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中高生の生徒さん方に自殺予防のお話をする機会で、何を伝えるべきか 自殺、うつについての誤解 [自死(自殺)・不明死、葛藤]


生徒さんに自死予防のお話をする場合、どのようなお話をすればよいかということで、例によって、記事を書きながら考えていこうと思います。

まず、自死予防とは何を予防するのかということをはっきりさせなければならないと思います。
最終的に死ぬことを予防するということは間違いありません。しかし、死にそうになってから「さあ、予防しましょう。」というのでは遅すぎます。予防が成功する確率も下がってしまいます。また、予防のためには、例えば精神科への入院など、「死なないことを最優先する」ということになってしまいます。

このため、もっと早い段階で、死にそうにならないようにするということが最初に考えられるべき自死予防であり、最も効果が高い自死予防になるはずです。しかし、不幸にして死にそうになってしまったならば、まずそのことに気が付いてできるだけ早い段階で対応をする必要がある、こういう順番だと思います。

死にそうになる段階というのは、自死リスクが高まっている段階です。

「自死リスクが高い状態」を、ここでは通常の心理状態であれば自死に向けた行為のきっかけにならないような些細な刺激で自死が欠航される危険のある状態としておきます。

自死が行われる場合、自死リスクが高い状態になってから自死を決行するのか、そのような状態を通らないで一つの衝撃的な出来事だけで自死をしてしまうのかというと、圧倒的に多いのは自死リスクが高い状態が存在してからだと思います。死の危険性が高まっても、直ちに自死することはなく、自死リスクの高い状態が、相当時間継続します。

この時間は千差万別です。数か月以上あるいはそれ以上自死リスクが高い状態が続いたうえで適切な働きかけができないでおいて亡くなってしまう場合もありますし、衝撃が大きすぎて数日単位で亡くなってしまったケースもありました。

ところで自死リスクが高まっているときの心理状態はどういうものでしょうか。
自死を途中で思いとどまった人の話を聞くと以下の特徴があります。
・ 死ぬことが怖くなくなっている。むしろほのかに明るいイメージを持つ。
・ これ以上生きていることが負担で耐えられない。
・ 何をやってもうまくいかないと思い込んでいる(第三者から見るとそうではない)。
・ 現在の苦しみは解決しないと思う(第三者から見るとそうではない)。
・ 自分は孤立している(第三者から見ると違う場合が多い)。
・ 比較的多いケースとして「自分は死ななければならない」と思い込んでいる。

悲観的傾向、二者択一的傾向、刹那的傾向、将来を見通すことができない、客観的な状態把握が難しい、つまり
「思考力が低下して理性的なものの見方考え方ができなくなっている状態」
というようにまとめることができるかもしれません。

このような心理状態になり、例えば誰かにからかわれるという出来事(普段なら笑って切り返していた出来事)だけで、「自分は死ぬまで孤立して過ごし回復することは無いのだ」という絶望を感じてしまい自死を決行してしまうということが起きてしまうわけです。

それでは、何が原因で自死リスクが高い状態となるのでしょう。これまでの調査で浮かんできた事情を列挙してみます。
・ 継続した人間関係のトラブル(パワハラやいじめも含む)
・ 元々あった精神疾患、あるいは人間関係のトラブルが原因の精神疾患
・ 様々な事情で起きる、物の見方考え方の極端な歪み
・ 薬の副作用
・ 脳の傷害
・ 睡眠不足
・ 精神疾患以外の病気
・ 慢性的な緊張感の持続(過重労働、無理な受験勉強)
・ 社会的評価が失墜するような出来事(犯罪を行い逮捕されるとか)

順番は今思いついた順番であり、特に意味はありません。書いていて気が付いていたのですが、複合的なことが多く、それぞれが原因と結果の関係が入れ替わったりします。例えば長時間労働があれば、睡眠不足になり、うつ状態になっていって自死リスクが高まることもあります。原因不明のうつ病によって睡眠不足が症状として出現し、自死リスクが高まることもあるという具合です。

どうやら、人間は、
「自分が構成員となる人間関係において、仲間として尊重されていたい
という希望を本能的に持っているようです。そして、自分が要求する仲間として扱いを受けないと孤立感を抱いてしまい、それがその人の能力に応じて一定以上継続してしまうと、精神的に破綻していくということが起こるようです。精神疾患や薬の副作用、あるいは睡眠障害によって、特に理由もなくこの
「回復不可能な孤立感」
を感じることもあるようです。

そして、複数の人間関係のうち、一つだけで不具合が発生しても、
全部の人間関係で孤立しているようなダメージを受けてしまうようです。
だから、どんなに家族が仲が良くても、例えば会社でひどい仕打ち、仲間として扱われない状態が続いてしまうと自死リスクが高まったり、友人関係が豊富でも社会的信用を無くしてしまうと自死リスクが高まるということが実際に起きています。

その人間関係がだめでも、家族はいつもの通り接しているのに、すべてうまくいかないというダメージを受けるようです。

ここは自死についての誤解がよくあるところです。自死が起きた以上、家族関係がうまくいっていなかったのではないかということを無責任に言う人がいますけれど、それは全く失礼な話です。遺族が苦しむだけのことなのです。

また、上に紹介した通り、精神疾患だけで自死リスクが高まるということが実際にあります。特に理由もなく、自分は警察に逮捕されて刑務所に入れられてしまうと考えてしまう人もいました。うつ病性妄想といううつ病の症状です。うつ病という精神疾患は、ただ苦しいだけではなく、人間関係に回復しがたいトラブルがあるという妄想を抱くことがあるようです。

精神疾患は隠れている場合もあります。強烈なストレスは、結構多くの場所に待ち構えているものです。そう考えると、あの人は強い人だから大丈夫だとか、この人は明るい人だから大丈夫と言うような、大丈夫と言うことはありません。誰にでも自死リスクが高まる可能性があると考える必要があると思います。

ここでも自死の誤解を指摘します。自死する人は心が弱い人、すぐに逃げ出す人ということがネットなどでは言われるのですが、自死する人は
責任感が強すぎる人
心が強すぎる人
能力があって、たいていのことはやり抜いてしまう人
という人たちが典型です。私のような無責任で、心が弱い人は、辛ければ逃げることができます。しかし、過労死する人は、自分の属する部署に会社のノルマが与えられた場合それはやり抜かなくてはならないと考えてしまいます。そして、同僚がそれに対して熱心に追求しない場合は、同僚の分まで自分でやろうとしてしまいます。そして、能力があるのでやり抜いてしまうことが何度かあるため、またやろうとしてしまうわけです。能力の範囲を超えたことをやろうとするため、強烈なストレスが慢性的にかかり、自死リスクが高まっていくという事例を多く見ています。

さて、では、私たちができる自死予防というものは何があるでしょうか。友達、家族、そして自分に分けて考えてみましょう。

友達
友達については、まず自分が友達の自死リスクを作らないということです。仲間として尊重しないということをしないということになると思います。簡単に言うと仲間として尊重するということですが、これはまじめに考えすぎるとキリがないことです。あなたにも家族がいるでしょうし、別の友達関係もあるので、特定の人間だけに全力を挙げて対応するということは不可能です。

ただ、攻撃しないということはできることですし、知らないうちに攻撃をしているということがあります。ご自分はそのつもりが無いのに、相手は傷ついているという場合ですね。キリがないと考える一つの理由もここにあります。

例えばクラスの中の友達の場合、つまりそれ以上の友達ではない場合、クラスのほかの人間と同じように接するということが大切だと思います。一人だけ情報が入らないとか、一人だけ嫌なことをさせられるとか、一人だけ呼び捨てにされるとか、考えようによっては嫌なニックネームで呼ぶとか、そういうことをしないということはできると思います。

また、その人がいかにも突っ込みどころと思われるような天然ボケをしたとしても、言葉がきつくならないようにということは気を付けるべきです。もしかしてもう自死リスクが高まっていて、些細なあなたの発言で自死をするということがありうるので、相手に対して失礼のない言葉遣いをするということは大切です。特に異性に対しては神経を使うべきだと思います。

ここでも一つチップスを紹介します。うつ病と言うと、もしかするとどんよりと落ち込んでいることが見た目で分かり、生気の無い様子も見ただけで分かるものだと誤解している方がいらっしゃるかもしれません。しかし、実際は、うつ病で多い初期から中等症の人たちは、自分がうつであることを隠そうとしています。ニコニコ笑っていたり、はしゃいで見せたりするということも実際は自分がうつであることを知られたくないからしている可能性があります。そして、そのごまかしはうつ病の人にとってはとてもエネルギーを必要とすることなので、かえって消耗してしまうようです。

案外気が付かないうちに、私たちは仲間にダメ出しをしようとしているということがあるかもしれません。相手の欠点、不十分点ばかりが目に付いてしまい、そしてそれを指摘してしまうということがあるようです。これを治すのは今のうちです。案外離婚で一番多い理由はこれなんです。今から訓練することは必ず将来に役に立ちます。また、そのような行動傾向があるのは、あなた方のせいではなく、社会的な問題だと思います。社会的な問題だと言っても不幸になってしまうのは自分たち一人一人ですから、自分の行動を点検してみることはお勧めします。

次に、誰かが誰かを攻撃して、孤立させた場合は、フォローをするということができることだと思います。
これは何も、攻撃した相手の首根っこを押さえて謝れと促すことだけではありません。

「今のはひどいね。」、「誰もそんなこと考えていないから、気にしないでね。」
と一言掛けるだけでも、かなり救われます。この一言が無かったので過労死になってしまったと思われる例がとても多いのです。

クラスで孤立して自死リスクが高まるパターンは、クラスの人間が孤立させないという声をかけることが一番効果があることだと私は思います。

どういう場合に声がけをするべきでしょうか。

もちろん暴力を振るわれたときが筆頭でしょうね。これは痛いから傷つくのではなく、自分が暴力を振るわれても仕方がない立場の人間だと思われているというところに深く傷つくわけです。
その他、否定評価がなされたとき、立場がなくなるようなとき、顔をつぶされたと思うときなどです。その人に何らかの原因があっても、自分は仲間として尊重しているということを伝えるということが大切だということです。誰もフォローをしないならば、自分がその場の人間全体から同じように思われていると感じてしまうということです。

なお、一人だけで何とかしようとするより、クラス全体で話し合って行動を考えるとか、場合によっては先生に告げ口をするということも含めて、可能な行動をとるようにした方が良いと思います。

家族
例えば兄弟がいじめられているとか、パワハラを受けているような場合、つまり自分の大切な人間が、自分と接点の少ない人間関係で傷ついている場合にどう接したらよいのかという問題があると思います。

これは大人の人たちに言うべき話だと思うので、皆さんにお話しするべきではないかもしれませんが、考え方だけ説明しておくことは何かの意味があると思います。

簡単に言うと、どこかの人間関係(学校、職場等)で、人間関係に不具合があっても、家ではどんなことがあっても家族として尊重するというメッセージを発することです。あなたは孤立していないというメッセージです。但し、はれ物に触るような扱いはかえって負担がかかります。本人が苦しみを見せているときは、そのようなメッセージをそのまま発してもよいです。しかし、本人がうつを隠そう、悩みを隠そうとしているときは、いつもと同じように接することが一番良いようです。

自分
自分の精神状態を客観的に知ることはなかなか難しいことです。少し弱ってきたら少し調整しようということは無理なことです。自分の環境を作っていくという発想が良いと思います。つまり、それでどうなるかはわかりませんが、仲間を仲間として尊重するということをむしろしていくということです。

つまり、仲間の欠点、失敗、不十分点を、笑わない、批判しない、責めないで、むしろ自分が助ける、補充するということをしていくということです。そして仲間が自分に何かをしてくれた時は感謝する。自分が何かを失敗した時は謝罪するということです。

そんなことでいいのかと拍子抜けをした方もいらっしゃると思いますが、実はそんなことができないのが人間社会のようです。どうしても仲間の失敗で、自分が不利益になることがあると、仲間を責めたくなるし、批判をしたくなるということがあります。必ずしも仲間を解消したいわけではありませんが、つい言ってしまうということが結構あるようです。

基本は自分を大切にするということでよいと思います。ただ、自分を大切にするということは、突き詰めて考えれば、自分が所属する仲間の中で自分が仲間として尊重されることなのではないかと考えています。人間はそういう時に幸せを感じていると思います。もっと大事にするべきは、自分が衣食住を共にする人間という意味での家族だと私は思います。

最後に、少し、青年期の自死にまつわることで、気になることを説明したいと思います。

第1に、インターネット、SNSの問題です。インターネットは、対面式のコミュニケーションではないので、相手に対しての思いやりが省略されてしまうことがあります。気が付かないで相手を孤立させることがあるようです。典型的なSNSは、簡単に一人を、そのグループで孤立させることができますし、そのことによって相手が苦しんでいることを想像することができなくなり、執拗な攻撃をしていることがあります。特に正義感から、相手を攻撃してしまうと、相手をフォローするものが出にくくなるということもあります。表現も過激になっていきますし、面と向かってならば言わないだろうことも言ってしまうということがあるようです。また、言葉から誤解をする場合もでてきます。わたしは、SNSは事務連絡にとどめた方が良いと思います。早く寝て、早く起きて、フレッシュな脳で体面で会話をする方が無難だということですね。

第2は、10代のうちは、気分感情がくるくる変わるということです。とても落ち込む出来事があっても、部活を熱心に取り組んでいるとか、仲間内でふざけていたとしても、落ち込んでいることは変わらないということが多いようです。落ち込む出来事があれば、明るい様子を見せていてもフォローをする必要がありそうです。

第3は、10代の自死リスクがかなり高度に高まった場合に見せる行動について説明しておきます。以下の特徴のある行動をとる場合です。
・ 手が付けられない暴力行為
・ 衝動的な行動
・ 自己に対する攻撃行動(自分を傷つける、自分のものを壊す等)

これ等の事情があり、原因がわからない場合は、心配をすること、大人を使って専門機関を探し当てることが必要になります。市町村や県の保健所に相談するという選択肢もあります。

さて、このように今日は自死予防のお話をしました。重い話になったかもしれません。
ただ、自死予防ということが、今まさに死のうとしていることを止めることだけではなく、むしろ主力は、自死リスクを高めないという方法なのだということは伝わったともいます。

その主要な方法は、自分も相手も仲間として尊重されているという環境を作るということです。相手の欠点、弱点、失敗を補い合うということ、欠点、弱点、失敗があっても仲間として尊重し続けるということは、人間にとっては本能的に幸せを感じることのようです。自死予防とは死ぬ人を無くすというマイナスからゼロを目標にしていたのでは達成できないことです。具体的にみんなで幸せになっていこうとするゼロの先のプラスを目指す活動なのだと思います。楽しく人間らしい活動だと私は考えていて、今日もお話をさせていただきました。

<考察>
大体授業一コマだと、少し長いですかね。長いというより要素を盛り込みすぎかもしれません。また、パワポが使えないということであれば、言葉とレジュメ的な資料だけということになりますね。まあ、要素は頭の中で網羅されたと思っていますので、聞かされている生徒さんの立場に立って後で検討してみましょう。



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自死リスクとは何か 自死のトリガーとの関係 自殺の直前に亡くなられた方の意に添わないふるまいをしたからと言って、それが自殺の原因だとはならないという意味  自死予防で本当に必要なこと [自死(自殺)・不明死、葛藤]


自死に関する報道で気になるのは、自死の直前にあったストレスを起こす出来事が自死の原因だという間違いです(直前出来事重視型とでも言いましょう)。
何かストレスフルな出来事があれば,それを原因として自死を決意し、自死が起こるという考え方です。

具体的に事例を作って考えてみましょう

Aさんは、①仕事上の不注意で注文を受けていた商品をメーカーから仕入れるのを忘れて、取引先に届けることができませんでした。②上司のBさんから、「不注意をするのは心掛けが悪い。」等と言われました。③Aさんは、自分のミスについてなのかBさんの発言についてなのかはわかりませんが、ひどく落ち込んでいたようでした。④その日の夜Aさんは自死しました。Bさんからの注意の後は、何事もなく帰宅して、帰宅後もストレスを発生させる出来事はありませんでした。
こういう事例があったとします。

例の直前出来事重視型の場合は、自死の直前にあったストレスフルの出来事は、Bさんによる注意であるから、自死の決定的原因はBさんだと考えます。そして、「Bの叱責によってAが自死か」等の見出しが出るわけです。

そして、BさんのAさんに対する注意が人が自死するほど強烈だったのか、注意の程度、文言、その他の様子を何も知らないのに、自死があった以上Bさんからのストレスが過大だったということを想像で補い決めつけるわけです。結果責任みたいな思考になってしまっています。
Aさんの方が身近な存在であり、Bさんの方は顔の見えない存在である場合は、その傾向が強くなるのは致し方が無いことです。

そうでなくとも人間は、目に見えた被害を受けた人間の方に肩入れをしてしまう性格もあります。これが発展すると被害を受けたと主張する人間の方を持ってしまうということが「善良」な人間のようです。

これに対して通常の自死を予防するという観点からの自死の原因論を考える場合は、自死予防の考えは、「Bの発言が自死の原因になったとは断定できない。その可能性もあるがもっと何か別の理由も検討しなくてはならない。」と考え、BさんとAさんの関係や、Aさんの職場の立ち位置、Aさんの性格、生い立ち、財政状態などの検討を始めるでしょう。注意を受けた日以前のAさんの様子などを調べることになります。また、職場以外の人間関係についても調べなくてはなりません。そもそも、Aさんの注意の方法について、できるだけリアルに再現しようして聴取を行い、慎重に検討するということになります。

直前出来事重視型というのは、感情的な考え方で、論理的な説得力のない無責任な考え方であることがはっきりわかります。もしどんな注意かも知らないでBさんの注意が原因で自死が起きたと結論付けるならば、自死の予防策としては「上司は部下に注意しないこと」という頓珍漢な結論しか出てこないでしょう。

しかし、自死についての人のうわさとかワイドショーの報道などは、大体がこの直前出来事重視型です。新聞報道も、被害者の訴えという断り書きは付きますが、読み手からするとそのように受け止めてしまう表現で報道がなされる場合が目につきます。その人の自死の原因は、その人にもわからないことも多いのです。本人の日常に何のかかわりもない人が、自分なりに事実を把握して、自分なりに心情を把握したとしても、原因にはたどり着かないでしょう。ましてや信用性の検証もできないネット情報などを基に考えても、真実からは遠ざかる一方だと思います。

直前出来事重視型の報道が繰り返される理由は、加害者と被害者というわかりやすい対立構造を作るために自死者に「寄り添い」やすく、加害者とされるターゲットを攻撃することで、自死が起きたときに起きる第三者の不安感情を解消することができるという、第三者の感情にアッピールしやすいからなのかもしれません。

直前出来事重視型の自死の把握は、「自死に至る構造」を全く考えていないという批判も可能でしょう。直前出来事重視型の場合、いじめやパワハラが原因となる自死は、「いじめられたから自死した。」と短絡的に漠然と考えて、それ以上考えることはしないのだと思います。
・ なぜいじめられると死のうと考えるのか。
・ なぜいじめられたからと言って死ぬことが怖くなくなって死ぬことができるようになるのか。
・ なぜいじめられて死ぬ人と死なない人がいるのか。
・ 自死をするようないじめとはどのようないじめか。そもそもいじめとは何か。
・ 自死をするのは、ストレス耐性が低いのか。
等々、自死を予防するために大切な情報がすべて省略されてしまっているのです。もっとも、このようなことについて必ずしもすべての人が考える必要が無いのですが、自死予防を考える人は考える必要があると思います。こういうことを考えない人は自死予防に参加するべきではないとも考えるのです。頓珍漢な予防方法に時間と予算と人手が取られてしまうということは深刻な弊害です。まじめに自死を予防しようとする人たちは、ここは自分の居場所ではないと立ち去っていくことも深刻な弊害です。

直前出来事重視型ではない考え方が必要となるわけです。

「自死リスク先行型」とでもいうような考え方が有効だと思います。
「自死が起こるときは精神的な変容がすでに起きていて自死をする危険がかなり高まっているために、通常であれば大きな精神的な影響が出ないようなありふれた出来事であっても、過剰に反応して自死を決行してしまう。」
という考え方です。

この通常であれば大きな精神的影響がないありふれた出来事のはずなのに自死の引き金になるような出来事を「トリガー」と呼んでいます。簡単に言うとトリガーによって自死が起きてしまうような精神状態が、「自死リスクが高い状態」です。

但し、例外的にトリガーが存在しないのに自死が起きる場合の類型があります。典型的には、統合失調症や妄想を伴う重篤なうつ病の場合です。本人以外の人間が認識できるトリガーが存在しない、つまり客観的には出来事は存在しないのですが、本人の頭の中で何らかのトリガーが発生してしまう場合があるのだと思います。

また、トリガーはストレスフルな出来事とは限らず、事態が改善するような兆しや苦しみに一息入るようなほっとする出来事もトリガーになることもあるようです。苦しみのどん底にいるときよりも、少し状態が良くなったときに自死が起こりやすいということは自死予防の文脈では古くから言われていることです。

実際にも、パワハラの会社で数か月苦しみ続けてようやく退職を決意した直後の自死、うつ病で子どもの相手もできなかった母親が子どもと楽しく遊んで家族がほっこりした直後の自死等、良い事情のはずがトリガーになった可能性のあるケースは見られるところです。

自死予防を徹底するためには、一度自死リスクが高まったら、自死リスクが解消されるまでは、悪いことでも良いことでも何か動きがあった場合は注意をし続けなければならないということが結論になると思います。

何がトリガーだったのかということについて議論しても意味がないことがわかると思います。すでに自死リスクが高まっている場合、どんなものでもトリガーになりうるということです。自分の失敗もトリガーになるし、上司からの注意もトリガーになる。または、お小遣いを要求して断られること、友人から遊びに行く約束をすっぽかされたこともトリガーになりうるわけです。人間が他者とかかわって生きていく以上、そのトリガーになりそうなすべての出来事を無くしてしまうということは不可能です。また、楽しい出来事、明るい出来事もトリガーになりうるのですから、これをすべて無くしては生きる意味がなくなるような気もします。(これらをすべて無くする精神状態が、重篤なうつ病の状態なのでしょう。)

直前出来事重視型の場合は、自死の直前に何があったのかということを夢中で探り出そうとする傾向がありますが、それは誰かを攻撃し、自死の全責任を負わせようとすることにしかならず、意味のあることではありません。また、例えば亡くなられた方のご遺族が、亡くなる直前に亡くなられた方の意に添わないふるまいをしたからと言って、それが自死の原因とはならないということをぜひ理解していただきたいと思います。

自死リスク先行型から考える自死予防は、
第1段階 高度な自死リスクを作らないこと
第2段階 高度な自死リスクが存在することを見抜くこと
第3段階 高度な自死リスクを解消することです。

ということになるのですが、この3点は、私の不勉強というところもあるのだと思うのですが、解明が進んでいないように感じているのです。

現在ではそうでもないと言われているのですが、ひところは自死リスク=精神病、特にうつ病でした。うつ病予防とうつ病を見抜くことうつ病の治療が自死予防でした。これは20世紀の終わりころからの、主に北欧のうつ病対策による自死予防が功を奏したことを模範として行われていました。WHOも先導して自死対策としてうつ病の薬物治療を勧めていました。日本では国を挙げてこの対策に取り組みましたが、ほとんど効果が見られず、自死者が3万人台が長年継続したことは記憶に新しいと思います。

現在では自死者は安定して3万人を切る状態となりました。しかし、どうして自死者が減少したのかということについても、抽象的に「予防を頑張ったから」ということくらいしか言われておらず、次の自死が増えることを予防しているという実感を持てる人はいないでしょう。この間のコロナ禍で、どうしてコロナ患者が減ったかについて原因がわからなかったため、次の増加を防ぐことができなかったということを私たちは何度も学びましたが、全く同じことです。自死者が減った理由がわからなければ、またすぐに増える可能性もあるということも学ぶべきです。そして恐れるべきです。その上で対策を講じておくべきだと思います。

現在の自死予防についての世界的研究段階は、「うつ病患者の大部分は自死をするわけではない」という考えに基づいて、うつ病以外の自死のリスクが起きる場合について考え始める研究が少しずつ浸透してきています。しかし、まだ十分ではないという状態です。特に日本ではかなり遅れを取っています。

まず、自死リスクを形成し、自死リスクを高める要因の検討を始めるべきです。
自死リスクを高める要因こそが、まさに複合的であることが多いようです。

ただ、ここで注意するべき内容は、「複合的」という言葉の意味です。これは日本の自殺統計が警察の調査を基に研究が進められている影響があるためか、自死の原因が「複数の人間関係でのトラブル」がある場合に自死が起きるというふうに間違って考えられることが多くあります。

複数の原因とは、先ほどの会社の例でいえば、Aさんは、転勤があったため馴れない土地で一人暮らしをしていたため、自分が仲間の中で安心して暮らすということができない状態だった。それまでの人生では目立った存在ではなかったけれど、いつも友人たちの輪の中にいた。それはAさんが友達から見放されないように自分を殺していつも必死で努力していたことによるものだった。Aさんは、自分が自然にふるまったら独りぼっちになるという恐怖を幼い時から感じて努力し続けてきた。その友人たちも就職してバラバラになっていた。自分には味方がいないと思うようになっていた。転任先の人のノリもAさんの出身地と違っていて、親愛の情を示すからかいもAさんにとっては初めてのことで怖いと感じていた。地元の業者に対する取引をするにもコミュニケーションがうまく取れず、相手の思っていることを理解することができないため、取引も前任地ほどうまくいかなくなっていた。会社から期待されて転勤したのに、同僚や上司も期待外れだと思っているように思えてきた。睡眠不足も深刻となっていたことが原因で、記憶力が減退し、自分がやったと思っていたことがやっていないことが起きていた。また、いつもならばメーカーの営業所に在庫がある商品なのに、たまたまその時はよそに大きなプロジェクトがあって偶然在庫切れだったことが、大きなショックだった。うつ状態が発生していて被害妄想も生じていたために、それらすべてが自分を排除するために仕組まれたことだと考えるようになっていた。このまま会社にいたら苦しみ続けるだけだと考えるようになり、苦しみ続けない方法として死ぬことを考え出し始めた。

こんな簡単に人は死ないでしょうが、例えばこのくらいの事情があることの方が多いわけです。「注意されたから死ぬ」という直前出来事重視型がいかにばかばかしい話なのかの説明として架空の事案を作り出してみました。

複数の人間関係でトラブルが起きる場合もありますが、いじめやパワハラのように、単一の人間関係が原因で自死が起きる場合も多くあります。「複数の人間関係でトラブルが起きて自死に至る」というドグマは、実際は存在しない家族との間にもトラブルがあったはずだ。あるいはトラブルとは言えないとしても、「家族に無理解があり、家族が防ぐことができたのにそれをしなかったから自死が起きたのだ」という決めつけに結び付きます。このようなケースが横行しています。例えば若いお母さんがうつ病とうつ性妄想によって自死されたケースでは、「夫のDVがあったからだ」といううわさが夫の職場であったことに驚いたことがあります。その後夫は退職を余儀なくされました。奥さんの残したメモからはそんな事実は全く感じられませんでした。

家族を失って苦しんでいる人に対して、具体的事実もないのにその原因は家族にもあるということを言うわけですから、大きな問題だと思います。

ここで、高度な自死リスクというのがどのような心理状態なのか、現在言われていることについて説明を試みます。

「些細なきっかけでも自死を決行してしまう心理状態」だということが定義です。これをもう少し具体的に説明してみます。

自分が大切だと思う「仲間」の中で自分が仲間として尊重されておらず(孤立)
将来に向けてもこの孤立は解消することが不可能だと考えている(絶望・悲観傾向)
この結果、生きていくことは、苦しみ続けることだと考えている(絶望)
一瞬でも早くこの苦しみから逃れたいと感じている(焦燥)
このまま苦しみ続けるか死ぬかということを考え出している
(二者択一的思考、悲観的思考、被害的思考)
死ぬことに、暖かく明るいイメージを持つようになる(希死念慮)
自分は死ななくてはいけないという信念のようなものを持つ(希死念慮)
どのように死ぬべきかという死ぬ手段を具体的に調べている

様々な出来事を、自分を否定している事情ととらえ(被害的思考・過覚醒)
ますます孤立感、絶望感、解決不可能感が深まるきっかけになってしまう。

こういう状態がこれまで調査した結果、自死リスクが高まっている状態です。

外形的に言えば
衝動的な行動
暴力的な行動
自分を抑制することができない状態
それらの行動の原因が理解できない。説明できない。
それらが広い意味での自分を否定する方向に向けられる
(広い意味での自分とは、自分の体はもちろん、自分の持ち物、自分を含めた自分たち、あるいは自分の記憶などに対する否定的、破壊的、暴力的な行動ということです。)
こういうように整理できると思います。

リストカットなどの自傷行為や過度の飲酒、ドラッグ服用、あるいは高度の摂食障害などはそれ自体は自死を目的とした行為ではない場合が多いのですが、本人も自分の体をむしばむ行為であることを本人は理解しています。自分を大切にしないという行動を行っていることを自覚していることになります。自分の価値、人間の価値を否定する考え方になじんでいき、命を重要視できなくなり、自死リスクが高まるという関係にあると思います。

では、このような高度の自死リスクが形成される原因は何でしょう。

これは大変難しい問題ですが、単純に考えてはいけない、決めつけてはいけないということは間違いのないところです。

ここでは、
本人の対人関係的な位置の変動ないしおかれている位置という対人関係的問題と
本人の心理状態、精神状態
という2つの側面から考えなければなりません。

対人関係とは、家族、学校、職場、ボランティアやサークルなど継続的人間関係に着目するべきですが、さらに貧困や障害、差別と言った社会的立場というものも考慮に入れるべきです。但し、人間関係の喪失による孤立の感じ方は年齢によって異なり、高齢者になればこれまで築いてきた立場の喪失が大きなポイントとなり、若年者については今後の将来に対する絶望がポイントとなるという違いがありそうです。

心理、精神的傾向というのは、端的に精神病や先天的な脳の問題という病的な問題もありますが、物の見方感じ方という意味では、性格や生い立ちなどのこれまでの経験によって形成された思考傾向なども問題になりそうです。現在の対人関係的なトラブルについての感じ方に影響を与える諸事情が大切です。それを超えて対人関係的に影響を与えないけれど脳内で自働的に悲観的傾向が生まれる事情なども考慮しなければなりません。

この意味でうつ病などの精神疾患が、自死リスクを高める一要因となるという表現は可能だと思います。重篤なうつ病の場合は、実際に対人関係的な問題が無くても、病気の症状としてあるように感じてしまい自死リスクが高まるということもありそうです。

自死リスクで注意を要する点が2点あります。
一つは、人は自死リスクの高まりを隠すということです。
もう一つは、特に若年層は、自死リスクが継続しているのに、その場その場では普通の快活な生活態度を示すということです。

「うつ病者はうつを隠そうとする。」ということはあまりにも有名な話です。私は、責任感優位型の人間が不可能な責任感を果たそうとする行動であると感じています。周囲に気を遣わせないようにする、心配させないようにするという行動は、その人の性格上自然体で行ってしまうようです。また、自分が帰属する「最後の砦・人間関係が家族だ」だと考える場合は、自分がうつということで家族から特別扱いされるということを恐れるということも何人かから聞きました。仲間にはふつうに仲間として接してほしいもののようです。

もう一つは、自死リスクを隠そうとしているわけではないのですが、気分が変わりやすい状態になっていて、ひどく落ち込んでいて今にも自死企図を行いかねない状態にあったのに、時間を置くと日常的に変わらない快活な行動を取ったりする場合です。これは、必ずしも病気ではなく、思春期以前にはよく見られる現象だそうです。自死企図のような行為をしたのに、部活動は熱心に取り組んでいたり友達の輪の中で談笑したりするということはありうることです。快活な様子を見てしまうと、自死リスクが解消されているのかもしれないという錯覚を抱いてしまいます。そして、あんなに快活に行動していた生徒がどうして自死したのか、自死ではなくて事故なのではないかと感じてしまうようです。

特に若年者は、深刻な自死リスクを示す事情があれば、それが解消されない限り、快活な様子を見せても、深刻な自死リスクは継続していると考えなければならないということが切実な教訓です。感情が動きやすいということは、快活になりやすいことと同じように深刻な状態に戻りやすいということなのです。

自死リスクでもう二つ注意するべき点があるとしたら、自死リスクはひとたびはっきりと示されれば時間的経過で自然解消しにくいということと、放っておけば大きくなっていくということでしょうか。
自死リスクが生じてしまうと、自分が体験することが自分が攻撃されているという被害的意識でものを見るようになり、あらゆる出来事が自分の絶望回避が不可能であることを示していると感じられるようになっていきます。それを解消しようと不合理な行動に出ることがあり、それによってますます自分の立場が悪くなり、絶望が深まっていくという危険があります。

ひとたび深刻な自死リスクが生じてしまうと、それが解消されなければ些細な出来事をトリガーとして自死が起きてしまう可能性が高くなります。
誰がどうやって自死リスクの発生に気が付くかという研究が一つ。
誰がどうやって自死リスクを解消できるのか。医師がどこまで関与できて、家族の果たす役割は何か。
誰がどうやって自死リスクが解消されたと判断するのか。

自死予防の政策は、まだ始まったばかりということは、両方の意味で言いすぎでしょうか。

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弁護士に向けた自死予防への取り組みの勧め 弁護士が行う自死予防とは何か、自死予防における弁護士という仕事のアドバンテージ [自死(自殺)・不明死、葛藤]

弁護士と自死予防

1 自死予防の3段階の対策
自死予防については、世界的には三段階に分けて対策を整理しています。
第1段階 自死リスクを作らない対策、自死リスクを軽減する対策 プリベンション
第2段階 自死行為、準備行為、自死企図を妨害する行為 インターベンション
第3段階 自死遺族支援 ポストベンション
(日本の場合は公衆衛生の用語で一次予防、二次予防、三次予防という言い方をしますが概ね世界標準の意味内容に近づいています。)

最も肝心な予防策は第1段階ということになります。第2段階になってしまうと、自死を防ぐことが格段に難しくなってしまうからです。
その意味で、この文章で単に「自死予防」という場合は、第1段階の予防対策のことで使うこととします。主に第1段階の予防策について述べています。
第3段階は自死遺族支援ということで、厳密には自死予防ではなくて事後的な対応のことを言います。自死が労働災害や他人の不法行為による場合や保険金の問題、あるいは自死をしたことによって第三者に損害を与えたとの主張がなされる場合など弁護士が関わることが多い分野でもあります。

2 自死リスクはどのようにして高まるのか

自死リスクが高まる仕組みを理解し、その人のリスクの程度を評価できるのであれば、自死予防は比較的容易になるでしょう。ところが、わが国では、なかなかこのリスクアセスメントの研究が進んではいません。
実践に耐えうる理論としては、通常アメリカの研究家である T.ジョイナーの「自殺の対人関係理論」(日本評論社)が紹介されることが多いと思います。
簡単に説明しますと、自死を行う場合は、大きく分けて二つの要素が重要であるとされます。それは自殺願望と自殺の潜在能力の高まりという要素だというのです。
「自殺願望」というのは、自分が家族や会社などの人間関係の中で、自分が存在することに負担を感じるという「負担感の知覚」と、自分がそれらの人間関係に所属しているという実感が薄れていく「所属感の減弱」が起きた場合に起きるとしています。
「自殺の潜在能力の高まり」というのは、外傷体験や自傷行為などによって、自分を傷つけることに馴れてしまう結果、死ぬことに対する恐れが薄まってくるということです。通常は死ぬことが怖いために自殺願望があっても、自死に踏み切れないのですが、死への閾値が下がることによって自殺が可能になってしまうということを言っています。

自殺願望を高める事情としては、対人関係的な事情もありますが、様々な精神疾患によって、病気の症状として自殺願望が高まることもあります。自分の対人関係などの環境と精神保健面の要因が相互作用を起こし、自殺願望が高まるということがリアルな見方であるように感じています。

自殺願望が高まるというリスクの高まりの原因としては、
・各人の精神疾患などの問題と
・各人が置かれた人間関係の環境問題
の双方向から考えなければならないということは強調しておきます。

そして詳細は割愛しますが、自殺願望が高まる要因をわかりやすく説明すると、
<孤立>自分が大切にしている人間関係から、追放される予期不安
     行為の否定評価、差別、人格無視、不利益の強要
<絶望>孤立を回避する方法が無いという認識
<緊張の持続> 孤立や絶望を回避しようとすると緊張をしますが、この緊張が持続することによって、睡眠不足も相まって、思考力が低下していきます。
具体的には、
・二者択一的思考(死ぬか苦しみ続けるか。折衷的な解決方法や評価が思い浮かばなくなる。)、
・悲観的思考(どうせうまくいかない)、
・刹那的思考(将来を考えることができない。とにかく早く解決したい《結論を出したい》という焦燥感)があげられます。

これらは相乗効果があり、介入しなければ悪化していく危険が高くあります。人間は絶望を回避する防衛機制という心理的メカニズムがあるのですが、孤立、絶望緊張などが持続するとこれが誤作動を起こし、自死行為に出る原因になるようです。つまり、絶望を感じなくするために死ぬという行動を起こすようです。自死リスクが極限まで高まると、死ぬというアイデアをもってしまうと、それが何か歩の温かく、明るいイメージを持ってしまい、死ぬことをやめることができなくなるということが大きな一つの自死に至るルートのようです。


3 弁護士が行う自死予防について

1)弁護士、弁護士会が行う政策としての自死予防は第1段階の予防が中心となります。
2)精神疾患などの健康面由来の自死リスクの高まりについては、弁護士がいかんともしがたいことも多いので、その人の状態に応じて、精神科医につなぐ、カウンセラーにつなぐ、家族につなぐという方法が取られます。
依頼を受けて事件を継続中であれば、弁護士がそれぞれと連絡を取ってつなぐこともありますし、病歴、生活歴、その他の精神的に影響与える事情を記載した紹介状を作成し直接各人につなぐことが求められるかもしれません。
これに対して相談会などの場合は、その時限りの関係ですから、相談者が行くべき機関の紹介を相談者自身に行い、相談者の行動に期待するほかないと思います。
この相談会に行政が参加していれば、相談後の行政の関与が期待できます。その場で行政につなぐことによって、行政の関与の下で行政の機関を含めて適切な機関につなぐことができるので、とても有効な形が作れると思います。

3)対人関係が由来の自死リスクの高まりに対しては、弁護士は様々な対応をすることができます。
<相談業務>
人間関係のトラブルについて、法律の案内をしただけで解決する場合も少なくありません。例えば、立ち退きを迫られて困っている場合に借地借家法の法律を説明しただけで、そういう法律があるなら家主と交渉できると言って交渉した方、夫と死別した後の夫の家族に対する扶養義務について説明しただけで、無理な扶養を強いられたことから解放された人もいます。
パワハラを受けて精神的に圧迫を受けている場合は、会社を辞めるという選択肢を持てなくなることがあります。会社を辞めるというアドバイスをするだけで、自死リスクが解消される場合も多いようです。退職によって当面の収入を断念するとか、損害賠償請求を断念しても、会社を辞めるという選択が必要な場合が多くあります。なかなかご本人が選択肢としてあげづらいことについて、第三者である弁護士が選択肢を提起して自死リスクを軽減する方向の選択肢の順位を上げる必要があることです。
相談業務で、紛争自体は解決しなくても、精神的なストレスがだいぶ軽減されることは実感として経験されているところだと思います。
<代理業務>
人間関係のトラブル、例えば債務問題、刑事事件、家事事件、労働事件など、精神的に圧迫をさせる出来事をうまく解決することができれば、自死リスクが解消することがあることはもちろんのことです。これが弁護士ならではの自死対策の一つの特徴でもあります。
そもそも誰かとトラブルがあるということだけで、人間には大きなストレスがかかります。裁判の当事者になることだけでも看過できないストレスがかかるそうです。多重債務の返済日のように、裁判期日の3日前になると眠れなくなると言う人は少なくありません。
弁護士が当事者ご本人に適切にかかわることで、葛藤を鎮めて、自死リスクを作らないという効果が期待できます。
但し、代理業務を遂行する場合も、請求の趣旨を少しでも依頼者の有利にするというだけでなく、自死リスクの回避という観点も合わせて持つ必要があるということになろうと思います。賠償額が多く取れても、それ以上の人間関係のデメリットが生じては、自死予防という観点からは評価ができないことになります。但し、弁護士はメリットとデメリットを提示するだけで、意思決定をするのは当事者ご本人であることは言うまでもありません。

<自死予防の観点からの業務拡大>
自治体などの一般法律相談を担当してご経験があると思いますが、およそ法律手続きが用意されていないような人間関係の不具合があります。あるいは、会社などの団体の顧問などをされている方もご経験があるのではないでしょうか。取締役間の不具合や、経営陣と株主間の相互不信など、誰に相談してよいのかわからない人間関係上のトラブルもあります。こういう分野にも弁護士業務として取り組むことにより、業務分野が拡大したり、通常業務に様々な観点から役に立つことがあります。

3 弁護士に自死予防ができるのか

 1)弁護士という職業に備わる力
   今あげた弁護士の自死予防として挙げた行為は、通常業務として行うだけで自死予防のリスクを軽減させることも大いに期待できます。「自分には味方がいる。自分は社会的に孤立しているわけではない。」という考えは自死リスク(孤立感、不可能感)を軽減することに役に立ちます。また、弁護士という職業はまだまだ社会的に信用されていますから、その弁護士が自分の味方になってくれる、自分の利益を考えてくれるということは、貴重な立場です。
 2)人間関係トラブルの仕事
   弁護士の仕事は、人間関係トラブルに介入する仕事ということができます。また、自死に関連する仕事です。東北大学と日弁連、仙台会の合同アンケート調査の結果でも、多くの弁護士が職務上、依頼者や相手方の自死、自死未遂を体験しており、依頼者の高葛藤や高い自死リスクを見ています。
   統計上も、自死と関連する社会病理が証明されています。社会政策学では、完全失業率と完全自殺率が連動しているということは定説になっています。この失業のほかに、離婚、犯罪認知件数、自己破産申立件数が有意に関連しています(仙台弁護士会自殺対策マニュアル2011)。
なぜこれらが関連するかというと、弁護士の立場からすると、これらの社会病理が、自死と同じように、孤立、絶望、緊張感の持続を根本的原因として生じていることが一つの理由として考えられます。離婚事件の代理人も、刑事弁護人、あるいは債務整理の代理人もすべて弁護士の業務です。弁護士の仕事は、自死のメカニズムに密接に関連している分野を担当しているということも言えるのだと思います。
   
自死の要因として、精神的要因と対人関係的環境要因と両面から見なくてはならないと申し上げました。この対人関係的環境要因について業務の対象としているのは弁護士が第一であることは間違いありません。どうして紛争が起きるか、どうやって紛争を鎮めるのか、その現場に立って仕事をしているということは自死予防にとっても大きなアドバンテージです。
 3)相互譲歩による紛争の鎮静化
   ここの弁護士の業務姿勢についての話ではなく、あくまでも自死予防の観点、自死予防に都合の良いスタイルの話をいたします。
   実は、人間関係の不具合に介入して、双方に働きかけ、双方の譲歩によって問題を解決するという職業も弁護士が第一です。和解による解決や調停やADRによる解決、示談交渉などで弁護士は普通にこのような仕事を行っています。
   精神医学や心理学(家族療法やカップルカウンセリングをのぞく)、あるいはカウンセリングなどでは、自分のクライアントに働きかけるという解決方法だけが取られてしまいます。要するに、その人の精神状態を修正して問題を解決しようというアプローチです。人間関係のトラブルの鎮静化という観点はなかなか持ちにくいという宿命があります。
   また、行政などは、一方の言い分だけを基に人間関係に働きかけをしてしまい、他方の言い分が初めから取り上げられずに、人間関係のトラブルがさらに大きくなり、いつまでも継続してしまう弊害が起きています。これでは自死予防の観点からはマイナス効果になってしまいます。
   依頼者だけでなく、相手方にも働きかけ、双方に行動の改善を提起して問題解決を図ることも弁護士の仕事です。弁護士法によって、原則として弁護士だけに認められていることでもあります。
   この弁護士の仕事の特徴については、自死予防政策にかかわる人からも、弁護士自身からも見過ごされているようです。華やかに報道される事件において、弁護士が一方当事者に味方して法外な要求をするような印象はどうしても社会にあるようです。しかし、調停やADRだけでなく、一般民事事件で和解をすることの方がむしろ通常の弁護士業務だと思いますので、その点は自信をもって良いと思います。弁護士は特に対人関係的環境由来の自死リスクには、解決の選択肢を潜在的に豊富に持っていると私は考えています。
 4)人権という視点
   弁護士は人権について学んでいます。人権感覚は各人によってまちまちでしょうが、人権の知識については間違いなく突出して有していることは間違いありません。
   前述した自死リスクの高まりのところで、孤立感として挙げたことは人権侵害と密接に関係しています。人権についての知識があることは、自死予防には間違いなく有利です。
   さらには、人権侵害ということが一方的に起きるとは限らず、一方の人権と他方の人権が衝突している状態であることもあるという理解は、解決に向かう必須の考え方だと思っています。
   このような視点がない場合は、人権侵害がなされていれば、相談を受けている第三者は、侵害されている方が善で、侵害している方が悪だという形で介入をしてしまうことが多くあります。双方悪ではないということもありうるというリアリティーがなければ、介入者による新たな人権侵害が起きかねません。
 5)事情聴取をする力
   決めつけや二者択一的なものの見方から自由である弁護士は、通常業務として依頼者や相談者から事情聴取をしています。他人から話を聞く場合何をどう聞けばよいかということを考えながら聞く訓練が日常的になされているわけです。そして、依頼者、相談者の話の中で整合しない話があれば、機嫌を損ねないように事実を確認する技術もあるはずです。
   これは対人関係的な環境が原因による自死リスクの軽減にはとても役に立つ技術です。経験上、相手の話の要点や真意を吟味して事情聴取をする力は、医師、心理士や、カウンセラーに比べて突出して高いです。それはその仕事に求められる要素が異なるからです。相手の言っていることがつじつまが合わなくても寄り添うことを目的にする関わり方と、真実を探り出して真実に立脚して関わる仕事との違いがあるわけです。相手のある問題にかかわる弁護士ならではの資質です。
   但し、通常の弁護士業務と異なることは、「自死リスクの軽減」という請求の趣旨に向かっていく事情聴取ということですから、その要件事実は何なのかということを、先ほど述べた孤立、絶望、緊張の持続の要素に沿って各事件において考えていかなければならないことです。
  6)弁護士の役割が軽視されている理由
以上の通り、弁護士こそが自死予防に不可欠の存在であると私は考えています。このことに気が付かないのは、理由があることです。それは自死リスクが高まる仕組みが理解されていないということにあります。そもそもこのことを最も理解しうる職業が弁護士ですから、弁護士が積極的に自死対策に関与していかないことには、共通の理解とならないことは理由のあることだと思います。
先ほどらい強調させていただいていることは、自死リスクが高まる要因としては精神的な要因だけでなく、対人関係的環境要因があるのだということです。日本の自死対策では、20世紀末から21世紀初頭の主として北欧の自死対策がうつ病対策を主として成功をしていることを受けて、精神的要因に対する対策に力点がありました。政策の中心も医師が中心であったことはその結果です。その弊害は、本来精神的問題から対人関係的問題が生じたり、対人関係的問題から精神的問題を発生させたりするという相互作用のリアルを重視しなかったということです。
このため、対人関係的問題は後景に追いやられ、生まれつきの精神疾患と対人関係由来の精神疾患を同列に扱い、精神疾患が生じたならばそれに対応しましょうという、極端に言えばそういう政策が置かれていました。しかし、近時、自死リスクを作らない社会の推進ということがいわれるようになり、明確に意識はされていないとしても対人関係の調整という視点も出てきました。但し、もっぱら社会的な問題が中心になってしまっています。例えば地域の高齢者の孤立生活という問題として扱われていますが、本来的には家族問題という視点が欠落しているように感じているところです。
対人関係は精神問題の入り口の前にある問題ですが、対人関係の問題が解決しない状態が続くと精神問題が生じるという関係にある問題です。精神的問題が発症してしまってから対策を立てるより、対人関係として解決して精神的問題を起こさない方がより簡単に、より効果的に自死予防に役に立つはずです。一度起きた自死リスクを軽減することは実際は難しいことです。自死リスクを作らないことの政策が最も有効な政策であるはずなのです。
そうだとすると弁護士が自死予防に貢献できる余地が無限に広がっている。私はそう感じてなりません。

4 弁護士としてのメッリト
  
  自死予防対策に取り組み、学び、実践を積み重ねることによって、弁護士として大きなメリットがあると考えています。
  一つは人間はと何か、人間はどうして対立し、紛争を起こすのか、そしてその解決方法はということを考えます。このことは大きなメリットを生みます。
  第1に取り扱い事件が拡大するということがあげられます。このようなことを考えなければ、相談を受けても裁判手続きなどになじまなければ依頼を受けらないということがあると思います。ところが、自死問題を取り組んでいくと、事件の解決方法の引き出しが広がりますので、裁判手続きを経なくても解決の道筋が見えてくることがあります。会社内などの団体内の人間関係の問題、家族内の人間関係の修復等々、あらゆる人間関係の解決の糸口を見つけられやすくなるでしょう。
  第2に、自死リスクの高い人に対する接し方は、自死リスクの高くない人にとっても心地よい接し方になります。業務上、何に気を付ければよいかということが見えてきますし、依頼者が何を求めているかということも理解しやすくなります。これは大きなメリットです。
  第3に、通常事件の解決方法が見えてくるということがあります。人間が悩むポイント、訴外を受けるポイントが理解できれば、人間関係のトラブルの真の原因と解決方法が見えてきます。訴訟活動の方針自体を修正し、迅速で満足される活動ができる可能性が広がると思います。私自身の労災事件、家事事件刑事弁護にはとても良い影響があると実感しています。もっとも私の自死予防の理論は、労災事件、家事事件、刑事弁護の経験に基づいても構築されていますので、相互作用が期待できると思います。

5 弁護士が行う自死予防のイメージ
  今回は、3段階ある自死予防政策の第1段階プリベンションについて説明してきました。弁護士が誰でも参加できて、また、その職業的特質からは参加するべき活動ではないかと思っています。特に日常業務に自死予防の観点をいれることはどなたにも可能なことだと思います。これが全国に広まれば立派な自死予防になるはずです。
  どうしても自死予防というと、自死リスクが極限まで高まっている人に、自死を思いとどまらせるということがイメージされてしまい、ハードルが高くなってしまっているということがありそうです。
  第1段階の予防については、これまで述べたとおりです。それでも一般の方にとっては重苦しいことかもしれませんが,弁護士にとっては通常業務ですし、また人間を孤立から救い、不安から安らぎに転換させる政策だと考えると、とても明るく、前向きな活動だと思うのです。私は、人間社会に不可欠な相互の安心感を作る技術を考える仕事ではないかと考えています。人類が幸せに向かう活動という明るいイメージを持っているということが偽らざる本音であります。

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どうか後悔を数えずに、故人との楽しかった時間を思い出していただきたい。それがご供養だと思います。何通かの自死者の遺書を読んで感じたこと。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]


お身内が亡くなることはとても悲しいことです。その死が、病死であろうと事故死であろうと自死であろうと、遺族は自分が故人のためにもっと何かできたのではないかという気持ちを抱き、自責の念に駆られることが多いということは、身内を失くした人であれば誰しも知っていることだと思います。

この自責の念は、自死の場合は特に強くなるようです。
すでに自死の危険が高まった後で、自死を防ぐということは、本当はとても難しいことです。そして自死の危険が高まる原因や予防もやはり難しいことが多くあります。

それでも世間は、誰かが止めれば自死は簡単に防ぐことができるのではないかと誤解をしているのかもしれません。

また、国家政策としての自死予防が盛んだったころ、「自死の直前にはサインが必ずある。サインを見逃さなければ自死を防ぐことができる。」という理論が、貧弱な自死のサインのサンプルと一緒にまことしやかに流されたことにより、自死は家族が注意すれば防ぐことができるのではないかという誤解が蔓延したという事情もあると思います。

自死や自死未遂の現状を知れば知るほど、自死を防ごうと思ったら、それこそ24時間、365日態勢で気を付けなければならないということになると感じます。それは現実的には間違いなく無理です。

もちろん、無理なことはわかっていても、手を尽くしたことをわかっていても、遺族は自責の念に駆られてしまうのであって、自責の念を抱くなと言っても無理なことでしょう。

それでも、故人としては、できれば自分が死んだことで身内が後悔をしないでほしい、自責の念に苦しまないでほしいという希望があるようです。

自死の事件では、いくつかの事例で、死の直前に遺書を作成される方が多くいらっしゃいます。かなり冷静に淡々と遺書をしたためられているケースも多いように感じます。

自死に当たって、誰かを攻撃する内容の遺書の場合もありますが、圧倒的多数の遺書は家族に対する思いやりが記載されています。また、家族を攻撃する遺書というのも私は見たことはありません。

遺書の文面で多いのは、ご家族に対する謝罪です。お子さんの学校での様子や仕事の様子などについて、よくここまで知っているなあと思うほどよくわかっていて、次の目標の場面に立ち会えない、応援できないことをお詫びしています。自分が自死することで生活が苦しくなることや世間的に肩身の狭い思いをすることも謝罪していることが多いです。

配偶者に対しては、複雑な表現がある場合もありますが、その場合でもむしろ第三者が読めば、愛情にあふれながら、相手に対する尊敬と自分のふがいなさに対してお詫びが記載されているということがよくわかる内容になっています。

故人は、自分がこれから行うことについて、家族がどれだけ苦しむかをわかっており、それでも死ぬことを止められず、謝罪の言葉を残すことが精いっぱいであることがよくわかります。理屈では割り切れないかもしれませんが、自死とはそういうものなのだと考えなければならないと思います。合理的な思考ができるような精神状態ではないということは間違いないと思います。

そういう気持ちを持った自死者にとって、自分の死について少なくとも家族にだけは責任を感じてほしくないということが本音なのだと思います。遺書を拝読する限り、唯一の心残りと言ってもよいのかもしれません。

私の拝読したいくつもの遺書の内容からすれば、自死を余儀なくされるまで追い詰められた人間がこれから命を失うというその時であっても、家族との楽しかった出来事の思い出や、子ども成長、あるいは不安を忘れることができた家族とのひと時というものは、何物にも代えられない貴重な思い出で、かけがえのない財産なのだと思います。その中でも、自分と一緒にいる家族が楽しんでいたり、喜んでいたり、あるいは安心していたり、自分を頼ってくれたりしたその時の表情に、自分が生きてきた意味を感じて、慰められていたことになります。

(そういう人間としての充実した出来事の記憶すらも、自死を止めることができない。それほど自死を防ぐことが難しいということなのだと思います。)

だから、故人が生前に楽しそうにしていたこと、喜ばれていたことを思い出すだけでなく、故人と一緒にいたときにご家族自身が楽しかった出来事、喜んだ場面、安心した記憶を思い出すことが、故人にとっての何よりの供養になるのではないかと考える次第です。

これは、自死の場合だけでなく、故人をしのぶ場合に共通のご供養の在り方なのかもしれません。



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特に自死・自殺の原因について、目的が立派なことだとしても、無責任に言及することが不道徳であることの説明 特にSNSでの論及には注意するべき理由 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

日本のような自死予防対策が遅れている国では、著名人が亡くなった場合、特に自死で亡くなった場合、テレビ報道がなされますが、コメンテーターが出てきて、あれやこれや自死の原因を言い出すことがあります。

ある著名人がなくなったときには、生い立ちや家族関係まで暴露していたワイドショーもありました。自死に至った経緯としては、まったく客観的事実の報道とは思われないのですが、
お金になるのでしょう、ここぞとばかりに説明する人がいます。

私のように自死の原因が何なのかを調査して裁判などで主張する人間とからすると、どうしてそのような決めつけでものを言えるのだろうと不思議でならないということがまず率直な感想です。

そして、「自死がある以上、必ずその理由だけで自死に至る人間関係の問題があったはずだ」という信念のようなものを前提としているのですが、これまた不思議でなりません。辛い事実、悲惨な事実があるだけで、自死ができるのだろうかということについてどうして疑問を持たれないのでしょうか。

私は、人間の感情や心、人間関係ということについて、自分では怖いくらいに自分が単純化して考えているという自覚があります。自分が論じているのは、自死や犯罪やいじめ、離婚などに至る気持ちの移り変わりに限定して論じているという言い訳を自分で自分に言っているのです。本当は人間の感情はもっと複雑で個性や体調によって目まぐるしく変化するとらえどころのないものだと自分に言い聞かせて勉強をし、このブログを書いています。

パワハラ過労死のような場合でも、「マニュアルの基準を満たす。よし、労災だ。」という単純な発想はありません。なるべく多くの人から人間関係の事情を聴き、その人の生い立ちなどを調べ、当時の精神的状態を調査し、その人がその場にいたらどのように追い詰められるだろうか、特にその直前の精神状態からの変化がどのようなものかということを推し量らなければなりません。

その上でなるほどこういう事情で自死に至ったのかと合点がいくときは、突然その心情が理解できてしまい、自分自身が精神的にパニックになることもあります。

簡単に言いますと
・ 大きなストレスが生まれる人間関係の出来事があったとしても、自死を決行しない人もいる。
・ 大きなストレスだと他人からは思われなくても、本人にとっては生きることができなくなるようなストレスである場合もある
・ ストレスが大きくはなくとも、その人の精神状態からすれば、例えばもはや生きていく望みを持っていない状態になっていれば、日常的な些細なことでも自死に至るきっかけになってしまう場合がある。

特に3番目のトリガー(引き金、きっかけ)は、自死が起きる場合にほぼ必ず存在して、第三者はそこに目を向け、自死の原因だと重視します。しかし、自死予防対策の文脈で自死の原因として重視するのは、「もはや生きていく望みを持てない状態」にした原因の方です。一つのトリガーを失くしても別のトリガーがあれば自死が起きます。そしてトリガーは、通常はそれがあるからと言って自死が起きたと言えるほどの重大なものではないから、トリガーを特定することが自死予防にはならないからです。

したがって、その人と人生の時間を共有していない人が、即席の情報収集で自死の原因を議論したとしても、自死の原因に行きつくことはおよそあり得ないことだと思っています。

しかし、人間は、誰かの不幸を見ると、自分も同じような不幸になるのではないかと感じてしまう生き物のようです。そして不幸の原因を探り当てて、その不幸に自分は陥らないようにしたいと考えてしまうようです。

要するに、
その不幸は、その人の特殊な事情から起きたものであり、自分にはその不幸は起きない と感じて安心したいのです。

他人の不幸を笑ったり、誰かを非難して、自分は関係がないと安心したいというわけです。

だから、自分の家族と話すとかごく身近の人間との間で自死の原因をうんぬん言うことは仕方がないことかもしれません。

問題はSNSとかこのブログのようなインターネットです。

「この人の自死の原因はこれだと思う」という書き込みは行わないほうが良いと思います。

理由の第1は、のべてきたように、大体は間違っているからです。
理由の第2は、関連付けられた人に対して、「あなたが自死に追い込んだのだ」と言っていることになるからです。

そして通常は、遺族が、自死の原因として取りざたされます。
遺族は、自分の家族が亡くなったのですから、当然に悲しいわけです。
遺族は、死の原因が自死だということで、自分が何とかすれば死を防ぐことができたのではないかと既に自責の念に苦しんでいます。(これは、自死でなくとも、もっと良い病院にすればよかったとか、あの時自分がこういうことをお願いしておけばとか、離れて暮らさなければとか、誰しも思うことです。自死の場合はそれが強くなるわけです。)

そういう家族の精神状態の中で、自分たちのことを何も知らない人が、自分が原因で家族が自死に追い込まれたと言われることを想像することはとても難しいことです。

特にトリガーという自死のきっかけは、とても些細なことです。日常生活にはよくあることですが、その時の精神状態によって、自分だけ排除されているとか、孤立しているとか、見捨てられたとか、何でもかんでも悲観的に考えてしまうのです。

ある遺族は、お子さんを自死で失くして呆然としながらも、法事を気丈にこなしていたのでしょう。その様子を見ていた全く事情を知らない親戚から。「どうしてこうなるまで放っておいた」と怒鳴られたそうです。こうして極端な例を見れば誰しもわかると思います。
この場合も言った本人としては、亡くなった当人の死を残念に思っての発言だということはわからなくはありません。しかし、それを言って何も良いことはありません。まったくの自己満足のために、遺族を苦しめただけの話に結果としてはなってしまいます。

厄介なことは、遺族を攻撃する気持ちが無くても、配慮が足りなくて結果としては遺族や関係者が傷つくことはとても多くの事例で起きています。

例えば、上司のパワハラが原因で亡くなったということが言える場面でも、言い方によっては、「どうして嫌がる出勤をさせたのだ。こうなる前に家族ならば会社を退職させればよかったのに。」と聞こえてしまうことが良くあります。

「そんな仕事をさせなければ死ぬこともなかったはずだ。家庭の事情で無理をさせたのだ。」と聞こえる場合もあるわけです。

第三者は、浅はかな慰めを言わず、ただただ、冥福を祈ればよいと思うのですが、やはり出来事が大きすぎて自分の中で処理しきれず、余計なことを言ってしまうのでしょう。しかし、だからと言って遺族を使って処理するくらいならば法事などに出ないことをお勧めする次第です。

また、夫婦のもう一方に原因があるかのようなうわさ話がなされ、どういうわけだかそのうわさ話が当人の耳に入ってくることも多く相談を寄せられることです。

家族以外の関係者への攻撃も起きています。

一口に職場が原因で亡くなったという場合でも、取引先が原因である場合もあるのに、勤務先の人間関係がどうのこうのと訳知り顔で述べる人たちもよく目にするところです。

よくあるのは、自分が原因だと思っている人たちが、自分以外に原因があったと盛んに言いまわって、それが遺族に聞こえてくるということです。ある意味責任感が強いのでしょうけれど。他人に責任を擦り付けてはなりません。
また、その中でも本人に責任を擦り付けることがよくあります。平気でうそを垂れ流すのですが、さすがに嘘をつくのは理由がどうあれ非難されるほかはないと思います。

学校のいじめが原因だとされてしまうと、クラスの全員が攻撃していたかのようなうわさや報道が流されたりします。しかし、実際は、微力の場合が多いのでしょうが、大勢に抵抗していじめられている子に手を差し伸べている子がほとんどの場合にいるようです。そういう子は、自分が自死した子を守れなかったという自責の念がありますから、そうでもない子と比べると報道やうわさなどによって精神的不安定になり、問題行動を起こすことが出てくるようです。

書き込みを行わない方が良い第3の理由は、
このような見当はずれの書き込みで苦しめられている家族や、友人、その他の人間関係にある人たちは、書いてあることがわかり、見当はずれのことだと感じても、反論することが事実上許されないからです。そして、なすすべがなく、自分がその人を自死に追い込んだということが永遠に拡散されていくと感じていてもどうしようもないからです。

そのような無責任なコメントを出した人やそのコメントに「いいね」を押す人たちが、その投稿に対して正当な反論を当事者が書き込んだ場合にどのような対応をするでしょうか。真摯に受け止めとめて、記載者にアドバイスをする人がどの程度の割合でいるでしょうか。むしろ、仲間を攻撃されたということで、何も事情を知らないのに追い打ちをかけることの方がイメージしやすいのではないでしょうか。

少なくとも、無責任な批判をされた方は、そのように考えて、初めからあきらめる人が大勢だと思います。

結局、事情を分からないで、自死の原因について無責任なコメントをすることは、たとえそれが良かれと思ってやったことでも、正義の感情に基づいて行ったことだとしても、一方的にまったく非のない人につるし上げを行い、反論を封じて攻め続け、孤立に陥れている危険性が極めて高いということなのです。

無責任な自死の原因論を語りだしているのを視聴したら、チャンネルを変え続けようと私は思います。

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【超長文御免】死ぬという確定意思のない自死(自殺)と自死予防は何を予防するかについて 「自分で死を選んでいる」という誤解だということの具体的説明 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

特に若年の自死の問題に関与すると、必ずと言ってよいほど聞こえてくる話があります。それは、
「その人は、死ぬつもりなんてなかったと思うよ。はずみで死んでしまった事故だったのだよ。」
というものです。
そして、自死の前日や当日、本人が楽しそうなそぶりをしていたことや、自死の日の直後の日に、いろいろな計画があったことを理由として、その人は自死をするつもりではなかったはずだと述べられます。これから死のうという人が、そのあとの計画を立てようと思うわけがないというのです。

無理もない誤解だと思います。このように考える方々は、おそらく、「自死する人は、長期間死のうかどうしようかということを迷い続けて、何日か前からいつどこで死ぬかということを決めていて、死ぬことを決めた日の前は、一貫してこれから自分は死ぬんだということを考えていて暗い表情をしている。」はずだという前提を作っているのだろうと思います。

そういう自死もあるのかもしれませんが、私が調査したり、仕事として関わった自死には、そのような計画性のある自死の例がすぐには思い浮かびません。通常は無いと言ってもよいと思います。
だからその前提が多くの場合には間違っていると言ってよいでしょう。

言葉をうんぬんするときりがないのですが、それは「自死」とか「自殺」という言葉からくる誤解だと思います。要するに、「自分で自分の命を絶った」ということですから、言葉を当たり前に受け止めると、「自分の『意思』で自分の命を絶った」のだと人は無意識に考えてしまうのでしょう。外形だけを見れば自分で危険行為をしているわけですから、自分の「意思で」自死を決行したと感じることも無理がありません。
しかし、人間の行動は、必ずしもその人の意思に基づいて行われるわけではありません。「そうしたいからそうした」とは限らないのです。

国などの、「追い詰められた末の死」という言葉も、誤解を招く原因となる危険のある表現なので、この言葉の意味についても慎重に理解しなくてはなりません。

実際の未遂例や既遂例を調査した限り、命を絶つという効果を目的に自死行為をしたという目的的行為があったとは必ずしも言えない自死行為や、自分の命が危険になるということを自覚していることのない自死行為が、とても多いことに気が付きました。

以下、典型的な2類型の、死の意識が希薄な自死行為がどうやって起こるかについて説明します。

1 薬物、アルコールの影響での夢遊病型
前回の記事の中の万引き(トランス型)も参照にしていただければ幸いです。

不幸な偶然の条件が重なると、人間は自分の意思とは別に行動をしてしまうことがあります。極端な例を紹介します。ある種の向精神薬とアルコールを併用して、まったく記憶のない状態(記録に残らない精神状態)になってしまいました。それでも、自動車を自分で運転し、自分の好きな商品の売っている深夜の店舗に行き、比較的広い(二階建ての)店舗のその売り場まで歩いていき、異常を感じた店員が近くに来て制止しているにもかかわらず、店員がそこにいないかのように全長1メートルくらいある商品を何点か自分のカバンに詰め込もうとして逮捕されました。その時のその人は、目の焦点が合わず、口を閉じることもできず、よだれを流しっぱなしにしていた状態だったとのことです。ほかのことを一切考えずに、その商品を手に入れる行為だけをしていたわけです。

この人は、外形的に見れば、自分で商品を盗もうとしていたということは間違いではありません。しかし、それを自覚してはいません。夢遊病ならば、自動車運転をして正確に店舗にたどり着き、その商品を盗む行為をするという複雑な行動は、とてもできないような気がします。それでも、その姿を見ていた店員によると、あたかも映画のゾンビのようにオートマチックで動いている感じだったということらしいのです。また、店員がいることを気にしないで行動をしていたということからも、少なくともまともな意識状態ではないことがわかります。

どうやって、このようなヘンテコな行動が起きてしまうのでしょうか。


その人の頭の中で、常日頃から「その商品が欲しい」という気持ちがあったことは間違いなかったようです。それでもお金がかかりますし、どうしても必要なものでもありません。理性が働いている場合は「まあいいか。」ということで、窃盗をしないことはもちろん、お金を出して買うこともしないという「自己制御が可能」な状態だったのだと思います。ところが、複雑な過程を経て、複雑な効果が表れて、「行動は可能だけれど自己抑制ができない状態」が生まれてしまったのだと思います。これは、脳のある部分(前頭前野腹内側部)が機能を停止し、その他の部分は活動しているということで説明ができるのではないでしょうか。

自死者の多くが、自死の前に精神科治療を受けていたというデータがありますから、現在の精神科医療の大勢からは、自死者の多くが向精神薬を服用していたことが推測できます。また、少し古くなったデータですが、少なくない割合で自死者の体内からアルコールが検出されているという報告もあります。そうだとすると、向精神薬とアルコールの併用や、どちらかの過量接種が起きて、脳の局所的な活動、停止が起きて、「行動は可能だけれど自己抑制ができない状態」が生まれることはありうることだと思います。

先ほどの窃盗の事例では、頭の中にその商品が欲しいという記憶が何かしらあって、窃盗行為を抑制することができなかったという状態でした。これがこの実際の場合と違って商品が欲しいという記憶ではなく、何らかの精神的に追い込まれている事情があり、「死んだら楽になる。」という死に対する明るいイメージを持っていたとしたら、その人は窃盗ではなく、自死をしていたかもしれません。その場合、単なる死に対する明るいイメージだけでなく、「死ぬ方法」についても考えてしまったりしていたら、ますますその方法を行うことを止めることができなくなってしまうと思います。

WHO等の自死に関する報道についてのガイドラインとして、自死の具体的な方法については詳細を報道しないことを要請しています。こういう薬物・アルコールの影響で意識がない状態での自死を考えると、報道によって自死の具体的方法を知ってしまい、記憶に残ってしまったら、その方法を止めることができない状態になり、実行に移す危険が高くなるわけです。具体的方法について報道しないことはとても大切です。

向精神薬などを過量服薬するという形で死亡する場合もあります。複数の未遂者と家族から最近もこの話を聞きました。

ある方は、抗不安薬を飲めば眠れていたそうです。しかし、その日は眠れなかったので、眠るために追加で飲んでしまったようです。それでも眠れないため、さらに追加して薬を飲んでいくうちに、だんだんと意識がもうろうとしてきて、「映画のゾンビかロボットのようにオートマチックで動いているように」飲み続けていったそうです。本人にはその時の記憶がなく、家族が見た様子ということになります。そうやって一錠ずつぼりぼり噛み続け、気が付いたら大量に薬を服用してしまっていたようです。薬を飲み続けている様子は、先の商品窃盗の犯人のような状態だったのでしょう。家族は必死に服用を止めようとしましたが、力が強く、服用をやめないので、救急車を要請して緊急入院となりました。一か月近く入院したそうです。家族がいなかったらもっと大量に服薬していたでしょう。命を落としてしまう危険もあったと思います。つまり、自死として死亡したかもしれなかったということです。

別の方は、マンションの階段を上りだす人で、飛び降りる寸前で家族に止められて無事だったということが何度かあったそうです。そのうちの半分くらいは自分では記憶していないというのです。

最初に挙げた窃盗の事件の精神状態は、さすがに珍しい事例だと思います。意識のない中で行った行為はかなり複雑な行為でした(実際は何度か同じように車を運転しようとしてできなかったり、発進直後に事故を起こしたりしていたようで、たまたまこの時はうまくいったという事情があったようです)。しかし、自分の命を落とす行為は、もっと単純で簡単に手軽にできてしまいます。そこまで複雑な脳の状態にならなくても可能です。

私が話を聞いた人たちは、その時に家族がいたため、家族が危険行為に気が付き、危険行為を止めることができました。しかし、家族がいなかったら、亡くなっていても不思議ではありませんでした。夢遊病みたいな行為でも、自分で過量服薬をしているし、自分で飛び降りをしたならば、統計上は「自死」があったということになります。

自死ではないのですが、向精神薬を何錠も服用していた方が、亡くなった夫の墓を開けて遺骨を確認したという事例があり、他県の事例ですが呼ばれて刑事弁護をしたということがありました。まったく記憶がないというわけではないのですが、概ね記憶がなく、断片的にしか覚えていないとのことでした。
思いが強すぎて、その思いの強さだけで行動をしてしまうという現象は私一人だけの弁護士経験の中で何度も見ていることです。

また、バスに乗っていて、目的地になかなかつかないことで奇妙な焦燥感にとらわれて苦しくなったという人もいます。まるで、テレポーテーションで瞬間移動ができないことにイラついているような感覚だったそうです。このイラつきで精神的にいっぱいになってしまい、バスを途中で降りてしまったというのです。目的地につかないことに焦っているにもかかわらず、かえって目的地に到達することが遅れることをしてしまうという不合理な行動をしてしまうことを止めることができなかったというのです。この人は、自分が飲み始めた向精神薬の副作用だと判断して、その薬の服用をやめたそうです。それからはその症状は出なかったとのことでした。ちなみにこの感覚、私も起きたことがあります。途中でバスを降りるまではなかったのですが、ちょっとの間イライラが止められなくて苦しくなり、途中で下車したくなりました。向精神薬は飲んでいないのですが、ある種の内服薬でそのような症状が起きたのかもしれません。あるいはその時の精神状態の影響でしょうか。

他の自死未遂の経験のある方から話を聞いても自分では記憶していない行動や、自分で制御できなかった行動、精神状態を経験したことがあるそうです。こういう話を聞くと、かなりの割合でこのような夢遊病のように自覚がないまま危険な行動をしてしまい、その結果亡くなってしまったケースが多いような印象を受けてしまいました。

こういう状態での自死があるとすれば、家族がいる場合でも自死が起きることをよく説明できます。家族仲が悪いわけでなく、むしろ家族に対する思いやりがある人でも、夢遊病状態だったために、家族の将来を考える暇もなく、危険な行為をした結果命を落とすこともありうることだと理解できることでしょう。家族のことをどうでもよいと思っていたのではなく、考える暇もなく薬物の影響で命を落としていたということが実態だったという事例は無数にありそうです。

2 慢性的な緊張持続による精神疲労型

精神疲労型の自死は、外在的なストレスあるいは内在的な事情によって、精神的に強い緊張を強いられることが長い期間持続してしまっていて、精神的体力がなくなることによって緊張を感じ続けることができなくなる場合です。「精神的体力」がなくなるという言葉は私が作った比喩のようなものですが、あたかも思考が飽和状態となってしまうことによって、合理的な行動をするための思考(衝動を自分で抑制)をする力が失われたような精神状態を言います。これは自死に限らず、紛争を抱えている当事者には陥りやすい状態で、程度の違いはあるわけですが、ありふれていてよく見られる状態です。

薬物を摂取していない事例で、精神疲労型と思われる事例を紹介します。

ある若者の例では、発注先のパワハラがあり、それを会社が放置していたという事例でした。友人たちの強い勧めによってその不合理な職場を退職すると決めたので、友人たちもほっと一息を入れていた時に、あと半月で退職というところで自死をしました。自死の直前の様子として、会社の同僚の目撃談を入手することができたのですが、パソコンには向かっていたけれど画面には何も表示されておらず、ぼーっと画面を見ていただけのような感じだったそうです。会社を飛び出してから気が付いたことですがインスタントコーヒーをいれようとしてコップに粉を入れたままボットの湯口の下に置いたままだったそうです。何も考えられない、思考が停止したような状態から、死の危険のある行為に向かってまっしぐらに進んでしまったというところに、一つの目的にだけ向かってしまい、他のことを一切考えていないという意味においては、最初の窃盗の事例に近いような精神状態であったようです。

ある人は、長期間土日も休みがなくストレスフルな仕事をしていました。脅迫に近いクレームが来たり、職場から窃盗の濡れ衣も着せられました。そんなある日、ふと気が付いたら、背広姿にサンダル履きというおかしな格好で、デパートの小さい紙袋をもって家を出て、本来の職場ではなく、かなり距離の離れている他県の支店の同僚のいる駅まで、新幹線を乗り継いで5時間以上をかけていっていたようです。その駅で降りて、山間部に入り自死をしています。医師の意見では解離性遁走という精神的状態だったのではないかということでした。自分で自分の行動を抑制できない状態です(仕事上の情報交換で、その同僚から助けてもらった直後だったので、その地域の名前を漠然と記憶していたようです。そこを訪れる必要は全くなかったとのことでした。)。その時の行動を見た人はいないのですが、おそらく薬物の影響がある事例のようなオートマチックの動きだったのではないと推測できます。やはりこの事例も、死ぬことだけを考えて、他の様々なことを考えられない状態だったと思います。

パワハラやいじめなどといった外在的事情がない場合の例もあります。おそらく精神病の影響で、精神的に消耗しきっていたような状態になり、家族の前で興奮状態となり自死をしようと何度も繰り返し、家族が止めていたのですが、興奮状態が収まってしばらくしたので家族が一時部屋を出たら、わずかの時間で自死をしたという事例もあります。これも、店員から止められるのを振り切って商品を盗もうとした行為をほうふつさせます。その危険行為をするという強い意思を止められない状態となっていたということになるでしょう。

事例を挙げればきりがないのですが、亡くなる際の状態がわかる範囲では、覚悟の自死という事例は聞いたことがあまりありません。やはり、薬物の影響下のような自分の意思とは別に、あたかもオートマチックに死に至る危険の高い行為を行ってしまっていたということがほとんどのようです。

自死が起こる前のサインとして、かなりはっきり起きることは、自分に対する激しい攻撃行動です。自分の身体を傷つけたり、自分の部屋を荒らしたり、自分の大切な持ち物を衝動的に破壊したり、その攻撃衝動を抑制できない状態です。あるいは、不合理に自分を責めて、自分の過去の行動が自分に悪い結果をもたらすというような異様な自責感情が述べられていたこともあります。あるいは自分に対する絶望もみられたことがあります。激しい攻撃的感情に基づく行為が、自分に向かったときに自死が起こる危険性が高いことは間違いないようです。

この点、さらなる説明が必要だと思います。生物は、死にたくない、死なないようにしようという本能があるわけで、自分に対して命がなくなるかも知らないような攻撃をするということはあり得ないのではないかということです。
しかし、自死直前の人たちの言動を調査すると、不合理な自責の念の言葉があることが多くの例で確認できます。まさに自棄的な発言です。それから、理由もなく、「自分は死ななければならない」という信念のような固い気持ちに支配されていたことを、多くの未遂経験者は語ってくれました。

夢遊病やトランス状態になってしまうと死ぬことに対しての恐怖を感じにくくなるようです。ましてや自分が危険な行為をしているという自覚がない場合は、死への抵抗が起きるきっかけもありません。「自分は死ななければならない。」という信念のような気持になっているときは、うまく言えませんが、「生物的に命を失う。」という意味とは別の意味で死について言っているように話を聞きました。でも結果としては、命を落とすことになることは間違いありません。

「死ぬ」、「死ななければならない」、「死ぬことは解決することという明るい気持ち」という「アイデア」や「イメージ」が頭のどこかに強固に張り付いていて、それまでに様々な事情で緊張感が持続していて、その結果考える精神的体力が失われてしまい、自分に対する攻撃衝動が抑制できない状態になった場合、自死が起きてしまうケースが多いのかもしれません。

3 自己コントロール不全と精神的疲労

1の薬物影響による夢遊病タイプと、2の精神疲労による衝動タイプの共通項として、「人間は自分の行動を意思によってコントロールできるとは限らない」という事実です。あるいは、何らかのアイデアやイメージが頭に張り付いているときには、意思にかかわりなく行動してしまうことがあるということかもしれません。しかも死という行動にまっしぐらに行動してしまい、他のことを考えられない状態になっているわけです。
一見死という結果を目的とした行為のように見えても、実際はその行為と結果を認識した行為とは限らないということも少なくない割合でそういう事実があると思います。
だから薬物がない事案でも、自死があったからと言って、その人が家族のことを思いやっていなかったというわけではないことも共通です。ほかのことを考える力がなくなってしまっていて、結果として自死の危険のある行為をやめられなくなったということのようです。

また、自己抑制をする場合、それは本能ではなく理性の力を必要とし、その理性の力は簡単に失われてしまうというメカニズムも報告しておきたいと思います。

うつ病患者から話を聞くと、我々が行動するときは、自覚をしていないのですが、いろいろと思考をして実行をしていることがわかります。
例えば、食事をするということ一つとっても、例えば牛丼を食べるときも無意識に食べているように思えて、実は、どんぶりの重さや温度を計算して持ち方や力の入れ加減を工夫して、中身がこぼれないように工夫して、どんぶり飯を箸を器用に使って食べているようです。ところが、重篤なうつ病になると、思考を働かす精神的体力がなくなり、どうしてよいかわからなくなったり、食事をすることをあきらめたりすることもあるようです。食欲があれば、考えないで食べるのでしょうけれど、食欲もないので、無理に考えて食べることをしないということみたいです。

例えばエアコンのリモコンが目の前にあっても、椅子から立ち上がって、2歩も歩いて、リモコンに手を伸ばして取るということが考えられなくなるようです。まったく意味のないことを考え出してしまうこともあるようです。つい、家族に目の前にあるリモコンを取るようにお願いして、怒られるなんてことがよくあるそうです。

このような状態が慢性化する場合は、通常自死をするという気力も精神的体力もありませんから自死の危険は減っているはずです。しかし、精神状態には波があるために、幾分活動ができるときもあるようです。また服薬によって精神状態が上向いて活動が可能になるときもあるようです。これらの場合も衝動的行動ならばできます。しかし、その行為の結果どうなるかということについて考えて、自分の衝動を抑制しようという理性を働かせるということは、精神的体力がついていかない場合があるわけです。この場合が最も危険な状態ということになると思います。

追い詰められた結果で自死を意識的に行うことを余儀なくされているというよりも、「追い詰められた結果で死の危険のある行為を抑制できなくなった」という表現が適切な事案が実は多くあると私は確信しています。

4 自死予防の対策 何を予防するべきか

このような分析から言えることは、これから自死をする人は、いかにももうすぐ自分で死ぬ方法を実行しますよという雰囲気があるわけではないということです。それまで普段と変わりなく会話をしていても、そのあとの予定がある場合であっても、何らかの刺激によって引き金を引かれて、死の危険のある行為が抑制できなくなって、実行に踏み切る可能性があるからです。
そうすると、リスクを示すものとして、自己抑制が効かなくなる事情、自己抑制が効かなくなっている行動が、予防手段として重要視されなければならないことになると思うのです。

精神的体力が失われる事情としては
薬物、アルコールの過量接種があります。個人では薬物やアルコールもやめられなくなり、オートマチックで摂取しますので、できるだけ家族と一緒に住むこと、心配してくれる他人と同居することが望ましいということになります。

対人関係の不具合が継続していることが精神的体力を奪う事情です。
厄介なことに、人間は、職場、家族、学校、地域、ボランティア、サークル等様々な対人関係で、自分が尊重されて過ごしたいという本能的欲求を持っているようです。できれば、家族などコアな群れを意識的に大切にして、他の群れで不具合があっても家に帰れば安心できる状態となっていることが自死予防の観点からは切実に必要なことだと思います。

その上で、不具合のある人間関係があることを受け入れるということです。そういう改善不能な人間関係に期待をしないということ。過剰な期待は絶望を深くしてしまいます。まあ、これをどうするかが対人関係学のテーマなので、これからも考え続けていきます。

人間は他の霊長類と同じように、安心をすることを意図的に行わなければならないと考えています。

睡眠不足も精神的体力を奪う事情です。催眠剤による睡眠は、自然睡眠よりも効果が低いという指摘もありますので、日光に当たるとか適度に運動するとか健康的な睡眠を追及することは大切なことだと思います。

これらの精神的体力の低下を防止するとともに、自死の危険なサインに気づくことも予防効果が上がると思います。具体的には

・自分の体に衝動的に傷をつける行為。
・自分の持ち物、テリトリーに対する衝動的攻撃
・日常生活から逸脱したような強い感情表現
・泥酔するまでアルコールを摂取すること
・用法容量を逸脱した精神薬物の服用

何も考えないでただ行動しているような夢遊病的な行動、他者の制止を聞き入れない状態などは大変危険な状態だと思います。
何が何でも身を挺して、意識を回復させて、話を聞くことが最低限出来ることかもしれません。

自死というのは、個性や健康状態、タイミングというものが左右するもので、人間ならばこういう時に自死をするという決まった思考メカニズムがあるわけではないということがリアルな考えだと思います。いじめがなければ、パワハラがなければ、家族問題がなければ、自死が起きないということは全くの間違いであることだけは言えることだと思います。

孤立をしないこと。これが人間にとって一番大切なことかもしれません。


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【完全ネタバレ御免】相棒(令和4年2月23日放映)の自死(自殺)の描き方の大いに評価するポイントとリアリティの問題について 高橋和也を絶賛する [自死(自殺)・不明死、葛藤]

これからテレビ朝日系の相棒season20 第16話「ある晴れた日の殺人」(令和4年2月23日放映分)についての論評を行います。肝心の謎解きの部分がバレバレになるので、ご注意願います。


いきなりネタバレから入ります。

水谷豊演じる刑事が、自死をしたサラリーマンのことを評して、概要「彼は死にたかったのではないと思う。自分の人間関係の中で円満に生活していたいと思っていたと思います。捜査をした結果そういうことを感じました。」と述べています。
これはとても、大事な視点です。自死をする方は、死にたかったのではなく、生きたかったから死ぬしかなかった。ということは真実だと思います。ただ、単に「生きたかった」というとよくわかりません。「生きたかった」というよりも、「対人関係の中で尊重されて生きたかった。」と言わないとわからないと思います。テレビ番組でそこまで行き届いた説明がされていたことに感心しました。

文学的にはこういう話なのですが、演出上の問題としては、この話を死者であるサラリーマンが聞いているという設定があり、その話を聞いて表情を変化させるのです。その変化は見所で、演じた高橋和也はすごい俳優だと思いました。この人は男闘呼組の時から寅さん映画が好きで、話せるやつだなと注目していたのですが、俳優として大成しつつあるように感じました。よく勉強しているのだと思いました。

この部分があれば、これはテレビドラマとして、評価してよいと思います。
以下に私が述べるリアリティを追及してしまうと、説明が難しくなり、時間が足りなくなり、そもそも娯楽作品としては成り立たず、そもそも電波に乗らなかったと思うので、目をつぶってよいのですが、この記事は、ある意味テレビ番組をよいことに、自死について説明がしたいということで説明しているとご理解ください。


リアリティを欠くと思われたのは、自死者が、自分で自分を「殺した」と繰り返し述べるところです。用語を問題としているのではなく、自死についての動機としてのリアリティの問題です。

もう少し詳しく言うと、高橋和也演じるサラリーマンは、(結局)自分に対して「出世争いをするために、同僚の足を引っ張ろうとしたり、他人の失敗を許せなかったり、人間として許せない。そのよこしまなことを考えているときに表情の醜さを嫌悪する。生きている価値のない人間であり、殺しても罪悪感なんてない。」ということを何回か繰り返して述べます。視聴者は、高橋和也演じるサラリーマンが被害者である他人を殺したと錯覚していますから、殺人の動機として受け止めているわけです。しかし殺人の動機としても、自分に損害を被らせることに対する反発ではなく、一般的道徳というか、正義感の観点から殺害を行うということもリアリティが希薄だと感じて違和感がありました。

結局、他者ではなく自分に対する否定評価だったわけですが、それにしてもそのような動機で自死を行うということもやはりリアリティが感じられません。
生物の原理に反して自分で自分の命を絶とうとしている人が、道徳規範や正義感に照らして、自分を否定評価するということは、ずいぶん余裕がありすぎる心理状態だと思われるのです。

自死をした人の事情の調査結果や、自死をしようとして未遂で終わった人たちの話を聞いても、そのような冷静な思考が働いていたということはこれまでありませんでした。自死未遂をした方々の話を聞くと、半分くらいは、自分が自死行為をしたという記憶すらないのです。

記憶がない自死行為の典型は、向精神薬やアルコールの影響で、自分の行動を自分で制御できない状態になっているという場合です。おそらく、ただ眠りたいという気持ちだけをもって、眠れない間中、睡眠薬をぼりぼり無意識に食べているという感じでの過剰服薬です。後は、気が付かないで、屋上など高いところに上って行っていたというケースです。向精神薬やアルコールの影響があったとは思いますが、一種のトランス状態にあったようです。命のあるなしをわけたのは、その行為に気が付いて無理やり止めた人がいたかいないかということでした。

自分から命を絶とうとして数人で死地に赴いていたが、憎んでいた人の顔がちらついて、「自分が死ぬことで、こいつを喜ばしてなるものか」という気持ちが生まれ、一人引き返した人がいました。同行した人たちはみな亡くなったようです。この人の自死の動機も、なんとなくわかるような気もする事情もあったのですが、結局は動機というまとまった因果関係があるものではなく、「自分は死ななければならない。」という理屈を超えた信念のようなものに支配されていたようです。職場から抜け出して、別のビルの屋上から飛び降りた方の場合も、直前の行動は、パソコンの画面には向かっていたけれど何もしていない状態、インスタントコーヒーを入れようと粉をコップに入れたけれど、お湯を入れていない状態等、意識があったのかさえ疑問となる事情がありました。それでも確実に死ぬ方法を選び実行をしているのです。

冷めた目で、制裁でも自己否定でもよいのですが、「自分を殺そうとして自死をする」というケースは、実際は存在しないか、あったとしても非常にまれなケースではないかと思われます。自分が苦しんでいる理由が、自分の行動や考え方が自分で嫌だ、人間としておかしいというようなところにあるということに気が付いているならば、おそらく自死には至らないということがリアルだと思います。実際はどうして苦しいかわからないことが多いですし、つじつまが合わないことで苦しんでいることも多いですし、もっと多いのは自分が苦しんでいるということに気が付かない人たちが自死する場合です。「自分が実は苦しんでいるのだ」ということを、自分で分かってあげれば自死をしなくても済んだことが多いように感じられます。

この番組の最後の高橋和也の表情の変化は、自分が苦しんでいること、自分が尊重されたいのに尊重されていなかったことに苦しんでいることを理解したという感情の変化を表現した、なんとも言えない素晴らしい演技だったと思いました。

だから、リアリティを出すためには、自分が出世のために同僚の足を引っ張っていることを悩んでいたり、部下に配慮が足りず、逆に部下から貶められようにしているところに苦しんでいたり、妻との関係で葛藤を高めていたりするシーンが描かれて入ることが必要だったのだと思います。自分が解決方法のない苦しみに追い込まれている様子が描かれればリアリティが得られたのだと思いますが、それは一時間番組のエンターテイメントでは無理でしょう。何かを割愛することはやむを得ないと思います。

「自分を殺す」という表現が何度も使われたのは、殺人事件として展開する演出上やむを得ないと思いますが、リアリティは無くなるわけです。この言葉から罪悪感云々というセリフも出てきたのでしょうけれど、実際に自死している人たちは、自分を殺すという意識はないと思いますから、そもそも罪悪感が論点にはならないと思います。自死をしそうな人に自死の罪悪感を持たせて自死予防をしようと考える人たちがいますが(だから自死ではなく自殺というべきだというようです。)、そんな余裕のある人は自死しませんから、あまり的を射た議論ではないと思います。客観的には自分を殺しているのかもしれませんが、自死者の主観では、自分を殺すという意識はないはずです。

もう一つ、自己肯定感が低くなるとか、自己否定とかいう言葉が、最後のセリフの前に二人の刑事の間でもっともらしく語られるのですが、私は、全く頭に入ってきませんでした。ない方がよかったなと思いました。人が一人死んでいるのに、「何余裕ぶっこいて話してるんだ。」とさえ思いながら音を聞いていました。

おそらく自分を「殺す」ことから、本来「罪悪感」を抱かなければいけないという論理の中で、自分は死んでもよい人間だという自己評価の全否定があったので、罪悪感を抱かなかったという流れの中の話なのでしょう。そんな自分を客観的に評価している自死はないと思うので、意味のないセリフだと感じました。言葉に引きずられすぎた思考ということになるでしょう。

この流れも、自死予防の中でよくみられる間違いです。自死する人は、自分を大切にしない、自分を大切にできなくなっているから、「殺す」ことができるのだという考えの元、自死予防は、「自分を大事にしよう。」、「自分の命を守ろう。」というキャンペーンになるわけです。
自死は、「自分を殺そう」という主観や動機があって行うわけではないという視点が欠落しているとそういうメリットのないキャンペーンにつながるわけです。

どちらかというと、自死する人は自分を大切にしていますし、自尊心も強いように思われます。もともと「自分なんて幸せになれるはずがない。」と考えているならば、それほど強い絶望を感じたりしないのかもしれません。自分は、自分を取り巻く人間関係の中で大切にされたいという期待があるからこそ、そうではない現実に落胆し絶望するのだと思いますし、それでも何とか解決策を求めて不安感、焦燥感を抱き、それがかなえられないために絶望が深まるのではないでしょうか。冒頭申し上げましたが、自死は死にたいのではないのです。「自分の関わる人間関係の中で、尊重されて、協調して生活したい」という望みがかなえられないところに苦しむのです。その苦しみ切った先に、何かをしたいという長期的な願望はないと思います。ただ、その苦しみから解放されたいという控えめな望みしかないわけです。その手段として自死を思いとどまることができないほど苦しみ切っている、冷静な思考、自分に対する評価ができないから自死を思いとどまることができなくなっているだけだということだと思うのです。

だから、自分を「殺す」という表現も的外れですし、人を殺すから罪悪感があるかどうかもそんな余裕のある話ではありませんし、ましてや自分を殺したから許さないという表現も的外れだと思います。

まあ、刑事二人が余裕をもって話をしているのも演出で、自死という出来事の持つ重苦しさを緩和させる効果を期待したのだと思います。「許さない」というセリフも、亡くなったサラリーマンに対して、「あなたはかけがえのない人であり、死んでもよい人では決してない。」という意味が込められているのだろうと考えようと思います。

そういう前向きな解釈をさせたのも、高橋和也の表情の変化という演技だったのだということを最後に強調したいと思います。




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それでも逃げろと私が言う理由。いじめの被害者の方が転校することは確かにおかしい。しかし、だからと言って逃げないということは、極めて危険なこと。命を守るのは理屈ではないということ。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

テレビドラマで、いじめの体験をしたという役の人が
いじめられていた時に、誰も「逃げてよいのだ」と言ってくれなかった
というセリフを言ったところ、主人公が
「いじめの加害者が学校に残って被害者が転校するなんておかしいだろう。どうして被害者が逃げなければならないのだろう。」という趣旨の発言をしました。

インターネットの商業記事でこの発言が肯定されて拡散されているのですが、大変心配になってしまいました。

どんな心配かというと
転校して新しい人間関係を形成して円満な人生が送れる可能性があるのに、
正義に固執して、いじめられている環境に子どもをとどめておいて
子どもが逃げることができなくなり、
さらに心理的に追い込まれるということが起きるのではないか
逃げたいのに、逃げられなくなってしまうことによって
自死が起きる事態になるのではないか。
という心配です。

確かに被害者が、いじめの被害を受けた挙句に転校という
さらなる不利益を受けることは不合理です。
いじめ被害は転校だけではなく、
不登校、引きこもりという損害も生まれますし
学校に出てきても「またあの時のようにいじめられるのではないか」
というようなトラウマの損害も見られます。
学業の遅れということもよく見られる損害です。

これらの損害について、いじめ加害者が弁償するということは
ほとんどないと思います。
いじめを受ける被害は、実際は莫大な損害であり、
生まれてきた喜びが失われるほどの被害を受けることもあります。
最悪の事態に自死があるわけです。
だから、「加害者が転校して、被害者が学校にとどまるべきだ」
という考えは理屈ではその通りだと思います。

しかし、いじめ及びいじめ被害という事象はそう単純ではありません。
1)何がいじめか、どちらが悪いのかということを、速やかに学校等が認定するということは、現実には期待できません。
2)仮に加害者が転校すれば、被害者は大手を振って元の学校で快適に暮らせるのでしょうか。もしそんなことを考えているのであれば、いじめやいじめ被害について何もわかっていないといわなければなりません。
 いじめで被害者がどうして傷つくのか、心理的に重い負担を受けるのかというところですが、いじめられて痛いとか苦しいとかということは想像しやすいのですが、それだけではありません。同級生などの前でいじめを受けることによって、自分が友達の一員としての立場がなくなる、顔をつぶされる、配慮をしなくてもよい人間だと思われるなどの対人関係的危険を感じます。この危険から脱したいと思うのですが、その追い込まれた心理として、自分の仲の良かったはずの人間が助けてくれるはずだという援助希求が生まれ、追い込まれれば追い込まれるほどこの援助希求が大きくなっていきます。そういう友達が何らかの援助をしていることがほぼ必ずあるのですが、追い詰められた本人の援助希求は肥大化して、「今この危険を除去してほしい」という結論を求めてしまうので、それが援助だとは感じられなくなっています。そして孤立無援、危険除去の不可能感を抱いて心理的に追い込まれていくわけです。
そうすると、少数の加害者が転校させられたとしても、自分に対するいじめを黙認していたと被害者が認識している圧倒的多数の「傍観者」がすべて在校し続けているわけです。そんな人間関係にとどまって、被害者は癒されるのでしょうか。そんなめでたしめでたしにはならないような気がします。加害者が転校すれば解決だというのは、いじめの現実を知らない人の理屈に過ぎないと思います。ただし、例外的に、職業的加害者がいて、その被害者だけでなく、圧倒的多数の子どもたちが被害にあっているような場合等で、多数者が傍観者と言えないような場面があるとすれば、その時に加害者の排除によって、被害者の平穏が実現するという可能性は否定できないでしょう。
 さらに、現実に起きているいじめでは、加害者と被害者がはっきりしていると、圧倒的多数の傍観者は感じていません。実際には被害者が一方的にいじめられているとしても、傍観者たちは、傍観をしている自分を正当化しようとします。ここでよく起きる傍観者の心理は、「被害者にも落ち度がある。加害者の感情も理解できる。」というものです。現実の学校や職場のいじめで、傍観者たちはこういう言い方をするのです。そしてだから、いじめではなかったというわけです。
そういう意識のままで、加害者が転校させられてしまうと、傍観者たちは加害者が転校した事態を受け入れるでしょうか。「どうして一方的に、あの人たちが加害者だと決めつけられて、学校からいられなくなったのだ。おかしい。その原因を作ったのはあいつだ。」と被害者に対して敵対的感情が起きる原因がここにあります。そんなところに被害者がとどまって、健やかに学校生活を送ることができるでしょうか。
 確かにこの現実は不合理です。不合理な現実は変えなければなりません。それはそうだと思います。しかし、これが現実なのです。不合理が是正できるまで、この現実の中で被害者を放置して、死の危険にさらし続けることはできないと私は思います。
 一体誰が、不合理だから、理屈に合わないから転校を拒否するというのでしょうか。
 被害者が精神的に追い込まれてしまっているならば、転校を拒否したとしても転校をさせるべきだと思います。もっとも精神的に追いこまれて危険な場合は、転校をして今の危険から逃れることができるというアイデアを拒否する精神力は残されていないことが多いと思います。
 親ならどうでしょうか。自分の子が被害を受けているのに、さらに転校しなければならないとなると怒りを覚えるのはよくわかります。転校に伴う諸手続きの時間や費用、転校後の例えば通学等の時間や費用、さらなる心配など、様々な負担が生じます。何よりも、自分の子どもの将来の制度設計が成り立たなくなってしまうことは大きな打撃です。それはよくわかりますが、考えなければないことは、子どもの気持ち、現在の学校にとどまるとした場合に起きるわが子の精神的負担なのだと思います。わが子の心理的圧迫を継続しないということを第一の行動原理としなければ、子どもはさらに追い込まれていくことになるでしょう。特に子どもが逃げたいという意思表示をしているときに、親の正義感で子どもの願いを否定するということは、子どもに絶望感を与えてしまう大きな危険があると思います。
 しかし、子どもの気持ちなんてかかわりなく、自分の正義感を振りかざして、子どもやその親御さんに合理的な行動を強要する人たちというのは必ずいます。善意なのですが、考えが足りないために、子どもを追い込んでしまう人たちです。親は、子どもの命を最優先して、外野に耳を貸さないようにする必要があると思います。
 いじめを受けた段階で、被害はすでに生じています。これを無かったことにしようとすると被害が拡大していく危険があるわけです。すでに生じている被害をいかに拡大させないで、最小限にとどめるのかという発想こそが必要だということになります。意地や正義を貫いて被害を無かったことにしようとして、子どもがさらなる被害を受けては悔やんでも悔やみきれません。

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自死をした人に対する差別偏見、あるい誤解、(自死する人は特別な人だ)を無くすことが、自死予防の最大の対策ではないかと思う。みんな、幸せがあり苦しみがあり、当たり前の人生を送っている側面をもっているということ。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

自死者に対する誤解はいろいろあります。これまで私が主張していた誤解は、「自死者は精神的に弱いから、逃げるために自死したのだ。」という誤りです。
むしろ精神的に強すぎて、責任感が強すぎ、頑張りすぎるから、逃げ場のないところまで追い込まれたということを繰り返し述べてきました。

それは、私が、何十人という自死事件を、後追い的に調査、分析を行う仕事をして実感した事柄です。ですから、過労死の啓発活動をするときに、過労死しやすい人ということで、責任感が強すぎたり、頑張りすぎることは、仕事にとっては尊いことかもしれないけれど、家族との関係では別の観点も必要かもしれないと問いかけをしているわけです。遺族への慰めの理屈ではなく、実務的に自死を予防するための理論なのです。

最近、自死に対するまた違う誤解があることに気が付きました。

自死者の人生は、全く見るところもなく、苦しみだけのみじめなものだという誤解です。自分では、そういう誤解があることにすら気が付きませんでした。自分の周囲の自死者をみても、後追い的に自死の調査をしても、決してそんなことはないため、誤解をしている人がいるということに気が付かなかったわけです。

確かに、自死リスクが高まる要因があって、人間関係で追い込まれたり、精神疾患などで苦しまれていたり、そのことを知ること自体が第三者でも辛くて仕方がない時期が亡くなった方にあったことは間違いありません。

しかし、もちろん、そうではない時期があるのです。

自死者の多くは、家族を愛し、家族から愛されて生活をしています。友達がいて、何かと力になろうとしている人がいて、心配してくれる人がいて、多くの人間関係が円満に形成されていることが多いです。生きてきた喜びが感じられるエピソードや、充実した時間を送っていることがわかる様子を知ることができます。また、些細なことに悩んだり、克服したりと生き生きとした時間を生きています。

おそらくこれを読んでいる方は、「それはそうだろう。そんなことは当たり前だろう。」と思ってくださっていると思います。言葉にすれば、誰しもわかることです。

しかし、おそらく無意識の誤解、誤解をしていることに気が付かない誤解があるようです。それは、自死をするくらいの人だから、すべてにおいて逃げ道がない状態だったのだろうと考える人たちが実際は多いようです。
例えば、「会社でパワハラがあったということは聞いているけれど、家庭で十分フォローすればこういうことにならなかったはずだ。同僚や友達も庇ってくれなかったから逃げ道がなくなったのだ。誰も会社を辞めればよいと言ってくれなかったのではないか。」
というような思考方法です。

これらは、私の担当した事案に照らすと事実に反する推測ということになります。会社や学校での攻撃も、絶対的孤立が生まれるほど激しい事案も確かにありますが、多くは特定の人間関係に不具合が生じている事案でした。圧倒的多数は、家庭は円満で、家族仲の良い事案です。家族から追い込まれるという事案もありますが、やはり少数です。
以前も言いましたが、家族仲の良いことは、自死予防に必ずつながるというわけではありません。家族仲が良く、家族に心配をかけたくないからこそ、辛い気持ちを家族に隠すし、家族の前では無駄に明るくふるまって、ますますエネルギーを消耗するということが圧倒的多数でした。仲の良い家族は、最終的には危険因子にもなるということが真実です。このことは見過ごされています。

このため、自死者の身内ですら、自死者の家族に対しての不信感を抱くことがあります。実際私が担当した事件でも、自死者の親が、自死者の配偶者に対して、配偶者が自死の原因だという怒りを持ち続けて裁判になったケースもありました。裁判でも、弁護士が付いていながら、よく根拠もなく、こうも人を、子どもが愛した人を攻撃できるものかなあと不思議でした。自死者の親が、自分の子どもに対してというか、子どもの環境に対して誤解ないし偏見があったと考えると理解ができることかもしれません。

自死の調査をしていると、自死リスクが高まり、苦しんでいるときでさえ、ほっとするようなエピソードがあります。
壮絶な苦しみの中、自死するまで追い込まれて命が絶たれてしまったことは間違いないのでしょうけれども、当たり前に、普通に生きていたという側面も確かにあるし、幸せだった時間も確かにあります。

自死に対する偏見、誤解は、自死者が、なにかとてつもない四面楚歌のような絶対的孤立状態にあり、ただ一人で話す相手もなく生きてきたような、とても関わりたくないような状態だったとというものです。これでは、自死者がアンタッチャブルの忌み嫌うべき存在のように扱われてしまう要因になっているように感じてしまいます。
自死者も、他の人間も同じように当たり前の人生も送っており、自死をしない人と地続きでつながっている普通の人間だということが私の結論です。「当たり前のことを言うな」とおしかりになられるかもしれませんが、こういうことは何度でも言葉にして言うべきだと思っています。自死者という特別のカテゴリーの人間がいるわけではない。自死遺族という特別のカテゴリーがあるわけではない。類型的な自死の原因とか遺族の考え方の傾向があるわけではないと思います。私たちすべてに自死のリスクがあり、いつ高まるかわからないということが真実であり、私たちすべてに自死予防の知識が必要だと思っています。自死する人や、自死者の家族が、何か特別の人たちという意識で観られること、主張されることは、私たちやその大切な人たちの自死予防を妨げることだと私は強く心配しています。



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私が「寄り添う」という言葉が嫌いな理由 そこに相手への尊敬が感じられないから 支援者(第三者の)の寄り添いが本人をダメにするパターン。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]


寄り添いという言葉が大はやりですね。誰かから「それは寄り添っていない。」なんて言われると、反論することができなくなってしまいます。ある意味、呪文のようなものだと感じることが多くなってきました。思考停止の呪文です。

寄り添いという言葉は、
「傷ついた感情を肯定し、理解した上で受容し、いたわる」
という意味合いで使われているようです。抽象的には、それは大切なことなのでしょう。しかし、実際には、具体的にはどうでしょうか。

傷ついた人、葛藤が強い人は、面倒くさいから、
言われたことを
『理解できます。』
『もっともですね。』
『当然のお気持ちです。』
『あなたは悪くありません。』
と答えて、刺激しないようにすることだとでも考えているような発言に感じられる場合が時々あるのは、私がひねくれているからでしょうか。

家族とか友人とか、仲間ならそれでもよいのだと思います。その人が仲間ならば、一番ありがたいことは、一緒にいてほしい時に一緒にいてくれて、1人にしてほしい時に1人にしてくれるということだと思うんです。そういう仲間というのは、自分の寄り添いの結果で本人に何か悪いことが起きても、一緒に何とかするという覚悟がある人間だと思うんです。

ところが、弁護士とか行政とかといった第三者の支援者、つまり、その人とスポット的にしか関わらない人が、その人の感情を無条件に肯定して、やるべきことをしないということになると、その人に回復しがたい損害を与えたり、窮地に追いやることが生じてしまいます。その人はスポット的な関りですから、本人に損害や窮地が生じても、責任をとることがありません。
支援者として第三者がかかわるならば、本人が多少傷つく結果になっても、感情を害することになっても、言うべきことを言わなければなりません。それができないならばかかわりをやめるべきです。
もちろん言い方という問題はあるわけです。

仮に第三者としてかかわらなければならない支援者が、「あなたは悪くありません。」を連発したらどうなるでしょう。「自分は悪くない。悪いのはあの人だ。あの人を罰するべきだ。死んでほしい。」と、いささか極端ですが、こういう方向に流れていくとは想像できないでしょうか。自分の行動を修正する契機を失い、その結果、自分のいたコミュニティーに復帰できなくなってしまいかねません。
孤立が待ち構えているかもしれません。また、本人に何らかの要因がある場合には同じ過ちが繰り返される可能性もあるわけです。

例えば、単純な話では、期限が区切られている行動についても、今それどころではないと寄り添っていつまでも放置していて、本当は本人が得られるはずの利益が得られなくなるということもありうるわけです。これはわかりやすいのでめったに間違いは起こさないでしょう。

しかし、少し複雑な話になると、そういう単純な構造も見えなくなるようです。

私の職業柄のためなのか、よくあるのが、傷ついている人に、怒りの感情をたきつける形の支援です。我慢(自制)することが悪であるかのような行動提起をする支援の形があります。

何か衝撃的な出来事があって、生きる気力を失っているとき、そのまま生きる気力が失われたまま何もできなくなってしまうことがあります。そういう時に怒りという感情を持つことによって、感情がリセットされたように、途端に活動的になられるという場面は何度か見ていました。
怒りということも生きるためには必要な感情だと、私は思っています。

しかし、その人の中で怒りが固定化してしまったり、怒りの歯止めが利かなくなってしまうことがあるようです。そういう場合、もとからあった苦しみ、ダメージ、自分自身に対する不安感などは、むしろ残存してしまうようにも思われます。怒りが自分に向いてしまった場合は自死リスクも高まってしまいます。
怒りは自分も傷つけるようです。また、他者とは共有されない怒りを表出し続けてしまうと、他者は本人から離れていくことになります。第三者からは、それがはっきりわかるのですが、本人はなかなかそれに気が付きません。理不尽なことを受けて怒っていたら、仲間だと思っていた人たちが自分から去っていく。二重の理不尽を感じて、さらに怒りが大きくなり、さらに孤立が深まる。怒りのスパイラルとでもいうような状態になるようです。怒りは、対象を亡き者にしない限り収まりにくいという性質もあります。

自分が支援者だというならば、過剰な怒りの表出で孤立する当事者に対して、怒りの程度をアドバイスする必要があると私は思います。本人のためです。そのためには、本人の怒りの原因を本当に理解して、理解を示し、本人が理解されているなと感じられなければ反発されるだけかもしれません。

ところが、支援者は、「あなたが悪くない。怒りは当然だ。」と寄り添うわけです。
あたかも
「苦しんでいる人たち、傷ついているという人たちの心情は
必ず極端な怒り、制裁感情を覚えるものであって、肯定しなければならない」
という不文律があるようなグループを目にするときに強く感じます。

傷ついている人が傷ついているからこそ、冷静な判断ができず、単純な思考で行動を起こしたり、発言したりするわけです。第三者ならば、その言動の派生的効果を考えて、その人がさらに傷つく事態にならないために、「自分はそうは思わない。」とか、「そうではなく、こう考える考え方もあるはずだ。」ということを提起する必要があり、義務があると私は思います。

弁護士として実務的に言えば、駄々洩れのように寄り添っていたら裁判負けるんですよ。

そういう形で寄り添う人たちは、自分の果たすべき役割を意識しないで、なぜ「寄り添い」を優先するのでしょうか。

私は端的に言って、寄り添いが支援者の自己満足の場合があるのではないかと思っています。支援者にとって当事者は、利害関係のない他人なわけです。自分の「駄々洩れ寄り添い」によって、当事者が不利益を受ける可能性があるということに、あまり関心がないのだろうと思います。特に、自分とはかかわりのない場面での、当事者の生活において不利益が生じることはあまり想定していないのではないでしょうか。
例えば、当事者が支援者と別れて自宅に帰ったときにどういう風に近所から扱われるかとか、当面は良いけれど数年後、10年後に例えば今の子どもが成長する段階になったらどういう問題が起きるかとか、そういう自分とは関わらない相手の人生についての想定をしていないのではないかという心配があります。
そういう目に見えないところでの想定をしないから、今の目の前の寄り添いがすべてで、当事者が満足すれば、自分も満足できるわけです。

支援するつもりもないのに、支援をする者のように近づき、無責任に当事者の怒りをあおる典型はマスコミだと思います。

自己満足というと言葉が悪いとすれば、自分が苦しむことの回避でしょうね。当事者の感情を波立たせる話題や意見を避けることは、当事者の絶望を覗き見なくて済むことになります。第三者が本人の苦しみをどの程度理解できるようになるかについては、確かに難しいことがあるかもしれません。しかし、「あなたは悪くない。」と一言で片づけてしまえば、本当に楽な話なのです。これでは法律相談をしていてもストレスを感じることはあり得ないでしょうね。その人が、真摯に自分と仲間の人生の利益のために、本当はどうすればよかったのか、これからどうすればよいのか、そこに望みがあるかということを一緒に考えることをしないで済むという利点があるわけです。当事者の絶望に共鳴しないで済むという利点です。

逆に当事者に共鳴しすぎてしまって、後先考えるべき立場である支援者が怒りの当事者になってしまい、本人が不利益になるかどうかなんて考えないで感情のおもむくままに、例えば訴訟を継続するなんてことになるのは論外です。一部の支援者は、どうやら「共鳴する怒りは強ければ強いほど寄り添うことになるのだ。」とでも考えているような支援をする人たちもいます。これでは、明らかに自分の理屈上の怒りを、本人に押し付けて本人の怒りを先導ないし扇動していることになってしまいます。

本人は、怒りによって、悲しみや落ち込みが感じにくくなったという体験をしていますから、どうしても怒りの方向に同調しやすくなっています。時として、怒りや支援は、麻薬のように作用することがあるのは理由があることです。

何が本人のためになるのかという問題は難しい問題です。本人が決めることなのですが、本人の葛藤が強く、冷静に考えることができないからこそ支援が入るわけです。それでは、第三者の支援者は、どうすればよいのでしょうか。

第三者の支援者が行うことは、当事者に対して選択肢を提示するということだと思います。
裁判の場合で言いますと、当事者が判決とは関係のない立証活動をすることを希望している場合(自分のこだわりを裁判官に聞いてもらいたいという場合)、それによる想定される不利益をきちんと提示して、それでも望まない判決になっても良いという意思が真意として確認されれば、その活動を行うということはあり得ることです。しかし、「それをやることによって、あなたが合理的考えをして行動をしない人だと裁判官に印象付けてしまいますよ」と言わないで寄り添ってはダメだということなのです。

このパターンでよくあるのは、妻が子を連れて別居してしまったといういわゆる連れ去り事件で、「妻を怒らせてしまうと、子どもに会えなくなる。」ということをはっきり言わない弁護士でしょうね。本当のことを言っているのに、それで妻が怒ったら子どもに会えなくなることは理不尽です。しかし、「今の裁判手続きは、理不尽であり、自ら子どもに会えなくしていることになる」ということをはっきり伝える必要があるということです。
決定するのはあくまでも本人です。支援者は選択肢を与えるという役割と、自分ならこう思うというサンプルの提示をするしかないけれど、それをしないで済ませるということはできないはずです。
それをしないで、当事者の感情を駄々洩れのように肯定して追認して、その結果当事者が不利益を被ることは当事者の自己責任だというのでは、人を支援しているわけではないということになるように思われます。

当事者がいかに葛藤が高くても、一人の人格を持った人間ですから、自己決定をする権利があるわけです。しかし、知識が無かったり感情的に高ぶっていたりすると、他の選択肢が思い浮かばないし、どれを選択するかの意思決定が十分な思考をもって行えないという状態なわけです。
きちんと当事者の感情に沿わない選択肢であっても選択肢を提起して、どれを選択するとどのような効果になるかということについて説明を行うということをまずやるべきだということなんです。

そのためには、第三者の支援者の人間観として、
「感情が高ぶった相手も、十分話せばわかってくれるはずだ、十分理解して、後悔しない選択をしてくれるはずだ」
という相手に対する信頼を持たなければならないと思うのです。相手は感情に反することも冷静に考えて結論を出したという尊敬の念を持つのが当たり前だと思うのです。

駄々洩れの寄り添いには、信頼も尊敬も感じられません。どうせ言っても分からないだろうとか、感情が高ぶっている以上は仕方がないというと勝手に考えて支援者が本人抜きに自己完結しているような気がして、とても心配なのです。

私たちは、「イライラ多めの相談者・依頼者とのコミュニケーション術」(遠見書房)という本を今年出版しました。
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この本は、葛藤の高い人に「寄り添う」ための本ではありません。葛藤の高い人も、あるいは病気の人も、自分達と同じ地平にいる同じ人間なのだ、しかし、理由があって特定の行動や思考パターンになっているに過ぎないという考えを基盤として、相手に対する誤解をさけ、支援者側の障壁をなくし、肩を並べて共同作業をするための本です。法律現場でも、大先輩から直々にご感想のお便りをいただきました。しかし、学校現場でも多く読まれているようです。面倒くさい人をどう処理するかということでなく、一緒に歩んでいくことこそが、一番のコミュニケーション術だとご理解されて広まっているのだと勝手に考えているところです。

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