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子どもの貧困対策として養育費の支払いの強制の政策は、子どもにとって有害である愚策であること。養育費を支払う意義ともっと簡単な方法。 [家事]



先日法務大臣が、養育費の未払いが子どもの貧困の大きな原因だと言ったという報道がなされたけれど、誤報であろうと思いたい。現在の法務大臣は、過労死防止対策等で実践的に活躍されている方である。きちんと問題点、原因、改善方法を理解されてお話をされていた。こういう論理的思考ができる方だから、感情的な、非論理的な話をされるとは到底思えないからだ。
本拙文は、養育費の支払いを行政が強制する政策が、きちんとした政策ではなく、感情的、非論理的な政策であり、子どもにとって害悪しかないということを説明することを目的とする。併せてどうすればよいかということも説明する。

1 子どもの貧困を養育の未払いが原因だとすることは政治家と社会の責任逃れであること。
2 養育費が支払われることの子どもにとっての意味
3 養育費を強制することの子どもにとっての弊害
4 養育が支払われない事情
 1)同居親が養育費を請求しない事情
 2)別居親が養育費を支払わない事情
5 養育費が支払われるための簡単な方法
6 養育費が支払われるための根本的な解決方法
7 いま進められている制度に全く賛成できないということ

1 子どもの貧困を養育の未払いが原因だとすることは政治家と社会の責任逃れであること。

先ず、子どもの貧困の一番の原因は何か。当然賃金が低いということである。男であろうと女であろうと、大人が働いて子ども一人養えないというのである。これは社会の問題であり、政治の問題そのものである。さらに男女間賃金格差があること、働き口はあっても雇止め等不安定雇用が子どもの貧困の最大の原因である。特に政治家が、このような社会環境を放置しているという自らの責任を、低賃金労働者の責任にすり替えることは許されない。女性の権利を主張する人たちも、主としては元夫に責任を求める傾向にあり、低賃金、男女格差、不安定雇用を子どものために改善しようということが前面に叫ばれることが少ない。低賃金、男女格差、不安定雇用の恩恵を受けている企業や政治家にとってだけ、とても都合の良い主張ということになる。アメリカのフェミニストであるナンシー・フレーザーが、「現代のフェミニズムはグローバル企業のサーバントに堕落している」という主張をしているが、養育費をめぐる議論はこの具体例であり、象徴的な事例である。

2 養育費が支払われることの子どもにとっての意味

それでは、養育費は支払う必要がなく、低賃金、男女格差、不安定雇用の改善をもっぱら主張すればよいのか。それも違う。養育費を支払う意味は、子どもの経済的安定だけではないからである。
むしろ養育費を支払う一番の目的は、子どもの自信の獲得である。子どもは一緒に住んでいない親からも愛情を注がれることを実感することによって、離婚によって被る負の影響である自信の低下を軽減することができる。(また、自分が尊重されていると実感するためには自分の親も否定されないということが必要である。これは、結婚後、相手から自分の親の悪口を言われた場合にどういう感情になるかということで、多くの既婚者は体験していることと思われる。)
子どもは、毎月、決められた金額が欠かさず自分のために振り込まれるということを知ることで、自分が別居親からも大切にされていることを実感できる。養育費は子どもの自信のためにとても有効な方法である。養育費や婚姻費用の別居親からの支払いを子どもに隠す同居親がいるが、この意味で同居親が送金の事実を隠すことは子どもを害することである。親としての資格が欠落している。
相手が嫌いでも、「あなたのために頑張って毎月送金してくれているんだよ。いつもあなたのことを考えてくれているんだね。」と嘘でも言うことが子どもに対する愛情である。これができないということは、子どもの成長よりも自分の感情を優先しているだけの話である。

3 養育費を強制することの子どもにとっての弊害

さて、このような重要な養育費が支払われないということは子どもにとって害悪である。しかし「養育費が支払われることが必要なのだとすれば、支払わない親に支払いを強制するべきではないか。」とこのような乱暴な理屈がまかり取っているのが現代日本である。どうして乱暴な議論かというと、最大の問題は、子どもが実の親が裁判所などから強制的に支払らわされているということを知った場合、養育費の支払いは別居親が自分に対する愛情だということは到底考えないからである。さらに、自分は、強制されなければ約束も守れない親の子どもだということを子どもに突きつけることとなる。また、強制という安易な方法に飛びつくことは、結局強制されなければ支払わない現状は変わらず、放置されたままになる。今一番考えなければならないことは、強制的に支払をさせるための費用を貧困者であるはずの同居親が負担しなければならないということである。現在進められているプランは、住宅の賃貸借契約のや住宅ローンの保証会社の保証契約のように、毎月の養育費の支払いの中から将来支払が行われなくなった時に備えて、養育費の一定割合を保証会社に支払うというプランである。ただでさえ少ない養育費がさらに子どもに回らなくなるといういわば貧困ビジネスである。
このような乱暴な意見が出てくる理由は一つしか考えられない。つまり、なぜ、養育費が支払われていないのかという原因を考えていないからである。原因も考えないのであれば有効な対策を考えつくはずがない。力によって取り立てる事しか考えられないのである。そもそも養育費を支払う理由が、子どもの健全な成長のためだという意味を知らないということにも起因する。この二つの無知は、結局、子どもの健全な成長を図るということが出発点になっていないということを意味するのである。

4 養育が支払われない事情
 1)同居親が養育費を請求しない事情
   先ず、養育費が結果として支払われない理由が、別居親が支払いを怠っているというケースが本当に多数なのか検証をするべきである。私の実感では、養育費の取り決め自体をしないケースが圧倒的に多いような気がする。
協議離婚の場合は、いち早く離婚したいという同居親の要求が強く、離婚までの期間を先延ばしする議論はしたくないという行動傾向が見られる。養育費を決めてから離婚するなんて煩わしいのである。
また、相手に対する嫌悪の情が強く、そんな相手から金をもらいたくないという意思に接することもある。養育費を受領し続けることによって、何らかの関係を継続させることが嫌だということもある。
   さらに一部は、子どもまで奪ってさらに金を払わせるということの罪悪感から、養育費を請求することなどできないと感じている同居親もいないわけではない。これらは、先の二つの感情と紙一重の微妙な感情であることが多い。
   養育費を請求しない理由は、実務的には公的給付との関係がある。母子家庭の場合、児童扶養手当が自治体から支払われる。ところが養育費が支払われていると、金額によって手当てが減額される。入るか入らないかわからない養育費のために児童扶養手当が減額されたり、手続きが面倒になるなら、養育費等受け取らず児童扶養手当を満額受給したほうがよいという選択は経済的にはもっともなことである。養育費の支払いは、実は自治体の財政との関連で考えられているのかもしれない。
   しかし、養育費は、子どもの心理発達面に寄与することが主目的の制度である。その点の理解を促すと、養育費は支払われるようになるし、請求するようになる。これ抜きに子どもの利益を経済的利益に矮小化する昨今の自治体の養育費支給キャンペーンは、子どもの利益ではなく、自治体の児童扶養手当の給付予算の削減が主たる目的ではないかという疑いが払しょくできない。
 2)別居親が養育費を支払わない事情
   養育費の主目的を考えると、同居親が養育費を請求しなくても、別居親が養育費の支払いを自ら請求するべきであり、私の依頼者たちはほぼ自ら婚費、養育費の支払いを同居親の請求に先駆けて提案し、実際に支払っている。
   しかし、実際の別居事例、離婚事例を見ると、養育費を支払うモチベーションを下げる公的手続きが行われている。家事手続きが子どもの利益よりも大人の感情で動いているということである。
   かなりの割合で、別居親が貧困状態にある。別居親に同居親よりも収入があったとしても、連れ去り事例の少なくない割合で住宅ローンが始まったばかりだという事情がある。別居親は外食が多くなるため食費がかさむ。家族を失ったことで精神科の治療や各種カウンセリングを余儀なくされる。カウンセリングは健康保険が使えない場合も多いので費用がかさむ。実際に不注意のけがをしたり、原因不明の疾患を発症したりして休業を余儀なくされるケースも少なくない。
   しかし、かなりの割合で、別居親が同居親よりも収入があるというよりも別居親の収入が少なすぎる無謀な別居である場合が多い。別居親の体調不良やリストラによって、同居親が期待していたほどの収入がないケースも多くある。
   別居親が養育費や離婚前の婚姻費用を支払いたくない理由は誰でも理解できる。つまり、別居親だけが家族から排除されているからである。養育費や婚姻費用は家族の生活のために使うものだから家族がそれぞれ分担して負担するものである。ところが突然、子どもを連れて自分の元から消え去り、どこにいるかもわからない、子どもと面会することもできない状態にされる。強制排除が行われている。家族ではないという強烈なメッセージを受けているのである。しかも、自分の排除が家族だけから行われるのではなく、裁判所、警察、自治体からも行われ、自分が極悪人として扱われている気持ちにさせられる。その上、一緒に住んでもいない、顔も見ていない元家族に金を支払わなければならないというのであれば、支払う方は刑罰として金を出させられている意識になることは当然だと私は思う。
   おそらく、事実をリアルに見られずに類型的にものを見る人たちは、排除される理由は同居中に暴力やモラルハラスメントがあったからであり、自業自得なのではないかという反論をするだろう。リベラルで名を売っている憲法学者などもそのようなことを言っているので、世論がそのように誘導されかねない状況にあることはうんざりするほど承知している。しかし、少なくとも私が担当した事案や、相談を受けた事例によれば、圧倒的多数は暴力やモラルハラスメントは存在しない。かえって、子どもを連れ去った方の不貞、浪費、あるいは理由のない不安に基づく行動などがあるケースが大半なのである。それにもかかわらず、リアルな実態を知らないで、連れ去りがあったから別居親に何らかの責任があるという類型的な見方をして連れ去り親の苦しみを否定する態度はそのものずばり差別である。冤罪を受けた苦しみを一顧だにしない人権感覚が乏しい人間だと言わざるを得ない。
   不貞や浪費をされ、自分の貯金を奪われた上に婚姻費用や養育費を支払えと言われたところで、支払いたくないことは当然である。
   多くのケースで同居親は、さすがに別居親の支払いたくないという事情を実は理解している。婚姻費用や養育を遠慮するケースは少なくない。ところが、弁護士や役所などが、差別的なものの見方をして懲罰的に婚姻費用や養育費を請求させるケースが最近増えている。もっとも私は、家族再生や、ひどい目を受けても家族だと感じている依頼者が多いため、それでも子どもたちのための費用は支払わなければならないと説得をする。こういうケースで費用を支払う別居親は、子の福祉について高度な理解をしているのである。
   但し、最近疑問がますます大きくなっている。DVやモラハラがない事案で、子どもとの相互交流を一切絶たれて、それで金だけを支払わされるということは、本当に人権が尊重されていると言えるのだろうか。
   養育費を支払いたくない理由は、このように自分の人間性が否定されているところにある。また、そのように別居親から見ればいわれのない理不尽な仕打ちをする相手に対して不信感が当然にあり、特に浪費や不貞を行って子どもを連れ去った相手に対しては、同居親が送った養育費を子どものためには使わず、不貞相手に渡したり自分のために浪費されたりするのではないかという思いがあることはもっともな話だと思う。

5 養育費が支払われるための簡単な方法

  養育費の送金先を子ども名義の口座にして、子どもが立ち会わなければ引き落としができないようにする。これで養育費の取り決めも支払いも格段に向上するはずだ。さらに、子どもから、養育費の礼を言わないまでも、ただ養育費が入金された日に安否を報告するだけの電話でもよこされればさらに支払率は倍増するだろう。子どもに直接渡すという方法も支払率を上げるだろう。
子どもは養育費を引き落とすたびに別居親の愛情を確認できる。振り込む側は、子どもが毎回確認しているということで支払うモチベーションが高まる。離れていても家族なのだという実感を持つことこそ、養育費を支払う最大の方法である。また、子どもが自分の預金が下ろされるのを立ち会って見ていれば、多少は同居親が子どものためだけに養育費を使うのではないかという期待も生まれ、モチベーションの低下を食い止めることができる。
家族から除外することの逆をするということだ。家族から除外しておいて金だけを払わせるということは、人間味のあるやり方ではない。また現実の支払いを遠ざけてしまう。
私の依頼者で、何の交流も持たされず長期にわたって養育費を支払い続けた男たちが何人かいる。一人は、定められた養育費の外、誕生月の増額を子どもだけでなく離婚した元妻にも送っていた。このため預貯金はほとんど作れなかった。養育費の支払いが終わったときに相手方から子どもの写真は送られたが、履歴書用の写真のあまりだった。それでも彼はその小さな写真を後生大事に持っていた。それでもうれしかったのである。偶然知った相手方の住所に、転居の連絡を送り、「お近くにお寄りの際は、お声がけください。」という定型のあいさつ文を記した。その結果驚くことが起きた。警察から義務無きことを強要したとしてストーカー警告されたのである。別の男は子どもが3か月のころから妻子が行方不明になった。しかし、それから20年以上婚費を支払い続けた。その挙句が、離婚請求調停申し立てであった。
こんなことが繰り返されて、裁判所や公的機関が是認しているから養育費や婚姻費用が支払われなくなるのだ。これらの行為は、自分だけがよければそれでよいという態度であり、今後の養育費を受ける子どもたちの足を引っ張っているだけの行為だ。

6 養育費が支払われるための根本的な解決方法

  連れ去り問題が表面化する前から、私は、養育費の問題の相談を受けることが何度かあった。一番効果的だった方法は、子どもが別居親に現状を伝え、例えば大学でこういうことをしている、いまアルバイトができないので養育費が途切れると苦しいということを率直にお願いすることであった。本来の家族というところまではいかないが、当たり前のコミュニケーションがあれば家族に対してなすべきことを無理してでもやろうとするのが親というものだということを痛感させられた。
  よく、「養育費と面会交流は別物で、取引に使ってはならない。」ということを聞く。大学の法律の授業の回答としては丸が付くだろう。しかし、実務では、要するに生身の人間と切り結ぶときは、こんな話、何の役にも立たない。通常これが語られる文脈は、冷酷で、およそ人間の尊厳を顧みないときにしか語られないからだ。何よりも、子どもの権利が害されるだけだ。面会交流を含めた別居親との交流が養育費などの金銭面に有効に働くのは統計的にも事実だ。子どもへの十分な経済的事情よりも、離婚後の当事者の葛藤を優先する文脈でしか使われない言葉である。
  養育費が十分に支払われるためには、親子関係を少しでも回復することが王道である。これに異論のある実務家や当事者はいないだろう。しかしこれができないことが問題なのである。
  子どもの利益を図るためには、離婚当事者の葛藤を下げること、そうして別居親と子どもとの自由な交流を確保すること。電話くらい自由に子どもから別居親にできるようにするべきだと常々思っている。それでも別居親は同居親を立てて同居親の言いつけを守れと言い、同居親は別居親への感謝のしつけを子どもにする。これが子どもの健全な成長を促進するということが科学的に証明されている。
  もちろん、これは分かっているけれど難しい。双方に被害者意識があることがほとんどなので、なかなか子どもの前だけ、嘘でもいいからといっても難しい。この解決方法はあるのだろうか。
  根本的には離婚までは大いに争えば良いが、離婚が決まったらもう他人なので、子どもの前だけでもクールダウンする手続きを国や自治体が行うべきである。実は先進国では、お隣の韓国も含めて国家や州が関与して行われていることである。日本だけがこういうことをしていない。日本だけが、大人の都合で離婚をすることが放任されている。子どもの健全な成長よりも大人の感情が優先されている情けない国が日本なのである。離婚訴訟で、子どもに自分の親の悪口を書かせて平然としている人間が司法に関与している国である。
  葛藤を鎮めるどころか、葛藤をいたずらに高めている。葛藤を高める最大の要因は、事実にもとづかないDV主張、一方的な子連れ別居の野放し、それに対する裁判所の追認、事実にもとづかない女性援助、加害をした人という意味ではない「加害者」呼ばわり(総務省)と、実際の加害者扱いである。これらの人格攻撃を受けた者は、怒りをあおられるだけでなく、無力感から働く気力もなくし、その結果収入も減少する場合がある。心身に不調を覚え、内科的疾患を発症することや、うっかりけがをすることが増える。
  「子どものために」、「子どもの健全な成長のために」という理念で物事が動かず、結果として子どもの成長に対する離婚の負の影響を軽減させるどころか増幅させている。
  夫婦の葛藤を鎮める研究、いたずらに葛藤を高める支援を排除すること、それらが子どもの健全な成長に不可欠であるというのは争いのない人類の科学の到達である。あとは子どものためにという立場に大人が経てるかどうかだけである。

7 いま進められている制度に全く賛成できないということ

  いま進められている養育費に関する制度検討の一切が、このような視点は見えてこない。現在進められている政策が、子どもの健全な成長を図る目的ではないことは、例えば養育費の未払い者の氏名を公表するということを検討していることからも明らかだ。子どもにとって、自分の親がさらし者になって平気でいるわけがないことにも気が付かない愚かな政策である。一緒になって自分の親に対する憎悪を掻き立てられた子どもが、アイデンティティを確立することが困難だということも理解されていない。
子どもの健全な成長を阻害することになっても養育費を強制的に取り立てるというのであれば、考えられる目的は二つである。つまり、一つは自治体の児童扶養手当予算の削減である。もう一つは離婚した夫婦の少数派である養育費の取り決めをした別居親の、さらに少数派である理由もなく一方的に支払いを怠る者に対する憎悪を掻き立てることによって、低賃金、男女格差、不安定雇用の改善への道筋を隠ぺいするという目的である。
  これが日本の子どもたちが置かれた状況である。科学的に働きかけが必要だということが明らかにされた離婚後の子どもたちでさえ、逆にこのような積極的な加害を受けているのである。まだ野放しの方が害がない。

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聴覚障害者が健常者の中で働くということ 事情聴取メモ [労災事件]



ここ1年で、3件目の聴覚障害関連事件を担当していることになる。それぞれの事件でそれなりに情報を得ていたが、心理面に関する事件を担当することになったので、新たな情報が必要になり、情報の収集を行っている。ここまでの段階で入手した情報を整理する目的でこの文章を起こす。

<事実編>

1 聴覚障害は、障害を持つ人の間でも個人差が大きい障害である。全く聴覚機能が働かない、障害、大きな音なら聞こえる、高い音は聞こえるが低い音は聞こえずらい、その逆等バリエーションがあるようだ。聴覚障害者だからどうだということは、あまり通用しない。この人の聴覚障害はこういうものだから、こうするべきだという話になる。

2 補聴器によって音が聞こえるようになるけれど、直ちに言葉の意味を理解するわけではない。その声に意味があり、音に情報が載っているということを意識するためには、専門の訓練が必要になる。老眼になり、老眼鏡をかけるとまた見えてくるというわけにはいかない。

3 口元は、読唇術ができなくても、それを見ることによって情報を補完することができる場合がある。声が聞こえるような気になる場合もある。これはどうやら、聴覚障害がない人間も同様のことが起こるらしい。

4 角度によって、聞こえないという場合がある。「あれ、さっきこのくらいの距離で聞こえていたのに、今度は聞こえないなんておかしい。」ということは言えない。これから何かを話すのだろうなという気構えをしている場合は、声の意味をつかみやすい。知らないうちに話していれば、同じ距離、同じ音の大きさでも、声をとして把握できない場合がある。例えば、道を歩いていて前から自動車が来れば、クラクションを鳴らされて、ああ自分に対して警告しているということが理解しやすい。しかし、後ろから近付いてきた自動車からクラクションを鳴らされても、自分に対して警告がなされているということが気が付きにくい。

5 1対1の会話は、意味を把握しやすい。しかし、集団で話し合いをしている場合は、だれが話しているのか分からず、話について行きにくくなる。全体が見えない位置にいると特に把握が難しい。

<心理編>

6 聴覚の一番の機能は、危険を察知することにある。聴覚に限らず五感と呼ばれるものは、すべてそのような機能がある。機能を奪われてしまうと、危険が存在しないのに、不安や恐怖感情がわいてくる。例えば、光のささない真っ暗闇のトンネルに入れられた場合(資格を奪われた場合)。味覚や嗅覚を奪われて食料を摂る場合で、食べたこともないようなものを食べさせられる場合。

7 聴覚障害のある人で、呼んでもこちらを向くことができない人に対して、職場の中でかつては釣竿を常備して釣竿でその人をたたいてこちらを向かせるということや、紙くずを投げて注意を向かせるということがあった。聴覚障害というハンデキャップがあるため、劣悪な労働環境での就労を余儀なくされたという事情がある。現代(平成以降)においても、そのような無教養な職場があるということに関係者は驚き、怒った。消しゴムを投げて注意を喚起したのが自治体であったことにさらに驚きが広がった。

8 突然物が飛んでくるということは、脅威である。
消しゴムを投げる方は、消しゴムであるからぶつかっても怪我はしないだろうと考えることができる。また、投げる強さを加減しているから大事に至らないということも知っている。
聴覚に障害がなければ、飛んでくる音や気配などで、自分にどの程度危害があるものか消しゴムが到達する前にある程度はわかる。
しかし、聴覚に障害がある人は、消しゴムが飛んできて初めて消しゴムの存在に気が付く。突然自分に向って飛んできたものが、どの程度危険性があるかについては、消しゴムが自分にぶつかって下に転がり、それが消しゴムだと気が付くまでわからない。危険の存在及び程度がわからない場合、危険を避けるという意識は、危険を実際よりも大きなものであると感じて、危険回避の行動に出ようとする。例えば、物置で細長いものが自分の頭に触ったとすれば、蜘蛛の巣ではないかと感じて慌てて振りほどこうとする。実際はほつれた糸だとしても。あるいは山の中で、突然視界に蛇がいるように見えたが、それは太いロープの切れ端だった等。突然気が付いた異物は、危険なものだとして身構えるのが動物の本能である。
  こちらを向かせようと消しゴムをぶつけられること、あるいは目の前に消しゴムを投げられることは、それ自体が行為者の想像のつかない大きな危険を聴覚に障害がある人に感じさせる行為である。

9 突然消しゴムが自分に飛んでくるということは屈辱である。その1。
  突然消しゴムが自分にぶつけられたということは、その目的を理解できれば、自分に聴覚障害があるということを強烈に示されたことである。聴覚障害があるため、多少危険を感じるように扱っても構わないという態度を突き付けられたことでもある。

10 突然消しゴムが自分に飛んでくるということは屈辱である。その2。
  聴覚障害を理由に、こちらに注意を向けるために消しゴムを投げられるということは、多少危険な行為をしてぞんざいに扱っても構わないということは、自分が、安心感を奪われてもかまわないという態度であり、仲間の中で一段階低い立場の人間だということ、その理由は聴覚に障害があるということを強烈に伝える行動である。9番がどちらかと言えば、身体生命の危険を顧みられないということを強調しているが、10番は対人関係的危険を顧みられていないという意味合いがある。敢えて区別する必要はないかもしれないが、両面があるということを強調するために別項とした。ここに差別の本質がある。

11 これが行われたのが職場であれば、同僚の目もある。これは二通りに心理に働きかける。
一つは同僚の前で恥をかかせられたという思いである。同僚の前で、他者にはそのようなことがされないのに自分だけ他者とは違う扱いをされ、それは多少にかかわらず怖い思いをさせられたということである。そしてその原因が自分の障害にあるという態度を突き付けられたという心理的効果である。
  もう一つは、そのように自分が理不尽な目を受けているのに、だれも同僚が自分の心情をくみ取る行動を起こさないということである。消しゴムを飛ばした上司に抗議することはできないまでも、自分に対して「ひどいことをするね。」と言ってくれる人もいない。この現実を突き付けられることになる。

12 聴覚に障害がある者は、集団から疎外されやすい。仲間内で歓談をすることは、楽しいものである。つい話に夢中になってしまうこともある。しかし、聴覚に障害がある者は、次々に話し手が変わる歓談にはなかなかついていけない。聴覚障害に理解がある者も、つい話に夢中になると、聴覚に障害がある者が話からおいて行かれていることを忘れ、自分が話すことに集中してしまう。
  聴覚障害を持つ者は、集団の歓談が行われると、初めからその輪に加わらなくなることがある。コミュニケーションをあきらめてしまうのだ。自ら聴覚障害を持たない者との間に壁を作るように見えることがある。しかし、彼らにとっては、既に壁はできていた。配慮がなされないという経験を繰り返しし続けてきて、その都度自分は仲間に入れてもらえない、その理由は聴覚に障害があることだということを何度も学習してしまっている結果という側面はある。自分に聴覚障害があることをわかっているのに自分だけが仲間に入れてもらえないという意識になりやすい。または、そのような思いを味わって傷つきたくないという防衛的な行動という評価も可能である。

13 聴覚に障害を持つ人の中には、頑固だと表現される人がいる。聞える範囲の狭い情報しかなく、要求を実現することを選ぶかあきらめるかという極端な二者択一的な選択肢しか与えられていない可能性がある。あきらめることができない場合に、柔軟な方法をとるという選択肢がなく、原則を言い続けるという方法をとらざるを得ないということはありうる。

14 聴覚に障害がある者が、空気を読むということが苦手な場面を示すことは多い。私たちは同じ言葉を発していても、語調や声の強弱などで意味を補充している。場合によっては全く反対の意味を伝えているときもある。「嫌い」という言い方が典型的だろう。聴覚に障害があると、これらの微妙なニュアンスを獲得しがたいことがある。

15 同時に、長い問いかけや、抽象的問いかけは言葉で発せられてもなかなか意味をつかみづらいという傾向にある。具体的に、短く切って質問をすれば答えられる。また、文書で質問をすれば答えやすい。

16 聴覚に障害ある者が、聴覚に障害のないものだけのグループにいることが精神的にきつい。仲間がいるということで、疑心暗鬼も小さくなる。思い過ごしかもしれないという選択肢も出てくる。

<政策>

17 それでは、健常者の職場に聴覚に障害がある者を迎え入れることは困難なのか。
  それはそうではない。しっかり面談をして、その人が何が得意で、何が苦手であるかはっきり聴取しておくことが必要である。そして、それについては職場変わる場合や上司が変わる場合は、しっかりと引継ぎをする必要がある。また、歓談をする場合には、どのようなことが話し合われているか、逐一でなくても説明すれば足りる。大事なことは、仲間として尊重しているというメッセージを伝え続けることである。また、改善点について自由に話ができる環境を整えることである。
  障害者雇用は、単に障害者を雇用すれば足りるのではない。障害者が疎外を感じない職場環境を整えることも含んで必要とされているのである。

18 障害を理解するということは、現在の仕事技術の能力について理解するだけではない。疎外に対して過敏になっているかもしれないというところを含め、理解をする必要がある。
  これらは、特別な配慮のように感じるかもしれないが、通常の人間関係で本来求められる配慮と考えるべきであろう。

19 特に職場では、迅速な伝達、迅速な行動、合理的な行動が求められる風潮がある。ともすれば、障害があることが、このような迅速、合理的な行動を阻害するように感じられる場合がある。しかし、本来の人間関係は、配慮や尊重がもう一つの価値として重視されるべきである。現代の特に職場環境においては、目的至上主義的な風潮が前面に出てしまい、仲間を尊重するという風潮が切り捨てられているのかもしれない。
  職場に障害を持った方がいて、その方が仲間として尊重されていると感じる職場は、だれにとっても居心地の良い文字通りユニバーサルスタンダードを実現できる職場になるだろう。

20 障害がどのように障害になるかは、障害がない側の対応いかんによることも大きい。障害を持つ者の経験だけからは、何が改善されればよいかわからないことも多い。障害を持たない側だけの知識では何も生まれない。相手を責めたり、改善を求めるだけの議論ではなく、具体的な改善について価値を込めない話し合いが日常的にあることが望ましい。

21 直ちに、障害を持つ者に心地よい職場を実現することは、難易度が高いかもしれない。そうした場合は、職場の中ないし職場と提携した障害に理解のある相談員を設けるということも一つの解決方法である。

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「障害者差別を受けた場合の心の痛みと派生効果」 [労災事件]


1 心の痛みとは何か
    危険に対する防衛反応
  差別をされれば心が傷つく、心の痛みが発生するということは、自明の理であるとされているようだ。それは確かにそうだろう。しかし、自明の理とだけ言って、さらに分析的な検討がなされていないように感じられる。差別をされたことの無い人間には、差別をされた痛み、苦しみということを本当の意味で理解することは困難であるかもしれない。しかし、その痛み、苦しみを言葉にして明らかにすることによって、質的な感得が不能でも量的な把握が可能になるはずである。差別の解消や、人間に対する理解に貢献するはずであると考える。
「痛み」ということを理解するために、まず体の痛みということを考えるべきであろうと思う。体の痛みは、体の完全性を損ねて、神経に対する物理的ないし化学的な働きかけがあった場合に感じる。このメカニズムには意味があり、痛みがあることによってその痛みの原因になっている体の部分に身体の完全性を害している損傷があることを自覚することができる。痛みが激しい場合は、その体の部分を使わないようにして、損傷の拡大を防止する行動をとるだろう。例えば足首を捻挫して痛い場合は、歩かないようにして足を休ませ、回復を助けることができる。痛いと感じないで歩き続けてしまえば、筋肉や軟骨などの軟部組織の挫滅が拡大してしまう。痛いと感じることによって、行動修正をして、損傷を拡大することを回避することができるのである。また、痛みを感じる原因になった出来事を記憶することによって、将来的にそのような出来事が起こらないように行動を修正するようになるだろう。
  痛みとは、現在の状態や将来の行動を修正する契機となる。その目的は、致命的な損傷を回避するところにある。痛みを感じずに体を動かし続けることによって、損傷が拡大し、その結果回復不能になるかもしれない。つまり痛みは、身体生命の危険を自覚し、危険を回避するという機能を持っている。生物にとっての生きるための仕組みだと考える。
  心の痛みもまったく同様の機能があるとは考えられないだろうか。心の痛み、不安を感じることによって、行動を修正し、危険を回避するという機能があるということである。つまり、危険を感じていることを鮮明に自覚し、危険から回避するためのきっかけとなる、人間が生きるために必要な感覚であると考えてみたい。

2 差別によって心の痛みを起こさせる危険とは何か
    対人関係的危険
  身体生命の危険がない場合でも、心の痛みはある。身体生命の危険以外の危険を感じていることになる。それはどんな危険であろうか。
  私は、対人関係的危険という概念を提唱している。対人関係的危険とは、突き詰めて言えば人間が自分が所属する「仲間」から離脱させられ、孤立する危険であり、自分が仲間の中で尊重されていないという意識を持つときにそれは発動する。
このような意識が生まれる構造は以下のとおりである。人間は他者とのつながりの中に所属したいという根源的要求を持っているものであり、この要求が満たされない場合は心身に不具合を生じる(バウマイスター)。しかし、単に所属していればよいというものではなく、安定的に所属することを要求している。不安定な所属は、所属から離脱を余儀なくされるのではないかという心理的反応を引き起こしてしまい、心身の不具合が生じるようになる。この安定した所属であり続けることに危険を感じると不安になる。
  この対人関係の危険の意識、不安が、心の痛みのすべてだとは言わないが、その一つであることは間違いないだろう。
  人間が、どうやって誰かとつながっていたいという根源的な要求をもったかということは問題になるだろう。私は、このように集団の中に身を置こうとした人間の祖先だけが、言葉の無い時代にあっても集団をつくることができ、何事にも中途半端な人間であるにもかかわらず生き延びることができたのであろうと考えている。だから、その子孫である我々も個性によって程度の違いがありつつも、そのような要求を持っているはずだということになる。

3 対人関係的危険を意識するとき
  対人関係的危険を意識するときは、自分の人間関係の中から離脱を余儀なくされると感じる場合である。危険や不安を感じるということは主観的な問題なので、人間関係からの離脱の危険の客観的事実に基づくものではなく、あくまでも主観的な事情にもとづく。
  逆に、対人関係的危険を感じない場合は、自分がその人間関係の中で尊重されていると感じている場合である。
  尊重されていないという感覚は、仲間として認められていないと感じるときに発動する。人間が尊重されていると感じることは、仲間として認められ、仲間として扱われているときだということになる。

 1)したがって、はっきりと仲間として認めないということを告げられれば、当然対人関係的危険を感じる。「でていけ。」、「もう二度と顔を見せるな。」、「お前なんて仲間ではない。」と言われれば、対人関係的危険を感じることは当然であり、心が痛む。
   しかし、弁護士という仕事がら感じていることは、はっきりそう言われるよりも、それを示唆するような言動がある方が心の痛みは強くなるようである。おそらく、そうはっきり離別を宣言されれば、もうその人と自分は同じ仲間ではないと感じるのだろう。例えば、離婚を宣言された夫婦の一方、解雇を宣言された労働者などである。
   むしろ、夫として妻として失格だとか、給料泥棒と言われているときの方が、心が苦しく感じているような様子がある。このように感じるのは、通常離婚や解雇を言い渡される場合は、必ず前段階の予兆のような出来事があり、対人関係的な危険は既に感じており、危険から解放されたいという要求を含めた不安が発生しているのであろうと思われる。この時点で心の痛みは感じている。そして、離婚や解雇を言い渡されるときには、危険が現実化しているので、ある意味不安を感じなくても良い状態になる、つまり決着がつく状態なので、言い渡されると同時に同じ仲間ではなくなっているのかもしれない。独立の準備ができていたことになる。これに対して、事前に何の予兆もなく、突然別離の宣言がなされたり、別離が決行された場合は、心の準備がない分、心の痛みが甚大なものになるのだと思う。子どもの連れ去り、突然の事故による死別、身近な人の自死による心の痛み等はこのように大きな心の痛みとなる可能性がある。

 2)人間は、どこかの人間関係に所属したいという根源的要求がある。これはかなり厄介なものでもある。理性的に行動できれば、自分を冷たく扱う人間関係なんて、自分から離別して別の人間関係を形成することが合理的である。しかし、人間は所属の根源的要求があるため、今所属している人間関係にとどまりたいという志向を持ってしまうようである。
   夫婦、家族、職場、学校など、唯一絶対的な人間関係は現代では何一つない。それにもかかわらず、太古の昔に形成された人間の心は理性によってコントロールすることができないようだ。冷たい相手の反応で心を痛めてしまう。そして、決定的な離別の宣言を回避したいと思ってしまう。パワハラ職場、いじめの学校、配偶者暴力の家庭等、なぜそこから逃げないかと事情を知らない第三者は疑問を抱くようだが、それは人間というものはそういうものだということをまず理解するべきである。興味深いことに、心の痛みが蔓延化し、うつ的状態になるほどそのような人間の本能が支配するようになる傾向がある。

 3)「このままこの状態続けば、やがて離別、孤立に至るだろう。」という感覚こそが対人関係的危険である。
   どういう場合にこの対人関係的危険を感じるかについては、個性の違いが大きい。ちやほやされなければ不安を抱いてしまう人もいるだろう。逆にどんなに悪口を言われても、自分がやることをやっていれば不安を感じない人もいる。世の父親たちは、妻や娘に受け入れられなくても、働いて収入を家に入れることで不安を感じないようにしている。自分は家族の役に立っているという意識付けを自分で行うことによって、大丈夫だと言い聞かせているわけである。自分から進んで危険を感じることはないが、仲間の反応を見てからではないと危機感を感じない人もいる。逆に仲間の反応がなくても、自分で勝手に自分はここまで仲間のために貢献しなければいけないのにできなくなってしまったということで、自分勝手に不安になってしまう人もいる。失業した場合の男性がその典型である。あるいは、何か失敗してしまい、申し訳なく思うだけでなく、これで仲間から見捨てられると感じてしまう人もいるだろう。
   弁護士としての仕事柄、この危険意識が過敏になっていて、なんら危険を感じる必要性が無いのに危険を感じる人を見ている。または、そこまで大きな危険を感じなくても良いのではないかという反応をする人もいる。逆に、もっと危機感を感じなければならないのではないかと思う人もいる。個性の違いが反映していることは間違いないが、離別や孤立を恐れていることは多少の違いあっても、確実に感じているようだ。

 4)対人関係的危険を感じる事情も、人によって違うが、共通した事情もあるようだ。
   一つは、自分の行動が評価されないということだ。何かを一生懸命やって、かなりうまくいって、称賛されるはずであるのに、自分が期待されたような評価がなされないという時に心の痛みが大きくなる。逆に自分のやることをことごとく否定評価される場合も対人関係的危険を感じる。良かれと思ってやったことが否定評価されれば、なおさら心が痛むだろう。
   もう一つのパターンは、自分自体を評価されないということだ。自分のありのままにいることを、あるいは思い通りに行動することを極端に制限される場合にやはり対人関係的危険を感じるようだ。そういう場合は、自分がその仲間のままでいる資格がないと言われるように感じるのだろう。
   否定の態様、強度によって、危険意識の程度は変わってくるだろう。また、仲間の中で自分を否定する割合が圧倒的多数だった場合、仲間の中での主要メンバーから否定される場合は、危険意識が高くなるようだ。当然否定されている期間が継続すればするほど危険の意識は強くなっていく。

3 対人関係的危険を感じた場合に取る行動の原理
    適応
  対人関係的な不安が生じれば、危険の増幅回避のため、修正行動を起こす。他者に対してコメントを出そうとしたところ、その人が嫌がっている様子を見て、失敗したという自覚を持ち、不安を覚えたために、言おうとしていた言葉を言うのをやめるという具合である。自分が何らかの失敗をすれば、心の痛みを感じて、償ったり、言い訳をしたり、様々な修正活動を行う。社会的適応行動である。
  この適応行動の結果、自分の対人関係的危険が解消されれば、事なきを得る。危険の機能が果たされたわけだ。しかし、適応行動が失敗した場合はどうなるか。これは身体生命の危険の場合も起こりうる。捻挫をして歩くのをやめるという修正を行う。休養を取り回復すればよい。しかし、休養を取っても痛みが軽減することもなく、むしろ増強する場合もある。もはや自然治癒力では回復しない場合、不安が増大していく。他の修正行動を行い、何とかその不安から解放されようと努力する。有効な治療を受けられれば良いが治療を受けられない場合、例えば権威のある医師から、もはや足の機能は回復せず、痛みも軽減されることないと宣告されたら、それは絶望しかない。

4 適応不全と絶望
  対人関係的危険の場合も、身体生命の危険の場合と同じような経路をたどる。
  職場のパワハラや学校などでのいじめ、夫婦間トラブルなど、客観的には極めて理不尽な目にあっていても、人間は本能的に適応行動を起こしてしまう。加害者は初めからターゲットを仲間だとは見ていないので、どんな修正行動をしてもそれは効果がない。つまり、どんなに加害者の意に沿う行動を考えて、自分を殺してでも相手に歓心を持たれるような努力をしても、相手からはその行動さえも否定される。自分の修正行動がまずいから相手の歓心を買えないと思い、相手の要求が理不尽で不合理なのだということを思い当たることはない。第三者の観察と意見がなければそれはうまくいかない。しかし、既に自責の念、自罰感情が優勢であるため、第三者の貴重な勧告が受け入れられないことが多い。
  対人関係的危険を感じて、自分の行動を修正するのだが、相手の反応は悪い。そうするとますます対人関係的な危険を感じてゆく。仲間ならば、自分の非を認めて自分の行動を修正しようとすることを評価してくれるはずである。しかし、それをにべもなく否定するのであるから、いよいよ自分は仲間として見られていないと感じるのは当然である。そうすると、ますます危険から解放されたいという要求が高まり、肥大化していく。合理的な思考からはますます遠ざかっていく。意味のない行動を繰り返し、事態は悪化していく。
  どうやら、人間は体の痛みに耐えることができず気絶をするように、心の痛みにも耐える力は無尽蔵ではないようだ。心の痛みに耐えられなくなる場合はどうするか。最悪の場合は自死によって心の痛みから解放されることを志向してしまう。生きるための仕組みであるにもかかわらず、人間が自然界から用意された耐性を超えてしまうと、逆に自ら命を失うことを選択してしまう。
  自死に至らなくても、体は耐えられない痛みを回避する手段を断行する。一つは心の痛みを感じなくする方法である。これは心の痛みだけ感じなくすることができないために、すべての感情を失い、精神活動が全般的に低下していく。うつ病という防衛方法である。あるいは、心の痛みが非日常的で、日常と断絶が起きている事情があれば、心の痛みを起こさせる事情を病的に忘れさせるという方法をとる。思い出さないように無意識に自分の記憶にふたをする。しかし、ふいに対人関係的危険があることを思い出し、しかも不完全な形で思い出す。即ち、精神的恐慌の一歩手前の時点の感覚だけがよみがえってしまう。蓋をしても蓋の隙間から苦しみがにじみ出てくるようなものである。これがPTSDである。その他、心が無意識にその苦しみを合理化しようとして奇妙な解決方法をとることがある。例えば統合失調症と診断されている病態の少なくない部分が、このようなメカニズムで起きるのではないかと感じることがある。いずれにしても、精神が正常な状態であると苦しみ続けるのであれば、人間の防衛の仕組みによって、精神活動を歪ませることによって苦しみを感じにくくさせていることが考えられる。
  一時的に苦しみが遠のいたとしても、理不尽な苦しみ、特に出来事が発生する合理的な因果関係が把握できない理不尽な仕打ちを受けた場合は、またいつ同じ心を痛ませる出来事が発生するか予測がつかない。このために、些細なことでも苦しみの予兆ではないかと不安になる。不安症やパニック症などの認知の歪みや過敏な反応様式が残存することがある。

5 差別を受けたことの心の痛み
  それでは、差別を受けたときの心の痛みとは何かについて考えていく。
  差別は、それがどの人間関係で起きるかに関わらず、対人関係的な危険を感じさせる出来事である。差別は何事においても、自分たちが形成する共同体の中で、あなたは正規のメンバーではないという通告である。極めて大きな対人関係的危険を意識せざるを得ない。
  特に、その人が日常的に所属する人間関係において差別されることは、危険意識が高くなっていく。家庭、学校、職場などでの差別は、毎日繰り返され、終わりがないと意識されることだから、逃げ場を失うことになる。人間の本能として最も良好な関係を望む群れとして扱われる関係であるから、もっとも根源的な要求が否定されることになる。これは心の痛みを大きくする事情である。
  差別の最大の問題は、修正ができないことにある。差別を受けたときにも、無意識に、本能的に行動修正をしようと企図してしまう。しかし、例えば、性別や国籍を変えることができない。自分の生物的な両親を変えることはできない。障害者差別の場合は障害をなくすることができない。差別される事情を修正することができないにも関わらず、心は無意識に修正しようとしてしまう。そして修正できないことに絶望する。本当は、修正することが本質なのではなく、差別しないことが本質であるにもかかわらず、差別をされてしまうと自力ではそれにたどり着けない。
  そのため、自分自身で自分を否定してしまうようになる。自分が差別される事情を抱えているから悪いということで合理化をしようとしてしまう。どうやら人間は、理由がなく差別されるという考えこそが耐えられない苦しみ、絶望を感じるようだ。それよりもまだ、自分が悪いから苦しみを与えられると考えることによって、ぎりぎりの絶望を回避しようとする傾向がある(ハーマン)。
  いずれにしても、例えば障害者差別の場合に障害を解消することができないように、修正する方法がなく、絶望を抱きやすい。差別が日常的に行われること、毎日行動を共にする家族、職場、学校でそれが起きることは心の痛みが大きくなりやすい。差別の主体が、その場の体勢である場合も絶望を感じやすい。たとえ具体的な差別行為が一人で行われていたとしても、他の人間がそのことに抗議する等差別を是正しなければ、全体から自分だけが差別されているという意識を持つ。これがいじめの本質でもある。
  被害者にとって、差別が解消されて仲間として迎え入れられたというエピソードがない限り差別は続いている。たとえ加害者の意識として、差別行為をやめたという意識だとしても、従来の差別行為についての評価が変動しない限り、つまり差別は誤りであり、今後は二度としないということが表明されない限り、差別されているという意識は継続する。職場や学校では、自分が相変わらず無視をされていると考え続けるしかない。いったん差別行動がやんだとしても、差別されていること自体が終わりを告げていないのだから、またいつ激しい差別行動がなされるのか分からず、過敏に防衛意識が高まることになる。
  差別行動が継続された結果、心の痛みの苦しさに耐えきれなくなり、様々な精神病理を発症させることによって、苦しみを緩和させようという体の仕組みが発動してしまうことはむしろ自然なことだと思われる。

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壊れかけた夫婦の再生と恋愛の始まりと、愛をはぐくむ条件と愛を浪費する現象と [家事]

人間というものはうまくゆかないもので、
必要なときには気が付かないことが
あとになって初めて気が付くということが多いようです。

私の年代の人たちでよくお話をするのが子育てです。
子育てが終わると
無駄な、むしろ有害な方向で頑張っていた
ということを確認し合って大笑いしています。

まあ、子どもには申し訳ないという気持ちがあるのですが。

繁殖期を過ぎると恋愛とは何かということが見えてきます。
真只中のころは、愛をはぐくむという言葉には
全く反応しなかったと思います。

弁護士の仕事で、夫婦間の関係を調整する仕事があります。
この研究をしている人間は少ないようです。
一言で言って愛をはぐくむということなのだと気が付きました。
恋愛の初期とまったく一緒なのです。

世の中には、相手の気持ちを考えないで
押して押して押しまくってゴールインするケースがあります。
しかし多くのケースでは、
世俗的な言い方をすれば
粉をかけて、反応して、手ごたえを感じて、勇気を出す
という黄金の方程式でゴールインをしているようです。

最初は相手に対して憎からず思っていることを示す。
それに素直に喜ぶ様子を見せる。
喜んでいる反応に勇気づけられて、さらに好意を示す。
少しずつ距離を縮めていき、
相手に励まされて、言葉に出すなど一気に距離を縮める
という共同作業ですね。

こちらが、好意を示しても
相手に拒否反応を示されたらあきらめるわけです。
おっ、脈がありそうだなと勇気づけられるからこそ好意を示す。
あなたを大切に思っていますよという意思を伝える。
それに相手も勇気づけられて、もう少し頑張る。
プロポーズするときなんて言うのはたいていは出来レースなわけです。

さきほど、一度壊れかけた場合と恋愛の初期が同じだ
というようなことを言いましたが、
実は壊れかけた男女を修復するのはもっと大変かもしれません。

夫婦関係が壊れかけているときは
この共同作業が壊れているときです。
相手に好意を示しても、反応してくれない
うっかり拒否する結果になっている。
それで自信が無くなります。

逆に大切にされないどころか
邪険に扱われることが増えているのかもしれません。

プロポーズから新婚までの間に
尊重された記憶の貯金がありますから、
多少のことであれば目をつぶることができます。
「あの人は、私をかけがえのない人だと思っているはずだ」と
しばらくはその時の貯金を食いつぶしているわけですね。

「この人は私を大事に思っていないのではないだろうか。」
だんだん心配が確信に変わっていきます。
疑心暗鬼が大きくなってききてしまいます。

貯金を食いつぶすというのは
安心の記憶が残っているため
「こんなことをされたけれど、アクシデントみたいなものだ。」
と自分をなだめることができます。

しかし貯金が底をついて行くと、些細なことも
「私を嫌っているからこういうことをするのではないか。」
「これと同じように私を大事には思っていないのかもしれない。」
「私より大切な人がいるのではないか。」
という心配の種が無限に広がっていくようです。

私なんかが
「いやそれは考えすぎなのではないの。」とか、
「そこまで相手も考えているわけないよ。」とかいっても
聞く耳を持ってもらえません。

まるでかさぶたになる前の傷口のように
過剰に敏感になって、すべてを拒否するような感じです。

相手にもっと配慮をしてもらいたいといつも思うのですが、
相手だって同じに自信を無くしているわけですから
相手に対してだけ求めるのも難しいですね。

愛をはぐくむ全く反対の減少が起きているわけです。

恋愛は0ポイントから始まるわけです。
ところが壊れかけた関係の修復は
どうやらマイナスから始まるようです。
貯金が底をついて借金しているようなものかもしれません。

再生を願うなら
相手に対して攻撃的感情が伝わることは絶対にダメです。
相手はますます自信を失っていきます。
しかし、こちらも既に自信を失っているので
被害者意識があることは仕方のないことかもしれません。
被害者意識があれば、自分を守ろうとしてしまい
攻撃的な発想、攻撃的な行動に出てしまいます。

ただ、借金もあるかもしれませんが
財産も本当はあるのです。
相手はあなたから大事にされないと感じることで傷ついています。
それだけあなたがその人にとって大切な存在であると
感じている証拠なのです。
第三者からはよくわかるのですが、
これは自信を失った当事者にはなかなか伝わりません。

無条件降伏をすれば案外うまくゆくように思えるのですが、
自信を失っているときは、自分をさらなる攻撃から守りたい
という意識がとても強くなる時なので、
かなり難しいことです。

こういうことをまじめに考える集まりがあれば
参加して勉強したいと思います。
一人でも多くの人が今気がついてもらうために。


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面会交流調停にあたって家庭裁判所に対する申し入れ案 [家事]

1 別居親との面会交流は、子どもにとっての権利である。
  概ね10年ほど前までの面会交流調停においては、会いたい別居親と会わせたくない同居親のどちらの心情ももっともであるということで、話し合いがまとまらないという調停が行われていたこともある。しかし、これは誤りであり、過去の事例ということにしなくてはならない。面会交流は、あくまでも一方の親と離れて生活する子どもの権利であり、子の福祉の観点からは、面会交流が子の福祉に害する結果になる場合を除いて、実施させなければならない。親どうしの、会いたいとか、会わせたくないということは、面会交流調停には本来無関係の話である。ともすれば調停は、調停に出席する当事者の感情に左右されてしまう場合がある。しかし、面会交流調停は、調停当事者の意見に左右されずに、家庭裁判所が後見的見地から子どもの利益を実現することが求められている。子どもが当事者として調停に出席していないからと言って、親の感情を子どもの利益に優先させてはならない。
  面会交流は、別居や離婚による子どもへの負の影響を軽減させるために行うもので、子どもの健全な成長のために行われなくてはならないものである。以下説明する。

 1)離婚や両親の別居の子どもに対する影響

   離婚や両親の別居によって子どもに与える負の影響としては、大規模統計研究をまとめたアメイトらの研究が有名である。結論としては、離婚家庭の子どもはそうでない子どもに比べて、幸福感の指標において点数が低いということ、就学後から10代前半の子では離婚の影響が大きいということである(Amato.P.R.& Keith.B Parental Divorce and adult well-being of children analysis. 「子どものための法律実務」(日本加除出版社)95ページ、小澤真嗣「家庭裁判所調査官による『子の福祉』に関する調査―司法心理学の視点から―」(家裁月報61巻11号6頁)。
また、日本の民法766条改正のきっかけとなったウォーラースタインとケリーの60組の家族の調査も価値の高い研究とされている。彼女らの離婚後5年を経た子どもたちへの実証的な研究報告である“Surviving The Breakup ”によれば、離婚後の生活によく適応し、心理状態が最も良好であったのは、別れた父親と定期的に交流を持ちつづけていた子であった。父親と定期的に交流して父母双方とよい関係を維持していた子は、他の子と比較して、自我機能が良好で、自己評価も高く、親の離婚が原因で抑うつ状態に陥ることがなかったのである。
一方、別れた父親との接触がなかったり、少なかったりした子は、父親が会いに来てくれないことに失望したり、孤独感や無力感を抱いたり、あるいは、逆に父親に怒りや恨みをおぼえたりする傾向があった。(家裁月報41巻8号 「子の監護事件に関する面接交渉」佐藤千裕 224頁)。
両親間の紛争が高い場合は、子は、「忠誠葛藤」と呼ばれる、父と母のどちらの自分が付くかということで悩み、時にはどちらについても他方の親に対しての自責の念が生まれる現象が起きる。自分が日常的に愛情を受けていた者が自分の目の前からいなくなっているために「対象喪失」を起こす。さらに、不安、悲しみ、無力感などの否定的な体験によって、身体症状や抑うつ、学業不振、攻撃的言動を起こす(岡本吉生ほか「家事事件における子どもの調査方法に関する研究」家庭裁判所調査官実務研究(指定研究)報告書第7号)。
これらの子どもたちに対する負の影響は、短期的に収束するのではなく、将来にわたり影響を及ぼす。上記ウォーラースタインの研究はその後も行われ、25年にわたる追跡調査が行われた。
調査10年後に発表された“MEN、WOMEN&CHILDREN A DECADE AFTER DIVOCE”(邦題「セカンドチャンス 離婚後の人生」草思社)はしがきによれば、離婚から1年から1年半後については、ほとんどの家庭が危機を脱していなかった。5年後の調査では、3分の1の子どもたちは立ち直ったが、3分の1以上は以前より悪くなり、睡眠障害、学業不振、突飛行動が慢性化していた(同書20ページ)
ウォーラースタインは、25年目の調査を“The UNEXPECTED LEGACY of DIVORCE”(邦題「それでも僕らは生きていく」PHP。で発表した。10年後の調査の傾向が続き、子どもたちは自己肯定感が低く、特に異性との関係で健全な成長を遂げることができず、結婚ができないか、結婚してもすぐに離婚するかつての子どもたちが多くいることなどを報告している。
子どもが従来両親と居住していた家から、突然一方の親に連れられて転校を伴うような環境が激変する転居を余儀なくされた子どもは、面会交流の意義は大きい。特に国境を越えて転居を余儀なくされた場合は、ハーグ条約によって、元の国に戻される手続きが定められている。しかし、子どもにとって大切なことは、国境を超えるか否かにあるのではなく、元の環境から別の環境に突然環境の変化を強いられ、実の親の一人や、学校の先生や友人たち、なじんだ自宅や地域を奪われることが負担であることにそれほど大きな違いはない。外務省が述べる連れ去りは、国境を越えなくても、子どもにとって大きな心理的負担を与えるものであり、このような状況に置かれた子どもの心理的手当ては、家庭裁判所において子の福祉の観点から具体的に講じられなければならない。

 2)面会交流の意義

   面会交流は、上記のような離婚や別居などの両親の紛争に巻き込まれた子どもたちの否定的影響からの保護要因になることが指摘されており、子どもが精神的な健康を保ち、心理的・社会的な適応を改善するために重要であるとされている(「子どものための法律実務」(日本加除出版社)96ページ)。心理学者の小田切紀子の調査研究では、面会交流の意義は、子どもにとって、①親から愛されていることの確認、②親離れの促進、③アイデンティティの確立の3点を挙げている(同書97ページ、小田切紀子「子どもから見た面会交流」(自由と正義Vol.160 no 12 28ページ以下)。面会交流が実施されることで親からの愛情を感じることができる。面会をする別居親からの愛情はもちろんだが、別居との面会に快く送り出す同居親に対しても愛情を感じることができる。どちらかの親に没入することがなければ、強い依存状態に陥ることが無くなる。アイデンティティの確立については次項において説明する。
   面会交流は、現在、法務省においてもホームページでの啓もう活動など積極的に推進している。最高裁判所の動画においても面会交流の推進及びより良い面会交流の方法の提案などがなされている。いずれも、面会交流が離婚や別居後の子どもたちの健全な成長のために必要不可欠であることを強調している。

2 片親疎外の概念に関する整理(片親疎外症候群との区別と子どもに対する深刻な影響)

  現在、離婚の子どもに対する負の影響は、離婚そのものではなく、両親のたがいに対する葛藤が一番の原因であるとされている。それが片親疎外にもつながり、後に述べる子どもたちの成長に深刻な影響を与えている。
  この点、現在においても、家庭裁判所において、片親疎外(PA)と片親疎外症候群(PAS)との概念の混乱が見られ、片親疎外の懸念を示すと、同居親の子どもに対する悪意の働きかけはないなどといった返答がよこされることがある。概念を正しく理解していないために、別居親が同居親を過度に非難しているという誤解をしているのである。本庁においてはこの初歩的な誤りをするとは思えないが、他庁において確認されることなので、念のために付言する。
  片親疎外症候群(PAS)とは、精神科医ガードナーが提唱した精神障害である。監護親が子に対して洗脳に似た操作を行っている場合に起こす子どもの病的症状であるというのである。このPASについては批判が多い。
  このPASについては、Johnston& Campbellの大規模調査があり、結果として、非監護親に対する否定的な感情を伝えられた子がすべて非監護親を拒絶しているわけではなく、監護親による働きかけがなくとも、子が非監護親に対して憎しみを抱いている事例があり、複雑な様相を示していることが報告されている。
  その結果、PASを修正する形で「片親疎外」(PA)が概念づけられていった。結論としては、「子の非監護親に対する拒絶する現象」のことを言い、この理由としては監護親、非監護親、子の要因などが複合的に作用しているとされている。
Johnston& Campbellによれば、片親疎外の減少が起きる要因としては、監護親の非監護親に対する否定的な言動や、非監護親からの手紙や電話を取り次がない、思い出のものを捨てさせる、面会交流を理由なくキャンセルする等の行動が、子どもに対して、面会交流やささやかな思い出にまどろみ、非監護親からの愛情を確認することが、監護親から否定評価されるという忠誠葛藤を起こさせ、自分は監護親を選んだということをアッピールするために非監護親を否定する態度を強めるという要因があることが指摘されている。また子どもが、両親の板挟みを上手に解決する能力が無いために、単純に一方の親に同調することによって解決を志向しているとされている。それらは、背景として同居親から見捨てられると、自分は一人ぼっちになるという子どもなりの不安が強く作用しているとのことである
  但し、片親疎外の結果、子どもが、「完全な善人の母親(同居親)の子どもの自分」というアイデンティティと「完全な悪人の父親(別居親)の子ども」である。という二律背反するアイデンティティを持たせられる結果になってしまう。極端なアイデンティティは統合することが難しく自己イメージの混乱が生じてしまう危険がある(片親疎外の項は前掲小澤41~45頁)。
  このような影響は自我が確立する15歳ころに顕著に表れる。自己イメージの混乱は、自我の同一を妨げる。片親疎外のもう一つの側面である極度な同居親に対する依存傾向は、同級生などとの対人関係に問題が生じ、引きこもり、自傷、拒食症などの遠因になることもある。
  片親疎外の保護因子としても面会交流は重要である。離婚に伴い葛藤が生じることは仕方がなく、同居親に対して子どもの前でパーフェクトにふるまうことを期待しても仕方がない。どんなに葛藤を子どもに見せても、別居親との面会交流だけは第一に考え、快く送り出してくれることで、子どもは片親疎外に陥る危険は著しく低減するであろう。

3 面会交流調停は、どのように面会させるかということを話し合う調停である。

 1)面会阻害事由の調査

   先ずは、面会阻害事由の有無を確認することは当然である。面会をさせると連れ去りの危険があるのか、児童虐待があったのか、子どもの面前で配偶者加害暴力や虐待があり、面会の機会に暴行が起きる可能性があるのか、子どもの拒絶がないかということである。同居親の感情は、面会阻害事由とされていない。
   但し、連れ去りの危険については、連れ去られないような出入口が一つしかないような場所で実施することで解決される。児童虐待の有無、子どもの拒絶については、家庭裁判所の調査官の調査が必要となる。但し、引き離された子どもは、上記理由のため多少にかかわらず片親疎外症候群の様相を見せることがむしろ通常である。子どもが調査官に会いたくない、会わなくても良いといっても、実際に面会したときの子どもの喜び方を見れば、それが片親疎外症候群ないし、忠誠葛藤によるものであることが容易に理解できる。同居時の記録、写真やビデオなどで良好な関係が示されれば、客観的資料に基づいて判断されるべきである。
   仮に面会阻害事由が疑われるというのであれば、速やかに試行面会が行われるべきである。客観的資料もないのに同居親の言い分をいつまでも真に受けて速やかな試行面会を怠ることは厳に避けていただきたい。
   同居親への暴力の懸念も、過去において具体的事実がない場合は考慮するべきではない。但し、後述するように同居親の不安があることは事実であるから、それに対する対応として、面会時のルールについては、具体的に取り決めをするべきであると考える。
   ちなみにアメリカの配偶者加害の研究者であるランディ・バンクラフトらは、「DVにさらされる子どもたち―加害者としての親が家族機能に及ぼす影響」(金剛出版)の中で、DV加害者(batterer)であっても一般に子どもは加害者とある程度の接触があったほうが順調な経過をたどる(142頁)と指摘している。ここでいうDV加害者は、日本の曖昧な概念ではなく、「DV加害者とは、パートナーとの間に威圧的な支配のパターンを形づくり、時おり身体的暴力による威嚇、性的暴行、あるいは身体的暴力につながる確実性が高い脅迫のうちのひとつ以上の行為を行う者のことである。」
と明確に厳しい定義を述べている。このような定義の加害者であっても、子どもは接触したほうが良いと述べられているのである。

 2)調停で話し合うことはどのように面会させるかである。

   面会阻害理由がなければ実施の方法を話し合うしかない。これが鉄則である。強固に面会交流を拒んでいる同居親が面会交流に応じるためには、裁判官や調停委員が強く説得するしかない。同居親は、よほどの事情から離婚をするのであるから、子どもを会わせたくなるということはない。子どもを会わせたい気持ちになるまで待つということは、結局は面会を子どもにあきらめろということに等しい。しかし子どもは健全な成長が妨げられる危険を容認するべき原因を作ってはいない。申し訳ないが、裁判官や調停委員から、子どもの権利を抽象的に解くのではなく、片親疎外の完成による極めて深刻な影響を伝えて説得するしかない。また、子どもに対する責任を分担すること、子どもに縛られない時間を作ることが有効であること等、負担を軽くして、子育ては母親がするものというジェンダーバイアスから解放することが有効である。
   しかしながら、同居親に葛藤や抵抗が強いことは事実として存在する。同居親がより安心して合わせることができるような工夫が必要であるということは多い。
   面会場所や打ち合わせの方法、直接接触しないで済む方法、その他同居親の安心につながる方法は積極的に受け入れられるように別居親とも工夫を出し合うことが有効である。共通の知り合いなどの支援者を面会に同行させることでも同居親の不安が軽減することもある。但し、同居親の要求が子の利益に反する場合は、家庭裁判所は同居親を説得しなければならない。同居親の感情で、面会交流の質量が減少してしまうことは避けなければならない。子どもが十分に同居親から愛情を受けているということを実感できる面会交流が実現しなければならない。

 4 面会交流の緊急性

   面会交流は速やかに実施しなくてはならない。
   面会交流調停が申し立てる場合、離婚調停や婚姻費用調停などが併合されてしまう場合がある。これは制度の趣旨を十分に理解していないものと思われる。
   むしろ別居が始まると同時に面会交流も実施されなければならないはずである。子どもたちは、先述のように、環境の激変の中で心理的負担を受けており、これまで生活したことの無い環境の中に立たされている。同居親以外の愛着の対象がすべて奪われた状態である。一方の親が自分の目の前からいなくなることも、不安を増大させる出来事である。同居親とも離別する不安を潜在的に抱えている。忠誠葛藤が無駄に強くなり、片親疎外が進行している。できるだけ早期の段階で別居親との面会交流を実現して、自分が愛されているという実感を持つ必要がある。
   婚姻費用調停が優先させるべき合理性があるとすれば、婚姻費用の支払いが早期に合意される場合に限られるだろう。例えば暴力や虐待の無い事案においても子どもの連れ去りは起こっているが、そのような場合、別居親は子どもを連れて勝手に出て行かれた上に、高額になる傾向にある婚姻費用の負担を行うことは心理的抵抗が高い。養育費相当額は支払う必要性を感じているが、それを上回る婚姻費用相当額を支払うことに抵抗を示すことは心情としては理解できる。そもそも婚姻費用を負担するのは、共同生活を営むにあたって必要な費用を支払うことが当然だからである。一方が共同生活を営む意図がない場合にその者に対して費用を捻出する義務を課すことが近代市民法の理屈から導くことができるかについては疑問も多い。
   このような場合、すべてが同一期日に話し合われるとすると、事実上婚姻費用の話し合いが先行することになる。面会交流については実質的に、婚姻費用の話し合いが整った後で行われることが多い。ある家庭裁判所では、離婚調停が優先したところもある。面会交流調停だけは子の福祉の観点から急がなければならない調停であり、これは婚姻費用調停を急ぐべき事由と両立する。当事者や代理人が許す限り、別期日で可及的に速やかに十分な時間をとって話し合い、早急な面会交流を実施させるべきである。   

5 間接交流は回避しなければならないこと

   家庭裁判所は間接交流と言われる、手紙や電話などでの交流を頻繁に提案する。しかし、間接交流は上記の面会交流の意義、別居親からの愛情の実感、親離れの促進、アイデンティティの確立に効果は乏しい。つまり間接交流は面会交流としての意義が乏しいのである。一番の問題は、間接交流は、交流にならないことである。直接交流ができない場合は、電話での交流もできないことが一般的である。また、手紙は子どもには渡らないことがほとんどである。子どもからの返事はめったに来ない。というか来ないことが多い。手紙を子どもが手に取れる場所に置いているということも聞くが、子どもたちはそのような手紙を積極的に読むことはできない、読んだ形跡を同居親に知られるわけにはいかないからだ。これは、多少経験のある調査官なら誰でも知っていることである。面会もしない親と子の手紙のやり取りは、実際は行われない。
   そもそも子どもにとって有益ではない面会交流である上に、なかなか実現が難しい交流である。これを提案する理由は、これならば同居親に承諾させることができるかもしれないからである。禁じ手の発想というべきである。子どもの利益を考えるべき面会交流調停において、同居親の感情を理由として子どもの利益を十分に実現できないという結果を家庭裁判所が提案することは、家庭裁判所の存在意義に関わることである。子どもの一生は一度しかない。子どもが子どもである以上、その健全な成長に対する責任は親や大人が果たさなければならない。表面的な事件処理のために、子どもの健全な成長という利益に目をつぶることは家庭裁判所の体をなしていないと厳しく批判されるべきである。

 6 面会交流に関するレクチャーは早めに行うべきである

   動画やパンフレットを見せて面会交流の意義についての説明は可及的に早期に行うべきである。一つの選択肢を提起する意味は大きい。その際も、誰しも離婚相手に子どもを預けることに抵抗があることを理解し、それでも子どもにとっては面会交流が大切だということを説明する必要がある。
   それだけで、嫌だけれど面会交流をさせなければならないと納得するケースは案外多い。
   頭では面会交流が必要だとはわかっているという同居親の言葉をうのみにしてレクチャーを遅延させることはできない。面会交流が必要だからどのようにして合わせるかという議論になっておらず、会わせるかどうか検討するということで数か月を過ぎている場合は、面会交流が子どもの健全な成長にとって切実に必要だということを頭でも理解していないことを示している。実際、このような同居親の発言がある場合は、面会交流が実現するまでには時間がかかることが多い。

 7 別居親の協力は不可欠である

   別居親も同居親も、結局は自分たちの子どもを健全に成長させるために共同作業をしなければならないことは離婚後も変わらない。同居親の不安や抵抗を取り除くために別居親が行うべきことは多い。
   別居親が、面会時、同居親の悪口を言わない、生活ぶりを子どもに尋ねたりしない、受け渡しの時間は厳守する等のルール作りを承諾することは極めて簡単だ。思い切って別居親にこれらの提案を自らさせることはそれほど難しいことではない。そんなことでも、同居親の安心につながる場合は大きい。
   また、別居親が同居時や別居後に、同居親が子育てに努力していることを認める発言をするのであれば、それを積極的に同居親に伝えることも同居親の不安を軽減させることにつながることがある。さらに何らかの謝罪があれば、それも伝えるべきだ。但し、これらを戦略的に話してもらうことは良いとしても、強要することはできない。子どもの利益のためにということで、その有効性を説明することは必要かもしれない。

 8 子どもに責任のない面会交流の質量の制限は回避するべきである。

   間接交流とともに、極端に短い面会交流時間や極端に少ない頻度の面会実施が提案される場合がある。子どもの事情から必要であればやむを得ないが、ここに同居親の感情を入れることは間違いである。面会交流はあくまでも子どもの利益のために行われるものだからである。
   子どもの事情で質量が制限されるのは以下の場合である。
   乳児などの子どもの年齢のため、外出する時間に制限を設けるべき場合。
   別居親が子どもと極端に離れて暮らしているために、実際の面会が毎月実施することが難しい場合。
   部活動等で、土曜日、日曜日の予定が立てられない場合。但し、このような部活動は中学生までは禁止されるべきだと考えるがそれは別のところで。
   毎月の面会交流の実施が難しい場合は、実施する面会交流は、子どもが別居親になじむ時間を十分確保して行うべきである。あるいは直接面会交流ができない場合は、電話やインターネットでの面会交流を補充的に実施するなどの工夫が必要であろう。
   特に就学前の幼児は、記憶力が十分発達していないため、たとえ一回当たりの面会時間が少なくても、頻回の面会交流が実施されることが望ましい。
   月に一度、2時間の面会交流は、不当な時間的制約を課していると評価されるべきである。子どもが病的原因を抱えているならともかく、健全な体力があるのであれば、1か月に1度の面会ならば最低でも6時間くらいは必要である。受け渡し場所から遊園地などの施設に移動する時間も考慮しなければならないからだ。この移動時間も貴重な面会交流の時間である。案外遊園地よりも電車で一緒に切符を買って、一緒に窓からの景色を見たことが懐かしい思い出になることもある。子どもの体力についての考慮は、面会交流実施の方法について議論すれば足りる。

 9 まとめ

   いずれにしても、子どもたちの健全な成長を阻害する危険を生むかどうかは、同居親、別居親の判断にゆだねられている。家庭裁判所は子の福祉の観点から後見的に監護に関する助言を行わなければならない。家庭裁判所が無制約に同居親の感情に流されてしまうことで、面会交流が十分に実施されず、その結果子どもの健全な成長が阻害されても、家庭裁判所は責任を取らないであろう。子どもの人生は一度きりで、その人生のために重要な子どもという時期も一度きりである。子どもの健全な成長以外の考慮要素は排さなければならない。
   本来、監護の方法は、家庭の中のことであり、両親が決めればよいことである。そこに簡易裁判所ではなく家庭裁判所が介入することが許される根拠は、子の福祉のために後見的に介入することが法律で定められているからである。子の福祉の観点に立たない働きかけは、家庭裁判所の権限ではない。重々ご理解、ご承知おきいただきたい。

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普通の夫の普通の会話は、普通の妻には怖いと思われている事実。男性脳と女性脳2 女性脳が始まるとき [進化心理学、生理学、対人関係学]


【事例:運転中の毒づき編】

後に夫と妻になる婚約中の二人が、男性の運転する自動車で移動していました。交差点の赤信号で一番前に停車していて、青になって発進しようとしたところ、青になるかならないかのうちに対面で一番前に停車していた車が突然発進してきて、自分たちの車の前を強引に右折して進行を遮っていきました。年配の男性が運転手でした。
後に夫となる男性は、「何やってやんだ。馬鹿野郎。ふざけるな。」と叫びながら、遠ざかる車を睨みつけながら直進していきました。
助手席の女性も、恐怖で青ざめながら、男性に対して、「強引な運転よね。」などと共感を示しました。
ところがこの男女がのちに結婚し、子どもが生まれましたが、その後数年で離婚の裁判となりました。女性側から離婚が申し立てられたのです。女性は、離婚原因の一つとして、男性が乱暴で怖いということを上げています。その一つの例として、この交差点での出来事をあげてきました。「相手はお年寄りの運転手なのに、つかみかかってケンカを売ろうとするような言葉を吐いて、怖いかをしていて、一緒に生活することは無理だと思った。」というのです。
言われた男性は、ではどうして結婚したのだ。結婚しなければよかったじゃないか。それが離婚理由になるなんてことはありえない。アラ探しをされ、言いがかりをつけられたと思います。だってあの時一緒に怒ってくれたじゃないかというわけです。どうして今頃そんなことを言い出すのか理解できません。

【典型的な女性脳は、争う姿、人を攻撃する言動が怖い】

前回の解説をまたこの記事の最後に載せておきます。
女性脳は、仲間の結束、調和を求めます。それが目的に適ったことであろうと、正義を主張していようと、攻撃的な言動を見聞きすると、「怖い」と感じます。仲良く楽しくいることが一番の目的ということも外れてはいないと思います。何かいさかいが起こると何とか仲直りをして仲間内の秩序を守ろうとしますので、働きかけることができないほどの怒りが近くで表現されると、どうしようもなくいやな気持ちになります。
出来事から数年以上たっても、交差点での出来事とその後の夫の言葉、憎々しげな表情を思い出すと、怖くなってしまう、どうしようもなく嫌な気持ちになるということは、どうやら本当のことのようです。

【男性脳が、乱暴な言葉を怖がらない理由】

男性脳は、多少厳しい言葉を聞いても怖くないことが多いようです。
例えばチームスポーツで、叱咤激励するとき仲間同士でも乱暴な言葉を使いますが、士気が高まることはあっても、味方の叱咤激励で委縮することはありません。それは、勝利という目的のために行われていることで、自分を攻撃しているわけではないということをよくわかっているからです。
運転中の毒づきは、安全運転ということもありますが、交通ルールを守る、あるいは交通エチケットを守るという目的に照らしてそれに反する行動する者に対しての怒りですから、毒づくのは当たり前だという意識があります。自分の身の危険があったこと、それ以上に大事な婚約者を危険な目に合わせたということから、衝突の危険から解放されて安心をしたとたんに、緊張が相手に対する怒りに変わります。
そして、助手席の婚約者も、自分と同じ気持ちだということを疑いません。

【婚約中の女性の心理】

当時女性は、やはり、強引な右折による衝突の危険の怖さを感じ、さらに男性の毒づきに怖さを感じているようです。しかし、男性と自分は強固な仲間なのだという意識がありますから、男性に対して共感を頑張って示し、二人の協調性を保とうとしてしまいます。また、前回もお話ししましたが、現代社会では男女差のある生活はあまりありませんし、男女の別なく受験競争で、目的を達することにまっしぐらに行動するという男性脳的な行動習慣を植え付けられているということもあります。あまり女性脳の傾向が強く表れないようです。ノリがよく、容量の良い女性は、男性と一緒に毒づくということもあるようです。
しかし、衝突の恐怖と、それに続く隣の人間の憎悪の姿をみることによって、自分を守らなくてはならないという興奮状態が生まれます。これは、緊張の記憶になっているようです。

【問題提起】

それでは、いつ、緊張の記憶が、恐怖と嫌悪の記憶に変化したのでしょうか。

【結論】

多くは、出産後に記憶の変化がおきたものと思われます。

【解説:女性脳が活性化する事情】

出産によって、女性は、その共感力が主に赤ん坊に向かってしまい、成人男性、つまり夫に向かわなくなっていく傾向があるということを、数年前相次いでバルセロナの大学と福井大学で発見されました。
それまでは、夫は自分の仲間であり、自分には攻撃してこないということについて、夫の気持ちを読み取って疑わないことができました。しかし、共感が夫に向かわなくなる結果、夫が何を考えているか実感としてわからなくなるようです。脳の構造と機能からそういうことになり、これは多かれ少なかれほとんどの女性におき、2年くらいは続くようです。

ここで女性は、女性脳を開花させるのではないでしょうか。子育てを意識すると、「子育てチームが仲良い状態を保ち、穏やかに平和に子育てに協力している」ということが安心の材料となります。攻撃が自分に向かっていなくても、とにかく怒っている人を見るのが怖いのです。怒りに正当な理由があろうとなかろうと、結果として不穏な状態の人を見るのが嫌なのです。それにもかかわらず、男性が生まれたままの状態で、毒づいたり、けんか腰の対応をしたりすれば、怖くてたまらなくなります。これが続くと一緒にいることが嫌になることは理解できると思います。なにせ、夫は信用されなくなっているわけです。その攻撃は、自分に向かうかもしれないとも感じているのでしょう。
男性として普通の人が、男性同士の中で許容されている語気を強めたり、強調したものの言い方をしたりしてしまうと、それまで何も感じなかったのに、出産を経験した女性は、「怖い」と感じるように変化してしまっているのだと思います。
そうすると、何かの拍子に交差点のことを思い出して、当時は緊張の記憶であったのに、今は夫に対する恐怖の記憶に変化するのです。当時は、頑張って共感してくれていたので、自分を守るために怒っているなんてことも感じ取ることができたかもしれません。しかし出産と同時に、夫に対しての共感力はなくなるのですから、自分に対して攻撃が向いていなかったという確信は持てません。
そのことを思い出しては怖くなるということは、起こりうることなのです。
そして、実際に妻の方が、殺傷能力の高い暴力や、臓物をえぐるような悪口、絶え間なく執拗に繰り返す嫌味を繰り出していることが少なくありません。だから、夫は自分を守ろうとしてしまい、自分を守るために妻に合理性を言い聞かせることが少なくありません。夫は、原因の有無、道徳に照らした場合の優越で妻を説得します。しかし、妻は原因論には関心がなく、声が大きい、乱暴な言葉を使われた、理詰めで追い込まれた等という、方法論を非難してきます。これは目的遂行第一主義の男性脳と、協調中心主義の女性脳の違いから来ているもので、話がかみ合わないことは、むしろ当然のことなのです。男性も女性も、もうどうしてよいのかわからなくなります。これは、あなただけが感じている理不尽ではなく、ごく普通にありふれた理不尽さなのです。多少の程度の違いはあれ、普通の夫婦の日常なのです。
それでも妻は怖いのです。怖いからこそ反撃するのです。

【通常出される疑問があります】

「妻が私の言動を怖がっていることはありません。なぜならば、私を挑発することを言ったり、先制攻撃をしてくるのですから。本当に怖いならば、そんなことはしないはずです。」

【それは誤解です】

こういう疑問を呈する方は、おそらく「怖い」というと、子犬が一人で震えているようなイメージを持っていらっしゃるのだと思います。しかし、野良猫が駐車場の奥でのんびりしていて、かわいいなと思って毛を撫でてあげようと手を近づけると、こちらに攻撃的意図がなくても猫はものすごい形相でこちらを威嚇してきて、時には爪でひっかいてきます。この猫のイメージの方が、気丈に反撃してくる奥さんのイメージです。
猫が攻撃してくるのは、怖いからです。自分に危険が迫ってきていることを認識し、危険を叩き潰すことによって回避しようとしているわけです。

【怖いということの解説】

奥さんが反撃してくる危険は、生命身体の危険が迫っているということではなく、対人関係的件です。自分が不当に低く評価されるのではないか、自分がけなされるのではないか、不合理に叱責されるのではないかというような、仲間として扱われない、究極的には仲間から追い出されるのではないかという危険を感じているのです。先ず、特に出産を経験した女性は、自分が尊重されるべきだということに過敏になっています。人間が子どもを育てるためには当然の反応です。過敏になると、あらゆる夫の言動が自分を否定しているのではないかと、半ば妄想的ともいえるのではないかというほど悪く受け止めるようになります。例えば、夫と妻の話の流れの中で、自分の失敗に気が付いたようなとき、例えば、自分が光熱費の支払いをすることを忘れていたのに、私が立て替えて払ったと言い張っていて、夫に金を出せと責めた挙句、「お金渡したよ」という夫に対して「卑怯者、自分のことではお金を使うくせに、家のことではケチになる。」なんて悪口を言って、夫を攻撃していたとします。すると、払い込み用紙とお金がクリアファイルに挟まれて出てきて、ああそうだ。夫に出してもらってここにしまったのだということを思い出し、バツの悪い思いをしているとします。そこで、「ごめん、私が間違っていた。」と素直に言えば良いのですが、さすがに妻もそれで許してくれないだろうという気持ちになっているわけです。「どうせ、あなたは、私が記憶力がなくて妄想的な話ばかり言っていると思っているのでしょう。」なんてことを毒づいてきたりするわけです。これが、記憶では、そういう風に言われた。夫から精神病者と言われたという記憶に改変しているのです。
この時、妻は、自分が夫から、記憶力がなくて妄想の障害を持っているなんて思われたくないという危険意識でいっぱいで、自分を守らなくてはならないという過敏な状態になっているわけです。自分が悪いのですが、夫が怖くなるポイントです。不合理なことが起きています。ここでよくできた夫ならば、「そういう間違いはあるよ。俺は何も気にしてないよ。」というのでしょうが、普通の男性で、しかもこう言うことが何度も繰り返していると、いつもこちらを攻撃する。こちらが悪くなくても攻撃を仕掛けてくる。という気持ちになることは、これも致し方がないことかもしれません。
でも、奥さんは危険を感じているから、追い詰められた猫のように攻撃をしてくるのです。自分の至らないことを自分で分かったからこそ、自分を守ろうとするのです。とても厄介なことは、自分を守るためには夫を攻撃しなければならないという反応をしてしまうことです。
怖いがために攻撃する。攻撃されればやはり自分を守るために反撃する。反撃されれば攻撃されたと思いますからさらに反撃します。本当は仲良くしたいのです。仲良くしたい気持ちが強すぎて、仲良くできない事情を見つけては、自分を守ろうと攻撃が始まってしまうのです。
そして夫は、原因論、正義論、道徳など原理論理のところで妻を諌めようとします。妻は、やはり原理論理論には興味がなく、協調論を重視しますから協調しているとは感じられない大声、理詰めの問い詰め、過剰な表現への攻撃などを指摘して、かみ合わないまま事態は深刻化していくわけです。

【ちなみにどうすればよいのか】

猫の飼い主ならわかると思いますが、多少引っかかれても怒らないということです。自分の失敗を含めて許容しているという安心感を持ってもらうことです。これは繰り返し繰り返し刷り込むことが必要です。
心構えとしては、女性は大事にしないといけないということに尽きるということでしょう。大事にするとは何かです。出産前は何も言われなかったとしても、出産後は特に、大声を出さない、誰に対しても攻撃的な態度を見せない、誰に対してもですが、特に子どもには乱暴な言葉を使わないということは鉄則なようです。子どもを守ろうという意識は強いので、思わぬ攻撃を受けることがあります。そして、大目に見るということです。とにかく、妻の身の回りの人間関係は穏やかさをキープすることを心がければよいようです。
女性と男性の違いをしっかりと意識して、一緒にいて快適に過ごしてもらう。そうすれば、あとは今までとそんなに変わらなくても良いのかなと考えています。

【付録、男性脳と女性脳が合理的であった時代】(再掲)

 人間の心が生まれた200万年前の狩猟採集の時代にヒントがありそうです。男性はチームを組んで、イノシシなどの小動物を狩りしたそうです。その間女性は子育てをしながら植物を採取していたようです。どちらかというと男性は、狩りチームの一部となり、動物を狩るという目的のもと、合理性を追求しながら目的達成に集中していたということになります。女性は、一人一人がそれぞれ食べられる植物を探しておそらく協力して刈り取って群れにもっていったのでしょう。
 ここから男性は、目的のもとに結束して目的完遂というところに価値をおく傾向が生まれたというとわかりやすいと思います。女性は、目的遂行というよりも、群れを守るという意識ですから、群れの他者との調和、群れの平和に価値観がより重く置かれるということもわかりやすいと思います。
 人間は、男性的な目的のもとで、自分をチームの一部として動かすという緊張感を長く持続させるように人間の体の仕組みはできていないようです。夕方には群れに復帰して緊張感を緩和させていたようです。群れの中では、調和の技術もノウハウも女性が上ですから、女性に従って行動していたのだと思います。屈強な男性たちが命がけで狩りをしてきても、群れの中では女性の尻に敷かれ、指図されてその通り動いている図を想像すると、なんだか笑えてきますよね。「ええ、そうなの、従わなくてはいけないの」という表情をしていたのか、「何でも言ってくれ、俺はできるぞう」と喜んでやっていたのか、どちらなのかを考えても面白いと思います。
学説では、当時は完全平等で、狩りが上手な人が偉いという意識はなかったそうです。偉ぶる人は、偉ぶったということを理由に、みんなから攻撃されたのではないかと考えられているそうです。
 元々、男性の思考パターンは狩りの場合にのみ有効で、家庭では女性脳に従ってきたのだとすると、現代においても人間の在り方は、これが自然だということになりそうな気もします。
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正しい夫が妻から疎まれる理由。男性脳と女性脳とは何か  違いを認めれば、楽しく人生を過ごすことができる。 [進化心理学、生理学、対人関係学]



男性脳と女性脳という言葉がはやりのようです。
でもぴんと来ないことも多いと思います。
男性だと必ずこう考えるとか、こう考えないと女性ではない
というものではないと思います。
ただ、大まかな傾向というのはあり、
この違いを頭に入れておくと
私たちの生活は無駄な争いをしなくて済むようになり、
お互いを理解し、尊重できるようになると思います。

なぜ違いが生じるかについては200万年前に
人間の心が生まれたころの生活様式にありますが、
興味がある人は最後に記載しますので読んでください。

ではさっそく、事例をあげて考えてみましょう

【事例:妻と妻の母の買い物に同行する夫編】

ある日曜日、妻の母である姑が同窓会用の服を買うということで、妻が子どもを連れて姑とデパートに行くことになりました。子どもが小さいということと、どうせ食料など重い荷物も買うのだろうということで、夫は車を出しがてら、買い物に同行することになりました。家族円満を志す夫は、こういう時に貢献しようという気持ちです。
ところが、いつものとおり出発をぐずぐずしていたため、デパートに到着したのは11時半ころになってしまっていました。妻と姑はさっそく服売り場に行けばよいものを、入り口に入ったところの小物売り場で品定めを始めようとしています。
夫は提案しました。昼時になれば食堂は混んでいてなかなか入れないし、食事が出てくるのも遅いので、先に食事を済ませてしまいましょう。そうして、ゆっくり買い物をしてはどうですか。夫は、「それは良い提案だ」とすぐに受け入れられると思って、そう言いました。
ところが、妻も姑もきょとんとして、なぜそう言うことを言うのだろうというという表情をしています。夫は、少し口調を強くして、再度提案をしました。ようやく、妻がとりなすようなことを言って、食堂で食事を始めました。

【問題提起】

なぜ、夫の合理的な提案に対して、
妻と姑の反応が鈍かったのでしょうか。

【結論】

夫の買い物の目的と、妻と姑の買い物の目的は別だったからです。

【解説】

夫は、買い物と食事をするのだから、より良いものを買い、より快適に食事をするという目的を設定し、目的に最も適した行動をすることが、当然であるという発想になっています。極端に言えば目的に直結する行動が善だという態度であり、目的を達する観点からは回り道であれば悪だという態度です。
妻と姑にとって、買い物をする目的は、主としては代金を出して物を購入することではありません。食事についても、短時間で栄養を補給することではないのです。実は、買うかどうかはそれほど深刻に考えておらず、デパートで品定めをすることを楽しむということが大きな目的であり、それこそが買い物なのです。食事にしても、おなかがすけばイライラするかもしれませんが、みんなで待つならそれもまた楽しいという考えなのです。
夫にはそういう知識はありませんでした。同窓会の服を買うという目的にまっしぐらに進まなければならないと固く考えてしまっています。無駄に時間をかけて食事をすることは不合理だという価値観も譲れません。それこそが男性脳の傾向です。その発想に立って、合理的でないと言って妻と姑の行動を悪く言えば批判していたことになります。夫からすれば自分の行動提起は正しく合理的で、優れている。妻と姑の行動は、計画性が無く不合理で、劣っている。そう思っているのです。
しかし、妻と姑は、楽しく品定めをしているのに、なんて無粋な男なのでしょうと感じるし、むきになって先に食事をするべきだと力説している男を持て余し、なんだか怖い人だねという感想を持ってしまいます。なんだか馬鹿にされているような気もしますので、不愉快にもなります。

【さらなる解説】

男性脳は、このように、一つの目的に対してまっすぐに進もうとします。直線距離を歩むことが正しいし、それをするべきだという考えです。
これに対して女性脳は、仲間と円満に過ごすことが目的だというとわかりやすいかもしれません。一緒に何かをすることを楽しみたいということに比重があるわけです。
どちらが正しいということはないと思います。それにもかかわらず、自分の価値観が絶対だということで、その価値観に反する行動を否定評価してしまうと、相手は不愉快な思いをします。こういうことが何度も続いていくと、相手は自分が否定されたような気持ちになっていきます。自分の行動のどこが否定されているかわからないから、自分という人格が否定されているような気持ちになっていきます。相手の顔色をうかがいながら生活することに息苦しさも感じていくでしょう。自分のことを自分で決められないという不自由感、拘束されている感覚が強くなっていきます。そうして価値観の違いを度外視した否定行動が、強い言葉を伴ったり、暴力的な行動を伴ってしまうと、それが大したことの無い口調、暴力であったとしても、恐怖の感情が起きていきます。

【ではどうすればよいの。行動を改めるのはどっち】

結論から言えば、家庭の中では、女性脳に従うべきです。
男性脳は、付録で説明する通り、狩りをするために合理的な思考パターンです。目的のためには、自分の自由を制限することも当たり前、楽しんでなあなあでやっていたのでは、小動物も必死に逃げるため狩ることはできません。狩りをするにあたってとても都合がよい思考パターンです。
女性脳は、子育てをしながら群れを守ることに適した思考パターンです。喧嘩をしない、頭数を減らさない、そうやって自分たちを守り子育てをする。家庭ではこのパターンが適しているのはよくわかると思います。
仕事の場合、今でも、企業間競争が厳しくて真剣勝負で臨まなければならず、不合理な行動は禁止されていると思います。しかし、家庭では、そんな合理性を追求して、何事も緊張感をもって行動しなければならない事情はありません。むしろ、家庭は緊張を緩和させることが求められています。家族がそろうことで安心して過ごすことこそ家庭の役割です。男性脳から見て不合理だ、失敗だ、欠点だと思っても、それで楽しく生活できるならば不合理でも、失敗でも、欠点でもないのです。
本当は職場でも、少し男性脳が優位に立ちすぎていると思います。人間の仲間がもつ癒しの機能を否定して、全力で緊張を高めていたのでは、長続きしません。深刻なフィードバックも起きてしまい、結局は生産性も上がらないのですが、これはまた別の問題ですね。

【男性脳は、男性の責任ではなく社会によって強化されている】

目的に向かってまっしぐらということは、もともと男性の遺伝的な脳の傾向ですが、現在は、男女の社会的役割があまり変わらなくなったので、必ずしも合理的なものではなくなっています。そのため本来であれば、それほど思考傾向は出ないはずで、実際、女性の中にも男性脳的な発想をする人が多くなっていると感じます。
でも、年々男性脳がもてはやされる傾向になっているような感覚があり、危機感すら感じるところです。男性脳が陥りやすい危険とは、目的至上主義になり、目的に反する行動を徹底的に否定する。一人一人を目的達成の貢献度で優劣を作る。劣後の評価を受けた人間を、感情と人格のある一人の人間として扱わない。誰かを否定しても、否定が合理的であったり、目的の観点からの正義であったりすれば非難されない。例えば経済的目的に貢献しない、生産性の低い人間は切り捨てる。そういった傾向は男性脳が悪用されているように感じるのです。
われわれ日本人の多くは、まず受験という目的にまっしぐらに努力させられます。これは男女共通です。目的にまっすぐであることによって成果が上がりますから、友達などとの調和や親睦よりも優先させられることにならされていきます。特に受験競争や就職戦線に勝ち残った人たちは、そのような考えこそが正しかったという教訓を学び取ってしまいます。
さらに、職場でも、先ほど述べたように企業の生き残りのために、無駄を排除し、徹底的な合理性を求められます。企業の価値観に反した行動をとると、始末書を書かせられたり処分されたり、解雇されたりするわけです。
こうやって、生き残るためにということで男性脳的傾向を、生まれた後で社会から押し付けられているような気がします。
そうして、一つの価値観を疑わない人間がつくられて、価値観になじまない人間を、価値観に反するということで否定し、排除する。そういう危険があるように思えるのです。殺伐とした緊張持続社会が生まれてしまうでしょう。
社会を和ませるためにも、家庭を笑いのあふれる空間にするためにも、男性脳の過剰な働きを止める必要がありそうです。
では、どうすればよいか。もしあなたが男性で奥さんがいて、奥さんがいつも不合理な行動をして、自分はいつもイライラしているというなら幸いです。奥さんの行動にイライラしない、眉を寄せないで、何が彼女の価値基準なのかよく観察して理解するようにすることで、この難問の解決を達成することができます。大丈夫です。おそらく奥さんの価値観の方が家庭では正しいのです。
また、対人関係で悩む方、学校、職場、男女関係で自分のみの所仕方がよくわからない方であれば、あなたが人気者になり、人間関係を少しまろやかにするためには、男性脳的行動を抑えて、女性脳的行動を意識的に入れていく、それが成功の秘訣です。
特定の価値観から、その人に欠点がある、不十分なことがある、致命的な失敗だという評価をしない、させないということが女性脳なのでしょう。
もっと女性脳が優位な社会、家庭になることが求められていると思います。

【付録、男性脳と女性脳が合理的であった時代】

 人間の心が生まれた200万年前の狩猟採集の時代にヒントがありそうです。男性はチームを組んで、イノシシなどの小動物を狩りしたそうです。その間女性は子育てをしながら植物を採取していたようです。どちらかというと男性は、狩りチームの一部となり、動物を狩るという目的のもと、合理性を追求しながら目的達成に集中していたということになります。女性は、一人一人がそれぞれ食べられる植物を探しておそらく協力して刈り取って群れにもっていったのでしょう。
 ここから男性は、目的のもとに結束して目的完遂というところに価値をおく傾向が生まれたというとわかりやすいと思います。女性は、目的遂行というよりも、群れを守るという意識ですから、群れの他者との調和、群れの平和に価値観がより重く置かれるということもわかりやすいと思います。
 人間は、男性的な目的のもとで、自分をチームの一部として動かすという緊張感を長く持続させるように人間の体の仕組みはできていないようです。夕方には群れに復帰して緊張感を緩和させていたようです。群れの中では、調和の技術もノウハウも女性が上ですから、女性に従って行動していたのだと思います。屈強な男性たちが命がけで狩りをしてきても、群れの中では女性の尻に敷かれ、指図されてその通り動いている図を想像すると、なんだか笑えてきますよね。「ええ、そうなの、従わなくてはいけないの」という表情をしていたのか、「何でも言ってくれ、俺はできるぞう」と喜んでやっていたのか、どちらなのかを考えても面白いと思います。
学説では、当時は完全平等で、狩りが上手な人が偉いという意識はなかったそうです。偉ぶる人は、偉ぶったということを理由に、みんなから攻撃されたのではないかと考えられているそうです。
 元々、男性の思考パターンは狩りの場合にのみ有効で、家庭では女性脳に従ってきたのだとすると、現代においても人間の在り方は、これが自然だということになりそうな気もします。

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Dear European Parliament 日本人母が子どもを連れ去る理由について説明します。 [家事]


2020年6月16日、「欧州連合(EU)欧州議会の請願委員会が、日本人とEU加盟国の国籍者との国際結婚が破綻した場合などに、日本人の親が日本国内で子を一方的に連れ去ることを禁じるよう、日本政府に求める決議案を全会一致で採択した。」という報道に接しました。
とてもありがたいことです。
但し、このニュースは、メディアに取り上げられることが少ないため、日本人の多くは知りません。この決議は、子どもの人権問題に関する意見ですから、内政干渉にはならないと私は考えています。もっと大きく、強く、意見を述べていただきたいと考えています。
私は、日本の弁護士です。子の連れ去り問題の事件を多く担当しています。この職務上の経験に基づき、日本人母が子どもを連れ去る理由について説明します。

1 理由1
 現代日本社会には、「子どもは母親が育てるべきだ。」という広く共有される信念があります。ジェンダーバイアスがかかった信念です。この信念がジェンダーバイアスであるということに気が付かれていません。むしろ、「子どもは母親が育てるべきだ。」という信念は、女性の権利、あるいは、女性の利益として理解されているのです。そこでいう「子ども」は、2歳くらいまでの乳幼児を意味するのではなく、10代の子どもたちをも意味することが多いです。
2 理由2
 「子どもは母親が育てるべきだ。」という信念が生まれた原因について説明します。
原因の一つは、過去の日本の風習の反作用だということです。現在の日本国憲法が成立する前は、子どもは父系を中心とした家族である「家ie」の所有だという信念が日本にありました。このため、夫婦が破綻した場合は、妻が「ie」から追放されました。子どもは「ie」に残されました。追放された後で、母親が子どもに会うことは許されませんでした。当時の子どもにとって、親の離婚は母親との永遠の別れを意味していました。
 日本国憲法の成立によって「ie」という制度は無くなりました。男女は平等だと宣言されました。それからしばらくして、日本は高度成長期を迎えました。女性が賃労働をすることも一般的になりました。離婚の後で、女性が働きながら子育てをすることが可能になりました。子どもを連れて離婚する母親が増えていきました。
 ところが、依然として子どもが誰かの所有物であるという観念と、親の離婚は一人の親との永遠の別れだという二つの観念だけは、残存してしまったのです。子どもは「ie」の所有物から母親の所有物へとかわり、離婚によって母親との未来永劫の別れから、父親との永遠の別れに移行しました。
 過去の日本の残遺物である、子どもは所有されるもの、離婚は親の一人との永遠の別れということについて、次に説明します。
3 理由3
 「子どもが親の所有物である」という信念は、日本ではいまだに続いています。これが続いている理由は、そのことに日本人が気付いていないからです。「子どもが一人の人格者である」という意味を知らないからです。
 母親は、自分の子どもを自分の体の一部だと感じているようです。そしてこれは、日本社会では肯定的に評価されることが少なくありません。だから、自分の利益と子どもの利益が相反するということを思いつくことができないのです。
 日本では、現在、夫婦と子どもだけが同じ家に住み、主として夫婦だけが子育てをします。子育てについて、親の両親や祖父母からの日常的なアドバイスを受けることは多くありません。そのため、祖父母に変わって、マガジンやインターネットの情報が氾濫しています。但し、それらの情報は、妊娠から出産、そして乳児の子育ての情報がほとんどです。それらの情報の中に、幼児以降の子どもの心理的発達についての情報は多くありません。幼児以降の子どもがいる両親は、情報を持たず、不安を抱きながら子育てをしています。育児についての教育を受ける機会もありません。このため、子どもが一人の独立した人格を持つ権利主体であるということを意識する機会がありません。
 このため、離婚をする場合、子どもの意見は相手にされません。親が勝手に決めることに疑問を持つ人はいません。子どもがこれまで住み続けていた地域に住み続けること、子どもが同じ学校に通うこと、子どもが友達を失わないことなどは、離婚をする場合、全く考慮されないことが多くあります。
 日本では、親の子に対する暴力によって子どもの命が奪われた場合、親に対して大きな非難が巻き起こります。しかし、子どもの心を傷つける行為があったとしても、親に対する非難はなされません。子どもの心が傷つくということは、あまり意識されていません。子どもの心が傷ついてしまうと、健全な成長を阻害するということは理解されていません。
4 理由4
 「離婚は親の一人との永遠の別れ」という考えも、現代に至ってもなお、日本社会では疑問に思われていません。子どもの人格が顧みられないということが大いに影響しているでしょう。離婚をした親どうしは、離婚後も相手を許さず、相手に対して、強い憎しみを持ったり、強い件を冠を持ったり、しばしば強い恐怖感を持ち続けます。この否定的な感情をいやすために子どもを利用しています。このため、子どもが離婚した相手を好ましく思っている姿を見せると、自分と子どもの関係が子どもによって薄められたような危機感を持つようです。離婚した相手に対しての報復というよりも、防衛的感覚が強いようです。自分という存在の安定のために、子どもが自分と精神的に強く結びついていることを要求しています。母親は、子どもがもう一人の親と心を通わせることが、この要求に反すると感じるのでしょう。子どもが別居している父親と交流することに対して悲鳴をあげて反対することが多くあります。
 日本では、離婚をした後も、父と母との間で、心理的な意味での子どもの奪い合いが続いています。日本社会も母親の感情について、非難することはありません。

さて、一般的な日本人の感覚について説明しましたが、これからは、日本人の感覚を固定化する社会的要因について説明していきます。

5 理由5
 先ず、日本の独特な離婚制度について説明します。日本は、妻と夫の合意があれば、自由に離婚をすることができます。離婚後の子どもの養育方法についての計画を作成する義務はありません。子どもが親のどちらかの所有物であるという発想のもので、一人の親権者を決めるだけです。先進国の中では、日本だけがこのような制度をとっています。この制度を維持するためには、子どもの人格が独立していることや子どもは心理的成長をしていくものだという知識がないことが役立っています。
 合意によって離婚ができない場合は、裁判所の関与で離婚をすることができます。一方が離婚したければ、他方が反対していても、離婚をすることが認められています。裁判で離婚をした場合も、養育に関する計画は作成されません。一人の親だけが親権者として定められることは同じです。
 日本は離婚天国だと言えるかもしれません。どこの国においても離婚の障害になるべき子どもの存在が、日本では全く障害にならないからです。
6 理由6
 さて、裁判離婚にあたっては、裁判所が親権者を定めます。この過程において、日本の裁判所の独特な慣行があります。これが日本人母が連れ去りをする理由に直結しています。
 日本の裁判所の慣行で、「子どもを現在居住しているところから動かさない」という慣行があります。ここでいう現在とは、裁判所の手続きが始まった時点のことを言います。もちろん連れ去り事件の多くは、子どもが元々住んでいた家から一方の親が子どもを連れて移住します。子どもと親が移住した後に、裁判手続きが始まります。連れ去った親が母親である場合は、「子どもは母親が育てるもの」という信念から、母親の連れ去りは不問に付されます。父親の連れ去りには、警察も裁判所も厳しく対応します。誘拐罪で父親が逮捕されることもあります。「子どもは母親が育てるもの」というジェンダーバイアスは、このように母親の利益や権利に変わるのです。
 母親は、子どもの親権を獲得し、父親を排除するために、家族が暮らしていた家から子どもを連れて出ていくのです。裁判手続き開始時に子どもと一緒に暮らしていないと、子どもの親権を裁判所から否定される危険があるからです。そうなると子どもと永遠に会えなくなる可能性が生じてしまいます。親権が認められ、子どもと同居できる親はどちらか一人と定められています。このことを弁護士も、女性を保護する公的機関やNPO法人なども知っています。このため、
このような人たちは、「離婚を考えているならば、子どもを手放してはいけない。子どもと会えなくなりたくないなら、子どもを連れて別居しなさい。」とアドバイスしています。
7 理由7
 おそらく、ここまで読み進めていただいた方は、疑問を持つでしょう。子どもと生活できる親が一人ならば、不公正に子どもを連れ去った親は、処罰されるか、親権者の選択で不利になるはずだ。そう思われていることでしょう。その疑問はもっともです。子どもは独立した人格を持っている一人の人間です。突然の連れ去りによって、自分のもう一人の親との生活が奪われ、子どもの学校生活が奪われ、子どもの友人関係も強制終了され、自分のお気に入りのグッズが詰め込まれた部屋も奪われ、近所の猫との癒しの時間も奪われる、つまり子どもの生活が奪われるからです。そして、子どもが自分の生活を奪われる理由が、子ども自身には何もないからです。どう考えたって、裁判所が、子どもに害悪を与える親を、子どもと生活する唯一の親と認めるわけがないと思うことは当然です。
 しかし、実際の事例で、母親の浮気が知られてしまったので逃げるという場合や、母親が家族の生活費を無駄遣いしてしまったことが発覚して逃げる場合や、その他母親の身勝手な事情で連れ去りが行われても、母親が子どもと生活している以上、日本の裁判所は母親に親権を渡しているのです。
 その理由は、「子どもは母親が育てるもの」という信念と「裁判手続きが始まった段階で同居している親に親権者を渡す」というドグマが組み合わさり、強固な原則が構築されているからです。そしてそれを支えているものが、子どもの心理的影響を考慮しないという思想があるからです。
 日本の裁判所は、子どもが連れ去られることによる子どもの心理的ダメージを考慮しません。子どもの状態をイメージできないのでしょう。
 日本の裁判所は、今子どもが錯乱状態などになっていなければそれでよしとしているようです。将来的に子どもの心理的成長に悪影響が出るということを考えようとしません。ここはもう少し説明を加えましょう。
8 理由8
 先ほど私は言いすぎました。日本の裁判所の中でも、子どもの健全な成長という子どもの未来を見据えて親権者について考えるべきだという主張があります。どちらかということこれが公的見解だと言っても良いでしょう。子どもの健全な成長、心理的発展のために有害な事情はどんな事情かという研究もなされています。しかし、残念なことにこれについて理解をしている裁判官は多数とは言えませんし、家庭裁判所の調査官という裁判官を専門知識で補助する人たちの多くも子どもの健全な成長を重視していません。現在に大きな問題がなければそれでよしという態度をしています。
 通常多くの国では、子どもの心理的発達の研究が進み、行動科学や発達心理学などの成果や統計的結果に基づいて、子どもの処遇を決めています。日本にもそのような研究はあるし、家庭裁判所の調査官研究も発表されています。しかし、このような科学的知見に基づいて判断するという慣行が、実際に判断をする裁判官の中にはありません。世界的に調査研究もそれを紹介する調査研究も、まったく家庭裁判所は考慮しないのです。
 おそらく、日本の裁判所のリーダー的な立場にいる人たちはこのことに気が付いているのでしょう。文献を作って警鐘を鳴らしています。しかし、現実の裁判官は、まったくこの文献に心を動かされていません。
 特に、家庭裁判所には、裁判官の経験の少ない者が配置されます。若くて子育ての経験も少ない裁判官です。子どもの心理といってもあまり臨場感をもってイメージできない場合も多いのでしょう。どこで習ったのか不明ですが、「子どもは母親が育てるもの」と「裁判手続きが始まったときに子どもと住んでいるものが親権者」という原則だけはしっかり知っています。わかりやすいのでしょう。
 こうして離婚を意識した母親による子どもの連れ去り別居は、母親にとっての大原則になりました。
9 理由9
 それでもなお、皆さんは疑問を抱くでしょう。「日本では離婚をすると一方が親権者になり、他方は親権者ではなくなるということは理解した。しかし、日本でも、「面会交流制度」が法律で規定されていて、親権者は親権の無い親に子どもを合わせることになっているのだろう。そうだとすれば、母親は、子どもが父親と交流して父親にもなつくことは止められない。そうだとすれば、それほど親権にこだわっても同じことではないか。永遠の別れは、現行制度ではありえないのではないか。」そういう疑問を持つでしょう。
 しかし、面会交流という制度があっても、子どもと同居している母親が承諾しなければ実現しないで済むのです。別居している父親が面会交流を求めて調停を申し立てても、裁判所はあまり味方になってくれません。但し、この点は、置き去りにされた親たちの粘り強い闘いと多くの犠牲によって、若干の改善はみられています。しかし、多数にはなっていません。
 あわせたくない母親は、それに助力する弁護士の力を借りて、子どもが自分のもう一人の親と接触することを徹底的に拒否しています。理由のない拒否に対して裁判所は何ら制裁を科しません。結果として、子どもに何の責任もないのに、子どもはもう一人の親と会うことができません。
 私の経験では、裁判官と調停委員が同居親を熱心に説得すれば、面会が実現することが多くあります。裁判所によっては、1年以上も裁判官が同居母親を説得しないということを経験しています。
 なぜ、このようなことが起きてしまうか。面会交流が、人格を持った子どもの権利だという視点がないからです。面会交流が子どもにとって不可欠であるという科学的知見を、何とか否定する事情を探し出すのが裁判所の役割だという誤謬が起きているとしか考えられません。
 あまりにも同居親の抵抗が激しいときは、裁判所は子どもに何も責任がないにもかかわらず、手紙や写真のやり取りでそれ以上は我慢しなさいという決定を出します。しかし、裁判所の関係者は、このような手紙は子どもに渡されないこと、子どもからの返事が来ないことはよく知っています。それでも事件を終わりにするために、子どもの犠牲のもと、手紙や写真を送りあうということを定めてお茶を濁そうとしていると私は感じます。
10 理由10
 裁判所が、子どもをもう一人の自分の親から引き離す役割を担っていることは分かった。しかし、社会が、そのようなむごい行為を許すのかという疑問が残ると思います。
 しかし、裁判所以外の公的機関も、連れ去りに力を貸しています。
 その筆頭は警察です。警察は、妻から夫の暴力について相談を受けています。夫から妻の暴力の相談を持ち掛けてもなかなか相談には乗ってもらえません。そうして、夫からの暴力の相談を受けた場合、妻と子どもを夫から隠す行為を手伝います。突然家からいなくなった妻子に驚いて警察に相談に行っても、警察官は、最初は知らぬふりをして、最終的には安全な所にいるから心配するな、捜索願は受理しないと夫に告げます。夫は、どうして警察は行方不明になった妻子の安否を知っているのだろうと疑問に思います。知っているはずで、行方不明は警察が関与しているからです。
 そうして、警察から相談記録が上がってきた市役所は、妻子が移転した後の住民票を夫に見せない手続きを取ります。夫は、妻子がどこに行ったか分からなくなりますが、それは警察や市役所の行為によってそうなるのです。
 夫は、妻子がいなくなったので、妻の親の家にいるのではないかと探しにゆきます。そうすると、親の家にたどり着く前に、10人を超える警察官に取り囲まれて、警察署に連行されます。夫は警察官から、「二度と暴力はしません。」という誓約書を書くことを要求されます。これを書かないうちはここから出さないといわれた人もいます。
 子どもを取り戻すことを阻止するために、警察官はストーカー規制法を持ち出してきます。これ以上子どもを探した場合はストーカー警告を出すぞ、この警告に違反した場合は処罰すると脅かされます。
 日本人は善良な市民が多いので、警察官は自分を守る存在だと考えています。その警察官から犯人扱いされてしまうことで精神的な打撃を受ける人がほとんどです。こうやって連れ去りは、日本社会がバックアップしているということが言えると思います。
 ここでやはり疑問をお持ちになるでしょう。警察が介入する事案は、夫の暴力がある場合だけだろう、確か法律にもそのように書いてあるはずだという疑問です。しかし、多くの警察官が、夫婦間に警察官が介入できるケースは、夫の暴力があるケースに限定されているということを知らないようです。警察を管轄する都道府県担当者は全く分かっていません。
 これには構造的な仕組みがあります。
 第1の仕組みは、妻から夫の暴力についての相談を受けた警察官は、妻の発言を疑わないという原則があります。妻がパニック障害でも、統合失調症でも、妻の発言を疑いません。そのため、事実確認を夫に行うということもめったにありません。また事実確認という口実で、妻の行方を捜すなと脅かした事例もあります。
 なぜ、裏付けが不要なのでしょうか。それは、その仕組みによって夫を処罰するのではないからということが一応言えると思います。しかし、この仕組みによって、夫は我が子に会えなくなってしまうのです。
第2の仕組みは、夫の暴力があろうとなかろうと、妻が夫の暴力があると相談した場合は妻の支援を開始するという法律構造です。だから、実際に暴力があったか否かを確認する必要もないという主張をするようです。日本の行政は、夫の暴力を相談した女性を「被害者」といい、被害者の夫を「加害者」と言います。これが日本の役所の正式な表現です。但し、「加害者」とは、被害者に被害を与えた人ではない。という注釈が付いています。それならば公的に加害者と呼ぶのはおかしいと思います。日本の国家が間違った日本語を使っていても改めようとしません。しかし、こういう間違った日本語の元で被害者保護は開始されてしまいます。

 以上私は、日本人母が子どもの連れ去りをする理由を説明してきました。貴委員会の決議は、日本の連れ去られた子どもたちにとって、大きな利益になる可能性があります。これからも日本に意見を突き付けていただきたいと考えています。それは日本国民の利益につながると思います。
 その際、「子どもは母親が育てるもの」、「裁判手続きが始まった時点で子どものいる場所を移さない」、「子どもをひとりの人格をもった権利主体だということを理解しない」、「子どもの将来を見据えた判断をしない」という司法慣行についても理解いただき、そもそも夫婦の離婚が子どもと親との永遠の別れにつながる単独親権制度にも言及していただきたいと思います。さらには、「子どもは母親が育てるもの」ということと、「夫婦間暴力の被害者は女性である」というジェンダーバイアスのかかった見方にもとづく、ジェンダーバランスを著しく欠いた配偶者暴力支援制度についても圧力をかけていただきたいと思います。これらの問題点が改善されない限り、日本人母による連れ去りは無くならないと思うからです。
 子ども生活環境を激変させる連れ去り行為は、国境を越えようと国境を超えないとにかかわらず禁止するという思想と子どもをひとりの人格を持った権利主体であるという理解が定着しない限り、子どもの連れ去りは続く危険があると思います。

ここまで読んでいただいたすべての皆さんに感謝申し上げます。

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暴力がなぜだめなのか考え、暴力がない場合でも離婚が生まれる原因を割り出し、逆に家庭が幸せになる方法を考える。子どもの連れ去りを防ぐためにできること。 [進化心理学、生理学、対人関係学]



1 暴力を受けた場合の効果。
 ①体が痛くなる。
 ②さらに暴力が加えられるのではないかという恐れを抱くことからこのまま暴力が終わらないで続くのではないかということで最悪の場合は死の恐怖を感じることがある。
 ③暴力が収まった後も、また暴力を受けるのではないかという恐れが出る。
 ④自分の主張、行動が、暴力によって阻止された不自由さから怖さを感じる。自分の安全をコントロールできない苦しさを感じる。
 ⑤自分自身の存在が力づくで否定されたということからの屈辱感を受ける。
  弁護士ですから傷害事件の弁護をすることもあれば、被害者の代理人になることもあります。一言で暴力被害と言いますけれど、様々な損害が生じていることを実感することが多くあります。
  暴力の加害者と被害者の関係も、行きずりの関係の場合もあるし、夫婦や親子という継続的な関係の場合もあり、その関係性によっても影響は変わってきます。例えば、路上で性犯罪の被害を受けた女性は、抵抗して性的には事なきを得たとしても強烈な恐怖感情が持続する場合が多くあります。その際、「犯人が自分を知っていて、自分がつけ狙われて襲われたのだろう」と感じると、また襲われるのではないかという恐怖が上乗せされていきます。「どこの誰だかは分からないけれど、路上で見つけて追ってきたのです。」というと、幾分安心されるということがありました。
  暴力の被害というと、暴力を受けたことの無い人は①だけを念頭に置くようです。いつ終わるか分からない暴力を受け続けると、②の恐怖が生まれていくことが通常です。暴力を今受けている人が物事を悪い方向で考えていくのは理由のあることです。暴力を受けていると、自分の身を守らなければならないという危険に対する反応が発動されます。わずかな時間差ですが、この反応は、危険を意識、実感するよりも先に発動されているそうです。意識をする前から、脳の信号が副腎に到達し、副腎皮質ホルモンを分泌させ、様々な反応を起こします。そのほかに、脳の働き方も変えてしまいます。すべてが基本的には走って危険から逃げることを効果的にするための変化と考えるとわかりやすいと思います。早く確実に逃げ切るための変化です。脳の思考の変化の代表例は、危険がいつまでも追ってくるような意識が生まれます。確実に逃げ切るため、危険の有無があやふやな段階で逃げることを止めないために、まだ危険が終わらないのではないかと思うことは有効です。これを言葉でいうと、悲観的思考傾向になるということです。そのため、一度危険反応が起きてしまうと、さらなる危険が生まれるのではないかという恐怖が大きくなります。それがさらに危険反応を増強してゆき、パニック発作が起きたり、失神してしまったりすることにつながるわけです。これは暴力行為者の意図とは関係ありません。暴力行為者が、単発の暴力を意図していても、暴力を受ける側はそうは思わないのです。暴力を受けるものは、時として。現実の被害に見合わない過剰反応を起こすことになります。これは確実に逃げる仕組みからは当然のことだということになると思います。
  ③も基本的には暴力という危険に対する反応です。記憶というものは、危険の存在や仕組みを覚えていて、その後に危険に力よらないというためのものだと考えるとわかりやすいと思います。一度感じた危険は,それが解消されない限り、危険の記憶として残ります。どうして暴力を受けたのかということがはっきりしていれば、その誘因行為をしないということで対処ができて、ある程度安心することができます。
しかし、暴力がどうして起きたのか分からない場合は、対処の方法が分からないために、やみくもに自分を守ろうとしてしまいます。このため一見不合理な危険反応が生じる場合があります。ある例ですが、職場で仕事をしていて、右隣の席に座っている人から突然思い切り殴られた人がいます。殴った方は精神的に問題があった人だったようです。周囲はその人を取り押さえることに夢中で、殴られた人の介抱をする人がいなかったようです。殴られたこと、理由がないこと、介抱されなかったことの3要素があったことが重要だと思います。この殴られた人は、自分の右側から災いが来るという恐怖を常に感じるようになり、また口に出して言うようになったため、統合失調症の診断を受け、強い薬の副作用の結果廃人然となり、身体障碍者手帳をもらうようになりました。実は統合失調症のように理由のない不安ではなく、理由のある不安だということを分かった別の医者が強い薬をやめたところ、廃人然とした症状は消失してしまいました。暴力を受けた者にとって理由のわからない暴力は人間の精神に深刻な影響を与えるようです。正直、他人なんて本当は信用できないわけです。ところが、理由なく暴力を受けることはないという暗黙のルールを信じて、見ず知らずの人と近くにいても人間は不安にならないようです。この暗黙のルールがはっきりと反故にされてしまうのですから、それは、人間の中にいること自体に不安が生まれることは当然なのだろうと思います。小学や中学でいじめにあった子どもが、不合理な反応をして統合失調症などの病名をつけられ、精神科病棟に多数入院しているという現実があります。
  ④は、根源的には「逃げることができない」という意識です。現実の暴力があるのだけど、暴力によって行動の自由を奪われる。②の恐怖とはまた別に、行動の自由を奪われること自体による苦しさがあるようです。人間は、他の動物と同様、自分のことは自分で決めたいという本能もあるようです。自分の行動の自由を奪われるということは、それ自体で強烈な苦しさや不安を感じてしまうようです。
  ⑤は、案外見落とされることが多くあります。暴力自体が卑劣で許しがたい場合等、人間は暴力を受けた者の被害の中身を十分に検討することができなくなるようです。実は暴力の影響で一番問題があるのはここだと私は思っています。要するに痛いから傷つくのではなく、暴力行為者が暴力を受けた者に対して、「暴力を受けても良い人間だ」という評価をしたこと、人間として認められていないという意思表示だと受け止めて屈辱を感じているという点です。
暴力は通常暴力を受けた者の行動との関係で起きています。暴力を受けた者が暴力行為者に対して行った言動を否定するため、例えば暴力を受けた者が暴力行為者に対して「そんなことだから出世しないで、給料も低いんだ。」とか、「こんなこともできないなんて役立たず」等の言葉を発したときに、逆上して暴力に及ぶということが典型的でしょう。それから、暴力を受けた者が大事なお金を遊びにつかってしまったり、子どもの不利益になることをしても平気でいたりという行動面に対する暴力行為者の制裁などということも多くあると思います。その原因になった暴力を受けた者の言動が、道徳的に非難されようとあるいは違法であろうと、暴力を受けてその言動を阻止されるということは、暴力を受けた者にとって自分自身の行動を阻止された、行動の自由を奪われたという感覚だけが残ってしまいます。これ自体が恐怖と屈辱の混じったネガティブな感情を起こさせます。
暴力行為者が自分にとって近しい人間であればあるほど、この人間として認められていないという屈辱感、疎外感を感じます。また、暴力を受けている現場に他の人間がいる場合、自分に対する否定評価が自分の関係者に知れ渡りますから、それもまた屈辱なわけです。そしてそのギャラリーが自分を助けてくれないということも、大きな弊害を生みます。
  数年前に、大阪の高校生のバスケット部のキャプテンが顧問から暴力を受けて自死をしたという事件がありました。このケースも、暴力によって痛いということよりも、自分が暴力を受けても仕方がないような仲間として認められていないということと、それを周囲に知られてしまったということからくる心の痛みのほうが大きかったのではないかと思うのです。そのこととの関連で将来に対するなんらかの絶望を感じたのではないでしょうか。
2 例えば夫婦間暴力の場合(主として夫から妻への暴力)
 1)暴力の程度が軽い場合
   暴力の程度によりますが、痛いという感覚は当然あるでしょう。ただ、それほど痛くなくこつんと叩くということがあるかもしれません。その場合、②の暴力がやまないのではないかと思う恐怖や、③の暴力の再発に対する恐れは起きにくいかもしれません。抵抗力を奪われない程度であれば④の不自由感もないかもしれません。
   しかし、⑤の屈辱は感じる場合が多いようです。男性と女性の間には体力差、筋肉量の差、あるいは軽い暴力に対する経験の差があり、男性からすればとるに足らない暴力であっても、暴力を受けた方からすれば自分が尊重されていないという気持ちが強くこみあげてくるということはあるようです。体は痛くないけれどとても不愉快だということです。
   また、この差は、暴力の軽重の評価にも関わってきます。男性からすると軽い暴力であっても、女性からすると怖いと感じることがあり、評価のギャップは生まれやすいようです。特に暴力をする方は、どの程度の力を入れてどこをたたくかなどという暴力の質量を事前に知っているわけですから、自分の行為の結果を軽く考える傾向にあります。しかし暴力を受ける方は相手の頭の中なんてわかりませんから、より重い暴力が振るわれると身構えることは仕方がありません。これも危険に対する反応なのでより悪く予想して、逃げることを確実にするための動物の反応だということになります。暴力を受けた者と暴力行為者との間で暴力の軽重については評価が分かれることは自然なのです。
 2)暴力の程度が重い場合
   暴力の程度が重い場合、あるいは暴力を受けた方が重い暴力だと認識した場合は、暴力を受けた者の側からすれば同じですから一緒に論じます。いずれの場合でも反応のもとになる危険が大きくなるわけですから、反応もまた大きくなり、過剰反応も起きやすくなります。
   先ず、①の体の痛みが重くなります。そうすると、暴力行為者の方はワンアクションの暴力だと、つまり一回殴っただけ、一回蹴っただけと思っても、暴力を受けた方はこれが続くのではないかと思ってしまうこと、あるいは一度止んでもまた同じような強い暴力が起こるのではないかという②と③の効果が起きやすくなります。
   ある女性は、夫から暴力を受けたのは2回でした。いずれも頭部を殴られたもので、眼球の周囲が腫れあがる傷害を負いました。一時的に視力の低下も起きたようです。当の女性すら意識しなかったのですが、体が夫の再度の暴力を怖がり、徐々に夫を刺激しないように、夫に逆らわないようにと行動を制御するようになり、緊張状態が持続していったのです。またいつ暴力を受けるか分からないという身構える状態が無意識のまま続いていたようです。
   この二度の殴打も女性の発言がきっかけだったようですが、おそらく夫は発言を誤解して殴打に及んだようです。女性からすると、夫を攻撃するような発言をしていないという意識なので、なぜその時夫が自分に敵意を抱いて暴力に及んだのか全く理解できませんでした。突然目の付近を殴られたという記憶しかありません。このため、女性は夫の前で発言することそのものが怖くなっていきました。自分で自分の行動を決められない。夫の顔色を窺う癖がついて行きました。こうなると、夫が近くにいること自体が苦しくなります。だんだんと言葉を発しなくても、突然殴られるのではないかという気持ちになっていきました。しかし、女性はなぜ自分が苦しいかわかりませんでした。うつ病と診断されて、長期の療養が必要となりました。数年後離婚訴訟となりましたが、女性本人が自覚していないので、暴力と療養の関係が主張されませんでした。後に私が代理人となり、話を聴き取る中で暴力とうつ病の関係に気付き、詳細な陳述書を作成することができました。女性は暴力の効果④の行動の自由を暴力後も奪われたという意識が続けていたわけです。
   また、自分が妻として尊重されていないという⑤の意識も同時に起こり、継続したようです。体の痛みは消えても、暴力の再発の恐れと尊重されないという心の痛みは継続したようです。夫と自分が仲間だという意識も消失していきました。やがては、夫と自分は同じ仲間の関係にないのだから、自分の行動の自由を奪う敵対関係にあるという意識が育っていったようです。これでは、近くにいることに安心できないことはもちろん、夫が一緒にいると何か悪いことが起こされるのではないかという、不安を招く存在であり続けることになります。それでもそのメカニズムは分からず、ただ自分は苦しいんだということだけが自覚されていたようです。やがて女性はノイローゼとなり、医師からはうつ病であり、そのストレスの原因は夫であるから夫から離れて暮らすことを勧められるようになりました。
   夫に言いようのない嫌悪と不安を感じる原因が過去の暴力にあるという事情は、なかなか自覚することが実際は難しいようです。それでも、自分が尊重されていないということは感じます。不安や不快を感じていることは分かっています。その原因になるものは何なのかがズバッと言い当てることができない。それでも離婚したいほど嫌悪を感じています。その際、このような女性に就いた代理人は、そのことが理解されないために、しばしば取るに足らないことを離婚理由として掲げます。離婚したい原因として女性があげる原因としての事実は、暴力からだいぶ経過した後の嫌悪感が完成した時期の出来事しか思い浮かばないからです。また、事実を誇張して主張することも多くあります。女性側の代理人が、女性が説明した出来事で離婚したいと考えることは納得できないし、それでは裁判で離婚が認められるとは思わないから無意識か意識的かはともかく、なるほどこれならば離婚したいですねと裁判官に思わせる程度に誇張した表現にするわけです。
これでは、言われた夫は、事実に思い当たることがないのですから、言いがかりをつけられ、自分という人間を実際とは異なり悪い人間だと言われていると感じるのですから、当然反論したくなります。嘘をつかれていると思っていますから感情も高ぶってしまいます。売り言葉に買い言葉みたいな論争に発展してしまうわけです。これでは離婚紛争が長期化し、双方の葛藤が無駄に高まるだけです。本来、女性の主張する離婚原因が納得できないならば、代理人としては意識下の苦しみを引き出すために丹念に質問をし、時間経過を意識しながら、十分に事情聴取をする必要があると思います。暴力及びその影響と真正面から向き合うためには、それなりの洞察力と時間をかけて聴取することが必要なのです。
   実際は過去の1度や2度の暴力による④および⑤の効果が女性を不快、不安、嫌悪の状態にさせていることがあるかもしれないのです。
3 暴力がないけれど暴力の効果が生じる場合(主として夫から妻への行為)
  先ず、暴力がないのだから①の体の痛みは除外します。②、③の暴力の永続  化不安と暴力の再発もしばらく置いておきます。
  しかしながら、暴力がなくても、妻が夫との関係で自分の行動の自由が奪われると感じる④の効果や、⑤の自分尊重されていないという効果が生まれることがあります。
  先ず、行動の自由が奪われると感じてしまう効果がある場合を考えましょう。
強い口調で威圧的に何かを命令する場合、逆に行為を禁じる場合がそれにあたることはわかりやすいと思います。また、強い口調ではないけれど、懲罰を示唆するような場合も行動の自由を奪われることになります。家に入れるお金を減額するとか、家から出さないとか、電話代を止めるとか、妻の夫以外の人間関係を遮断する効果を持つ行為が典型でしょう。その意味では子どもの前で恥をかかせたり、実家に報告するぞという脅かしはこの類型に入ると思います。
理詰めで命じたり禁止したりする場合もあります。「そんなことをすることは堕落している」とか、「不道徳だ」とか、「頭の悪い人間がすることだ」、「育ちの良くない人間の行動だ」とか、そういう言葉を受けてしまい、反論ができず、結果として行動の自由が奪われるという場合です。
  厄介なことに、人間の思考は、合理的にはできていません。例えば、夫が妻に禁じたことが極端な話をすれば、法律に反する行為を禁じる場合でもあるいは道徳的に間違っていることを禁じる場合でも、つまり夫の言い分が正当であっても、禁止という結論を押し付けられていると感じる場合は、押し付けられた方は行動の自由が奪われているという拘束されているという感覚を持つということです。どんな場合でも暴力はだめだという立場をとる場合は当然ですが、その原因となったことに妻に非があると多くの人が認める場合でも、身体的自由を奪われた拘束感は持ってしまいます。「自分が悪いのだからそれをやらないことは当たり前だ、言われていないことは自由にやれるから大丈夫だ」というように、都合よく、合理的な反応になることはありません。フィクションの世界でしょう。
  ポイントは、意に反する結果の押し付けということが暴力と共通する要素だということです。
  いずれの場合も、自分の行動の自由を奪われたという拘束感が生まれ、これが持続していくと不快感、不安感、嫌悪感、極端には恐怖感まで生まれてくるようです。
  次に仲間として尊重されないこと。前の行動の自由が制限されたこととよく似ています。仲間として尊重されないということの典型は、失敗、不十分点、苦手な点、欠点などを責められたり、嘲笑されたり、批判されたりすることです。これらのネガティブポイントは、多くの場合、日常的な行動、ルーティーンの中で起きているために、修正することがかなり難しいことです。あるいは、もって生まれた能力の問題があり、修正ができません。これらの批判等は、行為に対しての批判ではなく、言われた方は自分の人格に対して否定しているという気持ちになっていくのはこういうことです。もちろん、過去の出来事、親の悪口、人種や出生等、本人の力ではどうしようもないことでネガティブな評価をすることは人格そのものに対する否定になります。
  仲間として扱われていないという意識は、やがて安心できない人間がそばにいるという意識に固められていきます。そして、行動の自由が制限されているという意識とあいまって、夫に対して、継続的な危険反応が起き始めます。ちょうど重い暴力が振るわれた結果と同じような、悲観的な傾向が大きくなってゆき、どうせ自分の行動は否定されるとか自分は馬鹿にされていて、追い出されそうになっているという危機感が生まれ、持続し、膨らんでいくようです。
4 妻の夫に対する慢性的な敵対意識のまとめ
  離婚原因として主張される妻の夫に対する慢性的な敵対意識、嫌悪感、恐怖感は、結局、夫によって自分の行動が制限されているという意識と自分が仲間として認められていないという意識から、夫が近くにいることで安心できないという危険反応が生まれてくるところからきているようです。
  重要なことは、
1)妻は夫が危険なところがあると認識する。
2)危険に対する過剰反応が起きる
3)過剰反応の結果、夫は自分の行動を制限する存在だと感じる
4)過剰反応の結果、夫は自分をますます否定し続けるだろうと感じる。
5)夫の存在自体で、自分の行動や人格が否定されていると感じる。
6)夫の存在自体が安心できず、さらなる危険を意識させる。
ということです。暴力があれば、この連鎖反応は速やかに確立していくということになりますが、暴力がなくても慢性的に持続的に反応が進んでいくということになります。
  暴力がない場合でも、教科書的に言えば、妻は暴力があったときと同じように夫に対する膨れ上がった嫌悪感、恐怖感を持っています。
話を聴き取る能力はないけれど、困っている人を助けたいという意欲だけは大盛な、知識のない人たちは、これは暴力があったに違いない。暴力がなくても精神的虐待があったに違いないという先入観を持つことになります。その先入観にもとづいて根掘り葉掘り聞きだすなかで、それらしい言葉が出てくれば、「それは暴力です」と飛びついてしまうわけです。そうでない人は、なんだかわからないけれど嫌がっているから夫が何かしてきたに違いないということで、マニュアルに従った主張を始めてしまうわけです。
  実際の事例では、夫がペットの犬用のハサミをもって犬の毛を刈ろうとしたけれど道具が一つ足りずに、妻に比較的大声でどこにあるかを聞いたという出来事があったということが真実ですが、裁判の書類では、夫がハサミをもって自分を負いまわしたということに変わっていました。夫に弁護士が入らなかった事例で裁判官はこれが生命身体に重要な恐れがある暴力だとして保護命令を出しました。夫は、家の近所を散歩することさえ罰則付きで制限されてしまい、重いうつ病にかかりました。
  このような事実にもとづかない主張がだされれば、言われた方はまさかあの時のことで保護命令が出るとは思いませんし、妻が本当に離婚したいのだと感じることもできません。時間が経過して妻が復縁するつもりがないということを感じ始めても、納得することができませんので、感情が落ち着くことはありません。夫と妻双方にとって良い解決とは程遠い裁判になるわけです。
5 追い込まれる妻側の事情(危険に対する過剰反応が理由なく生まれる)
  今見た、1)から6)の連鎖反応が、夫の暴力がない場合でも起きるということは良いと思いますが、実は夫の行為がなくても起きることがあります。厳密にいえば夫の行為がないということは共同生活する場合はあり得ません。行き違いなどがあり、何らかの不快な行動があることがむしろ通常です。しかし、繁殖期などは、愛情によって根拠のない信頼関係にありますから、それらの行為が気にならないというだけなのかもしれません。いずれにしても、第三者から見ても夫になんの責められることがないとしても、過剰反応が起きることがあります。
  これは、えん罪DVともいえる事例の多くで見られますし、これから述べる理由のいくつかが重なって起きることが少なくありません。
  ①精神に影響を与える疾患
    これはうつ病や不安障害などの精神疾患が代表的なものです。認知の歪みが生じていて、理由もなく過剰反応状態になっており、悲観的、自悪的に物事を考えていきます。
    甲状腺ホルモンの分泌異常がある場合にも、このような過剰反応状態がみられる場合があります。なかなか研究者たちは、実生活上の不具合について調査研究をしないようです。
    婦人科系の疾患PMや更年期障害も過剰反応を起こす場合が見られます。
    また、肝炎の治療薬のインターフェロンやステロイドなども過剰反応を見せる場合があるそうです。
    認知がゆがむということはどういうことかということで、それをわかりやすく示す実例があります。偶然録音されていた会話がありました。その中で、妻は夫に対して、「どうせあなたは私が嘘をついたと言いたいのでしょう。」と発言していました。夫は妻が何を言っているのか理解できなかったために特に何も返事をしませんでした。しかし、裁判で提出された書類には、「あの時夫から自分が嘘つき呼ばわりされた。」と記載されていました。嘘をついているのではなく、「言われるかもしれない」という恐れが、過剰反応で「言われた」という記憶に置き換わっているのだと思います。
  ②子どもの障害
    母親は、子どもに発達上の障害がある場合、自分の責任だというように考えやすいようです。誰からも責められなくても自分で考えてしまうようです。ですから、それらしいことを言ってしまうとますます過剰反応を起こすようになるでしょう。
    障害の内容は、身体の障害でも精神的な障害でもどちらでも起きるようです。
  ③夫を好きすぎる現象
    夫に対して恋愛の感情が強すぎたり、依存傾向が強すぎたり、夫婦とか家族という人間関係をあまりに強く大事に考えすぎたりすると、悲観的傾向が表れることがあり、些細なことにも危険を感じるようになるようです。自分が望んだ二人の関係でないことに不満を持ち出しますので、夫は深刻です。
    記憶が改変されやすいのもこのタイプでしょう。自分が書いた日記の意味が分からなくなり、夫の反応や行動に満足しなかったという記載をもって虐待だと感じるようになるようです。
    そうして、夫との関係にいたずらに悲観的になってしまい、夫の行動のすべてが自分を否定する表現だととらえていくようになっていきます。自滅の感が強くあります。それでも、意欲のある支援者は、夫からの虐待があったと決めつけて調停や裁判で主張します。もちろん事実にもとづかない主張ですから、夫も感情的になりながらも、事実をもって反論していきます。弁護士がきちんと入ってこの活動をすれば、裁判所からも妻の主張を疑われてきます。これは当然のことです。やがて妻は全方面から信頼されていないということを感じ始めてしまいます。かなり追い込まれて危険な状態になります。
    初期の段階で、暴力があり虐待があり離婚原因があるという無理な筋立てをしなければこんなことにもならず、無理な筋立てをしたことによる最愛の夫からの反撃も受けなかったのですが、意欲のあり能力のない支援者によって追い込まれていったという側面もあるわけです。
  ④自分の失敗
    夫が言わなくても、自分が失敗を犯したことを自覚している場合も、過剰反応が起きることがあります。子どものころ何か失敗をして明るみだしたくなくて、些細なことにも過剰に反応したというご経験はないでしょうか。
    これもよくあるのは、お金の使い方を間違うことです。夫から渡されていた生活費を別の何かで使ってしまい、家賃や光熱費を滞納していて、電気を止められるなど発覚寸前であった場合、クレジットカードを使いこんでしまった場合、子ども学校の人間関係等の不具合が生じて、孤立した場合、自分が浮気をした場合等自分の失敗で過剰反応が起きて離婚を申し立てたり、子どもを連れて行方をくらましたりということは多いです。
    それでも、結果として妻は夫を嫌悪し、恐怖を抱いていることには変わりないのですから、支援者たちの多くは、夫の精神的虐待があったということを主張します。言われた方が感情的になることは当然です。
6 実際の連れ去り別居や離婚申立てが起きるときと「支援者」の役割
  おそらくこれまで述べた事情の出来事が複合的に作用して、妻側からの夫への慢性的な危険意識が生まれていることがほとんどだと思います。
  何らかの精神的状態の変化や育児や人付き合いなどでの困難な事情があることにより、不安を感じやすく、過剰反応を起こしやすくなっているときに、妻の些細な行動に対して夫が過剰に反応し、結果的に妻を理詰めて問い詰めたり、いささか強制的に行動を指図したり、という不自由感を与えたという事情はあったのだと思います。その際、妻は自分が仲間として尊重されていないという感覚を持ち始めたのかもしれません。夫からすれば些細なことだからつまり、それまではそういうことを言っても特に気にしていなかったのだから、今回もそれほどダメージはないだろうと考えてしまいます。しかし、妻は過剰な反応を見せるのです。夫はなぜ妻がいきり立っているのかが分からない。喧嘩をしたくないから徐々に距離を取ろうとしてしまいます。妻はますます孤立したと感じてしまい、反応も過剰になり、これ以上やっていくのは無理だという感覚を持ってしまいます。
  おそらくこういうことは、人間が一夫一婦制の婚姻形態をとり始めたころからあったのだと思います。しかし、それを修復する人たちがいたのだと思います。二人をよく知っていて、どちらにも遠慮なく意見することができる人が近くにいたわけです。そうすると、妻の認知の歪みがある場合は、妻に「それは思い違いではないかい」と意見をして、妻を励ましたのでしょう。そうして夫に対しても、夫が暴力をふるったらこっぴどく叱ったり、夫の暴力がない場合でも「あなたが悪くないとしてもあなたのたった一人の奥さんなのだから、かわいそうだという気持ちにならなくては駄目だよ」と説教の一つもしたりしたのだと思います。
  多少の昔ながらの言い回しというのが受け継がれていたとは思いますが、二人をよく知っている人であるため、事実と違う言い分を取り上げて紛争を大きくする方向での介入はあまりなかったはずです。なぜならば、妻側にも肩入れするし、夫も良くしているし、何よりも夫婦げんかで傷つく子どもたちのおびえた顔もよく見ている人が相談に乗っているからです。
  ところが現代日本では、妻の過剰反応を、マニュアル通りに夫のDVだという「支援者」が大手を振って歩いています。目の前の妻の苦悩しか見えておらず、夫の表情や子どもたちの様子などは見えていません。妻には仲間意識を持てますが、夫や子どもたちに仲間意識を持てと言ってもなかなか難しいことは人間の心理からすればそうなるでしょう。だから支援者は、夫や子供たちの事情を考慮することなく、夫が原因で苦しんでいるのだということを躊躇なく、心のおもむくままに行うのでしょう。
  その結果、妻の過剰反応は、過剰ではなく正しい反応であり、本当はもっと警戒しなければならないくらいだということになってしまいます。妻の夫に対する不快感、嫌悪感、恐怖感は固定され、増幅されてしまいます。そもそも漠然と不安を感じているだけで、その不安を夫に相談さえしていた妻も、支援者によって自分の不安は夫が原因だと不安の原因をも固定化されているということが実態です。
  そうして、夫に居場所を知られないように子どもを連れて別居することが命を守るために必要だとして、連れ去りが決行されます。実際の事例で、警察官が妻に子どもの連れ去りを説得した報告書を読んだことがあります。夫の言動は精神的虐待、DVだということを言い、DVは治らないと言い、やがて命の危険が生じている、一刻も早く子どもを連れて家を出なさいということを2時間にわたって話したというのです。もちろん妻は、暴力を受けていませんから、いったん子どもの誕生日のお祝いを家族で行ってから逃げることを考えたいなどというわけです。それに対して、そんなことよりも命が大切だという「あおり」をしていくさまが、本人の手によって詳細に記載されていました。
  そうやって、妻は子どもを連れて行方をくらまします。こうなってしまうと、妻は夫が近くにいませんから、わずかに残った仲間意識は全く失われ、徐々に恐怖感と嫌悪感が増大していきます。泥仕合のような裁判が延々と続くわけです。もう、夫も、二人の間の子どもも、やり直すというチャンスは残されていません。
7 ではどうすればよいのか。
  今まで見てきた通り、暴力があった場合は、それが一度だけのことであろうと、妻が身体生命の危険を感じる場合があり、それによって不快、嫌悪、恐怖のスパイラルに陥る可能性があるわけです。
  さらに、暴力がない場合でも、妻側の事情があり、また「支援者」が蔓延している状況もありますので、自分が気が付かないうちに子どもの連れ去りの準備が進められている可能性があります。自分は何も攻撃していないから、妻が子どもを連れて行方をくらますということがありえないと考えている人が多いと思います。実際に連れ去られた人たちもそう思っていました。
  そうならないために、いくつか考えてみました。
 1)自分の行動を点検する。
   先ず暴力を振るわない。これは鉄則です。仕方のない暴力というのが夫婦の中であったとしても、記憶が変容します。一方的な暴力という記憶に変わることは理解できると思います。
   次に、行動を制限しない。案外、夫が妻に言う指図や禁止は、どうでもよいことを言っていることが多いものです。そうでなければ、言っても仕方がないことです。それを言うメリットがないことがほとんどだと自覚しましょう。結婚して共同生活をするということは、あなたの生活の大部分が妻という他人の事情で決まるという割り切りが必要です。結婚する場合の多くが繁殖期ですから、それでも良いと思って結婚するわけですが、繁殖期を過ぎるといまさらながら不合理に感じてくる人が結構います。家族を放っておいて、好き勝手なことをしているなあと感じる人は結構いらっしゃいます。
   相手の欠点、弱点、不十分点、失敗を責めない、笑わない、批判しない。
   これらのことが頭に入ってもうっかりするのは3つのパターンです。
   1は、自分を守るときです。妻の行為によって自分に災いが生じるとき、他人の自分評価が下がるような気がするときです。あるいは、妻から馬鹿にされたことに対する反撃として行われます。
   2は、直接自分には被害がないが、妻の行為が自分の価値観に反しているとき、合理性が無い時、要領が悪い時、特に正義感情に反しているとき。
   3は、妻の行動が子どもの利益に反する場合。
   おそらく、普通の人は、暴力はだめだとは思うけれど、この3つのパターンで強く妻に言うことは当然なのではないか、これができないならば自分の人格が崩壊する、妻に従属することになると疑問を飛び越えて私に怒りを覚える方もいらっしゃることだと思います。それはよくわかります。私もそうでした。
   しかし、現実の紛争をみていると、ここが勘所であるということは間違いないと思います。そうして紛争解決機関では必ずしも合理的な解決はなされません。ある調停では、子どもと会えなくなって面会交流調停を申し立てたところ、調停委員から「どうして子どもに会いたいの?」という質問が調停の冒頭に父親に対してなされました。とんでもない話です。妻側が嘘でもDVという言葉を出すと、裁判所はアウエイです。夫の行動に合わせて職員がインカムをつけて見張りに入ることもありました。暴力の無い事案です。それを命じた裁判官が判決を書くわけですよ。また、確立された判例に乗っ取らないで審判をされても、確立されたルールがわからない高等裁判所に即時抗告をしても覆ることはないどころか、書面審査で門前払いをされることもあります。夫は自分が悪いことをしたという記憶がなくても、裁判では負ける可能性があるということは肝に銘じておいてください。
   小言を言わない、ガミガミしない、大声をあげない。相手を追い詰めない等、ほんのちょっとのことです。妻の失敗についても、許せることについては積極的に許すという態度を示すことで、信頼関係もきずなも強くなることでしょう。許さなくても、問題は解決しないことがほとんどです。結局許すことになるなら、感謝されながら許した方が得だと思います。
 2)妻の様子を気遣う
   妻が自分で過剰な反応を見せる事情を紹介しました。これは、夫には責任がないことかもしれませんが、「自分(妻)の失敗」を除いて妻にも責任がありません。ところが、夫は自分が責められるものですから、まず反発が先に立ってしまいます。しかし、妻の体調面などに異変が生じている可能性があるわけです。風邪をひいたときのように、健康面を気遣うことが正解なのです。
   優しい言葉をかける、花などを買う、してほしい希望を聞く、妻の家庭内の役割を引き受ける等、妻が夫から尊重されているという実感を持ってもらうことは、妻だけでなく、自分や子どもたちにもメリットしかありません。人間は仲間にやさしくするために生まれてきたのだと考えて、気遣うということを具体的に行動に移すことを学習しましょう。
 3)敵意を消す。
   特に繁殖期が過ぎてからは気にかけておいた方がよいのですが、ぶっきらぼうな人だとしても、感謝と謝罪とあいさつは言葉にしてこまめに言うべきです。なぜ挨拶するかということですが、これはどうやら相手に敵意がないよということを示すためのもののようです。感謝と謝罪も、基本的には同じ役割をすることばのようです。
   過剰反応をする妻は、自分が尊重されていないのではないかという不安を抱くわけです。それが自分が攻撃されているかのような感覚に育ってしまうということでした。逆に、積極的に挨拶を言われたり、感謝や謝罪が口に出されて、自分に敵意がないことが示されると、この攻撃されている感覚が薄れて、安心感を獲得していくようです。
   ここで、自分もそうしているけれど、妻から煙たがられるという人は、自分の表情をよく鏡で見るべきです。うっかり眉を寄せて、いかにもいやそうな顔をしているということがあるようです。ここが落とし穴です。本人は相手の行動に嫌悪してその表情をしているわけではなく、単に対処に困っている正直な表情をしているだけかもしれません。私の場合がそうでした。しかし、相手が過剰反応中や過剰反応一歩前の場合になると、自分に対して嫌悪感を抱いているからそういう表情をするのだと悪く受け取るもののようです。思春期はこういうことに敏感です。思春期のお子さんがいたら、自分の表情が嫌そうにしているか聞いてみると良いと思います。
8 自分だけが努力しなければならないのか
  ここまで読んでいただいて感謝します。「言っていることはわかるけれど、自分だけが努力しなくてはならない、自分だけが日々緊張しているということは何とも不合理だ。自分だけが損をしている。」との感想を多くいただきます。
  まじめで責任感の強い人がこういう感想をお話しされることが多いようです。おそらく私がやった方が良いということを100パーセントやり切ろうと思われているのだと思います。それでは、家庭の中で常に緊張をし続けなければなりませんので、それは不可能です。
  私は、3割くらい達成すればよいのではないかと思います。要するに過剰反応を起こさず、自分が尊重されていないと感じさせなければ良いのです。多くの失敗はありながら、それに気が付いて妻のことを思って自分の行動を修正するという姿を見たら、自分は尊重されていると思うのではないでしょうか。それには3割くらいが達成されることは必要だけど、8割9割ではなくても良いのではないかと考えています。今まで0だったら、2割でも、だいぶ変わったと思われるのではないでしょうか。
  それからおそらく、あなただけが努力をするということにはならないのではないかと期待をしています。人間は、自分がされてうれしいことは相手にもしたくなる動物のようです。道徳とはこうやって獲得されていくものです。相手を尊重したいのだけれど、どうしたらよいのか分からない。その具体的方法をあなたが示すことによって、まねをしてくれるようになることが期待できると思うのです。
  先ず子どもたちはまねを始めるのではないでしょうか。きちんとマネできたらほめてください。ますます立派な人間になっていくことでしょう。
  そして、家族で食卓を囲むとき、何となく笑顔の場合が増えれば、それは幸せというものではないでしょうか。子どもや奥さんが自分の失敗を相談したり、自分の欠点を助けてほしいということを言えるようになったりすれば、自分が家庭の中で役割を果たしていると実感できるのではないでしょうか。それは生きがいというものではないでしょうか。
  私は、これまで述べてきたことは、人間らしい行動することに尽きるのではないかと思うのです。言葉や文明ができる前から人間がやってきたことだと思うのです。ところが文明ができて、敵か味方かわからない人間と多く接するようになり、人間らしい行動とは何かが分からなくなってきているのだと思います。学校や職場で仲間として扱われない経験がそれに輪をかけて人間らしさを奪う事情になっていると思います。仲間に対してふさわしい行動とは何かと考えなければ実行できなくなっているのだと思います。でも、家事育児を協同する家族だけは、仲間でなければならないと思っています。特に子どもは、仲間として扱われないと健全な成長ができなくなってしまうようです。
  私が今回お話ししてきたことは、人間らしさを取り戻そうという呼びかけなのかもしれません。人間らしさを取り戻すために行動するご家庭は、人間らしい幸せが実感できる家庭になると確信しています。

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子育ては母親がするものという前提こそ、最初に克服されなければならないジェンダーバイアスでしょう。サルじゃないのだから人間らしくしよう! [家事]



不合理なジェンダーバイアスは是正されるべきです。
例えばあなたは女性だからこうしなければいけないという主張があるとします。
それを本人に押し付けることは、人間の人格を侵害することに
つながりかねません。
もっと人間はのびのびと自分の幸せを目指して活動することが
是として評価されなければならないと思います。

身近な問題でも
女性だからスカートをはいて登校しなさいという校則がありますが、
特に東北などの寒冷な地域では
健康を害する深刻な問題になりかねません。
タイツの着用を禁止するところも多く、全く理解ができません。
長野県に出張に行ったとき、
制服のズボンを着用している女子高生たちを見て
素晴らしいと感心したことがあります。

司法の場にもジェンダーバイアスがかかった処理がされる
ということがあるように思われます。
最も極端で明確なジェンダーバイアスは
家庭裁判所の事件です。
子どもは母親が育てるものという
極端なジェンダーバイアスがあるように思います。

ジェンダーとは、
性的な偏りとか
社会的、文化的な性的役割ということですから
子どもは母親が育てるものというのは、
まさに社会的文化的に女性に押し付けられているものですから
ジェンダーバイアスだということになるわけです。

このような考えは裁判所の審判の内容も左右させますが、
そもそも社会的な偏見があることで
母親を苦しめています。

離婚をした芸能人が子どもを父親に預けると
全く関係の無い人たちが非難をしているのを見ることがあるでしょう。

精神的に限界で
治療や休養が必要だから一人になりたいと思っても
子どもを引き取らないで生きていると
気ままだ、わがままだ、冷酷だと批判がなされるので、
なかなか必要な治療や休養を得ることができません。

離婚をしても子どもを元夫と分担して育てようとしても
離婚したのだから子どもを一人で育てるべきだという
声なき声に圧迫されてしまうわけです。

これでは、せっかく離婚をしても
女性だけが一日の相当時間を子育てに取られてしまい、
フルタイムの就労ができず
それなりの収入を得るということができません。

いくら男女平等の職場があっても
それを活かすことができません。

金さえあれば子どもを育てられるということも幻想ですし、
離婚すれば金が入るということも幻想です。
離婚すれば夫の収入が上がるという事情はありません。
扶養手当が入らなくなり、収入が減ることが多いのです。

離婚は離婚
でも子どもはお金も時間も分担して育てるべきだという主張こそ
ジェンダーバイアスを克服した主張だということになるはずです。

ここで、ジェンダーバイアスの例外を述べなければならないようです。

先ほど社会的文化的役割ということを言いましたが、
そうでない性的役割もあります
自然的性的役割とでもいうのでしょうか。
明らかなことは、出産は女性しかできないということです。

これはジェンダーではないということになりましょう。

授乳については議論のあるところですが
これもジェンダーではないとしておきましょう。
但し、ある程度の月齢がいけば
粉ミルクなどで十分栄養が摂れますので
厳密な意味では自然的な役割とは言えなくなる時期があると思います。

したがって、2歳くらいからは
子育ては母親がするものだということは
ジェンダーバイアスがかかった見方だということになるでしょう。

これに対して
子育ては、自然環境でも母親がするもので
熊やサルも母親が子育てをするではないかと
素朴な意見がみられます。
この意見は残念ながら物を知らないがための意見です。
ジェンダーバイアスを正当化しようとするときに出てくる典型的な意見ですが
科学的には間違いです。

父親が子育てをしないで母親が子育てをするのは
人間ではないからです。
熊やサルだからです。

熊をはじめとして群れをつくらない動物は
そもそも個体間の共同行動ということはありません。
常に成体は単独行動です。
子離れするまでは母と子の共同生活がありますが
それは例外的な時期だということになります。

サルも群れを成しますが
子育てをするのは母親だけです。
食べ物を分け与えるのも母ザルだけです。
ですからそれらの動物の子どもは母親にしかなつきません。
人間はそうではありません。

これは人間独特の習性です。
(但し、多少とも母親以外の子育て参加者が存在する種もあります。)

大事なことは、サルと人間は決定的に違うということです。
特に子育てに関しては
サルはこうだから人間もということは
成り立ちません。
何せ人間とサルは700万年前から別の動物です。
「自分の仲間」についての意識はまるっきり違うのです。

人間の場合は、乳離れさえできれば
主として父親が子育てをすることは全くかまいません。

但し、
人間の場合は、むしろ
母親だけが子育てをするということや
父親だけが子育てをするという単独養育自体が
人間の性質に反した不自然なことです。

集団で子育てをするということが
700万年の歴史の中で培われてきた自然な様式なのです。

これは人間が二足歩行をした結果分娩の難易度が上がったこと
このため母体の回復が遅れたり、母体が死ぬことも少なくありませんでした。
脳の発達を選択したため頭蓋骨が大きくなってしまい、
分娩可能な大きさで出産してしまわなければならないために、
赤ん坊が極端に未熟な状態で生まれてくるため養育に手がかかること
攻撃力も闘争力もないため集団の力で生き抜かなければならなかったこと
という必要に迫られた生活様式で
それに合わせて頭脳も発達しました。
サルとは違うのです。

人間はこうやって700万年生きてきたわけですから
単独養育ということは
養育者も子どもも不自然を強いられることで
心理的、肉体的に負担を感じるようになるということは
無理のないことです。
つまり人間らしくない形ということです。

「子育ては母親が行うもの」という概念は
だから、自然的な性的役割ではありません。
また、社会的文化的な役割というものでもありません。
あくまでも、特殊思想の産物です。

社会的、文化的にも、自然的にだって
少なくとも両親が育てるものということが
自然な役割分担です。
(本来はもっと多くの共同生活者が育てたのですが
現代の孤立婚では無理な話です)

それにも関わらず、
表面的に女性の権利を声高に叫ぶ人に限って
色々理屈をつけますが、結局は、
子育ては母親がするものだという考えが貫かれているわけです。
子育ては母親の自己実現だから母親が子育てをするべきだ
というところに本音がありますから
ジェンダーバイアスに女性を縛り付けているのではないかと
私は感じます。

この主張によって、子育てが困難な事情のある母親は
自分が責められている気持ちにさせられます。
その結果、女性なのだから無理してでも子どもを育てなければ
人間として失格だと思わされているわけです。

ジェンダーバイアスをなくそうと主張するなら
「子育てを父親にも分担させろ」という主張にならないと
整合しないと思います。
これこそ、人間の自然な性質に合致した人間らしい主張だと思います。
苦労するのはお金だけの問題ではないのです。
養育費だけ払えというのは
子育てを知らない人の妄言だと思います。

この妄言によって踊らされた母親たちが
離婚後の生活の苦しさをあちらこちらに訴えますが
離婚はあなたが決めたことだと冷たく突き放されているわけです。
この苦労とは、人間らしい生き方をやめたところからきていますから、
初めから当然苦しいわけです。

子育ての金と時間を分担しろという主張は、
離婚しなくても離婚しても一緒のはずです。
協同養育こそジェンダーバイアスから解放された
子育ての形態についての主張であるはずです。
どこも間違っていないと思うのですがいかがでしょうか。



余談ですが、DVは、男性が女性にするものという
これまたジェンダーバイアスに縛られた発想です。
統計的にも全く根拠はありません。

人が傷つくのは暴力で身体的に傷つくことがメインだという発想が
大前提になっているようにも感じられます。
また、男性は自力で回復することができるが
女性は、男性に依存するものだから自力では解決することができないという
女性蔑視が根幹にあるように感じることが多くあります。
蔑視していると感じるのは
そう主張している人たちが、自分は男性に依存していないということを
やたら強調しているところからもそう感じるわけです。
ジェンダーバイアス以上の偏りを感じるのは私だけでしょうか。

個の独立を主張する戦闘的な思想は
人間らしく協調して生きていく思想によって
遅かれ早かれ克服されていくでしょう。

なぜならば人間はサルではないからです。

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