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他人を応援しようとして犯罪に巻き込まれる人 そのメカニズム 何に注意すればよいか [刑事事件]



支援者の「支援」の在り方については、これまでもお話ししています。
基本的原理は同じなのですが、一般の方々や専門家と呼ばれる人の中にも
他人の紛争に入り込んで、
自分も犯罪に手を染めてしまう方々がいらっしゃるので、
注意喚起しようと思いました。

一人でも犯罪者となる人が少なくなるための記事です。

例えば同族会社でもめていて
父親が社長で、息子が取締役だったのですが、
息子は代表社印なども使って契約をしていたようです。
ところが、息子が不始末をしでかしてしまったので、
会社を辞めさせられて、別会社に行くことになってしまいました。

ンで取引先の奥さんと息子は趣味のサークルが一緒で
あれやこれや父親が自分を一人前と認めてくれない
等と愚痴をしょっちゅう言っていて、
奥さんは、仲間の一人として
「それはひどいですね。」等と普通に相づちをうっていたようです。

そして、決定的に解雇されたということを愚痴ったところ、
奥さんは相変わらず、「そこまですることないと思います。」
とか言い出したものだから、
息子は
奥さんのところの取引の契約書をつくっていないので、
本当は商品を50個の代金を一括して支払うのだけれど、
今回1個分ずつの50回払いにしたことにする
というのです。
まだ自分は会社には出入りできるからハンコも自由に使えるし、
最初の契約書が無いのでばれることはありません。
また、振込先も自分が通帳と印鑑を持っている
××信用金庫に振り込んでください。
と告げたところ、

奥さんは、「ぜひ協力させてください」
とその話を受けてしまったようです。
しかし、会社からは既に、50個を一括で支払う様式の
請求書が届けられており、
振込先も○○銀行にと指定されていました。

息子は、既に契約書を作成する権限がありませんので、
有印私文書偽造罪が成立します。

問題は奥さんです。
その偽造した契約書を会社に提示して
支払拒んだら
偽造有印私文書行使罪と詐欺罪が成立する可能性が高いのです。
10年以下の懲役が法定刑になる重い罪です。

また、これはどうなるかはっきりはわかりませんが
すべての事情を知って、請求書と異なる口座に振り込んだら
有効な弁済とはならないで二重に払う危険も出てきます。

本当はこの奥さん、人情味があって、
困った人を放っておけないという
人間的に素晴らしい人なんだと思います。

それでも、やっていることは犯罪なので
刑事処分を受けることになる恐れが高いのです。

そして、息子の不始末というのは
息子がひいきにしている水商売の女の人にせがまれたものを買うために
会社の会計をごまかしたことだったようなのです。
父親は、従業員に示しがつかないために息子を解雇し、
修行のために別会社に修行にやるということだったらしいのです。
息子は、水商売の女の人に
自分が社長だから金を自由に動かせるというようなことを言っていて
女の人の要求に断れなくなっていたようでした。

奥さんは、それにもかかわらず
息子の不良行為に加担してしまったのです。
罪がない父親を追い詰めてしまったということになります。

一番大事な基本は、
他人が紛争を起こしているときに
一方に加担することは
他方を攻撃することになる
ということを忘れないことです。

だから相づちをうったり、慰めているだけなら
まだ罪が軽いのですが、
紛争に参加する形で
相手に不利益を与えることになることには
注意が必要だということになります。

「この人が悪いことをするはずがない
悪いのは父親だ。」
ということに疑いを持つことができないのも人間です。

先ず、息子の方はサークルで長い付き合いですから
どうしても見方をしたくなるものです(単純接触効果)
そして、息子から父親の悪口を聞かされていますので
初めから父親は頑固で融通が利かなく
若い芽をつぶす老害だと思い込んでしまっているのです(プライマリー効果)
息子が会社の切り盛りをしている次世代のエースだと思えば
息子が言うことはさらに信用してしまうでしょう(プライマリー効果)

この結果、間違いを信じてしまったわけです。

そして人間は、自分の仲間だと感じた相手を
自分を犠牲にしても助けたいと思う時があります。
典型的には親の子に対する愛情ですが、
義憤に駆られて手をさしのべるということは
通常は美談です。

しかし、だまされて、やりすぎをしていると
犯罪になってしまうわけです。
罪もない他人に損害を与えていることと
社会秩序を乱す方法だったからです。
仲間を助けたいという人間の本能が
冷静な判断を奪ってしまい、
被害者である仲間を無条件に信じて
犯罪さえもやってしまう流れができてしまうのです。

この父親も関係者一同も
当初の約束通りお支払いいただければ
事を荒立てようと思っていません。
悪いのは息子ですから。
ただ父親だけが困るならまだよかったのです。
会社が不当な扱いをされてしまうと
公私のけじめをつけなければならなくなります。

奥さんはどうすればよかったのでしょう。
答えはそれほど難しくありません。
父親に事情を聴きに行けばよかったのです。
これはそれほど難しいことではありません。

義憤に駆られれば通常行うべきことはそれなのです。

他人の紛争に、一方の味方としてかかわることは
他方からすればただの攻撃者になってしまう
これは、弁護士だけでなく誰かを支援しようとする人は
頭に入れておく必要があるのだろうなと考える次第です。

それにしてもこの息子
多くの人を巻き込んでいます。
専門家と呼ばれる人たちも違法な行為をさせられています。
専門家としてきっちりと謝罪をするなりすればよいのですが、
みんなごまかそうとしているのです。
定められた定型的なサンクションが課せられることになることでしょう。

この息子、こうやって人を動かす才にたけているわけですから
もったいないなあと思っています。

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虐待加害者からの相談や依頼を受ける弁護士として、虐待問題は特別な問題でないことが多いと思っていること [家事]



私の事務所には、「自分が虐待している」と他人から言われているという人からの相談がきます。警察に通報するとか児相に通報して子どもを保護してもらうとか言われるそうです。どうやらそういう世の中になってきているようです。「虐待」という言葉が使われてしまうと、あとは権力や行政に通報するという対応方法しか世の中出てこないようです。そしてその後は、親から子どもを引き離すか引き離さないかという選択肢しかでてこないようなのです。

どうして、その親御さんにアドバイスをする人がいないのでしょうかね。理由は3点思いつきます。
一つは、官が主導する児童虐待対策の方法が、児相や警察通報という手段しか提示しておらず、後はその専門家に委ねるべきだという政策になっているというところに理由があるでしょう。
もう一つは、例えば幼稚園などで児童虐待が話題になる場合、児童虐待だと感じる大人と児童虐待をしていると評価される大人が、人間的なつながりが無いために、アドバイスだったり、注意だったり、普通の人間関係ならば行われるはずのことができないという対人関係的な問題が理由となっていると私は思います。虐待をするような人は、初めから自分とは別種の人間だと思いたいのだと思います。
さらにもう一つ、「虐待」という言葉に過剰に反応してしまうことも理由だと思います。「虐待」という言葉が出てしまうと、それを行なっている人は悪虐非道の、罪もない幼児を傷つけて平気でいる鬼のような人物であって、うっかり何か関わってしまうと自分が攻撃されてしまうというような意識を持ってしまうわけです。だから、できるだけ自分は直接関わらないで専門の人に任せようという意識が出るのではないでしょうか。

私は、虐待と言われているような事象は、それほど特別な出来事ではないことが多いと感じています。虐待といわれる行為をしてしまうことは、子育てをしているときには多かれ少なかれあることだと思うのです。私自身や身近にもあるにはあったと思います。
例えば、キツくしかり過ぎてしまう人がいます。
多くは、その親御さんも何か必要なしつけをしようとしているのです。しかし、子どもがなかなか理解しない。子どもに叱らないで理解させる技術が親にはない。その結果、勢いきつく何度も繰り返し結論を押し付けてしまう。それでも子どもの反応が今一つはっきりしない。するとなんとか教え込もうとさらに厳しくなってしまう。このあたりまで来ると周りから見るとそれは紛れもなく虐待が行われていると感じる行為になってしまっている。「あんなちっちゃな子どもに、鬼のような形相で親が怒鳴っている。」「手も出そうな勢いだ。」「子どもはすでに泣きじゃくっているじゃないか。」そんなことが何度か続いていれば虐待親だと認定されてしまうわけです。その上、子どもが転んで顔を怪我でもしていたら、夫婦で虐待しているという疑いを簡単に持ってしまうようです。

子育てが終わることになると誰しも気がつくのですが、そんなに一つ一つのことを完璧にしつけようとすることにあまり意味が無いようなのですよ。どうしてもそれができなくても、あまり子どもの人生に変わりはないのですね。例えば靴の紐が結べなくても、友達と一緒にやっているうちに覚えたり、どうしても覚えられない場合は紐のない靴を履かせれば良いわけです。忘れ物をしたとしても、幼稚園時代の忘れ物なんて、後は先生がなんとかしてくれる事がほとんどです。失敗したらまず謝る。親が笑われるかもしれませんが、笑われたら一緒に照れて笑えば良いのです。そういう関係はとても楽ですよ。失敗しないことよりも、失敗の後のリカバリーの方がよほど人生にとって有意義です。

それに言葉で教えるのではなく、子どもに何かを慣れさせていくうちに少しずつできるようにすることが上策でしょう。一番は親のやっていることを真似させていくことが人間教育の本質だと思うのですね。おそらく、他人から見たら虐待だと見られるようなしつけって、親ができないことを子どもにはやらせようとしているときに起きるのではないでしょうか。初めから無理があるわけです。もちろん、自分ができなかったことを子どもにやらせようとか、自分が苦労した道を子どもに歩ませたくないということはよくわかります。自分にも覚えがありますからね。

だから、虐待に見える行動を取る親御さんが、悪逆非道の人格破綻者だという見方は、リアルな見方ではないように思います。むしろ普通の人で、多くは責任感が強く、子どもでも努力をするべきだという真面目過ぎる人ですよね。だから、少し年配の親御さんがお話をしたりをしたり、子どもを預かる側にも年配の、つまり子育てを一通り経験した人を用意して、そういう人からアドバイスするという方法が一番有効なはずなんですよね。「あなた、そういうことをすると虐待だと思われるよ。」、「あなた、それではお子さんかわいそうだよ。」とはっきり言ってあげられれば良いと思うのです。言われれば気がつく人の方が多いと思うのです。

言われたことで殻に閉じこもる人もいるでしょうが、自分もそういうところがあったからといって同じ目線で話せば、親御さんの方もどうしてそんなに厳しくするのか、悩みがあるなら悩みを打ち明けて、そんなこと悩むことじゃないことがわかり、子どもをかわいがる方が早道だと気が付けばみんなが幸せになるはずなのです。悩みが解決しなくても、とりあえず虐待に見えることはやめておこうということになるはずなのです。大切なことは、虐待しているように見える親も別種の人間ではなく、同じ地平に立っている先輩と後輩みたいな関係で仲間だという視点だと思うのです。

ところが、現状の虐待防止政策の選択肢は通報と引き離しなんですよね。それでは親は、他人から見えるところでは厳しいしつけをしないように隠すだけなのです。虐待とはいえなくても、子どもは苦しい毎日を送ることにはそれほど変わらないということになってしまいます。子育てなんて、そんなに頑張らなくても良いのだということに親が気がつくチャンスがなくなるからです。


児相に子どもを引き離されてしまったら、一体誰が親にアドバイスをするのでしょう。引き離しは対立構造を不可避的に生みますので、児相が親に適切な教育を指導してそれを受け入れるということはとても期待できません。こんな当たり前のことがないがしろにされているわけです。子どもは緊張しないで親から愛情を受けて育つチャンスを、人生で一度だけのチャンスを失ってしまうわけです。これは大変恐ろしいことです。しかし、子育て経験が乏しい児相の職員の方や児童養護施設の方々は、その恐ろしさをあまり理解されていないようにいつも感じています。

どうも政策を立案する方々というのは、特に数字に興味があるのではないかと感じています。虐待通報数を増加させたいとか、一時保護の数字とか、そういうことです。おそらくそれが増加すれば、虐待死の件数が自動的に減るのだろうと信じているように感じます。あるいは数字をあげることによって、成果を主張し、予算の獲得を図ろうとしているのでしょうか。そうではなく、子どもたちが楽しく人生を歩むとか、親に育てられて安心して育つとか、そういう数字にならない事に興味を持っていただきたいと思っています。極端なことを言えば、数字に現れなければ考えないというならば。子どもが死ななければ良いというように感じてしまいます。これではみんなが不幸になっていくだけだと思うのです。

人間の子育ては、親だけが行うものではなく、200万年前から群れが行うということになっています。他人の子どもであっても、縁あって同じ群れになった仲間がどんどん口を出さなければならないのでしょう。どうやって口を出すのか。どうやってそれを受け入れていくのか。そういうことこそ議論をして実践していくことが必要だと思います。

縁あって相談を受けた弁護士は、やみくもに虐待親に対する過剰反応をすることなく、逆に過剰防衛意識を持つことなく、子どもの利益の視点で、親御さんにアドバイスできれば良いと思います。行動を修正することは、子どもを引き離されないための有効な手段となりますし、何より子どもが楽しい子ども時代を送れる方法にもなります。
また、悩みを抱えていて、子どもに厳しく接することを自分で抑制できない親御さんもいます。そういう場合は悩みを解決する方法を一緒に考えるべきでしょう。心理面に問題を抱えておられるのならば、信頼できる臨床心理士を紹介するという方法も選択肢に入れるべきだと思います。
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日弁連のDV法の保護拡大の意見書に反対する3法律的議論の枠組みがなく人権感覚に乏しいということ [弁護士会]

日本弁護士連合会は、2020年(令和2年)10月20日に、「配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護等に関する法律の改正を求める意見書」を発表しました。
https://www.nichibenren.or.jp/.../2020/opinion_201020.pdf


意見書の目玉は、表題の法律(以下「配偶者暴力防止法」と略します。)に、
「DVが社会における性差別に由来する力の格差の下で生じるという構造的 な問題であること」
を明記しろというものです。
この外、
警察の支援措置を身体的暴力に限定している現行法を改め、精神的暴力の場合にも拡大しろという意見
保護命令ももっと認められやすくするべきで、精神的暴力の事案も保護命令の対象としろという意見が出されています。

私は、この記事の前々回、そもそもDVは性差別に由来するということ自体が非科学的であり、同時に実務感覚にも反しているということを述べました。前回の記事では、現状のジェンダーバイアスがかかった法運用の弊害が益々増大するということも述べました。

 今回は、このような主張が、実は法律家に求められる理性を用いておらず、弁護士に求められる人権感覚も不十分に過ぎる主張であることについて述べたいと思います。

1 法律の要求されるバランスを無視した極端に偏った主張であること

法律は、抽象的な文言で全国民に対して規範を示すものです。そのためなかなか行き届かないことが出てくることは当然です。誰かを保護するために法律を制定しようとすると、別の誰かの権利を制限するかもしれないという効果がつきもののように出てきてしまいます。わかりやすい例で言えば、電車内の痴漢の防止法の検討をするとします。痴漢の真犯人がわからなくても、被害女性が自分の近くにあった手をつかんで、「この人に痴漢をされました。」と訴えれば、必ずその人を強制わいせつ罪で懲役刑に処さなければならないという極端な法律を制定しようとしたとします。一方で必ず刑務所に収監されるということになれば、電車内での痴漢行為は減るかもしれません。しかし、女性の勘違いや、女性の悪意で何もしていない人が刑務所に送られたとしたら、極めて深刻な被害が生まれてしまいます。このために、女性保護と冤罪被害の防止のバランスをとる必要がでてきます。特に犯罪の認定をして罰を与えるためには厳格な手続きを経なければなりません。無実の人が犯人として処罰されないようにするということは、法律の出発点でもあります。法律は女性保護を実現しようとする一方で、同時にその弊害を回避するための方策をとってバランスをとるのが法律だということになります。
法律家の人権感覚としては、無実の人に不利益を与えないようにすることが第一に考えられなければならないことがらなのです。

ところが現在の配偶者暴力防止法や関連法では、DVがない事案においても女性を保護する実務運用がなされてしまうことに歯止めをかけにくい構造になっています。この結果、DVがない事案においても男性が子どもに会えないとか、警察や行政から不当な扱いを受ける等の被害が多発しています。確信犯の女性が制度を目的外使用したということについても判決で指摘されることがありました。配偶者暴力防止法についてどのような問題があるかについては前回述べました。ここでは繰り返しません。問題は配偶者暴力防止法に弱点があることについて、弁護士の集まりである日本弁護士連合会が知らないということはあり得ません。家事事件を担当すればありふれて目にする問題だからです。
それにも関わらず、日弁連の今回の意見書は、女性保護という一方の問題の所在を強調してさらにその傾向を拡大しようとして、そのデメリット、不可分一帯の落ち度のない男性の保護を一切考慮しないという態度をとっていることになります。意見あるいは思想の違いの問題ではなく、一方の利益だけを追求して他方の不利益を考慮して、問題点に対する手当をしないということは、法律論の枠の中に入らないということを申し上げたいわけです。どこかの政治団体や思想集団が述べるならともかく、法律家である弁護士の団体がこのような法律の枠外の意見を出すということに落胆しているということなのです。

2 国家権力の私生活に対する介入に無防備であること

古典的な人権論というのは、国家による人権侵害を防止するということと同じ意味でした。現代社会では国家に比肩する大企業が現れたり、インターネットの問題が生じたりして、人権の問題が複雑化しています。しかし、人権問題の基本は、国家からの自由を確保するということには変わりありません。
ところが、日弁連の意見書は、女性保護を強調するあまり、この点の人権意識を無防備に欠如させています。身体的暴力だけでなく、精神的暴力についても警察の私生活への介入を要求しているのです。
現状の配偶者暴力防止法が、警察の介入を身体的暴力があった場合に限定した理由は、当の警察庁の平成25年12月20日付通達で自ら明らかにしています。それは、警察は犯罪に対する専門家であるが、夫婦の問題は必ずしもよくわからないので、警察が介入することが必ずしも適切な結果を保証するものではないこと、及び、あまりに広範囲に警察が私生活に介入すると過度の干渉になるということです。警察は、きちんと人権感覚を持っているようです。
警察が、現状の配偶者暴力防止法のもとでも、女性保護のバイアスがかかって、男性に対する不当な扱いをしているということはこれまで述べました。これまで、不当な不利益を与えないための訴訟や調停制度で身分関係やその状態を決めていたのに、警察権力が介入することで取り返しのつかない問題がこれからさらに拡大する危険があるわけです。
また、現在の香港の例を見てもわかりますが、これは日本国家ではないので全く同列には論じられませんが、いろいろな口実を持ち出して、民主派の人間たちを拘束し、拉致しています。仮に現在の内閣が自由を重んじていたとしても、政権交代がおこり組織優先の政治が行われてしまったら、反対派が配偶者暴力防止法容疑で拘束されてしまうということを考えなければなりません。民主主義国家はどんな政党のもとでも法律が国民の自由を守る武器にならなければなりません。過度な介入は、多くの人権侵害の温床になります。
おそらく「そうはいっても現実の女性の権利の侵害を守らなければならない。そのために警察権力が必要だ」という論調なのでしょう。もしそうならば、一方の利益だけを考慮する偏った議論であり、およそ法律の議論ではありません。
とても情けないことは、権利擁護を権力に依存しているということです。何度も繰り返しますが、これがNPOだとか、思想団体だとかの主張ならばそれも否定する話ではないと思います。問題は、人権課題に取り組むことが職業上の氏名である弁護士会がこのような感情的な議論をするところにあるわけです。人間関係の解決の引き出しが少なすぎるということです。弁護士会であれば、もっと世論形成を行うこと、どうしてDVが起きるのか、防止のためにはどうすればよいのかということを幅広い専門機関の連携の中で解決するという発想を持たなければならないはずです。それらの過程を全く踏まないで権力に依存するということは発想が貧しすぎるし、真の解決を考えていないと私は思います。

3 保護命令の件数を増やすことを自己目的化する主張

現状の保護命令は身体的暴力が存在し、将来的に生命身体に重大な危険があると認められるときに発動されます。命令を受けた者は、申立人やその家族に近づくことさえ許されません。一定の場合は自宅を長期間退去しなければなりません。実際に存在する命令では、自宅周囲を散歩することも禁じる命令まで出されています。著しく行動の自由が制約されますし、自宅からの退去を命令されれば財産権も制約されますので、重大な不利益を伴う命令です。これを精神的暴力の場合も行えという乱暴な議論をしているのが日弁連意見書です。
精神的虐待からの保護は確かに必要です。しかし、実務的に言って、どこまでが精神的虐待か市井の夫婦のいさかいかかなり曖昧なのです。特に精神的虐待を主張するこれまでの例からすると、私などからするとそれは国家が介入するほどの精神的虐待とは言えないのではないかという事例や、妻側の夫に対する精神的攻撃の方が精神的影響は大きいという事例でも主張されています。これまで実務経験からすると精神的暴力の内容はどこまでも拡大解釈される危険が払しょくできません。
どうして日弁連はこのような主張をするのでしょうか。その理由の一つとして、日弁連意見書は日本の保護命令の件数が特定の外国と比較して少なすぎるということをあげています。単純に数の問題を理由としているのです。しかし、保護命令の多い国と日本では、風土も違いますし、国民の意識も違います。DVの実態も違うはずです。それらの違いを考えずに単純に数の問題で論じることはできないはずです。その数の意味を論じずに、数だけで決めるということは、あたかも国の予算措置のようです。とにかく相談件数だけ増やして、相談件数が多いから予算をつけろという主張と重なります。
実際のこれまでの保護命令事件を見ると、身体生命の重大な危険がないばかりか暴力自体がないケースでも保護命令を申し立て、保護命令が出されたりしています。なぜ、裁判所が出した保護命令が事実にもとづかないと言えるかというと、それが抗告で取り消されたり、再度の保護命令を裁判所が申立人に申立てを取り下げさせたりしているからです。極めて弛緩した運用がなされているのです。
一つつけたしをしますと、保護命令が少ないということも権力に対する依存の弊害なのです。DVが危険であるのは、夫婦の一人が孤立化している場合が顕著です。誰にも相談できず、また、行動を改めるべき人間が相手ではなくて自分だと思い込まされている場合です。つまり、警察にも行政にもNPOにも相談できないケースが最も深刻なケースなのです。ところが、権力に依存する思想の前提が、被害を受けている場合は自分で援助を求めるべきだというところにあるわけです。だから、声なき声の掘り起こしをするという発想がなく、上げた声を全部救えという乱暴な議論に終始するわけです。これでは本当に保護、救済が必要な人が保護、救済されにくい制度になってしまいます。大事なことは裁判所や行政の権力行使を拡大することではなく、身近な虐待を虐待と感じて話し合いやめさせるという風土が先行させることです。そういうきちんとした前提事実を積み上げる努力をせず、要件を緩和していくばかりだから、目的外使用をもくろむ人間が使いやすくなるばかりだというわけです。国家に法律を変えろということは簡単ですが、法律が真に被害を受けている人を救済するためには前提事実を積み上げることが必要だということなのです。
私は、本当に微々たる力ですが、その前提事実を構築することを目標に、このブログを作成しています。

4 弁護士として求められる人権感覚に反する

それにしても、なぜ、男性が不当な不利益を受けることを何ら考慮することなく、女性保護の表面的な拡大ばかりを主張できるのでしょう。これまでの議論をまとめると、日弁連意見書は、「保護すべき女性がいる。この保護すべき女性を救済するために、多少の目的外使用や無実の男性が不利益を受けてもやむを得ない。だから法律のデメリットは手当てしない。」と考えているように思えてなりません。無実の男性の人権や子どもの健全な成長という人権を「多少」侵害しても、救えるべき女性が救えるならそれでよしとしているように感じるのです。
これは私の憶測なので真意はわかりませんが、もしそうならば大変恐ろしいことです。何かの正義のために犠牲をいとわない。これこそ戦争の理論だと思います。
また、そこで犠牲になる少数者の人権を擁護することこそ、本来弁護士こそがおこなうことなのです。そもそも弁護士は、刑事弁護をする職業だから弁護士と呼ばれるわけです。民事は代理人で、刑事が弁護人と呼ばれます。刑事事件の本質は冤罪を防ぐことだという考え方の人もいますが、私は罪を犯した人の人権、つまり人間として扱われることを実現することこそが刑事弁護の本質だと思っています。つまり、世界中の中で誰もが非難する犯人を、その犯人の弁護人だけは味方になり人間性を守るということが仕事のはずだと思っています。悪い人を悪いと非難することは誰にでもできます。通常の感覚通り行動すればよいだけです。そこで、理性を働かせ、どんな人であっても人間として扱われるべきだという姿勢をつらぬことが弁護士に求められていることだと思うのです。
初めから犠牲を容認した法律を制定するなんてことは、その少数者の人権擁護のための職業である弁護士の求められている要請を全く理解していない意見だと私は思います。

この日弁連意見書は、法律家としての議論の枠組みが踏まえられておらず、弁護士としての人権感覚も欠如しているという観点から、私は弁護士の一人として反対いたします。

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DV法の保護拡大の日弁連意見書に反対する2 現状のDV法のデメリットが増大すること  [弁護士会]


日本弁護士連合会は、2020年(令和2年)10月20日に、「配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護等に関する法律の改正を求める意見書」を発表しました。
https://www.nichibenren.or.jp/.../2020/opinion_201020.pdf


意見書の目玉は、表題の法律(以下「配偶者暴力防止法」と略します。)に、
「DVが社会における性差別に由来する力の格差の下で生じるという構造的 な問題であること」
を明記しろというものです。

 今回は、この主張のとおりに法律が改正された場合の弊害について述べたいと思います。

第1に、法律の内容を改変してしまうことです。
現行の配偶者暴力防止法は、法文上は、性差に関わらず、要件があれば法が適用される体裁になっています。つまり、形式的には女性の暴力があった場合に男性を保護することができる仕組みになっています。ところが、意見書では、「DVとは性差別に由来する」と決めつけており、それは女性差別だとしています。それを法文上に明記しろというのです。そうなってしまうと、この法律が保護するのは、性差別を受けている女性が被害者の場合だけだという宣言をすることになります。つまり女性の男性に対する暴力はこの法律の保護の対象ではなくなってしまいます。
これでは、この法律は、法の下の平等に反する違憲立法ということになるでしょう。なぜこのような主張を日弁連が行うのか理解ができません。

第2に、男性が保護されなくなることの合理性はない
意見書は、身体的な暴力だけではなく、精神的暴力に対する保護をもっと拡大するべきだと主張しています。精神的暴力について、もっぱら女性だけを保護する必要性が立法事実(法律を制定する必要性を支える現実にある事実)が存在しなければなりません。しかし、そのようなものはないと思われます。精神的な圧迫を相手に与えるのは女性から男性にも行われています。精神的な攻撃によって、精神を破綻したり自死に至ったりするケースで、被害者が男性の方が多いということが私の個人的な実感です。少なくとも女性の方が精神的暴力の被害者が多いという裏付けさえもないと思います。
ヒステリックに収入をあげろ、家計にもっと金を入れろと夫を追い詰めて精神を破綻させるケースや、男性を犯罪に追い込むケースがあります。あるいは夫がやめてくれと懇願しても水商売をやめないケース、不貞を行うケース、これによって男性が精神破綻をしたケースの代理人になったり相談を受けたりします。女性が心理的に過敏になってしまい、些細なことにヒステリックな対応をして、男性が怖くて家に帰れないというケース等様々なケースがあります。およそ弁護士であり、家事事件を担当しているならば、そのような例を全く知らないということはあり得ないと思います。ちくちく嫌味を繰り返したり、家庭の中で夫だけを孤立させるケースも精神的DVとなるはずです。職場の同僚がいるというだけで浮気を疑って、小遣いを減らしたり、始終ラインなどを送信して返信することを強要する等、様々な精神的DVが実際はあるのです。夫の言動が気に入らないと、見せしめのように夫の目の前で子どもを虐待する例も多くあります。
女性の精神的DV被害を保護するのに、これらの男性の被害を保護をしないでも良いという取り扱いの違いの理由が私にはわかりません。

第3に、この宣言によりますますジェンダーバイアスがかかるということです。
現在は、法文上こそ性差別がありませんが、実際はこの法律によって男性が保護されるケースは極めて少ないということが実情です。
男性には保護の必要がないということで、保護を拒否しているのが行政や警察などの多くの実務運用です。これも豊富な事例があります。統合失調症の疑いのある妻が包丁を持ち出して、自傷あるいは夫を傷つける危険があり、夫が110番したにもかかわらず、警察は妻を保護してしまい、一緒に子どもまで妻と一緒に保護し、夫に居所を隠してしまったのです。子どもは母親に拉致されてしまい、数か月後着の身着のままで交番に助けを求めてようやく父親の元に帰れたという事例がありました。子ども大人になった今もPTSDに苦しんでいるようです。また、妻が夫を威嚇するために車をたたいて傷つけて収拾がつかなくなったケースで夫が警察官出動を要請したら、逆に夫がDV「加害者」と認定され、妻子の居所を隠されてしまったという事案もあります。
現状でさえ、夫婦間で紛争があり、妻の精神状態が不安定であれば、夫が妻に加害をしており、妻は被害者であり、保護が必要なのだという扱いがなされているわけです。条文にDVは性差別に由来するみたいなことが書かれてしまえば、
女性保護を強調しすぎるということは、多くのケースで男性が敵視され、子どもの利益が顧みられないということが起きるものです。
肝心なことは、行政は、警察も含めて、男性を加害者認定する場合にも男性からは事情を聴かないという運用がなされていることです。女性が警察などに相談に行きさえすれば、直ちに男性は「加害者」と公文書に記載されます(総務省平成25年10月18日「DV等被害者支援における『加害者』の考え方について」)。
妻に連れ去られた子どもが父親である夫のもとに帰ってきた事例では、健康保険証を母親が持っていき連絡が取れないため、区役所に保険証がないことの相談をしたところ、区役所の職員は、夫に向かって「あなたとは話すことは何もない。」と怒鳴って、子どもが病院に行けないという事例もありました。ちなみにこの区役所の職員は、夫が何をやったのか全く分かっていません。DV加害者というレッテルだけで、暴力夫で、自己制御できずに暴れまわる怖い存在だと思ったのでしょう。「加害者」とされ続けることはこういう扱いを受けるということです。

4 虚偽DVがますます増加するということ
現状においても、DVの事実が調査されないまま相談をしただけでDVの認定がなされ、男性が「加害者」とされています。この結果、実際はDVが存在しないにもかかわらず、男性はDV加害者とされ、警察や行政が妻子を「保護」し、居所を隠し、夫は妻と子どもたちと連絡も取れなくなることが横行しています。夫は、わけのわからないうちに孤立化させられて、警察からは加害者として扱われるので社会からも孤立している感覚にさせられてしまいます。子どもにまったく会えないということは、在監者以上の苦しみを受けることになります。人間性を否定される感覚は極めて強いものがあり、精神的に追い詰められてしまいます。ほとんどすべての事例で、
そのような制度を悪用して、妻の側が自己の不貞を成就させるケースもあります。警察が妻の不貞を保護しているようなものです。確信犯的な悪用もあるのですが、妻の精神状態が不安定となり、夫とのコミュニケーションが様々な理由でうまくゆかなくなり、自分は夫との関係で安心できないという心理状態になり、DVを受けているのではないかという思い込みをしてしまう、いわゆる思い込みDVの事案も多くあります。現状の警察や行政実務あるいはNPO法人の相談活動においても、些細なよくある夫婦のすれ違いをもって「それは夫のDVだ。あなたは殺される。命を大切に考えて、子どもを連れて逃げなさい。」と言われて、それを真に受けて、子どもを連れて居所を隠したという事例があります。この経過は説得した公務員が作成した公文書の記録もあり、後の離婚訴訟で証拠として出されました。妻によると、自分は別居したくなかったのだけど公務員から強く説得されたので、別居したのだとのことで、その証拠でした。しかし、その妻は別居日に限度額いっぱいのキャッシングを夫名義の通帳で行いました。妻は保護命令も申立てましたが、この手続きはずいぶん時間がかかりました。ようやく、妻の言い分は全て妄想の産物だとして、保護命令は裁判所によって否定されました。妄想化、意図的な虚偽か判断が難しい事案ではありました。いずれにしても夫のDVはないのです。妻が統合失調症の診断名で、精神病院を内緒で掛け持ちしていたことも発覚しました。子どもは母親に隠されて、父親には面会できず、今どうして生活しているかわからない状態です。子どもは一時児童相談所に保護されたのですが、事情を説明して父親に引き渡すよう要請したにもかかわらず、統合失調症で被害妄想の強い母親に、何の連絡もなく引き渡されてしまったからです。
もう一つだけ例をあげます。女性は身体疾患を持病としてもち、その疾患は、精神状態にも影響を与え、焦燥感や抑うつ状態を伴う疾患でした。突如、夫が怖くなり、子どもを連れて別居しました。夫は長期にわたり養育費はもちろん、誕生月には妻や子どもにお祝いも送金する等、送金を続けました。ところが、子どもたちが学校を卒業した時も、証明書添付の写真が送られてきただけでした。この男性が、それまで家族で住んでいた家を出て新居に移るとき、元妻に居所を教えるための転居届を出しました。「お近くにお寄りの際は、お立ち寄りください。」と定型的な文章を添えたところ、元妻は動転してしまい、警察に被害届を出しました。警察署長はストーカー規制法上の付きまといと認定して、ストーカー警告を出しました。お立ち寄りくださいという言葉が、義務無き事を強要したというのです。現状でもこのような無茶苦茶なジェンダーバイアスがかかった運用がなされています。私が弁護士としてかかわったケースだけでもまだまだ事例が豊富にあるのです。
DVは性差別に由来する等ということを法文に掲げたら、どんな受難が待つことでしょう。落ち度のない人たちが塗炭の苦しみを味わうことが今より増大することは間違いないと思います。

結局、この法改正で、一番苦しむのは子どもたちです。妻が被害者になれば、夫は加害者になってしまいます。誰かに対する支援は、誰かに対するいわれなき攻撃であることがよくあります。子どもからすれば、母親が全面的に保護するべき存在だとすれば、父親と対峙しなければならなくなります。自分はそのような父親の血を受け継いだ人間であるということを突き付けられて育つわけです。自分は父親から愛情を注がれない存在だということで、苦しんでいる子どもたちの中には、拒食症やリストカットで精神科病棟の入退院を繰り返している子もいます。突然父親と会えなくなったというだけで、精神的に不安定になる子どもたちも大勢います。そういう子どもたちのことは何ら考慮されていない意見書だと思います。もちろん先ほど頼言っている夫の精神破綻の問題があります。家事事件と自死問題に取り組む弁護士の中では、離婚に起因する自死事例があることは常識的な話になっています。そればかりではありません。結局精神病院を2件掛け持ちしていた女性も、実際は別居したくなかったと自分が申し立てた離婚調停で主張しました。ストーカー警告が出された事例では、きちんと被害妄想の原因を治療していなかったばかりに離婚後も10年間も夫の影におびえ続けてきたわけです。子どもたちは、おびえる母親をかばう気持ちが強いですから、自分の父親に母親の精神状態の原因を求め、父親を憎むようになっていました。しかし、原因は、母親の身体疾患によく付随する症状なのです。人権擁護委員の人権相談では、行政やNPO法人からのアドバイスのとおり離婚したのに、生活が苦しくて、言われたとおりの慰謝料も財産分与ももらえない。どうしてくれるんだと抗議したら、「離婚はあなたが決めたことですよ。」と冷たく言われて相談にも乗ってくれなかった。という相談が寄せられています。
結局配偶者暴力防止法の支援では、だれも幸せにならないどころか、みんなが不幸になることが、異常なまでに多いのです。これが日本の政策として行われているわけです。
その上さらに、ジェンダーバイアスがかかった特殊なDVに関する見解が法文に掲げられたらどうなることでしょうか。とても恐ろしいと思います。
しかしながら日弁連はそのような意見書を出しているのです。

法律家の出す意見書の体をなしていないということについては次回お話をします。


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日弁連のDV法拡大の意見書に反対する1 カルト的なDVの本質が性差別だという決めつけは弁護士実務の感覚では受け入れらず、日弁連の意見として正当性が無い [弁護士会]


日本弁護士連合会は、2020年(令和2年)10月20日に、「配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護等に関する法律の改正を求める意見書」を発表しました。
https://www.nichibenren.or.jp/.../2020/opinion_201020.pdf


意見書の目玉は、表題の法律(以下「配偶者暴力防止法」と略します。)に、
「DVが社会における性差別に由来する力の格差の下で生じるという構造的 な問題であること」
を明記しろというものです。

この一文を読んだだけでは、何を言っているのか把握できませんので、その理由として書かれている文章を見てみます。

「DV防止法には,DVという問題が社会の性差別構造に由来する力の格差の下で生じる構造的な問題であるとの認識が明示されていない。」と批判した上で、「現代社会には,性別役割分担,就業・昇進・賃金差別など,根強い性差別が存在し,それが婚姻など親密な関係に反射して夫婦間に力の格差を生み,力を用いた支配を引き起こす。これがDVである。そして,家族関係において,多くの女性がDVによって支配され,無力化されることが,社会における性差別を下支えするという連鎖を起こしているのである。」と述べています。

これを読むとますますわからないことが増えていきます。
性別役割分担が根強い性差別の類型とされていますが、それは社会の、あるいは弁護士会のコンセンサスがあるのでしょうか。一部の人たちの意見なのではないでしょうか。もちろん不合理な性差別、特に雇用環境における性差別は確かに性差別であり、人権の問題だけでなく経済的問題からも早急に克服しなければならない課題であると思いますし、これまで繰り返しこのブログで述べているところです。しかし、この文書を読むとあらゆる性的役割分担が性差別とされているように読め、これはさすがに弁護士会のコンセンサスではないと思います。
そもそもそのような性差別が、婚姻など親密な関係に反射してということも、文学的な表現ですが、具体的に何を言っているのかがわかりません。これまでの日弁連の意見書では見られない文章となっています。
そして差別由来の夫婦間の力の格差という意味も分かりづらいのですが、この力の格差が力を用いた支配を引き起こすということについても、たとえ字数制限があったとしてもわかりやすく説明するべきだと思います。
性差別に由来する力の格差による、力による支配がDVだというのは、多様な夫婦の在り方の多様な問題点を、一面的、教条的に決めつけているものであり、少なくとも家事事件に携わる弁護士の実務的な感覚とは相いれないものだと私は思います。
さらに、多くの女性がDVによって支配されているという意味も分かりません。絶対数を言っているのか割合を言っているのか極めて曖昧な表現です。どのような裏付けがあるのか是非聞きたいところです。多い少ないという抽象的な表現を使い、実質的な議論、検証を回避するような表現は、これまで日弁連名義の文書では見られなかったと思います。
日弁連という弁護士全員強制加入の団体が、国などに向けて、立法に関する意見を述べる文章としては、あまりにも情緒的に過ぎ、検証可能性という科学的な考察でもなければ、実務感覚にもとづいた考察でもない、唐突な決めつけという印象がぬぐいされません。
これが何か特殊な思想団体の意見書であれば、それでとやかく言うつもりはありません。「そういう考え方もあるでしょう。」と知識を学べばよいのです。しかし、この意見書の主体は日本弁護士連合会です。読む人からすれば、弁護士の多くがこのような考えでいること、このような考え方の下で弁護士業務をしていると考えるでしょう。少なくとも、弁護士会にはこのような共通理解があると勘違いされることだと思います。これは大変困ったことです。

このような意見を出すことの弊害については、また後の機会で述べるとします。今回は、どのようにこの理由部分が実務感覚に反するということを述べます。つまり、弁護士がDVは性差別に由来すると決めつけて良いのかという問題です。
ここで注意が必要なことがあります。差別は、差別を受けている方はすぐに差別されていることに気が付きますが、差別をしている側は自分が差別をしていることに気が付かないことも多くあるということです。男女差別がないということを男性の私が軽々と断定することには、危険が伴うということです。私も注意しますが、お読みいただいている方もこのことを頭に入れてお読みいただければと思います。その上で検討してみましょう。

先に断りを入れておきます。「DV」という言葉は、世界的には通常は家庭内暴力のことを言います。ところが日本では、主として夫から妻に対する、身体的暴力及び精神的圧迫のことを広く言うようです。アメリカなど世界の多くの国々ではこのようなことは「配偶者加害」という言い方をするようです。但し、アメリカの研究者の間では、相手を支配することを目的とする行為を対象として考えられており、偶発的な行為は考慮から外すようです(ランディ・バンクラフトら「DVにさらされる子どもたち」の訳者の説明は参考になります。)。日弁連の意見書では、DVを「夫から妻に対する一切の身体的暴力及び精神的圧迫で、目的を問わない」という意味でつかわれているようなので、この記事でもこの意味でDVという言葉を使います。「配偶者加害」という言葉を使う場合は、「夫婦間の相手を支配することを目的とした身体的暴力及び精神虐待」という意味で使います。

さて、DVが性差別に由来するか否かということを統計的に明らかにすることは不可能でしょう。DVの形態も違えば、きっかけや原因も違います。ただ、配偶者加害の研究の嚆矢ともなっている二つの文献、「モラルハラスメント」マリー=フランス・イルゴイエンヌ、「バタードウーマン」レノア・E・ウォーカーも、配偶者加害の原因として、男性側のパーソナリティー障害を示唆しています。つまり、DVをする男性の特殊性に着目しているのです。またウォーカーは、広くDVを検討しているのではなく、主として配偶者加害の虐待事例を検討しています。配偶者加害による複雑性PTSDの提唱者であるフェミニストの医師ジュディス・L・ハーマンの「心的外傷と回復」においても、差別に由来する配偶者加害があるという指摘はあまりされていません。もっともこの文献は、そもそも女性が夫等から系統的な加害を受けていて、深刻な被害が生じているということを紹介することが主眼ですから、夫の加害に至る心理分析を主としてなされているわけではありません。差別由来の加害であることを否定しているとは断定はできないかもしれません。(但し、被害を受けた女性の救済に関して、女性に対する誤った先入観によって、十分な救済を受けられないという実態があるという指摘はなされています。)
少なくともDVが社会構造的な性差別に由来するという指摘はあまりありません。女性差別一般が社会構造に由来するという主張があることは承知しています。

さて問題は、アメリカやフランスではなく、日本の夫婦間における暴力や暴力に準じる精神的圧迫が、男性の女性に対する性差別に由来しているかということだと思います。

私も、すべてのDVが性差別に由来しないとは言いませんが、多くは上記の日弁連意見書に述べられているような性差別ではないところにDVの原因があると感じています。その根拠は家事事件の弁護士としての実務感覚です。

多くの弁護士は、離婚事件に関与しています。DVがあったと主張する事件類型である離婚事件や保護命令事件、面会交流事件なども多くの弁護士が代理人となって実務に従事しています。その中で、各事例について詳しく事実関係を拾い出し、分析し、相手方と事実関係の存否や程度を詰める作業を行っています。最終的には裁判官を説得して判決をえるとか、和解で事件の決着をつけるわけですが、そのためにもその事件のDVの実態について双方の当事者が納得できる分析をする必要性があるわけです。多くの弁護士はこのような経験を豊富にもっています。
多くの弁護士も共通ではないかと思うのですが、少なくとも私の実感としては、DV関連事件は、様々な形態があり、身体的暴力や精神的暴力の原因や対応もさまざまであるというものです。また、必ずしも男性から女性に対する加害だけではなく、身体的暴力も精神的暴力も女性から男性に対して行われることも少なくありません。精神的な圧迫という場合は、私の実感としては男女差が無いように感じます。
男性も女性も、相手が女性だから、男性だからという差別的意識から「暴力をふるってもよいのだ」、「暴力をふるうことは当然だ」という意識は感じられません。あくまでも暴力をふるうことは反規範的なことだという認識は概ね皆さんおもちです。暴力をふるう時の意識としては、「自分は他者に対して暴力をふるうことはしたくないが、相手が暴力をふるうことを余儀なくされるような言動をするから仕方なく暴力をふるうのだ。」という意識が一般的だと思います。
ただ、例外的に激しい虐待がある事案があることも事実です。ウォーカーやハーマンの事例に出てくる相手の人間性を無視した虐待です。この配偶者加害が進行中に関わった事案が少なく、事後的に被害者がPTSDや解離性障害の診断を受けて苦しみが継続して二次被害が生じた場合に関わることがいくつかあるだけです。このため加害者を十分に分析できた事案は少ないのですが、このような冷酷非情の事案の場合は、やはり素人ながら、自分の妻などに共感する力がない人格的な問題がある加害者であるという印象を受けます。
少なくとも、「女性は男性より劣っているから暴力で指導しなければならない。」という古典的な差別意識に基づいた配偶者加害は見聞したことはありません。そのような古典的な性差別にもとづいた配偶者加害は現代社会では、控えめに言っても相当数存在するとは言えないと思います。
性差別由来の暴力の正当性を意識した事案はないにしても、暴力や暴力に準ずる言動をする際に、「自分はその手段を使って相手を制圧することができる」という意識を持つことがほとんどでしょう。あるいは「こちらが暴力をふるっても相手は反撃的に暴力を振るわないだろう。」という安心感をもっているようです。男性から女性に対して暴力をふるう場合は、体力差がその安心感の理由になることがほとんどだと思います。あくまでも物理的な問題です。これに対して女性が男性に暴力をふるう場合は、「こちらがムキになって暴力をふるっても、相手は自分に対しては暴力を振るわないだろう。」という安心感が垣間見えます。奇妙なことに、相手に対する絶対的な信頼関係があるように感じます。
 それでは、やってはいけないはずの暴力をつい行ってしまう心理過程はどのようなものでしょうか。
 これは私の実務経験に基づく分析ですが、相手との関係維持の要求にもとづく反射的行動ということだと思います。関係を維持したいという強い要求が前提として存在するようです。そうして、相手の自分対する評価が下がるような言動があった場合や、相手の自分に対する低評価が起きそうな自分の行為や他人から自分に対する評価行為があった場合、無意識に相手と自分の関係が壊れる強烈な危機感を感じてしまい、その評価を無かったことにしようとするようです。合理的に説明することが不可能だと悟った場合に、できること、選択肢として浮かんだことを、自己抑制できない形で実行してしまう。これが多くのDV案件の共通の仕組みだと思います。これは男女に共通のメカニズムです。但し、体力差があることから、男性は暴力という手段に出やすいということです。精神的圧迫については男女差がないのも体格差がないからだということで説明が可能だと思います。
 もちろん圧倒的多数の男女は、いかに体格差があっても暴力は振るいません。本人の属性である、性格、育ってきた環境、それから相手方の行動という相互関係等様々な要素がかかわってくるわけで、性差別ということが少なくとも主たる要因ではないと感じています。

 さらに検討を進めると、なぜ暴力をふるってまで関係を維持しようとするのかということを考える必要があると思います。いくつか共通する原因があるようです。
 一つ目は、自分に対する自信がないということです。相手を夫婦という自分との関係につなぎとめておく自信がなく、方法も分からないということです。このため、相手の言動に過敏になってしまっているようです。本来聞き流せばよいことも聞き流すことができず、悪意のある言動ではないことを頭では理解しているのに些細な言葉に不安を掻き立てられるようです。そしてそれが不合理に思え、言い合いの中で感情が高ぶり、自己抑制が効かなくなり暴力に出てしまうということがあるようです。
 二つ目は、依存状態にあるということです。様々な事情から、今夫婦である相手から見捨てられれば自分は生きていけないという感覚を持っている状態、あるいは、相手と一緒にいることで過剰な安心感を持っているために相手から見放されることに過剰に敏感になっているという状態です。
 三つ目は、どうすれば円満に、穏便に、楽しい関係が維持されるかその方法がわからない。自分のどういう行動が相手を傷つけたり、圧迫したりするかわからないというパターンです。つい、相手を傷つけたり、精神的な圧力をかけたりしまい、相手から当然のごとく嫌悪の情を示される。そうすると、修復の方法がわからず、とにかく相手の自分に対する評価が間違っているという主張をしたいと思い、暴力を止めることができなくなってしまうというパターンです。
 一つ目の原因と二つ目の原因は表裏の関係にあり、これら三つの原因は入れ子(マトリューシカ)の関係にあり絡み合っているようです。

 結果として、関係を維持したいということは、自分から離れていくことを阻止したいからといいて過剰に相手に働きかけることです。だから、それをやられた方にすれば、まさか相手が自分に執着しているがために行っていることとは感じられるはずがなく、単に自分の自由や行動を制限しているという風にしか感じられませんから支配しようと感じているということも真実だと言わざるをえません。極端なケースでは、結局、DVをする方は、相手に自分にひれ伏してもらいたい、土下座をして謝ってもらいたいという意識が感じられることが多く、奴隷のような扱いをしようとしていると感じざるを得ないこともあります。
 しかし、客観的に見れば、そのような人格支配がそもそも出発点ではなく、あくまでも関係を維持したいということが出発点であり、その感情も依存的な切迫性のあるもので、例えてみれば赤ん坊が母親に執着するようなものだと考えるとわかりやすいと思います。赤ん坊は相手の感情を一切考えずに、自分の要求を泣きわめくということで通しても、かわいがられるだけです。しかし、大人になってしまうと、相手に対する殺傷能力を身に着けてしまいますので、このような駄々をこねて母親に対してするような要求を貫こうとすると、相手を心身共に傷つけてしまうということになるわけです。
 関係性に対する知識と安心感があれば、DVの多くは収まります。但し、相手の感情を理解できない特殊な精神構造の場合はなかなか困難なケースもあるようです。いずれにしてもDV解消の方法は、罪悪感を植え付けることをはじめとした本人の認知の改善ではなく、知識の習得と夫婦の行動パターンの学習という関係性の改善が必要だと思います。悪い方が変わるという狭い考え方ではなかなか改善しないのではないかと考えています。もっとも一方が改善を望まないという立場の場合も多く、この場合はなかなか改善されず、紛争が長期化するだけだと思います。
 
 もし妻は母親が赤ん坊を扱うように夫にも全人格的に奉仕しなければならないという考えがあるならば、性差別と言って言えないことはないでしょう。しかしそれは、どちらかと言えば男性の小児的な問題から発した依存心ととらえる方が、改善の方向も間違わないし、お互いが幸せになる確率が高くなるように思っています。また、これは女性がDVをふるう場合も同じであり、小児性のある女性が夫に対して母親のように自分を全面的に受け入れるべきだという観念からDVをふるうようです。やはり性差別ということは言えないと思います。
 少なくとも雇用形態などに由来する社会構造的な問題だとは言えないと思います。
 このような無理な決めつけは、対策の失敗にもつながりますし、国家行為の持つ弊害を軽減させることができず、人権侵害の可能性が高くなるという致命的な問題が生じます。この点については、あらためて述べたいと思います。

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うつ病患者さんの家族に対する支援を充実させなくてはならないのではないかということ [自死(自殺)・不明死、葛藤]



「うつ病が伝染する」という表現が使われることがあります。
もちろんうつ病はウイルスや細菌に起因する病気ではないので
おそらく伝染の定義には該当しないと思います。

ただ、うつ病患者を抱えている家族は
精神的にも追い込まれて、家族も治療が必要な状態になる
ということは少なくないようです。

ある母娘の話ですが、
年配のお母さんがうつ病の方で、
私が継続的に法律相談を担当していたのですが、
お願いして付き添ってもらっていた娘さんが
とても険しい顔つきをした方でした。

お母さんには、私の師匠とも言うべき精神科の先生を紹介して
順調に回復してゆきましたが、
ある日、お母さんの付き添いでやってきた娘さんが
とても晴れ晴れした表情をしていました。
ずいぶん若返ったみたいなことを
年配の私だったから図々しく言ったら、
「そうなんだ」というのです。

お母さんの治療が効いたため
うつ病からくる後ろ向きの発言をしなくなったから
一緒にいて苦しくなくなったのだというのです。
なるほど、眉間のしわがなくなっていました。

うつ病の治療経過は
家族の表情で分かるのだなあと学びました。

後ろ向きの発言とは
他者の言動を悪くとらえる被害妄想
自分や家族の将来に対する悲観
自分の存在価値の矮小化
自己否定など
その本人の気持ちが家族に伝わってしまうことは
家族の持つ共感作用を発動してしまい
耐えられない気持ちになってしまうのは想像ができると思います。

(そう考えると、むしろうつ病の方々は
そのような悲観的な思考に苦しまれていらっしゃるのが
毎日のことなのですから
それに耐えておられると考えると
もしかするとむしろ精神力が強いと言えるのかもしれません)

うつ病患者さんの家族こそつらい思いをしているということなのですが、
なかなかそのことが世の中に知られていないように思います。

友人から紹介された事例では
二人暮らしのご夫婦で、奥さんが重いうつ病の方の場合、
旦那さんは仕事をしながら奥さんの看病をしているのですが
奥さんには時々大きな精神症状が出現して
旦那さんは会社を休みながら看病をしているという
ご苦労をされているという訴えがありました。

政令指定都市や都道府県の
精神保健センターを紹介することしかできませんでした。
利用可能なショートステイみたいなものがないと
夫婦共倒れになりかねないと心配です。

うつ状態を伴う精神疾患の場合、
精神状態に波がある場合も多く
良いときは普通に散歩もできるのですが、
悪いときは、布団から起き上がることも容易ではなく
トイレに行くのも支えないと転んでしまう
ということがあるようです。

患者さんが眠っているときには
家族は起こさないようにと
台所で調理をすると寝どこまで聞こえてしまうので
戸の閉まる風呂場で調理をするという方もいらっしゃるようです。

患者さん本人は忘れていることがあるようですが
「死にたい」とか、「消えてなくなりたい」とか
夜中に突然言い出されると
一晩中心配していなくてはならず、
何度も起きては布団に本人がいることを確認して
夜が明けてしまったという話も聞きます。

通院が物理的には一人で行くことが可能である場合でも
途中で何か発作のようなものが起きてしまわないか心配で
結局同行するのですが、
病院では本人の様子を話すばかりで
家族の献身的な介助はお医者様にも伝わりません。
本人に自覚がないことも多く
家族からの聴取も必要だと思うのです。

結局なるべく一緒にいることになりますので
家族は自分の時間を持つことができなくなるようです。
こうなる前は色々と趣味もおもちなのですが、
患者さんを一人家において出掛けることができないのでなかなかできない。

そういう状態のようです。

社会で何とか荷を分かつような制度があればよいのではないかと思います。
そうでないと、
病気の家族を捨てる人も出てくるのではないかと思います。
24時間、365日、個人が一人で行えることではないように思います。

そのためにも、家族の方こそ、社会に向けて
当事者として発言してもらいたいのです。
そうでないと、親切だけど頓珍漢な人たちが
頓珍漢な制度を作ってしまったり、
実態を知らないために反発を買うようなことを言ってしまったりするからです。

私は今、
うつ病の患者さんを抱えた家族が
家族をうつ病にした相手に対する損害賠償請求の
訴訟を担当しています。
家族の介護費用の請求をしています。
それだけ大変な状態なのだということを
世の中に知ってもらいたいと思っています。

うつ病患者さんだけでなく
すべての人のために頑張っている人たちが
社会から支えられることが
人間らしい社会なのだと思います。



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「嘘」をつく人間はいくらでもいる それで人生を台無しにされた人間もいくらでもいる 自由と民主主義のために杉田水脈議員を擁護しなくてはならないのか [弁護士会]



杉田議員の辞職要求の署名が13万筆集められたそうです。
それを自民党に対して提出しようとして、受け取りを拒否された
という報道もなされました。

どうも私は人と感じ方が違うようで、
この動きには大変な不安を覚えています。

この動きの元になったのは杉田議員の言論です。
直接のきっかけになったのは
「女性はいくらでも嘘をつく」という発言です。
この発言をしたことは杉田議員も認めているようですから
発言自体は存在したのでしょう。

また、この発言だけで13万筆署名が集まったというよりも
新潮45に寄稿した文章や
伊藤詩織氏の事件をめぐる言動など
これまでの言動の蓄積が背景にあることは否定できないことでしょう。

しかし、これまで内閣の中枢にいる人物や
与党の役職を担う人物が失言をしても
13万筆の辞職要求署名は集まるということはあったでしょうか。
自由や民主主義、三権分立を否定する発言に
ここまでの抗議活動はあったでしょうか。

そして、今回の杉田発言が
それらの失言以上に非難されるべき言動だったのでしょうか。
この点を吟味する必要があると思いました。

報道によりますと、杉田氏の発言は、自民党内の会議の中で
性暴力被害者の相談事業について、民間委託ではなく警察が積極的に関与するよう主張。「女性はいくらでも嘘をつける。そういう方は多々いた」などと発言したとのことです。

確かに、「女性は男性と比較して嘘をつくことに抵抗は少ない
という属性を持っている」という発言であれば
これは人間の個性を無視して類型的に属性によって評価するもので
差別であると思われます。

しかし、性暴力の文脈で、
嘘をつく女性は多々いたということ
つまり女性の中にも嘘をつく女性はいくらでもいる
という発言ならば間違ってはいないと思います。

痴漢冤罪の例が典型的でしょう。
この事件類型は
男性が自分は痴漢をしていないという発言に対して
被害女性はうそをつかないという先入観から
無実の男性が痴漢扱いされて仕事を失い
家族も加害者家族とされてしまうという悲惨な出来事であり、
自死に追い込まれたケースもあったとおりです。

無実の人間が証拠もなく
嘘に追い詰められていき
孤立化させられ精神を破綻させられるのです。

夫婦間の問題でも女性の嘘(この意味は後で明らかにします)
が横行しているというのが実務感覚だと思います。

夫婦間においては暴力や暴言がなくとも
女性が追い詰められてしまうケースがあり
「適切な支援」が必要な事例は山ほどあります。

それにも関わらず、
夫からの暴力はないと言明してしまうと
相談機関はとても冷淡になり、
それはあなたのわがままだという扱いを受けた
という私の依頼者も複数いらっしゃいます。

だから、情に厚い相談機関は、
この女性は保護しようと思うと
どうしても暴力や暴言があったという方向に
誘導してしまうのかもしれません。

目の前の人を救おうとする気持ちが強く
それによって人生が台無しにされる人間たちが生まれてしまうことを
きちんと考えることができなくなるのです。

女性も支援を受けるためには
夫から何らかの暴力や暴言があったと
言わざるを得ない状態に誘導されているケースもあります。

夫婦間暴力に関する「女性の嘘」の多くはこうやってつくられている
というのが実感です。
それは民間の相談機関に限った話ではありません。

それでもひとたび嘘が発せられると
保護命令が虚偽の事実で裁判所から出されて
保護命令を背景として離婚手続きを有利にする
結果的にはこういう事態が相当数あるということが現実です。

そうして、DV夫とされた男性は
妻を失い、子どもを失い
自分が全否定された感覚となり
家族と関係の無いところの人間関係さえも
自分を排除しようとしていると過敏に受け止めるようになってしまうのです。

こういう男性群は、
不思議と仕事や趣味や社会活動に有能な人間が多いのですが、
喪失感によるダメージや
過敏反応による攻撃性のため
自分の力を発揮できなくなってしまいます。

社会的地位の高いとされる男性たちが
かなりの人数自死に至っています。

DV夫とされた男性には反論の機会も
是正する手段も与えられません。
不合理を是正しようと戦うと
妻の心理的圧迫を強くするうえ
解決手段がないという本当の不合理に沈んでいくしかありません。

だから、杉田水脈議員の言い方はともかく、
女性の暴力被害の真実性を吟味する必要がある
という主張ならば
少なくともそれは取り上げられて、十分検討する必要はある
ということになります。

言い方が悪かったから辞職しろという短絡的な
暴力的は行動は
議論するべき議論をさせない効果しかうまないでしょう。
未だにどのような文脈でこの発言出てきたか
詳細は明らかにされていません。

確かに、いま何を言っても否定される
という事態だと杉田議員自身は感じているでしょう
身内からリークがあったことにも恐怖を感じていると思います。
しかし、衆議院議員という立場ならば
正々堂々と、ご自分の主張を国民に伝達することに
粉骨砕身努力するべきだと思われます。

また、民主主義に価値をおく人間たちならば
きちんと公開での議論を主宰し
発言の機会を与えるべきだとも思います。

辞職署名というやり方は
言論活動を否定し、議論によって最良の方法を見出していくという
自由と民主主義を否定する行動になる可能性があると思います。

ニーメラーという牧師が
ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は共産主義者ではなかったから
社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった 私は社会民主主義者ではなかったから
彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は労働組合員ではなかったから
そして、彼らが私を攻撃したとき 私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった
という演説をしたとされています。
これは共産主義者を守ろうというところに主眼があるわけではありません。

自由と民主主義を守るためには
自分が不愉快に思う言論も守らなければならない
ということを言っていると思います。

これまでどう考えても言い訳の効かない政権与党の重鎮の発言で
辞職要求署名活動が起きなかったに
今回の辞職要求署名が集まったことには
我が国の自由と民主主義の状態の脆弱性が見えるように
私は感じます。

杉田議員の発言には
私の実務家としての立場からも批判するべき点があります。
仮に民間委託先ではなく警察権力が介入するべきだという発言が
それによって、女性の嘘から無実の男性を守ることができる
と考えているのならば
全く現実を分かっていない勉強不足です。

警察も、女性の発言が真実かどうかの
調査をしないことがほとんどだからです。
なぜか、
まずいわゆるDV法がそういう法律だからです。
女性が警察に相談をすれば、それだけで
要支援者、被害者とされ
支援措置が取られます。
夫から逃がすために子どもの連れ去りと
連れ去り先の隠匿を警察が支援してくれますし
役所も支援します。

つまり女性の発言が真実であるか否かは
初めから調査しない手続きだからです。
そして、総務省は、
夫が女性に加害を与えていなくても
「加害者」と呼ぶことにしているのです。

加害を与えていなくても
相談をして要支援者、被害者とされた女性の夫
という意味が加害者なのです。

実際に公文書の記録で残っているケースでも
統合失調の患者さんが夫の暴力があるという妄想に取りつかれて
警察に相談に回されたら
DVは一生治らない、命の危険があると言われて
2時間も説得されて別居したというケースがあります。

男性は言いがかりのような容疑で逮捕勾留され
職場の映像までテレビで全国放送されました。

幸い職場の上司にも理解していただき
多くの支援者が集まり
刑事事件も起訴猶予となり
保護命令申立も棄却されましたが
子どもとは会えないままです。

杉田議員のこれまでの言動からすると
民間相談機関の攻撃をしたかったのだろうということは理解できます。
本当の原因に敢えて蓋をして出先機関だけを攻撃しているような
印象を持ってしまいます。
もっと、全体の国民の正当な利益を擁護するという観点に立って
主張を展開していくことが必要だったと思います。

誰かを攻撃するということよりも
この場合では即時的には無実の人間に不利益を与えないということと
何よりも子どもの健全な成長という視点から
議論を再構築していただきたいと考えます。



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死のうと思わないで行った行為で「自死(自殺)」してしまう現象について 過料服薬(オーバードーズ)「自死」未遂をした人からお話を聞きました。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]


おそらく多くの方は、誰かが自死したという情報に接すると
死にたいくらいつらいことがあって
そのつらいことから逃れようとしたのだろう
と思うことでしょう。

何か自死するほどの出来事があったはずだという前提で
自死の理由をあれやこれや詮索するでしょうし、
あるいは誰かを自死に追い込んだ犯人として非難するかもしれません。

また、自死を予防するとは、死のうとしている人を発見して
死ぬことを思いとどまらせることだ
と考えていらっしゃるかもしれません。

しかし、話を聞くと、いろいろな自死の形があるようです。
うつ状態をともなう精神疾患にり患した方々から聞いた話を紹介します。
もしかしたらこういう形の「自死」が多いのではないかということです。

まずは仮にAさんとしましょう。
Aさんは、何年か前に職場で同僚との人間関係をきっかけに
うつ状態を伴う精神疾患にり患し、
労働災害であると認定されました。

Aさんは、抑うつ状態が長く続くこともあるのですが、
一見普通に話ができているように見えることもあります。
ただ、私たち健常者からすれば普通の日常生活である
仕事とか、他人との交流とかをすると
それだけで疲れ切ってしまい、
反動で数日間も寝込むという状態が起きてしまうそうです。
とても出勤をすることはできない状態です。

そんなAさんが、自死未遂で救急搬送されたことがあったそうです。
睡眠薬の過剰服用でした。
ところがAさんは、死のうという気持ちは全くなかったと言います。

ただ眠たいのに眠れない。だから睡眠薬を飲んだ。
それでも眠れないからもっと飲んだ。
それでも眠れないからもっと飲んだ。
この連続が結果として過剰服薬になり、
命の危険があったため救急搬送された
というのです。

睡眠薬を飲み続けているときは
何かにとりつかれているように飲まずにはいられなくなり、
自分で自分を抑制することができない状態だったようです。

Aさんの言葉は印象的でした。
「死ぬつもりはなかったのに
気が付いたら自死していたということになったかもしれない」
と言うのです。

うつ状態を伴う精神疾患ですから
周囲は、本当はそういう事情だったということは分からずに
自死したのだと判断することになるでしょう。
死のうとして薬を過剰に飲んだと考えることでしょう。

もしかしたら、
自死と認定された事例の中で
相当程度はこのような事案があるのかもしれません。
つまり、
(Aさんの場合は突発的に)①強い精神症状が起きてしまい
②精神症状が原因で自己制御が効かなくなり、
③今解決すること(Aさんの場合は眠ること)だけを目指してしまい、
④他の事(死んでしまうこと)を考えることができなくなり、
⑤結果として死んでしまうということが
あるのかもしれないということです。

実際の自死事案でも
このような①から⑤の流れで自死が起きたとすると
とてもうまく説明できる事案はあります。

次にBさんの話を紹介します。
Bさんも、症状の波のある方で、
精神症状(病的状態)が急に悪くなる時期があるそうです。
抑うつ状態がひどくなるようです。

ある夜、家族に
「死んでしまおうかな」とぽつりと言ったそうです。
家族はびっくりして、一晩中Bさんを監視していたそうです。
うっかり眠りに落ちてしまうとすぐに目覚めて
Bさんが生きているか何回も確認をしていたようです。

ところが後で、精神症状が落ち着いてから家族がそのことを話すと
Bさんは、「そんなこと言ったかなあ。」
とまるで覚えていなかったそうです。
Bさんとご家族の両方からお話を聞いたので、
どうやらそういうことがあったようです。

何か原因があって死のうとしているわけではなく、
突発的に死にたいという気持ちがこみあげてきてしまったようです。
これがうつ状態を伴う精神疾患の
本当に恐ろしいところだと思いました。

直接の原因がなく、死のうと思ってしまい、
その手段を考えついてしまい
その手段を思いとどまろうとする自己制御ができなくなり、
後先考えずに死の危険のある行為をしてしまう
ということになってしまいます。

このようなパターンの自死の危険のある人に
「命を大切にしましょう」と言えば
「それはそうですね。大切ですね。」
と心の底から同意されると思います。

「悩みがあったらどこどこに相談してみてください」
と言えば、
「悩みがあったらそうしましょう。」
と心の底から納得され、本当に悩みがあれば相談するだろうと
ご本人も思うわけです。

しかし、①精神症状が強くなると
そのようなことは一切忘れてしまい、
②自分の一番自覚している感情を何とか解消しようと思い
③考えついた手段を止めることができなくなり、
④その結果、自分の命がなくなり取り返しがつかなくなることも忘れ
(あるいは正確に認識できなくなり)
⑤死の危険のある行為を実行してしまう。
ということになるようです。

そうなると、
既に精神症状が出てしまってからだと
命を大切にしようとか
悩みがあったら相談しようといっても
自死予防には有効性が乏しいのかもしれません。

但し精神症状が強くなる前であれば
誰かに相談することによって
悩むことを解消できるならば
自死予防への効果があると言えるかもしれません。

今あなたが抱えている悩みが
精神症状を引き起こしてしまい
死の危険のある行動をする原因となり
結果として自死に至るということを
みんなが理解する必要がありそうです。

どうやら人間は我々が思っているよりも
簡単に精神的な破綻を起こしてしまい、
簡単に死んでしまうことができる
ということのようです。

また上に述べた①から⑤の流れが起きるとすると
それは過剰服薬に限ったことではなく、
他の手段を使った自死の場合も
同じかもしれません。
①精神症状(病気というわけではないにしても)が強くなり
②当面の課題を解消することだけが要求になってしまい、
例えば翌日のプレゼンを行うことをしたくない
嫌な上司と顔を会わせたくない
何かいじめられて馬鹿にされたくない

③課題解消の手段として死の危険のある行為を止めることができなくなり、
④課題解消をすると命を失い、さまざま
⑤死の危険のある行為を実行してしまう。
ということが起きることがありうることを意味しているような気がします。

②の心理状態が理解しにくいと思われます。
例えとして挙げることも躊躇するのですが、
戦前の拷問にこの心理を応用したものがあります。

人間は眠りたいという要求がとても強いそうです。
拷問の内容は、無理に眠らせないというものです。
大量の光線を浴びせたりその他の手段で
眠ろうとするところを眠らせない
そうすると、どうしても眠りたいというのが生物のようで、
眠らせてほしいために、
捜査機関の都合の良い自供を始めてしまう
一度自供をしてしまうと再び抵抗する力が失われてしまい
捜査機関の言いなりになってしまう
ということがあったようです。

これは、人間の動物としての生理的問題でどうしようもないのですが、
自供をするのは、思想が甘いとか、信仰が薄いとかいうことになってしまうので、
一度自供してしまうと堰き止める手立てがなくなってしまうようです。
禁煙を誓って煙草を1本吸ってしまい、
抵抗力がなくなって禁煙をやめてしまうことに似ているようです。

死の危険があるほど深刻な問題でなくても
かゆいからと言ってひっかいていると
ますますかゆくなって、皮膚がボロボロになっていく
ということも
痒さからの解放のために
ひっかくことをやめられなくなっている状態
ということになると思います。

掻けば掻くほど悪くなるという理性が働いているうちは良いのですが
痒みが強くなってしまうと理性が働かなくなる
ということと似ているのではないでしょうか。

意志の力というものに
それほど期待はできない
ということを
頭の中に叩き込んでおく必要がありそうです。

自死予防の柱は
今死の危険のある行為をしようとする人を
力づくで止めるか
死につながりかねない精神症状を起こさないために
人間関係の状態と言う環境を改善すること
となるのではないかと
考えさせられた対話をご紹介いたしました。

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子の連れ去り事例の場合は特に離婚訴訟など戦うべきではない3つの根拠と調停と裁判でデメリットを減らす方法 [家事]



最近の離婚事件事情は、ある日夫が仕事から帰ると妻が子どもと身の回りの荷物とともに、家から出て行っていたというところから始まり、行方をくらまして、夫が近づこうとするとストーカー規制法や保護命令などで近づけさせない。そうこうしているうちに離婚調停、婚姻費用分担調停が申し立てられる。一緒に生活もしない相手に毎月負担感の大きい費用を払い、子どもには会えない。さらには離婚調停や訴訟では、相手はありもしない夫の暴力や身に覚えのないモラルハラスメントを主張してくるという感じです。少なくとも夫から見ればそう感じて当然のことが起きています。
こうなれば、誰でも(およそうつ状態になっていない人間であれば)、「それは事実と違う」という反論を行い、理不尽な事態は許さず、真実を明らかにするために戦おうとするでしょう。そして、裁判なのだから間違った事実にもとづいて離婚が命じられることはないだろうと思います。だから、自分を守るため、あるいは不合理な事態を是正するため戦うということが自然体だと思います。
しかし、その常識だと思われる予想に反して、離婚訴訟で戦うことは、大きなデメリットが確実にあるにもかかわらずメリットがあまり期待できないと言わなくてはならないということが実情です。

1 妻の子連れ別居の意思を固めて、子どもと父親の距離が遠くなる。

訴訟ですから、相手方の主張について、事実と違うことは違うと反論することは必要なことです。やってもいない父親の虐待を認めた判決が下ることは子どものためにもなりません。何としても避けなければなりません。当然訴えられた夫は、裁判で自分の主張を堂々と展開することは必要なことです。
ところが、妻の主張で、ありもしない事実の主張やことさら大げさな表現の主張の多くは、妻にとっては嘘をついている自覚はありません。また、そのような真実とは異なる事実は、結婚生活が破綻している根拠、妻が夫を嫌悪して恐怖を感じている根拠として述べられています。だから言われた方の夫は、原因となる事実が真実ではないから、妻の夫に対する嫌悪や恐怖の感情も事実に反するという感覚を持つのは当然です。すると、夫が裁判で、妻の主張は虚偽だ、ねつ造だ、そのような事実がないから妻の感情も嘘っぱちだと主張することは自然な流れになってしまいます。
しかし、ここは前回の記事で述べたところですが、真実と異なる妻は、それは実際に起きたことだという記憶をもっています。だから妻は、夫は裁判になっても「事実を認めない」、「裁判でさえ自分のいうことを否定するのか。」という気持ちになっていくわけです。
 もともと妻が子どもを連れて逃亡する理由は、確かに夫に対する嫌悪感と恐怖感にあります。但しこの原因が主として夫の行動であるということはむしろ少なく、妻の体調変化に伴う漠然とした不安感であることが多いと感じています。この不安感の強さと、夫がこの不安感に気が付かないで妻の奇異に見える言動を批判し続けることによって、「自分が夫から尊重されていない。」、「夫は自分の言動をすべて否定する。」という感覚が生まれて、やがて自分を守らなくてはならないという意識から夫に対する嫌悪感や恐怖感が生まれてくると考えています(このあたりの詳細はこの記事の前の記事で述べています)。そのように自分が否定されているという意識は、漠然とした抽象的なことが多く、その原因をはっきり述べられないために、無理に夫の行為に結び付ける自己暗示のようなことも、真実に反する主張が起きる原因の一つだと思っています。
ところが、それまで抽象的な夫の行動が、裁判における準備書面や陳述書という明確に自分を否定してくる言動として現れるわけです。「やはり夫は自分の言動を否定してくる存在だ」ということが訴訟活動を通じて確信として高められていくということが実情のようです。夫は、裁判で懇切丁寧に客観的事実を説明すれば、妻は自分の間違いに気が付くと思うかもしれません。こういう劇的な話は奇跡が起きるよりも確率は低いようです。
この弊害は、妻が子どもと一緒に生活しているときに大きくなります。面会交流をすることが子どもにとって必要になるのですが、そのためには二人の間で最低限の信頼関係がなければなりません。信頼関係を再構築するどころか、訴訟活動によって、逆に妻の嫌悪感や恐怖感は夫に原因があるのだという確信が強まって行く結果、夫に対する嫌悪、恐怖が増大し、さらには固定するため、子どもを父親に合わせようという気持ちがますます失われていきます。無理に子どもが父親に会うと、子どもに対して裏切り者という扱いをするので、子どもは父親に会いたいとさえ言えなくなってしまいます。やがて、「お父さんに会いたいとは思わない。」と言わざるを得ないという極めて残酷なシチュエーションになります。父親が嫌いだから会いたくないのではなく、母親がかわいそうだから会うのを我慢するということが、正しいようです。もちろん子ども自身が自分の行動の要因を分析することはありませんし、そのような可能性を訪ねる調査官もいないわけです。
そのような妻に対して、夫は、「人間は道理に従うべきだ。」、「子どものために感情を捨てるべきだ。」という前提の素、子どもに会わせない妻を非難するわけです。しかし、どんなに非難しても子どもは父親に会えません。非難するからますますあえなくなるわけです。感情としては夫の感情がよくわかるので、なかなか言いにくいことですが、妻の感情が可変要素ではないとすれば、夫の言動が可変要素だということを考えなければなりません。子どもを父親に会わせなくしているのは妻ですが、妻の気持ちを強化し固定化しているのはご自分かもしれないのです。どちらが正しい、どちらが悪いでは、子どもは父親に会えないということを多くの事件で学びました。
 そのことに気が付いて、夫自身が、子どものために、子どもを自分に合わせるために、妻の言動は大目に見て妻の葛藤を下げようとされる方もまた増えてきました。しかし、裁判で妻側が客観的事実に反した主張を読んでいるとどうしても夫自身の葛藤が高まってしまい、どうしても応戦したくなります。ますます子どもを父親から遠ざける結果になるのです。
 この悪循環を断つ一番の方法は裁判をしないことだと思うのです。

2 裁判は男性に不利にできている 裁判の幻想は捨てよう。メリットが期待しにくい制度。

 女性から離婚を言い出す場合は、裁判所は「極端な破綻主義」をとります。それはつまり、妻が離婚したい強固な意思があり、別居の事実があれば、離婚を認めてしまうという傾向にあるということです。本当は誰が悪いのかということは裁判ではあまり意味のあることではないのです。ところが、夫が子どもを連れて出ていく場合は、「極端な破綻主義」はとらないと手の平を返すことがしばしばあります。私から見れば、裁判は、男と女で結論が異なることがあるとしか見えません。その他判例実務法体系については前回詳細に語りましたので省略します。
 結局、裁判実務からすると、夫は裁判所に過剰な期待をしているということがリアルな話です。ご自分が本当に理不尽なめにあっているということについて、あるいはその理不尽さの程度について正確に把握できていないのです。本当の理不尽さは、子どもの連れ去りで子どもと会えなくなるという理不尽だけではなく、その理不尽を是正する手立てがないということです。夫から見た妻の理不尽な行為が公的機関によって是認されるということが最大の、そして本当の理不尽だと思います。
 裁判は、しょせん、裁判官がどちらかを決めるということです。裁判官という赤の他人に、自分と子どもの運命をゆだねているということになります。夫にとって裁判は人生をかけた、かなり分の悪いギャンブルだと思います。裁判を正々堂々と行うメリットは、通常考えるよりも期待できないと考えた方が良いと思います。
 弁護士についてかなり憂慮するべき事態であることが当事者の話からは聞こえてくることが少なくありません。ノーマルなケースでも夫と弁護士のコミュニケーションがうまくとれていないことがあるようです。それには理由があります。理不尽な目にあっている人間は、他人に対して過度な警戒感を持つものです。信用できない、普通に自分を扱っているのだろうかという心配がどうしても出てきてしまいます。その結果、あまりにしつこく念を押したり、すべてを記録化して提出を求めるとか、細かいことまで口を出したり、些細な失敗にも目くじらを立てる。こういうことは、理不尽な思いをされた方にはよくあることなのです。これは、連れ去りと我が子に会えないという理不尽な思いをしたために起きた変化と考えることもできます。理不尽な目にあった夫はそれを言うことによって何らメリットがなく、デメリットしかないことに気が付きません。これがわからないと、限度を知らないモラルハラスメント夫の典型的な行為だと受け止められることがあります。なかには、こういう性格だから妻が逃げ出したのではないかと誤解を受けることもあるようです。しかし、これは弁護士は決して口に出しませんからわかりません。事件前の性格から変貌しているのかもしれないということに気がつかない弁護士は、もともとこういう細かい性格で、他人を疑い、細かい指図をして、指示通りしないと激高する人なのだろうという感覚を持ってしまいます。「そういう言い方ははやめてくれ」と私のように夫にずけずけ言える弁護士ならば、関係は壊れないのです。しかし、相手に面と向かって言えないということで、ストレスをため込んでいると、信頼関係がなくなっていくこともあるようです。些細な誤字脱字は直してくれるけれど、肝心の相手との関係について何ら意見を言ってくれないようになり、どんどん不利に裁判が進んでしまう。これは本当に注意するべきです。あなたが心配していることは通常訴訟ではデメリットにならないのに、それをいうことで肝心なことを弁護士が言えなくなるというデメリットばかりが現実のものになるケースがあるようです。ご自分が理不尽な思いをしているという自覚があるならば、自分は他人との関係で、性格が変貌しているかもしれないという意識をもつことは、戦略的に必要です。この葛藤が訴訟活動をすることの妨げになっているかもしれないのです。
 高額なお金を出して弁護士を頼んでも、様々な理由から思い通りに裁判が進まないということだってありうることなのです。この意味からも裁判に過度の期待を持ってはいけません。
 また、判決で勝っても、例えば妻の離婚請求が棄却されたとしても、家族の状態に変化は期待できません。判決で離婚が否定されたから、また同居を開始しようという妻はほとんどいません。このことは、裁判を夢中になって戦っているときはあまり意識に上りません。目指すゴールがわからなくなってしまうのが裁判なのかもしれません。
裁判はメリットがやはり期待しにくいという考えの方が実務的かもしれません。

3 事実に反する判決が出たら、関係者全員が長年それに苦しむ。

 裁判をして和解で事件が終了すればまだよいのです。ところが、判決になってしまって、その判決も事実に反して妻側の言い分を認めてこちら側の言い分をくみ取らない判決が問題です。その結果、事実に反して、夫が子どもに虐待を繰り返していたなどという判決になってしまうと大問題です。
 裁判の後、面会交流の調停を申し立てても、妻側はこの判決を鬼の首を取ったように証拠提出してきます。子どもへの虐待は、裁判所からすればその子どもとの面会交流阻害事由になりますから、裁判所は試行面会さえ命じようとしなくなるでしょう。
 何らかの理由で、後に子どもがその判決を見たならば、自分の父親はなんてひどい父親だったのだろうと思うようになるわけです。これは子どもにとって人生観が変わるほどショックなことになる危険があります。虐待の事実が無くても判決に記載がなされれば、子どもにとって事実となってしまうということです。そしてそのような判決は実際によく出ています。
 さらには、裁判で勝ったはずの妻も、これまで漠然と抱いていた不安が、裁判によって肯定されたという意識を持つようです。改めて恐怖感情、嫌悪の感情が強くなり、固定化するということがあるようです。勝訴判決によって攻撃的な喜びはもつでしょうが、安らかな安堵ということが起きないこともあるようです。
 事実に反する公文書が出されることは、特に子どものために何としても避けなければなりません。そのためには裁判をしないこと、特に判決をもらわないことが上策です。

<では調停、裁判はなにをするのか>

この文章が円満に夫婦生活を送っている人たちにとっては、ご自分の生活を振り返るきっかけにしていただけるかもしれません。おそらく、この記事の前回の記事と前々回の記事と併せて読んでいただければ役に立つと思います。私たちは、いつしか、自分の家族を大切にする方法について、具体的な仲間に対する思いやりの示し方について、学ぶ機会が奪われて行っているように感じています。知らないことはその人の責任ではないと思います。多くの当事者、離婚事件の当事者、円満修復の当事者の方々とこれらの記事は作成しているわけで、生きた教材になると思います。

 不幸にして連れ去り別居が起きてしまい、離婚調停や面会交流、面会交流調停が係属している場合は、今から思いやりを具体的に示すというチャンスが残されています。離婚回避ということはなかなか難しいということは言わなくてはならないと思います。しかし、子どもと別居親との比較的自由な交流というのは近年増加しているように感じます。
今日現在で、問題解決のための有効な心構えは以下のようなものです。

自分が不合理な思いをしていることは、自分の行為が主な原因であるとは限らないこと。
しかし、自分の行動の変化によって事態が改善できたはずだし、これからも改善できるということ。

その上で、調停では、
1)まず相手の気持ちをじっくり聞かせてもらうこと。そのためには、自分の言い分も相手の気持ちをじっくり聞かせてもらえば、引っ込める用意があることを示すこと。相手が望む離婚であっても、選択肢に入れるということを調停委員には表明する。
2)聞かせてもらった相手の言い分をいちいち否定しない。肯定できるところを探し出してでも肯定すること。
むしろ、相手の言い分を相手が主張する前からこちら側で主張して上げるくらいの気持ちで臨むべきでしょう。このためには前回の記事が役に立つはずです。そして肯定を前面に出しながらただすところをただしていく。これはだいぶ難しいことですがやるしかありません。可能な限り、無駄な誤解は解消するべきでしょう。
3)こちら側の修正するべき点については、積極的に、相手がそうだそうだというようなことを自ら言っていくことが有効です。離婚回避とまではいかないでしょうが、面会交流など相手が幾分でも自分の主張が認められたと思うと、面会交流などに効果が出てきます。これに対局の主張が、こちらは何も悪くない。妻が虚偽の事実を主張する何らかの思惑があるんだという主張でしょうね。
4)こちらの意見を通す場合、例えば面会交流の実施などの場合、相手の気持ちを軽くする方法論、相手を安心させる方法、夫側の縛りをこちらから提案していく。これは、通常デメリットがなくメリットばかりが期待できるので、少し大げさに恩着せがましく行うくらいでちょうどよいです。
5)離婚しても別居しても家族です。不完全な状態でも家族ですが、家族全体のことを考えられるのは、自分しかいないということを自覚していただくということです。そうして、家族全体、特に子どもの長い人生のためには、いま与えられた条件の中で実現可能な結果を提案していくという観点で、結論を考えるしかないのだと思います。相手の気持ちを無視して理屈だけで結論を出してしまうと、単なる絵に描いた餅になってしまいます。結果を出すということは、調停になってしまえば、大切なことになってしまいます。

 不幸にして調停が不成立となり裁判になった場合
1)現在のプラスの状態を確認し、死守する。
  例えば面会交流が定期的に行われているとか、妻とある程度事務連絡ができるとか、なんらかの交流がある場合は、それを大切にする。妻を安心させるチャンスが残されていることになります。例えば、子どもの写真をもらったりすれば、大げさに感謝をするということが次回につながります。裁判ではいろいろ言うけれど、それは弁護士の個性であって、自分は妻を攻撃するつもりがないことを示すべきでしょう。これらのプラスは、裁判が継続していっているうちに、どんどん薄まっていくことがあります。ここには敏感になるべきでしょう。
  裁判の勝ち負けよりも大切なことかもしれません。
2)多くを期待しすぎて、すべてを失わないということを考える
  また、元のとおりに家族が戻ることが最善ですが、それは裁判という方法では無理なことです。可能性のある最善なことを実現するために、可能性のないことを捨てるという外科的手術をする選択肢を持つことが必要かもしれません。例えば、面会交流は定期的に行われていて、そのときだけは妻も楽しそうにするようになった。それでも離婚を請求してきているということであれば、離婚に応じて面会交流の維持、充実を勝ち取る方が家族全体としてはよいかもしれないという結論がありうると思います。
3)裁判官にできる限り判断をさせない。
  最たるものは判決をかかせないということです。和解で終わるべきです。相手が合意しそうで、かつ、こちら側に最大限有利な和解案を積極的に提案していくということです。
4)相手の言い分の肯定できるところを探してでも肯定して、否定するところはしっかりと否定する。相手のこちらを責める主張も、和解で終わらせるという方針の下では、こちらに有利に進む材料にもなることがあります。この辺りはなかなか難しいテクニックが必要ですが、要は、なぜ相手がこちらを理不尽に排斥するかという検討をすることです。
  その意味では、離婚訴訟と関係の無いところはいくらでも反省を述べていくということなのでしょう。

夫婦関係は共通の要素も多いのですが、それぞれ異なることもたくさんあります。できるだけ有効な方法論をご提示したいのですが、難しい要素も多いというところが正直なところです。少し事例と当事者のご意見が蓄積されてきたので、現段階の到達点についてご報告いたしました。


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暴力がなくとも妻が夫を強烈に嫌悪する理由 たとえ夫が悪くなくても妻は夫を毛嫌いする。自分が悪くなくてもできることをしていないかもしれないということ。 [家事]



妻が子どもを連れて家を出ていくと、外野は、夫がDVをしていたからだと決めつけることが多くあります。しかし、実際の私が担当した案件を見ると夫のDVということは極めて例外的です。妻が夫を嫌悪していることはよくわかるのですが、夫は原因に思い当たるところがない。妻の主張も、突き詰めていくと、暴力があるわけでもなく、夫が道理に外れたことをしているわけでもなく、原因については何とも曖昧なことしか言いません。こういう事例がほとんどです。だから、夫は、妻が自分を嫌悪している、一緒にいたくないということがすんなり理解できません。単純に自分が攻撃されていると思うわけです。
これは、裏側から見ると、
「暴力やモラルハラスメントが無くても、妻は夫を嫌悪し、一緒にいることが怖くなり、子どもを連れて逃げ出したくなる」
ということなのです。つまり、私たち日常の夫婦喧嘩の延長線上に子どもの連れ去り離婚はあるし、連れ去り別居と関係維持は紙一重のところにあるようです。
これまでの業務の事例、自分を含めた身の回りの事例、当事者の方々との意見交換を踏まえて、夫婦には必ず危機があるということ、それを意識することによって、家族分離という、特に子どもの人生にとって悲劇となる事態を防ぐ一助になればと思い、まとめてみることにしました。結婚しているすべての男女、これから結婚するすべての男女、大げさに言えば人類の共通の課題だと思います。

これまで当事者の方々と意見交換したときや、業務でアドバイスしていて痛感することがあります。それは、日常生活において、「不合理は存在するものだ」という構えに建てないと、理解が難しいということです。「自分が悪くなければ自分には不利益なことは起きない。」ということは作り事だということを理解してほしいということです。これは、特に男性には理解が難しいことのようです。私も男性なのでよくわかります。特に法律なんて勉強すると、責任も悪意もないのに責められることは不合理で許せないという気持ちになるものです。社会的な問題ならば、そういう考えも有効でしょう。しかし、こと家庭の問題、特に夫婦という男女関係の問題では、そういう考えは引っ込めるべきなのです。
あなたが結婚する前に、男女の問題で、そういう「論理的なやりとり」で、「合理的に」ことが進んだでしょうか。私なんかは山ほど不合理な思いに苦しんだわけですが、みんなそれを忘れているだけではないでしょうか。入籍をして、子どもが生まれるころになると、みんな「相手は合理的な反応をするべきであり、不合理な反応は許されないことで、してはいけない」と何時しかそういう考えが身に染みこんで、そんなルールなんてないということに気が付かなくなるようです。これからお話しすることは不合理の(少なくとも)存在を承認することから出発しなければなりません。

つまり、「夫に一番の原因も、大きな原因も無くても、妻は夫を毛嫌いする。」ということです。

先ず「毛嫌い」というぴったりくる表現の意味を解説していきましょう。ここはある程度共通の感情を持っているようです。列挙します。
・一緒にいることが嫌で、同じ空気を吸うことも嫌だ。
・一緒にいると何か自分にとって悪いことが起きてしまう。
・街で夫と同じ背格好の男性を見ると呼吸が止まり、体が動かなくなる。
・夫は損をしていないのに自分だけが損をしているような気がする。
・夫ばかりではなく夫の両親ばかり尊重されて、自分の両親がないがしろにされている。
・自分は人間として、女性として尊重されていない。夫は自分に興味関心がない。
・自分が社会から取り残されていく。
・このまま一緒にいると破滅してしまうのではないか。
・夫が近くにいるだけで、ひどく疲れてしまう。
・常に自分が否定されているような感覚を持ってします。自分は夫から肯定されたことがない。すべて指図される。
・自分のやることなすことすべて否定され、馬鹿にされる。
・自分が存在することを歓迎されていないのではないか。
・自分は夫からぞんざいに扱われ、いつも大声で罵倒されている。
こんな感じでしょうか。

こういうことが現実にあったならば、こう思うことももっともなことがあれば、いっしょにいることは拷問みたいなものでしょう。しかし、実際に、こういう感情が、「なるほどもっともだ」と賛成できることはほとんどありません。少なくとも、そう言われても、夫はぴんと来ないだろうなというケースがほとんどです。

なぜ、夫に主な原因が無くても、妻は夫を毛嫌いし、夫はそれを理解できないのでしょうか。
大きくまとめると2つの理由があります。
一つ目は、妻が勝手に不安になっている。自滅している。
二つ目は、夫がやるべき対応をしていない。
ということです。

妻の自滅ということをいうと、おそらく反発があると思います。できれば妻の自滅と夫の不作為ということがセットとして考えていただきたいのですが、説明の便宜のために分けて説明しています。
妻の自滅というのは、夫の行為とはかかわりなく、妻は体調の変化が起きやすく、自働的に病的な不安を感じることがあるということです。これは全ての女性に多かれ少なかれあることで、個性の差は程度の差でしかないということです。
体調の変化とは、妊娠、出産、月経。あるいは妊娠、出産の想定。更年期障害。甲状腺機能異常などの身体疾患。頭部外傷や高次脳機能障害などのけが。不安障害やパニック障害などの疾患。薬の副作用。他者と安心して関わる経験が乏しかったこと。先天的に他者を警戒してしまう要因がある。等々です。たくさんありますし、女性特有というものではない者もあります。
キーワードは不安だと思います。特に出産後に不安が増大するようです。
例えば、手のかかる赤ん坊の世話をしなければならない。自分は、赤ん坊の世話で手いっぱいだ。我が家の将来は夫一人の収入にかかっている。こういう状況の中、貧困妄想(特に理由もなくこのままお金を使い果たして一文無しになってしまうのではないか。けっこう誰にでもあることが以上に強く起きる。)があれば、扶養者が一人増えたのに、夫が子どもが生まれる前と何ら変わらない状態にあれば、このまま金がなくなっていって、預貯金などもなくなっていくのではないかという妄想はエスカレートするだろうことは想像しやすいのではないでしょうか。
高学歴が必要である職業の人や、目に見えて誰かの役に立っている職業を持っていた女性は、特に、このまま自分は社会から取り残されてしまうのではないかという漠然とした不安を持つようです。赤ん坊の世話に一生懸命でも、ふとそんなことを考えてしまうと、自分は社会から尊重されているのだろうかという気持ちになっていくようです。
自分と子どもは社会から取り残されるのではないかという不安ならば子どもと一緒に頑張ろうという気持ちにもなるのでしょうが、不安が病的に強くなると、「自分は子どもも取り上げられてしまって、天涯孤独になるのではないか」という気持ち、感覚になるようです。子どもをとられまいと異常なまでに執着する理由はあるようです。この時に、「それは自分の利益を求めようとすることで、子どもの利益を考えていない」と声高に妻を責めても良い効果が伴わないことはよくお分かりになると思います。
この不安が高まり、持続してしまうと、最も自分を安心させてほしい夫が自分を見捨てるとか、夫が自分を見限るとか、そういう最悪の状態を心配してしまいます。悲観的な思考というものはこういうもので、最悪のことが起きるということを確信してしまうものです。「こうなると嫌だな」と思ったことが、「こうなった」という記憶に置き換わるようです。一番身近な夫から、自分を守ろうという行動がみられてきます。そうする必要もないのに、「自分は悪くない。」というアッピールが始まり、「その証拠に悪いのは夫だ」という感情が自然とわいてくるようです。夫の些細なしぐさや言動が自分を責めているように感じられますから、それらに対してむきになって妻は反論するわけです。「悪いのはあなたよ。」と。
ちなみに、夫に対して逆切れして攻撃する人は、夫の愛情を求めている人が多いです。また、夫からは自分は攻撃されるはずがないという根拠のない自信を持っていることが多いです。
夫は、ヒステリーなどをぶつけられたり、無視を決め込まれたりしますので、不合理な思いをするわけです。しかし、よく考えてみれば、妻だって、そんなことしたくないのに、体調の変化で不安を感じさせられ、不安解消のためにもがいているということが真実です。女性だって不合理を感じて良いのだと思います。それらに気が付かないことは、二人に原因があるのではなく、そのことに気が付かず、研究もせず、明らかにしない社会の問題だと冷静に考えるとそういう結論しか出てこないのです。気が付けと言ったところで無理なのです。
このような各家族が、他の家族と分断されて別々に暮らしているという社会は、日本ではこれまでなかったことです。理屈は別として色々とうまい仕組みがあって、社会が夫婦を育てていたという側面があったのです。少しずつ先人の知恵を私も発掘しています。どうも日本では、昔の社会の悪い側面だけを現代の価値観から批判するばかりで、こういう経験的なメンタルの手当てを見過ごしがちだということを強く感じています。何事も全面的に否定しなければならないことは少なく、全面的に否定してしまうと良い面も無かったことにされるようです。

次に夫の「するべきことをしない」というのはどういうことでしょうか。
妻の自滅に対する対応、フォローです。家族というチームの一人が体調を崩して困っているのだから、仲間がフォローするということは当たり前と言えば当たり前の話なのです。妻が自働的に生まれる不安に困って自分を守るために夫を攻撃しているのに、夫はそれがわからないから、自分が不合理に妻から責められていると思い、夫も自分を守ろうと妻を攻撃してしまうということが起きているわけです。これは多かれ少なかれどのご家庭にもあるのではないでしょうか。どんなに妻を責めても、妻自身がどうにもならないことがあります。どうしても、朝起きられないとか、どうしても掃除や片付けができないとか、どうしても子どもに愛情が感じられないとか、どうしても金銭管理ができないとか、そういうことは妻に責任が無くてもあることです。足を骨折した人が歩けないということを同じことがメンタル的には起きるということでしょうか。夫の方も妻の不安に日常的にさらされていたり、夫自身の問題があったりして、それらの妻のできないことを自分が責められている、自分が馬鹿にされているかのように受け止めてしまうことがあります。特に妻のヒステリーに対してが一番でしょうね。つい自分を守るため、激しく妻に反撃してしまうのです。妻は、自分ができないことをやれと言われて不可能と絶望を感じるわけですし、自分の不安を否定され太と感じ、自分の存在、自分が生きていくことを激しく否定されたと感じているわけです。
このようなオープンな不安の放出ではなく、連れ去り別居が起きる家庭は、妻は不安を内に秘める傾向が多いように感じられます。じっと夫の不作為や反撃を我慢して、静かに夫の評価を積み重ねていくパターンです。離婚事件ともなれば、自分で合理的な関係修復の提案もしないで、一方的にいかにダメな夫かを饒舌に主張してくるパターンです。その多くが、起きてもいないことが起きたという記憶の置き換えにもとづいているようです。これは、その不安が起きたと同時に置き換えが起きているようです。夕方に「こういうことを言うと、夫からだからダメなんだと言われるだろうな」と思っていたことが、その夜の日記では「夫からだからお前はダメなんだ馬鹿と言われた。」と変わっていたことが証拠から明らかになった事案がありました。言われた事実はないけれど夫かそう言われたら嫌だなという気持ちがあったことは間違いないようです。
とにかく妻は、特に出産後、不安と悲観的思考が支配されていますから、今までそれでよかったということが良くなくなっています。自分が夫から尊重されている自信がなくなっているのです。出産前の情緒的な記憶が薄れているようです。「尊重されていた記憶が無い。夫が何を考えているかわからない。自分は否定されているのではないか。馬鹿にされているのではないか。」という思考です。そうだとすれば、家族というチームの仲間は、「大丈夫だよ。大切に思っているよ。」ということを分からせてあげる必要があるのではないでしょうか。
例えばあなたが仕事で上司から、あなたが会社に貢献したことについては一切評価されず、些細なミスをした時だけ、怒りを向けられたり、あざ笑われたりした場合、あるいは同僚の前で否定評価された場合、間違いなくカーっと体温が上がったり、血圧が上がったり、脈拍が早くなると思います。どす黒い気持ちになることでしょう。おそらく妻は体調が悪くなり、夫婦の蜜月の記憶が薄れていますから、あなたが少し煙たい上司に抱いている感情を妻はあなたに抱いていると考えるとよいかもしれません。そんな上司が、あなたにだけ、家族旅行のお土産をくれたり、「あなたがいるからいつも助けれている」と同僚の前で感謝されたり、あなたが失敗したときも笑顔でフォローしてくれたりすればとてもうれしいと思います。家族は職場以上に孤立した環境ですから、妻にとって、花を買ってくる人はあなたしかいませんし、子どもの前で「お母さんは日本一だ」とほめてあげる人もあなたしかいませんし、どうしても起き上がれないときに年休をとって子供たちの面倒を見ながら家事をやるのは夫しかいません。それにもかかわらず、妻へ何の感謝も示さないで自分の趣味の道具にばかりお金をかけたり、子どもの前でだらしないと叱ったり、「家の幼児で会社を休めるわけがないだろう。子どものことは母親なんだから何とかしろ」と怒鳴って、遠いところから妻の両親を応援に来させるようなことがあれば、家族ぐるみで関係が悪化していくことはわかりやすいことだと思います。
どんなに妻を愛していてもいつも良い顔ばかりはできませんが、全くしないということはだめで、2回に1回、3回に1回は夫も無理をする。尊重を形にして示す。これができれば、妻の感覚、感情にだいぶ効果があるようなのです。
「いつもと同じようにしているのだから、自分は悪くない。自分は一貫性がある。」なんてことを言うことが滑稽であるということを理解してください。妻だって、一貫した行動と感情でいたいのですが、体調がそれを許さないだけなのです。夫が悪くないということは言えるかもしれませんが、妻だって悪くない。人間はそんなに理性だけで行動しているわけではありません。でも人間は、生き物なので、どうしても自分を守ろうとしてしまう。自分が攻撃されていると思ってしまう。
ここで思い出していただきたい結婚が決まるまでのあなたの気持ちが二つあります。
一つ目の気持ちは、当時は、例えば野良犬が、二人を襲ってきたら、あなたは身を挺して将来の妻を守ろうという気持ちがあったはずです。妻から自分を守ろうとしていることに気が付いて、二人の仲を引き裂こうとする野良犬という体調変化から、自分を犠牲にして二人を守るということです。二人を守るのは二人しかいません。「自分が悪くないから相手が悪い。」という論理は、「相手が一人で自分たち二人を守るべきだ」という子どもじみた考えだとお気づきになったことだと思います。夫婦はお互いに、相手の親ではない、しかも自分が子どもの時の「絶対的親」ではありません。もう一つの気持ちは、結婚が決まる前は、相手の気持ちを獲得するために相手を観察して、分析して、自分なりに行動したということです。相手の自分に対する対応に一喜一憂したその気持ちです。相手が変な反応をしたとしても、妻から攻撃があったと感じた場合は、「先ず反撃」するのではなく、「先ず悲しむ」ということが正解だということになります。そしてあまり気にしないで、時間が経過したら別の話題を振ってみる。これで解決することも多いかもしれません。そして、感謝の行動と、感謝の言葉、そしてできないことに対するフォローです。これを3回のチャンスのうち1回は実行するということですね。
3回に1回でも男には難しいという事情があると思います。私だけかもしれませんが、より男の方に事情があります。正義感、社会常識、論理、合理性、もしかしたら「子どもの利益」なんて言うのも含まれるかもしれません。こっちが悪くないのだから攻撃するな。このごみをゴミ箱に入れることやこの本をひもでくくって捨てることやいらない物を買ってこないことをするのは常識だろう、こんなことで大騒ぎしたら、近所から変な目で見られるだろう。自分があの時ああしなかったくせに、こっちがしないときだけ怒鳴るな。多少体がきつくても子どものために頑張れないのでは母親ではないだろう。こんな感じでしょうかね。誰でも覚えがあると思いますよ。
よく、連れ去り妻を批判しますよね。「自分のために子どもを巻き込んで子どもの不利益を顧みない」という具合です。自分に原因がないと思うから相手に100%の責任を感じるのは、仕方が無かったことかもしれません。しかし、もし、夫が妻の体調変化に気が付いて対応を変えて、妻が自分は尊重されているんだと感じる機会がもう少しあったならばと思います。夫が悪いわけではないかもしれません。でも妻が悪いわけでもなかったかもしれないし、夫が別の行動をすれば事情が変わったかもしれないということを、今の日本全体で考える必要があると思います。
女性の方も、安易に夫ばかりを責めることをしない方が良いと思います。夫が自分の不安や恐怖の原因だと決め打ちしてしまうと、離婚ができても、夫が生きている限り不安や恐怖が消えないことがあります。ご自分の体調変化に気が付くということは、特にメンタル的変化については絶望的に難しいことです。でも予備的な知識があれば、必要以上に苦しむ前に、解決方法が見える場合もあると思います。


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