いのちの電話さんとの対話 自殺予防政策とコミュニティーについて改めて考えた [自死(自殺)・不明死、葛藤]
いのちの電話の相談者の方とお話する機会がありました。
それまでに私が聞いていたいのちの電話の概要をお話しします。
いのちの電話の相談者さんは基本的にボランティアで行っているようです。ただ、実際に電話を受けるためには数年間(あるいはもっと)の研修を受けるとのことです。確かに頭で理解していても、電話で話すと失敗するということはありうることなので、いろいろな角度から実践的に研修をするのでしょう。
相談対応の方法ですが、基本的に行動提起はしないようでした。これは弁護士の相談対応とはだいぶ違うので、あまり理解ができないところでした。
ところで、自死予防とはいくつかの段階に分けられています。
一次予防とは自死リスクのある人に働きかけてリスクを軽減すること
二次予防とは自死をしようとする人の行動に介入して自死を止める
三次予防とは自死した人の遺族に対するケア
です。
私は、もっと早期に対策するべきだということでリスク者を作らない0次予防も自死予防政策として位置付けるべきだと主張しています(「自殺問題と法的支援」日本評論社)。
さて、私は、力を入れるべきはゼロ次予防だという考えです。その他の予防ももちろん大切ですが、一度リスクができてしまうとなかなか根治が難しいということがあり、リスクを作らないことが肝心だと思っています。
自死リスクとは、その人が置かれている状況だけでなく、その人の心理状態もまじえてアセスメントされるべきことですが、客観的な状態からリスクが生まれる可能性を判断して心理状態においてリスクが生じないようにするという政策がゼロ次予防ということになります。
一番は孤立があるところで、孤立の解消を進めていくという政策になります。つまり、コミュニティーを作っていくという作業がその中核になるはずです。
国の自死対策が内閣府から厚生労働省に移ったあたりから、このようなゼロ次予防に力を入れるようになったような気がします。自死予防政策の流れはこうなると、これまでは思っていました。
ところが、自殺予防地域総合計画を各自治体が策定するあたり(平成30年ころ)から、少し様相が変わってきたような気がします。「棚卸」という概念が導入されたあたりです。これまで気が付かなかった自治体の活動について、ゼロ次予防の観点から自死予防に役に立つ活動をしているはずだから、その観点から見直して、その活動も自治体の自死予防政策の内容として掲げるようになったのです。当初は、自治体の職員が、行政活動は自死予防活動であるという自覚をもって公務に当たるようになれば自治体の在り方も変わるのかなと期待をしていました。
しかし、どうやら、自治体から国に向けた報告が増えただけで、これまでの行政行為が単純に継続しているだけで、何らかの変化が無いだけでなく、本来の一次予防、二次予防、三次予防が薄くなったような印象を受けています。少し意地悪な感想でしょうか。
こういうことに気が付いたのもいのちの電話の方とお話ができたからです。いのちの電話にかかってくる深刻な電話は、まさに電話がつながらなかったら自死していたようなシチュエーションでかかってくるそうです。
弁護士の職業病としては、死のうと思った原因は何か、その原因をどのように解消するかということを考えて、相手と相談し。アドバイスをしようと考えてしまいます。しかし、いのちの電話は違うようです。
原因はどうあれ、今の気持ちを聞いてもらいたいから電話をするようです。極端に言えばただ相談者は話をして、担当者はただ話を聞くということのようです。こういうと誤解されるかもしれないのですが、案外これが難しいし、案外これがうれしいもののようです。
孤立した人が、死の間際に、一時的ではあれコミュニティーに帰属する、そうして生きる意欲を取り戻していくということのようなのです。
(オープンダイアローグに似ている感じを受けたのですが外形的には全く違います。オープンダイアローグの本質が、このコミュニティーの形成ということなのかもしれないとも思いました。)
まさに二次予防とはかくあるべきというような強烈な印象を受けました。ゼロ次予防から三次予防までも、結局コミュニティー形成の観点から再構成する必要があるのではないかと考えている次第です。
いのちの電話はなかなかつながりにくいということを聞くことがあります。ボランティアでの仕事ですし、十分な研修をしなくてはならないので、電話の担当者がどうしても足りません。しかし、命を救うということに関しては大きな効果があります。
国は、ボランティアに頼らず、このような二次予防の対策をどんどん構築するべきだと思います。また、それができないならば、このような団体にこそ少なくても財政的支援を行うべきだと思いました。
自死の理由の推測について 立花さんと意見が違うところ 過労自死の代理人は自死の原因をどのように考えていくか 兵庫県議会問題⑥ [自死(自殺)・不明死、葛藤]
自死の理由、その人が自死に至るプロセスということはよくわからないというべきだと思います。その人の人生の歴史から遡って、何が心理的負担になるのか、どの程度負担になるのか、そしてその負担にどこまで耐えうるのかということについてはよくわかりません。本人ですら説明ができないことだと思います。無意識の在り方が原因に占める割合が大きいという言い方もできると思います。
しかし、私は過労死を担当している弁護士です。その死の理由について、過重業務が原因だということを主張することが仕事ですから、自死の原因を考える仕事だという矛盾があります。
私としては、こういう過重業務があって自死したとするならば、災害であれば災害補償法の趣旨、損害賠償であれば公平の観点から、その過労死は過重労働が原因だというべきだという場合に労災認定や損害賠償請求が認められるのだと思っています。どうしても、一種の擬制が入ることはやむを得ないと思うのです。
今回文書の作成者の一人とされている県民局長さんが自死されました。これはとてもいたましいことです。議会やマスコミは、知事のパワハラが原因であると実質的に決めつけたことを言っています。これに対して立花さんは、パソコンの不適切な記録が公になることに心理的負担を感じて自死したのだという言い回しをしているように思われます。
どちらの見解にも私は疑問があるのです。こういう場合、私の思考パターンは、先ず時系列を確認することから始まります。
3月12日 怪文書がマスコミや議員に配布された
3月20日 知事が怪文書を入手
3月21日 怪文書の出どころなどの調査開始
3月25日 局長さんの使用していた県のパソコンを押収
3月27日 局長さんの懲戒処分の可能性を記者会見で発表
4月4日 局長さんが公益通報窓口に正式申請で受理
5月7日 県は局長さんの3カ月停職の懲戒処分を発表
6月13日 兵庫県議会で百条委員会設置
6月17日 百条委員会に局長さんが呼ばれる
7月7日 局長さんが死去される。
7月19日 局長さんが百条委員会出席予定日だった。
もう一つ付加事情として、
3月12日の怪文書は一人で作成配布したわけではなく、県議が関与していたという話しがある(裏どり未確認)
百条委員会に呼ばれる前後に、「穏便に済ませてほしい」とある県議にお願いしたが、知事をつぶすチャンスだから最後まで頑張れと激励された(裏どり未確認)
その他知りたい情報としては、自死前の局長さんの精神状態ですね。私が過労自死の労災申請を担当する場合はご家族が依頼者なので、十分に聞くことができます。それでも、単身赴任とか一人暮らしの場合は、情報が集まらないことがあります。それでも行きつけの居酒屋や協力してくださる同僚の方がいれば、聴取します。
裏どりがはっきりしないのですが、上の二つの付加事情はとても重要なのではないかと思っています。
百条委員会の前に、局長さんが「穏便に済ませてほしい」と言ったとするならば、遡って考えると、3月12日の怪文書の作成と配布も、本人の意思ではなかった可能性があるとみています。前にアップしたいじめの記事を参照していただければ幸いですが、いじめの端緒を作ったリーダーも、そもそもそこまでいじめのターゲットになった子を攻撃したいという気は最初はそれほどなくて、後戻りできなくなり攻撃を続けるということがあります。引くに引けなくなるなんてことは想定していなかったということです。本当はその子は、いじめのターゲットになりたいこともっと仲良くなりたかったとさえ思っていたということが実際に複数件ありました。未熟な子どもの気持ちに基づく衝動的行為がいじめになってしまうわけです。
局長さんは怪文書の原案みたいなものを作成したことは、文書の内容から推測できるのだと思いますが、局長さんだけの知識でできるものでもないということも推測できるようです。これは、元副知事が百条委員会で呼ばれた時に応えていて、これはユーチューブで公開されている方の委員会です。【兵庫県議会】令和6年9月6日午前 文書問題調査特別委員会(百条委員会)
そうだとすると原案みたいなものを作成したのが局長さんだとしても、それを完成させて配布したのは別の人だという可能性も出てくると思います。
そして百条委員会に出席することが嫌だったのは、これ以上知事を攻撃することになることが苦しくて仕方がなかったということである可能性が高くなるのではないでしょうか。どうしても出席したくないということが引き金になった可能性が時系列からは高いように思われます。(但しその前のどれかの時点で精神症状がすでに出ていたというならば別)
おそらく自分が最後までは関わっていない文書で、しかもそれで知事の評判を下げる実際の行動に出るために作ったわけではないのにそういう風に使われてしまったことが苦しかったと考える余地は大いにあると思います。
特にマスコミの知事に対する総攻撃を目の当たりにして、それが自分が原因とされていることを気に病んでいた可能性があると思います。そして、知事の被害者のチャンピオン的立場として、百条委員会で発言することを誰かから言い渡されていたとすれば、その苦しみは限りなく大きなものになったのだと思います。
そうだとすれば、局長さんが自死した理由は、パワハラや懲戒処分ではなく、どうしてもやりたくないことを強いられたからと整理することができるのではないでしょうか。時系列的にはそう考えることの方が自然だと思います。
また、パソコンを没収されたのが4月25日で、7月7日に亡くなっていることから、局長さんはパソコンの中身が知られることを恐れて自死したとすることも少し無理があるような気がするのです。また知事側はパソコンの中身については口を閉ざしていました。
自死は局長さんの自業自得ではなく、やはり追い込んだ人がいるのかもしれません。知事に責任転嫁している人たちが追い込んだ可能性さえあるように思われます。
ご冥福をお祈り申し上げる次第です。
名取市中学生飛び降り事件 第三者調査委員会解散、こちらの要望通り調査委員を再検討して調査をやり直すことが決定 しかし本人は飛び降りの影響で急死 [自死(自殺)・不明死、葛藤]
先月書いた記事【なんぼなんでもまずいだろう】名取市中学生自死未遂 匿名の第三者委員会は本人も家族にも事情聴取がないどころかなにも連絡なし 法律の無知無理解、文科省の方針の無知無理解:弁護士の机の上:SSブログ (ss-blog.jp) https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2024-07-19
の続報です。
遺族側は、いじめ調査委員会を解散して新たに調査委員会を立ち上げろと要望し、この度、その要望が通ったことが名取市教育委員会から連絡がありました。これからまっさらな状態で、委員が選任されて、調査が始まります。
これまでの報道によると、名取市の山田司郎市長に、積極的に動いていただいていたようです。大変ありがたい話です。
それにしても、半年以上会議を行い、ほとんど結論が出ていた段階だったという話しもある中、それらをすべてゼロにするということは勇敢な判断であることは間違いなく、解散やり直しを決めたいじめ調査委員会(常設、委員名は匿名)の各委員には敬意を表してよいと思います。
こちら側の要望通りだったのですが、ひとつ取り返しのつかないことが起きてしまいました。
転落して闘病中の生徒さんが急死されてしまいました。転落したことにより脳挫傷が起き、てんかん発作のような発作が起きやすい状況になっており薬は服用していた状態でした。あとで判明したことですが、実際はその後も8月に亡くなるまで小さい発作が起きていたようでした。その発作が大きい発作となり、このため心臓が動かなくなる事態となり、お亡くなりになったということでした。
令和5年12月に自死企図を図ったときは、学校のいじめから逃れられないという悲観的思いで追い詰められていきましたが、その後入院していましたので、全くいじめの無い状態で過ごしていました。私も何度か会って話をしたのですが、人懐っこくフレンドリーな少年でした。いじめがあって悩んでいたこと、転落して左半身打撲、骨折があったこと等何も感じさせないナイスガイでした。
発達障害(自閉症)ということもよくわからないままでした。
いじめが無い状態で自分の将来を考え、入院の経験もあったからでしょう。1年遅れましたけれど、来年高校受験をして、看護師を目指すという目標も生まれていました。暑い中、元気に学習塾に通っていたそうです。希望に満ちたきらきらした青春が、発作によりぷつんと途切れてしまいました。
実は私は、その彼が亡くなったことも、信じられず全く実感が持てないでいます。
確かなことは、調査委員会を再出発しても彼から直接話を聞くことができなくなったということだけです。
彼の手記と供述録取書だけが残りました。
さて、これから新たに調査委員会が選任されます。最後にどのような人が調査委員会に加わるべきかということを考えます。
先ず、学校関係者は委員になるべきではありません。今回は、校長経験者2名とスクールソーシャルワーカーがはいり、委員長と副委員長もここから出ているということがマスコミ関係者から教えられました。これがそもそもの問題だったわけです。
今回の調査委員会が行うべきことは2点。いじめの存在及び実態解明とその背景としての発達障害特別支援教育の実態です。本件の問題点としては、
1 一人教室で授業を受けるだけでなく、給食時間、一定の教科は普通学級の教室で行った。しかし、普通学級の生徒たちに対して事前のレクチャーなどが不十分であったため、「身近にいるよそ者」という扱いをされていた。
2 いじめの事実を教師に言っても、相手にしてもらえなかった。本人に何らかの原因があるかのような態度を取られた。あまりにも苦しいので保健室に行かせてくれと懇願したが教師によって拒否された。
3 小学校4年生の時、担任が始業式の翌日から産休に入り、1年間担任不在で知的障害のクラスや普通学級の教室で過ごし、発達障害の特別支援を受けられなかった。
4 発達障害支援の担任が不在の時など、よく知的障害のクラスで、折り紙織などをさせられていた。
こういう問題点がありました。だから、発達障害教育の研究者にはぜひ委員に参加していただきたいと思います。また、「身近なよそ者」という扱いがいじめの発言そのものだったことから、心理的な側面でよそ者を排除する心理ということを研究している心理学の研究者にも入っていただきたいと思います。
事実認定に関してはやはり弁護士が必要だと思います。仙台弁護士会の子どもの権利委員会の推薦であれば確かな弁護士を推薦してくれるでしょう。
とにかく、彼のようにまさに生きようとしている中で命を落としてしまうような痛ましい出来事を無くすことが一番です。そのための調査のはずです。改めるべきところを大いに改めていただくために、調査のやり直しに思いを託することとしたいと思います。
【なんぼなんでもまずいだろう】名取市中学生自死未遂 匿名の第三者委員会は本人も家族にも事情聴取がないどころかなにも連絡なし 法律の無知無理解、文科省の方針の無知無理解 [自死(自殺)・不明死、葛藤]
昨日の母親の記者会見の概要です。
https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/1303500?display=1
事案は、名取市の中学3年生が、昨年12月に校舎の3階のテラスから飛び降りて一命はとりとめた者の重傷を負った事案です。
私が考える本件での突出した問題点
1 本人や家族から事情を聴けるのに、事情聴取をしていないこと
2 事情聴取どころか連絡も一切ないこと
3 第三者委員会の委員の氏名を公表していない匿名調査であること
以下解説します。
1 本人や家族から事情を聴けるのに、事情聴取をしていないこと
これは大問題です。本人に事情を聴かなければ、何を調査するか見えてこないからです。本人がどのようなことを体験し、どのような思いを抱き、どうして自死に至ったかということがわかりません。いじめを受けた人が亡くなってしまったらこれがよくわかりません。大変苦労するところです。ところが、本件は生きているのです。話を聞けるのです。
それにもかかわらず、事情を聴かないというのであれば、何を調査するのかわかるわけがありません。本人から事情を聴かないで始めた調査です。これでは、いじめの有無や、自死との因果関係について、真面目に調査して判断しようとしていないとしか言いようがありません。
これに対して名取市教育委員会は、男子生徒の心情を配慮して聞き取りを行っていなかったと言っているようです。
まさに傲慢の極みです。本人の心情を尋ねてもいないのに、本人の心情はこうだと勝手に決めつけているわけです。他人の心情について、会っても話をしてもいないにもかかわらず自分たちはわかっているというのですからあまりにも傲慢だと思うのです。
また、学校や生徒から話を聞いているとも言っているようです。学校や生徒たちは、本人を自死にまで追い込んでいた人たちです。そちら側からは情報を得ているという話しは、偏頗(へんぱ)で不公平であることに気が付いていないわけです。これもひどい話です。
本人がいるのだから、本人がどのような体験をしたかを聴取して、その事実があるのかを調査するのが順番のはずです。
2 事情聴取どころか連絡も一切ないこと
いじめの重大事態の対応について、文部科学省初等中等教育局児童生徒課が説明をしています。もちろん、ここでは児童生徒から話を聞ける場合は話を聞くということが述べられています。そればかりではなく、大きな項目で、「いじめを受けた児童生徒及びその保護者に対して情報を適切に提供」することが記載されているのです。その中で「いたずらに個人情報保護を楯(たて)に説明を怠るようなことがあってはならない。」はっきり述べられています。
7か月も放っておかれることは文科省の態度を全く無視した名取市教育委員会と第三者委員会の独自の立場を示しています。あえて国の姿勢を無視することに何か合理的理由があるのでしょうか。いじめ防止対策推進法事態を理解していないかあえて無視しているかどちからです。いずれにしても不適切な態度です。
3 第三者委員会の委員の氏名を公表していない匿名調査であること
これもいじめ調査第三者委員会の歴史上突出していることです。わかりやすく言えば前代未聞です。
やはり先ほどの文科省の説明では、調査委員会の構成については、「当該いじめ事案の関係者と直接の人間関係又は特別の利害関係有しない第三者の参加を図ることにより、当該調査の公平性・中立性を確保するよう努めることが求められる。」としています。
誰が調査委員かわからなければ、いじめの関係者が入っているかいないかわかりません。文科省の説明は調査委員の氏名を公表することが前提となっているのです。職業的に弁護士や心理の専門家、精神科医と説明されても、それが誰なのかわからないと公平な人たちが選任されているか、本当にその職業の人なのかわかりようがありません。これまでのいじめ調査の第三者委員会で匿名で調査を行うなんて聞いたことがありません。生徒や学校に調査をしていると言っていますが、匿名で調査をしたのでしょうか。文書回答だけの調査なのでしょうか。調査の質も問題視してなくてはなりません。それほど前代未聞なのです。
また、いじめの問題は学校が舞台である以上、学校側の問題点もあぶりださなければなりません。本件でも、いじめをその都度相談しても何も対応をしてくれなかったという訴えがあります。教師の対応がいじめを助長した節もあります。
ところが、教育委員会関係者の場合は、そのことが過小評価されやすいわけです。この人なら大丈夫だと教育委員会がいくら言っても、何せ名前がわからないのですから信用しようがありません。このため文科省は委員が誰が見ても公平な人物をそろえろと指導したわけです。
本件の調査委員に、校長退職者が2名も入っているという河北新報の記事があります。その上にスクールソーシャルワーカーもいるというのです。まさに教育委員会側の人間が入っているということです。まさか、その二人が調査委員会の委員長と副委員長というわけではないでしょうが・・・・
以上のような理由から母親は、このような匿名の調査委員会による調査は初めから十分な調査でも公平な調査でもないと主張し、このような調査を続行している委員全員が文科省の方針や法律を知らないか理解していないかあえて無視しているということで、委員会の解散と新しい第三者委員会による再調査を申し入れたとのことです。
この問題を放置してしまえば、大津事件以前に戻る道を作ることになってしまいます。大津事件などの反省を踏まえてできた法律を踏みにじる活動は改めなければなりません。
【SNSの危険性の注意喚起】脚本家の投稿への支援的なコメントが凶器になる理由 正義感、同情が第三者を傷つけることの好例 それにしても脚本家の仕事って・・・ [自死(自殺)・不明死、葛藤]
才能あふれる漫画家が、原作のテレビの実写化にあたって、テレビ局が制作した内容が約束に反して原作から逸脱していることから、SNSなどでのいくつかのやり取りの後に、先月自死されるという痛ましい出来事がありました。
そのことについての詳細はわかりません。今回のテーマはそのSNSのやり取りの方です。
その実写化の脚本を担当された方が、全10回の放映のうち、8回は自分が脚本を書き、最後の2回分は原作者が脚本を書いたので、最後の2回が面白くなかったとしても自分の責任ではないということと、このように脚本の担当を外されたことの不満をインスタグラムに投稿したようです。
この投稿に対しても、原作へのリスペクトが足りないなどといった批判がネット上で上がっていましたが、今回はこちらの問題も脇に置いておきます。
問題として取り上げるのは、この脚本家のインスタグラムの投稿に対して、同業者の一人が、その脚本家の苦悩というか外された悔しさというかそういうことに共感して、支持的なコメントを出したことがテーマです。
このコメントを出した人は、おそらく善意でコメントを出した良い人なのだろうと思います。ご自分もそのような悔しい思いをしたこともあるのでしょう。最初の脚本家も、そのようなコメントをもらって、自分の感情は正当であり、自分は尊厳を傷つけられたと承認してもらったことで、少しは気持ちも落ち着いたことと思われます。
ただ、善意の良い人で終わりませんでした。このコメントは、脚本家に対しては暖かい、善意あふれるコメントになりますが、原作者にとっては攻撃を受けていると読めるわけです。原作者が自死されたことによって、このコメントが自死と関連付けられて炎上してしまいました。
原作者は言い分が言い分がもちろんあるわけです。一般論ではなく、自分の作品の大切な部分は改変してもらいたくないという意思表示を事前にはっきり伝えていたとのことです。少なくとも原作者はそう認識していたようです。それにもかかわらず、その大切な部分が改変されているので、脚本に手を入れるようになり、最終的には最後の2話分を自分で手掛けたというところまでいきました。おそらく、事前に「どんな改変でもよいよ。」なんてことであれば、テレビ局も原作者の脚本への口出しや自らの脚本執筆なんて許さなかったと思いますので、そこから考えると原作者の言っていることの方が信用できるのかなという推測は成り立つでしょう。
原作者としては、「最初の約束を守ってもらいたいだけだったのに」という気持ちがあったと思います。また、繊細な作風の原作者としては、キャラクターや話の流れの一つ一つに思い入れがあるのだと思います。
だから、脚本家のインスタグラムの投稿は、原作者にとっては、「自分のわがままで脚本家を侮辱した。」と非難されたと受け止めたのではないでしょうか。
インスタグラムに限らず、SNSの投稿の特徴は一方的であることです。それに対して効果的な反論をすることは大変難しいです。また、字の数が多いと誰も読みませんので、背景事情まで説明して反論することは難しいと思います。かなりのストレスにはなるはずです。
脚本家の投稿にコメントを出した人は、「そこまで考えていなかった」ということでしょう。
コメントを出した人は、善意で
当初のテレビ局と原作者の約束も知らず、
どのような改変がなされたのかも知らず、
「脚本家が役を下ろされた」ことの憤慨に対して共感を示したということになります。
これがインスタグラムではなく、家庭の中の会話や友人同士の会話ならば、コメントを出した人の発言は、善い人ということになったと思います。問題はSNSというツールをつかったコメントだということに問題があったのだと思います。
人間と人間が対立している場合に、SNSというツールを使って一方を支援するコメントをすることに当たって考えなければならないことは、
不特定多数の人が見ること
もめている他方の人も見るということ
その他方の人は、コメントを出した人間が、自分が読むことを気にしないで、あるいは意識して発信していると感じること
もめている人の一方を、その人は擁護していると感じること
それはとりもなおさず、他方の自分に対する非難に加担したという意識が生まれること
また、実態も知らないでのコメントだと分かったとしても、インスタグラムの影響力から、自分の周囲の人にも読まれてしまい、自分の立場が悪くなるということを直感的に感じてしまうこともよくあることです。
そして、元の脚本家の投稿や、それに対する支持的コメントに対して、自分以外の誰も反論してくれなければ、「自分の味方だと思っていた人が自分を助けてくれない」という意識になりやすいということがあるようです。これはいじめを受けた人の心理です。加速度的に孤立感を深めていきます。
コメントをした人は、ただ、考えが足りずに無責任にコメントしただけの人だと思います。われわれとしては、「SNSというツールがこのような危険性を持ったツールだ」ということを意識する必要があると警鐘を鳴らした事例と捉えるべきだと思います。
ただ、とても疑問なことがあります。ある人のセリフによって、そのセリフの相手や、せりふの相手につながる人が反応を示し、またその相手なりがセリフや行動を起こして、元々の人が反応を示して、ドラマは進んでいくのだと思います。そして、それを視聴者が「なるほどそうだね。」とか「そんなこと言えばそうなるの当たり前だろう」、「あれあれ、この続きはどうなるのだろう。」等と制作側が意図した反応を示して、視聴率も上がり、制作側は「してやったり。」と思うのだと思うのです。
自分の発言や投稿に、他人がどう反応するか「そこまで考えなかった」人たちが、一般視聴者に反応を起こさせるテレビドラマを制作することが本当に可能なのでしょうか。プライベートと仕事では意識を切り替えることができるということなのでしょうか。それが私の疑問でした。
あなたの健康と行動の異変は、不合理極まりないパワハラによるものかもしれません。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]
事務所のホームページ記事の原稿を転載します。いろいろと工夫を試みてみます。
1 パワハラを受けた時に出現する体と行動の異変
これまで多くのパワハラ事件(自死の労災申請、うつ病など精神疾患の労災申請、損害賠償、改善請求、継続相談)を担当してきました。(私の労災事件実績を参考にしていただければ幸いです。)ホームページ用なので・・
多くのケースで共通する様々な異変について、先ず紹介します。すべての症状が現れるわけではありません。
・ 体に現れる異変 体重減少。特に朝に吐き気がする、実際に出勤途中で吐く場合もある。朝目が覚めてもなかなか布団から起きられない。全身の倦怠感。頭痛。難聴。味覚障害。
・ 行動に現れる異変 いつもの時間通りに家を出るが、会社の近くでぎりぎりまで出勤しない。集中力が続かない。記憶が飛ぶときがある。注意力が著しく減少している。ルーティンのような趣味の活動をしたいと思わなくなる。推し活とか、定期的に購読していた雑誌に手が届かないとか。家族に八つ当たりしている。あるいは、休日は家に閉じこもりがちになる。
・ 心に現れる異変 自分が低いレベルの人間だと思う。自分は仲間に迷惑をかける存在だと思う。自分は世の中に不要な存在だと思う。何かを壊したい。自殺をする自分を想像してしまう。家にいても、不意に上司から叱責をされた時の感覚が突如よみがえり苦しくなる(具体的な出来事を思い出しているわけではない)。悪夢を見る。理由もなく何か悪いことが起きるのではないかと感じて敏感になる。現実感が無くなり、すべてが他人事のように感じる。
これらの症状は、長年パワハラを受け続けて起きるというよりも、2か月程度のパワハラでも起きるケースが複数件ありました。
2 パワハラで苦しむ人の多くに共通する性格
1)真面目で正義感が強い。
2)責任感が強くて素直。
3)能力がある。
本当は、会社に行きたくないのに、「会社には遅刻しないでいかなければならない。」ということを強く意識しすぎるわけです。体はもう限界で、何とかストップをかけようとしているのに、色々なアクシデントを想定して家を出ていきます。でも出勤したくないという気持ちが強いため、会社の近くのコンビニや自家用車の中で時間をつぶしてぎりぎりに出勤をするひとがとても多いです。
上司などから言われたことは遂行しなければならないと思います。これも当たり前と言えば当たり前のことなのですが、度が過ぎるようです。「できませんでした。」と言うことができないようです。「上司は自分のできることでは無ければ命じないはずだ」と無意識に思ってしまい、「できないのは自分が悪い」という発想になじんでしまいます。そして業務遂行能力があるため、無理なこともやろうとしてしまいがちです。
極端な話、「嫌なものはやりたくない」とか、「無理っぽいことはできないからやろうとしない」とか、「どうせ自分は能力が無いので、できないことはできない」とすでに割り切っている人は、同じパワハラを受けても、「また怒られちゃったよ。」と笑いのタネにしたりして、あまり気にしていない人は実在します。
能力があると、会社の無理なノルマも時間をかけても達成させようとしてしまうし、ある程度達成できてしまいます。上司は「この人の尻を叩けばセクションのノルマが達成できる」ということで、他の人よりも厳しく当たることがあるようです。
いずれにしても1)真面目で正義感が強い。2)責任感が強くて素直。3)能力がある。という人は、過労死をする人に当てはまる特徴でもあります。会社は業績を上げる社員に対してパワハラをしてさらに苦しませていることをしているわけです。これでは生産性も低下していくことでしょう。
3 身体症状が出るメカニズム
頭痛、吐き気、朝に起きられなくなるその他の身体症状ができる理由は、身体(脳)が行動をストップさせていると考えられないでしょうか。例えば足首をねんざする(軟骨や筋肉繊維の挫滅)と、痛くて歩けなくなります。このおかげで歩かないでいると、足首が回復して歩けるようになります。ところが、痛みを感じないで歩き続けると、いつまでも負傷が回復しません。痛みは行動を止めて体を回復させると考えられます。
比ゆ的に言えば、心が負傷しているのに、その原因を繰り返そうとすると、回復できなくなることを恐れて、体のどこかに不具合を起こして行動をストップさせているように感じます。本来であれば、心が壊れそうなことはやらなければよいのですが、真面目で責任感が強く、「やらなければならないことはやらなくてはならない」という信念があると、弱音を吐くことができないし、不安を感じることも自分で拒否してしまうようなところがあります。少しずつ、不快や恐怖、不安を吐き出すことができないので、気が付けば体に異変が出てしまうということではないでしょうか。
体の異変は心が壊れつつあることを本人の意識に上らせるシステムだと考えます。
そしてこれらの異変は、パワハラ職場から退職などで離脱しても、適確な対応(治療や心理療法)を受けなければ継続してしまうこともありますし、自死に至る場合もあります。ここで書いた症状が出たら、できるだけ早く、あなたの状態を理解してくれる人に打ち明けてほしいと思います。
4 どんなことがあると心が壊れるのか
多くのパワハラのサバイバーから話を聞きました。ある時期、臨床心理学の研究者の方と合同で事情聴取をしたこともありました。まとめると以下のような場合に心が壊れるようです。
①不可能を強いられた時、②仲間として低評価を受けたとき、③孤立・誰も助けてくれない
①不可能を強いられるというのは、文字通りできないことをやれと言われた時ですが、それをやらなければ低評価を受けなければならない状態が待っています。例えて言えば、とても高い梯子の上まで登らされて、「雲の塊をつかんでもってこい、さもないと梯子を叩き壊す」と言い続けられているような感覚のようです。もちろん仕事上そのような命の危険があることは現実にはないし、無理な業務命令を出されてもそれだけで命を落とすことが無いにしても、まるで命を落とすような絶望感を抱いてしまうようです。
②上司からの低評価があると、「何とか低評価を改めてもらいたい」と自然に思うのが人間のようです。つまり、群れに所属していたい、群れから追放されたくないという心というシステムがあったために、人間は文明も言葉もない時代も群れを作ることができ、代々生き続け、今の私たちがあるということになります。そしてその心ができたころから脳は進化していないといわれているので、私たちの脳は200万年前から数万年の仕様のままなのです。しかし、その低評価が改められなければ、自分に対する低評価が改善されることはない、つまり絶望を抱くということになります。
③孤立は、仲間のすべてから低評価を受けているということですから、200万年前から数万年前の仕様の人間の脳にとって、死に匹敵する恐怖、絶望感を抱くものなのだと思います。自分の評価が改善されないという確固とした絶望感を抱かせる要因になると思います。
<会社だけの問題が世の中すべてからの問題だという錯覚>
それにしても、「これは、会社の中だけの話だから、会社にいる時間だけの信望ではないか。死ぬことに匹敵する絶望感は大げさではないか。」と思われる方もいらっしゃると思います。通常はそちらの感覚の方が一般的かもしれません。しかし、先の200万年前から数万年前の仕様の脳は、複数の人間関係を経験していないので対応していません。一つの群れでの出来事がこの世の中から自分は低評価を受けている、自分は世界から孤立しているという感覚を持たされてしまうということが起きているということなのだと思います。
5 実際の事件で起きていた、不可能、低評価、孤立
<不可能を強いる>
「知らないことをやれ」ということが本当に多いです。これは入社して日が浅い新人が過労自殺をした多くの事例で言われていたパターンです。「知らないこと」とは、教えていないこと、経験が乏しくて命じられた内容や遂行の方法を理解できないことが典型です。そのさらに不合理なことは、言葉にしていない上司の感情でした。「俺はお茶を飲みたいのだからお茶を持ってこい。」、「新聞を読んでいるときだけは話しかけてほしくないのだから話しかけるな。」、「このパターンの行動をしているときは、俺はこういうことをお前に期待しているのだからその通りやれ」。はたで見ていると怒りさえわくことですが、言われている本人は、それを知らなくてはだめなのだと思い込まされてしまい、上司の顔色ばかりを見るようになってしまいます。
「膨大な量を時間までにやれ」これも、確かに仕事はだらだらやるものではないことは間違いないですが、極限まで無駄を切りつめても時間オーバーになるようなことを強制します。時間オーバーの原因は、ベテランならできるけれど仕事に不慣れな新人のためにできない。例えば会社の車で移動をすれば時間通りに帰社できるけれど、会社の車を使わせないために時間通りに帰社できない、営業のように相手のある仕事のため、運不運があって、時間の見当がつかない。
「複数のことを同時にやれ」確かに職場によっては、例えば書類を作成しながら、接客をしなければならないこともあるでしょう。しかし、厳密に考えると複数のことを同時にやっているわけではなく、時間で切り上げて順番にやっているだけなのです。例えばラジオを聞きながら勉強すると言っても、ラジオに意識が向いているときは勉強をしていませんし、勉強に意識が向いている時間はラジオに意識は向きません。どうやら200万年前から数万年前の仕様の人間の脳は複数のことを同時に行うようにはできていないようです。自分の体の痛みすら、一番痛い痛みしか感じることができません。側部抑制というようですが、これはアリストテレスの時代から言われていることのようです。無意識にであれば、様々な情報を脳がキャッチしているのですが、意識に上るのは一つのことという人間の限界があるようです。
「何を言っているのかわからない。指示されたのかもわからなかった。言っていることが前と違う。」 「あれやっておけよ」とか言われても「あれ」がなんだかわからず、軽い調子で言われたので、「それほど重要なことではないかな」と軽く流してしまったら、「なんでこれをやらないのだ。」と強く叱責され、入社時のエピソードまで穿り返されてみんなの前で馬鹿にされるというようなことも結構見られます。前は、「ほうれんそうは大切だからこういうことはきちんと上司にお伺いを立てろ」と言っておきながら、次に同じことを報告したら、「いちいちこんなことで上司の時間を奪うな。」と説教されるということも多いようです。
クレーム対応で会社の判断が必要であるにもかかわらず、会社が何も判断をしないためにクレーマーにさらされたままになっていたということもありました。
こうやって文字で書くと、実にばかばかしいことだと感じられるでしょうが、不可能なことをしなくてはならないという思いに駆られて逃げ場のない従業員は、徐々に初めから不可能だということを認識できずに、できない自分が悪いと自分で自分を責めるようになってしまいます。
<低評価>
低評価とは一言で言うと仲間として認めないということを本人に示すことです。
「追放を示唆する言葉」「仕事をやめちまえ」「転職先を探してやる。」「君にはこの仕事は無理だったのではないかな」
「働く資格が無いことを示す言葉」「こんなの子どもでもわかる。」「俺の孫でも知っている。」「幼稚園からやり直せ」「給料泥棒」
「暴力」暴力は痛いから心が壊れるのではなく、仲間であれば健康を気遣われるはずなのに、一切気遣わないということを示されていること、暴力を振るわれても仕方がない奴だという意思表示が示されていると受け止めるから脳の仕様の問題で絶望を抱きやすいので心が壊れるのだと思います。「このノルマを達成しないとロープで縛って、7階の事務所の窓からぶら下げるぞ」等も実際にあった発言です。上司は冗談を交えて言っているつもりかもしれませんが、本人はそれ以上の恐怖を感じてしまいます。
「人格否定」本来すべてが人格否定ですが、仕事を与えない、親の悪口を言う、業務の遂行と関係のないことを非難される、差別侮辱的な言動等が典型なのでしょう。
「不合理な低査定」理由がある低い査定評価であればまだショックは小さいかもしれませんが、言いがかりのような低い査定の場合は、「いい加減な考えで、自分やその家族に対して不利益を与えても良いのだ」という低評価を受けている意識が強くなるようです。
低評価を受けるたびに、本人は、何とか低評価を改めてほしいと不可能なことを実行しようとさらに考えてしまい、ますます行き場がなくなってしまうようです。
<孤立>
上司から低評価を受けること自体が、200万年前から数万前の仕様の脳は打撃を受けるのですが、上司以外の仲間からも低評価を受けることに打撃が強くなるようです。
本人の脳は、「仲間から助けてもらいたい、フォローをしてもらいたい」という意識です。それにもかかわらず自死が起きた事例では、誰からもフォローが無かったという事例が多かったです。
不当だと思っているうちは、「上司のパワハラを誰かが止めるべきだ」という具合に要求度が高くなるようです。だんだんそのような怒りは消えてゆき、あきらめが優位になっていくようです。
他者の前での叱責は、孤立無援であるという意識を強めます。
そして、徐々に、他の部下も「その人を仲間として尊重しなくてよいのだ」という意識が生まれてくるようです。その人が尊重されない理由を探して、自分の同情心を抑えるという心の作業も行っているようです。当初は心配そうにこちらを見ていたのに、徐々にいつもの光景だと思うようになり、パワハラをされている方に対して、「いい加減に直せよ」という意識を持ってきてしまうこともあるようです。「人が叱責されていることを見たくない」という意識がやはりあるようなのですが、その原因を不合理に叱責されている被害者に求めていくようになるようです。
パワハラを受けている方は、パワハラを受け続けていくうちに、孤立感を深めていくようです。
後で構わないから、「ひどかったね。」、「一方的だったね。」、「大丈夫か」という言葉あればどれほど救われたことかと思ったことは多いです。なぜ、かばうことができないのか。一つ言えることは、一人の人が叱責されていても、それが大勢の前で行われているときは、それを聞いている人たちも攻撃を受けているという意識を持ってしまうということがどうも起こっていように感じられます。
孤立は絶望感を深めてしまいます。
6 本人や周囲がパワハラの影響に気が付いた時にすべきこと
<理解してくれる誰かに苦しみの状況を話す。>
あなたが苦しんでいること、苦しんでいる原因に会社での出来事があること、そしてその出来事が理不尽であり、人間に対する不当な扱いだということを理解できる人間にお話をしていただくことが第1です。
多くの人は、これまで述べてきたようなパワハラがあるとは想像もつかない人が圧倒的多数です。多少の厳しさはあるけれど、会社なのだから理不尽なことは無いという先入観から、「そんなことで弱音を吐くな」、「昔はもっと厳しかったぞ」ということを言ってしまうことがあります。これは客観的には、毛をむしられたいなばの白兎の傷口に塩をも見込むようなものです。パワハラの精神症状が出ている人は、病的に安心ができないという状態です。「自分たちはあなたを見捨てない」というメッセージを強く発信し、ガマの穂綿にくるませることが必要であるはずです。
ここで話を理解できる専門家とは、一つはパワハラの事例を多く扱ってきて、実際にカウンセリング的な対応を行っている弁護士です。但し、弁護士はカウンセリングそのものやましてや精神的治療ができるわけではありません。職場を離れても精神症状が消えない場合は、きちんとした施療が必要です。
ただ、セラピーなどは、あくまでも本人の状態を改善するということに主眼を置いています。何が起きたのか、それは気にするべきことなのか、客観的に合理性があるのかということについては、パワハラ対応ができる弁護士から説明を受けることが有益であるようです。だから、精神科治療や臨床心理での施療と同時並行的に対応されることが良いのではないかと思われます。弁護士に対して、医師や心理士から、その説明をすることは今は有害だと言ってもらえる関係にあることはなおよいことだと思っています。
ここでつくづく思うのは、「あなたは悪くない」としか言えない支援者です。あまり意味のある言葉ではないようです。むしろ何が起きたのか、それはどうして起きたのか、どこが不合理なのかということを理解してもらうことが、医師や心理士以外の支援者の役割なのだと思います。
その上で、家族が安心できるその人の人間関係であるならば、家族にも説明をして、理解を共有するとともに、家族から安心感を与えられていることを実感してもらい、安心の記憶を積みかさねていくことを働きかけることが有効なようです。
基本は、よく話を聞いてもらう、安心できる場所に我が身を置く、そして嫌な記憶を忘れるよりも、もう安全なのだということを少しずつ自分に定着させていくということなのだろうと思っています。
7 企業は何を考えてどう予防するべきか
さて、昨今、企業の側も、国の指導が功を奏してパワハラ防止の対策を講じることが多くなっています。しかし、国の示した基準などが難解だということもあってなかなかしっくりくる対策を講じることに困難を覚えているようです。
一人の人を精神的に追い詰める行為は、本人自身が抵抗があることも多く、周囲の目もありますので、本来はしにくいのです。相手の気持ちを考えると、本来はパワハラなどということはできません。だから、「どうしてパワハラができてしまうのか。」という視点を持つことが有効だと思います。
一言で言えば、
言われている相手の気持ちを考えたり、共感したりすることができない
そういう状態にあるからだと考えるべきだと思います。
その要因は、
自分自身が精神的に追い込まれている。このため、他人の気持ちという複雑な問題を考えることができなくなっている。ここで言う精神的な圧迫は、会社に限らず、私的生活の中にある場合もあります。
会社の中には、無理だとわかっていて、100%達成など初めからできないだろうとしながら、目標を高く掲げて80パーセントでも良しという本音を隠して目標設定をする場合があります。でも真面目な人たちは100パーセントにこだわってしまう、真に受けてしまう、その結果無理を通そうとするという悪循環になるか、初めから無理な目標だから真面目に取り組まないかいずれにしても比較的長期的に見れば生産性は下がる運命にあると私は思います。
パワハラが起きた場合は、会社全体の指示の合理性をくれぐれも見直す必要があると思います。
無理を通す不合理な目標で思い出すのは東日本大震災の時のノルマでした。営業職の人が受けた不合理なノルマは、「その年度内の目標は被災地においても達成するように」というものでした。つまり震災を無かったことにするというノルマです。震災から半年くらいは仕事にならず、営業をしても購入は見込めなかったのに、被害品の再購入を当て込んで、増益を指図したわけです。しかし、業績を上げる営業担当は、相手が買えない状態だという事情も分かりますから、営業をかけること自体を躊躇するわけですが、そういう消極姿勢をみた経営者たちから尻を叩かれた上司は、先ほどの「窓からぶら下げる」発言や、「転職先を紹介する」等の言動で部下を追い込んでいったわけです。
なお、上司個人の問題がある場合も少なくありません。元々相手の気持ちを考えることができない問題を抱えている場合が確かにあるようです。こういうケースは簡単に最悪のケースが起こりうるため、会社はその人の資質を見抜き、常日頃の情報を収集するという細心の注意が必要となります。こういう人が営業所のトップにいると、営業所全体の雰囲気が悪くなり、多店舗の実績に比べて不自然に売り上げが減少していることがよく見られます。自分が知っていることは部下も知っていると考えて、自分の頭の中だけでひらめいたことをしないと言って部下を叱責するのはこういう人が多いです。
根本的には、精神論に終始する労務管理を改めて、コーチング技術を強化することが必要です。コーチング技術が無く、労務管理上のリテラシーが乏しい場合、業務指示が伝わりませんから、生産性が下がります。どうして、自分の思い通りに行かないのだというもどかしさから、どうしても感情的に解決しようとしてしまいます。それは解決になりません。
部下のミスを叱るのではなく、チャンスと思って、行為場合はこうするこういう場合はここに気を配るということを示す方が効率が善いことは間違いありません。「自分の頭で考えさせる方が身につく」ということは、特に新人の場合は間違っています。考えるための素材が無いからです。また、身につくというのは、反復継続してかなうものです。頭で理解することと実行することは必ずしも同じではないことはよく経験していることだと思います。
1 パワハラを受けた時に出現する体と行動の異変
これまで多くのパワハラ事件(自死の労災申請、うつ病など精神疾患の労災申請、損害賠償、改善請求、継続相談)を担当してきました。(私の労災事件実績を参考にしていただければ幸いです。)ホームページ用なので・・
多くのケースで共通する様々な異変について、先ず紹介します。すべての症状が現れるわけではありません。
・ 体に現れる異変 体重減少。特に朝に吐き気がする、実際に出勤途中で吐く場合もある。朝目が覚めてもなかなか布団から起きられない。全身の倦怠感。頭痛。難聴。味覚障害。
・ 行動に現れる異変 いつもの時間通りに家を出るが、会社の近くでぎりぎりまで出勤しない。集中力が続かない。記憶が飛ぶときがある。注意力が著しく減少している。ルーティンのような趣味の活動をしたいと思わなくなる。推し活とか、定期的に購読していた雑誌に手が届かないとか。家族に八つ当たりしている。あるいは、休日は家に閉じこもりがちになる。
・ 心に現れる異変 自分が低いレベルの人間だと思う。自分は仲間に迷惑をかける存在だと思う。自分は世の中に不要な存在だと思う。何かを壊したい。自殺をする自分を想像してしまう。家にいても、不意に上司から叱責をされた時の感覚が突如よみがえり苦しくなる(具体的な出来事を思い出しているわけではない)。悪夢を見る。理由もなく何か悪いことが起きるのではないかと感じて敏感になる。現実感が無くなり、すべてが他人事のように感じる。
これらの症状は、長年パワハラを受け続けて起きるというよりも、2か月程度のパワハラでも起きるケースが複数件ありました。
2 パワハラで苦しむ人の多くに共通する性格
1)真面目で正義感が強い。
2)責任感が強くて素直。
3)能力がある。
本当は、会社に行きたくないのに、「会社には遅刻しないでいかなければならない。」ということを強く意識しすぎるわけです。体はもう限界で、何とかストップをかけようとしているのに、色々なアクシデントを想定して家を出ていきます。でも出勤したくないという気持ちが強いため、会社の近くのコンビニや自家用車の中で時間をつぶしてぎりぎりに出勤をするひとがとても多いです。
上司などから言われたことは遂行しなければならないと思います。これも当たり前と言えば当たり前のことなのですが、度が過ぎるようです。「できませんでした。」と言うことができないようです。「上司は自分のできることでは無ければ命じないはずだ」と無意識に思ってしまい、「できないのは自分が悪い」という発想になじんでしまいます。そして業務遂行能力があるため、無理なこともやろうとしてしまいがちです。
極端な話、「嫌なものはやりたくない」とか、「無理っぽいことはできないからやろうとしない」とか、「どうせ自分は能力が無いので、できないことはできない」とすでに割り切っている人は、同じパワハラを受けても、「また怒られちゃったよ。」と笑いのタネにしたりして、あまり気にしていない人は実在します。
能力があると、会社の無理なノルマも時間をかけても達成させようとしてしまうし、ある程度達成できてしまいます。上司は「この人の尻を叩けばセクションのノルマが達成できる」ということで、他の人よりも厳しく当たることがあるようです。
いずれにしても1)真面目で正義感が強い。2)責任感が強くて素直。3)能力がある。という人は、過労死をする人に当てはまる特徴でもあります。会社は業績を上げる社員に対してパワハラをしてさらに苦しませていることをしているわけです。これでは生産性も低下していくことでしょう。
3 身体症状が出るメカニズム
頭痛、吐き気、朝に起きられなくなるその他の身体症状ができる理由は、身体(脳)が行動をストップさせていると考えられないでしょうか。例えば足首をねんざする(軟骨や筋肉繊維の挫滅)と、痛くて歩けなくなります。このおかげで歩かないでいると、足首が回復して歩けるようになります。ところが、痛みを感じないで歩き続けると、いつまでも負傷が回復しません。痛みは行動を止めて体を回復させると考えられます。
比ゆ的に言えば、心が負傷しているのに、その原因を繰り返そうとすると、回復できなくなることを恐れて、体のどこかに不具合を起こして行動をストップさせているように感じます。本来であれば、心が壊れそうなことはやらなければよいのですが、真面目で責任感が強く、「やらなければならないことはやらなくてはならない」という信念があると、弱音を吐くことができないし、不安を感じることも自分で拒否してしまうようなところがあります。少しずつ、不快や恐怖、不安を吐き出すことができないので、気が付けば体に異変が出てしまうということではないでしょうか。
体の異変は心が壊れつつあることを本人の意識に上らせるシステムだと考えます。
そしてこれらの異変は、パワハラ職場から退職などで離脱しても、適確な対応(治療や心理療法)を受けなければ継続してしまうこともありますし、自死に至る場合もあります。ここで書いた症状が出たら、できるだけ早く、あなたの状態を理解してくれる人に打ち明けてほしいと思います。
4 どんなことがあると心が壊れるのか
多くのパワハラのサバイバーから話を聞きました。ある時期、臨床心理学の研究者の方と合同で事情聴取をしたこともありました。まとめると以下のような場合に心が壊れるようです。
①不可能を強いられた時、②仲間として低評価を受けたとき、③孤立・誰も助けてくれない
①不可能を強いられるというのは、文字通りできないことをやれと言われた時ですが、それをやらなければ低評価を受けなければならない状態が待っています。例えて言えば、とても高い梯子の上まで登らされて、「雲の塊をつかんでもってこい、さもないと梯子を叩き壊す」と言い続けられているような感覚のようです。もちろん仕事上そのような命の危険があることは現実にはないし、無理な業務命令を出されてもそれだけで命を落とすことが無いにしても、まるで命を落とすような絶望感を抱いてしまうようです。
②上司からの低評価があると、「何とか低評価を改めてもらいたい」と自然に思うのが人間のようです。つまり、群れに所属していたい、群れから追放されたくないという心というシステムがあったために、人間は文明も言葉もない時代も群れを作ることができ、代々生き続け、今の私たちがあるということになります。そしてその心ができたころから脳は進化していないといわれているので、私たちの脳は200万年前から数万年の仕様のままなのです。しかし、その低評価が改められなければ、自分に対する低評価が改善されることはない、つまり絶望を抱くということになります。
③孤立は、仲間のすべてから低評価を受けているということですから、200万年前から数万年前の仕様の人間の脳にとって、死に匹敵する恐怖、絶望感を抱くものなのだと思います。自分の評価が改善されないという確固とした絶望感を抱かせる要因になると思います。
<会社だけの問題が世の中すべてからの問題だという錯覚>
それにしても、「これは、会社の中だけの話だから、会社にいる時間だけの信望ではないか。死ぬことに匹敵する絶望感は大げさではないか。」と思われる方もいらっしゃると思います。通常はそちらの感覚の方が一般的かもしれません。しかし、先の200万年前から数万年前の仕様の脳は、複数の人間関係を経験していないので対応していません。一つの群れでの出来事がこの世の中から自分は低評価を受けている、自分は世界から孤立しているという感覚を持たされてしまうということが起きているということなのだと思います。
5 実際の事件で起きていた、不可能、低評価、孤立
<不可能を強いる>
「知らないことをやれ」ということが本当に多いです。これは入社して日が浅い新人が過労自殺をした多くの事例で言われていたパターンです。「知らないこと」とは、教えていないこと、経験が乏しくて命じられた内容や遂行の方法を理解できないことが典型です。そのさらに不合理なことは、言葉にしていない上司の感情でした。「俺はお茶を飲みたいのだからお茶を持ってこい。」、「新聞を読んでいるときだけは話しかけてほしくないのだから話しかけるな。」、「このパターンの行動をしているときは、俺はこういうことをお前に期待しているのだからその通りやれ」。はたで見ていると怒りさえわくことですが、言われている本人は、それを知らなくてはだめなのだと思い込まされてしまい、上司の顔色ばかりを見るようになってしまいます。
「膨大な量を時間までにやれ」これも、確かに仕事はだらだらやるものではないことは間違いないですが、極限まで無駄を切りつめても時間オーバーになるようなことを強制します。時間オーバーの原因は、ベテランならできるけれど仕事に不慣れな新人のためにできない。例えば会社の車で移動をすれば時間通りに帰社できるけれど、会社の車を使わせないために時間通りに帰社できない、営業のように相手のある仕事のため、運不運があって、時間の見当がつかない。
「複数のことを同時にやれ」確かに職場によっては、例えば書類を作成しながら、接客をしなければならないこともあるでしょう。しかし、厳密に考えると複数のことを同時にやっているわけではなく、時間で切り上げて順番にやっているだけなのです。例えばラジオを聞きながら勉強すると言っても、ラジオに意識が向いているときは勉強をしていませんし、勉強に意識が向いている時間はラジオに意識は向きません。どうやら200万年前から数万年前の仕様の人間の脳は複数のことを同時に行うようにはできていないようです。自分の体の痛みすら、一番痛い痛みしか感じることができません。側部抑制というようですが、これはアリストテレスの時代から言われていることのようです。無意識にであれば、様々な情報を脳がキャッチしているのですが、意識に上るのは一つのことという人間の限界があるようです。
「何を言っているのかわからない。指示されたのかもわからなかった。言っていることが前と違う。」 「あれやっておけよ」とか言われても「あれ」がなんだかわからず、軽い調子で言われたので、「それほど重要なことではないかな」と軽く流してしまったら、「なんでこれをやらないのだ。」と強く叱責され、入社時のエピソードまで穿り返されてみんなの前で馬鹿にされるというようなことも結構見られます。前は、「ほうれんそうは大切だからこういうことはきちんと上司にお伺いを立てろ」と言っておきながら、次に同じことを報告したら、「いちいちこんなことで上司の時間を奪うな。」と説教されるということも多いようです。
クレーム対応で会社の判断が必要であるにもかかわらず、会社が何も判断をしないためにクレーマーにさらされたままになっていたということもありました。
こうやって文字で書くと、実にばかばかしいことだと感じられるでしょうが、不可能なことをしなくてはならないという思いに駆られて逃げ場のない従業員は、徐々に初めから不可能だということを認識できずに、できない自分が悪いと自分で自分を責めるようになってしまいます。
<低評価>
低評価とは一言で言うと仲間として認めないということを本人に示すことです。
「追放を示唆する言葉」「仕事をやめちまえ」「転職先を探してやる。」「君にはこの仕事は無理だったのではないかな」
「働く資格が無いことを示す言葉」「こんなの子どもでもわかる。」「俺の孫でも知っている。」「幼稚園からやり直せ」「給料泥棒」
「暴力」暴力は痛いから心が壊れるのではなく、仲間であれば健康を気遣われるはずなのに、一切気遣わないということを示されていること、暴力を振るわれても仕方がない奴だという意思表示が示されていると受け止めるから脳の仕様の問題で絶望を抱きやすいので心が壊れるのだと思います。「このノルマを達成しないとロープで縛って、7階の事務所の窓からぶら下げるぞ」等も実際にあった発言です。上司は冗談を交えて言っているつもりかもしれませんが、本人はそれ以上の恐怖を感じてしまいます。
「人格否定」本来すべてが人格否定ですが、仕事を与えない、親の悪口を言う、業務の遂行と関係のないことを非難される、差別侮辱的な言動等が典型なのでしょう。
「不合理な低査定」理由がある低い査定評価であればまだショックは小さいかもしれませんが、言いがかりのような低い査定の場合は、「いい加減な考えで、自分やその家族に対して不利益を与えても良いのだ」という低評価を受けている意識が強くなるようです。
低評価を受けるたびに、本人は、何とか低評価を改めてほしいと不可能なことを実行しようとさらに考えてしまい、ますます行き場がなくなってしまうようです。
<孤立>
上司から低評価を受けること自体が、200万年前から数万前の仕様の脳は打撃を受けるのですが、上司以外の仲間からも低評価を受けることに打撃が強くなるようです。
本人の脳は、「仲間から助けてもらいたい、フォローをしてもらいたい」という意識です。それにもかかわらず自死が起きた事例では、誰からもフォローが無かったという事例が多かったです。
不当だと思っているうちは、「上司のパワハラを誰かが止めるべきだ」という具合に要求度が高くなるようです。だんだんそのような怒りは消えてゆき、あきらめが優位になっていくようです。
他者の前での叱責は、孤立無援であるという意識を強めます。
そして、徐々に、他の部下も「その人を仲間として尊重しなくてよいのだ」という意識が生まれてくるようです。その人が尊重されない理由を探して、自分の同情心を抑えるという心の作業も行っているようです。当初は心配そうにこちらを見ていたのに、徐々にいつもの光景だと思うようになり、パワハラをされている方に対して、「いい加減に直せよ」という意識を持ってきてしまうこともあるようです。「人が叱責されていることを見たくない」という意識がやはりあるようなのですが、その原因を不合理に叱責されている被害者に求めていくようになるようです。
パワハラを受けている方は、パワハラを受け続けていくうちに、孤立感を深めていくようです。
後で構わないから、「ひどかったね。」、「一方的だったね。」、「大丈夫か」という言葉あればどれほど救われたことかと思ったことは多いです。なぜ、かばうことができないのか。一つ言えることは、一人の人が叱責されていても、それが大勢の前で行われているときは、それを聞いている人たちも攻撃を受けているという意識を持ってしまうということがどうも起こっていように感じられます。
孤立は絶望感を深めてしまいます。
6 本人や周囲がパワハラの影響に気が付いた時にすべきこと
<理解してくれる誰かに苦しみの状況を話す。>
あなたが苦しんでいること、苦しんでいる原因に会社での出来事があること、そしてその出来事が理不尽であり、人間に対する不当な扱いだということを理解できる人間にお話をしていただくことが第1です。
多くの人は、これまで述べてきたようなパワハラがあるとは想像もつかない人が圧倒的多数です。多少の厳しさはあるけれど、会社なのだから理不尽なことは無いという先入観から、「そんなことで弱音を吐くな」、「昔はもっと厳しかったぞ」ということを言ってしまうことがあります。これは客観的には、毛をむしられたいなばの白兎の傷口に塩をも見込むようなものです。パワハラの精神症状が出ている人は、病的に安心ができないという状態です。「自分たちはあなたを見捨てない」というメッセージを強く発信し、ガマの穂綿にくるませることが必要であるはずです。
ここで話を理解できる専門家とは、一つはパワハラの事例を多く扱ってきて、実際にカウンセリング的な対応を行っている弁護士です。但し、弁護士はカウンセリングそのものやましてや精神的治療ができるわけではありません。職場を離れても精神症状が消えない場合は、きちんとした施療が必要です。
ただ、セラピーなどは、あくまでも本人の状態を改善するということに主眼を置いています。何が起きたのか、それは気にするべきことなのか、客観的に合理性があるのかということについては、パワハラ対応ができる弁護士から説明を受けることが有益であるようです。だから、精神科治療や臨床心理での施療と同時並行的に対応されることが良いのではないかと思われます。弁護士に対して、医師や心理士から、その説明をすることは今は有害だと言ってもらえる関係にあることはなおよいことだと思っています。
ここでつくづく思うのは、「あなたは悪くない」としか言えない支援者です。あまり意味のある言葉ではないようです。むしろ何が起きたのか、それはどうして起きたのか、どこが不合理なのかということを理解してもらうことが、医師や心理士以外の支援者の役割なのだと思います。
その上で、家族が安心できるその人の人間関係であるならば、家族にも説明をして、理解を共有するとともに、家族から安心感を与えられていることを実感してもらい、安心の記憶を積みかさねていくことを働きかけることが有効なようです。
基本は、よく話を聞いてもらう、安心できる場所に我が身を置く、そして嫌な記憶を忘れるよりも、もう安全なのだということを少しずつ自分に定着させていくということなのだろうと思っています。
7 企業は何を考えてどう予防するべきか
さて、昨今、企業の側も、国の指導が功を奏してパワハラ防止の対策を講じることが多くなっています。しかし、国の示した基準などが難解だということもあってなかなかしっくりくる対策を講じることに困難を覚えているようです。
一人の人を精神的に追い詰める行為は、本人自身が抵抗があることも多く、周囲の目もありますので、本来はしにくいのです。相手の気持ちを考えると、本来はパワハラなどということはできません。だから、「どうしてパワハラができてしまうのか。」という視点を持つことが有効だと思います。
一言で言えば、
言われている相手の気持ちを考えたり、共感したりすることができない
そういう状態にあるからだと考えるべきだと思います。
その要因は、
自分自身が精神的に追い込まれている。このため、他人の気持ちという複雑な問題を考えることができなくなっている。ここで言う精神的な圧迫は、会社に限らず、私的生活の中にある場合もあります。
会社の中には、無理だとわかっていて、100%達成など初めからできないだろうとしながら、目標を高く掲げて80パーセントでも良しという本音を隠して目標設定をする場合があります。でも真面目な人たちは100パーセントにこだわってしまう、真に受けてしまう、その結果無理を通そうとするという悪循環になるか、初めから無理な目標だから真面目に取り組まないかいずれにしても比較的長期的に見れば生産性は下がる運命にあると私は思います。
パワハラが起きた場合は、会社全体の指示の合理性をくれぐれも見直す必要があると思います。
無理を通す不合理な目標で思い出すのは東日本大震災の時のノルマでした。営業職の人が受けた不合理なノルマは、「その年度内の目標は被災地においても達成するように」というものでした。つまり震災を無かったことにするというノルマです。震災から半年くらいは仕事にならず、営業をしても購入は見込めなかったのに、被害品の再購入を当て込んで、増益を指図したわけです。しかし、業績を上げる営業担当は、相手が買えない状態だという事情も分かりますから、営業をかけること自体を躊躇するわけですが、そういう消極姿勢をみた経営者たちから尻を叩かれた上司は、先ほどの「窓からぶら下げる」発言や、「転職先を紹介する」等の言動で部下を追い込んでいったわけです。
なお、上司個人の問題がある場合も少なくありません。元々相手の気持ちを考えることができない問題を抱えている場合が確かにあるようです。こういうケースは簡単に最悪のケースが起こりうるため、会社はその人の資質を見抜き、常日頃の情報を収集するという細心の注意が必要となります。こういう人が営業所のトップにいると、営業所全体の雰囲気が悪くなり、多店舗の実績に比べて不自然に売り上げが減少していることがよく見られます。自分が知っていることは部下も知っていると考えて、自分の頭の中だけでひらめいたことをしないと言って部下を叱責するのはこういう人が多いです。
根本的には、精神論に終始する労務管理を改めて、コーチング技術を強化することが必要です。コーチング技術が無く、労務管理上のリテラシーが乏しい場合、業務指示が伝わりませんから、生産性が下がります。どうして、自分の思い通りに行かないのだというもどかしさから、どうしても感情的に解決しようとしてしまいます。それは解決になりません。
部下のミスを叱るのではなく、チャンスと思って、行為場合はこうするこういう場合はここに気を配るということを示す方が効率が善いことは間違いありません。「自分の頭で考えさせる方が身につく」ということは、特に新人の場合は間違っています。考えるための素材が無いからです。また、身につくというのは、反復継続してかなうものです。頭で理解することと実行することは必ずしも同じではないことはよく経験していることだと思います。
行動決定の原理 3 自殺の行動決定のメカニズムと有効な予防法 [自死(自殺)・不明死、葛藤]
1 はじめに
2 自殺は必ずしも熟慮の末に行うものではない
3 自殺の前に考えるべきだったこと
4 考えるべきことが考えられなくなるメカニズム
5 自殺という行動決定
6 持続する自殺の行動決定
7 効果的な自殺の予防
1 はじめに
自死とは不思議な現象です。「生きようとすること」が、人間に限らず生き物の共通項だと思われるところ、生きようとしなくなるどころか、直ちに生きるのをやめる行動をするということだからです。さっきまで生理的に問題なく生きていた人間一人の命が失われるのですから不思議という表現よりも、「何かしら怖い」という気持ちになることも多いかもしれません。当然拒否反応が出てきて、「自分は自殺の心配はないということ」を確認して安心したくなり、自死をした人あるいはその人の家族をことさら攻撃するネットの反応も見られるところです。
私は人間には、生命、身体の危険を示す事実を脳がキャッチすれば、無意識に(脳が勝手に)生命身体を守る行動をする本能があり、これを「一次の情動に基づく行動」だと言っていました。自死をした人には一次の情動が機能不全になっていたということになります。
しかし、最も生物として基本的な反応ができなくなるということはどういうことが起きているのでしょうか。
前回の記事の犯罪の行動原理の説明の際に、「社会などの人間関係の評価を落とさないようにする『二次の情動』の機能が働くなる事情があったために犯罪が起きる」という説明をしました。その二次の情動が働かなくなる要素として一次の情動が高まりすぎたことを一つの事情としてあげました。自分が生きるために他人を犠牲にする行為が正当防衛になるという文脈で言いました。
おそらく自死は、犯罪とは正反対に、二次の情動が強く働きすぎて一次の情動が働かなくなるという現象が起きているのではないかと考えています。今回は、結局このことを詳しく説明することになるのだと思います。
2 自殺は必ずしも熟慮の末に行うものではない
「自死」とか「自殺」とかいう言葉から受けるイメージとしては、自ら熟慮の末に死を選んで自死を決行したというイメージが生まれがちです。しかし、私が聴取した自死未遂者や自死を考えた人の話からすると、多くのケースでどうも違うような気がするのです。
確かに、「急に死ぬことを思い立って十分考えなしに危険な行為をしてしまい、結果として命が失われる。」という例ばかりではないのかもしれません。ある程度長期間にわたって自死を実行しようかしないかを思い悩んで心が揺れ動いた結果自死に至ったというケースももちろんあるわけです。
ただ、思い悩んではいたとして、あるいはためらっている時間が相当時間あったからと言って、分析的な熟慮をしていたのかというと、どうもそうではないようだという事情がありそうです。「悩んではいたけれど、苦しんでいたけれど考察はしていなかった」という現象がありうるのではないかということです。
ドライな言い方をすれば、生き続けるメリットと死ぬデメリットを比較考慮していないとか、死ぬことによるデメリットをリアルに予想して考えていないのではないかと感じるのです。
全く非論理的に、つまり感情的に、あるいは直感的に、死ぬしかないという結論を出し、死に至る危険な行為を実行していたということが、実態に合いそうです。自分が自死したら家族が苦しむということは頭ではわかっていても、家族が悲しむということを十分に考慮すること(家族が苦しむから自死をやめよう)はしていないようです(家族が苦しむことは大変申し訳ないし、かわいそうな思いをするけれど、自死をする)。遺書や生前の行動から考えると、自死をした人が家族を愛していないとか、家族を守ろうとしたくないとか、家族と不仲だとかそういうことではないことがほとんどであることは間違いありません。「そこまで十分に考えていない」というだけのことです。
結局は命の危険のある行為をすることには間違いないのですが、中には最後まで生きるか死ぬかを迷っていて、もしかしたらワンチャンス死なないで済むかもしれないと思っていたのではないかという方法が取られていたこともありました。
3 自殺の前に考えるべきだったこと
では、自死の前にドライに何を考えるべきなのでしょうか。
一番は、「自死の原因が、本当に自死をしなければ解決しないことなのか」ということだと思います。
自死の原因には様々あって、内科疾患や精神疾患によって、自分の行動にコントロールが効かなくて自死に至ったというケースもあります。確かにあります。しかし、一番に多いのは対人関係上の不具合がある場合だと言ってよいのだと思います。職場や学校での人間関係の不具合、あるいは夫婦(男女)、親子の問題、あるいは社会の中の孤立という問題などがあります。自分が大切にしていたり、最後のよりどころにしていたりした人間関係から、自分が否定評価されることは、人間として文字どおり耐えきれない絶望を感じるようです。
しかし、その不具合は解決できないことなのか、また、解決しなくてはいけないことなのかということを冷静に考える必要が本当はあります。
多くの事例では、解決できないわけではない、また解決しなくて別の方法をとる、あるいは自ら解決しようとすることをやめてこちらから見放すという選択肢も大いにありうることが、第三者からみればあるように感じることが少なからずあります。
但し、第三者から見ればそう思うのですが、人間の本能は、特定の人間関係を結んでいる人間から否定評価され仲間であることを否定されると、言いようもない危機を感じてしまい、何とか自分の立場を回復したいと志向させてしまうという特徴があります。これが「二次の情動」です。人間が言葉を作る前から群れを作ることができた原理がこの二次の情動をもつ心というシステムによると私は考えています。
4 考えるべきことが考えられなくなるメカニズム
1)情動と思考低下ないし停止
一次の情動でも二次の情動でも、情動が高まると物を考えることが困難になります。一次の情動(身体生命の危険を示す事実を脳がキャッチすると、危険から遠ざかろうとする心)が生物の基本ですが、典型パターンは①怖いものを脳がキャッチしたら②逃げるということを自動的に決定させて、③いち早く逃げはじめ、④わき目も降らずに全力で逃げることをして、⑤それ以外をしないということで、身体生命をより安全にすることができ、結果として人類も生き残ってきたということです。
だから情動が高まれば、思考力が低下ないし停止することは合理的だったことになります。このシステムが今も人間の脳に残存しているわけです。つまり考えさせなくする働きが生まれてしまっていることになります。一次の情動ではこれで良いのかもしれませんが、現代社会における二次の情動が発動するような対人関係的不具合が生じたら、冷静に考えて周到な対処をすることが合理的ですが、いかんせん進化の過程で獲得してきた本能的システムは、環境の変化に追いつくことができません。「環境と心のミスマッチ」の現象が起きているわけです。
思考力が減退すると、考えるべき要素が浮かんできません。考えることにとてつもないエネルギーが消費されていきます。できるだけエネルギー消費を抑えようと勝手に脳が省力化を図ります。そうすると、今見えていない将来の見通しなんてものは思い浮かびようがありませんし、思い描く将来像があってもそれに至る筋道を計画することなんてとてもできません。二者択一的に物事を考えることがせいぜいで折衷的な考えなどできなくなります。見通しを考えるというよりも「現状を悲観的に理解する」ようになります。こうやって悲観的にいることで、楽観的な見通しの下逃げることをやめて猛獣の餌食になることを回避してきたわけです。ただひたすら逃げるということはこういうことのようです。そうすると複雑な思考ができなくなります。他人の心を推測するということは難しくなります。
また、「この人間関係をそんなに大事にするべきなのか」というテーマ自体が浮かんできません。「いくつかの人間関係を横断的に比較して、例えば職場の人間関係を切り捨ててでも家族などを大事にすればよいのではないか」という考えも出てきません。思い悩んでいる人間関係それ自体を放り投げても、自分が生きる分には何の支障もないということも考え付かないわけです。
ただただ、自分は全世界から否定されていると感じるときのように絶望し、誰かに相談すれば簡単に解決するはずなのに、「どうせだめだろう」という姿勢になっていて、対策を立てることができなくなっているようです。
自分で自分を孤立に追い込んでいくという現象が見られます。相談するべき身内こそ、心配をかけたくない、あるいは弱い自分を見せたくないという感じでもあります。このため本人から大事されていた遺族ほど、どうして自死したのかわからないということになることはこういう理由があることです。
そして、「このまま苦しみ続けるか死ぬか」という悲観的な二者択一の選択肢が浮かび、「死ぬしかない。自分は死ぬべきである。」という結論から抜け出せなくなるようです。だから、本来は対人関係上の不具合を解消したいということにすぎない場合であっても、出口は死の危険のある行為を行うということになってしまうわけです。この現象をとらえて、「人間は希望が無くては生きていけない、絶望をしたら生きていけない」と表現をすることがありますが、現象としては間違っていないのだろうと思います。
結局、二次の情動が肥大化しすぎてしまい、基本的な身体生命の確保という一次の情動が機能しなくなっているというのが自死に至る際に起きていることなのだと思います。
また、特定の人間関係(例えば職場)について二次の情動が肥大化するために、別の人間関係(例えば家族)における二次の情動が働かなくなってしまうというパターンもあるということになりそうです。
5 自殺という行動決定
自殺の行動決定も、具体的な行動で考えなければ実行には映りません。具体的な行動とは、「いつ(今、これから)」、「どこで(ここで、思い当たる場所で)」、「どのような方法で」を具体的に定めた選択肢が出てきてから危険な行動に出るという筋道を通るはずです。厳密な意味で自由意思による制御の時間はなく、あるいは制御の選択肢(やっぱりやめた)が無くなり、脳によって勝手に自死が行動決定されているのだと思います。その危険な行為をその時に、その場所で行う以外の選択肢が無くなるまで追い詰められているわけです。
一度自死の行動決定がなされてしまうと、他者によって物理的に取り押さえなければ、止めることはできないのだろうと思います。実際に物理的に自死を取り押さえた例はよく出てきています。必ずしも死ぬことを確定的に考えていなくても、突発的に飛び降りれば死ぬ場所に飛び出すことがあり、あるいは飛び出そうとして、家族が物理的に止めるのです。そのような場合、例えば妻が掃き出しからベランダに飛び出そうとしたところを夫によって取り押さえらて自分の顔が床にあたったあたりから我に返るようです。しかも、その直前の自分の行為を覚えていないということも多く報告されています。離婚事件では、自分の命の危険がある行動決定を夫が止めたという客観的事実が、取り押さえられたことが夫からのDV(暴力によって床にたたきつけられた)だという記憶にすり替わっていることが何件か見られました。その際、何をきっかけにDVが起きたのか(実際はDVではないので)記憶はしていません。記憶が無いことが直ちに行動時に意識が無かったことを示すのかどうかはよくわかりません。後に記憶が欠落するということもありうるからです。しかし、瞬時に記憶が欠落したというよりも、無意識下の行動であったと考える方が自然であるような気がします。無意識下でも、死のうという意図が無くても、死ぬ危険のある行動をして命を無くすことがありうるということを示していると思います。
6 持続する自殺の行動決定
例えば死地を決めて、自動車等で死地に赴く場合等、自死を決意してから実際に命の危険な行為を起こすまでにある程度の時間が経過していた場合があります。そこから生還した人から話を聞いたことがあります。死地に赴く途中で、あるきっかけから、「今死ぬわけにはいかない」とふと思い立って、別行動をとり生還したそうです。残りの数名は自死によって亡くなっています。
途中で我に返るということはありうることですがむしろ例外のようです。その他の人は集団で自死をしたのですから、自死の意思があり、それが持続したと考えなければならないかもしれません。
ただ、この時もいつ自死の行動決定をしたのかという端緒に着目する必要があると思います。仮に、数人で死地に出発した時に行動決定があったとすると、その段階で自由意思が失われて、後は行動決定を覆すことをできなかったということになります。「やっぱりやめた」という意思の力を振り絞るには、その時点ではすでにエネルギーが消耗しすぎていたという可能性があります。うつ病がこの意思の力を振り絞るエネルギーの無くなる病気です。もっとも症状が重い時期では、意思を使うエネルギーが無いために食べ物を口に入れても咀嚼できないし、目の前にリモコンがあるのにテレビをつけることもできないという状態になると言います。一度開始した自死の行動決定を覆す意思を持つこともエネルギーが必要な状態だったのかもしれません。エネルギーが枯渇していると、一度自死を決定したことを覆すエネルギーが残されていないということがありうると思います。
逆に何度も自死を止められて、しばし落ち着いたために家族がトイレに行った隙をついて自死を決行したケースがあります。かなりうつ病が進行していてエネルギーが無い状態だったのですが、生き続けるという意思を持てない、苦しみに耐えるエネルギーが枯渇していたということかもしれません。
7 効果的な自殺の予防
1)精神疾患が原因の場合
重篤なうつ病や統合失調症などは、それらしい出来事が無くても自死をしてしまうことがありうるので、きちっと治療をすることが最優先となるでしょう。病気の症状として、些細なことが重大なことのように思えることもあるようです。うつ病などは病気の症状として合理的な思考ができなくなり、あたかも一次の情動が高まって思考力が停止しているのと同じ状態になりうる様です。また、病気の症状として、悲観的になり、絶望しやすくなるということがありそうです。
ただ、精神疾患の治療はなかなか難しく、ひとたびうつ病になってしまうと、10年以上、波はあるけれど症状が継続していて、発病前の状態に戻れないという人たちをたくさん見てきています。治療研究を世界中で取り組んでいただきたいと思う次第です。
2)対人関係が原因の場合
その人を大事に思う人間関係の人たち、例えば家族が、いち早く他の人間関係で苦しんでいて絶望をしているという状況を察することが近道であることは間違いありません。しかし、少し前に書いた通り、本人から大切に思われていた家族こそ、本人の自死リスクに気が付かないようにできています。
そうすると、自死のリスクに気が付いてから対処するというのはあまりにもゆったりと構え過ぎだということにならないでしょうか。常日頃、意識的に「自分たちはあなたといるととても楽しい」、「あなたを尊重して、大事に考えている」というメッセージを、折に触れて発信しあうということが解決方法になるはずです。そのような習慣が無いので、なかなか難しいことですが、現代社会においてはそのような意識的な明示の発信をすることが必要なのかもしれません。ただ、自死予防の対策としてそういうことをするということではありません。本来人間は、そのように仲間の不安を取り除きながら共同生活をする動物であるはずです。そして、そのような相手を安心させる意思の発信をすることは、結局この人間関係が安心できる人間関係だということを相互に強く意識づけることになると思います。つまり人間として、本当当たり前の幸せを作り出す行為なのだと考えて、ある意味エチケットとして行うという発想こそが必要なのだと思います。幸せになろうということにためらいは不要なのだと思います。自死予防ではなくても、幸せになるための行動を行い、結果として自死が減るという流れを意識するべきだと思います。
また、あらゆる人間関係において、他者を追い込まないことということを共通のルール、価値観にするべきだと思います。とくに継続的人間関係である、家族、学校、職場等は、人間の本能として、何らかの不具合があると二次の情動を使い切る可能性がありますので特に注意が必要です。人助けや世直しを標榜するボランティア的な組織程、自分こそが正義だと強く思う人がいて、正義を貫こうとする余り、仲間を致命的な状態になるまで攻撃し続けるというパターンがみられることがあります。
また、学校をやめたり職場をやめたりした場合、すぐに別の学校や職場に移ることが可能な仕組みを作ってほしいと思います。「辞めればよいのだ」ということをつい忘れがちになりますので、「いつでも辞めることができる」という意識を持つことが大事だと思います。「いつでも辞めることができる。辞めればよいのだ」という気持ちを持つことは、その人間関係での絶望を感じにくくなり、逆に人間関係が長持ちする場合も多くあります。
3)自殺のリスクのある人に対する第三者の相談や支援の方法論
①自死の行為を詳細に語らない
WHOの報道に関する要請でもありますが、自死の行為を詳細に報じないということは有効です。自死の行動決定は具体的な危険行為を思いつくことによって実行に移ります。他者の詳細な自死行動をインプットしてしまうと、具体的な自死行為が選択肢に現れてしまいます。タイミングによっては、とても自死をする理由が無いにもかかわらず、行動決定して行動してしまうということが大いにありそうなのです。マスコミはくれぐれも自重するべきですし、詳細な事実を開示した人に対して何らかのペナルティーを与えることも視野に入れてほしい程重要な話です。
②「死ぬな」という結論を押し付けることに良い効果は期待できない
自死は意識的に自分で命を無くそうという意思決定をしていない場合がある可能性があります。その人たちに対して「死ぬな」とか、「死んだら家族が悲しむ」という結論をいくら言ったとしても、その人たちの苦痛を大きくするかもしれませんが、予防としての効果があるかどうかは甚だ疑問です。逆効果になるかもしれないということを理解してほしいです。
特に死んだら家族が悲しむということはわかっているようなのです。それでも、十分に認識ができない状態に陥っているのですから、結論だけ言っても何かが変わるとは思えません。
③帰属するべきコミュニティーに帰属させる
その悩みがどこから来るのか一緒に理由を考えて、安全なコミュニティーに返すということを基本とするべきだと思います。「孤立を解消する」ということが最も必要なことです。孤立と言っても客観的に全世界の中で一人ぼっちになっているわけではありません。特定の人間関係の中で疎外されているだけのことが多いのですが、間違いなく孤立感を感じているし、自分から孤立化に向かってしまっていることが多いのです。
支援者自身は、支援対象者とそれから先の生活を共同にするわけにはいきません。支援者にも家族がいるはずです。その人がともに生きる人間関係を理由なく破壊することが最もやってはならないことだと思います。安全なコミュニティーを探し出して、あるいは安全なコミュニティーを創りだして、そのコミュニティーに帰属させるという最終目標を持つことが必要だと思います。必ずしも共同生活にこだわる必要はありません。「自分のことを大事に思ってくれている仲間がいる。」という意識を持てることが真の目標なのだと思います。
中には、何でもかんでも、ストレスの原因は家族であるとしてしまう人たちが実際に存在します。ストレスの解決策は家族からの離脱以外ないと考えているようです。しかし家族という基本的なコミュニティーからの離脱を勧めることは、その人の家族を精神的に追い込むことにもなりかねません。コミュニティーに不具合があるならば、不具合を是正する働きかけをすることが第一選択肢になるべきだと思います。
④総じて、支援者がやってはいけないことは、対象者の自死リスクを高めることと対象者の近くにいる人を攻撃して新たな自死リスク者を生んだり、リスク者がコミュニティーに戻ることを妨害することなのだろうと思います。自分たちこそが、寛容な社会、失敗を許容し、再出発を見守ることを率先して実践することが必要だということは間違いのないことだと思います。
自殺の予兆なんてわからない。同居家族は自殺計画に気が付かないものであることの理由 [自死(自殺)・不明死、葛藤]
前にも書きましたが、大事なことなので、何度でも言おうと思います。
これまで多くの自死の案件を担当しましたが、家族が自死の前触れに気が付くということはほとんどありません。離れて暮らしている事案だけでなく、同居の事案でも同じです。悩んでいるとか、苦しんでいるということは気が付いていても、まさか自殺をするとは思わないで自死が起きることが、私が担当した事案は圧倒的多数でした。
それにもかかわらず、「どうして気が付かなかったのか」ということを言い出す人たちがいて、同居の家族が、家族を失って悲しんでいるのに、無抵抗の状態で責められる苦しさを味わっています。特に結婚をしている人が自死をすると、亡くなった人の実親が同居していた妻や夫を責めるという痛ましい事例はまだまだ繰り返されているようです。
自死という、その直前までは普通に生活していたのに、次に気が付いた時には亡くなっているということは家族、親族にとっては衝撃的なことです。信じたくないし信じられないということはよくわかります。つい、誰かに原因を求めて怒りをぶつけてしまいたくなるのも、ある意味自然な感情なのかもしれません。
でも、だからこそ同居家族は自殺の予兆なんて気がつかないということについて、せめて頭では理解して、自然すぎる感情を表に出さないということが大切なのだと思います。
理由はいくつかあります。また、その人によって様々な事情の変化があるということはお断りしておきます。
1 うつ状態の人はうつを隠すということ
第1の理由は、これまでも述べてきたことですし、北海道大学名誉教授の山下格(いたる)先生も著書でお書きになっているので、理由の筆頭にあげます。うつにも重症、軽症と、その中間の中等症があるとのことですが、重症以外の「大多数のうつ病患者は、自分のうつを隠す」というのです。だから主治医でさえもうつ症状による刹那的な判断をすることに気が付かず、自死をしたり、退職をしたり、離婚をしたことを報告されて唖然とするようです。
実際私の依頼者複数名からも話を聞いていますが、自分の大切な家族の前では、自分がうつで苦しんでいるということを知られたくなくて、わざとふざけて見せて明るく振舞うのだそうです。一人暮らしをしているとむしろ楽なのですが、両親のところに行くと、全力で明るく振舞うので、精神的エネルギーが消耗してしまい、翌日は寝込んで起き上がれないという人が多かったです。
うつに気が付かないことは、患者さんがその人のことを大切に思っているということなのです。重症になってしまえば、エネルギーが残されていませんので、隠すこともできないということになるのでしょう。
家族は、思い悩んでいることに気がついるからこそ、何らかの明るい兆しを見せれば、安心したくなるのも自然な感情だと思います。ごまかしているのではないか、演技をしているのではないかと思うことはとてもできることではありません。
ちなみに、うつのこのような傾向は、本人が自ら孤立化していく結果も招くように思われます。その人にとって家族は、相談する対象とか助けてもらう対象ではなく、自分が助けたり、かばったりする対象だという認識が感じ取れます。自死者は、このように責任感が強すぎたり、まじめすぎたりする人が多いことは間違いありません。家族に迷惑をかけないという気持ちが自ら孤立化を深めて自死に向かってしまうということかもしれないと考えています。
2 自殺は、問題解決の兆しの際に起きやすい
これは厚生労働省などの説明にもあります。自死というのはうつのボトムでは起きないで、少し回復傾向になった状態で起きやすいと言われています。重症時は自死をする行動力もなくなるという説明もされることがあります。
実際これまでの事例でも、パワハラ職場から離脱する段取りができた際、まもなくパワハラ上司が職場からいなくなるなどの時、あるいは過酷な仕事がまさに終わる時等「ああ、もう大丈夫だ。」と周囲が安心しているときに自死が起きていたことが少なくありません。
3 長時間労働の過労自殺の場合は、同居の家族と満足に顔を合わせない
長時間労働をはじめとする過重労働による自死の場合は、家族が寝ているときに家を出て、家族が眠ってから帰宅するということが当たり前のように繰り返されています。休日も遅くまで眠っていて、起きてもボヤっとした表情にしかなりません。家族は疲れているとは気が付いていても、うつになっているとか、自死の危険があるなどということはとても分かりません。顔を合わす時間が無いため気が付きようがないのです。
4 自殺の行動決定は直前に行われる。
希死念慮が継続していて、自死のリスクが著しく高い状態が継続するということは珍しくありません。しかし、子細に検討すると、そのハイリスクの中でも自死の行動決定がなされておらず、実際に「この場所で、この時間に、このような方法で自死を決行するという行動決定」は、自死の直前であっただろうという事例が多くあります。それまでもうつ病などで苦しんでいるため、ずうっと思い詰めて自死決行の機会を伺っていて実行するという例も無いわけではないと思いますが、同居者の不意を突いて自死を決行したという行動パターンはむしろ多いです。
この自死の行動決定について、現在詳細な説明を準備しています。
問題解決だけでなくて、当日ないし翌日、あるいは直後に、楽しい予定が入っていたということもよくあります。「あのイベントを予定していたのだからその日に死ぬはずがない。」ということは言えないようです。
また、真面目な人が多いですから、毎日の薬はきちんと飲んでいる場合もあります。「自死をする人は、死のうとしているのだから、死ぬことと矛盾する行動はしないはずだ」ということは成り立たないようです。
さらに、飛び降りなどの確定的な自死行動が起きる場合も多いのですが、それでも、危険な行動をとっていながら、なお、死なないかもしれないというチャンスを残して危険行動に出ているかのような自死行動も少なくないようです。もしかすると、自死の意思決定をする前に行動してしまっているというケースもあるかもしれません。「自死の意思」というのは極めて複雑で多様性があるということが実際のようです。
自死の行動決定は、抱えている解決方法や死んだ後のこと等を熟慮して意思決定をしているわけではないようです。考えているのではなく「自分は死ななくてはならない」という信念にも似たような観念にとらわれて、自死以外の選択肢を持てなくなるようです。そしてそれは、不意にそういう気持ちが表れて気持ちが支配されることがあるそうです。
自殺予防に熱心な人たちは、予防は可能だ、自殺のサインを見逃すなと言うのですが、これが善意で言っていることは理解できます。しかし、そんな簡単なものではなさそうだということが多くの事案を担当した私の結論です。
自殺のサインを見逃さないという考え方の弊害は二つあります。一つは、自死が起きた以上、それはサインを見逃したのだという、家族などに対する批判、あるいは家族の自責の念を招くという効果が起きてしまうことです。前提が非科学的であることを説明してきたつもりです。
もう一つの弊害は、結局自殺の際なんてないことが多いし、通常の家族などはわからないのですから、自殺のサインに注意を傾けるということは、それが無ければ心配しないということ等、予防の役に立たない可能性があるということだと思います。
【自殺についての誤解】死ぬ前に逃げればよかった論と、調子のよいときになぜ論 [自死(自殺)・不明死、葛藤]
芸能人の自殺のニュースに接して気になる論調があったので、この機会に誤解を解きたいと思いました。
1 逃げるという選択肢が無くなるから自殺をするということ
例えばいじめやハラスメント等で自死が起きると、死ぬくらいならば逃げればよかったのではないか、その会社を辞めればよかったのではないかという発言が聞かれることがあります。
もちろん、明示の選択肢が突き付けられていたら、それは逃げる選択を誰しもするのだと思います。しかし、少なくとも自死の実行時には、「逃げる」という選択肢は亡くなっているようです。以前サバイバルシリーズの時にも報告したのですが、うつ病などの精神的な不安定になる前は、「こんな会社いつでも辞めてやる」という気持ちでいることができ、退職するという選択肢を意識していたというのです。ところが、その人はうつ病と診断されたのですが、精神的不安定になってしまうと退職するという選択肢がいつの間にか頭の中から消去されていたというのです。その結果「このまま苦しみ続けて働き続けるか、死ぬか」という二者択一の選択肢しか頭の中に浮かんでこなかったと言います。
世界で最初の女性の自死が労災だと認定された案件を担当したのですが、その事例では、来月退職届を出すということが決まっていた人が、半月後、やめるという選択肢を持っていたにもかかわらず自死しました。辞めるという選択肢がいつの間にか消去されていたことになります。
転職が決まった翌日に自死した事案もあります。形式的には退職の選択肢はあったはずなのに、そのアイデアが自死を止めることができなかったということは間違いありません。
2 ジェットコースター理論・落差理論
会社内での不遇があり、その結果精神的に不安定になり周囲が大変心配していたところ、ある時期から日の目を見だしたように取り立てられるようになったので周囲も安心していたところ自死をしたという事例もあります。どうしてという疑問の声が上がります。ただ、子細にリアルに見ていくと、プラスの事情があったのに、それを打ち消す事情があった場合は、プラスの事情が起きない時よりも精神的打撃は大きくなるということが実態のようです。先ほどの例で言えば、退職を決めて周囲が安心し、ご自分の明るい気持ちになったにもかかわらず何かの事情で以前と同じようにたたきつけられたとか、あるいは以前と同じような出来事の予兆みたいなものがあり、やっぱりまた同じことの繰り返しだと思うと、深く絶望をしてしまうようです。ずうっと苦しんでいるよりも、希望を持った後でその希望の芽を摘まれてしまうことが強い精神的打撃を受けるようです。
3 自死の意思決定は矛盾に満ちていること
私も仕事柄自死についての研究を進めてきて、自死の実態について何件も見てきたので、自死をする場合の意識、自殺の意思決定過程というものが通常は想定されないほど歪んだものであるということに気が付きました。
自分も知りませんでしたので、知らない人を非難するつもりはありません。ただわかっていただきたいだけです。自死をする人は、「よしこれから自殺をしよう。周囲に迷惑をかけたり、悲しい思いをさせたりする人たちが出るけれど仕方がない。」という冷静な判断力をもって自死するわけではないということだということです。家族にあてた遺書を読むとどうしてこういう家族思いの人が自死をしてしまうのかということに理解が苦しみます。矛盾に満ちた混乱した状況の中で自死が起きることがむしろ一般的ですし、考える力が失われている状態だから自死を行うということなのかもしれません。
自死予防の観点からみた子の連れ去り別居がいかに残された夫の自死を誘発する構造 [自死(自殺)・不明死、葛藤]
弁護士に対してレクチャーする機会があって、原稿を書かないと収拾がつかなくなるなと思い、書いていたらやはり収拾がつかなくなってしまいましたがせっかくだからブログに上げます。当事者が特定されないように事案は多少変えています。
一番の心配は国や自治体の自殺対策の新しい目玉の一つとして女性の自殺防止が掲げられたことです。
女性の支援というのは、これまでの流れからするとDV対策が強化されることになることは火を見るより明らかです。しかし、この効果は単に男性の自殺をこれまで以上に増やすだけだと思います。
自殺対策として男性の自殺を増進するような政策は何としてもやめるべきだと思い、その思いから長文になったということもあります。
二つのケースからひも解く子の連れ去りと自死
1 二つのケース
1)離婚訴訟を修習した当事者の20年後の相談
某区役所の法律相談で、支離滅裂な相談を受けた。60歳代男性。現在の仕事の不満なのかと思いきや、自分の苦境を次々と説明し、結局は20年前に自分は離婚されたがその理由が今もわからないというものだった。明らかな抑うつ状態で、話もまとまらない。そんな状態で予約をして当日相談会まで来られたことにむしろ驚く。
実は、彼の離婚理由を私は知っていた。20年前の裁判修習で彼の離婚訴訟を修習し、和解期日も立ち会った事件だった。妻の言い分は、夫は家族をかえりみないで家庭でもワンマンであり、自分の仕事ばかり優先して、部下をしょっちゅう家に連れてきてその人たちの家事までさせる。等、自分たちは無視され続けたというものだった。
夫は、それらの家族の協力のおかげで飛び切りの成果を上げて、一緒に喜んでいたため家族も主体的に自分の仕事に協力していると思っていた。和解の席上象徴的な出来事があった。家の家具をほとんど妻が財産分与で運び出すという和解条項案が示されていて、自分の代理人の説得もあり、おおむね合意をしていたはずだった。ところが、和解期日になって、リビングのテーブルだけは持って行かないでくれと夫は懇願した。おそらくそのテーブルを囲んで、彼は仕事の成果を家族に祝われ、一緒に喜んだ思いでさえもテーブルと一緒にもっていかないでくれと思ったのだろうと肩入れしてしまい一人で涙を流していた。
結局その人は、自分が離婚に至った理由についてその後も理解できていなかった。「どうして」というリフレインだけがいつまでも頭で鳴り続けていて、仕事にも身が入らず、かつての成果が上げられなくなり、結局は退職に追い込まれた。拾ってくれる人もいたが、そこでもうまくいかないため、かつての様子を知る者としては、見る影もなく廃人のような状態に見えた。
彼の行動は、彼自身の満足のためではなく、家族のために、家族が喜ぶと思って(誤解して)行ってきたという意識だったのであろう。
2)子の連れ去り別居の当事者(連れ去られた方)の親睦会
子を連れて妻が別居した人たちの親睦会を主宰していた。コロナの前まで仙台駅の居酒屋で年に8度くらいは開催していた。宮城県在住の常連者の外、東京都や神奈川在住常連もこのためだけに新幹線で往復していた。二次会を見込んでホテルを取る人たちもいた。南は沖縄から北は青森まで全国から集まってきたと言っても過言ではない。1例会に8人から10人くらいは集まっていた。女性も一人常連がいた。
毎回新たなメンバーが加わるため、毎回自己紹介をしていた。つまり自分の事件をみんなに開示していた。それだけで一番大事な部分がそれぞれのメンバーに共有されていたのだと思う。だから、みんな支障のない限り参加したし、参加できない時はメールで近況を知らせてきたりしたのだと思う。
つまり、一番肝心なことを共有していたのだろう。説明することがツラいこと、説明しても自分の周囲では理解されないことを、ここでは口にして説明しなくても参加者全員で共有できるということが、その人の実生活にはない安心感を得られたのだと思う。新幹線代を払ってもホテル代を払っても駆け付けたい集いだった。
また、ネットの当事者団体と違って、妻、元妻の悪口を言わなくても良い(恨みなどは言うにしても)ということがまたさらに楽だったのだと思う。
まとめると、当事者は
・ 実生活で関わる他人に理解してもらえない精神的辛さを抱えている
・ とにかく子どもと会えないこと、子どもの成長にかかわれないことが辛く、
・ なぜ妻は子どもを置いて自分から離れて行ったのかわからない
・ できることならば、子どもに定期的に面会できるくらい信頼関係を復活させたい
ということになるのだろう。ポイントは理解されない辛さとその辛さを理解してもらうことで大きな安堵感を抱くということになると思う。
2 当事者の精神的苦痛のポイント
数々のライフイベントの調査によると、離婚は最高位の精神的打撃があると分析されている。離婚の中でもとくに連れ去り事案は精神的苦痛が大きく、私の知る範囲でも毎年のように自死の報告を受ける。当事者の話をもとにして感情や精神の動きを感じるポイントを挙げてみる。
1)ある日仕事から帰ったら妻と子どもが家におらず、荷物もなくなっていたことの衝撃。当初は、何らかの事件に巻き込まれたと思い、行方を探しまくる。心配、不安、焦りの感情が高まっている。
2)警察に連絡をすると、「居場所は言えないが元気にしている。こちらで保護している」等という返事がされるようだ。このあたりから、「自分はこれまでの人生をまっとうに生きていて、警察は自分の味方のはずだと思っていたが、どうやら警察は自分に対して好意を持っていない」ことに気が付き、自分が体制側の人間であるという自信が崩壊する。自分のこれまでの立場の安心感が通用しない状態にあることを知り、著しい戸惑い、恐怖を伴う心細さを感じる。
3)何をしても妻と連絡が付かないその他の事情から、どうやら自分から子どもを連れて妻が逃げたということを察する。先ず現実を受け入れられない。(朝目が覚めたら、妻が子どもを連れて出て行ったことが悪い夢で、元の同居生活をしていてほしいと何度も思う。自分が夫として、父親として、人間として否定の烙印を押されたような気持になる。仲間だと思っていた人間から、あなたは仲間ではないと突き付けられたことになり、自分の安住していた地盤が崩れるような頼りなさを感じる。
4)警察や行政が妻の自分からの別離に協力しているようで、自分としてはどうやっても子どもにさえ会えない、妻と話し合いもできない、暴力的、一方的に自分が不幸に陥れられて解決方法が無いという絶望感を抱く。
5)離婚調停などで離婚理由を見ても、多くのケースではほとんど何も書いていない。「精神的虐待をする」とか「暴力がある」とか書かれるが、夫はそれに心当たりがない。自分に理由がなく妻の何らかの都合で離婚を望んでいるのではないかと懐疑的になる。
6)離婚調停で提出された資料から、自分はDV加害者として区役所や警察から扱われていることを知り愕然とする。裁判所ですら、自分に対して攻撃的な言動をしたり、恐れているような態度をしているので、自分がこれまで軽蔑していた暴力団か何かのように扱われていると感じる。
7)裁判でも、乳幼児期に一緒にいた、あるいは別居後一緒にいるということで妻側が親権を取ってしまう。それでは仕事を一生懸命やっていたために親権が失われる、理不尽な別居が裁判所によって肯定されると感じ、信じられるものが何もないと感じる。
8)こちらに離婚理由はなく、結果として判決でも慰謝料も認められないのに、妻の離婚の意思が固く別居の事実を理由に離婚が認められる。さらに信じられるものが何もないと感じる。
こちらの言い分を認めず、論理性もなく慰謝料が認められればこの失望、絶望感はさらに強くなる。
9)これまで一緒に生活していて、子どもとも仲良かったのに、子どもと会うことができない。会えたとしても、月1度数時間しか会えない。あいたい。誰も妻を説得してくれずに、自分に我慢を強いて、手紙の交流で我慢しろとまで言われる。改めて父親としても否定されたと感じる。理不尽な状態が社会から放置されているという強い孤独を感じる。また、それらが回復する方法が見つからないということで絶望を感じる。
10)子どもと会えないことはそれ自体がストレスであり、焦燥感を抱くポイントとなる。当事者外の弁護士や裁判所は、なかなかこの焦燥感に寄り添うことをしない。
3 絶望を抱かせる人たち 警察、行政とNPO、弁護士、裁判所
1)警察
生活安全課でいわゆるDV相談を受け付けている。一方当事者の妻の相談だけを受けて、あたかもその事実があったかのような認定をして支援措置をとる。支援措置は原則として身体的暴力が無ければできないことになっているが、その要件について必ずしも現場の警察官は熟知していないようだ。まるで支援措置を何件するというノルマのようなものがあるように感じられる。
支援措置の基本は身を隠すということである。シェルターに身を隠すことが通常である。但し、借り上げアパートなど、探せないところを用意していることが多い。妻に別居を執拗に勧める。別居を嫌がって抵抗した妻を2時間説得して別居させた例もある。そこでは統合失調症の妻の話だけで、「夫のDVは治らない。このままだと殺されてしまう、だから早く逃げろ。」と説得していた。後に妻が保護命令を申立、裁判所によって夫には暴力が無く妻の幻想であるという理由で申し立てが棄却された事案である。
妻が荷物を取りに来るときに警察官2名が同行して、夫の目の前で部屋に上がり込んで荷物を取る妻をガードしていた事例がある。夫はうつ病発症。
妻の行方を捜しに妻の実家に行こうとしたら、家の付近で警察官に連行されストーカー警告を受ける夫もいた。やはりうつ病発症。
妻の実家近くまで行ったら大勢の警察官に取り囲まれ警察署の取調室に連れていかれ、「今後暴力を振るわない」という誓約書を書け。書かないと返さないと言われたケースもある。この夫は機転が利き、今後『も』暴力を振るわないと誓約書を書いたようだ。断り書きのない誓約書は当然離婚訴訟でつかわれることだろう。中には、離婚後10年を経て、転居の手紙を書き、「お近くにおいでの際はお立ち寄りください」という文面によって、「義務なきことを強要した」と認定した警察署もある。
2)行政、NPO等
DV相談の連絡票は、相談をしたものが「被害者」の欄に記載され、その相手を「加害者」の欄に記載することになっている。被害者加害者の意味は相談をした者その相手方であると総務省は各自治体に注意喚起をしている。しかし、自治体担当者は、実際には真正の加害者として夫を扱う。妻が連れ去ったのに夫の元に帰ってきた子どもの保険証を妻が持って行っているため区役所に相談に行ったところ、「あなたとは話す必要が無い。帰れ。」という対応を取られた。この担当者は、単に被害者の欄に妻があり、加害者の欄に夫の名が記載されていたという事実以上の具体的な事実を何ら把握していない。支援措置が取られたというだけで、その相手を虐待者のように扱って、正義感をぶつけ夫に精神的な打撃を与えることをいとわない。
妻の話が疑わしくても、信じるようにという研修がなされている。「DV被害者は被害者であるから精神的に動揺しており整序立てて話せない。逆に夫は被害者でないから冷静に論理的に話すことができる。だから、夫の話を聞かないし、妻の話がつじつまが合わないところが多々あっても、疑わない。疑うことはDV被害者に寄り添っていない。」という教育である。相談担当者はまじめで正義感が強い人たちが多いため、我こそは被害者に寄り添う人間であるということを競っているようでさえある。相談機関から「被害者」、「加害者」の氏名が記載された相談票が警察に渡されて、逃亡等の支援措置が行われる。
初めからDV相談というタイトルで相談を受けるということもあり、DVがあるものとして待ち構えている。本人からDVの相談が無くても、「DVに気づいていない哀れな人間が相談に来ている」という感覚である。何か妻の不安を聴くと「それは夫のDVだ。あなたは悪くない。」というキメ台詞がはかれる。「確証バイアス」の教科書みたいな認定である。例えば月収18万円の夫で、専業主婦の妻がいて、生活費は夫の口座から引き落とし、食料品生活雑貨は夫がお金を出していて、妻に月4万円を渡している場合でも、経済的DVという認定があった。
夫は反論する機会もなく、妻子と会うことも連絡を取ることもできず、親権を侵害されている。これらの支援措置は、裁判所が関与しないで断行される。
シェルターでは保護命令の申立用紙が渡されるほか、法テラスを使って弁護士を選任して離婚調停を申し立てることを勧められる。保護されているという意識があるため、それを断ることはなかなか難しい。
3)弁護士
相手方弁護士は、既に既成事実となったDV被害者の代理人として加害者に通知を出す。具体的事実は何も書かずにDV、精神的虐待を理由に離婚調停を申し立てるといって、当然の権利だから婚姻費用を払えと命令口調と夫が受け取る文面を書く。極めて攻撃的な文章が多い。これは、DVという言葉に自分自身が負けているためである。DVという言葉だけしかないと、最悪のDVを想定し、夫は人格に障害があるだれかれ構わず粗暴なふるまいをする人間だと想定してしまうようだ。だから夫の粗暴な態度から自分を守ろうとして攻撃的態度をとって防御をしているということが真実であると思われる。
弁護士の本能として依頼を受けた以上は離婚が確実に実現し、慰謝料もできるだけ高額になるように主張立証活動をしようとするようだ。針小棒大で、理屈に合わない主張をすることがみられる。逆にDVだ精神的虐待だという言葉は出すものの、具体的な夫の行為が記載されていない書面も多い。妻から事情聴取をしても、妻が離婚したい理由を良く把握、理解していないからだと思われる。あとからどんどん話が変わる、つまり虐待やDVのエピソードが増えていく事例も少なくない。具体的な事実を主張しなくても別居の事実と離婚の意思の方さで離婚を認めてきた裁判所の傾向が大きく寄与している。
夫は離婚理由に納得できるわけはなく、敵意だけを理解して、反撃に出ることばかりを考えるようになる。中には弁護士という職業は立派な人であり、公平かつ論理的に事案を見て適切な対処をする人たちだと考えている当事者がいて、素朴な疑問をぶつけてくる。説明に苦慮することが多い。
4)まとめ
一般市民は、警察、行政、NPO、裁判所、弁護士という職業は、公的な立場に立ち、事案を正しく分析し、公平に市民に接するものと信じている。それらの立場の人間が、自分の言い分を聞かないで、自分に対して否定評価をすることに、耐えられない恐怖を感じるようだ。心当たりがないにもかかわらず、自分が否定すべき行為をしたという公的裁きを受けているような、不安と焦燥感と絶望感を受けている。
4 子どもと会えないことによる心理的状態
当事者が一様に声を上げることは子どもと生活できない辛さである。何しろ連れ去り別居の前までは、我が子を大切にして、我が子の喜ぶことを一生懸命考えて行動していた人たちである。妻が連れ去り別居をする父親の特徴点は、子煩悩であり子どもとのコミュニケーションを上手にとっている場合が多い。連れ去り別居の理由は、妻が子どもをめぐって夫に嫉妬し、家庭の中で自分だけが孤立するのではないかという不安が原因なのではないかと思うほどだ。
子どもの写真、子どもと旅行に行った写真、近所の公園で遊んだ写真等、父親のスマートフォンは子どもと良好な関係にあったことの証拠で満ち溢れている。
子どもと会えないことが、父親の精神的打撃を強めることは間違いない。その理由について述べる間でもないと思われているが、実は我々が意識していない現代社会の人間関係の状態という事情が強めているようだ。
人間は群れに所属していたいという本能を持っている。この本能があったため、言葉のない時代に群れを形成して、外敵や飢えから身を守って人類を生きながらえることができた。数百年前には、このような本能を持っていない個体もいたかもしれないが、群れに入らないために肉食獣に襲われたり、エサを取りはぐれて死滅していったと思われる。
群れに所属したいという本能は、一人でいることに不安や焦りを感じること、群れから追放されそうになったらやはり不安や焦りを感じること、群れに貢献できていると思うと安心をすること、群れに迷惑をかけると不安や焦りを感じるなど、感情が起きることで、群れを維持していく方向で作用していたものと思われる。ストックホルム症候群で知られる現象として、自分を人質にしている犯人にさえ仲間意識を感じてしまうのは、この群れに所属したいという本能、基盤的な要求があるからだと言われている。
200万年くらい前であれば、この本能は人間にメリットばかりを与えていただろう。人間は数十名から200名弱の群れを形成して、およそ一心同体として配慮をしながら暮らしていたと考えられている。仲間は仲間を見捨てなかったし、仲間が苦しむことは自分が苦しむことと同じような感覚になってみんなで解決しようと考えたのだと思われる。仲間の中に帰れば、みんな無条件に安心したし、充たされた気持ちになっていた。
ところが現代社会は違う。街ですれ違う人は見ず知らずの人で、自分が困っていても助けてくれる人はいないか少数の奇特な人であり、見て見ぬふりをされる場合が多い。職場に行っても、常に同僚と比較され、偶然の要素までも自分の査定評価の対象となってしまう。常に緊張して全力を出すことが当たり前で、それができないと群れから容赦なく追放されるか、いづらくなって自らフェイドアウトするしかない。一心同体とか仲間を見捨てない等はもちろん、一人一人に対して細やかな配慮がなされることは望むべくもない。
現代人は、他者とかかわりながらも群れの中にいるという安心感を持てない状態になっているのではないだろうか。昭和の時代は、家庭をかえりみないで働いていても例えば職場において仲間の中にいるという安心感を抱くこともあったのかもしれない。現代では見られない仲間づくりということを、先輩から引き継いだ方法で習慣的に行っていたように思える。現代社会は職場で、ことさらに仲間づくりというものがやられているとは思えない。人間としてのつながりではなく、会社全体で仕事に関して切磋琢磨するという労務管理が行われていればまだ良い方ではないだろうか。
解雇の不安、賃金カットの不安、低評価の不安と、職場という人間関係は安らぎが生まれる人間関係ではない。あからさまに取替可能な人間だとして扱われているのである。
これに対して家族はどうだろうか。
現代社会は核家族である。舅姑が機能していれば、夫ないし妻の行動提起や行動制限が期待できた。嫁姑問題ばかりがクローズアップされるが、本来は家族同士がいたわりあう方法を慣習の形で伝えられていたこともある。性格の一致している夫婦などいない。意見がなんとなく一致しない場合に、つい我が出てくることがある。典型的な問題は子育ての方法である。無意識に主導権争いのような対立が生じてしまい、それなりの緊張感が生まれる。
それに対して、子どもとの関係は無条件で仲間である。子どもは手をかければ喜んでくれるし、なついてくれる。子どもからすると父親は絶対的な存在である。子どもが平穏に成長していくことに父親として貢献できることは多い。無条件に、群れに所属する要求を実感できるのは子どもとの関係である。安らぎ、充実感、自己効用感を抱くことは子どもとの関係が一番である。無自覚のまま、子どもが生きようとする基盤を支えてくれていることが多い。子どもとの関係を断ち切られることは、人間の所属の要求の最も充たされる人間関係を絶たれてしまうということである。人間の根源的な要求を充たす代わりの人間関係は存在しない。
5 子を連れての別居をされた者の心理状態
人間には根源的な要求として所属の要求があるとの説を述べたのはバウマイスターの「The Need To Belong」という論文である。自殺予防の研究ではよく引用をされている論文である。そしてその中でよく引用されている部分が「この所属の要求を充たされない場合、人間は心身に不具合が生じる」と指摘している部分である。
現実の子連れ別居を経験した当事者は、多くがうつ状態になる。自分のことなのに自分ではどうしようもないことに絶望感を抱くようだ。別離の理由がわからない場合は、自分の彼女に対する行為を振り返って、「あれが悪かったのか、これも悪かったのか。」と自分の否定するべき行為を際限なく自分に問いかけてしまう。やがて自分で自分自身を否定しだしていく。はたで見ていると極めて危険な状態に思える。
そして、子どもに会うチャンスをどんなに可能性が低くても、つい期待してしまう。子どもに会うということは自分を取り戻すことでもあるようだ。しかし、それらのチャンスだと思う方法はことごとくダメになる。現実に妻が思い直して、元に戻るという事例が最近生まれて生きているが、ごく短期に変わることは無い。早くても数か月はかかる。2,3年かけて、子どもを含めた交際期間のような準備期間を経て復縁という例もあった。これらの成功例は、妻の子連れ別居に対しての夫側の言いたいことの一切を封印して、妻にこちらに対する安心感を持ってもらうように様々な具体的行動をとることによって可能となる。
しかし、このような結果に向けた道筋が見えない場合は、つい、我が子という自分の人間としての根源的な要求を充たす存在を奪った相手という意識から敵対的な姿勢を示したり、制裁感情をあらわにしてしまい、自らが再生のチャンスをつぶしていることがほとんどだ。妻は何らかの理由で、本当に夫を怖がっていたり嫌悪したりしている。そのような敵対的行動をとられれば、「ほらやっぱり」という態度をとることは必然である。案外別居後の夫の対応が真実の離婚理由になることもある。家族再生の公式を知らない夫は、素朴な正義感に任せて、正義の実現を信じて正解と真逆なことを行う。その皮肉を知らないため、絶望する機会だけが増えていくということが実情である。
6 解決の方向
一番の問題は、警察、役所、NPOなどが、あるいはそこに弁護士も入るかもしれないが、夫婦のトラブルの解決方法が離婚しかないことが最大の問題である。夫婦にはトラブルがつきものである。繰り返すが性格が一致する夫婦なんていない。どちらかが甘酸っぱい我慢をしているのである。時が過ぎればその我慢が屈辱に感じてしまう時期がやってくる。些細なことも気になって仕方が無くなってくる。これは当たり前のことである。
また、その時機にどのような態度を相手にすればよいのか、そのノウハウが無い。嫁姑のように常時観察して小うるさく注意する人間も皆無である。また、最近の教育では、意識的な仲間づくりをするノウハウを覚える機会が無い。このため当たり前に生じる夫婦の衝突が致命的な問題になってしまうということが実感である。
先ず社会が理性的に行うべきことは、現代社会において対等平等のパートナーの作り方のノウハウを普及啓発することが必要だと私は感じる。一番大切なことは、最も根源的な群れである夫婦が相互に安心感を与えてお互いが人間としての根源的要求である所属の要求を充たすことの必要性を理解することである。
次に相談機関の方向性の第1選択肢を離婚ではなく、家族再生を原則とするべきである。DVや精神的虐待を理由とする離婚要求で、実際にDVや精神的虐待が認定されたケースは少ない。子の健全な成長の観点も視野に入れて、夫婦が円満に過ごすためのノウハウを伝授し、妻の相談であれば、夫に意見を述べる双方向の公平な回答をするべきであると考える。妻が現状に不満を抱くと必ず「それは夫のDVだ。あなたは悪くない。」という回答がなされるように感じる。それはどんな相談でも、DV相談として取り扱うという入り口から偏っているのではないかという懸念が、実務的経験からは払しょくしえない。
それから妻が別居する場合でも、子どもとの交流を確保する場が必要だ。厳重な警戒でも何でも、とにかく面と向かって会える場を行政の責任で確保するべきである。
支援措置は、それ以来子どもと一度も面会できないままになってしまう可能性のある親権侵害を断行する手続きである。裁判所の許可を得ないで警察の片側からの事情聴取で行うことは、世界標準で考えれば公的機関の人権侵害だと考える。日本では人権意識の高い政治家が少ないことが如実に反映されている。このような人権侵害となる支援措置は廃止するべきだ。あるいは裁判所の関与があることが最低条件になるだろう。
離婚調停を申し立てる場合、その理由をできるだけ詳しく主張するべきだと思う。これは相手方の精神的負担を少し軽減するという効果もあるが、それによって離婚を受け入れ、迅速に事後トラブルなく離婚が成立する可能性も高まるという申立人の利益でもある。
面会交流については、裁判所は積極的に条件整備をするべきだと思う。面会交流がこの利益になるということは、裁判所においては著名な事実である。ところが調停委員は、申立人と相手方の公平を理由に積極的に面会交流を働きかけないことが少なくない。公平よりも子の福祉を家庭裁判所は優先するべきであることは明白である。あとは、面会の方法など双方が安心できて、スムーズに面会が実現することにこそ裁判所の役割であると思う。
夫側の代理人は、先ず、子連れ別居の理由について科学的に把握して当事者と情報を共有するべきだ。当然、医学、心理学などの基礎的な知識は不可欠である。
夫側が再生を目指すのであれば、再生のノウハウを習得して臨機応変にアドバイスをして手続き活動を推進していくことが必要だ。無駄に敵対するような活動は、再生にとっては逆効果にしかならないことをきちんと提起しなくてはならない。
とにかく、他人の家庭事情に口を出す場合は、双方の言い分をきちんと聴取することが鉄則である。また、事実上子どもに会えないという人間としての根本的な生きる利益を奪うような行為は裁判手続きによってこそ認められるべきだと思う。
本件問題が広く議論されることを切に願う次第である。
一番の心配は国や自治体の自殺対策の新しい目玉の一つとして女性の自殺防止が掲げられたことです。
女性の支援というのは、これまでの流れからするとDV対策が強化されることになることは火を見るより明らかです。しかし、この効果は単に男性の自殺をこれまで以上に増やすだけだと思います。
自殺対策として男性の自殺を増進するような政策は何としてもやめるべきだと思い、その思いから長文になったということもあります。
二つのケースからひも解く子の連れ去りと自死
1 二つのケース
1)離婚訴訟を修習した当事者の20年後の相談
某区役所の法律相談で、支離滅裂な相談を受けた。60歳代男性。現在の仕事の不満なのかと思いきや、自分の苦境を次々と説明し、結局は20年前に自分は離婚されたがその理由が今もわからないというものだった。明らかな抑うつ状態で、話もまとまらない。そんな状態で予約をして当日相談会まで来られたことにむしろ驚く。
実は、彼の離婚理由を私は知っていた。20年前の裁判修習で彼の離婚訴訟を修習し、和解期日も立ち会った事件だった。妻の言い分は、夫は家族をかえりみないで家庭でもワンマンであり、自分の仕事ばかり優先して、部下をしょっちゅう家に連れてきてその人たちの家事までさせる。等、自分たちは無視され続けたというものだった。
夫は、それらの家族の協力のおかげで飛び切りの成果を上げて、一緒に喜んでいたため家族も主体的に自分の仕事に協力していると思っていた。和解の席上象徴的な出来事があった。家の家具をほとんど妻が財産分与で運び出すという和解条項案が示されていて、自分の代理人の説得もあり、おおむね合意をしていたはずだった。ところが、和解期日になって、リビングのテーブルだけは持って行かないでくれと夫は懇願した。おそらくそのテーブルを囲んで、彼は仕事の成果を家族に祝われ、一緒に喜んだ思いでさえもテーブルと一緒にもっていかないでくれと思ったのだろうと肩入れしてしまい一人で涙を流していた。
結局その人は、自分が離婚に至った理由についてその後も理解できていなかった。「どうして」というリフレインだけがいつまでも頭で鳴り続けていて、仕事にも身が入らず、かつての成果が上げられなくなり、結局は退職に追い込まれた。拾ってくれる人もいたが、そこでもうまくいかないため、かつての様子を知る者としては、見る影もなく廃人のような状態に見えた。
彼の行動は、彼自身の満足のためではなく、家族のために、家族が喜ぶと思って(誤解して)行ってきたという意識だったのであろう。
2)子の連れ去り別居の当事者(連れ去られた方)の親睦会
子を連れて妻が別居した人たちの親睦会を主宰していた。コロナの前まで仙台駅の居酒屋で年に8度くらいは開催していた。宮城県在住の常連者の外、東京都や神奈川在住常連もこのためだけに新幹線で往復していた。二次会を見込んでホテルを取る人たちもいた。南は沖縄から北は青森まで全国から集まってきたと言っても過言ではない。1例会に8人から10人くらいは集まっていた。女性も一人常連がいた。
毎回新たなメンバーが加わるため、毎回自己紹介をしていた。つまり自分の事件をみんなに開示していた。それだけで一番大事な部分がそれぞれのメンバーに共有されていたのだと思う。だから、みんな支障のない限り参加したし、参加できない時はメールで近況を知らせてきたりしたのだと思う。
つまり、一番肝心なことを共有していたのだろう。説明することがツラいこと、説明しても自分の周囲では理解されないことを、ここでは口にして説明しなくても参加者全員で共有できるということが、その人の実生活にはない安心感を得られたのだと思う。新幹線代を払ってもホテル代を払っても駆け付けたい集いだった。
また、ネットの当事者団体と違って、妻、元妻の悪口を言わなくても良い(恨みなどは言うにしても)ということがまたさらに楽だったのだと思う。
まとめると、当事者は
・ 実生活で関わる他人に理解してもらえない精神的辛さを抱えている
・ とにかく子どもと会えないこと、子どもの成長にかかわれないことが辛く、
・ なぜ妻は子どもを置いて自分から離れて行ったのかわからない
・ できることならば、子どもに定期的に面会できるくらい信頼関係を復活させたい
ということになるのだろう。ポイントは理解されない辛さとその辛さを理解してもらうことで大きな安堵感を抱くということになると思う。
2 当事者の精神的苦痛のポイント
数々のライフイベントの調査によると、離婚は最高位の精神的打撃があると分析されている。離婚の中でもとくに連れ去り事案は精神的苦痛が大きく、私の知る範囲でも毎年のように自死の報告を受ける。当事者の話をもとにして感情や精神の動きを感じるポイントを挙げてみる。
1)ある日仕事から帰ったら妻と子どもが家におらず、荷物もなくなっていたことの衝撃。当初は、何らかの事件に巻き込まれたと思い、行方を探しまくる。心配、不安、焦りの感情が高まっている。
2)警察に連絡をすると、「居場所は言えないが元気にしている。こちらで保護している」等という返事がされるようだ。このあたりから、「自分はこれまでの人生をまっとうに生きていて、警察は自分の味方のはずだと思っていたが、どうやら警察は自分に対して好意を持っていない」ことに気が付き、自分が体制側の人間であるという自信が崩壊する。自分のこれまでの立場の安心感が通用しない状態にあることを知り、著しい戸惑い、恐怖を伴う心細さを感じる。
3)何をしても妻と連絡が付かないその他の事情から、どうやら自分から子どもを連れて妻が逃げたということを察する。先ず現実を受け入れられない。(朝目が覚めたら、妻が子どもを連れて出て行ったことが悪い夢で、元の同居生活をしていてほしいと何度も思う。自分が夫として、父親として、人間として否定の烙印を押されたような気持になる。仲間だと思っていた人間から、あなたは仲間ではないと突き付けられたことになり、自分の安住していた地盤が崩れるような頼りなさを感じる。
4)警察や行政が妻の自分からの別離に協力しているようで、自分としてはどうやっても子どもにさえ会えない、妻と話し合いもできない、暴力的、一方的に自分が不幸に陥れられて解決方法が無いという絶望感を抱く。
5)離婚調停などで離婚理由を見ても、多くのケースではほとんど何も書いていない。「精神的虐待をする」とか「暴力がある」とか書かれるが、夫はそれに心当たりがない。自分に理由がなく妻の何らかの都合で離婚を望んでいるのではないかと懐疑的になる。
6)離婚調停で提出された資料から、自分はDV加害者として区役所や警察から扱われていることを知り愕然とする。裁判所ですら、自分に対して攻撃的な言動をしたり、恐れているような態度をしているので、自分がこれまで軽蔑していた暴力団か何かのように扱われていると感じる。
7)裁判でも、乳幼児期に一緒にいた、あるいは別居後一緒にいるということで妻側が親権を取ってしまう。それでは仕事を一生懸命やっていたために親権が失われる、理不尽な別居が裁判所によって肯定されると感じ、信じられるものが何もないと感じる。
8)こちらに離婚理由はなく、結果として判決でも慰謝料も認められないのに、妻の離婚の意思が固く別居の事実を理由に離婚が認められる。さらに信じられるものが何もないと感じる。
こちらの言い分を認めず、論理性もなく慰謝料が認められればこの失望、絶望感はさらに強くなる。
9)これまで一緒に生活していて、子どもとも仲良かったのに、子どもと会うことができない。会えたとしても、月1度数時間しか会えない。あいたい。誰も妻を説得してくれずに、自分に我慢を強いて、手紙の交流で我慢しろとまで言われる。改めて父親としても否定されたと感じる。理不尽な状態が社会から放置されているという強い孤独を感じる。また、それらが回復する方法が見つからないということで絶望を感じる。
10)子どもと会えないことはそれ自体がストレスであり、焦燥感を抱くポイントとなる。当事者外の弁護士や裁判所は、なかなかこの焦燥感に寄り添うことをしない。
3 絶望を抱かせる人たち 警察、行政とNPO、弁護士、裁判所
1)警察
生活安全課でいわゆるDV相談を受け付けている。一方当事者の妻の相談だけを受けて、あたかもその事実があったかのような認定をして支援措置をとる。支援措置は原則として身体的暴力が無ければできないことになっているが、その要件について必ずしも現場の警察官は熟知していないようだ。まるで支援措置を何件するというノルマのようなものがあるように感じられる。
支援措置の基本は身を隠すということである。シェルターに身を隠すことが通常である。但し、借り上げアパートなど、探せないところを用意していることが多い。妻に別居を執拗に勧める。別居を嫌がって抵抗した妻を2時間説得して別居させた例もある。そこでは統合失調症の妻の話だけで、「夫のDVは治らない。このままだと殺されてしまう、だから早く逃げろ。」と説得していた。後に妻が保護命令を申立、裁判所によって夫には暴力が無く妻の幻想であるという理由で申し立てが棄却された事案である。
妻が荷物を取りに来るときに警察官2名が同行して、夫の目の前で部屋に上がり込んで荷物を取る妻をガードしていた事例がある。夫はうつ病発症。
妻の行方を捜しに妻の実家に行こうとしたら、家の付近で警察官に連行されストーカー警告を受ける夫もいた。やはりうつ病発症。
妻の実家近くまで行ったら大勢の警察官に取り囲まれ警察署の取調室に連れていかれ、「今後暴力を振るわない」という誓約書を書け。書かないと返さないと言われたケースもある。この夫は機転が利き、今後『も』暴力を振るわないと誓約書を書いたようだ。断り書きのない誓約書は当然離婚訴訟でつかわれることだろう。中には、離婚後10年を経て、転居の手紙を書き、「お近くにおいでの際はお立ち寄りください」という文面によって、「義務なきことを強要した」と認定した警察署もある。
2)行政、NPO等
DV相談の連絡票は、相談をしたものが「被害者」の欄に記載され、その相手を「加害者」の欄に記載することになっている。被害者加害者の意味は相談をした者その相手方であると総務省は各自治体に注意喚起をしている。しかし、自治体担当者は、実際には真正の加害者として夫を扱う。妻が連れ去ったのに夫の元に帰ってきた子どもの保険証を妻が持って行っているため区役所に相談に行ったところ、「あなたとは話す必要が無い。帰れ。」という対応を取られた。この担当者は、単に被害者の欄に妻があり、加害者の欄に夫の名が記載されていたという事実以上の具体的な事実を何ら把握していない。支援措置が取られたというだけで、その相手を虐待者のように扱って、正義感をぶつけ夫に精神的な打撃を与えることをいとわない。
妻の話が疑わしくても、信じるようにという研修がなされている。「DV被害者は被害者であるから精神的に動揺しており整序立てて話せない。逆に夫は被害者でないから冷静に論理的に話すことができる。だから、夫の話を聞かないし、妻の話がつじつまが合わないところが多々あっても、疑わない。疑うことはDV被害者に寄り添っていない。」という教育である。相談担当者はまじめで正義感が強い人たちが多いため、我こそは被害者に寄り添う人間であるということを競っているようでさえある。相談機関から「被害者」、「加害者」の氏名が記載された相談票が警察に渡されて、逃亡等の支援措置が行われる。
初めからDV相談というタイトルで相談を受けるということもあり、DVがあるものとして待ち構えている。本人からDVの相談が無くても、「DVに気づいていない哀れな人間が相談に来ている」という感覚である。何か妻の不安を聴くと「それは夫のDVだ。あなたは悪くない。」というキメ台詞がはかれる。「確証バイアス」の教科書みたいな認定である。例えば月収18万円の夫で、専業主婦の妻がいて、生活費は夫の口座から引き落とし、食料品生活雑貨は夫がお金を出していて、妻に月4万円を渡している場合でも、経済的DVという認定があった。
夫は反論する機会もなく、妻子と会うことも連絡を取ることもできず、親権を侵害されている。これらの支援措置は、裁判所が関与しないで断行される。
シェルターでは保護命令の申立用紙が渡されるほか、法テラスを使って弁護士を選任して離婚調停を申し立てることを勧められる。保護されているという意識があるため、それを断ることはなかなか難しい。
3)弁護士
相手方弁護士は、既に既成事実となったDV被害者の代理人として加害者に通知を出す。具体的事実は何も書かずにDV、精神的虐待を理由に離婚調停を申し立てるといって、当然の権利だから婚姻費用を払えと命令口調と夫が受け取る文面を書く。極めて攻撃的な文章が多い。これは、DVという言葉に自分自身が負けているためである。DVという言葉だけしかないと、最悪のDVを想定し、夫は人格に障害があるだれかれ構わず粗暴なふるまいをする人間だと想定してしまうようだ。だから夫の粗暴な態度から自分を守ろうとして攻撃的態度をとって防御をしているということが真実であると思われる。
弁護士の本能として依頼を受けた以上は離婚が確実に実現し、慰謝料もできるだけ高額になるように主張立証活動をしようとするようだ。針小棒大で、理屈に合わない主張をすることがみられる。逆にDVだ精神的虐待だという言葉は出すものの、具体的な夫の行為が記載されていない書面も多い。妻から事情聴取をしても、妻が離婚したい理由を良く把握、理解していないからだと思われる。あとからどんどん話が変わる、つまり虐待やDVのエピソードが増えていく事例も少なくない。具体的な事実を主張しなくても別居の事実と離婚の意思の方さで離婚を認めてきた裁判所の傾向が大きく寄与している。
夫は離婚理由に納得できるわけはなく、敵意だけを理解して、反撃に出ることばかりを考えるようになる。中には弁護士という職業は立派な人であり、公平かつ論理的に事案を見て適切な対処をする人たちだと考えている当事者がいて、素朴な疑問をぶつけてくる。説明に苦慮することが多い。
4)まとめ
一般市民は、警察、行政、NPO、裁判所、弁護士という職業は、公的な立場に立ち、事案を正しく分析し、公平に市民に接するものと信じている。それらの立場の人間が、自分の言い分を聞かないで、自分に対して否定評価をすることに、耐えられない恐怖を感じるようだ。心当たりがないにもかかわらず、自分が否定すべき行為をしたという公的裁きを受けているような、不安と焦燥感と絶望感を受けている。
4 子どもと会えないことによる心理的状態
当事者が一様に声を上げることは子どもと生活できない辛さである。何しろ連れ去り別居の前までは、我が子を大切にして、我が子の喜ぶことを一生懸命考えて行動していた人たちである。妻が連れ去り別居をする父親の特徴点は、子煩悩であり子どもとのコミュニケーションを上手にとっている場合が多い。連れ去り別居の理由は、妻が子どもをめぐって夫に嫉妬し、家庭の中で自分だけが孤立するのではないかという不安が原因なのではないかと思うほどだ。
子どもの写真、子どもと旅行に行った写真、近所の公園で遊んだ写真等、父親のスマートフォンは子どもと良好な関係にあったことの証拠で満ち溢れている。
子どもと会えないことが、父親の精神的打撃を強めることは間違いない。その理由について述べる間でもないと思われているが、実は我々が意識していない現代社会の人間関係の状態という事情が強めているようだ。
人間は群れに所属していたいという本能を持っている。この本能があったため、言葉のない時代に群れを形成して、外敵や飢えから身を守って人類を生きながらえることができた。数百年前には、このような本能を持っていない個体もいたかもしれないが、群れに入らないために肉食獣に襲われたり、エサを取りはぐれて死滅していったと思われる。
群れに所属したいという本能は、一人でいることに不安や焦りを感じること、群れから追放されそうになったらやはり不安や焦りを感じること、群れに貢献できていると思うと安心をすること、群れに迷惑をかけると不安や焦りを感じるなど、感情が起きることで、群れを維持していく方向で作用していたものと思われる。ストックホルム症候群で知られる現象として、自分を人質にしている犯人にさえ仲間意識を感じてしまうのは、この群れに所属したいという本能、基盤的な要求があるからだと言われている。
200万年くらい前であれば、この本能は人間にメリットばかりを与えていただろう。人間は数十名から200名弱の群れを形成して、およそ一心同体として配慮をしながら暮らしていたと考えられている。仲間は仲間を見捨てなかったし、仲間が苦しむことは自分が苦しむことと同じような感覚になってみんなで解決しようと考えたのだと思われる。仲間の中に帰れば、みんな無条件に安心したし、充たされた気持ちになっていた。
ところが現代社会は違う。街ですれ違う人は見ず知らずの人で、自分が困っていても助けてくれる人はいないか少数の奇特な人であり、見て見ぬふりをされる場合が多い。職場に行っても、常に同僚と比較され、偶然の要素までも自分の査定評価の対象となってしまう。常に緊張して全力を出すことが当たり前で、それができないと群れから容赦なく追放されるか、いづらくなって自らフェイドアウトするしかない。一心同体とか仲間を見捨てない等はもちろん、一人一人に対して細やかな配慮がなされることは望むべくもない。
現代人は、他者とかかわりながらも群れの中にいるという安心感を持てない状態になっているのではないだろうか。昭和の時代は、家庭をかえりみないで働いていても例えば職場において仲間の中にいるという安心感を抱くこともあったのかもしれない。現代では見られない仲間づくりということを、先輩から引き継いだ方法で習慣的に行っていたように思える。現代社会は職場で、ことさらに仲間づくりというものがやられているとは思えない。人間としてのつながりではなく、会社全体で仕事に関して切磋琢磨するという労務管理が行われていればまだ良い方ではないだろうか。
解雇の不安、賃金カットの不安、低評価の不安と、職場という人間関係は安らぎが生まれる人間関係ではない。あからさまに取替可能な人間だとして扱われているのである。
これに対して家族はどうだろうか。
現代社会は核家族である。舅姑が機能していれば、夫ないし妻の行動提起や行動制限が期待できた。嫁姑問題ばかりがクローズアップされるが、本来は家族同士がいたわりあう方法を慣習の形で伝えられていたこともある。性格の一致している夫婦などいない。意見がなんとなく一致しない場合に、つい我が出てくることがある。典型的な問題は子育ての方法である。無意識に主導権争いのような対立が生じてしまい、それなりの緊張感が生まれる。
それに対して、子どもとの関係は無条件で仲間である。子どもは手をかければ喜んでくれるし、なついてくれる。子どもからすると父親は絶対的な存在である。子どもが平穏に成長していくことに父親として貢献できることは多い。無条件に、群れに所属する要求を実感できるのは子どもとの関係である。安らぎ、充実感、自己効用感を抱くことは子どもとの関係が一番である。無自覚のまま、子どもが生きようとする基盤を支えてくれていることが多い。子どもとの関係を断ち切られることは、人間の所属の要求の最も充たされる人間関係を絶たれてしまうということである。人間の根源的な要求を充たす代わりの人間関係は存在しない。
5 子を連れての別居をされた者の心理状態
人間には根源的な要求として所属の要求があるとの説を述べたのはバウマイスターの「The Need To Belong」という論文である。自殺予防の研究ではよく引用をされている論文である。そしてその中でよく引用されている部分が「この所属の要求を充たされない場合、人間は心身に不具合が生じる」と指摘している部分である。
現実の子連れ別居を経験した当事者は、多くがうつ状態になる。自分のことなのに自分ではどうしようもないことに絶望感を抱くようだ。別離の理由がわからない場合は、自分の彼女に対する行為を振り返って、「あれが悪かったのか、これも悪かったのか。」と自分の否定するべき行為を際限なく自分に問いかけてしまう。やがて自分で自分自身を否定しだしていく。はたで見ていると極めて危険な状態に思える。
そして、子どもに会うチャンスをどんなに可能性が低くても、つい期待してしまう。子どもに会うということは自分を取り戻すことでもあるようだ。しかし、それらのチャンスだと思う方法はことごとくダメになる。現実に妻が思い直して、元に戻るという事例が最近生まれて生きているが、ごく短期に変わることは無い。早くても数か月はかかる。2,3年かけて、子どもを含めた交際期間のような準備期間を経て復縁という例もあった。これらの成功例は、妻の子連れ別居に対しての夫側の言いたいことの一切を封印して、妻にこちらに対する安心感を持ってもらうように様々な具体的行動をとることによって可能となる。
しかし、このような結果に向けた道筋が見えない場合は、つい、我が子という自分の人間としての根源的な要求を充たす存在を奪った相手という意識から敵対的な姿勢を示したり、制裁感情をあらわにしてしまい、自らが再生のチャンスをつぶしていることがほとんどだ。妻は何らかの理由で、本当に夫を怖がっていたり嫌悪したりしている。そのような敵対的行動をとられれば、「ほらやっぱり」という態度をとることは必然である。案外別居後の夫の対応が真実の離婚理由になることもある。家族再生の公式を知らない夫は、素朴な正義感に任せて、正義の実現を信じて正解と真逆なことを行う。その皮肉を知らないため、絶望する機会だけが増えていくということが実情である。
6 解決の方向
一番の問題は、警察、役所、NPOなどが、あるいはそこに弁護士も入るかもしれないが、夫婦のトラブルの解決方法が離婚しかないことが最大の問題である。夫婦にはトラブルがつきものである。繰り返すが性格が一致する夫婦なんていない。どちらかが甘酸っぱい我慢をしているのである。時が過ぎればその我慢が屈辱に感じてしまう時期がやってくる。些細なことも気になって仕方が無くなってくる。これは当たり前のことである。
また、その時機にどのような態度を相手にすればよいのか、そのノウハウが無い。嫁姑のように常時観察して小うるさく注意する人間も皆無である。また、最近の教育では、意識的な仲間づくりをするノウハウを覚える機会が無い。このため当たり前に生じる夫婦の衝突が致命的な問題になってしまうということが実感である。
先ず社会が理性的に行うべきことは、現代社会において対等平等のパートナーの作り方のノウハウを普及啓発することが必要だと私は感じる。一番大切なことは、最も根源的な群れである夫婦が相互に安心感を与えてお互いが人間としての根源的要求である所属の要求を充たすことの必要性を理解することである。
次に相談機関の方向性の第1選択肢を離婚ではなく、家族再生を原則とするべきである。DVや精神的虐待を理由とする離婚要求で、実際にDVや精神的虐待が認定されたケースは少ない。子の健全な成長の観点も視野に入れて、夫婦が円満に過ごすためのノウハウを伝授し、妻の相談であれば、夫に意見を述べる双方向の公平な回答をするべきであると考える。妻が現状に不満を抱くと必ず「それは夫のDVだ。あなたは悪くない。」という回答がなされるように感じる。それはどんな相談でも、DV相談として取り扱うという入り口から偏っているのではないかという懸念が、実務的経験からは払しょくしえない。
それから妻が別居する場合でも、子どもとの交流を確保する場が必要だ。厳重な警戒でも何でも、とにかく面と向かって会える場を行政の責任で確保するべきである。
支援措置は、それ以来子どもと一度も面会できないままになってしまう可能性のある親権侵害を断行する手続きである。裁判所の許可を得ないで警察の片側からの事情聴取で行うことは、世界標準で考えれば公的機関の人権侵害だと考える。日本では人権意識の高い政治家が少ないことが如実に反映されている。このような人権侵害となる支援措置は廃止するべきだ。あるいは裁判所の関与があることが最低条件になるだろう。
離婚調停を申し立てる場合、その理由をできるだけ詳しく主張するべきだと思う。これは相手方の精神的負担を少し軽減するという効果もあるが、それによって離婚を受け入れ、迅速に事後トラブルなく離婚が成立する可能性も高まるという申立人の利益でもある。
面会交流については、裁判所は積極的に条件整備をするべきだと思う。面会交流がこの利益になるということは、裁判所においては著名な事実である。ところが調停委員は、申立人と相手方の公平を理由に積極的に面会交流を働きかけないことが少なくない。公平よりも子の福祉を家庭裁判所は優先するべきであることは明白である。あとは、面会の方法など双方が安心できて、スムーズに面会が実現することにこそ裁判所の役割であると思う。
夫側の代理人は、先ず、子連れ別居の理由について科学的に把握して当事者と情報を共有するべきだ。当然、医学、心理学などの基礎的な知識は不可欠である。
夫側が再生を目指すのであれば、再生のノウハウを習得して臨機応変にアドバイスをして手続き活動を推進していくことが必要だ。無駄に敵対するような活動は、再生にとっては逆効果にしかならないことをきちんと提起しなくてはならない。
とにかく、他人の家庭事情に口を出す場合は、双方の言い分をきちんと聴取することが鉄則である。また、事実上子どもに会えないという人間としての根本的な生きる利益を奪うような行為は裁判手続きによってこそ認められるべきだと思う。
本件問題が広く議論されることを切に願う次第である。