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正義。正義感にあふれる人の他人への批判が怒りにまみれているため聞くに堪えない理由 ネット炎上から学んだ結果報告 [進化心理学、生理学、対人関係学]



解題 ネット炎上の際や、そもそもの投稿で他人に対して容赦のない批判を目にします。あんなに立派なことをしている人がどうしてそんな聞くに堪えない言葉を使うのか不思議になります。どうもそれぞれの攻撃者は、自分の攻撃が正義であると考えているようです。いじめやパワハラも、この正義感情が被害者特定の人を攻撃して容赦が無くなって起きることにも気が付きます。この怒りを伴う正義感情がどこから来る、どうして人は正義の活動をすると怒りや攻撃感情が伴うのかについて考えてみました。

1 正義という作られた概念と元々あった「義」という価値観
  「正義」という言葉は、幕末から明治にかけて明治政府側によって作られた言葉で、日本語にはもともとは無かった言葉です。JUSTICEの訳語ということになります。私はこの言葉をわざわざ作った目的は、富国強兵という国家戦略、すなわち軍備増強におけるソフト面の整備だとにらんでいますが、今回はこのことをわきにおいてお話を進めます。

  正義という言葉ができる前も、日本語には「義」という言葉がありました。道義、忠義、義理、義務と言った単語があるように、「人として従わなければならない」事項を意味しているようです。そして義が実践されることにより秩序を形成し、維持することになる効果がある場合に使われるようです。そして何らかの義に反する行為が行われれば、義憤を感じ、義の修復のために義士が立ち上がり義挙をなすという仕組みになるようです。

  この従わなければならない何かというのは、法律のようにある日誰かが決めたことではなく、人間の本能的な価値観というか、暗黙の了解によるもののように感じられます。具体的な内容としてはあまり説明されていないように思われます。言葉に置き換わる内容としてのコンセンサスがあったわけではないということです。それでも、その行為があったときに、義に反する行為だということは、多くの人に共通の理解を得られた内容になっていたわけです。どうして多くの人が共通の価値観を言葉によらずして共有していたのでしょう。
 
 ちなみに論語では義の対義語は利であると述べられています。利に走る行為は平穏な社会秩序を乱すものであるから、利に走る行為に対して否定評価をして、抑制することが義の役割だったようです。

2 義であらわされる人間の本能的価値観を考える手法
  それでは具体的に概念規定されてこなかった「義」というもの、人間ならばなんとなく共通理解が得られた人間の本能に基づく秩序、価値観とは何だったのかということを考えていきたいと思います。「義」が「利」の対義語として使われていたということもヒントになると思います。

  現在以上に、過去の一時点までは義という概念が人間の中で広く意識されていたようです。単純に現代に近づくにつれて廃れていったかどうかはわからないというしかないのですが、仮にそうだとしたらということで考えを進めていきます。この前提に立つとすると、歴史をどんどん遡っていけばいくほど、義という概念が人間の行動原理としてポピュラーな概念であったということになると思います。少なくとも論語が書かれた今から2000年以上前ではかなりポピュラーなものでした。しかし、解説が必要なほど、概念が不明確だったようです。当時の言葉というものはあまり厳密に突き詰めて使われていたものではなったのかもしれません。説明の言葉が無くても、なんとなく共通の価値観というか、感情があったということなのだと思います。

  このブログをよく読んでいらっしゃる少数の方はピンと来られたと思います。言葉で定義されないにもかかわらず、その概念を共有しているということは、人間の本能に根差した感情なのだろうと考えているわけです。人間の本能的な感情は、進化の過程で獲得した感情なのだろうと考えているわけです。つまり「その」感情をたまたま持っていた人類の祖先だけが厳しい環境の中で生き残ったため、その感情が後世まで受け継がれていったというわけです。

  その進化の過程とは、文明が起こり、言葉が発生する以前の話ですから、今から200万年前から1,2万年前の狩猟採集時代ということになるわけです。人間の脳進化は、頭蓋骨からすると約200万年前からあまり進化をしていないとされています。環境はめまぐるしく変化しましたが、心は200万年前と大差がないというわけです。
  そうであれば、人間が言葉無くても共通の感情が生まれる「義」という言葉に表現される感情も、狩猟採集時代の人間の様子、当時の環境にどのように人間の先祖がどのように適合したのかということを考えれば見えてくると思うのです。

3 狩猟採集時代の生活から義の中身について考える
  狩猟採集時代は、人間の祖先は数十人から百数十人の群れを作り、生まれてから死ぬまで原則として一つの群れで生活していたとされています。群れを二つに分けて小動物を狩ってたんぱく質とカロリーを取る集団と、狩りが失敗した時に備えて食べられる植物を採取していた集団が協力して群れの生活を営んでいたようです。群れは完全平等で、食料は平等に分配されていたようです。

  どうやって完全平等を保っていたのでしょうか。これは二方面から考える必要がありそうです。

  一つは、自然な感情として群れ全体で平等に分け合いたいという気持ちがあったためだということです。生まれてから死ぬまで同じ仲間でいると、ただでさえ仲間に対して情がわくでしょう。また、個体識別ができるぎりぎりの人数で仲間を構成していましたので、仲間の心情はすぐに共感できたわけです。不平等な分け方をされると、仲間が悲しんだり、落ち込んだりすると、我がことに様に悲しんだり落ち込んだりしたわけですから、仲間に対してそんな淋しい思いをさせたくないという気持ちが元々あったと思われます。そしてそれが共通の感情だったわけです。だから、そのような不平等をしないで平等に分けることが一番ストレスが少なかったということなのでしょう。

  二つ目は、中には共感力が乏しかった個体もいたはずです。自分だけ多くとろうとする個体が表れることはあったこととでしょう。いわゆる利に走る行動をする人です。しかし、仲間の大勢が平等分配の意識があったために、そのような仲間の意識に反する行動は自然と反発されて強く否定されたと思います。

否定のされ方は穏当な否定、物騒な否定と二種類あったと思います。穏当な否定とはまだ成人に達する以前に自分を優先してしまう行為をすることが明らかになったときの否定です。個体が小さいときは、教育的な否定だったと思います。共感力がない個体も、平等分配が必要だということを学習していったはずです。共感力が育たたなかったとしても、自分だけ多くとろうとすると仲間から追放されてしまう危険があることを学習したわけです。自分だけ多くとろうとする行動をすることは大変怖いことだという形で学習していくわけです。

物騒な否定とは教育の効果が上がらなかった場合です。成人に達しても個人的利益を優先する個体もいたはずです。自分を優先すると分配にあずからない群れの仲間も出てきてしまいます。このような利に走る個体に対する大勢の意識は、利に走るものによって自分が損をさせられるという意識だけではなく、自分より弱い仲間が損をさせられるという意識になったことでしょう。ここで大切なことは、自分だけが損をさせられるという意識ではないというところが大切です。自分が大勢の側にいるという意識は、秩序違反を許さないという意識となります。仲間の中の弱い者を守ろうという意識です。逆に自分だけが損をする場合は、自分が仲間から外されるのではないかという不安が先行しますので、どちらかというと恐れの感情が発現するようです。自分の力ではどうすることもできないので、許しを請うという行動の流れになるしかないわけです。自分だけが損をする場合ではないとすると、仲間の弱い部分が損をさせられるという意識も強くなります。この場合は怒りの感情が発現するようです。その自分優先の個体以外の群れの仲間は自分と同じ考えであるはずだという確信は、許しを請うのではなく相手に許しを請わせるまで追い詰めようという意識になるのでしょう。勝てるし、勝たなくてはならないという意識のようです。この意識をイメージしやすいのは、母熊が、子熊が襲われていると思うと、逆上して相手を攻撃する場合です。人間の場合は熊と違って、母親だけが子育てをするのではなく群れで子育てをするので、群れの共通の弱い者を自分たちで守らなければならないという意識となり、微妙に違いはありそうです。

怒りという感情によって、仲間の弱い者を守るという意識と自分の損を回避するという意識は、自分だけを優先する者に対しては「仲間と自分を加害する存在だ」という評価を瞬時に下してしまうのだと思います。元々は仲間だったという意識は消えてしまいます。自分だけを優先するものは、仲間ではなく仲間に対する攻撃者だという意識に塗り替えられるのだと思います。つまり仲間を襲撃する肉食獣のような存在として意識づけられて、肉食獣に対するものと同じような攻撃感情と攻撃が向けられるわけです。躊躇する事情が無くなるわけですから、純粋に怒りの感情に任せて容赦のない攻撃がなされたことでしょう。

もしこの思考が正しければ、義という概念は、自分たち仲間の大勢がそれを守るべきものと認識していたもの守るべきだということを意味し、それを害することに対して否定しようとさせる概念であるといえるでしょう。ここでいう守るべきものの原始的対象は「仲間の中の弱い者」であったということになると思います。義を乱したものに対する感情は、怒り、攻撃、敵対心というものであり、攻撃は躊躇なく行われるという特質があったということになります。そして損をするのが弱い者ばかりではなく、当然自分もやがて損をすることになるという場合が、怒りのエネルギーを大きくなったのではないかと考えています。

4 義の感情の歴史的推移、弱者保護から秩序維持へ
  文明が生まれる以前、狩猟採集時代で貧富の差を作りようがなかった時代は、義という感情は、自分と弱い仲間を守ろうという感情とほぼ同義だったと思います。逆上する母熊の集団バージョンということになるでしょう。やがて文明が生まれ、群れが大きく複雑になっていくにつれて、そして言葉が生まれることによって、そのような素朴だった感情も複雑になっていったと思います。
  狩猟採集時代は、公平や弱者保護自体が秩序となり、おそらくそれがほとんどすべてだったと思います。しかし、群れが大きくなり、個体識別ができない相手が他者を支配するようになると、支配者を中心とした秩序を守ろうとする意識に、平等や公正がすり替わっていったというか利用されて行ったのだと思います。

狩猟採集時代においても、人間は弱者保護と公平公正の目的とは別の目的で、秩序の存在が必要だったと考えられます。例えば小動物を狩りする場合も、多数で追い込む狩りの手法であったため、それなりの計画的な統一行動が必要になります。言葉がないので細かい打ち合わせは不可能です。結局、群れの中の誰かが判断をして、その判断に従って行動していたのでしょう。それができなければ小動物でも捕まえられなかったはずです。自分勝手な行動は群れに迷惑がかかります。また、人間関係のトラブルも、些細なことであれば、誰かを追放するまでもなく、群れの権威のある人物に従って解決したことでしょう。これらの場合の権威者は、おそらく固定していた一人の人ではなく、場面や対象によって流動的に権威者が入れ替わったと想像しています。ともかくもその時その問題で権威者となり秩序形成の的として認知されれば、その人間に無条件に従っていたと思います。ミルグラムの服従実験は、人間が服従をすることを示したものではなく、瞬間的に権威者を見つけて秩序を維持しようという自発的行動をすることを証明したものと私は考えます。

  つまり人間は、それが秩序であると大勢が認知してしまうと、それが真に守るべき秩序か否か、あるいは自分に何らかの利益を与える秩序か否かをあまり考えないで、本能的に秩序に従うという性質があるのだと思います。古い秩序を覆して新しい秩序を形成するということは、とても難しいことだという理由がここにあります。革命などの新秩序形成行為について快い肯定的な感情がわきづらく、物騒な否定的な感情がわいてくることが自然なことだということも理解できることです。

  こうして必ずしも弱者保護や公正が、人数の増加と社会構造の複雑化によって、秩序維持の本能と融合していったという動きがあると私は考えています。

5 義から正義へ
 現代の人間は、多種多様な人間と複雑な関係を形成しています。関係する人数も多ければ、所属する群れも一つではなく、無意識に多数の群れを形成しています。無数の人間関係それぞれに、いちいち義があり、それが複雑に影響しあっていることになります。それぞれの人間関係ではそれぞれ異なった秩序が形成されていることになるはずです。守らなければならない秩序がそれだけ多くあるということになります。
幕末から明治にかけて、欧米列強に追いつけ追い越せという国家政策がすすめられ、それまでの江戸幕府のような国民の多様な価値観を肯定していたのでは、国家政策が効率よく推進できないという事情が生まれたわけです。「義」という多様な意味合いを持つ言葉は、結局それぞれの人間関係にあることを承認することが前提となっていたと思うのです。これでは国単位での戦争を遂行するためには妨げになりかねません。列藩という単位を排して、国という統一的な秩序に国民を統合することが他国と戦争を起こすためには有効だと考えたのでしょう。この考えのもとで廃藩置県を行い、廃仏毀釈をすすめ、天皇という単一の最高秩序を押し出して国家秩序の形成を進めたと考えると賛否はあるにしても合理的な行動だったと思います。
 そのためには、ローカル色が強い多様性のある概念の「義」という言葉では足りず、他の事情を差し置いても最も守らなければならないという強力な秩序があるという意味で「正義」と名付けられたのだと思います。ここで言う「正」は善悪の善という意味ではなく、正室とか正一位、あるいは正大関というような、正式のという意味での正なのだと思います。つまり、国家秩序だけが正式の義として守るべきものであり、他の義は後列に置かれるもの、あるいは偽物の義という位置づけにしたわけです。

6 現代日本における社会病理の推進力としての正義
 短期集中でインターネットの炎上についての実態を調べていたのですが、予想通り大変興味深い結果が出たように感じました。私の調べた範囲について報告します。
 ある投稿に対して、それを批判する投稿や否定評価をする投稿が次々と行われて収拾がつかなくなる状態である「炎上」という状態になります。炎上になる理由として正義の感情があるように思われました。炎上が大きくなるほど素朴な正義感というか、狩猟採取時代の義の感情が発動されるパターンが見られました。
 炎上が起きやすい投稿パターンは以下の通りです。

1)そもそも誰かを攻撃する内容、ないし、誰かに損害を与える内容の投稿
2)同時に反論投稿者をする人も、その投稿によって攻撃されているという意識を与える投稿 
3)その攻撃が、なんらかの理不尽だと感じられる要素のある攻撃
4)自分だけでなく、大勢が不快だと思うことが予想される投稿(内容又は表現、あるいは選択した投稿メディア等)
5)容赦のない攻撃をしていると感じる表現、下品な攻撃表現、人格を否定するような攻撃表現
6)誰かを攻撃することによって自分だけが得するという抜け駆け的な利益を目的にしているように感じる投稿 
7)自分を含めて多くの人たちが秩序に反する立場だろうと感じられる投稿、 反秩序(不道徳、違法、不合理)を擁護する投稿
8)一定の影響力があり、部分的にでも秩序を害する恐れを感じる投稿
9)投稿文言に大きな隙があり、主張内容その他に批判する部分が多い投稿

特に初回投稿者が、自分が攻撃を受けているわけでもないのに、他者に対して極めて不寛容であり、かつ表現の品位に疑問が持たれるような攻撃をしている場合でかつ一定程度以上の支持を受けている場合に、炎上が起きやすいようです。自分の主張ないし感情こそが正式な義であるという意味での正義だと主張して、自分の主張と異なる他人の日常や悪意のないふるまい、あるいは存在自体に対して、感情的な表現や、品位を欠く表現で、相手の人格を貶めるような攻撃が炎上しやすいようです。特に不特定多数人に対する言いがかりのような攻撃が目立ちました。白を黒に塗りつぶして黒だと批判しているようなものです(オリジナル表現は平野龍一「刑法総論」)。

中には攻撃されても仕方がない行為が実在している場合もあるのですが、その行為者に対する攻撃ではなく、一定の属性(男性、女性とか、国籍とか)全体が同じ行動傾向、同じ思考、思想、人となりだと決めつけて攻撃する差別的な表現は、当然のことながらその非行行為をしない、その属性の人間から大きな反発を受けるわけです。当然、別の属性の人たちからも言い過ぎであるという主張がなされるようです。

炎上を生む投稿は、正義の多様性、相対性を認めず、差別的な思考パターンの元、攻撃しなくてよい人を攻撃している結果となっているという特徴があります。自分が正しくて、自分以外が悪だと主張しているという印象を持たれているわけです。

自分の行為に対して批判があるのであれば仕方がありませんが、自分の属性に対して批判されることは、端的に差別をされるということですから、反発を受けることは当然のことであろうと思います。

それでも自分が差別や、罪なき人に対して攻撃しているということに思い至らず、あくまでも正義を主張しているという意識ですから、自分が守ろうとしている何かのために子連れの母熊のように逆上してしまっているわけです。炎上すればするほど、他者が自分を理由なく理不尽に攻撃しているとしか思えません。反論を試みるわけですが、同じような感情的な反論ですから、論旨も不明ですし、表現も的を射ていない表現となり、ますます反発を募らせるだけであるようです。

7 正義と娯楽
 インターネットの誹謗中傷に対して提訴をした方がいて弁護団を交えて記者会見が行われました。ところが会見自体が、上記の炎上を生む要素に多くあてはまる内容でした。裁判前の会見はアドバンテージを獲得することも大事な要素だと思います。会見によって味方を増やす結果にならないと意味がないと思います。しかしながら弁護団の会見は、話している内容もさることながら、表現や姿勢などを見ても、新たな味方を増やすという意識は感じられず、元々の仲間内の結束を強固にすることが目的だったのかなと感じました。

 いくつか気になった弁護士の発言がありましたが、「インターネットで人を攻撃するのが娯楽として行われている」という発言もその一つです。

 インターネットの炎上は、一口にインターネットと言っても、ツイッターなどのSNS、ユーチューブ、インターネットテレビなど実際には様々な媒体があります。今回短期集中的にそれらの発信を読んでみたのですが、とても発信に工夫がなされていることに感心しました。特にユーチューブのゆっくり解説は、たくさんの発信者が、手段を共有しているものらしく、様式美を感じました。動画の中で、アニメキャラクターの2人ないし3人が登場し、1人ないし2人が聞き手で1人が説明するという形をとります。聞き手が時折疑問を呈して、それに話し手が答えるという手法はとても理解が助けられます。字幕も整備されていますし、画像も効果的に引用されています。とても分かりやすいのです。さらにアニメキャラクターの絵も声もそれなりに工夫されて、感情自体を伝えています。年配の人が見ればふざけた娯楽のように見えるかもしれません。そのようなものではなく、主張を明確に他者に伝えるプレゼンの要素が詰め込まれている立派なものです。中立の人を味方にしようとする努力に感心するほかありません。

 また、そのような媒体の工夫がない発信でも、読み手、利き手を引き付ける工夫がなされている発信者も多いです。相手の批判の方法にもウイットを聞かせようと意識している人たちも多いです。そういう人たちは、能力をアッピールしようという意識があって、単純に真正面から批判するだけでなく、アイデアを競うというか、能力を見せつけようとする人たちも多くいらっしゃいます。それを娯楽というかどうか難しいところです。攻撃を受けている相手から見れば、面白がって攻撃していると映ることはその通りなのでしょう。

 但し、後発参戦者になればなるほど、そのような工夫の余地が出し尽くされている感もあるため、あえて斜めに切り込んだり、攻撃の表現を激烈化したりして参戦するということが見られました。これは残念ながら確かに見られました。娯楽というかどうかはともかく、後発になればなるほど、建設的姿勢が低くなる傾向にあるように感じられます。

 いずれにしても、義を実践することに人間は喜びを感じる動物です。自分が炎上もとになった投稿や投稿者に感じるもやもやを言語化してくれることにカタルシスを覚えるようです。
 それでも炎上もとになった投稿者は、自分の正義を疑いませんから正義の主張を続けるわけです。それも自然な流れでしょう。そうするとさらにそれにかみついてくる後発参戦者がでてきてしまいます。そのころになると大勢が決していて、炎上元はごく少数者になります。それでも正義の感情は怒りの感情ですから、相手が弱ってきて、相手は反秩序でこちらが正秩序派だという意識が強くなっていきますから、攻撃性がむしろ激化していくようです。徐々に攻撃のための攻撃をする後発参戦者(コメント書き込みなど短文投稿者)が出てきてしまいます。初発の参戦者ほど、表現に工夫は無く、また工夫するメディアでもなく、純粋な攻撃に近くなってしまいます。こうなると、正義を主張して反発を受けた炎上元投稿者に対して、別の正義を押し付けて事態が収拾付かなくなるようです。

 正義という概念は、元々あった人間の性質である義を大切にする感情を利用して、それを特定の方向に誘導するために作られた概念だと思います。本来、義は複数あり、正式の義である正義なんて言うものはフィクションにすぎません。それがあたかも絶対的な正義があるように他者を排斥する手法は、戦争遂行を至上命題とした明治政府と同じ行動を、無自覚に行っているわけです。

 正義という観念がインターネットの炎上の根本原因であると私は感じました。

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出て行った妻に対して「話し合いを求めること」が逆効果になることについての注意喚起 [家事]



ふと気が付くと、大抵の同種事案では繰り返されていることでした。代理人の仕事をしていてなかなか意識に上らなかったのですが、何件か立て続けにありましたので注意喚起をします。


その準備をしていることも気が付かないうちに妻が子どもを連れて別居することがなかなか減少しません。いろいろな原因があるのですが、ここでは夫の行動が知らないうちに妻の行動を助長していたようなケースです。原発的原因が別のところ、主に妻の体調と妻の相談相手(実家、似非女性の権利の主張者である行政とNPO、警察、病院等)にあるのだけれど、夫が意識して自分の行動を修正することをしなかったため、いつしか妻は夫に敵対心や恐怖を感じてしまい、その感情が固定してしまった場合、つまり典型的な連れ去り(思い込みDV)のケースを念頭に置いています。

夫は、何が何だかわからないことが通常です。多くの場合、妻が自ら出て行ったという痕跡があるものの、それを認識できることはあまりありません。何か事件に巻き込まれたのではないかと探す人がほとんどです。警察に届け出る人も少なくありません。しかし、いくつかのやり取りを経て、妻が自分から逃げ出したのだということが伝わります。警察官から、「奥さんは無事だから心配するな。しかし居場所は教えられない。」と告げられる人も少なくありません。この時警察官から自分が犯罪者のような扱いを受けていると感じる人もいます。大体は奥さんは配偶者暴力相談を受けていて、「あなたの夫は危険なDV夫だ。一緒にいると危険で命を落とす場合もあるので逃げなくてはならない。」と言われています。その相談をした段階で、行政から奥さんは「被害者」、夫は「加害者」というカテゴリーでひとくくりにされているということは頭に入れておいてください。もちろんそのような危険など現実的には無いということが正しいのです。「なんだろうね、この日本の非科学的な家族破壊の行動は。」ととても歯がゆい気持ちになります。そんなに行政や警察官は理解のある夫なのでしょか。ただ、我が身をかえりみないだけだと思います。

さて、怒りが止まらなくなる前に本題に移行します。

夫はどうして妻が家を出て行ったのか理解できていません。これは当たり前だと思います。私が相談を受けたこういうケースはほとんどのケースが夫が自分では原因などがわからなくて当然のケースでした。特にご自分では身に覚えがないことはよくわかります。

妻の居場所が、妻の実家だとか様々な事情で分かる場合がありますし、昨今であるとラインやメールがつながっている場合もあります。つまり夫は妻に対して連絡が取れる場合です。(居場所が全く分からない場合も少なくありません。)こういう相手と連絡が取れる場合に、夫がついやってしまうことは、メールなどで、「話し合おう」という呼びかけをすることです。

わたしでも予備知識が無ければ、当然話し合いを求めると思うのです。何が何だかわからなければ、情報を得たいということも人情です。しかし、この本能的な行為こそが、別居した妻の感情をさらにこじらせていることが通常です。話し合いを求めることは逆効果になることがほとんどなのです。

これを解説します。なぜ話し合いを求めてはならないか。

1)話し合うことが嫌だ。
話し合いをしたくないから逃げ出した。それなのに話し合いを求められることは、嫌なことを強要されることになる。詳細はともかく総論としてはこういうことになります。

2)なぜ話し合いが嫌なのか。
  話し合いということは、双方が改善する必要があるという認識を持っていることを示してしまいますが、逃げ出す方は、一方的に夫が悪いと思い込んでいます。客観的にどうなのかについてはわかりませんが、主観的にはこういう状態です。だから話し合いを申し入れることは「夫はまだ反省していない。」と妻を失望させるようです。
 また、夫との話し合いは(これまでの学習から)、妻は自分が夫から言いくるめられて終わるという嫌な思い出を持っていることが多いようです。逃げ出すに至った経緯で夫の落ち度をうまく言えない妻は話し合いをして自分に勝ち目がないことをよく知っています。だから話し合いを求められることはまた自分がうまいように言いくるめようとしていると受け止めるようです。
 この結果、話し合いを求めれば求めるほど相手はこちらを嫌悪するようになっていくということが一般的です。
どうやら警察や配偶者暴力相談センターでも話し合いには応じるなというアドバイスをしているようです。

3)ではどうするのか、情報の収集
 メールやラインがブロックされない場合、何らかの返信が来ることが多いです。昔の誘拐犯からの警察の逆探知ではないですけれど、なるべく相手からの情報が来やすくなるように心がけるべきです。そうして、わずかな情報量ですが、おぼろげながらに出て行った理由が垣間見られる文章があります。しかし、その情報が出て行った理由だと夫が認識できることはあまりありません。専門家に相談した方が良いと思います。これも夫であるあなたに支持的に相談に乗るタイプでは役に立たないでしょう。「あなたは悪くない。」という専門がいたから妻は出て行ったわけですから、永遠に溝は埋まらないでしょう。本来はわずかでも情報を獲得し、その情報に基づいて、反省の弁を述べることが必要なのです。

4)どうやって情報を勝ち取るか
 これ、メールなどで直接情報を獲得できない場合は厳しいです。共通の知人、相手の親(たいていは一番の敵対者)から情報を獲得するか、代理人を依頼して双方の代理人が別居の理由を共通理解にする作業が行われることを待つしかできません。
 もし幸いにして直接メールなどで連絡が取れる場合どうするか。
先ず、相手を責めない。批判しない。「家族の不具合は夫の結果責任だ」くらい鷹揚に構えるとよいようです。なかなか難しいですが。そうして、事務連絡を要点だけこまめに連絡を入れることみたいです。例えば郵便物の連絡などです。安否確認も最小限にするべきです。効果的な文言を厳選しましょう。とにかく相手が焦ることのないように細心の注意を払いましょう。
ギャンブルになりますが、離婚原因にはならない程度で謝罪の言葉を送信することも検討するべきかもしれません。ただ、あまり大作にはしないほうが経験上は良いです。長すぎる文章は頭に入らないという精神状態のようです。

5)そして一方的に謝罪する
夫であるあなたが、何とか家族を再生させようとする場合は、話し合いをするのではなく、一方的にこちらの非を認めることが出発点です。本心をぶつけるということは絶対にせずに、結果を誘導するためにはどうするかという戦略をもってあたることが鉄則です。双方が感情に任せてやり取りをしたのでは何もうまくいかないでしょう。

また、謝罪に終始しても、読んでいる者が負担に感じることも効果がなく、逆効果になることもあるようです。難しいです。

妻の不満を簡潔に言い当てることが必要です。その場合、少ない情報でもそのことを基軸に謝罪を構成するべきだと思います。つまり客観的に正しい謝罪というものはありません。妻の気持ちが少しでも落ち着くことが正しい謝罪だということを心掛けましょう・

謝罪の内容は、御免なさいということではありません。
A) 自分のどういう行為によってどのように妻が心理的に圧迫を受けていたり、仲間として尊重されていないと感じていたかを言い当てる。
B) どうして自分がそのような行為をしたのか、あるいは思いとどまらなかったのかを説明する。
C) 今後どういうふうに修正していくか
こういうことを述べることが謝罪です。

とにかく長くならないことが一番のようです。
A)とC)については、できる限り具体的に述べる必要があります。
B)は言い訳なのですが、仲間として尊重しなかったからではないということを告げることは大切なことです。もちろん妻に原因があるなんてことは絶対にダメです。
C)については、明るく気分を上げてもらうことを意識すると良いのではないかと考えています。

メール、手紙、調停の陳述書など、それぞれの機会に応じた内容にするべきです。読んでいて苦しくなるような文章は絶対にNGです。誰かに読んでもらって感想を聞くという作業ができたらとても良いと思います。但し、あなたの母親など、あなたに支持的な意見しか言わない人では意味がありません。

いずれいつか以下のこともテーマにしなくてはならないと思うのですが、今回は頭出しだけしておきます。
どうしても許してもらえない、つまり相手が離婚に固執しているような態度をとっている場合は、本心は別としても離婚という相手の意思決定を尊重するという態度が最後の手段ということになります。通常は誰しも、離婚をしてしまったら再生はあり得ないと考えるのが当然です。しかし、離婚だけは応じないということを前面に掲げて頑張ってしまうと、相手は頑固に結論を押し付け来る、何も変わっていないと感じ、自分を否定し続けていると感じて事態を悪化させるだけの場合がほとんどです。
籍にこだわるのか、実質的な家族再生の可能性を追及するのか二者択一の局面があるのです。もちろんどちらを選ぶのもその人の生き方の問題です。但し、現代日本の家庭裁判所は、離婚理由がない離婚を、別居期間の継続と離婚意思だけで認めてしまうという不合理なところです。結局何もかも失う可能性も低いわけではないということには留意されるべきだと感じられる事案が少なくありません。

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それが「いつ起きたこと」だったか思い出せない理由と思い出させるテクニックの検討 [事務所生活]



<問題提起>
例えば職場のパワハラでうつ病にり患した人が損害賠償請求を起こすという場面を想定してください。うつ病になった人は、どのようにパワハラを受けたか、どのように叱責を受けたか、どのようなしぐさをされたのかということについては比較的覚えています。覚えているというよりは忘れられないという表現の方が正しいようです。しかし、何年からパワハラを受け始めたのかとか、同僚の前で暴行されたのは何年のことかというと思い出せない場合も多いのです。

これが、つい最近の出来事であれば、思い出せないということは無いのですが、数年前のことになると、何年のことかと質問されて、パッと何年ですと答えられるということは少ないのではないでしょう。

すぐには思い出せないとして、何年から何年の間だと言っていただければ、まだよいのです。そうではなくて、自信もないのに平成何年のことでした。なんて言われて、それを簡単に信じてしまうととんでもないことになります。例えば、パワハラ受け始めたのが平成28年のことです。なんて言ってしまって、そのように裁判書類にも書いてしまった後で、実は平成27年から精神科の治療を受けていた、しかも病名がうつ病だというのであれば、「現状のうつ病はパワハラ以前から始まっていたではないか」ということになってしまいます。実は平成26年からパワハラが始まっていたのに、言われてから年号を変えるというのでは全く信用性が無くなってしまうということもあります。

裁判の場合、きちんと言わなくてはならない事実の外に、その事実の前提となるような事実もあって、何年かということを間違うことは致命的になる場合もあります。

しかし、それが何年かということは、なかなか思い出すことは難しいようです。
今回は、どうして何年かということが思い出しにくいのか、答えにくいのか、あるいは間違いやすいのかということを考え、どうやって正確に思い出していただくかということを考えてみましょう。

<それが何年なのか思い出せない理由>

記憶していた出来事を思い出すという作業の特質からすると、何をされたかということは思い出しやすいのですが、それが何年だったのかということを思い出すことはそもそも難しいということのようです。

この点については、ちくま新書「記憶の正体」(高橋雅延)の勉強成果に基づいてお話しすることとします。以下の文中の数字はこの本の頁や章を指しています。

1)人間の記憶の想起には手掛かりが必要である(第6章)。

何かの出来事の記憶を思い出すためには手掛かりがあることが必要なのだそうです。殴られたこと、侮辱されたことということがトラウマになってしまうと、忘れられなくなってしまうために、思い出すという作業は不要になるでしょう。
あとは間違った記憶を排除して、出来事を正確に再現する作業が必要になるだけです。

何人かから暴言を受けるという場合、そこに誰がいたかということを思い出す場合、例えばその暴言を受けた場所に行くとその時のメンバーが誰であったか、記憶がよみがえりやすいということのようです。もっともその場所に行かなくても場所、例えば会議室の様子を思い出すとその時のメンバーの顔も思い出しやすくなるようです。逆に、PTSDに限らず、何らかのトラウマ体験に苦しむ人は、その時の絶望的な気持ちを連想させる場所に行くだけで、その時の苦しかった感情がよみがえってしまうようです。雨の日に性被害に遭った若い女性が、雨が降るだけで気持ちが落ち込んでしまうということを聞いたことがあります。

これに対して年数については、なかなか手掛かりということがありません。そもそも、出来事があったときに、今何年だということを意識してはいないと思うのです。確かに今何年だと問われれば、2022年だと簡単に出てくるのですが、何かをしているとき、あるいは何かをされたとき、今2022年だと意識しているということは無いと言えるのではないでしょうか。

出来事については、感情が伴います。悪い出来事ならば、悔しかったとか悲しかったとか、怒りに震えたなんてことがありますので、思い出すきっかけは豊富にあると思います。しかし、何年かという数字が感情に結び付くということが難しいということも思い出すきっかけが見つかりにくいことの一つの理由だと思います。

例えば、ディズニーランドに最後に行ったのが何年かということです。子どもと一緒にどんなアトラクションに乗ったということは覚えているのですが、それが何年のことだと聞かれても、すぐには返答不能です。

出来事と年数は直結しない、元々直結して記憶していないということも言えるのかもしれません。

2)思い出しやすい記憶は、何度も思い出している。

記憶の想起は、記憶力を鍛えるよりも記憶したことを引き出すこと早期の練習が効果的である(170~175頁)。
思い出すためには、反復して思い出す訓練をすることが必要である(166)

繰り返し思い出すことをしていると、思い出しやすくなるようです。忘れられないトラウマなんかは、繰り返し思い出しているわけですから、記憶は定着しやすいということになり、わかりやすいです。
しかしながら、それが何年のことかということについては、いちいち思い出すことは無いと思うのです。いやな出来事は反射的に思い出したとしても、思い出したくない、思い出した時に苦しい思いをするということであれば、意識的に正確にアウトラインを検証してみるなんてことはしないと思うのです。そうすると、それがいつのことかということは思い出す作業をしていないとなると、やはり何年かということについて思い出すことは難しいということになると思います。

3)西暦と元号の混乱

最近見られるのは西暦と元号が混乱していることです。平成28年は2016年なので、平成28年というべきところを平成26年と言ってしまうという単純ミスがよく見られます。また、そうやって西暦の下一桁に2を足していくという作業をしていると、元号の下一桁に2を足してしまってありえない年数をお話しする方もいらっしゃいます。
これは慎重に聴き取れば、間違いを回避することはそれほど難しくはありません。

<それが何年のことか思い出すための方法>

1)想起の基準、時間軸のランドマークを作り当てはめる
大きな出来事を基準として、その前なのか後なのかという聞き方をして思い出していただくということをします。

私は仙台の弁護士ですが、少し前までは、その出来事は東日本大震災の前か後かということを手掛かりにして思い出してもらうことが良くありました。震災によって、私たちの生活は大きく様変わりしました。そのことが震災の前か後かということは比較的思い出しやすかったようです。

そのエピソードが震災によって何らかの影響を受けていれば、「ああ、あの時ああしたのは震災によってこういう習慣が生じたためにやったのだから、震災の後であることは間違いない。」等と思い出してもらえたようです。

しかし、これも震災後10年近くたったころからはあまり役に立たなくなってきました。
ただ、時間軸のランドマークを作って、その前後という問いかけは有効になることが多いです。どのように時間軸を設定するかという工夫の問題が肝心だと思います。

2)関連する出来事の経過表を作る

年数を思い出すことにも有効ですが、人間関係の紛争を理解するためにも、出来事の時系列表を作るということはとても大切だと感じています。

何年何月のことについて、最初はあまり神経質にならず、主だったエピソードの先後関係を間違えないようにだけ神経を使ってもらい、古い順から並べてもらうということをまず作業として行ってもらうようにすることが多いです。

この作業は、弁護士が出来事を頭に入れ、原因や解決方法を考えるためにも必要ですが、当事者の方がご自分の頭の中を整理するためにもとても有効です。この時系列を整理しただけで、自分に対して自信を持ち、相手と対決してご自分で事件を解決してしまった人もいらっしゃいます。

3)客観的に年月日が特定できる資料によって精緻に仕上げていく

出来事の順番については、比較的思い出しやすいようです。出来事を前後関係順に並べていただき、思い出せる範囲で年数をいれて、少しラフな時系列表は結構誰でも作ることができています。そこからが弁護士の腕の見せ所ということになります。

ラフな時系列表の中で、それが何年のことなのか客観的に確定できる出来事があります。入籍の年月日、子どもが生まれた年月日は、覚えていることが多いです。比較的思い出すことが多い年月日だから、想起の作業の反復訓練をしているわけです。検証が必要な場合では戸籍謄本を見れば確実です。

同様に住民票には転居の年月日が記載されていますし、登記簿謄本には登記をした年月日だけでなく登記をする原因になった相続の年月日、例えば被相続人の死亡日が記載されています。

4)客観的な年月日を元に出来事の年数を推測していく
子ども生年月日を特定して出来事の時期を確定していくという作業はよくやります。特にお子さんが小さい時の記憶は、出来事と関連付けられることが多いようです。それはお子さんが小学校に入学した年のことだとか、幼稚園に入る前だけど生まれてはいたとか、幼稚園がたまたま休みだったので子どもを連れてそこにいたとかいう感じですね。また、どこに住んでいた時の話だったから、住民票を見てその年が特定できるということもありましたね。

記憶の想起の仕方は関連付けであることは間違いないようです。思い出すという作業は、何か別のことと関連付けるということかもしれません。

5)さらに精緻に

年月日を正しく特定するための関係する出来事を提案するためには、ある程度人生経験が必要だと思います。ここでいう人生経験は必ずしも年齢に比例してはいません。当たり前の人間であれば、生活するうえで当たり前にどんなことをするかということを知っていたり、自分には興味関心が無くても普通の人なら強く印象に残ることを知っていなければなりません。今サッカーのワールドカップが行われています。日本選手はベスト8にはなりませんでしたが、強豪国とPKまでもつれ込むという大健闘を見せてくれました。「え、知らなかった。」という浮世離れな感覚では、一般事件であっても支障が出るかもしれません。

当たり前の話でも、そういう意識をもって話を聞くことが大切ということなのでしょう。例えば、メインの出来事の前に軽い事故に遭っていたという情報をゲットすると、病院の記録によって、その事故の年月日がわかるかもしれません。簡単な方法としては、その病院に行ったのはそのけがの手当てをしたときだけだとなれば、診察券を見れば年月日がわかることがあります。さらに、パワハラを受けて胃が痛くなったので胃カメラの検査をしたということになれば、診療録(カルテ)が残っていれば、そのコピーをもらって胃カメラ検査をした日が確認できます。カルテに、「何か悪いものを食べた記憶はないが、上司からこっぴどく叱責されることが続いているので、神経性のものかもしれない」なんてことが記載されていれば、思い出す道具だけでなく、提出する証拠になる可能性も出てくるわけです。

6)終わりに 興味を持って聴くこと

年月の問題も記憶の想起の場合は、思い出すきっかけが無ければ思い出しにくいけれど、関連付けていくと結果的に正確な年を割り出すことができるということが共通していることが面白いところです。記憶についての勉強はとても役に立つように感じました。

ただ、人間の営みについて理解していなければ、せっかくの武器も素通りしてしまうという危険もあるのが年数の問題だと思いました。この素通りを回避するためには、その人と紛争相手の行動について、興味を持って聴くということが肝要なのだと思われます。

知識と興味によって、こういうことがあればこういうことをするのではないかというアンテナを大きく広げて正確な事情聴取ができるのだと思いました。

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非政治的視点からSNSの非組織的炎上の原因を考える なぜ集中砲火が起きるのか 正義こそ紛争の火種 [進化心理学、生理学、対人関係学]


1 SNSの論争の特徴 はじめから論理学的論争ではないということ

SNSにはSNS上の論争の場ができあがる。投稿者の投稿に対して反論投稿者が現れ、投稿者が再反論をしたり、第三者の参戦者が投稿したりする。
公序良俗に反する等、運営規約に反しない限り、論争のルールはない。

最初の投稿者の投稿、反論投稿者の投稿、あるいは後続参戦者の投稿について、多数の批判者が現れて収拾がつかなくなることを炎上というようだ。

炎上の様子を見ていると、必ずしもその投稿者の投稿自体の論理の内在的矛盾を突くことが多いわけではなく、投稿者のこれまでの投稿との整合性や投稿者の態度、表現に対する批判が多いように感じられる。

実務法学の論争においては、学者が学説を戦わせて自説の優位を主張する。しかし、そもそも法律自体が人間の作ったものであり、すべての事象を念頭に置いて作られてはいないので、様々な学説があったとしても、通常は各学説に論理破綻があることは少ない。現場への法適用や他の法律との整合性などから、学説の賛同者の増減が決せられる。但し、この学説の多数が必ずしも裁判所が採用する説とならないところも複雑なところではある。

尊敬する学者同士の論争においても、妥当性という不確かで基準があいまいな議論をするためか、勢い論者に対する人格攻撃とまではいかないが、他説に対する厳しすぎる論調がみられることがあった。学生からすれば、それほど立場の違わない学者の方々同志の厳しすぎる論争は、物騒というか、寒々しいというか嫌な感じがして辟易することもあった。それでも学者の論争には超えてはならない一線というようなものがあった。学者という社会的立場や他の学者からの評判など、感情と表現を制御させることについての共有されたものがあった。

SNSの論争も、論理学的な優劣を競う論争ではない。特に炎上が起きる場合は、論理的破綻は批判の材料であって、批判の理由にはなっていないように思われる。だから、勢い、相手よりも優位に立とうとして批判表現が苛烈になったり、同調者が膨大になり、相手の主張を圧倒しようとしてしまう条件ができてしまっている。投稿者らには、共通の要素もなく、感情と表現を制御するための装置は存在しないようである。

人間関係の紛争ということが私のテーマである以上、SNSの炎上は大変興味深い研究対象である。短期間ではあるが、特定の大きなテーマについて、後追いの形でいくつかの炎上した論争を追ってみた。

2 非組織的批判の集中は、不道徳な感情から起きえないこと

大体は、初回投稿者に投稿に対して炎上は起きる。炎上が起きる初回投稿者の投稿に批判しやすい文章であることもあって、大体は反論投稿者の投稿において大勢が決せられる。
興味深いことは、大勢が決せられたと思われた後の後続参戦者、あるいは投稿はしないけれどいいねボタンを押して何らかの意思表示をするギャラリーの態度である。反論投稿者の切れの良い反論に対して賞賛がなされるというよりも、初回投稿者の投稿が否定されたことに感情が動いているように見える。大勢が決していても、他の角度から初回投稿者を批判する投稿が行われる。これが炎上である。

こうして初回投稿者は、多くの人間から批判の集中砲火を受ける。なぜ批判者たちは、一人の人間がこれほど容赦なく切り捨てられているのに、かわいそうだと思って論争を終わりにしないで、さらに批判を続けるのか、この点について掘り下げて考えてみた。

A説
先日、SNS上の誹謗中傷を理由として、SNS投稿者を提訴したという記者会見があった。その中で、そのSNSによって攻撃された対象者が女性であり、若い女性の保護をする活動をしていることをもって、攻撃理由は女性を攻撃する差別行為であると私の同業者が代理人として発言していた。

そうだとすると、炎上という現象が起きる後続参戦者の参戦も、やはり誹謗中傷のたぐいで、主たる動機が女性差別にあり、女性の権利を主張することが疎ましく感じられていたので攻撃をしたということになってしまうのではないかという疑念が生じた。

しかし、提訴者の説明による誹謗中傷の中身を見る限り、初回投稿者の投稿の中に女性性の蔑視に直ちにつながるような発言、意思表示は見つけられない。女性の保護活動、権利擁護に反対する人格態度も見られない。投稿者らの本当の動機は知りえないが、内心が表示されてもいないのに、女性蔑視者だと決めつける評価は論理的には成り立つものではない。炎上の中身である後続参戦者の投稿表現を見ても、特徴的なことは、女性全般を対象にした発言はほとんど見当たらない(性急な一般化は見られない)。女性以外の何らかの差別的な書き込みは存在していたが、それらは他の参戦者からは相手にされていないという特徴があった。

論理的には、女性女性蔑視という動機や行為の性格付けは、あくまでも解釈上動機として考え得る可能性の一つに過ぎないはずである。

結果として、提訴者やその帰属する団体の活動に支障が出て、保護を受けるべき若い女性が保護を受けられないという事態になれば、結果的に保護を受けるべき人に損害が生じる可能性はある。ただ、そのような結果が出ることと、目的として女性蔑視があるということは論理的にはつながらない。

非難されている対象が女性であるとか、若い女性が結果として損害を被る可能性があることをもって、投稿者が女性蔑視という人格を有していると主張することは、論理の飛躍や詭弁というよりも、せいぜい当てこすりという低い評価に甘んじるべき発言であろうと思われた。

ちなみに、提訴した女性本人と団体の活動については、後続参戦者やギャラリーにおいてもその意義を否定する論調はほとんどないように感じられた。むしろ、行政では思いつかない発想の中で、やるべきことを現実的に実践しているという評価であり、否定評価はほとんどなく、行政の委託事業になっていることは当然のことであるという認識が支配的であると感じられた。

安易に、マニュアル的あるいはステロタイプ的に、差別者だというラベリングをして攻撃しているだけであれば、訴訟を繰り返したところで炎上も繰り返すだけのように思えた。

3 本当はかなり難しいSNSの発信1 寛容な忖度がなされない理由

SNS発信は難しい。一瞬で膨大な数の人間に、自分の発信が到達するからである。現状、発信と反応についてのルールは希薄である。大勢の気に入らない発信は、無視されるか、やり玉に挙がって攻撃される。ツイッターでは元々の発信を引用されて批判がなされる。

投稿者の真意を推し量って投稿の真意をくみ取る人もいるが、文字情報だけで批判が起きることも多い。あらゆる人に向かって発信している性質上それはやむを得ない。

もう少しやさしく受け止めればよいのではないかという意見もあるが、それができない事情も多い。例えば
1)発信者が、思想信条を明確にしている場合であれば、対立している思想信条を持つ人であれば、善解しようとしないので文字面だけで批判をすることになる。発信者の主張についての批判というよりも、発信者の立場や人格についての批判が混入しやすい典型的な場面である。しかし、その内心が表示されない限りは、その内心を決めつけて批判し返すことはできないだろう。それをしてしまうと、多くの論戦予備軍から総攻撃を食らうか、単に無視をされてながされてしまう。実際には女性差別を表示した攻撃もされているのかもしれないが、無視をされることがほとんどであるようだ。

2)思想信条とは関係なく、自分がその発信者から攻撃を受けていて、反撃の機会を狙っていた者とすれば、隙だらけの投稿は格好の反撃材料となる。自分が攻撃を受けた場合でなくても、自分の仲間と感じている人間が攻撃を受けても同じことが起きやすい。あるいは自分が大切にしていることについて、土足で踏みつけるような行為を感じた場合なども同様である。

3)興味深いことは、第三の厳しい解釈をする理由があることだ。それは、発信者の発信内容が過度に誰かに対して攻撃的であるとか、誰かを侮辱する内容である場合である。その攻撃対象とは何の利害関係がなくても「それはひどい」と思う場合に、発信者に対して参戦者が介入して批判をするケースがよく見られる。初回攻撃を受けた人と参戦者の間に、思想信条に共通項が無く、利害関係が無くても、理不尽な攻撃があると感じた場合には反撃に加担しようとする人が案外多い。ある意味正義感が強い人たちである。

字面の厳格解釈をして批判する場合というのはすなわち炎上が起きる場合である。だから1)ないし3)は、炎上が起きやすい事情ということになる。その中でも最後のポイントである3)の事情が多いように感じられた。最初の発信者に対して、反論をする場合は、ポイント1)ないし2)の事情があるだろう。しかし、それだけでは後続参戦者が賛成しては来ないだろう。多くは組織的な炎上ではなく、自然発生的な炎上が多いのだろうと感じている。自然に後続参戦者が多数参戦する場合は、背景事情を知らなくてもネット上から明らかである3)の事情があることが多いと感じられた。

4 群集心理は秩序形成の本能がエネルギー源である

炎上がどうして起きるのか、ポイント3)の事情が大きいことには間違いないと思われる。しかし、この3)のポイントはもう少し分析する必要がある。

後続参戦者が参戦する心理は、単純な正義感による反射行為をしているわけではないように感じられた。これらの後続参戦者は、単なる義憤だけで書き込みをするというような慎重さを欠いた行動をとらない。

感情に任せたような反論はあまり指示されない。むしろ反発を受ける。慎重さ、冷静さがある投稿こそが賛同を受けている。慎重に、冷静に、自分が多数派の立場であるという意識を感じる。それは安心感が伴っているようだ。そのために、ターゲットに対して、皮肉めいた表現、馬鹿にする表現、憐れみというある種の「余裕」をアッピールするような表現が目立ってくる。もっとも、後続参戦者が投稿をしようとするモチベーションは義憤である。さらに参戦決定に移行するためには、この多数派、秩序維持派であるという安心感が強力に後押しする。しかし、おそらくこれらの心理は、投稿者は自分では自覚していないものと思われる。自覚している部分は相手が正義に反する行為をしたことをいさめたいという正義の感情だけなのではないかとにらんでいる。ただ、厳密に言うと、そもそも正義感とはこのような秩序維持という意識を不可避的に伴うものかもしれない。

そうだとすると、もしかすると、多数派になる方がどちらかという無意識に計算して、多数派である自分を意識して、そのあとで義憤感情がわいてくるという逆モーションの価値判断をしている危険性もあることを我々は常に考える必要がありそうだ。

後続参戦者の心理はまさに群集心理である。

つまり、自分たちの主張こそが世の中の秩序であり、自分たちと敵対している者は秩序に反する者たちであり、この者たちが意見を述べることは正義に反することであるという意識を持つ。味方サイドの発言は、詭弁であろうと何であろうと受け入れていく。詭弁を受け入れる理由は、判断基準が論理性の整合性ではなく、秩序に添った意見であるという安心感を持ってしまうからだ。ひとたび秩序にかなった意見だと思い、自分たちの主張を後押しすると判断した場合は、その意見に疑問を持つことは著しく困難になる。立ち止まって評価しようとするきっかけが無くなる。詭弁を受け入れる理由は、それを聞いていると安心感が増加するからである。

後続参戦者は、そのネット上の空気、どちらが秩序を形成しているかということに対して敏感であり、自分が秩序外に立つ事態を慎重に回避する傾向にある。
だから、あからさまな女性蔑視を主張する立場には慎重に距離を置き、後続参戦や賞賛は行わない。あからさまな女性蔑視の発言をすることは、さすがに秩序に反することだという意識が存在しているようだ。だから初回投稿者が女性である場合に、その投稿が炎上したからと言って、その炎上(多数の後続参戦者の形成)が女性蔑視に基づいた女性攻撃ということはあり得ないということが私の結論である。

5 本当はかなり難しいSNSの発信1 炎上を招く投稿を行いやすい構造

慎重さが掛けて、多くの人たちの正義感に火をつける投稿が、炎上のターゲットにされやすいという投稿の重要な要素になることは間違いないと思われる。

ターゲットが無防備にSNSで発信をしてしまうということには理由がある。

・ SNS発信は簡単に発信ができてしまう。
・ 自分の考えが言語化できていなくても、それを検証するとか表現を修正するとかの前に感情が乗ってしまうと発信してしまう。
・ たいてい誰にも相談せずに一人で考えて発信しているので、自説の検証を十分に行わないで発信してしまうということも大いにある。
・ 感情が強ければ強いほど、苛烈な表現を思いとどまることが難しくなる。
・ それでもつたない表現を忖度して聞いてくれる仲間が存在する。どんなつたない文章でも、無責任に共感する相手がいることは、影響力が強い人ほど自分が危険になる。慎重に投稿しようとする態度が育ちにくいからである。本来その仲間の中だけで確認しあうような内容の発信も、仲間の存在で気が大きくなって全世界に対して発信してしまう。好意的批判者、支持的批判者がいない発信者はとても危険である。
・ 自分の意見が否定されるということを想定せずに、自分の発信が賞賛されることだけをイメージして投稿してしまう(ギャンブルをする場合、自分は勝つと根拠なくイメージをしてお金をかける場合に酷似している)。これは当然で、自分を肯定する反応を示す者は自分に近しい人であるために、イメージしやすいのである。ところが匿名で自分を否定する人間は立ち止まって考えなければイメージしにくい。自分が何らかの主張を発信しなければならないと感じている場合は、立ち止まって考える行為は極端に難しくなり、発信を歓迎する仲間ばかりをイメージしてしまう。ここはSNSの落とし穴だと思う。
・ 仲間内なら通用する表現を見ているのは仲間だけではないということ
・ 一度発信をして引用などをされてしまうと、修正、訂正ができない。削除をしても誰かがスクリーンショットなどで保存している場合もある。

正義感に燃えて、使命感を感じて投稿する場合に、ほとんど隙だらけの表現になってしまう理由がここにある。正義感に燃える人は、SNSを使うには無防備になる傾向が不可避的にある。多数の人に自分の意見を使いたいという気持ちがあれば、仲間内だけに発信するのでは物足りなくなり、公開で発信しようということは理解できる。しかし、それにふさわしい慎重さを欠いてしまい、別の意味で多くの人たちに注目されるリスクを常に負っているということなのだろうと思われる。

6 炎上のポピュラーな理由は、過剰な攻撃表現にあるという仮説
SNSの特徴からすれば大いにありうることだということはこれまで述べたとおりであるが、投稿をしてその投稿に対する批判が殺到する状態になる時は、投稿者の最初の投稿、あるいはその投稿者の従前の投稿が、過度に感情的であり、誰かを容赦なく攻撃していた場合に起こりやすいということは確かなようである。特に具体的にターゲットを明らかにして煽情的な表現で攻撃した場合は、格好の批判のターゲットになりやすい。また、他者を攻撃するという投稿が多い人もターゲットになりやすい。

そのような表現は、ご自分の主張を鮮明にするために必要なことなのかもしれないが、仲間内以外の人間たちは、案外否定評価をして反発をしている可能性が高いのである。考えを一にしない場合は、初回発信者の怒りに至る事情についてはなかなか追体験できない。しかし、人間が攻撃されていることについては、感情移入をしやすいのである。誰かを攻撃する場合、それが正義だと思っていたとしても、他者は攻撃したこと自体に反発をすることが多いということは留意する必要がある。

炎上している投稿の初回発信者が正義感の強い人である場合は、十中八九従前に他者に対して容赦のない攻撃をする投稿を発信している。その投稿が「許容できないひどい投稿」か否かは、微妙な判断が入る。しかし、後続参戦者がその判断を失敗しないところも面白い。この投稿が「許容できないひどい投稿」だと大勢が感じるだろうという判断がなされると、秩序に反する意見表明であると瞬時に判断し、その投稿を排斥することで、秩序を形成しようとして、自分がその秩序形成行為に参画することで安心感を得る。これに対して、この投稿が「許容できないひどい投稿だ」という判断に確信が持てないときは、炎上が起こりにくい。

多数の批判を浴びたくない場合は、多くの人がひどいと感じる投稿表現は行うべきではないということは真実だろう。正義を主張するとしても、そのような煽情的な表現は必要がないはずだと思われる。

そう考えると批判の的になるのは、主張本体ではなく、主張方法、表現にあるのかもしれない。また、勝手に他者をグループ分けをして特定のグループの批判になっていたり、抽象的な特質に着目して攻撃をすると、知らないうちに多くの人々に対して批判、非難をしていることもある(先の2の要素)。この場合も炎上の一つのパターンとなっているようだ。

7 なぜ他者への攻撃表現に反発した人がその発信者を容赦なく追い詰めるのか

もしかすると、私の考察には矛盾があると感じられている人もいらっしゃるかもしれない。
それは、後続参戦者が炎上ターゲットの攻撃性に反発して参戦する正義感情が理由であるとするならば、ターゲットが集中砲火を浴びていることにかわいそうと思ったり、不正義を感じたりしないのかということだ。

それは正義という感情を理解すればよくわかることである。

正義という言葉は、攻撃の動機になる。それに怒りが伴う場合は、相手の不正義が消えるまで怒りによる攻撃が終わらないという特質がある。この特質は怖いもので、正義を理由にすれば戦争も遂行することができるほどである。何の縁もゆかりもない外国人を、正義を理由に殺害することができる。このため、明治政府はそれまで日本語になかった「正義」という言葉を作り出し、文部省は日本古来の御伽草子を勧善懲悪の話に作り替え、国民に正義と正義感情の教育を徹底した。

だから、反戦を望むなら、作られた正義概念による感情の高まりをいかに抑制するかということに力を入れるべきである。口では反戦だ平和憲法だと言っていたとしても、他国の紛争について正義の観点から怒りを制御せず、強硬に一つの立場をねじ伏せようとする勢力は、実質的には戦争のための地ならしをしている勢力だと警戒しなくてはならない。

炎上、すなわち後続参戦者の果てしない参戦は、正義感情から生まれる。正義感情から生まれたために、不正義を許さないという感情に支配されるのである。不正義に対しては、共感や同情は自然発生的には起こらない仕組みになっている。

その人の発言に対して炎上を起こす人は、不思議なほどにメンタルが強い。炎上があっても、それでへこたれず同じような間違いを繰り返し起こしている。そうこうしているうちに、繰り返し問題発言をする人は不正義の人格を持つ人だという印象が固定されてしまい、何を言っても不寛容な会社のもので批判されるようになる。

8 懸念するべきこと

このように見た場合、投稿が炎上するのは理由がないわけではないと言いうるのではないだろうか。SNSはルールがないため、一人の人に対する反論、批判の数の制限はない。その批判勢力が支配的になれば、それ自体に秩序を感じてしまい、相手は秩序を害する者ということになり攻撃は激化していく。

だから、炎上を招く自分の行動をそのままにして、参戦者らを攻撃することは炎上を起こさない行動ではなく、次の炎上を招いている行為だと言える。主張をすることの妨害者には容赦しないという態度は、一般の後続参戦者の参戦動機を阻害することにはならないだろう。当初の主張に対する賛同者も、元々の仲間からの拡大はあまり期待できなくなる。

ただ、無防備な投稿者に反して論客として認知されている反撃者は、このようなSNSの反応を熟知している。今のところ悪用がなされているとは思われないが、このノウハウを利用して悪用することはそれほど難しいことではなさそうだ。

つまり、意識的にターゲットを選定し(あるいはダミーとして発言者になりすまし)、後続参戦者が参戦しやすいように、論点を選定して正義感を発動させて、あえて全面的な批判をしないで後続参戦者が参戦して役割を果たす余地を用意し、炎上状態を作り出すということは、正義感がもてはやされている以上案外簡単だということである。SNSのもう一つの特徴は、本人の様子が見えないことにある。何がその本人の意図なのかも実際のところはわかりようがない。このために、簡単に騙される可能性があるということもある。

わたしたちは、正義感情から特に他者を攻撃する投稿に賛成をしようとアクションするときには、自分の正義感情を疑ってかかり、立ち止まって考えるべきことだということが炎上したSNSから学んだことである。

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いわゆるツイフェミ現象に学ぶ、家族に嫌われない夫、父親の在り方 [家事]


男性の中には、家族のためにと思って、自分の人生をささげていると言う人が本当に多くいます。そして良かれと思って家族に対してあれやこれや口を出すのです。あくまでも良かれと思って発言しているわけです。
それなのに、何が悪いのかわからないまま、妻や娘、時には息子からも毛嫌いされていると感じるという悲哀を味わう男性も少なくないようです。自分が何かを話したばっかりに家族に無用な緊張感が走ったり、雰囲気が悪くなったりするという経験のある男性も多いことでしょう。極端なケースでは、わけのわからないうちに、妻が子どもを連れて家を出て行くなんてことも起こるわけです。

どうして家族から否定評価されるのかをあらかじめ知っておれば、孤立した老後を過ごさないで済むし、不意打ちで孤立するということもないと思うのです。何か格好の説明方法がないかと探していたところ、ツイフェミにまつわる議論が使えるなと目にとまりました。

ツイフェミという言葉があるということを先週末初めて知りました。ツイートをするフェミニストという意味らしいのですが、必ずしもフェミニストという体系的な考えを持った人のことではないらしいです。もちろん男性も女性もいらっしゃるようです。

論文での意見発表ではなく、時々の出来事をツイートされるのですが、女性の社会的地位の向上の観点から、不適当な他者の表現活動などを指摘されている方々がツイフェミさんと言われているようです。

ツイフェミという言葉は、肯定的なニュアンスというよりも、否定的ニュアンスで語られることが多いようです。それは理解できるような気もします。新しい秩序を形成しようという場合は、古い秩序との軋轢が必然的に生じますので、反発の反応が起きることも必然であると思います。

ツイードなどのSNSは鮮度ということがとても大切で、その時間を共有している相手に対して、その共有を前提として文字発信をするという特徴がありそうです。このため、事後的に見れば、難解な主張だったり、反発が大きくなることも、メディアの限界も手伝ってありそうです。そのような表現メディアの限界もおそらくあるのでしょう、一部のツイフェミさんのツイートが、色々批判を受けているようです。批判者から見れば以下のように批判されているということになるのではないでしょうか。

1)主語が大きい。「私は」と言うべきところを「女性は」と言ってみたり、「あの男性は」と特定するべきところを「男性は」と普遍化する言葉を送信してしまう。(批判として主語が大きいというのは気が利いていておかしい。感心する。)
2)相手の真意を確認しないで、自分なりに解釈して批判する。このため、批判される方は、何が何だかわからないけれど自分を否定してきていると感じる。
3)自分もできていないにもかかわらず、相手ができないと批判する。これを最近の方々はブーメラン現象と呼ぶらしいです。
4)批判の表現など態様が苛烈であり、容赦がない。
5)これを言うことで相手がどう思うかという配慮をせずに目的に合致すれば発言してしまう。

このような批判がなされているようです。

これは、主として中年以降の男性が家庭の中で批判されてきた内容と極めて酷似しているのです。

さらに、ツイフェミさんと呼ばれる方々(女性)の主張を見ると、ああなるほどなと理解できる部分があります。ツイフェミさんは男性を毛嫌いしている発言をする方が多く、また、え?こんなことでというくらい、性的表現に極めて敏感でそれに対して攻撃をされているようです。つまり、男性一般に対して安心感を持てないということが一つの特徴です。そして、性的だと感じることができる部分に関して過剰に性的であると感じてしまい、嫌悪や恐怖の対象になってしまう、つまり過敏になってしまう。そうして自分を守らなければならないという意識が強くなりすぎ、不安から解放されるために他者を攻撃するという方が多いのだろうと思われます。

中年以上の男性は、家族の女性や若年者に対して、このようなむやみな嫌悪感や恐怖感を抱かせやすくなるようです。皮肉なことに、その原因について検討するには、一部のツイフェミさんに対する批判がとても参考になるようです。

おそらくこれだけでは、中年男性はピンとくることもないと思われますので、少し解説します。

1)主語が大きい
中高年男性の主語は、「世間は」とか「常識では」とか、なになにすることが「当たり前だろう」等です。妻や子どもが、自分と意見が合わないような行動をすることに過敏に反応をしてしまい、それを修正してもらったり、やめてもらったりしたい場合に、「私はこう思う」という言い方をしないで、「そんなことをしていたら世間で通用しない」とか「社会から脱落してしまう。」という言い方をしてしまうようです。
言っていることには間違いがないとしても、価値観の違いがあれば、受け手は単に反発するだけです。また、「社会的に認められない」という言い方は、受け手からすると全否定をされているように感じるものです。また、このようなことは何等裏付けがなく、裏付けがないことをごまかすように全否定する表現ということで、受けるほうは不満ばかりが募っていくようです。

当然中高年男性としては、自分が社会の中でそのような経験をして苦しい思いをしてきたから、家族にはそのような辛い思いをさせたくないということが出発点なのです。それでも表現の仕方によって、相手を否定することがルーチンのように、親切心や配慮を捨象した形で伝わってしまうようです。

2)一方的な意見表明
中高年男性は、良かれと思って、しかもそれに自信を持っていますから、家族の相手のために、何としてもその行動をやめるとか、修正をしてほしいと思うわけです。しかし、そういう行動をするのも、通常はそれなりに理由があってのことなのです。自分の知らない事情でそういうことをやっているかもしれないのに、悪だと決めつけて否定しているように、相手からは感じられているということになかなか気が付きません。

だから、仮に中高年男性が言っていることが正しいとしても、事情を尋ねるという余裕なく結論を求めてしまうと、相手方は自分を否定されていると感じ、結果として自分が中高年男性から攻撃されていると受け止めてしまうことになるようです。

3)ブーメラン現象
まあ、その家族に意見を言っている段階では、既に自分ではそういうことはしていないとしても、過去においてそういうことをしていた場合には、言われた方からすれば、「自分だって同じことをしていたではないか。どうしてこちらにばっかり否定してくるのだ。」という気持ちになるでしょうね。理不尽な気持ちになるということです。
実際は中高年男性は良かれと思って言っているのだし、自分が失敗してきたからこそ家族には失敗してほしくないと思うのです。でもそうならば、そういうふうに言えば反発も少なく、説得力も増加するのですから、言い方を気にするということが大切です。
いずれにしても、どうやら中高年男性は、自分は批判を受けないということを前提として相手家族を批判しているところがあるのかもしれません。しかし、それでは、現代社会の家族の人間関係としては不適当なのでしょう。家族は、父親や夫が聖域であるとは考えていません。

4)批判が苛烈
  先ほど述べた「世間では通用しない」という言葉の表現の外に、大きな声を出す、眉間にしわを寄せて話す、言葉が乱暴になる等の場合は、家族としては付き合いにくい相手だという評価が下されるようです。中高年男性としては良かれと思って言うわけですから、熱を込めて言うため、そのよう相手からすれば恐怖を感じたり、自分を強く否定していると受け止めるようです。
  ツイフェミの方々はわかりませんが、中高年男性の家族に対する批判の場合、このような声だったり表情だったり、態度だったりが、相手に不快感、恐怖感を与えているということに思い至らない場合がとても多いようです。この結果、家族仲が比較的良好な段階までは、「どうしてお父さん怒っているの?」と言われて困惑することが多くなるわけです。「え?自分がいつ怒った?」と困惑し、「怒ってない!」とムキになって反論するときにははっきり怒ってしまっていますから、なんとも対処の方法がないということになります。いつしかそういうことも言われなくなり、単にいつも怒っている人間と諦められるようです。

相手家族からすれば、「どうしてそんなことで私に対して怒るのだ。」と感じて、自分と中高年男性は敵対関係にあるという意識に染まっていくようになるようです。

5)言われる方に配慮しない
正義を主張する場合、それはどうしても守られなければならないと考えてしまうので、自分の主張は当然であり、最優先して従わなければならないと考えてしまうものです。
「正しいことをいうときは、少しひかえめにするほうがいい」
というのは吉野弘の「祝婚歌」という詩の一節です。全くその通りなのでしょう。披露宴でスピーチを頼まれたら余計なことを言わずにこの詩を読んで、詩集をプレゼントするというのが一番良いと私は思います。

結局、家族も意思がある人間ですから、強制されることは本能的に嫌うわけです。本当にそれをしてほしい、それをしてほしくないという場合は、家族であるからこそ、あるいは切実に結果を実現したいからこそ、結果を押し付けるのではなく結果に誘導するという方法をとらなければならないようです。誘導する方法が思付かないときは、あきらめるか、控えめに言うことを心掛けた方が結局はうまくいくのだと思います。

自分が正しいと感じてしまうと、言えばわかるはずだという態度になってしまうようです。しかしそれは家族に対する甘えになってしまうようです。赤ん坊が要求を通そうとすると、それだけで赤ん坊の要求を実現しようと誘導されてしまいますが、中高年男性ではそうはいきません。単に、家族を支配しようとする独裁者に見られてしまうと考えていた方が無難なようです。

但し、嫌われようと、孤立しようと、言わなくてはならないときはあります。その時は、自分を犠牲にしても、それをするべきです。その結果自分が孤立したり、嫌悪されたりしても、自分が役割を放棄しなかったことに満足するべきなのでしょう。

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積極的人権概念の必要性と試論 令和3年文化の日表彰記念 [弁護士会 民主主義 人権]



私は人権擁護活動に対して、令和3年11月3日付で宮城県から文化の日表彰を受けました。表彰に対して感謝の気持ちを表そうとこの文章の構想に入ったのですが、既に一年以上が経過してしまいました。あまり肩ひじ張らずに、人権啓発活動の中で感じたことをまとめてみるだけにすることとしました。

1 人権の具体的な積極的概念の必要性

人権啓発活動をする際に高いハードルを感じるのは、一般の方には「人権」という言葉の意味がわかりにくいということです。大学の法学部における人権という言葉の説明として、人が生まれながらに持つ権利とか、国家権力をしても奪えない固有の権利とか、あるいは、自由権や社会権があるとか、そういう性質的なこと、側面的なことは説明がなされています。しかし、肝心の何が人権で何が人権でないかということを考えるにあたっての道具となる定義というか、人権概念というものが曖昧で、少なくとも一般の方に向けて「一言で人権とは」ということができなくて困っています。

憲法上保障されている人権カタログを列挙して、これに類するものという説明の仕方はあると思いますが、一般の方向けのせいぜい1時間くらいのお話の中で、そのような説明をしていたら時間が足りません。啓発研修は人権の勉強会ではなく、相互の人権を尊重しあって、具体的な生活の場で人権が充足されるきっかけとするということが目的です。人権ということを法学部的に説明していったら、目的にそう肝心の話ができなくなります。

特に自治体での人権啓発の場は、「家庭の中の人権」とか、「職場(学校、医療、福祉)の中の人権」、「学校の中の人権」ということがテーマになるので、ダイレクトに私人間で相互に人権を尊重すること、その実践可能で具体的な方法を述べる必要もあります。

いっそのこと人権という概念によらずに、道徳とか優しさとか善とか別の概念を用いようかとも思うのです。しかし、それでは税金で構成される予算を執行する地方自治体という公的な機関の活動としてはやや問題があるようです。法の執行という特質を反映するためにはやはり人権啓発、人権の普及という活動という枠を維持する必要があります。また、人権ということで、家庭の中の人権を尊重するということから始まり、やがて様々な人間関係の中で、人権というツールを用いて、広く相互尊重をする社会を作るという理想もありますので、やはり人権という概念はどうしても必要だと思われます。

「世界中の人間には人権を守るという大きなコンセンサスがあります。人権ということはこれこれこういうことです。まず家庭の中の人権について考えてみましょう。そしてその人権尊重を家庭の外にも押し広げていきましょう。」と、わかりやすく言えばそういうことです。だからどうしても「人権」とは何かをわかりやすく説明する必要があるのです。

2 特に積極的な概念としての人権概念の確立の必要性

人権が確立していく歴史からすると、確かに特定の人間に対する攻撃、被害があり、それをさせないために人権という固有の権利を作り上げて、人権侵害を防止し、侵害された人権を回復させるという文脈で人権概念が構築されてきたと思います。つまり侵害されてからそれが人権だから今後は侵害されないようにしようという人権概念が確立されてきたのかもしれません。

おそらく、それぞれの個別の人権概念が確立した際には、その確立した時代の考え方があり、侵害された利益を人権として擁護しようということが、最終的には権利であり、その中でも人権として社会的に承認がなされ、高められやすい素地がその時代のその社会にはあったものと思います。

憲法の人権カタログは、そのようにして尊い犠牲や権利として尊重するという運動によって整備、充実されたのでしょう。

ところが現代社会では、様々な人間関係が形成され、人間関係相互の関係も複雑に影響しあっているという意味で、人間関係が複雑になってきていると言われています。また、特に私人間の関係では、ある時は弱者になる人たちもある時は強者となり、逆もまた真なりです。過去の時代において強者としてカテゴライズされていた人たちが、現在のある局面においては弱者になるということもよくあることです。

また、それぞれの行為を、人権侵害として評価して、負の評価に固定化することも帰って解決を妨げる結果となることも経験しています。

侵害の文脈でしか説明できない人権概念は、どうしても私人間の対立が激化していく方向に働いてしまうという弱点があるようです。特に家庭とか、職場、学校等、継続する人間関係の中での相互尊重というツールには不適格な場合も多いように感じています。人権侵害が一度でもあれば、程度や行為の意図等にかかわらず加害者と被害者として当事者を対立させるという手法は、加害者の排斥という結論になりやすいために継続的人間関係においては実務的ではないと思うのです。特に日常を継続的に共にする私人間においては、威嚇により侵害を止めるという手法よりも、理想、行動心身の実践の充実感や安らぎ、安心感によって相互尊重を進めていくべきことが多いように感じています。

侵害の文脈ではなく、目指すべき理想、実現するべき概念としてという意味で、積極的な人権概念の確立こそが、日常の生活の中で相互尊重をする暖かい人間関係を形成することためには、必要なことだと感じています。

そのような積極的な人権イメージが確立されれば、人権のイメージがもっと明るくなり、人権啓発に訪れる方々も明るく参加することができると思います。具体的なヒントを提起することで、人権尊重の活動をしてみようと研修会に参加した方々の人権擁護活動の実践の契機にもなると思われます。

3 啓発における積極的人権概念試論

人権擁護委員会のスローガンとして、相互の尊重という言葉があります。考えてみれば、人権の侵害が問題になる場面は人間関係の中での場面です。もっとも、この「人間関係」はさまざまであり、家庭や職場の同僚、学校の同級生等という私人間の人間関係もあれば、職場と労働者、生徒と学校という団体と個人という文脈もあります。また、自治体、国家、社会、あるいは地球規模という大きな人間関係もあります。そのいずれの人間関係でも人権問題は生じる可能性があるわけです。

そうすると、人権問題は人間関係の中で生じるということに着目できると思います。人権侵害は、人間関係の中で人間として尊重されないことであるという言い方が可能であると思われます。

次に、人間として尊重されるということはどういうことかという、その意味を明らかにする必要があるということになります。

おそらく、人間は、他の人間から人間関係の中で尊重されて生きていたいという本能的な要求を持っているということなのだろうと思います。対人関係学は、このことを主張しています。

要約すると、文明発祥以前から人間は群れを作って生活してきたために絶滅をまぬかれた。群れを作る原理は、心である。即ち、群れの中に所属していたいという根本要求がある。この要求は、裏を返せば、群れから外されそうになると不安を感じるということで、自分の行動を修正してでも群れにとどまろうと行動を起こす。
群れから外されそうになっていると感じる方法を一言で言えば、群れの仲間として認められていないということを感じ取ることによってである。群れの仲間として認められていないということは、群れの仲間であれば当然受けるべき態度を盗られないということである。
群れの仲間であれば当然受けるべき態度とは、かけがえのない仲間であり、いつまでも群れの仲間であり続けてほしいという態度である。健康を気遣われ、体面を気遣われ、痛い思い、苦しい思い、悲しい思い、寂しい思いをさせたくないという扱いを受けることである。
これに対して、気遣われないということは、積極的に群れの仲間がこのような負の感情を引き起こす行為を自分に対してすること、自分がこのような負の感情を抱いているのに、仲間によって放置されることということになる。(要約終わり)

今から2万年以上くらい前までは、群れの仲間も数十人から百数十人程度で、生まれてから死ぬまで基本的に同じ仲間とだけ生活していた運命共同体だったものですから、仲間と自分の区別がつかないほど群れは大切なものだったと思われます。このような人間の性質、心があったために、群れが強固に結束し、助け合うことができ、群れが存続し、文明を持たなくても人間は厳しい自然環境を生き残ることができたのだと思います。

問題は、人間の脳の進化はこの段階からあまり進んでいないことです。現代の人間は、特に都市部においては敵でも味方でもない人間にあふれています。一日で家から職場からあちこちに動き回って多くの人間と接触しています。インターネットを含めると到底把握しきれない人間と何らかのかかわりを持っている状態です。それにもかかわらず、考え方、つまり心は数十名の群れで一生過ごしているときとあまり変わらないのです。

だから、相手を仲間だと認識してしまうと、自分に対して気遣いを期待してしまい、気遣いがないとか相手から攻撃を受けてしまうと、不安や焦り、ときには恐怖を抱くようになってしまうわけです。

現代社会の人権カタログもこの原理から説明できるように思います。但し、人権カタログは、国家、社会との関係で問題になることがほとんどですし、心外の程度もある程度大きなものであることが必要だと思います。
そして、人権の侵害がある場合には、制裁や補償によって侵害の回復が求められることになります。

対人関係を小さくして、継続的な対人関係を念頭に置いて考えた場合、家族、友人、同僚等の場合、侵害がなければ良いというわけではないと思います。制裁や補償の対象にならなければ多少の侵害が許されるというわけではないと思います。また、侵害をしたという方が一方的に侵害をするというよりも、どちらかと言えば双方がそれぞれ将来に向けて行動を修正するということで解決するべき案件もあるのだろうと思います。

問題は、どの人間関係に起きていることなのか、どの程度の侵害があると言えるのかというところだと思います。

特に人間活動の基盤になるような人間関係においては、侵害を防止するよりも、広い意味での人権の充足が図られるように提案していくことが必要ではないかと思うのです。

「人間関係の中で、仲間として尊重されること」を人権ととらえることを提起いたします。特に身近な仲間の中では、人権が侵害されないといういわばマイナスの出来事を防止することを目指すのではなく、ゼロの先のプラスを目指すべく、つまり、お互いに意識して尊重しあうような人間関係を形成していくことを目指すことを提起することが人権啓発の手法としてふさわしいと考えております。

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フキハラ 不機嫌ハラスメントに学んでみた  [家事]



フキハラという言葉を小耳にはさみました。不機嫌ハラスメントの略なんだそうです。不機嫌な様子をあからさまに示して、周囲の人を戦々恐々という気分にさせて圧迫することを言うのだそうです。

真っ先に思い浮かべたのは、職場でのパワーハラスメントの際に、言葉で部下を叱責するだけでなく、不機嫌な様子を見せて部下を威嚇している様子でした。

ただ、この言葉が一番使われる場面は、夫が妻に対してはっきりと自分の意見を言葉にしないで、不機嫌をアッピールして自分の要望を察するように圧迫をかけるような場面とのことでした。

私のように離婚実務に携わっていると、どちらかというとこの不機嫌ハラスメントは女性が行う場合が多いように感じます。言葉で不満を言わないで、夫が察するべきだとして、これだけ自分がアッピールしているのに夫が気が付いてくれないことが離婚の理由だなんてことを結果としては主張することが多くあります。

ただ、いずれにしても、人間ですから感情が出てしまうのは避けられないし、家族のように四六時中一緒にいると、家族の自分に対する対応で不機嫌になってしまうことはあることだろうと思うのです。だいたいそういう「いじましい」対応をするときはつまらないことが原因の場合が多く、例えば夕食に自分にだけが肉が少なく盛られているとか、自分だけ留守番をさせて母と娘が買い物に行くとか、どうでもよいと言えばどうでもよいような場面です。言うのも恥ずかしいからわざわざ口にするような場面ではないと自覚していることが多いわけです。

それをフキハラとか言われて、フキハラはDVだ、フキハラは離婚理由だなんてことになってしまったら、あまりにも窮屈ではないでしょうか。男も女も日常的に離婚の危険にさらされて、四六時中意識を集中させてフキハラをしないように緊張していなければいけないことになるのかと考えると気が遠くなるわけです。

そもそも、自分では不機嫌を顔に出さないように平静を装っていても、家族から「なんで怒っているの?」とか言われてしまうと、フキハラなんて防ぎようもないという絶望的な気持ちにもなります。感情のないロボットと暮らしたいのかという非肉の一つも出したくなるわけです。

だから初めは、フキハラなんて言い回しでとやかく言うものではないと、不機嫌をあらわにフキハラという言葉を批判をしようかなどとも考えたわけです。ただ、少しずつ冷静になると、こちらが無意識であっても、やはり家族が不機嫌を感じ取って、不愉快な気持ちになることは間違いないので、これは無い方が良いということまで考えが進みました。

ちょうどその時、別のとある理由で、家庭の中でちょっと低姿勢というか、あえて異を唱えなくてもよい事項については、少し大げさに同意の意をあらわにしていたという事情がありました。少し積極的に肯定をしようということをとある理由で実行してみていました。

なるべく表情を険しくせず、なるべく大きな声を出さずに、しかし、できるだけ明瞭に肯定の言葉を出すということをしてみていたわけです。先ほどの例で言えば、肉が少ないと感じたら、「もう少しお肉ちょうだい」と冷静ににこやかに言うみたいな感じですね。

なかなかうまくいくようです。先ほどの例で言えば肉の追加をもらえたし、言わなくても、もらえるようになるような感じになったし、文句を言われることも格段に減ったし、家の中がだいぶ快適になったのです。おやおや。

なるほどなと思いました。

フキハラをしないようにしようとすることは、なかなか難しいです。緊張感が顔に出れば、何不機嫌にしているのだと思われてしまいかねません。「不機嫌にしないようにしよう。」ということではなく、

少し姿勢を低くして、にこやかに、明瞭に肯定や賛同の言葉を述べ、思っていることは感情を込めないでさらっと言ってみる。

こういう積極的な行動を心掛ける中で、自然とフキハラを結果として行わないということが前向きで建設的な対応なのかもしれないと思いました。

そして結果は自分にとってもとてもよいものが現れるということですから、やらない手はないでしょう。
その程度の緊張感はもしかすると、集団生活をする人間としては当たり前のことなのかもしれません。私たちは、日常生活に手を抜くことを覚えすぎてしまっているだけなのかもしれません。努力すること自体が喜びや充実感となるということを思い出すと同時に、家庭では努力することが極度に疲弊する、おっくうになる原因を探すという方向で考えた方が良いのかもしれません。

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虚偽DV政策の理不尽さをわかりやすく理解することができる草津町長の元町議の虚偽告訴罪及び名誉棄損罪の起訴に関する記者会見 [弁護士会 民主主義 人権]



令和4年11月11日、草津町長の記者会見がありました。女性の元草津町議が、議員在任中に、男性の町長から平日の午前10時に町長室で性的暴行を受けたということを電子書籍などで公表されたという出来事が発端です。時間的には前後するかもしれませんが、その後、この町議は議会で除名処分を受けましたが、県の裁定で復職し、リコールが起こり圧倒的多数で解職となり失職となりました。 この元町議を応援する勢力があり、温泉観光地である草津町に行かないようにしようというキャンペーンを展開したり、「セカンドレイプの町草津」等という批判を展開したようです。この元町議は外国人記者クラブにおいて記者会見を開き自分の主張を海外にも発信したようです。双方は告訴、告発をしあい、町長は嫌疑不十分で不起訴になりましたが、元町議は虚偽告訴罪と名誉棄損罪で10月31日起訴となりました。これを受けて町長が記者会見をしたということです。

ここで人物の関係をわかりやすく説明しています。即ち、登場人物としては、被害を受けた申告した人(元町議の女性)、加害者として申告された人(町長)、そして、被害者として申告した人を応援して加害者を攻撃した人(元町議の支援者)という三面構造です。

町長は記者会見の中で、「被害女性が自分が被害者だと言えば、被害者だと断定されて、相手が加害者だと決めつけられて攻撃を受ける」ということを訴えていました。これこそが、行政やNPO由来の虚偽DVの構造なのです。

総務省の用語でも、DVの相談を受けた妻などは、書類上「被害者」と記載されます。夫などは妻が相談をしただけで「加害者」と呼ばれます。総務省は、ここで言う加害者は、日本語の言う害を加えた者という意味ではないと通知を出していますが、それなら加害者という言葉を使うべきではないと思います。この言葉づかいや「研修」の効果が表れ、加害者と呼ばれるようになった夫などは、「あなたと話す必要はない」等と区役所で攻撃的な対応を受けるようになるわけです。

肝心なことは、被害女性が自分が被害者だと主張しただけで相手の男性が加害者として扱われるということなのです。

そして、何も事実認定がなされないまま加害者として扱われ、事実上の不利益を受けるという構造が理不尽なのです。

草津町の事件では、草津町長は何ら性犯罪で起訴もされていませんでした。それなのに、性犯罪の加害者として扱われました。著名な論客も実名で公刊物などで非難をしたそうですし、現地で集団での抗議活動なども行ったようです。元町議の主張が全くの事実無根であれば、町長はいわれのない攻撃にさらされ、家族も夫や父親が性犯罪の加害者だと言われているという強度なストレスフルの日々を送っていたことだと思います。重大な人格侵害であるだけでなく、町長に対する執務中の破廉恥行為があったということの主張ですから、政治的謀略にもなるでしょう。さらに著しい被害を被ったのは草津町民、草津観光業者の方々でしょう、レイプの町草津町、セカンドレイプの町草津町という喧伝は、謝罪しても謝罪しつくせない蛮行だと思います。

元町議の言うことが事実無根であれば、本人、ご家族、草津町と、決めつけによって極めて甚大な被害を理不尽に受けたということになりますね。

これと同じような構造による理不尽な被害を多くの夫たち、元夫たちが受けているのです。

先ほど述べたように、妻たちは行政や、警察、NPOなどで、生きづらさの相談をしています。莫大な予算が投入され、宣伝広告も充実し、相談件数は右肩上がりに増加しているようです。

しかし、相談に行く女性たちは、必ずしも夫の加害について相談に行くわけではありません。出産に伴う産後うつ、内分泌系の疾患や薬の副作用など体調の問題などで不安や焦燥感を抱いたり、職場での上司のパワハラや、取引先のクレーム対応などで精神を病んでいる場合もあります。ママ友との関係でストレスが蓄積しているケースもありました。主として、同情をされたいという精神状態に陥って、無条件の共感を示してほしいというところに多く場合共通性があるようです。

その中で警察、地方自治体やNPOの配偶者相談の回答者は、夫との不具合を聞き出して、些細な日常どこにでもあるようなすれ違いをとらえて「それは夫のDVだ」と断定し、DVは繰り返される、早く逃げないと命の危険があると根拠もないのに繰り返し妻を説得するようです。そして妻は被害者と呼ばれ、夫は加害者と呼ばれ、子どもを連れて家を出て、行方を知らせないで逃げ切りなさいと指導が入ります。最近でも、妻が夫の手を払いのけて自傷したことをとらえて死の危険のある暴力を受けたということで、夫が書類送検された事件があります。その負傷に至る経緯やその後の事情を丹念に説明して不起訴になりました。本当は妻の勤務先の問題で相談に行ったのに、夫のDVということで子どもを連れて逃げ出し、子どもは父親と同居できなくなり、面会もできない状態になっています。

この場合の三者構造は、被害を受けたと申告する人間が妻、加害者として申告されたのが夫、そして被害を受けたと申告した人を無条件に援助し、夫に加害行為をしているのが行政やNPOということになります。構造的に全く同じです。

さらに共通の問題としては、草津町の事件では、草津町自体がレイプの町、セカンドレイプの町ということでイメージがだいぶ悪くなりました。観光業者としてはだいぶ先行きに不安を覚えたことでしょう。町議の支援者は、事の真偽について何も判断が下されていないまま、町長を攻撃することに傾注し、町民の被害について考慮しなかったわけです。

もっとも、リコールで圧倒的多数の住民が解職を是としたということで、攻撃の理由があるという見解もあるかもしれません。住民の意見としては、朝の十時に町長室でわいせつ行為があったということは考えられないという素朴な判断と、当初の電子書籍で発表した段階ではレイプだと言っていたのに、告訴の際には強制わいせつ罪に変わるなどの主張の変遷があったことで、元町議が嘘を言っているという判断をされたような声を耳にしました。

いずれにしても草津町民も甚大な被害を受けたのですが、虚偽 DV事件でもとばっちりを受ける人間がいます。それが子どもです。子どもは警察や行政やNPOの指示では、連れて逃げろということになります。子どもは、これまでなじんでいた学校や幼稚園の友達や先生から離されるだけではなく、子どもの気持ちとしては今までなじんでいた家、自分の道具、近所の人や猫などからも突然引き離されて、自分がどうなってしまうのだろうというパニックになることもあるとのことです。

自分という存在を見失う危険が生じるということのようです。父親の悪口を言わないようにしようというお母さん方も少なくありませんが、母親だけでなく母親の親族は子どもの前でも父親に対する容赦ない非難をする場合が少なくないようです。

どうでしょうか。草津町事件と虚偽DVの共通点がこれほど多いということに、書いていて新たに気づいたこともあったので、今更ながら驚いています。

どうして、行政などが妻側の話だけを聞いて夫からの事情を聴取しないのに、連れ去りを指示したりして、夫を孤立させたり評判を貶めたりするのでしょうか。これも、今回の元町議を支援した人たちが真実性の検証を十分に行わないで草津町長が性暴力を行ったということ前提に攻撃をしたことと共通だと思われてなりません。つまり、「男というものは女性に対して暴行を加えるものだ」という極端なジェンダーバイアスに支配された男性観を持っているためだと思われます。

草津町町長に置かれては、草津町で行われているDV相談の実態をよく調査して、自分が陥れられた被害を、自分の名前で町民に行っていないかくれぐれも点検されるべきだと思う次第です。

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離婚理由に見るジェンダーバイアスがかかった女性側の主張  [家事]



1 子育ては女性がするもの
2 家に収入をいれるのは男性の役割
3 夫婦仲を安定、改善させるのは男性の役割。女性は男性が作った人間関係を享受する立場である。
4 DVを行うのは男性であり、女性は被害者である


ジェンダーとは「歴史的・文化的・社会的に形成される男女の差異」を言うのだそうです。数十年前からジェンダーという言葉が弁護士の業界の中でも、こなれない形で使われ始めたのを覚えています。詳細は省略しますが、その時の使われ方の印象が悪かったため、ジェンダーという言葉に良い印象を持てないままなのかもしれません。

さて、弁護士実務としては、離婚の際に、ジェンダーバイアスがかかった主張が妻側の女性弁護士から多く出され、あまりにも自分たち以外の女性を馬鹿にしていると常々思っているので、ここで女性の側から出されるジェンダーバイアスがかかった主張を提示して問題提起をしてみたいと思います。

第1は、子育ては女性がするものだという主張です。
 女性という姓は子育てをする性であることを、別居にあたって子どもを連れて出て行くということを正当化する根拠にしているように感じられます。ただ、さすがにあからさまにそのような主張するのではなく、工夫離されています。裁判所は、子どもが意識を持ち始めてからいつもそばにいた親に親権を与える「継続性の原則」をとっていますので、弁護士としては、子育ては女性がするものという主張はせずに、継続性の原則を主張しているような言い方をします。通常妊娠、出産の直後の乳児期は、母体を休ませるという意味合いもあり、母親は仕事を休んで子育てにつきっきりになりますので、継続性の原則を主張しやすいという事情はあります。
しかし最近は、継続性の原則に照らしても一義的に親権者を選択できないケース(父母ともに子どもに同程度《あるいは父親の方が多く》関与している場合が実際には結構ある。)が増える傾向にあります。こういう場合、継続性の原則がいつの間にか子育ては女性がするものという主張が顕在化してきます。
さらに継続性の原則で親権者を決めることについてももう少しち密に見直す必要があるように思われます。継続性の原則は、乳児期やその直後の時期の場合等妥当する場合もあると思います。しかし、例えばゼロ歳児から保育園に預けていて、その後は比較的同じような時間父母が子どもに接していて、子どもが就学時期に達していたりその直前の場合は、継続性の原則の妥当性はだいぶ薄弱になるように思われます。しかし、裁判所は、父母のどちらが親権者としてより妥当かという判断をしたがらないため、継続性の原則という逃げ道にすがっているという印象があります。

もっともこの問題は主たる監護者をどちらに決めようと、どちらの親とも子どもが比較的自由に交流できるようにすることで解決することが本則であるとは思っています。子どもが他方の親と同じ時間を過ごすための法制度が整備されていないところが問題の所在だと考えています。

実務の実情は、それまでの経緯をあまり吟味せずに母親に子どもをゆだねるべきだという主張があまりにも多いのが実情ではないでしょうか。実際は子育ては女性がやるべきだという考えに立っているという批判も可能だと思います。
この考えをさらに進めた考えが、子どもに関しては母親が決定権を持っているという子ども支配の論理です。子どもの独立した人格や感情などは一切考慮されていません。子どもが友達や父親、親戚、それだけでなく住み慣れた家や遊び道具からも突然切り離されることになっても、そんなこと重大なことではないとして子どもの利益をかえりみない主張も多くみられています。

ちなみに授乳期を過ぎた子育ては母親がするものだということは、人間に限っては生物学的にも誤りです。人間以外のほ乳類にはそのような育児がよく見られますし、ニホンザルやチンパンジーなども子育ては母親が行っていることはその通りです。しかし、ホモサピエンスに限らず人類は、妊娠出産、授乳を例外として、子育ては群れが行うという方式に進化しました。子どもは母親以外の大人たちからも子育てをされ、群れの大人たちの影響を受けて成長するのが人類の特徴です。
母親が主として子育てをするべきだという考えは、戦争遂行を主眼として明治期に国によって作り上げられたまぎれもないジェンダーバイアスです。

第2は、外で働いて収入を得る責任は父親にあるという考え方です。
私は専業主婦という考え方自体は、ありうる考え方であり、それ自体がジェンダーではないと思っています。専業主夫ということもあるわけです。子育ては、現代社会では極めて慎重に丁寧に行う必要があり、一人の大人がつきっきりで行うことにふさわしい一大事業だと思っているからです。
しかし、離婚訴訟などで主として女性弁護士から出される主張としては、子どもを連れ去って別居した場合に、その子どもが小学校以上になって、母親が十分就労できるにもかかわらず、母親の収入がないことを前提に婚姻費用の額を決めようとする主張です。男性だけが就労しなければならないという理屈はありません。女は家で子育てをするという考えも、実は明治期から戦争遂行のために作り上げられた意図的に作られたジェンダーの考えそのものです。明治期なども日本の圧倒的多数である農民は、男女の関係なく朝から晩まで働いていたわけです。男は外で働いて女は家を守るなんて言うことは、日本国民のコンセンサスにはなりようがなかったものです。

また、専業主婦の離婚理由として、十分な収入を家計に入れないから虐待だというものがあります。妻からは配偶者暴力センターに相談に行ったらそれは経済的DVだと言われたと主張があることも多いです。しかし、その場合に多い実態は、夫が低賃金だから、それしか家計に入れようがないということです。誰が見てもその収入からは精一杯のお金を家計に入れていると評価できることがほとんどです。また、お金はほとんど引き落としか夫が支払っており、妻に渡していた金額は妻の小遣いであったということもよくあります。何万円以下の場合は経済的DVだなどと家計に入れる絶対的金額を主張されても、それはあまりにも不合理で実態を見ていないケースがほとんどです。家計に多額のお金をいれられないことは、むしろ低賃金にあります。企業の責任を不問して夫だけを離婚理由として責めているのは、昨今の主張を象徴しているように感じられるところです。不思議なことにこのような主張をするのは、専業主婦の女性だという傾向がみられるように思われます。

第3が最も問題とされるべきです。妻が何も夫に働きかけないで、ずいぶん年月が経ってから、夫の嫌なところはこういうところだと抽象的に、おおざっぱな時期も特定せずに夫非難を展開し、だから婚姻は破綻している等という主張が、離婚訴訟の圧倒的多数のように感じます。

ずうっと不満だった。たまりにたまって爆発した等とよく表現される主張です。しかし同居期間中にその不満を夫に具体的に言ったことは無いようです。建設的に改善を促していたということも主張されることは少ないです。

妻は、夫の行為に不満を持ち、それを夫に告げず、夫はこれまで何も言われていないためにまさか妻が自分に不満を持っていたとは思わず理解すらできません。

結局、この種の女性の主張と言うのは、「夫は妻が何も言わなくても妻の不満を察するべきであり、その上で夫が改善するべきだ」というということを主張しているようにしか思えません。つまり、女性の機嫌は男性が作るという主張ではないでしょうか。この主張は、「女性は自分の置かれている環境を自らの働きかけで改善するのではなく、すべて夫に依存している存在なのだ」ということを言っているにほかならないのではないでしょうか。当事者の妻ご本人は、離婚手続き時は葛藤が高まっているから、このような主張になることについて気が付かないのですが、第三者であるべき弁護士がその姿勢を無批判に追随していることはなんとも情けないと思います。

ただ、なかには、実際はいろいろと妻側が関係修復の努力をしていたり、関係修復の努力ができない事情がある場合もあるのです。私は、弁護士は当事者から丹念に事情を聴取し、一度好きあって結婚して子どもまで設けたのに離婚を決意した事情というものがあるはずだという姿勢で、当事者の方の実情を、ご本人も自覚できないものも含めて言葉に編み上げるのが仕事だと思っています。このような丁寧な仕事をせずに離婚訴訟を出してしまうのは、弁護士こそが女性の幸せは男性に依存していると考えにとらわれて、それ以上の調査や考察をはじめから行わないところにあるのではないかとにらんでいます。

そのような理解をするためには、人間についての十分な勉強に基づいた考察と理解が必要です。それにもかかわらず、端的に言えば暴力についての効果について勉強していないとか、あるいは人を恐れる原理、嫌悪する理由などについての考察が全くなされていない等きめ細やかな人間の感情に興味を持っていないように感じられてなりません。単に「男性は支配欲求があり、支配のために暴力をふるうのだ」というようなあまりにも浅はかなステロタイプの志向に基づいた大雑把な主張をしているとしか感じられません。マニュアルのようなもので離婚事件を「処理」しようとしているように感じてしまいます。

フェミニズムを自称して離婚事件を担当する者が、ハーマンやウォーカー、あるいはイルゴイエンヌの原著(もちろん翻訳で構いませんが)も読んでいないのは私には信じられません。本来には認知心理学や発達心理学、及び最低限の医学的、生理学的知識が必要であると常々実感しているところです。

このような大雑把な「当たらずしも遠からず」みたいな主張が改まらないのは、裁判所がこの程度の主張でも離婚を認めるからに外なりません。つまり、離婚原因があって、離婚原因を作ったのは誰かということを丹念に検討するということをしません。あくまでも別居の事実が長く、一方当事者に復縁の意思がないということで離婚を認めてしまうところが問題です。

裁判に勝てばよいやと言う考えであれば、当事者の方々の苦しみに理解をせずにも裁判所に受け入れられるような主張を脚色すればそれでよいと考えれば、それ以上の努力を人間はしないようです。

第4は、いわゆるDVを行うのは男性であり、女性は常に被害者であるという考えです。

これは、行政などでは徹底しています。男性の被害者相談が設けられているのはまだ少数なのではないでしょうか。DVは、精神的虐待も含まれるということになりました。精神的虐待の案件は、男女差は無いはずです。また、配偶者からの攻撃によって自死に追い込まれるのは男性の方が断然多いと思います。それでも男性の被害救済はほとんど実現しません。

結局、苦しんでいる人を救おうという発想ではないのです。DV相談は、結局離婚を進めることが多いのではないでしょうか。しかも、十分な事実調査を行いもしないのに、「夫の妻に対する虐待があり、妻には命の危険がある。」という認定をするというのが、私の離婚事件の相談センターの例外のない活動です。つまり事実に基づいて苦しんでいる人の苦しみを取り除くというのではなく、相談に来たら離婚をさせるという出口しかないということです。税金を使って離婚をさせるための機関のような感覚さえ受けます。不満があれば離婚を勧め、快適でなければ離婚を勧める。

そこに女性が社会の中で自立して自己を実現していくということに対するエンパワーメントの視点も、女性一般の社会的地位の向上も考慮されていないのです。ただ、離婚先にありき、女性を夫婦という人間関係から切り離すという方針ありきという印象がどうしてもぬぐえないのです。

女性の社会的地位の恒常とか、女性の視点を社会の人間性回復に活かすとか、世界平和に影響与えるという視点はおそらく言い出したら笑われることなのでしょう。

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現代社会の人間の慢性的に生じる不安の状態について 【300万ヴュー記念】 [進化心理学、生理学、対人関係学]



いつの間にか閲覧数が300万件を超えていました。これほど長文でとっつきにくい文章を読まれる方がいるということに敬意を表さずにはいられません。これまでの記事の中でところどころでてきたことですが、この記念ということを言い訳として、心と環境のミスマッチ総論についてのまとめをアップさせていただきます。

【要旨】
拙文は、現代社会の生きづらさ、不具合の根本に人間の心の問題があるということ、心は人間の心は狩猟採取時代に適合したものとして作られているため現代社会には適合していない部分が大きいこと、この環境と心の不適合(ミスマッチ)が現代社会に生きる人間の生きづらさの根源であることを述べています。

【比較対照する時代】
表題の現代社会の「現代」というのはいつを言うのかというと、とりあえず今日現在ということで考えてよろしいと思います。ではいつの時代と現代を比較するのかというと、昨日までということではありません。現在からおよそ200万年前から1万年前くらいの期間、人間の祖先が狩猟採取をして生活し、数十人から200人弱の群れで生きていた時代(狩猟採取時代)を対象とします。

【二つの時代の人間の生きる環境の違いで重要な2点】
現代と狩猟採取時代の違いで重視するべきは、2点です。
・ 日常生活で関わる人数
   現代は膨大な人数の人間とかかわることを余儀なくされています。インターネットを通じての関与者の人数を含めるとさらに膨大です。これに対して狩猟採取時代は、群れの人数は200人を超えません。
・ 自分が所属する群れの数
現代は、家族、職場、学校、それらの小分けされた利害集団、趣味のサークル、町内会、インターネットのグループ等々膨大
狩猟採取時代は、一つの群れだけ。
というところです。

【不安は、生き残るためのツールであるということ】
不安を感じる能力は、進化の過程で獲得した生き残るためのツールであると私は考えています。不安は、生き残るために有効な役割を果たすという表現の方が受け入れられやすいでしょうか。

・ 生命身体の不安
現代社会でも自動車の交通量の多い道路を横断することは、命の危険もありますので、横断しようとしても不安になるはずです。だから、きちんと信号機が交通整理をしている横断歩道を渡ります。不安を抱きやすい人は、青信号になっても、まだ走行してくる自動車がいないか確認してから横断歩道を渡り始めますから、より安全に横断することができます。
この反対に酒を飲んで酔っ払って、不安を感じなくなって(=気が大きくなって)横断してしまった結果、交通事故にあうということはよく報道されている通りです。不安が交通事故を予防してくれるのです。

もう一つ例を挙げると、寒暖差が激しくて腰に違和感があると、腰痛が出てきそうだと腰痛持ちの私は不安になり、腹巻をするとか、きちんと着込むとか、激しい運動を控えるとかして、腰痛になることを防止しようとします。

不安は、身体生命を害することを防止するツールという側面があることは間違いないようです。

・ 原因不明に発生する不安の効用
不安にもいろいろな発生原因があり、体調不良を心配した不安もあれば、人間関係の不具合の不安もあるでしょう。精神疾患の一部など原因不明の不安もあります。原因不明の不安については、何かの予防にはならないようにみえますが、不安によって活動を停止することによって、紛争を避けるという効果があるという学者さんもいらっしゃいます。誰かとけんかをするほどの精神的エネルギーがない場合、紛争に耐えられない精神状態になっているというとき、無意識のうちに、活動を控える、引きこもるという行動をさせて、耐えられない精神状態となることを無意識に回避している可能性があるかもしれません。

・ 対人関係の状態から生じる不安
さて、不安のもう一つの原因は、対人関係の問題です。
この不安も、自分が例えば職場で調子に乗ってやりすぎてしまい、顰蹙を買いそうだという空気を読んで、少し行動を控えるという形で人間関係に致命的な不具合を回避できれば、身体生命の不安のように対人関係的な不具合を起こさないためのツール、自分を群れにとどめるためのツール、群れから追放されないためのツールになると思われます。

中には、信号機のある横断歩道を渡るように、不安とは関係なく習慣やルールに従って行動をしているだけだと感じている人もいると思います。しかし、習慣やルールは、目的や機能があって存在しているので、元をただせば、不安に対する対応、すなわち危険防止という側面があると考えています。

人間関係を円満に、協調して過ごすために、様々なルール、道徳や法律などが存在していると思うのです。

【狩猟採取時代に適合した対人関係的不安 群れを作るツール】
この対人関係における不安のツール、つまり人類が心を獲得したのは、まさに今から200万年前だとされています。進化の過程の中で獲得したのですから、このツールが自然環境の中で人類が生き残るために、とても有利だったという事情があります。
その有利な事情とは、「群れを作る」ということです。不安を感じる心があったからこそ、人類は群れを作ることができたのだということです。

【群れを作ることの4つのメリット】
・ 捕食の危険回避と食料の獲得
人類は、単独で当時の厳しい環境に生き残ることは不可能でした。肉食獣などから身を守るということ、食料を獲得して動物性たんぱく質を摂取することを安定して行うためには、複数人の協力が必要でした。

群れが必要な理由は、捕食を回避すること食料を獲得することの外にあと二つあります。

・ 育児
一つは育児です。他の動物と比べて、人間の新生児は極めて未発達の段階で生まれてきてしまいます。馬の仔が生まれてすぐに立ち上がり歩きだすことと比べると驚くばかりです。これも頭脳を発達させてしまったのでしかたがありません。これ以上成長してから出産することが母体には無理があるからです。人間の幼体は10年くらい続きます。母親が出産が原因で命を落とすこともあるでしょう。どうしても人間の新生児を成体まで育てるためには、集団での養育が必要であり、群れが存在していなければならなかったということになると思います。

・ 概日リズムと群れ

もう一つの群れが必要な理由は、長生きをしなくてはならないということです。何せ繁殖能力を得るために、生まれてから十数年かかるということですから、それまで大人たちが養育させなくてはなりません。例えば18歳で出産した場合、その新生児を18歳まで育てるとしたならば、30年以上は生き続けることが必須となるでしょう。

天敵のいない動物であれば穏やかに長生きができそうな気もしますが、人類は、肉食動物に襲われる恐怖があり、また、動物を獲得できない期間が続けば飢えに苦しむことになります。ストレスが強く、なかなか長生きができそうにもありません。この長生きのためにも群れを作ることは有効だったと思います。

人間に限らず地上の動物には、体内時計があり、多くは昼間に活動して夜に休息しています。体内において生理的変化が生じていて、昼間は交感神経が優位になっており、血液が筋肉に流れやすいなど動き回ることに適した状態になっています。ところが、動き回ったり、緊張をしたりすることのデメリットとして血管などの臓器が傷つきやすくなるわけです。放っておけば、心臓や脳の血管が破綻して死亡に至ります。これが現代の過労死の仕組みです。ところが、都合の良いことに体内時計で夜を感じると、交感神経は沈静化して、副交感神経が活発になります。副交感神経が優位になると、緊張や動き回ることには適していませんが、血管などの臓器のメンテナンスが行われるようになります。睡眠をとることで疲れがとれるということで実感もできるでしょう。

個体や数人の群れであれば、夜行動物に狙われればひとたまりもないのでとても落ち着いていられません。夜間でも緊張状態が続き、睡眠などがとれない状態になります。まさに過労死をする条件が整ってしまいます。ところが群れが数十人規模になれば、肉食獣の方もおいそれとは襲いにくい状態になります。こうやって群れに戻れば危険が生まれないということを学習すれば、群れに戻ることによって緊張をほぐし、安心することによって副交感神経が活性化し、心身のメンテナンスがよりよく働くようになるでしょう。こうやって、人間は群れを作ることによって、安心感を獲得して、長生きが可能になったということが大切な視点であると思います。

【狩猟採取時代に適合するツールとしての心】
狩猟採取時代は極めて単純だったと思います。以下は、ダニエルリーバーマンの「人体」早川ノンフィクション文庫を元に想像をめぐらしてみます。

群れは、二つに分かれて狩猟採取チームと植物採取チームと別れていたようです。狩猟採取チームは、リーダーの統制に従って、小動物を集団でどこまでも追い続けて、相手が暑さと疲労で弱ったところを捕獲するという手法だったようです。植物採取チームは、小動物を狩れないときに備えて食べられる植物を採取し、子育てや老人、病人の介護をしていたようです。やはりリーダーの統率を受けていたと思います。リーダーは固定していたかどうかは不明ですが、リーダー以外の人間は、率先してリーダーに従うという秩序を重んじることを志向していたはずです。それぞれのチームは昼間に交感神経を活性化させて、活動し成果を上げていたことでしょう。そして、夕方にそれぞれの成果を持ち寄って群れに合流していました。何世代にわたって、チームでいるよりも合流した方が、危険を回避し、食料を得られるということを学習していきました。自然に群れが合流すれば、安心感がわいてきて、リラックスできたのだと思います。

このころは、群れの中は完全平等だったと言われています。それも、心の作用によって、平等が保たれていたのだと思います。つまり、先ず、誰かが自分だけが食料を多くとったら、他の者から恨まれますので、群れから外されるという不安が生まれます。群れから外されるという不安を回避するために、自分だけ多くとるということをやめようとしたというのが一つの理由です。また、生まれてから死ぬまで同じ群れで育っているので、だれがどういう表情をしているときはどういう気持ちなのかよくわかったはずです。人類には共感力がずば抜けて発達しています。仲間のひもじい気持ち、寂しい気持ちを感じたら、自分も火文字い気持ち、寂しい気持ちになったはずです。だから誰かだけ多く与えられて、誰かだけ少なく与えられるということは無かったはずです。

特に弱い者、小さいものに対しては、助けてあげようという気持ちが自然と沸き上がり、大人が我慢しても弱い者には無理にでも分け与えていたと思います。

このような平等主義と弱者保護の心は、当時の自然環境にはよく適合していたと思います。なにしろ、捕食されることを回避するにも食料をとるにも、群れの頭数が足りていることが必要でした。強い者から食料をとっていってしまうと、弱い者にまで十分に食料が回らないために、弱い者は厳しい自然環境の中死んでいくしかなかったはずです。そうしてしまうと、群れの頭数がどんどん減っていきますから、どんなに強い個体が生き残ったとしても、肉食獣の餌食になりやすくなりますし、食料を確保することが難しくなってしまいます。こうやって、群れの弱体化は人類を簡単に滅亡させることになってしまいます。

もっとも当時の人類が、このような成り行きを論理的に考えて、理性的に平等主義、弱者保護の心を発揮したと考えるには無理が大きいと思います。あくまでも偶然、平等主義、他者への配慮、弱者保護の志向を持った人類の一部だけが生き残ったという方がわかりやすいことだと思います。

当時の群れは必ずしも血縁関係があったものだけではないようなのですが、現代であれば、弱者を保護しようとして自分の食料を分けてしまえば、家族から攻撃されることもありうることでしょう。取引相手につい過剰に熱を入れて相手に有利な取引をすれば会社から処分されることもあるでしょう。しかし、何と言っても群れは一つしかありませんし、群れの大方の評価、誰が弱者であり特別な配慮が必要なのかという見解はおそらく共通のものであったと思われるので、援助や協力を非難する者はいなかったと思われます。

群れの構成員は、群れの役に立つことが嬉しかったのだと思います。例えば食料をとることによって、みんなに食事をさせることができると思えば、仲間が喜ぶ顔、満ち足りた顔をすることをイメージして、自分も嬉しくなったことでしょう。

逆に、自分が群れの役に立たなくなったと思う人はいたたまれなくなったかもしれません。群れからはぐれれば捕食の危険と餓死の危険が付きまとうわけですから、いたるところ姥捨て山です。あるいはそっと自分から群れから外れようとする者もいたのかもしれません。しかし、そのことに気が付いて、その人の寂しい心を読み取り、自分がものすごく悲しい気持ちになったり、死の危険を覚悟する心に共感してしまえば、狩猟に出られなくてもいいから群れにとどまってほしいとみんなが思って引き留めたということがあるのではないでしょうか。また、狩猟採取時代は、やらなければならないこともたくさんあったので、なにがしかの仕事も分け与えられたのではないかと、そんなことを想像しました。

おそらく、狩猟採取時代は、群れと自分が区別がつかないほど、精神的にも利害が一致していたはずです。病気やけがなどによる弱者ではなく、何か失敗をしてしまったというときも、その人が失敗したことで群れから追放されるのではないかとか、群れに迷惑をかけたことを悔いている姿があれば、大目に見たのだと思います。困っている感情に共感してしまうからです。

狩猟採取時代の人類は、自分が仲間から外されることは無いという安心感を基本的には持っていたはずです。仲間は一生仲間であり続けるということを疑う者もいなかったと思われます。

こうして衣食住が極端に粗末で、衛生状態も悪く、簡単な病気でも死んでしまうような時代に、一人では肉食獣に捕食されてしまい、エサも取れない頭でっかちの人類も生き残ることができたのだと思います。

【現代でも、狩猟採取時代の心が継続しているということ】
現代社会はどうでしょうか。

現代でも人間の心は狩猟採取時代の心と基本的には変わりません。人類の心は狩猟採取時代の前から徐々に形成されてきたものである上に、狩猟採取時代が200万年くらい続いていたものですから、狩猟採取時代が終わった1万年程度では変わりようがないのです。

通常の人間は150人以上の他人の顔と名前と、性格などを識別することができません。誰かが誰かを助ける姿を見ると感心したりします。無力な赤ん坊を見るとかわいく思い、つい助けおうと思うわけです。本当は人間の心なんて何も変わっていません。頭蓋骨や脳の構造も200万年前からそれほど変化は無いそうです。

道徳でも、宗教でも、倫理でも、あるいは哲学でも、根本的な価値観は私は共通していると思います。それが狩猟採取時代の心にもとづく価値観です。

【心と環境のミスマッチの形】
現代社会と狩猟採取時代の違いをおさらいから始めます。

【かかわる人数が膨大であること】
 
例えば出勤を考えてみましょう。朝起きて家族と朝食をとるなどしながらあわただしく出勤します。駅までの道すがらすれ違う人もいるでしょうし、道端の家に人々が住んでいるということもあります。マンションなどでは道に出るまでも近くに他人がいます。電車やバスに乗れば、触れ合う距離に見ず知らずの人がいますし、電車を降りて都心に出れば大量の人間と道を共有しています。会社のビルには自分の会社の従業員だけではなく、他者の人間もたくさんいます。そして会社に付けば、会社の規模によっては名前も知らない同僚もいるわけです。外に出て取引相手と会う、それまでの通路等々、キリがありません。
 物を買うとか、病院に行くとか、ほとんど何も知らない人と会話をするということも避けられないことです。
 さらに、SNSなどでの交流がある人は、本名も顔もわからない人たちと感情を含んだやり取りをすることもあるでしょう。また、世論によって社会が動くとすれば、知らない誰かと利害が対立していることもあるでしょう。誰かの都合で自分が損をしていることもあるかもしれません。

 これに対して狩猟採取時代の他者とのかかわりは、群れの仲間とのかかわりがほとんどすべてでした。200人弱、大体150人くらいが、その時その時の関わる人数でした。狩猟採取時代と現代の一番の違いは、狩猟採取時代は関わる全ての人間を個体識別できたということです。その人の性格や、行動パターン、志向や、得意不得意、長所短所等、本人よりも把握していたでしょう。共感や援助の土台がしっかりしていました。

 現代社会の他者は、どこの誰かもわかりません。どのような生い立ちであるかとか、何を大事にしているかとか、性格がどうかとか、長所短所など全く分かりません。人間の形をしていることは間違いありません。しかし、動物種としての人間であるという認識は持てても、当たり前の感情を持った人間であるということや、その人間が不利益を受けて悲しい気持ちになるということ等は、積極的に考えようとしなければ自然に感じることは無いでしょう。

相手が見えないあるいは見えにくい犯罪類型というものもあります。自分がこの犯罪をすることで誰がどのように傷つくかということを想定しないで犯罪を実行するというパターンです。自分の事情だけで誰かを損をさせたり、傷つけることをしようとしたりしているのに、その時に相手の苦しみを想像することができません。万引きなどの窃盗、詐欺や恐喝、性犯罪等、多くの犯罪で、被害者の感情を考えないで犯罪が実行されています。

【所属する群れが複数あるということ】

 狩猟採取時代は、生まれてから死ぬまで原則として一つの群れに所属していたようです。
現代社会では、いくつもの群れに所属しています。家、学校、職場、ボランティア、サークル等や、地域、国、民族、軍事同盟等知らないうちに特定の群れに所属していることも多くあります。

 学校では仲の良い友達同士なのに、親同士は対立する会社に勤めていたりすれば、関係は複雑になっていくでしょう。この問題は、人類のテーマになっており、ロミオとジュリエット等の文化芸術作品でよく取り上げられています。

【自分を守る、自分たちを守るという本能】

現代社会で生きずらい理由を考える補助線を一つ入れるとすれば、生き物である以上自分を守るということが一つと、人間が群れを作るということから自分たちを守る、自分の仲間を守るという本能があるということです。

 狩猟採取時代は、利害対立ということが実際は起きませんし、仲間を食い物にして自分だけ利益を得ようということがそもそもできない仕組みになっていましたから、他人から自分を守るという論点がほとんどなかったはずです。子ども同士のけんかということはあったと思いますが、成人してからは無駄なけんかもなくなったはずです。
 また、仲間を守るために行った闘争は、野獣からの防衛戦であったり、獲物を捕獲するための闘争だけだったはずです。仲間を守るために他の人間と戦うという経験がなかったと思われます。
 その結果、狩猟採取時代は、自分を守る為であろうと仲間を守る為であろうと、人間と利害をかけて戦うということは無かったはずです。およそ人間は仲間であり、自分を尊重してくれる存在、自分を援助してくれる存在、自分を許してくれる存在、自分に利益を与えてくれる存在、自分が役に立ちたい存在だったはずです。

【人間、他者の意味合いが変わる現代社会】

現代社会では、狩猟採取社会とは、他人という概念が随分変わりました。

第1に、見ず知らずの人間が多数存在しているため、人間として親身な関係のない人間が存在しているということ。
第2に、所属する群れが複数存在するために、他者とはなにかしら利害対立することが通常のこととなったこと

【それでも仲間としての扱いを求めてしまう人間】

一番厄介な根本問題は、人間は人間を見ると仲間だと思ってしまうということだと思います。仲間であるから仲間として接してほしいと、つい思ってしまうこれが悲劇の始まりです。

狩猟採取時代、他人とは、生まれてから一緒にいる群れの仲間しかいませんでした。だから他人を見ると、何かの拍子に、つい、自分を平等に接してほしい、自分の苦しい感情に共感して自分を助けてほしい、自分に平等に分けわたえてほしい、自分を配慮してほしい、自分を見捨てないでほしい等と、無意識のうちに要求をしてしまうようです。それが満たされないと、いちいち傷ついたり、悲しんだり、自分に自信が無くなったりしてしまうのです。

特に、その人間が、長い期間自分の近くにいるという事情が生まれると、その仲間として扱ってほしい、仲間として尊重してほしいという要求が大きくなってしまうようです。

ところが、先ず他者は自分を仲間だとみてくれないし、利害共同体だとも見てくれない、自分に損をさせてその人が利益を得ようとする場合もある。自分を攻撃してくることがあるわけです。

ある人から攻撃を受けて、その人に反撃をするということは止めることができないでしょう。しかしややこしいことに反撃をした場合には、その反撃された人の家族であったり、友人であったり、その人を仲間だと思っている人から再反撃をされるということが起こりうるのです。

犯罪として刑罰を受けるべき行為も、その人の意識では自分を守るために行っているという意識を持つ類型があります。自分が人間として否定されたと感じたために相手に暴行をふるう形態の犯罪、少年事件の集団同士の決闘などはまさにそのような犯罪です。粗暴犯はそのような犯罪類型が多いでしょう。自分の飢えを満たすための窃盗事件などは、自分を守るための犯罪類型と言えるかもしれません。

相手を攻撃している瞬間、怒りの作用によって、相手が人間であることを忘れてしまうかのような容赦のない攻撃をします。相手が自分を襲ってきた野獣でもあるかのようにです。

犯罪にまで至らないにしても、例えば夫婦喧嘩などは、本当は仲良く関係を継続したいのに、相手からパートナー失格の烙印を押されそうだと感じて、それを否定するために口論になることが多いのです。でも口論をしているときは、相手を尊重するべき存在だということを忘却しているかのような攻撃がなされることがしばしばあるようです。

【心と環境のミスマッチの例】
この環境と心のミスマッチは、いたるところで生じてしまい、人間に不安を与えてしまいます。

・ 例えば会社の上司は、特定の部下だけを特別扱いするわけにはいきません。誰かを特別扱いすれば別の人が損をしてしまうという利害対立の関係にあります。現代の労務管理はその利害対立を利用して働かせようとするパターンもあり、意図的に孤立感情が作られやすい環境に置かれていると言えるかもしれません。
その人の失敗を上司がかぶってしまうと、上司が損をしてしまいます。上司が自分が損をしても部下を守ると言う人であったとしても、上司には家族がいます。自分が損をすることで家族まで損をしてしまうことはできないでしょうし、また会社の自分に対する評価が下がることを家族に知られたくもないでしょう。
たとえ部下に家族がいて、子どもが生まれたばかりだとしても、上司は自分を守るために部下をリストラするということも起きることです。

・ 学校でも、友達が困っていたら助けたくなるのが人間の心ですが、うっかり友達の孤立に寄り添って帰宅が遅れたり、塾に行かなかったりすると、親から叱られたりするわけです。親から叱られることが嫌だったり、親が心配することが嫌だから、そもそも友達に対して共感に基づく行動をしないということはよくあることでしょう。
また、教室の中にいくつかのグループがあると、他のグループを助けることで自分のグループやグループの仲間が損をするようなことがあれば、おいそれと他のグループに手を差し伸べることができません。

・ また、見たこともない人と利害が共通することもあれば、利害が対立することもあります。税金の徴収方法一つとっても、自分にとって有利な徴税は誰かにとって不利な徴税になるわけです。あの事業のために予算が使われれば、自分の関連する事業に予算が削られることが出てきます。

・ 戦争をしなければ生きていけない人もいるでしょうが、そうでもない人も戦争が始まれば戦争で命を落とすかもしれません。

・ 家族でさえも一生同じ群れというわけにはいかないことが多いようです。仲間の取り換えが利く時代ということにもなると思います。膨大な数の人間とのかかわりと複数の群れに同時に帰属するスタイルが定着してしまい、およそ人間だからと言って、尊重する相手だとは思わなくなってしまっているのだと思います。誓い合って結婚した夫婦でさえ、いつしか、相手を信じ切ることが怖くなってしまうのでしょう。

 人間はいつまでも同じ仲間である群れの中で、安心して暮らしたいという本能、心を持ってしまっています。ところが現代社会では、どんな人間関係でも永続して安心してその関係に所属し続けるという保証がありません。意識していると意識していないとにかかわらず、常に自分の仲間から孤立してしまうのではないかという不安を抱きながら、生きている人が圧倒的多数ではないかと思います。

 不安は、自分を守ろうという心と行動を引き起こしてしまいます。しかし、この自分を守ろうという心と行動は本能的に、感情的に発動してしまいがちであるため、他者からは自分が攻撃されたと感じることもあるでしょう。あるいは、自分としては正当な自己防衛だと思っていても、考えが足りずに犯罪になることもあるでしょう。夫婦や人間関係の紛争の火種になるものです。

また、将来的な見通しを立てられない原因としては、不安が持続することによる脳の機能低下も挙げられます。不安が持続して焦燥感が強くなると、二者択一的思考、悲観的思考、刹那的な行動傾向、衝動的な行動傾向が強くなります。
さらには、睡眠不足を引き起こし、ますます脳の機能低下が進んでしまいます。

これが社会病理の起きる仕組みであると考えています。

【若干の対策として考えられること】

本当は、本人にとって大切な群れと大切ではない群れがあるはずなのです。ところが、どの群れからも自分が尊重されたいとつい思ってしまうのが人間のようです。特に、いつも一緒にいる群れは、自分にとって狩猟採取時代の群れとして感じてしまいます。その結果、その群れに無条件にとどまろうとして、群れのために全力を尽くそうとしてしまいます。群れから外されそうになっていると感じると、無意識に群れにとどまろうと努力をしてしまのです。そして群れから外されることが決定的になってしまい、とどまる方法がないというだけで、絶望をしてしまうのが人間のようです。その群れ以外にも人間は所属している群れがあり、その群れでは良好な関係であったとしても、一つの群れで決定的な不具合が生じてしまうと、つい絶望をしてしまうということのようです。

過労自殺はまさにこうしておきます。本当は家族と良好な関係にあるにも、職場という毎日身近に存在する人間関係の中で、自分が追放されてしまうような評価をされてしまうと、つい職場にとどまろうと必死になってしまい、職場こそが自分が命を懸けてとどまる群れだという意識が無駄に強くなってしまい、無駄に絶望を感じてしまうのが人間のようなのです。

人間の脳は、複数の群れに所属することにうまく対応するほどの能力はありません。
だから、先ず、全部の群れで尊重されようとしないで、群れの序列を作るべきです。そして、基本的には一つの群れに所属するようにしか人間の脳はできていないのだから、一番大切な群れを決めて、意識して、その群れの利益を最優先にすることを意識的に行うことが必要だと思うのです。
狩猟採取時代のような群れを一つ作るということです。そこに帰れば自然に安心できる群れを作るということです。そして、その群れを何よりも優先して考える。そういう割り切った生き方をするということです。

それに一番適している群れとは家族であろうと思われます。

家族のために役に立つことで喜びを感じ、家族が喜んでいる姿を見ればわがことのように喜ぶ。家族が失敗しても許しあう。

たとえ家族から攻撃を受けても反撃をしない。耐え続け、戦いを避けて静かに身を潜め嵐が過ぎ去るのを待つ。要するに家族から攻撃されても、自分を守ろうとしないということです。

そうして、家族同士が、家族は絶対に自分を見捨てないという安心感を獲得するということが現代社会を生き残る最も効果があり、実現可能な切実な方法だと思うのです。

但し、現代社会の構造からは、先に見たように、放っておけば、家族同士でも安心できない相手だと感じるようになりがちです。

だから、人間の心の安定、充実した人生を送るためには、意識して家族を安心できる存在に育てていくことこそ必要だと思います。人類は、現代社会が人間の心とミスマッチを起こし、不具合を起こしやす構造的問題があるということを強く意識して、総がかりで対策を講じるべきだと思います。

これが現代社会において理性的な取り組みが必要な人類の課題であると考えています。

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