SSブログ
前の10件 | -

ストレス解消のために万引きなどの犯罪を行うということは矛盾であること、ストレス解消とは何か [刑事事件]

よく万引き事件の報道などで
「ストレスがたまっていたのでむしゃくしゃしてやった」
「ストレス解消のために犯罪をした」
等という容疑者の発言を見ることがあります。

ストレスという言葉は曖昧な言葉ですが、
生理学的には、危険に直面しての緊張状態を言い、
血圧が高くなる、脈拍が早くなる
体温が上昇するコルチゾールが多く分泌される
等の生理的変化のことを言うようです。

犯罪の時のストレスの原因は、通常は、
生命身体の危険ではなく、
対人関係の中でうまくいかないことが起きて、
常に緊張が持続しているような状態です。

但し、実際に対人関係上の不具合が生じていなくても、
自分が、不具合が生じていると感じ
何とかしなくてはならないけれどなんともならない
と感じてさえいればストレス反応は起きるので
その点には注意が必要でしょう。

さて、そのような対人関係由来のストレスを感じているとき、
どうして万引きなどの犯罪が
ストレスが解消目的で行われるのでしょうか。

実際は、万引きをしているときの心理は
誰かに見つかるのではないか、警備員に呼び止められるのではないか
そもそも自分は悪いことをしているという意識がありますから、
通常誰から見ても
異常に緊張しているようですし、
血圧が上がっていたり、脈拍が早くなっているようです。
カーっとなっていて、ドキドキしているわけです。
(このため、警備員が見ればすぐに万引きをしそうだとわかるわけです。
また、緊張のあまり、合理的な隠ぺい行動ができずらくなっていることに本人は気が付きません)

間違いなく、強烈なストレスがかかっています。

ストレスを発散させるためにストレスが強くかかるような行動をする
ということになりそうです。

その結果、警備員に呼び止められ、警察に通報されると
さらにストレスは持続していきます。

どうしてこのような行動をするのでしょう。
ストレス発散のためと言う言葉は嘘なのでしょうか。

仮にストレス発散という犯罪目的が真理だとした場合、
次のように考えると整合するかもしれません。

<ここで補助線>
人間は、痛みや不安等危険に対する反応は
一時に、一つの危険にしか対応できない。

こういうことって経験されていないでしょうか。
最初は血が流れている傷口に驚いてなんとか血を止めようとするのですが、
血が止まったとほっとした途端に、足を捻挫していることに気が付くとか

一つの困難な仕事をやり遂げてほっとしていると
まだ別の仕事が残っていたことに気が付いて
「一難去ってまた一難」なんて気持ちになることはありますよね。

危険を感じて不安になったり、けがをして痛いと感じる理由は
危険から逃れるための体の仕組みです。
人間はどうやらマルチに危険に対応することができない
脳の構造になっているようです。
一番の危険から逃れた後で
別の危険に気が付けばよいやという割りきりがあり、
これが役に立っているようです。

そうではなく、どうでもよいことから対応を始めてしまって
重大な危険が現実化したり、
どの危険に対応しようかと迷っているうちに
結局何にも対応できず危険が現実化したということにならないための
仕組みのようです。

危険は一つしか感じられない
ストレスは一つに危険への対応だけが持続する
ということが解決のヒントだと思います。

ストレス解消のために犯罪を行う人は
そのストレスの元となった対人関係のストレスを
継続的に感じている状態
緊張しっぱなしという状態にあるのでしょう。

実際の事件では
お金が無くて、払わなければならないものがあるのに払えない
払えないということを言った後、どういう目にあうのか怖い
という緊張だったり、

上司が四六時中自分を監視していて
プライベートの時間まで同行されて自分の時間が持てないとか

会社の犯罪行為を自分の名前でやられてしまって
何もやっていない自分がいつか警察から呼び出されるのではないかとか

単純化して書いてみるとそういうことですね、
これが実際はもっと複雑に心理的圧迫⇒ストレスにつながっているようです。

客観的悩みだけでなく主観的な悩みもあり
そこまで考えなくても良いのに、
生真面目すぎるような後ろめたさを感じてしまっていたり、

一人ぼっちで生きていかなければならないというストレスも
高齢者の場合は特にあるようです。

例えば万引きをするとき
一番感じていることは、
「万引きを見つけられたくない」
という緊張、不安、ストレスです。

これは当然のごとくストレスがかかっています。

危険ストレス反応は一つだけということが正しいとすれば、

一瞬、日頃持続的に感じていたストレスを忘れることができるわけです。

単に別のストレスがかかっているだけなのですが、
毎日、そのストレスから解放されたいと願っていることが
実現できてしまうようです。

万引きをしている瞬間だけ
お金が無くて払いに困るというストレスを忘れさせ、
嫌な上司を忘れさせ、
横暴な会社を忘れさせ、
自分が独りぼっちだということを忘れさせることができるようです。

ストレスを発散させるということは
すべてのストレスをなくするのではなく、
いつも自分を苦しめている持続しているストレスを
一瞬別のストレスに置き換えることで感じなくて済む
ということのようです。

人間の行動思考はあまり客観的合理性があるようなものではないのですが、
時に不合理な思考や行動を行い自分を傷つけるようです。
特に慢性的、持続的に感じているストレスは
合理的な思考を奪ってしまうのかもしれません。

そのストレスが解消されるということが至上の欲望となり
思考自体を奪うのでしょう。

かなりの興奮状態となり
記憶もあいまいになることも
本当のことかもしれません。

自傷の心理がまさにこれで、
それを極端に突き詰めてしまったのが自死
ということになるように思われます。



nice!(0)  コメント(0) 

脳科学等が扱う「心」と我々の思っている「心」は別物なのか。心は外界の刺激に対する生理的反応に過ぎないってことなの? 対人関係学の立場は。 [進化心理学、生理学、対人関係学]



「心はいつ始まったのか」とか、「心の構造」などという題名に心惹かれて本を読むと、想像している内容とは異なり、
ナメクジみたいな動物(アメフラシ)を刺激し続けるとえらを引っ込めなくなるとか
犬がベルの音を聞くとよだれを流すとか
サルが動画を見て、手に力を入れたとか
そういうことばっかり書いてあって、本を読み終わると
「あれ?それで心はどうなってしまったのだろう?」
と肩透かしを食ったような気持ちになるということがあると思います。

脳科学で言うところの「心」というものは、私たちが使う心とは別物かもしれないという疑問を抱くわけです。脳科学に限らず、認知心理学や、進化生物学、そして対人関係学でも同じような意味の心について議論をしているようです。

普通に使う心というと、例えば「心の中で考える」というように、
何かを考えること、
何かをしたいと思うこと、したくないと思うこと、
何かについての価値判断、
誰とは仲良くなりたいとか、誰とは顔も合わせたくないとかいう意味や
可能性の判断
これはできるだろうか、うまくゆかないのではないかという判断でしょうし、
「心が折れる」という言葉からすると、我慢をするとか、気を張る、頑張るなんかも心の活動でしょうし、
「心根の優しい」という言葉からすると、優しい心、意地悪な心みたいにも使われるので、人格、個性などの意味でも使われますね。

このように、私たちは、思考、判断、意思、人格などが心の意味だとして、心という言葉を使っているはずです。
これに対して諸科学では、あたかも外界、環境からの刺激に対する生理的変化を心だと呼んでいるようです。せいぜい、他人が何を認識しているかの想像力、あるいは自分と他人の区別というものが含まれる程度です。

一般に使われる心と科学が扱う心は、別物なのではないかと疑問を持つことは当然かもしれません。

これについては諸科学というか、諸科学の学派によって説明の仕方が違うようです。あまりこの問題が正面切って論じられることはないのですが、他の学派からの批判の対象になっているという形でうかがい知ることができるというちょっと裏口からの評価になります。

極端な学説では、まったく一緒だと考えているようです。つまり心なんて、ナメクジみたいな動物がえらを引っ込めることとまったく一緒だというものです。個性や人格の違いというものやあるいは自由意志などというものは、実際は存在しない。あると思っているのは、錯覚に過ぎない。あくまでも外界からの刺激があってそれに対して反応している体の仕組みに過ぎないという考え方です。基本は、防衛反応であって、生理的な生きる仕組みだというのです。

でも、「確かに個性というものはあるじゃないか。」という反論はあるわけです。地震でも、事故でも、困ったこと、大変なことが起きたとき、逆に何か褒められたときもそうですが、人間がそれぞれ人によって反応が違うことは、我々も常に体験しているわけです。
それに対しては、人によって確かに反応は違う。しかし、それは、遺伝子の仕組みの違いだとか、個人個人の置かれている環境の違いだとかという説明がなされているようです。遺伝と環境のほかに加えるとしたら、各人の経験の違いが個性を形作るということもあるでしょう。犬に噛まれそうになって怖い思いをした人ならば、犬を見たら怖いと思い逃げるでしょうけれど、犬と一緒に暮らしていた人は、犬をみると優しい気持ちになり犬に近づくという違いが出てくるでしょう。
(心の研究と記憶の研究では同じことが論じられることが多くあります。)

でもそういう個性があるということを認めてしまうと
心というものを突き詰めて解明しようとしても、個性によって異なるということになってしまえば、心を研究しても意味がないのではないかという感想も生まれてしまうかもしれません。
しかし、大きな法則自体は変わらないわけです。例えば、熱に障ると熱いと感じて手を引っ込めるとか、けがをすれば痛いと感じるとか、根本的なことは程度の違いはあっても大筋はそれほど変わらないわけです。他の動物ではなく、人間としての共通項が確かにあると思います。

一つに大きな視点から、社会の在り方について科学は役に立つでしょう。犯罪を実行しやすい心を取り巻く環境があるのであれば、その環境を解消することによって、犯罪が起こりにくい社会を作ることができる。
夫婦や家族が仲たがいしやすい環境があれば、それを解消することによって、夫婦や家族が仲たがいしにくく、子どもが安心して育つ人間関係を作るようにすることができる。
いじめが起こりにくい学校、安心して協力し合う職場等、それですべてが解決するわけではないけれど、不具合を起こりにくくするということができやすくなるかもしれません。

個別の人間関係、あるいは個別の人間の問題点も、可変要素である遺伝(もともとの性質)、特殊な環境の有無とその影響の程度、生い立ちなどその人が育ってきた環境などを考慮に入れれば、不具合を解消する方法が見つかるかもしれません。

だから、個性があったとしても、あるいは心が外界に対する生理的変化だけではなく別の複雑な要素があるとしても、「科学的な意味での心」を研究することは意味があることだし、大きな力を得ることができる可能性が高いと思われるのです。

逆に「科学的な意味での心」を認めなければ、
つまり、人に共通の心なんてない。心は全く千差万別だということになれば、
犯罪をしてしまうのは、その人の心の問題であって社会の問題ではないとか、
離婚をするのは、あくまでも夫婦の問題であって、どうすることもできないとか
いじめや虐待やパワハラは、怒るときには起きてしまい防ぐことはできないものだということになってしまいます。
それも極端な考え方だと私なんかは思うわけです。弁護士という仕事柄、どうもあらゆる社会病理は個人の心の問題だけではないのではないと感じ続けてきました。
もしかすると、犯罪にしても、離婚にしても、いじめや虐待、パワハラにしても、そうするように追い込まれてしまう要因があるのではないかという疑問を持ち続けてきました。悪い結果、ひどい行為が、その人だけの問題で起きているということでは、解決が付かないという実感が募ってゆきました。

心には共通項がある。すべてを解決できるわけではありませんが、共通項、あるいは法則を見つけ出せば、ある程度は不具合を予防し、あるいは軽減ないし解消することができるのではないかという気持ちが強くなりました。
その人個人の責任もあるでしょうが、その人個人ではどうしようもなかった部分もある。その両方を認めないと予防も改善も効果が上がらないのではないかと考えるようになりました。

おそらく、そこからはみ出した個性がもしあるとすれば、それを他人がとやかく言うことではないのでしょう。人間の心を科学的に解明するとは、不具合を解消し、人間が幸せになるための方法を考える範囲で解明されればよいのだと思います。

こういう目的に照らして考えた場合
科学的な意味で、つまり、心も自分を守るための仕組みであり、基本的には外界の刺激に対する生理的反応であるとして、心を研究することが有益であろうと思って、いろいろ考えているのです。


nice!(0)  コメント(0) 

【炎上に便乗】産後の女性をいたわることこそ日本文化の伝統 差別とは障壁を無いことにするところから始まることを学ぶ 女性の敵は「女性」 [事務所生活]


とある衆議院選挙に立候補をした経験のある方名義の
Twitterが炎上しているようです。
「産後うつは甘えだから、それを言い訳に家事育児を怠ったら怒鳴りつけてしつけろ」
という非常識なメッセージです。

これに対して反発が大きいもので炎上となったということですから
「産後うつ」という言葉がかなり普及してきたということで
我が国も健全化しつつあるなあと感じました。

こういう機会をとらえて産後うつという概念を
さらに広めるいいチャンスだと思いました。

産後うつは、大変怖い現象です。
広い意味での自死が起きたり
母子心中の原因にもなります。

また、離婚や別居の原因にもなると思われます。
そうならなくても不安や緊張が持続して色々な不具合が起きる可能性があります。
つまり、女性が不幸せになる原因となっているのです。

これまでもこのブログでしつこくお話してきました。

産後うつと母親による子どもの殺人と脳科学 床上げの意味、本当の効果
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2014-12-11

もっとまじめに考えなければならない産後クライシス 産後に見られる逆上、人格の変貌について
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2015-10-12


言いたいことは
産後うつ、産後クライシスは
気の持ちようではなく、脳の変化である。
気合を入れられたからと言って
無くなることはないということ

古来から日本では、産後うつという言葉はないにしろ
その現象を把握しており、
その手当て、母親に対する気遣いを
地方ごとに行っていた
これが日本の古来からの伝統であるということです。

健全な批判が多数起きることによって
産後うつの真実についての知識が広まることに
微力ながら貢献していこうと思います。



しかし、今回言いたいことはもっとあるのです。

先の立候補経験のある女性名義のツイッターで、その後
「『産後うつ』などと甘えたこといっているから男女平等は実現せず、性差別が横行することにまだ気付けないのでしょうか。」
というツイッターが更新されたことです。

これは日本がいつか来た道です。
1980年代に、雇用機会均等法を制定する露払いとして
それまで労働基準法上認められていた
女性の深夜勤の禁止と生理休暇の権利が廃止されました。

深夜勤の禁止や生理休暇が、女性の職場での地位向上の足かせになっている
という主張がされたのです。

この時も表だってそのような主張をさせられたのは女性たちでした。

女性保護を当該女性の保護に限局してとらえての主張だったのですが
本来は「母性」保護だったのです。
立派な国家政策でもありました。
母性を保護することによって、
これから生まれてくる子どもたちを保護する
という意味合いが強い規定だったのです。

生まれてくる子どもよりも
職場で対等に出世するということに価値をおいた主張だったわけです。

さて、法律ができてその後、女性たちが
男性と同様に正社員になり、出世していったか
男女の賃金格差が是正されたか
閣僚の半数近くが女性になっているかと言えば
そうではないことは現実を見てのとおりです。
今にして思うと、初めから男女賃金格差なんて
目指してはいなかったように感じます。

男女が同じ条件で競争しなければならない
というところにこそ不合理を感じるべきだったということに
今回のツイッターであらためて気が付くことができました。

実際は様々な男女の違いがあるにもかかわらず
それを無いことにして叱咤激励をするということは
(違いを乗り越えることができる個体はいるもので、
そういう人たちは良いとして)
圧倒的多数に対して
男性の作り上げた男性仕様のシステムの中で
現実に立ちはだかる壁に押しつぶされることを押し付けているだけです。

不合理を是正する、差別を解消するということは
この壁を取っ払って、対等な競争をするということです。
そうなると
対等な競争とは、助け合いということに意味が変わるはずなのです。

結局女性の真の解放は、
女性の心に安心感を与えて、女性の能力を発揮することであり、
そのためは、男女の違いを承認し、
女性にとって不合理な壁を取っ払うことが必要であり、
これなくしては女性は不合理な、不当な評価を受け続ける
ということにも気が付きました。

つまり、男女の違いを承認しなければ
女性は解放されないということです。

違いは違いであるだけです。
違いに優劣はない。
ここから始めませんか。

そしてもう一つ
男女の違いを認めずに
女性に対して男性仕様の評価に甘んずることを押し付けるのは
常に女性名義で主張が行われるということ
このことも心にとめておきたいと思います。

nice!(0)  コメント(2) 

言った言わないで解雇の有無が争いになった件で、解雇と損害賠償が認められた事例。 [労務管理・労働環境]



今回は私は労働者側の代理人でした。
結局は会社代表者が口頭で解雇を言い渡した事件なのですが、
会社代表者の主張は、
「解雇を言い渡してはいない。労働者が勝手に怒って任意退職したのだ。」
というものでした。
さらにその解雇を言い渡した日も1日ずれて主張されたという
少しミステリー掛かった事件でした。

確かに、解雇通知の文書はありません。
言った言わないの争いという困難案件ではありました。

会社側は、解雇を言い渡した証拠がないので
解雇を言っていないと主張したわけです。
解雇であれば、その解雇が正当かという司法判断が入るのですが、
任意退職であれば、正当性の判断をまぬかれることになり
会社にとっては有利になります。
辞めろと言っておいてそれはないだろうということになりますが、
敵もさるもの引っ搔くものという戦術できたわけです。

情けないことに労働基準監督署は
解雇をしたという認定ができないということで途中で放置し
それが会社の自信にもなってしまったという事情があります。
嘘をついても何とかなるということですね。

労働者側は当初は労働審判を申し立てました。
ある程度の損害を払ってもらってさっさと手を切ろうというものです。
裁判所からもあっせん案が出たのですが、
会社はあくまでも解雇していないということで応じませんでした。
審判が出ても会社が応じないために本裁判になりました。

結局裁判では解雇をしたことが認定されたわけですが
どうやって言った言わないの事件で勝てたのか。
一つには、それ以外の事実を丁寧に積み重ねていき
解雇を言ったことを浮き彫りにしていくという方法で証明していった
ということです。
決定的証拠がなくても裁判は勝てることがあるので
文書がないから負けるとあきらめるのは早計です。

次は、余計なことを会社はしゃべりすぎた
という自滅が起きています。
辞めさせたいくらい嫌な労働者ですから
つい解雇は正当だと
当該労働者側の落ち度を主張したくなるわけです。
そうであれば解雇を認めたうえで主張をするべきです。

解雇を否定したまま、解雇されるべき労働者だという
主張を全開にしたため
裁判所からは、
「なるほど、会社は解雇したい事情があったのね」
「じゃあ、解雇したんじゃん。」ということになるわけです。

解雇日もずらしてしまったのは致命的なミスです。
会社側の主張では、その日は既に解雇していたのだから
できるはずのない労働者の行為が
実際は行われていたという動かぬ証拠が出てきてしまったのです。
証拠がなかったはずの事件にわざわざ証拠を作ってあげた
という自滅行為をしたことになります。

会社の従業員が証人になりましたが、
わからないはずのことを答えてしまっているところを突かれて
反対尋問にはまったく答えられず
信用ができないことが裁判所においてはっきりしてしまい
やはり自滅になりました。

結局、労働審判の3倍の請求が判決で認容され
高等裁判所まで争ったので当初の和解金と同額の利息が付いてしまい、
会社は和解案の金額の4倍を払う羽目になってしまいました。
おそらく会社の弁護士費用も合わせると
提示された和解金の6倍くらいを支払ったということになるでしょう。

労働者側の完全勝利で事件は終了しました。

教訓
会社側の教訓は
被害を無かったことにしようとするとかえって莫大な損害を受ける
最小限度に止めようという発想こそ経営の発想である
というところでしょうか。
また、自分の依頼した弁護士の説得を真面目に検討することは
結局は自分の利益になるということです。

労働者側の教訓は、最後まであきらめないことです。

nice!(0)  コメント(0) 

DVに男女差はあまりないかもしれない件 真の「DV対策」は孤立化を解消することではないか。 [家事]



敢えて曖昧な概念であるDVという言葉を使って進めていきます。
DVというと、役所関係なんかが特にですが、
女性の権利と絡めて予防や救済を啓発しているので、
加害者は男性で、被害者は女性というような
誤解を与えています。

実際の家事実務(離婚事件など)では、
男女差という問題ではないのではないか
という実例が山ほど出てきます。

暴力の問題でも
女性の暴力というものが結構多く
夫が、「どうして暴力をふるうのだ」
と妻に尋ねたところ
妻は、「あなたが私に暴力を振るうことをさせるのだ」
と、典型的なDV加害者の発言が出て
弁護士どうし顔を見合せたことがありました。つい最近。

それから、家のことでとやかく言うのもDVの一つだとされますが、
「壁に勝手に画びょうを刺すな」
というのが男性の特質だと言われているのですが、
結局どちらが出費して家を建てたかによるようです。
女性が相続した家などは妻が夫に言うセリフのようです。

実際法務省などのこれがDVだというパンフレットを見ると
携帯を盗み見するとか
交際範囲を制限するとか
相談例からすると
どちらかというと妻の側が行う行為のような
印象もあります。

暴力による命の問題ということもあるのですが、
夫婦間の殺人事件は
夫と妻でどちらが加害者になるかは
それほど違いはないようです。

伊達政宗の教育係の虎哉和尚が当時の梵天丸に
結婚相手とは、
この人なら寝首を掻っ切られても仕方ないと思う女性だ
と言ったと大河ドラマでは描かれていましたが
なかなか奥深い話です。

ただ、専業主婦(夫)という立場は
追いつめられる特殊性があるようです。
一つには孤立しやすいということが問題です。
夫婦間暴力の精神的打撃の最たるものが
この孤立です。
誰にも相談できない。
相談どころか会話を交わすこともできない、
それ自体がストレスになるわけです。

孤立感を抱くと
援助を求めることができなくなりますので、
絶望を抱きやすいという関連があります。

経済的依存という言ことを意識させられれば
抵抗もしにくくなるということもあるのでしょう。

ただ、現代では、経済的事情から
専業主婦という立場を持てる人が少なくなっています。
経済的に専業主婦が可能な人は
仕事以外のコミュニティーに帰属しているようで、
むしろ孤立になりにくいということがあるようです。

DV予防には、夫婦とは別のコミュニティーに帰属すること
これが一番のようです。

夫による孤立から解放されても
夫からの隔絶による孤立が生まれたら
あまり前進はしていないということになるかもしれません。

兼業主婦の一番の落とし穴は
そういう意味で出産の前後かもしれません。

これまで働いて社会参加をしていた人が
子どもによって強制的に孤立を与えられた
子の母親がそう感じてしまうと
産後クライシスが強くなる関係にある
ような事件も多く見ています。

できるだけ多く外野が
子育てをしている母に近づいてあげることが
一つの解決方法になるのではないでしょうか。

現在のDV政策は
当たり前のコミュニティを形成することで
孤立を防止して
楽しく子育てをすることで解消していく
という視点が無さすぎのところが
支援によって幸せになる人が少ない原因なのではないかと
感じられてしまうのです。

nice!(0)  コメント(0) 

なぜ自死するくらいならば退職をしなかったのか 新入社員の場合、何が危険要素になり、どのように予防するのか [自死(自殺)・不明死、葛藤]

何件かの同種事案に接しております
私一人だけでも複数の案件に関与しているということですから、
新入社員という立場は
自死のリスクが高い時期だということが言えるのかもしれません。
今回は、損害賠償とか労災申請とかという業務を離れて、
純粋に従業員の自死を防ぐ、
特に新入社員の自死を防ぐという観点からの分析を行います。

いくつかのケースの共通要素を取り上げて
一つの事例を作り検討してゆきます。

<事例>
自死者は、23歳男性
一流大学を卒業し、第1希望ではなかったが、一流企業に入社した。
入社してそれ程たたない段階で、友人や家族との電話やメールで、
仕事がうまくいかず、思い悩んでいる様子が報告されていた。
何を悩んでいるのか、具体的な内容については記載されていない。
友人は、「そんなにつらいならば退職をした方が良い」というアドバイスを送っており、本人も退職することもあるという返信もしていた。
入社して数か月後自死。

<周囲の疑問>
どうして、死ぬくらいなら退職をしなかったのだろうか。
パワハラなどがあったのだろうか。何が彼を追い込んだのだろうか。
どうすれば自死を防ぐことができたのだろうか。

1 どうして死ぬくらいなら退職をしなかったのだろう。

1)うつ状態になった者の心理として

この点に関しては、仕事が原因でうつ病になったあるシステムエンジニア(SE)の貴重な体験がありますので、紹介します。
このSEは、中途採用でSEの派遣会社みたいなところに入社しました。ところが、上司と折り合いが悪く、上司は自分の能力に見合わない不利益な仕事しか回してきませんでした。つまり、お金にならない派遣先しか紹介しなかったのです。最初はこのSEは、会社に腹を立てて、言いたいことも言って、「いつでもこんな会社辞めてやる」という気持ちでいたそうです。そんなことが半年も続いたころ、このSEは精神的不調を自覚し、辛くてたまらないために精神科を受診しました。そうしたところうつ病であると診断され、原因は職場にあると言われ、結果的には退職しました。最初元気だったころ「いつでもこんな会社辞めてやる」と考えていたのに、うつ状態で精神的につらくなったころからは、「会社を辞める」という選択肢がいつの間にか意識の中で無くなっていたそうです。このまま苦しみ続けるしかないのではないかということを考えていたそうです。
このSEは、それでも意地とプライドが残っていたため、自死というアイデアはなかったと言います。しかし、思考は極端な悲観的な傾向を示し、二者択一的になっていて、問題の解決をしたいのだけどできないという意識があり、「問題を解決できない場合は苦しみが続く」ということばかり考えていたようです。もし、精神科医にうつ病だと診断されず、職場を退職するという選択肢を持てなかった場合は、この二者択一は「問題を解決するか、できない場合は苦しみ続け、この苦しみから逃れるためには死ぬしかない」という形に変わっていった危険性があると思います。

うつ病と呼ぶかなんと呼ぶか、精神疾患名はわかりませんが、うつ状態になり、悲観的になってしまうと、人間は、今いる人間関係を解消して孤立するという選択肢が薄れてゆき、やがて選択肢を失ってしまうことがあるのかもしれません。
冷静に第三者的に、「このまま勤務を続けてしまえばやがて自死するかもしれない。そうなるくらいならば退職をしよう。」という発想にはうつ状態になった場合はもてないと考えるべきなのだと思います。
事案では、心配した友人から退職のアドバイスがあったようです。ところが、本人は、口ではその選択肢があるとは言ったものの、実際にはその選択肢が自分の頭の中にはなかったということになるのでしょう。
別の観点からもこの問題を考えてみましょう

2)悩みの程度、悩みの原因はよくわからないことがむしろ多い。自分が死ぬなんて思っていない

私が、パワハラや自死の相談を受けるときは、パワハラや自死の相談をしたいという形での相談申し込みはほとんどありません。職場のことで悩んでいる。家族のことで悩んでいるということを言えることが精いっぱいであることが圧倒的多数です。中には別の相談をした後で、実は別のことでも悩んでいてと切り出され、かなり精神的なダメージを受けているいわば本命的な相談が始まることだってあります。
だから、事案の彼も、悩んで苦しいということは自覚があったから周囲に相談をしていたのだと思うのですが、それがうつ状態を引き落としているほど苦しいということや、自死の危険があるという自分の悩みの危険性までは自覚できていなかったということは大いに考えられます。不満を感じている程度の自覚だったのかもしれません。
自分が自死する可能性が高いと自覚していたら、退職という選択肢が現実の選択肢として浮上していたでしょう。しかし、そのような自死の危険性について自覚ができる人はとても少ないようです。
別の事例でリストカットをやりすぎて、それ自体で命をなくす危険がある人に対して、「このままリストカットを続けると別の手段で自死を試みる危険が高くなるから精神科に入院する必要があるよ」と言ったところ、その人は自分もこのままでは死んでしまうかもしれないと気が付いて、怖くなり、私の知り合いの精神科病棟を受信し入院し事なきを得たということがあります。自死の危険は、第三者から、その危険があることを指摘されなければなか自覚(意識)できないことなのかもしれません。

3)死のうとして死ぬわけではない

自死についての誤解が、「自死する人は死にたいから死ぬんだ」というものです。違いについての説明が難しいのですが、実際は、「死ぬしか生きる道はない。」と考えているという表現がリアルな心理状態のようです。
あくまでも本人の望みは問題の解消です。そのことを理解していただくためには次のことを理解していただく必要があります。私が事後的にかかわった何十人という自死をされた方々は、共通の特徴があるということです。それはまじめすぎることと責任感が強すぎるということです。
自分に与えられた課題は、自分が遂行しなければならないと考えてしまうのです。ほかの人がサボってやらないなら、自分が代わってでもそれも引き受けるという気質を持っています。ところが、様々な課題がありますから、本人ができない課題も当然あります。中にはできっこないのに課題として与えられてしまったような無理難題もあります。それでも本人は、生真面目さと責任感から課題をやり遂げようとします。
それでもできないと悲観的意識、二者択一的意識がでてくるようです。
「課題をやり遂げる。できないならばもっと時間をかけてやる。」
「課題をやり遂げる。時間をかけてもできないならば誰かにやり方を尋ねる。」
「課題をやり遂げる。誰からも適切なアドバイスを受けられないならばもっと頑張る。」
「課題をやり遂げる。何か方法を考えてこれまで以上に頑張る。」
「課題をやり遂げる。何も方法思いつかなければ自分の存在価値がない。」
「課題をやり遂げる。やり遂げられなければいつまでも苦しみ続ける。」
「課題をやり遂げる。やり遂げられなければずうっと死ぬまでこの苦しみが続く」
ここでいう課題、新人ができっこない課題としてあったのは、
新人にはできるはずのない経験とスキルが必要な仕事を遂行するとか
クレーマーからのクレームを手際よく処理するとか
パワハラから逃れるようにきちんと仕事をするということもはいります。

「ずうっと死ぬまで苦しみが続くのか」と感じるころは
かなり苦しみが持続している状態になっているようです。
しかし本人の意識は、課題をやり遂げるということなのです。苦しみから逃れたいという気持ちは人間が生きるために必要な気持ちです。本来は課題を解決して苦しみから逃れたいと思っているのですが、それができないために苦しんでいるわけです。それが続いてしまうと、何かの拍子に、自分が死んだら苦しみが終わるということが頭の中に浮かんでしまうと、明るい気持ち、温かい気持ちが起きてしまうのだそうです。そうすると、「自分が死ぬ」というアイデアから逃れられなくなるということが起きるようです。決して死にたいわけではありません。あくまでも課題をやり遂げたいのにできないから苦しいのですし、真面目過ぎて責任感がありすぎる人間にとって、課題をいつまでもやり遂げられないことは大変苦しいのです。私のように無責任な人間はできないことはできないと考えます。過大な課題を与える方が悪いと割り切ることができるので、課題ができないことはそれほど苦痛ではありません。他罰感情が生まれるため、怒りが自分に向かいません。また、死ぬことなんて怖くて考えつくこともないでしょう。しかし、真面目で責任感が強すぎる人は、死にたくなるほど課題をやりたいと思ってしまうものなのでしょう。驚くことに、やらなければならないことをできない自分は最低だと苦しみ悩むそうです。他罰感情ではなく、自罰感情が強く働くのかもしれません。(自罰感情も極限的な状況では絶望回避という自己防衛的な意味合いを持つことがあります。)もちろんこうなってしまうまでには、過剰なプレッシャーをかけられていたり、睡眠不足などで冷静な思考能力が奪われていたりするという事情もあることが考えられます。
本人は死にたいわけではない、あくまでも課題をやり遂げたいだけですから、自分が死ぬことになるなんて思っていないわけです。死ぬことに頭がいっぱいになるころには、そんな気持ちを打ち明けられなくなっています。打ち明けてしまえば、死ぬことを止められてしまう、そうしたら苦しみから逃れる最後の望みも絶たれてしまうということになります。また、死ぬことを考えているということで、自分が異様に感じられないか、自分がさらに孤立するのではないかと考えてしまいますので、打ち明けることをしたくなくなっているのです。死なないで済むという方法があることさえも考えられなくなっているということだと思います。
彼らにとっては、課題を遂行することから逃げようとする発想がないために、退職して課題を無しにするという選択肢ももてないのかもしれません。

2 若者の自死の特徴

若者の自死も、高齢者の自死も、将来に対して絶望することから起きるということでは共通でしょう。ただ、絶望の仕方は決定的に違うと思います。高齢者の絶望は、これまで自分が築いてきた自分の価値が壊れてしまい、これまでの努力に見合った将来が絶たれてしまったという過去から続く未来への絶望だと感じます。これと異なり若者の絶望は、どちらかというとこれからの将来に対して何も期待が持てなくなるという長く続くであろう将来に向けた絶望だと思います。若者なりに思い描いていた未来が不可能となり、何も良いことがあるとは感じられない未来が死ぬまで続くという絶望です。
このように思い悩んで、緊張が続いているならば、睡眠不足になることは当然です。睡眠不足は合理的な思考力を低下させますから、悲観的傾向、二者択一的傾向は加速していくわけです。

3 新入社員は自死リスクが高まる時期であること リスクを加速する先輩社員

先に上げた事案の本人の置かれた状態はどのような状態なのか想像してみましょう。本人は、一流大学を卒業し、一流企業に入社し、家族や友人たちからうらやましがられる立場だと思います。本人も周囲から祝福されていることを自覚しています。もちろん将来に対する不安もあるわけですが、どちらかというとこれまでの自分の実績という自信を持って会社での仕事に取り組もうとしていると思います。つまり、自分自身と周囲の自分自身に対する評価が高まっているという側面があるわけです。
ところが、会社の仕事はこれまでとは勝手が違います。また、自分のやったことがこれまでは自分が責任取ればよいことがほとんどだったでしょう。勉強をさぼって遊んでいれば、自分の成績が落ちるという具合です。ところが会社での行動は、すべて会社に効果が帰属してしまいます。自分がやったミスで、会社が損をすることや、取引先が迷惑を被るということもあるでしょう。かなりの緊張を伴うものです。他人に迷惑をかけることが嫌な人たちだからなおさらです。また、馴れないために、自分の行動のプラスもマイナスもその効果の程度もはっきりしません。すべてが手探りという状態です。
初めてのことは不安だらけです。これらのどこまでやればよいか、どこまで責任を感じればよいか、何に注意をすればよいかということは、初めから見に就いている人はいません。やりながら、自分や他人の失敗を見ながら体で覚えていくという側面は確かにあるでしょう。
このため、入社で一度高まった自分に対する評価は、現実の仕事を始めるときには自分でも著しく低下することがある上、上司や同僚から自分に対する評価に自信を持てなくなる時期であることが当然なのです。
こういう時にもかかわらずよく見られるのは、先輩による後輩の鼻柱を折るという行動です。ろくに仕事のことがわからない新入社員のくせに根拠のない自信をもっているわけです。いつも失敗ばかりしているこちらを馬鹿にしているように感じる先輩もいることでしょう。実際の仕事の困難さを思い知らされて、従順に仕事をさせようと考えているのかもしれません。また、そういう後輩いじめが綿々と受け継がれている職場もあるようです。そういう職場では、先輩は何も考えないで、自分が受けてきたいじめを後輩にも行うことが職場の流儀だと考えているような人たちもいます。
新入社員たちは、ただでさえ、馴れない仕事をしてなかなか仕事が進まないために自信を失いかけています。これまで築いてきた自分の実績に自信が持てなくなっています。その中でさももっともらしい先輩の「指導評価」が入ってしまうと、
一気に自分自身に対する評価が急降下してしまいます。
このような自分に対する評価の乱高下は、危険なまでに情緒不安定になってしまいます。
特に、当たり前のこと、馴れていないこと、知識がないことという、はっきりしている弱点を当たり前のことではなく、常識がないとか能力が無いという、その人の人格に絡めて批判されることが一番つらいことになります。思考が止まる危険があるのです。
だから、後輩いじめの典型は、
・一度教えたことは二度と教えない
・なんで一回教えたら覚えないんだ
・なんでも他人に聞いてやろうとするなよ
・このくらいのことができても誰も評価しないよ
・君この仕事向いていないんじゃないの、転職を考えたらどうだ
等のセリフです。これらのセリフは、他人に対して使う言葉ではありません。
そもそもその先輩だって新人の頃は同じようなものです。そうではないと思うならば忘れているだけです。あとは日々のルーティンの中で、自然と馴れていったために、それほど苦も無くできるようになっているだけです。仕事というのは繰り返し行うというところに特徴があるわけです。また、新人がやった仕事の評価も適正な評価をしているかどうか新人にはわかりませんので、評価しないと言われたら、それが全力でやったことでもそういうものかもしれないと思ってしまいます。
しかし、新入社員の自死の事例をベテラン社員と検証すると、いろいろな問題点が浮かび上がってきます。暴言をする先輩社員が新人の時もできたのに、その本人ができない場合は、多くは、その暴言先輩の最初のレクチャーがずさんであったり、必要な情報を提供していない場合が多いという事実です。自分の行動に問題があって、その結果として新人社員がうまく仕事ができないのに、その責任を新入社員に押し付けているという構図が明確になることが多いです。さらに、先輩社員が新入社員に対して適当な指示を乱発したために、前に言ったことと後で言ったことが矛盾していて、新入社員がどちらの指示に従ったらよいかわからない場合もあります。その責任を新入社員に押し付けているわけです。
新入社員の時期は、評価が乱高下する時期であり情緒不安定になりやすい時期です。誰からも間違った対応をされていなくても、大変危険な状態になっていると考えるべきです。この時期に先輩社員のわずかな悪意で、言った本人も想像がつかない大きな精神的ダメージを受けるということになります。

4 予防の観点から

鼻柱を折るなんてことは考えるべきではありません。無駄なしごきは絶対にやめさせるべきです。
必要な情報を提供することと矛盾した指示をしないことは鉄則です。
試行錯誤しておぼえさせるということも私は否定的です。必要な情報を提供して、手取り足取り解説しても、最初にそれをやることは戸惑うものです。それでも手取り足取り、まず仕事を完結させる体験をさせ、繰り返させていく中で、仕事に慣れ、応用が利くようになる仕事が多いと私は思います。疑似成功体験を積むことが成長をさせる近道であり、王道だと思います。そして疑似成功体験とはいえ、それができれば、「それでよい」という肯定評価をすることが大切です。そうして、理想形を反復して叩き込み、それがそれで良いということを体で覚えていくということなのです。これが記憶の仕組みからも正しいと思います。
それに反して手探りで一から始めると、どこまでが正しくて、どこからが間違っていたのかよくわかりません。それがわからないと結論が間違っていたとき、どれが間違いの原因かもわかりませんから、正しかった方法も記憶から排除される危険があります。逆に結果として正解だったとしても、どれが正解かわかりませんから間違ったことも肯定的に記憶する危険があります。さらには、無我夢中で取り組んで、偶然正解にたどり着いた場合は、何も教訓を得られない危険もあります。特に、鼻柱を折られて、緊張感が無駄に持続している場合は、思考力が低下し、二者択一的な考えに支配されますから、教訓を正しく身に着ける記憶力も低下しているわけです。記憶の仕組みからすれば、必要な情報をきっちり提示して、疑似成功体験を積み重ねさせ、どの点がそれで良いかを明確にして、記憶の土台をつくるべきだと思います。

さて、そのように対応を間違わない場合であっても、新入社員の時期、半年くらいは情緒不安定になることがあります。自死リスクも高まっている可能性はあるわけです。
若者の自死リスクについては、研究によって以下のような特徴があるということがわかってきています。
・自分の感情を抑えることができない
・攻撃的な感情を持っている
・自分や自分の持ち物に対する破壊行為をしてしまう
・その日、そのときによって感情が変わる。
・現状肯定で建設的な行動を見せても、リスクは無くなっていない。
・集中が続かなく、気が散りやすい
具体的には
話をしていて感情的になり、突然泣き出したり、怒り出したりしてしまう。
一緒に話をしているのに、突然、その場を去ってどこかに行ってしまう
聞くに堪えない悪感情を他人や自分に向ける
それにも関わらず、突如上司のいうことをはいはいと聞き出す
家に行ったら大事にしていたと思われる楽器やアルバム、記念品をぼろぼろになるくらい破壊していた。
理解できな行動が、1か月の間に何度か見られる。

これらの行動が見られたら、
一つ一つの出来事をそのまま放置するのではなく
良く事情を聴かなくてはならないようです。
それでも本人も自覚がないので、ビジネスライクに結論がすぐに聞き出せるわけではありません。また、安心できない相手には本当のところを話そうとしないでしょう。
大事なことは、奇怪な行動をしている本人に対して
まず心配すること、そしてその心配を伝えることだと思います。

一つ一つの行動をとがめるのではなく、心配するという態度を示すということが必要だと思います。
その背景として、新入社員の時期は、自己評価が乱高下するために、情緒が不安定になっているということを理解しなくてはなりません。

それはその人の特殊性ではなく、人間一般に起こりうることです。
また、新入社員の時期を過ぎればなくなる一過性のものです。
この時に必要な心配とフォローをすることによって
新入社員の帰属意識とモチベーションが上がり
持ち前の責任感の強さと真面目さも加わり
御社に多大な貢献をする社員となる可能性が高いと私は思います。

nice!(0)  コメント(0) 

マンスプレイニングは、「必ずしも」女性蔑視と関係するわけではないということに関する一考察 [閑話休題]


特にSNSで、マンスプレイニングだという非難を目にする。
非難されている方の人の言動に共感を持つことはないが、
非難の仕方にも違和感を覚えることがあった。
どうして男女差別の問題に引き直して批判しなければならないのだろう
というのが違和感の理由だと思っていたが
少し違う観点もあるという事情が見えてきたので、ここに記す。

マンスプレイングの定義をウィキペディアで調べると
(ウィキは、寄付を必要としているようです。)
リリー・ロスマンという人の定義が引用されている
「マンスプレイニングは通常、男性が女性に対して行うもので、相手が自分よりも多くを知っているという事実を考慮しようともせずに解説しだすことである。」というものである。

これは、自分では大うけだった。
あるあるだ。
SNSでまじめに情報提供をしているのに、
その情報は間違っているというコメントをする人たちが多くいる
事情を知らない知り合いも読むわけだから、
「何だお前間違ったこと堂々と描いているのか赤っ恥だな」
等と思われないかといたたまれない気持ちになることもある。
しかし、書き込まれたコメントは
怪しげな情報を自信たっぷりに言っていたり、
(出典は学校の教師が言っていたというようながっくりくるものもある)
まったく記事とは関係のないことを自慢げに話していたり、
そもそも定義もめちゃくちゃで論旨も不明なものまである。
それは間違っているよとか、関係ないこと言っているから削除するよ
等というのも、自分が了見の狭い人間のように
そのコメントをした人以外から見られるのも嫌だし
困ってしまう。
恥ずかしい他人のコメントはそのままさらしておくことが多い。

またウィキからの引用だが
(有用なコンテンツですから寄付をすることは有意義なことだと思います。)
マンスプレイニングは、レベッカ・ソルニットによれば、
「自信過剰と無知」の組み合わせからくるようだとされている。

この解説を読んだとたん、マンスプレイニング概念は、
やはり賛成できない、どうやら弊害の方が多いと
笑いを引っ込めることにした。

確かに先の定義によるマンスプレイニングを行う性は圧倒的に男性である。
しかし、女性も行う場合もある。
SNSなどでは見ること少ないが、
日常的な調理や裁縫、家事全や育児、あるいは倹約について
こちらが不慣れだと自己判断するととうとうと語りだす女性はいる。
(その多くに、迷信や都市伝説が含まれる)
オカルト的なことやスピリッツ(焼酎ではない)に関しても
とうとうと語りだすのは女性のほうが多いように思われる。
もっとも、そういうことを語りだして止まらない人間は
自分が信じていることがオカルトの類だという認識はないようであるから、
こう言っても自分のことだろうとは思わないだろう。

あくまでも自分の領域だと自負していることについて
親切心で解説してくれているのであれば
聞いて損はないので聞いたら良いのではないかと思う。
聞きたくなかったらスルーすればよいので、害はない。
これもマンスプレイニングだと言って非難するのは
あまりにも劣等感を感じやすくなっている
ということで自分に注意するべきかもしれない。

よく引き合いに出されるのはパソコンを選んでいたら
口出しをしてコーチをされたという場合である。
しかし、ひところ前にはそういうコーチ屋がいたけれど
最近はこのような人間はあまり見ない。
まだどこかにはいるのだろうか。

というのも、現代では、パソコンも男の領域
という意識はなくなっていると思われるからだ。
一昔前(あ、30年くらい前です)は、
電気店どころか、秋葉原全体が男しかいないような状態で、
パソコンといえば男性の領域という意識がなかったわけではない。
この時パソコンおたくは、女性だから説明を始めているのではなく
「おたくではない人間」だと感じた人間に説明を始めていたのであり、
男女差はなかったと思う。
自慢したいという気持ちはもちろんあるだろうが、
一般人の価値観は自分たちオタクとの価値観とは違うという自覚があり、
鼻高々という感じではなかったのではないだろうか。

こういう解説好きを利用していたのは、
要領の良いおばさんたちだったと思う。
私もずいぶん酒売り場で解説をさせられた。

明らかに困っている人がいるのに店員がいないため
これはこうですよと簡単に説明すると
女性は一応礼を言ってくれるが
男性は明らかに迷惑そうな表情をするから面白い。

こういう利用できる解説マンは、役に立つ。
もう私も前期高齢者に差し掛かってきたので、
教えてくれれば男性でも、女性でもありがたく感じるようになってきた。
マンスプレイニングなどといって
親切な人が困った人を助ける風潮が蔓延することは避けたい。
知らないことはたくさんあるのだから
教えられることで自分が知らないことを感じるほど
劣等感を感じさせられたと感じるのはおかしい。

この類型とは異なり
対等に議論しているのに、反論できなくなって
「わからないからそういうこと言うのだろうから教えてやるが」
等と見苦しい対応をする学者とか起業家は
どんどん非難されるべきだと思っている。
でも、そこでマンスプレイニングだという必要はあるのだろうか。

マンスプレイニングだといって非難することは
異なった論点を持ち出すことではないだろうか。
そう、学者や起業家が論点を外すために教えてやると言っていることに
奇妙に重なるような印象を受ける。
ジェンダーフェミニズムの同志に助けを求めているような
弱弱しさを感じる。

議論の相手を見下したような「教えてやる」という人間は、
マンスプレイニングというよりも
威圧的な手段での攻撃であるのでそのことで否定評価をすればよい
こういう議論の本質から離れた議論をする自分に自信の持てない人は
男女の性差とかかわりがないように感じられる。

もう一つのパターンである
自分の領域でもなく、知識もないのにコメントをする人
(先の定義に一番近い)
こういう人たちのテーマは、「承認要求」である。
多くは人間関係で不合理な思いをしている人たちであり、
「現在のこんな待遇は納得がいかない
自分はもっと評価されるべきだ」
と感じ続けている人たちだ。

スレ主に歯向かっているとか、意見に否定を表明しているというより、
このようなコメントができる自分を評価してほしい
ということのようだ。

しかし、間違った内容、焦点の定まらない主張
論点を踏み外したコメントであることや
関係のないことをコメントしだすという
空気を読む以前の言動のため
評価はダダ下がりになるだけである。
少なくともスレ主は当たり前に不愉快になっている。

それでもどちらかというと、
スレ主に仲間意識を感じている場合の方が多いようだ

自分を高く評価してほしいという思いは、
自分の実力以上の評価をしてほしいというよりも
正当な評価をしてほしいということであり、
それだけ自分は不当な評価を受け続けているという訴えなのだろう。

自分にも覚えがある。
偶然自分のタイムラインに飛び込んできた記事に
うっかりある話題のコンセンサスがある友人のスレだと勘違いして
コメントを出してしまい
スレ主を不愉快にさせたことがあった。
速攻で削除したが、遅かったようだ。

自分も不遇な思いをしていた時期の過ちであった。
ドンマイ。

承認要求が強い状態になっている人は
男性女性に関わらず、いらぬコメントを書き込んでしまう。
承認要求が強く、自分の領域を侵されたと思うと
相手が女性であろうと男性であろうと
中身が見当違いであろうと
コメントしないではいられなくなってしまうようだ。

私はマンスプレイニングと呼ばれている現象はこのようなものだと思う。
男性が行う場合が多いが、
男性の社会的役割意識とはそれは程関連額なく
男性が対人関係において不合理な評価を受ける機会が多いだけのように思える。
条件が同じなら、性差に関わりなく出現すると感じている。

女性に対して威圧的な学者や起業家の類は確かに存在する。
しかし、彼らは、あくまでも「自分よりも弱い立場」だと思う相手に対しては
男女にかかわりなく威圧的な攻撃をする。

そこをつけばよいのであって、
何も自分は女性であるから攻撃を受けているというアッピールをするのは
すでに一対一では議論に負けるから
議論の本質とは関係なく女性であるということで自分を支援してくれ
と言っている結果になることをプライドをもって気にするべきだ。

こういう威圧的な議論の犠牲者は多い。
それをマンスプレイニングという言葉を蔓延させることによって
女性だけが保護されるべきだという風潮になることは
女性の立場を拡充する志のある人ならば警戒するべきであると思われる。

マンスプレイニングという概念は
未整理であるため
何らかのコメントをされた、アドバイスをされたということを
自分が馬鹿にされた、低評価された
という意識を持たせる効果もあるのではないかという心配もある。

分断のための議論ではないかと感じている。

nice!(0)  コメント(1) 

気が付きにくい「良かれと思ってパターン」のパワハラ あなたもやっているかもしれない ケース会議の勧め [労務管理・労働環境]


「もどかしい人材」って各職場にいると思うのです。
本当は、もっとマルチに仕事ができるはずなのに
実力を発揮していないような印象の強い人ですね。

例えば、配置転換前は、あれもこれもできていたのに
自分の課にやってきてから特定のことができなくなってしまったような人。

野球で例えると、
甲子園や大学野球で大活躍して、
プロでも十分やっていけるはずなのに
守備はいいけどバッティングが伸びない野手とか
二軍では大活躍するのに一軍では0点に抑えられない投手とか

監督やコーチも神様でもないし、
専門的なコーチングの指導を受けたわけでもない。
自分が平社員の時からの経験で
上司という立場にいるだけだから
瞬時に問題点を見つけ出して
劇的に改善するような指導は
あまり期待できない。

こんな時上司がついついやってしまうことは
わざときつく当たって発奮させようとすることです。
「この程度できたからと言ってお前を評価しない」とか
敢えて、厳しい仕事を担当させて
できないとあからさまに評価を下げてまともな仕事に使わないとか
同僚たちにも「甘やかすな」と厳しくお達しをしているとか
よくあるんじゃないかと思います。

厳しい人事の扱いを
期待の裏返しとか
愛情表現とかいうのもよく聞こえてくるところです。

期待が強いからもっと何とか頑張ってほしいということはわかります。
しかし、愛情表現ではないことは確かです。

労務管理的に言えば上司の無能で優秀な部下がつぶれるパターンです。
企業にとっての大きな損失が生まれようとしているときです。

野球で例えると、
選手がパフォーマンスを発揮すれば勝てるけれど
作戦を屈指して勝つということができないパターンですね。
つまりホームランが出なければ勝てないチームの監督です。

優秀な選手がどんどん委縮していって
力を発揮できなくさせられているパターンです。

こういうチームは当たればどんどん勝ち進みますが、
どんなにピッチャーが良くても点が取れない試合も多く
逆に打者が点を取ってくれれば
その分ピッチャーも打たれてしまう試合も多い
不思議な現象が起きているように感じますが
決して不思議ではありません。

部下が人間であり、メンタルを持つ生き物だ
ということを指導者が理解していないのです。

部下があなたのせいで、
「職場に行くのが怖い」と言っていることに気が付かないのです。
毎日顔を合わせているのに、
部下が生き生き仕事をしていて、
仕事上の困難さえも楽しんで解決方法を考えているか、
それとも委縮しておどおどして、
できることさえできなくなっているか
部下の目を見てもわからない無能な上司なのです。

委縮している部下にプレッシャーをかけても
デメリットしかなく
メンタル破綻を起こすかもしれないのです。

仕事は厳しい真剣勝負だということもその通りかもしれません。
しかし、それは指導者としての上司にも言えることなのです。
各人の持ち場持ち場で真剣勝負なのですから
指導者も真剣勝負で部下の成長に責任を持たなくてはなりません。
自分の能力の無さの言い訳にしてはならないわけです。

ではどうするか。
能力が無ければあきらめるか
一律に甘々で指導をすればよいのか。

そうではなく、
集団によるケース会議をお勧めします。

会議の心構えとして
懲罰のための会議ではなく
成長のための会議という位置づけが大切です。
当該部下に対する不満を言いあうのではなく
プログラムに従ってカンファレンスを進めるのです。

<カンファレンスの構成員は
直接の上司、上司の上司、場合によっては少しだけ上の同僚
カウンセラー的な人などが入ることも効果が上がることがあるでしょう。
大きな企業ならば専門で契約しても良いでしょうし
通常の会社ならば外注ができると便利ですね。


1 当該部下の現状評価
  公平な目で見た到達点
  伸びしろがどこにあるのか、あるいは現状がマックスか
  その伸びしろがあれば、職場の生産性がどの程度上がるか
  かなり生産性が上がるはずだというならば2へ進む。
2 目標不達成の原因分析
  伸びしろがあるとすれば、どうして伸びないのか。
  例えば優勝を狙うプロ野球軍団であれば、
  様々なデータを出してきて、特定の配球や球種に弱点があるのか
  敵のスコアラーがどのような分析をしてどのように攻めているのか
そうではなく例えばメンタルの問題なのか
  という分析をしていることでしょう。
  原因は一つであることは少なく、複合的に影響し合っていることが多いと思います。但し、メンタル、萎縮という可能性は必ず検討してください。
  原因が分析できれば3へ進みます。
3 対策
  その部下に誰がどのように働きかけるのか
  もっとも効果的に働きかけることが大切です。
  人間関係の変更をしてみるということも対策の一つです。
  原因に連動した対策でなければ意味がありません。
4 カンファレンスの記録化
  議事録をつけて、どのような議論を行ったかを記録することが大切です。
  このカンファレンスは、一人の部下の会議ですが、
  後々応用が利くので、せっかく行った議論は
  長く資料として共有しないともったいないです。
5 指導の実践と記録
  誰がどのように働きかけたかということ、
その結果部下がどのように受け止めたのかの反応は
記録として残すことが必要です。
6 効果の検証
  変化についての評価
  この時、短期的な結果ばかりに目を向けてはなりません。
  結果につながる行動変化がなされているかという視点が大切です。
  結果につながる行動変化ができていれば、早晩結果は出てくるものです。
そして、結果が出ようが出まいが
そもそも現状評価が正しかったのか
  原因分析が正しかったのか
  対策方針が正しかったのか
  対策指導の仕方が正しかったのか
  良くても悪くても一定の理由を付して結論を出して記録化する
  ここまででワンセットです。

部下の評価で一番まずい評価は
「今どきの若い者は情けない。俺が若いころは」
という思考です。
プロ野球で言えば50歳や60歳の人が
現実にプレーしているわけではありません。
現実にプレーをするのは、その今どきの若者なのです。
こういう無いものねだりは、
政治の世界でもよく耳にします。

有権者がもっと正しい判断をすれば
自分たちが多数派になるという野党の人たちですね。
現実に票を入れるのはその有権者なのですから
架空の有権者を想定して頑張っても結果はでません。
これと同じです。

昔であれば、経営者は
「現場に任せたから口出ししない」で済んでいたかもしれません。
しかし、指導力のない指導者を配置してしまったら
優秀な人材が育たず、企業の収益が上がらないばかりか
自己流の育成術で、社員のメンタルをつぶしてしまい、
下手すると会社がパワハラで訴えられてしまいます。
従業員がパワハラを苦に自死をしてしまったら
何のための会社か分からなくなり
お客さんもいなくなってしまいます。

自前で社員を育成できずに、気が付けば
プロ野球で言えば
1年目、2年目のよそで育成された選手と
よその球団からトレードで獲得してきた選手しか活躍しない
そういう会社になってしまい、
お客さんからも愛想をつかされる
企業の評価を落とすことになっている可能性があります。

一人当たりの生産性をあげるために
従業員のモチベーションをあげるということも
プロの指導者の必要なスキルだということに
もっと多くの経営者が気が付くことが
必要なのだと痛感しています。

nice!(0)  コメント(0) 

「自己肯定感」は呪いの言葉 騙されてはいけない。自己肯定感が低いといって悩む人は論理的に言って自己肯定感の高い人であるという論証 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

自己肯定感が低いということを悩む方々がいらっしゃいます。自己肯定感を高めようとして、高額のセミナーに通う方もおられるようです。でも、自己肯定感が低い、高いということはどういうことでしょうか。

良く引用されるのが、高校生を対象とした平成27年の独立行政法人国立青少年教育振興機構調査です。この中で他国と比べて日本の高校生は、自分は人並みの能力があると思う割合が圧倒的に少なく、自分はダメな人間だと思う割合が圧倒的に多いという結果が発表されました。平成25年内閣府の委託調査もよく引き合いに出されます。この調査は、13歳から29歳を対象として、日本、韓国、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、スウェーデンを比較しました。
「自分に満足しているか」という質問に対して日本人は、満足している、やや満足しているの回答が50%に達しませんでした。他の6か国は70%以上から80%が満足している、やや満足しているとの回答でした。「自分は役に立たないと感じる」かどうかという質問もありまして、これについては約50%が否定的でした。但し、英国、韓国、アメリカについで7か国中4位と、ちょうど中間的な位置となっています。

最近の調査結果では、ユニセフの調査結果が2020年9月3日に発表されました。日本の子どもたちの精神的幸福度は38か国中37位でした。身体的幸福度は1位だったのですが、総合で20位となりました。(対象年齢は不明)

ところで、どうして自己肯定感が低いと問題なのでしょうか。たしかに、それが不幸だと感じているならば幸せになりたいのは当たり前ですし、子どもたちには幸せになってほしいものです。

社会の問題としては、自己肯定感が低いと社会病理とされる行動を起こす危険性が高くなるということだと思います。「どうせ自分なんて価値のない人間だ」と思うと、まっとうに生きていこうとする意欲がなくなり、前向きな努力建設的な思考がなくなります。すべてをあきらめる傾向を持つようになり、犯罪など不道徳行為を実行することに心理的な抵抗がなくなる、職場や学校、家庭での人間関係を形成することができない、他者への攻撃をするようになる、薬物などへの依存傾向が出てくる、自傷行為や自死が起きやすくなる。ということです。

危険を回避しようという意識が薄れるということがわかります。また、健康とか安定した人間関係の構築という、今後の自分の人生の長さに見合った利益を追求しようという意識よりも、その時良ければそれでよいという一時的な快楽や刹那的な利益を求めようとする傾向になるわけです。自己肯定感の低さが社会に蔓延することは、社会不安を高めてしまうことになり、ますます環境が悪くなっていくことになります。

自己肯定感が低いと悩むのは、幸せを感じにくくなっていますから、何とか自己肯定感を高めて、もう少し不幸を感じないで生活をしたいということはよくわかります。しかし、自己肯定感を高めようとするあまりに、高額の費用を払いセミナーに参加する人も多いようです。私、こういう方々は、自己肯定感が低いとは言えないと思うのです。本当に自己肯定感が低い人は、自分は幸せになれる人間ではないとあきらめていますから、お金をかけて継続的に学習しようなんて言う発想にはなりません。仕事の外に時間を作ってセミナーを受講しようとする方々は、真面目で勤勉な方です。セミナーを受講する等努力をすれば、自分は自己肯定感が高くなるはずだとご自分を信じていらっしゃるのですから、客観的には自己肯定感が高いのです。

本当に日本の子どもをはじめとする日本人の自己肯定感が低いのかについては、さらなる分析をする必要がありそうです。

私は、自己肯定感が低いのではなく、自己肯定感を低くさせられているだけだということを何度も言うつもりです。自己肯定感が低いということで悩んでいる人の大半は自己肯定感とは別のところに問題を抱えているのであって、自分の自己肯定感が低いということで悩んでいるということは本来の自分は違うということが前提になりますから、自己肯定感、自尊感情が低くないのです。

高校生を例にとればわかりやすいでしょう。高校生という時期は、大学進学や就職など、いやでも自分の将来の岐路に直面している時期です。日本の高校生の大学進学目的は就職を有利にするためということが一般的でしょう。なんらかの研究をしたいという人は少ないようです。少しでも就職に有利な大学に入学しよう、そのためには浪人生とも競って合格を勝ち取らなければならない。高校生は、今以上に成績をあげなければならないと考えるのが当たり前です。そのためには、現状に甘んじていてはならず自分を叱咤激励しなければならないし、合格するかどうかは、実際に合格通知を受けるまで分からないという極めて不安的な時期で、緊張が持続する時期でもあります。第1希望をあきらめて、受験する学校のランクを落とすということもありふれてあることです。

大学に入学しても、雇用と収入が安定する企業に就職することは、それほど簡単なことではありません。それにもかかわらず受験に失敗したり、学校を怒らせて退学になったりすると、ニートの生活と無保険の老後が待っているということで脅かされたりするのが、日本の高校生ではないでしょうか。

この日本の現状とは別に、ある程度の常識的な生活を送りさえすれば、家族を持ち、家を建てて、子どもを育てて生活ができる、常識的な趣味の時間も確保でき、それなりに人間として幸せに生活できるというのであれば、それほど成績と自己肯定感は連動しないでしょう。無理な時間に無理な勉強をするより、自分の好きなことに打ち込んで将来につなげたいと思うことでしょう。

受験戦争の激化ということが子どもの権利の観点から国際的な批判を受けますが、それ自体は昔から続いていることだと思います。大学受験という入り口、ないし人生の途中経過における競争激しさは変わらないのかもしれません。しかし、大学卒業後の就職という出口の意味あいはずいぶん変わってしまったと思います。大学を卒業しても、雇用が不安定で低賃金の非正規労働しか就職口が無かったり、正社員でも過労死をするような長時間労働、過密労働が待っていたりする割合は確かに増えていると思います。
この社会変化は、高校生活の一日の意味あいを大きく変化させるでしょう

この社会変化は、自己肯定感の低さを社会によって植え付けられている一般的な事情となると思います。

しかし、自己肯定感は、その人にとって不変なものではなく、その時その時の置かれている状況の変化に左右されるものです。
例えば、高校生が大学受験に向けて模擬テストを受けて、返された成績がいくら良くても100%合格するわけではないので、一時的に安心することはあるかもしれませんが、それで「自分に満足する」ということは起きにくいでしょう。ところが、だめもとで、少し背伸びをして第一希望を受験してみたら合格したということになれば、そのときは「自分はダメな人間だ」と感じる人はいないでしょう。自己肯定感なんて案外いい加減なものです。

また、自己肯定感を得るためには何らかの客観的な水準があるわけではなく、その人の意思、希望との兼ね合いというものもあるでしょう。
別の例で言えば、それほど偏差値の高い大学ではなくとも自分が教えていただきたい教授がいるA大学を志望して努力して勉強し、順調に学力を伸ばし、入学を果たせばやはり自己肯定感が高い結果になるでしょう。ところが同じA大学に合格した人であっても、もっと偏差値の高いB大学を目標にしていたにもかかわらずその大学に不合格になったために不本意にA大学に入学した人は自己肯定感が低いという調査結果になることでしょう。

このように、自己肯定感とは、その人が元々生まれながらに持っているものではなくて、その人が置かれた状況が心に反映したものだということができると思います。
この「その人が置かれた状況」というのが、それこそ千差万別あるわけですから、一般的に自己肯定感を高める方法なんてないわけです。

もう一つセミナーに受講料を払う前に考えなければならないことがあります。それは、なぜ人間は置かれた環境の違いで、自己肯定感が高くなったり低くなったり、幸せを感じたり、不幸せを感じるかというその理由です。心や感情がどうして存在するかということです。

それは、けがをすると傷口ができて、痛みを感じることとまったく一緒です。痛みがあることによって、傷口があることに気が付きます。そうすると傷を悪化させないように、衛生を保ったり、同じ場所をさらに傷つけないために庇う行動をすることができます。傷はなくとも痛いと思えれば、捻挫などをして筋肉や軟骨という軟部組織の一部が挫滅したことがわかります。動かさないようにして患部を悪化させないかとか、直りを遅くしないということができるわけです。また、血液中に傷口をなくす成分を多くして自然治癒力を高める生理的なメカニズムも発動されます。痛みを感じるのは自分を守るためだということができるでしょう。

心の痛みも全く同じだと思うのです。
対人関係の不具合があれば、例えばいじめを受けていればとても嫌な気持ちになったり、人を信じることができない気持ちになったりするでしょう。パワハラを受けていても同じです。その対人関係を修正したり、極端な話をすれば退学したり退職したりして、自分の身を守らなければならないわけです。そういう人間関係に居続けることによって、致命的な状態になりかねないわけです。小さいころに虐待を受けたり、ネグレクトされたりして、理由がわからないで自分という存在が否定されれば、自分が何か悪いために自分は尊重されないと感じやすくなってしまいます。子どもの心理に親に対する安心感が欠落している場合は親子関係を改善する必要があります。この場合、子どもの環境を変えることも必要な場合がありますが、親から分離しても分離先でも尊重されないのであればメリットはなくデメリットだけが継続することになることをもっと気に掛ける必要があるように思われます。

こうやって本来、修正したり、離脱したりするべき人間関係であるということを、心が教えているわけです。そうだとすれば、不安や、自己否定感を感じるということは意味があることで、やみくもに、心をいじって自己肯定感を奪うようなことはしてはならないはずなのです。例えば、有害物質が流失しているから臭さを感じているのに、鼻の感覚を奪ってしまうことによって臭さを感じなくして、有害物質を吸い込んで体を壊すようなことをしてはいけないということです。疲れ切っているにもかかわらず栄養剤を服用して無理やり体を動かしていることにも似ているでしょう。

夫婦、家族であれば、人間関係の不具合を、専門家の協力を得て関係改善させるということは、初期であればそれほど難しいことではありません。お互いに自己肯定感というか、一緒にいることに安心できる関係を作るために努力すればよいのだと思います。しかし、既に離婚を決意するような段階になれば修正は容易ではなくなるでしょう。また、ひとたび傷ついた人間関係の感覚は、将来的に後を引くものです。但し、昨今の人間関係の対策は、切り捨ててしまえという外科的な発想ばかりが横行しているという危機感があります。

対人関係とは別に心身の不調で心の感じ方が不具合を起こしている場合も多くあります。専門家による必要な手当てを受けることが心の状態を回復させることもあるでしょう。このようなことの実務的研究は極めて立ち遅れています。

大切なことは危険を避けようとする意識があるかないかが本質的な問題です。これは動物全般に当てはまる自己肯定感でしょう。人間の場合は、他の動物と異なり、将来という未来を観念できる動物ですから、これから死ぬまでのスパンに見合った利益を追求できるかどうかということが必要な自己肯定感の有無だと思います。言葉を換えれば「人間として生きようとする」ということです。人間として、自分を取り囲む人間関係を居心地の良いものにしたいと思えるか、方法がなければその人間関係から離脱するということができるかどうかが必要な自己肯定感なのだと思います。

今回のブログは、去年の12月に作成した記事とほとんど変わりません。長すぎるので、ダイジェスト版を作りたかったのですが、それも成功していないように思われます。このため、そのブログも紹介しておきます。まあ、ユニセフの調査結果が出たのでということで・・・
「自己肯定感なんていらない。それは社会の問題を個人に責任を押し付ける専門用語。ではどうするか。」 
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2019-12-03

nice!(0)  コメント(0) 

連れ去り関連の法律の問題点 親子断絶法体系から家族の安心強化、再生の法体系へ [家事]


1 大学時代に教授から教わった法律
  私は、大学時代労働関連法を特に勉強してきました。法律はどうしても抽象的な文言で作成しなければならないのに対して、実際に適用される実態は無数のバリエーションがあるわけです。そこで法律を実生活に当てはめるにあたっては法律の条文の意味を確定する必要がでてきます。これが法解釈です。労働関連法は、労働者保護を進めるという立法目的があります。大学に入ったばかりの私は、労働者保護という一方的な観点から法解釈をする傾向があり、指導していただいた教授からは、ここを厳しくご指導いただきました。「この場合はその解釈でよいとしても、こういう場合はどうですか?」とか、「この人にとってはその解釈は都合が良いですが、こういう立場の人の利益が全く考慮されないという問題はありませんか。」等、徹底的に考えさせられました。あの時は涙目で頑張っていましたが、今にして思うと、法律家としての基礎を体に叩き込まれたということがよくわかり、実務に出てから貴重な体験だったと感謝しております。
  さて、労働法は、現実に労働実態に法律が介入して労働者保護を先に進める形で社会を変えようという性質があります。おそらく女性の保護の諸法も同様に女性保護を強化して暮らしやすいようにするという目的がある法律だと思うのです。今回問題になっているのは、配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護等に関する法律(DV法)が中心でしょうけれど、実務的にみているとこれをストーカー規制法が補完し、離婚手続きや面会交流手続きなどの民法や家事手続法にも影響を与えています。法律や実務の運用にあたっては、これらのDV関連諸法案の法体系ができていると考えなければならないでしょう。
2 DV関連法体系の問題
  ところが、労働法体系とDV関連法体系は同じ社会変革の目的を持った法律なのですが、一番の違いは、私が大学で教わった様々な立場の違いの中で法律が公平に、当事者間の利害調整をするという視点が決定的に弱いことだと思います。
  家族がいて、妻と夫と子どもがいるわけですが、三社の利益が考慮されているとはとても言えないと感じています。
  典型的なのは、夫の利益です。DVというのは何も夫から妻への暴力等だけではありません。妻から夫への様々な攻撃があることが実態です。実際にも夫婦間の殺人において、妻が夫を殺害することと夫が妻を殺害する件数においては、有意な違いはありません。さらに夫を自死に追いやるということを考えた場合は、私の実務的経験からは、夫の方が死亡していることが多いのではないかとさえ感じています。ところが、DV関連法体系の中には、特に実務の運用では男性の保護という仕組みは欠落しているように思われます。男性被害は野放しになっている状況です。これは被害者としての男性保護です。男性が自らの被害を訴えると、男のくせにというジェンダーバイアスがかかった対応されることが多いと思います。決して平等ではないのです。これは被害者保護としての男性の利益の観点が欠落しているという意味です。
 加害者としての男性の保護の観点も欠落しています。本来、行政手続きによって不利益を受ける場合は不当な人権侵害がないような手当を講じなければなりません。憲法上では憲法31条が刑事事件についてこれを定めていますし、その他の行政上の不利益につては憲法13条と合わせて保障がなされていると考えられています。この最大の方法が、弁解をする権利です。また、不利益を受けるためには、証拠に基づいて判断されなければなりません。ところが、DV法の支援措置においては、このような手続きが存在しません。理屈としては、支援措置は妻に対する支援であり、妻を保護する反射的効果として夫が不利益を受けるだけだから、夫の権利を侵害する処分ではないという理屈です。これは法の制定や解釈、あるいは運用としては全く稚拙でその体をなしていないと言わざるを得ません。
 例えば、犯罪をしてしまうと、そのないようによって刑務所で強制労働させられるとか罰金を支払うという権利制限が強制されます。この場合は刑事裁判という厳格な手続きを経て、証拠と本人の弁解をもとに判断がなされます。これはその人に対する処分です。例えば、DV法の支援措置で、妻が子どもを連れて行方をくらますことを手伝うことがあります。住民票の閲覧も制限され、夫は家族がどこに行ったか分かりません。これは私は人権の大きな制約だと思います。刑務所で自由が拘束されることの大きなつらさの一つは、自分の愛する人と引き離されることではないでしょうか。このつらさが、まるっきり弁解なく強行されてしまうのです。保護命令についてもこの弁解手続きが極めて希薄に運用されています。保護命令の相手方の夫は十分に弁護士と相談する機会も許されずに裁判に臨まなければならない実態があります。監護者指定の審判や、親権者指定、あるいは婚姻費用の分担の判断も含めて、子どもから引き離された父親は、それだけで不利な運用がなされていると感じています。DV法体系は、現実の機能としては親子断絶の法体系となってしまっていると感じています。
3 子どもの利益も考慮されない
  このDV法体系で最も欠落している利益考慮は、子どもの利益です。各種統計上、あるいは発達心理学の知見からも、子どもは双方の親から愛情を注がれて成長することが望ましいとされています。離婚というスポット的な出来事以上に相手に対する葛藤が残ることが子どもの成長にとって悪影響があるということも確立された見解です。ところが、DV法体系は、この葛藤を鎮めようとする配慮はなく、高める運用がなされています。DV法体系の結果、子どもの健全な成長が害されたという統計は少ないかもしれませんが、科学的に問題があるということについて、ほとんど顧みられていないということは法律の最大の欠陥だと思います。この点が、世界中から非難を受けるポイントになっていますが、なかなか報道がなされないということが実情です。
4 女性の利益も考慮されない
  人権擁護委員会の人権相談で、コンスタントに来る相談としては、離婚した女性からの相談です。「役所や相談機関に言われて離婚をしたけれど、その時説明されたような幸せな生活が送れず、お金や子育ての問題で大変苦労するようになってしまった。役所に相談したら、『離婚を決めたのはあなた自身です。』と言われて何の力にもなってもらえない。」というものです。また、葛藤を高めて離婚をした場合、いつまでたっても元夫に恐怖感情や嫌悪感情が残り、安心して暮らすことができないという結果も多く見られます。
  このような事態が起きることにはいくつか理由があります。
  最大の理由は、本来DV法だけでなく、雇用機会均等法や雇用政策など、総合的に女性の地位を向上させ、権利を拡大し、女性の幸せを実現していくということが目的であるはずなのに、そのような総合的な観点がいつしか脱落しているということです。一向に女性の正規採用の数も率も上昇しませんし、賃金格差も多くは残存しているのではないでしょうか。ただ、妻のある夫の性的役割意識の改革だけが声高に叫ばれているように思われます。女性の雇用条件の情勢は、夫の役割意識が問題なのではなく、女性の勤め口が非正規しかないところが問題なのです。もはや、現実の日本の家族において、女性は働かないで家で子育てなど家事に専念すべきだということを考えている人間は圧倒的に少数でしょう。労働実態が意識を変えてしまっているのです。女性の方が賃金が高くなると、男性の方が家事に専念するということもありうる話です。そのためには、女性が女性らしさを発揮することによって企業の収益を上げることができる道筋を開発する必要があると思います。短期的な売り上げ目標ではなく、長期的な安定経営という戦略では、女性らしい発想が有益だと私は思っていますが、そのようなコンサルは開発されていないことが実情だと思います。そしてこの女性らしさに対する信頼や尊敬が足りないことが決定的な問題だと思います。
  いつの間にか男女参画政策から、雇用分野の政策が脱落しているのです。だから、離婚後の女性の生活についての政策と言えば、せいぜい何らかの公的給付しかないわけです。その意味からすると、DV法体系は、女性の権利や社会的地位を向上させるという法体系ではなく、連れ去りをして、離婚をさせるという家族の分断法体系だと言えるのではないかと思われるわけです。
  この背景として、政策者が対象女性に対する尊敬がないということにあると感じています。実際のDVシェルターでは、スマホを取り上げられ、外出も制限を受けると入所者は教えてくれました。シェルターに入所する女性は、男性に依存する傾向にあるから、夫に連絡が取れないようにしないと、夫の元に帰ってしまうから連絡手段を取り上げるのだそうです。本人の自由意思を無価値なものとして否定するのですから、これ以上の人間に対する侮辱はないのではないでしょうか。DV保護施設が、売春婦の保護施設を引き継いでいることと関連があると思います。実際の女性観がこういうものなのです。
5 法律というにはあまりにも稚拙な二項対立的な人間観
  それでは、このような不合理なDV法体系を運用する役所、警察、裁判所は、どうして、不合理な事態を温存させることができるのかということを考えてみましょう。
  これは、一言で言えば「正義」の観念なのです。DVと言えば、非力な女性が人格的に問題のある粗暴な男性から攻撃を受けている。女性はDVの「被害者」であり、男性は「加害者」である。だから被害者救済のために、加害者が不利益を受けるのは仕方がない。むしろ不利益は自業自得なのであり、正当に考慮する必要がないという素朴な正義感が横行していると感じます。
  そのため、女性が悩み苦しんでいる様子を見ると、マニュアル通り、そこにはDVがあり、女性を救済しなければならないというスイッチが入ってしまうようです。しかし、実務的に見れば、女性が悩み苦しんでいる場合には、必ずしも夫の加害あるとは限りません。女性の体調の問題だったり、何らかの疾患があったり、本当は女性の職場や親子関係に問題があったりということも多くあります。それが相談所に行くと、夫との些細なやり取りをとって「それは夫のDVだ。モラルハラスメントだ。」ということをアドバイスされます。悩んでいる人は、自分がどうして苦しいのかわからないで悩むことがむしろ通常ですから、その原因を特定してもらえば、それが原因だと思い込んでしまうわけです。「支援」をする方は、女性の悩みがDVとしては不合理だと思っても、疑うことは「寄り添っていない」からそれはしてはならないと徹底的に教え込まれますから、疑問を持つことは許されず、すべてが夫のDVに誘導されていきます。
  このマニュアル自体、配偶者暴力の構造について表面的な知識しかない者が作成しています。また運用する者もマニュアル以上の研究は行いません。ある国の機関の相談者の相談内容を知る機会がありました。そうしたら、「いつも暴言を吐くわけではない、暴言を吐かないときは比較的優しいときもある。」という相談を受けて、「それは典型的なDVだ。DVで間違いない。」と断定していました。もし、このDVサイクル理論の元となった、レノア・ウォーカーの「バタードウーマン」という本を読んだことがある人であれば、このような単純な決断はしないことでしょう。彼女はDVサイクルなどという言葉は使いません。「暴力のサイクル理論」という言葉を使います。ここでいう暴力は、極端な暴力ばかりで、極めて精神的侵襲の強いものばかりです。そして、暴力の後にくるハネムーン期というのは、自分がつけた傷をなめるかの如くの、極端に男性が女性に対して許しを請う強い行動がなされます。この本を読むと、日本の男性のほとんどにはハネムーン期は存在しないことがわかります。暴言を吐かない時期があったとしても、それハネムーン期ではないのです。先の国の機関の事例は、何ら典型的な配偶者加害の事例ではないということが正解です。それでも、国の説明のDVサイクルには当てはまるようです。国のDV理論は、何らの実証的な研究にもとづかないばかりか、元々の原典からも外れた「まがい物」だと思います。
 DVという概念が極めて曖昧なものにされているため、何でもかんでもDVにされてしまいます。本当に国家どころか、他人が介入するべきなのか疑問の事例もどんどんDV認定されて介入が行われています。
 この最大の理由がDVという曖昧な概念だということです。夫婦間の日常的な感情対立もすべて夫のDVだとされています。そもそもDVという言葉を使うことは世界中でも例外的だと思います。通常は配偶者加害という言い方をして、「支配を目的とした暴力」を言うことが多く、偶発的な暴力はのぞかれることが一般的でしょう。そうして暴力や脅迫の内容を限定した上で、危険で重大な結果を生む暴力を、行政や他者が介入して止めるのです。ところが日本では、妻が苦しみ悩んでいたらすべてがDVだと認定される可能性が高いのです。現実の暴力や暴言については何ら吟味をすることがないこともその理由ですが、形式的に妻が警察などに相談をしただけで、「被害者」という用語を使うこととされていることにも原因があると思います。そうして、何ら加害が認定されていないにもかかわらず、夫を「加害者」と呼ぶことにしているのです。総務省は、総務省自治行政局住民制度課の平成25年10月18日の通知で、一般的には、「他人に危害や損害を加える人」という意味で、「被害者」の対義語として「加害者」と いう言葉が使われることがありますが、支援措置においては、上記のとおりこれと全て一致するもので はありませんので、窓口における「加害者欄に記載された者」等へ対応する場合や事務処理要領第 6-10 -サに基づき、庁内で必要な情報共有等を行う場合などはご留意ください。と述べています。しかし、これは日本語の加害者とは全く異なります。日本語として適正ではない用語を国が、それに気づいてもなお使い続けること自体が重大な問題だと思います。素朴な正義感を持つ人は「被害者」と名付けられた人を保護し、「加害者」と名付けられた人と敵対する心理になってしまいます。実際に区役所などの対応は加害者として対応していることが多く見られます。
 かくして、普通の夫婦のいさかいがあっても、夫に原因がないとしても、ひとたび妻がDV相談を受けると、DVだと認定されてしまい、他国では相当激しい暴力等がある場合に限定されて作られた配偶者加害のための救済措置である接近禁止や離婚、連れ去りなどの効果が日本では与えられてしまうわけです。
6 本当のDV(配偶者加害)被害は救済されにくい。では何が必要か。
  DV法の最大の問題は、DV自己申告制にあります。自己申告さえすれば実態が同であれ法の恩恵を受けるのと反対に、自己申告しなければ救済されることはありません。実際の配偶者加害の被害者は、強烈な支配を受け、行動を制限され、孤立させられています。そして、自分への攻撃がいつ来るか予測可能な状態で、常におびえて生活しています。つまり、なかなか外部に相談できない仕組みになっているのです。
  そして、現実の配偶者加害の加害者というべき男性の行動傾向を見ていると、結局は自分に自信がなく、自信がないために妻が自分から離れていくという不安を絶えず持っているようです。このため、自分以外の人間が妻に影響を与えることを極端に心配して妻を孤立させます。また、妻の失敗などをあげつらって、それでも自分は妻を見捨てないというようなアッピールをして、自分につなぎとめようとします。妻の失敗を強調するためと、自分の不安に基づく衝動行為を制御できないために過酷な暴力や脅迫、無意味な行動制限や強制を行うようです。一種の洗脳を受けているようなものですから、なかなか援助希求は心理的にも難しいですし、行動制限があるため物理的にも相談機関に出向くことが難しいのです。このような夫婦関係の在り方、あるいは、人間関係のあるべき姿に関して、まったくの無知であることが多くあります。その多くは疑心暗鬼です。
  家族の分断の法体系では、真に救済を受けるべき人は救済されません。もっと大きな視点で政策を運用する必要があるわけです。
例えばこのような実態を研究し、暴力や脅迫ではない人間関係を提案するべきなのです。無理をせず、不安にならないで人間関係を結ぶことの方が幸せであることは間違いないのです。そして、そのような理想の人間関係、夫婦関係、家族関係の提案の普及によって、自分たちの夫婦や家族の在り方に疑問を持つことができるでしょう。そうしたら、隔離や離婚ではなく、家族再生の方法論を研究し、気楽に相談できる機関が多く増えていけばよいと私は考えています。
  連れ去って離婚してという対策から、家族の在り方、楽しい人間関係の送り方の普及啓発をどんどんするべきです。そして、そのような研究に予算を投じて、民間レベルで研究結果を還元していくことが大切です。それは強制ではなく、提案です。紛争を研究して、紛争を生まないようにする予防法学の分野にも入ってきます。
  この観点から現代のDV法体系の問題を整理すると一言で言うと 法律や警察、裁判等の強制力だけで解決しようとすることに根本的な誤りがある。ということです。その背景として、人間観があると思います。一般の人間、男性や女性、あるいは大人や子どもに対する畏敬の念がないということに最大の問題があるともいます。
  総合的に家族の幸せの実現を図るという観点からの研究を行い、民間と行政と連携しながら強制ではない選択肢を提案して行く、文化として解決していくという政策に転換していく必要があると私は思います。

nice!(0)  コメント(2) 
前の10件 | -