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夫婦の満足度が夫が高くて妻が低い理由を考えてみた 対人関係学の視点から 仲間に貢献したいという人間の本能とその由来 [家事]



統計によると*後掲
配偶者のいない男性は、どの年代でも配偶者のいる男性に比べ
精神的健康がかなり悪く、
一方女性は配偶者の有無で差がない
男性の方が結婚の満足度が高く、相手方のケアにも満足している。
配偶者に対する愛情も男性の方が女性よりも高い
とのことです。

これに対して伊藤裕子先生の分析は(日本の夫婦 金子書房)
男性の方が女性よりも結婚に対する期待が低い
人格的かかわりを女性に求めない
快適な生活が維持できれば満足する。
結婚に恩恵を受けているのは男性の方である。
その背景として、精神的ケア・情緒的ケアは
もっぱら女性が男性に対して行うという実態がある
ということになるようです。

その分析は分析として、
対人関係学的には、
少し別角度での考察が可能だと思っています。

対人関係の中で満足を感じるとき、幸せを感じるときというのは
どういう時かという問題です。

満足を感じるのはいろいろあると思いますが
自分が仲間に貢献していることを実感しているときに
満足を感じるということがあると思います。

そうではなくて、
仲間の誰かから表立って感謝を述べられたり、
自分が特別扱いされたり
自分の失敗を責められないでフォローされたり
自分の不十分点を補ってもらったりという
相手の行動によって
満足を得たり、幸せを感じたりということもあることは事実です。

そうではなくて、
自分が群れに貢献しているという実感を得ることも
強烈に満足や幸せを感じるのが人間だと思うのです。

純粋な利他行動というわけでなくても良いのですが、
こうやって人間は
仲間に貢献できたことに喜びを感じることができたために
仲間に貢献する行動を起こすことができて
言葉が無くても群れをつくることができたわけです。
群れをつくるためのモジュールとしての心というわけです。

男女の違いなく、こういう感情があると思います。
例えば感謝などは嘘があるかもしれない。
フォローや助けは、
仲間が自分を重荷に感じているかもしれないという
自分を見下しているのではないかという
疑心暗鬼が生まれている場合はあり得ることなのですが
自分が仲間に貢献しているということを感じることは
文句なく満足を与えるものだと思います。
(だから良かれとしたことで攻撃をされることは
精神的ダメージが大きくなるわけです)

ところが現代社会の夫婦では
この満足を感じる環境的問題を要因として
男女差があるわけです。

今回私が言いたいのは、まさにここです。

男性は、外で働いて収入を家計に入れる
ということで、分かりやすく貢献している実感を持てます。
だから男性は満足度が高くなるわけです。

これに対して女性は、
賃金格差や雇用形態の違いのために、
夫と比べると家計に入れる収入は低くなることが多いですし、
家計に入れないことも多いようです。
これでは働いて収入を得ても貢献ということでの満足は
感じられないでしょう。

しかし、現在の風潮として、
収入を家計に入れるという観点が仲間への貢献の中心だ
という価値観そのものに問題があると私は思います。

だから収入を伴わない家事育児することでは
家事貢献を感じにくくなっている
これこそが問題だと思うのです。

一昔前は
夫が外で働いて収入を入れ
妻は収入に文句を言わず、感謝し、
妻は家事育児を行い、
男子厨房に入らずということで料理に文句を言わず
家事のことに口を出さないということで妻に感謝をする
それは家事育児に社会的価値が認められていたということだと思います。

ところが現在では、
家事労働に対して価値をおかないという社会的風潮が出てしまい、
どんなに家事をやっても称賛されません。
一番悲惨なことは
自分自身が貢献しているという実感を持てない
ということだと思います。

確かに夫も妻の家事育児に対して感謝をすることが少ないかもしれませんが
妻本人も自信が持てないということが悲惨なのです。
私は家事育児をやっているということで
もっと威張っても良いと思いますし、
男性が家事育児を担当して
女性が収入を得てくるということだって
本当はどちらだってよいはずなのです。

それができないのは
家事育児が収入を得るよりもかなり低い社会的評価
しかなされないということにこそ問題があるように思われます。

また、先生方が情緒的ケアというのは、
おそらくコミュニケーションの性差によるものだと思いますし、
柏木先生ご自身もそれは指摘されています。
男性的コミュニケーションが事務連絡が主体なのですが
女性的コミュニケーションは仲間でいることの快適さ、安心感が目的となる
ということもあるわけです。

できるだけ家庭の中では女性的なコミュニケーションを
男性も身に着けるべきだということが私の持論なのですが
女性の方も
男性の真意を確認すればよいじゃないかとも
たまには思えてくるわけです。

それはともかく、
女性を安い労働力として生産現場に進出させようという
政策的観点からのメッセージが多すぎると
実際の家事労働(無償有償を問わず)を低い価値のものだとする風潮を生み
妻が家庭に満足をすることが難しくなっているのではないかと
そう考えることができるようになりました。

家事は男女どちらがやっても
どのように配分してもご家庭で決めればよいことです。
賃労働の方が家事労働よりも価値が高いという意識を持っていることに
気が付かないと
知らず知らずのうちに賃労働をさせないのは不平等だ
みたいな
男性的価値観を承認する主張しか出てこないのだろうと
そんなことを思いました。



稲葉昭英 結婚・再婚とメンタルヘルス ケース研究 276号
稲葉昭英 夫婦関係の発達的変化 (現代家族の構造と変容 全国家族調査による計量分析)
伊藤裕子・相良順子 愛情尺度の作成と信頼性・妥当性の検討 中高年気夫婦を対象に 心理研究83

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PTSDの損害賠償の勉強  損害賠償実務の主張のために 記憶のメカニズムから [進化心理学、生理学、対人関係学]



1 問題設定

PTSDという精神障害は、とかく議論のあるようです。
私は、その精神医学的な議論及び治療には興味がありません。
あくまでも、PTSD であると診断された患者さんの
損害賠償請求をするにあたって有効な程度の
理解をすれば足りるので、そういうお話です。

PTSDの定義、症状については末尾に掲げておきます。
PTSDとは | 日本トラウマティック・ストレス学会 (jstss.org)
様より

問題は、心的外傷を起こす出来事と、症状との関係なのです。

いずれにしても、PTSDを発症する前提として
命や安全に関する重大な脅威、危険の体験ということが必要とされています。

どうしてこのような重大な脅威があった場合、
症状としての
・侵入症状
・回避症状
・認知と気分の陰性変化(抑うつ)
・覚醒度と反応の著しい変化(過覚醒)
が生じるのかということが今回の問題です。

もっと言えば、
PTSDという診断名だとしても
事情が違えば、症状も違って当たり前なのではないか。
個性等による違いはあるにしても、
脅威や危険の認識、程度の認識が重大になればなるほど
症状が出やすく、大きくなるのではないか
という問題提起なのです。

裁判官のPTSDの判例研究があるのですが
この点についてあまり考慮されていないように思えたので
少し考えてみたいということなのです。

ここで言う、脅威や危険というのは
あくまでも本人の認識です。

例えば、ビルの屋上から小さいけれど重量物が落下してきて
(もしぶつかったら確実に死ぬような場合)
本人の体ぎりぎりに落ちてきたとしても
本人がそれに気が付かないで素通りすれば
PTSDにならずに日常生活を営み続けることでしょう。

例えば、近くで動物を見られる動物園で
檻の柵越しにライオンを見ていたとして、
実は柵が壊れていて、
ライオンが襲おうと思えば襲えたけれど
たまたまライオンがその気が無くて難を免れたという場合でも
本人が柵が壊れていることを知らなければ
楽しい体験で終わったことでしょう。

逆にテレビ番組の悪ふざけで
本当は下に防護ネットがあるけれど
断崖絶壁だと思わされて突き落とされたら
そして、周囲がみんな自分の命に関心が無いようなそぶりをされると
PTSDが生じる場合もあるのではないでしょうか。

2 事例の紹介

私がこれまでPTSDと診断された方に弁護士としてかかわった事件のうち、
検討の素材として以下の3つの事件を紹介します。

<事例1>
刑事弁護人として強制わいせつ致傷事件で
被害者と示談をした事件なのですが、
事件は雨の日で、
住宅地から少し外れたバス停で深夜一人で降りたところ
あとをつけられて暴行を受けたという事件でした。
当初誰も助けがこず、
ある程度長い時間もみ合って、抵抗をして
ようやく解放されて逃げ帰ったという事件なのですが、
数か月たっても、
雨が降るだけで、抑うつ症状となり、家から出られなくなり、
その時の恐怖感が、感覚的によみがえってくるというものでした。

<事例2> 
強盗事件で、深夜、若い女性が、手足を縛られ
バールのようなもので脅かされて
数十分監禁されて、犯人が出て行った後は放置され
しばらくして解放されたという事例でした。
外に出ようと扉を開けたところで襲われたということもあり、
ドアなどの外側に何か悪い者がいるという感覚に襲われる等
PTSDの様々な症状が出現した事例です。
その後も、安全責任者の謝罪もなく
放置された事例です。

<事例3>
当初統合失調症だと診断された事例です。
左側から災いが起きるということ言いだしておびえていたのが
妄想だと診断されたのです。
遠いところから、私のところに相談に見えて、
話を聞いているうちに、
職場で左に座っている人が、突如精神疾患の症状が出てしまい
理由も前触れもなく、その人を思いっきり殴打したそうです。
非正規労働者ということもあったのかもしれませんが、
殴られた方が手当ても同情もされず
殴った方ばかりみんなケアを始めてしまったという事情があったようです。
顔の痛みは徐々に引いたのですが
不信感というか、納得できない思いが徐々に強くなっていき
左から災いが起きるというようなことを言い始めたそうです。

その後、医師と相談して減薬して
普通に日常生活を送れるようになったとのことでした。

統合失調症を新しい医師は否定することはなかったのですが
私は一種のPTSDだと思います。

その他にも、強烈ないじめ体験(学校、職場)などで
PTSD症状と同様な症状が出現しているという
相談を何件か受けたことがあります。

きれいに侵入症状、回避症状、抑うつ症状、過覚醒の症状が
確認出来て驚くことがあります。

この時の侵入症状は、具体的な記憶がよみがえるというよりも
その時の感覚、絶望感、恐怖感、孤立感、屈辱感という
感覚がダイレクトによみがえるということを
皆さんおっしゃっておられました。
その時の状況を思い出さなくても
感覚は、今この場で起きているかのように
鮮やかによみがえるとおっしゃるのです。

なお、悪夢に苦しむということもよく聞くことです。

3 記憶のメカニズムからの検討

少し検討しましょう。

私は記憶のメカニズムの観点から考えていきます。
私たちの記憶は何のためにあるかということです。
記憶があるとどういうことに役に立つかということですが、

最も素朴な話としては
危険があった場合に、
危険の起きる理由(原因、場所、危険を起こすメカニズム等)
を理解していれば
敢えて自分から危険に近づくことをしない
ということが基本なのだと思います。

これは動物一般の話なのでしょう。
(逆にえさのありかを覚えるのも記憶の効用でしょう)

但し、人間は、弱い動物ですから
敢えて危険に接近することによって
他の動物を出し抜いて、種を残してきたということがあります。
わかりやすいのは火です。

他の動物は火を怖がりますから、安全のために火を利用できたでしょうし
火によって食料を加工することによってよいこともあったでしょう。

火の外に石器なども同様に
危険を上手にコントロールする文化なのだと思います。
動物を引き裂くことには便利ですが、
使い方を間違うと人を傷つけてしまいます。

私は、また、
個体識別ができないほどの多くの人数の人間と群れを形成することも
危険ないし危機感を伴う生活スタイルだと思っています。

このように人間は
危険だということで逃げてばかりいることはできず
利用できる危険を覚えて、利用の仕方も記憶して
危険と共存してきたのだと思います。

危険があることはストレスに感じることですが
ストレスをため込んでは生きていくこともできなくなるでしょう。
危険と共存するためには
日常生活に必要な危険を
認識の中で危険の無効化をする工夫が必要だったと思います。
ストレスにしない、ストレスを軽減して無害にするということです。

表面的には、
危険の限界、危険のメカニズム、危険回避の技術を理解し、
危険のようで、危険が無いという感覚をもつことだと思います。
但し、これはいわゆる「腹に落ちる」状態に達しないと
なかなか危険の感覚を無効化できないでしょう。

その無効化している仕組みがレム睡眠時の
記憶のファイリングだと思うのです。
過去の記憶と照合し、位置づけをして
それほど危険性が無いことを腹に落とすわけです。
危険を回避する方法があるから
むやみやたらにおびえる必要が無いと腹に落とすのでしょう。

ちなみにこのファイリングができず、
ファイルからこぼれてしまう出来事が
悪夢であろうと思っています。

ちなみにを繰り返して申し訳ありませんが
どうして、侵入という症状において
その時の情景を思い出すのではなく
その時の感覚を思い出すかというと
おそらく、その危険の感覚というのは
意識ではないのだからだと思うのです。

人間においても危険を認識した後の
危険回避行動の反応は、
つまり生理的反応は、
危険を意識するよりも前に起きているというらしいのですが
おそらく、この生理反応が
PTSDにおける記憶の正体なのだと思うわけです。
それなので、意識に対する働きかけだけでは
なかなかPTSDの治療は進まず、
無意識に対する働きかけが必要になるのではないかと
そうにらんではおります。

つまり、危険のメカニズムや危険回避の方法を
頭でわかったとしても、それは意識の改革には役に立つでしょうが
生理的反応の記憶は消えないからです。
将来的には、この生理的反応の記憶にも手当てができるようになると思いますが、
現状でこれができないならば
別の発想でPTSDを克服することを目指すことが合理的だと思います。
PTGという発想ですね。

このようなオーソドックスな危険の感覚の無効化
認識における危険の無効化の外に

単純な馴化、忘却等があるでしょう。

例えば自動車は、相当の重量物であり、
それがゆるゆると近づいて衝突するだけで
人間は死ぬような危険物ですが、
交通ルールというものを設定してはいますが
すぐ近くを高速で通過しても
それほど怖くなくなっていきますね。

自働車によって負傷したことが無いという経験の積みかさねによって
自働車の危険性に対する感覚が鈍麻しているわけです。
これが馴化ですね。

嫌な人がいて、仕事上どうしても付き合わなければならず
苦痛で不快でたまらなく、
仕事が終わってしばらくは、電話が鳴るたびにびくびくしていても
やがて付き合いが全くなくなると
その人自体を忘れて快適に生活したり
その人から電話がかかってきても
普通に話ができるようになるわけです。

こうやって、人間は、
危険の感覚を軽減させ、無害化することによって
自働車の無い地域まで逃げ込むことも
取引相手が絶対来ない地域まで逃げ込むこともせず
これまで通りの環境の中で
日常生活を送ることができるわけです。

PTSDとは、
出来事が大きすぎて、記憶の処理ができず
危険の感覚の無効化をすることができない状態
ということになりそうです。

危険の感覚が存在するために
常に危険に備えるということを反応として行っているわけです。
これが過覚醒状態ではないでしょうか。
眠ってしまうと危険が現実化してしまうと思えば
無防備に眠ることなどできなくなるのは当然です。

学校や職場に行けば
理由も分からないのに、自分が攻撃されるというのであれば、
活動自体をしたくなくなり、
家に引きこもろうとするのは理にかなっていると思うのです。

トラウマを起こした特定の危険を回避したいと思うのですが、
どうして、どのような原因でその危険が発生したか理解できない場合は
むやみに危険があると感じてしまうでしょうし、
雨の日に襲われという記憶があれば
襲われないために雨の日になれば警戒するということは当然でしょう。
意識の記憶ではなく、感覚の記憶のために
不合理だと分かっていても、危険に身構えてしまうわけです。

何か整髪料の匂いと襲われたことを関連して記憶していれば
整髪料のにおいを感じただけでその時の危険がよみがえっても不思議ではないでしょう。
但し、その整髪料を付けた人物が犯人であるか
襲われた直前にその整髪料をつけた人と会っただけなのか
それはわかりません。

そして、その記憶が、危険回避のためのメカニズムだとすれば
どうして危険が生じたのかは不明でも
・危険事態が大きな危険ではない
 (蚊に刺されたとか)
・危険を感じていた時間帯が極めて短い
 (一瞬ヒヤッとしたとか)
・危険が簡単に回避された
 (事故を起こしそうだったけれど、ハンドリングで回避した)
等の危険回避の方法を経験した場合は
危険の感覚の無効化が起こりやすくなるのではないでしょうか。

だから、有害なことは
危険回避可能性が無いという絶望感なのでしょう。
人間における絶望感は極めて有害で
人間の思考上絶望感回避の方法が
幾重にも張り巡らされているようです。

絶望感を抱きやすいのは
回復手段が無いという認識ですが、
孤立感というのも絶望を抱きやすくするようです。
人間は、誰かに助けてもらえるという
無意識の期待を持つもののようです。
犯人にすら助けてもらいたいという気持ちになることがあるようです。

これは動きの中で見ると
その危険の感覚を感じている時間が長いということも
要素になるようです。

絶望感を長く感じ過ぎた場合
記憶のファイリングが起こりにくくなるということは
あり得ることだと思います。

自分の危険が回避されたという実感が持てない場合も
絶望感を抱く事情になりそうです。
ビルの下を歩いていたら、屋上から物が落ちてきた
足がすくんでしまって逃げられなくなり
もはやこれまでと気を失って倒れたら
自分のすぐ隣に落下したというような場合。

4 暫定的結論

PTSDが起こりやすく重症化しやすい要素

1 身体生命に重大な危険が発生したこと
  (私の立場では、これは、対人関係的に重大な危険が生じた場合も含まれます。ただ、その程度などについては今後の検討が必要でしょう。)
2 危険が現実化しつつあるということを認識していること
3 危険を回避したいと思っても回避が不可能であるという絶望
  孤立、原因不明、機序不明での危険の現実化はこれを高める。
4 危険が現実化して、回復不可能だという認識が一定時間持続すること

1,2の危険の程度が大きくて、危険以前の日常生活が送れなくなる程度のことが起きれば、PTSDは発症しやすく、症状は重くなりやすいのではないか。

1,2の要素が大きくなくとも
3,4の要素が大きい場合はPTSDになりやすいのではないか。

可能性として、事例2のように、暴行が身体生命への不可逆的なほどの重大な危険がなくとも、その後の危機回避可能性が無いという認識(機序不明、孤立)が連続して起きればこれらのことが事後的に起きてもPTSDの危険が発生するのではないかということも考えています。

また、交通事故の事例では、PTSDというかどうかわかりませんが、
事故を見ている人の治療は長引く傾向にあります。
以下の場合は、危険が現実化したこと及び危険を回避する方法が無かったとしてPTSD様の症状になることもありうるのかもしれません。
側方からの衝突事故を横目で見てしまった場合、
バックミラーで追突をしてくる自動車を見たが回避できなかった場合、
センターラインをはみ出して衝突してきた事故の場合

上記の事情が無くてもけっこう多いのは、追突事故で、
あとから保険会社から被害者にも過失割合があるとか、
ぞんざいな口を利かれて具合が悪くなり、
治療が長引くというケースです。
これが事例の2と同様のパターンなのかもしれません。

加害者側の保険会社は
被害者を気遣って、優しい言葉をかけて親身になることで
治療の長期化を防ぐことができるのではないかと
また、示談期間の短縮化ができるのではないかと
常々感じているところでもあります。


PTSDとは | 日本トラウマティック・ストレス学会 (jstss.org)

PTSD(心的外傷後ストレス障害)とは

<原因ないし定義>
実際にまたは危うく死ぬ、深刻な怪我を負う、性的暴力など、精神的衝撃を受けるトラウマ(心的外傷)体験に晒されたことで生じる、特徴的なストレス症状群
をいうそうです(DSM-5)。

<症状>
侵入症状
トラウマとなった出来事に関する不快で苦痛な記憶が突然蘇ってきたり、悪夢として反復されます。また思い出したときに気持ちが動揺したり、身体生理的反応(動悸や発汗)を伴います。
回避症状
出来事に関して思い出したり考えたりすることを極力避けようしたり、思い出させる人物、事物、状況や会話を回避します。
認知と気分の陰性の変化
否定的な認知、興味や関心の喪失、周囲との疎隔感や孤立感を感じ、陽性の感情(幸福、愛情など)がもてなくなります。
覚醒度と反応性の著しい変化
いらいら感、無謀または自己破壊的行動、過剰な警戒心、ちょっとした刺激にもひどくビクッとするような驚愕反応、集中困難、睡眠障害がみられます。

上記の症状が1ヵ月以上持続し、それにより顕著な苦痛感や、社会生活や日常生活の機能に支障をきたしている場合、医学的にPTSDと診断されます。
なお外傷的出来事から4週間以内の場合には別に「急性ストレス障害Acute Stress Disorder: ASD」の基準が設けられており、PTSDとは区別されています。

PTSDとは | 日本トラウマティック・ストレス学会 (jstss.org)
より。

ちなみに、ICD―10では、症状は6か月以内に出現しなくてはならないとされているようです。



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「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」という発言は、むしろ女性を称賛する結果になるという理由。民主主義的な価値観に照らして考えよう。 [弁護士会 民主主義 人権]


要は、
会議に時間がかかって何が悪い
ということなんです。

確かに森氏の発言は、女性蔑視といるでしょう。
しかし、女性対男性の構図だけで見ていると
その先にある本質的な危険性が見えなくなってしまいます。

森氏の発言は、ある価値観を前提としています。
それは
会議は効率よく素早く終わるべきだ。
そのために理事は協力し合って発言を控えるべきだ
というものです。

しかし、これは、民主主義の価値観とは対立する価値観です。

民主主義を多数決と同義と考える方もいるようですが、
それは最終的意思決定過程です。
議論の過程では、
例えばなんらかの制度を作るという場面では
その制度のメリットを示して提案がなされますが、
様々な立場の発言者が、様々な立場からデメリットのあることを提示します。
(ここからが民主主義なのですが、)
できるだけメリットを発揮できるようにしながら
デメリットをできるだけ回避したり、軽減させたりしていく
こういう話合いが民主主義です。
(今の国会運営を民主主義のモデルとしてはいけません)

多様な立場の人が、それぞれの立場からの発言をし
話し合ってよい制度を作るということです。

これが民主主義的価値観だと私は思います。

だから民主主義的価値観の下で行われる会議は
時間がかかって当たり前ですし、
時間がかからないことは不自然だと思います。

この反対が独裁的というか、上意下達的方法論ということになるでしょう。
典型的には軍隊です。
差し迫った危険があるのに悠長に議論などをしている場合ではないので
このような意思決定過程が有効だということになると思います。

もちろん、純粋に民主主義的価値観と軍隊的価値観を貫く
ということも非現実的で
民主主義的価値観に立っても議論のための議論は回避するべきで
何らかの結果を出さなければならないため多数決が行われるわけです。

軍隊とは言っても、そもそもの戦略は合議で行ったりするわけです。

しかし、この軍隊的価値観が
日本では様々な組織に戦後も残存していて
結論を早く出すということに価値をおくことが多くあります。

企業戦略でも
短期的な売り上げ目標が強調されすぎると
軍隊的価値観が優先されていくことは
企業で働いている人なら実感されることでしょう。

現在ではこのような意図的にクリティカルな状況を作るという
労務管理は徐々に傍流になっているようです。

だから、女性理事が入ると時間がかかるということは
民主主義価値観からすると、(私に言わせると)
女性の理事は頑張っているなということがわかるのです。

そう言うと森氏のように考える人は
女性の発言は、会議を進める内容ではなく自己顕示欲だ
というのかもしれません。
しかし、そのようなルールを知らない人が理事に選任されるということは
考えにくいと思います。
単に、提案者の提案を前に進めないことに反発しているのではないか
と勘ぐってしまいます。
そもそもおよそ女性は主としてそのような発言をするというなら
それは全くの差別そのものでしょうね。

それに比べて、森氏の発言からは
男性理事の惨状が見えてくるではないですか。
理事という求められた役割から
提案を豊かなものにするための
自分の選出された母体の立場からの発言が
あまり見られないということを意味するように思えてなりません。

忖度するのに男性も女性もないのでしょうが
軍隊も男性が中心でしたから
男性は、もしかしたら権威に迎合してしまいやすい
軍隊的価値観になじみやすい性質がある人が多いのかもしれません。
上が提案したのだから、それに賛同するのが自分の役割
と空気を読みすぎているのかもしれません。

だとすれば
国民の税金を使って議論をするなら
バンバンと意見を出す女性理事をもっともっと増やすべきではないか
そう思えてくるわけです。

つまり、森氏の
「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」
と言われたならば
だから女性をもっと増やすべきだと言えば良いのだと思います。

それが、この発言は女性蔑視だと
それはそうかもしれませんが、それで批判が終わるのであれば
それは、会議は時間をかけないで行うべきものという
森氏の価値観と価値観を共有しているように思えてなりません。
軍隊的あるいは男性的価値観を無批判に踏襲して
あるべき価値観に照らして女性に価値が無いという発言だと
そういう批判に思えてならないのです。

これでは
男性は上の言うことに従う傾向にあるという
男性差別の価値観が発言の中にあるということを見逃し、
そもそも理事会が民主主義的な価値観に反する価値観を求めている
という問題の本質に切り込めないのではないか
という危惧を持ちました。

報道を受けた議論の流れは
それを如実に表していると思います。


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子どもたちではなく業者の利益を図る制度ができる危険性がある。共同親権法制の期待が悪用される危険について [家事]



婚費や養育費が調停で決められた場合
弁護士が報酬を受け取ることを非難する声がある。
これはおかしい。
先ず、婚費や養育費が支払われないという現実がある。
そして請求するにも自分では請求できないから弁護士に依頼する。
弁護士は仕事をして、その結果お金が入れば報酬を受け取る。
何一つおかしいことはない。
もっとも、その金額があまり大きくなくて、
報酬計算をすることが面倒だし、費用対効果を考えて
報酬を請求しない弁護士が多いだけである。
月100万円の婚費が支払われれば
私だって報酬を請求するだろう。

私は、婚費が確実に子どもに全額わたるために
義務者の依頼者に、相手から請求を受ける前に支払いを申し出ることを勧めている。
多くの依頼者が請求前から支払を始めている。
そうすると婚費調停が起きない場合も多い。
婚費調停が起きなければ、弁護士に報酬を払うこともないわけだ。

(ちなみに、婚費を払えということが信義則に反する事例で
 配偶者分相当額の婚費の支払いを拒否して
 審判にして争うということは行っている。)

道理の無いことで怒っていると
現在進められている親子法の改正作業の危険性を見落とすことになるため
あえて苦言を呈した。
もしかするとこれからは、
身を引き裂かれるようにして支払っている養育費が
紛争が無くても一部がコンスタントに業者の利益になる
という法改正が起きる危険があるからだ。
しかも面会交流というか共同養育が絵に描いた餅になる危険もある。
このことを説明したい。


一般に
国民のニーズをきっかけに議論、法制化が始まるが
蓋を開ければ一部の人たちの利益が図られるだけ
という事態はこれまでもあったからだ。

上川法務大臣の理念通り事が運べばよいが
そうはならない危険な事情が現実には存在している。
業者のニーズというのがその危険な事情である。

実際に養育費で利益を得ようとしている業者から1年前に話を聞いた。

その業者は、養育費の取り立て事業を始めるというのである。
私は疑問をぶつけた。

業者が養育費の額を交渉したり、支払いを促すのは
弁護士法違反であるからできないのではないか
ということである。

それに対して業者は、
既に、調停が成立していたり、公正証書で支払い契約がある場合に
督促や差押の代行を行うのだというのである。
債権回収会社(サービサー)ということなのだそうだ。
確かに金融関係で債権回収会社の行為が認められているが
これも弁護士会としては、非弁活動としてもっと反対するべきだったのだ。
それはともかく、

すべての養育費が支払われるべき離婚件数に比較して
調停が成立しているケースは圧倒的に少ないし、
公正証書で離婚契約書なんて作成しているケースはさらに少ない
それで商売になるのかと尋ねた。

それに対して業者は、
これから、離婚の際に離婚契約書を作るようになるのだとはっきりと言った。
そこで、養育費の金額も書類で明示するというのである。
どうやら強制執行認諾約款付きの公正証書を作成することになるというのだ。
つまり、裁判をしなくても給料や銀行預金を差し押さえることができる
特別の契約書を作ることになるようだ。

私は尋ねた。
そのあなたたちの費用はどこからお金が入るのだ。
養育費の請求をする親はお金がないだろう。
自治体がすべて援助するのかと。

これに対して業者はこう説明した。
業者は、離婚契約書の、養育費の支払い側の保証人になるというのである。
そして、支払われない養育費を立て替えて、同居親に支払い、
支払い義務者の別居親から保証人として回収するというのである。
そして、その保証料を
支払われる養育費の中から毎月徴収するというのである。

おそらくこれからは、養育費支払義務者は
家賃の支払いと同じく
業者の依頼者口座に養育費を支払い、
毎月に支払いが滞らないか業者に管理されることになりそうだ。
支払われた養育費から業者が保証料を徴収し
差額を同居親に送金することになりそうだ。

例えば、月7万円の支払いの離婚契約書を作れば
7万円のうち、例えば7000円とか1400円とが
保証料として引かれてしまうということになる。
別居親が爪に火を点す用にして出している養育費の
一定部分が業者のもうけになる。
養育費の未払いが起きなくても
業者は利益を得ることになる。
これが5%の3500円だとしても
千件を受け持っていれば
3,500,000円の月の売り上げになる。

子どもたちは親からの金額を全額は受け取れなくなるのである。

当事者が自助で養育費の支払いを確保することになる。
実際は別居親の負担となる。
自治体は多少の援助や優遇を業者にするだけで、
行政サービスとして離婚家庭の保護をしているとアッピールできる。
そして、貧困家庭への援助(児童扶養手当)の支出が抑えられるなら
自治体の支出は減ることになるので
これほどうまい話はないと自治体は飛びつくだろう。

私は、実務的経験から、絵にかいたような貧困解消は期待できないと思う。

先ず、養育費を払わないのは払わない事情があることが多いからだ。
職が無くなったり、賃金が減額されたり、
事故や入院で金が無くなるというケースも少なくない。

こういうケースで、差押しようにも
差し押さえる金はない。
賃金を差し押さえようにも
就労していないので差し押さえることができない。
つまり費用倒れに終わるだけだ。
子どもに渡らない保証料はなんだったのかということになるだろう。

お金があるのに払わないケースとしては
再婚して子どもが生まれたなどのケースもある。
そうなると、養育費の金額が事情変更ということで減額される。
差押をしたばっかりに
養育費が減額されるというケースも増えるだろう。

結局、自分の意思で子どものために
真面目に養育費を払う人たちが支払うだけだと思う。
しかし、新しい制度ができてしまうと
本来全額子どもが受け取っていたはずのその養育費の
いくらかの割合は
子どもたちに届かないで業者の収入になるという違いは生じる。

結局子どもたちの利益にはならない制度設計になると私はにらんでいる。

そこで気になったのは
上川法相の記者会見の際に、
おそらく上川発言とは別枠で
役人の解説を載せた思われる記事があったことである。

共同親権制度の創設という言葉ではなく、
離婚時に面会交流の方法を定める合意書の作成を
これから検討するのだという記事を覚えていらっしゃるだろうか。

もしかするとこの程度のことが
今度の共同親権だということになるかもしれない。
要は、離婚契約書を作成することが主眼であり、
その主たる目的は、業者が養育費の一部を
自分の利益にするためだということが心配なのだ。

共同養育の内容は養育費を確実に支払うこと
と矮小化される危険があるということだ。
養育費は合意書ができれば差押ができる。
面会交流は強制執行ができないままにされるということになれば
合意書なんて作成しても共同養育は絵に描いた餅になってしまう。
これでは現在と何ら変わりはない。

こうなってしまう危険があるということが
今日私が言いたいことである。

業者の思惑で、現在の離婚合意書義務付け制度が法制化されるのならば
子どもたちの未来はどんどん陰っていく。

法制審への諮問を無条件に歓迎してはならないのだろう
法制審議会の議事録は、みんなで読まなくてはならない。

法制審議会のメンバーに
人材派遣会社や債権回収会社、保証会社等の役員が入っていないか
注目する必要がある。

子どもを食い物にする貧困化ビジネスは阻止しなければならない。

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婚姻費用の算定表の一つのリアルケース 連れ去り別居を国が認めるなら、国が支払いの補助をするべきではないのか。 [家事]

婚姻費用の算定表の一つのリアルケース 

ご本人と相談して公開

ケース概要
夫30歳代 公務員 年収約580万円
妻30歳代 民間  年収約290万円
14歳未満の子ども3人

別居の形態 突然の連れ去り別居 
DVの有無 なし

算定表に基づいて月12万円から14万円の
婚姻費用の支払いを求められて調停を申し立てられた
(改正前は10万から12万円)

夫のリアル収入
月収手取り27万円くらい
ボーナス月2回 手取り100万~110万円くらい
(令和2年12月のボーナス支給額は減額になった)

夫のリアル支出

住宅ローン    6万6千円
太陽光ローン   1万5千円
生命保険終身   1万2千円
  個人年金   1万円
  医療保険     7千円
  火災保険     4千円
(ここまで        11万4千円)
電気代        5千円
水道代        5千円
灯油代        3千円
NHK         2500円
通勤・自動車   2万円
電話       1万6千円
食費       3万円
散髪代(仕事)    3千円
(ここまで         8万4500円)

二つの合計約20万円

年間の支払いは、固定資産税、自動車税、自動車保険、2年に一度車検代


支出は、本当に最低限のものである。
リアルには、これに衣服費、社交費用(会社の友の会などの慶弔費用)が不可欠な費用として加算される。
さらには、病院代が実際にかかっている。
趣味のお金、例えばCD代とか、雑誌購入費用とか、文化的な費用、飲み会費用等は一切計上されていない。

なお、子どもと妻が扶養から外れると
手取り額は月21万円くらいになるとの職場の説明があった。

保険の効かない事故や、電化製品の購入、家屋の修理費などが支払われる余地が全くない。

なお深刻なことは、子どもたちに会いに行く旅費が出ない。誕生日プレゼントを買う余裕もないということ。

父は婚姻費用を支払いたいと考えていて、
調停前の現段階でも既に相当部分できる限り支払っている。
数万円足りないくらいで、既に支払っている。
それもこれも子どもとの面会をするために、
できるだけ母親と争わないという方針があったから。

しかし、
婚姻費用を払うと(払えれば)、面会が事実上できないならば
婚姻費用を無理して支払う気力が出てこないのはわかる気がする。
払わなければ、職場の賃金差押をしてくるという腹なのだろうけど
その時に職場に居続けられるかどうか黄色信号ということが実情。

なんのために働くかわからなくなった状態のため。

さて、皆さんは、どうアドバイスするのでしょうか。
頑張って働いて会えなくてもお金を送り続けろというのでしょうか。

子どもの貧困を救うために養育費の支払い額を改定したというけれど
そのことだけを考えるのであれば、
そもそも自由な別居を認めないことが一番ではないか。

自由な別居を認めるならば
認める国や自治体が補助をする必要があるのではないか。

この算定表のとおりにこれからも変わらないならば
結局父親の稼働能力が終了してしまい
子どもへの養育費が滞る事態が
多発するのではないかという危惧がある。

別件で、婚費の一部(妻分相当額)を支払わないという争いをしているが
これは妻側の別居の経緯があまりにもひどいから
通常の連れ去り別居で信義則が認められるという展望は
あまりにも弱くて暗い。

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自死(自殺)の原因が複合的であるという意味と過労自死の関係 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

自死の原因が複合的であるとよく言われますが、
この意味をよく理解している人はそれほど多くないかもしれません。

心理的圧迫の事情が複数あるというように考えられている方が多いのではないでしょうか。
例えば、上司のパワハラと、取引先とのトラブルと、家庭問題と借金
とかという具合に
ストレッサーの数が複数あると思われがちです。

確かに、一つだけでも死に至るストレスが
同時に複数起きてしまうと
自死の原因にはなるでしょうけれど、

通常は、外在的な要因としてのストレッサーが多いということを
意味しているのではありません。

人間は、日常的に様々なストレスを抱えて生きているわけです。
ところが、通常はストレスがあったとしても自死に至ることはありません。
一つ一つのストレスは、
何らかの形で無害化して
その影響を深刻なものにする前に軽減させたり無くしたりします。
人間には、自然治癒力があり、回復する力があるのです。
環境を変えたり、考え方を変えたり、
馴れたり、忘れたり
色々な方法でストレスを無力化しています。

この無力化は、
自分1人でするとは限らず
仲間の存在によって無力化が促進されることも多いわけです。
アドバイスをもらったり、慰めてもらったり
仲間がいるということだけで安心できたりします。

それから、偶然の出来事や時間感覚が開くということも
ストレスの軽減につながることもよくあることです。

ところが、様々な事情から
このストレスの自然治癒が果たせない場合が出てきます。

本人の体調の問題や、性格の問題で、
小さなことにこだわったり、
本当はストレスに感じる必要がないことなのに
苦しんでしまうこともあるでしょう。

精神病もこの一因になることがあります。

また、本来何事もなければ仲間が助けてくれるはずなのに
タイミングが悪く、助けてもらえなかったり
逆に攻撃されたりなどということもあるでしょう。

また、対人関係の不具合は、他人から攻撃されるから起きるのではなく
自分の行動の失敗からもおきますし、
それはそれで、後悔など自責の念が加わり、
強烈なストレスになるかもしれません。

体調の問題とは精神疾患に限らず
睡眠の問題も重要です。
ストレスの無力化が起きる時というのがありまして、
その時というのが睡眠の時なのです。
ストレスの無力化とはどういうことかということは
少し長くなるので、今日は割愛します。
実際ストレスと精神疾患に関して
それが労働災害であると認定されるときには、
睡眠時間がどの程度になっているかということが重視されています。

ストレスが無力化されない原因として
このように、本人の問題ということは無視できないことです。
また、偶然の要素もありうる話です。

しかし、ストレスが無力化されない原因として
ストレス自体が無力化できないほど強すぎる場合というのがあり、
他の複合的要因があったとしても
強すぎるストレスはそれ自体で、無力化できない事情ですから
それが大きな原因だとされるべきなのです。

この考え方は、労災認定や公務災害認定でも採用されています。
対人関係トラブルでは、例えば
暴力を伴う攻撃を受けた場合、
多数対個で逃げ場のない場合
執拗な嫌がらせのような場合
など、
日常生活で無力化しにくい出来事がある場合に
精神疾患や自死との相当因果関係が認められやすくなっています。



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怒りの行動の対人関係的把握 加害行為としての自傷行為 自死の経路の可能性 [進化心理学、生理学、対人関係学]

どうして人間は、怒るのでしょう。
一説によると、
要求の実現が阻まれることによってフラストレーションがたまると
怒りになるというようです。

この説を批判するというのは、真意ではなく、
別の側面に光を当ててみる試みをするというのが正確でしょう。

対人関係学は、
基礎的事情としては、
欲求が充足されないと言っても
危険を感じて危険な意思不安を解消しようとして
解消できないということが基礎的事情だと考えます。

不安解消や危険は、
基本的には、自己防衛ということになります。

但し、仲間を防衛しようという時も基礎事情になる事がややこしいのですが、
情動的共感をすることによって
怒りの基礎事情になるわけです。

不安解消や危険解消の行動は、
必ずしも怒りにつながるだけではなく、
恐れやフリーズにつながる場合もあるわけです、

そうすると、怒りと恐れとその違いが生じる事情はどこにあるかが問題となります。
この点も対人関係学は、極めて単純です。
勝てるか勝てないかという無意識の判断をしているということです。
つまり、勝てると思ったら怒りになり、負けると思ったら恐れになる
ということです。

もっとも、危険が意識に登る前に、この判断は終わっていると考えています。
怒りと恐れを、自由意志による選択することはできないわけです。

仲間を守るためには、自分が攻撃の矢面に立っていないので
自分が負けると思うリアリティがないので、
怒りを起こして攻撃行動に出やすくなります。

公正さや道徳を見出すものに対しても同様に怒りを起こしやすいわけです。
この場合も、自分や仲間に対して不利益を与える行動だと思われますが、
自分が直接攻撃を受けている訳ではないので
怒りが起きやすくなる訳です。

怒りは攻撃行動をしている場合の感情だと考える訳です。
攻撃をして、危険を除去するという危険回避行動だと把握しています。

逆に自分は勝てないと思うと、
逃亡をする訳ですが、その時の感情が恐れということになります。

怒りも恐れも、危険回避反応ですから
生理的な反応は共通していて、
副腎皮質ホルモンが分泌され、交感神経が活性化します。


怒りの本質は、このように単純なものなのですが、
複雑に見せる原因がいくつかあります。

一つは今述べた、自分の防衛だけでなく、
仲間を防衛する場合も情動的共感によって発動されてしまうことです。
母熊が子熊が危険にさらされていると思うと
怒りによる報復をするような場面が典型的です。

もう一つ怒りがわかりづらくなるのは、
必ずしも危険に対して攻撃が向かわないということです。

そこの危険には二種類あって、
身体生命の危険の場合に、危険回避として怒りが選択された場合は
八つ当たりは起こりにくいのですが、
身体生命の危険はなく、対人関係的な危険だけがある場合は
八つ当たりが起こりやすくなります。

対人関係的危険とは、
人間関係の中で、顔が潰されるとか立場が悪くなるとかという負の評価が起き
究極的には、人間関係から離脱されてしまうという危険をいいます。

例えば会社で上司や取引先から理不尽な叱責を受けていると
職場での人間関係に危険を感じていても
上司や取引先を相手に怒りの行動を起こす訳には行きません。

そうすると、家に帰っても不機嫌になり、
子どもの何気ない言葉に敏感に反応してしまい
怒りを持って攻撃的言動をしてしまう
これが八つ当たりです。

なぜ八つ当たりをするかという理由ですが、
一つは、今見たような過敏な状態になっていること、
もう一つの理由は、
攻撃行動をしている時は、
対人関係的不安が一時的に緩和されるからです。

自分より弱いものを攻撃することによって
自分が感じていた対人関係的危険を
一時的に感じにくくなるようです。

このため、
八つ当たりの対象がない場合
それでも攻撃によって不安を解消できるということを覚えてしまうと
自分を攻撃することによって不安を解消しようとしてしまう
という現象が起きるようです。

自分の体を傷つけないとしても
自分の所有物を破壊するという現象が見られることがあります。
徐々に自分を守る意識がなくなっていくようです。
自分の身体を攻撃することも出てきてしまいます。

不安解消行動は、基本的には防衛行動なのですが、
合理的な解消ができない場合は、
解消要求が強くなってしまい、
自分を攻撃することになっても解消しないではいられなくなるという
矛盾した行動を起こしてしまうのです。
それだけ追い詰められたということなのでしょう。

どうも自傷行為は、自分が傷害を受ける行為という側面と
自分を加害するという側面もありそうです。

加害することによって
不安が解消されるという悲しい矛盾です。
自分の体を犠牲にして
対人関係的不安を解消しようとしているのでしょう。

死ぬことが目的ではないけれど
死んでしまいかねない行為をするタイプの自死が起きる
一つの経路となる可能性があるように考えています。

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「日本の親子」を読む 母の育児不安、夫の子育てが嫌われる理由と、男性が子煩悩になっていく本当の理由、子育てクライシス等家庭問題の根本問題としての職場イデオロギー、 [家事]

1 育児不安と言う概念 母親自身の生き方についての焦りや不安
2 育児をする夫に対する妻の満足と強烈な嫌悪
3 熱心に子育てをする父親が増えた本当の理由
4 家庭に忍び寄り、家庭を崩壊させかねない企業の論理
5 職場の論理の最たる影響、根本的問題


これまでこのブログでは、産後クライシスを取り上げてきました。
主として、妊娠、出産のホルモンバランスの変化と
脳活動の変化から共感の対象が、大人から新生児に移りやすい
大人の特に男性に対して共感する力が弱くなり不信感が生まれやすくなる
という生理的な特徴から産後の夫婦の危機、
女性の生きにくさを勉強してまいりました。

この度
子どもが育つ条件(岩波新書)
大人が育つ条件(岩波新書)
日本の親子(金子書房)平木典子先生との共編
と、柏木恵子先生の著作を拝読する機会に恵まれ、
生理的な変化ではなく、社会環境的な要因に
女性の生きづらさがあることを学びました。

私は離婚事件を担当することが多い弁護士です。
自分の依頼者であったり、相手方であったりする女性の主張を拝見していると
先生のご指摘は正鵠を射ている感を強く持ちました。
感動しながら、共感しながら学ぶことができました。

ただ、
先生は発達心理学者というお立場であり、
私は弁護士という立場であり、
やや異なる側面を見ていることに気がつきましたので
メモ的に書き留めておくこととします。

1 育児不安と言う概念 母親自身の生き方についての焦りや不安

まず、柏木先生の著作によると
子育てをしている日本の母親は、
多くの人たちが育児不安を抱えているそうです。
育児不安とは、育児や子どもについての不安だけでなく、
自分自身の生き方についての不安や焦燥感が大きな比重を占めているそうです。
(日本の親子65ページ)

育児をしながら、(おそらく子どもをどう育てたいのかと思いながら)
それでは自分自身の生き方はどうなのかと考えてしまい、
不安や焦りが生じるのだそうです。

興味深いご指摘として
この焦りや不安は、専業主婦の方が強く
父親の子育て参加が少ない場合も強くなる
とされています。

ただ、ここでいう専業主婦の概念は注意が必要なようです。
ご指摘をされている点を読むと
初めから職業を持たないまま結婚をしたと言う方よりも
どちらかというと元々は職業に就いていて
妊娠を機に退職した女性についての分析が中心のように感じました。

そうであれば、弁護士実務や友人知人のケースともピッタリと符合します。
どちらかというと他者に貢献する意味合いの強い職業に就いていたけれど
妊娠、出産を機に退職した方に、
柏木先生の言うところの育児不安が強く見られるという実感があります。

泣き止まない赤ん坊に翻弄されながら、
自分は何をやっているのだろう
子どもの奴隷となっているのではないか
夫ばかりが外に働きに行けて不公平だ
という意識を持たれる方が多くいらっしゃいます。

子どもに対する殺意を感じるということを語られた方も
少なくありません。
もっともそれを実行しようとする人は稀ですが。

2 育児をする夫に対する妻の満足と強烈な嫌悪

育児をしない夫よりも、夫が育児をする場合
妻の満足度が高いという統計を報告されています。
おそらく一般的にはその通りなのだと思います。

しかし、ご夫婦の間に弁護士が介入するということは
夫婦間に紛争が生じているときなので
おそらく例外的な場面ということになると思うのですが、
夫婦間紛争の実務においては、
夫を嫌悪し、恐怖感を抱いて
子どもを連れて一方的に別居する事例の多くは、
夫が子どもに対して愛情を注ぎ
父子関係が良好なケースが圧倒的に多いのです。

こういうケースは、
別居後、あるいは離婚後
父親と子どもを会わせることを
母親は頑なに拒否することが多いです。

実務的経験から感じる問題として
子どもに愛情を注ぎながら
妻に子どもを連れ去りをされた男性の多くは
ある程度年齢が高くなってから子どもが生まれたというケースが多いという印象があります。
おそらく若い父親よりも年齢が高い父親の方が
仕事などにも慣れて、余裕があり、
子育てに対する憧れのようなものもあり
熱心に子育てをするのではないかと感じられます。
また、実のない規則や決まり事に対する批判的な視点を持てる人が多いようにも感じます。

それではどうして、そのような育児をする夫が
妻から嫌悪され、恐怖感を抱かれてしまうのでしょう。

一つは、子育ての本質は大らかさなのですが(子育てが終わるころに気付くのですが)
そのような父親たちは、知識も経験もあるため
細部にわたり、正しい子育てに邁進しようとしてしまうところだと睨んでいます。
(そこでいう知識や経験は、人生経験というより職業を通したスキルだと思います。)
子どもに愛情を注ぐあまりに、
自分が不適切だと思う子育てを、母親がそれをしようとするならば
容赦のない修正要求をつきつけてしまうところにあるということと
母親ができなくて自分ができる正しい子育てを見せつけてしまうということが
母親の自尊心を傷つけているようなのです。

受け取り方の問題も大きいのですが、
子どもと妻と同時に愛情を注ぐということは
なかなか難しいことのようです。

ここで考えなければならないのは、
「自分はそういうつもりではなかった」
ということは言っても仕方がないことだということです。
相手が、自分は否定されたと思ってしまえば
関係性は悪くなるものです。

子育ては両親が共同でやるということはよいのですが、
余裕がある夫は、
母親がメインで子育てを行い、自分は補助に回り
母親の言うことはその通り実践するという
母親を立てる子育てが実際は良い結果を残すと思います。

そして自分の妻が
夫は子育てに参加するなんて言うのだから意識が低い
なんて不満を持っていることに鼓腹撃壌していればちょうどよいのだと思います。

3 熱心に子育てをする父親が増えた本当の理由

高度成長期までは、離婚が一方の親と子の永劫の別れになることが
多くありました。
それを仕方がないことだと受け止められた
お父さん、お母さんが多かったと思われます。

最近は、父親も子どもに対する愛情表現を積極的に表明することが多くなり、
別居後、離婚後の子育てに関わる要求も大きくなり、また多くなりました。
たまに、この理由についてマスコミなどに尋ねられることがありましたが、
自分でも納得ができる回答ができないでいました。

日本の家族という本には、
その理由を示唆する記述がありました。

まず、子育ては母親が行うことだという分業の意識は
元々は、日本にはなかったということを指摘しています。
幕末や明治直後に日本を訪れた外国人の記録からは、
日本人男性が子どもを可愛がる姿が描かれており
日本特有の風習だという指摘がなされているということは
これまでもこのブログでも述べてきた通りです。

「日本の親子」の中に、神谷哲司という先生が書かれている部分です。119ページ
小嶋秀夫先生の「母親と父親についての文化的役割観の歴史」という論文を引用し
明治以降の国力増強策として、政治的なキャンペーンによって作られ
戦後高度経済成長の時代の男は仕事、女は家庭という性的分業が定着した
というのです。
これは今度入手して勉強したいと思います。

つまり、この性的分業は、最近起きたものであり、
国策によって植え付けられたものかもしれない
というわけです。

そうだとすれば、近年になって日本の父親が子どもに愛着を抱き始めたのではなく、
明治から戦後までの一時期(戦争遂行に明け暮れていた時期)、
男はそういう行動を取るべきではないという風潮があり、
それが今般、高度経済成長の崩壊とともに崩れ出して
元々の日本男性の本音を表明できるようになった
ということなのだろうと思います。

4 家庭に忍び寄り、家庭を崩壊させかねない企業の論理

これまでみてきたマイナスの現象の共通点は、
企業のやり方、職場の道徳、仕事イデオロギーとでもいうような
価値観の問題だと思うのです。
長年の職務経験から自然と身についてしまったのでしょう。

マイナスに現れる仕事イデオロギーとは、
まず、男性が子育てから脱落することです。
その理由が、
長時間労働や、労働強化によって、
家庭人としての行動をする時間と気力、体力がないということです。

この点を柏木先生は鋭く指摘されています。

次に私は、さらに価値観の問題があるように思えるのです。
働く時に必要な価値観として、
合理的行動、正確な行動、迅速な行動、無駄を省くなど
結果に直結するやり方が求められる行動だと思うのです。

しかし、家庭では、安心できる人間関係の構築こそ
最も求められる行動だと思います。

職場の道徳と家庭の道徳は別物なのですが、
どうしても長年職場で仕事をしているうちに
職場の道徳が普遍的な道徳、行動パターンだと
思い込んでいくようになるのではないでしょうか。
家庭の中に職場イデオロギーを持ち込む男性が多いように感じます。
偉そうに言っていますが、我が身を振り返ってもそう思います。
例えば結論の出ない堂々巡りの発言は
家庭ならば何の問題もなく聞いておかなければならないものなのでしょう。
職場の論理からすると、最もダメなコミュニケーションになってしまいます。

職場イデオロギーというか職場の論理自体が家庭に持ち込まれてしまった現象が、
どちらかが仕事を辞めなければならない場合に女性が仕事を辞めるということと
家庭を疎かにしても過労死するほど働くことを余儀なくされていることを受け入れる
ということなのでしょう。

あまりにも家庭が職場の論理で壊されてしまい
過労死をしないまでも家庭が崩壊してしまうということが起きているように感じます。

5 職場の論理の最たる影響、根本的問題

家庭よりも職場を優先するという価値観は、
家庭の生活についての価値を認めず、
収入を得ることに価値を偏重することだと思います。
これは女性にもその強い影響があるように感じています。

男女参画理念は、女性が社会に平等に参画することなのでしょうが
そこでいう「社会」が職場に限定されているような印象を受けるのです。
職場で働くことではなくて、
例えば、収入にはならないボランティア活動だったり
趣味の活動だったり
研究活動だったりということに
どうして価値を認めないのか私には不思議でなりませんし、
家庭を安心できる形にする人間関係形成ということや
子どもを健全に成長させるという子育てという
家事に価値を認めないのか不思議でなりません。

もちろんだから、女性が家庭に入れということではなく、
女性が働いて、男性が家庭に入るということに
もっと当たり前の価値観を社会的に認めるべきではないかということなのです。

人間が輝くのは収入を得ることだということだとすれば
大きな疑問があります。

冒頭述べました育児不安の中の
子育て中の母親の不安や焦りというものも
どちらかということ
職場イデオロギーに支配されているように思えるのです。

外に出て対価として賃金を受け取って働かなければ
人間として価値を実感できないと感じさせられているのではないでしょうか。

男性が一家の大黒柱として家計を支えなければならない
というジェンダーバイアスの裏返しが
女性はできるならば家庭に残って、仕事も男性の補助的な役割にする
ということなのだと思います。
そしてこれが育児不安の根本だと思いました。

しかし、これは、富国強兵、戦争国家のための
銃後の守りに代表される作られたイデオロギーであり、
その効果も時代とともに薄れ
男女共に働かなければ生活を維持できないという社会情勢の変化によって
化けの皮がはがされるところになっていると思います。

女性の解放は男性の解放と同時に進めなければ実現しない
私が一番学んだことかもしれません。

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連れ去り被害者は、被害者であることに徹底するべきであると強く感じることが多いという件 [家事]

平成の初期から始まり、平成22頃から飛躍的に増えてきた事件類型があります。
妻が子を連れて、夫と共同生活していた家から一方的に別居する事件
そしてどこにいるかもわからなくする
それに行政や警察が1枚かむ。
こういう事件をよくを担当しています。

その多くはDVなどなく
社会通念上「普通」の夫婦の範囲内の生活を送っているのですが、
出ていくときには
妻は精神的虐待の被害者で
夫は加害者になっています。

妻の精神的負担を察することがなく
夫婦間の問題を夫が何とかしなかったから
精神的虐待だという論調が多いようです。
夫婦の安定は夫の仕事というジェンダーバイアスが強い主張が多いわけです。

夫は、そういう乱暴な形で妻から
夫として、父親として、男性として、あるいは人間として
強烈なダメ出しを受けるわけです。

誰だって平気でいられるわけはなく
うつ病で通院を始める人、仕事ができなくなる人
その結果自死する人など
深刻な被害を受けています。

そこまでは被害者なのです。

しかし、被害を受ければ反撃して身を守ろうとするのが人間ですし、
反撃しないでうつ病が進行することは大変危険なのですが、

ある局面だけを分解してみると
その反撃行為のために加害者になっていることがあるのです。

決められた生活費を入れないとか
必要な手続きに協力しないとか
大声を出して面会を求めるとか
押しかけるとか

これらのことは、気持ちはわかりますし
自分が同じ立場なら果たして冷静に損得を考えられるか
ということについて、それほど自信はありません。

しかし、それについてのメリットはなく
デメリットだけはてんこ盛りになります。

先ず、日本の法体系や警察実務から
現場に警察官がとんでもない人数駆けつけます。
何かあったのかと思っているうちに警察官に取り囲まれていた
という体験談は毎月のように聞きます。

ストーカー規制法や保護命令など
そういう事態に対処する法律は事欠きません。

ただ、それが自分に対して執行されるとは思わないだけです。

そういう問題もありますが
一番影響が出ることを実感していることは
裁判です。

離婚裁判では、先ほど言ったように
針小棒大な主張がなされるわけです。
ちょっと、口をはさんだだけで
椅子に座らされて大声で怒鳴り続けられた。
理不尽な要求をして、要求が実現するまで
監禁されたなどということも主張されたことがあります。

夫は思うわけです。
そんなことがあるはずないのだから
裁判所はそれを認定しないよなと。

被害者が被害者のままならばそうなる可能性も高いでしょう。
ところが、被害者が反撃するものだから
証拠で出したりすればそれを裁判官も知るわけです。
ああ、やっぱり常識に反した行動をする人か
力で相手を屈服させようとする人か
裁判所で決めた養育費を払わないなら
同居中二人で約束した生活費なんて払わないよな

どんどん状況は確実に不利になってゆきます。

この人は、自分の感情を抑制できない人なんだなと思われれば
実際はDV認定まっしぐらということになりかねません。

代理人としては思うわけです。
もったいないなあと。
せっかく被害者なんだから
裁判を有利に進めようと思っていたのに、
ご自分で自分の足を引っ張っているようにしか見えません。

代理人としては、付き合いも長くなることが多いので
なんとなくわかるんです。
この人、連れ去り別居が無ければこんなことする人ではないのだろうなと

しかし、現実には連れ去り別居は起きている。
精神状態は煮えくり返るようになるわけです。人間だから。

だから、強くは言えないのですが、(いうことも少なくありませんが)
妻は裁判所の入り口だと思って
被害者然としていることが肝要で
報復的な行動をしても自分が損をするだけだからやめろと。

そういうと
皆さん口をそろえておっしゃいます。
だって不合理じゃないか。

そうなんです。
でも不合理なんです。不公平なんです。
力が及ばない代理人がそんなことを言っては申し訳ないのですが、
そんなことは100も承知の方々のはずなんですけれど

ただでさえ不合理なのに
益々不合理な方向に自分で進まれていますよと
うまく伝える方法を募集することにしましょう。

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新型コロナの自死に及ぼす影響の試論 [自死(自殺)・不明死、葛藤]


1 今年の日本の自死者の動向

我が国の自殺者数は、小泉政権の頃をピークとして、それ以来減少を続けていた。第一次緊急事態宣言が出されていた6月までは、毎月の自殺者数は近年もっとも低かった前年比でも減少を続けていた。ところが7月に前年比増加となり、8月は女子中学生、女子高生での顕著な増加がみられるなどさらなる増加が見られた。それ以降の前年比は、明らかに増加している。それでも9月までは、平成27年とほぼ同様の自殺者数であったが、10月は極めて高い数字になり、11月には、平成27年と同様の自殺者数に戻ったが、近年では高い値を示している。特に女子高生の自殺者数は、例年一ヶ月あたり数件程度であったが、今年は8月以降は二桁の月が多い。女性の自殺者が増加しているという特徴があるが、前年代で見ると、男性の自殺者の方が多いことは例年通りである。

2 1月から6月までの自死者の減少

1月から6月までは、近年の最も自殺者数の低かった前年を下回る自殺者数であった。すでにコロナの問題は大きくなっており、緊急事態宣言も出された。マスクなどの予防グッズは品薄になり、入手困難となった。志村けん氏や岡村久美子氏の死亡も報道され、コロナの恐怖も現実的になったはずだが、自殺者数は減少した。
この理由については、ある程度、国も把握しており、大規模災害の際は、連帯感や帰属感により、自殺者数が減少するという現象が指摘されていると報告している。東日本災害の前からこの見解は実証的に証明されていた。東日本大震災の際も同様であった。
この事実は、自死の原因として孤立感が大きな要素であることを示している。
この時期には、多くの人達が、同じ思いでいるということを実感していたと思う。人々は理屈抜きに、繁華街から足を遠ざけたし、マスク不足を嘆いていた。政府に対して批判をしていたし、定額給付金も受給できていた。自分だけが苦しいわけではないということは、孤立感を解消し、自分が社会の一員であるという意識を醸成するという効果があったと思われる。
これに対して、政府のコロナ対策の政策が自死者現象の要因ではないかという指摘が主として政府筋からなされているようである。これも否定する必要はなく、社会の一体感を醸成することに一役買っていると評価して良いと思われる。大事なことは、そうであれば、今後も定額給付金の支給など6月までになされて有効だった政策を今後も行うべきだということになる。

3 7月と10月の自死者の急増とウエルテル効果

7月8月と10月に自死者が急増した理由は何であろうか。指摘されているのは、7月に俳優の三浦春馬氏の自死の報道があり、9月末に女優の竹内結子氏の自死の報道があったことである。有名人の自死が起きると、連鎖的に自死が増えるという理屈である。いわゆるウエルテル効果があった可能性を否定できない。
しかし、ウエルテル効果という言葉だけで説明を終えることには疑問がある。ウエルテル効果で終わってしまえば、自死の予防方法は報道のあり方の対策だけになってしまうし、結論としてあまり有効な対策がないということになってしまいかねない。
有名人の自死が引き金となる自死は、有名人が死亡したことで希望を失って自死が起きるという単線的な話ではない。例えば、有名人が病死をした場合は、連鎖自殺はおきにくい。元々自死の要因があり、最終的に、有名人の自死が最後の一押しとなり自死が起きたという分析がなされることが通常であろう。
問題はどうして最後の背中の一押しとなるかにある。
考えられることの一つは、有名人はテレビなどに露出する機会があり、日常的によく目にする存在である。心理的に、自分の仲間とか、身近な存在だと錯覚してしまう効果が生まれてしまう。その身近な存在が自ら命を断つということで、死の恐怖が軽減されてしまうという効果が生まれてしまう。人は、苦しみ悩むことがあっても、死ぬことは恐怖である。このため自死ができないという構造がある。しかし、その恐怖を打ち破って自死をしたものが身近な者である場合は、あるいは同じ苦しみを抱いていたと感じている者の場合は、死の恐怖を軽減させる効果があるようだ。考えられる理由の二つ目は、自分の抱いている不安を解消する方法が見つからない場合、自死という方法で不安から解消されるというメッセージを受けてしまうことだ。これは自死の方法が具体的に示されれば具体的なほど、メッセージは強いものになる。不安の解消方法が見つからずに精神的恐慌に陥っている場合、具体的な不安解消方法が示されてしまうと、それを行わないで自分を押しとどめる力が弱くなってしまうようだ。若年の自死者の多くが、自殺の方法が掲載されているインターネットのサイトを閲覧しているようだ。精神的に追い込まれているものにとって、具体的な自死の方法をテレビや新聞で知らされることは、苦しみから解放されるためには、こうすれば良いのだよという悪魔の誘惑となっているということなのだろう。
ただし、自死の原因はさまざまであり、連鎖自殺、群発自殺があったからと言っても、本来であれば、追い込まれた原因はそれぞれのはずである。しかし、今回、コロナという大きな出来事があり、この問題と自死の問題を関連づけないわけにはいかない。

4 前提としての個別事例の調査の必要性

現在のコロナと自死の原因の検討に対して、マクロ的な視点はあるものの、ミクロ的な視点が検討されているということがあまり聞かれない。つまり、実際の自死者がどのような背景の中で自死したのかという事情の調査が行われたという話を聞かない。
統計的にコロナが自死の原因になっているだろうという推測は可能であるが、では、どのように自死と関係があったかという具体的な事情は不明のままである。
このため、それぞれの立場に都合の良いように、コロナと自死を関連づけている見解が目につく。コロナ禍に便乗して自分の主張を展開しているかのような者も残念ながら目につく。

とはいえ、私の以下の試論も同じようなものである。どうかそう言う目で私の考えも読んで欲しい。

5 対人関係学と自死のメカニズム 不安解消要求の肥大化

自死のメカニズムについては、先日のべた
どうして死の恐怖によって自死行為をやめようとしないのか。自死のメカニズムのまとめ 焦燥感の由来 何に気を付けるべきか

ごく大雑把に要約すると
対人関係問題、健康問題など解決不能の問題に直面すると、人間は合理的に思考する力が低下していく。思考力の低下は、複雑な思考の低下、二者択一的思考の傾向、悲観的傾向、因果関係や他者の感情把握の困難性などの具体的な現象となる。不安が解決しなければ不安解消要求も大きくなり、解決不能感がさらに持続していくと不安解消要求も肥大化してゆき、更なる思考力の低下と相まって、不安解消要求が最優先課題となってしまい、表面的には生存要求をも凌駕してしまう。通常時の死の危険からの解放を求める衝動的要求と同程度の強い自死への衝動により自己抑制が効かなくなり、自死に至ってしまう。
と言うものである。

6 コロナ不安と自死のメカニズムの親和性

コロナ禍の現状は、このような絶望を抱きやすい不安が存在する。
人類が体験してこなかった事態である。これが当初は、良い方に作用した。気温の上昇とともに、収束に向かったかのように思えたと言うこと、おそらくこんな感染力のあるウイルスはこれまでなかったのだから、今回も一時的なものであり、時期が来れば収束するであろうと言う期待を持つことができた。それまでの辛抱だという希望があった。しかしそれは根拠のないものであった。
収束するかと思われたにも関わらず、収束しなかったと言うことは大きなダメージである。ふわりと浮いてから地面に叩きつけられたようなものである。落差効果も生まれてしまった。その後、気温低下とともに、これまでにない蔓延が起き、絶望が起き始めた。その時々の芸能人の自死は、元々あったコロナの精神的ダメージによる効果に、自死による衝撃を上乗せさせた形になった格好なのではないかと推測している。
コロナの問題は、目に見えない感染ということで、不安を抱かせる。しかし、その解消方法は見つからず、収束に向けた動きも見えない。思考力の低下、悲観的思考傾向への誘導が起きやすい事情である。症状や後遺症の内容も曖昧なところがあり、治療法も確立されていない。漠然とした不安を抱きやすく、不安の解消が困難であるという極めて危険な不安形態である。つまり、自死の背景になりやすい不安なのである。

7 不安と個性 そして女性

人の反応は一様ではない。コロナ問題が解決しなければ、不安が増加する人もいれば、馴化してしまう人もいる。つまり慣れてしまうと言うことだ。心配をしても、自分にとって悪いことが起きないと言うことが続くと、不安を解除してしまう性質は自然のものである。防犯グッズを集めて防備を固めた人もいれば、第一波の時は外出しなかったのに感染者が増大しているのに忘年会などに出席することに抵抗がなくなってしまった人もいる通りである。
生まれつきの性格ということもあるだろうが、どうやら人間は他者との関係で心理的な変化をするようだ。それにも個性があり、仲間が怖がっているときに無条件で自分も怖がる人、仲間が怖がっている姿を見て逆に冷静になり合理的な行動をしだす人もいる。どうやらこういう群れの中のランダム化、結果としてのバランス化が人類の強みだったようだ。
このため不安の性差は分かりづらくなっているが、どちらかというと身体の一体性や安全性に神経質になりやすいのは女性の方ではないかと感じている。男性の方が多少怪我をしてもやるべきことがあればやってしまう人が多いような気がする。男性の方が向こうみずの者が多く、馴化しやすい者が多いのではないだろうか。
もしそうだとすればということになるが、コロナ不安の影響を受けやすい人間は、女性の方が多くなるのではないかという推論が可能となる。

8 自死の予防に向けたコロナ対策

感染が目に見えない。感染すると命の危険があり、後遺症もあり、他者にも感染させてしまう危険がある。自分だけが気をつけても、知らない間に感染している可能性がある。感染の危険が減少するどころか、現在は増加傾向にある。底が見えてこない。
これらの事情は、コロナ不安を起こしやすい事情である。しかし、どこまでその不安が合理的なものかについては、争いがあるようだ。
ただ、自死予防の観点で必要なことは、客観的事実のありかではない。不安は主観的なものであり、合理的な思考によって不安が解消される人もいれば解消されない人もいる。自死予防で想定されるべきモデルは後者である。
もっとも大切なことは、他者の不安を否定しないことである。不安をコントロールするべきだという議論は、一見合理的に見えるが、心理的な実情からすれば極めて乱暴な議論なのである。自分が落ち着いているのは、そばにいる人が不安になっていることの逆説的効果なのかもしれないということを意識するべきである。

第二波の女性の自死者の中で、同居家族が多い人の割合が多いと言われている。即時に家庭内暴力に結びつける論調がある。これがコロナ便乗の主張の典型である。母数を考慮する必要がある。一人暮らしをしている女性と同居者のいる女性ではそもそも圧倒的な差異があるはずだ。もし、同居者のいる女性の方が、一人暮らしの女性よりもそもそも人数が多かったならば、同居者のいる女性の自死者が多くなることは当然のことである。また、このような乱暴な推論は、自死の理由を同居者にあると主張するものであり、遺族を鞭打つ主張となる。

但し、もし私の推論が正しければ、つまり、女性は男性よりもコロナ不安に敏感であるにもかかわらず、男性は女性のように不安を感じていないという構造があるのであれば、それが自分が家族から攻撃を受けていると感じることの要因になっている可能性がある。そしてその不安格差を是正する方法もあるということになる。

何よりも、他者の不安を尊重するという態度である。それは他者の不安を否定しないということである。不安をバカにしたり、不安になっていることを責めたりする場合もある。こういうことをしないことを意識することである。
不安の否定、嘲笑や叱責があると、不安を抱いている者は、ことさら自分を否定されたと思いやすくなり、自分の理解者がいないということで、孤立感や疎外感を感じやすい。自分を理解してくれる仲間を外に求めることができればそちらに向かってしまう。また、表面的な共感を渇望してしまう傾向になる。それらの外部での不安の緩和方法がなかったり、外部の相談機関がクライアントに共感することに夢中で、家族を否定する回答することにためらうことがないならば、家族の些細な言動が、自分に対する精神的虐待だと感じやすくなってしまう。
家族は、自分以外の家族の不安をきちんと受け止めることが肝要だということになる。過敏な不安に追従する必要はない。意見が違う場合でも、相手を否定しないでじっくり聞くことはできるはずだ。否定の結論だけが示されてしまうと、不安は減少せずに焦燥に変わりやすくなる。思考力の低下が進み、悲観的傾向が強くなる。否定されないで、むしろ共感を示されることによって、悪循環が絶たれて、思考力が回復し、漠然とした不安から合理的な対応へ変化する道も切り開かれる。「心配する必要ない。」と言うよりも、「あなたは心配しているんだね。心配の種は尽きないね。」という方が、不安は減少するということを覚えるべきだ。
コロナが原因で家族が崩壊するということを避けるという発想から、コロナを機会に家族力を育むという発想が明るい気持ちになれるのではないだろうか。不安に対応することが意識的に行われれば、それは対人関係を強化する。

社会的には、コロナの科学的な解明とそれを分かりやすく伝えるということが必要だと思う。コロナの問題だけは、政治的な立場や自分の主義主張による便乗をできるだけ排除しなければならないと考えている。また、科学的なことをわかりやすく伝える努力があまりにも欠けているように私は感じているが、どうだろう。わかりやすく説明するためには、メリットデメリットや、各対策の限界についてもごまかさず伝えていかなければならないだろう。
例えば、第三波とも言える令和2年11月からの感染者の爆発的増大であるが、政治的な失敗が多く指摘されている。そういう側面もあるかもしれないが、私は、ウイルスの性質もあるのではないかと考えている。つまり、第1波の収束は、気温と湿度の上昇およびマスクの効果により、飛沫感染が起こりにくくなったことによるもので、11月からの増大は、気温の低下と湿度の低下により、飛沫感染が起きやすくなったということは考えられないだろうかということである。もしそうだとすると、必要なことは3密とマスクだけでなく、湿度管理、水分補給ということを意識することという視点も強調されるべきだ。もちろん、冬は飛沫感染が起こりやすくなっているのであるから、マスクをしても密集、密室、密接は感染リスクを高める。夏に感染を起こさなかった行為も、冬は感染を起こしやすいのである。後ろ向きな政治的な失敗を指摘し続けることは、本当に今しなければならないことの行動提起が疎かになる危険があるように思われる。現政権を批判するよりも、国民が望んでいるリーダーシップを取ることの方が、政権の帰趨により現実的な変化を与えるだろう。

また、コロナの対策の科学的検討を国をあげて推進するべきであろう。特に重症化を防止するための方策と重症化からの回復の方法の検討を行うことが不安の増大化を防ぐために効果的ではないかと思われる。そしてこれらの研究、検討は、途中経過をどんどん報道するべきだと思う。大規模に検討しているということを知ることが、希望につながる場合も少なくないと考える。

そうやって、国民の対立をできるだけ縮小する方向に国は誘導するべきだと思う。国にいる全員が利害共同体なのだから、みんなでコロナに向かっていくという一体感を作り出す方法を積極的に取り入れて行くべきであろうと思う。

今やってはいけないことは、個人を分断させることだと思う。コロナ警察という社会現象も、コロナ不安によって感情的な意味合いを増強させている。不安は、社会に対しての公正さを強く求めるようにさせるのである。政策に、不平等を感じなくさせるように努力することが必要になるだろう。そして、不安を解消させる方法、他人を責める方法に変わるエレガントなやり方を具体的に提示するべきである。そのためには和やかな議論は必須だと思われる。相手を否定しない議論のサンプルを示すことはとても有効だと思う。また、自分の意見を社会が受け止めるという仕組みづくりも有効だと思われる。

今回色々と私見をごちゃごちゃと述べさせていただいた。今後、自死の分析が進む中で、さらに様々なことがわかってくると思われる。そのためにも、できる限り個別事情にあたることが必要となるはずである。その基盤がないことと、社会の未成熟、民主主義の未成熟がコロナ不安を増強させているような気がしてならない。
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