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① 人間が群れを作ることができた最大のツールは「心」であること。 ② 当時極めて有効だった「心」が現代で苦しむ原因は、心と環境のミスマッチにある  中島みゆき「帰省」に寄せて シリーズ1 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

中島みゆきさんの歌に「帰省」という歌があります。詳しくはぜひ聞いていただきたいのですが、都会の中に生きることの不自然さというか「人間としての無理」が彼女らしい表現で歌われているように感じます。その中に、「人は多くなるほど物に見えてくる」というかなり毒の効いた一節があります。詩人のものの見方、とらえ方、そして表現に感銘を受けました。対人関係学の言いたいことを一言で言えば、そういうことなのです。

群れを作って行動する動物というのはいろいろありますね。水族館で見るイワシの魚群は光を浴びるととてもきれいで、一体の竜が泳いでいるような統一感もあり、見惚れてしまいます。馬も群れで走ると迫力があり、あの地響きのような蹄の音は心を動かされてしまいます。渡り鳥のV字隊列は、不思議なほど見事です。これらの群れの行動の原理はよく知られています。

イワシは群れの中に入って泳ごうとする本能があるということで、これを各イワシが行っていると結果として竜の魚群が形成されるそうです。馬は群れの先頭に立って走りたいという本能があるそうで、それぞれがこの本能に従って走り出すと、スピードが上がり肉食獣から結果として逃げることができるわけです。鳥は、風圧を避けて飛ぶことから自然と圧が一番低くて楽に飛べる位置をキープしてあのような隊列を結果として組んでいるとのことです。

では、人間はどうやって群れを作っていたのでしょう。

約200万年前になると、人類は、群れを作り、群れで小動物の狩りを行い、群れで肉食獣から身を守り、群れの中にいることで安心して血管の修復などがなされていたようです(概日リズム)。群れが無ければ人間は生き残れなかったということになると思います。

群れを作ったツールがほかならぬ「心」であると対人関係学は考えます。
つまり
・ 群れの中に居続けたいと思う心
・ 群れから外されそうになると不安になる心
・ 群れの秩序を守ろう(権威に従おう)とする心
これらの心を本能的に持っていたから、人間は群れを作れたのだと思います。

これらの心がどのようにして人間の本能に組み込まれたのかについてはわかりません。突然変異か何かで、このような心を持った一群が生まれたのでしょう。そしてこのような心を持った一群は、他の心の不完全な一群よりも生き残る確率が高く、かつ、男性も女性もこのような心を持った個体を繁殖相手として選ぶ傾向にあり、その結果人間という種はこのような心を持った生物種として確立したのだと思います。

これは200万年前の人間の環境には、良いことづくめだったと思います。当時の人間の群れは数十人から100人ちょっとというのが一単位であり、生まれてから死ぬまで同じメンバーであったし、まさに運命共同体で頭数が減少してしまうと自分の命が危うくなるという関係にありましたので、群れの仲間を自分と同じように大切にしたことでしょう。というか、他人と自分との区別があまりつかなかったのだと思います。みんなが群れにとどまりたいと思っていたし、群れの自分以外の個体も群れにとどまりたいのだと理解していたわけです。その結果、利益は等しく分配され、むしろ弱い者ほど手厚く扱われたのだと思います。極めて不完全な赤ん坊も群れで育てることができたのだと思います。理性的にこのようなことをして頭数を確保しようとしたわけではなく、たまたまそういう心を持っていたために環境に適合することができて生き残ったということです。

このような心が無ければ、人間は現代まで生き延びなかったはずです。

その心にとってのパラダイスのような環境から、約200万年後の世界が現代です。あたかも心があるために、人は傷つき、あるいは他者を攻撃しているような印象さえ受けます。これはどういうことでしょうか。また、人間の性善説、性悪説なんてことも言われています。これも視野に入れて考えてみましょう。

結論から先に言えば、ここで中島みゆきさんの「帰省」なのです。
つまり、人間の心は、せいぜい数十名から100名ちょっとの仲間、それも一つのグループの利益を大事にすることにはとてもよく適合しているのですが、それ以上の人間たちを平等に考えることには対応していないということのようです。また、グループ間の対立があると、どうしても自分のグループに肩入れしてしまうので、他のグループと対立してしまうきっかけが生まれてしまうようです。

人間同士のかかわる環境に、人間の心、つまり脳が対応できていないということです。だから、人間が多くなると、だんだんと「物」に見えてきたり、自分を攻撃する「肉食獣」に見えてきたり、自分のエサの「小動物」に見えてきたりしてしまうということなのです。200万年前から進化が止まってしまった心が現代社会の環境にうまく適合できていないということから、「環境と心のミスマッチ」が起きているという言い方ができると思います。

現代社会において人間は、特定の他者を唯一絶対の仲間であるという尊重ができなくなるわけです。しかし心は200万年前から変わっていませんから、現代においてもなお人間は自分が唯一絶対の仲間の一人として尊重されたいと思いますし、尊重されなければ心の性質として、仲間から排除される心配がこみ上げてきてしまい、心が傷ついてしまうわけです。

性善説、性悪説という言い方はあまり機能的ではないという言い方が正確だと思います。人間は、200万年前は、善を施すだけで一生を終えることができたのだと思います。みんな仲間ですから大きく敵対しあうきっかけもなかったはずです。むしろ一番弱い者を守ることによって群れを守るということに必死だったはずです。法律も道徳も必要が無かったと言えるでしょう。ところが、農耕が開始され、人間がかかわりを持つ人数が増えて群れが複雑化すると、自分や自分たちを守るために、他者を傷つけ他者の利益を奪うということも生まれてきたのだと思います。道徳だけでなく、法律という明文のルールを作る必要ができてきたわけです。また、宗教も生まれたのだと思います。

本来人間は、他の群れと共存していくことが脳の構造上得意ではなかったはずですが、強い群れが弱い群れを支配する形で大きな群れを形成していき、他の群れとの関係で群れが大きいことのメリットを感じたのでしょう。群れ同士が共存できることが、その外の群れとの関係で圧倒的に有利だったので、共存の方法も獲得していったのだと思います。

これが理性です。

理性を働かせて、人が人を支配しなくても共存ができる人間社会を作るのか、自分と自分たちのための利益のために他者を傷つけて他者から利益を奪い、人類を滅亡させるのか、おそらくそいう岐路に人類は差し掛かっているのだろうと思います。

根本的な社会システムを理性で作り上げることも大切ですが、対人関係学は、自分が自分の周りとの関係をどう理性で築いていくかという方向の検討を行う学問を目指していっています。

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「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」(マタイによる福音書5章)の非キリスト者の対人関係学的解釈 「人パンのみに生きるにあらず」との一体性といわゆる無抵抗主義との違い [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

本記事は、非キリスト者による解釈です。教義の正しさを主張するものとは次元を異にします。非キリスト者も人類の財産である聖書、キリストの言葉から多くのことを学び人生を豊かなものにすることを意図して書かれています。
表記については、今日インターネットでたまたま検索出来たものをそのまま引用させていただいています。

さて、「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」という新約聖書の言葉について、世間には様々な解釈があるということを知って驚いています。もっとも、様々な解釈があるのは世俗の話だろうと思いますが、いかんせん礼拝に出席したことも数えるほどしかない身としては、宗教的にはどう正しく解釈されているのかはよくわかりません。

何かの拍子でこの意味について調べようと思いたって、マタイの福音書第5章を読んだところ、やはりこれまで私が漠然と考えていたことでよいのではないだろうかという思いが強くなり、これは対人関係学が力を入れている内容と強く重なるところだと思って、雑感のようなものをご紹介しようと思いついたというところです。

さて、「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」というと、文字通り読めばかなり自虐的なことを言っているようで衝撃を受けますが、ガンジーやトルストイのいわゆる無抵抗主義と関連付けられて説明されることもあるそうです。しかし、聖書は、確かに印象的な言葉が有名になり、非キリスト者である私たちも知るところになっているのですが、前後の文脈がきちんとあるのですからそれを読まないと始まりません。これは論語の解釈でも同じように感じています。

マタイの福音書の5章は、「心の貧しい人は幸いである。天国は彼らのものである。」というこれまた有名な言葉から始まるイエスの山上の垂訓と呼ばれる一連の説教の始まりの部分です。
ここでは、天国とは何かということを述べるとともに、地上においても天国と同じように生きることの大切が語られているように私は受け止めました。
あまり知らないことを知ったかぶりして話して間違ったことを述べることが心配なので、結論を端的に述べましょう。

「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」という言葉の意味ですが、これは前後の話の流れからすると、
「決して怒りを持つな。」
ということが述べられているように受け止めたのです。

怒りは神の国には無いということが大きな教えであり、怒りによって人々の苦しみは増していき、人間社会を悪くするということなのだと思います。神の国にたどり着く前でも、神の教えに従って生活することにより、幸せを感じ、人生を豊かにすることができると教えているように感じるのです。そして、そのような神の言葉の実践者が地上にあふれれば、限りなく神の国に近づくことができるということを言いたいのではないだろうかと感じました。

この意味するところは、その前の4章でキリストがモーゼの言葉を引用し、『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と言ったことと連続性があると思うのです。

人は、生命身体の安全だけを気にかけて生きるのではなく、神の言葉ので生きる、つまり、人間としての生き方が人間として生きるためには決定的に大切なのだと述べていることと連続している内容となっているということです。この神の言葉がキリスト教では「信仰」であり、対人関係学では「仲間とお互いに尊重しあって生きる方法」ということになるのだと思います。対人関係学の目指す価値観は、聖書からも多く学ぶことができるということになるのだと思っています。


そして怒りを持たない方法として、自分の利益、財産、損得にこだわらないことということなのだということが明かされています。この象徴、比喩として「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」と述べられているのではないかというのが私の感想です。「右の頬を殴られたからと言って怒り狂うな。そのためには、左の頬も差し出すくらいの心構えでいることがコツである。」というような意味なのだと思います。

旧約聖書との違いが言われているようなのですが、詳しくは考察できていないのですが、時代の推移による人間のコミュニケーションの拡充と希薄化を受けた表現の違いの可能性があるとにらんでいます。

この私が勝手に解釈した聖書の教えは、弁護士として人間関係の紛争にかかわるとつくづくその通りだと感じているところです。自分を守ろうとする思いが強くなってしまって、最も大切な仲間とさえ疑心暗鬼を抱きあってしまうことが人間関係の紛争の芽には必ずあります。そして、その自分に対するこだわりが、紛争を鎮める方向とは全く逆の拡大する方向のエネルギーになってしまい、それがまた怒りの炎を高ぶらせて、収拾がつかなくなってしまう。そして、誰も悪くないのにみんなが傷ついて、他の人たちにも怒りと悲しみが広がっていってしまう。こういう人間模様に繰り返し立ち会っています。

怒らないで冷静に考えることをアドバイスするのですが、なかなか功を奏しません。うまくいく場合は「教科書通り!」というようにうまくいくのですが、なかなか自分の怒りの原因に気が付くことも少なく、怒りにも気が付かない場合も少なくありません。
もっとも、なかなかうまくゆかないということは、我が身を振り返ればよくわかることです。そういうことに気づいていながら、つい自分を守ってしまう。自分を守るために、大切な仲間に怒りを向けてしまうということに気が付いて、今も愕然としているところです。

どうすればよいのでしょうか。
あきらめて無抵抗となればよいのでしょうか。私はガンジーやトルストイの思想というものについてはほとんど知りません。無抵抗主義という言葉が何を意味しているのか正確なことはわかりません。でも、現実に対して働きかけないという意味ではないと思っています。それはガンジーやトルストイのように理想を掲げて理想に向かって行動する生き方とは矛盾するからです。

それではどうしたらよいのでしょうか。
私の一つの結論としては、
「怒らないで考える」
ということを意識し、追及することだがするべきことなのだと思います。怒ってしまうと、思考力が減退し、悲観的な思考、二者択一的な思考が頭を支配していきます。また、怒りは他者を自分から遠ざけていくものです。合理的解決にはまっすぐ向かいません。

では怒らないためにはどうするか。
「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」
がここでも生きてくるのだと思います。

怒ってから、怒りに気が付いて自分を抑制するということは至難の技です。怒りに気が付くこと、怒りを抑制することという二つの高いハードルがあります。
そうではなく、怒りを覚えるポイントの出来事があったら、自分が怒っていなくても(怒りを自覚していなくても)、自分を守ろうとすることをやめようとするということをするべきなのかもしれません。

自分が傷つけられたら
乱暴にされたら、
否定評価を受けた場合、
言いがかりをつけられた時、
顔をつぶされたとき
立場がなくなったとき、
一方的に攻撃されたとき、

こういうような時、自分を守ろうとすることをやめようとする。左の方も差し出す。むしろ自分は、もっと否定されても仕方がない人間だと自分を戒める。しかし、それで終わってはだめです。考えるのです。
どうして自分が攻撃されるのか、自分が受けた迫害には理由があり、そうされなくて済ませるためには方法があったはずだ。
同じようにこれから将来に向けてそれを改善するためには方法があるはずだ。
自分に与えられた役割を果たす方法があるはずだ。
と考えていく。こういうことだと思います。

私のような未熟なものは、絶えず、人間がどうしたら怒るのか、傷つくのか、不安になるのかということを考え続けて、自分を守ろうとせず、仲間を守ろうとすることを修行し続けなければいけないのだろうと覚悟を新たにしました。

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幽霊の正体見たり枯れ尾花 不安が社会病理を招く経路 (結果的に四部作になってしまった、今度こそ完結) [故事、ことわざ、熟語対人関係学]



怖い怖いと思っていると、何も危険性のない物を危険だと感じてしまうこと。ただ、怖がっているだけならば笑い話で済みます。しかし、人間、危険があると誤解すると、危険から逃れようと行動をしてしまいます。このメカニズム自体は人間に限らず動物全般の行動です。まさに「生きる」ということはそういうことなのでしょう。しかし、実際は危険性がないにもかかわらず、危険を回避しようとする行為は、メリットが何もないかわりに、デメリットがあることが多いようです。
例えばススキを幽霊だと思った人は、怖さのあまりその先に行くことをやめて走って帰ってしまったりして、実際は笑い話に終わらないこともあると思います。

生命身体の危険だけでなく、人間は群れを作る動物として、仲間の自分に対する評価を気にしてしまいます。仲間の中で自分の評価を下がることを、身体生命の危険と同じような脳と体のメカニズムで反応してしまうようです。やはり「危険」としてとらえているのでしょう。現代の人間は、複数の群れで生活しています。家族、学校、会社、地域、社会、趣味のサークル、友人等々、放っておけばそのそれぞれすべてで、自分の評価が下がることを心配しているようです。
心配する理由として考えられるのは、今の世の中、すべての群れで、自分の代わりがいるという事情があることです。考えてみたら恐ろしいことです。会社で自分が倒れても、すぐに自分の代わりが同じ仕事をして会社は続くわけです。家族でさえも、離婚などで、自分が仲間から追放されて、別の人が自分の代わりとして生活を始めたりします。
すべての群れの中で、尊重されて生活していればよいでしょうけれど、そんな人はどれほどいるのでしょうか。多くの人はどこかの群れで、不具合を抱えているのではないでしょうか。
例えば、会社で何があろうと、家で幸せならばそれでよいというならば簡単ですが、そう割り切ることはできないようです。

会社でパワハラを受けたり、不合理な低評価がなされたりすると、それが会社だけの出来事ではなく、自分に対する全人格的な低評価だと受け止めてしまうのが人間のようです。その結果、自分に対する自信がなくなってしまい、無意識というやかったいな仕組みで、どの群れであっても自分は低評価をされているのではないかと過剰に不安になってしまうようです。

会社で不合理な扱いを受けて会社は敵であり報復してやろうと思い、敵であるからルールも何も守る必要がないなんて考えて会社の財産を窃盗とか横領とかで被害を与えるというのは比較的単純な話です。

仲間として尊重されていないという危機感、不安は、尊重を回復させようと無理な要求を行うため、あれこれとストレスを大きくしていくのですが、悪くすると回復の兆しは一切なくてさらなるパワハラ、低評価が加わってしまいます。この場合の絶望は、社会的ルールを守る、相手に迷惑をかけないようにするという意識を失わせやすく、犯罪に対する抵抗が弱くなってしまうという効果が生まれやすくなります。

会社で不合理な低評価を受けて減給処分を受けたり、自営業者が風評被害にあって売り上げが下がって、収入を得るという自分の能力に自信がなくなると、そのことを言われてしまうのではないかという怖い怖いが募って、自分の子どものお小遣いのおねだりさえも、自分の収入をあざ笑っているのではないかと過剰反応をしてしまうわけです。

妻の言動も、過剰にとらえすぎて、なんでも自分に対する低評価が込められていると悪く悪く聞こえてしまいます。扱いにくくなって、実際の評価も下がるでしょう。ますます、夫の危機意識は高まり、夫婦間に緊張状態が生まれてしまいます。

さらに、例えば、就職活動をしても採用されず、もう就職活動すらしたくないという場合は、自分でも駄目だなあと思うわけです。家族でも友人でも、交際相手でも、自分を否定評価しているだろうなあと思うわけです。すると、乳児が泣き止まないことに対しても、自分を馬鹿にしているように感じてしまうようになるわけです。過剰な危機感というのはそういうものです。自分の能力のなさを突き付けられたような気がするのでしょう。

あるいは、低評価されているわけではないけれども、自分で自分のことを決められないという形での不安が持続してしまうと、自分が誰かから支配されていて、自分で自分のことを決められないという形での不安が高まるようです。無意識にその不安を払しょくしようとして、自分より弱い者を支配しようとするようです。性犯罪の加害者側の背景をみると、こういう事情があることが多いように感じます。

ストレスの解放行動としての怒りは、自分よりも弱い相手に向かうようです。自分よりも弱い相手がいない場合、あるいは他人に迷惑をかけることができないという意識が強すぎると、怒りはほかに向かいようがなくて自分に向かっていきます。自分から自分を守るということは盲点であり、対応が難しく自死が遂げられてしまうようです。

2010年、震災の直前に私は、あるラジオ番組のオファーで、離婚の統計について簡単に調べていました。そして、離婚件数の移り変わりにあるデータとの共通点を見出しました。それは、破産の申立件数でした。数字を折れ線グラフに直してみると、人数こそ違えど同じような形になりました。このグラフは自死の人数、失業者の人数と同じ形でした。犯罪認知件数もどうかと思ったら、やはり同じ形でした。特徴は、1998年に、飛躍的に数が上昇し、2002年から3年にピークを迎え、その後は緩やかに減少していったのです。

その後東日本大震災の経験なども踏まえ、離婚、破産、自死、失業、犯罪認知件数の連動の意味は、不安の推移によるものではないかという仮説を立てました。但し、破産に関しては、利息制限法などの改正によって減少傾向を見せていますので、連動の度合いは低くなっているかもしれません。

失業というのは、就労を希望してもかなわないという事情の方が多いと思いますので、これも外します。残った離婚、自死、犯罪というのは、人間の意思が関与しています。共通の要素としては、とても大きな不安があり、不安を解消したいという要求が強くあるのだけれど、解消することがなかなかできない、そのため不安解消要求がさらに強くなってしまい、不安解消が果たせるならば、どんな手段でも使いたくなり、それを思いとどまることができなくなるという共通の意思決定のメカニズムがあるということに気が付きました。

不安は危機意識を持っているときの心の状態なのですが、これらの社会病理の不安は、生命身体の危機に基づくものよりも、自分の人間関係上の低評価、孤立の危機に基づくものであるようです。

ススキを見て幽霊だと思うだけなら、走って逃げれば安全だと思う場所に着きますから、いつまでも不安を感じ続けなくてよいでしょう。しかし、職場、家族、あるいは社会の中での、自分に対する低評価の危機感というものは、持続するものであり、解消が難しく、絶望を抱きやすいということが特徴です。不安解消要求はいやがうえにも高くなり、それが解消されるとか軽減されることに、一も二もなく飛びついてしまうようです。自死も同様の原理だと考えられます。不安を感じそれを解消することが生きるということならば、生きるために自死に至るというなんとも不合理な事態になるようです。

離婚については、少し説明が必要だと思います。先ほどは会社で働いている家族が、自分の会社での低評価に過敏になっていて、家庭での些細な言動に危機感を募らせて反撃してしまうという経路を説明しました。しかし、近年の離婚については、特に理由がなく不安になってしまうところがから始まる事例が増えているように思います。精神疾患の診断書が裁判所に出されることもあるのですが、かなりの高い確率で精神状態に影響を与える内科疾患、婦人科疾患、副作用のある薬の使用が確認されます。病的な事情で、夫婦でいることで相手から否定評価を受けるのではないかという不安が先行して、そのような不安から解消されようとして離婚を申し出るというケースが圧倒的多数になっているような気がします。少なくとも性格の不一致、精神的虐待を主張するケースは、大半がこう言う類型です。

思うに霊長類は、不安を感じやすいことを自覚して、一日の大半を不安解消行動に費やしていると言えるかもしれません。ゴリラが胸をたたく行動がどのくらい一日の時間を占めているかわかりませんが、サルは毛づくろいをしてお互いの不安を解消しあうようです。毛づくろいはかなりの時間を使うようです。

人間だって、仲間内では、意識的に、積極的に不安解消行動をお互いに行わなければならないはずです。しかし、霊長類の中で、人間だけが仲間の不安に対して無理解であり、対応をしないという特徴があるように思われます。社会を変えるという大きな話題ではないのですが、自分の仲間の不安を解消する努力を行う、自分はあなたとの関係を終わりにしようなんてことは一切考えていない、安心してほしいというメッセージ、もっと実務的に言えば、感謝と謝罪をこまめに行い、敵対心がないことのアッピールをしていくということがまず私たちが誰でもできることなのだと思います。

仲間の不安を軽減し、消滅させることは、メリットしかないようにも思う次第です。

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下手な考え休むに似たり 理性は、期待できるものなのか。理性とは何か、なぜ理性を使えないのか。 (期せずして三部作になった一応の完結編)草稿 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

 

前々回の記事は、人間は心というツールで群れを作って生き延びることができた。そこで言う心とは、群れの中にいたい、群れから外されそうになると不安になるという仕組みだった。そして人間は仲間のために役に立とうとする動物であり、特に弱い者を守ろうとする心がある、それは基本的に現代の人間も変わらないというようなことを言いました。

前回の記事は、そんな人間が、どうして戦争を起こしたり、貧富の差を容認したり、いじめや虐待、犯罪を行うのかということの理由として、人間の能力を超えた人数とかかわること、複数の群れに所属して群れ同士の利害対立があること、どの群れも永続性のない不安定な群れであることが原因だと説明しました。

本当はここで、群れへの帰属の不安定性が不安を生み、それが社会病理につながる仕組みを述べる必要があると思うのですが、短時間で書きなぐるこのブログでは、バリエーションを整理する自信がなく、また今度の機会とします。今回は、
前回の記事の最後で、これだけ多くのかかわりの人数、群れの数、利害対立があるとすれば人類はやがて滅びそうなものですが、理性の力によって人類は再生すると、勢いに乗って述べました。それは本当なの?という疑問が当然出てくると思いますので、やはりやや荷が重いのですが、これについて考えを巡らせてみようと思います。

<問題の所在>

1 人間には理性がある。しかし、現状の社会の問題もある。つまり、理性は問題解決に役に立たないという証拠がありすぎるのではないか。
2 そもそも理性とは何か。理性はそれほど万能なのか。
3 もし理性が問題解決に有効だとすると、現在の不具合の理由はどこにあるのか。

<この草稿における「理性」の定義と対義語>

理性という言葉を便宜的に使っているのですが、ここではわかりやすく、「感情にとらわれずに、冷静な思考で真実を見極めようとする意思決定方法」という言い方をしておきます。
だから、理性の対義語は、感情的、感覚的な意思決定方法ということになります。本当は感情ではなく「情動」という言葉を使いたいのですが、説明が面倒なのでやめておきます。また、ここでは、感情的な意思決定がすべてだめだということを言うつもりはありません。あくまでも社会病理をなくし、人類を存続させるための意思決定方法ということで考えています。

<人間は、理性を使うことを本能的に嫌がる傾向にある>

人間は、そもそもものを考えることを嫌がるようです。例えば算数の掛け算で、175×221=なんて問題を出されて、暗算で解こうとして解けないことはないと思います。175+3500+35000ですから、38500に175を足して38675と考えることは不可能ではないでしょう。しかし、解けと言われれば、そろばんとか訓練をしていない普通の私たちは、立て算を紙に書いて解くわけです。こうすると、九九という暗記している記憶を呼び寄せながら、並べていくだけだから思考力はだいぶ節約できます。(ひっ算以上に計算機を使う方が節約できるわけですが。)

結構大事なこと、結婚相手を選ぶとかいう場合も、感情的、感覚的に、例えば「自分の好きだという気持ちを大切にして」なんてことを言いながら、勢いで決めるということが案外実態なのではないでしょうか。少なくとも、この人と結婚することのメリット、デメリットを並び立てて、理性的に判断するなんてことをやっていたら、結婚なんてとても難しい意思決定になってしまいます。これはこれで人類滅亡の論理になってしまいかねません。

朝起きて食事をして着替えて出勤するなんてこともルーティンで行います。服を決めたりすることに時間がかかるとしても、なんとなくどっちにしようかなということで、TPOの問題はあるにしても、感覚的に決めているのではないでしょうか。この感覚的なあるいは感情的な、あるいはいつもと同じということは、迅速な意思決定をすることができるので、この意思決定方法を使わなければ、生活することも不便になるでしょう。

ただ、人類が理性を使わない一番の理由は、理性的な思考が大量のエネルギーを使うという問題があるようです。人間は無意識にエネルギーを節約させる傾向があり、この傾向によって餓死などを防いできたのかもしれません。これが思考方法にも徹底されていることから、感覚的、感情的に行える思考の場合は、そちらを優先するという仕組みらしいです。(感覚的感情的行動というのが生物としての原初的行動でありスムーズに思考がまとまり、理性的思考は人が群れを作り出してから発達していたため、不慣れな行動ということも関係しているのではないかとにらんではいます。)

<非理性的思考あれこれ>
非理性的思考としては、一瞬の危険を回避する仕組みが典型でしょう。仕事中、何かが自分に飛んでくるということを目で感じたり、飛ぶ音がきこえたり、風の動きという肌感覚で把握すると、脳が危険だと判断して、ほとんど反射的に手で頭を守ったり、できる場合はよけようとします。これも理性的思考を行っていたらぶつかってしまいますから合理的な思考方法でしょう。

誰か二人が対立をしているとしましょう。この場合、どちらかが自分の知っている人間、特に何らかの仲間だとすると、仲間の方に多少問題がある場合でも、仲間の方に味方をしてしまう傾向にあります。どちらの言い分が正しいか、理性的に考えて、間違っている方に注意するなんてことは起こりにくくなります。仲間が世間的に迫害されているような場合は、よりこの傾向が強くなるようです。罪もない人を一緒になって攻撃するということはよくあることです。国家レベルでも起こりますし、政治的にもよく起きています。その組織の定められた方針、理念よりも、組織の論理(仲間だから応援する)が優先されることもこれで説明できるでしょう。

同じように、認知心理学者が説明している、様々な思考バイアスも、なるべく理性的な思考をしないでエネルギーを節約させるための方法だと評価できるのではないでしょうか。

<感情は理性より先に生まれ、その前に生理的反応があるという順番問題>

先ほどの飛んでくる物体の話が説明しやすいのでそれで説明します。まず、視覚、聴覚、触覚で、物が近づいてくることを脳がキャッチします。その後に脳のさらに中枢で、それは危険だと判断します、その後副腎のホルモンなどが分泌され、心拍数が増え血圧が上昇し、体を動きやすくするように生理的変化が起きだします。そのあとに、危険だという意識が生まれ、危険回避行動が行われるわけです。ほとんど理性が登場することはありません。

ひとしきり、安全が確認されたのちに、ようやく理性が働く余地が出てきます。大事なことは順番です。理性が一番後で、その前に感情が生まれていて、その前に体の反応がすでに始めっている。体の反応が危機回避の反応ですから、それによって意識や感情も形作られて、そのあとになってようやく理性が働き始めるということに着目するべきです。

少し時間の余裕があるのは、対人関係的危険です。自分が友達から悪口を言われているみたいだという危険を感じてしまうと、やはり体が反応して心拍数が増加し、血圧が上がるなどの変化が起きてしまいます。そのあと嫌な気持ちになって、何とかしようと思って行動するわけです。悔しくて大声を出して暴れたりすると、「やっぱりあなたはそういう人ね。」と改めて否定評価されるわけです。逆効果ですね。そうではなくて、例えば相手にしないという態度をとったり、上手に問題提起をするという理性的思考によって、あなたの評価を下げない効果が生まれるわけです。

本論とはあまり関係ありませんが、だから、自分がどのようなことを考えてしまうかなんてことに意味はあまりないということです。まず、体が反応していることが生き物として当然のことです。それから生まれる感情が、どんなにドロドロしていようと、不道徳であろうと、自分の主義理想に反しようと、あまり自分の人格とは関係がないということです。どういう風な状況であったかということを振り返ることの方がよほど大切です。同時に、身近な人の感情も、そのような本人の自分を取り巻く状況についての反応にすぎず、一時的な喜怒哀楽については、多少大目に見なければならないと思うのです。人格とかかわりなく脳が反応してしまうのですから、その反応で非難をしたところで改善することはなかなか難しいということだけは理解しておいた方が良いと思います。

<理性が働くなる場合あれこれ>

弁護士をしていると、例えば刑事弁護の仕事をしていると、あるいは人間関係の紛争に携わると、理性が働きにくくなる場面があるということに気が付きます。
いくつか紹介しようと思います。

1 自分を守らなければならない状況

理性が働きにくくなる第1の状況は、自分を守らなければならないと強く感じているときです。誰かに襲われたときには、一直線に自分の身を守らなければ自分が絶命する可能性もありますので、やみくもにでも逃げるか、命がけで反撃するわけです。自分を守らなければならないときに、理性的に手段を吟味していては自分を守れません。

生命、身体の危険を感じている場合もそうですが、仲間の中で否定評価をされている場合なども、なりふり構わず自分を守ろうとしてしまいます。先ほどの例のように危険だという意識が発動してしまい、感覚的な行動をやみくもに行って、逆効果になることもよくあります。危険に対する反応は「逃げるか戦うか」ですが、いずれにしても心拍数が増加し、血圧が上がるという反応が起きています。対人関係的な危険で、この身体生命の危険回避の仕組みが発動されることは逆効果になることがほとんどなのですがしかたがありません。自分を守ることをやめることによって、理性が働き、うまい解決方法が見つかるということが良くあります。なくしものがあって探しているときに見つからないのは、危機感を感じてやみくもな行動をしているからです。探すのをやめて、危機感を鎮めると、理性が働き、見つけることができるようになることには理由があるわけです。

2 危険がないのに自分を守ろうとする生理変化が起きている場合

自分を守ろうとしているという意識がなくても、自分を守らなくてはならないという生理的メカニズムが発令されることは、順番が生理的メカニズムという反応が先なので、当然あるわけです。理性的に考えれば、自分を守る必要がないにもかかわらず、脳が勝手に反応をしてしまう。その反応を自覚することによって危機意識が生まれて、理性が働きにくい場合が良くあります。

1) 疲労、睡眠不足
疲労や睡眠不足がある場合は、危機に対応しにくい状態にあるという自覚を意識ではなくて脳が勝手に行っているのかもしれません。睡眠ができなくなれば死にますし、疲労が蓄積されていけば動けなくなります。だから、危険に対して過剰に感じやすくなるようです。疲労の蓄積や睡眠不足によって、理性の働きが減少してしまいます。
2) 過密行動、複数同時並行行動、マニュアル行動
例えば仕事などで、予定が詰まっていて、短時間で一つの仕事を終えなければならないということがあると思います。また、自分の考えで行動することができないで、会社から渡されたマニュアルに従って行動しなくてはならないような場合もあるでしょう。一方でこのような労働は、時間当たりの労働の結果が増えるように感じますが、他方で自分で自分の行動を決められないという危機感が生まれてしまうようです。このため、自分を守ろうという意識が無駄に生まれてしまい、理性的な思考が後退してしまうということがあるようです。同じく、二つのことを一度にやるということは人間の脳の特質に反する行動のようで、たいしたことでもないのに、過剰な防衛志向が生まれやすくなるようです。実際に行動する人の理性的判断が求められている種類の労働などの場合は、疲労を蓄積させることをせず、睡眠時間を確保し、過密にならないように、そして自分の判断ができる部分を残しておくことが上手な労務管理ということになるでしょう。

3 仲間を守ろうとするとき

動物全般として自分を守ろうとするので、人間も動物的に自分を守ろうとするわけです。植物も、自分の危険を回避する仕組みがありますから、生きとし生けるもの自分を守ろうとするわけです。
しかし、群れを作る動物の中でも、人間は特に、自分を犠牲にしてまでも群れの仲間を助けようとすることがあります。私は、これは本能的な行動であり、この本能的行動があったため、人間は文明のない時代であっても群れを作って生き延びることができたのだと思っています(袋叩き反撃仮設)。

先ほどお話しした組織の論理(事の善悪で行動するのではなく、仲間を支援する方向で行動をする傾向)も仲間を守るという人間の本能で説明できると思います。つまり、仲間を守ろうとか、弱い者を守ろうという意識は、一見尊いように思われるのですが、対立当事者がいる人間関係の紛争では、罪もない人の攻撃に加担するというデメリットもある行動なのです。そういう意味で、私は自分の考えが性善説ではないと思っています。また、性善説、性悪説という議論にあまり価値があるとは思えません。

他人の命を守るために自分の命を犠牲にするようなこと(自由意思で行う場合)を、私はそれほど高く評価をすることができません。人間は基本的には、自分の最もコアな群れである家族を守るべきだからです。家族の中で、家族よりも他人を優先するというコンセンサスがある場合には自己犠牲も賛美できますが、そうではない場合は、やはり理性的な考え抜きの衝動的な行動だというべきだと思います。それを、賛美して、正しいとか、行うべき見本だという考え方にははっきりと反対します。

4 善悪の二項対立 道徳違反等

理性が働かなくなる場合の一つとして、既に他者によって、善と悪との対立だという構造が設定されている場合があります。実際の犯罪の刑事弁護に携わったり、損害賠償事案に携わると、新聞で報道されるような、どちらかが一方的に悪で、どちらかが一方的に善だという場合だけではない場合をよく目にします。特に、自分が関与している事案を見ると、ことさらに、誰かを悪者にして非難をあおるような報道を多く目にします。世の中はそれほど単純ではないですし、決めつけた上で感情をあおるような報道姿勢は大変危険です。
しかし、現代人は、攻撃材料があるとすぐに飛びついて、報道機関などの意図に沿った感情の変化をしてしまうという危険があるようです。噂話程度の情報に基づいて、あるいは虚構の演出を真実だと決めつけて、特定の人間を攻撃するという行動を起こしてしまいます。ネットいじめが典型ですが、よくよく考えると日常にありふれているようです。その被害を受けるとよくわかることです。

正義や倫理、道徳などに反する行為であると社会的に認定されてしまうと、批判をしたくなるのも人間のようです。これは、仲間を守るという本能から派生した感覚であると考えるとわかりやすくなるのではないでしょうか。
見ず知らずの人、自分や自分の仲間とかかわりのない人を攻撃する心理として、自分の何らかの不安を、他人を攻撃することによって感じにくくなるというメカニズムも関与していると私は思います。
怒り依存症 怒ることで幸せになれる条件と、怒り続けるしかないことになってしまう不幸を産むメカニズム
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2022-01-03

5 では、社会病理をなくすために理性は使い物になるのか

ここまで理性が役に立たない場合が多いみたいなことを言っていると、社会病理をなくすために、本当に理性は使えるのかという疑問も出てくると思います。

理性を働かせる条件を、これまでの話をもとに逆説的に挙げてみましょう。
1 自分を守ることをしない。
2 体調を整えて、余裕のある思考のできる環境を作る。
3 仲間意識を捨てる。
4 過度に道徳を重視しない。
こういうことが条件になるようです。
しかし、こういう条件で、およそ何かものを考えようかという気持ちになるのか、かなり心配です。行き当たりばったりの思考になりかねないような頼りない感じがします。

理性を正しく発揮するためには以下の条件が必要だと思います。
1 生きること、生きようとすることに絶対的価値を認める。
2 人間として生きる、他者と協調しながら生きることに大きな価値を認める。
3 理性的思考をしないために、1と2の価値を擁護できないポイントを予め認識して、誤りのパターンを共通理解にする。

つまり、あらゆる場面で、感覚的意思決定をせずに理性的な意思決定をするということは人間にとって不可能なことであることを理解する。ただ、感覚的な意思決定をしてしまうと、不利益を受けてしまう人間が生まれたり、誰かを強く心理的に圧迫するということを類型化して、予めみんなの共通理解にしておくということです。この失敗のポイントがわかれば、用心することができますし、理性的な思考をする場面であることに気が付くことできるから、理性的な思考が行われやすくなる、こういうことなのです。

そんなに難しいことを考えなくても、生きること、生きようとすることを無条件に肯定し、人間として生きるということを積極的に肯定しようという意識が生まれて、本当に安心して生きていこうと大勢が思えば、代わっていくことだと思っています。

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二兎追うものは一兎も得ず 人間が他人を攻撃し、追い詰め、自分だけが利益を得ようとする根本的な原理 昨日の続きみたいなもの [故事、ことわざ、熟語対人関係学]



前回の記事で、人間は
仲間と助け合う動物、弱い者を守ろうとする動物、仲間の利益のためには自分が損をしてもかまわないという傾向のある動物と言いました。
それは人間の心がそういう風にできているためだと述べ、その心は私たち現代の人間に受け継がれていると言い切りました。

当然、「なにそれ。きれいごとじゃないか。実際はだいぶ違うのだもの、説得力がないよ。」と思われることはもっともです。世界レベルで見れば貧富の差や戦争が現代も続けられ、家庭の中でさえ虐待が行われたという報道が後を絶ちません。孤独死や自死もなくならず、いじめもあり、詐欺など弱い者を食い物にする犯罪も多く報道され、インターネットは一人の人を自分とは利害関係ものないのに寄ってたかって攻撃しているわけです。とても人間が美しい動物とは言えないと思うのも無理はありません。

私は間違っているのでしょうか。そうではないということを説明させていただくことが今回の記事です。

つまり私は、頑固なまでに、人間の心は、200万年前のように、仲間の利益のために、我が身を犠牲にしてまで、協力しあうこと、弱い者を助けようとし、そうすることに喜びを感じる心を持っていると主張いたします。

実際、自分たちは気が付かないかもしれませんが、誰か人間を攻撃する側も、実は攻撃をすることによって、嫌な気持ちになったり、心が傷ついて荒んだりしているわけです。不安というストレスを感じているということが実態です。
そうではないという方も、優れた創作物で人が人と助け合う姿が描かれていたり、実際に弱い者を身を挺して助ける人間の姿に感動を覚えたりするのではないでしょうか。
つまり、実際の行動がどうあれ、心は200万年前のままだということが言いたいことです。また、心のままに行動できていないだけだということも言いたいところです。

しかし、200万年前は心のままに生きていたため、人間は群れを作り子孫を作ることができたのだと言っていながら、現代は心のままに生きていないというのはあまりにも都合の良い言い訳に聞こえるかもしれません。でも、現代社会では、人間は心のままに生きていけない事情があると思うのです。

こころのままに生きていけない事情としては、自分を守らなければならないという事情があるということが第一です。他人の利益のために行動をしてしまうと、自分が致命的な損害を受けてしまうという事情です。極端な話、戦争のさなかで、自分が敵を殺さなければ敵から殺されてしまうという事情があれば、私も迷わないようにして敵を殺すのだろうと思います。自分に対するいわれのない非難、中傷、悪口を言われれば頭にきて、相手を攻撃するということもやるかもしれません。誰しもそうではないでしょうか。怒り、攻撃するのでなければ、人と争うことが嫌になり、孤立を選ぶのかもしれません。

しかし、なお、頭の良い人は追及の手を緩めないでしょう。でもそういう自分を守らなければならないことは200万年前からあったのではないだろうか。現代と200万年前と何が違うのかと言われるのではないでしょうか。

この答えは、第1に、おそらく200万年前には、少なくとも仲間から自分を守るために仲間に攻撃するということはほとんどなかったという回答となりますし、第2に200万年前と現代(1万年くらい前から現代)では、決定的な違いがあるということが回答になります。

第1の仲間から攻撃されることはない。ということを説明します。当時の仲間、群れというのは30人から50人くらいのコアな群れを中核にして、そのコアな群れが数個集まっておおよそ150人程度の集団で、原則としてメンバーが変わらず、同じ人たちだけと生まれてから死ぬまで暮らしていたとされています。生まれてから死ぬまで同じメンバーなので、だれがどのような性格で、どのような特徴があるということはみんなお互いにとことんわかっています。どういう顔をすればどういう気持ちなのかもよくわかっています。そうです。言葉が不要なほど分かりあっていたわけです。だから、おなかをすかせていたら自分がおなかがすいているようにかわいそうだと思い、けがをしたら自分がけがをしたかのように悲しんだのだと思います。悲しませること、不安になられると自分も悲しくなり、不安になるため、みんなは平等にするしかなかったのです。仲間通し、完全に信じあい、感情を共有し、利益が同一ですから、自分と他人の区別はあまりつかなかったのではないでしょうか。だから、仲間から攻撃されるようなこともしませんから、仲間から攻撃されるということはなかったのではないかと考える次第です。

第2に、では現代と一番違う条件は何かということですが、これは人間がかかわる他人という人間の人数と自分が所属する群れの数が、200万年前の現代では全く違うということなのです。

人間の頭脳の限界として、個体識別できる人間の人数は150人程度だと言われています。150人くらいであれば、お互いが共感してお互いの感情を自分の感情として扱い、全力で仲間を助けようとすることができるのだろうと思います。それが200万年前の人間の群れですし、その環境に適応した脳に進化したわけです。脳は200万年前から変わっていません。

ところが現代では、家を出てから勤務先に行くまでに、何千人という人と出会うわけです。人間の能力の限界を超えていますから、誰(どのような人)と会ったかについては、記憶にも残らないほどです。テレビやインターネットの人間に関する情報を混ぜると、何十億人という人間とかかわりをもって生きなくてはならないということが実情です。

また、インターネット上で誰かのことを話題にする場合には、実際はあったこともない人たちのことです。その人たちの感情に共感して、自分の行動を修正するということは到底不可能です。誰かの悪口をSNSなどで発信する場合、攻撃を受ける対象と攻撃をする人間は同じ人間同士の関係ですが、200万年前の生まれてから死ぬまで生活を共にする人間同士の関係とは全く異なるわけです。

とてもすべての人間、なんからの関わり合いになる人間だけをみても、実態のある生身の人間同士のかかわりにはなっていないことがわかると思います。共感が働かないということはよく理解できると思います。

もう一つ重要なことは、現代の人間は複数の群れに所属するということです。まず、まずそれぞれの人間がそれぞれの家族に所属するわけです。その家族も、親子であっても子が結婚すれば別の家族になってしまいます。自分たち夫婦の利益と親の利益が矛盾すれば対立が生まれてしまいます。これは別の群れになったことによって対立が生まれるということになります。(同居をしていても別の群れになっている場合も対立が生まれます。)学校へ行けば、友達という群れの中で安心感を持って生活をしていても、家族の意向から友達と利害対立をしなければならないことが出てくるでしょう。学校の教室の中でも、いくつかの仲良しグループがありそれぞれのグループ間に緊張関係があります。部活動などの関係でも群れが複雑に交錯してしまいます。職場でも地域でも群れや利害対立は容易に起こるわけです。すべてが一時的な群れだということも200万年前とは違う重要な要素かもしれません。

人間は、それぞれ、自分を守り、あるいは自分以上に仲間を守ろうとします。その行動がある群れにとっては全体に利益を与えてくれる価値のある行動だとしても、他の群れでは自分たちの群れに損害を与える行動になるということが当たり前のように起きてしまいます。
群れを大切にしようとすることが、他の群れを排斥する行動になってしまうということは、悪意がなくてもよく見られることです。

だから、一つの群れとの関係では、例えば友達との関係では、安心感を獲得できる行動だとしても、他の群れ、例えば家族との間では家族に損害をもたらす行動になってしまい、たちまち不安がかきたてられるという結果になることはよくあるわけです。もっと大きな話をすれば、自国民の利益を得るために、他国の国民や他の民族に犠牲を強いるということもあるのですが、自国民、自分たちの民族との関係では英雄になったりするわけです。

ズバリ言えば、人間は、これほど大勢の人間とかかわりあいになったり、これほど多くの群れに所属したりする能力、文字通り脳の力が欠落しているのです。それにもかかわらずそのような環境にいることが強制されている。これが虐待、いじめ、戦争、貧富の差等、あらゆる社会病理の根源にあるということです。

それでも人間は、自分が所属するすべての群れの中で、すべての人間のかかわりの中で、安心して暮らしたい、尊重されていたいという根源的要求を持っています。200万年前と心が変わっていないからです。だから余計に傷つくし、怒るし、不安になってしまうわけです。どこか1つの群れ、例えば職場で不具合があっただけで、家族に八つ当たりをしたり、家族と良好な関係にあるのに精神的に破綻してしまう仕組みはここにあります。

人間は群れの中にいることで不安をなくして、安心していたという根源的要求があり、一つの群れでそのような良好な関係にあることで満足せず、所属している以上、他の群れでも不安をなくして、安心していたいと思ってしまうということです。そのため、不安が生まれてしまいます。二つの安心を得ようとしてしまうために、不安も生まれてしまう。このことを二兎追うものは一兎も得ずと表現してみました。

今日の最後に、そうだとすると、人間には未来がないのでしょうか。何か破滅的な出来事が起きて、200万年前と同じ人数のかかわりの中で唯一の群れの中で生きるような出来事がなければ、滅びてしまうのでしょうか。また、滅びないために、心を変えていかなければならないのでしょうか。

この答えは、人間は現代の人間関係を維持しながら、各人が幸せを感じながら生きていき、他人を攻撃したり、追い詰めたりしないで生きていく可能性があるということです。

その時に使うツールは、理性です。但し、人類の共存という価値観に向かって進んでいくという目標をしっかり持ったうえで、それをどう実現していくかということを考え抜くという理性によって、人類の幸せな未来の可能性が切り開かれていくことになると思います。簡単な話ではありませんが、可能性は切り開かれるはずだと思っています。

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馬鹿な子ほどかわいいということが当然である理由 「かわいい」とは人間が人間であるために必要な感情だということも含めて。 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

意外に思われるかもしれませんが、まじめなまじめな話です。

現代では、馬鹿な子ほどかわいいということの意味は、例えば「馬鹿なことをやってみんなを笑わせるような子はかわいい」とかいうように、何とか理解しやすいように意味を改変して解釈して納得していることが多いようです。しかし、これは、昔に作られたことわざの解釈としては間違っているというべきでしょう。「馬鹿」という評価は、ちょっと深刻な、まじめに心配な気持ちを起こさせる文字通りの意味でよいと思います。厳しい世の中で、要領よく立ち回れずに損をしてしまうような状態ということになろうかと思います。
だから、辞書などでは、「不憫な子ほどかわいい」という意味だと説明しているものもあるようです。当たらずしも遠からずと思います。辞書という短い字数での説明を求められていることを考えると、これで精いっぱいという評価もあるでしょう。
日常会話では、「手のかかる子どもほどかわいい」という意味でつかわれることが多いと思います。こちらは正鵠を射ていると思います。

「馬鹿」という言葉も難しいのですが、「かわいい」という言葉の意味もやはり正しく使われていないところにも、このことわざを難解にしている理由があると思います。
現代では、いろいろな肯定的評価の意味で、「かわいい」という誉め言葉を使うようです。仲間内でならば、どんな言葉にどんな意味を込めて使おうと、通じているなら他人がとやかく言うことはありません。但し、ことわざのような古典を味わうためには、そのことわざが成立したころの意味を知らないと意味が通じません。結構もったいない話なんです。このカテゴリーはそういう役に立つことわざを発掘することがテーマなのであります。

ところでかわいいという感情ですが、これがなかなか難しい。古典的な日本語の意味は、「神々しくて顔を向けることもはばかられる。」という意味でつかわれていたようですが、そのうちにその意味に付け加えて「自分も何かをしなければいけない気持ちになる」という感情を伴うことも付け加えられた意味の言葉になっていったそうです。その後、「自分も何かをしなくてはならない」という感情をそのまま残しながら、それに付け加えて自分よりも弱い者、小さい者に対しての肯定的評価、好ましいという感覚が込められて使われるようになっていきました。

なんとなく、言葉の変遷は理解できるような気がしませんか。高校生の頃、とてもきれいなモデルさんがいて、「ああ美しいな。この人の役に立ちたいなと思うけれど、その人が近くにいたら恥ずかしくてたまらずにとてもじっと見つめることなんてできない。」というような感情がもともとのかわいいなのかもしれませんし、働くようになって、自分のことを「おっさん」と自称するようになるころは、よその子でも道で泣いていたら「どうしたの?」と声をかけたくなるというような、そんな変遷でしょうか。

子どもをかわいいと思う気持ちは、太古から各時代の大人の心にあったのだと思います。しかし、それを表現する言葉が、少なくとも「かわいい」という言葉ではなかったわけです。しかし、徐々に、本来人間が持っていた気持ちを「かわいい」という言葉にあてはめて表現するようになっていったという流れだと思います。時々見られる美しいものをかわいいと表現することは、太古の意味の名残なのかもしれません。しかし、単なる美人よりも、少し隙のあるような人間の方が可愛いと思うのも、こう考えると合理的かもしれません。「あの人は美男子だと思うけれど、かわいいとは思えない。」ということはよく理解できると思います。

現代で乱発されている「かわいい」ですが、私は、共通項として、安心できる対象(形状、色、柔らかさその他が自分に災いをもたらすとは思えないもの)であり、かつ自分もそのものと何らかの形でかかわりたいという感情を呼び起こすものということでつかわれているような感じがしているのですが、若い人に聞いてみないとわかりません。

さて、意味が変遷するので混乱してきましたが、元に戻って、ことわざができたころの「かわいい」という感情についてまとめてみましょう。
かわいいという言葉は、自分よりも弱い者、あるいは小さいものに対して使うもので、自分がかかわってその弱さなどを手当てしたくなるという感情を言うとまとめられるのではないでしょうか。典型的には赤ん坊に対する感情です。

こういう意味でかわいいという感情はどこから来るのでしょうか。また、かわいいという感情が人間の本能に根差した感情だと説明されることがあるのですが、それはどういう意味でしょう。

私は、「かわいい」という感情は、人間が群れを作るために不可欠な感情だったと思っています。私たちの祖先は、文明のない時代から群れを作ることによって、肉食獣から身を守り、飢えないように食料を獲得して生き延びてきました。言葉もない時代です。それでも数十人から100人余り程度の群れを作ってきたのです。

群れを作る動物はたくさんあります。イワシも巨大なウミヘビのような魚群を作りますが、それは各魚が、群れの内側で泳ぎたいという本能を持っているために結果として魚群が成立するそうです。馬は群れの先頭に立って走りたいという本能があり、鳥は風圧を軽減して飛びたいという本能があって隊列の形が生まれるそうです。それぞれ、理由があって群れの形、群れをつく方法が変わってくるように見えます。

そんな都合の良い進化はどうやって発生したのだろうか、誰かがそのような動物のデザインをしたのだろうかと思いたくなるのも無理はありません。しかし、実際は、地球が生まれてから現在までの間に、群れの中に入りたいと思わないイワシも生まれたでしょうし、群れ内で逃げたいという馬も生まれたでしょうし、風圧を好む鳥もいたでしょう。しかし、そういう不合理な行動傾向をもった個体は、死滅していったわけです。一人でゆらゆら泳いでいたイワシは簡単に大魚や海洋哺乳類に捕食さるでしょうし、群れから離れて草を食んでいる馬は集団で狩りをする肉食獣の格好の標的になったでしょう、風圧を好む鳥は渡りをする体力を消耗して渡りができなくなるわけです。つまり、都合よく進化したのではなく、環境に適応できた個体群が生き残り、子孫を作ることができたということなのです。数字を数えるだけで気が遠くなるような年数をかけて、現在生き延びた子孫という結果だけが見えているだけなのです。

さて、そうすると、どのような人間が、群れを作って生き延びてきたのでしょうか。群れを作る本能とは何でしょうか。

私は、人間が群れを作ることができたツールは「心」ないし「感情」、あるいは「情動」というシステムなのだと考えています。つまり群れの中にいると安心して、群れから外れると不安になるという心です。認知心理学的に言えば、「心というモジュール」ということになるでしょう。

群れにいると安心するという心から派生した心は、群れから尊重される、感謝される、高評価をされると嬉しいという心。努力をねぎらわれると嬉しいという心、群れの役に立つことを自分が行ったというと安心する心等です。
群れから外されると不安になるという心は、群れから外されそうになると不安になるという心を派生させ、共感力を背景に、仲間が自分を低評価をしているとか、自分が差別されているとか、攻撃される、健康を顧みられない等の事情があると不安になるという心を発生させました。
それらが組み合わさって、様々な心が生まれたと考えています。

人類は他の動物と比べて卓越した共感力を持つことによって、仲間の心における自分の状態、評価を感じ取ることができ、安心感や不安感が生まれたわけです。安心感の得られる行動は率先して行い、不安感が生まれる行動はしないようにして、うっかりそれをした場合や、仲間から否定的に思われていると感じた場合は、自分の行動を修正し、仲間の中にとどまろうとしたということになります。この仕組みで群れを作っているのは、人間だけです。自分が損をしても他人である仲間に得をさせる利他行為は、一見自分が損をしているように見えても、仲間の中にいたいという根源的要求を満足させるという自分の究極の利益を獲得するための行為ということになるわけです。

かわいいという感情も、人間が人間になった時代(200万年前と言われています)から、存在していたはずです。すなわち人間の赤ん坊は、全く無力で自力で生きていくことができません。また、人間は母親だけで赤ん坊を養育するようにはできておらず、多くの大人たちが一人の赤ん坊の面倒を見ていたと言われています。ここがサルと人間の本質的違いです。大人たちは、無防備な赤ん坊を見て、かわいいと思い、自分ができることをしようとしていたというのが人間の歴史です。こうやって、何もできない赤ん坊は、群れの大人たちから可愛がられ、面倒を見てもらい、大人になることができたということです。

もしこの感情を人間が持たないで、他の哺乳類のように母親だけが赤ん坊の面倒を見たならば、そもそもお産で母体が死んだ場合は、赤ん坊も死んでしまうことになるでしょう。また、母親だけが一日中赤ん坊の面倒を見ていたら餌を確保することができず、母乳も出なくなってしまっていたでしょう。赤ん坊が成体になることは極めて難しかったはずです。また、1年に一人くらいしか産めない人間からすれば、また、当時は赤ん坊の成長する確率は今より格段に低かったということを考えれば、母親だけが子どもの面倒を見るサルみたいな修正があったら、人間はあっという間に死滅したことでしょう。いわばかわいいという感情が赤ん坊を成体とすることができ、人類を存続させてきたわけです。小さくて弱い者をいとおしいと思い、自分のできることを行い役割を果たしたいと思い、赤ん坊が健やかに育つことに喜びを感じるということが人間に不可欠な感情だったわけです。そして私たちは、その人間の子孫たちなのです。

さてさて、最初の問題に向かい合いましょう。馬鹿な子ほどかわいいということわざの真実性です。もはや小さくて弱いとは言えなくなった年齢の子どもであっても、親として子どものために手をかける余地が大きいというのであれば、親は子どものために、我が身を削っても役に立とうとするわけです。自分が先に死ぬわけですから、死んだ後のことまでも考えてしまうのも当然です。大事にして、何とか傷つかず、楽しく生きていてほしいというのが、多くの親の願いなのではないでしょうか。そして自分が子どもの役に立ったと思えば、満足もするし、喜ぶわけです。生きがいと言ってもよいと思います。

馬鹿な子ほどかわいい。このことわざは、人間という動物の特徴を端的に、象徴的に表していると私は思います。

蛇足
可愛い子には旅をさせよということわざもありますね。かわいいと親が感じれば、なんでも親がしたがりますから、子どもがなかなか自立することができません。旅に出して、親の庇護を離れて、他人の恩義を受けながら育つことで、子どもは自立していくことができるようになるということなのかもしれませんね。

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予防政策を減速させてしまう、二方向の「被害者の落ち度論」 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]




自死でも、虐待でも、いじめでも、性犯罪でも、
予防政策を進めるにあたって、その足かせになってしまう二つの
二つの「被害者の落ち度論」があります。

<一つ目は、被害者(および加害者)の特殊人間論です。>

前もブログで書いたことがありますね。
ニュース報道だけで、何も事情が分からないくせに、
被害者にも悪いところがあったから、被害にあったのだという決めつけです。
ネットでの書き込みなどでよく目にします。

この被害者の落ち度論を言う人の心理というのは、
一言で言えば、被害に動揺して、自分の不安を鎮めたいというものです。
つまり、
「被害者は特殊な人間だから被害にあったのだ
(あるいは特殊な加害者に偶然関係したために被害にあった)
私は普通の人間だから被害にあう可能性は著しく低い
だから自分は大丈夫だ。」
と思いたいわけです。
そして誰かに肯定してもらいたくて
ネットに書き込んだり、友達とそんな話をするのです。
そうだねと言ってくれれば、安心できるからです。

しかし、実際は、自死でも、虐待でも、いじめでも
被害者が特殊な人間であることはありません。
(加害者であったとしてもどこにでもいるような人間
である場合がほとんどです。
登場人物はどこにでもいる普通の人間であることが通常です。)

特に被害者については、被害を受けやすい属性のようなものはなく、
全くの被害者であることが通常です。
理不尽で絶望的な被害を受けるのです。
つまり誰しも被害に合う可能性があります。
だから、予防の方法を構築することが大切になるわけです。

根拠がなくても安心を求めるのは、人間の常です。
自分だけがそう考えて、安心していればよいのですが、
「被害者が特殊なだけだから、対策なんていらない。
被害者の行動をしっかり修正すれば被害にあわない。」
ということになってしまえば
対策を講じれば予防できたはずの被害も
対策を講じられなくなり、予防できなくなります。

予防政策を立案するにあたっては
普通の人が被害にあう構造をよく理解することが
第1歩ということになると思われます。

<二つ目は、被害者に被害の原因を求めるなというものです>

具体例を挙げて考えてみましょう。
深夜、1人で帰宅中の女性が痴漢にあったという例で考えてみます。

一つ目の特殊な被害者論の論者たちは、
被害女性が、肌の露出した服を着て歩いていたから目をつけられたのだ
とか、
1人で深夜歩いていることが悪い
というように被害者の落ち度を強調して
自分は大丈夫と安心しようと思うわけです。

これに対して被害者に原因を求めるなという立場からは
深夜に一人で歩いていようと露出の多い服を着ようと
犯罪でも不道徳でもない
犯罪を行った加害者が悪いだけであり、
被害者の行動をとやかく言うことはおかしい
ということになるでしょう。

分かりやすくするためにどちらも極論をあげてみました。

善悪論で言うならば後者が正解でしょう。
深夜に一人で歩いても、犯罪にはなりません。
仕事帰りだったり、何かの事情で、
どうしても夜中の道を一人で歩かなければならない事情があった
ということを想像するのはそれほど難しいことでもありません。

犯罪被害にあってもやむを得ないという理屈は
全く出てこないことはその通りです。

また、露出の多い服を着ているから犯行を思い立って実行した
ということは、私の弁護や損害賠償実務の経験ではあまりなく。
どちらかというと、かなり前から犯行を思い立ち、
自分が捕まらないような場面と、ターゲットを物色して犯行を行いますから、
その時の服装というのは、あまり決め手にはなっていないようです。
(被害者の心理としては、自分が前々から狙われていて、
自分の行動を監視されていて、その結果襲われたと考えがちです。
しかし、実際は行き当たりばったりの犯行が多く、
加害者は被害者がどこの誰だかわからないことが多いです。)

但し、
犯人がターゲットを探しているときに二人の候補がいる場合、
露出の多い服を着ている方がターゲットに絞り込まれやすいし、
犯行を決行するかやめるか迷っているときに
露出の多い服が背中を押すということはありうることかもしれません。

被害にあった人も悪くないのですが
これから被害にあうかもしれない人も悪くないのです。
そうだとすると、
ちょっとの工夫などで被害にあわないで済む、
あるいは被害にあう確率が著しく低下するなら
その工夫を明らかにして、一般的に広めるべきだ
ということになるのではないでしょうか。

おそらく冷静に考えれば、あまり批判されないことだと思うのですが、
被害にあわないように行動の修正を提案すると
(例えば夜中に一人で歩かない等)
「被害者に落ち度があったと言っているようなものだ。
被害者を苦しめるからけしからん。」
(一人で歩いた被害者が悪いと言うのか)
というような極論を言う人たちが出てきてしまうわけです。

路上の痴漢行為という犯罪に関しては
加害者と被害者がきれいに分かれるわけですが、
他の社会病理に関しては
例えば家庭の中の問題等継続的な人間関係の問題に関しては
加害者と被害者ときれいに分かれる場合だけではありません。
相互作用の問題として考えて対策を立てた方が
関係者の今後の幸せに大きく貢献するという場合も多いような気がします。

こういう場合は、行動の修正を提案された方が
「悪かった」から被害が起きたのだと言っている
と受け止められると対策を立てにくくなります。

良い悪いではなく、
被害にあわないためにどうするかという視点は
受け止め方によっては冷たい視線になるようです。
被害者に寄り添っていないということになるらしいです。

言い方の問題で解決できる問題なのかもしれません。

考慮しなければならない要素は
・被害を出さないこと
・すでに被害にあわれたかの気持
ということになろうかと思われます。

予防策は、あくまでも、被害にあう確率を少しでも下げるための方法論だ
ということを徹底しなくてはなりません。

そうすることが悪いわけではないけれど
被害にあわないためにはこうするべきだ
ということを自由に言えるようになることは
被害予防政策の立案にとっては
極めて重要なことだと思います。

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他人との不具合は、自分の行動を修正して解決しようとする人の方が長生きする 堅強なる者は死の徒 柔弱なる者は生の徒の意味 但し、過労死の危険もあるということ 共通の対策としてはその人と心中しても良い人と巡り合うことかもしれない [故事、ことわざ、熟語対人関係学]



例えば上司からわけのわからない理由で叱責されることが増えたり
妻から冷たい言動を言われることが増えてきたリ
あるいは、SNS等で、それほど近しい人でもないのに批判のコメントが来るようになったり、
人間関係で、嫌な思いをするとき、
人間の反応は二種類に分かれるようです。

Aタイプは、自分に何か失敗事があり、周囲を不愉快な思いにさせているかもしれない。だから、自分の行動を改めようとするタイプ。
Bタイプは、上司や妻、それほど近しい人でもないのに自分を批判するその相手こそが問題のある人格であり、腹立たしく怒る。あるいは、自分の不遇を呪う。

こういう場合、対人関係を円満にするのはAタイプの方のようです。

両タイプで、もし本人の主張が正解である場合は、
Aタイプは、自分の行動を修正することによって不具合が解消される可能性が高まります。
Bタイプは、相手や自分を呪うだけで解決することがなく、精神的ダメージが継続するだけです。

Aタイプは、相手に率直に尋ねることによって、相手もこちらに悪意はなかったことを知ります。また、将来に向けて何をしてはいけないのかということを知ることになります。
Bタイプは、そのような解決策は生まれません。

Bタイプは、周囲から改善のための提言を受けても、自分の行動を修正して乗り切るという発想がないために、概ねそれらは自分に対する攻撃だと受け止めてしまうことが多くあります。周囲から見ればBタイプの人が不合理なことをしていると評価して、特に自滅しかねない状況に注意を促しても、聞く耳を持たず、結局自滅していくという事態がよく見られます。

「そしてあの時あの人の言うことを聞けばよかった。」との振り返りができません。「どうしてもっとわかりやすく教えてくれなかったのだ。」と親切な人、自分のためにアドバイスしてくれた人を非難してしまいます。

Bタイプの人は結局損をしてしまう運命になります。

第1に、通常は「自分を攻撃する人」だと思わない人も、「自分を攻撃する人」だと思うのですから、世の中に自分を攻撃する人、自分にて期待する人が一般の人よりも多いということになるでしょう。
第2に、その裏返しですが、自分を助けてくれる人がいるという実感を持てないので、一般の人よりも自分は孤立しているという気持ちになりやすいのです。
第3に、自分では見えないけれど、周囲からは見える解決方法を使おうとしないので、自分の直面している人間関係上の課題に、解決策が無いと感じやすくなってしまいます。
第4に、せっかくの他人の親切を攻撃だと思ってしまう結果、自分を守るために反撃してしまいます。親切行動をした相手は、反撃されると思いませんから、無防備な自分の状態に攻撃をしてくる人間だとみてしまいます。
第5に、その結果解決策がありませんから、世の中すべてに絶望をする可能性が高くなります。

派生問題としては、

自分を助けてくれる人がいないと感じていますので、誰かを助けようと思う気持ちに離れずに、ますます孤立していきます。
自分を助ける人を逆恨みしますから、誰も援助しようとは思わなくなり、ますます孤立します。
そもそも、誰も信じられない状態で、これが悪化してゆくのですから、孤立感は深まっていくのは当然だと思います。
結果、周囲の協力を受けることができる人であればやすやすと解決できることも解決できずうまくいかないことばかりになっていきます。

Bタイプスパイラルという感じに悪い方に悪い方に結果が生まれてしまいます。

Bタイプに、どうしてなってしまうのでしょうか。

色々原因があると思います。
確認できた原因をあげていきます。但し、それぞれが単体としてBタイプになる理由ではなく、複合して理由になっているのではないかと思います。
① 育ち方
つまり、厳しく育てられて(厳しい評価をされ続け、他者は自分を否定するという学習をしてしまった)、あるいは、親とのコミュニケーションがうまくゆかず、親からの援助を拒否するような習慣が生まれてしまった場合、
② マイナスの経験値の蓄積
周囲の援助を受けてことごとく失敗したような経験の蓄積 特にいじめの体験
信じていた人の助言に従ったら裏切りの助言で損害を被った
③ 被害感情・孤独感情
何らかの人間トラブル、特に近しい人とのトラブルが継続している場合は、Bタイプの行動をとりやすいと思います。だから、Bタイプだから孤立したのだろう思われがちですが、そうではないことがあります。孤立したからBタイプの傾向が強くなっている可能性があると私は思います。
④ 無意識の日常行動の否定に対して
日常の何気ない行動(日常的ルーチンのような言動)に対して特に近しい人から否定評価されてしまうと、これまで平穏に行っていた行動が否定されたことになり、自分の行動を修正する必要性を認識しにくい。自分の行動が無意識に行われているため、どこを振り返ればよいの変わらない。その結果、相手の言動が自分に対する言いがかりだと思うこともある。
⑤ 体調
自分が否定されていると感じやすい、精神に影響を及ぼす内科疾患、脳などの傷害、あるいは精神疾患がある場合。あるいは、病気とまでは行かないけれどなんらかの心理的影響がある。

概ねAタイプの方が、問題を解決してストレスを軽減し、その結果長生きする可能性が高くなり、Bタイプは孤立感とストレスを抱えて苦しんでいくことになると思います。

解決方法は難しいのですが、一つ考えられることがあるとすれば、援助者をみつけるということですね。この人は自分を見捨てることが無いと信じて悔いない人、この人が自分を裏切るならば仕方がないと思える人をつくり、その人の意見は必ず肯定的に聴くということです。それができないのがBタイプなのですが、それができれば有効だと思います。
つまり全面的にAタイプになる必要はないということです。特定の人にだけコミュニケーションの風穴を開けるということです。限定Aタイプ行動とでも言いましょうか。そして心中上等ということをはっきりと意識する。おそらく結婚というのはこういうものであるべきなのでしょう。

Aタイプは、一見、協調的に円満な生活を送るように見えます。しかし、思わぬ落とし穴があるのが現代社会です。過労死をするタイプはAタイプかもしれません。人間関係はこちらだけが品行方正にしてもダメで、相手のあることなので難しいですね。相手が悪い人格の持ち主というよりも、相手の立場や関心事のその時の状況が影響を強く与えているということなのでしょうが、本人にとっては天使から悪魔に豹変する結果になることがあるわけです。この場合、Bタイプは被害が少ないのですが、Aタイプは甚大な被害が生じる可能性があります。特定の人にだけ窓を開く限定Aタイプの場合も同様です。

例えばパワハラ上司の場合です。
相手は上司ですから最初からそれがパワハラだということにはなかなか気が付かないということが多くの実例です。周囲が見たらパワハラだと思っても、Aタイプの方は、「業務上必要なことを言われているし、会社全体の立場から考えると自分のやり方が間違っていて上司の言うことが正しいのかもしれない。」という意識になることが多いです。こういうタイプでパワハラの被害を受けると、長期間うつ病が治らないケースが多いです。10年間うつ病が治らないケースで上司に問題があったケースを3件担当しています。そのうち2件は現在係争中です。1件は労働者側の勝利的和解で解決しました。

それらのケースでは、やはり、最初は上司の正当な指導だと思って、労働者は、何とか自分の行動を上司に合わせて修正しようとしています。だんだん、上司の発言が無茶なことを言っているように感じるのですが、それでも従おうとします。従わなければならないと自分を律するという感じです。しかし、パワハラの原因は、客観的には上司の私的利益の追求というか保身、別の事例では差別・偏見だったのですが、言われている方はなかなかそれに気が付きません。上司の攻撃は徐々に強くなっていきます。薄ら笑いを浮かべた嫌味のような小言から、自分に対する発言の際の上司の顔つきが険しくなり、はっきりと憎悪が読み取れるようになります。叱責も捨て台詞のようなものも頻繁に出てくるようになります。さすがに自分が上司から嫌悪されていることに気が付きますが、しかし、どうしてそういう風な扱いを受けるかわかりませんので、困惑してゆきます。自分の何を直したらよいのだろう、上司にどのように説明したらよいのだろうということを当てもなく悩んでいきます。自分の行動を改めれば上司は普通に扱うはずだ、上司は誤解をしているのかもしれないからきちんと説明すればわかってもらえるはずだと思ってしまうのです。解決策は見つかりません。見つかるわけがないので、初めからパワハラですから、上司が行動を改めなければ解決しないのです。こういう相手を信じ切っている時期が相当程度経過したある時、様々な事情から上司の指導は、実はとても職務上の指導とは言えない、逸脱した違法行為だということに、突然気が付きます。自分は上司の保身のための犠牲にされそうになっていたのだ、あるいは上司は自分を差別していたのだと突然気が付くのです。うすうす感づいていたのを一生懸命自分で否定していましたが、否定しきれなくなり、急激に確信に変わるという感じです。

さて、こうなった場合、おそらく多くの方々は、労働者が「自分が悪くない」と理解できたので救われたのではないかと感じると思うのです。晴れ晴れとした気持ちになるのだろうと思われないでしょうか。多くの「支援者」はこのように思って、気づかせた自分をほめる傾向にあります。ところが実際は逆です。それまで、何となくモヤモヤしていたり、自分が悪いと思っていたりしていたけれど、実は相手が自分に悪意があり、保身目的で自分の害を与えようとしていたと理解したとき、一気にさらに強い精神的にダメージを受けるということが実際でした。それまで張りつめていた気持ちが一気に喪失してしまい、これまでの上司の発言の一つ一つを思い出してはとても強い悔しい気持ちになるようです。そしてそれと同時に、これでは、自分はどうすることもできないという解決不能感が一気に押し寄せてきて、絶望して、気力が失われてしまうようです。こうなってうつ病になると難治性の遷延化したうつ病になるように感じます。今まで信頼していた人間関係の基盤が一気に喪失してしまい、支えるものが無くなり、転落していくようなそんな感じなのだと思います。

こういうパワーハラスメントのケースでは、Aタイプはかなり危険な結果になる可能性があると考えなければならないと思います。*1労務管理上のコメントは後述


人間は、基本的にはAタイプの方が良いのだと思います。関係者がみんなAタイプならば、円満な人間関係が形成されるのだろうと思います。しかし、相手によってはAタイプが深刻な打撃を受けることがあるわけです。こうならないためにはどういう条件が必要かというと、親身になって客観的なアドバイスをする援助者が存在することだと思います。「あの上司の発言はひどすぎる」と言ってくれる人がいることが必須だと思います。本人ではなくても、その場面を体験した他者が修正を提案できればそれは袋小路に陥らなくて済むことになるでしょう。

パワーハラスメントが起きて、長期の療養を必要とする精神疾患になる場合は、職場の同僚にこのような正当な評価をしてくれる人がいません。「ひどいよね。」とか、「気にする必要ないよ。」と言ってくれる人が一人でもいたならば、悲劇は起きていなかったかもしれないと思うと、残念でなりません。そのような人が一人もいないと、パワハラの被害者は、上司だけでなく周囲も同じように自分を評価しているのだろうと感じていきます。そして急激にBタイプに移行していってしまいます。タイミングを逃がすと、もう、周囲の声を正当に評価することができなくなります。
いじめの場合も全く同じです。

逆に、この救いのコメントを言うべき人が本人の足を引っ張ることも良くあります。困窮している本人の認知の歪みが生じることを知らないために、本人を援助しようと手を差し伸べている人を攻撃してしまうことが多く見られます。先ほど言いましたように、Bタイプの人間は自分に対する手を差し伸べる程度を不満に思います。もっときちんと問題を解決してほしいという意識になってしまうからです。本当はその人の苦境を解消するキーマンになり得る人に対して、本人は不満を述べるわけです。そして、本当の敵とは戦う気力が無くなっています。そちらは無理だと思うのでしょうね。だから、自分に好意を示す人の不十分さ(自分の願望に照らしての)だけが具体的不満として表現されるということが結構あります。第三者の「支援者」はこのメカニズムがわかりません。だから、本論、本人を苦しめている根本問題を見ないで、本人の言動だけを聞いて、主たる敵は本来キーマンになる人間だということで、本来キーマンになる人間の低評価をあおるようになります。それを「よりそい」だというのです。これはよく見ているし、自分自身も体験していることです。本人だけがBタイプであるだけでなく、「支援者」を含めたチームBタイプというような感じです。本人も第三者の賛同を得てしまいますから、もう自分の主たる敵は本来キーマンになる人間だと信じて疑わなくなります。同時に、キーマンの手を差し伸べる行為自体が攻撃だったという記憶に置き換わってしまいます。その結果、本人は有効な協力者を失い、その様子を見ている周囲の関係者も本人から離れていくわけです。

どうすればこのような偽支援者に足を引っ張られないかというと、やはり、
・公的な立場だということで信頼しないこと
・昨日今日の知り合い、あなたの従前の性格などを知らない人、またキーマンについてのあなたからではない情報を知らない人に、そして何よりも知ろうとしない人にあなたの運命を委ねてはならないということだと思います。
こういう人は、あなたがこの人と心中しても構わないといっても、笑って私はしませんという人たちです。

先ず家族からAタイプの人間関係を広めていき、そして無理しないということしか、今は言うことができません。そして、小さいことで構わないので、なるべく早めに声掛けをして、他者を孤立させないという活動が、完全ではないけれどいずれ自分を助けると信じて行動することがよりましな方策だと思います。


*1
およそ指導であれば、具体的な改善方法を指導しなければなりません。改善方法を簡単に始動できないのであれば、一緒に考えればよいのです。抽象的な激励は、指導ではない、即ち生産を向上させないということを徹底するべきだと思います。自分で考えて見つけろと言うのは、非効率な考え方です。確かに文字を使って指導できない技術というものはあるでしょう。しかし、コーチング技術が発達した現代では、ごく例外的な事柄です。技術的な行動を反復して体得する場合も、きちんと意義を説明して納得して取り組むことが早期体得となり、生産性の向上につながるという考え方をするべきだと思います。相手を谷底に落として自力で這い上がるのを待つという論法は人権問題を生じるということを肝に銘じるべきです。


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人を呪わば穴二つの本当の意味 情動型虚血性疼痛 被害感情は自分自身をさらに傷つけるという不合理な事実 PTG(ポストトラウマティックグロース) [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

人を呪わば穴二つの本当の意味 情動型虚血性疼痛 被害感情は自分自身をさらに傷つけるという不合理な事実 PTG(ポストトラウマティックグロース)

人を呪わば穴二つ
ということわざというか格言というかありますね。
受験解答的意味としては、他人を害することを望んだ場合は、めぐりめぐって自分も害されることになる。呪い殺そうとする場合は、相手の墓穴と自分の入る墓穴と二つ必要になることになる。
という感じでしょうか。

どうやら正式な意味のような因果応報的な回りくどい間接的な被害ではなく、他人に対して攻撃的感情を持つと、その攻撃的感情によって自分自身が直接傷つくということになるかもしれないというお話です。私は、このことわざを作った人たちは、今からお話しすることを良く理解した上で、わかりやすくこういう言葉を選んだのではないかと感じています。

最近二人のうつ病患者さんとお話をしました。お二人とも職場の人間関係がきっかけとなり10年ほど前にうつ病を発症させて、現在も通院中という共通点があります。

最初の患者さんは、うつ病とともに体のあちこちが痛いという症状がある方で、痛みの権威のあるお医者さんに診てもらったら、うつ病から痛みを感じることは多いと言われたそうです。その場にいた何人かで早速調べてみたところ、ある文献が出てきました。
そうしたら、怒りなどの情動が亢進すると、血流の変化が起き、一時的に虚血状態になる体の部分が出てきて、痛みが発生するのだと説明がありました。そこにいた仲間の中では、この見解がどのくらい信用できる知見なのかということを判断することはできませんでした。虚血性疼痛というメカニズムも分かったような、わからないようなというところでした。しかし、うつ病患者さんは思い当たるというのです。自分がうつ病になった原因を作った人たち、された理不尽な出来事を思い出して怒りに震えたときに痛みが出現するかもしれないとのことでした。

これに対して次の患者さんは、体の痛みは無いとおっしゃいます。この方は、怒りを高まらせるというタイプではなくて、理不尽な扱いを受けると自分が傷ついていくというタイプの人です。相手に対して恨みとか、怒りという感情が弱いところがむしろ心配なところでもあります。恐れという情動が優位になる性格なのかもしれません。

どうやら「疼痛を抑える」ということだけを目標とした場合は、怒りを感じない方が良いということになりそうです。

でも、最初の患者さんが職場で受けた仕打ちはそれは不条理なものでしたから、怒るのは当然だと私も感じるのです。そのことが無ければ、病気にもならないで、それまで通りに働いていたことでしょう。色々な計画もあったと思います。しかし、現実には、うつ病になり、働けなくなり、家族はうつ病患者を抱えてしまいました。かなり重症な発作が続く時期もあるようです。本人やご家族にとって、人生を台無しにされたという思いが生まれて当然だと思います。しかし、その当然の怒りが、患者さんをさらに疼痛によって苦しめるというのですから、何とも不条理なことです。

また、怒りを持てないという人は、なかなかうつから脱却できないという状況もこれまでよく目にしてきました。「自分は悪くない、悪いのは相手だ」と思えた方が回復するのかなと漠然と感じていました。怒りだけでようやく自分を支えていた人もいらっしゃいました。しかし、怒りによって、疼痛も生じ、うつ病も軽快しないということならば違うのかなとも思えてきました。

当事者である患者さんが、痛みに苦しんでも怒りを捨てたくないというのであれば、周囲がどうのこうのということはできないのかもしれません。ただ、怒りがご自分を直接苦しめている可能性があるということは言うべきではないかとも考えています。だから「怒ってはいけない」というアプローチではないのでしょうね。怒るなと言ってしまえば、信頼関係が傷つくことになるでしょうね。自分をわかってくれない。きれいごとばかりを言う。そんな感じになるでしょうね。

ただ、患者さん自身の怒りがご自身を苦しめる可能性があるとすれば、支援者は無責任に当事者の怒りをあおることはするべきではないということになると思います。患者さんが、穏やかに生活しようという価値観で、家族とともに回復の道を歩んでいるのに、「もっと怒るべきだ。」という自分の価値観で怒りをあおるということは、疼痛を招く可能性もあるし、もしかしたら回復を妨げるということがあるかもしれません。

疼痛に限らず、怒りやその前提となる被害感情によって、精神的な意味で害がもたらされている可能性があると感じています。仕事がら、人間関係の紛争の当事者の方々とお付き合いするわけですが、やはり怒りをもって当然だと思える不条理な思いをしている人たちはたくさんいます。人間関係の中でも、家族関係を筆頭に、職場関係や、学校関係など、継続して付き合わなければならない人間関係において紛争がある場合は、うつ状態になりやすいように感じています。怒りながら、精神活動が低下していくという、一見矛盾するようなご様子になる方も少なくありません。支援者等安心感を持てる人間の中では怒りを持てるのだけれど、その外の世界や一人の時間になると精神活動が低下してしまうという感じでしょうか。しかも、1人で住んでいる家、部屋から、メールを送信するときにその怒りが果てしなく膨らみ、収拾がつかなくなってしまうという様子もよく見られます。
第三者としてそういうメールを読んで感じてしまうことは、怒りで収拾が付かなくなり、冷静な判断ができず、合理的な反撃ができなくなる、むしろ、自分に不利なことを自ら行ってしまいそうになっているということが一つです。もう一つは、相手に対する呪いのような怒りによって、ご自分をさらに苦しめているなあと感じることです。相手を攻撃しているはずなのに、相手を攻撃する言葉の中に自虐的な要素もずいぶん感じてしまうのです。第三者としては、そのような呪いの言葉は、あまり効きたくはありません。ひどい仕打ちをされたのだから、それに見合うような呪いの言葉で攻撃しないと、自分を保てないということも理解はできるのです。しかし、プロとしては、その感情にまでついて行ってしまうと仕事が冷静にできなくなりますので、「理解はするけれど、同調はしない」ということが原則だと考えています。

依頼された事件を首尾よく成し遂げるという目的の範囲では、その呪いのような怒りを自分たち以外に表明することはどうしても避けるべきだというアドバイスをするべきだと思います。

しかし、恨みを抱く気持ちはよくわかる。呪いのような攻撃の言葉を発しないと自分という精神存在を保つことができないということも理解できる。しかし攻撃的感情を持つと体の痛みが生じ、精神的にもダメージを受けてしまう。どうしたらよいかわからなくなります。

こういう場合に、患者さん方は、ご自分で解決の方向を見つけられることが多いようです。最初の患者さんは、「うつ病になってこれまでの仕事、生き方が断絶させられてしまったけれど、労災を申請したり裁判をしたりする経過の中で、色々な人と出会え、色々な人が自分の味方になってくれて、色々ことを考えることができた。仕事が中断しなかったらこういうことを知らないで生きていったと思うと、悪かったことだけではないと感じている。」と言ってくださいました。
弁護士なんて言う職業は、うつ病の患者さんから励まさられる職業なのだなあと嬉しいやら恐縮するやら、そういう思いで聞かせていただきました。

2番目の患者さんからも色々なことを教わりました。このブログのいくつかの重要な記事(もっとも重要な記事を含む)は、この方と共同作業で作成したようなものです。

心理学では、悲惨な体験をして精神的にひどく傷ついてしまった場合、なかなかそれが治癒しない時に、治癒だけを優先するということをしないで、精神的外傷も承認した上で新たな人間としての成長を図るという方向での解決方法が提案されているようです。ポストトラウマティックグロース、PTGという理論のようです。治癒することを放棄するというのではなく、治癒を待たないでも幸せを実感していくという考え方なのだろうと、最初の患者さんの言葉を聞いてしみじみと実感することができました。
幸せは人それぞれかもしれません。しかし、その人なりの幸せの追求をすることも、怒りとともにでも良いから、選択肢として提起するということを目指すということになるのかもしれません。紛争解決の方向を定めるにあたっても有効な働きかけになるような気もしています。

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「パンと見世物をよこせ」は案外正しく必要な政策だと思う理由。特に見世物をよこせ! [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

「パンと見世物をよこせ」

ローマ市民が堕落していることを象徴した言葉とされていると
中学だったか、高校だったかで教わりましたね。

でも、これ案外人間不変の真実だと思うのです。

見世物がサーカスか何か議論があるようですが、
要するに、ほっと一息つくという時間なのだと思います。
大勢の人間の中で生きていると
何かと緊張をしたり、不安になるわけで
人間は放っておくと疲れていくようです。
メンタルは放っておくとやられるわけです。

何かをしないという休息だけで解決できる問題ではなく
何かに夢中になる時間があることで
緊張から解放され、不安を忘れることができるのだと思います。

その何かは人によって違うのでしょう。
高尚な学問や思想に没頭して癒される人もいれば
プロレスなんかを見てストレスを発散する人もいるわけです。

私は、この「見世物」が人間にとって必要なもの
だということが言いたいわけです。

高尚なことの没頭の一つは宗教だと思います。
キリストも、人はパンのみに生きるにあらずということを
おっしゃっているようです。
もちろんこれは見世物ではなく
神様の言葉によって生きるのだということのようです。

見世物と神様の言葉を一緒にしたら申し訳ないのですが、
共通点があると思います。
具体的な人間関係の切り結び、損得勘定から離れたところの
究極の癒しが神様の言葉なのだと考えると
だいぶ俗っぽく低級にはなりますが、
見世物も結局

具体的人間関係の切り結びや損得勘定を
そのときだけでも忘れることのできる貴重な時間で
それがあることによって
生き生きと生きていける
それが人間なのだと
そう思えてくるのです。

今のコロナの自粛ムードの中で
スポーツや芸能も観客を集められないからと自粛されてしまうと
パンだけで生きていかなければならないということになりそうです。

勉強や思想だけで、人間関係のしがらみから解放される
という人はあまりいないように思います。
また、そういういわゆる高尚な高級な人たちの社会というものを
本当に理想とするべきなのかについても
最近特に疑問に感じてなりません。

力を入れずに、どうでもよいことに夢中になる
その場が終われば引きずらないということが一番ではないか
その意味ではスポーツや芸能音楽というのは
最適の見世物のように思うのです。

コロナで解雇や賃金カットがなされ
パン(生物として生きる糧)も足りない状況になっています。
その援助を社会がもっともっと行う必要があると思います。

同時に、集客してはできないならば
テレビやインターネットなど
安価に、しかし、芸能人やスポーツ選手や関連会社の足を引っ張らない方法で
大衆に娯楽を提供することも
必要なことだと思うのです。

特にコロナの影響が長期に続く場合は
見世物を社会が工夫して実施する必要があるのですが
それが一段低級、不必要なものとして扱われることは
間違っているというのが私の結論です。

不要不急であり後回し
ということは間違っているということです。

どんどん安価な娯楽が供給されるべきです。

愚民政策ではなく、人類普遍の政策であると
コロナを通じて考えました。



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