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出て行った妻に対して「話し合いを求めること」が逆効果になることについての注意喚起 [家事]



ふと気が付くと、大抵の同種事案では繰り返されていることでした。代理人の仕事をしていてなかなか意識に上らなかったのですが、何件か立て続けにありましたので注意喚起をします。


その準備をしていることも気が付かないうちに妻が子どもを連れて別居することがなかなか減少しません。いろいろな原因があるのですが、ここでは夫の行動が知らないうちに妻の行動を助長していたようなケースです。原発的原因が別のところ、主に妻の体調と妻の相談相手(実家、似非女性の権利の主張者である行政とNPO、警察、病院等)にあるのだけれど、夫が意識して自分の行動を修正することをしなかったため、いつしか妻は夫に敵対心や恐怖を感じてしまい、その感情が固定してしまった場合、つまり典型的な連れ去り(思い込みDV)のケースを念頭に置いています。

夫は、何が何だかわからないことが通常です。多くの場合、妻が自ら出て行ったという痕跡があるものの、それを認識できることはあまりありません。何か事件に巻き込まれたのではないかと探す人がほとんどです。警察に届け出る人も少なくありません。しかし、いくつかのやり取りを経て、妻が自分から逃げ出したのだということが伝わります。警察官から、「奥さんは無事だから心配するな。しかし居場所は教えられない。」と告げられる人も少なくありません。この時警察官から自分が犯罪者のような扱いを受けていると感じる人もいます。大体は奥さんは配偶者暴力相談を受けていて、「あなたの夫は危険なDV夫だ。一緒にいると危険で命を落とす場合もあるので逃げなくてはならない。」と言われています。その相談をした段階で、行政から奥さんは「被害者」、夫は「加害者」というカテゴリーでひとくくりにされているということは頭に入れておいてください。もちろんそのような危険など現実的には無いということが正しいのです。「なんだろうね、この日本の非科学的な家族破壊の行動は。」ととても歯がゆい気持ちになります。そんなに行政や警察官は理解のある夫なのでしょか。ただ、我が身をかえりみないだけだと思います。

さて、怒りが止まらなくなる前に本題に移行します。

夫はどうして妻が家を出て行ったのか理解できていません。これは当たり前だと思います。私が相談を受けたこういうケースはほとんどのケースが夫が自分では原因などがわからなくて当然のケースでした。特にご自分では身に覚えがないことはよくわかります。

妻の居場所が、妻の実家だとか様々な事情で分かる場合がありますし、昨今であるとラインやメールがつながっている場合もあります。つまり夫は妻に対して連絡が取れる場合です。(居場所が全く分からない場合も少なくありません。)こういう相手と連絡が取れる場合に、夫がついやってしまうことは、メールなどで、「話し合おう」という呼びかけをすることです。

わたしでも予備知識が無ければ、当然話し合いを求めると思うのです。何が何だかわからなければ、情報を得たいということも人情です。しかし、この本能的な行為こそが、別居した妻の感情をさらにこじらせていることが通常です。話し合いを求めることは逆効果になることがほとんどなのです。

これを解説します。なぜ話し合いを求めてはならないか。

1)話し合うことが嫌だ。
話し合いをしたくないから逃げ出した。それなのに話し合いを求められることは、嫌なことを強要されることになる。詳細はともかく総論としてはこういうことになります。

2)なぜ話し合いが嫌なのか。
  話し合いということは、双方が改善する必要があるという認識を持っていることを示してしまいますが、逃げ出す方は、一方的に夫が悪いと思い込んでいます。客観的にどうなのかについてはわかりませんが、主観的にはこういう状態です。だから話し合いを申し入れることは「夫はまだ反省していない。」と妻を失望させるようです。
 また、夫との話し合いは(これまでの学習から)、妻は自分が夫から言いくるめられて終わるという嫌な思い出を持っていることが多いようです。逃げ出すに至った経緯で夫の落ち度をうまく言えない妻は話し合いをして自分に勝ち目がないことをよく知っています。だから話し合いを求められることはまた自分がうまいように言いくるめようとしていると受け止めるようです。
 この結果、話し合いを求めれば求めるほど相手はこちらを嫌悪するようになっていくということが一般的です。
どうやら警察や配偶者暴力相談センターでも話し合いには応じるなというアドバイスをしているようです。

3)ではどうするのか、情報の収集
 メールやラインがブロックされない場合、何らかの返信が来ることが多いです。昔の誘拐犯からの警察の逆探知ではないですけれど、なるべく相手からの情報が来やすくなるように心がけるべきです。そうして、わずかな情報量ですが、おぼろげながらに出て行った理由が垣間見られる文章があります。しかし、その情報が出て行った理由だと夫が認識できることはあまりありません。専門家に相談した方が良いと思います。これも夫であるあなたに支持的に相談に乗るタイプでは役に立たないでしょう。「あなたは悪くない。」という専門がいたから妻は出て行ったわけですから、永遠に溝は埋まらないでしょう。本来はわずかでも情報を獲得し、その情報に基づいて、反省の弁を述べることが必要なのです。

4)どうやって情報を勝ち取るか
 これ、メールなどで直接情報を獲得できない場合は厳しいです。共通の知人、相手の親(たいていは一番の敵対者)から情報を獲得するか、代理人を依頼して双方の代理人が別居の理由を共通理解にする作業が行われることを待つしかできません。
 もし幸いにして直接メールなどで連絡が取れる場合どうするか。
先ず、相手を責めない。批判しない。「家族の不具合は夫の結果責任だ」くらい鷹揚に構えるとよいようです。なかなか難しいですが。そうして、事務連絡を要点だけこまめに連絡を入れることみたいです。例えば郵便物の連絡などです。安否確認も最小限にするべきです。効果的な文言を厳選しましょう。とにかく相手が焦ることのないように細心の注意を払いましょう。
ギャンブルになりますが、離婚原因にはならない程度で謝罪の言葉を送信することも検討するべきかもしれません。ただ、あまり大作にはしないほうが経験上は良いです。長すぎる文章は頭に入らないという精神状態のようです。

5)そして一方的に謝罪する
夫であるあなたが、何とか家族を再生させようとする場合は、話し合いをするのではなく、一方的にこちらの非を認めることが出発点です。本心をぶつけるということは絶対にせずに、結果を誘導するためにはどうするかという戦略をもってあたることが鉄則です。双方が感情に任せてやり取りをしたのでは何もうまくいかないでしょう。

また、謝罪に終始しても、読んでいる者が負担に感じることも効果がなく、逆効果になることもあるようです。難しいです。

妻の不満を簡潔に言い当てることが必要です。その場合、少ない情報でもそのことを基軸に謝罪を構成するべきだと思います。つまり客観的に正しい謝罪というものはありません。妻の気持ちが少しでも落ち着くことが正しい謝罪だということを心掛けましょう・

謝罪の内容は、御免なさいということではありません。
A) 自分のどういう行為によってどのように妻が心理的に圧迫を受けていたり、仲間として尊重されていないと感じていたかを言い当てる。
B) どうして自分がそのような行為をしたのか、あるいは思いとどまらなかったのかを説明する。
C) 今後どういうふうに修正していくか
こういうことを述べることが謝罪です。

とにかく長くならないことが一番のようです。
A)とC)については、できる限り具体的に述べる必要があります。
B)は言い訳なのですが、仲間として尊重しなかったからではないということを告げることは大切なことです。もちろん妻に原因があるなんてことは絶対にダメです。
C)については、明るく気分を上げてもらうことを意識すると良いのではないかと考えています。

メール、手紙、調停の陳述書など、それぞれの機会に応じた内容にするべきです。読んでいて苦しくなるような文章は絶対にNGです。誰かに読んでもらって感想を聞くという作業ができたらとても良いと思います。但し、あなたの母親など、あなたに支持的な意見しか言わない人では意味がありません。

いずれいつか以下のこともテーマにしなくてはならないと思うのですが、今回は頭出しだけしておきます。
どうしても許してもらえない、つまり相手が離婚に固執しているような態度をとっている場合は、本心は別としても離婚という相手の意思決定を尊重するという態度が最後の手段ということになります。通常は誰しも、離婚をしてしまったら再生はあり得ないと考えるのが当然です。しかし、離婚だけは応じないということを前面に掲げて頑張ってしまうと、相手は頑固に結論を押し付け来る、何も変わっていないと感じ、自分を否定し続けていると感じて事態を悪化させるだけの場合がほとんどです。
籍にこだわるのか、実質的な家族再生の可能性を追及するのか二者択一の局面があるのです。もちろんどちらを選ぶのもその人の生き方の問題です。但し、現代日本の家庭裁判所は、離婚理由がない離婚を、別居期間の継続と離婚意思だけで認めてしまうという不合理なところです。結局何もかも失う可能性も低いわけではないということには留意されるべきだと感じられる事案が少なくありません。

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いわゆるツイフェミ現象に学ぶ、家族に嫌われない夫、父親の在り方 [家事]


男性の中には、家族のためにと思って、自分の人生をささげていると言う人が本当に多くいます。そして良かれと思って家族に対してあれやこれや口を出すのです。あくまでも良かれと思って発言しているわけです。
それなのに、何が悪いのかわからないまま、妻や娘、時には息子からも毛嫌いされていると感じるという悲哀を味わう男性も少なくないようです。自分が何かを話したばっかりに家族に無用な緊張感が走ったり、雰囲気が悪くなったりするという経験のある男性も多いことでしょう。極端なケースでは、わけのわからないうちに、妻が子どもを連れて家を出て行くなんてことも起こるわけです。

どうして家族から否定評価されるのかをあらかじめ知っておれば、孤立した老後を過ごさないで済むし、不意打ちで孤立するということもないと思うのです。何か格好の説明方法がないかと探していたところ、ツイフェミにまつわる議論が使えるなと目にとまりました。

ツイフェミという言葉があるということを先週末初めて知りました。ツイートをするフェミニストという意味らしいのですが、必ずしもフェミニストという体系的な考えを持った人のことではないらしいです。もちろん男性も女性もいらっしゃるようです。

論文での意見発表ではなく、時々の出来事をツイートされるのですが、女性の社会的地位の向上の観点から、不適当な他者の表現活動などを指摘されている方々がツイフェミさんと言われているようです。

ツイフェミという言葉は、肯定的なニュアンスというよりも、否定的ニュアンスで語られることが多いようです。それは理解できるような気もします。新しい秩序を形成しようという場合は、古い秩序との軋轢が必然的に生じますので、反発の反応が起きることも必然であると思います。

ツイードなどのSNSは鮮度ということがとても大切で、その時間を共有している相手に対して、その共有を前提として文字発信をするという特徴がありそうです。このため、事後的に見れば、難解な主張だったり、反発が大きくなることも、メディアの限界も手伝ってありそうです。そのような表現メディアの限界もおそらくあるのでしょう、一部のツイフェミさんのツイートが、色々批判を受けているようです。批判者から見れば以下のように批判されているということになるのではないでしょうか。

1)主語が大きい。「私は」と言うべきところを「女性は」と言ってみたり、「あの男性は」と特定するべきところを「男性は」と普遍化する言葉を送信してしまう。(批判として主語が大きいというのは気が利いていておかしい。感心する。)
2)相手の真意を確認しないで、自分なりに解釈して批判する。このため、批判される方は、何が何だかわからないけれど自分を否定してきていると感じる。
3)自分もできていないにもかかわらず、相手ができないと批判する。これを最近の方々はブーメラン現象と呼ぶらしいです。
4)批判の表現など態様が苛烈であり、容赦がない。
5)これを言うことで相手がどう思うかという配慮をせずに目的に合致すれば発言してしまう。

このような批判がなされているようです。

これは、主として中年以降の男性が家庭の中で批判されてきた内容と極めて酷似しているのです。

さらに、ツイフェミさんと呼ばれる方々(女性)の主張を見ると、ああなるほどなと理解できる部分があります。ツイフェミさんは男性を毛嫌いしている発言をする方が多く、また、え?こんなことでというくらい、性的表現に極めて敏感でそれに対して攻撃をされているようです。つまり、男性一般に対して安心感を持てないということが一つの特徴です。そして、性的だと感じることができる部分に関して過剰に性的であると感じてしまい、嫌悪や恐怖の対象になってしまう、つまり過敏になってしまう。そうして自分を守らなければならないという意識が強くなりすぎ、不安から解放されるために他者を攻撃するという方が多いのだろうと思われます。

中年以上の男性は、家族の女性や若年者に対して、このようなむやみな嫌悪感や恐怖感を抱かせやすくなるようです。皮肉なことに、その原因について検討するには、一部のツイフェミさんに対する批判がとても参考になるようです。

おそらくこれだけでは、中年男性はピンとくることもないと思われますので、少し解説します。

1)主語が大きい
中高年男性の主語は、「世間は」とか「常識では」とか、なになにすることが「当たり前だろう」等です。妻や子どもが、自分と意見が合わないような行動をすることに過敏に反応をしてしまい、それを修正してもらったり、やめてもらったりしたい場合に、「私はこう思う」という言い方をしないで、「そんなことをしていたら世間で通用しない」とか「社会から脱落してしまう。」という言い方をしてしまうようです。
言っていることには間違いがないとしても、価値観の違いがあれば、受け手は単に反発するだけです。また、「社会的に認められない」という言い方は、受け手からすると全否定をされているように感じるものです。また、このようなことは何等裏付けがなく、裏付けがないことをごまかすように全否定する表現ということで、受けるほうは不満ばかりが募っていくようです。

当然中高年男性としては、自分が社会の中でそのような経験をして苦しい思いをしてきたから、家族にはそのような辛い思いをさせたくないということが出発点なのです。それでも表現の仕方によって、相手を否定することがルーチンのように、親切心や配慮を捨象した形で伝わってしまうようです。

2)一方的な意見表明
中高年男性は、良かれと思って、しかもそれに自信を持っていますから、家族の相手のために、何としてもその行動をやめるとか、修正をしてほしいと思うわけです。しかし、そういう行動をするのも、通常はそれなりに理由があってのことなのです。自分の知らない事情でそういうことをやっているかもしれないのに、悪だと決めつけて否定しているように、相手からは感じられているということになかなか気が付きません。

だから、仮に中高年男性が言っていることが正しいとしても、事情を尋ねるという余裕なく結論を求めてしまうと、相手方は自分を否定されていると感じ、結果として自分が中高年男性から攻撃されていると受け止めてしまうことになるようです。

3)ブーメラン現象
まあ、その家族に意見を言っている段階では、既に自分ではそういうことはしていないとしても、過去においてそういうことをしていた場合には、言われた方からすれば、「自分だって同じことをしていたではないか。どうしてこちらにばっかり否定してくるのだ。」という気持ちになるでしょうね。理不尽な気持ちになるということです。
実際は中高年男性は良かれと思って言っているのだし、自分が失敗してきたからこそ家族には失敗してほしくないと思うのです。でもそうならば、そういうふうに言えば反発も少なく、説得力も増加するのですから、言い方を気にするということが大切です。
いずれにしても、どうやら中高年男性は、自分は批判を受けないということを前提として相手家族を批判しているところがあるのかもしれません。しかし、それでは、現代社会の家族の人間関係としては不適当なのでしょう。家族は、父親や夫が聖域であるとは考えていません。

4)批判が苛烈
  先ほど述べた「世間では通用しない」という言葉の表現の外に、大きな声を出す、眉間にしわを寄せて話す、言葉が乱暴になる等の場合は、家族としては付き合いにくい相手だという評価が下されるようです。中高年男性としては良かれと思って言うわけですから、熱を込めて言うため、そのよう相手からすれば恐怖を感じたり、自分を強く否定していると受け止めるようです。
  ツイフェミの方々はわかりませんが、中高年男性の家族に対する批判の場合、このような声だったり表情だったり、態度だったりが、相手に不快感、恐怖感を与えているということに思い至らない場合がとても多いようです。この結果、家族仲が比較的良好な段階までは、「どうしてお父さん怒っているの?」と言われて困惑することが多くなるわけです。「え?自分がいつ怒った?」と困惑し、「怒ってない!」とムキになって反論するときにははっきり怒ってしまっていますから、なんとも対処の方法がないということになります。いつしかそういうことも言われなくなり、単にいつも怒っている人間と諦められるようです。

相手家族からすれば、「どうしてそんなことで私に対して怒るのだ。」と感じて、自分と中高年男性は敵対関係にあるという意識に染まっていくようになるようです。

5)言われる方に配慮しない
正義を主張する場合、それはどうしても守られなければならないと考えてしまうので、自分の主張は当然であり、最優先して従わなければならないと考えてしまうものです。
「正しいことをいうときは、少しひかえめにするほうがいい」
というのは吉野弘の「祝婚歌」という詩の一節です。全くその通りなのでしょう。披露宴でスピーチを頼まれたら余計なことを言わずにこの詩を読んで、詩集をプレゼントするというのが一番良いと私は思います。

結局、家族も意思がある人間ですから、強制されることは本能的に嫌うわけです。本当にそれをしてほしい、それをしてほしくないという場合は、家族であるからこそ、あるいは切実に結果を実現したいからこそ、結果を押し付けるのではなく結果に誘導するという方法をとらなければならないようです。誘導する方法が思付かないときは、あきらめるか、控えめに言うことを心掛けた方が結局はうまくいくのだと思います。

自分が正しいと感じてしまうと、言えばわかるはずだという態度になってしまうようです。しかしそれは家族に対する甘えになってしまうようです。赤ん坊が要求を通そうとすると、それだけで赤ん坊の要求を実現しようと誘導されてしまいますが、中高年男性ではそうはいきません。単に、家族を支配しようとする独裁者に見られてしまうと考えていた方が無難なようです。

但し、嫌われようと、孤立しようと、言わなくてはならないときはあります。その時は、自分を犠牲にしても、それをするべきです。その結果自分が孤立したり、嫌悪されたりしても、自分が役割を放棄しなかったことに満足するべきなのでしょう。

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フキハラ 不機嫌ハラスメントに学んでみた  [家事]



フキハラという言葉を小耳にはさみました。不機嫌ハラスメントの略なんだそうです。不機嫌な様子をあからさまに示して、周囲の人を戦々恐々という気分にさせて圧迫することを言うのだそうです。

真っ先に思い浮かべたのは、職場でのパワーハラスメントの際に、言葉で部下を叱責するだけでなく、不機嫌な様子を見せて部下を威嚇している様子でした。

ただ、この言葉が一番使われる場面は、夫が妻に対してはっきりと自分の意見を言葉にしないで、不機嫌をアッピールして自分の要望を察するように圧迫をかけるような場面とのことでした。

私のように離婚実務に携わっていると、どちらかというとこの不機嫌ハラスメントは女性が行う場合が多いように感じます。言葉で不満を言わないで、夫が察するべきだとして、これだけ自分がアッピールしているのに夫が気が付いてくれないことが離婚の理由だなんてことを結果としては主張することが多くあります。

ただ、いずれにしても、人間ですから感情が出てしまうのは避けられないし、家族のように四六時中一緒にいると、家族の自分に対する対応で不機嫌になってしまうことはあることだろうと思うのです。だいたいそういう「いじましい」対応をするときはつまらないことが原因の場合が多く、例えば夕食に自分にだけが肉が少なく盛られているとか、自分だけ留守番をさせて母と娘が買い物に行くとか、どうでもよいと言えばどうでもよいような場面です。言うのも恥ずかしいからわざわざ口にするような場面ではないと自覚していることが多いわけです。

それをフキハラとか言われて、フキハラはDVだ、フキハラは離婚理由だなんてことになってしまったら、あまりにも窮屈ではないでしょうか。男も女も日常的に離婚の危険にさらされて、四六時中意識を集中させてフキハラをしないように緊張していなければいけないことになるのかと考えると気が遠くなるわけです。

そもそも、自分では不機嫌を顔に出さないように平静を装っていても、家族から「なんで怒っているの?」とか言われてしまうと、フキハラなんて防ぎようもないという絶望的な気持ちにもなります。感情のないロボットと暮らしたいのかという非肉の一つも出したくなるわけです。

だから初めは、フキハラなんて言い回しでとやかく言うものではないと、不機嫌をあらわにフキハラという言葉を批判をしようかなどとも考えたわけです。ただ、少しずつ冷静になると、こちらが無意識であっても、やはり家族が不機嫌を感じ取って、不愉快な気持ちになることは間違いないので、これは無い方が良いということまで考えが進みました。

ちょうどその時、別のとある理由で、家庭の中でちょっと低姿勢というか、あえて異を唱えなくてもよい事項については、少し大げさに同意の意をあらわにしていたという事情がありました。少し積極的に肯定をしようということをとある理由で実行してみていました。

なるべく表情を険しくせず、なるべく大きな声を出さずに、しかし、できるだけ明瞭に肯定の言葉を出すということをしてみていたわけです。先ほどの例で言えば、肉が少ないと感じたら、「もう少しお肉ちょうだい」と冷静ににこやかに言うみたいな感じですね。

なかなかうまくいくようです。先ほどの例で言えば肉の追加をもらえたし、言わなくても、もらえるようになるような感じになったし、文句を言われることも格段に減ったし、家の中がだいぶ快適になったのです。おやおや。

なるほどなと思いました。

フキハラをしないようにしようとすることは、なかなか難しいです。緊張感が顔に出れば、何不機嫌にしているのだと思われてしまいかねません。「不機嫌にしないようにしよう。」ということではなく、

少し姿勢を低くして、にこやかに、明瞭に肯定や賛同の言葉を述べ、思っていることは感情を込めないでさらっと言ってみる。

こういう積極的な行動を心掛ける中で、自然とフキハラを結果として行わないということが前向きで建設的な対応なのかもしれないと思いました。

そして結果は自分にとってもとてもよいものが現れるということですから、やらない手はないでしょう。
その程度の緊張感はもしかすると、集団生活をする人間としては当たり前のことなのかもしれません。私たちは、日常生活に手を抜くことを覚えすぎてしまっているだけなのかもしれません。努力すること自体が喜びや充実感となるということを思い出すと同時に、家庭では努力することが極度に疲弊する、おっくうになる原因を探すという方向で考えた方が良いのかもしれません。

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離婚理由に見るジェンダーバイアスがかかった女性側の主張  [家事]



1 子育ては女性がするもの
2 家に収入をいれるのは男性の役割
3 夫婦仲を安定、改善させるのは男性の役割。女性は男性が作った人間関係を享受する立場である。
4 DVを行うのは男性であり、女性は被害者である


ジェンダーとは「歴史的・文化的・社会的に形成される男女の差異」を言うのだそうです。数十年前からジェンダーという言葉が弁護士の業界の中でも、こなれない形で使われ始めたのを覚えています。詳細は省略しますが、その時の使われ方の印象が悪かったため、ジェンダーという言葉に良い印象を持てないままなのかもしれません。

さて、弁護士実務としては、離婚の際に、ジェンダーバイアスがかかった主張が妻側の女性弁護士から多く出され、あまりにも自分たち以外の女性を馬鹿にしていると常々思っているので、ここで女性の側から出されるジェンダーバイアスがかかった主張を提示して問題提起をしてみたいと思います。

第1は、子育ては女性がするものだという主張です。
 女性という姓は子育てをする性であることを、別居にあたって子どもを連れて出て行くということを正当化する根拠にしているように感じられます。ただ、さすがにあからさまにそのような主張するのではなく、工夫離されています。裁判所は、子どもが意識を持ち始めてからいつもそばにいた親に親権を与える「継続性の原則」をとっていますので、弁護士としては、子育ては女性がするものという主張はせずに、継続性の原則を主張しているような言い方をします。通常妊娠、出産の直後の乳児期は、母体を休ませるという意味合いもあり、母親は仕事を休んで子育てにつきっきりになりますので、継続性の原則を主張しやすいという事情はあります。
しかし最近は、継続性の原則に照らしても一義的に親権者を選択できないケース(父母ともに子どもに同程度《あるいは父親の方が多く》関与している場合が実際には結構ある。)が増える傾向にあります。こういう場合、継続性の原則がいつの間にか子育ては女性がするものという主張が顕在化してきます。
さらに継続性の原則で親権者を決めることについてももう少しち密に見直す必要があるように思われます。継続性の原則は、乳児期やその直後の時期の場合等妥当する場合もあると思います。しかし、例えばゼロ歳児から保育園に預けていて、その後は比較的同じような時間父母が子どもに接していて、子どもが就学時期に達していたりその直前の場合は、継続性の原則の妥当性はだいぶ薄弱になるように思われます。しかし、裁判所は、父母のどちらが親権者としてより妥当かという判断をしたがらないため、継続性の原則という逃げ道にすがっているという印象があります。

もっともこの問題は主たる監護者をどちらに決めようと、どちらの親とも子どもが比較的自由に交流できるようにすることで解決することが本則であるとは思っています。子どもが他方の親と同じ時間を過ごすための法制度が整備されていないところが問題の所在だと考えています。

実務の実情は、それまでの経緯をあまり吟味せずに母親に子どもをゆだねるべきだという主張があまりにも多いのが実情ではないでしょうか。実際は子育ては女性がやるべきだという考えに立っているという批判も可能だと思います。
この考えをさらに進めた考えが、子どもに関しては母親が決定権を持っているという子ども支配の論理です。子どもの独立した人格や感情などは一切考慮されていません。子どもが友達や父親、親戚、それだけでなく住み慣れた家や遊び道具からも突然切り離されることになっても、そんなこと重大なことではないとして子どもの利益をかえりみない主張も多くみられています。

ちなみに授乳期を過ぎた子育ては母親がするものだということは、人間に限っては生物学的にも誤りです。人間以外のほ乳類にはそのような育児がよく見られますし、ニホンザルやチンパンジーなども子育ては母親が行っていることはその通りです。しかし、ホモサピエンスに限らず人類は、妊娠出産、授乳を例外として、子育ては群れが行うという方式に進化しました。子どもは母親以外の大人たちからも子育てをされ、群れの大人たちの影響を受けて成長するのが人類の特徴です。
母親が主として子育てをするべきだという考えは、戦争遂行を主眼として明治期に国によって作り上げられたまぎれもないジェンダーバイアスです。

第2は、外で働いて収入を得る責任は父親にあるという考え方です。
私は専業主婦という考え方自体は、ありうる考え方であり、それ自体がジェンダーではないと思っています。専業主夫ということもあるわけです。子育ては、現代社会では極めて慎重に丁寧に行う必要があり、一人の大人がつきっきりで行うことにふさわしい一大事業だと思っているからです。
しかし、離婚訴訟などで主として女性弁護士から出される主張としては、子どもを連れ去って別居した場合に、その子どもが小学校以上になって、母親が十分就労できるにもかかわらず、母親の収入がないことを前提に婚姻費用の額を決めようとする主張です。男性だけが就労しなければならないという理屈はありません。女は家で子育てをするという考えも、実は明治期から戦争遂行のために作り上げられた意図的に作られたジェンダーの考えそのものです。明治期なども日本の圧倒的多数である農民は、男女の関係なく朝から晩まで働いていたわけです。男は外で働いて女は家を守るなんて言うことは、日本国民のコンセンサスにはなりようがなかったものです。

また、専業主婦の離婚理由として、十分な収入を家計に入れないから虐待だというものがあります。妻からは配偶者暴力センターに相談に行ったらそれは経済的DVだと言われたと主張があることも多いです。しかし、その場合に多い実態は、夫が低賃金だから、それしか家計に入れようがないということです。誰が見てもその収入からは精一杯のお金を家計に入れていると評価できることがほとんどです。また、お金はほとんど引き落としか夫が支払っており、妻に渡していた金額は妻の小遣いであったということもよくあります。何万円以下の場合は経済的DVだなどと家計に入れる絶対的金額を主張されても、それはあまりにも不合理で実態を見ていないケースがほとんどです。家計に多額のお金をいれられないことは、むしろ低賃金にあります。企業の責任を不問して夫だけを離婚理由として責めているのは、昨今の主張を象徴しているように感じられるところです。不思議なことにこのような主張をするのは、専業主婦の女性だという傾向がみられるように思われます。

第3が最も問題とされるべきです。妻が何も夫に働きかけないで、ずいぶん年月が経ってから、夫の嫌なところはこういうところだと抽象的に、おおざっぱな時期も特定せずに夫非難を展開し、だから婚姻は破綻している等という主張が、離婚訴訟の圧倒的多数のように感じます。

ずうっと不満だった。たまりにたまって爆発した等とよく表現される主張です。しかし同居期間中にその不満を夫に具体的に言ったことは無いようです。建設的に改善を促していたということも主張されることは少ないです。

妻は、夫の行為に不満を持ち、それを夫に告げず、夫はこれまで何も言われていないためにまさか妻が自分に不満を持っていたとは思わず理解すらできません。

結局、この種の女性の主張と言うのは、「夫は妻が何も言わなくても妻の不満を察するべきであり、その上で夫が改善するべきだ」というということを主張しているようにしか思えません。つまり、女性の機嫌は男性が作るという主張ではないでしょうか。この主張は、「女性は自分の置かれている環境を自らの働きかけで改善するのではなく、すべて夫に依存している存在なのだ」ということを言っているにほかならないのではないでしょうか。当事者の妻ご本人は、離婚手続き時は葛藤が高まっているから、このような主張になることについて気が付かないのですが、第三者であるべき弁護士がその姿勢を無批判に追随していることはなんとも情けないと思います。

ただ、なかには、実際はいろいろと妻側が関係修復の努力をしていたり、関係修復の努力ができない事情がある場合もあるのです。私は、弁護士は当事者から丹念に事情を聴取し、一度好きあって結婚して子どもまで設けたのに離婚を決意した事情というものがあるはずだという姿勢で、当事者の方の実情を、ご本人も自覚できないものも含めて言葉に編み上げるのが仕事だと思っています。このような丁寧な仕事をせずに離婚訴訟を出してしまうのは、弁護士こそが女性の幸せは男性に依存していると考えにとらわれて、それ以上の調査や考察をはじめから行わないところにあるのではないかとにらんでいます。

そのような理解をするためには、人間についての十分な勉強に基づいた考察と理解が必要です。それにもかかわらず、端的に言えば暴力についての効果について勉強していないとか、あるいは人を恐れる原理、嫌悪する理由などについての考察が全くなされていない等きめ細やかな人間の感情に興味を持っていないように感じられてなりません。単に「男性は支配欲求があり、支配のために暴力をふるうのだ」というようなあまりにも浅はかなステロタイプの志向に基づいた大雑把な主張をしているとしか感じられません。マニュアルのようなもので離婚事件を「処理」しようとしているように感じてしまいます。

フェミニズムを自称して離婚事件を担当する者が、ハーマンやウォーカー、あるいはイルゴイエンヌの原著(もちろん翻訳で構いませんが)も読んでいないのは私には信じられません。本来には認知心理学や発達心理学、及び最低限の医学的、生理学的知識が必要であると常々実感しているところです。

このような大雑把な「当たらずしも遠からず」みたいな主張が改まらないのは、裁判所がこの程度の主張でも離婚を認めるからに外なりません。つまり、離婚原因があって、離婚原因を作ったのは誰かということを丹念に検討するということをしません。あくまでも別居の事実が長く、一方当事者に復縁の意思がないということで離婚を認めてしまうところが問題です。

裁判に勝てばよいやと言う考えであれば、当事者の方々の苦しみに理解をせずにも裁判所に受け入れられるような主張を脚色すればそれでよいと考えれば、それ以上の努力を人間はしないようです。

第4は、いわゆるDVを行うのは男性であり、女性は常に被害者であるという考えです。

これは、行政などでは徹底しています。男性の被害者相談が設けられているのはまだ少数なのではないでしょうか。DVは、精神的虐待も含まれるということになりました。精神的虐待の案件は、男女差は無いはずです。また、配偶者からの攻撃によって自死に追い込まれるのは男性の方が断然多いと思います。それでも男性の被害救済はほとんど実現しません。

結局、苦しんでいる人を救おうという発想ではないのです。DV相談は、結局離婚を進めることが多いのではないでしょうか。しかも、十分な事実調査を行いもしないのに、「夫の妻に対する虐待があり、妻には命の危険がある。」という認定をするというのが、私の離婚事件の相談センターの例外のない活動です。つまり事実に基づいて苦しんでいる人の苦しみを取り除くというのではなく、相談に来たら離婚をさせるという出口しかないということです。税金を使って離婚をさせるための機関のような感覚さえ受けます。不満があれば離婚を勧め、快適でなければ離婚を勧める。

そこに女性が社会の中で自立して自己を実現していくということに対するエンパワーメントの視点も、女性一般の社会的地位の向上も考慮されていないのです。ただ、離婚先にありき、女性を夫婦という人間関係から切り離すという方針ありきという印象がどうしてもぬぐえないのです。

女性の社会的地位の恒常とか、女性の視点を社会の人間性回復に活かすとか、世界平和に影響与えるという視点はおそらく言い出したら笑われることなのでしょう。

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形を変えて生き続ける優生保護思想、精神的不安定な女性に対する差別 母子分離よりも支援こそが必要なのではないか。平成元年から令和2年で40倍に増加する親子分離(児童福祉法28条)申立 [家事]



現在、各地で旧優生保護法によって不妊手術をされた人たちが国を相手取って裁判を起こしています。

旧名称優生保護法は、現在は母体保護法と名称が変更されています。旧優生保護法には統合失調症や躁うつ病をはじめとして障害のある方に同意なしに不妊手術ができる制度が盛り込まれていました。この制度は1996年まで存続していました。

優生思想というのは、人間を優秀な人間とそうではない人間と区分して優秀だと評価した人間の遺伝子だけを残すようにしようとするものです。否定的に評価した人の遺伝子を有する人間については、子孫を作らせないということです。
優生思想は、優秀だと評価された人間は人間らしく生きることが許され、劣等だと評価された人間は人間らしく生きることを否定されることだという言い方もできると思います。

旧優生保護法の不同意不妊手術については、否定的価値評価が確定していると言ってもよいでしょう。人権侵害であることを疑う声は聞こえてきません。裁判で負ける場合は古い話だからいまさら権利を主張できないという時効制度のためであるようです。

しかし、命にはかかわらないけれども、精神疾患があるとか精神不安定な人が、人間らしく生きることを否定されるということは続いているのではないかということを、弁護士をしていると感じることがあります。しかも、その人間否定をしているのが地方公共団体や裁判所であり、それが急激に拡大されており、今後もさらに拡大していくのではないかということについてお話しさせてください。

実の親から子どもを分離して、養護施設や里親に委託して育てさせるということが、児童相談所所長の申し立てと家庭裁判所の承認によって可能となる、児童福祉法28条(1項)申立というものがあります。
子どもが18歳になるまで(高校卒業まで)親子の面会すらできない場合も多く、諸事情によって親子が二度と会えなくなる危険もあります。少なくとも何年も親子として一緒に暮らせない状態が生まれます。

もちろん、親にとって、我が子と一緒に暮らせないどころか、会いたくても会えないということになるのですから、生きながら地獄を見るようなものです。実際に精神に異常をきたす事例もあります。

子どもにとっても、悪い影響が生まれます。なぜならならば、自分の親が
子どもを育てる能力が無い人間だ
子どもがこの親といたらだめになる
と、公的機関によって評価されたということにいずれ気が付くことになるからです。

そのような評価をされた子どもも一時はそんな親は自分とは違う人間だと、親を否定して合理化をするかもしれません。しかし、時期が来て自分とは何だろうと考え出す思春期後半ころからは、自分はそのように否定評価をされた親の子どもだというふうに受け止めてしまい、また自分は実の親を否定し軽蔑したのだと思い、混乱してしまう可能性があります。親が面会すらもあきらめてしまえば、自分は親から見放された人間だと思うかもしれません。いずれにしても、自己評価の低下等の発達上の負の問題が生じかねないことは間違いありません。

もちろん、そのような負の事情を考慮してもなお、親から子どもを離さなければならない場合もあります。親から虐待やネグレクトで命を奪われる可能性の高い場合や一生消えない屈辱感や疎外を受け続けているような場合は、放っておけば命が無くなるし、取り返しのつかない人格形成がなされてしまいますから、親子分離に伴う自己評価が低下するどころの問題でもなくなるでしょう。

だから子どもを親から隔離する制度が必要な場面ももちろんあるわけです。

問題はどちらにしても子どもに深刻な問題が生じる可能性があるために、施設入所などの是非は、くれぐれも慎重に判断するべきだということです。

実際にこれまでの判例からは、非道ともいえるような恐ろしい虐待事例、人間扱いをしていないというような事例に対して施設入所を承認した例も多くある一方、多少の虐待が認められ、親から引き離して施設入所した方が快適(今よりはまし)かもしれないという事例でも、引き離すことによって生じる子どもへのマイナス影響を考慮して承認をしなかった裁判例も少なくありません。

これまでの判例は、引き離すメリットとデメリット双方をきちんと悩んで決断してきたということがうかがわれるのです。ところが、近年これらが疑われる事情が統計上からもみえてきています。

司法統計によると、施設入所などの児童相談所長の申し立ては、平成元年は1年間に14件でした。年々徐々に増加して平成29年には288件になっているのです。平成30年には目黒事件が、平成31年には野田事件が起きています。申立件数も平成30年は379件、令和元年493件、令和2年481件と、平成元年の40倍に達しています。

ちなみにこの申立は、昭和30年は6件、昭和40年は9件、昭和50年は22件、昭和60年は36件でした。

申立件数ではなく、裁判所が1年間に何らかの形で事件を終局(認容、棄却、取り下げ等)した件数は以下の通りです。前年に申し立てられて、翌年終局すると、翌年のカウントになりますので、申立件数を超えて認容することがあり得ます。
平成元年は、終局10件、うち認容3件 認容率30% つまり7件は棄却ないし取り下げなどで褶曲したということです。
平成7年は、終局43件、認容18件 認容率42%
平成8年から平成17年の10年間は認容率が概ね7割を維持し、
平成17年の終局195件、認容141件と事件数の増加傾向が見られます。

平成18年 終局205件認容170件で、認容率83%
認容率80%越えは平成24年まで続き
平成24年 終局295件、認容244件 認容率83%となります。

その後は認容率が概ね70%台となりますが件数が増加します。
平成30年 終局347件 認容266件 認容率77%
平成31年 終局434件 認容338件 認容率78%
令和2年  終局531件 認容398件 認容率75%

どうしてこんなに右肩上がりで、親子引き離しの28条1項申立が増加し、認容件数も増加していったのでしょう。これだけの数の親子が地方自治体と裁判所によって分離させられており、さらに増加の傾向がみられるのです。

あくまでも感覚的なことなのですが、わたしには虐待事例が増えたというわけではないような気がしているのです。明白な虐待例、攻撃的虐待例として、目黒事件や野田事件があるにしても、平成元年から比べても40倍に増える理由も思い当たらないのです。

ここから先は、統計的な資料が無く、私の担当事件、相談事例等、私が知りえた事情から考えたいわば主観的な分析ですので、ご注意願います。

それではどういう理由で、児童相談所による親子分離の申立件数が増え、認容件数も増えて行ったのでしょうか。
私は、一つには、法律上の文言が変わらないのに、親の子に対する扱いについての評価が、ここ30年くらいで急激に変わったのではないかとにらんでいます。
つまり、それまでは子どもの福祉を著しく害するとは思えなかったことが、著しく害すると評価するように変わったということです。

・ 先ず、これまで以上に何らかの児童虐待対処政策をすることが必要であるという認識が確立し、それは親子分離であると直結して考えられている。またこれは行政サービスなので、多く行えば行うほど自治体が仕事をしている、児童虐待に取り組んでいるという評価を受けるようになっている。
・ このため、児童の福祉を害する危険があれば、法律の必要とする「著しく」害する危険が無いと判断されてきたケースであっても親子分離が可能であれば親子分離を行うべきだということになる。認容されない申立てをしても非難されるだけだから、認容されるようしなくてはならない。
・ その結果、子どもが親から分離されることのデメリットを考慮しなくなった。否定的側面ばかりをクローズアップしていく。
・ どんな事情でも、最悪の危険に結び付けて評価されるようになった。例えば、半日子育てを放棄してスマホを見ていても、数日間子どもに食事をさせないで餓死する危険があるネグレクトであると評価され、ネグレクトは命の危険があると短絡して評価する。

こういう大きな流れがあるように感じられるのです。
そして、最悪の危険に結び付けて考えられる典型が精神疾患であり、その精神疾患の危険な行動としてはネグレクトが使われるようです。

実際の相談例や担当例では、うつ病等による易疲労や意欲低下によって、部屋の片付けができない状態をとらえて、不衛生、栄養不足として、ネグレクトだから児童虐待だといわれたという事例が多いような気がしています。

これをお読みの方の中には、子どもが栄養面や衛生面でよくない状態にあるならば、施設などに預けた方が良いのではないかというご感想を持たれる方はいらっしゃると思います。

ただ、少し考えていただきたいのは、もしこれが精神疾患ではなく、難病や事故によって、身の回りのことが十分にできなくなったのだとすればどうでしょうか。それでも、子どもを親から分離して施設に預けるべきだという考えもありうるかもしれません。ただ一番重要な視点は、必ずしも施設に預けるか預けないかという二者択一ではないということです。例えば、親御さんの障害の程度によっては、介護サービスなどがあれば、親子分離までは必要が無いという場合もありうるのだと思うのです。子どもにとって親子分離は否定的影響が生じる可能性があるのにそれが考量されていないということは、子の福祉のための親子分離ではなく別の意図があることになってしまいます。

そもそも精神疾患というのは程度のある概念です。精神疾患の診断名が付けられても、会社に言って仕事をして家庭生活を営むことができる人から、放っておくと危険な状態になるからきちんと管理をしなければならない人等、その中間的な人々、実に様々です。また、本当の病気というよりは、出産後のホルモンバランスの変化によって、症状が一時的に講じている人もいます。
しかし、多少埃っぽい部屋だけどいるだけで病気になるほどではないという場合もネグレクト、精神障害として扱われるようです。

ひとたび精神疾患となれば、子どもを育てることができない
というわけでは決してありません。

 それにもかかわらず、立派な家事をしていない ⇒ ネグレクトがある。
⇒ ネグレクトは子どもの命が奪われる可能性がある。
⇒ ネグレクトをしている親は精神疾患の診断を受けたことがある。
⇒ 精神疾患者はネグレクトによって子どもの命を奪う危険がある。

こういう跳躍した発想をしているように思われるのです。

 もし同じことをしていても、同じ程度に家の片づけや掃除をしていなくても、その親に精神疾患の診断が無ければおよそ親子分離などが申し立てられる恐れはないでしょう。

 そうだとすると、親子分離をするべきだという理由の核心は、端的に「およそ精神疾患の人は、子育てができない。させるべきではない。」という差別があるのではないでしょうか。おそらくそういう流れの思考の人は、自分が障害者差別をしているという自覚は無いのだと思います。ただ、親子分離の件数を増やそうとしている人たちがいるとすれば、対象の親に精神障害との診断が下されたことがあると施設入所となりやすいとホッとしてしまう人も中に入るのではないでしょうか。

そして裁判所も、もっともらしい理由を挙げて施設入所を承認していながら、内実はその人に精神疾患があるということだけから、親に危険性があると無意識に判断しているということは無いでしょうか。

 もし、優生保護思想による不妊手術は人権侵害で違法だけれど、精神疾患がある人の子育てに不具合があるならば子どもは産んでもよいけれど、子育てはさせない、子どもとは会わせないというのであれば、それは端的に障害者差別だと思います。優生保護思想の否定とは一貫した考えではないと思います。産まないことも産んでから取り上げられることもどちらも生き地獄だと思うからです。また、子どもは親だけが育てるものではなく、社会が子育てに参加するものだという視点が欠落しています。どのような保護、援助をするかという議論より先に、子を取り上げてしまうということならば、それは人間らしく生きることよりも行政効率を優先しているに外なりません。

 最近お釈迦様のこの言葉を良く引用するのですが、倒れることは人間にはつきものであるから人間の評価を左右しない。倒れても起き上がることができるかどうかが人間の価値を示しているということです。
 差別をしてしまうことは、無知が原因で無意識の感覚であることが多いですからある程度は仕方がないことなのだと思います。しかし、差別だと指摘を受けたら、行為を修正するということができることが人間としての価値なのだと私は思います。

 施設入所の申し立ては、審判構造が複雑ということもあります。
・ また申し立てから審判開始までが短い期間であるために弁護士を探そうという発想すら持てなくて、準備もできないで自分ひとりで審判を受ける場合が多いようです。
・ このため、事案の問題よりも審判の仕方がわからなくて裁判所の承認が下りるケースも多いのではないでしょうか。
・ このように、申立がそのまま特に検討されもせずに認容されてしまう状態が続くと、裁判官や調査官にも申立は認容されるものだという発想を持ってしまう人たちも多くなるのかもしれません。
・ そうするといざ弁護士が正論を主張しようとしても、初めから申立ては認容するものだという意識となってしまい、論理性もなく調査結果と関連性もない事実を理由に認容される傾向が、弁護士が代理人になっても止めようがなくなるかもしれません。
それでも、認容率が70%代を推移しているということは、一種の行政裁判でありながら、極めて低い認容率だということになります。また、一時期80%だった認容率が下がったということは、無茶な申し立てに裁判所が気が付いたということで矛盾しないように思われます。

但し、一部の調査官が、自分の職務を全うするからこそ、低い認容率となっているのです。実態からすれば、まだまだ高すぎる認容率ではないかということが実務的感想です。

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思い込みDVによる子の連れ去りから子どもとの面会交流ができるようになる行動 [家事]



先日の法律相談会で、連れ去り事例の相談がありました。普通の相談会では、連れ去り事例が結構ポピュラーになっているということを知らない人が多いです。相談する人が誰もいなくて、自分だけでいろいろ考えていらっしゃったようです。

この事例は典型的な思い込みDV(夫からのDVは無いけれど、体調からくる理由のない不安、子に障害があるという等のストレスの継続、そして「あなたは悪くない。それ夫のDVだ。」の寄り添いを典型としたDV相談という洗脳により、自分の不安や苦しさは夫に原因があると思い込むパターン。離婚調停などを申し立てるが、具体的な離婚理由を述べることができず、これまでの積み重ねだなどと抽象的な理由しか述べられない。)のパターンでした。

初めは、夫もありもしないDVとか精神的虐待だとか言われて戸惑っていたのですが、もしかしたら自分にも原因があるのではないかと内省を深められていました。

私は「素晴らしい。」を連発するだけで、大体事足りていました。その他には、こういう事象は現在増えていること、
・ どちらが良い、どちらが悪いという問題提起は解決を導かない不毛な問題提起であること
・ どんな状況でも家族だから、家族全体が今より幸せになるためにはどうしたらよいかという視点で考えること
・ 原因のない不安、あるいは考えても仕方がないストレスを、一番頼りにしている人に解決してほしいと思っているから、解決できない不安を一番頼りにしているあなたを攻撃するという形で解消しようとしている
・ だから、妻の不安を解消するということを第一に考えること
等という一般論を述べて相談を終わりました。

おそらく、彼は、対立的な不毛な論議をしないで、家族全体の利益を言い続けることができ、離婚調停も暖簾に腕押し作戦で、案外うまくいくかもしれません。

思い込みDVの場合は、家族再生が可能であるはずなのですが、うまくいかないことも多いです。特に妻側の不安が病的な状態まで高まっていると、面会交流さえも困難になります。病的な状態とは、調停でも話し合いにならず、感情むき出しで泣き叫ぶような場合が典型ですが、調停委員も辟易してしまう場合が少数ながらあります。

それでも、最近は、別居親である夫にも多少問題があると思われる事例でも、面会交流自体は実施されることが多くなっています。
そして、少しずつ面会交流の時間と自由度が上がっていくことがむしろ多数派になっているようです。

面会交流ができる場合は、上述の4つの・を実践する場合ということになります。これができない場合でも、東北地方は、同居親の代理人も子の利益を考えて面会交流を積極的に本人に提案し、むしろ同居親の代理人が面会交流に立ち会って実施を実現するという場合も増えてきているようです。これは、ラッキーな場合、他力本願的な場合ですので、四角四面な代理人が同居親についている場合でも、代理人を飛ばして本人に働きかけていくことで面会交流を実現していただきたいものです。

さて、おそらく一番問題となるのは、どういう場合が4つの中黒と正反対の行動をしているということになるのかということがわかりにくいということになると思います。

これから説明することは面会交流が実現し、徐々に拡充していくための、これまでの実務上見られた傾向についてのお話です。私の道徳的価値観を示したものではなく、あくまでもこのような行動をするとうまくいくことが多いということを示している実務的な報告です。

うまくいかない典型的な場合は
正義感を全開にしている場合です。

連れ去った方が違法であり、誘拐だ。だから会わせるべきだ。
ということを相手方、裁判所、あるいは自分の代理人に強く主張する人です。

どうしてこれがだめかと言うと
正義感を主張するとどうしても攻撃的感情を伴います。被害感情も当然あるので、さらに攻撃的感情は募ってしまいます。そうすると
調停委員などは、このような感情的な人を子どもたちに会わせても良いものか、無事に終わるのだろうか、何か良からぬことが起きるのではないだろうか
と勝手に思ってしまいます。

だから面会交流を断念しろとは言わないでしょうが、例えばあと一歩のところの説得をしないとか、短い時間の面会交流で我慢するべきだとか、極めて実務的な問題が生じてしまいます。

また、少しの譲歩で多くのリターンが取れる場合なども、正義感が勝ってしまい駆け引きができないとか、一度決まった面会の条件を拡大していくというような融通が利く対応ができない、あるいは100%望み通りでないと合意しないために、結局面会が実現しないということが起きてしまう可能性が高いからです。

そして面会の調停と離婚の調停が並行している場合が多いと思うのですが、そのような硬直な態度、相手を許さない態度というものが、実は連れ去りという被害を受けたために起きた精神的変化であることが多いのですが、事情を知らない調停委員からは、同居中も同じような態度で妻を心理的に圧迫していたのだろうと思われてしまうという決定的な問題もあります。

自分は正義感や被害意識が前面に出ていないと思われる方も、人間はこのような理不尽な思いをしたときに、正義感や被害意識に基づく感情が優位になるものだと思い、くれぐれもそう思われない言動を心掛けるべきです。

中にはそれでも自分は間違っていないということを主張し、態度を改めない方もいらっしゃいます。おそらく裁判所は、法に基づいて自分に有利な判断をするはずだという根拠のない誤解と言いますか、あくまでそうあってほしいという希望を抱いているのだと思います。そうではないことは、これまでの同種事例でサンプルが山ほどあるので、幻想を捨てて結果を出す行動をするべきだと私は思います。

また、被害意識があると、自分を守ろうとしてしまいます。思い込みDVの連れ去り妻の方も基本は不安、被害感情があり、子どもの利益などを考えずに、自分だけを守ろうとしているわけです。
これが別居親の方も、似たような行動をする場合があります。「自分が子どもに会いたい」ということは当然ですが、裁判では「子どもを親である自分に会わせるべきだ」という言い方が説得力を持つわけです。被害意識があると、全く行動原理が連れ去り妻と同じになってしまいます。これでは、第三者機関はこちらの見方をしてくれません。現状維持を打破しようとする景気が生まれないのです。

子ども利益を考え、同居親の不利益を最小限にして、家族全体の利益を考えるという視点で提案をしていくことが最も効果的な提案です。

思い込みDVの場合は、法的には別居夫に違法性や責任が無い場合がほとんどと言ってよいでしょう。だから、同居妻が自分を攻撃してくることにはただ腹が立ったり、困惑をしたりするわけです。しかし、本当は自分の精神不安や焦燥感は一番頼りにしていた夫に解決してもらいたいと思っていることも圧倒的多数です。精神科医でもカウンセラーでもない夫が妻を安心させることは至難の技だと思うことが通常だと思います。

しかし、愛する人(当時)の不安を少しでも取り除こうとしなかったというところに、内省を深めて、それを相手に示すということができれば、連れ去り妻も少しは安心してくるわけです。生き方の問題なのでどうしろこうしろとは言えませんが、現実問題として、相手を責めてばかりいないで、相手の不安を理解しようとすることが面会交流を実現して、拡充していくポイントになっています。それを本人ができなくても、代理人がそれを示し、本人がその提案に後から納得するという形も当然ありです。

思い込みDVは、夫に原因があるよりも、妻の体調面などからの理由のない不安が根本原因となっています。しかし、家族である以上、家族の不安や苦しみは少しでも緩和させてあげたいと思うものではないでしょうか。「自分は悪くない。」というところで頑張っていないで、不安を少しでも解消してあげることが後々良い効果を生むわけです。
これまでくどくどとこのブログで言ってきましたが、まとめると
・ 尊敬、尊重を示す
・ 感謝を示す
・ 謝罪をこまめに示す
ということです。肝心なことは尊敬の気持ち、感謝の気持ち、謝罪の気持ちではなく、言葉であり動作だということです。少年の心に固執せずに、一歩上からふるまうということになろうかと思います。
わざとらしいとか空々しいなどということは気にすることではありません。

特に感謝ができない人が目につきます。
極端な事例としては、同居妻を説得してくれて面会を実現してくれる相手方代理人に感謝できない人は、面会交流が実現しても継続しないことが多いようです。調停や裁判の中で嫌なことを言われるとか、あなた以上に正義感の塊で頓珍漢なふるまいをしている場合も確かにあります。また、どちらかと言えば、あなたの利益のために面会交流を実現するというよりも、それは連れ去り妻の利益を考えていることは当然です。それより、子どもをもう一人の親の愛情を実感してもらうというために、つまりあなたのお子さんのために面会交流を実現させようとしている人に対して、親として感謝を示せないということは深刻な状態だと思って間違いがないです。

ただ、被害感情が高まりすぎると、自分のために他人が行動をすることが当たり前だという気持ちになることがあるようです。
くれぐれもご注意ください。



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面会交流で子どもが言ったことと矛盾することが監護親から子どもの発言として連絡が来るが、どちらも子どもの発言と把握してみることとが有益であるということについて 始まった面会交流を定着させて拡充するために考えるべきこと [家事]


子連れ別居からの離婚調停、婚費調停、面会交流調停が行われ、なんとか面会交流が始まり、当初は短時間でファミリーレストランでの食事だけとか、ショッピングセンターでおもちゃを買う程度という場合もあると思います。
 
 それでも、
・ 子どもが別居親と面会することを楽しそうにしている
・ 面会をしても別居親が同居親に攻撃をしないので、馴れてくる
という要素があると、次第に面会交流の時間も長くなり、もう少し自由にいろいろなところに行きたいということは、自然な流れです。

同居親が別居親に対しての恐怖や嫌悪感がそこまで大きくなくても、離婚なり別居なりに至ったわけですからかなり複雑な感情を持っています。子どもを積極的に会わせたくないし、子どもに会うことで別居親を喜ばせたいと思うわけはありません。

それでも子どもが楽しそうにしていると、もう少しのびのびと別居親に会わせてもよいかなと、ふらふらっと考えるわけです。
タイミングなどいろいろな要素で面会時間が拡大していくようになります。

例えばお昼をはさんで2時間の面会交流時間が10時から4時なんてことになると、ある程度の遠出ができるようになります。そうなると、それまで出てこなかった争いのポイントが出てきてしまいます。

つまりどこに行くかということです。

同居親は特に理由もなく不安になっていますから、このデリケートなところに配慮して、事前にプランを立てて了承をしておいた方が後々良いのです。しかし、プランが提示されるとそのマイナスの見通しだけが、同居親としては見えてきてしまいますのでいろいろと難癖をつけてくるわけです。

人込みはだめだとか、子どもにはまだ体力がついていないからアスレチックはだめだとか、遠すぎるとか。

別居親からすれば面白くないことは当然ですが、どうやら同居親というのは多かれ少なかれそういうもののようです。

別居親が男性、つまり父親である場合は、別居親はいろいろ連れて行きたい、盛りだくさんのサービスをしたいという気持ちになることが通常ですから、少し盛り込みすぎる傾向があることは否めません。子どもは、盛り込みすぎの弊害など考えずに楽しそうならば父親の提案に乗ってくるわけです。マイナスの見通しは頭に入ってきません。はっきりと約束をしてしまうとルール違反ということになりますが、今度はどこに行きたいという話題の中で、子どもと別居親は阿吽の呼吸で次回の場所の合意をしているような雰囲気が生まれます。

ところが、別居親が自信満々でお伺いを立てると、同居親からそのプランだと、「子どもは、疲れるから室内でゆっくりお話がしたいと言っている。」等の横やりが入るわけです。これは結構どこにでもあるパターンのようです。

そうすると別居親は、あの時子どもと楽しくプランを立てたのだから、それは子どもの気持ちではない、子どもはそんなこと言っていないはずだ等と感情的になってしまいます。とげとげした返信をしてしまい、面会交流の拡充どころか、一度拡充した実績を維持することもできずに縮小してしまうなんてことになるわけです。そのままフェイドアウトしてしまう危険もあります。これこそが離婚に至る過程を再現していることだからです。

確かに子どもは、自発的にそう言っていないことも多いかもしれません。同居親から、「疲れるのは嫌だよね。次の日学校あるし。」なんて聞かれれば、「うん。そうだね。」と不承不承頷いているというイメージは作りやすいものです。
しかし、少なくない事例で、子どもが自発的に、同居親に対して同居親が望む答えをしているということがありそうです。

これ、私も昔は子どもの気持ちを抑圧する悪い親の対応だと思っていたのですが、子育てが終わった今、少し考えが変わりました。

どちらも子どもの本音というか、自発的考えなのだと思うようになったのです。子どもの一番やりたいことは何かというと、これはもう、家族の中で自分が尊重されて生活したいということに外なりません。こういう本能があるから、子どもは大人のマネをして、自分の行動、思考に取り入れながら発達をしていきます。

別居親である父親と一緒にいるときは父親に受け入れられたいと志向しますし、父親の価値観に同調して時間を過ごします。その時盛りだくさんのプログラムを楽しそうにしていたことは本音で間違いありません。

しかし、同居親である母親と一緒にいるときは、同じように母親から尊重されたいと志向していますし、母親の価値観に同調しようとするわけです。母親の問題意識はその通りだなと思っているとしても無理はありません。

子どもは、近くにいる大人によって考えが変わってしまう発達段階にいるという可能性があるのです。

実態はわかりませんが、私はそう考えるべきだと思います。その方が子どもに対しても優しく向き合うことができますし、同居親と感情対立して、結局子どもが別居親と会う場合の自由度が小さくならないで済むからです。

また、別居親が父親の場合、どうしても「何か」をしようという意識が強くなってしまうようです。様々なアクティビティーを体験させようという気持ちになっているようです。

これも間違いではないのですが、子どもたちの本音を聞いてみると、アクティビティーは楽しいのですが、それよりも別居親の近くにいること、自分が大切にされているという実感を持てるほうを一番に求めているようです。どこかに行ったというよりも親と一緒にいるということが一番のようなのです。

親と一緒に暮らしていないという当たり前ではない状態にあるのだから、親と一緒にいるという当たり前の状態に自分がいると子どもが思えばそれだけでも幸せなことは当然だと思いませんか。

子育て終わってつくづく感じるのは、子育てに関して父母があんなに考えて情報を入手して、口角泡を飛ばして激論したとしても、
結局はどっちでもよかったんだな
ということなのです。

同居親と別居親という微妙な関係の中で面会交流が進んでいるときに、どうでもよいことで親同士が対立することほど子どもにとって迷惑なことはありません。大体子どもが矛盾した意思を示していることこそが、子どもであっても相手の意見を尊重しているという努力をしている、あるいは配慮ができているということなのです。それにもかかわらず、せっかくの楽しい別居親との時間を台無しにしないでくれと言う気持ちになることは当然だと思いませんでしょうか。

まあ、これは夫婦が別居しているか同居しているかにかかわらなく、どちらでも当てはまることです。その意味で、私も大いに反省しているわけです。

だから、別居親が考えなければならないのは、子どもとどこに行くという行く場所ではなく、子どもと一緒にいる時間を減らさないで増やしていくということだと私は思う次第です。

「子どもと長時間一緒にいて何をすればよいのだろう」というのは別居親が父親の場合、不安になることだと思います。父親としてよくわかります。

子どもにとってうれしい面会時間となるためには、年齢にもよるのですが、子どもが一人前として尊重されることのようです。

話を自由にさせる、さえぎらない、否定評価は極力しない

ということが子どもが安心し、嬉しい時間となります。あれが欲しい、これが欲しいというわがままをかなえてもらえば嬉しいでしょうが、それよりそれが欲しいということに共感を示してもらうことが大切だということのようです。どうせ同居親なんて、様々な日常家事で大変でしょうからあまり子どもの話を聞かないし、大人の価値観で話をさえぎったり、それはだめだで終わったりするようです。これに対して、話を面白がって聞いてくれる、友達の名前を憶えていてくれるということがあれば、子どもは生き生きと目を輝かせて話をし続けるでしょう。

子どもの心象風景や話に出てくる人物の心象風景を思い浮かべながら聞いていると、子どもは案外人をよく観察しているようです。面白いです。

ここで注意です。親が聞きたいことを話させるのではなく、子どもが話したいことを聞くということが一番大事です。いろいろ尋ねられることは、子どもは面倒くさくて嫌です。

もし、子どもが女の子であれば、幼稚園の年長くらいになれば、子どものやりたいことに積極的に付き合えばよいです。イニシアチブを子どもにゆだねてしまうのです。ただ、年齢が低いと、目で見えていないものに発想を飛ばせるということは難しい側面もあるので、やりたそうなおもちゃがたくさんあるような空間にいることが有利です。児童が遊ぶ施設で、ゲームがあったり、絵本があったりという空間であれば、子どもに任せるべきです。

男の子の場合も基本的には同じですが、少しこちらから誘導してあげるほうが良いかもしれません。

ただ、何もすることが無くなったら、子どもと一緒にいることがうれしいんだということを知らせるだけでもよいかもしれません。言葉で言うというよりも、笑顔で知らせた方が説得力があるようです。

冒頭にも言いましたが子どもとの面会時間が拡充するためには
第1には、子どもが楽しいということ。それは自分を一人の人間として尊重していることを示すこと、アクテビティに固執する必要はなく、一番は話を聞いてあげるということだと思います。

第2は同居親が、別居親と子どもが面会しても悪いことが起きないということを学習させることです。安心させることだと思います。この意味で一番やってはいけないことは、相手を否定することです。対立感情を子どもに関しては持ち込まないことが大切です。感謝の行動を忘れてはなりません。感謝の心は持てないとしてもです。




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【仮説】ありもしない虚偽DVの主張はミュンヒハウゼン症候群という精神障害の症状だったのではないか。無責任な寄り添いが共感・同情依存症の女性を作りあげる構造 [家事]

もう少し早く気が付けばよかった。

ミュンヒハウゼン症候群の実例と対峙した事例があり、昨年はこの事例に引き付けて物事を考えていたので、記事にはしたのですが一般化ができない状態でした。次の日に別事例でちやほやされたいあまり、夫を攻撃するという事例も述べていたのですが、きちんと結び付けては考えていなかったようです。

ミュンヒハウゼン症候群という恐ろしい精神疾患から説明します。

ミュンヒハウゼンとは、実在のプロシアの貴族であるミュンヒハウゼン男爵のことです。「ほら男爵」と言うとわかる人もいると思います。つまりミュンヒハウゼン症候群の最大の要素は、嘘をつくということです。

ミュンヒハウゼン症候群と代理ミュンヒハウゼン症候群という二つの類型があります。

ミュンヒハウゼン症候群とは、自分が病気であると嘘をつき、あるいは実際よりも重い症状があると嘘をつき、あるいは自分から病気になったり自傷行為をして、周囲の同情を勝ち取ろうとする精神障害です。周囲の同情を得るために、実際に自傷行為をしたり、検査物を他人のものとすり替えたりして、治療の必要性を作り出す行為をします。

代理ミュンヒハウゼン症候群とは、自分が病気になるのではなく、多くは子どもを病気にしたり、けがをさせたりして入院などをさせて、自分は懸命に看護をしてみせて、周囲から「大変だね」とか、「立派なお母さんだね」と言われようとする精神障害です。

厚生労働省の「子ども虐待による死亡事例等の検証結果等について(第6次報告)」では、平成20年の4月から21年の3月までで、3人のお子さんが代理ミュンヒハウゼン症候群のために死亡していると報告されています。

しかし、実際はもっと多くの子どもたちがこの病気で命を落としていると思います。代理ミュンヒハウゼン症候群は、気が付くことが難しいからです。なにしろ多くは母親が何の責任もない子どもを危険な目にあわすのですから、「まさか母親が自分の子どもに害をなすことをしないだろう」と誰しも思うわけです。母親は、一番初めに容疑者から外れる人間です。

検体のすり替えが見つかるとか、傷害している現場を押さえるとか、動かぬ証拠が無ければ見つかることがありません。それだけ、医療関係者から見ても意外な犯人だからです。子どもの病状悪化が、人為的に行われているとは思いませんし、不可思議な病状の進行だと思っても、「まさか母親が子どもに不利益を与えることがあるなんて」という意識でいるわけです。

今Wikipediaを確認したら、最近はミュンヒハウゼン症候群は心的外傷を主張する例も増えているようです。また、代理ミュンヒハウゼン症候群では、子どもを傷害するのではなく、配偶者を傷害等するケースもあると記載されていました。

さて、虚偽DVとのかかわりですが、虚偽DVとは、ありもしない夫の暴力や暴言をあったかのように嘘をつくという現象です。裁判所で虚偽性が認められたケースもありますし、客観的な録音や写真から妻の虚偽が明らかになるので、妻の主張が虚偽であるとわかります。もちろん、それが虚偽だとわからないケースも無数にあり、「DV冤罪」という言葉もポピュラーになってきました。

虚偽DVがミュンヒハウゼン症候群の症状だというのは、自分がDVを受けている被害者なのだというアッピールをすることによって、他者から同情をされたり、あなたは悪くない等の励ましをもらうことが脳の報酬系を刺激し、多幸感を得てしまい、またそれを繰り返してしまうということだからです。

虚偽DVのケースの中にも、妻が隠れて不貞をしていて成就するために離婚をする手段として主張する場合や、とにかく離婚をしたいし、慰謝料などを有利に運びたいから主張をするという確信犯もいるのですが、虚偽DVを主張する中の一定割合に、不可解な虚偽DVの例があります。

初めから離婚を目的としていないケースです。区役所やNPO法人、人権擁護委員会の相談などに頻繁に出入りして、ありもしない夫の暴力や針小棒大の話をするのです。相談担当者たちは、妻の話を疑わないで同情をしてくれますので、とても心地が良いようです。ただ、相談担当者たちが、妻の話を真に受けて、「それは危険だ。ぜひ家を出て、離婚の準備をするべきだ。警察に行って夫を逮捕してもらうべきだ。」という話が具体的になってしまうと、用事があるとかなんとか言って、相談を打ち切り、しばらく連絡をよこさなくなります。
そんなごまかしが10年位前までは通用していました。

しかし、近時、相談が相談で終わることが難しくなり、すぐに警察に連れていかれて、本人が抵抗をしても家を出て行くように何時間かかけて説得され、子どもを連れて家を出て、行先をくらませるということを言われてするようです。身を寄せる先には保護命令の申出書の書式があり、弁護士が紹介され、保護命令や離婚申立てをしなければならなくなるようです。それでも本人はシェルター職員や担当弁護士から同情の言葉をもらいながらことが進みますので、やっぱり嘘でしたと言って、脳の報酬系の刺激をストップさせることができなくなっています。まさにアヘンのような仕組みです。どんどん離婚の方向に進んでしまうようです。

こういう虚偽DV申告は、まさにミュンヒハウゼン症候群の症状だということを今回言いたいのです。

ミュンヒハウゼン症候群は、自分を肯定されたり、気遣われることによって、脳の報酬系が刺激され、多幸感を得てしまうことによって、次の虚偽行為に進んでいくのではないでしょうか。

私が思い当たる事例は、女性が夫以外に自分を肯定する人間に恵まれない事情を抱えていました。

一人は外国人です。ヘイトスピーチが激しくなっている時期で、その対象となっている国から結婚目的で来日して見合いをして結婚した方です。同じような人たちの多く住む地域から、都会に引っ越し、夫に遠距離通勤をさせていました。夫と子ども以外に打ち解けて話ができる人もおらず、行政相談に行って同情の言葉を受けるということは、なるほど幸せな感覚になったことでしょう。本人は夫を嫌ってはいなかったのですが、警察では妻の話を真に受けて、夫を暴行罪で逮捕し(のちに不起訴)、大々的に報道がなされ、児童虐待のニュースが全国報道されました。新聞には大まかな住所まで書かれてしまい、子どもも学校に行けなくなりました。夫と子どもは被害者なのですが、妻の主張は警察主導で行ったことだということでしたが、こう考えると妻も、自業自得の側面はあるにしても被害者の側面もあったのかなと今回初めて考えました。

この人のほかにも
偉大過ぎる姑の陰に隠れてしまい、親戚や地域から独立した人間として扱われず疎外感を受けていた中年女性。
統合失調症と診断された女性で、自死未遂を起こして地元にいられなくなり、転居をしてきたけれど入院を繰り返し、周囲との交流を持てなかった若いお母さん。

等々、自分を肯定する相手が夫だけという環境の中で、第三者の大人、おそらく同性の自分より年上の人、立派な職業だと思う人からの、肯定、同情が何よりも幸福を感じるだろうという要素がある人たちだと思います。

さっき見たWikipediaで、かなり響く記述もありました。
「ただしそのエピソードや時期に関しては曖昧なことが多く、時期や内容も話す相手によって異なることが多い。」

気が付いたら離婚手続きに入っていたというパターンの虚偽DVの事案では、夫のDVに関しての主張はまさにこのような感じです。私は虚偽だから当然だと思っていました。

中には、つじつまを合わせるためか原稿のようなものを書いている人がいました。うっかり弁護士に見せたら、弁護士はそれを日記だと思ったのでしょうね。証拠提出をしてしまったのです。矛盾点がいくらでも出てきますので、夫側には有利な証拠でした。こちらの主張通り、裁判所が妻に幻覚、幻想があった可能性があると認定した証拠となりました。

この女性は、やはり本音のところでは離婚をしたくなかったようですし、信じられないことかもしれませんが、夫から悪い印象を持たれたくない様子でした。しかし、行政の機関の「DV⇒子の連れ去り⇒離婚調停」というコースに乗せられてしまい、夫がさすがに愛想をつかせたということもあり、結局離婚をして今は母子ともに行方が分かりません。

そういえば、別件で海外から日本に出稼ぎにきた女性が勤め先の経営者と結婚したのですが、言葉が不自由だということで孤立していたというケースでも虚偽DVが主張されました。これは周囲の民間人が、優越的感覚からその女性が金で買われるようにして嫁いできたのだろうという差別的な目で女性を見ていて、女性がDVを訴えれば待っていましたとばかりに支持的に同情の言葉をかけて、警察に通報し、海外の国へ帰る段取りをつけてしまいました。女性は別居するしかなくなったのですが、別居してからも、夫に対して好意を示していましたり、経済的に頼りにしていましたし、自分を美しく見せる写真を送ってきたりしていました。矛盾だらけの行動で理解に苦しんでいたのですが、ミュンヒハウゼン症候群だと思えば理解できることでした。

ミュンヒハウゼン症候群の症状としてただ同情や共感、肯定の言葉を受けたいだけの人、ちょっと考えるとつじつまが合わなかったり、あいまいな話をしたり、その時によって話をかえたりする虚偽DVの訴えは、弁護士が作成する書面で呼んでも一言で言えば胡散臭いのです。どうして虚偽だと見破れないのでしょうか。

確信犯的に、見破っても離婚をさせることが最優先で、訴えを良いことに離婚ルートに乗せようとする人は除いても、中立的な第三者ならおかしいと思うはずです。

これは一つには代理ミュンヒハウゼン症候群が見破られないことと同じだと思います。
「まさか妻が夫のDVが無いのに夫からDVを受けたとは言わないだろう」という思い込みです。しかし、これを見過ごしているために何人もの子どもたちが死亡しているのです。代理ミュンヒハウゼン症候群は、DVにかかわる人たちは意識をしなければなりません。訴えた本人も不幸になりますが、子どもが一番の犠牲者です。罪のない夫は、精神的に深いダメージを受けてしまい、廃人のようになったり自死をしたりという事例が少なくないのです。

虚偽DVに気が付かない原因の二つ目はジェンダーバイアスです。
つまり、夫は男性という属性から妻に対してDVをする生き物だという偏見です。これ、研修によって男性の職員も洗脳されているのです。こういう洗脳されている男性職員たちは自分だけは例外的にDVをしていないと思っているようです。ギャンブルで経済的に立ち行かなくなる人たちと同じ心理状態です。

虚偽DVに気が付かない第3の理由はノルマでしょうね。
女性保護の件数を上げないと予算が獲得できません。相談件数だけでなく保護件数が無ければなりません。DV事案を待ち構えているという心理になりますから、DVではないかもしれないという発想を持ちにくいのだと思います。

第4の理由は、マニュアルです。DVを受けた女性はつじつまが合わないことを言ったり、理路整然と話をしないことは当然であり、ここを批判することは「被害者に寄り添っていない」とされています。これに対して加害者は精神的に追い込まれていないから理路整然とものを話すので加害者から事情を聴いてしまうことはごまかしを積極的に受け入れることだから加害者から裏を取らないという運用もなされています。(実際は加害者は何らかの事情で追い込まれているからDVを行うというのことが正しくて、理路整然とした話など行いません。全くのステロタイプの思い込みにすぎません)ミュンヒハウゼン症候群の曖昧な言動を知っていてこのようなマニュアルを作成したとしたらば、虚偽DVでも離婚にもっていくという確信犯だということになるでしょう。

その結果、証拠もないのに、離婚判決が下されるわけです。さすがにDVを証拠不十分で認定できなくても、別居の事実と離婚意思が固いという、さも客観的に認定できると思われるところを認定して離婚理由が正当でなくても離婚を正当化したりしています。こんなことで離婚が認められるなら、離婚は好き勝手行えることになってしまいます。そこに子どもの利益は全く考えられていません。

また、祖母が孫を連れ去った事案では、祖母が娘が統合失調症であるということを様々なところで言いふらしており、いくつかの行政機関はそれを真に受けてしまい、単純な誘拐事件であるにもかかわらず誘拐に対して何ら対応しませんでした。警察も実に冷たく突き放しました。大体警察はミュンヒハウゼン症候群に限らず、精神疾患の知識がなく頓珍漢な行動を繰り返しているようです。言ったもの勝ちという状態が温存されています。複数の裁判所も母親に子を連れされる理由は無いという決定をしましたが、肝心の裁判所が決定を1年以上出さないまま放置されました。子どもは1年近く誘拐されて、その間通学することができませんでした。法が適正に執行されないために、子どもの将来にわたり極めて深刻な影響が生じたことになります。これが一つの裁判所とは言え、裁判所が行ったことなのです。

繰り返しますけれど、ミュンヒハウゼン症候群由来の虚偽DVは、本当は妻は離婚したくないし、夫の愛情を受け続けたいと考えています。しかし、あまり自分を肯定される機会に恵まれない孤立している妻たちは、冷やかしのようにして行った相談所で、自分を無条件に肯定され、同情されることによって脳の報酬系が刺激されるという経験をしてしまいます。この報酬系の刺激が途絶えることに恐怖すら感じるようです。同情共感依存症とでもいうような状態に陥ってしまうわけです。私はこのような支援ほど人を馬鹿にした支援は無いと思っています。自立して生きる力を自己満足で奪っているからです。関係機関は連絡を取り合っていますから、ここで実は嘘でしたというと、そのあと誰からも共感を示されたり同情をされたりという機会が無くなっていくということに恐怖や絶望を感じるということなのだろうと思います。やってはいけないことをやってしまう、やらないではいられないということがミュンヒハウゼン症候群の特徴なのではないでしょうか。

ちょっと考えればおかしいと思われる言動について、きちんと対応しないのは、子どもや夫に対して重大な損害を与える可能性が高いだけでなく、実は妻本人も依存症を深めて自立しない女性として作り上げられているという女性解放に逆行した行動であるということを指摘しなければなりません。妻自身を不幸に陥れていることにもなると思います。

そもそも、配偶者暴力相談という相談対象の限定された相談機関を作ること自体がおかしいと私は思います。女性の悩みも様々な要因から生まれるものです。女性対象の相談機関というものはどうしても必要なものだと私は考えています。しかし、一般的な女性相談機関が少なく、紹介される期間は可能性があるということだけで配偶者暴力相談センターに誘導されてしまえば、専門機関ですから出口は夫のDVを理由とした離婚に向けたコースしかないということもおかしな話です。国民はそろそろ気が付くべきです。





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連れ去り直前の妻の心理 思い込みDVでもでっち上げDVでもつまりDVが無くても、妻は実際に精神恐慌一歩手前にいる場合があるので、肝心の夫の手当てが無ければ妻が子どもを連れて逃げ出すことは不思議ではないということ  [家事]

ホームページやこのブログを見て相談のご希望をいただく方は最近女性の方が多くなっています。

他のどこにも相談しないで、まず私のところに相談される女性は離婚を望んではいません。子どものためにも何とか離婚をしないで済ませたいというご希望の方がほとんどです。もちろん離婚を決意してから面会交流の方法についてご相談をされる方もいます。

それでも、自分の不安を抑えられずに、ご自分の不安を訴えたり、夫に対する不満を訴えたりされるわけです。事情を知らないと病的だと思ってしまうような切迫感もあります。最近はコロナの問題も加味して、不安や焦燥が大きくなっているような様相を見せてきました(令和4年夏の時点)。

お話を聞くと大体は、「思い込みDVになってしまう要素」があるケースです。そして、この要素が複数あるケースが多くなりました。

「思い込みDVの要素」とは、産後うつ、内分泌異常、頭部外傷、もちろん不安障害やうつ病などの精神障害、婦人科系の疾患、薬の副作用等のほか、お子さんに障害がある場合、住宅ローンを組み始めたという事情があります。

これらの要素があると、その他の具体的事情が無くても、どうしても不安や焦燥感が抑えられなくなってしまいます。一緒に住んでいる夫に対する不満は常にあるのですが、要素による不安や焦燥感があると、具体的な攻撃対象を求めてしまうようで、夫の行動や存在が自分を苦しめていると思い込んでしまうという現象が起きてしまいます。そして、不安や焦燥感のある妻に対して、あなたは悪くない、それは夫の精神的虐待だと、攻撃対象を夫に寄せようとするマニュアルを持った相談機関があることが、ありもしない夫のDVがあったと思い込ませる重要な役割を果たすことが多いです。

今回は女性についてのお話です。男女差というのは性差というよりも、出産や婦人科系の疾患のように女性固有の問題が原因になっていたり、内分泌異常のように比較的女性の方が多くり患する疾患が原因の一つになることが多いため、女性にこれらの傾向が多くなるのはいたしかた無いようです。

「思い込みDVの要素によって、自分の不安を理由もなくかき立てられている」
という知識が女性にはないことが通常です。病院に通院していても、体の変調が心に影響を与えて生活に影響が生じる場合があるという説明をされたことはないそうです。

現代の歪んだ男女平等は、結果的に女性も男性と同じように無理が効くという主張になっています。実際のハンデキャップが無かったことにされています。本来、思い込みDVの要素を持った女性は特別にいたわりなどの保護を受けて平等の機会が保証されるはずであり、むしろすべての女性に保護的な対応をすることの方が必要な保護を受けられるはずなのです。しかし、現代日本は、すべての女性から保護を切り捨ててしまうように感じられてなりません。ますます女性は一人で苦しまなければならないように追い込まれているようです。

相談される女性はご自分の感情を抑えることがなかなか難しくなっている方が多いです。それでも、聞く方がきちんと聞くと、つじつまが合わないようなお話はされません。ご自分の生活歴や病歴についてはほとんどの方が正確に認識し、記憶されています。但し、聞き方を間違えると、その人の状況は全く分からなくなる場合もあります。思い込みDVの要素の知識のない人からすると、夫のDVしか思い当たらず、夫のDVがあるはずだという思い込みから、普通の夫婦間のあつれきが夫のDVにされてしまう流れがあるようです。

思い込みDVの要素によって不安が高まっている妻は、とにかく不安でたまらない状態です。落ち着きません。解決方法が見えてきません。極端に言えば、古いロープで吊り上げられた重しが自分の体の上でぶら下がって揺れており、ロープが少しずつ擦り切れていっているけれど、自分の体を動かすことができず、重しが落ちてくることから体を守る方法がないというような感じです。

とにかくこの「不安を解消したいという要求」が高まっていることがよくわかります。

原因を一つ一つ解消していけばだいぶ落ち着いてくるとは思うのですが、通院も中途半端で中断していたり、メンタル上の影響はないと病院が言い切ったりして(もともとのあなたの性格の問題だと言われた人もいました)、明らかに精神症状が合併する疾患でありながら対応をされていないことがよくわかります。また、なかなか現代の医学では治しきれないのが頭部外傷とか髄液労の影響です。労災で担当したことがありますので、どういうあやふやな状態の苦しさがあるのか想像をすることができます。あらゆる事情が妻を追い込んでいるけれど、すべての事情が解決に至っていないのです。

看過できないのは、精神科医の態度でした。もっともそのお医者さんがそういう態度を本当にしたのか、本人がそう感じただけなのかわかりません。はっきりとは言われないけれど、夫がストレッサーなので、夫と離婚しなければ治らないと言われたとその妻は感じたそうです。
多かれ少なかれ夫にストレスを持たない妻はあまりいないでしょう。ただ、こういうふうに原因を自覚できないまま不安が生じている場合、特に理由が複数ある場合に、夫に対する不満がもともとあったのか、病気などの要因で特に夫に不満を感じるようになったのか、夫に敵対的になったのかについてはとても難しい問題です。何でもかんでも不安の要素になってしまう段階になると、実際は心配しなくてよいことで心配していることも結構多いことも間違いありません。

それでも夫の行為が妻に心配をかけて、それで妻が苦しんでいるという側面があることも事実なのです。

妻が、「子どももいるので離婚はしない」とその精神科医に対して強固な態度を示したそうです。医師からは「離婚をしないのでは不安は無くならない。だから離婚をしないならもうクリニックに来るな。」と面倒くさそうな態度をされたと「妻は感じて」、それ以来もうそのクリニックには行かなくなったというのです。
面識はありませんが高名な先生だったので、それを聞いて私は驚きました。ここで私なんぞが言う話ではありませんが、生活上に差しさわりがあるから精神障害であり、治療をする必要があるはずです。それにもかかわらず、治療の効果がないから生活の一部を切り捨ててしまえというのは極めて乱暴な話です。例えば職場での明確なストレスがある場合、選択肢として退職という選択肢を持ったり、選択権を行使したりするということはありうる話です。しかし、家族の問題であれば、離婚を望まない妻に対して離婚をしてしまえということは、本末転倒なのではないかと思うのです。

ただ、そのお医者さんが本当にそういうことを言ったとしても、その理由はわからなくもない事情もありました。そのケースでは、夫が妻の不安と向き合わずに、自分のやりたいように行動して妻の不安を解消する活動を何もしないと妻が感じている事情があり、診察室の中で妻と向き合っているだけでは、夫の行動を改善しようがないからです。ただ、その医師が妻のすべての不具合を解消しなくてはならないわけではなく、様々な立場の人たちと協力して解決することが本来だと思うのです。自分の力だけで解決できないから離婚をしろと言うことはやはり傲慢に過ぎると思います。

夫が妻の心配に向き合わないで、自分勝手なことをする具体例をひねくりだしてみます。
例えば、株式投資をする場合です。妻は、既に、思い込みDVの要素が複数あり、不安を感じやすくなっているうえに、悲観的な考え方に支配されていました。その上、育った環境から、株式投資をすることはギャンブルと一緒だと思い込んでいました。夫の投資がどういう仕組みかあまりわかりませんので、ギャンブル性の高い信用取引を夫がしているような感覚で心配していたようです。貧困妄想も入って、全財産を失ったうえに莫大な借金ばかりが残るのではないかという不安を「なんとなく」感じていたようです。

先物取引や信用取引をしているわけではなく、堅実な投資をしているだけだと夫が思っているならば、夫からすれば妻の不安は妄想であり迷惑だと思うことでしょう。そんなありもしない妄想によって、せっかくの利殖のチャンスをつぶされたらかなわないと思うかもしれません。また、自分は何も悪いことをやっているわけではないので、行動を改める必要もないし、言い訳する必要もないと思っていたのかもしれません。

でも言い訳くらいはしてあげましょうよ。

どうせ妻に話してもわかってもらえないという気持ちもあるのでしょう。また、あたかも法律違反の行動をしているように騒ぎ立てる妻に対する反発もあるのかもしれません。

でも、言い訳くらいはして、妻を安心させようとしてあげましょう。

誰しも、家族や仲間で行動する場合は、自分の行動で仲間に心配をかけているときは、「仲間を安心させようとする義務」があると考えるとよいかもしれません。

その理屈を妻がわからなくても、一生懸命説明しようとしてくれるということで落ち着く場合もあるのだと思うのです。もともと思い込みDVを感じやすい要素がある場合はなおさらです。

奥さんは、本当に不安で苦しいのです。

そして妻というものは、夫に自分を救ってもらいたいという第1希望を持っているのです。

特に家族が孤立している現代日本の場合は、実際に妻は夫に不安を解消してもらうほか現実的な方法がない場合がとても多いと感じています。

妻に反対された夫の夢は、ただ単なる金銭的価値の収集ではなく、家族に良い生活をさせたいという思いも入っているのだと思います。妻から評価をしてもらいたいという思いが込められていることが実際は多いのですが、妻との関係では歪んでしまうことが多いというのも実務的によく経験しています。もしそうならばストレートにそういうべきです。実際の人間関係では、あと一言がいつも足りなくて不信感が大きくなるということを常々感じています。

それだけで妻が安心するならば、説明をしない理由はありません。しかし、それでも妻が不安を訴えたらどうするか。私は、それが悪いことではないとしても、勝算が十分あるとしても、妻の不安をあおらないために「やめるという選択肢」をきっちり持つべきだと思います。

実際に多くの夫たちが妻からの根拠のない不安という横やりのために、自分の夢を断念しているようです。しかし、案外それは悪いことではなく、後から考えると「やめといてよかったな」と感じることも少なくないようです。要はやめ方であり、考え方なのかもしれません。

それよりも何よりも、妻が少しでも安心してくれるということに価値をもう少し置いた方が良いのではないかと感じています。確かに病的に、やみくもに反対するので取り付く島がないという感覚はよくわかるのですが、安心させる努力をするということは、先ほども言った通り義務だと思うのですね。そればかりでなく、安心させようという態度を示してくれること自体が妻の不安を軽減することになると思うのです。

つまり、投資でお金を無くしてしまうという心配と、自分がパートナーとして尊重されていないという心配の二通りの心配を妻はしていると考えるべきだと思うのです。投資でお金を無くしてしまうという心配が無くならなくても、一生懸命に説明することによって、尊重されていないわけではないと妻が思えるならばそれなりの成果が上がるということなのです。

後は、夫婦問題は二人の問題や家族の中だけの問題で終わらないということをきっちり頭に入れておかなければなりません。

妻が相談した相談先では、妻の不安や焦燥感は、すべて夫の対応だけが原因だととらえ、妻に対して「あなたは悪くない。それは夫の精神的DVだ。」と言おうと待ち構えている人たちが多いのです。その相談先とは区役所の配偶者暴力相談センターだったり警察だったりという公的機関なのです。そこでは、「子どもを連れて逃げなさい」と言いかねない強固なマニュアルがあると考えておいた方が良いということです。

そうして、奥さんが、もう心配することにつかれてしまい、心が持たないということになれば、そういう誘いにふらふらと乗ってしまうこともあるということを忘れてはなりません。なんでも良いから不安を解消したい。不安を解消する方法があるなら飛びつきたいという心理状態なのです。

さらに、一度その誘いに乗ってしまうと、弁護士ががっちりサポートしてしまい、離婚やそれに伴い費用の請求をがっちりされてしまうということです。そうなってしまうと、もはや投資などをしている場合ではなくなる、経済的意味でも心理的余裕の意味でも、ということを頭に入れておいたほうがよろしいと思います。

妻子との共同生活は、不自由なことも多いし、こちらなりの不安もあるわけです。表面的には夫も幸せとは言えないのではないかと感じている場合もあるかもしれません。しかし、幸せは失ってみないとわからないということも真実です。おそらく、共同生活をしているうちは、このブログで何度も取り上げている子どもを連れて出て行かれてしまうという間違いのない不幸を想像することも難しいのだろうと思います。

家族が孤立している現代日本の状況は、逆に家族や夫婦の間に、家族や夫婦を破綻させることに何のためらいを持たない第三者が実に簡単に入り込みやすい状況だということは、離婚事件を担当しているとつくづく感じます。

私は警告をしました。



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真の連れ去り防止は、安心して楽しい夫婦の生活を作ること。夫の妻に対する言動の間違いリスト 女性は男性に比べて夫婦関係について原因がないのに不安を感じやすいという仮説に基づいて考えてみた。男女は決して対等平等ではない。 [家事]



できれば前回の記事と合わせてお読みいただくと何を言っているのか理解しやすくなると思います。

前回は、離婚は、というか子どもを連れて突然の行方をくらます形の別居は、一つ二つの直近の夫の行動が原因ではなく、それまでに夫が原因とは限らない原因で離婚に踏み切りやすい精神状態(離婚飽和状態)が妻に生まれていて、些細な夫の言動をトリガー(きっかけ)として起きるのだということ、そのために連れ去り別居を防ぐためには離婚飽和状態を作らないことが肝心だということを述べていました。

一つは夫の日常の言動が、他の精神的問題や他の人間関係上生じていた不安と相まって、離婚飽和状態の形成に一役買う場合もある、もう一つはいつもと同じ言動が離婚飽和状態になった後ではトリガーになるということでした。

何をすると離婚飽和状態になる方向に向かい、あるいはトリガーになるのかということを予め検討しておくと、その言動をしないことができます。しかし、それがわからないと、日常の言動が知らないうちに連れ去り別居に近づけている危険があるため、これまでの実務経験からできるだけ具体的に問題のある夫の言動をあぶりだそうというのが今日の記事です。

まず、夫の言動がどうして離婚飽和状態を形成するのかということです。
妻は、夫の言動の積み重ねによって、「自分のことが自分で決められない」という不自由感、非拘束感を抱くようです。さらには、自分に対する評価が低いこと等から、「自分は夫婦という人間関係に安住できないのではないか」という不安感を抱くようです。これらの感情を起こさせる事情が継続してしまうと、不安感、閉塞感、解決不能感を感じるようになってしまい、とにかくこの不安などから解放されたいという気持ちが形成されてゆき、解放されるなら何でもよいやと言う気持ちになってしまい、思いついた行動を抑制することができなくなってしまうということが起きるようです。

夫の言動が、妻から見れば、「自分が対等の仲間として扱われていない」、「仲間として尊重されていない」という感覚を与え続けてしまうということにまとめられると思います。

=離婚飽和状態を形成する夫の言動リスト=
<それ自体が直ちに危険な言動>
・ 離婚、別れる、終わり、出て行けという発言
・ 子どもや第三者の前で体面を傷つけること、不貞
・ もちろん暴力、特に妻にとって理由が理解できない暴力
・ 妻が危機的な状態にあるのに救済せずに放置すること
・ 逃げ場のない状態に追い込むこと

<継続すると危険な言動>
・ 家庭内のことの決定システムについて、妻の感情よりも、合理性や損得を優先してしまうこと(妻の意思決定の否定)
・ 妻の感情よりも、自分の体裁を優先してしまうこと
・ 妻や子よりも、自分の公的な関係を優先してしまうこと
・ 妻の感情よりも、社会的ルール、正義感を優先させること(最終的に社会的ルールを優先することよりも、妻の感情を即時否定すること)
・ 妻の言動に対して、肯定を表明しないこと

<危険な言動をしてしまう夫の誤謬>
・ けんかにおいては夫婦は対等・平等だ 
・ 同じことを相手もしているので、こちらもしてもよい
・ 妻が原因を作っての反撃には再反撃できないはず
・ こちらに原因が無い場合には、妻が自分に不機嫌な様子を見せてはらなない
・ 家庭の中でも不合理な提案は却下されるべき 合理的な案が優先されるべき
・ 家庭の中でも感情よりも合理性や正しさが優先されるべき
・ 男子たるもの妻の機嫌を取ることは情けない

=解説=
<それ自体が直ちに危険な言動>
直ちに危険な言動がどうして危険なのかについては特に解説する必要はないと思います。逆に言うと、こういう言動が、仲間として尊重していない言動の典型であって、人間としては耐えられない言動だということです。

特に暴力については、その場で直ちに恐怖がみられるだけでなく、何年か後になって実はその影響が持続していたことがわかり、本人すら自覚がないうちに精神状態が悪化していたということがあります。夫の言動だけで精神悪化が生まれたか否かは不明としか言いようがないのですが、その暴力が無ければ不可解な精神症状は生まれなかったはずだと感じられる事例をいくつか担当しています。

そして、何らかの妻の先行行為に問題があって、夫の感情の爆発が予想される場合は、身構えますし、因果関係がわかるのでまだよいのですが、妻からすると「どうしてここで暴力を受ける。」という理解不能な場合には、防ぎようがない暴力を受けたという無意識のレベルでの学習をするようで、夫に対してむやみやたらに警戒するようになってしまうようです。こうなると夫の実力以上に夫に対する恐怖感や不快感、嫌悪感が生まれやすくなるようです。

この類型の言動があれば、離婚飽和状態が十分に形成されていなくても、離婚に踏み切るトリガーになりやすいようです。また、一つ一つの出来事が、直ちに離婚原因として主張されることが多いです。

自分の窮地を救わない、放置されるという離婚原因は、東日本大震災の際にみられました。地震の時に一緒にいなかったということそれ自体が不信感の原因になるようですし、家族であれ、友人であれ、自分以外の人間の面倒を夫が見ていたという事情が、やや病的なまでの離婚飽和状態の形成の原因にもなりました。

<継続すると危険な言動><危険な言動をしてしまう夫の誤謬>のセット解説

1 職場の価値観を家庭に持ち込まない(合理性優先は家庭には当てはまらない)
  このことに男女差があるのかないのかわかりませんが、現状は男性側の問題として多く気になっています。企業の中の価値観を家庭に持ち込んでいるのです。極端なことを言えば、「話し合いは結論を出すためのツールであって無駄話はしてはならない。」みたいなことを言い出したら、夫婦は崩壊するというか、家族という意味合いが無くなります。おそらくこれは賛同いただけるのではないかと思います。
 それから、費用を切り詰める方法があるにもかかわらず、だらだらと不合理な行動をすることは不道徳の極みだとでも言わんばかりに、妻の行動を批判しだす夫も多いです。それでどのくらいの金額が削減できるのかわかりませんが、妻がストレスを抱くようになって、勝手に高額のランチに行ったりすれば元も子もありません。まあ、それは冗談ですが、結局、それがそんなに重要なことなのか理解できない場合は、どうして自分の行動が否定されたのか理解できません。そうすると、自分は何をやってよいのか悪いのかわからなくなってしまうのです。これ自体が不自由感を抱くことであり、こういうことが継続すると支配されているような感覚になっていくようです。
 どうでもよいと割り切れるところは、相手を否定しないということを意識するべきです。夫婦再生を目指していて、割と妻の精神状態に理解のある人でも、妻側の出してきた計算書について、計算方法や項目の挙げ方に目くじらを立てる人がいるのです。私はその人のそれまでの妻に対する寛容な態度とは異質なものですから、「この点をある程度鷹揚に考えることができるならばあまり細かいことを言わないほうが妻にとっては圧迫感を感じないよ」と言い、「もしかしたらお仕事の関係で無意識に合理性やルールを優先してしまっているのではないですか」と尋ねたところ、はたと気が付いて、「そこは、指摘しなくてもよいです。」というやり取りが普通にあります。特に、お金の関係する業種、職種の人に多いです。一種の洗脳されている状態ですから、次に別の出来事があっても同じ思考傾向を持ってしまいます。また私も同じやり取りをしないとなりません。これは大変恐ろしいことだと思いました。
 とにかく、目の前の損をしないために全力を挙げる人が多く、そのために将来的に大きなものを失うことになるということを考えない人がほとんどのようです。私がここで偉そうなことを言うのは、自分がきちんとできているというのではなく、そういう離婚事例をたくさん見ているからです。

2 任せたことは否定評価しない。(男子厨房に入らず)
 だいぶ前にこのブログで述べたのですが、戦前の男子は出された食事に文句を言わないとか男子厨房に入らないとか戒めを以て、調理を任せた人を尊重したものだとお話ししました。これは別に調理に限定した話ではなく、夫婦で役割分担をした以上、相手のすることに文句をつけないということがその意味するところです。
 いまだに地方の中小企業(役所を含む)なんかは「ほうれんそう」をありがたがって唱えていますが、それは労務コンサルの立場から言わせてもらえば、企業活動の縮小にしかつながりかねない重大なデメリットを持っているのです。
 この習慣が家庭に持ち込まれているのかもしれませんね。
 いずれにしても他人に対するコーチングというのはノウハウと寛容の心が必要であり、安易なダメ出しはパワハラにしかなりません。それはご自分も職場で嫌になるほど経験していることだと思います。

3 妻を最も大切な人間として最大限の尊重と尊敬を示すこと
  間違っても、「私の愚妻です。」なんてことを他人の前で言ってはいけませんよ。現在は平等、民主主義の世の中にかわったからです。昔これが違和感なく受け止められていたのは、夫と妻の関係ではなく、夫と相手の人間関係が平等ではなく、経済外的に相手に服従する(悪く言えば)人間関係だったからです。
それから、家で男子厨房に入らず等、戦前の男子は女子に対して最大限の配慮を示し、子どもの前で尊敬を示して見せていたからです。今はその信頼関係もないのですから、普段尊敬を示していないくせに、妻を貶めるようなことをよそで言っては瞬時に離婚飽和状態を形成してしまいます。
 なお、現代日本は、家族が孤立しているというこれまでにない家族形態をしています。夫の両親との同居はデメリットもありましたがメリットもありました。例えば夫が家に帰らないで、公的な活動を優先したとしても、家の中で話し相手や夫の悪口を共に言い合う仲間というか、妻の淋しさに共感を寄せる相手もいたわけです。しかし、現代の孤立過程においては、一方が家庭をかえりみない場合は、もう一方は子どもの世話をしながら一人ぼっちで時間を過ごさなければなりません。現代日本では、妻を一人にすることは大変危険なことになっています。孤立感はすぐに発生しやすい状態になっていると言えるでしょう。
 仕事で帰宅が遅くなる人は少なくなっていましたが、友人関係を大切にする余り、家庭をおろそかにする人もいるようです。そこに女性がいれば妻は当然に不信感を抱きます。家庭と仕事以外の部分で、妻と共有できない時間はなるべく作らないほうが結婚を維持するという観点からは無難だと思います。
 妻がバーゲン品しか買わない、スーパーでも割引商品のワゴンに真っ先に向かうということがあっても、自分の給料が低いことを馬鹿にしていると思う必要はありません。楽しそうにしているならば、それくらいやらせてあげればよいと頭では理解しましょう。
 まあ、結婚した時、お互いに相手を最大限尊重するというようなことを言って信用させて結婚したのだから、何年かたったら期限切れなんて言うことは断固許されないということなのでしょう。

4 男女は対等平等ではない。
  実際は対等平等なのですが、心構えとしては、対等平等として考えないほうが良いという意味です。
  対等平等や正義というのは、突き詰めれば、報復の正当性の根拠となるものです。ひらったくいえば他者を攻撃する際の言い訳です。
・ 相手が自分をこういう言葉でからかったから、自分も同じ言葉でからかってよいのだとか、
・ 妻が自分に対してこういう言葉を言ったから自分は怒ったのであって、多少大声を出したり物にあたったりしたとしても妻は文句を言えないはずだとか、
なんというか、子どもじみた対等平等は考えない方が無難だということです。
例えば、「妻が夫を反射的に小突いたから自分も小突き返したのだ」ということを言う人がいます。「私が暴力をふるったのではなく、妻と対等にもみ合っただけだ。」という人もいます。まあ、実際は妻の方が手加減がきかない状態で危険な暴力をふるうことも実際には少なくないのですが、第三者との間では、このような対等の主張は通用しません。
これまでけんかにおける暴力の対等平等がありえない理由が、男女には筋肉量の格差が存在するため、そもそも対等平等の条件が無いという説明でした。しかし、離婚飽和状態の理論からすると、この理由付けは修正が必要であるようです。
 つまり、女性の方が一般に暴力による精神的ダメージ(自分が仲間として尊重されていないというショック)が深く、かつ、持続するからということが正しい理由となると思います。特に出産後の女性に対してはそうなるようです。こういう意味でも、男女は対等平等の関係にはなく、古来のレディーファーストをはじめとする女性優遇措置は、このような法則を経験的に把握していて、こうすると円満な人間関係を構築できるという人類の知恵だったということに気が付くべきでしょう。
5 妻の言動にはこまめに肯定を示す。
  離婚飽和状態形成の原因となることが女性の間ではよく知られている「肯定をしない男」ということを、男性はあまり理解していません。男性の立場からすると、自分の言動に対して相手から文句を言われないなら肯定されていると感じやすいのではないでしょうか。しかし、女性は、肯定をされなければ不安になるようです。あまり気づかれないことですが、こういうところにも男女差があるようです。
でも、そう大それた肯定が必要なわけではなく、花が飾られていたらきれいだねと言ったり、作ってくれた食事がおいしければおいしいねと言ったり、何か提案があってどうでも良いことでも「どうでも良いことだ」と言わないで、「賛成」と言っておけばよいのですからそんなに大変なことではありません。
女性は不安を感じやすいということがキーワードです。男性とはやはり違うのだと考えた方が実務的だと思います。

6 女性はこちらに理由がないときでも不機嫌にしてもよい特権がある
 対等平等だとすれば、道徳的に考えれば、こちらに原因がないのに不機嫌な態度を見せることは失礼なことだということになろうかと思います。
大体は八つ当たりと考えてよさそうですね。しかし、正論で割り切れないのが家族という人間関係だということでよいのではないでしょうか。不機嫌には理由があるのだから、理由の解消に貢献するべきだという考えの方が建設的ではないでしょうか。つまり、不安を感じてしまうと不安を解消したくなる。不安を解消するために、不機嫌な態度を示したり、相手を攻撃したりするということが、一時的に不安を感じなくて済むことなのです。女性の場合は不安を感じやすく、感情コントロールできない事情があるとするならば、これを無視して非難をしてしまうと、そこは心休まる場所ではなくなるような気がしないでしょうか。
女性は「不機嫌でわがままなことがあっても、攻撃されない」という特権があると考えた方が無難だということになりそうです。その時は気にするそぶりをするのは良いとして、本当に気にしなくても良いのです。こちらに原因はないのですから。
思うに、このような理不尽な状態を耐えるのが、古からの男性の役割だったようです。古今東西の文学作品や芸術作品はこの男性の苦悩を描いていると思います。ギリシャ神話や古事記、「源氏物語」や「竹取物語」もそのような視点で読み直すと見えてくるものもあるように思われます。アナトール・フランスの「にんじん」なんていう作品はその最たるものではないでしょうか。また、ソクラテスの妻クサンティッペ、モーツァルトの妻コンスタンツェ、トルストイの妻ソフィア等有名な悪妻は多いものです。しかし、実は悪妻ということではなく、単にしたたかさやあざとさとは無縁の女性らしい女性だったという可能性もあると私は思っています。

 最後に最も大切なことを述べます。いつも述べていることですが、こちら側も完璧を目指さないということが一番大事です。3割くらい実現すればだいぶ楽しい、安心できる家庭が生まれるのだと思います。7割失敗しても、「ああ今失敗した。」と気が付くことの方が有効だと思います。そして、失敗後のフォロー、修正能力こそ、大切なのだと感じています。

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