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NO(それは嫌だ)コミュニケーションの訓練がいじめ防止等の基礎となるかもしれない。 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]


司法試験に合格して司法研修所で勉強していた時期、
同い年の合格者で、長髪の男がいた。
長髪なのによく見るときれいな髪質をしており
羨ましく思い、
うっかり手に取ってしまった。

そうしたところ、彼は、
俺は髪を触られるのが嫌なんだ
触らないでくれる、ごめんな
と言った。
私はそういうものかと思い
ごめんごめんと手を引っ込めた。

その拒否の仕方が秀逸で、
こちらは嫌な気持ちをしないどころか、
こちらの人格への配慮も感じた。
高いインテリジェンスのある人間だと
それ以来尊敬している。

そんな30年近く前のことを思い出した。

対人関係の紛争を見ていると、
けんかや気持ちのすれ違いが起きるホットスポットが、
この拒否をされたときだということに気が付く。

拒否をされると、
そのこと(髪の毛を触ること)だけでなく、
全てを拒否されたような気になってしまい、
無駄な疎外感を抱いてしまうようだ。
そして自分を守るために、
自分を拒否した相手を攻撃してまう。
すると相手も、どうして自分を攻撃してくるのだということがわからず、
不気味な気持ち悪さを抱いて
関係が悪化していく。

逆に、
拒否することで相手を怒らせたくないので、
本当は嫌なことなのに、我慢してしまう。
不満がたまりにたまって
ある日爆発する。
相手は、
それまで、普通に行っていたことを理由に
こちらを攻撃してくることに理解ができない。
言いがかりや八つ当たりであると受け止めてしまう。

最悪なのは、
自分の気持ちを言えなくて絶望をしてしまい、
うつ病になったり、自死に至ったりすることもありそうだ。

いじめのケースでは、
嫌がらないからいじり続けているうちに、
大勢がいじりだし、からかいだし、
気がつけばいじめになっていたということがあるようだ。
気がついた時とは、子どもが自死をしたときなど
取り返しのつかないこともある。

最初にお話しした長髪の合格者のような
拒否の仕方を訓練することが
いじめをはじめとする色々な人間関係の
破たんを防ぐことに効果があるような気がする。

最初の髪の毛の例で、
私がうっかり触ったときに、
「おっちゃん、なに他人の髪をことわりもなくいじくってるんじゃ。ぼけ。」
と言われれば、
悪かったなあという人もいるだろうが、
大半は、「なんでそこまで言われなあかんのん」
という「気持ち」になり、
自分の決まりの悪さを解消するために
言わなくてもよい余計な反撃をする、
そして収拾がつかなくなっていくだろう。

長髪の彼の拒否のエッセンスは、
短く、余計なことを言わないということで、特に、
1 何が嫌なのか具体的に特定している。
2 どうして嫌なのか端的に理由を説明している。
3 自分が悪くもないのに「ごめんな」という。
この3点だろう。

1 具体的に特定していれば、
自分が全否定されたと感じる要素が少なくなる。
それ以外は拒否しないという意思表示にもなる。
2 理由を説明されれば、
漠然と自分が拒否されているのではなく、
相手の嫌がることをしなければ良いのだということが理解できる。
3 ごめんなといわれれば
まず、自分に対して敵意がないのだなということを強烈に理解できる。
「そちらの気を悪くするかもしれないけれど」という配慮を感じる。
その結果、素直にこちらこそごめんという気持になれる。

こういう効果があったと思う。

こういう拒否の仕方を子どもの時から
繰り返し訓練することが有効なのではないだろうか。

幼稚園であれば、
子ども同士がけんかしているときに、
けんかの原因をさかのぼって
拒否コミュニケーションの問題だとすれば、
拒否からやり直す。
余計なことを言ったらそれは言わないで言い直させる。
「ごめんね」と言いたくないときは「お願いね」
と言い換えてもよいかもしれない。

言われる方の指導も大切である。
共感に基づくコミュニケーションの訓練である。

先ず拒否の3要素をはっきりさせる。
その上で、
何が嫌で何が嫌ではないかということを明らかにして
あなたが嫌われているわけではないよということ説明して安心させる。
ただ、それをされることが嫌なんだよと教えてあげる。

その上で、相手が嫌がっているということが
どういうことなのかを理解させる。
ここで一番大切なことは、
相手が嫌なことはしないという習慣づけである。

必要以上に気まずくならないということを覚える。

正義の制裁をしているつもりであっても
相手の気持ちを考えない行動はしない。
それは大人に任せるということでもよいし、
少し学齢が上がったら、
一緒に成長する観点からのアドバイスを制裁に置き換える
ということも大切だろう。
正しければよいというものではないことを
小学校からは少しずつ取り入れていくべきだと思う。

3要素が揃った拒否があった場合は
潔く撤退する。
そういう習慣をつけるということが大切だと思う。

この双方の意識的行動によるそれは嫌だコミュニケーションが成立したら
大人は大いにほめて、子どもたちは達成感を獲得してもらう。
そうやって動機づけを作っていく。

友達同士、夫婦や家族、職場という人間関係の基礎だと思うし、
案外民主主義の前提条件だったりするのではないかと
ふと思う。

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「サンダカン八番娼館底辺女性史序章」山崎朋子(文春文庫)【勝手に書評】 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

あいちトリエンナーレの取り上げ方のために
また一段と物議の対象になってしまった「少女像」について
ネットでその製作意図を読んだ。

特に少女のかかとが宙に浮いているのが
国に戻った少女たちに対しての社会の不寛容を表現している
ということを読みながら、
私はある映画の一シーンを思い出した。

今から40年前に観た
「サンダカン八番娼館 望郷」である。

ボルネオから帰京した主人公が
自分を受け入れない兄夫婦に対して絶望した心情が
象徴的に表現されたシーンである。

主人公サキは貧しい農家の娘で
両親がおらず、兄と妹と三人で極貧生活を送っていた。
口減らしのために、ボルネオに売られていった。
サキは、家のために海外の苦界に身を沈め
家に仕送りをしていた。
奉公が終わり、家にお金を携えて帰ってきて
感謝されていると思っていたところ
兄も兄嫁も外聞の悪い妹が帰ってきたと
厄介者扱いをされていることを知った。

これまでの自分の苦しみや我慢はなんだったのだ
というシーンである。

若いころのサキは高橋洋子が演じていた。

家に帰って絶望の中で風呂に入るシーンがそのシーンである。
こらえきれずに泣き出すのだが、
声を聞かれまいと湯の中に顔を沈めて
激しく嗚咽するというシーンである。

高校生の時に観たヌードシーンなのに、
高校生の私が見ても
高橋洋子は限りなく清らかだった。
ただ清らかなものと感じた。

サキの仕事の内容というか
苦界の苦界たる理由について
未熟な私には理解はできていなかったのだろう、
サキの兄夫婦の仕打ちに純粋に反発していた。
私は子どもだった。


少女像の製作意図を読んで、そういえばと連想し、
インターネットで検索して、
サンダカン八番娼館の原作があることを知った。

山崎朋子氏の著書の
「サンダカン八番娼婦館 底辺女性史序章」(文春文庫)
である。

私はこの本を読んでみたいと思い、
幸いすぐに購入することができた。

40年前の映画の記憶は、
いろいろと勘違いをしていたことも分かった。

サンダカンという言葉が不明だったが、
これはボルネオの都市名だった。
8番娼婦館だと思っていたが8番娼館だった。
何よりも太平洋戦争下の従軍慰安婦だと思っていたが、
そうではなく、いわゆる「からゆきさん」だったことだ。

最後の話が一番衝撃的だった。
「からゆきさん」という言葉は、
なんとなく聞いたことがあった。

太平洋戦争前、
むしろ江戸時代末期から
第1次大戦後辺りまで、
九州地方を中心として
貧困を理由として女性を
海外に渡航させ売春をさせていた時代があった。

この女性が「からゆきさん」なのだそうだ。

東北の女性も身売りをされて
それが226事件の背景にもなった。
からゆきさんは、最後は主として東南アジアに売られていき、
サキもボルネオに売られていった。

大体はだまされていくのだが
(話しても理解できない年齢ということもある)
逃げようとすると脅しや殺人事件もあったらしい。
そして大体は、渡航と言っても密航で、
貨物船の船底に隠されていく人たちが多かったようだ。

第1次大戦後はどうなったかというと、
おそらく、公娼という形で政府から特別便宜を図られた者が
大ぴらに商売をしていたようだ。
これが従軍慰安婦である。
だまされて連れていかれることにそれほど違いはないだろう。
現地の婦女子に対する暴行の防止という名目だが、
単純に大儲けができたから、国の力を利用したのだろう。
(参照:「水曜日の凱歌」乃南アサ)
これについてはひと月ほど前に別のところで書いた。

さて、山崎氏の原作は、読んでいて面白い、
学術書ということだが、
筆者の生活の様子が織り交ぜられているために
臨場感が強い。
次はどうなるのだろうというドキドキした気持ちで
読み進めることができる。
良質のルポルタージュでもあり、
筋書きのないドラマでもある。

山崎氏もこの本を読む限り魅力的な人物であり
共感を抱きやすい人物であるが、
主人公のサキさんも魅力的な人物である。
物語が面白くならないわけがない。

何より感心したのは
筆者とサキさんが対等の関係にあったことだ。
もちろん筆者がそれを意識して様々な工夫をした結果でもある。
安易な善意の押し売りをしていたのでは、
信頼もされなかったし、ここまで事実が発掘されることもなかっただろう。

そのご努力が、この作品を読むべき作品にしているのだと思う。
とても勉強にもなった。

だから、筆者とサキさんの別れのシーンが胸を打つのだろう。
このシーンは、映画ではサキさん役の田中絹代が素晴らしい演技をしている。

サキさんがボルネオに行った一番の代償は孤立だった。
男子を産むが、
息子が結婚するにあたって息子から別離を突き付けられた。
それ以来息子も嫁も孫も会いに来ることさえしない。

地域社会も同様である。
その中でサキさんは生きていかなければならない。

その象徴的なシーンが、筆者がサキさんのもとを去るというとき、
謝礼金を固辞したサキさんが筆者にあるものをくれと願った。
それは、筆者がサキさんと暮らした3週間使っていた手ぬぐいだった。

その手ぬぐいを見ると、一緒に生活したことを思い出すというのだ。

サキさんは、自分を対等な人間として
当たり前のように接してくれる人がいなかったことを
この一つのエピソードが強烈に物語る。
孤立していなかった確かな記憶が手ぬぐいだったのだ。

田中絹代の演技も圧倒された記憶が鮮明にあるし
今でも、控えめな、自信なさげに願う表情はよく覚えている。

今回の原作でも、この文章は、
最も美しい文章だと思う。
こちらの感情も高ぶってしまい、止められなかった。
今も、感情が高ぶりすぎて何度も手を進めることができない。

読むべき本である。

ただ悲惨な事実を伝えるだけでなく、
力が出てくる不思議な本である。
おそらく、筆者が、サキさんに対して感謝と尊敬という感情を
自然に抱いているというところに、
絶望を乗り越えようとする希望の手立てが見えるからではないか
そう感じてならない。



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友がみな 我よりえらく見ゆる日よ 花を買い来て妻としたしむ【勝手に解釈】 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

石川啄木『一握の砂より』

学生時代の友人たちの近況を知る機会があった。
みんなそれなりに出世して、社会的地位を得ているとのことだった。
自分はというと志を立てたものの
まだ道半ばというところにいる。

学生時代に、学業でも生活でも
彼らに負けたと思うことはなかった。
少なくとも、社会に向けて同じスタートラインに立っていたはずだ。
それを考えると悔しい気持ちになる。

自分では、もっと自分が
社会から認められても良いと強く思っている。
それなのに、名をあげることもなく、
この町の片隅で生きている。

こまま取るに足らない者として一生を終わるのだろうか
そんなことを考えると
無性にどこかに逃げ出したくなったり
何かを破壊したいような気持になったりしてしまいそうになる。

私は誰かに慰めてもらおうとしているのだろうか
そんな負け犬のようなことをしたくはない。
自分の心がすさみ、人間性が削られていっているように思う。

このまま甘えた気持ちでいると、自分より弱い者に
八つ当たりのような態度をとってしまうかもしれない
そうして、自分のそういう態度によって惨めな気持ちになり
また自分の心が余計にすさむという
悪循環に陥るだろう。

こういう時は、誰かに優しくするに限る。
こんな人間でも、妻は自分を頼りにしてくれている。
ありがたいことだ。
そんなかけがえのない人にささくれだった気持ちをぶつけてはならない。

花屋に行って、赤いゼラニウムを一鉢買って帰ろう。

こんなつまらないものでも、
妻は喜んでくれた。
そんな妻の様子を見ていると
自然と自分も微笑んでしまうことが分かる。
自分もまだ微笑むことができるのだ。
人を喜ばすことができたという安心感がそうさせるのだろう。

世間が自分をどう評価するかということは
自分という人間の一つの部分に過ぎない。
その結果がどうあれ
自分のもう一つの部分である
家族を大切にするということがおろそかになってはいけない。

私は妻とゼラニウムによって救われたのだろう。
他人の評価を気にする自分をいっとき捨てて
家族を大切にする自分を取り戻し、
人間らしさを取り戻したのだろう。

誰かに自分が辛く当たられて
悔しかったり、苦しかったり、不安になったりするときは、
そんな自分をいっとき捨てて
誰かのために役に立とうとするに限る。
だからといってそんなたいそうなことを
しなければならないわけじゃないようだ。


****

この解説の構想は、4月に書いた
「こころがすさむ、心がすさんでいるとはどういうことか.」 
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2019-04-15
の中ですでにあったのですが、
これを入れると長くなりすぎるので泣く泣く割愛しました。

そのため、
なぜ、その文中にこの歌が出てきたのか
中途半端でわかりにくかったと思います。

これまでのこの歌の解釈とは違いますが、
詩人の直感は、こういうことを言いたかったのだろうと
考えています。

そのときに一緒に引用した中原中也もそうなのですが、
自分が苦しい時には
そのことを無かったことにするわけにはいかない。
自分をすべて失くしてしまうわけにはいかない。
そのためには、誰かの役に立つことをするだ
そういうことを言い当てていたのだと思います。


もっとも時代的な背景があり
今の女性の方々にとっては
もう少し鼻持ちならない言葉を出すことが
リアルな解釈になるのですが、
現代的にアレンジしております。

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人間が死んでも消えてなくなるわけではないという意味 自死、過労死担当弁護士としての経験論 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

自死や過労死事件を多く扱ってきて、
あるいは交通事故もそうなのですが、
私たち弁護士は人がお亡くなりになってから事件にかかわるのですが、
私は、お亡くなりになっているはずの方と
一緒に事件を考えている感覚になることがよくあります。

実際、無我夢中で事件と格闘していると
思いもかけない証人や証拠が表れたり
何が起きていたのか不意に頭に入ってきたりすることがあります。

経験論として、
人はお亡くなりになっても消えてなくなるわけではないのだなあと
感じていました。
色々なことがまたありまして
この考えはあながち間違いではないのではないかと考えるようになりました。
今回それを理論化してみました。

現代のお経のようなものだと感じているのですが、
これも何人かとの共同作業だということになりそうです。

****


人間は、群れを作らなければ生きていけない動物です。
家族、友達、職場の同僚等様々な人間の中で生きています。
だから、あらゆる人間関係から切り離した「自分」という存在は、
人間としての存在ではありません。

あらゆる人間関係から独立した自分というのでは、
色々な個性、特徴があるように見えても、
それは意味のあるものではありません。
自分では自覚していませんが、
個性、人格、人となりというものは
自分の人間関係の中で生み出され、維持されて
意味のあるものになっています。

人間が生きているということは、
自分以外の人とのかかわりの中で生きているということです。
意識することはなかなかできませんが、
自分とは
自分の関係する人間関係の中での自分のありようなのです。

だから、人間が生きているということは
自分が関わる人間関係の中に
自分が存在して、自分を形作っているということなのです。

あなたに関わっている人たちも
自分たちの関係の中にあなたがいるということで
あなたが人間として生きているということを感じて、
そのことによって、
その人たちも人間として生きているのです。

だから、人間は今の人間関係の在り方に悩むのです。
悩みを無くすため、せめて軽減するためには
自分と他者との関係を改善することが一番です。
もしそれができないならば
他の人間関係を重要なものと考えるという方法があるのです。

ふだん言われている人間の死というものは、
肉体的な死のことを言っています。
それは動物としての死です。
人間としての死とは少し違います。

人は必ず動物として死にます。
しかし、あなたが動物としても生きているときに
あなたとかかわりのある人たちと
一緒に生きてさえいれば、
あなたが動物として死んだとしても、
あなたのかかわりの中で、
あなたは確かに人間として生き続けます。

一緒に泣いたり、一緒に怒ったり、一緒に笑ったり、
あなたに相談をしたり、あなたに愚痴をこぼしたり、
人間として生きているあなたと
人間としてかかわり、生き続けます。

動物としての死を迎えても
全くいなくなるわけではありません。
消えてなくなってしまうわけではありません。


大切な人が死ぬことはとても寂しいことです。
取り返しのつかないことです。
でも、私が人間として生きているならば、
あなたも人間として活き活きと生きています。

だからこれからも、
私はあなたと共に生き続けます。

いつまでもいつまでも
私のそばで生き続けてください。
これからも変わらずあなたは私の大切な人です。

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「自分が拒否されている」と感じるのは、攻撃的になっていることに自分で気付いていないからかもしれないこと。 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]



人の悩みの多くが、
「自分が(特定の)人から受け入れられていない。」
と感じることにあるではないでしょうか。

具体的に言えば
夫婦仲が悪い。相手がいつもニコニコしていない。優しくない。
いじめにあっている
パワハラにあっている。
正当な評価がされていない。
あるいは、
売り上げが上がらない
支持が集まらない
賛同者が集まらない
自分の言うことが相手にされない

あの人と同じことを言っているのに
あちらは絶賛されてこちらは無視される。

等々。

自分自身にももちろん覚えがあります。

そんなときによくあるのは、
自分が攻撃的になっているために、
他人が近寄りたくないという気持になっている
ということです。

自分が攻撃している相手から敬遠される
それならまだわかりやすいのですが、
自分が攻撃をしていない人からも
自分との距離を持たれてしまう。
あるいは、距離を置かれるどころか
自分に対して攻撃的な言動をしてくる。

自分ではその原因が分からず、
「どうして自分は他者から受け入れられないのだろう」
と思い悩むわけです。

「自分を受け入れない他者は間違っている」
と憤る人もいますが、
これも思い悩むことの一種です。

自覚がないのに
自分の攻撃性によって他者が自分を受け入れない現象には、
二つのパターンがあります。

一つは、相手を攻撃しているつもりがないのに、
相手は攻撃されていると感じるパターン(A)。

もう一つは、相手ではなく
明白に別の人を攻撃しているのだけれど
敬遠されるパターンです(B)。

Aパターンの典型例は、
夫婦間、職場(特に上司)でよく見られます。

Aパターンで自分の言動が攻撃と思えない理由も二つあり、
自分こそ攻撃を受けているので防御しているに過ぎないと
無自覚に感じていて、
自分が攻撃しているという意識をもてない(A-1パターン)。

相手が間違っているので、正そうとしているだけで
いわば事務連絡的な言動だという意識のため
攻撃ではないというパターン(A―2パターン)
に分かれると思います。

大事な人間関係で不具合を感じている場合は、
プラスワンの理論で、
自分の言い分、相手の言い分を並べて比較して、
どちらが正しいということではなく、
相手の感情に配慮して不具合を修正する
という作業をしなければならないと考えます。

A―1パターンでは、正当防衛の連鎖を
自分から断ち切らなければ収まりません。
自分を守らないことによって、
相手に安心を感じてもらう作戦が有効です。
敢えて言えば(たとえば家庭内)憲法9条作戦です。
(関係を切ればよいならそれほど悩まないでしょうから
 その方法をとれない場合の最善策ということになります。)

A―2パターンでは、
<攻撃とは何か>
ということを自覚する必要があります。

これは、単純に言動だけを見て判断することはできません。
相手との距離、相手のあなたに対する期待などの
その人ごとの要素でだいぶ変わってきます。

例えば家庭ならば、
相手はあなたといることに安らぎを感じたいものです。
あなたが帰ってくる時刻になると
恐怖と緊張で心と体が硬直するという家庭は
家庭の機能をはたしていません。

安らぎを感じるためには
ただいるだけでは不十分で
理想を言えばねぎらいの言動があるべきですし、
そうではなくても、自分自身を受け入れてもらう
という時間が必要です。
言葉については
言葉の始まりと成り立ち 言葉を使おう!を参照してください。

ところが、ねぎらいも寛容もないということでは、
安らぎを感じないで緊張と恐怖だけの存在になってしまいます。
この場合、ニュートラルという状態がない場合がある
ということを意識しましょう。
つまり、プラスがなければマイナスになる危険があるということです。

離婚の最大、最多の原因が、
「会話が、指図と否定だけの生活」だったということです。
この場合、
言っていることが正しければ正しいほど、
相手の落ち度をさらすことになります。

あなたが口を開こうとすると
自然に防衛行動をしようとしてしまうことは、
本能的な反射活動です。

口を開かれることが怖くてたまらなくなるのです。
そのうちにあなたの存在自体が相手にとっては、
自分を否定し、指図する存在だというように
単純化していく危険があるわけです。

ところが、言っている方は
当たり前のことを言っているだけなので、
そのことになかなか気が付きません。

ある日、街でばったりと出会って、
相手が自分を見つけて喜んでおらず、
瞳孔が開いて硬直している
恐怖感情をあらわにしているところに出くわすことになりかねません。

そういう体験があればまだ修正が利くのでしょう。
「良い夫婦の条件」http://www7b.biglobe.ne.jp/~interpersonal/couple.html

一応念のために、街で相手に会った時は、
なにがなんでも先に見つけて、笑顔を作り、手を振るなどして、
相手に恐怖感情を表現させないように先回りをする
ということを頭に入れておきましょう。

A―2パターンの防止のためには、特に家庭の場合は
正義を持ち込まない。
正義や常識、効率性ではなく、
相手の気持ちに配慮して行動するということになります。

A-2パターンは、難解で
自分の何が悪かったのかということに深く思い悩みます。
これも夫婦問題で多いパターンだということを
知識として知っていないと
これが原因だということさえ思い当たらないことかもしれません。


次にBパターンですが、
Bパターンがあるときは、Aパターンが併存していることが多いようです。
特にA-2パターンですね。
正義感の強い人によく現れます。

Bパターンの起きる場所ですが、
これも、夫婦や職場の間でも起きているのですが、
むしろ社会的な人間関係にみられることが多いようです。

職場の雰囲気が悪くてお客さんが減るということは
この典型的パターンです。
それから、常連しか集まらない政治的なSNS
社会運動の活動
自分は、自分たちは正しいことを言っているのに
第三者からの暖かい支援を受けにくい
そう悩んで、改善したい場合は、
ぜひ真剣に検討するべきだと思います。

また、
同じ事を同じように言っているのに、
なぜか相手の方にばかり賛成が集まり、
そして相手は批判がされない。
こちらの賛成はいつものメンバーだけで、
広がらない。
かえって、陰で自分は批判や中傷がなされる。
なぜ、あなたから足を引っ張られなければならないんだ。

また、自分としては当然言うべき社会的発言をしているのに、
家族からは嫌がられる。
(家族の情報を知らない人にさらすことに抵抗することは当然として、
 そういうことをしないのに嫌がられる。)

これはなぜ起きるのでしょうか。

人間の「秩序の形成に参加しよう」とする本能に原因がありそうです。

人間は無意識に秩序を形成する行動を選択する動物のようです。
もっともこれがなければ群れを作ることはできません。

この秩序を形成しようとする本能の出方には
バリエーションがあります。
・群れのトップに従おうとすること
・決まりごとに従おうとすること
・群れの仲間と仲よくしよう、仲良くされたいと思うこと
そうして、
・争いがあると不安になること
・争いの当事者にならないようにしようとすること
・争いの外に自分を位置づけようとすること
等です。
いじめの傍観者の心理は、
この秩序形成本能が悪い方に出ているように思われます。

だから、
他者に対して怒りをあらわにしている人や、
誰かを攻撃していたりする人は、
あるいは誰かを馬鹿にしたり嘲笑したりする人は、
秩序を壊している人と感じるので、
近づこうとしないし、
共感チャンネルを閉ざそうとする気持ちが生まれる
ということになります。

秩序を維持しようとしている人の方が攻撃されているときは、
さらに、弱い人を守ろうという意識まで発動されて、
批判者に憎悪の感情が持たれるということもあります。
これは、理性的な判断ではなく、
即時的な、条件反射的な感情なのです。

正しいことを言っている、
言わなければならないことを言っている
そういう気持で発言していても、
結果としては
「乱暴者が暴れている」
という意識で冷ややかに見られていることと同じだし、

無意識に自分が争いに巻き込まれるという恐怖(焦り)が生まれ、
余計な紛争を起こそうとするあなたに対して
いらだちが生まれるわけです。
少なくとも、一緒にいて安らぎを感じませんから、
一気にマイナスの感情になっている可能性も大いにあるわけです。

もう一つ、袋叩き反撃仮説というものがあり、

ネット炎上、いじめ、クレーマーの由来、200万年前の袋叩き反撃仮説

誰かが戦っていると、
無意識に自分も闘いに参加しなくてはならない
という人間の本能があって、
仲間であればあるほど参加しなくてはならないという
強迫神経症みたいな心理が働き、

誰かを批判する言動が的を射ていればそれだけ、
つまり正しければ正しいだけ、
行動を起こさない自分が責められている
という感覚も持つようです。
自分を守ろうとする意識が
(発言者から見れば)誤作動を起こしているのでしょう。

この分析に基づけば、
二つの目的を実現する方法が見えてきます。

一つには、自分の意見が中立の第三者とか、反対者にも受け入れられるという目的
もう一つは、自分の発言によって大事な人が遠ざからないという目的です。

<鉄則>
結論を重視するのであれば(怒りを発散すればよいというのでなければ)
怒りの感情をあらわにした発言などをしないこと
誰か「特定の人を」責める形、批判する形をとらないこと
やむなくそういう場合でも、人間に対する敬意を払うこと、
誰か特定の人を悪だと決めつけないこと
利害対立をあおらないこと。

会社、学校、社会などの不具合を修正するという視点をもつこと
具体的には、みんなの利益という観点からの主張
夫婦双方(私たち)の利益
クラス全体の利益
会社と顧客双方の利益
社会全体の利益
という視点からの発言をする。

既存の秩序、価値観の否定に終わらないこと
新しい秩序形成の提案、新しい価値の提案の形にすること
旧秩序、旧習慣の合理性の部分を肯定すること

受け手の行動は、あくまでも受け手の自由裁量にゆだねること

相手に何を求めるか
ということを明確にすることも大切でしょう。

またもう一つ考えられる理由があります。

他人は、よほどのことがなければ
あなたの絶望を覗きたくありません。
絶望に共感してしまうと
苦しくてならないので自己防衛行動を
無意識に選択する場合もあります。
このため、あなたの行動やあなた自身を
無かったことにしたい。
あなたに原因があるから(悪いから)
仕方がないと納得して自分の心の折り合いをつけたい。
これが、あなたが攻撃される理由なのかもしれません。

誰彼構わず苦境を吐露せずに、
信頼できる人だけに、あなたの苦しみを受け止める人だけに
限定して心情を打ち明けるべきです。


なお、自分の大事な人の前では
誰かを批判することは最低限にするということも
あるいはしないということも
選択しなければならないことがある
ということもお考え下さい。



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対人関係学の概要 ~弁護士が考える人間関係の紛争の原理~ [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

事務所のホームページをリニューアルしているところで、
ちょうどよい機会なので、
対人関係学についてのアウトライン
というか基礎概念というかを
まとめることにしました。
http://www.doihouritu.com/


ちょくちょく断りもなくこのブログでも述べているので、
気になっていた方(いないでしょうが)にはお勧めです。
文字列が折り返しているところは飛ばして読んでもらって構いません。

ではでは

対人関係学とは、
紛争、いさかい、ケンカ、
あるいは、社会病理
(自死、いじめ、パワハラ、DV、虐待、犯罪、多重債務等々)
という人間の行動の原因を探究し、
原因を除去する等して
これらの負の活動を解決し、防止し、
逆に人間が生まれてきてよかったと
より多く実感できる人間関係を構築するための
研究です。

対人関係学の基本概念について、以下述べます。

<対人関係的危険>
人間は2種類の危険を感じると構成します。
1つは、生命身体、健康に害が及ぶことの危険です。   
2つ目は、対人関係的危険です。

 前提として、人間は、単独で生きようとする動物ではなく、人間のつながりの中に自分をおこうとする根源的要求があり、この要求が満たされないと心身に不具合を生じるという理論があります。「The Need to Belong : Desire for Interpersonal Attachments as a Fundamental Human Motivation 」 Roy F. Baumeister Mark R. Leary(Psychological bulletin vol.117 No.1-3 January-may 1995)
人間は、現在の人間関係を維持しようとするため、この人間関係の中で安定して継続的にとどまることが拒絶されることを不安に感じ、拒絶につながる出来事を覚知すると、生命身体と同様の反応を起こす。この、拒絶につながる出来事が対人関係的危険である。自分が人間関係の正当な構成員として尊重されていない、尊重されないことにつながる行動をした、あるいは他の構成員からの評価、待遇についての生の情報と、その情報に対する経験、学習等後天的な情報による評価を加えて危険性を無意識に判断している。危険だと判断した後の生理的変化は、生命身体の危険とほとんど同じである。

ここでいう人間関係とは、家族、学校、職場、地域、サークルという具体的な人間関係だけではなく、社会や国家というものも含まれる。その危機感の強さ及び反応の強さは、人間関係の種類、個性、危険の程度などで変化する。

<危険反応の脳機能への影響>

これまで、生理的に交感神経の活性化に着目されていました
           W・B・キャノン「からだの知恵」(講談社学術文庫)
           HPA軸
しかし、人間関係の不具合を見ていると、
共通の思考パターンがあるのではないかと考えるようになりました。
つまり、
・ 複雑な思考が鈍り、二者択一的思考になる。
・ 他者の心情に対する共鳴が起きにくくなる
・ 将来的な見通しが立てられなくなり、近視眼的になる。
・ 因果関係を把握することが困難になる。
・ 物事を悲観的にとらえる。

これもいわゆる「逃げるか戦うか」という
危険に対する防御反応ということで理解が出来ます。

要するに一心不乱で逃げる(相手を叩き潰す)ことが、
動物の逃げる目的をよりよく達成できるからです。
「自分が安全な領域に逃げ切ったか否か」
という二者択一的思考があれば逃げるには十分です。
できるだけ悲観的に、まだ危険があると考えた方が
より確実に逃げ切ることができるでしょう。

逃げている時はなりふり構わずに逃げるべきで
他人からどう見られるか等ということを気にしていたのでは
逃げる効果が失われていくでしょう。

逃げきってから考えればよいことを
今考えることは逃げるための行為の邪魔になるでしょう。

このような思考状態にするために
脳の一部の機能が停止ないし低下します。
それがアントニオ・ダマシオが指摘した
前頭前野腹内側部
ということになるのだと思うのです。
「デカルトの誤り」岩波文庫

ダマシオの言う二次の情動と
対人関係的危険とは強い関連性があると思っています。

<危険解消要求>

ところで、脳科学あるいは生理学では、
危険に対する反応は、
感覚器官による情報の覚知、
→ 大脳での情報処理、
→ 視床下部での評価
→ 危険に対する反応
という流れをとります。

さらに大雑把に言うと
危険の覚知 → 危険解消行動(逃げるか戦うか)
という流れになるわけです。

脳科学的ないし生理学的にはこれでよいのでしょうけれど
便宜上
危険の覚知 → 危険解消要求 → 危険解消行動(逃げるか戦うか)
と危険解消要求という概念がはいると
様々なことが説明しやすくなります。

通常生命身体の危険は、危険の覚知から危険解消行動
その後の危険解消ないし実現という結果までが
極めて短期間で終了することが多いのです。
(例外的にはがんの告知など)
このため、危険解消要求などという概念は不要でした。

ところが、対人関係的危険は
実際には、人間関係からの追放という結果は
なかなか起きることがなく、
その危険だけが継続していきます。

例えばいじめがあっても
学校から追放されるわけではなく、
自分が尊重されていないという危険意識だけが
日々継続されてしまっているのです。

何とか正常な人間関係の仲間として尊重されたいという
危険解消要求が継続するわけですが、
危険解消行動に出ることもできません。
方法も見つかりません。

そうすると危険解消要求だけがどんどん肥大化していき、
最大の要求になって行ってしまいます。

本来生きるための危険に対する反応システムなのですが、
危険解消要求が充足されるなら
死んでも良いという考えるようになり自死が起きる

また、交感神経の活性化の慢性持続により、
脳機能の停止ないし低下が進み、
二者択一的思考パターン、悲観的思考パターンが
支配的になってしまい
危険解消要求に逆らえなくなると考えます。

危険解消要求の肥大は、
思いついてしまった不適切な危険解消行動を
自己制御することができなくするわけです。

様々な可変要素により
自死、犯罪、離婚、多重債務、虐待等
社会病理の原因を説明することが可能となります。

ここから先が対人関係学の実務編です。


<本来の人間は、共感のシステムにより仲間と協調する動物>
対人関係学の人間観は、
人間の心(対人関係の状態に対する反応)は、
約200万年前に形成されたという
認知心理学のコンセンサスに賛同しています。

当時生まれてから死ぬまで同じ群れに暮らしており、
群れが強く、大きくなることが
自分の利益と完全に一致するし、
誰かが弱って頭数が減れば
自分の命の危険が現実化するので、
弱い者を必死に守っただろうと考えられるのです。

ほとんど自分と仲間の区別がつかなかった
のではないかと思います。

この時代に、
一番弱い者を守ろうとする性質のあるもの、
仲間と争わないで、助ける者
仲間をいたわり合う者
その基礎として、仲間の苦しみや悲しみ
喜びを含めた感情を
自分も追体験するという共感の能力によって
共有する動物となったということです。

こういう性質をもつヒトだけが
厳しい自然環境に適応して
子孫を残せたのだと思います。
われわれは、その協調性の遺伝子を持った
末裔なのです。
人間の根本的価値観はここにあります。

但し、人間も動物ですから
自分が攻撃されれば反撃するわけです。
群れの仲間の特殊な性格の人間で
教育で矯正できなかった者というものも観念できますが、

主として他のヒトでしょう
仲間ではないヒトが飢えなどの理由で
他の群れを攻撃する
これに対する反撃はあったと思います。
ヒトがヒトを攻撃する場面はあったのでしょう。

しかし、それ以外は、他者(群れの)に協調する生き物
ということが本質です。

<時代と心のミスマッチは複数の群れの同時併存による>
では、なぜ現代社会において
他の群れの人間とばかりではなく、
家族、職場、学校という同じ人間関係の中で
紛争を起こすのかということが
問題になるわけです。

そのヒントは、
ダニエル・リーバーマンの
「人体」(ハヤカワノンフィクション文庫)にあります。

進化において獲得した性質は、
当時の環境に適合する性質であり、
環境が変化すると適合しなくなるというミスマッチにより、
虫歯や生活習慣病などの現代病が起きるというのです。

こころが獲得した進化の適応とは
原則として死ぬまで一つの群れで生活していたという
人間関係の条件の中で形成されたものです。
実はこの単一対人関係の時代は、
例えば日本の農村部では
ごく最近まで少しずつ変化をしながら継続していました。

ところが、現代では、
家庭、学校、職場、地域、サークルなど
かなり多くの群れに同時に所属しています。
どれも、相対的な群れであり、
それなくしては生きることがままならない
という群れは一つもありません。

だから、学校という一つの群れの中に
全く異なる群れに所属しているものが共存しているため、
共鳴する力、弱い者を守ろうとする力
という人間らしい力が発揮しずらくなっていると考えます。

同じ群れの中にいても
峻烈な利害対立が生じていて、
仲間の中の敵が存在する状態となっています。

このような対人関係の環境が、
他の人間を攻撃するということの抵抗を下げてしまい、
その結果、人間は、
様々なところで慢性的な対人関係的危険を
感じるようになっています。

危険に敏感になりすぎているように感じます。
そのため、本当は利害が一致している仲間に対しても
自分のみを守ることに過敏になり
攻撃されていると感じやすくなります。
これに対する防衛意識が起きやすくなり、
反撃行動に出やすくなるのではないでしょうか。

こころと環境のミスマッチが
社会病理の根本原因であるという結論となるわけです。

<対人関係の改善の主張>

対人関係学の主張は、
一つに、犯罪を含めた社会病理について
個人を非難することによっては解決ができないということです。

それぞれの社会病理がどのようにして起きたのか分析し、
対人関係の在り方を修正することによって
そのエラーの部分を取り除くことができると考えますし、
エラーが起こりにくくするような人間関係を構築し
予防に活かすということになります。

その中で、防衛行為というところ、
危険解消要求の肥大という視点により
分析を進めるということになります。

どんな社会になっても、
自分が大事にする対人関係を強化することによって、
こころの安定を図ることができるはずだと考えます。

そしてそれは、
他の人間と共感し、他者の苦しみを自分の苦しみとして感じ、
他者を守ろう、助けよう、一緒に楽しもうという性質があり、
一番弱い者を一番に守ろうという
人間の本質に寄り添った行動を取り戻すだけのことだから
決して不可能ではないと考えています。

人間の幸せは、
自分が大切にする人間関係において
自分が尊重されていると実感することだ
と対人関係学は考えます。

人間が生きようとすること
人間らしく生きようとすること
これを無条件に肯定することが
すべての前提に置かれています。

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こころがすさむ、心がすさんでいるとはどういうことか. [故事、ことわざ、熟語対人関係学]



心が荒む(すさむ)という言葉があります。
なかなかうまく説明しているものが見つかりません。

対人関係学では、
「自分の人間関係のつながりにおいて、自分が尊重されていないと意識している場合又は無意識に感じている場合の心の状態」を言います。
もう少し専門的に言えば
「自分が所属している人間関係において、他の構成員から自分が安定した所属の継続を許容されていないと感じる場合の生理的変化の意識の領域における反映」
ということになります。

人間は、動物という側面と人間という側面と両方兼ね備えています。
動物として、本能的に生き続けたいと意欲します。
人間としては、仲間の中で尊重されていたいと意欲するわけです。

そしてその意欲がうまくいかないときに起きる生理的変化は
(血圧の上昇、脈拍の増加、体温の上昇、脳機能の変化等)
生命が脅かされている時と
仲間の中での尊重がなされなくなる時
基本的にはほとんど同じ変化です。

人間は危険を感じ、不安を抱くことで、
危険だと思われる行為を止めたり修正したりするし、
ひとたび危険が発生したら、危険を回避する行動をとり
命を維持しています。

戦闘地域には近づかないとか
夜の独り歩きをしないとか
何かが飛んできたらよけるとかと同じように、

仲間から非難されるような言動はとらないとか
うっかり失敗してしまったら
何とか穴埋めをしようとしたりするわけです。

ところが、いつも思い通りの名誉回復ができるわけではありません。
うまく尊重を回復されない場合は、
危険解消要求がさらに大きくなって行きます。

この場合、
戦うか逃げるかという行動に出てしまいます。
これは様々なタイミングが作用しますので、
色々な行動に出てしまうので、一概にどう行動するかいえませんが、

例えば、仲間の中に留まるように「力ずく」で対応する。
自分を尊重しない相手を攻撃する
場合によってはライバルを追い出すという行動ですね。
多くのドメスティックバイオレンスの原理です。

同じ「力ずく」での対応でも
自分よりも弱い者を攻撃することによって
危険意識を解消しようとする
いわゆる八つ当たりもよく見られます。
会社での危険を家で八つ当たりするような場合です。
社会的に不遇な場合、子どもに過酷になるのが児童虐待でしょう。

もう一つの対応が「逃げる」という対応ですが、
具体的には自暴自棄のような対応をする
他者とかかわりを持たなくなる
他者からどう見られるかということを気にしなくなる
ということが代表例でしょう。

いずれにしても、本当は仲間と良好な関係を作りたい
という気持ちがあり、
それがうまくゆかないという危機感、不安感が過度に肥大して、
良好な関係を作ることよりも
それと逆行するような危機解消行動に出てしまう
これが心が荒んでいるという状態です。

さらに、
その危険解消要求が過度に持続してしまったり、
危険意識が強烈なものである場合
危機感の総量が一定限度を超える場合、
精神破綻が起きるのではないでしょうか。

例えば、子どものころいじめにあって
救いがない絶望を味わってしまうと
統合失調症と同様の精神状態になり
回復が難しいことがあります。

家族にも凶暴になって収拾がつかず、
精神病院に入院させるほかない状態に
なってしまいます。
こころの荒みが進むと
一生を台無しにする可能性のある危険がある
と感じざるを得ません。

危険解消要求が肥大化しすぎると、
死ぬことによって、危険を感じなくしたいとまで
追い込まれることになります。

そこまで行かなくても
八つ当たりの類似行動のような
犯罪やクレーマー、いじめや虐待のような
社会病理の原因にもなります。

あるいは、自傷行為や薬物乱用などで
現実の危険意識、不安感を解消するなどの
行動に出てしまうこともあるわけです。

こころが荒むということは放置してはいけません。

どうやって、心の荒みを解消したらよいでしょう。
心が荒むという言葉の対義語は何なのでしょう。

ご自分の心が荒んでいるということに気がつくことは
なかなかありません。
先ず、気がつくことが難しい。

例えば書道や華道をやって、
「自分の心が乱れている」
ということに気がついて
行動を修正するという人がいました。
私は「芸は身を助ける」の本質がこれだと思います。
それほど万人ができることではないでしょう。

一つは、
自分が尊重されたい組織を大切にすることだと思います。
なんか心が苦しいなと思った時ほど
例えば家族を大切にする行動をするということです。
心をほっておくと
自分を大切にしてもらいたいという行動に出るのですが、
敢えて仲間を大切にするということです。
これを私は自分を棄てるという表現を使います。

自分に、あるいは自分を守ることの意識が強すぎて
自分をおとしめている
こういう状態に陥っているわけです。

自分を守ることの意識を捨てることが
回復への一歩になるのは理屈です。
但し、ただ、自分を棄てることはできない。
このため、自分の仲間を大切にする
自分のみを犠牲にしても大切にする。
という行動をとることで、
結果として
自分に対する過剰な防衛意識を緩和することができる。
こういう考えです。

日本の詩人でも
中原中也は、「春日狂想」で
愛する者を失った時は、奉仕の気持ちになることなんです
と詩っています。

石川啄木が「一握の砂」
「友がみな我よりえらく見ゆる日よ花を買い来て妻としたしむ」
と歌っています。

詩人は、直観的に人間の本質を見抜いて
生きるための手立てを探り当てたのだと
私は思っています。

プラスアルファの効果があって、
こちらが優しくすれば
相手も優しくしてくれる
というのが確かにあるかもしれません。

しかし、それは、自分を棄てることの本質とは別の話です。

アメリカの幸福を考える学会があって、
そこでの実験心理学の実験の結果、
他人の利益を考える方が
人の心は安定する、しあわせを感じるというらしいのです。

https://gigazine.net/news/20190403-simple-trick-instantly-improve-mood/

私はこれは正しいと思います。
これも人間が群れを作ってくることができた
システムの一つなのでしょう。

そもそも、われわれ人間が、仲間を意識して行動するのは、
仲間の中にいたいということが出発点です。
心が生まれたとされる約200万年前は、
一生一つの群れで過ごしたと思われるので、
自分を守ることと仲間を守ることは
それほど区別する必要がなく
自分と他人の区別もあまりなかった時代だったと思います。
仲間を守ろうとする本能が
本来人間には存在していると考えることは
それほど無理のないことだと思います。

見返りを期待しないで
仲間の利益を考える。

これこそが
こころが荒むことの対義語であり、
その時の精神状態は
落ち着いていて安定しているのだろうと思います。

こころが荒まないようにする
予防にもなるわけで、
しあわせになる方法であると
考えた方が前向きなのかもしれません。

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あなたが悩んでいることは本当に悩むべきことか.(プラスワンの理論Ⅱ) [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

1 通りすがりの人との関係

 あなたが悩む必要がなく悩んでいる典型的な場面は、通りすがりの人から何かの悪口を言われたような場合です。
 あなたが、今後も継続する人間関係で不安になる場合は悩む必要があるのですが、おそらく二度と会わないだろう人との関係で悩む必要はありません。通りすがりの犬にほえられたようなものです。このような場合でも人間は二つの理由で悩んでしまいます。
 一つは、相手が人間であるからです。人間は、人間から攻撃されると、本能的に仲間から攻撃されたような気持ちになり、防衛意識が芽生えてしまいます。これは、200万年くらい前の人間の心が完成したころ、人間は生まれてから死ぬまで一つの群れで暮らしていましたから、およそ人間からの攻撃の場合、群れからの攻撃だと錯覚してしまうからです。
 もう一つは、そのおかしな人からの悪口なのに、あたかも社会全体を代表した意見だと受け止めてしまう傾向があるからです。社会という群れから追放されるかのような危機感を抱いてしまうわけです。
 いずれにしてもプラスワンの理論で紙に書くとき、あなたは登場させることができますが、通りすがりに悪口を言った相手は登場させることができません。関係がないのです。道を歩いていて誰彼構わずに悪口を言うような人は、言っていることも失礼であるし、あなたのことを分かっていったわけでもありませんので、気にすることが無駄なことです。ただ、変な人とすれ違ってしまった偶然を呪うだけでよいのです。

2 一見仲間だと思ってしまう卑怯者との関係

 次に、一見群れの中からの攻撃なのだけれど、よくよく考えてみれば、実は通りすがりと同じで、関係ないと言っても過言ではない人からの攻撃である場合が実際は多くあります。
 その人とあなたは、同じ時間同じ場所に一緒にいるということがどれくらいあるかを考えることが大切です。実際は、近くに入るとしても、一緒にはいないことが多くあります。少なくとも共同作業をしなくてもよい関係にすぎないということです。本当はあまり気にする必要がないということで終わる場合があります。
 しかし、その人と直接会うことはないけれど、共通の知り合いが多くいると困ったことになります。通常そういう場合に悩む内容は、こちらの知らないうちに共通の知り合いに一方的な話を吹き込んで、共通の知り合いから自分が追放される、そこまで行かなくても評価を下げられるということが悩ましい事態ということになります。
 そういう陰でこそこそ破壊工作をする相手を卑怯者と定義することにします。その卑怯者は、読んで字のごとしですが、卑しくて、怯えているものなのです。あなたの行動や存在によって、自分の立場が危うくなるという危険に怯えているのですが、卑しい性格のために、正々堂々と努力して立場を回復させることができず、またあなたに直接何かを言うことが出来なくて、卑怯な行動に終始しているということになります。

 もしその卑怯者があなたの家族ではないとしたら、そういう人との関係を修復する必要はありません。一度修復したからと言って、あなたが努力して事を成し遂げようとするたびに邪魔をするわけですから、関係を遮断するべきです。あなたが我慢して修復するべき関係なのか、大切にするべきなのは大いに吟味するべきです。
 さっさとこの関係に見切りをつけなければ、あなたが本当に大事にするべき関係に悪影響が生まれてしまいます。

3 あなたが本当に考えるべき人間関係

 あなたが大切にするべきかもしれないのは、その卑怯者との人間関係ではなく、共通の人間関係の方です。
 特に卑怯者からあれこれ言われても、なお、あなたに寄り添っている人たちはかけがえのない仲間です。それにもかかわらず、卑怯者に対する怒りが強すぎる場合、共通の仲間が卑怯者の影響を受けて自分から離れるということが心配ですから、ついその危険意識によって仲間を攻撃してしまうことがおきるのです。これによって、仲間が離れていくことが一番の悲劇です。また、あなたの怒りが強くて、あなたと卑怯者の争いに巻き込まれたくないということで去っていく人もいます。ここを考えるべきなのです。
 さらには、あなたが終始イライラしていることで、本来なんの関係もないはずの家族に八つ当たりをしてしまうこともあります。卑怯者が一人いるだけで、あなたは大損をしてしまい、不幸になってしまいます。
 
 大事なことは、いち早く卑怯者との人間関係を、心の中で断ち切ることです。同じ群れの仲間ではないということをはっきりと自覚することです。
 これがとても大事なことです。

4 卑怯者に追随する人との関係

 では、共通の人間関係の内、あなたになお寄り添っている人は良いとして、卑怯者が行った欠席裁判の結果、あなたから離れていく追随者をどう考えるべきかということがあります。
 人間はおよそ200万年前に心が完成し、その時の生活は、生まれてから死ぬまで同じ群れの仲間と生活していましたから、およそ人間から攻撃されるとくよくよと悩んでしまうとか怒りに燃えてしまうという性質があります。冒頭検討したように通りすがりの人から攻撃を受けても腹が立ったりがっかりしたりする通りです。
 通りすがりの人間ではなく、それまで共通の知り合いだと思っていたし、そんなに悪い関係でなかったにもかかわらず、卑怯者に追随することはショックだと思います。
 しかし、理性的に考えて、本当に不安になる必要がある人たちなのでしょうか。もともと人間は、より近くにいる人の味方になるという単純な思考回路になっています。また、権威に追随するという性質もあります。群れを作るという性質がこういう傾向を産むわけです。また卑怯者があなたより弱い立場にいるような場合も、弱い方に味方をしようという単純な性質もあります。決して、人間が自分の仲間を選ぶような理性的な行動をする生き物ではありません。だから追随者があなたではなく卑怯者に追随したとしても、それはあなたが否定されたわけではないのです。何らかの考え抜かれた行動ではありません。一番の証拠は、あなたにことの真偽を確かめないで、あなたにつらい行動をとっているではありませんか。そういう追随者たちは、おそらくこれまでも同様のことをしてきたでしょうし、これからもするでしょう。
 追随者たちとも同じ群れの仲間ではないとはっきり自覚するべきです。
 
5 しあわせを基準に大切にするべき仲間を考えるべきこと

 人間に対して不利益を与える場合、その人間の言い分に耳を傾けるということが、歴史的に人間が獲得してきた知性です。一方の言い分だけで誰かの評価を決めるということは、この知性がないということです。日本の憲法は、罪を犯した人でさえ、自分の言い分を堂々と述べることが人間の権利であるということを適正手続きの補償という言葉で述べています。つまり、言い分をさせないでその人につらくあたるということは、その人の人間性を否定するということなのです。つまり、人間として、してはならないことです。
 それでも、どうしてもその人が自分の人生にとってなくてはならない人なら、自分の行動を修正して、頭を下げてつなぎとめることになります。しかし、家族以外で、本当にそういう思いをしてつなぎとめなければならない人はいるのでしょうか。ここはとても大事な吟味が必要です。
 その場合の最大のデメリットは、あなたが本当に守らなければならない人間関係に影響が生じることです。あなたがイライラと悩み続けること、悩みが持続することは計り知れない思考上の問題が生まれてしまいます。あなたは、単に悩みが継続しているために、危険意識を抱く安くなり、悲観的な考えに既に陥ってしまっているかもしれません。
 仕事や勉強や、ボランティアや、あなたが大事にしていることがあると思います。その大事にしていることのキーマンのように思う人かもしれません。しかし、その大事にしていることに、あなたの人生が奪われるかもしれないという視点も大事です。
 「何を基準として考えるべきか。」
 私は、
あなたが幸福に生きるため
という価値観を基準にするべきだと思います。
 私が考える幸福とは、
あなたが尊重されるべき人間関係で尊重されて生活すること
だと思っています。
 すべての人間とすべての利害が一致するということは現代社会ではありえません。相手を攻撃せず、自分の仲間を大切にすることを考えましょう。

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プラスワンの理論  悩むあなたと支援者のための理論 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]


 人間関係で悩んでいる時、あるいは悩んでいる人から相談を受けた場合に、問題を鮮明にし、解決に向かうための理論です。

1 自分を含めた人間関係の不具合として把握する。

  例えば妻ないし夫、上司ないし同僚、学校での嫌な奴
  こういう場合、解決したいという気持ちがありながら、解決に向けて行動していないことが多くあります。ただ、相手の嫌なところを思い浮かべては困惑している、不快を反芻している状態です。
  解決をするための第1歩は、相手のことばかり考えることを止めて、相手と自分の関係の状態について考え始めるということです。
  プラスワン理論のワンとは、「ご自分」のことなのです。
  相手の行動や感情は、自分の行動や存在を抜きに起きることがありません。そしてもし、相手がこちらに攻撃的な態度を示しているならば、それは、こちらの行動や存在に脅威を感じているからであり、攻撃的な態度とは防衛行動なのです。相手にとって自分はどのような存在であり、自分の行動が相手の立場を脅かしていることがないか点検してみましょう。
  この時、「自分が何か悪いことをしたか」という思考はむしろ邪魔です。良い悪いにかかわらず、相手が自分の立場を危うくするという事情があるかないかを考えなければなりません。
  あなたが誰か別の人から高評価を得ていて、それは相手ができないことだということも、相手が危機意識を持ち、あなたを攻撃する理由になります。
  あなたが何かしてはいけないことをしているならば、それを止め、相手に謝罪することに躊躇をする必要はないでしょう。あなたが正当な行動をしていても、相手が危険意識を持つ場合、それはあなたと相手の関係であなたの行動をどうするか考えればよいということになります。これはのちにお話しましょう。
2 本当に二人だけの問題か
  あなたが悩んでいることは、むしろ多くは二人だけの問題にとどまらないことが多いです。
  例えば夫婦の問題は、子どもや、親、職場に影響が及ぶことがおおくあります。子どもためにどうしたら良いかという発想も必要になるわけです。つまり子どものために意地を張らないということですね。
  例えば上司と部下の関係でも、他の同僚や取引先、逆に家庭への影響も多く生まれてしまいます。
  例えば学校でのいじめも、加害者、被害者、同級生、教師、やはり家庭への影響もあるわけです。
  こうなってしまうと、一人で悩んでいることは合理的ではないことがわかると思います。適切な援助を得て、全体のために解決に向かう行動をしていくことが合理的です。また、もしかすると、自分が悩んでいる理由は、相手方に原因があるのではなく、第三者に原因がある場合があることも見えてきます。
  学校でのいじめも、実は相手生徒の問題ではなく、教師の対応が自分を苦しませていることがあります。職場でも、上司は言いたくて言っているわけではなく、そういう風に指導しろという会社の方針に従っただけとか、夫婦の問題も相手が悪いのではなく、相手に変なアドバイスをした人間がいたりすることがあります。実は相手は敵ではなく、一緒に解決に向けた行動をするべき仲間だということがありうるのです。
  こういうこともご自分を勘定に入れることではっきり見えてきます。
  この時、簡単な図面を書いて考えることが大事です。プラスワンの理論は、理性を発揮させるための理論なのです。図面や文字で関係図を書き留めておくことは、この理性を発揮しやすくなります。理性を発揮できないときの思考は、嫌な感情を反芻する行動であり、何も考えていないことと同じです。ますます考えが停止していくだけです。そこにくさびを打つのは文字化、図面化ということで協力にすることができます。
3 正義、善悪は思考からとりあえず排除する
  先ほども言いましたが、「良い悪い」を考え出すと思考が停止してしまいます。解決に向かわないことが多いように感じます。人間行動の流れを把握してから考えても遅くはありません。
  こちらが間違っていないから自分の行動を修正しないと意地を張って、相手が悪いと言い続けて不具合を放置してよいのでしょうか。また、相手が悪くないと言い続け、どこまでも我慢するのでしょうか。特に家族や友人関係であれば良い悪いよりも、正義よりも大切なものがあるはずです。そういう親しい関係であって、自分の行動をわずかに修正すれば解決するならば、さっさと解決した方が得だという考えはどうでしょう。これは、意識しないと思い浮かんでは来ません。
4 関係改善の提案を躊躇する理由はない
  あなたの悩みは、2項で考えたように、あなただけの問題ではないし、あなたと相手の二人の問題でも実はありません。あなたと相手、あるいは第三者を含めたチームの不具合です。あなたが関係改善の提案をすることはあなただけの利益ではなく、チーム全体の利益なのです。改善の必要性を訴え、具体的な提案をすることはわがままではありません。
  そうして、一緒に考えてもらうことが大事です。あなたも自分の提案を唯一絶対のものとしないで、聞く耳を持ちましょう。あくまでもチーム全体で解決すればよいのです。
  解決を訴えるにあたっては、チーム全体の利益を考えていることをはっきり伝えましょう。また、相手が悪いという表現を使う必要はありません。端的にあなたが悩んでいることはチーム状態に不具合があるということです。チームのためを思って提案することを強調しましょう。
5 自分一人で解決する必要はない
  あなたの悩みは、チーム状態の不具合ですから、あなた一人で解決する必要はありません。一人で解決する場合は、自分で我慢すること、逃げ出すこと、あるいは相手を攻撃して倒すことしか出てこないことが自然です。
  第三者の援助を借りることにためらう必要はありません。
  但し、その第三者がプラスワンの視点に立てず、あなたに我慢を強いたり、逃げ出すことを勧めたり、あるいは一緒に相手を攻撃することしか考えられない場合は、その第三者を信用できません。単にあなたの感情に追随しているだけで、解決をしようという立場にないからです。
  あなたのためにそんな第三者に動いてもらおうとすると、チームそれ自体が消滅する危険があります。チーム状態を改善してもらうことを援助してもらえるかどうかが、信頼できるかどうかのカギになると思います。
但し、チームは永続的なものとは限りません。相手なり同僚なりが既に何らかの理由で、修正可能性が無いという場合は、あなたはチームから離脱しなければなりません。そういう選択肢も頭の中に入れておく必要がある場合があります。
6 人間関係が把握できれば悩みが終わることがある
  例えば職場に嫌な人がいて、ちょくちょく嫌味を言ってくる人がいたとします。通常のパターンだと、あなたが攻撃したからこのような行為をするのではなく、あなたの存在が自分が評価を受けるにあたって妨げになる場合が多いようです。あなたは攻撃を受けるから、危険を感じているわけですが、そう分かってしまえば、特に危険を感じなくなるでしょう。恐怖から苦笑に変わるわけです。相手のこちらに対するライバル視は変わりませんが、危険意識は圧倒的に消失することがあります。何らかのポジションをめぐって相手がエキサイトしていても、自分はそのポジションは狙っていない場合も多くあります。そういう場合は、はっきりと自分と相手がライバルではないことを告げるべきです。敵意がないことを示すことが可能になります。少しずつ関係が改善していくことは可能になるはずです。
  例えば、夫婦で、奥さんがちょっとのことでヒステリーを起こして困っている時があります。多くは、奥さんはなんとなく、人間関係が永続するのか、自分は対等のパートナーとして扱われているのか不安になっている場合です。特に子どもが生まれた直後2年位、授乳をしている時期はそういうことがあるそうです。感謝の気持ちをはっきりと伝えること、奥さんの失敗を責めない不十分点を笑わない、批判しないということがあると安心感を少しずつ獲得していくようです。そこを自分の嫁さんは・・・と悩んでいると何も解決しませんし、自分は何も悪いことをしているわけでなく、悪いのは切れる奥さんだということを言い続けていくと、取り返しのつかないことが起きるわけです。あなたのちょっとした我慢、ちょっとした言葉、ちょっとしたプレゼントで劇的に関係が修復されるのであれば、するべきです。
  

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身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ 忘れさせられた日本のこころといさかいの真の原因 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

空也上人の歌が出典だという説が有力であるようです。
宮本武蔵の歌にも出てくるという話もあります。
君が代と同じで、
その心を永きにわたって日本人が共有してきた言葉だと思います。

この部分だけを文字通りに読めば
「溺れてしまった場合、
いたずらにもがいてしまうと
呼吸もできないし浮力も活かせない
益々苦しくなるだけだ
むしろ溺れることを恐れないで体を投げ出せば
浮力で体が浮かび上がり
呼吸もできるし
休むことだってできる」
という意味になります。

一般的な言葉の意味としては
窮地に陥ったときには
死ぬ覚悟があって、
初めて窮地を乗り切る活路が生まれる
というものだとされています。
この解釈は
どうやら宮本武蔵の歌(武芸の極意)が
影響を与えているようです。

本来この言葉は、
窮地に陥った場合に限定されたものではなく、
日常の人間の生き方にこそ当てはまるものだと思います。
特に自分が大事にしたい人間関係では
時々は意識する必要のある事柄を示しています。

対人関係学の観点からは、
全く正しい、とても的を射た言葉だということになります。

では、なぜ、身を捨てることが必要なのでしょうか。
身を棄てるということはどう言うことでしょうか。

この言葉には人間関係の紛争、いさかいに対する
深い洞察があります。

人間関係で紛争が起きるのは、
大抵は、自分を危険から守ろうとする気持ちが勝っているからです。
自分を守ると言っても、日常生活においては、
命の危険があるわけではありません。
ではどんな危険がから自分を守ろうとするのでしょうか。

それが対人関係的危険です。

対人関係的危険とは、例えば
「仲間からの評価が下がる」ということです。
評価が下がると
「立場がなくなる」とか、「顔がつぶれる」
ということになり、
さらには、
「仲間から外される」
という一番大きな危険につながっていきます。

人間は、群れを作り始めたころから
つまり今から何百年も前から
仲間から外されるということを
恐れている人生を送ってきました。

仲間から外されないように
行動を工夫して生きてきたわけです。

中には仲間から外されること恐れない個体もいたでしょう。
そういう個体は仲間から外れ行きますから、
飢えたり、
肉食獣に捕食されたりして
死滅していきます。
このため、仲間から外されることを恐れるものだけが
群れを形成し協力して生き延びてきたわけです。

だから、我々現在の人間は
遺伝子レベルで、
仲間から外されることを恐れるようにできています。
仲間から外されることにつながる
仲間の評価が下がるということにも
同じような危険意識を持つわけです。
これが対人関係的危険です。

対人関係的危険の意識は何百万年も受け継がれています。
あまり危険にさらされ続けると
心身が壊れてしまいますから、
人類は、色々な工夫をして
安心して共同生活をする工夫をして
危険にさらされ続けることを避けてきたわけです。

その工夫とは、例えば
人を必要以上に追い込んではいけないとか
理由もなく人を攻撃してはいけないとか
人を馬鹿にしてはいけないとか
他人のものを奪ってはいけないとか言うのも
そういう観点から意味付けをすることが可能でしょう。

ところが現代社会は
必要以上に人は追い込まれています。
せっかく祖先が作り上げた
様々の共同で生きていく仕組みが
現代社会では壊されたり機能しなくなったりしているようです。

例えば、
職場では、無理なノルマが課され、
無理をしなければ、
従業員として失格だというような評価がされ、
また常にノルマや仕事態度を自己点検させ、
評価を気にして仕事をしなければならず
ふいに理不尽に会社の都合で退職しなければならなくなる。
安心して職場にいることはできず、
同僚と世間話をする時間もありません。

就職に当たっても、
一度就職したら安心して人生を全うすることはできず
働きながら次の職場の心配をしなければならない人も多くなりました。
老後の補償もなく、それを考えないで
今生きることで精一杯の職場もあります。

安定した人生を送るためにといって
危険意識に過敏な思春期の時期にもかかわらず、
少しでも良い進学を目指して
他人よりも良い成績を目指しているわけです。

家庭でも
給料が低いと言われないかびくびくし、
成績が悪いと尊重されないということでテストを隠したり
片付けができない、料理が下手だということで
評価が下がる、低評価を口に出されてしまうのではないか
ということが怖い
毎日が脅えて暮らす日々
ということはどこにでも見られる日本に
なっているようです。

現代の日本人は
自分が誰かから低評価されるのではないかという
危険意識を抱いている
という傾向が強いと思います。

そういう風に育ってきていますし、
大人になってもどこかで低評価が行われるわけです。
実際に低評価され排除されたのが自分ではなくても
少しでも気を緩めると
今度は自分だということで強い不安が生まれます。

いわば、対人関係的危険の
傷口が開いている状態なのです。

傷口が開いているので過剰に敏感になっています。
通常ならば、膝に何かが当たっても
難にも気にしない人でも
膝がけがをしていてかさぶたもできていない状態だから
ちょっと触っただけで痛くなり、
足をひっこめるとか、悲鳴をあげるとか反応してしまいます。

だから、例えば夫と妻で役割分担をして、
妻が食事を作り夫が食器を洗うということにした場合、
傷口が開いているので、
夫から見て食事が手抜きだとか量が少ないとか
自分が馬鹿にされると思ってしまいます。
大事にされていないという気持ちになってしまいます。
自分を守ろうと無意識に感情や行動が起きてしまいます。
それは怒りになり、自分を守るために、
相手を攻撃して、自分が尊重されないことを否定したいのです。

妻は、夫の食器洗いが下手で納得行かないと
もしかしたら過去において食器洗いでこっぴどく叱られた記憶から
その時の傷口が又開き、
その時自分が言われたことを夫に言い、
わざと夫の目の前で食器を二度洗いをするかもしれません。
自分を守ろうとしている行動です。

数え上げるときりがないのですが、
悪意のない相手の行動にもかかわらず
傷口が開いていると
自分を低評価していると勝手に思うように
なってしまいます。

不満ならば自分で食事を作るとか、総菜を買ってくれば良いのですが、
それをしてしまうと、
自分の調理を低評価されたと
今度は妻が落ち込むということもあるので
けっこうデリケートな問題です。


本来は、そんなことで
改めて低評価をするということはありませんし、
例えば食事の作り方が雑だからといって
離婚したくなるわけではありません。

むしろ、疑心暗鬼になって自分を守ろうとするあまり
怒りを相手に向かわせることこそ
2人の関係を悪化させる原因なのです。

弁護士から見た場合の夫婦関係の不具合は
ほとんどがこの過剰反応から始まっています。
常に相手が悪いのであって自分は悪くない
と感じている事案なのです。

その人の状況はなかなか修正することができません。
多くの危険意識は無意識に生まれるため
傷口が開いていることも意識できません。

怒りが向かう相手は
どうして相手が怒っているかわかりません。
怒っている相手も、自分が怒っているという自覚があまりありません。
無意識の自己防衛に集中しています。

働いている人は職場で傷口が開き
家に帰って過敏のために怒りが生まれることがあります。
体調や病気が原因で
何も理由がなくても傷口が開いている人も多くいます。

対人関係の紛争は、
このような自己防衛感情、自己防衛行動の
ぶつかり合いから生じることが殆どです。
そしてこれは自分で自覚することができません。
意識の上では、先ず相手方の攻撃があったというところから
ことは始まっていると錯覚しています。

自分の大切な人間関係で
このようなもめごとや相手の傷口を広げない方法は
果たしてあるのでしょうか。

それが自分を棄てることなのです。
これはなかなか難しいことです。
なぜならば人間の本能、遺伝子に反することだからです。

もちろん自分のすべてを捨てきれることはできません。
また常にそのような生き方をすることも不可能でしょう。

でも、せめて2回に一回くらい、
大切な人といさかいを始めた時
大切な人の行動にカチンときたとき
「自分を棄てる」というアイデアを
頭のどこかで起動させることができれば、
大抵のいさかいは大きくなりません。

合理性、正義、理不尽、平等、正義
そのような価値観は
例えば家庭の中では棄てましょう。
だってそれは、
自分を守るための言い訳です。
怒りの感情を盛り上げるための燃料です。

せめて、自分の怒りに相手が傷ついているのを見た時、
相手をかわいそうに思い、
どうしたら良いかということで
思い出してください。

そう考えることが現代社会における
大人の愛なのだと思います。


例えば封建社会は様々な問題があり
克服されるべき制度であることは
間違いありません。

しかし、その否定のされ方が
全て一緒くたに否定された側面もあり、
本来否定しなくてもよい事柄も
否定されてしまったのではないかと
そう思えてなりません。

封建社会は、
現代社会よりも生きやすかっただろうなと
思うことがあります。

決められたことをやっていれば
それなりに尊重されたのではないかなあと思います。
現代とは違って。

現代とは違って
自分の領分という言葉があって、
そこには仲の良い人間も立ち入れない
そういうルールがあったからです。

このあたりの歴史は、
日本の近代化の過程で
黒く塗られてしまい
大いなる誤解を与えられているようです。

日本において古来は、
そもそも共同体意識が強く、
共同体の中で、自分を棄てることが
現代よりも多くできたのだと思います。
そうすることによって
共同体の仲間としての地位が
きちんと約束されていたのだと思います。

やるべきことをやれば
誰からも文句を言われないから、
多少の感情的な攻撃があっても
やることをやっているという意識があるため
防衛感情を起こす必要がなかったのだと思います。
理由もなく生まれてくる感情を
聞き流すことができたのだと思います。

近代化は
「個人」を単位とするということが
無条件でもてはやされてしまい
あるいはそのように追い込まれてしまい、
自分を棄てるという発想を奪われているのかもしれません。

あるいは戦争などの近代化を進めた歴史の中で
自分を棄てるという美徳が
国や産業など、大きすぎてヒトの感情が追い付かない
集団の一方的な利益のために利用されてしまったことから
封建制度が否定されたように一緒くたに否定されてしまい、
無条件で個人が尊重されなければならないと
思いこまされてしまうようになったのかもしれません。
しかし、それは、現代社会の病理を見ていると
個人の分断による、初期設定された傷口となっているように
感じられてなりません。


自分を棄てるということは
あくまでも自分を守るためであり、
自分が大切にしている仲間の幸せのためだということと
そのことによる個人が幸せになることと
切り離せないことなのだということを
そういう考えを
はじめから考えさせないという
悲劇の側面が強く表れている、

現在日本の人と人の紛争を見ていて
そう思えて仕方ないのです。


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