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なぜネアンデルタール人は墓地に花を置いたのか?Why did the Neanderthals put flowers in the cemetery? [進化心理学、生理学、対人関係学]

1960年代にイランのダール洞窟で、
ネアンデルタール人の化石とともに
大量の花粉が発見されました。
自然にある量ではないということで、
これは人為的に墓地に花を持ち込んだのだろう
と解釈されたわけです。
ネアンデルタール人は、
死者を弔うという宗教的行動をしたのか
薬草を運んで死者をいやそうとしていたのではないか
等と議論があります。
遺跡は7万年前のもののようです。

現生人類のホモサピエンスが墓地に花を置いたことが確認できるのは
それから5,6万年後の今から1万2千年くらい前
イスラエルのナトゥーフ人の墓です。
この発見がなされたのは、2013年のことです。

なんでこんなことを言い出したかというと
先日、カサブランカを車で運んでいてふと気が付いたからです。
対人関係学は、200万年前の人類の様子を想像する学問でもあります。
言葉のない時代に人間はどうやって群れを作っていたのだろう
なんていうことを考えているので、
人間とは何かということについて、文明を引き算して考える癖があるわけです。
ネアンデルタール人は数万年前まで存在したサピエンスの仲間ですから、
もちろん考察対象ですし、
花を手向けたのはどうしてかということは
ずうっと気になっていたことでした。

そして、車内のカサブランカの香りにむせながら
唐突にもしかしたらこれが正しい答えなのではないか
というひらめきが起きたので、
どうしても書いてみたくなったというわけです。

そしてその仮説を検証するべく調べていったら
ネアンデルタール人の花については、
あまり詳しい資料がなかったのですが、
ナトゥーフ人の資料に巡り合って
私の仮説が裏付けられているのではないかと
我田引水的に納得してしまいました。

ネアンデルタール人の行動の謎は、
数万年後のホモサピエンスの行動をヒントに考えれば
おそらく正しい結論にたどり着くということを発見し、
また、答え以上の重要で新しい思い付きがわいてきて
少し興奮しています。

そういうわけで答えから先にお話ししていきます。
ネアンデルタール人が死者に花を添えたのはおそらくその通りであろう。
きわめて実務的な、必要性があってそれをしたのである。
それは、死臭を消すためであるということ。

死臭はとてつもないもので、
一度つくとなかなか消えません。
当時は衛生状態も悪く、生きた人間であっても今より大変臭かったはずで
相対的に死臭はそれほどひどくは感じなかったとはいえ
やはり、その匂いにはまいってしまったことでしょう。

現在は、埋葬技術が進んでいます。
死臭ばかりではなく、病気の蔓延の原因にもなりますので、
名残は惜しいとしても、埋葬をする掟が確立されています。

当時はそのような技術はなく、
おそらく、死者が出れば、
死者を放置して移動をしたのだと思います。
(今でいう自然葬)
定住生活を始めたのは、農耕の開始と関わるとされ
今から1万年前くらいからではないかとされ、
それまではホモサピエンスも狩猟採取時代で、
定住せずに群れで移動して生活していたといわれています。

ナトゥーフ人の遺跡は都合がよすぎるくらいこの説を支持します。
先ず、ナトゥーフ人は、移動生活をせず定住生活を始めた人類であったと
遺跡から裏付けられているそうです。
時期的にも1万2千万年前ということで、符合します。
何よりも、この遺跡の草花が、セージやミントという
香りの強いものだったということが報告されているのです。
花は死臭を消すためのものだったという説が
どうしてメジャーにならないのかが不思議なくらいです。

おそらく考古学者たちは
化石ばかりを見ているので、
生身の死体を想像することができないとか、
文明の産物を前提として考えてしまっているのではないかと
マウントをとった気にさえなりました。

では、それより遡るネアンデルタール人がどうして花を置いたのか
どうして死者から立ち去ることをしなかったのか、
どうして、数万年間、花を手向ける遺跡が存在しないのか
という疑問が生じてくるわけです。

ネアンデルタール人は洞窟で暮らしていたとされています。
ホモサピエンスは、洞窟ではなく平地で生活していたようです。
ラスコー洞窟はホモサピエンス(クロマニヨン人)の洞窟ですが、
洞窟では生活していなかったということが定説になっています。

もし洞窟で暮らしていたとするならば
ある程度定住していたことになるのかもしれません。
そうすれば、死臭に対処する必要があったことになります。
洞窟であれば、地盤も固いため土葬も困難だったからです。

だから通常は、死者は
洞窟の最奥の縦穴の下の場所に置かれたか、
洞窟外に置かれ自然葬にしたはずです。

しかし、ダール洞窟のネアンデルタール人は
手元に死体を置いていたかった
それはなぜか。
今回その文献が見つからずあやふやな記憶で申し訳ないのですが、
花が置かれた死体は、子どもだったということを読んだ記憶があるのです。
そうであれば、答えは簡単です。
自分の子どもが死んだので
動物や昆虫に死体を渡すことが忍びなかったのではないか
だから手元に置きたかったのではないか
と思うのです。

親ならば、死体が壊れていっても匂いがしても
それほど気にはならなかったかもしれません。
親の悲嘆を群れの仲間は理解して大目に見たのかもしれません。

だけど、そっと匂いの強く色の鮮やかな花をおいた。

人情の機微を表現するほどの言葉はなかったはずですから、
無言で花を置いたのでしょう。
おかれた花を見て、親は(勘違いをして)
慰めを感じたのだと思います。
花には不思議なほど、人を癒す力があります。
これは文明とはあまり関係のないことなのではないでしょうか。

死者と近い人間には花は慰めになり、
死者と少し離れた関係にある人間にとっては
臭い消しになったというわけです。

その後ホモサピエンスが定住を始めるまで
死体に花を置くということは発見されていません。
何せ花粉ですから、長い間に痕跡が失われている可能性はあります。
もしかしたら、その間も死体に花を置くことはしていたかもしれませんが、
おそらく、
死体は、生活圏から離されていたというか
生活圏を死体の安置場所から移動していたのだと思います。

この間ホモサピエンスは定住を始めていませんので
ナトゥーフ人の遺跡まで花を手向けた跡がないことは当然です。

ダール遺跡のネアンデルタール人も
よほどの事情があって、それを仲間たちも承認するほどの事情があって
遺体を手元に置いていたという
ごく例外的な出来事だったと思います。
だから、花粉が保存されないことと相まって
それほど死体と花の組み合わせが発見されないのでしょう。

ちなみにネアンデルタール人が、そこまで
死者を悼む心があったかということが一応問題とはなりますが、
私は当然あったと思います。
サピエンスに心が形成されていったのは
約200万年前、ホモハピリスの頃の話なので
7万年前のネアンデルタール人が仲間を大切にしたことは
当然のことだと思います。

死者に花を手向けるのはこういう起源があったのだと想像します。
すぐに宗教の存在を考えるのは
文明人の悪い癖だと思います。

「慰められたのは遺族であって死者ではないことになる。」
「死者の実存を信じたからこそ花を手向けたのだから宗教的だ」
という反論もあるかもしれません。

私の考えは、むしろ遺族は、自分と死者との区別が
あまりつかなかったということなのではないかと考えています。
自分の一部が永遠に失われたという感覚ですから
死者が慰められることは自分を慰められることであり、
自分が慰められることによって死者が慰められたと感じるということが
自然の人間の感情ではないかと感じています。

埋葬とは、死者と遺族を切り離す行為ですが
どうしても必要な行為でした。
それを遺族に納得させる必要もあったと思います。
そして、それは遺族を慰める作業がどうしても必要だったはずです。
むしろ、ここから宗教が生まれる必要性があったのだと思います。
無神論者的には宗教が作られる必要性であり、
信仰を持つ者にとっては、啓示に目覚める契機ということになるのでしょう。

ネアンデルタール人は情に厚かったのかもしれません。
優しがあだになり滅亡した可能性もあるのではないかと想像を膨らましています。
洞窟に暮らしていたのであれば3密ですから
あっという間に滅ぶことも今では想像ができてしまいます。

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業病という言葉から差別の本質について考ええる。石原慎太郎氏の謝罪に学ぶ [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

石原慎太郎氏が、ALSという病気を業病と呼んで非難されました。
彼は謝罪をしたとのことです。
人を傷つける言動に修正が求められるのは当然のことですが、
誤りを認めて修正するということも褒められるべきことだと思います。

一連のこのエピソードによって、
差別ということの本質を
改めて考えるきっかけになりました。
そのことをお話ししたいと思います。

業病という言う意味は、広辞苑によると
悪業の報いと考えられていた難病と出てきます。
二版では、これで終わりですが、
報道では、業が前世の行いと解説されていました。
最近の版では載っているのでしょうか。

この考えは、7世紀の日本では既に存在していたようです。
光明子伝説という聖武天皇の皇后の逸話からもうかがい知ることができます。
(光明子は、8世紀の人物)

6世紀に仏教が日本に伝来してきました。
輪廻や因果応報という概念も入っては来たのですが、
いわゆる俗説的な解釈も広まっていきました。
本来は、すべてのものは定まった実体はなく
物事の動きの結果であり、一時的なものだという理論であるにもかかわらず
(方丈記の冒頭に文学的に示されていますね)
因果応報のことだと単純化されてしまいました。
結果が起きている以上、なんらかの原因があったはずだという具合です。

ちなみにこの因果応報は、果報は寝て待てという言葉もあるように、
良い意味でも悪い意味でも使われるというか
あまり価値がこめられない概念が本来の意味だと思いますが、
悪行の報いというネガティブな意味を持たされてしまっています。

自然科学も発達せず、病気のメカニズムもわからない時代です。
体が変形したり崩壊したりする病気で、
進行していって治せない病気は
当時の人たちはとても怖かったと思います。

人間の数も多くない時代ですから、
苦しみや悲しみに対する共感も頻繁に起こったと思います。
自分も同じ苦しみを味わうかもしれないという
不安や恐怖を引き起こしたでしょう。
何とか不安から解放されたいと感じたことでしょう。

そこに仏教の教えが俗物的にゆがめられて、
理由のわからない現世の苦しみは、
前世での悪い行為(悪業)が原因だという観念が生まれたようです。

そうして、難病に苦しむ人は、
前世に悪業を行った人であり、
自分はそうではないから難病で苦しまないから安心して良い
という考えで不安をぬぐっていたようです。

そして、難病の、体が変形したり、壊れたりする人たちは
報いを受けるほど前世で悪業を行ったひどい人間だということで
人間として扱わないという差別をし、
共感を遮断して助けを放棄していたようです。

住む家を追い出されて街をさまよう生活を余儀なくさせられていたようです。

私は、社会的差別の始まりがここにあるのではないかと感じています。
差別の端緒の本質をよく表しているように思います。

共感をするべき人に共感をしても
助けることもできず、自分が苦しむだけだ

いっそのこと、人間ではないとすることによって
共感を遮断してしまえ、
そのためにはむしろ敵だということで攻撃することによって
自分の心を軽くしようという心理が垣間見れます。

つまり、自分の不安を起こさないために
絶望を起こさないために
誰かを攻撃するということです。

いじめの構造にもよく似ています。

しかし、このことが道徳的には是とはされていなかったようです。
それが光明子伝説として語り継がれています。

光明子は聖武天皇の妻で、夫妻は為政者として仏教を広めました。
光明子は、夢の中でお告げがあり、それに基づいて
蒸し風呂のような当時の浴室で千人の垢を流すという願をかけます。
最後の千人目に、重篤な皮膚病の老婆が現れて、
体のあちらこちらにある患部から出てくる膿を吸い出せと命じます。
光明子は意を決して、膿を吸い尽くします。
そうすると老婆が阿しゅく如来の化身だったという伝説です。
もちろん、史実ではないですが、
そこに庶民の価値観が見えて取れます。

この話を支持する国民感情があったからこそ
この話が伝説として残ったのだと思います。

一方で、体が変形する難病者を業病者として排除の論理に立つ国民もいれば
そうはいっても自分の肉親だからかばいたいという国民感情があり
揺れ動く人々の気持ちが見て取れるような気がするのです。

また、伝説は仏教のプロパガンダという側面があるので、
難病者に対する排除をことさら強調して
その中で光明子の善行を際立たせているのかもしれないので
注意は必要ですが、
私は光明子伝説は、いろいろと学ぶべき資料だと感じています。

さて、いずれにしても、
業病という言葉がそのまま使われていたか否かは知識がないのですが、
前世の報いの難病という概念はすでにあったことも間違いなく
業病に対する差別も確かに存在したのだと思います。

苦しんでいる人をさらに差別するということも
差別の本質なのかもしれません。
業病は、差別とともに始まり、
差別の歴史そのものなのかもしれません。

一方でこのような概念がありながら、
近世になると、
業病が性病をさすようになることもあったようです。
梅毒など体が崩壊していき、当時は不治の病、進行性の病
という概念があったことからそう呼ばれたようですし、

前世を信じる人は少なくなり
自分の現世の不道徳の結果の病気だ
という意味合いが強くなっていったのでしょう。
渡辺淳一の「花埋み」ではこういう使い方をされています。

これは、もちろん本来の意味の業病を知らないで使っているのではなく、
当事者が、何の因果でこういう病気になってしまったのかと
嘆く場面で出てくる言葉遣いのようで
あえて誤用をしているという側面があるように感じられます。

病気以外でも
自分の不幸を嘆くときに
業という言葉を出して嘆くことが
文学には見られます。

これはもう、前世という概念を信じているというよりも
嘆き、理不尽な思いを表現する慣用句のように使われているようです。
信じてはいないけれど
知識として業病が前世の報いということは知っていたのだと思います。

つまり、理不尽なことがありその原因がわからない
もうこれは、前世というものがあって
その時に何か悪いことをしたとでもいうのか
みたいなニュアンスなのでしょう。

不合理なこと、理不尽なことが起きると
最終手段として自分に帰責性を求めて
絶望を回避するということは
現代の人間でも起きてしまう心理のようです。
子どもでもこういう思考パターンが見られます。
最終的な自己防衛手段とされています。

人間は理由なくひどい目にあうことに耐えられない動物のようです。
理由なく迫害されるよりも
自分に原因があるということで慰められるようです。
ぎりぎりの心理状態ですが。

差別は常に不合理なものだから
人間に対して絶望を与える大変危険なことになります。
差別を受けた人が自分に原因を求めてしまい、
自尊心をなくしてしまうのはそういうメカニズムのようです。

今回石原氏が業病という言葉を使ったのは、
進行性の病気で、体が変形していくなど外見上も悲惨な症状が伴う
難治性の病気という意味で使っていることは頭では理解できます。

こういう言葉に無神経であることの理由は、
歴代の作家たちが
業病の意味を知っていながらも、
表向きは前世や因果応報という場面ではないところで
業病とか業とかという言葉を用いていたことを
字面通りにしか理解できておらず
書き手が伝えたい理不尽さを表現するにあたって、
前世というありえない話を持ち出さざるを得ない
というニュアンスが伝わっていなかったということ
理解できていなかったということ示していますい。
この点を本人も不徳のいたすところとしているのでしょう。

この点に差別のもう一つの本質があります。

それは悪意がなくても差別なのだということです。
石原氏はALS患者が前世において悪い行為をしたとは
一切考えていないだろうと思います。
悪意はないのだと思います。

それでも、患者本人や患者の家族、知人たちは傷つくのです。
業病の正当な意味を知っている場合だけでなく
日本人として日本語のニュアンスとして
敏感に否定的意味合いを感じ取っているわけです。

そしてそれは、そう感じることが
日本文化の中では、正当な受け取り方だと思います。

大事なことは差別とは、
結果として差別をする側の心理的な不道徳性に本質があるのではなく
差別される側の、心理的ダメージ
排除をされる孤立感、疎外感、恐怖、不安という
自分を守らなくてはならないという強迫観念を引き起こされる側の
心理状態で判断されなくてはならないということです。

差別を受ける人の気持ちや差別される苦しみというのは
しかしながら、その人と接点のない人はなかなか気が付きにくい
ということを障碍者差別を学んでいく中で気が付かされます。

大事なことは弱者が、少数者が、
自分の苦しみや、ハンディキャップを克服するための方法など
声が伝わる仕組みが必要なのだと勉強しています。

恩恵として与えることは
差別解消とならない危険があります。
逆に人を苦しめることもでてきます。

まずは、その人の話を聞く、
その人が安心して話すことができるようにする
ということから始めなければならないようです。

また、人の苦しみから目を背けようとしないこと
これが一番難しいことかもしれません。









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つい虐待をしてしまう親御さんへ。虐待をしないことよりも虐待をしてしまった後のフォローならば頑張れるかもしれませんよ。 [家事]



1 ついしてしまう虐待。その後のフォローとは。
2 もしかして、親御さんはまじめすぎるのではないですか。
3 もしかして、親御さんが追い込まれているのではないですか。
4 もしかして、親御さんは体調が悪いのではないですか。
5 虐待されたお子さんの気持ちの動き
6 子どものために大勢の人の世話になろう。借りを作って豊かな人間生活を送ろう。

1 ついしてしまう虐待。その後のフォローとは。
 
親だって人間ですから、お子さんに対してだって
自分の素の部分が出てしまうことがあるのはみんな同じです。

つい大声で注意してしまったり、
言葉の内容がきつすぎたり
時には手が出てしまったり、
あるいはどうしても必要な世話ができなかったり
多少なりとも親ならば覚えがある方が多いと思います。

やってしまった後で後悔するのですよね。
その時の子どもの表情が
信じられないという表情で、恐怖の表情でこちらを見たり、
泣き出して収拾がつかなくなったり
悲しい顔をして黙り込んだり、
それを見ると、忘れられなくなり、
ああ、自分は悪い親だなと思うわけです。

虐待してはいけない、してはいけないと思うと
逆にそれがプレッシャーになって
余裕がなくなってきたりします。

発想を変えてみるということがあると思うのです。

ある程度虐待には目をつぶってもらうとして、
大事なことはそのあとのフォローだと考えてみてはどうでしょうか。
もっとも、命を奪ってしまったり、
一生消せない傷を負わせてしまってはこのお話も通用しません。

考えてみれば、
昔から子どもはぞんざいに扱われることが多くありました。
それでも健全に成長していました。
今とそのころと違うのは、
昔は誰かがフォローをしたということです。
例えば母親が感情に任せて手を出したとしても
おばあさんが、
「お母さんはあなたが大事だから、心を鬼にしていってくれたんだよ」
とか
一緒に住んでいるおじいさんが
「あとで一緒に謝ってあげるから心配しなくていいよ」
等と飴などくれながらフォローがあったものです。

お母さんもお父さんも他の家族の目があるから
自分をある程度はコントロールできていた
ということもあったと思います。

父親が子どもを叱った後で
母親がとりなすというパターンも多いでしょうか。

あるいは別の人がとりなさなくても
感情に任せて叱った後で、はっと気が付いて
「お父さんはお前が憎くて怒ったわけではない。
 このことは大切なことだからどうしてもわかってほしかったのだ」
等と都合の良いことをずうずうしく言って
子どものフォローなのか自分のフォローなのかわからないようなことを
言ったものです。
それでも子どもは救われたと思います。

フォローとは
自分の行動が子どものために行ったことだという説明と
(多少嘘でも構わない)
自分は子どもを憎いと思っていない、愛している
どんなに失敗しても親として見捨てることはない
というメッセージを伝えることです。

子どもの年齢によってはハグも有効でしょうし、
気持ちを切り替えて一緒に何かをするということも良いでしょう。
要するに
お子さんが自分は嫌われていない
自分は厄介者にされていない
自分は見放されることはない
という感じさせることがフォローなのでしょう。

お父さんはあなたを大切に思っているよ
お母さんはあなたが嫌いではないよと
虐待した後は必ず言いましょう。
それから虐待しないときでもいつでも
是非至近距離で、声の風が伝わるところで
時々は声に出してお話ししましょう。

時々は子どもに思いっきり甘えさせましょう。

つい手が出てしまったり、ついきついことを言うのをやめられなくても
フォローをすることはできることです。
できるだけ間髪開けずにフォローしましょう。
できれば、虐待する前でもフォローしましょう。

2 もしかして、親御さんはまじめすぎるのではないですか。

虐待をする親御さんをむしろ心配している年配の私たちがいます。
もしかしてこういう方々が多いのではないかということです。

第1は、まじめで責任感がありすぎるのではないかということです。
お子さんの些細な失敗や不十分点も
今のうちに直しておかなければならないと思って
100パーセントできるまで追及してしまうとか。

お子さんの道徳に反したことに絶対に言い訳をさせない、
親は間違ったことを許さないという態度をとらなくてはならない
と思い込んでいらっしゃるとか

大きな声を出したり、手を出したりしたあとで
自分が許せなくなり、フォローができない
フォローなんて図々しいと思ってしまう。

正直すぎるわけです。
でもそれでは、だれも幸せになりません。

子どものためならずうずうしくて良いのではないでしょうか。
あなたが潔癖でいる事より
お子さんの気持ちを優先するべきだと私は思います。

まじめすぎる人は
二度と虐待はしないと誓ってしまいます。
誓ってしまうと
ご自分が失敗してしまうと自分が許せないですし
一度手を出したりすると
自分は虐待しなくては生きていけないんだと
わけのわからない発想に陥って、くよくよしてしまいます。

自分の失敗や風十分点こそ許しましょう。
自分に甘くすることが虐待を少なくする出発点かもしれません。

自分を甘くすることによって
子どもはもっと甘くしていいんだということがわかるようになると思います。

いいじゃないですか
たまには子どものずる休みに付き合って一緒に昼寝するのも
子どもにとっては一生の思い出になるかもしれませんよ。

3 もしかすると親御さんが追い詰められているのではないですか。

もっと心配なのは、
親御さんが、会社ですとか、家族ですとかから追い詰められていたり、
あるいはお金がなくて困っているとか
解決不能の問題に直面していて
自分を守れないと感じている場合です。

こういう場合は、一時的に頭がおかしくなっていますから、
子どもの何気ない仕草でも
子どもが自分を馬鹿にしているのではないか
と感じやすくなっています。

子どもを疑ってしまうときは
何か感謝ができることを探しましょう。
あるぼろぼろの時、
自分が夜風がしのげる家で眠ることができる
ということを感謝してみたのです。
そうしたら、いろいろなことを感謝できるようになり、
笑ってみることもできたのです。
もっともそれを誰かが見ていたら
おそらく不気味に感じたと思います。

親だって失敗してよいのだと思います。
失敗から立ち直る姿を子どもに見せられたら
子どもにとってかけがえのない財産になるでしょう。

失敗しないことを見せるよりも
失敗を跳ね返すことを見せる方がより実践的なしつけです。
必ず失敗することはあるのですから。

それができるのは親のあなただけです。

子どものために頑張るというのは、
失敗を無かったことにすることだけではない
と私は思います。
フォローというよりリカバリーですかね。

誰かに助けてもらえば良いのです。
助けてくれそうな人がいなければ
片っ端から相談して助けてくれる人を探せばよいのです。


4 もしかして親御さんは体調が悪いのではないでしょうか

気が付かないうちにお体を悪くされて
どうしても朝起き上がることができない
どうしても立ち続けることができない
ご飯を作ることすら集中力が続かない
ということはあることです。

それでも、やるからには
一つ一つ手作りで、一つ一つの栄養を十分に
なんてことを固く考えていると
結局何もできません。

小学校の中学年くらいまでは
炭水化物中心の食事で構わないと栄養士の先生の本に書いていました。
ごはんとか、パンですね。
パン買っておくとか、場合によってはお弁当を買っておくとか
時にはカップのラーメンを買っておくとか
どうしてもできないときは
勘弁してもらうしかないと思います。
何もしないことよりずうっとましです。

なまじゴミ箱なんか使わない。
大きなごみ回収袋を用意して
片っ端から入れていく方が実行的なときはあります。

元気になってからまとめてお世話するしかないと思います。
困ったときはお互い様です。
最後にお話ししますが、
子どものために、誰かの世話を受けることも検討してください。
それだけは、あなたが他人の世話になることが嫌でも我慢してください。
だけど、世話になりやすい人って必ずいますから
情報を入手しましょう。
片っ端から探してみましょう。

弁護士という仕事柄
罪を犯した人と話をするのですが、
いろんな人に支えられて今いることを思い知らされた
借りを作り、みんなに感謝しながら生きている方が
一人で頑張って生きるよりも
よほど豊かな人生を送ることができる
他人にも優しくなれるという言葉が印象的でした。

5 虐待されたお子さんの気持ちの動き

虐待の内容によって違うところはあると思うのですが、
虐待を受けた子どもの心をのぞいてみましょう。

人間に限らず動物は、生きていたいと思うものです。
馬は草を食んで、肉食獣が来たら群れで逃げたいと思うでしょう
ライオンは、力を強くして走って獲物にとびかかろうとするでしょう。
生きていくために動物はいろいろな戦略を立てて生き延びてきました。

言葉の無い時代から
人間は仲間を作るという戦略で生き延びてきました。
仲間から外されると不安になるので
自分の行動を改めても仲間に入れていてほしい
と、だれも何も教えなくてもそういう気持ちになります。
そういう仕組みで仲間を作ってきたわけです。

一言で言えば
仲間から外されそうになると不安でいっぱいになる
ということが仲間を作って生き延びる方法だったわけです。
そう言う不安にならない人間たちは生き延びることができず
不安になれる個体だけが子孫を残していったとも言えるでしょう。

子どもは特に仲間にしがみつこうとします。
自分では何もできない、生きていけないので
仲間に強烈に依存しています。
子どもは依存の天才です。

ところが虐待をされるということ
叩かれたり暴力を受けること
人格を否定する暴言を受けること
食事や排せつなどの世話をされない放置
殺伐とした家庭環境におかれること
等を受けている子どもたちは
自分が仲間として扱われていないということを感じて
たまらなく不安になるわけです。

馬で言えば足を折られそうになっている場合の不安ですし、
ライオンで言えば、牙を全部おられるときの不安
と同じということです。
つまり、自分を守ることができなくなる
という現実を突きつけられるわけです。

ここから先はお子さんの個性によって変わってくるようです。

あるタイプのお子さんは
親が自分の仲間になってくれないなら
およそ誰も人間というものは自分に利益を与えてくれない
誰でも人間を見たら攻撃者だと思い遠ざかり
近づいてくるものに敵意を示す
という具合になっていきます。
これは人間だけでなく哺乳類全般の傾向らしいです。

もう一つのタイプは、人間特有なのですが、
自分が仲間扱いされないならば
仲間扱いされるまでこびへつらうというタイプです。
なんとか機嫌を損ねないよう常に細心の注意で相手を観察し、
何か間違った行動をしてもひたすら隠したり
自虐的な行動をとる
誰にでもすぐになつこうとしてうっとうしがられる
適正な距離を保つことができず
悪い大人の食い物になるパターンもこのタイプです。

ずいぶん前に母と祖母からの虐待で亡くなった10歳の女の子は、
亡くなる半年前、小学校での2分の1成人式で
「お母さん大好き」という作品を残していました。

多くの虐待を受けた子どもたちは
自分の親を嫌いになるとか、親の元を去るという選択肢を
初めから本能的に与えられていないのです。

そのようなお子さんたちが
今自分が受けている理不尽な対応をどのように考えるのでしょうか。

殴られたくない、疑われたくない、タバコの火を押し付けられたくない
ご飯を食べたい、大事にしてもらいたい
仲間外れにされたくない
でもそれをしてくれない。

自分が悪くないのにそういう目にあっている
そう正しく理解してしまうとどうなるでしょうか。
待っているのは今の苦しい状況から逃れる方法はないという悟り
つまり絶望です。

人間は絶望を感じることに耐えられません。
絶望を感じてしまうと命も大切に思えなくなるようです。
このため、
無意識に絶望を回避する思考をしているようです。

子どもたちであれば
自分が悪いからこういう目にあうのだ
自分がもっと良い子であれば
もっと楽な生活が送れる。

それは、子どもにとって絶望に陥らないための
ぎりぎりの生きるための知恵だと言われています。

理不尽な目にあえば会うほど
自分は悪い人間だと自分に言い聞かせて大人になっていくわけです。
自分に自信がなく、幸せになれるということも信じません。
どうして生きてきてしまったのかなんてことを考えるようです。

ですから、
虐待の最大の問題は子どもの心に与える影響です。
暴力暴言、ネグレクトだけが虐待ではない
暴力暴言、ネグレクトがなくても
虐待をしているかもしれないのです。

6 子どものために大勢の人の世話になろう。借りを作って豊かな人間生活を送ろう。

人間はサルやクマなんかとは違う種類の動物です。
母親だけが子育てをするわけではありませんし、
両親だけが子育てをするという仕様にはなっていません。

多くの大人たちによって子育てをしてきました。
それができない現代社会は
人間という動物種にとっては異常な時代なのです。

子どものためにたくさんの人に借りを作りましょう。
不自由な思いをしても、感謝ができるということは
人間として生きるということだと思うのです。

どうしても人間は絶望を回避するために
自分が悪いからうまくいかない
という風に思いがちです。
本当にそうでしょうか。

私は、
子育てに関しての社会的なハンディキャップを放置している現代社会は
人間社会になり切れていない未成熟社会だと感じています。
子育ては親の責任かもしれませんが、
子どもに自己責任を負わせるわけにはいかないじゃないですか。

親を中心としてみんなで子どもを育てるシステムが
あまりにも貧弱なだけではないかと考えているのです。
社会というシステムの整備の
優先順位を間違っていると思います。

安心して誰かを頼れるシステムがないということは
本当に問題です。
子育ての相談をしたら
子どもを取り上げられてしまうということでは
誰にも相談ができなくなってしまいます。

不利益を受けるのはいつも子どもです。

子どもの利益を第一に
しかも科学的に考えたシステムの構築が
最優先事項だと思います。

「きちんと子育てをさせろ」
社会に向かって要求することが
人間らしい要求であると私は思います。

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夫婦喧嘩の悪影響 子どもの前で夫婦喧嘩をしてしまった場合に、必ずしなければいけないこと。 [家事]


同じことを他人から言われても
笑って聞き流すことができますが、
どうしてっていうほど、頭に来ますよね
妻から言われたり、夫から言われたりすると。

対人関係学的に言えば
潜在意識の中で、
一番尊重されたい相手だ、一番大切にしたい関係だ
と感じているので、
些細な非難めいたことでも、
強烈な痛みに感じてしまうから
自分を守ろうとして、相手を攻撃してしまう
という言い方をしています。

いずれにしても、
夫婦喧嘩ということはついしてしまうことで、
5秒待ってから怒りを表現しようなんて余裕は
私の理論からすると
相手を愛していればいるほど無理な話だということになります。

5秒なんて待っていたら
過去にもああ言われた、こういう目にあった
なんてことを思い出して、ますます逆上してしまう
と思うのですが、まぜっかえしすぎな屁理屈でしょうか。

しかし、夫婦喧嘩は子どもに対して悪影響がある
これは統計的に確立された結論のようです。
(シャファー「子どもの養育に心理学が言えること」)

夫婦喧嘩を見せることが児童虐待にあたるとも言われています。

確かに自分の両親が喧嘩しているのを見ることは嫌なことです。
子どもにとっては、両親が円満でいることこそ家族のようです。
家に帰ってきたくなり、家に帰れば安心して
嫌なこと、危険なことの体験を親に報告してアドバイスをもらう。
子どもだけでは解決しないことがあれば
大人が解決に乗り出す
こういうことが可能となります。

ところが夫婦喧嘩を見せられると
自分の所属するべき家族が、今にも空中分解するのではないか
という気持ちになってしまうようです。

夫婦だって、別に安心しきって喧嘩しているわけではないのですが、
一人になってもそれなりに生きていけると感じているのが大人ですが、

子どもはこのまま両親の喧嘩がついてしまった結果
学校にも行けなくなるのではないか。ご飯も食べられなくなるのではないか
みたいな不安を覚えるようです。
当事者が感じているよりもばかばかしいほど大きな
恐怖を感じるもののようです。

夫婦喧嘩ばかりの家では、子どもは常に緊張しており、
夫婦喧嘩の様子を自分の将来に重ね合わせて
ドキドキハラハラしているようです。

家が、家族が無くなってしまうのではないかという恐怖は
自分がどうにかなってしまうのではないかという恐怖と同じです。

これは離婚した後も続くようで、
現在では離婚の子どもに与える悪影響よりも
離婚した後の親の葛藤が子どもに与える悪影響の方が大きい
と言われています。

ところが、シャファーの調査研究紹介で面白いことが報告されていました。

夫婦喧嘩は、やりっぱなしで終わるよりも
最後何らかの解決に落ち着く方が
子どもへの悪影響は少なくなるということでした。

これから考えると
子どもの前で夫婦喧嘩をしてしまってもそれで終わりではなく、
ある程度歩み寄って、あるいは嘘でも良いから
子どもの前では問題を解決して
夫婦喧嘩を終了させることが大切だ
ということになりそうなのです。

「そうだね。カッとして大きな声を出したことは悪いのでそこは誤ります。」
「この点については、改めて考えてみます。」
「大事なことなので、また話しましょう。」
ということで、嘘でも良いので、その場を完結させる。
これは子どもの前で喧嘩したときはどうしても必要な作業のようです。

子どもの前でヒートアップしたときは、
どちらかふと我に返った方が
謝れるところを探して謝るという作業が第1ということになるのでしょう。

声を大きくした
乱暴な言葉を使った
言わなくても良いことを言った
ものにあたった等

こういうルールを作り、何度も確認することが
子どもへの悪影響を最小限にするための方法だと思います。

夫婦喧嘩をしないに越したことはないと思いますが。

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体罰が子どもにとって有害であるかについては科学的に結論が出ていない。これをどう考えるか。むしろ体罰をやめようとするよりも大切なこと。 [家事]



体罰禁止を法に盛り込む方向で検討が加えられているようです。
しかし、驚くべきことかもしれませんが
科学的には、体罰が子どもの成長にとって有害である
との証明はなされていません。
(「子どもの養育に心理学がいえること 発達と家族環境」
 H.R.シャファー 新曜社)

本稿は、
科学的に証明されていないのだから体罰禁止をすることをやめろ
ということを言いたいのではありません。
体罰が子どもの成長に影響があるという証明ができない理由の分析と
もしかしたら
子どもに悪影響を与える体罰と
健全な成長を壊さない「体罰を含んだしつけ」があるのではないか
ということの問題提起と
何よりも、体罰よりも気を付けるべきことがあるのではないか
ということを一緒に考えたいということです。

シャファーは、統計調査に基づいて
「体罰が子どもに悪影響を与えるかわからない」と結論付けています。

近年の心理学は、理系の学問であり
統計調査の手法はかなり洗練されています。
体罰の定義もきちっと定めて調査を行っているのです。

しかし、それがために、
個別の具体的な体罰についてリアルな違いを調査することが
不可能になっていると思います。

例えば、親が子どもに平手打ちをすると言っても
①反射的に手加減をする余裕なく平手打ちをする
②色々言い分を聞いたうえで、必要な罰として選択された平手打ちをする。
③平手打ちをするけれど、叩いたところをさすったり、抱きしめたりして
愛情を示すフォローをする。
④平手打ちをした後声もかけずに孤立させる

①④の組み合わせは子どもに害がありそうですね。
さらに追い打ちをかけて子どもをののしっていたら
子どもの心はさらなる害を受けるでしょう。
殴った後で指をさして笑っていたらますますひどい。

②と③の組み合わせであれば
よほどひどくたたかない限り
子どもに害はないのではないかと考えてしまいます。
叩いた親の方が悲しそうな顔をしていたりしたら
「自分が悪かった」と子どもも思うのではないでしょうか。

こういう細かい事情は統計では調査しきれません。
個別聴取の方が有効でしょう。
ただ、個別聴取は大量聴取ということが逆に難しいため、
普遍性のある結論をだすことには難がある
という弱点があります。
どうしても一長一短があることは仕方がないことです。

対人関係学は、統計学や実態調査が不可欠であると考えていますが、
この間隙を理論的に考えることが多いかもしれません。

体罰の問題で言えば、対人関係学は
体罰が、子どもの成長に悪影響を与えるとしたら
それはどういう理由なのかというところから考えるのです。

暴力の直接の害悪は
痛いということ、あるいは
身体の完全性を損なう可能性があるということです。
しかし、心への影響はもう少し複雑だと思います。

子どもに限らず、人間は仲間の中で尊重されていたい
仲間から見捨てられたくないという意識を持ちます。
子どもの場合はもっと積極的に
大人の仲間から守られたいという意識があります。

だから、むしろ健康を気遣われることが当たり前だと感じています。

それが、逆に大切にされたいと本能的に感じる親から
健康を害する行動を自分に向けて意図的に行われることは
自分が仲間として認められていないということを強烈にアッピールされ、
やがては仲間から追放されて、孤立してしまう
というような負の感情を抱いてしまうと
そこまで整除立てて感じているわけではありませんが
不安や恐怖、疎外感などという感情が起きてしまっています。

体罰が理不尽であればあるほど
生命身体の危険とは区別された
対人関係的な危険を感じやすくなり
大きく感じやすくなります。

そうだとすると
体罰がきついものでさえなければ
体罰が一律に対人関係的危険を感じるわけではない
ということが言えないでしょうか。

(体罰がきついものであり、その体罰によって生命身体の危険を感じるほど強ければ、「生きるために自分を守る」という意識が芽生え、常時一緒にいる親に対して警官感、緊張感が持続してしまいます。このような場合、一般に人間を避けるようになるか、人間にこびへつらっていないと心配でたまらない人間に育ってしまいます。慢性持続的緊張は、生理的も悪影響が生じ、思考などにも有害な影響を与えてしまいます。)

孤立感や不安を与えない体罰であれば
それほど有害ではないのではないかとも考えます。

色々な状況で
体罰が有効であることが否定できないように思うのです。
例えば、子どもが
頭ではその行為をしてはならないと理解しても
どうしてもやってしまうということは
子ども時代の自分を考えると
ありうるような気がします。

つい、教室の中で授業中に勝手に席を離れてしまうとか
つい、友達に乱暴なことをしてしまうとか、
(相手の痛みを想像することができない子どもの攻撃は
常軌を逸していて大変危険であることがあります。)

親の言いつけを守らないで、雨降りの河川敷で遊んでいたり、
知らない人について行ったり等
子どもの命の危険を防止するということも必要です。

もちろん、暴力を使わないで
子どものしてしまったことの深刻さが伝えられれば
それに越したことはありません。
子どもが体罰抜きでそれを理解できればそれに越したことはありません。

しかし、伝わらない、理解することができない場合
それでも、伝えなければならない、理解しなければならないときがあります。

体罰も含めてしつけは家庭の問題です。
国家が介入することは慎重にあるべきだと思います。

それはともかく、
つい、つい、だめだと分かっていても
おとなも子どもに手が出てしまうことがあります。

あまりにも体罰はしてはならないということを強調してしまうと
体罰をしてしまった自分が
極悪人のだめな毒親のような気がして
落ち込んでしまう人もいるのではないでしょうか。

落ち込んで反省して、叱り方を研究すればよいのですが、
そんなに都合よい情報は検索しても出てきません。
むしろ、自分はダメな親だと開き直って
体罰を気にしなくなってしまうことが心配です。
誰にも相談できないで体罰が繰り返されることも心配です。

一つの方法として覚えていていただければ
役に立つのではないかということを最後にお話ししてみます。

体罰をしてしまったとき気にするべきは
子どもが「自分は親から嫌われているのではないか」
「親から見放されるのではないか」
「これからは一人で生きていかなければないか」
というような心配を言葉にできない状態で不安になっているということです。
そういう子どもの心を気にするべきです。

叩いた場所をさすりながらでも良いし
手を握ながらでも良いし
抱っこしながらでも良い

叩いたことを率直に詫びながら
例えば
「そういう乱暴なことをしないでみんなと仲良くしてもらいたいんだ」
「もう大丈夫だよ。学校の先生の言うことを一番にしようね、」
とか、
どうして体罰をしたのか合理的な説明をすることが一つです。
もう一つは、
「あなたが一番大事だよ」
というメッセージを、わざとらしく、くさく、繰り返すこと。
脈絡を気にしないでよいのです。

この二つのフォローすることによって
体罰があっても子どもの心を傷つけないのではないか
ということです。

これは子どもにとってのフォローなのですが、
体罰をしてしまう親にとっても
再発防止に役に立つ自己暗示の一種になると思っています。

最後に、単なる親のイライラのはけ口で子どもに八つ当たりをすることは単純な虐待であり、ここで考えている体罰とは関係がないのでご注意いただきます。

その点についてもまとめの途中ですのでもうしばらくお待ちください。




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子どもの貧困対策として養育費の支払いの強制の政策は、子どもにとって有害である愚策であること。養育費を支払う意義ともっと簡単な方法。 [家事]



先日法務大臣が、養育費の未払いが子どもの貧困の大きな原因だと言ったという報道がなされたけれど、誤報であろうと思いたい。現在の法務大臣は、過労死防止対策等で実践的に活躍されている方である。きちんと問題点、原因、改善方法を理解されてお話をされていた。こういう論理的思考ができる方だから、感情的な、非論理的な話をされるとは到底思えないからだ。
本拙文は、養育費の支払いを行政が強制する政策が、きちんとした政策ではなく、感情的、非論理的な政策であり、子どもにとって害悪しかないということを説明することを目的とする。併せてどうすればよいかということも説明する。

1 子どもの貧困を養育の未払いが原因だとすることは政治家と社会の責任逃れであること。
2 養育費が支払われることの子どもにとっての意味
3 養育費を強制することの子どもにとっての弊害
4 養育が支払われない事情
 1)同居親が養育費を請求しない事情
 2)別居親が養育費を支払わない事情
5 養育費が支払われるための簡単な方法
6 養育費が支払われるための根本的な解決方法
7 いま進められている制度に全く賛成できないということ

1 子どもの貧困を養育の未払いが原因だとすることは政治家と社会の責任逃れであること。

先ず、子どもの貧困の一番の原因は何か。当然賃金が低いということである。男であろうと女であろうと、大人が働いて子ども一人養えないというのである。これは社会の問題であり、政治の問題そのものである。さらに男女間賃金格差があること、働き口はあっても雇止め等不安定雇用が子どもの貧困の最大の原因である。特に政治家が、このような社会環境を放置しているという自らの責任を、低賃金労働者の責任にすり替えることは許されない。女性の権利を主張する人たちも、主としては元夫に責任を求める傾向にあり、低賃金、男女格差、不安定雇用を子どものために改善しようということが前面に叫ばれることが少ない。低賃金、男女格差、不安定雇用の恩恵を受けている企業や政治家にとってだけ、とても都合の良い主張ということになる。アメリカのフェミニストであるナンシー・フレーザーが、「現代のフェミニズムはグローバル企業のサーバントに堕落している」という主張をしているが、養育費をめぐる議論はこの具体例であり、象徴的な事例である。

2 養育費が支払われることの子どもにとっての意味

それでは、養育費は支払う必要がなく、低賃金、男女格差、不安定雇用の改善をもっぱら主張すればよいのか。それも違う。養育費を支払う意味は、子どもの経済的安定だけではないからである。
むしろ養育費を支払う一番の目的は、子どもの自信の獲得である。子どもは一緒に住んでいない親からも愛情を注がれることを実感することによって、離婚によって被る負の影響である自信の低下を軽減することができる。(また、自分が尊重されていると実感するためには自分の親も否定されないということが必要である。これは、結婚後、相手から自分の親の悪口を言われた場合にどういう感情になるかということで、多くの既婚者は体験していることと思われる。)
子どもは、毎月、決められた金額が欠かさず自分のために振り込まれるということを知ることで、自分が別居親からも大切にされていることを実感できる。養育費は子どもの自信のためにとても有効な方法である。養育費や婚姻費用の別居親からの支払いを子どもに隠す同居親がいるが、この意味で同居親が送金の事実を隠すことは子どもを害することである。親としての資格が欠落している。
相手が嫌いでも、「あなたのために頑張って毎月送金してくれているんだよ。いつもあなたのことを考えてくれているんだね。」と嘘でも言うことが子どもに対する愛情である。これができないということは、子どもの成長よりも自分の感情を優先しているだけの話である。

3 養育費を強制することの子どもにとっての弊害

さて、このような重要な養育費が支払われないということは子どもにとって害悪である。しかし「養育費が支払われることが必要なのだとすれば、支払わない親に支払いを強制するべきではないか。」とこのような乱暴な理屈がまかり取っているのが現代日本である。どうして乱暴な議論かというと、最大の問題は、子どもが実の親が裁判所などから強制的に支払らわされているということを知った場合、養育費の支払いは別居親が自分に対する愛情だということは到底考えないからである。さらに、自分は、強制されなければ約束も守れない親の子どもだということを子どもに突きつけることとなる。また、強制という安易な方法に飛びつくことは、結局強制されなければ支払わない現状は変わらず、放置されたままになる。今一番考えなければならないことは、強制的に支払をさせるための費用を貧困者であるはずの同居親が負担しなければならないということである。現在進められているプランは、住宅の賃貸借契約のや住宅ローンの保証会社の保証契約のように、毎月の養育費の支払いの中から将来支払が行われなくなった時に備えて、養育費の一定割合を保証会社に支払うというプランである。ただでさえ少ない養育費がさらに子どもに回らなくなるといういわば貧困ビジネスである。
このような乱暴な意見が出てくる理由は一つしか考えられない。つまり、なぜ、養育費が支払われていないのかという原因を考えていないからである。原因も考えないのであれば有効な対策を考えつくはずがない。力によって取り立てる事しか考えられないのである。そもそも養育費を支払う理由が、子どもの健全な成長のためだという意味を知らないということにも起因する。この二つの無知は、結局、子どもの健全な成長を図るということが出発点になっていないということを意味するのである。

4 養育が支払われない事情
 1)同居親が養育費を請求しない事情
   先ず、養育費が結果として支払われない理由が、別居親が支払いを怠っているというケースが本当に多数なのか検証をするべきである。私の実感では、養育費の取り決め自体をしないケースが圧倒的に多いような気がする。
協議離婚の場合は、いち早く離婚したいという同居親の要求が強く、離婚までの期間を先延ばしする議論はしたくないという行動傾向が見られる。養育費を決めてから離婚するなんて煩わしいのである。
また、相手に対する嫌悪の情が強く、そんな相手から金をもらいたくないという意思に接することもある。養育費を受領し続けることによって、何らかの関係を継続させることが嫌だということもある。
   さらに一部は、子どもまで奪ってさらに金を払わせるということの罪悪感から、養育費を請求することなどできないと感じている同居親もいないわけではない。これらは、先の二つの感情と紙一重の微妙な感情であることが多い。
   養育費を請求しない理由は、実務的には公的給付との関係がある。母子家庭の場合、児童扶養手当が自治体から支払われる。ところが養育費が支払われていると、金額によって手当てが減額される。入るか入らないかわからない養育費のために児童扶養手当が減額されたり、手続きが面倒になるなら、養育費等受け取らず児童扶養手当を満額受給したほうがよいという選択は経済的にはもっともなことである。養育費の支払いは、実は自治体の財政との関連で考えられているのかもしれない。
   しかし、養育費は、子どもの心理発達面に寄与することが主目的の制度である。その点の理解を促すと、養育費は支払われるようになるし、請求するようになる。これ抜きに子どもの利益を経済的利益に矮小化する昨今の自治体の養育費支給キャンペーンは、子どもの利益ではなく、自治体の児童扶養手当の給付予算の削減が主たる目的ではないかという疑いが払しょくできない。
 2)別居親が養育費を支払わない事情
   養育費の主目的を考えると、同居親が養育費を請求しなくても、別居親が養育費の支払いを自ら請求するべきであり、私の依頼者たちはほぼ自ら婚費、養育費の支払いを同居親の請求に先駆けて提案し、実際に支払っている。
   しかし、実際の別居事例、離婚事例を見ると、養育費を支払うモチベーションを下げる公的手続きが行われている。家事手続きが子どもの利益よりも大人の感情で動いているということである。
   かなりの割合で、別居親が貧困状態にある。別居親に同居親よりも収入があったとしても、連れ去り事例の少なくない割合で住宅ローンが始まったばかりだという事情がある。別居親は外食が多くなるため食費がかさむ。家族を失ったことで精神科の治療や各種カウンセリングを余儀なくされる。カウンセリングは健康保険が使えない場合も多いので費用がかさむ。実際に不注意のけがをしたり、原因不明の疾患を発症したりして休業を余儀なくされるケースも少なくない。
   しかし、かなりの割合で、別居親が同居親よりも収入があるというよりも別居親の収入が少なすぎる無謀な別居である場合が多い。別居親の体調不良やリストラによって、同居親が期待していたほどの収入がないケースも多くある。
   別居親が養育費や離婚前の婚姻費用を支払いたくない理由は誰でも理解できる。つまり、別居親だけが家族から排除されているからである。養育費や婚姻費用は家族の生活のために使うものだから家族がそれぞれ分担して負担するものである。ところが突然、子どもを連れて自分の元から消え去り、どこにいるかもわからない、子どもと面会することもできない状態にされる。強制排除が行われている。家族ではないという強烈なメッセージを受けているのである。しかも、自分の排除が家族だけから行われるのではなく、裁判所、警察、自治体からも行われ、自分が極悪人として扱われている気持ちにさせられる。その上、一緒に住んでもいない、顔も見ていない元家族に金を支払わなければならないというのであれば、支払う方は刑罰として金を出させられている意識になることは当然だと私は思う。
   おそらく、事実をリアルに見られずに類型的にものを見る人たちは、排除される理由は同居中に暴力やモラルハラスメントがあったからであり、自業自得なのではないかという反論をするだろう。リベラルで名を売っている憲法学者などもそのようなことを言っているので、世論がそのように誘導されかねない状況にあることはうんざりするほど承知している。しかし、少なくとも私が担当した事案や、相談を受けた事例によれば、圧倒的多数は暴力やモラルハラスメントは存在しない。かえって、子どもを連れ去った方の不貞、浪費、あるいは理由のない不安に基づく行動などがあるケースが大半なのである。それにもかかわらず、リアルな実態を知らないで、連れ去りがあったから別居親に何らかの責任があるという類型的な見方をして連れ去り親の苦しみを否定する態度はそのものずばり差別である。冤罪を受けた苦しみを一顧だにしない人権感覚が乏しい人間だと言わざるを得ない。
   不貞や浪費をされ、自分の貯金を奪われた上に婚姻費用や養育費を支払えと言われたところで、支払いたくないことは当然である。
   多くのケースで同居親は、さすがに別居親の支払いたくないという事情を実は理解している。婚姻費用や養育を遠慮するケースは少なくない。ところが、弁護士や役所などが、差別的なものの見方をして懲罰的に婚姻費用や養育費を請求させるケースが最近増えている。もっとも私は、家族再生や、ひどい目を受けても家族だと感じている依頼者が多いため、それでも子どもたちのための費用は支払わなければならないと説得をする。こういうケースで費用を支払う別居親は、子の福祉について高度な理解をしているのである。
   但し、最近疑問がますます大きくなっている。DVやモラハラがない事案で、子どもとの相互交流を一切絶たれて、それで金だけを支払わされるということは、本当に人権が尊重されていると言えるのだろうか。
   養育費を支払いたくない理由は、このように自分の人間性が否定されているところにある。また、そのように別居親から見ればいわれのない理不尽な仕打ちをする相手に対して不信感が当然にあり、特に浪費や不貞を行って子どもを連れ去った相手に対しては、同居親が送った養育費を子どものためには使わず、不貞相手に渡したり自分のために浪費されたりするのではないかという思いがあることはもっともな話だと思う。

5 養育費が支払われるための簡単な方法

  養育費の送金先を子ども名義の口座にして、子どもが立ち会わなければ引き落としができないようにする。これで養育費の取り決めも支払いも格段に向上するはずだ。さらに、子どもから、養育費の礼を言わないまでも、ただ養育費が入金された日に安否を報告するだけの電話でもよこされればさらに支払率は倍増するだろう。子どもに直接渡すという方法も支払率を上げるだろう。
子どもは養育費を引き落とすたびに別居親の愛情を確認できる。振り込む側は、子どもが毎回確認しているということで支払うモチベーションが高まる。離れていても家族なのだという実感を持つことこそ、養育費を支払う最大の方法である。また、子どもが自分の預金が下ろされるのを立ち会って見ていれば、多少は同居親が子どものためだけに養育費を使うのではないかという期待も生まれ、モチベーションの低下を食い止めることができる。
家族から除外することの逆をするということだ。家族から除外しておいて金だけを払わせるということは、人間味のあるやり方ではない。また現実の支払いを遠ざけてしまう。
私の依頼者で、何の交流も持たされず長期にわたって養育費を支払い続けた男たちが何人かいる。一人は、定められた養育費の外、誕生月の増額を子どもだけでなく離婚した元妻にも送っていた。このため預貯金はほとんど作れなかった。養育費の支払いが終わったときに相手方から子どもの写真は送られたが、履歴書用の写真のあまりだった。それでも彼はその小さな写真を後生大事に持っていた。それでもうれしかったのである。偶然知った相手方の住所に、転居の連絡を送り、「お近くにお寄りの際は、お声がけください。」という定型のあいさつ文を記した。その結果驚くことが起きた。警察から義務無きことを強要したとしてストーカー警告されたのである。別の男は子どもが3か月のころから妻子が行方不明になった。しかし、それから20年以上婚費を支払い続けた。その挙句が、離婚請求調停申し立てであった。
こんなことが繰り返されて、裁判所や公的機関が是認しているから養育費や婚姻費用が支払われなくなるのだ。これらの行為は、自分だけがよければそれでよいという態度であり、今後の養育費を受ける子どもたちの足を引っ張っているだけの行為だ。

6 養育費が支払われるための根本的な解決方法

  連れ去り問題が表面化する前から、私は、養育費の問題の相談を受けることが何度かあった。一番効果的だった方法は、子どもが別居親に現状を伝え、例えば大学でこういうことをしている、いまアルバイトができないので養育費が途切れると苦しいということを率直にお願いすることであった。本来の家族というところまではいかないが、当たり前のコミュニケーションがあれば家族に対してなすべきことを無理してでもやろうとするのが親というものだということを痛感させられた。
  よく、「養育費と面会交流は別物で、取引に使ってはならない。」ということを聞く。大学の法律の授業の回答としては丸が付くだろう。しかし、実務では、要するに生身の人間と切り結ぶときは、こんな話、何の役にも立たない。通常これが語られる文脈は、冷酷で、およそ人間の尊厳を顧みないときにしか語られないからだ。何よりも、子どもの権利が害されるだけだ。面会交流を含めた別居親との交流が養育費などの金銭面に有効に働くのは統計的にも事実だ。子どもへの十分な経済的事情よりも、離婚後の当事者の葛藤を優先する文脈でしか使われない言葉である。
  養育費が十分に支払われるためには、親子関係を少しでも回復することが王道である。これに異論のある実務家や当事者はいないだろう。しかしこれができないことが問題なのである。
  子どもの利益を図るためには、離婚当事者の葛藤を下げること、そうして別居親と子どもとの自由な交流を確保すること。電話くらい自由に子どもから別居親にできるようにするべきだと常々思っている。それでも別居親は同居親を立てて同居親の言いつけを守れと言い、同居親は別居親への感謝のしつけを子どもにする。これが子どもの健全な成長を促進するということが科学的に証明されている。
  もちろん、これは分かっているけれど難しい。双方に被害者意識があることがほとんどなので、なかなか子どもの前だけ、嘘でもいいからといっても難しい。この解決方法はあるのだろうか。
  根本的には離婚までは大いに争えば良いが、離婚が決まったらもう他人なので、子どもの前だけでもクールダウンする手続きを国や自治体が行うべきである。実は先進国では、お隣の韓国も含めて国家や州が関与して行われていることである。日本だけがこういうことをしていない。日本だけが、大人の都合で離婚をすることが放任されている。子どもの健全な成長よりも大人の感情が優先されている情けない国が日本なのである。離婚訴訟で、子どもに自分の親の悪口を書かせて平然としている人間が司法に関与している国である。
  葛藤を鎮めるどころか、葛藤をいたずらに高めている。葛藤を高める最大の要因は、事実にもとづかないDV主張、一方的な子連れ別居の野放し、それに対する裁判所の追認、事実にもとづかない女性援助、加害をした人という意味ではない「加害者」呼ばわり(総務省)と、実際の加害者扱いである。これらの人格攻撃を受けた者は、怒りをあおられるだけでなく、無力感から働く気力もなくし、その結果収入も減少する場合がある。心身に不調を覚え、内科的疾患を発症することや、うっかりけがをすることが増える。
  「子どものために」、「子どもの健全な成長のために」という理念で物事が動かず、結果として子どもの成長に対する離婚の負の影響を軽減させるどころか増幅させている。
  夫婦の葛藤を鎮める研究、いたずらに葛藤を高める支援を排除すること、それらが子どもの健全な成長に不可欠であるというのは争いのない人類の科学の到達である。あとは子どものためにという立場に大人が経てるかどうかだけである。

7 いま進められている制度に全く賛成できないということ

  いま進められている養育費に関する制度検討の一切が、このような視点は見えてこない。現在進められている政策が、子どもの健全な成長を図る目的ではないことは、例えば養育費の未払い者の氏名を公表するということを検討していることからも明らかだ。子どもにとって、自分の親がさらし者になって平気でいるわけがないことにも気が付かない愚かな政策である。一緒になって自分の親に対する憎悪を掻き立てられた子どもが、アイデンティティを確立することが困難だということも理解されていない。
子どもの健全な成長を阻害することになっても養育費を強制的に取り立てるというのであれば、考えられる目的は二つである。つまり、一つは自治体の児童扶養手当予算の削減である。もう一つは離婚した夫婦の少数派である養育費の取り決めをした別居親の、さらに少数派である理由もなく一方的に支払いを怠る者に対する憎悪を掻き立てることによって、低賃金、男女格差、不安定雇用の改善への道筋を隠ぺいするという目的である。
  これが日本の子どもたちが置かれた状況である。科学的に働きかけが必要だということが明らかにされた離婚後の子どもたちでさえ、逆にこのような積極的な加害を受けているのである。まだ野放しの方が害がない。

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聴覚障害者が健常者の中で働くということ 事情聴取メモ [労災事件]



ここ1年で、3件目の聴覚障害関連事件を担当していることになる。それぞれの事件でそれなりに情報を得ていたが、心理面に関する事件を担当することになったので、新たな情報が必要になり、情報の収集を行っている。ここまでの段階で入手した情報を整理する目的でこの文章を起こす。

<事実編>

1 聴覚障害は、障害を持つ人の間でも個人差が大きい障害である。全く聴覚機能が働かない、障害、大きな音なら聞こえる、高い音は聞こえるが低い音は聞こえずらい、その逆等バリエーションがあるようだ。聴覚障害者だからどうだということは、あまり通用しない。この人の聴覚障害はこういうものだから、こうするべきだという話になる。

2 補聴器によって音が聞こえるようになるけれど、直ちに言葉の意味を理解するわけではない。その声に意味があり、音に情報が載っているということを意識するためには、専門の訓練が必要になる。老眼になり、老眼鏡をかけるとまた見えてくるというわけにはいかない。

3 口元は、読唇術ができなくても、それを見ることによって情報を補完することができる場合がある。声が聞こえるような気になる場合もある。これはどうやら、聴覚障害がない人間も同様のことが起こるらしい。

4 角度によって、聞こえないという場合がある。「あれ、さっきこのくらいの距離で聞こえていたのに、今度は聞こえないなんておかしい。」ということは言えない。これから何かを話すのだろうなという気構えをしている場合は、声の意味をつかみやすい。知らないうちに話していれば、同じ距離、同じ音の大きさでも、声をとして把握できない場合がある。例えば、道を歩いていて前から自動車が来れば、クラクションを鳴らされて、ああ自分に対して警告しているということが理解しやすい。しかし、後ろから近付いてきた自動車からクラクションを鳴らされても、自分に対して警告がなされているということが気が付きにくい。

5 1対1の会話は、意味を把握しやすい。しかし、集団で話し合いをしている場合は、だれが話しているのか分からず、話について行きにくくなる。全体が見えない位置にいると特に把握が難しい。

<心理編>

6 聴覚の一番の機能は、危険を察知することにある。聴覚に限らず五感と呼ばれるものは、すべてそのような機能がある。機能を奪われてしまうと、危険が存在しないのに、不安や恐怖感情がわいてくる。例えば、光のささない真っ暗闇のトンネルに入れられた場合(資格を奪われた場合)。味覚や嗅覚を奪われて食料を摂る場合で、食べたこともないようなものを食べさせられる場合。

7 聴覚障害のある人で、呼んでもこちらを向くことができない人に対して、職場の中でかつては釣竿を常備して釣竿でその人をたたいてこちらを向かせるということや、紙くずを投げて注意を向かせるということがあった。聴覚障害というハンデキャップがあるため、劣悪な労働環境での就労を余儀なくされたという事情がある。現代(平成以降)においても、そのような無教養な職場があるということに関係者は驚き、怒った。消しゴムを投げて注意を喚起したのが自治体であったことにさらに驚きが広がった。

8 突然物が飛んでくるということは、脅威である。
消しゴムを投げる方は、消しゴムであるからぶつかっても怪我はしないだろうと考えることができる。また、投げる強さを加減しているから大事に至らないということも知っている。
聴覚に障害がなければ、飛んでくる音や気配などで、自分にどの程度危害があるものか消しゴムが到達する前にある程度はわかる。
しかし、聴覚に障害がある人は、消しゴムが飛んできて初めて消しゴムの存在に気が付く。突然自分に向って飛んできたものが、どの程度危険性があるかについては、消しゴムが自分にぶつかって下に転がり、それが消しゴムだと気が付くまでわからない。危険の存在及び程度がわからない場合、危険を避けるという意識は、危険を実際よりも大きなものであると感じて、危険回避の行動に出ようとする。例えば、物置で細長いものが自分の頭に触ったとすれば、蜘蛛の巣ではないかと感じて慌てて振りほどこうとする。実際はほつれた糸だとしても。あるいは山の中で、突然視界に蛇がいるように見えたが、それは太いロープの切れ端だった等。突然気が付いた異物は、危険なものだとして身構えるのが動物の本能である。
  こちらを向かせようと消しゴムをぶつけられること、あるいは目の前に消しゴムを投げられることは、それ自体が行為者の想像のつかない大きな危険を聴覚に障害がある人に感じさせる行為である。

9 突然消しゴムが自分に飛んでくるということは屈辱である。その1。
  突然消しゴムが自分にぶつけられたということは、その目的を理解できれば、自分に聴覚障害があるということを強烈に示されたことである。聴覚障害があるため、多少危険を感じるように扱っても構わないという態度を突き付けられたことでもある。

10 突然消しゴムが自分に飛んでくるということは屈辱である。その2。
  聴覚障害を理由に、こちらに注意を向けるために消しゴムを投げられるということは、多少危険な行為をしてぞんざいに扱っても構わないということは、自分が、安心感を奪われてもかまわないという態度であり、仲間の中で一段階低い立場の人間だということ、その理由は聴覚に障害があるということを強烈に伝える行動である。9番がどちらかと言えば、身体生命の危険を顧みられないということを強調しているが、10番は対人関係的危険を顧みられていないという意味合いがある。敢えて区別する必要はないかもしれないが、両面があるということを強調するために別項とした。ここに差別の本質がある。

11 これが行われたのが職場であれば、同僚の目もある。これは二通りに心理に働きかける。
一つは同僚の前で恥をかかせられたという思いである。同僚の前で、他者にはそのようなことがされないのに自分だけ他者とは違う扱いをされ、それは多少にかかわらず怖い思いをさせられたということである。そしてその原因が自分の障害にあるという態度を突き付けられたという心理的効果である。
  もう一つは、そのように自分が理不尽な目を受けているのに、だれも同僚が自分の心情をくみ取る行動を起こさないということである。消しゴムを飛ばした上司に抗議することはできないまでも、自分に対して「ひどいことをするね。」と言ってくれる人もいない。この現実を突き付けられることになる。

12 聴覚に障害がある者は、集団から疎外されやすい。仲間内で歓談をすることは、楽しいものである。つい話に夢中になってしまうこともある。しかし、聴覚に障害がある者は、次々に話し手が変わる歓談にはなかなかついていけない。聴覚障害に理解がある者も、つい話に夢中になると、聴覚に障害がある者が話からおいて行かれていることを忘れ、自分が話すことに集中してしまう。
  聴覚障害を持つ者は、集団の歓談が行われると、初めからその輪に加わらなくなることがある。コミュニケーションをあきらめてしまうのだ。自ら聴覚障害を持たない者との間に壁を作るように見えることがある。しかし、彼らにとっては、既に壁はできていた。配慮がなされないという経験を繰り返しし続けてきて、その都度自分は仲間に入れてもらえない、その理由は聴覚に障害があることだということを何度も学習してしまっている結果という側面はある。自分に聴覚障害があることをわかっているのに自分だけが仲間に入れてもらえないという意識になりやすい。または、そのような思いを味わって傷つきたくないという防衛的な行動という評価も可能である。

13 聴覚に障害を持つ人の中には、頑固だと表現される人がいる。聞える範囲の狭い情報しかなく、要求を実現することを選ぶかあきらめるかという極端な二者択一的な選択肢しか与えられていない可能性がある。あきらめることができない場合に、柔軟な方法をとるという選択肢がなく、原則を言い続けるという方法をとらざるを得ないということはありうる。

14 聴覚に障害がある者が、空気を読むということが苦手な場面を示すことは多い。私たちは同じ言葉を発していても、語調や声の強弱などで意味を補充している。場合によっては全く反対の意味を伝えているときもある。「嫌い」という言い方が典型的だろう。聴覚に障害があると、これらの微妙なニュアンスを獲得しがたいことがある。

15 同時に、長い問いかけや、抽象的問いかけは言葉で発せられてもなかなか意味をつかみづらいという傾向にある。具体的に、短く切って質問をすれば答えられる。また、文書で質問をすれば答えやすい。

16 聴覚に障害ある者が、聴覚に障害のないものだけのグループにいることが精神的にきつい。仲間がいるということで、疑心暗鬼も小さくなる。思い過ごしかもしれないという選択肢も出てくる。

<政策>

17 それでは、健常者の職場に聴覚に障害がある者を迎え入れることは困難なのか。
  それはそうではない。しっかり面談をして、その人が何が得意で、何が苦手であるかはっきり聴取しておくことが必要である。そして、それについては職場変わる場合や上司が変わる場合は、しっかりと引継ぎをする必要がある。また、歓談をする場合には、どのようなことが話し合われているか、逐一でなくても説明すれば足りる。大事なことは、仲間として尊重しているというメッセージを伝え続けることである。また、改善点について自由に話ができる環境を整えることである。
  障害者雇用は、単に障害者を雇用すれば足りるのではない。障害者が疎外を感じない職場環境を整えることも含んで必要とされているのである。

18 障害を理解するということは、現在の仕事技術の能力について理解するだけではない。疎外に対して過敏になっているかもしれないというところを含め、理解をする必要がある。
  これらは、特別な配慮のように感じるかもしれないが、通常の人間関係で本来求められる配慮と考えるべきであろう。

19 特に職場では、迅速な伝達、迅速な行動、合理的な行動が求められる風潮がある。ともすれば、障害があることが、このような迅速、合理的な行動を阻害するように感じられる場合がある。しかし、本来の人間関係は、配慮や尊重がもう一つの価値として重視されるべきである。現代の特に職場環境においては、目的至上主義的な風潮が前面に出てしまい、仲間を尊重するという風潮が切り捨てられているのかもしれない。
  職場に障害を持った方がいて、その方が仲間として尊重されていると感じる職場は、だれにとっても居心地の良い文字通りユニバーサルスタンダードを実現できる職場になるだろう。

20 障害がどのように障害になるかは、障害がない側の対応いかんによることも大きい。障害を持つ者の経験だけからは、何が改善されればよいかわからないことも多い。障害を持たない側だけの知識では何も生まれない。相手を責めたり、改善を求めるだけの議論ではなく、具体的な改善について価値を込めない話し合いが日常的にあることが望ましい。

21 直ちに、障害を持つ者に心地よい職場を実現することは、難易度が高いかもしれない。そうした場合は、職場の中ないし職場と提携した障害に理解のある相談員を設けるということも一つの解決方法である。

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「障害者差別を受けた場合の心の痛みと派生効果」 [労災事件]


1 心の痛みとは何か
    危険に対する防衛反応
  差別をされれば心が傷つく、心の痛みが発生するということは、自明の理であるとされているようだ。それは確かにそうだろう。しかし、自明の理とだけ言って、さらに分析的な検討がなされていないように感じられる。差別をされたことの無い人間には、差別をされた痛み、苦しみということを本当の意味で理解することは困難であるかもしれない。しかし、その痛み、苦しみを言葉にして明らかにすることによって、質的な感得が不能でも量的な把握が可能になるはずである。差別の解消や、人間に対する理解に貢献するはずであると考える。
「痛み」ということを理解するために、まず体の痛みということを考えるべきであろうと思う。体の痛みは、体の完全性を損ねて、神経に対する物理的ないし化学的な働きかけがあった場合に感じる。このメカニズムには意味があり、痛みがあることによってその痛みの原因になっている体の部分に身体の完全性を害している損傷があることを自覚することができる。痛みが激しい場合は、その体の部分を使わないようにして、損傷の拡大を防止する行動をとるだろう。例えば足首を捻挫して痛い場合は、歩かないようにして足を休ませ、回復を助けることができる。痛いと感じないで歩き続けてしまえば、筋肉や軟骨などの軟部組織の挫滅が拡大してしまう。痛いと感じることによって、行動修正をして、損傷を拡大することを回避することができるのである。また、痛みを感じる原因になった出来事を記憶することによって、将来的にそのような出来事が起こらないように行動を修正するようになるだろう。
  痛みとは、現在の状態や将来の行動を修正する契機となる。その目的は、致命的な損傷を回避するところにある。痛みを感じずに体を動かし続けることによって、損傷が拡大し、その結果回復不能になるかもしれない。つまり痛みは、身体生命の危険を自覚し、危険を回避するという機能を持っている。生物にとっての生きるための仕組みだと考える。
  心の痛みもまったく同様の機能があるとは考えられないだろうか。心の痛み、不安を感じることによって、行動を修正し、危険を回避するという機能があるということである。つまり、危険を感じていることを鮮明に自覚し、危険から回避するためのきっかけとなる、人間が生きるために必要な感覚であると考えてみたい。

2 差別によって心の痛みを起こさせる危険とは何か
    対人関係的危険
  身体生命の危険がない場合でも、心の痛みはある。身体生命の危険以外の危険を感じていることになる。それはどんな危険であろうか。
  私は、対人関係的危険という概念を提唱している。対人関係的危険とは、突き詰めて言えば人間が自分が所属する「仲間」から離脱させられ、孤立する危険であり、自分が仲間の中で尊重されていないという意識を持つときにそれは発動する。
このような意識が生まれる構造は以下のとおりである。人間は他者とのつながりの中に所属したいという根源的要求を持っているものであり、この要求が満たされない場合は心身に不具合を生じる(バウマイスター)。しかし、単に所属していればよいというものではなく、安定的に所属することを要求している。不安定な所属は、所属から離脱を余儀なくされるのではないかという心理的反応を引き起こしてしまい、心身の不具合が生じるようになる。この安定した所属であり続けることに危険を感じると不安になる。
  この対人関係の危険の意識、不安が、心の痛みのすべてだとは言わないが、その一つであることは間違いないだろう。
  人間が、どうやって誰かとつながっていたいという根源的な要求をもったかということは問題になるだろう。私は、このように集団の中に身を置こうとした人間の祖先だけが、言葉の無い時代にあっても集団をつくることができ、何事にも中途半端な人間であるにもかかわらず生き延びることができたのであろうと考えている。だから、その子孫である我々も個性によって程度の違いがありつつも、そのような要求を持っているはずだということになる。

3 対人関係的危険を意識するとき
  対人関係的危険を意識するときは、自分の人間関係の中から離脱を余儀なくされると感じる場合である。危険や不安を感じるということは主観的な問題なので、人間関係からの離脱の危険の客観的事実に基づくものではなく、あくまでも主観的な事情にもとづく。
  逆に、対人関係的危険を感じない場合は、自分がその人間関係の中で尊重されていると感じている場合である。
  尊重されていないという感覚は、仲間として認められていないと感じるときに発動する。人間が尊重されていると感じることは、仲間として認められ、仲間として扱われているときだということになる。

 1)したがって、はっきりと仲間として認めないということを告げられれば、当然対人関係的危険を感じる。「でていけ。」、「もう二度と顔を見せるな。」、「お前なんて仲間ではない。」と言われれば、対人関係的危険を感じることは当然であり、心が痛む。
   しかし、弁護士という仕事がら感じていることは、はっきりそう言われるよりも、それを示唆するような言動がある方が心の痛みは強くなるようである。おそらく、そうはっきり離別を宣言されれば、もうその人と自分は同じ仲間ではないと感じるのだろう。例えば、離婚を宣言された夫婦の一方、解雇を宣言された労働者などである。
   むしろ、夫として妻として失格だとか、給料泥棒と言われているときの方が、心が苦しく感じているような様子がある。このように感じるのは、通常離婚や解雇を言い渡される場合は、必ず前段階の予兆のような出来事があり、対人関係的な危険は既に感じており、危険から解放されたいという要求を含めた不安が発生しているのであろうと思われる。この時点で心の痛みは感じている。そして、離婚や解雇を言い渡されるときには、危険が現実化しているので、ある意味不安を感じなくても良い状態になる、つまり決着がつく状態なので、言い渡されると同時に同じ仲間ではなくなっているのかもしれない。独立の準備ができていたことになる。これに対して、事前に何の予兆もなく、突然別離の宣言がなされたり、別離が決行された場合は、心の準備がない分、心の痛みが甚大なものになるのだと思う。子どもの連れ去り、突然の事故による死別、身近な人の自死による心の痛み等はこのように大きな心の痛みとなる可能性がある。

 2)人間は、どこかの人間関係に所属したいという根源的要求がある。これはかなり厄介なものでもある。理性的に行動できれば、自分を冷たく扱う人間関係なんて、自分から離別して別の人間関係を形成することが合理的である。しかし、人間は所属の根源的要求があるため、今所属している人間関係にとどまりたいという志向を持ってしまうようである。
   夫婦、家族、職場、学校など、唯一絶対的な人間関係は現代では何一つない。それにもかかわらず、太古の昔に形成された人間の心は理性によってコントロールすることができないようだ。冷たい相手の反応で心を痛めてしまう。そして、決定的な離別の宣言を回避したいと思ってしまう。パワハラ職場、いじめの学校、配偶者暴力の家庭等、なぜそこから逃げないかと事情を知らない第三者は疑問を抱くようだが、それは人間というものはそういうものだということをまず理解するべきである。興味深いことに、心の痛みが蔓延化し、うつ的状態になるほどそのような人間の本能が支配するようになる傾向がある。

 3)「このままこの状態続けば、やがて離別、孤立に至るだろう。」という感覚こそが対人関係的危険である。
   どういう場合にこの対人関係的危険を感じるかについては、個性の違いが大きい。ちやほやされなければ不安を抱いてしまう人もいるだろう。逆にどんなに悪口を言われても、自分がやることをやっていれば不安を感じない人もいる。世の父親たちは、妻や娘に受け入れられなくても、働いて収入を家に入れることで不安を感じないようにしている。自分は家族の役に立っているという意識付けを自分で行うことによって、大丈夫だと言い聞かせているわけである。自分から進んで危険を感じることはないが、仲間の反応を見てからではないと危機感を感じない人もいる。逆に仲間の反応がなくても、自分で勝手に自分はここまで仲間のために貢献しなければいけないのにできなくなってしまったということで、自分勝手に不安になってしまう人もいる。失業した場合の男性がその典型である。あるいは、何か失敗してしまい、申し訳なく思うだけでなく、これで仲間から見捨てられると感じてしまう人もいるだろう。
   弁護士としての仕事柄、この危険意識が過敏になっていて、なんら危険を感じる必要性が無いのに危険を感じる人を見ている。または、そこまで大きな危険を感じなくても良いのではないかという反応をする人もいる。逆に、もっと危機感を感じなければならないのではないかと思う人もいる。個性の違いが反映していることは間違いないが、離別や孤立を恐れていることは多少の違いあっても、確実に感じているようだ。

 4)対人関係的危険を感じる事情も、人によって違うが、共通した事情もあるようだ。
   一つは、自分の行動が評価されないということだ。何かを一生懸命やって、かなりうまくいって、称賛されるはずであるのに、自分が期待されたような評価がなされないという時に心の痛みが大きくなる。逆に自分のやることをことごとく否定評価される場合も対人関係的危険を感じる。良かれと思ってやったことが否定評価されれば、なおさら心が痛むだろう。
   もう一つのパターンは、自分自体を評価されないということだ。自分のありのままにいることを、あるいは思い通りに行動することを極端に制限される場合にやはり対人関係的危険を感じるようだ。そういう場合は、自分がその仲間のままでいる資格がないと言われるように感じるのだろう。
   否定の態様、強度によって、危険意識の程度は変わってくるだろう。また、仲間の中で自分を否定する割合が圧倒的多数だった場合、仲間の中での主要メンバーから否定される場合は、危険意識が高くなるようだ。当然否定されている期間が継続すればするほど危険の意識は強くなっていく。

3 対人関係的危険を感じた場合に取る行動の原理
    適応
  対人関係的な不安が生じれば、危険の増幅回避のため、修正行動を起こす。他者に対してコメントを出そうとしたところ、その人が嫌がっている様子を見て、失敗したという自覚を持ち、不安を覚えたために、言おうとしていた言葉を言うのをやめるという具合である。自分が何らかの失敗をすれば、心の痛みを感じて、償ったり、言い訳をしたり、様々な修正活動を行う。社会的適応行動である。
  この適応行動の結果、自分の対人関係的危険が解消されれば、事なきを得る。危険の機能が果たされたわけだ。しかし、適応行動が失敗した場合はどうなるか。これは身体生命の危険の場合も起こりうる。捻挫をして歩くのをやめるという修正を行う。休養を取り回復すればよい。しかし、休養を取っても痛みが軽減することもなく、むしろ増強する場合もある。もはや自然治癒力では回復しない場合、不安が増大していく。他の修正行動を行い、何とかその不安から解放されようと努力する。有効な治療を受けられれば良いが治療を受けられない場合、例えば権威のある医師から、もはや足の機能は回復せず、痛みも軽減されることないと宣告されたら、それは絶望しかない。

4 適応不全と絶望
  対人関係的危険の場合も、身体生命の危険の場合と同じような経路をたどる。
  職場のパワハラや学校などでのいじめ、夫婦間トラブルなど、客観的には極めて理不尽な目にあっていても、人間は本能的に適応行動を起こしてしまう。加害者は初めからターゲットを仲間だとは見ていないので、どんな修正行動をしてもそれは効果がない。つまり、どんなに加害者の意に沿う行動を考えて、自分を殺してでも相手に歓心を持たれるような努力をしても、相手からはその行動さえも否定される。自分の修正行動がまずいから相手の歓心を買えないと思い、相手の要求が理不尽で不合理なのだということを思い当たることはない。第三者の観察と意見がなければそれはうまくいかない。しかし、既に自責の念、自罰感情が優勢であるため、第三者の貴重な勧告が受け入れられないことが多い。
  対人関係的危険を感じて、自分の行動を修正するのだが、相手の反応は悪い。そうするとますます対人関係的な危険を感じてゆく。仲間ならば、自分の非を認めて自分の行動を修正しようとすることを評価してくれるはずである。しかし、それをにべもなく否定するのであるから、いよいよ自分は仲間として見られていないと感じるのは当然である。そうすると、ますます危険から解放されたいという要求が高まり、肥大化していく。合理的な思考からはますます遠ざかっていく。意味のない行動を繰り返し、事態は悪化していく。
  どうやら、人間は体の痛みに耐えることができず気絶をするように、心の痛みにも耐える力は無尽蔵ではないようだ。心の痛みに耐えられなくなる場合はどうするか。最悪の場合は自死によって心の痛みから解放されることを志向してしまう。生きるための仕組みであるにもかかわらず、人間が自然界から用意された耐性を超えてしまうと、逆に自ら命を失うことを選択してしまう。
  自死に至らなくても、体は耐えられない痛みを回避する手段を断行する。一つは心の痛みを感じなくする方法である。これは心の痛みだけ感じなくすることができないために、すべての感情を失い、精神活動が全般的に低下していく。うつ病という防衛方法である。あるいは、心の痛みが非日常的で、日常と断絶が起きている事情があれば、心の痛みを起こさせる事情を病的に忘れさせるという方法をとる。思い出さないように無意識に自分の記憶にふたをする。しかし、ふいに対人関係的危険があることを思い出し、しかも不完全な形で思い出す。即ち、精神的恐慌の一歩手前の時点の感覚だけがよみがえってしまう。蓋をしても蓋の隙間から苦しみがにじみ出てくるようなものである。これがPTSDである。その他、心が無意識にその苦しみを合理化しようとして奇妙な解決方法をとることがある。例えば統合失調症と診断されている病態の少なくない部分が、このようなメカニズムで起きるのではないかと感じることがある。いずれにしても、精神が正常な状態であると苦しみ続けるのであれば、人間の防衛の仕組みによって、精神活動を歪ませることによって苦しみを感じにくくさせていることが考えられる。
  一時的に苦しみが遠のいたとしても、理不尽な苦しみ、特に出来事が発生する合理的な因果関係が把握できない理不尽な仕打ちを受けた場合は、またいつ同じ心を痛ませる出来事が発生するか予測がつかない。このために、些細なことでも苦しみの予兆ではないかと不安になる。不安症やパニック症などの認知の歪みや過敏な反応様式が残存することがある。

5 差別を受けたことの心の痛み
  それでは、差別を受けたときの心の痛みとは何かについて考えていく。
  差別は、それがどの人間関係で起きるかに関わらず、対人関係的な危険を感じさせる出来事である。差別は何事においても、自分たちが形成する共同体の中で、あなたは正規のメンバーではないという通告である。極めて大きな対人関係的危険を意識せざるを得ない。
  特に、その人が日常的に所属する人間関係において差別されることは、危険意識が高くなっていく。家庭、学校、職場などでの差別は、毎日繰り返され、終わりがないと意識されることだから、逃げ場を失うことになる。人間の本能として最も良好な関係を望む群れとして扱われる関係であるから、もっとも根源的な要求が否定されることになる。これは心の痛みを大きくする事情である。
  差別の最大の問題は、修正ができないことにある。差別を受けたときにも、無意識に、本能的に行動修正をしようと企図してしまう。しかし、例えば、性別や国籍を変えることができない。自分の生物的な両親を変えることはできない。障害者差別の場合は障害をなくすることができない。差別される事情を修正することができないにも関わらず、心は無意識に修正しようとしてしまう。そして修正できないことに絶望する。本当は、修正することが本質なのではなく、差別しないことが本質であるにもかかわらず、差別をされてしまうと自力ではそれにたどり着けない。
  そのため、自分自身で自分を否定してしまうようになる。自分が差別される事情を抱えているから悪いということで合理化をしようとしてしまう。どうやら人間は、理由がなく差別されるという考えこそが耐えられない苦しみ、絶望を感じるようだ。それよりもまだ、自分が悪いから苦しみを与えられると考えることによって、ぎりぎりの絶望を回避しようとする傾向がある(ハーマン)。
  いずれにしても、例えば障害者差別の場合に障害を解消することができないように、修正する方法がなく、絶望を抱きやすい。差別が日常的に行われること、毎日行動を共にする家族、職場、学校でそれが起きることは心の痛みが大きくなりやすい。差別の主体が、その場の体勢である場合も絶望を感じやすい。たとえ具体的な差別行為が一人で行われていたとしても、他の人間がそのことに抗議する等差別を是正しなければ、全体から自分だけが差別されているという意識を持つ。これがいじめの本質でもある。
  被害者にとって、差別が解消されて仲間として迎え入れられたというエピソードがない限り差別は続いている。たとえ加害者の意識として、差別行為をやめたという意識だとしても、従来の差別行為についての評価が変動しない限り、つまり差別は誤りであり、今後は二度としないということが表明されない限り、差別されているという意識は継続する。職場や学校では、自分が相変わらず無視をされていると考え続けるしかない。いったん差別行動がやんだとしても、差別されていること自体が終わりを告げていないのだから、またいつ激しい差別行動がなされるのか分からず、過敏に防衛意識が高まることになる。
  差別行動が継続された結果、心の痛みの苦しさに耐えきれなくなり、様々な精神病理を発症させることによって、苦しみを緩和させようという体の仕組みが発動してしまうことはむしろ自然なことだと思われる。

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壊れかけた夫婦の再生と恋愛の始まりと、愛をはぐくむ条件と愛を浪費する現象と [家事]

人間というものはうまくゆかないもので、
必要なときには気が付かないことが
あとになって初めて気が付くということが多いようです。

私の年代の人たちでよくお話をするのが子育てです。
子育てが終わると
無駄な、むしろ有害な方向で頑張っていた
ということを確認し合って大笑いしています。

まあ、子どもには申し訳ないという気持ちがあるのですが。

繁殖期を過ぎると恋愛とは何かということが見えてきます。
真只中のころは、愛をはぐくむという言葉には
全く反応しなかったと思います。

弁護士の仕事で、夫婦間の関係を調整する仕事があります。
この研究をしている人間は少ないようです。
一言で言って愛をはぐくむということなのだと気が付きました。
恋愛の初期とまったく一緒なのです。

世の中には、相手の気持ちを考えないで
押して押して押しまくってゴールインするケースがあります。
しかし多くのケースでは、
世俗的な言い方をすれば
粉をかけて、反応して、手ごたえを感じて、勇気を出す
という黄金の方程式でゴールインをしているようです。

最初は相手に対して憎からず思っていることを示す。
それに素直に喜ぶ様子を見せる。
喜んでいる反応に勇気づけられて、さらに好意を示す。
少しずつ距離を縮めていき、
相手に励まされて、言葉に出すなど一気に距離を縮める
という共同作業ですね。

こちらが、好意を示しても
相手に拒否反応を示されたらあきらめるわけです。
おっ、脈がありそうだなと勇気づけられるからこそ好意を示す。
あなたを大切に思っていますよという意思を伝える。
それに相手も勇気づけられて、もう少し頑張る。
プロポーズするときなんて言うのはたいていは出来レースなわけです。

さきほど、一度壊れかけた場合と恋愛の初期が同じだ
というようなことを言いましたが、
実は壊れかけた男女を修復するのはもっと大変かもしれません。

夫婦関係が壊れかけているときは
この共同作業が壊れているときです。
相手に好意を示しても、反応してくれない
うっかり拒否する結果になっている。
それで自信が無くなります。

逆に大切にされないどころか
邪険に扱われることが増えているのかもしれません。

プロポーズから新婚までの間に
尊重された記憶の貯金がありますから、
多少のことであれば目をつぶることができます。
「あの人は、私をかけがえのない人だと思っているはずだ」と
しばらくはその時の貯金を食いつぶしているわけですね。

「この人は私を大事に思っていないのではないだろうか。」
だんだん心配が確信に変わっていきます。
疑心暗鬼が大きくなってききてしまいます。

貯金を食いつぶすというのは
安心の記憶が残っているため
「こんなことをされたけれど、アクシデントみたいなものだ。」
と自分をなだめることができます。

しかし貯金が底をついて行くと、些細なことも
「私を嫌っているからこういうことをするのではないか。」
「これと同じように私を大事には思っていないのかもしれない。」
「私より大切な人がいるのではないか。」
という心配の種が無限に広がっていくようです。

私なんかが
「いやそれは考えすぎなのではないの。」とか、
「そこまで相手も考えているわけないよ。」とかいっても
聞く耳を持ってもらえません。

まるでかさぶたになる前の傷口のように
過剰に敏感になって、すべてを拒否するような感じです。

相手にもっと配慮をしてもらいたいといつも思うのですが、
相手だって同じに自信を無くしているわけですから
相手に対してだけ求めるのも難しいですね。

愛をはぐくむ全く反対の減少が起きているわけです。

恋愛は0ポイントから始まるわけです。
ところが壊れかけた関係の修復は
どうやらマイナスから始まるようです。
貯金が底をついて借金しているようなものかもしれません。

再生を願うなら
相手に対して攻撃的感情が伝わることは絶対にダメです。
相手はますます自信を失っていきます。
しかし、こちらも既に自信を失っているので
被害者意識があることは仕方のないことかもしれません。
被害者意識があれば、自分を守ろうとしてしまい
攻撃的な発想、攻撃的な行動に出てしまいます。

ただ、借金もあるかもしれませんが
財産も本当はあるのです。
相手はあなたから大事にされないと感じることで傷ついています。
それだけあなたがその人にとって大切な存在であると
感じている証拠なのです。
第三者からはよくわかるのですが、
これは自信を失った当事者にはなかなか伝わりません。

無条件降伏をすれば案外うまくゆくように思えるのですが、
自信を失っているときは、自分をさらなる攻撃から守りたい
という意識がとても強くなる時なので、
かなり難しいことです。

こういうことをまじめに考える集まりがあれば
参加して勉強したいと思います。
一人でも多くの人が今気がついてもらうために。


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面会交流調停にあたって家庭裁判所に対する申し入れ案 [家事]

1 別居親との面会交流は、子どもにとっての権利である。
  概ね10年ほど前までの面会交流調停においては、会いたい別居親と会わせたくない同居親のどちらの心情ももっともであるということで、話し合いがまとまらないという調停が行われていたこともある。しかし、これは誤りであり、過去の事例ということにしなくてはならない。面会交流は、あくまでも一方の親と離れて生活する子どもの権利であり、子の福祉の観点からは、面会交流が子の福祉に害する結果になる場合を除いて、実施させなければならない。親どうしの、会いたいとか、会わせたくないということは、面会交流調停には本来無関係の話である。ともすれば調停は、調停に出席する当事者の感情に左右されてしまう場合がある。しかし、面会交流調停は、調停当事者の意見に左右されずに、家庭裁判所が後見的見地から子どもの利益を実現することが求められている。子どもが当事者として調停に出席していないからと言って、親の感情を子どもの利益に優先させてはならない。
  面会交流は、別居や離婚による子どもへの負の影響を軽減させるために行うもので、子どもの健全な成長のために行われなくてはならないものである。以下説明する。

 1)離婚や両親の別居の子どもに対する影響

   離婚や両親の別居によって子どもに与える負の影響としては、大規模統計研究をまとめたアメイトらの研究が有名である。結論としては、離婚家庭の子どもはそうでない子どもに比べて、幸福感の指標において点数が低いということ、就学後から10代前半の子では離婚の影響が大きいということである(Amato.P.R.& Keith.B Parental Divorce and adult well-being of children analysis. 「子どものための法律実務」(日本加除出版社)95ページ、小澤真嗣「家庭裁判所調査官による『子の福祉』に関する調査―司法心理学の視点から―」(家裁月報61巻11号6頁)。
また、日本の民法766条改正のきっかけとなったウォーラースタインとケリーの60組の家族の調査も価値の高い研究とされている。彼女らの離婚後5年を経た子どもたちへの実証的な研究報告である“Surviving The Breakup ”によれば、離婚後の生活によく適応し、心理状態が最も良好であったのは、別れた父親と定期的に交流を持ちつづけていた子であった。父親と定期的に交流して父母双方とよい関係を維持していた子は、他の子と比較して、自我機能が良好で、自己評価も高く、親の離婚が原因で抑うつ状態に陥ることがなかったのである。
一方、別れた父親との接触がなかったり、少なかったりした子は、父親が会いに来てくれないことに失望したり、孤独感や無力感を抱いたり、あるいは、逆に父親に怒りや恨みをおぼえたりする傾向があった。(家裁月報41巻8号 「子の監護事件に関する面接交渉」佐藤千裕 224頁)。
両親間の紛争が高い場合は、子は、「忠誠葛藤」と呼ばれる、父と母のどちらの自分が付くかということで悩み、時にはどちらについても他方の親に対しての自責の念が生まれる現象が起きる。自分が日常的に愛情を受けていた者が自分の目の前からいなくなっているために「対象喪失」を起こす。さらに、不安、悲しみ、無力感などの否定的な体験によって、身体症状や抑うつ、学業不振、攻撃的言動を起こす(岡本吉生ほか「家事事件における子どもの調査方法に関する研究」家庭裁判所調査官実務研究(指定研究)報告書第7号)。
これらの子どもたちに対する負の影響は、短期的に収束するのではなく、将来にわたり影響を及ぼす。上記ウォーラースタインの研究はその後も行われ、25年にわたる追跡調査が行われた。
調査10年後に発表された“MEN、WOMEN&CHILDREN A DECADE AFTER DIVOCE”(邦題「セカンドチャンス 離婚後の人生」草思社)はしがきによれば、離婚から1年から1年半後については、ほとんどの家庭が危機を脱していなかった。5年後の調査では、3分の1の子どもたちは立ち直ったが、3分の1以上は以前より悪くなり、睡眠障害、学業不振、突飛行動が慢性化していた(同書20ページ)
ウォーラースタインは、25年目の調査を“The UNEXPECTED LEGACY of DIVORCE”(邦題「それでも僕らは生きていく」PHP。で発表した。10年後の調査の傾向が続き、子どもたちは自己肯定感が低く、特に異性との関係で健全な成長を遂げることができず、結婚ができないか、結婚してもすぐに離婚するかつての子どもたちが多くいることなどを報告している。
子どもが従来両親と居住していた家から、突然一方の親に連れられて転校を伴うような環境が激変する転居を余儀なくされた子どもは、面会交流の意義は大きい。特に国境を越えて転居を余儀なくされた場合は、ハーグ条約によって、元の国に戻される手続きが定められている。しかし、子どもにとって大切なことは、国境を超えるか否かにあるのではなく、元の環境から別の環境に突然環境の変化を強いられ、実の親の一人や、学校の先生や友人たち、なじんだ自宅や地域を奪われることが負担であることにそれほど大きな違いはない。外務省が述べる連れ去りは、国境を越えなくても、子どもにとって大きな心理的負担を与えるものであり、このような状況に置かれた子どもの心理的手当ては、家庭裁判所において子の福祉の観点から具体的に講じられなければならない。

 2)面会交流の意義

   面会交流は、上記のような離婚や別居などの両親の紛争に巻き込まれた子どもたちの否定的影響からの保護要因になることが指摘されており、子どもが精神的な健康を保ち、心理的・社会的な適応を改善するために重要であるとされている(「子どものための法律実務」(日本加除出版社)96ページ)。心理学者の小田切紀子の調査研究では、面会交流の意義は、子どもにとって、①親から愛されていることの確認、②親離れの促進、③アイデンティティの確立の3点を挙げている(同書97ページ、小田切紀子「子どもから見た面会交流」(自由と正義Vol.160 no 12 28ページ以下)。面会交流が実施されることで親からの愛情を感じることができる。面会をする別居親からの愛情はもちろんだが、別居との面会に快く送り出す同居親に対しても愛情を感じることができる。どちらかの親に没入することがなければ、強い依存状態に陥ることが無くなる。アイデンティティの確立については次項において説明する。
   面会交流は、現在、法務省においてもホームページでの啓もう活動など積極的に推進している。最高裁判所の動画においても面会交流の推進及びより良い面会交流の方法の提案などがなされている。いずれも、面会交流が離婚や別居後の子どもたちの健全な成長のために必要不可欠であることを強調している。

2 片親疎外の概念に関する整理(片親疎外症候群との区別と子どもに対する深刻な影響)

  現在、離婚の子どもに対する負の影響は、離婚そのものではなく、両親のたがいに対する葛藤が一番の原因であるとされている。それが片親疎外にもつながり、後に述べる子どもたちの成長に深刻な影響を与えている。
  この点、現在においても、家庭裁判所において、片親疎外(PA)と片親疎外症候群(PAS)との概念の混乱が見られ、片親疎外の懸念を示すと、同居親の子どもに対する悪意の働きかけはないなどといった返答がよこされることがある。概念を正しく理解していないために、別居親が同居親を過度に非難しているという誤解をしているのである。本庁においてはこの初歩的な誤りをするとは思えないが、他庁において確認されることなので、念のために付言する。
  片親疎外症候群(PAS)とは、精神科医ガードナーが提唱した精神障害である。監護親が子に対して洗脳に似た操作を行っている場合に起こす子どもの病的症状であるというのである。このPASについては批判が多い。
  このPASについては、Johnston& Campbellの大規模調査があり、結果として、非監護親に対する否定的な感情を伝えられた子がすべて非監護親を拒絶しているわけではなく、監護親による働きかけがなくとも、子が非監護親に対して憎しみを抱いている事例があり、複雑な様相を示していることが報告されている。
  その結果、PASを修正する形で「片親疎外」(PA)が概念づけられていった。結論としては、「子の非監護親に対する拒絶する現象」のことを言い、この理由としては監護親、非監護親、子の要因などが複合的に作用しているとされている。
Johnston& Campbellによれば、片親疎外の減少が起きる要因としては、監護親の非監護親に対する否定的な言動や、非監護親からの手紙や電話を取り次がない、思い出のものを捨てさせる、面会交流を理由なくキャンセルする等の行動が、子どもに対して、面会交流やささやかな思い出にまどろみ、非監護親からの愛情を確認することが、監護親から否定評価されるという忠誠葛藤を起こさせ、自分は監護親を選んだということをアッピールするために非監護親を否定する態度を強めるという要因があることが指摘されている。また子どもが、両親の板挟みを上手に解決する能力が無いために、単純に一方の親に同調することによって解決を志向しているとされている。それらは、背景として同居親から見捨てられると、自分は一人ぼっちになるという子どもなりの不安が強く作用しているとのことである
  但し、片親疎外の結果、子どもが、「完全な善人の母親(同居親)の子どもの自分」というアイデンティティと「完全な悪人の父親(別居親)の子ども」である。という二律背反するアイデンティティを持たせられる結果になってしまう。極端なアイデンティティは統合することが難しく自己イメージの混乱が生じてしまう危険がある(片親疎外の項は前掲小澤41~45頁)。
  このような影響は自我が確立する15歳ころに顕著に表れる。自己イメージの混乱は、自我の同一を妨げる。片親疎外のもう一つの側面である極度な同居親に対する依存傾向は、同級生などとの対人関係に問題が生じ、引きこもり、自傷、拒食症などの遠因になることもある。
  片親疎外の保護因子としても面会交流は重要である。離婚に伴い葛藤が生じることは仕方がなく、同居親に対して子どもの前でパーフェクトにふるまうことを期待しても仕方がない。どんなに葛藤を子どもに見せても、別居親との面会交流だけは第一に考え、快く送り出してくれることで、子どもは片親疎外に陥る危険は著しく低減するであろう。

3 面会交流調停は、どのように面会させるかということを話し合う調停である。

 1)面会阻害事由の調査

   先ずは、面会阻害事由の有無を確認することは当然である。面会をさせると連れ去りの危険があるのか、児童虐待があったのか、子どもの面前で配偶者加害暴力や虐待があり、面会の機会に暴行が起きる可能性があるのか、子どもの拒絶がないかということである。同居親の感情は、面会阻害事由とされていない。
   但し、連れ去りの危険については、連れ去られないような出入口が一つしかないような場所で実施することで解決される。児童虐待の有無、子どもの拒絶については、家庭裁判所の調査官の調査が必要となる。但し、引き離された子どもは、上記理由のため多少にかかわらず片親疎外症候群の様相を見せることがむしろ通常である。子どもが調査官に会いたくない、会わなくても良いといっても、実際に面会したときの子どもの喜び方を見れば、それが片親疎外症候群ないし、忠誠葛藤によるものであることが容易に理解できる。同居時の記録、写真やビデオなどで良好な関係が示されれば、客観的資料に基づいて判断されるべきである。
   仮に面会阻害事由が疑われるというのであれば、速やかに試行面会が行われるべきである。客観的資料もないのに同居親の言い分をいつまでも真に受けて速やかな試行面会を怠ることは厳に避けていただきたい。
   同居親への暴力の懸念も、過去において具体的事実がない場合は考慮するべきではない。但し、後述するように同居親の不安があることは事実であるから、それに対する対応として、面会時のルールについては、具体的に取り決めをするべきであると考える。
   ちなみにアメリカの配偶者加害の研究者であるランディ・バンクラフトらは、「DVにさらされる子どもたち―加害者としての親が家族機能に及ぼす影響」(金剛出版)の中で、DV加害者(batterer)であっても一般に子どもは加害者とある程度の接触があったほうが順調な経過をたどる(142頁)と指摘している。ここでいうDV加害者は、日本の曖昧な概念ではなく、「DV加害者とは、パートナーとの間に威圧的な支配のパターンを形づくり、時おり身体的暴力による威嚇、性的暴行、あるいは身体的暴力につながる確実性が高い脅迫のうちのひとつ以上の行為を行う者のことである。」
と明確に厳しい定義を述べている。このような定義の加害者であっても、子どもは接触したほうが良いと述べられているのである。

 2)調停で話し合うことはどのように面会させるかである。

   面会阻害理由がなければ実施の方法を話し合うしかない。これが鉄則である。強固に面会交流を拒んでいる同居親が面会交流に応じるためには、裁判官や調停委員が強く説得するしかない。同居親は、よほどの事情から離婚をするのであるから、子どもを会わせたくなるということはない。子どもを会わせたい気持ちになるまで待つということは、結局は面会を子どもにあきらめろということに等しい。しかし子どもは健全な成長が妨げられる危険を容認するべき原因を作ってはいない。申し訳ないが、裁判官や調停委員から、子どもの権利を抽象的に解くのではなく、片親疎外の完成による極めて深刻な影響を伝えて説得するしかない。また、子どもに対する責任を分担すること、子どもに縛られない時間を作ることが有効であること等、負担を軽くして、子育ては母親がするものというジェンダーバイアスから解放することが有効である。
   しかしながら、同居親に葛藤や抵抗が強いことは事実として存在する。同居親がより安心して合わせることができるような工夫が必要であるということは多い。
   面会場所や打ち合わせの方法、直接接触しないで済む方法、その他同居親の安心につながる方法は積極的に受け入れられるように別居親とも工夫を出し合うことが有効である。共通の知り合いなどの支援者を面会に同行させることでも同居親の不安が軽減することもある。但し、同居親の要求が子の利益に反する場合は、家庭裁判所は同居親を説得しなければならない。同居親の感情で、面会交流の質量が減少してしまうことは避けなければならない。子どもが十分に同居親から愛情を受けているということを実感できる面会交流が実現しなければならない。

 4 面会交流の緊急性

   面会交流は速やかに実施しなくてはならない。
   面会交流調停が申し立てる場合、離婚調停や婚姻費用調停などが併合されてしまう場合がある。これは制度の趣旨を十分に理解していないものと思われる。
   むしろ別居が始まると同時に面会交流も実施されなければならないはずである。子どもたちは、先述のように、環境の激変の中で心理的負担を受けており、これまで生活したことの無い環境の中に立たされている。同居親以外の愛着の対象がすべて奪われた状態である。一方の親が自分の目の前からいなくなることも、不安を増大させる出来事である。同居親とも離別する不安を潜在的に抱えている。忠誠葛藤が無駄に強くなり、片親疎外が進行している。できるだけ早期の段階で別居親との面会交流を実現して、自分が愛されているという実感を持つ必要がある。
   婚姻費用調停が優先させるべき合理性があるとすれば、婚姻費用の支払いが早期に合意される場合に限られるだろう。例えば暴力や虐待の無い事案においても子どもの連れ去りは起こっているが、そのような場合、別居親は子どもを連れて勝手に出て行かれた上に、高額になる傾向にある婚姻費用の負担を行うことは心理的抵抗が高い。養育費相当額は支払う必要性を感じているが、それを上回る婚姻費用相当額を支払うことに抵抗を示すことは心情としては理解できる。そもそも婚姻費用を負担するのは、共同生活を営むにあたって必要な費用を支払うことが当然だからである。一方が共同生活を営む意図がない場合にその者に対して費用を捻出する義務を課すことが近代市民法の理屈から導くことができるかについては疑問も多い。
   このような場合、すべてが同一期日に話し合われるとすると、事実上婚姻費用の話し合いが先行することになる。面会交流については実質的に、婚姻費用の話し合いが整った後で行われることが多い。ある家庭裁判所では、離婚調停が優先したところもある。面会交流調停だけは子の福祉の観点から急がなければならない調停であり、これは婚姻費用調停を急ぐべき事由と両立する。当事者や代理人が許す限り、別期日で可及的に速やかに十分な時間をとって話し合い、早急な面会交流を実施させるべきである。   

5 間接交流は回避しなければならないこと

   家庭裁判所は間接交流と言われる、手紙や電話などでの交流を頻繁に提案する。しかし、間接交流は上記の面会交流の意義、別居親からの愛情の実感、親離れの促進、アイデンティティの確立に効果は乏しい。つまり間接交流は面会交流としての意義が乏しいのである。一番の問題は、間接交流は、交流にならないことである。直接交流ができない場合は、電話での交流もできないことが一般的である。また、手紙は子どもには渡らないことがほとんどである。子どもからの返事はめったに来ない。というか来ないことが多い。手紙を子どもが手に取れる場所に置いているということも聞くが、子どもたちはそのような手紙を積極的に読むことはできない、読んだ形跡を同居親に知られるわけにはいかないからだ。これは、多少経験のある調査官なら誰でも知っていることである。面会もしない親と子の手紙のやり取りは、実際は行われない。
   そもそも子どもにとって有益ではない面会交流である上に、なかなか実現が難しい交流である。これを提案する理由は、これならば同居親に承諾させることができるかもしれないからである。禁じ手の発想というべきである。子どもの利益を考えるべき面会交流調停において、同居親の感情を理由として子どもの利益を十分に実現できないという結果を家庭裁判所が提案することは、家庭裁判所の存在意義に関わることである。子どもの一生は一度しかない。子どもが子どもである以上、その健全な成長に対する責任は親や大人が果たさなければならない。表面的な事件処理のために、子どもの健全な成長という利益に目をつぶることは家庭裁判所の体をなしていないと厳しく批判されるべきである。

 6 面会交流に関するレクチャーは早めに行うべきである

   動画やパンフレットを見せて面会交流の意義についての説明は可及的に早期に行うべきである。一つの選択肢を提起する意味は大きい。その際も、誰しも離婚相手に子どもを預けることに抵抗があることを理解し、それでも子どもにとっては面会交流が大切だということを説明する必要がある。
   それだけで、嫌だけれど面会交流をさせなければならないと納得するケースは案外多い。
   頭では面会交流が必要だとはわかっているという同居親の言葉をうのみにしてレクチャーを遅延させることはできない。面会交流が必要だからどのようにして合わせるかという議論になっておらず、会わせるかどうか検討するということで数か月を過ぎている場合は、面会交流が子どもの健全な成長にとって切実に必要だということを頭でも理解していないことを示している。実際、このような同居親の発言がある場合は、面会交流が実現するまでには時間がかかることが多い。

 7 別居親の協力は不可欠である

   別居親も同居親も、結局は自分たちの子どもを健全に成長させるために共同作業をしなければならないことは離婚後も変わらない。同居親の不安や抵抗を取り除くために別居親が行うべきことは多い。
   別居親が、面会時、同居親の悪口を言わない、生活ぶりを子どもに尋ねたりしない、受け渡しの時間は厳守する等のルール作りを承諾することは極めて簡単だ。思い切って別居親にこれらの提案を自らさせることはそれほど難しいことではない。そんなことでも、同居親の安心につながる場合は大きい。
   また、別居親が同居時や別居後に、同居親が子育てに努力していることを認める発言をするのであれば、それを積極的に同居親に伝えることも同居親の不安を軽減させることにつながることがある。さらに何らかの謝罪があれば、それも伝えるべきだ。但し、これらを戦略的に話してもらうことは良いとしても、強要することはできない。子どもの利益のためにということで、その有効性を説明することは必要かもしれない。

 8 子どもに責任のない面会交流の質量の制限は回避するべきである。

   間接交流とともに、極端に短い面会交流時間や極端に少ない頻度の面会実施が提案される場合がある。子どもの事情から必要であればやむを得ないが、ここに同居親の感情を入れることは間違いである。面会交流はあくまでも子どもの利益のために行われるものだからである。
   子どもの事情で質量が制限されるのは以下の場合である。
   乳児などの子どもの年齢のため、外出する時間に制限を設けるべき場合。
   別居親が子どもと極端に離れて暮らしているために、実際の面会が毎月実施することが難しい場合。
   部活動等で、土曜日、日曜日の予定が立てられない場合。但し、このような部活動は中学生までは禁止されるべきだと考えるがそれは別のところで。
   毎月の面会交流の実施が難しい場合は、実施する面会交流は、子どもが別居親になじむ時間を十分確保して行うべきである。あるいは直接面会交流ができない場合は、電話やインターネットでの面会交流を補充的に実施するなどの工夫が必要であろう。
   特に就学前の幼児は、記憶力が十分発達していないため、たとえ一回当たりの面会時間が少なくても、頻回の面会交流が実施されることが望ましい。
   月に一度、2時間の面会交流は、不当な時間的制約を課していると評価されるべきである。子どもが病的原因を抱えているならともかく、健全な体力があるのであれば、1か月に1度の面会ならば最低でも6時間くらいは必要である。受け渡し場所から遊園地などの施設に移動する時間も考慮しなければならないからだ。この移動時間も貴重な面会交流の時間である。案外遊園地よりも電車で一緒に切符を買って、一緒に窓からの景色を見たことが懐かしい思い出になることもある。子どもの体力についての考慮は、面会交流実施の方法について議論すれば足りる。

 9 まとめ

   いずれにしても、子どもたちの健全な成長を阻害する危険を生むかどうかは、同居親、別居親の判断にゆだねられている。家庭裁判所は子の福祉の観点から後見的に監護に関する助言を行わなければならない。家庭裁判所が無制約に同居親の感情に流されてしまうことで、面会交流が十分に実施されず、その結果子どもの健全な成長が阻害されても、家庭裁判所は責任を取らないであろう。子どもの人生は一度きりで、その人生のために重要な子どもという時期も一度きりである。子どもの健全な成長以外の考慮要素は排さなければならない。
   本来、監護の方法は、家庭の中のことであり、両親が決めればよいことである。そこに簡易裁判所ではなく家庭裁判所が介入することが許される根拠は、子の福祉のために後見的に介入することが法律で定められているからである。子の福祉の観点に立たない働きかけは、家庭裁判所の権限ではない。重々ご理解、ご承知おきいただきたい。

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