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無宗派仏壇作法の勧め 死者と暮らす穏やかな日々 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]



既に何らかの宗教を信仰されている方ではなく、現在宗教を持たない方にお勧めする作法についてお話しします。どちらかと言えば、一人暮らしをされている方に向けてのお話となると思います。ご家族で共通の理解を得ることができれば、ご家族で作法を行うことも良いかもしれません。

これは特別な宗派ではなく、いわば日本人の土着の原始的な信仰というか、心構えみたいな作法をさらに崩したものと言えるかもしれません。

ご自宅に仏壇があれば、仏壇の作法ということになります。仏壇が無くても、語り掛ける的(対象物)があればそれでよいと思います。ただ、写真があれば、なお、イメージが付きやすいので良いと思います。

日本では家族が亡くなったずいぶんあとでも、陰膳を用意するご家庭もあるのですが、私はこれは無理なので、お茶とお水を毎朝新しいものに変えてお供えしておきます。寒い朝でも、こうやってやることがはっきりしていて、自分でもなんとなくやることでプラスになることなので、布団から抜け出して起きて日課をしようという気になるので不思議です。

お茶とお水を変えなければならないというよりも、変えてあげようという優しい気持ちが大切だと思います。お茶はいちいち入れなくてもペットボトルなどのお茶でもよいと思います。

どちらを右に、どちらを左にするか迷う方もいらっしゃいますが、どちらでもよいと思います。何せ無宗派ですから。線香を立てて、おりん(チーンとなるやつ)を鳴らして、位牌、写真、ご先祖様の順で3回手を合わせます。
「おはようございます。」、「行ってまいります。」というわけです。そして帰宅したら夕方は、線香とおりんだけで済ませます。「今日も一日ありがとうございました。無事帰宅いたしました。」とお知らせして感謝します。

自分以外の家族の安全などはお願いしてしまいますが、自分のことでお願いごとをすることはありません。お願い事はしませんが、毎日の出来事、あるいは何もないことの感謝を述べることは意識します。

今生きているのも先祖が子孫を遺した結果ですから、無限に感謝できるわけです。誰かに感謝をするということは気持ちよいものです。自分は一人ではないという気持ちになり、また謙虚な気持ちになって心が落ち着きます。

面白いことに毎朝夕、例えば父親の遺影を見ると、その日、その時によって見え方が変わります。笑っていることもあれば、注意を促しているように見えるときもあります。苦境に立っているときは優しく見えることが多いですし、調子に乗っているときはたしなめる表情の場合が多いかもしれません。「今日はこういう表情なのか」と意外に思って、気を引き締めることもあります。いつもは、ほっと一息入れる時間です。

むしろ家族がいる場合、家族に対して、同じように感謝をする時間があれば、八方うまくゆくのかもしれません。ただ、遺影は反応をしないので、心おきなく感謝ができるということはあるかもしれません。

お茶とお水以外は、お菓子、できれば水菓子をお供えしています。故人が好きだったものを用意するようにしています。私は仏壇にお供えしたものは、期限が切れる前に食べています。なるべく2品くらいは切らさないようにしています。食べ物をお供えするとなんとなく明るい気分になります。

お酒を供えることに対して賛否があるようです。無宗派仏教の場合でも、たとえば故人がアルコール依存の傾向にあった場合は、個人にとってもお酒は本当は苦しいものなので、お供えするべきではないと思います。
私は、お酒を仏壇にお供えすることはありません。ごくたまに仏壇の下にお盆をおいて、一緒に飲むくらいにしています。

死者とお話しする場合に頭に置いておいた方が良いことがあります。どのような方でも、生きているときは、自分を守らなくてはなりませんので、そのための行動があったはずです。自分を守ろうとする時、誰かに対して過酷になってしまうことがあります。いやな側面を見せてしまうものです。

しかし、亡くなってしまえば、自分を守ろうとすることは基本的に無くなります。執着もなくなります。故人の思い出の中の良い部分、優しくされた部分だけを思い起こしながらお話しするべきだということです。それで構いません。

人間が生きているということは、その人単体で生物的に生きているわけではありません。人間関係の中で関係を持ちながら存在するわけです。その人が生物的に命が亡くなったとしても、その人間関係まで無くなるわけではないので、亡くなった方と一緒に生きていくということは自然な話ではないと思っています。遺影で意外な表情を見るたびに、実際もどこかでこちらを見守っているのかもしれないとも感じることが多くあります。

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嘘から出た実(まこと) アイドル礼賛 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]



日ごろ、家族や仲間に対して笑顔をキープするようにお話をしています。

おかしくもないのに笑えないとか、気恥ずかしさがあって笑顔が作れない。
怒りの感情があるのに笑顔が作れない。相手がどのように対応してくるか分からないので緊張して笑顔になれない。笑顔を作るのが億劫だ。

という、これは実は私の実践上の言い訳ですが、こうお考えの方が多いかもしれません。笑顔の作り方ということはあまり教えてくれる人がいません。

結局同じことをするのですが、重点の置き方としては
欧米系の人間であれば、口角を上げるという作業をしますし、
日本人の場合は、頬を上げて目を細めるという形を作るようです。
これでよいのです。

「それじゃあ、嘘をつくのではないか。」、「作り笑顔ってわかられてしまうのではないか。」ということを心配される方がいらっしゃいます。

ただ、それは子どもの論理です。
感情を持つとか、心の中でどう考えるということは大人も子どもも自由ですし、これ自体はどうすることもできません。

しかし、子どもと違って大人は、自分のために感情をあらわすのではなく、相手のために感情を表して見せるもののような気がするのです。

確かに子どもであれば、泣くとか、怒るとか、「自分の感情、置かれている状態がこうですよ。」といって、大人に環境の改善をしてもらう立場ですから、感情をそのまま表現するべきなのだと思います。

しかし、大人の場合、特に人間関係をまとめる側の立場の者は、人間関係の状態をよくするために、相手に安心感を与えるために、表情を見せるものなのだと思います。きついこともありますが、これが優しさなのだと思います。

だから、嘘ではなく、優しさなのです。

作り笑顔がわかられてもデメリットはありません。作り笑顔をする努力を認めてくれるということがあっても、不快にさせるということはないでしょう。

また、相手の良いところを探してでも指摘するという方針を立てることが多いのですが、笑顔を作っているとそういう話をしようと自然になっていくような気がします。

笑顔を作って、相手がいることを歓迎し、相手に感謝の気持ちを表すということは、敵対心が無いということの何よりの方法なのだと思います。人間は言葉の無い時代から群れを作っていましたから、言葉以外での伝達方法は、この本能に働きかけるから強くアッピールするのだと思います。

そうして笑顔を作っているうちに、心(感情)も変化して、相手を思いやる気持ち、相手の行動に寛容になる行動パターンも出てきてしまうのだと思います。形から入るというわけです。嘘から出た実と言えなくもないかもしれません(嘘ではないと言っておきながら申し訳ない)。

笑顔を作ることが尊いこと、尊敬に値することだと感じたのは、大学生の頃です。かなり前ですね。当時私は、フォーク小僧からロック小僧、時々ジャズ喫茶小僧と渡り歩いていました。テレビの歌番組もよく見ていたのですが(実家にいるとき)、いつも笑顔のアイドルっていたじゃないですか。いわゆる80年代アイドルですかね。最初は、作り笑顔だろうと価値を感じなかったのですが、いつでも笑顔ということはすごいことなのではないかと気が付いたのです。自分がまだ精神的に子どもでしたから、ありのままの生まれたまんまの感情表出をしていたのですが、それで失敗もあったのかもしれません。安定して笑顔でいるアイドルの一人に、これはすごいことなのではないかと注目しだしました。当時は、レンタルレコード屋というのがあって、そこでレコードを借りてはカセットテープに録音して聞いていたわけです。それからパチンコの景品ですね。

その後そのアイドルはアーティスト指向となりました。映像を拝見する機会は減りましたがアルバムだけは聞き続けました。アイドル時代後期の難しい楽曲(いじめのような難解なメロディー)をニコニコ明るく歌いこなす歌唱にも脱帽していました。私のアイドル感は、尊敬をする的です。

令和の時代では、アイドルの笑顔戦略は基本的には維持されているようです。ファン(最近はオタというらしい)のニーズが笑顔の持つ効果にあることも変わっていないのでしょう。

おそらく人類において、笑顔の効果、ニーズも普遍的なのものなのだろうと思います。この本能を素直に使って人間関係を良好しない理由は無いと思われます。

アイドルに学びましょう。

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【勝手に解釈・我田引水】石川啄木 「友がみな」 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て妻としたしむ (「一握の砂」より)

人間という生き物は、「仲間」の中で自分が尊重されて生きていたいと志向する動物のようです。「仲間」から軽んじられたくないし、「仲間」から外されたくないと切実に思ってしまうわけです。こうやって、200万年前から言葉もないのに、群れを作ることによって、食糧を獲得し、肉食獣や厳しい自然から自分たちを守って、そうして生き延びることができたわけです。つまり、そのような心というツールを使って、群れを作れた人間族だけが子孫を遺すことできて、その子孫が我々なので、そのような心を引き継いで逃れられないというのが対人関係学の基本的な考え方です。

200万年前ならば、生まれてから死ぬまで一つの群れだけで生活していたので、このような心はとても良く機能していたことでしょう。ところが現代は、群れと言っても家族、職場、あるいは社会やインターネットの世界等多数の群れに同時に所属していますし、道を歩いてもインターネットを利用しても、膨大な数の人間と接触しています。環境が変化しても心は変化しないので、様々な問題が起きる要因になっていると思います(「心と環境のミスマッチ」)。

さて、世の中には、「家族の役に立ち、家族から嫌われなければそれで満足だ」という人もいらっしゃると思います。私もだんだんとそう思っていた方が幸せかもしれないと思い出しています。しかし、若者であり、社会を仲間と意識してしまうと、社会の中で自分が良く評価されたい、社会に貢献するような仕事をしたいと思うようになることも自分にも覚えがあります。

石川啄木は、友人たちの間でも、自分が高く評価される人間でありたいと思っていたのだと思います。文壇での活躍を夢に見ていたのかもしれません。しかし、本望を遂げることができず、それに比較して友人たちは社会的地位を高めていることを目の当たりにしたのだと思います。もしかしたら、自分の方が友人たちより能力があるのに能力に見合った地位にたてていないという不遇を嘆いていたのかもしれません。

もしかすると、そういう実際の出来事に原因があるのではなく、精神的コンディションが落ちていたのかもしれません。理由もなく自信が無くなってしまい、自分は能力が無い、社会から評価されないという劣等感に苦しんでいただけかもしれません。その苦しみは本当はあまり意味のないもので、そんなふうに苦しまなくても良いはずだということも知っていたのかもしれません。

買ってきた花は、大きな花束ではないはずです。チューリップだったり水仙だったり、ありふれた花だったのだと思います。そんなものでも、自分が買って帰ることで、ダイヤの指輪を買ってきたかのように喜ぶ妻を見て、救われたのだと思います。妻も、一見無駄なような花を買ってくれば自分が喜ぶということを、夫はわかっていてくれたのだということがうれしかったのだと思います。
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私は若いころ、この短歌を読んで、極端に言えば負け惜しみ的な行動をしているように感じたことがありました。今は違います。啄木という天才は、おそらく社会的な名声を得ることができない代わりに妻を喜ばせて小成に安んじていたわけではないということがよくわかります。社会的評価を得ることと自分のかけがえのない仲間である家族を喜ばせることは、「人間として」価値に優劣がないことを知っていたのだと思います。

今この短歌を読み直すと、社会的評価を得られないことでいじけているような印象もないですし、妻を喜ばせてうっ憤を晴らしているようないじましい印象も全く持ちません。

前半と後半のコントラストによって、人間としての喜び、幸せというものの本質というのがどこにあるのかということを見つけた喜びを歌っているような印象を受けます。

多くの人がこの歌をそらんじているのは、このような何気ないところにある人間としての幸せを感じてほっとしているからなのではないでしょうか。

勝手にとてつもなく素晴らしい短歌だと改めて感じた次第でした。

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傾聴、受容,共感 刑事弁護、高葛藤者法律相談に活かすカウンセリングの基礎技法 話を聞く態度について [故事、ことわざ、熟語対人関係学]


カウンセラーがクライアントから話を聞く態度として、一般に
傾聴
受容
共感
というポイントがあるようです。

正確には専門書などをお読みいただくとして、弁護士業務に応用がきくようにそれぞれの概念を私なりに整理してみますと

傾聴は、話を聞く態度で、主に相手から見える外形的な態度ということになると思います。受容は、心構えとでも言いますか。どちらかというと、聴く方の先入観を排したり、自然な反発や反応を排除したりという感じでしょうか。共感は、傾聴と受容を基盤として、相手方に対して自分の理解を示すということになろうかと思います。

定義的には、
「傾聴」とは、深く相手の話に耳を傾け、その人に焦点を当てて、相手の存在そのものを知ろうとすることである。表情、姿勢、ジャスチャー、感情、考え、話しの内容、沈黙さえも十分に観察し、その意味を考えていく。

「受容」とは、無条件の積極的関心をもつこと言う。相手の感情が否定的な感情であったとしても、そのままを受け入れることが必要である。

「共感的理解」とは、クライエントの私的な世界をあたかも自分自身のものであるかのように感じ取ることであるが、クライエントの感情と同化するのではなく、クライアントの感情として自分の感情とは切り離してとらえ、クライエントの感情に振り回されないようにすることである。

と言われているようです。

傾聴とはどう傾聴するかということで、具体的な着眼点の例示がされていることは面白いですね。もっとも、通常の法律相談であれば、文字的な情報を正確に聴取することの方が大切です。ところが、法律的解決よりも、葛藤や感情の解決にもウエイトが置かれると、こういう文字的ではないノンバーバルコミュニケーションが重要になることは、意識した方が良いと感じました。感情が高ぶっている人は、言葉とは違うところに問題の所在があるということが少なくありません。自分からは話すことができないけれど聞いてほしいというサインを見逃してはならないということかもしれません。

弁護士が一番嫌うのは、相談者の沈黙かもしれません。弁護士の業務を機械的に考えると沈黙は情報が入ってこないので仕事にならないからです。ところが、相手の感情や葛藤等を知ろうとしていれば、沈黙の意味についても考えるという発想に立てます。

傾聴の効果として、相手が自分の話を熱心に聴こうとしているということを外形から見て取れます。自分の話を聞こうとすることは、自分について知りたがっている人がいるということです。だから自分にも人間としての価値があるという意識になり自尊感情が芽生えていくとのことでした。これは確かに信頼関係の基礎になるだろうなと実感できます。

受容と傾聴の違いも難しいし、受容と共感の違いも結構難しいと感じました。

ここでは受容については、聴く方の心構えという整理をしたのは、私なりにそれぞれの関係性を考えた結果です。

受容できない場面をお話しすると受容とは何かがわかってくるかもしれません。例えば弁護士が、自分の子どもをわき見運転していた運転手の自動車で引かれて長期入院を余儀なくされたことがあるとします。そうすると、交通事故を起こした被疑者と面談する場合に、その被疑者や被疑者の話を受容できなくなるというのです。個人的事情から受容できないような犯罪類型があれば、罪名を聞いて弁護を引き受けないということはありうることですし、被疑者被告人のためには引き受けない方が良いのかもしれません。

ただ、通常は、刑事事件という犯罪を犯した人であることは間違いありません。道徳心や正義感の強すぎる人が、一見身勝手と思える動機を聴いたり、安易に犯罪を行っていることにいちいち反発していたのでは、刑事弁護に向いていないのかもしれません。しかし、弁護士は、家で犯罪報道などをテレビで観て「許せん」と憤っていても、被疑者被告人には親身になるというタイプの人が多いので面白いところです。

また、葛藤の強い人の相談会では、恨みとか憎しみが強く、否定的感情があけすけに言葉に乗せられます。聴く方が感情的に反発したり、うんざりする場合も実際にはありうることです。しかし、よくよく話を聞いてみると、もしかしたら自分も同じような感情になってしまうような出来事だったのかもしれないという感覚が生まれてくることがあります。そうすると、その人のフェイク的な言葉と伝えたい言葉が色分けされてきて、人を試すようなフェイク的言葉をかき分けながらその人が真に伝えたい言葉を掘り出すという作業ができるようになります。

受容の条件として、相談担当者自身が自分を受容する必要があると言われています。自分の欠点や挫折を受け入れることによって、相談をする人を受け入れるようになれるというのです。

でももう一つ受容の条件として必要なことは、その人と自分は同じ人間であり、双方が特殊な人間ではなく、同じ条件であれば同じ反応をするのだろうという感覚というか人間観があることが受容が可能となる条件で、弁護士としては意識しなければならないところなのだと感じます。

共感については、これまでも何度か取り上げてきましたから、メモ的に羅列して終わります。

感情を追体験してしまうと、弁護士の仕事ができない。理性的にこういう環境にあると、こういう感情や行動に出てしまう(人間だから)という意味での共感にとどめるべきこと。

その人の犯罪に至る経緯や、葛藤の高まりに至る過程について、自分の理解を人間として自然な流れになっていることを確認すること。そして修正していくこと。

自分勝手に解釈しないで、可能な限り質問をしてみること。「こうだよねえ」ということだけでなく「こうではないものね」ということを述べて、相談者が担当者に対して、自分のことを理解しようとしてくれている、自分のことを理解してくれている、自分の行動や感情の肯定できる部分があることを認めてくれている。自分が否定されるだけの人間ではないことを認めていてくれている。自分は回復や立ち直りができると考えてくれていると感じていただくことが共感の作用として期待できる。

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一人で生きられるって、それは素敵なことだろうか?  [故事、ことわざ、熟語対人関係学]


表題に比べて無粋な書き出しをするわけです。
現代社会は、お金さえあれば「物理的には」、誰ともかかわらずに生きて行けるようにも思われます。今の人間関係で、思い悩むときは、いっそのこと人間関係を断ち切って一人で生きてみようかなんて思うこともあると思います。

そうやって実際に一人で生きている人もいるかもしれません。
また、本当は誰かと暮らしたいのに、事情があって一人で生きていると言う人も多くいらっしゃいます。

対人関係学の基礎になる学説のうちの非常に大きな位置を占めるバウマイスターという認知心理学者の「The Need to Belong」(所属の要求)という論文があります。結論から言うと、「人間は、他者のグループに所属することを本能的に求めており、その要求が満たされないと心身に不調が表れてしまう。」ということを述べています。様々な文献の研究からそのような結論を導き出しているようです。

だから一時「一人で生きていたい」と思っても、やがては人間の中で生きていきたいと思うようになるか、その願いがかなわないまま精神を病んでいってしまうのかもしれません。

ただ逆に、職場や友人関係などで誰かとかかわっていながら、所属の要求を満たしているはずなのに、その人間関係が原因で同じように精神を病むような現象が見られます。これはどうしてでしょうか。

パワハラなどの自死事案を多く担当した私は、そもそも人間の要求は、誰かとかかわっていればよい、人間の集団に所属していればよいというだけのものではないと考えています。「自分がそのグループで、仲間として尊重されるという関わり方をしたということ」が、人間の根源的要求なのだと、バウマイスター先生の学説を修正する必要があると考えています。

バウマイスター先生の論文は、先ほども文献研究の手法だと言いましたが、人質にされた事案とか、刑務所内の対立の事案とか、極端な事案が多いようです(翻訳がされていないので、私の英語読解力の範囲での話ですが)。その中でも、つい人間は人間を求めてしまうということで磨かれた真実があることは間違いありません。

しかし、現実の人間の紛争や過労自死の事案を見ると、「仲間として尊重されない人間と一緒にいること自体が人間にとって過酷なことであり、心身に不具合が生じることだ」と結論付けたくなるのです。

ただ、この「仲間として尊重されている」と感じているかどうかということは大変難しくて、一方が他方を尊重していると頭の中では考えていたとしても、他方が「こんな扱いでは自分は尊重されていない」と感じると、心身に不具合が生じたり、仲間から離脱しようとするところが難しいところだと思います。

どんな場合に相手が「仲間として尊重されている」と感じているか。それは人それぞれなので、インターネットや本には書いていないことです。相手をよく観察して(どういう場合に嫌がるか、嫌がる場合はやめる。どういう場合に喜ぶか、喜ぶことは積極的にやる)、場合によってははっきり言葉にして尋ねてみるということでかかわりの中で学習していくということなのでしょう。

さらに難しいことは、相手が仲間として尊重されると感じることが、自分にとっては苦痛である場合があるということです。人間は「自分」というものがあり、自分を自分で裏切り続けると、やはり苦しくなるようです。一方で他者と一緒にいたいという要求がありながら、他方で自分を壊したくないという気持ちなのでしょうか。例えば会社で、会社の命じたことが自分の良心に反することなのに、無理にそれを行い続けるとやはり心身に不具合が出てきてしまうようです。

相手が会社であれば、自分を大切にするために退職をするという選択肢を持つべきです。
これが相手が家族の場合が切ないところです。ただ、この場合は別離だけが選択肢ではなく、相手に対して働きかけを行い、自分の気持ちを相手に理解してもらい、相手を変えていくということも選択肢として持つべきだと思うのです。

この調整のお手伝いをする人がなかなかいないのが現代日本です。私はそのような時に家族再生のお手伝いをすることも弁護士としての仕事だと思っているのです。

そして現代の様々な公的な「支援」は、別離だけが唯一の選択肢だとでもいうような働きかけをしているのではないかと憂慮しているのです。

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サイコパスと弁護士活動(刑事責任能力、愛着障害とは異なること、夫婦問題) [故事、ことわざ、熟語対人関係学]


サイコパスに関する本を読んだのでメモ代わりに雑感を述べます。

<刑事弁護とサイコパスという言葉>

サイコパスという言葉は、弁護士活動においてほとんど使ったことがありません。定義もはっきりしないように思われます。いろいろな人がいろいろな意味内容を含めて説明しているからです。一番使いそうな弁護士の活動分野では、刑事弁護を想定されるかもしれません。

「被告人はサイコパスだから犯罪をしないように自分を制御できなかったから、刑事責任能力がなく無罪である。」
という主張をするかという問題です。
しかし、実際はそのような主張はされていないと思います。

刑事責任能力が無いので無罪とは論理必然的なものではなく、その時々の刑事政策の考え方、決め方の問題です。現代の日本の刑事責任能力とは、「自分のこれからしようとしている行為が犯罪に該当しそうだと思ったら、『犯罪になるのでやっぱりやめる』というパターンを期待している。」というものです。このため、やっぱりやめたとおよそ期待できない心理的、生物的事情があれば、期待に反して行動したという非難ができないため刑事罰を課す根拠が無いとして無罪とするわけです。

あまり考えにくい話ですが、幼児の犯罪とか夢遊病の際の犯罪とかが典型場面です。2歳児が包丁投げたらたまたま人に刺さって大けがをしたとか、薬の影響で夢遊病の状態になってしまい、その時いた部屋にあった他人ものを手あたりしだいカバンに詰めてしまい、たまま財布もそれに入れて出てきてしまったというような場合が具体的事例でしょう。

では、「他者に対しての共感力が無いために、人を殺すことを止めることが期待できないから非難できない」と言えるでしょうか。これは言えないというのが現在の日本の刑事政策的考え方です。他人の苦しみに共感ができないからといって、人を殺すような行動(腹を刺すとか、致命的な毒を飲ませるとか)をしないことが期待できないとは言えないと考えるからです。

先天的に共感力を持っていないとしても、「どういうことをすれば犯罪になる」と理解することを社会的に期待されていて、理解できるはずだとされているわけです。そして「犯罪になるとわかればそれをやめる」ということも期待されているというわけです。

ただ、事案の本質を社会や被告人本人に理解してもらおうとして、弁護人があえて「責任能力が無いから無罪だ」と主張する場面はありそうです。この場合でもサイコパスという言葉は使いません。医学用語ではなく定義が不明だということが一番の理由でしょう。反社会性パーソナリティ障害という言い方をするとか、共感力の先天的欠損という言い方がなされると思います。さらには、単にそのような先天的な問題ないし生物的問題を指摘することにとどめないで、そのような問題を背負って生きてきて、犯罪に至るまでの生育の過程において、問題点を是正するような教育を受けられなかったというような、本人だけの責任ではないというような事細かな事情を説明することになると思います。

サイコパスとまでは言えないにしても、常習的に犯罪を実行してしまう人には、確かに被害者に対する共感力が(特に犯行時には)極めて不十分であるパターンが多いというのは実感としてあります。その場合でも、弁護人は、こうあるべきだということを押し付けるのではなく、どうして自分が刑事罰を受けなければならないのか、刑事罰の対象となる行為をすることがどこに原因があったのか、今後具体的にどうしていけばよいのかを一緒に考えることになります。共感する能力が極めて不十分である場合、抽象的な心構えの対策を立てても実行することができません。その人の今後に役に立ちませんし、判決でも効果がありません。具体的に、犯罪をしにくくなるような生活を考えていくということが有効だと思います。

これまでこの人はサイコパスではないかと感じた人はいました。しかし、刑事司法の歴史に残るような重大だというほどの凶悪事件を担当することがなかったためか、色々な事情を考えると、「共感力がなかったわけではない」という結論に行きつきます。サイコパスによる犯罪とは極めて例外的なものではないかということが実感です。ただ、例外的であっても、犯罪予防や受刑者の再犯防止の観点からサイコパスの研究をすることは意義のあることなのでしょう。

<愛着障害とサイコパス>

ボウルビーとエインズワースの理論である愛着障害は、「サイコパスの原因が幼少期に十分な愛着を受けて成長するという経験が無かったから」ということを説明した理論ではありません。サイコパスの原因が生育環境にあるということを言うつもりもなかったことと思います。

そうではなくて、幼少期と言っても生まれてから2歳くらいまでの間に、十分に自分を支持してくれる「特定の人間」から手をかけて世話をされた経験が無いと、対人関係一般に自信が持てなくなり、新たに出会う他者との適切な位置関係を構築することができなくなるという理論だと私は理解しています。

他者との適切な距離感が理解できないということには二つのパターンがあるようです。一つは、他者に自分との関係を継続してほしいあまり、あまりにもその他者に近づきすぎ、その他者に尽くしてしまう、べたべたとした対応を取ってしまうということで、例えば弁護士と依頼人という関係が作れず、必要以上に親密になろうとしてしまうというパターンです。もう一つは、人間全般を信じることができずに、他人とは隙あれば自分に害をもたらそうとする存在であるということで、近づこうものならばやみくもに危険を感じて自分を守るために攻撃をしてしまうというパターンです。近づきすぎるパターンと近づかないパターンということになり、適切な距離を保てないということになります。

他者を仲間だとは思いませんので、他者が苦しんでいる状態を見ても反応を示さないこともあるわけです。そうするとサイコパスのように見えるのかもしれません。

実はこのような愛着障害の、近づくと敵意を見せるというパターンは人間だけではなく、ほ乳類全般に見られるようです。もっとも野生の動物の中では、敵意を見せることが当たり前なのでその関係はわかりません。人間のそばにいる動物も、親や親のように自分を育てる存在からネグレクトをされていると、やはり情緒が安定せずに人間にも攻撃的になるそうです。

この話は友人の獣医師から直接聞いた話です。ただ、動物の場合はこの攻撃性は改善が可能であるようです。もっとも、昼夜問わず手をかけてお世話をし続けるという時間と手間暇をかけることが必須になるそうです。彼は、犬や猫の殺処分を避けるために、攻撃性を消失させて、飼い主を探しているようです。

心理学者からはボウルビーは、フロイト学派であり、フロイト的な考え方をしているという決めつけがあるようです。特に彼の初期の学説にはそのような傾向もあったようです。しかし、ボウルビーの愛着(アタッチメント)理論は、抑圧された精神リビドーがどうのこうのというのではなく、動物行動学を背景として理論化されています。第2次世界大戦に施設収容された大量の戦災孤児の観察という事実から出発した理論なのです。愛着というのは抽象的な心ではなく、特定の人に支持的に触れられること(アタッチメント)だとしているのも、行動学的なアプローチを表していると思います。

その後、愛着理論は、現実に、児童養護施設だけではなく、長期入院の病院等、世界中の子どもの施設の在り方に、第二次大戦後に急速に影響を与えてゆきました。

サイコパスという視点から愛着理論を読み直してみると、共感という生理的反応は、およそ人間全般に対して起きる反応ではなく、仲間だと思える人間に対して発動する反応ではないかと考えられそうです。少なくとも自分の敵ではない人間、自分を攻撃する人間以外の人間に発動するということなのでしょう。愛着障害を抱えた人間は、他人を仲間だと思えないだけでなく、積極的に他人は敵だ、自分に害をなす存在だと自然と思ってしまう苦しい状態を生きていらっしゃるのかもしれないと感じました。

このような生育環境がその人の後の生き方に影響を与えることを考えると、親の子育てに問題があるからと言って、安易に子どもを親から引き離して施設収容することには慎重になる必要があるということになりそうです。私の知っている児童養護施設の職員の人たちは、児童相談所よりもよほど親身に子どもたちの幸せを考えているまじめで献身的な人たちです。しかし、職員も集団であるし、子どもたちも集団であるので、年齢によっては特定の愛着の対象がないというところに、問題が生まれるということが生じる危険があるわけです。最近安易な、必要性の裏付けが無いと思われる児童相談所などによる引き離しの相談を受けることがあるので、心配なところです。

<夫婦問題とサイコパス>

先ほどの愛着障害の理論を理解すると、夫婦喧嘩はまた別の角度から理解ができるようになるかもしれません。対立している夫婦は、相互に、相手をサイコパスだとののしることがあります。

ここでの訴えは、自分の気持ちを夫は、妻は、わかってくれない。自分はこんなに苦しんでいるのに助けてくれないということなのですが、事件に現れた例では、その始まりにおいては男女で少しニュアンスが違うようです。女性に多いのは、わかってくれない、助けてくれない、優しくしてくれないというニュアンスです。味方になってくれないというものでしょうか、男性に多いのは、自分をこれだけ苦しめて平気でいることが恐ろしいというものです。自分に敵対することで安心できないという感じでしょうか。いずれにしても初期にはそのような違いがありますが、だんだん似たような主張になっていくような気がします。

先ほどの愛着障害の考え方をスライドしていくと、女性は相手に積極的な味方であることを求めていて、それがかなわないと恐ろしい相手だと感じやすいようです。男性は、自分が攻撃されることによって恐ろしさを感じるようです。

いずれにしても、この人は自分の味方とは思えないとか、自分に対して攻撃する存在であるとかという感覚の原因は、その行為自体の程度によるものではなく、相手に対する期待の高さを反映している部分が大きいような気がします。

大きな傾向としてということで述べますが、順番から言うと、先ず妻の方が自分の要求する優しさを夫に求めるのですが、同性に対してと同じ行為を夫に求めてしまうようです。それが通常の男性は、一般的に単に苦手とするところなのです。愛情が無いから、仲間として見ていないから積極的に妻を安心させる行為をしないのではなく、そのする必要性をあまり認識していないので、あるいはすることが気恥ずかしくてできないからしないだけなのです。これについて、妻は当然受けるべき優しさを夫は示さないので不安になり、不満の感情をあからさまに示したり、試し行動をしたりして夫からすると自分が妻から攻撃されているような印象を与える行為になってしまうわけです。妻の不満感情や試し行動に対して夫が真に受けて反撃に出てしまうと、どんどん泥沼にはまっていくということが深刻な夫婦喧嘩の始まりのポピュラーなパターンのような気がします。

このことを頭に入れて生活することによって離婚はだいぶ減るのではないかと思っています。つまり、対人関係の条件の中で、実際はサイコパスではないのに相手の行動を悪くとらえてしまうために、相手がサイコパスに見えるということがあるということでよいのだと思います。

総じてサイコパスという概念自体は弁護士の活動にあまり出てこない概念なのです。ただ、その考え方を勉強することによって解決することも出てくるかもしれません。無駄な勉強にはならないというべきかもしれません。


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党首公選の意見で除名と表現の自由を関連させることが誤りであること 付録で人間集団のトップの神格化における確証バイアスの働きについて [故事、ことわざ、熟語対人関係学]



先ず、日本国の団体の内部行為においてすべて日本国憲法が及ぶということは単純な誤りです。

代表者の選出についても、例えば宗教団体の教祖を公選制にするべきだということをおそらく誰も言わないようなことと同じです。法人ということになると、会議や機関の設置を義務付けられていますが、これは形式的なことです。

代表者の選出方法について、公で批判をした言論についてのサンクションについても、それが団体内部の行為だというのであれば憲法の及ぶ問題ではありません。団体内部で何をしてよいのか、何をすることを禁じるのかということを団体が自由に決めることが許されないと、同じ憲法21条で定められた結社の自由の保障が崩壊してしまいます。例えば政党の子会社みたいな出版社があった場合、その政党の子会社の出版社が親会社の政党を批判してはならないということを決めることも団体の自由なわけです。それが嫌な人はそのような団体に入らなければよいし、支持をしなければよいだけのことです。

もちろん制裁としてリンチをしたり、財産を強奪すれば刑事事件になりますから、それは国家が介入することが可能となる違法行為になります。団体の内部行為にとどまらないからだと説明されています。そのような違法行為でない場合まで国家である裁判所や行政が介入することが許されてしまうと、事実上国が団体の在り方を決定できることになってしまいます。結社の自由が保障されなくなるわけです。

どうしてこのようなことを書き始めたかというと、国政政党の代表の決定方式を批判した党員が、内部的な定められた手続きで意見を述べないで、公に批判をしたことを理由に除名されたというニュースがありました。問題は、それに対して江川紹子さんが、この除名処分は表現の自由に反するので、直ちに撤回するべきだと述べたというニュースを見たからです。後に毎日新聞や朝日新聞も批判する記事を出したようです。(この両紙よりも私の中では江川さんが上のため表現はそのままで進めます。)

江川さんは、憲法上の表現の自由が政党の規則に適用されないということは熟知しているはずです。ニュース記事の切り取り方が不正確だった可能性もあるのですが、なぜ敢えてそのようにとらえられる表現を江川さんが使ったのかを考えるべきだと思いました。

おそらく政党というものは、次代の内閣を構成する団体であるから、個人的な組織のような宗教団体とは異なって、政党内部にも憲法の定める民主主義や人権が機能するべきだ、それが機能しない政党が作る内閣は民主主義や人権が機能しないものになると国民にアピールしてしまいマイナス効果が生じてしまうという観点からの政党に対する助言だとするのであれば、ある程度は理解できる発言のような気がします。

但し、それは支援者の心理にすぎません。つまり、江川さんは、その政党だけを支持しているのかどうかはわかりませんが、少なくともその政党を支援したいという気持ちがあることになります。その選択をした以上、最近よく出てくる「確証バイアス」が働いてしまいます。つまり、自分が支持をすることにふさわしい政党であるという事情ばかりを集めてしまい、自分が支持するのにふさわしくないと思われる事情は見ないふりをしたり、それほど大したことがないのではないかと過小評価をしたり、無かったことにしたりしてしまうという心理です。

つまり、その政党が「江川さんの考える正しい民主主義」を実践していないという情報は、見ないふりをしたり、それほど大したことが無いと過小評価したり、そのような事情が無かったことにしていたということになります。

私の知る範囲では、その政党は党首の公選制を一貫して否定してきましたし、その理由も分派を作り組織が分裂したり弱体化したりするからだということも一貫していたと思います。

除名が必要なのかはよくわかりませんが、くだんの人の行為が処分の対象となることは、政党にとっては他に選択肢が無かったはずです。また、そのことを江川さんが知らなかったということも考えにくい話です。

つまり江川さんは、ご自分の価値観に合うように政党の実態を頭の中で作り変えてしまっていたようです。除名処分を撤回したところで、くだんの人が自由に意見を述べることができるようになるわけではないですし、組織の外から批判する人物を組織の中にとどめようとしようとはしないはずです。

単純な話、自分の価値観と合わない政党であれば、支持をやめればよいだけの話です。
それなのに、どうして述べても仕方がないことを述べ、マスコミからのその政党攻撃の材料になるような発言をしたのでしょうか。

やはり無理な希望であったとしても、相対的に他の政党ではなくその政党を支持するべきだという発想が前提としてあり、日本国のためにその政党が今よりも国民の支持を集めなければならないという強い意識があったため、思わず言ってしまったということなのだと思います。しかしもしかしたら、確証バイアスによって、その政党を正確に把握していなかったから支持していたという可能性もあるわけです。

ちなみに組織の論理とは、組織を組織外の攻撃から守ろうとするという発想の外に、組織の秩序を形成して維持しようという発想が自然に生まれてしまうものです。人間の集団の組織というのは、実際は、集団のトップに従おうという意識になっている場合がとても強いです。これは特定の集団を批判していっているわけではありません。どの組織、あるいは組織というほどしっかりしていない一時的な仲間感情を持つ人間関係でも同じです。

但し、従おうということであっても、何が何でも従属しようということになるわけではありません。そういうケースによる犯罪は多々あるのですが、それはそういう風に追い詰められる特別な事情があったからです。

そこまで追い詰められていない場合は、トップを守ろう、トップを害されるのは組織全体を害されることだというような意識を自然に(無自覚に)持つということです。もう少し平たく言えば、「トップを中心に組織を一体化させようという意識」ということになるでしょう。例外的にこのような意識にならない人もいます。典型的にはトップの座を狙っている人です。しかし大多数の人は組織秩序の維持をトップを中心に置くことで形成しようとします。

そして、確証バイアスが起きる理由に「自分の選択の正しさについて安心したい」という気持ちがありますので、集団のトップについてもその人で正しかったのだという安心をしたい気持ちから確証バイアスが起こるようになります。その人に関する悪い事情については、知らないふりをする、過小評価をする、無視をするということです。そして、高評価につながる事情は多く集めていくわけです。本来トップの職責にふさわしいことを示す事情だけでなく、なんらかの好ましい評価はすべて収集してしまうわけです。海を挟んだ隣国のトップの人(故人)については、18ホール連続ホールインワンを行ったという逸話があり、ゴルフ関係者ならみんな知っている逸話です。集団トップの神格化は自然に起こりやすいものだと理解しておく必要があります。

公選制と分派の関係についても少しだけ考えてみます。確かに公選制が分派を作りやすくする危険性はあると思います。それがどの程度組織を弱体化させるかについてはなかなか難しい問題もあるように思われます。また、その政党が言う「用意された意見を述べる権利」については、一個人が述べたことが他の仲間に伝わると可能性というものが十分確保できていたのか問題にはなると思います。一方現状トップの意見は、組織における情報伝達方法によって迅速に組織の隅々まで伝達することができのですが、その情報の共有の規模と速度の違いがあることを踏まえても、意見を述べる権利として保障されているといいうる状態と言えるのか検証が必要なのだろうと思います。

いずれにしてもくだんの方も、自己の所属していた組織について、信頼をして、良かれと思う気持ちが強すぎて、現実を踏まえると望んではいけないことを望んでしまったということになると思います。江川さんですらそうですから、ご本人はなおさらだったのでしょう。

しかし、現実は客観的に想定できる結末となりました。初めから別組織を作るなりして活動されればよかったということにしかなりません。

毎日新聞や朝日新聞が、その政党がデメリットを考慮してもメリットがあるからそのようなルールを作っているにもかかわらず、そのルールを批判することも見当はずれの社説ということでよいと思います。それはその政党の勝手であり、外部者が口を出すことではないからです。

おそらく新聞はそのようなルールを作る政党は支持できないということを言いたかったのだと思いますが、さすがにそれではあからさまに中立ではなくなるので、そうは書かなかったのだろうと思います。

そんなことを社説で言うよりも、正しさはみんなで共有して初めて正しいということになるということを助言すればよいのになあとちょっと思いました。

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笑う門には福来る は真実であること 和解の際の依頼者への説得の最終兵器 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]



笑う門には福来るということわざがあります。わらうかどにはふくきたる。

赤い鳥の童話集にも同名(だったと思うのですが、記憶が曖昧です)の小説があり、赤い鳥の中でも一番かな、私の好きな作品です。

このことわざの意味ですが、一般的には、「家族がいがみ合って生活すると暗く不幸になる。努めて明るく振舞っていればおのずと幸せになる。」という教訓というか道徳というかそういうことになっていると思います。

先ず、「門」というのは、家族の住む家のことでしょうが、家族そのものでよいと思います。
次に、「笑う」ですが、これは文字通り笑うのではなく、朗らかに、明るく、前向きな気持ちでというような意味に解釈されています。
しかし、実は昨今の認知心理学の知見としては、文字通り笑うことでよいのだろうということになってきました。場合によっては心から笑う必要がなく、無理にでも笑顔を作るということでもよいのだということになりそうなのです。

どういうことかを説明します。これは聞いておいて損は無いと思いますよ。

先ず、人間は、嫌な感情、良い感情を問わず、感情が顔に出る生き物ですね。私たちは、自然に、悲しいから下を向くし、怖いから目を見開くし、安心するか微笑むというように、まず感情があって、その効果として表情が生まれると思うわけです。それはそれで正しいのです。表情と感情がこのように長年結びついて生きてきているわけです。

ところが、表情が固定してしまうことによって感情も続いてしまうということがあるそうなのです。あるいは、何かの拍子にうつむいて歩いていると、うつむくことと結びつく悲しい感情が自然と生まれてしまうこともあるそうなのです。逆もまた真なりというやつでしょうか。

もう少しリアルな例を考えてみますと、人間はふいに漠然とした不安感や焦燥感に襲われることがあります。特に理由がなくそういう感情になるという方が良いでしょうか。その場合、何かわからないけれど不安だということで不安な表情をしてしまうと、本当に不安になってしまい、何か不安の種を探してしまうようです。ポピュラーなことは、このままどんどん貧乏になっていくのではないかという不安です。あるいは、誰かとの人間関係がうまくいかなくなるのではないか。とかですね。確かにこれらの財政や人間関係は、いつどうなるかわかりません。それを不安だと思えば、いくらでも不安になってしまいます。でも人間はあまり悪い方に考えないで、なんとなくその日を暮らしているわけです。

例えばということでいえば、会社で上司から理不尽な叱責を受けた。自分が悪いわけではないのに責められた、なんてことがあるとずうっともやもやした気持ちになりますし、家に帰っても何となく過敏になって、家族の些細な言動によって立腹して八つ当たりなどをするということに、覚えのない方はいらっしゃらないのではないでしょうか。

福来るの反対の現象が家族の中で起きてしまいます。

理由のない不安やよそでの理不尽な思いを家庭に持ち込まなければ、つまり気持ちを切り替えれば、あなたを原因としては家族は嫌な思いをしません。あるいはかなり嫌な思いが減ることでしょう。

だけど、どうやって気持ちを切り替えるのか。これがなかなか難しいことだと思います。また、自分では自覚をしていないのに、家の外で不安を感じたり、悔しい気持ちを感じていたりしているとするとますます、気持ちの切り替えができていないことがありそうです。どうしたらよいでしょうか。

この難問を案外あっさり解決するのが、笑う門には福来るというやつらしいのです。

家に帰ったらニコニコする。「ああ自分は変えるべき家があることだよなあ」とニコニコの感情を無理やり作る必要はなく、口角を上げて頬の筋肉も挙げて瞼を下げ気味にすればよいのです。門をくぐるというか玄関の前で、必ずこのエクササイズを行うことを習慣にすればよいのではないでしょうか。やることはメンタルなことではなく、顔の筋肉を動かすことです。

この表情を維持しようと心がけると、些細なことはどうでもよくなります。また、些細なことに感謝をしたくなるようです。自分の感情も変わってしまうようです。人間というのは愛すべき生き物だという気がするのは私だけでしょうか。

そして、家族からしても、最初はにこにこしていて気持ち悪がられるかもしれませんが、こちらはにこにこしているから気持ち悪がられても平気です。そうすると、家族は、改めてあなたが家族に対して敵対的な気持ちがないということを実感するのだそうです。警戒して逆切れすることもなく、過敏になって悪くとらえるということもなくなれば穏やかな人間関係となります。家族も、こちらの飲みすぎなどもある程度これまで以上に寛容になってもらえるかもしれません。

そうやって自分も含めて家族全体が、家に帰ると安心できるという感情になることが、人間にとって「福」の意味なのだと思います。

先ず笑えということこそが真理なのです。

さらにそれが門、つまり家族の中で笑えということがどうしようもなく真理なのだと思います。一人で笑っていても顔の筋肉が付かれるだけです。

ここで言う家族とは、法律的な意味合いの家族ということではなく、おそらく人間関係全般において当てはまるのではないかとにらんでいます。

差しさわりのない範囲で行う必要はあると思います。法事の時ににこにこしているわけにはいきませんよね。

そういえば、例えば弁護士として依頼者と打ち合わせをしていて、和解案を承諾するかどうかなんて話をしていて、「いくら裁判所の書類で支払いが約束されても実際に払われなければ意味がありませんよ。」と言っても、当事者としてはそんな低い金額はあまりにも不合理ではないかと思うわけです。あまり真剣に弁護士が説得すると、そもそも和解という中途半端な解決には不満足な感情が必ず伴うものですが、その不満足の心持を弁護士に向けられてしまいますし、本人も納得できないまま法的手続きを終わらなければなりません。

最近、こういう場面でも意図的ににこにこしています。マスクをしているので、それほどあらわにならず目だけが笑っていてもわかられません。そうすると、弁護士側の感情も変わってくるのです。「そりゃあそうだよね。こんな不合理な目に遭って、これだけしか埋め合わせが無ければそれは不満だよね。」と先ず自然に共感することができます。この「そりゃあそうだよね」と言う一言をはさむことによって、依頼者も安心して合理的な(致命的な損をしない)解決をよりスムーズに選択されるようです。

大切なことは真実を力説することではなく、焦って結論を強引に持って行こうとする自分を自覚することだったんです。そのためには、冷静なメタ認知を可能としなければならないわけで、その方法が笑う門には福来る戦法だったということです。

もう少し早く気が付けばよかったなあと思っているわけです。

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① 人間が群れを作ることができた最大のツールは「心」であること。 ② 当時極めて有効だった「心」が現代で苦しむ原因は、心と環境のミスマッチにある  中島みゆき「帰省」に寄せて シリーズ1 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

中島みゆきさんの歌に「帰省」という歌があります。詳しくはぜひ聞いていただきたいのですが、都会の中に生きることの不自然さというか「人間としての無理」が彼女らしい表現で歌われているように感じます。その中に、「人は多くなるほど物に見えてくる」というかなり毒の効いた一節があります。詩人のものの見方、とらえ方、そして表現に感銘を受けました。対人関係学の言いたいことを一言で言えば、そういうことなのです。

群れを作って行動する動物というのはいろいろありますね。水族館で見るイワシの魚群は光を浴びるととてもきれいで、一体の竜が泳いでいるような統一感もあり、見惚れてしまいます。馬も群れで走ると迫力があり、あの地響きのような蹄の音は心を動かされてしまいます。渡り鳥のV字隊列は、不思議なほど見事です。これらの群れの行動の原理はよく知られています。

イワシは群れの中に入って泳ごうとする本能があるということで、これを各イワシが行っていると結果として竜の魚群が形成されるそうです。馬は群れの先頭に立って走りたいという本能があるそうで、それぞれがこの本能に従って走り出すと、スピードが上がり肉食獣から結果として逃げることができるわけです。鳥は、風圧を避けて飛ぶことから自然と圧が一番低くて楽に飛べる位置をキープしてあのような隊列を結果として組んでいるとのことです。

では、人間はどうやって群れを作っていたのでしょう。

約200万年前になると、人類は、群れを作り、群れで小動物の狩りを行い、群れで肉食獣から身を守り、群れの中にいることで安心して血管の修復などがなされていたようです(概日リズム)。群れが無ければ人間は生き残れなかったということになると思います。

群れを作ったツールがほかならぬ「心」であると対人関係学は考えます。
つまり
・ 群れの中に居続けたいと思う心
・ 群れから外されそうになると不安になる心
・ 群れの秩序を守ろう(権威に従おう)とする心
これらの心を本能的に持っていたから、人間は群れを作れたのだと思います。

これらの心がどのようにして人間の本能に組み込まれたのかについてはわかりません。突然変異か何かで、このような心を持った一群が生まれたのでしょう。そしてこのような心を持った一群は、他の心の不完全な一群よりも生き残る確率が高く、かつ、男性も女性もこのような心を持った個体を繁殖相手として選ぶ傾向にあり、その結果人間という種はこのような心を持った生物種として確立したのだと思います。

これは200万年前の人間の環境には、良いことづくめだったと思います。当時の人間の群れは数十人から100人ちょっとというのが一単位であり、生まれてから死ぬまで同じメンバーであったし、まさに運命共同体で頭数が減少してしまうと自分の命が危うくなるという関係にありましたので、群れの仲間を自分と同じように大切にしたことでしょう。というか、他人と自分との区別があまりつかなかったのだと思います。みんなが群れにとどまりたいと思っていたし、群れの自分以外の個体も群れにとどまりたいのだと理解していたわけです。その結果、利益は等しく分配され、むしろ弱い者ほど手厚く扱われたのだと思います。極めて不完全な赤ん坊も群れで育てることができたのだと思います。理性的にこのようなことをして頭数を確保しようとしたわけではなく、たまたまそういう心を持っていたために環境に適合することができて生き残ったということです。

このような心が無ければ、人間は現代まで生き延びなかったはずです。

その心にとってのパラダイスのような環境から、約200万年後の世界が現代です。あたかも心があるために、人は傷つき、あるいは他者を攻撃しているような印象さえ受けます。これはどういうことでしょうか。また、人間の性善説、性悪説なんてことも言われています。これも視野に入れて考えてみましょう。

結論から先に言えば、ここで中島みゆきさんの「帰省」なのです。
つまり、人間の心は、せいぜい数十名から100名ちょっとの仲間、それも一つのグループの利益を大事にすることにはとてもよく適合しているのですが、それ以上の人間たちを平等に考えることには対応していないということのようです。また、グループ間の対立があると、どうしても自分のグループに肩入れしてしまうので、他のグループと対立してしまうきっかけが生まれてしまうようです。

人間同士のかかわる環境に、人間の心、つまり脳が対応できていないということです。だから、人間が多くなると、だんだんと「物」に見えてきたり、自分を攻撃する「肉食獣」に見えてきたり、自分のエサの「小動物」に見えてきたりしてしまうということなのです。200万年前から進化が止まってしまった心が現代社会の環境にうまく適合できていないということから、「環境と心のミスマッチ」が起きているという言い方ができると思います。

現代社会において人間は、特定の他者を唯一絶対の仲間であるという尊重ができなくなるわけです。しかし心は200万年前から変わっていませんから、現代においてもなお人間は自分が唯一絶対の仲間の一人として尊重されたいと思いますし、尊重されなければ心の性質として、仲間から排除される心配がこみ上げてきてしまい、心が傷ついてしまうわけです。

性善説、性悪説という言い方はあまり機能的ではないという言い方が正確だと思います。人間は、200万年前は、善を施すだけで一生を終えることができたのだと思います。みんな仲間ですから大きく敵対しあうきっかけもなかったはずです。むしろ一番弱い者を守ることによって群れを守るということに必死だったはずです。法律も道徳も必要が無かったと言えるでしょう。ところが、農耕が開始され、人間がかかわりを持つ人数が増えて群れが複雑化すると、自分や自分たちを守るために、他者を傷つけ他者の利益を奪うということも生まれてきたのだと思います。道徳だけでなく、法律という明文のルールを作る必要ができてきたわけです。また、宗教も生まれたのだと思います。

本来人間は、他の群れと共存していくことが脳の構造上得意ではなかったはずですが、強い群れが弱い群れを支配する形で大きな群れを形成していき、他の群れとの関係で群れが大きいことのメリットを感じたのでしょう。群れ同士が共存できることが、その外の群れとの関係で圧倒的に有利だったので、共存の方法も獲得していったのだと思います。

これが理性です。

理性を働かせて、人が人を支配しなくても共存ができる人間社会を作るのか、自分と自分たちのための利益のために他者を傷つけて他者から利益を奪い、人類を滅亡させるのか、おそらくそいう岐路に人類は差し掛かっているのだろうと思います。

根本的な社会システムを理性で作り上げることも大切ですが、対人関係学は、自分が自分の周りとの関係をどう理性で築いていくかという方向の検討を行う学問を目指していっています。

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「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」(マタイによる福音書5章)の非キリスト者の対人関係学的解釈 「人パンのみに生きるにあらず」との一体性といわゆる無抵抗主義との違い [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

本記事は、非キリスト者による解釈です。教義の正しさを主張するものとは次元を異にします。非キリスト者も人類の財産である聖書、キリストの言葉から多くのことを学び人生を豊かなものにすることを意図して書かれています。
表記については、今日インターネットでたまたま検索出来たものをそのまま引用させていただいています。

さて、「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」という新約聖書の言葉について、世間には様々な解釈があるということを知って驚いています。もっとも、様々な解釈があるのは世俗の話だろうと思いますが、いかんせん礼拝に出席したことも数えるほどしかない身としては、宗教的にはどう正しく解釈されているのかはよくわかりません。

何かの拍子でこの意味について調べようと思いたって、マタイの福音書第5章を読んだところ、やはりこれまで私が漠然と考えていたことでよいのではないだろうかという思いが強くなり、これは対人関係学が力を入れている内容と強く重なるところだと思って、雑感のようなものをご紹介しようと思いついたというところです。

さて、「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」というと、文字通り読めばかなり自虐的なことを言っているようで衝撃を受けますが、ガンジーやトルストイのいわゆる無抵抗主義と関連付けられて説明されることもあるそうです。しかし、聖書は、確かに印象的な言葉が有名になり、非キリスト者である私たちも知るところになっているのですが、前後の文脈がきちんとあるのですからそれを読まないと始まりません。これは論語の解釈でも同じように感じています。

マタイの福音書の5章は、「心の貧しい人は幸いである。天国は彼らのものである。」というこれまた有名な言葉から始まるイエスの山上の垂訓と呼ばれる一連の説教の始まりの部分です。
ここでは、天国とは何かということを述べるとともに、地上においても天国と同じように生きることの大切が語られているように私は受け止めました。
あまり知らないことを知ったかぶりして話して間違ったことを述べることが心配なので、結論を端的に述べましょう。

「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」という言葉の意味ですが、これは前後の話の流れからすると、
「決して怒りを持つな。」
ということが述べられているように受け止めたのです。

怒りは神の国には無いということが大きな教えであり、怒りによって人々の苦しみは増していき、人間社会を悪くするということなのだと思います。神の国にたどり着く前でも、神の教えに従って生活することにより、幸せを感じ、人生を豊かにすることができると教えているように感じるのです。そして、そのような神の言葉の実践者が地上にあふれれば、限りなく神の国に近づくことができるということを言いたいのではないだろうかと感じました。

この意味するところは、その前の4章でキリストがモーゼの言葉を引用し、『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と言ったことと連続性があると思うのです。

人は、生命身体の安全だけを気にかけて生きるのではなく、神の言葉ので生きる、つまり、人間としての生き方が人間として生きるためには決定的に大切なのだと述べていることと連続している内容となっているということです。この神の言葉がキリスト教では「信仰」であり、対人関係学では「仲間とお互いに尊重しあって生きる方法」ということになるのだと思います。対人関係学の目指す価値観は、聖書からも多く学ぶことができるということになるのだと思っています。


そして怒りを持たない方法として、自分の利益、財産、損得にこだわらないことということなのだということが明かされています。この象徴、比喩として「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」と述べられているのではないかというのが私の感想です。「右の頬を殴られたからと言って怒り狂うな。そのためには、左の頬も差し出すくらいの心構えでいることがコツである。」というような意味なのだと思います。

旧約聖書との違いが言われているようなのですが、詳しくは考察できていないのですが、時代の推移による人間のコミュニケーションの拡充と希薄化を受けた表現の違いの可能性があるとにらんでいます。

この私が勝手に解釈した聖書の教えは、弁護士として人間関係の紛争にかかわるとつくづくその通りだと感じているところです。自分を守ろうとする思いが強くなってしまって、最も大切な仲間とさえ疑心暗鬼を抱きあってしまうことが人間関係の紛争の芽には必ずあります。そして、その自分に対するこだわりが、紛争を鎮める方向とは全く逆の拡大する方向のエネルギーになってしまい、それがまた怒りの炎を高ぶらせて、収拾がつかなくなってしまう。そして、誰も悪くないのにみんなが傷ついて、他の人たちにも怒りと悲しみが広がっていってしまう。こういう人間模様に繰り返し立ち会っています。

怒らないで冷静に考えることをアドバイスするのですが、なかなか功を奏しません。うまくいく場合は「教科書通り!」というようにうまくいくのですが、なかなか自分の怒りの原因に気が付くことも少なく、怒りにも気が付かない場合も少なくありません。
もっとも、なかなかうまくゆかないということは、我が身を振り返ればよくわかることです。そういうことに気づいていながら、つい自分を守ってしまう。自分を守るために、大切な仲間に怒りを向けてしまうということに気が付いて、今も愕然としているところです。

どうすればよいのでしょうか。
あきらめて無抵抗となればよいのでしょうか。私はガンジーやトルストイの思想というものについてはほとんど知りません。無抵抗主義という言葉が何を意味しているのか正確なことはわかりません。でも、現実に対して働きかけないという意味ではないと思っています。それはガンジーやトルストイのように理想を掲げて理想に向かって行動する生き方とは矛盾するからです。

それではどうしたらよいのでしょうか。
私の一つの結論としては、
「怒らないで考える」
ということを意識し、追及することだがするべきことなのだと思います。怒ってしまうと、思考力が減退し、悲観的な思考、二者択一的な思考が頭を支配していきます。また、怒りは他者を自分から遠ざけていくものです。合理的解決にはまっすぐ向かいません。

では怒らないためにはどうするか。
「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」
がここでも生きてくるのだと思います。

怒ってから、怒りに気が付いて自分を抑制するということは至難の技です。怒りに気が付くこと、怒りを抑制することという二つの高いハードルがあります。
そうではなく、怒りを覚えるポイントの出来事があったら、自分が怒っていなくても(怒りを自覚していなくても)、自分を守ろうとすることをやめようとするということをするべきなのかもしれません。

自分が傷つけられたら
乱暴にされたら、
否定評価を受けた場合、
言いがかりをつけられた時、
顔をつぶされたとき
立場がなくなったとき、
一方的に攻撃されたとき、

こういうような時、自分を守ろうとすることをやめようとする。左の方も差し出す。むしろ自分は、もっと否定されても仕方がない人間だと自分を戒める。しかし、それで終わってはだめです。考えるのです。
どうして自分が攻撃されるのか、自分が受けた迫害には理由があり、そうされなくて済ませるためには方法があったはずだ。
同じようにこれから将来に向けてそれを改善するためには方法があるはずだ。
自分に与えられた役割を果たす方法があるはずだ。
と考えていく。こういうことだと思います。

私のような未熟なものは、絶えず、人間がどうしたら怒るのか、傷つくのか、不安になるのかということを考え続けて、自分を守ろうとせず、仲間を守ろうとすることを修行し続けなければいけないのだろうと覚悟を新たにしました。

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