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DVで書類送検された野球選手の反論はありうることなのか。もしそうなら妻が嘘をついているというのか。 思い込みDVの生まれ方の説明として [家事]


1 プロ野球選手の事件

報道によると、あるプロ野球選手が
妻に暴力をふるったという妻の被害届によって
書類送検をされたとのことです。

警察は捜査を行い、選手を取り調べた上、
警察は微罪処分などをしないで
検察庁にその後の判断を仰ぐべく事件送致したそうです。

それにも関わらず、スポーツ紙によれば、
選手は暴力を否定しているというのです。
実際は暴力がなかったということは、
ありうることなのでしょうか。

実はよくあることです。

2 実際にはよくある裁判所で否定される妻のDV主張

この事件の真相はわかりません。
でも類似の事件はたくさんありますので、
ありうることだという説明の範囲でお話しします。
思い込みDVというものなのです。

実際は暴力がないのに、妻が夫の暴力があるとして
離婚を申し出て、調停だ、裁判だというケースは
ごく普通にあります。
巻き込まれる子どものことを考えると
多すぎるなあと思います。

現実に裁判所で夫の暴力が否定されています。
夫の暴力はなかった。妻の妄想だという判決や
夫の行為によって妻に痣ができたのは間違いないが
意図的な暴力ではなく
妻を制止しようとした際に痣ができた
という判決もあります。

また、妻の主張する夫の「暴力」が
結婚生活で唯一の暴力の場合、
めったに手を出さない人が
どうしてその時に暴力にいたったかということが
全く説明できないというケースもあるのです。
本人は、説明しているつもりなのですが、
暴力が起きる前段階の事情と切り離されていたり
流れが不自然でリアリティーがまるでないのです。

裁判官から説得されて
妻が自ら裁判を取り下げたケースもあります。

妻の妄想を児童相談所や警察が真に受けて、
子どもが父親から引き離されて
一切連絡がつかない状態になっていることもあるのです。

3 暴力があったと思い込む心の流れ

1)必ずしも病気ではない

私の担当した事件の範囲での
ありもしない暴力や攻撃があると思い込む
妻の気持ちの動きを説明してみます。

確かに病気による妄想というケースも多いのですが、
私には病気とまで言えない普通の出来事の範囲
と思っています。

2)出発点としての女性の不安、自信の無さ

先ず、その女性の元々の性格か
その時の状況によるか
はたまた病気の症状かはともかく、

女性は自分に自信を持てず、不安を持て余しているようです。
特に理由がなく、不安は漠然としたもののようで、
なかなかそれを言葉にすることは難しいようです。

「自分はこのままでよいのか。」
「自分だけが損をしているのではないか。」
「自分が尊重されていないのではないか。」
という言葉にたどり着く場合も多くあります。

自分が産んだ子どもは夫(およびその両親)から尊重されているけれど
自分は子どものように夫(およびその両親)から尊重されていない
と感じる場合があり、
自分だけがよそ者のような感覚を持つようです。
潜在意識の中で、いずれ追い出されるのではないかと感じているようです。
これは無意識、無自覚に感じているようです。

これは何か理由があってこう考えているわけではないのです。
子どもが嫌いになっているわけでもありません。
しかし、本心ではなく、子どもに加害行為をするということを
夫に予告する妻もいます。
「子どもをマンションから落とす」
「子どもなんてかわいくない」
「わしは子どもの召使ではない」
それはこういう心理状態を言葉にしたもので、
夫から尊重されたいということを言っているにすぎないと
私には感じられます。

夫との関係に自信が持てないというのが本質なようです。

そこまで夫を好きで好きでというよりは、
夫婦という関係を過剰に大切に思いすぎてしまうようです。
大切すぎるあまり、
その関係が壊れてしまうことを考えてしまい、心配になるようです。

3)不安解消要求の肥大化

不安を感じると不安を解消したいというのが
動物の生きる仕組みです。
天敵が近づいてきたら、不安になり
不安を解消するために逃げるわけです。

ところが人間関係はこのように単純ではなく、
別離の不安というものは逃げて解決するわけにはいかない。
この不安は理由があるものではないことも不幸の原因です。
解消するためのピンポイントの手立てはないのです。

不安をもって、不安解消要求があるのに、
不安を解決する方法がないというのが、一番悪い。
こうなっていくと、どんどん不安解消要求が高まってしまいます。
不安だけが高まっていくのです。

4)脳、思考に対する影響 思考の単純化と悲観的な思考

不安が高まりすぎて、いつまでも続いていると
脳が疲れてしまいます。
分析的に物事を考えることができなくなり、
複雑な思考をしなくなってしまいます。

二者択一的な思考になってしまいます。
夫は自分を嫌っているのかそうではないのか
という変な二者択一になってしまいます。

そうして、どうしても悪い方悪い方に考えていきます。
ふつうは何とも思わないことが
自分を攻撃しているように感じてしまうのですね。

例えば
家に帰ってきて、仕事を持ち帰ったので夫が部屋に入ると
自分を嫌っているから自分から離れたいのではないかとか
子どもにばかりお土産を買ってくると
自分には何もくれてやるものはないというアッピールではないかとか
自分が作ったご飯を残すと
こんな料理な下手な嫁は入らないと思っているのではないだろうとか

日本の男性は、あまり妻に感謝や称賛を日常的に口にしないので、
二者択一のうちの良い事情はありません。
当初の不安が、ものの見方をゆがめ、その結果ますます自信がなくなる。
益々不安になり、益々見方がゆがみ、さらに自信がなくなり、さらに不安
という悪循環になるわけです。

週刊誌を立ち読みしたのですが、
件の選手の妻は、
夫の携帯電話に一日中電源が入っていないので
浮気をしていたと断定しています。
そういう極端な考えになるわけです。
でもこれも特に出産直後は普通の出来事だと思います。

5)被害意識の増大と夫の反射的防御反応

自信がなく、夫から嫌になられているのではないかという
被害意識は、さらなる被害意識を呼ぶわけですが、

夫から事務連絡のようなことを話しかけられても
自分が攻撃されている、低評価されていると思いますから
言い訳をしたり、夫に逆切れをしたりするようになります。

例えば、夫が
「これから仕事に行くけど、子どもが鼻水流しているなあ
 あったかくさせておいてね。」
なんてことを言うと
おそらく、自分の温度管理が悪いと
しかられていると受け止めてしまうのでしょうね。
「その子の鼻水はアレルギーなの、寒いわけではないの。」とか
「私が何度言っても、靴下脱いでしまうのよ。あなたの遺伝だからあなた何とかしなさいよ。」
とか、言い訳を大声で始めたり、
「あなた一日中家にいないくせに、私は一日中この子の世話をしたり家の掃除をして、座ることだってできないのよ。そういうふうに一日家を空けるならばお手伝いさんを雇うくらい給料もらってきなさいよ。」
なんて逆切れされるわけです。

夫は、相手を責めるつもりではなく、
二人の子どもなのだからお互いに気を付けようというくらいの気持ちでも
不安解消要求が強くなった妻に対しては
文字通りに伝わらないことが多いのです。

そういう事情を夫はわかりませんから、
妻が理由もなく自分を攻撃してきたと思います。
夫にも自分を守る本能があるために、
この本能が発動してしまいます。
反射的に反撃をしてしまうわけです。

通常、議論はかみ合いません
「暖かくしているに越したことないだろう。なんでそれが嫌なのだ」
と夫は正論を吐きますが、
妻は、言葉通りに細かく受け止めません。
自分の必死の発言を即時に否定されたという外形だけを受け止めます。

「私のことを馬鹿にして何様のつもりだ」
と感じることも自然な流れですね。

字面で論点を把握する夫と
全体の人間関係としてのやり取りで論点を把握する妻は
論点がかみ合うわけがないのです。

「これは妻が悪い」と考える人は
あまりにも冷たい考え方だと思います。
会社等組織的行動原理を
家庭に持ち込んでいるだけのことだと思います。
(いろいろ考えた結果こういう結論になりました)

6)新たなる心配の種(悪循環の再生産)

妻は逆切れしたり、言い訳したりするようになると
夫との口論も増えていくのですが、
さあそうなると、妻の心配はもう一つ増えます。
「こんなに話がかみ合わないで感情的な自分に
夫は愛想を尽かすのではないか」
という心配なのです。

「どうせ、私は変なことばかり言ってすぐ感情的になる
と思っているのでしょう。」と思い出すわけです。

この心配が、益々自信を無くさせ、不安を招き、
新たな被害感情を産むという悪循環を大きくしてゆきます。

7)記憶の変容

ある事件で、偶然夫婦喧嘩が録音されていました。

どうせ〇〇だと思っているのでしょう。
というパターンが録音されていました。
夫はそれに何の反応もしていません。
ところが、
裁判で出てきた妻の陳述書では
「夫から〇〇と言われた。」
と発言者が妻本人から何も言っていない夫にすり替わっているのです。

私は妻が嘘を言っているのではないと思っています。
しかし、確かに事実と違うことを書いているわけです。
夫は〇〇と思っていると妻に言っているわけではありません。
そもそも〇〇であると思っているかどうかもわかりません。

しかし妻の記憶では、どうやら夫から
〇〇と言われたという記憶になっているようなのです。

人間の記憶なんてそれほど正確でも詳細でもありません。
私たちは自分の記憶が正確だと錯覚しているようです。
そういうふうに思われるのではないか、言われるのではないかという心配と
実際に言われたということは、
被害感情が強くなった妻のその時の気持ちでは
区別をする必要がなかったのでしょう。
どちらも同じことだということだったのだと思います。
だから
言われたという記憶として定着することもありうることなのです。

8)記憶の欠落

それから、ありもしない暴力があるというのは
記憶の欠落ということも裁判では認定されています。
例えば、客観的事情として妻の膝に痣がある
その痛みが始まった記憶と、部屋で自分がひざまづいている記憶
近くで夫が立って自分を見下ろしている記憶
これは鮮明にあるわけですし、間違っていないのです。

しかし、その前の記憶は欠落しています。
「夫が自分に働きかけて自分は転ばされたのだろう」
と考えるわけです。
しかし、どうしてそんなことをされたのかについては考えない。
だから記憶がつながらない。

それでも、それは夫のDVだという主張をするわけです。
「DVがあったことは間違いない」と考えるでしょう。

ところが、実際は、
妻が興奮状態で、部屋から飛び出そうとする
慌てて夫がそれを止めたところ
勢い余って転んでしまった。
こういうケースを、1,2件に限らず裁判で主張され
裁判では暴力が否定されています。

痣の診断書があるから暴力があったと
短絡的に認定する裁判官はもうあまりいません。
おそらくそのような主張を裁判官も多く経験したからでしょう。

4 妻が離婚を決意する理由

妻の自信の無さ、不安、被害感情、逆切れ、自己嫌悪、自信のなさ
という途切れることの無い悪循環は
それは事実ではないとしても
こころが苦しくなることは間違いありません。

何とかこの心の苦しさ、不安から解放されたい
という気持になることは無理がありません。

しかしその方法が見つからない。

苦しさから解放されれば何だって良い
という気持になることもある程度やむを得ない流れだと思います。

ある時気が付くわけです。
「離婚すればこの苦しさから逃れられる。」
ほっとする気持ち、ほのかに明るい気持ちになるようです。
本当は夫との関係を大切に考えていた気持ちが
逆に妻を苦しめ、離婚を考えさせるという
なんとも不合理な出来事が起きているわけです。

しかし、一度こういう考えにとらわれてしまうと
夫が怖くなったり、嫌悪、憎悪の対象になってしまいます。
これを覆すことはなかなか難しいのです。

5 妻が不安になる最初の事情

夫の暴力やモラルハラスメント、不貞の無い事案で
妻が不安になる最初の事情としては、
出産の影響が良く言われています。
重複するかもしれませんが産後うつ、甲状腺機能の問題、
不安障害、パニック障害、月経前症候群
という事情がある場合もあります。

出来事としては、自分の弱点を修正できない
片付けられない、掃除ができない、浪費、借金
妻が別居した後に
公共料金や家賃が支払われていないことに気が付くことは多いですし、
キャッシュカードを預けていたら、
別居した日に200万円キャッシングされていたということもありました。

実感のレベルなのですが、思い込みDVの事案では、
夫は給料を全部妻に入れて小遣いをもらうというパターンがとても多いです。

それからいたましい事情としては
お子さんに先天性の障害がある場合がかなり多いです。
この事件を担当するようになって
先天性の障害についてかなり詳しくなりました。

以外に多いのは住居を新築した後の別居も
かなり多くあります。
おそらく、住宅ローンの支払いの不安が関係しているのでしょう。

6 妻の不安を増強し、固定化する事情

本来妻の不安は根拠がなく、具体的なものではないのですが、
それを歪んだ形で具体化し、固定化してしまう人たちがいます。
配偶者相談の人たちもそうなのですが、
医師や心理士、警察、学校関係者も見過ごすこともできません。

妙な正義感があって
女性を助けようとジェンダーバイアスがかかった見方をするわけです。
女性が不安や焦りを感じていれば、
どこかに夫のモラルハラスメント、DVがあるはずだというのことです。
全ての男性は自己愛性パーソナリティー障害を持っている
ということと同じことを言っているのです。
それも男が、我が身を顧みずに言っているのですから情けない。

また、自分で言っていて、自分で怖がるのでしょうね、
夫に事情を確認しようとすることはありません。

漠然として不安を持ち、不安を解消しようとしている妻は
原因は夫だと言われるとほっとします。
原因がわかれば解決方法が出てくると思うからです。
そうなると、原因は夫であってほしいという願いさえ出てくるようです。
自分には味方がいる子どものために頑張らなければならに
という使命感さえ出てくるようです。

即時に夫に対する嫌悪感、憎悪の情が生まれるようです。
元々あったわけではなく作られるのです。

これが思い込みDVです。

7 夫に原因はないのか夫婦別離による子どもを救済する方法はないのか

さて、私は、妻のこのような思い込みDVが生まれる過程は
病的な異常なものではなく、
普通の、日常的な人間の営みの範囲に含まれる出来事だと思います。
どこのご家庭にもあることだということです。
必ずしも治療が必要でも有効でもないこともあるでしょう。

一昔前は、家の中に夫婦と子どもの外に両親がいたり、小姑がいたり
すぐ近くに親戚やご近所さんがいて
忙しい夫よりも家の中のことがわかる人もいて
一緒に悪口を言って笑ったり
被害感情が過ぎる時には、それは違うよと言ってくれたりした人たちに
まだましな方の旦那さんだよとかね。

ところが今の家族は孤立しています。
単なる気の迷いが深刻な不安になってしまうわけです。

ゆっくり子育てをしていると
働かない人間は輝いていないというように
世間も母親を焦らせることしかしていません。
子どもを育てることがあまり評価されない時代のようでもあります。
子どもに愛情を注ぐことを犠牲という表現でしばしば語られます。

どうしても夫が何とかしなくてはならない
夫しかいないのです。

例えば妻の実家とは良好な関係を作るとか
自分が妻のチームから孤立しないようにするということも大事です。

また、妻自身と一緒にいる時間を増やすということももっと大事です。

感謝と称賛、そして妻の気持ちに即した謝罪
こういうことで、少しずつ安心の記憶を積み重ねていく
こういうことはできるし、するべきなのでしょう。

そうして会社の論理を家庭に持ち込まない。

妻の不十分点、失敗、欠点をできる限り大目に見る。
妻が安心して家にいることが幸せなのですから
幸せを一直線に目指せばよいのです。

良いのですが、なかなかこれも難しい。
3割くらいこれを実現できれば
努力を感じてもらえるというように思っています。

なかなか難しいのは子ども悪口ですね。

これを全くしないことは思い込みDVを大量生産することになるでしょう。

だから、思い込みDVというのは妻が悪いわけでも
夫が悪いわけでもない。
ただ、幸せになる方法を知らないだけということだと思っています。

一番の被害者は子どもたちです。
子どもたちには、事態を解決する能力も責任もないからです。

加害者がいるとすれば
男は自己愛性パーソナリティー障害だと結果的に決めつけて
家族を分断する第三者に他なりません。
子どもたちはこれらの人たちの犠牲者だと思っています。

弱く力のない現代の家族を
これ以上壊さないでほしい。
子どもたちに、自分の血を分けた親を
悪く思わせないでほしい。
心からそう思います。

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子ども引き離し別居における離婚調停の場面で、当事者が考えるべきこと、弁護士が助言するべきこと [家事]


ある日、突然、主として母親が子どもを連れて別居し、
居場所を隠すなどして子どもを父親から引き離しておいて
離婚調停の手続きを申し立てるというケースが増えているように感じます。

この離婚調停の呼び出しが届いた父親が弁護士に相談に行った場合
通常話題になることは、
離婚に応じるか否かと離婚の場合に親権をどうするか
ということですが、これは間違いです。
その前に考えなければならないことがあります。
離婚調停にあたってというよりも
家族の危機状態にあたってどのように対応するかということです。

具体的には誰の利益を一番に考えるかということを考えなければならず、
要するに
子どもの健全な成長を第1に考えるのか
ということを真剣に考えなければなりません。

当然そうだという人が多いのですが、
実は子どもの利益よりも、自分の利益を第一に考えてしまう人が多いようです。
感情的には理解できます。
現代の裁判所では、
妻が離婚の意志が固く別居していれば
それだけで婚姻破綻で離婚が認められるというケースが多く、
母親であるということだけで親権者になるケースも多いため
絶望をせざるを得ず、建設的な思考ができないことも
ある意味仕方がないからです。
でも、だから、第三者の弁護士が存在するのだと思います。

自分を守るため相手を過剰に攻撃してしまい
ますます、わが子から自分を遠ざけてしまうケースを
たくさん見ています。

だから、一番最初に考えるのは、
不合理な立場に置かれた自分の感情を守るのか
自分の感情を殺してでもわが子の健全な成長を
少しでも多く追及するのかということになってしまうのです。

この両者は、しばしば矛盾します。

子どもの健全な成長を守るためには二つのことが必要になります。
子どもの人生の時間において、より多くの時間を父親と共有させること
子どもがどこにいようと、子どもに子どもの親の悪口を聞かせないことです。
この二つの間違いがあると、子どもは自信のもてない人間になってしまいます。
子どもは人間の価値を感じられなくなってしまいます。

この二つを実現するためにどうするか
という発想になることが入り口なのです。
最低限度の信頼関係を作っていくということですが、
途方もない、希望のあまり持てない道を行くことになります。
これを子どもの健全な成長のために実行できるかということです。

子どもがいる夫婦の離婚調停は、
このような最低限度の信頼関係の構築も
その目的にしなければならないし、
うまく利用すれば、ずいぶん役に立つものです。

さて、最低限度の信頼関係構築のためには、
相互理解をする必要があります。
相手を理解し、自分を理解してもらうことです。
自分を理解してもらうためには、
相手を理解しようとする姿勢をきちんと見せなくてはなりません。

相手を理解するというのは、
子どもを父親から引き離して離婚調停を申し立てざるを得ない
相手の心持を理解しようとすることです。
一番否定したいこと、理解したくないことかもしれません。

二つの観点を考慮しなければなりません。
一つは、相手の身体的条件ですし、
もう一つは相手の環境的条件です。

身体的条件とは、
あなたの気に入らない相手の言動が
相手の身体的不調に原因はないかということです。

朝起きることができない、整理整頓ができない。
後ろ向きの発言ばかりする。
感情を爆発させて、自制がきかない等、
人間関係でトラブルを起こしやすい

これらの原因としての疾患である
軽度の甲状腺機能の低下、薬の副作用としてのうつ
産後うつ、パニック障害、月経前緊張症等々です。

これまでの経験から、原因がよくわからない夫婦のいさかいの背後に
これらの診断がなされていたことが多くありました。
但し、軽度の甲状腺機能の低下については、
実際の罹患者が多いのに、検査されなかったり見過ごされることが多いようです。

次に、環境要因は、実家との関係、葉ほ親の職場の人間関係
それから夫婦の人間関係です。
夫婦の人間関係の中では、
母親にとって、自分が尊重されているということを
実感できていたかということを考える必要があると思います。

自分の欠点、弱点、失敗を多めに見てもらっていたか
それとも、正義や道徳の関係で、それらが許されない状態だったか。
本人の努力が感謝をされていたか、
それとも足りないところだけ指摘されていたか。
健康や安全を気遣われていたか。
指図やダメ出しばかりの会話ではなかったか
離婚や離婚を意味する言葉を言われていなかったか。
こういうところを点検する必要があります。

こういうことがあれば、
誰しも、その関係にいることに安心ができなくなります。
いつも何か言われないかとおびえて暮らしていることになり、
大変つらい思いをすることになります。

結果として離婚が避けられなくても、
相手の不安や苦しさを理解して、
本当はこうすればよかったかもしれないと
二人で確認することはとても有益です。

フリーハンドで戦いあうよりも
その後の影響はよくなります。

お互い相手のできないことを理解しようとすること
良いところはこういうことだということを
改めて言葉にすること
それが、離婚調停にあたってまず最初に考えるべきことだと
第三者は助言するべきだと思います。

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出産前後の妻がいる夫こそ知らなければ始まらない。産後クライシス、産後うつ、思い込みDVとは何かということと、対処方法 [家事]


出産後に夫婦仲が悪くなることをよく見る。

夫から見ると、
自分のことを気にかけてくれなくなった。
何かと後回しにされ、はなはだしいと忘れられる。
不気味に口数が少なくなった。
妻が急に暗くなり、後ろ向きの発言ばかりするようになった。
実家の母親との連絡が頻繁になり、自分が蚊帳の外に置かれている。
わけのわからないことで相手の両親から注意を受ける。

そうして甚だしい場合には、
仕事から家に帰ったら子どもも一緒にいなくなってしまっていて
どこに行ったかまるで分らない
という事態も起きている。

そして、弁護士が入ったり、警察が入ったり、
調停だ、保護命令だということが始まる。
いったい何が起きたのかわからない。
自分は今までと何も変わっていないのに、
急に、妻の自分に対する考えが帰られてしまった。
誰かが妻をコントロールしているのではないか。

夫がそう考えることはよくわかる。
妻の出産後の変容についてはだいぶ研究が進められているが、
それが一般的に紹介されることがないからだ。
そのために無駄に夫婦は争わされて、
子どもはストレスフルな状態にさらされる。

出産によって、女性の脳機能は変化するらしい。
成人男性に対して、共感しにくい脳の活動スタイルになるそうだ。
これは誰しも多かれ少なかれそのような変化が起き、
2年くらいは継続すると報告されている。

共感ができないのだから、
夫との楽しい過去の記憶も引っ張り出すことは難しくなる。
妻にとってみれば
夫がどんな時に喜び、どんな時に怒り、どんな時に傷つくか
出産後はあらかじめ予想することができない。
不用意に行動することによって夫の怒りに出っくわし、
それが声が大きいとか、言葉が乱暴だとか
そういうことで、見ず知らずの男性がそういう言動をするように怖いのだ。
体の大きい男性に対して安心することができないようになってしまう。

これは、新生児の状態をいち早く自分のこととして察知し、
適切な対応をするための哺乳類全般の習性である。
だから、この傾向がはなはだしい場合は、
3、4歳の新生児の兄、姉に対しても
愛情を失かったかのような感情になり、
自分の子どもが可愛く感じないと母親を苦しめることがある。

決して出産後の母親がおかしくなったのではなく、
自然の摂理の範囲内であるのだ。

謎を解くカギが、この新生児の子育てにある。

妻は過剰なまでに不安になる。
この子どもをきちんと育てることができるだろうか。
こどもに何か不幸が起きるのではないか。
自分一人で育てなければならなくなるのではないだろうか。
(夫が急に幼く頼りなく見えてくる。)
お金は足りるだろうか
(実際は足りているが、病的にお金が足りなくなるという気持ちになりやすい。)
(また、かなり収入が高いご家庭でもそういう心配をするようだし、
心配だからと言って急に収入が上がるわけでもない。
これを真に受けて下手にじたばたすると、悪い方向に向かうことが多い。)

まるで夏休みが終わるときの中学生の心持に似ている。

研究ではこの状態は一過性のものだという。
しかし、悪意のある第三者がいる場合、
妻のあなたに対する不安は増強され、固定化されてしまう。
やがて、恐怖や嫌悪に変わる。

妻は、あなたと一つ屋根の下にいることが
わけもなく不安になってしまうのだ。
妻に落ち度があったり(借金、不貞、対人関係の難)
子どもに障害があったり、
精神的な影響を与える疾患が元々妻にあった場合は
その傾向が強くなり、病的なまでになることがある。

こういうことの常であるが、
妻は、自分の感じ方が変わったということは自覚できない。
自分は何も変わらないと思っている。
だから、産後クライシスや産後うつを自覚することはない。
だから、だから、産後クライシスや産後うつの対策は
妻に任せていては絶対解決しない構造があるのだ。
夫こそが理解して、夫こそが解決しなければならない。

人間はあらかじめ最悪の事態を想定することが苦手なようだ。
最悪な事態が来てからそれが最悪の事態だと知ることができる。

何も起きないうちから、
しかもこれから子どもが生まれるという喜びの中で
この長ったらしいブログ記事を読むということは
あまり期待できないことかもしれないが、

誰か周囲の人に読んでいただき、
若い夫の相談に乗ってもらえば幸いである。

では、夫の側で予防に効果がある行動はあるのか。
脳の機能が変容するならば、運を天に任せるしかないのか。
誰にでも、子どもを産んだ女性には変化があるが
個性によってだいぶ違う。
それでも、子どもと妻が自分のもとから消えてしまうという
最悪な事態を回避する方法があると思う。

実はすでにヒントは出してある。
それは、夫が出産前と同じ態度をしているところに問題があるのだ。

妻の出産前と妻の出産後では、夫は態度を変えなければならない。

妻は出産によって、新生児に共感力を集中させてしまい、
大人の男性に共感をする力を失う。
その結果、夫に対する安心の記憶をなくし、
不安を抱くようになる。

そうだとすれば、
楽しかったことを思い出させるのではなく
夫は新たな「安心」の記憶を少しずつ刷り込んでいく
という発想での行動が最も有効な方法である。
過去を思い出させるのではなく、
未来を一緒に作っていくという発想だ。

あなたの声の大きさ、話すときの言葉のチョイス
こういうものは、出産前は通用しても出産後は使ってはならない。
出産前の妻と、出産後の妻は別人なのだ。
やさおとこが話すように、少々わざとらしい話し方でよい。
お手本は、どうやら韓国ドラマらしい。
冬のソナタのヨン様の話し方を、
あなたの同一性を損ねない範囲で努力してマネすることが賢明なようだ。

体調を気遣い、代われるものは代わってあなたがやる。。
これを言葉にしないで黙々とやっても意味がない。
「私がやるよ」言って行うということが肝心だ。
安心の記憶を刷り込むためだからだ。
自分の点数を稼ぐためではなく、妻を安心させるためだ。

一番有効なことは怒らないこと。
出産後、妻はあなたの気に障る言動をすることが多くなる。
しかし、それはあなたに共感できないのだから仕方がない。
悪気があるわけではない。新生児を育てるためだということを理解しよう。

妻の失敗を、にこやかに受け流す。これが有効だ。
妻はあなたは自分に何も危害を加えない人間だと
少しずつ理解していくだろう。

それから、妻は動作が鈍くなることがある。
急がされることが苦手だ。
夫はわざとゆっくりやって、時間がないと言っているのか
と思うけれど、仕方がないと思うしかない。
妻が遅れることを計算して段取りするしかない。
そしてすかさず、「急がなくてよいよ」というと効果的である。

妻の行動を批判しないこと。
妻に対してあれをやれこれをやれという指図をしないこと。
出産後1年は確実に仕方がないだろう。

掃除をしないで不衛生なら夫がやるしかない。
その時もにこやかに行う。眉間にしわを寄せてはいけない。
片付けられていない部屋は、夫婦と子どもしかいないなら当然だ。
そういう風に思うべきみたいだ。

体力的なこと、夜泣きへの対応、
仕事がきついけれど、夫の仕事だと割り切るしかない。
どうやるのか、
無理をするのである。
子どもが生まれて1年半くらいは、家庭で無理をしなければならない
そういう風に先輩から私は言われた。

覚悟を決めていたから、無理はしたけれど
あまり精神的な苦痛を感じたことはなかった。
肉体的には苦痛だった。
だから、家庭で無理をしなければならないので
仕事では、無理ができないと割り切るしかなかった。
当時の仕事仲間には感謝しかない。
いまだに義理を感じている。

人間の場合、猿から別れて600万年の間
子どもはみんなで育てるというやり方を貫いてきた。
今はなかなかそうはいかない。

同僚の協力を得る。お互い様でやる。
現代では、こういう形になるのだろう。





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家族解体思想になぜ保守政権が追随するのか 子どもに会えない親の苦悩は日本という国の客観的状態を反映しているということ [家事]

前回の記事で、
産後直後などの女性が不安になると
その原因は夫にあるとして
離婚に強引に誘導する政策を推進している人間の一定割合に
家族制度を解体しようとする極端な思想集団がいる
ということをお話ししました。

このような過激な思想ならば
美しい日本を取り戻すということを約束する
現在の保守政権が何とかしてくれるのではないか
と考える人たちがいるのはもっともです。

実際に、政権党内では
家族制度の解体に反対する勉強会も開かれていたようです。
日本会議という団体では、
団体の機関誌で連れ去り問題を何度か取り上げていただいており、
危機感を強く持たれているようです。

それにもかかわらず、相変わらず、
母親たちに対して、
あなたが不安を抱いているのは夫のDVが原因だと
個別事情を全く聴きもしないでそう吹き込んで
離婚件数を増やそうという行政やNPOの活動が定着し
ますます活発にさえなっているようです。

最近の子連れ別居離婚申立事件で述べられている離婚の理由は
見るに堪えないねつ造のオンパレードです。
たまたま知っているご夫婦の事例を見ると
針小棒大ではなく
火のないところに煙を立てているという状態です。
なかなか家族再生の糸口が見つからない事件が増えています。

どうして、美しい日本を取り戻すと約束した保守政権が
このような活動の継続を許しているのでしょうか。

それには理由がありそうです。

日常の夫婦のいさかいを
「DV」という、曖昧な言葉にすりかえて
強引に離婚にもっていくのは、前回述べた通り
家族解体思想に基づくある種の洗脳ですが、
他にも家族解体思想に基づく主張が
ネット世界に蔓延していることに気が付きました。

「三歳児神話否定論」と「母性神話否定論」、
それから、「賃金労働こそ人間の最高の価値論」です。

三歳児神話とは
本来の意味は、「三つ子の魂百まで」ということで
子どもは小さい時でも大切に育てるべきで、
ぞんざいに扱って性格がひねくれてしまうと
一生直らないということだったはずです。

世俗的な使い方としては、
小さい時からひねくれていたから
大人になってもひねくれているのは当然だという
揶揄(やゆ:悪意でからかう)する使い方が多いと思います。x

教訓的な意味としては
子だくさんの昭和の時代に
新生児に手間がかかるからといっても
上のおにいちゃん、おねえちゃんをぞんざいに扱うな
ということのだったはずです。

現在の三歳児神話は、別の意味に改変されています。

三歳児神話否定論者による三歳児神話とは
「三歳までは母親が働かないで家にいて
子どもの面倒を見なくてはいけない」
という極端に狭い意味の新説にすり替えられているのです。

これだけで誰かが都合のよいように作りだしたものだとわかります。

子だくさんの昭和の時代には
労働者の家庭の母親は専業主婦ですから
そもそも仕事を持っていた女性は少なかったのですし、
農家では、女性も働いていたので
働くなという意味を持たせようにも
それを受け入れる余地はありませんでした。
だから働くなという意味ではなかったのです。

子どもを大切に育てるべきだという言葉の意味が
母親は働かないで一緒にいるべきだ
という限定的な意味になったところが
新説の特徴です。

これと同じように
母性神話とは、元々は
母親は、自分の身を犠牲にしてまでも
子どもの命を守るものだ
ということがオリジナルの意味だったはずです。
母性というものは崇高なものだというものです。

ところが現在の母性神話否定論者のいう母性神話は
「子どもは父親ではなく母親が育てるものだ」
という内容にすり替えられています。

新説を作り、神話と名付けることによって
根拠のないものというイメージを作り
内容にすり替えて誰しも否定するようにしむける
論者の「ねらい」は共通しています。
それは、
「女性は子育てに時間を取らず、子どもを預けて仕事に出ろ」
というものです。
注意深く三歳児神話否定、母性神話否定の文章を読んでください。

そしてその多くは根拠がトンチンカンなものです。

ばかばかしい根拠の筆頭は
皇室も母親が子育てしないから日本の伝統だというものです。
皇室が母親が子育てしないのは帝王学にもとづくもので、
親子の情愛が生まれると政治に支障が出る(人質に差し出せない)という、
支配層の必要性にもとづいているものです。

少なくとも庶民には全く関係がなく
日本の伝統でもありません。

ちなみにこのような皇室の伝統に対抗するために
女官らの抵抗をはねのけて自ら子育てを行われたのが
上皇后様だったわけです。
こんなことはほとんどの日本国民は知っています。
論者は、女官たちとともに上皇后様の子育てを否定したいのでしょうか。

別の論者は
海外では保育機関で集団的に子育てした場合と
家庭内で育てた場合とあまり違いはない
というトンデモ説を根拠にします。

海外では産休、育休が充実しており
2歳ころまでは家庭で育てることができます。
その後に集団的な保育を実施しているのです。
このことを隠して誤導しているのです。

海外では、子育ての大事な時期ということをよく知っています。
これは、かつてイスラエルのキブツという仕組みの中で
生後すぐに親から話して集団で子育てしたことによって
子どもたちに否定的な結果がでたことを教訓化して反映していたり、

ボウルビーやエインズワースという科学的な愛着の理論に基づいて
親による子育てこそを励行しているわけです。
そしてそれが子どもの人権だとしているのです。

やみくもに親が子育てをしなくても大丈夫等と言う
データなど存在しません。

このような無茶なことを言ってまで
母親を子どもから切り離して賃労働に駆り立てようと
必死になっていることがわかります。

三歳児神話の否定や母性神話の否定は
私が目くじら立てて否定しなくても
子どもを産んだ母親ならば
簡単にそれを信じようとはしないでしょう。

ところが、
「もう一つの神話」によって
母親たちは賃労働に駆り立てられているのです。

それが「賃金労働こそ人間の最高の価値論」です。
(この名前は、さっき私が思いついて作ったものです。)

子育てよりも外で働いて賃金を得ることこそが
人間として最も価値のある行為だという考えです。

この考えに取りつかれている母親は多いのですが
なかなかそれを自覚することができません。
多くの子どもを産んだ女性の意識の中に
そのような考えが刷り込まれているのです。

母親たちは、焦りながら以下のように考えています。

「夫は働いていて、自分だけ子どもの世話をするのは不平等ではないか」
「自分だけ損をしているのではないか」
「自分は子どもの召使ではない」
あえて言葉にすればそういうもののようです。

そうして、外に出て働きたい
子どもの世話ばかりしたくない
という気持ちに駆り立てられます

それでも子どもに対する愛情もありますから
育児をしないで仕事に出ることに罪悪感を抱きます。

だからこそ、罪悪感を軽くするために
「三歳児神話の否定」
「母性神話の否定」に飛びつくわけです。

特にこの神話の否定に飛びつく女性は、
学歴の高い女性
社会的地位の高い仕事や他人のためにする仕事といった
やりがいのある仕事をしていた女性が多いのが特徴です。

こういう人たちが、実務的に見て
子どもを連れて別居することの多い職業の人たちなのです。

ただ、その賃労働こそが最高の価値だという考えは
自然発生的に生まれる考えではなく
誰かが少しずつ刷り込んでいるのかもしれません。

子どものためにより良い妊娠時の生活方法や子育ての方法を
インターネット等で検索しているうちに
少しずつ混ぜ込まれて刷り込まれているのかもしれません。

もっとも、女性においても賃労働が最も高い価値がある
という考えは
政府もあからさまに刷り込んでいます。
「女性が輝く」と政府が言う場合の意味は、
どうやら「女性も賃労働」をするという意味と同じようです。

家族解体論者たちも
このことを積極的に推進しています。
昔の男性が高い価値だと考えていた
働くこと、働いて収入を得るという価値観を
最優先の価値観だということを前提に
女性を家庭から賃労働に移行させることを主張しているのです。

不思議なことは
女性の賃金を男性並みに高くすれば
勝手に女性も働くようになるのですが、
男女賃金格差については
あまり積極的な行動が見られないことです。

政府が女性の中でも出産をした女性を
いち早く賃労働に復帰させたい理由は
労働経済政策にあります。
低賃金で生産性の高い女性労働者を
企業に流入させたいという政策です。

「輝き」という言葉で
いち早い母親たちの社会復帰を誘導しているわけです。

子どもが2歳になる前から働かそうとしているのです。
インターネットの神話否定論者も
政権与党とつながりのある人たちですから
学者等の肩書で「仕事」をしているということなのでしょう。

このことの賛否は今回の議論の対象ではありません。

私が言いたいことは、
家族解体論者の、夫婦を中心とした家庭から「女性を解放」することと
大企業の出産直後の母親を労働力として迎え入れたいという思惑が
結果としては同じ方向を向いてしまっているということなのです。
ここに保守的な政治家が天敵であるはずの家族解体論者と
結果として手を組んでいる理由があるのだということです。

三歳児神話否定や、母性神話否定に洗脳されることなく
子育てをしている母親を強引に働かせるための
最も効果的な方法とは何でしょう。

それは離婚をさせて母子家庭にすることなのです。

離婚をすれば養育費が多少入ったところで
それだけで生活はできません。
母親も働かなければならないのです。
仕事を選んでいるわけにはゆきませんから
放っておいてもどんどん企業に就職してゆきます。
2,3歳の誕生日を待たないで無認可保育所などに子どもを預けて
働かなければならないわけです。

下手に子どもを父親に合わせて
「子はかすがい」なんてことでよりを戻してはいけませんから
子どもを会わせないようにしている
なんてことは、考えすぎとばかり言えないような気がします。

そのためには、「それは夫のDVだ。」ということで
妻に夫に対する恐怖心や嫌悪感を定着することが有効なのです。

この考えは私の考えすぎの暴走理論かもしれません。
しかし、家族解体論者と労働経済政策は
ぴったりと目標が一致するのです。

離婚した女性に、厚い手が差し伸べられないのも
離婚して働けという目標が達成した後のことなので
「釣った魚に餌をやらない」ということでも
両者の思惑はぴったりと重なります。

このように子供を産んだ後の精神的不安定な時期に
夫から離れて片親となり
その片親も仕事で子どもと一緒にいる時間が少なくなると

当然愛着障害の危険が出てくるわけで
情緒不安定な子どもが量産されていく危険が生まれてきます。
あなたの子どもが不健全な育ち方をしても
いい加減な論拠を持ち出した神話否定論者たちは責任を取りません。

片親の収入ということになるうえ、
女性の低賃金、賃金格差が子どもの貧困を巻きます。
ますます健全な成長に対するハードルが上がってゆきます。

さらに、そういう経済状態の上
男性に対する恐怖心が消えませんので
少子化がさらに進んでいくわけです。

これらの心配が単なる杞憂に終わるならば
極論ということで歴史の検証によって排斥されるなら
それは喜ばしいことです。

しかし、良識で考えれば
家族解体、母親の早期の賃労働従事は
このような危険のあることで、
最も悲観的な結論は
日本のさらなる衰退です。

まさに亡国の政策です。

保守政治家たちは
このような危険についての勉強会をしているようなので
知らないでやっているという言い訳はできません。

家族が円満に生活を送り
子どもたちが笑って過ごすという
美しい日本という価値観は、

女性の企業への早期従事という政策によって
後景に押いやられているのではないかと
心配することは必要なことだと思うのです。

私はこれまで
理不尽な子連れ別居、虚偽DVとの戦いは、
子どもを守る戦いだと考えていました。

しかし、どうやら一人一人の子どもの健全な成長を守ることで
日本を守る戦いになっているようです。

家族再生を目指しつつ、
女性の夫への無駄な恐怖心や嫌悪感を解消することを目指しつつも
虚偽の部分や評価のすり替えの部分は
毅然とそれを正すべきです。

理不尽に子どもに会えない別居親の苦悩は
潜在的には子どもたちの未来の生きづらさ、未来の苦悩であり
日本という国の客観的な状態に対する国の苦悩なのではないでしょうか。

家族を守る行動が
日本を救うことにつながるということが
決して大げさではないと考える次第です。

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養育費の算定基準改定への疑問、特に養育費を支払う方の女性には地獄となる。家族解体という思想を隠して離婚後のバラ色の生活の誤解による離婚への誘導から、あなたと家族を守らなくてはならないということ。 [家事]



最高裁は、令和元年12月23日、
養育費の算定基準を見直した。

多くのケースで養育費が増額されるらしい。

その目的は、新聞報道によると
「最新の家庭の支出動向を反映させた結果、全体的に月額で数万円程度、増額される傾向となった。子どもの貧困対策の必要性が指摘される中、ひとり親家庭を支援する見直しになりそうだ。」
とされている。

ちなみに、離婚前は、婚姻費用(婚費)分担と言い、
子どもの費用と相手方の費用も含まれて金額が決まるが
離婚後は、相手方の生活に対する費用分担は原則なく
文字通り、子どもを養育する費用ということになる。

このような基準を変えることは、
常にメリットデメリットがある。
今回の養育費等の増額についても、それによって
なるほど一方で、シングルマザーの生活が
幾分向上するかもしれないが
当然のことながら支払者の負担も増額する。

最高裁は、税制の変更などを理由に挙げるが
どの税制の変更が、どのように考量されたのかの説明がない。
給与所得者などの税制が軽減されたということはないだろう。
説明になっていない。

また、スマートフォン使用の低年齢化等
子どもの費用が高額になったということが挙げられているが、
それは、別居親だけが負担することなのだろうか。
それではまるで、携帯電話会社の収益を上げるために
支払額を増やそうとしているだけではないかと
疑いをもってしまう。

私は様々な理由から中学生までは
原則としてスマートフォンは与えるべきではないと考えている。
これは別の論点なので詳述はしない。

そして、極めつけなのは
最高裁は認めていないと思うが、
今回の基準改定が子どもの貧困対策だと報道しているが、
そのことについては疑問も大きい。

実務的観点からいくつかの疑問を述べたい。

1 離婚、別居は、必然的に貧困に向かう

人権相談には、離婚後に子どもを抱えた母親から相談が入る。
「役所に言われた通り離婚をしたが、
生活は楽にならず、とても苦しい
話が違う。
離婚しなければ良かったと役所に問い合わせたら、
『離婚はあなたが決めたことです。』と言われて
電話を切られてしまった。」
ということが典型的な相談である。

確かに見通しが甘く離婚に踏み切ってしまった本人にも落ち度はあるだろう。
しかし、どうやら、
「離婚調停を申し立てれば
慰謝料はもらえるし、養育費ももらえる。
今夫から渡されている生活費で生活するより
よっぽど経済的にも楽な、もちろん精神的にも楽な
生活ができるようになる。」
という未来を示されて離婚に踏み切った人が多い
ようなのだ。

何人かの「こんなはずはなかった」
ということから逆算して考えると
浮かび上がってくるのはそういうことだ。

そしてその支援者たちが間違ったことを言う原因も
少しずつ分かってきている。

第1に、個別事情を無視した画一的なマニュアルアドバイスだ。

妻が悩んでいると
本当は、自分の精神的な問題、体調の問題なのに、
「それはあなたは悪くない。夫のDVだ。」
と決めつけてアドバイスがなされることが多すぎる。

言われた通り、保護命令を申し立て、離婚調停を申し立てても、
保護命令事由がないとして却下され、
離婚理由がないということで離婚が認められなかったり
慰謝料が認められないことが多い。
妻に嘘をつかれて窮地に追い込まれた夫は妻を許さないし
精神的に破たんして就労不能になる場合もある。

理由のない離婚請求なので
当然夫は抵抗する。
おそらく妻は2,3月で離婚後の明るい生活が始まると思っているようで、
調停がそれ以上続くことで、疑問がわき、焦りがでてくる。

暴行などの事実がないので
離婚原因を立証できないし、主張もできない。
無理に暴力をでっちあげるから嘘がばれる
裁判所の心象も悪くなる。

画一的なアドバイスをした支援者は、
離婚が成立して、わずかな養育費での生活となっても、
責任をとることはない。

第2に、経済的問題で言えば、例えば
「夫から月3万円しか生活費が渡されていない。」と聞くと
それは経済的DVだとアドバイスをする支援者が多いようだ。

よくよく話を聞いてみると、
光熱費、子どもの学費等の必要経費は夫の通帳から引き落とされており、
食料もほとんどが夫の実家から送られてくる。
その他の食材や生活に必要な物は
週末夫と買い出しに行って夫が支払う。
3万円は妻の小遣いみたいなものだった。

そして、夫の収入が手取りで20万円にも満たないで、
夫は毎日500円くらいを持たされて昼食を食べている
ということが明らかになっていく。

見通しが甘いのは妻ではなく
妻に対するアドバイスをした者のことが実に多い。

このような経済状態で別居してしまうと
夫も妻子も生活が成り立たなくなってしまう。
そういうケースが実に多い。

ちなみに、このような見通しの甘い妻は
家計簿をつけていない。

こういうケースは少なくない。
少ない夫の収入の中から
どんなに割合を大きくしても
養育費が必要な額に達することはない。

本質的な問題は
労働者の低賃金の蔓延化なのである。
あるいは離婚後の女性の不平等な低賃金なのである。
そのことを離婚のセールスマンたちは絶対に言わない。
全てを夫の責任にしようとする。

いずれにしても、少ない収入の中で、
別居して経費が二倍になれば
当然貧困に向かっていく。

それでも妻を誤解させて離婚に向かわせているのが
国や自治体ならば、
労働者の低賃金、女性の低賃金の不具合は
国や自治体が補填することが筋であろうと思われる。

調停も一回で終了して裁判に進められて離婚させられる
わけがわかならないまま離婚となり、
子どもにも会えないのに養育費だけを払わなければならない
そんな中でメンタルをやられてしまっている
そんな夫だけに責任を負わせることは、
あまりにも過酷で不合理だ。

離婚は必然的に貧困に向かうのだから、
離婚を進めておいて養育費の割合を増やしても
解決はしない。

2 一方的な離婚を後押しする婚費の制度

婚費の決め方は
税込みの年収額だけの突合せだけで決まる。

住宅ローンがあって夫が支払っていても
それは月々の金額に考慮されない。
妻が使用する自動車のローンを夫が支払っていても
妻がその自動車を使用しなくなるのであれば
やはり考慮はされない。

その他、今後も共同生活を続けるという前提で
様々な月払いが行われているのが現実の夫婦だ。
しかし、それらは考慮されない。
現実の生活が無視されて婚費や養育費は定められる。

そういうことをここで持ち出すには理由がある。
子連れ別居から離婚に向かう事案の少なくない割合で
新居を建築し、住宅ローンが発生した直後という事情があるからだ。

子連れ別居のケースでよくあるのは、
第1に妻の体調からの精神状態、
第2に子どもに障害がある場合、
第3に住宅ローンである。

新居移転を目前にして、あるいは引っ越しのさなか
子連れ別居は起きている。

別居して離婚することが確定なら
住宅は手放すことも合理的かもしれない。
しかし、突然理由も告げず子どもを連れて家から去り、
わけがわからないうちに裁判所に呼び出されて、
住宅ローンの支払いなど関係なく月額の支払いが定められる
もう離婚しか選択肢がないように思わされる。

現実問題として住宅を手放さなければならなくなる。

子どもたちの生活も待ったなしだが
住宅ローンも待ったなしである。

しかし、住宅を手放しても住宅ローンはなくならない。
中には、住宅ローンを支払いながら
思い出の詰まった家に住み続けるしかない夫たちもいる。
住宅ローンと家賃の二重払いこそ無理だからである。
極めて精神状態に悪い。

これが婚姻費用分担や養育費の支払いが
住宅ローンの存在を無視して行われる結果である。

この住宅ローンの支払いは
本当に無視されてよいのだろうか。
夫が一方的に住宅の新築をしたというならともかく、
多くの事例では妻が新築を希望して
無理して住宅ローンを組んで家が建てられているのである。

住宅ローンはマイナス財産として財産分与では考慮されるが、
実際には住宅ローンを支払わなければならないから
養育費などのねん出が難しいということなのである。

第三者から見ると
婚姻費用や養育費の算定方法は
こういう事情で無理を強いる場合が多い。

今回の基準の見直しで
さらに金額が上がってしまうと
さらに無理が大きくなることは間違いない。

婚姻費用の分担は特に住宅ローンがある場合はこのように、
今後同居しないということが前提となっているように感じられる。

離婚をするかしないか、やり直すとしたらどうすればよいか
やり直さないとしてもどのように子どもの共同養育をしていくか
そういうことを話し合うために、
離婚は訴訟から行うことができず、
話し合いの手続きである調停から行わなければならないとしている。
現行の婚姻費用の決め方は
一部その制度と矛盾し、
一方が離婚を求めていることを後押しをする制度になっている
と感じる。

3 養育費を支払っている女性を無視している。

今回の基準改定で一番影響があるのは
養育費を支払っている女性の負担が大きくなるということである。

女性は、婚家から追い出される形で
子どもと会えなくなる。
私から言わせればそれが普通の人間だと思う範囲の
ヒステリーだったり、ワガママだったり、
要領の悪さだったりということで
主として姑から嫌われて追い出されてしまう。

夫から受けた暴力が影響して
あるいは出産後のホルモンバランスの変化によって
うつ病やパニック障害等になった結果の場合もある。

多くの事例で子どもとの面会を拒否されている。
自分が命を懸けて産んだ我が子と会えないという
不合理が実際に起きているのである。

まさに女性の権利の侵害である。

それにも関わらず、子どもに会えない母親たちに
養育費の支払い義務を課せられる。

子どもに会えない母親たちの多くは非正規労働者であり
介護職だったり、事務職だったりの低賃金という事情に加えて、
いつ労働契約が終了するかもわからない。
今年の源泉徴収票が
原則5年後は通用しない社会なのである。
それでも養育費の金額は放っておけば継続される。

元妻が元夫に養育費を支払うケースは
元妻が追い出されて子どもと一緒に住めなくなったが
夫が妻よりも収入が少ない場合である。

極端な話、夫が精神疾患などで就労できず、
収入がないという場合もある。
このようなケースでは福祉の手続きもとらないから、
裁判所では源泉徴収票の額面で元妻の元夫に対して支払う
養育費の額が決定されてしまう。

子どもに会えない母親は
今でも子どものためにと言い聞かせて
少ない賃金の中から自分の生活費を削って
養育費を支払っている。
その上、今回の改定で、さらに大きな金額の支払いを余儀なくされてしまうと
裁判所由来の絶対的貧困が生まれてしまう恐れが出てくる。
それだけ、母親は、子どもに会えなくても、
自分が食べられなくても子どもには食べさせたいと
行動してしまうのである。

シングルマザー保護の活動家などが
今回の基準では生ぬるいから
別居親にもっと大きな支出をさせろと声高に叫んでいる場合、
実際に元夫に対して養育費を払っている女性は

活動家の仲間である「女性」の中から排除されているのだ。
活動家が憐みを授ける対象となる女性の中から排除されているのだ。

私は、女性の権利擁護の立場から
今回の養育費改正には反対するが、
男女平等を叫ぶ活動かなんて
自分たちの都合の良い現実しか相手にしないという印象がある。
目をつぶれば世界が無くなると言わんばかりである。

その人たちの一定部分の活動の目的は家族制度の解体なのだそうだ。
家族制度とは、父親と母親と子どもと生活する家族のことである。
家族制度こそが、女性を不当に拘束する元凶だというのだ。
「あなたは悪くない。」
という言葉も、このような思想によって言われていることが多いかもしれない。
「あなたは悪くない
 家族制度とそれにあぐらをかく夫が悪いのだ」
という意味だとすれば極めて単純明快ではある。

そういう人たちから見れば
離婚後あなたがどのように経済的に、精神的に追い詰められようと気にならない。
離婚を一件成立させることができれば、
自分たちの理想である「家族のない世の中」に近づくのである。

活動家の中には一定割合の人間が
こういうことを本気で考えている。
しかし自分の本音を真正面から主張することは
少ないのでわからないだけである。

子どもの貧困の多くは、
そもそも労働者の低賃金が原因であり、
離婚後は女性の低賃金が原因である。
その上、無理やり需要を掘り起こされている。
社会から取り残されるという脅迫観念の植え付けが原因である。

子どもや家族が豊かに生きていくための費用である賃金を支払う
そういう職場が絶対的に足りないのである。
離婚や別居は子どもの貧困を確実に助長する。

このような社会、特に大企業の問題は不問に付して
全てを夫の責任として、負担を夫だけに押し付けるという
現代のフェミニズムの姿が浮かび上がってくるコメントだった。

低賃金の企業に対して一切文句を言わず
その上、スマホ代金などを男性から搾り取って
大企業に差し出させようとするのである。

家族制度解体の活動家が
既に離婚を成立させて、養育費を支払っている女性を無視できる
ということもわかりやすい。
既に離婚をして家族解体を進めているのだから
これ以上保護を与える意味がないというのであれば実にわかりやすい。

子どもの利益よりも家族解体の促進に価値をおくのであれば
離婚の影響で子どもの健全な成長が阻害されること等
必要経費のようなものだから、無視できる。
そもそも離婚が子どもに悪影響を与えないと頑張っているのかもしれない。

対人関係学は
家族という最小の単位を充実させることによって
複雑化して、利害対立が多発する現代社会の仲間でも
幸せを感じて生きていくことを目指す学問なので、
家族解体思想という非科学的な思い付きとは
全く相いれないということが今日の考察でつくづく分かった。


4 これから離婚をしようと考えている女性の皆さんへ

以上、今回の養育費の改定のニュースに関する疑問を述べた。
これから離婚を考えている女性たちには特に知識を増やしてほしい。

養育費の算定基準が改定されて養育費が上がったところで、
そもそもない所からは取れない。
女性の賃金の改定の方は一向に着手される気配はない。
同一労働、同一賃金に過度の期待をするわけにはいかない。
別居や離婚をすれば、確実に経済力は低下する。

バラ色の離婚後の人生はないと思うべきだ。
この文章を書いているまさにその時、事務所の電話が鳴り、
養育費地獄にあえぐ元夫の悲鳴を聞かされている。
「これ以上養育費が上がれば生きていくことができない」
という悲鳴だ。
現実に支払えないので、賃金の差し押さえをされてしまうだろう
差し押さえがなされたら会社から解雇されるだろう
というのだ。
極めて深刻なメンタル状態であり、
自死の危険も否定できない。
しかし、解雇されたり、自死されたりすれば養育費は入らないのだ。

都合の良い話ほど真に受けてはならない。
あなたにとって都合の良いことを言っている人たちの一定割合は
家族制度を解体しようという思想が何よりも優先されている。
その思想を実現するためにあなたが離婚させようとしているのだ。

自分や家族の利益を第一に考えて行動するべきだと思う。

できることなら、現状に不満があっても、
第三者機関を利用する等して
夫をコントロールすることを考えるべきだ。
現状を前提として
少しでも快適な生活に進んで行こうとすることが
最善の策かもしれないという選択肢を
頭の片隅に必ず入れてほしい。

「離婚したけれど、こんなはずではなかった。」
という電話は本当に悲しすぎる。



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令和元年わが子に会いたい親子の会忘年会やりました。女神の降臨。 [家事]


予告通り、令和元年親子の会の忘年会が開催されました。
大人6人とわりとこじんまりの会でしたが、
お子さんが二名出席するという
初めての出来事もありました。

お子さんのうちのお一人は、
母親に連れられて父親の家から離れされました。
当時幼稚園の年長さんでした。
しかし、次の日けんかして父親の家に帰ってきた英雄です。
残念ながら兄弟は幼かったため母親のもとに残ったので、
今は別々に暮らしています。

もう一人は初めて登場の幼稚園の年中さんです。
事情はよく分からないのですが
何年か前からお母さんとだけ一緒に暮らしていて
お父さんとは時々会うという状態のようです。

母親の都合で父親が預かることになって
急遽泊りになったので
じゃあ連れて行こうかということになったようです。

初めての大人の会合で、しかも今回は男性ばかりだったので
最初はおとなしくしていたのですが、
なにせ幼稚園の年中さんですからかわいらしくて
何を言ってもすべて受け入れ、だれかれとなく世話を焼いたものですから
すぐに安心していろいろお話してくれるようになりました。

突如立ち上がって
「今日はお父さんのところに泊まるんだよ!」
と満面の笑みで誇らしく宣言してくれました。

おじさんたちは、自分が子どもに全く会えない人もみんな
目に涙をためて心の底から喜んでいました。
もうそこからは、女神降臨という感じで
女神を中心として会が盛り上がりました。

不思議なことなのですが、
子どもに会えない父親、母親は、
みんな子どもが大好きで子煩悩なのです。
子どもに優しくしたくて仕方がない人たちばかりなのです。

誰の子どもでも元気で笑っていてほしいと思っていると思います。
でももちろん、一番は自分の子どもの笑顔に
自分の力が貢献できたらと思っているのでしょう。
そう考えると、胸が苦しくなります。

しかし、この時ほど
二人のお子さんを見ながら
子どもが存在すること自体が「希望」なんだなと感じたことはありません。

申し訳ないのですが
子どもを連れて行ったもう一人の親のことなどは
どうでもよいのです。
恨んでも憎んでも、もはやいない。
ただ、子どもを大切にしたいだけなのです。

子どもたちがこんなにも
残されたもう一人の親といることが楽しくてしょうがないのに、
どうして連れて行った親のほうは
子どもを実の親に会わせようとしないのでしょう。

「今日お父さんの家に泊まるんだよ!」と
高らかに宣言したお嬢さんの笑顔をみると
もっと面会交流を充実させなければならないと
切実に思います。それほど説得力があります。

ただ、ここで「待てよ」と考えなければなりません。

この子のお母さんなのですが、
最近、子どもを父親に預けることが多くなったのだそうです。
ここに注目です。
どうしてそうなったのかわからないのが残念です。
でもとても合理的なことです。
子どもは一人で育てることができない。
いろいろと分担して、自由な時間を多く作ることが
まさに女性解放じゃあないですか。

少しずつ合理的な共同養育に向かっているわけです。

一つには、子どもがお父さんと会うことでこんなに喜ぶなら
会わせようと思うという声はよく聞きます。
もう一つは関係の変化によって
母親が父親と接触することに心配を抱かなくなった
そういう事情があるはずです。

多くのケースでは、
漠然とした不安が子どもを連れて別居することの
理由になっているのですが
その不安の正体は自分ではわかりません。
ところがその不安を言語化する過程で
具体的な対象物として夫が標的とされ、
かつ、自分の自由を奪う存在としての意識づけがなされ、
嫌悪感、恐怖感が固定化されて別居に至るわけです。

少しずつ、反復継続して
安心の記憶を一緒に作っていくことで
会わせることの不安が消えて行っていると思います。
別居している親御さんはここを大事にしてもらいたいです。
些細な子どものことで注意することなく
嘘でよいですから、形だけ感謝の気持ちを伝えるべきです。
そうして、さらに安心させていくわけです。

もう一つ
写真でも面会でも
男親と女親に違いがあります。

女親が子どもと同居しているとき、
子どもの写真を送るとき
とってもよく撮れた写真をよりによっているということが
第三者の私からはよくわかります。
絶対に会わせたくないと憎悪をむき出しにしている場合もです。

あるいは子どもを男親に会わせるとき、
良い服を着せて、髪の毛もきれいに編み込んで
おしゃれさせることが多いようです。

人間の気持ちとはかなり複雑なようです。
第三者がこうだと決めることなんてできないと思います。

相手の勇気を引き出す受け入れ力の強化
これが一番大切なんだなと思いました。
今回の会でも徹底して女神を受け入れ
英雄に気を使いながら会が盛り上がっていきました。
子どもたちは、いっぱいいっぱいお話してくれました。

土曜日とはいえ5時から初めて7時過ぎには終わりました。
子どもにとっても優しい時間だったと思います。
令和元年の締めくくりは最高でした。

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米国の配偶者虐待研究が、日本に「DV」として輸入されるにあたってどのようにゆがめられたのか The Battered Woman 2 各論の1 [家事]

1 理念

本書では、「女性対して暴力をふるう社会の姿勢を変えることは、新しい平等な社会秩序を作る基礎となるだろう。」ということから始まっている(27)。そして、その問題として男女間の賃金格差、就業構造の格差についても言及がなされている(30)。女性は自由意思で虐待環境にとどまっているのではないということも述べられている。これらの意見を文字だけで見れば大賛成である。
 しかし、筆者(レノア・ウォーカー)が、家庭内虐待を社会問題にしようと提案する理由は、アンケートの結果28%が暴力や暴力的対応を受けたことがあるという数の問題である(51)。社会的背景と言えば、男性が女性を暴力で教育する権利が認められてきたことと、伝統的な家族主義ということ以上の分析はない。これは男性側の分析をほとんどしていないからである。
 これは日本の政策、日本のリーダーたちの主張と重なる。その背景に社会構造や労使関係は、所与のものとして不動の前提とされている。ナンシー・フレイザーがフェミニズムがグローバル企業の召使に堕したと批判するポイントがここにある。
 筆者は、最後に、「家庭は外の世界から我々を守ってくれる避難所であり、休憩所であってほしいという期待は明らかに間違っている。今日の世界では、家庭はその役割をはたしていない。」(222)と述べている。
そのくせ、末尾では人間観の協調に価値をおくフェミニスト的な見方が普及しなければならない(227)とも述べている。
 筆者は、男性全体を否定的に見たと述べているが(11)、例外がある。それは自分の父と夫である(扉)。だから、「自分の家族以外の」男性全体が暴力的であると言っているのが本当である。
 ところが日本のリーダーたちは、この部分を削って、男性全体はと人間を類型的に見てかつ否定評価をするという言動をおこなっている。筆者の推定でも半分は暴力を振るわない。ふるったとしてもはずみのような暴力も含まれるのである。筆者の表現は、文字通りの意味ではなく、社会に対して警鐘をならしたものであれば、説得力をもって受け止められる。しかし、日本では、これを真に受けて政策がすすめられているように感じる。
 とあるリーダーが、新聞で、家族分離の方向で長年努力してきた。共同親権制度となったらこの努力が水の泡になるということを述べていた。当初何を言っているのかよくわからなかった。しかし、この本の特定部分の文言の文字面(もじづら)を真に受けていたということであれば、とても理解しやすい。家族制度を崩壊させようとしていたという意味で間違いないようだ。
なお、筆者は、大家族が崩壊し孤立化していることで虐待が起こると主張している(51など)。これには、私の立場からは大賛成である。ただ、伝統的な家族主義が虐待の背景だとしている点とどのように整合するかについては説明が必要だろう。この点、つまりDVと大家族の崩壊の関連を指摘した大学教授もいる。その文章を読んだときはどこから唐突にこのような話が出たのか理解できなかったが、この本の影響を受けていたということであれば、理解は容易である。かなり、日本の男女参画政策のリーダーたちに、影響を与えている本であることに改めて驚いた。

2 虐待は治らないという神話の否定

筆者は、家庭内虐待について、様々な俗説があり、社会は間違った認識をしていると警鐘を鳴らしている。虐待される妻はマゾヒストであるとか、主として貧困層だけの問題だとか、虐待する男性はすべての人間関係で乱暴者だとか
そういうことが間違っていることは私も同感だ。
 「虐待は止めることができない」ということも神話として挙げている(40)。攻撃ではなく主張すること、威圧しないで話し合いができるようになることができれば、虐待を止めることができると筆者は述べている。ただその実現可能性については積極的ではない。しかし、虐待をやめられないということは神話に過ぎないと言っているのだ。
 この筆者の意見に賛成する。私は、虐待は虐待者の自己防衛から始まると考えている。虐待者は、自分の感情を言葉にできない事情があって、感情が高まりすぎて手が出てしまうということが一般的である。言葉にできない事情とは、リテラシーが足りないということよりも、説明することが男として恥ずかしいという事情が多いように思われる。この点について、虐待者の考え方と行動を修正すれば、虐待は起きない。
 また、筆者は、夫は妻を鞭で叩く権利があるという背景事情(自己の虐待を正当化する文化的背景)を指摘しながら、虐待者は、自分の行動が間違っていて公にすることができないようだと虐待者に罪悪感があることも指摘している。正当化する習慣と罪悪感の関係は、どこかで折り合いを付ける説明をしなければ矛盾となってしまうように感じる。ただ、負の自己評価があり、できるならばやめたいと思っていることはその通りである。
 ところが、現代日本の男女参画の行政行動は、筆者の指摘した重要な条件付けを一切捨象して、「DVは治らない。逃げるしかない。」と言い続けているのである。いったい誰のどういう理論に基づいてこういうことを言うのか説明を求めたい。この結果、抵抗する妻や何の責任のない子どもは、夫や父親から引き離なされてしまうのである。
 DVは治らないということは、ウォーカー博士の理論ではない。そもそも博士は、これは神話だと言って否定しているのである。

3 虐待夫の元からは逃げるしかない

これは、筆者も言明している(41)。但し、筆者は男性自体の虐待の背景について調査研究をしているわけではないので、本来的にはこのような結論を言う立場にはないはずだ。ところが、なぜ暴力をやめないかという仕組みについては、「男性が女性との対等の立場を受け入れないからだ」と鋭い指摘をしている。感想レベルの話としては、その通りだなと思う。権力を渡す、もっと実務的に言えば、「相手の裁量を承認する」という行為が虐待や暴力をやめさせる特効薬だと私も思っている。
真実虐待を受けている妻の場合は、とりあえず逃げることしか方法がないのかもしれない。問題は、真実は虐待とは言えない場合であり、妻の裁量を認めており、役割分担をしている夫婦にはこの理論が適用できないはずだということである。
 ところが、現代日本の男女参画政策では、虐待の有無、程度に関わらず「逃げるしかない」と嫌がる妻を説得するのである。興奮している妻があることないこと言っているのは当然のことである。それにもかかわらず、それを全部額面通り受け止め、子どもがいるのに夫から事情を聴くこともなく、逃げ場所を提供して居場所を隠す手伝いをしてしまう。筆者は、バタードウーマンの場合にのみ妥当する理論として提案している。しかし、現代日本の政策では、バタードウーマンの定義に該当する事案か否かの吟味をすることなく、一律「逃げろ、隠れろ」という働きかけをする。

*バタードウーマンの定義「男性によって、男性の要求に強制的に従うように、当人の人権を考慮することなく、繰り返し、肉体的・精神的な力を行使された女性」(9)


4 逃げなければ命の危険がある

現代日本の政策は、妻の言っていることの信ぴょう性はさておいて、DVは治らない。話し合いは無駄だ。DVはエスカレートしていき、あなたは殺されるかもしれない。」と妻を脅かす。
確かに、自殺に追い込まれて死亡する場合もあるかもしれない。これは否定できないだろう。PTSDや酷い解離状態になり、アルコール依存症が合併していると、自死なのか事故なのかわからない自己ネグレクトが起き、人が死んでいく。
 しかし、筆者が指摘する死の危険性は、妻側ではなく夫のことを指摘している。筆者の経験では、虐待によって死亡した妻はいないとのことである(43)。これは生きて相談に来た女性を対象としているのだから、ある意味当然だと思う。しかし、300人中、4人の女性が夫を殺害している。殺害のメカニズムとして、「常に恐怖を感じて暮らしていると、暴力や死の深刻さに無感覚になる」(58)との指摘は全く正しいと思う。
 レノア・ウォーカーが虐待で死んだ女性はいないという指摘はとても重い。ところが、現代日本の政策では、この事実は無視されている。(もちろん、死ななければ良いというものではなく、精神的な破綻による生活不能ということはありうるとは思っている。特に、本当に深刻な虐待が継続してあった場合の予後は大変悪い。しかし、精神科を受診していたとしても、家庭内虐待の話を医師に打ち明けない場合も多いようだ。病前性格について調査しない場合、家庭内虐待の事実を見落として、病名がパーソナリティー障害になることが多いように感じる。) ところが、現代日本の政策は、まったく暴力がない場合においても「逃げろ、隠れろ。殺される。」という指示を出しているようだ。最近は、自治体の相談室では、暴力がないことを確認した場合は、そのような指示は出さなくなった。何らかの暴力があったように誘導されるようだ。しかし、誘導にのらないと何らの支援もされなくなってしまうようだ。「逃げろ、隠れろ、殺される。」以外の支援のバリエーションが貧困だからであろう。

5 男性から事情を聴かない

 男性から事情を聴いていないということは、筆者は何度も繰り返している。それは立場の問題だからだろう。筆者は心理カウンセラーとして仕事をしているのであるから、そもそも相手方から事情を聴くということがレアケースであることは致し方ない。また、職業的限界から、虐待を受けた妻に対しても決定的な行動を起こすこともできない。その意味で、バランスが取れている。
 しかし、現代日本の行政は、例えば妻を逃がし、かくまうだけでなく、子どもも学校や幼稚園から引き離す。子どもや両親にとって、将来的に重大な影響を与えるような行為を行っている。弁解を許さずにこれらの行為をすることは憲法上の問題があると考えている。
 筆者が男性から事情を聴かないのは理解できるが、このような影響力を実行する行政機関が男性から事情を聴く必要がないということは本書には何も書いていない。

6 現代支援を受けている女性と虐待を受けた女性の違い

虐待を受けた女性の共通項は以下の通りだと紹介されている。
1)自己評価が低い。それそうだが、これは、虐待された事後的な性格である可能性が高い。
2)虐待関係の神話を全部信じている。神話とは21項目あるが、虐待を受ける女性はマゾヒストだとか、気が変だとかそういうものも含まれており、そういうことを信じているような女性は現代日本にはいないだろう。
3)伝統的な家族主義者。これもそれほど多い割合を占めるわけではない。
4)虐待者の行為について責任をとる。これはある程度当てはまる女性もいる。
5)恐怖と怒りは否定する。これもあまりないように思われる。暴力もハラスメントも何もない場合は、恐怖と怒りがないことは当然である。
その他が挙げられている(42)。
このほかにも虐待の共通項が挙げられている(76)。
ひどい虐待が始まるときは予測不能、過剰な嫉妬、虐待者の異常性欲、激しい虐待の詳細な記憶、銃やナイフ、拷問などの怖い話がある、死の意識というようにこれらは、現代日本の政策で保護されている女性の多くに全く当てはまらない。
虐待の詳細な記憶はほとんど存在しない。厳密な裁判官は、重大な出来事なのに記憶が曖昧であるため、証言の信用性を低く評価する。いかに誘導によってつじつまが合わない話が語られているかを強く物がっている。
弁護士などの中には、事実はどうなのかということをさておいても保護をしろと言う主張にしか聞こえない主張される方々も多い。

7 精神的虐待

 日本の配偶者支援においては、身体的暴力などの刑事事件に該当する場合にのみ支援ができる機関がある。警察である。警察が夫婦間に過度に介入することは不適切だと警察庁自体が判断しているし、法もそのように定めている。
 ところが、現在警察は、身体的暴力がなく、脅迫罪なども成立しない場合でも法や通達の定めた支援措置を行う場合があり、国家賠償訴訟が起こされている。
 「身体的暴力がない場合でもDVというのだ。」という言い訳を聞かされるが、DVの定義の問題がどうあれ、法や通達は守らなければならない。現場の警察官は通達を学ぶ前に、何らかの講習を受けているそうだ。
 筆者も、心理的圧迫や言葉による緊張の高まりの重要性を指摘しているが、背景として身体的暴力のある事案であることを重視している。この姿勢は正しい。身体的暴力のある場合と無い場合では、言葉による影響も全く意味が違ってくるからである。一度、身体的暴力を受けると、言葉の一つ一つが重い意味を持ってきて、心理的圧迫が強大になる。その時は暴力がないにもかかわらず、服従や迎合が起きてしまう。虐待を受けていた女性は、自分の迎合や服従行動と、過去の暴力との関係を意識できない場合も少なくない。意識には上らないが、意識下で記憶は過去の暴力と結びついているのである。本書の事例を一つ一つ読むと、その過程が理解できる。
 身体的暴力のない精神的DVと身体的暴力のある虐待は別物ともいえる。それだけ身体的暴力のある虐待は深刻な影響を与えるのである。身体的暴力がない場合も同じDVだという主張は、この点を理解していないのである。マニュアルだけの政策の弊害がここにあらわになる。国家が積極的に介入する場合、デメリットも出てくる。結局は、強制と強制のぶつかりあいになり、何も解決はしないと思う。法律や通達は守られなければならない。

まとめ

以上のとおり、レノア・ウォーカーの「バタードウーマン」は読むべき本である。復刻版を出版するべきであり、多くの実務家に読まれるべきである。家庭内暴力の現場の実感が文字で書いてある。筆者の言うとおり科学的ではないかもしれないが、優れて実務的である。実際に読んでみて良かったと思う。
しかし、その射程範囲を誤れば、大変恐ろしいこととなる。あたかも殺人罪には死刑があるが、それを暴行罪や脅迫罪に適用してしまうような問題が生じているのである。殺人罪も暴行、脅迫罪も、他人を攻撃する罪だとあまりにも大雑把にくくってしまうと、とにかく処罰すればよいという恐怖政治が生まれてしまう。アメリカの配偶者虐待の研究が、日本に輸入されDVという言葉でくくられることはそいうことなのかもしれないという恐ろしさを感じた。

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The Battered Womanノート 1 総論部分 日本の男女参画政策の原典を読む [家事]


1 絶版

男女参画政策の根幹であるDV対策の
その根幹の理論であるDVサイクルの基礎となった
レノア・ウォーカーの「バタードウーマン」を
是非読んでみたいと思い探していた。
大きな書店や古書店に行って探したが見つからなかった。
それもそのはず既に絶版になっていた。
発行は、1997年1月である。

現在もこの本にもとづいて政策が行われていることを考えると
早すぎる絶版だと思う。

要するに、男女参画に携わる人が
この本を読もうとしていないということだ。

自分が行政やNPOとして、一般市民の家庭、特に子どもの一生に
多大な影響を与えている行動の
その原点を読もうとしている人が少ないというところに
この政策の特徴が表れている。

では、各機関は何にもとづいて
DVサイクル等ということを声高に主張し、
DVは治らないから逃げるしかないと
家族分離に抵抗する母親を説得するのだろう。

見えてくるものは
研修会のレジュメである。
ほとんどマニュアルみたいなレジュメが作られている。
その背景や具体的な考察がほとんど書かれていない
結論だけのレジュメである。
これに疑問を持たずに、言われたとおり行っているということのようだ。

おそらく当初は翻訳本がなく
原典に当たることは難しかったので
それも仕方がないと是認されたのであろう。
しかし、その後翻訳本ができてしまった。

実際の人間の家族の生活は千差万別で
本来マニュアル的な処理をするのは不向きである。
それにも関わらずに、
マニュアル的処理をしているのである。
不具合は生じるべくして生じたのである。

この本を読み進めていると
DV対策の理論的リーダーと呼ばれている人たちが、
この本の読みかじりのような主張をしていることがわかる。
こっそり引用しているのだ。
しかも、文書全体の意図とはべつに
例えば重要な条件付けの条件を外して
断定的に主張している。
(この点については、次回に説明する)

マニュアル型政策だとすれば
原典はむしろ政策推進の弊害になるだろう。
マニュアルと原作者の主張が違うということが
明らかになってしまうからだ。

この本が絶版になっていることこそ
現代日本のDV政策を象徴した出来事であると思う。
絶版だと知ったからには
なんとしても読みたいと思い入手して読んでみた。

2 欧米の家庭内暴力と日本の決定的な違い

この研究がはじめられたのは1975年だという。
おそらく、その当時の欧米の事情が語られているのだろうから
21世紀の日本の家庭事情を比較して
欧米を論じることは間違っているだろう。

この本によって、家庭内の虐待が問題視されるようになり、
その結果、人々の意識がだいぶ変わったと思われるし、
その効果は日本にも及んでいるのではないかと想像する。
私も影響を受けているのかもしれない。

そのことを踏まえたうえでお話しするのだが、
欧米の夫婦間虐待の背景として論じられていることは、
夫は妻に対して暴力をふるうことが許された法律があるというのだ。
親指より細い鞭であればそれで妻を叩いてもよいと
法律でそう規定されていたらしい。

これは日本では考えられないことだ。
特に江戸時代以前の日本では、
あるいはその後江戸時代までの価値観が続いていた庶民の間では
男が女に手を挙げるということはご法度であり、
無教養の極みとして軽蔑されていたはずだ。

明治維新後には、
特定の出身地の人間が権力を握るようになり、
酒乱で妻を殺した人間が総理大臣になる等ということはあったが、
江戸時代以前の文学を見ても
男女は比較的平等で、
女性に対する暴力が、称賛されたことはないと思う。
ただこの点については自信がない。
教えを請いたい。

ただ、少なくとも法律で男性の特権として
女性に対する暴力が是認された法律や、思想はないように思われる。
(江戸時代の「女大学」と言う文書はあるが、
これはその逆の行動が一般的であったことを物語るものであり、
当時の女性たちのおおらかさと
一部女性の賢さが透けて見えるというべきだろう。)

もう一つ、前提的な話として
欧米では、男性が女性を虐待する場合、
それは教育なのだから許されるということを
理由にしていることが多いということだ。

現代でも児童虐待がしつけの名によって行われる。
虐待の本質を見たような錯覚に襲われるが、
男性は女性を教育するために暴力をふるっているだろうか。
いくつかの日本のDV事例に関わってきたが
男性がそのような理由で自己の暴力を正当化することは
聞いたことはない。

もっともレノア・ウォーカーもほとんど男性の言い訳を聞いていないので、
暴力男性が、虐待された女性に対して言った
自己を正当化する言い訳を
虐待された女性から聞いたという経路は意識しなければならない。

日本において、
妻などを教育する手段として暴力をふるったと
主張する事例はない。

つまり欧米の男性は自分の妻を「もの」と見ていて
所有権の対象だと考えるようだ
そうして所有物である以上、
叩くことも、教育することも男性の権利だと考えているということになる。

もちろんすべての家庭でこういうことにはなっていないだろう。
逆に日本の家庭でもそのように考えている人が
全くいないというわけではないだろうとは思う。

しかし、この本、ウォーカーの学説が
この欧米人の意識を背景に見ているとしたら
これを日本に「直輸入」することには問題だということは
少なくとも受け入れていただけると思われる。

しかししかし、日本では直輸入どころか
大事な部分を削り取って不具合を拡大させて主張されている。
このことについては次回説明する。

3 科学的ではないこと

レノア・ウォーカー博士自体は科学者である。
だから、ご自分の学説が
十分な統計や調査に基づくものではないことを承知されており、
これは科学ではないということを繰り返し述べられている。
このこと自体は尊敬に値する態度である。

ただ、だからと言って博士の研究が色あせるものではなく、
むしろ、その時代を切り開く力があったことは間違いがない
本書は十分その役割を果たしたと思われる。

また、本書の基礎となった研究データは300例だという。
300例といっても、必ずしもいわゆる男女の関係ではない
例えば親子の間の問題も入っているような節があるので、
症例としては少ないかもしれない。
それでも、データを解析し、分類を進めることによって
十分な仮説として提示できる方法もあったかもしれない。

しかし、あえてそういう時間をかけず
フェミニストとして現実の女性を救済するという観点から
本書は作られたのであり、
それは、それでありうる手法であると思う。

問題は、それを現代日本という
時代も歴史も場所も異なるところで
機械的に当てはめようとすることが行われていることだ
ということも本書を読んで感じたところである。

博士は前書きで、事実認識の情報源は
虐待された女性から得たということもはっきり述べられていて
男性に反論の機会を与えていないとはっきり述べられている。

これは、私的研究の限界でありありうる話である。

だからと言って、現代日本においても
公的機関が同僚に一方の側からしか事情を聴かないで
聞いていない方に不利益を科すことが許されることとは
全く違うことである。

博士は、今回は女性を犠牲者、男性全体を否定的な目で見たと
これも科学者らしくはっきり述べられている。
しかし、将来的に研究が進んだら
男性もまた犠牲者だとみることが必要になるだろうと述べられている。

あくまでも、このような態度は
本書が書かれた時代には必要な態度だったのだと思う。
現代でこのような態度で権力的な政策を行うことは
何ら合理化できないことが本書においても示されていると思う。

定義が曖昧なことも本書譲りであるが、
現代日本では曖昧にする理由があるのかもしれない。
ちなみにバタードウーマンの定義は
「男性によって、男性の要求に強制的に従うように、当人の人権を考慮することなく、繰り返し、肉体的・精神的な力を行使された女性」としている。
定義がそれほど問題にならなかったのは、欧米の虐待は、明らかな暴力が存在したからであろう。
本書は、精神的暴力についても言及しているが、
明らかな身体的な暴力があることを前提として、
暴力以上に精神的暴力の影響が深刻だ
という主張として記載されているという印象がある。

この本自体は、予想通り勉強になるものであった。
特に学習性無力感が虐待を受けた妻が
虐待者である男性に対して服従以上の迎合をすることを
良く解説している。


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令和元年12月14日に忘年会をやるわが子に会えない親の会、今年を振り返る [家事]

丸2年目が終わろうとしています。
我が子に会えない親の会の不定例会
12月14日5時から忘年会となります。

相変わらず、妻が子どもを連れて家を出て行って
行方が分からないという相談が来ています。

不思議なことに9月くらいに子どもを連れて家から去る
という事例が多く
しばし呆然として
10月くらいから12月くらいまでの間に
ネットなどを調べていただいて
相談のご予約を入れていただくというパターンです。

結構類似事案は多くて
結婚前は妻と妻の母とは仲が良くなく
(母が過干渉ということが多い)
結婚後はむしろ姑との関係が良く、
しかし、出産後、これが逆転する
というパターンは王道のようです。

最近は女性の権利を声高に叫ぶ弁護士よりも
離婚を商売にしようという弁護士グループが台頭してきて、
このチェーン店は、
子どもの成長などということは
まったく気にしないようです。

どんどんひどい状況になっているという側面もあります。
離婚ビジネスということを危惧していましたが
こういう形で出てくるのですね。

会員の皆様の近況ではずいぶん変化がありました。
このブログでも書いたと思いますが、
某市の児相を相手に、国賠をやっていた裁判は
裁判官の強い勧告で謝罪が盛り込まれて和解をしました。

子連れ別居で児相に相談してみようかという人がいますが、
その都道府県、政令指定市で違うのかもしれませんが、
某市の児相は、子どもよりも
母親に味方をするような印象さえありました。
だから児相に相談することは
やめておいた方が無難かもしれません。

上の国賠訴訟は、
父親のデータを母親に丸流しして
離婚訴訟に母親がそのデータを証拠で出した
ということから始まりました。

子どもに積極的に保護されなければならない事情があるのに
データ流しは積極的にやるにもかかわらず
保護どころか、子どもに会いもしませんでした。
まあ、そこが裁判官の怒りに触れたのかもしれません。

統合失調症の妻が、刃物を持ち出して
夫が110番をしたところ
妻の方を保護して、娘も連れて行ったことから
娘が1年近く、脅かされて拉致されて
ようやく交番に逃げ込んで父親のもとに戻った事案も
形式的には解決しましたが、
続きがありそうです。

面会交流調停の方ですが、
裁判官の書いた論文なんかでは
原則面会実施ということになったなんて言われていますが、
仙台本庁でようやくそういう雰囲気になってきた
ということでしょうね。

支部は一部の例外を除いて
まだまだその最高裁の方針が徹底されていません。
本庁の方も
審判官がきちんと評議に参加しないと
会わせる会わせないということの押し問答が続き、
こちらが会わせる条件を整えても
なかなかどっちもどっち的な調停が
行われることが少なくありません。

でも、
ようやく、本当は会わせる必要がある
というコンセンサスが少しずつ浸透しているということは
肌で実感してきました。

会わせる会わせないではなく、
どのように会わせるかに議論を早期に移すべきです。

別居親の方も
同居親の葛藤を鎮めることが子どもの利益だ
ということを理解される方が圧倒的多数です。

そう言えば、このブログを見て
女性の方の相談や依頼が増えています。

どうして妻が離婚したいのかということが
的確に書いてあるようです。
同性の方が理解できないことも多いようです。

だから、いわゆる連れ去り側の女性も
子どもを父親に会わせることは
抵抗はあるけれど仕方がないし
むしろ会わせたいと思っている
という人がほとんどなんです。

こういうケースに限って
夫の方が子どもにきつく当たってしまい
会わせるのに苦労している
ということが多くあります。

時に、
女性が子どもに会えなくなるケースは、
追い出される場合がほとんどです。

一族郎党で追い出しをする例なんてのもありました。
こういうケースは、夫は妻に未練があることがとても多いです。
姑や小姑、そして弁護士がやたらエキサイトしているのですが、
それらがいないときに、そっと便宜を図ってくれたりするのです。
でも外野の動きに逆らえずという感じですね。
妻を第1にするべきだと思うのですがね。

追い出される時
連れ去りの虚偽DVに相当するのは、
パーソナリティ障害、統合失調症、ヒステリーなど
私から見れば異常ではないよなあと思うことで
追い出されるようです。

最後に、養育費改定のことについて一言言わせてください。
私の依頼者は女性で、非正規、有期雇用で働いています。
離婚訴訟1審で敗訴して親権を失いましたが
2審の和解で子どもの親権を得ました。

夫は、精神的問題もあり収入がありません。

色々事情があって
子どもが一人父親と暮らし始めました。
もし、親権が父親に移ったら
有期雇用労働者の母親が養育費を払わなければなりません
今の基準だって、親子2人の生活がやっとなのに
この上養育費を支払ったら生活ができません。

子どもや女性の保護ということで
別居親に負担を増加させるということで
典型的には母子家庭を保護する政策なのでしょうが、

それによって、母子家庭が崩壊に直面することになる
そう思いました。

ここで注意してください。
一連の女性保護政策は、
夫がきちんと働いていて、妻の収入が夫より低い
ということを前提としているのです。

夫の方の収入が低い女性は
いないことにされているように思います。

また、共同親権に反対している人たちがいますが、
それによって一番苦しんでいるのは、
婚家から人格否定された挙句追い出された女性です。
命を懸けて出産した子どもと
会う望みを託した共同親権を
冷酷にも反対しているわけですが、
そのように一番苦しんでいる女性を
いないことにして議論が進んでいる。

そういう感覚が私のような実務家の感覚なのです。





12月14日17時からの忘年会に
参加ご希望の方は、土井法律事務所の土井までお問い合わせください。
番号は022-212-3773担当土井
予約の都合があるので、遅くとも前日までにお願いします。

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感謝や謝罪の言葉に心をこめようとするからダメなのよ。先ず幸せを盛る器を作ること、心は後からついてくる [家事]



<家庭の危険度は会話の量ではかることができる>
<感謝や謝罪が口に出ない理由>
<感謝や謝罪をする大人の理由>
<慣習、礼儀、エチケットの目的>
<言葉の二つの源泉>
<幸せは作るもの、その方法・抹消から中枢へ>

<家庭の危険度は会話の量ではかることができる>

離婚事件等の家事事件を担当していると、
家族に不具合が生じている場合、
会話が極端になくなっていることに気が付きます。

一方は、なにかを不満に思っていて会話を拒否しているのです。
でも他方は、
忙しいとか、他のことに気を取られてとか、あるいはあきらめていて、
会話が少ないことにも気が付いていないことが多いようです。

挨拶することは最低限必要です。
「おはよう」、「お休み」、「言ってらっしゃい」、「お帰りなさい」。
それは比較的できることが多いようです。

ところが、
自分のために何かをやってもらった時の感謝の言葉が出なかいとか
あなたの行為で相手が不愉快な気持ちになっているのに
謝罪の言葉が出ないとか
そういうことで不満がたまり
たまった不満の量だけ心が離れていくようです。

せっかくあなたのためにやったのに
当然受けるべきねぎらいがない
という場合は、結構深刻な疎外感を受けるようです。

<感謝や謝罪が口に出ない理由>

なぜ、感謝や謝罪の言葉が出ないのでしょう。

むしろ誠実でまじめな人に多いようですが、
感謝や謝罪は心をこめなければならないと固く考えていて
心が十分感謝や謝罪の気持ちに達していなければ
言葉にしないという誤った生活習慣が
身についているような気がします。

例えばせっかく料理を作ってくれた、日曜大工をしてくれたのに、
自分が思った出来栄えではないので感謝しないとか
相手が不愉快な気持ちになっているのはわかるけれど
それは自分だけが悪いわけではないから謝ることはできないとか

心をともなわない言葉は出したくないと言っているようです。

子どもならばわかります。
子ども親に何でもやってもらう存在ですから。
例えば赤ん坊は、
泣いている原因が親がお腹がすいているからだろうと思い
ミルクを与えていても
本当はおむつが汚れているから泣いていれば
ミルクをもらっても泣き止みません。
自分勝手で許されるのです。

親は言葉も分からない年齢の子どもに
「ごめんごめんおしめだったね。」と話しかけ
要求にこたえるわけです。

これを大人がやってはダメなのです。
家族なのですから。

一つは大人になり切れていないという問題が原因としてあるのでしょう。

もう一つは、子どものころの教育の問題もあるかもしれませんね。
学校で叱られてふてくされてごめんなさいと言っても許されず、
「ちゃんと心をこめて謝りなさい。」とか言われたり、
友達に感謝しなさいよとか言われて、おざなりにありがとうと言って
「ちゃんと心をこめて感謝しなさい」と言われたりしたのでしょう。

これは間違いです。

心をこめないから怒られるのではなく、
言葉は感謝、謝罪をしていても態度が感謝、謝罪をしていないから
相手が感謝されていると思わない、謝罪されているとは思わない
つまり相手に伝わらないからだめなのです。

その証拠に、心は謝っていなくても
それらしく謝って解放されたでしょう。

これはずるいことでも卑怯なことでもありません。
感謝、謝罪の目的を考えればすぐにわかります。

<感謝や謝罪をする大人の理由>

感謝や謝罪をする理由はと尋ねたら
誰でも正解にたどり着くでしょう。
感謝は、相手をねぎらうためです。
謝罪は、相手の気持ちをとりなすためです。
つまり相手の心に対する手当です。

自分の気持ちなんてどうでもよいわけです。

肝心なことは相手にどう伝えるかということ
それ以上のことは、相手には関係ない。
心無い言葉ばかり口にしたことによって
自分の心がすさんで、人間性がゆがんだとしても
自分で自分に損害を与えているだけですから
他人に迷惑をかけるものではありません。

問題は相手の心だとすれば
相手がやってくれたことで、満足できなくても
とりあえず感謝をするということも必要ですし、
自分が悪くなくても相手が不愉快な気持ちになっているなら
ごめんなさいと言って相手の気持ちをとりなしてあげてよいわけです。

これが日本語の「ありがとう」、「ごめんなさい」だったのです。
赤ん坊のように誰かに自分の思い通りのことをしてもらう
自分こそが他人の評価者だ
という態度を大人はしなかったのが、
昔の日本だったはずです。

今の日本の離婚の一番の原因が「性格の不一致」です。
しかし、子細に本音を分析すると
自分の感情に気が付いてくれなかった
自分がしてほしいと思っている(だけの)ことをしてくれなかった。
要するに、「自分の思い通りにしてくれない」という
赤ん坊的な理由のことをそれらしく言っているだけ
ということが多いように感じます。
相手に何かをしてもらおう、しかも
自分が言わなくても気が付くべきだというように感じられます。

赤ん坊が親に従属しているように家族に従属しているように
思えてならないことがあります。
それだから幸せにならないのだと思います。
自分を幸せにしてくれる人を待ち続けるしかないからです。
そんな人は現れません。

幸せというものは作るものだと思うのです。

<慣習、礼儀、エチケットの目的>

慣習や、礼儀、エチケットは守るべきものですよね。
それはどうしてでしょう。
基本的には、人間関係を円滑にさせるものですが、
相手に失礼のないように、相手に不愉快な思いをさせないようにして
人間関係を円滑にする
というのも一つの考えで否定されるべきではないでしょう。

私は、そうではなくて、これらの始まりは
相手を不愉快にさせないためというよりは、
人間関係を楽しいものにしてみんなが幸せになるため、
というようにマイナスをなくすという発想から
プラスを作るというゼロの先のプラスという発想が大切ではないか
と考えています。

感謝の言葉や、謝罪の言葉もそう考えたほうが
人生楽しくなるように思うのです。

何かしてもらったらありがとうという
相手が不愉快ならばごめんなさいという。
そうすると相手も
いいえどういたしましてと言えますし、
こちらこそごめんなさいといえるわけです。

だから、「ありがとう」は、「どういたしまして」とセットですし、
「ごめんなさい」は、たとえば「こちらこそごめんなさい」
とセットのエチケットシステムなのです。

自分がないがしろにされていなくて尊重されているなと
実感することができます。
何か不満があっても、自分が尊重されているというと
安心することができます。
尊重されていると思うし、相手が自分に敵意がない
ということも実感できます。

エチケットや礼儀、慣習は
尊重されていないと不安になる人をなくして
安心して暮らすための人間の知恵だと考えられないでしょうか。

<言葉の二つの源泉>

ありがとうとかごめんなさいという言葉を発することを
おすすめしているわけですが、
これを阻む壁のような考え方があります。
言葉というのは、「大事なことを伝達するためにある」
という考え方です。
大事なことを、正しいことを、合理的に伝えるのが言葉だ
という考え方は、
言葉を発する原因とそれにふさわしい言葉を
吟味してしまうようです。

危険があることを知らせる言葉、
危険の回避の方法を知らせる言葉
このような危険対応のための言葉も
言葉の始まりの一つだと思います。

この言葉の正当な後継者が今に言うところの「指図とダメ出し」です。
これも必要な場合はあるのです。

もう一つの言葉の源泉が
ロビン・ダンバー先生の学説で
サルの毛づくろいに代わるものだというのです。
コミュニケーションの手段だというもので、
もっと言えば、安心しあうためのもの
というものです。

指図とダメ出しこそが言葉だという
現代型労務管理理論では無駄話だとして排斥される会話こそが
本来的な言葉だという主張です。

私はどちらが言葉の成り立ちかということについて議論するよりも
両方が言葉の別々の源泉だと考えています。

「緊張させる言葉」と「安心させる言葉」ですね。

緊張させる言葉ばかり使われる環境では、
人はその環境から離脱したいと思うようになるでしょう。
これが現代の離婚の一番の多い理由です。

つい指図とダメ出しばかりになりがちだからこそ
意識して安心させる言葉を話す必要があるわけです。
感謝、謝罪、そして挨拶です。

意外なことに、心をこめて話そうとする誠実な人は
感謝や謝罪の言葉が足りなくなるようです。
自分の心なんでどうでもよい
相手の心を手当てするんだという要領の良い人が
幸せになりやすいということは致し方のないことです。

人が自分に、自分たちのために
何かしたら、あるいは何かを我慢したら
条件反射的にありがとうというべきなのです。
そこで考えては言葉が出なくなります。
相手の出来栄え点を評価しようとすることが最もいけないことです。

相手に不愉快な思い、悲しい思い、怒りの思いなど
何らかの危険を感じ不安を感じていたら
自分だけが悪くないとしても
ごめんなさいというべきなのです。

これは言葉の二つの源泉のうちの一つの使い方として
全く正しいことなのです。


<幸せは作るもの、その方法・抹消から中枢へ>

おそらくここまでお話しても
心の伴わない言葉は不誠実だとおっしゃる方はいらっしゃるでしょう。
私もつい最近までそう考えていたように思います。

でも、心は後からついて来ればよいのではないでしょうか。

まず、決められたこととして
誰かに何かをやってもらったらありがとうという
ありがとうと言われたほうはどういたしましてという。

誰かが不愉快な気持ちになっていたらごめんなさいという
ごめんなさいといわれたこちらこそごめんなさいという。

誰かが自分のために何かを我慢したら
ありがとうまたはごめんなさいといい、
言われたほうはそんなことないよ言ってくれてありがとうという。

まず、感謝と謝罪という、相手の心をケアしあう言葉を
自分たちの関係の中にあふれさせる。
安心の言葉を発しあう人間関係を作るということです。

これはすでに幸せな人間関係になっている関係の中では
意識しなくてもあふれていることなのかもしれません。

もしあなたが今不幸だとするならば
そして幸せになろうとするならば、
こういう幸せの器を作ることが
実は王道なのではないでしょうか。

極端な話ですが、うそでもよいから
感謝の言葉、ねぎらいの言葉、思いやる言葉あふれる家庭であれば
(もちろん、態度も伴うのですよ)
それはもう、幸せになっているのではないでしょうか。

不幸を感じている場合
うなだれて歩くことが多いと思います。
幸せを感じているとき口の端が上がってにこにこしていることが
やはり多いと思います。
脳が、体に指令を送って態度を作っているようです。
中枢から抹消へと神経がリレーしているわけです。

えらい心理学者の話を直接聞いたのですが、
この逆もまた真で
多少不幸を感じていても
胸を張って歩くと気持ちが明るくなるし、
口角を上げていれば楽しくなる
ということがあるとのことです。

体を幸せの形にしてみると
脳が勝手に幸せを感じるようです。
これが抹消から中枢へということになります。

人は一人では幸せになれないようです。
そもそも幸せというのは、
自分の対人関係の中で自分が尊重されて生活することで、
自分だけが尊重されるということも
赤ん坊ではないのであり得ないことです。

まず、自分が家族の幸せのために努力する
そうすると家族もそれにこたえようとするはずです。

肝心なことは「自分の気持ち」ではなく、
相手がそれを知りうる言葉ですし、態度なのです。
相手に伝えてあげようとする行動なのです。

感謝と思いやりのあふれる家庭が幸せの結果なら
まず、感謝の言葉思いやりの言葉という幸せの器を作る
ということが幸せになろうとする方法だと思います。

その器ができた段階ならば
あるいはみんなで器を作ろうとする気持ちが重なるならば
器には、すでに幸せの心が盛り付けられているはずだと思います。

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