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【共同親権成立記念】反対派の論拠から現在のDV法の問題点があぶりだされた。離婚後共同親権制度を見据えて本当に行うべきこと。DVの立証の必要性の維持と予防や修復の啓発普及。 [家事]

令和6年5月17日、共同親権を含む民法改正案が成立した。

ニュース番組を見ると未だに反対を唱えている人たちがいる。それは良いとして、問題はその論拠である。

共同親権となっても、DVの存在と程度によって、裁判所の判断から単独親権となることが定められている。反対は、それでもDVの存在を立証することは難しいので、DV被害者は離婚後もDVを受けることになるという理由で反対しているとのことだ。

しかし、現在のDV政策では、離婚もしていないのに、DVがあったという理由で、一方の親が我が子と会うこともできない尊厳を傷つけられている状態になっている。DVの立証が難しいなら、どうしてこのようなことが可能になるか不思議であるはずだ。答えは簡単である。DVの立証をしなくても、一方がDVがあったと言えば、親は子どもから警察や行政の関与で引き離され、家庭裁判所によって追認されているからである。

立証をしなくてよいならば、そう、本当はDVが無くても、DVがあったことにされて我が子から引きはされるのである。

反対派の意見(声は大きいが多数意見とは言えないと思われる)を受けて法相が動揺しているようなインタビューも流れた。懸念するべきは、共同親権になっても、現在のような「言った者勝ち」のDV認定になったら何の意味もなくなる。反対派は当然それを目標に声を強めていくだろう。もしかしたら、いつものように法案が成立してしばらくすると忘れてしまうかもしれないが。

実際にそのような懸念がある。児童相談所の所長が、親が子に児童虐待があると判断して親から引き離し施設入所をする場合、家庭裁判所の許可が必要となっている。昭和の時代からある法律だが、過去においては、なかなか許可入所を家庭裁判所が承認しなかったが。よほどひどい虐待、人間扱いがされていないような行為があったときに限り承認していた。

しかし、平成年間から承認件数が上昇し、右肩上がりに上がっている。
施設入所.png
親子の引き離しに裁判官の抵抗感が極端に下がってきたことを示している。これは異常である。不確かな証拠によって事実認定され、それでも平成の年代では承認されたなかった事案でも承認されている。これは事実上の親権停止である。

親権はく奪の決定は少ないが、この勢いであると、改正民法の共同親権における単独親権は裁判所の方は抵抗は少なく、簡単に親権が無くなってしまいかねない。これを反対派は狙っている。賛成派は、裁判所を厳しく監視していく必要がある。事例を持ち寄って世間に問うことも必要だと思われる。

それより何より必要なことは、DVとまでは言わなくても、家族に緊張を与えるような行為を修正し、家族が安心して暮らす方法を普及啓発していくことだ。DV法の最大の問題点のもう一つは、DVを行うものは、行動を改めることはなく、生涯DVを続けるという前提に立った人間観に基づいているということである。これは、アメリカやヨーロッパの国々の基づいているものであり、自己愛性パーソナリティ障害の事案や、極端な支配欲のあったケースを念頭に置いている。現在日本で起きている夫婦間紛争の実態を反映していない。

現代日本の夫婦問題の大半は、知識不足と考える時間的、精神的余裕がないところにあると私は見ている。知識不足の中には、自分の知識だけでなく、アドバイスを受けるべき人たちと分離しているという現在の結婚形態の問題も色濃く影響していると考えている。

予防と、一度問題が発覚した後の習性のノウハウの普及啓発と、支持的に相談を受け付ける機関の整備こそ、共同親権制度の成立に伴い、早急に行うべきことだと私は思う。それが、真の子どもの権利の実現であり、我が国を救うことだと信じて疑わない。

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続・自死するくらいなら仕事をやめればよかったのにということが、間違いである理由 [労災事件]


前に同じテーマで書いたのですが、
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2020-09-14
基本的にはここに書かれている通りです。さらにその先についてわかってきたので報告します。

前回のお話し
パワハラなどがあっても、うつ病等にならなければ、仕事をやめることができます。こんな会社辞めてやると言って、実際にやめる人も多いわけです。ところがうつ病にり患してしまうと、会社を辞めるという選択肢自体が無くなってしまい、このまま苦しみ続けるか死ぬかという、極端な二者択一の思考に陥ってしまうようです。目の前の苦しみに耐えられないため、実際は自分の尊厳を踏みにじられ続けることに人間は慣れることができないため、自死をせざるを得なくなるということでした。

積み残した理論は、「うつ病になると、仕事をやめるという選択肢が無くなるのはどうしてか」ということでした。

この点についてわかってきました。

パワハラでうつ状態になると、不合理なことをされ続けているにもかかわらず、「自分が悪いから叱責されたり、否定評価されるのだ。」と自然に考えるようになってしまうようです。そして、周囲の中で上司から罵倒され続けると、「何とか今日だけでも叱られないようになりたい」と思わされてしまうようです。

パワハラなどは合理的理由がないため、叱られない対処方法は見つかりません。何をしてもしなくても叱責されるわけです。そうすると、叱られるか、叱られないかは、労働者はその時の運しだいのような感覚となるようです。「自分が悪いのだけれど叱られたくない。」という感覚なのでしょうか。

そうして、叱られるのが怖い、上司が怖い、会社が怖いということで、朝出勤すること自体が生理的に困難になり、吐き気がしたり、実際に吐いたり、下痢をしたり、或いは呼吸困難になったり、身体が動かなくなったりするようです。そして、まっすぐに会社に行きたくなくて、用もないのにコンビによって時間をつぶしたり、時間ギリギリになるまで会社の近くをぶらついて時間をつぶすような行動をとるようになります。

そうなってしまうと、
・ 会社を辞めることで、会社の人に迷惑をかけるのが怖い
・ 会社を辞めることで、また叱られるのではないか、それは怖い
という気持ちが起きてしまうようです。もしかすると、
・ 会社を辞めることなんて、できるわけがない
という気持ちもあるのかもしれません。

親や友達などから、会社を辞めることをアドバイスされても、そういう気持ちであるために、やめるという選択肢を持てなくなるようです。辞めることでも悪いことが起きると信じ込んでしまっているようです。また、退職さえすれば悪いことはなくなるというプラスのイメージを持つことができないということなのでしょう。

これらはすべてうつ状態からくる症状です。周囲は、本人がそのような思考に陥っていることがわかりませんので、やめることは簡単にできると思ってしまいます。辞めることは簡単だと思うからあとは自分で辞めるだろうと思ってしまい、確実に辞めさせるという詰めができません。それは知らなければ行動できないことなので、周囲には責任はありません。

ただ、退職するという選択肢が与えられてしまうと、逆に自死の危険も高まるようです。これまでのいくつもの自死事例で、解決したと周囲が思った時に自死が起きてしまうことが多くありました。解決の糸口によって気持ちが少し明るくなるため、行動力も高まってしまうという説明の仕方をする人もいます。できるだけ、同居家族を含めた多人数で退職するという決定を行い、確実に退職を遂行することが本当に肝心なことなのかもしれません。


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【共同親権導入記念】親が我が子を一目見るだけのことが、なぜ否定的に取り扱われるのか 裁判所における先入観の傾向と対策 [家事]

【共同親権導入記念】親が我が子を一目見るだけのことが、なぜ否定的に取り扱われるのか 裁判所における先入観の傾向と対策

子どもと一緒に暮らせない父、母は、ますます多くなっています。離婚をしていない以上、子どもに対する親権はあるはずです。また離婚をしたとしても、親権が無いだけでその他の親としての権利は存在しているはずです。しかし、離婚をせずに親権者であるはずの親が一緒に住んでいないだけで、親権行使どころか、遠くから子どもを見ることもままならないのが今の日本です。

一緒に暮らしていない親は、子どもが元気で過ごしているのか、きちんと学校に行っているのか、友達はいるのかなど心配するタネは尽きません。当たり前のことだと私は思います。

相手方の家に押しかけると騒ぎになるから、できるだけ相手方を刺激しないように、例えば遠くから通学路を歩く子どもを見ようとするわけです。しかし、ただ道端にたたずんでいるだけで警察官が来て事情聴取をされたとか、警察署に任意同行されたという相談を受けます。一緒に暮らす親から不審者通報がなされたようです。

ストーカー規制法の通告を受ける親もいます。私から見れば、ストーカー規制法の要件が随分緩やかになっているように感じられます。

公立の教育施設で、管理者と相談をして、滞在中の我が子を、我が子にも気が付かれないように窓の外から見る許可を得ても、教育施設を運営する自治体から遠慮するように露骨に誘導を受けたということもありました。また、子どもと同居する親に通報して子どもに学校を休ませるというケースも一つや二つではありません。行政が通報しなければ、そっと遠くから見て帰る予定でした。それさえもさ許されないというのです。

おかしいじゃないですか。

親権者なのに、どうして子どもを見ることさえも、行政や警察から制限を受けるのでしょうか。

さらに不合理なことは、裁判所さえもこういう行為を当事者がすることをとがめることがあるのです。面会交流調停の調停中に、遠くから見ようとしていたという事実が相手方から告げられたら、「調停で解決するつもりはないのか」と尋ねられました。

調停では一目見ることを望んで申立てしたわけではありません。きっちりと親と子として定期的な交流を求めて調停を申し立てたのです。そもそもどうして、親権者が誰にも迷惑をかけないように後ろからそっと我が子を見る行為をしたからと言って、調停をするつもりがあるのか等と言われなければならないのでしょうか。この人は子どもを産んだ母親でしたが、1年以上も子どもに会えていないのです。遠くから我が子に気づかれないまま一目会おうとすることに、共感も理解もないような裁判所が家事問題に携わってよいのでしょうか。

いろいろな事例を見ていると、①用語に対して反応している、②虚偽事実で先入観を持ってしまっている、③子どもと同居していないことによる先入観があるようです。

①と② 用語に対する反応とは、「DV」、「虐待」、「発達障害」、「境界性パーソナリティ障害」、「うつ病」等の精神障害の病名などです。離婚を請求する申立人が女性の場合は、DV、虐待などの用語をだしますし、申立人が男性の場合は発達障害や境界性パーソナリティ障害などの診断名を出してくることが多いです。詳しくなればなるほど、これらの用語は多義的であり、幅広い程度の含まれた概念であることを理解していて、擁護だけでは何が起きたのか皆目見当がつかないという状態です。しかし、経験の浅い弁護士や裁判官、調査官、調停委員などは、その言葉が出されると裏付けも求めないで警戒感を抱いてしまうようです。

確かに私も、離婚事件をそれほど多くやっていなかったときは、DV事案だという訴えを持ち込まれると、必要以上に緊張していたことを思い出します。経験の浅い裁判官が、DV事案の離婚調停事件で、裁判所にインカムを付けた明らかなSP(裁判所職員)を配置したことを抗議したことがありますが、そういう用語に対する反応なのでしょう。無意識に防衛反応が起きるようです。

一言で言って、離婚調停の相手方は、感情的で自己の行動を抑制できない人間と思われているということです。

やっかいなことは、申立人のその点についての主張は相手方に開示されないことが多いため、反論をすることができないということです。ただ、離婚調停を申し立てられたら、そのように申立人によって、裁判所は自分が感情的な人間で自己の行動を抑制できないため、危険なことを起こしてしまいかねない人物だと思われているとして行動をするべきだと思います。

即ち感情を抑制しようとすること、感情のまま話し続けないこと、大声を上げないこと、しつこく同じことを繰り返さないことです。冷静に、職員に対する配慮を忘れない言動をして、信頼関係を構築することが必要です。

③ 子どもと同居していないことによる不利
行政や警察、裁判所も結局はお役所なのです。新たな波風を立てることにブレーキが利いてしまう傾向があるようです。一度子どもを連れて出て行って子供と暮らしているとか、子どもから引き離されて家を追い出されたケースに対して、別居親に対して同情や共感を寄せるということはしないで、もう面倒なことはしないで現状維持で解決できれば良いのじゃないのと感じているのではないかと思われることが多々あります。

考えてみれば東京家裁の面会交流プロジェクト*も、子どもの利益を最優先という枕詞はつけるものの、どのように最優先するかについて具体的な説明が無く、同居親の心情に配慮するということだけが強調されています。これ、別居親の孤立感や絶望感よりも同居親の心情に配慮すると言ってしまうと、マニュアル好きの現場の裁判官は、単純に面会交流の実現に向けての努力をしないようになるだけになってしまう危険があるわけです。

何よりも子ども利益を具体的に考慮できなくなる家庭裁判所となってしまうというわけがわからない話になってしまいます。

どうやら、無自覚に、「子どもと同居していないのは別居親にそれなりの理由があったからではないか」という意識を持ってしまっている可能性があります。

このことは、当事者(代理人)が、そのような無意識の存在を想定して、偏見があれば自覚させ、公平な調停に戻す作業をしなければなりません。

最も有効な手段は、別居などに至る過程を時系列に従って、丁寧に伝えていくことです。どうして今の事態が起きているかはこのように時系列が最も有効です。調停期日や、場合によっては調査官面談などを設けてもらい、丁寧に冷静に説明することをお勧めします。経過表は書面化することが必須です。


裁判官も誤解している東京家裁面会交流プロジェクトの運営モデル 誤解されるポイントと誤解の理由 1 現状分析についての誤解
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2022-01-26

【なぜ最近間接間接交流に誘導されるのか】裁判官も誤解している東京家裁面会交流プロジェクトの運営モデル 2 「ニュートラルフラット」という言葉が誤解のポイント 本来どうするべきか
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2022-01-27


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【勝手に書評】「トランスジェンダーになりたい少女たち」 以前のアメリカ「抑圧された記憶論争」と日本の「DV保護政策」の奇妙な類似点 [進化心理学、生理学、対人関係学]



<本書の内容>
トランスジェンダーは、生まれついての性と自認している性が同一ではない人のことを言うようです。
本著は、弁護士でジャーナリストのアメリカの女性が執筆したルポルタージュと分析が記載された著書です。日本でも訳本が令和6年1月に刊行予定だったのが、猛抗議をする人たちがいて一度刊行を断念しました。3月に産経新聞出版から刊行されたことで有名になり、私も買って読んでみた次第です。

想像以上の内容でした。「ああ、すべてがつながった。」とため息が出ました。

アメリカで、ここ10年で自分がトランスジェンダーだという10代女性たちが急増しているとのことで、この原因を探るために当事者や学校、両親、医師等々にインタビューを重ねました。

その結論を私なりに要約すると
1 トランスジェンダー急増の背景
  10代女性の生きづらさ、不安を解消する方法として、自分がトランスジェンダーであり、呼称やテストステロン、外科手術を受けることを切望するようになった。
2 生きづらさ、不安の原因は、SNSである。SNSを見て、自己評価が低下し、「本当の自分は別にある」という考えに取りつかれるようになった。
3 自分をトランスジェンダーではないかと思い込む理由
  ユーチューブなどのトランスジェンダーが発信する動画をみて、「これは自分のことだ」と共感する。自分も発信すると、勇気ある告白等と賞賛がなされるようになり、閲覧数も増加する。友人グループ内にトランスジェンダーの意識は拡大(伝染)していく。
4 学校のトランスジェンダーの思い込みのサポート。学校は、両親に情報を提供しないまま、本人の要請で、男性名を名乗ることや男性の人称代名詞を用いることを認めて実施する。
5 カウンセラー、精神科医のサポート
  トランスジェンダーかもしれないというクライアントに対して、違うのではないかと意見を言うことが禁じられていて、法律で禁じている州もある。肯定ケア(アファーメーションケア)だけが許される。テストステロン(男性ホルモン、連続して使用すると声や体つき、体毛などが戻らなくなる)や外科手術に向かってのパターンに乗ってしまう。
6 元に戻らない処置を受けて後悔したり、処置をしても生きづらさや不安が解消されない人、さらに増加した人の情報を発信しようとすると執拗な妨害が起きる。

<抑圧された記憶論争 アメリカ>

本書でも指摘されているのですが、1990年代に起きた「抑圧された記憶論争」というものがありました。20歳前後あるいはもっと上の女性の精神的不安定な人がカウンセリングに訪れると、「それは小児期に性的虐待を受けたからだ」
とカウンセラーは意見を述べ、カウンセリングによって10年以上前の記憶をよみがえさせるのだそうです。そうして、クライアントは幼いころに家族から性的虐待を受けたという「記憶」を述べるようになり、父親や兄弟、母親に対して、損害賠償を求めたり、刑事訴追を求めたりしたことがあったのです。多くの人が記憶というあやふやな証拠で、莫大な損害賠償の支払い義務を課されたり、長期服役を命じられました。

これに対してエリザベス・ロフタスらの脳科学者、認知心理学者が、記憶のメカニズムから、「そのような抑圧された記憶がよみがえることはあり得ない」という知見を主張して、やがて記憶想起療法自体が危険視されるようになり、1995年を境に失われた記憶を根拠に訴訟が行われることはピタと止んだそうです。そのような療法は、結局、患者を良くしないで悪くする、入院を余儀なくするということで、廃れてしまったそうです。
詳しくは【読書案内】「抑圧された記憶の神話」E・F・ロフタス外 ラディカルフェミニスト J・Lハーマンを裏から学ぶ。治療者と弁護士のアプローチの違いと弊害についてhttps://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2020-12-02

幼児期虐待も、トランスジェンダーの同意ケアも、生きづらさを抱えている女性に対して、回答があらかじめ用意されていて、その後の流れもいつものパターンを踏襲していくものでした。原因分析において患者の個別性がほとんど考慮されていないところにも特徴があります。生きづらさの原因は今は忘れている幼児期の性的虐待だというハンコを押すだけです。

トランスジェンダー問題との一番の共通点は、このような機械的な原因の決めつけです。
興味深いことは、本書の著者はこの時のカウンセラーは善意で行っていたと考えているところです。そして、トランスジェンダーの問題で肯定ケアをしているカウンセラーらも善意だというようです。カウンセラー資格のある人が、クライアントの個別性を十分検討せず結論を出すということがおよそクライアントのためにつながらないことは、むしろ専門家ではない私たちは感じますよね。それを専門家が考えなかったということはとても恐ろしいことです。

抑圧された記憶論争は、「性的弱者である女性の保護」という大義名分があったようです。即ち正義です。正義を実現するという意識が、弱者の訴えは認められないという社会的不合理の是正を求めて、感情が高まっていったようです。そのため、虐待冤罪を受けた善良な人たち、特に冤罪だけど娘を嘘つきにしたくないということで争わないで長期刑に服した人たちの絶望まで考えが至らなかったということです。そして、肝心のクライアント本人の改善にもつながらず、その後の性的虐待の訴えは偽の記憶ではないかという先入観を作り上げてしまったということなのでしょう。

トランスジェンダーの問題も正義感が介在しているようです。性的マイノリティに対する差別に対する全否定というのでしょうか。アメリカ人は、自分が差別者だと評価されることを極端に嫌うようです。おそらく政治に携わる、議員や論客たちは一層敏感になっているのかもしれません。

そのため、トランスジェンダーだと誰かが口にしたら、それを肯定しなければ、差別だとする意識になっていて、肯定ケアを法制化したりするようです。

誰かの「自分はトランスジェンダー」発言を否定することは、トランスジェンダーを差別することであり、トランスジェンダーの生きづらさに寄り添っていないと評価するべきことだと多くの人が考えて、法律までできたのだと思います。
だから、本来的には性別違和は幼少期から感じていることのはずなのに、思春期になってから突如トランスジェンダーだということを「疑うべきではない。」と思い込んでいるようです。疑うことは寄り添っていないことだという感覚なのでしょう。著者は、実際はトランスジェンダーではなかったことをカウンセラーはそこまで考えていないのだろうと述べますし、パターンに乗せて治療しても生きづらさや不安が消えないということも考えていないのだろうと述べています。

<日本でのDV保護政策>

現代のトランスジェンダー問題と、幼児期虐待訴訟問題と同じようなことは、現代の日本でも起きています。それはDV保護政策です。

産後うつや内分泌異常その他の精神的不安定に、女性がかかりやすい年齢の時期があります。その他経済的事情や生い立ちなど様々な要因で、生きづらさや不安を抱えている女性がいます。社会的風潮から、専業主婦ということがなんとなく生きづらいということもあるようです。しかし、本人は生きづらさや不安の理由を自覚できません。自覚はできないけれど、このモヤモヤを何とか解消したいという気持ちは高まっていきます。

そんな時に女性の相談会に出向くと
多くは、医師の資格も心理士の資格もない人たちから、
「それは夫のDVが原因です。」と言われ、子どもを連れて夫から逃れ、離婚調停や保護命令の裁判手続きの流れに乗ってしまうというパターンがあります。

現在の生きづらさの解消を見つけた思いになった女性たちは、「DVでご苦労されましたね。本当のあなたはもっと素晴らしい人です。」等と言われると、「自分を理解してくれる」と思ってしまい、その通りにしてしまうようです。
あらかじめ用意された結論とその後のパターンに乗せることは、トランスジェンダー問題や幼児期性虐待問題のパターンと共通です。

アメリカでは、その宣告を資格のあるカウンセラーや医師が行っていますが、日本では、資格もない人たちやNPO法人が行っているところに違いがあります。

しかし、日本でも、子どものチック症状が別居してしばらくして出てきても、それは同居時の父親の虐待によるPTSD症状だと診断書を書く医師も少なくないのです。同居中は子どもが自分の意思で精神症状の身体症状をコントロールしていたと言わんばかりです。

警察でもNPOでも行政でも、DVを疑うことはDV被害者に寄り添っていないということで、肯定ケアがなされています。夫から事情を聞くなどということは行っていません。この人たちも被害女性保護という正義を実践しようという高揚感から、冤罪DV加害者の心情については、そこまで考えていないのでしょう。

そして、「行政の言う通り離婚したけれど、生活は楽にならなく帰って今の方が苦しくなっている。生きづらさが増えている。」という訴えに対して、「離婚はあなたが決めたことです。」という判で押したマニュアル通りの回答がなされることも、あまり知られていることではないことも共通しているのではないでしょうか。



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令和夫(妻)のTIPS 11 意見対立と性格の不一致にこそ夫婦(両親)の価値がある 多様性尊重の基本は男女の相互尊重 [家事]



裁判所の用意した離婚の申立用紙には「性格の不一致」という離婚理由の項目があります。特に離婚理由がない場合に〇をつける項目として活用されています。しかし、性格の不一致が離婚理由になるとは思えません。また、性格が一致している夫婦なんているわけがありません。

「わたしたちは性格が一致しているなあ。」と安穏としている夫婦の一方がいたとしても、実は他方が無理して合わせているということが実態であることが少なくないのではないでしょうか。*「満場一致のパラドクス」は、夫婦間でも真実のような気がします。

そもそも、雄と雌にわかれているのだって、絶滅を避ける効果があるからだと言われています。異質のものがまじりあった方が強いのです。弱点が共通していれば全滅(共倒れ)しやすいということになります。

性格が一致していると一見円満な夫婦でよいことのように思われますが、実際は性格が一致しているというのは不自然です。そればかりではなく、弱点も一致していることとなって、社会的にもろいユニットになりかねず、社会の中で孤立しかねない弱点を持っているというべきです。

それまでただ幸せだった夫婦関係だったのに、性格が一致していないことが顕在化したり、意見対立が多くなったりするのは、多くは子どもが生まれてからです。子育ての方針をめぐって意見の対立がおきやすくなります。例えば、学習塾に早期に通わせるという意見とのびのび育てるという意見が対立することが典型例です。

子育てこそ、意見対立が無ければかえって困ったことが起きる可能性があります。例えば早期学習塾通学で一致の場合は、夫婦そろって子どもの尻を叩いてあまりにも厳しい学習塾に通わせてしまった結果、知識は習得できたけれど、心身に不具合が生じるとか、自分の考えを持たない人間に育ってしまったとか等などの弊害が生じる危険があるでしょう。難関校に入学したけれどそこで人間関係の不具合が起きて転校を余儀なくされるということも起こりやすくなるかもしれません。

逆にのびのび方針で一致している場合は、子どもの能力を見誤ってしまい、もっと頑張ればもっとやれたのにという後悔が生まれるかもしれません。

双方の言い分を尊重して、ほどほどに学習塾に通わせながら、好きなことをやることを応援するということができれば、子どもにとっても地に足が付いた学習が実現して健全な成長が実現できるかもしれません。

また、対立の切り口を変えてみれば、大人の考えで子どもの行動をさせるという意見と、子どもの自主性を尊重するという対立もあると思うのですが、同じように、大人がある程度イニシアチブを取りながらも、子どもの様子をうかがって、きついようであればやめさせるとかすればよいということもあるでしょう。

もちろん性格が一致していて、双方がほどほどに勉強させることで一致しているならそれはそれでよいのですが、そうはならない場合があるので対立が起こるわけです。

そうです。性格が不一致であることが問題ではなく、意見調整をうまくできないことが本当の問題だということはお察しのとおりです。

性格や考え方が違う夫婦が、苦労しながら意見調整を行って、折衷的結論を出す姿を子どもが見ていたら、それは子どもにとって大きな成長につながるでしょう。世の中、敵と味方に分けられるものではないし、一つの意見が絶対正しいということもなく、メリットデメリットが必ずあるわけで、そういうことを覚えていけば素敵な大人になるとは思われないでしょうか。

夫婦は二人きりですが、最も基本となる多様性を尊重するべき人間関係だと思うのです。夫婦で相手方の意見を尊重できず、また自分の意見だけが正しいという態度の人が、多様性という言葉を使っても説得力が無いと思うのです。

むしろ多様性、自分と違う意見、異なった価値観を楽しむくらいの人間関係が理想だと思うのです。


* 満場一致のパラドクス 心理学の用語 多数決で満場一致になった場合は、かえって誤った結果になる傾向があるという矛盾 また、満場一致の多数決の過程には、自由意思での判断が阻害され、議題の優劣とは別の事情が考慮されている可能性が高いこと。

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令和の夫(妻)のTIPS 10 大人の笑顔は誰かのために自分で作るもの [家事]



「面白くもないのに笑えるか。べらんめい。」という人は、もはや古典落語の中にしかいないと思うのですが、自分以外の誰かのために笑顔を作るということを意識している人は少ないかもしれません。
逆に誰かと話していると無意識に笑顔を作ってしまう人もいるとは思います。私がそうだったのですが、若いときは嫌な癖だと思っていました。しかし今はとても良いことだとわかり大いに利用しています。笑っているように見える顔もとても素敵な武器だと思います。

これまでお話ししてきたように、女性である妻は、男性である夫は自覚できないけれど、本気で怖がっているようなのです。どんな事情があっても、声が大きいとか、自分に向けたものでなくとも運転中に毒づいたり舌打ちしたりするだけで、恐怖、不快を感じているようです。事務的な話し合いでも、理屈や合理性、或いは正義感で、反論を封じると、怖くなったり、自分が尊重されていないと感じて悲しくなることがあるようです。

妻が夫を怖がる時に、夫は妻を怖がらそうとしていないことが多いことを見てきました。どちらかというと無意識に声が大きくなったり、理詰めになったり、家族以外の人に毒づいたりしているわけです。眉間のしわができているなんてわかるわけがありません。それを言われても、防ぎようがないではないかと思ってしまうことも理解できることです。洋式のトイレで座っておしっこをしろと言われているような頼りない気持ちになっている男性も多いのではないでしょうか。しかし、対策は確立しつつあります。

対策1 笑顔を作る

その特効薬ともいうべきものが、笑顔を作るというものです。
「心にもない笑顔を作ることはできない。」というのは子どもの論理です。笑顔を作り、相手を安心させることをすることは、大人の仕事です。心なんて後からついてくるものだから、とりあえず、相手に話しかけたり、応答したり、一緒にいるときには、目を細めて口角を心持ち上げましょう。

最近の臨床心理学では、ダイレクトに心に働きかける以外に、無関係と思われるような身体の行動をすることをアドバイスするようです。例えばPTSDの治療も、脳内の記憶の整理と対応策の確立を通常の人間はレム睡眠時に行って恐怖を鎮めているのですが、その時の眼球運動を意識的に行うことによって症状が改善されるという知見があるようです。また、暗い心持の時にはうつむきがちになるのですが、あえて空を見ることで暗い気持ちを軽減させるということもちゃんとした心理療法だそうです。

人に優しくする時にオキシトシンという体内ホルモンが分泌されているそうです。オキシトシンが分泌されるから笑顔になるということが言われていることです。しかし、笑顔を作ることによってオキシトシンの分泌を促す可能性だってありそうです。そうすれば、先ず笑顔を作る、オキシトシンが分泌される、優しい気持ちになるという順番が成り立つということもありうるのではないでしょうか。あると信じましょう。

鬼瓦みたいな面相で笑顔を作っても不気味なだけではないかという心配はよくわかります。しかし、そうはならないようです。美大生の作品で金剛力士像と狛犬が笑顔で赤ん坊をあやしている彫刻があるのですが、とても微笑ましいものです。私は自戒の意味もあってスマホの待ち受け画面にしています。どんなご面相でも笑顔の方が家族は安心するようです。

笑顔で相手の目を見ることに抵抗があるなら、虚空を見ても良いですし、相手の顎を見ると不自然さが無くなるようです。目を細めたままつぶっちゃっても良いかもしれません。

実際笑顔で話すと、口角を上げるからでしょうか、声が大きくなることもありませんし、乱暴な言葉遣いも減るみたいです。オキシトシンが分泌されているのでしょう。

対策2 笑顔で謝る 照れて見せる

それでも運転中の危険な出来事とか、うっかり熱をいれたりということはあることです。間髪を入れずに笑顔で謝りましょう。そして家族を大事に思っているということを優しく伝えましょう。家族が自分に文句を言いやすい状況を作れば、謝るタイミングを間違えませんので、文句を言われたらありがたく感じた方が良いようです。

怖い記憶が残りにくくなるようです。

対策3 完璧を目指さない

このように失敗はある。自分にもあれば家族にもある。失敗をとがめるのは生産性の低い職場のパワハラ上司だけでよいわけです。家族の失敗は咎めないで、一緒に対策を考えて、失敗をしないように誘導することが正しい生産管理です。

完璧を目指すとこちらも精神的に参ってしまいます。つい感情的になりやすくなることも報告されています。

思いついたら笑顔を作る。笑顔になる癖がある人はその癖を大事にする。笑顔を作ることになれていない人は思いっきり照れ臭そうに笑顔を作る。家族はその努力をわかってくれると思います。3割くらいの打率であっても、これまでとはガラッと安心できる家庭になり、帰りたくなる家庭になるし、外で困ったことがあっても家に帰ればなんとかなるという気持ちで乗り越えていけるような家庭になると思います。

別居して面会交流の機会があり、相手と久しぶりに直接顔を合わせるなんてことは結構あるものです。何とかやり直しを目指しているのに、険しい表情のまま子どもの受け渡しをしていながら、子どもといる時はくつろいで笑顔さえ見せるということを相手が遠巻きに見ていたりしていれば、元の鞘に収まるものもおさまらないのは仕方のないことかもしれません。面会交流が実現したならば、笑顔を作るというアドバイスを必ずするようになりました。


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令和の夫(妻)のTIPS 9  面白いことが言えない私たちは何をするべきか  聞き役の達人を目指すとは [家事]



家族がゆったりと時間を過ごすためには、面白いことを言って場をなごませることが効果的なのではないかと考えることがあります。さらっと面白いことを言う人がうらやましいと思うこともあると思います。

面白い話の効用というのは、ただその時笑えるということだけではないようです。爆笑王桂枝雀(二代目)さんが、噺の枕で、ショーペンハウエルを引用して「笑いというのは緊張の緩和だ」と言っていましたが、おそらくそれは正しいのでしょう。そうだとすると、笑うことで、緊張が解かれてとても楽になるのだと思います。笑いによって笑わせた人に対する家族の安心の記憶を重ねていくという将来に向けた持続的な効果が生まれるのでしょう。

どうしても、我々男性の中には、他人から笑われるということに、一種の警戒感をもってしまい、馬鹿になりきることができないという人が一定程度いるようです。学生時代の友人に対してならば馬鹿になって笑いを取りに行くけれど、妻子の前で笑いを取るために自分を貶めることがどうしてもできない人って、けっこう多いものです。
できない人はネタを仕入れていてもできないのです。

面白いことを話すことはあきらめましょう。

その代わり聞き役の達人をめざしましょう。

要は家族に緊張をさせない存在になること、いるだけで安心してもらえる存在になることであれば、笑わせるような気が利いたことを無理して言わなくても良いのだと思います。

どうすればよいのでしょうか。
1 <聞く以外のことをやめる>
スマホでゲームしながら聞いてはだめです。あなたの話に集中しますという演出効果もありますので、それまでしていたことをばたっとやめるということは視覚的効果も期待できます。

2 <相手の話をさえぎらない>
これをするだけでかなり良い聞き手になります。実際は、言いたいことがあっても、とりあえず我慢してみること。話をさえぎられると不快な気持ちにもなりますが、我慢することで自分の感じ方と違う発想で話しているということに気が付くかもしれません。

3 <相手の話にこまめに反応する>
うなずいたり、驚いたりすればよいのです。反応をすることが最初です。焦ってコメントを出す必要はありません。特に男性は、頼られていると思うと何とか貢献しようと焦ります。良かれと思ったことは概ね悪い結果をもたらしてしまいますし、貢献しようという思いは伝わりません。

4 <解決方法の提案やアドバイスよりも共感を示す>
相談事であろうと、日常報告であろうと、鉄則はまず共感を示すということです。感じ方や、感想が話し手と異なったとしても、先ずは話し手の感情を言い当てるという作業が最初です。わからない時は率直にどう思ったと聞いた方が無難です。それを聞いた時は、「そうだよね」と言わなくてはなりません。
先ず、同じ感想を共有していることを示してからならば、「あれ、もしかすると」と別の、当初あなたが抱いた考え方を提案するのは良いと思います。まず相手の感情に同調することは会話の一連のルーティンなのだと把握してください。

共感を優先にするということは最近よく言われていることなのでご存じの方も多いと思いますが、どうしても先ほど言ったように男性は貢献しようと解決策を提案してしまいます。それがまっとうな流れだと思いがちですが、話を聞いてほしい相手からすると自分の感情や悩んでいることを否定し、解決策の知識や思考能力もない程度の低い人間だと思っているのではないかと思われるリスクがあります。問題の解決よりも、家族でいることは安心なのだ、自分は否定されないのだという意識を持つことが価値として優先するべきなのでしょう。

男女によって(個体差は持ちありますが)、人とのコミュニケーションの傾向が異なることを意識しないと、自分の価値観、問題意識を相手に押し付けてしまうことになることに注意が必要ですね。

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令和の夫(妻)のTIPS 8 負けるが価値 特に夫婦、親子の間では [家事]



家族再生をうまく進められない場合や、何の気なしにした言動が夫婦仲にひびを入れていくときの一つのパターンとして、相手と「張り合う気持ち」が捨てられないということがあるように思います。

この張り合う気持ちって、結婚前とか、新婚時にはあまりないような気がします。会ったとしても表面化しにくいようです。おそらく二人の気持ちは「わたしとあなた」という意識ではなく、自然と「わたしたち」という主語でものを考えているのかもしれません。しかし、これが続かなくなっていくようです。

張り合う気持ちが生まれることが多いのは子どもが生まれたときが典型です。「私たち」が夫婦をさすのではなく、「わたしとわたしの両親」の両親を刺すようになってしまう危険のある時期のようです。

ただ、実際には張り合う気持ちが無くても、自分がこんなことが得意だということを無邪気に言っているだけなのかもしれません。案外褒めてもらいたいだけかもしれません。それでも、それを聴く方の相手に張り合う気持ちが含まれていれば、相手は自分より高みにいることをアッピールしようとしているように感じられてしまうことがあります。

それにしても、自分自身を振り返っても思うのですが、現代日本に生きる我々は身内から低評価されることに過剰に敏感になっているのではないでしょうか。ささいなことを言われて、低評価だと無駄に感じてしまうとか、笑って住む話なのに重く受け止めてしまい、落ち込んでしまったり、むきになって反撃したりしていることはないでしょうか。

夫婦喧嘩の原因を聞くと、「ささいなことでけんかになった」ということは答えられるけれど、「具体的にどんなことでした」と尋ねても思い出せない人が多いのです。今にして思うと、忘れてしまうくらい(あるいは言いたくないくらい)そこまで敏感にならなくても良いことで張り合ってしまっていたのかもしれません。

そして、低評価されることに敏感な人に限って、その人のパートナーは相手の気持ちに配慮しないで自分の気持ちを率直に表現する人が多いようです。厳密に言えば、気持ちの上ではその人を批判したり低評価しているわけではなさそうなのですが、低収入に不満を述べたり、知識不足を笑ったりしてしまうのです。人を不愉快にさせる言動をしても、悪意が無いから相手が何を怒っているのかわかりません。だから「相手はよくわからないタイミングで怒りだす。」等と主張するのです。実際に具体例を聞くと、それは確かにあまりに鈍感すぎて、第三者から見ても、「わかっていてわざと傷つける言動をしているのではないかしら」と疑いたくもなるようなことが少なくありません。特に相手が大事にしていることについて容赦のない言動が起きることも少なくありません。

低評価されることが致命的に思われてしまう人間と、自分の優位を示すために相手を低評価するような言動をする傾向が、日本の夫婦にはあるのかもしれません。ここを自覚して修正することが家族を作っていくうえで肝心なのかもしれません。

昔の大人は、わざと負ける余裕があったような気がします。自分のことですが小学校に上がるかどうかの時に、父と相撲を取ってわざと負けてくれたことを覚えています。ある程度わざと負けたということをわかっていても、嬉しいことには違いがありません。また、わざとだとわかっていても自信がついたような気がします。もちろん父親は相撲が弱いなどと思いもしませんでした。

今の親子のコミュニケーションは、相撲というよりテレビゲームかもしれません。そこに大人と子どもの力差が少ないからでしょうか、あるいはゲームに夢中になってしまうからでしょうか。わざと負けてあげるという行為が減っているような気がするのです。

子どもに対してさえ張り合ってしまったのでは、夫婦間でわざと負けるということもできるわけがありません。

仲間に対して負けて見せるということは、現代日本においては、もしかするととても難しいことなのかもしれません。だから、どうでも良いことでさえも、張り合ってしまうし、負けを認めたくないという気持ちが先行してしまうのかもしれません。それによって、相手が自分を軽く見るようになるということは実際はありません。力量は最初から双方分かり切っていることだからです。その分野の力量が負けていても家族の一員としての価値は、実際は変わらないのだろうと思います。ここにも低評価を受けることに対する過剰な恐れが見え隠れしています。

現代日本においては、負けてあげる心の余裕は、とても希少価値のあることなのかもしれません。ここを意識して、自分が負けたということを表明し、相手を賞賛することを意識掛けることで、余裕と安心感のある家庭になるような気がします。

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令和の夫(妻)のTIPS 7 ドライブの落とし穴 愛するゆえに嫌われる [家事]


意外に思われる方も多いと思います。特に男性陣に多いのではないでしょうか。

夫の運転中の粗暴な言動が、調停などで離婚理由の一つとして主張されることは案外多いのです。

運転中は、気が付かないうちに無意識に乱暴な言葉遣いになっていることが多いことは私自身気が付いています。

例えば、一時停止の標識があるのに一時停止しないで交差点に進入してこちらの進路が妨害された時、急に車線変更されてぶつかる危険を感じたとき、直進車を刺し終えて対向車線からこちらの進路を妨害する形で右折してくるとき、歩行者が確認もないまま道路の反対側に渡りはじめて迫っているこちらを見もしない時等

家族を乗せて運転している場合、家族の安全を守ろうとする意識が当然出てきますから、誰かからルールを無視する危険な運転をされると、危険を感じて、つい攻撃的な言動をしてしまうことは私も経験があります。舌打ちをしていることもあったかもしれません。

しかし、後ろに乗っている妻と子は、どうせスマホをいじっているか昼寝をしているのですから事情が分かりません。運転しない人であればどうして運転手であるあなたが怒っているかわからないかもしれません。
だから、後ろに座っている妻子は、ただ、だれかれ構わず夫が毒づいているということしかわからないのです。相手が暴力団か警察かもしれないのに、無謀に戦いを挑んでいる姿しか理解できないわけです。

運転をしていたあなたとしては、妻子を危険な目に合わせた犯人に対して怒りをあらわにしたのに、その大事な妻子からは、あなたはただの危険人物であり、あなたこそが自分を危険な目に合わせてしまう人間だと恐怖の対象となっているようです。

つまり、毒づくあなたが本当に怖いようです。

「運転中」の言動は象徴的なことなのですが、このようなことは日常よくあることかもしれません。

すぐに思いつく実例は、子どものことを気に掛けるあまり、母親の子どもに対する接し方が薄情に思えてしまい、あるいは無駄に厳しいように思えてしまい、母親に意見をしてしまう、まあ毒づいてしまうということがあるようです。母親は敵ではないのですし、自分でも妻にそのような意識を持っているわけではないのですが、相手は自分を敵視していると感じてしまいます。

また、発言者は、その行為のことについてだけ言っているつもりでも、相手からするとそのような内心はわかりようがありませんので、自分は夫から全人格的に否定されたという気持ちになる危険性が高いです。

そうやって、妻は、夫の言動によって不安になった記憶が蓄積していき、夫の存在自体が妻の不安を招き、恐怖や嫌悪に育ってしまうということが、家族が壊れていく典型パターンの一つの要素であるようです。


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令和の夫(妻)のTIPS 6 無駄話コミュニケーションの勧め 「さあ話して」はもう危ない。 [家事]



離婚事件を担当してよく感じることがあります。確かにデリカシーが少し足りないかもなと思うけれど、決して悪い気持ち、攻撃する気持ちの言動ではないのに、相手がそれを悪く考え過ぎて、「自分が否定されている、攻撃を受けている」ととらえてしまう、この積み重ねで信頼関係が無くなっていくことが多いようです。

相手の言動で自分が否定されている、攻撃されていると思ったときに、「それはどういう意味だ」とざっくばらんに尋ねるとか、「それはむかつくぞ」とカジュアルに言えたなら、言った方も「これはこういう意味だ」と説明ができ、実は自分が悪く考えすぎていただけだということもわかるし、相手も「こういえばこう感じてしまうのだ」とわかり、行動を改めやすくなるし、改めようというきっかけができます。

この問いかけやリアクションが無いと、疑心暗鬼が入道雲のように高まり、徐々に離婚に近づいているようなのです。。

一言で言ってしまうと、コミュニケーション不足です。
コミュニケーションが不足しているので疑心暗鬼になり、不安になり、不安が蓄積されると不安を与えた相手に対しての嫌悪感、恐怖感が生まれてくるという流れのようです。

では、コミュニケーションはどうやって取ればよいでしょう。「さあ話しなさい。私は聞きますよ。」というのでは、なかなか本音を話せません。

本音を引き出すことがコミュニケーションをとる一つの要素だと思います。
ではどうやって本音を引き出すか。

方法論としては、ピンポイントで効率よく本音を聞き出そうとしないこと。これが一つですね。無駄な時間、無駄な会話をして、その中で話しやすくなるし、本音を言っても大丈夫かもしれないと思うようになるわけです。はずみで本音を言うこともあるでしょう。こう考えると広い目で見れば無駄話それ自体がコミュニケーションなのだと思います。

つまりコミュニケーションの要素の一つは、話をする時間を長くとるということなのだと思います。質より量が大切ということでよいのだと思います。

といってもがみがみと説教ばかりするのはコミュニケーションとは言いません。これはわかりやすいと思います。逆に、ある程度のことを言っても、否定されない、説教されないというのであれば、安心して話ができると思います。言い方のミスや文法がおかしいということに気になる人もいるかもしれませんが、とにかく良いように解釈して、どうしても厳密な意味が必要な事務連絡だけ聞き返せばよいのではないでしょうか。

つまりコミュニケーションの要素として、言葉の意味を厳密に取り扱わない。ただ、声のキャッチボールをすること、それ自体が基本なのだということです。意味がある会話はコミュニケーションとは言えない「事務連絡」です。

そして、否定されなければ、説教されなければ、自由に話をしても良いのだという意識が生まれてきます。ニコニコと話して、ニコニコと相槌を打っていれば、そのうち本音が出てくるわけです。

「ずいぶんまわりっくどいじゃないか」とがっかりした人は、もう一度最初から読んでいただくことをお勧めします。「そういうところ」なんだということです。

つまり、家族は事務連絡だけで生活をしていると、やがて疲弊してストレスが蓄積するものだということです。無駄話をしてニコニコしているならばそれが家族だし、家族が一番やらなければならない仲間を安心させるということの、人間らしい実現方法が無駄話コミュニケーションなのだと私は思います。

でも、真面目過ぎる人は、細部まで聴き取らないと気が済まないようです。「うんうん」、「ああそうだね」と適当にあいづちを打つことができない。私も若いときはそうだったかもしれません。今は、聴覚も年齢で衰えてきていますので、逆に聞こえなくて当たり前という意識で、よくわかっていなくとも肯定的なあいづちを打てるようになりました。視覚的にも老眼で細部まで見えないようになりましたが、見えないことを気にしなくもなりました。歳をとって衰えることは悪いことばかりではないようです。

「真面目過ぎる」という性格は家族という人間関係ではデメリット要素にもなるということなのかもしれません。

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