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「パンと見世物をよこせ」は案外正しく必要な政策だと思う理由。特に見世物をよこせ! [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

「パンと見世物をよこせ」

ローマ市民が堕落していることを象徴した言葉とされていると
中学だったか、高校だったかで教わりましたね。

でも、これ案外人間不変の真実だと思うのです。

見世物がサーカスか何か議論があるようですが、
要するに、ほっと一息つくという時間なのだと思います。
大勢の人間の中で生きていると
何かと緊張をしたり、不安になるわけで
人間は放っておくと疲れていくようです。
メンタルは放っておくとやられるわけです。

何かをしないという休息だけで解決できる問題ではなく
何かに夢中になる時間があることで
緊張から解放され、不安を忘れることができるのだと思います。

その何かは人によって違うのでしょう。
高尚な学問や思想に没頭して癒される人もいれば
プロレスなんかを見てストレスを発散する人もいるわけです。

私は、この「見世物」が人間にとって必要なもの
だということが言いたいわけです。

高尚なことの没頭の一つは宗教だと思います。
キリストも、人はパンのみに生きるにあらずということを
おっしゃっているようです。
もちろんこれは見世物ではなく
神様の言葉によって生きるのだということのようです。

見世物と神様の言葉を一緒にしたら申し訳ないのですが、
共通点があると思います。
具体的な人間関係の切り結び、損得勘定から離れたところの
究極の癒しが神様の言葉なのだと考えると
だいぶ俗っぽく低級にはなりますが、
見世物も結局

具体的人間関係の切り結びや損得勘定を
そのときだけでも忘れることのできる貴重な時間で
それがあることによって
生き生きと生きていける
それが人間なのだと
そう思えてくるのです。

今のコロナの自粛ムードの中で
スポーツや芸能も観客を集められないからと自粛されてしまうと
パンだけで生きていかなければならないということになりそうです。

勉強や思想だけで、人間関係のしがらみから解放される
という人はあまりいないように思います。
また、そういういわゆる高尚な高級な人たちの社会というものを
本当に理想とするべきなのかについても
最近特に疑問に感じてなりません。

力を入れずに、どうでもよいことに夢中になる
その場が終われば引きずらないということが一番ではないか
その意味ではスポーツや芸能音楽というのは
最適の見世物のように思うのです。

コロナで解雇や賃金カットがなされ
パン(生物として生きる糧)も足りない状況になっています。
その援助を社会がもっともっと行う必要があると思います。

同時に、集客してはできないならば
テレビやインターネットなど
安価に、しかし、芸能人やスポーツ選手や関連会社の足を引っ張らない方法で
大衆に娯楽を提供することも
必要なことだと思うのです。

特にコロナの影響が長期に続く場合は
見世物を社会が工夫して実施する必要があるのですが
それが一段低級、不必要なものとして扱われることは
間違っているというのが私の結論です。

不要不急であり後回し
ということは間違っているということです。

どんどん安価な娯楽が供給されるべきです。

愚民政策ではなく、人類普遍の政策であると
コロナを通じて考えました。



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子どもにとっての別居親との面会交流の必要性、有効性について [家事]

1 法律の規定
2 離婚後の子どもの研究
3 発達心理学における子どもの心理から
4 片親疎外という問題
5 母親にとっての面会交流のメリット
6 面会交流が関係者の利益になるためのルール設定


1 法律の規定
民法766条は、離婚をする場合は、子どもと親権を持たない親との面会及び交流の方法を協議で定めるよう、平成23年の法改正によって規定されるようになりました。
この改正は、子どもの健全な成長を実現するためには、親権者ではない親との面会交流が行われることが重要だという、子の福祉、子の利益を目的としています。長年の外国や日本の、離婚後の子どもの研究から、面会交流と子の成長の関連が明らかになったことからの改正でした。
2 離婚後の子どもの研究
  子どもの心理、子どもの福祉という観点からの研究は、最近になってようやく進んできました。第二次世界大戦の戦災孤児の研究が、親子の関係と子どもの福祉への影響の研究の大きなきっかけになりました。
  20世紀の後半になって、アメリカのウォーラースタインという女性の研究者たちが、60組の離婚家族の追跡調査を行いました。これはインタビュー形式で行われたもので、対象が限定されているという弱点はありましたが、1971年ころから25年以上に渡り研究がなされました。特に調査後最初の論文は各国の親子関係法制に多大な影響を与えました。我が国の平成23年の民法改正にも影響を与えたと言われています。その中でウォーラースタインらの調査結果の概要は以下のとおりです。ウォーラースタインとケリーの「Surviving The Breakup」(1980)
  1)子のほとんどが別居親に会うことを切実に望んでいた。面会の回数が少ない場合は不満を持っていた。
  2)父と子のお互いの都合に合わせて行われると面会交流が満足ゆくものになる。
  3)9歳以上の子どもを中心に、会いに来ない親に対して怒りをもったり、自分が会いに来ない親から拒否されたなどの失望感を抱くようになる。
  4)思春期前の子どもは親が自分に会いに来ないことで抑うつ状態になる例が多く、思春期になると、会いに来ない親を自ら否定し、拒否するようになる。
  5)別居親と子どもとが愛情あふれる良好な関係を維持し面会交流が子どもの成長に良好な影響を与えていると判断されたのは全体の30%であるが、面会交流が続いている場合はこの喪失感を和らげる重要な働きを持っており、子は親に見捨てられたという思いを抱かずに、孤独感や無力感に悩んだり、自己評価の低下に陥ったりせずにすんでいた。
   この論文の詳細については、(家裁月報41 8 「子の監護事件に関する面接交渉」佐藤千裕 218頁)から引用しました。
   ウォーラースタインらの研究は161人の子どもを対象とした研究でしたが、さらに大規模な研究を行い、両親が離婚していない子どもとの比較を踏まえた統計的研究は、アメイトによってなされました。13000人以上の子どもを対象にした研究でした。アメイトの研究の結論は、離婚している家庭の子はそうでない子と比べて幸福感が低いというものでした。その理由は、離婚した親の子に対する関心の低下、経済状況の悪化、転居による環境の変化があげられました。
   アメイト以降にも研究が続けられ、現在では子どもに対して負の影響を与えるのは離婚そのものではなく、離婚に伴って生じる複数の要因が関与しており、離婚後になお親どうしの葛藤が強いことが影響を与えるというように整理されているようです。
   これらについては、(家裁月報61 11 「家庭裁判所調査官による「子の福祉」に関する調査 ―司法心理学の視点から」― 小澤真嗣 29頁)を参考に論述しています。
   このような世界中の研究を通じて、両親が離婚したことに伴う子どもの成長に対する影響を軽減するためには、子どもが別居親に定期的に面会することが、子どもの自尊心を傷つけず、自分に自信をもって健全な成長を図るために必要なことだという観点が確立し、各国の親子法制に影響を与えてきました。
3 発達心理学における子どもの心理から
  離婚に伴って、子どもは一人の親と同居をし、もう一人の親と一緒に生活ことが無くなります。別居するわけです。この離婚、別離が与える子どもへの影響は、その年齢によって特徴があると言われています。
  前掲の小澤論文によると、幼児期後半と言われる3歳から6歳の段階では、子どもはまだ自分中心にしか物事を見ることができないという発達段階にあるようです。私たち人間は、まず自分の感覚というものを持ち、集団生活の訓練や脳の成長を通じて他者の中に自分を位置づけられていくようです。ですが、6歳前の段階では、他者と自分の位置づけ、自分の空想と現実との境界が曖昧なままであり、自分に関連付けて自分以外の出来事についても考えてしまうところがあるようです。両親については、いずれ仲直りをするだという空想をするのもこの年代の特徴を表しています。また、親の離婚、別居は自分に責任があると考える傾向にあるようです。自分が寂しく感じていること、欲求不満があっても、自分以外の他者の事情について考えを及ぼすことができないため、何らかの不快がある場合は、自分が良い子にしていないからだというように自分に責任があると考えることしかできないのです。大人もそうなのですが、子どもも絶望をすることを回避しようとする思考上のメカニズムが備わっているのでしょう。自分が悪いから嫌なことが起きている。そうだとすれば自分が良い子でいれば悪いことが改善されるはずだという子どもなりの、絶望を回避するための思考をしているのだと思います。つまり、子どもも希望を持たなければ辛いのです。また、この年代の子どもは、親から捨てられるのではないかという恐れを感じるのだそうです。目の前から一緒に住んでいた一人の親がいなくなってしまった。しかしその理由をうまく理解できない。そうだとすると、もう一人の親もいなくなって、自分は一人ぼっちになってしまうのではないかという不安を抱くようです。このため、子どもは同居をしている親御さんに対して必要以上に良い子に振る舞い、同居親の言うことをきくだけでなく、同居親の気持ちまで積極的に忖度しようという心理が働いてしまうことになります。
  これらの子どもの窮屈な思い、恐ろしい思いを解消する方法として、定期的に別居親と面会し、一緒には住んでいないけれど、こうして定期的に面会ができるのだから、それほど悪いことが起きているわけではないこと、別居親も自分のことを大切に思ってくれているということ、自分が悪いからだと考える必要はないということが理解でき、普通の子どもとして親の言うことを良く聞いて健全な成長を図ることができるようになるわけです。
4 片親疎外という問題
  国際病類分類上も取り上げられている片親疎外(PA)という概念があります。かつては、片親疎外症候群(PAS)という病気であると言われていましたが、現在の主流は片親疎外という問題であり、必ずしも病気であるという把握はなされていません。しかし、片親疎外によってさまざまな精神上の問題が生じることは指摘されており、アメリカの精神疾患分類にはまとまった病気としてはいないけれど症状ごとに分かれて病類分類として位置づけられています。
  片親疎外とは、一言で言うと、別居親を激しく拒否する現象です。俗説では片親疎外は同居親が別居親の悪口を吹き込むことによって起きるとされていますが、これは間違っていると現在では言われています。様々な要因が複合的に影響を与えていると整理されています。原因としては両親間の葛藤に子どもが巻き込まれているということは確かにあるでしょう。親の性格なども原因があると指摘されています。しかし、子どもが別居親と会えない理由が別居親が自分を見捨てたと思い、自分が見捨てられるような人間ではないと思いたいため別居親を攻撃して自分を守るという理由や、自分の前から同居親もいなくなるのではないかという恐怖から別居親に精神的にもしがみつこうとして、同居親の感情を忖度してしまう結果別居親を否定しているという要素もあります。
  肝心なことは、同居親が別居親の悪口を吹き込まなくても、両親が離婚をしたという環境から片親疎外が起きてしまう危険があるということです。
  片親疎外の子どもにとっての悪影響は、15歳ころの自我の確立が図られるべき年代において、自己同一性が確立せずに深刻な混乱が生じることです。別居親について自分を捨てた完全な悪人であると思ってしまうと、自分は完全な悪人の子どもであると同時にと自分と同じ被害者であり完全な善人の同居親の子どもであるという両極端な自己という混乱した状態となります。これは成長にとって極めて悪い状況が起きてしまいます。離婚後、年代によって異なりますが、小さい子ほど自分の言うことを良く聞く良い子であり、自分に言われて学校も習い事もよく頑張る子だと喜ばしいと思うことがありますが、実際は幼い子供たちの心は自分の実力以上の無理をしていることがあり、余裕のない精神状態になっている可能性があります。無理は長続きしません。精神的にあるいは周囲との関係上、問題が起きる場合もあります。
  この場合も、片親疎外の悪影響を軽減するためには、別居親との面会交流を定期的に行うことが特効薬だと言われています。子どもは、ありのままの自分でいることを受け入れられることによって、自分は自分の能力以上の努力をしなくても良いんだと安心して生活することができるようになります。楽しみながら、学習し、成長する人間本来の発達がより容易になるということになります。
5 母親にとっての面会交流のメリット
  3歳児神話や子どもは母親が育てるものといったジェンダーバイアスがかかった俗説が未だに幅を利かせています。これらは、女性が社会参加をして生き生きと人生を輝かせることを阻害しています。近代化前の日本においては、一般庶民の間では、西洋とは異なり、子どもを女性だけで育てるという風習はありません。父親も母親も子どもと関わることが楽しく、子どもを大事に育ててきたという伝統があります。近代化の富国強兵政策に伴って、男性は兵士として外で闘い、女性は銃後を守り家族を守るという性別による分業が国を挙げて推奨されるようになっていきました。このような作られた性による分業の意識が、戦争が終わって70年が経つ日本においてもまだ強い影響があるということに驚くばかりです。
  離婚をした場合に、子どもを母親だけで育てる事例がまだ大多数を占めているようです。母親が主たる監護者になることには子どもの年齢などから合理性がある場合もありますが、親どうしがどちらが主として育てるのかを自由に決めることには差しさわりは実際はないはずです。
  一人で子どもを育てる場合、同居親の責任感が強すぎるために、子どもの成長に一人で責任を負わなければならないという心理的圧迫を受けることがあります。しかし、子どもは両親の子どもですから、1人で責任を負おうとすることは非科学的な思考だと言わざるを得ません。別居親にも子どもを育てる責任と義務があるはずです。離婚をしても荷を分かち合って子育てをすることこそあるべき姿であると考えます。
  また、1人で子育てをする場合は、ご自分の親御さん、子どもから見れば祖父母などの援助があることが多いのですが、それでも同居している親御さんの負担は多く、仕事以外のプライベートな時間を子どもためだけに費やすことになります。実際は子どもも大きくなれば手がかからなくはなりますが、心理的には一人で自分の人生を費やして子育てだけをしているという意識になりがちです。しかし、その時、別居親は自分の時間を楽しんでいるのかもしれないわけです。これは不公平です。自分の時間を作ろうと子どもを他人に預ければ費用も掛かります。知らない場所にいる子どもの心理的負担も小さくありません。面会交流が定期的に行われる場合は、その時間を自分のために使うことができます。しかも都合の良いことに、子どもを預ける費用も掛かりません。無料で子どもは飲食をし、同居親が許可をするだけでお土産まで持たされることも多いわけです。面会交流の日程も決まっていれば、同居親も買い物に行ったり、友人たちとの会話を楽しんだり、趣味の習い事も自由にできるようになります。しかも、別居親からは子どもに気持ちよく会わせてもらったということで感謝もされるわけです。
  面会交流は、法律的には子どもの利益のために行われているのですが、実際は面会交流の時間を上手に利用して、同居親が母親としての自分以外の自分を取り戻すための時間なのです。同居親が心理的に余裕ができ、外部の情報も取り入れることができるようになれば、子どもにとっても有益であると思います。
6 面会交流が関係者の利益になるためのルール設定
  面会交流は、これまで述べてきたように、関係者一同の利益になるものですが、離婚に至った男女が顔を合わせるというデメリットがあることは事実です。できるだけ、このデメリットを最小限にするために、面会交流のルールはしっかりと定める必要があります。
  、
1)久しぶりの感動の再会をしないということが大切です。親の方が感極まって泣いてしまうことは子どもに罪悪感を与えることがあり、子どもにとって重く感じ、次の面会交流が精神的に負担になる危険があります。昨日も会ったように、明日も会うように再会することで、子どもは自分が受け入れられているという良いところだけを感じることができると思います。
  2)同居親との生活を詮索しないことも大切です。これも子どものことが理由です。子どもたちが、これを話していいのだろうかと考えてものを話さなくてはならないことが生まれてしまうことを心配するべきです。通常の同居している夫婦であっても、それぞれの実家に他方を連れないで帰省した時には、多少は他方に聞かせられない話も出てくるわけです。子どもはそのような事情が理解できないから、それを耳に入れてしまうと、本当のことを話さなければいけないという軽い強迫観念が生まれ、罪悪感を抱きやすくなるようです。また、同居親が自分の居所や様子を探られたくないということを子どもにあからさまに伝えている場合はなおさらです。ここは意識しなくてはならないところです。
  3)時間を厳守することも特別な意味があります。同居親は、少しでも受け渡し時間が遅れると、連れ去りの心配をするものです。同居親が面会交流に立ち会わない場合は特に時間を厳守することが求められています。
  4)多少の事情変更は大目に見ましょう。特に子ども体調は変更しやすいため、不意の発熱などで面会交流が順延される場合は実際によくあることです。疑心暗鬼にならないで相手方を信頼して、多少の事情変更はあることが原則だというくらいの鷹揚な気持でいるとうまく回り出すようです。
  5)当事者同士で直接の声掛けはしない。こちらはそんなつもりが無くても、直接の声掛けは、疑心暗鬼になっている当事者にとって恐怖と嫌悪の対象になる場合が多いようです。実際に顔を合わせる場合は目礼程度にとどめることとするとよいかもしれません。


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子の連れ去り被害を受けた場合に本当は考えるべきこと 争わないことが主目的というわけではなく、結果を出すための思考 [家事]



最近書いている私よりこのブログを理解されている方が多くなり、
お話をしながら、こちらが教えてもらっている状況です。
そんなやりとりの中で、特に家事事件、夫婦問題の相談で、
私のやり方が「争わない方針」だと言われることがありました。

これは、読んでいただいた側の方、特に当事者の方からは
実践的な表現であり、実務的には間違っていないのですが、
私の真意は、争わないことに主眼があるわけではない
ということをお話ししてみたいと思います。

ではでは

先ず人の感情はコントロールできるものではないので
感情を抱くこと自体は無価値、
つまり良い悪いの範疇を超えていることです。
言っても仕方がないことだと思っています。

例えば足を踏まれて、「痛い」と感じることはあまりにも当然の話で、
痛いと感じてはいけないという人はいませんよね。

普通に日常を送っていたと思っていた夫が
ある日ある時仕事から帰ってきたら
妻も子もいなくなっていて、荷物も消えていたら
最初は呆然とするでしょうけれど
どんどん失望や怒りや焦燥感を抱いていくことも
当然のことだと思います。
身に覚えのないDVがあったことにされて
自分が軽蔑するタイプの男が自分だと言われるのですから
怒りを感じることはむしろ当然です。
怒りを感じないことの方が、むしろ危険な場合があると
当事者の方々を見ていて思います。

しかし、怒りの感情を抱くことと
怒りを誰彼構わずまき散らすことや
怒りに任せて行動をすることは違います。

道徳的な説教をしているのではありません。

例えば、先ほどの例であなたの足を踏んだのが
牛だとします。
踏まれた足は痛いです。
でも、痛いという感情に任せて足を引き抜こうとすると
回復できないようなひどい骨折をするわけです。

足をこれ以上傷めないようにして
足を解放すること
これを考えて合理的な行動することが必要だと
そういうことを言いたいわけです。

やっかいなことは
家族の問題は自分が傷つくだけでなく、
一番傷ついて将来に対して長期間悪影響を受けるのは
子どもだということです。

ところが感情は自分では止められないものだから
自分の感情で行動してしまい
それが子どもにとってメリットがあるのか、
デメリットが大きいのか
ということを考えることは難しいです。

連れ去った側もそうですが
連れ去られた側も、実際は子どもの利益よりも
自分の感情を優先して行動してしまう
ということは残念ながらあります。
難しいことは当たり前です。

また、
行動を感情に任せて行うと自分が損をすることを理解して
損をしないように行動をしようとしないと
相手の誇大妄想的な主張に対して
堂々と反論してしまい、むしろそちらが悪いという
おつりにもならない余計なことを言って
収拾がつかなくなるわけです。

良いことは何もない。
あるとすれば
相手を責めているときだけ被害意識が薄れるので
気持ちが少し軽く、耐えられるようになります。
だから反射的な行動を止められなくなってしまうわけです。
初めから戦略を立てて行動しているわけではないので
結果が出ないことも当たり前です。

これが、最近の裁判所界隈での「争う」ということなのかもしれません。

さて、冒頭で、感情的になることは仕方が無いと言っていたのに
感情に任せて行動しては逆効果だというならば
結局どうしたらよいのかということになるでしょう。

ここが考えどころです。

なぜ感情的(怒りモード)になるのかをまず考えましょう。
それは自分が被害を受けているという意識を持っているからです。
理不尽で不当な被害を受けているという意識ですね。
怒りモードになるのは、突き詰めて考えると
その被害から自分を守ろうという意識です。

それが「悪い」わけではありません。

悪いわけではないけれど、メリットもない。
デメリット(相手から付け込まれる、ほら見たことかと)
はたくさんあるわけです。

じゃあどういう意識を持つべきか。
大事なことは
「あなたは一人ではない」ということを正しく認識することです。
子どもが連れ去られても家族は家族で
家族が連れ去りの瞬間無くなるわけではないということです。

そもそも被害者だったり、加害者だったり
特に夫婦関係はそう割り切れるものではないのではないかと
我が身を振り返っても思うわけです。
ところが、相手が加害者で自分が被害者だという感覚になると
加害者である相手の言動は全て自分を攻撃するものであるから
一字一句漏らさずに自分を守ろうという意識だけが強くなってしまいます。
つまり自分のことしか考えられなくなるわけです。

自分を守る意識を捨てることはできません。
ただ、自分を含めた
家族全体を見るようにする
ということならできるかもしれません。

あなたの問題ではなく家族全体の問題だ
という意識です。
もっと言ってしまえば、本来は
家族の中の話なのだと思います。
(私をはじめいろいろな人間がしゃしゃり出てきているけれど)

では家族全体を見るということはどういうことでしょうか。

家族の一人一人の状態をまず確認するということでしょう。

怒りにまみれている、あるいは失望し、呆然としている
自分がいる。
子どもを連れ去ろうとまでして実行した妻(夫)がいる
そしてわけのわからない状態で
友達からも地域からも親戚からも
何より自分の肉親の一人から孤立させられた子どもがいる。

一人一人の状態をリアルに想像することが第一です。
そうすればやらなくてはならないことが見えてくると思います。

そこには、
不具合が起きている家族があるわけです。
あなたはその家族の中の大事な1人なのです。
家族の問題だとして取り掛からなければ
解決しないか、
あなたの感情に任せた行動によって
益々家族を分断させる方向に向かわせてしまっている
ということに気が付くはずです。

自分だけを守ろうとする意識が強すぎると
自分の被害感情しか出てきません。
被害感情にもとづく怒りなどの行動は
家族を分断してしまう方向の行動になる危険が大きいということです。
結局自分を守れないということになるはずです。

逆に怒りを持てず、落胆だけしていても
それは自分の被害感情だけです。

いずれにしても家族は置いてきぼりです。

「なぜ『家族』は不具合を起こしたのだろう」
という考えに無理して進むことが出発点だと思います。

子どもに責任を負わせることは普通できないので
子どもに原因を求めるのは無駄な考えだと思います。
家族の大人たちを自分を含めてそれぞれ考えていくわけです。

この時考えるコツは
「誰が悪いのだろう」という考え方をしないということです。
誰も悪くなくても家族は不具合を起こす可能性を秘めています。
これは、長年家事事件に携わった私の一つの結論です。
「誰かが『悪い』から不具合が起きた」
という迷信が一般的にはあると思いますが
だから犯人を捜そうということでは、家族は簡単に壊れてしまいます。
人間関係は放っておいてもきずなが保たれるはずだ
というのは迷信です。

悪い、悪くないという発想を捨てて
家族みんなが、そして相手も
「人間のあたりまえの」感情をもって行動をしている
という前提で考えていくことがコツです。

人間のあたりまえは、単純ではありませんが
それほど複雑に考える必要もありません。
「こういう条件を持っているなら通常こうなるよな」
ということで良いと思います。

そこの「こういう条件」を考える場合に
引き出しをたくさん持っている人に補助線を引いてもらうことが
必要になるかもしれません。

例えば足を骨折していたら走れないよな
というようなことなのです。
ここで「こういう条件」というのは
足が骨折しているというものです。

実際の離婚事件などで
「こういう条件」でよく見られるのは病気です。

婦人科の病気のため感情抑制ができなくなっているとか

内分泌腺の病気の中には、
精神的な影響を与える病気があり
不安が抑えられなくなる場合があるとか

内科疾患の治療の薬の副作用であるとか

あるいは精神疾患であるとかです。

また、出産などのホルモンバランスの変化や
事故による脳の損傷など
様々な生物的条件が
後から加わってくる場合があります。

誰が悪いかという発想だけだと
これが見過ごされてしまうわけです。

例えば命がけで出産したことによって
産後うつになったとしても
その人に責任があるわけでも悪いわけでもない
そんなの産んで見ないとわかりません。

しかし、家族の中に問題を抱えた人が生まれる
つまり、他の家族がフォローしなければならない人が生まれた
ということだと考えるべきなのだと思います。

迷信のとりこになっている人たちは
妻が異常に不安を抱いている場合は
夫のDVがあるからではないか
と非科学的に決めつけるわけです。

他人がどう考えようと本来はどうでもよいのですが
家族だけはお互いにお互いの条件を考慮して
家族という人間関係を構築していくべきです。

この条件を見落とす理由で多いのは
「人間は、一生同じ人格を保って生きていくはずだ」
というこれまた迷信です。

人間は加齢や対人関係の変化の中で
自分ではコントロールできない変化を起こすもののようです。

結婚したときはこうじゃなかったのにということは、
言っても仕方がないことです。

どういう相手と結婚すると幸せになるか
というサイトなんかを目にしますが
それは人間の変化を見越してないわけで
参考にはならないでしょう。
大事なことは家族の変化を受け入れて
家族を日々作っていくということなのだと思います。

特に相手が感情、特に不安を制御できなくなる場合があることを
理解をすることが必要だと思います。

例えば、骨折した人に走れということが無茶なように
感情を制御できない状態の人に、
そんな感情をもつなということが無茶なのです。
誰しも不安になりたくてなっているわけではない。
家族の一人の不安に家族として、どう対処していくか
家庭を作る立場としての大人の在り方を
考えなければなりません。

これが子どもだったら
親にあてがわれた安心の中で生きていけば良いのですが
現代日本の多くの家族では大人は夫と妻しかいません。
夫婦がお互いに相手の不安に気が付いてお互いを安心させていく
ということをしなければならないわけです。

現代社会では必須の家事だと思います。

ちょっとわき道にそれますが
これ、実はサルは当たり前にやっています。
仲間の不安を鎮めるために、
お互いに毛づくろいをしているわけです。
餌をとる時間を削ってでもやっているようです。
サルもやっていることを
大人の人間がするのはあまりにも当然ではないでしょうか。

子どもの連れ去りは、十中八九、
連れ去る側に不安があることが確認できます。
多くは病的な不安で、漠然とした不安です。
実務上見られる不安の原因は、通常は体調の変化または病気です。

それなのに理由が思い当たらないからと言って
ほかならぬ家族から
不安を一笑に付されるという形で否定され
合理性や正義で、不安解消行動を否定され
できないことを非難されてしまうと、
いつの間にか不安の原因が夫にあるように扱われる場合も多いわけです。

だからといって
不安になる方が悪いということも
不安に気が付かない方が悪いということも
それはどちらも言えないのではないかと思うのです。
中には励ます形で
「そんなこと心配するなんておかしいよ。」
と言っている男性が私を含めて圧倒的多数ではないでしょうか。
いくつかの事件で、これがDVだモラルハラスメントだと
裁判所で主張されています。

それは不当だとしても、
「そうだよね。心配だよね。」と一言が言えないのです。
言えばそれだけで安心するかもしれないのです。

ただ、そうだとしてもそのことに気が付かないことが
「悪い」とは現代日本ではまだ言えないと思うのです。

だから、自分の何が「悪かった」のだろうと考えてしまうと
答えが出ないということもあり得ることです。
自分ができなかったことは何だったんだろうと考えるほうが
まだ有効かもしれません。

ちなみに家族が持っていた「条件」は体調面からくる不安だけではなく
生い立ち、親との葛藤
何らかの知られたくない体験(これけっこう多いです)
その他、打ち明けられないコンプレックス。
子どもの障害
何年もかかる住宅ローン
というのが、これまでよく見られた「条件」です。
自分が責められるのではないかという事情ということになりますが
ほとんど考えすぎといってよく、過敏状態になっているようです。

また、実際には相手に不安を抱かせる行為があった
というパターンも数は極めて少数ですが一定割合あるのも間違いがありません。


不幸にして子どもの連れ去りが起きてしまった場合、
私の場合は、
先ず、「どうして連れ去りが起きたのだろうか」
ということを一緒に考えます。
必要があれば心理士のカウンセリングを受け、精神科医の受診を勧めますが
時系列に出来事を並べていただくと
案外ヒントはどんどん出てきます。

次に家族再生を目標とするかどうかを決めてもらいます。
ここでいう「家族再生」とは、
またもとのように同居を開始するということだけでなく、
親子のつながりを現状から拡大させていくということも含まれます。
残念ながら、すぐに同居が復活したという事例は極めて少ないし
条件が限られています。

しかし、家族再生の方向に向かう事例は増えています。
少なくとも親子が断絶のままとなっている事例は
少なくなってきています。
(しかし少ないながらも一定数存在し続けます)

再生の特効薬は
「どうやって相手を安心させるか」
自分に対する警戒心を薄めていくか
ということだと思います。

相手の不安のポイント見つけてそこに有効な手当てをする
というのが理想ですが、
なかなか探り当てるには時間がかかります。
しかも相手を感情にかませて攻撃することだけを考えていると
なかなか有効な発見自体ができません。

もう一歩踏み込むと
どうやって相手に、自分が相手を仲間として尊重していることを
伝えることができるのか
そもそも、今の相手にとって
自分が尊重されているということはどういうことか
ということを考え出すことがやるべきことなのかもしれません。


まだまだ言い足りないのですが
私の考え方であると
表面的には争ってはいないように見えるかもしれません。

しかし、あなたの不安は家族から抜け出すことで解決できないし
そういう形で解決するべきでもない
というのですから
強烈な争いをしているとは思っています。

最終的には相手にも、
自分の不安の解消だけを行動原理にしていると
子どもを犠牲にすることになるということも
はっきりと言わなければならない局面もあるわけです。

また、事実関係についても
違うことは違うということを躊躇なく主張していきます。
ここはただ争うのではなく
どうして違うのかということも丁寧に説明していくことが必要ですけれど
そして違うということを述べることの精力以上に
間違ってもいないということを探し出すことに
精力を傾けています。

もっとも、すべての依頼者が
受任と同時に、家族の問題として考えを始める
というわけにはいきません。

特に自分の子どもの問題ですから
どうしても感情が沸き起こってくるし
一度家族の問題として考え始めても
被害を受けているという事実に基づいての感情が
再び、三度沸き上がってくることもよくあることです。

だから、すべてきれいに考えを切り替えるということを
あまり厳格に目標にしない方が良いかもしれません。

ただ、
考えるべき方向というものを
しっかり頭に入れておくかフリーハンドで裁判所に行くかは
結論に大きな違いも出ると思いますし、
ご自分の気持ちの持ちようもだいぶ変わるものだと
当事者の皆さんからお話を聞くにつけ
思うようになりましたので
今回ご紹介させていただきました。

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夫婦別姓は離婚が増加するという推測の根拠  離婚裁判の現場から [家事]



選択制夫婦別姓制度について、反対をするという目的ではありません。
末尾で述べますが、日本は、デメリットを指摘するとすぐ反対論者だとされてしまいますが
ヒステリックな議論で立法を論じるべきではないと思います。

さて、夫婦別姓にすると、離婚が増加するという推測は理由があるところです。
どのようにして人が離婚するかについて
何も定見のない人たちは、
単なる感覚だけで、あるいは知識がないために
離婚に影響があるとか無いとか
感覚的に言っているだけなのではないでしょうか。

実際に離婚が増加するかは制度が確立した将来どうなるかという話なので
制度が確立する前に証明することは不可能です。

ただ、離婚が起こりやすくなる要因というものがあるので、
反対か賛成かはともかく、一緒に考えてみましょう。

先ずポイントは、人間は群れに所属したいという本能を持っている
という動物だということです。
「所属欲求」といっておきましょう。

所属欲求が満たされるためには
所属する群れの中で自分が仲間として尊重されている
という実感がもたれなければなりません。

夫婦がその群れの最小単位です。
この外に、現代人は、学校、会社、地域、サークル等
様々な群れに所属しています。

昔は、ここに親戚関係、血縁関係、姻族関係等が
群れとして所属要求の対象となっていたのですが、
現代日本では、
これらの関係は群れとして意識されにくくなっているのではないでしょうか。

夫婦が円満に婚姻関係を継続する場合は
夫婦であることに、
所属欲求がある程度満たされている場合です。

この所属欲求が希薄になり
他の群れとの間での所属欲求が満たされていくと
離婚につながります。

わかりやすく言えば不貞でしょうね。
今の配偶者とは群れとしての感覚を持てず
配偶者とは別の人間に対して所属欲求が強くなるわけです。

実際の離婚事件には
不貞を原因とする事案も少なくありませんが、
多いのは別の群れとの家族の奪い合いです。

端的に言えば実家です。
一方配偶者の両親と他方配偶者との間での
一方配偶者の取り合いが行われて
両親が勝利するという図式が離婚の背景には圧倒的に多いのです。

これは、アメリカの離婚と離婚後の家族の研究科
ウォーラースタインの著作でも述べられています。

ウォーラースタインは離婚後の家族の心理面について
65組の家族を25年以上追跡して調査し続けました。
そんな彼女が
長続きする良い結婚とはどういう結婚か
ということを考察しました。
日本ではハルキ文庫で
「後悔しない結婚の条件」と題されて出版されましたが、
元々の題は’The Good Marriage’ です。

その中で、良い結婚になるための課題をいくつか挙げています。
その中の一番最初の課題として、
生まれ育った家庭からの自立
ということをあげています。

自分たちの両親と適切な関係を維持し続けるということが
もっとも基本的な良い結婚の条件だという指摘がなされたわけです。

それでも、この実家の干渉が本格的になるのは
子どもが生まれてからだと思います。
両親からすれば孫ですね。

どうも本能的に孫の取りあい、手なずけ合いが始まるようです。

平常時であれば、多少のことを老いた両親から言われても
精神的動揺もなく、一笑に付すことが可能です。

しかし、(男性も女性もそれほど変わりがないのですが、)
客観的には大きな理由もなく
不安を感じやすくなる時期、健康状態が人間にはあるようです。

その漠然とした不安がある時に
両親から夫婦の相手の悪口を吹き込まれたり
不安をあおられてしまうと
どうしても、夫婦間の信頼関係、帰属意識が揺らぐことがあるようです。

「この人と夫婦を続けていくことは
 この不安を抱え続けていくことなのだろうか」
と考えてしまうと、
その人との所属欲求が弱くなってくるようです。

親は、こちらにおいでということで盛んなアプローチを掛けますから
所属欲求の対象が親の方になってしまう
ということが多くの事件で起きているような印象があります。


さて、そこで名字の問題です。

名前はその人個人に与えられた記号ですが、
名字は家族という群れに与えられた記号です。

自分という個人を特定するために
家族名と個人名と両方をもって特定するわけですが、
その際、
結婚しても性別を改めないで
家族名を持ち続けていくことは
親とのつながりが絶えず意識されていることになります。
また、配偶者とのつながりが氏名からは感じられません。

これ自体が、
現代日本の離婚事情を後押しする条件になると思います。

また、別姓で生まれてきた子どもの名字をどうするか
と決めるまさにその時が
夫婦のそれぞれの親どうしの争いの火花が生まれ、
それぞれの親からのスカウト合戦になり
帰属意識が揺らぐ事情になる可能性が高いと思います。

そもそも、現代の孤立婚が問題なのだと思います。
昔のような、配偶者の親との結びつきが極端に弱くなっている。
あまり、打ち解けた交流すらない。

配偶者と子どもは、その家庭の中だけで群れが完結しています。

他の群れである学校、会社、地域等々の群れには所属するのですが
あまり仲間としての充実感を得られない
いじめやパワハラや、リストラ、無理な使われ方がなされ、
家に逃げ帰らなければならない悲惨な仲間が多いようです。

だから、一人ひとりにとって
家族というものがかけがえのないものに
変えるべき安心できる人間関係にしなければならないのです。

ところが夫婦が孤立しているということは
それだけで不安を感じやすい条件が生まれてしまうようです。
現代日本の夫婦は、離婚事件を担当していると、
孤立や関係解消の危険に無防備にさらされているように感じることが多くあります。
社会的構造から不安を感じやすいという側面を見逃せないのです。

それを若夫婦の親として応援するというよりも
自分の子ども以外を排除して
孫と片親とジジババで群れをつくりたいという形が
透けて見えてしまう。

親との関係では無防備な要素が色濃く表れているということが
今の日本の家族観だと思います。

家族の間で名字を別にするということが
とても危険なことでもある
そう思います。

確かに、本来は名字は個人の問題だから
国家が口を出すことではないということは正論かもしれません。

どちらかだけが親の名字を続け
どちらかが親の名字を捨てるということを押し付けられることは
なるほど不合理かもしれません。

特に圧倒的に専業主婦が少なくなった現代では
女性だけが名字を変えることが多いという現状の不合理は増大していると思います。

どちらも親の名字を使わないという第3の選択肢こそ
平等であり、円満な夫婦関係に役に立つ
とかねてより持論を持っております。

しかしこの説は、およそ論点になっていません。
誰も相手にしないでしょう。


また、個人がしっかりと家庭を作ればよい問題であるから
名字がどうなろうと関係が無く
自分たちは良い結婚生活を送っているという主張も多く見られます。

ここは誰を基準として、どんな人間観によって
婚姻制度を国家が考えるかという問題だろうと思います。

国民みんなが個人として自立しているのか
何らかの外部の影響を受けやすいのか
そういう想定する国民像も考えなければなりません。

選択的夫婦別姓という制度を設計することも
当然有力な選択肢ということになるのですが、
その制度化の家族の保護、強化という課題も
子どもの健全な成長という観点から
大いに考えられなければならないと思います。

どうも家族というユニットの現代日本における価値が
正当に評価されていないのではないかという危惧を
議論からは感じられてならないのです。



冒頭の続きですが
立法には、必ずメリットとデメリットがあるわけです。看過できないでデメリットが無い場合でも、デメリットをなるべく軽減させる手当をしながら立法を行うことが、少数者の人権を守る基本です。日本は、国会だけでなく、言論界においても、推進者はメリットばかり言ってデメリットを隠し、反対者はデメリットばかり主張して、メリットを認めない議論ばかりのような気がします。大変程度の弾く議論になっていると思います。多数決主義と民主主義の違いの分からない人たちばかりではないでしょうか。

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妻の子どもの連れ去り事例にみる、DVを感じる妻の心理構造と結果を出せない逆効果を招く夫の訴訟態度、目的遂行主義(職場)コミュニケーションを克服する必要性 [家事]



始めに断っておきますが
客観的に見て夫が悪いから妻が連れ去るというケースはあまりありません。
典型的な暴力や意図的な精神的虐待事案も多くはありません。
どちらかというと、妻が不安をあおられ
その不安が夫にあると思い込むケースが多いと思っています。

だから、良い、悪いという二項対立的なものの見方や
間違っていないのだから不利益を受けることはあってはならない
という非科学的な、古代宗教的な発想では
家庭の中では実際に何も解決しないと思っています。
それらは結果を出せない間違った思考ツールだと思います。

これからお話しすることはこのことを理解した上で
必要だと思った人だけに読んでほしいと思います。

まだ別居が起きていない人に対しては別居予防のヒントですし、
別居が起きた後の人には事態を悪化させないためのヒントとなると
私は思っています。

加えて女性が
どうしてこうなったのかということを理解するヒントになるのであれば
なによりの幸せであります。

<出産を経験した女性は多かれ少なかれ不安が生まれる>

出産前は天真爛漫な少女のような妻も
出産後は、おや?どうしたのかなと思うほど
物事を悲観的に見るようになるとか
くよくよするようなことを言ったりすることがあります。

それと同時に、家事のいくつかが苦手になることがあります。

実際は子育てしながらですから、
物理的に、時間的にできない場合もありますが、
特定の家事、特に片付け、掃除をやろうしなくなるように見えることが
かなり多くあります。

もちろんきちんとなされる方もいらっしゃるわけで
個性の違いはあるのでしょうけれど
多かれ少なかれ、このように何かをやるエネルギーが
足りなくなってしまったようになることがあるようです。

では夫がやればよいのですが、
例えば妻が片づけをやらないので
夫が片付けや掃除をしてしまうと
妻が逆上してしまうということも多くあって、
包丁を持ち出して片付けをやめさせようとした事例もあります。
良かれと思ってやったことで恨まれるわけです。

教訓としては、相手の心は難しい。
確認しながらやらなければならない
ということがまずあります。

この時点で私が何を言っているのだと反発する方は
つまり、片付けしないでごみ屋敷になっているのに
妻の顔色を見ながら行動をしなければならないということは間違っている
そんな妻なら、さっさと離婚して
正しく、衛生的な生活を送るべきだ
子どもが妻に連れていかれても、
再婚の可能性が高まるからよいではないか。
というお考えの方は、ここから先は読むのは時間の無駄だと思います。

精神面の調子によって
今までできていたのにどうしても、自分でもわからないけれど
できなくなってしまう、ということはあることです。
それなのにやらないことは間違っているので、それをしろということは
足を骨折したランナーに根性で走れというコーチみたいなものだ
という場合があると思っています。

その人の人格に関わりなく
精神面や行動面の負変化が生まれることがある
ということを理解することが必要です。
そしてそれは珍しいことではないということです。

自分の母親や姉妹、知人女性と比べてしまい
他の女性はそんなことはなかったということは
単なる知識不足です。
実際はラッキーなだけだったのだと思う必要があります。
人によって出方は全く違うけど
それは程度の違いに過ぎないのだと
そう考えた方が良いと思います。

<不安というフィルターを通してみるとしんどい夫の言動>

出産前、あるいは何らかの病気になる前だと
夫が同じことをしていても、
妻も「はいよ。」、「わかったよ。」と打てば響いていたことも、
不安というフィルターを脳にかけられてしまうと
悪く悪く考えるようになっていきます。

物事一般に安心することができない状態になってしまいますから
夫婦の関係が円満に続くかどうかの自信もなくなっているわけです。

ここで女性どうしだと
本能的に上手なコミュニケーションをとって
不安を最小限にとどめることをしているようです。

男性的コミュニケーションは目的遂行型ですから
一言で言えば指示命令です。
例えば職場で、指揮系統で上司が部下に指図をしても
もともとそういうものだという馴れもあるでしょうし
そうすることで効率よく利益を上げることができるし
無駄なコミュニケーションは一切排除する
という一つの理想形があるのだろうと思います。

私の言う女性的コミュニケーションは、
外向きの目的を優先しないコミュニケーションで
仲間を安心させることを目的にした内向きのコミュニケーションです。

これは会話をするというルーツが二つあることに由来しています。
一つの会話のルーツが、
危険を知らせて仲間を逃がしたり、
獲物を確実に獲得するために攻撃を指図するというルーツです。
これが目的遂行主義的コミュニケーションの由来ですね。

もう一つの会話のルーツは
サルの毛づくろいに由来するというルーツです。
サルはお互いを落ち着かせるために(安心感を与えるために)
お互いに毛づくろいをします。
しかし、人間に毛がなくなることが先か
あるいは仲間が増えすぎてしまったので
毛づくろいをしていると時間が無くなるという事情が先かわかりませんが、
会話をすることによって効率よく仲間を安心させる
これが会話のルーツだと唱える進化生物学者がいらっしゃいます。
とても有名な学説です。  ロビン・ダンバー先生

女性に多く見られる会話は、
仲間を大切にすることが目的のコミュニケーションですから、
本当は人間らしいコミュニケーションだと言えると思います。

今から200万年前の狩猟採集時代のサピエンスの先輩方も、
群れに帰還すれば、女性的なコミュニケーションをしていたはずです。

ところが、現代男性は知らず知らずのうちに
職場での目的遂行主義的なコミュニケーション方法に慣らされてしまって、
家の中でも、同様の会話、発想になってしまうことがあるようです。

家族で団らんする、リラックスする、安心させる
という内向きな目的を持とうとする発想が無くなり、
子どもを進学させる、正しく育てる、
規律正しい生活を送る
常に清潔にする、栄養を偏らないようにする
みたいな、どこかで聞いてきたことを実行しなければならないと思ってしまう

また、目的を持たない会話は無駄だなどと
TPOをおきまえないとしか思えない発想になるようです。
職場の発想からすると
何も生まない家族の会話はイライラしてしまうことなのかもしれません。

職場と家庭は目的が違うということをしっかり認識しなければなりません。

<目的遂行型コミュニケーションとは何か>

目的遂行型コミュニケーションは、
目的がより効率的に達成できるため
無駄を排除し、最短距離で目標を達成しようとするためのものです。

職場では、何を目的とするかの暗黙の了解があるのだと思います。

このため、職場のコミュニケーションは
やるべきことを明確にして指摘する。
具体的やり方は省略して求める結果だけを提示する。
間違いや不足を明確に指摘し、改善を要求する。
改善を確実にするために、反省を要求する。
同じことを繰り返して言わない。

上司の一方的指示または
上司の求めたことだけを部下はフィードバックするという形の
実質的には単方向的なコミュニケーションになりがちです。

相手の感情や状態について配慮しない。
あっても不動文字で予め印刷してある。
自分が指示したことを
相手がそれを遂行してもいちいち感謝は言わない。
やることは当たり前だから称賛するということもない。
できて当たり前ということですね。

間違い、失敗、不十分点は見逃さない。
間違い、失敗、不十分に対する反論は
ずるい言い訳であると感じる。

それはやるべきことだから
やるのが当然でやらないのが悪だと思っている。

どうでしょうか。極端にお話ししましたが
思い当たるところはありませんか。

これを家庭に持ち込まれてしまったならば
生活に潤いがなくなりますね。
職場コミュニケーションは緊張を強いるということも理解できると思います。
夫がいれば、家族は緊張を強いられるということになってしまいます。
緊張が持続することに、人間は耐えられません。
一緒にいることに喜びが感じられません。
どうして一緒に生活する必要があるか
金銭だけの関係になっていく危険がここで生じるのかもしれません。

良心的な方の中には、もう聞きたくない方もいらっしゃると思います。
そういう方は、ここからさらに苦しくなるので、
今日はここで終わりにされた方が良いかもしれません。

<目的遂行型コミュニケーションの最大の犠牲者は妻かもしれない>

それでも、子どもとの関係だけは
目的遂行型コミュニケーションが緩和されます。
本能的に子どもをかわいがる男性は多くなりました。
元々日本人は、つまり欧米の影響が生まれる前までは
今よりももっと子どもをかわいがっていたようです。

このかわいがるとはどういうことかということなのですが、
弱い仲間を守ろうとする人間の本能だと考えると
話は分かりやすくなります。

もう一つ理解していただきたいことは
人間の脳は同時に複数のことをすることができないということです。
それなので、
みんなを平等にかわいいと感じることは本能的にできることではない
ということが言えると思います。

誰かをえこひいきすることで家族の外の誰かを傷つけないためには、
理性が必要なのだということです。
考えなければならないということです。
自然体ではだめだということです。

自然体でいてしまうと
一番弱い者だけをかわいく思えてしまい、
それ以外の人をかわいがるということができなくなる
となるわけです。

だから、小さい子が生まれてしまうと
お兄ちゃん、お姉ちゃんに愛情を持ちにくくなるのは
自然の原理なのだと思います。
だから、理性を使ってかわいがらなければならないわけです。

こういう弱い仲間を守らなければならないという感情は、
責任感、正義感の強い人、真面目な人ほど強くなります。

その結果、子どもが二人も生まれてしまうと
末っ子ばかりがかわいくなり
そのお姉ちゃん、お兄ちゃんがそれほどでもなくなり、
自分以外の家族の構成員で一番弱くない妻に配慮することが
おろそかになる傾向になってしまう
ということになるのではないでしょうか。

悪意ではないのです。
人間の能力の限界ということになるのですが、
理性を働かせないというところに問題があるとも言えるでしょう。
でも誰からも教えてもらえないですし
誰からも「さあここだ。今こそ頭を使え」
と言われることはありません。

特に小さい子を守ろうとすると
小さい子に対してのみ共感力が働いてしまい
その結果、大人に対する共感力が薄れてしまう
という脳の構造の問題もあります。

こうなってしまうと
小さいものを守らなければならないというフィルターを通してばかり
妻の行動を見てしまいますから
小さい子のために、あれをしなければいけないこれをしてはいけない
という意識が強くなってしまうわけです。
妻の足りないところ、間違っているところだけが
目に入ってくる(脳内で認識してしまう)ようになってしまうということです。

加えて人間は仲間を守る行動をしているという意識があると、
怒りが沸き上がるという特質があります。
(この性質があったため、仲間が野獣に襲われても
 無鉄砲にみんなが集合して反撃して人間は絶滅を免れた
 と私は考えています。(袋叩き反撃仮説))

仲間を守らなければならないという意識は、
仲間に害を与える人間を本能的に敵視してしまうのです。

相手が憎いから怒るというよりも
目の前の仲間を助けようとする気持ちが
怒りとして表れてしまうと考えるとちょうどよいかもしれません。

子どもを連れ去られたご経験のある方は
同じ思いをされていると思いますのでよくわかると思います。

だから、相手の個性である能力の限界、その時の相手の様々な条件、
あるいはその時の状況ということは捨象されて
一番弱い者の状態だけで
相手に対する感情が決まってしまうのです。

子がいる家庭では
子どもを守ろうとして
大人同士が相手の行動に干渉し、
子どもの立場を想定して
相手に対して過酷な要求をすることが多くなり、
配慮も遠慮もしない言動がなされることがあります。

(これは無意識に、子どもの理解者は自分だけであり
 子どもは自分に懐くべきだという
 客観的には、家庭内の子どもの取り合いに発展することがあります。)

怒って行動すると軌道修正ができなくなる
ということもあると思います。
引っ込みがつかなくなるのです。
つい言いすぎるということはこういうメカニズムです。

子育てが終わるころになってようやく気が付くのですが、
あんなにムキになって主張した子どもへのかかわり方の
大部分は実務的に意味のないものでした。
どっちでも、子どもの成長にとってあまりかかわりのないことで
そこで生まれた夫婦の軋轢こそ
全くの無駄なものだったということです。
無駄に相手を傷つけてしまったという懺悔だけが残ります。

<目的遂行型コミュニケーションにさらされた者の心理>

さて、目的遂行型コミュニケーションと
子どもを守る意識と無意識の敵視
こういう行動をとる家族と同居している者の心理を想像しましょう。

しかも、ここには下地となる
理由のわからない不安があるということを忘れないでください。

そもそも、漠然とした不安がある
夫婦という関係もいつまで続くのだろうという不安も
その人が持っていることもあるかもしれません。

そんな中で、ふと気が付くと夫との会話は
最後に入った者が風呂を洗うという約束があるのに果たされていないとか
どうして食器を食べたまんまにして洗って片づけないんだとか
冷蔵庫の中の食材の賞味期限が切れているとか
使いもしない物を買ってくるなとか

確かに言われた通りなのだけど
やらなくてはならないことだけど
忙しかったり、他のことをしなくてはならなかったりとか
あるいはどうしてもやりはじめる気力がわかないとか
やろうとしてもできない。

忘れただけことをそこまで言うの?ってくらいしつこく言う。

はたまたしょっちゅう言われる自分こそどこかおかしいのだろうか。

それでも頑張ってやっているのに
感謝なんて望んでいないけれど
嬉しそうな顔をすることもない。
せっかく作った料理もおいしいのだか何だかわからず
テレビを観るついでで食べているようだ。

料理がおいしくないのだろうか。
自分の作り方が悪いのだろうか。

また、うっかりしていたことを指摘された。
子どもの前で言われることが辛い。
子どもが慰めてくれることが救いだ。

私と一緒にいることが嫌なのだろうか。
でも子どもがいることが救いだ。
子どものために頑張ろう。耐えよう、我慢しよう。

(しかし、緊張が持続すると、ミスをしやすくなります。)
(自分の行動のコントロールが難しくなります)
(どこでミスをするのか、どうして失敗するのか
 わけのわからない状態になります)

うっかりしていると夫から指摘されてしまう。
夫が帰ってくると、悪い指摘だけがおそってくる。
わけのわからないところから攻撃を受けるから
攻撃を受けないことは不可能だ。
夫は私を攻撃するためだけに生きているのではないか。

そういう意識が持続していくと
夫は自分を敵視する存在であり
夫と同居していると自分を守れない
という無意識に危機感を抱くようになります。

この無意識の危機感は、嫌悪感、恐怖感として意識されるようになります。
夫がいると常に緊張状態が持続してしまい
夫の帰宅時間が近づいたと思っただけで
脈拍が増え、血圧が高まるようになります。

街で買い物をしているときに夫の背格好と似ている男性を見ると
凍り付いて動けなくなるということが起きるころになってしまいます。

妻は夫が自分に敵意がないということを
理解することができなくなっているようです。

このような不安や緊張を感じると
人間はいち早く緊張や不安から解放されたいとするようです。

この持続がさらに継続すると
不安解消要求もさらに強くなってしまい、
この緊張や不安から解放されるならばどんな方法でも良い
とにかく解放されたい
という意識になっていくようです。

これを誰かに相談すれば
相談を受ける方は
そんなに異常なほど不安や緊張状態にあることはおかしい
おそらく夫のDVがあったはずだという先入観が生まれます。
(マニュアルの構成からそう誘導されています)
とにかく不安と緊張に苦しんでいる目の前の人間を
助けたくなるのが人間の本性ですから
実際は何が起きているのか分からなくても
仲間を守るためにその相手を敵視するという行動パターンで
「あなたは悪くない。それはモラハラです。」
などと無責任な発言をしたくなるわけです。
実際は相談担当者自身の聞いていることによる苦しさを
軽減しようとするためです。

こう言われたら妻は夫に対する怒りを持つことができます。
怒りを持てば不安感情は後退します。
一時的に不安を感じなくてすむようになります。

あとは「皆さんもそうしてますよ。」という形で
子どもを連れて別居という不安解消方法を
しないという選択肢は無くなってしまうわけです。

別居して離婚して不安がなくなる人もいるでしょうが
多くの人は不安を持続させています。
元々の不安の原因は放置されてしまうからです。
全部夫のモラハラで終わりになってしまうからです。

夫に怒りを持つことで不安を解消する。
こうやって離婚後も葛藤の強い人間が作られていくわけです。

<別居後に続く目的遂行型コミュニケーションの行動>

いま述べてきたことは妻側の心理を推測したものです。
しかし、夫の見える風景は全く別物です。

夫は何も「間違った」ことを言っていません。
心の中では妻に感謝している人も多いのですが
それを外に出さないだけの人も多くいらっしゃいます。

自分の行動が間違っていないのだから
言われた妻も理解していることだという感覚しかないでしょう。

結婚してから別居まで
一貫した行動をとり続けているという意識であろうと思います。
おそらく誰しもそうでしょう。

おそらく多くの男性が妻に対して行なっている通り
ご本人も行なっていただけでしょう。
ただ、奥さんは、不安を感じやすい状態になっていた。
その知識も発想も気づきもないのは
現状ではやむを得ないことかもしれません。

しかし、結果として妻は子どもを連れて出て行ってしまった。
どうしてそうなったのか理解できないということが通常でしょう。
また、連れ去られた夫の少なくない割合で
妻に対してもそれなりの配慮をしていて
仕事で疲れていても、旅行や外食に積極的に参加して
車を運転しているのです。

その写真には仲良く笑っている家族が写っています。

それなのに
妻側の弁護士の作成した文書を読むと
身に覚えのないDVをしていることになっているし
精神的に虐待していることになっている。

思い当たる出来事もあるけれど
事実は全く違っている。
例えば、犬の毛を処理するために
ペット用のハサミをもってペットを呼んでいたら
ハサミを家の中で振り回して大声で怒鳴られた
ということになっているわけです。

あまりにも理不尽なことを妻から言われて
あまりにも不合理な気持ちになったので
むしゃくしゃしてゴミ箱を蹴っ飛ばしたら
ゴミ箱を子どもに向けて蹴っ飛ばして
危うく子どもが大けがをするところだった
ということになっているわけです。

それはお怒りになることは当たり前でしょう。
役所も警察も自分が暴力夫だと思っていると感じると
自分は社会の脱落者にされたと感じるのも当然でしょう。

同じ出来事でも
夫と不安を持っている妻とでは
感じ方がまるっきり違うようです。

価値観が目的遂行至上主義コミュニケーションから
協調第一主義コミュニケーションに切り替えなければなりません。

目的遂行至上主義は
目的を遂行するためのルールが設定されていて
ルールに従うことが当然の約束事になっています。
不合理なことは是正されなければならない約束事になっています。

これが裁判所や法律に幻想を抱く要因だと思います。

不合理は是正されなければならない
ルールを逸脱するということはあってはならない
権利は実現しなければならない。

この考え方が間違っているとは言えません。

特に、連れ去り別居の後は、
裁判所が関与するわけです。
裁判所は法律によって行動するのであるし
法律は不合理を正すためにある
そういう思い込みを持たれることはやむを得ません。

しかし、法律は完ぺきではありません。
裁判所も同様です。
不合理が是正されるとは必ずしも言えない。

子どもに会うことも、裁判所を通してやってもなかなか実現できない。
子どもを会わせない親に対して裁判所は厳しくいってくれない。
自分の権利が実現されない
と感じている当事者の方はかなり多いのです。

それにも関わらず、
親なのだから子どもに会う権利がある
子どもを会わせないのは憲法違反だ
居場所を教えろ
勝手に出て行ったのだから生活費なんて払えない。
言ってることは全てでっち上げだ。嘘つきだ。

と「正しいこと」を堂々と主張してしまいます。
間違っていませんけれど決定的な問題は
それを言ったところで結果はでない
ということなのです。

むしろ、それを言われた妻は
夫は相変わらずであり、
このまま子どもを預けたらそのまま連れ去るのではないか
顔を合わせたらまた何か言われるのではないか
近くにいると何か良くないことが起きるのではないか
と、
遠心力だけが働いてしまいます。
どこまでも遠ざかろうという意識だけが高まっていくわけです。

目的遂行至上主義は
家庭問題では役に立たず、逆効果ばかりが生まれてしまいます。

それでも正しいことを言って
正義を貫いて
敗訴なら敗訴で仕方がない。
こう割り切ってもらえるなら代理人としても楽でしょう。

自由気ままに、自然な感情のまま
相手の不合理さを責めたてていながら
元の家族に戻りたい
というのは、これは実際は矛盾しているのです。
職場コミュニケーション的に言えば
結果を出せない方法論だということになるでしょう。

だから、はっきり目標を定める必要があります。
法律論で裁判所に賛同をもらい勝つことが目標か
(このために相手の心はさらに遠くなっても構わない)
法律論、裁判の結果はともかく
相手方と少しでも歩み寄って
家族として再生する方向にしたいのか。

局面局面でどの選択肢にするのか
実は大変難しい問題で
子どもためにも敗訴を恐れず
正々堂々と主張を尽くさなければならない時も
実際は存在します。

また、子どもの将来のためにも
妥協できるところとできないところは見極める必要もあります。

いたずらに、妥協をしまくることをお勧めしているわけではありません。

しかし、家族再生の方向を目指すという場合は
目的至上主義コミュニケーションという思想から
一度離れる必要があります。

やらなければいけないのだからやれ
義務は果たさなければいけない
私の権利は実現されなければならない
相手の気持ちなんて考える必要もない
という発想を離れなければなりません。

どうすれば相手は対話をするようになるのか
相手が自分を拒否する理由はどこにあるのか
今自分には何かできることがあるのかあるとすれば何か
子どもを会わせないという気持ちを緩める方法はないか。
つまり結果を押し付けることをやめて
「結果を誘導してあげる」という発想が必要です。
童話の「北風と太陽」のこずるい太陽の発想です。
真面目な人はどうしても北風になってしまうようです。

大ざっぱに言えば相手を安心させる
という方向に向かって方法を考えるということだと思います。

子どもの連れ去りがある時に
調停や裁判を起こせるということ、あるいは起こされるということは
実はまだ救いがあります。

最も悲惨ケースは
子どもを連れ去って、どこにいるかわからず
裁判や調停すらなく、生きているか死んでしまったのかもわからない
こういうケースだと思います。

裁判や調停があるということは
それなりのコミュニケーションが取れるということです。
うまく利用すれば、相手を安心させることもできるかもしれません。

針の穴を通すような無謀なことかもしれませんが
面会交流が実施されて自由度が拡大していくケースは
これが成功しているケースです。

それでも復縁まではなかなか難しいことが実情です。

でも、相手を安心させることが成功することは
最終結果が出なくても
安心感の記憶が少しずつ定着していくことになることは
間違いありません。
将来に向けた安心のコミュニケーションの下地になります。

このためにもご自分の気持ちを制御する必要があります。
子どもを連れ去られて、ありもしないことを言われて
それでも金を支払えと言われれば
誰だって逆上したくなるわけです。
でもそこで逆上して
俺は悪くないということで終わってしまったら、
子どもたちは親に会えないまま自己形成をしていかなければなりません。

家族の中の誰かが、
家族全体のために自己の感情を犠牲にしなければならないのだと思います。
それが子どもであってはならない
そう思うのです。

自分の感情を制御すること
当たり前だと思っている価値観に反しない行動に対する不利益
それを受けるときに自然に湧き上がる感情を制御するということは
普通自発的には出来ないことだと私は思います。

どうしても、それは、他人の支援が必要です。

その他人は、あなたの感情に寄り添ってはなりません。
あなたは悪くないと言われてしまうと
自然の感情のまま相手とコミュニケーションをとってしまい
逆効果にしかなりません。
あなたの目的のため、あなたの感情を結果的に否定する
そういう人でなければなりません。

それがあなたの弁護士であれば
本当は一番良いのでしょう。
私がそれがうまくやれるかと言われれば
自分こそ自然感情放出型という自覚もありますから
なかなか手を挙げることはできないでしょう。

しかし、こういう発想を頭では持っている。

こういう発想の下で、
家族再生の方向を目指す当事者の方が
全国で増えてきているようです。

当事者でありながら
そのような志を持たれるということに
最大限の敬意を感じざるを得ません。
頭が下がります。

しかし、そのような方が多くなったにもかかわらず
そのニーズにあわせた弁護活動をする弁護士が
(実際は多くいらっしゃると思うのですが)
なかなか見つからない。

できれば、ご指導いただく心理士の先生やお医者様も
当事者の方に紹介したいし、教えも請いたい
一緒に家族再生のノウハウを向上させたい
と思っているのです。

どうしたらよいかわからない。
内弁慶のようにブログを亢進するしか能がない自分を
申し訳なく思っている次第です。

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現代に受け継がれて私たちを今もなお苦しめる生きづらさの根源としての戦争という負の遺産 国策でつくられたジェンダー 目的遂行至上主義の由来と対極の価値観とは。 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

つい76年前まで日本は戦争をしていました。戦争というのは、戦争をする人たちだけが闘うわけではなく、国を挙げて戦争を遂行する態勢を作らなければなりません。表立って戦争に反対できない状態を作ってこそ、国家として戦い続けられるわけです。
この戦争態勢づくりは、明治政府によって周到に準備されました。富国強兵政策を徐々に国是として浸透させていき、他国に戦争で勝つということを多くの人たちの共通の価値観にすることに成功しました。この価値観は、軍隊の仲だけで成立するものではなく、家庭や職場、地域など、様々な人間関係の中で戦争体制の価値観づくりをする必要があり、実際にそうしていました。
戦争の価値観とは、突き詰めれば敵に勝つということでしょう。敵に勝つためには、合理的な作戦をたて、軍隊が作戦の元に統一した意思の下、無駄な行動や自分勝手な行動を行わず、上司の命令に忠実に行動を行うことが必要です。このために厳しい上下関係があり、下の者が上の者の意見に逆らうことは厳禁でした。軍隊の対人関係は、下の者は命令通りコマとして動くという関係とも言えるでしょう。
この観点から否定される考え方として、下の者が自分の頭でものを考えて行動する自由、目的と関係の無い娯楽を楽しむこと、目的遂行よりも仲間の笑顔を大切にすること、安心して緊張をしない人間関係、多少の命令違反行動、自分の体調や感情を優先すること等はすべて否定されるわけです。また、いちいち上官が部下の行動に感謝したり、自分の間違いを謝罪したりすることは、むしろタブーだったのでしょう。身分にそった関係を維持することが命令を遂行するために必要だとされたのだと思います。
このような戦争遂行の価値観は、次第に家庭や地域に浸透していったようです。それまでの夫と妻の関係が役割分担から上下関係になっていったのも、富国強兵政策からではないでしょうか。童話も、立身出世や悪い敵は殺されるべきだという勧善懲悪というものばかりになっていったようです。「貞操」という観念も、自然な愛情にもとづくものではなく、兵隊さんが安心して戦うための道具となり、姦通罪という罪が設けられました。
戦争遂行の価値観は目的遂行至上主義的な価値観だと言えるでしょう。これと対立する考えは、仲間の和、協調至上主義とでもいいましょうか。外向きの目的ではなく、内向きの目的と言っても良いかもしれません。目的を何も持たないというところでは、あまり価値観と呼べるものはないのかもしれません。
この戦争価値観は、1945年まで作られ続けました。敗戦と同時に一挙に崩れたと多くの人たちは考えたことでしょう。
しかし、人間の考え方、行動様式、社会の仕組みは、戦争が終わったからといって、簡単に変わるものではありません。例えば戦後直後の闇市時代は、生きていくという最低限の目的すら容易ではなかったことから、生きていくという目的遂行主義的な価値観が支配していたのではないでしょうか。この時仲間を脱落させないで協力して生きていこうという価値観もありえたのでしょうけれど、戦争的価値観の残存によって、自分が生きるためになりふり構わないということが否定されなかったという側面があると思います。ここでいう「生きていく」というのは、生物個体として生命を維持するという意味です。生きていくためなら、法律を守らないということが、非難されることはなかった時代です。こういう時代を経験したことも、日本国民にとってとても不幸なことだったと思います。ルールを守らないことを誰からも非難されない時代は社会秩序の観点からは深刻な影響を与えたと思います。
大きな目で見ると、戦後の荒廃から復興をするために、客観的にはやるべきことが多くありました。日本を復興させるという目的遂行に大きな価値観をおかれました。一方で高度成長経済に向かうために、職場の中での目的至上主義は形を変えて継続したのだと思います。戦争的価値観が素地となったことから、すんなり受け入れられたという側面があるはずです。利益を向上させるために、個人の自由を犠牲にすることが、多くの人に当然のことだと受け止められたものと思います。高度成長までは、目的遂行価値観の下で身を粉にして働いたのですが、敗戦直後を基準として考えた場合、目に見えて生活が向上してきたわけですから、その価値観をだれも疑わなかったでしょう。
では、家庭はどうだったのでしょう。
明治の富国強兵から終戦まで、家庭も徐々に戦争遂行のためのツールと位置付けられていったと思います。明治以前は、あまり男女の風俗には違いがなく、上流階級や都市部を除くと、服装も髪型も男女という区分けがそれほど厳密ではなかったようです。明治初期に東京市など各市が定めた違式詿違条例(いしきかいいじょうれい)というものがあり、女性が男性の服装をしてはだめだとか、女性は散発をしてはだめだとか、主に外国人の目を気にして、庶民の生活様式に干渉を始めました。これを裏から見ていると、庶民の中では、それほど女性らしさというものに価値観をおいていなかった様子が見て取れます。また、江戸時代には「女大学」なんて文章もありました。いわゆる女らしさとはこういうものだからこうしろという内容です。これも裏から読むと、そんなことが女らしいという共通の価値観はなく、女性らしさに縛られない女性の生活様式が是認されていたから、これを改めて女性らしさのある生活にしろと言わざるを得なかったということなのだと思います。
女性が男性より一歩引いて男性を立てるという行動様式は、考えてみれば不自然なことです。いろいろな男性がいて色々な女性がいるのですから、女性が主役の家庭があってもちっともおかしくないわけです。どういう家庭を作るかは各ご家庭が決めればよいことです。実際にもいろいろな家庭のスタイル、人間関係があったことだと思います。また、武家以外は、男性と女性にそれほど就労形態に差があったわけではありませんから、自然な形では、ステロタイプの男女差は生まれにくかったはずです。家事も重労働だったし、時間がかかることでしたから、家事労働は今よりも格段に高い価値が認められていたはずです。
男性に一段高い地位を与えたのは、国策だと思います。これによって男性に、家の代表という意識を植え付けることになったはずです。それは次第に、家庭を守るのは男性の役割だという意識付けを与え、それから家族を代表する社会の一員という意識付けを与え、国を守るという意識付けを付与させていったのではないでしょうか。すべての男性が、プライドを持たされ、戦う兵器に作られていったのだと思います。男性であるから、大きな視点を持たなければならない。社会のために、国のために役に立とうとしなければならない。立身出世を目指さなければならない。それは自分が貢献して戦争に勝つことだということです。こんな発想が自然発生的に生まれるはずがないと、現代に生きる私は思います。男性は血筋を残す存在から、兵隊としての任務を遂行する存在に位置付けられ、女性は男性を強い戦士にするという役割を担わされたのではないでしょうか。男尊女卑という明治以前の一地方の風習が、日本全土で強制されるようになったわけです。
例えば職場で、戦争価値観が形を変えて残存したように、家庭でも戦争価値観がそれほど簡単に消えたわけではないと思います。男は強くあるべきだ、泣くような子は男ではない、男は弱音を吐かない、すべて戦争遂行に都合がよい価値観です。戦前に生まれた親たちは、どこか戦争価値観の影響を受け、教育をはじめとする行動様式に、男らしさ女らしさを良しとしてきたはずです。
このような変化は、時代の社会構造を反映しているもので、社会構造との不具合が顕在していく中で消滅していく運命にあるわけです。1945年に戦争が終わりました。10年余りは復興のために目的遂行至上主義のもと戦争価値観を利用して国民は働きました。その後戦争価値観は高度成長期を可能としたわけです。男性が外に出て働いて、女性が家を守る。男性は猛々しく7人の敵と戦うべしということでしょう。
しかし、同時に変化も生まれてきました。女性の社会進出です。もともとテストとか就職試験の解答能力に差があったわけではありませんから、目的遂行主義的な男女観さえなくなれば、女性がどんどん進学するようにもなりますし、消費のために働いて収入を得る必要も高くなります。学校でも男女平等が進められますから、どうしたって、男性だからと言って立てられる必然性が無くなります。女性の猛々しさやリーダーシップを発揮することに、国家がストップをかけるということもなくなりました。また、高度経済成長の時代にあった働きに応じて所得を得るという実感が、高度成長期の終わりころから無くなっていくわけです。見返りが乏しくなったのに、これまで通り働くのは馬鹿らしくなるわけです。目的至上主義が国民全体の価値観だったのに、自分には何のメリットもないということが少しずつ浸透していくのは必然でしょう。バブルも、特殊な業界だけが恩恵を受けて、また、努力や勤勉さとは関係の無いところばかりが特別に潤ったということですから、目的至上主義に基づく勤勉な就労は魅力がなくなったはずです。
目的至上主義が国民から遊離してきたと同時に、男性だけの就労では国民の大部分が望む生活が不可能となりました。女性も安い賃金をいとわず働かなければならなくなりました。男性がリストラにあい収入が無くなり、女性の収入で一家が生活をするということもそれほど少数の話ではなくなります。
ここで一気に男性を立てるという行動様式の意味が失われてしまう社会構造がととのってしまったということなのではないでしょうか。子ども向けの娯楽が、戦前の立身出世、勧善懲悪の絵本から、戦後は正義を口実とした人殺しの戦隊ものという勧善懲悪に変わり、バブルの崩壊とともに女性の戦隊ものという勧善懲悪噺に変わっていくのは、社会構造をきれいに反映させているように思われます。
家事事件などに携わっていると、夫婦の親たちの間にこの戦争価値観に基づく家族形態の争いが起きているように感じることがあります。男性の両親は嫁に立てられない息子はとても不憫だと思う一方、女性の両親は女性だからと言って家事などを押し付けられることは不合理だと思い、本当は当事者にとってはどうでも良いことなのに、それぞれの価値観を押し付けて対立をあおる。こういう図式による離婚事件がしばしば見受けられます。二人はどっちでも良いですし、徐々に合理的な形に収れんされることなのですが、わが子のことだということでムキになるわけです。
もし、男をたてない家庭で寂しい思いをしているということであれば、それは無駄に寂しくなっているということになります。要するに一世代前に合理性があった、戦争遂行という観点からの合理性があった価値観の残存物に縛られているということが実態だろうからです。しかし、戦前に生まれた親の子である私たちの年代では、価値観がどこかにしみついていて、感情的反応が起きてしまうことはあり得ることです。
このように、家庭内においても、男女の役割観というものが、戦争遂行のための作られた価値観ということで作出され、戦争が終わってから80年近くが経とうとした現在も、その合理性が無くなったにもかかわらず、価値観の残存物があり、影響を与えて続けているのだと思います。戦争の価値観というものは、男女の問題や軍国主義や国家至上主義というような政治的な様式や政治的な価値観だけにとどまらない幅広い構造を持ったものなのでしょう。反戦活動というと、政治構造や政治的イデオロギーに目を向けがちですが、家庭や職場、あるいは学校教育やスポーツの中に形を変えて生き続けているということになかなか目が届かないようです。私たちの考え方や感情に影響を与える戦争価値観についてはもっともっと分析が必要だと思います。ブラック企業や非正規雇用、リストラや成果主義的賃金体系等は、私はこの戦争価値観をスライドさせて利用していると考えています。学生生徒の部活動や受験競争等はとても分かりやすい戦争価値観由来の目的至上主義ではないでしょうか。未だに他者を攻撃することが目的達成のために必要不可欠な方法論だということが社会の中で無意識に是認されているように思われます。これが現代社会の生きづらさの根源にあると私は考えています。
現代においてもなお、外に向けた目的だけが目的として是認されてしまい、仲間と協調すること、安心できる仲間づくり、緊張感を伴わない仲間づくりという、外向け目的至上主義の対極にある内向き目的主義的な価値観が、未だ価値を認められない状態に取り残されていることが大問題だと思うのです。その理由は、国策でつくられた戦争遂行のための価値観についての分析が行われないところにあるのではないでしょうか。そしてその価値観に基づいて、幸せになる、楽しく生きる、充実した人生を送るということに価値が認められない。そういう価値観の在り方を放棄しておいて、戦争にだけ反対するということだけを推し進めるといっても、幸せな楽しい充実した人間の在り方には近づかないでしょう。新たな緊張が拡大再生産されるだけではないでしょうか。
もう一つ、この生きづらさを戦争遂行のための国策で作った価値観の残存物だという考えが正しいとしたならば、それを是正する方法も見えてきます。これと違って、現在の生きづらさは人間という生物に不可避的に備わった負の性質にもとづくものだと考えてしまう場合は、人間集団の再構築は不可能な幻想だということになるでしょう。同時にそのような考え方は、戦争価値観をスライドさせて利用して私たちを苦しめる制度に対して根源的批判ができなくなります。これは、戦争遂行価値観を利用して利益を上げている構造に目隠しをするということですから、彼らにとってはとても都合の良い主張だということになるでしょう。
日本を動かしていると自負している人たちには考えてほしいところです。戦争は長期化すると民は疲弊してしまい、勝っても負けても深刻な影響ばかりが残ってしまいます。戦争により疲弊する理由は、人間は緊張感を長期間保つことを予定していない動物だということにあります。戦争価値観によって、緊張感の持続を強いる社会は、やがて疲弊して滅びてしまうでしょう。未来に明るい希望を持たない若者たちばかりになると、国家は著しく衰退するでしょう。また、国民の不満、不安の蓄積は、現状が維持されなければそれでよいという、不安解消要求を招き、とんでもない人たちが政権をとる可能性があることを昨今の選挙では目の当たりにしているところです。
国民の緊張を軽減させ、孤立を解消させ、家庭、職場、学校、地域の仲間づくりに価値をおいた価値転換が図られるべきだろうと私は思います。

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コロナ禍モデル 典型的な思い込みDVからの子ども連れて別居の構図 [家事]

コロナ禍は連れ去り別居が増えていると思います。
それはDVが増えているということでなく
そもそもなぜ連れ去り別居が起きるのかということを考えれば
それが起こりやすい環境だからということになると思います。

<子連れ別居の下地には不安がある>

子連れ別居や思い込みDVの主張の根本には
曖昧な不安、漠然とした不安があることが典型的です。

産後うつや不安が出てくる内分泌系の疾患等
特にはっきりした理由がないけれど不安を感じてしまう
という状態がベースになっています。

単体の病気で不安が生じるというより
不安を感じやすい状態のときに
たたみかけるように不安を起こしやすい出来事がある
という感じが典型的の様です。

元々不安障害があったり、内分泌系の疾患がある中で
出産に伴う産後うつで、不安が増強したり、
生まれてきた子どもに軽度の障害がみつかったり
等です。

元々何らかの疾患があって不安を感じやすい人が
出産をして
さらにコロナの不安におびえれば
子連れ別居の下地が厚く塗られている状態なのだと思います。

<間違った不安に対する対処の典型>

このような漠然とした不安に
家族として付き合うこともなかなかメンタル的に大変なことです。
いつもくよくよと起こりえない心配事を言葉に出しているので
こちらも気がめいってきます。

プラス、夫婦ということもあり何とか元気になってほしい

という複合的な理由から励ましてしまうことが
失敗の典型例です。

例えば
「コロナだってなんだって死ぬときは一緒だから
 あまり心配過ぎても仕方がないじゃないか。」
という励ましです。いや本人は励ましているのです。

しかし、不安を抱いている人からは
自分の不安が馬鹿にされているのではないか
自分の心配はどうでも良いと思っているのではないか
私を人間として認めていない
私だけが損をしている。
という具合に感じることがあるようです。

元気を出してほしいということプラス
自分のためにくよくよしたことを言わせないようにしたい
というそういう部分は、不安を感じている人はよくわかるようです。
あるいはそう感じやすくなっているようです。

励ますときの正解例は
「コロナいつ終わるかわからないから嫌だよね。」
「いつうつるかわからないから心配だよね」
というように、
相手が心配していることを肯定することのようです。
(個人差はあるかもしれません)

どうも不安を感じている人は
あわせて孤独を感じているようで、
仲間が近くにいるということが意識できて
私だけじゃないんだと感じた方が
不安が軽減するようです。

「ああ。この人はなんて優しい人なんだろう」
と思われることがあるようです。
(個人差はあり)
こんなことで喜んでくれるのだとすれば
どんどん共感を示すべきでしょう。

ところが家族が自分の不安を否定するものだから
孤独の感情がますます激しくなる。
そうすると、家の外に仲間を求めてしまう
ということはわかりやすいと思います。

<漠然とした不安は、特定の誰かを攻撃するときは感じないですむ>

不安が積もり積もってゆき
家族がそれを解消してくれないとなると
強くなっていく気持ちは
「不安を解消したい」という気持ちです。

不安で苦しむというより
不安を解消したいのに方法がない
という形で苦しんでいるような感じもします。

そこで怒り、攻撃が起きる下地が生まれているようです。

人間の感覚って、どうやらマルチに働くことは難しいようです。
つまり一つのことしかできない。
痛みも本当はあちこち痛いのですが
肩こりを感じているときは腰痛を感じにくく
眠い時は食欲を忘れるみたいな
どれか一つということが結構あります。

不安で逃げたいという感覚と
怒りで相手を攻撃したいという感覚は
同じ危険意識に対する反応ですから
両立は起こりにくいわけです。

例えば夫の悪口を言って怒っているときは、
漠然とした不安が感じなくなっているわけです。
漠然とした不安は消えませんが
怒りを感じているときは不安から解放されます。

この不安を忘れる体験というのは
麻薬のようなもので
どうもそちらにむかっていくことを
自分では止められない
ということが起こるようです。
しかしながら、そのことに気がついてはいません。

<誰が夫に怒りを向けさせるか>

1 行政・NPO

とにかく妻に不安の気配が漂い
援助希求があからさまに出ている。
誰しも何とかしなくてはという気持ちがあり
その何とかする役割が自分にある
となれば、
その人の不安に寄り添わなければならない
ということになるようです。
寄り添うことは、その人を疑わないこと
という間違った安直な図式がマニュアルであるようです。

話を聞くのはよいでしょう。
初めから夫のDVを引き出そうと思ってはいなくても
(思っている確信犯は確かに存在するようです)
マニュアル通り聞いていけば
(虐待の早期発見が任務だということから
そういうマニュアルが作成されるのかもしれません)
夫の至らないところが必ず出てきます。
(人間ですから)
そうすると、もう決まりきった文言が出てきます。
  「あなたは悪くない。」(悪くはないです。)
  「それはDVです。モラハラです。」

そうすると妻は、
「自分が悪いのではないのだ。」と自信を持ち
「悪いのは夫なのだ」と矛先を定めることができてしまうのです。

どうもここには古代宗教的発想あるようで、
「誰かが不安で苦しんでいるのは
その人を苦しめている悪い人がいる。」
という因果応報にとらわれて
科学を放棄しているようです。
(これと同じように前世の祟りだとか
 家の配置が悪いなんて言うのも
 同じ穴のムジナだと思います。)

不安は、体調や精神面から
自然に沸き起こってくることもあるのです。

しかし、矛先が夫に定まると
怒りという不安解消ツールを獲得することになります。
夫に対して怒りを持ち、不安を抑えることができるし、
夫がどんなにひどい行為をしているかということを聞くことも
自分が悪くないという安堵感を獲得することができます。
自分をわかってくれる人を見つけたという仲間意識から
孤立感を解消することができます。
通常人がこの不安解消の誘惑に勝てるわけはありません。

行政・NPOの特徴は
寄り添うことは信じることだという宗教的信念がありますから、
夫から話を聞いてみようということはしないということです。
相談している妻は、夫の悪口を言えば相手が喜ぶし
相談担当者は、夫の行動のあれも悪いこれも悪いと言えば
妻が元気が出てくるので
益々それを言う傾向になっていくということです。

この「あなたは悪くない」という回答をもっとも批判したのは
フェミニストのJ・L ハーマンです。
悪くないという言葉は
それを言えば解決したような錯覚に陥るので
相談者の悩みの深淵に踏み込まなくて済むというのです。
本当に解決するべきことに踏み込まない理由は
相談担当者にその苦しみに共感する覚悟ないからだと
手厳しく批判をしています。

連れ去り離婚をして何十年もたっても
不安が解決しない理由こそ
不安の原因にアプローチしない
あるいはできなくしたからだと思います。

怒りが不安を忘れるのは一時しのぎです。
不安軽減を継続させるためには
怒り続けることが必要になってしまいます。

2 実母

すべての事案でそうだというわけではないのですが、
多くの事案で、結婚前は妻と実母の仲が悪いのです。
その多くのケースがいわゆる毒親というケースで
母が娘を支配したがる傾向が強いというものです。
娘は繁殖期になると本能的に親別れをしたくなるわけで
ある人は実家から離れた土地で進学したり就職したりし
中には駆け落ちのように結婚をした
こういう事案に連れ去り別居は多いようです。

また連れ去り別居をする人は
依存心が強い人が多いようです。
依存心というと悪い言葉のように聞こえるかもしれませんが
人間はみんな仲間が必要だと思うようにできていますから
悪い気持ではないと思います。

もしかすると母親の支配欲が強いために
知らず知らずのうちに、反発をしながらも
依存心が強くなってしまっていたのかもしれません。

不安と依存は強い関連がありますから、
不安を感じやすくなるかなりの割合で
生い立ちが影響している可能性もあるのではないでしょうか。
強く干渉されることが普通だと思うと
干渉されない、面倒を見てくれないということは
寂しく感じるのかもしれません。

だから、夫に対しても、母親のように
自分のニーズを先回りして察して
ニーズ、この場合は不安を夫が解消するべきだ
と、どうもそう思っているようです。
それを解消しない夫は悪いという
依存的傾向を感じることが多くあります。

まるで、不安を解消しないことが虐待だと
言わんばかりなのです。

さて、実母は支配欲が強いですし、
それに娘から反発されて支配から離れていったにもかかわらず、
夫を敵対視することで娘が
自ら自分の支配の環境に飛び込んできたのですから
もう自己実現、生きがいを感じてしまうようです。

これ、昭和の親ならば
そういうこともあるだろうけれど
だれだれさんもこういういいところあるからと
手土産の一つも持たせて
そろそろ帰りなさいというのでしょうけれど

私から見れば異常な支配欲を満足させるため
なりふり構わずに引き離しにかかります。
一緒になって夫の悪口を言いだします。
この30年、この傾向は強くなっていると感じます。

ついでに実父ですが、
こちらも情けない。
だいたいが妻の言いなりで、おとなしい人が多いようです。
妻から言われたことをしっかりとこなすタイプの人が多く
夫と二人きりになったら理解のあることを示すことがあるのですが、
妻や娘の前では夫を攻撃するという行動パターンですね。

3 弁護士

ここが一番納得できないところです。
確かに、法律相談から入って受任というケースもあるのですが
そう都合よく連れ去り事案が入ってくるということはないと思うのですが
よく同じ人が担当しているようです(私の活動している地方ではなく)。

どちらかというと、そういう行政やNPOから事件が来る
ということが多いのではないかと思うのです。
つまり、既に子どもを連れて実家などに別居した後、
離婚調停や保護命令を依頼されるというパターンが多いと思います。

当事者の最も嫌悪する相手は弁護士ですが
それは離婚調停などで、はっきり顔と名前がわかるからです。
先ほどと同じです。
それまで子連れ別居があってイライラや孤独感があるけれど
それをぶつける相手がいない
調停などで顔と名前が出てくるから
怒りの対象が見つかったから
怒りをぶつけるということが実情ではないかと思います。

もっとも弁護士も首をかしげる活動が多い。

弁護士の文章で、
夫に対して何がDVかということを書くのですが、
例えば、先ほどのコロナ不安で苦しんでいるのに
死ねばコロナも交通事故も一緒だ
と言ったことが精神的な虐待だ
だから離婚をしたいのだ
ということを書いてきた弁護士が本当に要るのです。

その弁護士は、子どもたちの利益に反するだろうと言った夫に対して
「自分の仕事は依頼者の希望を叶えることだ
子どもの利益なんて考えたことがない。」
と言い放ったそうです。

もはや家事事件ではないですよね。

何も証拠がないのに、非難だけしていたら
それは、当事者は怒るのは当たり前だと思います。
  
それは、弁護士が妻をそそのかして別居させたと
思いたくもなるのはわかります。

しかし、それは間違いだと思います。
そんな弁護士は人の気持ちを変えるような力はなく
言いなりになり、忖度し
過剰サービスをするしかできないと思います。
  
そしてどうやら、いつの間にか当事者化しているようです。

一番の特徴はDVという抽象的な言葉の前で思考停止をすることです。
DVという言葉が出てしまうと
夫の行為がどの程度至らなかったか、
それが通常人の心理にどういう影響を与えるか
それは日常的夫婦関係の範疇に入るのか逸脱しているのか
ということを吟味しない。

だから、本当の虐待や不安に至る心理経過を見逃すのです。
本当はもっとさかのぼって事実関係を調べれば
夫の行為が妻の心理面に影響が出てくる事案なのに
DVという言葉で思考が停止しているので
それをしない。
その結果、敗訴になるわけです。
裁判所は、警察に続いて少しずつ事態を把握できてきたようです。

またこんなDV主張ばかりしてきたせいで
少し反動が起きているようです。
その犠牲者になりやすいのは、
子どもと会えなくなった母親です。

ある女性弁護士は(これも他県です)
財産分与を求めた女性に対して
夫が今子どもたちを養育しているが
財産分与を請求しているということは
子どもたちに使われるお金が減るということだが
それでも財産分与を求めるのか
と裁判所で言い放ったそうです。

とにかく、
「その夫の発言は、あなたにとって不快で苦しいことだったと思いますが、
その言葉が離婚原因として認められることはないと思います。」
と言える弁護士が少なくなってしまったようです。

4 夫自身

妻が夫に対して、自分の不安解消から何から
夫が自分の問題をすべて解決するべきだと考えているように
夫も妻に対して、家の中の煩わしいことは
自分に振ってこないで妻が解決するべきだ
と無意識に思っているケースが見られます。

これは自分で自覚することはなかなか難しいことだと思います。

男性と女性の会話方法が異なるとするならば
男性が女性の会話コミュニケーションのノウハウを身に着けるべきです。
(妻が男性のコミュニケーションに歩み寄るのは
それはそれでちょっと嫌かもしれません。
私の持論は、家庭内では特に女性的コミュニケーションをするべきだ
というものです。)

実際は簡単なことで、相手の感情をなぞればよいのです。
そして、これは、色男と呼ばれる男性は
小学校の頃からきちんとできていることなのです。
持てていた男子をよく思い出してください。
容姿が良くて、運動も勉強もできるだけではなかったのです。

「自分は外で仕事をしているのだから」
ということは言いたくなるところですが、
そんな家のこともなんともできない仕事には
疑問を持たなければだめなんでしょうね。

もっとストレスのかからない仕事をして
家のことももっとやるけれど
収入が減ると思うけれど
それでも良いか
ということで、一度話し合わなければならないのでしょうね。

一昔前なら、
血縁、友人、隣近所等
気の置けないコミュニティーがあり
孤独を感じにくかったのですが
現代社会は孤立社会で
ママ友ですら、緊張感を持たなければならない相手であるとなると
孤独を感じやすくなるわけです。

現代の夫婦の間には
いつまでも夫婦が仲間でいられる保証が
益々少なくなっているようです。

夫との間で孤立を感じれば
夫との間で孤立を解消することが一番なのですが
それを妨害する人間たちがたくさんいるわけです。

実際は、よそもうちも
夫婦がお互いに
仲間意識を持てなくて
外に仲間を作りやすい環境になっているのかもしれません。

あれもこれも妻に任せて
文句ばっかり言っていれば
本当は感謝していたとしても
それは妻には伝わりません。

文句は自然発生的に湧き上がるものですが
感謝は理性の作業が必要なようです。
だから、感謝の気持ちを持ったり言葉にしたりということは
意識的に行わないとできないのかもしれません。

家のことを妻に依存している場合は
感謝の言葉は出てこないで
ダメ出しばかりが出てきてしまう。

喜びのない毎日と
いつどこからダメ出しをされるかわからないため
いつも緊張感を抱いて夫と接しているとなると
家の外に仲間を求めていくのは
人間の心理としてやむを得ないことのような気がしてきます。

夫が正しいことを言っても
言われた方が傷ついたり、どうしたらよいかわからなくなる
ということがあるものです。
そのとき、かわいそうなことをしたなと思うか
俺は正しいことを言ったのだからそれでよいと考えるか
ここが、穏やかな老後と将来の本当の孤独の
わかれ道のような気がします。

でも、人間ですから
相手の行動に腹が立ちますし
夫婦だからこそ怒る場合もあるでしょう。
 
特に子どもを連れて出て行かれた場合は
おそらく本能的に怒るか、絶望するかとなるのは当たり前でしょう。
この場合の絶望は大変危険ですから
怒る方が健全であることは間違いないのです。
しかし、ひとしきり怒ったら、
きちんと問題設定をしなければなりません。

相手を安心させることに人生をかけるのか
割り切るのかです。
  
この問題設定を行わないで
怒りに任せた行動をしていたのでは
結果を出すことができず
自分を追い込んでいくだけです。

怒りの相手が妻ではなく
妻の代理人だとしても
妻本人から見れば同じことです。

頭では人生をかけて相手を安心させたいと思っても
怒りが処理しきれないと必ず相手に伝わってしまいます。

こういう場合は面会交流さえうまくいきません。
人間ですから難しいところです。
プライドがあると、そしてそれを刺激する仲間がいると
なかなか捨て身になって家族を再生することができません。

どうしても、自分は間違ったことをしていないという意識と
では間違った相手、相手を間違わせた支援者に対して
怒りが表れてしまい
せっかくの努力が振出しに戻ってしまいます。

難しいところです。
本当に難しい。

相手方がこちらの努力に
少しでも反応してくれればだいぶ後押しになるのでしょうけれど
それもなく、いつ解決するかわからないということから
早く不安を解消したいという心理が働くことも
それは人間ですからね、あると思います。

結局、自然に湧き上がる感情を
どうやって理性で制御するかという
そういう大問題なのかもしれません。
最初から最後まで。
  
コロナ禍はいやおうなしに
私たちにこの問題を突き付けているのだと思います。
  

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差別は無知から始まることの実例と差別を受けた側を基準として考える必要性 聴覚障害の場合 [労務管理・労働環境]



現在聴覚障害者に対する差別のハラスメントの問題に取り組んでいます。

上司や同僚は、職場の調査において
あからさまな差別行為をしているのですが、
それを隠そうともせずに答えているのです。
それにも関わらず職場ではモラルハラスメントはなかった
と結論付けてしまっています。

上司も、同僚も、職場も
自分たちのしていることが差別であることに
気が付いていないということです。

こういうことが差別になって
聴覚障害者が傷つくんだよということを
あまりわかりやすく説明する者が実際には
あまり見つかりません。

感心したのは町草さんのブログです。
聴覚障害者とのコミュニケーションで配慮する事とは? | 町草のブログ (machikusa110.com)
https://machikusa110.com/2020/04/30/%E8%81%B4%E8%A6%9A%E9%9A%9C%E5%AE%B3%E8%80%85%E3%81%A8%E3%81%AE%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%8B%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%81%A7%E9%85%8D%E6%85%AE%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%93/

わかりやすいです。

先ず、一口に聴覚障害者といっても
聞えなさは人によって違う
ということが明快に書かれています。

つまり、この聴覚障害の方には聞こえても
こちらの方には聞こえない
ということがあるということで、

職場に聴覚障害の方がいる場合は
よく話を聞いて、何が聞こえて何が聞こえないか
よく理解する必要があるということで、
これがいの一番です。

また、それだけでなく
同じ音量の音でも聞こえるときと聞こえない時があるようです。

例えば話をしている人を見て聞いている場合は話は聞こえるのですが、
後ろから離されてしまうと聞えないあるいは言っている意味が分からない
ということがあるようです。

対面の話は聞きやすいけれど
何人かで話し合う場合は
聞える声と聞こえない声とあることになります。

「あの人の言っていることがわかっているのだから
私の声が聞こえないはずがない」
という思い込みが生まれる原因はここにあります。

また、早口で話したり、口ごもって話すなど
私たちはあまり意識していませんが
そのときによって話し方が微妙に違うのは当たり前のようです。

だから、急いでいたり、イライラしていたりすると
声が大きくても、内容を聴き取れないということがあります。

「いつも聞こえているのだから、今度も聞こえていたはずだ」
という思い込みが生じる原因になるでしょう。

だから、「(聞こえるように)言ったはずなのに聞えなかった
というのは、聴覚障害をいいことに
聞えなかったふりをしているだけだ。」
というひどい思い込みが生まれてしまうようです。

私の取り組んでいる事件では
面と向かって「卑怯だ」と言われたそうです。
言われている聴覚障害のある方は
どうして自分が卑怯だと言われるのか全く分かりませんでした。

大事な用事は、筆談とか、今ではインターネットを使って
伝達することが可能なので
今の時代、聴覚障害者を雇用している以上
それらの文字情報を使わない理由はありません。

ちゃんと規則に従って指示をしていると思っても
口頭で説明しただけの場合は
しかも細かい基準なんかは、
きちんと聞き取れているか難しいところです。

また、規則ならば何らかの文字情報があるはずで
それを示さないで口頭でだけ説明するような人の場合は
そのときによって指示の内容が変わることもあるのではないかと
疑いを持ちたくもなります。

それから、口頭だけの情報の場合は
正確性を期すため、何度も聞き返すことは仕方がありません。
それを煩わしがっていると
だんだん聞くのが悪いことのように思えてきてしまうでしょう。

益々伝わらなくなってしまいます。

それからひどいなと思うのは
「聞えない時は聞こえないと言え」
という言葉です。

だって聞えないのですから、
今自分が聞こえていないのかさえも分からないからです。

自分がどうしたら改善できるかわからないことで叱責を受けていると
無駄な緊張がいつもの状態になってしまい
余計なミスも増えてしまいます。

こういう聞えないことに伴って
卑怯だとか、バカだとか、そういうことを言ったことは
みんなが認めていることですが
言った上司も、同僚も、職場でさえも
ミスが多いからバカだと言って仕方がない
聞えないふりをしたので卑怯だと言われても仕方がない
そんなことを大合唱していているのです。

呼ばれても仕事をしていれば聞えませんが
そんな時注意をひくために
消しゴムや輪ゴムを投げてこちらを向かそうともしたようです。

上司も、同僚も、職場でさえも
聞えないのだからやむを得ないと言っているのです。

これ、健聴者に対して行ったら侮辱になりますよね。
夢中で仕事をしているときに
体に異物が向かってきたらびっくりするでしょうし
危険を感じることもあるでしょう。

聞えないからやむを得ないというのはおかしいと思います。

そもそも手を振る等、視覚的な信号を送ればわかりますし、
その人は隣の席の人だったので
近づけばわかるわけです。
人に対して消しゴムを投げて振り向かせるなんてことは
言い訳の利かないことだと思います。

これが起きたときは結構前のことなのですが
現在は改善されたのでしょうか。
改善されるためには
障害者の視点を知る必要があるのですが、
未だにそのような知ろうという努力はなされていないようです。

私はこれは差別であると主張しているわけですが
関係者一同ピンと来ていないようです。

どうやら差別とは
差別をする側が
排除の意思を持っていたり、攻撃的感情を持っていたり
悪感情を持って行うことが必要だと考えているようです。

差別というのは悪い行為、不道徳な行為だというところを
協調しすぎるとそういうことになるようです。

しかし差別か否かは
差別された人が精神的に苦しむことならば
辞めさせることに主眼があると思うのです。

加害者の無知によって
差別で無くなるという発想はいただけません。

だって、実際に傷ついている人がいるのです。
傷つくのは悪感情という相手の気持ちに関わりません。
差別かどうかということは
被害者の立場に立って考えるしかないと私は思います。

それからもう一つ
聴覚障害に理解がない場合に
聴覚障害をお持ちの方々がどのように傷つくのか
という視点の報告が少ないのではないかと思われました。

疎外感とか孤立感とかいう報告ありますが
侮辱を受けたという感じ方、
寂しい思いや仲間として扱われないという感覚
あるいは、理不尽な思い
もっともっといろいろあると思うのです。

それがなんか
コミュニケーションの方法論とか
効率性に価値をおく研究が多いような気がしますし、

差別、心理で検索すると
差別をする人の心理
ということばかり出てくるように感じるのです。

人間が当然抱く感情なのですが
これも実際の所を聞かないと
本当のところがわからないと思うのです。

聴覚障害者だから仕方がないと
ご本人方が思うのは
社会の風潮が合理的配慮の必要性を
そこまで考えていないということからくるのではないでしょうか。

当事者の方々がもっと声をあげる場所を提供する必要があると思います。
この機会が圧倒的に少ないのではないかと感じました。

色々考えながら、勉強しながら事件を進めています。

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離婚後の共同親権制度は、子ども独自の人格を認めて子どもを親の付属物と見ない日本に変えるための制度。単独親権制度が「DV」の防波堤になるとか面会交流時の事件があるからだめだという主張は物言わない子どもの権利を切り捨てる主張ではないのか。 [家事]

共同親権反対派の人たちの実質的反対理由として
「離婚後の単独親権制度がDV被害者の防波堤になっている
それにも関わらず共同親権にしたなら防波堤が無くなりDVが継続する。」
という論理に触れました。

これが単独親権制度から共同親権制度に変更するか否かの
立法論、政策論を議論しているときの理由とはならないのではないか
ということを検討していきます。

1 防波堤とは何か
2 具体化されず、立証されない「DV」
3 面会交流時の事件が理由となるか
4 封建的な排除を擁護しているに過ぎないこと
5 子ども利益の視点の欠落(子どもは親の所有物ではない)
6 問題の所在をどのように子どもたちのために活かすか。

1 防波堤とは何か

先ず、離婚後の単独親権制度が
どのように「防波堤」になっているのか見てみましょう。

今の日本の離婚後の単独親権制度では
別居親は親権者ではないという理由で
子どもの成長に関わるチャンスが著しく無くなります。

極端な話、子どもたちがどこにいるのか分からないケースもあり
例えば大きな地震があっても安否確認すらできません。

居場所がわかって、母親の問題で児相に子どもが保護されても
親権者ではないという理由で児童相談所から
あなとは何も話ができないと冷たくあしらわれた別居親もいます。

学校や幼稚園の行事も
親権者の同意を得て参加してくださいと言われ
子どもの晴れ姿を見れないことも多いです。

我が子の卒業式や入学式、運動会や学芸会に
参加することもできない事例は多いです。

手紙を出しただけで、
警察署長からストーカー警告を受けた別居親もいます。

このように単独親権制度は
同居親がやろうとすれば、
別居親とかかわりを無くして生活することが
表面的にはできるようです。

そのためには、親権を獲得して離婚を成立させる必要があります。

この単独親権というゴールがあるからこそ
子どもを連れ去って別居するという行為が後を絶たないわけです。

裁判所は、子どもが今いる場所から移動させることを一般に嫌います。
元々家族で住んでいた場所から実家に異動させていても
裁判時にその実家から元居た家に異動させることは嫌うのです。
それは裁判の構造からも説明ができることです。

離婚を拒否して子どもの同居だけを求める場合、
子どもを元の家に戻せということを求めて訴えるわけです。
そうすると、今いる場所では子どもにとって不利益であり
家に戻すことが有益だということを証明しなければならない
というのが裁判実務です。
しかし、この不利益を裁判官に賛成してもらうことは通常難しく
積極的な同居親の虐待でもない限り
元の家に戻すことが子どもの利益だと認めてもらうことは困難です。

元の家から通っていた学校の同級生や先生
習い事を一緒にやっていたお友達
なじんだ自分の家や部屋
もちろんもう一人の子どもの親
それら一切を奪って新しい環境に連れ去っても
裁判所は虐待だとは認定しません。

例外的に連れ去りの違法を認めて
元の家に戻すことを命じた裁判例は
大抵は父親が連れ去った場合です。

私は、裁判所には
「子どもは母親が育てるもの」という
ジェンダーバイアスがあると感じています。

さて、妻が夫を嫌いになって逃げだしても
終わりのない逃亡は精神的に堪えることがきつくなります。
離婚後の単独親権というゴールがあるからこそ
子の連れ去りをするというケースは多いはずです。

単独親権はDVの防波堤だと言っている以上
単独親権制度にこのような効果があるから言っているわけです。

このような一方の親を子どもから遮断するという効果が
子どもの健全な成長に害になるというのであれば
やはり単独親権制度は廃止し
共同親権制度にするという
立法の必要性があるということになるわけです。

立法の必要性は立場の違いに過ぎないのに
論理的に立法の必要性が無いというのは
単なるごまかしの論理です。

立場の違いというのは
子どもの健全な成長に価値をおくのか
母親の感情を優先させるのか
という立場の違いです。

自分が実際に単独親権制度のうまみを利用して仕事をしているのに
統計的データがないということを理由に
証明できてきないという主張も
フェアな議論ではありません。

まとめると、
「単独親権がDVからの防波堤」というのは、
元配偶者と交渉をしない、関りを持たなくて済む
という効果が単独親権制度にあるということを
前提とした主張だということになるでしょう。

もちろんこのかかわりを持たないということには例外があり
別居親は
婚姻費用や養育費、さらには困窮した場合の扶養義務という
お金を支払うという関係だけは続いていきます。

しかし、子どもとの人間的かかわりを一切遮断しておいて
金だけ払えというのは
人倫に反することだと
連れ去られて、孤立し、精神的な問題を起こしている人たちを見て
私は確信するようになっています。

2 具体化されず、立証されない「DV」

共同親権論者の特徴として
DVという言葉を多用するのですが、
DVとは何か、当事者の何がDVなのかについて
あまり具体的な話はありません。

さらに現在では
いわゆるDV法の「DV」の概念は拡大しようとしています。

特に問題なのは夫婦間の性的DVです。
合意があったかなかったかというだけで
警察介入を合法化しかねない危険があります。

しかし、実際の裁判例での性的DVの主張で
その行為のどこがDVなのかという主張がなされない場合もあります。
そもそも、言葉による合意がある場合の方が少ないような気もしますが
こればっかりはご家庭の問題でありよくわかりません。

よくわからないことにもかかわらず、一方の要請で
警察が家に入ってくるという事態を作られようとしています。

警察に呼び出されるという解決方法しか考えられないというところに
発想の貧困さ、人間についての浅はかな理解を感じます。

さて、共同親権論者反対論者たちの中には、
DVは家庭の中のことなので証明することが難しい
だから弱い証明力でもDVを認めなければならない
という主張をする人もいます。

しかし、それでは、
本当はDVがないにもかかわらず
反証することもできないまま
DVが認められ、多額の慰謝料の支払いが命じられ
子どもをとられ、会うことすら許されなくなる
ということが起きるわけです。

この冤罪とも言うべき人権侵害については
あまり気にしていないようです。

そもそも裁判ではない解決という視点が
私はとても重要だと思っています。
現実の人間の身丈に合わせた制度こそ求める必要があると思います。
(後述する家事紛争調停センター)

現実は、訳の分からない「DV」という言葉が独り歩きをしていて
DVだとさえ主張すれば
離婚はもちろん、離婚の前後に関わらず子どもに会えなくなってしまう
という危険が極めて高い状態です。

どうもDVと聞くと、自分がこれまで聞いてきた中で
最悪のDVを想定してしまう(たいていはアメリカの文献)
別のDV案件の家庭の様子が
今目の前にしている人たちの家庭でも繰り広げられているはずだ
という先入観を持ってしまうようです。

DV概念が安易に拡張していくならなおさら
それを要件として下される厳しい効果に見合った効果が
本当に必要なのか、本当にその厳しい命令は妥当か
真摯に考えていかなければならないはずです。

DVというわけのわからない用語は
そのような思考をする力を奪う効果があると私は思います。

3 面会交流時の事件が理由となるか

離婚後の共同親権反対論者は
面会交流時に、子どもが別居親から命を奪われた
という事件を良く引き合いに出して
面会交流は危険だから、
面会交流は原則禁止にしろ
共同親権に反対だ
ということを主張することがあります。

これは、現状の議論をよく理解していないと言わざるを得ません。
離婚後共同親権は制度論、立法論です。
個別事情を無視するわけにはいきませんが、
立法理由の有無を検討した上で
個別事情や問題の所在をどのように解決するか
という議論をしなくてはなりません。

家族解体論者は、父親の影を一切消去しようということですから
本来具体的な事件はあまり関係がないはずです。
しかし、それをあけすけに言ってしまうと
多くの指示が受けられない。
このため、分かりやすく感情に訴えるという手法をとるわけです。

悲惨な事例を紹介すれば
どうしても人間は、弱者、犠牲者に同情をしてしまうわけです。
加えて殺されたとか、子どもも殺されたということになると
わかりやすく共感してしまいます。
取り返しのつかないことが起きてしまうと
それを埋め合わせる方法を考えたくなるもので
怒りをどこかに向けたくなる
人間とはそういう生き物であり、それ自体は必要なことです。

しかし、そういう人間の心理を悪用することは許されません。

つまり、面会交流の際に事件が起きたからと言って
政策論として面会交流を原則禁止にする理由にならないし
政策論として共同親権としない理由にはならないのです。

こういうことで政策が決まってしまったら
何も政策はできないことになります。

例えば、離婚後に母親が再婚し、あるいは男性と交際し、
再婚相手や交際相手の男によって子どもが虐待され、殺されたことを理由に
母親の再婚や交際を認めないという政策判断をして良いのか
ということを一つを考えてもわかることだと思います。

継父の大部分が立派な父親ですが
これはこの人たちを侮辱することですし
同じように離婚後の面会交流を禁じることは
離婚後の別居親を侮辱する差別だと思います。

統計的に見て子どもを殺す大人の筆頭は母親です。
だからと言って子どもが生まれたら母親から引き離す
という法律ができるはずもありません。

私は、面会交流時や調停時に事件が起きるのは
離婚や別居の仕方が稚拙であり
相手を侮辱した形で行われているために
相手の判断力が弱くなったケース
人格が変貌してしまったケースの方が多いという印象を持っています。

危険なのは面会交流ではなく、別居、離婚の仕方 先ず相互理解を試みることが円満離婚の早道 
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2017-05-11

4 封建的な排除を擁護しているに過ぎないこと 別居母の苦悩が切り捨てられる

単独親権制度は封建制度と近代が交錯した時代の産物でしょう。
一番の弊害が見られたのは
明治時代から昭和中期にかけてだと思いますが
ここは今日は割愛します。

要するに、子どもは父のものでも母のものでもなく
「家」のものだった。
「家」から追い出される(通常母)親は、
「家」のものである子どもをおいて追放されたわけです。

戦後「家」制度が無くなったにもかかわらず
離婚が未来永劫の別れということを前提に
主として法定代理権を念頭に
どちらか一方の親に全権限を与える規定を作ってしまった。

単独親権制度は封建的イデオロギーの残存物だと思います。

現代においても、このことに苦しむ母親たちはたくさんいます。

何人目かの出産のあと、精神的に不安定になることは
多かれ少なかれ誰でもあることです。

元々、姑が嫁を気に入らなかったという事情に加えて
夫が自分の母親の言いなりになる傾向がある場合、

出産後の母親の不安定な精神状態
内分泌系の疾患からくる不安定な精神状態
その他を理由に、

夫の母親や夫の姉妹から集中攻撃を受けて
精神病だ、人格障害だ、発達障害だと責め立てられて
精神科の治療を受けさせたり、入院させたりして、
家に入れなくする。
それは母親も怖いですからなかなか入れない。

子どもが小さいケースでは、他県の親戚に隠したケースもありました。
そうやって母親を排除して
あることないことと、針小棒大のエピソードで
離婚にもっていく。

あとは同じです。
親権がないということで
学校からも拒否されて
追放される。

DVの防波堤として使われている単独親権
面会交流拒否のテクニックは
母親の排除にも応用されています。

一番苦しんでいるのは
わけのわからない理由で
自分がおなかを痛めた子どもを手放さなければならない母親だと
私は繰り返し訴えてきました。

共同親権制度反対論者は
子どもに会えない父親はDVがあるとでもいうような
乱暴な議論をすることがありますが
子どもに会えない母親のことはどう考えているのでしょうか。

姑が会わせたくないというならば
それなりの原因が母親にあったからだとでもいうのでしょうか。

これでは、宗教的な因果応報論です。

5 子どもの利益の支点の欠落

共同親権反対論者の封建的な思考はまだあります。
一番は子ども利益の視点が欠落していることです。

面会交流調停ではこれが顕著に表れてしまいます。
面会交流の実施を拒否したり
時間や場所を極めて限定的に主張するのですが、
その根拠がないのです。

もっともそれなりに主張するのですが
すべて理由にならないということがはっきりしていくわけです。

結局は
「会わせたくない」
「嫌だ」
ということに終始しながら粘るわけです。
これをなだめて、励ましていくのが面会交流調停
みたいなところがあります。

子ども利益は全く考慮していません。
自分の感情だけなのです。

これに対して、子どもが親に会うことは当たり前ということから
一歩進める統計研究や実証研究が20世紀から21世紀にかけて行われ、
現在では、子どもが離婚後ももう一方の親と会うことが
子どもの健全な成長のために必要だという見解が
科学的に確立されています。

共同親権反対論者は、この論点にはまともに触れません。
前に批判したのですが、日弁連の委員会名で
ウォーラースタイン批判がなされたことがあったのですが
アメリカの家族制度の知識もなく、単純に日本に引き直して
鬼の首を取ったように面会交流の弊害が書いてあると
述べていたとても情けないものでした。

でも、論点としたことは評価できるところです。

今は共同親権反対の人たちは
子どもの利益についてははほとんど触れていません。
おそらく勉強したのでしょう。
勉強して自分の誤りに気が付いたものだと思われます。

このため、面会交流で子どもが殺されたという事件を
何度も持ち出すしかないということはよく理解できます。

結局子どもの利益を考慮しないということは
子どもの独立した人格や利益を認めていないのです。
母親が幸せならば子どもも幸せだというのは
全くの俗説であり、子どもの独立した人格を認めない
非科学的な主張です。

要するに子どもは、母親の付属物だと思っているようです。
まるっきり封建的な思考だと私は思います。

本当は子どもの権利委員会が子どもの利益のために
面会交流の推進を主張するべきだと思うのですが
あまり、ハーグ条約とかは関心がないのでしょうかね。

共同親権反対論者の文章を読むことがあります。
「子どもの権利から」という表題がある場合なのですが、
実際読んでみると、子どもの権利の視点が現れる前に
文章が終わってしまっているという印象が残ることがあります。

あったとしても、家事実務では過去のものとなった
ゴールドシュタインという人の理論の焼き直しくらいです。

共同親権制度はあくまでも子どものための制度です。
この観点から立法化の必要は高いと思います。
制度の創設に関する争点の場合は
子どもの利益から出発しなくてはならないと思います。

逆に子どもの利益から共同親権を主張すれば
まともに反対することができる人はいないのです。
ここを全面に押し出さない手はありません。

ここまできたら原理原則論、正面突破を戦略とするべきです。
(そういう意味からは、この記事の構成は間違っていますね。
 怒りが強すぎるとこうなるという見本のような失態です。)

6 問題の所在をどのように子どもたちのために活かすか。

それでも、面会交流や子どもの受け渡し、相談事のたびに
父と母がいがみ合っていたら
子どもにとって悪い影響を与えてしまうことはその通りです。

暴力や事件は絶対にあってはならないことです。

原則論としては子どもの健全な成長のために
面会や共同親権制度とする。
しかし例外的な危険がある場合はそれを除去していく
という流れが政策論のノーマルな流れです。

危険を低下させていくという方法論は
問題の所在となることに異論はありません。

この点は家族解体主義者も前向きなことをおっしゃる方もいて
共同養育や面会交流の
子どもの利益になる実施についての
基盤整備をすることを主張されているところです。
それ自体には大賛成です。

しかしそれには予算が必要です。
私は家事調整センターの企画書を作ったことがあります。
http://www.doihouritu.com/family.html

現在は面会場所一つとっても、
探すのに苦労します。
都市部は結構面会に適した場所があるのですが、
農村部はなかなかない。

採算ベースでの運用が難しいということもあるので
自治体が面会交流場所や
母と父の意見調整の場所を設置してもらわないと
子の福祉を実現することがなかなか難しい状態です。

面会交流支援事業の半ば公的なものは費用が掛かりすぎて
養育費を払った上に面会謝礼費用を負担することができる人は
限られてしまうようです。

子どもの健全な成長のための投資だと思って
ひと時が楽しくなるような場所を
各自治体で是非作ってほしいと思います。

平成25年に私は新聞にこのような投稿をしましたが
記者の取材に自治体ではその必要性を認識していなかったようです。

これも家事調整センターの記事のあるページの下の方に
投稿記事を載せておきました。

面会交流場所は
小さい子向けのプレイルームや
豊富な書籍や安全な実験設備などの教育施設、
親子がのんびり過ごせるサンルーム等と
宿泊施設があるとよいですよね。

公共交通機関や高速料金などの
割引があるとなおよいと思います。

こういう予算措置は
法律という根拠に基づいて執行しますから
共同親権制度に民法を変えるだけでなく
共同養育促進法も合わせて作って
予算措置を講じる必要があるのだと思います。

こうやって考えると
共同親権を制度化することから
離婚後の子どもの福祉が充実していくという
可能性が感じられてきますね。

日本の明るい未来、前向きな発想は
子どもの健全な成長からだと思います。

そのために家族を強化するということです。
離婚しても、母と父と子という家族です。
このために協力して
今より少しでも居心地の良い人間関係を作る
それが努力する方向だと私は思います。

おのずと離婚の在り方にも影響が出てくると思います。

そんなものは成り立たない
一方の親は切り捨てて、金だけ出させる
というのが共同親権反対論者なのだと
そういうことになるのではないでしょうか。

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家族解体主義という思想 なぜリベラルがそれを受け入れるのか 共同親権制度に反対する人々 [弁護士会 民主主義 人権]


あなたが同調し賛同している主張が
実は、家族解体主義思想にもとづくものであると私が言ったら
もしかしたら、あなたは、
私のことを頭がおかしい人間だ、
あるいは極端な保守的家族主義者だと
このページを閉じてしまい
二度と私の話を聞かなくなるかもしれません。

なるべくそうならないように話を進める必要性は認識しているのですが、
とりあえず、一度、話をまとめる必要性も感じているため
このお話を強行せざるを得ないという心持になっています。

1 家族解体主義者の主張

私が気が付いた家族解体主義について説明させていただきます。
彼女らは、必ずしも
ご自分たちが現状の家族制度を解体しようとしていることを
隠しているわけではありません。
よく読めば、はっきりそのようなことを述べています。


「家族解体主義」とは、
およそ家族という制度は、
女性に対して母や妻という役割を強制するものであり、
女性を解放するためには家族という制度を解体する必要がある
という考え方です。

これに対して、家庭での女性の役割を見直して
家庭の中で対等な人間関係を作る新しい家族制度を構築する
という提案もあります。
しかし、この主張に対して家族解体主義者たちは、
現実不可能な幻想であると切り捨てます。

人間関係は、家族だけでなく、
職場、学校、地域、趣味のサークル等多種多様にあり、
それぞれの人間関係で、
固定的な女性の役割を押し付けられていると思うのですが、
家族制度を最重要の解体目標としているようです。

「正義とは女性を家族から離脱させること」という大前提があります。
このため、
その離脱が不合理であっても、離脱は正義だということになります。
例えば、
妻が夫と離婚したい理由に合理的理由がなくても
家族制度解体に向かうのであればそれでよいわけです。
たとえ不貞を成就するために、DV保護制度を悪用しても
家族制度解体に向かえばそれでよいわけです。
そこで男性が不合理な事態に苦しんだとしても、
歴史上女性は男性たちによって不当に苦しめられてきたわけですから
現代の男性が不合理な思いをしても気にも留めないのです。
女性解放のためには気にしていられないということになります。

一度握ったDV保護制度はどんどん拡張していくわけです。
DVの概念は無限に拡張していきます。
家族の中に女性がいること自体が
彼女らにとっては、男性によるDVなのですから当然のことです。
どんどん警察を家族の中に入れて
家族を解体しようとするわけです。

現代の家族解体論者の最重要課題が家族の解体ですから
その他の人間関係とは喧嘩せず、うまく利用するのも特徴です。
一番は国家や自治体です。
国家とは、総理府(男女参画局)、裁判所、総務省等で
自治体としては、自治体職員特に子ども関連の部局である
児童相談所、学校等です。
そして警察です。

職場や雇用環境、昇進の問題では
おざなりに女性差別反対を口にしますが
具体的な対策の主張はあまりしません。
標的を家族に絞るという戦略は奏功しているようです。

2 アメリカにおける家族解体主義ムーブメント

このような家族解体主義的ムーブメントは、
アメリカでも
1980年から95年にかけて巻き起こりました。
主に成人に達した女性たちが
幼少時代に、父親、兄弟、叔父などから性的な虐待を受けていた
という記憶をよみがえらせ
家族に対する刑事告訴、民事賠償訴訟を提起し、
当初はアメリカの司法は、この記憶が正しいものだとして
父親を刑務所に収監し、巨額の賠償命令を相次いで出したのです。

この訴訟は、概ね、女性たちが不安を抱いてカウンセリングを受けたところ、
催眠療法によって「失われた記憶」を「よみがえらせ」て
司法手続きを起こしていてたという特徴がありました。

このようなカウンセラーは急進的なフェミニストがほとんどでした。

これに対してエリザベス・ロフタスが、
人間は、どこかに正確な記憶が保存されていて
10年以上たって、正確な記憶を想起することができるということは
人間の記憶の仕組みに反している
ということを科学的に主張し、
それが受け入れられ、広まって、
1995年以降はこのような「よみがえった記憶」を正しいものとしては
司法判断が行われなくなりました。
また、このような記憶回復療法は現在では行われなくなったそうです。

「記憶」がよみがえった人たちの多くが、
記憶がよみがえったのちに精神的に治療が必要な重篤な状態に陥るなどの
重大な副作用も生したという事情もあるのでしょう。

「抑圧された記憶の神話」E・F・ロフタス外 ラディカルフェミニスト J・Lハーマンを裏から学ぶ。治療者と弁護士のアプローチの違いと弊害について
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2020-12-02

日本の家族解体主義者は
このアメリカの家族解体主義の敗北が
科学的理由および具体的な患者の精神の悪化という事実に理由があるのではなく、
アメリカの家族擁護主義者の攻撃による政治的なものだと主張しています。

そうだから
カウンセラーが虚偽記憶を誘導して作り上げたということについては
形式的には批判するという枕詞を述べながら
(本来虚偽の記憶が)どのように想起されるかということを検討し
正しい記憶がよみがえったという扱いにすり替わってしまっています。

記憶のメカニズムに反するという批判の核心を
理解していないことがよくわかる一貫しない論旨となっています。

また、家族解体主義者の主張が科学的ではないことを端的に表しています。

そして、自分たちの主張に反対する科学者たちを
「家族擁護主義者」と呼んでいることも印象的です。
この主張があったからこそ
家族解体主義という思想を共有する人たちがいることに
私が確信を持てた理由でもあります。

3 家族解体主義者たちの現在の課題 共同親権の阻止

現在、離婚後の共同親権化が秒読みの段階に入っています。
しかし、これに対して
解体論者を中心として強力な反対運動も起きています。

家族解体主義者の一人は、
共同親権制度に先立つ親子断絶防止法の動きにいち早く反応して
こんなものができてしまうと、
「私たち」が作り上げてきた20年間の成果が失われてしまう
ということを言っていました。

共同親権制度は、他国との関係があるので実現すると思いますが
反対論の陣営によって、どのくらい骨抜きになるかということが
実務的な課題となるわけです。

一昔前の面会交流調停のように
会いたい、会わせたくないという感情論的な切り結びだけでは
骨抜きにされる危険が大いにあるといわざるを得ません。

家族解体論者の面々は非科学的ですが
バカではないので、
戦略や味方作りは見習うべき程巧です。

このため家族解体主義ではない人も
共同親権に反対を掲げているのが現状です。

そのために例外的なDVの存在を理由に共同親権の原則を骨抜きにしようと
主張しています。

問題はここにあります。

4 なぜ家族解体主義が受け入れられるのか リベラルの弱点

家族解体主義者は、
国家政策の形成過程に入り込んでおり、
審議委員などを担当しています。

このため、知名度もあり発言力が強く、
彼女らの主張は大手メディアでもたびたび追随的に取り上げられています。

つまり保守層にも食い込んでいるわけです。
無批判に食い込ませた保守層には責任があります。

その他にリベラルにも賛同者が多くいます。

もっともリベラルの人たちは、
家族解体主義に賛成しているわけではありません。
それどころか、彼女らが家族解体主義者であるという認識も
持てていないのかもしれません。

おそらくそういうリベラルの人たちからすると
私の主張は極めて保守的な政治色が強い主張だと
反感を覚えていることと思われます。

私が家族解体主義者だと主張している人たちを
擁護しようという正義感を発揮しようとしているかもしれません。

家族解体主義の人たちは、通常家族解体主義を前面に出しません。
急進的なフェミニストとしての発言を前面に出しています。
繰り返しますけれど彼女らは頭は良いので、
自らの影響力を減退するような活動には慎重です。

フェミニストの外観というのは、
女性の解放を第一に主張を組み立てるということですし、
女性の置かれている差別的な実情を報告し、
抜本的な社会改革を主張するという外観です。

しかし、これまでお話ししました通り
自分たちが利用する政府批判や
現実に女性を差別している雇用問題については
おざなりな主張に終始しています。

そもそも政府の男女参画局は
雇用機会均等を大きな柱としてスタートしていますが
雇用機会均等は開店休業状態で
もっぱら家庭の中の問題だけの活動になっています。

家族解体主義者たちは、それでよいのです。

しかし、おざなりとはいえ
リベラルな主張を一応しますので
リベラルの人たちは、
主張を同じくする人だという仲間意識を持っているようです。

特に党派的なリベラルな人たちは
自分たちが少数意見者だという意識が強いですから、
人間を、自分たちと、反対者、つまり敵と味方と
二分法によって区別をします。

そしてひとたび仲間だと認識した相手に対しては
批判的にみることをやめてしまいます。
仲間の主張は自分たちの主張だと
気が付かないうちにどっぷり取り込まれています。

逆にひとたび敵だと烙印を押した人に対しては
とことん攻撃をします。
決して冷静に話し合って、修正すべき点の修正を求める
という態度ではありません。
揚げ足取りと人格攻撃という
ネットいじめやネットいじめのような
感情論による批判の集中砲火をするわけです。
その対象者を擁護することが怖くてできなくなるわけです。

これは現実を組織(人間関係)というフィルターを通してしかみれず
自分の頭でものを考えるということを放棄してしまうという
組織や集団、特定の人間関係に依存している考え方の特徴を示しています。
面倒なことは考えないという人間の思考パターンの一つです。
スタンリーミルグラムが服従の心理と言い
私が迎合の心理といった人間に備わった心理です。

このように家族解体主義者は
周到に自分たちのシンパや保護者を形成していますから
決して侮ることはできません。
しつこいですが頭の良い人たちです。
力もあります。

では、どうすることもできないのでしょうか。

そうでもないのではないかと考えています。

彼女らの最大の弱点の一つは
唯一の主張が家族解体主義なのだけれど
家族解体主義を前面に出すことができない
ということなのだろうと思います。

これがために、
本当は家族の中における男性のすべてDVなのですが、
極端なDV事例や、本当はDVとは関係の無い男性の暴力性を強調して
論を進めなければならないという弱点と

統計的な裏付けのほとんどが
確認手段がないような引用方法だということ
科学的な論拠を省略するという様々な弱点があります。

また、党派的なリベラルは
極めて微小な力しかありませんから
保守、体制側の理解を正していく
という手法が有効なのではないかとも思われます。



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