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つい虐待をしてしまう親御さんへ。虐待をしないことよりも虐待をしてしまった後のフォローならば頑張れるかもしれませんよ。 [家事]



1 ついしてしまう虐待。その後のフォローとは。
2 もしかして、親御さんはまじめすぎるのではないですか。
3 もしかして、親御さんが追い込まれているのではないですか。
4 もしかして、親御さんは体調が悪いのではないですか。
5 虐待されたお子さんの気持ちの動き
6 子どものために大勢の人の世話になろう。借りを作って豊かな人間生活を送ろう。

1 ついしてしまう虐待。その後のフォローとは。
 
親だって人間ですから、お子さんに対してだって
自分の素の部分が出てしまうことがあるのはみんな同じです。

つい大声で注意してしまったり、
言葉の内容がきつすぎたり
時には手が出てしまったり、
あるいはどうしても必要な世話ができなかったり
多少なりとも親ならば覚えがある方が多いと思います。

やってしまった後で後悔するのですよね。
その時の子どもの表情が
信じられないという表情で、恐怖の表情でこちらを見たり、
泣き出して収拾がつかなくなったり
悲しい顔をして黙り込んだり、
それを見ると、忘れられなくなり、
ああ、自分は悪い親だなと思うわけです。

虐待してはいけない、してはいけないと思うと
逆にそれがプレッシャーになって
余裕がなくなってきたりします。

発想を変えてみるということがあると思うのです。

ある程度虐待には目をつぶってもらうとして、
大事なことはそのあとのフォローだと考えてみてはどうでしょうか。
もっとも、命を奪ってしまったり、
一生消せない傷を負わせてしまってはこのお話も通用しません。

考えてみれば、
昔から子どもはぞんざいに扱われることが多くありました。
それでも健全に成長していました。
今とそのころと違うのは、
昔は誰かがフォローをしたということです。
例えば母親が感情に任せて手を出したとしても
おばあさんが、
「お母さんはあなたが大事だから、心を鬼にしていってくれたんだよ」
とか
一緒に住んでいるおじいさんが
「あとで一緒に謝ってあげるから心配しなくていいよ」
等と飴などくれながらフォローがあったものです。

お母さんもお父さんも他の家族の目があるから
自分をある程度はコントロールできていた
ということもあったと思います。

父親が子どもを叱った後で
母親がとりなすというパターンも多いでしょうか。

あるいは別の人がとりなさなくても
感情に任せて叱った後で、はっと気が付いて
「お父さんはお前が憎くて怒ったわけではない。
 このことは大切なことだからどうしてもわかってほしかったのだ」
等と都合の良いことをずうずうしく言って
子どものフォローなのか自分のフォローなのかわからないようなことを
言ったものです。
それでも子どもは救われたと思います。

フォローとは
自分の行動が子どものために行ったことだという説明と
(多少嘘でも構わない)
自分は子どもを憎いと思っていない、愛している
どんなに失敗しても親として見捨てることはない
というメッセージを伝えることです。

子どもの年齢によってはハグも有効でしょうし、
気持ちを切り替えて一緒に何かをするということも良いでしょう。
要するに
お子さんが自分は嫌われていない
自分は厄介者にされていない
自分は見放されることはない
という感じさせることがフォローなのでしょう。

お父さんはあなたを大切に思っているよ
お母さんはあなたが嫌いではないよと
虐待した後は必ず言いましょう。
それから虐待しないときでもいつでも
是非至近距離で、声の風が伝わるところで
時々は声に出してお話ししましょう。

時々は子どもに思いっきり甘えさせましょう。

つい手が出てしまったり、ついきついことを言うのをやめられなくても
フォローをすることはできることです。
できるだけ間髪開けずにフォローしましょう。
できれば、虐待する前でもフォローしましょう。

2 もしかして、親御さんはまじめすぎるのではないですか。

虐待をする親御さんをむしろ心配している年配の私たちがいます。
もしかしてこういう方々が多いのではないかということです。

第1は、まじめで責任感がありすぎるのではないかということです。
お子さんの些細な失敗や不十分点も
今のうちに直しておかなければならないと思って
100パーセントできるまで追及してしまうとか。

お子さんの道徳に反したことに絶対に言い訳をさせない、
親は間違ったことを許さないという態度をとらなくてはならない
と思い込んでいらっしゃるとか

大きな声を出したり、手を出したりしたあとで
自分が許せなくなり、フォローができない
フォローなんて図々しいと思ってしまう。

正直すぎるわけです。
でもそれでは、だれも幸せになりません。

子どものためならずうずうしくて良いのではないでしょうか。
あなたが潔癖でいる事より
お子さんの気持ちを優先するべきだと私は思います。

まじめすぎる人は
二度と虐待はしないと誓ってしまいます。
誓ってしまうと
ご自分が失敗してしまうと自分が許せないですし
一度手を出したりすると
自分は虐待しなくては生きていけないんだと
わけのわからない発想に陥って、くよくよしてしまいます。

自分の失敗や風十分点こそ許しましょう。
自分に甘くすることが虐待を少なくする出発点かもしれません。

自分を甘くすることによって
子どもはもっと甘くしていいんだということがわかるようになると思います。

いいじゃないですか
たまには子どものずる休みに付き合って一緒に昼寝するのも
子どもにとっては一生の思い出になるかもしれませんよ。

3 もしかすると親御さんが追い詰められているのではないですか。

もっと心配なのは、
親御さんが、会社ですとか、家族ですとかから追い詰められていたり、
あるいはお金がなくて困っているとか
解決不能の問題に直面していて
自分を守れないと感じている場合です。

こういう場合は、一時的に頭がおかしくなっていますから、
子どもの何気ない仕草でも
子どもが自分を馬鹿にしているのではないか
と感じやすくなっています。

子どもを疑ってしまうときは
何か感謝ができることを探しましょう。
あるぼろぼろの時、
自分が夜風がしのげる家で眠ることができる
ということを感謝してみたのです。
そうしたら、いろいろなことを感謝できるようになり、
笑ってみることもできたのです。
もっともそれを誰かが見ていたら
おそらく不気味に感じたと思います。

親だって失敗してよいのだと思います。
失敗から立ち直る姿を子どもに見せられたら
子どもにとってかけがえのない財産になるでしょう。

失敗しないことを見せるよりも
失敗を跳ね返すことを見せる方がより実践的なしつけです。
必ず失敗することはあるのですから。

それができるのは親のあなただけです。

子どものために頑張るというのは、
失敗を無かったことにすることだけではない
と私は思います。
フォローというよりリカバリーですかね。

誰かに助けてもらえば良いのです。
助けてくれそうな人がいなければ
片っ端から相談して助けてくれる人を探せばよいのです。


4 もしかして親御さんは体調が悪いのではないでしょうか

気が付かないうちにお体を悪くされて
どうしても朝起き上がることができない
どうしても立ち続けることができない
ご飯を作ることすら集中力が続かない
ということはあることです。

それでも、やるからには
一つ一つ手作りで、一つ一つの栄養を十分に
なんてことを固く考えていると
結局何もできません。

小学校の中学年くらいまでは
炭水化物中心の食事で構わないと栄養士の先生の本に書いていました。
ごはんとか、パンですね。
パン買っておくとか、場合によってはお弁当を買っておくとか
時にはカップのラーメンを買っておくとか
どうしてもできないときは
勘弁してもらうしかないと思います。
何もしないことよりずうっとましです。

なまじゴミ箱なんか使わない。
大きなごみ回収袋を用意して
片っ端から入れていく方が実行的なときはあります。

元気になってからまとめてお世話するしかないと思います。
困ったときはお互い様です。
最後にお話ししますが、
子どものために、誰かの世話を受けることも検討してください。
それだけは、あなたが他人の世話になることが嫌でも我慢してください。
だけど、世話になりやすい人って必ずいますから
情報を入手しましょう。
片っ端から探してみましょう。

弁護士という仕事柄
罪を犯した人と話をするのですが、
いろんな人に支えられて今いることを思い知らされた
借りを作り、みんなに感謝しながら生きている方が
一人で頑張って生きるよりも
よほど豊かな人生を送ることができる
他人にも優しくなれるという言葉が印象的でした。

5 虐待されたお子さんの気持ちの動き

虐待の内容によって違うところはあると思うのですが、
虐待を受けた子どもの心をのぞいてみましょう。

人間に限らず動物は、生きていたいと思うものです。
馬は草を食んで、肉食獣が来たら群れで逃げたいと思うでしょう
ライオンは、力を強くして走って獲物にとびかかろうとするでしょう。
生きていくために動物はいろいろな戦略を立てて生き延びてきました。

言葉の無い時代から
人間は仲間を作るという戦略で生き延びてきました。
仲間から外されると不安になるので
自分の行動を改めても仲間に入れていてほしい
と、だれも何も教えなくてもそういう気持ちになります。
そういう仕組みで仲間を作ってきたわけです。

一言で言えば
仲間から外されそうになると不安でいっぱいになる
ということが仲間を作って生き延びる方法だったわけです。
そう言う不安にならない人間たちは生き延びることができず
不安になれる個体だけが子孫を残していったとも言えるでしょう。

子どもは特に仲間にしがみつこうとします。
自分では何もできない、生きていけないので
仲間に強烈に依存しています。
子どもは依存の天才です。

ところが虐待をされるということ
叩かれたり暴力を受けること
人格を否定する暴言を受けること
食事や排せつなどの世話をされない放置
殺伐とした家庭環境におかれること
等を受けている子どもたちは
自分が仲間として扱われていないということを感じて
たまらなく不安になるわけです。

馬で言えば足を折られそうになっている場合の不安ですし、
ライオンで言えば、牙を全部おられるときの不安
と同じということです。
つまり、自分を守ることができなくなる
という現実を突きつけられるわけです。

ここから先はお子さんの個性によって変わってくるようです。

あるタイプのお子さんは
親が自分の仲間になってくれないなら
およそ誰も人間というものは自分に利益を与えてくれない
誰でも人間を見たら攻撃者だと思い遠ざかり
近づいてくるものに敵意を示す
という具合になっていきます。
これは人間だけでなく哺乳類全般の傾向らしいです。

もう一つのタイプは、人間特有なのですが、
自分が仲間扱いされないならば
仲間扱いされるまでこびへつらうというタイプです。
なんとか機嫌を損ねないよう常に細心の注意で相手を観察し、
何か間違った行動をしてもひたすら隠したり
自虐的な行動をとる
誰にでもすぐになつこうとしてうっとうしがられる
適正な距離を保つことができず
悪い大人の食い物になるパターンもこのタイプです。

ずいぶん前に母と祖母からの虐待で亡くなった10歳の女の子は、
亡くなる半年前、小学校での2分の1成人式で
「お母さん大好き」という作品を残していました。

多くの虐待を受けた子どもたちは
自分の親を嫌いになるとか、親の元を去るという選択肢を
初めから本能的に与えられていないのです。

そのようなお子さんたちが
今自分が受けている理不尽な対応をどのように考えるのでしょうか。

殴られたくない、疑われたくない、タバコの火を押し付けられたくない
ご飯を食べたい、大事にしてもらいたい
仲間外れにされたくない
でもそれをしてくれない。

自分が悪くないのにそういう目にあっている
そう正しく理解してしまうとどうなるでしょうか。
待っているのは今の苦しい状況から逃れる方法はないという悟り
つまり絶望です。

人間は絶望を感じることに耐えられません。
絶望を感じてしまうと命も大切に思えなくなるようです。
このため、
無意識に絶望を回避する思考をしているようです。

子どもたちであれば
自分が悪いからこういう目にあうのだ
自分がもっと良い子であれば
もっと楽な生活が送れる。

それは、子どもにとって絶望に陥らないための
ぎりぎりの生きるための知恵だと言われています。

理不尽な目にあえば会うほど
自分は悪い人間だと自分に言い聞かせて大人になっていくわけです。
自分に自信がなく、幸せになれるということも信じません。
どうして生きてきてしまったのかなんてことを考えるようです。

ですから、
虐待の最大の問題は子どもの心に与える影響です。
暴力暴言、ネグレクトだけが虐待ではない
暴力暴言、ネグレクトがなくても
虐待をしているかもしれないのです。

6 子どものために大勢の人の世話になろう。借りを作って豊かな人間生活を送ろう。

人間はサルやクマなんかとは違う種類の動物です。
母親だけが子育てをするわけではありませんし、
両親だけが子育てをするという仕様にはなっていません。

多くの大人たちによって子育てをしてきました。
それができない現代社会は
人間という動物種にとっては異常な時代なのです。

子どものためにたくさんの人に借りを作りましょう。
不自由な思いをしても、感謝ができるということは
人間として生きるということだと思うのです。

どうしても人間は絶望を回避するために
自分が悪いからうまくいかない
という風に思いがちです。
本当にそうでしょうか。

私は、
子育てに関しての社会的なハンディキャップを放置している現代社会は
人間社会になり切れていない未成熟社会だと感じています。
子育ては親の責任かもしれませんが、
子どもに自己責任を負わせるわけにはいかないじゃないですか。

親を中心としてみんなで子どもを育てるシステムが
あまりにも貧弱なだけではないかと考えているのです。
社会というシステムの整備の
優先順位を間違っていると思います。

安心して誰かを頼れるシステムがないということは
本当に問題です。
子育ての相談をしたら
子どもを取り上げられてしまうということでは
誰にも相談ができなくなってしまいます。

不利益を受けるのはいつも子どもです。

子どもの利益を第一に
しかも科学的に考えたシステムの構築が
最優先事項だと思います。

「きちんと子育てをさせろ」
社会に向かって要求することが
人間らしい要求であると私は思います。

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夫婦喧嘩の悪影響 子どもの前で夫婦喧嘩をしてしまった場合に、必ずしなければいけないこと。 [家事]


同じことを他人から言われても
笑って聞き流すことができますが、
どうしてっていうほど、頭に来ますよね
妻から言われたり、夫から言われたりすると。

対人関係学的に言えば
潜在意識の中で、
一番尊重されたい相手だ、一番大切にしたい関係だ
と感じているので、
些細な非難めいたことでも、
強烈な痛みに感じてしまうから
自分を守ろうとして、相手を攻撃してしまう
という言い方をしています。

いずれにしても、
夫婦喧嘩ということはついしてしまうことで、
5秒待ってから怒りを表現しようなんて余裕は
私の理論からすると
相手を愛していればいるほど無理な話だということになります。

5秒なんて待っていたら
過去にもああ言われた、こういう目にあった
なんてことを思い出して、ますます逆上してしまう
と思うのですが、まぜっかえしすぎな屁理屈でしょうか。

しかし、夫婦喧嘩は子どもに対して悪影響がある
これは統計的に確立された結論のようです。
(シャファー「子どもの養育に心理学が言えること」)

夫婦喧嘩を見せることが児童虐待にあたるとも言われています。

確かに自分の両親が喧嘩しているのを見ることは嫌なことです。
子どもにとっては、両親が円満でいることこそ家族のようです。
家に帰ってきたくなり、家に帰れば安心して
嫌なこと、危険なことの体験を親に報告してアドバイスをもらう。
子どもだけでは解決しないことがあれば
大人が解決に乗り出す
こういうことが可能となります。

ところが夫婦喧嘩を見せられると
自分の所属するべき家族が、今にも空中分解するのではないか
という気持ちになってしまうようです。

夫婦だって、別に安心しきって喧嘩しているわけではないのですが、
一人になってもそれなりに生きていけると感じているのが大人ですが、

子どもはこのまま両親の喧嘩がついてしまった結果
学校にも行けなくなるのではないか。ご飯も食べられなくなるのではないか
みたいな不安を覚えるようです。
当事者が感じているよりもばかばかしいほど大きな
恐怖を感じるもののようです。

夫婦喧嘩ばかりの家では、子どもは常に緊張しており、
夫婦喧嘩の様子を自分の将来に重ね合わせて
ドキドキハラハラしているようです。

家が、家族が無くなってしまうのではないかという恐怖は
自分がどうにかなってしまうのではないかという恐怖と同じです。

これは離婚した後も続くようで、
現在では離婚の子どもに与える悪影響よりも
離婚した後の親の葛藤が子どもに与える悪影響の方が大きい
と言われています。

ところが、シャファーの調査研究紹介で面白いことが報告されていました。

夫婦喧嘩は、やりっぱなしで終わるよりも
最後何らかの解決に落ち着く方が
子どもへの悪影響は少なくなるということでした。

これから考えると
子どもの前で夫婦喧嘩をしてしまってもそれで終わりではなく、
ある程度歩み寄って、あるいは嘘でも良いから
子どもの前では問題を解決して
夫婦喧嘩を終了させることが大切だ
ということになりそうなのです。

「そうだね。カッとして大きな声を出したことは悪いのでそこは誤ります。」
「この点については、改めて考えてみます。」
「大事なことなので、また話しましょう。」
ということで、嘘でも良いので、その場を完結させる。
これは子どもの前で喧嘩したときはどうしても必要な作業のようです。

子どもの前でヒートアップしたときは、
どちらかふと我に返った方が
謝れるところを探して謝るという作業が第1ということになるのでしょう。

声を大きくした
乱暴な言葉を使った
言わなくても良いことを言った
ものにあたった等

こういうルールを作り、何度も確認することが
子どもへの悪影響を最小限にするための方法だと思います。

夫婦喧嘩をしないに越したことはないと思いますが。

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体罰が子どもにとって有害であるかについては科学的に結論が出ていない。これをどう考えるか。むしろ体罰をやめようとするよりも大切なこと。 [家事]



体罰禁止を法に盛り込む方向で検討が加えられているようです。
しかし、驚くべきことかもしれませんが
科学的には、体罰が子どもの成長にとって有害である
との証明はなされていません。
(「子どもの養育に心理学がいえること 発達と家族環境」
 H.R.シャファー 新曜社)

本稿は、
科学的に証明されていないのだから体罰禁止をすることをやめろ
ということを言いたいのではありません。
体罰が子どもの成長に影響があるという証明ができない理由の分析と
もしかしたら
子どもに悪影響を与える体罰と
健全な成長を壊さない「体罰を含んだしつけ」があるのではないか
ということの問題提起と
何よりも、体罰よりも気を付けるべきことがあるのではないか
ということを一緒に考えたいということです。

シャファーは、統計調査に基づいて
「体罰が子どもに悪影響を与えるかわからない」と結論付けています。

近年の心理学は、理系の学問であり
統計調査の手法はかなり洗練されています。
体罰の定義もきちっと定めて調査を行っているのです。

しかし、それがために、
個別の具体的な体罰についてリアルな違いを調査することが
不可能になっていると思います。

例えば、親が子どもに平手打ちをすると言っても
①反射的に手加減をする余裕なく平手打ちをする
②色々言い分を聞いたうえで、必要な罰として選択された平手打ちをする。
③平手打ちをするけれど、叩いたところをさすったり、抱きしめたりして
愛情を示すフォローをする。
④平手打ちをした後声もかけずに孤立させる

①④の組み合わせは子どもに害がありそうですね。
さらに追い打ちをかけて子どもをののしっていたら
子どもの心はさらなる害を受けるでしょう。
殴った後で指をさして笑っていたらますますひどい。

②と③の組み合わせであれば
よほどひどくたたかない限り
子どもに害はないのではないかと考えてしまいます。
叩いた親の方が悲しそうな顔をしていたりしたら
「自分が悪かった」と子どもも思うのではないでしょうか。

こういう細かい事情は統計では調査しきれません。
個別聴取の方が有効でしょう。
ただ、個別聴取は大量聴取ということが逆に難しいため、
普遍性のある結論をだすことには難がある
という弱点があります。
どうしても一長一短があることは仕方がないことです。

対人関係学は、統計学や実態調査が不可欠であると考えていますが、
この間隙を理論的に考えることが多いかもしれません。

体罰の問題で言えば、対人関係学は
体罰が、子どもの成長に悪影響を与えるとしたら
それはどういう理由なのかというところから考えるのです。

暴力の直接の害悪は
痛いということ、あるいは
身体の完全性を損なう可能性があるということです。
しかし、心への影響はもう少し複雑だと思います。

子どもに限らず、人間は仲間の中で尊重されていたい
仲間から見捨てられたくないという意識を持ちます。
子どもの場合はもっと積極的に
大人の仲間から守られたいという意識があります。

だから、むしろ健康を気遣われることが当たり前だと感じています。

それが、逆に大切にされたいと本能的に感じる親から
健康を害する行動を自分に向けて意図的に行われることは
自分が仲間として認められていないということを強烈にアッピールされ、
やがては仲間から追放されて、孤立してしまう
というような負の感情を抱いてしまうと
そこまで整除立てて感じているわけではありませんが
不安や恐怖、疎外感などという感情が起きてしまっています。

体罰が理不尽であればあるほど
生命身体の危険とは区別された
対人関係的な危険を感じやすくなり
大きく感じやすくなります。

そうだとすると
体罰がきついものでさえなければ
体罰が一律に対人関係的危険を感じるわけではない
ということが言えないでしょうか。

(体罰がきついものであり、その体罰によって生命身体の危険を感じるほど強ければ、「生きるために自分を守る」という意識が芽生え、常時一緒にいる親に対して警官感、緊張感が持続してしまいます。このような場合、一般に人間を避けるようになるか、人間にこびへつらっていないと心配でたまらない人間に育ってしまいます。慢性持続的緊張は、生理的も悪影響が生じ、思考などにも有害な影響を与えてしまいます。)

孤立感や不安を与えない体罰であれば
それほど有害ではないのではないかとも考えます。

色々な状況で
体罰が有効であることが否定できないように思うのです。
例えば、子どもが
頭ではその行為をしてはならないと理解しても
どうしてもやってしまうということは
子ども時代の自分を考えると
ありうるような気がします。

つい、教室の中で授業中に勝手に席を離れてしまうとか
つい、友達に乱暴なことをしてしまうとか、
(相手の痛みを想像することができない子どもの攻撃は
常軌を逸していて大変危険であることがあります。)

親の言いつけを守らないで、雨降りの河川敷で遊んでいたり、
知らない人について行ったり等
子どもの命の危険を防止するということも必要です。

もちろん、暴力を使わないで
子どものしてしまったことの深刻さが伝えられれば
それに越したことはありません。
子どもが体罰抜きでそれを理解できればそれに越したことはありません。

しかし、伝わらない、理解することができない場合
それでも、伝えなければならない、理解しなければならないときがあります。

体罰も含めてしつけは家庭の問題です。
国家が介入することは慎重にあるべきだと思います。

それはともかく、
つい、つい、だめだと分かっていても
おとなも子どもに手が出てしまうことがあります。

あまりにも体罰はしてはならないということを強調してしまうと
体罰をしてしまった自分が
極悪人のだめな毒親のような気がして
落ち込んでしまう人もいるのではないでしょうか。

落ち込んで反省して、叱り方を研究すればよいのですが、
そんなに都合よい情報は検索しても出てきません。
むしろ、自分はダメな親だと開き直って
体罰を気にしなくなってしまうことが心配です。
誰にも相談できないで体罰が繰り返されることも心配です。

一つの方法として覚えていていただければ
役に立つのではないかということを最後にお話ししてみます。

体罰をしてしまったとき気にするべきは
子どもが「自分は親から嫌われているのではないか」
「親から見放されるのではないか」
「これからは一人で生きていかなければないか」
というような心配を言葉にできない状態で不安になっているということです。
そういう子どもの心を気にするべきです。

叩いた場所をさすりながらでも良いし
手を握ながらでも良いし
抱っこしながらでも良い

叩いたことを率直に詫びながら
例えば
「そういう乱暴なことをしないでみんなと仲良くしてもらいたいんだ」
「もう大丈夫だよ。学校の先生の言うことを一番にしようね、」
とか、
どうして体罰をしたのか合理的な説明をすることが一つです。
もう一つは、
「あなたが一番大事だよ」
というメッセージを、わざとらしく、くさく、繰り返すこと。
脈絡を気にしないでよいのです。

この二つのフォローすることによって
体罰があっても子どもの心を傷つけないのではないか
ということです。

これは子どもにとってのフォローなのですが、
体罰をしてしまう親にとっても
再発防止に役に立つ自己暗示の一種になると思っています。

最後に、単なる親のイライラのはけ口で子どもに八つ当たりをすることは単純な虐待であり、ここで考えている体罰とは関係がないのでご注意いただきます。

その点についてもまとめの途中ですのでもうしばらくお待ちください。




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子どもの貧困対策として養育費の支払いの強制の政策は、子どもにとって有害である愚策であること。養育費を支払う意義ともっと簡単な方法。 [家事]



先日法務大臣が、養育費の未払いが子どもの貧困の大きな原因だと言ったという報道がなされたけれど、誤報であろうと思いたい。現在の法務大臣は、過労死防止対策等で実践的に活躍されている方である。きちんと問題点、原因、改善方法を理解されてお話をされていた。こういう論理的思考ができる方だから、感情的な、非論理的な話をされるとは到底思えないからだ。
本拙文は、養育費の支払いを行政が強制する政策が、きちんとした政策ではなく、感情的、非論理的な政策であり、子どもにとって害悪しかないということを説明することを目的とする。併せてどうすればよいかということも説明する。

1 子どもの貧困を養育の未払いが原因だとすることは政治家と社会の責任逃れであること。
2 養育費が支払われることの子どもにとっての意味
3 養育費を強制することの子どもにとっての弊害
4 養育が支払われない事情
 1)同居親が養育費を請求しない事情
 2)別居親が養育費を支払わない事情
5 養育費が支払われるための簡単な方法
6 養育費が支払われるための根本的な解決方法
7 いま進められている制度に全く賛成できないということ

1 子どもの貧困を養育の未払いが原因だとすることは政治家と社会の責任逃れであること。

先ず、子どもの貧困の一番の原因は何か。当然賃金が低いということである。男であろうと女であろうと、大人が働いて子ども一人養えないというのである。これは社会の問題であり、政治の問題そのものである。さらに男女間賃金格差があること、働き口はあっても雇止め等不安定雇用が子どもの貧困の最大の原因である。特に政治家が、このような社会環境を放置しているという自らの責任を、低賃金労働者の責任にすり替えることは許されない。女性の権利を主張する人たちも、主としては元夫に責任を求める傾向にあり、低賃金、男女格差、不安定雇用を子どものために改善しようということが前面に叫ばれることが少ない。低賃金、男女格差、不安定雇用の恩恵を受けている企業や政治家にとってだけ、とても都合の良い主張ということになる。アメリカのフェミニストであるナンシー・フレーザーが、「現代のフェミニズムはグローバル企業のサーバントに堕落している」という主張をしているが、養育費をめぐる議論はこの具体例であり、象徴的な事例である。

2 養育費が支払われることの子どもにとっての意味

それでは、養育費は支払う必要がなく、低賃金、男女格差、不安定雇用の改善をもっぱら主張すればよいのか。それも違う。養育費を支払う意味は、子どもの経済的安定だけではないからである。
むしろ養育費を支払う一番の目的は、子どもの自信の獲得である。子どもは一緒に住んでいない親からも愛情を注がれることを実感することによって、離婚によって被る負の影響である自信の低下を軽減することができる。(また、自分が尊重されていると実感するためには自分の親も否定されないということが必要である。これは、結婚後、相手から自分の親の悪口を言われた場合にどういう感情になるかということで、多くの既婚者は体験していることと思われる。)
子どもは、毎月、決められた金額が欠かさず自分のために振り込まれるということを知ることで、自分が別居親からも大切にされていることを実感できる。養育費は子どもの自信のためにとても有効な方法である。養育費や婚姻費用の別居親からの支払いを子どもに隠す同居親がいるが、この意味で同居親が送金の事実を隠すことは子どもを害することである。親としての資格が欠落している。
相手が嫌いでも、「あなたのために頑張って毎月送金してくれているんだよ。いつもあなたのことを考えてくれているんだね。」と嘘でも言うことが子どもに対する愛情である。これができないということは、子どもの成長よりも自分の感情を優先しているだけの話である。

3 養育費を強制することの子どもにとっての弊害

さて、このような重要な養育費が支払われないということは子どもにとって害悪である。しかし「養育費が支払われることが必要なのだとすれば、支払わない親に支払いを強制するべきではないか。」とこのような乱暴な理屈がまかり取っているのが現代日本である。どうして乱暴な議論かというと、最大の問題は、子どもが実の親が裁判所などから強制的に支払らわされているということを知った場合、養育費の支払いは別居親が自分に対する愛情だということは到底考えないからである。さらに、自分は、強制されなければ約束も守れない親の子どもだということを子どもに突きつけることとなる。また、強制という安易な方法に飛びつくことは、結局強制されなければ支払わない現状は変わらず、放置されたままになる。今一番考えなければならないことは、強制的に支払をさせるための費用を貧困者であるはずの同居親が負担しなければならないということである。現在進められているプランは、住宅の賃貸借契約のや住宅ローンの保証会社の保証契約のように、毎月の養育費の支払いの中から将来支払が行われなくなった時に備えて、養育費の一定割合を保証会社に支払うというプランである。ただでさえ少ない養育費がさらに子どもに回らなくなるといういわば貧困ビジネスである。
このような乱暴な意見が出てくる理由は一つしか考えられない。つまり、なぜ、養育費が支払われていないのかという原因を考えていないからである。原因も考えないのであれば有効な対策を考えつくはずがない。力によって取り立てる事しか考えられないのである。そもそも養育費を支払う理由が、子どもの健全な成長のためだという意味を知らないということにも起因する。この二つの無知は、結局、子どもの健全な成長を図るということが出発点になっていないということを意味するのである。

4 養育が支払われない事情
 1)同居親が養育費を請求しない事情
   先ず、養育費が結果として支払われない理由が、別居親が支払いを怠っているというケースが本当に多数なのか検証をするべきである。私の実感では、養育費の取り決め自体をしないケースが圧倒的に多いような気がする。
協議離婚の場合は、いち早く離婚したいという同居親の要求が強く、離婚までの期間を先延ばしする議論はしたくないという行動傾向が見られる。養育費を決めてから離婚するなんて煩わしいのである。
また、相手に対する嫌悪の情が強く、そんな相手から金をもらいたくないという意思に接することもある。養育費を受領し続けることによって、何らかの関係を継続させることが嫌だということもある。
   さらに一部は、子どもまで奪ってさらに金を払わせるということの罪悪感から、養育費を請求することなどできないと感じている同居親もいないわけではない。これらは、先の二つの感情と紙一重の微妙な感情であることが多い。
   養育費を請求しない理由は、実務的には公的給付との関係がある。母子家庭の場合、児童扶養手当が自治体から支払われる。ところが養育費が支払われていると、金額によって手当てが減額される。入るか入らないかわからない養育費のために児童扶養手当が減額されたり、手続きが面倒になるなら、養育費等受け取らず児童扶養手当を満額受給したほうがよいという選択は経済的にはもっともなことである。養育費の支払いは、実は自治体の財政との関連で考えられているのかもしれない。
   しかし、養育費は、子どもの心理発達面に寄与することが主目的の制度である。その点の理解を促すと、養育費は支払われるようになるし、請求するようになる。これ抜きに子どもの利益を経済的利益に矮小化する昨今の自治体の養育費支給キャンペーンは、子どもの利益ではなく、自治体の児童扶養手当の給付予算の削減が主たる目的ではないかという疑いが払しょくできない。
 2)別居親が養育費を支払わない事情
   養育費の主目的を考えると、同居親が養育費を請求しなくても、別居親が養育費の支払いを自ら請求するべきであり、私の依頼者たちはほぼ自ら婚費、養育費の支払いを同居親の請求に先駆けて提案し、実際に支払っている。
   しかし、実際の別居事例、離婚事例を見ると、養育費を支払うモチベーションを下げる公的手続きが行われている。家事手続きが子どもの利益よりも大人の感情で動いているということである。
   かなりの割合で、別居親が貧困状態にある。別居親に同居親よりも収入があったとしても、連れ去り事例の少なくない割合で住宅ローンが始まったばかりだという事情がある。別居親は外食が多くなるため食費がかさむ。家族を失ったことで精神科の治療や各種カウンセリングを余儀なくされる。カウンセリングは健康保険が使えない場合も多いので費用がかさむ。実際に不注意のけがをしたり、原因不明の疾患を発症したりして休業を余儀なくされるケースも少なくない。
   しかし、かなりの割合で、別居親が同居親よりも収入があるというよりも別居親の収入が少なすぎる無謀な別居である場合が多い。別居親の体調不良やリストラによって、同居親が期待していたほどの収入がないケースも多くある。
   別居親が養育費や離婚前の婚姻費用を支払いたくない理由は誰でも理解できる。つまり、別居親だけが家族から排除されているからである。養育費や婚姻費用は家族の生活のために使うものだから家族がそれぞれ分担して負担するものである。ところが突然、子どもを連れて自分の元から消え去り、どこにいるかもわからない、子どもと面会することもできない状態にされる。強制排除が行われている。家族ではないという強烈なメッセージを受けているのである。しかも、自分の排除が家族だけから行われるのではなく、裁判所、警察、自治体からも行われ、自分が極悪人として扱われている気持ちにさせられる。その上、一緒に住んでもいない、顔も見ていない元家族に金を支払わなければならないというのであれば、支払う方は刑罰として金を出させられている意識になることは当然だと私は思う。
   おそらく、事実をリアルに見られずに類型的にものを見る人たちは、排除される理由は同居中に暴力やモラルハラスメントがあったからであり、自業自得なのではないかという反論をするだろう。リベラルで名を売っている憲法学者などもそのようなことを言っているので、世論がそのように誘導されかねない状況にあることはうんざりするほど承知している。しかし、少なくとも私が担当した事案や、相談を受けた事例によれば、圧倒的多数は暴力やモラルハラスメントは存在しない。かえって、子どもを連れ去った方の不貞、浪費、あるいは理由のない不安に基づく行動などがあるケースが大半なのである。それにもかかわらず、リアルな実態を知らないで、連れ去りがあったから別居親に何らかの責任があるという類型的な見方をして連れ去り親の苦しみを否定する態度はそのものずばり差別である。冤罪を受けた苦しみを一顧だにしない人権感覚が乏しい人間だと言わざるを得ない。
   不貞や浪費をされ、自分の貯金を奪われた上に婚姻費用や養育費を支払えと言われたところで、支払いたくないことは当然である。
   多くのケースで同居親は、さすがに別居親の支払いたくないという事情を実は理解している。婚姻費用や養育を遠慮するケースは少なくない。ところが、弁護士や役所などが、差別的なものの見方をして懲罰的に婚姻費用や養育費を請求させるケースが最近増えている。もっとも私は、家族再生や、ひどい目を受けても家族だと感じている依頼者が多いため、それでも子どもたちのための費用は支払わなければならないと説得をする。こういうケースで費用を支払う別居親は、子の福祉について高度な理解をしているのである。
   但し、最近疑問がますます大きくなっている。DVやモラハラがない事案で、子どもとの相互交流を一切絶たれて、それで金だけを支払わされるということは、本当に人権が尊重されていると言えるのだろうか。
   養育費を支払いたくない理由は、このように自分の人間性が否定されているところにある。また、そのように別居親から見ればいわれのない理不尽な仕打ちをする相手に対して不信感が当然にあり、特に浪費や不貞を行って子どもを連れ去った相手に対しては、同居親が送った養育費を子どものためには使わず、不貞相手に渡したり自分のために浪費されたりするのではないかという思いがあることはもっともな話だと思う。

5 養育費が支払われるための簡単な方法

  養育費の送金先を子ども名義の口座にして、子どもが立ち会わなければ引き落としができないようにする。これで養育費の取り決めも支払いも格段に向上するはずだ。さらに、子どもから、養育費の礼を言わないまでも、ただ養育費が入金された日に安否を報告するだけの電話でもよこされればさらに支払率は倍増するだろう。子どもに直接渡すという方法も支払率を上げるだろう。
子どもは養育費を引き落とすたびに別居親の愛情を確認できる。振り込む側は、子どもが毎回確認しているということで支払うモチベーションが高まる。離れていても家族なのだという実感を持つことこそ、養育費を支払う最大の方法である。また、子どもが自分の預金が下ろされるのを立ち会って見ていれば、多少は同居親が子どものためだけに養育費を使うのではないかという期待も生まれ、モチベーションの低下を食い止めることができる。
家族から除外することの逆をするということだ。家族から除外しておいて金だけを払わせるということは、人間味のあるやり方ではない。また現実の支払いを遠ざけてしまう。
私の依頼者で、何の交流も持たされず長期にわたって養育費を支払い続けた男たちが何人かいる。一人は、定められた養育費の外、誕生月の増額を子どもだけでなく離婚した元妻にも送っていた。このため預貯金はほとんど作れなかった。養育費の支払いが終わったときに相手方から子どもの写真は送られたが、履歴書用の写真のあまりだった。それでも彼はその小さな写真を後生大事に持っていた。それでもうれしかったのである。偶然知った相手方の住所に、転居の連絡を送り、「お近くにお寄りの際は、お声がけください。」という定型のあいさつ文を記した。その結果驚くことが起きた。警察から義務無きことを強要したとしてストーカー警告されたのである。別の男は子どもが3か月のころから妻子が行方不明になった。しかし、それから20年以上婚費を支払い続けた。その挙句が、離婚請求調停申し立てであった。
こんなことが繰り返されて、裁判所や公的機関が是認しているから養育費や婚姻費用が支払われなくなるのだ。これらの行為は、自分だけがよければそれでよいという態度であり、今後の養育費を受ける子どもたちの足を引っ張っているだけの行為だ。

6 養育費が支払われるための根本的な解決方法

  連れ去り問題が表面化する前から、私は、養育費の問題の相談を受けることが何度かあった。一番効果的だった方法は、子どもが別居親に現状を伝え、例えば大学でこういうことをしている、いまアルバイトができないので養育費が途切れると苦しいということを率直にお願いすることであった。本来の家族というところまではいかないが、当たり前のコミュニケーションがあれば家族に対してなすべきことを無理してでもやろうとするのが親というものだということを痛感させられた。
  よく、「養育費と面会交流は別物で、取引に使ってはならない。」ということを聞く。大学の法律の授業の回答としては丸が付くだろう。しかし、実務では、要するに生身の人間と切り結ぶときは、こんな話、何の役にも立たない。通常これが語られる文脈は、冷酷で、およそ人間の尊厳を顧みないときにしか語られないからだ。何よりも、子どもの権利が害されるだけだ。面会交流を含めた別居親との交流が養育費などの金銭面に有効に働くのは統計的にも事実だ。子どもへの十分な経済的事情よりも、離婚後の当事者の葛藤を優先する文脈でしか使われない言葉である。
  養育費が十分に支払われるためには、親子関係を少しでも回復することが王道である。これに異論のある実務家や当事者はいないだろう。しかしこれができないことが問題なのである。
  子どもの利益を図るためには、離婚当事者の葛藤を下げること、そうして別居親と子どもとの自由な交流を確保すること。電話くらい自由に子どもから別居親にできるようにするべきだと常々思っている。それでも別居親は同居親を立てて同居親の言いつけを守れと言い、同居親は別居親への感謝のしつけを子どもにする。これが子どもの健全な成長を促進するということが科学的に証明されている。
  もちろん、これは分かっているけれど難しい。双方に被害者意識があることがほとんどなので、なかなか子どもの前だけ、嘘でもいいからといっても難しい。この解決方法はあるのだろうか。
  根本的には離婚までは大いに争えば良いが、離婚が決まったらもう他人なので、子どもの前だけでもクールダウンする手続きを国や自治体が行うべきである。実は先進国では、お隣の韓国も含めて国家や州が関与して行われていることである。日本だけがこういうことをしていない。日本だけが、大人の都合で離婚をすることが放任されている。子どもの健全な成長よりも大人の感情が優先されている情けない国が日本なのである。離婚訴訟で、子どもに自分の親の悪口を書かせて平然としている人間が司法に関与している国である。
  葛藤を鎮めるどころか、葛藤をいたずらに高めている。葛藤を高める最大の要因は、事実にもとづかないDV主張、一方的な子連れ別居の野放し、それに対する裁判所の追認、事実にもとづかない女性援助、加害をした人という意味ではない「加害者」呼ばわり(総務省)と、実際の加害者扱いである。これらの人格攻撃を受けた者は、怒りをあおられるだけでなく、無力感から働く気力もなくし、その結果収入も減少する場合がある。心身に不調を覚え、内科的疾患を発症することや、うっかりけがをすることが増える。
  「子どものために」、「子どもの健全な成長のために」という理念で物事が動かず、結果として子どもの成長に対する離婚の負の影響を軽減させるどころか増幅させている。
  夫婦の葛藤を鎮める研究、いたずらに葛藤を高める支援を排除すること、それらが子どもの健全な成長に不可欠であるというのは争いのない人類の科学の到達である。あとは子どものためにという立場に大人が経てるかどうかだけである。

7 いま進められている制度に全く賛成できないということ

  いま進められている養育費に関する制度検討の一切が、このような視点は見えてこない。現在進められている政策が、子どもの健全な成長を図る目的ではないことは、例えば養育費の未払い者の氏名を公表するということを検討していることからも明らかだ。子どもにとって、自分の親がさらし者になって平気でいるわけがないことにも気が付かない愚かな政策である。一緒になって自分の親に対する憎悪を掻き立てられた子どもが、アイデンティティを確立することが困難だということも理解されていない。
子どもの健全な成長を阻害することになっても養育費を強制的に取り立てるというのであれば、考えられる目的は二つである。つまり、一つは自治体の児童扶養手当予算の削減である。もう一つは離婚した夫婦の少数派である養育費の取り決めをした別居親の、さらに少数派である理由もなく一方的に支払いを怠る者に対する憎悪を掻き立てることによって、低賃金、男女格差、不安定雇用の改善への道筋を隠ぺいするという目的である。
  これが日本の子どもたちが置かれた状況である。科学的に働きかけが必要だということが明らかにされた離婚後の子どもたちでさえ、逆にこのような積極的な加害を受けているのである。まだ野放しの方が害がない。

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壊れかけた夫婦の再生と恋愛の始まりと、愛をはぐくむ条件と愛を浪費する現象と [家事]

人間というものはうまくゆかないもので、
必要なときには気が付かないことが
あとになって初めて気が付くということが多いようです。

私の年代の人たちでよくお話をするのが子育てです。
子育てが終わると
無駄な、むしろ有害な方向で頑張っていた
ということを確認し合って大笑いしています。

まあ、子どもには申し訳ないという気持ちがあるのですが。

繁殖期を過ぎると恋愛とは何かということが見えてきます。
真只中のころは、愛をはぐくむという言葉には
全く反応しなかったと思います。

弁護士の仕事で、夫婦間の関係を調整する仕事があります。
この研究をしている人間は少ないようです。
一言で言って愛をはぐくむということなのだと気が付きました。
恋愛の初期とまったく一緒なのです。

世の中には、相手の気持ちを考えないで
押して押して押しまくってゴールインするケースがあります。
しかし多くのケースでは、
世俗的な言い方をすれば
粉をかけて、反応して、手ごたえを感じて、勇気を出す
という黄金の方程式でゴールインをしているようです。

最初は相手に対して憎からず思っていることを示す。
それに素直に喜ぶ様子を見せる。
喜んでいる反応に勇気づけられて、さらに好意を示す。
少しずつ距離を縮めていき、
相手に励まされて、言葉に出すなど一気に距離を縮める
という共同作業ですね。

こちらが、好意を示しても
相手に拒否反応を示されたらあきらめるわけです。
おっ、脈がありそうだなと勇気づけられるからこそ好意を示す。
あなたを大切に思っていますよという意思を伝える。
それに相手も勇気づけられて、もう少し頑張る。
プロポーズするときなんて言うのはたいていは出来レースなわけです。

さきほど、一度壊れかけた場合と恋愛の初期が同じだ
というようなことを言いましたが、
実は壊れかけた男女を修復するのはもっと大変かもしれません。

夫婦関係が壊れかけているときは
この共同作業が壊れているときです。
相手に好意を示しても、反応してくれない
うっかり拒否する結果になっている。
それで自信が無くなります。

逆に大切にされないどころか
邪険に扱われることが増えているのかもしれません。

プロポーズから新婚までの間に
尊重された記憶の貯金がありますから、
多少のことであれば目をつぶることができます。
「あの人は、私をかけがえのない人だと思っているはずだ」と
しばらくはその時の貯金を食いつぶしているわけですね。

「この人は私を大事に思っていないのではないだろうか。」
だんだん心配が確信に変わっていきます。
疑心暗鬼が大きくなってききてしまいます。

貯金を食いつぶすというのは
安心の記憶が残っているため
「こんなことをされたけれど、アクシデントみたいなものだ。」
と自分をなだめることができます。

しかし貯金が底をついて行くと、些細なことも
「私を嫌っているからこういうことをするのではないか。」
「これと同じように私を大事には思っていないのかもしれない。」
「私より大切な人がいるのではないか。」
という心配の種が無限に広がっていくようです。

私なんかが
「いやそれは考えすぎなのではないの。」とか、
「そこまで相手も考えているわけないよ。」とかいっても
聞く耳を持ってもらえません。

まるでかさぶたになる前の傷口のように
過剰に敏感になって、すべてを拒否するような感じです。

相手にもっと配慮をしてもらいたいといつも思うのですが、
相手だって同じに自信を無くしているわけですから
相手に対してだけ求めるのも難しいですね。

愛をはぐくむ全く反対の減少が起きているわけです。

恋愛は0ポイントから始まるわけです。
ところが壊れかけた関係の修復は
どうやらマイナスから始まるようです。
貯金が底をついて借金しているようなものかもしれません。

再生を願うなら
相手に対して攻撃的感情が伝わることは絶対にダメです。
相手はますます自信を失っていきます。
しかし、こちらも既に自信を失っているので
被害者意識があることは仕方のないことかもしれません。
被害者意識があれば、自分を守ろうとしてしまい
攻撃的な発想、攻撃的な行動に出てしまいます。

ただ、借金もあるかもしれませんが
財産も本当はあるのです。
相手はあなたから大事にされないと感じることで傷ついています。
それだけあなたがその人にとって大切な存在であると
感じている証拠なのです。
第三者からはよくわかるのですが、
これは自信を失った当事者にはなかなか伝わりません。

無条件降伏をすれば案外うまくゆくように思えるのですが、
自信を失っているときは、自分をさらなる攻撃から守りたい
という意識がとても強くなる時なので、
かなり難しいことです。

こういうことをまじめに考える集まりがあれば
参加して勉強したいと思います。
一人でも多くの人が今気がついてもらうために。


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面会交流調停にあたって家庭裁判所に対する申し入れ案 [家事]

1 別居親との面会交流は、子どもにとっての権利である。
  概ね10年ほど前までの面会交流調停においては、会いたい別居親と会わせたくない同居親のどちらの心情ももっともであるということで、話し合いがまとまらないという調停が行われていたこともある。しかし、これは誤りであり、過去の事例ということにしなくてはならない。面会交流は、あくまでも一方の親と離れて生活する子どもの権利であり、子の福祉の観点からは、面会交流が子の福祉に害する結果になる場合を除いて、実施させなければならない。親どうしの、会いたいとか、会わせたくないということは、面会交流調停には本来無関係の話である。ともすれば調停は、調停に出席する当事者の感情に左右されてしまう場合がある。しかし、面会交流調停は、調停当事者の意見に左右されずに、家庭裁判所が後見的見地から子どもの利益を実現することが求められている。子どもが当事者として調停に出席していないからと言って、親の感情を子どもの利益に優先させてはならない。
  面会交流は、別居や離婚による子どもへの負の影響を軽減させるために行うもので、子どもの健全な成長のために行われなくてはならないものである。以下説明する。

 1)離婚や両親の別居の子どもに対する影響

   離婚や両親の別居によって子どもに与える負の影響としては、大規模統計研究をまとめたアメイトらの研究が有名である。結論としては、離婚家庭の子どもはそうでない子どもに比べて、幸福感の指標において点数が低いということ、就学後から10代前半の子では離婚の影響が大きいということである(Amato.P.R.& Keith.B Parental Divorce and adult well-being of children analysis. 「子どものための法律実務」(日本加除出版社)95ページ、小澤真嗣「家庭裁判所調査官による『子の福祉』に関する調査―司法心理学の視点から―」(家裁月報61巻11号6頁)。
また、日本の民法766条改正のきっかけとなったウォーラースタインとケリーの60組の家族の調査も価値の高い研究とされている。彼女らの離婚後5年を経た子どもたちへの実証的な研究報告である“Surviving The Breakup ”によれば、離婚後の生活によく適応し、心理状態が最も良好であったのは、別れた父親と定期的に交流を持ちつづけていた子であった。父親と定期的に交流して父母双方とよい関係を維持していた子は、他の子と比較して、自我機能が良好で、自己評価も高く、親の離婚が原因で抑うつ状態に陥ることがなかったのである。
一方、別れた父親との接触がなかったり、少なかったりした子は、父親が会いに来てくれないことに失望したり、孤独感や無力感を抱いたり、あるいは、逆に父親に怒りや恨みをおぼえたりする傾向があった。(家裁月報41巻8号 「子の監護事件に関する面接交渉」佐藤千裕 224頁)。
両親間の紛争が高い場合は、子は、「忠誠葛藤」と呼ばれる、父と母のどちらの自分が付くかということで悩み、時にはどちらについても他方の親に対しての自責の念が生まれる現象が起きる。自分が日常的に愛情を受けていた者が自分の目の前からいなくなっているために「対象喪失」を起こす。さらに、不安、悲しみ、無力感などの否定的な体験によって、身体症状や抑うつ、学業不振、攻撃的言動を起こす(岡本吉生ほか「家事事件における子どもの調査方法に関する研究」家庭裁判所調査官実務研究(指定研究)報告書第7号)。
これらの子どもたちに対する負の影響は、短期的に収束するのではなく、将来にわたり影響を及ぼす。上記ウォーラースタインの研究はその後も行われ、25年にわたる追跡調査が行われた。
調査10年後に発表された“MEN、WOMEN&CHILDREN A DECADE AFTER DIVOCE”(邦題「セカンドチャンス 離婚後の人生」草思社)はしがきによれば、離婚から1年から1年半後については、ほとんどの家庭が危機を脱していなかった。5年後の調査では、3分の1の子どもたちは立ち直ったが、3分の1以上は以前より悪くなり、睡眠障害、学業不振、突飛行動が慢性化していた(同書20ページ)
ウォーラースタインは、25年目の調査を“The UNEXPECTED LEGACY of DIVORCE”(邦題「それでも僕らは生きていく」PHP。で発表した。10年後の調査の傾向が続き、子どもたちは自己肯定感が低く、特に異性との関係で健全な成長を遂げることができず、結婚ができないか、結婚してもすぐに離婚するかつての子どもたちが多くいることなどを報告している。
子どもが従来両親と居住していた家から、突然一方の親に連れられて転校を伴うような環境が激変する転居を余儀なくされた子どもは、面会交流の意義は大きい。特に国境を越えて転居を余儀なくされた場合は、ハーグ条約によって、元の国に戻される手続きが定められている。しかし、子どもにとって大切なことは、国境を超えるか否かにあるのではなく、元の環境から別の環境に突然環境の変化を強いられ、実の親の一人や、学校の先生や友人たち、なじんだ自宅や地域を奪われることが負担であることにそれほど大きな違いはない。外務省が述べる連れ去りは、国境を越えなくても、子どもにとって大きな心理的負担を与えるものであり、このような状況に置かれた子どもの心理的手当ては、家庭裁判所において子の福祉の観点から具体的に講じられなければならない。

 2)面会交流の意義

   面会交流は、上記のような離婚や別居などの両親の紛争に巻き込まれた子どもたちの否定的影響からの保護要因になることが指摘されており、子どもが精神的な健康を保ち、心理的・社会的な適応を改善するために重要であるとされている(「子どものための法律実務」(日本加除出版社)96ページ)。心理学者の小田切紀子の調査研究では、面会交流の意義は、子どもにとって、①親から愛されていることの確認、②親離れの促進、③アイデンティティの確立の3点を挙げている(同書97ページ、小田切紀子「子どもから見た面会交流」(自由と正義Vol.160 no 12 28ページ以下)。面会交流が実施されることで親からの愛情を感じることができる。面会をする別居親からの愛情はもちろんだが、別居との面会に快く送り出す同居親に対しても愛情を感じることができる。どちらかの親に没入することがなければ、強い依存状態に陥ることが無くなる。アイデンティティの確立については次項において説明する。
   面会交流は、現在、法務省においてもホームページでの啓もう活動など積極的に推進している。最高裁判所の動画においても面会交流の推進及びより良い面会交流の方法の提案などがなされている。いずれも、面会交流が離婚や別居後の子どもたちの健全な成長のために必要不可欠であることを強調している。

2 片親疎外の概念に関する整理(片親疎外症候群との区別と子どもに対する深刻な影響)

  現在、離婚の子どもに対する負の影響は、離婚そのものではなく、両親のたがいに対する葛藤が一番の原因であるとされている。それが片親疎外にもつながり、後に述べる子どもたちの成長に深刻な影響を与えている。
  この点、現在においても、家庭裁判所において、片親疎外(PA)と片親疎外症候群(PAS)との概念の混乱が見られ、片親疎外の懸念を示すと、同居親の子どもに対する悪意の働きかけはないなどといった返答がよこされることがある。概念を正しく理解していないために、別居親が同居親を過度に非難しているという誤解をしているのである。本庁においてはこの初歩的な誤りをするとは思えないが、他庁において確認されることなので、念のために付言する。
  片親疎外症候群(PAS)とは、精神科医ガードナーが提唱した精神障害である。監護親が子に対して洗脳に似た操作を行っている場合に起こす子どもの病的症状であるというのである。このPASについては批判が多い。
  このPASについては、Johnston& Campbellの大規模調査があり、結果として、非監護親に対する否定的な感情を伝えられた子がすべて非監護親を拒絶しているわけではなく、監護親による働きかけがなくとも、子が非監護親に対して憎しみを抱いている事例があり、複雑な様相を示していることが報告されている。
  その結果、PASを修正する形で「片親疎外」(PA)が概念づけられていった。結論としては、「子の非監護親に対する拒絶する現象」のことを言い、この理由としては監護親、非監護親、子の要因などが複合的に作用しているとされている。
Johnston& Campbellによれば、片親疎外の減少が起きる要因としては、監護親の非監護親に対する否定的な言動や、非監護親からの手紙や電話を取り次がない、思い出のものを捨てさせる、面会交流を理由なくキャンセルする等の行動が、子どもに対して、面会交流やささやかな思い出にまどろみ、非監護親からの愛情を確認することが、監護親から否定評価されるという忠誠葛藤を起こさせ、自分は監護親を選んだということをアッピールするために非監護親を否定する態度を強めるという要因があることが指摘されている。また子どもが、両親の板挟みを上手に解決する能力が無いために、単純に一方の親に同調することによって解決を志向しているとされている。それらは、背景として同居親から見捨てられると、自分は一人ぼっちになるという子どもなりの不安が強く作用しているとのことである
  但し、片親疎外の結果、子どもが、「完全な善人の母親(同居親)の子どもの自分」というアイデンティティと「完全な悪人の父親(別居親)の子ども」である。という二律背反するアイデンティティを持たせられる結果になってしまう。極端なアイデンティティは統合することが難しく自己イメージの混乱が生じてしまう危険がある(片親疎外の項は前掲小澤41~45頁)。
  このような影響は自我が確立する15歳ころに顕著に表れる。自己イメージの混乱は、自我の同一を妨げる。片親疎外のもう一つの側面である極度な同居親に対する依存傾向は、同級生などとの対人関係に問題が生じ、引きこもり、自傷、拒食症などの遠因になることもある。
  片親疎外の保護因子としても面会交流は重要である。離婚に伴い葛藤が生じることは仕方がなく、同居親に対して子どもの前でパーフェクトにふるまうことを期待しても仕方がない。どんなに葛藤を子どもに見せても、別居親との面会交流だけは第一に考え、快く送り出してくれることで、子どもは片親疎外に陥る危険は著しく低減するであろう。

3 面会交流調停は、どのように面会させるかということを話し合う調停である。

 1)面会阻害事由の調査

   先ずは、面会阻害事由の有無を確認することは当然である。面会をさせると連れ去りの危険があるのか、児童虐待があったのか、子どもの面前で配偶者加害暴力や虐待があり、面会の機会に暴行が起きる可能性があるのか、子どもの拒絶がないかということである。同居親の感情は、面会阻害事由とされていない。
   但し、連れ去りの危険については、連れ去られないような出入口が一つしかないような場所で実施することで解決される。児童虐待の有無、子どもの拒絶については、家庭裁判所の調査官の調査が必要となる。但し、引き離された子どもは、上記理由のため多少にかかわらず片親疎外症候群の様相を見せることがむしろ通常である。子どもが調査官に会いたくない、会わなくても良いといっても、実際に面会したときの子どもの喜び方を見れば、それが片親疎外症候群ないし、忠誠葛藤によるものであることが容易に理解できる。同居時の記録、写真やビデオなどで良好な関係が示されれば、客観的資料に基づいて判断されるべきである。
   仮に面会阻害事由が疑われるというのであれば、速やかに試行面会が行われるべきである。客観的資料もないのに同居親の言い分をいつまでも真に受けて速やかな試行面会を怠ることは厳に避けていただきたい。
   同居親への暴力の懸念も、過去において具体的事実がない場合は考慮するべきではない。但し、後述するように同居親の不安があることは事実であるから、それに対する対応として、面会時のルールについては、具体的に取り決めをするべきであると考える。
   ちなみにアメリカの配偶者加害の研究者であるランディ・バンクラフトらは、「DVにさらされる子どもたち―加害者としての親が家族機能に及ぼす影響」(金剛出版)の中で、DV加害者(batterer)であっても一般に子どもは加害者とある程度の接触があったほうが順調な経過をたどる(142頁)と指摘している。ここでいうDV加害者は、日本の曖昧な概念ではなく、「DV加害者とは、パートナーとの間に威圧的な支配のパターンを形づくり、時おり身体的暴力による威嚇、性的暴行、あるいは身体的暴力につながる確実性が高い脅迫のうちのひとつ以上の行為を行う者のことである。」
と明確に厳しい定義を述べている。このような定義の加害者であっても、子どもは接触したほうが良いと述べられているのである。

 2)調停で話し合うことはどのように面会させるかである。

   面会阻害理由がなければ実施の方法を話し合うしかない。これが鉄則である。強固に面会交流を拒んでいる同居親が面会交流に応じるためには、裁判官や調停委員が強く説得するしかない。同居親は、よほどの事情から離婚をするのであるから、子どもを会わせたくなるということはない。子どもを会わせたい気持ちになるまで待つということは、結局は面会を子どもにあきらめろということに等しい。しかし子どもは健全な成長が妨げられる危険を容認するべき原因を作ってはいない。申し訳ないが、裁判官や調停委員から、子どもの権利を抽象的に解くのではなく、片親疎外の完成による極めて深刻な影響を伝えて説得するしかない。また、子どもに対する責任を分担すること、子どもに縛られない時間を作ることが有効であること等、負担を軽くして、子育ては母親がするものというジェンダーバイアスから解放することが有効である。
   しかしながら、同居親に葛藤や抵抗が強いことは事実として存在する。同居親がより安心して合わせることができるような工夫が必要であるということは多い。
   面会場所や打ち合わせの方法、直接接触しないで済む方法、その他同居親の安心につながる方法は積極的に受け入れられるように別居親とも工夫を出し合うことが有効である。共通の知り合いなどの支援者を面会に同行させることでも同居親の不安が軽減することもある。但し、同居親の要求が子の利益に反する場合は、家庭裁判所は同居親を説得しなければならない。同居親の感情で、面会交流の質量が減少してしまうことは避けなければならない。子どもが十分に同居親から愛情を受けているということを実感できる面会交流が実現しなければならない。

 4 面会交流の緊急性

   面会交流は速やかに実施しなくてはならない。
   面会交流調停が申し立てる場合、離婚調停や婚姻費用調停などが併合されてしまう場合がある。これは制度の趣旨を十分に理解していないものと思われる。
   むしろ別居が始まると同時に面会交流も実施されなければならないはずである。子どもたちは、先述のように、環境の激変の中で心理的負担を受けており、これまで生活したことの無い環境の中に立たされている。同居親以外の愛着の対象がすべて奪われた状態である。一方の親が自分の目の前からいなくなることも、不安を増大させる出来事である。同居親とも離別する不安を潜在的に抱えている。忠誠葛藤が無駄に強くなり、片親疎外が進行している。できるだけ早期の段階で別居親との面会交流を実現して、自分が愛されているという実感を持つ必要がある。
   婚姻費用調停が優先させるべき合理性があるとすれば、婚姻費用の支払いが早期に合意される場合に限られるだろう。例えば暴力や虐待の無い事案においても子どもの連れ去りは起こっているが、そのような場合、別居親は子どもを連れて勝手に出て行かれた上に、高額になる傾向にある婚姻費用の負担を行うことは心理的抵抗が高い。養育費相当額は支払う必要性を感じているが、それを上回る婚姻費用相当額を支払うことに抵抗を示すことは心情としては理解できる。そもそも婚姻費用を負担するのは、共同生活を営むにあたって必要な費用を支払うことが当然だからである。一方が共同生活を営む意図がない場合にその者に対して費用を捻出する義務を課すことが近代市民法の理屈から導くことができるかについては疑問も多い。
   このような場合、すべてが同一期日に話し合われるとすると、事実上婚姻費用の話し合いが先行することになる。面会交流については実質的に、婚姻費用の話し合いが整った後で行われることが多い。ある家庭裁判所では、離婚調停が優先したところもある。面会交流調停だけは子の福祉の観点から急がなければならない調停であり、これは婚姻費用調停を急ぐべき事由と両立する。当事者や代理人が許す限り、別期日で可及的に速やかに十分な時間をとって話し合い、早急な面会交流を実施させるべきである。   

5 間接交流は回避しなければならないこと

   家庭裁判所は間接交流と言われる、手紙や電話などでの交流を頻繁に提案する。しかし、間接交流は上記の面会交流の意義、別居親からの愛情の実感、親離れの促進、アイデンティティの確立に効果は乏しい。つまり間接交流は面会交流としての意義が乏しいのである。一番の問題は、間接交流は、交流にならないことである。直接交流ができない場合は、電話での交流もできないことが一般的である。また、手紙は子どもには渡らないことがほとんどである。子どもからの返事はめったに来ない。というか来ないことが多い。手紙を子どもが手に取れる場所に置いているということも聞くが、子どもたちはそのような手紙を積極的に読むことはできない、読んだ形跡を同居親に知られるわけにはいかないからだ。これは、多少経験のある調査官なら誰でも知っていることである。面会もしない親と子の手紙のやり取りは、実際は行われない。
   そもそも子どもにとって有益ではない面会交流である上に、なかなか実現が難しい交流である。これを提案する理由は、これならば同居親に承諾させることができるかもしれないからである。禁じ手の発想というべきである。子どもの利益を考えるべき面会交流調停において、同居親の感情を理由として子どもの利益を十分に実現できないという結果を家庭裁判所が提案することは、家庭裁判所の存在意義に関わることである。子どもの一生は一度しかない。子どもが子どもである以上、その健全な成長に対する責任は親や大人が果たさなければならない。表面的な事件処理のために、子どもの健全な成長という利益に目をつぶることは家庭裁判所の体をなしていないと厳しく批判されるべきである。

 6 面会交流に関するレクチャーは早めに行うべきである

   動画やパンフレットを見せて面会交流の意義についての説明は可及的に早期に行うべきである。一つの選択肢を提起する意味は大きい。その際も、誰しも離婚相手に子どもを預けることに抵抗があることを理解し、それでも子どもにとっては面会交流が大切だということを説明する必要がある。
   それだけで、嫌だけれど面会交流をさせなければならないと納得するケースは案外多い。
   頭では面会交流が必要だとはわかっているという同居親の言葉をうのみにしてレクチャーを遅延させることはできない。面会交流が必要だからどのようにして合わせるかという議論になっておらず、会わせるかどうか検討するということで数か月を過ぎている場合は、面会交流が子どもの健全な成長にとって切実に必要だということを頭でも理解していないことを示している。実際、このような同居親の発言がある場合は、面会交流が実現するまでには時間がかかることが多い。

 7 別居親の協力は不可欠である

   別居親も同居親も、結局は自分たちの子どもを健全に成長させるために共同作業をしなければならないことは離婚後も変わらない。同居親の不安や抵抗を取り除くために別居親が行うべきことは多い。
   別居親が、面会時、同居親の悪口を言わない、生活ぶりを子どもに尋ねたりしない、受け渡しの時間は厳守する等のルール作りを承諾することは極めて簡単だ。思い切って別居親にこれらの提案を自らさせることはそれほど難しいことではない。そんなことでも、同居親の安心につながる場合は大きい。
   また、別居親が同居時や別居後に、同居親が子育てに努力していることを認める発言をするのであれば、それを積極的に同居親に伝えることも同居親の不安を軽減させることにつながることがある。さらに何らかの謝罪があれば、それも伝えるべきだ。但し、これらを戦略的に話してもらうことは良いとしても、強要することはできない。子どもの利益のためにということで、その有効性を説明することは必要かもしれない。

 8 子どもに責任のない面会交流の質量の制限は回避するべきである。

   間接交流とともに、極端に短い面会交流時間や極端に少ない頻度の面会実施が提案される場合がある。子どもの事情から必要であればやむを得ないが、ここに同居親の感情を入れることは間違いである。面会交流はあくまでも子どもの利益のために行われるものだからである。
   子どもの事情で質量が制限されるのは以下の場合である。
   乳児などの子どもの年齢のため、外出する時間に制限を設けるべき場合。
   別居親が子どもと極端に離れて暮らしているために、実際の面会が毎月実施することが難しい場合。
   部活動等で、土曜日、日曜日の予定が立てられない場合。但し、このような部活動は中学生までは禁止されるべきだと考えるがそれは別のところで。
   毎月の面会交流の実施が難しい場合は、実施する面会交流は、子どもが別居親になじむ時間を十分確保して行うべきである。あるいは直接面会交流ができない場合は、電話やインターネットでの面会交流を補充的に実施するなどの工夫が必要であろう。
   特に就学前の幼児は、記憶力が十分発達していないため、たとえ一回当たりの面会時間が少なくても、頻回の面会交流が実施されることが望ましい。
   月に一度、2時間の面会交流は、不当な時間的制約を課していると評価されるべきである。子どもが病的原因を抱えているならともかく、健全な体力があるのであれば、1か月に1度の面会ならば最低でも6時間くらいは必要である。受け渡し場所から遊園地などの施設に移動する時間も考慮しなければならないからだ。この移動時間も貴重な面会交流の時間である。案外遊園地よりも電車で一緒に切符を買って、一緒に窓からの景色を見たことが懐かしい思い出になることもある。子どもの体力についての考慮は、面会交流実施の方法について議論すれば足りる。

 9 まとめ

   いずれにしても、子どもたちの健全な成長を阻害する危険を生むかどうかは、同居親、別居親の判断にゆだねられている。家庭裁判所は子の福祉の観点から後見的に監護に関する助言を行わなければならない。家庭裁判所が無制約に同居親の感情に流されてしまうことで、面会交流が十分に実施されず、その結果子どもの健全な成長が阻害されても、家庭裁判所は責任を取らないであろう。子どもの人生は一度きりで、その人生のために重要な子どもという時期も一度きりである。子どもの健全な成長以外の考慮要素は排さなければならない。
   本来、監護の方法は、家庭の中のことであり、両親が決めればよいことである。そこに簡易裁判所ではなく家庭裁判所が介入することが許される根拠は、子の福祉のために後見的に介入することが法律で定められているからである。子の福祉の観点に立たない働きかけは、家庭裁判所の権限ではない。重々ご理解、ご承知おきいただきたい。

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Dear European Parliament 日本人母が子どもを連れ去る理由について説明します。 [家事]


2020年6月16日、「欧州連合(EU)欧州議会の請願委員会が、日本人とEU加盟国の国籍者との国際結婚が破綻した場合などに、日本人の親が日本国内で子を一方的に連れ去ることを禁じるよう、日本政府に求める決議案を全会一致で採択した。」という報道に接しました。
とてもありがたいことです。
但し、このニュースは、メディアに取り上げられることが少ないため、日本人の多くは知りません。この決議は、子どもの人権問題に関する意見ですから、内政干渉にはならないと私は考えています。もっと大きく、強く、意見を述べていただきたいと考えています。
私は、日本の弁護士です。子の連れ去り問題の事件を多く担当しています。この職務上の経験に基づき、日本人母が子どもを連れ去る理由について説明します。

1 理由1
 現代日本社会には、「子どもは母親が育てるべきだ。」という広く共有される信念があります。ジェンダーバイアスがかかった信念です。この信念がジェンダーバイアスであるということに気が付かれていません。むしろ、「子どもは母親が育てるべきだ。」という信念は、女性の権利、あるいは、女性の利益として理解されているのです。そこでいう「子ども」は、2歳くらいまでの乳幼児を意味するのではなく、10代の子どもたちをも意味することが多いです。
2 理由2
 「子どもは母親が育てるべきだ。」という信念が生まれた原因について説明します。
原因の一つは、過去の日本の風習の反作用だということです。現在の日本国憲法が成立する前は、子どもは父系を中心とした家族である「家ie」の所有だという信念が日本にありました。このため、夫婦が破綻した場合は、妻が「ie」から追放されました。子どもは「ie」に残されました。追放された後で、母親が子どもに会うことは許されませんでした。当時の子どもにとって、親の離婚は母親との永遠の別れを意味していました。
 日本国憲法の成立によって「ie」という制度は無くなりました。男女は平等だと宣言されました。それからしばらくして、日本は高度成長期を迎えました。女性が賃労働をすることも一般的になりました。離婚の後で、女性が働きながら子育てをすることが可能になりました。子どもを連れて離婚する母親が増えていきました。
 ところが、依然として子どもが誰かの所有物であるという観念と、親の離婚は一人の親との永遠の別れだという二つの観念だけは、残存してしまったのです。子どもは「ie」の所有物から母親の所有物へとかわり、離婚によって母親との未来永劫の別れから、父親との永遠の別れに移行しました。
 過去の日本の残遺物である、子どもは所有されるもの、離婚は親の一人との永遠の別れということについて、次に説明します。
3 理由3
 「子どもが親の所有物である」という信念は、日本ではいまだに続いています。これが続いている理由は、そのことに日本人が気付いていないからです。「子どもが一人の人格者である」という意味を知らないからです。
 母親は、自分の子どもを自分の体の一部だと感じているようです。そしてこれは、日本社会では肯定的に評価されることが少なくありません。だから、自分の利益と子どもの利益が相反するということを思いつくことができないのです。
 日本では、現在、夫婦と子どもだけが同じ家に住み、主として夫婦だけが子育てをします。子育てについて、親の両親や祖父母からの日常的なアドバイスを受けることは多くありません。そのため、祖父母に変わって、マガジンやインターネットの情報が氾濫しています。但し、それらの情報は、妊娠から出産、そして乳児の子育ての情報がほとんどです。それらの情報の中に、幼児以降の子どもの心理的発達についての情報は多くありません。幼児以降の子どもがいる両親は、情報を持たず、不安を抱きながら子育てをしています。育児についての教育を受ける機会もありません。このため、子どもが一人の独立した人格を持つ権利主体であるということを意識する機会がありません。
 このため、離婚をする場合、子どもの意見は相手にされません。親が勝手に決めることに疑問を持つ人はいません。子どもがこれまで住み続けていた地域に住み続けること、子どもが同じ学校に通うこと、子どもが友達を失わないことなどは、離婚をする場合、全く考慮されないことが多くあります。
 日本では、親の子に対する暴力によって子どもの命が奪われた場合、親に対して大きな非難が巻き起こります。しかし、子どもの心を傷つける行為があったとしても、親に対する非難はなされません。子どもの心が傷つくということは、あまり意識されていません。子どもの心が傷ついてしまうと、健全な成長を阻害するということは理解されていません。
4 理由4
 「離婚は親の一人との永遠の別れ」という考えも、現代に至ってもなお、日本社会では疑問に思われていません。子どもの人格が顧みられないということが大いに影響しているでしょう。離婚をした親どうしは、離婚後も相手を許さず、相手に対して、強い憎しみを持ったり、強い件を冠を持ったり、しばしば強い恐怖感を持ち続けます。この否定的な感情をいやすために子どもを利用しています。このため、子どもが離婚した相手を好ましく思っている姿を見せると、自分と子どもの関係が子どもによって薄められたような危機感を持つようです。離婚した相手に対しての報復というよりも、防衛的感覚が強いようです。自分という存在の安定のために、子どもが自分と精神的に強く結びついていることを要求しています。母親は、子どもがもう一人の親と心を通わせることが、この要求に反すると感じるのでしょう。子どもが別居している父親と交流することに対して悲鳴をあげて反対することが多くあります。
 日本では、離婚をした後も、父と母との間で、心理的な意味での子どもの奪い合いが続いています。日本社会も母親の感情について、非難することはありません。

さて、一般的な日本人の感覚について説明しましたが、これからは、日本人の感覚を固定化する社会的要因について説明していきます。

5 理由5
 先ず、日本の独特な離婚制度について説明します。日本は、妻と夫の合意があれば、自由に離婚をすることができます。離婚後の子どもの養育方法についての計画を作成する義務はありません。子どもが親のどちらかの所有物であるという発想のもので、一人の親権者を決めるだけです。先進国の中では、日本だけがこのような制度をとっています。この制度を維持するためには、子どもの人格が独立していることや子どもは心理的成長をしていくものだという知識がないことが役立っています。
 合意によって離婚ができない場合は、裁判所の関与で離婚をすることができます。一方が離婚したければ、他方が反対していても、離婚をすることが認められています。裁判で離婚をした場合も、養育に関する計画は作成されません。一人の親だけが親権者として定められることは同じです。
 日本は離婚天国だと言えるかもしれません。どこの国においても離婚の障害になるべき子どもの存在が、日本では全く障害にならないからです。
6 理由6
 さて、裁判離婚にあたっては、裁判所が親権者を定めます。この過程において、日本の裁判所の独特な慣行があります。これが日本人母が連れ去りをする理由に直結しています。
 日本の裁判所の慣行で、「子どもを現在居住しているところから動かさない」という慣行があります。ここでいう現在とは、裁判所の手続きが始まった時点のことを言います。もちろん連れ去り事件の多くは、子どもが元々住んでいた家から一方の親が子どもを連れて移住します。子どもと親が移住した後に、裁判手続きが始まります。連れ去った親が母親である場合は、「子どもは母親が育てるもの」という信念から、母親の連れ去りは不問に付されます。父親の連れ去りには、警察も裁判所も厳しく対応します。誘拐罪で父親が逮捕されることもあります。「子どもは母親が育てるもの」というジェンダーバイアスは、このように母親の利益や権利に変わるのです。
 母親は、子どもの親権を獲得し、父親を排除するために、家族が暮らしていた家から子どもを連れて出ていくのです。裁判手続き開始時に子どもと一緒に暮らしていないと、子どもの親権を裁判所から否定される危険があるからです。そうなると子どもと永遠に会えなくなる可能性が生じてしまいます。親権が認められ、子どもと同居できる親はどちらか一人と定められています。このことを弁護士も、女性を保護する公的機関やNPO法人なども知っています。このため、
このような人たちは、「離婚を考えているならば、子どもを手放してはいけない。子どもと会えなくなりたくないなら、子どもを連れて別居しなさい。」とアドバイスしています。
7 理由7
 おそらく、ここまで読み進めていただいた方は、疑問を持つでしょう。子どもと生活できる親が一人ならば、不公正に子どもを連れ去った親は、処罰されるか、親権者の選択で不利になるはずだ。そう思われていることでしょう。その疑問はもっともです。子どもは独立した人格を持っている一人の人間です。突然の連れ去りによって、自分のもう一人の親との生活が奪われ、子どもの学校生活が奪われ、子どもの友人関係も強制終了され、自分のお気に入りのグッズが詰め込まれた部屋も奪われ、近所の猫との癒しの時間も奪われる、つまり子どもの生活が奪われるからです。そして、子どもが自分の生活を奪われる理由が、子ども自身には何もないからです。どう考えたって、裁判所が、子どもに害悪を与える親を、子どもと生活する唯一の親と認めるわけがないと思うことは当然です。
 しかし、実際の事例で、母親の浮気が知られてしまったので逃げるという場合や、母親が家族の生活費を無駄遣いしてしまったことが発覚して逃げる場合や、その他母親の身勝手な事情で連れ去りが行われても、母親が子どもと生活している以上、日本の裁判所は母親に親権を渡しているのです。
 その理由は、「子どもは母親が育てるもの」という信念と「裁判手続きが始まった段階で同居している親に親権者を渡す」というドグマが組み合わさり、強固な原則が構築されているからです。そしてそれを支えているものが、子どもの心理的影響を考慮しないという思想があるからです。
 日本の裁判所は、子どもが連れ去られることによる子どもの心理的ダメージを考慮しません。子どもの状態をイメージできないのでしょう。
 日本の裁判所は、今子どもが錯乱状態などになっていなければそれでよしとしているようです。将来的に子どもの心理的成長に悪影響が出るということを考えようとしません。ここはもう少し説明を加えましょう。
8 理由8
 先ほど私は言いすぎました。日本の裁判所の中でも、子どもの健全な成長という子どもの未来を見据えて親権者について考えるべきだという主張があります。どちらかということこれが公的見解だと言っても良いでしょう。子どもの健全な成長、心理的発展のために有害な事情はどんな事情かという研究もなされています。しかし、残念なことにこれについて理解をしている裁判官は多数とは言えませんし、家庭裁判所の調査官という裁判官を専門知識で補助する人たちの多くも子どもの健全な成長を重視していません。現在に大きな問題がなければそれでよしという態度をしています。
 通常多くの国では、子どもの心理的発達の研究が進み、行動科学や発達心理学などの成果や統計的結果に基づいて、子どもの処遇を決めています。日本にもそのような研究はあるし、家庭裁判所の調査官研究も発表されています。しかし、このような科学的知見に基づいて判断するという慣行が、実際に判断をする裁判官の中にはありません。世界的に調査研究もそれを紹介する調査研究も、まったく家庭裁判所は考慮しないのです。
 おそらく、日本の裁判所のリーダー的な立場にいる人たちはこのことに気が付いているのでしょう。文献を作って警鐘を鳴らしています。しかし、現実の裁判官は、まったくこの文献に心を動かされていません。
 特に、家庭裁判所には、裁判官の経験の少ない者が配置されます。若くて子育ての経験も少ない裁判官です。子どもの心理といってもあまり臨場感をもってイメージできない場合も多いのでしょう。どこで習ったのか不明ですが、「子どもは母親が育てるもの」と「裁判手続きが始まったときに子どもと住んでいるものが親権者」という原則だけはしっかり知っています。わかりやすいのでしょう。
 こうして離婚を意識した母親による子どもの連れ去り別居は、母親にとっての大原則になりました。
9 理由9
 それでもなお、皆さんは疑問を抱くでしょう。「日本では離婚をすると一方が親権者になり、他方は親権者ではなくなるということは理解した。しかし、日本でも、「面会交流制度」が法律で規定されていて、親権者は親権の無い親に子どもを合わせることになっているのだろう。そうだとすれば、母親は、子どもが父親と交流して父親にもなつくことは止められない。そうだとすれば、それほど親権にこだわっても同じことではないか。永遠の別れは、現行制度ではありえないのではないか。」そういう疑問を持つでしょう。
 しかし、面会交流という制度があっても、子どもと同居している母親が承諾しなければ実現しないで済むのです。別居している父親が面会交流を求めて調停を申し立てても、裁判所はあまり味方になってくれません。但し、この点は、置き去りにされた親たちの粘り強い闘いと多くの犠牲によって、若干の改善はみられています。しかし、多数にはなっていません。
 あわせたくない母親は、それに助力する弁護士の力を借りて、子どもが自分のもう一人の親と接触することを徹底的に拒否しています。理由のない拒否に対して裁判所は何ら制裁を科しません。結果として、子どもに何の責任もないのに、子どもはもう一人の親と会うことができません。
 私の経験では、裁判官と調停委員が同居親を熱心に説得すれば、面会が実現することが多くあります。裁判所によっては、1年以上も裁判官が同居母親を説得しないということを経験しています。
 なぜ、このようなことが起きてしまうか。面会交流が、人格を持った子どもの権利だという視点がないからです。面会交流が子どもにとって不可欠であるという科学的知見を、何とか否定する事情を探し出すのが裁判所の役割だという誤謬が起きているとしか考えられません。
 あまりにも同居親の抵抗が激しいときは、裁判所は子どもに何も責任がないにもかかわらず、手紙や写真のやり取りでそれ以上は我慢しなさいという決定を出します。しかし、裁判所の関係者は、このような手紙は子どもに渡されないこと、子どもからの返事が来ないことはよく知っています。それでも事件を終わりにするために、子どもの犠牲のもと、手紙や写真を送りあうということを定めてお茶を濁そうとしていると私は感じます。
10 理由10
 裁判所が、子どもをもう一人の自分の親から引き離す役割を担っていることは分かった。しかし、社会が、そのようなむごい行為を許すのかという疑問が残ると思います。
 しかし、裁判所以外の公的機関も、連れ去りに力を貸しています。
 その筆頭は警察です。警察は、妻から夫の暴力について相談を受けています。夫から妻の暴力の相談を持ち掛けてもなかなか相談には乗ってもらえません。そうして、夫からの暴力の相談を受けた場合、妻と子どもを夫から隠す行為を手伝います。突然家からいなくなった妻子に驚いて警察に相談に行っても、警察官は、最初は知らぬふりをして、最終的には安全な所にいるから心配するな、捜索願は受理しないと夫に告げます。夫は、どうして警察は行方不明になった妻子の安否を知っているのだろうと疑問に思います。知っているはずで、行方不明は警察が関与しているからです。
 そうして、警察から相談記録が上がってきた市役所は、妻子が移転した後の住民票を夫に見せない手続きを取ります。夫は、妻子がどこに行ったか分からなくなりますが、それは警察や市役所の行為によってそうなるのです。
 夫は、妻子がいなくなったので、妻の親の家にいるのではないかと探しにゆきます。そうすると、親の家にたどり着く前に、10人を超える警察官に取り囲まれて、警察署に連行されます。夫は警察官から、「二度と暴力はしません。」という誓約書を書くことを要求されます。これを書かないうちはここから出さないといわれた人もいます。
 子どもを取り戻すことを阻止するために、警察官はストーカー規制法を持ち出してきます。これ以上子どもを探した場合はストーカー警告を出すぞ、この警告に違反した場合は処罰すると脅かされます。
 日本人は善良な市民が多いので、警察官は自分を守る存在だと考えています。その警察官から犯人扱いされてしまうことで精神的な打撃を受ける人がほとんどです。こうやって連れ去りは、日本社会がバックアップしているということが言えると思います。
 ここでやはり疑問をお持ちになるでしょう。警察が介入する事案は、夫の暴力がある場合だけだろう、確か法律にもそのように書いてあるはずだという疑問です。しかし、多くの警察官が、夫婦間に警察官が介入できるケースは、夫の暴力があるケースに限定されているということを知らないようです。警察を管轄する都道府県担当者は全く分かっていません。
 これには構造的な仕組みがあります。
 第1の仕組みは、妻から夫の暴力についての相談を受けた警察官は、妻の発言を疑わないという原則があります。妻がパニック障害でも、統合失調症でも、妻の発言を疑いません。そのため、事実確認を夫に行うということもめったにありません。また事実確認という口実で、妻の行方を捜すなと脅かした事例もあります。
 なぜ、裏付けが不要なのでしょうか。それは、その仕組みによって夫を処罰するのではないからということが一応言えると思います。しかし、この仕組みによって、夫は我が子に会えなくなってしまうのです。
第2の仕組みは、夫の暴力があろうとなかろうと、妻が夫の暴力があると相談した場合は妻の支援を開始するという法律構造です。だから、実際に暴力があったか否かを確認する必要もないという主張をするようです。日本の行政は、夫の暴力を相談した女性を「被害者」といい、被害者の夫を「加害者」と言います。これが日本の役所の正式な表現です。但し、「加害者」とは、被害者に被害を与えた人ではない。という注釈が付いています。それならば公的に加害者と呼ぶのはおかしいと思います。日本の国家が間違った日本語を使っていても改めようとしません。しかし、こういう間違った日本語の元で被害者保護は開始されてしまいます。

 以上私は、日本人母が子どもの連れ去りをする理由を説明してきました。貴委員会の決議は、日本の連れ去られた子どもたちにとって、大きな利益になる可能性があります。これからも日本に意見を突き付けていただきたいと考えています。それは日本国民の利益につながると思います。
 その際、「子どもは母親が育てるもの」、「裁判手続きが始まった時点で子どものいる場所を移さない」、「子どもをひとりの人格をもった権利主体だということを理解しない」、「子どもの将来を見据えた判断をしない」という司法慣行についても理解いただき、そもそも夫婦の離婚が子どもと親との永遠の別れにつながる単独親権制度にも言及していただきたいと思います。さらには、「子どもは母親が育てるもの」ということと、「夫婦間暴力の被害者は女性である」というジェンダーバイアスのかかった見方にもとづく、ジェンダーバランスを著しく欠いた配偶者暴力支援制度についても圧力をかけていただきたいと思います。これらの問題点が改善されない限り、日本人母による連れ去りは無くならないと思うからです。
 子ども生活環境を激変させる連れ去り行為は、国境を越えようと国境を超えないとにかかわらず禁止するという思想と子どもをひとりの人格を持った権利主体であるという理解が定着しない限り、子どもの連れ去りは続く危険があると思います。

ここまで読んでいただいたすべての皆さんに感謝申し上げます。

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子育ては母親がするものという前提こそ、最初に克服されなければならないジェンダーバイアスでしょう。サルじゃないのだから人間らしくしよう! [家事]



不合理なジェンダーバイアスは是正されるべきです。
例えばあなたは女性だからこうしなければいけないという主張があるとします。
それを本人に押し付けることは、人間の人格を侵害することに
つながりかねません。
もっと人間はのびのびと自分の幸せを目指して活動することが
是として評価されなければならないと思います。

身近な問題でも
女性だからスカートをはいて登校しなさいという校則がありますが、
特に東北などの寒冷な地域では
健康を害する深刻な問題になりかねません。
タイツの着用を禁止するところも多く、全く理解ができません。
長野県に出張に行ったとき、
制服のズボンを着用している女子高生たちを見て
素晴らしいと感心したことがあります。

司法の場にもジェンダーバイアスがかかった処理がされる
ということがあるように思われます。
最も極端で明確なジェンダーバイアスは
家庭裁判所の事件です。
子どもは母親が育てるものという
極端なジェンダーバイアスがあるように思います。

ジェンダーとは、
性的な偏りとか
社会的、文化的な性的役割ということですから
子どもは母親が育てるものというのは、
まさに社会的文化的に女性に押し付けられているものですから
ジェンダーバイアスだということになるわけです。

このような考えは裁判所の審判の内容も左右させますが、
そもそも社会的な偏見があることで
母親を苦しめています。

離婚をした芸能人が子どもを父親に預けると
全く関係の無い人たちが非難をしているのを見ることがあるでしょう。

精神的に限界で
治療や休養が必要だから一人になりたいと思っても
子どもを引き取らないで生きていると
気ままだ、わがままだ、冷酷だと批判がなされるので、
なかなか必要な治療や休養を得ることができません。

離婚をしても子どもを元夫と分担して育てようとしても
離婚したのだから子どもを一人で育てるべきだという
声なき声に圧迫されてしまうわけです。

これでは、せっかく離婚をしても
女性だけが一日の相当時間を子育てに取られてしまい、
フルタイムの就労ができず
それなりの収入を得るということができません。

いくら男女平等の職場があっても
それを活かすことができません。

金さえあれば子どもを育てられるということも幻想ですし、
離婚すれば金が入るということも幻想です。
離婚すれば夫の収入が上がるという事情はありません。
扶養手当が入らなくなり、収入が減ることが多いのです。

離婚は離婚
でも子どもはお金も時間も分担して育てるべきだという主張こそ
ジェンダーバイアスを克服した主張だということになるはずです。

ここで、ジェンダーバイアスの例外を述べなければならないようです。

先ほど社会的文化的役割ということを言いましたが、
そうでない性的役割もあります
自然的性的役割とでもいうのでしょうか。
明らかなことは、出産は女性しかできないということです。

これはジェンダーではないということになりましょう。

授乳については議論のあるところですが
これもジェンダーではないとしておきましょう。
但し、ある程度の月齢がいけば
粉ミルクなどで十分栄養が摂れますので
厳密な意味では自然的な役割とは言えなくなる時期があると思います。

したがって、2歳くらいからは
子育ては母親がするものだということは
ジェンダーバイアスがかかった見方だということになるでしょう。

これに対して
子育ては、自然環境でも母親がするもので
熊やサルも母親が子育てをするではないかと
素朴な意見がみられます。
この意見は残念ながら物を知らないがための意見です。
ジェンダーバイアスを正当化しようとするときに出てくる典型的な意見ですが
科学的には間違いです。

父親が子育てをしないで母親が子育てをするのは
人間ではないからです。
熊やサルだからです。

熊をはじめとして群れをつくらない動物は
そもそも個体間の共同行動ということはありません。
常に成体は単独行動です。
子離れするまでは母と子の共同生活がありますが
それは例外的な時期だということになります。

サルも群れを成しますが
子育てをするのは母親だけです。
食べ物を分け与えるのも母ザルだけです。
ですからそれらの動物の子どもは母親にしかなつきません。
人間はそうではありません。

これは人間独特の習性です。
(但し、多少とも母親以外の子育て参加者が存在する種もあります。)

大事なことは、サルと人間は決定的に違うということです。
特に子育てに関しては
サルはこうだから人間もということは
成り立ちません。
何せ人間とサルは700万年前から別の動物です。
「自分の仲間」についての意識はまるっきり違うのです。

人間の場合は、乳離れさえできれば
主として父親が子育てをすることは全くかまいません。

但し、
人間の場合は、むしろ
母親だけが子育てをするということや
父親だけが子育てをするという単独養育自体が
人間の性質に反した不自然なことです。

集団で子育てをするということが
700万年の歴史の中で培われてきた自然な様式なのです。

これは人間が二足歩行をした結果分娩の難易度が上がったこと
このため母体の回復が遅れたり、母体が死ぬことも少なくありませんでした。
脳の発達を選択したため頭蓋骨が大きくなってしまい、
分娩可能な大きさで出産してしまわなければならないために、
赤ん坊が極端に未熟な状態で生まれてくるため養育に手がかかること
攻撃力も闘争力もないため集団の力で生き抜かなければならなかったこと
という必要に迫られた生活様式で
それに合わせて頭脳も発達しました。
サルとは違うのです。

人間はこうやって700万年生きてきたわけですから
単独養育ということは
養育者も子どもも不自然を強いられることで
心理的、肉体的に負担を感じるようになるということは
無理のないことです。
つまり人間らしくない形ということです。

「子育ては母親が行うもの」という概念は
だから、自然的な性的役割ではありません。
また、社会的文化的な役割というものでもありません。
あくまでも、特殊思想の産物です。

社会的、文化的にも、自然的にだって
少なくとも両親が育てるものということが
自然な役割分担です。
(本来はもっと多くの共同生活者が育てたのですが
現代の孤立婚では無理な話です)

それにも関わらず、
表面的に女性の権利を声高に叫ぶ人に限って
色々理屈をつけますが、結局は、
子育ては母親がするものだという考えが貫かれているわけです。
子育ては母親の自己実現だから母親が子育てをするべきだ
というところに本音がありますから
ジェンダーバイアスに女性を縛り付けているのではないかと
私は感じます。

この主張によって、子育てが困難な事情のある母親は
自分が責められている気持ちにさせられます。
その結果、女性なのだから無理してでも子どもを育てなければ
人間として失格だと思わされているわけです。

ジェンダーバイアスをなくそうと主張するなら
「子育てを父親にも分担させろ」という主張にならないと
整合しないと思います。
これこそ、人間の自然な性質に合致した人間らしい主張だと思います。
苦労するのはお金だけの問題ではないのです。
養育費だけ払えというのは
子育てを知らない人の妄言だと思います。

この妄言によって踊らされた母親たちが
離婚後の生活の苦しさをあちらこちらに訴えますが
離婚はあなたが決めたことだと冷たく突き放されているわけです。
この苦労とは、人間らしい生き方をやめたところからきていますから、
初めから当然苦しいわけです。

子育ての金と時間を分担しろという主張は、
離婚しなくても離婚しても一緒のはずです。
協同養育こそジェンダーバイアスから解放された
子育ての形態についての主張であるはずです。
どこも間違っていないと思うのですがいかがでしょうか。



余談ですが、DVは、男性が女性にするものという
これまたジェンダーバイアスに縛られた発想です。
統計的にも全く根拠はありません。

人が傷つくのは暴力で身体的に傷つくことがメインだという発想が
大前提になっているようにも感じられます。
また、男性は自力で回復することができるが
女性は、男性に依存するものだから自力では解決することができないという
女性蔑視が根幹にあるように感じることが多くあります。
蔑視していると感じるのは
そう主張している人たちが、自分は男性に依存していないということを
やたら強調しているところからもそう感じるわけです。
ジェンダーバイアス以上の偏りを感じるのは私だけでしょうか。

個の独立を主張する戦闘的な思想は
人間らしく協調して生きていく思想によって
遅かれ早かれ克服されていくでしょう。

なぜならば人間はサルではないからです。

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子の連れ去りが子どもの成長にとって有害である理由 [家事]



<外務省のホームページを手掛かりに>

夫婦が別居をする場合、一方が子どもを連れて突然家を出ていくということがあります。私は、これまで中立評価のネーミングということで子連れ別居という言い方をしていました。ところが、国は、突然相手方に告げないで子どもを連れて別居することを「子の連れ去り」という言い方をしています。
外務省のホームページです。
https://www.mofa.go.jp/mofaj/fp/hr_ha/page22_000843.html
これにならって、子の連れ去りという表現を使います。
外務省が、子の連れ去りの定義、子の連れ去りが有害である理由を上記の記事の中で端的に述べています。
先ず、子の連れ去りの定義は、以下の通りです。「結婚生活が破綻した際,一方の親がもう一方の親の同意を得ることなく,子を自分の母国へ連れ出し,もう一方の親に面会させない」ということです。外務省のホームページなので、国際的な問題で表現されていますが、大事なことは、①一方の親がもう一方の親の同意を得ていない。②子どもを連れて別居した。③他方の親に会わせない。この3点です。この3点を満たすケースについて「子の連れ去り」と表現して、これからお話をしていきます。
次に子の連れ去りによって、子どもに与えるマイナスの影響についても外務省は述べています。「国境を越えた子の連れ去りは,子にとって,それまでの生活基盤が突然急変するほか,一方の親や親族・友人との交流が断絶され,また,異なる言語文化環境へも適応しなくてはならなくなる等,有害な影響を与える可能性があります。」とのことです。これは、これから述べる通り、その意味を考えれば、国境を越えようと越えまいと子どもにとってのマイナス影響が起きます。グローバル化社会では、それほど国境が重要視されるわけではありません。子どもの年齢によってはごく近い場所でも自力では移動できませんので、未来永劫の別れのように感じる場合もあり、マイナスの影響を与える理由を満たしてしまうのです。だから、国境を超えるかどうかに本質的な問題があるわけではなく、連れ去り自体に問題が生じると考えて良いと思います。結局、この点も①子どもの生活基盤が急変すること②子どもと一方の親や親族・友人たちとの交流が断絶されること、③子どもが新しい環境への適応をしなくてはならない状態にあるという3点が問題だということになります。
では、子の連れ去りはどのように子どもの成長に悪影響を与えるのでしょうか。上記の外務省の考えを解説していく形でお話ししたいと思います。
「子どもの生活基盤が突然急変し、親や友人との交流が断絶され、異なる環境へも適応しなくてはならない負担が生まれる」というその意味です。

<子どもの生活基盤とは何か>

子どもに限らず人間は、群れの中で生活をしたいという本能的要求を持っていて、これができないと心身に不具合を生じてしまいます。子どもは、特に生まれた直後は、周囲の人間に自分の到らない部分を補ってもらうことによって、安心して生活をしています。出生直後などは、母親との結びつきがかなり強いようです。五感で母親を把握しようとし、母親がそばにいないと心配になるような反応をしたりします。他の哺乳類の動物もそうなのですが、人間以外の動物であれば、あまり母親以外の存在というものは必要とされないようです。猫のようなそもそも群れをつくらない動物は子離れまで母親とだけのきずなで安定して生活するようです。また二ホン猿のように一見群れで生活しているけれど、子育てをするのが母親だけという動物も同様でしょう。ただ、犬猫などの動物のネグレクト疎外の治療にあたる獣医さんの話では、母親に代わる存在(人間でもよい)が母親と同じように養育することによって、ネグレクトの悪影響(他の生物に対する過敏な警戒感等)が緩和されるということを教えてもらったことがあります。
ところが人間の場合は、これらの他の動物と著しい違いがあるようです。人間は、母親だけが子育てをするというのではなく、群れが子育てをしてきたようです。サル等は母親にしかなつきませんが、人間は他の大人にも共感を持ち、母親以外の人間の真似をしながら成長していくという、生まれながらに特殊な性質を持った動物のようです。母親が出掛けて近くにいなくても父親と一緒にいることで安心するのはそういうことなのだと思います。父親であると認識しているというよりも、一緒に生活しているということで安心できる存在だと刷り込まれていくようです。父親側の子に対するアプローチも大切だということになります。父親が子育てに極端なまでにかかわらなければ子どもも安心できる存在として認識できません。通常は、子どもにとっては、母親と父親が一緒にいるということで、安心も倍増するのだと思います。両親が愛し合って子どもができる、両親が愛し合って子どもが大人の人間へと成長していくということですから、何ともうまくできているはずなのです。
徐々に子どもは人間関係を把握していきます。両親と自分という関係を安心の実感で把握していくわけです。また、経済的問題や親の心情、他の子と自分を比較するようになれば、本能的要求に加えて文化的要因からも両親の存在を要求するようになってゆきます。自分と両親、その他の兄弟や祖父母といった家族という群れを強く意識するようになります。この群れは人間の群れの中でもごく少数の構成員の群れですから、群れに対する感じ方も群れの大きさに合わせた特徴があります。一人一人が群れの形を作っており、一人が欠けただけでも群れの性格はがらりと変わります。これまでの群れではなくなったという意識が生まれてしまいます。自分の安心できる基盤が著しく不安定になるという感覚になってしまうということです。特に死別の意味が分かる年齢の場合は、一人の人間がいなくなったという以上にこれまでの自分が所属する群れが無くなったという強い喪失感を受けてしまいます。
子どもが親から引き離されるということは、親という絶対的な存在を失い、自分の安心の基盤を失ったと感じる危険があるということです。子どもがその理由を理解できなければ、別の家族もわけのわからないままに同じように失うのではないかという不安を覚えることがあります。年齢によっても異なりますが、子どもはその理由を考えても考えつかないために、自分が悪いからではないかという自己中心的な考えからの自責の念が起きるわけです。何か理由があるということで、納得して安心しようとするわけです。自分を責めることで納得しようとすることは子どもだけではなく大人にも見られることです。連れ去りに限らず一方の親との別離を経験した子供で必要以上に良い子になろうとすることは、特に小学校低学年から学齢前の子どもに多く見られます。また、良い子になる理由は、もう一人の親が自分から離れていかないために必死につなぎとめようとしている表れでもあるそうです。
それでは、子どもも小学校中学年になれば、連れ去りの影響が軽減されるかというとそういうことではなく、別の問題も生まれてきます。それは、子どもの社会からの断絶が起きることです。子どもも、幼稚園や小学校という社会に属しています。最近では、習い事やスポーツ少年団など親と独立した社会生活を営んでいます。家庭とは別の群れです。この中で友達や先生との交流があります。これらの交流がとても貴重です。大目に見てくれる親とは異なり、友達や先生は、自分を特別扱いしないという厳しいところがあるわけです。どういうことをすれば喧嘩になり、どういうことをすれば自分が非難されることになるのかということを、失敗しながら覚えていきます。体に刷り込むように覚えていくわけです。喧嘩したり許したりする中で、自分たちの社会の中での自分の役割も身に着けていくようになります。これが群れをつくる人間の中でとても重要な学習です。
このようにみていくとお分かりになると思いますが、人間とは、子どもといえども、単体で身一つで生きているわけではありません。自分という存在は、絶対的なものではなく、他者との関係の中で確立されている概念になっていくのです。家族の中で、愛される自分がいたり、家族に貢献している自分がいたり、助けてもらう自分、叱れても受け入れてもらえる自分がいる。学校でも、黙々と義務を果たす役割であったり、人の話を聞いてあげる役割であったり、静かにしていることが好きな自分が受け入れられているという実感の中で「自分」というものを、実は把握しているわけです。人間だけではなく、通学路にいる猫をかわいがったり、自分の部屋に思い出の品を飾ったりと、生活の基盤は、自分という存在がいるべきかけがえのない場所であり、人間にとっては自分そのものなのです。
ここから切り離されることは大変つらいことです。自分の一部が切り離される感覚を持つようになります。特定の誰かとの別れが苦しいということもあるでしょうけれども、「自分」を切り捨てるという感覚が苦しいのです。
つまり、子どもにとっての生活環境というのは、自己を確立するための学びの場でもあり、自己の同一性を確保するものでもあり、同一性を継続させる環境でもあるわけです。

<典型的な無責任な反論とそれに対する再反論>

こういうことを言うと、引っ越しや転校は、連れ去り事案に限らず普通に起こることだから、それほど子どもに対する影響が悪いとは言えないと強弁する人たちがいます。おそらく連れ去り親という大人の利益を守るために必死のあまりに子どもの不利益を考えようとしないのだろうと思います。世の中には多少子どもに不利益があっても連れ去り別居をしなければならないときはあります。その場合でも、できるだけ子どもの負担を考えて対応しなければならないはずです。それには子どもの不利益から目をそらしてはダメなのです。子どもに不利益が生じることを否定してしまったのでは、子どもは誰も守ってもらえないということになってしまいます。こういうことをいう人たちは、今はできないけど後でやろうと思っているということもよく言います。しかし、いつになっても子どもへの対応をしないことがほとんどです。
確かに親の都合で転校をしたり、死別したりするということはありうることです。しかし、圧倒的多くの場合、突然の転校ということはありません。しばらく前から転校が決まっていて、十分お別れをすることができるし、別れを悲しむことも大っぴらにすることができます。それによって、物理的には群れから離れても、心理的には群れの一員であり続けることができます。また、群れを離れる理由も納得できる理由です。さらには新しい学校でも、群れを移った理由を説明できるし新しい学校でも自然に受け止めてもらえます。死別の場合でも病気を患って年寄りが無くなる場合はある程度は納得することができますし、悲しみを隠す必要はありません。ところが、突然の事故死が家族に起きた場合は、感情を処理することが難しくなり、なかなか回復ができないということはむしろ自然なことです。
ところが子の連れ去りの場合は、子どもからすれば、気が付いたら自分の家から別の家に映されていたということが通常であり、あらかじめ何月何日に転校するということを前もって教えられていることはありません。別れを告げて、親や友達と惜しむことは許されません。また、連れ去った親の葛藤が強ければ、もう一人の親との別れや友達との別れを悲しむことは、子ども心に憚られるようです。これが心理的にも重大な悪影響を及ぼすようです。悲しいときに悲しむことができない。自分の感情を自分で否定するということが続くことは、悲しむ体験があったこと以上に不自然なことであり苦痛です。自分の感情を否定することは自己否定にもつながります。また納得いかない群れからの離脱の体験は、残っている人間関係に過度にしがみつく傾向があることも指摘されているところです。新しい人間関係に飛び込むにあたって、支えとなる親の一方がいないのです。不安の軽減も思うようにいかないこともあるでしょう。徐々に自分を大切にする感覚が弱くなり、何事も仕方がないというあきらめが出てしまいやすくなるということを当事者の方たちは教えてくれます。それにもかかわらず、「子どもは悲しいそぶりを見せていない」、「新しい学校に対応している」という主張が多くなされます。この主張は、子どもは独りぼっちになる危険を冒して悲しいと主張しなければならないという主張です。子ども自身に自己責任を押し付けているように思えて憤りを禁じえません。
統計的な問題ですが、アメイトという有名な研究者の大規模調査など、あらゆる統計的な調査によって、子どもは、一方の親と分離されることによって、自己肯定感が低くなっていく、自己評価が厳しくなっていくということが明らかになりました。最近の調査においては、分離そのものよりも、別居や離婚をしてもなお両親の葛藤が鎮まらないことがより大きな問題だと指摘されているようです。これに反する調査結果は特にありません。
これらの研究結果を踏まえて、日本も子どもたちの健全な成長を害されることができる限り少なくなるように民法766条の改正がなされ、面会交流の実施を裁判所や法務省が促すようになりました。これらの統計的結果の外、様々な手法の科学的調査をもとに科学の成果として法律が変わったのです。
面会交流に関する法務省の見解
http://www.moj.go.jp/MINJI/minji07_00017.html
法務省のパンフレット
http://www.moj.go.jp/content/001286705.pdf
最高裁判所の動画 
https://www.bing.com/videos/search?q=%e6%9c%80%e9%ab%98%e8%a3%81%e5%88%a4%e6%89%80%e3%80%80%e5%8b%95%e7%94%bb&docid=608001037674941344&mid=A42EDE37DB78C8BA6637A42EDE37DB78C8BA6637&view=detail&FORM=VIRE
 最高裁判所の動画、「子どもにとって望ましい話し合いとなるために」
https://www.courts.go.jp/links/video/hanashiai_video/index_woc.html


<子どもの健全な成長を阻害するとはどういうことか>

それでは、自己評価が低下するとはどういうことかということに説明を移さなければなりません。現在は家庭裁判所や裁判所の中に、家事手続きがきちんと浸透しないため、子の福祉の観点からの判断がないがしろにされています。「子の福祉」とは、子どもが心身ともに成長する存在であることに着目して、子どもの将来を見据えた健全な成長のためという観点です。今がよければそれでよいという考え方を法律や国はとっていません。裁判所の中でも、このことを知らない裁判官はとても多いです。とても恥ずかしいことです。子どもからしてみれば、無責任な判断で自分の一生涯に影響を与える判断をされてしまうという取り返しのつかないことをされていることになります。
深刻な影響は自我が確立する年齢である中学校から高等学校にかけての時期に集中します。小学校のときに別離を経験した場合、そのマイナスの影響が出てくるのは少し後の時期だということになります。紛争当時に視点をおくと、少し先の子どもへの影響を考えなければならないということです。
この時期に自己評価が低くなると、どうせ自分が何を言っても、何をやってもどうにもならないことばかりだという投げやりな気持ちになります。何かを頑張って成し遂げようということが弱くなります。その結果、安易な方向に向かおうとすることが多くなるようです。現在の苦痛や寂しさを解消できればそれでよいという行動原理が出てくる危険があるわけです。現代日本は子どもにとっても厳しい社会ですから、子どもが自分の目標を達成するためには相当の努力が必要となるようです。その努力ができないということは極めて深刻な影響が生じてしまいます。特に人間関係は、パワハラやセクハラ、いじめなど、何とかそこから自分を守ろうという努力や精神的緊張の中での冷静な判断が求められますが、そういうこともどうでも良くなってしまうようになるようです。
そればかりではなく、同居親の葛藤が高い場合は、別居親を見返そうと同居親が子どもに無理をさせることが多くみられます。両親がいれば、一方の親が無理をさせても、他方の親がそれはやりすぎだと批判することで無理の継続を回避することができるわけです。しかし、もう一人の親の影響が期待できないとすれば、子どもは反発するという選択肢も与えられません。勉強にしろ、スポーツにしろ、その他の習い事にしろ、小学校低学年までは無理がききます。子どもが努力すれば、ある程度の成績を獲得することができます。ところが小学校高学年くらいになると向き不向きがはっきりしてきて努力だけではどうしようもなくなってゆくようです。既に親の期待と自分の希望と区別できなくなっているために、それでも無理をして、それでもうまくいかないために挫折を味わうことになってしまいます。勉強にしろ、習い事にしろ、無理だとはっきり見せつけられるのは子ども自身なのです。ますます自己評価が低くなってしまいます。ますます努力をしないで早々とあきらめるというパターンが身について行きます。
一方の親の過度な期待や押し付けを感じるたびに、もう一人の親がそばにいないことを恨んだり悲しんだりするようです。

<子どもの健全な成長を阻害する片親疎外>

 「片親疎外」という現象があります。連れ去られた子が、別居親に対する拒否反応を示し、面会なども拒否するという現象です。
 これは、自分が生まれてきたルーツである片方の親を心理的に否定することです。自分は否定するべき別居親と、肯定するべき同居親の両方の血を分けられた人間なのだという意識が生まれてしまいます。そうすると、15歳くらいと言われている自我が確立する時期に、自分の同一性というものが分からなくなってしまうという深刻な問題が生じてしまうそうです。また、自分の親を否定するほど同居親の価値観に依存しているということを示します。自分がどうしたいという自分の感情で行動することが少なくなり、同居親だったらこう言うことをしてほしいのではないか、こういう感情を持ってもらいたいのではないかという行動原理になってしまっていますから、なかなか周囲からは理解できない行動原理をとってしまっていることになります。周囲から浮いた存在になりやすい状態になっているということです。
 先ほど、子どもが小学校中学年くらいまでは頑張ればそこそこの成績を収めると言いましたが、並大抵の頑張りではないことがここから説明できます。つまり、練習がつらいからサボろうとか、手を抜こう、遊びたいので早めに切り上げようということが子どもらしい自分の感情を行動原理にするということであれば、片親疎外の子どもたちは、自分の感情を行動原理にしないで、同居親の希望をかなえようと自分の苦しさを叱咤激励しながら頑張りすぎてしまうのです。努力と言っても極端な努力ということなのです。
 自我が芽生える時期に、ふと「自分とは何だろう。」ということを考えるのは、こういうお子さんに多いことは簡単に理解できます。自分というものを捨てて、感情を持つことによって、同居親の期待に応えられない自分を否定し続けてきたからです。自分は、実体のない空虚な存在だと感じてしまいます。この時期同居親に反発ができればまだよいのですが、反発をしてもなおも同居親の期待に応えようという矛盾した感情と行動が残存してしまうことも見られるようです。

<片親疎外に対する無知に基づく典型的な反論>

 このような子の福祉を害する片親疎外ですが、家庭裁判所では普通に承認された概念であり、口に出して通じる言葉です。ただ、片親疎外について、誤解をしている家庭裁判所関係者も目に付くのでお話をしておきます。
 端的にいうと片親疎外(PA)と片親疎外症候群(PAS)との区別がついていないということです。
 片親疎外症候群は、同居親が別居親の悪口を子どもに吹き込んだり、同居親が子どもに別居親から受けた苦しみをあからさまに訴える場合に子どもに起きる精神障害です。これを主張する人はいません。それを疑うことは大いにあるのですが。この概念の混乱がどのように実務に影響を与えるかということをお話しします。 
片親疎外(PA)は、子どもが別居親と連絡が取れないこと自体で起きる心理的影響です。もちろん、それに同居親の態度とか、子の連れ去り前の別居親の子ども対する接し方とか、学齢や周囲の環境がそれぞれ影響を与えるものですが、同居をしていれば拒否感がなかったのに、別居したために拒否感が生じてしまうということが根幹にあります。これを防ぐためには、別居親と子どもとの接触、交流を必要に応じて行うことということにあります。
それにも関わらず、片親疎外症候群(PAS)の概念が紛れ込んでいるために、同居親は子どもに対して、別居親の悪口を吹き込んだり、苦しみをあからさまに訴えるなんてことはしていないので、心配無用です。という主張がなされることです。それをしなくても片親疎外(PA)は起きてしまい、それは子どもの健全な成長を阻害してしまうのです。これが分かっていない。面会交流を拒否するという、同居親の別居親に対する危険視、拒否感、嫌悪感が子どもに伝われば、子どもは深刻な片親疎外を起こしてしまうものなのです。
外務省の「子の連れ去り」の定義の中に、面会をさせないという項目がありましたね。これはこういう意味があったのでした。

<それでも行われる典型的な無責任反論>

 これまで子の連れ去りの子どもに対する悪影響についてみてきました。それでも、すべての子どもが悪影響をうけるわけではない。可能性に過ぎないという反論は、まともに考えれば、語るに落ちる低俗なものです。
 確かに、子どもにも個性があり、親以外の子どもを保護する環境が整っているか否かということもとても大事な問題です。必ずしもこうなるというわけではないことは間違いありません。
 でもそれで良いのでしょうか。
 親であれば、なるべく安全なところ、幸せを妨げることのなるべくないように子育てをしているわけです。その可能性があるが100パーセントではないから考えなくてよいというのは、子どもを育てるという観点から大きくかけ離れた主張だというべきではないでしょうか。端的に言えば、子どもを育てるのに不適当な人間だということになると思います。取り返しのつかなくなる危険があれば前もって除去することが親の務めだと私は思います。

<それではどうやって子の連れ去りをなくすのか>

子の連れ去りはなくなるべきです。
それにはいろいろな課題があります。

裁判所の親権や監護権をめぐる対応にも問題がありますが長くなるので割愛します。
悩んでいる方の親を正義であり、その反射的結果として、もう一方の親が「加害者」であるという「支援」がなされており、子どもの利益を著しく損ねているということはこれまでに書いていますのでこれも省略します。
今回お話ししたいことは、夫婦の話し合いを支援する環境が足りないということです。周囲が話し合いは初めから考えないで、命の危険を回避し、子どもを奪われないように逃げろということだけを言う環境は必要以上に整っています。しかし、子どもにとって必要なことは、親がきちんと自分の将来を話し合える環境を作ることです。
 仮に子どもを連れて別居したとしても、子どもが転校を余儀なくされることの無い場所に仮住まいができるように整備するということも一つの案です。
また、後の離婚を予定する家庭裁判所の調停に代わる、話し合いの支援機関があると良いと思います。(ここで、どちらかが健康を害している場合、心身のメンテナンスを受けることも可能にするべきです。)夫婦二人の葛藤を下げる工夫をしながら、子どもの将来について親に責任をもって話し合いをさせることです。ここでの話し合いが終了しない場合は、離婚の申し出や転校を余儀なくする子の連れ去りをさせず、希望すれば同居親に子どもを引き渡すということが行われるべきです。以前家事紛争調整センターという構想を発表したことがあります。
http://doihouritu.com/family.html
 離婚や家族解体の思想やノウハウばかりが蓄積されていますが、家族再生のノウハウの蓄積も家事紛争調整センターで行っていただきたいと考えています。是非皆さんと共有したいことは、「夫婦喧嘩はどちらが勝っても子どもの負け」という現実です。子育てを軸に、家族の在り方が議論され、ほんのわずかな知識と、ちょっとした発想の転換と、些細な思いやりの行動で人間がどんどん幸せになっていけばよいなあと、傷ついた子どもたちと接するにつけて、どうしても考えてしまいます。


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女性の権利の主張によって、最も保護、支援の必要性の高い女性が苦しんでいるということを知ってもらいたい。 [家事]


どうも女性の権利を主張する人は、
母親である女性は、
子育てして、
仕事をする時間がなくて、収入がなくて
それに対して父親は
収入があって、
子育てをしないで
という前提を作っているのではないかと思われます。

その結果、
別居親が支払う養育費や婚姻費用をなるべく高くする
ということを主張されます。
これが女性の保護につながると信じて疑わないようです。

また、女性は子どもを連れて別居しているので、
子どもが現在いるのは母親のところだから
子どもが今一緒にいる親を親権者や監護権者にするようにと
主張するようです。

大変困っています。
少なくない女性たちが大変迷惑しています。

実際は
夫が働かない、あるいは働けない事情があり
妻のパート収入だけで生活している家庭は
少なくありません。
または夫も妻も非正規雇用労働者で
妻の方が収入が高いということも珍しいことではありません。

また、子どもを父親のもとに残して
自分だけが単身別居するケースだって珍しくありません。

特に精神的に疲弊していて
正常な判断力が無くなったり、
現状に抵抗しようという精神的体力が消耗しきってしてしまい、
不本意ながら子どもを置いて出ていくわけです。

特にそれが、夫の暴力による結果
精神的に消耗しきっている場合は
そのことを女性に不利に考えられると
本当にどうすることもできなくなります。

多くのケースで、
女性の精神的消耗が暴力の結果だということに
気が付かれていません。
本人自身が気が付いていないのです。

よくよく話を聞くと
暴力というのは1,2度くらいだとしても
頭部に対する激しい暴力が行われて以来
常にびくびくして生活するようになり、
緊張感が高まっていき、
過敏になり、悲観的になって、自暴自棄になっていき
精神が消耗しきってしまうということが
実際はあります。

こういう場合は、自分の精神状態の変化だとしても
自分でもよく分からないままただ苦しいだけだった
ということが本当は多くあります。

ところが、本人も、代理人も裁判所も
そのことを見過ごしてしまっています。

配偶者暴力の対策というのは
「モラハラだ」、「あなたは悪くない」というような
安易な支援では
本当に救済が必要な人が救済されないようになっているわけです。
もっと、リアリティーを引き出すための
知識と技術と時間が必要なのです。

だから、子どもを置いて出ていかざるを得なかった母親は
より重大な精神的損害を受けていて、
より救済の必要性の高い人間である場合が多いのです。

連れ去り優位型の実務は
本当に救済が必要な女性が救済されません。
また、子どもの健全な成長も
正当に考慮されません。

現状の女性保護の主張は
すべてが大ざっぱで安直なのです。

子どもにとってだってそうです。
父親と母親の対立に巻き込まれてしまい、
本当はみんなで暮らしたいのにそれが言えません。

どちらかにつくように大人たちから選択を強制されます。
どちらかでなく両方だという選択肢は
大人によって子どもから奪われているのです。
この結果
子どもはより保護の必要な親を選択する傾向にあります。
年齢が高くなるとそれは顕著です。

お母さんは、友達も多く両親も支援している
お父さんは、いつも暗く、独りぼっちだということならば
年齢の高い子ほどお父さんを選択する確率が高くなります。

趣味的な生活をしていて収入がなくても
自分の自由を認めてくれる大人と一緒にいたい
塾や進学の援助や、健康状態の配慮よりも
干渉されない生活を望むということはあるでしょう。
また、仕事をしないで孤独に震えている父親のそばにいてやりたい
ということも当然あるわけです。


その結果、
子どもが今父親のもとにいるから
父親の監護能力の無さを一切考慮しないで
父親が親権者だ、監護権者だという決定が出てしまうのです。

あたらしい基準の増額された婚姻費用や養育費を
非正規雇用労働者の母親が支払わなくてはならなくなるのです。

こういうケースは決して稀ではなく、
現在では増加傾向になっていると思います。

いつもは逆です。
母親は育児で就労できない、
父親は一人暮らしで働いて収入を得ている。
養育費は高額であればあるほど良い。
母親が子どもを連れて出てきたので
子どもの監護者、親権者は母親とする。

そのちょうど逆のパターンが現実には起きていて
非正規雇用労働者の母親を苦しめているのです。

本来、養育費の金額の問題は
社会的問題であり、
雇用状況や福祉の状況など
社会が解決する問題のはずです。

それをおそらく男親に押し付けようという政策で
非正規雇用労働者の母親がまさに押し付けられそうになっているのです。

女性の権利なんて言っていて
一番保護され、支援されなければならない女性の現実を
無視したところで成り立つ主張だと思います。
切り捨てられた現実の女性からすれば
大変恐ろしく感じていると思います。

これも、女性は子育てをするもの
女性は子どもを連れて別居するもの
女性は収入が少なく男性は収入が多いという
大ざっぱな前提から出発しているからです。

もっと子どもの福祉を直接見据えた議論をしなければ
その結果一番苦しむのは
最も保護と支援の必要な女性なんだということを
言いたかった次第です。


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