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傾聴、受容,共感 刑事弁護、高葛藤者法律相談に活かすカウンセリングの基礎技法 話を聞く態度について [故事、ことわざ、熟語対人関係学]


カウンセラーがクライアントから話を聞く態度として、一般に
傾聴
受容
共感
というポイントがあるようです。

正確には専門書などをお読みいただくとして、弁護士業務に応用がきくようにそれぞれの概念を私なりに整理してみますと

傾聴は、話を聞く態度で、主に相手から見える外形的な態度ということになると思います。受容は、心構えとでも言いますか。どちらかというと、聴く方の先入観を排したり、自然な反発や反応を排除したりという感じでしょうか。共感は、傾聴と受容を基盤として、相手方に対して自分の理解を示すということになろうかと思います。

定義的には、
「傾聴」とは、深く相手の話に耳を傾け、その人に焦点を当てて、相手の存在そのものを知ろうとすることである。表情、姿勢、ジャスチャー、感情、考え、話しの内容、沈黙さえも十分に観察し、その意味を考えていく。

「受容」とは、無条件の積極的関心をもつこと言う。相手の感情が否定的な感情であったとしても、そのままを受け入れることが必要である。

「共感的理解」とは、クライエントの私的な世界をあたかも自分自身のものであるかのように感じ取ることであるが、クライエントの感情と同化するのではなく、クライアントの感情として自分の感情とは切り離してとらえ、クライエントの感情に振り回されないようにすることである。

と言われているようです。

傾聴とはどう傾聴するかということで、具体的な着眼点の例示がされていることは面白いですね。もっとも、通常の法律相談であれば、文字的な情報を正確に聴取することの方が大切です。ところが、法律的解決よりも、葛藤や感情の解決にもウエイトが置かれると、こういう文字的ではないノンバーバルコミュニケーションが重要になることは、意識した方が良いと感じました。感情が高ぶっている人は、言葉とは違うところに問題の所在があるということが少なくありません。自分からは話すことができないけれど聞いてほしいというサインを見逃してはならないということかもしれません。

弁護士が一番嫌うのは、相談者の沈黙かもしれません。弁護士の業務を機械的に考えると沈黙は情報が入ってこないので仕事にならないからです。ところが、相手の感情や葛藤等を知ろうとしていれば、沈黙の意味についても考えるという発想に立てます。

傾聴の効果として、相手が自分の話を熱心に聴こうとしているということを外形から見て取れます。自分の話を聞こうとすることは、自分について知りたがっている人がいるということです。だから自分にも人間としての価値があるという意識になり自尊感情が芽生えていくとのことでした。これは確かに信頼関係の基礎になるだろうなと実感できます。

受容と傾聴の違いも難しいし、受容と共感の違いも結構難しいと感じました。

ここでは受容については、聴く方の心構えという整理をしたのは、私なりにそれぞれの関係性を考えた結果です。

受容できない場面をお話しすると受容とは何かがわかってくるかもしれません。例えば弁護士が、自分の子どもをわき見運転していた運転手の自動車で引かれて長期入院を余儀なくされたことがあるとします。そうすると、交通事故を起こした被疑者と面談する場合に、その被疑者や被疑者の話を受容できなくなるというのです。個人的事情から受容できないような犯罪類型があれば、罪名を聞いて弁護を引き受けないということはありうることですし、被疑者被告人のためには引き受けない方が良いのかもしれません。

ただ、通常は、刑事事件という犯罪を犯した人であることは間違いありません。道徳心や正義感の強すぎる人が、一見身勝手と思える動機を聴いたり、安易に犯罪を行っていることにいちいち反発していたのでは、刑事弁護に向いていないのかもしれません。しかし、弁護士は、家で犯罪報道などをテレビで観て「許せん」と憤っていても、被疑者被告人には親身になるというタイプの人が多いので面白いところです。

また、葛藤の強い人の相談会では、恨みとか憎しみが強く、否定的感情があけすけに言葉に乗せられます。聴く方が感情的に反発したり、うんざりする場合も実際にはありうることです。しかし、よくよく話を聞いてみると、もしかしたら自分も同じような感情になってしまうような出来事だったのかもしれないという感覚が生まれてくることがあります。そうすると、その人のフェイク的な言葉と伝えたい言葉が色分けされてきて、人を試すようなフェイク的言葉をかき分けながらその人が真に伝えたい言葉を掘り出すという作業ができるようになります。

受容の条件として、相談担当者自身が自分を受容する必要があると言われています。自分の欠点や挫折を受け入れることによって、相談をする人を受け入れるようになれるというのです。

でももう一つ受容の条件として必要なことは、その人と自分は同じ人間であり、双方が特殊な人間ではなく、同じ条件であれば同じ反応をするのだろうという感覚というか人間観があることが受容が可能となる条件で、弁護士としては意識しなければならないところなのだと感じます。

共感については、これまでも何度か取り上げてきましたから、メモ的に羅列して終わります。

感情を追体験してしまうと、弁護士の仕事ができない。理性的にこういう環境にあると、こういう感情や行動に出てしまう(人間だから)という意味での共感にとどめるべきこと。

その人の犯罪に至る経緯や、葛藤の高まりに至る過程について、自分の理解を人間として自然な流れになっていることを確認すること。そして修正していくこと。

自分勝手に解釈しないで、可能な限り質問をしてみること。「こうだよねえ」ということだけでなく「こうではないものね」ということを述べて、相談者が担当者に対して、自分のことを理解しようとしてくれている、自分のことを理解してくれている、自分の行動や感情の肯定できる部分があることを認めてくれている。自分が否定されるだけの人間ではないことを認めていてくれている。自分は回復や立ち直りができると考えてくれていると感じていただくことが共感の作用として期待できる。

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一人で生きられるって、それは素敵なことだろうか?  [故事、ことわざ、熟語対人関係学]


表題に比べて無粋な書き出しをするわけです。
現代社会は、お金さえあれば「物理的には」、誰ともかかわらずに生きて行けるようにも思われます。今の人間関係で、思い悩むときは、いっそのこと人間関係を断ち切って一人で生きてみようかなんて思うこともあると思います。

そうやって実際に一人で生きている人もいるかもしれません。
また、本当は誰かと暮らしたいのに、事情があって一人で生きていると言う人も多くいらっしゃいます。

対人関係学の基礎になる学説のうちの非常に大きな位置を占めるバウマイスターという認知心理学者の「The Need to Belong」(所属の要求)という論文があります。結論から言うと、「人間は、他者のグループに所属することを本能的に求めており、その要求が満たされないと心身に不調が表れてしまう。」ということを述べています。様々な文献の研究からそのような結論を導き出しているようです。

だから一時「一人で生きていたい」と思っても、やがては人間の中で生きていきたいと思うようになるか、その願いがかなわないまま精神を病んでいってしまうのかもしれません。

ただ逆に、職場や友人関係などで誰かとかかわっていながら、所属の要求を満たしているはずなのに、その人間関係が原因で同じように精神を病むような現象が見られます。これはどうしてでしょうか。

パワハラなどの自死事案を多く担当した私は、そもそも人間の要求は、誰かとかかわっていればよい、人間の集団に所属していればよいというだけのものではないと考えています。「自分がそのグループで、仲間として尊重されるという関わり方をしたということ」が、人間の根源的要求なのだと、バウマイスター先生の学説を修正する必要があると考えています。

バウマイスター先生の論文は、先ほども文献研究の手法だと言いましたが、人質にされた事案とか、刑務所内の対立の事案とか、極端な事案が多いようです(翻訳がされていないので、私の英語読解力の範囲での話ですが)。その中でも、つい人間は人間を求めてしまうということで磨かれた真実があることは間違いありません。

しかし、現実の人間の紛争や過労自死の事案を見ると、「仲間として尊重されない人間と一緒にいること自体が人間にとって過酷なことであり、心身に不具合が生じることだ」と結論付けたくなるのです。

ただ、この「仲間として尊重されている」と感じているかどうかということは大変難しくて、一方が他方を尊重していると頭の中では考えていたとしても、他方が「こんな扱いでは自分は尊重されていない」と感じると、心身に不具合が生じたり、仲間から離脱しようとするところが難しいところだと思います。

どんな場合に相手が「仲間として尊重されている」と感じているか。それは人それぞれなので、インターネットや本には書いていないことです。相手をよく観察して(どういう場合に嫌がるか、嫌がる場合はやめる。どういう場合に喜ぶか、喜ぶことは積極的にやる)、場合によってははっきり言葉にして尋ねてみるということでかかわりの中で学習していくということなのでしょう。

さらに難しいことは、相手が仲間として尊重されると感じることが、自分にとっては苦痛である場合があるということです。人間は「自分」というものがあり、自分を自分で裏切り続けると、やはり苦しくなるようです。一方で他者と一緒にいたいという要求がありながら、他方で自分を壊したくないという気持ちなのでしょうか。例えば会社で、会社の命じたことが自分の良心に反することなのに、無理にそれを行い続けるとやはり心身に不具合が出てきてしまうようです。

相手が会社であれば、自分を大切にするために退職をするという選択肢を持つべきです。
これが相手が家族の場合が切ないところです。ただ、この場合は別離だけが選択肢ではなく、相手に対して働きかけを行い、自分の気持ちを相手に理解してもらい、相手を変えていくということも選択肢として持つべきだと思うのです。

この調整のお手伝いをする人がなかなかいないのが現代日本です。私はそのような時に家族再生のお手伝いをすることも弁護士としての仕事だと思っているのです。

そして現代の様々な公的な「支援」は、別離だけが唯一の選択肢だとでもいうような働きかけをしているのではないかと憂慮しているのです。

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サイコパスと弁護士活動(刑事責任能力、愛着障害とは異なること、夫婦問題) [故事、ことわざ、熟語対人関係学]


サイコパスに関する本を読んだのでメモ代わりに雑感を述べます。

<刑事弁護とサイコパスという言葉>

サイコパスという言葉は、弁護士活動においてほとんど使ったことがありません。定義もはっきりしないように思われます。いろいろな人がいろいろな意味内容を含めて説明しているからです。一番使いそうな弁護士の活動分野では、刑事弁護を想定されるかもしれません。

「被告人はサイコパスだから犯罪をしないように自分を制御できなかったから、刑事責任能力がなく無罪である。」
という主張をするかという問題です。
しかし、実際はそのような主張はされていないと思います。

刑事責任能力が無いので無罪とは論理必然的なものではなく、その時々の刑事政策の考え方、決め方の問題です。現代の日本の刑事責任能力とは、「自分のこれからしようとしている行為が犯罪に該当しそうだと思ったら、『犯罪になるのでやっぱりやめる』というパターンを期待している。」というものです。このため、やっぱりやめたとおよそ期待できない心理的、生物的事情があれば、期待に反して行動したという非難ができないため刑事罰を課す根拠が無いとして無罪とするわけです。

あまり考えにくい話ですが、幼児の犯罪とか夢遊病の際の犯罪とかが典型場面です。2歳児が包丁投げたらたまたま人に刺さって大けがをしたとか、薬の影響で夢遊病の状態になってしまい、その時いた部屋にあった他人ものを手あたりしだいカバンに詰めてしまい、たまま財布もそれに入れて出てきてしまったというような場合が具体的事例でしょう。

では、「他者に対しての共感力が無いために、人を殺すことを止めることが期待できないから非難できない」と言えるでしょうか。これは言えないというのが現在の日本の刑事政策的考え方です。他人の苦しみに共感ができないからといって、人を殺すような行動(腹を刺すとか、致命的な毒を飲ませるとか)をしないことが期待できないとは言えないと考えるからです。

先天的に共感力を持っていないとしても、「どういうことをすれば犯罪になる」と理解することを社会的に期待されていて、理解できるはずだとされているわけです。そして「犯罪になるとわかればそれをやめる」ということも期待されているというわけです。

ただ、事案の本質を社会や被告人本人に理解してもらおうとして、弁護人があえて「責任能力が無いから無罪だ」と主張する場面はありそうです。この場合でもサイコパスという言葉は使いません。医学用語ではなく定義が不明だということが一番の理由でしょう。反社会性パーソナリティ障害という言い方をするとか、共感力の先天的欠損という言い方がなされると思います。さらには、単にそのような先天的な問題ないし生物的問題を指摘することにとどめないで、そのような問題を背負って生きてきて、犯罪に至るまでの生育の過程において、問題点を是正するような教育を受けられなかったというような、本人だけの責任ではないというような事細かな事情を説明することになると思います。

サイコパスとまでは言えないにしても、常習的に犯罪を実行してしまう人には、確かに被害者に対する共感力が(特に犯行時には)極めて不十分であるパターンが多いというのは実感としてあります。その場合でも、弁護人は、こうあるべきだということを押し付けるのではなく、どうして自分が刑事罰を受けなければならないのか、刑事罰の対象となる行為をすることがどこに原因があったのか、今後具体的にどうしていけばよいのかを一緒に考えることになります。共感する能力が極めて不十分である場合、抽象的な心構えの対策を立てても実行することができません。その人の今後に役に立ちませんし、判決でも効果がありません。具体的に、犯罪をしにくくなるような生活を考えていくということが有効だと思います。

これまでこの人はサイコパスではないかと感じた人はいました。しかし、刑事司法の歴史に残るような重大だというほどの凶悪事件を担当することがなかったためか、色々な事情を考えると、「共感力がなかったわけではない」という結論に行きつきます。サイコパスによる犯罪とは極めて例外的なものではないかということが実感です。ただ、例外的であっても、犯罪予防や受刑者の再犯防止の観点からサイコパスの研究をすることは意義のあることなのでしょう。

<愛着障害とサイコパス>

ボウルビーとエインズワースの理論である愛着障害は、「サイコパスの原因が幼少期に十分な愛着を受けて成長するという経験が無かったから」ということを説明した理論ではありません。サイコパスの原因が生育環境にあるということを言うつもりもなかったことと思います。

そうではなくて、幼少期と言っても生まれてから2歳くらいまでの間に、十分に自分を支持してくれる「特定の人間」から手をかけて世話をされた経験が無いと、対人関係一般に自信が持てなくなり、新たに出会う他者との適切な位置関係を構築することができなくなるという理論だと私は理解しています。

他者との適切な距離感が理解できないということには二つのパターンがあるようです。一つは、他者に自分との関係を継続してほしいあまり、あまりにもその他者に近づきすぎ、その他者に尽くしてしまう、べたべたとした対応を取ってしまうということで、例えば弁護士と依頼人という関係が作れず、必要以上に親密になろうとしてしまうというパターンです。もう一つは、人間全般を信じることができずに、他人とは隙あれば自分に害をもたらそうとする存在であるということで、近づこうものならばやみくもに危険を感じて自分を守るために攻撃をしてしまうというパターンです。近づきすぎるパターンと近づかないパターンということになり、適切な距離を保てないということになります。

他者を仲間だとは思いませんので、他者が苦しんでいる状態を見ても反応を示さないこともあるわけです。そうするとサイコパスのように見えるのかもしれません。

実はこのような愛着障害の、近づくと敵意を見せるというパターンは人間だけではなく、ほ乳類全般に見られるようです。もっとも野生の動物の中では、敵意を見せることが当たり前なのでその関係はわかりません。人間のそばにいる動物も、親や親のように自分を育てる存在からネグレクトをされていると、やはり情緒が安定せずに人間にも攻撃的になるそうです。

この話は友人の獣医師から直接聞いた話です。ただ、動物の場合はこの攻撃性は改善が可能であるようです。もっとも、昼夜問わず手をかけてお世話をし続けるという時間と手間暇をかけることが必須になるそうです。彼は、犬や猫の殺処分を避けるために、攻撃性を消失させて、飼い主を探しているようです。

心理学者からはボウルビーは、フロイト学派であり、フロイト的な考え方をしているという決めつけがあるようです。特に彼の初期の学説にはそのような傾向もあったようです。しかし、ボウルビーの愛着(アタッチメント)理論は、抑圧された精神リビドーがどうのこうのというのではなく、動物行動学を背景として理論化されています。第2次世界大戦に施設収容された大量の戦災孤児の観察という事実から出発した理論なのです。愛着というのは抽象的な心ではなく、特定の人に支持的に触れられること(アタッチメント)だとしているのも、行動学的なアプローチを表していると思います。

その後、愛着理論は、現実に、児童養護施設だけではなく、長期入院の病院等、世界中の子どもの施設の在り方に、第二次大戦後に急速に影響を与えてゆきました。

サイコパスという視点から愛着理論を読み直してみると、共感という生理的反応は、およそ人間全般に対して起きる反応ではなく、仲間だと思える人間に対して発動する反応ではないかと考えられそうです。少なくとも自分の敵ではない人間、自分を攻撃する人間以外の人間に発動するということなのでしょう。愛着障害を抱えた人間は、他人を仲間だと思えないだけでなく、積極的に他人は敵だ、自分に害をなす存在だと自然と思ってしまう苦しい状態を生きていらっしゃるのかもしれないと感じました。

このような生育環境がその人の後の生き方に影響を与えることを考えると、親の子育てに問題があるからと言って、安易に子どもを親から引き離して施設収容することには慎重になる必要があるということになりそうです。私の知っている児童養護施設の職員の人たちは、児童相談所よりもよほど親身に子どもたちの幸せを考えているまじめで献身的な人たちです。しかし、職員も集団であるし、子どもたちも集団であるので、年齢によっては特定の愛着の対象がないというところに、問題が生まれるということが生じる危険があるわけです。最近安易な、必要性の裏付けが無いと思われる児童相談所などによる引き離しの相談を受けることがあるので、心配なところです。

<夫婦問題とサイコパス>

先ほどの愛着障害の理論を理解すると、夫婦喧嘩はまた別の角度から理解ができるようになるかもしれません。対立している夫婦は、相互に、相手をサイコパスだとののしることがあります。

ここでの訴えは、自分の気持ちを夫は、妻は、わかってくれない。自分はこんなに苦しんでいるのに助けてくれないということなのですが、事件に現れた例では、その始まりにおいては男女で少しニュアンスが違うようです。女性に多いのは、わかってくれない、助けてくれない、優しくしてくれないというニュアンスです。味方になってくれないというものでしょうか、男性に多いのは、自分をこれだけ苦しめて平気でいることが恐ろしいというものです。自分に敵対することで安心できないという感じでしょうか。いずれにしても初期にはそのような違いがありますが、だんだん似たような主張になっていくような気がします。

先ほどの愛着障害の考え方をスライドしていくと、女性は相手に積極的な味方であることを求めていて、それがかなわないと恐ろしい相手だと感じやすいようです。男性は、自分が攻撃されることによって恐ろしさを感じるようです。

いずれにしても、この人は自分の味方とは思えないとか、自分に対して攻撃する存在であるとかという感覚の原因は、その行為自体の程度によるものではなく、相手に対する期待の高さを反映している部分が大きいような気がします。

大きな傾向としてということで述べますが、順番から言うと、先ず妻の方が自分の要求する優しさを夫に求めるのですが、同性に対してと同じ行為を夫に求めてしまうようです。それが通常の男性は、一般的に単に苦手とするところなのです。愛情が無いから、仲間として見ていないから積極的に妻を安心させる行為をしないのではなく、そのする必要性をあまり認識していないので、あるいはすることが気恥ずかしくてできないからしないだけなのです。これについて、妻は当然受けるべき優しさを夫は示さないので不安になり、不満の感情をあからさまに示したり、試し行動をしたりして夫からすると自分が妻から攻撃されているような印象を与える行為になってしまうわけです。妻の不満感情や試し行動に対して夫が真に受けて反撃に出てしまうと、どんどん泥沼にはまっていくということが深刻な夫婦喧嘩の始まりのポピュラーなパターンのような気がします。

このことを頭に入れて生活することによって離婚はだいぶ減るのではないかと思っています。つまり、対人関係の条件の中で、実際はサイコパスではないのに相手の行動を悪くとらえてしまうために、相手がサイコパスに見えるということがあるということでよいのだと思います。

総じてサイコパスという概念自体は弁護士の活動にあまり出てこない概念なのです。ただ、その考え方を勉強することによって解決することも出てくるかもしれません。無駄な勉強にはならないというべきかもしれません。


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党首公選の意見で除名と表現の自由を関連させることが誤りであること 付録で人間集団のトップの神格化における確証バイアスの働きについて [故事、ことわざ、熟語対人関係学]



先ず、日本国の団体の内部行為においてすべて日本国憲法が及ぶということは単純な誤りです。

代表者の選出についても、例えば宗教団体の教祖を公選制にするべきだということをおそらく誰も言わないようなことと同じです。法人ということになると、会議や機関の設置を義務付けられていますが、これは形式的なことです。

代表者の選出方法について、公で批判をした言論についてのサンクションについても、それが団体内部の行為だというのであれば憲法の及ぶ問題ではありません。団体内部で何をしてよいのか、何をすることを禁じるのかということを団体が自由に決めることが許されないと、同じ憲法21条で定められた結社の自由の保障が崩壊してしまいます。例えば政党の子会社みたいな出版社があった場合、その政党の子会社の出版社が親会社の政党を批判してはならないということを決めることも団体の自由なわけです。それが嫌な人はそのような団体に入らなければよいし、支持をしなければよいだけのことです。

もちろん制裁としてリンチをしたり、財産を強奪すれば刑事事件になりますから、それは国家が介入することが可能となる違法行為になります。団体の内部行為にとどまらないからだと説明されています。そのような違法行為でない場合まで国家である裁判所や行政が介入することが許されてしまうと、事実上国が団体の在り方を決定できることになってしまいます。結社の自由が保障されなくなるわけです。

どうしてこのようなことを書き始めたかというと、国政政党の代表の決定方式を批判した党員が、内部的な定められた手続きで意見を述べないで、公に批判をしたことを理由に除名されたというニュースがありました。問題は、それに対して江川紹子さんが、この除名処分は表現の自由に反するので、直ちに撤回するべきだと述べたというニュースを見たからです。後に毎日新聞や朝日新聞も批判する記事を出したようです。(この両紙よりも私の中では江川さんが上のため表現はそのままで進めます。)

江川さんは、憲法上の表現の自由が政党の規則に適用されないということは熟知しているはずです。ニュース記事の切り取り方が不正確だった可能性もあるのですが、なぜ敢えてそのようにとらえられる表現を江川さんが使ったのかを考えるべきだと思いました。

おそらく政党というものは、次代の内閣を構成する団体であるから、個人的な組織のような宗教団体とは異なって、政党内部にも憲法の定める民主主義や人権が機能するべきだ、それが機能しない政党が作る内閣は民主主義や人権が機能しないものになると国民にアピールしてしまいマイナス効果が生じてしまうという観点からの政党に対する助言だとするのであれば、ある程度は理解できる発言のような気がします。

但し、それは支援者の心理にすぎません。つまり、江川さんは、その政党だけを支持しているのかどうかはわかりませんが、少なくともその政党を支援したいという気持ちがあることになります。その選択をした以上、最近よく出てくる「確証バイアス」が働いてしまいます。つまり、自分が支持をすることにふさわしい政党であるという事情ばかりを集めてしまい、自分が支持するのにふさわしくないと思われる事情は見ないふりをしたり、それほど大したことがないのではないかと過小評価をしたり、無かったことにしたりしてしまうという心理です。

つまり、その政党が「江川さんの考える正しい民主主義」を実践していないという情報は、見ないふりをしたり、それほど大したことが無いと過小評価したり、そのような事情が無かったことにしていたということになります。

私の知る範囲では、その政党は党首の公選制を一貫して否定してきましたし、その理由も分派を作り組織が分裂したり弱体化したりするからだということも一貫していたと思います。

除名が必要なのかはよくわかりませんが、くだんの人の行為が処分の対象となることは、政党にとっては他に選択肢が無かったはずです。また、そのことを江川さんが知らなかったということも考えにくい話です。

つまり江川さんは、ご自分の価値観に合うように政党の実態を頭の中で作り変えてしまっていたようです。除名処分を撤回したところで、くだんの人が自由に意見を述べることができるようになるわけではないですし、組織の外から批判する人物を組織の中にとどめようとしようとはしないはずです。

単純な話、自分の価値観と合わない政党であれば、支持をやめればよいだけの話です。
それなのに、どうして述べても仕方がないことを述べ、マスコミからのその政党攻撃の材料になるような発言をしたのでしょうか。

やはり無理な希望であったとしても、相対的に他の政党ではなくその政党を支持するべきだという発想が前提としてあり、日本国のためにその政党が今よりも国民の支持を集めなければならないという強い意識があったため、思わず言ってしまったということなのだと思います。しかしもしかしたら、確証バイアスによって、その政党を正確に把握していなかったから支持していたという可能性もあるわけです。

ちなみに組織の論理とは、組織を組織外の攻撃から守ろうとするという発想の外に、組織の秩序を形成して維持しようという発想が自然に生まれてしまうものです。人間の集団の組織というのは、実際は、集団のトップに従おうという意識になっている場合がとても強いです。これは特定の集団を批判していっているわけではありません。どの組織、あるいは組織というほどしっかりしていない一時的な仲間感情を持つ人間関係でも同じです。

但し、従おうということであっても、何が何でも従属しようということになるわけではありません。そういうケースによる犯罪は多々あるのですが、それはそういう風に追い詰められる特別な事情があったからです。

そこまで追い詰められていない場合は、トップを守ろう、トップを害されるのは組織全体を害されることだというような意識を自然に(無自覚に)持つということです。もう少し平たく言えば、「トップを中心に組織を一体化させようという意識」ということになるでしょう。例外的にこのような意識にならない人もいます。典型的にはトップの座を狙っている人です。しかし大多数の人は組織秩序の維持をトップを中心に置くことで形成しようとします。

そして、確証バイアスが起きる理由に「自分の選択の正しさについて安心したい」という気持ちがありますので、集団のトップについてもその人で正しかったのだという安心をしたい気持ちから確証バイアスが起こるようになります。その人に関する悪い事情については、知らないふりをする、過小評価をする、無視をするということです。そして、高評価につながる事情は多く集めていくわけです。本来トップの職責にふさわしいことを示す事情だけでなく、なんらかの好ましい評価はすべて収集してしまうわけです。海を挟んだ隣国のトップの人(故人)については、18ホール連続ホールインワンを行ったという逸話があり、ゴルフ関係者ならみんな知っている逸話です。集団トップの神格化は自然に起こりやすいものだと理解しておく必要があります。

公選制と分派の関係についても少しだけ考えてみます。確かに公選制が分派を作りやすくする危険性はあると思います。それがどの程度組織を弱体化させるかについてはなかなか難しい問題もあるように思われます。また、その政党が言う「用意された意見を述べる権利」については、一個人が述べたことが他の仲間に伝わると可能性というものが十分確保できていたのか問題にはなると思います。一方現状トップの意見は、組織における情報伝達方法によって迅速に組織の隅々まで伝達することができのですが、その情報の共有の規模と速度の違いがあることを踏まえても、意見を述べる権利として保障されているといいうる状態と言えるのか検証が必要なのだろうと思います。

いずれにしてもくだんの方も、自己の所属していた組織について、信頼をして、良かれと思う気持ちが強すぎて、現実を踏まえると望んではいけないことを望んでしまったということになると思います。江川さんですらそうですから、ご本人はなおさらだったのでしょう。

しかし、現実は客観的に想定できる結末となりました。初めから別組織を作るなりして活動されればよかったということにしかなりません。

毎日新聞や朝日新聞が、その政党がデメリットを考慮してもメリットがあるからそのようなルールを作っているにもかかわらず、そのルールを批判することも見当はずれの社説ということでよいと思います。それはその政党の勝手であり、外部者が口を出すことではないからです。

おそらく新聞はそのようなルールを作る政党は支持できないということを言いたかったのだと思いますが、さすがにそれではあからさまに中立ではなくなるので、そうは書かなかったのだろうと思います。

そんなことを社説で言うよりも、正しさはみんなで共有して初めて正しいということになるということを助言すればよいのになあとちょっと思いました。

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笑う門には福来る は真実であること 和解の際の依頼者への説得の最終兵器 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]



笑う門には福来るということわざがあります。わらうかどにはふくきたる。

赤い鳥の童話集にも同名(だったと思うのですが、記憶が曖昧です)の小説があり、赤い鳥の中でも一番かな、私の好きな作品です。

このことわざの意味ですが、一般的には、「家族がいがみ合って生活すると暗く不幸になる。努めて明るく振舞っていればおのずと幸せになる。」という教訓というか道徳というかそういうことになっていると思います。

先ず、「門」というのは、家族の住む家のことでしょうが、家族そのものでよいと思います。
次に、「笑う」ですが、これは文字通り笑うのではなく、朗らかに、明るく、前向きな気持ちでというような意味に解釈されています。
しかし、実は昨今の認知心理学の知見としては、文字通り笑うことでよいのだろうということになってきました。場合によっては心から笑う必要がなく、無理にでも笑顔を作るということでもよいのだということになりそうなのです。

どういうことかを説明します。これは聞いておいて損は無いと思いますよ。

先ず、人間は、嫌な感情、良い感情を問わず、感情が顔に出る生き物ですね。私たちは、自然に、悲しいから下を向くし、怖いから目を見開くし、安心するか微笑むというように、まず感情があって、その効果として表情が生まれると思うわけです。それはそれで正しいのです。表情と感情がこのように長年結びついて生きてきているわけです。

ところが、表情が固定してしまうことによって感情も続いてしまうということがあるそうなのです。あるいは、何かの拍子にうつむいて歩いていると、うつむくことと結びつく悲しい感情が自然と生まれてしまうこともあるそうなのです。逆もまた真なりというやつでしょうか。

もう少しリアルな例を考えてみますと、人間はふいに漠然とした不安感や焦燥感に襲われることがあります。特に理由がなくそういう感情になるという方が良いでしょうか。その場合、何かわからないけれど不安だということで不安な表情をしてしまうと、本当に不安になってしまい、何か不安の種を探してしまうようです。ポピュラーなことは、このままどんどん貧乏になっていくのではないかという不安です。あるいは、誰かとの人間関係がうまくいかなくなるのではないか。とかですね。確かにこれらの財政や人間関係は、いつどうなるかわかりません。それを不安だと思えば、いくらでも不安になってしまいます。でも人間はあまり悪い方に考えないで、なんとなくその日を暮らしているわけです。

例えばということでいえば、会社で上司から理不尽な叱責を受けた。自分が悪いわけではないのに責められた、なんてことがあるとずうっともやもやした気持ちになりますし、家に帰っても何となく過敏になって、家族の些細な言動によって立腹して八つ当たりなどをするということに、覚えのない方はいらっしゃらないのではないでしょうか。

福来るの反対の現象が家族の中で起きてしまいます。

理由のない不安やよそでの理不尽な思いを家庭に持ち込まなければ、つまり気持ちを切り替えれば、あなたを原因としては家族は嫌な思いをしません。あるいはかなり嫌な思いが減ることでしょう。

だけど、どうやって気持ちを切り替えるのか。これがなかなか難しいことだと思います。また、自分では自覚をしていないのに、家の外で不安を感じたり、悔しい気持ちを感じていたりしているとするとますます、気持ちの切り替えができていないことがありそうです。どうしたらよいでしょうか。

この難問を案外あっさり解決するのが、笑う門には福来るというやつらしいのです。

家に帰ったらニコニコする。「ああ自分は変えるべき家があることだよなあ」とニコニコの感情を無理やり作る必要はなく、口角を上げて頬の筋肉も挙げて瞼を下げ気味にすればよいのです。門をくぐるというか玄関の前で、必ずこのエクササイズを行うことを習慣にすればよいのではないでしょうか。やることはメンタルなことではなく、顔の筋肉を動かすことです。

この表情を維持しようと心がけると、些細なことはどうでもよくなります。また、些細なことに感謝をしたくなるようです。自分の感情も変わってしまうようです。人間というのは愛すべき生き物だという気がするのは私だけでしょうか。

そして、家族からしても、最初はにこにこしていて気持ち悪がられるかもしれませんが、こちらはにこにこしているから気持ち悪がられても平気です。そうすると、家族は、改めてあなたが家族に対して敵対的な気持ちがないということを実感するのだそうです。警戒して逆切れすることもなく、過敏になって悪くとらえるということもなくなれば穏やかな人間関係となります。家族も、こちらの飲みすぎなどもある程度これまで以上に寛容になってもらえるかもしれません。

そうやって自分も含めて家族全体が、家に帰ると安心できるという感情になることが、人間にとって「福」の意味なのだと思います。

先ず笑えということこそが真理なのです。

さらにそれが門、つまり家族の中で笑えということがどうしようもなく真理なのだと思います。一人で笑っていても顔の筋肉が付かれるだけです。

ここで言う家族とは、法律的な意味合いの家族ということではなく、おそらく人間関係全般において当てはまるのではないかとにらんでいます。

差しさわりのない範囲で行う必要はあると思います。法事の時ににこにこしているわけにはいきませんよね。

そういえば、例えば弁護士として依頼者と打ち合わせをしていて、和解案を承諾するかどうかなんて話をしていて、「いくら裁判所の書類で支払いが約束されても実際に払われなければ意味がありませんよ。」と言っても、当事者としてはそんな低い金額はあまりにも不合理ではないかと思うわけです。あまり真剣に弁護士が説得すると、そもそも和解という中途半端な解決には不満足な感情が必ず伴うものですが、その不満足の心持を弁護士に向けられてしまいますし、本人も納得できないまま法的手続きを終わらなければなりません。

最近、こういう場面でも意図的ににこにこしています。マスクをしているので、それほどあらわにならず目だけが笑っていてもわかられません。そうすると、弁護士側の感情も変わってくるのです。「そりゃあそうだよね。こんな不合理な目に遭って、これだけしか埋め合わせが無ければそれは不満だよね。」と先ず自然に共感することができます。この「そりゃあそうだよね」と言う一言をはさむことによって、依頼者も安心して合理的な(致命的な損をしない)解決をよりスムーズに選択されるようです。

大切なことは真実を力説することではなく、焦って結論を強引に持って行こうとする自分を自覚することだったんです。そのためには、冷静なメタ認知を可能としなければならないわけで、その方法が笑う門には福来る戦法だったということです。

もう少し早く気が付けばよかったなあと思っているわけです。

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① 人間が群れを作ることができた最大のツールは「心」であること。 ② 当時極めて有効だった「心」が現代で苦しむ原因は、心と環境のミスマッチにある  中島みゆき「帰省」に寄せて シリーズ1 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

中島みゆきさんの歌に「帰省」という歌があります。詳しくはぜひ聞いていただきたいのですが、都会の中に生きることの不自然さというか「人間としての無理」が彼女らしい表現で歌われているように感じます。その中に、「人は多くなるほど物に見えてくる」というかなり毒の効いた一節があります。詩人のものの見方、とらえ方、そして表現に感銘を受けました。対人関係学の言いたいことを一言で言えば、そういうことなのです。

群れを作って行動する動物というのはいろいろありますね。水族館で見るイワシの魚群は光を浴びるととてもきれいで、一体の竜が泳いでいるような統一感もあり、見惚れてしまいます。馬も群れで走ると迫力があり、あの地響きのような蹄の音は心を動かされてしまいます。渡り鳥のV字隊列は、不思議なほど見事です。これらの群れの行動の原理はよく知られています。

イワシは群れの中に入って泳ごうとする本能があるということで、これを各イワシが行っていると結果として竜の魚群が形成されるそうです。馬は群れの先頭に立って走りたいという本能があるそうで、それぞれがこの本能に従って走り出すと、スピードが上がり肉食獣から結果として逃げることができるわけです。鳥は、風圧を避けて飛ぶことから自然と圧が一番低くて楽に飛べる位置をキープしてあのような隊列を結果として組んでいるとのことです。

では、人間はどうやって群れを作っていたのでしょう。

約200万年前になると、人類は、群れを作り、群れで小動物の狩りを行い、群れで肉食獣から身を守り、群れの中にいることで安心して血管の修復などがなされていたようです(概日リズム)。群れが無ければ人間は生き残れなかったということになると思います。

群れを作ったツールがほかならぬ「心」であると対人関係学は考えます。
つまり
・ 群れの中に居続けたいと思う心
・ 群れから外されそうになると不安になる心
・ 群れの秩序を守ろう(権威に従おう)とする心
これらの心を本能的に持っていたから、人間は群れを作れたのだと思います。

これらの心がどのようにして人間の本能に組み込まれたのかについてはわかりません。突然変異か何かで、このような心を持った一群が生まれたのでしょう。そしてこのような心を持った一群は、他の心の不完全な一群よりも生き残る確率が高く、かつ、男性も女性もこのような心を持った個体を繁殖相手として選ぶ傾向にあり、その結果人間という種はこのような心を持った生物種として確立したのだと思います。

これは200万年前の人間の環境には、良いことづくめだったと思います。当時の人間の群れは数十人から100人ちょっとというのが一単位であり、生まれてから死ぬまで同じメンバーであったし、まさに運命共同体で頭数が減少してしまうと自分の命が危うくなるという関係にありましたので、群れの仲間を自分と同じように大切にしたことでしょう。というか、他人と自分との区別があまりつかなかったのだと思います。みんなが群れにとどまりたいと思っていたし、群れの自分以外の個体も群れにとどまりたいのだと理解していたわけです。その結果、利益は等しく分配され、むしろ弱い者ほど手厚く扱われたのだと思います。極めて不完全な赤ん坊も群れで育てることができたのだと思います。理性的にこのようなことをして頭数を確保しようとしたわけではなく、たまたまそういう心を持っていたために環境に適合することができて生き残ったということです。

このような心が無ければ、人間は現代まで生き延びなかったはずです。

その心にとってのパラダイスのような環境から、約200万年後の世界が現代です。あたかも心があるために、人は傷つき、あるいは他者を攻撃しているような印象さえ受けます。これはどういうことでしょうか。また、人間の性善説、性悪説なんてことも言われています。これも視野に入れて考えてみましょう。

結論から先に言えば、ここで中島みゆきさんの「帰省」なのです。
つまり、人間の心は、せいぜい数十名から100名ちょっとの仲間、それも一つのグループの利益を大事にすることにはとてもよく適合しているのですが、それ以上の人間たちを平等に考えることには対応していないということのようです。また、グループ間の対立があると、どうしても自分のグループに肩入れしてしまうので、他のグループと対立してしまうきっかけが生まれてしまうようです。

人間同士のかかわる環境に、人間の心、つまり脳が対応できていないということです。だから、人間が多くなると、だんだんと「物」に見えてきたり、自分を攻撃する「肉食獣」に見えてきたり、自分のエサの「小動物」に見えてきたりしてしまうということなのです。200万年前から進化が止まってしまった心が現代社会の環境にうまく適合できていないということから、「環境と心のミスマッチ」が起きているという言い方ができると思います。

現代社会において人間は、特定の他者を唯一絶対の仲間であるという尊重ができなくなるわけです。しかし心は200万年前から変わっていませんから、現代においてもなお人間は自分が唯一絶対の仲間の一人として尊重されたいと思いますし、尊重されなければ心の性質として、仲間から排除される心配がこみ上げてきてしまい、心が傷ついてしまうわけです。

性善説、性悪説という言い方はあまり機能的ではないという言い方が正確だと思います。人間は、200万年前は、善を施すだけで一生を終えることができたのだと思います。みんな仲間ですから大きく敵対しあうきっかけもなかったはずです。むしろ一番弱い者を守ることによって群れを守るということに必死だったはずです。法律も道徳も必要が無かったと言えるでしょう。ところが、農耕が開始され、人間がかかわりを持つ人数が増えて群れが複雑化すると、自分や自分たちを守るために、他者を傷つけ他者の利益を奪うということも生まれてきたのだと思います。道徳だけでなく、法律という明文のルールを作る必要ができてきたわけです。また、宗教も生まれたのだと思います。

本来人間は、他の群れと共存していくことが脳の構造上得意ではなかったはずですが、強い群れが弱い群れを支配する形で大きな群れを形成していき、他の群れとの関係で群れが大きいことのメリットを感じたのでしょう。群れ同士が共存できることが、その外の群れとの関係で圧倒的に有利だったので、共存の方法も獲得していったのだと思います。

これが理性です。

理性を働かせて、人が人を支配しなくても共存ができる人間社会を作るのか、自分と自分たちのための利益のために他者を傷つけて他者から利益を奪い、人類を滅亡させるのか、おそらくそいう岐路に人類は差し掛かっているのだろうと思います。

根本的な社会システムを理性で作り上げることも大切ですが、対人関係学は、自分が自分の周りとの関係をどう理性で築いていくかという方向の検討を行う学問を目指していっています。

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「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」(マタイによる福音書5章)の非キリスト者の対人関係学的解釈 「人パンのみに生きるにあらず」との一体性といわゆる無抵抗主義との違い [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

本記事は、非キリスト者による解釈です。教義の正しさを主張するものとは次元を異にします。非キリスト者も人類の財産である聖書、キリストの言葉から多くのことを学び人生を豊かなものにすることを意図して書かれています。
表記については、今日インターネットでたまたま検索出来たものをそのまま引用させていただいています。

さて、「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」という新約聖書の言葉について、世間には様々な解釈があるということを知って驚いています。もっとも、様々な解釈があるのは世俗の話だろうと思いますが、いかんせん礼拝に出席したことも数えるほどしかない身としては、宗教的にはどう正しく解釈されているのかはよくわかりません。

何かの拍子でこの意味について調べようと思いたって、マタイの福音書第5章を読んだところ、やはりこれまで私が漠然と考えていたことでよいのではないだろうかという思いが強くなり、これは対人関係学が力を入れている内容と強く重なるところだと思って、雑感のようなものをご紹介しようと思いついたというところです。

さて、「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」というと、文字通り読めばかなり自虐的なことを言っているようで衝撃を受けますが、ガンジーやトルストイのいわゆる無抵抗主義と関連付けられて説明されることもあるそうです。しかし、聖書は、確かに印象的な言葉が有名になり、非キリスト者である私たちも知るところになっているのですが、前後の文脈がきちんとあるのですからそれを読まないと始まりません。これは論語の解釈でも同じように感じています。

マタイの福音書の5章は、「心の貧しい人は幸いである。天国は彼らのものである。」というこれまた有名な言葉から始まるイエスの山上の垂訓と呼ばれる一連の説教の始まりの部分です。
ここでは、天国とは何かということを述べるとともに、地上においても天国と同じように生きることの大切が語られているように私は受け止めました。
あまり知らないことを知ったかぶりして話して間違ったことを述べることが心配なので、結論を端的に述べましょう。

「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」という言葉の意味ですが、これは前後の話の流れからすると、
「決して怒りを持つな。」
ということが述べられているように受け止めたのです。

怒りは神の国には無いということが大きな教えであり、怒りによって人々の苦しみは増していき、人間社会を悪くするということなのだと思います。神の国にたどり着く前でも、神の教えに従って生活することにより、幸せを感じ、人生を豊かにすることができると教えているように感じるのです。そして、そのような神の言葉の実践者が地上にあふれれば、限りなく神の国に近づくことができるということを言いたいのではないだろうかと感じました。

この意味するところは、その前の4章でキリストがモーゼの言葉を引用し、『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と言ったことと連続性があると思うのです。

人は、生命身体の安全だけを気にかけて生きるのではなく、神の言葉ので生きる、つまり、人間としての生き方が人間として生きるためには決定的に大切なのだと述べていることと連続している内容となっているということです。この神の言葉がキリスト教では「信仰」であり、対人関係学では「仲間とお互いに尊重しあって生きる方法」ということになるのだと思います。対人関係学の目指す価値観は、聖書からも多く学ぶことができるということになるのだと思っています。


そして怒りを持たない方法として、自分の利益、財産、損得にこだわらないことということなのだということが明かされています。この象徴、比喩として「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」と述べられているのではないかというのが私の感想です。「右の頬を殴られたからと言って怒り狂うな。そのためには、左の頬も差し出すくらいの心構えでいることがコツである。」というような意味なのだと思います。

旧約聖書との違いが言われているようなのですが、詳しくは考察できていないのですが、時代の推移による人間のコミュニケーションの拡充と希薄化を受けた表現の違いの可能性があるとにらんでいます。

この私が勝手に解釈した聖書の教えは、弁護士として人間関係の紛争にかかわるとつくづくその通りだと感じているところです。自分を守ろうとする思いが強くなってしまって、最も大切な仲間とさえ疑心暗鬼を抱きあってしまうことが人間関係の紛争の芽には必ずあります。そして、その自分に対するこだわりが、紛争を鎮める方向とは全く逆の拡大する方向のエネルギーになってしまい、それがまた怒りの炎を高ぶらせて、収拾がつかなくなってしまう。そして、誰も悪くないのにみんなが傷ついて、他の人たちにも怒りと悲しみが広がっていってしまう。こういう人間模様に繰り返し立ち会っています。

怒らないで冷静に考えることをアドバイスするのですが、なかなか功を奏しません。うまくいく場合は「教科書通り!」というようにうまくいくのですが、なかなか自分の怒りの原因に気が付くことも少なく、怒りにも気が付かない場合も少なくありません。
もっとも、なかなかうまくゆかないということは、我が身を振り返ればよくわかることです。そういうことに気づいていながら、つい自分を守ってしまう。自分を守るために、大切な仲間に怒りを向けてしまうということに気が付いて、今も愕然としているところです。

どうすればよいのでしょうか。
あきらめて無抵抗となればよいのでしょうか。私はガンジーやトルストイの思想というものについてはほとんど知りません。無抵抗主義という言葉が何を意味しているのか正確なことはわかりません。でも、現実に対して働きかけないという意味ではないと思っています。それはガンジーやトルストイのように理想を掲げて理想に向かって行動する生き方とは矛盾するからです。

それではどうしたらよいのでしょうか。
私の一つの結論としては、
「怒らないで考える」
ということを意識し、追及することだがするべきことなのだと思います。怒ってしまうと、思考力が減退し、悲観的な思考、二者択一的な思考が頭を支配していきます。また、怒りは他者を自分から遠ざけていくものです。合理的解決にはまっすぐ向かいません。

では怒らないためにはどうするか。
「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」
がここでも生きてくるのだと思います。

怒ってから、怒りに気が付いて自分を抑制するということは至難の技です。怒りに気が付くこと、怒りを抑制することという二つの高いハードルがあります。
そうではなく、怒りを覚えるポイントの出来事があったら、自分が怒っていなくても(怒りを自覚していなくても)、自分を守ろうとすることをやめようとするということをするべきなのかもしれません。

自分が傷つけられたら
乱暴にされたら、
否定評価を受けた場合、
言いがかりをつけられた時、
顔をつぶされたとき
立場がなくなったとき、
一方的に攻撃されたとき、

こういうような時、自分を守ろうとすることをやめようとする。左の方も差し出す。むしろ自分は、もっと否定されても仕方がない人間だと自分を戒める。しかし、それで終わってはだめです。考えるのです。
どうして自分が攻撃されるのか、自分が受けた迫害には理由があり、そうされなくて済ませるためには方法があったはずだ。
同じようにこれから将来に向けてそれを改善するためには方法があるはずだ。
自分に与えられた役割を果たす方法があるはずだ。
と考えていく。こういうことだと思います。

私のような未熟なものは、絶えず、人間がどうしたら怒るのか、傷つくのか、不安になるのかということを考え続けて、自分を守ろうとせず、仲間を守ろうとすることを修行し続けなければいけないのだろうと覚悟を新たにしました。

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幽霊の正体見たり枯れ尾花 不安が社会病理を招く経路 (結果的に四部作になってしまった、今度こそ完結) [故事、ことわざ、熟語対人関係学]



怖い怖いと思っていると、何も危険性のない物を危険だと感じてしまうこと。ただ、怖がっているだけならば笑い話で済みます。しかし、人間、危険があると誤解すると、危険から逃れようと行動をしてしまいます。このメカニズム自体は人間に限らず動物全般の行動です。まさに「生きる」ということはそういうことなのでしょう。しかし、実際は危険性がないにもかかわらず、危険を回避しようとする行為は、メリットが何もないかわりに、デメリットがあることが多いようです。
例えばススキを幽霊だと思った人は、怖さのあまりその先に行くことをやめて走って帰ってしまったりして、実際は笑い話に終わらないこともあると思います。

生命身体の危険だけでなく、人間は群れを作る動物として、仲間の自分に対する評価を気にしてしまいます。仲間の中で自分の評価を下がることを、身体生命の危険と同じような脳と体のメカニズムで反応してしまうようです。やはり「危険」としてとらえているのでしょう。現代の人間は、複数の群れで生活しています。家族、学校、会社、地域、社会、趣味のサークル、友人等々、放っておけばそのそれぞれすべてで、自分の評価が下がることを心配しているようです。
心配する理由として考えられるのは、今の世の中、すべての群れで、自分の代わりがいるという事情があることです。考えてみたら恐ろしいことです。会社で自分が倒れても、すぐに自分の代わりが同じ仕事をして会社は続くわけです。家族でさえも、離婚などで、自分が仲間から追放されて、別の人が自分の代わりとして生活を始めたりします。
すべての群れの中で、尊重されて生活していればよいでしょうけれど、そんな人はどれほどいるのでしょうか。多くの人はどこかの群れで、不具合を抱えているのではないでしょうか。
例えば、会社で何があろうと、家で幸せならばそれでよいというならば簡単ですが、そう割り切ることはできないようです。

会社でパワハラを受けたり、不合理な低評価がなされたりすると、それが会社だけの出来事ではなく、自分に対する全人格的な低評価だと受け止めてしまうのが人間のようです。その結果、自分に対する自信がなくなってしまい、無意識というやかったいな仕組みで、どの群れであっても自分は低評価をされているのではないかと過剰に不安になってしまうようです。

会社で不合理な扱いを受けて会社は敵であり報復してやろうと思い、敵であるからルールも何も守る必要がないなんて考えて会社の財産を窃盗とか横領とかで被害を与えるというのは比較的単純な話です。

仲間として尊重されていないという危機感、不安は、尊重を回復させようと無理な要求を行うため、あれこれとストレスを大きくしていくのですが、悪くすると回復の兆しは一切なくてさらなるパワハラ、低評価が加わってしまいます。この場合の絶望は、社会的ルールを守る、相手に迷惑をかけないようにするという意識を失わせやすく、犯罪に対する抵抗が弱くなってしまうという効果が生まれやすくなります。

会社で不合理な低評価を受けて減給処分を受けたり、自営業者が風評被害にあって売り上げが下がって、収入を得るという自分の能力に自信がなくなると、そのことを言われてしまうのではないかという怖い怖いが募って、自分の子どものお小遣いのおねだりさえも、自分の収入をあざ笑っているのではないかと過剰反応をしてしまうわけです。

妻の言動も、過剰にとらえすぎて、なんでも自分に対する低評価が込められていると悪く悪く聞こえてしまいます。扱いにくくなって、実際の評価も下がるでしょう。ますます、夫の危機意識は高まり、夫婦間に緊張状態が生まれてしまいます。

さらに、例えば、就職活動をしても採用されず、もう就職活動すらしたくないという場合は、自分でも駄目だなあと思うわけです。家族でも友人でも、交際相手でも、自分を否定評価しているだろうなあと思うわけです。すると、乳児が泣き止まないことに対しても、自分を馬鹿にしているように感じてしまうようになるわけです。過剰な危機感というのはそういうものです。自分の能力のなさを突き付けられたような気がするのでしょう。

あるいは、低評価されているわけではないけれども、自分で自分のことを決められないという形での不安が持続してしまうと、自分が誰かから支配されていて、自分で自分のことを決められないという形での不安が高まるようです。無意識にその不安を払しょくしようとして、自分より弱い者を支配しようとするようです。性犯罪の加害者側の背景をみると、こういう事情があることが多いように感じます。

ストレスの解放行動としての怒りは、自分よりも弱い相手に向かうようです。自分よりも弱い相手がいない場合、あるいは他人に迷惑をかけることができないという意識が強すぎると、怒りはほかに向かいようがなくて自分に向かっていきます。自分から自分を守るということは盲点であり、対応が難しく自死が遂げられてしまうようです。

2010年、震災の直前に私は、あるラジオ番組のオファーで、離婚の統計について簡単に調べていました。そして、離婚件数の移り変わりにあるデータとの共通点を見出しました。それは、破産の申立件数でした。数字を折れ線グラフに直してみると、人数こそ違えど同じような形になりました。このグラフは自死の人数、失業者の人数と同じ形でした。犯罪認知件数もどうかと思ったら、やはり同じ形でした。特徴は、1998年に、飛躍的に数が上昇し、2002年から3年にピークを迎え、その後は緩やかに減少していったのです。

その後東日本大震災の経験なども踏まえ、離婚、破産、自死、失業、犯罪認知件数の連動の意味は、不安の推移によるものではないかという仮説を立てました。但し、破産に関しては、利息制限法などの改正によって減少傾向を見せていますので、連動の度合いは低くなっているかもしれません。

失業というのは、就労を希望してもかなわないという事情の方が多いと思いますので、これも外します。残った離婚、自死、犯罪というのは、人間の意思が関与しています。共通の要素としては、とても大きな不安があり、不安を解消したいという要求が強くあるのだけれど、解消することがなかなかできない、そのため不安解消要求がさらに強くなってしまい、不安解消が果たせるならば、どんな手段でも使いたくなり、それを思いとどまることができなくなるという共通の意思決定のメカニズムがあるということに気が付きました。

不安は危機意識を持っているときの心の状態なのですが、これらの社会病理の不安は、生命身体の危機に基づくものよりも、自分の人間関係上の低評価、孤立の危機に基づくものであるようです。

ススキを見て幽霊だと思うだけなら、走って逃げれば安全だと思う場所に着きますから、いつまでも不安を感じ続けなくてよいでしょう。しかし、職場、家族、あるいは社会の中での、自分に対する低評価の危機感というものは、持続するものであり、解消が難しく、絶望を抱きやすいということが特徴です。不安解消要求はいやがうえにも高くなり、それが解消されるとか軽減されることに、一も二もなく飛びついてしまうようです。自死も同様の原理だと考えられます。不安を感じそれを解消することが生きるということならば、生きるために自死に至るというなんとも不合理な事態になるようです。

離婚については、少し説明が必要だと思います。先ほどは会社で働いている家族が、自分の会社での低評価に過敏になっていて、家庭での些細な言動に危機感を募らせて反撃してしまうという経路を説明しました。しかし、近年の離婚については、特に理由がなく不安になってしまうところがから始まる事例が増えているように思います。精神疾患の診断書が裁判所に出されることもあるのですが、かなりの高い確率で精神状態に影響を与える内科疾患、婦人科疾患、副作用のある薬の使用が確認されます。病的な事情で、夫婦でいることで相手から否定評価を受けるのではないかという不安が先行して、そのような不安から解消されようとして離婚を申し出るというケースが圧倒的多数になっているような気がします。少なくとも性格の不一致、精神的虐待を主張するケースは、大半がこう言う類型です。

思うに霊長類は、不安を感じやすいことを自覚して、一日の大半を不安解消行動に費やしていると言えるかもしれません。ゴリラが胸をたたく行動がどのくらい一日の時間を占めているかわかりませんが、サルは毛づくろいをしてお互いの不安を解消しあうようです。毛づくろいはかなりの時間を使うようです。

人間だって、仲間内では、意識的に、積極的に不安解消行動をお互いに行わなければならないはずです。しかし、霊長類の中で、人間だけが仲間の不安に対して無理解であり、対応をしないという特徴があるように思われます。社会を変えるという大きな話題ではないのですが、自分の仲間の不安を解消する努力を行う、自分はあなたとの関係を終わりにしようなんてことは一切考えていない、安心してほしいというメッセージ、もっと実務的に言えば、感謝と謝罪をこまめに行い、敵対心がないことのアッピールをしていくということがまず私たちが誰でもできることなのだと思います。

仲間の不安を軽減し、消滅させることは、メリットしかないようにも思う次第です。

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下手な考え休むに似たり 理性は、期待できるものなのか。理性とは何か、なぜ理性を使えないのか。 (期せずして三部作になった一応の完結編)草稿 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

 

前々回の記事は、人間は心というツールで群れを作って生き延びることができた。そこで言う心とは、群れの中にいたい、群れから外されそうになると不安になるという仕組みだった。そして人間は仲間のために役に立とうとする動物であり、特に弱い者を守ろうとする心がある、それは基本的に現代の人間も変わらないというようなことを言いました。

前回の記事は、そんな人間が、どうして戦争を起こしたり、貧富の差を容認したり、いじめや虐待、犯罪を行うのかということの理由として、人間の能力を超えた人数とかかわること、複数の群れに所属して群れ同士の利害対立があること、どの群れも永続性のない不安定な群れであることが原因だと説明しました。

本当はここで、群れへの帰属の不安定性が不安を生み、それが社会病理につながる仕組みを述べる必要があると思うのですが、短時間で書きなぐるこのブログでは、バリエーションを整理する自信がなく、また今度の機会とします。今回は、
前回の記事の最後で、これだけ多くのかかわりの人数、群れの数、利害対立があるとすれば人類はやがて滅びそうなものですが、理性の力によって人類は再生すると、勢いに乗って述べました。それは本当なの?という疑問が当然出てくると思いますので、やはりやや荷が重いのですが、これについて考えを巡らせてみようと思います。

<問題の所在>

1 人間には理性がある。しかし、現状の社会の問題もある。つまり、理性は問題解決に役に立たないという証拠がありすぎるのではないか。
2 そもそも理性とは何か。理性はそれほど万能なのか。
3 もし理性が問題解決に有効だとすると、現在の不具合の理由はどこにあるのか。

<この草稿における「理性」の定義と対義語>

理性という言葉を便宜的に使っているのですが、ここではわかりやすく、「感情にとらわれずに、冷静な思考で真実を見極めようとする意思決定方法」という言い方をしておきます。
だから、理性の対義語は、感情的、感覚的な意思決定方法ということになります。本当は感情ではなく「情動」という言葉を使いたいのですが、説明が面倒なのでやめておきます。また、ここでは、感情的な意思決定がすべてだめだということを言うつもりはありません。あくまでも社会病理をなくし、人類を存続させるための意思決定方法ということで考えています。

<人間は、理性を使うことを本能的に嫌がる傾向にある>

人間は、そもそもものを考えることを嫌がるようです。例えば算数の掛け算で、175×221=なんて問題を出されて、暗算で解こうとして解けないことはないと思います。175+3500+35000ですから、38500に175を足して38675と考えることは不可能ではないでしょう。しかし、解けと言われれば、そろばんとか訓練をしていない普通の私たちは、立て算を紙に書いて解くわけです。こうすると、九九という暗記している記憶を呼び寄せながら、並べていくだけだから思考力はだいぶ節約できます。(ひっ算以上に計算機を使う方が節約できるわけですが。)

結構大事なこと、結婚相手を選ぶとかいう場合も、感情的、感覚的に、例えば「自分の好きだという気持ちを大切にして」なんてことを言いながら、勢いで決めるということが案外実態なのではないでしょうか。少なくとも、この人と結婚することのメリット、デメリットを並び立てて、理性的に判断するなんてことをやっていたら、結婚なんてとても難しい意思決定になってしまいます。これはこれで人類滅亡の論理になってしまいかねません。

朝起きて食事をして着替えて出勤するなんてこともルーティンで行います。服を決めたりすることに時間がかかるとしても、なんとなくどっちにしようかなということで、TPOの問題はあるにしても、感覚的に決めているのではないでしょうか。この感覚的なあるいは感情的な、あるいはいつもと同じということは、迅速な意思決定をすることができるので、この意思決定方法を使わなければ、生活することも不便になるでしょう。

ただ、人類が理性を使わない一番の理由は、理性的な思考が大量のエネルギーを使うという問題があるようです。人間は無意識にエネルギーを節約させる傾向があり、この傾向によって餓死などを防いできたのかもしれません。これが思考方法にも徹底されていることから、感覚的、感情的に行える思考の場合は、そちらを優先するという仕組みらしいです。(感覚的感情的行動というのが生物としての原初的行動でありスムーズに思考がまとまり、理性的思考は人が群れを作り出してから発達していたため、不慣れな行動ということも関係しているのではないかとにらんではいます。)

<非理性的思考あれこれ>
非理性的思考としては、一瞬の危険を回避する仕組みが典型でしょう。仕事中、何かが自分に飛んでくるということを目で感じたり、飛ぶ音がきこえたり、風の動きという肌感覚で把握すると、脳が危険だと判断して、ほとんど反射的に手で頭を守ったり、できる場合はよけようとします。これも理性的思考を行っていたらぶつかってしまいますから合理的な思考方法でしょう。

誰か二人が対立をしているとしましょう。この場合、どちらかが自分の知っている人間、特に何らかの仲間だとすると、仲間の方に多少問題がある場合でも、仲間の方に味方をしてしまう傾向にあります。どちらの言い分が正しいか、理性的に考えて、間違っている方に注意するなんてことは起こりにくくなります。仲間が世間的に迫害されているような場合は、よりこの傾向が強くなるようです。罪もない人を一緒になって攻撃するということはよくあることです。国家レベルでも起こりますし、政治的にもよく起きています。その組織の定められた方針、理念よりも、組織の論理(仲間だから応援する)が優先されることもこれで説明できるでしょう。

同じように、認知心理学者が説明している、様々な思考バイアスも、なるべく理性的な思考をしないでエネルギーを節約させるための方法だと評価できるのではないでしょうか。

<感情は理性より先に生まれ、その前に生理的反応があるという順番問題>

先ほどの飛んでくる物体の話が説明しやすいのでそれで説明します。まず、視覚、聴覚、触覚で、物が近づいてくることを脳がキャッチします。その後に脳のさらに中枢で、それは危険だと判断します、その後副腎のホルモンなどが分泌され、心拍数が増え血圧が上昇し、体を動きやすくするように生理的変化が起きだします。そのあとに、危険だという意識が生まれ、危険回避行動が行われるわけです。ほとんど理性が登場することはありません。

ひとしきり、安全が確認されたのちに、ようやく理性が働く余地が出てきます。大事なことは順番です。理性が一番後で、その前に感情が生まれていて、その前に体の反応がすでに始めっている。体の反応が危機回避の反応ですから、それによって意識や感情も形作られて、そのあとになってようやく理性が働き始めるということに着目するべきです。

少し時間の余裕があるのは、対人関係的危険です。自分が友達から悪口を言われているみたいだという危険を感じてしまうと、やはり体が反応して心拍数が増加し、血圧が上がるなどの変化が起きてしまいます。そのあと嫌な気持ちになって、何とかしようと思って行動するわけです。悔しくて大声を出して暴れたりすると、「やっぱりあなたはそういう人ね。」と改めて否定評価されるわけです。逆効果ですね。そうではなくて、例えば相手にしないという態度をとったり、上手に問題提起をするという理性的思考によって、あなたの評価を下げない効果が生まれるわけです。

本論とはあまり関係ありませんが、だから、自分がどのようなことを考えてしまうかなんてことに意味はあまりないということです。まず、体が反応していることが生き物として当然のことです。それから生まれる感情が、どんなにドロドロしていようと、不道徳であろうと、自分の主義理想に反しようと、あまり自分の人格とは関係がないということです。どういう風な状況であったかということを振り返ることの方がよほど大切です。同時に、身近な人の感情も、そのような本人の自分を取り巻く状況についての反応にすぎず、一時的な喜怒哀楽については、多少大目に見なければならないと思うのです。人格とかかわりなく脳が反応してしまうのですから、その反応で非難をしたところで改善することはなかなか難しいということだけは理解しておいた方が良いと思います。

<理性が働くなる場合あれこれ>

弁護士をしていると、例えば刑事弁護の仕事をしていると、あるいは人間関係の紛争に携わると、理性が働きにくくなる場面があるということに気が付きます。
いくつか紹介しようと思います。

1 自分を守らなければならない状況

理性が働きにくくなる第1の状況は、自分を守らなければならないと強く感じているときです。誰かに襲われたときには、一直線に自分の身を守らなければ自分が絶命する可能性もありますので、やみくもにでも逃げるか、命がけで反撃するわけです。自分を守らなければならないときに、理性的に手段を吟味していては自分を守れません。

生命、身体の危険を感じている場合もそうですが、仲間の中で否定評価をされている場合なども、なりふり構わず自分を守ろうとしてしまいます。先ほどの例のように危険だという意識が発動してしまい、感覚的な行動をやみくもに行って、逆効果になることもよくあります。危険に対する反応は「逃げるか戦うか」ですが、いずれにしても心拍数が増加し、血圧が上がるという反応が起きています。対人関係的な危険で、この身体生命の危険回避の仕組みが発動されることは逆効果になることがほとんどなのですがしかたがありません。自分を守ることをやめることによって、理性が働き、うまい解決方法が見つかるということが良くあります。なくしものがあって探しているときに見つからないのは、危機感を感じてやみくもな行動をしているからです。探すのをやめて、危機感を鎮めると、理性が働き、見つけることができるようになることには理由があるわけです。

2 危険がないのに自分を守ろうとする生理変化が起きている場合

自分を守ろうとしているという意識がなくても、自分を守らなくてはならないという生理的メカニズムが発令されることは、順番が生理的メカニズムという反応が先なので、当然あるわけです。理性的に考えれば、自分を守る必要がないにもかかわらず、脳が勝手に反応をしてしまう。その反応を自覚することによって危機意識が生まれて、理性が働きにくい場合が良くあります。

1) 疲労、睡眠不足
疲労や睡眠不足がある場合は、危機に対応しにくい状態にあるという自覚を意識ではなくて脳が勝手に行っているのかもしれません。睡眠ができなくなれば死にますし、疲労が蓄積されていけば動けなくなります。だから、危険に対して過剰に感じやすくなるようです。疲労の蓄積や睡眠不足によって、理性の働きが減少してしまいます。
2) 過密行動、複数同時並行行動、マニュアル行動
例えば仕事などで、予定が詰まっていて、短時間で一つの仕事を終えなければならないということがあると思います。また、自分の考えで行動することができないで、会社から渡されたマニュアルに従って行動しなくてはならないような場合もあるでしょう。一方でこのような労働は、時間当たりの労働の結果が増えるように感じますが、他方で自分で自分の行動を決められないという危機感が生まれてしまうようです。このため、自分を守ろうという意識が無駄に生まれてしまい、理性的な思考が後退してしまうということがあるようです。同じく、二つのことを一度にやるということは人間の脳の特質に反する行動のようで、たいしたことでもないのに、過剰な防衛志向が生まれやすくなるようです。実際に行動する人の理性的判断が求められている種類の労働などの場合は、疲労を蓄積させることをせず、睡眠時間を確保し、過密にならないように、そして自分の判断ができる部分を残しておくことが上手な労務管理ということになるでしょう。

3 仲間を守ろうとするとき

動物全般として自分を守ろうとするので、人間も動物的に自分を守ろうとするわけです。植物も、自分の危険を回避する仕組みがありますから、生きとし生けるもの自分を守ろうとするわけです。
しかし、群れを作る動物の中でも、人間は特に、自分を犠牲にしてまでも群れの仲間を助けようとすることがあります。私は、これは本能的な行動であり、この本能的行動があったため、人間は文明のない時代であっても群れを作って生き延びることができたのだと思っています(袋叩き反撃仮設)。

先ほどお話しした組織の論理(事の善悪で行動するのではなく、仲間を支援する方向で行動をする傾向)も仲間を守るという人間の本能で説明できると思います。つまり、仲間を守ろうとか、弱い者を守ろうという意識は、一見尊いように思われるのですが、対立当事者がいる人間関係の紛争では、罪もない人の攻撃に加担するというデメリットもある行動なのです。そういう意味で、私は自分の考えが性善説ではないと思っています。また、性善説、性悪説という議論にあまり価値があるとは思えません。

他人の命を守るために自分の命を犠牲にするようなこと(自由意思で行う場合)を、私はそれほど高く評価をすることができません。人間は基本的には、自分の最もコアな群れである家族を守るべきだからです。家族の中で、家族よりも他人を優先するというコンセンサスがある場合には自己犠牲も賛美できますが、そうではない場合は、やはり理性的な考え抜きの衝動的な行動だというべきだと思います。それを、賛美して、正しいとか、行うべき見本だという考え方にははっきりと反対します。

4 善悪の二項対立 道徳違反等

理性が働かなくなる場合の一つとして、既に他者によって、善と悪との対立だという構造が設定されている場合があります。実際の犯罪の刑事弁護に携わったり、損害賠償事案に携わると、新聞で報道されるような、どちらかが一方的に悪で、どちらかが一方的に善だという場合だけではない場合をよく目にします。特に、自分が関与している事案を見ると、ことさらに、誰かを悪者にして非難をあおるような報道を多く目にします。世の中はそれほど単純ではないですし、決めつけた上で感情をあおるような報道姿勢は大変危険です。
しかし、現代人は、攻撃材料があるとすぐに飛びついて、報道機関などの意図に沿った感情の変化をしてしまうという危険があるようです。噂話程度の情報に基づいて、あるいは虚構の演出を真実だと決めつけて、特定の人間を攻撃するという行動を起こしてしまいます。ネットいじめが典型ですが、よくよく考えると日常にありふれているようです。その被害を受けるとよくわかることです。

正義や倫理、道徳などに反する行為であると社会的に認定されてしまうと、批判をしたくなるのも人間のようです。これは、仲間を守るという本能から派生した感覚であると考えるとわかりやすくなるのではないでしょうか。
見ず知らずの人、自分や自分の仲間とかかわりのない人を攻撃する心理として、自分の何らかの不安を、他人を攻撃することによって感じにくくなるというメカニズムも関与していると私は思います。
怒り依存症 怒ることで幸せになれる条件と、怒り続けるしかないことになってしまう不幸を産むメカニズム
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2022-01-03

5 では、社会病理をなくすために理性は使い物になるのか

ここまで理性が役に立たない場合が多いみたいなことを言っていると、社会病理をなくすために、本当に理性は使えるのかという疑問も出てくると思います。

理性を働かせる条件を、これまでの話をもとに逆説的に挙げてみましょう。
1 自分を守ることをしない。
2 体調を整えて、余裕のある思考のできる環境を作る。
3 仲間意識を捨てる。
4 過度に道徳を重視しない。
こういうことが条件になるようです。
しかし、こういう条件で、およそ何かものを考えようかという気持ちになるのか、かなり心配です。行き当たりばったりの思考になりかねないような頼りない感じがします。

理性を正しく発揮するためには以下の条件が必要だと思います。
1 生きること、生きようとすることに絶対的価値を認める。
2 人間として生きる、他者と協調しながら生きることに大きな価値を認める。
3 理性的思考をしないために、1と2の価値を擁護できないポイントを予め認識して、誤りのパターンを共通理解にする。

つまり、あらゆる場面で、感覚的意思決定をせずに理性的な意思決定をするということは人間にとって不可能なことであることを理解する。ただ、感覚的な意思決定をしてしまうと、不利益を受けてしまう人間が生まれたり、誰かを強く心理的に圧迫するということを類型化して、予めみんなの共通理解にしておくということです。この失敗のポイントがわかれば、用心することができますし、理性的な思考をする場面であることに気が付くことできるから、理性的な思考が行われやすくなる、こういうことなのです。

そんなに難しいことを考えなくても、生きること、生きようとすることを無条件に肯定し、人間として生きるということを積極的に肯定しようという意識が生まれて、本当に安心して生きていこうと大勢が思えば、代わっていくことだと思っています。

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二兎追うものは一兎も得ず 人間が他人を攻撃し、追い詰め、自分だけが利益を得ようとする根本的な原理 昨日の続きみたいなもの [故事、ことわざ、熟語対人関係学]



前回の記事で、人間は
仲間と助け合う動物、弱い者を守ろうとする動物、仲間の利益のためには自分が損をしてもかまわないという傾向のある動物と言いました。
それは人間の心がそういう風にできているためだと述べ、その心は私たち現代の人間に受け継がれていると言い切りました。

当然、「なにそれ。きれいごとじゃないか。実際はだいぶ違うのだもの、説得力がないよ。」と思われることはもっともです。世界レベルで見れば貧富の差や戦争が現代も続けられ、家庭の中でさえ虐待が行われたという報道が後を絶ちません。孤独死や自死もなくならず、いじめもあり、詐欺など弱い者を食い物にする犯罪も多く報道され、インターネットは一人の人を自分とは利害関係ものないのに寄ってたかって攻撃しているわけです。とても人間が美しい動物とは言えないと思うのも無理はありません。

私は間違っているのでしょうか。そうではないということを説明させていただくことが今回の記事です。

つまり私は、頑固なまでに、人間の心は、200万年前のように、仲間の利益のために、我が身を犠牲にしてまで、協力しあうこと、弱い者を助けようとし、そうすることに喜びを感じる心を持っていると主張いたします。

実際、自分たちは気が付かないかもしれませんが、誰か人間を攻撃する側も、実は攻撃をすることによって、嫌な気持ちになったり、心が傷ついて荒んだりしているわけです。不安というストレスを感じているということが実態です。
そうではないという方も、優れた創作物で人が人と助け合う姿が描かれていたり、実際に弱い者を身を挺して助ける人間の姿に感動を覚えたりするのではないでしょうか。
つまり、実際の行動がどうあれ、心は200万年前のままだということが言いたいことです。また、心のままに行動できていないだけだということも言いたいところです。

しかし、200万年前は心のままに生きていたため、人間は群れを作り子孫を作ることができたのだと言っていながら、現代は心のままに生きていないというのはあまりにも都合の良い言い訳に聞こえるかもしれません。でも、現代社会では、人間は心のままに生きていけない事情があると思うのです。

こころのままに生きていけない事情としては、自分を守らなければならないという事情があるということが第一です。他人の利益のために行動をしてしまうと、自分が致命的な損害を受けてしまうという事情です。極端な話、戦争のさなかで、自分が敵を殺さなければ敵から殺されてしまうという事情があれば、私も迷わないようにして敵を殺すのだろうと思います。自分に対するいわれのない非難、中傷、悪口を言われれば頭にきて、相手を攻撃するということもやるかもしれません。誰しもそうではないでしょうか。怒り、攻撃するのでなければ、人と争うことが嫌になり、孤立を選ぶのかもしれません。

しかし、なお、頭の良い人は追及の手を緩めないでしょう。でもそういう自分を守らなければならないことは200万年前からあったのではないだろうか。現代と200万年前と何が違うのかと言われるのではないでしょうか。

この答えは、第1に、おそらく200万年前には、少なくとも仲間から自分を守るために仲間に攻撃するということはほとんどなかったという回答となりますし、第2に200万年前と現代(1万年くらい前から現代)では、決定的な違いがあるということが回答になります。

第1の仲間から攻撃されることはない。ということを説明します。当時の仲間、群れというのは30人から50人くらいのコアな群れを中核にして、そのコアな群れが数個集まっておおよそ150人程度の集団で、原則としてメンバーが変わらず、同じ人たちだけと生まれてから死ぬまで暮らしていたとされています。生まれてから死ぬまで同じメンバーなので、だれがどのような性格で、どのような特徴があるということはみんなお互いにとことんわかっています。どういう顔をすればどういう気持ちなのかもよくわかっています。そうです。言葉が不要なほど分かりあっていたわけです。だから、おなかをすかせていたら自分がおなかがすいているようにかわいそうだと思い、けがをしたら自分がけがをしたかのように悲しんだのだと思います。悲しませること、不安になられると自分も悲しくなり、不安になるため、みんなは平等にするしかなかったのです。仲間通し、完全に信じあい、感情を共有し、利益が同一ですから、自分と他人の区別はあまりつかなかったのではないでしょうか。だから、仲間から攻撃されるようなこともしませんから、仲間から攻撃されるということはなかったのではないかと考える次第です。

第2に、では現代と一番違う条件は何かということですが、これは人間がかかわる他人という人間の人数と自分が所属する群れの数が、200万年前の現代では全く違うということなのです。

人間の頭脳の限界として、個体識別できる人間の人数は150人程度だと言われています。150人くらいであれば、お互いが共感してお互いの感情を自分の感情として扱い、全力で仲間を助けようとすることができるのだろうと思います。それが200万年前の人間の群れですし、その環境に適応した脳に進化したわけです。脳は200万年前から変わっていません。

ところが現代では、家を出てから勤務先に行くまでに、何千人という人と出会うわけです。人間の能力の限界を超えていますから、誰(どのような人)と会ったかについては、記憶にも残らないほどです。テレビやインターネットの人間に関する情報を混ぜると、何十億人という人間とかかわりをもって生きなくてはならないということが実情です。

また、インターネット上で誰かのことを話題にする場合には、実際はあったこともない人たちのことです。その人たちの感情に共感して、自分の行動を修正するということは到底不可能です。誰かの悪口をSNSなどで発信する場合、攻撃を受ける対象と攻撃をする人間は同じ人間同士の関係ですが、200万年前の生まれてから死ぬまで生活を共にする人間同士の関係とは全く異なるわけです。

とてもすべての人間、なんからの関わり合いになる人間だけをみても、実態のある生身の人間同士のかかわりにはなっていないことがわかると思います。共感が働かないということはよく理解できると思います。

もう一つ重要なことは、現代の人間は複数の群れに所属するということです。まず、まずそれぞれの人間がそれぞれの家族に所属するわけです。その家族も、親子であっても子が結婚すれば別の家族になってしまいます。自分たち夫婦の利益と親の利益が矛盾すれば対立が生まれてしまいます。これは別の群れになったことによって対立が生まれるということになります。(同居をしていても別の群れになっている場合も対立が生まれます。)学校へ行けば、友達という群れの中で安心感を持って生活をしていても、家族の意向から友達と利害対立をしなければならないことが出てくるでしょう。学校の教室の中でも、いくつかの仲良しグループがありそれぞれのグループ間に緊張関係があります。部活動などの関係でも群れが複雑に交錯してしまいます。職場でも地域でも群れや利害対立は容易に起こるわけです。すべてが一時的な群れだということも200万年前とは違う重要な要素かもしれません。

人間は、それぞれ、自分を守り、あるいは自分以上に仲間を守ろうとします。その行動がある群れにとっては全体に利益を与えてくれる価値のある行動だとしても、他の群れでは自分たちの群れに損害を与える行動になるということが当たり前のように起きてしまいます。
群れを大切にしようとすることが、他の群れを排斥する行動になってしまうということは、悪意がなくてもよく見られることです。

だから、一つの群れとの関係では、例えば友達との関係では、安心感を獲得できる行動だとしても、他の群れ、例えば家族との間では家族に損害をもたらす行動になってしまい、たちまち不安がかきたてられるという結果になることはよくあるわけです。もっと大きな話をすれば、自国民の利益を得るために、他国の国民や他の民族に犠牲を強いるということもあるのですが、自国民、自分たちの民族との関係では英雄になったりするわけです。

ズバリ言えば、人間は、これほど大勢の人間とかかわりあいになったり、これほど多くの群れに所属したりする能力、文字通り脳の力が欠落しているのです。それにもかかわらずそのような環境にいることが強制されている。これが虐待、いじめ、戦争、貧富の差等、あらゆる社会病理の根源にあるということです。

それでも人間は、自分が所属するすべての群れの中で、すべての人間のかかわりの中で、安心して暮らしたい、尊重されていたいという根源的要求を持っています。200万年前と心が変わっていないからです。だから余計に傷つくし、怒るし、不安になってしまうわけです。どこか1つの群れ、例えば職場で不具合があっただけで、家族に八つ当たりをしたり、家族と良好な関係にあるのに精神的に破綻してしまう仕組みはここにあります。

人間は群れの中にいることで不安をなくして、安心していたという根源的要求があり、一つの群れでそのような良好な関係にあることで満足せず、所属している以上、他の群れでも不安をなくして、安心していたいと思ってしまうということです。そのため、不安が生まれてしまいます。二つの安心を得ようとしてしまうために、不安も生まれてしまう。このことを二兎追うものは一兎も得ずと表現してみました。

今日の最後に、そうだとすると、人間には未来がないのでしょうか。何か破滅的な出来事が起きて、200万年前と同じ人数のかかわりの中で唯一の群れの中で生きるような出来事がなければ、滅びてしまうのでしょうか。また、滅びないために、心を変えていかなければならないのでしょうか。

この答えは、人間は現代の人間関係を維持しながら、各人が幸せを感じながら生きていき、他人を攻撃したり、追い詰めたりしないで生きていく可能性があるということです。

その時に使うツールは、理性です。但し、人類の共存という価値観に向かって進んでいくという目標をしっかり持ったうえで、それをどう実現していくかということを考え抜くという理性によって、人類の幸せな未来の可能性が切り開かれていくことになると思います。簡単な話ではありませんが、可能性は切り開かれるはずだと思っています。

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