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在日ロシア人をはじめとする旧ソ連圏の人たちの人権を守ろう。人権侵害は、正義感から始まることの典型例。人権擁護のための法律家の役割。少数者の人権保護という意味。 [弁護士会 民主主義 人権]

新聞報道によれば、世界中の国、特にゲルマン民族が多数派を占める国で、ロシア国民に対する差別や迫害が起きているそうです。ロシア国籍の人だけではなく、ロシア語を話す人たちや、東スラブ系の旧ソ連圏の人たちや店舗などが誹謗中傷を受けるなど攻撃をされているとのことです。

この今回の出来事は、人権の意味や人権侵害、弊害を伴う正義感情という人間の社会心理をわかりやすく説明できる出来事だと気が付きました。合わせて、人権に対する法律家の使命についても考えていることを書きましたので、是非お読みください。

「人権」の意味はわかりにくいかもしれません。しかし、その歴史を考えるとイメージしやすくなると思います。だいぶ昔の絶対王政の封建時代には、極端に言えば、国の財産や、国民の命などについて、すべてを国王が自由にできるという考えがあったとします。これに対して、どんなに国王の命令だとしても、人間としてそれを侵害されたら本人も人間として生まれてきた意味がないと感じるような行為や、周囲もそれはあまりにも酷いと感じる行為について、それを阻止しようとしたわけです。「それは人権を侵害する行為だから、いくら王様でもやってはいけないことだ。」という文脈で人権という言葉が使われるようになりました。

現代社会では王様はいません。民主主義の世の中になりました。最終的には多数決で国の行動の意思決定をするシステムができました。しかし、人間の社会は複雑ですから、ある行動が多数の国民を幸せにするとしても、同じ行動によって不利益を受ける国民が出てくることは常にあることです。多数派は少数者が不利益になることを決定することができることになります。

現代の民主主義社会では、多数派の意思決定によって、少数者が人間として生まれてきた意味が無いと感じることや、周囲がそれはあまりにも酷いと感じるようなことが起きる可能性があるわけです。これを防止するために、やはり「人権」という言葉が大きな意味を持っているわけです。

さて、ロシア人が迫害されているとのことです。一人一人のロシア人は、ロシアのウクライナ侵攻にかかわっていません。むしろ、ご自分たちが今いる国の人たちと協調して生活したいと考えているはずです。迫害する人たちは、自分が攻撃しているロシア人にウクライナ侵攻の責任があるとは思っていないでしょう。それでも迫害するわけです。なぜでしょう。

私は、迫害する人間の正義感だと言ってよいのだと思います。独立国家であるウクライナへの侵攻は不正義だということ、報道によればウクライナの罪もない国民が傷つけられて殺されている、財産を失くし、家族とも会えないで苦しい生活を強いられている。傷ついて虐げられている人を見れば、条件反射的に何とかしなくてはならないと考えるのが人間の自然な気持ちです。

・被害のひどさと、
・なんともできないもどかしさ、あせりと、
・自分は安全な場所にいるという環境的立場、
・自分の周囲のほかの人間も自分と同じ考えだという確信
という条件がそろえば、それは「正義感という怒り」が生まれやすくなります。

正義感という怒りは、思考力を鈍らせます。
・善と悪の二者択一的思考になじむようになります。
・悲観的考える傾向が出てきます。
・他者の気持ちを理解するという複雑な思考ができなくなります。
・自分の行為によってどのような効果が生まれるかという将来のことなど考えられなくなります。
・二者択一的な思考は、自分の行動を止める人間を悪だ、敵に味方をしているという考え方になってしまいます。
・怒りをぶつける相手が、死ぬか、反撃不能の状態になるまで怒りは持続します。
・相手が弱ってくると、かえって怒りが強くなっていくという特徴もあります。

その結果、自分の正義感を持て余して、正義感情を表現しようとしてたまらなくなり、ロシアに関連するものに対して攻撃をしようとするわけです。相手がウクライナ侵攻に責任があるかどうかなどという複雑なことは考えません。ロシア、あるいは、ロシアっぽいということだけで、「悪」と決めつける単純思考になるわけです。自分が攻撃している相手にダメージが加わっても、ウクライナの国民に対する共感の1万分の1も共感しようとしなくなるわけです。そして、周囲もその人に同調するならば、正義感の暴走は止められなくなってしまいます。

もし、ロシアの侵攻が、ウクライナを犠牲にしても、例えば経済的に、例えば軍事的に自分に利益が生まれるということでロシアにやらせた人がいれば、このような心理はとても都合よいものになるはずです。

他方で怒りは永続しないという特徴もあります。
怒りが覚めたときに、自分が行ったロシア人に対する人権侵害の意味を知ることになるでしょう。ある人はとても恥じ入り悔いるでしょうし、ある人は自己の行為を正当化するために、「ロシア人」は悪だという考えにいつまでも固執せざるを得なくなるでしょう。

ただ、自分がいくら正当化しようとしても、自分の周囲の人間たちは迫害をした人の迫害行為は覚えています。もしかしたら、自分の子どもからの軽蔑が近い将来に待っているかもしれません。

また、迫害を受けたロシア人の知り合い、友人を中心に、「これは酷いことだ。」というやりきれない思いが精神的ダメージとなりいつまでも残るかもしれません。

いずれにしても迫害があった周囲は荒むことでしょう。他者の人権が侵害されることは、自分たちの人間性も荒廃していくことなのです。他者の人権を守るということは、自分や自分の家族、自分の友人たちの人間性を守るということでもあると思います。人間とはそういう性質を持っていると思います。

ロシア人でも旧ソ連圏の人たちでも、人権として、およそ人間である以上守られなければならない一線があるということです。人権侵害防止は、文明国、近代国家としての必須のことです。

人権擁護がなかなか難しいのは、日本では少数者が極端に少数で、少数者自身に不利益の原因を求められやすいということが一つの原因だと思います。その心理の形成過程の中には、自分を安心させたいという気持ちや権威者に迎合したいという気持ちが間違いなくあると思います。そして、正義感情を共有しやすいため、怒りが表現されやすくなり、ひとたび怒りが共有されてしまうと、少数者に対する迫害が止められなくなるという危険が、怒りの性質から起きてしまいます。

特に日本においては、自然な感情からくる少数者への人権侵害が自覚されにくいことに注意するべきだと思います。誰が、人権侵害が行われていると気が付くべき人間かというと、それは人権を学んだ法律家を筆頭に挙げなければなりません。法律家までが、正義感情に任せて人権侵害に加担していたのでは、日本は人権侵害国家という野蛮な国になるでしょう。特に弁護士は、犯罪を行った人を弁護する唯一の資格者です。多数から非難される少数者を守ることが本来的な仕事です。弁護とはまさに人権擁護活動なのです。

現在の日本の人権課題として、正義感情からくる在日ロシア人に対する迫害、人権侵害を防止を大きく取り上げなければならないことは間違いないと思います。
日本の法律家や法律家団体は、ロシアに対する制裁決議などをあげている場合ではなく、迫害や差別を想定して、在日ロシア人や、旧ソ連の人たちの人権を擁護するために活動を開始することが使命だということが、私の考えなのです。

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パワハラについての誤解 3 パワハラ防止をするときに、厚生労働省の言うように「相手が平均労働者だったら苦痛だろうか」と考えることは、百害あって一利なしということ 防止を本気で考える企業はどう考えるべきか 「業務上必要かつ相当の範囲」についても無視することをお勧めする理由 [労務管理・労働環境]

厚生労働省のパワハラ解説で、パワハラの三要素なるものがあげられています。これが「結局何がパワハラなのか」ということをわかりにくくしている根本原因です。私が読んでもわからないだろうなと感じます。

特に三番目の要素である「労働者の就業環境が 害される」という要素の解説として、
1 当該言動により労働者が身体的又は精神的に苦痛を与えられ、労働者の就業環境が不快なものとなったため、能力の発揮に重大な悪影響が生じる等当該労働者が就業する上で看過できない程度の支障が生じること
2 この判断に当たっては、「平均的な労働者の感じ方」、すなわち、 同様の状況で当該言動を受けた場合に、社会一般の労働者が、就業する上で看過できない程度の支障が生じたと感じるような言動であるかどうかを基準とすることが適当
等と記載されています。

看過できないかどうかを判断しなくてはならないならば、なかなかパワハラだという認定はできなくなってしまうでしょう。また、それは、「社会一般の労働者が」看過できないと感じるような言動であるかどうかということになってしまうと、ますます直ちに判断することができなくなります。結局会社の中の判断者が、看過できないと言えばパワハラになり、一般的には看過できないとまでは言えないと考えるとパワハラにならなくなってしまいます。これでは基準としては役に立ちません。

このような厚生労働省の謎を深めてしまう表現は、労災認定の判断に引きずられてしまっているからなのです。労災認定がなされると、病院代や休業した分減額された賃金の補償、さらには障害補償や遺族年金など莫大な金額の保険給付をしなければなりません。また、精神的な疾患は、何が原因かよくわからないことがあります。そのため、もともと弱かった人に労災保険を払わないための行政基準として、国は、平均的労働者を基準にパワハラなどの過重労働があったかどうかを判断することにしているわけです。私はこの考え方は不正確だと思っていますが、今日は説明を割愛します。

労災認定とするかしないかの判断基準をパワハラ防止の解説にまで持ち込んでしまったということです。

しかし、パワハラ防止は、労災防止だけが目的ではありません。
・ 従業員のモチベーションをいたずらに壊さないで生産性を上げること
・ 従業員が萎縮したり反発したりして、自分の頭で考えることができなくなってしまうような事態を避けて生産性を上げること
という労務管理上、現代日本では不可欠な政策なのです。企業担当者としてはパワハラ上司に注意したくてもしにくいという実情もあるので、できるだけ法律があることをいいことにパワハラを失くしたいということが、客観的には切実な必要性です。

さらには、看過しがたいかどうか、一般的な労働者はどう考えるかという、解決不能な判断を企業担当者に与えてしまい、企業担当者が上司に甘く判断した結果、例えば従業員が精神疾患にかかって長期休業を余儀なくされた場合、企業が看過しがたいとは思わなかった、一般的な労働者はパワハラだと考えないと思ったと主張しても、裁判所が、企業の責任だと認定してしまったら取り返しのつかないことになってしまいます。

莫大な損害賠償を支払わなくてはならなくなったり、取引相手や国民からの信用が低下するだけでなく、気が付いたら他の従業員の優秀な人間だけいつの間にか退職していた、残ったのは自分の頭で考えずに、上司の指示待ちをして、「よけいなことをしない」要領の良い従業員だけだったということになってしまいかねません。

これらの企業の損害を防止することも大切ですが、従業員のモチベーションを高めて、自発的な労働をしてもらうことによって生産性を向上させるというプラスの目的からすると、
上司の行為によって
相手の従業員が、萎縮したり、反発したりをするような指導は
パワハラだとして、指導方法の改善を指導することが一番だと思います。

大体、上司が自分の部下の性格をわからないということは考えにくいわけです。こんなことを言ったらこういう反応をするだろうなということを知らないで指導はできません。どうしても従業員の個性を無視して一律に扱うというなら生産性を上げるという目的ではなく、自分が考えるのを面倒くさがっているという上司の利益の問題になってしまいます。
わざわざ平均労働者を持ち出すのは、企業の事情ではなく、国の事情なのでしょう。

国の基準がどうあれ、企業独自のパワハラ防止基準を定めて、より上の基準を求めるべきだと思います。どうして国は、このような観点に立って必要な方法でパワハラ防止を徹底しなかったというと、中小企業にも義務を課したため、確実に守るべき内容に限定したと、考えるべきです。

ついでに言うと、パワハラ3要素の2番目も問題があります。
2 業務上必要かつ相当な範囲を超えた言動 として
社会通念に照らし、当該言動が明らかに当該事業主の業務上必要性がない、又はその態様が相当でないもの
との記載があります。

 何が社会通念かもわかりにくいですし、業務上の必要性がない又はその態様が相当でないということもわかりにくいです。一般には、業務上の必要性のない言動をしませんからね。態様の相当性の問題で出てくる決まり文句は、「昔はもっと厳しかった」です。大体が自分がやられたように部下にやっているわけです。これでは、よほど異常な行動でなければパワハラにはなりません。それでも、裁判所では莫大な損害賠償を企業に命じることがありうるのです。

部下が萎縮したり、反発したりするような言動は、余裕のある企業であれば、それは、業務に必要がないし態様が相当ではないと判断するべきですし、就労環境を悪化させるとするべきだと思います。

だからと言って直ちに処分をするなど上司を切り捨てるのではなく、改善を指導するということなのです。それがまじめに企業の業績を上げる思考だと思うのですが、国はそうは考えていないことになります。やはり労災認定がトラウマになっているのでしょうか。

うちはそんなに余裕がないよ、パワハラでもその場の必要な指示をしてしまわないとならないよ。研修をしたり、労務管理の指導を受けたりする費用もないし。
という場合には、指導後のフォローをきちんとやるということです。
従業員に、きつくいって悪かったと、他の従業員の前で謝り、憎くて言っていたわけではなく、もしかしたらいい方がわからないのかもしれない。あなたの仕事ぶりは評価しているので、勘弁してほしいと告げることなのでしょう。

そんなことを言いたくないなら、今回の三部作をよく読んで、積極的な目的をもってパワハラ防止に取り組むしかありません。

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パワハラについての誤解2 物に当たることや乱暴に事務用品を扱うということがパワハラになるのか [労務管理・労働環境]


前回の記事が思った以上にお読みいただけましたので、調子に乗って続編を書いています。

前回のおさらいを述べますと、必ずしも部下に身体的な痛みを与えようとしなくても、その時の具体的状況からパワハラかどうかは検討するべきで、特に会社のパワハラを防止して生産を上げたいと思った場合は、部下が萎縮したり反発するような行為は会社としては辞めさせて、もっと効率の良い指導方法を指導しなくてはならないということでした。だから、同じ力で肩をたたいても、パワハラになる場合もあるし、ならない場合もあるということを言いました。

その一番肝心な部分をご理解されたか否かということで、今回は冒頭に事例問題を提示しましょう。

<例題>
部下が仕事で初歩的なミスをしました。上司は、そのことに気が付いたとたん、愚痴も部下批判も言葉ではせずに、眉間にしわを寄せて不機嫌な表情をして、重量が5kgある穴あけパンチをぞんざいに扱って資料に穴をあけ、その後音が出るほど乱暴に失敗した部下の机の隣の机の上に置きました。

上司の行為はパワハラに該当するとして、会社としては改善を促してよいでしょうか。

<問題の所在>
厚生労働省の典型例の説明では、身体的な暴力に該当する例として
① 殴打、足蹴りを行う ② 相手に物を投げつける、
を上げています。
該当しない例として
① 誤ってぶつかる、を上げています。
例題のケースでは、典型例としての身体的暴力には該当しないようです。

もし、穴あけパンチを使う目的もないのに机から取り上げて、意図的に床に投げつければ、これは明らかな威嚇行為であり、「間接暴力」として、会社としては理屈抜きにやめさせるべきだと思います。

では、穴あけパンチで書類に穴をあけてファイリングするという用事はあったことはあったけれど、乱暴に扱ったために穴あけパンチを机に戻すときに比較的大きな音が出たという場合はどうでしょう。

これは、「暴行」だと認定することはなかなか難しいことです。間接暴力に該当するかどうかも難しいと思います。

それでも、パワハラに該当する可能性のある行為です。少なくとも、このような事情を会社が把握したならば、是正を指導するべきです。
むしろ、これまでパワハラ防止義務が企業に課されていなかった時代は、企業としては、このような乱暴な上司従業員に対して、なかなか指導をすることができなかった、二の足を踏む状態だったようです。しかし、今後は防止義務が課させられたので、「こういうことは防止するように国から言われている」という言い方で指導をすることができるようになったと思うべきでしょう。

乱暴な上司従業員と会社の総務など担当者の想定問答
担当者「大きな穴あけパンチを○○さんの隣の机に勢いよく置いたということですが、これは○○さんやほかの従業員が委縮してしまうので、パワハラになってしまう可能性があるので、ご注意ください。」
乱暴上司「え、パワハラですか。私は暴行をふるったわけではないですし、脅かそうと思ったわけではありませんよ。多少ガサツなところはあったかもしれませんが。」
担当者「それはわかっています。でもどうやら、パワハラって、部下が萎縮したり反発したりするような行為をいうようなのですよ。そうはいっても、あなたを処分するとかという話ではありませんから、心配しないでください。あくまでも、大きな音がするように重量のあるものを机に置かないで下さいという業務指示なんです。こういう業務指示をしないと、こちらも注意を受けてしまうので、ご理解ください。」

別バージョン
乱暴上司「私はそんなに勢いよく置いたかなあ。どのくらいが『勢いよく』ということなんだ。」
担当者「やっぱり、相手が萎縮するような置き方がだめだということなのです。処分をするわけではないのであなたの方で『勢いよく』ではないとおっしゃるならば、本当にそうなのだと思います。見ていた人が委縮したと言っているようなので、くれぐれも相手を委縮させるような行動にお気を付けください。」
乱暴上司「見ていたというのは誰なんですか。」
担当者「それは言ってはダメなことになっているようなので、ご不快の段は申し訳ありません。くれもぐれもあなたの行為を認定しているわけではなく、今後委縮されそうなことは避けてください。ということでご理解お願いいたします。」

こんな感じでしょうかね。会社の担当の方が、法律が変わったことを良いことに、今まで言えなかったことを、「言わざるを得ない。」という言い訳をしながら言うようにするということでよいのだと思います。責任は上手に国に押し付けてください。ただ、最終的には経営トップが、断固パワハラを失くして従業員のモチベーションを下げることをしないということが一番大切です。

だから厚生労働省の典型的な6類型
1 身体的攻撃(暴行、傷害)
2 精神的攻撃(脅迫・名誉棄損・侮辱・ひどい暴言)
3 人間関係からの切り離し(隔離・仲間外し・無視)
4 過大な要求 (業務上明らかに不要なことや遂行不可能なことの強制・仕事 の妨害)
5 過小な要求 (業務上の合理性なく能力や経験とかけ離れた程度の低い仕事を命じることや仕事を与えないこと)
6 個の侵害 (私的なことに過度に立ち入ること)

このどれに当たるかということを吟味する必要はないのです。あえて言えば穴あけパンチの件は、2の精神的攻撃に該当するのですが、解説の脅迫にも、名誉棄損にも、侮辱にも当たらないと思います。ただ、あえて言えば、侮辱が一番近いということになると思います。乱暴な上司が、失敗した部下を、その人の席の近くで大きな物音を出しても構わない人間だということを同僚の前で表明したということですから。

しかし、そのような分類をしようとすると、かえってわからなくなったり、パワハラであると言えずに、改善のチャンスを逃してしまうことになります。これは、会社にとって回復しがたい損失になる可能性があるわけです。

 「同じことを取引先に対してやれるのか」という基準もよいかもしれませんね。取引先の担当者の発言に腹が立ったら、重量物をその担当者の近くの床に乱暴に置くようなことをその上司はするのかということですよね。

かえって自分のところの従業員は、今後末永く会社のためにパフォーマンスを発揮してもらわなくてはならないのですから、取引先よりも大事に扱わなければならないと考えることはおかしなことではないと思います。


* 今回の記事は前回の記事と合わせてお読みいただいた方がよろしいと思われます。

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パワハラの誤解1 暴力がなぜパワハラとなるのかを理解しないと、「どの程度の暴力ならば許されるか」等という馬鹿な議論が始まる。パワハラはどうしてしてはいけないのかという基本を考える。 [労務管理・労働環境]


パワハラ防止義務が、今年から中小企業にも課せられました。何を防止すればよいのか、実際のところよくわからないという人もいらっしゃいます。実はこういう方は本気でパワハラを防止しようとしている人です。厚生労働省のチラシを見て、うちは大丈夫などと思っている会社こそ注意をする必要があります。私が読んでも厚生労働省のチラシは、最低限度のことしか書いてなくて、実際企業として何に目を光らせればよいか、イマイチよくわからないと感じることが正解だと思うからです。

こういう場合、考える順番として、なぜパワハラを防止しなければならないのかということから考えることが効率の良い考え方です。

この場合、国の思惑と企業の思惑は別のところにあります。しかし、結局はやることは一緒になるので、両方考えてみましょう。

1 労働者の精神的健康 
国の思惑は、働き方改革の一環として、労働者の働く環境を整えるということが第一です。しかし、昨今、パワハラなどによるうつ病の増加が、労災補償の財政を圧迫しており、財政的観点からもパワハラによる精神損害の被害を防止することが求められているのです。それができれば十分だというわけにはいきませんが、労働者の健康、特に精神的な健康を害さないためにパワーハラスメント防止するということは基本的な視点です。

特に自死や長期休業に至るようなパワハラは絶対に起こしてはなりません。
このような観点からは、労働者の立場でパワハラ問題を取り組む人間から、企業は話を聞くべきです。会社にとって厳しい考え方を知ることは、実際に事件が起きて裁判になる場合という現実を想定することができますし、そのためには事件を起こさないことが肝心だということをはっきりと認識することができます。
但し、あまり極端な考え方を持つ人の話は参考になりません。

2 会社の利益を害すること

1)パワハラが起きて広く知られてしまうと、会社にとっては大きなダメージとなります。
・ 莫大な損害賠償の出費
・ 労基署の関心を集めてしまう
・ 報道をされることによる企業イメージの低下、株価や売り上げの低下
・ 従業員のモチベーションが下がる
この辺りまではよく言われていることです。

2)パワハラが公にならなくても企業損害は想定されます。
・ 理不尽な叱責(理由がない叱責、一方的な評価、人格を否定する表現等)は、それをされた従業員だけでなく、それを聞いている従業員にとっても、会社に対する帰属意識がなくなります。「自分が所属する会社のために頑張ろう」という人間として当たり前の感情が消えてなくなってしまいます。
・ 特に理不尽な叱責がなされると、従業員は防御の姿勢に入ってしまいます。「私が悪いわけではない。」等という言い訳を考えることに気が向いてしまって、自分がどう改善すればよいのかということを考えようとしなくなるということが起きてしまいます。このため、何度同じことを言っても改善がなされないということが起きてしまいます。
・ 頑張っても報われないということを知らされてしまうと、頑張ることが馬鹿らしくなります。表面を取り繕うこと、つじつまを合わせることだけを習熟していきます。
・ 自分の頭で考えて行動することによって叱責をされてしまうと、叱責されないように言われたことだけをするようになってしまいます。叱責されないということが会社での最大の目標になってしまいます。

3)なぜ、従業員が傷つくかを考えましょう
人間は、会社をはじめとして群れの中に所属すると、無意識に、無自覚に、会社の秩序を維持するための貢献しようという気持ちになってしまいます。この秩序は、社訓などで張り出されるものではなく、上司が作り出す秩序に参加しようという意識が生まれるということです。
 もっと簡単に言うと、上司から自分の労苦をねぎらってもらいたいし、自分の努力を評価してほしいという意識を持っているのです。最低限、公平に扱ってくれるだろう、仲間の人間として尊重してくれるだろうと期待をするわけです。
 ここでパワハラを受けるということは、最も正当な評価を受けたい人から不当評価を受けて、仲間として扱わないというメッセージを受けることですから、カウンター攻撃を受け、大きな精神的ダメージを受けてしまいます。
 つまり、素朴な人間、会社としての秩序作りに無意識に貢献しようとしているまじめな人間ほどパワハラで傷つくということは大切な事実です。

また、パワハラを受けて精神疾患になったり自死したりする人たちは、そんな無理筋の上司の指示にもきちんと対応しようと思ってしまうまじめな人間たちですし、決められたことはやらなければならないという責任感の強い人たちであり、頑張れば何とか出来てしまう人たちなのです。そうでなければ、悩んだりしないと思いませんか。私ならできない業務指示を受けたら、適当にやってみてできませんでしたと悪びれないで報告するだけでしょう。

パワハラは、形式的な目標を達成するために、無理を命令し、できないと叱責するということが典型的形態です。上からの目標設定を遂行しようとして無理を部下に押し付けるという具合に起きることが多いです。

そういうパワハラで会社から離れていく人間は、まじめで、責任感があって、能力がある誠実な人間ばかりなのです。
企業秩序なんて興味が無いという人間は、言われたことをやらなければならないとも思いませんので、パワハラを受けても受け流すことができてしまいます。いつ辞めてもよいやという考えがあるからパワハラなんてそれほど気にならないのです。そういう人間だけが会社に残るというのがパワハラです。

私は、会社にとって大変恐ろしいことだと思います。

3 暴力はなぜいけないのか。問題提起。

暴力はなぜいけないのか。
この問いに対してどうお答えになるでしょう。
「ダメなものはダメ」
「暴力はいけないことだということに理屈はいらない。」

私はそれも正解だと思っています。

それではどこからがやってはいけない暴力なのでしょうか。

注意しながら、少し強めに肩をもむ行為はどうでしょうか。
自分の片手で真正面から相手の肩を押す行為はどうでしょうか。
袖口を引っ張る行為はどうでしょうか。

励ますにしてはやや乱暴に背中をたたく行為はどうでしょうか。

それらの行為が、叱責することに伴って行われる場合と
部下が手柄を立てたときに賛辞を述べるときに行ったので変わるでしょうか。

4 パワハラになる基準の考え方

なぜ、パワハラを防止する必要があるか。
労働者の健康を害さないため
会社に損害を与えないため
ということから考えていけばよいです。

それをされた労働者が、反射的に防御反応に入り、萎縮したり反発したりすれば、様々な損害が企業や労働者に生じてしまいます。
それは、本能的に従いたいと思っている上司からカウンターを受けるからでした。

そうだとすれば、それをされた労働者にとって、その行為によって自分が仲間として尊重されていないと感じる行為をパワハラとしてさせないようにするべきなのです。

肝心なことは上司が、悪意がなかったとか、攻撃的な気持ちがなかったとか、不当な評価をしたつもりはなかったとか、そういう上司の気持ちはどうでもよいということです。あくまでも相手がどう思うかということです。

次に、労働者は強い、弱い、感じやすい、感じにくいなど様々な性格をしています。誰を基準として、仲間扱いをしていないと感じるかを判断するべきかということです。落とし穴は厚生労働省のチラシにありました。「平均的労働者を基準とする。」ということを言っています。私はこれはどうかと思うのです。

平均的労働者という労働者はいませんから、結局は判断する人の主観に最終的にはゆだねることになります。例えば労災や損害賠償で、裁判所が「平均的労働者ならばそこまで傷つかないはずだから、パワハラではない。」と言ってくれれば会社としてはよいのでしょうか。しかし、そういってくれるかどうかなんて、「平均的労働者がどう考えるか」ということを考えるのと同じでふたを開けてみないとわからないことです。

そもそも、会社の中でパワハラを防止するための考えです。上司が部下の性格をわからないで叱責していたなんて言い訳にならないじゃないですか。そんなことをわからないで上司は務まらないわけです。こういう当たり前の現実を、どうも厚生労働省はよくご存じではないようです。

病的な悲観的考えを持つ場合や、被害意識で仕事ができない場合を除いて、その言われた人がどう思うかということを基準に考えるべきだと私は思います。
仮に国の言う通り平均的労働者を基準にするとするならば、上司の叱責の後で、平均的に考えることができる労働者の一人が、必ずフォローをする仕組みを作っておくべきです。言われている本人は、自分を正当に評価してほしい、仲間として尊重してほしいと思っている当人からのカウンター攻撃を受けていますから、言葉を客観的に評価できる状態にはありません。だから第三者のフォローがどうしても必要なのです。

会社にとって必要な人材が流出したり、コストパフォーマンスを発揮できなくなることを防ぐためにという観点から、具体的に考えるべきです。間違っても、「平均的労働者」をパワハラ上司に都合よく考えて、このくらいならまだ「平均的労働者」ならば精神的ダメージがないはずだという風に使ってはなりません。
それでは、企業にとってパワハラ防止の意味が半減するからです。

5 3の答え合わせ

3の答え合わせは、上司ならば、具体的な部下が、それをされたことでどう思うか厳しく考えてみて答えを出さなければなりません。叱責をしながら行うことはほとんどが、相手は侮辱された行為だと思うでしょう。同性であろうと異性であろうと、相手の体に触れるということ自体が行うべきことではないということです。
賛辞の際にこそ、自分と相手との関係にふさわしい行動を心掛けるべきかもしれません。賛辞だからと言って、相手が不快に思うことをしてしまったのでは、部下は報酬体験を十分に体験することができません。また、もう一度という気持ちになることが弱くなるということを考えるべきです。

但し、パワハラであれば処分するという硬直な扱いも企業の実情には合わないように感じています。特に上司が善意である場合は、粘り強く部下の心情を説明する場面も出てくるでしょう。会社が処分するよりも、上司が部下と和解をする方が双方にとってもよい場合があります。会社としては、硬直な姿勢を取らずに、双方とよく話し合って、自分が尊重されているということを実感を持てる職場にするということが、パワハラ防止義務の根幹であると私は思います。

暴力は、それをされることによって、精神的打撃が大きいということに注目しなければなりません。自分の健康や痛みのない状態を尊重されないということは、自分という存在はそのようなことを尊重されなくてもよい存在だ、価値の低い存在だ、いつ追放されてもおかしくない存在だという強烈なメッセージになります。同僚の前の暴力は、それを第三者に表明されてしまうことですから、顔をつぶされてしまいます。もはや対等の立場で同僚と接することができないという絶望感を抱かせてしまいます。

仲間にとって価値の軽い人間だという態度表明が暴力ですから、暴力の重さとか場面にかかわらず、深刻な精神的ダメージを与える行為。だから絶対に行ってはならないということが正解だと思います。

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どうか後悔を数えずに、故人との楽しかった時間を思い出していただきたい。それがご供養だと思います。何通かの自死者の遺書を読んで感じたこと。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]


お身内が亡くなることはとても悲しいことです。その死が、病死であろうと事故死であろうと自死であろうと、遺族は自分が故人のためにもっと何かできたのではないかという気持ちを抱き、自責の念に駆られることが多いということは、身内を失くした人であれば誰しも知っていることだと思います。

この自責の念は、自死の場合は特に強くなるようです。
すでに自死の危険が高まった後で、自死を防ぐということは、本当はとても難しいことです。そして自死の危険が高まる原因や予防もやはり難しいことが多くあります。

それでも世間は、誰かが止めれば自死は簡単に防ぐことができるのではないかと誤解をしているのかもしれません。

また、国家政策としての自死予防が盛んだったころ、「自死の直前にはサインが必ずある。サインを見逃さなければ自死を防ぐことができる。」という理論が、貧弱な自死のサインのサンプルと一緒にまことしやかに流されたことにより、自死は家族が注意すれば防ぐことができるのではないかという誤解が蔓延したという事情もあると思います。

自死や自死未遂の現状を知れば知るほど、自死を防ごうと思ったら、それこそ24時間、365日態勢で気を付けなければならないということになると感じます。それは現実的には間違いなく無理です。

もちろん、無理なことはわかっていても、手を尽くしたことをわかっていても、遺族は自責の念に駆られてしまうのであって、自責の念を抱くなと言っても無理なことでしょう。

それでも、故人としては、できれば自分が死んだことで身内が後悔をしないでほしい、自責の念に苦しまないでほしいという希望があるようです。

自死の事件では、いくつかの事例で、死の直前に遺書を作成される方が多くいらっしゃいます。かなり冷静に淡々と遺書をしたためられているケースも多いように感じます。

自死に当たって、誰かを攻撃する内容の遺書の場合もありますが、圧倒的多数の遺書は家族に対する思いやりが記載されています。また、家族を攻撃する遺書というのも私は見たことはありません。

遺書の文面で多いのは、ご家族に対する謝罪です。お子さんの学校での様子や仕事の様子などについて、よくここまで知っているなあと思うほどよくわかっていて、次の目標の場面に立ち会えない、応援できないことをお詫びしています。自分が自死することで生活が苦しくなることや世間的に肩身の狭い思いをすることも謝罪していることが多いです。

配偶者に対しては、複雑な表現がある場合もありますが、その場合でもむしろ第三者が読めば、愛情にあふれながら、相手に対する尊敬と自分のふがいなさに対してお詫びが記載されているということがよくわかる内容になっています。

故人は、自分がこれから行うことについて、家族がどれだけ苦しむかをわかっており、それでも死ぬことを止められず、謝罪の言葉を残すことが精いっぱいであることがよくわかります。理屈では割り切れないかもしれませんが、自死とはそういうものなのだと考えなければならないと思います。合理的な思考ができるような精神状態ではないということは間違いないと思います。

そういう気持ちを持った自死者にとって、自分の死について少なくとも家族にだけは責任を感じてほしくないということが本音なのだと思います。遺書を拝読する限り、唯一の心残りと言ってもよいのかもしれません。

私の拝読したいくつもの遺書の内容からすれば、自死を余儀なくされるまで追い詰められた人間がこれから命を失うというその時であっても、家族との楽しかった出来事の思い出や、子ども成長、あるいは不安を忘れることができた家族とのひと時というものは、何物にも代えられない貴重な思い出で、かけがえのない財産なのだと思います。その中でも、自分と一緒にいる家族が楽しんでいたり、喜んでいたり、あるいは安心していたり、自分を頼ってくれたりしたその時の表情に、自分が生きてきた意味を感じて、慰められていたことになります。

(そういう人間としての充実した出来事の記憶すらも、自死を止めることができない。それほど自死を防ぐことが難しいということなのだと思います。)

だから、故人が生前に楽しそうにしていたこと、喜ばれていたことを思い出すだけでなく、故人と一緒にいたときにご家族自身が楽しかった出来事、喜んだ場面、安心した記憶を思い出すことが、故人にとっての何よりの供養になるのではないかと考える次第です。

これは、自死の場合だけでなく、故人をしのぶ場合に共通のご供養の在り方なのかもしれません。



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自衛隊を憲法に明記する以上に自衛官の労苦に報いるために必要なことは自衛官の生活の保障だと思う [労災事件]



私にご依頼いただく方々の中で、自衛官の方、元自衛官の方、自衛官のご家族という人たちが割合としてかなり高いのです。自衛官のご遺族の代理人として国と裁判をやったということも一度ではありません。本当はいろいろな観点から自衛隊ということは論議しなくてはならないと思うのですが、「中途半端な身内意識」から議論をさせていただきたいと思います。

自民党の憲法改正の4つのポイントの第1に自衛隊の憲法への記載というものがあります。自衛官の労苦に報いるためだそうです。そういう目的であれば反対もできないかと思うのですが、「なんか違うのでないだろうか」という気持ちがあるのです。

まず、自衛隊が違憲だなどと主張する国民がどれくらいいるのかということです。おそらく圧倒的多数の国民は違憲だなどと思っていないのではないでしょうか。共産党ですら、「他国が攻め込んできたなら自衛隊とともに戦う。」ということを昔から言っているのだそうです。

本当に違憲だというならば、国家意思のもとに活用することはできません。例えば、刑事訴訟法上は保釈制度が定められています。保釈制度は違憲だというのならば保釈制度を直ちに廃止しろという主張になるはずです。「違憲=憲法違反」という評価は重みのある評価です。「違憲だけれど活用しよう」などという主張は法律論としては成り立たないことです。

つまり保守も革新も自衛隊は、「本当は自衛隊は違憲ではない。」ということで認識は共通しているのだから、いまさら憲法改正をしてまで憲法に明記することは必要がないと考えてしまうのです。「もしかすると、自民党が自衛隊は法的には違憲の疑いがあると考えているのかもしれません。」

また、自衛官に報いるという目的は尊いのですが、自衛官のご努力に報いるならば、もっと実のある報い方を行うべきです。

一つは、自衛官の賃金が安すぎるということです。国防ということで24時間体制で働いている割には、それに見合う給料になっていると言えるのか国民的な議論が必要でしょう。寝ずの番をしたり、深夜の演習や早朝の起床など、過酷な勤務状況です。国を守るという善意でもって働いていただいているということが実情ではないでしょうか。労働に見合う報酬を支払うことこそ、労苦に報いることのど真ん中だと私は思います。
しかしながら現在は、人事院勧告を反映して、賃金が年々減額されているようです。

二つは、定年が早すぎる割には、定年後の仕事に恵まれていないことです。自衛官は階級にはよるのでしょうけれど、大体が55歳定年です。私ならとっくに定年を迎えています。多くの国民は、自衛官は定年後にいろいろな職業が待っていると誤解していると思います。私は自衛官の遺族の代理人として公務災害の裁判を国相手に行ったのですが、被告であった日本という国家は、自衛官の定年後の収入統計を証拠で出してきて、自衛官の定年後は年齢別の平均的賃金を大きく下回ると主張してきました。国の主張立証によれば、定年後の収入は低く、それに対して対応がなされていないということでした。確かに共済制度は評価されるべきですが、働いて収入を得たいという気持ちをもっと尊重するべきではないでしょうか。

三つ目は、災害補償が辛すぎるということがあります。上で述べた公務災害は、再審査請求が長期間防衛相で放置されて、村井知事さんに防衛省まで行っていただいてようやく動き出したのですが公務災害ではないと認定されました。仙台地方裁判所でも理解不能な理屈で棄却され、ようやく仙台高等裁判所で公務災害であると認定されました。月間100時間残業の証拠を自衛隊で提出していながらのことなのでどうして不認定や棄却になったのか、法律論では説明ができません。被災から認定までに9年以上がかかりました。
このように労災補償がなかなか認められないという問題があります。外国に派兵された自衛官の自死がやたらと多いということが随分前に指摘されていましたが、これは公務災害だと認定され、遺族は正当な補償を受けたのでしょうか。

こういう実のあるところで、まさに労苦に報いるべきです。こういう肝心なところで報いていないのではないかという憤りが私にはあります。こんな私としては、憲法に自衛隊を明記しからといって、「それで報いになったと思わないでほしい。」という激しい感情があるわけです。そんな金のかからない対策ではなく、生身の人間が自衛官になることを躊躇しないような当たり前の報酬を出してから言ってほしいとそう思うわけです。

専門的な話をもう一つだけします。
それはメンタル問題です。自衛隊の中には、残念なことながらいじめがあることが報道されます。学校以外のいじめの判例を作ってきたのは自衛隊であるというくらい多くの事件があります。いじめがあるということは、それだけではなく、日常的にいたわりあうという風潮がないということなのです。

風潮がないと言うと語弊があるかもしれません。意識的に風潮を作らない限り、いじめが起きやすい職場環境だということが正確だと思います。

いじめがあったからと言って、いじめた自衛官が特殊だったとばかり考えたのであればいじめはなくなりませんし、実際続いているわけです。私は、過酷な労働環境や、平時であっても一人の怠慢が部隊全体や国民の命に直結するという高度な緊張感を維持し続けなければならないという職場環境に原因を求めなければ、対策が立てられないと思っています。もちろん様々な研究がなされているようですが、この研究を強力に推進する必要があると思っています。

日露戦争の際には、自衛隊ではなく帝国陸軍ですが、八甲田山で対策も立てないで行軍を行った結果、多くの犠牲者が出てしまいました。根性と愛国心だけでは国防はできないのです。メンタルの問題に焦点を合わせると、いじめの報道をみるにつけ、まさに八甲田山の行軍演習のような非科学的な労務管理がなされているのではないかという心配が大きくなります。

どのような事情が他人に対する尊重する気持ちや配慮する気持ちを奪うのか、どうすればそれが解消されるのかについて、予算をつぎ込んで研究を急ぐべきです。

憲法に自衛隊を明記することで、これらの予算が進むのでしょうか。それならば意味がなくもないのかもしれませんが、ハード面ばかりが注目されてそこにばかり予算がついている現状をみると、あまり明るい気持ちにはなれないのです。

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事後的な緊急事態条項よりも、事前の備えの充実こそ、防災、減災、早期復興に必要なことだと思う。 緊急事態条項を目的とした憲法改正に対する疑問(不理解)の由来 [災害等]

自民党が憲法改正案の4つのポイントを発表しています。憲法改正に限らず国家政策は、必ずメリットがあればデメリットもあります。デメリットを指摘することは必ずしも政策に対する反対を意味するわけではなく、デメリットを少なくしてメリットを拡大させてほしいという期待の表れでもあるわけです。

その4項目の中でも緊急事態条項を理由に憲法改正をするということについて、今回は述べてみたいと思います。断っておきますが、私は、緊急事態宣言が、災害時の混乱を良いことに全体主義国家的な強権を握り国民を支配するという火事場泥棒的な目的があるとは考えておりません。自然災害は必ず復興します。復興後、全体主義的な活動は猛烈に批判されて、政治的には致命的な影響が出るので、そんなことはしないと思うからです。

また、他国の侵攻の危険を理由に有事だからといって全体主義国家的な政策をしても同様だと思います。

私が、緊急事態法の必要性をよく理解できていないということなんだろうと思います。それならばもっと勉強すればよいではないかとおっしゃるでしょうけれど、どうも勉強する気になれないということが本音です。

東日本大震災を経験して、あの混乱のさなか、国会が開かれたからと言って、あるいは内閣に強い権限が与えられたからと言って、何か良いことがあるのかイメージが付かないからです。あのときは、今はなき民主党内閣でした。国会も少しして開かれたと思います。法案を提出しても野党の何でも反対ばかりで、被災地の役に立たなかったという記憶があります。あの時民主党内閣の権限が強くして、自民党の反対を無効にすれば何か良いことがあったのでしょうか。やはりイメージがわいてきません。

大震災の経験からは、事後的な対応を準備するよりも、事前の準備を充実させることが防災や減災にとって不可欠だということが実感です。

まず、危険な場所に近づかないということが原則でしょうね。できれば危険を減少させるようなハード面対策が立てられれば有効でしょう。ソフト面とすれば避難経路の確立と、練習が有効です。どのような被害の場合、どのような対応を取るかというシミュレーションを確立していなければなりません。その場になってから考えたのでは、精神的に動揺してデメリットの多い行動をとってしまうものです。このことを東日本大震災から学ばなければなりません。事後的に損害賠償の責任を負った誰かの責任とばかりは言えないのです。

そして避難所の確保です。低体温症の防止という対策は各地で確立したのでしょうか。必要な物資の輸送ルートや輸送体制も必要です。交通網は道路も含めて遮断される可能性がありますから、上空からの輸送の充実が不可欠だと思います。

また、震災の規模が大きくなるほど避難所や仮設住宅の使用日数が増えるわけですから、プライバシーの確保や安心感の確保についてどのような準備が現在進んでいるのでしょうか。

震災後の就労の問題も現実的な問題です。被災者任せではなく、きちんと対策を立てることこそ必要な政策ではないでしょうか。

まだまだメンタルの問題など重要な対策が未整備ではないかと心配しているところです。

私の立場からは言わなければならないことがあります。それは震災対応をする公務員に十分な手当てをしなくてはならないということです。

国家公務員法、地方公務員法では、自然災害などの緊急事態には、避難誘導などの仕事が公務員の法的義務とされています。

今回も津波が来る沿岸部へ、公務員が避難誘導の仕事で車で行くことが命じられました。今にして思えば「死にに行け」ということに等しい任務ですが、当時は津波の規模を実感としてイメージすることができなかったのかもしれません。仙台市でも少なくとも2名の職員が津波の犠牲になりました。

死の危険のある公務の場合の災害には公務災害補償の一部が1.5倍になる法律があるのですが、地方公務員災害補償基金仙台市支部長、同仙台市支部審査会は、2名の公務員の死を特殊公務災害とは認めませんでした。

理由は、「当該公務員が善意でやったことだから」、「被災で亡くなったどうか目撃者がいないのでわからないから」というものでした。
詳細は
特殊公務災害 地方公務員災害補償基金審査会で、逆転認定の解説:弁護士の机の上:SSブログ (ss-blog.jp)
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2014-06-13

各地で同様の理由で特殊公務災害が当初は認められませんでした。南三陸町の防災庁舎で町民に避難誘導を呼び掛けていたために逃げ遅れた職員の方々にも同じように認めませんでした。理由は、どの支部でもコピペで記載されていました。各公務員が善意でやったことだから危険任務に従事したとは言えないという屁理屈でした。

これは、国会でも取り上げられ、内閣を動かし、ようやく改善されましたが、公務員に対する扱いは、公的にもこんなものでした。こんな扱いならば、命の危険のある仕事は拒否をした方が良いということになるでしょう。

最後はその政党の議員さんに大変お世話になったのですが、それ以前にはその政党の地方議員からは妨害活動をされ、私の意見書に難癖をつけられてあやうく手続きがとん挫するところでした。遺族のあきらめない気持ちに支えられ、ようやく不合理を改善できました。

ある町の公務員が、避難所の運営で文字通り血を吐く不眠不休の活動をされていましたが、元々身体が弱かったということで公務災害自体が認められないこともありましたが、これは支部審査会で逆転し、公務災害であるとであると認定されました。この事件では川人博先生の弁護団チームに参加させていただき、私もいくばくかの貢献ができたのではないかと思っています。

さらには、避難所での地方公務員の活動は、自分の家が被災しているにもかかわらず行わなければならないことでした。不安の持って行き場のない住民の容赦ない攻撃にも無防備にさらされ続けました。うつ病を発症し、離婚に追い込まれた公務員もいました。

それにもかかわらず、残業代が支払われない自治体もあり、働いた報酬を不当に払われない公務員が続出しました。事前に、働けなくなった被災者の対策を確立していなかったことで、現場で献身的に働いた公務員につけが回った格好になっています。

震災直後は、法律や権力はあまり役に立たなかったということが実感です。一般公務員や自衛官、消防署職員、警察官の献身的な活動、あるいは一般国民の善意の活動こそが具体的な力になりました。

緊急事態条項が必要かどうかを検討する以前に、このような東日本大震災の教訓を生かした事前の準備をきちんと充実したものになっているという実感がわかない限り、事後的な緊急事態条項の必要性を検討しようというモチベーションがわかないということが正直なところです。

以上の次第で、事後的な震災対策のための抽象的な緊急事態条項のための憲法改正に賛成しようとは思えないということです。

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特に自死・自殺の原因について、目的が立派なことだとしても、無責任に言及することが不道徳であることの説明 特にSNSでの論及には注意するべき理由 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

日本のような自死予防対策が遅れている国では、著名人が亡くなった場合、特に自死で亡くなった場合、テレビ報道がなされますが、コメンテーターが出てきて、あれやこれや自死の原因を言い出すことがあります。

ある著名人がなくなったときには、生い立ちや家族関係まで暴露していたワイドショーもありました。自死に至った経緯としては、まったく客観的事実の報道とは思われないのですが、
お金になるのでしょう、ここぞとばかりに説明する人がいます。

私のように自死の原因が何なのかを調査して裁判などで主張する人間とからすると、どうしてそのような決めつけでものを言えるのだろうと不思議でならないということがまず率直な感想です。

そして、「自死がある以上、必ずその理由だけで自死に至る人間関係の問題があったはずだ」という信念のようなものを前提としているのですが、これまた不思議でなりません。辛い事実、悲惨な事実があるだけで、自死ができるのだろうかということについてどうして疑問を持たれないのでしょうか。

私は、人間の感情や心、人間関係ということについて、自分では怖いくらいに自分が単純化して考えているという自覚があります。自分が論じているのは、自死や犯罪やいじめ、離婚などに至る気持ちの移り変わりに限定して論じているという言い訳を自分で自分に言っているのです。本当は人間の感情はもっと複雑で個性や体調によって目まぐるしく変化するとらえどころのないものだと自分に言い聞かせて勉強をし、このブログを書いています。

パワハラ過労死のような場合でも、「マニュアルの基準を満たす。よし、労災だ。」という単純な発想はありません。なるべく多くの人から人間関係の事情を聴き、その人の生い立ちなどを調べ、当時の精神的状態を調査し、その人がその場にいたらどのように追い詰められるだろうか、特にその直前の精神状態からの変化がどのようなものかということを推し量らなければなりません。

その上でなるほどこういう事情で自死に至ったのかと合点がいくときは、突然その心情が理解できてしまい、自分自身が精神的にパニックになることもあります。

簡単に言いますと
・ 大きなストレスが生まれる人間関係の出来事があったとしても、自死を決行しない人もいる。
・ 大きなストレスだと他人からは思われなくても、本人にとっては生きることができなくなるようなストレスである場合もある
・ ストレスが大きくはなくとも、その人の精神状態からすれば、例えばもはや生きていく望みを持っていない状態になっていれば、日常的な些細なことでも自死に至るきっかけになってしまう場合がある。

特に3番目のトリガー(引き金、きっかけ)は、自死が起きる場合にほぼ必ず存在して、第三者はそこに目を向け、自死の原因だと重視します。しかし、自死予防対策の文脈で自死の原因として重視するのは、「もはや生きていく望みを持てない状態」にした原因の方です。一つのトリガーを失くしても別のトリガーがあれば自死が起きます。そしてトリガーは、通常はそれがあるからと言って自死が起きたと言えるほどの重大なものではないから、トリガーを特定することが自死予防にはならないからです。

したがって、その人と人生の時間を共有していない人が、即席の情報収集で自死の原因を議論したとしても、自死の原因に行きつくことはおよそあり得ないことだと思っています。

しかし、人間は、誰かの不幸を見ると、自分も同じような不幸になるのではないかと感じてしまう生き物のようです。そして不幸の原因を探り当てて、その不幸に自分は陥らないようにしたいと考えてしまうようです。

要するに、
その不幸は、その人の特殊な事情から起きたものであり、自分にはその不幸は起きない と感じて安心したいのです。

他人の不幸を笑ったり、誰かを非難して、自分は関係がないと安心したいというわけです。

だから、自分の家族と話すとかごく身近の人間との間で自死の原因をうんぬん言うことは仕方がないことかもしれません。

問題はSNSとかこのブログのようなインターネットです。

「この人の自死の原因はこれだと思う」という書き込みは行わないほうが良いと思います。

理由の第1は、のべてきたように、大体は間違っているからです。
理由の第2は、関連付けられた人に対して、「あなたが自死に追い込んだのだ」と言っていることになるからです。

そして通常は、遺族が、自死の原因として取りざたされます。
遺族は、自分の家族が亡くなったのですから、当然に悲しいわけです。
遺族は、死の原因が自死だということで、自分が何とかすれば死を防ぐことができたのではないかと既に自責の念に苦しんでいます。(これは、自死でなくとも、もっと良い病院にすればよかったとか、あの時自分がこういうことをお願いしておけばとか、離れて暮らさなければとか、誰しも思うことです。自死の場合はそれが強くなるわけです。)

そういう家族の精神状態の中で、自分たちのことを何も知らない人が、自分が原因で家族が自死に追い込まれたと言われることを想像することはとても難しいことです。

特にトリガーという自死のきっかけは、とても些細なことです。日常生活にはよくあることですが、その時の精神状態によって、自分だけ排除されているとか、孤立しているとか、見捨てられたとか、何でもかんでも悲観的に考えてしまうのです。

ある遺族は、お子さんを自死で失くして呆然としながらも、法事を気丈にこなしていたのでしょう。その様子を見ていた全く事情を知らない親戚から。「どうしてこうなるまで放っておいた」と怒鳴られたそうです。こうして極端な例を見れば誰しもわかると思います。
この場合も言った本人としては、亡くなった当人の死を残念に思っての発言だということはわからなくはありません。しかし、それを言って何も良いことはありません。まったくの自己満足のために、遺族を苦しめただけの話に結果としてはなってしまいます。

厄介なことは、遺族を攻撃する気持ちが無くても、配慮が足りなくて結果としては遺族や関係者が傷つくことはとても多くの事例で起きています。

例えば、上司のパワハラが原因で亡くなったということが言える場面でも、言い方によっては、「どうして嫌がる出勤をさせたのだ。こうなる前に家族ならば会社を退職させればよかったのに。」と聞こえてしまうことが良くあります。

「そんな仕事をさせなければ死ぬこともなかったはずだ。家庭の事情で無理をさせたのだ。」と聞こえる場合もあるわけです。

第三者は、浅はかな慰めを言わず、ただただ、冥福を祈ればよいと思うのですが、やはり出来事が大きすぎて自分の中で処理しきれず、余計なことを言ってしまうのでしょう。しかし、だからと言って遺族を使って処理するくらいならば法事などに出ないことをお勧めする次第です。

また、夫婦のもう一方に原因があるかのようなうわさ話がなされ、どういうわけだかそのうわさ話が当人の耳に入ってくることも多く相談を寄せられることです。

家族以外の関係者への攻撃も起きています。

一口に職場が原因で亡くなったという場合でも、取引先が原因である場合もあるのに、勤務先の人間関係がどうのこうのと訳知り顔で述べる人たちもよく目にするところです。

よくあるのは、自分が原因だと思っている人たちが、自分以外に原因があったと盛んに言いまわって、それが遺族に聞こえてくるということです。ある意味責任感が強いのでしょうけれど。他人に責任を擦り付けてはなりません。
また、その中でも本人に責任を擦り付けることがよくあります。平気でうそを垂れ流すのですが、さすがに嘘をつくのは理由がどうあれ非難されるほかはないと思います。

学校のいじめが原因だとされてしまうと、クラスの全員が攻撃していたかのようなうわさや報道が流されたりします。しかし、実際は、微力の場合が多いのでしょうが、大勢に抵抗していじめられている子に手を差し伸べている子がほとんどの場合にいるようです。そういう子は、自分が自死した子を守れなかったという自責の念がありますから、そうでもない子と比べると報道やうわさなどによって精神的不安定になり、問題行動を起こすことが出てくるようです。

書き込みを行わない方が良い第3の理由は、
このような見当はずれの書き込みで苦しめられている家族や、友人、その他の人間関係にある人たちは、書いてあることがわかり、見当はずれのことだと感じても、反論することが事実上許されないからです。そして、なすすべがなく、自分がその人を自死に追い込んだということが永遠に拡散されていくと感じていてもどうしようもないからです。

そのような無責任なコメントを出した人やそのコメントに「いいね」を押す人たちが、その投稿に対して正当な反論を当事者が書き込んだ場合にどのような対応をするでしょうか。真摯に受け止めとめて、記載者にアドバイスをする人がどの程度の割合でいるでしょうか。むしろ、仲間を攻撃されたということで、何も事情を知らないのに追い打ちをかけることの方がイメージしやすいのではないでしょうか。

少なくとも、無責任な批判をされた方は、そのように考えて、初めからあきらめる人が大勢だと思います。

結局、事情を分からないで、自死の原因について無責任なコメントをすることは、たとえそれが良かれと思ってやったことでも、正義の感情に基づいて行ったことだとしても、一方的にまったく非のない人につるし上げを行い、反論を封じて攻め続け、孤立に陥れている危険性が極めて高いということなのです。

無責任な自死の原因論を語りだしているのを視聴したら、チャンネルを変え続けようと私は思います。

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【正義よりも命。特に子どもたちの命】「憲法9条を守る」ことよりも大事なこと 戦わずして勝つことが何よりも追及しなければならないことだということ [弁護士会 民主主義 人権]

 

憲法9条があろうとなかろうと、改正されようとされまいと
軍事力を持とうと持つまいと共通して考えなければならないことが
あると思います。

それは、戦わないで勝つことが最上であるということと
戦う以上、相手を知り己を知らなければ
自国が滅びる危険があるということです。
これは東アジア共通の、戦うにあたっての知恵だと思っています。

たとえ憲法9条の文言を温存したとしても
他国の争いをいいことに
一方当事国を挑発して、恨みを買い
戦争を仕掛けられるとか、軍事行動を起こされてしまっては
憲法9条が絵に描いた餅になってしまいます。

たとえそこそこの軍事力を持ったとしても
相手は一国とは限りません。
相手の軍事力がどの程度のものかということを知らず、
また、どの国がどのような利益に基づいて参戦してくるか
そういうシミュレーションもできないで
やみくもに軍備にお金を使ったとしても
ただただ危険な戦いになるでしょう。

また、国が勝つか負けるかということばかりを言う人がいますが、
「国」が勝っても、何十万、何百万人の人が死ぬわけです。
死んだ人にとっては、わけのわからない「国」が生き残っても
あまり意味のあることではありませんね。

大人が自分で、その愚かな戦いを選んで死ぬ分には仕方がないかもしれません。
しかし、そこで犠牲になるのは子どもたちや自分の意見を表明できない人たちも同じなのです。

私は、自分以上に自分の家族や友人たちが死ぬことが怖いです。

私の友人の自衛官たちが命を落とすことも恐ろしいです。

自分家族をの家族を愛し、隣人たちを愛するから
自分の町を愛するし、自分の国を愛するわけです。
私は愛国者です。

現代政治は科学的に行われなければなりません。
科学的というのは、今何を議論するべきかということを
一番に大切にすることです。

今他国で戦争が行われているときに議論することは
どうやって戦争を終わりにするかということのはずです。
それが唯一の正義の議論です。

また、日本が攻め込まれたらどうするかということではなく、
「日本が攻め込まれないようにするためにどうするか」
ということのはずです。

つまり「どう戦うか」ではなく
「どう戦わないか」ということを議論するべきです。
いかにして、子どもたちをはじめとする国民の命を守るか
犠牲者を作らないかということです。

犠牲者を生まないために、戦わないで勝つためにどうするか
そのために憲法9条を改正して軍事力を持つということも選択肢でしょうし、
現状を踏まえると憲法9条を維持して軍事力を持たないということも選択肢でしょう。
今日はどちらかを選ぶということを議論するつもりはありません。

それより大切なことは、
「戦わずして勝つ」ということを追及することこそが、
国の最大の責務であるということを確認することと

口では憲法9条を維持すると言いながら
戦わないで勝つことを追及せずに
攻め込まれたらどう戦うかということの議論は
侵略国の侵略を、指をくわえて見守ったあとに
敗戦処理をどのようにするかという議論であり、
国民の命をかえりみない欺瞞であるということを
考えていただきたいということでした。



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支援者の「支援があるために」紛争をやめられなくなってしまった事例 職場内セクハラ事例 [労務管理・労働環境]


離婚事例と「支援者の役割」ということは、これまでさんざん書いていますので、それ以外の事例についてご紹介しましょう。いつもの通り、本当によく似た複数の事件をミックスした架空事例です。大事なこと以外はだいぶ創作が入っています。

職場のセクハラを被害者が訴えた事例です。

女性職員が上司に一方的に好意を持たれてしまって、最初は自分ではうまくあしらっていたつもりでしたが、次第にしつこくセクハラ行為が行われるようになった。同僚に相談したところ、きっぱりとした態度を取りなさいとアドバイスを受けたので、女性職員は上司を用心するようになり、適当にあしらうことをせずにきっぱりと誘い等を拒否する態度になりました。上司はその態度変化に異様に立腹し、数々の嫌がらせをするようになったという事例です。

女性職員は適応障害の診断を受けて、休職をしました。上司は転勤させられて女性職員は職場復帰したのですが、通院は継続し、治癒の見通しが不明だという状態でした。

この女性は、私のところに来る前に、私以外の弁護士を代理人として損害賠償の裁判を行っていましたが、敗訴しています。訴訟記録を拝見したのですが、弁護士はとても熱心に頑張っておられました。ただ、裁判官の「独自の社会常識」に切り込むことができないために敗訴になったという色彩もあり、確かにすっきりしない判決でした。

敗訴判決の後、女性を支援する人たちが、ネットで労災関連の弁護士で検索して私のところにその女性がいくことを強く勧めたそうです。職場の外の人間を巻き込んで大きな問題になっていたようです。
ただ、裁判がうまくいかなかったという結果がすでに出ているのですから、いくら私でもそのあとのプランがなかなか思い浮かびません。そもそも「いくら私でも」というほどの者でもありませんし・・・。

しかし、この女性を支援する人たちは結構多くいたようで、「裁判に負けたことであきらめないで、最後まで戦おう。私たちはあなたを支援し続ける。」、場合によっては弁護士費用もカンパするみたいな勢いで女性を「励ましていた」ようでした。

この事例は、励ましたくなる条件もそろっていました。

まず女性の容姿です。女性は、間違いなく美人ですが、派手な顔立ちではなく、冷徹な美人タイプというわけではありません。どちらかというと童顔で、性格も押しつけがましくないタイプでした。一般的な男性ならば本能的に「守ってあげたくなる」容姿だったと思います。おそらく私も相談者としてではなく、街ですれ違ったら振り返ってみてしまうような魅力があった顔立ちでした。これが、事業場を超えて支援者が存在した大きな理由だと思います。

一方パワハラセクハラ上司は、小太りで、人とコミュニケーションをとることは苦手なタイプで、髪型や服装、体形も「だらしない(清潔感がない)」という形容がなされるような外見だったようです。

その男が、女性にちょっかいを出そうとしたし、報復で異常な嫌がらせをしたということですから、周囲の人々の男性上司に対しての報復感情が高まっていったという、そんな感じだったようです。なるほど、支援をしている人たちにしてみても納得のゆかない判決が出ても振り上げたこぶしを下ろしにくいということだったのだと思います。

最初の裁判をこの女性がどこまで主体的に行っていたのかはわかりませんが、裁判の後の私への来訪は、明らかに他人から言われてきたような感じでした。
ただ、女性としては、「せっかく自分を支援してくれている人たちがいるのに、自分の一存で上司との紛争を終わりにするとは言いにくい。」という感情も感じられました。

私は「それはお困りでしょうね。」と思いました。話をいったん、ご本人の精神科治療の様子について伺うことにしました。訴訟や労災申請など、結果が出るまで時間がかかるということだけで、それだけで精神状態を圧迫され、悪化し、補償どころの問題ではなくなる危険もあるからです。

主治医は、知る人ぞ知る名医でした。一計を案じ、この主治医の先生に私は報告書を作成し提出しました。現在の彼女の置かれている法的立場、これから考えられる法的手続きのメリットとデメリット、見通しと準備、精神的負担などをできる限り詳細に記載して彼女から主治医に提出してもらい主治医としての意見を聞いてもらうことにしました。

主治医の先生のお話は、予想通り、現在治療が奏功して、治癒しかけている状態である。精神的負担の大きな行動は避けることが本人の今後にとって望ましいと主治医の立場での見解をいただきました。

これで周囲の応援団を黙らせることができるわけです。先生の権威を拝借させていただいたということになります。先生のご意見は、応援団だけではなくご本人にも大きな影響を与えたようです。
その上で本人に対して私の仮説を聞いてもらいました。

どうも「応援団の描く事件の絵柄」は以下のようなもののようでした。
悪逆非道の悪魔みたいな男が肉食獣が小動物を襲うように、自分の欲望だけで、立場の違いをよいことにその女性に対して人格無視の攻撃を行った。自分の欲望を拒否したために自分の会社内の立場を利用して異様な報復行動を行った。
というものです。

これに対して「私のみたて」は以下の可能性があるというものです。
その上司は、あなたのことが間違いなく本当に好きだったと思う。それはこれこれこれ(省略)から判断できる。それまで優しくしてくれていたあなたから、突然人が変わったように冷たくされるようになったので、戸惑い、腹も立てたのでしょう。それまであなたに優しくされていたと上司が勘違いした理由はあなたの(省略)というところに原因がある。但し、これはあなたが悪いわけではない。悪いわけではないけれど、快適に人間関係を形成することを望むならばこれからはこういう態度(略)を取れば解決できる。彼が勘違いして、あなたを女神のように思った理由は、彼にはこれこれこういう(略)生い立ちがあった可能性がある。だから、きちんとした手順を踏まなかったのは、そういうことを知らなかったからである可能性が高い。報復の嫌がらせは、大の大人がするから異様だし気持ちも悪いが、子どもであればそういう態度を、弟や妹に取ることはありうることだ。現在その報復の可能性がなくなったのは、周囲から非難されて自分のしていることに気が付いたからだと思う。
一言で言えば、彼の人格的未熟さが原因だったのではないか。

客観的な真実はわかりません。
でも、この説明を聞いて彼女は肩の荷が下りたような様子を見せました。
自分がもてあそばれたのではなく、真摯に好意を寄せられていたのではないかというところでは、彼女はほっとしたような表情になりました。

支援者たちは、自分の怒りをもって、その上司を悪く悪く描くようになっていたのだと思います。しかし、その女性にとっては自分が虐げられたと思うよりも、自分の対応がまずかっただけだったと思う方が救われることだったのかもしれません。

応援団の方には、高名な主治医と、普通の弁護士である私がこう言っていたからやめると言ってよいよとお話しました。

それからほどなくして、彼女から手紙をいただきました。「主治医から、もう通院の必要がありませんといわれました。薬も飲んでいません。」とのことでした。変な言葉を使うと「してやったり」という感覚でした。

応援団の応援が女性の精神を圧迫していたという要素があったのかもしれません。紛争を自分で終わりにするという本人の決断が、絶望感を払しょくして精神状態の回復を促したのかもしれないと思いました。

ここで言わなければならないことは、応援団が悪意のある人たちではないということです。むしろ、善意の人と言ってよいと思います。弱い立場の女性事務職員をかばって、ハラスメント上司を制裁しようという心意気を持った正義の人達です。他人をそうさせる説得力も彼女にはありました。

しかし、どうやら「正義感」が勝ってしまったようです。

正義感が勝ってしまったため、戦い続けることによる本人のデメリットについて、思いを巡らすことができなくなってしまったのだと思います。
裁判をすることによって、少なくとも弁護士や裁判官には他人に知られたくないことを何度も告げなければなりません。相手方からは、その女性職員が上司を挑発したみたいなことも言われるわけです。裁判をするたびに精神的に打撃を受けるでしょうし、敗訴になれば絶望感も抱いたかもしれません。状況から見ても、一般の方だったとしても一度裁判で負けている以上、それを覆すことは簡単ではないことは理解できることではないかとも思えます。

正義感というものは、本来的に、本当に守らなければならない人の利益に目が向かなくなり、敵を倒すことばかりが優先されてしまうという副作用があると思います。

本件についていえば、判決を読んだ時には納得はできませんでしたが、もしかすると実態は、セクハラという問題ではなく、女性扱いがわからない男性がみんなのマドンナを好きになってしまい、段取りがわからずに嫌がられることをしてしまったということでよかったのかもしれません。
私からすれば、何も特筆的するような損害を被ったわけではないと思われました。それなのに、裁判などの紛争を継続することで、変な誤解を受けて、変な評判が生まれるとか、色眼鏡で見られることによって心理的に追い込まれる危険もありました。

ただ、私は、どちらにするべきかという意見を提案することはしません。双方のメリットデメリットと見通しを提示して、あくまでもご本人が決めることです。自分に得るものが無い場合でも戦わなければいけないときもあるものです。それはその人の生き方なので、弁護士が口を出す話ではありません。

本件では、彼女の自由意思による意思決定を引き出すためには、支援者に対する彼女の忖度を排除することがどうしても必要でした。そのためには支援者の善意も理解し、今後の関係も維持しながら紛争を収めるという方法が必要でした。こういう時役に立つのは医者や弁護士が悪者になることなのだと心得るべきです。

結局彼女は、「自分のことを自分で守る」ということを始めることができました。自分の頭で考えて、自分のしたいことをするという方法を学習したわけです。もともと芯の弱い人ではなかったと思います。しかし、事件を経験して、自信のようなものをさらに獲得して、より一本筋の通った考えができるようになったと思います。

かつてのパワハラ上司とすれ違っても、悠然と会釈をして通り過ぎる彼女の姿を思い浮かべていました。



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