国の自殺対策予算が政治利用されるのではないかという懸念 自治体の弁護士委員の果たすべき役割について [自死(自殺)・不明死、葛藤]
1 現在の自殺対策
現在の日本の自殺対策として、
①各都道府県、市町村ごとに地域の特性に根差した自殺対策計画を策定し、
②成果の有無を評価して
③さらに効果的な自殺対策の計画を立てる
という政策がすすめられています。つまり、地域ごとにPDCAサイクルで自殺対策を進めていくということです。
ただ、それだと地域によって対策の質・量にばらつきが出るのではないかという懸念があって、自殺総合予防推進センターという民間団体に委託して、各地域のプロファイルを行い、計画や評価をチェックして対策の底上げを図るという構造になっています。
2 方法論自体に懸念されていたこと
この政策転換については、メリットを評価しつつも、懸念材料が指摘されていました。自殺は地域的特性によって起きるというより、日本共通の問題があるので国が中心に政策を進めなければ効果が期待できないのではないか、権限の狭く脆弱な自治体がメインになることは自殺対策が後退するのではないか。というものの外に特に以下のものがあげられました。
1)センターで管理をすることは底上げにはつながるかもしれないが、各地域特性を地域外の人たちで評価することは困難であり、結局地域の特性を生かす方向とは逆行するのではないか。自殺予防を目的とした統計ではないという意味で自殺予防政策の観点からの実態把握には極めて不十分な統計資料しかないのではないか。
2)地域計画の実行に対する評価を数字的に上げることは困難であり、各地域の現場の肌感などが現れないために、センターで評価することは質的にも難しく、かつ、量が多すぎてすべての自治体の丁寧な評価が可能とは思われない。
3)その結果見直しと言っても当初の理念から離れた者になるのではないか。つまりPDCAサイクルが機能しないのではないか。
4)センターが全てを指導するという立て付けは、結局各地方が独自に自分の頭で考えて、必要な政策を実施して、自ら評価するという思考や力量を奪ってしまわないかという懸念もありました。
3 実際の地域計画見直しから見えてくる懸念
現在、各地方自治体は、一斉に地域の自殺対策計画の見直しを行っています。地方色を出している自治体もあるにはあるのですが、「きちんとした自治体」ほど、抽象的な計画に終始しているような「印象」を受けます。
先ず、地域の実情からの根拠のない施策が入ってきています。即ち、自殺対策の重点施策として女性の自殺対策を追加しているのです。当然、女性特有の自殺対策は必要なのですが、令和4年以降は女性については減少に転じているので、時期を逃した政策になってしまっているという印象が否めません。まず全国で、なぜか女性の自殺対策に重点を置きましょうということが決められ、少し時間がたって地方に降りてきて、これに追随せざるを得ない状況が作られたという印象です。
次に、それでも特徴的なことは20歳代等の若年女性の自殺者数、自殺率が増大していることは確かです。だから、女性一般の自殺対策が重点ではなく、若年女性の自殺対策を重点化するならばわかるのです。
これは背景的に政治的な思惑がある、若年被害女性対策の東京都などの施策と共通性があるのですが、それは後述します。
その他には、東日本大震災の被災者対策ということが挙げられています。そしてその対策の内容が「復興を推進する」というものです。この表現は地元感がまるでありません。いかにも、東北は大震災があって対策が必要でしょう、対策には復興でしょうという、東京でテレビを観ながら震災を「知った」人たちの発想のように感じてなりません。大体、東日本大震災前がそんなに豊かで幸せな状態だったとも思われません。「復興」という一義的でもなければ具体性もないことで自殺対策と言われても何をしていいかわかりませんし、復興事業がすなわち自殺対策ではないので、「そうだそうだ」という気持ちにはなりません。
問題はミスリードです。しないよりましな政策なら予算がかかったってするべきなのだと思うのですが、しない方がましな政策はしてはならないからです。
私は真正面から自殺対策が行われているのではなく、何かの思惑が自殺対策の中に混入してきているような強い懸念を持ちました。その典型的な話が女性の自殺対策です。
4 ここでも女性支援対策
女性対策を重点化するとしたのは、全国レベルの話です。言葉の意味も具体化せず、そのデメリットも考慮しない勢力は、ジェンダーという言葉が出れば思考停止しをして賛成する人が多くなってしまっているからだと思います。
女性対策を重点化する統計上の根拠は極めて薄弱です。どうして自殺者や自殺率の高い男性対策をしてこなかったのに、女性対策が突如現れたのか、強烈な違和感があります。
根拠は以下のように示されることが多いようです。
1)産後うつの調査統計
出産後うつ病になりやすいことは21世紀になって科学的に証明されるようになりました。痛ましい自殺の報道や申請時に対する虐待の事件報道もなされています。保健所の訪問活動で、うつ病を示すエジンバラスケールが高値を示しているということが理由として挙げられていました。産後うつ対策はとても重要です。産後うつの核心はバルセロナ大学と富山大学がそれぞれ発表した結果から、夫に対して共感、共鳴ができなくなるというところにあります。私も離婚調停を担当していて、いわゆる子どもの連れ去り事案の多くが産後うつにり患していた事情が示されています。
あくまでもそれは産後うつ対策です。女性一般の対策を重点化することとは別です。
2)婦人相談所の相談内容
次に女性一般の対策の重点化の根拠として挙げられるのは、婦人相談の相談内容が、夫の暴力についてが一番多く、次に離婚の相談が多いということから、女性一般の対策の重点化の根拠としたいようです。但し、つじつまが合わないと気が付いている自治体は根拠として明示はしていません。
これも噴飯ものです。婦人相談所というのは、結局DV相談所です。女性の人権相談という抽象的な表題であっても、「こういう場合に相談に来てください」という例示はほとんどがDVについてです。あとは職場のセクハラですか。
つまり、夫のDVや離婚について相談しろと銘打って相談会を開けば、夫のDVや離婚についての相談が多いのは当たり前です。
また、思い込みDVの中で説明していますが、女性が不安や焦燥感を抱くのは、夫に限らず、産後うつ、婦人科疾患、内科疾患、パニック障害、子どもに障害があること(現在多いのは発達障害)、住宅ローン等様々です。しかし、その原因が自分では自覚できませんので、夫に対する不満という形で不安や焦燥感を表現することが多いのです。また、DV相談所と銘打って相談を受け付けているのですから、些細なことを取り出して夫のDVだという場合も本当に多いです。
月に3万円しかお金を渡されないのは経済的DVだと言われたというのですが、夫の賃金が手取りで20万円を切っていて、夫の口座から公共料金が全て引き落とされて、食費や生活費も夫が負担しているという場合に、子どもが小学校にあがったというのに、妻が専業主婦なのです。3万円は妻の小遣いで、夫の収入を考えると、頑張って渡していると評価するほかないのですが、DV相談所に言わせると経済的DVなのだそうです。一例ですが。
私はこのブログでもたびたび考察しているように、夫が全く悪くないということをいうつもりはありません。しかし、どうやって家庭を幸せな時間にあふれるように作り上げるかという情報が欠如していることも事実です。また、夫婦問題を相談すると行政でも弁護士でもカウンセリングでも離婚しか勧められず、円満な夫婦の作り方を情報提供する機関が全くないということも極めて奇妙なことだと思います。
結局行政もNPOも解決策として離婚です。しかし、離婚をしても夫の収入が上がるわけでもありませんから養育費を受取っていても、生活が婚姻時より楽になることは無く、苦しくなるばかりです。人権相談で、「婦人相談所の言う通り離婚したけれど幸せにはならない。と言ったら、相談所の人は、離婚はあなたが決めたことですよ。」というばかりだったという相談を多くの人権擁護員は電話で聞いています。
妻はその程度でよいでしょうが、罪のない子どもが突然今いる環境からも父親からも、学校からも引き離されて、自分の父親を悪人だと吹き込まれて、自己肯定感が低くなったら人生取り返しのつかないことになると私は思います。
こんなことで女性の自殺予防として、離婚を助長するような政策が行われてしまったら、みんな不幸になってしまいます。特に子どもを連れ去られた男性の自殺率が高いことは、本件にかかわる弁護士の共通認識です。自殺対策として自殺を増やすということが一番避けなければならないことだと私は思います。
自殺を予防し、多くの人が不幸にならず幸せを感じる政策とは、家族が幸せになる方法の啓発であると思います。このような視点の政策は自殺対策の中に出てきません。
3)コロナパンデミックと女性の自殺の増加
確かに令和2年と3年は女性の自殺者数が増加しました。しかし、それがコロナと関係があるかどうか、研究者の間でも関連がよくわからないようです。関連があると主張するのが、離婚を推進しようとしている一部のジェンダー主張論者たちです。強引に在宅ワークで家に夫がいるせいで自殺者が増えたということを何の統計もなく主張していました。しかし、一方で在宅ワークで夫婦のきずなが深まった、会話が増えたという統計があるのですが、確証バイアスが働いてそのような資料は目に入らないのだと思います。なぜかこの論調で新聞も無責任に特集を組んだりしていました。
コロナ禍で女性の自殺者が増えたということは、令和2年3年においては、相関関係があります。しかし統計学の極めて初歩の概念として、「相関関係と因果関係は異なる。」というものがあります。入門書には必ず書かれていると思います。
パンデミックになれば、パンデミックの影響を受けた様々な事象によって女性の自殺が増えるとは必ずしも言えません。
実際に国の児童の自殺対策をする審議会でも、このような統計学というか科学的立場を無視して、コロナ禍で子どもの自殺が増えるだろう、それは父親が家庭に居座るからだというような報告書を作成しているのです。前にこのブログに書いた通りです。
【緊急】文部科学省の令和3年の自死対策 コロナも令和2年の統計結果も関係ないまとめではないのか。つまり実効性に疑問を払しょくできない。
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2021-11-04
この例を考えると、統計的根拠もなく他に深刻な統計上の問題があるにもかかわらず、女性一般の自殺対策を重点化するという政策と抱き合わせてコロナパンデミックによる自殺対策を方針とするという流れは、自殺問題とはあまり関係なく、政治的に女性の支援をNPO法人に高額の費用で丸投げするという政策に誘導しようとしているのではないかという懸念が生まれるのです。子の連れ去りが格段に多くなったのも平成25年のDV相談にNPOが参入してからだと考えると、結局は特定のNPOに費用を流そうとしているのではないかということを警戒しなければならないのだと思います。
いずれにせよ、地域自殺対策計画は、予算を伴った政策です。なんとなく相関関係があるから対策を立てなければならないということではだめなことは誰でもわかることだと思います。因果関係がわからないと具体的な対策は立てられません。曖昧なまま政策を作らなければならないと言って科学的根拠も経験的根拠もなく立案してしまい、逆に、これが家族破壊政策に使われてしまったら、自殺予防とは逆行した政策になってしまいます。
日弁連は、平成21年から弁護士が自殺対策に積極的に関与しようという方針を打ち出し始めました。その要諦は、当時の莫大な自殺対策費用が、一部の利益のために使われてしまわないか監視をするということにありました。適正な予算を組むために、弁護士も政策に参画することが主たる目的でした。かなり政治的な話が始まりだったのです。
今まさに、その危険が現実化しているのかもしれません。
現在は、多くの弁護士が自治体の審議会委員に選任されています。役割を果たす時だと思います。
そして各自治体の担当者は、「きちんとした」自治体ほど国の政策に当然のように疑問を持っており、反論をしたいところなのです。でも自殺予防センターを怒らせてしまえば国の予算配分にも支障が生じます。だからこそ、民間の委員、弁護士委員が疑問や意見を積極的に述べるべきです。
それほど自殺プロパーの知識が無くても疑問を持ち、意見を言うことができます。つまり、変化をするポイントで、「その変化は統計的な裏付けがあるのか」、「主語がでかすぎないか」、「その変化の理由で、なぜその資料を挙げるのか」、「その理由は科学的な根拠があるのか」というところを質問し、自分の業務上の経験に基づいて、自分の経験上はむしろこうだという個人的な意見を述べることをすることで足りると思います。
肝心なことは、自治体の職員は敵ではないということ。多大な労力をかけて準備をしているが、国の制度の仕組みで、良心や能力を発揮できないことだ、あなたの代わりに私が話すという姿勢なのでしょうね。
付録
この懸念政策に貢献しているのは、無罪判決を勝ち取った元厚生労働省官僚のようです。あちこちで講演をして信者を増やしているようです。その要諦は何かというと、「困難女性はカウンセリングとか役所の相談とは敷居が高い。だから、格式張らない民間人が相談を担当することが最適である。」ということのようです。東京都の若年被害者支援事業で、莫大な予算が一般社団法人やNPO法人につけられて、有効な管理をせずに、税金の使途が極めて曖昧になっているといういわゆるWBPC問題で、法人の代表として活躍されている人だけあると思いました。このシステムを自殺対策として全国に広めたいのではないかという懸念が私の具体的懸念です。
悪人・加害者が安らぎを感じる必要性とその方法 気休めこそ現代人の幸せの形 [自死(自殺)・不明死、葛藤]
1 人間の脳の仕様と現代社会
対人関係学では、人間の脳や人間の感情の仕様は、同じ仲間と一つだけの群れを作って一生生活し、その群れも数十人から150人程度の人数という小さな人間関係で生活を想定してできており、このようなデフォルトの環境ではよりよく機能すると説明しています。この状態が感情のゼロポイント、当たり前の状態であり、脳の仕様からすると不安や焦りを感じにくい生存に適した環境ということになります。
ところが現代社会は、生まれてから死ぬまでを考えると気が遠くなるようなたくさんの数の群れ(人間関係)に人間は所属します。家族、学校、職場、地域、その各人間関係の中でも複数の人間関係の単位に細分化されています。一つの群れでは善とされたことも他の群れでは否定的な評価をされることもよくあることです(友達からは歓迎されたことでも家族からは叱られるとか。家族の機嫌を取ろうとして職場から否定評価されるとか。)。また、それぞれの群れの構成メンバーだけでも膨大な人数になりますし、通勤、通学や店舗での物の購入などの活動を含めるとさらに膨大な人数になります。さらに、インターネットなどの人間関係を合わせると、数えることができないほどの人数のかかわりがあることになります。また、各群れは入れ替えが可能であり、自分の立場も定まっていません。自分の代わりに他人に自分の位置がとってかわられることもあるわけです。そしてその位置によって、自分に対する報酬(物心それぞれ)の有無、程度が変わるということも特徴です。押しなべて人間関係は薄く、何か落ち度や不十分なことがあると、容赦のない批判、叱責、冷たい態度を受けてしまうことがあります。
デフォルトの人間関係では、人間関係が濃いために、他人と自分の区別がつかないほどで、仲間が苦しんでいれば自分も苦しく感じるために、他人であっても仲間の弱点は補い、失敗を起こさないように事前に援助を行い、結果として失敗をしたとしても、その人の能力を十分理解しているために、責めたり叱責したりするということは無かったと思います。また本人も、仲間に迷惑をかけないように全力を尽くし、仲間の役に立つことに喜びを感じますから、仲間から否定評価をされることもしなかったと思います。
現代社会の人間関係は、人間の脳とミスマッチを起こしています。このミスマッチが原因で、人間は、放っておくと、自分の立場を失うとか、自分が孤立していくとかという不安を感じ、焦りを抱くようになっているようです。現代社会は人間に不安や焦りを抱かせる要素に満ち溢れているということになります。
2 不安や焦りが続くことによる人間の反応
不安や焦りを長期にわたって感じ続けることが、人間は耐えられないようにつくられているようです。元々不安や焦りが生じる合理性は、デフォルトの状態では、自分の行為に問題があり、仲間から否定評価されるのではないかという予想に対する反応であり、この感覚を自覚することによって、自分の行動を修正したり、自分の行動を停止したりするためのサイン、きっかけでした。ちょうどけがをすれば痛いと感じ、患部をかばって動きを停止したり、動きを修正したりすることと同じ原理だったわけです。
不安や焦りは、人間とっては軽く扱うことができません。軽く扱うことができれば、行動修正や停止のサインにならないからです。不安や焦りは、長く継続したり増大したりすることを予定しておらず、継続や増大に対して人間の脳は耐えることのできる構造にはそもそもなっていないのです。
このため、人間は無意識に、不安や焦りを解消しようとします。この解消を目指す方法は個性や体調、人間関係の状態によって千差万別ですが、大きく分ければ二種類の方向があります。
一つは怒りによる攻撃をすることによる解消です。
誰かを攻撃して、つまり誰かを怒りの対象とすることによって、自分の不安や焦りを感じにくくするという方向です。しかし、根本的な不安や焦りは解消されません。短期的な効果しかないため、怒りの行動を反復してしまう傾向にあります。また、攻撃も増強していく傾向になってしまいます。自分の攻撃も批判の対象となり、さらに不安や焦りが増強していくことも少なくありません。
もう一つは逃避です。
他者との関わりを絶つ方向での不安の解消ですが、やはり根本的な解決にはなりません。いよいよ解消方法が無いとなれば、自責の念を抱くようになります。明白に他者からの攻撃によって苦しんでいても、「自分が悪いから自分が苦しんでいるのだ」と思うようになるわけです。それでも自分がうまくやれば解決できたはずだという吐かない望みがあるだけ絶望を回避することができるというぎりぎりの防衛機制として知られています。
不合理な事態で苦しむときほど自責の念に逃げるしかなくなってしまいます。視界が狭い子どもたちも自責の念を抱きやすいのはこういう自分を守る仕組みなのです。
全く関係のない第三者の視点でものを見ると、この二つの方向性が妙にかみ合ってしまっていることが良くあります。
つまり、攻撃タイプの人が、逃避タイプの人の些細な失敗や不十分点に対して過酷な否定評価を行い、逃避タイプの人が不合理に自責の念の苦しみを増大させているという場面を多く見るのです。
攻撃される要因が本来ないと思われる場合においても、いわゆる難癖や八つ当たりのたぐいが見られ、それにもかかわらず、容赦のない攻撃が加えられるという場面です。人間関係が薄いため、自分の行動によって他者が苦しんでも、それほど重大なこととは考えないのかもしれません。
攻撃や怒りの根拠がある場合とない場合もあるし、ある場合でもあってもその攻撃の程度が原因に見合わない過剰な場合が多いような感覚を受けてしまいます。
難癖や八つ当たりは、第三者による被害者の擁護を名目として行われることも多いです。擁護を名目に被害者名義で過剰な怒りを振りまいている場合があります。その過剰な怒りによって立場を無くするのは第三者ではなく擁護を受ける人になってしまいます。この場合、攻撃対象者の落ち度や失敗を針小棒大に過剰に描き、擁護対象者の落ち度については過小評価したり隠ぺいしたりします。物事をデフォルメして、攻撃しやすいように持っていくことは報道などでもよくみられる図式です。
3 加害者が安らぐ必要性
だから、自分が悪いから自分が苦しんでいるということは、単なる錯覚や思い込みである可能性も高いのです。何かの過ちや失敗があったとしても、一人に原因があるわけではないということも多くあります。
さらには、失敗したのが本人であったとしても、体調面に問題があったとか、偶然的な要素が多いなど、本当に本人に責任があると言えるかという場合もあるし、八つ当たりや難癖のたぐいである可能性もあるわけです。
しかし、既に自責の念の袋小路に入っている人たちの中で、他者を攻撃して自分の不安や焦りを解消しようとしない逃避タイプの人たちは、おそらく「あなたは悪くない」と言われても空々しく聞こえるだけだと思われます。そもそも典型的な逃避タイプの人たちは他者に相談するということはめったになく、自分だけで苦しむことが傾向としてあるようです。
もし本当に自分の行動が原因で他者に損害を与えているならば、本来自分の行動を修正することこそ自分にとっても他人にとっても必要なことです。「本当に必要なことは何をするべきことなのか」と考えること第一です。
しかし、不安や焦りに苦しんでしまっている人たちは、既に防御の念、不安、焦りを解消したいという要求が強すぎるために、自由に落ち着いて考えることができなくなっています。連日猛暑が続いている真夏の日中、アスファルトの上を歩いているような感じが脳の状態です。ただ、結果的に不安や焦りから逃れたいと思っているだけという状態に陥っていることが少なくありません。
ちなみに反省をするとは
・ 自分の行動によって誰にどういう迷惑、損害を与えたか。その程度。
・ その行動を止められなかった原因
・ 今後そのような行動をしないための幅広い対策、生活態度
を考えることですが、到底考える力が残っておらず、ただ自分が悪いと苦しむだけです。
自分を守ろうとする気持ちが強すぎるために思考が働かないわけです。ですから、自分を守ることを放棄する、自分を捨てるという行動ができれば思考が復活するはずです。しかし、その境地に立つことは通常はとても難しいことです。哲学というよりも宗教的な修養が必要なのかもしれません。
自分を捨てることをしないで、思考を復活される方法があればよいわけです。これがあれば、不合理に悩み続けることをしないで、本人も周囲も現状よりましな状態になることができます。
その人が怒りの対象となるべき人であっても、あるいは不合理に苦しんでいる人であったとしても、どちらにしても思考を復活させることで自分と自分の周囲の人間たちの状態を改善することができます。逆に言えば、自分がただ苦しんでいれば自分が苦しみ続けるだけでなく他者に対して迷惑や損害を与え続けてしまうことになります。
4 加害者が安らぐ方法
結論として、その人が加害者であろうと、極悪人であろうと、悩み続けること、苦しみ続けることは、周囲にとってもメリットは何もありません。デメリットだけが産み出されていきます。
自責の念が出ている人、誰かを攻撃しようとしない人、本当に救われるべき人が救われるためには、加害者が救われる方法を考えなければ届かないということでもあります。
答えは、悩み続けること、苦しみ続けることを「しばし」やめることです。しかし、人間の脳は、悩むことや苦しむことを自発的にコントロールすることは苦手なようです。特に、デフォルトの人間の脳と現代社会の人間関係のミスマッチによって、不安や焦りが生まれることは、一時的なものではなく、逃れられない構造的に用意されている苦しみを抱かせる要素が存在しています。
だから迂回をする必要があるわけです。
脳の構造的に起因して苦しむのならば、脳の構造を利用して苦しまないようにするという方法もあるわけです。その方法は、人間の脳や感覚は、「複数のことを同時に処理することが苦手だ」という特質を利用するのです。何も考えなければ、その人の自然体は苦しみ続けるようになってしまっています。考えないということはできませんので、「別のこと」を考えるということをするということが解決方法です。考えるというよりも、別のことに集中するということです。苦しみを忘れることに集中するのではなく、全く別のことを行うということです。
日本語には、「気晴らし」、「気休め」という言葉があります。気晴らしや気休めを行うことで、一瞬でも別のことに夢中になり、苦しみを中断することによって、思考の余地が出てくるわけです。
わたしたちは軽い意味合いで気晴らしや気休めという言葉を使っていますが、私たちの先祖は、深い意味合いで言葉を残した可能性もあるのではないでしょうか。
気晴らしや気休めは、意識的に取り組むことが必要です。自分で自分の精神状態を調えるという意識的な取り組みなのです。結果としては自分だけでなく周囲にもプラスになることなので、特に大人としては積極的に取り組むべきだと思われます。
具体的に何をするかというと、他人に迷惑をかけないで夢中になれることであればなんでも良いのではないかと思います。漫画を読むとか食べ歩きをするということでもよいと思います。但し、現代社会が苦しみを抱かせる要素に満ち溢れているならば、とことん時間をかけて取り組むことができることが後々のことを考えれば都合が良いかもしれません。
思いつくままにいえば、音楽などの芸術活動、運動、何かの研究があげられるでしょう。芸術というと大げさなのですが、楽器演奏はとても適した気晴らしになるように思われます。研究と言っても大げさな構えでやることではなく、漫画家の系譜とか、調理方法とか、飽きずに続けられることであればなんでも良いと思います。いろいろな場所の散策、テーマを持った散策もよいでしょう。
辛いときに、何か打ち込むことがあるということが救いだと思います。
他人に迷惑をかける等やってはいけない気晴らしは、ギャンブル、酒、薬物、もちろん犯罪や自傷行為もそうです。なぜこれらをやっていけないかというと、単純な話、他人に迷惑をかける、自分をコントロールできなくなるので実際は気晴らしにならず、自己否定が増大し、不安や焦りが強くなるだけだからです。依存行動は、それをしているとき、自分の苦しみや不合理な思いが頭の中で反復されてよみがえるために、なかなか夢中になれないということもあります。この意味で、インターネットをする場合も、ゲームよりはユーチューブを見ていた方がましかもしれません。
思えば、現代社会は、ますます関わる人間が増えて行き、数が増えるほど関係が希薄になっていきます。すべての人に共感したり、すべての人を援助することは不可能です。対立している人双方の味方になることもとても難しいことです。希薄な関係の中でぞんざいな取り扱いをされ、攻撃をされれば、物理的に不安や焦りが生まれてしまうのが人間です。
不安や焦りが全くない状態を求めることは、理論的に間違いであり、望んでも仕方がないことだと割り切ることが有効かもしれません。望むだけ不幸になることなのかもしれません。
だから、悩みや苦しみを意識的に一時中断をすることこそが人間として求めるべきことなのかもしれないと思います。自分の気晴らしだけでなく、できれば自分の身近な家族を気晴らししてあげる行為ができれば、それが人間としての幸せの形の一つなのだと思います。
肝心なことは意識してそれを行うことということだと思います。
リストカットのメカニズム 痛みを感じる仕組みと痛みを抑える仕組み [自死(自殺)・不明死、葛藤]
最近中学校の管理職と話をする機会があり、リストカットは目立ちたいから、関心を自分に引き寄せたいから行うという見解を持っていることに驚きました。それはその人の個人的見解ではなく、教師を対象とした研修会で教わったことだというのでさらに驚きました。
実際に人目を引くためにリストカットをするケースがあるのかどうかわからないが、私が担当したケースは、その人なりに精神的に辛いことがあり、居ても立っても居られない焦燥感というか、不快感というか、負の感情が押し寄せるときに(ディスフォリア)、自分を落ち着かせるために行っているケースばかりです。
仮に人目を引くためにリストカットをしたからと言って、自分に関心を持たせるためにそのような手段に出ること自体が要保護事態だとしなくてはならないと思います。しかし、研修会の結論は、図に乗るから相手にしないということだったらしいです。結論だけ言えば、この研修は生徒の成長や保護を目的とした研修ではなく、生徒を管理する対象としての学校管理の研修だったのでしょう。
このように、自傷行為が死ぬことが目的ではなく、「耐えられない心の痛みを和らげることをめざすものであり、多くの生存者は自傷行為を、逆説的であるが、自己保存行為の一つの形と考えている」という見解は20世紀のころから取り上げられていました。上記引用個所は1982年にアメリカで出版されたジュディス・L ハーマンの「心的外傷と回復」の1999年発行の日本版から引用したものです。
どうして、身体を傷つけると耐えられない心の痛みを和らげることができるかということについて簡単な説明を試みます。ここでのみそは、身体の痛みによって、心の痛みを和らげるという別異のはずの痛みが連動しているというところにあります。
そもそも痛みというのは、身体の痛みが基本です。これは人間に限らず動物の仕組みだと思います。
身体の痛みとは、例えば皮膚が切れたり(裂傷)、筋肉などが挫滅(打撲や捻挫)して当然起きるものではありません。その傷んだ末梢神経が、損傷を起こしたことを電気信号で脳に向けて発信し、脳が痛みを感じるということはご存じだと思います。この過程の中の末梢神経から脊髄に到達した箇所で痛みの信号が増幅されるなどの工夫が行われます。痛みを感じた脳は、痛みを修復させるために血管を通して様々な物質と損傷個所に運びます。その物質がさらに痛みを感じやすくして、さらに修復物質を損傷個所に運び修復作業をしやすくします。
しかし、それほどうまくはできておらず、修復物質を必要十分な程度に加減して運ぶことができません。放っておけば、どんどん痛みを感じる物質が集中してきて、痛みに耐えられなくなるようです。
そのため、脳の中で、痛みを感じた場合、修復物質を運ぶ働きが始まると同時に、痛みを抑制する物質を産み出して、不必要な痛みを感じなくするという働きが起きるそうです。
痛みを感じさせる目的は、身体の部分が傷んだ場合、身体を休ませて損傷個所が治癒しやすいように行動決定を促すところにあるようです。痛みを感じないというなら、損傷個所に気が付かずにそこに負荷をかけ続け、治癒不能なまでに身体の部分を破壊してしまい、致命的な事態を起こしやすく、簡単に絶滅してしまうことでしょう。
痛みを抑制する物質としては、ドーパミンが放出され、μ―オピオイド系というエンケファリンやエンドルフィンなど(麻薬のようなもの)が活性されて痛みが抑制されます。また、ノルアドレナリン、セロトニンなどのモノアミンと呼ばれる物質が脊髄の入り口の痛みを増幅させるシステムを抑制するようです。
ここで面白いのはドーパミンは、何か良いことがあったときに活発になり、喜びを感じさせる物質だということです。快によって痛みという不快を抑制しようとしているわけです。
また、モノアミンは、脳内で欠乏している状態がうつ病と呼ばれる状態でして、モノアミンの回収を抑える薬がうつ病の治療薬として活用されているということは頭に入れておいてください。
このように、痛みを感じるシステムが働くときは、痛みを抑えようとするシステムも発動しているということが今回のキモです。
さて、身体の痛みが発生した時に、身体の痛みを抑えるというのであれば、素直に、「ああなるほど」となるのですが、リストカットの場合、心の痛みを和らげるために体の痛みを起こすということが興味深いことです。もちろん本人は、そのような理屈を知っているわけではなく、なんとなくディスフォリアの状態になったときにリストカットなどの自傷行為をしたらディスフォリアが収まったという経験から、ディスフォリアの状態になると意識的にリストカットをするようになるようです。
どうして、身体の痛みを緩和するシステムが心の痛みにも通用するのかということが一番興味を引いた部分です。
先ず心の痛みとは何かということです。
身体の痛みを感じる目的が体の損傷に気が付いて身体を休ませるところにあるというのであれば、心の痛みの目的も心に何らかの不具合が発生したので心を休ませるためにあるのだと思います。家庭を省略して結論だけを言うと、心の痛みは、身体の損傷だけでなく、対人関係的な不具合が発生していて不具合を修正する必要があるという警告なのだと思います。
極端な例は、いじめやパワハラで、その対人関係を形成している仲間から追放されそうになっているということです。人間は群れの中に自分を置こうとする本能があるので、群れから否定評価されたり、肯定評価をされなかったり、攻撃されるなどの事情があれば、本能的に群れから追放されるという不安が生まれてしまい、群れにとどまろうとしてしまうと考えるとよく話がつながると思います。
本来であれば、不安や心の痛みを感じたら、自分の行動を修正して元の調査が取れた群れの中に戻ればよいはずなのです。しかし、どうしても自分の力では自分の群れの中に戻ることが不可能だと感じた場合、強い心の痛みが発生し、ディスフォリアの状態になってしまうのでしょう。あたかも今まさにライオンが襲ってきて食べられてしまいそうになっているような場合の脳の状態と同じになっているのだと思います。
つまり、本来は対人関係的な痛み、不具合を感じる感じ方は、身体生命の痛み、損傷を感じる感じ方と別の方法で良いはずなのですが、自然というか人間の進化の到達というかは、対人関係的な痛みの感じさせ方として、身体生命の痛みの感じ方を「流用」しているということなのだと思います。
この言い回しは私のオリジナルではなくて、アントニオ・ダマシオの「デカルトの誤り」の二次の情動は一次の情動の表象を借りて発言するという言い回しを借用しています。
身体の痛みを抑制するシステムを発動させると、身体生命の損傷が無いのに、心の痛みである対人関係的な不安や焦燥感も同じように抑制することができるということになります。
リストカットをする人たちは、確実に心の痛みを抱えており、さらにその痛みを解消する合理的方法が無いと絶望しているという共通点があるのではないでしょうか。体の痛みが無いにもかかわらず、強制的に体の痛みを抑制するシステムを作動させるために、自分の体を物理的に傷つけているということになります。
家族や教育者という子どもに対しての保護的な立場の人間がリストカットを等閑視することはしてはならないことであると思います。まずは、どこにその人の絶望があるのか、時間を取ってよく話を聞く必要があると思います。そしてできるならば自分はあなたを決して見捨てないというメッセージを発していただきたいと考えています。
納得できる理由を示して明確に否定された方が良い場合がある。自殺と業務の関係が否定された2件 [自死(自殺)・不明死、葛藤]
若い弁護士に対して、弁護士が関わる自死案件についての話をする仕事をしている関係から、過去の事件をまとめる作業をしています。その中で改めて気が付いたことについて今回お話しします。
ずいぶん多くの自死について労災、公務災害の認定を実現してきました。平成23年に認定基準が改定されたということで、やることがはっきりしてきました。このため主張立証もそれ以前に比べるとシステマチックになったのかもしれません。自死についての労災認定を目指す場合は、最終的には認定基準に添って主張立証することを意識することが大原則であることは間違いありません。
ただ、何が自死の原因だったのかということについては、とても難しいことだと心得た上で事件にあたる必要があると私は考えています。安易に労災ではないと判断することは一番避けなければならないことですが、安易に労災だと断定してしまうことも避けなければなりません。「確証バイアス」によって、何が原因だったのかを調査する真摯な姿勢が崩れてしまっては、認定されるべきものも認定されなくなってしまう危険もあります。無責任に遺族に期待を持たせて、余計に苦しませることにもつながりかねません。安易な肯定は、「遺族に寄り添う」ということにはなりません。
先ずは、客観的に、どんなことがその人に起こったのかということを丹念に調べていく必要があります。
20年以上前に、2件の事件が認定されなかったということがありました。認定されない方はよく覚えているから不思議です。
労災認定は、最初は管轄する労働基準監督署の署長名でなされます。ここで認定されない場合は、その上の労働基準局の保険審査官に審査請求(不服申し立て)をします。それでも認められない時は、東京にある本部審査会に再審査請求を行い、それでもダメな時は行政裁判を提訴することになります。
認定されなかった2件のうち1件は、本部審査会に再審査請求まで行ったけれど認定されなかったという事件でした。ご遺族の男性は善良で、熱心な方でした。弁護士からすると、こちらのやる気に火をつけてくれるし、一緒によく考えていただける頼もしいと言っても良い方で、馬が合うというのでしょうか、事件後も何年かは相談を受けたりしていました。
そういうこともあって、大分肩入れをして再審査請求まで突っ走っていったという感じでした。もちろん、可能な限り関係者にお願いして生前の様子を調査しました。被災者が明確にストレスだと訴えていた事項がすべて業務に関する事項であり、自分でも、そういうことがあったらかなり消耗するだろうなということもあり、私も労災であると本気で考えて活動をしていました。また、遺族の職場で、何も事情が分からない人が自死の原因が私の依頼者のせいだという無責任な陰口をたたいていたということがあり、何とかその無念を晴らしてあげたいという思いも強く持っていました。
第1段階、第2段階の否定理由が、こちらが自信をもって強いストレスを感じたはずだということを、根拠なくそれはストレスにはならないと断定されたような印象の理由付けだったので納得できませんでした。会社の説明をうのみにしたような印象も受けました。ところが、再審査請求の否定判断の理由をには、そのストレスが大したことが無いというよりも、いくつかの事実を指摘して、業務のストレスとは別にうつ病を発症していたということが述べられていました。
これからどうするかということを依頼者と打ち合わせをした時、彼は意外と思えるほどさばさばした様子を見せていました。その理由に一応の納得ができたから裁判まではしないと気持ちを述べられました。その上で二人で我々の調査結果と審査会の理由を突き合わせて検討したところ、なるほどそう考えた方がうまく説明がつくことがいくつかあることに私も思いつきました。
そうはいっても、全部が納得できたわけではないとは思います。それでも、自死の原因がうつ病にあり、うつ病にあったことには会社や家族に理由はなく、またそばにいた家族に自死が止められなかったこともやむを得ない事情があったということの説明を受けたということはお互いに実感があったと思います。
うつ病にり患していたことによって、日常的な軽微なストレスに強く反応してしまって、悲観的な感情が強くなっていったという説明を受け入れることにしました。ただ、この時その依頼者が先に納得していたことで、私の理解も進んだということがあったような気がします。そういう意味で私は彼を自然と尊敬していました。
もう一つの事例も、自死と業務の因果関係を否定されました。こちらの事案は、過去において長時間労働があった期間があり、その時にうつ病の萌芽みたいな精神変化があったとも考えられるということを記憶しています。前の事例は遺族の職場で遺族が自殺の原因だったかのような心無い噂話があった事案でしたが、こちらは義家族の間で、はっきりとは口に出さないまでも疑心暗鬼があったような事案でした。
手帳などの客観的資料に依拠して業務が原因だということを主張して労災申請をしました。労働基準監督官は、かなり誠実に調査をしてくれたようでした。代理人である私にも折に触れて相談をしていただいたような記憶があります。ただ、はっきり覚えていないのですが、これ以上の事実が見つからないと認定ができないというような示唆をされたような記憶があります。私は、結論が異なることはやむを得ない。ただ、理由付けについては丁寧な理由付けを示してほしいということを注文したと思います。結果は案の定労災だとは認められませんでした。理由付けは、当時の第1段階の手続きにしては例外的に丁寧な理由付けを小さい文字でびっしり記入されていました。
正直言って私はそれほど説得的だと思っていませんでしたが、遺族の琴線に触れたようです。ほっとしたような、やはりさばさばしたような様子で、労災ではないということに納得されました。遺族の視点で前の事件との共通点をみると、業務とは別にうつ病を発症していて、会社も原因にならないし、家族も原因にならないものだ、そして激しいうつ病の症状によって、自死に至ったため、家族にも止めることができない状態だったということが浮かび上がるような文面だったということに気が付きました。
こちらの遺族も不服申し立てを行ことをせずに、同居していた家を出て再出発をするという今後のことをお話しされていました。
二つの事件とも亡くなる前のうつの症状は壮絶なものがあり、亡くなり方はとても悲惨でした。何か原因があるはずだと考えたくなることはもっともなことだと感じます。ましてや、自分の近い人間から自死の原因が自分にあると無責任に感じていることが分かれば、「自分ではなく他の誰かの原因で亡くなったのだ」と考えたくなることはごく自然のことだと思います。自死に限らず、病死の場合だって、誰かに原因を求めてしまうのが人間だと私は思います。それが家族でなくとも、誰かに原因を求めてしまうほどの衝撃が自死にはあるようです。しかし、根拠もなく無責任に自死の原因を家族に求めてしまうことは人間としてやってはならないことだと強く感じます。これが一番遺族を苦しめることであることは、数々の事例を担当して思います。テレビその他のマスコミの自死の原因について無責任に議論をする風潮は何度も言っていますがやめるべきです。
ただ、きちんとした調査結果を踏まえてということが大前提となりますが、真摯に検討した結果自死の原因が誰のせいでもない病気のせいだというのであれば、そのことを真正面から説明する方が、遺族にとって救われる場合がある。亡くなった人の思い出を大切にしながら再出発するチャンスになるということがあることを二つの事件から学びました。
判断機関が理由を明示しないことは、疑心暗鬼につながります。悪い方へ考えが進んでしまいます。また判断機関からこのように思われたらどうしようという不安は常にあります。その二つの事件でもありました。しかし、不安に思っていた事前の心理状態と比べて、しっかりと明示されてみると、案外それが新たな苦しみではなく、立ち直るきっかけになることもあるのです。
根拠なく自死の原因とされたと広められた人間はいる場合は多いと思います。その人間には自死に対して責任が無いと判断できるならばそれをするのも判断機関のやるべきことなのかもしれません。
うつ状態のときに決断をしてはいけない理由 うつ、悲観、焦燥、不安からの解放要求 頑張れないよこれ以上という状態 [自死(自殺)・不明死、葛藤]
うつ状態のときに大事な決断をしてはいけないということはよく言われています。それは、正しい判断ができにくいからです。どうして正しい判断ができないのでしょうか。いくつか理由があります。
先ず、うつ状態というのは、何事も悲観的な見通ししかたたない状態です。何事もあきらめてしまいます。特に他人との関係が、おっくうになります。引きこもりを考えるとわかりやすいと思うのですが、他人との関係を切り捨てて、一人になろうとする方向での行動になりやすいのです。
次に、悲観的な見通し、思考を含めてエネルギーを使うことができなくなる、つまり頑張れなくなるわけですが、それに加えて焦りが強くなっているようです。今の状態が不安で不安でたまらなくなり、早くこの不安から解放されたいという気持ちになっているようです。だから、ますます、関係を断ち切る方向や自分はどうなっても良いから頑張らなくても良い方向を選択してしまいます。
また、焦りや悲観的な状態、脳の活動をする気力がないという状態は、思考力が低下しますので、正常の思考ができなくなり、何が大事か何がどうでもよいことか、誰を大切にするべきか、誰を頼ればよいか、すべてが間違ってしまう可能性も大きくなります。
そして、他人との関係に自信が持てなくなり、本当は自分はもっと能力などがあるにもかかわらず、「できない」、「頑張れるわけがない」という信念のような気持になり、その考えを修正できなくなります。
しかし、本人はまじめで責任感が強い人が多いため、そんな自分が許せない状態になったり、罪悪感に苦しんだりするわけです。そしてさらに、焦るわけです。それでも解決を思いつきませんから、関係を断ち切る方向の選択肢ばかりが強くなってしまいます。
どうしても、夫婦や友人との別離を選ぶし、退学や退職を選んでしまいます。これまで頑張ってきたことも、周囲がまさかと思うような諦めの決断をしてしまいます。関係を断ち切られた相手は、そのメカニズムはわかりませんから、関係は二度と回復しないということになる可能性が高くなります。
その最たるものが自殺です。
これ等は形式的には自分で決めて行動しているようにみえますが、他に方法が無いところまで追い詰められたということも言えるのではないでしょうか。
うつ状態の場合は、一言で言って先延ばしができるだけ先延ばしをするという方針が一番良いように思います。結論を迫られるということが最も危険なことだと思う次第です。
すぐに決めなければならないというのは、本人の都合ではなく、誰かの都合です。すぐに決めて失敗するより、決めないでぐずぐずしている方がトータルで見て正解ということが多いように思われます。
中高生の生徒さん方に自殺予防のお話をする機会で、何を伝えるべきか 自殺、うつについての誤解 [自死(自殺)・不明死、葛藤]
生徒さんに自死予防のお話をする場合、どのようなお話をすればよいかということで、例によって、記事を書きながら考えていこうと思います。
まず、自死予防とは何を予防するのかということをはっきりさせなければならないと思います。
最終的に死ぬことを予防するということは間違いありません。しかし、死にそうになってから「さあ、予防しましょう。」というのでは遅すぎます。予防が成功する確率も下がってしまいます。また、予防のためには、例えば精神科への入院など、「死なないことを最優先する」ということになってしまいます。
このため、もっと早い段階で、死にそうにならないようにするということが最初に考えられるべき自死予防であり、最も効果が高い自死予防になるはずです。しかし、不幸にして死にそうになってしまったならば、まずそのことに気が付いてできるだけ早い段階で対応をする必要がある、こういう順番だと思います。
死にそうになる段階というのは、自死リスクが高まっている段階です。
「自死リスクが高い状態」を、ここでは通常の心理状態であれば自死に向けた行為のきっかけにならないような些細な刺激で自死が欠航される危険のある状態としておきます。
自死が行われる場合、自死リスクが高い状態になってから自死を決行するのか、そのような状態を通らないで一つの衝撃的な出来事だけで自死をしてしまうのかというと、圧倒的に多いのは自死リスクが高い状態が存在してからだと思います。死の危険性が高まっても、直ちに自死することはなく、自死リスクの高い状態が、相当時間継続します。
この時間は千差万別です。数か月以上あるいはそれ以上自死リスクが高い状態が続いたうえで適切な働きかけができないでおいて亡くなってしまう場合もありますし、衝撃が大きすぎて数日単位で亡くなってしまったケースもありました。
ところで自死リスクが高まっているときの心理状態はどういうものでしょうか。
自死を途中で思いとどまった人の話を聞くと以下の特徴があります。
・ 死ぬことが怖くなくなっている。むしろほのかに明るいイメージを持つ。
・ これ以上生きていることが負担で耐えられない。
・ 何をやってもうまくいかないと思い込んでいる(第三者から見るとそうではない)。
・ 現在の苦しみは解決しないと思う(第三者から見るとそうではない)。
・ 自分は孤立している(第三者から見ると違う場合が多い)。
・ 比較的多いケースとして「自分は死ななければならない」と思い込んでいる。
悲観的傾向、二者択一的傾向、刹那的傾向、将来を見通すことができない、客観的な状態把握が難しい、つまり
「思考力が低下して理性的なものの見方考え方ができなくなっている状態」
というようにまとめることができるかもしれません。
このような心理状態になり、例えば誰かにからかわれるという出来事(普段なら笑って切り返していた出来事)だけで、「自分は死ぬまで孤立して過ごし回復することは無いのだ」という絶望を感じてしまい自死を決行してしまうということが起きてしまうわけです。
それでは、何が原因で自死リスクが高い状態となるのでしょう。これまでの調査で浮かんできた事情を列挙してみます。
・ 継続した人間関係のトラブル(パワハラやいじめも含む)
・ 元々あった精神疾患、あるいは人間関係のトラブルが原因の精神疾患
・ 様々な事情で起きる、物の見方考え方の極端な歪み
・ 薬の副作用
・ 脳の傷害
・ 睡眠不足
・ 精神疾患以外の病気
・ 慢性的な緊張感の持続(過重労働、無理な受験勉強)
・ 社会的評価が失墜するような出来事(犯罪を行い逮捕されるとか)
順番は今思いついた順番であり、特に意味はありません。書いていて気が付いていたのですが、複合的なことが多く、それぞれが原因と結果の関係が入れ替わったりします。例えば長時間労働があれば、睡眠不足になり、うつ状態になっていって自死リスクが高まることもあります。原因不明のうつ病によって睡眠不足が症状として出現し、自死リスクが高まることもあるという具合です。
どうやら、人間は、
「自分が構成員となる人間関係において、仲間として尊重されていたい」
という希望を本能的に持っているようです。そして、自分が要求する仲間として扱いを受けないと孤立感を抱いてしまい、それがその人の能力に応じて一定以上継続してしまうと、精神的に破綻していくということが起こるようです。精神疾患や薬の副作用、あるいは睡眠障害によって、特に理由もなくこの
「回復不可能な孤立感」
を感じることもあるようです。
そして、複数の人間関係のうち、一つだけで不具合が発生しても、
全部の人間関係で孤立しているようなダメージを受けてしまうようです。
だから、どんなに家族が仲が良くても、例えば会社でひどい仕打ち、仲間として扱われない状態が続いてしまうと自死リスクが高まったり、友人関係が豊富でも社会的信用を無くしてしまうと自死リスクが高まるということが実際に起きています。
その人間関係がだめでも、家族はいつもの通り接しているのに、すべてうまくいかないというダメージを受けるようです。
ここは自死についての誤解がよくあるところです。自死が起きた以上、家族関係がうまくいっていなかったのではないかということを無責任に言う人がいますけれど、それは全く失礼な話です。遺族が苦しむだけのことなのです。
また、上に紹介した通り、精神疾患だけで自死リスクが高まるということが実際にあります。特に理由もなく、自分は警察に逮捕されて刑務所に入れられてしまうと考えてしまう人もいました。うつ病性妄想といううつ病の症状です。うつ病という精神疾患は、ただ苦しいだけではなく、人間関係に回復しがたいトラブルがあるという妄想を抱くことがあるようです。
精神疾患は隠れている場合もあります。強烈なストレスは、結構多くの場所に待ち構えているものです。そう考えると、あの人は強い人だから大丈夫だとか、この人は明るい人だから大丈夫と言うような、大丈夫と言うことはありません。誰にでも自死リスクが高まる可能性があると考える必要があると思います。
ここでも自死の誤解を指摘します。自死する人は心が弱い人、すぐに逃げ出す人ということがネットなどでは言われるのですが、自死する人は
責任感が強すぎる人
心が強すぎる人
能力があって、たいていのことはやり抜いてしまう人
という人たちが典型です。私のような無責任で、心が弱い人は、辛ければ逃げることができます。しかし、過労死する人は、自分の属する部署に会社のノルマが与えられた場合それはやり抜かなくてはならないと考えてしまいます。そして、同僚がそれに対して熱心に追求しない場合は、同僚の分まで自分でやろうとしてしまいます。そして、能力があるのでやり抜いてしまうことが何度かあるため、またやろうとしてしまうわけです。能力の範囲を超えたことをやろうとするため、強烈なストレスが慢性的にかかり、自死リスクが高まっていくという事例を多く見ています。
さて、では、私たちができる自死予防というものは何があるでしょうか。友達、家族、そして自分に分けて考えてみましょう。
友達
友達については、まず自分が友達の自死リスクを作らないということです。仲間として尊重しないということをしないということになると思います。簡単に言うと仲間として尊重するということですが、これはまじめに考えすぎるとキリがないことです。あなたにも家族がいるでしょうし、別の友達関係もあるので、特定の人間だけに全力を挙げて対応するということは不可能です。
ただ、攻撃しないということはできることですし、知らないうちに攻撃をしているということがあります。ご自分はそのつもりが無いのに、相手は傷ついているという場合ですね。キリがないと考える一つの理由もここにあります。
例えばクラスの中の友達の場合、つまりそれ以上の友達ではない場合、クラスのほかの人間と同じように接するということが大切だと思います。一人だけ情報が入らないとか、一人だけ嫌なことをさせられるとか、一人だけ呼び捨てにされるとか、考えようによっては嫌なニックネームで呼ぶとか、そういうことをしないということはできると思います。
また、その人がいかにも突っ込みどころと思われるような天然ボケをしたとしても、言葉がきつくならないようにということは気を付けるべきです。もしかしてもう自死リスクが高まっていて、些細なあなたの発言で自死をするということがありうるので、相手に対して失礼のない言葉遣いをするということは大切です。特に異性に対しては神経を使うべきだと思います。
ここでも一つチップスを紹介します。うつ病と言うと、もしかするとどんよりと落ち込んでいることが見た目で分かり、生気の無い様子も見ただけで分かるものだと誤解している方がいらっしゃるかもしれません。しかし、実際は、うつ病で多い初期から中等症の人たちは、自分がうつであることを隠そうとしています。ニコニコ笑っていたり、はしゃいで見せたりするということも実際は自分がうつであることを知られたくないからしている可能性があります。そして、そのごまかしはうつ病の人にとってはとてもエネルギーを必要とすることなので、かえって消耗してしまうようです。
案外気が付かないうちに、私たちは仲間にダメ出しをしようとしているということがあるかもしれません。相手の欠点、不十分点ばかりが目に付いてしまい、そしてそれを指摘してしまうということがあるようです。これを治すのは今のうちです。案外離婚で一番多い理由はこれなんです。今から訓練することは必ず将来に役に立ちます。また、そのような行動傾向があるのは、あなた方のせいではなく、社会的な問題だと思います。社会的な問題だと言っても不幸になってしまうのは自分たち一人一人ですから、自分の行動を点検してみることはお勧めします。
次に、誰かが誰かを攻撃して、孤立させた場合は、フォローをするということができることだと思います。
これは何も、攻撃した相手の首根っこを押さえて謝れと促すことだけではありません。
「今のはひどいね。」、「誰もそんなこと考えていないから、気にしないでね。」
と一言掛けるだけでも、かなり救われます。この一言が無かったので過労死になってしまったと思われる例がとても多いのです。
クラスで孤立して自死リスクが高まるパターンは、クラスの人間が孤立させないという声をかけることが一番効果があることだと私は思います。
どういう場合に声がけをするべきでしょうか。
もちろん暴力を振るわれたときが筆頭でしょうね。これは痛いから傷つくのではなく、自分が暴力を振るわれても仕方がない立場の人間だと思われているというところに深く傷つくわけです。
その他、否定評価がなされたとき、立場がなくなるようなとき、顔をつぶされたと思うときなどです。その人に何らかの原因があっても、自分は仲間として尊重しているということを伝えるということが大切だということです。誰もフォローをしないならば、自分がその場の人間全体から同じように思われていると感じてしまうということです。
なお、一人だけで何とかしようとするより、クラス全体で話し合って行動を考えるとか、場合によっては先生に告げ口をするということも含めて、可能な行動をとるようにした方が良いと思います。
家族
例えば兄弟がいじめられているとか、パワハラを受けているような場合、つまり自分の大切な人間が、自分と接点の少ない人間関係で傷ついている場合にどう接したらよいのかという問題があると思います。
これは大人の人たちに言うべき話だと思うので、皆さんにお話しするべきではないかもしれませんが、考え方だけ説明しておくことは何かの意味があると思います。
簡単に言うと、どこかの人間関係(学校、職場等)で、人間関係に不具合があっても、家ではどんなことがあっても家族として尊重するというメッセージを発することです。あなたは孤立していないというメッセージです。但し、はれ物に触るような扱いはかえって負担がかかります。本人が苦しみを見せているときは、そのようなメッセージをそのまま発してもよいです。しかし、本人がうつを隠そう、悩みを隠そうとしているときは、いつもと同じように接することが一番良いようです。
自分
自分の精神状態を客観的に知ることはなかなか難しいことです。少し弱ってきたら少し調整しようということは無理なことです。自分の環境を作っていくという発想が良いと思います。つまり、それでどうなるかはわかりませんが、仲間を仲間として尊重するということをむしろしていくということです。
つまり、仲間の欠点、失敗、不十分点を、笑わない、批判しない、責めないで、むしろ自分が助ける、補充するということをしていくということです。そして仲間が自分に何かをしてくれた時は感謝する。自分が何かを失敗した時は謝罪するということです。
そんなことでいいのかと拍子抜けをした方もいらっしゃると思いますが、実はそんなことができないのが人間社会のようです。どうしても仲間の失敗で、自分が不利益になることがあると、仲間を責めたくなるし、批判をしたくなるということがあります。必ずしも仲間を解消したいわけではありませんが、つい言ってしまうということが結構あるようです。
基本は自分を大切にするということでよいと思います。ただ、自分を大切にするということは、突き詰めて考えれば、自分が所属する仲間の中で自分が仲間として尊重されることなのではないかと考えています。人間はそういう時に幸せを感じていると思います。もっと大事にするべきは、自分が衣食住を共にする人間という意味での家族だと私は思います。
最後に、少し、青年期の自死にまつわることで、気になることを説明したいと思います。
第1に、インターネット、SNSの問題です。インターネットは、対面式のコミュニケーションではないので、相手に対しての思いやりが省略されてしまうことがあります。気が付かないで相手を孤立させることがあるようです。典型的なSNSは、簡単に一人を、そのグループで孤立させることができますし、そのことによって相手が苦しんでいることを想像することができなくなり、執拗な攻撃をしていることがあります。特に正義感から、相手を攻撃してしまうと、相手をフォローするものが出にくくなるということもあります。表現も過激になっていきますし、面と向かってならば言わないだろうことも言ってしまうということがあるようです。また、言葉から誤解をする場合もでてきます。わたしは、SNSは事務連絡にとどめた方が良いと思います。早く寝て、早く起きて、フレッシュな脳で体面で会話をする方が無難だということですね。
第2は、10代のうちは、気分感情がくるくる変わるということです。とても落ち込む出来事があっても、部活を熱心に取り組んでいるとか、仲間内でふざけていたとしても、落ち込んでいることは変わらないということが多いようです。落ち込む出来事があれば、明るい様子を見せていてもフォローをする必要がありそうです。
第3は、10代の自死リスクがかなり高度に高まった場合に見せる行動について説明しておきます。以下の特徴のある行動をとる場合です。
・ 手が付けられない暴力行為
・ 衝動的な行動
・ 自己に対する攻撃行動(自分を傷つける、自分のものを壊す等)
これ等の事情があり、原因がわからない場合は、心配をすること、大人を使って専門機関を探し当てることが必要になります。市町村や県の保健所に相談するという選択肢もあります。
さて、このように今日は自死予防のお話をしました。重い話になったかもしれません。
ただ、自死予防ということが、今まさに死のうとしていることを止めることだけではなく、むしろ主力は、自死リスクを高めないという方法なのだということは伝わったともいます。
その主要な方法は、自分も相手も仲間として尊重されているという環境を作るということです。相手の欠点、弱点、失敗を補い合うということ、欠点、弱点、失敗があっても仲間として尊重し続けるということは、人間にとっては本能的に幸せを感じることのようです。自死予防とは死ぬ人を無くすというマイナスからゼロを目標にしていたのでは達成できないことです。具体的にみんなで幸せになっていこうとするゼロの先のプラスを目指す活動なのだと思います。楽しく人間らしい活動だと私は考えていて、今日もお話をさせていただきました。
<考察>
大体授業一コマだと、少し長いですかね。長いというより要素を盛り込みすぎかもしれません。また、パワポが使えないということであれば、言葉とレジュメ的な資料だけということになりますね。まあ、要素は頭の中で網羅されたと思っていますので、聞かされている生徒さんの立場に立って後で検討してみましょう。
自死リスクとは何か 自死のトリガーとの関係 自殺の直前に亡くなられた方の意に添わないふるまいをしたからと言って、それが自殺の原因だとはならないという意味 自死予防で本当に必要なこと [自死(自殺)・不明死、葛藤]
自死に関する報道で気になるのは、自死の直前にあったストレスを起こす出来事が自死の原因だという間違いです(直前出来事重視型とでも言いましょう)。
何かストレスフルな出来事があれば,それを原因として自死を決意し、自死が起こるという考え方です。
具体的に事例を作って考えてみましょう
Aさんは、①仕事上の不注意で注文を受けていた商品をメーカーから仕入れるのを忘れて、取引先に届けることができませんでした。②上司のBさんから、「不注意をするのは心掛けが悪い。」等と言われました。③Aさんは、自分のミスについてなのかBさんの発言についてなのかはわかりませんが、ひどく落ち込んでいたようでした。④その日の夜Aさんは自死しました。Bさんからの注意の後は、何事もなく帰宅して、帰宅後もストレスを発生させる出来事はありませんでした。
こういう事例があったとします。
例の直前出来事重視型の場合は、自死の直前にあったストレスフルの出来事は、Bさんによる注意であるから、自死の決定的原因はBさんだと考えます。そして、「Bの叱責によってAが自死か」等の見出しが出るわけです。
そして、BさんのAさんに対する注意が人が自死するほど強烈だったのか、注意の程度、文言、その他の様子を何も知らないのに、自死があった以上Bさんからのストレスが過大だったということを想像で補い決めつけるわけです。結果責任みたいな思考になってしまっています。
Aさんの方が身近な存在であり、Bさんの方は顔の見えない存在である場合は、その傾向が強くなるのは致し方が無いことです。
そうでなくとも人間は、目に見えた被害を受けた人間の方に肩入れをしてしまう性格もあります。これが発展すると被害を受けたと主張する人間の方を持ってしまうということが「善良」な人間のようです。
これに対して通常の自死を予防するという観点からの自死の原因論を考える場合は、自死予防の考えは、「Bの発言が自死の原因になったとは断定できない。その可能性もあるがもっと何か別の理由も検討しなくてはならない。」と考え、BさんとAさんの関係や、Aさんの職場の立ち位置、Aさんの性格、生い立ち、財政状態などの検討を始めるでしょう。注意を受けた日以前のAさんの様子などを調べることになります。また、職場以外の人間関係についても調べなくてはなりません。そもそも、Aさんの注意の方法について、できるだけリアルに再現しようして聴取を行い、慎重に検討するということになります。
直前出来事重視型というのは、感情的な考え方で、論理的な説得力のない無責任な考え方であることがはっきりわかります。もしどんな注意かも知らないでBさんの注意が原因で自死が起きたと結論付けるならば、自死の予防策としては「上司は部下に注意しないこと」という頓珍漢な結論しか出てこないでしょう。
しかし、自死についての人のうわさとかワイドショーの報道などは、大体がこの直前出来事重視型です。新聞報道も、被害者の訴えという断り書きは付きますが、読み手からするとそのように受け止めてしまう表現で報道がなされる場合が目につきます。その人の自死の原因は、その人にもわからないことも多いのです。本人の日常に何のかかわりもない人が、自分なりに事実を把握して、自分なりに心情を把握したとしても、原因にはたどり着かないでしょう。ましてや信用性の検証もできないネット情報などを基に考えても、真実からは遠ざかる一方だと思います。
直前出来事重視型の報道が繰り返される理由は、加害者と被害者というわかりやすい対立構造を作るために自死者に「寄り添い」やすく、加害者とされるターゲットを攻撃することで、自死が起きたときに起きる第三者の不安感情を解消することができるという、第三者の感情にアッピールしやすいからなのかもしれません。
直前出来事重視型の自死の把握は、「自死に至る構造」を全く考えていないという批判も可能でしょう。直前出来事重視型の場合、いじめやパワハラが原因となる自死は、「いじめられたから自死した。」と短絡的に漠然と考えて、それ以上考えることはしないのだと思います。
・ なぜいじめられると死のうと考えるのか。
・ なぜいじめられたからと言って死ぬことが怖くなくなって死ぬことができるようになるのか。
・ なぜいじめられて死ぬ人と死なない人がいるのか。
・ 自死をするようないじめとはどのようないじめか。そもそもいじめとは何か。
・ 自死をするのは、ストレス耐性が低いのか。
等々、自死を予防するために大切な情報がすべて省略されてしまっているのです。もっとも、このようなことについて必ずしもすべての人が考える必要が無いのですが、自死予防を考える人は考える必要があると思います。こういうことを考えない人は自死予防に参加するべきではないとも考えるのです。頓珍漢な予防方法に時間と予算と人手が取られてしまうということは深刻な弊害です。まじめに自死を予防しようとする人たちは、ここは自分の居場所ではないと立ち去っていくことも深刻な弊害です。
直前出来事重視型ではない考え方が必要となるわけです。
「自死リスク先行型」とでもいうような考え方が有効だと思います。
「自死が起こるときは精神的な変容がすでに起きていて自死をする危険がかなり高まっているために、通常であれば大きな精神的な影響が出ないようなありふれた出来事であっても、過剰に反応して自死を決行してしまう。」
という考え方です。
この通常であれば大きな精神的影響がないありふれた出来事のはずなのに自死の引き金になるような出来事を「トリガー」と呼んでいます。簡単に言うとトリガーによって自死が起きてしまうような精神状態が、「自死リスクが高い状態」です。
但し、例外的にトリガーが存在しないのに自死が起きる場合の類型があります。典型的には、統合失調症や妄想を伴う重篤なうつ病の場合です。本人以外の人間が認識できるトリガーが存在しない、つまり客観的には出来事は存在しないのですが、本人の頭の中で何らかのトリガーが発生してしまう場合があるのだと思います。
また、トリガーはストレスフルな出来事とは限らず、事態が改善するような兆しや苦しみに一息入るようなほっとする出来事もトリガーになることもあるようです。苦しみのどん底にいるときよりも、少し状態が良くなったときに自死が起こりやすいということは自死予防の文脈では古くから言われていることです。
実際にも、パワハラの会社で数か月苦しみ続けてようやく退職を決意した直後の自死、うつ病で子どもの相手もできなかった母親が子どもと楽しく遊んで家族がほっこりした直後の自死等、良い事情のはずがトリガーになった可能性のあるケースは見られるところです。
自死予防を徹底するためには、一度自死リスクが高まったら、自死リスクが解消されるまでは、悪いことでも良いことでも何か動きがあった場合は注意をし続けなければならないということが結論になると思います。
何がトリガーだったのかということについて議論しても意味がないことがわかると思います。すでに自死リスクが高まっている場合、どんなものでもトリガーになりうるということです。自分の失敗もトリガーになるし、上司からの注意もトリガーになる。または、お小遣いを要求して断られること、友人から遊びに行く約束をすっぽかされたこともトリガーになりうるわけです。人間が他者とかかわって生きていく以上、そのトリガーになりそうなすべての出来事を無くしてしまうということは不可能です。また、楽しい出来事、明るい出来事もトリガーになりうるのですから、これをすべて無くしては生きる意味がなくなるような気もします。(これらをすべて無くする精神状態が、重篤なうつ病の状態なのでしょう。)
直前出来事重視型の場合は、自死の直前に何があったのかということを夢中で探り出そうとする傾向がありますが、それは誰かを攻撃し、自死の全責任を負わせようとすることにしかならず、意味のあることではありません。また、例えば亡くなられた方のご遺族が、亡くなる直前に亡くなられた方の意に添わないふるまいをしたからと言って、それが自死の原因とはならないということをぜひ理解していただきたいと思います。
自死リスク先行型から考える自死予防は、
第1段階 高度な自死リスクを作らないこと
第2段階 高度な自死リスクが存在することを見抜くこと
第3段階 高度な自死リスクを解消することです。
ということになるのですが、この3点は、私の不勉強というところもあるのだと思うのですが、解明が進んでいないように感じているのです。
現在ではそうでもないと言われているのですが、ひところは自死リスク=精神病、特にうつ病でした。うつ病予防とうつ病を見抜くことうつ病の治療が自死予防でした。これは20世紀の終わりころからの、主に北欧のうつ病対策による自死予防が功を奏したことを模範として行われていました。WHOも先導して自死対策としてうつ病の薬物治療を勧めていました。日本では国を挙げてこの対策に取り組みましたが、ほとんど効果が見られず、自死者が3万人台が長年継続したことは記憶に新しいと思います。
現在では自死者は安定して3万人を切る状態となりました。しかし、どうして自死者が減少したのかということについても、抽象的に「予防を頑張ったから」ということくらいしか言われておらず、次の自死が増えることを予防しているという実感を持てる人はいないでしょう。この間のコロナ禍で、どうしてコロナ患者が減ったかについて原因がわからなかったため、次の増加を防ぐことができなかったということを私たちは何度も学びましたが、全く同じことです。自死者が減った理由がわからなければ、またすぐに増える可能性もあるということも学ぶべきです。そして恐れるべきです。その上で対策を講じておくべきだと思います。
現在の自死予防についての世界的研究段階は、「うつ病患者の大部分は自死をするわけではない」という考えに基づいて、うつ病以外の自死のリスクが起きる場合について考え始める研究が少しずつ浸透してきています。しかし、まだ十分ではないという状態です。特に日本ではかなり遅れを取っています。
まず、自死リスクを形成し、自死リスクを高める要因の検討を始めるべきです。
自死リスクを高める要因こそが、まさに複合的であることが多いようです。
ただ、ここで注意するべき内容は、「複合的」という言葉の意味です。これは日本の自殺統計が警察の調査を基に研究が進められている影響があるためか、自死の原因が「複数の人間関係でのトラブル」がある場合に自死が起きるというふうに間違って考えられることが多くあります。
複数の原因とは、先ほどの会社の例でいえば、Aさんは、転勤があったため馴れない土地で一人暮らしをしていたため、自分が仲間の中で安心して暮らすということができない状態だった。それまでの人生では目立った存在ではなかったけれど、いつも友人たちの輪の中にいた。それはAさんが友達から見放されないように自分を殺していつも必死で努力していたことによるものだった。Aさんは、自分が自然にふるまったら独りぼっちになるという恐怖を幼い時から感じて努力し続けてきた。その友人たちも就職してバラバラになっていた。自分には味方がいないと思うようになっていた。転任先の人のノリもAさんの出身地と違っていて、親愛の情を示すからかいもAさんにとっては初めてのことで怖いと感じていた。地元の業者に対する取引をするにもコミュニケーションがうまく取れず、相手の思っていることを理解することができないため、取引も前任地ほどうまくいかなくなっていた。会社から期待されて転勤したのに、同僚や上司も期待外れだと思っているように思えてきた。睡眠不足も深刻となっていたことが原因で、記憶力が減退し、自分がやったと思っていたことがやっていないことが起きていた。また、いつもならばメーカーの営業所に在庫がある商品なのに、たまたまその時はよそに大きなプロジェクトがあって偶然在庫切れだったことが、大きなショックだった。うつ状態が発生していて被害妄想も生じていたために、それらすべてが自分を排除するために仕組まれたことだと考えるようになっていた。このまま会社にいたら苦しみ続けるだけだと考えるようになり、苦しみ続けない方法として死ぬことを考え出し始めた。
こんな簡単に人は死ないでしょうが、例えばこのくらいの事情があることの方が多いわけです。「注意されたから死ぬ」という直前出来事重視型がいかにばかばかしい話なのかの説明として架空の事案を作り出してみました。
複数の人間関係でトラブルが起きる場合もありますが、いじめやパワハラのように、単一の人間関係が原因で自死が起きる場合も多くあります。「複数の人間関係でトラブルが起きて自死に至る」というドグマは、実際は存在しない家族との間にもトラブルがあったはずだ。あるいはトラブルとは言えないとしても、「家族に無理解があり、家族が防ぐことができたのにそれをしなかったから自死が起きたのだ」という決めつけに結び付きます。このようなケースが横行しています。例えば若いお母さんがうつ病とうつ性妄想によって自死されたケースでは、「夫のDVがあったからだ」といううわさが夫の職場であったことに驚いたことがあります。その後夫は退職を余儀なくされました。奥さんの残したメモからはそんな事実は全く感じられませんでした。
家族を失って苦しんでいる人に対して、具体的事実もないのにその原因は家族にもあるということを言うわけですから、大きな問題だと思います。
ここで、高度な自死リスクというのがどのような心理状態なのか、現在言われていることについて説明を試みます。
「些細なきっかけでも自死を決行してしまう心理状態」だということが定義です。これをもう少し具体的に説明してみます。
自分が大切だと思う「仲間」の中で自分が仲間として尊重されておらず(孤立)
将来に向けてもこの孤立は解消することが不可能だと考えている(絶望・悲観傾向)
この結果、生きていくことは、苦しみ続けることだと考えている(絶望)
一瞬でも早くこの苦しみから逃れたいと感じている(焦燥)
このまま苦しみ続けるか死ぬかということを考え出している
(二者択一的思考、悲観的思考、被害的思考)
死ぬことに、暖かく明るいイメージを持つようになる(希死念慮)
自分は死ななくてはいけないという信念のようなものを持つ(希死念慮)
どのように死ぬべきかという死ぬ手段を具体的に調べている
様々な出来事を、自分を否定している事情ととらえ(被害的思考・過覚醒)
ますます孤立感、絶望感、解決不可能感が深まるきっかけになってしまう。
こういう状態がこれまで調査した結果、自死リスクが高まっている状態です。
外形的に言えば
衝動的な行動
暴力的な行動
自分を抑制することができない状態
それらの行動の原因が理解できない。説明できない。
それらが広い意味での自分を否定する方向に向けられる
(広い意味での自分とは、自分の体はもちろん、自分の持ち物、自分を含めた自分たち、あるいは自分の記憶などに対する否定的、破壊的、暴力的な行動ということです。)
こういうように整理できると思います。
リストカットなどの自傷行為や過度の飲酒、ドラッグ服用、あるいは高度の摂食障害などはそれ自体は自死を目的とした行為ではない場合が多いのですが、本人も自分の体をむしばむ行為であることを本人は理解しています。自分を大切にしないという行動を行っていることを自覚していることになります。自分の価値、人間の価値を否定する考え方になじんでいき、命を重要視できなくなり、自死リスクが高まるという関係にあると思います。
では、このような高度の自死リスクが形成される原因は何でしょう。
これは大変難しい問題ですが、単純に考えてはいけない、決めつけてはいけないということは間違いのないところです。
ここでは、
本人の対人関係的な位置の変動ないしおかれている位置という対人関係的問題と
本人の心理状態、精神状態
という2つの側面から考えなければなりません。
対人関係とは、家族、学校、職場、ボランティアやサークルなど継続的人間関係に着目するべきですが、さらに貧困や障害、差別と言った社会的立場というものも考慮に入れるべきです。但し、人間関係の喪失による孤立の感じ方は年齢によって異なり、高齢者になればこれまで築いてきた立場の喪失が大きなポイントとなり、若年者については今後の将来に対する絶望がポイントとなるという違いがありそうです。
心理、精神的傾向というのは、端的に精神病や先天的な脳の問題という病的な問題もありますが、物の見方感じ方という意味では、性格や生い立ちなどのこれまでの経験によって形成された思考傾向なども問題になりそうです。現在の対人関係的なトラブルについての感じ方に影響を与える諸事情が大切です。それを超えて対人関係的に影響を与えないけれど脳内で自働的に悲観的傾向が生まれる事情なども考慮しなければなりません。
この意味でうつ病などの精神疾患が、自死リスクを高める一要因となるという表現は可能だと思います。重篤なうつ病の場合は、実際に対人関係的な問題が無くても、病気の症状としてあるように感じてしまい自死リスクが高まるということもありそうです。
自死リスクで注意を要する点が2点あります。
一つは、人は自死リスクの高まりを隠すということです。
もう一つは、特に若年層は、自死リスクが継続しているのに、その場その場では普通の快活な生活態度を示すということです。
「うつ病者はうつを隠そうとする。」ということはあまりにも有名な話です。私は、責任感優位型の人間が不可能な責任感を果たそうとする行動であると感じています。周囲に気を遣わせないようにする、心配させないようにするという行動は、その人の性格上自然体で行ってしまうようです。また、自分が帰属する「最後の砦・人間関係が家族だ」だと考える場合は、自分がうつということで家族から特別扱いされるということを恐れるということも何人かから聞きました。仲間にはふつうに仲間として接してほしいもののようです。
もう一つは、自死リスクを隠そうとしているわけではないのですが、気分が変わりやすい状態になっていて、ひどく落ち込んでいて今にも自死企図を行いかねない状態にあったのに、時間を置くと日常的に変わらない快活な行動を取ったりする場合です。これは、必ずしも病気ではなく、思春期以前にはよく見られる現象だそうです。自死企図のような行為をしたのに、部活動は熱心に取り組んでいたり友達の輪の中で談笑したりするということはありうることです。快活な様子を見てしまうと、自死リスクが解消されているのかもしれないという錯覚を抱いてしまいます。そして、あんなに快活に行動していた生徒がどうして自死したのか、自死ではなくて事故なのではないかと感じてしまうようです。
特に若年者は、深刻な自死リスクを示す事情があれば、それが解消されない限り、快活な様子を見せても、深刻な自死リスクは継続していると考えなければならないということが切実な教訓です。感情が動きやすいということは、快活になりやすいことと同じように深刻な状態に戻りやすいということなのです。
自死リスクでもう二つ注意するべき点があるとしたら、自死リスクはひとたびはっきりと示されれば時間的経過で自然解消しにくいということと、放っておけば大きくなっていくということでしょうか。
自死リスクが生じてしまうと、自分が体験することが自分が攻撃されているという被害的意識でものを見るようになり、あらゆる出来事が自分の絶望回避が不可能であることを示していると感じられるようになっていきます。それを解消しようと不合理な行動に出ることがあり、それによってますます自分の立場が悪くなり、絶望が深まっていくという危険があります。
ひとたび深刻な自死リスクが生じてしまうと、それが解消されなければ些細な出来事をトリガーとして自死が起きてしまう可能性が高くなります。
誰がどうやって自死リスクの発生に気が付くかという研究が一つ。
誰がどうやって自死リスクを解消できるのか。医師がどこまで関与できて、家族の果たす役割は何か。
誰がどうやって自死リスクが解消されたと判断するのか。
自死予防の政策は、まだ始まったばかりということは、両方の意味で言いすぎでしょうか。
弁護士に向けた自死予防への取り組みの勧め 弁護士が行う自死予防とは何か、自死予防における弁護士という仕事のアドバンテージ [自死(自殺)・不明死、葛藤]
弁護士と自死予防
1 自死予防の3段階の対策
自死予防については、世界的には三段階に分けて対策を整理しています。
第1段階 自死リスクを作らない対策、自死リスクを軽減する対策 プリベンション
第2段階 自死行為、準備行為、自死企図を妨害する行為 インターベンション
第3段階 自死遺族支援 ポストベンション
(日本の場合は公衆衛生の用語で一次予防、二次予防、三次予防という言い方をしますが概ね世界標準の意味内容に近づいています。)
最も肝心な予防策は第1段階ということになります。第2段階になってしまうと、自死を防ぐことが格段に難しくなってしまうからです。
その意味で、この文章で単に「自死予防」という場合は、第1段階の予防対策のことで使うこととします。主に第1段階の予防策について述べています。
第3段階は自死遺族支援ということで、厳密には自死予防ではなくて事後的な対応のことを言います。自死が労働災害や他人の不法行為による場合や保険金の問題、あるいは自死をしたことによって第三者に損害を与えたとの主張がなされる場合など弁護士が関わることが多い分野でもあります。
2 自死リスクはどのようにして高まるのか
自死リスクが高まる仕組みを理解し、その人のリスクの程度を評価できるのであれば、自死予防は比較的容易になるでしょう。ところが、わが国では、なかなかこのリスクアセスメントの研究が進んではいません。
実践に耐えうる理論としては、通常アメリカの研究家である T.ジョイナーの「自殺の対人関係理論」(日本評論社)が紹介されることが多いと思います。
簡単に説明しますと、自死を行う場合は、大きく分けて二つの要素が重要であるとされます。それは自殺願望と自殺の潜在能力の高まりという要素だというのです。
「自殺願望」というのは、自分が家族や会社などの人間関係の中で、自分が存在することに負担を感じるという「負担感の知覚」と、自分がそれらの人間関係に所属しているという実感が薄れていく「所属感の減弱」が起きた場合に起きるとしています。
「自殺の潜在能力の高まり」というのは、外傷体験や自傷行為などによって、自分を傷つけることに馴れてしまう結果、死ぬことに対する恐れが薄まってくるということです。通常は死ぬことが怖いために自殺願望があっても、自死に踏み切れないのですが、死への閾値が下がることによって自殺が可能になってしまうということを言っています。
自殺願望を高める事情としては、対人関係的な事情もありますが、様々な精神疾患によって、病気の症状として自殺願望が高まることもあります。自分の対人関係などの環境と精神保健面の要因が相互作用を起こし、自殺願望が高まるということがリアルな見方であるように感じています。
自殺願望が高まるというリスクの高まりの原因としては、
・各人の精神疾患などの問題と
・各人が置かれた人間関係の環境問題
の双方向から考えなければならないということは強調しておきます。
そして詳細は割愛しますが、自殺願望が高まる要因をわかりやすく説明すると、
<孤立>自分が大切にしている人間関係から、追放される予期不安
行為の否定評価、差別、人格無視、不利益の強要
<絶望>孤立を回避する方法が無いという認識
<緊張の持続> 孤立や絶望を回避しようとすると緊張をしますが、この緊張が持続することによって、睡眠不足も相まって、思考力が低下していきます。
具体的には、
・二者択一的思考(死ぬか苦しみ続けるか。折衷的な解決方法や評価が思い浮かばなくなる。)、
・悲観的思考(どうせうまくいかない)、
・刹那的思考(将来を考えることができない。とにかく早く解決したい《結論を出したい》という焦燥感)があげられます。
これらは相乗効果があり、介入しなければ悪化していく危険が高くあります。人間は絶望を回避する防衛機制という心理的メカニズムがあるのですが、孤立、絶望緊張などが持続するとこれが誤作動を起こし、自死行為に出る原因になるようです。つまり、絶望を感じなくするために死ぬという行動を起こすようです。自死リスクが極限まで高まると、死ぬというアイデアをもってしまうと、それが何か歩の温かく、明るいイメージを持ってしまい、死ぬことをやめることができなくなるということが大きな一つの自死に至るルートのようです。
3 弁護士が行う自死予防について
1)弁護士、弁護士会が行う政策としての自死予防は第1段階の予防が中心となります。
2)精神疾患などの健康面由来の自死リスクの高まりについては、弁護士がいかんともしがたいことも多いので、その人の状態に応じて、精神科医につなぐ、カウンセラーにつなぐ、家族につなぐという方法が取られます。
依頼を受けて事件を継続中であれば、弁護士がそれぞれと連絡を取ってつなぐこともありますし、病歴、生活歴、その他の精神的に影響与える事情を記載した紹介状を作成し直接各人につなぐことが求められるかもしれません。
これに対して相談会などの場合は、その時限りの関係ですから、相談者が行くべき機関の紹介を相談者自身に行い、相談者の行動に期待するほかないと思います。
この相談会に行政が参加していれば、相談後の行政の関与が期待できます。その場で行政につなぐことによって、行政の関与の下で行政の機関を含めて適切な機関につなぐことができるので、とても有効な形が作れると思います。
3)対人関係が由来の自死リスクの高まりに対しては、弁護士は様々な対応をすることができます。
<相談業務>
人間関係のトラブルについて、法律の案内をしただけで解決する場合も少なくありません。例えば、立ち退きを迫られて困っている場合に借地借家法の法律を説明しただけで、そういう法律があるなら家主と交渉できると言って交渉した方、夫と死別した後の夫の家族に対する扶養義務について説明しただけで、無理な扶養を強いられたことから解放された人もいます。
パワハラを受けて精神的に圧迫を受けている場合は、会社を辞めるという選択肢を持てなくなることがあります。会社を辞めるというアドバイスをするだけで、自死リスクが解消される場合も多いようです。退職によって当面の収入を断念するとか、損害賠償請求を断念しても、会社を辞めるという選択が必要な場合が多くあります。なかなかご本人が選択肢としてあげづらいことについて、第三者である弁護士が選択肢を提起して自死リスクを軽減する方向の選択肢の順位を上げる必要があることです。
相談業務で、紛争自体は解決しなくても、精神的なストレスがだいぶ軽減されることは実感として経験されているところだと思います。
<代理業務>
人間関係のトラブル、例えば債務問題、刑事事件、家事事件、労働事件など、精神的に圧迫をさせる出来事をうまく解決することができれば、自死リスクが解消することがあることはもちろんのことです。これが弁護士ならではの自死対策の一つの特徴でもあります。
そもそも誰かとトラブルがあるということだけで、人間には大きなストレスがかかります。裁判の当事者になることだけでも看過できないストレスがかかるそうです。多重債務の返済日のように、裁判期日の3日前になると眠れなくなると言う人は少なくありません。
弁護士が当事者ご本人に適切にかかわることで、葛藤を鎮めて、自死リスクを作らないという効果が期待できます。
但し、代理業務を遂行する場合も、請求の趣旨を少しでも依頼者の有利にするというだけでなく、自死リスクの回避という観点も合わせて持つ必要があるということになろうと思います。賠償額が多く取れても、それ以上の人間関係のデメリットが生じては、自死予防という観点からは評価ができないことになります。但し、弁護士はメリットとデメリットを提示するだけで、意思決定をするのは当事者ご本人であることは言うまでもありません。
<自死予防の観点からの業務拡大>
自治体などの一般法律相談を担当してご経験があると思いますが、およそ法律手続きが用意されていないような人間関係の不具合があります。あるいは、会社などの団体の顧問などをされている方もご経験があるのではないでしょうか。取締役間の不具合や、経営陣と株主間の相互不信など、誰に相談してよいのかわからない人間関係上のトラブルもあります。こういう分野にも弁護士業務として取り組むことにより、業務分野が拡大したり、通常業務に様々な観点から役に立つことがあります。
3 弁護士に自死予防ができるのか
1)弁護士という職業に備わる力
今あげた弁護士の自死予防として挙げた行為は、通常業務として行うだけで自死予防のリスクを軽減させることも大いに期待できます。「自分には味方がいる。自分は社会的に孤立しているわけではない。」という考えは自死リスク(孤立感、不可能感)を軽減することに役に立ちます。また、弁護士という職業はまだまだ社会的に信用されていますから、その弁護士が自分の味方になってくれる、自分の利益を考えてくれるということは、貴重な立場です。
2)人間関係トラブルの仕事
弁護士の仕事は、人間関係トラブルに介入する仕事ということができます。また、自死に関連する仕事です。東北大学と日弁連、仙台会の合同アンケート調査の結果でも、多くの弁護士が職務上、依頼者や相手方の自死、自死未遂を体験しており、依頼者の高葛藤や高い自死リスクを見ています。
統計上も、自死と関連する社会病理が証明されています。社会政策学では、完全失業率と完全自殺率が連動しているということは定説になっています。この失業のほかに、離婚、犯罪認知件数、自己破産申立件数が有意に関連しています(仙台弁護士会自殺対策マニュアル2011)。
なぜこれらが関連するかというと、弁護士の立場からすると、これらの社会病理が、自死と同じように、孤立、絶望、緊張感の持続を根本的原因として生じていることが一つの理由として考えられます。離婚事件の代理人も、刑事弁護人、あるいは債務整理の代理人もすべて弁護士の業務です。弁護士の仕事は、自死のメカニズムに密接に関連している分野を担当しているということも言えるのだと思います。
自死の要因として、精神的要因と対人関係的環境要因と両面から見なくてはならないと申し上げました。この対人関係的環境要因について業務の対象としているのは弁護士が第一であることは間違いありません。どうして紛争が起きるか、どうやって紛争を鎮めるのか、その現場に立って仕事をしているということは自死予防にとっても大きなアドバンテージです。
3)相互譲歩による紛争の鎮静化
ここの弁護士の業務姿勢についての話ではなく、あくまでも自死予防の観点、自死予防に都合の良いスタイルの話をいたします。
実は、人間関係の不具合に介入して、双方に働きかけ、双方の譲歩によって問題を解決するという職業も弁護士が第一です。和解による解決や調停やADRによる解決、示談交渉などで弁護士は普通にこのような仕事を行っています。
精神医学や心理学(家族療法やカップルカウンセリングをのぞく)、あるいはカウンセリングなどでは、自分のクライアントに働きかけるという解決方法だけが取られてしまいます。要するに、その人の精神状態を修正して問題を解決しようというアプローチです。人間関係のトラブルの鎮静化という観点はなかなか持ちにくいという宿命があります。
また、行政などは、一方の言い分だけを基に人間関係に働きかけをしてしまい、他方の言い分が初めから取り上げられずに、人間関係のトラブルがさらに大きくなり、いつまでも継続してしまう弊害が起きています。これでは自死予防の観点からはマイナス効果になってしまいます。
依頼者だけでなく、相手方にも働きかけ、双方に行動の改善を提起して問題解決を図ることも弁護士の仕事です。弁護士法によって、原則として弁護士だけに認められていることでもあります。
この弁護士の仕事の特徴については、自死予防政策にかかわる人からも、弁護士自身からも見過ごされているようです。華やかに報道される事件において、弁護士が一方当事者に味方して法外な要求をするような印象はどうしても社会にあるようです。しかし、調停やADRだけでなく、一般民事事件で和解をすることの方がむしろ通常の弁護士業務だと思いますので、その点は自信をもって良いと思います。弁護士は特に対人関係的環境由来の自死リスクには、解決の選択肢を潜在的に豊富に持っていると私は考えています。
4)人権という視点
弁護士は人権について学んでいます。人権感覚は各人によってまちまちでしょうが、人権の知識については間違いなく突出して有していることは間違いありません。
前述した自死リスクの高まりのところで、孤立感として挙げたことは人権侵害と密接に関係しています。人権についての知識があることは、自死予防には間違いなく有利です。
さらには、人権侵害ということが一方的に起きるとは限らず、一方の人権と他方の人権が衝突している状態であることもあるという理解は、解決に向かう必須の考え方だと思っています。
このような視点がない場合は、人権侵害がなされていれば、相談を受けている第三者は、侵害されている方が善で、侵害している方が悪だという形で介入をしてしまうことが多くあります。双方悪ではないということもありうるというリアリティーがなければ、介入者による新たな人権侵害が起きかねません。
5)事情聴取をする力
決めつけや二者択一的なものの見方から自由である弁護士は、通常業務として依頼者や相談者から事情聴取をしています。他人から話を聞く場合何をどう聞けばよいかということを考えながら聞く訓練が日常的になされているわけです。そして、依頼者、相談者の話の中で整合しない話があれば、機嫌を損ねないように事実を確認する技術もあるはずです。
これは対人関係的な環境が原因による自死リスクの軽減にはとても役に立つ技術です。経験上、相手の話の要点や真意を吟味して事情聴取をする力は、医師、心理士や、カウンセラーに比べて突出して高いです。それはその仕事に求められる要素が異なるからです。相手の言っていることがつじつまが合わなくても寄り添うことを目的にする関わり方と、真実を探り出して真実に立脚して関わる仕事との違いがあるわけです。相手のある問題にかかわる弁護士ならではの資質です。
但し、通常の弁護士業務と異なることは、「自死リスクの軽減」という請求の趣旨に向かっていく事情聴取ということですから、その要件事実は何なのかということを、先ほど述べた孤立、絶望、緊張の持続の要素に沿って各事件において考えていかなければならないことです。
6)弁護士の役割が軽視されている理由
以上の通り、弁護士こそが自死予防に不可欠の存在であると私は考えています。このことに気が付かないのは、理由があることです。それは自死リスクが高まる仕組みが理解されていないということにあります。そもそもこのことを最も理解しうる職業が弁護士ですから、弁護士が積極的に自死対策に関与していかないことには、共通の理解とならないことは理由のあることだと思います。
先ほどらい強調させていただいていることは、自死リスクが高まる要因としては精神的な要因だけでなく、対人関係的環境要因があるのだということです。日本の自死対策では、20世紀末から21世紀初頭の主として北欧の自死対策がうつ病対策を主として成功をしていることを受けて、精神的要因に対する対策に力点がありました。政策の中心も医師が中心であったことはその結果です。その弊害は、本来精神的問題から対人関係的問題が生じたり、対人関係的問題から精神的問題を発生させたりするという相互作用のリアルを重視しなかったということです。
このため、対人関係的問題は後景に追いやられ、生まれつきの精神疾患と対人関係由来の精神疾患を同列に扱い、精神疾患が生じたならばそれに対応しましょうという、極端に言えばそういう政策が置かれていました。しかし、近時、自死リスクを作らない社会の推進ということがいわれるようになり、明確に意識はされていないとしても対人関係の調整という視点も出てきました。但し、もっぱら社会的な問題が中心になってしまっています。例えば地域の高齢者の孤立生活という問題として扱われていますが、本来的には家族問題という視点が欠落しているように感じているところです。
対人関係は精神問題の入り口の前にある問題ですが、対人関係の問題が解決しない状態が続くと精神問題が生じるという関係にある問題です。精神的問題が発症してしまってから対策を立てるより、対人関係として解決して精神的問題を起こさない方がより簡単に、より効果的に自死予防に役に立つはずです。一度起きた自死リスクを軽減することは実際は難しいことです。自死リスクを作らないことの政策が最も有効な政策であるはずなのです。
そうだとすると弁護士が自死予防に貢献できる余地が無限に広がっている。私はそう感じてなりません。
4 弁護士としてのメッリト
自死予防対策に取り組み、学び、実践を積み重ねることによって、弁護士として大きなメリットがあると考えています。
一つは人間はと何か、人間はどうして対立し、紛争を起こすのか、そしてその解決方法はということを考えます。このことは大きなメリットを生みます。
第1に取り扱い事件が拡大するということがあげられます。このようなことを考えなければ、相談を受けても裁判手続きなどになじまなければ依頼を受けらないということがあると思います。ところが、自死問題を取り組んでいくと、事件の解決方法の引き出しが広がりますので、裁判手続きを経なくても解決の道筋が見えてくることがあります。会社内などの団体内の人間関係の問題、家族内の人間関係の修復等々、あらゆる人間関係の解決の糸口を見つけられやすくなるでしょう。
第2に、自死リスクの高い人に対する接し方は、自死リスクの高くない人にとっても心地よい接し方になります。業務上、何に気を付ければよいかということが見えてきますし、依頼者が何を求めているかということも理解しやすくなります。これは大きなメリットです。
第3に、通常事件の解決方法が見えてくるということがあります。人間が悩むポイント、訴外を受けるポイントが理解できれば、人間関係のトラブルの真の原因と解決方法が見えてきます。訴訟活動の方針自体を修正し、迅速で満足される活動ができる可能性が広がると思います。私自身の労災事件、家事事件刑事弁護にはとても良い影響があると実感しています。もっとも私の自死予防の理論は、労災事件、家事事件、刑事弁護の経験に基づいても構築されていますので、相互作用が期待できると思います。
5 弁護士が行う自死予防のイメージ
今回は、3段階ある自死予防政策の第1段階プリベンションについて説明してきました。弁護士が誰でも参加できて、また、その職業的特質からは参加するべき活動ではないかと思っています。特に日常業務に自死予防の観点をいれることはどなたにも可能なことだと思います。これが全国に広まれば立派な自死予防になるはずです。
どうしても自死予防というと、自死リスクが極限まで高まっている人に、自死を思いとどまらせるということがイメージされてしまい、ハードルが高くなってしまっているということがありそうです。
第1段階の予防については、これまで述べたとおりです。それでも一般の方にとっては重苦しいことかもしれませんが,弁護士にとっては通常業務ですし、また人間を孤立から救い、不安から安らぎに転換させる政策だと考えると、とても明るく、前向きな活動だと思うのです。私は、人間社会に不可欠な相互の安心感を作る技術を考える仕事ではないかと考えています。人類が幸せに向かう活動という明るいイメージを持っているということが偽らざる本音であります。
1 自死予防の3段階の対策
自死予防については、世界的には三段階に分けて対策を整理しています。
第1段階 自死リスクを作らない対策、自死リスクを軽減する対策 プリベンション
第2段階 自死行為、準備行為、自死企図を妨害する行為 インターベンション
第3段階 自死遺族支援 ポストベンション
(日本の場合は公衆衛生の用語で一次予防、二次予防、三次予防という言い方をしますが概ね世界標準の意味内容に近づいています。)
最も肝心な予防策は第1段階ということになります。第2段階になってしまうと、自死を防ぐことが格段に難しくなってしまうからです。
その意味で、この文章で単に「自死予防」という場合は、第1段階の予防対策のことで使うこととします。主に第1段階の予防策について述べています。
第3段階は自死遺族支援ということで、厳密には自死予防ではなくて事後的な対応のことを言います。自死が労働災害や他人の不法行為による場合や保険金の問題、あるいは自死をしたことによって第三者に損害を与えたとの主張がなされる場合など弁護士が関わることが多い分野でもあります。
2 自死リスクはどのようにして高まるのか
自死リスクが高まる仕組みを理解し、その人のリスクの程度を評価できるのであれば、自死予防は比較的容易になるでしょう。ところが、わが国では、なかなかこのリスクアセスメントの研究が進んではいません。
実践に耐えうる理論としては、通常アメリカの研究家である T.ジョイナーの「自殺の対人関係理論」(日本評論社)が紹介されることが多いと思います。
簡単に説明しますと、自死を行う場合は、大きく分けて二つの要素が重要であるとされます。それは自殺願望と自殺の潜在能力の高まりという要素だというのです。
「自殺願望」というのは、自分が家族や会社などの人間関係の中で、自分が存在することに負担を感じるという「負担感の知覚」と、自分がそれらの人間関係に所属しているという実感が薄れていく「所属感の減弱」が起きた場合に起きるとしています。
「自殺の潜在能力の高まり」というのは、外傷体験や自傷行為などによって、自分を傷つけることに馴れてしまう結果、死ぬことに対する恐れが薄まってくるということです。通常は死ぬことが怖いために自殺願望があっても、自死に踏み切れないのですが、死への閾値が下がることによって自殺が可能になってしまうということを言っています。
自殺願望を高める事情としては、対人関係的な事情もありますが、様々な精神疾患によって、病気の症状として自殺願望が高まることもあります。自分の対人関係などの環境と精神保健面の要因が相互作用を起こし、自殺願望が高まるということがリアルな見方であるように感じています。
自殺願望が高まるというリスクの高まりの原因としては、
・各人の精神疾患などの問題と
・各人が置かれた人間関係の環境問題
の双方向から考えなければならないということは強調しておきます。
そして詳細は割愛しますが、自殺願望が高まる要因をわかりやすく説明すると、
<孤立>自分が大切にしている人間関係から、追放される予期不安
行為の否定評価、差別、人格無視、不利益の強要
<絶望>孤立を回避する方法が無いという認識
<緊張の持続> 孤立や絶望を回避しようとすると緊張をしますが、この緊張が持続することによって、睡眠不足も相まって、思考力が低下していきます。
具体的には、
・二者択一的思考(死ぬか苦しみ続けるか。折衷的な解決方法や評価が思い浮かばなくなる。)、
・悲観的思考(どうせうまくいかない)、
・刹那的思考(将来を考えることができない。とにかく早く解決したい《結論を出したい》という焦燥感)があげられます。
これらは相乗効果があり、介入しなければ悪化していく危険が高くあります。人間は絶望を回避する防衛機制という心理的メカニズムがあるのですが、孤立、絶望緊張などが持続するとこれが誤作動を起こし、自死行為に出る原因になるようです。つまり、絶望を感じなくするために死ぬという行動を起こすようです。自死リスクが極限まで高まると、死ぬというアイデアをもってしまうと、それが何か歩の温かく、明るいイメージを持ってしまい、死ぬことをやめることができなくなるということが大きな一つの自死に至るルートのようです。
3 弁護士が行う自死予防について
1)弁護士、弁護士会が行う政策としての自死予防は第1段階の予防が中心となります。
2)精神疾患などの健康面由来の自死リスクの高まりについては、弁護士がいかんともしがたいことも多いので、その人の状態に応じて、精神科医につなぐ、カウンセラーにつなぐ、家族につなぐという方法が取られます。
依頼を受けて事件を継続中であれば、弁護士がそれぞれと連絡を取ってつなぐこともありますし、病歴、生活歴、その他の精神的に影響与える事情を記載した紹介状を作成し直接各人につなぐことが求められるかもしれません。
これに対して相談会などの場合は、その時限りの関係ですから、相談者が行くべき機関の紹介を相談者自身に行い、相談者の行動に期待するほかないと思います。
この相談会に行政が参加していれば、相談後の行政の関与が期待できます。その場で行政につなぐことによって、行政の関与の下で行政の機関を含めて適切な機関につなぐことができるので、とても有効な形が作れると思います。
3)対人関係が由来の自死リスクの高まりに対しては、弁護士は様々な対応をすることができます。
<相談業務>
人間関係のトラブルについて、法律の案内をしただけで解決する場合も少なくありません。例えば、立ち退きを迫られて困っている場合に借地借家法の法律を説明しただけで、そういう法律があるなら家主と交渉できると言って交渉した方、夫と死別した後の夫の家族に対する扶養義務について説明しただけで、無理な扶養を強いられたことから解放された人もいます。
パワハラを受けて精神的に圧迫を受けている場合は、会社を辞めるという選択肢を持てなくなることがあります。会社を辞めるというアドバイスをするだけで、自死リスクが解消される場合も多いようです。退職によって当面の収入を断念するとか、損害賠償請求を断念しても、会社を辞めるという選択が必要な場合が多くあります。なかなかご本人が選択肢としてあげづらいことについて、第三者である弁護士が選択肢を提起して自死リスクを軽減する方向の選択肢の順位を上げる必要があることです。
相談業務で、紛争自体は解決しなくても、精神的なストレスがだいぶ軽減されることは実感として経験されているところだと思います。
<代理業務>
人間関係のトラブル、例えば債務問題、刑事事件、家事事件、労働事件など、精神的に圧迫をさせる出来事をうまく解決することができれば、自死リスクが解消することがあることはもちろんのことです。これが弁護士ならではの自死対策の一つの特徴でもあります。
そもそも誰かとトラブルがあるということだけで、人間には大きなストレスがかかります。裁判の当事者になることだけでも看過できないストレスがかかるそうです。多重債務の返済日のように、裁判期日の3日前になると眠れなくなると言う人は少なくありません。
弁護士が当事者ご本人に適切にかかわることで、葛藤を鎮めて、自死リスクを作らないという効果が期待できます。
但し、代理業務を遂行する場合も、請求の趣旨を少しでも依頼者の有利にするというだけでなく、自死リスクの回避という観点も合わせて持つ必要があるということになろうと思います。賠償額が多く取れても、それ以上の人間関係のデメリットが生じては、自死予防という観点からは評価ができないことになります。但し、弁護士はメリットとデメリットを提示するだけで、意思決定をするのは当事者ご本人であることは言うまでもありません。
<自死予防の観点からの業務拡大>
自治体などの一般法律相談を担当してご経験があると思いますが、およそ法律手続きが用意されていないような人間関係の不具合があります。あるいは、会社などの団体の顧問などをされている方もご経験があるのではないでしょうか。取締役間の不具合や、経営陣と株主間の相互不信など、誰に相談してよいのかわからない人間関係上のトラブルもあります。こういう分野にも弁護士業務として取り組むことにより、業務分野が拡大したり、通常業務に様々な観点から役に立つことがあります。
3 弁護士に自死予防ができるのか
1)弁護士という職業に備わる力
今あげた弁護士の自死予防として挙げた行為は、通常業務として行うだけで自死予防のリスクを軽減させることも大いに期待できます。「自分には味方がいる。自分は社会的に孤立しているわけではない。」という考えは自死リスク(孤立感、不可能感)を軽減することに役に立ちます。また、弁護士という職業はまだまだ社会的に信用されていますから、その弁護士が自分の味方になってくれる、自分の利益を考えてくれるということは、貴重な立場です。
2)人間関係トラブルの仕事
弁護士の仕事は、人間関係トラブルに介入する仕事ということができます。また、自死に関連する仕事です。東北大学と日弁連、仙台会の合同アンケート調査の結果でも、多くの弁護士が職務上、依頼者や相手方の自死、自死未遂を体験しており、依頼者の高葛藤や高い自死リスクを見ています。
統計上も、自死と関連する社会病理が証明されています。社会政策学では、完全失業率と完全自殺率が連動しているということは定説になっています。この失業のほかに、離婚、犯罪認知件数、自己破産申立件数が有意に関連しています(仙台弁護士会自殺対策マニュアル2011)。
なぜこれらが関連するかというと、弁護士の立場からすると、これらの社会病理が、自死と同じように、孤立、絶望、緊張感の持続を根本的原因として生じていることが一つの理由として考えられます。離婚事件の代理人も、刑事弁護人、あるいは債務整理の代理人もすべて弁護士の業務です。弁護士の仕事は、自死のメカニズムに密接に関連している分野を担当しているということも言えるのだと思います。
自死の要因として、精神的要因と対人関係的環境要因と両面から見なくてはならないと申し上げました。この対人関係的環境要因について業務の対象としているのは弁護士が第一であることは間違いありません。どうして紛争が起きるか、どうやって紛争を鎮めるのか、その現場に立って仕事をしているということは自死予防にとっても大きなアドバンテージです。
3)相互譲歩による紛争の鎮静化
ここの弁護士の業務姿勢についての話ではなく、あくまでも自死予防の観点、自死予防に都合の良いスタイルの話をいたします。
実は、人間関係の不具合に介入して、双方に働きかけ、双方の譲歩によって問題を解決するという職業も弁護士が第一です。和解による解決や調停やADRによる解決、示談交渉などで弁護士は普通にこのような仕事を行っています。
精神医学や心理学(家族療法やカップルカウンセリングをのぞく)、あるいはカウンセリングなどでは、自分のクライアントに働きかけるという解決方法だけが取られてしまいます。要するに、その人の精神状態を修正して問題を解決しようというアプローチです。人間関係のトラブルの鎮静化という観点はなかなか持ちにくいという宿命があります。
また、行政などは、一方の言い分だけを基に人間関係に働きかけをしてしまい、他方の言い分が初めから取り上げられずに、人間関係のトラブルがさらに大きくなり、いつまでも継続してしまう弊害が起きています。これでは自死予防の観点からはマイナス効果になってしまいます。
依頼者だけでなく、相手方にも働きかけ、双方に行動の改善を提起して問題解決を図ることも弁護士の仕事です。弁護士法によって、原則として弁護士だけに認められていることでもあります。
この弁護士の仕事の特徴については、自死予防政策にかかわる人からも、弁護士自身からも見過ごされているようです。華やかに報道される事件において、弁護士が一方当事者に味方して法外な要求をするような印象はどうしても社会にあるようです。しかし、調停やADRだけでなく、一般民事事件で和解をすることの方がむしろ通常の弁護士業務だと思いますので、その点は自信をもって良いと思います。弁護士は特に対人関係的環境由来の自死リスクには、解決の選択肢を潜在的に豊富に持っていると私は考えています。
4)人権という視点
弁護士は人権について学んでいます。人権感覚は各人によってまちまちでしょうが、人権の知識については間違いなく突出して有していることは間違いありません。
前述した自死リスクの高まりのところで、孤立感として挙げたことは人権侵害と密接に関係しています。人権についての知識があることは、自死予防には間違いなく有利です。
さらには、人権侵害ということが一方的に起きるとは限らず、一方の人権と他方の人権が衝突している状態であることもあるという理解は、解決に向かう必須の考え方だと思っています。
このような視点がない場合は、人権侵害がなされていれば、相談を受けている第三者は、侵害されている方が善で、侵害している方が悪だという形で介入をしてしまうことが多くあります。双方悪ではないということもありうるというリアリティーがなければ、介入者による新たな人権侵害が起きかねません。
5)事情聴取をする力
決めつけや二者択一的なものの見方から自由である弁護士は、通常業務として依頼者や相談者から事情聴取をしています。他人から話を聞く場合何をどう聞けばよいかということを考えながら聞く訓練が日常的になされているわけです。そして、依頼者、相談者の話の中で整合しない話があれば、機嫌を損ねないように事実を確認する技術もあるはずです。
これは対人関係的な環境が原因による自死リスクの軽減にはとても役に立つ技術です。経験上、相手の話の要点や真意を吟味して事情聴取をする力は、医師、心理士や、カウンセラーに比べて突出して高いです。それはその仕事に求められる要素が異なるからです。相手の言っていることがつじつまが合わなくても寄り添うことを目的にする関わり方と、真実を探り出して真実に立脚して関わる仕事との違いがあるわけです。相手のある問題にかかわる弁護士ならではの資質です。
但し、通常の弁護士業務と異なることは、「自死リスクの軽減」という請求の趣旨に向かっていく事情聴取ということですから、その要件事実は何なのかということを、先ほど述べた孤立、絶望、緊張の持続の要素に沿って各事件において考えていかなければならないことです。
6)弁護士の役割が軽視されている理由
以上の通り、弁護士こそが自死予防に不可欠の存在であると私は考えています。このことに気が付かないのは、理由があることです。それは自死リスクが高まる仕組みが理解されていないということにあります。そもそもこのことを最も理解しうる職業が弁護士ですから、弁護士が積極的に自死対策に関与していかないことには、共通の理解とならないことは理由のあることだと思います。
先ほどらい強調させていただいていることは、自死リスクが高まる要因としては精神的な要因だけでなく、対人関係的環境要因があるのだということです。日本の自死対策では、20世紀末から21世紀初頭の主として北欧の自死対策がうつ病対策を主として成功をしていることを受けて、精神的要因に対する対策に力点がありました。政策の中心も医師が中心であったことはその結果です。その弊害は、本来精神的問題から対人関係的問題が生じたり、対人関係的問題から精神的問題を発生させたりするという相互作用のリアルを重視しなかったということです。
このため、対人関係的問題は後景に追いやられ、生まれつきの精神疾患と対人関係由来の精神疾患を同列に扱い、精神疾患が生じたならばそれに対応しましょうという、極端に言えばそういう政策が置かれていました。しかし、近時、自死リスクを作らない社会の推進ということがいわれるようになり、明確に意識はされていないとしても対人関係の調整という視点も出てきました。但し、もっぱら社会的な問題が中心になってしまっています。例えば地域の高齢者の孤立生活という問題として扱われていますが、本来的には家族問題という視点が欠落しているように感じているところです。
対人関係は精神問題の入り口の前にある問題ですが、対人関係の問題が解決しない状態が続くと精神問題が生じるという関係にある問題です。精神的問題が発症してしまってから対策を立てるより、対人関係として解決して精神的問題を起こさない方がより簡単に、より効果的に自死予防に役に立つはずです。一度起きた自死リスクを軽減することは実際は難しいことです。自死リスクを作らないことの政策が最も有効な政策であるはずなのです。
そうだとすると弁護士が自死予防に貢献できる余地が無限に広がっている。私はそう感じてなりません。
4 弁護士としてのメッリト
自死予防対策に取り組み、学び、実践を積み重ねることによって、弁護士として大きなメリットがあると考えています。
一つは人間はと何か、人間はどうして対立し、紛争を起こすのか、そしてその解決方法はということを考えます。このことは大きなメリットを生みます。
第1に取り扱い事件が拡大するということがあげられます。このようなことを考えなければ、相談を受けても裁判手続きなどになじまなければ依頼を受けらないということがあると思います。ところが、自死問題を取り組んでいくと、事件の解決方法の引き出しが広がりますので、裁判手続きを経なくても解決の道筋が見えてくることがあります。会社内などの団体内の人間関係の問題、家族内の人間関係の修復等々、あらゆる人間関係の解決の糸口を見つけられやすくなるでしょう。
第2に、自死リスクの高い人に対する接し方は、自死リスクの高くない人にとっても心地よい接し方になります。業務上、何に気を付ければよいかということが見えてきますし、依頼者が何を求めているかということも理解しやすくなります。これは大きなメリットです。
第3に、通常事件の解決方法が見えてくるということがあります。人間が悩むポイント、訴外を受けるポイントが理解できれば、人間関係のトラブルの真の原因と解決方法が見えてきます。訴訟活動の方針自体を修正し、迅速で満足される活動ができる可能性が広がると思います。私自身の労災事件、家事事件刑事弁護にはとても良い影響があると実感しています。もっとも私の自死予防の理論は、労災事件、家事事件、刑事弁護の経験に基づいても構築されていますので、相互作用が期待できると思います。
5 弁護士が行う自死予防のイメージ
今回は、3段階ある自死予防政策の第1段階プリベンションについて説明してきました。弁護士が誰でも参加できて、また、その職業的特質からは参加するべき活動ではないかと思っています。特に日常業務に自死予防の観点をいれることはどなたにも可能なことだと思います。これが全国に広まれば立派な自死予防になるはずです。
どうしても自死予防というと、自死リスクが極限まで高まっている人に、自死を思いとどまらせるということがイメージされてしまい、ハードルが高くなってしまっているということがありそうです。
第1段階の予防については、これまで述べたとおりです。それでも一般の方にとっては重苦しいことかもしれませんが,弁護士にとっては通常業務ですし、また人間を孤立から救い、不安から安らぎに転換させる政策だと考えると、とても明るく、前向きな活動だと思うのです。私は、人間社会に不可欠な相互の安心感を作る技術を考える仕事ではないかと考えています。人類が幸せに向かう活動という明るいイメージを持っているということが偽らざる本音であります。
どうか後悔を数えずに、故人との楽しかった時間を思い出していただきたい。それがご供養だと思います。何通かの自死者の遺書を読んで感じたこと。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]
お身内が亡くなることはとても悲しいことです。その死が、病死であろうと事故死であろうと自死であろうと、遺族は自分が故人のためにもっと何かできたのではないかという気持ちを抱き、自責の念に駆られることが多いということは、身内を失くした人であれば誰しも知っていることだと思います。
この自責の念は、自死の場合は特に強くなるようです。
すでに自死の危険が高まった後で、自死を防ぐということは、本当はとても難しいことです。そして自死の危険が高まる原因や予防もやはり難しいことが多くあります。
それでも世間は、誰かが止めれば自死は簡単に防ぐことができるのではないかと誤解をしているのかもしれません。
また、国家政策としての自死予防が盛んだったころ、「自死の直前にはサインが必ずある。サインを見逃さなければ自死を防ぐことができる。」という理論が、貧弱な自死のサインのサンプルと一緒にまことしやかに流されたことにより、自死は家族が注意すれば防ぐことができるのではないかという誤解が蔓延したという事情もあると思います。
自死や自死未遂の現状を知れば知るほど、自死を防ごうと思ったら、それこそ24時間、365日態勢で気を付けなければならないということになると感じます。それは現実的には間違いなく無理です。
もちろん、無理なことはわかっていても、手を尽くしたことをわかっていても、遺族は自責の念に駆られてしまうのであって、自責の念を抱くなと言っても無理なことでしょう。
それでも、故人としては、できれば自分が死んだことで身内が後悔をしないでほしい、自責の念に苦しまないでほしいという希望があるようです。
自死の事件では、いくつかの事例で、死の直前に遺書を作成される方が多くいらっしゃいます。かなり冷静に淡々と遺書をしたためられているケースも多いように感じます。
自死に当たって、誰かを攻撃する内容の遺書の場合もありますが、圧倒的多数の遺書は家族に対する思いやりが記載されています。また、家族を攻撃する遺書というのも私は見たことはありません。
遺書の文面で多いのは、ご家族に対する謝罪です。お子さんの学校での様子や仕事の様子などについて、よくここまで知っているなあと思うほどよくわかっていて、次の目標の場面に立ち会えない、応援できないことをお詫びしています。自分が自死することで生活が苦しくなることや世間的に肩身の狭い思いをすることも謝罪していることが多いです。
配偶者に対しては、複雑な表現がある場合もありますが、その場合でもむしろ第三者が読めば、愛情にあふれながら、相手に対する尊敬と自分のふがいなさに対してお詫びが記載されているということがよくわかる内容になっています。
故人は、自分がこれから行うことについて、家族がどれだけ苦しむかをわかっており、それでも死ぬことを止められず、謝罪の言葉を残すことが精いっぱいであることがよくわかります。理屈では割り切れないかもしれませんが、自死とはそういうものなのだと考えなければならないと思います。合理的な思考ができるような精神状態ではないということは間違いないと思います。
そういう気持ちを持った自死者にとって、自分の死について少なくとも家族にだけは責任を感じてほしくないということが本音なのだと思います。遺書を拝読する限り、唯一の心残りと言ってもよいのかもしれません。
私の拝読したいくつもの遺書の内容からすれば、自死を余儀なくされるまで追い詰められた人間がこれから命を失うというその時であっても、家族との楽しかった出来事の思い出や、子ども成長、あるいは不安を忘れることができた家族とのひと時というものは、何物にも代えられない貴重な思い出で、かけがえのない財産なのだと思います。その中でも、自分と一緒にいる家族が楽しんでいたり、喜んでいたり、あるいは安心していたり、自分を頼ってくれたりしたその時の表情に、自分が生きてきた意味を感じて、慰められていたことになります。
(そういう人間としての充実した出来事の記憶すらも、自死を止めることができない。それほど自死を防ぐことが難しいということなのだと思います。)
だから、故人が生前に楽しそうにしていたこと、喜ばれていたことを思い出すだけでなく、故人と一緒にいたときにご家族自身が楽しかった出来事、喜んだ場面、安心した記憶を思い出すことが、故人にとっての何よりの供養になるのではないかと考える次第です。
これは、自死の場合だけでなく、故人をしのぶ場合に共通のご供養の在り方なのかもしれません。
特に自死・自殺の原因について、目的が立派なことだとしても、無責任に言及することが不道徳であることの説明 特にSNSでの論及には注意するべき理由 [自死(自殺)・不明死、葛藤]
日本のような自死予防対策が遅れている国では、著名人が亡くなった場合、特に自死で亡くなった場合、テレビ報道がなされますが、コメンテーターが出てきて、あれやこれや自死の原因を言い出すことがあります。
ある著名人がなくなったときには、生い立ちや家族関係まで暴露していたワイドショーもありました。自死に至った経緯としては、まったく客観的事実の報道とは思われないのですが、
お金になるのでしょう、ここぞとばかりに説明する人がいます。
私のように自死の原因が何なのかを調査して裁判などで主張する人間とからすると、どうしてそのような決めつけでものを言えるのだろうと不思議でならないということがまず率直な感想です。
そして、「自死がある以上、必ずその理由だけで自死に至る人間関係の問題があったはずだ」という信念のようなものを前提としているのですが、これまた不思議でなりません。辛い事実、悲惨な事実があるだけで、自死ができるのだろうかということについてどうして疑問を持たれないのでしょうか。
私は、人間の感情や心、人間関係ということについて、自分では怖いくらいに自分が単純化して考えているという自覚があります。自分が論じているのは、自死や犯罪やいじめ、離婚などに至る気持ちの移り変わりに限定して論じているという言い訳を自分で自分に言っているのです。本当は人間の感情はもっと複雑で個性や体調によって目まぐるしく変化するとらえどころのないものだと自分に言い聞かせて勉強をし、このブログを書いています。
パワハラ過労死のような場合でも、「マニュアルの基準を満たす。よし、労災だ。」という単純な発想はありません。なるべく多くの人から人間関係の事情を聴き、その人の生い立ちなどを調べ、当時の精神的状態を調査し、その人がその場にいたらどのように追い詰められるだろうか、特にその直前の精神状態からの変化がどのようなものかということを推し量らなければなりません。
その上でなるほどこういう事情で自死に至ったのかと合点がいくときは、突然その心情が理解できてしまい、自分自身が精神的にパニックになることもあります。
簡単に言いますと
・ 大きなストレスが生まれる人間関係の出来事があったとしても、自死を決行しない人もいる。
・ 大きなストレスだと他人からは思われなくても、本人にとっては生きることができなくなるようなストレスである場合もある
・ ストレスが大きくはなくとも、その人の精神状態からすれば、例えばもはや生きていく望みを持っていない状態になっていれば、日常的な些細なことでも自死に至るきっかけになってしまう場合がある。
特に3番目のトリガー(引き金、きっかけ)は、自死が起きる場合にほぼ必ず存在して、第三者はそこに目を向け、自死の原因だと重視します。しかし、自死予防対策の文脈で自死の原因として重視するのは、「もはや生きていく望みを持てない状態」にした原因の方です。一つのトリガーを失くしても別のトリガーがあれば自死が起きます。そしてトリガーは、通常はそれがあるからと言って自死が起きたと言えるほどの重大なものではないから、トリガーを特定することが自死予防にはならないからです。
したがって、その人と人生の時間を共有していない人が、即席の情報収集で自死の原因を議論したとしても、自死の原因に行きつくことはおよそあり得ないことだと思っています。
しかし、人間は、誰かの不幸を見ると、自分も同じような不幸になるのではないかと感じてしまう生き物のようです。そして不幸の原因を探り当てて、その不幸に自分は陥らないようにしたいと考えてしまうようです。
要するに、
その不幸は、その人の特殊な事情から起きたものであり、自分にはその不幸は起きない と感じて安心したいのです。
他人の不幸を笑ったり、誰かを非難して、自分は関係がないと安心したいというわけです。
だから、自分の家族と話すとかごく身近の人間との間で自死の原因をうんぬん言うことは仕方がないことかもしれません。
問題はSNSとかこのブログのようなインターネットです。
「この人の自死の原因はこれだと思う」という書き込みは行わないほうが良いと思います。
理由の第1は、のべてきたように、大体は間違っているからです。
理由の第2は、関連付けられた人に対して、「あなたが自死に追い込んだのだ」と言っていることになるからです。
そして通常は、遺族が、自死の原因として取りざたされます。
遺族は、自分の家族が亡くなったのですから、当然に悲しいわけです。
遺族は、死の原因が自死だということで、自分が何とかすれば死を防ぐことができたのではないかと既に自責の念に苦しんでいます。(これは、自死でなくとも、もっと良い病院にすればよかったとか、あの時自分がこういうことをお願いしておけばとか、離れて暮らさなければとか、誰しも思うことです。自死の場合はそれが強くなるわけです。)
そういう家族の精神状態の中で、自分たちのことを何も知らない人が、自分が原因で家族が自死に追い込まれたと言われることを想像することはとても難しいことです。
特にトリガーという自死のきっかけは、とても些細なことです。日常生活にはよくあることですが、その時の精神状態によって、自分だけ排除されているとか、孤立しているとか、見捨てられたとか、何でもかんでも悲観的に考えてしまうのです。
ある遺族は、お子さんを自死で失くして呆然としながらも、法事を気丈にこなしていたのでしょう。その様子を見ていた全く事情を知らない親戚から。「どうしてこうなるまで放っておいた」と怒鳴られたそうです。こうして極端な例を見れば誰しもわかると思います。
この場合も言った本人としては、亡くなった当人の死を残念に思っての発言だということはわからなくはありません。しかし、それを言って何も良いことはありません。まったくの自己満足のために、遺族を苦しめただけの話に結果としてはなってしまいます。
厄介なことは、遺族を攻撃する気持ちが無くても、配慮が足りなくて結果としては遺族や関係者が傷つくことはとても多くの事例で起きています。
例えば、上司のパワハラが原因で亡くなったということが言える場面でも、言い方によっては、「どうして嫌がる出勤をさせたのだ。こうなる前に家族ならば会社を退職させればよかったのに。」と聞こえてしまうことが良くあります。
「そんな仕事をさせなければ死ぬこともなかったはずだ。家庭の事情で無理をさせたのだ。」と聞こえる場合もあるわけです。
第三者は、浅はかな慰めを言わず、ただただ、冥福を祈ればよいと思うのですが、やはり出来事が大きすぎて自分の中で処理しきれず、余計なことを言ってしまうのでしょう。しかし、だからと言って遺族を使って処理するくらいならば法事などに出ないことをお勧めする次第です。
また、夫婦のもう一方に原因があるかのようなうわさ話がなされ、どういうわけだかそのうわさ話が当人の耳に入ってくることも多く相談を寄せられることです。
家族以外の関係者への攻撃も起きています。
一口に職場が原因で亡くなったという場合でも、取引先が原因である場合もあるのに、勤務先の人間関係がどうのこうのと訳知り顔で述べる人たちもよく目にするところです。
よくあるのは、自分が原因だと思っている人たちが、自分以外に原因があったと盛んに言いまわって、それが遺族に聞こえてくるということです。ある意味責任感が強いのでしょうけれど。他人に責任を擦り付けてはなりません。
また、その中でも本人に責任を擦り付けることがよくあります。平気でうそを垂れ流すのですが、さすがに嘘をつくのは理由がどうあれ非難されるほかはないと思います。
学校のいじめが原因だとされてしまうと、クラスの全員が攻撃していたかのようなうわさや報道が流されたりします。しかし、実際は、微力の場合が多いのでしょうが、大勢に抵抗していじめられている子に手を差し伸べている子がほとんどの場合にいるようです。そういう子は、自分が自死した子を守れなかったという自責の念がありますから、そうでもない子と比べると報道やうわさなどによって精神的不安定になり、問題行動を起こすことが出てくるようです。
書き込みを行わない方が良い第3の理由は、
このような見当はずれの書き込みで苦しめられている家族や、友人、その他の人間関係にある人たちは、書いてあることがわかり、見当はずれのことだと感じても、反論することが事実上許されないからです。そして、なすすべがなく、自分がその人を自死に追い込んだということが永遠に拡散されていくと感じていてもどうしようもないからです。
そのような無責任なコメントを出した人やそのコメントに「いいね」を押す人たちが、その投稿に対して正当な反論を当事者が書き込んだ場合にどのような対応をするでしょうか。真摯に受け止めとめて、記載者にアドバイスをする人がどの程度の割合でいるでしょうか。むしろ、仲間を攻撃されたということで、何も事情を知らないのに追い打ちをかけることの方がイメージしやすいのではないでしょうか。
少なくとも、無責任な批判をされた方は、そのように考えて、初めからあきらめる人が大勢だと思います。
結局、事情を分からないで、自死の原因について無責任なコメントをすることは、たとえそれが良かれと思ってやったことでも、正義の感情に基づいて行ったことだとしても、一方的にまったく非のない人につるし上げを行い、反論を封じて攻め続け、孤立に陥れている危険性が極めて高いということなのです。
無責任な自死の原因論を語りだしているのを視聴したら、チャンネルを変え続けようと私は思います。
ある著名人がなくなったときには、生い立ちや家族関係まで暴露していたワイドショーもありました。自死に至った経緯としては、まったく客観的事実の報道とは思われないのですが、
お金になるのでしょう、ここぞとばかりに説明する人がいます。
私のように自死の原因が何なのかを調査して裁判などで主張する人間とからすると、どうしてそのような決めつけでものを言えるのだろうと不思議でならないということがまず率直な感想です。
そして、「自死がある以上、必ずその理由だけで自死に至る人間関係の問題があったはずだ」という信念のようなものを前提としているのですが、これまた不思議でなりません。辛い事実、悲惨な事実があるだけで、自死ができるのだろうかということについてどうして疑問を持たれないのでしょうか。
私は、人間の感情や心、人間関係ということについて、自分では怖いくらいに自分が単純化して考えているという自覚があります。自分が論じているのは、自死や犯罪やいじめ、離婚などに至る気持ちの移り変わりに限定して論じているという言い訳を自分で自分に言っているのです。本当は人間の感情はもっと複雑で個性や体調によって目まぐるしく変化するとらえどころのないものだと自分に言い聞かせて勉強をし、このブログを書いています。
パワハラ過労死のような場合でも、「マニュアルの基準を満たす。よし、労災だ。」という単純な発想はありません。なるべく多くの人から人間関係の事情を聴き、その人の生い立ちなどを調べ、当時の精神的状態を調査し、その人がその場にいたらどのように追い詰められるだろうか、特にその直前の精神状態からの変化がどのようなものかということを推し量らなければなりません。
その上でなるほどこういう事情で自死に至ったのかと合点がいくときは、突然その心情が理解できてしまい、自分自身が精神的にパニックになることもあります。
簡単に言いますと
・ 大きなストレスが生まれる人間関係の出来事があったとしても、自死を決行しない人もいる。
・ 大きなストレスだと他人からは思われなくても、本人にとっては生きることができなくなるようなストレスである場合もある
・ ストレスが大きくはなくとも、その人の精神状態からすれば、例えばもはや生きていく望みを持っていない状態になっていれば、日常的な些細なことでも自死に至るきっかけになってしまう場合がある。
特に3番目のトリガー(引き金、きっかけ)は、自死が起きる場合にほぼ必ず存在して、第三者はそこに目を向け、自死の原因だと重視します。しかし、自死予防対策の文脈で自死の原因として重視するのは、「もはや生きていく望みを持てない状態」にした原因の方です。一つのトリガーを失くしても別のトリガーがあれば自死が起きます。そしてトリガーは、通常はそれがあるからと言って自死が起きたと言えるほどの重大なものではないから、トリガーを特定することが自死予防にはならないからです。
したがって、その人と人生の時間を共有していない人が、即席の情報収集で自死の原因を議論したとしても、自死の原因に行きつくことはおよそあり得ないことだと思っています。
しかし、人間は、誰かの不幸を見ると、自分も同じような不幸になるのではないかと感じてしまう生き物のようです。そして不幸の原因を探り当てて、その不幸に自分は陥らないようにしたいと考えてしまうようです。
要するに、
その不幸は、その人の特殊な事情から起きたものであり、自分にはその不幸は起きない と感じて安心したいのです。
他人の不幸を笑ったり、誰かを非難して、自分は関係がないと安心したいというわけです。
だから、自分の家族と話すとかごく身近の人間との間で自死の原因をうんぬん言うことは仕方がないことかもしれません。
問題はSNSとかこのブログのようなインターネットです。
「この人の自死の原因はこれだと思う」という書き込みは行わないほうが良いと思います。
理由の第1は、のべてきたように、大体は間違っているからです。
理由の第2は、関連付けられた人に対して、「あなたが自死に追い込んだのだ」と言っていることになるからです。
そして通常は、遺族が、自死の原因として取りざたされます。
遺族は、自分の家族が亡くなったのですから、当然に悲しいわけです。
遺族は、死の原因が自死だということで、自分が何とかすれば死を防ぐことができたのではないかと既に自責の念に苦しんでいます。(これは、自死でなくとも、もっと良い病院にすればよかったとか、あの時自分がこういうことをお願いしておけばとか、離れて暮らさなければとか、誰しも思うことです。自死の場合はそれが強くなるわけです。)
そういう家族の精神状態の中で、自分たちのことを何も知らない人が、自分が原因で家族が自死に追い込まれたと言われることを想像することはとても難しいことです。
特にトリガーという自死のきっかけは、とても些細なことです。日常生活にはよくあることですが、その時の精神状態によって、自分だけ排除されているとか、孤立しているとか、見捨てられたとか、何でもかんでも悲観的に考えてしまうのです。
ある遺族は、お子さんを自死で失くして呆然としながらも、法事を気丈にこなしていたのでしょう。その様子を見ていた全く事情を知らない親戚から。「どうしてこうなるまで放っておいた」と怒鳴られたそうです。こうして極端な例を見れば誰しもわかると思います。
この場合も言った本人としては、亡くなった当人の死を残念に思っての発言だということはわからなくはありません。しかし、それを言って何も良いことはありません。まったくの自己満足のために、遺族を苦しめただけの話に結果としてはなってしまいます。
厄介なことは、遺族を攻撃する気持ちが無くても、配慮が足りなくて結果としては遺族や関係者が傷つくことはとても多くの事例で起きています。
例えば、上司のパワハラが原因で亡くなったということが言える場面でも、言い方によっては、「どうして嫌がる出勤をさせたのだ。こうなる前に家族ならば会社を退職させればよかったのに。」と聞こえてしまうことが良くあります。
「そんな仕事をさせなければ死ぬこともなかったはずだ。家庭の事情で無理をさせたのだ。」と聞こえる場合もあるわけです。
第三者は、浅はかな慰めを言わず、ただただ、冥福を祈ればよいと思うのですが、やはり出来事が大きすぎて自分の中で処理しきれず、余計なことを言ってしまうのでしょう。しかし、だからと言って遺族を使って処理するくらいならば法事などに出ないことをお勧めする次第です。
また、夫婦のもう一方に原因があるかのようなうわさ話がなされ、どういうわけだかそのうわさ話が当人の耳に入ってくることも多く相談を寄せられることです。
家族以外の関係者への攻撃も起きています。
一口に職場が原因で亡くなったという場合でも、取引先が原因である場合もあるのに、勤務先の人間関係がどうのこうのと訳知り顔で述べる人たちもよく目にするところです。
よくあるのは、自分が原因だと思っている人たちが、自分以外に原因があったと盛んに言いまわって、それが遺族に聞こえてくるということです。ある意味責任感が強いのでしょうけれど。他人に責任を擦り付けてはなりません。
また、その中でも本人に責任を擦り付けることがよくあります。平気でうそを垂れ流すのですが、さすがに嘘をつくのは理由がどうあれ非難されるほかはないと思います。
学校のいじめが原因だとされてしまうと、クラスの全員が攻撃していたかのようなうわさや報道が流されたりします。しかし、実際は、微力の場合が多いのでしょうが、大勢に抵抗していじめられている子に手を差し伸べている子がほとんどの場合にいるようです。そういう子は、自分が自死した子を守れなかったという自責の念がありますから、そうでもない子と比べると報道やうわさなどによって精神的不安定になり、問題行動を起こすことが出てくるようです。
書き込みを行わない方が良い第3の理由は、
このような見当はずれの書き込みで苦しめられている家族や、友人、その他の人間関係にある人たちは、書いてあることがわかり、見当はずれのことだと感じても、反論することが事実上許されないからです。そして、なすすべがなく、自分がその人を自死に追い込んだということが永遠に拡散されていくと感じていてもどうしようもないからです。
そのような無責任なコメントを出した人やそのコメントに「いいね」を押す人たちが、その投稿に対して正当な反論を当事者が書き込んだ場合にどのような対応をするでしょうか。真摯に受け止めとめて、記載者にアドバイスをする人がどの程度の割合でいるでしょうか。むしろ、仲間を攻撃されたということで、何も事情を知らないのに追い打ちをかけることの方がイメージしやすいのではないでしょうか。
少なくとも、無責任な批判をされた方は、そのように考えて、初めからあきらめる人が大勢だと思います。
結局、事情を分からないで、自死の原因について無責任なコメントをすることは、たとえそれが良かれと思ってやったことでも、正義の感情に基づいて行ったことだとしても、一方的にまったく非のない人につるし上げを行い、反論を封じて攻め続け、孤立に陥れている危険性が極めて高いということなのです。
無責任な自死の原因論を語りだしているのを視聴したら、チャンネルを変え続けようと私は思います。