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モラル論について、ヒュームとカントに学び批判する対人関係学 モラルよりも人間性の回復をという意味 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

またロビン・ダンバー先生の本を読んで
目を開かされたというか、
話は、カントとヒュームの道徳の話なのです。

道徳論ということはこれまでも対人関係学で検討してきましたが、
哲学に首を突っ込むことになるとは思いもよりませんでした。

私たちの生活をストレスフルにする原因としてやり玉に挙げてきた
正義とか、道徳とか合理性ということの根っこが
どうもカントにありそうだということと
18世紀の啓蒙学者ヒュームの「共感」への着目に脅威を抱いたこと
この二つをお話ししたくなったのです。

ロビン・ダンバー先生の要約を要約すると
ヒュームは、道徳というものを
他者への共感に根差した直感的なものだと主張したのに対して
カントは、選択肢の長所短所を吟味した上での
合理的理想の産物であるべきだと主張したというのです。

ヒュームについては、現代日本では、
高校生の倫理社会の参考書にも載らなくなっていました。
これに対してカントは最重要人物ですから
ずいぶん差が付いたものです。
私もヒュームは名前しか知りませんでした。

それにしても気になるのは、ヒュームが、
「道徳の根本に他者に対する共感がある」ということを述べていることです。
これは、対人関係学の主張と重なってきます。

対人関係学も行きあたりばったりの結論を提示しているのではなく、
進化生物学や脳神経学的な知見(と言っても、文庫本とか新書ですが)
に則って立論しているわけです。
18世紀にはそのような学問はありませんから
これは一体どういうことかと
ヒュームの「人性論」を読んでみました。
(人間の本性についての考察なので、人「性」論)

驚くべきことに、知性や情念についての考察は
脳科学的知見にそったものでした。
訳が古いので、よくわからないと思いますが、
脳科学者が翻訳すればそれがわかるのではないかなと思いました。

突き詰めてものを考えるということはこういうことかと
哲学を見直したというか、自分の無学を思い知らされたというか
感じ入りました。
実際人性論の第3章の道徳のところで、
実際そういうことが書かれていました。

アントニオ・ダマシオという脳科学者はデカルトをやり玉に挙げて
感覚的な意思決定も、人間の共同生活をするために役に立っている
というようなことを脳科学的に立証しましたが、
読みようによってはヒュームも同じようなことを言っているように思いました。
そして、人性論でもデカルト学派の形式性を批判していたので、
つじつまが合うなあと一人で楽しんで読んでいました。

ただ、ヒュームに限らず、近代ヨーロッパでは、
モラルという社会規範と、他者への共感、同情というものを
あまり区別しないで論じているようです。

対人関係学では、この区別が重要だと考えています。
これを区別しないとモラルとは何か、モラルの始まりはいつか
という議論が整理できないからです。
家庭の中にモラルを持ち込むことの愚かさ、弊害を
理解できないと思います。

人間が150人程度の緩やかな一つの群れだけで一生涯を終える限り
モラルというものは不要だったと対人関係学は主張しています。
モラルという社会的ルールがなくても、
自分と他者の区別がつかないほど一体の群れとして行動していたので、
仲間が腹を減らせていたら、自分が食べていなくても食べさせたいと思うし、
仲間が怒っていたら、譲ってでも謝っただろうということです。

これに対してモラル、道徳とは
自分の思考の外に厳然として存在する客観的な規範で、
自分の感情に反してでも従わなければならないと感じるものです。

他者への共感とモラルという規範は、区別して論じないと
議論が混乱するだけです。

但し、そのモラルの根本に他者への共感、同情がある
というならばヒュームの主張は正しいと思います。

というのも、モラルが必要になったのは、
人間がせいぜい2万年前くらいから農耕をするようになって
生産性が上がったことによって人口も増加し
150人を超える大人数とかかわりをもつようになり、
さらに定住を余儀なくされたことから
かかわりを避けることができなくなったということに
理由があると考えているからです。

このような状態になると
なじみのない人との利害対立が生まれてしまいます。
人間の能力に対して関わる人数が多すぎるために
これまでの仲間のように親密に一体感を持つ仲間と
必ずしもそうではない人間が生まれてしまったのです。
人数の量的な拡大は、人間関係の希薄化な人間の存在を産んでしまったのです。

聖徳太子の17条憲法を読んでみると
人間は、どうしても自分の仲間の利益を図ろうとするものらしく、
それは結局、争いを招き共倒れに終わりがちです。
また、仲間ではなくとも人間なので、
全く共感ができないわけではなく、ついつい共感してしまうため
紛争の末に自分たち仲間が勝ったとしても
やぶれた他者の様子を見てついついて共感してしまい、
後味が悪くなったり
自分たちの価値観が殺伐としてきます。
紛争は勝利しても莫大な損害を受けてしまうわけです。

だから人間は、紛争を未然に防ぐことに努力したのだと思います。
自分たちの安心、幸せという大きな利益のために
紛争を未然に防ぐための「決めごと」を作った。
これがモラルという社会規範だと私は思うのです。

そしてモラルが社会規範であるためには
決めごとが存在するだけでは不十分で、
「そのモラルに従わなければならない」
という構成員の意識が必要だということになります。

そうすると、どうしても、
人間の感情に沿った内容が道徳の内容になっていく
ということになるのです。

「なるほどそれなら納得できる。」
「なるほどそれは大切なことだ。」
というような道徳が作り上げられていくわけです。

だからヒュームの説が、
道徳は直感的に判断することが基本だということについては
その通りだと思うのですが、
道徳のすべてがそれではない
と言わなくてはなりません。

自分の利益、自分の仲間の利益に反することでも
もっと大きな共同社会を平和に維持するためには
仲間の我慢も必要なことがある
これが大切であると思うのです。

こう考えるとカントに分がありそうです。

カントの「実践理性批判」は読んだことがなく
「道徳形而上学原論」を読んだのは40年前のことです。
なんとも心もとないので、
カントに興味がある場合は、私のまとめをうのみにしないでください。

カントは、
経験に基づく認識を排除して道徳を考えるということになると思いますので、
合理性とか、絶対的正義を突き詰めて
条件付けをせずに、こうすべきだという道徳こそ正しい
ということになるのだと思います。

ここに私は、ヒュームが維持していた人間性に基本を置く道徳から
カントの道徳論は人間性が遊離してしまう原因があるように感じました。

「人間性」という根本価値から、
「合理性」という価値に置き換わってしまう
という危険が生まれたのではないかと思うのです。
おそらくカントはこのことに気が付いたので、
晩年に「恒久平和のために」というパンフレットを作成したのでしょう。

一直線に世界が人間性を排した社会になったわけではないにしても
結局は一人の人間の幸せ、一人の人間の尊厳よりも
重大な価値があるという理屈が生まれてしまい、
功利主義、経済変革を容易にする反面
人間疎外が現代では当たり前になっている
という視点が重要になってきていると思います。

何もカントが悪の権化ということではなく
カントの理屈は都合が良いと感じた一群が
自分にさらに都合良く進化させてしまったのでしょう。

また、無自覚に合理性を礼賛する人たちも多いと思います。

カントのように根源的な合理性を説くのなら良いのですが、
どうも現代社会は目先の合理性を追求している気がします。
結局は合理性に反することがまかり通っているのだと思います。

「合理性」という言葉や「道徳」という言葉は
疑ってかかるべきだという確信が深まりました。
合理性や道徳を
人間性、共感という価値観に置き換えるべきです。

こんなことを言うと絵空事だと思われるかもしれません。

しかし、21世紀になって科学は
どんどん人間性を取り戻しています。
行動経済学やその基礎となった認知心理学、
アントニオ・ダマシオの脳科学
進化生物学やその応用科学、
人間性の回復というキーワードで科学を見ると
21世紀が見えてくるのだと思います。

家庭の在り方、職場の人間関係
学校の生活の在り方などを
あらゆる人間関係の紛争未然に防ぎ
安心と幸せを獲得していく対人関係学も
その流れの中で生まれたのだと
私は考えています。

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令和2年1月5日のSモーニングの加藤諦三氏の問題提起のその先こそ考えるべきではないのか、社会の幼児化の原因としての不安とは何か、不安と幼児化はどうしてつながるのか [故事、ことわざ、熟語対人関係学]


別のことをしていて、気が付いたらテレビがついていたという感じなので、
そこだけ聞きかじったようなものですが

心理学者の加藤諦三氏のインタビューが流れ、
(おそらく世界中の社会病理の説明は)
幼児化・退行化の広がりだとして、
その原因は不安だということをおっしゃっていました。

幼児化、退行化という言葉が出されたときは
そういう側面もあるけれど、少し違うのではないかと思いましたが、
その原因が不安だと聞いたことから、幼児化、退行化という表現も
ありうる表現かなと思い直しました。

そして私は、さあ、本題に入るのだろうと期待したのです。
幼児化、退行化の広がりの原因になる不安は
どうして世界中に広まってきたのか
という話になるのだろうと思ってしまいました。

しかし、その後はコメンテーターが勝手に話しだし
主に自分の領域に話を持っていき、
現政権批判などでお茶を濁されてしまいました。

もしかすると、このコーナーの前あたりに
グローバリズムとか新自由主義とか本質的な話があって、
後ろから前につなげて全体で理解してもらう
という狙いだったとしたら申し訳ありませんが、
途中から見た私には肩透かしの感がありました。

ただ、その幼児化、退行化が
フロイトの理論やその流れのフロムの説を紹介していたので、
肩透かしでよかったのかもしれません。
それからコメンテーターから出てきた学者がマズローでした。

いかんせん一言で言って古い。
その人たちを大切にするグループの人以外は
根拠のないものとして批判されているような理論を
金科玉条のように掲げての説明なので、
その先の議論には結びつかないのかもしれません。

ただ、せっかく不安までたどり着いたのなら
せめてその先の議論の問題提起までしてほしかったです。
そうではないと、意味を取り違える人たちが
続出することもやむを得ないでしょう。

少なくとも、コメンテーターたちは発言を聞く限り
あまりこの議論を理解しているようには思えませんでした。

その先の問題提起とは
1 幼児化を広げた「不安」とは何か。
2 その「不安」がなぜ増大したか。
3 不安がどのように人間を幼児化、退行化するか
です。

これはまさに対人関係学の独壇場かもしれません。

そう思い、ちゃっかり関口さんの番組に便乗して
対人関係学の基本的なポイントをおさらいさせていただくことにしました。

1 不安とは何か

不安は、
危険が迫ってきていることを知覚した場合に、
意識に危険が迫ってきたとことを伝えるシグナルです。

ちょうど痛みが、
体の部分に不具合が発生したことを意識に伝えるシグナルと
同じ仕組みだということになります。

そして、不安が意識に上ると
不安を解消したいという要求が起き、
戦うか逃げるかという不安解消行動を起こそうとするわけです。

この不安を感じさせる危険というのは2種類あって
一つは、生命身体の危険ということです。
生命身体の危険を知覚すると
交感神経が活発になり、心臓が激しく動き
血液を筋肉に大量に流して逃げたり戦ったりすることを容易にするなどの
生理的反応が起きます。
この一連の体の変化をストレスというわけです。

もう一つの危険が、対人関係的危険です。
人間は群れに帰属していたいという本能があり、
この要求が満たされない場合は心身の不具合を発症させます。
群とは、家族、社会、学校、職場というあらゆる人間関係です。

要求が満たされない場合で一番問題になるのが
今自分が所属している群れから追放されてしまうのではないか
ということを思い起こさせる事象があった場合です。
自分が何かを失敗した場合もありますが、
他人の自分に対する評価をみて、
対人関係的危険を感じることが問題です。

対人関係的な危険を感じると
身体生命の危険と同じように
生理的変化、ストレス反応が起きます。

これは逃げたり戦ったりすることには役に立ちますが、
対人関係的な危険に対しては役に立たないどころか
後で述べる弊害が生じてしまう困った生理現象です。

2 不安の増大の要因

ここで、不安という本質は同じでも
アメリカ大統領等の国家元首と
私たち庶民の不安は別に考えて論じるべきだと思います。

これを区別しないということは
原理論理の議論と
社会の出来事の議論を混同してしまっていることになります。

私は、庶民の不安についてまず説明したいと思います。

現代社会では、リストラ、パワハラ、いじめ等々があり
理不尽に自分が群れから追放されてしまうことが多くなりました。
とにかく帰属の見通しが不安定なことが多いようです。

低賃金は、働いても自活できない場合さえあり
社会的貧困を招いていて、
これは社会という群れからの追放を予感させてしまうことです。

特に職場の身分の不安定化は、
将来の生活にも大きな影響が出てきますから
大変ストレスが高くなるでしょう。
子どもたちへの早期教育や競争意識も
いやがうえに高くなるわけです。

さらに、弱者に冷たい社会構造ともなれば
少しでも有利な就職を感がえて
無理を承知で頑張らせようとすることは
むしろ当然だと思います。

優しさや、寛容、穏やかな暮らしが
否定的な価値を与えられてしまうこともしばしばです。

社会全体がいじめや、過労死、過労自死へと
向かって言っているような気さえします。

対人関係学的には、幸せは、
自分所属する群れの中で、自分が尊重されて帰属し続けていること
というように定義付けます。
これ以外の幸せを認めないのではなく
政策などで目標とするべき幸せの方向を
一つ定めたということです。

マズローの承認要求に似ていますが、
対人関係学は、これを群を作る人間の本能として
その発生と内容を説明しています。

おそらく、大統領とはいえ、
その支持者の支持を失った場合は
権力の座から滑り落ちるのでしょうから、
その意味での不安はあるのでしょう。

テロリズムなどは、
その背景において社会的に尊重されていないという体験から
人間関係というものをそれほど重要なものとは思わなくなってしまうために
他者の命ということに興味、関心を失ってしまっているのかもしれません。

現代社会の病理の背景に不安がある
という点に対しては大いに賛同するのです。

3 不安と幼児化、退行

しかしながら、不安による影響を
フロイトやフロムを使って説明してしまうと
またわけがわからなくなってしまいます。

対人関係学的には
危険の知覚と不安がもたらす脳機能の変化
という説明をします。

不安を抱いていると、それが強く、持続してしまうと特に、
脳の機能が著しく低下してしまいます。
複雑な思考ができなくなってしまうのです。
これは、前頭前野の機能ということになります。

分析的な思考が苦手になり直感的にインスタントに結論を出したくなる
こうすればこうなるだろうという将来予測ができなくなる
二者択一的思考になる
折衷的な思考ができなくなる
建設的な思考ができなくなる
自己防衛を第一に考えてしまう
(悲観的な思考になる。攻撃的な思考になる)
他者の感情を理解しにくくなる
共感、共鳴が少なくなる。
あたらしいことに頭が柔軟に対応できなくなる。
等です。

これを幼児化と呼べないこともないのですが、
幼児化と言ってしまうと、
このような特徴が見えなくなってしまうと思いますし、
なろうとして幼児化の思考になっているのではなく、
環境が人間の思考力を奪っている
という本質が見えなくなると思うのです。

左上の対人関係学のリンクから対人関係学のホームページに行って
参考していただければ幸いです。


蛇足を付け加えます。
このような不安は、その時々の政権の濃淡によって
ある程度大きくなったり小さくなったりすると思うのですが、
そういう小手先の問題ではないと思います。

むしろその時々の政権に原因を求めてしまうと
政権交代さえ起きれば問題は解消するというような
錯覚を起こさせてしまう危険すらあるのです。

根本的な不安を招く社会構造とは何か
対人関係的危険の観点と
人間が尊重されるとは何かという観点から
根本的な解決を考えていかなければならないと思います。

また、社会構造が変革されることには時間がかかることが予想されますので、
あわせて、今の社会の中においても
幸せを獲得する作業を意識的に行っていくことも必要となると思います。

対人関係学はどちらかというと
後者に照準を当てて研究を行っている学問です。

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ロサンゼルス暴動を対人関係学の立場から分析してみる Los angels rlot 1992 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

ロサンゼルス暴動を対人関係学の立場から分析してみる

先日、テレビでロサンゼルス暴動の特集を観ました。
つい28年前の出来事であり、記憶にも残っていたのですが、
そのテレビ番組で新しい事実を知ったことで
群集心理というか、人間の感情、秩序等について、
対人関係学の考えを説明するための
ちょうどよい教材であることに気が付きました。
知識はペディアで補充しています。

目次
1 ロサンゼルス暴動とは何か。関係する事件を含めて
2 暴徒化の原因と暴徒化する条件
3 罪のない人への攻撃はどうして起きたのか
4 テレビで事件を知った人はどうして被害男性を助けようと思えたのか。
5 事件はどうして終息したのか

1 ロサンゼルス暴動とはなにか。背景となる事件を含めて
 1)ロサンゼルス事件
1992年4月29日、のちに述べるLA市警の警官への無罪評決をきっかけにアフリカ系アメリカ人たちが暴徒と化し、ロサンゼルス市街地で暴動を起こして白人や韓国系アメリカ人が経営する商店を襲い、放火や略奪をおこない、 これがロサンゼルスだけでなく広範囲に広がった。
映像も残っているが、たまたまLA市内をトラック輸送仕事で走行していた白人トラック運転手、レジナルド・デニーが交差点で信号待ちをしていた際、暴徒化したアフリカ系アメリカ人にトラックから引きずり出されて、コンクリート塊でこめかみを強打したり、頭部に数十キロの鉄の塊(エンジンブロック)を投げ落とされたりした。この暴行をTVのライブ中継を見ていた地域住民のアフリカ系アメリカ人によって、彼は助け出されて病院で開頭手術などを受け一命を取り留めている。
主な襲撃目標となったLA市警は自らを守るだけで手一杯の状況となり、暴動を取り締まることをしなかった。
暴動による被害は死者53人、負傷者約2,000人を出し、放火件数は3,600件、崩壊した建物は1,100件にも達した。被害総額は8億ドルとも10億ドルともいわれる。この事件での逮捕者は約1万人にものぼり、そのうち42%がアフリカ系アメリカ人、44%がヒスパニック系、そして9%の白人と2%のその他の人種が含まれていた。
 2)ロドニー・キング事件
1991年3月3日、アフリカ系アメリカ人男性ロドニー・キングがスピード違反を犯し、LA市警によって逮捕された。その際、20人にものぼる白人警察官が彼を車から引きずり出して、装備のトンファーバトンやマグライトで殴打、足蹴にするなどの暴行を加えた。たまたま近隣住民が持っていたビデオカメラでこの様子を撮影しており、この映像が全米で報道されアフリカ系アメリカ人たちの怒りを膨らませた。 白人警察官に対する裁判の結果、警官達の“キングは巨漢で、酔っていた上に激しく抵抗したため、素手では押さえつけられなかった”との主張が全面的に認められ(実際はおとなしく両手をあげて地面に伏せたキングが無抵抗のまま殴打され、医療記録によるとあごを砕かれ、足を骨折、片方の眼球は潰されていたとされるが、裁判では認められなかった)、事件発生から1年経過した92年4月29日に陪審員は無罪評決を下した。これについては、白人住民の多かったシミ・バレーで法廷が開かれ、陪審員に黒人は含まれていなかった事も原因の一つであるといわれる。 この裁判の報道の1時間後にロサンゼルス暴動は始まった。

 3)ラターシャ・ハーリンズ射殺事件
1991年3月16日、アメリカ系アメリカ人の少女(当時15歳)であるラターシャ・ハーリンズが韓国系アメリカ人の女性店主、斗順子(トウ・スンジャ、Soon Ja Du、当時49歳)によって射殺された。店主は少女がジュースを万引きしたのだと勘違いして少女を咎め、もみ合いとなった末に少女がオレンジジュースを店において出ていこうとした。その時は店主によって背後から銃撃頭部を撃ち抜かれて少女は殺された。事件の判決は同年11月15日に出されたが、殺人罪としては異例に軽いものであった。この判決はアフリカ系アメリカ人社会の怒りを再び煽ることとなり、無実の黒人少女を射殺するというこの事件により、黒人社会と韓国人社会間の軋轢は頂点に達した。

2 暴徒化の原因と暴徒化する条件

 1)原因
暴徒化の要因として、ロドニー・キング事件とラターシャ・ハーリンズ射殺事件がきっかけになったことは間違いない。二つの事件は、それぞれの被害者だけの問題ではなく、アフリカ系アメリカ人全体が当時の社会の中で置かれた状況を象徴的に表していた。二つの事件の被害ほど深刻ではなくても、ロサンゼルスのアフリカ系アメリカ人であれば、誰もが差別的取り扱いを経験したことであったと思われる。二つの事件は。氷山の一角だったはずだ。
問題はその社会の状況が暴動につながる、そのメカニズムである。不合理に対する怒りということが言われる。もちろん、それも間違ってはいない。しかし、怒りが暴動に発展するメカニズムをもう少し分析的に理解する必要があると思う。不合理な扱いがなされれば必ず暴動が起きるわけでもない。
まず、理解していただきたいことは、怒りとは危険を感じた場合に出現するということである。自分か自分の仲間の危険である。人間も哺乳類の多くも、危険を感じ取るとまず不安を覚えて、この不安を解消したいという要求が生じる。この要求に基づいて、逃げるとか戦うという行動に移ることができる。不安を解消する行動とは、危険から逃れようとすることが動物の原則であるが、相手を攻撃して危険を消滅しようすることもある。逃れようとする場合の感情が恐怖であり、攻撃して解消しようとする場合の感情が怒りである。まとめると、怒りには、自分か仲間に対する危険の覚知が先行する。
ロサンゼルス暴動においては、ロドニー・キング事件とラターシャ・ハーリンズ射殺事件が先行する。そこから推測できる危険とは何かを考えてみよう。
二つの事件から導かれる社会的状況からは、当然、身体生命の危険を感じたであろう。些細なことで、自分を守るべき警察官によって、逆に瀕死の重傷を負わせられたロドニー・キング事件、また勘違いで攻撃されて無防備な状態で射殺されるという事件。アフリカ系アメリカ人というだけの理由で被害者になったのだと感じれば、アフリカ系アメリカ人にとっては、日常的に深刻な生命身体の危険にさらされていたことになる。
しかし、もう一つの危険が存在する。それが対人関係的危険である。アフリカ系アメリカ人は、ロサンゼルス、あるいはアメリカという社会において、自分が仲間として認められていないという危険意識、疎外感を強く抱くようになったはずだ。その後の裁判においても、加害者が優遇されれば、自分たちは守られていない、尊重されていないという認識が深まるだろう。事件が起きた時に感じていた対人関係的危険は、裁判によって強固なものになった。白人の支配層からは人間として尊重されていないという不気味な危険意識があった。韓国系商人からは、自分たちの存在がやがて韓国系商人にとって代わられるという将来に対する大きな不安があったが、これが裁判によって州ぐるみに行われているという絶望感を抱いたのだと思う。誰かに差別されているのではなく、社会ぐるみで差別されているという感覚になったと思われる。
つまり、ロサンゼルス暴動という大きな怒りは、大きな危険の意識、危険解消の要求に支えられていたのだ。ロサンゼルス暴動においても、その直前に身体生命の危険と、対人関係の危険の深刻な状態をいやというほど感じさせられ、この二つの危険からの開放要求がとてつもなく強くなっていた。
しかし、この危険と危険解消の要求だけでは、それは不気味な恐怖が主たる感情だったはずだ。これが、具体的な怒りの集団行動に至るためには、次に述べる条件が必要だったと考えられる。
2)条件
暴動化の条件は、危険と危険解消要求を共有する仲間の存在が強烈に意識されたことである。
まず、危険を感じる側のカテゴリーが、きわめてわかりやすかったことである。アフリカ系アメリカ人に対する差別であるから、外見からわかりやすい。差別されている「自分たち」が見てわかるというわかりやすさがポイントだった。
ロドニー・キング事件の警察官に対する無罪評決が起きたとき、怒りのポイントもわかりやすかった。この裁判のニュースの後に、街で歩いているアフリカ系アメリカ人が見知らぬ人間だったとしても、彼らが怒りを表明していれば、それはロドニー・キング事件の無罪評決への怒りであることが「自分たち」の間で簡単に確認しあえたのだ。
街を歩いている見ず知らずのアフリカ系アメリカ人たちの間で、説明を抜きにしても一つのことで怒りを共有している仲間であるという連帯感が生まれた。コミュニティが即席に成立してしまったのだ。ロドニー・キング事件評決の怒りであり、アフリカ系アメリカ人への差別に対する憎しみというテーマにおいては。即席の仲間の利害は完全に一致していた。
仲間ができてしまうと、仲間の秩序が形成されていった。ロサンゼルス暴動においては、支配層である白人社会が、社会秩序維持の装置である裁判によって、アフリカ系アメリカ人に危険の意識を与えていたという背景が重大な問題である。このために、「既存の社会秩序」は自分たちを守るものではないという感覚を持たされてしまっていた。秩序のうちの差別の部分だけに反対するという理性的な分析と行動はもはや期待できない状態になっていた。このため、既成秩序であれば、すべてが攻撃の対象ということになってしまっていた。
具体的に差別をした白人系企業や韓国系企業だけでなく、差別をしなった企業も含めてあらゆる白人系企業や韓国系企業が放火や略奪の対象となった。自分たちが迫害されているという不安を解消する表現になるならそれでよかったわけである。自分たちに不安を与えるものは存在自体を否定することが不安解消のためには有効だった。専門的かつ正確な表現を使えば、既存の秩序や正義は、自分たちを苦しめるものだ、「くそくらえ」ということであった。

ここで、怒りの特徴の説明を付け加えたい。
まず前提となる不安解消要求が解消行動にスムーズに移行しないと、解消要求は大きくなっていく。その後も合理的な解消行動が見つからず不安が持続してしまうと、不安解消要求もますます肥大化してしまう。そうすると、脳の活動に変化が生じてしまう。複雑な思考をする能力が極端に低下してしまうのだ。思考は二者択一的になり、将来のことまで考えが回らなくなり刹那的な行動をするようになる。「それをすれどうなるか」ということも考えられなくなる。他人の感情という複雑なことも考えなくなる。
次に、仲間の存在を認識すると、不安解消行動としては恐怖ではなく怒りが選択されやすくなる。仲間がいれば勝てるという気持ちが強くなるという事情もあるが、ロサンゼルス暴動の場合は仲間を守るために勝たなくてはならないという使命感が怒りを選択させたようだ。
怒りの行動が始まれば思考の単純化がますます進んでいく。仲間のすることは、否定することができなくなる。人間は仲間だと思う他者を批判することをためらうようになる。だから、放火や略奪が始まっても、それを批判する力が失われる。心の中で、無意識の言い訳をあれこれ行っても、仲間を擁護しようとするのである。その最たるものは、仲間の逸脱行為に参加することである。逸脱行為をしている人間は、自分の逸脱行為をだれにも注意されない、否定されないために、許された行為だという意識が生まれてくる。こうやって暴動の秩序が形成されていく。暴動は、無秩序が生まれるのではなく、暴動をする即席コミュニティの新たな秩序が形成されるのだ。
怒りを抱いているときは、恐怖は感じにくくなる。恐怖を感じない相手を力で屈服させることは簡単ではない。こうしてロサンゼルス市警は暴動を鎮圧することを放棄してしまうのである。

3 罪のない人への攻撃はどうして起きたのか

 たまたまロサンゼルスを通りがかっただけの、罪のない人であるレジナルド・デニーは、自らの行動の罰を受けたわけではない。彼を攻撃した人たちは、彼が誰なのかもわからなかったはずだ。攻撃した人たちが知っていたことは。「彼は自分たちの一人ではない。」ということだけだった。アフリカ系アメリカ人という外見からわかる特徴が「自分たち」をわかりやすくさせた。これは同時に「自分たち以外」の人間もわかりやすくさせてしまった。
 暴徒はすでに二者択一的思考に陥っていた。自分たちは仲間であると同時に自分たち以外の人間であれば敵であり、自分たちを攻撃している者であり、自分たちを苦しめる存在になってしまっていた。強烈な利害関係の一致で形成されたコミュニティからすると、コミュニティの外の者は、同じ人間だという感覚が失われてしまう。敵であり、純粋に怒りをぶつける対象になってしまう。相手に対する共感が排除されてしまい、容赦のない攻撃が可能となってしまった。それが、レジナルド・デニー事件である。

4 テレビで事件を知った人はどうして被害男性を助けようと思えたのか。

 テレビでレジナルド・デニー事件を見ていた複数のアフリカ系アメリカ人は、直ちに現場に駆けつけて彼を救出した。救出した人間相互には面識がなかったという。彼らは暴徒化に加わらなかった。彼らも、ロドニー・キング事件とラターシャ・ハーリンズ射殺事件やその他の出来事から、二つの不安を感じていて、不安解消要求を抱いていたことは間違いないと思う。しかし、暴徒とはならなかった。この点をテレビで見たことと次に述べる暴動の鎮静化のことが、私に本稿への着手を思い立たせた。まず彼らはなぜ暴徒化しなかったのか。
 救出メンバーは暴徒というコミュニティ形成の段階に参加しなかった。暴徒という結果をテレビで見せられただけであった。暴徒コミュニティが、その場の「自分たち」の感情の共有を、相互作用によって作っていくということがよくわかるエピソードである。まず、大声で怒鳴るという少しの逸脱行動を許容し、共有し、こぶしを振り上げるアクションが投石というアクションに発達し、投石が窓ガラスにあたると、自然に破壊活動に育っていき、放火や暴行という行動に発展していくのである。その発展の過程における一つ一つの段階において、「自分たち」の行動に対する許容が起きる。許容さることでもっと大胆な行動に出る。それも許容していく。秩序とは、このように、仲間の行為に対する迎合によって形作られる。一度できてしまった秩序は秩序自体がメンバーの迎合の対象となり、秩序が強いものになっていくのである。強い秩序は、服従ではなく迎合によって作られる。
Stanley Milgramの服従実験(アイヒマン実験)を再評価する 人は群れの論理に対して迎合する行動傾向がある
doihouritu.blog.ss-blog.jp/2019-01-05
 救出メンバーは、このような秩序形成過程に参加しなかった。即席コミュニティの住人にはならなかったのである。すでにできた秩序は救出メンバーが是認する秩序に反していた。だから、罪のない被害者に同情することができ、救出しようとすることができた。もともとそのメンバーの「人となり」ということもあったかもしれない。しかし、彼らがうっかり、初めからその場にいたら、攻撃に加わらないということがあったとしても、攻撃を止めるということができたであろうか。疑問を留保しておく。

5 事件はどうして終息したのか

 暴動の終息のきっかけも最近見たテレビ番組で初めて知った。なんと暴動の終息を呼びかけたのは、そもそもの暴動のきっかけとなったロドニー・キングその人のテレビを通じた鎮静の呼びかけであった。
 暴徒化のきっかけは、ロドニー・キング事件の無罪評決であった。暴動化した理由が自分たちアフリカ系アメリカ人に対する差別による不安解消であったが、きっかけは、ロドニー・キングに対する同情であった。暴動の大義名分がロドニー・キングの無念を晴らすということであり、ロドニー・キングこそ、自分たちの象徴的な人物だった。
そのロドニー・キングが怒りを抑えて仲良くしようとスピーチしたとあれば、秩序を統一させていた的がなくなってしまう。怒りが一気にエネルギーを失ってしまったということだったと思う。もともと、怒りという感情も一時的なものであり長続きしない。略奪や放火という生まれながらにして悪いことだと思い続けてきたことを、評価はともかく事実として自分たちが行っていたこともわかってはいた。一気に怒りは冷めてしまい、暴徒化秩序は消滅し、一時的なコミュニティは崩壊した。ロサンゼルス暴動の幕を閉じたのも、暴動が始まった理由を裏付けるエピソードだった。

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セクハラは群れを作る人間の本能によって握りつぶされるされる。伊藤詩織氏とH議員の被害者との扱いの違いに学ぶ [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

伊藤詩織氏がジャーナリストから性暴行を受けたと主張し
損害賠償を請求した裁判で
東京地裁は、伊藤氏の主張を認めた判決を出した。

伊藤氏に関しては
顔と名前を出して性被害を訴えたということで、
一方では称賛と励ましの声が上がったが、
もう一方では、
ハニートラップ、枕営業という中傷の外
飲みについて行った方が悪いという
性犯罪につきものの被害者の落ち度論が
第三者から挙げられていた。

極端な挑発がなければ
落ち度があったところで同意なき行為は道義上許されない。
それなのに被害者が責められてしまうと
被害者にとってみれば
自分こそが道義に反する行動をしていたと言われているようなもので、
精神的に大きな打撃を受けることは簡単に想像できることである。

もちろん、このような被害者の落ち度という論調に対しては
女性の権利の立場から大いに批判が上がった。

奇妙なことは、
今回伊藤氏を擁護、支援したのがリベラル系で、
伊藤氏を中傷したのが自称保守系という傾向がみられたことだ。
加害者のジャーナリストが、首相寄りで
首相礼賛の新書を出版するような
傾向を持った人物であることが関係しているのかもしれない。

伊藤氏を非難した人たちは
ジャーナリストや首相を擁護しようという
心情にもとづいて非難したのかもしれない。

お身内はともかく、男女関係については
首相は定評のある方なので、
このジャーナリストの事件に関連付けられることは迷惑だろう。
ここでもなにがしかの忖度が働いて
その結果首相の足を引っ張る皮肉が生まれていたのかもしれない。

さて、数年前に
野党第1党のベテラン議員H氏が
タクシーという密室で性犯罪を行ったということで
伊藤氏の判決の直後に
書類送検をされるという事態になり
そのH議員が離党したというニュースが飛び込んだ。

この問題は数年前に明らかになりニュースにもなった
しかし、当時は、
離党や辞職の話は出ず、
党内の役職を解かれただけで終わっていた。
当時の党首は女性である。

被害の重大さに違いがあるのかもしれないが
伊藤氏の場合は一介の民間人が加害者であるのに対して、
H議員は国会議員という公的な立場の人間である。

もしこの政党が女性の権利を擁護することも
政策の一つに入れているならば
微罪としての処分をすることは理解に苦しむところである。

さらに不可解なことは、
この政党の党員たちが
微罪処分に対して批判をしなかったのかということだ。

この政党からは
女性の権利の政策を極端とも思われるほど重点課題に掲げて
立候補し、有権者に宣言していた人たちもいて
何人かは国会議員になっている。

この女性の権利の活動家は
微罪処分に対して反対を表明しなかったのだから
身内の性犯罪に対して著しく寛容だった
と言わざるを得ない。

今回の書類送検を受けても
その政党からは、H氏に対して
離党処分や辞職勧告の動きの情報はない。

H議員の性犯罪を不問に付した人たちのほとんどは
伊藤詩織氏を擁護、支援していたはずだ。
なぜ、伊藤氏を被害者として擁護、支援するのに
同じ性的暴行の被害を受けた
H議員の行為の被害者に寄り添って
性暴行をただそうとする
女性の権利の活動家がいなかったのか
そこが問題なのである。

政党外の女性の権利の活動家も
なぜ、H議員やこの政党の
女性の権利侵害の軽視を批判しなかったのか
そこが問題なのである。

私は、影響力は少ないながら
女性の権利の観点から批判をし続けてきて
同調者が現れないということから
よく記憶しているし、
現在の状況も変わりがない。

そしてもしかすると
伊藤氏を擁護した人たちの中には、
H議員の被害者は
ハニートラップ、枕営業という中傷の外
飲みについて行った方が悪い
タクシーに乗った方が悪い
性犯罪につきものの被害者の落ち度論によって
精神的バランスをとっている人も
いるのではないかという疑念がある。
そうでないと批判がないことが整合できない。

特に政治的な問題から
権力に仕掛けられた等と考えている人もいるかもしれない。

いずれにしても被害者女性の心情を思いやるという感覚は
初めから排除しているのではないかと疑りたくなる。
そうだとすると、結局、伊藤氏を中傷した人たちと
同じ発想だということになる。

ここで、誤解を受けないように説明をしておく。

私は政治的議論をしたいのではなく、
左翼やリベラルを批判したいのでもない。

あくまでも、性暴力加害者をかばい
女性の権利侵害が無視される現象が起きる
そのメカニズムを検討したいだけである。

人間は、仲間をかばうという本能がある
ということをいいたいのだ。

認知心理学では
単純接触効果
プライマリー効果(これは二つの意味があるので注意)
等として説明されているようだ。

対人関係学では、
人間は本能として仲間を無条件に守ろうとする
そういう性質のある個体だけが群れを形成して
生き延びてきたのだというし
単純明快な主張をする。

この観点から見ると、
ジャーナリストを擁護した人たちは
・元々知り合いだった
・政治的な立場が共通で仲間だと意識しやすかった
・あるいは単純に政治的理由
等という理由で
ジャーナリストをかばおうという気持になりやすかった。

もうひとつ注意していただきたいことがある。

対人関係の対立が起きている場合は
一方の味方をするということが
同時に他方を敵として攻撃することを意味する
ということになりがちだということだ。

加害者のジャーナリストを仲間として守るための行動として
伊藤氏を非難していたのである。

これは、仲間という一つの秩序を維持しようという形の意思である。
仲間だと認識した以上
仲間を守り、自分たちの群れの秩序を守ろうとしてしまう。
このために、客観的真実がどこにあるか
という探索ははそれほど重要でははなくなる。
客観的真実、一般的な価値観よりもよりも
仲間の利益が優先事項となるのである。

そうであるから、
例えば会社内で性犯罪があったとしても
会社の大部分の人間にとって
加害者の方がより仲間だと意識されているのであれば
性犯罪は大ごとにはならず
握りつぶされてしまう危険がある。
典型的な例は、加害者がベテラン社員で
被害者が派遣社員等で一時的に社内にいるような場合である。

そのような場合には、
多数派にとっては
権利侵害がなされているにもかかわらず
女性が悪いということで
権利侵害を救済しない後ろめたさにに
落ち着きが欲しくなる。
自分達という仲間が卑劣な集団ではない
という落ち着きである
これは人間の本能なのだ。

こうなると、加害者は仲間で人間であるが
被害者は仲間ではなく
人間扱いする必要がない
という無意識の区別が生まれてくる
大変恐ろしいことだ。

今回伊藤氏を擁護、支援した人が
広範囲に広がった一番の理由は、
伊藤氏が名前と顔を出して被害を訴えたからである。
具体的な人間の、具体的な苦しみが
映像として、音声として直接感じ取ることができたので
しかも繰り返し報道されたということもあり、
伊藤氏に対する仲間意識が生まれたという効果があったはずだ。

野党のH議員が苛烈な批判を浴びなかった理由も
全く同じことの裏返しだ。
H議員は顔も名前も知っている
仲間という意識が持ちやすい。

その反対で被害女性は顔も名前も分からない
だから心情を理解しようとする的がなかったようなものである。

だから、特に政党という結束が求められる組織は
容易に政党内の秩序を守り、H議員を守ろうとする
空気が形成されて
あえてその空気に逆らおうとすることができない状態に
なっていたのだろうと思う。

私が言いたいのは
このようにセクハラによる権利侵害の問題は
難しいということだ。
難しくしているのは人間の本能である
仲間を無意識にかばおうとしてしまう本能
群の秩序を無意識に守ろうとしてしまう本能
それが被害者の方を攻撃する理由である。

顔も名前も分からない女性の心情は
なかなか思いやることができない。
人間の能力なんてそんなものだと自覚しなくてはならない。

だから常日頃女性の権利を主張する人たちでさえも
伊藤氏を擁護、支援することはできても
H議員の被害者を擁護、支援することをしなかったのだ。
仲間であるH議員を攻撃することがためらわれたのである。

セクハラに対して戦いを挑もうとするならば
感覚的な議論ばかりをするのではなく
人間の本能を見据えて取り掛からなければならない。

世論に大きな影響を与えたのが伊藤氏の行動だということも間違いがないが
被害者が顔や名前を出さなくても
権利侵害が回付されなければならないことに異論はないだろう。

そういうことがクリアになった
伊藤氏の判決とH議員の書類送検
という二つのニュースであった。


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「DV」サイクルという学説などない。レノア・ウォーカーの暴力のサイクル理論とは似て非なるもの。 The Battered Woman ノート 3 各論 2 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

1 レノア・ウォーカーの暴力のサイクル理論

DVサイクルという言葉は、現代日本が作った造語です。
DVサイクルを発見したとされるレノア・ウォーカーは、
DVという言葉を使っていません。
レノア・ウォーカーは、「バタードウーマン」という本を出しています。
バタードとは、虐待された人間であり、
虐待者はバタラーと表現します。
本書では、「暴力のサイクル理論」という訳語になっています。

ちなみにバタードウーマンの定義は
「男性によって、男性の要求に強制的に従うように、当人の人権を考慮することなく、繰り返し、肉体的・精神的な力を行使された女性」
とされています。

「DV」という言葉は、とらえどころがなく曖昧で、
かなり広い意味で使われています。
レノア・ウォーカーの暴力のサイクル理論は
このような広い意味でのDVに当てはまるものではなく
上記のかなり限定された事案に対する分析です。

バタラーとバタードウーマンの関係は
時期的に3つの相に分けられ、
それが繰り返し起きている、
これが暴力のサイクル理論です。

第1の相は、緊張の高まりの時期です。
この時期も些細なものながら暴力事件が起きています。
女性の関心事は、正しさや人権ではなく
暴力をエスカレートされないことだけです。
このため、進んで自分が悪いとアッピールしたり、
怒りや痛みがあるにもかかわらず無いと思い込むようになります。

しかし、このような緊張の持続に耐えられなくなり、
不用意な刺激的言動を行なってしまい
緊張が高まっていくとしています。

第2の相は、激しい虐待です。
虐待者はコントロールが全く効かなくなります。
第2の相に移るきっかけは女性にはなく
男性の体験した外的な出来事や内面的状態の変化です。
虐待者はコントロールが効かなくなり
女性がひどいけがをしても暴力を止めることができなくなります。
だから虐待者の方が
虐待の内容を詳細に記憶していないこれが特徴のようです。
逆に虐待を受けた方はこれを詳細に記憶している。
レノア・ウォーカーは、このように報告しています。

ここが現代日本の現実に保護されている女性とその夫と正反対のところです。

日本においてもレノア・ウォーカーのいうような夫婦間虐待はあるので、
そういう場合は筆者の言う通りなのかもしれません。
確かに、そのような場合、虐待の事実について、
虐待者は事実を否認しますが、その言い分で考えると
つじつまの合わないことで相手がけがをしている
ということになってしまうのでわかります。

女性側のいわゆるヒステリーの場合も
(男性に対する虐待とは言えない場合が多いかもしれませんが)
自分ではあまり詳細には覚えてはいないようです。
攻撃者の方が覚えていないということは
興味深い指摘だと思います。

要するに怒りに我を忘れているということなのでしょうが、
どちらかというと、後で述べる
自己防衛意識が強烈になりすぎて
解離や短期記憶障害が起きているような感じなのでしょう。

女性は、救急車の出動を要請するような怪我をしない限り
手当てを受けないそうです。
第1相の否認の心理が働いているわけです。
実際の私が担当した事件でもそうでした。
「なんで診断書取らなかったの」と
後で悔しがることが多いのです。

かすり傷や転んだだけで、他覚症状のない診断書をとる
という場合とは事情が違うことがはっきりわかります。

第2相では被害を受けているはずの女性側も
男性に対して怒りを放出しているような記述があるのですが、
第2相は複雑で、
虐待者が怒り続けていても
虐待を受けた女性は第1相と同様な精神状態になる
という記載もあり、少しわかりづらいです。

バタードウーマンは、大方の予想に反して
結構夫に対して反撃しているようです。
やられっぱなしではないという記述があちこちにあります。
手が出る数も負けてはいないようで、
前回お話ししたように、夫を殺すのも女性の方が多いとされています。

確かに筆者はバタードウーマンには、
強さがあるということも指摘していました(42)。
気弱でボロボロの服を着て髪の毛はぼさぼさで
というイメージの修正を繰り返し求めています。

第2相は1番時間的には短く、
第3相、第1相の順に長くなるようです。

第3相は、やさしさと悔恨、そして愛情の時間です。
虐待者は、自分の虐待を恥じて償いをして
二度と同じことはしないと誓約し、許しを請うようです。
虐待を受けた女性は、この時期の男性が
真実の男性の姿だと思うそうです。

この第3相の時期があることが重要で、
サイクル論の根幹になっているだけでなく
配偶者加害の理論の根幹になっています。

つまり、どうしてこれだけ虐待されるにもかかわらず
虐待を受けた女性は、
虐待者の元から去らないのかということです。

この第3相の時期が幸せで
いずれ、この時期だけになるのではないかという
幻想を抱くのだというのが、
その問いの回答になるからです。

なお、虐待された女性が家を出て行った場合、
約10%の男性が自死をすると書いてありました。
家を出ることは大変危険のある行為であることは
レノア・ウォーカーによって示されていることになります。

また、虐待を受けた女性が虐待者を殺すのは
第3相から第1相に移行した時だとしています。


2 虐待行為の理由、虐待者の心理(私見)

レノア・ウォーカーは、何度も何度も
自分は虐待者とはめったに話さないと注意しています。
情報源を明確にしていることは極めて良心的な学者だと思います。

だから、虐待者の心理というものを分析はしていません。
虐待の背景としては
女性は自分の所有物であるから教育のために暴力を使う
という差別感、大家族主義を述べるくらいです。

しかし、本書で上げている具体例のほとんどが
私の分析を指示する事情を述べています。
おそらく筆者がそれに気が付かないということはあり得ない
そう感じるのですが、
筆者はそれを明示していません。

私が夫婦間虐待の事例などを分析した結果は、
「虐待者は、自分の立場を守ろうとして
女性に対して虐待をしている。」
というものです。

根本は防衛意識です。
但し正当防衛ではないので、
正当化できない防衛意識と明示しておきましょう。

何を守るのかということについては
時代により変遷が見られるようです。

確かに過去、例えば昭和の年代においては、
妻に対して夫の優位さを確保することが念頭に置かれており、
優位さが失われそうなときに
暴力が出るということがあったようです。

しかし、現代に時間が進むにつれて
優位さではなく、
虐待者の方が関係性を失う危険を感じたときに
暴力衝動が起きるという表現が適切になったようです。

この原理は男性も、女性もある程度共通のようです。

「関係性を失う」というのは、
例えば自分の立場がなくなると感じる時、
自分に対する相手の評価が低いと感じる出来事があった時、
自分が侮辱された、尊重されていないと感じたとき
等の対人関係的危険を感じたときということになります。

究極には、関係性からの排除を予感させる場合です。

昭和の時代に優位さを失うときに危険を感じた理由は
当時においては、男性は女性に対して
優位でなければ関係性を失うものだ
という社会的な固定観念があったからでしょう。

現在はなかなか優位性を保つという意識は持ちにくいので、
優位性を基準にすることにはならないようです。
但し、虐待を受けている方から見ると、
結局優位性を保ちたいのだとしか思えない
ということを実感として持つということも真実だと思います。

虐待者自身が、
本当はいつまでも一緒にいたいだけなんだ
ということに気が付かないことが多いように思われます。
いつまでも一緒にいるために、自分が尊重されなければならない
尊重されていなければ自分は見限られるのではないか
という意識に上らない感覚があるように感じられます。

だから何に怒っているか自分でもわからずに
尊重されていないと感じても言葉に出すことはできず、
イライラに気が付いてほしいけれどそれも言えない
何とかしたくて攻撃をしてしまう。
そんな感じなのかもしれません。

虐待を受ける側が、自分の度の行為が相手を激怒させたのか、
虎の尾を踏んだタイミングが分からないことも理由があります。

一つには、関係性が失われるというのは虐待者の主観的な反応であり、
客観的には別に顔がつぶされたと感じる必要はない場合だからです。
少なくとも虐待を受ける方は顔をつぶしたとは思っていません。

また、虐待を受けた女性が同じことを言ったとしても
その時の男性の内的状態が、外的出来事によって変化している
という事情があるからです。
この点の筆者の指摘(63)は正しいと感じます。

例えば会社で上司から理不尽な扱いを受けて
なんとも悔しくて仕方がないまま帰宅した場合とかですね。

但し、女性の発言は一般的に不用意です。
男同士なら絶対言わないということも
平気で言ってしまっていることが多くあります。
そう言えば大学の心理学で習ったことがあります。
女性は男性以上に男性に対して無防備なところがあるというものでした。
でも、だからといって暴力が正当化されるものではありません。

もう暴力のきっかけがひとつわかりにくい理由が
虐待者が女性の発言を勘違いした場合が
多いのではないかと思われることです。

裁判などで、虐待を受けた者の主張と虐待者の主張が違うのですが、
虐待者の主張は勘違いか幻聴がきっかけだと解釈し直すと
ああそうだったのかと納得がゆきます。

そういう意味で言ったのではないのに
つまり単なる事務連絡の発言をしただけなのに
悪くとらえて自分が馬鹿にされていると勘違いをして
怒りだすということが結構多く見られます。

また、どういう場合に自分の顔がつぶれたと感じるかについては
その人それぞれ違うようで、
またその時の精神状態によっても違うので
そういうことからも予想が難しいということがあるようです。

根本的な安心感、信頼感がないのですが
それはもっぱら自分に対する評価の低さ、劣等感によるもののようです。

虐待者は、無駄に自己評価が低いのです。
だから
女性の方が社会的地位の高い職業に就いている
自分が失業した、収入が減った
左遷された
暴漢に襲われて負けてしまった
あらゆることが自分を否定することになってしまいます。

虐待者は、けっこうあちこちにケンカを売っています。
よくあるのが、自動車を運転していて
余裕のない運転者が割り込み等をすると
聞くに堪えない悪態を吐くというものです。

だから、虚勢を張ることは自分を守るために
どうしても必要な行動です。
実力以上に見せようと絶えず表面的に努力しています。

嫉妬深いのもこういうことからきているわけで、
自分に自信がなく、自分と女性との関係性にも自信がないから
女性が自分を見限って
別の男に近寄っていくのではないかと考えるのです。
女性を浮気性とか淫乱とか攻撃しますが、
自信の無さの裏返しにすぎません。

だから、虐待者は女性を嫌っているのではなく
いつまでも自分を見捨てないでいてほしいという気持でいるようです。
虐待者からは離婚を言いださず、
虐待を受けた女性からの離婚の申し出を拒否するのは当然です。

また、第3相も当たり前です。
嫌いでも虐待したいわけでもないわけです。
別れるのは嫌なのです。
自分を大事に扱ってほしいということは
恥ずかしくて言えないために
暴力になるだけです。

この事情も男性も女性もあるようです。
わかってほしいけれど言葉に出すことが恥ずかしいということですね。
親に注意されて反論できなくて
「死ね」という中学生みたいなものです。
(親の方が余計なことを言っていることが多いかもしれません。)

暴力や暴言についても
心から相手に悪いことをしたなあと後悔するのです。
自分を見限るかもしれないと心配になるために
必死にフォローしているわけです。

そのときの二度としないという気持は間違いがありません。

しかし、怒りの情動にとらわれてしまい、
自分の冷静な感情が失われ、
相手を攻撃しきることだけが意識になってしまっているのです。
自分を守るという意識が
自分が相手と関係性を継続したいという意識が
逆に相手を攻撃してしまっているという
お互いにとっての悲劇があるのだと思います。

レノア・ウォーカーは、虐待をやめる方法として
怒らないで主張すること
威圧しない話をすること
という二つの条件を上げていますが
正しいと思います。

それをするためには、
相手がかわいそうだから、相手を守らなければならない
という情動を対立させることが有効だと思いますが、
これも訓練という作業が必要だと思います。

もう一つは、家族との関係では自分を守らない
家族に殺されたら本望だと
そういう気持の訓練でしょうね。

これ、案外、身体生命の危険の場合はできるのです。
我が身を犠牲にしても家族を守るということですね。
ところが、対人関係の危険、家族から追放されるという危険の場合は
家族を守らないで自分を守ってしまうようです。

同じ事を、離婚後の子どもの研究をした
J.S.Wallerstein も述べていました。
身体生命の危険は我が身をなげうっても子どもを守る
しかし、離婚となると子どもよりも自分の感情が優先となると。

3 日本におけるサイクル

レノア・ウォーカーのサイクル理論は、
欧米の社会を前提に話されています。
日本においては事情が違うようです。

ほとんどが第1相で
第2相もほんの一瞬
そして、明白な第3相はない。
こんな感じではないでしょうか。

割とはっきり3相に分かれているのは
結婚前のカップルかもしれません。

なぜならば、日本人は
自分が悪いといってもあやまることはあるでしょうが、
埋め合わせにはっきりとした優しさを示すとか
許しを懇願するとか
二度としないと誓約するという
オーバーアクションは起こしにくいからです。

行政の相談の記録を見ても
こじつけにこじつけを重ねて
DVサイクルを教え込もうとしている様子がうかがえます。
全くマニュアルから抜けられないし、
何でもかんでも保護の対象としようとしているからです。

そもそもDVサイクルで説明をするのは無理があるのです。
また、根本は、レノア・ウォーカーのいう
虐待とまでは言えない場合に無理に当てはめようとするからです。

日本家庭では
家庭内別居をすることが多く、
そうやって衝突を回避しようとしているようです。

そうして何年後かに
ようやく口では自分が悪かった仲よくしようと切り出しても
全く心が動かない状態になっているわけです。

あるいはそうなる前に
元に戻らないと思った方が逆切れして
相手を追い出すとか、自分が子どもを連れて出ていく
ということが起きるようです。

サイクルとしては回っていないようです。

第3相があるから結婚生活を維持するというのは
日本ではあまり説得力がないように感じます。

4 なぜ、虐待があっても自ら去らないのか(私見)

レノア・ウォーカーは、この理由として
一つに学習性無力感ということを指摘し、
もう一つとして暴力のサイクル理論を上げています。
暴力のサイクル理論が理由になるということは、
先に述べた第3相があるため、
希望を持ってしまう。離れられないというものです。

第3相があるから立ち去らないというのは
日本においてはあまり説得力はないのではないか
ということは今述べたとおりです。

学習性無力感というのは、
訳が分かりにくいのですが、
自分がどうして虐待を受けるかという
原因が分からず対策も立てられないと感じることが
何度か繰り返されることによって、
出来事に抵抗をすることができなくなっていくという
反応が起きてしまうという行動学的な説明です。

初めから改善をあきらめてしまうというものでしょうね。

レノア・ウォーカーは、うつ病との近似性についても言及しており
大変興味深く学ばせていただきました。

私見ですが、
ここでも対人関係的危険がキーワードになると思っています。

つまり、人間は本能的に群れを作ろうとする動物だということです。
もう少しだけ具体的に言えば
①群の中に自分を置きたくなる。
②この裏返しで、群から追放される予兆を感じると
身体生命と同様の危機感と生理的反応が生じる(対人関係的危険)。
③無条件に群れの存続維持を図ろうとして
群の秩序を維持しようとする。
④群れの弱い者を守ろうとする。

一つに、どんなに虐待を受けても
家族というユニットを感じていると
自分はそのユニットから離れることによって物事を解決しようとする
選択肢がなくなるということです。

これは、パワハラを受けている労働者も
退職するという選択肢は不思議となく
追い詰められても
「このまま苦しみ続けるか」それとも「死ぬか」
という二者択一的思考になってしまうことが
よく見られています。

群から離脱するという選択肢は
人間の場合持ちにくいようです。

二つ目には、虐待を受けて仲間として扱われない
という扱いをされると、逆に
何とか見放さないでほしい、
自分を承認して、仲間として認めてほしい
という気持を起こさせるようです。
これの極限的な表れが洗脳です。

三つ目は強い者の言動を中心に
秩序を組み立ててしまうようになります。
いじめの場合の傍観者はまさにこの作用が起きていると思われます。

いじめの場合、しばしば被害者までも
いじめ行為に同調しているかのような態度を示すことがあります。
からかいやいじりだということで
恐怖や屈辱を否認しますが、
これはこのように仲間でありたいとか
仲間の秩序を壊したくない
という要求の表れだと考えると理解できますし、
なおさら悲惨な状態なのだと思います。

レノア・ウォーカーは、
暴力のサイクル理論の中で、
第1相において、被害者が
これ以上被害を大きくしないために
自分の非を認めたり、相手の要求に逆らわないということを言いますが、
自分を守ると同時に
家庭を守ろうとしているのかもしれません。

人間が群れを作るのは一人では生きていけなかったからです。
群の外にいると不安になり
群の中に戻ると安心する
こうやって心身のバランスをとってきました。

ところが群れの中にいる方が緊張が高まるということになると
心身のバランスが取れなくなり、
心身の不具合が生じるということは
残念ながら理にかなったことになります。

以上のように、虐待を受けても
家族から離脱するという選択肢を持ちにくい
むしろ虐待している当人に対して
何とか自分を認めてほしいとしがみついてしまう
自分を犠牲にしても群れの秩序を守りたい
という人間の本能から
家庭から去ることをしないというのが実態だと思います。

このことを理解しないと
本当に保護が必要な人ほど保護を拒否する
ということが理解できないでしょう。

5 感想

長距離の出張と役所での缶詰が続いたことを良いことに
古典をじっくり読ませていただきました。
役所のDVサイクルというものに違和感があったのですが、
それは作者レノア・ウォーカーの責任はなかった
というのが感想です。

バタードウーマンという
かなり過酷な体験の中での出来事として書かれたものである
ということを理解できれば
色々な学びがあることが分かりました。

問題なのは、家庭内虐待ということがない事案に
DVサイクルを持ってきていることに
違和感の正体があったということのようです。

DVという言葉はとても便利ですが、
あまりにも広範囲になりすぎて
それにも関わらず対応が一律だというところに
夫婦の悲劇、そして何よりもお子さんの悲劇が生まれる原因がありそうです。

どうして、そんなに無理をしてまで
レノア・ウォーカーの理論や、
虐待対策を機械的に当てはめようとするのか
原典を読んで、ますますわからなくなりました。

是非復刻版の出版をお願いしたいと思いました。

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自己肯定感なんていらない。それは社会の問題を個人に責任を押し付ける専門用語。ではどうするか。 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]



これまで私も
「自己肯定感」というものが大切なのではないかと
無条件に考えてしまっていたところがあったかもしれません。

自己肯定感や自尊感情がないとどうなるかということで、
言われているのは、

社会で成功しないとか
喫煙、飲酒、未成年の未婚の母等も自尊感情が低いことが原因だとか
学校の成績が上がらないという身近なことや
離婚、犯罪、自死の原因になるのだ

といわれれば、
自分や我が子の自己肯定感が低いのは大変だ
「自己肯定感を高めなければならない」と
心配になってしまいます。
若者自身の中に「自分は自己肯定感が低い」
と悩む人も多いそうです。

学校教育や国の若者政策においても
自己肯定感を高めるための政策というものが
莫大な予算を投じて行われているようです。

でも
自己肯定感とか自尊感情とは何でしょう。
自己肯定感を高めるということはどういうことでしょうか。

自尊感情や自己肯定感という言葉の意味は
必ずしも定まってはいないようです。
人によって内容が違うのです。

自分を好きだと思う感情をいう人もいますし
自分の現状をありのままを承認することという人もいます。
自分を大切に思う気持だという人もいます。
自分のすべてに満足する気持ちなんて言うのもありました。

でも
自分のすべてに満足する人なんていないと思います。

自分が自分を好きだというのもよくわからない。
「私は自分が好きだなあ」と思っている人っているのでしょうか。

また、自分の現状をありのまま承認するというけれど
自分の現状を把握することはとても難しいことです。
そんな高い認識力を持たなければならないなら
ほとんどの人は自己肯定感がないということになると思います。
無くてもどうでもよいということになりますね。

自分を大切に思う気持ということはあった方がよいですが、
それは具体的にはどういうことということの
説明はあまりないように思われます。

おそらくそれらの定義は
ネガティブリストを裏返しにしたものなのでしょう。
つまり自己否定感や
自己肯定感が低い時の心の状態を並べ上げて
そうではないと言えることを
総論的に述べたというような気がします。

ちなみに自己肯定感が低い場合の例が
挙げられているサイトがありました。

自分に自信がなく不安になりがち
自分で決められず人の意見に流されやすい
他人の評価を気にしすぎる、何かあると落ち込みやすい
将来に対する希望をもてない、意欲を持てない。
どうせ何をやってもうまくゆかないと思う
自分なんて価値がないと思う。物事をすぐにあきらめて投げ出す。
怒りっぽい、他人に干渉しがち
他人を否定することが多い

こんな感じでしょうか。

全部、正常な人間だと思いますけれどね、私は。
これらの悩みのない、あるいは少ない人間は
私はあまり付き合いたくないですね。

ところで、どうやって自己肯定感を高めるかというと

考え方を変える
親の対応で、褒め育てる
何か他人の役に立つことをして評価される
何か他人から評価される体験をする。
こんな感じなんですよ、本当に。

後は高額な費用のセミナーだとか
カウンセリングを受けるということが一般的でしょうか。

どうして自分が好きだなんて言う変わり者になるために
高額の費用を払わなければならないのか
そう考えるとおかしな話です。

そもそも自己肯定感って
その人の属性みたいなものなのでしょうか
いわゆる自己肯定感が高い人、低い人みたいな。
放っておけば変わらないものなのでしょうか。

そうではなくて
もしかしたら、その時のその人の置かれている状況が
心みたいな形で反映しているだけなのではないでしょうか。

自己肯定感が低いとか
ネガティブリストの心持になるのは、
自分の置かれている環境に原因があるのですよね。

受験競争を一つとっても、
他者より成績が悪ければ、
他者より偏差値の低い学校に行かなければならないし
学校によって、就職の条件が違う
そして、下手なところに就職すると
社会保険がないとか、長期の就業が保証されないとか
甚だしいのはブラック企業だったり、過労死したり
ということにつながるわけです。
「自分は大丈夫だろうか」と問い続けていたら
ネガティブリストの心持に、それはなるでしょう。

昔は成績が悪いことは格好悪いみたいなものですんでいたのが
一生を極端に左右するということになれば
それはネガティブリストの心持になることは
当たり前のように思われます。
むしろそれが正常な反応ではないでしょうか。

結構子どもは早い時期から敏感で
小学校の4,5年生になると
苦労しているご家庭では「正社員になりたいね」なんて
学校の昼休みに話しているのです。

子ども本人が厳しい社会に気が付かない場合でも、
親はそうはいきませんから
自分の子どもの弱点などにピリピリしていますし、
よそのお子さんを親がライバル視している場合もあります。
親の自分に対する対応を見て
さらにネガティブリストの心持になるのは
簡単に想像できると思います。

自己肯定感や自尊心とモチベーションの研究は
自己肯定感の役割を否定しているものもあります。

成績が良い時に自己肯定感が高まるけれど
だからと言ってその後も成績が上がり続けるかというとそうではなく、
成績が落ちれば自己肯定感も低下するだけだ
という結果があります。

それから自己肯定感が高くても
飲酒、喫煙、未成年の未婚母は出現する
という結果も出ています。

自己肯定感や自尊感情が大切だ、高めなければならない
なんていう考えは眉唾かもしれないと
少し構えてかかる必要がありそうです。

自己肯定感の高低は、結果に過ぎないのではないでしょうか。
その時にその人を取り巻く状況がその人を追い込んでいる状況だとか、
その人が何かに悩んでいる状態、何らかの事情で生きづらい状態
こういう状態に対する心の反応を
「自己肯定感が低い」と表現しているだけではないかと思うのです。

「置かれている環境の状態を反映した心のありよう」ということならば、
その人が置かれている環境を改善しないのに
結果としての心のありようだけを修正することは
無理があり、不健全だと考えています。
心の機能をマヒさせるだけではないかという心配があるのです。

誰しもネガティブリストの心持になるような環境を作っておきながら
その結果人間として当然の反応をする者たちに対して
自己肯定感が低いとか、自尊感情が足りないと
その人間個人に責任があるかのように
すり替えているだけなのではないかという疑問がわいてきました。

もちろん、そのような社会がすぐに変わっていくわけではありません。
特に子どもたちは、大人が作った社会で生き抜かなければなりません。
そうやって、社会を動かないものだと考えて
柔軟性のある個人の感じ方を制御して
社会を生き抜くということが実務的な考え方だと言えるようにも思います。

しかし、その副作用を心配する必要はないのでしょうか。

心や感情が現在の環境を反映しているとしたら、
それは生きるための反応だということです。

体の痛みは、痛みを感じる部分に傷害があるから
休ませて、手当をして、使わないようにして
回復させることを、意識に伝える役割があります。

心の痛みも、
本来痛みを感じることによって
自分をその環境から離脱させたり
環境に働きかける(自分の行動を修正する)等の
対人関係という環境を改善する役割があるはずです。

環境をそのままにして
意識だけ変容させるということは
この心のメカニズムを変容させてしまうことです。

当然に感じるべき苦しいという感覚を麻痺させることによって
本来撤退するべき事態から撤退せずに
心身を消耗させていったり、
苦しみを感じにくくして
他者に共感する能力を摩耗させている可能性はないのでしょうか。

例えば、「そんなことで悩むなんて負け犬だ」と言うとか。

人間性が摩耗していき、
心がすさむということはないのでしょうか。

もちろん自己肯定感を高めようとしている人たちが
このような結果を意図しているわけではありません。
「それは自己肯定感があるとは言わない。」
とおっしゃることは承知しています。
しかし、結果としてそういうことになるのではないかということです。

また、根本原因が変わらないならば
一時的に自己肯定感が高まるけれど、
やがてすぐに元のネガティブリストに戻るのではないか
という懸念もあります。

もっと副作用がなく、
それでも現実の社会を前提として
ネガティブリストから脱却する方法があるなら
それを考えてみるべきだというのが私の主張です。

ではどうするか。

色々ある自己肯定感の定義の中で
「自分のありのままの状態を認識し否定しない。」
ということがあったと思います。

しかし、その人のありのままの状態を否定しないで受け入れるのは、
本人ではなく、その人の属する人間関係や
社会なのではないでしょうか。

人間関係の中で自分の欠点や失敗も受け入れられていれば
その結果を反映する心持としては
ネガティブリストの心持にならないと思うのです。

自分を取り巻く人間関係が
自分の現状を否定的に評価するからこそ、
ネガティブリストの心持になるのではないでしょうか。

しかし、あちこちの人間関係のすべてが
その人のありのままを受容する人間関係に
そう簡単に転換することはないでしょう。

私自身、
現実の人間関係の中で
仲間だと信じていた人の裏切りや、
理不尽な扱いを受けて思い悩むことが途切れません。
積極的に攻撃してくるひと
仲間だと思っていた人が攻撃者に協力しているのを知ったとか
そのくせ、自分たちは正しいと主張する集団。
理不尽なことから自分を守りながら
生きていかなければならない社会なのかもしれません。

今考えていることは、
その人の「心の拠りどころとなる人間関係」を
一つ作ることだと思います。
自分がその中に好きなだけいられる人間関係です。
何があっても追い出されない人間関係です。

自分が失敗しても、不十分なことがあっても
期待外れみたいなことがあっても
責めない、笑わない、批判しないで
ありのままを受け入れる人間関係です。

子どもだって、自分で考えてした行動ならば
親はあまり口出しをしないようにする。
メリットデメリットを提示するなどの
助言をすることは良いとして
子どもが、自分で考えてすることを
邪魔をしないということですね。

どうでもよいとはいえないとして口を出すのは
必要最小限にする。

そういう人間関係の中にいることができれば
その他の人間関係でどんな嫌なことがあっても
逃げ場にもなるし、
他の人間関係から追放されることも
それほど深いダメージを受けなくて済みます。
大切な人間関係のために頑張ろうという気も起きます。

帰属に不安のない人間関係を作ると、
本来の自分の能力が発揮されやすくなります。

逆にどこに行っても自分が受け入れられないという不安を抱えていると
不安にばかり意識が向いてしまって
何をやるにしても集中ができないのです。

パワハラが多い職場は
パワハラを受けたくないということに意識が集中するために
ケアレスミスが多くなるわけです。

こういう人間関係が本来は家族であることが一番なのでしょう。
それも現在はいろいろな事情があって
なかなかうまくゆきません。
それだけに家族を壊す方向での働きかけは
とても罪深いと思います。

さて、それでは家族でも友人関係でも
どうやってそういう人間関係を作ればよいのか
ということなのですが、
100パーセントを目指さなければ
案外簡単なものです。

自分が一番大切な人間関係に
まず自分から、
どうでもよい所を増やして干渉を最低限にする
失敗や不十分点を責めない、笑わない、批判しない
ここだけは合理性とか正義とかそういうことを抜きにする。
そういう習慣を作るということですね。

他人を変える唯一の方法は
自分が変わってみせるしかないのです。
お手本を示すという表現が人間関係において
しっくりくることでしょう。
とにかく相手の反応を気にせずに
仲間をひたすら大切にするということです。

もちろん嫌な顔もしないということです。

そういう受容の態度を
10回のうち3回成功させれば
仲間はあなたの変化に気が付くでしょう。
あなたの努力の方向に気が付くでしょう。

あとは受容の競争になるはずです。

でも
それほど、それほど劇的な人間関係の変化ではないですよ。
おそらく少しずつ、居心地がよくなる
ということだと思います。

それでもこれは副作用もないはずです。
なぜならばこうやって、人間が
数百万年前から群れを作ってきた方法だからです。
人間の本能を利用する方法というわけです。


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大切な人間関係でぎくしゃくしている、居心地が悪いと感じる方へ。「どうでもよい領域」を増やす努力をお勧めします。 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

離婚事件で、
暴力も、脅迫もないという事案なのに
モラルハラスメントだDVだと主張される場合に、
夫婦の会話が、指図とダメ出しばかりだった
と相手に感じさせていたケースが多いように感じます。

職場や学校でも同じかもしれません。

聞いてみると間違ったことを言っているわけではない。
言わなければならないことを誰も言わないから言っている
そういう感覚を持っているようです。
そうこのブログみたいな人ですね。

しかし周囲は同調してくれません。
注意されるべき人が庇われて
注意した自分に冷たい視線が浴びせられるように感じることでしょう。

「私は孤立を恐れない。生きたいように生きる。」
という方はそのまま頑張ってください。
何とか、自分を変えたい、あるいは、
自分の主張がもう少し受け入れられたいと思う方は
この記事を読み進めてください。

<前提知識、人間は行動の自由が制限されると怖く苦しい>

人間も動物です。
動物の基本は、自分の身を自分で守ろうとするということです。
だから、危険が襲ってこなくても
自分で自分を守ることができない状態だと感じることとは
耐え難い恐怖であり、苦痛です。

例えば目隠しをされるとか、騒音で危険の予兆を聞けないという
感覚を遮断された場合、
手足を縛られるなどの行動を制限された場合、
具体的な危険がなくても、恐怖を感じ、苦痛を感じます。

心理的にも同じようです。
典型的なことは
やることが多すぎる場合と
自分の判断でやり方を決められない時です。

例えば、他にやろうとしていることがあるのに
あれもやれこれもやれと言われる場合(心理的感覚遮断)
何をやっても先ず不十分な点を指摘され
どうしてよいかわからなくなっている場合(心理的行動制限)ですね。

<心理的に圧迫を加えた相手は苦しくなる>

例えば妻が離婚を切り出す典型的な場合、
夫は、妻にとって
自分の身を守ることを妨害する攻撃者であり、
自分に恐怖を与える嫌悪の対象になってゆきます。
一緒にいることが嫌で嫌でたまらなくなるようです。
安心して一緒にいることができなくなりますよね。

夫の言っていることが間違っていなくてもです。
間違っていなくとも、自分で自分を守ることができなくなるから
やはり恐怖や嫌悪が襲ってくるからです。

良かれと思って、
あるいはそれが合理的だから、
あるいはそれが正義に反するからと
口を出す理由はもっともなことが多いのですが、

それが蓄積していくと
そんな些細なことで口を出して
相手を不愉快にした上、自分のポイントを下げる
という不合理なことになるようです。

<なぜ口を出すか>

元々相手が、自分にとってどうでもよい人なら
あれこれ口を出すということはなさそうです。
どちらかというと、自分と利害関係が一致し、
自分としても一定の水準を期待している人
そういう相手だからこそ口を出すように見受けられます。

愛情の表現の場合、愛情の裏返しの場合もあれば、
自分勝手な、自分の利益追求の場合もあるようです。
自己保身で相手の落ち度を探すということもないわけではないようです。
ここでは、愛情関連を考えてみます。
利益一致型ですね。

相手に求める一定水準は、かなり頭の中の理想の場合が多く
妄想に近いイメージの場合があるようです。
自分と同じことを考えているはずだという無茶が
「当たり前」になっています。

だから、自分の求めるところと違うところを批判するし、
足りないところ、失敗、落ち度ばかりを探すようです。
言わないと自分が不安になるのかもしれません。
そういうネガティブなところに意識のフォーカスがあたっているために、
感謝の気持ちはなかなか意識には上りません。

知らず知らずのうちに
自分の頭の中と同じ頭の中を求めているし、
自分の理想を実行することを求めてしまっているわけです。

<ではどうするか>

本当は、相手は自分の愛情を注ぐ対象だと
そういうところをしっかり意識して、
自分の外にある存在だということを自覚すればよいのでしょうが、
なかなかそれはできません。

相手のすることについて
「それはどうでもよいことだ」という領域を作り
できるだけ増やしていくということが有効だと思います。

どうでもよい領域で相手がしたことは
批判しない。感謝だけ口にするということです。

例えばその日の夕食を妻に任せたとします。
作り方や出てきたものについても批判しない。
口や態度は感謝だけを表す。
これは、「男子厨房に入らず」のエッセンスだと思います。
もちろん夫が食事を作ったときは
酒の肴ばかりだとかめんつゆ使ったものばかりだとか言わない。

例えば子どもの髪形についても
校則に違反しないなら子どもに任せる。

例えば、部下に任せたリサーチのまとめ方が悪くても
文句を言わずにどうフォローするかだけ考える。

心がこもらなくても感謝の言葉を発する。
これが基本です。
相手が不愉快な思いをしたら、
自分が悪くなくても詫びる、気遣う
これが日本民族の伝統だったはずです。

その代わり、自分の思うようにやってくれた
感謝を忘れても大喜びをする。
こうやって相手を少しずつ誘導していくということを
理想にいたしましょう。

<何がどうでもよい領域か>

どこにどうでもよい領域を作るかですが、
今述べた「相手に任せたこと」
「相手が自分のためにやっていること」
これは基本です。

それから、結果を出さなければメリットはなく
あなたが嫌われるというデメリットばかりあるのですから、
「言っても仕方がないこと」は言わない。
あなたが効果的に相手の行動を機嫌よく修正できるなら口を出しましょう。
「相手を不機嫌にさせる」ならどうでもよい領域なのかもしれません。

それから、自分で自分の身を守りたいという人間の本能がキモですから
「相手が自分で考えてやっている行動」は
できるだけ口を出さないということが基本です。
口を出すならよくよく出し方を考えましょう。

子どもに自分の部屋を与えたら
病気になりそうにならない限り片づけを我慢するとか
嫌がられないように片付けるとかということなのかもしれません。

「相手のプロパーのこと」はどうでもよい領域でしょう。
化粧とかファッションとかですね。
金がかかりすぎるというのはプロパーではないかもしれませんが。

<どうでもよい領域をどう増やしていくか>

模擬試合みたいなことで使えるのは
SNSです。
私たちみたいなつい口を出してしまう事例に不足はないようです。
特に男性は多くいます。

何でもかんでも否定的なコメントをするという人は、
フェイスブックでよく見られます。
他人の立てたスレに、
言わなくてもよいコメントをしてスレ主を不愉快にする人、

自分の問題意識が勝ちすぎて
論点がずれていることをかまわずにコメントしてしまう人などは
第三者から見ると(第三者も見るのです)、
罪のない人に言いがかりをつけてへこまそうとしている
としか見えません。

フェイスブックのあなたの友達が間違ったことを言っても、
日本や社会に影響が出るということはほとんどありません。
例え議論がかみ合っている場合であってさえ、
あなたが正義感を発揮させる理由なんてなにもないと
思えるコメントが見られることがけっこうあります。

もしかしたら、そういうコメントが
リアルな人間関係で
あなたが大切にした人にしていることの客観的な姿かもしれません。

そういうSNSをこのブログに書いたような観点から見て
ああ、これがどうでもよいことに口を出しているのだなと
勉強することもできますし、

思い込みや、間違いだらけの記事に対して
突っ込みを入れたくなるのを抑えるという
実践的な訓練もすることができます。

SNSは、他人のどうでも良いことばかりなので、
一切他人の記事にコメントをする必要はないのです。
そうしてどうでもよいことに対して
賛成できる部分に賛成したり、
近況を気遣ったりするという技を身に着けることができるかもしれません。

そうして、余計な口を出すということは
何かしら、自分自身を守っている場合なんだなということが
うっすら分かるようになれば、
自分の大切な人を大切にする方法が分かってくるし、
それが自分を守る最適な方法なんだということが
見えてくることと思っています。

自戒を込めて。

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智に働けば角が立つ。現代社会の人間関係の問題点の根幹にこれがあるのではないだろうか [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。
意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。

夏目漱石の草枕の初めの一節である。

人間がたった一人で生きていくなら
このような煩わしいことはないでしょう。
すべて自分以外の人間とかかわって生きるがゆえの苦労です。

大きな決断をする場合だけでなく
日常的な動作をする際にもついて回る
対人関係的な悩みといえるでしょう。

智に働けば角が立つというのは
よく考えて行動すればよいというものではないという意味です。

人間は、考える道具として正義とか道徳とかに照らして
自分の行動を評価して先に進んだり立ち止まったりします。
そのほかにも合理性だったり、効率だったりを
行動を考える道具としています。
ここで大切なことは、考えて行動する場合、
正義や道徳、合理性や効率ということを考えることに夢中で、
他人や自分の感情をわきに置いて考えてしまうということが起こりがちです。

そうすると、良かれと思ってした自分の行動によって
誰かが自分を否定されたと感じてしまう
ということが起こってしまうことがあります。
否定されたとまではいかなくても、緊張関係が生まれてしまいがちになります。

正しいことを言っているからと
それについてこないほうが悪いという態度をとってしまいがちになっていないでしょうか。
良かれと思ったことで、妙な緊張関係が生まれてしまう
これが智に働けば角が立つメカニズムです。

情に棹をさせばというのは、
人情や相手の気持ちばかりを考えて行動を決めるということです。
人情や感情を川に見立てて、その川を漕ぎ出すという表現です。
こうすると誰かを傷つけるということは格段に減り、
無用の緊張関係は生まれないけれど、
本来するべきことができなくなったり、
それはおかしいのではないかと思うことも
やらなければならなくなったりする。
自分というものさえも見失ってしまうことがある
という不都合が生じてしまい、修正がきかなくなります。

特に深い考えもなく、他人や自分の気持ちも考えず、
一度決めたからこうだということばかりしていると
当然、誰からも相手にされなくなってゆきます。
文字通り窮屈な思いをすることになるでしょう。

なるほど、漱石の言うことももっともかもしれません。

おそらく夏目漱石は、何らかの事情があって、
大事な人間関係とそうでもない人間関係を
区別することができなかったのかもしれません。

会社の同僚や、近所のお店の人、そして家族と
それぞれの人たちに異なった対応をする
ということができなかった可能性があります。

まず、最も身近な人間関係である家族においては、
効率よりも気持ちが優先されるべきです。
不合理な思いをしても
家族を苦しめるよりは、
安心させるのが家族の役割なのでしょう。

確かに、よりよく生きようとすることは大切ですが、
それによって、必要以上に家族を苦しめることは
長い目で見れば間違っているというべきなのでしょう。

例えば、子どもが宿題があるのに遊んでしまって
宿題が終わらない。
こういうことが続いているので、親としては、
宿題をきちんきちんとやらないと
やるべきことを放っておく癖がつくと心配するでしょう。

あるいは決められたことはやらなければならないという
即時的な正義感が発動されるかもしれません。

ここでガツンと注意しなければならないのですが、
例えば、
「宿題が終わるまで夕飯は抜きだ」
という懲罰的な行動に出るとします。

言われた方はお腹がすくし、
弟や妹はおいしそうに食べています。
大変悔しい、恥ずかしい気持ちになります。

これが智に働いた行動ということになるでしょう。

かわいそうだから、今日はいいや
と思ってしまうと、どこまでも宿題も勉強もしなくなる。
これが情に掉さして流されるということでしょう。

夫婦の間においてもそういうことはあって、
旅行の計画を立てる場合に、
効率よく名所をめぐる、
せっかく行くのだから見られるだけ見るということで、
自分勝手な、少し無理な計画を立てると
相手は窮屈で時間に追われる旅行になると思い
なんとなく理由を言葉にできないけれど嫌だなと
思うようになるかもしれません。
相手の感情は理解できても
合理性を優先してしまい、
大きな声を出したり、
ムキになって自説を押し通そうとすると
角が立ったり、窮屈になるのですが、
どうしてわかってくれないのだろうと
理解できなかったり
相手に合わせて修正することができなかったりすることがあると思います。

ではどうするか。

例えばですが、子どもの例で言えば、
夕飯を食べさせてから
宿題を付きっ切りで一緒にやってあげる。
何かひらめいたら大げさに褒めてあげる。
こうできればよいのですが、
即時的な正義感が働いて
子どもに嫌悪の気持ちが生まれてしまうと
なかなかそれができなくなります。

宿題が終わるまで食事をさせないということがあっても
親も一緒に食事をしないで
宿題が終わって親子で
おいしく夕飯を食べるなんてことも想像できるかもしれません。
「やることやった後だと飯もうまいなあ」
なんて言いながらほめてあげる。

これが智に働きながら情に掉さすということかもしれません。

職場の場合は、少し、智に働くことが優先されてきますが、
それでも情を忘れると
弱い立場の人たちは、苦しいばかりの職場になってしまいます。

どうも現代社会は
智に働きすぎて、情がないがしろにされているのではないか
そう思えることがしばしばあります。

どうも私たちは正義や効率、合理性というものに
最上の価値をおくように教育されてきたような気がします。

しらずしらずのうちに
正しいことを言っているのだから
相手は自分に賛成するべきだという考えをしてみたり、

要領の悪いことをしている仲間に
嫌悪感を抱いてしまったり、

目的のはっきりしないことをやることに
他人事ながら批判したりしてしまいます。

誰かの気持ちを優先させて行動する人間を見ると
目的に向かってまっすぐ進んでいないと言って
イライラしたりすることはないでしょうか。

現代社会の智に働いて角が立つ現象だと思います。

正義、合理性、効率、ということが行動原理になれば
どうしても、仲間の感情というものに
重きを置かなくなってしまいがちになるようです。

だから、私たちは、特に身近な仲間に対しては
智に働きすぎてないかということを
意識して生活する必要があるのではないかと
わたしは、我が身を振り返ってみてそう思うのです。
私の周囲は角だらけのような気もします。

人智などそうたいしたものではない。
目的に向かって進むといっても
その目的自体が限界を持った合理性なのだと思います。

むしろ、目的はないけれど
今これをしたくてたまらない、
これをしているときは夢中になれる
というところに、
人類の進歩が見つかるかもしれません。

正義、合理性、効率ばかり考えると
案外大事なことが見落とされてしまうのではないでしょうか。

また、正義、合理性、効率を忘れて
今このことが楽しい、安らげる、安心できる
ということをやりながら生活することで、
幸せという一番の目的を実感できるものなのかもしれません。

現代社会では、それを意識しなければすることができない
という不幸があるのかもしれません。

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NO(それは嫌だ)コミュニケーションの訓練がいじめ防止等の基礎となるかもしれない。 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]


司法試験に合格して司法研修所で勉強していた時期、
同い年の合格者で、長髪の男がいた。
長髪なのによく見るときれいな髪質をしており
羨ましく思い、
うっかり手に取ってしまった。

そうしたところ、彼は、
俺は髪を触られるのが嫌なんだ
触らないでくれる、ごめんな
と言った。
私はそういうものかと思い
ごめんごめんと手を引っ込めた。

その拒否の仕方が秀逸で、
こちらは嫌な気持ちをしないどころか、
こちらの人格への配慮も感じた。
高いインテリジェンスのある人間だと
それ以来尊敬している。

そんな30年近く前のことを思い出した。

対人関係の紛争を見ていると、
けんかや気持ちのすれ違いが起きるホットスポットが、
この拒否をされたときだということに気が付く。

拒否をされると、
そのこと(髪の毛を触ること)だけでなく、
全てを拒否されたような気になってしまい、
無駄な疎外感を抱いてしまうようだ。
そして自分を守るために、
自分を拒否した相手を攻撃してまう。
すると相手も、どうして自分を攻撃してくるのだということがわからず、
不気味な気持ち悪さを抱いて
関係が悪化していく。

逆に、
拒否することで相手を怒らせたくないので、
本当は嫌なことなのに、我慢してしまう。
不満がたまりにたまって
ある日爆発する。
相手は、
それまで、普通に行っていたことを理由に
こちらを攻撃してくることに理解ができない。
言いがかりや八つ当たりであると受け止めてしまう。

最悪なのは、
自分の気持ちを言えなくて絶望をしてしまい、
うつ病になったり、自死に至ったりすることもありそうだ。

いじめのケースでは、
嫌がらないからいじり続けているうちに、
大勢がいじりだし、からかいだし、
気がつけばいじめになっていたということがあるようだ。
気がついた時とは、子どもが自死をしたときなど
取り返しのつかないこともある。

最初にお話しした長髪の合格者のような
拒否の仕方を訓練することが
いじめをはじめとする色々な人間関係の
破たんを防ぐことに効果があるような気がする。

最初の髪の毛の例で、
私がうっかり触ったときに、
「おっちゃん、なに他人の髪をことわりもなくいじくってるんじゃ。ぼけ。」
と言われれば、
悪かったなあという人もいるだろうが、
大半は、「なんでそこまで言われなあかんのん」
という「気持ち」になり、
自分の決まりの悪さを解消するために
言わなくてもよい余計な反撃をする、
そして収拾がつかなくなっていくだろう。

長髪の彼の拒否のエッセンスは、
短く、余計なことを言わないということで、特に、
1 何が嫌なのか具体的に特定している。
2 どうして嫌なのか端的に理由を説明している。
3 自分が悪くもないのに「ごめんな」という。
この3点だろう。

1 具体的に特定していれば、
自分が全否定されたと感じる要素が少なくなる。
それ以外は拒否しないという意思表示にもなる。
2 理由を説明されれば、
漠然と自分が拒否されているのではなく、
相手の嫌がることをしなければ良いのだということが理解できる。
3 ごめんなといわれれば
まず、自分に対して敵意がないのだなということを強烈に理解できる。
「そちらの気を悪くするかもしれないけれど」という配慮を感じる。
その結果、素直にこちらこそごめんという気持になれる。

こういう効果があったと思う。

こういう拒否の仕方を子どもの時から
繰り返し訓練することが有効なのではないだろうか。

幼稚園であれば、
子ども同士がけんかしているときに、
けんかの原因をさかのぼって
拒否コミュニケーションの問題だとすれば、
拒否からやり直す。
余計なことを言ったらそれは言わないで言い直させる。
「ごめんね」と言いたくないときは「お願いね」
と言い換えてもよいかもしれない。

言われる方の指導も大切である。
共感に基づくコミュニケーションの訓練である。

先ず拒否の3要素をはっきりさせる。
その上で、
何が嫌で何が嫌ではないかということを明らかにして
あなたが嫌われているわけではないよということ説明して安心させる。
ただ、それをされることが嫌なんだよと教えてあげる。

その上で、相手が嫌がっているということが
どういうことなのかを理解させる。
ここで一番大切なことは、
相手が嫌なことはしないという習慣づけである。

必要以上に気まずくならないということを覚える。

正義の制裁をしているつもりであっても
相手の気持ちを考えない行動はしない。
それは大人に任せるということでもよいし、
少し学齢が上がったら、
一緒に成長する観点からのアドバイスを制裁に置き換える
ということも大切だろう。
正しければよいというものではないことを
小学校からは少しずつ取り入れていくべきだと思う。

3要素が揃った拒否があった場合は
潔く撤退する。
そういう習慣をつけるということが大切だと思う。

この双方の意識的行動によるそれは嫌だコミュニケーションが成立したら
大人は大いにほめて、子どもたちは達成感を獲得してもらう。
そうやって動機づけを作っていく。

友達同士、夫婦や家族、職場という人間関係の基礎だと思うし、
案外民主主義の前提条件だったりするのではないかと
ふと思う。

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「サンダカン八番娼館底辺女性史序章」山崎朋子(文春文庫)【勝手に書評】 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

あいちトリエンナーレの取り上げ方のために
また一段と物議の対象になってしまった「少女像」について
ネットでその製作意図を読んだ。

特に少女のかかとが宙に浮いているのが
国に戻った少女たちに対しての社会の不寛容を表現している
ということを読みながら、
私はある映画の一シーンを思い出した。

今から40年前に観た
「サンダカン八番娼館 望郷」である。

ボルネオから帰京した主人公が
自分を受け入れない兄夫婦に対して絶望した心情が
象徴的に表現されたシーンである。

主人公サキは貧しい農家の娘で
両親がおらず、兄と妹と三人で極貧生活を送っていた。
口減らしのために、ボルネオに売られていった。
サキは、家のために海外の苦界に身を沈め
家に仕送りをしていた。
奉公が終わり、家にお金を携えて帰ってきて
感謝されていると思っていたところ
兄も兄嫁も外聞の悪い妹が帰ってきたと
厄介者扱いをされていることを知った。

これまでの自分の苦しみや我慢はなんだったのだ
というシーンである。

若いころのサキは高橋洋子が演じていた。

家に帰って絶望の中で風呂に入るシーンがそのシーンである。
こらえきれずに泣き出すのだが、
声を聞かれまいと湯の中に顔を沈めて
激しく嗚咽するというシーンである。

高校生の時に観たヌードシーンなのに、
高校生の私が見ても
高橋洋子は限りなく清らかだった。
ただ清らかなものと感じた。

サキの仕事の内容というか
苦界の苦界たる理由について
未熟な私には理解はできていなかったのだろう、
サキの兄夫婦の仕打ちに純粋に反発していた。
私は子どもだった。


少女像の製作意図を読んで、そういえばと連想し、
インターネットで検索して、
サンダカン八番娼館の原作があることを知った。

山崎朋子氏の著書の
「サンダカン八番娼婦館 底辺女性史序章」(文春文庫)
である。

私はこの本を読んでみたいと思い、
幸いすぐに購入することができた。

40年前の映画の記憶は、
いろいろと勘違いをしていたことも分かった。

サンダカンという言葉が不明だったが、
これはボルネオの都市名だった。
8番娼婦館だと思っていたが8番娼館だった。
何よりも太平洋戦争下の従軍慰安婦だと思っていたが、
そうではなく、いわゆる「からゆきさん」だったことだ。

最後の話が一番衝撃的だった。
「からゆきさん」という言葉は、
なんとなく聞いたことがあった。

太平洋戦争前、
むしろ江戸時代末期から
第1次大戦後辺りまで、
九州地方を中心として
貧困を理由として女性を
海外に渡航させ売春をさせていた時代があった。

この女性が「からゆきさん」なのだそうだ。

東北の女性も身売りをされて
それが226事件の背景にもなった。
からゆきさんは、最後は主として東南アジアに売られていき、
サキもボルネオに売られていった。

大体はだまされていくのだが
(話しても理解できない年齢ということもある)
逃げようとすると脅しや殺人事件もあったらしい。
そして大体は、渡航と言っても密航で、
貨物船の船底に隠されていく人たちが多かったようだ。

第1次大戦後はどうなったかというと、
おそらく、公娼という形で政府から特別便宜を図られた者が
大ぴらに商売をしていたようだ。
これが従軍慰安婦である。
だまされて連れていかれることにそれほど違いはないだろう。
現地の婦女子に対する暴行の防止という名目だが、
単純に大儲けができたから、国の力を利用したのだろう。
(参照:「水曜日の凱歌」乃南アサ)
これについてはひと月ほど前に別のところで書いた。

さて、山崎氏の原作は、読んでいて面白い、
学術書ということだが、
筆者の生活の様子が織り交ぜられているために
臨場感が強い。
次はどうなるのだろうというドキドキした気持ちで
読み進めることができる。
良質のルポルタージュでもあり、
筋書きのないドラマでもある。

山崎氏もこの本を読む限り魅力的な人物であり
共感を抱きやすい人物であるが、
主人公のサキさんも魅力的な人物である。
物語が面白くならないわけがない。

何より感心したのは
筆者とサキさんが対等の関係にあったことだ。
もちろん筆者がそれを意識して様々な工夫をした結果でもある。
安易な善意の押し売りをしていたのでは、
信頼もされなかったし、ここまで事実が発掘されることもなかっただろう。

そのご努力が、この作品を読むべき作品にしているのだと思う。
とても勉強にもなった。

だから、筆者とサキさんの別れのシーンが胸を打つのだろう。
このシーンは、映画ではサキさん役の田中絹代が素晴らしい演技をしている。

サキさんがボルネオに行った一番の代償は孤立だった。
男子を産むが、
息子が結婚するにあたって息子から別離を突き付けられた。
それ以来息子も嫁も孫も会いに来ることさえしない。

地域社会も同様である。
その中でサキさんは生きていかなければならない。

その象徴的なシーンが、筆者がサキさんのもとを去るというとき、
謝礼金を固辞したサキさんが筆者にあるものをくれと願った。
それは、筆者がサキさんと暮らした3週間使っていた手ぬぐいだった。

その手ぬぐいを見ると、一緒に生活したことを思い出すというのだ。

サキさんは、自分を対等な人間として
当たり前のように接してくれる人がいなかったことを
この一つのエピソードが強烈に物語る。
孤立していなかった確かな記憶が手ぬぐいだったのだ。

田中絹代の演技も圧倒された記憶が鮮明にあるし
今でも、控えめな、自信なさげに願う表情はよく覚えている。

今回の原作でも、この文章は、
最も美しい文章だと思う。
こちらの感情も高ぶってしまい、止められなかった。
今も、感情が高ぶりすぎて何度も手を進めることができない。

読むべき本である。

ただ悲惨な事実を伝えるだけでなく、
力が出てくる不思議な本である。
おそらく、筆者が、サキさんに対して感謝と尊敬という感情を
自然に抱いているというところに、
絶望を乗り越えようとする希望の手立てが見えるからではないか
そう感じてならない。



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