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共同親権制度の法制化の効果と共同養育との関連 [家事]

 

国際世論では、
子どもを連れ去る日本人という評判がたち、
日本人と結婚することは注意するよう呼びかけられている
という話も聞きます。

日本を除く先進国の政府からも
日本政府に対して非難や申し入れが相次いでいます。
離婚後の共同親権制度は
このような国際的な圧力をかわすという目的があるため
制度の実現は既定路線となっています。

これに対して、共同親権否定派は少数派であり、
影響力はあまりありません。
実務的な対立は、共同親権制度を法制するか否かではなく、
「原則共同親権」とするのか、
「選択的共同親権という任意の制度」にするのか
というところにあります。

もちろん、国際世論が任意制度にすることを許容しませんので、
任意の共同親権制度となってもそこで終わらず
無駄なう回路をへるだけで
やがては原則共同親権になるのです。

しかし、国内の世論は大変遅れていて、
巨大メディア以外のメディアが
ようやく共同親権の話題の提供を始めたところです。

せめて、国際的に日本がどうみられているか
という紹介がなされればよいのですが、
このような真の問題の所在は隠されたまま
両論併記という腰が引けた紹介の仕方をしています。


共同親権制度の目的は、
子どもの健全な成長です。
共同親権制度はその道具です。
共同親権制度を法律的な建前でなく
離婚や別居があっても両親から子どもが愛される
成長に関与される
という共同養育を実現することが究極の目的です。

このことと共同親権制度はどのような関係があるのでしょうか。

@法制度を整備し予算を伴う行政活動を推進すること
@行政から親として扱われること
@単独親権を目的とした操作的活動を減らすこと
この3点について説明し
そのあとで、そのためにどうするかということを少し述べます。

まず、法実務的に、法制度ができるということは、
法律を執行する予算が付くということを意味します。
近年成立した過労死等防止対策推進法も、
成立後には、啓発活動など様々な予算が付き、
国が予算を伴って過労死防止の政策を進めています。

共同親権制度が成立すれば、
これまで国が行ってこなかった行政活動がなされることになります。

私たちの悲願は、
共同親権行使の具体化の支援です。
子どもと同居している親が、別居している親に
子どもを会わせない理由は、
通常は、「会わせたくない」というシンプルかつ漠然としたものです。

このため子どもを別居おやに会わせるためには
会わせることの不都合を一つ一つ除去していき、
子どもは相手と会わせてこそ健全に育つことを説明し、
子どもにとって会わせられないような人間が自分の親だと評価されることが
子どもの健全な成長を妨げるということを説明することによって
子どもと相手が同じ時間を過ごすことを
嫌だけど仕方がないというところまでは通常進みます。

しかし、子どもを相手に引き渡す際に相手に会うとか
面会の日時場所を決める打ち合わせをするとか
子どもを連れ去られないかという心配があり、
なかなか面会交流すら実現しない
あるいは極めて短時間で場所的に拘束される面会になっていた
ということが実情でした。

これは同居親がそう思うことはある意味仕方がないことで
ある意味どちらが悪いわけではありません。
「そう思うな」と叫んで実現すれば苦労はありません。

心理的負担を軽減させるための
公的な支援が必要なのです。

面会交流にふさわしい場所を作り提供していただくとか、
間に中立的な支援者を挟んで共同養育の方法を具体化していくとか
子どもの引き渡しを支援する人間を配置するとか
面会交流のために、交通費や宿泊費を優遇する制度を作るとか
そのような公的支援を拡充することが可能になります。

他の予算に比べれば些細な費用で実現できます。

それから大切なことは啓発活動でしょう。
一つには離婚後の共同養育のための啓発活動ですが、
根本的には、
離婚をしない家族作りです。
そして子供が成長するということはどういうことか
という研究と啓発が根本です。
これに予算が使われるということが実現したら
私たちの生活はもっと楽しいものになるでしょう。

まだまだ予算の使い道はあるでしょうが
歴史的に見て、現在の孤立した家族を強く温かくする
そういう血の通った政策を期待します。

次のポイントは、
行政が親を親扱いするということです。
現在離婚をしてしまうと親権のない親は
行政から親扱いされません。

例えば児童相談所でも、
主として同居親の問題(精神的な問題が多い)があり
子どもを児相が一時保護している場合、
同居親の問題が解消されない状態のとき
非親権者が子どもを一時預かるということを許しません。

子どもは親から離されて他人の中で暮らし、
学校にも通学させられません。
勉強はどんどん遅れていくし、
益々友達の中で孤立させられていきます。

児童相談所の中では
非親権者の親でも面会させることも許さないところがあります。

また、現在、離婚前は共同親権ですが
親権があっても
DVをでっちあげられれば、
行政によって、親は子どもから隔離されてしまいます。
子どもが自分でもう一人の親の元に戻ってきても
行政は親として扱いません。

保険証を持って子どもを連れさられてしまい
保険証がないということを役所に相談しても
区役所の職員は
「あなたと話すことは何もない」という態度をとりました。
経済的に苦しい家庭だったので、
保険証がなく受診させることが難しく、
子どもの治療は遅れました。
結局は子供が不利益を受けるのです。

こんなバカみたいなことが実際に起きているのです。

自分の子どもを心配している親を
行政は踏みにじり、
その効果は子どもの福祉に逆行するということにしかなりません。

DV制度は、離婚させて親権を被害親に付与する
という目標を持った制度です。
離婚すれば単独親権になるということから
人権を無視し、子どもの健全な成長を切り捨ていることが
プログラムされているように感じます。
離婚後も共同親権であれば
このようなプログラム自体を見直す契機になるでしょう。

3つ目のポイントは
まさにここにあります。

法律ができるということは
国としての意思、方向性を決めるということです。

国として過労死を無くす、過労死するような働き方を無くす
という価値判断を国が宣言したことは、
どんなにか私たちを勇気づけたことでしょう。

離婚後の共同親権制度を創設するということは、
子どもにとって両親がかけがえのない存在である
ということを国が宣言することです。

親権を持たない親として
養育費だけ支払わされて
死んだときだけ相続が発生するという
非人間的な扱いをやめるということです。

矛盾する法律が見直される契機になるはずです。

但し、法律ができたことで安心していたのでは、
法律の効果は薄れていき、
やがて法律自体が改正されることにもつながります。

わたしが掲げたのはいわば理想です。
任意的共同親権制度になれば
どんどん骨抜きになっていきます。

まず、分断されないということです。
共同養育を推進する団体を作り強化するということです。
このためには、
広く国益を主張していくことです。
自分のためにということではなく、
国民の圧倒的多数のために必要な制度だという主張が必要です。

過労死防止法の時は、
優秀な人材ほど過労死するという側面を強調し、
過労死を防止しなければ国益を損なうということも
強調し、財界など保守層に訴えました。

共同親権制度の先にある共同養育の実現は
現在様々な社会問題が子どもの育ち方にあるという見方を受け入れるなら、
大幅に改善されていくことにつながる可能性もあると思っています。
子どもの健全な成長こそ
現代の日本に必要でありながら不足している国益である可能性があるのです。


二つ目に、対立をことごとく避けるということです。
連れ去り母親の利益も考慮していくという視点が必要です。
共同親権制度になることは同居親の利益にもなる
ということを主張することです。
別居親に会わせたくないという気持を
共同親権実現のための政策に反映すればよいのです。

共同親権反対論者などという泡沫勢力とは
争っている時間がないのだということを自覚しましょう。

三つめは政権与党と太いパイプを持つことです。
もちろん、個人個人がどの政党を支持しようと自由なのですが、
共同親権推進勢力として活動するためには
政権与党とパイプを作らなければ意味がありません。

野党と接触することも必要なのですが、
それは与党とのパイプになってもらうことを主眼に置かなければなりません。
ロビー活動とはこういうものです。

間違っても「この団体は野党の支持団体だ」と思われないこと
これが大切です。
お世話になっている議員さんが野党の場合も多く
なかなか難しいことです。

過労死防止法の時はこれができました。

心ある野党の先生は、
政権党の先生に紹介していただき、
これが実現できたため、
全会一致で決議をあげたり、集会をしたりということをしてきました。
過労死の時は、過労死問題は国が挙げて防止しなければならない
というところまで説得を進めて、理解していただいた結果です。


法律は実現するでしょう。
しかし、それが共同養育につながり、
子どもの健全な成長につながるためには、
まだまだやらなくてはならないことが多くあります。

せっかくのチャンスなのですが
任意的選択型共同親権制度になっては
日本の未来は、また長期間遅れるでしょう。

もっともっと幅広い方々に
この問題に関心を持っていただきたいと思います。

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社長さん、偽装請負ですよ。その契約は違法で、後から賃金を支払わなければならなくなる可能性があります。 [労務管理・労働環境]



最近増えている事例として偽装請負があります。
本当は自分の会社で雇っている労働者、従業員なのに、
雇用契約書を取り交わさずに請負契約の体裁で
契約書を取り交わすのです。

あまり詳細に説明するとまねをする危険があるので、
架空の話で説明します。

例えば、ガソリンスタンドの従業員に対して、
「今日から請負契約にするから覚書に署名して」と言い、
従業員は署名しなければ仕事を失うという不安がありますから
覚書に署名をします。

すると、それからは賃金が出ません。

社長は、
「あとは、自分でお客さんを獲得して、
 お客さんの支払った金額から経費を除いた金額の
 30%を請負代金として支払う。
 但し、スタンド使用料として月10万円を支払うこと。
 自分のやる気と工夫で今以上の収入になるよ。」
等と言うパターンです。

不思議なことに、ガソリンスタンドの従業員には
売上ノルマが課されることが多く、
自分のお得意さんを確保しなければならないのです。
指名してくれるお客さんが多くなければ
ノルマは達成されません。

いつものノルマを達成してもう少し稼げば
今よりも収入が上がる
と思う人もいるかもしれませんが、
一般の従業員は、もともと不可能なノルマだと感じているので、
今より収入が上がるとは思わないのです。
思わないけれど、嫌だというとやめろと言われることが分かっているので、
従ってしまうのです。

これで経営者は、
経費を労働者に負担させた上に、
賃料として毎月定額の収入を確保することになります。

働いている人たちが多ければ
けっこうな収入になるでしょう。
労働者も自分の利益に直結するから
売り上げをあげようと頑張るでしょう。
楽してお金が入ってくると思う経営者もいるようです。
そう言って、このようなスタイルを勧める
経営コンサルタントがいるようです。

しかし、これは後からとてつもないしっぺ返しを食う恐れがあります。

先ず、労働者の収入が出ないため、
労働者は借金を抱えて仕事を辞めていきます。
つまり売り上げが上がっても経費と家賃を支払うと
お金がほとんど残らない場合が多いのです。
つまり事業が成り立たなくなり、
店をたたむことになることが多いです。

そこをうまくやったとしても
お役所から指導が入り、
取引先から信用を失い、仕事が成り立たなくなる事例です。

役所からいろいろ言われることにもなります。
労働基準監督署の指導がまずあるでしょう。
なんせ、契約が請負でも実態が労働者ですから
労働基準法の適用を受けます。
それにも関わらず賃金も支払っていない、残業代も払わない
年休も与えないということになりますので、
違法です。
これらの違反には罰金と懲役刑もあるので、
悪質な場合には刑事事件にもなってしまいます。

さらには、脱税を指摘される可能性もあるわけです。

労働者からの家賃や経費負担を
収入として申告しない場合は
収入をごまかしたということになるのです。
こんなのちょっと考えればわかることなのですが、
なかなか気が付きません。

コンサルタントも
これらの危険をはっきりとは言いません。
経営者も間違った経費削減ということに夢中になり、
「違法行為だからやめよう」という意識が
薄れていくようです。
莫大なコンサル料を支払っていますから
引くに引けないという事情もあるようです。

また元々の経営状態が悪く
起死回生のギャンブルに出ることを余儀なくされている
そういうすきを狙っている人たちがいるのです。

よわりめにたたりめ

これも経営の真実でしょう。

ところで、契約名でなく、実体で
労働者か請負かを判断するとしたら
その判断要素はどのようなものでしょうか。

労働契約と請負契約の一番の違いは
仕事を任された方が、自分の自由に仕事をしてよい
結果を出せばその過程に文句を言われない
というところにあります。

だから、どこでその労働をしてもよいし
納期までにいつやっても良い
道具は自分のものを使ってよい、
誰かに手伝ってもらっても、下請けに出しても原則良い
そもそも仕事を断っても良い
ということになります。

この反対で、
例えば特定のガソリンスタンドで仕事をしなければいけない
(場所的拘束性)
朝8時から夜8時まではガソリンスタンドにいなければならない
(時間的拘束性)
自分の代わりに別の人をあてがうことはできない
(非代替性)
与えられた仕事は自分の都合で断れない
(依頼の諾否の自由がない)
会社の道具で仕事をしなければならない
(生産手段を持たない)
等の事情があれば
労働基準法の労働者であり、
国は労働基準法その他で、
当事者の契約などの合意があっても
強制的にそれを無効だとして排除して
労働者を保護することにしているのです。

最近は、この生産手段でさえ、
賃料、リース代金の名目で
労働者に負担させていますので、
これらについては厳しい法律の制定されていくことになると思います。

このような闇営業が横行しているということは、
隙だらけの経営者が増えているということです。
隙が生まれた事情を良く分析して
国としての対策を立てる必要があるのではないかと
感じています。


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これから人生の伴侶を決める娘さんたちへ 自分の人生の傍観者とならない生き方をするために。 [家事]

必要があって、C・モルガン著「人間のしるし」(岩波叢書絶版)
について書かれた評論を読んだ。

ストーリーは、
フランスのレジスタント運動を話の舞台とし、
ジャンが妻クレールとの関係で葛藤をするお話し。

ジャンは、身柄拘束をされている時ジャックに出会う。
抵抗運動に身を捧げようとするクレールを
何の屈託もなく応援し、運動に当たって心の交流を持つジャックに嫉妬する。
ジャックはほどなく死に、ジャンは解放される。
帰宅してクレールとの生活が再開されるが、
クレールは、ジャンの想定を超えて
抵抗運動や高い精神世界に羽ばたこうとしていた
ジャンはそれまで自分がクレールを
所有愛の対象としか見られなかったと悔み
より広い愛で妻クレールを理解しようとする。
ジャンは再び投獄されて釈放されるが
その時クレールは既に身柄拘束された後だった。

評論は、
女性の作者の学生時代の友人たちとの生活ぶりを紹介し、
この本が議論の的であったこと
自分は当時、ジャックのような夫こそ理想だと考えていたが、
ジャンの愛こそ人間的な愛ではないかと
今は感想が変化しているとのことであった。

評論自体はただ読んでいても楽しいものであったし、
その主張には感銘を受けるとともに理解ができるものであった。

しかし、離婚事件を多く扱う弁護士としては、
現代の女性は、その先にある生き方を考えなければならないと
筆者に対しては少し意地悪にうつるだろう感想を抱いた。

少し揚げ足取りであることは自覚しているが
わかりやすい題材なので利用させていただく。

「ジャンとジャックのどちらの夫が好ましいか。」
こういう問題提起では、現代の女性は幸せにならない
ということである。

これでは、女性は夫次第で幸せにも不幸になってしまう。
夫のもともと持っている属性で、
女性の運命が変わってしまうということが
その論理の出発点だということになってしまう。

欠落している視点とは、
自分が主体的に自分たち夫婦の関係をデザインしていく
という視点である。

そしてそのためには、
相手とよく話し合い、相手に働きかけるということだ。
自分たちの幸せは自分たちで決めて、勝ち取っていく
こういう視点が、実務的には必要だと感じている。

そうでなく、どちらの性格、行動パターンが好ましいか
今いる人がダメなら別の人
ということでは、
結局、他者に依存しているだけの人間になってしまう。

相手は自分の思い通りにはならない。
いつまでたっても相手を評価しているだけでは、
自分が思い描く現実は決して訪れない。
 
ただ、だからと言って、
自分の思い通りに相手を変えていこうとすると
相手はそれを負担と感じ、
夫婦というユニットが成り立たなくなる。
相手があなたの言いなりになるならば、
相手はあなたを評価し続け、
やがてあなたのもとを去る可能性もある。

話し合うことができる関係が必要だ。
その際、自分はこうありたいという考えを持つことは良いとして
それを相手に押し付けるということをお互いにしないことだ。

他方で、自分が何を望んでいるか相手に言わなければ
相手が自分の希望に気が付いてくれるまで待つか
気づいてくれないから別れると言って見限るかであり
やっぱりそれは相手に対する従属的関係でしかない。

そもそも、自分の考えや相手の考えが
完璧だということはなく、
押し付けるべき理想的な考えなど存在しないと思う。
より良い関係を作るために
話し合って自分たちで自分たちのことを決める関係こそ
好ましい関係のような気がする。

少しロマンチックな関係とは離れるかもしれないが
これこそ実務的には、夫婦の要だと考えている。

もちろん四六時中話し合うのではなく、
必要なときの話し合いということである。

いざと言うときに話し合いができず
自説を曲げようとしない相手は
自分を仲間として尊重していない相手だ。
時間をかけて、こちらの気持ちに配慮しながら
なぜ自分が違う意見を主張するのか
納得のいくように説明しようとする相手こそ
あなたを尊重する相手だと思う。

そして話し合いの時に大切なことは
特に夫婦の間の話し合いに大切なことは
論理や合理性だけを大切にしてはならないということだ。
相手の感情、あるいは自分の子どもたちの心情の状態を
推察して、汲み取り、配慮できる人間が最も好ましい。
論理とともに、相手の気持ちを結論を出すための
重要な要素としてくれることがインテリジェンスなのだと思う。

もちろん最初からこのようにできる若者は少ない。
しかし、それを提案して、こちらを尊重してくれたら感謝する
そうやって相手に働きかけていき、
その働きかけを受け入れて
一緒に成長してくれる相手を見抜かなければならない。
そういう相手こそ伴侶としてほしい相手であると思う。

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親としての資格 : 父母は、意見、価値観が違うことが子どもにとっての生命線 かわいそうだからやめるができなくなる時 目黒事件を自分のこととして学ぶ [進化心理学、生理学、対人関係学]

弁護士をして、刑事弁護をしていると
少しのボタンの掛け違いで重大な結果を起こしてしまった
という事例が案外多いように感じます。
それでもマスコミは、
その被告人が根っからの悪人であるかのような報道をするわけです。

このような事件の一面的な取り上げられ方によって、
私たちは事件がとてつもない悪人によって起こされた
例外的なケースだと思いこまされて、
自分には関係のないことだという先入観をもたされ
安心して加害者を責めあげたあげく、
時間の経過によって忘れてしまうわけです。

原因は放置され悲劇は繰り返され、
あるいは形を変えた悲劇が生まれることになります。

しかし、もしかしたら、わずかなボタンのかけ間違いではないか
という視点で事件を見ると、
自分たちの問題として考えなければならないことかもしれないということが
見えてくるような気がします。

その典型例が目黒事件だと感じています。

目黒事件では、
幼い子、わが子を虐待したことに加えて
九九を暗記させたり、ひらがなの書き取りをさせたことも
非難されているようです。
マスコミは亡くなられたお子さんの写真に
2,3歳のころのものを使っていますので、
その当時に九九や書き取りをさせられていたような印象を持たされ、
なるほど虐待だと思いがちですが、
亡くなられたお子さんは、翌月には小学校に入学するということでしたから
写真のころよりは成長していたようです。

小学校入学前の九九や書き取りは、
小学校受験をするようなお子さんは
当然に学習していることだと思います。

それ自体は虐待とは言えないでしょう。

小学校受験だけでなく
ピアノやバレエ、その他の習い事をして、
コンクールに出場してよい成績を収めるお子さん方も
同じように親のモチベーションで無理をさせられています。

いろいろな思惑で親は必死になります。
自分と同じような人生を送ってほしいとか
自分と同じ苦労はさせたくないとか、
親の切実な思惑は限りがありません。

また、この時期の子どもたちはやれば伸びますから
無理が無理ではないと錯覚することも多くあります。

無理の中で、
例えば、この課題が終わるまでは食事をさせないとか
ケアレスミスをするたびに叩いたりするということは
結構あるはずです。

両親が一致団結して
結果を出させようと目を吊り上げて子どもにあたっていて、
子どもがストレスを抱えてしまい、
知らないうちに免疫機能が衰えてしまい、
食事ができなくなったと思ったら
重大な感染症にり患してしまっていて
明日病院に連れて行かなくてはなんて思っているうちに
あっけなく亡くなってしまうなんてことは
子どもだからこそ大いにありうることだと思います。

通常途中でストップできるわけですが
その仕組みは
結果を出そうとする親と、
見ていてかわいそうだからやめようとする親の
意見対立があるからだと思います。

結果を出すという努力がなければ何事も成り立たないでしょうが、
かわいそうだからやめるという気持ちがなければ
子どもに回復不能な損害を与えることがあるわけです。

子どもに対する感じ方の差が
あるいは目標の重要度の感じ方の差が
一方が目を吊り上げていても
他方がストップをかけられる要因となっているわけです。

このアクセルとブレーキの役割は決まっておらず、
父親の場合もあるし、母親の場合もあるようです。
また、その時によって立場が入れ替わることも多いでしょう。

常に父母の意見や価値観が一致していては歯止めがききません。
父と母は、感じ方が違うことにこそ価値があるのです。

両親のどちらかが死別しているような場合は
死別した親の代わりの役割を果たす人がいるとよいと思います。
祖父母なんていうのは、通常ストップをかける役割が期待されているでしょう。
もし、離婚しただけでもう一人の親と会えるならば、
かわいそうだからやめるでも、
もう少し頑張れでも
親として言ってくれるわけですから
子どもとしては大変貴重な人間です。

離婚した場合にはもう一人の親からすると他方の親は
目の上のたん瘤ですから
口出しをされることは大変煩わしいことなのですが、
これは子どもが生きて健全に成長するためには
とても貴重な存在だとして、
我慢しなければならないのだろうなと思います。

離婚せずに同居していても
同じことが起きて、子どもが健やかに育つわけです。
自分のことで相手から解放されることはよいとしても
子どものことでまで解放されるわけにはいかないということなのでしょう。

あとは程度の問題をコントロールするという課題を解決するべきです。
助けを得て解決するべきなのでしょう。
今から少し前までの日本は二人だけで解決してはおらず
常にみんなで解決していたようです。

目黒事件では、母親が継父に支配されていたと指摘されています。
子連れ側の親は、相手に気を使うということがあり、
迎合しやすいということは意識したほうが良いかもしれません。
継父の子どもに対する行動をストップしにくい場合があるようです。

但し、実際の多くの事例では
継父も自分の子どもとして接しており、
継父ということだけで問題が起きることはありません。

それとは別に、
母親が、それまでの人生で
例えば学校から、例えば友人から、社会から
否定され続けてきた場合に、
(あなたは劣っている、役に立たない、正しいことができない)
自分を肯定する存在が現れ、自分を評価し、
(あなたは本当はダメな人間ではない。自分はわかっている。
 チャンスがなかっただけだから、子どもにはチャンスを与えよう)
守ってくれる存在だと
自分を認めてくれる唯一の存在だと感じてしまい、
この人間関係が、自分と子どもにとってかけがえのないもので、
その人間関係の決めたルールは神のルールのように守ろうとしてしまいます。
批判的精神が失われてしまいます。

かわいそうだからやめてほしいということは
せっかく自分たちを救ってくれる人に対して
失礼なことだし、間違ったことだと感じてしまうようです。

暴力や暴言の恐怖だけで、
子どもを守らなかったことを説明することは難しいと思います。
服従の先にある迎合の背景、つまりそれ以前の人間関係の状態こそ
問題とされるべきだった可能性があると思います。


ここまで極端なことでなくても、
自分に自信のある人間はそうそういませんから、
相手が自信をもってやっていることを
何となく、かわいそうだからやめてということを言いづらく
黙ってしまうということは
少なからずあるようです。

相手も、子どものためにと思って厳しくしていますから、
止められそうになると
子どもの成長を妨害しようとする行為だと
怒りの対象になってしまいます。
ますます言いづらくなる悪循環です。

私たちは現代社会に適応しようともがいている中で、
いつしか、効率や合理性を絶対的なものとして
考える癖が身についているようです。

適応できて社会的地位を勝ち取った人ほど
そのような考え方に支配されているかもしれません。

相手の行動が正しくて
それが子どもの利益にもつながるというときほど、
親のどちらかが必ず
「かわいそうだからやめよう」
という選択肢を提起することが必要なのだと思います。
これは実の親がよりよく力を発揮できることなのです。
子どもが苦しんでいたら
自分が苦しめられているような怒りを覚える存在だからです。

言われたほうも、怒りを抑えて
「かわいそうかもしれない」
と聞く耳をもつことを選択肢として用意することが必要だと思います。
正しさゆえに無理をしていることがあるということは
自然には気が付きにくいのですから
あらかじめ頭に知識として入れておかなければなりません。

かわいそうだからやめる

いろいろな場面でこのタイミングは出てきます。
習い事が苦しいとき
学校に行くのがどうしてもつらくてできないとき
就職してからもそういうときがあることが多いようです。
親は、現代社会に適応しきらないで
生物的な親としてかわいそうだから無理をさせない
という選択肢を持ち続ける必要があるということが
現代社会のもう一つの素顔だと思います。

かわいそうだからやめる。

この選択肢をもつことが
親に限らずすべての大人の
子どもにかかわる資格なのだと思います。

かわいそうだからやめる
もしかしたら、大人と子どもの関係だけでなく、
すべての人間関係の最も大切なことなのかもしれません。

しかし、それを一番自然にできるし、しなくてはならないのは
やはり実の親、家族なのかもしれません。

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DVサイクル論という日本の男女参画行政が全面的に採用する非科学的俗説の弊害と真実のありか [家事]

1 目黒事件の精神科医の証言

目黒事件の裁判員裁判で精神科医が証人として証言した。「母親はDVをされていて、DVがなかったら放置はなかった。」というものだった。母親の放置があるとして、それが夫の精神的支配によるものだということについては成り立ちうる立論だと考えていたが、そのための立証は、案の定、皮相な俗論であり、科学的な鑑定意見のようなものではなかった。前提としてDVはあったのかという議論が必要となってしまい、かつ、それは証明できていないものとなってしまった。この日本型DV論ともいえる論が持つ弱点が端的に表わされてしまった。また、この俗論に基づいた実務の手法の弊害が如実に表れた結果である。もう少し事実に即した丁寧な証言がなされるべきであったと思われる。
ちょうど良い機会であるから、この証言の元になった日本型DV論がどのように誤っていて、どのような弊害があるか、真実はどこにあり、そしてどうすべきかについて考えてみたいと思った。

2 日本型DV論の非科学性の源泉

日本型DV論は、アメリカの心理学者であるLenore E. Walker らの理論「バタードウーマン」に全面的に負っている。この理論は、筆者の心理セラピーのクライアントの話を総合して組み立てている。したがって統計的な立証ではないし、そのエビデンスとしての価値も疑問視されている。科学ではなく、どちらかというと女性の保護、解放という視点、目的からの立論である。
それにもかかわらず、日本の男女参画政策を担う、内閣府男女参画局、地方の男女参画、警察の生活安全課、厚生労働省婦人援護施設、児童相談所等では、無批判に全面的にこの理論にそって行政行為を行っている。莫大な予算も投入されている。

3 DVサイクル理論

この理論の根幹は、DVサイクルというものである。妻は、身体的暴力や精神的暴力をうけても夫と別れられない。その理由として、DVサイクルというものが存在しているからだという理論の重要なポイントである。つまり、DVは、一辺倒ではなく、暴力などが爆発する爆発期、その後暴力を反省し、謝罪し取り入ろうとするハネムーン期、それがなくなり暴力がいつ始まるか緊張が高まる緊張期という3つの時期が繰り返される。そして、暴力を受けても、ハネムーン期があるために、本当は夫は優しい人なのではないか、いい人なのではないか、爆発するのは自分が悪いためではないか、あるいはもう爆発は起らないのではないかと期待してしまう。このために妻は夫から離れられないと主張する理論である。

人間観も独特である。DVを行う夫は、結局、自己愛性パーソナリティ障害の患者で、相手を支配しようとする人格を持っていて、治療などによって改善されない。だから妻が暴力から解放されるためには逃げなければならない。分離だけが唯一の解決方法となる。そしてこの理論の実践場面においては、警察をはじめとする行政は、夫は妻を殺すだろうから子どもと自分の命を守るためにとにかく逃げろと、抵抗する妻に何時間も説得を続けている。
実は、妻に対しても独特の人間観をもっている。妻の性格も虐待される要因があるとする。妻は、暴力にも従順であり、自己主張をしない。夫に依存する傾向にあるとする。要するに男性に依存してしか生きられない哀れな存在であるとみる。売春婦と異なるのは、DVを受けている妻は夫一人に依存しているが、売春婦は不特定多数の男性に依存しているという違いだけであるというものである。この思想が端的に表れている事情は、DVを受けている妻を一時保護する婦人援護施設は、もともとは売春防止法が生まれたのちに元売春婦の生活の更生のために使われていた施設だったものを引き継いでいるということである。担当部局も同じである。運用も同じ思想で行われる。施設に保護された女性は、自発的な行動が禁止され、外部と連絡を取ることも禁止される。放っておくとまた男性のもとへ依存する行動に戻るからだということも、売春婦保護の思想と取り扱いを引き継いでいるからである。大事な家族の将来を夫と話し合うことをさせないのも、もと売春婦に売春宿と話し合いをさせなかったことの自然な流れなのであるう。主体的な思想を注入しようとしているのだから、どこかの国の理念と全く同じである。保護される女性は保護と教育、更生の対象として扱われる。私はこの扱いに抵抗がある。

4 日本型DV理論の誤りと弊害

先ず、端的な間違いは、現在DVと認定されて、家族分離がなされている事案の多数で、DVサイクルは当てはまっていないことからも本当は明らかである。暴力や支配を目的とした妻を追い詰める言動の爆発が存在していないことが実際には多数だろう。爆発期が存在していないこともあり、また日本男性の特徴ともいえるが、ハネムーン期が存在しない。多くの事例では緊張の継続の時期だけである。これでは、「なぜ、DVがあるのに(本当は緊張が継続しているのに)夫と別れることができないのか、」ということを説明できないことになる。

また、恐怖感情がない場合にもかかわらず、どうして夫の思想に共鳴するのかということが説明つかない。目黒事件では、「児相に目を付けられるだろうけれど、それは子どもが悪い」という趣旨のラインをどうして夫の暴力や強制もないのに自発的に打ったのかということが説明できない。

行政やその下請団体は、DVサイクル理論によって、女性が息苦しさを感じている場合、それは夫のDVが原因だと根拠なく決めつけて家族分離を進めてしまう。分離以外の方策を検討する余地がない。選択肢が用意されていないのである。強引に妻が子どもを連れて別居を開始し、夫が一人家に取り残されて妻子の居所もわからなくされた結果、夫が苦しむばかりではなく、子どもも自分が父親から分離されたことで不安にさらされる。また、暴力父の子であるという悩みが生まれることもあって自分に対する評価が著しく下がる。さらには、妻自身も、自分は理由なく人間扱いされていなかった、殺されるところだったという恐怖が生まれてしまい、自分が逃げているという意識を持たされることによって恐怖が固定化してしまい、夫から逃げても何年も恐怖感情がよみがえってしまうことがよく見られる。誰も幸せにはならないことが多い。
子どもの幸せは考えられておらず、妻に認知のゆがみがあっても是正できない。夫の人権は無視されている。これが日本型DV理論に基づく対策なのである。

5 真実はどこにあるのか

1) 女性の息苦しさの正体(原因が夫婦関係以外)

女性、特に子どもを産んだ母親の息苦しさの正体は、それが離婚事件などの紛争になっている場面では、「自分が主体的に生きられない」ということが多く、もう少し具体的に言えば「自分で自分のことを決めることができない。」というものである。「何か悪いことが起きそうだ」という焦燥感と、「自分だけが損をしている」という被害者感情が伴うことが多い。

必ずしもそれは、夫に原因があるわけではない。夫以外の原因としては、
産後うつ、
もっとまじめに考えなければならない産後クライシス 産後に見られる逆上、人格の変貌について
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2015-10-12

内科疾患やパニック障害などの精神疾患
存在しない夫のDVをあると思いこむ心理過程 思い込みDV研究
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2018-12-04

等がある。

日本の行政の「DVがある」との認定にあたっては、妻からしか事情を聞かない。夫から話を聞くことはない。このため、妻に息苦しさ、焦燥感、被害感情があれば、それは夫のDVがあると決めつけられることが多い。そういう結果しか出ない聞き取りを行うマニュアルがあるからである。妻本人がそれを否定しても、あなたは夫からしいたげられていると「教え込む」のである。妻は夫という男性に依存するしかできない要保護のかわいそうな人間だとされているので、自分が受けているDVを認識していない、だから行政がきちんとDVがあったことを自覚させなければならないと考えている。命の危険があるから、直ちに子どもを連れて夫から逃げて、元売春婦のために作られた婦人援護施設に囲われて居場所を隠される。携帯電話も取り上げられ、向精神薬の服用を強く促される施設もあると言われている。

2) 夫のDVがある場合

夫に妻を支配したいという意図があり、この意図に基づいて暴力や、言動による精神的な追い込みがある事例は確かにある。なぜ夫は、支配を意欲するのか。
答えは、妻との関係継続の意欲と自己防衛である。両者は同じことを角度を変えてみているだけのことである。
夫の一番の関心事は、妻から否定されないこと、妻から愛想をつかされないことである。このことに過剰に敏感になっている。妻の否定評価が起きそうだと感じてしまうと、反射的にそれを無かったことにしようとする。力づくで否定評価をさせないようにするということである。くどくどと言い訳をしたり、ごまかしたりすることは少なく、逆切れして妻を攻撃する。また、妻の自分に対する否定評価が起こりそうな場合、先制攻撃を仕掛けたりする。自分の失敗が妻に原因があるような言動をするのである。妻は、もとより、攻撃しようと思って話をするわけではなく、客観的事実を指摘する場合も多い。また、確かに妻が無神経に言葉を発することもあるが、夫が過敏になっているため、聞き流すべき言葉も、夫は自分を否定しているように感じたりしてしまう。夫は危険から逃げる形で回避することもせず、あくまでも妻を攻撃して、強引に危険を解消としているのである。その危険とは、「妻からの自分に対する否定評価」であり、究極には「妻の自分からの別離」である。この危険を回避するために妻を攻撃するという矛盾した行動しかできないのである。
一方妻は、夫を攻撃するつもりもなく、無邪気に言葉を発していたり、行動をしたりしているのに、夫が過敏に反応をするので、夫が逆上するポイントがわからない。夫は、自分を守る意識が強いので、自分の逆上を余裕をもって制御することができない。妻は、いつ夫が爆発するかわからないため、常に戦々恐々としている。夫ならどうしてほしいかということを常に考えている。爆発させないためである。こうして夫ならどうしてもらいたいか、どうすれば否定されないで済むかということが行動原理になってしまう。これでは自分で自由に自分の行動を決めることができなくなり、常に夫の目を意識するようになり息苦しくなっていく。
このパターンでは、夫は、本当は自分に自信がない。自信がないからごまかそうとするのである。虚勢を張るのである。仕事上の自信はあるという場合は、職場の人間関係には問題がない。しかし、男として、パートナーとして自信がない事情があると、職場では問題がないが家庭ではDVをしているという場合がある。実は極めてデリケートな問題を抱えていることが多い。また、全般的に人間関係に自信がなく、職場でも家庭でも問題が生じている場合もある。
このような人物は、主として、結婚以前の時期に人間関係を円満に形成した経験がない場合、円満な人間関係のサンプルを見ていないために人間関係を円満に形成する方法を知らない場合がある。また、いろいろな人間関係で自分が常に否定され続けてきた経験があるために、自分に自信が持てないという場合もある。また、職場などで、あるいは社会的状態が、自分が否定されている、人間として扱われていないと感じている場合も多い。
いずれにせよ、このパターンの圧倒的多数の事例でもおよそ命の危険はない。

3) 夫のDVがない場合

夫の目を気にして緊張を強いられる場合なのに、夫に前述のような支配の意志がない場合がある。これは日本に多いパターンのように思われる。このような場合も、行政に相談してしまうと、夫のDVが「ある」と認定されてしまう。そして、妻は命の危険があるからともと売春婦の更生施設に「保護」される。
支配の意志がないにもかかわらず、妻の行動に対して否定的評価をしたり、妻に対して過剰な指図をしたりするような場合が典型的な場合である。このような場合、夫の性格が几帳面であり、完全を目指し、正義感が強いような場合が多い。妻の些細な失敗を許すことができず、妻の感情を無視して妻の行動を是正しようとしてしまう。細かなことにいちいち口を出す。行動の要求の標準が高い。正義や道徳に、妻の感情より大きく価値を置いている。そして致命的なことは、肯定的評価、感謝をしないということ、妻の感情を満足させるような行動を自発的にしようとしないことである。
この場合でも、妻は、自分が指図やダメ出しばかりされていうるが、夫と妻の価値観が同一ではないため夫の行動基準がわからない。どうして自分の好きにさせてもらえないのかわからない。理詰めで否定する夫、指図ばかりして自由を与えない夫という評価となり、あたかもDVを受けているような息苦しさを感じてしまう。
夫の価値観の形成は、私は教育や、これまでの生い立ちによるところが大きいのではないかと疑っている。要するに子どものころ、親や学校、友人などから自分がやらされていた標準をクリアすることが人間として当然だと思い、道徳や正義を実践しないことは人間として許されないことであり、それがわずかに逸脱したことがあったとしても厳しく否定されてきたので、人間関係とはそういうものだと学習してしまっている場合が多いように思われる。「自分は努力していた。その努力をしていない妻は許せない。」と感じているのかもしれない。こういう「正しい夫」は、学歴が高いとか、仕事で成功しているという人に多いように感じる。この正しさの意識は、妻の感情を考慮しない要因になっていると感じられる。
まれに夫に共感する能力が劣っている場合がある。こういうことをしたら相手は屈辱的に感じるだろうとか、大事に扱われないことを感じ寂しく思うだろうとか、そういう相手の気持ちを理解することができないのである。相手の感情を考慮できないので、頭で理解できる正しい行動をする。おそらく自分たち家族が損をしないようにということで、妻の自由であるべき行動を細かく制限してしまう。こういう夫は、他人の気持ちがわからなくても、これまでの学習によって、社会のあるべき行動パターンを「知って」いて、そういう正しい行動をすることができるので、あまり周囲から気が付かれることがない。むしろ、頭で記憶している「正しい」行動パターンに従って行動する傾向があるため、過剰に道徳的に、過剰に丁寧に人と接しているなという印象を与えるが、悪い人ではないだろうと思われている。特に深く付き合わない人はその人が他人の感情に共鳴できないことに気が付かない。

4) 妻側の事情

妻は、夫の価値観に従おうとするから、それに従うことが苦痛になるという現象が起きる。夫がどう言おうと、「私はそうは思わない。あなたとは価値観が違う。」と平然としていられるならば、苦しくはならない。そうはならない原因がどこにあるか。ここで、夫の暴力が怖い、暴力の記憶が冷凍保存されているので従わざるを得ないという服従の論理だけで説明しようとすると無理が生まれる。人間はそんなに単純ではない。怖いならば言われる前に逃げるだけの話である。それができない理由は実は人間の本能にある。
人間は、無意識に自分の属する群れを強化しようとしている。そのために、群れの秩序をつくり、なるべく群れの構成員が一体として動けるようにしようとする。群れの中にリーダー的な人物が現れ、それが群れにおいて承認されると、リーダーに迎合するようになる。これは人間が群れを作る動物であることからくる本能的な行動である。
本来夫婦は、それぞれが話し合って秩序を形成すればよいのだが、何かの拍子で、夫がリーダーになってしまうと、リーダーの意思を尊重するようになるし、リーダーの意図を先取りして、自分の意図だと意識しないでリーダーの意志に基づいて行動や思考をするようになってしまう。
以前から私は、これは「服従」ではなく、「迎合」だと言っていた。「Stanley Milgramの服従実験(アイヒマン実験)を再評価する 人は群れの論理に対して迎合する行動傾向がある」https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2019-01-05
その関係については考えが及ばなかったが、「服従」が自分の意志に反して他人の指示命令に従うことだが、「迎合」は自分の意志自体が他人の意志に乗っ取られる状態であるから、「迎合」は「服従」を超えた支配が完成されている状態という関係になる。

もともと、秩序を作ろうという本能があるうえに、妻が自分自身を否定的に評価している場合は、妻は自分以外の他人に、リーダーシップをとってもらいたいと思い、リーダーシップに迎合する傾向が強くなる。自分に自信がないという場合である。こうなるのも、もともとの性格というより、それまでの生い立ちや体験から、自分の意見を他者から否定され続けていて、社会的な自分の位置づけが低いものだと刷り込まれている場合が多いのではないだろうかと思う。
また、夫が自己主張を積極的にするような場合は、リーダーに迎合しようとする本能が通常以上に強まるのかもしれない。
このように夫と妻の状態によって、妻が過剰に夫の意見に迎合しようとするようになり、その結果息苦しさが生まれるということが、離婚事件でよく見られる関係である。
妻側の事情として、夫に対する愛情が強すぎる場合がある。ここまで行くと愛情という言葉が適当なのか自信がなくなる。しかし、夫のことが好きすぎて、夫から否定的評価が下されることが怖いと過剰に警戒心が強くなっているということは確かにある。離婚訴訟では虐待の証拠として日記が提出されることがある。裁判で出された日記を、裏の意味を含めて解読すると。過剰な警戒心が認知の歪みになっている過程がが明らかに浮かび上がることがしばしばある。例えばこういう失敗があり、夫からこういうふうに言われるのではないかという怯えが、記憶の中でこういうふうに言われたとすり替わっているのである。この記憶のすり替えが客観的証拠から裏付けられてしまうことも多いのである。そして自分を守るために夫に対する攻撃が始まる。こういうパターンは、見ていて大変痛ましい思いがする。好きすぎて被害者意識を抱き、相手を攻撃して自分を守る姿を見ることはは本当に切ない。またこういうパターンの場合は危険でもある。夫と別れたことによって、一番傷つくのは別離を強く望んだはずの妻のほうであることが多く、病的な悲嘆が起きることを経験している。

6 謎はどのように説明されるのか

1) 先ず、DVサイクルとは何なのか

夫は、妻をアプリオリに苦しめようとしているわけでもなく、そのような人格だというわけでもない。ただ、妻との関係を維持しようとしたいだけのである。爆発期というのは、結局逆切れや、先制攻撃という自分を守る手段としてのふるまいである。その自分の行動が、妻から嫌われる原因になると自覚すれば、そのことを無かったことにしたくなる。怒りという感情はあまり持続しない。ひと時の怒りの感情が消失すれば、ひたすら謝り続け、妻に奉仕することになることは自然の流れである。
それでも妻は、夫の爆発も、一転した謝罪攻勢も当然ながら理解できない。このために混乱もするし緊張もする。夫は自分に自信がないから、謝りながらも、自分についてのコンプレックスから、妻が自分を否定評価するのではないかという警戒感も生まれ、表出してしまう。これが緊張期である。
このような感情に任せた行動であるがゆえに、必ずしもサイクル通りに事が運ばないことが多い。特に日本人男性は、例えばイタリア人男性のように女性を持ち上げたり、べたべたした愛情表現が苦手であるから顕著なハネムーン期というものがないことが多い。自分が否定されるのではないかという警戒感はあったとしても、特に爆発することは少ない。結果的に支配のための爆発であることは否定できないとしても、能動的に支配を目的として暴力や暴言を意図的に行うというよりは、どちらかといえば、反射的に自分を守ろうとして、突発的に相手をねじ伏せてその場を乗り切ろうとするという表現のほうがしっくりくるように感じられる。

2) なぜ妻は息苦しさを抱えながらも夫から逃れないのか

これはいろいろな理由がある。
一つ目は、自分が苦しいと感じていると自覚できないという事情があるからだ。
自分が苦しんでいるというように、自分を客観的に観察し、評価することは大変難しいことだ。ましてやその原因に思い至るということは難しい。自分は、とにかく夫の意志を実現しようとしているだけである。やらなくてはならないことができない、だから何とかやり抜こうと頑張ってしまっている。イライラはするだろうけれど苦しんでいるという自覚はない。過労死、いじめなどすべての慢性ストレスから抜け出せない原因として考えなければならない理論である。夫婦関係においてはこれがよりよくあてはまる。
二つ目は、夫の愛、愛と呼べないまでも、自分に対する執着を自覚しているからである。夫は自分から離れたくないから自分につらく当たるということは、当事者はよく理解してしまう。そもそも恋愛の一つの側面として、自分を受け入れてくれると感じたことが恋愛の始まりになったり、恋愛感情を高める一つの要素になったりする。ハネムーン期がなくても、それは当然感じるものであるらしい。愛されている環境から自ら離脱するということがなかなかできない。特に繁殖期の年齢では難しいようだ。愛されている実感が、離脱に対する抵抗になっているのだ。愛されている実感がなくなれば、ためらうことなく夫のもとから逃げ出す。だから、アメリカ型DVがある場合はなかなか逃げ出すことができず、爆発期はないものの、愛情を感じるエピソードが何もない日本型の場合は、子どもを連れて逃げ出すことが簡単に起きてしまうのだ。

3) なぜ、子どもの虐待を放置するのか

支配が完成された妻は、夫の意志が正しい、夫の意志を尊重することが家族がうまくいく方法だと無意識に感じてしまっている。それは自分の意志をなるべく捨てよう、自分の考えは劣っており、家族ダメにしてしまうという意識と同じことになる。夫の子どもに対する虐待を、虐待とは感じられなくなってしまっている。夫のやることは、子どもにとっても利益だと感じてしまっているのである。それでも夫のいないところで子どもを甘やかさずにはいられない自分は、だらしない母親だと思ってしまっている。自分で考え、判断することをやめるように自分を強制し、それに自分自身を慣らそうとしているのである。
夫に迎合するほど支配が完成している場合は、夫が子どもが悪いということを喜ぶと分かっていれば、積極的に子どもを悪くいうことも起きる。これが服従を超えた迎合である。そこに必ずしも恐怖感情は必要がない。
恐怖感情から服従する段階を超えた、もっと人格が荒廃する状態となっているのである。DVサイクル論の信奉者たちは、このような深刻な状態にあることを理解できないであろう。「支援者」たちの妻に対する「男に依存するみすぼらしい女性」という意識は、真実についての考察を停止させる。

7 ではどうすればよいのか。

1) 知識の提供(価値観の転換)

せっかく好きあって夫婦になった二人の関係が、ただ苦しいものになってしまう原因は、知識がないことが大きい。逆に言えば知識があれば、ちょっとの努力で簡単に解決する可能性もあるということだと考えている。
パートナーが自分のことを自分で決められないということは、人間としてとても苦しいのだということを知る必要がある。知れば、行動を改める人が多い。
自分が関係性について過敏になっているということを自覚することも大切である。自分の失敗をごまかすよりも、誠実に謝罪するほうが関係性の継続に役に立つのだということを知る必要がある。これは、妻のアシストがあるとより効果的であり、夫の自信にもつながる。
夫も妻も、それぞれ、相手に自信をつける言動をする工夫は必要であろう。相手の言動が自分を支えれば、相手にもそれをしようとするのが夫婦である。
例えば書店に行っても、この種の本のコーナーがない。どうすれば、幸せになれるのか、家族の作り方のノウハウを教える本がない。例えばテレビ番組でも、それを問題提起するようなものがない。
人は、それぞれ勝手に傷つくばかりである。広く、家族の在り方を議論するべきである。現代社会は、夫婦は孤立しており、自分たちの状態が歪んでいることに気づくことさえできない状態なのである。

2) 苦しさの気づき、孤立しないこと

自分で自分が苦しく感じているということを客観的に認識することは至難の業である。しかし、苦しんでいることを他人が観察することはそれほど難しいことではない。誰かに話をしている中で、自分の精神的状態に気が付くことが多い。これまでの時代では、夫婦は、いろいろな人間に囲まれて生活していた。どちらかの両親と同居していたり、仲人の家を定期的に訪問したり、職場の上司や同僚と家族ぐるみの付き合いが当たり、親戚付き合いがあったり、町内の交流があったりした。ところが、現代では、夫婦は孤立している。夫婦やその子どもの利益を考えておせっかいを焼く人たちが周囲に誰もいないのである。特に都市部の住宅事情は、大家族の同居を難しくしている。終身雇用を前提としていない職場の人間関係は職場外での人間としての付き合いを難しくする。面倒なことにかかわらないようにする。マンションは、エレベーターの中で一緒になっても、挨拶さえしないということも珍しくない。夫婦は孤立しているがために、お互いに依存しあう傾向が強くなってしまう。誰も異変に気が付かないことが多い。過度の従属、迎合があった場合、誰かに苦しいのではないかと尋ねられる環境を作る必要がある。これができなければ行政が関与するべきだが、現状では、行政は、夫婦を立て直すのではなく、分離させる傾向が強くある。
子どもの幸せを第1に考える人で、夫婦のあり方を夫婦に支持的に判断できる人間を近くに配置するべきである。

3) 家族を温かく見守る機関を創設すること

一つは、人間の付き合い方を変えていくことである。積極的に家族ぐるみの付き合いを工夫していくこと。できれば、同年代ではなく、年代の異なる人との交流を行うことが有効だと思う。疑似父母、疑似祖父母である。本来自分たちの両親、祖父母から学ぶことが自然であり、一番小さい子どもの幸せを願う人たちであるから、最も合理的で、適切なアドバイスをすることが期待できる。
二つは、そのような交流をしようにも、ノウハウもなく、その相手もなかなか見つからないということが現代日本の実情である。それを解決するために、家事紛争調整センターを創設することを以前にも提案した(家事調整センター企画書http://doihouritu.com/family.html)。以前は紛争が起きたあとの調整を主眼にしていた。しかしなるべく早く相談にゆき、解決を援助してもらう機関としなければならない。それにとどまらず、個別紛争の普遍的な部分を抽出し、一般的な予防の宣伝をするとともに、あるべき家族の形を研究し、宣伝することも、その任務とされるべきだと、今回の考察を踏まえて考えている。
賛同される多くの人で、日本の家族を支えていく理性的な行動の波が起こされなければならない。


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目黒事件 母親の裁判員裁判について性懲りもなく疑問を述べ、母性神話に反対する。 弁護士が有罪を前提とした弁護をすることができる理由を考えながら [刑事事件]

目黒事件 母親の裁判員裁判について性懲りもなく疑問を述べてみる 弁護士が有罪を前提とした弁護をすることができる理由を考えながら

有罪を前提とした刑事弁護をすることって
なかなか理解されないことで、
どういう理由で、その人を弁護するのか
という質問を何度かいただいたことがあります。

弁護士によって違うのは重々承知です。
「わたしは、」としか言い出せないのはそのためなのですが、
「わたしは、その人に共感する部分があるから
一緒に考えて、
その人のために弁解する」
と言うことが大雑把に言った感想です。

弁護士の中には、
「それが仕事だから弁護する」
という人がいることは当然なことだと思います。
むしろわたしのやり方は少数でしょう。
でも、私は、共感ができないと
つまりあなたの味方だと思えないと
納得のゆく弁護は難しいように感じています。
不器用なのでしょう。

そういうことを言うと
「どういう理由で、あんな悪いことをやった人に
 共感することができるのだ」
という疑問が当然出てくるとは思います。

一つの答えとしては、
全面的にやったことに賛成するわけではなく、
どうしてそういうことになったのかを理解しようとする
ということでしょうか。

より本格的な話をすれば
逆に
どうして自分が被害者でもないのに
そんなに他人に怒りを覚えることができるのか
と言うことにヒントがありそうです。

これは理由があって、
例えば子どもが食べさせられなかったとか
無理な勉強を押し付けられたとか、
虐待によって死んでしまったということについては、
私もそうですが、
かわいそうなことというのはとても分かりやすい。
理屈で考えなくても自然に湧き上がる感情です。

このブログのこの事件の最初の記事は、
そういうトーンです。
むしろ児相や警察に頼るよりも
実父に子育て参加をさせるべきだという主張をしています。
(2018年6月7日付)

そうなると、
被害者の子どもが自分たちの仲間になり、
助けたかった相手と言うことになります。
その反射的な脳の作用から、
加害者が敵になり、みんなで攻撃する相手
ということになってしまいます。

加害者である義父と実母は
攻撃の対象、憎しみの対象、怒りの対象になる
というのが人間の生理です。

刑事弁護で、クライアントである被疑者被告人と初めて会うとき
事件の概要だけを見て行きますから、
会うまでは、仲間ではありません。
どんなに悪い奴が扉の向こうから面会室に入ってくるのかと
そういう気持でいます。

しかし、扉の向こうから入ってきたその人の顔を見ると、
もちろん普通の人なのです。
100%憎しみの対象になるような
凶悪な顔をした人なんて世の中にいないのです。

みんなどこかで会ったことがあるような普通の顔をしています。
多くの被疑者被告人は、弁護士を仲間だと理解しているので、
唯一の仲間が会いに来た
という表情をされることが多いです。
そういうクライアントの感情の動きを理解できると、
100%敵だという無意識の思い込みが薄れ、
かえってカウンターを浴びるようなものですから、
どうして普通そうに見えるこの人が
こういう犯罪を実行してしまったのだろうと
考え始めてしまうのかもしれません。

要するに、その人の情報が増えれば増えるほど
その人を理解してしまい、もっと理解しよう
という気持になるようです。

そしてだんだんと調査をしていくうちに
やったことは悪いことだけど、
なるほど、そういう時間の流れの中で
そういう怒りの感情になったり、
そういう無気力、無抵抗の状態になったりして、
こういう引き金があれば
こういう行為に出てしまうのか
というような心の動きが「理解」ができるようになるわけです。

そうしてこういうことを何年もやっていると
犯罪をするかしないかに関しては
それ程人間の行動は大差がないなと
実感していってしまうわけです。

犯罪は防止しなければならないことなので、
秩序維持の観点からは
被告人に共感する国民が増えてしまうことは
あまり良いことではありません。
それはわかります。

しかし、あまりにも敵視してしまい
自分とは住む世界の違う人だ
ということで終わってしまったのでは、
再発防止が本当にできるのかという疑問が出てきます。

もしかしたら今裁かれているのは
自分だったかもしれない
あるいは未来の自分かもしれないと思いながら
みんなで再発防止を考えた方が、
犠牲者は少なくなると思います。

だから、私のような被告人のことをもっと知ろうとか
普通の人が犯罪に至った経緯を共有しようとか
そういう人がいてもよいのではないか
(本当は)いなくてはいけないのではないかと
思ってしまったりしています。

その観点から目黒事件について
不可思議な点として事件報道の1週間後に
記事を書いています。
【実証】目黒事件がわかりやすく教えてくれた、正義感と怒りがマスコミによって簡単に操作され、利用されている私たちの心の様相とその理由。支援者、研究者、そして法律家のために
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2018-06-13

今回の裁判員裁判のニュースを観て
その思いが強くなりました。
重複しないように簡単にまとめます。

基本的なトーンは
警察やマスコミが、
母親に対して、国民が
ことさら敵視するように誘導しているのではないか
という疑問です。

1 当初の報道時の写真の意図的な選別

被害者は、5歳ですが、死亡翌月には小学校に入学するのですから、
6歳の誕生日直前だったはずです。
ところが、去年の母親逮捕時の報道の被害児童の写真は
2,3歳の時のものでした。

それとどういうシチュエーションで書いたか疑問のある
「もうゆるして」という自筆の文字が公開されていますから、
人間の心理として、
あどけない写真の2,3歳の幼児が
あの文を書かされている姿をイメージしていたはずなのです。
それはそう仕向けられたというべきでしょう。

あの帽子をかぶって両手をあげたり
黒目勝ちで片手をあげて笑っている幼児が
机に向かわされて文字を書かされている
あるいは「もう許して」と必死に書いている
というイメージになれば、
母親を敵視することは自然な流れです。

今回の裁判員裁判の報道では
もう少し死亡時に近い5歳ころの写真も使われていました。

被害者死亡から3か月を経てからの報道ですから、
その5歳児の写真も警察は入手していたはずです。
ところが、
あえてその写真は使わず、あるいはマスコミに使用させず、
もっとあどけない時期の写真を使った、使わせた
ということになるのではないでしょうか。

2としては母親の写真です。

逮捕のころの化粧をしていない
眉毛もそられたままの無表情の素顔ばかりが
報道では使われています。
法廷スケッチでは髪も切っているのに
逮捕時の動画が繰り返されています。

これほど大きな事件ですから
普通の写真がないということはあり得ません。
この無表情の素顔は
無表情というところがポイントです。

国民は感情移入できないのです。
到底仲間だと理解できない。
即ち敵であり、怒りの対象としてふさわしいのです。

埼玉東京連続殺人事件の時と同じの
印象操作が今回も行われていたわけです。
似ても似つかない写真が当初公開されていました。

3 御用コメンテーターの怒りのコメント

母親側は裁判員裁判で、夫のDVが原因で
夫の虐待に抵抗できなかったという弁解の柱を立てています。

真実性についてはわかりませんが
成り立ちうる弁護です。

しかし、それについても
「母親なのだから命に代えても子どもを守れ」
というコメントがぶつけられました。

DVというけれど暴力はなかったじゃないか
という反論もあったようです。

一つは、原因がDVかどうかということは
実はそれ程重要なことではありません。

問題は、結果として
母親が夫から精神的な支配が完成されたというところにあります。
「目黒保護責任者遺棄致死罪事件で、母親の話が本当である可能性 服従を超えた迎合の心理」
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2019-09-06
で書いたばかりですから省略します。

もう一つの問題は、
母親を敵視する必要上から意図的にだと思うのですが、
なりふり構わず母性神話を掲げて
公の電波で母親を攻撃する論調です。
母親なんだから命を懸けて子どもを守れ
というもっともな、一見正当な議論です。

もし、母親が本当に夫に対して精神的支配に服従していたなら
こういう本能的な対応こそ不可能になるということなので
論理的にも間違っています。

これが精神的支配の完成された段階なのです。
オウム真理教でもそうですし、
戦中の日本ではありふれた光景でした。
人間の意思なんて、このような危ういものなのです。

ここでさらに疑問なのは、
日頃DVだ、男女参画だ、ジェンダーだという人たちが
このような露骨な母性神話に対して
何か反論しないのか、
いつもの卓越した発信力を使っていないのではないか
というところに疑問を感じるのです。

精神的支配に服従するのは男女は関係ないのですが、
批判の仕方が「母親ならば」命を懸けるはずだ
というところにあるのですから、
批判があって当然だと思うのですが違うのでしょうか。

わたしは、両親が頑張るべき場面であり、
母親だけが命を懸けなければならないということは、
心の中で思うのは自由ですが
テレビなどで言うはおかしいのではないかと思うのです。

4 遺棄行為の特定は

最後は、純粋に知らないから知りたいということなのですが、
本件は保護責任者遺棄致死罪という犯罪です。
「遺棄」という行為が無ければ犯罪は成立しません。
遺棄とは、するべきことをしなかったことです。
そしてこの「遺棄」があった(するべきことをしなかった)から
被害者は亡くなったという因果関係も必要です。

先ず、遺棄の内容は何か
虐待を続けたことなのか、
それなら遺棄ではなく傷害致死にならないのでしょうか
それとも死亡前日など病状が悪くなったのに病院に連れて行かなかったと言う点が遺棄なのでしょうか。

もうしそうだとすれば疑問も出てきます。
被害児童は、敗血症で亡くなっています。
感染に対して抵抗力が無くなったということになります。

一方で胸腺萎縮が甚だしかったと言われています。
胸腺萎縮が起これば免疫力が低下します。
そうだとすれば、胸腺萎縮が先行して起きて
細菌感染が広がってしまい、敗血症になって死亡した
という流れが想定できます。
もしこれが正しければ
果たして症状が悪化した段階で病院に行ったところで
命が伸びたのかということが検証されなければなりません。
なぜならそれが裁判だからです。

また、胸腺萎縮があったけれど
細菌が体内で有意な活動しなかった
栄養状態不良が重なり、あるいは風邪をひいて
細菌感染と拡大が急激に起こり
敗血症を発症して死亡したという流れも
可能性としてはあるはずなのです。

この点どうなったか、
おそらく整合するような形で裁判は進んでいると思いますが、
興味はあるところです。

胸腺萎縮もストレスによるものなのか
その他に原因があるのか解明は進んだのでしょうか。

5 何が心配なのか

結局、私は一つには弁護士病という
へそ曲がり疾患にかかっていて
ついつい少数者、特に多数から敵視されている少数者を観ると
つい、本当はどうなのだろうという
そういう発想が出てきてしまうというところがベースにあるのだろう
と書いていて自覚しました。

しかし、もう一つには
こうやって、母親を敵視して、
例外的な人類の敵がいたからこういうことが起きたのだ
ということで終わってしまうと、

第2第3の犠牲者の子どもが出てきてしまうということです。
実際出ています。
救える子どもの命を救う方法について議論せず、
思考停止になってしまい
救える子供の命が救えないということが一番の心配事です。

現在の議論を要約すれば
虐待死を防ぐためには
母親が命を懸けて子どもを守り、
そのような母性のない母親からは国や自治体が
容赦なく子どもを引き離すということなのではないでしょうか。

しかし、
児童相談所の職員を増やしても
同じ事をしていれば同じことですし、
対応には必ずデメリットがあるのですが、
そのデメリットをどのように軽減して
目的を果たすかという理性的な議論ができなくなります。

(だから、いい加減な、自分勝手な署名活動に
あまりよく考えもしないで賛同する人たちがいたわけです。)

こういう怒りの議論は
虐待死だけを防ごうとするだけで
虐待死につながる虐待を減らしていこうという発想にはなりません。

力技の結果の押し付けになることは目に見えています。
これでは虐待死自体も減らないでしょう。

だから、
私くらいは
母性神話に抵抗を示し、
明日は我が身と考え、
人間を敵視しない議論を呼びかけてもよいのではないかと
おそらく山のような批判が来ることを覚悟して
これを書いているところです。

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幸せでないと感じる大人は、幸せになるための行動をしていない人が多い 幸せになることは努力が必要だが、不幸せになることは簡単であることの理由 [家事]

幸せでないと感じる大人は、幸せになるための行動をしていない人が多い 幸せになることは努力が必要だが、不幸せになることは簡単であることの理由

弁護士としての職業がら
長年人間関係の紛争に多くかかわっています。

これまでもうすうす感じていて、確信に変わったことがあります。
例えば家族などの人間関係で紛争になり
不幸せになる人の多くに共通のパターンがあるということです。

現状では、人間関係が壊れて不幸せになることは
どうすることもできないことだ
という考えにもとづいた扱いが
裁判所を中心に支配的になっているように感じます。

でも、もし不幸せになるパターンがあるなら、
そのパターンをふまないことで
不幸せにならないで済む方法があるのかもしれない
そしてそれは案外意識さえすれば簡単なことではないかと思い、
ここでお話しする次第です。

不幸せになるパターンについて、結論だけ言うと
相手から幸せにしてもらうということだけを待っていて
相手が自分を幸せにしないことに怒っている人です。
自分から幸せになるための行動をしないで待っている人ですね。


これが子どもなら許されることでしょう。
親を幸せにしようと子どもが努力するということはないですから。
親なんてものは、放っておいても
自分の子どもをかわいいと思ってしまうので、
それだけで幸せになるものですから、
「生まれてきてくれただけでありがとう」でよいのです。

大人はそうはいきません。

現代の人間社会は
人が二人集まると利害対立が生まれてしまうので、
放っておくと紛争が始まってしまうようです。

これが人間の心が生まれた時代とされる、200万年前なら
生まれてから死ぬまでおんなじ人たちと生活していて
その人たち以外とは原則として出会いもしなかったのですから、
利益は全く対立せずに
平等に助け合っていけたようです。

200万年前は、
仲間の誰かが病気をしたりけがをしたりして動けないと
頭数が減ってしまうという、群れ全体の死活問題となるので、
弱い者と見たらみんなで守ったようです。
自分と群れの他人との区別もはっきりとはつかなったのではないでしょうか。

ところが現代は違います。

また、200万年前から現代の前までの多くの時代
人間は数十人の群れで生活していたことが普通であり、
今のような「若夫婦と子ども」という少人数の家族になったのは
ごくごく最近のことのようです。

今は夫婦がお互いの感情を、
お互いだけで落ち着かせなくてはならないのです。
これは大変なことです。
一方では相手に不満の感情を爆発させてケンカしたとしても
自分たちでその後始末をしなければならない
現代の孤立婚は、何かと無理が起こりやすい環境だと思います。


ひとたび夫婦の信頼関係が揺らぐと疑心暗鬼が生まれ、
自分は相手から大切にされていないのではないかと思いがちになり、
ふつうは気にならない些細なことが、
自分を嫌っている証拠のように思えてくるようです。
あれもこれもそう思えてきますから
だんだんと一緒にいることだけで苦痛となり、
家族を解消したいと思うようになっていくようです。


そうだとすると、では、
このような不幸せにならないようにするための行動、
幸せになる行動があるとすれば、何をすればよいのでしょうか。

答えは簡単で、
不幸せになる行動をしないこと
もっと言えば、逆をすればよいということになります。


相手に不満を抱かせないようにすること
怖がらせない、悲しませない、困惑させないということでしょうか。

そうはいっても、相手の気持ちが分からないことがあったり、
そういうつもりではないのにうっかり不満にさせることもあるので、
嫌なことを嫌だと自由に言ってもらえる環境を整えること、
それも必要になるでしょう。


ここで大切なことは、
「自分なら不満を抱くだろう行動をしない」のではなく、
「相手が不満を感じる行動をしない」ということです。
私はこれはされても気にしないから相手にもしてかまわないとか
相手がそれで不満に思うならば相手が悪い
とかいうのではだめだということですね。

例えば、
私は男で、男友達同士では
大きな声で、多少乱暴な言葉で話をするのが楽だ
だから、相手が女であっても、大きな声で話をしても
多少言葉が乱暴でも
それを不満に思わないでほしい
というような無茶を言わないということです。

多くの家事事件を見ていると
女性の多くは、大声や、乱暴な言葉は
本当に怖いようです。
やかましく反論していたとしても
それは怖くないことを意味しているのではなく、
こわいから必死になってやめてもらおうとしている
と言うことが、むしろ一般的だと言えるようです。

基準は「相手の気持ち」です。
自分の気持ちや道徳などの一般論ではありません。
一番身近にいて、いつも一緒にいる人の感情です。
実はそれほど難しいことではないはずです。
わからなければ聴けばよいですし。

またこれも完璧にやらなくてはならないということはなく、
例えば、つい大声で話をしてしまってから
ごめんごめんと謝ってから小さい声で言い直すだけでも
相手の心を尊重したことになるようです。


相手の不満に思うことをしないだけではなく、
それ以上に相手を
ねぎらうこと、気遣うことをする。
という方がやりやすいかもしれません。

体の具合が悪ければ分担を代わるとか、
何か努力をしたら尊敬を示すとか
自分のために何かをしてもらったら喜び感謝する。
相手の感情に沿うことをするということが
相手を人間として扱うということのようです。
せっかくあなたのために行動したのに
喜びも感謝もしないとへこむわけです。

毎日顔を合わせている時間中
相手のことを考え続けなくてはならないということではなく
そういうこともするということです。
プレゼントなんて言うのは一番わかりやすいのですが、
一緒に暮らしていたら、案外されてうれしいことが
もっと簡単にあるようです。

相手の感情を考えて
相手の喜ぶことをすることができる動物は人間くらいです。

相手がうれしいと喜んでいることが
自分もうれしいことだと思えるようになれば
それを考えることも楽しくなるでしょう。

そりゃあやるべきです。

夫婦しか大人がいない家庭が多いのですが、
大人が二人しかいないならば
相手が自分をどう考えているかと言うことが
心を左右する決定的な事情になっています。
逆に言えば相手が自分を尊重してくれているなら
幸せを感じることもできるわけです。

さてこのあたりまでお話をすると
自分から不幸になっていく人たちの反論が聞こえてきます。

「なんでそこまで卑屈にならなければならないのか。」
こういうお叱りは必ずうけます。

まるで相手を幸せにすることは損だと言わんばかりです。
自分は他人から幸せにしてもらう存在であり、
自分を幸せにしない相手にこちらだけ努力することは無駄なことだ
という発想を持ち続けているのであれば
事態を好転することは難しいかもしれません。

そのような価値観を持つことを否定することはしません。
どちらを選ぶかは個人の自由です。

さて、相手を幸せにすることで
どのような効果が上がるのでしょうか。

相手が疑心暗鬼になることが少なくなる
と言うことが一つの期待できる効果です。

疑心暗鬼になってしまうと
警戒感が過敏になってしまいます。
些細なことも、自分を攻撃しているのではないかという
意味づけをしてしまうことが起きてしまいます。

そうやって、自分が否定されていると感じることで、
自分を守ろうという気持になってきます。
ちょっとしたことで警戒して自分を守るために
必要以上の反撃をしてくることがあります。
何の気なしに口にしたことで
あげあしをとられたり、嫌みを言われたり
そういう経験はないでしょうか。
いちいち気が滅入る事情になりますね。

人は自分を守るとき
逃げるか、攻撃するかという二つの行動をします。
攻撃してくるときには
自分をあなたから守ろうとする動機が隠れています。

逆に自分が尊重されていると感じて
疑心暗鬼にならないですんでいるならば、
そういう無駄な攻撃はなくなります。

多少不満はあった場合であっても
あなたの善意は善意として受け止めるでしょう。

あなたが外食に誘ったときに
本当は洋食が食べたくても
和食でも心づかいの方に感謝できるようになるでしょう。

ところが疑心暗鬼になると
和食ならば行かないよなんてことになりかねません。
行こうとした店で、前に嫌なことがあったことが
思い出されてしまうことにもつながるかもしれません。

旅行に行こうとした場合でも
体力的に疲れるのに
あちらこちらで意見が対立するのはもっと疲れる
と言うことで拒否されて、面白くない気持ちになるわけですが、
疑心暗鬼にならなければ
とりあえず行ってみようか
という気持になる確率が高くなるでしょう。
楽しかった方の記憶を思い出しやすくなるものです。
期待をすると良いことを探そうとしてしまうものです。
相乗効果が期待できます。

こうなってくると
一緒にいても苦痛でないどころか楽しくなっていくと思います。

そうすることによって、
相手も疑心暗鬼にならず幸せになれば、
こちらに敵対的になるということは
起こりにくくなるものです。

また、こちらが気づかいすることによって
相手も同じような気づかいをすることが
ある程度は増えてゆきます。
自分が家に帰って
邪魔にされるどころか気遣われて、尊重される
一緒に楽しい時間を過ごすことができる。

例えばこれが一つの幸せの形だと思います。
一緒に住む相手を幸せにすることは
自分の幸せに直結することだと思います。

このプランがうまくいかないケースはいくつかあります。

一つは、自分がした努力よりも
相手がする努力の方が小さいという
形式的平等論です。

この考えは厄介です。

形式的平等をとるか幸せをとるか
どちらかを選ぶ必要があります。
どちらが余計に努力したかなんてことは
本当はわからないことです。

それを自分の方が損しているというのでは、
結局自分の方が少ない努力でリターンを多くしないと
不満が残る人だと厳しく評価されなければならないのです。

これは幸せになれません。
潔く、見返りを求めないで相手を幸せにすることが第一だ
と割り切る方が幸せになれるのです。

二つ目の幸せになるプランを阻害する事情は、

既に関係が悪化している場合です。

悪化しているときに
こちらから先に相手に奉仕するような形になるのは
いかにも悔しいし、
相手も疑心暗鬼に凝り固まっていれば
こちらの善意も疑ってしまいます。

でも、縁あって結婚したのであれば
結局は何とかなると思えるのです。
無駄だと思っても、
努力してダメだったというのであれば、
あきらめもつくというものです。

これが、相手が自分を幸せにすることを
待ち続けているだけならば、
恨みだけが積み重なってしまうようです。

自分は大人だから自分から相手に働きかける
そういうふうに思いを転換することは
とても画期的なことです。

そしてできるところから始める
飽きずに続ける
相手の厳しい反応は聞き流す。

こちらが相手より、より大人だから
相手の厳しい態度を許す、責めない、笑わない。

そうやって安心の記憶を刷り込んでいく。
こちらの努力次第ですが、
三日坊主では関係は変わらないと思うので、
1か月はがんばってみましょう。

そうすれば馴れてきますから
3か月は延長できるようになるでしょう。

なんでそういう気持悪いことをするのだと
尋ねられれば95%成功したようなものですから
この記事を見せてあげてください。

あとは一緒に幸せになりましょう。
夫婦がそれをすることは誰からも非難されることではありません。


幸せを阻害する事情はまだまだありそうです。

双方の体調の悪化ということがしばしば
疑心暗鬼の原因になることがあります。
できるだけ安心させる行動に出ることを
意識的に行う必要があります。

双方の職場が家庭を破壊するような職場である
と言うこともよくあります。
長時間労働で一緒にいる時間が少ないとか、
会社の飲み会が異常に長いとか
パワハラでもやもやした気分が家庭に持ち越されてしまうとか
収入を第一に考えるか、幸せを第一に考えるか
これは二人で考えなければなりません。
声に出して率直に話し合いをする必要があります。

なかなかの難敵は外野です。
実家とか友人たちですね。
外から見れば
なんでそんな卑屈なことをするのと
茶々を入れることになることは目に見えています。

これが現代社会の難しい所なのです。
心は200万年前からあまり変化していないと言われていますので、
同時に複数の群れからのリクエストを調整することは
なかなか難しいことです。
はっきり優先順位を決めるべきだと思います。
わたしは、家族を優先することが
幸せになるという究極目的に合致すると思っています。

親からすると
子どもが相手のご機嫌を取るようなことをするように見えて、
子どもに不自由な思いをさせているように感じるかもしれません。
友人たちはわざと飲み会に誘うかもしれません。

ご機嫌を取る相手が誰かで変わるのだということです。
仲間であれば
それは卑屈なことではなく人間の自然な行為なのだ
という確信を持ってください。

まああまり外野に教えない方がよいかもしれません。
でもうまく言ったら自慢してください。
君も幸せになれるんだよと教えてあげてください。



さて
今日は私も花でも買って帰ろうとしましょう。

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目黒保護責任者遺棄致死罪事件で、母親の話が本当である可能性 服従を超えた迎合の心理 [刑事事件]

 

目黒事件の裁判員裁判で、
母親の本人質問が行われています。

母親は興味深いことを言っています。

夫に逆らえないために子どもをかばうことができなかった
ということがその趣旨です。

一方で、
記憶が抜け落ちている
自分もたたいた(殴ったのではないらしい)
九九を書いた紙等を書いて張っていた
子どもの字を添削していた
子どもが悪いから児相に目を付けられるだろう
というラインを送った。
等、自発的に虐待に手を貸したとも思われる
話や証拠も出てきています。

特にラインの文言などは
これは怖くて抵抗できなかったというわけではない
決定的な証拠だ
という主張も見られます。

母親の話は本当なのか疑問に感じる方も
いらっしゃることだと思います。

事実関係は分からないので断定はできませんが、
これらは矛盾がないどころか
かなりリアルな話である可能性が強くあります。

結論として、
支配された人間の行動パターンとはこういうものです。

人は完全に支配されると
服従を通り越して迎合をするようになるのです。
つまり言われたことだけをやるのではなく、
支配者がこうしてほしいだろう、こういってほしいだろう
と言うことを先取りして率先して行うようになるのです。

夫だったら、こういう時こう言ってほしいと思う
こういう行動をとってほしいと思う
と言うことをしようと思うわけです。

もう少しリアルに言うと
こういうことをしないと自分が否定されるだろう
こういうことを言わないと叱責されるだろう
だから否定される前に、叱責される前に
率先してやらなければならない
という気持で行動するようになるのです。

自分の感情は失われていきます。
感情とは、自分を守り、仲間と協調するためのツールです。
ところが、自分の頭で考えないで
支配者の頭で考えようとするわけですから
感情など不要になるどころか
邪魔なものになってきてしまうからです。
だんだんと感情を持たないように
無意識に訓練をしているようなものです。

この母親も、娘をハグするように言われたけれど
ハグすることができなかったというエピソードがあるようです。

感情が無くなるほど支配され
相手に迎合するようになっていた可能性が
とても高いように感じます。

このような迎合の心理は、
この人の特殊なものでなく人間全般にみられるようです。
どういう心理なのか、どうしてそのような心理が生まれるかについては
既に述べているし、長くなるので繰り返しません。
興味とお時間がある方は
ブログ記事をお読みください。
「Stanley Milgramの服従実験(アイヒマン実験)を再評価する 人は群れの論理に対して迎合する行動傾向がある 」
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2019-01-05

問題は、本件では、そのように
支配者に権威があったのか、
夫に権威を感じる事情があったのか
ということでしょう。

可能性があるとすれば
母親の育った環境に原因がある可能性があります。

社会からか友達からか、誰からかはわかりませんが、
自分が否定され続けてきた場合です。
自分に自信がなく、誰からも尊重されない
と言うことを経験し、
うまくいかないことが多いし
特にほかの人は簡単にできることを
自分はできないで恥ずかしい思いをしてきた
というような場合、

そしてそれがために自分が孤立していると
感じ続けてきた場合、

自信をもって発言したり、行動したりする夫は
まぶしくて、頼りになる人間に思えてしまうでしょう。

自分ができないことができる人
それでも自分を否定しないで群れの仲間だと扱ってくれる人
そういう人の言うことは正しいと思うようになるようです。

しかし、人間は迎合と反発という矛盾した気持ちがあり、
そのバランスを取って生きていることが通常です。
あまりにも反発する事情があれば
群れから離脱しようとします。

本件でも母親は何度も離婚を口に出したようです。

しかし、反発を抑えて迎合を促す事情があったようです。
一つは精神科を受診したとき
自分が下剤を飲まなくてはならない状態だと
不安を訴えたにもかかわらず、
医師が何錠飲んでいるか尋ねて二錠だと答えて
「大したことないね」
と回答され、
「ああ、夫の言ったことは正しいのだ」
と考えるようになってしまったというのです。

また、娘に対する暴行容疑があったにもかかわらず
夫の言うとおりにしたら不起訴になった
というエピソードもあって
夫は正しいという気持が強くなっていったようです。

医師と司法が夫にお墨付きを与えた
という感覚になることはありうることでしょう。

反発は残りながらも
迎合の行動が優位になっていったようです。

そうなっていくと
自分は、この人から見離されてしまうと
天涯孤独な人間になり
なんとなく生きていけないようになるのではないかと
そういう不安が大きくなっていくようです。
どんどん迎合傾向が強くなります

「自分は間違っている」という自分に対する
自分自身による刷り込みによって、
反発の原因になる自然な感情は、
どんどん弱くなっていきます。

どんどん感情が無くなっていき
どんどん迎合をするようになっていきます。

そうすると、夫のやっていることはすべて正しい
という固定的な先入観が表れてしまいます。

正しいことばかりを見るようになり、
間違ったことがあっても
無意識に理屈をつけ正しいと思いこんだり、
見間違いだという無意識の情報排除を行い
見なかったことにしていくわけです。
「そんなことがあるはずない。
そう思うのは私が間違っている」
ということですね。

だから、自分が支配されているということに
気がつかなくなるわけです。

もちろん法や道徳に照らした善悪の判断もできなくなります。

全ては夫に叱られないためにどうするか
という価値観だけに支配されるのです。

色々な虐待も
子どもの利益のためにやっていると
思い込もうとしてしまうわけです。

国が人を裁くと言うときに、
洗脳を受けていたことをどう評価するかというのは、
なかなか難しい問題で理論的に導かれるというより、
国家政策の問題になると思っています。

もし自分で自分を制御できない事情がある場合は無罪だ
と言うことになってしまうと
多くの犯罪が無罪になるだろうと思うからです。

わたしには、報道された範囲でしか事情が分かりません。
何が事実として認定されるべきかについては
意見を言うわけにはいきません。

しかし、本件の母親に対する報道については、
大きな疑問がいくつもあります。
「【実証】目黒事件がわかりやすく教えてくれた、正義感と怒りがマスコミによって簡単に操作され、利用されている私たちの心の様相とその理由。支援者、研究者、そして法律家のために」
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2018-06-13

先入観にとらわれず
現在の科学の到達に従って
真実を真実と見つめたうえで
結論を出していただきたいと注目しています。

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ソフトパワハラについて考える : 例えば「わたし定時で帰ります」のユースケ・サンタマリアが演じた上司の息苦しさの原因 [労務管理・労働環境]


吉高由里子さん主演の「わたし定時で帰ります」という番組がありました。
なかなか現代社会の断面を切り取った意欲的な番組だったと思います。
シリーズの後半は比較的よく観ていました。

異彩を放っていたのは、
ユースケ・サンタマリアさんが演じた主人公の上司
福永清次だったと思います。

彼は、暴力は振るいませんし、威圧的な言動もありません。
「もっと、残業もしてみようよ」とか
部下に意思があることを前提として、
自発的に仕事に取り組むようにアドバイスする
というような語り方をしますし、
具体的な残業命令をするわけではありません。

しかし、彼が登場し、発言をしようとするものなら、
緊張感が走り、
発言が終わって部屋を出ても
何とも言えない息苦しさが残ったと思います。

俳優は見事に演じきったと言え
怪演と言うべき演技だったと思います。

暴力もない、威圧的言動もない
具体的な残業命令もない
それでも息苦しい嫌な気持ちになるのはなぜでしょう。

パワハラだという声もあれば
パワハラとは言えないという声もあります。
威圧的な雰囲気がないけれどパワハラと同じということであれば
「ソフトパワハラ」とでも言ってみましょう。

視聴者は、
言われた部下に共鳴して嫌な気持ちになっているので、
部下の気持ちを考えてみましょう。

結論から言えば、
暴力や威圧を使ってパワハラをしたときと
結果としては同じことをしているのだと思います。
やはりソフトパワハラをしているということですね。

ソフトパワハラによって
部下は「自分で自分のことを決めることができない」
上司が勝手に自分の行動を決めてしまっている。
部下にとって裁量の余地が極めて少ない
という感覚を抱いています。

彼は暴力や威圧を手段としては使いません。
その代わりに使っているのは、
(企業)常識、企業の普通、
仲間の不利益の回避や
チームワークを乱さないという正義等です。

部下たちは
暴力や威圧によって上司に逆らえなくなるのと同じように
仲間の不利益回避やチームワークという正義や
企業の常識というルールに異を唱えることができないために
上司の無理な指示命令に逆らえないだけなのです。

その命令に逆らうことは
仲間としてふさわしくない行動だと評価されるだろうと思い、
無意識にやがて仲間から外されるのではないかという
不安を感じてしまっているわけです。

さらには、
無理な仕事の受注をしてきて、
部下は「自分の判断で」残業をせざるを得なくなります。
自分のプライベートを
直接制限する言葉を発しているわけではありませんが、
「仕事が終わらなかった会社に迷惑をかける」
という意識を利用して
仕事をさせるわけです。

彼は、暴力や威圧的な言動をせずに
彼なりに言葉を工夫していたようでした。
どこかで、稚拙な労務管理を教わってきた
という設定なのでしょう。

これに対して
現在、一つの完成された労務管理の手法があります。
企業の労働者の一人一人が職場の働き方をデザインして
するべきことを見つけて行動する
そうして、自発的に労働することによって
生産性をあげるという手法です。

全労働者が経営者感覚なので
確かに生産性が向上します。
適当にやればいいやと言う労働者は
労働者によって排除されるということもあります。
なるほど生産性は上がるようです。

長時間労働になりがちにもなるのですが
一人一人の労働者の幸福度も高いように見えます。

「わたし定時で帰ります」の職場はそうではなかったわけです。

この職場はクリエイティブな仕事をしているのですが、
ソフトパワハラによって
実際は、やることが決められ
機械的な作業を強いられるような
仕事の配点をされていたということになります。

上司は労働者の意思に働きかけているように見えて
実は意思を無視して、結果として強制していたわけです。
さらにはプライベートの時間まで
勝手に仕事に使われていたということになります。
そこに労働者の自発的意思はありませんでした。

自分の自由が奪われるという感覚が
生物としての本能であるところの
「自分で自分の身を守る」
と言うことがいざとなってもできないという予測が自動的に生じ
息苦しい気持ちを抱かせるのです。

結局目隠しをされたり耳をふさがれたり、
手や足を拘束されることと
結果として同じような感覚になってしまうようです。

受講料は高額だけれど
安っぽい労務管理セミナーにありがちな
心はこもらなくてもこういう言葉を先に言うとか
こういう言葉を言ってはいけないとか
定型的なアドバイスを受けて
それを実践していたような感じをうまく演技していました。

肝心なことはすっぽり抜けてしまっていたわけです。

つまり、自分がこういう言動をした場合
相手がどのように思うだろうかという
想像力に欠如しているということですし、
連続した残業によって
部下の家族関係などのプライベートが圧迫され
その結果どうなるということを
結果として無視しているということです。
思い至らなくても、
部下は現実に生きて生活している人間なのです。

ちょっとした気遣いで
職場の雰囲気はだいぶ変わって
生産性にも差が生じてきてしまいます。

もう一つ
ソフトパワハラの典型例として
部下の欠点や失敗ばかりが見えてしまい
それを指摘せずにはいられないという行動パターンがあります。

例えば取引相手とのプレゼンに成功しても
一応「よくやった」という言葉を発するのですが、
それはおざなりに済まし、
どこが良かったかと言うことを指摘せずに
「この次ここに気を付ければもっと良くなるよ」
と言うことばかりを指摘する上司です。

(中には、ここでこのような言い間違いをしましたと
取引先に謝って来いという上司までいます。)

その指摘が本当に部下の成長につながることもあります。

しかしソフトパワハラの場合は、
「言わなくても良いこと」をわざわざ指摘することが特徴です。
些細な言い間違い等のケアレスミスの指摘が典型例です。
プレゼンを成功させるという大前提を無視して
些細なミスもなく完璧に行うという
独立した目標を立ててしまうわけです。

間違わないようにやるということはツールであって
目標ではないわけです。
間違わないようにするに越したことはないけれど
相手に伝えることに神経を集中させるべき時に
些細なところに神経を回してしまい、
熱意がそがれてしまうというデメリットもあります。

なによりも、
自分で自分のことを決められないという意識も出てきます。
また、部下が、何が必要でそのためにどう行動するか
自分で考えて、意欲的に取り組み
それによって結果を出したのに
「よくやった」という言葉は形式的に発するものの
評価の大部分がダメだしということであれば、
カウンター攻撃を受けるようなものです。
喜びは失われて、落胆ばかりが残ってしまいます。

それでも、
どうしても相手のマイナスポイントだけが目につき、
それを口にしてしまう人間はいるようです。
けっこう多くの人がこの間違いをしているので、
それはあらかじめ警戒をしておく必要がありそうです。

「どうでも良いことをどうでもよいと評価の対象から外す」
ということをいつも意識しておく必要があるようです。
実害がない欠点や
利点の方が大きい欠点には目をつぶる
という選択肢を上司は用意しておく必要があるようです。

コーチングはメリットばかりではありません。
副作用が必ずあるという意識が必要なのかもしれません。

ソフトパワハラになってしまうと
結局部下のやる気がなくなり
生産性が低下していくことになるわけです。

ソフトパワハラとパワハラは
結局同じように企業と労働者の敵だということで
お互い気を付ける必要がありそうです。

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子どもを別居親に会わせるのは、法律ではない。最強のツールの別居親の同居親への「配慮」とは何か。面会交流困難事案対策の実務上のまとめ。 [家事]


面会交流調停*は、だいぶ改善されたという印象があるのですが、
困難案件というのも一定数あるのも確かです。
別居親の代理人の立場からすると、
同居親の頑固な言いがかりや
裁判所が毅然とした態度をとらないことに
イライラするものです。

*面会交流調停:離婚や離婚前の別居によって、子どもが一方の親と別居していて会うことができない場合等に、主として別居親が子どもとの面会交流を求めて家庭裁判所に申し立てる調停

しかし、こういう困難案件こそ
子どもの健全な成長のために
面会交流をする必要性が高いので、
面会交流をあきらめるわけにはいかないのです。

会えない別居親の方が私より
もっとイライラすることは当然です。
別居親の方々は、色々学習している方が多く、
法律や条約はどうなっているとか
片親疎外によって子どもの健全な成長が阻害される
そんなことを主張しようとするのです。

私に対して「法律は・・・」
等と言ってくるのも気持ちは理解できます。

しかし、今の家庭裁判所の運用を見ていると、
法律は、残念ながら、
子どもを別居親に会わせる決め手にはなりません。
法律で強硬に面会交流が実現するということは
シミュレーションしてみることも難しい状況です。

子どもが別居親に会わないことによる弊害を述べても
同居親の心に届くことはあまりありません。
反発だけは確実におきます。
このような主張や面会交流調停申し立て自体が
同居親に対する嫌がらせだという入れ知恵をする人もいるようです。

裁判官でさえ、家裁月報の調査官の論文に対して、
「私はその考えをとらない」
等と平気で言い放つ人もいる始末です。
自分の衝動的行動を抑える訓練が必要だと
切実に感じる瞬間です。

ただ、裁判官が命じることによって面会が実現する場合もあります。
同居親の意思を無視して面会交流が実施される場合があるわけです。

こういった場合の少なくない事例で、
子どもたちは面会交流をすることによって傷ついてしまいます。

例えば同居親の反発の激しい中で試験的な面会が行われた場合、
子どもは別居親に会えて、一緒に時間を過ごすことができて
夢みたいに幸せな瞬間なのです。
私から見れば、会えなかった期間が嘘のように打ち解けて、
夢中になって遊び、
別れ間際は、何とも言えない切ない行動をとるわけです。

ところが同居親の後日の報告では、
面会をした後、子どもは情緒不安定になり
場合によっては吐き気や発熱が起きた
子どもは「もう会いたくない」、「しばらく会わなくてもよい」と言っている。
等とご報告されるわけです。

これはあながち嘘を言っているわけではなく、
本当のことである可能性が高いのです。

原因は何か
子どもの同居親への忖度(そんたく)なのです。

同居親が別居親への葛藤が高い等の事情で面会に納得してない場合
子どもに聞こえるように別居親に対する否定的な言動を吐かなくても
面会日が近づくにつれて、
同居親が嫌悪や怒り、恐怖の感情あるいは焦りを
隠せない状態になってしまうと、
子どもは、現在自分を保護している同居親に気を使うのです。
別居親をこれ以上動揺させたくないと思ってしまいます。

別居親と一緒に時間を過ごして
楽しかった
うれしかった
また会いたい
一緒にいたい
ということを
同居親に「言ってはいけない」と察してしまうのです。

私は面会交流時に、久しぶりに別居親が現れたときに
嬉しい驚きと、その感情を押し殺そうとする
なんとも複雑な表情をする子どもたちをたくさん見ています。

別居親に会えてうれしいのに、
同居親のことを気遣って、
うれしい気持ちを表すことをしてはいけない
と無意識の反応をしてしまっているのです。

子どもたちは自分の感情を押し殺すことを覚えていくでしょう。
楽しんでしまったことに罪悪感を感じてしまうでしょう。
あるいは、楽しいのに楽しいと言えない自分を責めてしまうでしょう。
子どもたちにとって面会が負担になる瞬間です。

せめて、同居親が子どもの前だけでも、
別居親と会うことは「子どもだから当たり前だ」
せめて「仕方がないから何とも思わない」
「うれしくないけれど、嫌でもない」
という態度をしてくれれば、
子どもの自分から離れた世界を承認してくれたら
子どもたちはこんな苦労をしないで済むのです。

だから、
同居親の意思に反して強行に面会を勝ち取ることは
子どもの健全な成長の観点からみれば
もしかしたら逆効果になることもあるかもしれません。

しかしあきらめるわけにはいきません。

子どもたちを
別居親に会わせないわけにはいかないのです。
子どもは会わないと色々なことを感じ、考えてしまい、
特に自我が確立する思春期の時期になってから
悪い影響が噴出します。
両親が別居してしまった後で、子どもが同居親をかばい壊れていく現象とその理由
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2015-06-10

しかし、面会交流が正常に行われることによって
このマイナスの影響がだいぶ軽減されると言われています。

なんとしても面会交流を実現する必要があるわけですが、
法律で、裁判所任せではうまくゆかない。
そうすると
法律でこうなっているとか
こういうことが正しいということだけ言っているのではなく、
作戦を考えるべきです。

面会交流実現の最大のハードルは
同居親の感情だということになります。

私は、このような面会交流困難案件での
同居親の別居親の拒否感情の多くが、
同居時に、同居親が
「自分のことを自分で決めることができない」
という不安ないし焦燥状態にあることが
別居親への拒否感につながっているように思います。
特に母親が同居親になっている場合です。

このような心理状態は、
例えば妻が、何かをした場合、
食器を買ったり、子どもの塾の申し込みをしたり、
そういう場合に、夫が
それはダメだと常にダメ出しをして
眉間にしわを寄せられたり、大声を出して否定されたりして
どうしてよいかわからなくなり、
逆にあれをやれこれをやれという指図ばかりをして、
自分で自分のことを決めることができず、
自分のやったことや考えは否定され、
自分がしようと思わなかったことは召使のように強要されている
と感じ続けた末の感情ということだと感じています。
「指図とダメ出し」の結果の心理で、
一緒にいることが息苦しくなり、
息することさえも注意されるのではないかという
極端な心理状態になっているということです。

もちろん、そういう心理状態になる原因は様々です。
本当に夫に支配欲がある場合や会社の八つ当たりの場合もありますが、
夫の暴力や暴言がない場合も多く、
少なくても通常の夫の行動である範囲と言える場合が
ほとんどだと感じています。

夫側の原因というよりも
妻の方の少し病的な思い込みによる自滅の場合もあるし、
そんな状態で第三者の無責任なアドバイスによって、
あなたの不安や焦燥感という心理状態は
夫のモラハラが原因だと思い込まされる場合もあるわけです。

ただ現在子どもを別居親に会わせようと思っているときの問題は
原因がどこにあるかを突き止めることではなく、
そういう心理状態になっているという結果なのです。

別居親側が自分に原因がないから
同居親は子どもに会わせるべきだというのは
それはそうなのですが、
それは理屈であって
同居親のハードルを下げることはできません。

これが心の問題ではなく体の問題で、
足を怪我して歩行が困難になった原因が
ふざけて踊っていて足をくじいたのか
子どもをかばって助けようとして足をくじいたかにかかわりなく、
歩けないのだから家族が変わって家事などをしなければいけないわけです。

自業自得だから痛くても我慢して歩け
ということにはならないはずです。
心の問題も同じでしょう。

同居親の心理的状態が、少し病的なことが原因だとしても、
同居親のハードルを下げて子どもを別居親に会わせるためには、
別居親が同居親をフォローするしかないことは、
身体の問題も心の問題も一緒だとは考えられないでしょうか。

離婚を突きつけられても、あるいは離婚をしても
さらにはどちらかが再婚しても、
子どもがいる以上は、家族なのだと思います。
家族一人の状態が悪い時は
別の家族がカバーしなければならないのでしょう。

相手が自業自得だからと言って
子どもの面倒をだれも見ないという理屈にはならないはずです。

もし少し病的に相手が自分を毛嫌いしていたならば
こちらが相手をフォローして子どもの健全な成長を
守らなければならないはずだと思います。

ところが、
これを調停や裁判で、
法律がこうなっているから子どもを会わせなければならない
とか、
子どもへの悪影響があるから会わせなければならない
会わせないことは子どもの虐待だ
と「相手に向かって」正論で主張することは、
同居親からすれば
結局別居親からの指図とダメ出しとしか受け取らず、
役所や警察の言うとおり、
私は別居親からモラルハラスメントを受けていた
相手は自分に、あれをやれこれをやれ
これはだめだというその繰り返しをしている
としか思われないわけです。
相変わらず、同居した時と同じだ
やっぱり嫌だということになるわけです。

子どもを別居親に会わせることに近づかないどころか、
益々子どもを別居親から遠ざける結果になってしまっている
という耐えられない皮肉な状況に陥ってしまっていることになります。

それでも子どもを別居親に会わせることを
あきらめるわけにはいかないのです。

ところがそこには大きな壁があります。

別居親が同居親に対してフォローすることの一番難しい問題は、
別居親の感情です。

それはそうでしょう。当たり前だと思います。
わけのわからないうちに突然家からいなくなり
少なくない事例でどこに子どもたちがいるのかさえも分からないし、
近づこうとすれば警察が出動するわけです。

中には、家の現金や預金をごっそり持ち出して、
夫名義のクレジットカードで200万円を超えるキャッシングを
された事例までありました。
それでも婚姻費用の調停まで起こされるわけです。

さらには、弁護士から
あたかも自分が妻に対してDVをした粗暴な夫みたいに扱われたり、
いわれのない保護命令を出されたり、
調停に行くと、イヤホンとカムを付けた目つきの悪い職員が
自分が廊下に出るとうろうろしている
役所に行って子どもたちの住所の記載されている書類と取ろうとすると
「あなたに話すことは何もない」
なんて態度をとられてしまう。
まるでなんかの容疑者の扱いです。
こういうことが実際に多発しているのです。

まともな神経では耐えられない状況ですし
実際に抑うつ状態になり通院を始める人もいます。
自死も少なくありません。

そういう人たちに対して
そういうことをした同居親をフォローする必要があると
今私は書いているのです。
子どもを連れて逃げ去ることで
別居親を夫(妻)として、父親(母親)として、男(女)として、人間として
否定しているその相手を、
子どものためとはいえフォローすることが有効だと言おうとしているのです。
先ほどの身体的不具合と精神的不具合の最大の違いは、
相手がこちらを攻撃しているということがあるわけです。

但し、大切なことは自分の命です。
精神面からも命を落とすことがあるので、
今から言うことをしなくてはならない
という価値観を持っていうわけにはいきません。

もし、自分を捨てて
子どもを別居親に会わせて
子どもが最悪の状態にならないことを選ぶ
という場合に限定した話とさせてください。

腹が決まればやることは割と簡単です。
原因が、同居親が別居親からの指図とダメ出しばかりされて
自分で自分のことを決めて行動できない
と感じていることだとすれば
その逆をすることです。

先ず、指図とダメ出しだと受け取られることはしない
但し、
子どもと会うことはあきらめない
虚偽の事実は認めない
ということだけは毅然と主張しなければだめです。

誤った事実認定がなされてしまうと、
それが判決書として残ってしまうと
後々取り返しのつかないことになるからです。

同様に保護命令も法律の要件がない場合は
断固として命令を出させてはいけません。

さて
指図とダメ出しをしないと言っても、
別居してしまっている以上、
指図とダメ出しをする余地がないわけです。
ところがわずかの接点である裁判書類で
指図とダメ出しをしていた。

まず、無駄な非難はしないということ。
事実の違いだけを述べること

非難しないと言ってもそれはなかなか伝わらない。
指図とダメ出しをしないと言っても伝わらない。

つまり、逆のことを相手に伝えるということが
やるべきことになるということです。

つまり、
相手の行動を承認するということになります。
非難しないで承認するということです。

一番相手が不安に感じている自分のしたことは
子どもを連れての別居です。
別居に対して非難しないこと。
一次的な別居はやむを得ないという承認です
これを形にすることは婚姻費用を自主的に支払うこと、
家族なのだから費用を負担するという強烈なメッセージを与えるためには、
自主的に支払うことです。
私が受任後、最初にすることは
相手方に送金先の口座を尋ねることです。

(自主的に送金をした方が別居親にとっても結果的に良いことがたくさんあります。)

あるいは、荷物を送ったり、引き取りに来ることを承認することです。

その後、準備書面や陳述書を作成するときに、
相手の落ち度や、相手の主張が虚偽だということだけを言うのではなく、
積極的に相手を承認していたことを付け加えることが考えられます。

つまり指図とダメ出しの反対は、
感謝と謝罪です。
それまで言わなかった言葉を改めて言うということですね。
ここで嘘をついてはダメですよ。
良いところとこちらが改めるべきだったところを
必死になって探し出して述べるという作業になるでしょう。

同居親は別居親が「一方的に悪い」とは、
本当は思っていないことが多いようで、
謝罪と言っても自分の非をあげつらって謝り倒すのも
重くなるので逆効果のようです。

あの時こうしてしまったけれど
本当はこうすればお互い気持よく生活できたね
というトーンが良いようです。

現在、本当は自業自得かもしれませんが
子どもを育てているのですから、
子どもの親として感謝の言葉を述べることも
有効です。
飽きずにねぎらうこと
そして続けることが大切です。

これまで、私が知っているなかで一番同居親をののしった別居親は
プレゼント攻勢まで行いました
自分の本心を隠して相手を安心させたわけです。
別居は続きましたが、
調停を中止させ、子どもたちも帰ってきました。

とても利口な闘いだったと思います。
但し、こういう器用なことはなかなかできません。

もし面会交流や手紙のやり取りが許されているのであれば
それもチャンスです。チャンスは活かしましょう。
指図とダメ出しをしない
子どもたちを通じて感謝をする。
これは子どもたちにとっても居心地の良い空間を作る
特別な効果があります。

一方の親やそのジジババが他方の親の悪口を言う空間と
他方の親を配慮し気遣う空間
どちらが居心地がよいか考えればわかることです。
子どもが安らいだ時間を過ごせば、
誰に忖度することなく、自分の感情のままで行動できる体験をすれば、
その自由さ、自分の心に嘘をつかいことの楽しさは、
どんなに隠しても同居親は気が付くもののようです。
会わせることも「仕方がないな」と思う瞬間だそうです。

そうして、当事者同士は葛藤を下げようと行動します。

裁判所に対しては法律と子どもの効果を主張するわけですが、
今の裁判体や調停委員会の状態が一般論が足りない裁判所ならば
そこを追求する必要があります。
但し、局面では、どうにかして子どもに別居親を会わせようと
裁判官も相手を説得している場面では、
こちらの配慮を示すべきです。

そういう局面で一般論を叫んでいても
味方を敵に回すだけです。

相手の心のハードルを下げる努力を見せて、
何とかお願いするということを伝えてもらう
極論するとそういうことになります。
(初めからそれではだめだと思います。そういう調停の局面を作っておくことは必要で、そのためには、多少の裁判所との軋轢は覚悟する必要があると思います。しかし、敵に回さないようにしなければならないのはもちろんです。)

面会の条件を受け入れやすいものにする、
面会時のこちらの注意事項について、自主的に宣言する
相手が会わせやすいような場所や協力者を用意する
こういう労力の積み重ねがボディーブローのように
後々効いてくるようです。
(面会交流は、小さく産んで大きく育てる。そのためには実施後のねぎらいの継続が有効です。)

さあ、それができるかどうかです。
極端に理不尽な思いをしている別居親が
それでは相手の言いなりだと反発されることは
至極もっともなのです。

これをやれというわけにはいかないでしょう。
自分の気持ち、感情を大切にすることも悪いことではないでしょう。

ただ、大変なご苦労をして
自分の気持ちを殺してでも、
子どもをご自分に会わせたいという場合の
その方法について現時点のまとめを試みてみました。

せっかくの思いと覚悟がありながら、
無意識に逆方向の行動を起こしている方々のための
お叱り覚悟のメッセージです。

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