや口元を見ていれば、苦しくなりにくいですし、「聞いている感」が損なわれません。時々相手の手を見て、握りしめていないかとか、立ち上がって襲ってこないかとか観察することはとても大事なことです。
そして絶妙なあいづちをしましょう。これが無ければ、聞いているのか別のことをボーっと考えているのかわからなくなり、概ね後者だと疑われて怒りだされてしまいます。
できるだけ、肯定的なあいづちが望ましいと思います。「そうね。」、「なるほど」、「確かに」、「そうかもしれないね」とかですかね。そして、聞き取れなかったところは「ごめん。聞き取れなかった」と言って聞き返すことも有効です。とりあえず、反論とか、間違いの指摘等については後で行うとして、先ず「話を聞く」ということを全力で行うことが第一に意識するべきであり、相手に態度で示すことが最優先だということになります。これが傾聴です。
夫婦の場合、これだけでだいぶ印象は良くなると思います。週に2回は、じっくり話を聞くということをしても良いのだと思います。夫婦の義務というほど特別なものではなく、おそらく話を聞いてもらえる、自分を理解しようとしてもらえるという意識は、「相手が自分の仲間だという意識」を作っていくものと思われます。こうしてあなたに対して安心感を持ってもらうことが目的でもあります。
仕事がら壊れた夫婦の形を見ている者としては、夫婦の一方が、自分が相手より有利な立場、優れているということを示そうとすることによって、夫婦の仲が壊れていくことを多く目撃しています。
壊れてみて初めて気が付くことですが、「相手と仲間であり続けること」ということが究極の人間の要望のようです。どうも特に男性は、女性と仲間であり続けるためには自分が有能であり、相手より優れていると思われることが有効だと勘違いして行動しているようなのです。しかし、それはいつしか、相手にとって居心地の悪さ、窮屈さを積み重ねてゆき、圧迫感や不快を感じさせてしまっていることが少なくないようです。有利なポジションとか優越的な地位ではなく、目指すべきは、あくまでも対等の関係性のようです。
次が「受容」という心構えです。
「受容」とは、無条件の積極的関心をもつこと言う。相手の感情が否定的な感情であったとしても、そのままを受け入れることが必要である。と教科書では述べられているようです。
相手の話を聞いていて、自分に対する不満が語られると、ふざけんなと思って、すかさず相手の話をさえぎって言い負かそうとすることがむしろ通常の夫婦かもしれません。また、相手が言っていることが、自分勝手な言い分だったり、不公平な話と感じたりすると、秒で反発心がわき、秒で反論が始まったりするわけです。これこそが受容と正反対の態度です。
この反発心や反論は、先ほど述べた相手との関係で自分が有利な立場に立ち続けなければならない、自分の方が優秀だと思わせなければならないという気持ちが強ければより強い形で現れます。
いつも間違いや足りないことを指摘されて、「へへへ」と笑ってばかりいたら、頼りのない人間だと思われてしまうかもしれませんが、「ああ、そうなんだ。それじゃあ、がんばってみるよ。」という態度を時折示すことは、何よりも、相手の問題意識をきちんと受け止めるし、相手の困りごとを解決するということでかなりのプラスのアッピールになります。相手も自分も、仲間の中で有用な人間、頼りになる人間だと思われたいという本能人間にはあるようです。
話をする方も、相手に否定的に受け止められてしまうかもしれないことを言うことが一番緊張することです。それでも話を嫌がらずに聞いて、自分の提案を受け入れてもらえるということは、安心感につながります。緊張から始まって、安心という心の動きは、快い気持ちになり、安心感の獲得も効果的になるようです。だから緊張のないところでは作ってあげることが難しいわけです。
相手に対する安心感とは、自分がどんな状態でも相手は自分を見捨てないということが究極の安心感です。小言を聞いてあげて提案に従うということは、この心のプロセスが期待できる貴重なチャンスなので積極的に活用しない手はないと思います。
最後は共感というポイントです。
「共感」とは、クライエントの私的な世界をあたかも自分自身のものであるかのように感じ取ることであるが、クライエントの感情と同化するのではなく、クライアントの感情として自分の感情とは切り離してとらえ、クライエントの感情に振り回されないようにすることである。
夫婦の会話においては、傾聴と受容と共感は、段階を経て順番に行うことではなく、同時に行うことですが、それぞれ心構えが別なので、分けて話しているだけです。
自分勝手なことや事実と違うこと、聞くに堪えない身内の悪口等、なんぼなんでも否定してよいだろうと反射的に考えてしまうことが多いのは、むしろ一般的です。しかし、例えば夫が、道徳や正義感に基づいていちいち反論していくと、良いことは通常ありません。子どもにとってもマイナスなことが起きることが多いようです。
だから、週に1度か2度は、自分の正義感や道徳心、防衛本能を少しお休みさせることが有効です。それよりも相手のわがままだったり、甘えだったり、特別視してほしい気持ちを優先させるというサービスを行うということなのです。
反発をする前に、どうしてそういうことを言い出すのか、どうしてそういうことを言いたくなったのかその来歴を考える作業は、必ず仕事でも役に立つことです。ママ友など継続的人間関係を結ばなくてはならない時に自分に利益をもたらすことです。
達人クラスになると、ああ、そういえば明日健康診断を受けるからナーバスになっているだけだなと、八つ当たりであることもわかってくるようになります。言葉にしなくても家族の窮地を感じることはとても大切なことです。
ただ、どうしても、後々のことを考えて、相手の誤りを正したいということもあると思います。その際のテクニックとしては、先ず肯定できるところを必死で探し出しましょう。また、実際は違うけれど相手からすればそういう風に受け止めてしまうかもしれないという、自分ではない人間から見た評価は違うのかもしれないという発想も有効です。
例えば、確かにコロッケを一人で食べてしまったら、自分だけ得をしようとしてあなたに損をさせた、あなたは面白くないと思うのはわかる。でもコロッケがカビカビカビになっていて、子どもが食べたら危ないなと思ったから捨てるのももったいないし食べちゃったんだよ。ずるいことしようとしたわけじゃないんだ。
というような感じですね。
先ず、肯定する。その後で修正するという流れはとても大切です。
さらに傾聴と受容によって、相手方が何らかの不安や苦しみを感じている場合、こういうことであれば苦しいよね、不安だよねと言い当ててあげることによって安心感はますます大きくなりますし。そのあとの訂正もすんなり受け入れてもらいやすくなります。
先ほど、このような態度で相手の話を聞くということを週2回行いましょうと言いましたが、実際はなかなか難しいと思います。月1でもやるのとやらないのと大分違ってくると本当は思っています。
しかし、相手が言いたいことが何もなくても週に1度くらいは、自分たちの状態について点検したり、楽しい企画をすることで相手に向き合って話をする機会がある方が、安心感は大きくなることは間違いないと思います。
その時、ゲーム感覚で、傾聴、受容、共感ということをやってみることは、夫婦円満、家内安全を実現し、自分の社会的評判を上げる貴重なトレーニングになることでしょう。