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どうか後悔を数えずに、故人との楽しかった時間を思い出していただきたい。それがご供養だと思います。何通かの自死者の遺書を読んで感じたこと。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]


お身内が亡くなることはとても悲しいことです。その死が、病死であろうと事故死であろうと自死であろうと、遺族は自分が故人のためにもっと何かできたのではないかという気持ちを抱き、自責の念に駆られることが多いということは、身内を失くした人であれば誰しも知っていることだと思います。

この自責の念は、自死の場合は特に強くなるようです。
すでに自死の危険が高まった後で、自死を防ぐということは、本当はとても難しいことです。そして自死の危険が高まる原因や予防もやはり難しいことが多くあります。

それでも世間は、誰かが止めれば自死は簡単に防ぐことができるのではないかと誤解をしているのかもしれません。

また、国家政策としての自死予防が盛んだったころ、「自死の直前にはサインが必ずある。サインを見逃さなければ自死を防ぐことができる。」という理論が、貧弱な自死のサインのサンプルと一緒にまことしやかに流されたことにより、自死は家族が注意すれば防ぐことができるのではないかという誤解が蔓延したという事情もあると思います。

自死や自死未遂の現状を知れば知るほど、自死を防ごうと思ったら、それこそ24時間、365日態勢で気を付けなければならないということになると感じます。それは現実的には間違いなく無理です。

もちろん、無理なことはわかっていても、手を尽くしたことをわかっていても、遺族は自責の念に駆られてしまうのであって、自責の念を抱くなと言っても無理なことでしょう。

それでも、故人としては、できれば自分が死んだことで身内が後悔をしないでほしい、自責の念に苦しまないでほしいという希望があるようです。

自死の事件では、いくつかの事例で、死の直前に遺書を作成される方が多くいらっしゃいます。かなり冷静に淡々と遺書をしたためられているケースも多いように感じます。

自死に当たって、誰かを攻撃する内容の遺書の場合もありますが、圧倒的多数の遺書は家族に対する思いやりが記載されています。また、家族を攻撃する遺書というのも私は見たことはありません。

遺書の文面で多いのは、ご家族に対する謝罪です。お子さんの学校での様子や仕事の様子などについて、よくここまで知っているなあと思うほどよくわかっていて、次の目標の場面に立ち会えない、応援できないことをお詫びしています。自分が自死することで生活が苦しくなることや世間的に肩身の狭い思いをすることも謝罪していることが多いです。

配偶者に対しては、複雑な表現がある場合もありますが、その場合でもむしろ第三者が読めば、愛情にあふれながら、相手に対する尊敬と自分のふがいなさに対してお詫びが記載されているということがよくわかる内容になっています。

故人は、自分がこれから行うことについて、家族がどれだけ苦しむかをわかっており、それでも死ぬことを止められず、謝罪の言葉を残すことが精いっぱいであることがよくわかります。理屈では割り切れないかもしれませんが、自死とはそういうものなのだと考えなければならないと思います。合理的な思考ができるような精神状態ではないということは間違いないと思います。

そういう気持ちを持った自死者にとって、自分の死について少なくとも家族にだけは責任を感じてほしくないということが本音なのだと思います。遺書を拝読する限り、唯一の心残りと言ってもよいのかもしれません。

私の拝読したいくつもの遺書の内容からすれば、自死を余儀なくされるまで追い詰められた人間がこれから命を失うというその時であっても、家族との楽しかった出来事の思い出や、子ども成長、あるいは不安を忘れることができた家族とのひと時というものは、何物にも代えられない貴重な思い出で、かけがえのない財産なのだと思います。その中でも、自分と一緒にいる家族が楽しんでいたり、喜んでいたり、あるいは安心していたり、自分を頼ってくれたりしたその時の表情に、自分が生きてきた意味を感じて、慰められていたことになります。

(そういう人間としての充実した出来事の記憶すらも、自死を止めることができない。それほど自死を防ぐことが難しいということなのだと思います。)

だから、故人が生前に楽しそうにしていたこと、喜ばれていたことを思い出すだけでなく、故人と一緒にいたときにご家族自身が楽しかった出来事、喜んだ場面、安心した記憶を思い出すことが、故人にとっての何よりの供養になるのではないかと考える次第です。

これは、自死の場合だけでなく、故人をしのぶ場合に共通のご供養の在り方なのかもしれません。



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特に自死・自殺の原因について、目的が立派なことだとしても、無責任に言及することが不道徳であることの説明 特にSNSでの論及には注意するべき理由 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

日本のような自死予防対策が遅れている国では、著名人が亡くなった場合、特に自死で亡くなった場合、テレビ報道がなされますが、コメンテーターが出てきて、あれやこれや自死の原因を言い出すことがあります。

ある著名人がなくなったときには、生い立ちや家族関係まで暴露していたワイドショーもありました。自死に至った経緯としては、まったく客観的事実の報道とは思われないのですが、
お金になるのでしょう、ここぞとばかりに説明する人がいます。

私のように自死の原因が何なのかを調査して裁判などで主張する人間とからすると、どうしてそのような決めつけでものを言えるのだろうと不思議でならないということがまず率直な感想です。

そして、「自死がある以上、必ずその理由だけで自死に至る人間関係の問題があったはずだ」という信念のようなものを前提としているのですが、これまた不思議でなりません。辛い事実、悲惨な事実があるだけで、自死ができるのだろうかということについてどうして疑問を持たれないのでしょうか。

私は、人間の感情や心、人間関係ということについて、自分では怖いくらいに自分が単純化して考えているという自覚があります。自分が論じているのは、自死や犯罪やいじめ、離婚などに至る気持ちの移り変わりに限定して論じているという言い訳を自分で自分に言っているのです。本当は人間の感情はもっと複雑で個性や体調によって目まぐるしく変化するとらえどころのないものだと自分に言い聞かせて勉強をし、このブログを書いています。

パワハラ過労死のような場合でも、「マニュアルの基準を満たす。よし、労災だ。」という単純な発想はありません。なるべく多くの人から人間関係の事情を聴き、その人の生い立ちなどを調べ、当時の精神的状態を調査し、その人がその場にいたらどのように追い詰められるだろうか、特にその直前の精神状態からの変化がどのようなものかということを推し量らなければなりません。

その上でなるほどこういう事情で自死に至ったのかと合点がいくときは、突然その心情が理解できてしまい、自分自身が精神的にパニックになることもあります。

簡単に言いますと
・ 大きなストレスが生まれる人間関係の出来事があったとしても、自死を決行しない人もいる。
・ 大きなストレスだと他人からは思われなくても、本人にとっては生きることができなくなるようなストレスである場合もある
・ ストレスが大きくはなくとも、その人の精神状態からすれば、例えばもはや生きていく望みを持っていない状態になっていれば、日常的な些細なことでも自死に至るきっかけになってしまう場合がある。

特に3番目のトリガー(引き金、きっかけ)は、自死が起きる場合にほぼ必ず存在して、第三者はそこに目を向け、自死の原因だと重視します。しかし、自死予防対策の文脈で自死の原因として重視するのは、「もはや生きていく望みを持てない状態」にした原因の方です。一つのトリガーを失くしても別のトリガーがあれば自死が起きます。そしてトリガーは、通常はそれがあるからと言って自死が起きたと言えるほどの重大なものではないから、トリガーを特定することが自死予防にはならないからです。

したがって、その人と人生の時間を共有していない人が、即席の情報収集で自死の原因を議論したとしても、自死の原因に行きつくことはおよそあり得ないことだと思っています。

しかし、人間は、誰かの不幸を見ると、自分も同じような不幸になるのではないかと感じてしまう生き物のようです。そして不幸の原因を探り当てて、その不幸に自分は陥らないようにしたいと考えてしまうようです。

要するに、
その不幸は、その人の特殊な事情から起きたものであり、自分にはその不幸は起きない と感じて安心したいのです。

他人の不幸を笑ったり、誰かを非難して、自分は関係がないと安心したいというわけです。

だから、自分の家族と話すとかごく身近の人間との間で自死の原因をうんぬん言うことは仕方がないことかもしれません。

問題はSNSとかこのブログのようなインターネットです。

「この人の自死の原因はこれだと思う」という書き込みは行わないほうが良いと思います。

理由の第1は、のべてきたように、大体は間違っているからです。
理由の第2は、関連付けられた人に対して、「あなたが自死に追い込んだのだ」と言っていることになるからです。

そして通常は、遺族が、自死の原因として取りざたされます。
遺族は、自分の家族が亡くなったのですから、当然に悲しいわけです。
遺族は、死の原因が自死だということで、自分が何とかすれば死を防ぐことができたのではないかと既に自責の念に苦しんでいます。(これは、自死でなくとも、もっと良い病院にすればよかったとか、あの時自分がこういうことをお願いしておけばとか、離れて暮らさなければとか、誰しも思うことです。自死の場合はそれが強くなるわけです。)

そういう家族の精神状態の中で、自分たちのことを何も知らない人が、自分が原因で家族が自死に追い込まれたと言われることを想像することはとても難しいことです。

特にトリガーという自死のきっかけは、とても些細なことです。日常生活にはよくあることですが、その時の精神状態によって、自分だけ排除されているとか、孤立しているとか、見捨てられたとか、何でもかんでも悲観的に考えてしまうのです。

ある遺族は、お子さんを自死で失くして呆然としながらも、法事を気丈にこなしていたのでしょう。その様子を見ていた全く事情を知らない親戚から。「どうしてこうなるまで放っておいた」と怒鳴られたそうです。こうして極端な例を見れば誰しもわかると思います。
この場合も言った本人としては、亡くなった当人の死を残念に思っての発言だということはわからなくはありません。しかし、それを言って何も良いことはありません。まったくの自己満足のために、遺族を苦しめただけの話に結果としてはなってしまいます。

厄介なことは、遺族を攻撃する気持ちが無くても、配慮が足りなくて結果としては遺族や関係者が傷つくことはとても多くの事例で起きています。

例えば、上司のパワハラが原因で亡くなったということが言える場面でも、言い方によっては、「どうして嫌がる出勤をさせたのだ。こうなる前に家族ならば会社を退職させればよかったのに。」と聞こえてしまうことが良くあります。

「そんな仕事をさせなければ死ぬこともなかったはずだ。家庭の事情で無理をさせたのだ。」と聞こえる場合もあるわけです。

第三者は、浅はかな慰めを言わず、ただただ、冥福を祈ればよいと思うのですが、やはり出来事が大きすぎて自分の中で処理しきれず、余計なことを言ってしまうのでしょう。しかし、だからと言って遺族を使って処理するくらいならば法事などに出ないことをお勧めする次第です。

また、夫婦のもう一方に原因があるかのようなうわさ話がなされ、どういうわけだかそのうわさ話が当人の耳に入ってくることも多く相談を寄せられることです。

家族以外の関係者への攻撃も起きています。

一口に職場が原因で亡くなったという場合でも、取引先が原因である場合もあるのに、勤務先の人間関係がどうのこうのと訳知り顔で述べる人たちもよく目にするところです。

よくあるのは、自分が原因だと思っている人たちが、自分以外に原因があったと盛んに言いまわって、それが遺族に聞こえてくるということです。ある意味責任感が強いのでしょうけれど。他人に責任を擦り付けてはなりません。
また、その中でも本人に責任を擦り付けることがよくあります。平気でうそを垂れ流すのですが、さすがに嘘をつくのは理由がどうあれ非難されるほかはないと思います。

学校のいじめが原因だとされてしまうと、クラスの全員が攻撃していたかのようなうわさや報道が流されたりします。しかし、実際は、微力の場合が多いのでしょうが、大勢に抵抗していじめられている子に手を差し伸べている子がほとんどの場合にいるようです。そういう子は、自分が自死した子を守れなかったという自責の念がありますから、そうでもない子と比べると報道やうわさなどによって精神的不安定になり、問題行動を起こすことが出てくるようです。

書き込みを行わない方が良い第3の理由は、
このような見当はずれの書き込みで苦しめられている家族や、友人、その他の人間関係にある人たちは、書いてあることがわかり、見当はずれのことだと感じても、反論することが事実上許されないからです。そして、なすすべがなく、自分がその人を自死に追い込んだということが永遠に拡散されていくと感じていてもどうしようもないからです。

そのような無責任なコメントを出した人やそのコメントに「いいね」を押す人たちが、その投稿に対して正当な反論を当事者が書き込んだ場合にどのような対応をするでしょうか。真摯に受け止めとめて、記載者にアドバイスをする人がどの程度の割合でいるでしょうか。むしろ、仲間を攻撃されたということで、何も事情を知らないのに追い打ちをかけることの方がイメージしやすいのではないでしょうか。

少なくとも、無責任な批判をされた方は、そのように考えて、初めからあきらめる人が大勢だと思います。

結局、事情を分からないで、自死の原因について無責任なコメントをすることは、たとえそれが良かれと思ってやったことでも、正義の感情に基づいて行ったことだとしても、一方的にまったく非のない人につるし上げを行い、反論を封じて攻め続け、孤立に陥れている危険性が極めて高いということなのです。

無責任な自死の原因論を語りだしているのを視聴したら、チャンネルを変え続けようと私は思います。

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【超長文御免】死ぬという確定意思のない自死(自殺)と自死予防は何を予防するかについて 「自分で死を選んでいる」という誤解だということの具体的説明 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

特に若年の自死の問題に関与すると、必ずと言ってよいほど聞こえてくる話があります。それは、
「その人は、死ぬつもりなんてなかったと思うよ。はずみで死んでしまった事故だったのだよ。」
というものです。
そして、自死の前日や当日、本人が楽しそうなそぶりをしていたことや、自死の日の直後の日に、いろいろな計画があったことを理由として、その人は自死をするつもりではなかったはずだと述べられます。これから死のうという人が、そのあとの計画を立てようと思うわけがないというのです。

無理もない誤解だと思います。このように考える方々は、おそらく、「自死する人は、長期間死のうかどうしようかということを迷い続けて、何日か前からいつどこで死ぬかということを決めていて、死ぬことを決めた日の前は、一貫してこれから自分は死ぬんだということを考えていて暗い表情をしている。」はずだという前提を作っているのだろうと思います。

そういう自死もあるのかもしれませんが、私が調査したり、仕事として関わった自死には、そのような計画性のある自死の例がすぐには思い浮かびません。通常は無いと言ってもよいと思います。
だからその前提が多くの場合には間違っていると言ってよいでしょう。

言葉をうんぬんするときりがないのですが、それは「自死」とか「自殺」という言葉からくる誤解だと思います。要するに、「自分で自分の命を絶った」ということですから、言葉を当たり前に受け止めると、「自分の『意思』で自分の命を絶った」のだと人は無意識に考えてしまうのでしょう。外形だけを見れば自分で危険行為をしているわけですから、自分の「意思で」自死を決行したと感じることも無理がありません。
しかし、人間の行動は、必ずしもその人の意思に基づいて行われるわけではありません。「そうしたいからそうした」とは限らないのです。

国などの、「追い詰められた末の死」という言葉も、誤解を招く原因となる危険のある表現なので、この言葉の意味についても慎重に理解しなくてはなりません。

実際の未遂例や既遂例を調査した限り、命を絶つという効果を目的に自死行為をしたという目的的行為があったとは必ずしも言えない自死行為や、自分の命が危険になるということを自覚していることのない自死行為が、とても多いことに気が付きました。

以下、典型的な2類型の、死の意識が希薄な自死行為がどうやって起こるかについて説明します。

1 薬物、アルコールの影響での夢遊病型
前回の記事の中の万引き(トランス型)も参照にしていただければ幸いです。

不幸な偶然の条件が重なると、人間は自分の意思とは別に行動をしてしまうことがあります。極端な例を紹介します。ある種の向精神薬とアルコールを併用して、まったく記憶のない状態(記録に残らない精神状態)になってしまいました。それでも、自動車を自分で運転し、自分の好きな商品の売っている深夜の店舗に行き、比較的広い(二階建ての)店舗のその売り場まで歩いていき、異常を感じた店員が近くに来て制止しているにもかかわらず、店員がそこにいないかのように全長1メートルくらいある商品を何点か自分のカバンに詰め込もうとして逮捕されました。その時のその人は、目の焦点が合わず、口を閉じることもできず、よだれを流しっぱなしにしていた状態だったとのことです。ほかのことを一切考えずに、その商品を手に入れる行為だけをしていたわけです。

この人は、外形的に見れば、自分で商品を盗もうとしていたということは間違いではありません。しかし、それを自覚してはいません。夢遊病ならば、自動車運転をして正確に店舗にたどり着き、その商品を盗む行為をするという複雑な行動は、とてもできないような気がします。それでも、その姿を見ていた店員によると、あたかも映画のゾンビのようにオートマチックで動いている感じだったということらしいのです。また、店員がいることを気にしないで行動をしていたということからも、少なくともまともな意識状態ではないことがわかります。

どうやって、このようなヘンテコな行動が起きてしまうのでしょうか。


その人の頭の中で、常日頃から「その商品が欲しい」という気持ちがあったことは間違いなかったようです。それでもお金がかかりますし、どうしても必要なものでもありません。理性が働いている場合は「まあいいか。」ということで、窃盗をしないことはもちろん、お金を出して買うこともしないという「自己制御が可能」な状態だったのだと思います。ところが、複雑な過程を経て、複雑な効果が表れて、「行動は可能だけれど自己抑制ができない状態」が生まれてしまったのだと思います。これは、脳のある部分(前頭前野腹内側部)が機能を停止し、その他の部分は活動しているということで説明ができるのではないでしょうか。

自死者の多くが、自死の前に精神科治療を受けていたというデータがありますから、現在の精神科医療の大勢からは、自死者の多くが向精神薬を服用していたことが推測できます。また、少し古くなったデータですが、少なくない割合で自死者の体内からアルコールが検出されているという報告もあります。そうだとすると、向精神薬とアルコールの併用や、どちらかの過量接種が起きて、脳の局所的な活動、停止が起きて、「行動は可能だけれど自己抑制ができない状態」が生まれることはありうることだと思います。

先ほどの窃盗の事例では、頭の中にその商品が欲しいという記憶が何かしらあって、窃盗行為を抑制することができなかったという状態でした。これがこの実際の場合と違って商品が欲しいという記憶ではなく、何らかの精神的に追い込まれている事情があり、「死んだら楽になる。」という死に対する明るいイメージを持っていたとしたら、その人は窃盗ではなく、自死をしていたかもしれません。その場合、単なる死に対する明るいイメージだけでなく、「死ぬ方法」についても考えてしまったりしていたら、ますますその方法を行うことを止めることができなくなってしまうと思います。

WHO等の自死に関する報道についてのガイドラインとして、自死の具体的な方法については詳細を報道しないことを要請しています。こういう薬物・アルコールの影響で意識がない状態での自死を考えると、報道によって自死の具体的方法を知ってしまい、記憶に残ってしまったら、その方法を止めることができない状態になり、実行に移す危険が高くなるわけです。具体的方法について報道しないことはとても大切です。

向精神薬などを過量服薬するという形で死亡する場合もあります。複数の未遂者と家族から最近もこの話を聞きました。

ある方は、抗不安薬を飲めば眠れていたそうです。しかし、その日は眠れなかったので、眠るために追加で飲んでしまったようです。それでも眠れないため、さらに追加して薬を飲んでいくうちに、だんだんと意識がもうろうとしてきて、「映画のゾンビかロボットのようにオートマチックで動いているように」飲み続けていったそうです。本人にはその時の記憶がなく、家族が見た様子ということになります。そうやって一錠ずつぼりぼり噛み続け、気が付いたら大量に薬を服用してしまっていたようです。薬を飲み続けている様子は、先の商品窃盗の犯人のような状態だったのでしょう。家族は必死に服用を止めようとしましたが、力が強く、服用をやめないので、救急車を要請して緊急入院となりました。一か月近く入院したそうです。家族がいなかったらもっと大量に服薬していたでしょう。命を落としてしまう危険もあったと思います。つまり、自死として死亡したかもしれなかったということです。

別の方は、マンションの階段を上りだす人で、飛び降りる寸前で家族に止められて無事だったということが何度かあったそうです。そのうちの半分くらいは自分では記憶していないというのです。

最初に挙げた窃盗の事件の精神状態は、さすがに珍しい事例だと思います。意識のない中で行った行為はかなり複雑な行為でした(実際は何度か同じように車を運転しようとしてできなかったり、発進直後に事故を起こしたりしていたようで、たまたまこの時はうまくいったという事情があったようです)。しかし、自分の命を落とす行為は、もっと単純で簡単に手軽にできてしまいます。そこまで複雑な脳の状態にならなくても可能です。

私が話を聞いた人たちは、その時に家族がいたため、家族が危険行為に気が付き、危険行為を止めることができました。しかし、家族がいなかったら、亡くなっていても不思議ではありませんでした。夢遊病みたいな行為でも、自分で過量服薬をしているし、自分で飛び降りをしたならば、統計上は「自死」があったということになります。

自死ではないのですが、向精神薬を何錠も服用していた方が、亡くなった夫の墓を開けて遺骨を確認したという事例があり、他県の事例ですが呼ばれて刑事弁護をしたということがありました。まったく記憶がないというわけではないのですが、概ね記憶がなく、断片的にしか覚えていないとのことでした。
思いが強すぎて、その思いの強さだけで行動をしてしまうという現象は私一人だけの弁護士経験の中で何度も見ていることです。

また、バスに乗っていて、目的地になかなかつかないことで奇妙な焦燥感にとらわれて苦しくなったという人もいます。まるで、テレポーテーションで瞬間移動ができないことにイラついているような感覚だったそうです。このイラつきで精神的にいっぱいになってしまい、バスを途中で降りてしまったというのです。目的地につかないことに焦っているにもかかわらず、かえって目的地に到達することが遅れることをしてしまうという不合理な行動をしてしまうことを止めることができなかったというのです。この人は、自分が飲み始めた向精神薬の副作用だと判断して、その薬の服用をやめたそうです。それからはその症状は出なかったとのことでした。ちなみにこの感覚、私も起きたことがあります。途中でバスを降りるまではなかったのですが、ちょっとの間イライラが止められなくて苦しくなり、途中で下車したくなりました。向精神薬は飲んでいないのですが、ある種の内服薬でそのような症状が起きたのかもしれません。あるいはその時の精神状態の影響でしょうか。

他の自死未遂の経験のある方から話を聞いても自分では記憶していない行動や、自分で制御できなかった行動、精神状態を経験したことがあるそうです。こういう話を聞くと、かなりの割合でこのような夢遊病のように自覚がないまま危険な行動をしてしまい、その結果亡くなってしまったケースが多いような印象を受けてしまいました。

こういう状態での自死があるとすれば、家族がいる場合でも自死が起きることをよく説明できます。家族仲が悪いわけでなく、むしろ家族に対する思いやりがある人でも、夢遊病状態だったために、家族の将来を考える暇もなく、危険な行為をした結果命を落とすこともありうることだと理解できることでしょう。家族のことをどうでもよいと思っていたのではなく、考える暇もなく薬物の影響で命を落としていたということが実態だったという事例は無数にありそうです。

2 慢性的な緊張持続による精神疲労型

精神疲労型の自死は、外在的なストレスあるいは内在的な事情によって、精神的に強い緊張を強いられることが長い期間持続してしまっていて、精神的体力がなくなることによって緊張を感じ続けることができなくなる場合です。「精神的体力」がなくなるという言葉は私が作った比喩のようなものですが、あたかも思考が飽和状態となってしまうことによって、合理的な行動をするための思考(衝動を自分で抑制)をする力が失われたような精神状態を言います。これは自死に限らず、紛争を抱えている当事者には陥りやすい状態で、程度の違いはあるわけですが、ありふれていてよく見られる状態です。

薬物を摂取していない事例で、精神疲労型と思われる事例を紹介します。

ある若者の例では、発注先のパワハラがあり、それを会社が放置していたという事例でした。友人たちの強い勧めによってその不合理な職場を退職すると決めたので、友人たちもほっと一息を入れていた時に、あと半月で退職というところで自死をしました。自死の直前の様子として、会社の同僚の目撃談を入手することができたのですが、パソコンには向かっていたけれど画面には何も表示されておらず、ぼーっと画面を見ていただけのような感じだったそうです。会社を飛び出してから気が付いたことですがインスタントコーヒーをいれようとしてコップに粉を入れたままボットの湯口の下に置いたままだったそうです。何も考えられない、思考が停止したような状態から、死の危険のある行為に向かってまっしぐらに進んでしまったというところに、一つの目的にだけ向かってしまい、他のことを一切考えていないという意味においては、最初の窃盗の事例に近いような精神状態であったようです。

ある人は、長期間土日も休みがなくストレスフルな仕事をしていました。脅迫に近いクレームが来たり、職場から窃盗の濡れ衣も着せられました。そんなある日、ふと気が付いたら、背広姿にサンダル履きというおかしな格好で、デパートの小さい紙袋をもって家を出て、本来の職場ではなく、かなり距離の離れている他県の支店の同僚のいる駅まで、新幹線を乗り継いで5時間以上をかけていっていたようです。その駅で降りて、山間部に入り自死をしています。医師の意見では解離性遁走という精神的状態だったのではないかということでした。自分で自分の行動を抑制できない状態です(仕事上の情報交換で、その同僚から助けてもらった直後だったので、その地域の名前を漠然と記憶していたようです。そこを訪れる必要は全くなかったとのことでした。)。その時の行動を見た人はいないのですが、おそらく薬物の影響がある事例のようなオートマチックの動きだったのではないと推測できます。やはりこの事例も、死ぬことだけを考えて、他の様々なことを考えられない状態だったと思います。

パワハラやいじめなどといった外在的事情がない場合の例もあります。おそらく精神病の影響で、精神的に消耗しきっていたような状態になり、家族の前で興奮状態となり自死をしようと何度も繰り返し、家族が止めていたのですが、興奮状態が収まってしばらくしたので家族が一時部屋を出たら、わずかの時間で自死をしたという事例もあります。これも、店員から止められるのを振り切って商品を盗もうとした行為をほうふつさせます。その危険行為をするという強い意思を止められない状態となっていたということになるでしょう。

事例を挙げればきりがないのですが、亡くなる際の状態がわかる範囲では、覚悟の自死という事例は聞いたことがあまりありません。やはり、薬物の影響下のような自分の意思とは別に、あたかもオートマチックに死に至る危険の高い行為を行ってしまっていたということがほとんどのようです。

自死が起こる前のサインとして、かなりはっきり起きることは、自分に対する激しい攻撃行動です。自分の身体を傷つけたり、自分の部屋を荒らしたり、自分の大切な持ち物を衝動的に破壊したり、その攻撃衝動を抑制できない状態です。あるいは、不合理に自分を責めて、自分の過去の行動が自分に悪い結果をもたらすというような異様な自責感情が述べられていたこともあります。あるいは自分に対する絶望もみられたことがあります。激しい攻撃的感情に基づく行為が、自分に向かったときに自死が起こる危険性が高いことは間違いないようです。

この点、さらなる説明が必要だと思います。生物は、死にたくない、死なないようにしようという本能があるわけで、自分に対して命がなくなるかも知らないような攻撃をするということはあり得ないのではないかということです。
しかし、自死直前の人たちの言動を調査すると、不合理な自責の念の言葉があることが多くの例で確認できます。まさに自棄的な発言です。それから、理由もなく、「自分は死ななければならない」という信念のような固い気持ちに支配されていたことを、多くの未遂経験者は語ってくれました。

夢遊病やトランス状態になってしまうと死ぬことに対しての恐怖を感じにくくなるようです。ましてや自分が危険な行為をしているという自覚がない場合は、死への抵抗が起きるきっかけもありません。「自分は死ななければならない。」という信念のような気持になっているときは、うまく言えませんが、「生物的に命を失う。」という意味とは別の意味で死について言っているように話を聞きました。でも結果としては、命を落とすことになることは間違いありません。

「死ぬ」、「死ななければならない」、「死ぬことは解決することという明るい気持ち」という「アイデア」や「イメージ」が頭のどこかに強固に張り付いていて、それまでに様々な事情で緊張感が持続していて、その結果考える精神的体力が失われてしまい、自分に対する攻撃衝動が抑制できない状態になった場合、自死が起きてしまうケースが多いのかもしれません。

3 自己コントロール不全と精神的疲労

1の薬物影響による夢遊病タイプと、2の精神疲労による衝動タイプの共通項として、「人間は自分の行動を意思によってコントロールできるとは限らない」という事実です。あるいは、何らかのアイデアやイメージが頭に張り付いているときには、意思にかかわりなく行動してしまうことがあるということかもしれません。しかも死という行動にまっしぐらに行動してしまい、他のことを考えられない状態になっているわけです。
一見死という結果を目的とした行為のように見えても、実際はその行為と結果を認識した行為とは限らないということも少なくない割合でそういう事実があると思います。
だから薬物がない事案でも、自死があったからと言って、その人が家族のことを思いやっていなかったというわけではないことも共通です。ほかのことを考える力がなくなってしまっていて、結果として自死の危険のある行為をやめられなくなったということのようです。

また、自己抑制をする場合、それは本能ではなく理性の力を必要とし、その理性の力は簡単に失われてしまうというメカニズムも報告しておきたいと思います。

うつ病患者から話を聞くと、我々が行動するときは、自覚をしていないのですが、いろいろと思考をして実行をしていることがわかります。
例えば、食事をするということ一つとっても、例えば牛丼を食べるときも無意識に食べているように思えて、実は、どんぶりの重さや温度を計算して持ち方や力の入れ加減を工夫して、中身がこぼれないように工夫して、どんぶり飯を箸を器用に使って食べているようです。ところが、重篤なうつ病になると、思考を働かす精神的体力がなくなり、どうしてよいかわからなくなったり、食事をすることをあきらめたりすることもあるようです。食欲があれば、考えないで食べるのでしょうけれど、食欲もないので、無理に考えて食べることをしないということみたいです。

例えばエアコンのリモコンが目の前にあっても、椅子から立ち上がって、2歩も歩いて、リモコンに手を伸ばして取るということが考えられなくなるようです。まったく意味のないことを考え出してしまうこともあるようです。つい、家族に目の前にあるリモコンを取るようにお願いして、怒られるなんてことがよくあるそうです。

このような状態が慢性化する場合は、通常自死をするという気力も精神的体力もありませんから自死の危険は減っているはずです。しかし、精神状態には波があるために、幾分活動ができるときもあるようです。また服薬によって精神状態が上向いて活動が可能になるときもあるようです。これらの場合も衝動的行動ならばできます。しかし、その行為の結果どうなるかということについて考えて、自分の衝動を抑制しようという理性を働かせるということは、精神的体力がついていかない場合があるわけです。この場合が最も危険な状態ということになると思います。

追い詰められた結果で自死を意識的に行うことを余儀なくされているというよりも、「追い詰められた結果で死の危険のある行為を抑制できなくなった」という表現が適切な事案が実は多くあると私は確信しています。

4 自死予防の対策 何を予防するべきか

このような分析から言えることは、これから自死をする人は、いかにももうすぐ自分で死ぬ方法を実行しますよという雰囲気があるわけではないということです。それまで普段と変わりなく会話をしていても、そのあとの予定がある場合であっても、何らかの刺激によって引き金を引かれて、死の危険のある行為が抑制できなくなって、実行に踏み切る可能性があるからです。
そうすると、リスクを示すものとして、自己抑制が効かなくなる事情、自己抑制が効かなくなっている行動が、予防手段として重要視されなければならないことになると思うのです。

精神的体力が失われる事情としては
薬物、アルコールの過量接種があります。個人では薬物やアルコールもやめられなくなり、オートマチックで摂取しますので、できるだけ家族と一緒に住むこと、心配してくれる他人と同居することが望ましいということになります。

対人関係の不具合が継続していることが精神的体力を奪う事情です。
厄介なことに、人間は、職場、家族、学校、地域、ボランティア、サークル等様々な対人関係で、自分が尊重されて過ごしたいという本能的欲求を持っているようです。できれば、家族などコアな群れを意識的に大切にして、他の群れで不具合があっても家に帰れば安心できる状態となっていることが自死予防の観点からは切実に必要なことだと思います。

その上で、不具合のある人間関係があることを受け入れるということです。そういう改善不能な人間関係に期待をしないということ。過剰な期待は絶望を深くしてしまいます。まあ、これをどうするかが対人関係学のテーマなので、これからも考え続けていきます。

人間は他の霊長類と同じように、安心をすることを意図的に行わなければならないと考えています。

睡眠不足も精神的体力を奪う事情です。催眠剤による睡眠は、自然睡眠よりも効果が低いという指摘もありますので、日光に当たるとか適度に運動するとか健康的な睡眠を追及することは大切なことだと思います。

これらの精神的体力の低下を防止するとともに、自死の危険なサインに気づくことも予防効果が上がると思います。具体的には

・自分の体に衝動的に傷をつける行為。
・自分の持ち物、テリトリーに対する衝動的攻撃
・日常生活から逸脱したような強い感情表現
・泥酔するまでアルコールを摂取すること
・用法容量を逸脱した精神薬物の服用

何も考えないでただ行動しているような夢遊病的な行動、他者の制止を聞き入れない状態などは大変危険な状態だと思います。
何が何でも身を挺して、意識を回復させて、話を聞くことが最低限出来ることかもしれません。

自死というのは、個性や健康状態、タイミングというものが左右するもので、人間ならばこういう時に自死をするという決まった思考メカニズムがあるわけではないということがリアルな考えだと思います。いじめがなければ、パワハラがなければ、家族問題がなければ、自死が起きないということは全くの間違いであることだけは言えることだと思います。

孤立をしないこと。これが人間にとって一番大切なことかもしれません。


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【完全ネタバレ御免】相棒(令和4年2月23日放映)の自死(自殺)の描き方の大いに評価するポイントとリアリティの問題について 高橋和也を絶賛する [自死(自殺)・不明死、葛藤]

これからテレビ朝日系の相棒season20 第16話「ある晴れた日の殺人」(令和4年2月23日放映分)についての論評を行います。肝心の謎解きの部分がバレバレになるので、ご注意願います。


いきなりネタバレから入ります。

水谷豊演じる刑事が、自死をしたサラリーマンのことを評して、概要「彼は死にたかったのではないと思う。自分の人間関係の中で円満に生活していたいと思っていたと思います。捜査をした結果そういうことを感じました。」と述べています。
これはとても、大事な視点です。自死をする方は、死にたかったのではなく、生きたかったから死ぬしかなかった。ということは真実だと思います。ただ、単に「生きたかった」というとよくわかりません。「生きたかった」というよりも、「対人関係の中で尊重されて生きたかった。」と言わないとわからないと思います。テレビ番組でそこまで行き届いた説明がされていたことに感心しました。

文学的にはこういう話なのですが、演出上の問題としては、この話を死者であるサラリーマンが聞いているという設定があり、その話を聞いて表情を変化させるのです。その変化は見所で、演じた高橋和也はすごい俳優だと思いました。この人は男闘呼組の時から寅さん映画が好きで、話せるやつだなと注目していたのですが、俳優として大成しつつあるように感じました。よく勉強しているのだと思いました。

この部分があれば、これはテレビドラマとして、評価してよいと思います。
以下に私が述べるリアリティを追及してしまうと、説明が難しくなり、時間が足りなくなり、そもそも娯楽作品としては成り立たず、そもそも電波に乗らなかったと思うので、目をつぶってよいのですが、この記事は、ある意味テレビ番組をよいことに、自死について説明がしたいということで説明しているとご理解ください。


リアリティを欠くと思われたのは、自死者が、自分で自分を「殺した」と繰り返し述べるところです。用語を問題としているのではなく、自死についての動機としてのリアリティの問題です。

もう少し詳しく言うと、高橋和也演じるサラリーマンは、(結局)自分に対して「出世争いをするために、同僚の足を引っ張ろうとしたり、他人の失敗を許せなかったり、人間として許せない。そのよこしまなことを考えているときに表情の醜さを嫌悪する。生きている価値のない人間であり、殺しても罪悪感なんてない。」ということを何回か繰り返して述べます。視聴者は、高橋和也演じるサラリーマンが被害者である他人を殺したと錯覚していますから、殺人の動機として受け止めているわけです。しかし殺人の動機としても、自分に損害を被らせることに対する反発ではなく、一般的道徳というか、正義感の観点から殺害を行うということもリアリティが希薄だと感じて違和感がありました。

結局、他者ではなく自分に対する否定評価だったわけですが、それにしてもそのような動機で自死を行うということもやはりリアリティが感じられません。
生物の原理に反して自分で自分の命を絶とうとしている人が、道徳規範や正義感に照らして、自分を否定評価するということは、ずいぶん余裕がありすぎる心理状態だと思われるのです。

自死をした人の事情の調査結果や、自死をしようとして未遂で終わった人たちの話を聞いても、そのような冷静な思考が働いていたということはこれまでありませんでした。自死未遂をした方々の話を聞くと、半分くらいは、自分が自死行為をしたという記憶すらないのです。

記憶がない自死行為の典型は、向精神薬やアルコールの影響で、自分の行動を自分で制御できない状態になっているという場合です。おそらく、ただ眠りたいという気持ちだけをもって、眠れない間中、睡眠薬をぼりぼり無意識に食べているという感じでの過剰服薬です。後は、気が付かないで、屋上など高いところに上って行っていたというケースです。向精神薬やアルコールの影響があったとは思いますが、一種のトランス状態にあったようです。命のあるなしをわけたのは、その行為に気が付いて無理やり止めた人がいたかいないかということでした。

自分から命を絶とうとして数人で死地に赴いていたが、憎んでいた人の顔がちらついて、「自分が死ぬことで、こいつを喜ばしてなるものか」という気持ちが生まれ、一人引き返した人がいました。同行した人たちはみな亡くなったようです。この人の自死の動機も、なんとなくわかるような気もする事情もあったのですが、結局は動機というまとまった因果関係があるものではなく、「自分は死ななければならない。」という理屈を超えた信念のようなものに支配されていたようです。職場から抜け出して、別のビルの屋上から飛び降りた方の場合も、直前の行動は、パソコンの画面には向かっていたけれど何もしていない状態、インスタントコーヒーを入れようと粉をコップに入れたけれど、お湯を入れていない状態等、意識があったのかさえ疑問となる事情がありました。それでも確実に死ぬ方法を選び実行をしているのです。

冷めた目で、制裁でも自己否定でもよいのですが、「自分を殺そうとして自死をする」というケースは、実際は存在しないか、あったとしても非常にまれなケースではないかと思われます。自分が苦しんでいる理由が、自分の行動や考え方が自分で嫌だ、人間としておかしいというようなところにあるということに気が付いているならば、おそらく自死には至らないということがリアルだと思います。実際はどうして苦しいかわからないことが多いですし、つじつまが合わないことで苦しんでいることも多いですし、もっと多いのは自分が苦しんでいるということに気が付かない人たちが自死する場合です。「自分が実は苦しんでいるのだ」ということを、自分で分かってあげれば自死をしなくても済んだことが多いように感じられます。

この番組の最後の高橋和也の表情の変化は、自分が苦しんでいること、自分が尊重されたいのに尊重されていなかったことに苦しんでいることを理解したという感情の変化を表現した、なんとも言えない素晴らしい演技だったと思いました。

だから、リアリティを出すためには、自分が出世のために同僚の足を引っ張っていることを悩んでいたり、部下に配慮が足りず、逆に部下から貶められようにしているところに苦しんでいたり、妻との関係で葛藤を高めていたりするシーンが描かれて入ることが必要だったのだと思います。自分が解決方法のない苦しみに追い込まれている様子が描かれればリアリティが得られたのだと思いますが、それは一時間番組のエンターテイメントでは無理でしょう。何かを割愛することはやむを得ないと思います。

「自分を殺す」という表現が何度も使われたのは、殺人事件として展開する演出上やむを得ないと思いますが、リアリティは無くなるわけです。この言葉から罪悪感云々というセリフも出てきたのでしょうけれど、実際に自死している人たちは、自分を殺すという意識はないと思いますから、そもそも罪悪感が論点にはならないと思います。自死をしそうな人に自死の罪悪感を持たせて自死予防をしようと考える人たちがいますが(だから自死ではなく自殺というべきだというようです。)、そんな余裕のある人は自死しませんから、あまり的を射た議論ではないと思います。客観的には自分を殺しているのかもしれませんが、自死者の主観では、自分を殺すという意識はないはずです。

もう一つ、自己肯定感が低くなるとか、自己否定とかいう言葉が、最後のセリフの前に二人の刑事の間でもっともらしく語られるのですが、私は、全く頭に入ってきませんでした。ない方がよかったなと思いました。人が一人死んでいるのに、「何余裕ぶっこいて話してるんだ。」とさえ思いながら音を聞いていました。

おそらく自分を「殺す」ことから、本来「罪悪感」を抱かなければいけないという論理の中で、自分は死んでもよい人間だという自己評価の全否定があったので、罪悪感を抱かなかったという流れの中の話なのでしょう。そんな自分を客観的に評価している自死はないと思うので、意味のないセリフだと感じました。言葉に引きずられすぎた思考ということになるでしょう。

この流れも、自死予防の中でよくみられる間違いです。自死する人は、自分を大切にしない、自分を大切にできなくなっているから、「殺す」ことができるのだという考えの元、自死予防は、「自分を大事にしよう。」、「自分の命を守ろう。」というキャンペーンになるわけです。
自死は、「自分を殺そう」という主観や動機があって行うわけではないという視点が欠落しているとそういうメリットのないキャンペーンにつながるわけです。

どちらかというと、自死する人は自分を大切にしていますし、自尊心も強いように思われます。もともと「自分なんて幸せになれるはずがない。」と考えているならば、それほど強い絶望を感じたりしないのかもしれません。自分は、自分を取り巻く人間関係の中で大切にされたいという期待があるからこそ、そうではない現実に落胆し絶望するのだと思いますし、それでも何とか解決策を求めて不安感、焦燥感を抱き、それがかなえられないために絶望が深まるのではないでしょうか。冒頭申し上げましたが、自死は死にたいのではないのです。「自分の関わる人間関係の中で、尊重されて、協調して生活したい」という望みがかなえられないところに苦しむのです。その苦しみ切った先に、何かをしたいという長期的な願望はないと思います。ただ、その苦しみから解放されたいという控えめな望みしかないわけです。その手段として自死を思いとどまることができないほど苦しみ切っている、冷静な思考、自分に対する評価ができないから自死を思いとどまることができなくなっているだけだということだと思うのです。

だから、自分を「殺す」という表現も的外れですし、人を殺すから罪悪感があるかどうかもそんな余裕のある話ではありませんし、ましてや自分を殺したから許さないという表現も的外れだと思います。

まあ、刑事二人が余裕をもって話をしているのも演出で、自死という出来事の持つ重苦しさを緩和させる効果を期待したのだと思います。「許さない」というセリフも、亡くなったサラリーマンに対して、「あなたはかけがえのない人であり、死んでもよい人では決してない。」という意味が込められているのだろうと考えようと思います。

そういう前向きな解釈をさせたのも、高橋和也の表情の変化という演技だったのだということを最後に強調したいと思います。




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それでも逃げろと私が言う理由。いじめの被害者の方が転校することは確かにおかしい。しかし、だからと言って逃げないということは、極めて危険なこと。命を守るのは理屈ではないということ。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

テレビドラマで、いじめの体験をしたという役の人が
いじめられていた時に、誰も「逃げてよいのだ」と言ってくれなかった
というセリフを言ったところ、主人公が
「いじめの加害者が学校に残って被害者が転校するなんておかしいだろう。どうして被害者が逃げなければならないのだろう。」という趣旨の発言をしました。

インターネットの商業記事でこの発言が肯定されて拡散されているのですが、大変心配になってしまいました。

どんな心配かというと
転校して新しい人間関係を形成して円満な人生が送れる可能性があるのに、
正義に固執して、いじめられている環境に子どもをとどめておいて
子どもが逃げることができなくなり、
さらに心理的に追い込まれるということが起きるのではないか
逃げたいのに、逃げられなくなってしまうことによって
自死が起きる事態になるのではないか。
という心配です。

確かに被害者が、いじめの被害を受けた挙句に転校という
さらなる不利益を受けることは不合理です。
いじめ被害は転校だけではなく、
不登校、引きこもりという損害も生まれますし
学校に出てきても「またあの時のようにいじめられるのではないか」
というようなトラウマの損害も見られます。
学業の遅れということもよく見られる損害です。

これらの損害について、いじめ加害者が弁償するということは
ほとんどないと思います。
いじめを受ける被害は、実際は莫大な損害であり、
生まれてきた喜びが失われるほどの被害を受けることもあります。
最悪の事態に自死があるわけです。
だから、「加害者が転校して、被害者が学校にとどまるべきだ」
という考えは理屈ではその通りだと思います。

しかし、いじめ及びいじめ被害という事象はそう単純ではありません。
1)何がいじめか、どちらが悪いのかということを、速やかに学校等が認定するということは、現実には期待できません。
2)仮に加害者が転校すれば、被害者は大手を振って元の学校で快適に暮らせるのでしょうか。もしそんなことを考えているのであれば、いじめやいじめ被害について何もわかっていないといわなければなりません。
 いじめで被害者がどうして傷つくのか、心理的に重い負担を受けるのかというところですが、いじめられて痛いとか苦しいとかということは想像しやすいのですが、それだけではありません。同級生などの前でいじめを受けることによって、自分が友達の一員としての立場がなくなる、顔をつぶされる、配慮をしなくてもよい人間だと思われるなどの対人関係的危険を感じます。この危険から脱したいと思うのですが、その追い込まれた心理として、自分の仲の良かったはずの人間が助けてくれるはずだという援助希求が生まれ、追い込まれれば追い込まれるほどこの援助希求が大きくなっていきます。そういう友達が何らかの援助をしていることがほぼ必ずあるのですが、追い詰められた本人の援助希求は肥大化して、「今この危険を除去してほしい」という結論を求めてしまうので、それが援助だとは感じられなくなっています。そして孤立無援、危険除去の不可能感を抱いて心理的に追い込まれていくわけです。
そうすると、少数の加害者が転校させられたとしても、自分に対するいじめを黙認していたと被害者が認識している圧倒的多数の「傍観者」がすべて在校し続けているわけです。そんな人間関係にとどまって、被害者は癒されるのでしょうか。そんなめでたしめでたしにはならないような気がします。加害者が転校すれば解決だというのは、いじめの現実を知らない人の理屈に過ぎないと思います。ただし、例外的に、職業的加害者がいて、その被害者だけでなく、圧倒的多数の子どもたちが被害にあっているような場合等で、多数者が傍観者と言えないような場面があるとすれば、その時に加害者の排除によって、被害者の平穏が実現するという可能性は否定できないでしょう。
 さらに、現実に起きているいじめでは、加害者と被害者がはっきりしていると、圧倒的多数の傍観者は感じていません。実際には被害者が一方的にいじめられているとしても、傍観者たちは、傍観をしている自分を正当化しようとします。ここでよく起きる傍観者の心理は、「被害者にも落ち度がある。加害者の感情も理解できる。」というものです。現実の学校や職場のいじめで、傍観者たちはこういう言い方をするのです。そしてだから、いじめではなかったというわけです。
そういう意識のままで、加害者が転校させられてしまうと、傍観者たちは加害者が転校した事態を受け入れるでしょうか。「どうして一方的に、あの人たちが加害者だと決めつけられて、学校からいられなくなったのだ。おかしい。その原因を作ったのはあいつだ。」と被害者に対して敵対的感情が起きる原因がここにあります。そんなところに被害者がとどまって、健やかに学校生活を送ることができるでしょうか。
 確かにこの現実は不合理です。不合理な現実は変えなければなりません。それはそうだと思います。しかし、これが現実なのです。不合理が是正できるまで、この現実の中で被害者を放置して、死の危険にさらし続けることはできないと私は思います。
 一体誰が、不合理だから、理屈に合わないから転校を拒否するというのでしょうか。
 被害者が精神的に追い込まれてしまっているならば、転校を拒否したとしても転校をさせるべきだと思います。もっとも精神的に追いこまれて危険な場合は、転校をして今の危険から逃れることができるというアイデアを拒否する精神力は残されていないことが多いと思います。
 親ならどうでしょうか。自分の子が被害を受けているのに、さらに転校しなければならないとなると怒りを覚えるのはよくわかります。転校に伴う諸手続きの時間や費用、転校後の例えば通学等の時間や費用、さらなる心配など、様々な負担が生じます。何よりも、自分の子どもの将来の制度設計が成り立たなくなってしまうことは大きな打撃です。それはよくわかりますが、考えなければないことは、子どもの気持ち、現在の学校にとどまるとした場合に起きるわが子の精神的負担なのだと思います。わが子の心理的圧迫を継続しないということを第一の行動原理としなければ、子どもはさらに追い込まれていくことになるでしょう。特に子どもが逃げたいという意思表示をしているときに、親の正義感で子どもの願いを否定するということは、子どもに絶望感を与えてしまう大きな危険があると思います。
 しかし、子どもの気持ちなんてかかわりなく、自分の正義感を振りかざして、子どもやその親御さんに合理的な行動を強要する人たちというのは必ずいます。善意なのですが、考えが足りないために、子どもを追い込んでしまう人たちです。親は、子どもの命を最優先して、外野に耳を貸さないようにする必要があると思います。
 いじめを受けた段階で、被害はすでに生じています。これを無かったことにしようとすると被害が拡大していく危険があるわけです。すでに生じている被害をいかに拡大させないで、最小限にとどめるのかという発想こそが必要だということになります。意地や正義を貫いて被害を無かったことにしようとして、子どもがさらなる被害を受けては悔やんでも悔やみきれません。

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自死をした人に対する差別偏見、あるい誤解、(自死する人は特別な人だ)を無くすことが、自死予防の最大の対策ではないかと思う。みんな、幸せがあり苦しみがあり、当たり前の人生を送っている側面をもっているということ。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

自死者に対する誤解はいろいろあります。これまで私が主張していた誤解は、「自死者は精神的に弱いから、逃げるために自死したのだ。」という誤りです。
むしろ精神的に強すぎて、責任感が強すぎ、頑張りすぎるから、逃げ場のないところまで追い込まれたということを繰り返し述べてきました。

それは、私が、何十人という自死事件を、後追い的に調査、分析を行う仕事をして実感した事柄です。ですから、過労死の啓発活動をするときに、過労死しやすい人ということで、責任感が強すぎたり、頑張りすぎることは、仕事にとっては尊いことかもしれないけれど、家族との関係では別の観点も必要かもしれないと問いかけをしているわけです。遺族への慰めの理屈ではなく、実務的に自死を予防するための理論なのです。

最近、自死に対するまた違う誤解があることに気が付きました。

自死者の人生は、全く見るところもなく、苦しみだけのみじめなものだという誤解です。自分では、そういう誤解があることにすら気が付きませんでした。自分の周囲の自死者をみても、後追い的に自死の調査をしても、決してそんなことはないため、誤解をしている人がいるということに気が付かなかったわけです。

確かに、自死リスクが高まる要因があって、人間関係で追い込まれたり、精神疾患などで苦しまれていたり、そのことを知ること自体が第三者でも辛くて仕方がない時期が亡くなった方にあったことは間違いありません。

しかし、もちろん、そうではない時期があるのです。

自死者の多くは、家族を愛し、家族から愛されて生活をしています。友達がいて、何かと力になろうとしている人がいて、心配してくれる人がいて、多くの人間関係が円満に形成されていることが多いです。生きてきた喜びが感じられるエピソードや、充実した時間を送っていることがわかる様子を知ることができます。また、些細なことに悩んだり、克服したりと生き生きとした時間を生きています。

おそらくこれを読んでいる方は、「それはそうだろう。そんなことは当たり前だろう。」と思ってくださっていると思います。言葉にすれば、誰しもわかることです。

しかし、おそらく無意識の誤解、誤解をしていることに気が付かない誤解があるようです。それは、自死をするくらいの人だから、すべてにおいて逃げ道がない状態だったのだろうと考える人たちが実際は多いようです。
例えば、「会社でパワハラがあったということは聞いているけれど、家庭で十分フォローすればこういうことにならなかったはずだ。同僚や友達も庇ってくれなかったから逃げ道がなくなったのだ。誰も会社を辞めればよいと言ってくれなかったのではないか。」
というような思考方法です。

これらは、私の担当した事案に照らすと事実に反する推測ということになります。会社や学校での攻撃も、絶対的孤立が生まれるほど激しい事案も確かにありますが、多くは特定の人間関係に不具合が生じている事案でした。圧倒的多数は、家庭は円満で、家族仲の良い事案です。家族から追い込まれるという事案もありますが、やはり少数です。
以前も言いましたが、家族仲の良いことは、自死予防に必ずつながるというわけではありません。家族仲が良く、家族に心配をかけたくないからこそ、辛い気持ちを家族に隠すし、家族の前では無駄に明るくふるまって、ますますエネルギーを消耗するということが圧倒的多数でした。仲の良い家族は、最終的には危険因子にもなるということが真実です。このことは見過ごされています。

このため、自死者の身内ですら、自死者の家族に対しての不信感を抱くことがあります。実際私が担当した事件でも、自死者の親が、自死者の配偶者に対して、配偶者が自死の原因だという怒りを持ち続けて裁判になったケースもありました。裁判でも、弁護士が付いていながら、よく根拠もなく、こうも人を、子どもが愛した人を攻撃できるものかなあと不思議でした。自死者の親が、自分の子どもに対してというか、子どもの環境に対して誤解ないし偏見があったと考えると理解ができることかもしれません。

自死の調査をしていると、自死リスクが高まり、苦しんでいるときでさえ、ほっとするようなエピソードがあります。
壮絶な苦しみの中、自死するまで追い込まれて命が絶たれてしまったことは間違いないのでしょうけれども、当たり前に、普通に生きていたという側面も確かにあるし、幸せだった時間も確かにあります。

自死に対する偏見、誤解は、自死者が、なにかとてつもない四面楚歌のような絶対的孤立状態にあり、ただ一人で話す相手もなく生きてきたような、とても関わりたくないような状態だったとというものです。これでは、自死者がアンタッチャブルの忌み嫌うべき存在のように扱われてしまう要因になっているように感じてしまいます。
自死者も、他の人間も同じように当たり前の人生も送っており、自死をしない人と地続きでつながっている普通の人間だということが私の結論です。「当たり前のことを言うな」とおしかりになられるかもしれませんが、こういうことは何度でも言葉にして言うべきだと思っています。自死者という特別のカテゴリーの人間がいるわけではない。自死遺族という特別のカテゴリーがあるわけではない。類型的な自死の原因とか遺族の考え方の傾向があるわけではないと思います。私たちすべてに自死のリスクがあり、いつ高まるかわからないということが真実であり、私たちすべてに自死予防の知識が必要だと思っています。自死する人や、自死者の家族が、何か特別の人たちという意識で観られること、主張されることは、私たちやその大切な人たちの自死予防を妨げることだと私は強く心配しています。



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私が「寄り添う」という言葉が嫌いな理由 そこに相手への尊敬が感じられないから 支援者(第三者の)の寄り添いが本人をダメにするパターン。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]


寄り添いという言葉が大はやりですね。誰かから「それは寄り添っていない。」なんて言われると、反論することができなくなってしまいます。ある意味、呪文のようなものだと感じることが多くなってきました。思考停止の呪文です。

寄り添いという言葉は、
「傷ついた感情を肯定し、理解した上で受容し、いたわる」
という意味合いで使われているようです。抽象的には、それは大切なことなのでしょう。しかし、実際には、具体的にはどうでしょうか。

傷ついた人、葛藤が強い人は、面倒くさいから、
言われたことを
『理解できます。』
『もっともですね。』
『当然のお気持ちです。』
『あなたは悪くありません。』
と答えて、刺激しないようにすることだとでも考えているような発言に感じられる場合が時々あるのは、私がひねくれているからでしょうか。

家族とか友人とか、仲間ならそれでもよいのだと思います。その人が仲間ならば、一番ありがたいことは、一緒にいてほしい時に一緒にいてくれて、1人にしてほしい時に1人にしてくれるということだと思うんです。そういう仲間というのは、自分の寄り添いの結果で本人に何か悪いことが起きても、一緒に何とかするという覚悟がある人間だと思うんです。

ところが、弁護士とか行政とかといった第三者の支援者、つまり、その人とスポット的にしか関わらない人が、その人の感情を無条件に肯定して、やるべきことをしないということになると、その人に回復しがたい損害を与えたり、窮地に追いやることが生じてしまいます。その人はスポット的な関りですから、本人に損害や窮地が生じても、責任をとることがありません。
支援者として第三者がかかわるならば、本人が多少傷つく結果になっても、感情を害することになっても、言うべきことを言わなければなりません。それができないならばかかわりをやめるべきです。
もちろん言い方という問題はあるわけです。

仮に第三者としてかかわらなければならない支援者が、「あなたは悪くありません。」を連発したらどうなるでしょう。「自分は悪くない。悪いのはあの人だ。あの人を罰するべきだ。死んでほしい。」と、いささか極端ですが、こういう方向に流れていくとは想像できないでしょうか。自分の行動を修正する契機を失い、その結果、自分のいたコミュニティーに復帰できなくなってしまいかねません。
孤立が待ち構えているかもしれません。また、本人に何らかの要因がある場合には同じ過ちが繰り返される可能性もあるわけです。

例えば、単純な話では、期限が区切られている行動についても、今それどころではないと寄り添っていつまでも放置していて、本当は本人が得られるはずの利益が得られなくなるということもありうるわけです。これはわかりやすいのでめったに間違いは起こさないでしょう。

しかし、少し複雑な話になると、そういう単純な構造も見えなくなるようです。

私の職業柄のためなのか、よくあるのが、傷ついている人に、怒りの感情をたきつける形の支援です。我慢(自制)することが悪であるかのような行動提起をする支援の形があります。

何か衝撃的な出来事があって、生きる気力を失っているとき、そのまま生きる気力が失われたまま何もできなくなってしまうことがあります。そういう時に怒りという感情を持つことによって、感情がリセットされたように、途端に活動的になられるという場面は何度か見ていました。
怒りということも生きるためには必要な感情だと、私は思っています。

しかし、その人の中で怒りが固定化してしまったり、怒りの歯止めが利かなくなってしまうことがあるようです。そういう場合、もとからあった苦しみ、ダメージ、自分自身に対する不安感などは、むしろ残存してしまうようにも思われます。怒りが自分に向いてしまった場合は自死リスクも高まってしまいます。
怒りは自分も傷つけるようです。また、他者とは共有されない怒りを表出し続けてしまうと、他者は本人から離れていくことになります。第三者からは、それがはっきりわかるのですが、本人はなかなかそれに気が付きません。理不尽なことを受けて怒っていたら、仲間だと思っていた人たちが自分から去っていく。二重の理不尽を感じて、さらに怒りが大きくなり、さらに孤立が深まる。怒りのスパイラルとでもいうような状態になるようです。怒りは、対象を亡き者にしない限り収まりにくいという性質もあります。

自分が支援者だというならば、過剰な怒りの表出で孤立する当事者に対して、怒りの程度をアドバイスする必要があると私は思います。本人のためです。そのためには、本人の怒りの原因を本当に理解して、理解を示し、本人が理解されているなと感じられなければ反発されるだけかもしれません。

ところが、支援者は、「あなたが悪くない。怒りは当然だ。」と寄り添うわけです。
あたかも
「苦しんでいる人たち、傷ついているという人たちの心情は
必ず極端な怒り、制裁感情を覚えるものであって、肯定しなければならない」
という不文律があるようなグループを目にするときに強く感じます。

傷ついている人が傷ついているからこそ、冷静な判断ができず、単純な思考で行動を起こしたり、発言したりするわけです。第三者ならば、その言動の派生的効果を考えて、その人がさらに傷つく事態にならないために、「自分はそうは思わない。」とか、「そうではなく、こう考える考え方もあるはずだ。」ということを提起する必要があり、義務があると私は思います。

弁護士として実務的に言えば、駄々洩れのように寄り添っていたら裁判負けるんですよ。

そういう形で寄り添う人たちは、自分の果たすべき役割を意識しないで、なぜ「寄り添い」を優先するのでしょうか。

私は端的に言って、寄り添いが支援者の自己満足の場合があるのではないかと思っています。支援者にとって当事者は、利害関係のない他人なわけです。自分の「駄々洩れ寄り添い」によって、当事者が不利益を受ける可能性があるということに、あまり関心がないのだろうと思います。特に、自分とはかかわりのない場面での、当事者の生活において不利益が生じることはあまり想定していないのではないでしょうか。
例えば、当事者が支援者と別れて自宅に帰ったときにどういう風に近所から扱われるかとか、当面は良いけれど数年後、10年後に例えば今の子どもが成長する段階になったらどういう問題が起きるかとか、そういう自分とは関わらない相手の人生についての想定をしていないのではないかという心配があります。
そういう目に見えないところでの想定をしないから、今の目の前の寄り添いがすべてで、当事者が満足すれば、自分も満足できるわけです。

支援するつもりもないのに、支援をする者のように近づき、無責任に当事者の怒りをあおる典型はマスコミだと思います。

自己満足というと言葉が悪いとすれば、自分が苦しむことの回避でしょうね。当事者の感情を波立たせる話題や意見を避けることは、当事者の絶望を覗き見なくて済むことになります。第三者が本人の苦しみをどの程度理解できるようになるかについては、確かに難しいことがあるかもしれません。しかし、「あなたは悪くない。」と一言で片づけてしまえば、本当に楽な話なのです。これでは法律相談をしていてもストレスを感じることはあり得ないでしょうね。その人が、真摯に自分と仲間の人生の利益のために、本当はどうすればよかったのか、これからどうすればよいのか、そこに望みがあるかということを一緒に考えることをしないで済むという利点があるわけです。当事者の絶望に共鳴しないで済むという利点です。

逆に当事者に共鳴しすぎてしまって、後先考えるべき立場である支援者が怒りの当事者になってしまい、本人が不利益になるかどうかなんて考えないで感情のおもむくままに、例えば訴訟を継続するなんてことになるのは論外です。一部の支援者は、どうやら「共鳴する怒りは強ければ強いほど寄り添うことになるのだ。」とでも考えているような支援をする人たちもいます。これでは、明らかに自分の理屈上の怒りを、本人に押し付けて本人の怒りを先導ないし扇動していることになってしまいます。

本人は、怒りによって、悲しみや落ち込みが感じにくくなったという体験をしていますから、どうしても怒りの方向に同調しやすくなっています。時として、怒りや支援は、麻薬のように作用することがあるのは理由があることです。

何が本人のためになるのかという問題は難しい問題です。本人が決めることなのですが、本人の葛藤が強く、冷静に考えることができないからこそ支援が入るわけです。それでは、第三者の支援者は、どうすればよいのでしょうか。

第三者の支援者が行うことは、当事者に対して選択肢を提示するということだと思います。
裁判の場合で言いますと、当事者が判決とは関係のない立証活動をすることを希望している場合(自分のこだわりを裁判官に聞いてもらいたいという場合)、それによる想定される不利益をきちんと提示して、それでも望まない判決になっても良いという意思が真意として確認されれば、その活動を行うということはあり得ることです。しかし、「それをやることによって、あなたが合理的考えをして行動をしない人だと裁判官に印象付けてしまいますよ」と言わないで寄り添ってはダメだということなのです。

このパターンでよくあるのは、妻が子を連れて別居してしまったといういわゆる連れ去り事件で、「妻を怒らせてしまうと、子どもに会えなくなる。」ということをはっきり言わない弁護士でしょうね。本当のことを言っているのに、それで妻が怒ったら子どもに会えなくなることは理不尽です。しかし、「今の裁判手続きは、理不尽であり、自ら子どもに会えなくしていることになる」ということをはっきり伝える必要があるということです。
決定するのはあくまでも本人です。支援者は選択肢を与えるという役割と、自分ならこう思うというサンプルの提示をするしかないけれど、それをしないで済ませるということはできないはずです。
それをしないで、当事者の感情を駄々洩れのように肯定して追認して、その結果当事者が不利益を被ることは当事者の自己責任だというのでは、人を支援しているわけではないということになるように思われます。

当事者がいかに葛藤が高くても、一人の人格を持った人間ですから、自己決定をする権利があるわけです。しかし、知識が無かったり感情的に高ぶっていたりすると、他の選択肢が思い浮かばないし、どれを選択するかの意思決定が十分な思考をもって行えないという状態なわけです。
きちんと当事者の感情に沿わない選択肢であっても選択肢を提起して、どれを選択するとどのような効果になるかということについて説明を行うということをまずやるべきだということなんです。

そのためには、第三者の支援者の人間観として、
「感情が高ぶった相手も、十分話せばわかってくれるはずだ、十分理解して、後悔しない選択をしてくれるはずだ」
という相手に対する信頼を持たなければならないと思うのです。相手は感情に反することも冷静に考えて結論を出したという尊敬の念を持つのが当たり前だと思うのです。

駄々洩れの寄り添いには、信頼も尊敬も感じられません。どうせ言っても分からないだろうとか、感情が高ぶっている以上は仕方がないというと勝手に考えて支援者が本人抜きに自己完結しているような気がして、とても心配なのです。

私たちは、「イライラ多めの相談者・依頼者とのコミュニケーション術」(遠見書房)という本を今年出版しました。
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この本は、葛藤の高い人に「寄り添う」ための本ではありません。葛藤の高い人も、あるいは病気の人も、自分達と同じ地平にいる同じ人間なのだ、しかし、理由があって特定の行動や思考パターンになっているに過ぎないという考えを基盤として、相手に対する誤解をさけ、支援者側の障壁をなくし、肩を並べて共同作業をするための本です。法律現場でも、大先輩から直々にご感想のお便りをいただきました。しかし、学校現場でも多く読まれているようです。面倒くさい人をどう処理するかということでなく、一緒に歩んでいくことこそが、一番のコミュニケーション術だとご理解されて広まっているのだと勝手に考えているところです。

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【批判】自死はコップに水がたまるようにリスクが高まっていくという例えはやめた方が良い たとえ話を修正してはみる。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]




自死の説明をする場合、誰が考えたのかわかりませんが
けっこう多くの人がするたとえ話があります。

それは、コップのようなものがあって、
何が嫌なことがあると一滴一滴、水みたいに溜まっていき
ある時あふれると自死に至る

という説明方法です。

多くは、
相手に対して普通に話していたとしても
本当は悪意も何も無いとしても
コップの水がこぼれる寸前の場合は
相手はひどく傷つき、それだけで自死をしてしまう危険がある
だから、乱暴な言葉は使わない方が良い
という指導の際の話なのだと思います。

こういう誤解を生むたとえ話はやめた方が良いと思います。

もちろん現実にはそのようなコップや水はなく
例えばそういうことだということもわかります。

しかし、第1に
日常のストレスというものは
コップに注がれる水のように
コップにたまって減ることがない
ということはありません。

実際は、色々な出来事が人間にとっては刺激になり
ストレスになっているのですが
ストレスがあったこと自体を自覚すらしないうちに
睡眠や他人のアドバイス等の働きかけ、
過去の経験との照合(睡眠)などで解消していきます。

そのときはストレスだったものが
視点を変えるとストレスではなくなるということもあり
それは成長・発達によってよりよく見られることでしょう。

英語の勉強をすることがストレスだったけれど
勉強の方法を覚えて楽しみになったとか
暗記に苦労していたけれど、実を結んだために
今では苦労したことが楽しい思い出になったとか

いつも嫌なことばかり言う人で
叱責ばかりされていると思っていたけれど
本当は悪気はなく、色々教えたいから言っていたことを知って
叱責とは感じなくなり、こちらから意見を求めて
むしろ頼れる人間として安心の材料になる
今まで言われていたことがありがたく感じる
とかですね。

本来は、たいていのことは、
地面に水がしみわたるようにしみこんでいくわけです。

狭い容器の中に一方的にたまっていくというのは誤解です。
ろうそくの炎が消えたら命が消えるみたいな現象はありません。

そして色々な方の色々な条件が影響するわけです。

敢えて器の例えを使うとすると
初めから器が無くて地面にしみこむだけの人
水をため込まないではじき返す人
そうかと思うと、器のようなものがあり
どんどん溜め込む人
あるいは器の小さい人
どんどん溜め込むけれど、器は大きい人

またどちらかと言うと
器は生まれたときから同じ大きさというよりは、

理由のあるなしにかかわらず
器が突然できてしまったり、
これまであった器が極端に小さくなってしまったり
ということが起きているようです。

この器のたとえ話の弊害は
以下のように起きています。

弊害1
「すべてのストレスが、自死の原因の一つである
だからストレスを掛けた人間は全て自死の原因である。」

人間が生きていくにあたってストレスは必ずしも有害ではないのに
例えば成長を促すきっかけになったりするのに
すべてをネガティブに評価しなくてはならなくなります。

その人の人生を否定評価の出来事だけが存在した
というようなまとめ方をしなければならなくなります。
しかし、そうでしょうか。
自死した人の人生は、すべてみじめな人生だったのでしょうか。
実際の自死事件を後追い的に見ているとどうもそうは思えないのです。

楽しいこともあったし、生きる喜びを感じていたこともあった
それもまた、真実だと誰も言わないことは
たいそう恐ろしいことだと私は感じます。

弊害2
「器の水がこぼれんばかりにあふれそうになっているときに
通常なら気にしない一言で人が死ぬことがある
言った自分はある人の自死の直接の原因を作った人物だ」

人を非難したり、貶めたり、嘲笑したりしない
ということは尊いことです。そうありたいと思います。

しかし、自死事件を後追い的に見ると
善意のストレッサーという存在が目につきます。

仕事上のミスを指摘して修正をお願いしたり、
攻撃されたと感じた人が反撃をしたり
ちょっとしたからかいがあったり、
なお、単なる事務連絡が引き金になったようなこともありました。

これらの行為が、自死の引き金になったと
評価してよいのでしょうか
私は良いとは思えません。

先ほども言いましたけれど
ある時、突然に容器ができてしまう
そして、多くは既に容器にはあふれんばかりに水が溜まっている。

私は、自死の原因はあくまでも
容器ができたこと、既にあふれんばかりの状態になったこと
に求めるべきだと考えています。

もっともこれは遺族ではない第三者としての意見で
自死予防に重点を置いた考えです。

既にリスクが高まった後で
言葉に気を付けましょうと言ったところで自死は防げません。
リスクを作らないことが一番だと思うからです。

道徳的にはあるいは正しいことを言っているように見えても
自死予防の観点からはむしろ弊害があると思うのです。

それから、語られない恐ろしい前提があります。

今自分が話している人たちは
この先の人生において身の回りに自死者を出さないだろうという
そういう前提です。

もし、自分の同級生や身の回りの者が自死して
その直前に自分が何か言ったり、言わなかったり
あるいは視線を動かしたりというくらいのことで
コップの水があふれれば、自死は自分の責任だという
罪悪感を持ち続けなければならないことになる
ということに全く考慮されていないと
私は思います。

弊害3
これが最も深刻な弊害かもしれませんが
自死は、誰か他人の行為だけが主たる原因である
だから自死をした場合には、自死をさせた犯人を探し出さなければならない
という誤解を招くということです。

コップに水が溜まっていくという几帳面な自死リスクの高まりというものは
私にはイメージが付きません。

ある日突然、容器ができていて
その容器には水が溜まっている
容器ができた原因は
確かに誰かが意図的にストレスを掛けたということもありますが、
病気など、だれの責任でもない場合も多くあります。

また、一度できた容器が極端に狭く小さくなり
その結果水が満杯になるという場合もあります。

絶望を抱いてしまう、通常あり得ないことが重なって起きてしまう
というようなタイミングの悪さということもありました。

それを誰かの責任にしてその人だけを責めると
新たな自死リスクが生まれることになります。

必ず誰か犯人がいるはずだ
という誤解をまぬくということが
最大の弊害かもしれません。






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いじめかどうかの議論よりも子どもの命の心配をするべきではないのか。教育現場において、子どもを心配する「システム?」を作る必要性がある [自死(自殺)・不明死、葛藤]

いじめ防止対策推進法が平成25年に施行されています。
この法律では「いじめ」を幅広くとらえて、
いじめに対しては懲戒を行い、
重大事態(生命被害、心身被害、不登校)が起きたならば
いじめとの因果関係を調査し
教育委員会に報告する等の義務を学校に課しています。

いじめの定義だけここにも記録しておきます。
「児童生徒に対して、当該児童生徒が在籍する学校に在籍している等当該児童生徒との一定の人的関係のある他の児童生徒が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童生徒が心身の苦痛を感じているもの」

様々な問題点については1年前に書いていますので、
よろしければ以下をご覧ください。一部重複します。

いじめの定義を科学的なものにするか、いじめと認定した効果に教育的観点からの働きかけを入れるかしてほしい。いじめの定義は広すぎて改めるべき理由 
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2020-11-26

この法律というか、現在の日本の子どもを守るシステムについては
子どもが「児童生徒からいじめられていた」といいう条件が
必要だということになっているという問題があると言えると思います。

いじめが無ければ、自死があっても、深刻な自傷行為があっても
何年間も学校に来なくても
調査も報告もしない
ということになってしまっています。

もしかしたら、
教職員の逸脱した指導があったかもしれない
登下校中に犯罪などの被害に合っているのかもしれない
それなのに
児童生徒からいじめられた子どもだけが
調査の対象となっているということはそれでよいのでしょうか。

こういう政策を原因として
児童生徒に何らかの被害が生じた場合、
無理やりにでもいじめがあったと主張しなくてはならない
ということになるような気がします。

但し、いじめは簡単に見つかってしまいます。
なぜならばいじめの定義が
子どもどうしの心理的影響を与える行為であって
それで子どもが心理的苦痛を与えられればそれでいじめですから。

未成年者が集団生活をしているのですから
当然、心理的影響を与え合っているわけですし、
未熟さゆえに心理的苦痛を受けていることも
日常茶飯事であるからです。

今大人になっている者たちの中で
学校で嫌な思いをしたことがない
苦しい思いをしたことが無いという人間が果たしているのでしょうか。

子どもに限らず対人関係上の心理的苦痛は
ちょっと加減をしないでやり過ぎてしまったなどの先行行為があり、
それに対して攻撃されたと思って、反撃をして
反撃をされたことによって、心理的苦痛を受ける
ということが日常無数にあるわけです。

この苦痛によって、自分の行動が失敗だったことに気が付き、学習し
行動を修正して人間関係に復帰していくわけです。

成長のために有益な苦痛となることが多くあります。
これも全部いじめになってしまいます。

(但し、一方的な八つ当たりのようないじめも確かにあります。
これは何が何でも大人がやめさせなければなりません。)

そして、反撃した人間が児童生徒であり
反撃された側の子どもが心理的苦痛を抱えていたら
懲戒の対象としなければならない
これがいじめ防止対策推進法の建前なのです。
法律の「加害者」に対するアプローチは懲戒だけです。

もちろん学校は「良識」をもって反論するのです。
いろいろと自己流の理屈をつけていじめには該当しない
と無理なことを言い出すわけです。

このように自己流のいじめ除外理由が横行してしまうと
どれもこれもいじめではなくなってしまい
誰しもいじめだと感じる残虐ないじめだけがいじめになってしまい
気が付いたときには子どもの自死も防ぐことができない
つまり自死があったときだけいじめを認める
ということになってしまいかねません。

いじめの定義の問題が学校関係者においても
十分理解されていないのですから
世の中で理解がなされていないのは当然のことです。

これを読んでいる多くの方々も
いじめの定義の意味の問題点をどの程度の方が
ご理解されているでしょうか。
私は以前たまたま自治体のいじめに関する仕事をしていた時期があり
いじめの定義について資料に目を通す機会があったため
ここでこのお話ができるわけです。

「DV」という言葉で再三お話ししているとおり、
「いじめ」という言葉も独り歩きをしてしまいます。
「いじめ」があったというだけで、
誰しもいじめだと感じる残虐ないじめがあったと
そう感じる方も多いのではないでしょうか。

子どもどうしのたわいもないやりとりも
法律上の「いじめ」に該当してしまうので、
子どもどうしのたわいのないやりとりをしただけなのに
残虐ないじめがあった
残虐ないじめの加害者だという受け止め方をされてしまいます。

なぜかマスコミも、
いじめがあったと認定すると
実体とは別に
残虐ないじめだったかのような報道をするようです。
しかも相手方のコメントも取らず、
第三者が存在している場合も第三者のコメントも取らず
一方の言い分だけを報道してしまいます。

さらにおよそいじめがあれば、
それがたわいのないものである可能性もあるのに
自死や不登校などの重大事態と結び付けようとする報道も
最近よく目にするとおりです。
根拠は、ただ、いじめと認定されたそれだけです。

それもこれも、いじめがなければ
調査活動を行わないという法律に問題があると私は思います。

自死という最悪の事態を考えてみると
ご賛同いただけるのではないかと思うのですが
いじめによる自死
教師の逸脱指導による自死
登下校の犯罪などによる自死
原因不明の心理的圧迫を受けての自死
私は全て防止する必要があって
そのために大人は全力をあげなければならないと思うのです。

さらに自死ではなく不登校だって同じだと思います。
子どもが長期間休校してしまうと
なかなか再登校することは難しくなります。

長期休み明けの心理が強大になり
否定的な記憶が優位になってしまいます。
また、自分がいない期間の中で
人間関係が変わってしまい、自分の居場所がなくなってしまっている
という不安も付きまといますし、
いざ登校してみると
知らないやり方が定着しているなど
お客さん気分、つまり自分はこの仲間ではないという意識を
拭い去るには相当の時間がかかるでしょう。

ずっと不登校が継続してしまい
学校どころか、社会に復帰することが困難になる事例もあります。

原因不明の不登校が起きたら
大人たちが団結して対応する必要がどうしてもあると思います。

自死に話を戻しますと
何らかの心理的葛藤があり
自死リスクが高まった場合、
不登校になって
重大事態の目安になる1か月休校を待って調査を行う
というのでは、
自死は起きてしまいます。

立ち止まって考えるとつくづく不思議なのです。
いつも登校していた生徒が突然不登校になったというのであれば、
心配にならないのでしょうか、
そうでなくても10代の若者が
突如家に引きこもった状態になったというのであれば
一体どうしたのだろうと心配になるのではないでしょうか。

人格の向上を最上位の目的として学校教育がなされているのだから
学校に来ないまま大人にすることはできないと
焦ってしまうことが普通ではないかと感じるのです。

このままでこの子の人生はどうなってしまうのだろう
と心配になることが、普通ではないかと思います。

いじめがあったかどうか
不登校と評価できる日数の休校があるかどうか
なんてそんなことはどうでも良いのではないかと思えるのです。

いじめの有無や休校日数は
こうやって考えると
学校が調査をしない言い訳に思えてきます。

自死が起きたら
学校としても、自分達に何らかの問題がなかったか
調査をしたくなるということが
あるべき人間の姿ではないかと思うのですが
違うのでしょうか。
また、そういう発想を持つ立派な教育委員会も現存します。

これからの日本は
今の子どもたちに大きな経済的な負担をかけることが予想されています。
子どもたちの一人当たりの負担を減らすという
私たち大人の自分勝手な利益のためにも
もっと学校に予算を投入して
子どもたちの健全な成長を確保する政策を実施するべきだと思います。

いじめに限らず
不登校や
不健康な状態
自死リスクへの対応をし
何が何でも健全に成長する子どもを増やすために、
予算を抜本的に増やし
当たり前に心配のできる教職員を
必要人数配置するべきだと思います。

ただ、お金をかけるだけでなく、
子どもの異変を心配する大人たちが教育に関わる仕組みを
作る必要性があると感じています。

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もう一つのインターネットパラドクス インターネットは現実の代替にならないのではないかということ [自死(自殺)・不明死、葛藤]


「インターネットパラドクス」という言葉は1998年の論文で発表されました。
インターネットを利用すると、家庭内でのコミュニケーションの低下を招き、社会関係を縮小させ、抑うつ感や孤独感を増大させるという意味で用いられていました。

それから20年余り経た現代では、インターネットの中でもSNSの利用に伴うソーシャルネットパラドクスという言い方がなされています。友人たちのHappyな日常を見せつけられることによって自分の境遇のみじめさを感じてしまうという負の影響や、「いいね」などの反応をしなければならない等の負担感が原因として指摘されています。投稿しない閲覧中心の利用スタイルの方が、投稿を頻繁にする者よりも抑うつ傾向や孤独感が表れやすいという統計結果もあるようです。

今回はこういうことではなく、別の問題点について光を当ててみたいと思います。
コロナ禍で報告されている抑うつ症状として、学生が学校に登校できず、オンラインで講義を受けていた。友達ができない焦りなどから抑うつ症状を出現させたというものです。適切なカウンセリングによって症状が軽快されたとのことでした。
この学生さんも、友達ができないと言っても、それまでの友達もいるでしょうし、それこそSNSの友達もいたと思うのですが、それでは何かが足りなかったということなのでしょうか。この学生さんは、実際のところ、何を求めていたのでしょうか。

もう一つ、令和2年の自死の状況です。特徴的なことは、前年度比で、10代の自死が増えたということです。特に高校生女子が80人から140人に増え、小学生女子も5人から10人に増えたということに注目するべきだと思います。父親が家庭にいる時間が増えたので居場所がなくなったのではないかという根拠のない説明が公的にもなされるという驚くべき事態が日本の現状です。しかし、統計的にはこれは成り立たない説明です。例えば高校生女子の自死の原因としては、それまで家庭問題が原因のトップでしたが、令和2年は入試を除く進路の問題と、学業の問題が一位と二位になり、家庭問題は3位と後退しています。増えているのは家庭問題とは別の事情だとして原因をより詳細に考えて、対策を講じるということが科学的視点だと思われます。

学生のうつ病と、高校生、小学生女子の自死の増加という問題が関連しているのではないかという視点から掘り下げてみたいと思います。

これまでも子どもの自死の好発時期というものが指摘されていました。ゴールデンウィーク明けとか夏休み明けの日に自死が増えているということは統計的にも明らかです。
今回コロナ禍の学校の状況をみると、自宅でのオンライン授業ということが多くあり、実際の対面の授業、即ち、実際に同級生たちと過ごす時間が、断続的に停止されていたようです。自死の問題は当然のことながら個人情報の最たるものですから、その詳細が報告されることはありません。自死の時期と授業再開の時期だけでも明らかになるとある程度この説が証明できる又は否定されるのですが、ここは致し方ありません。但し、もしそうであれば、夏休み明けの日に子どもの自死が集中しているということと考え合わせると、同じ原因で自死が起きており、長期休暇明けという出来事が多かった分につれて自死が増えていったという説明が可能となるかもしれません。もちろん自死の原因はこれだけではないのですが、何らかの対策によって子どもの自死を減少させることができるかもしれません。

過度の競争社会による心理的圧迫感や自尊心の低下という根本的問題は今回は除外して考えます。根本問題が解決しなくても自死を無くすべきであり、できる対策をするべきだという考えに基づいています。

さて、それではどうして長期休暇明けに自死が増加するのでしょうか。これは、これまでもこのブログでたびたび以下のような推論を述べているところです。
学校での人間関係は、同級生であったり、部活動の仲間であったり、その他の子ども同士の人間関係や、教師、学校職員との人間関係があります。そのすべての関係で円満な、心穏やかになる人間関係が構築されるということは難しい話だと思います。そのどこかの人間関係において、ストレスが生じるような不具合の伴う人間関係があると思われます。それでも、長期間継続して人間関係を構築していく中で、対処の方法を覚えたり、誤解があった場合にそれが解消されたり、あるいはその人の行動に馴れが生じてだいぶ気にならなくなったり、友人が援助してくれたりして、なんとか毎日を緊張感をもって乗り切っているということが少なくないと思います。
しかし、長期休暇になって、そのような緊張感の不要な日々が続いてしまうと、「なんとかなっていた」という安心の記憶が失われるということが起きるようです。同級生、部活動の仲間あるいは教師との関係などとの困難な場面だけが思い出されてしまい、それを乗り切ってきたはずのその安心の記憶が蘇らないのです。
この安心の記憶というのは、言葉にできる記憶ではなく、言葉以前の生理的現象の記憶というようなものかもしれません。実は、学校に行って、校舎の壁の色を見たり、階段の角の足に当たる感触を感じたり、教室のにおいを感じたりすると詳細が思い出されてきて、それほど心配することがないことも思い出されるということが多いようです。しかし、ただ家にいると安心の記憶を思い出すツールが何も無いので、困難な場面だけが思い出されて、対処の方法が無いという結論になってしまいがちになるようです。記憶というものが危険を記憶して危険に近づかないという機能を持っているため、どうしても危険の記憶を優先して思い出されるようです。
学校に行けない、行く気力が出てこない、学校で悪いことが起きて逃げられないのではないかという感覚は説明しがたいものがあるので、なかなか周囲はそれを理解できません。困難な記憶の方、同級生とのトラブルや教師からの叱責などについてはそれなりに理解できますが、「そんなことで学校に行きたくないのか」という評価になってしまいます。安心の記憶が持てないことについて理解できないからです。
学校に行けない生徒の中には、不安が飛躍していく場合があります。学校を卒業できないような自分は社会に出ていけない、社会の中で不遇な人生を歩み、みんなに馬鹿にされてみじめな生活を余儀なくされるというような悲観的未来だけが想起されていくようです。こうして社会とのかかわりを拒否する傾向が生まれてしまい、不登校スパイラルになっていくようです。それでも明日は学校に行かなくてはならないという強迫観念が外部からも内部からも押し付けられていくわけです。そうなるともう毎日が夏休み最終日です。毎朝が苦しい時間となり、学校が終わる時刻にようやく少し楽になるのではないでしょうか。

「自分が関係する仲間の中で安心の記憶を持ちたい」という要求は、必ずしも自分が具体的に困難に直面していなくても起きるものだと思います。また安心の記憶が持てない場合は、かなり精神的に追い込まれてしまうようです。具体的なトラブルがある場合は、不安を解消して安心したいという気持ちはわかりやすいのですが、これと言ったトラブルがない場合は周囲は理解しがたいのだろうと思います。

冒頭述べた、学生さんがコロナで実際の人間とのリアルな交流がないことでうつを発症したということはこのような文脈で理解されなければならないことだと思われます。仲間と安心の記憶をもって、自分が仲間とともに学生という立場になったという安心感を持ちたいということなのだろうと思います。新たな人間関係の中で、自分が仲間として受け入れられているという安心感と言っても良いでしょう。この安心感を持ちたいというのが人間の根源的要求であり、これが満たされない場合は、心身に不具合が生じるということなのだと思います。

そうだとすると、何らかの事情、例えば精神的な疲労の蓄積、睡眠不足による思考力の偏り、誰かの影響などによって、安心の記憶が持てなくなり、具体的な人間との切り結びを一切行えなくなるということがあり得ることだということです。もちろん、いじめや無理な指導と言った具体的なトラブルがあればなおのことだと思うのですが、必ずしもそういうことではないような気がします。つまり、危険の記憶が小さい場合でも安心の記憶が持てないために行動ができないという相関関係にあるように思うのです。

 そして肝心なことは、インターネット、SNSでは、この仲間の中での安心の記憶というものが持ちにくいということなのだろうと思います。インターネット、SNSは、距離を超えて、あるいは立場を超えて、様々な人たちが交流を持てるツールであり、人間関係を無限に広げることを可能にしたツールのはずです。確かにSNSによって人間関係が広がっていくのですが、そのSNSの人間関係において、安心感の記憶を持つことができない。人数が広がった分だけ不安の材料もまた増える可能性があるということになりそうです。少なくともSNSでの人間関係の拡大は、人間の根源的要求を満たしはしない。即ち、自分が誰かと人間的なつながりの中で生きているという実感を持つことはできないということです。自分の大切に思う相手の、実際の生の声を聴き、実物をみて、あるいは手で触り、あるいは匂いやぬくもりを感じるということこそ、人間には必要なことであり、インターネットはそれを代替することはできないという仮説を立てることができるのではないでしょうか。

コロナのために直接会うことができないということは、不便なこと、経済的な問題があるということにとどまらず、人間の根源的要求を否定しかねない重大な問題が生じるということだと考えるべきだと思います。コロナ禍から、私たちはもっと大きく、もっとリアルに問題を把握しなければならないと思うのです。

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