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自覚できない自分の小さな怒りに警戒しよう [家事]



家庭内のモラルハラスメントということが話題になっています。元々のモラルハラスメントという言葉を作ったのはマリー=フランス・イルゴイエンヌという精神科医です。彼女の述べていたモラルハラスメントは、自己愛性パーソナリティ障害を背景とした強烈なものでした。それに比べると現代のモラルハラスメントの使われ方は、はだいぶかけ離れていて、軽微な事象まで含むように言葉の意味が変容・拡大しています。

程度が軽いにもかかわらず、その評価はイルゴイエンヌのモラルハラスメントと同程度の悪という評価が行われているように感じます。

おそらく、一般のご家庭で、配偶者の一方が他方の言動に不満があり、適当な解決方法が見つからないままこれを蓄積しているということが多くあるのだと思います。その不満を解消するための言葉として、モラルハラスメントという言葉が広く受け入れられてしまった結果なのだと思われます。また、イルゴイエンヌの著作を理解しないまま、この言葉だけを借りてくるような書籍もかなりありました。言葉の変容を起こす人たちがいたわけです。だから離婚理由の中で、「自分はモラルハラスメントを受けていた」、「精神的虐待を受けていた」という主張が増えているのではないでしょうか。

ただ、夫婦とはいえ、人間二人、育った環境も違うわけです。一緒に暮らしていれば、何らかの感覚の相違や行動パターンへの違和感などがあるのは当たり前のことです。自分の言ったこと、言わないけれど抱いていた感情等すべてを受け入れなければモラルハラスメントだというような主張が多くなっています。おそらく、それが無茶のことだという自覚がなく、当然にそれは悪だと感じているようです。

ただ、それでも家族再生を目指す人たちにとっては、モラルハラスメントや精神的虐待という抽象的主張であっても、それは再生のヒントになりうる貴重な手掛かりになります。

特に具体的エピソードの主張がなく、「長年の積み重ね」だとか「毎日のように否定されてきた」等という主張があり、かつ、言われた方に身に覚えがない場合に何が起きているかということについては、事例が蓄積してきました。

第1の要因として、モラルハラスメントを感じている側の人間(多くは妻なので、今後「妻」と言います。)が、相手(今後夫と言います。)からの評価を気にしすぎていて、自分に対する評価が下がることに不安を抱いていることがあげられます。その多くが思い込みDVで、その様な不安を感じやすい、体調や精神状態、あるいは過去又は現在の人間関係という環境に主として起因するものです。中には夫を好きすぎて、嫌われるのが怖いという人もいました。

第2の要因として、その様に敏感になっている妻に対して夫が相応の配慮をしていないことが要因となるようです。但し、現代は、昭和の虐待夫というのはごく例外的であり実務上はあまりないというのが、狭い範囲ですが私が聞いた範囲での弁護士のコンセンサスです。

ただ、よくよく事例を見ていくと、夫が怒っているとか、攻撃的感情があるわけではないのに、妻の側で自分が否定されていると感じる事情というのがあるようなのです。

例えば妻が、「こうしたいな」、「ああなると良いな」とお気持ちを表明して、それが何らかの道徳に反するとか、常識に反するとか、合理性がない等の夫のセンサーが反応してしまうと、即時にたしなめるとか、否定したりしているということが実際にはあるようです。夫としては当然のことをあえて言葉にしているというような感覚なので、それが相手に不快な思いをさせているということに全く気が付きません。また、道徳や正義に反すると思うと、本能的にそれを指摘するときには怒りが混じっているようなのです。少なくとも言われた方から見たら、「夫から感情的な言動で自分という人格が否定された。」と感じるようです。

しかし、自分の価値観を夫に押し付けることができず、正義とか合理性とか言われてしまうと、反論することができないため、ただ不満が蓄積していって、持て余すくらい大きなものになっているようなのです。

結論だけを言いますと、道徳とか、正義とか、常識というのは、他人同士を規律するツールです。家族の中では、相手の感情を尊重することが主であると思われます。また、合理性とか省エネなんて言うのも、目的を一つにする集団がその目的を果たす文脈でだけ基準にするべきことなのです。

だから、あらかじめ、道徳とか正義とか、常識を相手に言おうとしていると意識したら、それを言わないとか、冗談半分にごまかしながら言うとか、笑顔で「別に非難するつもりはないけれど」とか、それが正しいツールであると思わないようにしようとする、生じやすいエラーを予め意識しておくことが肝心なことなのだと思います。



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離婚訴訟、保護命令 勝利の先にある目標(家族再生)を目指して 戦わない戦い方 [家事]



今年の保護命令申立事件は2回あり、2回とも被申立人夫の代理人となり、いずれも申立人の申立取り下げで終わった。離婚訴訟は、終わったのが1件。これも被告の代理人となり、訴訟取り下げで終わった。

家族再生を目指すとしても、保護命令が認められることと判決で離婚が認められることは大きな障害になってしまうので、戦ってでも負けるわけにはいかない。

保護命令に関しては、大きな争点としては「生命身体の重大な危険」があるのかないのか(それ以前にそもそも暴力があるのかないのか)について、きちんと反論すること。離婚訴訟に関しては、結局どういう婚姻破綻理由があるという主張なのか、事実の有無に対応するだけでなく、大づかみで相手方の主張がいかに無理難題を言っているのか、大事な事実と実質的に整合しないことを社会通念や心理学を屈指して反論していくことがポイントとなる。つまり、「相手がしている主張はそれがいかに事実だとしても離婚理由にはならない。」という主張である。

取り下げないし棄却となるかならないかは事案によりけりで、要件が整えば認容される。勝訴はある意味めぐりあわせでしかない。

また、裁判に勝てばめでたし、めでたしで終わるというわけでもない。

私や依頼者が目指すのは、その先の家族再生だからである。

1 必要以上に戦わないこと

だから、保護命令や離婚訴訟は戦うと言っても、裁判に勝つ以上に相手を攻撃してはならない。これは、どんな争いでも一緒だと思う。夫婦問題の場合は特に慎重に言葉を選んだり、問題提起の取捨選択をすることになる。

また、取り下げに同意する等、相手の逃げ道を用意してあげることも必要だと思う。それが、最初の障壁を最も迅速に、最も確実に突破する方法でもある。

離婚訴訟への被告代理人としての対応によって、面会交流がかえってうまくいくようになったり、連絡が取れるようになったことがある。こういう場合の多くは、離婚には応じる予定で条件闘争をする場合である。変な事実認定の判決をもらわないために和解で終了させるということが最大の目標となる時である。

2 相手の代理人を活用する

変な思想を持っている弁護士ではない限り、子どもとの面会については力を貸してくれることが多い。東北の弁護士だけかもしれないけれど。また、クリスマスプレゼントや誕生日プレゼントも弁護士事務所を通じて渡すことができる場合が多い。

もちろんこちらからこわもてで命令するのではなく、できればこちらの代理人を通じて礼儀を尽くして(もみ手作り笑顔もいとわないで)、お願いしていくことでようやく実現することである。相手方代理人を侮辱するような訴訟活動をしていたら到底実現しない。

そうやって少しずつ情報交換をしていく中で、面会交流が定着していくことがある。うまくいかない場合でも何度か試みたことは子どもの記憶に残るのではないだろうか。

面会交流に毎回立ち会ってくれる弁護士もいる(元妻側の弁護士で、元妻が元夫と直接顔を会わせたくないという理由で面会交流を拒否している場合)。頭が下がる思いである。

3 自分の行動の修正

離婚理由、婚姻破綻の実情に迫る主張の交換をした結果、それが離婚理由としては認められなくても、相手が不快に感じているとか、怖がっているとか、自分が否定されているように感じているポイントが見えてくることがある。そういうこちらの所作で、そういうこともあったかもしれないということについては、どんどん修正していくと良い。そうしてその修正を相手にうまく伝えていく。お気持ちを言葉で説明することは実際は難しいし、それだけでは相手は安心しない。考えていることでなく、「こういう行動をして修正を努力している」という行為を伝えた方が相手には伝わりやすい。

「自分の気持ちをわかっているようだ。」と実感してもらうということである。

これはただ離婚訴訟をやればわかることではない。戦いの渦中にいると、「自分は悪くない。相手が悪い。」ということでなければやっていられないので、自分の修正するべきポイントは分かりにくい。弁護士のずうずうしさで、アドバイスしていかなければならないことだ。弁護士が当事者化していたらこれもできない。自分の弁護士が自分に何か不快なことを言うことを躊躇させない人間関係を作っておくことが必須となる。

言葉で言えば簡単だけどなかなか難しいことは、「自分の弁護士を攻撃しないこと」。弁護士なんておだてれば木に登る職種なので、その性質をうまく活用しなくてはならない。

敵と味方を区別しないで、だれかれ構わず攻撃していては、結局イエスマンしか周りにいなくなり、自分の行動を修正して相手に接近するという修復行動ができなくなってしまう。実にもったいない話である。

そういう事例が、離婚訴訟に限らず少なからずある。味方の足を引っ張るイエスマンの言葉は心地よいので特に注意が必要だ。

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孤立についてのスケッチ 争いのない世界でも我慢する人がいるという意味 [家事]



孤立というワードが出てきました。これまで必要性を感じながら説明が不十分だと思われるところを、メモしていこうと思います。

1 孤立解消は人間の根源的な要求

孤立を嫌がり、孤立状態にあれば解消したくなるのは、人間(正確に言えば霊長目にある程度共通の性質)の本能的仕組である。これによって、言葉が無くても群れを作ろうとして、群れを維持して、群れによって人間は生き延びてこられた。孤立を恐れることは、それだけ強い心理的圧力になるということ。

2 様々な種類の孤立だが効果は同じ

孤立とは天涯孤独の絶対的孤立だけではない。人間関係の中に帰属していても孤立を感じる。事実上家族としか人間関係が存在しない場合でも家族の中での孤立を感じる。家族、職場、あるいは学校、地域、友人関係と複数の人間関係に帰属していても、そのうちのひとつで孤立している場合でも、強烈な不安、孤立解消要求が起きる。この要求が解決しなければ、要求度は高まっていき、同時に不安や心理的圧力も強くなっていく。家庭では円満な人間関係が形成されていても職場や学校で孤立している場合に強度な心理的圧力が加わっている場合がある。

3 社会の中の孤立

やっかいなことに、目で見える人間関係だけでなく、ぼんやりした人間関係でも孤立を覚えることがある。例えば、貧困で不遇な暮らしをしていると、社会から自分だけが孤立しているという感覚を持つ。この場合も強度の心理的圧力が加わっていることがある。
また、先に挙げた目で見える人間関係の一つで孤立している場合に、社会においても孤立していると感じることもあるようだ。

4 将来に向けての孤立

現在孤立を感じていると、孤立が未来永劫続いていくことが頭の中で不可避のことに思えてくるようだ。孤立が続くと、孤立は解消されないだろうと思うようになるのかもしれない。

5 孤立とは

孤立とは人間関係の中に物理的に存在しても感じる。誰かと一緒にいるだけでは孤立は解消されない。これまで見てきた孤立の空間的特徴と時間的特徴を重ねると、自分が属する人間関係において自分が尊重されていないことも、孤立を感じるポイントになりそうだ。また、人間が孤立を感じるメリットからすると、人間は、人間関係に帰属することによって安心したい(不安を解消したい)と感じるのだろうと思われる。そうだとすると、孤立とは、自分が安心できる人間関係に所属していない時に感じる感情なのだろうと思われる。

6 孤立の対義概念 尊重、安心とは

おそらく、否定されないことということになるだろう。
自分の存在を否定されない
自分の健康を否定されない
自分の意見を否定されない
自分の感情を否定されない
自分の努力を否定されない

最低限の尊重はこのようなことなのだろうと思う。

複雑な人間関係の現代社会では、この最低限度の配慮すら難しいということになる。
複雑な人間関係とは、
1 個体識別できる人数(150人程度と言われている)以上の人間と関り、理解関係を持つこと
2 複数の人間関係に帰属すること
である。

7 孤立による不安は現代社会においても必要か

人類の発生段階においては孤立による不安は群れを形成したため、メリットだった。しかし現代社会は、貨幣経済が発達しており、物資も豊富であるから一人で暮らしていても、特段の不具合は無いように感じられる。そうであれば、孤立による不安を感じるシステムは不要であるようにも思われる。

しかし、現代社会で人間の命を奪うのは、やはり人間であろう。また、貨幣経済が発達していても、その中で信頼関係が保たれないのであれば、流通している物、観念等を安心して消費することもできない。孤立解消の要求は不必要とまでは言えないような気がする。

また、進化の過程で今から200万年前に確立した心が現在においても維持されているように、孤立解消が根源的な要求でなくなるためには、1,2万年という歳月はあまりにも短い期間である。当面、私たちが生きている間から1,2万年以上は、孤立による不安が自動的に起きてしまうのが人間であろうと思われる。

逆に孤立という現象に着目して、孤立解消要求に沿った政策をすることで、人々が幸せになるヒントとなると思われる。

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「相手の言いなりになっている」と考えてしまうことのデメリット 家族再生を望むのであれば [家事]



家事事件に限らず、一般事件もそうなのですが、和解の話を進めるとき、よく出てくるのが、「それでは、相手の言いなりではないか。納得できない。」という言葉です。離婚事件では頻度が高いように感じられます。

弁護士が入って和解をする場合、実際には相手の言いなりに和解をするということはめったにありません。相手の言い分をずいぶん削っていることが多いのですが、削った点についてはご認識いただけないことが多いようです。

例えば、妻が子を連れて別居しました。離婚調停が申立たてられました。親権者は母、財産分与は例えば500万円、慰謝料220万円、プラス離婚という訴状だとします。あとは、父親の子どもとの面会交流は拒否されている現状だとします。

離婚と親権は妻側の言いなりなのですが、和解では、金額の点について総額300万円に抑えられ、面会交流は月1回3時間がすでに定期的に実施されているとします。

ここで、最終的に面会交流現状通りであれば、金額300万円であれば和解が成立するとします。

もちろん納得のゆく結果ではありません。これまで同居していた我が子と、理由も良くわからないで、月に一回短時間しか面会できないということは、当然納得のできないことです。

この例示事例で和解しなさいという話しではないのです。「相手の言いなり」という考え方ではデメリットが出てきてしまうということなのです。

「相手の言いなり」 ⇒ 「納得できない。」 ⇒ 「和解しないで判決」
となると、
① 300万円以上の支払いが命じられる可能性が出てきます。
② 特に家族再生を目指している場合、どちらが勝っても負けても遺恨となり、相手に対する敵対的感情が高まっていく可能性があります。
③ 感情的対立が高まれば、面会交流に協力的ではなくなる可能性も出てきます。
そうなれば、一番の被害者は子どもになってしまいます。

メンタル的なデメリットもあります。
つまり、「こちらはメンタルも経済的にも大変苦しんでいるのに、自分の支払うお金で相手方は楽しく、何も悩みなしで生活を続けている、この格差はあまりにも不合理だ。」という敗北感に打ちひしがれることが多いのです。しかし、相手方は、要求が削られて、しかも裁判手続きが何カ月も続き、「こんなはずではなかった。もっと早く離婚できて解放されると聞いていたのに。」と考えているはずなのです。そうではなくて、自分だけが一方的に苦しんでいるという観念は、自分で自分を苦しめてしまいます。
これでは家族再生のモチベーションは消えて行ってしまうでしょう。

子の連れ去りという家族の危機は厳然と存在しているということをしっかり認識する必要があります。ここから再生がスタートするのだという意識です。「相手の言いなり」だと感じてしまう人はこの点の意識が弱いです。だから、家族の危機を無かったことにできるのではないかと、無自覚にですが前提として考えてしまっています。

だから、強引に連れ去り前の家族に戻りたいと無理を通そうとしてしまうのです。だからうまく進まないのかもしれません。状況を見誤っているということです。

逆に、「前進面もある。相手もかなり譲歩をしている。」と認識することができると、心にはないけれど、相手に対する感謝や謝罪、思いやりの言葉の一つも発することができるようになり、この先の家族再生につなげる第1歩が踏み出せるかもしれないのです。

自分の思い通りに相手を動かそうとすることは、人間相手の場合はとても難しいことです。相手にも意思があるからです。この意思をどう変えていくかということ、どう家族再生に誘導していくかということを考えるのは、通常は連れ去られた側しかありません。同居中と形は変わったとはいえ、子どもがいる限り家族だと私は思います。この家族というチームをどう作り上げていくかという視点をもつことが大切です。チームリーダーとして、ある時は相手の言い分を承認し、ある時は修正の提案をし、ある時は自分から相手が同意しそうな案を提案していくという作業が、家族再生には不可欠だと思います。自分の意見を通そうというのではなく、結果として家族再生に近づくためにはどう立ち回るべきか、相手の言いなりになれば家族再生に近づくなら、多少無理をしてでも言いなりになった方が良い場合もあると私は思います。

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夫が怒るポイント なぜ妻はそれを分からないというのか [家事]



離婚調停などで、妻側から、夫が怒るポイントがわからないで、いつ怒られるかびくびくして暮らしている。もうそんな生活は嫌だから離婚したいという話しを聞くことがあります。

こういう主張を何も予備知識なく聞くと、夫はわけのわからないタイミングで怒りだす瞬間湯沸かし器みたいな人で、さぞご苦労していたのだろうと思ってしまいます。

しかし、もうちょっとだけ詳しく事情を聞くと、「それは怒るわな。」と納得したり、「どうしてそんなことを平気で言ってしまうのだろう」と思ったりすることが最近ではほとんどです。あまりにも無防備で、余りにも傍若無人な発言をしていることが実際はあるようです。

そこで、怒るポイントと、怒りの程度が激しくなるポイントについて、実際の事例を参考にいくつか挙げてみることにしました。書いていて思ったのですが、これは男性、女性に性差が無い問題のような気がします。

1 怒るポイント
  夫が怒るポイントは、妻が夫の尊厳を侵害したと夫が感じたときがほとんどです。もう少しひらったく言うと、夫の人間性を否定した時です。尊厳が侵害されると防衛行動を起こすことは人類にすべて共通していて、尊厳が侵害された時は怒ったり委縮したりするのであり、国際紛争の原因になったりまでするそうです。
  あまり抽象的に言っても仕方がないので列挙してみます。
・ 役に立たない人間だという意味の発言
文字通り「役立たず」、「生きる価値無し」、
・ 努力を否定する発言
「家のことを何もしない」、「それで頑張っているつもり?」
・ 過去の失敗を繰り返し言う。
「こんなことをしているからあの時も失敗した」、「一事が万事」
・ 育った地域、親。兄弟のこと等を悪く言う
「親が親なら子も子だ。」、「育て方を失敗したな」
・ 大事にしていることを否定する発言
「そんなことにこだわっているからうだつが上がらないんだ。」
・ むやみに疑う発言
「あなたは否定しているけれど、あなたがやった以外には考えられない」
・ 根拠のない不合理な否定
「だからあなたといると、雨が降るんだ。」
とりあえず、こんなところでしょうか。夫婦はお互いの弱点を知り尽くしているので、的確に相手が嫌なポイントをついてきています。感心さえしてしまうほど的確です。「いやそれで怒るポイントが分からないというのはどうなの?」という感想を持つことがしばしばです。

2 怒りが激しくなる事情 解決方法が見つからない場合
  怒りが激しくなるのは、尊厳を侵害されて早く解放されたいと思うけれど手段が無い場合です。尊厳が侵害されると、とても不快な気持ちになります。とても不快な気持ちになると、早く不快な気持ちを終わらせたいという気持ちになります。不快な気持ちを終わらせる方法が無いと、ますます不快な気持ちが高まります。益々解消要求も高まります。それでも解消手段が無いと、ほとんど思考が停止している状態になり、ただただ相手を黙らせようと大声を出したり、物に当たったりするわけです。さすがに暴力までする人は令和には少なくなりましたし、暴力には警察通報をする人が驚くほど多くなりました。実際の離婚手続きの多くには夫から妻への暴力というのはあまり記憶が無いです。
 解決方法が見つからないのも事情があります。相手が執拗に尊厳を侵害する発言を繰り返し行う場合が典型です。取り付く島が無いというか。その他反論が見つからない場合、言葉にできない場合等もあります。
 つまり追い込んでしまったので、窮鼠猫を嚙むじゃないですが、イチかバチかみたいな思考停止で行動をしてしまう時が怒りが激しくなっている時です。

3 どうして怒りのポイントが分からないのか

冷静な第三者から見ると「あなた相手を怒らせているよね。」と思う事例が多いのですが、本人はどうやら本当に自分が相手を怒らせている自覚が無いようです。どうしてでしょう。
私なりの印象を列挙しておきます。
① そもそも、最初の発言者も思考停止状態になっており、それを言うと相手が怒るということも考えられない。④⑤も基本はこれ。
② 自分は正当なことを言っている。相手の感情よりも正当性が優先であるから悪くない。怒る方が悪い。
③ 自分の本心は相手を攻撃しているつもりはないので、相手が怒るのが不思議だ。この現象は自分のこれからの発言を自分では予想しているし、本心が別だということも知っているので、それほど打撃力が無い発言だという感覚なのです。ところが、言われている方は、そんなことは知らずただ発言された言葉だけで評価しますので、ストレートにダメージを受けているということです。自分で自分をくすぐってもくすぐったくない事情と同じです。
④ 発言者の人格が一時的に変わっている。精神疾患だけでなく、内科疾患や婦人科疾患でも、一時的に不安が高まってしまい(一種の発作)、不安を解消するためにやみくもに攻撃をするという現象があるようです。こういう場合は、自分の行動の記憶も曖昧になることが多いです。
⑤ 様々な事情で不安が優位になっていると、相手が怒っていないのに、「こんなことを言ったら相手に怒られてしまうかもしれない」ということが、「怒られた」という記憶に変容してしまうことがあります。また、自分が想定する反応よりも厳しい反応であった時、それほど怒っていないのに激しく怒られたという印象になることもあるようです。
⑥ 怒られたくない、仲良くしたいという気持ちが強すぎて、⑤と同じように、怒っていないのに、怒っていると感じることがあるようです。

4 相手が怒っていると感じたら
  まあ、率直にごめんなさいと言っておけばよいように思われるのですが、「怒った?」と繰り返し聞くことが、怒ってもいない場合は、何かからかわれているというか、信用されていないように感じられて怒りがわいてくるということもあるようですから難しいです。

話をはぐらかすというか、何事もないように話題を変えて話し始めるということも案外有効のような気がします。

不安が優位であることを自覚しているなら、相手に打ち明けて相談するということも良いかもしれません。そのときは、「気遣ってほしい」、「こういう風に言ってほしい」、「聞き流してほしい」など、相手にどうしてほしいかを提起することが、相手の負担を減らす方法のような気がします。

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共同養育を阻む力 兵庫県知事選マスメディアの敗北⇒コメンテーター⇒SNS規制 [家事]



1 聞き逃してはならなないマスメディアの「敗北」
兵庫県知事選の前職勝利の結果を受けてテレビ側の人間に、「マスメディアの敗北」という言い方をした人が何人もいました。前職を応援していた人の中には留飲を下げて勝利に酔いしれた人もいたかもしれません。

しかし、ここは聞き逃してはならないと思います。疑問を持つ必要があります。
「なぜ前職が当選したらマスメディアの敗北ということになるのか。」
ということです。

深読みかもしれませんが、「マスメディアは前職を落選させようと一致して取り組んでいたとしたならば、あるいは対立候補を当選しようとしていたならば」、前職当選によってマスメディアの敗北という表現がよくわかります。

つまりマスメディアは、会社に関わらず、統一した意思をもって、前職を落選させ対立候補を当選させようとしていたということです。マスメディアが、自治体の主張を誰にするか国民を誘導していたということの自白に他ならないと考える余地があると思います。
 何も音頭を取る人がいなくてマスメディア各社が同じ意見を持つわけはありません。「何かグループ」(暇空茜さん命名)とでもいうものがあり、それがマスメディアに号令をかけ、マスメディアがそれに迎合した報道をしていると考えることが自然だと思われます。

2 続コメンテーターの役割
  そして、なんでこの人がコメントしているのと思うコメンテーターたちが、SNSの影響で投票行動が決まったから、「SNSを規制しなくてはならない。」と言い出したようです。
  ここにコメンテーターの役割ということがはっきりしました。前の記事でコメンテーターの役割は怒って見せて、国民が共感して怒りやすくするのが役割で、怒り依存によって固定の視聴者を作り上げようという意図があるということを言いました。もう一つ役割があり、それは、先に述べたマスコミに号令をかける何かグループの意思を一個人のコメンテーターという装いで、言葉にして話させるという役割があったわけです。
  今回の出来事はいろんなことがはっきりしてきました。

3 「何かグループ」と広い意味での左派勢力
  この間ことごとく、「何かグループ」とマスコミの意図に同調しているのが広い意味での左派勢力です。これも奇妙なまでに各論点で意見が一致し、具体的根拠を上げずに攻撃対象を否定にかかるということも同じです。
  本来「何かグループ」と広い意味での左派勢力、そしてマスコミは敵対関係にあるというか、「何かグループ」を批判することに左派勢力やマスコミの存在意義だったはずです。ところが現在では、マスコミと広い意味での左派勢力が一体となって攻撃対象を攻撃しているという構図があちこちでできているのです。これでは、「何かグループ」を抑制する者がおらず、やり放題の青写真ができてしまっていたはずです。
  その最たるものが兵庫県知事選挙だったわけです。

4 共同親権反対派
  共同親権、共同養育、あるいは家族を守り発展させることに対することに対する攻撃も全く同様の構図を持っています。
  マスコミと広い意味での左派勢力が、離婚を推進し、共同親権に反対して子どもを一方の親の愛情を受けにくくし、子ども健全な成長を阻害しているわけです。そして、子どもの権利を主張すると「DVだ」、「モラハラだ」と主張するのですが、具体的な内容はともなっていないことが大半です。家庭の事情は個々別々ですが、一般論で政策を進めようとしているところも一緒です。家族の大切さを主張すると統一教会だとレッテルを貼るという具合です。そのうち陰謀論という人たちも出てくることでしょう。そして、何の恨みもそれほどの落ち度もない一方当事者の尊厳を侵害しても気にしないことはもちろん、最も考えるべき子どもの健全な成長についての考慮は蚊帳の外になっている始末です。

5 しかし展望はある
  現在は日本を除く先進国はすべて共同親権制度を取っています。これは子どもの健全な成長を科学的に検証して推進されて行ったのですが、もともとはアメリカの子どもを連れ去られた一人の男性が何度も訴訟をして敗北してもくじけずに、ロビー活動を行って世界的な共同親権制度につなげていったということがあります。
  また、いろいろなことを露わにした兵庫県知事選挙は、「何かグループ」、マスコミ、広い意味での左派勢力は敗北を認めました。新しい動きの中で、子どもの権利の前進が図られる条件が整いつつあるのではないかと展望が切り開かれたという思いです。

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笑顔をもっと、もっと 相手の背中に笑顔を向け続けるということ 家族再生編 [家事]



人見知りの子どもと仲よくする方法で笑顔の力を感じたことがありました。
親戚が遠方から私の実家に遊びに来て、3歳くらいだったかな、子どもを連れてきたことがありました。その子は私の恩人で、その子が生まれたときに自分も子どもが欲しくなって結婚を真面目に考えることができたというキーマンでした。

2年ぶりの再会ということでしたが、そのくらいの年代の子どもがどういうものかわからなかったので、なんとなく遠巻きに見ていました。案の定、こちらを怖がって気にしているようでした。

やることもなく暇だったので、テレビでやっていた音楽番組に会わせて、おもちゃを入れるような大きさの缶をドラム代わり叩くということをやっていました。うるさがられるかなと思い、ちらっとその子をみたら、こちらを見ていました。でも嫌そうではないのです。関心を持ってもらって少し楽しくなって、ニコニコと調子に乗って缶ドラムをたたき始めました。なんと、その子もニコニコと近寄ってきて、一緒に叩き始めました。あとは顔を合わせてもニコニコ笑顔の応酬でした。帰りしな、その子の方から私に手をつないできた様子を見ていたその子の両親の驚く顔はとても印象的でした。

明和政子先生の岩波ジュニア新書「まねが育む人の心」にも、実験結果で同じような結論が報告されています。つまり、子どもは、大人が楽しんでいることを理解でき、一緒に楽しもうとするようなのです。同時に、困っていれば助けようとすることも報告されています。これは子どもだけでなく本来は人間の本能ではないでしょうか。

だから一緒に住む家族だからこそ、一緒にいるときは笑顔で楽しそうにしていることが、家族円満の秘訣で間違いないと思います。

ところが、現代社会は、家族が一緒にいるという条件がなかなか整いません。長時間労働ということもあって、物理的に一緒にいないということもあります。また家に帰っても、スマホやパソコンで一人でゲームやユーチューブやネットサーフィンをする誘惑が転がっているようです。泣いている子どもを放っておいてスマホを見ているという訴えがずいぶん増えて、「ああまたか。」と思ってしまう状態です。

家族のいる中でスマホをいじってしまうことは、自分でも覚えがあります。

一度注意されても、注意した方がそれをやっていれば、「だったらこちらもやる」みたいな感じで、俯瞰してみれば、どんどん家族が離れていく方向での行動になっているようです。対抗心があるばっかりに家族が離れて行ってしまうのは、なんとももったいない話です。

対抗心を捨て去るのはなかなか難しいようです。
私の仕事ではよくあるシチュエーションなのですが、久しぶりに顔を合わせる家族に、こちらも緊張してしまい、こわばった表情をしていることに遭遇します。ご自分ではなかなか気が付かないようです。あちらも緊張していてこわばっていますから、それを見た方もますますこわばっていくことになるのは自然のことかもしれません。これでは家族再生の入り口に立てません。

対抗心を捨てることができさえすれば、相手がどういう気持ちであろうと、こちらが笑顔を作って相手に見せるということができるのではないでしょうか。それでも相手が攻撃をしてくるとしても、笑顔を見せたという実績は、相手に安心感を与えています。笑顔を見せないよりはよほど前進するはずだと思います。

但し、効果がすぐに表れないだけだと考えるべきでしょう。

前に著名なカウンセラーの方から教わった話として、反抗期の子どもが親を拒否して、こちらを見もしない時でも、背中でもよいから語り掛けるのをやめないことが肝心だと言われました。語り掛けるのをやめてしまったら、そこで親子の仲が終わるかもしれない。でも語り掛け続けていたら、そのことを子どもは記憶し、将来、親を親として感じるようになりやすいというのです。

親子の場合もそうですし、夫婦の場合も基本は同じだと思います。

楽しい人間関係を作るためには、対抗心を捨てて、先ずこちらが楽しそうにして見せる、そういう作業を意識的に行うということが肝心なのだと思います。相手があなたの笑顔を拒否して向こうを向いても、相手の背中に笑顔を向け続けることが家族再生にとって必要な作業なのかもしれません。

逆にいつも一緒にいるときはいつも笑顔というわけにはいかないかもしれません。だから、たまに会う場合は、その時間が勝負ですから、全力で笑顔を作り楽しそうにして見せる、対抗心を忘れるということが肝心なのかもしれません。

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笑顔をもっと、もっと 大変きつい話で恐縮ですが 面会交流編 [家事]



いわゆる連れ去り別居(多くは妻が子どもと一緒にある日突然家から出ていき、帰ってこなくなるケースで、居場所がわからなくなったり、連絡が取れなくなったりすることも多い)があった場合のはなしです。

こういう場合に、子どもの健全な成長をダメにしないように、子どもと家に一人残された別居親との面会を実現させるのが最近の私の大きな仕事です。

何せ、早くて数カ月ぶり、遅ければ1,2年ぶりの再会になる事案です。子どもの年齢によっては、久しぶりに別居親と会うわけですから、どう接してよいか分からないのです。なかには、母親から因果を含められていたり、悪口を吹き込まれていたりして、面会をしたくないというお子さんも多くいます。

しかし、そういう風に拒否をすると、自分のせいで父親が孤立しているという意識が無自覚に起こってきて、後で苦しむのです。そういう痛ましい場面を黒子の立場からよく見ています。私は、その方が子どもが確実に別居親と会えるので、連れ去り親の代理人も積極的に行っています。

母親が子どもを連れ去るケースでは、母親から因果を含まれなくても、母親を忖度して父親を攻撃する場合もあります。母親が苦しんでいる、憎んでいるという姿を目の当たりにし続けている子どもは、近くにいる方の親をかばいたくなるのが人間の本能です。一緒に暮らしていない父親を攻撃するのは、父親を憎んでいるのではなく、母親を守るという意識なのだということは分かりやすいことです。

それでも父親の悪口を言わない母親も少なくありません。面会の時に一緒に暮らしていたころのようにすぐに打ち解ける姿を見ると、立派なお母さんだなと感心することも結構あるのです。

しかし、結構な頻度で、面会の時に別居親に拒否的な態度をとるお子さんも多く見られます。同居親のところに戻りたいと言ったり、話をしたくないと言ったり、別居親を攻撃するということもあります。

事前にどんなに私がレクチャーしていても、別居親は、同居中仲良くしていた普通の親子だったのに、自分の子から拒否されると、グサッと胸をえぐられたような衝撃を受けるようです。当たり前のことです。

でも、少なくとも面会を定期的に続けていって、子どもが健全な成長ができなくならないようにするために、ここはへその下に力を入れなければなりません。一番できないことをやらなくてはならないのです。

それが笑顔です。

子どもが自分の悪口を面と向かって言っても、敵意むき出しの目をしてみていても、「うんうん、そうだね。パパが悪いよね。」と笑顔で返すことが、今後に向けての一番の特効薬なのです。

むしろ、言葉を尽くして、自分は子どもを愛している、何があってもあなたの味方だということを告げるよりも、子どもの攻撃を即座に許すことを一瞬で告げる方法が笑顔であり、それで子どもは救われるし、別居親が自分の親であり、仲間なのだということを強烈に印象付けられるのです。

特に小さいお子さんは、わけもわからずに親を攻撃していますから、真に受けるべきではないのです。それでもやはりショックであることはよくわかります。

面会の期待に胸を膨らませてきたら、子どもから拒否のカウンター攻撃を受けるのですからたまったものではありません。本人は顔に出さないように努力されていることはわかるのですが、目が笑っていません。

そもそも、面会が始まる時、親の方が緊張してしまっていますから、そんな親の表情を見て子どもも「叱られるのかな」という気持ちになっているのかもしれません。そもそももう一人の親から引き離された子どもは、自分が親と住んでいないことに罪悪感を覚えているようなのです。

そういえば、家庭裁判所の中で行われた試行面会で劇的に成功した事案は、私がいつも言っているように「昨日も会ったように、明日も会うように、軽く、笑顔で同居中と同じ態度をこちらが作る」ggggggdさということを徹底した事案でした。最初が良かったです。いつものように笑顔で部屋に入ってきた父親を見たときに、子どもの笑顔がパアーっと広がった様子は圧巻でした。この面会から家庭裁判所の様子はガラッと変わり、別居親の立場から同居親を粘り強く説得するようになったものです。笑顔の力でした。

子ども悪口や、拒否の態度を楽しむように、ネタにして笑いに変えられるようにすることがベストです。

特に小さい子どもは、拒否したり攻撃しながらも、別居親にあえて安心している様子がわかります。端的に言えば、怖がっていなければ大成功なのです。

後は笑顔です。子どもは楽しんでいる人に近づいて一緒に楽しもうとします。あなたが、自分(子ども)と会って嬉しそうにしていれば、自然と近づいてきます。楽しそうにしていなければ、罪悪感や、同居親を守る意識や、そういう余計な感情に支配されて行きます。笑顔と、はしゃぐ様子を子どもに見せることが、面会交流の大成功の秘訣です。

しかしそれが難しいのも事実です。笑顔の鉄仮面を作るということなのかもしれません。

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妻からの激しい暴力の案件が多発。それでも妻は夫のDVを主張する。この基本的構造はずいぶん前から繰り返されている。 [家事]



最近の離婚事件の特徴は、妻が夫に過激な暴力をふるっていたということです。また、夫がそれを制止するとDVだと言って、子連れ別居をしてしまうという流れです。

最近DV法の影響もあるのか、夫婦間暴力が可視化されるようになってきました。警察が介入することで妻の暴力が公文書に残されることが増えてきました。その他でも動画で撮影されていたり、夫に傷口が生々しく残っていたり、物が破壊されている画像だったりとかなりリアルに妻の暴力の様子が残されています。

最近の夫婦間暴力事件で傷跡が残るのは通常夫の方です。かまれて血が流れている腕の写真とか、首を絞められた跡が数か月を経ても残っていたりとか、間違ったら死んでしまう危険がある暴力は、現在では通常妻が夫に対して行うことが多いです。sd夫が妻の暴力に対して対抗して殴り合いになるなどということは通常起きません。夫が妻に手を出す場合は、大部分は妻の暴力に耐えて、これ以上は危険だという時に妻を壁や床に押し付けて制止するということにとどまっています。

夫には、相手が自分の家族だという意識があるために、相手を傷つけることができないという意識があり、このため積極的な暴行をふるうということができないようです。容赦ない攻撃をすることが心理的にできないということなのでしょう。

それにしても、妻側は、どうして夫からの反撃を想定しないで何のためらいもなく全力で攻撃をすることができるのでしょう。どんなに運動神経が良い妻でも、さすがに力対力になれば夫に適わないでしょうし、良い勝負になったところで肉体的なダメージを受けると思います。むしろ男同士ならば、感情的になったとしてもそのような攻撃をすることは日常の中ではほぼありません。

妻が脱抑制で夫に暴力をふるうことの考えられる理由
1 夫が自分に危害を加えないことを信じきっている。
2 そこまで考えられないくらい感情的になっている。

1と2が両方あるケースが多いように感じられます。見ず知らずの通りがかりの人間に対して暴言や暴力を行うのではなく、自分と夫婦の間柄にある夫だから容赦のない攻撃が加わっているのではないでしょうか。最近いくつかのケースを見ていますが、主たる原因は夫の個性ではなく、妻の心身の状態と夫婦という関係性の中で脱抑制暴力は行われるようです。

それにしてもどうして突如感情的になるのでしょう。ここがよくわかりません。
裁判所で妻は、自分が感情的になって夫に傷跡が残るような暴力をふるっているということを主張しないからです。

これまでの事件では、このような妻の脱抑制的な暴力はあまり担当したことがありませんでした。しかし、妻の奇妙で危険な行動を夫が静止したところ、DVだとされて、離婚や保護命令が申し立てられたケースは前々からありました。

突然豹変してトランス状態というか何かにとりつかれたように行動する点は共通しています。現在多いのは暴力をふるうということですが、一昔前によくあったのは突如家からの飛び出そうとしてしまうことです。二階の部屋の窓から飛び出そうとするならまだ良いですが、高層階のマンションのベランダから飛び出そうとする行動(インフルエンザの時にあるような飛び出し衝動)がおおかったです。尋常ではない目つきで突然行動に出るので、危険を感じた夫が転ばせて床に倒して制止させたり、壁に押し付けたりして制止するわけです。そうして体の自由が利かなくなったときに、はっと我に返るようです。記憶は制止されているところから始まりますので、夫から暴力をうけたという主張になるのです。その前段階の出来事は何ら主張されません。このような裁判で行われたことは数件経験があります。

どうやら本気で発作が起きている時の記憶は無いようです。

それでも妻は子どもを連れて突然出ていき、行方をくらまします。妻の弁護士はジェンダーバイアスによって、妻が夫に暴力を振るうなどということは考えもしません。男である夫が暴力をふるうのだということに決めつけて主張します。暴力の証拠を上げても、今度は確証バイアスで証拠の意味の認識を受け付けようとしないようです。こういうケースは保護命令を申し立てることもあるのですが、客観的にものを見ている裁判所は、淡々と取り下げるよう示唆することが多くなってきています。

それでも離婚したいのは妻の側で、離婚したくなくて、子どもと暮らしたいのは夫ということになります。

どうして夫はそれでもそのような凶暴な妻と一緒に暮らしたいのでしょうか。
「子どもと一緒に暮らしたい。」。「子どもが心配だ。」ということが先ずあることはもちろんです。

もちろん中には、もうこりごりだ。子どもには悪いけれど離婚したいという夫もいるとは思います。でも、それほど凶暴な妻を嫌がっていない夫が多いようです。

その理由は、四六時中そのような凶暴な状態でいるわけではなく、時々そういう状態になるということをよくわかっているようです。そうして、それ以外には良きパートナーであり、一緒に行動することがとても楽しいという経験があるからだそうです。

それだけ狂暴になって(本当に動画とか傷跡とか見るだけでこちらはビビります。下手なホラーよりよほど怖い。)しまうと、本人はとてもバツが悪いということはよくわかります。でも、そんなことで夫の妻に対する評価は変わらないようです。ふてぶてしく自信を持っていればよいようなのです。

昨日のブログの最後でも述べましたが、このような暴力をふるう妻は出産前にはこのような脱抑制状態になったことは無いようです。また、下のお子さんが就学前という共通点もあります。

出産後のホルモンバランスの変化が影響しているように思われますが、どうなんでしょうか。


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「どうして怒るかわからないので、いつも夫の顔色を窺っていてストレスがたまっていた。」と言うけれど、バイアスを取り去ると、そのくらいは気を付けるのが当たり前だと思えてくることが多い件 [家事]



離婚事件で、離婚理由として、「夫が突然大声で怒りだす。どうして怒るかわからないので、いつも夫の顔色を窺って過ごし、怒らないように細心の注意を払って生活していて、もう疲れた。」ということが言われることが本当に多いです。

確かに、中には会社などでのストレスを家族に八つ当たりする夫(妻)もいて、怒る方が一方的に問題があるというか、怒りの対象となる方には責任が無い場合もあることも間違いありません。

しかし、特に最近の傾向、特に子どもを産んで数年未満の若い夫婦の場合、怒りの対象となる方にもかなりの責任があるのではないかと思われるケースが増えているように感じます。

それでも、「いつも夫の顔色を窺っておびえて過ごしていた。」というような話を聞くと、どうしてもそれを聞く第三者、例えば調停委員は、「怖い思いをして辛い日々だったのだなあ。お気の毒だったなあ。早く解放してあげたい。」とついそういう発想の流れになってしまうものです。この発想の流れは、女性が怒られる方であればなおさらです。実態がどうだったのかを見ようとしないで、女性はか弱いものというジェンダーバイアスに引きずられた発想の流れだと思います。

最近は、「親しき中にも礼儀あり」という言葉が機能しなくなっていて、「言ってはならないこと」をずけずけと何の躊躇もなく、ささいなことをきっかけに言っているということが多いのです。

典型的な発言は、相手の親の悪口です。これをためらいなく、むしろ気の利いたことを言っているような言い回しで言っている若者が本当に多くなりました。

あとは、本人に言っても仕方が無いことを悪口のタネにするということです。背が高いとか低いとか等の身体的特徴や、収入が低いとか、本人のコンプレックスに感じていることをドストライクで指摘しています。

その言葉によって相手の尊厳を傷つけることをずけずけと言っているケースが実に増えていました。尊厳が傷つけられれば、逃避傾向にならなければ、怒りが出てきやすいのは自然な流れです。

もう一つの類型の発言として、自分たちの子どもの悪口や、子どもに対する攻撃的言動があると、相手はそれに対してつい感情的になるというパターンも多いように感じられます。仲間である我が子を守ろうとする余り、仲間であるはずの夫婦の一方を敵視してしまうような感情が芽生えるわけです。子どもに対して優しい気持ちであればあるほど、怒りは強くなってしまいます。

「相手の顔色を窺っていた」なんてことを言いますが、言えば相手が怒って当然だと思われる言動をしているわけです。「顔色は窺っていたけれど怒らせないようにすることはしていなかった。」とでもいうことなのでしょうか。「どのタイミングで怒るかわからない。」というけれど、「わからない方が悪い」のではないかと思えてきてしまいます。そういう暴言に対しては、通常の抗議の範囲であれば、多少熱が入っていても社会通念上許容されるべきことで、およそ離婚理由にはならないはずです。


但し、妻の場合は、妻の精神状態が平穏である場合の話です。


例外があります。それが産後うつというか、産後2年程度の時期という特殊な時期の場合です。

産後うつの特徴として、実例を多く見ている立場からすると、「うつ」という言葉は実態を表していないと感じる場合が多くあります。不安という感情を基盤としていることはそうだとしても、それが怒りやすさにつながっていたり、些細なことに敏感に反応してしまうということも産後うつの症状の一つです(MDSプロフェッショナル版)。ところが、なぜか日本の産後うつの解説は、抑うつや悲しみ、漠然とした不安等ことしか説明がされない傾向にあります。このため、怒りが激しくなることも産後うつの症状であるということが理解されにくくなっているようです。

また、私からみると、産後うつの他の特徴として、露悪的な言動をすること、あえて不道徳、違法な行為をするような言動をすること、刹那的な判断、安易な決断などがよく見られます。十分に考えてからの行動ができなくなり、感情的に行動をしてしまい、自己抑制をしようとする発想自体が減退するということがみられます。

この場合は、妻の人格に基づいた発言ではなく、何かの不安や苦しみから解放されようとしている発言だと切り替える必要がありそうです。口から出た言葉は引っ込めることができませんが、本意ではないと割り切って考える必要がありそうです。これもまた難しい作業になります。

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