SSブログ
前の10件 | -

【ダイジェスト版】自分に降りかかった問題は、他人の方が解決しやすい理由 だれに協力を求めたらよいのか これまで「自分で泣き止んできたんだ」としても [進化心理学、生理学、対人関係学]



自分が今人生の岐路に立っているとか、自分の立場を失ってしまうのではないかとか今思い悩んでいる人は、誰かに相談した方が解決しやすいという当たり前のことを見失ってしまっているものです。

先ず、大きな悩みがあると人間はどのような感情を抱くかということを説明します。これは人間であれば基本は同じです。

<困難な課題がある時に湧き上がる人間の感情>
1)自分に危険が迫っている
2)この危険を排除しなければ自分は終わってしまう
3)自分を守りたい、守らなければならない

この感情の出どころは、例えばジャングルにいる場合に猛獣が近くにいる、猛獣に気づかれて襲われたら死んでしまうという感覚と基本的に同じです。しかし、現実の私たちの悩み、トラブルは、それによって死ぬようなこと、つまり身体生命の危険はあまりないのですが、あたかも身体生命の危険があるかのように不安、焦りという感情が生まれてしまうのです。

このような不安や恐れ、焦りという負の感情は、思考に影響を与えてしまうことが問題なのです。負の感情が施行に与える影響は以下のものです。

<負の感情による思考の変化>
A)思考をする力が弱くなる。
B)大雑把な思考しかできなくなる。
C)二者択一的な思考になりやすい。
D)悲観的な結論を出しやすい。
E)他人の感情などという目に見えないものについて推測ができなくなる。
F)細かい違いに気づかなくなる。

危険を感じると逃走モードになり、逃走モードになるとあえて思考力を弱めていく戦略を人間は取ったわけです。

危険察知 ⇒ 不安など負の感情 ⇒ 思考力の減退

というのは、きわめて合理的な人間の生存戦略だったということが言えると思います。このようなメカニズムのおかげで、猛獣から身を守り我々の先祖は生き残ることができて、我々が生まれることができたのです。

しかし、現代社会では、人間関係上の問題にすぎないのに、命の危険が起きているかのような感情を抱いて思考が低下することは、デメリットばかりが目立ちます。

例えば資格試験を受けるとき、この試験に落ちると自分が望む社会的立場を獲得できないという人間関係上の危険を感じるわけです。そうして不安や焦りがわいてきて大雑把な思考しかできなくなると試験に合格できない危険が高まってしまいます。
例えば仕事でミスをして上司から叱責されているとき、やはり命の危険を感じてひたすら逃げるためにあまり深く考えられないで言い訳をしてしまうと、さらに叱責される要素を作ってしまうわけです。
さらに他人に何か指摘をされたとしても、本当は善意で、仲間としてサポートしようと指摘をしたのに、自分の失敗、不十分点、欠点等を指摘されてしまうと、勝手に悲観的になり、自分が攻撃されたと思ってしまい、反撃してしまって相手から見放されるなんてこともよくあることです。

<第1の結論>
つまり人間関係のトラブルなんて、本当はトラブルではない場合もあり、悲観的思考によって勝手にトラブルがあると思い込んでいる場合があるということです。
また、同じようにそれほど大したトラブルではないのに、とても大きなトラブルであるから自分にとっては致命的であると思ってしまう傾向もあるわけです。

<第2の結論>
人間関係のトラブルの存在の錯覚と解決方法のミスを生むのは、誰が味方で誰が敵なのか判断が付かないことです。多くの人たちは味方として利用できる人を警戒したり、攻撃したり、遠ざかったりしています。

何よりも追い込まれている人は二者択一的な思考しかできなくなっていますから、解決方法も単純であることを望んでしまいます。これでは解決が難しくなるばかりです。

<第3の結論>
人間関係のトラブルを解決するにあたって、一番多い間違いは、損害を無かったことにしようとしてしまうことです。二者択一的な思考しかできなくなっているのでそういう「感情」になってしまって、つまり「思考」ができない状態になってしまいます。

<最終結論>
結局人間関係のトラブルで追い込まれている人は「思考」する力が減退しているために、「感情」で解決したいと思っているだけで、解決のための「思考」ができていません。

悩んでいるけれど、何がトラブルなのか、トラブルのうちの解決するべきところはどこなのか、切り捨てても良いところを切り捨てて大切な利益を守り抜く、そもそも一番守るべきものは何なのかということが見えなくなってしまうということなのです。

だから、自分以外の人間に協力してもらって解決をするべきなのです。

では、誰に協力をお願いするべきなのでしょうか。

第1に、あなたの利益を第一に考えてくれる人である必要があります。家族であるとか運命共同体の人であれば、あなたの問題を解決することは自分の問題として解決しようとしてくれるでしょう。

第2に、あなたと同化しすぎない人です。あなたの悩みに共鳴してしまって、自分のトラブルだという感情がわいてしまえば、他人に協力してもらう「うまみ」もなくなります。その人も思考力が減退してしまうからです。

理想を言えば、一段高みに立って、あなたがこのトラブルで致命的な損害を受けても、その損害は自分が引き受けるから心配するなというような人がいればとても心強いでしょう。

以下は技術的な細かい協力者の理想です。
・ あなたに、あなたが考えていることとは別の選択肢があるということをはっきりと提案できる人
・ あなたにあなたがこだわっている価値観を捨てることが可能であることを告げることができる人
・ 初めから選択肢を捨てるのではなく、それぞれのメリットデメリットを思いついて提案できる人
・ その行動をとることの見通し、成功する可能性を理由を挙げて説明できる人
・ あなたが一番大事だと思っていること(感情ではなく思考の結果)を尊重してくれる人(但し、それを捨てるべき時は捨てるべきと言える人)
・ 焦らないで、許される範囲で時間を一杯に使って解決することを提案できる人
・ 自分の考えに固執しない人 あなたの意見(感情ではなく思考の結果)の良いところを取り入れてくれる人

できれば、その人に協力をお願いしたのであれば、その人の提案をすべて受け入れろとは言いませんが、先ずその人の提案を落ち着いて考えてみるということが大切です。協力者を得て何とかなるという気持ちをもって、感情を鎮めて、思考を働かせることができれば80%以上、結局は解決しているわけです。

思い悩むことも人生にとっては有益なことになるのかもしれませんが、それ自体は合理的な解決に向けて有益なことではなく、デメリットだけが多いことだと言って差し支えないと思います。まずは信頼できる人間に相談をすることが理にかなっていることだという結論は間違いないと思います。

nice!(0)  コメント(0) 

自分に降りかかった問題は、他人の方が解決しやすい理由 だれに協力を求めたらよいのか これまで「自分で泣き止んできたんだ」としても [進化心理学、生理学、対人関係学]



今大きな悩みを抱えていない人ならば、そんなことぐらいわかっているよと思われることかもしれません。しかし、自分が今人生の岐路に立っているとか、自分の立場を失ってしまうのではないかとか今思い悩んでいる人は、案外その当たり前のことを見失ってしまうものです。

他人の力を借りることが有利だという理由には、例えば年長者が、その悩みについて既に体験しているとか、解決の知識やノウハウがあると言ったことも考えられます。しかし、自分のことを自分ひとりで解決することが困難であるのは、経験不足や知識不足などよりも大きな原因があります。

ここでは、言葉を区別して考えることがとても大切だと思います。区別するべきことは、不安や恐れ、焦りなど自然に湧き上がる「感情」と、理性を使って能動で気に論理を組み立てる「思考」ということです。通常だれでも理解していることですが、この違いを意識するだけで理解はより簡単になるはずです。

先ず、大きな悩みがあると人間はどのような感情を抱くかということを説明します。これはそれぞれの人間にとって基本は同じです。

<困難な課題がある時に湧き上がる人間の感情>
1)自分に危険が迫っている
2)この危険を排除しなければ自分は終わってしまう
3)自分を守りたい、守らなければならない

この感情の出どころは、例えばジャングルにいる場合に猛獣が近くにいる、猛獣に気づかれて襲われたら死んでしまうという感覚と基本的に同じです。現実の私たちの悩み、トラブルは、それによって死ぬようなこと、つまり身体生命の危険はあまりないのですが、あたかも身体生命の危険があるかのように不安、焦りという感情が生まれてしまうのです。

わたしたちが通常直面する問題や悩みは、人間関係の悩みです。人間関係の悩みとは、突き詰めれば、誰かとの関係が終わってしまう、自分の評価が致命的に下がってしまう、他人から一段階下に見られてしまうということです。人間関係の悩みがある場合と、身体生命の危険がある場合と、その悩み方、不安、焦りは同じ感覚であることに気が付くことは、解決の行動に出る場合に大変有益です。

このような不安や恐れ、焦りという負の感情は、思考に影響を与えてしまうことが問題なのです。

<負の感情による思考の変化>
A)思考をする力が弱くなる。
B)大雑把な思考しかできなくなる。
C)二者択一的な思考になりやすい。
D)悲観的な結論を出しやすい。
E)他人の感情などという目に見えないものについて推測ができなくなる。
F)細かい違いに気づかなくなる。

少し解説します。
先ほど述べたように、人間関係上の悩みであっても、感情は身体生命の危険と同じ感情になります。これは、群れを作る以前の人間の祖先としての動物にとっては、生き延びるために大切なメカニズムでした。つまり、熊などが近くにいるならば、生き延びるためには熊に見つかる前に逃げるしかないわけです。
 余計なことを考えないでひたすら逃げるという脳内モードにすることで、逃げるための筋肉の動きが緩やかになってしまうことを避けたのでしょう。走るのが遅い人は、余計なことを考えないで走るということが苦手なのではないでしょうか。何も考えないでひたすら逃げるということが人間の生存戦略だったわけです。

それでもわずかに、逃げ道の選択ができる程度に頭が働くのならば、少しは生存確率も高まると思います。その選択肢は右か左かという以上複雑なものは無かったのだと思います。二者択一ができれば十分であるし、それだって正しいかどうかはよくわからず、逃げ切ってみなければわからない。しかし、二者択一以上の思考が生まれてしまえば、ひたすら走ることの邪魔になるので、それ以上は考えないメカニズムが生まれたのでしょう。また、とにかく早く決断することが大事なことです。迷っているうちに熊が近づいてくるかもしれません。物事を単純化して、早く決断し、決断したら考えないでまたひたすら走り続けるということが生存戦略だったのだと思います。

悲観的な結論になりやすいことも生存戦略です。危険の相手がどの程度近くに迫っているか、あるいはすでに遠ざかったのか、よくわからないうちはとにかく逃げる。もしかしたら、まだ近くにいるかもしれないので、近くにいるかもしれないという根拠のない悲観的な思考の方が、根拠なくもう大丈夫だろうという楽観的な思考より安全な場所に逃げることができます。悲観的思考は明らかに生存可能性を高めます。

このように、逃走モードになると、あえて思考力を弱めていく戦略を人間は取ったわけです。思考力が弱くなっているため、他人の考え、他人の感情を推測する等という複雑な思考力は発揮できませんし、細部を観察するという時間をかけて意識的に集中するということができなくなることも理にかなっています。

つまり、危険察知 ⇒ 不安など負の感情 ⇒ 思考力の減退
というのは、きわめて合理的な人間の生存戦略だったということが言えると思います。このようなメカニズムのおかげで、我々の先祖は生き残ることができて、我々が生まれることができたのです。

思考力が減退したため、適切な逃走経路を選択できず、あるいは逃げなければ見つからないものを逃げてしまったので猛獣に気づかれて襲われたということはあったかもしれませんが、圧倒的多数はこのメカニズムのおかげで生き残ったのだと思います。自然のことですから完璧はありません。よりましな行動パターンの方が生き残るわけで、生き残った者が選択したパターンが遺伝子に組み込まれて我々に引き継がれたということになります。

その後人間の祖先は群れを作るようになり、群れに所属することによって外敵から身を守るという生存戦略をとるようになりました。これも理性というよりは感情を利用したものだったのでしょう。仲間から追放されるということは、熊に襲われることと同じように危険を感じ、同じようにひたすら追放されないようにしたのだと思います。追放それ自体というよりも、追放につながる群れの仲間の行動、つまり、仲間が自分を攻撃する、攻撃まであからさまにされなくても、自分だけ食料などの配分が少ないなどの差別がされる、自分の評価が下がるような失敗をして仲間に迷惑をかける、仲間の足を引っ張る等の仲間や自分の行動によって、命の危険が起こっているかのような負の感情が起きたのだと思います。

環境の変化によって、脳内システムと現実環境のミスマッチが起きてしまう事態になったわけです。
但し、このミスマッチは、群れの人数が200人弱のような少人数の時代はあまり表面化しなかったと思います。今回は詳しくのべません。ミスマッチが表面化してきたのは、これまでの話のスパンではなくてつい最近、農耕を始めて群れが大きくなった今から1万年くらい前からの話なのだと思います。

特に現代社会では、人間関係上の問題にすぎないのに、命の危険が起きているかのような感情を抱いて思考が低下することは、デメリットばかりが目立ちます。

例えば資格試験を受けるとき、この試験に落ちると自分が望む社会的立場を獲得できないという人間関係上の危険を感じるわけです。そうして不安や焦りがわいてきて大雑把な思考しかできなくなると試験に合格できない危険が高まってしまいます。
例えば仕事でミスをして上司から叱責されているとき、やはり命の危険を感じてひたすら逃げるためにあまり深く考えられないで言い訳をしてしまうと、さらに叱責される要素を作ってしまうわけです。

さらに他人に何か指摘をされたとしても、本当は善意で、仲間としてサポートしようと指摘をしたのに、自分の失敗、不十分点、欠点等を指摘されてしまうと、勝手に悲観的になり、自分が攻撃されたと思ってしまい、反撃してしまって相手から見放されるなんてこともよくあることです。

本当は違うのに攻撃されているという感情は、思考力の減退で相手に対してまずい対応をしてしまってさらに悪化する、また別の問題も引き起こしてしまうということが法律的紛争でもよく見られます。

<第1の結論>
つまり人間関係のトラブルなんて、本当はトラブルではない場合もあり、悲観的思考によって勝手にトラブルがあると思い込んでいる場合があるということです。
また、同じようにそれほど大したトラブルではないのに、とても大きなトラブルであるから自分にとっては致命的であると思ってしまう傾向もあるわけです。

半世紀以上人間をやっていると、人間関係のトラブルで命が無くなるとか、回復不可能な将来的損害があるということはほとんどないことがわかりますが、若いうちはもちろんそんなことはわかりませんでした。一言で言えば何とかなることは間違いないと思えるようになりました。さあどうやってこの致命的な問題を乗り越えるのかということが楽しみに見えてくることさえあります。

<第2の結論>
人間関係のトラブルの存在の錯覚と解決方法のミスを生むのは、誰が味方で誰が敵なのか判断が付かないことです。多くの人たちは味方として利用できる人を警戒したり、攻撃したり、遠ざかったりしています。そうして混乱している感情に乗じてあなたに損害を与えて自分の利益を得ようとする人の言いなりになるということが多いです。

何よりも追い込まれている人は二者択一的な思考しかできなくなっていますから、解決方法も単純であることを望んでしまいます。あなたに損害を与えて自分の利益を得ようとする人は、単純な解決方法で単純に解決できると提案してきます。不安や焦りがある人はつい、それで解決するのであればと他人の嘘、まあ嘘とは言わないでも解決しない方法に飛びついてしまう危険があります。

<第3の結論>
人間関係のトラブルを解決するにあたって、一番多い間違いは、損害を無かったことにしようとしてしまうことです。二者択一的な思考しかできなくなっているのでそういう「感情」になってしまって、つまり「思考」ができない状態になってしまいます。

本当は切り捨てても良いこともっても大事なもので失ってはいけないものだと思ってしまうわけです。それよりも切り捨てるものは切り捨てて、大きな利益を確保するということをしなければなかなか解決には至らないということが多くの場合でしょう。

二者択一的思考は、全部残すか全部失うかという判断を迫られていると錯覚させてしまいます。

<最終結論>
結局人間関係のトラブルで追い込まれている人は「思考」する力が減退しているために、「感情」で解決したいと思っているだけで、解決のための「思考」ができていません。

悩んでいるけれど、何がトラブルなのか、トラブルのうちの解決するべきところはどこなのか、切り捨てても良いところを切り捨てて大切な利益を守り抜く、そもそも一番守るべきものは何なのかということが見えなくなってしまうということなのです。

だから、自分以外の人間に協力してもらって解決をするべきなのです。

では、誰を協力者とするべきなのでしょうか。
最後に協力者の条件を挙げましょう。それぞれ一つ一つは当然のことだと思われるでしょうが、その条件を満たす人間はなかなかいないのかもしれません。

第1に、あなたの利益を第一に考えてくれる人である必要があります。家族であるとか運命共同体の人であれば、あなたの問題を解決することは自分の問題を解決することになるので、あなたを食い物にして自分の利益を得ようとはしないと思います。

第2に、あなたと同化しすぎない人です。あなたの悩みに共鳴してしまって、自分のトラブルだという感情がわいてしまえば、他人に協力してもらう「うまみ」もなくなります。その人も思考力が減退してしまうからです。

共鳴しすぎる人は協力者として不適当であるし、解決よりも共鳴を優先する人も大きなトラブルを解決する場合はあなたの足を引っ張るかもしれません。本当はそれを捨てて解決して大きな利益を得るべき時も、些細なこだわりを一緒に大事にしてしまい結局こじらせるだけだったという場合も多く見ています。

理想を言えば、一段高みに立って、あなたがこのトラブルで致命的な損害を受けても、その損害は自分が引き受けるから心配するなというような人がいればとても心強いでしょう。

以下は技術的な細かい協力者の理想です。
・ あなたに、あなたが考えていることとは別の選択肢があるということをはっきりと提案できる人
・ あなたにあなたがこだわっている価値観を捨てることが可能であることを告げることができる人
・ 初めから選択肢を捨てるのではなく、それぞれのメリットデメリットを思いついて提案できる人
・ その行動をとることの見通し、成功する可能性を理由を挙げて説明できる人
・ あなたが一番大事だと思っていること(感情ではなく思考の結果)を尊重してくれる人(但し、それを捨てるべき時は捨てるべきと言える人)
・ 焦らないで、許される範囲で時間を一杯に使って解決することを提案できる人
・ 自分の考えに固執しない人 あなたの意見(感情ではなく思考の結果)の良いところを取り入れてくれる人

できれば、その人に協力をお願いしたのであれば、その人の提案をすべて受け入れろとは言いませんが、先ずその人の提案を落ち着いて考えてみるということが大切です。感情的に反発することをしないということです。だから運命をゆだねることができる人が理想なのでしょうかね。何とかなるという気持ちをもって、感情を鎮めて、思考を働かせることができれば80%以上、結局は解決しているわけです。

弁護士をしていると、なんともならないという問題はあまりないことに気が付きます。確かに失うものが何もないというわけにはいかないことも多いのですが、結局は何とかなるということが圧倒的多数だと思いました。

思い悩むことも人生にとっては有益なことになるのかもしれませんが、それ自体は合理的な解決に向けて有益なことではなく、デメリットだけが多いことだと言って差し支えないと思います。まずは信頼できる人間に相談をすることが理にかなっていることだという結論は間違いないと思います。

nice!(0)  コメント(0) 

ユーチューバーがジャニーズ会見を批判する動画をアップする理由、尋問のプロの感じた会見の「技術的」成功とその成功が招いた想定しなかったデメリット [労務管理・労働環境]


先日、ジャニーズの4時間以上にわたる会見をユーチューブで倍速で観ました。そうしたら、その後私のユーチューブのホーム画面に、この会見を批判する動画が大量に並ぶ事態になっていて、その中のいくつかを観てしまいました。

この一連の流れは、弁護士としては、謝罪会見をする場合に気を付けなければならない事情の宝庫になっていて、どういうことをすれば聞き手はどう感じるかということもよくわかり、大変勉強になりました。その勉強の成果を還元するための記事でして、プロダクション批判の記事ではないつもりなので、初めにお断りいたします。

動画作成で生計を立てているユーチューバーの中には、純粋に動画再生数を稼いで収益を上げたいというある意味純粋な人と、特定の主義主張のセールスマンという形で、おそらくスポンサーをつけてやっている人と二種類いることがこの騒動ではっきりしてしまったということも今回の会見の副産物でした。今回分析するのは、前者の人たちです。

前者の人たちは、純粋に動画を多く再生してもらいたいということですし、一度着いた固定客を維持するというより、この会見をチャンスに新たな視聴者を増やそうという意欲が感じられる動画作成をしていました。

新たな視聴者が動画再生をするために、その不特定多数人のニーズに合わせた動画を作成しようという工夫が感じられました。

さらに、この動画がウケると思ったら、例え新たな情報が少なくても第2弾、第3弾の動画をアップすればまた見てくれるということもよくわかっていらっしゃる動画になっていました。視聴者が求めているのは、新たな情報よりも、自分が言いたくて言えないようなことをずばりと言ってもらい、自分の不満やフラストレーションを他の誰かに共感してもらいたいということのようなのです。

だから、ただ批判をすればよいというわけではないということが大切です。視聴者が言いたいこと、言ってほしいことをズバリ言う、しかもあくまでもこちらが「正義」であるという安心感を持っていられるという言葉や口調を選ぶというスタンスがとても大切なようです。

では、動画の視聴者は、あの会見で本当は何を言いたかったのでしょうか、どこに不満があったのでしょうか。これについては、動画作成者は必ずしも言葉で明らかにする必要はありません。それの説明を試みる私は動画作成をするわけではなく、今後仕事として行う謝罪会見が目的を達成できなくなることを避けるために、言葉に置き換えてみているわけです。

会見は4時間超に及ぶものであり、それなりに創業者を否定評価したものであり、今後被害者に補償をするということまで言及したし、4時間サンドバッグのように攻撃さらされれば、それなりに同情論も沸き上がり、騒動が鎮まるのではないかという見込みがあったと思います。批判に応えたぞという姿勢を示すことが会見企画者側の当初の目的だったはずです。

<企画者としての誤算だったと思われる依頼者の意思2点>

ただ、記者会見を企画した人物にとっては大きな誤算が当初からいくつかあったのだと思います。

 前社長が取締役を退任せず、代表取締さえも辞任しなかったということが第一の誤算です。社長の肩書をはずしたということは、法律的にはあまり意味のないことです。対外的にもあの人が代表取締役という会社のトップにいることは変わらないし、対内的にも実質的トップは変わらないということだけが伝わりました。小学生くらいであれば社長を辞めたということは大きなインパクトがあるかもしれませんが、大人はそうは思いません。

退任しなかったことは会見企画者としては誤算だったと思います。別に代表取締役をやめても困らないだろうという経済的面からの推測があったと思います。100%株主ですし、これまでの実績、人間関係があるのだから、会社に対する影響力が減少するわけではない。また、当面役員報酬が無くても困らないだろうから、第三者委員会の勧告に従って取締役を辞めると思って、それを会見の目玉にしよう、できるだろうと思っていたのではないでしょうか。ところが、肩書は外すけれど法的立場は変わらないということですから、企画者としては誤算ですし、一般視聴者はモヤモヤするわけです。

一時的にでも代表取締どころか取締役からも名前をはずすということになれば、身内のために仕事を奪われたという同情論が期待できたはずです。ところが代表取締役を辞めないということであれば、第三者委員会の指摘する同族企業を温存させるという印象はぬぐえません。さらに、100パーセント株主で今後も会社を支配しようとしているということに一般人の視線を誘導してしまうという副産物まで出てきた結果になりました。

もう一つ誤算だったのは、社名の変更を「検討しない」という回答をしてしまったことです。なぜ、「検討する」ということを言うことにできなかったのか、これも会見企画者としては誤算だったと思います。これでは、補償も今後のメディア露出や他の出演者への圧力防止措置も具体性が無く曖昧であることと対比して、社名を変えないという決意だけが、強固なものだという印象を与えてしまいます。当然企画者としては社名の変更を「検討する」とだけは言ってほしかったと思いますが、検討すらしないと言われたときは、代表取締役留任と合わせて、会見の効果がどうなるかを予想せざるを得なかったと思います。ホットな火種を作ってしまったことになります。また、この言いキリが、後に述べますよに、創業者に対する否定評価の話の説得力を空疎なものにしてしまいました。

<会見の技術と結果的なデメリット>

会見システムで、主催者側にとって一番工夫したと思ったシステムが、一人一つの質問に制限したことです。これは、追及はされたけれど、追及の効果は何もなく、結果として潔白という印象を作るということを結果のためには、とても考えられた工夫だったと思います。

一人一回の質問ならば、いくら時間を取って質問をだらだら続けても、核心に迫ることは初めからできません。不規則発言で突っ込めば、秩序を重んじる日本国居住者としては批判の矛先は質問者に向かいかねません。
事実、鋭い質問だなあと思う質問もいくつかあったのですが、そういう質問には答えないで別のことを話し始めて回答が終わり次の質問になっていたのですが、一人質問が一つなので、それ自体を追及することができなかったようです。

例えば社名変更についても、
「社名を変えるつもりはありません。」という答えが来たら
「検討さえしないのですか」という質問をしたり
「あなたさっき鬼畜の所業とか、史上最大の何とかとか言葉を尽くして否定評価したように言っていたけれど、社名を変えるほどの悪行ではないと思っているのですね。」という質問をしたかった人もいたのだと思うのですが、
二の矢三の矢を放つことができなかったため、結果としては話のすり替えであってもその部分を批判もできないばかりか、クローズアップすることもできず、結果として流してしまうことが可能になったのです。

例えば、「本人たちは努力しているからテレビに出ている」ということについても、
「それではジャニーズを辞めたらテレビに出られなくなるのは、やめたらこれまでの努力が遡って無になるということでしょうか」とか
「自社の芸能人以外の芸能人がテレビに出られないのは、努力が足りないということでしょうか。」とか
「視聴者の支持があるからテレビに出ているのではなく、テレビに出続けていて顔なじみになったから支持する視聴者が出てきたのではないか。(単純接触効果)」
というような大人なら誰でも気が付くことを言えなかったのだと思います。

そして中には某テレビ局の質問のように主催者を結果的にアシストするような質問がなされていれば、4時間なんてそれほど負担ではなく、結果として悪意のある質問はすべて退けられたという印象が残るはずでした。

一番気になったのは、ファンを理由にこれまでの企業活動を維持させてほしいということを述べたことです。それではスマップのファンやキンプリのファンをどれだけ会社は大切にしてきたのかというツッコミを当然多数の人が入れたがっていたことでしょう。

こんな片手間に書いていて私が思いつく突込みなんて、誰でも考え付くことなのです。一人一質問形式は、それをテレビ画面やスマホの画面で見ている者からすると、言葉では表さないまでも、消化不良や不満、不信が意識の中に蓄積されて行ったことは想像に難くありません。逆に、なんとなく会社を批判することが正義だという意識が大きくなっていったのだろうと思います。この社会心理をユーチューバーが見逃すわけがなかったということなのだと思います。

つまり、質問を結果的にはぐらかすことや、あからさまにその話はこれ以上言うなという指示がだされることは、本当は正しく質問にこたえることができるのに、質問の意味を理解しないで答えていないだけであっても、本当は回答者が混乱していて自分の意思を正しく伝えていないので制限していたという場合でも、視聴者からすれば、「何か隠しているのではないか」とか、「あの質問が核心をついているから答えてはまずいと判断したのだろう」とか、勘繰られてしまうということがわかりました。本人が職務に忠実にやるべきことをやっているという意識があったとしても、イメージは大変悪いものでした。これは私も覚えがあります。こういう風に見られていたのだなあということは大変勉強になりました。ひな壇に上がっていると案外そこまで気が付かないということがありそうです。

一人一門形式が機能するためには気を付けなければならないポイントだということがよくわかりました。ポイントを外してしまえば、せっかく時間無制限でサンドバッグになるという効果よりも、疑惑が膨らんでいくだけというデメリットもあると強く感じました。

その結果、社名は変更しない、所属タレントはこれまで通りテレビ露出をしていく、役員報酬は辞退しないという現状維持という結果の会社の希望だけが、図らずしも強調されてしまったという印象になり、視聴者はその不満やフラストレーションを強く持ち、このような不満やフラストレーションを持つ者は、そのネガティブな心情を誰かと共有したいという強いニーズが生まるという仕組みがよくわかりました。だから敏感なユーチューバーが早速動画をアップしたわけです。こんなフラストレーションはいつまでも続くわけではありませんから、動画アップはその日のうちにしなくてはなりません。

最後にひな壇の3人についての勝手な反省です。
前社長は、もっと発言を控えた方が良かったです。元々が中途半端な退任で印象が悪いのですから、話しても好感は持たれません。だとすれば「反論をしたくでもできないでじっと耐えている」という構図をせめて作るべきでした。また、タレントと違ってこれまでの露出が少ないのですから、一般視聴者が自然と感情移入されることはあまり期待できません。自を出してよいことは何もないということをもっとレクチャーするべきだったと思います。

いのはらしは、彼一人で会見したら、およそ会見の効果は上がらなかったと思います。前社長と新社長に対する世間の反発をうまく利用する結果となったためにある程度の評価がなされているのだろうと思います。

3人の一番の問題はすべて他人ごとの発言だったということです。これは会社としてはまるっきりの逆効果になっています。いかに「会見(3人)」に好印象を持つ人がいたとしても、「会社の今後」にとってはメリットよりデメリットが大きかったと思います。

会見の狙いが新出発を印象付けようとしたのだと思います。その線に沿って話を運んで、各人の役割を明確に配分していました。

新体制ということを華々しく打ち立てるためには、やはり過去と決別したという結果を印象付ける必要がありました。しかし、この決別を印象付けるためには、過去の否定評価と過ちを繰り返さないという具体的なプランを説明することが説得力があるのですが、過去の否定評価を言葉では行ったけれど、その過去と決別する部分が何ら具体的に見えなかった。自分は関係ない、自分以外の人間が悪く、自分は知りもしなかったということだけが強調された結果、既得権益を温存させたい思惑だけが際立ってしまい、この点をつけば視聴者は自分のフラストレーションを共有できたという満足感を持つだろうということを動画作成者は見逃さなかったということなのでしょう。

会社ですから会社を維持しようとすることは当然のことです。だからと言って既得権益を温存させたいということを語っては逆効果です。会社を維持させるためにどうするかという発想をもって戦略を考えて行動しなければならなかったはずです。会社の経営に努力賞はありません。

真面目な話、問題はテレビやCMスポンサーが日本の良識をどう作り上げていくかということなのだと思います。あの会見でよいと言って現状維持をするというのであれば、あの会見で良かったことになります。それとももっと、例えば音楽番組であれば、音楽の楽しさ、素晴らしさを伝えるような番組制作を行うように変わるのかということなのだと思います。

私はドキュメント的な音楽番組ができるとよいなと希望します。例えばスタジオミュージシャンのような確かな技術を持った人たちに、一時的なユニットを作ってもらう番組を作り、コンセプト設定の打ち合わせやリハーサルなんかもドキュメントタッチで撮影して、それほど大きくない数十人くらいが入るジャズバーを少し大きくしたような会場での演奏を番組で流す。それを会場にいる一人のようにバーボンのロックをオールドファッションドグラスですすりながら聞いているような錯覚が生じるような、そんな居心地の良い番組を見たいと思います。
そのミュージシャンのゆかりの楽曲を演奏しても良いし、スタンダードナンバーを演奏しても良いのではないでしょうか。

音楽を作る過程とできた音楽を両方楽しめることが魅力だと思いますし、この番組を見て音楽家を志したり趣味で音楽を始めてみようと考える人が出てきたらすてきだなと思います。

私はアイドルを否定するつもりはないのです。ライブパフォーマンスに耐えうる実力の備わったアイドルならば、観たいと思います。確かな基礎訓練があり、喜怒哀楽がしっかり表現できるならば見ごたえもあるわけです。ただ、音楽は、ジャズに限らず、その時その時の瞬間的な出来栄えの楽しさ、感動だと思うのです。MVを流すような取り上げ方はTVの仕事ではないでしょうね。感動があれば、低年齢の被写体であろうと、番組を流して時折熱心に観るということはすると思うのです。

テレビは、観る人の人生をいくらでも豊かなものにできる可能性を未だに持っていると思います。それを使わないことは大変もったいないことだと思います。

nice!(0)  コメント(0) 

精神障害者が無罪になる(場合のある)理由 リベット実験にも矛盾しない古典的刑法総論理論 [刑事事件]



重大な被害が生じた事件の裁判報道で、「被告人側が心神喪失を理由に無罪を主張している」という報道に接することがあると思います。「なんとなくそうかな?」と感じる人、「人が殺されているのに無罪とはおかしい」と感じる人、当然様々いらっしゃることと思います。

例えば、「その人間が明らかに人を殺そうとして、人が死ぬような行為をしたのに、精神障害だからといって釈放されるのはおかしい。」ということも自然な感覚かもしれません。

どうして精神障害を理由に無罪になるのかをまず説明していましょう。

刑法は、基本的には「わざと人を殺した」という場合だけ殺人罪として処罰します。その人の「不注意行為で人が死んだ場合」は、傷害致死罪、過失致死罪といって、一段低い刑罰になります。

考える手がかりがここにあります。わざと殺した場合に罪が重くなることは直感的に当たり前なのですが、その理論づけを昔の刑法学者たちは行っています。

その理由は、
「自分がこれからしようとすることが、人が死ぬことになる危険なことであるのに、やっぱりやめたと思いとどまらなかったこと」

をとらえて、傷害致死罪や過失致死罪とは類型的に異なった殺人罪として重い責任非難があるという理屈なのです。

逆に、不注意の場合は、思いとどまる要素が小さいので、責任非難が軽くなり、刑罰も軽くなるという関係にあります。

また、その人が殺したようにみえても、実際は思いとどまるきっかけも、不注意もなかったような場合は責任もありませんので無罪になります。グラウンドで野球の素振りの練習をしていたら、突然人が走ってきてバットにぶつかってしまったというようなケースがそういうケースでしょうか。

精神障害のうち、その程度が重く、心神喪失(自分のやっていることが自分で理解できない、あるいは、価値判断ができない事情がある場合)であったと判断されて無罪になるのも、この理屈で説明されます。

自分がこれから何をやるかさえもわからない精神状態の場合で偶然ともいえるように誰かが被害を受けたのであれば、自分がやることが人に迷惑をかけるので思いとどまるということを期待することができませんから、責任が無いという評価はまだ理解できると思います。

しかし、自分がこれからやることをわかっていて(例えば刃物で人体の危険な場所を刺すとか、頭を金づちで殴るとか)、それでも精神障害だからそれを思いとどまることが期待できないから無罪ということについては、それだけ聞くと納得できない人も多いと思います。

それはそうです。日常生活で、その人の意思で行動していて責任が無いというような具体的事案なんて、普通はあまりお目にかかれないからです。想像することも大変難しいと思います。長く弁護人を務めていると、そのような事案を担当することがあります。それほど多くはありません。

窃盗の事案で、睡眠薬とビールを飲んでわけがわからない状態になり、中古品販売店に自動車を運転して行って、自分の趣味の品物を陳列棚からカバンに入れて窃盗の現行犯で逮捕された事案がありました。それだけ聞くと自動車を運転できる程度に訳が分かっているし、本人が欲しがっている種類の品だったという程度の能力があったのだから、思いとどまる能力もあったはずだと思うことが健全な考え方かもしれません。

しかし、実際は、店員が注意しに来ても気にしないで、メモうつろで口も開いたままの異様な雰囲気でただ機械的に品物をカバンに詰めていたようでした。まさに映画に出てくるゾンビのような状態だったそうです。

この事案は、一度逮捕され勾留もされたのですが、裁判を受けることなく釈放されました。薬とアルコールのために、思いとどまることが期待できず、責任能力が無く、心神喪失状態だったと判断されたからです。

このように、その犯行をしようという意思がある(ようにみえるだけか)のに、責任非難が無い場合は実際にあります。心神喪失で無罪の主張をするケースはこういう極限的なケースを議論しているわけです。

このほかに精神障害で責任能力が否定される場面と言えば、程度の重い統合失調症のうちのある種の場合が考えられます。強い幻聴や幻覚で、その人を殺せと命じられているような錯覚をしてしまい、犯罪をしてしまう場合です。ただ、統合失調症の人の圧倒的多数の人は犯罪をしません。統合失調症が直ちに責任能力を否定される事情とはならず、その人の症状に照らして、思いとどまることが期待できたかどうかという具体的事情から責任能力は判断されます。




ところで、この「思いとどまることをしなかったことが責任の本質だ」という理論は、自由意思についての科学的な理論にも整合します。

ベンジャミン・リベットは、実験によって、人間の行動を起こす意思が起きる0.35秒前に脳はその活動を開始しているということを明らかにしました。2008年には別の人も同様の実験をして、0.35秒どころか最大7秒のタイムラグがあるという発表もなされました。つまり人間は自分の自由意思で行動しているのではなく、具体的行為を自由意思で決定する以前に脳が行動決定をしているということになります。認知学では、多くの学者が人間には自由意思はないと主張するようです。

そうすると自由意思がなく、すべて人間の行為が脳が勝手にやったことというのであれば、どの犯罪においても責任が問われなくなってしまいます。これでは、どんな犯罪をしてもそれはその人が自由意思で決めたことではないとして刑罰を受けなくて済み、社会不安が起きてしまうことでしょう。

しかし、刑法の責任論は、その問題を予め知っていたように都合よく理論化していました。

リベットも、0.35秒前に脳が勝手に起こし始めた行動だとしても、0.35秒後にその人の自由意思によって、その行動を思いとどまることができる。それがその人の人格を示しているというようなことを言っています。刑法の責任論は、まさに思いとどまらなかったことを非難しようとしているので、ぴったり一致しているのです。リベットの学説によれば、自由意思の働く範囲はごく狭い範囲だということになりますが、刑法理論はすかさずその狭い範囲に焦点を合わせて責任があると言っているわけです。しかもこの責任論は、リベットの研究のずうっと前に構築されている理論なのです。

あまり伝わらないかもしれませんが、私はすごいと思いました。説明が下手ですいません。


全てをまぜっかえすようなことを最後に言うわけですが、この刑法理論は、現在の刑法解釈ということで、元になる刑法が改正されれば、ほとんど意味のないものになってしまいます。例えば、わざとであろうと不注意であろうと偶然であろうと、結果として人が死んだのであれば殺人罪にするという立法も理屈の上ではあり得ないことではないのです。

10年以上前に裁判員裁判が始まり、量刑の点についても一般市民の感覚が判決に反映されるようになり、判決が厳罰化してきたということが実務感覚です。初めて生の殺人などの重大事件の証拠を目にすれば拒否反応が起きることは当たり前で、できるだけ重く処罰しようという感覚になることは当然のことです。厳罰化は裁判員裁判の実施と因果関係のあることだと私は思います。

ただ、国民が、厳罰化を望み、結果責任を望むようになり、法改正がなされればそのようになっていくこともありうるのです。運の悪い人が長期服役を余儀なくされるということも、それ以前と比較してそうだという話であり、それが直ちに間違っているという議論が成り立つのかよくわからないというべきだと思います。

現在に話を戻して、実際の裁判で「思いとどまることを期待できたかどうか」ということも、個別的な事情を判断しなくてはならず、実際のところは同じ程度ならば同じ量刑や、同じ責任能力の有無の判断がなされているのかについては、実際のところよくわかりません。なかなか比較しようのない問題だからです。

少なくとも、わざと心神喪失の状態になって恨みを晴らそうと思っても、おそらく無罪になることは無いだろうということだけは確かなことだと思います。

nice!(0)  コメント(0) 

再犯は、防止行動を行わないために起きる 犯罪をしないために必要なことは生活習慣の修正 万引きの事例をもとに考える [刑事事件]



犯罪のメカニズム、特に犯行を実行しようと思うメカニズムを考えると、犯行直前に「やっぱりやめた」と思いとどまることは実は難しいことだと感じられます。前回述べたリベットの研究結果、「人が自由意思で行動を決定する前に、脳は無意識に行動を決定して活動している」ということに照らしてもそう言えることだと思います。

例えば万引きを例にしてお話しします。いつ万引きをしようと考えるかについては人それぞれのようです。家を出て万引きをしに行こうと思う人もいれば、店の中に入った瞬間に万引きをしようと思う人、商品を見て万引きをしようと思う人それぞれです。万引きしに出かけようとする人は、多くは、商品を換金して生活費を稼ごうと言う人だったという記憶です。

不可解な、説明が難しい万引きは、店に入ってから、つまり万引きの直前に万引きをしようと考えたと言う人がほとんどです。

さらに万引き弁護を多く担当している私からすれば、意思決定をする前に万引きの態勢に入り、盗みきることに全力を挙げているような印象を受けることが多いのです。

だから万引きをしたひとに、どの時点で万引きを「やっぱりやめた」と思いとどまるべきかアドバイスをすることがとても難しいということが本音でした。

万引きをした人に、今後どうすれば万引きをしないで済むかという方法を考えてもらうと、多くの割合で、「一人で店に行かないこと」という答えが返ってきます。案外、ご本人なりに万引きのメカニズムを正しく認識して最善の策にたどり着いていたのだということを、リベットの研究結果を念頭に置くとそう理解できます。つまり、「万引きはしてはいけないからやらないよ」というような意識をもって日常を過ごしているのですが、店に入った途端、あるいは商品を見たとたん、自分の知らないうちにいわば万引きモードに入って万引きをしてしまっているということが、意識についての科学的研究からすれば正確なメカニズムなのかもしれません。

その場になって、「やっぱりやめた」と思いとどまることは、刑法理論としてはともかく、予防の方策としてはあまり期待できないことのようです。つまり、その場になると、「万引きを見つからないように完遂する」ということに意識が集中してしまい、「やっぱりやめよう」とか、「これをやると他人に迷惑がかかるかもしれない」とか、「自分の知り合いに知られたらみんなから相手にされなくなるとか」、「警察に捕まって裁判を受ける」ということは考えることの能力は、発揮しようがない状態になっているのだと思います。その結果、「後でそういうまずいことになるとは思わなかったのか」と尋ねると、「そこまで考えていなかった。」という回答が来ることになるわけです。

そこまで考えなかったということは、そこまで考える余力が無かったということなのでしょう。

だから、万引きは悪いことだと何万回繰り返してもあまり意味のないことだということがわかります。そんなことは百も承知だからです。人に知られたらとか警察に捕まるとかいうことも百も承知です。百も承知だけれど、それを考える余力が無い状態だから万引きを始めてしまうわけです。
万引きの刑事裁判での反省の多くが、このように考えても仕方がないことを考えて発言しています。これでは、万引きをやめることができません。万引きをやめるための行動をしていないので、また万引きをしてしまうと言っても良いでしょう。

では、どういうことが万引きをしない方法でそれをやるべき方法なのでしょうか。

わたしは従前、犯罪環境という言葉を提唱してきました。何らかの犯罪を行う人は、犯罪を行うような環境、特に人間関係を作ってしまっている。その環境から抜け出して、安心した生活を送ることで再犯を防止するべきだと考えています。これは変わりありません。むしろベンジャミン・リベットの意識についての実験結果からその理論が裏付けられたと思っています。

万引きをする人もいれば、絶対にしない人もいます。商品があって、誰からも見られていないと思っても万引きをしない人がほとんどです。

万引きのメカニズムが、商品を見て、万引きができそうだと感じて(これは知識が無いか錯覚で、通常の店舗、特に量販店では無数の監視カメラが設置してあり、死角がなくバックヤードでモニタリングをしています)、「この商品を黙って取ってお金を払わないで帰ってしまおう。」という選択肢が無意識のうちに現れ、無意識のうちに選択してしまい、そのための行動を開始してから万引きをしようという意識が生まれるようです。順番が、脳が決定してから万引きの意識になるということが正確なようです。万引きは例えばカバンに入れてしまえば終了ですから、やっぱりやめたと思いとどまる時間もないと言えそうです。

それでは万引きをしない人は、する人とどこが違うのでしょうか。
1)そもそも万引きしようという選択肢が無意識下でも出てこない。
2)選択肢が浮かんだとしても、行動に出る前に思いとどまる。
この二つが、結果的には異なるところです。

実務的には1)と2)はきっぱりと区別できるものではなく、あえて言えば、万引きをしようという選択肢が出てきても、それに基づいて行動を開始するような強い選択肢ではなく、一瞬で「やっぱりやめよう」というか、選択肢からすぐに脱落する程度の弱い選択肢だという表現がより近いかもしれません。

もう少しミクロ的に分析すると、万引きをしない人は、
「誰も監視していない無防備な状態で商品が置かれている、万引きできちゃうんじゃない。」という抽象的な選択肢にとどまり、
万引きをしてしまう人の例えば
「この商品をカバンに入れて見えなくしてしまえば、お金を払わないで帰ることができるのではないか」
という具体的な選択肢にはなっていないということなのかもしれません。

そういう意味で、厳密に考えれば、やはり具体的な万引きの選択肢が現れないという表現も間違っていないのかもしれません。

そうだとすれば、万引きの再犯をしないためには、万引きの具体的行為の選択肢を排除することが有効だということになると思います。

どういう場合に具体的選択肢が現れやすくなるのでしょうか。
一つには成功体験ということがあります。一度万引きに成功した体験は、具体的な万引き行為を記憶していますから、同じ行為をすればうまくいくということから無意識に選択肢に上りやすいことは理解できます。

一度でも成功すると、その後捕まっても捕まっても、具体的な行動が記憶にありますから、無意識のうちにその具体的行動の選択肢が表れて無意識に選択してしまうということはあります。一番怖いのは万引きしようとは思わないで、レジを通さないで商品を持って帰ってしまったことに気が付くと万引きを繰り返す原因になりかねないということでしょうか。

うっかり持って行ってしまうということはどうやらあることのようです。うっかりでも万引きであったとしても、勇気をもって店に行き代金を支払ってくることによって、成功体験を少しでも解消することをお勧めします。

先行行為の外に万引きの原因として経験上みられたものは、「孤立」です。万引き以外の犯罪類型でもたびたび出てくるのは孤立です。自分に何らかの問題が生じているけれど、家族など他者と自分が抱えている問題を共有できない状態の場合、犯罪行為を止められなくなることが多いように感じます。孤立と言っても一人きりという場合もあるのですが、二人とか、家族ごと社会から孤立している場合も犯罪を思いとどまらなく理由になるようです。犯罪者となっても、これ以上自分の評価が下がることは無いということなのでしょうか。思いとどまらなくなるというより、違法行為であろうが何であろうが、自分が生き残るために手段を択ばなくなるという感じです。

「孤立」とは、必ずしも誰から見ても「孤立」しているという場合だけでなく、自分が「孤立」していて助けのない状態だと感じていても、犯罪という選択肢が沸き起こるというか降りてくるというか、無意識に滑り込んでくるようです。つまり主観的に孤立していれば、犯罪の選択肢が出てきてしまうということなのだと思います。

孤立に心当たりがあれば、孤立を解消する方法を講じることが再犯防止ということになるはずです。実際に独り暮らしの高齢者の万引き事例で家族がもっと関わる時間を増やして再犯を防止した例や、逮捕された人に家族が暖かくかかわり孤立していないことを強く認識してもらうことによって再犯を防止した実例が豊富にあります。家族以外に居場所を見つけ、定期的にいつものメンバーの中で時間を過ごして再犯を防止した人もいます。

家族で万引きをした人が出た場合は、とにかく家族が運命共同体の仲間であり、決して見捨てないという態度を示し、いつものとおり接するということで、あるいは接触を強める(一緒にいる時間を増やす)ということで、孤立をしていないという認識を本人に持ってもらうことが再犯防止に有効だと思います。

孤立が解消されればある程度同時に解消されることですが、生活のリズムを調えるということも大事です。朝起きて夜に寝るということはとても大切なことです。

さらには、年少であれば学校に通い、ある程度年齢が上ならばとにかく就職して規則正しく美しい生活をすることが犯罪の選択肢を排除する方法のようです。但し、真面目過ぎる人はダブルワークをして働きすぎてしまい、その結果ストレスを強めたり、あるいは寝不足になったりして、余裕をもって思考ができない状態に陥ることがあります。やっていいことと悪いことの区別がつきにくくなり、犯罪という選択肢が忍び込んでくることがありますので、朝起きて夜寝るというバランスのとれた生活ができるような仕事のスタイルをするべきですし、孤立していない自分には仲間がいるのだと実感できる生活スタイルを作ることが大切だと思います。

真面目過ぎると思う人は、趣味を見つけて、何かに一心不乱に打ち込める時間を作ることをお勧めします。

心配事が法律問題であったり、人間関係であった場合は、できるだけ早く弁護士や適切な相談相手に相談して憂いを絶つということも不健全な選択肢を生まないためにはとても有効です。

弁護士から見ると、犯罪は、必ずしも特殊な人が行うものではないということ感覚があります。私自身も一つ間違えれば、犯罪を実行していたかもしれないという意識で弁護しています。大事なことは、自らを犯罪環境に置かないこと、犯罪環境にいるならば無理してでもその環境を変えることだと思います。

nice!(0)  コメント(0) 

離婚後の親権制度について、他国に恥じることのない議論のために 子どもの権利を最優先にした議論の枠組みをするべき [家事]


8月29日に法制審議会は、離婚後の共同親権制度などのたたき台を発表し、離婚後の親権制度についての法改正が目前という状況になっています。世界ではごく例外を除いて離婚後においても共同親権制度をとっています。日本だけは、国際的に異例の単独親権制度をとっていて、今回の改正においても共同親権が曖昧な形のまま法制化される懸念があるというのが、現在の立法にまつわる政治状況だと言えるでしょう。

この状況は、国際的に見てとても恥ずかしい状況です。なぜならば、世界では子どもが一人の人格主体であると認識されていて、大人は子どもの健全な成長に責任を持たなくてはならないという理由から、両親が離婚しても子どもは父親からも母親からも愛されて育つ権利主体であると法的にも位置付けて、共同親権制度に次々に変更していったという経緯があります。日本だけが、子どもの両親から愛されるという切実な権利に価値を置かず、子どもの権利とは別の次元で子どもの権利を制約し続けているのです。日本は権利を主張できない弱者の権利擁護を考えない国だと実際にも国際的に評価されています。結論も一択しかないと思うのですが、何よりも議論の過程を世界が注目していると思います。

前回の記事では、親権概念を確認し、
・ 親権は親が子どもを思う自然な情愛に基づいて親に親権をゆだねたということ、
・ 戦後の法改正で父親と母親の双方が平等に親権主体と定められたこと、
・ しかし実際には一方の親によって他方の親の親権が侵害されているのに回復する強力な制度が無いこと
・ 父親の親権が母親によって侵害される場合に、公権力やNPOが侵害に加担していること等を述べました。

今回の記事では、
1 立法についての議論がどのような道筋で行われるべきか
2 夫婦が離婚しても、両親から積極的に愛情を受けていることがどのように子どもの利益になるのか、
3 立法趣旨との関係で共同親権制度にする必要性はどこにあるかということを述べていきます。
今回も、実際に離婚事件その他の子どもの養育に関する事件を多く担当する法実務家として、私の実務経験をもとにお話をしていきます。

1 立法の議論のあるべき道筋

親権制度は、前回お話しした通り、世界的に近代以降では、子どもが健全に成長するために親が行うべき義務がその概念の中核になっている必要があります。「子どもが健全に成長をするためにどのような親権制度とするべきか」という議論から出発しなくてはなりません。

そしてこのような子どもの利益のためになる制度を作った結果、他の観点からの不具合が生じることもあるでしょう。法律というのは、このように一方向の利益だけで定めることはできず、それによる不具合をどのように修正するかということを考えて決められる定めにあります。

離婚後の共同親権反対論は、この出発点が欠落していると言わざるを得ません。共同親権反対論の論拠は、共同親権になるとDV被害女性の保護が不十分となるということが核心になっています。つまり、子どもの権利についての議論を欠落させて、女性の利益を元に論を立てているのです。これでは、世界に顔向けできない議論をしているということになります。

また、実務経験からすると、家裁の離婚手続きで、未成年者がいるケースのほとんどがDVの存在しない事案です。DVによる慰謝料が認められないケースは少なくありません。裁判所を通さない協議離婚の場合は、もっとDVが存在しないケースが多いと推測されます。協議離婚が成立しているということは、夫婦で離婚届けを作成しているということですから、妻が子どもを連れて夫から所在を隠しているというケースよりも、離婚届の受け渡しが行われているケースが圧倒的多数であり、つまり、DVからの逃亡が不要なケースが多いからです。

いったい、未成年者がいる離婚のケースのどの程度の割合がDVがあった案件だというのでしょう。また、DVがあったからという理由で一方の親か子どもの所在を隠す必要がある案件なのでしょう。DVの定義が曖昧であることも相まって、有効な統計資料はないはずです。離婚総数の内、DVがあるために離婚後も父親と母親の協議ができない割合はごくわずかであると思います。それにもかかわらず一律に共同親権が排除されるならば、大多数の両親が離婚した子どもたちは、自分の状況と異なる状況のために、一方の親から愛情を注がれる利益ないし権利を考慮されないという事態になりかねません。どうして子どもたちは我慢しなければならないのでしょうか。

また、共同親権反対論の論拠が、母親の権利を第一に考えて立論されているということは、子どもの権利よりも母親の利益を優先する価値観によって議論がなされているということになります。何よりも子どもの権利について議論が行われないのですから、母親の利益を優先という表現よりも、子どもの権利ないし利益を欠落させて親権の在り方が議論されていることになります。つまり、これでは、母親の利益さえ図られれば子どもの利益を考慮しなくてよいという態度に外なりません。つまり、子どもは一人の人格主体として保護されるのではなく、母親の利益に従って行動するべき母親の付属物という扱いがなされていることになります。子の連れ去りとはまさにこのような現象なのです。

封建制度のイデオロギーの残存的思考であるとともに、子どもは女性が育てるべきという看過しがたいジェンダーバイアスにとらわれた議論だというほかはありません。そこに統計や発達心理学などの科学的考察はなされていません。

議論のあるべき道筋とは、
先ずDVを脇において、夫婦の離婚後に子どもはどのように育てられるべきか、同居親と別居親がそれぞれどのようにかかわるかべきかということから離婚後の親権の在り方を議論するべきです。

次に、それで制度の骨格を定め、それにより生じる不都合をどのように最小限度にするかという議論に進むことになります。その際、DVとは何か、被害実態とはどのようなものが統計的には見られるのか、件数、割合はどの程度のものなのかという統計資料に基づいてどのような制度修正をするべきかを議論することになります。

私は、民法上の共同親権制度には、DVの問題をいれることは不可能だと思います。民法の文言にDV問題を配慮した文言をもうける立法事実が認められることは無いと思っています。特別法によってDV被害対策を、統計上の必要性が認められた時に必要に応じた立法をするべきだと考えています。

また、別居親のかかわりを「認めるか認めないか」という清算的議論ではなく、DVの被害が現実化しないようなかかわり方を検討し、物的施設や親子交流支援員を設置するなどの建設的な制度創設の提案がなされるべきであると考えています。あくまでも子どもの利益を中心に考えるべきだからです。

2 離婚後にも両親から愛情を注がれる子どもの利益

離婚を経験した子どもたちの発達上の問題は、統計上確立されています。即ち、自己評価が低くなり、アイデンティティの確立に問題が生じるということです。この統計結果を世界が認めたために、国際的にわずかの例外を除いて離婚後の共同親権制度が次々と生まれて行ったのです。

自己評価やアイデンティティの問題を少し説明します。

私が直接会った、他方の親と交流のない子どもたちは、この極端な形で苦しんでいました。中学や高校のあたり、自我が確立していく頃から、不登校、自傷行為、拒食過食を繰り返し、精神科病棟での入退院を繰り返すようになり、同居親に攻撃的になり、子どもとは言えない年齢になっても社会に出て行くこともできないような状態となりました。病院での様子を見ると、特に何か健康になるためのアプローチは見られず、ただ社会から隔離されているような印象も受けました。せいぜい興奮状態を薬によって鎮めているだけでした。

そういった状態の中、荒れる子どもを心配のあまり、別居親が同居親の助けを求めようとして、同居親の代理人を通じて離婚調停が申し立てられました。別居親と代理人の私は、離婚申立てが真意ではなく、子どものことで助けを求めているということを見抜き、面会交流を復活させました。その直後から子どもの精神症状は沈静化していき、社会に出る準備を始めていきました。自分の夢を自覚して、夢に向かって進むという意欲を持ち、現在夢を実現しつつあるという状態です。

別の例では、両親の別居後、荒れて徘徊を繰り返して児童相談所に保護されることが頻回にあった小学生がいました。別居親との交流を通じてそのような行為は無くなり落ち着きを取り戻しました。親子が久しぶりに対面した場面に立ち会いました。面会が終わるまで、子どもが満面の笑みを浮かべ嬉しそうに時間を過ごしていたことが印象的でした。

私が見た実例は、子どもの自己評価が低下した様をまざまざと見せつけられました。自己評価が低下している状態とは、自分は尊重されるべきだという観念を持てず、夢や意欲を持つこともできない状態になるようです。

また、近年では、離婚それ自体というよりも、離婚後も親が離婚相手に対して精神的葛藤を抱いていることが子どもにとって悪影響を与えるという整理の仕方もされているようです。子どもは同居親の承諾の元で別居親と交流できることで、この点も安心するのだと思います。別居親の面会にあたっては、私が同居親の葛藤を下げるチャンスとして子どもとの交流を活かすことが子どもの利益になるというアドバイスを常に別居親にしているのはこういう理由があるからです。

日本を除く諸外国は、このような科学的根拠があるということで、子どもを一人の人格者であり、親の付属物ではないとして、離婚後も共同親権制度にしたのです。日本で共同親権制度になっていないのは、日本の立法府だけが統計的に科学的に見出された子どもの権利を真正面から取り上げようとしていないからと思われても仕方がない状況なのです。アジアの隣国である韓国も中国もはるか昔に共同親権制度を整備しています。

ちなみに「選択的共同親権」ということもこのような共同親権制度が世界中に広まった今となっては恥ずかしい限りです。子どもが両方の親の愛情を確認できて健全に育つか、一方の親の愛情だけで甘んじなければならないのかを親が勝手に決めて良いという制度ですから、子どもは親の付属物として扱われて仕方が無いという制度です。政治的妥協の産物ででてきた概念ですが、制度趣旨を理解できない恥ずかしい提案になります。子どもの切実な利益を政治的駆け引きで決めてはだめだと私は声を大にして言いたいのです。

3 離婚後の共同親権制度を法律で決める必要性

現状での不合理として、離婚後親権者ではない親は、親権者でない以上に無権利になっています。例えば、子どもの養育状況が心配になったり、登校の様子を知りたくて学校に問い合わせても、「親権者ではないから個人情報の観点から教えられない。」あるいは、「親権者の同意が無いから教えられない。」という回答がなされることが少なくありません。

子どもが児童相談所に一時保護されても、親であるにもかかわらず親権が無いから一時保護の様子を教えられないとの回答がなされました。

経験上言えることは、教育機関、児相、役所と警察などの公的機関では、親権を持たない親は親であっても子どもの情報を教えないという扱いがなされているようです。実際は同居親と子どもの折り合いが悪く、中には同居親がヒステリックに子どもに対して行動を制限している場合でも、もう一人の親は情報を知らされないため子どもに対する有益な対応をとることが妨げられています。

もう一人の親に情報を与えて意見を出せるようにすると、親権者の親権が妨害されるとでもいうようです。ここでも子どもの権利よりも、親の権利が優先しているように思われます。

親権を持たない親が子どもと話すことで子どもが落ち着いていくこともよくあることなのですが、一切のかかわりを禁じているのが現在の児童相談所をはじめとする公的機関です。あたかも、親権を持たないもう一人の親は、子どもと敵対しているかのようです。これはかなり失礼な話だと感じています。

これは親権者が一人に定められなければならないため、現状の親権者の問題点をもう一人の親に知らせると、親権の変更などの手続きをするのではないかという恐れも背景にあるのかもしれません。

しかし、そもそも共同親権制度を作り、もう一人の親も親として子どもにかかわれるということになれば、親権はく奪に相当するような虐待が無いのであれば、多少の失敗があっても親権の移動はありません。だからお互いが、現状のシステムよりより冷静に子どもの成長について話し合う条件が生まれるのだと思います。

いずれにしても、両親が離婚しても親子は親子だということを行政は看過しています。親権という法的地位はともかく、親であることが公権力によって否定されているということは是正されるべきです。共同親権制度は子どものために必要な制度だと思います。

名称こそ共同「親権」ですが、実態は共同「責任」制度です。子どもへの関与が増えることの一番の効果は、両親の子どもへの愛情行使が期待できることです。

現在養育費が支払われないということで、公権力は養育費の強制徴収を検討しているようです。しかし、養育費が支払われない事情は千差万別です。養育費を支払いたくても支払えない事情がある親は少なくありません。それにもかかわらず、ある自治体は支払ない親の氏名を公示するというパワハラのような方法で養育費の強制徴収を検討したようです。これは子どもの利益ではなく、生活保護などの公的援助金の支出を抑制することしか考えていないことを示す事情です。養育費を払わなくても子どもにとっては親です。どこの子どもが自分の親の不十分点を名前をさらされて公にされたいと思うでしょうか。自分の親が養育費を払わない親として自治体から名前を公表されていたたまれない気持ちになることを想像できないのでしょうか。普通に考えれば、子どものための制度設計ではないことがすぐにわかると思います。

親は、子どもにかかわることで本能的に無理をする生き物です。十分な収入は無いけれど、自分にかけるお金を削って子どもにお金を使うということは、同居、別居にかかわりなく同じだと思います。親は子どもとかかわって子どもに親にしてもらうということが私の経験からも正しいと思います。逆に言うと、子どもから引き離された親が、子ども優先にお金だけ支払おうというモチベーションを高く維持できるわけはありません。私が最初に親子問題にかかわったのは養育費の打ち切りの相談でした。支払わなくなったり、予定した期間を支払い終えたけれど養育費が継続されないと困る事案の相談でした。新たに扶養調停を申し立てるしか法的手続きは用意されておらず、しかし時間も待ったなしという事案(大学の授業料の納付期間が迫っている等)がほとんどでした。案外簡単に解決しました。子どもがもう一人の親と交流を開始するという方法でした。同居親としても背に腹は代えられない事情があるので、実行していったところ、私の知る限りの事例で経済的問題が解決したものでした。

もし共同親権制度であれば、もっと親は子どもにかかわることができるの、子どものための行動をすることでしょう。初めから交流を続けて行けば、もっと子供は楽に自分の夢を追うことができるなど、人生の可能性が広がったことでしょう。

まだまだ、法律で共同親権制度にする必要性はあるのですが、長くなりましたので、そろそろ終わります。

いずれにしても、離婚した夫婦が、現状何も働きかけをせずに子育てを協力するということは現実的ではないと思います。しかし、法律で共同親権制度を定めることによって、当初は仕方なく協力関係を形成し、時間が立つことによって、離婚をしても子どものためには協力するものだという意識が形成されてゆき、子どもの利益につながってゆくはずです。

国家が子どもの利益のための制度をだいぶ遅くなりましたが、真面目に作っていくことが求められ、世界からも注目されていると思う次第です。


nice!(0)  コメント(0) 

親権の概念の再確認と離婚後の共同親権論争の真の問題の所在 [家事]

親権の概念と離婚後の共同親権論争の真の問題の所在

法制審議会が8月29日に離婚後の共同親権を含む家族法改正のたたき台を発表しました。離婚後の共同親権の是非を議論する前に、先ず親権概念をはっきりさせておいた方が良いと思いました。書いているうちに、筆が止まらなくなり、なぜ共同親権に反対するのかの理由まで考えてしまいました。このため大分長くなってしまいましたが、実務家としていつも感じていることを正直に書きました。
 
1 親権の内容
 
 親権という概念は各国にあり、実はいろいろな意味があるようです。文明国の親権という意味で「近代的な親権」というためには、親権の内容に子どもに教育を受けさせる義務を設けるなど、子どもが幸せになるように行動をする義務が含まれなければなりません。
例を挙げると、子どもを教育する義務、子どもを監護する義務、子どもの財産を適正に管理する義務などがあります。今、議論になっているのは懲戒権です。懲戒の内容はいろいろありますが、子どもが悪い行為をしたらその行為に否定的評価を与え、今後の改めるべき行動様式を指導することが共通内容でしょう。子どもが間違った道に進まないためには、私は親の懲戒権は必要だと思います。但し、親の気分によって子どもにつらく当たったり暴力をふるったりすることは、そもそも親権の中に規定されている「懲戒」ではありません。うまく言ってわからせることができる場合は懲戒という概念は不要かもしれませんが、子どもの意思をある程度制圧しても懲戒しなければならない場合、特に子ども自身の安全のために必要な場合が現実にはあると思います。

話を戻しますが、近代における親権の内容は、どちらかというと「権利」というより「義務」に近いのですが、子どもは親の親権(指導や教育)に服しなければならないという意味もあるため「子どもに対する権利」であると説明されています。ではいっそのこと権利という言葉を使わないで「親責任」という言葉を使うべきではないかという意見もあります。実際にそのような意味の言葉を使う国も外国にはあります。しかし、親権制限、親権喪失などの法律用語との整合等を考えなければならず、そう単純には決められないという指摘も有力です。

私は、親権には、親権に対する妨害を排除するという意味での自由権的側面もあると考えていますので、親権という言葉は残すべきだと思っています。親権妨害が損害賠償や妨害排除の対象となることは裁判所でも認められていることです。
 国家との関係では、最近は痛ましい虐待事例に居ても立っても居られない人たちが児童相談所の現状を苛烈に批判し、児童相談所の家庭への介入を強化し、警察との連携を主張する傾向が多くなってきました。そうすると、介入の弊害も懸念しなくてはなりません。本来虐待をしていない場合に親子分離がなされてしまうことも当然でてきます。過度な親子関係に対する公権力の介入を抑止する観点からも親権の自由権的側面を改めて強調するべきだと考えています。

2 親権を行使する主体

  親権を行使するのは親であるということは明治民法の時代から規定されています。ここで指摘しておかなければならないことは、明治民法は、封建的な「家」制度を維持するための制度となっており、親権制度も家父長的な観点から定められているという誤解があることです。
  家父長制という概念はヨーロッパの家族関係を知らなければその意味を正しく使用することはできません。法律を超えた文化的な考え方という根強いものです。この意味で日本の家族制度に家父長制という概念をストレートに当てはめることには無理があると私は考えています。
  もし明治民法が家父長制的な「家」制度の維持のための制度設計だとするならば、親権は「家」のトップである戸主にあると定められるはずです。ところが明治民法は先ず父が親権者であり、父が親権を行使しえない事情がある場合には母が親権者になると定めているのです。親権は、子どものための制度であるから、自然な情愛に基づいて親権を行使するべきであり、それは親がふさわしいという考え方が採用されて立法化されたものです。但し、父親が第一順位というところに男女差別があることは看過できません。しかし、これをもって欧米の家父長制と共通だと考えることには無理があるのです。

3 現代社会の婚姻時の共同親権という制度

戦後親子関係に関しては民法改正がされて、親権の主体は一人ではなく、父母双方であり、父母が共同して親権を行使することが定められました。

親である以上、男女の性別にかかわらず親権の主体とされるべきだということは、男女平等の価値観の元当然のことです。子どもに対する自然の情愛に委ねるという考え方は、父と母の双方が親権を有するということがよりよくなじむと思います。

明治民法では親権者は一人でしたが、二人が親権者となると、何らかの決定をしなくてはならない場合にはどうするかという問題が出ます。制度としては、どちらかに優先順位をつけるという形です。明治民法は性別で優先順位を決めましたし、理屈の上では二人の年齢によって決めるなど決め方はいろいろありうると思います。しかし、改正民法では、親権者二人に優劣を決めず、二人で相談して決めるということになっています。父親と母親とどちらにも優劣が無く、平等に話し合いで親権行使を決めるということが、日本国憲法体系かにある民法の考え方だということです。

4 現代日本の共同親権の実態

現代日本では、多くの親権侵害が存在しています。

1)一方の親が子どもを排他的に確保して他方の親の親権行使を侵害

いわゆる連れ去り事案が典型的です。つまり、例えば子どもの母親が、子どもの父親に知られないように子どもを連れて現在の居住地から離れて別居をする場合です。子どもがどこにいるかわからなくなりますので、他方の親は親権を行使することができません。明らかな親権侵害です。

このほかにも、例えば逆に父親が、母親が精神障害にり患しているとして入院させるなどして家から退去させ、母親が退院しても家に戻ることを妨害する事例が実際には多くあります。夫の母親が嫁を嫌っていて、家から追い出すという封建時代かと思わせる女性の被害が起きています。現実には少なくない母親も親権侵害を受けていています。それどころか子どもに会うことすらできない母親も少なくないのです。

また何らかの事情で、例えば母親が夫との関係で罪悪感を持っていることを利用して母親の子どもへの関与を排除してしまう事例も実際は多く相談が寄せられています。

親権侵害の事例は、子どもと一方の親を断絶させるもので、深刻な精神的打撃を受けます。とくに連れ去り事例では、一人残された父親が自死したり、廃人のようになったりするケースを私も多く見ています。


2)親権侵害に対する公権力の加担

一方の親による他方の親の親権侵害の事例の典型的な例は母親の子の連れ去りの事案です。この事案には公権力が加担している案件が実に多くあります。「DV被害者の保護」という名目です。しかし、実際には、身体的暴力や精神的虐待があったと認められるケースは例外的です。判決や和解でもDVは無かったこととして結論が出されることが多いということが実感です。

それにもかかわらず、地方自治体や警察、NPO法人は、ありもしないDVがあったとして父親の親権侵害に加担しているのです。
一方的な母親からの事情聴取だけで「それは夫のDVです。」と宣言し、子どもを連れて父親の知らないところに逃げることを勧め、そして夫から知られないように住処を与えて、生活保護を支給して逃亡生活を援助します。そして、裁判手続きを勧め、法テラスを通じて弁護士を依頼させて、保護命令申立や離婚申立てなどを行うことを容易にしています。

「DV被害者ならば逃がすのは当然ではないか」と、この時点で結論を出す人もいるかと思います。しかし、DVという概念は広範な概念で、DVというだけでは何が起きているのか皆目見当もつかないのです。離婚調停や裁判においても、DVの具体的中身が母親側から具体的に主張立証されることはほとんどありません。

事情聴取はすることになっているのですが、あまり具体的な話は聞いていないのではないでしょうか。また、その話の事実評価も行われていないようにも思われます。私が良く例に出す実際に会った話ですが、月4万円しか夫から渡されないという妻の訴えに対して相談所は「それは夫の経済的DVだ。」と即時に断定されたと専業主婦の妻が言っていました。

しかし、夫の賃金(手取り20万円を切る)が低いうえ、光熱寮などの生活経費や教育費は夫の銀行口座から引き落としになっている上、食材なども夫が全て出していた。つまり、妻の小遣いを何とか4万円捻出していたということが真実だったのです。低賃金の社会構造に原因があるにもかかわらず、夫のDVだと決めつけるところにDV相談が何なのかを象徴していると思います。

むしろ、誰にも相談できないところで深刻なDVは起きているということが実感です。量的には男女差が無いということも感じています。

母親の連れ去り事例における相談所(役所、警察、NPO他)の問題点を整理します。

・ 裁判手続きを経ないで父親の親権侵害行為が行われていること
つまり、父親には反論する権利が無く親権侵害が行われていること
・ 連れ去りに正当性が無いことが裁判で確定しても、親権が回復しない。また親権侵害による損害賠償を請求する方法が存在しないこと
・ 父親の人権侵害に重要な役割を果たしているのは、地方自治体やNPO法人などというつまり税金を使ってのこういであること

父親の親権侵害の観点からはこれらが主たる問題だと思いますが
子どもの健全に成長する権利からはまだまだ大きな問題があります。
突然住み慣れた家、仲良しの友達、学校、地域、何より父親と父親側の祖母やいとこなどの親戚から隔絶されてしまうのですから、子どもの精神的負担は大きく、チックや睡眠障害などの精神症状が出現する例が報告されています。

本来平等だと定めた父親と母親の親権ですが、実際は母親の親権が、税金を使って排他的に優先されているのが現実です。

5 離婚後の共同親権のあり方 現状から見えてくる本当の反対論者の問題の所在
 
8月29日の法制審議会の改正案のたたき台では、離婚後の共同親権が議論されています。しかし、離婚後に共同親権になったからといって、私はあまり楽観できないと思っています。なぜならば、現行法では、婚姻中は共同親権と定められています。ところが述べたように離婚前から別居親、特に父親の親権侵害が公権力によって行われているのです。母親の親権が回復する方法どころか、我が子と面会する強力な公的手段も存在しません。このような現状を見ると、離婚後に共同親権制度になろうと親権侵害が終わるという楽観的な観測を持つことは私にはできません。子どもに会えない母親が子どもに会えるようになるとは思われません。

ただ、面白いことに、そうだとすると現状で父親の親権侵害を支援している人たちは、離婚後に共同親権になったとしても同じようにDVを理由として親権侵害を継続すればよいのだから、熱心に反対する必要は無いわけです。ところが、これ等の人たちは熱心に離婚後の共同親権に反対しているのです。

これには理由があります。現状では、離婚をすれば単独親権となり、親権者でなくなった親は親権を失います。本来親権は、親子という自然な情愛に基づく関係で付与されるものです。夫婦が離婚したところで親子の情愛は続くのですから、離婚をしても親権が存続しても良かったはずです。単独親権と定めた理由は、離婚をしてしまえば他人に戻るのだから親権行使の方法を話し合うことは現実的ではないという考えが大きな理由でしょう。しかし、それは親権の順位をきめればすむことです。「親権行使の意見が分かれた場合は同居している親の考えを優先する。」という決め方だってできたはずです。法改正でこれをしなかったのは、封建制度の考え方が残存していたことによると私は思います。つまり、「離婚をすると一方は家(「家」制度の家ではなく、文字通りの家)から出て行くのだから、家とは無関係になる。子どもは家の所有だから家から出て行った場合には子どもに対しての権利を失うことは当然である。」という考え方です。子どもを一人の人格主体とは見ていなかったということです。これには時代的制約があるためにやむを得ない側面があります。日本を除く世界において子どもの権利を考えるようになったのは、第2次大戦後に始まり21世紀になって定着していったからです。日本だけはまだ子どもは母親の所有物だという考えが公権力にも残っていて、子育ては女がすることだという意識が疑問を持たれないで温存されています。看過しえないジェンダーバイアスであるとともに日本の人権意識の遅れが如実に出ている問題です。

話を戻しますと、離婚後は単独親権になっている現在の制度が連れ去り型の親権侵害では極めて有効な条件で、もしかしたら不可欠な条件なのだという認識が連れ去り推進論者にはあるのでしょう。

つまり、
行政の支援を受けて子連れ別居をする
⇒ 調停などを起こして離婚を申し立てる
⇒ DVの主張が認められなくても、現在の家裁実務では
  「別居の事実」と「離婚の堅い意思」があれば離婚判決を勝ち取れる
  加えて、連れ去り後子どもと同居している、乳幼児のころ母親の方が父親より子どもと一緒にいる時間が長いならば、裁判所は母親に親権を定める
⇒ 離婚が認められ自分が親権者となる
⇒ 父親が子どもに、子どもが父親に愛情があっても父親の親権が離婚と同時にはく奪される
⇒ 養育費は、強制執行の威嚇の下に支払いを確保できる
⇒ ひとり親家庭ということで手厚い行政の支援金が交付される
⇒ ゴールは父親を排除して子どもとの生活

という、今やルーティンともいえるような家裁実務により、連れ去りのゴールが設定されるといううまみが離婚後の単独親権にはあるわけです。(ただし、現実には生活は同居中より格段に厳しくなり、こんなはずではなかったと相談所に抗議をしても、相談所からは「離婚はあなたが決めたことですよ。」と判で押したような返事が来るだけである。という相談を人権擁護委員の多くが聞いている。)

ところが法改正されて、離婚後も共同親権となってしまい、離婚後の父親の子どもに対する関与が認められてしまうと、ゴールが見えなくなります。離婚後のバラ色の姿(空手形ですが)を吹き込むことができなくなることによって、連れ去り別居の意欲がそがれてしまうということに危機感を抱いているのだと思います。

これが離婚後の共同親権に反対する人たちの中核の問題の所在なのです。どうして、当事者でもない支援者が危機感を抱くのか。それは、バラ色のゴールが無ければ、離婚プランの相談をしようとさえしなくなるわけです。相談所のニーズが無くなってしまいます。連れ去りの支援を受けようとしなくなれば、相談や支援を行うNPO法人の存在意義がなくなり、予算が配分されなくなるということがおそらく最大の問題なのではないかと考えることはうがちすぎでしょうか。

もう一つありました。連れ去り事例が多くなって目につくようになったのは、DV加害者に対するセミナーです。妻がいなくなった夫で、もともと真面目な人、ややうつ状態になった人は、自分に原因があって妻がいなくなり、子どもが寂しい思いをしているのではないかと自責の念に駆られる人が多いです。このため、自分のどこが悪かったのだろうか、どう直していけば良いのだろうかと悩むようです。そういう人たちがたどり着くのが加害者セミナーです。独力でたどり着くだけでなく、「離婚調停などで本当に行動を改めるつもりなら、セミナーに通え」と言い渡されて通う人もいるようです。

この種のセミナーを主宰している人に連れ去り支援に加担している人がいます。もちろん離婚後の共同親権制度の創設にも反対しています。

セミナーは長期間行われます。受講するためにはかなり高額な受講料を払わなければなりません。受講経験者から話を聞くと、いろいろ新しい知識が付くので、目からうろこが落ちた思いにはなるようですが、率直に言って効果には疑問があります。そもそも加害者セミナーという名称がその内容を表しているのではないでしょうか。

職業的な共同親権反対論者は、他でも活動をされていますが、どの分野でも共通のスキームを持っているようです。即ち、行政からの委託料ないし補助金と、高額のセミナー開催です。また、特徴として、公金の流れが、民主主義の原理によって決定されないで、情報開示請求などが無い限り公にされないというところも共通であるようです。

公的な親権侵害の特徴は、国民が知らない間にいつの間にか制度が出来上がっていて、その制度で利益を得ている人たちが行っているということです。そして、その確信犯に、心情的に追随してしまう人、正義感が強すぎる人が、一部の被害実態(あるいはアメリカの被害実態)が日本においても普遍的な事態だと思い込んでしまう人が、良心的に指示してしまっているところにあると思います。

nice!(0)  コメント(0) 

これまで担当してきた懲戒解雇無効事件からの教訓 労働者側と使用者側それぞれに向けて [労務管理・労働環境]



私は、労働事件において、特段の主義主張、思想信条がありませんで、労働者側代理人も使用者側代理人も担当しています。法に従って適切な解決に努めるだけです。

また、そうあるべきだと今は思います。両方の立場の代理人をするからこそ見えてくる事件の解決方法があるからです。私は調停委員として懲戒解雇事件にかかわることもあったので、ますます事件が立体的に見えてくるようになりました。

事件が立体的に見えると、どちらの立場で仕事をしていても、相手の背景事情が見えてきて対策が立てやすくなります。それぞれの側の法実務家として担当してきたことから気が付いた点がありますのでメモを残したいと思います。

<労働者側に向けて>
速やかな法的手続きが一番の武器です。

事件の背景を見抜いて、必要とあらば直ちに法的手続きに移行するべきです。懲戒解雇に理由がなく、職員も職場復帰を望んでいるならば、地位保全の仮処分を第一選択肢とするべきだと思います。そして申し立ては素早く行うこと。多少申立書の記載が稚拙でも、迅速さが命だと思います。労働者側の代理人として夢中になって申立書を書いて提出してから、労働契約法の条文を掲げていなかったことに気が付きましたけれど、特に問題が無く勝訴的な和解となりました。

とある保全事件で労働者側代理人として申し立てを行いました。懲戒解雇された翌日に打ち合わせをしてその翌日には申立をしていました。懲戒解雇された日に電話相談が来て、その電話で仮処分に必要な書類を告げて、翌日にもってきてもらいました。前の事件がパソコン上に残っていると書式を使いまわせるほか、必要な資料もわかりますから便利です。

労働者側代理人として大変なのは陳述書作成かもしれません。保全事件では陳述書が大切であると常々実感しています。陳述書を書くにあたっては、依頼者に経過表メモを作ってきてもらうことが大切です。健康保険証や給与明細書等にも必要な情報が明確に記載されていますので、手元にあるととても便利です。案外相手会社の資格証明を取るのが手間がかかることがありますが(1日を争う場合)、依頼者に法務局によって来てもらえるならとても便利です。私の場合は通勤路に法務局があるので朝一で登記簿謄本をとっても9時には事務所に到着できるので便利です。

労働者が使用者から理由を告げられて懲戒解雇を言い渡されたならば、躊躇せず懲戒解雇無効に基づく地位保全申立をするべきだと思います。勉強をしている人ほど、懲戒解雇から普通解雇に転換されたらどうしようと考えるのですが、理由を告げられて懲戒解雇だと言い渡されたらならば、実際は仮処分手続き中に普通解雇への転換はやりづらいということが実情です。「普通解雇に転換するなら転換してから普通解雇を主張しろ」という心構えでやっています。解雇予告手当も出さずに、懲戒解雇の理由をあげて解雇している以上言い訳ができない状態であることをついていくつもりでした。

この言い訳ができない状態にしていくためにも、間髪入れない申立てをすることが大切です。時間が過ぎていく中で、懲戒解雇をした会社も、離職票を作成する等様々な手続きがあります。その中で社会保険労務士の関与があれば、「これはまずい」と気が付く確率が上がり、弁護士に相談してもっともらしい理由をつけて普通解雇の手続きをしてしまうことがあります。普通解雇だと、解雇理由が無限に広がる場合があり、その一つ一つについて、事実に反するとか過大な低評価だと主張立証することは相当骨が折れます。それでもやり切って勝利和解をしなければなりませんが、膨大に手間暇がかかりしんどいです。この反証にもコツがあるのですが長くなるので省略します。

まとめますと、労働者側が行うことは、懲戒解雇がいかに唐突に行われたか、どうしてこの程度の理由で懲戒解雇となるのかということを、客観的事実と社会通念に照らしての論証によって、裁判官に認識してもらうかということになると思います。

逆に解雇されてから数か月たってから事を始めると、それ自体がハンディキャップになる場合があります。代理人としてもとてもしんどいです。いろいろな細かなことが曖昧になってしまいますが、不合理な解雇の場合は労働者側に有利な内容が曖昧になってしまいます。

付け加えると、雇用保険制度、税金などの知識も和解条項の作成などで必要なので最低限度の知識は身に着けておくべきです。

<使用者側に向けて>

一番大切なことは、解雇は慎重に行うべきだということです。特に懲戒解雇は慎重に行うべきです。解雇した側が結構大きな組織なのに、人事権者が特定の労働者と感情的に対立し、目の上のタンコブのように扱っていて、やめさせたがっているときに、つい、これはいけるのではないかと思って、理由をつけて懲戒解雇をしてしまう場合が多いように思います。

確かに上司から見ればその労働者が一人いるだけでやりにくいと感じるとか、自分の立場が他の労働者からも軽く見られるようになるのではないかと危機感を抱かせる人間はいるものです。どっちが経営者かわからず、資金繰りに苦労してなんとか会社を維持していることがバカらしくなる場合もあります。これは経営者の立場で考えることができればよくわかります。

ただそういう経営者の気持ちの問題はあるとして、裁判所から見れば、労働者はその会社で働くことによって生活が維持されているので、退職金の出ない懲戒解雇は人ひとりの人生が破壊されかねないとみられるのです。

懲戒解雇をしてやれやれと思っていると、裁判所の手続きを通じて懲戒解雇が無効になり、下手すると何年か働いてもいない労働者に賃金を支払い続けなければならないことになりかねないということです。

経営者からすれば懲戒解雇が有効になるハードルは思った以上に高いところにあります。

例えばやめさせたがっていた労働者が何か事を起こしたとなると、やめさせたいと思い続けてきた経営者にとってはそれが十分懲戒解雇の理由になる大きな出来事だと思ってしまうという現象があります。心理学では確証バイアスと呼ばれる心理効果です。

しかし、労働者側の代理人弁護士は、それがいかに理由のない懲戒解雇であるかということをいとも簡単に論証してくるものです。

人ひとりを解雇するというのであれば、裁判所の動向を知っている弁護士と相談して、くれぐれも慎重に進めていく必要があります。

無謀な懲戒解雇が行われるのは、代替わりなどで経営者が交代して、自分の地位が確立していないと新経営者本人が感じているときによく見られます。そして、周囲がイエスマンばかりで本当の意味で新経営者を支える能力のない場合ですね。その労働者がいるとやりづらいとか、不愉快な言動をするという経営者の心情に共感しすぎてしまい、解雇という手続きが可能か否かの観点から自分の頭で考えて経営者に意見を言えないという意味で能力が無いわけです。経営者に寄り添ってしまっている場合です。とある業界では、まさにこのタイミングで怪しげな経営コンサルタントが入り、次々と会社が倒産してしまった例が実際にあります。自分の立場に不安を感じているときは、それに付け込んで利益を得ようとする人間がいるということは頭の中に入れておくべきです。

次に解雇という選択肢が譲れないとしても、懲戒解雇は回避した方が賢明である場合がほとんどだと思います。
普通解雇を選択する場合でも、裁判所から正当な解雇理由があると判断できるように客観的な証拠をきちんと集めておく必要があります。特に新経営者不安型の解雇の場合は、解雇理由が曖昧で、噂話のたぐいまで根拠に引っ張り出してしまい、かえって理由のない解雇ではないかと裁判官から見られるような解雇があります。つけないほうがましな解雇理由が目につきます。会社側の陳述書の書きすぎをやめさせるのが代理人の役割かもしれません。(労働者側はわずかにのぞかせている無理筋を端的に指摘して無理を通そうとしているということを明確にする必要があります。)

そして、解雇を決断する場合、特に懲戒解雇を決定する場合は、法的に成り立つのかの見通しを専門家に判断してもらうことをお勧めします。その際、解雇という選択肢がとれない場合の、その労働者との付き合い方など労務管理上のアドバイスもできる弁護士であればなおよいと思います。

最後に、解雇を相手に告げるときにも、専門家に相談するべきです。くれぐれも、感情に任せてクビを宣告してはいけないということです。専門家に解雇理由の裏付けとなる資料を確認してもらい、解雇後に行うべきことも確認してから解雇通知も作成してもらい、会社代表者名(個人事業主名)で解雇通知をした方が無難でしょう。

せっかくいろいろと解雇のための手続きを進めても、わずかに法律上の要件を満たさないために不利になってしまうこともあるので手続きの確認をしていくことも大切です。

どのタイミングで専門家に相談するかについて時間系列に従って述べますと

1)懲戒解雇をしたい労働者がいる場合に懲戒解雇ができるか、どうすればできるか、普通解雇に転換した方が良いのか、そのためにはどのような準備が必要かの相談
2)懲戒解雇の手続きを始めるか否かの段階
3)解雇通告の際の相談

特に3)は、2)と独立して確認の意味を込めて相談をする必要があると、これまでの事例を見て思いました。

無理な懲戒解雇は無駄なお金が膨大にかかる危険があります。経営者本人も取り巻きも冷静に考えることが実際は難しく、それ故に判断ミスをする場合が多いということを述べてきました。その解決方法は、類似事例の経験が豊富で物事をはっきりと述べるずうずうしい弁護士の意見を聞くということに尽きると思います。

nice!(0)  コメント(0) 

なぜ妻は、婦人相談所で、夫から精神的虐待を受けていると言うのか 夫が悪い、妻が悪いという二項対立をアウフヘーベンして幸せな家族を作ろう 自分たちを大切にする方法 [家事]



1 思い込みDVのパターン

 ありもしない夫のDV、精神的虐待を妻が婦人相談所であると言ってしまう一つ目の理由は、思い込みDVのパターンです。
つまり、妻がもともと出来事が無くても不安や焦りを感じやすい体調になっている(パニック障害等の精神疾患、精神症状を起こす場合のある内科疾患、婦人科疾患、交通事故などの頭部外傷、お子さんに障害がある場合、住宅ローン、夫に内緒の借金や公共料金滞納、自分の過去)。
  ⇒ 不安や焦りを解消したい。⇒相談機関があるから相談してみる。
  ⇒ 夫に対する不満を話すよう誘導される(誰だって多少はある)
  ⇒ 「あなたは悪くない。それは夫のDVです。」
  ⇒ 夫からDVを受けています。

2 ミュンヒハウゼン症候群みたいな

 妻がありもしないのに、婦人相談所でDVや精神的虐待を受けているという二つ目のパターンは、誰かから要するにちやほやされたいという感情が病的にある場合ということです。

しかし、そういう要求が出現することはやむを得ない事情があるようにも感じます。
 これまでの人生において、姉妹、兄弟、あるいは親と比較して、自分だけが他者から肯定的な評価を受けず我慢していたとか、病気等が原因で仕事も家事もできず他者に貢献する機会がなかったことに後ろめたさを感じ続けてきたような場合(基本的にはまじめすぎる人なんだと思います)、夫の仕事の都合で見ず知らずの土地に来て地域の人と打ち解ける機会もなく孤立している場合という環境因子と、やはり本人の性格が合わさり、他人からちやほやされたいと思うようです。役所の公務員、警察、NPOの専門家然としている相談員、医師や教師などからちやほやされることに免疫のある人はいないでしょう。

⇒ 夫からDVを受けている。⇒ 大変だね。頑張っているね。あなたは悪くない。⇒ 実はもっとひどいことをされている。(離婚歴などがあり、過去にパートナーからひどい仕打ちを受けていてPTSD様の状態である場合は、過去の体験を現在の夫の行為として話し出すことが複数件でみられました。その時の様子についての説明から、結婚する前の時期の出来事だと判明。)
⇒ 早く夫から逃げなければ殺されてしまうよ。⇒ いやいやそこまででは・・・
⇒ 何を言っているの?命は大事だよ。子どもも殺されるかもよ。そんなひどい人なら一生治らないよ。
⇒ じゃ、じゃあ・・・

3 夫の正しさ

妻が婦人相談所から尋ねられて、精神的虐待やありもしない夫のDVを肯定してしまう場合に他の要因と合わさって、夫の過剰な正しさがある場合があります。
8月3日付のブログでも書いていますが、今回は妻の心理の側面から補足したいと思います。
人間は、群れの中にいたいという主としての本能がある一方、生物個体として自分の身を自分で守りたいという本能があるようです。両者は局面によっては矛盾するのですが、月と地球のように遠心力と引力が折り合っているのでしょう。

自分の身を自分で守れないと感じるとパニックになり、不安や焦燥感をいだくということは簡単に想像できると思います。真っ暗の中、どこかわからないところで目隠しをされて両手両足を縛られてしまうと、誰でもパニックになると思います。具体的危険が迫っていなくても、自分の身が危険さらされていると感じると思います。誰かが、あるいは動物が近づいてくるような足音が聞こえてきたりするかもしれません。金縛りのパターンも同じでしょうね。これをまず抑えておいてください。

夫の正しさが、妻を金縛り状態にするわけです。

「それをするな。」、「それはだめだ。」、「それはダサい。」、「常識に反する。」、「考えればわかるだろう。」、「やりなおせ。」、「謝れ。」

夫の言っていることは、場合によっては正しいことも多いのです。ただ、その正しさを貫くためには家の中でも常に緊張状態でいなければならず、安らぎなんて無いわけです。当初は結婚したほどですから、何とか夫から評価されたい、あるいは、夫から嫌われたくないと思って無意識に一生懸命やるわけですが、長続きしません。

徐々に自分が何をしても否定されるという意識になって行ってしまいます。何をするのも怖くなります。家のことなのに、自分で決めることができない状態になるわけです。あれこれ行動が制約されていくうちに、「自分で自分のことを決められない。」⇒「自分で自分のことを守ることができない。」という意識になり、
⇒「自分の行動は夫から支配されている。」と思うようになるようです。

そして、広範なダメ出しによって、自分は夫から見下されている、馬鹿にされている、対等の関係を築けない
⇒ 夫といると自分は安心できない。警戒し続けなくてはならない。
という感じになるようです。犬の嫌いな人が、大型犬と一緒にいるような落ち着きなさが日常になってしまうのでしょうね。

また、人間は成長過程によって、自己防衛を指向するようになります。つまり赤ん坊の時は、自分のことを自分で決めたいという個体はあまりいません。大人になっていくにつれて、自分のことを自分で決めたいという意識が強くなっていき、これを妨害する相手を敵視するようになるようです。結局、「何かあったら守ってもらいたい。でも日常は自分で決める。」というのが成体の人間なのでしょう。

また、夫の言い分が正しいとしても、それを発する自分の労力、それに対する否定的な感情を抱く相手の気持ち、その結果夫婦にしこりを残すという多くのデメリットを考えると、妻にやかましく言うことは結局のところ誤っているということになるかもしれません。ところが実家でのしつけの家庭や学校、職場での行動様式の静かな強要、常に神経を集中させる生活が身についてしまうと、他人である妻がいる空間でも、つい神経をとがらせてしまう行動様式を取ってしまうのかもしれません。その行為だけを見て評価をする場合は間違ってはいないのかもしれませんが、根本的な家族という人間関係を良好なものとするという観点では、端的に言うべきではない。費用対効果が見合わないということになります。

見て見ぬふりをする。まあいいかという心の中の処理をする。許す。寛容になる。相手に任せたことに男子たるもの口出ししない。こんな感じの生活が幸せを勝ち取る最善の手なのだと思うことが無難なのだと思います。

4 夫の幼さ

夫に身に覚えがないのに妻が精神的虐待を受けていると主張する4番目のパターンは、以下に述べる夫の幼さを妻が指摘して夫が感情的に反発するパターンです。
別居事例、離婚事例を見ていると、夫婦で共同生活を送る以上、一方は他方に「二人で生活している」という実感を持ってもらわなければならないと考えた方がよさそうです。意識的に実感を持ってもらう行為をするということです。

しかし、おそらく学生時代に両親と生活している感覚なのかもしれません。すぐに一人になろうとして自室にこもるとか、休日に妻を家に置いて頻繁に自分の趣味の活動に出かけてしまうとか、家事を頼まれていても忘れてしまうとか、自分のことはいろいろプランを立てるけれど夫婦共通のこととなると主体的に取り組まないとか、見たい番組ではないからと言って一緒にテレビを観ないとか、高額の趣味のものを内緒で買ってしまうとか、家のことでやらなければならないことなのにそれを妻から言い出すとなんだかんだ引き延ばして嫌々やっている感を出すとか、妻が料理をしても自分の趣味(と言ってもユーチューブ見ているとか)を優先して別々に食べることになってしまうとか。

そういう不満を最近家裁手続きの書類で読むことがあります。中には職場の過重労働やトラブルでうつ状態になり、一人の部屋に逃避している場合もあります。

それでも妻からすれば、結婚しているのに二人で行動しないでどうして自分が一人ぼっちにいつもさせられるのかという不満をもつのも理解できることです。新婚の内は別々の部屋なんて本来ない方が良いのかもしれません。

逆に妻の方がべたべたするのが嫌で、一緒に部屋にいるのは良いとしても、あれこれ詮索されることがうっとうしいというストレスが爆発したような事例もあります。

いずれにしても、男性も女性も、自分が相手から尊重されていないのではないかということを自分を軸に考えますから、相手が尊重していないわけではないとしても、感覚が違うと自分だったらこうしたいけれど相手がそうしないということだけで、たちまち不安になるということはやむを得ないところだと思います。

これを解決するためには、先ず、言葉で自分は相手を尊重している問うことを明確に伝えること、そしてお互いの生活上の希望を出し合うこと、相手が切実に一緒に行動したいというならば、やはり一緒に行動するように自分のスタイルを修正するべきだと思います。但し、自分のスタイルを相手に押し付けて、相手がそれに同意しないからと言って感情的になってしまうのもわがままであり、共同生活が難しくなるようです。

加減は難しく、時間がかかります。自分の信念や哲学、心情を捨てるということも時には必要になると思ってよいのではないでしょうか。ちなみに私もだいぶ独身時代大事にしていた心の部分を捨て去りました。大げさに言えば生き方を変えたところも結構あります。でも、歳をとった今となっては、なんであんなこだわりを持っていたのだろうと肯定的に捉えることの方が多いように思います。そのおかげでこのブログや対人関係学が結実したようなものです。結婚をすると選択した以上、ある程度家族を優先して生きていくということは不可避的な話なのだと思います。余計な話ですが、それだけ努力しても、なかなか相手には伝わらないことが唯一残念なことではあります。

nice!(0)  コメント(0) 

国の自殺対策予算が政治利用されるのではないかという懸念 自治体の弁護士委員の果たすべき役割について [自死(自殺)・不明死、葛藤]


1 現在の自殺対策

現在の日本の自殺対策として、
①各都道府県、市町村ごとに地域の特性に根差した自殺対策計画を策定し、
②成果の有無を評価して
③さらに効果的な自殺対策の計画を立てる
という政策がすすめられています。つまり、地域ごとにPDCAサイクルで自殺対策を進めていくということです。

ただ、それだと地域によって対策の質・量にばらつきが出るのではないかという懸念があって、自殺総合予防推進センターという民間団体に委託して、各地域のプロファイルを行い、計画や評価をチェックして対策の底上げを図るという構造になっています。

2 方法論自体に懸念されていたこと

この政策転換については、メリットを評価しつつも、懸念材料が指摘されていました。自殺は地域的特性によって起きるというより、日本共通の問題があるので国が中心に政策を進めなければ効果が期待できないのではないか、権限の狭く脆弱な自治体がメインになることは自殺対策が後退するのではないか。というものの外に特に以下のものがあげられました。
1)センターで管理をすることは底上げにはつながるかもしれないが、各地域特性を地域外の人たちで評価することは困難であり、結局地域の特性を生かす方向とは逆行するのではないか。自殺予防を目的とした統計ではないという意味で自殺予防政策の観点からの実態把握には極めて不十分な統計資料しかないのではないか。
2)地域計画の実行に対する評価を数字的に上げることは困難であり、各地域の現場の肌感などが現れないために、センターで評価することは質的にも難しく、かつ、量が多すぎてすべての自治体の丁寧な評価が可能とは思われない。
3)その結果見直しと言っても当初の理念から離れた者になるのではないか。つまりPDCAサイクルが機能しないのではないか。

4)センターが全てを指導するという立て付けは、結局各地方が独自に自分の頭で考えて、必要な政策を実施して、自ら評価するという思考や力量を奪ってしまわないかという懸念もありました。

3 実際の地域計画見直しから見えてくる懸念

現在、各地方自治体は、一斉に地域の自殺対策計画の見直しを行っています。地方色を出している自治体もあるにはあるのですが、「きちんとした自治体」ほど、抽象的な計画に終始しているような「印象」を受けます。

先ず、地域の実情からの根拠のない施策が入ってきています。即ち、自殺対策の重点施策として女性の自殺対策を追加しているのです。当然、女性特有の自殺対策は必要なのですが、令和4年以降は女性については減少に転じているので、時期を逃した政策になってしまっているという印象が否めません。まず全国で、なぜか女性の自殺対策に重点を置きましょうということが決められ、少し時間がたって地方に降りてきて、これに追随せざるを得ない状況が作られたという印象です。

次に、それでも特徴的なことは20歳代等の若年女性の自殺者数、自殺率が増大していることは確かです。だから、女性一般の自殺対策が重点ではなく、若年女性の自殺対策を重点化するならばわかるのです。

これは背景的に政治的な思惑がある、若年被害女性対策の東京都などの施策と共通性があるのですが、それは後述します。

その他には、東日本大震災の被災者対策ということが挙げられています。そしてその対策の内容が「復興を推進する」というものです。この表現は地元感がまるでありません。いかにも、東北は大震災があって対策が必要でしょう、対策には復興でしょうという、東京でテレビを観ながら震災を「知った」人たちの発想のように感じてなりません。大体、東日本大震災前がそんなに豊かで幸せな状態だったとも思われません。「復興」という一義的でもなければ具体性もないことで自殺対策と言われても何をしていいかわかりませんし、復興事業がすなわち自殺対策ではないので、「そうだそうだ」という気持ちにはなりません。

問題はミスリードです。しないよりましな政策なら予算がかかったってするべきなのだと思うのですが、しない方がましな政策はしてはならないからです。

私は真正面から自殺対策が行われているのではなく、何かの思惑が自殺対策の中に混入してきているような強い懸念を持ちました。その典型的な話が女性の自殺対策です。

4 ここでも女性支援対策

女性対策を重点化するとしたのは、全国レベルの話です。言葉の意味も具体化せず、そのデメリットも考慮しない勢力は、ジェンダーという言葉が出れば思考停止しをして賛成する人が多くなってしまっているからだと思います。

女性対策を重点化する統計上の根拠は極めて薄弱です。どうして自殺者や自殺率の高い男性対策をしてこなかったのに、女性対策が突如現れたのか、強烈な違和感があります。

根拠は以下のように示されることが多いようです。
1)産後うつの調査統計
出産後うつ病になりやすいことは21世紀になって科学的に証明されるようになりました。痛ましい自殺の報道や申請時に対する虐待の事件報道もなされています。保健所の訪問活動で、うつ病を示すエジンバラスケールが高値を示しているということが理由として挙げられていました。産後うつ対策はとても重要です。産後うつの核心はバルセロナ大学と富山大学がそれぞれ発表した結果から、夫に対して共感、共鳴ができなくなるというところにあります。私も離婚調停を担当していて、いわゆる子どもの連れ去り事案の多くが産後うつにり患していた事情が示されています。

あくまでもそれは産後うつ対策です。女性一般の対策を重点化することとは別です。

2)婦人相談所の相談内容
次に女性一般の対策の重点化の根拠として挙げられるのは、婦人相談の相談内容が、夫の暴力についてが一番多く、次に離婚の相談が多いということから、女性一般の対策の重点化の根拠としたいようです。但し、つじつまが合わないと気が付いている自治体は根拠として明示はしていません。

これも噴飯ものです。婦人相談所というのは、結局DV相談所です。女性の人権相談という抽象的な表題であっても、「こういう場合に相談に来てください」という例示はほとんどがDVについてです。あとは職場のセクハラですか。

つまり、夫のDVや離婚について相談しろと銘打って相談会を開けば、夫のDVや離婚についての相談が多いのは当たり前です。

また、思い込みDVの中で説明していますが、女性が不安や焦燥感を抱くのは、夫に限らず、産後うつ、婦人科疾患、内科疾患、パニック障害、子どもに障害があること(現在多いのは発達障害)、住宅ローン等様々です。しかし、その原因が自分では自覚できませんので、夫に対する不満という形で不安や焦燥感を表現することが多いのです。また、DV相談所と銘打って相談を受け付けているのですから、些細なことを取り出して夫のDVだという場合も本当に多いです。
月に3万円しかお金を渡されないのは経済的DVだと言われたというのですが、夫の賃金が手取りで20万円を切っていて、夫の口座から公共料金が全て引き落とされて、食費や生活費も夫が負担しているという場合に、子どもが小学校にあがったというのに、妻が専業主婦なのです。3万円は妻の小遣いで、夫の収入を考えると、頑張って渡していると評価するほかないのですが、DV相談所に言わせると経済的DVなのだそうです。一例ですが。

私はこのブログでもたびたび考察しているように、夫が全く悪くないということをいうつもりはありません。しかし、どうやって家庭を幸せな時間にあふれるように作り上げるかという情報が欠如していることも事実です。また、夫婦問題を相談すると行政でも弁護士でもカウンセリングでも離婚しか勧められず、円満な夫婦の作り方を情報提供する機関が全くないということも極めて奇妙なことだと思います。

結局行政もNPOも解決策として離婚です。しかし、離婚をしても夫の収入が上がるわけでもありませんから養育費を受取っていても、生活が婚姻時より楽になることは無く、苦しくなるばかりです。人権相談で、「婦人相談所の言う通り離婚したけれど幸せにはならない。と言ったら、相談所の人は、離婚はあなたが決めたことですよ。」というばかりだったという相談を多くの人権擁護員は電話で聞いています。

妻はその程度でよいでしょうが、罪のない子どもが突然今いる環境からも父親からも、学校からも引き離されて、自分の父親を悪人だと吹き込まれて、自己肯定感が低くなったら人生取り返しのつかないことになると私は思います。

こんなことで女性の自殺予防として、離婚を助長するような政策が行われてしまったら、みんな不幸になってしまいます。特に子どもを連れ去られた男性の自殺率が高いことは、本件にかかわる弁護士の共通認識です。自殺対策として自殺を増やすということが一番避けなければならないことだと私は思います。

自殺を予防し、多くの人が不幸にならず幸せを感じる政策とは、家族が幸せになる方法の啓発であると思います。このような視点の政策は自殺対策の中に出てきません。

3)コロナパンデミックと女性の自殺の増加

確かに令和2年と3年は女性の自殺者数が増加しました。しかし、それがコロナと関係があるかどうか、研究者の間でも関連がよくわからないようです。関連があると主張するのが、離婚を推進しようとしている一部のジェンダー主張論者たちです。強引に在宅ワークで家に夫がいるせいで自殺者が増えたということを何の統計もなく主張していました。しかし、一方で在宅ワークで夫婦のきずなが深まった、会話が増えたという統計があるのですが、確証バイアスが働いてそのような資料は目に入らないのだと思います。なぜかこの論調で新聞も無責任に特集を組んだりしていました。

コロナ禍で女性の自殺者が増えたということは、令和2年3年においては、相関関係があります。しかし統計学の極めて初歩の概念として、「相関関係と因果関係は異なる。」というものがあります。入門書には必ず書かれていると思います。

パンデミックになれば、パンデミックの影響を受けた様々な事象によって女性の自殺が増えるとは必ずしも言えません。

実際に国の児童の自殺対策をする審議会でも、このような統計学というか科学的立場を無視して、コロナ禍で子どもの自殺が増えるだろう、それは父親が家庭に居座るからだというような報告書を作成しているのです。前にこのブログに書いた通りです。
【緊急】文部科学省の令和3年の自死対策 コロナも令和2年の統計結果も関係ないまとめではないのか。つまり実効性に疑問を払しょくできない。
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2021-11-04


この例を考えると、統計的根拠もなく他に深刻な統計上の問題があるにもかかわらず、女性一般の自殺対策を重点化するという政策と抱き合わせてコロナパンデミックによる自殺対策を方針とするという流れは、自殺問題とはあまり関係なく、政治的に女性の支援をNPO法人に高額の費用で丸投げするという政策に誘導しようとしているのではないかという懸念が生まれるのです。子の連れ去りが格段に多くなったのも平成25年のDV相談にNPOが参入してからだと考えると、結局は特定のNPOに費用を流そうとしているのではないかということを警戒しなければならないのだと思います。

いずれにせよ、地域自殺対策計画は、予算を伴った政策です。なんとなく相関関係があるから対策を立てなければならないということではだめなことは誰でもわかることだと思います。因果関係がわからないと具体的な対策は立てられません。曖昧なまま政策を作らなければならないと言って科学的根拠も経験的根拠もなく立案してしまい、逆に、これが家族破壊政策に使われてしまったら、自殺予防とは逆行した政策になってしまいます。

日弁連は、平成21年から弁護士が自殺対策に積極的に関与しようという方針を打ち出し始めました。その要諦は、当時の莫大な自殺対策費用が、一部の利益のために使われてしまわないか監視をするということにありました。適正な予算を組むために、弁護士も政策に参画することが主たる目的でした。かなり政治的な話が始まりだったのです。

今まさに、その危険が現実化しているのかもしれません。
現在は、多くの弁護士が自治体の審議会委員に選任されています。役割を果たす時だと思います。

そして各自治体の担当者は、「きちんとした」自治体ほど国の政策に当然のように疑問を持っており、反論をしたいところなのです。でも自殺予防センターを怒らせてしまえば国の予算配分にも支障が生じます。だからこそ、民間の委員、弁護士委員が疑問や意見を積極的に述べるべきです。

それほど自殺プロパーの知識が無くても疑問を持ち、意見を言うことができます。つまり、変化をするポイントで、「その変化は統計的な裏付けがあるのか」、「主語がでかすぎないか」、「その変化の理由で、なぜその資料を挙げるのか」、「その理由は科学的な根拠があるのか」というところを質問し、自分の業務上の経験に基づいて、自分の経験上はむしろこうだという個人的な意見を述べることをすることで足りると思います。

肝心なことは、自治体の職員は敵ではないということ。多大な労力をかけて準備をしているが、国の制度の仕組みで、良心や能力を発揮できないことだ、あなたの代わりに私が話すという姿勢なのでしょうね。

付録
この懸念政策に貢献しているのは、無罪判決を勝ち取った元厚生労働省官僚のようです。あちこちで講演をして信者を増やしているようです。その要諦は何かというと、「困難女性はカウンセリングとか役所の相談とは敷居が高い。だから、格式張らない民間人が相談を担当することが最適である。」ということのようです。東京都の若年被害者支援事業で、莫大な予算が一般社団法人やNPO法人につけられて、有効な管理をせずに、税金の使途が極めて曖昧になっているといういわゆるWBPC問題で、法人の代表として活躍されている人だけあると思いました。このシステムを自殺対策として全国に広めたいのではないかという懸念が私の具体的懸念です。

nice!(0)  コメント(0) 
前の10件 | -