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うつ病休職からの復職支援シンポジウム 1月28日2時から仙台三越定禅寺館6階で 参加自由、予約不要、費用不要 [労務管理・労働環境]


上司からパワハラを受けてうつ病になり、約11年の間に合計1000日余りも休職した教員が、復職を果たし、現在も就労している県でのシンポジウムです。

公務災害認定や裁判の勝利なども、大きな足跡として発表をしたいところなのですが、今回は、どうしてそれだけ長期の休職をしていた人なのに、復職ができて、しかも就労が続いているのかという点にスポットを当ててシンポジウムを行います。

まず、復職が簡単でない理由が明らかにされます。一番はうつ病に対する理解が不足しているということです。うつ病の症状は、人によって大きく違うところであること、波があって固定されたものではないことを家族の視点からお話があります。これは画期的なことです。うつ病者本人が気が付かないことも家族は気が付いているのです。とても参考になると思います。

また、うつ病の人にかけてはいけない言葉について、体験をもとにして紹介します。どうしてそれを言ってはダメかということを、その善意の言葉をうつ病の人はどう受け止めるかということを丁寧に説明していきます。

次に、うつ病の人が復職するにあたって、本人の考え方、周囲の支援の仕方について実体験に基づいて話していきます。必ずしも万人がその方法を踏襲できるとは限らないのですが、それではどうしたらよいかということに議論が進むと良いなあと思っています。

興味深いことは、ネタバレになりますが、「うつ病が治るまで復職はできない」という固定観念を捨てることがキーワードになりそうなところです。逆に復職して新しい人間関係を形成しながら、仕事モードに乗せていくというか、そのあたりのことは当日お話があると思います。

テーマとしては、一度うつ病にり患しても、人間関係の中で生きる喜びを再発見していくということになりそうです。

逆に、周囲の人もうつ病を理解して、うつ病者を支援していく中で自分の生きる喜びを獲得していくこともまた真実だと思います。

話はきれいごとでは済まない事情もあります。報道によると、休職している公務員が膨大な人数になり、休職期間も長期にわたります。例えば公務災害だったり、たとえば傷病手当金だったり、あるいは賃金が保障されている休職だったりするわけです。膨大な費用が掛かっているという現実があります。

うつ病者の復職を進めていくことは、就労して給与を得るという原則に戻ることですから、財政上健全な話になります。

さらに一歩進めて、うつ病を生まない職場づくりができれば、うつ病休職者は減っていくはずです。益々、健全な財政を確立することができます。そして、労働者の人権も守られるというウインウインどころではない話になります。

世の中、特に職場は、変な先祖がえりをしているところがあるようです。しかし、昔の職場は、ストレスを高める要素と、それを軽減する要素があったのだと思います。それを軽減する要素がないままに、ストレスばかりを高めているところに問題の根源があるように思っています。そのヒントを獲得できるシンポジウムになると思っています。

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組織をまとめるという意味 サブリーダー論 [労務管理・労働環境]



少し前の記事で、アイドルについて述べていたのですが、実のところ、現在のアイドル全般について詳しいわけではありません。少し盛って話したような気がします。ある程度知っているのは、ハロープロジェクトのアンジュルムというグループです。後はモーニング娘。25の人たちの顔と名前が一致して、少し知っている程度です。

アンジュルムというグループを深掘りしたきっかけは、ある若者とコミュニケーションをとるネタにするために動画などを見ていたこと、趣味の音楽演奏の練習をしていた時になぜか時々アンジュルムというグループの宣伝や楽曲(本当はスマイレージだった)の取り上げ動画に遭遇していたことでした。

2年近く前に当時リーダーだった竹内さんについて、労務管理の観点から理想のリーダー論ということで記事にもしました。しかし、その後も細々と研究を続けていたのですが、どうやら、組織を動かすのはリーダーの役割だけど、組織をまとめる人間もまた必要不可欠であるのではないかと思うようになっていました。昨年11月28日に芸能界を卒業した川村文乃さんを調べていくうちにそのような結論に落ち着きそうです。

目的を持った組織というのがあります。会社で言えば利潤を追求する目的ですし、スポーツチームではより強くなろうという目的、大会で優勝しようという目的があると思います。家族や友人関係は、その場にいて安心してくつろぐことが目的だともいえるかもしれません。

今回はどちらかというと外向きの目的を持った人間関係についてのお話になります。

リーダーは、そのチームのパフォーマンスの方向を示すという役割があります。チームとしての期首目標を立てたり、その目標に向かって鼓舞激励するとか、方法論(方針)を提示するという仕事が求められていると思います。リーダーはチームの権威であり、リーダーの価値観に右ならえして構成員が活動することで有機的な活動が可能となります。

しかし、チームの数が多くなるほど、構成員の個性に違いが出てきます。なかなかすべての構成員が一斉に同じ方向に動くということは現実的には難しいところがあります。また、構成員同士の軋轢が生じるとか、なんとなくそりが合わないという現象も起きてきます。そうやっているうちに、誰かが組織の中で浮いてしまったり、攻撃的になって雰囲気が壊れてしまったりして、組織に致命的な障害が生じることもあります。

そこまでひどいことにはならないとしても、各人のパフォーマンスが発揮されないで埋没してしまうことが、現実的な不具合として現れることでしょう。やはり人間組織は、協力し合い、フォローしあうことで強靭な力を持つもののようです。

ここで必要な役割がサブリーダーです。がむしゃらに前に進むだけではなく、組織全体を見て、パフォーマンスを発揮できない人間関係を修復していくという作業、遅れているメンバーを組織のラインに復帰させるという役割を果たす人がいれば、組織のベストパフォーマンスを作り出すことができます。特にポテンシャルが高いメンバーが能力を発揮できないことほど組織の損失はないように思われます。サブリーダーの役割は、組織から見れば生産性を高めることに直結しているわけです。

このサブリーダーも戦力ですから、そういうサブリーダー的行動をしていることが自分の組織的行動への関与を弱くする言い訳になってはいけません。自らは、タスクをやりこなしたうえに全体も見るという、考えてみれば離れ業をやってのけることが求められるわけです。だから誰でもそれができるというわけではありません。

その方法論は現在も確立されていないようで、個々人の人柄に依存している傾向があるようです。共通する事項があるように感じられました。

先ず、優しさということになります。これはすべてを許容する優しさではなく、現状を許容した上で修正の方法を一緒に考えるという作業を行うことです。それでも、誰が浮いているか、誰がチームに溶け込んでいないか、誰が反発を感じているのか敏感に察知して、「それはまずい」と感じる「こころ」があることが必要です。

次に必要なことは是正能力です。対象メンバーに変化を求めることはあるのですが、それは受け手の理解力が無ければ逆効果になることもあるでしょう。最初にする是正行為は、「自分があなたの味方である。」ということを理解してもらうことです。この過程はオープンに行うことが必要です。反発するメンバーからは「えこひいき」と受け取られることを恐れない行動が求められます。いわゆるいじめの防止には、これが最も効果的です。また、反発をされないくらいの仕事上のパフォーマンスの圧倒的力量もあるとよりよい効果が得られます。ただ、対象者を浮かせているメンバーに対しても敵対的な対応を取らないで仲間として接することも必要です。ここがお人柄以上の理論的な方法論が出にくい部分です。

そして、リーダーと対峙することです。サブリーダーの役割は、いわばリーダーの推進力から零れ落ちたメンバーを拾うことです。行動の過程では、リーダーの方針に真っ向から反対を言うような行動になることもあります。リーダーからも一目置かれている立場でなければなりません。ただ、反対勢力になるのではなく、通常時はリーダーの呼びかけに真っ先に応じる行動をとり、リーダーを立てる、リーダーの権威を高めることが組織の一体性を高めることだということをよく理解して行動していることが必要です。


つんく♂さんがアメリカの何だかっていうシステムを日本に導入してモーニング娘。を立ち上げてから、女性アイドルグループには卒業がつきものになってしまいました。偉大なサブリーダー川村文乃さんも卒業してしまいました。グループ内に波乱要素が見え隠れするようになり、ジジオタとしては不安要素もあるところです。「推しも卒業したし、もういいかなあ。娘。に『推し変』しようかな。」とも考えてしまいます。しかし、偉大なサブリーダーが作り上げた結果と、自分が卒業した後のことを考えていた節のある事の結果も気になるところです。

尊敬できる若者を見つけることは、ジジイにとって生きる喜びです。年配者は、謙虚に若者から学ぶことができれば若くなることができるのかもしれません。

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無宗派仏壇作法の勧め 死者と暮らす穏やかな日々 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]



既に何らかの宗教を信仰されている方ではなく、現在宗教を持たない方にお勧めする作法についてお話しします。どちらかと言えば、一人暮らしをされている方に向けてのお話となると思います。ご家族で共通の理解を得ることができれば、ご家族で作法を行うことも良いかもしれません。

これは特別な宗派ではなく、いわば日本人の土着の原始的な信仰というか、心構えみたいな作法をさらに崩したものと言えるかもしれません。

ご自宅に仏壇があれば、仏壇の作法ということになります。仏壇が無くても、語り掛ける的(対象物)があればそれでよいと思います。ただ、写真があれば、なお、イメージが付きやすいので良いと思います。

日本では家族が亡くなったずいぶんあとでも、陰膳を用意するご家庭もあるのですが、私はこれは無理なので、お茶とお水を毎朝新しいものに変えてお供えしておきます。寒い朝でも、こうやってやることがはっきりしていて、自分でもなんとなくやることでプラスになることなので、布団から抜け出して起きて日課をしようという気になるので不思議です。

お茶とお水を変えなければならないというよりも、変えてあげようという優しい気持ちが大切だと思います。お茶はいちいち入れなくてもペットボトルなどのお茶でもよいと思います。

どちらを右に、どちらを左にするか迷う方もいらっしゃいますが、どちらでもよいと思います。何せ無宗派ですから。線香を立てて、おりん(チーンとなるやつ)を鳴らして、位牌、写真、ご先祖様の順で3回手を合わせます。
「おはようございます。」、「行ってまいります。」というわけです。そして帰宅したら夕方は、線香とおりんだけで済ませます。「今日も一日ありがとうございました。無事帰宅いたしました。」とお知らせして感謝します。

自分以外の家族の安全などはお願いしてしまいますが、自分のことでお願いごとをすることはありません。お願い事はしませんが、毎日の出来事、あるいは何もないことの感謝を述べることは意識します。

今生きているのも先祖が子孫を遺した結果ですから、無限に感謝できるわけです。誰かに感謝をするということは気持ちよいものです。自分は一人ではないという気持ちになり、また謙虚な気持ちになって心が落ち着きます。

面白いことに毎朝夕、例えば父親の遺影を見ると、その日、その時によって見え方が変わります。笑っていることもあれば、注意を促しているように見えるときもあります。苦境に立っているときは優しく見えることが多いですし、調子に乗っているときはたしなめる表情の場合が多いかもしれません。「今日はこういう表情なのか」と意外に思って、気を引き締めることもあります。いつもは、ほっと一息入れる時間です。

むしろ家族がいる場合、家族に対して、同じように感謝をする時間があれば、八方うまくゆくのかもしれません。ただ、遺影は反応をしないので、心おきなく感謝ができるということはあるかもしれません。

お茶とお水以外は、お菓子、できれば水菓子をお供えしています。故人が好きだったものを用意するようにしています。私は仏壇にお供えしたものは、期限が切れる前に食べています。なるべく2品くらいは切らさないようにしています。食べ物をお供えするとなんとなく明るい気分になります。

お酒を供えることに対して賛否があるようです。無宗派仏教の場合でも、たとえば故人がアルコール依存の傾向にあった場合は、個人にとってもお酒は本当は苦しいものなので、お供えするべきではないと思います。
私は、お酒を仏壇にお供えすることはありません。ごくたまに仏壇の下にお盆をおいて、一緒に飲むくらいにしています。

死者とお話しする場合に頭に置いておいた方が良いことがあります。どのような方でも、生きているときは、自分を守らなくてはなりませんので、そのための行動があったはずです。自分を守ろうとする時、誰かに対して過酷になってしまうことがあります。いやな側面を見せてしまうものです。

しかし、亡くなってしまえば、自分を守ろうとすることは基本的に無くなります。執着もなくなります。故人の思い出の中の良い部分、優しくされた部分だけを思い起こしながらお話しするべきだということです。それで構いません。

人間が生きているということは、その人単体で生物的に生きているわけではありません。人間関係の中で関係を持ちながら存在するわけです。その人が生物的に命が亡くなったとしても、その人間関係まで無くなるわけではないので、亡くなった方と一緒に生きていくということは自然な話ではないと思っています。遺影で意外な表情を見るたびに、実際もどこかでこちらを見守っているのかもしれないとも感じることが多くあります。

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家族の機能①「機能不全家族」から家族の機能を考えてみる [進化心理学、生理学、対人関係学]



12月の私の業務のテーマが機能不全家族とでもいうように、家族の在り方に関連する相談を多く受けました。私の仕事(依頼、相談)は、同時期にテーマが重なることが多くあります。

それで、西尾和美さんの「機能不全家族」(講談社)を読んでみました。

西尾さんの定義は、「機能不全の親」とはということで、「子どもに安全と保護を与えられない、子どもの人格を尊重できない、子どものもって生まれた気質や個性を受け入れられない、適当な規律と愛情を与えることができない親のこと」というものでした。
本質をズバリついた定義だと思います。

これに対して一般的に機能不全家族とは、家族の機能を果たせない家族ということで、暴力や精神的虐待、犯罪やアルコールや薬物依存のある家族と定義されています。

西尾さんは、子どもの立場から親子関係に焦点を当てています。子どもではなくても、夫婦に置き換えても通用する定義だと思います。

「夫または妻が、相手に対して、安全と保護を与えられない、相手の人格を尊重できない、相手の持って生まれた気質や個性を受け入れられない、適当な規律と愛情を与えることができないこと」と置き換えてみても、通用する定義です。

そうすると、家族の機能とは、安全と保護を与えるところにあるということになりそうです。その具体的方法について、西尾さんの「機能不全家族」には丁寧に記載されていますので、家族問題で悩まれている方は、専門家に相談するのも良いですが、その効率を上げるためにもこの本をお読みになることをお勧めします。

ところで、どうして、家族は、自分以外の家族という他人に対して安全と保護を与えなければならないのでしょうか。自分ひとりが生きるのに一杯いっぱいの状態で、自分以外に配慮することなどできるでしょうか。

結論から言うと、「それが人間だ」ということなのかもしれないと思っています。

今年の正月は、3日くらい、これまでに記憶がないくらい無為に過ごしていました。タイミング的に家族と離れて一人で過ごしていました。年末に珍しく超人的な忙しさがあったことの反動もありました。日付も曜日も無茶苦茶になっていました。具体的に何がどうだというわけではないのですが、これではいけないと思い、職場に行き、届いていた機能不全家族を読み、頭を動かし始めてこれを書いているわけです。

人間が家族を作る理由がここにあるというか、人間が生きるということは家族の役に立とうとするということにあるという一つのアイデアを改めて見つめ直そうと思いました。

いつものことなのですが、「何のために家族を作ったか」という問題提起は間違っていて、「家族という人間関係を作ったから人間は生き延びてきたのだと、でもそれはどういう点が有利だったのか」ということが本当の問題提起です。

家族を作らない動物がほとんどです。それは家族を作らなくても子孫を作り続けることができたからなのです。もっとも子孫を作ろうとさえしないで生き延びようとしていただけのことですが、生き延びなければ現在われわれがその生き物の存在を目にすることが無いというだけの話です。

もっとも、家族と言っても「夫婦を中心とした家族」が一般的になるのは、つい最近のことです。何をもって一般的というかは難しいところですが、3世代同居が都市部だけでなく多くの地域で少数派になった時期と言えば、早くても第二次世界大戦後というべきであろうと思います。

夫婦が同居することさえ、日本では8世紀ころまでは成立していないようです。もっともこれは文献が残っている貴族社会の中の話です。第2次世界大戦前まで多くの人口を絞めていた農村部の家族の在り方はあまり信用できる文献が無いようです。一応同様だと考えておきます。

さらに農耕社会が起きる、約1~2万年前までは、家族は必ずしも血縁を基盤としていなかったようです。これだと「家族」という名称とは少し違うかもしれません。大体200万年くらい前からこのような小集団でヒトは生きてきたようです。

この小集団をどのように定義づけるか。ちょっと難しいのですが、「狩りなどで日中別々に行動しても、日暮れ頃までには帰ってきて寝食を共にする小集団であって、構成員に変化が乏しい集団(つまりいつメン)」ということは言えるでしょう。

その小集団をどのような関係者と構成するかについては時代によって異なっているけれども、人が人として成立したころからこのような少集団を構成して人は生き続けてきた、生き続けることができた、生きることにおいて有効だったということだけは言えるのでしょう。

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家族の機能② 群れを作るツールとしての「こころ」と群れを作るメリット [進化心理学、生理学、対人関係学]



前回の記事で、ヒトは、ヒトとして成立した時にはすでに小集団で生活していたと述べました。ただ、現在の家族のように父母を中心とした家族は第二次世界大戦後に一般的になり、これまでのヒトの歴史(200万年間くらい)の大部分は必ずしも血縁関係があるわけではない集団だったと述べました。でも、昼間それぞれが行動をしても、日暮れごろになるといつもの集団の中に帰ってきて寝食を共にするという関係があったということが前回の話でした。

言葉もない時代に、どのようにしてその様な集団生活ができたのかについては、これまでもこのブログで述べていたように、「こころ」というツールを獲得したからだということです。

いつものメンバーと一緒にいたい、いつものメンバーから追放されることは怖い、追放されそうになるとたまらなく不安になり、自分の行動を修正する、いつものメンバーに対しては役に立ちたいと思う、いつものメンバーの味方をしたい、いつものメンバーを守りたい、尊重したい、

これは現在心理学的には、単純接触効果と呼ばれる効果であったり、人間の根源的な要求(バウマイスター)と呼ばれたりしています。私としては組織の論理、組織バイアスも、この「こころ」からくるものだと考えています。洗脳もこの「こころ」を利用して行うわけです。

どうしてそういう心を持つようになったかという問いは間違っており、そういう「こころ」を持つ個体だけが、群れを形成し、命を長らえ、子孫を作ることができたというだけの話だと私は今は考えています。「こころ」を持たなかったヒトは、それができずに死滅したということです。

なぜ群を形成すると生き延びることができたかということも整理しておきましょう。
即物的理由とメンタルの生理的理由があると思います。

<即物的理由>
脳の活動を維持するための栄養素を確保するため、ヒトは小動物を狩るようになったそうです。初期の段階では特に道具も持っていませんから、何人かで動物を追い続けて、動物が弱ったところで確保したようです。小集団を作らなければ脳の活動を維持できなかったと言えるでしょう。

また、小動物もこのような原始的な方法ですから、逃げ切ることができることもあったでしょうし、そもそも小動物が見つからない時もあったでしょう。その時に備えて、同じ小集団の別グループが食べられる植物を採取していたそうです。小動物の狩猟と植物の採取を別々の構成員が行うことで生き延びる栄養素を確保できたわけです(「人体」ダニエル・リーバーマン ハヤカワ) 。

また、他の動物と比べて超未熟児で生まれる人間の赤ん坊を世話するのは母親だけでは足りません。出産自体がたいそう危険なものでした。このため、群れを形成して赤ん坊や弱い者を守る人数がいることが必要でした(それに伴う人間の特性は明和政子「まねが育むヒトの心」岩波ジュニア新書)。

頑丈な家も無く、移動式の生活様式であったことから、けっこう肉食獣に対しては無防備だったわけです。しかし、ヒトという中型動物が、比較的大きな群れを作ることで、肉食獣もおいそれとは手出しできない状況を作っていたと思います。肉食獣だってリスクがなるべく少ない方法で獲物を獲得したいわけです。ここから先は私の一人説ですが、おそらくそれでも集団の中に獲物を求めて襲ってきた肉食獣もいたと思います。その場合は群れ全体が、自分が襲われているかのように、我が身が傷つくことを忘れて、怒りにまみれて肉食獣を袋叩きにしたはずです。獲物を襲っている動物は無防備な状態ですから、袋叩きをされることが一番の弱点だったという袋叩き反撃仮説というものです。(今それを見ることができるのは、プロ野球のデッドボールで両軍がグラウンドに飛び出してくる様子です。)

即物的な意味で群れを作ることで生き延びてきたということは、なんとなくわかりやすいのではないでしょうか。

ただ、そればかりではなく、メンタルというか生理的な問題というか、そういう観点からも群れを作ること、群れの形態がとても有利であったというお話は次の記事で行いましょう。

前回の記事で触れた、家族の機能としての、安全と保護ということは、ヒトがヒトとして生まれたときから行っていたことなのだなあと改めて気が付きました。

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家族の機能③ 群れを作る、生理的な、メンタル的な必然性 [進化心理学、生理学、対人関係学]



人間は、飢えや肉食獣の脅威、自然現象の脅威から常に命の危険を感じてきたわけです。それでも、相当年齢を積まないと繁殖能力を持てませんし(他の動物との比較)、そもそも生きていくための能力すら獲得できません。なるべく成体が長生きをする必要がありました。

体や脳の大きさや、食物連鎖の位置づけから考えると、ヒトはかなりがんばって長生きをしていると思います。

その秘密は、群れを作るところにあったのだと思うのです。

人間は、細胞レベルで昼と夜を区別する体内時計をもっているといわれています。朝方から夕方にかけて、交感神経が優位になり、活動しやすい状態になります。逆に夕方から朝方にかけて副交感神経が優位になり、活動で傷ついた血管など体のあらゆる臓器、仕組みを修復しているそうです。これを概日リズム(サー下で慰安リズム)と言います。このリズムがくるってしまった状態が時差ボケです。時差ボケには、太陽の光を浴びて、強制的にリセットすることが有効です。

小動物を狩ったり、植物を採取したり、肉食獣から集団を守ったりするのは、昼間に行うことは大変都合が良いことです。交感神経が活発になり、筋肉を流れる血流が増えることによって、走って逃げたり、追ったり、腕力で戦ったりすることに都合が良い状態になっているからです。夕方に群れに帰り、群れが合流して大きくなれば、肉食獣からの攻撃の可能性も低くなりますので、安心感を持つことができます。怒りを鎮めて、些細なことを気にしないことによって、副交感神経を優位にして昼間の疲れ、微細な傷つきを修復していくことを効率的に行うことができます。それによって効率的な睡眠をとることができます。

また、何があっても、自分は守られている、尊重されているという安心感はこの副交感神経をさらに優位にすることができるでしょう。

逆に、群れの中で、自分に対する風当たりが強いとか、歓迎されていないようだということがあれば、副交感神経が優位になり切れず、絶えず不安が渦巻きますから、寝ている場合ではなくなり睡眠不足にもなりますので、副交感神経による臓器修復がうまくいかなくなり、早死にしてしまいます。

これの現代的な形態が過労死です。

メンタル的な要因によって、あるいは生理的問題がメンタルに影響を与えて、概日リズムがうまくいかなければ、不安が増大し、不安解消要求も増大し、精神が破綻して自死が起きてしまうわけです。

メンタルとは、肉体から分離された何かではなくて、肉体を反映したもの、あるいは肉体の状況に直結しているものだと考えた方が良いと思います。

このように考えると、狩猟採取時代は群れという小集団を、現代では家族を作って生きることは、ヒトとして生きるために不可欠な営みであり、それは体にしみこんでいるという言い方もできるのではないかと思われます。
ただ、狩猟採取時代の群れと、現代の家族は環境がだいぶ異なります。お金さえあれば、飢えるとか、肉食獣などに襲われる心配はありません。

収入を得るための就労と家事育児を分担すれば狩猟採取時代と同じ合理的に家庭を営めるのでしょうが、現代では専業の主婦、ないし主夫は、よほど相手が良い収入が無いと成り立たないこともありますし、働いて収入を得ることが人間の価値だなどという昭和のDV夫みたいな価値観が世の中の価値観になっているようです。

家事育児と外に出て就労することの分担ができない状況になっており、これは一般的傾向としては人類史上かつてない現象だと言えるのではないでしょうか。

さて、役割分担もしないのに、夫婦を中心とした家族を形成する合理性はあるのでしょうか。合理性がないならば家族という制度は早晩消滅する定めなのでしょうか。

現代社会の中で家族というのは、200万年に及ぶ人類史で示された群れという小集団の機能と何らかの変化があるのか、どのような環境によるのかについて、また、本当に家族は必要なのかということについて次回の記事で考えていきたいと思います。

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家族の機能④ 現代という小集団を形成する必要性のない環境の中の家族 [進化心理学、生理学、対人関係学]



現代社会、特に日本では、人間は野生動物から隔離されていて、熊が街に現れればニュースになるほどです。少なくとも、家の中にいればクマに襲われるということも無いでしょうし、町中であればその心配さえ少ないわけです。この意味で、つまり、他の動物に捕捉されないという観点から群れを作る必要性は消滅したようにみえます。

お金さえあれば、食糧が見つからず飢えるという心配もありません。

子育ても、お金があれば、あるいは自治体の支援があれば、大変なことですが一人でやりきることができそうです。

小集団を形成する即物的な理由だけを見れば、家族を形成する必要のない環境であることになってしまいそうです。

では、メンタルないし生理的な理由はどうでしょうか。

昼間の交感神経が活性化されている状況を考えてみましょう。これを一言で言えばストレスを感じているということです。

昼夜の区別がない人が増えていることとは思いますが、多くの人は、昼間に学校や仕事に行って、夜に家に帰ってきます。

職場、学校、あるいは道を歩いていたり、商店で店員さんと会話をしたり、様々な人間関係を形成しています。普段は意識しませんが、ふと地域や国家の一員として人間関係を持たなければならないこともあります。

人間関係は癒しにもなりますが、ストレスにもなることは誰しも経験していることだと思います。

このようなストレスであっても、交感神経は活性化してしまい、血圧や脈拍が上がって、臓器を取り囲んでいた血流が筋肉に流れやすくなってしまいます。上司や同級生との関係でのストレスなのに、人間の体は走って逃げたり、腕力で相手を叩き伏せようとしたりする準備を始めてしまうのです。

対人関係上の不安も、生じやすくなっているともいえるでしょう。

このような生理的現象面(ストレス)から見た場合、狩猟採取時代の肉食獣が人間に置き換わったような様相すらあります。これはどういうことなのでしょうか。

狩猟採取時代の関係する人間と、現代社会でかかわりを持つ人間とは、大きく異なっている。それは環境と人間の知能によってそうなっているのです。

狩猟採取時代の人間(他人)は、生まれてから死ぬまで同じ群れで寝食を共にしていました。それ以外の人間と出会うことはほとんどなかったわけです。人数も数十人から150人程度の群れだったと言われています(ロビン・ダンバー先生の各著述及び前掲「人体」)。それぞれ個体識別ができ、それぞれの性質も熟知していたし、運命共同体という利害が一致した関係でした。よほどの突然変異的行動を起こさない限り、それぞれが助け合い、分け合って、守りあって生活していたものと思われます。人間の「こころ」というツールがよりよく機能していたわけです。

逆に、そういう「こころ」を持てない個体やグループは、厳しい自然環境に耐えられず、飢え死にしたり、肉食獣に捕食されたりして死滅していたわけです。「こころ」というツールによってぎりぎり生き延びることができたというわけです。

ところがこの環境(一つの群れ、小人数の人間関係)は、現代社会では跡形もなくなったと言えるくらい変化してしまいました。家族、学校、職場、地域、社会、国家、インターネット、商店や病院等の一時的な関係と、群れならいくらでもあるし、かかわりあう人間関係は名前も覚えられないし、初めから名前を知ろうとも思わないことでしょう。その人の個性を重視していたらきりがないからしないわけです。

このような環境の中では、我が身を捨てでも、その人を守ろうという気持ちになることは一般的には期待できないことです。自分の些細な便宜のために、誰かを攻撃してしまうことだって起きています。深刻な被害が生じることも日常ありふれています。

まさに、ストレスの観点からすれば、現代の肉食獣は人間だということになると思います。また、人数が多いために生じる孤立も、いじめやパワハラなど減らない状況です。

人間が進化の過程で獲得した「こころ」というツールは、機能しにくくなり、「こころ」を持つがために、逆に傷つきやすくなっているのが現代だと思われます。

いじめ、パワハラ、虐待、炎上、セクハラ、モラハラ、嫌味、足の引っ張り合い等々、環境によってストレスが絶え間なく存在することが現代社会の特徴であると思われます。

このような社会病理のストレスに対して、一つ一つ解決できればそれが一番ですが、解決できなくても、家族の中に戻って、狩猟採取時代の小集団のようにそれぞれが助け合い、分け合って、守りあって生活ができれば、ストレスが軽減しますし、何らかの解決方法が見つかる可能性も増えると思われます。

現代のストレス社会にこそ、家族は機能を発揮することが求められているのだと私は思います。


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家族の機能⑤ 家族の機能を妨げるもの [進化心理学、生理学、対人関係学]


弁護士として家族とかかわる場合は、離婚事件が典型であるように、家族が機能を失っている様子ばかりに立ち会っています。私の他の方と違うのは、家族の機能を復活させることにチャレンジすることです。しかし、なかなか難しいことは間違いありません。

ニュースを観れば、幼児虐待の事件もなかなか少なくならないように感じられます。人間の「こころ」というツールが家族の中においても発揮されていないように感じられます。

思いつくままに原因を取り上げていきます。

1 人間全般に対する希薄な扱いが家族に対しても影響を与えている
  あまりにも人間関係が多くなりすぎて、関わる人数も多くなりすぎてしまい、個人が他人に対する意識がどんどん希薄になってしまっているという環境になっていることが原因の一つだと思います。

他の人間関係の冷たい希薄な関係になれてしまって、およそ人間に対しては必要以上に関わらないようにするとか、特別扱いをしてはならないとか、そういう意識が知らず知らず家族にも向けられているのだと思います。

2 ストレスが家庭に持ち込まれている
つい会社の人間関係の感覚を家族に向けてみたり、上司に言われた叱責をしてみたり、自分が学校で不合理な扱いを受けていたら、家族の中の弱い者にその扱いをしてみて、自分が一番弱いのではないという確認をしたくなったり、その人に原因が無いのに尊重しない態度をとったりしてしまいがちです。

家族相手に自分を守ろうとしなくてはならないほど追い詰められているということかもしれません。

3 家族を大切にする方法が分からない
  様々な理由で家族を大切にする方法を知らないということは、常々感じます。会社のルールで家族を見たり、厳しい道徳観念で家族を評価したりということを行っているとき、それが間違いだと気が付きません。

三世代同居であれば、「家族をそういう風に扱ってはダメだ。」とか、「少し厳しすぎるのではないか。」という修正を提案してくれる人がいたわけです。都市部においては、戦前も他人のプライバシーに口を突っ込んでくる御隠居さんや世話焼きの女性等がいたようです。

核家族化は、このような家族の機能を妨げる行為を批判する視点が無くなってしまう最たる原因だと私は思います。

そのことで思い出したのですが、昭和50年代までは、マイホーム主義という言葉があって、マイホームを大切にする余り、労働組合活動など社会的活動をしなくなったという批判が労働法学会でも取り上げられていました。社会的活動をしなくなったことには理由のあることだと思うのですが、ではそのマイホームに振り分けられていたエネルギーはどこに行ってしまったのでしょうかという疑問が起きています。

その他 家族を大切にする風潮が無い。国家政策が無い。家族解体論の潜在的影響などがあげられると思いますが、総じて、自分以外の家族を大切にする心の余裕がなくなっているということかもしれないと現段階では考えています。

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家族の機能⑥ 家族の機能をどうやって復活させるか その効果として期待できること [進化心理学、生理学、対人関係学]



余りにも壮大なテーマを設定してしまい後悔しています。しかし、否定的な現象だけを述べて終わりにするということがどうしてもできない性格なので、展望を持ってみたいと思います。このため、網羅的な対策を述べることはあきらめて、思いつくまま取り上げてみたいと思います。

<家族の機能復活作戦>
1 家族の機能をきちんと把握すること
家族の機能は、現代社会においては、それぞれが助け合い、分け合って、守りあって生活することによって、そこに帰れば安心できるという人間関係を形成し、家族外でのストレス、交感神経の高まりを、家族の中で副交感神経が優位になりやすい環境を作って、量質の睡眠を確保して体内メンテナンス(自然治癒力)を活性化することです。

生理的及びメンタルのストレスを軽減することによって、社会病理を無くすとともに、社会病理の犠牲になることを防止する効果が期待できますので、現代日本においてはこの副交感神経の活性化システムは必要不可欠のものとなっていると思われます。このことを学習することが第一歩かもしれません。

2 家族全員が快適と思える人間関係を形成するための研究、成果、経験の普及を行う。
こうしなければいけないということだけでなく、私の言っていることが本当であれば、家族が副交感神経優位にする人間関係になれば、快適であり、生きる意味を持つことになるはずです。要するに楽しい人生が送れるはずなのです。
そのためにするべきちょっとしたことを情報流通することによって、快を覚え、快の方向へ流れが生まれると思うのです。

3 家族が安心していることに対しての喜び、充実感の普及
2と同じようなものですが、快自体を普及する必要があると思うのです。これまでの芸術から、転換させていくというと大げさかもしれませんが、文芸や映画、その他で家族をテーマに作成してもらいたいと思っています。その中でサンプルとして具体的な困難克服の形を見せてくれるととても参考になると思われます。

<家族の機能が復活した場合の効果>
家族の機能に価値が置かれ、機能が復活しつつあると、先ず、ストレスの中断が起きることが期待できます。家に帰っても各人が孤立していれば、外でのストレスが持続してしまいます。一瞬でも家族の思いやりに癒されれば、ストレスの持続が中断します。気休めは実は大きいことです。ストレスが持続すると、不安も持続し、思考力が減退ないし停止してしまいます。一瞬でもストレスが中断すれば、冷静になり、別の観点からの解決策が見つかるかもしれません。

過剰な防衛行動が減少する。社会病理のほとんどでみられるのは、過剰な自己防衛です。過剰な自己防衛を行使すると、それを意図しなくても誰かを攻撃することになっていることが多くあります。それが、家族の中にいれば、自分が尊重されているという認識を持つことができれば、自身を持つことができます。外で攻撃されても、家に帰るまでの辛抱だということもできます。また、家族を犠牲にするような人間関係だということがわかれば、その人間関係から離脱するというアイデアも生まれます。

家族というベース基地ができれば、人間は無駄なストレスに悩むことが減少しますので、能力を発揮しやすくなるはずです。

社会病理も減少するし、無駄に傷つくことも減少するし、人々が平穏に生活し、よこしまではない目的での行動が増えるようにも思えるのです。

理屈の上ではそうなるのだろうと思っています。

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家族の機能⑦ 具体的な家族の機能の作り方 [進化心理学、生理学、対人関係学]



また壮大なテーマを掲げてしまったと後悔しています。
これはちょいちょいこのブログで特集をしているところです。夫婦のチップスシリーズや千字式等シリーズ化してご提案しているところです。

家族の機能①のテーマに戻って、「機能不全家族」を手掛かりに総論的なことを考えてみたいと思います。

やはり、家族は、相互に、安心を与えることこそ、現代日本の家族に求められているあり方だと思われます。少なくとも「家族の中に入れば安心だ。」と思えることが必要です。

この場合の「安心」とは、暴力などの身体的攻撃が無いということよりも、人格、人間性が尊重されるということに力点を置いて考えるべきだと思います。つまり、「自分や自分にまつわることが否定されないこと」が安心の第一歩です。

先ずやみくもに、家族を否定したり、非難することはしないことです。そのためには外部ストレスを家庭に持ち込まないというが大切です。中には、「いや」とか、「でも」とか、相手を否定する言葉をまず発することが口癖になっている人がいます。この発言は神経に触ります。また、そこから話し始めると肯定する流れにはならないことになりがちです。

否定されなければ、本音を話しても大丈夫という意識が生まれやすくなります。家族の不具合をいち早く察するためには、話をすることが楽しくなることが有効だと思います。

次に、家族中では自分にとってどうでも良いことを増やし、どうでも良いことは相手の意見に従うということが有効だと思います。会社でのやり方、他人同士を規律する道徳などを過剰に家族に持ち込まないということです。また、自分の親のやり方を踏襲しようとしないことです。親のやり方を踏襲すれば安心できることがあることはよくわかります。しかし、本当にそれでなくてはならないかということは真剣に考えた方が良いです。相手は育った環境も違うし、時代も変化しています。家族は一つ一つ独立国家だと思って、新しいルールを作るという考えの方が良いと思います。

安心のためのやり方はなかなか捨てられませんが、相手の感情を優先してどうでも良いことを増やしましょう。

3番目は、それでも否定しなくてはならない時にどうするかということです。例えば、子どもがうっかり薬物に手を出しそうになっていたら、止めなければならないことは当たり前のことです。その際も、まず最初に肯定できるところは肯定してから、肝心なところを否定することが、禁止の実効性の観点からも有効です。その心情や経緯など、肯定できる部分を必死になって探すという作業をすることが、危険から家族を守る最大の方法だと私は思います。「当たり前のこと」は人によって、その人の環境によって異なります。また、逆上してしまうと、思考力が低下し、言葉による説得の能力が落ちてしまいます。相手の共感できる部分を探し出すことで、冷静になり思考力も回復していくと思います。これはしかし、なかなか難しいかもしれません。

4番目は、家族の誰かの不具合を自分個人の利害とリンクさせないということです。これはなかなか説明が難しいのですが、要するに、誰かの不具合はその誰かだけの不具合ではなく、家族全体の不具合としてみるということです。常に主語を「私たちは」と「たち」をつけて考えるということです。家族の誰かの我慢によって自分の快適さを実現しようと考えているわけではないのですが、私たちという主語が出ないと意図せずに自分の利益だけを考えてしまいがちです。

5番目は家族に過剰なストレスを与えないということです。何かを成し遂げることは大切ですが、本当にそれが必要なことか点検する必要がありますし、相手の能力も冷徹に見極める必要があります。常に要求され続け、要求を充たし続けようとすることはかなりのストレスになります。とても安心することができません。いろいろ兼ね合いが必要ですが、ストレスを過剰に与えない方法で目的を達成する方法を工夫することが必要なのかもしれません。

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