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夫婦の話し合いがうまくいかない理由 価値観の違い、性格の不一致ではなく、男女の行動基準が違うだけ。繁殖期を過ぎても仲良く暮らす方法。 [家事]



新型コロナのために、外出を自粛することが多く
家族の距離が近くなっています。
家族間の軋轢が高まるきっかけにもなりますが、
家族間のチームワークが強まるきっかけにもなります。
東日本大震災の時がそうでした。

お互いを理解しあって楽しい家庭生活を送りたいものです。

家庭内の紛争は、
どうすれば楽しく生活ができるかのヒントが多く隠されています。

離婚事件を多く担当していると
夫婦間の問題を解決するために話し合いをしても
解決に向かわないばかりか
逆に仲がますますこじれてしまうことがほとんどです。

なまじ「話し合い」をするから
夫は妻へのイライラが積み重なっていき
妻は夫に対する嫌悪感や恐怖が増えてゆきます。

なぜでしょうか。
それは、話がかみ合っていないからです。
そのために、それぞれが自分の言いたいことを言い、
言ってほしいことが相手の口から出てこない
話し合いが必要なまでこじれてきたこれまでのすれ違いの
総結集が繰り広げられてしまっているのです。

その結果、
価値観が違うとか性格が不一致だと言いあうのです。
言われた方は自分の人格を否定されたように受け止めて、
ますます相手に対する怒りや恐怖を覚えるのです。

性格や価値観は違うのが当たり前です。
ある時から性格や価値観が変わったわけではありません。
結婚を決めたときからおそらく変化はないのでしょう。

結婚までの時期と
結婚してから子どもを作る時期までは、
家族という人間関係を形成するという一つの目的がありますから、
お互いに、自分の言い分をわきにおいても
一つの目的の下での共同行動ができたのです。
ところがある程度家族が形成され、安定してしまうと
それぞれの主張を我慢するまでして行動するべき
目的が失われてしまうのかもしれません。

そうすると、各自の行動基準で行動をしようとしてしまうわけです。

価値観や性格が変わったわけではなく
行動基準が変化しただけだと考えると
あまり傷つく必要はないということになりそうです。

もともと人間は男女によって行動基準が異なっていました。

200万年前くらいから
男女の行動基準の違いによって人類は生存を続けることができたのです。

その頃から
男は小動物を狩りに行って
女は子育てと植物採取をしていたとされています。
数十人の群れを形成していて
仕事ができる大人が半数とすると
例えば40人の群れで勤労年齢が20人、うち男女10人ずつだとして
男性10人は狩りチーム、女性10人は植物採取チームとしましょう。

男性10人の狩りのスタイルは、
チームを組んで、イノシシなどの小動物を追いかけていきます。
どこまでも追いかけるのだそうです。
動物は分厚い毛皮でおおわれていますから
走って逃げるうちに熱中症みたいに体温が上昇して弱ってしまいます。
人間には薄い体毛しかありませんから
発汗によって、気化熱が体温を奪いますから
熱中症になることはありません。
だから熱中症で弱った動物を捕獲することができるというわけです。

ところが、必ずしも動物が捕獲できるわけではありませんので、
餓死しない、空腹をしのぐために
植物を採取しておくことは大切なことです。
また、外敵に襲われないように子どもや年寄りを守らなければなりません。
そのために子育てをしながらできる植物採取を
女性が行っていたようです。

なぜ、男女で役割が分かれたかというと、
おそらく人間が二足歩行を始めてしまい
流産をしやすくなったためだろうと思われます。

数十人の群れですし、
人間の妊娠出産は時間がかかるので、
せっかくできた子どもが流産してしまうことは
群れ全体の滅亡につながります。

女性が狩りをしない群れでは子どもが多く生まれる
ということに気が付いたら、
その理由を認識していたかどうかはともかく、
何万年の月日の中で、
女性は狩りをしないものだということになっていったのでしょう。

当時は、完全に平等社会だったようで、
「狩りに行くほうがえらい」というような
男性的価値観が社会を支配していなかったようです。
男性は、待っている女性のために喜んで狩りをしたでしょうし、
女性は、獲物をとれなくても男性を責めることはなかったでしょう。
それぞれが自分の役割を積極的に果たし、
それぞれを尊重していたものだと想像します。

さて、このような役割分担は
男性と女性に行動基準を植え付けていくわけです。

男性は、獲物をとるという目的でチームを組みます。
獲物をとるという目的にとって最善の合理的行動をとることが
行動基準となります。
目的に反する行動は厳しく禁止されます。

当時の男性にとって意味のある行動とは
目的に向かって合理的な行動だということになります。

女性の作業はこれとは異なります。
植物採取は、ルーティンの性格があり、
共同作業というよりは各自の行為です。
それよりも、獲物をとるなどの一つの目的で結集するのではなく、
結集しておくことによって、
肉食獣から身を守ることに有利になるというものであり、
どちらかと言うと、
共同生活それ自体が目的だというスタイルになります。
そのためには、合理性という行動基準ではなく、
お互いの間に波風を立てないということ
そのためには、相手の言動や存在を尊重する
相手の心に気を配る
そういう行動基準になったのでしょう。

相手の心に気を配るということは
自分の心にも気を配ってもらいたいという気持ちになったのでしょう。

もちろん、これらの違いは完全に男女で色分けできるものではなく、
特に現代では複雑に混在していると思います。
ただ、繁殖期が終わった、繁殖以外の男性、女性が顔を出してくるときは
感覚の違いが鋭く出てしまうことがあるのだと考えると
現代の夫婦のすれ違いがよく説明できるように思えるのです。

結婚をして、子どもを作るというところまでは、
目的のもとに行動するという要素と
人間関係を作っていくという要素が
どちらも含まれた活動をしていますから
放っておいても、男女ともお互いにとって
都合よく行動しやすくできています。

ところが、ある程度人間関係が形成されてしまうと
それぞれの無意識の思考である行動基準が
先祖返りのように傾向が分かれてきてしまいます。

男性は小さなことでも、目的というものを意識して
目的に向かって合理的なことが正義であり、するべきことと考えるようです。
目的に反するこうどうや、目的を阻害する行動は
悪だとして怒りをもつこともあります。

女性は、行動が合理的かそうでないことをそれほど気にしません。
目的を達するということを行動基準としないということです。
むしろ、それぞれの仲間が、尊重されて楽しく不安を持たずに生活する
ということが第一の目的であり、行動基準なのです。
目的を達しようが達しまいが、みんなで仲良く暮らしていたい
そのために行動するわけです。

片づけができないということを例に挙げてみましょう。

片づけは簡単なことであり、通常なら誰でもできます。
しかしいろいろな事情があって
片付けに手が出ないということはあるのです。

ゴミが落ちていたとか、汚れが解消されていないことはあるでしょう。

男性的な発想は
家をきれいに保つことが主婦としての目的であるべきだと
無意識に感じているのでしょう。
それをしないことは悪になってしまいますから
無意識に怒りを含んで、片付けることを要求してしまいます。

女性は、みんなで仲良く暮らしたいと思っているのに、
自分を攻撃する家族がいることに驚き
みんなで仲良く暮らすことをしないことに怒りを持ち
同時に攻撃されていると感じますから自分を守ろうとして
その結果怖がったり、それに対して怒りを持ったりするわけです。

簡単なことでもできないことがある。

男性は、そういう時は、自分が片づけをやっていたのであり、
それでした妻を叱責したことはないということをよく言いますし
それはその通りなのでしょう。

ところが子細に話を聞いていくと
汚れを目にして、思い切り顔をしかめ舌打ちをして
「何で仕事から疲れて帰ってきたのに俺が片づけをしなければならないのだ」
ということを全身で表現して片づけをしているようなのです。

子どもだってそんな父親を見ているわけですから
母親としてはいたたまれない気持ちになるでしょう。

夫は家をきれいに保つという目的に従った行動を妻がしていないので
マイナス評価をすることは当たり前で、
口に出して文句を言わない自分は大人だと思うのです。

しかし、妻は、まず夫が
みんなで仲良く暮らすという目的に反した行動をとっている
ということを強く感じます。

もちろん夫のイライラも敏感に察しているわけです。

だから話し合いは
男性の主張としては、家の片づけをしろよという主張になり、
女性の主張としては、私を侮辱したり否定したりしないでよ
ということになるわけで、だからかみ合わないのです。

男性が考える目的に従った行動ができない事情があるのです。
成人女性には特にあることです。

女性的な行動基準では
先ず、相手を尊重する。尊重しない態度はとらない。
では、現状の課題をどうするか
という流れになるのだと思います。

これを意識して男性は自分の心にストップをかけなければ
日常生活小言だらけになってしまいます。
女性は、当初は自分の評価を下げたくないから頑張りますが、
だんだん、自分は尊重されていないのではないかと
無意識に感じ始めるわけです。

何をしても感謝されない、ダメ出しと否定しかされない。
そういう気持ちが募っていけば
そしてそれが毎日長期間続けば
だんだん相手は自分を否定する存在なのだと評価が固定し
嫌悪と恐怖しか出てこなくなるのかもしれません。

男性的行動基準も女性的行動基準も
メリットやデメリットがあります。
どうやら家庭の生活では
女性的な行動基準で行動するべきなのでしょう。

どちらかというと、家庭は
何か目的をもってそれに向かって結束して行動するよりも、
みんなで仲良く生活すること自体が目的となるべきだからです。
女性の行動基準がいかんなく発揮される人間関係なのでしょう。

ただ、子どもの進学だったり、しつけだったり
家庭の中の行動が、他の人間関係に影響を与えるような場合は
男性的な行動基準が部分手金導入されることが求められることもあるでしょう。

職場では男性的な行動基準が求められます。
それが会社にとって都合がよいと思われているからです。
みんなが目的的な行動をとれば生産性が上がると思われがちで、
目的に反したり、最短距離を進まない行動は否定されています。
このような労務管理に、男性は洗脳されやすいのでしょう。
いつしか家庭に企業の論理を持ち込んでいるようにも感じられます。

本当は行動基準が違うことが
家族が社会の中で楽しく暮らすためには必要なことなのです。
女性的な行動基準だけで家庭生活をしてしまうと、
社会の中から取り残されてしまうということがありうるからです。

細かい話で言えば
今日は子どもの学用品を買いに行こうと出かけても、
売り場に行く前にほかのところで時間をとりすぎて
目的の場所にたどり着かないというのでは子どもに迷惑をかけてしまいます。

協調性に価値を置くことを基本にしながらも
必要の範囲で、目的的行動を追求する場面がある
ということがバランスが取れているのではないでしょうか。

細かいことに気をしないで、おおらかな男性に人気が集まりますが、
それは目的的行動ばかりを口うるさく言わないという
女性的行動原理で行動しても安心できる相手だからかもしれません。

先ほども言いましたが、繁殖期はこれが男性でもできたのです。
相手の心にくどいほど気を使って心を砕いて
何とか相手をモノしようと努力していたではないですか。

女性も目的的行動に順応しようと努力をしていたのでしょう。

繁殖期を過ぎても家族が仲良く円満に暮らすためには
ここを意識しなければならないのだと思います。

自分の思い通り相手が動かなくても
決して価値観が違うわけではなく、
育った環境が違うからではなく、
自分を馬鹿にしているわけでもなく、
だらしないわけでもなく、
性格が悪いわけでもないのです。

動けない事情があるのです。
怒らなくてもよいのです。

そもそも家族という他人を
思い通り動かそうとすることが間違いだ
と考えることが夫婦円満の秘訣かもしれません。

片付けない妻は悪いかもしれません。
しかし、だからと言って、妻に
屈辱的な思いや不安を与えることはもっと悪い
ということなのかもしれません。

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全ての子どもにまつわる事件の当事者の親御さんたちは、最高裁判所の動画を武器にしっかりと身に着けるべき 最高裁は私たちの味方だ! [家事]




最高裁判所が動画を配信しています。
https://www.courts.go.jp/links/video/hanashiai_video/index_woc.html

ビデオ「子どもにとって望ましい話し合いとなるために」
という動画があり
「基本説明編」と「子どもの年代別説明編」の2本が配信されています。

子どもと言っても発育段階によって感じ方に違いがありますので、
年代別説明編を作ったことはとても配慮されていると思います。
基本説明編では未就学児と小学校高学年を例に
模擬事件を作ってわかりやすい説明がなされています。

これはとても使えます。

面会交流調停だけでなく、
親権者の指定(離婚調停、訴訟)、変更、
監護者の指定、子の引き渡し
全ての事件で、
この動画を裏付け資料として主張を行うべきなので、内容を紹介します。

基本説明編の内容としては、
大きく分けて二つの構成で、
<子どもが両親の争いから受ける影響>とそれを踏まえて
<子どもを両親の争いに巻き込まないために>
が述べられています。

全体の章立ては、
1. 話し合いを行うときに
2. 子どもが両親の争いから受ける影響
3. 子どもを両親の争いに巻き込まないために
4. 自分自身の心の状態を知る
5. 子どもへの接し方
6. 話し合う内容と心がけること
となっており、最初の画面からその動画部分に飛べるようです。
この点もよくできています。

先ず、
<子どもが両親の争いから受ける影響>
が述べられています。
文字ではなく動画で、しかも子役がみな素晴らしい演技をしているので
これでもかというほどわかりやすくなっています。

10歳の子どもの場合は、
一見平気そうに見えても、
内面では悲しい気持ち、辛い気持ち、不満などを抱えていることがある
というようなことを説明しています。

よく調停などで、
子どもは平気そうにしているから
今の環境になじんでいるとか
別居親と会わなくても良いから会わせないとか
等と言う当事者がいるわけですが、
その言い回しは間違っているということの裏付けとして使えるわけです。

まさかとは思いますけれど
調査官調査報告書がこのようなトーンで書かれていたら
最高裁の見解に反するという言い回しも可能になるでしょう。

もし万が一、審判でこのような能天気な理由付けがなされていたら
抗告理由に私は使わせていただきます。

ビデオの内容の説明を続けます。

小学校高学年になると
どちらの親の気持ちもわかるため
どちらにも気を使って板挟みになり
辛い気持ちになっている
ということも説明されています。

そして、板挟みになることを避けるために
どちらか一方の親の肩を持つような
極端な言動をすることがあるとまで
はっきり説明しているのです。

子どもは親に気を使うわけです。
それにも関わらず、子どもの言葉を表面的にとらえて
能天気な、つまり、ものを考えない結論を出してはならない
と最高裁判所は考えているわけです。


また、動画は
良い子にしていると両親が仲直りするのではないかと
無理をして良い子にふるまうことがあるということを指摘しています。

これはよく見られる現象で
勉強を頑張ったり、習い事を頑張ったり
無理をする子どもたちを学校現場でもたくさん見ているそうです。

小学校低学年までは
自発的に無理をする子はほかにあまりいないため
無理をすればするほど成績は上がります。
しかし、小学校高学年から中学年にかけてになると
無理して頑張るだけでは成績はついてきません。
自分にかかる歪んだ期待の大きさと、
成績という現実とのギャップに子どもは苦しみます。

学校や習い事の成績が
いつしか子どもにとっては
自分をささえる唯一の道具になっていますから
成績が頭打ちすることは精神的な打撃になるようです。

自分が無理をしないでありのままにいても尊重されるべきだ
という発想は、子どもには持てません。
保健室登校や不登校につながる事例があるようです。

まさかとは思いますが、
調査官調査や審判書などで
子どもがテストでよい点数を取っているから
子どもに問題が起きていないなんてことは言わないと思いますが、
もし、万が一そのようなことがあれば
最高裁の考え方とは全く違うということを教えてあげなければなりません。

次の大きなまとまりは
<子どもを両親の争いに巻き込まないために>です
ポイントとしては
「心の状態を知る」
「子どもへの接し方」
「話し合う内容と心がけること」
が挙げられています

心の状態を知るとは、
親自身が自分の心の状態を知るべきだということなのだそうです。
離婚の問題はこれまでになかった強いストレスを受けるので、
相手の言動を実際よりも悪くとらえてしまう
ときちんと説明されています。

これは、とても基本的なことなのですが、
これまで家裁実務では、あまり取り上げられてきませんでした。

当事者が感じたことを、すべて事実だというような扱いがされることが
たびたびありました。
裏付けもないのに暴力があった等と言う認定はないと信じたいのですが、
それに似たようなことはたくさん目にしています。
事実でないことで不利な決定を受けた方は
防ぎようのない攻撃を受けることになります。

ビデオでは悲嘆反応にまで言及しています。

次は子どもへの接し方です。

子どもに親の争いを見せないということが一番に出てきます。
これはとても大切なことです。
これは同居時に子どもの前で喧嘩しないということが勿論一番ですが、
別居した後でも、
子どもの前で、相手の悪口を言うとか、別居してよかったとか
そういう話をするということも同じだと思います。

昔は、親の親、子どもから見れば祖父母は
相手の悪口を子どもの前で言うことを良しとしない風潮がありましたが、
今の祖父母は、子どもの前で平気で
その子どもの血を分けた親の悪口を言っているという
嘆かわしい世の中に日本はなっているようです。

嘘でも良いから相手の良いところだけを子どもには知らせるべきで
それをする能力がないならせめて悪口を言わない
ということをするべきです。

子どもの心に目をくばり、
逆に子どもに悩みの相談に乗ってもらってはいけない
ということが言われています。

また、一方の親に気を使って
一方の親が悪くない、相手が悪い等と子どもが言ったら
それをやめさせるべきであることが
情感豊かに描かれています。

これからの生活の見通しを述べることが
子どもの気持ちの安定のためには有効であることが述べられています。
そうであるならば
子どもに何らの説明もしないで
転校を余儀なくする引っ越しを突然することは
この観点からも子どもの心に負担が生じることだ
ということが導かれます。

子の福祉にとって有害なことのカタログのようなビデオです。
大いに活用できると思います。
もっとも、相手を攻撃するために使うのではなく
自戒のためのビデオなので念のため。

最後は話し合う内容と心がけることについてです。
子どものために何を話し、何を決めるのか
ということをまず考えなくてはならないと言っています。

ところが、家庭裁判所では、
子どもの利益があまり話題にならないように感じています。
親同士が、私は私はということで争っていることが多いのではないでしょうか。
子どもという一つの人格が無視されているということに
警鐘を鳴らす内容となっています。

離婚となった場合は、当然に面会交流をするという流れにもなっています。
これは全て子どもの利益であり、親ならば最優先しなければならない
とビデオは訴えているように思われます。

ところが、
地方の裁判所では、
まだまだ面会交流を当然行うべきだという流れにはならず、
同居親の葛藤が高ければ
実施できないとか
間接面会交流にしなさいと言ってきたりするところもあります。
最高裁の考え方とまるっきり違うわけです。

また、間接面会交流の意味ですが
子どもが読むことすら見通しがないにもかかわらずに
別居親が一方的に手紙などを出してそれで終わりという無責任な方法を
面会交流だと勘違いしている関係者も多くいます。
交流ですらないと思います。

ビデオでは、面会交流は、離れて暮らす親も
自分に愛情を注いでくれると実感することが
子どもにとって大切だと言っています。

届かない手紙を出すことは面会交流とは言いません。
子どもが読まないから仕方がない等と言う人もいますが、
子どもは気を使って読まないのです。

養育費についても子どもが愛情を実感するという利益がることを述べています。

最後に
子どもの「将来のために」何が必要かという視点が必要だと力説している
要に私は感じました。
大事なことは、子どもの場合今だけでなく
子どもは成長する存在であり、それに応じた配慮が必要だ
と説得的に述べています。

家庭裁判所の話し合いも当然に
その視点で行わなければならないはずです。

年代別の動画も基本的には今述べてきた内容を
子どもの年齢に応じた発達段階に合わせて丁寧に解説されています。
ポイントと対応方法をきちんと整理してわかりやすいです。
まだどの子役の方々も演技が素晴らしい。

ご自分のお子さんの年齢の部分は
私がこのブログで抜き書きしたように
抜き書きして手元に置いて調停に臨むべきです。

家事調停は、事件ごとにいろいろな顔があります。
必ずしも法律で画一的に調停の流れを決めることはできません。
それはそうでしょう。

しかし、現実の家事調停の多くが、
何らよるべき基準を設けず、
調停委員や、裁判官、調査官の
個人的考えに従ってフリーハンドで行われているのではないか
という危機感があります。

最大の問題は子どもの将来が全く考えられていない
ということです。

家裁月報や
「子どものための法律と実務」安倍嘉人、西岡清一郎監修(日本加除出版社)
等、勉強する文献はたくさんありますが、
その成果がコンセンサスになっていないのではないかと
感じてなりません。

今回おそらく建前としては
一般国民を対象として最高裁は動画配信を行ったのでしょう。
しかし、一般国民に向けてこのような内容の動画を作るということは、
ほかならぬ裁判所は、
この動画と同じ考えで、家裁の手続きを行う
ということを宣言したに等しいと考えるべきだと思います。

全ての子どもの事件の当事者の皆さんが、
この動画をよく観て、内容を自分のものにするべきです。

もし家庭裁判所がこの動画に反する行動をとったならば
動画の内容を教えるべきだと思います。
そして動画を見ることを提案してください。

この先、長い目で見れば
子どもの権利はますます拡充していくことと思います。
そうなれば、この動画でも不十分な点が感じられるかもしれません。

しかし、現時点においては
これは強力な武器です。
それだけこの動画とは異なる考えで
実務は動いてしまっているということです。

おそらく最高裁の真意は一般国民に向けてというよりも
家事実務の在り方に対して
動画という形で
あるべき形を示したのではないかと
考えたくなっている次第です。

いずれも、このような動画は、最高裁判所が配信しているものです。
最高裁判所は私たちの味方だということに確信を持つべきだと思います。

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裁判所に、「子どもの福祉」とは、将来を見据えた健全な成長を図るということである」ということを理解してほしい。 [家事]



親が離婚した場合どちらの親が子どもの親権を取得するか
離婚していない場合でも共同監護ができない場合
どちらが監護者となり、どちらと住むか
親同士が離れて暮らす場合に、一緒に住まない親と子どもを会わせること
家庭裁判所では子どもの一生が決まりかねないことが決められます。

子どもの権利条約を受けて
子どもを親の付属物としてみることから
子どもを独立した一人の人間として認めること
子どもには親の利益から独立した独自の利益があるということ
これらのことを強化しようと法改正もなされました。

しかし、裁判実務は果たして変化したでしょうか。
私には大きな変化があるとはとても思えないのです。

法改正の前から
子どもの一生に関わる親権、監護者、引き渡し、面会交流は
子の福祉を第一に決定されるべきだ
という考えはあるのです。

その考えはあるのですが、「子の福祉」という概念、価値観が
それらの判断の基準なり、根拠とはなっていないように感じてなりません。

私は、両親の離婚についてだって、
子どもにとっては家族の形が変わるし
生活の様子が変わるのですから、
自分の一生を左右しかねないわけですらか、
子どもが離婚に反対する権利があったって良いように思えるのです。
しかし、子どもには、両親の離婚について、つまり自分の一生について
意見を言う権利は認められていません。
せいぜい、お父さんとお母さんとどちらと暮らしたい
ということを言えるだけです。

不合理だと思いませんか。

それも、一緒に住んでいる親に気を使って
どちらと暮らしたいと言っていることは誰でもわかることなのですが
子どもの発言が鬼の首を取ったように扱われて
子どもが言ったからということを理由にして決められてしまいます。
まるで、子どもが自分の未来に対して
自己責任を負わせられているようなものです。

原因は色々あるのですが
家庭裁判所が、「子どもの福祉」ということを理解していない
ということに大きな問題があることは間違いないようです。

家庭裁判所の審判書や判決書を読むと
「子どもの福祉」という文字は出てきます。
しかし、本来の意味での「子どもの福祉」ということが
検討されている痕跡がないことがほとんどです。
さすがに、経験トップの裁判官等の審判書では
まじめに検討されていることがわかるのですが、
なにぶんその他の裁判官は家庭の問題を判断するには
若すぎるという印象があります。
若い裁判官が書いた審判書を読んでも、
探しても探しても子どもの将来の利益の検討が示されていることはありません。

ただ、「子の福祉」という文字を置いているだけなのです。
枕詞のように文字が置かれているのですが、
枕詞に掛る言葉がありません。

「子どもの福祉」の意味は確定しています。

「子の将来を見据えて考えるべきものであり、行動科学の知見を踏まえたうえで、どのようにしたら将来子が健全な成長を遂げることができるかという社会の良識にも配慮した視点で考えるべきものである」(例えば、「子どものための法律と実務」安倍嘉人、西岡清一郎監修(日本加除出版社)16頁)

と最高裁以下、「子どもの福祉」について共通認識に立っているはずなのです。

ポイントは、今、問題が起きていないように見えても
将来的に問題が起きる可能性があるのであれば、
しっかりそのデメリットを回避するようにする。
ということです。

現在の家庭裁判所の多くで、
この子どもの将来を考えた痕跡ばかりがない判断ばかりが目につきます。

だから、
面会交流をしなくても、現在子どもは支障なく学校にも行っているとか
突然友達や父親から離されて、自分の部屋や持ち物も置き去りにされた
けれど子どもが「帰らなくてもよい」と言うので
子どもを住んでいた家に戻さなくてもよい
というようなことを本当に家庭裁判所が書いているのです。
本当ですよ。

子どもの将来についての考察はなく、
煎じ詰めれば子どもだから母親と一緒に暮らすべきだ
ということで終わっているのです。

子どもが、「元に戻らなくてもよい」といった時の
その気持ちも考えていないし、
将来影響が出るかもしれないということも
裁判所の文書からは全く考えられていないように感じます。
私には、父親と会いたくないといった日の夜
ベッドでそれを思い出して張り裂けそうになっている子どもの姿を
想像して切なくてたまりません。
子どもがかわいそうだという考えが裁判所においても通じないのは
現代社会の反映でしょうか。

愚痴のようになってしまうのですが、
子どもが子どものままでいると思っているのではないでしょうか。
人間関係の断絶が新たな人間関係の形成に支障を生む
という発想はないのでしょう。
これを近視眼的というのだと思います。

法律学においては
明治期の立法者や大正時代にかけての法学者が
人間とは何か、人間が生きるとは何か、
人間のつながりとは何か、
ということについて深遠な洞察を行ってきました。
そしてそれを受けて裁判官たちが判例を作ってきました。

現在では、人間の営みを探求することなく
初めから結論を決めつけて
つまり何も考えないで印象だけで結論を出している
と感じることさえあります。

おそらく人間の心情や行動、成長
そういうことをはじめから理解しようとしていないのでしょう。

もっと、自分たちが
人の一生を左右させる仕事をしているという
責任感と緊張感を
審判書や判決書の中で見せてほしいと思います。

せめて言葉の意味だけは
自分勝手な使い方をしないで
決められた意味で使用するようにしてほしいと思います。

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子どもの納得も、友達とのお別れもできない居住環境の変化をしいることは、子どもから見て、やはり連れ去りと言うべきかもしれない理由。子連れ別居における子どもの精神的負担の構造。 [家事]



特に母親によって、家族が住んでいる場所から
父親の了解も、予告すらなく、
突然子どもを連れて実家その他に別居する
という事件が一向に減少することはありません。
家庭裁判所の事件もやはり減りません。

しかし、家庭裁判所においては
大人の都合ばかりが議論されて、
子どもの幸せについては議論があまりなされていないような印象があります。
自戒の意味を込めて
子どもの心理的負担という観点から
突然の子連れ別居の弊害について検討したいと思います。

では、

人間は群れを作る動物です。
普段私たちはそれを意識しないのですが、
「自己」について意識する時には、
自分以外の他者との関係の中での自分ということを
考えているものです。

人間にとって「自己」についての感覚は、
自分以外の他人と自分との関係の状態によって
形作られていくものだとされています。(*1)
自分が生きている意味を感じ、充実感を感じるのは、
他者との良好な関係を保っている状態なのでしょう。

逆に誰ともつながりを持てなくなってしまうと
精神的に不健康な状態に陥るわけです。
それが、PTSDの本質だという研究者もいます。

子どもも同じです。
特に幼児期までは、両親との人間関係が大切で、
意識がなされなくても
自分の空腹や痛みや不快などの感覚に対して
両親などが改善してくれることによって
安心感を獲得していきます。
この体験は後々も
基本的に人間関係は安心してよいのだ
という自信や自己肯定感につながる基礎となる重要なものです。

幼児であっても、
常に両親が自分の周囲におり、
あるいは決まった時間に自分の周囲に戻って時間を過ごす
という人間関係の中で安心感を獲得していくわけです。

徐々に幼稚園や学校、あるいはスポーツ少年団や習い事の
友達や教師との関係を増やしていき、
予測可能な、「いつもの人間関係」の中で
安心感の輪を広げていくわけです。

安心感というのは予測可能性が前提になるでしょう。
何年か共同生活をしている学校などの友達は、
こうすれば機嫌を直してくれるとか
こういうことを言わなければ問題ないとか
予測可能な仲間です。
人間になじむということはそういうことなのでしょう。

そうして、安心できる人間関係の中で
「自己」という存在が形成されていくわけです。
例えば友達の中での役割を果たしていきます。
率先して行動を提案する役割、
みんなを勇気づけて行動を推進する役割
黙って作業を進める役割
あるいは意見が衝突する場合に調整をする役割、
自我を通さず全体に協力する役割

面白いようにそれぞれ個性があり、役割を果たしています。
これが「自己」という概念を形成するということだと思います。

友達だけではなく、先生との関係も重要な自己形成でしょうし、
通学路や近所の猫や犬に対するお世話をする
ということも自己形成に寄与しているように思われます。

生き物だけではなく
自分のおもちゃだったり、趣味の道具だったり
あるいは部屋のレイアウトだったり、小物だったり
物に対しての愛着も自己形成に重要なアイテムであったりすることがあります。

これまで子どもには人格が確立していないということで
子どもの「自己」に対して考察が十分でなかったような印象があります。
人格が確立するのはハイティーンの頃だとしても、
人格の形成にとってはなおさら、
このような安定した環境において自己形成をしていくことが
大人以上に重要なことなのだと思います。

もちろん、私の子どもの頃は高度成長期のただなかで
転勤や引っ越しが多く、ほとんどが転校生という状況でした。
ただ、その場合も
突然の引っ越しということはあまりなく
きちんとお別れをして、
別れても友達だという確かな思い持つことによって
距離的には別れ別れになるけれど心ではつながっており、
自己形成のための重要である人間関係であり続けていた
ということがあったのでしょう。

そのような心の区切りがつくことで
あたらしい人間関係になじんでいくことができるのだと思います。

さて、
現在よく行われている子連れ別居は
そのような心の区切りを子どもが持つことができない形で
突然行われます。

ある場合は、何が何やらわからないまま家を出て
気が付けば自分の母親や母方の祖父母等
大人ばかりの環境の中に放り込まれてしまいます。

しばらく大人ばかりの環境にいると
学校に通わないことはまずいということで
自分の意思にかかわらず
その地域を管轄する学校に編入させられ
見ず知らずの子どもたちの中に自分が置かれてしまうわけです。

子どもにとって、親が一人
自分の周囲からいなくなったということ自体が
精神的に混乱と恐怖を与えられることですが、
どうやら学齢に達したころになると
友人たちからの離脱が
さらにその混乱を大きくするようです。

子どもにとっての友人関係は
その中に自分がいる場合の友人関係しか想定できません。
自分抜きに、自分のポジションがぽっかり空いた人間関係は
想像することができないようです。

逆に、その友人関係の中にいない自分
ということもイメージができないようです。
自分が何か、現実に地に足のつかない存在になったように
頼りなく感じてしまうようです。

子どもの発達の状態や、人間関係によっては
色々違いはありそうですが、
それだけ小学生にとってのクラスの友達は
「自己」と切り離せない存在のようです。

また、地域の犬や猫、植物や小物、なじんだおもちゃ
それらとも突然に分断されてしまいます。

確かに、新しい居住環境でも子どもは、
祖父母や親せきの大人たちの与えたおもちゃを使って遊ぶでしょう。
それしかないからそれで遊んでいるわけです。

小学生の遊びは、
友達と同じおもちゃで遊んでいるということで
一人遊びをしているように見えて
友達とのつながりが形成されている場合が多いのです。

このおもちゃを楽しみながら
明日友達に話すことを想定しながら遊んでいたりするものです。

祖父母や大人たちから買い与えられたおもちゃにはそれはありません。

子どもからしても
既に小学校に通い始めている場合は
母親が一緒にいればそれでよいと考えることはできません。
子どもながらの社会があり、
社会の中での自己形成が始まっているのです。

友達や動植物や自分のなじんだ物から分離させられることは、
実は、自分だけ別の場所にいるということではなく、
自分の一部分が切り取られるような辛さがあるわけです。

あたらしい友達ができればよいというわけでもありません。
なぜならば、新しい学校の子どもたちは
自己形成に関与した人間ではないからです。

また、予測不能な自分とその子どもと
お互いに予測可能性のある子どもどうしとは
明らかに一線が画されています。

あたらしい人間関係を作ることは大人とは違います。
大人は、それぞれの人間関係を
ほどほどの距離で結びつけることが可能です。
ところが子どもはそのように器用な交際はできません。

これまでなじんだ人間関係の形成を求めてしまいますが
それができないためにあきらめてしまうこともあるでしょう。

また、自分がなじんだ人間関係から
突然、理由もわからないままに分離されるという体験は
深刻な影響が与えられる危険があります。

自分が納得して友達や先生と別れを迎える場合は
別離が起きる場合、条件というものを理解することができます。
ところが、自分にとって突然の別離となる場合は
別離になる場合が想定できません。
こういう場合
ある日ある時、突然人間関係は消滅するのだ
ということを学習してしまう危険があります。

この結果、特定の人間と
親密な人間関係を形成することに恐れを抱いたり
初めからあきらめてしまうということがあるようです。
特に人間関係をすぐあきらめてしまう
という傾向のある子どもたちや大人が報告されています。

これは、その人たちの子どもにも連鎖がおきてしまっています。


突然の居住環境の変化
しかも子どもがしっかりと納得しないままの変化である場合には
このような弊害が子どもたちにあることをしっかり想定しなければなりません。
もちろん、子どもの弊害を考慮しても
行動を起こさなければならないという
極めて例外的な異常事態ということはあるでしょう。

現在の家庭裁判所の実務は
このような子どもの弊害については
無かったことにして議論が進められているように思われてなりません。
きちんと弊害は予想しなくてはならず、
弊害はあるけれどそれを上回る子どもの利益があるという場合に
子どもの居住環境からの分離が肯定されなければならないはずです。

ところが、大人の都合が優先されて
子どもの都合は実質的には何も考慮されていないのです。
母親にとってやむを得ないから分離もやむを得ないというのであれば
子どもは母親の付属物になってしまいます。

それは子どもの幸せが
母親といることと同視されてしまっている
つまり母親に従属するべき人格だということを意味しており
人間に対する深い考えがない
子どもについての配慮が全くないということです。

母親の多くは、
子どもに対してこれらの精神的苦労を与えたいとは思っていません。
子どもの不利益を回避したい方法があるならば
その方法をとりたいと思っています。
そのために話し合う方法こそ大人や法律関係者は作り上げていくべきです。
このような努力は感じられません。

もし、あなたが夫から離れて暮らしたいという場合、
相談した相手があなたの心に「寄り添う」ばかりで
子どもの不都合について何ら言及もしない場合は、
結局子どもの苦しみは子どもの自己責任とされていることです。
その人のアドバイスを聞くことはやめるべきです。

子どもが今いる環境を温存しながら
大人の希望を考える人のアドバイスことを考えた方が良いと思います。

結局あなたに寄り添っているように見えている人は
子どもだけでなく、あなたの利益も考えていないのだと思います。
経済的利益や、自分勝手な思想、未熟な思い込みを
あなたに押し付けているだけの場合が少なからずあるように感じます。

子どもの不利益を考えた上で、行動を実行する
それが最低限求められていることなのだと思います。



*1 この文章をはっきり自覚したのは、J.L.ハーマンの「心的外傷と回復81頁」でした。かなりの衝撃を受けました。人間とはこのようにつながりの中で生きる生物のため、精神的外傷体験は、このつながりを絶たれた孤立状態をまねき、心的外傷の回復はつながりを回復する過程だという主張は私のその後の生き方を変えました。

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「心を込めて」なんてことは子どもがする独りよがり 「正直」の弊害について考える(常識を疑う) [故事、ことわざ、熟語対人関係学]



実際に人間関係の紛争をみていると
これが問題の住みかだということを思い知らされることが多くあります。

例えば家族との関係でも
心にもないことは言いたくないという人が多いです。
感謝もしていないのに感謝の言葉を言うとか
悪いと思っていないのに謝罪するということが
悔しくてとてもできないと言うのです。

(本当は私もそれはよくわかります。)

でも、言っても損はないのだけどなあと
第三者からははっきり見えていることで、
「なんで言ってあげないの」
と歯がゆくなることが実に多くあります。

どうも、「こころにもないことは言わない」
というドグマがこの世の中にはあるようです。

今回は、家族や友人、職場の同僚等の人間関係に関する
「言葉」について考えてみたいと思います。

「言葉は情報を伝達する手段である」
ということは、まあ、よいでしょう。
「情報」とは、事務連絡のようなものから
このブログのように考えたことだったり、
あるいは、自分の感情などでしょうか。

但し、どうも今までの考えは、
情報を発信する立場に立った場合の考え方なのかもしれない
と思うようになりました。

情報発信は受け止める側との共同作業なのだから、
情報を受ける側の観点が必要であるはずです。
どうもこれができないから
SNSのトラブルが起きているようにも感じられます。

つまり、相手に何を伝えたいのかということと
相手に何を受け止めてもらいたいのかということは
微妙に違うようです。

そして人間関係の不具合は
相手に自分が伝えたいことを中心に考えて
言葉を使うから起きているのかもしれない
ということなのです。

そうではなくて、
相手に受け止めてもらいたいことを中心に
言葉を組み立てていくということが大切なようです。
もう少しあからさまに言うと
言葉を発することによる効果を期待して
その期待した効果を実現するために言葉を組み立てる
ということになるのでしょう。

そうすると
全て真実のことを伝えることが必要でもなく
正義でもないということにはならないでしょうか。

例えばけんかをした場合の謝罪を例に考えましょう
そう深刻なことをした場合ではなく
謝ってすむ程度のけんかの場合の謝罪を考えてみます。
そして自分は悪くないと思っている場合のことです。

言葉が自分の気持ちを伝えるものだと考えた場合
謝罪はできません。
真実を語っていないからです。
嘘はダメだとなるわけです。

これに対して、
謝罪をすることの目的が
相手の機嫌を直してもらう
二人の人間関係を破綻に向かわせないためだというならば、
自分の気持ちがどうであれ
謝罪をすることが言葉の正しい使い方
ということになると思います。

言葉を発する目的にかなった言葉の使用だからです。

言葉を発信者側から考えて
「私はあなたに悪いと思っていない、だから謝らない。」
と言う場合と、受け手に対する効果を考えて
「申し訳ない。自分が悪かった。」
と言う場合の
メリットとデメリットを考えてみましょう。

正直者のメリットは、
自分の心に嘘を言わない。自分の感情に正直だということでしょう。
自分がとった行動を悪だと認めないことによって
将来の自分の行動を制約しないということもメリットとしてあるでしょうか。
(悪だと認めたことを繰り返すことはできないから)
デメリットは
相手の気分感情をさらに害すること
相手からすると、自分は相手をそれほど大切に思っていないのではないか
という不安を高めてしまうわけです。
そして、自分に対しての相手の評価を決定づけること
その結果二人の関係が悪化することでしょう。

うそつきのメリットは
二人の関係の悪化に歯止めがかかる確率が高くなること
その結果相手に対する攻撃感情が軽減すること
相手からの攻撃感情も軽減するでしょう。
(不安が解消されると相乗効果で安心感を獲得できるというわけです)
デメリットは、
自分の心に嘘を言って悔しい、苦しいということでしょうか。

正直者の良いところは
その時の気分感情を満足させることができます。
しかし、後々自分の立場が悪くなるでしょう。

また、自分のとった行動を悪と認めないことによって
後々自分の手足を縛るということはないかもしれませんが、
それが相手にとって不満であるにもかかわらず
相手がそれを後々文句を言わないということがあっても
それは、けんかをしたくないから言わないだけで
実際はかなりのストレスを抱えることで
関係悪化が進行することになるのかもしれません。

冷静に考えれば
正直者はメリットがなく
嘘つきこそ八方が丸く収まる
ということになりそうです。

子どもは正直者ですし嘘が下手です。
「心をこめてお話ししなさい」と教育するときは、
先ず、「心を言葉に合わせて修正しなさい。」
という指令も含まれているようです。
そうすることによってはじめて
言葉を発する目的が達成されるので
心をこめるということは、手段ということで理解できます。

大人は心をこめなくたって
謝罪することもできますし、感謝することもできます。
言葉に出した後で心がついてくればそれでなおよいでしょう。

大事なことは何を目的に生きるかということです。
子どもはこんなことを考えませんから
自分の感情を垂れ流すわけです。

正直者の生きることの行動原理は
自分の感情を大切にするというものです。
これに対して、これまで述べてきた嘘つきの生きる行動原理は
相手との関係性の継続が目的だということになります。

自分の感情よりも
自分と相手の人間関係の方を大切にする
そのためには
自分の感情よりも相手の感情を優先して考える
ということなのだと思います。

おそらくこれが
「大人」
というものなのでしょう。

おそらく、私の言ってきたことは
昔の日本では常識だったはずです。
いつの間にか
大人になり切れない大人たちの影響が
世の中に蔓延してきているのでしょう。

近代文学なんてそんなものかもしれません。
音楽を含めたポップアートなんてのも
自分に正直にということかもしれません。
もしかしたらそれらは子どもじみた甘えなのかもしれません。

そしてそれを受け入れやすい状態に
今の世の中がしているのだと思います。
それは、自分と相手との関係に自信が持てない
関係性に不安を抱きやすいという事情だと思います

子どもと大人の違いは、こんなところにあるかもしれません。
子どもは自分の感情を大切にし、
大人は、自分の属する人間関係大切にする
そういうことなのかもしれません。

そして、子どもは、大人の作った人間関係の中で幸せになることが
その役割なのでしょうが、
大人は、自分たちが幸せになるための人間関係を
自分で作ることがその役割なのでしょう。

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過労死の原因にもなる「責任感」の弊害について考える。(常識を疑う) [故事、ことわざ、熟語対人関係学]


数年前になりましたが、職場が原因でうつ病を発症した方々から
お話を聞く機会がありました。
その中で、中村格先生の「精神医学ハンドブック」に書かれている
「うつ病者はうつを隠す」
ということについて聞いたところ、

共通した答えとしてはそれは実際に見られ、
特に家族に対してはうつ状態にあることを隠すとのことでした。
わざとはしゃいでみせたりするのですが、
それはうつ病者にとってはエネルギーが必要なことで
わずかに残ったエネルギーを使い果たすため
実家から自分のアパートに帰った後は
2,3日寝込んでしまうとのことでした。

その隠すときの意識を聞いたところ、
「家族は、自分の最後の砦だから」
という言葉が返ってきました。

私のその時の解釈は、
「自分が苦しんでいることを知らせることによって
家族に精神的な負担をかけたくない」
ということなのだろうというものでした。
でも、その時は言葉になりませんでしたが納得できない思いもありました。

その時の疑問を言葉にすると
「家族が最後の砦ならば、家族に助けを求めたいはずなのに
 助けを求めることをしたくないということは矛盾ではないか」
ということになるのだろうと思います。

別の角度から言葉にすると
「うつを隠すことと、家族が最後の砦を失わないようにするということは
 どういう関係があるのだろうか」
ということになると思います。

今回、ふとひらめいたのは、この点でした。
「家族に心配や精神的負担をかけたくない」ということは、
責任感の強さを示していると思います。
この責任感の強い人が過労死や過労自死をしやすいということが
数年前の結論でした。

そういう側面はあると思いながらも
別の側面もあるのではないかということを思いついたのです。

それは、
うつ病という厄介な病気にかかっている自分が
「家族から厄介者として扱われないだろうか」
という不安があるということなのかもしれない
ということです。

そして、この場合の責任感と不安は
実は表裏一体のものではないかということです。

個性によって違いはありますが、
人間は多かれ少なかれ、
仲間の役に立ちたい、自分の役割を果たしたい
という本能があります。
仲間の役に立ったり、自分の役割を果たしたりすると
達成感や充実感を感じるということはこの本能を充足するからです。

(自己有用感なんていう概念もベースにこれがあるわけです。
 論者たちはここまで考えてはいないでしょうが。)

この本能が強い人が責任感が強い人だということになります。
これは裏を返せば、
「役割を果たさないと安心できない」ということになります。
「やるべきことをやらないと不安になってしまう。」
ということらしいのです。

責任感の強い人の仕事ぶりを見ると
「やらなくてはならない」という半ば強迫観念のように見えることがあります。

責任感が強いという言葉で表現すると
「他者、あるいは他者と自分を含んだ仲間の利益を優先する人」
という印象がありますが、
もしかすると実際は、
「自分の不安を解消したい」
という自分単体の利益をはかろうとしているのかもしれません。

責任感が強く、自分に厳しい人が他人にも厳しい
ということは、こういう不安解消という目的において共通だ
というように考えれば理解しやすいことです。

ちなみに、このように責任感が強い人
あるいはそうでもないけれど自分の役割を果たす方法がすべて失われたと思うと
人間は行動をしようとしなくなるというか
できなくなってしまうようです。
やればやるほど事態が悪化するとか
自分の行動が全く役に立たないということになると
行動ができなくなるし、行動意欲を消したくなるようです。
争いを避けるため、相手から遠ざかる等が典型でしょうか。
行動意欲を消したいということは責任感が強い人にとっては、
自分を消したいということに直結することがあります。
大変危険なことです。

責任感がある、責任感が強いということは
今の世の中、無条件で肯定されているようですが、
他方で過労死の原因になったり、
正義感と直結して他者を追い込んだりする
というデメリットがあるということが数年前の結論でした。

もう少し責任感を分析してみましょう。

責任感が強く、自分が役割を果たそうとする人は
仲間との関係に安心していないという側面がありそうです。
役割を果たさないと仲間の中で安心できないということです。

これに対して無責任に見える人は、(責任感がないわけではない)
やるべきことをそれほど熱心にやらない場合でも
仲間から追放されるという不安感はあまり持ちません。
責任感の強い人から見れば
理由なく、仲間の中にいることに安心していることになります。

角度を変えてみれば
責任感の強い人は、些細なさぼりでも
仲間との関係が悪くなるかもしれないという悲観的傾向があり、
責任感がないように見える人は、
そのような関係性の悪化まで考えないということなのだろ思います。

確かに、一つの課題をしないことが
後々仲間との関係を悪化させる可能性が無いわけではありません
しかし、それだけが決定的要因になって関係悪化につながるということが
ない場合も多いわけです。
どちらが正しいのかは、なってみないとわかりません。

つまり
関係悪化という危険の接近度が遠くても不安
というのが責任感の強い人
例えば接近度が10でも不安ということになります。
関係悪化という危険の接近度が近くても不安にならない
というのが責任感がないように見えるひと
例えば接近度が2になっても不安を感じない
と表現できるでしょう。

これは個性だと思います。
群で生きる動物はみな個性があるようです。
ミツバチという個体識別できないような生物も個性があります。
ミツバチは日中など、巣の中の温度が高くなるのを
羽ばたきによって気化熱を発生させて下げる習性があるそうです。
わずかに暑い場合は少数のミツバチがあおいで
とても暑い場合は多くのミツバチがあおぐことで
巣の温度を一定以下に保っているそうです。

例えば5度くらい気温が高くなったら
さっそく巣から出てきて羽ばたきを始める個体もいれば
15度くらいとか、とても暑くならないと出てこないミツバチもいるわけです。
わずかの温度で多くが出てきてしまうと
必要以上に巣の温度が下がりますから、
こういう個性があることは都合が良いのです。

個性はどうやって生まれたかと考えたことがありますが、
今は、個性がある種が都合よく生き残って
個性がない種は死滅しただけのことだと考えています。
無性生殖をした芋なんてものは、病気になると
あっという間に全体が死滅してしまいます。

人間にも個性があるということはこういうことではないかと思うのです。
責任感が強い人が全くいなければ
競争社会の中では生き残れないわけです。
そうかといって責任感が強い人だけ。
つまり、やらなければ安心できない人ばかりの場合は
あっという間にストレスでメンタルが壊れてしまうということです。

「はたらかない蟻に意義がある」という本では
(長谷川英祐 メディアファクトリー新書)
7割くらいの働アリは働かず
巣の中でじっとしているだけだと紹介しており、
それらの働かない蟻を働かせてしまうと
コロニーが全滅してしまうということを教えてくれています。

責任感が強くて行動力がある場合は、
実は不安が背景にあって脅迫的な行動をするのですから
神経が消耗していく危険があるわけです。
神経消耗が持続していくと
思考力が低下したり、見えるものが見えなくなる
根本を見失ってしまう等の弊害が起きるかもしれません。

個性があることが群れを作る条件だとすると
責任が強い人だけがいたり
責任感の強い人の意見だけで行動すると
群れ全体が疲弊してしまう可能性があるということかもしれません。
様々な個性の人が当たり前に存在することこそ
強く、持続可能な組織だということになります。

何よりも、責任感の強すぎる人が
過労死をしたり、過労自死をしています。
部下を追い込むヒトの多くも責任感が強い人です。

責任感は強ければよいということは間違いです。

ただ、背景に不安があるとすれば
ほどほどでとどめるということはかなり難しいことでしょう。

一つには危険の接近度に対する感受性を下げるということです。
不安を言葉にするなど客観視することは大切です。
そして不安はない、あるいは必要がないことを意識すると良いと思います。
ただ、不安は、それを感じていることすら意識できないことが多いので、
「責任感」というワードが出てきたら
それは無条件に肯定されないものだ、弊害もあると意識をするだけで
自分の過労死や過労自死は遠のいていくでしょう。

もう一つは責任を持つ対象である仲間を一つにしぼること。
責任感の強い人は、会社、家庭、その他の行きずり
ありとあらゆるところで、不安を抱いてしまっています。
役職など難しいところはありますが、
一番大切な人間関係は家族だ
と考えを設定することがとりあえず間違いがないのではないか
と考えています。

他の人間関係がどうでもよいというのではなく
優先順位という意味ですね。
それ以上やったら家族を大切にしていないことになる
という感覚を持つということです。

そして3点目としては発想の逆転です。
不安を解消しようという無意識に対抗するためには、
楽しいことをしようということしかありません。
積極的にやっていて楽しいこと
特に自分が楽しいことを見つけて取り組みましょう。
嫌なことと楽しいことは、共存するわけです。
ただ、時間をそれぞれずらし合うということを
意識的に行うということです。

責任感によって寿命を短くしないということを
意識的に行わなければならないという
ちょっと変な社会に生きているということだと思います。
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大津いじめ事件の大阪高裁判決(令和2年2月27日判決) 報道に現れた論理についての批判 [自死(自殺)・不明死、葛藤]



弁護士は、自分が担当して訴訟活動をした事件の判決以外は、
あまり判決批判をしません。
どうしてかというと、その判決が出た事情を知らないからです。

実際は報道されていない事情が主張立証されたかもしれません。
この事件においてはという限定した場合は
判決が妥当する事情があるということが多くあるものなのです。

特に民事事件の損害賠償額
刑事事件の量刑(懲役の長さ等)は
個別事情に大きく影響されますので、
あの判決の妥当性はどうですかと聞かれても
わかりませんと言うしかないのです。

しかし、この判決のこの論理についてはコメントをしないわけにはいきません。
このコメントも、金額そのものではなく、
その言いまわしということになります。
だから、厳密に言えば判決そのものの批判ではなく、
報道された判決の論理に対する批判ということになります。

それは大津のいじめによって高校生が自死した事件の
加害者とされた生徒に対する控訴審判決です。
1審の大津地裁の判決は
いじめと自死との因果関係を認めて3750万円の損害賠償を認めたけれども
控訴審判決の大阪高裁は、400万円を認めるにとどまったというのです。
この金額の妥当性はわかりません。
問題は高裁判決の論理です。

一番詳しいのは日経新聞だと思いますので引用します。
佐村裁判長は生徒の自殺に関し、遺族側に落ち度がなかったかどうかも検討。生徒が自ら自殺を選択していることなどから「両親側も家庭環境を適切に整え、精神的に支えられなかった」などとして過失を相殺し、約400万円の賠償額が妥当とした。

何が問題かというと
亡くなった生徒の両親が、家庭環境を適切に整え、精神的に支えなかったことが
両親の落ち度になると言っている部分です。

この論理には、言葉に出ていない前提論理が忍び込んでいるわけです。
つまり、
高校生の自死は防ぐことができる
自死を防ぐ主体は家族、両親である。
特に自死をしようと追い込んだ相手との関係でも
両親は自死を止めなくてはならない。
自死を止める方法は、
家庭環境を適切に整え、精神的に支えることだ。
これをすれば自死は起きない。
という論理が前提となっていると考えざるを得ません。

これは、今回生徒が自死したのは
両親が家庭環境を適切に整え、精神的に支えなかったことも
原因の一つだとしているわけです。
何か具体的事情が主張立証されたのなら私の批判は的外れですが、
およそ、高校生が自死をした場合は全部が全部
このような両親の不適切な事情があったと決めつけているなら大問題です。

先ず、自死の前に、自死者は何らかのサインを出すから
そのサインを見逃さなければ自死は予防できるという説がありますが、
およそ実務的ではありません。迷信や妄言の類でしょう。
なぜなら、うつ病患者など、自死のハイリスク者は
自死をしようということや、自死を考えている精神上であることを
自分の大切な人に隠すからです。

自殺のサインなんていう理屈は、
遺族や精神科医に精神的ダメージを与えるという効果の外は
あまり効果はないと考えています。

次に何らかのサインを、自死のサインかもしれないと思った場合
具体的に家族はどうしたらよいのでしょうか。
精神的に支えるとはどういうことでしょう。
そのためにはどういうふうに家庭環境を整えればよいのでしょう。

現在までに確立した方法や見解はありません。
特に、精神科医でも自死予防活動家でもない
一般のご家庭において、両親がどうすればよいかという方法については
特にこうすればよいということはありません。

むしろ、現実に自死をした人たちのご家庭では
家族が精神的に消耗していると思った場合は
思いつく限り手を尽くして手当てをしています。

ところが実際は自死を防ぐことができなかったのです。

数十以上の自死案件を担当してご遺族のお話をうかがう限り
例外はありません。

もし、生徒さんやご遺族が
生前、一般のご家庭と同様に普通に生活をしていた場合、
そして、いじめが始まってから自死するまでも
どのご家庭でも見られる普通の対応をされていたとするならば、
落ち度があると評価することは私には考えられません。

特別のことをしなかったから落ち度があるというのは不合理ですし、
特に、自死と因果関係があるいじめの加害者に対して
賠償金額を定めるにあたって、そのことを考慮して
大幅に賠償額が減額されるということは
不公平の極みだと感じられました。



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黄金律(あなたのして欲しいことを相手に行いなさい)が行動基準となるための超えなくてはならないハードル 正しい理解と志向意識水準 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]



黄金律とは、
あなたのしてほしいことを相手にしなさいというものや
あなたがして欲しくないことは相手にしてはならない
というものです。

これができれば、家庭や職場、その他の人間関係でも
みんなが幸せになっていくのですが、
なかなかこれができない。
これができないので、みんながギスギスとしてストレスを抱えていく。
パーフェクトにしなくても、
それをしてもらっているという実感があれば
人は幸せになり、強くなると思うのです。

どうしてこれができないのかということを考えてみることにしました。

一つには、ばかばかしい話なのですが、
黄金律の内容をよく理解していない人が多いということです。

典型はバーナード・ショーです。
「私はタバコが吸いたい。相手は禁煙しているが
 黄金律に従えば、タバコを勧めなければならない。」
と言っています。罰当たり(ばちあたり)なことです。
もっとも彼はジョークとして言っているのであり、
想定していたジョークの相手は、
みんな黄金律の真の意味を把握している人だ
ということなのだろうと思います。

では、どうしてそういう意味が間違いなのでしょうか。

黄金律は、手短にまとめて言われることが多いのですが、
実際は、
「自分が相手の立場だったらと考えて
自分だったらこうしてほしいだろうなと思うことを
 相手にしてあげましょう。
 もちろん相手に断られたらそれはしません。」
という意味なのです。

常識的に考えればわかることです。

黄金律を提示したイエスや孔子の時代は
社会は現代ほど複雑ではなく、
他者と自分の同質性が今よりあったので、
私が述べたような回りくどい表現をする必要がなかった
という事情もあるかもしれません。

黄金律は他者への配慮を説いたものです。
ここを外して解釈してはなりません。
バーナード・ショーのようにここを外して字面通りに読むことは
その真意を捻じ曲げているということになります。

余計な話ですがカントは、
黄金律で行動しようとも
自分の私的利益を行動の動機にしてはいけない
という余計なことを大真面目で行っています。
問題は相手がどう受け取るかということに尽きるのであって、
自分の動機に何が入ろうと入らないと
相手にとってはどうでも良いことです。
それはあまりにも自己中心的な子どもじみた考え方であり、
それによって、困っている相手に救いの手を躊躇するならば
弊害にしかなりません。

さて
黄金律が私たちの行動基準にならない理由はもう一つあると思います。

黄金律は、例えば、
相手の立場に立って、相手がして欲しいだろうなと思うことを推測して
それを実行するということならば、

先ず、相手の気持ち、相手の状態を推測しなければなりません。

実はこれがなかなかできない。

推測することは、不可能ではないのです。
一般には考える能力を人間は持っているのです。
但し、さあ、相手の気持ちを考えようと始めるためには
考える人に精神的余裕と時間が必要なようです。

つまり、本当は能力があるのに、
それを使おうとしていないだけだということになりそうです。

使おうとしない理由は二つあるだろうと思います。

一つにはどうやら、
相手の気持ちを考えるとか
相手の立場に立って考えるということは、
ある程度頭を使わないと考えることができない
ある程度頭を使って日常を過ごすことに
人間の脳は、適応していないようなのです。

人間は、日常生活では
驚くほど頭を使う労力を省いているようなのです。

どうやら相手の心を推測するということは、
おそらく2桁の掛け算をする位の労力が必要なようです。
その労力を使うことを無意識に拒否して省力化して生きているようです。
それが証拠に、対人関係の不具合で悩んでいても
あまり、自分と相手の人との関係図を書いたり
要素を抜き出してメモを作って考えるというようなことを
人はしないわけです。
省力化を驚くほど徹底しているようです。

分析的に考えようとしていない証拠だと思います。

だいたいは考えないで悩むだけ。
なんとなく不快に思っているだけ
というところが私たちの実際だと思います。

そもそもがあまり考えるという労力を使いたがらない
という人間の性質があるため
ほっとけば相手の立場なんて考えない。
だから黄金律が必要になるわけです。

どうやらこういう考えができるかどうかということを
「志向意識水準」というようです。

第1次は、自分がこう思っていると感じていること
第2次が、相手はこう思っていると考えられること
第3次は、自分がこう思っていると相手は思っていると思う
第4次は 相手がこう思っていると私が思っていると相手は思っている
第5次は、自分がこう思っていると相手が思っていると自分が思っていると相手が思っている
とかもうこんがらがるというか、どう違うのかわからなくなるのですが

どうやら通常は第1次志向水準にとどまるようです。
ただ、これだと人間でなくてもできるわけで、
人間同士のつながりの中では
それは幸せになれないでしょうね。

相手の気持ちを考えようとしない理由はもう一つありそうです。

ただでさえ相手の気持ちを考えるように
頭を働かせていないのに、
さらに、相手の立場を考えようとしない場合があります。
一番は自分を守る時です。

例えば、相手からわけのわからないことで
激しくののしられている場合に
自分を守るために反撃しようとしない人なんて
それ程いないと思います。

考えたとしても
どうやって懲らしめてやろうかという文脈で
相手を攻撃するために考えるというくらいでしょうか。
それにしても二桁の掛け算の労力ではなく
せいぜい三桁の足し算程度の労力でしか
頭を使っていないと思います。

これでは
まるっきり弱肉強食の世界になってしまいます。

これは困ったことです。
何とかしなければ自分も周囲も殺伐としてサバイバルの中で
ストレスがどこまで高まってしまいます。

実際、人間同士の争いはこうやって生まれているように感じます。


生身の人間ですから
すべての人類に対して相手の気持ちを考えて行動するということを
先ずは考えないようにするということも選択肢の一つではないでしょうか。

それから、他人に、自分に対して黄金律で行動してほしいとは思わないこと。
思っても願っても、どう考えても無理です。
無理を通そうとするからストレスが生まれるわけです。

これはもう、「情けは人の為ならず」ということで
自分で黄金律を実践する。
相手がここちよかったらまねしてくれるだろう
まねしてもらえないならそれまでだ
という割り切りが大事なのではないかなと感じています。

では誰に対して黄金律をもって接するか
それは家族だと無理がないと思います。

でも実際はそれをしているわけです。

先ずは赤ん坊が生まれたら黄金律で行動していたことでしょう。
私がこの赤ちゃんだったら抱っこしてほしいと思うのではないか
おっぱいを飲みたいと思っているのではないか
眠いけれど眠れないからあやしてほしい、安心させてほしい
と思っているのではないかと思い
そうしてあげるわけです。

哺乳類は本能的にこれをやるわけですし、
人間のお母さんも時々くじけそうになりながらもやっていたはずです。

また、結婚前、あるいは結婚後しばらくするまでは、
相手に喜んでほしいというプラスの目標で
相手の気持ちを考えて、楽しくドキドキしていたはずです。

それがいつしか、
ネガティブの気持ちしか持てなくなり、
相手に嫌われないようにドキドキしているならまだよいとして
もうどうして良いかわからない
自分が悪いわけではないという開き直った気持ちになってしまう
こうなってしまうと、お互い幸せではないですね。

でも相手の立場で考えることができないから
どうすることもしない。
ここを転換するということはなかなか難しい、
難しいことだけはよくわかるということに落ち着きそうです。

どうして自分を守るのか
何から自分を守るのか
相手の気持ちを考えるとどういういいことがあるか
今年のテーマになりそうです。




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弁護士は心理的解剖をする職業 情状弁護(有罪を認めた弁護)こそが弁護士のすべての業務の基本となるべきこと [刑事事件]



正式には心理的剖検(ぼうけん)と言いまして、
例えば自死した方が、どうして自死に至ったかという
その原因を分析するために
多方面からその人の行動歴、病歴を調査して分析することがあります。

自死の危険のある出来事を予め明らかにしておけば
自死を予防できるという考えで行う場合もあれば
遺族のニーズで行う場合もあります。

中には、親戚から、例えば妻が原因で自死をした
というような心ない中傷がある場合に
そうではないことを証明してもらうために
心理的剖検を行う場合もありました。

心理的剖検を行うのは
日本の場合は主として精神科医です。

自死というと精神科疾患というイメージが
根強いからかもしれません。
あるいは、医学には「公衆衛生」という学問分野があり、
予防を中心とした仕事があるということも
大きな理由にあるのかもしれません。

但し、これまで公的に行われてきた心理的剖検は
それ程ち密に行われているわけではなく、
遺族からの電話やアンケート調査を集約したものがほとんどです。

むしろ、自死した個人について
様々な角度から分析を行うことを仕事にしているのは
弁護士なのです。
主として過労自死の労災手続きや裁判手続きで
心理的剖検を行っています。

もっとも弁護士だけでは説得力がないと思えば
医師や心理士に助けてもらうようにしています。

ただ、過労自死を多く扱っている弁護士はそれほど多くないのですが、
自死という制限を外せば
刑事弁護の中で心理的剖検が行われています。
というか、
本当は行わなければならないのです。

刑事弁護というと華やかなのは無罪を争う事件の弁護です。

もちろん、これは簡単な弁護ではなく、
あらゆる科学を総動員して行う大変なものです。
大切な活動であることは間違いありません。

司法試験に合格した後に最高裁の研修があるのですが、
その時も無罪弁護を中心として刑事弁護の研修をしています。

それは良いとしても、
刑事事件の9割以上は、
初めから罪を犯したことを争わない事件です。
それでも日本の刑法の刑罰は幅があって、
例えば窃盗の場合は、懲役10年が一番重いのですが、
1年未満の懲役(刑務所での強制労働)の場合も多く
懲役ではなく罰金刑になることもあります。
この刑の幅を争うのが有罪を認めた場合の弁護活動です。

これを「量刑を争う」と言います。

確かに、表面的には量刑を争うのですが、
弁護活動の目的はそれだけではないと思いますが、
今日は割愛します。

その量刑を争う場合には
その事件がどのような事件なのかということを明らかにして
被告人に有利な量刑事情を主張立証していくということが
弁護人の活動で、これを「情状弁護」と言います。

大雑把に言えばどうして罪を犯したかということです。

一般の方は、その人が悪い人だから罪を犯したのだろうと考えがちですが、
それでは、情状弁護はそこで終わってしまいます。

亡くなられた野村克也さんは、
「負けに不思議の負けなし」という言葉を遺しています。
試合に負けるのにはそれなりの理由が必ずある
だからその理由を除去すれば勝てるということになるわけです。

犯罪も同じで、
やってはいけないことだとわかっていながらやってしまうには
(規範を破るという言い方をします)
必ず、ルールに従おうという気持を弱まらせる理由がある
と私は確信しています。

犯罪をするように生まれてくる人間など一人もいない
ということから出発することが情状弁護の基本です。
そういう視点で、被告人とどうしてルールを破っても平気になったのか
一緒に考えていくことから始まるわけです。

生い立ち、両親との葛藤、その後の学校での出来事、
職場での出来事、恋人との関係等の出来事や
病気の影響など
様々なことが規範を破る理由になっていることに気が付きます。
できるだけさかのぼることで、
法律を守らないようになったリアルがようやく見えてくるわけです。

そこで、その事情が、被告人を責められない事情
多くは、国などがきちんと政策を実行していないために起きた事情や
学校や職場が不合理な扱いをして、人間として尊重されていない
そういう事情がある場合。
全ての責任を被告人だけに負わせてよいのか
という問題が出てくるので、それを主張するわけです。

罪を犯した人は、解決の方法が見つからないことが多いようです。
本当はこう言うことを意識すればもっと平穏に暮らすことができた
今度社会復帰したらこういう生活をすれば
今のような殺伐とした人生を過ごさなくて済む
あるいは、自分なりに幸せになれる
という道筋をつけるまでが刑事弁護でいう反省です。

その人が二度と犯罪をしないとなれば
被害者を産まなくて済むわけです。

良い弁護人は、このような心理的剖検をするのですが、
その前提として、根っからの悪人はいないというか
被告人は、もしかしたら自分だったかもしれない
ちょっとしたボタンの掛け違いが
接見室のこちらとあちらになってしまったのかもしれない
という視点を持っています。

そうして、その人が罪を犯した「原因」を一緒に真剣に考えるわけです。
そのツールとして、心理学だったり、行動学だったり、
最近では生物学が役に立つ場合が多いのです。
もちろん社会学や政策学も使わなければなりません。
つまり対人関係学の基本はこの情状弁護にあります。

心理的にも脳活動の面においても
本当はかなりハードな仕事であるし、
刑事弁護をするまでの人間研究にも時間とお金をかけているわけです。
いやいたわけですと過去形に述べた方が正確なのかもしれません。

現在、刑事弁護の圧倒的多数は国選弁護事件になってしまっています。
被告人やその家族は弁護士の費用の負担をしないですみますので、
弁護士を頼みやすいということはあるでしょう。

ところが国選弁護事件の報酬はとても低いものです。
逮捕からかかわって判決まで弁護しても
10万円に足りない場合もあるようです。

それでも弁護士が乱造されたためか仕事がない弁護士が多いため
そのような仕事でも引き受ける人に不足がないようです。
1か月以上かかる刑事弁護で
その人の生い立ちから調査して、
場合によっては遠方の親せきから事情聴取して
10万円にもならないなら赤字になってしまいます。

また、司法研修所では情状弁護を習いません。

情状弁護は弁護士がついて行われている
しかし、それは本当に弁護の名に値するものなのか
国民はユーザーとして知る必要があるように思われます。

なぜこれを書いているかというと
弁護士が、人の心理や行動の原因を分析するということはない
と思っている若手弁護士が多いことに気が付いたからです。
そういう弁護士たちは、一体情状弁護で何をやっているのか
とても不安になったからです。



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職場は放っておくとどんどん殺伐になるという法則。「昔はもっと厳しかったのに」という錯覚が起きる理由 [労務管理・労働環境]




働き方改革で、労務管理の仕事の重要性がましてきました。
実務的には同一労働同一賃金の対応で大変な思いをされていると思います。
パワハラ対策ということも決め手が見つからず
「パワハラするな」と命令することが実際の対策になってしまっています。

なぜ放っておくと、部下に厳しく当たってしまうのだろうと
頭を抱えている担当者の方も多いと思います。
まさか自分の会社でパワハラが起きてしまうなんて思いもよらない
という人事担当者が多いと思います。

そこでパワハラをしているという噂のベテラン社員に聞いてみるわけです。
「最近は、あんまり厳しすぎる指導は、問題になるよ。」
するとベテラン社員は答えるでしょう。
「なに、私の若い時は、もっと厳しく言われましたけれど、
誰もやめたりしませんでしたよ。
これでだめならものになりませんので、大丈夫です。」

これには理由があります。

1 聞き手が効く状況の違い

先ず、ヒトによってダメージの受け方が違う
という批判はもっともオーソドックスの批判です。

これは、育ってきた環境の違い、
もともと持っている感受性の違いももちろんですが、
フォロー体制の整備の違いがあります。

ベテラン社員の新入社員当時は年功序列賃金の体系ですから
上司ににらまれたところで
出世はできなかったかもしれませんが
定年まで会社にいることはできました。
それなりに賃金は上がりました。

上司から叱責された若手従業員に対して
上司からすれば余計なフォローをしていた人たちがいたわけです。

飲みに連れて行って慰めてくれたり、
こっそり仕事を手伝ってくれたりしたわけです。
上司からの叱責のダメージに対しては
同僚からフォローされることが一番のいやしになるようです。

ところが、最近は、上司からにらまれると
出世ができないどころか、
リストラとか派遣切りとか更新拒否とかいろいろあって
そのことをおそれるあまり
事後的なフォローすらしなくなるという風潮があるようです。
叱責を受けた若手従業員は
会社の中で孤立することが多くなったようです。

過労自死は、こういう現場
つまり、上司の過剰な叱責があっても
誰もフォローする者がいない職場で多く起きています。

ベテラン社員が上司から同じことを言われて耐えられたのは
こういうダメージ軽減策があったからかもしれませんので、
単純に同じことを言ってしまうと
ダメージが軽減されない現代の職場では大変なことになってしまいます。

2 上司の勘違い、場面違い

また、同じような場面で同じような言葉を使ったというつもりでも、
実際は場面がまるっきり違う場合があります。

例えば、部下が職務上の質問をしてきたときに
「なんでもこっちに聞くな。自分で考えろ」
ということを言うことがあります。
新人従業員に対するパワハラで多く聞かれる叱責です。

おそらく、それを言った上司も、かつて、
自分の上司から同じ言葉を言われたのだろうということは予想がつきます。
でも、本当に同じ場面かというと、少し怪しいことが多いようです。
自分が言われたときは、極端な例を挙げると
上司が丁寧に説明して一度それをやることができたのに
ちょっとだけ応用して考える要素が出ただけで、
上司の指導を仰いだというケースがあるようです。

それにもかかわらず、自分が言われた言葉を後輩に使いたくて
(昔の指導に対する腹いせとか、上司ぶってみたいとか)
ほとんど説明していないにもかかわらず、
また、何の経験もない新人に対して
自分で考えろという無茶なことを言っている場合が
どうやら多いようです。

昔は「ああ無茶言っているな」とかわいそうに思って
先輩がやり方をこっそり教えてくれる
というようなことがあったのかもしれません。
それで、上司が若手のころ何とかしのげたのかもしれません。

だいたいがパワハラをするような上司は
上に媚びることは上手な人が多くて
何人かの自分の上司の温情で今の立場に引き上げてもらった人が多いように
訴訟などの事件を通じてみてそう思います。
当のパワハラ上司は、そういうことは忘れているようです。

場面が違って考える材料がそもそも与えられていない
またフォローすると自分がにらまれるのでフォローしないという職場では、
自分で考えろ
と言われた方は不可能を強いられているわけですから途方に暮れてしまいます。

3 発言者と聞き手のダメージの度合いの違い

叱る人が自分の叱責で相手に与えるダメージとして想定される大きさと
それを聞いた人が受ける実際のダメージは
聞く方のダメージが大きいのです。

これは、自分でくすぐってもくすぐったくない原理で説明できます。
自分でくすぐってもくすぐったくない理由は、
くすぐる直前に、どの指でどの程度の力で、指をどう動かすかということが
無意識に、あるいは意識的に想定してしまうからなのだそうです。
くすぐったいというのは、意外性が無ければ感じない感覚なのでしょうね。

これと同じように、発言者の方は、
これから自分が何を言おうとしているのか、
口に出す直前に認識しています。
感情的になっていたとしても、
ある程度は、これから話す内容を知っているわけです。

どのくらい懲らしめてやろうとか考えているわけですが、
真意が別にあることも自覚しているわけですから、
それほどひどい結果を考えていないことも
話す方はわかっているわけです。

例えば「死ね」と言ったって、
本当に命を奪うというつもりで言っているのではないので、
それ程強烈な言葉を言ったという自覚はありません。
自分の内心と照らし合わせて、
それほどダメージはないと思っているわけです。

例えば「役立たずの給料泥棒」という場合も同じです。
泥棒の犯人として警察に告訴するわけでもないですし、
給料を返せというつもりもないのです。
だから、言っている方は、
「もっと結果を出せるよう頑張らないと自分は相手をしないよ」
という程度の(それでも十分強烈ですが)気持で言っているようです。

ところが、言われている方は相手の内心などわかりません。
「死ね。」と言われれば、
まさか命を取られるということはないだろうと思っても、
自分という存在をその上司の前から消すようにと言われているように感じます。

「役立たずの給料泥棒」と言われれば
給料をもらう資格がないと言われていると感じるわけです。

会社に来るなと言われているように感じるのです。

そうしてそれを他の同僚が黙って聞いているならば、
他の同僚からも同じ意見を持たれているというように受け止めてしまいます。

言われている方は、言っている方が想定するダメージより
はるかに大きなダメージを受けることが「通常」なのです。

4 叱責は代を重ねるごとに大きくエスカレートしていく

同じ言葉を、同じ場面で行ったとしても
ダメージは大きくなっていくという理由があります。

ポイントは話す方が想定しているより、聞く方のダメージが大きい
というところにあります。

わかりやすく数値を使って説明しましょう。

上司が元上司と同じ言葉で叱責した場合、
元上司は、20ポイントくらいのダメージを想定して叱責すると
その叱責を受ける方はもっと大きなダメージを受けるので
若かりし頃の上司は40ポイントのダメージを受けたとします。

歳とった上司が、元上司の同じ叱責をしようとすると、
自分が受けたダメージと同程度ならばよいだろうと思うとすると
40ポイントのダメージを部下に与えようとしてしまいます。

聞いている方は言う方の想定より大きなダメージを受けますから
例えば80ポイントのダメージを受けてしまうことになるわけです。

上司のまねをして「同程度」の叱責をすることが
何世代かにわたってしまうと
かなり激しいパワーハラスメントが行われてしまうことになります。
それでも、
「自分だって同じことを言われたのだから
それでダメージを受けてしまう今どきの若者は弱くなったなあ」
とのんきなことを言っているわけです。

5 小まとめ

自分が受けた叱責と同じ叱責をしようとすると
同じシチュエーションだとしても
部下は自分以上に大きなダメージを受けている。

ところがこれに加えて
自分が上司から指摘された場面が違うとか
それを聞く側の条件が違うとか
同僚のフォローがなくなったという事情が加われば
深刻なダメージを受けている可能性があるわけです。

簡単に言えば
普通に叱責すれば、ダメージは想定以上に大きくなる
これが真理なのです。

「普通に叱責」させることをやめさせなければ
精神破綻をする従業員が増えていき、
殺伐とした職場の雰囲気になるし、
過労自死が増えていくことになるでしょう。

生産性が上がるわけがありません。

6 どうすればよいか

先ず、一度叱責をやめさせることが必要です。
乱暴な言葉、配慮を欠く言葉、厳しい言葉をやめさせることです。

これを何年かに一度徹底しなければなりません。
放っておくと自然と受けるダメージはエスカレートするのですから。

止めろと言ってやめることはないでしょう。
何が悪いのか、通常の場合は上司も分からないからです。
何しろ、自分が受けたことと同じだという意識ですから。

失敗、不十分点、弱点、欠点を
責めない、批判しない、笑わない
という意識が有効です。

これをきちんとしたコーチング技術に置き換えることです。
これを経営者が直近の部下に対して手本を示す
ということから始めなければなりません。

失敗に対しては対人関係学は
PMGという手法で成長の好機として活用することを提唱しています。

弱点などの属性を改善するための方策を一緒に考えるということも良いですし、
チームプレイとしてフォローをし合う体制を作るということも有効でしょう。

何よりも、現状のメンバーで、チーム力を発揮して生産性を上げる
という明確な目標に近づけるための方策にしなければなりません。

できない人にできるようになってやれという指導が
実際は良く行われていますが、
色々な意味で時間の無駄です。
日本経済を落ち込ませる典型的な無能の労務管理です。

あなたが会社で労務管理を担当する立場にあるならば
是非、新人従業員から指導内容について具体的に話を聞くという方法で
上司の力を点検することをお勧めします。

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