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「パンと見世物をよこせ」は案外正しく必要な政策だと思う理由。特に見世物をよこせ! [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

「パンと見世物をよこせ」

ローマ市民が堕落していることを象徴した言葉とされていると
中学だったか、高校だったかで教わりましたね。

でも、これ案外人間不変の真実だと思うのです。

見世物がサーカスか何か議論があるようですが、
要するに、ほっと一息つくという時間なのだと思います。
大勢の人間の中で生きていると
何かと緊張をしたり、不安になるわけで
人間は放っておくと疲れていくようです。
メンタルは放っておくとやられるわけです。

何かをしないという休息だけで解決できる問題ではなく
何かに夢中になる時間があることで
緊張から解放され、不安を忘れることができるのだと思います。

その何かは人によって違うのでしょう。
高尚な学問や思想に没頭して癒される人もいれば
プロレスなんかを見てストレスを発散する人もいるわけです。

私は、この「見世物」が人間にとって必要なもの
だということが言いたいわけです。

高尚なことの没頭の一つは宗教だと思います。
キリストも、人はパンのみに生きるにあらずということを
おっしゃっているようです。
もちろんこれは見世物ではなく
神様の言葉によって生きるのだということのようです。

見世物と神様の言葉を一緒にしたら申し訳ないのですが、
共通点があると思います。
具体的な人間関係の切り結び、損得勘定から離れたところの
究極の癒しが神様の言葉なのだと考えると
だいぶ俗っぽく低級にはなりますが、
見世物も結局

具体的人間関係の切り結びや損得勘定を
そのときだけでも忘れることのできる貴重な時間で
それがあることによって
生き生きと生きていける
それが人間なのだと
そう思えてくるのです。

今のコロナの自粛ムードの中で
スポーツや芸能も観客を集められないからと自粛されてしまうと
パンだけで生きていかなければならないということになりそうです。

勉強や思想だけで、人間関係のしがらみから解放される
という人はあまりいないように思います。
また、そういういわゆる高尚な高級な人たちの社会というものを
本当に理想とするべきなのかについても
最近特に疑問に感じてなりません。

力を入れずに、どうでもよいことに夢中になる
その場が終われば引きずらないということが一番ではないか
その意味ではスポーツや芸能音楽というのは
最適の見世物のように思うのです。

コロナで解雇や賃金カットがなされ
パン(生物として生きる糧)も足りない状況になっています。
その援助を社会がもっともっと行う必要があると思います。

同時に、集客してはできないならば
テレビやインターネットなど
安価に、しかし、芸能人やスポーツ選手や関連会社の足を引っ張らない方法で
大衆に娯楽を提供することも
必要なことだと思うのです。

特にコロナの影響が長期に続く場合は
見世物を社会が工夫して実施する必要があるのですが
それが一段低級、不必要なものとして扱われることは
間違っているというのが私の結論です。

不要不急であり後回し
ということは間違っているということです。

どんどん安価な娯楽が供給されるべきです。

愚民政策ではなく、人類普遍の政策であると
コロナを通じて考えました。



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現代に受け継がれて私たちを今もなお苦しめる生きづらさの根源としての戦争という負の遺産 国策でつくられたジェンダー 目的遂行至上主義の由来と対極の価値観とは。 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

つい76年前まで日本は戦争をしていました。戦争というのは、戦争をする人たちだけが闘うわけではなく、国を挙げて戦争を遂行する態勢を作らなければなりません。表立って戦争に反対できない状態を作ってこそ、国家として戦い続けられるわけです。
この戦争態勢づくりは、明治政府によって周到に準備されました。富国強兵政策を徐々に国是として浸透させていき、他国に戦争で勝つということを多くの人たちの共通の価値観にすることに成功しました。この価値観は、軍隊の仲だけで成立するものではなく、家庭や職場、地域など、様々な人間関係の中で戦争体制の価値観づくりをする必要があり、実際にそうしていました。
戦争の価値観とは、突き詰めれば敵に勝つということでしょう。敵に勝つためには、合理的な作戦をたて、軍隊が作戦の元に統一した意思の下、無駄な行動や自分勝手な行動を行わず、上司の命令に忠実に行動を行うことが必要です。このために厳しい上下関係があり、下の者が上の者の意見に逆らうことは厳禁でした。軍隊の対人関係は、下の者は命令通りコマとして動くという関係とも言えるでしょう。
この観点から否定される考え方として、下の者が自分の頭でものを考えて行動する自由、目的と関係の無い娯楽を楽しむこと、目的遂行よりも仲間の笑顔を大切にすること、安心して緊張をしない人間関係、多少の命令違反行動、自分の体調や感情を優先すること等はすべて否定されるわけです。また、いちいち上官が部下の行動に感謝したり、自分の間違いを謝罪したりすることは、むしろタブーだったのでしょう。身分にそった関係を維持することが命令を遂行するために必要だとされたのだと思います。
このような戦争遂行の価値観は、次第に家庭や地域に浸透していったようです。それまでの夫と妻の関係が役割分担から上下関係になっていったのも、富国強兵政策からではないでしょうか。童話も、立身出世や悪い敵は殺されるべきだという勧善懲悪というものばかりになっていったようです。「貞操」という観念も、自然な愛情にもとづくものではなく、兵隊さんが安心して戦うための道具となり、姦通罪という罪が設けられました。
戦争遂行の価値観は目的遂行至上主義的な価値観だと言えるでしょう。これと対立する考えは、仲間の和、協調至上主義とでもいいましょうか。外向きの目的ではなく、内向きの目的と言っても良いかもしれません。目的を何も持たないというところでは、あまり価値観と呼べるものはないのかもしれません。
この戦争価値観は、1945年まで作られ続けました。敗戦と同時に一挙に崩れたと多くの人たちは考えたことでしょう。
しかし、人間の考え方、行動様式、社会の仕組みは、戦争が終わったからといって、簡単に変わるものではありません。例えば戦後直後の闇市時代は、生きていくという最低限の目的すら容易ではなかったことから、生きていくという目的遂行主義的な価値観が支配していたのではないでしょうか。この時仲間を脱落させないで協力して生きていこうという価値観もありえたのでしょうけれど、戦争的価値観の残存によって、自分が生きるためになりふり構わないということが否定されなかったという側面があると思います。ここでいう「生きていく」というのは、生物個体として生命を維持するという意味です。生きていくためなら、法律を守らないということが、非難されることはなかった時代です。こういう時代を経験したことも、日本国民にとってとても不幸なことだったと思います。ルールを守らないことを誰からも非難されない時代は社会秩序の観点からは深刻な影響を与えたと思います。
大きな目で見ると、戦後の荒廃から復興をするために、客観的にはやるべきことが多くありました。日本を復興させるという目的遂行に大きな価値観をおかれました。一方で高度成長経済に向かうために、職場の中での目的至上主義は形を変えて継続したのだと思います。戦争的価値観が素地となったことから、すんなり受け入れられたという側面があるはずです。利益を向上させるために、個人の自由を犠牲にすることが、多くの人に当然のことだと受け止められたものと思います。高度成長までは、目的遂行価値観の下で身を粉にして働いたのですが、敗戦直後を基準として考えた場合、目に見えて生活が向上してきたわけですから、その価値観をだれも疑わなかったでしょう。
では、家庭はどうだったのでしょう。
明治の富国強兵から終戦まで、家庭も徐々に戦争遂行のためのツールと位置付けられていったと思います。明治以前は、あまり男女の風俗には違いがなく、上流階級や都市部を除くと、服装も髪型も男女という区分けがそれほど厳密ではなかったようです。明治初期に東京市など各市が定めた違式詿違条例(いしきかいいじょうれい)というものがあり、女性が男性の服装をしてはだめだとか、女性は散発をしてはだめだとか、主に外国人の目を気にして、庶民の生活様式に干渉を始めました。これを裏から見ていると、庶民の中では、それほど女性らしさというものに価値観をおいていなかった様子が見て取れます。また、江戸時代には「女大学」なんて文章もありました。いわゆる女らしさとはこういうものだからこうしろという内容です。これも裏から読むと、そんなことが女らしいという共通の価値観はなく、女性らしさに縛られない女性の生活様式が是認されていたから、これを改めて女性らしさのある生活にしろと言わざるを得なかったということなのだと思います。
女性が男性より一歩引いて男性を立てるという行動様式は、考えてみれば不自然なことです。いろいろな男性がいて色々な女性がいるのですから、女性が主役の家庭があってもちっともおかしくないわけです。どういう家庭を作るかは各ご家庭が決めればよいことです。実際にもいろいろな家庭のスタイル、人間関係があったことだと思います。また、武家以外は、男性と女性にそれほど就労形態に差があったわけではありませんから、自然な形では、ステロタイプの男女差は生まれにくかったはずです。家事も重労働だったし、時間がかかることでしたから、家事労働は今よりも格段に高い価値が認められていたはずです。
男性に一段高い地位を与えたのは、国策だと思います。これによって男性に、家の代表という意識を植え付けることになったはずです。それは次第に、家庭を守るのは男性の役割だという意識付けを与え、それから家族を代表する社会の一員という意識付けを与え、国を守るという意識付けを付与させていったのではないでしょうか。すべての男性が、プライドを持たされ、戦う兵器に作られていったのだと思います。男性であるから、大きな視点を持たなければならない。社会のために、国のために役に立とうとしなければならない。立身出世を目指さなければならない。それは自分が貢献して戦争に勝つことだということです。こんな発想が自然発生的に生まれるはずがないと、現代に生きる私は思います。男性は血筋を残す存在から、兵隊としての任務を遂行する存在に位置付けられ、女性は男性を強い戦士にするという役割を担わされたのではないでしょうか。男尊女卑という明治以前の一地方の風習が、日本全土で強制されるようになったわけです。
例えば職場で、戦争価値観が形を変えて残存したように、家庭でも戦争価値観がそれほど簡単に消えたわけではないと思います。男は強くあるべきだ、泣くような子は男ではない、男は弱音を吐かない、すべて戦争遂行に都合がよい価値観です。戦前に生まれた親たちは、どこか戦争価値観の影響を受け、教育をはじめとする行動様式に、男らしさ女らしさを良しとしてきたはずです。
このような変化は、時代の社会構造を反映しているもので、社会構造との不具合が顕在していく中で消滅していく運命にあるわけです。1945年に戦争が終わりました。10年余りは復興のために目的遂行至上主義のもと戦争価値観を利用して国民は働きました。その後戦争価値観は高度成長期を可能としたわけです。男性が外に出て働いて、女性が家を守る。男性は猛々しく7人の敵と戦うべしということでしょう。
しかし、同時に変化も生まれてきました。女性の社会進出です。もともとテストとか就職試験の解答能力に差があったわけではありませんから、目的遂行主義的な男女観さえなくなれば、女性がどんどん進学するようにもなりますし、消費のために働いて収入を得る必要も高くなります。学校でも男女平等が進められますから、どうしたって、男性だからと言って立てられる必然性が無くなります。女性の猛々しさやリーダーシップを発揮することに、国家がストップをかけるということもなくなりました。また、高度経済成長の時代にあった働きに応じて所得を得るという実感が、高度成長期の終わりころから無くなっていくわけです。見返りが乏しくなったのに、これまで通り働くのは馬鹿らしくなるわけです。目的至上主義が国民全体の価値観だったのに、自分には何のメリットもないということが少しずつ浸透していくのは必然でしょう。バブルも、特殊な業界だけが恩恵を受けて、また、努力や勤勉さとは関係の無いところばかりが特別に潤ったということですから、目的至上主義に基づく勤勉な就労は魅力がなくなったはずです。
目的至上主義が国民から遊離してきたと同時に、男性だけの就労では国民の大部分が望む生活が不可能となりました。女性も安い賃金をいとわず働かなければならなくなりました。男性がリストラにあい収入が無くなり、女性の収入で一家が生活をするということもそれほど少数の話ではなくなります。
ここで一気に男性を立てるという行動様式の意味が失われてしまう社会構造がととのってしまったということなのではないでしょうか。子ども向けの娯楽が、戦前の立身出世、勧善懲悪の絵本から、戦後は正義を口実とした人殺しの戦隊ものという勧善懲悪に変わり、バブルの崩壊とともに女性の戦隊ものという勧善懲悪噺に変わっていくのは、社会構造をきれいに反映させているように思われます。
家事事件などに携わっていると、夫婦の親たちの間にこの戦争価値観に基づく家族形態の争いが起きているように感じることがあります。男性の両親は嫁に立てられない息子はとても不憫だと思う一方、女性の両親は女性だからと言って家事などを押し付けられることは不合理だと思い、本当は当事者にとってはどうでも良いことなのに、それぞれの価値観を押し付けて対立をあおる。こういう図式による離婚事件がしばしば見受けられます。二人はどっちでも良いですし、徐々に合理的な形に収れんされることなのですが、わが子のことだということでムキになるわけです。
もし、男をたてない家庭で寂しい思いをしているということであれば、それは無駄に寂しくなっているということになります。要するに一世代前に合理性があった、戦争遂行という観点からの合理性があった価値観の残存物に縛られているということが実態だろうからです。しかし、戦前に生まれた親の子である私たちの年代では、価値観がどこかにしみついていて、感情的反応が起きてしまうことはあり得ることです。
このように、家庭内においても、男女の役割観というものが、戦争遂行のための作られた価値観ということで作出され、戦争が終わってから80年近くが経とうとした現在も、その合理性が無くなったにもかかわらず、価値観の残存物があり、影響を与えて続けているのだと思います。戦争の価値観というものは、男女の問題や軍国主義や国家至上主義というような政治的な様式や政治的な価値観だけにとどまらない幅広い構造を持ったものなのでしょう。反戦活動というと、政治構造や政治的イデオロギーに目を向けがちですが、家庭や職場、あるいは学校教育やスポーツの中に形を変えて生き続けているということになかなか目が届かないようです。私たちの考え方や感情に影響を与える戦争価値観についてはもっともっと分析が必要だと思います。ブラック企業や非正規雇用、リストラや成果主義的賃金体系等は、私はこの戦争価値観をスライドさせて利用していると考えています。学生生徒の部活動や受験競争等はとても分かりやすい戦争価値観由来の目的至上主義ではないでしょうか。未だに他者を攻撃することが目的達成のために必要不可欠な方法論だということが社会の中で無意識に是認されているように思われます。これが現代社会の生きづらさの根源にあると私は考えています。
現代においてもなお、外に向けた目的だけが目的として是認されてしまい、仲間と協調すること、安心できる仲間づくり、緊張感を伴わない仲間づくりという、外向け目的至上主義の対極にある内向き目的主義的な価値観が、未だ価値を認められない状態に取り残されていることが大問題だと思うのです。その理由は、国策でつくられた戦争遂行のための価値観についての分析が行われないところにあるのではないでしょうか。そしてその価値観に基づいて、幸せになる、楽しく生きる、充実した人生を送るということに価値が認められない。そういう価値観の在り方を放棄しておいて、戦争にだけ反対するということだけを推し進めるといっても、幸せな楽しい充実した人間の在り方には近づかないでしょう。新たな緊張が拡大再生産されるだけではないでしょうか。
もう一つ、この生きづらさを戦争遂行のための国策で作った価値観の残存物だという考えが正しいとしたならば、それを是正する方法も見えてきます。これと違って、現在の生きづらさは人間という生物に不可避的に備わった負の性質にもとづくものだと考えてしまう場合は、人間集団の再構築は不可能な幻想だということになるでしょう。同時にそのような考え方は、戦争価値観をスライドさせて利用して私たちを苦しめる制度に対して根源的批判ができなくなります。これは、戦争遂行価値観を利用して利益を上げている構造に目隠しをするということですから、彼らにとってはとても都合の良い主張だということになるでしょう。
日本を動かしていると自負している人たちには考えてほしいところです。戦争は長期化すると民は疲弊してしまい、勝っても負けても深刻な影響ばかりが残ってしまいます。戦争により疲弊する理由は、人間は緊張感を長期間保つことを予定していない動物だということにあります。戦争価値観によって、緊張感の持続を強いる社会は、やがて疲弊して滅びてしまうでしょう。未来に明るい希望を持たない若者たちばかりになると、国家は著しく衰退するでしょう。また、国民の不満、不安の蓄積は、現状が維持されなければそれでよいという、不安解消要求を招き、とんでもない人たちが政権をとる可能性があることを昨今の選挙では目の当たりにしているところです。
国民の緊張を軽減させ、孤立を解消させ、家庭、職場、学校、地域の仲間づくりに価値をおいた価値転換が図られるべきだろうと私は思います。

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嘘も方便 誠実に正直にというひとりよがり 無責任な態度こそ大人の態度 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

例えばプロポーズするときに
私はあなたを一生大切にします。
一生幸せにします。
なんて誓うわけです。

本当にできるか?
ということをまじめに考えてしまうと、
現代の経済状態で本当にできるのか
不安にならない人はいないのではないでしょうか。

本当に働けなくなるまで、職を失わず
安定した収入が確保できるなんて保証はないわけです。
また、定年まで働いたとしても
いわゆる老後の生活についても不安があおられています。

もしかしたらそんなことをリアルに考えて
結婚しない人が増えているとしたら
それは誠実で正直な人が増えているのかもしれません。

プロポーズのときは
本当に一生大切にして、一生幸せにしたいと
第一希望を思っているのでしょうから、
嘘ではないし、不誠実なわけではない
そういう反論がなされると思うのですが、

別に不誠実だから悪いわけでもないと思います。
そもそも一人が他方を幸せにするのが結婚でもないんだし。

でも、そういうことを言われればうれしいでしょうから
また言わなければ「なんだ?」ということになるのですから
「一生幸せにします」と言うわけです。

この記事は、「しかし心変わりが起きる」
ということを言いたいのではなく、
その後の二人の関係の中で
再びこういう約束を守ることができるかどうかの事態に
気が付かないうちに直面していることがありますよ
その場合どうしたら容易でしょうか
ということの記事です。


人間は大人になっても
色々な理由から、
誰かに支えてもらいたいと思う時が来ます。
精神的な問題、体調的な問題、人間関係的な問題
等によって不安になる時が来ます。

不安の形も様々です。
しおらしく、静かに控えめに、おとなしく不安に打ち震えている
という昔の少女漫画のような不安というものはなく
不安を持て余してしまい
異常な行動に出ることもあれば、
相手に八つ当たりをして不安を忘れようとしてしまうことも
実際は多くあります。

相手に責任がないのに
相手の行動がいちいち癇に障り
怒鳴って否定せずにはいられなくなるということが怒ります。

私の弁護士としての職務では女性の方が不安になることが多いかもしれません。
でも本当はどちらでもあるのではないでしょうか。

例えばもし妻が、
妻自身の自然にわいてくる不安に対処しきれなくなり
自分が周囲から否定的にみられているのではないかと勝手に思い出し、
そんな覚えがなくこれまで通り接していた夫に対して
鬼の形相で、やくざみたいな言葉遣いで
どすの利いた攻撃をしてきた場合、
実際は対処の方法が見つからずに
途方に暮れているという男性は多くいます。

こうなるともう、
プロポーズの時に一生大切にするという誓い
一生幸せにするという誓いが
とてつもなく無謀だったなと思えてくるわけです。
いや既に忘れているのかもしれない。

ここで誠実で正直者の男性は、
怒りに任せて適当に言っているだけの妻の攻撃的言動に対して
それがいかに不合理なもので
静かに冷静に話し合うことによって解決できると
こんこんと説得することを試みようとするのでしょう。

妻の言う
夫の稼ぎが悪いという攻撃に対しては
自分がいかに努力をしているか
自分と同じ条件では平均というカテゴリーの中に納まっている
等ということを誠実に説明しようとするでしょうし、

今後頑張れと言われても
頑張りようがない仕組みになっているし
不正なことをしなければこれ以上収入をあげることはできませんよ
と不正をして収入がなくなるより今のままで我慢しましょうね
等と言って見たくなるわけです。
誠実で正直だから。

こういう不合理な状況の中では
誠実や正直をやめることが王道なのかもしれません。

妻から何を言われようが
大丈夫だから、俺が何とかするから
俺を信じろ、俺についてこい
と話をかみ合わせずにどこ吹く風で
「普通」にしているということです。

何が大丈夫なんだか
どうやってなんとするんだか
信じて本当に救われるのだか
ついて行った先がどこに行くのだか
そんなことは考えないことが一つの対応策のようです。

どうもいろいろな文献や文化を示す資料を見ていると
昔の日本男児は無責任で
勝手なことを言っていたようです。
また、昔の日本では、仕事が急に無くなるということや
職場で人間扱いされないということもそれほどなかったようです。

ここでいう昔ということがいつなのかはまたこの次です。

でも、相手方の不安にはそれほどしっかりした理由がないことが多く
相手に大丈夫だと言われるというか
相手が全然心配している様子を見せないことで
すうっと安心するということがあるようです。

今の私たちはこれができない。
嘘でも大丈夫と言えば済む話だと分かっていても
ついつい、相手の言葉尻に反応してしまう。
「誠実や正直を捨てる」という選択肢がないということだと思います。

それだけ自分が安心できない立場で生きているということなのでしょう。

意味のない言葉だと分かっていても、
どうしても自分を守ろうとしてしまうということなのでしょう。

赤ん坊の夜泣きに苦しむ親ってこんな感じだったのでしょうね。
どうしたらよいんだ。どうしたら泣き止むんだと
誠実に正直におろおろすてうりうりやってみるが泣き止まない。
三歳のお姉ちゃんが眠たそうな眼をして起きてきて
「あらあら眠いのね」なんて言って頭なぜたら泣き止んですやすや眠った
なんてことなんだろうと思います。

言葉に対してきっちり反応としようという誠実さは捨てましょう。
臓物をえぐる言葉にもできるだけ顔色を変えないようにしましょう。
堂々と、平然なふりをして
「そういう時あるね。」
と何言われても、殴られても蹴られても
言う方が良いのかもしれません。

夜泣きをする赤ん坊にたいして泣き止ませるコツとして
大人の方がおろおろしないことが鉄則だということを聞いたことがあります。
大人のおろおろを止めるためにこそ、
自分を落ち着かせるためにこそ
歌を歌うんだと子守歌の練習をしている人もいました。

誠実さや正直をかなぐり捨てて
無責任に大丈夫だと言える
大ざっぱで
動じない「ふり」をする精神力が
求められている時代なのかもしれません。

(そんなこと言って、あとで大丈夫ではなかったときに
あの時あんな風に言っていたけど大丈夫ではなかったではないの
と責められることを心配される誠実さを捨てるということですよ。
その時も、大丈夫だよと言えば良いわけですから。)

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「自己肯定感」は呪いの言葉 騙されてはいけない。自己肯定感が低いといって悩む人は論理的に言って自己肯定感の高い人であるという論証 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

自己肯定感が低いということを悩む方々がいらっしゃいます。自己肯定感を高めようとして、高額のセミナーに通う方もおられるようです。でも、自己肯定感が低い、高いということはどういうことでしょうか。

良く引用されるのが、高校生を対象とした平成27年の独立行政法人国立青少年教育振興機構調査です。この中で他国と比べて日本の高校生は、自分は人並みの能力があると思う割合が圧倒的に少なく、自分はダメな人間だと思う割合が圧倒的に多いという結果が発表されました。平成25年内閣府の委託調査もよく引き合いに出されます。この調査は、13歳から29歳を対象として、日本、韓国、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、スウェーデンを比較しました。
「自分に満足しているか」という質問に対して日本人は、満足している、やや満足しているの回答が50%に達しませんでした。他の6か国は70%以上から80%が満足している、やや満足しているとの回答でした。「自分は役に立たないと感じる」かどうかという質問もありまして、これについては約50%が否定的でした。但し、英国、韓国、アメリカについで7か国中4位と、ちょうど中間的な位置となっています。

最近の調査結果では、ユニセフの調査結果が2020年9月3日に発表されました。日本の子どもたちの精神的幸福度は38か国中37位でした。身体的幸福度は1位だったのですが、総合で20位となりました。(対象年齢は不明)

ところで、どうして自己肯定感が低いと問題なのでしょうか。たしかに、それが不幸だと感じているならば幸せになりたいのは当たり前ですし、子どもたちには幸せになってほしいものです。

社会の問題としては、自己肯定感が低いと社会病理とされる行動を起こす危険性が高くなるということだと思います。「どうせ自分なんて価値のない人間だ」と思うと、まっとうに生きていこうとする意欲がなくなり、前向きな努力建設的な思考がなくなります。すべてをあきらめる傾向を持つようになり、犯罪など不道徳行為を実行することに心理的な抵抗がなくなる、職場や学校、家庭での人間関係を形成することができない、他者への攻撃をするようになる、薬物などへの依存傾向が出てくる、自傷行為や自死が起きやすくなる。ということです。

危険を回避しようという意識が薄れるということがわかります。また、健康とか安定した人間関係の構築という、今後の自分の人生の長さに見合った利益を追求しようという意識よりも、その時良ければそれでよいという一時的な快楽や刹那的な利益を求めようとする傾向になるわけです。自己肯定感の低さが社会に蔓延することは、社会不安を高めてしまうことになり、ますます環境が悪くなっていくことになります。

自己肯定感が低いと悩むのは、幸せを感じにくくなっていますから、何とか自己肯定感を高めて、もう少し不幸を感じないで生活をしたいということはよくわかります。しかし、自己肯定感を高めようとするあまりに、高額の費用を払いセミナーに参加する人も多いようです。私、こういう方々は、自己肯定感が低いとは言えないと思うのです。本当に自己肯定感が低い人は、自分は幸せになれる人間ではないとあきらめていますから、お金をかけて継続的に学習しようなんて言う発想にはなりません。仕事の外に時間を作ってセミナーを受講しようとする方々は、真面目で勤勉な方です。セミナーを受講する等努力をすれば、自分は自己肯定感が高くなるはずだとご自分を信じていらっしゃるのですから、客観的には自己肯定感が高いのです。

本当に日本の子どもをはじめとする日本人の自己肯定感が低いのかについては、さらなる分析をする必要がありそうです。

私は、自己肯定感が低いのではなく、自己肯定感を低くさせられているだけだということを何度も言うつもりです。自己肯定感が低いということで悩んでいる人の大半は自己肯定感とは別のところに問題を抱えているのであって、自分の自己肯定感が低いということで悩んでいるということは本来の自分は違うということが前提になりますから、自己肯定感、自尊感情が低くないのです。

高校生を例にとればわかりやすいでしょう。高校生という時期は、大学進学や就職など、いやでも自分の将来の岐路に直面している時期です。日本の高校生の大学進学目的は就職を有利にするためということが一般的でしょう。なんらかの研究をしたいという人は少ないようです。少しでも就職に有利な大学に入学しよう、そのためには浪人生とも競って合格を勝ち取らなければならない。高校生は、今以上に成績をあげなければならないと考えるのが当たり前です。そのためには、現状に甘んじていてはならず自分を叱咤激励しなければならないし、合格するかどうかは、実際に合格通知を受けるまで分からないという極めて不安的な時期で、緊張が持続する時期でもあります。第1希望をあきらめて、受験する学校のランクを落とすということもありふれてあることです。

大学に入学しても、雇用と収入が安定する企業に就職することは、それほど簡単なことではありません。それにもかかわらず受験に失敗したり、学校を怒らせて退学になったりすると、ニートの生活と無保険の老後が待っているということで脅かされたりするのが、日本の高校生ではないでしょうか。

この日本の現状とは別に、ある程度の常識的な生活を送りさえすれば、家族を持ち、家を建てて、子どもを育てて生活ができる、常識的な趣味の時間も確保でき、それなりに人間として幸せに生活できるというのであれば、それほど成績と自己肯定感は連動しないでしょう。無理な時間に無理な勉強をするより、自分の好きなことに打ち込んで将来につなげたいと思うことでしょう。

受験戦争の激化ということが子どもの権利の観点から国際的な批判を受けますが、それ自体は昔から続いていることだと思います。大学受験という入り口、ないし人生の途中経過における競争激しさは変わらないのかもしれません。しかし、大学卒業後の就職という出口の意味あいはずいぶん変わってしまったと思います。大学を卒業しても、雇用が不安定で低賃金の非正規労働しか就職口が無かったり、正社員でも過労死をするような長時間労働、過密労働が待っていたりする割合は確かに増えていると思います。
この社会変化は、高校生活の一日の意味あいを大きく変化させるでしょう

この社会変化は、自己肯定感の低さを社会によって植え付けられている一般的な事情となると思います。

しかし、自己肯定感は、その人にとって不変なものではなく、その時その時の置かれている状況の変化に左右されるものです。
例えば、高校生が大学受験に向けて模擬テストを受けて、返された成績がいくら良くても100%合格するわけではないので、一時的に安心することはあるかもしれませんが、それで「自分に満足する」ということは起きにくいでしょう。ところが、だめもとで、少し背伸びをして第一希望を受験してみたら合格したということになれば、そのときは「自分はダメな人間だ」と感じる人はいないでしょう。自己肯定感なんて案外いい加減なものです。

また、自己肯定感を得るためには何らかの客観的な水準があるわけではなく、その人の意思、希望との兼ね合いというものもあるでしょう。
別の例で言えば、それほど偏差値の高い大学ではなくとも自分が教えていただきたい教授がいるA大学を志望して努力して勉強し、順調に学力を伸ばし、入学を果たせばやはり自己肯定感が高い結果になるでしょう。ところが同じA大学に合格した人であっても、もっと偏差値の高いB大学を目標にしていたにもかかわらずその大学に不合格になったために不本意にA大学に入学した人は自己肯定感が低いという調査結果になることでしょう。

このように、自己肯定感とは、その人が元々生まれながらに持っているものではなくて、その人が置かれた状況が心に反映したものだということができると思います。
この「その人が置かれた状況」というのが、それこそ千差万別あるわけですから、一般的に自己肯定感を高める方法なんてないわけです。

もう一つセミナーに受講料を払う前に考えなければならないことがあります。それは、なぜ人間は置かれた環境の違いで、自己肯定感が高くなったり低くなったり、幸せを感じたり、不幸せを感じるかというその理由です。心や感情がどうして存在するかということです。

それは、けがをすると傷口ができて、痛みを感じることとまったく一緒です。痛みがあることによって、傷口があることに気が付きます。そうすると傷を悪化させないように、衛生を保ったり、同じ場所をさらに傷つけないために庇う行動をすることができます。傷はなくとも痛いと思えれば、捻挫などをして筋肉や軟骨という軟部組織の一部が挫滅したことがわかります。動かさないようにして患部を悪化させないかとか、直りを遅くしないということができるわけです。また、血液中に傷口をなくす成分を多くして自然治癒力を高める生理的なメカニズムも発動されます。痛みを感じるのは自分を守るためだということができるでしょう。

心の痛みも全く同じだと思うのです。
対人関係の不具合があれば、例えばいじめを受けていればとても嫌な気持ちになったり、人を信じることができない気持ちになったりするでしょう。パワハラを受けていても同じです。その対人関係を修正したり、極端な話をすれば退学したり退職したりして、自分の身を守らなければならないわけです。そういう人間関係に居続けることによって、致命的な状態になりかねないわけです。小さいころに虐待を受けたり、ネグレクトされたりして、理由がわからないで自分という存在が否定されれば、自分が何か悪いために自分は尊重されないと感じやすくなってしまいます。子どもの心理に親に対する安心感が欠落している場合は親子関係を改善する必要があります。この場合、子どもの環境を変えることも必要な場合がありますが、親から分離しても分離先でも尊重されないのであればメリットはなくデメリットだけが継続することになることをもっと気に掛ける必要があるように思われます。

こうやって本来、修正したり、離脱したりするべき人間関係であるということを、心が教えているわけです。そうだとすれば、不安や、自己否定感を感じるということは意味があることで、やみくもに、心をいじって自己肯定感を奪うようなことはしてはならないはずなのです。例えば、有害物質が流失しているから臭さを感じているのに、鼻の感覚を奪ってしまうことによって臭さを感じなくして、有害物質を吸い込んで体を壊すようなことをしてはいけないということです。疲れ切っているにもかかわらず栄養剤を服用して無理やり体を動かしていることにも似ているでしょう。

夫婦、家族であれば、人間関係の不具合を、専門家の協力を得て関係改善させるということは、初期であればそれほど難しいことではありません。お互いに自己肯定感というか、一緒にいることに安心できる関係を作るために努力すればよいのだと思います。しかし、既に離婚を決意するような段階になれば修正は容易ではなくなるでしょう。また、ひとたび傷ついた人間関係の感覚は、将来的に後を引くものです。但し、昨今の人間関係の対策は、切り捨ててしまえという外科的な発想ばかりが横行しているという危機感があります。

対人関係とは別に心身の不調で心の感じ方が不具合を起こしている場合も多くあります。専門家による必要な手当てを受けることが心の状態を回復させることもあるでしょう。このようなことの実務的研究は極めて立ち遅れています。

大切なことは危険を避けようとする意識があるかないかが本質的な問題です。これは動物全般に当てはまる自己肯定感でしょう。人間の場合は、他の動物と異なり、将来という未来を観念できる動物ですから、これから死ぬまでのスパンに見合った利益を追求できるかどうかということが必要な自己肯定感の有無だと思います。言葉を換えれば「人間として生きようとする」ということです。人間として、自分を取り囲む人間関係を居心地の良いものにしたいと思えるか、方法がなければその人間関係から離脱するということができるかどうかが必要な自己肯定感なのだと思います。

今回のブログは、去年の12月に作成した記事とほとんど変わりません。長すぎるので、ダイジェスト版を作りたかったのですが、それも成功していないように思われます。このため、そのブログも紹介しておきます。まあ、ユニセフの調査結果が出たのでということで・・・
「自己肯定感なんていらない。それは社会の問題を個人に責任を押し付ける専門用語。ではどうするか。」 
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2019-12-03

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業病という言葉から差別の本質について考ええる。石原慎太郎氏の謝罪に学ぶ [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

石原慎太郎氏が、ALSという病気を業病と呼んで非難されました。
彼は謝罪をしたとのことです。
人を傷つける言動に修正が求められるのは当然のことですが、
誤りを認めて修正するということも褒められるべきことだと思います。

一連のこのエピソードによって、
差別ということの本質を
改めて考えるきっかけになりました。
そのことをお話ししたいと思います。

業病という言う意味は、広辞苑によると
悪業の報いと考えられていた難病と出てきます。
二版では、これで終わりですが、
報道では、業が前世の行いと解説されていました。
最近の版では載っているのでしょうか。

この考えは、7世紀の日本では既に存在していたようです。
光明子伝説という聖武天皇の皇后の逸話からもうかがい知ることができます。
(光明子は、8世紀の人物)

6世紀に仏教が日本に伝来してきました。
輪廻や因果応報という概念も入っては来たのですが、
いわゆる俗説的な解釈も広まっていきました。
本来は、すべてのものは定まった実体はなく
物事の動きの結果であり、一時的なものだという理論であるにもかかわらず
(方丈記の冒頭に文学的に示されていますね)
因果応報のことだと単純化されてしまいました。
結果が起きている以上、なんらかの原因があったはずだという具合です。

ちなみにこの因果応報は、果報は寝て待てという言葉もあるように、
良い意味でも悪い意味でも使われるというか
あまり価値がこめられない概念が本来の意味だと思いますが、
悪行の報いというネガティブな意味を持たされてしまっています。

自然科学も発達せず、病気のメカニズムもわからない時代です。
体が変形したり崩壊したりする病気で、
進行していって治せない病気は
当時の人たちはとても怖かったと思います。

人間の数も多くない時代ですから、
苦しみや悲しみに対する共感も頻繁に起こったと思います。
自分も同じ苦しみを味わうかもしれないという
不安や恐怖を引き起こしたでしょう。
何とか不安から解放されたいと感じたことでしょう。

そこに仏教の教えが俗物的にゆがめられて、
理由のわからない現世の苦しみは、
前世での悪い行為(悪業)が原因だという観念が生まれたようです。

そうして、難病に苦しむ人は、
前世に悪業を行った人であり、
自分はそうではないから難病で苦しまないから安心して良い
という考えで不安をぬぐっていたようです。

そして、難病の、体が変形したり、壊れたりする人たちは
報いを受けるほど前世で悪業を行ったひどい人間だということで
人間として扱わないという差別をし、
共感を遮断して助けを放棄していたようです。

住む家を追い出されて街をさまよう生活を余儀なくさせられていたようです。

私は、社会的差別の始まりがここにあるのではないかと感じています。
差別の端緒の本質をよく表しているように思います。

共感をするべき人に共感をしても
助けることもできず、自分が苦しむだけだ

いっそのこと、人間ではないとすることによって
共感を遮断してしまえ、
そのためにはむしろ敵だということで攻撃することによって
自分の心を軽くしようという心理が垣間見れます。

つまり、自分の不安を起こさないために
絶望を起こさないために
誰かを攻撃するということです。

いじめの構造にもよく似ています。

しかし、このことが道徳的には是とはされていなかったようです。
それが光明子伝説として語り継がれています。

光明子は聖武天皇の妻で、夫妻は為政者として仏教を広めました。
光明子は、夢の中でお告げがあり、それに基づいて
蒸し風呂のような当時の浴室で千人の垢を流すという願をかけます。
最後の千人目に、重篤な皮膚病の老婆が現れて、
体のあちらこちらにある患部から出てくる膿を吸い出せと命じます。
光明子は意を決して、膿を吸い尽くします。
そうすると老婆が阿しゅく如来の化身だったという伝説です。
もちろん、史実ではないですが、
そこに庶民の価値観が見えて取れます。

この話を支持する国民感情があったからこそ
この話が伝説として残ったのだと思います。

一方で、体が変形する難病者を業病者として排除の論理に立つ国民もいれば
そうはいっても自分の肉親だからかばいたいという国民感情があり
揺れ動く人々の気持ちが見て取れるような気がするのです。

また、伝説は仏教のプロパガンダという側面があるので、
難病者に対する排除をことさら強調して
その中で光明子の善行を際立たせているのかもしれないので
注意は必要ですが、
私は光明子伝説は、いろいろと学ぶべき資料だと感じています。

さて、いずれにしても、
業病という言葉がそのまま使われていたか否かは知識がないのですが、
前世の報いの難病という概念はすでにあったことも間違いなく
業病に対する差別も確かに存在したのだと思います。

苦しんでいる人をさらに差別するということも
差別の本質なのかもしれません。
業病は、差別とともに始まり、
差別の歴史そのものなのかもしれません。

一方でこのような概念がありながら、
近世になると、
業病が性病をさすようになることもあったようです。
梅毒など体が崩壊していき、当時は不治の病、進行性の病
という概念があったことからそう呼ばれたようですし、

前世を信じる人は少なくなり
自分の現世の不道徳の結果の病気だ
という意味合いが強くなっていったのでしょう。
渡辺淳一の「花埋み」ではこういう使い方をされています。

これは、もちろん本来の意味の業病を知らないで使っているのではなく、
当事者が、何の因果でこういう病気になってしまったのかと
嘆く場面で出てくる言葉遣いのようで
あえて誤用をしているという側面があるように感じられます。

病気以外でも
自分の不幸を嘆くときに
業という言葉を出して嘆くことが
文学には見られます。

これはもう、前世という概念を信じているというよりも
嘆き、理不尽な思いを表現する慣用句のように使われているようです。
信じてはいないけれど
知識として業病が前世の報いということは知っていたのだと思います。

つまり、理不尽なことがありその原因がわからない
もうこれは、前世というものがあって
その時に何か悪いことをしたとでもいうのか
みたいなニュアンスなのでしょう。

不合理なこと、理不尽なことが起きると
最終手段として自分に帰責性を求めて
絶望を回避するということは
現代の人間でも起きてしまう心理のようです。
子どもでもこういう思考パターンが見られます。
最終的な自己防衛手段とされています。

人間は理由なくひどい目にあうことに耐えられない動物のようです。
理由なく迫害されるよりも
自分に原因があるということで慰められるようです。
ぎりぎりの心理状態ですが。

差別は常に不合理なものだから
人間に対して絶望を与える大変危険なことになります。
差別を受けた人が自分に原因を求めてしまい、
自尊心をなくしてしまうのはそういうメカニズムのようです。

今回石原氏が業病という言葉を使ったのは、
進行性の病気で、体が変形していくなど外見上も悲惨な症状が伴う
難治性の病気という意味で使っていることは頭では理解できます。

こういう言葉に無神経であることの理由は、
歴代の作家たちが
業病の意味を知っていながらも、
表向きは前世や因果応報という場面ではないところで
業病とか業とかという言葉を用いていたことを
字面通りにしか理解できておらず
書き手が伝えたい理不尽さを表現するにあたって、
前世というありえない話を持ち出さざるを得ない
というニュアンスが伝わっていなかったということ
理解できていなかったということ示していますい。
この点を本人も不徳のいたすところとしているのでしょう。

この点に差別のもう一つの本質があります。

それは悪意がなくても差別なのだということです。
石原氏はALS患者が前世において悪い行為をしたとは
一切考えていないだろうと思います。
悪意はないのだと思います。

それでも、患者本人や患者の家族、知人たちは傷つくのです。
業病の正当な意味を知っている場合だけでなく
日本人として日本語のニュアンスとして
敏感に否定的意味合いを感じ取っているわけです。

そしてそれは、そう感じることが
日本文化の中では、正当な受け取り方だと思います。

大事なことは差別とは、
結果として差別をする側の心理的な不道徳性に本質があるのではなく
差別される側の、心理的ダメージ
排除をされる孤立感、疎外感、恐怖、不安という
自分を守らなくてはならないという強迫観念を引き起こされる側の
心理状態で判断されなくてはならないということです。

差別を受ける人の気持ちや差別される苦しみというのは
しかしながら、その人と接点のない人はなかなか気が付きにくい
ということを障碍者差別を学んでいく中で気が付かされます。

大事なことは弱者が、少数者が、
自分の苦しみや、ハンディキャップを克服するための方法など
声が伝わる仕組みが必要なのだと勉強しています。

恩恵として与えることは
差別解消とならない危険があります。
逆に人を苦しめることもでてきます。

まずは、その人の話を聞く、
その人が安心して話すことができるようにする
ということから始めなければならないようです。

また、人の苦しみから目を背けようとしないこと
これが一番難しいことかもしれません。









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「心を込めて」なんてことは子どもがする独りよがり 「正直」の弊害について考える(常識を疑う) [故事、ことわざ、熟語対人関係学]



実際に人間関係の紛争をみていると
これが問題の住みかだということを思い知らされることが多くあります。

例えば家族との関係でも
心にもないことは言いたくないという人が多いです。
感謝もしていないのに感謝の言葉を言うとか
悪いと思っていないのに謝罪するということが
悔しくてとてもできないと言うのです。

(本当は私もそれはよくわかります。)

でも、言っても損はないのだけどなあと
第三者からははっきり見えていることで、
「なんで言ってあげないの」
と歯がゆくなることが実に多くあります。

どうも、「こころにもないことは言わない」
というドグマがこの世の中にはあるようです。

今回は、家族や友人、職場の同僚等の人間関係に関する
「言葉」について考えてみたいと思います。

「言葉は情報を伝達する手段である」
ということは、まあ、よいでしょう。
「情報」とは、事務連絡のようなものから
このブログのように考えたことだったり、
あるいは、自分の感情などでしょうか。

但し、どうも今までの考えは、
情報を発信する立場に立った場合の考え方なのかもしれない
と思うようになりました。

情報発信は受け止める側との共同作業なのだから、
情報を受ける側の観点が必要であるはずです。
どうもこれができないから
SNSのトラブルが起きているようにも感じられます。

つまり、相手に何を伝えたいのかということと
相手に何を受け止めてもらいたいのかということは
微妙に違うようです。

そして人間関係の不具合は
相手に自分が伝えたいことを中心に考えて
言葉を使うから起きているのかもしれない
ということなのです。

そうではなくて、
相手に受け止めてもらいたいことを中心に
言葉を組み立てていくということが大切なようです。
もう少しあからさまに言うと
言葉を発することによる効果を期待して
その期待した効果を実現するために言葉を組み立てる
ということになるのでしょう。

そうすると
全て真実のことを伝えることが必要でもなく
正義でもないということにはならないでしょうか。

例えばけんかをした場合の謝罪を例に考えましょう
そう深刻なことをした場合ではなく
謝ってすむ程度のけんかの場合の謝罪を考えてみます。
そして自分は悪くないと思っている場合のことです。

言葉が自分の気持ちを伝えるものだと考えた場合
謝罪はできません。
真実を語っていないからです。
嘘はダメだとなるわけです。

これに対して、
謝罪をすることの目的が
相手の機嫌を直してもらう
二人の人間関係を破綻に向かわせないためだというならば、
自分の気持ちがどうであれ
謝罪をすることが言葉の正しい使い方
ということになると思います。

言葉を発する目的にかなった言葉の使用だからです。

言葉を発信者側から考えて
「私はあなたに悪いと思っていない、だから謝らない。」
と言う場合と、受け手に対する効果を考えて
「申し訳ない。自分が悪かった。」
と言う場合の
メリットとデメリットを考えてみましょう。

正直者のメリットは、
自分の心に嘘を言わない。自分の感情に正直だということでしょう。
自分がとった行動を悪だと認めないことによって
将来の自分の行動を制約しないということもメリットとしてあるでしょうか。
(悪だと認めたことを繰り返すことはできないから)
デメリットは
相手の気分感情をさらに害すること
相手からすると、自分は相手をそれほど大切に思っていないのではないか
という不安を高めてしまうわけです。
そして、自分に対しての相手の評価を決定づけること
その結果二人の関係が悪化することでしょう。

うそつきのメリットは
二人の関係の悪化に歯止めがかかる確率が高くなること
その結果相手に対する攻撃感情が軽減すること
相手からの攻撃感情も軽減するでしょう。
(不安が解消されると相乗効果で安心感を獲得できるというわけです)
デメリットは、
自分の心に嘘を言って悔しい、苦しいということでしょうか。

正直者の良いところは
その時の気分感情を満足させることができます。
しかし、後々自分の立場が悪くなるでしょう。

また、自分のとった行動を悪と認めないことによって
後々自分の手足を縛るということはないかもしれませんが、
それが相手にとって不満であるにもかかわらず
相手がそれを後々文句を言わないということがあっても
それは、けんかをしたくないから言わないだけで
実際はかなりのストレスを抱えることで
関係悪化が進行することになるのかもしれません。

冷静に考えれば
正直者はメリットがなく
嘘つきこそ八方が丸く収まる
ということになりそうです。

子どもは正直者ですし嘘が下手です。
「心をこめてお話ししなさい」と教育するときは、
先ず、「心を言葉に合わせて修正しなさい。」
という指令も含まれているようです。
そうすることによってはじめて
言葉を発する目的が達成されるので
心をこめるということは、手段ということで理解できます。

大人は心をこめなくたって
謝罪することもできますし、感謝することもできます。
言葉に出した後で心がついてくればそれでなおよいでしょう。

大事なことは何を目的に生きるかということです。
子どもはこんなことを考えませんから
自分の感情を垂れ流すわけです。

正直者の生きることの行動原理は
自分の感情を大切にするというものです。
これに対して、これまで述べてきた嘘つきの生きる行動原理は
相手との関係性の継続が目的だということになります。

自分の感情よりも
自分と相手の人間関係の方を大切にする
そのためには
自分の感情よりも相手の感情を優先して考える
ということなのだと思います。

おそらくこれが
「大人」
というものなのでしょう。

おそらく、私の言ってきたことは
昔の日本では常識だったはずです。
いつの間にか
大人になり切れない大人たちの影響が
世の中に蔓延してきているのでしょう。

近代文学なんてそんなものかもしれません。
音楽を含めたポップアートなんてのも
自分に正直にということかもしれません。
もしかしたらそれらは子どもじみた甘えなのかもしれません。

そしてそれを受け入れやすい状態に
今の世の中がしているのだと思います。
それは、自分と相手との関係に自信が持てない
関係性に不安を抱きやすいという事情だと思います

子どもと大人の違いは、こんなところにあるかもしれません。
子どもは自分の感情を大切にし、
大人は、自分の属する人間関係大切にする
そういうことなのかもしれません。

そして、子どもは、大人の作った人間関係の中で幸せになることが
その役割なのでしょうが、
大人は、自分たちが幸せになるための人間関係を
自分で作ることがその役割なのでしょう。

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過労死の原因にもなる「責任感」の弊害について考える。(常識を疑う) [故事、ことわざ、熟語対人関係学]


数年前になりましたが、職場が原因でうつ病を発症した方々から
お話を聞く機会がありました。
その中で、中村格先生の「精神医学ハンドブック」に書かれている
「うつ病者はうつを隠す」
ということについて聞いたところ、

共通した答えとしてはそれは実際に見られ、
特に家族に対してはうつ状態にあることを隠すとのことでした。
わざとはしゃいでみせたりするのですが、
それはうつ病者にとってはエネルギーが必要なことで
わずかに残ったエネルギーを使い果たすため
実家から自分のアパートに帰った後は
2,3日寝込んでしまうとのことでした。

その隠すときの意識を聞いたところ、
「家族は、自分の最後の砦だから」
という言葉が返ってきました。

私のその時の解釈は、
「自分が苦しんでいることを知らせることによって
家族に精神的な負担をかけたくない」
ということなのだろうというものでした。
でも、その時は言葉になりませんでしたが納得できない思いもありました。

その時の疑問を言葉にすると
「家族が最後の砦ならば、家族に助けを求めたいはずなのに
 助けを求めることをしたくないということは矛盾ではないか」
ということになるのだろうと思います。

別の角度から言葉にすると
「うつを隠すことと、家族が最後の砦を失わないようにするということは
 どういう関係があるのだろうか」
ということになると思います。

今回、ふとひらめいたのは、この点でした。
「家族に心配や精神的負担をかけたくない」ということは、
責任感の強さを示していると思います。
この責任感の強い人が過労死や過労自死をしやすいということが
数年前の結論でした。

そういう側面はあると思いながらも
別の側面もあるのではないかということを思いついたのです。

それは、
うつ病という厄介な病気にかかっている自分が
「家族から厄介者として扱われないだろうか」
という不安があるということなのかもしれない
ということです。

そして、この場合の責任感と不安は
実は表裏一体のものではないかということです。

個性によって違いはありますが、
人間は多かれ少なかれ、
仲間の役に立ちたい、自分の役割を果たしたい
という本能があります。
仲間の役に立ったり、自分の役割を果たしたりすると
達成感や充実感を感じるということはこの本能を充足するからです。

(自己有用感なんていう概念もベースにこれがあるわけです。
 論者たちはここまで考えてはいないでしょうが。)

この本能が強い人が責任感が強い人だということになります。
これは裏を返せば、
「役割を果たさないと安心できない」ということになります。
「やるべきことをやらないと不安になってしまう。」
ということらしいのです。

責任感の強い人の仕事ぶりを見ると
「やらなくてはならない」という半ば強迫観念のように見えることがあります。

責任感が強いという言葉で表現すると
「他者、あるいは他者と自分を含んだ仲間の利益を優先する人」
という印象がありますが、
もしかすると実際は、
「自分の不安を解消したい」
という自分単体の利益をはかろうとしているのかもしれません。

責任感が強く、自分に厳しい人が他人にも厳しい
ということは、こういう不安解消という目的において共通だ
というように考えれば理解しやすいことです。

ちなみに、このように責任感が強い人
あるいはそうでもないけれど自分の役割を果たす方法がすべて失われたと思うと
人間は行動をしようとしなくなるというか
できなくなってしまうようです。
やればやるほど事態が悪化するとか
自分の行動が全く役に立たないということになると
行動ができなくなるし、行動意欲を消したくなるようです。
争いを避けるため、相手から遠ざかる等が典型でしょうか。
行動意欲を消したいということは責任感が強い人にとっては、
自分を消したいということに直結することがあります。
大変危険なことです。

責任感がある、責任感が強いということは
今の世の中、無条件で肯定されているようですが、
他方で過労死の原因になったり、
正義感と直結して他者を追い込んだりする
というデメリットがあるということが数年前の結論でした。

もう少し責任感を分析してみましょう。

責任感が強く、自分が役割を果たそうとする人は
仲間との関係に安心していないという側面がありそうです。
役割を果たさないと仲間の中で安心できないということです。

これに対して無責任に見える人は、(責任感がないわけではない)
やるべきことをそれほど熱心にやらない場合でも
仲間から追放されるという不安感はあまり持ちません。
責任感の強い人から見れば
理由なく、仲間の中にいることに安心していることになります。

角度を変えてみれば
責任感の強い人は、些細なさぼりでも
仲間との関係が悪くなるかもしれないという悲観的傾向があり、
責任感がないように見える人は、
そのような関係性の悪化まで考えないということなのだろ思います。

確かに、一つの課題をしないことが
後々仲間との関係を悪化させる可能性が無いわけではありません
しかし、それだけが決定的要因になって関係悪化につながるということが
ない場合も多いわけです。
どちらが正しいのかは、なってみないとわかりません。

つまり
関係悪化という危険の接近度が遠くても不安
というのが責任感の強い人
例えば接近度が10でも不安ということになります。
関係悪化という危険の接近度が近くても不安にならない
というのが責任感がないように見えるひと
例えば接近度が2になっても不安を感じない
と表現できるでしょう。

これは個性だと思います。
群で生きる動物はみな個性があるようです。
ミツバチという個体識別できないような生物も個性があります。
ミツバチは日中など、巣の中の温度が高くなるのを
羽ばたきによって気化熱を発生させて下げる習性があるそうです。
わずかに暑い場合は少数のミツバチがあおいで
とても暑い場合は多くのミツバチがあおぐことで
巣の温度を一定以下に保っているそうです。

例えば5度くらい気温が高くなったら
さっそく巣から出てきて羽ばたきを始める個体もいれば
15度くらいとか、とても暑くならないと出てこないミツバチもいるわけです。
わずかの温度で多くが出てきてしまうと
必要以上に巣の温度が下がりますから、
こういう個性があることは都合が良いのです。

個性はどうやって生まれたかと考えたことがありますが、
今は、個性がある種が都合よく生き残って
個性がない種は死滅しただけのことだと考えています。
無性生殖をした芋なんてものは、病気になると
あっという間に全体が死滅してしまいます。

人間にも個性があるということはこういうことではないかと思うのです。
責任感が強い人が全くいなければ
競争社会の中では生き残れないわけです。
そうかといって責任感が強い人だけ。
つまり、やらなければ安心できない人ばかりの場合は
あっという間にストレスでメンタルが壊れてしまうということです。

「はたらかない蟻に意義がある」という本では
(長谷川英祐 メディアファクトリー新書)
7割くらいの働アリは働かず
巣の中でじっとしているだけだと紹介しており、
それらの働かない蟻を働かせてしまうと
コロニーが全滅してしまうということを教えてくれています。

責任感が強くて行動力がある場合は、
実は不安が背景にあって脅迫的な行動をするのですから
神経が消耗していく危険があるわけです。
神経消耗が持続していくと
思考力が低下したり、見えるものが見えなくなる
根本を見失ってしまう等の弊害が起きるかもしれません。

個性があることが群れを作る条件だとすると
責任が強い人だけがいたり
責任感の強い人の意見だけで行動すると
群れ全体が疲弊してしまう可能性があるということかもしれません。
様々な個性の人が当たり前に存在することこそ
強く、持続可能な組織だということになります。

何よりも、責任感の強すぎる人が
過労死をしたり、過労自死をしています。
部下を追い込むヒトの多くも責任感が強い人です。

責任感は強ければよいということは間違いです。

ただ、背景に不安があるとすれば
ほどほどでとどめるということはかなり難しいことでしょう。

一つには危険の接近度に対する感受性を下げるということです。
不安を言葉にするなど客観視することは大切です。
そして不安はない、あるいは必要がないことを意識すると良いと思います。
ただ、不安は、それを感じていることすら意識できないことが多いので、
「責任感」というワードが出てきたら
それは無条件に肯定されないものだ、弊害もあると意識をするだけで
自分の過労死や過労自死は遠のいていくでしょう。

もう一つは責任を持つ対象である仲間を一つにしぼること。
責任感の強い人は、会社、家庭、その他の行きずり
ありとあらゆるところで、不安を抱いてしまっています。
役職など難しいところはありますが、
一番大切な人間関係は家族だ
と考えを設定することがとりあえず間違いがないのではないか
と考えています。

他の人間関係がどうでもよいというのではなく
優先順位という意味ですね。
それ以上やったら家族を大切にしていないことになる
という感覚を持つということです。

そして3点目としては発想の逆転です。
不安を解消しようという無意識に対抗するためには、
楽しいことをしようということしかありません。
積極的にやっていて楽しいこと
特に自分が楽しいことを見つけて取り組みましょう。
嫌なことと楽しいことは、共存するわけです。
ただ、時間をそれぞれずらし合うということを
意識的に行うということです。

責任感によって寿命を短くしないということを
意識的に行わなければならないという
ちょっと変な社会に生きているということだと思います。
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黄金律(あなたのして欲しいことを相手に行いなさい)が行動基準となるための超えなくてはならないハードル 正しい理解と志向意識水準 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]



黄金律とは、
あなたのしてほしいことを相手にしなさいというものや
あなたがして欲しくないことは相手にしてはならない
というものです。

これができれば、家庭や職場、その他の人間関係でも
みんなが幸せになっていくのですが、
なかなかこれができない。
これができないので、みんながギスギスとしてストレスを抱えていく。
パーフェクトにしなくても、
それをしてもらっているという実感があれば
人は幸せになり、強くなると思うのです。

どうしてこれができないのかということを考えてみることにしました。

一つには、ばかばかしい話なのですが、
黄金律の内容をよく理解していない人が多いということです。

典型はバーナード・ショーです。
「私はタバコが吸いたい。相手は禁煙しているが
 黄金律に従えば、タバコを勧めなければならない。」
と言っています。罰当たり(ばちあたり)なことです。
もっとも彼はジョークとして言っているのであり、
想定していたジョークの相手は、
みんな黄金律の真の意味を把握している人だ
ということなのだろうと思います。

では、どうしてそういう意味が間違いなのでしょうか。

黄金律は、手短にまとめて言われることが多いのですが、
実際は、
「自分が相手の立場だったらと考えて
自分だったらこうしてほしいだろうなと思うことを
 相手にしてあげましょう。
 もちろん相手に断られたらそれはしません。」
という意味なのです。

常識的に考えればわかることです。

黄金律を提示したイエスや孔子の時代は
社会は現代ほど複雑ではなく、
他者と自分の同質性が今よりあったので、
私が述べたような回りくどい表現をする必要がなかった
という事情もあるかもしれません。

黄金律は他者への配慮を説いたものです。
ここを外して解釈してはなりません。
バーナード・ショーのようにここを外して字面通りに読むことは
その真意を捻じ曲げているということになります。

余計な話ですがカントは、
黄金律で行動しようとも
自分の私的利益を行動の動機にしてはいけない
という余計なことを大真面目で行っています。
問題は相手がどう受け取るかということに尽きるのであって、
自分の動機に何が入ろうと入らないと
相手にとってはどうでも良いことです。
それはあまりにも自己中心的な子どもじみた考え方であり、
それによって、困っている相手に救いの手を躊躇するならば
弊害にしかなりません。

さて
黄金律が私たちの行動基準にならない理由はもう一つあると思います。

黄金律は、例えば、
相手の立場に立って、相手がして欲しいだろうなと思うことを推測して
それを実行するということならば、

先ず、相手の気持ち、相手の状態を推測しなければなりません。

実はこれがなかなかできない。

推測することは、不可能ではないのです。
一般には考える能力を人間は持っているのです。
但し、さあ、相手の気持ちを考えようと始めるためには
考える人に精神的余裕と時間が必要なようです。

つまり、本当は能力があるのに、
それを使おうとしていないだけだということになりそうです。

使おうとしない理由は二つあるだろうと思います。

一つにはどうやら、
相手の気持ちを考えるとか
相手の立場に立って考えるということは、
ある程度頭を使わないと考えることができない
ある程度頭を使って日常を過ごすことに
人間の脳は、適応していないようなのです。

人間は、日常生活では
驚くほど頭を使う労力を省いているようなのです。

どうやら相手の心を推測するということは、
おそらく2桁の掛け算をする位の労力が必要なようです。
その労力を使うことを無意識に拒否して省力化して生きているようです。
それが証拠に、対人関係の不具合で悩んでいても
あまり、自分と相手の人との関係図を書いたり
要素を抜き出してメモを作って考えるというようなことを
人はしないわけです。
省力化を驚くほど徹底しているようです。

分析的に考えようとしていない証拠だと思います。

だいたいは考えないで悩むだけ。
なんとなく不快に思っているだけ
というところが私たちの実際だと思います。

そもそもがあまり考えるという労力を使いたがらない
という人間の性質があるため
ほっとけば相手の立場なんて考えない。
だから黄金律が必要になるわけです。

どうやらこういう考えができるかどうかということを
「志向意識水準」というようです。

第1次は、自分がこう思っていると感じていること
第2次が、相手はこう思っていると考えられること
第3次は、自分がこう思っていると相手は思っていると思う
第4次は 相手がこう思っていると私が思っていると相手は思っている
第5次は、自分がこう思っていると相手が思っていると自分が思っていると相手が思っている
とかもうこんがらがるというか、どう違うのかわからなくなるのですが

どうやら通常は第1次志向水準にとどまるようです。
ただ、これだと人間でなくてもできるわけで、
人間同士のつながりの中では
それは幸せになれないでしょうね。

相手の気持ちを考えようとしない理由はもう一つありそうです。

ただでさえ相手の気持ちを考えるように
頭を働かせていないのに、
さらに、相手の立場を考えようとしない場合があります。
一番は自分を守る時です。

例えば、相手からわけのわからないことで
激しくののしられている場合に
自分を守るために反撃しようとしない人なんて
それ程いないと思います。

考えたとしても
どうやって懲らしめてやろうかという文脈で
相手を攻撃するために考えるというくらいでしょうか。
それにしても二桁の掛け算の労力ではなく
せいぜい三桁の足し算程度の労力でしか
頭を使っていないと思います。

これでは
まるっきり弱肉強食の世界になってしまいます。

これは困ったことです。
何とかしなければ自分も周囲も殺伐としてサバイバルの中で
ストレスがどこまで高まってしまいます。

実際、人間同士の争いはこうやって生まれているように感じます。


生身の人間ですから
すべての人類に対して相手の気持ちを考えて行動するということを
先ずは考えないようにするということも選択肢の一つではないでしょうか。

それから、他人に、自分に対して黄金律で行動してほしいとは思わないこと。
思っても願っても、どう考えても無理です。
無理を通そうとするからストレスが生まれるわけです。

これはもう、「情けは人の為ならず」ということで
自分で黄金律を実践する。
相手がここちよかったらまねしてくれるだろう
まねしてもらえないならそれまでだ
という割り切りが大事なのではないかなと感じています。

では誰に対して黄金律をもって接するか
それは家族だと無理がないと思います。

でも実際はそれをしているわけです。

先ずは赤ん坊が生まれたら黄金律で行動していたことでしょう。
私がこの赤ちゃんだったら抱っこしてほしいと思うのではないか
おっぱいを飲みたいと思っているのではないか
眠いけれど眠れないからあやしてほしい、安心させてほしい
と思っているのではないかと思い
そうしてあげるわけです。

哺乳類は本能的にこれをやるわけですし、
人間のお母さんも時々くじけそうになりながらもやっていたはずです。

また、結婚前、あるいは結婚後しばらくするまでは、
相手に喜んでほしいというプラスの目標で
相手の気持ちを考えて、楽しくドキドキしていたはずです。

それがいつしか、
ネガティブの気持ちしか持てなくなり、
相手に嫌われないようにドキドキしているならまだよいとして
もうどうして良いかわからない
自分が悪いわけではないという開き直った気持ちになってしまう
こうなってしまうと、お互い幸せではないですね。

でも相手の立場で考えることができないから
どうすることもしない。
ここを転換するということはなかなか難しい、
難しいことだけはよくわかるということに落ち着きそうです。

どうして自分を守るのか
何から自分を守るのか
相手の気持ちを考えるとどういういいことがあるか
今年のテーマになりそうです。




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モラル論について、ヒュームとカントに学び批判する対人関係学 モラルよりも人間性の回復をという意味 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

またロビン・ダンバー先生の本を読んで
目を開かされたというか、
話は、カントとヒュームの道徳の話なのです。

道徳論ということはこれまでも対人関係学で検討してきましたが、
哲学に首を突っ込むことになるとは思いもよりませんでした。

私たちの生活をストレスフルにする原因としてやり玉に挙げてきた
正義とか、道徳とか合理性ということの根っこが
どうもカントにありそうだということと
18世紀の啓蒙学者ヒュームの「共感」への着目に脅威を抱いたこと
この二つをお話ししたくなったのです。

ロビン・ダンバー先生の要約を要約すると
ヒュームは、道徳というものを
他者への共感に根差した直感的なものだと主張したのに対して
カントは、選択肢の長所短所を吟味した上での
合理的理想の産物であるべきだと主張したというのです。

ヒュームについては、現代日本では、
高校生の倫理社会の参考書にも載らなくなっていました。
これに対してカントは最重要人物ですから
ずいぶん差が付いたものです。
私もヒュームは名前しか知りませんでした。

それにしても気になるのは、ヒュームが、
「道徳の根本に他者に対する共感がある」ということを述べていることです。
これは、対人関係学の主張と重なってきます。

対人関係学も行きあたりばったりの結論を提示しているのではなく、
進化生物学や脳神経学的な知見(と言っても、文庫本とか新書ですが)
に則って立論しているわけです。
18世紀にはそのような学問はありませんから
これは一体どういうことかと
ヒュームの「人性論」を読んでみました。
(人間の本性についての考察なので、人「性」論)

驚くべきことに、知性や情念についての考察は
脳科学的知見にそったものでした。
訳が古いので、よくわからないと思いますが、
脳科学者が翻訳すればそれがわかるのではないかなと思いました。

突き詰めてものを考えるということはこういうことかと
哲学を見直したというか、自分の無学を思い知らされたというか
感じ入りました。
実際人性論の第3章の道徳のところで、
実際そういうことが書かれていました。

アントニオ・ダマシオという脳科学者はデカルトをやり玉に挙げて
感覚的な意思決定も、人間の共同生活をするために役に立っている
というようなことを脳科学的に立証しましたが、
読みようによってはヒュームも同じようなことを言っているように思いました。
そして、人性論でもデカルト学派の形式性を批判していたので、
つじつまが合うなあと一人で楽しんで読んでいました。

ただ、ヒュームに限らず、近代ヨーロッパでは、
モラルという社会規範と、他者への共感、同情というものを
あまり区別しないで論じているようです。

対人関係学では、この区別が重要だと考えています。
これを区別しないとモラルとは何か、モラルの始まりはいつか
という議論が整理できないからです。
家庭の中にモラルを持ち込むことの愚かさ、弊害を
理解できないと思います。

人間が150人程度の緩やかな一つの群れだけで一生涯を終える限り
モラルというものは不要だったと対人関係学は主張しています。
モラルという社会的ルールがなくても、
自分と他者の区別がつかないほど一体の群れとして行動していたので、
仲間が腹を減らせていたら、自分が食べていなくても食べさせたいと思うし、
仲間が怒っていたら、譲ってでも謝っただろうということです。

これに対してモラル、道徳とは
自分の思考の外に厳然として存在する客観的な規範で、
自分の感情に反してでも従わなければならないと感じるものです。

他者への共感とモラルという規範は、区別して論じないと
議論が混乱するだけです。

但し、そのモラルの根本に他者への共感、同情がある
というならばヒュームの主張は正しいと思います。

というのも、モラルが必要になったのは、
人間がせいぜい2万年前くらいから農耕をするようになって
生産性が上がったことによって人口も増加し
150人を超える大人数とかかわりをもつようになり、
さらに定住を余儀なくされたことから
かかわりを避けることができなくなったということに
理由があると考えているからです。

このような状態になると
なじみのない人との利害対立が生まれてしまいます。
人間の能力に対して関わる人数が多すぎるために
これまでの仲間のように親密に一体感を持つ仲間と
必ずしもそうではない人間が生まれてしまったのです。
人数の量的な拡大は、人間関係の希薄化な人間の存在を産んでしまったのです。

聖徳太子の17条憲法を読んでみると
人間は、どうしても自分の仲間の利益を図ろうとするものらしく、
それは結局、争いを招き共倒れに終わりがちです。
また、仲間ではなくとも人間なので、
全く共感ができないわけではなく、ついつい共感してしまうため
紛争の末に自分たち仲間が勝ったとしても
やぶれた他者の様子を見てついついて共感してしまい、
後味が悪くなったり
自分たちの価値観が殺伐としてきます。
紛争は勝利しても莫大な損害を受けてしまうわけです。

だから人間は、紛争を未然に防ぐことに努力したのだと思います。
自分たちの安心、幸せという大きな利益のために
紛争を未然に防ぐための「決めごと」を作った。
これがモラルという社会規範だと私は思うのです。

そしてモラルが社会規範であるためには
決めごとが存在するだけでは不十分で、
「そのモラルに従わなければならない」
という構成員の意識が必要だということになります。

そうすると、どうしても、
人間の感情に沿った内容が道徳の内容になっていく
ということになるのです。

「なるほどそれなら納得できる。」
「なるほどそれは大切なことだ。」
というような道徳が作り上げられていくわけです。

だからヒュームの説が、
道徳は直感的に判断することが基本だということについては
その通りだと思うのですが、
道徳のすべてがそれではない
と言わなくてはなりません。

自分の利益、自分の仲間の利益に反することでも
もっと大きな共同社会を平和に維持するためには
仲間の我慢も必要なことがある
これが大切であると思うのです。

こう考えるとカントに分がありそうです。

カントの「実践理性批判」は読んだことがなく
「道徳形而上学原論」を読んだのは40年前のことです。
なんとも心もとないので、
カントに興味がある場合は、私のまとめをうのみにしないでください。

カントは、
経験に基づく認識を排除して道徳を考えるということになると思いますので、
合理性とか、絶対的正義を突き詰めて
条件付けをせずに、こうすべきだという道徳こそ正しい
ということになるのだと思います。

ここに私は、ヒュームが維持していた人間性に基本を置く道徳から
カントの道徳論は人間性が遊離してしまう原因があるように感じました。

「人間性」という根本価値から、
「合理性」という価値に置き換わってしまう
という危険が生まれたのではないかと思うのです。
おそらくカントはこのことに気が付いたので、
晩年に「恒久平和のために」というパンフレットを作成したのでしょう。

一直線に世界が人間性を排した社会になったわけではないにしても
結局は一人の人間の幸せ、一人の人間の尊厳よりも
重大な価値があるという理屈が生まれてしまい、
功利主義、経済変革を容易にする反面
人間疎外が現代では当たり前になっている
という視点が重要になってきていると思います。

何もカントが悪の権化ということではなく
カントの理屈は都合が良いと感じた一群が
自分にさらに都合良く進化させてしまったのでしょう。

また、無自覚に合理性を礼賛する人たちも多いと思います。

カントのように根源的な合理性を説くのなら良いのですが、
どうも現代社会は目先の合理性を追求している気がします。
結局は合理性に反することがまかり通っているのだと思います。

「合理性」という言葉や「道徳」という言葉は
疑ってかかるべきだという確信が深まりました。
合理性や道徳を
人間性、共感という価値観に置き換えるべきです。

こんなことを言うと絵空事だと思われるかもしれません。

しかし、21世紀になって科学は
どんどん人間性を取り戻しています。
行動経済学やその基礎となった認知心理学、
アントニオ・ダマシオの脳科学
進化生物学やその応用科学、
人間性の回復というキーワードで科学を見ると
21世紀が見えてくるのだと思います。

家庭の在り方、職場の人間関係
学校の生活の在り方などを
あらゆる人間関係の紛争未然に防ぎ
安心と幸せを獲得していく対人関係学も
その流れの中で生まれたのだと
私は考えています。

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令和2年1月5日のSモーニングの加藤諦三氏の問題提起のその先こそ考えるべきではないのか、社会の幼児化の原因としての不安とは何か、不安と幼児化はどうしてつながるのか [故事、ことわざ、熟語対人関係学]


別のことをしていて、気が付いたらテレビがついていたという感じなので、
そこだけ聞きかじったようなものですが

心理学者の加藤諦三氏のインタビューが流れ、
(おそらく世界中の社会病理の説明は)
幼児化・退行化の広がりだとして、
その原因は不安だということをおっしゃっていました。

幼児化、退行化という言葉が出されたときは
そういう側面もあるけれど、少し違うのではないかと思いましたが、
その原因が不安だと聞いたことから、幼児化、退行化という表現も
ありうる表現かなと思い直しました。

そして私は、さあ、本題に入るのだろうと期待したのです。
幼児化、退行化の広がりの原因になる不安は
どうして世界中に広まってきたのか
という話になるのだろうと思ってしまいました。

しかし、その後はコメンテーターが勝手に話しだし
主に自分の領域に話を持っていき、
現政権批判などでお茶を濁されてしまいました。

もしかすると、このコーナーの前あたりに
グローバリズムとか新自由主義とか本質的な話があって、
後ろから前につなげて全体で理解してもらう
という狙いだったとしたら申し訳ありませんが、
途中から見た私には肩透かしの感がありました。

ただ、その幼児化、退行化が
フロイトの理論やその流れのフロムの説を紹介していたので、
肩透かしでよかったのかもしれません。
それからコメンテーターから出てきた学者がマズローでした。

いかんせん一言で言って古い。
その人たちを大切にするグループの人以外は
根拠のないものとして批判されているような理論を
金科玉条のように掲げての説明なので、
その先の議論には結びつかないのかもしれません。

ただ、せっかく不安までたどり着いたのなら
せめてその先の議論の問題提起までしてほしかったです。
そうではないと、意味を取り違える人たちが
続出することもやむを得ないでしょう。

少なくとも、コメンテーターたちは発言を聞く限り
あまりこの議論を理解しているようには思えませんでした。

その先の問題提起とは
1 幼児化を広げた「不安」とは何か。
2 その「不安」がなぜ増大したか。
3 不安がどのように人間を幼児化、退行化するか
です。

これはまさに対人関係学の独壇場かもしれません。

そう思い、ちゃっかり関口さんの番組に便乗して
対人関係学の基本的なポイントをおさらいさせていただくことにしました。

1 不安とは何か

不安は、
危険が迫ってきていることを知覚した場合に、
意識に危険が迫ってきたとことを伝えるシグナルです。

ちょうど痛みが、
体の部分に不具合が発生したことを意識に伝えるシグナルと
同じ仕組みだということになります。

そして、不安が意識に上ると
不安を解消したいという要求が起き、
戦うか逃げるかという不安解消行動を起こそうとするわけです。

この不安を感じさせる危険というのは2種類あって
一つは、生命身体の危険ということです。
生命身体の危険を知覚すると
交感神経が活発になり、心臓が激しく動き
血液を筋肉に大量に流して逃げたり戦ったりすることを容易にするなどの
生理的反応が起きます。
この一連の体の変化をストレスというわけです。

もう一つの危険が、対人関係的危険です。
人間は群れに帰属していたいという本能があり、
この要求が満たされない場合は心身の不具合を発症させます。
群とは、家族、社会、学校、職場というあらゆる人間関係です。

要求が満たされない場合で一番問題になるのが
今自分が所属している群れから追放されてしまうのではないか
ということを思い起こさせる事象があった場合です。
自分が何かを失敗した場合もありますが、
他人の自分に対する評価をみて、
対人関係的危険を感じることが問題です。

対人関係的な危険を感じると
身体生命の危険と同じように
生理的変化、ストレス反応が起きます。

これは逃げたり戦ったりすることには役に立ちますが、
対人関係的な危険に対しては役に立たないどころか
後で述べる弊害が生じてしまう困った生理現象です。

2 不安の増大の要因

ここで、不安という本質は同じでも
アメリカ大統領等の国家元首と
私たち庶民の不安は別に考えて論じるべきだと思います。

これを区別しないということは
原理論理の議論と
社会の出来事の議論を混同してしまっていることになります。

私は、庶民の不安についてまず説明したいと思います。

現代社会では、リストラ、パワハラ、いじめ等々があり
理不尽に自分が群れから追放されてしまうことが多くなりました。
とにかく帰属の見通しが不安定なことが多いようです。

低賃金は、働いても自活できない場合さえあり
社会的貧困を招いていて、
これは社会という群れからの追放を予感させてしまうことです。

特に職場の身分の不安定化は、
将来の生活にも大きな影響が出てきますから
大変ストレスが高くなるでしょう。
子どもたちへの早期教育や競争意識も
いやがうえに高くなるわけです。

さらに、弱者に冷たい社会構造ともなれば
少しでも有利な就職を感がえて
無理を承知で頑張らせようとすることは
むしろ当然だと思います。

優しさや、寛容、穏やかな暮らしが
否定的な価値を与えられてしまうこともしばしばです。

社会全体がいじめや、過労死、過労自死へと
向かって言っているような気さえします。

対人関係学的には、幸せは、
自分所属する群れの中で、自分が尊重されて帰属し続けていること
というように定義付けます。
これ以外の幸せを認めないのではなく
政策などで目標とするべき幸せの方向を
一つ定めたということです。

マズローの承認要求に似ていますが、
対人関係学は、これを群を作る人間の本能として
その発生と内容を説明しています。

おそらく、大統領とはいえ、
その支持者の支持を失った場合は
権力の座から滑り落ちるのでしょうから、
その意味での不安はあるのでしょう。

テロリズムなどは、
その背景において社会的に尊重されていないという体験から
人間関係というものをそれほど重要なものとは思わなくなってしまうために
他者の命ということに興味、関心を失ってしまっているのかもしれません。

現代社会の病理の背景に不安がある
という点に対しては大いに賛同するのです。

3 不安と幼児化、退行

しかしながら、不安による影響を
フロイトやフロムを使って説明してしまうと
またわけがわからなくなってしまいます。

対人関係学的には
危険の知覚と不安がもたらす脳機能の変化
という説明をします。

不安を抱いていると、それが強く、持続してしまうと特に、
脳の機能が著しく低下してしまいます。
複雑な思考ができなくなってしまうのです。
これは、前頭前野の機能ということになります。

分析的な思考が苦手になり直感的にインスタントに結論を出したくなる
こうすればこうなるだろうという将来予測ができなくなる
二者択一的思考になる
折衷的な思考ができなくなる
建設的な思考ができなくなる
自己防衛を第一に考えてしまう
(悲観的な思考になる。攻撃的な思考になる)
他者の感情を理解しにくくなる
共感、共鳴が少なくなる。
あたらしいことに頭が柔軟に対応できなくなる。
等です。

これを幼児化と呼べないこともないのですが、
幼児化と言ってしまうと、
このような特徴が見えなくなってしまうと思いますし、
なろうとして幼児化の思考になっているのではなく、
環境が人間の思考力を奪っている
という本質が見えなくなると思うのです。

左上の対人関係学のリンクから対人関係学のホームページに行って
参考していただければ幸いです。


蛇足を付け加えます。
このような不安は、その時々の政権の濃淡によって
ある程度大きくなったり小さくなったりすると思うのですが、
そういう小手先の問題ではないと思います。

むしろその時々の政権に原因を求めてしまうと
政権交代さえ起きれば問題は解消するというような
錯覚を起こさせてしまう危険すらあるのです。

根本的な不安を招く社会構造とは何か
対人関係的危険の観点と
人間が尊重されるとは何かという観点から
根本的な解決を考えていかなければならないと思います。

また、社会構造が変革されることには時間がかかることが予想されますので、
あわせて、今の社会の中においても
幸せを獲得する作業を意識的に行っていくことも必要となると思います。

対人関係学はどちらかというと
後者に照準を当てて研究を行っている学問です。

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