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妻からのDV、妻の病的なヒステリーによる精神的な打撃を小さくする方法についての考察 傷つくのがいつでも優しい心なら [家事]

中森明菜「赤い鳥逃げた」*1作詞:康珍化(かんちんふぁ)の冒頭

「傷つくのがいつでも優しい心なら
優しさどこに捨てましょうか
あなたから教えて」

という歌詞があります。
詩人の研ぎ澄まされた感性が
人間の真理を突いたと感じられる
私の大好きな歌でもあります。

この「優しさ」とは何かということも難しいことですが、
たとえば、「相手の気持ちを敏感に察して
相手の役に立ちたいと思う気持ちを持って行動すること」が
優しさという意味の一つだとしたならば
まぎれもなく傷つくのは優しい心だと思います。

妻のヒステリーや妻からのモラルハラスメントによって
多くの男性が精神的に追い込まれています。
妻に対する優しさを発揮しようとしての夫の行動、努力に対して
妻からは容赦なくカウンター攻撃が繰り返され
自分の存在意義さえも根底から否定されるような
発言や行動が繰り広げられて
そして逃げ場がないという状態です。

これからお話しすることは
「子どものために絶対にこうするべきだ」というように
固く考えないでください。

妻からの精神的虐待によって
自死した夫の話もお身内から相談を受けていますし
(子の連れ去りが精神的虐待ならば、
何人かの自死者と生前に出会っています。)
また重篤なうつ病にり患して働くこともできなくなった夫を
この目で何人か見ています。
一言で言って悲惨な状態です。

タイミング、夫の性格、心理的な状態
あるいは妻側の加害の具体的な内容によっては
人間として耐えられないということもありうる話です。

「いざとなったら子どもに土下座をして離婚をして逃げる。」
という選択肢を心に準備していたことが
危機を乗り越えた一番の勝因だと言っている先達もいます。

むしろ離婚という選択肢を持てなくなった時が
精神破綻に追い込まれた時だという人もいます。

自分は離婚という選択肢を持ち続けているだろうか
という自問自答をすることが
もしかしたら生き残る秘訣なのかもしれません。

そのくらい、妻の精神的攻撃に苦しんでいる夫たちがいます。


複雑性PTSDが話題になっています。
この診断名の提唱者であるジュディス・L・ハーマンは、
CPTSDの本質は、
被害者が「人とのつながりを絶たれること」にあると述べています。
だから治療は、人とのつながりを再び作り出すことだというのです。

それが正しいとすれば
虐待の本質は、身体を傷つけられる痛みではなく、
自分が人間として存在するための基盤となる
人間関係を絶たれることによる絶望なのかもしれません。
身体的暴力は、身体を傷つけられると同時に
人間として尊厳、仲間とのつながりを失わせしめているから
被害が甚大になるということになるはずです。

そうすると、DV、虐待、モラルハラスメントは
身体的暴力が無くても成立するということになります。

だから、妻から夫へのDV、虐待は十分成立するのです。

「妻からのDV」というと笑う人(相談担当者、行政)がいます。
おそらく、妻からの理不尽な攻撃があったら
男子たるもの身体的優位さで制圧するだろうから深刻になるはずがない
とでも考えているのでしょうか。

男性のDV被害者の方々は、
妻からどんなに理不尽なことをされても
身体的暴力で対抗することをしません。
しないというよりも、
身体的暴力に打って出ることが「できない」のです。

夫による、妻からのDV被害の訴えを笑う人たちは
結局、DVとは何なのか理解していない人たちです。
女性が被害者となるDVも被害も
本当は理解していないことになります。
「それほど暴力を受けるなら逃げればいいじゃないか
それを逃げないのは、結局男性に依存しているだけだろう。」
等と偏見を持っている可能性があります。
男性のDV被害を理解しない人を
相談担当や行政窓口においてはなりません。

対抗する身体的な対応もできない
攻撃されたことに驚くばかりで合理的な対応をすることもできない
こういう事情が
妻からのDVを可能としているのかもしれません。
優しさが心を傷つけるのだと感じられてなりません。

これから述べる考察は、
妻がDVを行う原因が、一過性のものである時は
良く当てはまります。

これに対して、私が実務上出会った事案のいくつかは
精神病による幻覚幻聴に基づく攻撃
精神病による自己制御不能の状態
修正不能のなんらかのパーソナリティー障害
という場合があり、こういう場合には
あまり当てはまらないことかもしれませんし
高度な技術が必要なことかもしれませんのでご注意願います。

「一過性の原因」ということの代表例が
出産前後、特に出産後2年くらいで、
特に母乳での子育てをしている場合です。

また、一か月単位の周期があって
攻撃性が高まる場合です。

(もちろん、個性による違いが大きくあります。
産前からの傾向が拡大するという場合もあるようです。)

こういう場合は、理由があって攻撃的になっている
というか
攻撃的になっているというよりも
夫が仲間であると感じられなくなっている時期なので
多くのケースでは母乳をやめるか2年くらい経つと
収まっていくようです。

しかし、この時期に対応を間違えると
新たな「夫に安心できない事情」が生まれてしまい
その後もしこりが残ることがあるようです。

第1の対応策は、
いずれ収まっていくと時間の過ぎるのを待つ
ということになります。

但し、ただ我慢するよりは、
「そういうことを言われると苦しい」
「言われるのが嫌だ。情けない気持ちになる。」
「たいそう寂しい気持ちになる。」
等ということをはっきり言葉で教えてあげる必要があります。

この時の注意としては、
居丈高に反論したり、相手の不合理を鋭く突いたり
言い負かしてしまうことは
デメリットばかりが大きくなる危険があるということです。
妻の側で、「新たに夫に安心できなくなる事情」
を作ってしまう危険があるということです。
つまり被害者だったのに、加害者になってしまう
ということです。

そうならないためには、
自分が被害者であることをまず自覚することだと思います。
その上で、被害者らしく振舞うことを考えましょう。

背中を丸めて、斜め下45度を見つめる等
体全体で感情を伝えることが第1です。

これを省略して、条件反射的に怒りだけを伝えると
加害者と被害者が逆転してしまうわけです。
実際のケースではこういうことが多いです。
そして被害者であったはずの夫は、色々な辛酸をなめることになります。

次に多いのは、妻のDVに耐えきれなくなって失踪すること。
先ず被害者であることをきちんとアッピールしてから
その後で失踪するということをしないために
妻子を放っておいたという加害者にされてしまうわけです。

大切なことは被害者であるという自覚をもって
被害者として苦しんでいるということを
攻撃にならないように工夫しながら形で示すことなのでしょう。

第2の対応策は
自分の感じ方を制御するということです。

但し、傷つくことを回避するために
優しさや感受性を殺すことは
自分自身を少しずつ殺していくようなことなので
それはしない方が良いと思います。

優しさを捨てるのではなく、
真面目さや責任感を抑えて、少しいい加減にする。
とこういうことが必要な夫たちが実は多いようなのです。

被害を受けている夫一般に見られることですが、
妻からのDVに対しても過剰な反応をしてしまっていることが
多いように感じています。

とてもありふれた相談例を挙げてみましょう。
妻からのDVの相談がある場合は、
「どんなことをされるのですか?」と尋ねます。
「暴力と暴言です。」と回答があったら、
「どんな暴力ですか。暴言とはどういうことを言うのですか。」
という具体的な内容を聞くことにしています。

「キレてこちらに向かってものを投げ出すのです。」
と言われれば、
「何を投げるのですか。」と尋ねます。
そうすると、ぬいぐるみであったり、ゴミ箱であったり
妻が投げた物を教えてくれます。

何を聞きたいのかというと
例えばハサミだったり、例えばガラスコップだったり
殺傷能力のある投擲行為をしているのか
そこまで自制ができない状態かということを検討するためです。

投げられている本人は気が付きませんが、
その物が何かによって、
夫を殺傷したいのか、
ただイライラを解消したいのかということを見極めることができます。

暴力についても、
けがをさせるとか気を失うような暴力かどうか
ということを尋ねるわけです。

暴言についても一応聞いておきます。
但し、通常、臓物をえぐるような暴言しかありませんから
あまり参考にはなりません。

この記事で私がお話ししたい人物像は、
「そうはいっても、どんなもの投げても、弱い力だとしても
人に向かって物を投げることは無条件にダメなのではないか。」
と素朴に考えている方々なのです。

こういう実際に関わるならば付き合いやすい人こそが
傷つきやすい人ということになるようです。

実際にご自分が真面目で、正義感が強いからこそ
家族に手をあげるということが「できない」わけです。
その真面目さ、正義感を家族にも求めてしまうようです。
しかし、その真面目さや正義感が
自分と妻を苦しめているともいえるのではないでしょうか。

どうして真面目さや正義感が自分を苦しめるのでしょうか。
それは次に述べるような心理経過のようです。

あらゆる暴力は正義や道徳に反する。
あらゆる人を傷つける言葉も正義や道徳に反する。
妻は自分に物を投げるということで
自分を侮辱した言葉を発したことで
正義や道徳に反する行為をした。
自分はその被害者である。
妻の正義や道徳に反する行為は、
自分を侮辱し、ないがしろにする行為である。
だから自分は怒らなくてはならない。
正義や道徳に反する行為をした妻は制裁を受けなければならない。

どうもこういう理屈っぽい感情の経過を
感じる相談が多いのです。
そしてその流れは、
かつての私のように正義感の強い人間が聞けば
ついうなずいてしまうほど自然に聞こえてくるのです。

しかし、私は、常々、このブログでも
法律も、道徳も、正義だって
それは他人同士を規律するための人類の発明品であり、
仲間同士を規律することは別のところにあると主張し続けています。

そのフィルターを通してお話を再構成すると
どうもその考えは本当は自然な考えではないのではないか
という考えが生まれてしまうのです。

つまり実際の被害を基軸にものを考えるのではなく
不正を行う妻の人格を問題にしてしまうのです。
異常な人格者と暮らしている自分はなんて不幸なのだろうと。

ところで制裁について専門的な話をしてしまうと
不正を処罰される場合というのは
理性によって不正を抑制することが期待できる場合の人です。

産後うつならぬ「産後躁」のような
けんかっ早く、無敵モード状態のときは
夫が近くにいると思うとイライラして
夫が近くにいなくければいなくて無責任だとイライラして
とそういう状態になることがあるようです。

このイライラというのはなかなか男性は理解できないのですが、
やっぱりとても苦しくて、何とかこの感情から解放されたいと
そういう要求が強くなっているようです。
そこで八つ当たりをして発散したくなるようです。
自分で合理的な思考を巡らせて
自分の夫に対する攻撃は不合理であり、やってはいけないことだ
というような思考で暴力や暴言をしているわけではないようです。

婦人科系のイライラの場合は
腹部で内出血を起こしていてイライラする場合があるようです。
そういう場合に感情が制御できなくなることが多いのですが、
男性は、そういう外傷ではない内出血が起きる日常ということは
なかなか経験できません。
おそらくその場合のイライラは
強い不安を伴うもののようなものだと思われます。
「出口のない出血」が腹部内で起きているというだけで
私ならめまいがするほど恐ろしいことです。

そういうことでヒステリーを起こしたり、夫に攻撃することが
とても多いようです。

だから、暴力の行為者、暴言者は確かに妻なのですが、
妻を責めたり、罰したりする基盤が本当にあるのか
自信が無くなってしまいます。
つまり、それをしないことが、
果たしてそんなに簡単なことなのか。
そういう妻の精神面の変化という仕組みのおかげで
子どもを授かることができたかもしれません。
そうは考えられないでしょうか。
なかなか難しいこととは思います。

そうして私の研究ですが、
夫に対してヒステリーを起こす妻ほど、
夫を失いたくないと思っている傾向があるようです。
夫を馬鹿にしていたり、侮辱しようとしていたりするわけではなさそうです。
何か特別の意図があっての行動ではないのだろうと思います。

だから、
何も問題や原因がない普通の精神状態ではない
イライラで自分がつぶされそうになっている状態なのだ
と考えてみることはできないでしょうか。

実際はとても難しいことです。
暴言なんて、そういう状態でも適格なところを突いてきます。
自分が侮辱された、馬鹿にされたと思えば
自然に怒りがこみあげてくるのがむしろ当たり前だと思います。

自分を振り返っても分かるのですが、
頭では分かっても
30代までのうちは、なかなか自分の反射的な怒りを抑えるということは

難しかったかもしれません。

でも、怒りの気持ちがわいてからで良いです。
「そんなにムキにならなくても良いのかもしれない。」
と無理して思って見てはいかがでしょうか。

物を投げるということを主目的としているような行為や
あなたに「あたりたい」ということを目的としている行為の場合は、
(つまりあなたを殺傷しようとしている目的はない場合)
あなたに甘えているという理解でよいのだろうと思います。

それを夫の道徳心が強すぎるばかりによけいに傷ついたり
正義感が強すぎるばかりに制裁感情が起きたり、
責任感が強すぎるばかりに、
ヒステリーの言葉を真に受けて余計に傷ついてしまうわけです。

それに輪をかけて
自分の実母や無責任な同僚などの助言、つまり
「そんなことやらせておいたら男子の沽券にかかわる。」
「子どもへの教育的配慮のためやめさせるべきだ。」
「あなたはかなり馬鹿にされている。それでもいいのか。」
「嫁すらも制御できないのか。」
等と言う外野の言葉を真に受けて
自分は「傷つかなければならない。」
「怒らなければならない。」と
素直に制裁感情を引き起こす例は本当に多いと感じています。

文学作品などからわかりますが、
古今東西暴君の妻に虐げられ、苦労している夫たちは
実に多いです。

あなただけではありません。
人類の長期にわたる悩み事であり、
この苦汁を受け入れてきたからこそ
人類が生き残ってきたのかもしれません。

原理的には、妻のDVこそ
人類(二足歩行を常態とする哺乳類)の誕生以来
どの時代にも普遍的に存在していたはずです。

つまり、結婚をした以上、男性は、
人類が誕生したときから選択を迫られていたはずです。

八つ当たりという不合理を断固拒否するのか、
妻の精神的な不安定を伴う焦燥感(イライラ)を
自分を差し出して共有してあげるのか
(できる範囲で)

少しでもそういう視点を持つことで、
結局は、自分と子どもたち、そして最愛の人である妻が
救われるのかもしれません。

まとめますと
第1に、
被害者のままでいること、加害者にならないこと、
被害を冷静に伝えること
第2に、
自分は侮辱されたり、軽く見られてはいるわけではないと考えること

こういうことになろうかと思われます。






*1 赤い鳥逃げた
ミアモーレの、題名違い、歌詞違い、曲、編曲同一の歌です。
どうやら歌謡曲では、こういうパターンを作り、どちらを売り出すか選ぶようです。ミアモーレの方は、歌を聞いただけでドラマチックな情景が生き生きと浮かんできて、曲調とマッチしたのでこちらをシングルカットしたようです。それでも、「赤い鳥逃げた」のパターンも捨てがたく、LPレコードのような大きなレコードでシングルカットされ、私も入手しています。B面はバビロン。先日、久しぶりにレコードをかけたとき、自分の記憶ではもう少し収録曲があったはずなのにおかしいと思っていたら、裏を見たらB面があって、自分で笑ってしまったことがありました。

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【家事調停の技術論】子どもがいる場合の家事調停は3面構造で考えなければならないという意味。子どもの独立した人格、利益を考える意味。面会交流調停を例に。 [家事]


家事調停の担当件数が多くなっているのですが、
家庭裁判所に危機感を感じています。

例えばということで、面会交流調停の場合を例に挙げてお話しします。

数年前に、最高裁も
面会交流の動画や、子どもに配慮した話し合いを勧める動画を作成し
子どもの独立の利益を考えろと言う号令をかけ
国も、家事事件手続法を改正し、子どもの代理人の制度を作りました。

しばらくはそのような傾向に調停実務も流れかけたのですが、
最近はまた後退していると感じているからです。

でもどうやら、家裁全体としては流れは確立しているようで、
個々の調停委員会や裁判体の問題のようなのです。

言ってみれば
言葉では、子どもの利益を考えなければならないということは知っている。
しかし、実際の調停の運営における活動では
子どもの利益を考えた結果になる方向に進めていない
という印象を持ってしまうのです。

目標は知っている
しかしその目標を実現する方法についてはわからない。
というような感じです。

無理も無いと言えば無理もないことではあります。
最高裁もそこまで懇切丁寧に説明はしていないようです。

むしろ現場から問題提起をしていくべきことなのでしょう。
ということで
問題の所在が少し見えかけました。

裁判所のスタンスは、
「別居親、同居親、どちらの立場にも偏らず公平を保つ
その上で子どもの利益を第一に考え、調停を進める
面会が子どもの利益を害さないならば、
どのような形で面会を実施するかを議論する。」
というのが、公式見解「的な」もののようです。

これと違うことがあったならば、「違う」と言って是正を求めることができる
ということになりそうなのですが、
そう簡単な話ではありません。

実際の問題点をイメージ的に提示すると

<タイプA>
別居親は会いたいと言っている
同居親は会わせたくないと言っている
話し合いは平行線で、まとまらない。
調停は終わりにして審判にしたらどうだ。

<タイプ特A>
話し合いは平行線でまとまらないから
間接交流で実施するべきではないか。
(来るか来ないかわからない写真を待つことにして終わり)

<タイプ特大A>
話し合いは平行線でまとまらない。
面会は時期尚早なので、今回は取り下げたらどうだ。
(いつになったら時期尚早でなくなるのかは不明)


面会交流調停申立人である別居親からすると
こういう対応をとられていると感じやすいものになっています。
ひところはもう少しよかったのですが。

ただ、実際は、調停委員は同居親に対して
面会交流を実施するように説得しているけれど
それを別居親に報告しないだけということもあるので
そこは注意した方が良いのですが
教えてもらわなければわかりませんからね。

問題点を整理して実践的な解決方法を考えましょう。

裁判所は二つの価値観を示しているわけです。
1 同居親、別居親を公平に扱う。
2 子どもの利益を第一に考える。

しかし、上記の問題例を見ると
1の大人の当事者間の公平が第一になっており、
2の子どもの利益を考えていることが伝わってこない
という問題があるような気がするのです。

先ず、子どもの利益を考えて、
面会することが子どもの利益を害するかどうかを検討し、
害さないなら面会の方法を考えなければならないわけです。

それにもかかわらず、相も変わらず
会いたい、会わせたくない。どちらも平等
ということになってしまってはいないのかということです。

これで話し合いがまとまらなければ
結局子どもは別居親に会えないのですから
別居親は子どもに会えないのですから、
同居親の言い分に偏った結果にしかなりません。

不平等な調停だと感じる原因はここにあると思います。

形式的公平を貫く方法論になってしまっていて、
実質的に不公平な結果にしかならないのです。


しかし、考えてみれば
民事調停だってこういう大ざっぱな調停運営はしません。

民事調停の場合だって、
双方の言い分には隔たりがありますが、
それでも、何らかの合意を成立させるべく間に入るわけです。
例えば「この点の利益を実現できるならば
金銭的な要求については譲歩できるのではないですか
金銭的には譲歩しても利益が大きいとは考えられませんか」
とか、「解決の利益」を考えて当事者の方々と一緒に考えます。

双方に支持的に関与することで、
案外まとまらないと思われる調停もまとまるものです。

「相手の言い分には納得できず、反発しかないが
何とか紛争自体は終わりにしたい」
という気持ちがあるから調停に参加するわけですから
こわもての主張がなされても
双方が譲歩して成立する余地はあるのです。

どこにくさびを打つか、そのポイントを見つけることが
調停委員会の仕事なのだと思います。

家庭裁判所の調停委員会の役割だって
両当事者の言い分が
平行線かどうかを判断することではないと思います。

(これで済むならねえ。)

そもそも、「同居親と別居親に公平に扱う」
ということをわざわざ価値観として重視するから
それを第一に考えてしまうというミスリードになるのではないでしょうか。

(当事者が何を大切にしているか、どうして感情的になるかについて
 理解していないことを表していると思います)

子どものいる場合の家事調停は
当事者が少なくとも3人いると考えなければなりません。
父親、母親、そして子ども(たち)です。

父親と母親は、調停に出てきて好きなことを言いますから
調停委員は二人の話をよく聞いていればよいわけです。
しかし、子どもは調停に出席しません。
調停の場ではものを言わないわけです。
だから、子どもの利益は大人が考えなければならないことです。

目の前にいない、語らない人間の人権や利益を考えることは
大変難しいことです。
目の前にいる人間の意見に引きずられてしまうことは
放っておけばそうなってしまうことです。

子どもの発達などの知識、想像力、理性的判断という
極めて高度な精神活動が求められているのが
例えば面会交流調停なのです。

この精神活動を補うために
専門家である調査官が面会交流などには配置されるわけです。

ところが、調停委員だけでなく、
調査官や裁判官までも
大人の平等第一主義をとってしまって
子どもの利益を結局はないがしろにしてしまっている
こういうことが起きているのだろうと感じています。

実際に面会交流調停なんて、
調停委員や裁判官の強力なプッシュが無ければ実現しません。
二、三年まえまでは、こういう裁判所の働きかけがあって
子どもが安定して別居親と会えるようになっていたのです。

今は大人の平等主義が最優先になっていて
あまりプッシュをしてくれないと感じられてなりません。
それでは、子どもは別居親に会えません。

同居親は別居親と顔を合わせたくないから
子どもを連れて別居したのですから
せっかく別居したのに子どもを相手に会わせようと
思うわけがないのが当たり前です。
同居親は子供を別居親に会わせたくないものだという
リアルから出発しなければ何も始まりません。

別居親の代理人は、子どもを別居親に会わせるという
別居親との合意した目標がありますから、
同居親の感情を少しでも下げる工夫をして
拒否反応を少しでも低くするようなアドバイスをします。

しかし、裁判所がこれを面と向かって別居親に言うことは危険です。
そもそもどうして別居になったのかについては
両当事者で言い分も違いますし、
実際は言葉で説明できないことの方が多いかもしれません。

それにもかかわらず、
子どもが別居親に会えない原因がすべて別居親にあると
裁判所が言っていると聞える話になってしまいます。

同居中の出来事の真偽を確かめようとするのではなく、
調停開始後の別居親の態度が
新たに同居親の不信感や警戒感を引き起こす場合は
(けっこうあるぞ)
それを指摘するにとどめた方が良いのではないかと思われます。

但し、同居親の不安があることも、通常の場合間違いないので、
連絡の取り方とか、子どもの受け渡しとか面会交流そのものの
ルール作りをきっちり行うということは前向きな話になるでしょう。
それは別居親も受け入れるべきだし
通常理不尽な要求というより、どうでもよい話が要求されるだけなので、
どんどん受け入れるべきだと思われます。


具体的な方法論としては、
面会交流調停が難航しそうな場合は必ず、
面会交流の必要性についての調査官のレクチャーを
(面会交流プログラムを)必ず早い段階で実施するべきです。

調停期日を一回つぶしても行うべきだと思います。
その方が解決が早くなるということが実感です。
そして、調停委員も一緒にプログラムに参加するべきです。

表向きの理由は
調査官がどのようなことをレクチャーしたか
しっかり把握して調停に入ることによって
両当事者の会話が進むということです。

少し内緒の理由は
調停委員も面会交流の必要性について繰り返し学習してもらいたい
ということからです。
(代理人弁護士も参加した方が良いですね)

そして最大の理由は
調査官自身が、当事者にレクチャーすることによって
出発点とするべき子どもの利益について
調査官自身が再確認する必要性を強く感じるからです。

これが抜け落ちていると、
子どもの利益を第一にするために理性的な精神活動を求められて
そのために調停に出席する調査官でさえも
調停に出席している人間の感情に振り回されて
子どもの利益が後景に追いやられてしまうようです。

自分が気に入った正義感で
相手を制裁しようとする行動原理が
どうしても見えてくることがあります。

感情に振り回されず、知識と理性に基づいて
子どもの利益を第一にした結果を出すと言う役割が
全く果たせません。

大人の当事者双方の感情に振り回されず
冷静に、理性的に子どもの利益を第一にする
そういうためにはこのように、
一見非情に思えるような精神活動が必要になる
私はそう思います。

面会交流の阻害事由がなければ
どのようにして面会交流を実現するか
という話に進まなければなりません。

それは同居親にとっては、感情的に受け入れられないことです。
しかし、子ども利益について一緒に考えなければなりません。
その現象自体は、感覚的には
同居親に対して不平等に扱うような現象になるわけです。

大人の間の平等よりも子どもの利益という場合は
どうしても一方の親の表面的な不利益が発生してしまい
一見不平等に見えてしまいます。
それは形式的な平等よりも優先するということを
はっきりと意識しなければならないことです。

これは、面会交流阻害事由がある場合は
別居親に不利益になるのですから
実は同じことなのだと思います。

ただ、場面が異なるだけの話だと思います。


そして、家庭裁判所で子どもの利益を考えなければ
あとは子どもは自己責任で成長していかなければならない
このことの重さをよく考えてほしいと思うのです。

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なぜ仲間を攻撃するのか、仲間から攻撃されるのか。夫婦間の攻撃とは愛情の裏返しということについて。 [家事]



攻撃する方は
自分が仲間を攻撃をしているという自覚がないことが多いようです。
自分の言動によって、多少軋轢を生んでいる自覚があったとしても
罪悪感がないことが通常です。

攻撃される方は
どうして、相手がそういうことを言うのかなと
激しく落ち込んだり、
これからは、元のように自分は仲間の一員として
一緒に笑ったりすることはないのかなという
解決不能感を感じ、
その人たちと関わることにおびえるようになります。

その人から電話が来るだけで
血圧が上がったり、脈拍が早くなったり、
どうもいやあな気持ちが台風の雲のように足早に心を覆います。

職場、学校、あるいはSNS等どの人間関係でもこれは起きるのですが、
前回お話しした通り夫婦の問題にクローズアップして考えてみましょう。

男性と女性でどちらにこういう傾向があるかという点については
誤差の範囲であり、性差はあまり関係が無いというのが実務的実感です。

例えばこんな感じの例を出してみましょう。
****
 子どもの成績が悪くて、妻が夫に心配である旨を伝えた。夫は妻の心配も分かるけれど、妻の言葉の端々から子どもの悪口に聞えて聞くに堪えないため、「そういう言い方はないだろう。」と妻の言い方の問題を先ず指摘してしまう。心配を共有したい妻、対策を講じたい妻からすれば、理由なく自分が攻撃されたと感じてしまう。そして、「どうしてそうやっていつも話をはぐらかしたりするのよ。あなたはいつもまじめに子どものことを考えてくれない。」等と反撃してしまうわけです。
****

妻の最初の子どもの成績が悪いという情報の伝達と相談ですが、つい心配してしまうあまり、余計なことを言っていることが多いのではないでしょうか。勉強しないで服装のことばかり気にしているとか、スマホばかりいじっているとか、努力をすることができない等の人格的なことまで言及してしまって、本当に言わなくてはならないことが埋没して見えなくなってしまう。このため、たんに子どもの悪口を言っているように聞こえることがあります。

分かりにくくはなっていますが、受験が近くなってきたとか、子どもの状態から、妻が何を言うのか、夫がわからないということはないはずです。
ある程度余計なことを言うのは、家庭の会話なのだから仕方がないことなのですが、どうもそれを許さない考えに染まっているということはよくあることです。「夫婦の会話なのだから」という観点で、取捨選択して聞くという作業はどうしても必要です。

これができないのは、子どもへの心配を口実に、自分が責められているのではないかという意識がどうしても出てきます。「俺のせいだと言いたいのか?」というおなじみの感情です。
でも冷静に考えれば、子どものことを心配しなくてはいけないよなと思い、「そうだよな。」という言葉をとりあえず発してから考えるという選択肢を持っても良いというのが教科書的な、対処の第1歩でしょう。

次に夫の代弁をすると
そうは言われても、自分が成績をあげさせるアドバイスをする自信なんてまるっきりないし、成績が悪いのは子ども本人が一番よく分かっているから、改めて親がそれを言ったところで子どもにとってはプレッシャーにしかならないし、子どもから反発されるだけではないか。つまり夫としては、どうしてよいかわからないから早く話題を打ち切りたいという気持ちになっているということもあるかもしれません。

ちなみに教科書的には、わからないことはわからないと言って、塾に行かせるなり対策を相談すればよいのですが、そう理性的に進んでいかないのも「普通」の中に入るのかもしれません。

そして、妻の反撃を受けた夫は、もう「自分を守る」というテーマでの行動となります。一連の出来事の記憶も、自分が妻から突然攻撃されたという記憶として残ることがあるようです。

妻の側からすると
子どもを心配しなくてはならない時に、「ささいな」自分の言葉に対して攻撃するとは何事だという感覚となることでしょう。子どもの心配をして親として話し合うよりも、自分を攻撃したいのかこの人はという気持ちになるわけです。もちろん、「子どもの成績が悪いのは私のせいだというの?」というお決まりの感情もでてくることでしょう。

さらには、仲の良い、お互いをよく理解している夫婦の場合は、「夫は子どもの成績対策まですべて私に押し付けようとしている」と察して、そうはさせまいと防御態勢を予め敷いてくる場合もあるわけです。もう、夫の反応としての原因が原因なのか、夫婦の在り方なのかわからない混然とした攻撃の応酬が始まってしまうわけです。そしてその攻撃から自分を守るという行動が攻撃の応酬という性格をより際立たせていくわけです。

ここまでお話ししていて、皆さんはどう思われるでしょうか。
このような些細な食い違いから攻撃を受けると感じるのは
面倒くさいし、くだらないし、初めから結婚するべきではない
とか感じられる方も多いかもしれません。

しかし、私のように年齢が高いからとか、事例をたくさん見ているからとか
何らかの理由はあるのでしょうけれど
私は人間とはいじらしい生き物であって、かわいらしい存在だと
そう思えてきてしまうのです。
仲良しでいたいという気持ちから
仲良しでなくなるのではないかという不安が生まれるわけです。
だから、仲良しでいられなくなる原因を説明して
みんなが行動を改善すれば
もっともっと簡単に楽しくなるのではないかと思うのです。

仲良くしたいという感情がうまく伝わらず
逆に攻撃されたという気持ちになってしまうということが
多くあるだけなのだと私は思います。

もつれた感情を解きほぐす手段を考えていきましょう。

これが、SNSならば、簡単です。
こちらが楽しい気持ちで楽しさをシェアしようとしているのに
わざわざコメントを書き込んで
自分はこれだけ辛い思いをしているとか
本論と異なるところで揚げ足をとってくるとかいう人がいますよね。
同級生とか面識のある人ならば攻撃とは感じないで笑いになりますが、
どこの誰なのか、本名なのかもわからない人からこういうことされると
攻撃されているとしか思われず、不愉快になります。
客観的にはシェアを台無しにされたと思うわけです。
こういう人はブロックすればすむわけです。

しかし、夫婦間ではブロックするわけにはいきません。
家庭内別居は、心理的に双方かなりのダメージを受けます。

攻撃を無くして、攻撃だと感じなくする方法は
それほど難しいことではないと思うので
一緒に考えてみましょう。

二つばかり考えてみました。

第一は、攻撃されているという意識を持つ人は
実際以上に攻撃されていると過敏に感じてしまいやすくなる
ということです。

色々な相談会で、
攻撃を受けている様子を色々とお話をされるのを聞きます。
確かにそれはひどい攻撃だなあと思うことももちろんあるのですが、
「え?それはどうして攻撃として受け止めたの?」とか
「それは明らかに攻撃として受け止めるべきではない」とか
ということを感じる時が多くあります。

率直に、その旨感想を述べると、
例えば、「これとこれはだめだよね。
でもこれも攻撃というのはどういうこと?」と尋ねてみます。
そうすると、別の人に相談したところ、それは攻撃だといわれたというのです。

こういう支援者はかなり多いのですが、
せっかく仲良くなりたいということから出発している人間通しの争いを全く理解できない
悪魔のような存在となる危険があります。

こういう人は人間は合理的に行動するべきであり
合理的な行動をしない方がトラブルの責任を持たなくてはならない
と言っていることになると私は思います。

こういう人は、
一番最初の夫婦喧嘩のケースで
子どもの成績に対する不安は、
そのことズバリだけ、客観的な情報だけを伝達するべきで、
感情的な説明をしたためにトラブルが起きた
という判断をすることになります。

人間関係を上から裁こうとしている
ということに気が付いていないのです。

私から言わせてもらうと
人間はそんなに合理的に行動することができない生物であり、
過度なビジネスライク的な評価は、流行ではありますが
人間性を無視している危険な評価だと苦々しく感じています。

攻撃を受けていると感じている人は
当然自分を守ろうという反射的行動をしますから、
自分を守るために、慎重になり、悲観的になります。
このため冷静に考えれば攻撃を受けているわけではないとわかるのですが、
冷静に考えることができず
とりあえず攻撃を受けているととらえて
守りをしておこうという発想になるわけです。
だから、攻撃だととらえる範囲が限りなく後半になりやすいのです。

攻撃を受けているわけではない第三者であるにもかかわらず、
当事者の不安の妥当性を検討しないで、無責任に寄り添い
「それは確かに攻撃です。」というのだから
極めて悪意のある態度だと言われなくてはなりません。

考えの足りない人
人間についての理解の無い人
何か自分の思惑が強くある人が
他人の相談に乗るということは
大変危険なことだと思います。

夫婦の問題だけは
自分の不安を駄々洩れのように肯定する人には
相談するべきではありません。

また、全部が気の持ちようだという回答も
稚拙な回答者のすることですから
そういう場合も別の人に相談するべきです。

客観的には、あなたのこれとこれの心配は過剰だと思う。
でもあなたがそれを心配するのは理由があることで
もしかしたらこういう理由ではないか
だからここをこう改善してみたらどうなるか
試してみる価値があるのではないか
とかいう回答をするべきパターンが一番多いように思うのです。

できればこういう相談者に相談しながら
自分が心配するべき事柄と、心配し過ぎなくても良い事柄を
区別する作業が出発になるような気がします。

第2に もしかしたらあなたは相手に過剰な期待をしているのではないか
ということを検討することに価値があると思われます。

特に攻撃を受けている人は、
自分の味方に対する要求度が高くなり、
結局、自分の不安を解決して不安を無くしてほしい
というところまで要求が高くなってしまうことがあります。
そういうことをして初めて味方だと認識できるみたいな感じです。

パワハラやいじめを受けている人が典型です。
こういう相談を受けていると、
その人の職場や学校には
いじめ等、明らかな攻撃をする人とその取り巻き
何も言わずに知らんぷりをしたり、にやにや笑って
攻撃者の攻撃を承認する人たちが確かにいるのですが、
中には、公然と
「あなたが言うその人は、勇気をもって
あなたの味方になろうとしているじゃない。」
という人がほぼ例外なくいます。

いじめのようなひどい攻撃を受けている人ほど
助けてくれようとする人の気持ちに気が付かないようです。
その水準では味方だという気持ちになれないようです。
もっと自分を助けてほしいという感情が先行してしまう
ということが理由ではないかと考えています。

実際には、いじめられている人は
その手を差し伸べる人も攻撃者としてカウントしているようです。

そういう人の多くはいじめが始まる前には
仲良く一緒にいた人たちのようです。

どうやら、攻撃者としてカウントする理由は、
その人が相手に対する期待値が高すぎて
相手がその期待値に到達していない
ということを非難する感情が起きているからではないかとにらんでいます。

夫婦の相手から攻撃されているというよりも
職場で攻撃を受けていたり
自分の親戚など人間関係で不具合が生じていたり、
相手に内緒でやっているSNSで、
自分のスレッドとは場違いな攻撃のコメントがなされ
それに別の人が同調して自分が無視されるなどのことが
多くなっているのか
あるいは単に体調から、訳もない不安が起きていて
自分が攻撃されているという意識が
慢性的に起きやすくなっているということもあるでしょう。

どの人間関係も順調で、一点の曇りもない
という人はいるでしょうか?
おそらくめったにいないと思います。

人間は少なくともどこかしらとげが刺さったようなトラブルを抱えており
悩んでいるのではないでしょうか。
また、例えば秋口になればうつっぽく不安に苦しむということは
誰でも経験があると思います。
そんな時につい、最も身近な夫婦の相手に期待が大きくなりすぎる
ということはあるのが普通なのではないでしょうか。

しかし、それがあるのは仕方が無いとしても
最低限度、そのことを自覚して相手と接する必要はあると思います。

先ほどの子どもの成績をめぐるトラブルを見てみましょう。
妻は子どもの成績不良に真正面から向き合っています。
夫はどうでしょう。
成績不良だから、志望校のランクを落とす
あるいはもっと勉強の量、質を改善する
ということを子どもに提案しなければならないはずです。
しかし、
親から成績不良の現実を突きつけることが可愛そう
子どもの反発を想定して気が重い
自分が何らかの改善を提案する能力が無い
という様々な問題から
成績不良に向き合っていない
という側面があると思います。
(本当は、いま評価しなくても良いのではないかとか
 親が言わなくても良いのではないか等
 それなりの理由があるという評価が可能だとしても)

真正面から向き合って子どもと話すということが
非常に重苦しいため
それを避ける、先送りするため
話し合いの必要性を指摘されることが苦痛だ

それはなんとか妻の方でうまくやってほしい
という、身勝手な期待があるということもよくあることではないでしょうか。

厳しい方をすれば、
責任があるのに責任を果たさない
責任を果たさないことを非難されないために
自分の行為を正当化する行動が
相手に対する攻撃になってしまう
という側面がないとは言い切れないようです。

結局は、言わなくてはいけないけれど
子どもを刺激しないように妻からうまく言ってほしい
という勝手な期待が高まっていて
妻がその期待に応えないというだけで、
夫は非難していると受け止められる行動をしている
ということになっているのではないでしょうか。

言っている方はそれに気が付きませんので
攻撃している意識はありませんし
相手からしてみると、自分が相手を攻撃していると思われている自覚もありません。 

夫婦間では、夫、妻に関わらず
子どもを守ろうとするあまり、
相手に対する期待が高まりすぎて
期待に到達しないということだけで
相手を非難しているように見える行動をすることが
けっこう多くあるようです。

結局、赤ん坊の時からの流れで
子どもには何にも期待していない
パートナーには無意識に過剰な期待をしている
ということが実態なのだと思うのです。

妻は、最初の心配の情報伝達と相談の持ちかけの際に、
自分が余計なことを言っていることに気が付きません。
この時点でも妻が言いたいのは、「一緒に心配してちょうだいよ。」
ということなのですが、
もしかすると、余計な気をまわしすぎる夫にとっては
それこそが過剰な期待だという負担感を持っているのかもしれません。

もしかすると妻は夫に、
子どもの成績を上げる結果となる働きかけをしてほしい
という過度な期待をしているのかもしれません。
結局夫はなんだかんだと言ってそれができないから逃げているのだ
と「正しい認識」になってしまうと
逃げる夫は自分と子どもを守ろうとしないで攻撃をしている
という感覚になるのかもしれません。

最低限ここから始めるのはどうだろうと思うことを箇条書きしてみます。

1 家族の中の不具合を相談されているからと言って
 その不具合の原因が自分にあると言われていると思うのは、
 はっきりそう言われるまで待とう
 (まじめで、責任感の強すぎる正義の人はこれができないようです。)

2 特に子どものこと等、自分も関わることこそ、
  相手が何を言いたいのか、まず考える。
  とりあえず、「そうだね。」と言ってから考え始める。
 (まじめで責任感の強すぎる正義の人は、そうだねと同調したら最後、自分の責任にされると思い込んでいるようです。意味のない「そうだね」という存在は頭の中に存在しないようです。)

3 相手の本当に心配していることを突き止める。
  突き止めて自分も心配しているならば、心配だと言う。
 (まじめで責任感の強すぎる正義の人は、心配という言葉を言って時間を使うということができず、心配であることを前提として心配を解消する具体的方法を提案し、実行しなければならないと思い込んでいるようです。口先で心配だねということがひどくみっともないことだという価値観を持っているようです。)

4 相手の心配から目をそらさないでしっかりと受け止める。
 (まじめで責任感の強すぎる正義の人は、自分が何とか対処して解決しなければならないと過剰に義務感に取りつかれているようです。だから自分ができないと感じたことに対しては、目をそらしたり、無かったことにしたりしてしまうことがあるようです。まじめな人ほどパニックになりやすいようです。)

5 受け止めた上で、どうしたらよいか、回答を出すよりも相談をする。
 (世の中、解決しなければならないことだけではありません。でもまじめで責任感の強すぎる正義の人は、「わからない。」、「できない。」ということを言ってはいけないと思い込んでいるようです。しかし、通常の場合は、相手はそこまで期待していません。相手の不安を受け止めているということをはっきりと言葉にした上でならば、「自分はこんなことしか考えつかないけれど、あなたはどう思う。」と投げかけてみることも誠実な対応の一つなのだという考えを持ってみましょう。

6 自分の対応、態度に文句をつけられることは、
  相手はまだあなたに何らかの信頼を置いているという風に考えてみましょう。
  あなたができないことは、おそらく多くの人ができないことです。
  相手はできないことであなたへの信頼を無くすということはないと思われます。
 (まじめで責任感の強すぎる正義の人は、信頼されている以上、無理してでもそれに完璧にこたえなければならないと考えるようです。無理なことは無理で、仕方が無いと思いましょう。)

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ごめんなさいと言えない夫・妻 ごめんなさいと言えないことにより起こる可能性のある危険、どうしてごめんなさいと言えないかという理由 [家事]



私は、以前このブログで、
相手にごめんなさいを要求するよりも
仲直りのサインを決めておいて
そのサインが出たら、とりあえず日常生活を歩き出す
という決め事をするべきだと述べたことがあります。

それは今も変わりません。

しかしこの決め事で喧嘩が終わるというならば
それはパートナーに恵まれているということかもしれない
と思うようになりましたし、

また、けんかが終わったように外見上日常生活を再開したとしても
実は相手の心の中でどす黒いわだかまりが蓄積しているかもしれません。

どうやら、ごめんなさいと要求することはしないとしても
自分から自発的にごめんなさいということに
デメリットよりもメリットの方がはるかに大きいように
感じられるようになりました。

日常生活再開の決め事は
結局仲直りがしたいという意思表示なのですが
この意思表示は、謝罪の言葉以外の行動ということになります。
「肩もみましょうか。」でも
「朝食は俺がちゃっちゃとつくるわ。」でも
「仲直りがしたい。」と言葉で言っているわけではありません。

言葉以外のコミュニケーションから
気持ちを汲み取らなければなりません。

このノンバーバルコミュニケーションが
できない人
できない時期、
できないタイミング
というものがあるということがあり、
それが夫婦間紛争の原因の一つになっていると思われる事例が
かなり蓄積されてきました。

ごめんなさいを強要することもだめなのですが、
自ら言わないということも大きな危険がある
ということを言わなければならないかなと
強く感じられてきました。

また、私自身、ごめんなさいということが苦手な時があり、
黙ってしまったり
ふざけてごまかしたりすることがあるので
家族に迷惑をかけないために
自分のこととして考えていこうと思います。

1 ごめんなさいと言われない人の心理 安心できないということ

ごめんなさいと言わない人がいるということは
ごめんなさいと言われない人がいることになります。

ごめんなさいと言われない人はどういう気持ちになるでしょうか。
ここを出発点とします。

紛争があるということは
夫婦間でなにかしら意見の食い違いがあったということになるでしょう。
あるいは、どちらかが一方的に相手に意見を言って
相手が戸惑っているだけなのに
例えば期待した反応をしないということから
責め始めるわけです。

(ここは次回に集中的に考え見るつもりなので
 今回は、詳しい話は割愛です。)

相手が感じることは、
「自分が否定された」ということかもしれません。
自分の意見が否定されたり、自分の態度が否定されたり、
自分の行動が否定されたということが実際なのですが、
言い過ぎている場合はたいてい、相手からすると
「自分の人格が否定された。自分の存在が否定された。」
という感覚になってしまいかねません。

極端な話を排除しますが
それだけで、「自分が殺される」と思う人はいないでしょう。
そんな恐怖は感じないはずです。
しかし、「自分が否定された」という感覚は
「自分を仲間として認めないと宣言された」
という感覚になりやすく、
「自分はいずれ、この仲間から追放される。」
と言われたような感覚になることがあります。
恐怖というか、憎悪というか、かなりの不快な感情を起こさせます。

そして、このように感じると、人はどうやら次に起きる感情として、
そのような「排除の予感を解消したい」という要求を持つようです。

排除の予感を解消するためには
・自ら行動を改める
という方法をとろうとすることがあります。
大切な仲間と感じており、仲直りができると確信している場合は
こちらの行動をとりやすいです。

新婚時代までは、双方がこういう行動をする傾向があります。
言い過ぎた方もそこで気づいて自分の行動を修正するという流れですね。

だんだんと遠慮が無くなると
排除の予感を解消するために
・開き直り、そちらこそ間違っている
という手段をとることが増えてきます。

逆切れだったり、さらに声を大きくして口論をしたりと
相手から見た自分の非を「無かったことにしよう」となるわけです。
「それは私が悪いわけではない。」ということですね。

そして、ついには、
相手が改善しないために、自分の排除の予感が途切れない
ということになると
ストレスを抱え続けることが人間は苦手ですから
・もういいや
と思うようになるわけです。
信頼関係が失われ
今の夫婦や家族に、あきらめて
相手にしなくなったり、離婚の方法を研究しだしたりする
こういう流れになるわけです。
離婚を後押しする人には事欠きませんので
そういう流れは太い流れが用意されています。

こういう対決姿勢からの離婚というパターンもあれば、
自分で自分を責め込んでいってしまうパターンもあります。

この場合、精神的に悪影響が現れるパターンがあり、
(メンタル悪化の主たる原因は別にあったとしても、悪化を増幅させている危険があります。主たる原因には気が付くことが少ないので、結局怒りや負の感情は夫ないし妻に向かうことになります。)
あるいは、日々面白くない体験を積み重ね
精神的に別離を選択することが多くなったり、
第三者(特に実家)から別離を勧められることに抵抗できなくなる
というパターンも出やすくなります。
結局正式離婚か家庭内別居に向かってしまいます。

「思い込みDV」の出現に親和しやすいパターンもこれかもしれません。

元々は結婚したくらいですから
仲良くし続けたいわけです。
相手の感情のこもった抗議があれば
「その感情に寄り添わなくてはならないのかな。自分が悪いのかな。」
という気持ちがどこかに芽生えてしまいます。
しかし、相手がどこで怒るのか
相手が結局自分に何を求めるのか
ということを理解できないままだとすると
あるいはそれが果てしなく続いてしまうと
結局どうしてよいかわからなくなります。
これ自体につかれて、もうよいかという気持ちになるのも一つの流れです。

そうではないとしても
「なんだ、結局は自分に服従しろということか」
という感覚になっていく可能性もあります。
もう付き合いきれない、疲れたということになるパターンです。

支配されている息苦しさを感じるメカニズムですね。
「思い込みDV」にとても親和しますね。

逆に「ごめんなさい」と言うとどうでしょうか。
自分の口論だったり、非難だったり、悪口だったり
そういう相手方が戸惑う自分の言動に対して
自らするべきではなかったという価値判断が示されることになります。

そうすると
自分を否定した言動をしたけれど
自分を排除しようとしているわけではなく
謝るというそれなりに感情的な抵抗のある行動をするのだから
自分と仲良くしていきたい
と、ある程度相手方の感情は回復される
という可能性が生まれるということになると思うのです。

但し、こちらが「ごめんさい」というセリフを感情的に言えないように
全く同じように、相手も
それを許すということは、感情的に難しいことがあるかもしれません。
しかし、「ごめんさい」は、あなたが作った相手のわだかまりを
薄皮をはぐような、じれったいスピード感なのかもしれませんが、
少しずつ確実に解消していると私は思います。

少なくとも、ごめんなさいと言うと言わないとでは
天地の差があると思います。

(ここまでのまとめ ごめんなさいを言わなければならない場面)

少なくとも、
あなたの気持ちに全く関わらず、言葉や態度から
あなたが、相手を仲間から排除すると思われるような場面では
ごめんなさいというべきだということになろうと思います。

例えば
離婚する
別れる
出ていけ、出ていく
死んでしまえ
消えてなくなれ
致命的な欠陥がある
人間としてやってはいけないことをしている
人間以下の行為だ、動物でもできる、赤んぼでもできることをできない。
絶対に許さない

と、まあ、言ってはいけないことを言った場合が典型ですね。
ついついエスカレートすると、
言ってはいけないことだからそれを言うのをやめよう
ということを判断することが難しくなり、
とにかく相手を叩きのめそうという意識が優先されてしまうようです。
家庭の中に敵が生まれてしまうというか
あなたが敵になってしまう危険があるということなのでしょうね。

あと、相手が大事にしていることを否定するとかですね。
親の悪口もこれに入ると思うのですが、

仕事はできない、収入は低いけれど
家族の時間だけは大切にしている人に対して
赤ん坊の面倒を見ている暇があるならもっと稼いで来いとか

家事全般はだめだけど、料理だけは頑張っているっていう人に
料理の悪口を言うとか
その人の最後の逃げ道を無くすような言動も危険でしょうね。

もちろん以上の言動は
最低限度、これだけはやってはダメということで
これ以上色々あると思います。
少なくともこの言動をうっかりやってしまったら、改まって謝って、
本意ではないことを分かってもらわなければなりません。

もちろん、誰でもこういうことを言っていけないということは
言われなくても分かっていることですが、
カーっとなっていると気にしなくなってしまうので、
予め言葉で押さえておくことも大切だと思います。

2 どうしてごめんなさいと言えないのか。

こちらの本心とは関係なく
相手が傷ついた可能性があるならば
きちんと改まってごめんなさいという方が
後々悪くなる危険が小さくなるのだから
謝まることによって、メリットがあることはわかると思います。

しかし、なかなかそれができない。
これは紛争が起きた後の事例に限ってでしょうが性差はあまり無いようです。

理由をいくつか考えてみましょう。
A)
自分が悪いことをしたとは思っていないこと

これ多いでしょうね。
自分を守るモードに入っているうちは、この意識が続くようです。
それなりのことを言う理由は
相手からそれなりのことを言われたということや
それなりの事情があることはわかります。

良い、悪いとか、正義とかが家庭の中に入ってくると
収拾がつかなくなります。
これは家族ではない他人同士のルールであって、
家族のルールは、家族を安心させるようにみんなが努力する
家に帰ればそれだけでリラックスできる家庭を作る
ということこそがルールになるべきだということは
これまでもお話してきましたので繰り返しません。

相手を安心させるという目標に照らして
謝るべきか否かを考えるべきだと思います。

また、何について謝るかは色々あると思います。
大きな声
言い方がきつい
名前を呼び捨てにした
とにかく謝る部分を探し出して謝って
その後に本心ではないことを説明する
ということになると思います。

B)
悪くない時は謝らないという信念を持っている

これ、結構金科玉条のように行動指針にしている人って結構多いですよね。

親から悪くないのに謝るなと言われて続けているとか
めったなことで人に頭を下げるなとか
自分の非を認めると後々後悔するとか
「謝ってはいけない」という信念のようなものを持っている人って
けっこう多いようです。

その信念のために
きちんと考えることができず謝らない

一度謝ると、後々何か言われて
立場が悪くなるかもしれない
と、そこまで本当に考えているのかわかりませんが
梃子でも謝らない人って結構多いようです。

家庭生活を営むにあたって、
あなたをむしろふりな立場に追いやる危険があります。

C)
謝ることが癪に障る 謝るという行為に抵抗感がある

私なんかはこれが一番しっくりくるかもしれません。
理屈でなく、謝るのが嫌だという感情です。

それは、感情的に対立するまで
双方の言い分があって、対立が生まれて
爆発するわけですから、
そういう攻撃モードを切り捨てるということは不自然で
なかなかできることではありません。

また、こっちが言っていることと
かみ合わないことを相手が言っているから
余計にイライラするということが通常の夫婦喧嘩のようです。

それなのに、こちらから頭を下げるということは
どうしても納得のできないことです。

よく大人になって、相手を立てなさい
とか言われますけれど
それはどういうことでしょうか。

おそらく、子どもであれば
感情をストレートに表現していても良いかもしれませんが
大人の場合は、家族を作るという任務があります。
おそらくそれは大人の責任であり
大人と子どもを分ける物差しなのだろうと思います。

言い分を通すよりも
家族の和を追及するのか大人だと。

だから先に謝って、家族の和を作る方が
大人なのだということになると思います。

そういう意味では、最近大人らしい大人が少なくなったのかもしれません。

家族を悲しい思い、辛い思い、寂しい思いにさせたくない
という考えを責めて家族の中では優先させるべきなのでしょうけれど、
自分を守るという考えが気が付かないうちに優先されてしまっている
ということなのだと思います。
なぜ、そんなに自分を守ることが最優先課題になるかについては
いずれそのうち、考えていることをお話しする機会があるかもしれません。
最近の大きなテーマです。

今回は、
ごめんなさいということを通じて
頭の中に入れておくと
言わないで済んだり、言ってもすぐに謝ったりして
致命的な失敗にならないだろうということで
お話しさせていただきました。

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「大変だね、苦しかったね。」と言われたい人たちと虚偽DVからの連れ去り別居の流れ ありもしないDVを主張する一つの理由 [家事]


前回代理ミュンヒハウゼン症候群の話をしましたが、
「あ、そういえば」とハタと気が付いたことがありました。

代理ミュンヒハウゼン症候群も、
主に母親が子どもが病気だと偽って
「お子さんが病気でお辛いでしょうね。」
「お子さんの世話を一生懸命されて大変ね。」
と言ってもらいたいということから
病気でもない子どもを病気に仕立て上げ
治療まで受けさせるということでした。
厚生労働省もミュンヒハウゼン症候群が動機の母親の殺人の統計を取っています。

DV相談経由の子の連れ去り、離婚事件というコースの中でも
そのような心理で矛盾なく説明できるケースが
山ほどあることに気が付きました。

あとから情報公開でDV相談の記録を取り寄せて
相談内容を証拠で出してくる同居母がいます。
「私が子どもを連れて出ていきたいと思ったのではなく
 行政から言われて仕方なく出て行ったのだ。」
ということを証明するためのものですが、
だからといってよりを戻そうとしているわけでもないようです。
なかなか理解が難しいケースに、時々出くわします。

こういう、目的がよくわからない行動をする方は
DV相談に行く場合でも
もちろん、離婚したいから行くわけではありません。
相談担当者から
「それは夫のDVよ、モラルハラスメントよ。」
と言われ、
「あなたも大変ね。辛いわよね。」
と言われることを望んでいるようです。

実際、はっきり相談の経過が記録されている事例では、
行政関係の相談に行って
話すだけ話して、
さあ、弁護士につなげましょうか、行政で取り上げましょうか
という段階になると、相談所から足を遠のかせて
電話にもでなくなるということを繰り返している人がいました。

何回目かの相談会で、
心配した行政相談担当者がマニュアル通り警察につなげてしまって
どうしても警察に行って相談しなくてはならないまで追い込まれて
いつもの調子で、夫の行為をあることないこと言ったところ
二時間くらい説得されてシェルターに入る羽目になった
そういう記録がきちんと残っているのです。

その母親は警察でも別居しないと頑張ったのですが、
別居しない理由が確かに説得力がないのです。
例えばクリスマスを一緒に祝わないと子どもがかわいそうだとか
家族で旅行に行く計画があってキャンセルするとお金がもったいないとか
本当に命の危険のあるDVを受けていたら言いそうにもないことを言って
でていくことを拒否しているのです。

命の危険は実際にないので、別居する必要を感じていないからです。
それどころかDVやモラルハラスメントさえも実際はなかったのです。

むしろ財布も、夫の給料口座も、夫名義のカードもみんな自分が持っていて
夫にはわずかな小遣い(昼飯代も事欠く金額)を渡すだけの専業主婦でした。

だから、「夫のことはみんな嘘でした」と正直に言えば良いのに
それを言わないものだから、
マニュアル通り警察官からは居場所をくらますように言われるわけです。

マニュアルに決められているので、
妻の被害を疑うことはしていけないわけです。

その結果、その妻は
夫の給料口座から全額抜出し(ボーナスが出たばかりでした)、
カードで限度額までキャッシングをして
子どもを連れて家を出ていきました。
子どもだけかわいそうです。

シェルターでもどこでも、疑われません。
「疑ってはいけない」というマニュアルがあるからです。
矛盾があるのは被害者だから仕方が無いというのです。
どこでも「大変だったね。辛かったね。」で
離婚までは言われ続けるわけです。

このような相談から子連れ別居という流れが多く、
配偶者暴力センターの相談数と面会交流調停の申立件数が
連動しているという事実もよくわかります。

同情を受けたいという要求が作り上げた虚偽DVですから
夫は寝耳に水です。
子どもとも会えなくなるわけですから
それは調停申し立てをするわけです。
理不尽な人格侵害ですから。

どのような理由で、妻がありもしないDVを言うのか
そのあたりが謎でした。

精神的状況から
自分がそのような扱いを受けたと思い込む場合があることは
これまでも「思い込みDV」ということで説明は可能でした。

しかし、一定数、
それでは説明しきれないケースもあって
モヤモヤしていました。

連れ去り別居から離婚に向かう女性の中に
一定数
ただ「辛かったね。苦しかったね。」と言われたい
ということを最大の目的として、
配偶者暴力の相談会に行く人がいる
ということであれば、かなり理解ができます。

そういう人たちは、
「そんなことないよ。考えすぎだよ。」と言われることが
大嫌いだそうです。
「子どものためにも頑張ったらよいのではないか」等と言われると
すぐに席を立つのかもしれません。

複数の精神科をはしごする人もいます。
話を真に受けてもらえ、話の矛盾も指摘されない。
ただ、「辛かったね。苦しかったね。」と言われるところには
自分の調子に合わせて何度も行くようです。

そういうところで、夫の悪口を
あることないこと言って
マニュアルどおりに同情してもらい
あなたはそのせいで病気になったと言われれば
かなり要求が満たされるのでしょう。
でも、ありもしない夫の攻撃を言い
ありもしない自分の精神症状を言っている自覚があるのでしょう
病院で出された薬は飲まないという人も一定いるわけです。

シェルターに入っても、
すぐに出てくる人がいますが、
おそらくシェルターで
支持的に対応されなかったからなのでしょう。
頑張れと言われたり、あなたなんて大した被害はない
他の人はもっと・・・
と言われればすぐに出てくるでしょう。
目的がかなわないからです。

では夫はどうしたらよいのか。

夫が先行して
「大変だったね。辛かったね。」
と何か言えればよいのですが、
なかなかそんなことを言うきっかけはありません。

厄介なことに夫がいくら家事や子育てに参加しても
プラスにカウントされることはありません。
やらなければマイナスですが、
最高ポイントゼロ点にしかなりません。

プラスポイントになりそうになると
「あなたは家事を自分一人でやっていると思っているんでしょう。
 みんなにそう言って回っているんでしょ。」
と言い出す始末です。

こういうケースで、「どうすればよかったのでしょうか。」
と言われてしまったらうまく回答をする自信はありません。

おそらくということで今考えているのは、
黙々と家事育児をこなすことよりも、
「いつも大変なことをさせてしまって申し訳ない」とか
「いつもありがとう」
と口先で言うことの方が
よほど評価が高いのではないかということです。
これも大事なことなのだということを
生真面目な男たちは考えなければならないのかもしれません。

結果を出すより先ず口先

そしてそういえば、
「そんなことないよ」とは決して言いません。
(もしそう言われれば、無上の喜びをかみしめるべきです。
 自分は人類最大の幸せ者だと感じてもそれほど大げさではありません。)
現実には、ガンガン文句が湧き出すように出てくるようです。

おそらく、そういうことを言いたいだけ
という現象があるようです。
われらが生真面目な夫たちは
不正確であれば正そうとするし、抗議をしてしまいます。

言わせておく
ということも大切なのかもしれません。



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SNSでの家族情報拡散と夫婦問題 [家事]


SNSの普及は目覚ましいものがあります。つい10年前は、私にとってもSNSは全くの他人事でした。今でもやらない人はやらないと思いますが、一度始めてしまうと、時間が空いているときは、ついのぞいて見てしまうという人が多いのではないでしょうか。

フェイスブックなどでご家族の様子をアップされている方がいらして、長年継続的に見ていると、お子さん方も知り合いのような情わいてきてしまいます。成長の早さに驚いたり、無邪気な様子に笑顔にさせていただくなど、幸せを願わずにはいられません。

そういうご家族ぐるみで情報発信されている場合は良いのですが、ここ数年位の間で、SNSの情報発信が、離婚理由の一つとしてあげられるケースが増えてきました。SNSは、使用を誤ると人を追い込んだり、誤用をして自分で追い込まれてしまうという危険をはらんでいます。いじめやパワハラの手段にも使われるという情報も耳にします。これまでになかったツールなので、それが持つ危険性や危険回避の方法があまり意識されていないという、ツールとしての成熟度が途上にあるという感じです。

夫婦間のトラブルとしてのSNSトラブルは、主として妻の側からの不満として聞かれます。夫が自分の同意なく、家族の情報を不特定多数の人間にSNSを通じて発信しているというところに不快を感じているというものです。そしてやめてくれと言っても止めないということが不満の中核のようです。

しかし、離婚訴訟などでは、夫のSNS発信を名誉棄損であるとか、誤った情報を流された結果自分の対人関係から追い出されてしまったなどという夫の違法行為としての主張になってしまうようです。こういう主張になってしまうと、夫の側も、名誉棄損には該当しないとか、SNSは限定公開なのでそのような効果は起きていない等と応戦してしまうわけです。

裁判がどうなるかというよりも、こういう夫婦問題が起こりうるということを知ってほしいということと、考え方の選択肢が増えるとよいなということから少し考えてみようと思いました。

夫婦の間で、一方が嫌だということを無条件にしない
ということも一つの選択肢だと思います。

ところが、これがなかなかできない。なぜできないのかをまず考えましょう。

1つは、SNSで情報を公開されることが嫌だという妻の気持ちをあまりよく理解していないということが理由になると思います。妻自体が、どうして自分がその情報発信が嫌なのか説明できないということがあるようなので、ここでは推測してみることにします。
2つ目は、どうして家族が嫌だということが分かったのにも関わらず、情報発信をしたくなるのかということについても考えてみたいと思います。

まず、どうやら理由の1と2は、あまり切り離して考えるべきではなく、根は一つのようです。せっかく分けて問題提起しましたが、一緒に考えてゆきます。

家族のSNS使用をめぐる対立は、実際には色々な心理的要因があると思うのですが、ここではSNSという仮想空間の問題性を中心に考えてみます。フェイスブックを例にお話を進めますが、その他のSNSも同じだと思っています。

フェイスブックの使い方と言えば、タイムラインに投稿したり、タイムラインに上がってきた記事を読んだりするわけです。そこで、自分の投稿に対して、誰かからの反応があったり、コメントが書き込まれたりするわけです。誰かの投稿に対して、自分も反応したり、コメントを書き込んだりするわけです。住んでいる場所も違えば、リアルには面識もない人とやり取りするわけです。

積極的にフェイスブックを活用する人たちは、どうやら、フェイスブックのタイムラインを、自分の人間関係だと感じているようです。表現はなかなか難しいです。友人関係と言っても良いのかもしれません。その人によって、そのとらえ方、程度は違うようですが、われらが夫たちは、なにか悩みがあったら相談できるし、必要な情報があれば提供を求めることができる、その代わりフェイスブックの友達の相談には乗るし、自分の持っている情報は積極的に提供をする。そうやって、感情を共有する仲間のような感覚になっているようです。ある意味、タイムラインは生徒にとっての学校の教室のような場という感じでしょうか。

ひとたび、フェイスブックが、自分のコミュニティーだと感じてしまうと、人間の本能として、仲間のために貢献したいという気持ちや、仲間に承認されたいという気持ちが生まれます。できるだけ、意味があるようなリアリティーのあるような投稿をしたいと思うのでしょうか。投稿の回数も増えるでしょうし、内容も様々なこと、身の回りの出来事も載せていきたくなるのでしょう。また、仲間からの自分の苦境に対する励ましも求めてしまうことになるのも自然な流れだと思います。但し、ここでいうリアクションを期待する相手は、特定の誰かというよりも、仲間の中の誰かということになるのではないかなあと推測しています。敢えて言えば自分のタイムラインという実体のない仮想人間とでもいうのでしょうか。特定の誰かならば、メッセンジャーを使えば良いですからね。そうして、フェイスブックは、自分の都合の良いときに、都合の良い情報を獲得するバーチャルな友達のたまり場みたいになっていくのでしょう。こうなってしまってから、ふいにフェイスブックの投稿や閲覧をやめろと言われても、なかなかできるものではなくなるのです。仮想空間の中に「自分の立場」が生まれているという意識になっていると思います。

フェイスブックを積極的に活用する人は、見ていると、社交的な人で、不特定多数を前にしても動じず、人前で普通に話すことができる人で、リアルな集まりでも堂々と自分の意見を言える人、仲間に対して仲間全体の活動の方向性を提案できる人という性質があるようです。また、他人から自分が攻撃を受けることを想定しない傾向のある人、1人1人の反応をあまり想定しない人、自分の考えに他者も賛同するだろうと漠然と考えている人ということになりそうです。お人好しのお節介ということがあると思います。人懐っこく、しかし、傷つくことが多い人かもしれません。なぜか敵対的な対応をされることがあり、理不尽な思いもするようです。

われらが妻たちは、この点に関しては逆のタイプの人のようです。あまり大勢の中に出ていきたくないタイプであり、人前に出ると何を話せばよいのか分からなくなり、仲間の中にいても数人以上の仲間だと、ただ邪魔にされなければ良いやと感じる人、その代わり二人になれば自分の意見とか希望を持ち、積極的にお話をするようになるようです。でも自分の気持ちなど大事なことはうまく言えないために口に出すことができず、できればそういう気持ちを察してほしいと考えているようです。他人に対しては漠然とした不安があり、自分の意見が通ることはあまりないだろうと考えているようです。他人とコミュニケーションを取りながら争いになることを避ける工夫をすると言うよりも、できるならば争いを避けるという意味合いもあって、コミュニケーションをとらないで済むならばとらないでおきたいという感じでしょうか。
みんなの中にいるよりも、安心して家庭や気のおけないいつもの少人数の友人の中で過ごしたいという感じでしょうか。
こういう人はフェイスブックを活用することは少ないようです。利用したとしても、誰かの投稿を閲覧するくらいなのだと思います。

夫婦の中で一方だけがSNS発信をする場合(に限らずなのですが)の注意事項を3点考えてみました。

先ず第1に気が付かなければならないのは、人には個性があって、フェイスブック一つとっても、アプローチが全く違うということです。そして、おそらくどちらが正しいとか、どうしなければならないということもないのだということです。どうしても、新しい技術などが出現すると、それを取り入れなければならないと思い込む場合がありますが、それは根拠のない洗脳だと思います。
そしてできるならば、お互いの個性を尊重しあう方が良いということです。フェイスブックをするなというよりも、家族の情報は流さないでほしいというならば、それはしないから後の活動はさせてくれというような妥協案が一番理性的なのだろうなと思います。やるかやらないかではなく、譲歩し合うということですね。
フェイスブックをやらない人にとっては、不特定多数人にメッセージを発信することすら本当は恐怖なのです。誰かが家族のフェイスブックに否定的なコメントを書き込まれてしまうと、かなり恐ろしいことが起きていると感じるようです。本当は、そこまで家族を不安にさせてまでフェイスブックをしようという気持ちはないのですが、もはやタイムラインに自分の立場というものが確立されていますから、やめることはなかなか難しい。それもわかります。

次に気を付けなければならないことは、デジタル情報は加工ができるということです。今の中学生は、こういうことが自在にできるようです。スクリーンショットをとって、加工をして拡散してしまう。ただ、その加工は全面的に行われるということは少なく、部分的な加工がなされることが圧倒的に多いです。ここからの結論としては、やはり、誰か他人のことを話題にして投稿してしまうことは大変危険だということになるでしょう。誰かの失敗や落ち度、不十分なことを話題にすることは大変危険です。また他人の情報を発信することも控えた方がよさそうです。公開の範囲が限定的であっても、リアルに信用ができる人ばかりではなく、ほんの出来心で、加工をして一般公開されるという事件は少なくありません。

最後に気を付けなければならないことは、永久保存されるということです。本当は相手方は、その投稿をリアルタイムには見ていないはずなのですが、その投稿のせいで自分の行動が制限されたという主張が結構出てきました。証拠としてその投稿画像が出されることは、画像保存をしておけば手軽にできることです。しかし、その投稿時に、相手のネット環境がどうだったかということを証明することは案外難しいことです。また、おせっかいな人が、その画像を相手に見せているかもしれません(けっこう少なくありません)。一度投稿してしまったら逃げようがなく、確定的に不利になってしまうということがよく見られます。

もちろんこれらのことは、フェイスブックなどSNSに限らず、普通のEメールなどでも起き得ることです。大事なことは、我々は便利なところに着目してインターネットを利用し始めていますが、デメリットをすっかり把握していないということなのだろうと思います。

SNSに手を出さないでくれという人の気持ちはわかります。しかし、なんでやってはだめなのかわからない。理不尽な行動制限だという気持ちもわかります。問題は一緒に暮らしていくという意味をどう把握するかということなのかもしれません。また、本当に大事な人を守るという発想を持って話し合うということなのかもしれません。
私ももう少し考えた方が良いかもしれません。

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仲良くしたいなら、言わなくてもよいことを言わないことがいかに大切か。夫婦間紛争に見られる言わなくても良いことを言ってしまう現象。共感を示す訓練としてのSNSの活用 [家事]


夫婦問題だけではなく、SNSなんかでもそうですよね。
本当はお互い仲良くしたいのですが、第三者から見て喧嘩を売っているようにしか見えない行動ばかりする人っていますね。そんな発言を自分に浴びせられ、時には衆人環視の下で攻撃を受けていると感じさせてしまう。それでも、言っている本人はそのことに気が付かない。前の前の記事でも書きましたが、自分は正当な行為をしているからやらなくてはならないことをしているという正義感が、人に対する攻撃を可能にするわけです。まあ職業的にやっている人もいるようですが。

例えば、そういうことが積もり重なって、妻が家を出ていくという段階になれば、もはや妻の側が怒りの攻撃モードですから、何の容赦もなく夫を精神的にも踏みにじるわけです。裁判所での離婚手続きでも専門家から見てかなりえげつないことを主張するなということもあります。
でも、同居を始めた段階では、後にそうなってしまった妻も、夫と仲良くしていたい、ずうっと添い遂げたいと思っているものなのです。むしろその気持ちが無ければ、夫からどんなことを言われても傷つくことはないし、利用するだけ利用してちょうどよいときに離婚すればよいやと割り切ることができるわけです。

むしろ、仲良くしていきたいと思うから、夫の些細な言動にも傷つくのです。

これは、第三者としてみればよくわかることです。しかし、おそらく当事者は、結果として相手から攻撃されているという感覚をもってしまっていますから、その結果自分を守ろうとする気持ちが強くなっているために、相手の弱い部分が見えてこないのだろうと思います。こう整理すると、とても当たり前のことに思えるから不思議です。

精神的ダメージとは何か。これは、自分を守れないという見通しを持ってしまうことです(まあそう割り切って考えてみてください)。守れないとはどういうことか、自分の危険を回避することができないということです。自分の危険とは何か。それは一つは身体生命の危険です。もう一つは、対人関係的危険です。対人関係的危機とは、今いる人間関係に安住することができない、追放されるという危険です。人類は言葉がない時代からこの対人関係危険をもち、生命身体の危険と同様に反応して、行動を修正して群れをつくることができたのだと考えています(対人関係学)。

現代の日本社会では、心理的に夫婦関係に依存する傾向があり、自分が夫婦という立場で尊重されていないと感じるととても不安になるようです。「尊重されていると感じ続けないと不安になりやすい」ともいえると思います。仲良く過ごす時間が多いほど、自分の要求が認められやすいほど不安が少なくなります。逆に仲良く過ごす時間が短いほど、自分の要求を相手がかなえないほど、この関係が長続きしないという見通しをもってしまい不安になっていくわけです。
男女差がどこまであるかわかりませんが、事件に現れた限りの共通項として、妻が夫に求める要求が、共感を示してほしいということのように感じます。
そうだね。
あなたの言うとおりだと思う。
おんなじことを考えていた。
そう言われればその通りだね。
その気持ちわかる。
賛成です。
そのセレクト感じよいね。
等々、実は私も共感の示し方は修業中の身です。

まじめすぎる男性に、経験者のアドバイスとしては、

共感を「する」のではなく、共感を「示す」という発想が大切だということです。

夫婦といっても、元々他人ですし、育った環境も経験も違う。だから、性格が一致することありえません。若い頃は幻想を抱くものですが、繁殖期を過ぎる頃は夢見るころを過ぎる頃です。現実に気が付きます。でも知恵が生まれます。経験値も獲得しています。共感を示すこと自体はだれでも比較的簡単にできることです。

共感を言葉にしていくうちに、だんだん自然と共感できていくということもあるわけです。心は後からついていくものです。私なんかが示した共感で相手が安心してくれるならば、なんてありがたいことでしょうか。人間としてこの世に生まれてきた意義を感じるわけです。それでもこれができない。相手に精神的ダメージを与えることを言ってしまう。こういう問題だと思います。

見当はずれの正義感を持つのは良いとしてもそれを言っても何も良いことが起きないことを言うことでどういうことが起きるでしょうか。

相手は本能的に自分の行為を肯定してほしい。共感を示してほしいと思っているのです。つまり仲良くしたいということなのです。それなのに、ついつい言わなくても良いことを言ってしまうことで、きれいともいえる見事なカウンター攻撃をしているわけです。

例えば、
「パラリンピックって感動するね。
 望みを捨てないで頑張ることの尊さを教えられるね。」
という言葉に対して、
「緊急事態宣言下でやるパラリンピックなんて信じられない。
 パラリンピックやめて、医療従事者をコロナ治療に回さないと
 自宅で死んでしまう人が増えてしまうだけだよ。」
という何気ない会話があるとします。

最初の発言者は、純然とパラリンピック見て感動したということを言いたいわけです。発言者からすると感動した気持ちを共有したいことがわかります。しかしこれに対して、パラリンピックの選手の頑張りとは違うことを言い出してもっと別の感覚を持たなければならないと相手の発言を否定して、感覚までも否定してしまっているわけです。後者の発言(政治的な意味ではない)をする男性は結構多く、我が身を振り返ってもそうかもしれないと思うことがあるのですが、あなたが夫婦の会話で正しいことを言ったとしても世の中に何の影響も与えないわけです。世界中で何一つ良いことはおきない。ただ、自分のかけがえのないパートナーが自分を否定された、自分に共感してくれないというもやもやを残す記憶が蓄積されていくだけです。自分に共感をしてくれて、自分の感覚、自分自身を肯定してくれる、つまり、自分を大事にして、いつまでも仲良くいたいという同じ気持ちをもっていてくれるから二人でこのまま暮らしていけると思える、そう思えるリアクションを要求して、せっかく発言しているのに、その要求はこの人には簡単に否定されて、要求がかなえてもらえなかったという記憶が残るだけなのです。特に楽しい気持ち、悲しい気持ち、感動を共有したいということを拒否されたということは強烈なダメージを受けるでしょう。しつこいですがダメージを受ける理由は、仲良くしたいのに拒否されたということからなのです。あなたのパートナーが、「どうせわたしの気持ちなんてどうでもよいと思っている」と割り切っていれば、そういう語り掛け自体が無くなるわけです。「どうせ都合の良いときに離婚すればよいや」と思っていればどんなリアクションしても気にはならないわけです。

離婚訴訟にもなれば、少しでも相手の落ち度を主張して、相手の責任で離婚するしかなくなったと主張したいわけです。そうすると、代理人としては、「こんなに強く離婚したいという気持ちがあるのに、どこからそのような離婚をしたい気持ちが出てきたのか」と何か理由があるに違い無いと思い(こういう発想は大事)、当事者も自分でもうまく説明することがで来ていないなと思われるケースに多く出会います。マニュアルに当てはめようとする代理人たちは、なにか暴力があったのではないか、なにか暴言があったのではないか、虐待事例があったのではないかという視点で聴き取りを行います。そうすると、そういうはっきりした記憶はなかなかない。ただ、大きな音を出されたことを覚えているということで、なにかを倒して落としたという出来事を、自分を威嚇するために重量物を投げたという主張になるし、ハサミで怖い思いをしたということを言われれば、本当はペットの毛を刈ろうとしてペットを追いかけていたことをハサミをもって自分が追いかけられたという主張になるわけです。これ、大げさではないと思います。けっこうリアルな例えです。自分に対して不信感を持ったのではないかと心配したという出来事があれば、不信感を口に出されて侮辱されたという主張になることも良くあります。事実と違うことを裁判所で主張しているのだから、嘘をついているということになり、言われた方もムキになって反論するのは当然のことです。
しかし、私が女性の側の代理人をすると、心が壊れるというか、信頼が壊れるというか、仲間ではなく敵だという感情が育つというか、そういうリアルな過程が見えてくるわけです。それがわからないと、ずいぶん前の暴力だから離婚理由になるのかなという発想でものを考えますが、実際にどうだったかということで主張をすればよいだけと余計なことを考えなくて済むようになります。そうして実際に起きたことを冷静に積み重ねていくことによって、裁判をしないで離婚の話し合いが進むということが多くなるように感じています。マニュアル通りに、判決に有利にしようという発想に基づく活動が、逆に離婚紛争を長期化し、激烈化しているように感じることが多くあります。また立証できない主張をして不利益を受けた人たちをたくさん見ています。

そうやって離婚事件をとらえ直すと、離婚に至るリアルな流れというのは、元々はこの関係を大切にしたいという気持ちが強いために、同居中も自分は尊重されていないのではないか、自分という存在は相手の中で否定されているのではないかという「予期不安」が先行し、そうではないと自分に言い聞かせていながら、自分の不安を裏書きしているような相手の行動が起きてしまう、最終的には衝動的に別離の言葉を相手から聞くと、「ああやっぱり自分という存在が否定されていたのだ」という意識が強くなり、それまでの時間がひどく屈辱的に思えてくるし、相手に対する信頼は無くなり、嫌悪や憎悪が募ってくる。そういうタイプの離婚が実数としては多いように感じています。

それでも、そういう激烈な離婚訴訟を仕掛けられても、なお、やり直しを目指す人たちがいます。私は、やり直したいと思うことはとても素晴らしいことだと思うので、無条件に尊敬します。特に夫婦の間に子どもがいる場合は、少しでも信頼関係を回復することが子どもにとっての利益になります。全力で応援したいと思うのです。
しかし、そういう方々の多くが、つい余計なことを離婚訴訟においても言ってしまうのです。確かに、事実に反することは事実に反するとはっきりさせる必要性が離婚訴訟と保護命令手続きでは特に大きくなります。ただでさえ、相手の発言を否定しなくてはならないのに、さらに余計な、意味のない正義感にもとづいた発言をしようとしてしまうのです。前の前の記事でもこのことを書きました。そういう行為をしたから心が離れたというのに、ついそれを改めて裏書きしてしまうのです。結果的に自分の目標とは逆方向の行為をしてしまうのです。

私、SNSって、このような逆方向の行為をしないための訓練に利用できると思っています。フェイスブックを例に挙げて説明します。

先ず、共感が持てる主張、応援したい人の記事、参考になった投稿には気持ちに応じたリアクションボタンを押す。こういうリアクションがあったらうれしいだろうなと思えばやはり押す。応援したい発言は、それなりのリアクションを選んで押す。
次に、以下のコメント欄への書き込みは善意や親切心であってもしない。
内容が不正確であると思われることの指摘、修正、補足
スレ主と意見が違うという表明、
もちろん批判、反対意見、
スレ主の本当に言いたいことと違うテーマ、自分の興味関心
スレ主が知らないであろうと思われる情報の提供
要するにスレ主が言いたいことに対する共感、肯定以外の書き込みはしない。

すべてのフェイスブックをこう使えとは言いませんが、あくまでも訓練として利用する場合の話です。本当は見ず知らずの人の記事なのに、コメント欄に見当はずれのコメントを敢えてする人って多いですよね。要するにこんな感じのことをやめる訓練というわけです。

自分にも覚えがあります。また、そのテーマで自分で記事を投稿したり、メッセンジャーで連絡をしたりというならまだよいのですが、それもどうしてもしなければならない時に限定するべきだったと今では感じています。ご迷惑をおかけしたすべての方々にお詫びします。

提灯記事みたいな投稿ばかりで馬鹿らしいと思うでしょう。私にはよくわかります。つい最近までそんな感じでした。でも最近気が付いたのですが、案外みんな(一部の人を除いて)こんな感じで利用しているようなのです。フェイスブックで間違いを指摘して是正してよいことなんてそんなにないし、そういう書き込みをしている人の書き込みは的を外れたことが多いようです。誰の需要も満たさない。ただ書きたい人の書きたいという要求を満たすだけ。でも正しい指摘をしたいという要求は無くなってくれません。私とか正義感の強い人は他人が間違ったことをしていたと思うとどうしても指摘したくなるようです。これですこれが問題なわけです。案外多くの人は、そういう相手の言うことを部分的にでも否定することをしたがらないもののようです。

どうも、我々は、いうべきことを言うことを躊躇してはいけないということを誰かに思い込まされているようです。最初はばかばかしいと思うかもしれませんが、これをやっているうちに、だんだんと穏やかな気持ちが加速していきますから、人間関係を修復したい方は是非お試ししてください。

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夫婦仲を壊し、再生を妨げるのは「正義感」かもしれない つい家族を攻撃してしまう人の心理 家庭の中に敵が生まれるとき2 [家事]



この一つ前の記事で、出産をしたり、特定の病気になったりすると、自然と夫婦仲が壊れやすくなることについてお話ししました。
その壊れ方を加速させる問題として、家庭の中に正義感が持ち込まれることの害悪についてお話をしたいと思います。
正義感についての考察については前に書きました。
「正義を脱ぎ捨て人にやさしくなろう。」
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2019-02-18

今回はこれの家族版ということになります。

典型的なのは、子どもを妻に連れ去られて離婚を突き付けられている人が、家族再生を目指す場合にも、つい相手の行動が許せなくなって責めたり批判したりしてしまうということがあります。
ある日仕事から帰ったら妻子が家におらず、荷物もなくなっている。連絡も取りようがない。妻の実家に行ってみたら、大勢の警察官に取り囲まれてしまった。というような事案です。通常、例えば私なら、子どもを奪われたということや、自分の人間性にダメ出しを食らったということで、怒りに任せて行動するところです。それでも、そういう状況にあってもなお一定の方々は、自分にも修正するべきところがあるとして、専門機関にレクチャーを受けに行ったりして、何とか家族やり直そうと努力する方々がいます。これ自体とてもすごいことです。私も、何とか力になりたい、また、何とか子どもをもう一人の親である父親に会わせたいという思いで、取り組んでいます。
大体の妻が出ていく原理と心情がわかってきて、どうやら、妻は、夫と一緒にいると安心できない気持ちになる。その理由の大まかなところは前回の記事でお話ししました。問題は、妻の心が離れかけているのに、つまり夫から攻撃されていると感じやすくなっているにもかかわらず、火に油を注ぐ様な行為を夫がしてしまうということのようなのです。妻の心が離れるにあたって夫の暴君的な心理的圧迫が先行する事例というのは、現代では少数になっていると感じます。実数として多いのは、前は気にしなかったことを妻が気にするようになっているということから心が離れ始めていると感じています。
そうだとしても、もしかしたら、夫の対応を修正することによって、妻の安心できない心情がそこまでエスカレートしなかったのではないかという思いもあります。

そうすると家族再生を目指す場合の方法というのはわかりやすいです。新たな攻撃と受け止められる行為をすることをせず、過去の攻撃と受け止められた行為を自ら否定評価し、感謝と尊敬をきちんと言葉に出していくことで、あるいは妻の心情に寄り添うことによって、家族再生の方向へ向かうと考えることができるはずです。そしてこれができたケースでは、復縁というところまではいかなくても、子どもとの比較的自由な時間を、長く充実したものにできるというケースが確実に生まれ始めていると実感しています。あくまでも私の感覚なので、頼りなくて申し訳ありません。

ところが、家族再生を目指す方々であっても、少なくない割合でこの努力がうまくできません。ついつい、妻にとって攻撃だと受け止められることを、妥協を許さない感情をもってしてしまっています。

これが何なのか、
どうして家族再生と矛盾する感情が生まれてしまうのか、
どうすればそれを抑えることができるのか
について、考えてみました。

<家庭の中の正義感が家庭を壊すメカニズム>

一言で言って「正義感」が問題だと思っています。
正義感の具体的中身としてよく見られるのは、
・前に言ったことと違うことを言っている。
・約束を破っている。
・合理性のない行動や効率の悪い行動をしている。
・不公平な扱いをしている。
・社会常識に反している。
・社会的に要請されることをできていない。
・嘘を言っている。
こんな時に正義感が発動されてしまうようです。

一見すると、そういう場合は何か言って当たり前なのではないかと思われることと思います。問題は、こういう正義に反する行動について、容赦なく批判したり、怒ったり、否定したりして、当初の目的である家族再生を忘れてしまうことなのです。人の価値観ですから、こうするべきだということは言えません。こういうことができない人間とは一緒にいることはできないから、別れると言うならばそれを止めることはしません。私はあくまでも、家族再生という大目的の助力を依頼されているので、その目的に照らして、目的を前に進める言動か、後退させる言動かを述べるだけです。

それでも、家族再生を後退させる言動だと指摘すると、怒りがこちらに向かってくることも少なくありません。私は自分の仕事をするだけですから、口論になることもあるわけです。これまでの私の関わった仕事の中で離婚後の家族再生に一番近い方とは、調停の時間中ずうっと口論していたような気がします。

今家族再生を目標として、色々と学んで反省をして、さあ家族再生だと頑張ろうとしているにもかかわらず、正義感がどうしても優先して出てきてしまうようです。
これは、今何事も無いように結婚生活を送っている人でも、覚えがある人が多いのではないでしょうか。もちろん自分にも覚えがあります。
例えば
子どもを幼稚園に送り出すときに、子どものお着替えを妻が担当していたのに、夫がたまたま仕事の途中で家に立ち寄ったら、ズボンもシャツも脱いだままに丸まって床にそのままになっていた。だらしないからきちんとしろと言ってしまう。
本当は、自分がたたんで収納すればよいのです。それで終わりで良いはずです。何らかの事情があって服を収納する時間がなかったのだろうなと想像すればよいのです。それをしないで責めてしまう。これ、服のことならやりすぎだとはっきりわかるのですが、食べ物の管理がだらしないとなると、相手を責めたくなる気持ちが出てくる人が多いのではないでしょうか。
例えば
週末に家族でドライブに行くという約束をしたのですが、妻が自分の服のバーゲンセールの情報をゲットしたので、買い物に行きたいと言い出した。子どもも楽しみにしていたので、それはないだろうと責める。ここまでの事案ではないにしても、突然の心変わりは結構あるようで、回転寿司に行こうと約束していたのに、今はそういう気分でないからイタリアンレストランに行こうと言われるとか。それだけの話なのに約束と違うからと怒る場合もあるのではないでしょうか。
では、あなたはセールに行きなさい。私は子どもが楽しむところに行くと行動を分けるということも1つの解決方法ですね。時間帯をずらすということもありうる話です。そういう発想はなく、約束を破ったことに腹を立てる。本当は炙りしめさばなんてそれほど食べたくなかったに、ぐずぐずとハンバーグの生あたたかさに文句をつけ続けるとか。
例えば
出張などでホテルに泊まる場合、日にちが決まっているので、何日か前に予約すれば色々特典もあってお得なのに、ぐずぐずしていたために少々割高で、特典ももらえなくなった。大したことがない景品だったり割引率なのに怒る。
怒ることはないわけです。まあ、この場合、必ずしも怒っているわけではないのですが、言われた相手からすると、やるべきことをやらなかったと真顔で指摘されますし、得するところを得しなかったということは客観的事実ですから、何となく罪悪感を与えられてしまうわけです。自分が何かとてつもない間違いをしてしまったような気持ちにさせられます。また、逃げ場を与えられないということもポイントですかね。それから、ぐずぐずしていたことには、なんらかの理由があるわけで、そういう理由をすべて否定されてしまうと、今後は機械的に動かなければならないというようなことを命じられているような感覚になって、苦しい気持ちになるのかもしれません。

失敗や不十分なことは、本当はとても些細なことかもしれません。でも、約束違反、不合理、非効率的な行動があれば無条件に正義感が沸き起こってきて、相手を批判してしまうようです。特に子どもに与える影響を感じるとなおさら、つい反発する心がわいてきてしまい、相手からすれば容赦なく攻撃されていると感じるような行動をしてしまうようです。

<正義感の生まれる場所>

指摘する方は、指摘して当然だという意識がありますから、それを言わないとか、言い方を考えるという発想をなかなか持つことができません。

ところで、この「正義感」は本当に当然でのこと、自然な感情なのでしょうか。

私は、場面に応じて、人間関係の内容に応じて区別するべき概念だと思っています。家族など、いわゆる仲間の間では、正義感よりも相手の感情を優先させるべきで、相手がどう思うかということを基準に行動するべきだと考えています。詳しくは前掲の記事に書きました。また、「正義」感は有害であり、あまり正義感は振りかざすべきではない。道徳や法律も、あくまでも他人同士を縛る概念であり、家庭の中に持ち込まれるべきではないと別のところで考えています。
親は子のために隠す、夫は妻のために正義を我慢する。論語に学ぼう。他人の家庭に土足で常識や法律を持ち込まないでほしい。必要なことは家族を尊重するということ。
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2015-05-11

正義とか道徳とかは、人間が生物としての人間の脳の能力を超えた人数の人間と関係してから、つまり仲間ではない人間とも関係を持たなければならなくなったために必要に迫られて作り出されたものだと考えています。かけがえのない仲間の中であれば、自然に持つような感情ではないはずです。これが家族の中に持ち込まれているのは、やはり人間がその脳の能力を超えた人間と関わり合いを持たなくてはならないので、つい仲間ではない人間を規律する論理を仲間である家庭の中に持ち込んでしまっているという、環境と脳のミスマッチを原因として起こる現象だと考えています。これは別の機会で少し説明を詳しくしたいと思います。

この正義感を持ち込む理由は、育ってきた経験ということもあるでしょう。この合理性や効率性も含めた「正義感」を大切にして、受験競争を勝ち抜き、就職競争も勝ち抜いてきたし、会社でもこのような「正義感」でもって、他者と関わってきたために、どうしても自然と私たちの心にしみこんでしまっているのだと思います。学籍の高い人、国家試験をクリアして原職にある人、専門性の高いお仕事をしている人等に、家庭の中でも正義感が強い人が少なくないように感じています。だから、現代人は、放っておくとつい正義感が何よりも優先されてしまうし、正義感を満足させる行動は極端な話何をしても許されるような感覚になってしまうような感じもします。

身についた正義感が発動してしまうため、ついつい、離婚調停の段階で、後に調停から裁判になったとしてもそれを認めても何の影響もないような話でも、ムキになって否定し、訂正を求めていくのだと思います。また、新たな約束違反や不合理な言動に対して攻撃してしまうのだと思います。

<正義感によって容赦が無くなる様子>

同居期間中の時も、あるいは仕事で自分がこんなことをすると大変なことになるという感覚そのまま妻を批判してしまうのでしょう。まるで自分が上司から言われているみたいにということなのかもしれません。職場などでの緊張感を家庭でも持てと言っているような感覚です。
その感覚で、どうしてこんなことをするのだろうという気持ちをもち、そのまま言葉に出てしまうわけです。
どうしてこんなことができないのだ。
これをしてしまえば、こういうことになることにどうして気が付かないのだ。
こんなことをしたら、相手はこういう気持ちになるだろう。
こんなことをするなんて信じられない。
こんなことができないなんて信じられない。

そして相手が、自分と同じ気持ち、つまり、「ああ自分はとんでもないことをしたんだな」と見てわかる様子が無いと、つまり自分に賛意を示さないと、それが示されるまで攻め続けたりしてしまいます。

相手方は、自分のその行為だけを責められているとは感じにくく、全人格的に否定されたと感じる事でしょう。言い方の問題です。本当は色々事情があってのことなのに、それをどう言っていいかわかりません。夫の中では自分に対する評価が決定的に下がっているのだなあと感じていることは確実です。
自分の立場を気にしない人はいませ。ある人はむきになって頑張ってできなくて益々心理的に追い込まれるか、別のタイプの人はもう夫と自分は価値観が違う、性格の不一致があると割り切るようになるのは当然かもしれません。少なくとも、自分を守ってくれる人ではないと強烈に感じていることでしょう。

夫は、自分は正義に基づいて発言しているという感覚がありますから、まさか妻がそんなことを考えているとは想像すらしません。正義の役割はここにあります。

しかし、そんなにムキになって妻を責める必要性のあることなのか、冷静になって考えると疑問がわいてきたリ、不確かなことが多いのではないでしょうか。もしかしたら、結果として実害がなかったことかもしれません。何らかの失敗や不十分なことがあったとしても、冷静に将来に向けて注意を促せば足りることや、スルーしたりフォローしたりする方が、失敗が防げるという実益が上がることが多いかもしれません。でも、妻が夫から攻撃されたと感じた場合には、確実に自分を夫が仲間として見ていないと感じるデメリットが蓄積されていくというもののようにつくづく感じています。実は、費用対効果を考えたときに、無駄な損を生み出していることが多いのかもしれません。

そもそも、家族の間で、特定の家族の特定の行為を、誰か別の家族が評価して、その人を裁くということ自体が、本当に妥当なのだろうかということも考えなければならないと思います。夫は妻の上司ではありません。教育する立場でもありません。正義を言い訳に人を批判するときは、どうやらそういうことも忘れてしまうようです。しかし、家族は批判すればよいのではなく、実質的に将来の危険を除去する等、結果を出さなければなりません。正義感をぶつけるという方法はあまり効率的な行動ではないようです。一緒に考えて、不足の部分があったら他の誰かが補うのが仲間です。

<対策として頭に入れること>

知らないうちに身についていた考え方で、自分でも自覚していな考え方の対処はなかなか難しいでしょう。口で、正義感の優先から相手の感情優先に切り替えましょうと言っても実際には難しいと思います。
つい言ってしまうことも当然出てくると思います。今の家庭には、「そんなことをムキになって言うものではない。」とたしなめる年配者はいません。不安定な自分の立場にたちつつ、正義だけを頼りに生きているという人が多いかもしれません。だから、家庭の中ではそれを出すなと言われてもなかなか難しいのは当然かもしれません。

少しずつ変えていくことが大切なのだと思います。

先ず、正義感がかえって家族の中では悪さをしているということを頭にとどめておくこと。これはやらなければなりません。そうすることによって、大きな声を出しそうになる時、あるいはしつこく話そうとするとき、自分をセーブすることができるかもしれません。

次に、もし言ってしまっても、ごまかして謝ることができるということを頭に入れておきましょう。言い過ぎた、ごめんということは誰でもできることです。

そして、自分が相手を責めているときの相手の悲しそうな表情、感情を失ったような表情、こういうことを思い出しましょう。「言われた相手がかわいそうだ」という気持ちを持つことはとても有効だと思います。正義感や怒りは、相手がかわいそうだという感情を奪うためのものです。自分を頼りにしてくれる人を自分が心細い思いにさせたということを良く感じ取りましょう。この相手の表情は絶対に忘れてはなりません。

言ってしまった後は、十分なフォローをしましょう。自分が相手を尊重していることを言語化、あるいは、行動で示しましょう。

既に紛争になっている場合は、自分の正義感を抑えてくれる人を近くに配置しましょう。

家事分担など、相手に任せたことについては、絶対文句を言わない。これは、日本の様式美でもあります。男女で炊事の役割分担があったときに、男子厨房に入らず、出された食事に文句を言わないという掟はこういう意味だと思います。

また、家庭の中では、どうでも良いことのカテゴリーを増やしていきましょう。家族が努力していることならば、その結果が悪くても怒らない。努力していなくても、何か理由があるのだろうと先ず推測する。何とか力になりたくても、求められないなら、自分は力になれないと思うようにする。求められた全力で力になる。それでも家族として尊重することは止めない。むしろ、積極的に対等の仲間だとして、尊敬をもって接する。


どうでしょう。なんか窮屈な感じがしますか。家庭の中なのだからもっと気ままに、自分の感情に任せて行動すればよいのではないかという感想を持たれる方もいらっしゃるでしょう。なお、正義感を後退させるなんて許されないと思う方もいらっしゃるとも思います。

最近感じるのは、家庭の中だから、家族に対しても自由に感情を示してよいのは、子どもだけではないかということです。子どもと大人の違いは何かと言うと、楽しい家族の恩恵を受けるのが子どもで、楽しい家族を作っていくのが大人なのだと思います。現代社会の複雑さや大量の人間とのかかわりは、本来無関係の人間関係の在り方を身に沁みさせてしまいます。その結果、本来無関係の人間関係が家族とのかかわりの中に滑り込んでしまうわけです。家族も希薄になっていくのだと思います。このことを良く自覚して、本来の家族の在り方を理性的に探り出し、家族が家庭に帰ってきたらリラックスできる家庭を作る。これが大人の仕事なのではないかと考えるようになってきました。そしてそういう家庭を作ることは、何よりも自分にとってメリットが大きいことだと思うのです。もちろん、滑り込んだ価値観がひょいと表面化してしまうことが多いと思います。それはある程度は仕方がないので、フォローを頑張るということが前向きな対象方法だと思います。私自身年齢だけは重ねてきましたが、まだまだ人間ができていないようです。自分でもできないことを発表することは気が引けるのですが、このことが頭の片隅にあることで、壊れなくても良い家族が壊れてしまうことを防げたらという思いで、自分の心に棚を作って書いているわけです。

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試行面会マニュアル 別居親がやるべきこととやってはいけないこと [家事]


1 試行面会の目的

夫婦が別居すると、その間に生まれた子どもはどちらかの親と同居し、どちらかの親と別居することになります。別居親と子どもが普通にあえていればよいのですが、同居親が別居親と子どもとの面会を拒否することになれば、当たり前の話ですが、親子ともども会いたいですし、子どもの健全な成長のためにも別居親と定期的に面会することが望ましいとされていますので、間に家庭裁判所が入って、面会交流の段取りをするわけです。これが面会交流調停とか、面会交流審判という手続きです。
同居親は裁判所が間に入っても会わせようとしないことが少なくありません。会わせないには理由が必要なので、ここで別居親が同居親に精神的虐待をしていてそれを子どもが見ていたとか、子どもに精神的虐待をしていたとか、子どもが会いたいと言わない、会わなくても良いと言っているとか主張するわけです。
そうすると、裁判所も何かあってからでは遅いし、子どもの福祉のために行う面会交流で子どもが精神的にダメージを負ったというのではまずいので、親子関係の実態を実際に観察して、面会交流を実施するか、実施するとしてどの程度の内容とするかを判断する必要性があるということになります。
つまり、試行面会は、その時面会できれば良いやということではなく、将来的な定期的な面会の在り方を決めるための試行ということなのです。
子どもが別居親を怖がってもいなしし、嫌ってもいないという事実をみせ、むしろ子どもが楽しそうに面会しているということがみんなの前ではっきりさせることによって、充実した面会交流の足掛かりになる重要な機会ということになります。
試行面会までは、同居親は別居親のDVやらモラルハラスメントやらを主張しますので、裁判所ももしかしたらそうなのかもしれないと半信半疑とはいえ疑いを持つわけです。裁判所に限らず「DV」とか「虐待」という言葉には抵抗力があまりありません。具体的に何があったかはあまり吟味せずに、暴力があったという言葉だけで相手方を警戒します。離婚事件では妻側のDVの主張があれば、書記官を警備に当たらせることがあります。こちらはどうして警備が入っているかわかりませんから、反論のしようもありません。ところが試行面会によって、子どもが嬉しそうに別居親と遊んでいる様子を見ると、裁判所関係者も手のひらを返したように別居親に対して共鳴共感を示してくるという事例は多く報告されています。
試行面会は重要です。できるだけ早期に試行面会が実施されるべきだと思うようになりました。

2 試行面会までの道のり
 
試行面会は重要なのですが、同居親が抵抗するとなかなか実現しません。最近は裁判官が積極的に介入し、同居親を説得し試行面会が実現するようになりましたが、介入が遅い。中には、会わせるか否かは親の自由意思だとして働きかけない人たちもいます。しかし、ここで考えなければならないのは子どもの成長という子どもの権利なのです。家庭裁判所は子どもの権利として実現に向けて努力するべきだと私は思います。
私がここで理屈を言っても、物事は進みません。裁判所が渋る同居親を説得するように誘導する工夫が必要です。また、その説得を受け入れるように同居親を誘導するという視点も大切です。
大切なことは、面会を求める同居親は、温厚で、子どもを会わせても、誰にも何も悪いことは起きないという安心感を与えることです。
一番多い失敗のパターンは、同居親が繰り出す、DVや虐待について、目を三角にして大声で口汚くののしって否定することです。あるいは、相手の些細な言い間違いをくどくどといつまでも執拗に指摘して、こちらが正しいということを頑張ることです。
違うならば違うと言えば良いのですが、いくつかの事情で、このような攻撃的な態度をあらわにする失敗が実に多いです。事情というのは、最愛の子度を引き離されたこと、自分が父親として夫として人間として否定されたと感じる被害者意識が一つ。これがあれば、放っておけば攻撃的になるかあきらめるかどちらかです。もう一つの事情は、同居親の主張が不正確であったり、正義に反する虚偽主張が許せないということも独立してあるようです。
気持ちはわかるのですが、この気持ちのおもむくまま行動すると裁判所では決定的に不利になります。「この人は自分の感情を制御できない人だ。家族の失敗を許すことができずに制裁をしようと常に考えてしまう人だ。誰が聞いても不愉快になるようなことを人前で平気で言う人だ。それならば多少の誤差はあったとしても、同居親の主張するようなモラルハラスメントもあったかもしれないな。」という思考の流れができてしまい、子どもに会わせると何が起きるかわからないと警戒を高めてしまうだけなのです。
相手の主張した事実は嘘だというよりも、「実際はこう言うことが起きていて、相手が言うこういうことは起きていない。しかしこういう事情から相手がこう感じたということはありうるかもしれない。」等と事実と感情を分離させて、相手の主張の共感できる部分を探し出してでも共感して見せた方がよほど有利になります。ここが踏ん張りどころです。
相手の主張に関わらず、相手の良いところは積極的に主張していくことも有効ではないかと思っています。
また、相手の言い分をよく聞くという姿勢が大切です。そういう事実があったか無かったかというよりも、相手が何を本当は言いたいのか考えながら聞くということです。そして賛成できる部分を抉り出して、加工してでも賛成を示すということ増やしていくことが大切です。
婚姻費用などの金額に争いがあったとしても、自分の主張する金額は調停成立前から払い始める申し入れをして払い始める。足りない分は後から払うからとりあえず必要だからと言って払い始める。これは、鉄則です。少なくとも養育費相当額は支払うべきだと思います。
このように、別居親が同居親を気遣ったり、配慮したりする態度を見せていき、温厚な対応に終始していけば、ヒステリックに面会を拒否する同居親と対照的な姿勢が際立っていきます。次第に面会交流の実施に流れが傾いていきます。
ある審判事件では、裁判官が、丹念に同居親の心情について話をさせて、いつのまにか試行的面会に向かう流れができてしまったという経験もあります。
詳しい話は省略しますが、一言で言えば相手に敵対する気持ちを持っていないこと、感謝と謝罪を示すということです。それが安心の材料になると思っています。

3 試行面会の実際

それぞれの家庭裁判所で条件が違うので何とも言えませんが、通常の支部ではない本庁と呼ばれる家庭裁判所では、調停で使う部屋とは別の階に、面会に使う部屋が用意されていて、おもちゃなどが豊富におかれています。靴を脱いで座れるようにパズルのように組み合わせるマットが敷かれていることが多いかもしれません。調査官が先に子どもと部屋に入り、一緒に遊んだり、子どもの遊ぶところを調査官が見ていたりして、後から別居親がその部屋に入ります。隣などの部屋でマジックミラーあるいはモニターなどでその様子を、代理人や同居親が観察します。調査官は面会の間中面会室にいて、内容を詳細に記録し、その記録を裁判官に提出して報告します。小一時間くらい面会をして、そろそろ時間だから片付けをしてというのも調査官の仕事です。
子どもが楽しそうにしていれば、全員がその事実を把握できるようになっています。ここで、些細なことで揚げ足をとって面会交流はうまくいかなかったと主張する弁護士もいます。しかし、そういう細かいことではなく、全体として子どもは別居親を怖がっていたり、嫌っていたりしたかどうか、調査官がいなくても二人の世界が築けたかどうかという事情を見ますので、些細な揚げ足取りは全く効果がありません。細かいことに気を使う必要はありません。小一時間と言っても久しぶりの二人が過ごすことは、途中で中だるみがあることが通常です。焦る必要はありません。
試行面会以降の調停や審判は、試行面会の実際をもとに進められることになります。ただ、代理人や当事者の感想と調査官の感想に違いが見られることがありますので、後に作成される調査官報告書は担任に読みこなす必要があると思います。少々厳しいことがあっても、今後の課題だと受け止めれば、大変参考になる指摘がなされていることが多いです。

試行面会の前に、電話やテレビ電話で、短時間でもゆったりとした時間を一緒に過ごすということは、試行面会を決定的に成功させるポイントになるようです。最終決定の前の間接交流はどんどんやった方が良いと思います。

4 では試行面会はどうすればよいのか やってはいけないこと

ようやく本題ですね。
ここでは子どもが楽しく面会の時間を過ごすということが唯一の目標です。
楽しく感じられない要素を列挙します。
・別居親と一緒に暮らしていないという罪悪感を強められる。
・自分の感情を出すことを妨げられる。
・自分のできないことをやらされる。<同居親に言うなということを言わせられる。自分の意思に反したことをやらされる。>
・同居親の悪口を言われる。
等々です・
もちろん、暴力暴言を受けたら楽しくありません。

やってはいけないことは感動の再開です。
それは久し振りであったのだから別居親はうれしいし、はたで見ていても涙が出ますから本人はなおさらでしょう。でもそれをやってしまうと子どもは重く感じてしまいます。また、子どもは年齢にもよりますが、自分が悪くもないのに別居親と離れて暮らすことに罪悪感を抱いています。感動の再開は会えなかった期間別居親が苦しい思いをしていたということを子どもにアッピールすることですから、子どもにとっては罪悪感を強められてしまいます。こんな思いをするならば会いたくないと感じてしまうこともあるようです。

また親が泣いてしまったり、興奮してわけがわからなくなると(実際にありますよ、それはわかります)、子どもは自分の感情をあらわにすることができなくなることがあります。しらけてしまうことがあります。あくまでも子どもために親が務めを果たすという意識で臨んでください。
子どもにあれこれと聞き出そうとすることはもちろん厳禁です。子どもが困惑してしまうからです。子どもは直接同居親に口止めされなくても、何となく言っても良いことと悪いことがありそうだということはわかります。子どもに負担を与えてはならないということは念のためにお話ししておきます。

同居親の悪口は、後の面会交流でも厳禁です。子どもは親の悪口を言われるのは、もう一人の親からだとしても大変苦痛です。自分の半分はもう一人の親だから当然です。

子どもが一方の親に連れされても、子どもが自主的に戻ってきてしまうパターンは、同居親とその親から別居親の悪口を聞かせられたこと、兄弟の中で自分が差別されたことという事情がある場合がとても多いです。それだけ親の悪口を言われると精神的に苦痛であり、悪口を言わない親の方が精神的に楽なので、そちらと一緒にいたいと思うようです。

5 では試行面会はどうすればよいか

私は必ず別居親の方に言うことがあります。それは
昨日も会っていたように、明日も会うように
という接し方です。これは鉄則のようです。

例えば「やあ」とか「よう」とか、当たり前のように挨拶をして、ニコニコ入ってくれば、子どもは
・自分が別居親から同居中と変わらずに愛されていると一瞬にしてわかる。別居親は何も変わっていないとわかる。
・別居親は離れて暮らしていることに逆上しているわけではなく、罪悪感を抱く必要はないということも一瞬でわかる。
・別居親は喜んでくれているのだから、自分は自由に感情を爆発させても良いのだと一瞬にしてわかる。
・自分は別居親といつもの空間で生きていると感じる。
・自分はそのうち別居親と自由に会うことができるようになる。

つまり、はたから見ていると、一瞬の後、これまでの日常の中に二人が舞い戻って、いつもの親子の時間を過ごしていると感じるものです。

こう考えると、服装などもいつもの格好が良いのかもしれません。

最初は、別居親が入室する前から子どもは面会室にあるおもちゃで遊んでいますから、そのおもちゃで一緒に遊ぶとよいと思います。親から遊びを提案するよりも、子どもに任せた方が良いと思います。「たくさんおもちゃあるね。これ前にやったことあるね。」と水を向けるのは良いのですが、子どもがリクエストした遊びを一緒に楽しむということがよいでしょう。特に子どもが女の子の場合は、子どもにリードしてもらうことが鉄板です。子どもの様子を良く感じ取るということが大切です。しかし、最初の挨拶がうまくいけば、同居中と同じ感覚で時間を過ごせばよいので、あれこれと思い悩む必要はありません。
どうしても心配ならば、気の利いた子ども向けジョークを三つくらい用意しておくとよいかもしれません。話題は、昨日今日の自分の体験ということで良いです。昨日も会ったのだし、明日も会うのだと思えば、そんなに構えて親子は会話をしないと思います。子どもが小さいならば、本を読んであげるということも良いですが、これも子どものリクエストがあっての方が良いです。
それでも、気づまりな感じで最初がうまくいかなかったら。
とにかく静かに楽しそうにしていることです。おもちゃで遊んでも良いですし、何か気の利いたことを話し出しても良いです。子どもは楽しそうにしている大人に寄ってきます。焦る必要は何もありません。子どもが退屈していても、大人が楽しそうにしていて、最終的に大人に興味を持てば成功だとして良いと思います。嫌がられたり怖がられたりしていなければ、まずは失敗ではないというくらいでいましょう。
別れ際もぐずぐずしない。どうせまた明日も会うのだからという雰囲気を親が作ってあげてください。ここ大事です。子どもは別れ際の寂しさ、辛さを感じなくて済みます。そうすると、純粋に楽しい体験になります。別居親が退出した後、短い時間調査官と子どもが二人きりになります。この時、子どもがニコニコしているか、悲しさや負担感を漂わせているかによって、印象が全く違います。この時子どもが、「この次会う時は・・・」なんて期待を語り出すと、是が非でも定期的な面会交流を実現させようと思うことは人情だと思います。

6 アフターフォロー

目標はあくまでも定期的な面会です。試行面会の直後が大きなポイントとなります。試行面会後、調停委員が両当事者から感想を聞くことが多いと思います。もちろん率直に感想を語ることはよいのですが、感想というよりも半ば儀礼的な発言をすることが効果的です。同居親に安心感を持たせるチャンスです。
誰でも久し振りに子どもに会った親は共通の感想を持ちますが、先ず子どもがちゃんと育っていて安心したということです。これははっきり調停委員に伝えて同居親に調停委員に言ってもらいましょう。
もし、このような感想会がなければ、自分の代理人を通じて、相手方の代理人にファクシミリでも入れてもらうとよいでしょう。
無事に育っていて安心したこと、1人で育ててくれたことに対する感謝、ねぎらい、今日子どもを連れてきてくれたことに対する感謝などです。
子どもを引き離した相手にこういうことを言う気持ちになれないかもしれませんが、作戦だと思って、子どものためだと思って実践してください。敵対心が無いと分かってもらえれば、その後内容が決まる定期的な面会交流の取り決めにとっても計り知れない効果が生まれます。

事情があって、夫婦が仲たがいして別居しているわけです。そのこと自体についてどうするかは私の意見するところではありません。しかし、子どもは同居親とも別れたくないし、別居親ともできるだけを多く会っていたいと感じることが圧倒的多数です。子どもができるだけ自由に別居親に会えるように、それを第1に行動して欲しいと思いますし、それが親の義務なのではないでしょうか。そのためには、父親と母親の間に最低限の信頼関係、安心できる関係が無くてはなりません。最初は嫌々、作戦として感謝を述べていても、感謝を述べ続けているうちに、後から心はついてくるものです。試行面会は、親どうしの訓練の場でもあるのかもしれません。

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【宣伝・広告2】本日発売! 「イライラ多めの依頼者・相談者とのコミュニケーション術」(遠見書房) 家事紛争の中から生まれた一冊であるということ [家事]


本日(令和3年7月28日)私も関わった本が発売日を迎えました。
http://tomishobo.com/catalog/ca126.html
法律系の出版社の理解を得られなく、心理系の出版社である遠見書房様の英断で発売にこぎつけました。この本が出なければ、この問題がいつまでも取り残されると思うと、ご英断に感謝しきりです。せめて採算ラインまでは売り上げをもっていきたいということも、宣伝記事を載せる理由ではあります。

この本は、体裁としては、弁護士、司法書士、行政書士、社会保険労務士、税理士等の、法律家向けの本ではあります。しかし、あとがきで心理学研究者の東北大学教授若島孔文先生がお書きになったとおり、対人関係を職業とする皆さんに読んでいただきたい本です。特に、行政職、福祉職、お医者さん等医療関係者の皆さんに是非読んでいただきたいと思っています。
そのプロフェッショナルの方の気持ちが軽くなるとともに、クライアントの方々が理解されることによって、必要なサービスを気持ちよく受けることができるようになるのではないかなと思うからです。

宣伝はこのくらいにして(社長様すいません)、裏話をさっそく始めたいと思います。
実は、この本は、家族問題の研究がもとになってできた本ということもいえるのです。
第1部は、弁護士の実際の事件、相談会のリアルな断片を切り出して事例を作って示して、その解決方法を考えています。この最初の事例をわかりやすく書いていただいたのは、主として大久保先生です。私にはこういう才能が乏しいということがつくづくわかりました。先生は、家族問題や女性の権利に造詣が深いということもあって、紹介している事例の多くが実は離婚事件のケースです。次いで職場のパワハラ・セクハラがあり、相続問題、金銭問題、近隣問題が取り上げられています。まあ、弁護士の相談会でよくある事例です。誰でも経験している内容といえるでしょう。この事例の紹介の仕方が一味違う。私のような偏った考え方(本来あるべき考え方だと思うのですが)の弁護士ではなく、良識的な弁護士も離婚事件については疑問を抱くことが多々あるということが紹介されています。虚偽DVの問題や、父親への親権変更の事例等きちんと取り上げてくれいます。すばらしい。
私の紹介は、このブログの別の記事をいくつか読んでいただくとわかるので、特に家事関係ですが、省略します。
心理監修の若島孔文先生は、あらゆる心理学分野の理論と実践理論をマスターされていますが、家族療法という心理療法の日本における第1人者です。世界的にも著名な先生です。家族の在り方という問題を見つめ続けていらっしゃるわけです。
そうすると、この本は、弁護士など法律家と依頼者、相談者という人間関係の断面を切り取っているのですが、その人間関係の在り方についての知見は家族の在り方についての考察を基礎としているということになると思います。

だから、この本は、接客業という職業とクライアントという体裁をとっていますが、実は、家族同士の関係にこそ応用が利く内容が書かれているのです。但し、焦点の合わない本は出版できませんので、深く読みこなさないとそのことを理解することは難しいかもしれません。特に第2部を読みこなしていただきたいなと思います。

本当は、既婚者必携「イライラ多めの家族とのコミュニケーション術」という本を作れれば良いのでしょうが、そんなオファーが本当に来るとは思えませんので、申し訳ありません。弁護士がこういうことに取り組んでいるということはなかなかピント来ていただけないと思います。でももし来たら全力を挙げて執筆します。

ちょっと要約版を作ってみますね。
<楽しい夫婦であり続けるためのちょっとした工夫
そして紛争後の夫婦再生への挑戦>

第1部 楽しい夫婦であり続けるとは
 1章 妻が夫と同じ空気を吸いたくないというまでの道のり
    離婚したいと思うまでの葛藤とは、どういう心理状態か
    離婚したいと思うのは、自分が尊重されていないと感じるから
    尊重されていないと感じる事情はどういうものがある
      「暴力、暴言、物にあたる」だけではない
       本質は別にあるので、ここを否定しても心は動かない。
    味方ではなければ敵だと感じてしまう人間の脳。安心できない存在は不快な存在
 2章 円満な関係であり続けるちょっとした工夫
    尊重は相手に伝わらないと意味が無いが、「尊重している」と言っても伝わらない。
    話を聞いてうなずくということ
    相手に任せるということ
    その他のチップス
 3章 根本的な考え方は思い出の中にある。実はあなたが変わっただけ
    デート中のレストランを思い出そう
    価値基準をどこに置くか。
     正義や論理、合理性よりも相手の感情を行動原理とすること
    家内安全という普遍的な原理を見つめ直そう。
    本当はもっと必要とされているあなたという存在。
第2部 別居後の家族再生への挑戦
 1章 子連れ別居時の妻の心理 著しい高葛藤
    蓄積された「尊重されていない」という感覚
    事実は本人も自覚していない。しかし、今の感情は真実。
    原因はあなただけではないが、あなたの対応でずいぶん変わっていたはず。誰が良い悪いでは深淵に踏み出せない。相手に期待できない場合は自分が何とかするしかないということ。
 2章 修復のために何を獲得目標にするのか。
    「加害」をしないということでは足りない。
    反省ばかりでは重苦しい。
    明るく楽しい将来の約束。その裏付け。
 3章 相手に何をどう伝えるか
   どう伝えるか
    別居はしたけれど、連絡が取れる場合
    本人には連絡が取れないけれど、間に入ってくれる人がいる場合
    間に弁護士が入った場合や離婚調停を起こされた場合
   何を伝えるか
    安心を与えるということ
    先ず生活費の支払いをこちらから申し出ることが鉄則
第3部 家族再生のための離婚調停、離婚訴訟、保護命令
 1章 離婚訴訟の現実 
    どういう場合に離婚の結論になるか、どういう事情があると離婚請求が棄却されるか。一方の離婚の意思が固い場合。
    離婚訴訟の結果を考えるべき一番の要素は子どもであるということ。
 2章 保護命令手続きの現実
    法律要件と乖離する1審手続き
    初めから相手方は不利な構造の中での戦いだということ
 3章 調停
    すべては調停で完結するべきであるということ
 
第3部は別の本だね。



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