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若者以外の自殺者数はなぜ減少したのか。自死の落差理論と耐性ないし馴化 [自死(自殺)・不明死、葛藤]


日本における自死者の数は、
平成9年に2万4千人だったのが
平成10年に3万2千人を超えて
平成15年にピークの3万4千人台となり
平成21年までの11年間3万人台でした。
それがその自死者数が減少していき、
平成30年度は2万840人まで減少しました。

なぜ増えて、なぜ減少し続けているか
その理由がわかれば、自死対策は進むのですが、
誰も自信をもって言うことができません。わからないのです。

一つの仮説として国の政策が功を奏したというものがあります。
自殺防止対策推進法、自殺総合対策大綱
地域自殺対策緊急強化基金、利息制限法の改正
様々な政策を実施してことは間違いありません。

また、これまでは、自殺というと
自死者に対する非難の文脈が伴っていましたが、
国が自殺対策を行うということで
追い詰められた上の死だという理解が広がり、
マスコミを通じて自死が報じられる場合でも
救助、支援の文脈で話題になっていることが良い効果を上げている
という事実は否定できないと思います。

自死を考えている人にとって、
自死を考えていることを非難されていると感じるよりも
周囲が自死から救おうとしていると感じるほうが
余計な孤立感を感じないで済むと思います。
自死を非難することはWHOでもデメリットが大きいとしています。

ただ、それだけで本当にこのような動き方になるのでしょうか。
また、全体に自死者数が減少しているのに
若者の自死者数が減らないのです。
若者の人口が減少していないにもかかわらず
若者の自死者数が微増しているのです。
国が対策を立てていることが自死者数の減少の理由であれば
若者だけ減らないのは不思議です。
これが手掛かりになって
自死者数の減少の理由が見えてくると私は思いました。

まず、若者の自死の原因と中高年の自死の原因は
ともに将来に対する絶望なのですが、絶望の仕方に
大きな違いがあるということを理解していただきたいと思います。

中高年の自死の理由は、
これまで自分が積み上げてきた実績、人間関係を失う事情があり、
過去の蓄積された現在を失うことにより、
やり直しがきかないことから未来に対する絶望を感じるわけです。

典型的なケースは、刑事事件を起こした場合です。
警察に逮捕されただけで、会社にはいられなくなります。
自分の立場を失って、絶望が起こるということはわかりやすいと思います。
弁護士のアンケートでも、刑事被疑者、被告人の自死が多い
という結果が多いのです。
弁護士が関与した一番多い自死者のケースは債務問題でした。
借金支払えないから自死するという単純なケースはあまりないようです。
借金が払えないことによって、住宅ローンが支払えない
その結果引っ越しが必要になる。そうなると
近所の人たちや会社に借金が払えないということを知られてしまう。
こういうことで、自分の人間関係が破綻するということが
大変恐ろしく感じるようです。
家族に内緒で借金を返していて、ついに支払われずばれてしまい、
家族からも追放されるのではないかというように
やはり人間関係で、それまでの立場がなくなるというところに
自死の原因があるような気がするのです。

これをわかりやすく言うと
それまでの立場を維持できないで落ちて行ってしまうという
落差を感じることが自死のリスクを高めるといえそうな気がするのです。

自死者数が急激に高まった平成10年という時期は
バブルが崩壊して数年が経った時期です。
バブルが崩壊しても、バブルの頃の生活をなかなか修正することができなかったことでしょう。
また、生活状態は変化させても、
住宅ローンの月々の返済額は高めに設定していたために、
バブル崩壊後の賃金低下やリストラで
支払いができなくなったということもあったかもしれません。

平成15年くらいまでは、
落差を感じる対象の過去が生々しく記憶にあったのかもしれません。

平成15年以降はバブル期の記憶のない人や
バブル崩壊後の生活に対応できてきた人たちが増えていった
とは考えられないでしょうか。

リストラ、派遣切り、有期雇用期間満了による失業
上がらない賃金、長時間労働
そんなことがだんだん当たり前の世の中になってきたのではないでしょうか。
つまり落差がなくなってしまったのです。
周囲も失業者だったり、ホームレスだったり、
自分よりひどい状態にあるのです。
人間はこうやってだんだんと馴れが生じてゆくのです。
生活の苦しさに耐える力がついてきてしまった
という説明も成立するのではないかと考えています。

ある程度社会的立場や、良い生活をしていれば
それを失うとなれば、その落差が絶望につながるわけですが、
初めから立場がなく、良い生活をしていないのならば
落差もなく、絶望もせず、耐え続けることができるわけです。

馴化(じゅんか)によって、対人関係的危険を感じなくなる
という言い方をします。
苦しみを感じていても、危険を感じにくくなるわけです。
「精神的に強くなる」ということは感じにくくなるだけだと思います。

中高年の自死が減少したのはこういう理由
つまり、もともと生活が苦しいならば
自死は起こりにくいということです。

それでは、どうして若者の自死者が減らないのでしょうか。
若者の絶望の仕方は中高年とどのように違うのでしょうか。

若者は、それなりに家族との関係や友人関係といった
社会的立場があるわけですが、
過去が積み重なった立場の崩壊という側面は弱いと思います。
若者の場合は、将来につながる現在の崩壊だと思うのです。
今、このようにいじめられ続けている自分に
当たり前の幸せの将来はないのではないかという絶望の形です。

若者は、自分の未来に希望が持てないことに
馴れることはできないのでしょう。
自死対策に関与している人たちは
そろそろ考えるべきなのだと思います。

自者数を減らすことだけを考えていると
思わぬ落とし穴にはまってしまうのではないかということです。

自者数を減らすためには、私の理論では、
苦しい生活を続けさせることと
社会全体で苦しい状況が蔓延すればよいということになります。
現在でもそうなっているように
これはそんなに難しいことではないようです。
そんなことを求めることにプラスの意味はないでしょう。


若者が将来に希望を持てる社会を作る
それこそが目的にされるべきではないかと思うのです。
人間が幸せになるとはどういうことか
多くの人間が幸せになるにはどうすればよいか。
それが対人関係学の究極の目的です。



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思春期前のいじめによって人生を棒に振る極めて深刻な被害が生まれる理由、PTSDという言葉にたよらないで説明してみる [自死(自殺)・不明死、葛藤]

小学校での事件だそうです。
粗暴な子どもに対して、
どうしても注意する子どもがいて
粗暴な子どもから反撃されるわけです。

先生は、粗暴な子どもを刺激しないということを第一にするという方針だったので、
事実上粗暴行為を放置していたようです。
だから、粗暴を先生にいいつけても
逆に先生からなんで言いつけるのだと注意されるという
理不尽な扱いをされたそうです。

それを見ていたほかの子どもたちも
粗暴な子どもを刺激しないことが一番だということで、
粗暴な子どもが、注意した子どもにしばしば乱暴しても
取り囲んでみていただけの状態だったようです。

こんなことがしばらく続いたようです。
子どもは、PTSDと同じ症状となり
登校できなくなり、家に引きこもり
学校にいけないままで高校生の年齢となり
両親が裁判での損害賠償を請求したそうです。

1審は、粗暴な子どもの乱暴を数回認め損害賠償を命じたそうですが、
教師、学校の責任を認めなかったそうです。
そのうえ、PTSD自体を認めないため
賠償額はとても低いものになったようです。

症状があるのに、それを認めないということはどういうことでしょうか。

一つの可能性として
PTSDという診断名に理由がある可能性があります。

PTSDは、
症状の原因となる危険が過ぎ去った後においても
① あらゆることが危険であり、危険の兆候だと感じるようになる
② 理由なく、危険を受けていた時と同じ感覚が、突然よみがえってしまう
③ 危険には解決方法がなく、危険が現実する恐怖から逃れる手段がないと感じる
という症状が中核的なもので
このほかに、抑うつ状態、不眠、悪夢、イライラなどが起きます。

これがいじめから数年を経てもなお持続しているのだから
後遺障害が発症しているとして損害額が高額になるとも考えられるわけです。

裁判所は何を否定したのか。
まず、PTSDを否定した可能性があります。
それというのも、PTSDは、
「命の安全が脅かされるような出来事
(戦争、天災、事故、犯罪等)のようなものがある場合に
に限定されて認められるという立場が有力「だった」からです。

新しい基準(ICD-11)では命の差し迫った危険がなくても
反復性のある危険にさらされた場合も認められるようになった
という情報がありますが、まだ私は確認できていません。

この裁判のいじめの場合は
そういう物理的な意味での生命の危険が発生していたわけではないので、
少なくとも基準には適合していないのでPTSDはありえない
したがって、症状もあり得ない
という理屈になってしまう危険があるのです。

私はPTSDというのは、
生命、身体の危険でも起こりうるが、
その本質は、
絶対的な孤立、自己統制の不能感と回復不能の絶望から起き、
どちらからというと、自分が属している精神的生活の基盤の人間関係から
自分が将来にわたり追放されて復帰できないという
対人関係的危険を強く感じている場合に起きると主張しているのですが、
私の説は影響力がないから裁判で言っても仕方がないと思います。

このため、裁判では、
子どもたちに取り囲まれた状態で粗暴な子から暴行を受けていることが
死の危険も感じることだと主張された可能性があるようです。

対人関係的危険を基にする理論であれば
物理的な死の危険を持ち出さなくても説明がつくわけですが
伝統的なPTSD概念を前提とした場合には
無理がある主張だという結論になってしまうでしょう。

では、いじめでPTSDと同じ症状が出ることはないのでしょうか。

現実にはこういう症状はよく起きています。
14,5歳の子どもたちが、家の中で暴れて手が付けられなくなり、
親ともコミュニケーションが取れず
本人も家族も危険な状態だということで、
精神科の閉鎖病棟に入院することが良く起きています。

症状によって、あるいは診断者によって
それぞれ様々な診断名が付きますが、
背景にいじめがあることがほとんどです。

小学校や中学校時代にいじめにあった被害者は、
このように深刻な症状となり、
入退院を繰り返し、社会に出られないまま
子どもとは呼べない年齢に達しているのです。

そこまで極端ないじめでなかったとしても、
理不尽な扱いを受けた子どもは
何かの兆候を見つけて
またあの時と同じようにいじめられるのではないかと
些細なことにびくびくしたり、
悪夢を見たり、理由もわからないけれど学校に行けなくなったり、
自分に自信がなくなったりする
という残遺症状が残る場合が多いように感じます。

しかし、現時点においてはPTSDを持ち出すと分が悪そうです。

無理をしない理論があるように思います。
私の一人説でもない理論です。

それは子どもという時期に着目する方法です。

人間とは何か、人間が集団で生きるとはどういうことか
ということを考えなくてはなりません。

自然災害を除けば寿命前に人間が死ぬのは
人間によって殺されるときでしょう。
他人という生物は安全な生き物ではないわけです。
人間も動物として他人を警戒するのが自然かもしれません。

そうならないのはまず、両親に育てられる中で
自分以外の人間も自分を攻撃しないということを学んでいきます。

逆に両親から引き離されたり、両親に虐待されていたりすれば
理由なく他人を警戒するようになります。
愛着障害という病気で、
他人を信用しなくなり、人間的なつながりが持てなくなる場合と
逆になれなれしくまとわりつくようになる場合という
両極端な症状が現れます。

ボクシングをイメージすればわかりやすいのですが、
殴られないために逃げ回るか
逆にクリンチすることで防戦しようとしているようです。
おそらく、両方とも人間を信頼しないことからくる行動が
身についてしまったことなのでしょう。

その乳幼児期を無事に過ごすことができれば
両親から広がって少しずつ人間関係を構築していくことにより
だんだん「馴れ」が生まれてきて
人間は警戒しすぎなくてもよいのだなということが
身についてくることになるわけです。

その後、15歳くらいといわれていますが、
自我が確立していくわけです。

この時、自分と他人が違うということを
きちんと腹に落としていくことで、
他人ではない自分という観念が確立していきます。

自我が確立していくことは
自分を尊重し、他人も尊重することができるようになることで、
こうやって、他者の中で、協調して生きていけるようになるわけです。

このあたりより前の時期は、
まだ、他人と自分の区別がはっきりとはつかないで、
自分と他人が違う考えや感じ方をすることに戸惑いが残っています。

ところでただ歳を取れば自然と自我が確立して協調性が身につくのではありません。
家庭の中で身に着けた共同生活のルールを、
幼稚園や学校という友達との関係で修正したり、
共通の核のようなもの(社会的な行動様式)を見つけ出して、
どういうときにどう行動すると穏やかに過ごせるか
逆にどう行動してしまうと、けんかになったり嫌われたりするか
ということを一つ一つ学習して身に着けてゆきます。

例えば正義や道徳に反する行動をすることは
みんなから受け入れられなくなるということを
自分の体験者や友達の体験を通じで身に着けていくわけです。

正義や道徳が行動規範になっていくという言い方をします。

事件のお子さんは、
そうやって、行動規範に従って
級友とも接してきたのでしょう。

ところが、自分が当たり前だ、やるべきだという行動をしたことによって
逆に、反撃され、暴力を受けたのです。
これだけでも混乱することです。

しかし、この粗暴な子が例外的な存在で
社会の中にはこのようなイレギュラーな存在もいるので、
そういう子を避けて過ごせば安全だ
という柔軟な考えを身に着けられれば
正確な人間観をえられるのです。

そのためには、周囲から粗暴の子のほうが間違っている
という強烈なメッセージが必要なのです。
ところが、教室の最終権威である担任も
自分が暴行を受けていることを放置し、
ほかの子どもたちも自分を助けようとしなかったらどうなるでしょう。

その子の価値観は混乱したままになってしまいます。

他人の存在に安心するためには、
自分が何か困ったことがあったら助けてもらったり、
具合が悪ければ心配されたり
痛かったり苦しかったりするといたわれたりすることが必要です。

このお子さんは全く逆に
暴力を受けていました。
そしてその暴力をだれも止めないという状態が起きていました。

小学生くらいだと
自分はどうしたらよいかわからなくなります。
また、自分は、世間全体から嫌われている
という気持ちになるわけです。
これから先の将来も嫌われ続けるという気持ちになってしまいます。
だんだんと何か自分が悪いのではないかという気持ちにもなるでしょう。

「もっとうまくやれ」ということは大人に対するアドバイスです。
子どもはかばわなくてはならないと私は思います。

傍観者の子どもたちはそれを是認していたわけではないでしょうが、
いじめられている子どもからすれば
誰も助けてくれないのですから意味がありません。
対人関係的危険感からすれば
自分の社会的存在を「否定」されたということに等しいということになります。

助けてくれないでただ見ている旧友(級友)は、
のっぺらぼうの恐ろしい存在に見えたでしょう。
こちらを心配そうに見ている人間は偽善者に見えたでしょう。

被害者のお子さんが感じていたことは
絶対的孤立感であり、自分が仲間として認められていないという疎外感ですし、
誰も味方してくれない、どうすることもできないという回復不能感です。

きわめて恐ろしい感覚を受けていたはずです。

私も似たようなことがあったのですが、
自分は絶対に間違っていない
間違っているのは自分以外だという独善性があったために
最悪の事態にならないで済みました。
体が大きく、体力的にも強かったということも救いでした。
こういう常識が外れた人間でなければ
耐えられるわけはないのです。

子どもですから、こういうことが例外的な出来事だという認識は持てません。
人間社会というものは、自分の味方になってくれない
ということを学習してしまうのです。
しかも、いつどうして自分が攻撃されるかわかっていませんから
ある日突然自分が攻撃されるという予測不能なことが起きる
ということを学習してしまっています。

これからの長く続く未来も同じように
いつどこか油断をしてしまうと悪いことが起きてしまう
という学習をしてしまいます。

人間が安心できなくなり人間が信用できなくなり、
人間が怖くなるのは当たり前だと私は思います。
安心できるのは家族だけになります。

ちなみに、粗暴な子のほうですが、
通常だと暴力をふるうとみんなから否定されてきたのに
その子に対しての暴力は誰からも否定されません。
その子に暴力をふるってもよいのだということを
学習してしまうのです。

放置ということは被害を大きくするだけでなく、
加害も大きく、より激しくするのです。
大人がする放置は大変悪質です。

家の中に引きこもる子どもも
元気に学校に行っている子どものことを想像することもあるでしょう
みんな普通に学校に行き、進学している
自分だけが取り残されているという
どうしようもない焦りが生まれてきて
さらに苦しくなるということも簡単にイメージできると思います。

先ほど家族には安心するといいましたが、
家族も人間ですから
自分の子どもが学校に行けず家から出れないというと
焦りが生まれてしまいます。

子どもはそんな家族の表情を読み取って
重い負担を感じるようになります。
子どもの願いは
学校行けなくても家から出られなくても
家族には何事もなかったように接してほしいということです。
それはなかなか難しいことです。

子どもはどうしてこうなったかもわからず、
また、自分がどうしたいのかもわからず
不満、苦しさだけが膨れ上がっていきます。
言葉にできない苦しさ、焦りが積み重なっていくのだから
爆発することのほうが当たり前だと私は思います。
徐々に家族も自分を助けてくれないという意識になっていくわけです。

成長発展段階におけるいじめは、
人間の成長に照らして
このような深刻な影響を与えるのです。

それは、加害児童の責任というよりも
放置した学校の責任こそ重大だというのが私の理論的帰結です。

暴力がお子さんの精神に悪影響を与えたことよりも
それが制裁など修正されなかったことこそ
精神的に悪影響を与えたのだと私は思います。

このようなお子さんは、投薬の適応があまりありません。
感情的になったときに鎮静剤を与えたり
抑うつ的になったときに抗うつ薬を処方して
症状は緩和させることができるかもしれませんが、
原因が放置されていれば症状は継続してしまいます。

もうこうなってしまうと
最初の両親の段階から育ちなおすしかありません。
つまり、
繰り返し、繰り返し人間は安心できる、信頼できる存在だということを
刷り込んでいくしかないのです。
遠回りかもしれませんが
自分の安心できる居場所を作り
安心できる人間関係を作っていくしかないと私は思います。

できるだけ多くの人たちから
それぞれのいたわりと助けを得ていきながら
人間と付き合う自信を作っていくということです。

そうしない限り、
投薬だけをしていただけでは、
なかなか回復は難しいようです。

それだけ、小学生や中学生の時期のいじめというのは深刻で、
そのお子さんの一生を台無しにするということです。
そういうお子さんをたくさん見てきました。

もし私が述べる通りの被害があるなら
今度は裁判所が被害を放置してはならないはずです。
その子だけでなく、その子の家族だけでなく、
加害をした元児童、傍観していた元児童にも
そして何よりも放置をした学校にも
あの時の行動が間違っていたという価値判断を示さなくてはならないはずです。

技術的なことで決してはならないと思います。
そして学校関係者に対しては
いじめの重大さを理解してもらいたいと
心から願う次第です。

また、精神医療関係者の方にも読んでいただきたいと思います。
いじめを受けた子どもの奇行は自然な行動であると私が思うのですが、
統合失調症やパーソナリティ障害などの診断名がつけられて、
精神科病棟の中でますます重症化していくことがあるようです。

どうか、事例を集積し、
回復に向けた治療方法を確立していただきたいと
願ってやみません。


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リストカットは自死の入り口であり、放置したら死ぬと考えるべきである理由 どうして理屈をつけて放置するかの分析付き [自死(自殺)・不明死、葛藤]


1 リストカットは、確かに死のうとしてやっていないことが多い
2 自死する可能性が高まっていく行為である
3 繰り返されることでリストカットによる死亡の危険性も出てくる
4 身近な人間のリストカットを放置する理由は観察者の自己防衛
5 安心して話ができる人間関係

1 リストカットは、確かに死のうとしてやっていないことが多い
  リストカットを今まで見たことも聞いたこともない人が、リストカットをしている人を見て嫌悪感を覚えることは、健全な感覚だと思います。人間をはじめとする動物は、自分を守ろうとします。自分を守らないで傷つけることに恐怖や嫌悪感を抱くのは当然です。そして、少し事情が分かると、その人が死のうとして自分を傷つけているわけではないことがわかるわけです。それで少し安心すると、反発や怒りが生まれてきます。死ぬ気でもないのになぜ、動物の本能に反する行動をするのかという疑問の回答を無意識に探し出します。そして、ふざけた行動だという結論を出し、行為を拒否しようとするわけです。正義に反する行動だということで、怒りを持つわけです。
 しかし、リストカットも、本能的行動なのです。自分を守るために行動するという生物の本能に根差した活動です。主として人間は、動物として身体生命を守ろうとするだけでなく、群れを作る動物として他者との関係を守ろうとします。身体生命の危機を痛みとして感じることによって自覚して自分本体を守ろうとすると同じように、自分が他者との関係に安住できない状態が生じると、苦しさを感じるようにできています(対人関係的不安)。自分を仲間の中に置いておくために苦しさを感じて、危機を自覚するためです。
 自分が原因か否かを問わず、他者、あるいは社会に対して顔向けができなくなるような強烈な体験をした場合、この不安がとてつもなく高まります。強姦、虐待、いじめ、戦争体験等がわかりやすいと思います。そういう体験をして、「自分が仲間として認められない」、「解決する方法がない」、「自分には仲間がいない、独りぼっちだ」という感覚から、苦しさが高まっていくと、人間の心はそれに耐えきれなくなり、なんとか心を維持しようという気持ちが働きます。苦しみから解放される手段を探さざるを得ないのです。不安というものは、どうも一時的にしか我慢できないようにできているようで、それが強く持続してしまうと、何とか不安から解放されたいという気持ちが大きくなりすぎて、不安から解放されれば何でもするという行動傾向になっていくようです。
 リストカットもそうやって行われるようです。
 J.ハーマンというアメリカの精神科医の「心的外傷と回復」という本で、自傷行為を行うと、脳内で生産される麻薬物質エンケファリンなどが生成されて痛みが緩和されるという研究結果が紹介されていました。ランナーズハイと同じ状態です。
 また、人間の脳は、痛みや苦しみを同時多発的に意識のフォーカスを当てられないという理論によれば、自分の体を傷つける痛みを感じているうちは意識のフォーカスが体の痛みにあたることによって、他者との関係で生まれた苦しみも忘れられるという効果が生まれるようです。仲間の中で尊重されていない自分であっても、動物として痛みを感じているときに、生きているという実感が持てるようです。
 このように、リストカットも、死のうとして行われていなくても、決してふざけて行っているわけではありません。それだけ苦しんでいるわけです。何とか苦しみから逃れようとしているのです。苦しみから解放する手段が健全な人から見て不合理だからと言って非難していることになります。まずは苦しんでいる理由を理解してからでもよいように思います。もっとも、当人は何を苦しんでいるのか言葉にすることが難しいことも多いようです。でもその人が人間である以上、何かに非常に苦しんでいるはずだということから考えるべきだと思います。
 リストカットの結果を見せるということは、あなたを非難しているのではなく、あなたなら自分の他者や社会との関係で生まれた苦しみを理解してくれると思っているからかもしれません。無意識に救いを求めているのです。
2 自死する可能性が高まっていく行為である
  リストカットは、リストカットした時点では、死のうとしているというより、自分を守ろうとする行為だといえるかもしれません。しかし、その後の時間的経過によって、死の危険が高まっていきます。
 自死というのは、先ほど述べた、不安からの解放手段を択ばない場合の究極の方法です。不安から解放されたいことが一番の目的となっているのに「不安を解決策する方法がない」と認識してしまうと、このまま不安を感じ続けることが永遠に続くとかんじてしまい、とても耐えられなくなります。「死ねばこの苦しみから解放されるかもしれない」というアイデアは、そのような耐えられない苦しみを感じ続けている人にとっては、ほのかに明るい気持ちにさせてくれるアイデアだといいます。生きるための、自分を守るための苦しみというシステムなのに、逆に命を落とそうとするという本末転倒なことが起きるようです。苦しみが人間の精神構造の想定を超えた状態ということになるのでしょう。
 もちろん人間は、苦しいからと言ってすぐ死ぬわけではありません。一番の理由は、やはり、死ぬことが怖いからです。T.E ジョイナーという人たちは、この点に着目していて、「自殺の対人関係理論」という理論の中で、自死の危険が高まる要素として、死ぬことが怖くなくなっていくことが重要だと考えています。彼らは、これを「身についた自殺の潜在能力」が高まっていくという言い方をしています。この能力を高めるものの一つがリストカットなどの自傷行為です。自分の体を傷つけることで、少しずつ死ぬことが怖くなくなっていく、死ぬことに慣れていくわけです。自傷行為が繰り返されることは時間をかけて少しずつ自死をしていることになりそうです。
 リストカットの時点だけを見れば死ぬための行為ではないとしても、その後の時間の経過を含めて考えると、死ぬ行為を始めているというように評価するべきなのだと思います。
3 繰り返されることでリストカットによる死亡の危険性も出てくる
  リストカットは繰り返される傾向にあります。それは理屈からもよくわかることです。リストカットをして感じなくしたい、仲間や社会との関係の苦しみというリストカットをする理由は少しもなくなっていないからです。そして、一度苦しみを忘れた記憶があると、その中に戻りたいという気持ちが出てくることも想像しやすいでしょう。自分の腕を切ることが赤ん坊が母親に抱かれていることと同じ効果があるということで、これは壮絶な話なのだと思います。
 ところが、体の痛みは馴れるということが起きてしまいます。最初はかすり傷くらいでも十分だったのが、それでは効かなくなるということです。前と同じ程度の痛みでは、自分の苦しみが消えないということです。このため、繰り返されるリストカットのために、傷つける傷が深くなっていくとともに、新たな痛みを求めて傷が体中に広がっていきます。
 最初手首につけた傷がだんだんひじの内側に達してしまうと、かなり危険な状態だといわれています。その時は、再び付けた手首近くの傷はかなり深くなっていることが多いようです。治っても、傷のへこみが残ってしまう状態で、医師は、これは死ぬ危険が高い傷だったと説明してくれました。
 「リストカットで死んだ人はいない」というのは、きわめて無責任な迷信です。リストカットが続いていくと、死ぬつもりがなくても死んでしまう危険が高くなってゆくのです。
 もっとも、この危険が高くなったころには、本人も自分が怖くなるようです。もし、その人が身近に信頼できる人がいる場合には、「自分で自分を抑えることができなくなってしまう気がする。このまま死んでしまうような気がする。」という不安を聞くことができることがあります。そういう時、精神科医の受診を勧めると、自分から病院に行きたいと実際に自ら受診に足を運ぶということがよくあります。私はリストカットの傷の状態を見て、危険だと判断した場合、信頼する精神科医を紹介します。入院することになることも多いのですが、自ら病院に行く場合は、退院後も比較的安定するようです。実際にそうやってよくなった人の例を話しながら、良くしたその医師を紹介するわけです。
 ただ、無事退院とはなるのですが、リストカットを続けていた期間が長期に及ぶ場合は、重症のケガで体の痛みが残るように、心の痛みが残る事例が多いような気がします。突然症状がぶり返したり、サイクルのように調子が良くなったり悪くなったりする患者さんを多く見ています。リストカットはごく初期の段階で、その理由を突き止めやめさせなければならないのだと思います。
4 身近な人間のリストカットを放置する理由は観察者の自己防衛
 リストカットは、1回であっても、大ごとであり、大変なことだと驚き、あわてて、みんなで心配してリストカットをしないでもよい状態に持っていくことが必要です。ところが、本来リストカットを止めるべき人たちの中には、なんだかんだ言って、リストカットを放置する人たちも少なくないようです。リストカットの誤解がこんなにも蔓延しているのかと大変驚いたため、これを書いています。ただ、本当に誤解なのか疑問がある場合も少なくありません。苦しんでいるから体に自ら痛みを与えているという関係にうすうす気が付いている人が多いように感じるのです。
 リストカットを知りながら、十分な対応をしない人たちの論理は以下のようなものです。
・親からもらった体を切り刻むなんて不道徳だ。
・命を粗末に扱うことで許せない。
・ふざけてやっていることで人騒がせだ。
・かまってもらいたいアピールだから相手にする必要はない。
・深刻な様子がないから放っておいてよい。
・理由を聞いて話しかけても、うそを言うし、ごまかそうとするだけだ。
・リストカットで死ぬ人はいないのだし、一過性のものだから放っておく。
・やるなとは言いました。何度もやるなと言っています。
こんな感じでしょうか。
 まず、リストカットをしないという結果だけを言葉にしただけではリストカットはやめられません。苦しさから逃れようとして自分を傷つけるという原因があるのですから、原因を放置して結果だけを求めても意味がないからです。これは、とにかく自分がリストカットという無残な姿を見たくないから、見せないでくれ、見えないところでやってくれと言っていることと結果としてそれほど大差はないでしょう。
 次に、ふざけた態度で道徳に反する、正義に反するという態度も同じです。道徳に反すること、正義に反することをするほうが悪だという決めつけをすることで、もうお前は私の仲間ではないと宣言しているということです。リストカットをする人間もそこまで考えていないのですが、リストカットは、それをすることによってますます孤立を深めていきます。ますます自死に近づいていくのです。正義や道徳に反するということも、結局は自分が見たくないことを見せるなということを言っているだけのことです。正義や道徳というのは、本来攻撃される理由のない人が、相手が自分を守るために攻撃をするときのツールの場合があると私は思うのですが、その典型例だと思います。
 深刻な様子がないというのは、おそらくリストカットはしているものの、常時暗い顔をしてうなだれて、伏し目がちな状態ではないということなのでしょう。そのような重症うつ病患者はそれほど多くありません。軽微な鬱、中くらいのうつの場合は、自分の抑うつ気分を隠そうとします(山下格「精神医療ハンドブック」)。思春期の場合は特に、気分の変調が激しく、安定していないので、矛盾するかのような外見をすることがあります。しかし、リストカットをするということは、それだけの大きな悩み、苦しみがあるということです。明るい、活動的な側面を理由に対応しないのは、観察者がそう思うと楽だからです。リストカットをしている以上、客観的に明らかである以上、重大な問題が生じていると考えることを妨げることはできないと思います。
 結局、観察者は、リストカットをする人の苦しい気持ち、つらい時間、解決不能の問題に悩んでいることから目を背けようとしているのです。それはそのほうが楽だからです。むしろそれは自然なことです。共感とは、その人の苦しみを追体験することですから、リストカットするくらいの悩みに共感することは、確かに危険なことではあります。しかし、リストカットをその人が見える状態にしていたということは、無意識に救いを求めていることがあり、その人に期待をしてしまっているということがあるということです。でも観察者は、こちらは人間として、仲間として考えていないのだから、仕事上の付き合いなのだから、仕事の内容を超えてこちらも精神的負担を受ける理由はないと考えているということなのです。だから、何とか理屈をつけて、その人の苦しさを否定しようとしているということです。
そのように、悩みに対して、門前払いをするような対応を取られると、本人はますます自分が人間として尊重されていないと感じ、孤立感を深めていくわけです。
 しかし、若者の悩みは、大人からすると、なんでそんなことでそこまで悩むのかというようなことで真剣に悩んでいることが多くあります。歳を取れば、確かに嫌なことだけれど、別にそこまで気にしないということが多くあるように感じます。若者は、危険や不安、疎外感を感じる脳が先に発達して、それが大したことがないと総合的に評価する脳の部分の発達が未熟な年齢なので、悩まなくてもよいことを悩む時期なのです。簡単に悩みを否定するのではなく、自分がそのころどうだったかを考えて、考えて共感を探して、先に共感を示したうえで、悩まなくてよいということを告げるべきです。自分の体験談をすることは、とても有効なようです。
 それにしてもふざけてやっているということを本当に思っているのでしょうか。そういう人はふざけてリストカットをご自分がなさるのでしょうか。私はありえないと思います。自分の子どもだったらと考えると、やはり驚き慌てふためくでしょう。仮にふざけてやったとしても、仮に気を引きたいからやったとしても、そんなことのためにリストカットという方法を使わなければならない状態だということを深刻に受け止めるべきです。ふざけてとか気を引くためとか、それは対応をしない言い訳にはならないのです。
 もし観察者が学校で、リストカットを生徒がしたとして、学校が上記のような観察者、つまり傍観者を決め込んで、自分を守ることを優先するというなら、その旨宣言するべきなのです。生徒の心身の安全には興味がない。自分が生活することでいっぱいだ。仕事もたくさんありいっぱいいっぱいなので、もし悩んでいるなら退学して転校してくれとはっきり言うべきです。公立学校でこれを宣言するなら、国が宣言することになるのでしょう。学校とはそういうところではない、教育は人格の向上を目指すところに過ぎないと。
 
5 安心して話ができる人間関係
  ただ、リストカットをしている人と向き合うことは確かにつらいことです。絶望の淵から目をそらすことをどうしてもしたくなっているものです。また、原因を聞き出そうとしてもなかなか本当のことを言いません。言葉で言えるならばリストカットなんてしないでしょう。
 まず、自分の悩みや苦しみを話せる大人になることが第一です。国は若者の自殺を防ぐためにSOSの出し方教育をするといっています。子どもの権利を守ろうとする関係者一同あきれています。子どもに関係する大人のSOSの受け止め方教育をするべきですし、SOSを出してもらう大人になる教育を大人にするべきなのです。一番は、悩みや辛さを否定されないことです。つらい思いや悩みはもっともだというところから出発しなければ、悩みを打ち明けても傷つくだけです。打ち明けたら目をつけられて徹底的にいじめられたというのでは絶望を大きくするだけです。子どもも大人を見極めているのです。暗い考え、不道徳な考え、正義に反する考えも一度は受容する態度が必要です。そして攻撃しないということです。共感できる部分を探し出して共感するということができなくてはなりません。その子どもから自分を守ろうとする態度をしないこと、これは気が付かないだけになかなか難しいことです。
 次に子どもに興味を持つことと親しみを持つことです。子どもと一緒にいる時間をできる限り増やすということです。そして、その子が自分の仲間であるという実感を持てるようにして、何に悩んでいるのか興味を持ち、知りたいと思うことが必要です。この要求を奪うのは、忙しすぎること、時間がないこと、やることが多すぎることということになります。仲間であるという実感が持てれば、何とかしてあげようと気持ちになります。これがなければ、悩みから目をそらしたくなるだけです。
 最後に、子どもの悩みでも本当に深刻で、解決不能な問題があることがあります。うかつに絶望の淵を除いてしまうと自分もその中に引きずりこまれることは確かにありうることです。共感というものはとても恐ろしいことです。そうならないために、集団で対応するということです。何があったか話すことのできる大人の仲間があることが有効です。解決できないことをクールに解決できないといってくれる仲間であることが必要です。そうなると、第1希望ではな次善の手段を探すことができるからです。解決しなくても、その子が孤立しない状態を作り出すということが大切なことであり、それ自体が解決だということもよくあることです。例えば学校であれば、そんなことでも人生の支えになることが本当に多くあり、様々な次元で目にして、耳にすることがあるでしょう。
 いろいろなところで、学校においてもそうですが、大人たちが連携していないで分断して対応しているところが多いように思えてなりません。まず大人たちが仲間意識を持つべきだと私は思います。どうも自分も我慢しているのだから子どもも我慢しろという自己中心的な大人が増えているような気がします。

若者や子どもにかかわる大人たちがもっと人間を研究し、人間らしい生き方ができるようになれば、ご自分の人生がとても豊かなものになるはずだと思います。

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いじめ防止対策推進法の不十分点 自死予防は一つの命を救うために99パーセント以上の無駄を行うことに特徴があるのかもしれない [自死(自殺)・不明死、葛藤]

いじめ防止対策推進法の不十分点 自死予防は一つの命を救うために99パーセント以上の無駄を行うことに特徴があるのかもしれない

そんなの法律の目的ではないよと言われてしまえば
そうなんですか、それでは新たな法律が必要ですね
というしかないのですが、

いじめ防止対策推進法を読んでいると
二つの不十分点があることを痛感します。

一つは、児童生徒が、生き生きとした充実した学校生活を送ることが目的とされていないこと
もう一つは、いじめを受けた子どもたちへの対応が構築されていないことです。

いじめ防止対策推進法の目的は、いじめ防止なのでしょうが、
何のためにいじめを防止するかと言えば、
確かに一つには法律の言うとおり子どもの尊厳を守るため
だということができると思います。

しかし、この法律が作られた背景を考えると
いじめによって児童生徒の自死を防ぐ
という目的があるのが当然だと思うのですが、
法律を見ても通達やガイドラインを見ても
具体的な方法が提示されていないようなのです。

たまたまそういう仕事をしているのでわかっているのですが、
いじめを受けて重大な被害を受けた子どもたちは
いじめが終わったり、加害者が処分を受ければ
それで終わりというわけにはいきません。

不登校が解消されず、実力に応じた進学ができないだけでなく、
家から出られなくなり、
親等には暴力的対応をして収拾がつかなくなり、
精神科病棟への意に反する入院をさせられたり、
(統合失調症や行動障害の診断名があっても、
 いじめがあったこと自体は確認できる)
社会に復帰することができなくなる子どもたちが
確実にいるのです。

子どもどうしの何気ない人間関係によって
一生を他者と交わることなく過ごすという
極めて重大な事態になっていることが
少なくなくあります。

そんな子どもたちにとって
加害者がどんな指導を受けたなんてことは
あまり意味のないことかもしれません。

いじめがなくなっても
法律の目的とする尊厳の回復にはなっていないのです。
いじめが終わればそれでよいというものではないのです。

本当の被害者である子ども目線の法律になっていない
と感じる理由です。

子どもの救済については、何も定められていません。

また、自傷行為や自死企図等が起きた場合は
調査を行うということですが、
調査には時間がかかりますし、
重大事態等のハードルが高く、
(実際は、国の通達が守られればそれほど高くはないのですが、
 仙台市の事例のように国の通達に真っ向から反する解釈に
 固執する教育委員会もあるようです。)

特に被害児童の救済が放置されたまま
時間ばかりが過ぎてしまうことにもなりかねません。

子どもの尊厳を守る目的であれば
いじめをやめさせて終わりではなく、
最後まで、子どもの尊厳を取り戻すところまで
対策を構築しなければならないはずです。

加害者処罰が大声で求められているようですが、
もっと肝心の被害児童の救済の対策こそ立てるべきです。

どうやら、現代の日本の学校現場では、
自死リスクが高まった児童生徒に対するノウハウの構築と普及が
放置されたままになっているようです。

激しいリストカットをしている子どもがいても
リストカットでは死なないと思っているのか、
放置されているようです。

自傷行為は、その時死ななくても
その後確実に死に接近していく行為です。

これらの子どもたちに対しては、
正式な指導は、「専門家につなぐ」
ということしかないようです。

その学校がつなぐべき専門家は、
どのような職業で、具体的には誰なのか
どこにまず電話をするのか。
家庭との連携をどうするか
メリットデメリットをどう説明して判断してもらうか
専門家につなぐ前に応急措置をする必要があるのかないのか
現場では全くわからないようです。

現実に自死の危険のある生徒に対して
何もできないし、しないということに結果としてなってしまっています。

これらの自死リスクの高い子どもに対して
学校が何らかの手当てをする必要がなく、
家庭の問題だ
という考え方もあるかもしれません。

病院への対応などが必要ですから
家庭の意向を無視して行うことも難しいでしょう。
結論としては、それも間違っていないのかもしれません。

また、学校の先生方はいろいろやることがあって忙しく、
子どもの異変に気が付かなければならないというのは
精神的な負担でありストレスが大きいとてもできない
ということも実際にはあるのかもしれません。

ただ、それでよいのでしょうか。

子どもを育てる時に各ご家庭で自死リスクを勉強する
学校は無関係だと割り切ることが
教育現場としてあってもよいのでしょうか。

教育とは人格の向上を目的としたものであって、
知識を習得させる学習塾とは異なります。
命の危険がある子どもを放置して
心配にもならない人たちが
子どもたちの人格の向上に寄与できるのでしょうか。
それこそ絵空事のような気がします。

ただ現状を放置して
やれという結果を命じるだけであれば
それは確かに教師に負担をかけるだけです。
効果も上がらないことでしょう。

そもそも自死対策は、
本来しなくてもよい、無駄 をちゅうちょなく行うものかもしれません。
本当は死ぬ気がないリストカットでも
徐々に死に近づいていると考えれば
今のうちに解決しなければならないでしょう。

心配しているというメッセージだけでも
その子どもの生活に潤いが生まれるかもしれません。
みんなが自分を心配しているということですね。

そうやって心配して声掛けしている中で
誰にも言えなかったけれど、切実に悩んでいた
という事例があるかもしれません。

99%以上は、緊急性が無いことでも
それが一人だけでも命を救ったというのであれば、
やっててよかったと思うし、
やり続けなければならないことのように思うのです。

このようなことを学校現場に言うと
おそらく相手にされないでしょう。
実情と会わないと言われるでしょう。

子どもの命を守るという観点からすると
学校は機能不全に陥っているのではないでしょうか。
まず、できるように環境を変えることが急務かもしれません。

どうやら自死対策は
合理性や効率ということを考えては
出来ないことなのかもしれません。


毎日顔を会わせる大人として、
子どもたちを心配する態度を表すことができないというならば
それをできるようにしなくてはならないということのはずです。

学校で自死リスクについてのノウハウを蓄積し、
家庭と連携を取って自死を予防する
子どもたちの自死予防にはとても効果的であるはずなのです。

日本だけが若者の死亡原因の第1位が自死という事態になっています。
子どもの数が減っているのに自死は増えています。
何とかしなければならないはずです。

子どもたちは日本の将来を背負うのであり、
国にとっては宝として扱うべきでしょう。

いじめか否か、重大事案か否かにかかわらず
みんなで予防をしていく環境を作るべきだと
思うのです。

そして、根本的には、
教育という人格向上の一環として、
子どもたちが活き活きと学校生活を送ることを目標にするべきであり
それによって効果が上がることだと思います。
ゼロの先のプラスを目指すべきであり、
いじめゼロとか自死ゼロばかり目指し
ゼロになればよいという発想では
なかなか解決することが難しいのだと思います。


私たちは、国民として
学校を非難するより先に
学校に何を求めるのか
意思表示をするべきなのでしょう。

私は、学校は、若者の自死予防のベース基地になるべきだと思います。

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一つの困難が解決した時こそ、自死(自殺)の危険性が高まる時 自死予防のためには「人間としてのあたりまえ」を壊さないことしかないのではないか。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]


自死が起きたときに、
なぜ?せっかくこの問題が解決したのに?
と思うことが多くあります。

例えば、派遣労働者で無理難題を押し付けられていて
友人たちの勧めで仕事をやめようと決意したのにというときや
大きなイベントの実務的な責任者になっていて、
そのイベントがようやく終了したときとか、
せっかく悩んでいたことがそれなりに解決したというのに、
その人が自死してしまったという事件を何件か経験したことがあります。

むしろ、そういうときこそ
自死をする危険が高まっているということを
心得ておくことが必要だということになります。

よくよくその事情を調べてみると
どうやら理由があることだということになりそうです。


一つは、うつ病の場合についてよく言われていることは、
最も落ち込んでいるときには、
自死をする気力もなくなっているので
自死が起きにくいということです。

2次関数のグラフ、Uの字のグラフですが、
これを思い浮かべてください。
一番下の底の時よりも、
底の手前の部分やそこから少し右に進んで上向きな状態で
自死が起きやすいというものです。
これもそうかもしれません。


次に、過労死などの事例では、
それまで、言われたこと、やらなくてはならないことばかりを
無我夢中でただ言われた通り行っていたのですが、
例えば仕事をやめるという決意をしたときとか、
イベントが終わりもうその仕事はやらなくてもよいのだと思うときとかに、
自分で自分の行動を決めるという行動パターンになりますが、
そうすると受動的に苦しんでいるより、
積極的に苦しみから解放される手段をとろう
という気持ちのパターンが生まれてしまう
ということがあるように感じます。


また、自死する人は責任感が強い
このため、いやな仕事でもきちんとこなそうとするし、
最後までやり遂げようとしてしまう。
だから仕事が続いているときは自死しようなんて考えない。
それが一段落ついたために、
それまでしたくてもできなかったこと
つまり自死することができる
という気持ちにさせてしまうのかもしれません。

もちろん実際にはほかにもやるべきことがあるのですが、
冷静に全体像を見渡せる精神的な余裕がないために、
一つ終わったということが自死の引き金になるのかもしれません。


私が裁判で主張した論理としては、
解決したのに解決していないことで、
無限に苦しみが続くという絶望を感じたというものです。

その人は、色々な仕事を同時にこなさなければならないという
仕事上の特色をもっていた学校の先生でした。
これはどの先生も同じですが、
特にその先生はいろいろな分野で責任者のような仕事をしていました。

その上、全国行事の事務責任者をしていました。
それ自体が時間を取られ、様々なやるべきことがあった仕事でした。
その全国行事が終了した直後に自死をしたわけです。

全国行事が終了して肩の荷を下ろしたのと同時に、
また翌日から日常の過重労働を行わなければならない
結局、過重労働から解放されないと思うと、
こんなに努力したのにもかかわらず、
何も変わらないという気持ちになると思うのです。

やってもやっても、解放されない
無限の苦しみが待っていると感じ、
絶望が起きても不思議ではないように思いました。

本当はイベントが終わるまでだと思って無理して仕事をしていて
それが終わったのだから
少しだけそれまでより仕事が軽減されるのですが
これまでと同じ過重労働が続いて、退職まで変わらない
と考えてしまうということがあるのでしょう。
これは地獄だったと思います。


実は問題が解決していなかったということもあるでしょう。
派遣先でパワハラを受けていた労働者が
友人の勧めで会社を辞めることにした
これでもうパワハラを受けなくて済むということで
本人も喜んでいたし、友達も安心していた。
けれども、どうやら本人は、自分が辞めることで
派遣元の会社に迷惑がかかる、仕事を打ち切られてしまう
そういう心配をしていたようです。
夢遊病者のように会社からでていき自死をしたようです。


その人が自死しそうだとわかれば、
その人のそばにいることが一番です。
具体的に死にそうになったら止めるというのではなく、
自分を心配している人、気遣う人がそばにいるということを
皮膚感覚で感じてもらい、その事実を脳に刷り込んで、
自死しようという気持ちを起こさせないことです。

ところがこれがなかなか難しい。

別に家庭があるために、その人につきっきりになれないとか 、
危険は分かるけれど遠い所に住んでいるとか

誰がどのように危険に対処するのか難しい場合が多くあるようです。

ただ、黙って近くにいた方が良いのですが、
余計な励ましをして逆効果になったり、
その人の絶望を持て余してイライラして叱責してしまったり
実際はなかなか難しいようです。

むしろ、手紙とか、写真とか
その人がいつでも自分が支持されていることを意識できる方法を
考えた方が良い場合もありそうです。



それより、そのように今にも死にそうな危険があるということが
なかなかわからないことが一番の困りごとです。

自死するような責任感の強い人は、
自分の仲間、家族とか友人の前では、
苦しんでいることを見せないことが多いからです。

ニコニコ笑って、楽しそうにしていた
ということをよく聞きますが、
無理をしていることが多いようです。

その人が苦しんでいるようには見えなかったということと
苦しんでいなかったということはまるっきり別物だ
ということになります。

だから自死を防ぐことが難しいのです。

自死予防の政策にあたっては
その人の感情を推し量ることはできない
そう割り切るべきだと私は考えています。

その人が取り巻かれている客観的状況が
人間としてのあたりまえの状態になっていない
ということを重視するべきだと思います。

働いている人だったら
一週間に一度は会社とはまるっきり関係のない時間を過ごす
これができないことをおかしいと感じなければならないでしょう。

毎晩深夜にならないと帰宅しない
これは人間としてのあたりまえではないとしましょう。
そういう感覚がなくなっているかもしれませんが、
そうだとしても理性で、
家族と夕飯を一緒に食べられないことはおかしいと
歯止めをかけなければなりません。

会社での叱責が、ずいぶん刺激になってしまい
帰宅してもそれを引きずっていたり
翌日や翌々日に持ち越すこともおかしいと感じましょう。

子どもたちも
例えばリストカットがあったら人間としてのあたりまえではないのです。
なにから逃れたいと思っているのか必ず解決しなければなりません。
目立とうとか、関心を引こうということだとしても
それは人間としてのあたりまえではありません。
なぜそういう行動をとってしまうのか
必ず大人が解決しなければなりません。
目立とうと思うのは悪いことではありませんが、
自分を傷つけて目立とうとしたり、
自分の物、立場を傷つけて目立とうとすることは
人間としてのあたりまではないのです。
あきれている場合ではありません。

誰かをいじるとか、からかうということも、
どうやら人間としてのあたりまえではないようです。
やくざの世界ならともかく、
人格を向上させる学校でそれが行われてはなりません。
本人は嫌がることができないものだと心がけましょう。
笑ってやり過ごさなければ負けだと思っているということで良いようです。

一人の子をみんなで攻撃することも異常です。
その子が間違っていたとしても
逃げ場がない状態にすることは大変危険なことですし、
もうやめようよという子がいないなら、
子どもが子どもを裁くようなことはやめさせましょう。


遅刻をしたり無断欠席をしたり、早退したりする場合は
理由が納得できるまで尋ねましょう。
子どもが奇妙なことをした場合は必ず解決しましょう。

校則だから守れという低次元の話ではなく、
あなたが心配だからというモチベーションを持ちましょう

怖がらないで、面倒くさがらないで
子どもと向き合いましょう。

子どものために向き合いましょう。

どうやら今の日本にかけていることは
そういうことのような気がしています。
あたりまえでないことに慣れてしまっているようです。

子どもや部下を大事に思うということよりも
自分の保身のために迷惑がっている大人ばかりのようです。

人間がぞんざいに扱われていることに
慣れてしまっているようです。

若者が尊敬され、尊重される社会ではなくなっているようです。
しあわせということばが
あまり人々の口に上がらなくなったように感じます。
結婚式くらいでしか聞かないような気がします。

ノルマや指図ではなく、
人間が幸せになるために行動する
そういうモチベーションが
当たり前ではなくなっているのではないでしょうか。

人間が群れを作る能力を失い始めているようです。
どんなに文明が発達していても、
それでは、人間の足場は崩れ落ちてしまうでしょう。

本気で人間を取り戻すことを
今からでも始めるべきです。

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小学生、中学生が自死する理由 中高年の自死の原因と子どもの自死の原因の違い [自死(自殺)・不明死、葛藤]

自死の原因を考える場面がある。
事件の解決のために
あるいは自死予防のために
原因の考察は不可欠である。

子どもの自死に関して
原因が思い当たらない場合は、
中高年の自死との違いを意識する必要があるかもしれない。

自死が未来に対する絶望から起きるという側面では、
中高年も子どもも共通であると思う。

人間は
なんかの危険を感じ、何らかの不安を感じた場合、
危険を解消したいという気持が生まれ
危険を解消する行動をとって解決する。
これが生きるメカニズムである。

ところが、解消する行動が見つからない場合
危険を解消したいという気持だけが大きくなってゆく。
それが大きくなりすぎて
危険が解消できるのならば何でもよいという優先順位になり、
本来生きるためのメカニズムだったのが、
危険を解消できるならば死んでも良い
という逆転現象が起きてしまい、
自死に至ると考えている。

中高年の自死の原因と子どもの自死の原因は
ともに未来に対する絶望、
危険解消のための行動が存在しないと感じることなのだけれど、

おそらく、中高年以上と子どもでは、
「未来」や「絶望」のニュアンスが異なるのだろう。

中高年は
自分が過去に築いてきた現在の立場が崩壊することに絶望する
これまで努力や運や挫折の繰り返しの中で
ようやく築いた人間関係や社会的評価、
家族との関係や、仕事の上司や同僚部下との関係
友人たちとの関係が
自分や他人の行為のために
否定されて、なかったことにされる
これまでの長い時間が否定される
いまさら一からやり直すことができない
こういう絶望の感じ方をすることが多い。

子どもたちは、
これからの自分の将来に対して希望を持つことができない
そういう絶望の仕方をするようだ。

中高年は、過去とつながる現在に絶望し、
子どもは、未来とつながる現在に絶望するようだ。

子どもたちにとって
数年後のことでさえ、自分の未来は曖昧模糊としている。
大人は思い出せるだろうか。
小学生が中学生になるとき、
中学生が高校生になるとき、
高校生が数年後大学生や就職するとき
自分のその時を確実に予想できる子どもは少なかったと思う。

つまらないことに不安になっていたはずだ。
それは今思えばつまらないことでも
当時は、取るに足りないことだということが分からない。

進学や就職は新しい人間関係が形成されるイベントである。
自分はすんなりその場の住人になれるだろうか
一人ぼっちになっていくのではないか
という不安は
あたらしい社会に出る喜びとセットで忍び込んでいたはずだ。

だから子どもにとって中学進学、高校進学は、
ただでさえ不安になるエピソードである。
しかし、もう一方の期待も生まれる。
これまでの自分を一区切りつけて
あたらしい人間関係が形成できるのではないかという期待である。
これが裏切られることは深刻な問題となってしまう。

子どもは常にそれまでの幼稚な自分から成長する過程にある。
それまでのなじんでいたはずの自分のポジションが
成長につれて納得がゆかない、不満だと思うようになる。
例えばそれまでは、からかい等親愛を示す行動も
成長の過程の中で苦痛に感じ、いじめに感じるようになることがある。

からかう側の人間も
それまで相手に脅威を感じることなく
自分よりも弱い立場の者だという扱いをしていたかもしれないが、
相手が成長することによって脅威を感じ、
それまでの親愛の気持ちに
よこしまな気持ちが混じってくることもある。
しかしそこに悪意があるわけではない。

進学、新しい社会は、
そのような自分の立場をリセットするチャンスとして
希望を抱くことが多い。

あたらしい人間関係に飛び込む不安と同時に
自分にふさわしい人間関係を築くチャンスでもあるととらえる。

ところが、
あたらしい人間関係が作られるはずが、
古い人間関係、からかわれ、いじられる人間関係などの
自分がなくしたい人間関係が
そのまま新しい人間関係の中でも維持されるとしたら
子どもは自分の未来をどす黒いものに感じるだろう。

あたらしく知り合う人間たちも
自分をさげすみ、軽蔑し
一人前の仲間として扱わない
そういう人間が自分の周囲で増えるということを予想することは
大変つらいことだ。

そして多くの子どもたちは、
次のステップの自分を予想することで精いっぱいだ。
小学生は、自分が中学生になることをある程度予想するかもしれないが
高校生の自分を予想することはなかなか難しい。

中学生は、高校生になる自分をある程度予想できるだろうが
大学生や就職した自分を想像することはなかなか難しい。

もし「次のステップ」が
自分にとって馬鹿にされて過ごすものだと予想した場合、
「次の次のステップ」で挽回できるはずだ
と予想することは至難の業だろう。

だから、小学を卒業しても、中学を卒業しても
自分の立場が改善されず、もっとひどいものになるだろうという予想は、
自分の一生が、ひどいものであって
死ぬまで改善されないものだというように受け止めてしまう
そういうことが考えられないだろうか。

我々中高年にとっての将来は短い
たとえ辛い未来が待っていたとしても
やがて自然に終わるし、
辛さのかわし方、ずるさもある程度身に着けている。

しかし子どもの未来は永い。
辛い未来は、本人にとって果てしなく感じるだろう。
予想もつかない辛い人生を
子どもはかわす方法など知らない。
辛い未来予想を真正面から受け止めてしまう。
あまりにも無防備だ。

大人は、子どもの未来を守るのが一番の仕事なのだろう。
子どもの自死予防は、このように
子どもが成長していくもの、新しい人間関係を築いていくものとして
子どもをもっと把握し直さなければならないようだ。

ちょうど幼稚園のころ、
子どもの未熟な発音がかわいいからといって放置せずに
発音の是正を指導するように、
小学校、中学校の子どもの未熟な人間関係を
今それでうまくいっているからと放置せず、
「将来に向けての現在」という観点から
人間関係の指導をしなければならないのだろう。

子どもたちはもっと尊敬され、尊重なければならない。
おそらくそれが今、一番欠けていることなのだろう。
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命の授業と聞くと怒りをもって反発する理由 真の命の授業とは [自死(自殺)・不明死、葛藤]

命の尊さを教えることが大切だと
イジメや自死の予防の文脈で無邪気に主張する大人たちがいる。
そんな主張を聞くと不安や焦燥にかられる
これでは、自死やいじめは減らない。

命の尊さを誰に理解させようとするのだろうか。

自死を考えている子どもだろうか
そうだとしたら自死がどうして起きるのか
ということをまるで考えていないことになる。

自死は二つの側面で考える必要がある。
一つは、現在の困難な状況から逃れたいのだけれど
逃れられない事情があって
逃れたいという気持ちばかりが大きくなるものだから、
今の状況から逃れられたいあまり、逃れることを
命を維持することよりも優先したくなることから起きる。
それだけ追い込まれているということだ。

もう一つの側面は、
死ぬのはだれでも怖い
しかし、自分が尊重されないことが続き、
自傷行為や自死未遂を起こしながら
死ぬことの怖さに慣れていってしまうということだ。
これが客観的に追い込まれているということだ。

どちらの側面も無意識に、無自覚に
心のほうが変化していく。
自分ではその変化に気が付かない。

自分が命を大切にできなくなっていることに気が付かないから
命を大切にしましょうということを聞いても
「それはそうですね」ということにしかならない。

また、本気で自死をしそうな人に
命の大切さ、尊さを教えることが有効だというのならば、
自死する人は命を大切に考えない人だということになってしまう。
自死する人はこういうこともわからない人だという考えのように
思えてしまう。
これは差別と偏見を植えつける有害な考え方だ。

自死は追い詰められた末の、他の手段を思い浮かばなくなってしまう
そうやって起きる
追い込む環境によって、だれしも自由意思を奪われるのだ。
誰だってその環境におとしいれられれば
自死をしてしまうのが人間だと考えるべきだ

命を大切にしない人というレッテル張りをする人たち一人一人に
私は話を聞きたいと思う。

「いいや、いじめをする人に対して、命の大切さを教えるのだ」
という反応も来るかもしれない。
それこそおかしいと思う。

では、いじめをした人たちは、
イジメられた子の命をなくそうと思ったのだろうか
もしかしたら死ぬかもしれないけれどまあいいやと思って
いろいろな行動をしたということになる。
だから命は大切だというのだろうからだ。

それも違うだろう。
誰も殺そうと思ってやってはいない。

もう一つ致命的な誤解があるように思える。
自死につながるいじめというのが
強烈な暴力や辱めの行為が明確にあるという誤解だ。

自死は、何か強烈な行為があったことによって
起きるとは限らない。
小さな攻撃を執拗に繰り返した結果として、
例えば口をきかないとか
その人だけを非公式な集まりに呼ばないとか
そういうことが継続して
もはや仲間として尊重されることはないという絶望を受けても
人は自死をする。
こういう人たちは強烈のエピソードがないから
自死といじめの因果関係は確認できなかった
ということをいうような人たちだ。

多くの自死の危険のある環境を
平気で放置する人たちなのだろう。

命の授業と聞くと
特に生命誕生とか、命の価値とかいう話を聞くと
いじめ対策は
いじめで死にさえしなければよいんだという根性が
透けて見えるような気がしてならない。

その結果、
どんなに苦しんでも、どんなにつらくても
どんなに怖くても、どんなに悔しくても
とりあえず死ぬな、命は大切だ
苦しみ続けても、辛い状態が続いても
怖さが消えなくても、悔しい状態が続いても
命があればそれでよしという冷たい考えに思えて仕方がない。
追い込まれている人頼りの自死対策は
もはや対策とは言わないだろう。

それは無茶な話だ
それでは自死は防げない。

そもそも
いじめがなければそれでよいのか
死ななければそれでよいのか

もしそうだとすれば、
いじめはなくならない
自死はなくならない。

管理の立場から責任を追及されたくないということが主眼で
生徒の幸せはどこかに置き忘れられているのだろう。

命の授業なんて百害あって一利なしだ。

どうして命の授業なんてことを思いついたか
自死のメカニズムも
イジメのメカニズムも考えず、
つまり原因を考えて対策を立てるのではなく、
イジメによる自死をなくすという結果だけを求めたという
安直な発想だろう。

それによって、傷つく人が生まれ、
守ることができた人を
守る行動をしないで無駄なことをしなければならない。。
これでは時間がもったいない。

自死予防、いじめ予防のための授業ならば、
本当に教えるべきは、
生物としての命ではなく
人間としての命についてだ。

命があるのは、
家畜だってゴキブリだって同じだからだ。

人間が生きるということは何か
人間とは何か
それを大人が自分なりに教えるということが
人間としての命の授業だろう。

人間はひとりで生きられない
集団で生きなければ生きることができない
共存の形を教えるのが人間としての命の授業だ。
それが対人関係学だ。

人間が尊重されるべきだということ
人間の尊重の仕方
大切な人を安心させる方法
こういうことをこそ教えるべきだと思う

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「拡大自殺」論批判 「死にたければ一人で」論争がどちらに転んでも世の中を悪くするしかない理由と理由 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

登戸の事件を受けて
「死にたければ一人で死ね」という
SNSでの書き込みをすることの是非が議論されている。

是ということを臆面もなく主張することについての違和感と
非とする論者の隠れたすさまじい差別意識を説明することが
本拙稿の目的である。

1 「死にたければ一人で」の隠された前提

「死にたければ一人で死ねば」
無意識の前提がある。それは、
・犯人は、一人で死にたいのに、それが嫌だから(怖いから)
誰かを巻き添えにしたいのだから「死にたいなら一人で死ねば」
・犯人は、どうせ死ぬのだから、死ぬ前に
ひとはな咲かせようと、目立とうと多数を襲撃した
・犯人は自分で死のうとしているが、死ぬにあたって
自分に冷たくした社会に復讐しようとしている
だから死にたければ一人で死ねば
ということが隠されていると思う。

無意識の前提が怖いのは、修正が利かないことと
問題の所在が隠されてしまうことで、
刺激的な、印象的な言葉だけが取りざたされてしまうことだと思う。

これらの前提自体が、まず本当にそうなのか
議論されなければならないはずだ。

2 無差別襲撃に対する理解。

一人で死にたくない論、目立とう論、復讐論
全て見当はずれの可能性が高い。
犯人が死亡しているので、真実はわからない。
おそらく犯人自身にも説明ができないだろう。

無差別襲撃の心理、追い込まれるとはどういうことかは
最近(5月30日)述べたので詳しくは繰り返さない。
「無差別襲撃事件の予防のために2 むしろ我々が登戸事件のような無差別襲撃をしない理由から考える。国家予算を投じて予防のための調査研究をしてほしい。」 https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2019-05-30

要点は、追い詰められた事情としては
絶対的孤立
家族、職場、地域その他あらゆる人間関係に仲間として帰属していない
絶望
将来にわたり、どこかの人間関係に帰属することが不可能だという認識
であり、これが起きてしまうと
人間の命に価値観を一切持てなくなり、
他人の命も、自分の命も大切なものだという感覚がなくなり、

人間だからと言って、命を奪うことに
心理的抵抗がなくなる。それをしない理由がないという状態になる。

だから、復讐心がなくてもかかわりのない他者を殺すことができるし、
自分に対する他者の評価を気にしない状態なので、
目立ちたいとも思わなくなっている。
さらには、一人で死ぬことに特に抵抗がないので、
他人を巻き込むことが自分にとって価値があるわけでもない。

おそらく、「たくさんの人間を殺すことができそうだ」
と思ったから襲撃した
とそういうことなのだと思う。

3 一人で死ねば論の幼稚性

友人同士などで、登戸事件のニュース記事を見て
死にたかったら一人で死ねばいいということを話すことについて
とやかく言うつもりはない。
情において十分理解できることである。

しかし、それがメディアに取り上げられる場合は、
不特定多数の第三者に伝わり、
差し障るヒトにも当然伝わるのだから、
デメリットを考えて話すべきことは当然だ。

自分の発言がメディアに取り上げられることを知っていながら、
「言いたいから言った」
というのは、いい大人が言うことではない。
感情を垂れ流すことを恥じないなら芸は成立しないだろう。

4 「一人で死ね」自粛論は、自死の差別を助長する

しかし、より多くの人を深刻に傷つけるのは
むしろ、「一人で死ね」の自粛を呼びかける側だ。
その結論ではなく、その結論に至る過程に大きな問題がある。

こちらも隠された前提、無自覚の前提を持っている。
言い出した藤田氏の提起を超えているようだ。

問題点を際立たせる表現をすると、
「引きこもりの人たちは、自死の危険が高く
かつ、無差別襲撃をしかねない」という前提を置き、
だから、一人で死ねということを言って
無差別襲撃に駆り立てるようなことを言ってはならない
としているのである。

藤田氏の提案にも違和感があったが、
その後に続く一部の論者の主張には嫌悪感も生まれた。

引きこもっている人たちのほとんどは 自死をしないし殺人もしない

自死する人の99%以上は殺人をしない

それにも関わらず、
引きこもりの人や自死する人、自死リスクのある人を
無差別殺人者の予備軍みたいに扱っている
という印象を受けた。
すさまじい偏見だと言わなければならない。

このような論者の共通項があった、
「拡大自殺」という書籍を引用しているのだ。
ネット上での「拡大自殺」は、
それがどうしたという内容のない議論だったので、
その危険性について私も気が付かなった。

しかし、尊敬する江川紹子氏まで
引用していることに危機感を抱いて読んでみた。
その結果、
私の感覚の正しさが裏付けられたと思う。

5 「拡大自殺」の内容

第1章 大量殺人と拡大自殺
私は読むに堪えられなかった。
決めつけと罵倒に終始していると感じたからだ。
やまゆり園事件を中心に紹介している。
事件の確定囚を自己愛性パーソナリティー障害だと決めつけ、
事件、行為について罵倒することは理解できるが、
犯人の「人格」を想像と決めつけで論難している。
そもそも自己愛性パーソナリティー障害だとする
診断上の根拠を示していない。
筆者は精神科医なのであるが、
他者を精神科医として病気だと主張する態度として
このように日常の実務が行われているならば
震撼させられる。

第2章 自爆テロと自殺願望
これは、淡々と専門家のルポを紹介している章で、
それなりに興味深かった。

第3章 警察による自殺
特にコメントはない。

第4章 親子心中
なぜか、圧倒的に事例の少ない父子心中を
週刊誌の記事をもとにして冒頭に掲げ
憶測を交えて論じたうえで
統計的に圧倒的に多い母子心中の話が展開されている。
同一化、利己的というキーワードが出るが、
私には、理解が容易ではなかった。

第5章 介護心中
事例が豊富に紹介されており興味深かった。

終章 拡大自殺の根底に潜む病理
ここの差別の理論的根拠が展開されていた。
第1章よりも読むに堪えない記述であった。

6 拡大自殺論のフロイト派の展開が差別の根源

筆者は、
「自殺願望を抱いている人がなぜ他の誰かを道づれに無理心中を図るのか」
という問題提起を立てる。
これは重大な誤りを含んでいる。
言葉だけを見ると、
「自殺願望を抱く人は、他の誰かを道連れに無理心中を図るものだ」
という隠された前提があることになるからだ。

私のこの文章を読んでいる方々の多くは、
私があげあしをとっているだけだと感じられるだろう。
しかし、そのあとの展開は、
私の指摘が正しいことが明らかになる。

ともかく、
自殺願望を抱く人のほとんどは他者を道連れにしようとしない
殺人をする人の大部分は自死しない
ということが真実である。

それにも関わらず、このような問題提起をするということは、
何も考えていないで書いているか
答えがあらかじめ用意されているための前振りにすぎないか
どちらかである。

この本では後者であった。

この後の展開ではフロイトを引用して
うつ病の患者の苦悩は
「サディズム的意向と憎悪の意向との自己満足」であり、
自殺願望とは、他者への攻撃衝動の反転したもので、
自己懲罰という回り道をとおって、
もとの対象に複数する
と述べる。

筆者は現役の精神科医であり、うつ病の治療も多く手掛けているだろう。
このような理論にのっとってうつ病患者と接し、
治療をしているということになるのだろうか。

この論理の進め方の最大の疑問は、
なぜ、この論理が正しいと考えるのかについて
何ら根拠が示されていないということである。
私には、「フロイトが言ったから正しい」としか伝わらない。
あたかも聖書に書いてあることと違うからといって
地動説を否定したようなものではないだろうか。

さらに筆者はM.ベネゼックを引用し、
「他の誰かを殺そうとする意図なしに、
自殺することはあり得ない」とまで述べ、
畳みかけて「自殺は復讐である」という図式を
無批判、根拠なしに繰り返す。

W.ブロンベルグを引用し、
他殺か自殺かは、復讐という動機の強弱にある
とまで言ってのけている。

これが現役の精神科医の文章である。

フロイトについては、私は
他の認知心理学者よりは大いに評価している。
当時、
無意識を発見したこと、
精神病理には、患者の体験が影響を与えていること
それを発見したことは
全ての認知科学に多大な功績があると思う。
対人関係学ですら
フロイトがいなかったら成立していなかったと思う。

しかし、現在では、日本以外では、
脳科学や精神医学の発展によって、
実務的影響は限定的なものになっている。

フロイトが言っているから正しいという論理は
日本以外では通用するものではない。

正直言って
フロイト派の自死に関するメカニズム理論であれば、
対人関係学の理論の方が
悠に正確で実務的であると
確信している。
対人関係学の自死に関するページ
http://www7b.biglobe.ne.jp/~interpersonal/suicide.html

7 無差別襲撃をする人と自死者の違い

特に「拡大自殺」を引用しながら
「死にたいなら一人で死ね」というなという論者は、
自死者や、自死リスクを抱えている人間は、
無差別殺傷者の予備軍であるという主張になる。

だから、「一人で死ね」というメッセージが伝わると
無差別殺人を起こすという警告をしているのである。
 
この背景として、自殺をするようなものは
自分とは別種類の人間であり、
自分はそのような型の人間の外にいて
その人間を支援する尊い存在だという
強烈な差別意識が感じられる。

先ほど引用した私の5月30日のブログで述べた肝心なことは、
無差別事件を起こすものと
ほとんどの自死事案には大きな違いがあるということである。

無差別事件の加害者は、
あらゆる対人関係の中で孤立していて、
完全に回復については絶望し、
既に人間として生きる意欲をなくしているということだ。

これに対してほとんどの自死者は、
例えば家族を
それは現在の家族が多いが、過去の家族、未来の家族を
大切に、大切にされていたという記憶がある
例えば、友人、例えば行きずりの人でも
大切にしている対人関係があるということである。

この差は質的に全く異なる。決定的に異なる。

8 何が足りないのか。当事者の発言をくみ上げること。

どうしてこのような鼻持ちならない攻撃が横行するのか。
自分の頭で考えていないで雰囲気でものを考えているから
というのが一つある。

もう一つは、
誰かを支援するという第三者的な視点が
最大の問題であることに気が付かなければならない。

これを是正するためには当事者の発言に依拠することである。

自死未遂者の意見、
自死リスク者の意見、
そして自死遺族の意見が反映されなければならない。

これがない限りは、
自死対策は、
差別と偏見を拡大し、
自死予防とは逆行するばかりである。

このことが分かりやすく示されたことに
今回の論争の意味があったのかもしれない。

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いじめを傍観する子どもと大人の心理学 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

平成31年4月19日4月19日(金曜日)
18時45分~20時 アエル28階研修室で
テーマ「学校問題について語り合う」
~いじめ・不登校・教育~
のお話会があるとのことです。
参加費無料、事前予約不要ということなので、
勉強しに行ってこようと思います。

メインスピーカーはスクールカウンセラーもされていて、
直接子どもたちと接している方とのことです。
これは、多業種自死予防ネットワーク
みやぎの萩ネットワークが主催です。

さて、今回は、おとなしくお話を聞いて
自分の見聞を広めるということが目的です。
しかし、良い機会なので、
いじめの問題について、
傍観者の心理についてまとめてみようと思いました。

この記事は
最後にほのぼのすることが書かれているわけではありません。
最後まで不快な思いをするかもしれません。
冒頭申し上げておきます。


1 いじめの傍観者は、秩序と協調性を重んじるタイプの人間

いじめを傍観する人間について、
いじめの加害者と同じように、
冷酷で、自己本位の人間ではないかと
考えている人もいるかもしれません。

例えていうならば、
ナチスドイツのユダヤ人大量殺人を実行した
アイヒマンもそのように考えられていました。

ところが1963年、ハンナ・アーレントの
「イェルサレムのアイヒマン」では、
アイヒマンは机に座って自分の仕事をこなすだけの
凡庸な人間だと研究結果を発表しています。

この主張に対しては、かなり多くの批判が集中しましたが、
スタンレー・ミルグラムは
いわゆるアイヒマン実験(服従実験)によって、
人間が、他者を傷つけることができることを証明しました。

「Stanley Milgramの服従実験(アイヒマン実験)を再評価する 人は群れの論理に対して迎合する行動傾向がある」
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2019-01-05

この実験結果を私なりに大雑把にまとめると以下のとおりになると思います。

1)人間は、自分の属する人間関係において、
  秩序を保ち、秩序に協調しようとする。
2)その過程で、自分の行為によって他者が苦しんでいても
  秩序の形成主体の意向に従い、
  他者を苦しめることを止めない。
3)但し、その場合、他者を苦しめることに葛藤を抱くが、
  種々の合理化をして行為を継続する。
4)但し、自分の行為によって他者が苦しんでいることが
  生々しく感じ取れる場合には、
  秩序に反発することもある。

私は、この観点からいじめの傍観者の心理を
考えてみることにします。

もう少し、上記の結果を現実に即してかみ砕きます。

A いじめる側の権威に服従してしまう。

本当は、不合理な理由でのいじめであるとか、
多数派が一人などを孤立させていて
やってはいけないことが客観的に起きているのに、
そのような評価をしないようにします。

つまり、いじめではなく、当事者間のトラブルだ
と無意識に事態を再構成してしまいます。
そして、トラブル、ケンカは秩序を乱すものであるから、
自分はなるべく関わらないようにしようという意識を作る
ということではないかと思うのです。

いじめる側といじめられる側は、
当然いじめる側が多数派となりますから、
傍観者たちは、
いじめる側を擁護する心理を作り出します。
擁護までしなくても、
批判したり、否定しにくくなります。
いじめる側が秩序を形成しているからです。

B いじめられる側への共感に蓋をする

人間は、苦しんでいる人を見ると自分も苦しんでしまいます。
2歳くらいからこのような共感の能力を発揮してしまうようです。
いくら、対等のけんかが起きているだけだとごまかしても、
実際に苦しんでいたり、無表情になったりしている
いじめられている側の心情を感じないわけはありません。

自分の苦しみを解消したいという要求は
生きていくための要求ですからここでも発動されます。

いじめられる側への共感を止める方法を
無意識に発動して自分を守るわけです。

一つは、いじめられている人間は、
自分の仲間ではなく異質な存在だという合理化です。
いじめられる人の何らかの特徴は、合理化の道具にされます。
それに全く合理性はありません。
自分に言い聞かせるためのおまじないみたいなものでしょう。

それが進んでいくと、
いじめられる側の落ち度、欠点、不十分点を探し始めます。
いじめが正当化されていくわけです。
正義の行動をしているということを自分に思いこませていくわけです。
だいたいの「正義」という言葉はこのように使われます。

「正義を脱ぎ捨て人にやさしくなろう。」
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2019-02-18

ひとたび正義という言葉が表に出ると
いじめは過酷になって行く傾向があるようです。

このようにいじめられる子に対する共感発動を
必死で思いとどめます。
保身という意味合いもあるのでしょうが、
予防の観点からは、
それは人間の権威に対する迎合の本能だと
把握しておく必要があると思います。

いじめられている子が
苦しむ表情をみせたり、泣いたりすると
さらにいじめが激しくなるのも
共感を止めるためのメカニズムです。

C 変わり者を排除する学校

このようないじめに対する傍観が
最近増えているとしたら、
それは、変わり者の否定や
学級委員制度の廃止と教師の無色化が
原因だと思います。

ここでいう変わり者とは、
秩序を重んずることなく、
協調性に価値をおかない者です。

子どもたちを管理する観点からは
教師の言うことを聞かず、勝手なことをして
教室の秩序を乱す者なのですが
それだけに、
秩序を形成する権威に迎合せず、
自分がおかしいと感じたことをおかしいと主張したわけです。

おかしいと言われると、
確かにおかしいと目が覚めるわけですから、
いじめを阻止する行動が多数派になって行きます。
少なくともいじめに協力する人間は減るわけです。

これが、人類史における変わり者の役割でした。
ところが、現代社会、学校教育は
この変わり者を抹殺しようとしています。
障害だ、病気だと決めつけて、
投薬したり隔離してまで、変わり者を排除しようとしている
そんなふうに感じることがあります。

秩序と協調性をヒステリックに重んじる風潮ができるわけです。

学級委員という係がなくなったということも驚きです。
学級委員は役目柄、
「それはやめろよ」というのですから、
秩序や協調性を気にする必要はないし、
級友もそういう役目をしているということで尊重しますし、
級友が迎合する的の権威になりうるわけです。

こうやって、子どもたちが人間関係秩序を学んでいったのですが、
なぜか無くなっています。

このため、迎合する対象を喪失して子どもたちは
本来教師に迎合の対象をもって行くことが
予定されていたのでしょう。
しかし、教師も、
自ら権威を否定したり、
権威を発揮することを放棄している状況が
あちこちで見られるようです。

結局、秩序と協調性を重んじる児童生徒は、
少し突出した行動をとる子ども
感情が豊かな子ども
体力的に優位な子どもに
権威を求めて協調しようとしてしまうのではないでしょうか。
そうだとしたら、これもいじめを傍観する原因になります。

D いじめられる子の心理

いじめられている被害者は、
当然自分をかばってくれるはずだ
不合理や残酷な仕打ちを是正してくれるはずだと思っていますから、
加害者と平等に扱われることは
絶望を感じてしまいます。

自分がいじめられることで、自分が悪いわけではないのに
傍観者から、不快な思いを与えた張本人は自分だと
言われているような感覚になります。

こうやっていじめの被害者は孤立していきます。
その孤立こそが、被害者のメンタリティーを
決定的に傷つけてゆくわけです。


2 単純接触効果、プライマリー効果

さらに、人間は、これまで付き合いが長く強い者が
味方であるという感覚を持ってしまう動物のようです。
私は、この原因の一つとして、
長く付き合ったり、強い結びつきがある相手は
その心情が理解しやすいため
共感を抱きやすいということがあると思っています。

いじめている側との付き合いが長かったり
一緒に行動して喜怒哀楽を共にしていれば、
なんとなくそちらに味方をしたくなるものです。

ひっそりと目立たない子であったり、
内気で感情を表に出せない子が
いじめられる対象になることには原因があるわけです。
それから、友達と深くかかわることが苦手な子も
同じ原因で、共感を持たれにくいということがあります。

元々長く付き合っていた子が
誰かをいじめていても、
それはトラブルに過ぎず、
対等なケンカなのだろうと思いこみを持ちやすくなります。

いじめられる子の恐怖や屈辱よりも
いじめている方のいら立ちや怒りに
つい共感してしまうということが起こりやすくなるのでしょう。

3 少しだけ解決の展望

私は、正義や秩序の過度の強調をやめ、
可愛そうだからやめる
という行動原理を子どもたちに
優先するべき選択肢として与えることが必要だと思います。

また、クラスならクラスを一つの群れとして行動する
そういう習慣づけをする指導を行うことも有効だと思います。
仲間を守るということの体験を意図的にさせる指導も必要でしょう。


4 組織の論理、大人のいじめ

さて、ここまでお読みになって、
正義感の強い方の中には、
こんなまだるっこしい検討に何の意味があるのだ
傍観するなんて卑怯者であり、加害者と同等だと
そう感じている方もいらっしゃるかもしれません。
自分たちの時代ではそのような傍観はしなかった
という方もいらっしゃるでしょう。

しかし、大人の世界でもいじめがあり、
それは、主義主張にかかわらず、
相手を異質のものとして排斥していることで
起きることが多くあります。

大人の世界でもいじめがあって
コツコツと努力していた人たちが
些細なことで全面否定され、
それまでの生き方を変えざるを得ないことがありました。

つい最近もいくつかそのような事例を目にしてしまいました。

加害者は自分なりの大義名分をもって攻撃し
周囲の人たちも、それを注意したりやめさせたりしません。
加害者も周囲の人たちも、
日頃立派なご主張をされている方々です。

と書き出すと、
多くの人たちは、通常不快になります。
子どもの話だと、あまりリアルに苦しみを感じなくても、
(共感しずらい)
大人の話だと、リアルすぎて苦しくなるわけです。
(苦しみを想像しやすい)

当たり前の話ですが
巻き込まれなくてよい争いに巻き込まれたくないのです。
これが権威に迎合する最大の理由なのでしょう。

ちなみに先の大人の例を続けますと、
排除の論理は、
その人と主義主張が違うからではなく、
その人が自分の人間関係の仲間ではないからということでした。

同じ仲間ではないということで
異質性を際立たせて、
苦しみや絶望への共感に蓋をしているのでしょう。

自分の同じグループの人たちの感情や権威に迎合し、
攻撃の理屈を無理やり肯定しているのかもしれません。
この組織の論理がさらに強くなると、
組織外の人間の感情への共感を
自然と遮断できるようになるのかもしれません。

特に目的を持った組織は、
目的遂行が大義名分となり、
人間に対する共感がおろそかになる危険があります。

それは特に注意しないとそうなってしまう
いじめの傍観者の問題を考えながら、
これは、いじめは子どもの問題ではなく
大人たちの生き方の問題が子どもに反映しているのだと
考える必要があるということを改めて感じました。

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日本の自殺対策は道半ば うつ病対策から環境改善総合政策への移行と対人関係学 [自死(自殺)・不明死、葛藤]



日本の自死対策のトップとも言うべき方の
お話を聞く機会がありました。
印象的なことは、
これまでの自死対策は、うつ病対策だったが、
現在の対策は、環境改善に移行してきた
というお話でした。

私は、弁護士の立場から
業務や付随活動で自死を扱ってきた経験から
あるべき自死対策は環境改善だと
言い続けてきました
これがようやく受け入れられたと感じ感激した次第です。

しかし、実際の自治体や国などの自死対策の現状を見ると、
うつ病対策から環境改善への移行は
道半ばであると思います。
自分自身についても、
多かれ少なかれそういう発想に立ち切れていない
ということを折に触れて痛感します。

ここで誤解を避けるための説明が必要でしょう。
うつ病対策を止めるべきだと言っているわけではないことです。
うつ病が改善されれば自死に至らないということもあることです。

問題なのは、これまでは、うつ病対策に重点を置きすぎてきた
ということです。
これには理由があります。

うつ病が自死を招く可能性があるということは
医学的に承認されてきたことです。
うつ病以外の要因については、曖昧模糊としていました。
このために自死対策が医学的に承認されたうつ病対策になっていた
という側面があると思います。

また諸外国の自死対策において
うつ病対策がとられていたという事情もあります。

しかし、うつ病対策に偏重している国よりも
環境改善政策を織り交ぜた北欧などの国の方が
自死者の数、率の減少がみられた
という事情もでてきました。

また、内因性のうつ病以外でも
多重債務による自死、過重労働による自死、いじめ自死
等によって、
外部的事情と自死という因果関係も
社会的に認知をされ始めました。

WHOも自死は防ぐことのできる死であるとし、
社会的要因も強調するようになった。
国も自死は、追いつめられた末の死だとの認識を示すに至りました。

このような背景事情からもうつ病対策偏重から
環境改善を含んだ総合政策に移行してきたわけです。

さらに
うつ病対策偏重には
重大な限界があったことも指摘しなければなりません。

うつ病対策が、うつ病者に対して、
治療を充実させ、社会復帰の諸施策を講じていく、
その結果、生きる意欲を取り戻すという一連の政策ならば、
極めて重要であり、現代においても必要な政策です。

しかし、従来の自死対策は、これとは異なっています。
うつ病者を「気づき」(発見し)、精神科医療につなぐ
そのためのゲートキーパー養成事業に
という図式化された政策を行ってきていました。

ところが、うつ病者を見つけることは
実際には困難なことです。
北海道大学名誉教授の山下格先生の
精神医学ハンドブックでは、
重症うつ病者を除くうつ病者の圧倒的多数は
うつ病を隠すと指摘されていますし、

実際に私が接しているうつ状態の人たちも
よくお話してくれているところです。

相手に心配をかけたくないという気持ちが
自分のうつを隠すということを
自然に起こしてしまうようです。

このため、医者も気が付かず、
順調に治療をしていたつもりが
突然の自死を招いてしまうことがあると
山下先生は注意喚起をされています。

実際は自死のサインなどなく、
あったとしても事前に把握できるものではありません。
それにもかかわらず、
うつ病を見逃した、自死のサインを見逃したと
そういう発想になりやすく
自死者を防ぐ役には立たないにもかかわらず、
自死者の周囲に自責の念を植え付けるだけの
理論になってしまっていたのが実情でした。

また、精神科につなぐのは良いとしても
つないだ後の対策もなく
医師任せになっていたという問題点も指摘しなければなりません。

主訴ごとに(不安だ、眠れない、焦ってしまう等々)
重大な副作用を持つ薬の種類が増えていくという
多剤処方の問題の改善や
居場所のない、引きこもるしかない社会の状況の改善についても
必要性すら浸透されていないのが現場でしょう。

ひとたびうつ病になると
風邪のように短期間で治癒することは多いわけではなく、
長期間社会復帰できない状態が続くことも少なくありません。

うつ病対策に偏重していたにもかかわらず、
うつ病対策自体が結果として十分なものではなかったのです。

そうして、
多重債務や過重労働、いじめなど
うつ状態に陥らせ、判断力を奪う要因をそのままにして
うつ状態になってから対策を立てるということに
批判が起きていたことは自然のことでした。

国は、このことに気がついて、
現在各自治体に
「事業の棚卸し」というユニークな名称の指示を出しています。

これまでうつ病対策とは思われなかった事業に
自死対策の効果があるということを指摘し、
各自治体に事業の自死対策との関連付けという
再評価を求めました。

しかし、各自治体では、
従来の自殺対策=うつ病対策
という図式が浸透しすぎていて、
国がサンプルとしてあげた事業だけが、
その理由も理解されないまま
自死対策関連事業とされているという側面も否めません。

これもうつ病対策偏重の弊害でしょう。


うつ病対策から環境改善を含む総合政策にかわるということは
自死の理解に対する変化も必要となります。

それは、一言で言えば
「自死をする人は、自死になじむ特別な個性のある人
ではなくて、
誰でも同じ環境に立たされれば、
自死をする危険がある。」
という人間観にたつことです。

こういう考えになかなか立つことは難しいようです。
原因として、
臨床医学にしても、臨床心理学にしても
「個別のクライアントの治療」という観点の学問であり、
「当人の症状をどのように改善するか」
という発想になりがちである。
原因をクライアントの中に探す宿命を負っているように感じます。

端的に言えば、ある医学雑誌で、
会社に適応できないのは
労働者側に精神的成熟が足りないからだ
という決めつけで、論を進めている記事がありました。

それは、会社という社会制度は適切に運用されていて、
その場になじめないのは
なじめない側に原因がある
という発想のように感じました。

うつ病偏重の政策の根本的由来もここにあると思うべきです。
だから症状が出現することを待って
症状の改善という政策に疑問を抱かなかったと考えられるでしょう。

臨床医学から公衆衛生的発想に
切り替えが必要なのだと思います。

人間の普遍性にもっともっと着目するべきなのです。
そのような人間観に立った研究が
特に日本では遅れていると感じます。

環境によって、病気ではない人が病気になり
あるいは極端な視野狭窄や自由意思を奪われ
自死に追い込まれています。
この事態を防止する実務的研究が必要です。

どうしても、「こころ」の問題が絡みますから、
話が哲学的隘路にはまり込んでしまう傾向があります。
そうではなく、
自死防止、視野狭窄防止の範囲で
人間を理解すればよいのです。
それ以上の複雑な部分も認めつつ、
快適に、幸せに暮らすことができればよい範囲で
研究すればよいという実務的な学問です。

その範囲では、人間はそれほど大差がない
そう思います。

私は対人関係学という考えを提唱してきました。

簡単にいうと、

人間は、群れの中で尊重されて生活したい
という本能的要求がある。(所属の根源的要求)

群れの中で尊重されない事情があると
生命身体の危機感と同様の生理的変化をともう
危機感を感じる(対人関係的危険)

危険を感じると危険を解消したい要求が出現する
これに基づいて、
恐怖を伴う逃走
怒りを伴う闘争(攻撃)
という危険解消行動を行う。

対人関係的危険についても群れにとどまる志向をしてしまう。

しかし、群れの中で尊重される方法がないと認識すると
危険解消要求は極限まで高まってしまう。

現在人間は複数の群れ(家族、職場、学校他)に所属しますが
すべての群れでこのような反応を無意識にしてしまいます。
だから、例えば家庭に問題がなくても
学校でいじめを受けていれば、
危険解消要求が極限まで高まってしまうことも
よく観られることです。

危険解消要求が昂じると
複雑な思考ができにくくなり、
将来的因果関係、他人の気持ちという思考能力が低下し、
折衷的な志向ができなくなる二者択一的な思考に陥り

生存要求よりも危機解消要求が強まってしまう、
現在の危機感を解消することが何よりも最優先事項となり、
自死、離婚、退学、犯罪、いじめ、虐待などの
行動に出ることを制御できなくなる

従って、最も重要なことは
対人関係的危険を起こさないようにすること
適切に解消すること、
ということになります。

ただ、現在の段階では、
何が対人関係的危険を感じさせることなのか
ということを
共通認識にしていくことこそが
求められているように思われます。

知らず知らずのうちに
対人関係的危険を起こさせていることが
余りにも多いようです。

もし、この対人関係学の概念が正しいとすればということになるでしょうが、
どうやって、このことを多くの人に理解していただけるようになるのでしょう。
とりあえず、
あきらめないで頑張っていこうと思います。

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