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内親王殿下の複雑性PTSDの診断に寄せて インターネットの誹謗中傷は極限的な攻撃性を獲得しやすいことと、インターネットの誹謗中傷が人間の精神を破壊する可能性があること [進化心理学、生理学、対人関係学]



医学会においては、複雑性PTSD(complex post-traumatic stress disorder)という疾患を認めるか否か、またそもそもPTSDという疾患を認めるか否かということについて議論のあるところだと聞きます。しかし、私は医学者ではないし、ICD-11ではCPTSDも疾患名として認められたと聞きますので、こういう疾患が認められるということを前提としてお話しします。

何よりもお話ししたかったのは、内親王殿下が中学生くらいから、インターネットで自分に対する悪口を書かれていることを見つけるようになって、CPTSDを発症したとの発表があり、それに対してある精神科医の先生が、「悪口くらいでCPTSDが発症することはあり得ない。」とコメントをされていたことについて、それは違うのではないかということです。

もしこの精神科医の先生が正しいのであれば、もしかすると昨年亡くなった木村花さんは、悪口を言われただけで自死したのはおかしいということにならないだろうかという疑問も出てくるような気がします。もっとも、精神科医の先生は、私なんぞが思いもしないところで整合したご意見を発していらっしゃるのでしょう。しかし、私には、インターネット情報の危険性の方に目が行ってしまうのです。

確かにCPTSDを提唱したJ.L.ハーマンの想定していた精神的外傷(トラウマ)は、夫婦間暴力や虐待等、直接対峙する人間関係に基づく悲惨な体験に基づくものでした。インターネットに書き込まれるということは、それに比べると身体的な侵害はないし、逃れられない継続的な人間関係の中での出来事ではありません。悪口くらいでCPTSDになるということは考えられないとする根拠もここにあると思われます。

ハーマンの「心的外傷と回復」が執筆された時代は、1990年代です。フェイスブック社の創業が2004年です。ハーマンの執筆の当時は今ほどはインターネットが一般化しておらず、その対人関係的弊害が認識されていない時代です。もっとも今は2021年ですけれど、未だにその弊害の深刻さについては十分認識されていないのではないかと思われます。ちょうどよい機会なので、この点についてお話ししようと思いました。

CPTSDを提唱したハーマンは、それまでの通常のPTSDは、戦争やテロ、強姦という、一回の出来事でも誰でもが深刻な外傷体験となる体験、通常はスポット的な体験が念頭に置かれていました。ここで念頭に置かれている強烈な外傷体験は、さすがに繰り返して体験する人はいないだろうと思われます。しかし、それほど強烈ではないけれど、繰り返し長期にわたる虐待事例において、過覚醒、侵入、狭窄という恐怖症状、心理学的監禁状態、社会との断絶などの症状が現れることを観察していました。通常のPTSDではない、慢性の外傷体験(被支配体験)による症状についての診断名が必要だということ、うつや適応障害、人格障害や解離とは症状も治療方法も異なるため新しい診断名が必要だということで、CPTSDを提唱しました。

ハーマンは、CPTSDが発症する外傷体験を
「全体主義的な支配下に長期間(月から年の単位)服属した生活し、実例には人質、戦時捕虜、強制収容所生存者、一部の宗教カルトの生存者を含む、実例にはまた、性生活および家庭内日常生活における全体主義的システムへの服属者を含み、その実例として家庭内殴打、児童の身体的および性的虐待の被害者および組織による性的搾取を含む」
としています。

これを読んでしまうと、なるほど、虐待と言えるような激しい攻撃が必要で、かつ、直接的に対峙する人間関係の相手方の行為であることが必要であるように感じてしまいます。
しかし、インターネット、特にSNSの弊害を考えると、SNSによって、CPTSDが発症するという流れがあるのではないかと考えるのです。

ハーマンは、「精神的外傷と回復」の中で、CPTSDの本質は社会とのつながりを奪われることにあると述べていると私は読みました。だから、治療方法は、人とのつながりを再生することだと言っているわけです。
どうして、先ほどの外傷体験があると社会とのつながりが絶たれるかというと、それらの外傷体験は、加害者の支配によって被害者は加害者以外の人間から孤立するからだということになろうかと思われます。全体主義的支配という意味は、そういう意味で、具体的に強制収用や、慢性的な虐待という「逃げ場のない状態」にあることを診断のために必要だとしたのでしょう。

心的外傷と回復の中で、私が一番感動したのは、人間における自己の概念というのは、単体で生きていて形成されるものではなく、自分のつながりの中での自分の在り方を意味するのだというところです。このため、自分が生きていくうえで必要な人間的つながりが絶たれてしまうと、人間は自己概念を維持できなくなり精神的破綻に向かうと私なりに理解しました。

つながりの自由が奪われること、つながりの自己コントロールが不能になることは、人間の精神に対して深刻な打撃を与えるということがCPTSD理論の中核だったはずです。
私の理論の根拠もここにあります。

つまり、
インターネットの他者の書き込みによって、
現代人は、「自己と他者とのつながり」を
「自分でコントロールすること」が不能になると感じてしまい、
自己概念を維持することができなくなり、
他者とのつながりが持てなくなってしまう。
という弊害があると私は主張いたします。

インターネットの書き込みは、ハーマンの言う外傷体験とは全く異なります。
書き込みをされても、自分の家族、学校、職場においては、変わらずに自分は他者とのつながりを持つことに支障が無いようにも思えます。インターネットに悪意が書き込まれていても、日常生活には影響が無いようにも見えます。そんなことで悩むのは馬鹿らしい、気にしなければ良いだけの話だという人もいることでしょう。

しかし、どうやらそうではないようです。人間はそう簡単に物事を割り切ることができないし、気持ちが強くできてはいないようです。

実際に精神医学の認知行動療法の中に、対人関係療法という体系があります。対人関係学とは無関係の由緒ある医学体系です。この療法の治療の考え方として、
現在クライアントが抱えている対人関係的問題が、自分にとって重要な関係なのか、重要ではない関係なのかということを、ご自分で認識することによって、無用な悩みを、無用であると判断し、精神状態の改善を図るという方法があります。対人関係療法からは、人間は、本来、悩むべき人間関係のトラブルと悩まなくても良い人間関係の不具合とを、簡単に区別ができない場合があるということを示していると思います。

できれば、すべての人間の中で尊重されていたいと思うのが人間のようです。
どうしてこのような無茶な願いをするのでしょうか。それは、人間の心の発生時期の環境と関連すると私は思います。

人間の心が発生したのは、今から200万年位前だとされています。当時は狩猟採集をして生活をしていたとされており、30人程度のコアなグループとそのようなグループで構成される150人くらいの集合体を作っていたようです。このせいぜい200人弱のメンバーが生まれてから死ぬまでに認識する自分以外の人間ということになります。こういう少人数の群れにおいては、自分と他人の区別があまりつかず、利益も公平に分配されていたとされています。誰かが、失敗をしても仲間は責めることはしなかったでしょう。体力的に劣ってもフォローをしていたことでしょう。実際に介護がなければ生きていけなかった人間の人骨も発見され、他の仲間が長年介護をしていたことも証明されているそうです。人類は助け合い、仲間を責めないで、平等に生きていたし、弱い仲間を援助するという性質を持っていたようです。

これはそのような必要性があり、必要性に向かって進化したのだと思います。つまり、人間単体では攻撃能力も防御能力も低く、すぐに肉食獣の餌食になり、食物を発見すれば餓死する危険がありました。仲間を作ることによってのみ、その弱点を克服して現代に子孫をつないできたわけです。それを行うことによって、ようやく環境に適合できたことになります。だから、利他行為は、理屈ではなく、人間の本性だというべきだと私は思います。見返りがなければ他人に利益を与えないという考えは、文明に毒されている考えだと思うのです。

この心は、現代にも続いています。仲間から責められたり、批判されたり、嘲笑されれば、人間の心は傷つきます。助け合う姿に感動するはずです。こころは200万年前から進化していないのです。

では、どうして、現代のようなインターネットの誹謗中傷や、いじめ、ハラスメントが起きるのでしょうか。
詳しくは別のところで書いていますので省略します。大事なことは、接する人数が膨大になり、また、所属する群れも、家庭、学校、職場、地域その他とこれも膨大な数の群れになってしまったという環境的変化がおきているということに原因があると考えます。
同時に複数の群れの構成員、偶然すれ違う人、そのすべての人間と接しているので、すべての人間に仲間意識を持つことができなくなっています。家庭の中でも、例えば友達との関係で、親から注意されれば、心理的な葛藤が生まれます。局面によって、同じ仲間でも利害対立が表面的には起こることになります。また、仲間も死ぬまで同じ仲間ということはなく、入れ替えもあります。家族ですら、離婚等の入れ替えが起きることが珍しくありません。仲間、あるいは人間に対するつながりの意識が希薄になっているわけです。さらには、利害対立が起きた場合に、このような人間関係の希薄さによって、他者の利益を犠牲にしても、自分を守るということが常態化しています。
客観的には、人間の対立は起きやすい環境になっているわけです。
それでも全く利害関係のない、縁もゆかりもない人間からでも、他人から攻撃されれば、大変悲しい気持ちになるわけです。心が環境の劇的な変化に対応していないということになります。

こころは、およそ相手が人間であれば、自分を尊重してほしいと思ってしまう。そして、失敗を責めないでほしいし、弱点はフォローしてほしい、嘲笑しないでほしいという気持ちを持ってしまっているわけです。
しかし、攻撃する側から見れば、相手は自分の仲間ではなく、自分を守るためには相手を攻撃をしても良いと考えて攻撃をします。

しかし、人間は、どうやら、相手を攻撃するときには、その相手の落ち度を見つけて攻撃をしたいようです。その落ち度によって、自分が損害を受けているということで攻撃の正当性を図ることが多いと思います。
相手の落ち度、自分の損害が、相手の社会的ルールに違反していること、即ち正義を口実に相手を攻撃するようです。社会的ルールとは、法律だけでなく、道徳や常識、習慣みたいなものも入ります。自分はそのルールを守って生きている、だから窮屈だ。しかし、相手はルールを守らない。相手がルールを守らないことはルールを守っている自分が損をしている。だから相手のルール違反を理由に正義の観点から相手を攻撃する。
これがネットの誹謗中傷だと思います。

そして攻撃をするときの心理としては、自分が正しいことを承認してくれる他者の存在が欲しくなり、そのように自分の意見を指示してくれる人が出てくると、自分の私益のための攻撃ではなく、自分達社会の利益のための攻撃だという正当性の意識が強固になるようです。また攻撃を支える怒りの性質から、相手の自分に対する危険性を無くさせるまで攻撃の手を緩めなくなり、攻撃はエスカレートする性質があります。誹謗中傷の表現は極限まで高まっていきます。また、攻撃行動の条件として、自分が反撃されないことが必要になります。自分が安全だからこそ、不正義に対して怒りが持てるわけです。自分を攻撃する相手が自分より強ければ、あるいは自分自身にも相当のダメージが加わると思えば、攻撃しないで逃げ出すわけです。

インターネットの匿名性は、自分が反撃されないという条件を満たしています。また、自分が見られないために、怒りが抑制されるきっかけが無くなり、極限的な攻撃的な言動を可能としてしまいます。相手の反応が見えませんので、相手はあくまでもルールを破った人間という特性しかありません。容赦がない攻撃が可能となるわけです。また、自分の仲間にも書き込みが見られるわけではないので、その点からも抑止力は期待できません。

それにしても、インターネットの誹謗中傷は、見ず知らずの人間からの攻撃であるし、実際は暴力が起きるわけではない。また、自分の本当の仲間が、そんな誹謗中傷の影響を受けるわけではないでしょう。不愉快になることは当然だとして、CPTSDを発症させるような恐怖体験ではないのではないかという疑問はなお起きるかもしれません。

先ず、「人間は人間から尊重されたい。」という命題はあるわけです。この要求がかなえられない場合は心身に不調が起きるとされています。我々年寄りでも、「死ね」とか、自分の存在自体を否定されるような書き込みに対しては深い以上の怖さが出てくると思います。殺されるという具体的な恐怖というよりも、どうしてここまで自分は否定されなければならないのだろうという感情は、言い知れぬ不安感を抱くと思います。そのことをきっかけに、悲観的な考え、疑心暗鬼的な不安、安全ではないという感覚を持つようになり、焦燥感もわいてくるということはあり得ることです。特に、その自分の存在の否定に対して、その発信者以外の人間が賛同しているとか、容認する形で肯定していると感じるようになれば、自分が社会から否定されているという考え方になっていくことはあり得ることではないでしょうか。

次に、若者たちには特殊な事情があるようです。SNS等、一般に誰にでも開かれた仮想空間であっても、その中で常連のようなネット仲間がいるような場合は特に、その仮想空間が自分にとって重要な人間関係だと感じるということがあるようです。他者の書き込みによって、自分自身の評価が下げられたときは、自分その人から攻撃されたという1対1の関係での出来事ではなく、仲間の中で顔をつぶされたという感情が伴うようです。誰かが自分を庇わない時は、その誰かからも攻撃された感覚になっていくようです。自分が行っているSNS、例えばフェイスブックだったり、インスタグラムだったり、それがその若者の世界なのだそうです。そこで、自分が完全に否定されるということは、もう自分の世界の中で、自分らしく生きていくことができないというような感覚になってしまうようです。私のような年寄りであれば、フェイスブックやめればいいだろうと思いますが、若者はそれができないようです。やめるという発想を持てなくなるようです。こんなところでも、心は200年前のままのようです。

内親王殿下は、若者ですから、インターネットの書き込みは、かなり重大な打撃を受けたと思われます。SNSをやっているということはないかもしれませんが、影響力は甚大であった可能性が高いと思います。加えて多くの人間から誹謗中傷されることは、逃げ場がなくなるという感覚になったと思われます。また、中途半端に知られている、つまりお人柄などがわからないのに、身分や容姿は知ることができるということから、攻撃の的になりやすかったのかもしれません。

国民についての深刻な話は、むしろここからです。宮内庁が、CPTSDだと発表し、その原因がインターネットの書き込みにあると説明したにもかかわらず、なお、以前に増して、内親王殿下や殿下の大切にしている人に対しての書き込みが後を絶たないという現実です。皇室は必ずしも税金で生計を立てているわけではなく、税金とはかかわりのない独自の収入があるということを知らない人も多いようです。何よりも、本来自分の利害の関係のない人たちのことで、攻撃の心理によって、攻撃がやまないという現状を恐ろしいと私は感じました。

常識、道徳、慣習などのルールを破壊したという正義の名の下の攻撃ということになると思います。

皇族の生活に対する自由な意見(攻撃ではなく)と憲法上の象徴天皇制という法的な問題、及び開かれた皇室ということの不可避的なデメリットの問題は長くなるので日を改めて論じるかどうか検討したいと思います。

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【公務災害認定報告】本部審査会による逆転認定 持ち帰り残業が残業時間として認められる基準が示された事案 [労災事件]



私が弁護士になって担当した、4回目の地方公務員災害補償基金審査会での逆転認定ということになります。

今回は、離島だった島の小学校の教頭先生が、心筋梗塞でお亡くなりになった事案です。教頭先生ということで、事情が分かる方は、忙しいお仕事だということをすぐにお分かりになると思います。こちらの先生は、教頭先生のお仕事だけでも忙しいのに、教科も受けもたれられていた上に、教育委員会の仕事もたくさん引き受けられていたという事案でした。
それにもかかわらず、宮城県支部長段階(裁判で言えば第一審みたいなもの)で公務災害とは認められず、支部審査会に審査請求(異議申立)をしても(裁判で言えば高等裁判所に控訴しても)認められず、本部の審査会(裁判所で言えば最高裁判所みたいなもの)に再審査請求をして、ようやく公務が原因で心筋梗塞になって亡くなったという事実が認められました。亡くなってから認定されるまで約5年が経過していました。

勤務地は、船でしか行くことができず、船の始発の7時前に船に乗り、夕方の7時前には船で島を離れなくてはなりませんでした。小学校の教頭先生は、膨大な仕事があるため、どうしても船のある時間に仕事が終わらず、自宅に仕事を持ち帰られなければならないので、家でも仕事をしていました。これが持ち帰り残業です。

この持ち帰り残業が、請求者の主張通り認められれば、過労死基準をかなり超える時間の残業時間となるので、公務災害であると認定されるはずです。しかし、自宅での仕事は、実際にどのくらいの時間働いていたかについての証明が難しいこと、勤務場所での労働ではなく、自宅での労働なので緊張感、ストレスが大きく違うので、過労死認定における労働時間だと言えるかという2点が問題になります。

主としてこの2点を理由に、支部審査会までは公務災害であることが否定されました。
本部審査会は、持ち帰り残業が、労働時間として過労死認定に考慮されるための基準を明確に示しました。

「職務が繁忙であり、自宅で作業せざるえ終えない諸事情が客観的に証明された場合については、例外的に、発症前に作成された具体的成果物の合理的評価に基づき付加的要因として評価される。」
となりますので、これを分解してみると
1)職務が繁忙であること
2)勤務場所ではなく、自宅で作業をしなければならない事情があること
3)具体的成果物を合理的に判断して労働時間を評価できること

ということになります。

1)繁忙については、当事者が忙しくて疲れるということを実感するのは良いとしても、「繁忙」であることを認定する人に伝えなければなりません。これはなかなか難しいことです。
 認定する人は教師等現場の仕事を分かっていない人が多いということがこれまでの経験から感じていたことでした。ともすると、「過労か否かを認定する立場の人は仕事内容を習熟しているはずだ。」、あるいは、「習熟しているべきだ。」と無意識に考えてしまいがちです。これは「違う」と考えて活動を行うべきだと思います。知らないことを非難しても公務災害認定はなされません。そのためにどうするか。
 先ず、通常の職務に伴う仕事の内容をきっちりと伝えることが必要です。幸い、友人に教頭先生がいて、みっちりとしつこいくらい話を聞くことができました。どういう仕事の内容があって、どれがどのように大変なのか。朝学校に来てから帰るまでどの時間帯にどのような仕事をするのか、年間を通すとどのような仕事をするのか。何をどう聞けば、認定者が理解できるようになるか意識しながら聴き取る必要があります。
 次に、その職場その職場でプラスアルファの仕事がありますから、そこは各職場の内容を知っている人から教えてもらわなければなりません。幸いにも皆さん大変に協力していただき、この点も成果が上がりました。実際にその職場に行って、実際に活動しておられた動線を自分も辿ってみました。
 そして、その次に、その人の特別事情も知らなければなりません。この教頭先生は、通常の教頭の先生以上に教育委員会の仕事を、しかも困難な頭を使わなければならない仕事をたくさん行われていました。この仕事を理解すること自体が一苦労でした。言葉で聞いただけでは全く分かりません。実際に現地に赴き、成果物、発表物を写真に収め、パンフレットを見て、ホームページも見て、ようやくおぼろげにわかりかけてきたというような段階でした。
 そうやって、ただでさえ忙しい教頭先生なのに、さらに膨大な仕事をしていらっしゃったということがわかりました。
 それを認定する方々に説明する必要があるわけです。自分が実際にこの資料で理解できたという資料を画像にして示すということも効果があったと思います。
 繁忙を伝えるというプレゼン技法も、だいぶ考え抜いたつもりでした。プレゼンの際の話す速度や資料の活用方法なども基本を押さえて行ったつもりです。
 期限内にやらなければならない仕事がこのようにあったのだということが、まず代理人のやるべきことということになります。

2)自宅で作業を行う必要性
 先ず大前提として、職場にいる時間で仕事が終わらないという事情を示さなければなりません。その上で、船の時間のため、職場を退出しなければならなかったと続くわけです。1)の活動が前提となるということが大切です。さらには、仕事には期限があるということも自宅作業の必要性の重要なポイントですから、これもきちんと証明する必要があります。

3)成果物などの証拠
 この点で、支部審査会などと対立しました。ポイントは、成果物の内容が相当時間を要する内容であり、その時間については上司の方々も認めていたのですが、支部審査会は成果物を形式的にとらえました。つまり、文書の最終更新日の時間によって残業時間を認めようというものでした。これだと、2日以上に分けて少しずつ作った文書は、最後の1日だけが労働時間と認められて、前日の途中作業は更新されて消去されていますから労働時間だと認められないという不合理があります。ここは、大問題です。成果物の更新記録だけではなく、パソコンの作業時間を示す資料などを分析し、作業していたことの立証を行いました。ここは、ご遺族の方が発見して立証に成功したところも大きく認定に貢献しています。本部審査会もこの点について興味を見せていただき、最終的にはパソコンの提出も求められました。調べていただいたということになります。
 しかし、それは最後の決め手ですが、その前提として、ご家族のご自宅での様子、特にルーティンの様子、上司の方の成果物の評価がなくしてはこの最終トライにはつながらなかったと思います。

 本件は、管理職ということで労働組合の組合員ではなく、組合に対して積極的に支援を要請した事案ではありませんでした。それでも、亡くなった先生を知る多くの方々に様々な協力をしていただきました。亡くなった先生のお人柄が偲ばれるとともに、多くの学校現場の方々の、この事例が過労死として認められないことはおかしいという義憤のようなものを感じました。お一人お一人に頭が下がる思いです。

感想
自身4度目の逆転認定ですが、何度でも認定通知が届いた瞬間の興奮が無くなることはありません。今回も逆転認定にならなければ行政裁判だと気を張り詰めていたということもあり、喜びはひとしおでした。しかし、労災事件の常なのですが、今回の亡くなられた先生は、私と同い年でした。あと何年かで定年退職を迎える歳でした。先生もご遺族も、いろいろな夢があったと思います。ご自身の趣味の活動に時間を使うとか、新しいことに挑戦しようとか、家族で旅行に行くとか、まさに当時の私と同じように色々なことを考えておられただろうと思うのです。認定がなされてご家族の生活のご心配が軽減されたことは大変喜ばしいことですが、何ともやりきれない思いも実は大きくあるわけです。
そのためなんとしても過労死予防こそ第1に取り組まなければならないことだと思い、何かの役に立てばと思いこのご報告記事を書いた次第です。

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【先日も不合理で一方的な調停があったということからの吐き出し】夫婦問題は、具体的な離婚予防策を意識して実行して楽しい生活を送るか、一方的に子どもと引き離されて離婚して精神的ダメージを受ける上にこちら側の生活に響く生活費を強制執行の脅かしの下で支払う等の数々の理不尽を受け入れるか。結局そういう選択問題だということ。 [弁護士会 民主主義 人権]



どうやら、現代社会は、普通に暮らしていると、何割かの確率で、妻は夫に嫌悪感と恐怖を抱く。当事者からすれば外れくじを引いたような感覚になる。
同時に、妻は、夫の何気ないふるまい、当たり前の感情を行政や弁護士の力を借りてDVだと評価してもらう。この結果、ある時、夫が家に帰ったら所持品とともに、子どもも妻もいなくなっている。必死になって行方を捜そうと警察に問い合わせをしようとも、警察はお茶を濁したようなことを言って、取り合ってくれない。
先ず、ここまでが第1の不合理。
誰しも、このような近未来を予想して生きていない。その前に、何らかの提案が来るわけでもない。ある日ある時、突然それはやってくる。

第2の不合理は、あなたがいろいろ手を尽くそうとすると、行政では、あなたはDV「加害者」と呼ばれている。ここでいう加害者とは被害者に加害を加えたものではなく、DV相談をした妻の夫という意味である((総務省平成25年10月18日「DV等被害者支援における『加害者』の考え方について」)。それでも、市役所では、あなたは加害者という呼称で扱われるので、DV加害者という意識を職員たちは持つ。ただの「DV」という言葉があるだけなのに、あなたはとても激しいクレーマーだと思われ、執拗に違法な要求を繰り返してくるかのような対応をとられる。職員は、明らかにあなたに恐怖を感じ、恐怖を振り払うように、あなたに強硬な態度をとる。マニュアルには、「あなたと話すことはない。」と話せと書いてあり、その通り話すことによって、実直にあなたを怒らせる職員は多い。あなたは世間から、犯罪者として扱われているという感覚を持ち、社会的孤立に苦しむことになる。子どもが心配になり、妻の実家に行ってみると多数の警察官に取り囲まれ、ストーカー警告を受ける。離婚して10年ぶりに転居をするので連絡をしたら「つきまとい」としてストーカー警告を受ける。これは実際に起きていることで、私は話を大げさに言っているわけではない。

第3の不合理は、司法の場で起きる。あなたの妻は、婚姻費用請求、離婚請求、財産分与、親権を母親に指定すること、養育費、そして慰謝料を請求してくる。

婚姻費用請求は、常に認められ、あなたは支払わなければならない。特に住宅ローンがある場合が悲惨だ。住宅ローンを支払っていることは、支払金額の算定に考慮されないからだ。婚姻費用は、同居中と同じ程度の生活を維持する目的の費用なので金額が高額になる。しかし、二か所での生活をしているため生活諸経費は二倍かかることになる。あなたの実際の生活事情は通常全く考慮されず、あくまでも年収の額面(税込み)で決定されてしまう。高額の住宅ローンがある場合は、あなたはぎりぎりの生活を強いられることになる。子どものために生活費を払うことを嫌がる父親はいない。しかし、自分に相談もなく一方的に出て行って、その結果婚姻費用の支払いが必要になったというのに、出て行った事情は考慮されない。婚姻費用は、現実の生活を送るための費用であり、待ったなしに支払わなければならないという扱いである。そのために、不当な別居かどうかを吟味することは通常行わない。
あなたは、誰も待っていない一人の家に帰り、カップラーメンをすすりながら、婚姻費用を捻出している自分に気が付く。それでも、妻は、もっと収入があるはずだといきり立つ。それはそうだろう。一緒に暮らしているときは、残業をして、人の嫌がる仕事をして、家族のために収入を無理して高めていたから、今もその収入が維持されていると思っているからだ。一人暮らしで、可処分所得の大半を養育費や婚姻費用として差し出している人間は、そのような働く意欲など持てるはずがない。それが人間だと思う。子どもを通じて臨時の支出を要求してきても無い袖は振れない。さらに、連れ去り別居があると、うつ病の治療のために費用や、不思議と怪我をする人が多く、病院代がかさむことがよくある。

財産分与も、様々な不合理を感じる。何十年先の退職金も、まだ退職していないのに、退職金を受領したことを前提として同居期間相当分を支払わなければならない。大体多くの企業では、退職するまで会社が存続するのか保証はない。公務員であっても、賃金が切り下げられていけば、将来退職金額も切り捨てられる可能性もある。どこかでリストラされる可能性も考慮されない。そもそもまだ受領していない金をどうやって払えと言うのか。あなたは、どうして裁判所でこんなことを平気で命じるのだろうとつぶやいている。住宅ローンも同様である。離婚事件の少なくない事例で、住宅ローンを組んだ1年以内に連れ去り別居が起きている。執拗にねだられて家を建てたにもかかわらずである。結婚前からある財産も、それは結婚前からあるということを証明しなければ、半分支払えという命令が出る。その証明は通常難しい。

親権は、裁判所は母親に指定する。小さい子どもの場合は特に、乳幼児期に多くの時間を過ごした方に指定することが子どもの幸せだという考えを持っているからだ。産前産後に仕事を休んで子どもの世話をするのは母親が圧倒的に多いから通常母親が親権者となるのである。親権を外れた生物学上の父親は、子どもが児童相談所に保護される事態になっても、親権者ではないからと一切の情報の提供を拒否される。行政からは、父親ではなく、第三者の一般人という扱いだ。

それでも子ども顔が見たいと思い、面会交流を家庭裁判所に申し立てる。なんと会いたいという一心で、家裁の書記官や裁判官の論文を読んで勉強したりする。家裁月報や家裁紀要等を必死に入手して勉強する。そして、唖然とする。そこで語られていることは、家庭裁判所では一切通用しないのである。どうやらそんな文献は家庭裁判所の職員は読んでもいないようだ。就学前の子どもでも、会いたくないと語れば、子どもの意思だからと言って面会は禁じられる。長期間親に会っていない子どもは、実の親だとしても会うことに不安になることは当然である。安心の記憶ははるか昔の出来事だからだ。家庭裁判所では当然のことではないと知る。子どもは何年か会えていない父親に対しても、調査官に会いたくて仕方がないということが当然だと考えられているようだ。一番納得いかないことは、現在の子どもの感情を錦の御旗のように根拠として物事が決められているということだ。二つの意味で間違いだとされている。一つは、母親とだけ生活した時間が長く、父親と面会すらしない時間が経過したという事情から、子どもの意思が形成されてしまっているということを考慮していないこと。もう一つは、子どもは成長するということ、今は良くても将来的な影響が生じるということは多くの家庭裁判所の文献で明らかにされている。しかし、この点について考察をすることが行われないこと。父親とも生活したい子どもが無理やり引き離されて、問題行動を繰り返す例が実際に存在している。
家庭裁判所はどのようなルールで運用されているのか、弁護士に尋ねてもわからないという。

そうして、子どもとも会えないまま、離婚手続きが終わらない限り高額な婚費を支払い、離婚後も養育費を支払う。支払わなければ、給料の半分が差し押さえられるという。

ここまで書いてきたことは例外的にひどい話ではない。スタンダードな流れである。もっと悲惨な目にあっている人もいる。面会交流調停を申し立てたら、調停委員から、「なんで子どもに会いたいのだ。」と尋ねられた父親もいる。身に覚えのないDVを妻が裁判所に報告したらしく(その内容は夫は知りえない)、インカムをセットした裁判所職員が、裁判所内を夫が異動するたびに少し離れてついてくることもある。見張られていることが分かった当事者が自分は当事者として平等に扱われていると果たして考えるだろうか。現実の事例では、警備員を配置しても、離婚手続きにおいては妻は夫の暴力を主張しなかった。裁判官に抗議したところ、職員の安全を図らなければならないということ以外理由を説明されなかった。不平等は仕方が無いと言わんばかりだ。子どもをとられた母親の場合は、2メートル以内に付きまとわれたこともあった。

まだまだ理不尽はたくさんある。弁護士をしていて、自分の依頼者がこのような理不尽な扱いを受けることに慣れることはない。夜中に目が覚めてしまい、悔しくて眠れなくなることもある。法律やコンセンサスでそのような運用をするならばまだ仕方がない。依頼者に説明することもできる。そうではなくてフリーハンドの感覚で、人間の心がないがしろにされているような運用は慣れることがない。裁判所は判決や決定をしなければならない、つまり白黒決めなければならない機関である。ある程度の割り切りが生まれることは致しかないかもしれない。しかし、白黒は、正義と悪ではない。あくまでも訴訟上または手続上の決着に過ぎない。しかし、黒く塗りつぶされた方は、人間の感情を抱くことも許されないような扱いを受けていると感じられてならない。

このような扱いを受けて、子どもとは会えずに金だけは払い続け、自分は誰もいない一人の家に帰り、酒をあおって面白くもないテレビを観て寝る。相手は子どもの笑顔と成長を見ながら生きていると思うと、苦しさは倍増する。自分はどうしてこのような辛い思いをしなければならないのか、それほどのことを妻にしたのかということを問い続けることになる。しかしその答えは、多くのケースで出てこない。答えの出ない問いかけを自分に対して繰り返す。
ある人は、実績のあった勤めをやめざるを得ないまでに気力が無くなり、友人の世話になって仕事を与えられても長続きしない。そういう生活を繰り返し、10年前の自分の扱いを問い続けてきた。ある人は、離婚から10年たち、偶然知った子どもの連絡先に手紙を出したところ、ストーカー警告を受けた。ある人は養育費を支払い続けたにもかかわらず、子どもが就職したときだけ履歴書用の写真が同封された手紙がよこされた。私の知っている何人かの人は自死をした。こういう人たちは、結婚して生きる希望を持たされて、その希望を絶たれるという絶望を与えられたことになる。激しい落差を味わっている。

裁判や調停での妻の主張を見てもなお、そのように苦しい思いをしている男たちが、こういう目に合わなければならない理由があるとは思われない。多少気真面目過ぎたり、正直すぎるということはある人もいるかもしれないが、ここまでひどい思いをしなくてはならないということがどうしても納得できない。中には、本当に人格的な支配を目的として、服従を強いるような行動をするケースもあった。しかし、それはごく例外的なケースである。通常はそれなりに妻の嫌悪感情を誘引するような事情があったとしても、もっぱら夫に原因があった、というわけではないと感じられるケースが圧倒的多数だ。
そういう男たちの中には、裁判所やSNSで、攻撃的言動をする人がいる。些細な問題にこだわって、大要を把握できない人がいる。従前の性格はわからないが、大多数は、このような理不尽な思いをしたために、自分を守ろうとする意識が過剰になっていることが原因だと考えて矛盾はない。しかし、そのような理解をしようとする人はほとんどいない。通常は、元からこういう性格だから妻は離婚を決意するのだという評価をされてしまう。マイナスな面だけが額面通り受け取られて評価される。幾重にも理不尽な話である。

だから、である。
だから、こんな理不尽な思いをする人が一人でも減るようにしたいと考えている。何も事情も分からないくせに、父親を否定して、母親を苦しめた父親と会いたくないという子どもたちを作らないようにしなければならないと考えている。大人になってもこのような発言をするもと子どもと話をしたが、第三者としてもこのような元子どもたちは痛々しい。自分に自信が持てず、旧友と交わることができず、引きこもり、リストカットや拒食、過食で、精神科病棟の常連となる子どもを作らないようにしなければならない。
だから、離婚の芽をつぶすこと、病的に葛藤が強くなる時期の妻との接し方を確立し、安心感を与える家族関係を作る方法を提案し続けること、大人として家族の時間が楽しいものとするためにするべきことを考えて提案することに力を入れている。予防法学こそやるべきことだと考えている。

そして、これは、妻側にとっても、不幸を拡大しないもっとも簡単な方法だと考えている。

私のブログは、こういう動機で楽しい家族を作る方法を必死に考えて提案している次第です。

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妻からのDV、妻の病的なヒステリーによる精神的な打撃を小さくする方法についての考察 傷つくのがいつでも優しい心なら [家事]

中森明菜「赤い鳥逃げた」*1作詞:康珍化(かんちんふぁ)の冒頭

「傷つくのがいつでも優しい心なら
優しさどこに捨てましょうか
あなたから教えて」

という歌詞があります。
詩人の研ぎ澄まされた感性が
人間の真理を突いたと感じられる
私の大好きな歌でもあります。

この「優しさ」とは何かということも難しいことですが、
たとえば、「相手の気持ちを敏感に察して
相手の役に立ちたいと思う気持ちを持って行動すること」が
優しさという意味の一つだとしたならば
まぎれもなく傷つくのは優しい心だと思います。

妻のヒステリーや妻からのモラルハラスメントによって
多くの男性が精神的に追い込まれています。
妻に対する優しさを発揮しようとしての夫の行動、努力に対して
妻からは容赦なくカウンター攻撃が繰り返され
自分の存在意義さえも根底から否定されるような
発言や行動が繰り広げられて
そして逃げ場がないという状態です。

これからお話しすることは
「子どものために絶対にこうするべきだ」というように
固く考えないでください。

妻からの精神的虐待によって
自死した夫の話もお身内から相談を受けていますし
(子の連れ去りが精神的虐待ならば、
何人かの自死者と生前に出会っています。)
また重篤なうつ病にり患して働くこともできなくなった夫を
この目で何人か見ています。
一言で言って悲惨な状態です。

タイミング、夫の性格、心理的な状態
あるいは妻側の加害の具体的な内容によっては
人間として耐えられないということもありうる話です。

「いざとなったら子どもに土下座をして離婚をして逃げる。」
という選択肢を心に準備していたことが
危機を乗り越えた一番の勝因だと言っている先達もいます。

むしろ離婚という選択肢を持てなくなった時が
精神破綻に追い込まれた時だという人もいます。

自分は離婚という選択肢を持ち続けているだろうか
という自問自答をすることが
もしかしたら生き残る秘訣なのかもしれません。

そのくらい、妻の精神的攻撃に苦しんでいる夫たちがいます。


複雑性PTSDが話題になっています。
この診断名の提唱者であるジュディス・L・ハーマンは、
CPTSDの本質は、
被害者が「人とのつながりを絶たれること」にあると述べています。
だから治療は、人とのつながりを再び作り出すことだというのです。

それが正しいとすれば
虐待の本質は、身体を傷つけられる痛みではなく、
自分が人間として存在するための基盤となる
人間関係を絶たれることによる絶望なのかもしれません。
身体的暴力は、身体を傷つけられると同時に
人間として尊厳、仲間とのつながりを失わせしめているから
被害が甚大になるということになるはずです。

そうすると、DV、虐待、モラルハラスメントは
身体的暴力が無くても成立するということになります。

だから、妻から夫へのDV、虐待は十分成立するのです。

「妻からのDV」というと笑う人(相談担当者、行政)がいます。
おそらく、妻からの理不尽な攻撃があったら
男子たるもの身体的優位さで制圧するだろうから深刻になるはずがない
とでも考えているのでしょうか。

男性のDV被害者の方々は、
妻からどんなに理不尽なことをされても
身体的暴力で対抗することをしません。
しないというよりも、
身体的暴力に打って出ることが「できない」のです。

夫による、妻からのDV被害の訴えを笑う人たちは
結局、DVとは何なのか理解していない人たちです。
女性が被害者となるDVも被害も
本当は理解していないことになります。
「それほど暴力を受けるなら逃げればいいじゃないか
それを逃げないのは、結局男性に依存しているだけだろう。」
等と偏見を持っている可能性があります。
男性のDV被害を理解しない人を
相談担当や行政窓口においてはなりません。

対抗する身体的な対応もできない
攻撃されたことに驚くばかりで合理的な対応をすることもできない
こういう事情が
妻からのDVを可能としているのかもしれません。
優しさが心を傷つけるのだと感じられてなりません。

これから述べる考察は、
妻がDVを行う原因が、一過性のものである時は
良く当てはまります。

これに対して、私が実務上出会った事案のいくつかは
精神病による幻覚幻聴に基づく攻撃
精神病による自己制御不能の状態
修正不能のなんらかのパーソナリティー障害
という場合があり、こういう場合には
あまり当てはまらないことかもしれませんし
高度な技術が必要なことかもしれませんのでご注意願います。

「一過性の原因」ということの代表例が
出産前後、特に出産後2年くらいで、
特に母乳での子育てをしている場合です。

また、一か月単位の周期があって
攻撃性が高まる場合です。

(もちろん、個性による違いが大きくあります。
産前からの傾向が拡大するという場合もあるようです。)

こういう場合は、理由があって攻撃的になっている
というか
攻撃的になっているというよりも
夫が仲間であると感じられなくなっている時期なので
多くのケースでは母乳をやめるか2年くらい経つと
収まっていくようです。

しかし、この時期に対応を間違えると
新たな「夫に安心できない事情」が生まれてしまい
その後もしこりが残ることがあるようです。

第1の対応策は、
いずれ収まっていくと時間の過ぎるのを待つ
ということになります。

但し、ただ我慢するよりは、
「そういうことを言われると苦しい」
「言われるのが嫌だ。情けない気持ちになる。」
「たいそう寂しい気持ちになる。」
等ということをはっきり言葉で教えてあげる必要があります。

この時の注意としては、
居丈高に反論したり、相手の不合理を鋭く突いたり
言い負かしてしまうことは
デメリットばかりが大きくなる危険があるということです。
妻の側で、「新たに夫に安心できなくなる事情」
を作ってしまう危険があるということです。
つまり被害者だったのに、加害者になってしまう
ということです。

そうならないためには、
自分が被害者であることをまず自覚することだと思います。
その上で、被害者らしく振舞うことを考えましょう。

背中を丸めて、斜め下45度を見つめる等
体全体で感情を伝えることが第1です。

これを省略して、条件反射的に怒りだけを伝えると
加害者と被害者が逆転してしまうわけです。
実際のケースではこういうことが多いです。
そして被害者であったはずの夫は、色々な辛酸をなめることになります。

次に多いのは、妻のDVに耐えきれなくなって失踪すること。
先ず被害者であることをきちんとアッピールしてから
その後で失踪するということをしないために
妻子を放っておいたという加害者にされてしまうわけです。

大切なことは被害者であるという自覚をもって
被害者として苦しんでいるということを
攻撃にならないように工夫しながら形で示すことなのでしょう。

第2の対応策は
自分の感じ方を制御するということです。

但し、傷つくことを回避するために
優しさや感受性を殺すことは
自分自身を少しずつ殺していくようなことなので
それはしない方が良いと思います。

優しさを捨てるのではなく、
真面目さや責任感を抑えて、少しいい加減にする。
とこういうことが必要な夫たちが実は多いようなのです。

被害を受けている夫一般に見られることですが、
妻からのDVに対しても過剰な反応をしてしまっていることが
多いように感じています。

とてもありふれた相談例を挙げてみましょう。
妻からのDVの相談がある場合は、
「どんなことをされるのですか?」と尋ねます。
「暴力と暴言です。」と回答があったら、
「どんな暴力ですか。暴言とはどういうことを言うのですか。」
という具体的な内容を聞くことにしています。

「キレてこちらに向かってものを投げ出すのです。」
と言われれば、
「何を投げるのですか。」と尋ねます。
そうすると、ぬいぐるみであったり、ゴミ箱であったり
妻が投げた物を教えてくれます。

何を聞きたいのかというと
例えばハサミだったり、例えばガラスコップだったり
殺傷能力のある投擲行為をしているのか
そこまで自制ができない状態かということを検討するためです。

投げられている本人は気が付きませんが、
その物が何かによって、
夫を殺傷したいのか、
ただイライラを解消したいのかということを見極めることができます。

暴力についても、
けがをさせるとか気を失うような暴力かどうか
ということを尋ねるわけです。

暴言についても一応聞いておきます。
但し、通常、臓物をえぐるような暴言しかありませんから
あまり参考にはなりません。

この記事で私がお話ししたい人物像は、
「そうはいっても、どんなもの投げても、弱い力だとしても
人に向かって物を投げることは無条件にダメなのではないか。」
と素朴に考えている方々なのです。

こういう実際に関わるならば付き合いやすい人こそが
傷つきやすい人ということになるようです。

実際にご自分が真面目で、正義感が強いからこそ
家族に手をあげるということが「できない」わけです。
その真面目さ、正義感を家族にも求めてしまうようです。
しかし、その真面目さや正義感が
自分と妻を苦しめているともいえるのではないでしょうか。

どうして真面目さや正義感が自分を苦しめるのでしょうか。
それは次に述べるような心理経過のようです。

あらゆる暴力は正義や道徳に反する。
あらゆる人を傷つける言葉も正義や道徳に反する。
妻は自分に物を投げるということで
自分を侮辱した言葉を発したことで
正義や道徳に反する行為をした。
自分はその被害者である。
妻の正義や道徳に反する行為は、
自分を侮辱し、ないがしろにする行為である。
だから自分は怒らなくてはならない。
正義や道徳に反する行為をした妻は制裁を受けなければならない。

どうもこういう理屈っぽい感情の経過を
感じる相談が多いのです。
そしてその流れは、
かつての私のように正義感の強い人間が聞けば
ついうなずいてしまうほど自然に聞こえてくるのです。

しかし、私は、常々、このブログでも
法律も、道徳も、正義だって
それは他人同士を規律するための人類の発明品であり、
仲間同士を規律することは別のところにあると主張し続けています。

そのフィルターを通してお話を再構成すると
どうもその考えは本当は自然な考えではないのではないか
という考えが生まれてしまうのです。

つまり実際の被害を基軸にものを考えるのではなく
不正を行う妻の人格を問題にしてしまうのです。
異常な人格者と暮らしている自分はなんて不幸なのだろうと。

ところで制裁について専門的な話をしてしまうと
不正を処罰される場合というのは
理性によって不正を抑制することが期待できる場合の人です。

産後うつならぬ「産後躁」のような
けんかっ早く、無敵モード状態のときは
夫が近くにいると思うとイライラして
夫が近くにいなくければいなくて無責任だとイライラして
とそういう状態になることがあるようです。

このイライラというのはなかなか男性は理解できないのですが、
やっぱりとても苦しくて、何とかこの感情から解放されたいと
そういう要求が強くなっているようです。
そこで八つ当たりをして発散したくなるようです。
自分で合理的な思考を巡らせて
自分の夫に対する攻撃は不合理であり、やってはいけないことだ
というような思考で暴力や暴言をしているわけではないようです。

婦人科系のイライラの場合は
腹部で内出血を起こしていてイライラする場合があるようです。
そういう場合に感情が制御できなくなることが多いのですが、
男性は、そういう外傷ではない内出血が起きる日常ということは
なかなか経験できません。
おそらくその場合のイライラは
強い不安を伴うもののようなものだと思われます。
「出口のない出血」が腹部内で起きているというだけで
私ならめまいがするほど恐ろしいことです。

そういうことでヒステリーを起こしたり、夫に攻撃することが
とても多いようです。

だから、暴力の行為者、暴言者は確かに妻なのですが、
妻を責めたり、罰したりする基盤が本当にあるのか
自信が無くなってしまいます。
つまり、それをしないことが、
果たしてそんなに簡単なことなのか。
そういう妻の精神面の変化という仕組みのおかげで
子どもを授かることができたかもしれません。
そうは考えられないでしょうか。
なかなか難しいこととは思います。

そうして私の研究ですが、
夫に対してヒステリーを起こす妻ほど、
夫を失いたくないと思っている傾向があるようです。
夫を馬鹿にしていたり、侮辱しようとしていたりするわけではなさそうです。
何か特別の意図があっての行動ではないのだろうと思います。

だから、
何も問題や原因がない普通の精神状態ではない
イライラで自分がつぶされそうになっている状態なのだ
と考えてみることはできないでしょうか。

実際はとても難しいことです。
暴言なんて、そういう状態でも適格なところを突いてきます。
自分が侮辱された、馬鹿にされたと思えば
自然に怒りがこみあげてくるのがむしろ当たり前だと思います。

自分を振り返っても分かるのですが、
頭では分かっても
30代までのうちは、なかなか自分の反射的な怒りを抑えるということは

難しかったかもしれません。

でも、怒りの気持ちがわいてからで良いです。
「そんなにムキにならなくても良いのかもしれない。」
と無理して思って見てはいかがでしょうか。

物を投げるということを主目的としているような行為や
あなたに「あたりたい」ということを目的としている行為の場合は、
(つまりあなたを殺傷しようとしている目的はない場合)
あなたに甘えているという理解でよいのだろうと思います。

それを夫の道徳心が強すぎるばかりによけいに傷ついたり
正義感が強すぎるばかりに制裁感情が起きたり、
責任感が強すぎるばかりに、
ヒステリーの言葉を真に受けて余計に傷ついてしまうわけです。

それに輪をかけて
自分の実母や無責任な同僚などの助言、つまり
「そんなことやらせておいたら男子の沽券にかかわる。」
「子どもへの教育的配慮のためやめさせるべきだ。」
「あなたはかなり馬鹿にされている。それでもいいのか。」
「嫁すらも制御できないのか。」
等と言う外野の言葉を真に受けて
自分は「傷つかなければならない。」
「怒らなければならない。」と
素直に制裁感情を引き起こす例は本当に多いと感じています。

文学作品などからわかりますが、
古今東西暴君の妻に虐げられ、苦労している夫たちは
実に多いです。

あなただけではありません。
人類の長期にわたる悩み事であり、
この苦汁を受け入れてきたからこそ
人類が生き残ってきたのかもしれません。

原理的には、妻のDVこそ
人類(二足歩行を常態とする哺乳類)の誕生以来
どの時代にも普遍的に存在していたはずです。

つまり、結婚をした以上、男性は、
人類が誕生したときから選択を迫られていたはずです。

八つ当たりという不合理を断固拒否するのか、
妻の精神的な不安定を伴う焦燥感(イライラ)を
自分を差し出して共有してあげるのか
(できる範囲で)

少しでもそういう視点を持つことで、
結局は、自分と子どもたち、そして最愛の人である妻が
救われるのかもしれません。

まとめますと
第1に、
被害者のままでいること、加害者にならないこと、
被害を冷静に伝えること
第2に、
自分は侮辱されたり、軽く見られてはいるわけではないと考えること

こういうことになろうかと思われます。






*1 赤い鳥逃げた
ミアモーレの、題名違い、歌詞違い、曲、編曲同一の歌です。
どうやら歌謡曲では、こういうパターンを作り、どちらを売り出すか選ぶようです。ミアモーレの方は、歌を聞いただけでドラマチックな情景が生き生きと浮かんできて、曲調とマッチしたのでこちらをシングルカットしたようです。それでも、「赤い鳥逃げた」のパターンも捨てがたく、LPレコードのような大きなレコードでシングルカットされ、私も入手しています。B面はバビロン。先日、久しぶりにレコードをかけたとき、自分の記憶ではもう少し収録曲があったはずなのにおかしいと思っていたら、裏を見たらB面があって、自分で笑ってしまったことがありました。

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今日のNHK「お帰りモネ」(104話、105話)に異議あり、東日本大震災の時の実際の教師と内心に対して自責の念を持つことのばかばかしさ [進化心理学、生理学、対人関係学]


異議ありとか言っていますが
別に文句をつけようというわけではなく、
ちょうどテレビ番組で取り上げていただいたので
説明しやすい良い機会だという便乗企画なのです。

むしろよく取り上げていただいたという大拍手なので、
アンチモネの方々には失望させてすいません。


モネの母親の亜哉子は東日本大震災の際に小学校教師をしていて、
教師を辞めた理由として、
震災の時に、教え子たちをおいて
自分の娘たちの安否を心配して家に帰ろうとしてしまった
と言うことの自責の念を吐露していました。

これは、背景として
教師という職業は、「自分の命よりも教え子の命を優先する」
という聖職論があって、
そのような教師でないから自分を責めたという流れがあるわけです。

昨今の若い人たちには伝わりにくいのは
聖職論(というかそういう教師)なんて知らないよという人が
ほとんどではないかと考えているところだからです。

但し、残業ばかりして、教え子の部活に付き合って
自分の子どもの夕食もろくに作れない、一緒に食べられない
土日は家にいない
という意味では十分聖職者の呪いがかかっているようにも思われます。

さて、私が言いたいことの1つ目は
実際の東日本大震災の教師たちはどうだったのでしょうか。
ということです。

実は職場を離れようとするのと反対で、
震度4以上の地震があったときは職場に行くという業務命令があったため、
せっかく病気休暇をとって自宅にいたのに
原付バイクで海辺の学校に向かい、
津波に巻き込まれて亡くなった先生がいらっしゃいました。

ずいぶん時間がかかりましたけれど、
公務災害が認められました。

また、自分の子どもも大震災当時小学校に通っていたのですが、
担任の先生はご自分の子どもの安否も分からないのに、
すべての教え子の親が迎えに来るまでと
いつまでも教室に残り、子どもたちを励ましていらっしゃいました。

実際の教育現場は、このような教師の皆さんの
大変な思いで教え子を守っていたということが
リアルな話でした。
このことは、目撃者として
機会があれば、いつでも語りたいことです。


二点目は、どうしてわが子を優先しようと心の中で思ったことで
自責の念を覚えなくてはならないのでしょう。
ここが「ちゃんちゃらおかしい」というべきだと思いました。

心の中のことなんで、どうでもよいのです。
色々な雑念は、その人の人格とは無関係に
現れては消えているわけです。
思考というのは、まとまったものではなく、
こういうことを考えてはいけないと思うと
つまり責任感と正義感が強すぎると
「思ってはいけない」と感じる思考に意識が向かうだけなのです。

大事なことは
自分の行動、言動が、他者にどう伝わるか
それなのだと思うのです。
亜哉子は、その場に思いとどまったのだから
どんな思考が頭の中にあったからと言って
何も問題なしで良いと私は思います。
悩むことではない。

それよりも、芥川龍之介の杜子春ではないですが、
我が子の安否を気遣わないということこそ、
後々後悔することであってほしい
そのくらいに私は思います。

教師の子どもの立場なら
そう思うと思います。

鈴木京香さんの演技が圧巻だったため
そして脚本に共感が持てたため
敢えて「文句」を言わせてもらった次第です。

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【家事調停の技術論】子どもがいる場合の家事調停は3面構造で考えなければならないという意味。子どもの独立した人格、利益を考える意味。面会交流調停を例に。 [家事]


家事調停の担当件数が多くなっているのですが、
家庭裁判所に危機感を感じています。

例えばということで、面会交流調停の場合を例に挙げてお話しします。

数年前に、最高裁も
面会交流の動画や、子どもに配慮した話し合いを勧める動画を作成し
子どもの独立の利益を考えろと言う号令をかけ
国も、家事事件手続法を改正し、子どもの代理人の制度を作りました。

しばらくはそのような傾向に調停実務も流れかけたのですが、
最近はまた後退していると感じているからです。

でもどうやら、家裁全体としては流れは確立しているようで、
個々の調停委員会や裁判体の問題のようなのです。

言ってみれば
言葉では、子どもの利益を考えなければならないということは知っている。
しかし、実際の調停の運営における活動では
子どもの利益を考えた結果になる方向に進めていない
という印象を持ってしまうのです。

目標は知っている
しかしその目標を実現する方法についてはわからない。
というような感じです。

無理も無いと言えば無理もないことではあります。
最高裁もそこまで懇切丁寧に説明はしていないようです。

むしろ現場から問題提起をしていくべきことなのでしょう。
ということで
問題の所在が少し見えかけました。

裁判所のスタンスは、
「別居親、同居親、どちらの立場にも偏らず公平を保つ
その上で子どもの利益を第一に考え、調停を進める
面会が子どもの利益を害さないならば、
どのような形で面会を実施するかを議論する。」
というのが、公式見解「的な」もののようです。

これと違うことがあったならば、「違う」と言って是正を求めることができる
ということになりそうなのですが、
そう簡単な話ではありません。

実際の問題点をイメージ的に提示すると

<タイプA>
別居親は会いたいと言っている
同居親は会わせたくないと言っている
話し合いは平行線で、まとまらない。
調停は終わりにして審判にしたらどうだ。

<タイプ特A>
話し合いは平行線でまとまらないから
間接交流で実施するべきではないか。
(来るか来ないかわからない写真を待つことにして終わり)

<タイプ特大A>
話し合いは平行線でまとまらない。
面会は時期尚早なので、今回は取り下げたらどうだ。
(いつになったら時期尚早でなくなるのかは不明)


面会交流調停申立人である別居親からすると
こういう対応をとられていると感じやすいものになっています。
ひところはもう少しよかったのですが。

ただ、実際は、調停委員は同居親に対して
面会交流を実施するように説得しているけれど
それを別居親に報告しないだけということもあるので
そこは注意した方が良いのですが
教えてもらわなければわかりませんからね。

問題点を整理して実践的な解決方法を考えましょう。

裁判所は二つの価値観を示しているわけです。
1 同居親、別居親を公平に扱う。
2 子どもの利益を第一に考える。

しかし、上記の問題例を見ると
1の大人の当事者間の公平が第一になっており、
2の子どもの利益を考えていることが伝わってこない
という問題があるような気がするのです。

先ず、子どもの利益を考えて、
面会することが子どもの利益を害するかどうかを検討し、
害さないなら面会の方法を考えなければならないわけです。

それにもかかわらず、相も変わらず
会いたい、会わせたくない。どちらも平等
ということになってしまってはいないのかということです。

これで話し合いがまとまらなければ
結局子どもは別居親に会えないのですから
別居親は子どもに会えないのですから、
同居親の言い分に偏った結果にしかなりません。

不平等な調停だと感じる原因はここにあると思います。

形式的公平を貫く方法論になってしまっていて、
実質的に不公平な結果にしかならないのです。


しかし、考えてみれば
民事調停だってこういう大ざっぱな調停運営はしません。

民事調停の場合だって、
双方の言い分には隔たりがありますが、
それでも、何らかの合意を成立させるべく間に入るわけです。
例えば「この点の利益を実現できるならば
金銭的な要求については譲歩できるのではないですか
金銭的には譲歩しても利益が大きいとは考えられませんか」
とか、「解決の利益」を考えて当事者の方々と一緒に考えます。

双方に支持的に関与することで、
案外まとまらないと思われる調停もまとまるものです。

「相手の言い分には納得できず、反発しかないが
何とか紛争自体は終わりにしたい」
という気持ちがあるから調停に参加するわけですから
こわもての主張がなされても
双方が譲歩して成立する余地はあるのです。

どこにくさびを打つか、そのポイントを見つけることが
調停委員会の仕事なのだと思います。

家庭裁判所の調停委員会の役割だって
両当事者の言い分が
平行線かどうかを判断することではないと思います。

(これで済むならねえ。)

そもそも、「同居親と別居親に公平に扱う」
ということをわざわざ価値観として重視するから
それを第一に考えてしまうというミスリードになるのではないでしょうか。

(当事者が何を大切にしているか、どうして感情的になるかについて
 理解していないことを表していると思います)

子どものいる場合の家事調停は
当事者が少なくとも3人いると考えなければなりません。
父親、母親、そして子ども(たち)です。

父親と母親は、調停に出てきて好きなことを言いますから
調停委員は二人の話をよく聞いていればよいわけです。
しかし、子どもは調停に出席しません。
調停の場ではものを言わないわけです。
だから、子どもの利益は大人が考えなければならないことです。

目の前にいない、語らない人間の人権や利益を考えることは
大変難しいことです。
目の前にいる人間の意見に引きずられてしまうことは
放っておけばそうなってしまうことです。

子どもの発達などの知識、想像力、理性的判断という
極めて高度な精神活動が求められているのが
例えば面会交流調停なのです。

この精神活動を補うために
専門家である調査官が面会交流などには配置されるわけです。

ところが、調停委員だけでなく、
調査官や裁判官までも
大人の平等第一主義をとってしまって
子どもの利益を結局はないがしろにしてしまっている
こういうことが起きているのだろうと感じています。

実際に面会交流調停なんて、
調停委員や裁判官の強力なプッシュが無ければ実現しません。
二、三年まえまでは、こういう裁判所の働きかけがあって
子どもが安定して別居親と会えるようになっていたのです。

今は大人の平等主義が最優先になっていて
あまりプッシュをしてくれないと感じられてなりません。
それでは、子どもは別居親に会えません。

同居親は別居親と顔を合わせたくないから
子どもを連れて別居したのですから
せっかく別居したのに子どもを相手に会わせようと
思うわけがないのが当たり前です。
同居親は子供を別居親に会わせたくないものだという
リアルから出発しなければ何も始まりません。

別居親の代理人は、子どもを別居親に会わせるという
別居親との合意した目標がありますから、
同居親の感情を少しでも下げる工夫をして
拒否反応を少しでも低くするようなアドバイスをします。

しかし、裁判所がこれを面と向かって別居親に言うことは危険です。
そもそもどうして別居になったのかについては
両当事者で言い分も違いますし、
実際は言葉で説明できないことの方が多いかもしれません。

それにもかかわらず、
子どもが別居親に会えない原因がすべて別居親にあると
裁判所が言っていると聞える話になってしまいます。

同居中の出来事の真偽を確かめようとするのではなく、
調停開始後の別居親の態度が
新たに同居親の不信感や警戒感を引き起こす場合は
(けっこうあるぞ)
それを指摘するにとどめた方が良いのではないかと思われます。

但し、同居親の不安があることも、通常の場合間違いないので、
連絡の取り方とか、子どもの受け渡しとか面会交流そのものの
ルール作りをきっちり行うということは前向きな話になるでしょう。
それは別居親も受け入れるべきだし
通常理不尽な要求というより、どうでもよい話が要求されるだけなので、
どんどん受け入れるべきだと思われます。


具体的な方法論としては、
面会交流調停が難航しそうな場合は必ず、
面会交流の必要性についての調査官のレクチャーを
(面会交流プログラムを)必ず早い段階で実施するべきです。

調停期日を一回つぶしても行うべきだと思います。
その方が解決が早くなるということが実感です。
そして、調停委員も一緒にプログラムに参加するべきです。

表向きの理由は
調査官がどのようなことをレクチャーしたか
しっかり把握して調停に入ることによって
両当事者の会話が進むということです。

少し内緒の理由は
調停委員も面会交流の必要性について繰り返し学習してもらいたい
ということからです。
(代理人弁護士も参加した方が良いですね)

そして最大の理由は
調査官自身が、当事者にレクチャーすることによって
出発点とするべき子どもの利益について
調査官自身が再確認する必要性を強く感じるからです。

これが抜け落ちていると、
子どもの利益を第一にするために理性的な精神活動を求められて
そのために調停に出席する調査官でさえも
調停に出席している人間の感情に振り回されて
子どもの利益が後景に追いやられてしまうようです。

自分が気に入った正義感で
相手を制裁しようとする行動原理が
どうしても見えてくることがあります。

感情に振り回されず、知識と理性に基づいて
子どもの利益を第一にした結果を出すと言う役割が
全く果たせません。

大人の当事者双方の感情に振り回されず
冷静に、理性的に子どもの利益を第一にする
そういうためにはこのように、
一見非情に思えるような精神活動が必要になる
私はそう思います。

面会交流の阻害事由がなければ
どのようにして面会交流を実現するか
という話に進まなければなりません。

それは同居親にとっては、感情的に受け入れられないことです。
しかし、子ども利益について一緒に考えなければなりません。
その現象自体は、感覚的には
同居親に対して不平等に扱うような現象になるわけです。

大人の間の平等よりも子どもの利益という場合は
どうしても一方の親の表面的な不利益が発生してしまい
一見不平等に見えてしまいます。
それは形式的な平等よりも優先するということを
はっきりと意識しなければならないことです。

これは、面会交流阻害事由がある場合は
別居親に不利益になるのですから
実は同じことなのだと思います。

ただ、場面が異なるだけの話だと思います。


そして、家庭裁判所で子どもの利益を考えなければ
あとは子どもは自己責任で成長していかなければならない
このことの重さをよく考えてほしいと思うのです。

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PTSDの診断(主として連れ去り後の家庭裁判所に対して提出されるもの)が乱発されているのではないか。それは当然に第三者の権利を不当に侵害して、人生を台無しにする危険がある。考え足らずの「寄り添い」の犯罪性について。 [弁護士会 民主主義 人権]


PTSDという精神疾患があります。
外傷性後ストレス障害と訳されています。
ベトナム戦争から帰還した兵士に多く見られた精神症状について
これまでの精神疾患のカテゴリーに該当しないのではないかということで
新たな精神疾患として理論化されました。

ICD-10という国際病類分類の定義を末尾に紹介しておきます

独特の精神症状が現れる病気ですが、
強烈な外傷体験が必要とされているという
精神疾患にかかる原因があったことを要求しているという点で
国際病類分類の診断基準としては珍しい部類に入るのではないでしょうか。

その外傷体験とは、戦争、テロ、強姦、拷問という強烈な体験であるもので、
例外的に著しく脅威を与えたり破局的な性質をもった、ストレス性の出来事
とされています。

例外的な出来事が無ければPTSDと診断できないはずなのです。

ところが、このPTSDという診断を裁判所でよく見るのです。

今、裁判実務で問題とされている類型は交通事故です。
何年か前から法律実務の雑誌で裁判官たちの
批判的な論文が掲載されるようになっています。

もっとも裁判官は如才ないですから
「こんなのPTSDではない。間違った診断だ。」
というような表現は、したいとアッピールしながらしていません。

PTSDという診断が多投された結果どうなったかという
判例分析を冷静にしています。
・PTSDという診断で、損害の大きさは判断できない
・症状の程度で精神的損害の大きさを判断する
ということになるようになったと分析しています。
それはそれでよいのですが、
この流れの派生結果として
例えば強盗に身体を拘束されて武器で脅かされた女性が
PTSDの診断を受けても
PTSDの診断は信用できないから
損害額の軽減を図る手立てをしなければならないと
ざっくり言ってそのようなことになっています。

PTSDインフレみたいな状況になってしまい
正当に保護されるべき人の保護が図られない
という危険が起きているのです。

医学的には正しいかどうかわかりませんが
いまやPTSDという診断より
遷延性うつ病と慢性的なストレス障害、解離性障害の合併症
とでも診断された方がよほどよいような気がするほどです。

裁判所での悪影響は、それだけではありません。

子どものPTSDが目につきすぎるということです。

(事案は本質を害さない程度に変更しています)
子どもの精神疾患の専門医の肩書で、
瞬間的な一度の打撃による打撲(被害者は暴行、加害者は事故と対立)
があったことを理由にPTSDという診断があったり、

野球観戦の際に売店に行くときに子どもをおいて行ったことを理由に
PTSDにり患しているというのです。
6歳の子どもです。その後子どもと楽しく野球を見て帰っているのです。

この野球観戦から半年以上を経た時期の
一方の親による連れ去り別居が始まるまで
子どもには何の精神症状も出ていないのに
連れ去り後に症状が出たからと言って
PTSDだと診断書を作成しているのです。

甚だしいのは
2歳にもならないお子さんがPTSDだという診断書も
先日目にしました。
「乳幼児期の父親の(主として母親)に対する異常な言動によるもの」
というのです。
これが戦争やテロに匹敵する外傷体験だというのです。

そもそも発達科学に照らして、2歳未満の子どもの知能が
どのくらい発達しているというのでしょうか。
大人の言語も理解しているような書きぶりです。

まだありました。
母親による子どもの連れ去り別居の事例で
面会交流調停の中で
医師の意見書が提出されました。
父親による過度のしつけ、虐待によって
子どもが精神的不安定になっている
だから、試行的であっても、子どもの症状が悪化するため
面会交流には絶対反対だというヒステリックなものでした。

ちなみにこの事件は、母と子の折り合いが悪く
母の支配的拘束に絶えられない子どもが反発して
問題行動を起こしていた事例でした。

こちらの医師批判の活動(これは企業秘密ですね)も奏功して
裁判所はこの診断書は全く相手にせずに
ほどなく裁判所での面会が実施されました。
(調停委員、裁判官に恵まれた事例です)
面会室に父親が入った瞬間の
まさにはじけるような満面の子どもの笑顔は今も忘れられません。
その笑顔は父親が退室するまで1時間近くもずうっと続いていました。
父親に会えてうれしくてしょうがないということが嫌でもわかり、
合えなかったときの子どもの気持ちを考えて
こちらは1時間近くずうっと泣きっぱなしでした。

この時、この医師だけでなく、学校関係者からも
面会に反対する意見書が出ましたが、
あの笑顔を抑圧する危険があったと思うと
どんなに面罵して面罵しきれない思いということが正直なところです。

子どもの親に会う喜びを奪おうとしたことはもちろんですが、
子どもが健全に、自分は誰からも大切にされる存在だという
生きていくために必要な自信を得る機会を奪い
健全な成長を妨げる危険があったということが
よくわかります。

その後この事件は定期的な面会が実施されるようになりましたからよいですが、
そうでなければ、学校関係者と医師に対する
裁判提起があったのではないかと感じています。

簡単にPTSDの診断書を作成する医師の特徴として
・子ども本人を診察しない
・概ね同居親の話だけで症状の有無を判断する。
・同居親の話だけで虐待の事実があったと判断する。
・PTSDの診断をしても、治療は行わない
・もちろん認知行動療法は行わない。
せいぜい、コンサータなどの劇薬を処方するくらいです。

そもそも発症時期も特定していません。
もし一方の親の虐待が原因で精神症状が起きたというのならば
ストレス源である一方の親との同居中から
子どもに精神症状が起きなければならないのではないでしょうか。
ほとんどの事例ではそれはありません。
同居親自体が同居中から症状があるということは言っていません。

ほとんどの事例で
「虐待」と認定された出来事から半年以上を経た
別離を契機に子どもに症状が起きています。

多くは一方の親と突然会えなくなったことの
わけのわからない状況に陥らされた
子どもの不安の表れだとみるべきだと私には思われます。
お医者さんは、このことを思いつきもしないのでしょう。

診断の名に値するのかわからないほどの
投げやりともいえる態度だと感じる理由はそこにあります。

つまり
同居親の話だけで虐待があったと認定し
ささいな行動がPTSDにおける外傷体験だと無理な認定をし
同居親の話だけで子どもの精神症状を認定し、
発症時期をまったく気にしないで
無理な診断をするのでしょうか。

いくつか原因が考えられます。
・医師は、目の前の患者さんの治療だけを、日常的に仕事にしているために、目の前の患者の利益以外は考える職業的習慣がない。自分の医療行為によって、第三者が損害を受ける可能性があるという発想を持てない。
・素直な性格。お医者さんに多く見られるのは、素直に他人の話を信じるということです。おそらく、そういう性格だからこそ、大学の医学部という難関を突破し、国家試験に合格するということなのでしょう。だから人の話を素直に本当だと受け容れてしまう。虐待があったと思ってしまう。
・恵まれた環境に起因する素朴すぎる正義感。虐待やDV等の話は身近にはないから、そういうことがあると先ず拒否反応を示してしまうか、詳しく聞くことをためらってしまう。このため、漠然と虐待、DVという言葉だけに反応し、先ず言葉に反発して、被害者のために自分ができることを考えてしまう。
・診断書を書くという自分の立場におごり高ぶっている。診断書は、裁判で言うところの判決みたいなものです。自分が最終的な決定権を持っているという意識の効果があるのではないでしょうか。虐待があったと認定できる権限、PTSDを発症していると言える権限をもっているわけです。この権限を目の前で苦しんでいる人を助けるために行使しなければならないという、使命感、正義感があるのではないでしょうか。軍事力を強化すれば戦争をしたくなるということが言われていますが、こういうことかもしれません。
・主義主張を持った人 このような一部の方もいらっしゃる可能性は否定できません。ご自分の主義主張が、医学的知見を凌駕してしまうケースです。

でもその結果、満足するのは同居親の「気持ち」と
診断書を作成した意思の自己満足だけです。

別居親もそうですが
何よりも子どもに深刻な影響が生まれてしまいます。

統計的な研究によれば、
子どもは、診断書があるからという理由で
別居親に面会すらもできなくなるのです。
年齢によっては、子どもは
自分が悪い子だから別居親は自分に会いに来ないのかな
悪い子だから嫌われたのかな
自分が会いたくないと言ったから別居親は自分を怒っているのかな
自分はなんてひどいことをしたのだろうか
と感じるようになり、


やがて
自分は、被害者である親と加害者である親の
二人の血を引いた人間である。
自分とは相反する血が流れているわけのわからない存在だとか

自分は他人から受け入れられる存在ではないとか
深刻な影響が15歳ころから現れ始める
そういう実際の事例をたくさん目にしてきました。

実際のいくつかの事例では
入院した精神科では、
ほとんど何の治療もなされずに
社会から隔離されていただけでした。
退院しても何かが改善されたということはなく
また、入院をするということが繰り返されていました。

こうならないように
楽しく人生を歩むということが
子の福祉の意味だと思います。

子どもを診察するということは
この子どもという後の人生を決定しかねない時期に
子どもの利益のためにベストを尽くすということではないでしょうか。

幼稚な正義感で、決定権を濫用してはいけないはずです。

先に上げた野球観戦で親が売店に行って一人ぼっちになったということが
虐待だとされ、PTSD発症の原因だとされたケースですが、

実際は、子どもが「フライドポテトを食べたい」
と親におねだりしたことが始まりでした。
ひいき球団の得点機という場面だったのですが、
親がそれより子どもが喜ぶならばということで
人ごみをかき分けて売店まで行き買ってきたのです。
もちろん子どもは大喜びだったと言います。

いつもは食べる量を制限されている大好きなフライドポテトを
好きなだけ食べられたということよりも
親が野球観戦を中断して自分のために売店に行ってくれたという
親の愛情を、一点の不安もなく感じることができたからだと
私は思います。

ところが、その大切な子どもの思い出が
PTSDの原因となる虐待エピソードだと認定されてしまえば
大切な思い出が、一転して、
自分が実の親から虐待された、自分が嫌われたエピソードだと
記憶が変容してしまうのです。

子どもにとって、単なる別居親との別離を強いる以上の
極めて罪深い診断書ではないでしょうか。

このような診断書が多く作成されることが
何とかならないものなのでしょうか。


<ICD-10によるPTSD>

「ほとんど誰にでも大きな苦悩を引き起こすような、例外的に著しく脅威を与えたり破局的な性質をもった、ストレス性の出来事あるいは状況(短期間若しくは長期間持続するもの)に対する遅延したおよび/または遷延した反応として生ずる(すなわち、自然災害又は人工災害、激しい事故、他人の変死の目撃、あるいは拷問、テロリズム、強姦あるいは他の犯罪の犠牲になること)。
  典型的な諸症状には、無感覚と情動鈍麻、他者からの孤立、周囲への鈍感さ、アンヘドニア(喜び、快楽の喪失)、トラウマを想起させる活動や状況の回避が持続し、そのような背景があるにもかかわらず生ずる侵入的回想(フラッシュバック)あるいは夢の中で、反復して外傷を再体験するエピソードが含まれる。一般に、患者にもとのトラウマを思い起こさせるきっかけとなるものへの恐れや回復がある。稀には、トラウマあるいはそれに対する元の反応を突然想起させるおよび/または再現させる刺激に誘発されて、恐怖、パニックあるいは攻撃性が、劇的に急激に生じることがある。通常、過剰な覚醒を伴う自律神経の過覚醒状態、強い驚愕反応、及び不眠が認められる。不安と抑うつは通常。上記の症状および兆候に伴い、自殺念慮もまれではない。アルコールあるいは薬物の過度の服用が合併する要因となることがある。
  トラウマ後、数週から数カ月にわたる潜伏期間(しかし6カ月を超えることはまれ)を経て発症する。経過は動揺するが、多数の症例で回復が期待できる。一部の患者では、状態が多年にわたり慢性の経過を示し、持続的パーソナリティ変化に移行することがある。」


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【我田引水に称賛する】南山大の偉大な研究 人間同士の争いと人口の関係 勝手に[対人関係学]の実証的裏付けであると大歓迎する [進化心理学、生理学、対人関係学]


南山大が極めて注目するべき研究を発表しました。視点といい、研究対象と言いとても素晴らしいものです。

争いの主要因は人口増 弥生時代の九州の調査分析 南山大グループ発表
https://edu.chunichi.co.jp/news/detail/11065

これから述べさせていただくことは我田引水です。全くの、しかも勝手に行うので、大変申し訳ないきもちであることをのべ、先にお詫び申し上げておきます。

この新聞のタイトル自体が、まさに対人関係学の主張そのものです。
対人関係学の主張は極めてシンプルです。

人間関係の紛争や社会的病理が起きる根本原因は
人間の脳と現代の環境のミスマッチにある

というものです。
つまり
人間の脳、またはこころは200万年前に今の状態に確立したとされています。200万年前の環境に適応するようにもっと長い年数をかけて形成されたわけです。その環境とは、人間は中途半端な弱者で、個体で生存することは難しく、30人から150人程度の群れを作ることによって、はじめて野獣から身を守り、飢えを免れることができたわけです。
その仲間は、生まれてから死ぬまで同じ仲間であり、その仲間以外には人間には出会わなかったと思われます。
仲間と自分の区別がつきにくく、仲間が悲しめば自分も悲しくて何とかしたいと思い、助け合って生きてきたと思われます。群れからはぐれるととても苦しい思いを死、群れからはぐれそうになるとたちまち心配になり、なんとか群れにとどまろうという気持ちになったと思われます。そうでなければ、言葉の無い時代に群れを作ることはできなかったでしょう。
現代人もこの心があり、自分が誰かから批判されたり、責められたり、嘲笑されれば、たちまち不安になってしまうわけです。群れから排除されそうになると何とか群れにとどまろうと努力をするのは、人間がそういう風に長い時間をかけて作られたからです。

この環境が崩された大きな原因は農耕です。一つ所にとどまり、多くの人数と近い場所に居住しなければならなくなりました。つまり、150人を超える人数が共存するように環境が変化したのです。
しかし、脳はそれにつれて進歩できませんでした。脳が深化するには時間が短すぎたようです。

近くにいるのに「仲間ではない人間」が現れたわけです。

仲間であると考えると攻撃はしません。その人の痛みを自分の痛みと感じてしまうからです。仲間であると認識できない場合は、その人が苦しもうが、困ろうがあまり感じないで済みます。そして、仲間と感じる人の利益のためならば心を鬼にして、仲間以外の人間を攻撃することができるようになります。

この時期がまさに南山大の調査研究された時期に重なると私は強く感じ入っているわけです。

人間が仲間だと感じるのは、いつも一緒にいて個体識別できる存在ということになるのでしょう。この個体識別できる人数の限界が150人程度ということになるそうです。

それでもその後の歴史を見ると、人間は人口密度と人口を増やし続けて生き続けています。私は、それを実現した方法を人類が発明していたのだと考えています。それは社会的なルール(社会規範)を作ったことです。道徳とか、原始宗教とか、もう少し時代を下れば法律ということになります。最初は強者が敗者を屈服させてつくられたのかもしれませんが、それは安定しないルールですから、社会転覆が起き、結局は、それなりに八方が丸く収まるようなルールに向かったのだと思います。つまり、仲間に対する自然な感情をもとに、それが仲間ではない人間の群れとの共存に応用されてルールが作られていったのだと思うのです。人間の価値観が、世界中であまり変わらないのは、200万年前の人間の性質が、およそ人間全体の性質だった何よりの証拠だと思います。

現代社会は、さらに複雑になりました。
人間が複数の群れに同時に帰属するようになったのです。
それまでは、人数は多くなったものの、人間の多くは、生まれてから死ぬまで同じ場所で過ごすものも多く、仲間意識がそれなりにあったと思います。しかし、家族という制度が生まれると、家族とムラという複数の群れに所属するようになり、それぞれの板挟みが生まれ始めます。さらに近代以降、交通や産業が発達して、現代社会は、家庭、学校、職場、地域と複数の群れに同時に所属することが当たり前となり、さらには、社会、国、インターネットと所属する人間関係も膨大になっていきました。
その結果、一つの群れに対する帰属意識も相対的なものとなり、例えば家庭であったとしても、自分と家族の区別がつかないほど家族に感情移入をすることが無くなっていきました。
帰属意識が希薄になるということは、仲間意識の中で安心することができなくなるということを意味していきます。人間は常時不安に苦しむようになっていったわけです。自分が、どこかの人間関係から外されてしまうという不安はどこにでも生まれてしまいます。家族でさえも、安心できる人間関係ではなくなりました。まして、インターネット上でしか関係を持たない相手に対して、仲間意識をもとうとしても、簡単に裏切られますし、簡単に攻撃を受けることになります。そうして、弥生時代のように、自分の仲間を守るために、相手を攻撃するということなんて、本当に簡単になってしまいました。

こうして人間は孤立していくわけです。人間に対して対した理由もなく攻撃できるようになってしまったのだと思います。それぞれの個別の流れはありますが、離婚、虐待、いじめ、パワハラ、セクハラ、そして自死等根本的には仲間だと感じられない相手と身近なところにいる、また、自分が安心していることのできる人間関係がないということが根本に横たわっているという考え方を、対人関係学と言います。

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なぜ仲間を攻撃するのか、仲間から攻撃されるのか。夫婦間の攻撃とは愛情の裏返しということについて。 [家事]



攻撃する方は
自分が仲間を攻撃をしているという自覚がないことが多いようです。
自分の言動によって、多少軋轢を生んでいる自覚があったとしても
罪悪感がないことが通常です。

攻撃される方は
どうして、相手がそういうことを言うのかなと
激しく落ち込んだり、
これからは、元のように自分は仲間の一員として
一緒に笑ったりすることはないのかなという
解決不能感を感じ、
その人たちと関わることにおびえるようになります。

その人から電話が来るだけで
血圧が上がったり、脈拍が早くなったり、
どうもいやあな気持ちが台風の雲のように足早に心を覆います。

職場、学校、あるいはSNS等どの人間関係でもこれは起きるのですが、
前回お話しした通り夫婦の問題にクローズアップして考えてみましょう。

男性と女性でどちらにこういう傾向があるかという点については
誤差の範囲であり、性差はあまり関係が無いというのが実務的実感です。

例えばこんな感じの例を出してみましょう。
****
 子どもの成績が悪くて、妻が夫に心配である旨を伝えた。夫は妻の心配も分かるけれど、妻の言葉の端々から子どもの悪口に聞えて聞くに堪えないため、「そういう言い方はないだろう。」と妻の言い方の問題を先ず指摘してしまう。心配を共有したい妻、対策を講じたい妻からすれば、理由なく自分が攻撃されたと感じてしまう。そして、「どうしてそうやっていつも話をはぐらかしたりするのよ。あなたはいつもまじめに子どものことを考えてくれない。」等と反撃してしまうわけです。
****

妻の最初の子どもの成績が悪いという情報の伝達と相談ですが、つい心配してしまうあまり、余計なことを言っていることが多いのではないでしょうか。勉強しないで服装のことばかり気にしているとか、スマホばかりいじっているとか、努力をすることができない等の人格的なことまで言及してしまって、本当に言わなくてはならないことが埋没して見えなくなってしまう。このため、たんに子どもの悪口を言っているように聞こえることがあります。

分かりにくくはなっていますが、受験が近くなってきたとか、子どもの状態から、妻が何を言うのか、夫がわからないということはないはずです。
ある程度余計なことを言うのは、家庭の会話なのだから仕方がないことなのですが、どうもそれを許さない考えに染まっているということはよくあることです。「夫婦の会話なのだから」という観点で、取捨選択して聞くという作業はどうしても必要です。

これができないのは、子どもへの心配を口実に、自分が責められているのではないかという意識がどうしても出てきます。「俺のせいだと言いたいのか?」というおなじみの感情です。
でも冷静に考えれば、子どものことを心配しなくてはいけないよなと思い、「そうだよな。」という言葉をとりあえず発してから考えるという選択肢を持っても良いというのが教科書的な、対処の第1歩でしょう。

次に夫の代弁をすると
そうは言われても、自分が成績をあげさせるアドバイスをする自信なんてまるっきりないし、成績が悪いのは子ども本人が一番よく分かっているから、改めて親がそれを言ったところで子どもにとってはプレッシャーにしかならないし、子どもから反発されるだけではないか。つまり夫としては、どうしてよいかわからないから早く話題を打ち切りたいという気持ちになっているということもあるかもしれません。

ちなみに教科書的には、わからないことはわからないと言って、塾に行かせるなり対策を相談すればよいのですが、そう理性的に進んでいかないのも「普通」の中に入るのかもしれません。

そして、妻の反撃を受けた夫は、もう「自分を守る」というテーマでの行動となります。一連の出来事の記憶も、自分が妻から突然攻撃されたという記憶として残ることがあるようです。

妻の側からすると
子どもを心配しなくてはならない時に、「ささいな」自分の言葉に対して攻撃するとは何事だという感覚となることでしょう。子どもの心配をして親として話し合うよりも、自分を攻撃したいのかこの人はという気持ちになるわけです。もちろん、「子どもの成績が悪いのは私のせいだというの?」というお決まりの感情もでてくることでしょう。

さらには、仲の良い、お互いをよく理解している夫婦の場合は、「夫は子どもの成績対策まですべて私に押し付けようとしている」と察して、そうはさせまいと防御態勢を予め敷いてくる場合もあるわけです。もう、夫の反応としての原因が原因なのか、夫婦の在り方なのかわからない混然とした攻撃の応酬が始まってしまうわけです。そしてその攻撃から自分を守るという行動が攻撃の応酬という性格をより際立たせていくわけです。

ここまでお話ししていて、皆さんはどう思われるでしょうか。
このような些細な食い違いから攻撃を受けると感じるのは
面倒くさいし、くだらないし、初めから結婚するべきではない
とか感じられる方も多いかもしれません。

しかし、私のように年齢が高いからとか、事例をたくさん見ているからとか
何らかの理由はあるのでしょうけれど
私は人間とはいじらしい生き物であって、かわいらしい存在だと
そう思えてきてしまうのです。
仲良しでいたいという気持ちから
仲良しでなくなるのではないかという不安が生まれるわけです。
だから、仲良しでいられなくなる原因を説明して
みんなが行動を改善すれば
もっともっと簡単に楽しくなるのではないかと思うのです。

仲良くしたいという感情がうまく伝わらず
逆に攻撃されたという気持ちになってしまうということが
多くあるだけなのだと私は思います。

もつれた感情を解きほぐす手段を考えていきましょう。

これが、SNSならば、簡単です。
こちらが楽しい気持ちで楽しさをシェアしようとしているのに
わざわざコメントを書き込んで
自分はこれだけ辛い思いをしているとか
本論と異なるところで揚げ足をとってくるとかいう人がいますよね。
同級生とか面識のある人ならば攻撃とは感じないで笑いになりますが、
どこの誰なのか、本名なのかもわからない人からこういうことされると
攻撃されているとしか思われず、不愉快になります。
客観的にはシェアを台無しにされたと思うわけです。
こういう人はブロックすればすむわけです。

しかし、夫婦間ではブロックするわけにはいきません。
家庭内別居は、心理的に双方かなりのダメージを受けます。

攻撃を無くして、攻撃だと感じなくする方法は
それほど難しいことではないと思うので
一緒に考えてみましょう。

二つばかり考えてみました。

第一は、攻撃されているという意識を持つ人は
実際以上に攻撃されていると過敏に感じてしまいやすくなる
ということです。

色々な相談会で、
攻撃を受けている様子を色々とお話をされるのを聞きます。
確かにそれはひどい攻撃だなあと思うことももちろんあるのですが、
「え?それはどうして攻撃として受け止めたの?」とか
「それは明らかに攻撃として受け止めるべきではない」とか
ということを感じる時が多くあります。

率直に、その旨感想を述べると、
例えば、「これとこれはだめだよね。
でもこれも攻撃というのはどういうこと?」と尋ねてみます。
そうすると、別の人に相談したところ、それは攻撃だといわれたというのです。

こういう支援者はかなり多いのですが、
せっかく仲良くなりたいということから出発している人間通しの争いを全く理解できない
悪魔のような存在となる危険があります。

こういう人は人間は合理的に行動するべきであり
合理的な行動をしない方がトラブルの責任を持たなくてはならない
と言っていることになると私は思います。

こういう人は、
一番最初の夫婦喧嘩のケースで
子どもの成績に対する不安は、
そのことズバリだけ、客観的な情報だけを伝達するべきで、
感情的な説明をしたためにトラブルが起きた
という判断をすることになります。

人間関係を上から裁こうとしている
ということに気が付いていないのです。

私から言わせてもらうと
人間はそんなに合理的に行動することができない生物であり、
過度なビジネスライク的な評価は、流行ではありますが
人間性を無視している危険な評価だと苦々しく感じています。

攻撃を受けていると感じている人は
当然自分を守ろうという反射的行動をしますから、
自分を守るために、慎重になり、悲観的になります。
このため冷静に考えれば攻撃を受けているわけではないとわかるのですが、
冷静に考えることができず
とりあえず攻撃を受けているととらえて
守りをしておこうという発想になるわけです。
だから、攻撃だととらえる範囲が限りなく後半になりやすいのです。

攻撃を受けているわけではない第三者であるにもかかわらず、
当事者の不安の妥当性を検討しないで、無責任に寄り添い
「それは確かに攻撃です。」というのだから
極めて悪意のある態度だと言われなくてはなりません。

考えの足りない人
人間についての理解の無い人
何か自分の思惑が強くある人が
他人の相談に乗るということは
大変危険なことだと思います。

夫婦の問題だけは
自分の不安を駄々洩れのように肯定する人には
相談するべきではありません。

また、全部が気の持ちようだという回答も
稚拙な回答者のすることですから
そういう場合も別の人に相談するべきです。

客観的には、あなたのこれとこれの心配は過剰だと思う。
でもあなたがそれを心配するのは理由があることで
もしかしたらこういう理由ではないか
だからここをこう改善してみたらどうなるか
試してみる価値があるのではないか
とかいう回答をするべきパターンが一番多いように思うのです。

できればこういう相談者に相談しながら
自分が心配するべき事柄と、心配し過ぎなくても良い事柄を
区別する作業が出発になるような気がします。

第2に もしかしたらあなたは相手に過剰な期待をしているのではないか
ということを検討することに価値があると思われます。

特に攻撃を受けている人は、
自分の味方に対する要求度が高くなり、
結局、自分の不安を解決して不安を無くしてほしい
というところまで要求が高くなってしまうことがあります。
そういうことをして初めて味方だと認識できるみたいな感じです。

パワハラやいじめを受けている人が典型です。
こういう相談を受けていると、
その人の職場や学校には
いじめ等、明らかな攻撃をする人とその取り巻き
何も言わずに知らんぷりをしたり、にやにや笑って
攻撃者の攻撃を承認する人たちが確かにいるのですが、
中には、公然と
「あなたが言うその人は、勇気をもって
あなたの味方になろうとしているじゃない。」
という人がほぼ例外なくいます。

いじめのようなひどい攻撃を受けている人ほど
助けてくれようとする人の気持ちに気が付かないようです。
その水準では味方だという気持ちになれないようです。
もっと自分を助けてほしいという感情が先行してしまう
ということが理由ではないかと考えています。

実際には、いじめられている人は
その手を差し伸べる人も攻撃者としてカウントしているようです。

そういう人の多くはいじめが始まる前には
仲良く一緒にいた人たちのようです。

どうやら、攻撃者としてカウントする理由は、
その人が相手に対する期待値が高すぎて
相手がその期待値に到達していない
ということを非難する感情が起きているからではないかとにらんでいます。

夫婦の相手から攻撃されているというよりも
職場で攻撃を受けていたり
自分の親戚など人間関係で不具合が生じていたり、
相手に内緒でやっているSNSで、
自分のスレッドとは場違いな攻撃のコメントがなされ
それに別の人が同調して自分が無視されるなどのことが
多くなっているのか
あるいは単に体調から、訳もない不安が起きていて
自分が攻撃されているという意識が
慢性的に起きやすくなっているということもあるでしょう。

どの人間関係も順調で、一点の曇りもない
という人はいるでしょうか?
おそらくめったにいないと思います。

人間は少なくともどこかしらとげが刺さったようなトラブルを抱えており
悩んでいるのではないでしょうか。
また、例えば秋口になればうつっぽく不安に苦しむということは
誰でも経験があると思います。
そんな時につい、最も身近な夫婦の相手に期待が大きくなりすぎる
ということはあるのが普通なのではないでしょうか。

しかし、それがあるのは仕方が無いとしても
最低限度、そのことを自覚して相手と接する必要はあると思います。

先ほどの子どもの成績をめぐるトラブルを見てみましょう。
妻は子どもの成績不良に真正面から向き合っています。
夫はどうでしょう。
成績不良だから、志望校のランクを落とす
あるいはもっと勉強の量、質を改善する
ということを子どもに提案しなければならないはずです。
しかし、
親から成績不良の現実を突きつけることが可愛そう
子どもの反発を想定して気が重い
自分が何らかの改善を提案する能力が無い
という様々な問題から
成績不良に向き合っていない
という側面があると思います。
(本当は、いま評価しなくても良いのではないかとか
 親が言わなくても良いのではないか等
 それなりの理由があるという評価が可能だとしても)

真正面から向き合って子どもと話すということが
非常に重苦しいため
それを避ける、先送りするため
話し合いの必要性を指摘されることが苦痛だ

それはなんとか妻の方でうまくやってほしい
という、身勝手な期待があるということもよくあることではないでしょうか。

厳しい方をすれば、
責任があるのに責任を果たさない
責任を果たさないことを非難されないために
自分の行為を正当化する行動が
相手に対する攻撃になってしまう
という側面がないとは言い切れないようです。

結局は、言わなくてはいけないけれど
子どもを刺激しないように妻からうまく言ってほしい
という勝手な期待が高まっていて
妻がその期待に応えないというだけで、
夫は非難していると受け止められる行動をしている
ということになっているのではないでしょうか。

言っている方はそれに気が付きませんので
攻撃している意識はありませんし
相手からしてみると、自分が相手を攻撃していると思われている自覚もありません。 

夫婦間では、夫、妻に関わらず
子どもを守ろうとするあまり、
相手に対する期待が高まりすぎて
期待に到達しないということだけで
相手を非難しているように見える行動をすることが
けっこう多くあるようです。

結局、赤ん坊の時からの流れで
子どもには何にも期待していない
パートナーには無意識に過剰な期待をしている
ということが実態なのだと思うのです。

妻は、最初の心配の情報伝達と相談の持ちかけの際に、
自分が余計なことを言っていることに気が付きません。
この時点でも妻が言いたいのは、「一緒に心配してちょうだいよ。」
ということなのですが、
もしかすると、余計な気をまわしすぎる夫にとっては
それこそが過剰な期待だという負担感を持っているのかもしれません。

もしかすると妻は夫に、
子どもの成績を上げる結果となる働きかけをしてほしい
という過度な期待をしているのかもしれません。
結局夫はなんだかんだと言ってそれができないから逃げているのだ
と「正しい認識」になってしまうと
逃げる夫は自分と子どもを守ろうとしないで攻撃をしている
という感覚になるのかもしれません。

最低限ここから始めるのはどうだろうと思うことを箇条書きしてみます。

1 家族の中の不具合を相談されているからと言って
 その不具合の原因が自分にあると言われていると思うのは、
 はっきりそう言われるまで待とう
 (まじめで、責任感の強すぎる正義の人はこれができないようです。)

2 特に子どものこと等、自分も関わることこそ、
  相手が何を言いたいのか、まず考える。
  とりあえず、「そうだね。」と言ってから考え始める。
 (まじめで責任感の強すぎる正義の人は、そうだねと同調したら最後、自分の責任にされると思い込んでいるようです。意味のない「そうだね」という存在は頭の中に存在しないようです。)

3 相手の本当に心配していることを突き止める。
  突き止めて自分も心配しているならば、心配だと言う。
 (まじめで責任感の強すぎる正義の人は、心配という言葉を言って時間を使うということができず、心配であることを前提として心配を解消する具体的方法を提案し、実行しなければならないと思い込んでいるようです。口先で心配だねということがひどくみっともないことだという価値観を持っているようです。)

4 相手の心配から目をそらさないでしっかりと受け止める。
 (まじめで責任感の強すぎる正義の人は、自分が何とか対処して解決しなければならないと過剰に義務感に取りつかれているようです。だから自分ができないと感じたことに対しては、目をそらしたり、無かったことにしたりしてしまうことがあるようです。まじめな人ほどパニックになりやすいようです。)

5 受け止めた上で、どうしたらよいか、回答を出すよりも相談をする。
 (世の中、解決しなければならないことだけではありません。でもまじめで責任感の強すぎる正義の人は、「わからない。」、「できない。」ということを言ってはいけないと思い込んでいるようです。しかし、通常の場合は、相手はそこまで期待していません。相手の不安を受け止めているということをはっきりと言葉にした上でならば、「自分はこんなことしか考えつかないけれど、あなたはどう思う。」と投げかけてみることも誠実な対応の一つなのだという考えを持ってみましょう。

6 自分の対応、態度に文句をつけられることは、
  相手はまだあなたに何らかの信頼を置いているという風に考えてみましょう。
  あなたができないことは、おそらく多くの人ができないことです。
  相手はできないことであなたへの信頼を無くすということはないと思われます。
 (まじめで責任感の強すぎる正義の人は、信頼されている以上、無理してでもそれに完璧にこたえなければならないと考えるようです。無理なことは無理で、仕方が無いと思いましょう。)

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ごめんなさいと言えない夫・妻 ごめんなさいと言えないことにより起こる可能性のある危険、どうしてごめんなさいと言えないかという理由 [家事]



私は、以前このブログで、
相手にごめんなさいを要求するよりも
仲直りのサインを決めておいて
そのサインが出たら、とりあえず日常生活を歩き出す
という決め事をするべきだと述べたことがあります。

それは今も変わりません。

しかしこの決め事で喧嘩が終わるというならば
それはパートナーに恵まれているということかもしれない
と思うようになりましたし、

また、けんかが終わったように外見上日常生活を再開したとしても
実は相手の心の中でどす黒いわだかまりが蓄積しているかもしれません。

どうやら、ごめんなさいと要求することはしないとしても
自分から自発的にごめんなさいということに
デメリットよりもメリットの方がはるかに大きいように
感じられるようになりました。

日常生活再開の決め事は
結局仲直りがしたいという意思表示なのですが
この意思表示は、謝罪の言葉以外の行動ということになります。
「肩もみましょうか。」でも
「朝食は俺がちゃっちゃとつくるわ。」でも
「仲直りがしたい。」と言葉で言っているわけではありません。

言葉以外のコミュニケーションから
気持ちを汲み取らなければなりません。

このノンバーバルコミュニケーションが
できない人
できない時期、
できないタイミング
というものがあるということがあり、
それが夫婦間紛争の原因の一つになっていると思われる事例が
かなり蓄積されてきました。

ごめんなさいを強要することもだめなのですが、
自ら言わないということも大きな危険がある
ということを言わなければならないかなと
強く感じられてきました。

また、私自身、ごめんなさいということが苦手な時があり、
黙ってしまったり
ふざけてごまかしたりすることがあるので
家族に迷惑をかけないために
自分のこととして考えていこうと思います。

1 ごめんなさいと言われない人の心理 安心できないということ

ごめんなさいと言わない人がいるということは
ごめんなさいと言われない人がいることになります。

ごめんなさいと言われない人はどういう気持ちになるでしょうか。
ここを出発点とします。

紛争があるということは
夫婦間でなにかしら意見の食い違いがあったということになるでしょう。
あるいは、どちらかが一方的に相手に意見を言って
相手が戸惑っているだけなのに
例えば期待した反応をしないということから
責め始めるわけです。

(ここは次回に集中的に考え見るつもりなので
 今回は、詳しい話は割愛です。)

相手が感じることは、
「自分が否定された」ということかもしれません。
自分の意見が否定されたり、自分の態度が否定されたり、
自分の行動が否定されたということが実際なのですが、
言い過ぎている場合はたいてい、相手からすると
「自分の人格が否定された。自分の存在が否定された。」
という感覚になってしまいかねません。

極端な話を排除しますが
それだけで、「自分が殺される」と思う人はいないでしょう。
そんな恐怖は感じないはずです。
しかし、「自分が否定された」という感覚は
「自分を仲間として認めないと宣言された」
という感覚になりやすく、
「自分はいずれ、この仲間から追放される。」
と言われたような感覚になることがあります。
恐怖というか、憎悪というか、かなりの不快な感情を起こさせます。

そして、このように感じると、人はどうやら次に起きる感情として、
そのような「排除の予感を解消したい」という要求を持つようです。

排除の予感を解消するためには
・自ら行動を改める
という方法をとろうとすることがあります。
大切な仲間と感じており、仲直りができると確信している場合は
こちらの行動をとりやすいです。

新婚時代までは、双方がこういう行動をする傾向があります。
言い過ぎた方もそこで気づいて自分の行動を修正するという流れですね。

だんだんと遠慮が無くなると
排除の予感を解消するために
・開き直り、そちらこそ間違っている
という手段をとることが増えてきます。

逆切れだったり、さらに声を大きくして口論をしたりと
相手から見た自分の非を「無かったことにしよう」となるわけです。
「それは私が悪いわけではない。」ということですね。

そして、ついには、
相手が改善しないために、自分の排除の予感が途切れない
ということになると
ストレスを抱え続けることが人間は苦手ですから
・もういいや
と思うようになるわけです。
信頼関係が失われ
今の夫婦や家族に、あきらめて
相手にしなくなったり、離婚の方法を研究しだしたりする
こういう流れになるわけです。
離婚を後押しする人には事欠きませんので
そういう流れは太い流れが用意されています。

こういう対決姿勢からの離婚というパターンもあれば、
自分で自分を責め込んでいってしまうパターンもあります。

この場合、精神的に悪影響が現れるパターンがあり、
(メンタル悪化の主たる原因は別にあったとしても、悪化を増幅させている危険があります。主たる原因には気が付くことが少ないので、結局怒りや負の感情は夫ないし妻に向かうことになります。)
あるいは、日々面白くない体験を積み重ね
精神的に別離を選択することが多くなったり、
第三者(特に実家)から別離を勧められることに抵抗できなくなる
というパターンも出やすくなります。
結局正式離婚か家庭内別居に向かってしまいます。

「思い込みDV」の出現に親和しやすいパターンもこれかもしれません。

元々は結婚したくらいですから
仲良くし続けたいわけです。
相手の感情のこもった抗議があれば
「その感情に寄り添わなくてはならないのかな。自分が悪いのかな。」
という気持ちがどこかに芽生えてしまいます。
しかし、相手がどこで怒るのか
相手が結局自分に何を求めるのか
ということを理解できないままだとすると
あるいはそれが果てしなく続いてしまうと
結局どうしてよいかわからなくなります。
これ自体につかれて、もうよいかという気持ちになるのも一つの流れです。

そうではないとしても
「なんだ、結局は自分に服従しろということか」
という感覚になっていく可能性もあります。
もう付き合いきれない、疲れたということになるパターンです。

支配されている息苦しさを感じるメカニズムですね。
「思い込みDV」にとても親和しますね。

逆に「ごめんなさい」と言うとどうでしょうか。
自分の口論だったり、非難だったり、悪口だったり
そういう相手方が戸惑う自分の言動に対して
自らするべきではなかったという価値判断が示されることになります。

そうすると
自分を否定した言動をしたけれど
自分を排除しようとしているわけではなく
謝るというそれなりに感情的な抵抗のある行動をするのだから
自分と仲良くしていきたい
と、ある程度相手方の感情は回復される
という可能性が生まれるということになると思うのです。

但し、こちらが「ごめんさい」というセリフを感情的に言えないように
全く同じように、相手も
それを許すということは、感情的に難しいことがあるかもしれません。
しかし、「ごめんさい」は、あなたが作った相手のわだかまりを
薄皮をはぐような、じれったいスピード感なのかもしれませんが、
少しずつ確実に解消していると私は思います。

少なくとも、ごめんなさいと言うと言わないとでは
天地の差があると思います。

(ここまでのまとめ ごめんなさいを言わなければならない場面)

少なくとも、
あなたの気持ちに全く関わらず、言葉や態度から
あなたが、相手を仲間から排除すると思われるような場面では
ごめんなさいというべきだということになろうと思います。

例えば
離婚する
別れる
出ていけ、出ていく
死んでしまえ
消えてなくなれ
致命的な欠陥がある
人間としてやってはいけないことをしている
人間以下の行為だ、動物でもできる、赤んぼでもできることをできない。
絶対に許さない

と、まあ、言ってはいけないことを言った場合が典型ですね。
ついついエスカレートすると、
言ってはいけないことだからそれを言うのをやめよう
ということを判断することが難しくなり、
とにかく相手を叩きのめそうという意識が優先されてしまうようです。
家庭の中に敵が生まれてしまうというか
あなたが敵になってしまう危険があるということなのでしょうね。

あと、相手が大事にしていることを否定するとかですね。
親の悪口もこれに入ると思うのですが、

仕事はできない、収入は低いけれど
家族の時間だけは大切にしている人に対して
赤ん坊の面倒を見ている暇があるならもっと稼いで来いとか

家事全般はだめだけど、料理だけは頑張っているっていう人に
料理の悪口を言うとか
その人の最後の逃げ道を無くすような言動も危険でしょうね。

もちろん以上の言動は
最低限度、これだけはやってはダメということで
これ以上色々あると思います。
少なくともこの言動をうっかりやってしまったら、改まって謝って、
本意ではないことを分かってもらわなければなりません。

もちろん、誰でもこういうことを言っていけないということは
言われなくても分かっていることですが、
カーっとなっていると気にしなくなってしまうので、
予め言葉で押さえておくことも大切だと思います。

2 どうしてごめんなさいと言えないのか。

こちらの本心とは関係なく
相手が傷ついた可能性があるならば
きちんと改まってごめんなさいという方が
後々悪くなる危険が小さくなるのだから
謝まることによって、メリットがあることはわかると思います。

しかし、なかなかそれができない。
これは紛争が起きた後の事例に限ってでしょうが性差はあまり無いようです。

理由をいくつか考えてみましょう。
A)
自分が悪いことをしたとは思っていないこと

これ多いでしょうね。
自分を守るモードに入っているうちは、この意識が続くようです。
それなりのことを言う理由は
相手からそれなりのことを言われたということや
それなりの事情があることはわかります。

良い、悪いとか、正義とかが家庭の中に入ってくると
収拾がつかなくなります。
これは家族ではない他人同士のルールであって、
家族のルールは、家族を安心させるようにみんなが努力する
家に帰ればそれだけでリラックスできる家庭を作る
ということこそがルールになるべきだということは
これまでもお話してきましたので繰り返しません。

相手を安心させるという目標に照らして
謝るべきか否かを考えるべきだと思います。

また、何について謝るかは色々あると思います。
大きな声
言い方がきつい
名前を呼び捨てにした
とにかく謝る部分を探し出して謝って
その後に本心ではないことを説明する
ということになると思います。

B)
悪くない時は謝らないという信念を持っている

これ、結構金科玉条のように行動指針にしている人って結構多いですよね。

親から悪くないのに謝るなと言われて続けているとか
めったなことで人に頭を下げるなとか
自分の非を認めると後々後悔するとか
「謝ってはいけない」という信念のようなものを持っている人って
けっこう多いようです。

その信念のために
きちんと考えることができず謝らない

一度謝ると、後々何か言われて
立場が悪くなるかもしれない
と、そこまで本当に考えているのかわかりませんが
梃子でも謝らない人って結構多いようです。

家庭生活を営むにあたって、
あなたをむしろふりな立場に追いやる危険があります。

C)
謝ることが癪に障る 謝るという行為に抵抗感がある

私なんかはこれが一番しっくりくるかもしれません。
理屈でなく、謝るのが嫌だという感情です。

それは、感情的に対立するまで
双方の言い分があって、対立が生まれて
爆発するわけですから、
そういう攻撃モードを切り捨てるということは不自然で
なかなかできることではありません。

また、こっちが言っていることと
かみ合わないことを相手が言っているから
余計にイライラするということが通常の夫婦喧嘩のようです。

それなのに、こちらから頭を下げるということは
どうしても納得のできないことです。

よく大人になって、相手を立てなさい
とか言われますけれど
それはどういうことでしょうか。

おそらく、子どもであれば
感情をストレートに表現していても良いかもしれませんが
大人の場合は、家族を作るという任務があります。
おそらくそれは大人の責任であり
大人と子どもを分ける物差しなのだろうと思います。

言い分を通すよりも
家族の和を追及するのか大人だと。

だから先に謝って、家族の和を作る方が
大人なのだということになると思います。

そういう意味では、最近大人らしい大人が少なくなったのかもしれません。

家族を悲しい思い、辛い思い、寂しい思いにさせたくない
という考えを責めて家族の中では優先させるべきなのでしょうけれど、
自分を守るという考えが気が付かないうちに優先されてしまっている
ということなのだと思います。
なぜ、そんなに自分を守ることが最優先課題になるかについては
いずれそのうち、考えていることをお話しする機会があるかもしれません。
最近の大きなテーマです。

今回は、
ごめんなさいということを通じて
頭の中に入れておくと
言わないで済んだり、言ってもすぐに謝ったりして
致命的な失敗にならないだろうということで
お話しさせていただきました。

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