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公正世界仮説を批判的に学ぶ 苦しんでいる人をそこまで攻撃する理由 被害者を攻撃したくなる心理  [進化心理学、生理学、対人関係学]


以前自死が忌み嫌われる理由ということで、直感的な説明をしたことがあります。他人の自死に対して憤る理由 忌み嫌うということ 絶望回避のシステム(閲覧注意)https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2016-05-14

社会心理学では、公正世界信念という認知バイアス理論で説明されるようです。
この説は、Wikipediaの説明によると、
「公正世界」であるこの世界においては、全ての正義は最終的には報われ、全ての罪は最終的には罰せられる、と考える。言い換えると、公正世界仮説を信じる者は、起こった出来事が、公正・不公正のバランスを復元しようとする大宇宙の力が働いた「結果」であると考え、またこれから起こることもそうであることを期待する傾向がある。

わかるような、わからないような説明ですね。

要するに努力している者は必ず報われるはずだというような考えや、不利益を受けている者は何か悪いことをしたから不利益を受けるはずだというように、つい思ってしまうという傾向が人間にはあるという理論なのです。おおざっぱに言えばですが。こういう風に考えることによって何も約束がない現実社会に法則性があるということで安心したいのだと社会心理学の教科書には書いてありました。

前にもこの学説は何度か目にしていたのですが、私は違和感があるものの「そりゃあないだろう」ということでスルーしてきた理論でした。そうしたらニュートン2023年2月号の認知バイアスの特集で公正世界仮説として20の認知バイアスの一つとして取り上げられていたので、一度私の考えを整理する機会だと思ってこれを書いているわけです。

性犯罪被害ということでよく出てくる理論です。性被害を受けたことは、精神の殺人だと言われることもあるほどの強烈な精神的打撃を受けることです。その後に人格が変わってしまったり、引きこもりになってしまったり、社会活動ができなくなるということもあることです。この世に生まれてきた意味がなくなるほどの被害を受けます。

それにもかかわらず、世の中には、被害者が挑発的な服装をしていたのが悪いとか、夜中に一人で歩いていたことが悪いとか、原因を被害者に求めようとする論調がされることがあります。なぜ被害者を叩くのかということで、それは公正世界信念に基づいている、つまり不利益を受けた者はそれに見合う行動をしていたからだという風に考えてしまうということを説明する理論ということになります。

これに対して、私が直感的に「そりゃあないだろう」と考えた理由は以下の通りです。
・ 回りくどい。いちいちこの世の中はこうだから、被害者が悪いという理屈づけをしているわけではない。もっと反射的な感情、思考をはさまない説明をするにふさわしい感情ではないか。
・ 無意識にそう考えてしまうという意味の理論なのですが、それでも現実社会に住んでいる人間にとってはそう考えてしまうということには疑問があります。だって、努力が報われると思っている人がどれだけいるでしょうか。自分が不遇であることが自分に責任があるという謙虚な考えは人間として自然な考えなのでしょうか。違うと思うのです。

そのため私は、公正世界の信念ではなく、自分の心理的負担を軽減するために生じる認知バイアスだと考え、自殺者に対する批判の言動に関して述べたのが先ほどのブログ記事だったわけです。

この記事をニュートンの記事が出たことを機会に整理しようとしていたのです。ところが、Wikipediaの記事を読んでみたら、私と同じようなことは既に考えられていたようです。これはなかなか私が読んだ何冊かの社会心理学の教科書には出てこなかったため、これまで知りませんでした。

エルビン・スターブと言う人の理論のようです。
犠牲者非難やその他の戦略は、苦痛を見た後の不快感を軽減する方法であり、共感によって引き起こされる不快感を軽減することが第一の動機だとしているようなのです。

この人の理論の日本語訳が見当たらなかったので、私の考えに引き付けて説明をすることにします。

<他者の苦痛を見た場合に自分も苦しくなる共感というメカニズム>
人間は、群れで生活する本能を持った動物です。群れの仲間だと認識した他者に対しては、我がこととして苦痛を排除したい、安心させたいという本能を持っていて、このために言葉のない時代でも群れを作ることができたという考えが出発です。現代社会で、このような感受性の強い人が少なく見えるのは、当時と異なり所属する群れが複数あり、関係する人間が膨大な数になってしまうため、群れの仲間を完全に肯定することが難しくなっているという環境の変化に起因すると考えます。

つい、誰かが苦しんでいる姿を見て、ああなるほど苦しいだろうなと思ってしまうと、あたかも自分がその苦しみの原因を追体験しているように自分が同じ立場であることを想定してしまい苦しくなってしまうということが「共感・共鳴」による苦しさということです。

エルビン・スターブは「不快感」という言葉を使っているようなのですが、言語がどういう言葉なのかわかりません。共感という言葉も使っているようなので、私のように「苦しみの追体験」ということでよいのではないかと思います。ただ、実際に苦しむ出来事は他者には起きていないので、追体験と言えるほど強烈な感情を起こすことなのかということについてはもう少し考えなければならず、不快感という強烈とは言えない程度の感情が起きた場合ほど被害者攻撃は起こりやすいと考える方が妥当かもしれません。

しかし、さらに翻って考えてみると、被害者本人のように精神的打撃を強大にしないための防衛機制であると考えると、やはり追体験でよいのではないかとも考えています。要するに追体験による強い精神的打撃の予防行為ということです。特に解決不能の不安を解消したいということ、絶望を感じることを避けたいということなのだと考えています。

<防衛機制としての被害者攻撃>

被害者攻撃がなぜ不快感の軽減、ないし追体験による精神的打撃防止になるかという点について説明します。なお、どうして自分に利害関係が無いのに、被害者に対して攻撃と言えるような表現の言動があるのかについても合わせて説明してみます。

一言で言えば、被害者を仲間として見ることを拒否する行動だからです。先ほど述べたとおり、人間は仲間だと思うから被害者の苦しみをわがことのように感じてしまうわけです。当時の人間は数十名から100名を超える規模の群れの仲間と一生涯を過ごしていました。群れ以外の動物はすべて敵か食料であり、攻撃する対象でした。現代において、経済動物である豚とか牛とかに、名前を付けてはいけないという話を聞いたことがあります。名前を付けてしまうと、仲間だという気持ちが生まれてしまい、殺して食べることができなくなるからだとされています。逆に言うと名前を付けないことによって群れだと感じないようにして、食べやすくしているということが言えるでしょう。

他者が群れの仲間ではないという扱いになると、それは人間として尊重する必要性を感じなくなることになります。敵であると認識すると、共感が遮断され、容赦のない攻撃をすることに抵抗が極端に無くなるのだと思います。

被害者を非難したり、人間扱いを否定したりすることによって、共感を遮断し、自分が心理的負担を感じなくて済むように、認知が歪むのが人間だということになりそうです。

現代とは異なり、群れの人数がせいぜい150人くらいという、仲間の個体識別が可能であり、かつその人たちとだけ一生過ごしている時代には、このような共感の遮断は行うことができなかったと思います。現代社会が、人間の能力を超えた人数とかかわり、複数の群れに同時に所属するようになり、かつ、群れへの永続性が保障されない不安定な環境の中で人間が適応するための認知バイアスだということになりそうです。

群れとして共感の発動を拒否する現象としては、性被害をはじめとする被害者に対する場合、自殺者や遺族に対する場合、民族の異なる人への差別、障害者や災害被災者等様々な場合が説明できると思います。

一度群れの仲間ではないと感じてしまうと、人間性や個性などを細かに評価することができなくなり、例えば日本人とか犯罪者とか自殺者とか、抽象的カテゴリーで認識しようとしていくことになります。社会心理学でいうところの外集団均質化という理論につながっていくわけです。

以上から見ていくと、自殺者差別や被害者攻撃は、心無い人が行うというよりも感受性が強く他者の痛みを自己の痛みととらえやすい人たちが行っている場合である可能性があることになります。人間は一定以上の心理的負担を拒否したいという動物ですが、他者に共感してしまう動物だという矛盾を抱えているわけです。ここを無視して、他者への攻撃だけを非難したとしても、被害者攻撃は無くならないのではないでしょうか。

他者が被害を受けたことを見聞きした場合には、意識してお気の毒であることを意識することが第一だと思いますし、亡くなられたということであればお悔やみすることが第一に行うことだと思います。そして自分が何かできることがあるか否かを考えてできることがあればするということですし、できることが無いというのであれば、それは仕方がないことだと納得するべきです。また、家族の中であれば、その被害はあなたには起こらないということで安心させることも仲間としては行ってよいと思います。

できるならば、どうしてその被害が起きたのかということがバイアス抜きに説明されて、これから自分がどのように心掛けて生活すればよいかということがその人なりに理解できるようになることで安心することが本当は良いと思います。

人類の課題としては、理屈として、味方ではないと感じても、敵だと感じないようにすることであり、敵でも味方でもない人間がいると認識できるようになること、共感の遮断のために攻撃まではしなくてよいようにするということを編み出していくことが必要なことだと私は思っています。こういう考え方こそが被害防止の理論の根幹に置かれるべきだと思っています。

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罪悪感の弊害 防衛機制としての片親疎外 夫婦喧嘩その他 [進化心理学、生理学、対人関係学]

罪悪感の弊害 防衛機制としての片親疎外 夫婦喧嘩その他

1 罪悪感の本質
2 罪悪感の発動ポイント
3 罪悪感に耐えられない人間
4 罪悪感から逃れようとする時の問題
   犯罪
   片親疎外
   その他

1 罪悪感の本質

罪悪感を抱くと、落ち着かない気持ちになります。何とかしなくてはならないという気持ちになるわけです。端的に言うと不安になるわけです。
罪悪感を抱く理由が実はここにあります。
つまり、罪悪感の原因を突き止めて罪悪感を抱かなくするために、行動を修正するきっかけになるわけです。結果として、良い行動ができることになります。罪悪感があったために、人間は悪い行動をすることについて、自分で自分を野放しにしないで抑制することができた、だから生き残ることができたということになりそうです。逆に言うと、罪悪感を持てない個体は淘汰されてしまったのだと思います。つまり罪悪感は進化の過程で人類が獲得したということが本質だと思うのです。

2 罪悪感の発動ポイント

では、どんな場合に罪悪感を発動するのでしょう。対人関係学では、他者との関係で自分の立場が危うくなる場面で罪悪感が発動されると考えています。つまり、法律や道徳などルールを守らない行動をした場合、誰かに迷惑をかけた時、誰かから非難されそうなことをした時などです。もっと対人関係学的に言えば、自分が自分の群れから追放される危険を持つ行動をした時ということになるのですが、これはなかなか自覚できる話ではなく、原理論理の話です。

つまり、群れの仲間として否定評価されるような行動を自分がした場合に、罪悪感を抱いて行動を修正するとか、罪悪感を抱くことになることを予想してそのことをすることを我慢したりするということです。

この結果、人間ははっきりしたルールを作る以前から群れを作ることができて、他の動物の中で生き残ることができたと考えるわけです。

3 人間は罪悪感に耐えられない

現在生存している私たちは基本的には、罪悪感を抱いて群れにとどまり続けた人間の子孫ですから、罪悪感を抱くと不安になり、何とか解決をしようとします。そういう心を持っているわけです。

罪悪感を抱いても行動を修正しなければ、生存の役に立ちません。強い力で人間に行動修正をしたくさせます。罪悪感は行動を強制修正する装置だということも言えます。ただ、それだけに罪悪感を解消できなければ、不安は持続しますし、解決欲求はどんどん強くなってしまいます。

本来、罪悪感を抱いた原因を探り当てて、その原因を解消するような行動をとって罪悪感を解消するということがノーマルで合理的な行動だということになります。おそらく100人程度の単一の群れで生活していた場合は、それが十分可能だったのだと思います。

ところが現代では、出会う人間の数は多いですし、群れも、家庭、学校、職場、ボランティアなど無数にあります。例えば、学校でみんなで次の授業をさぼろうという話になっても、親の顔がちらついて授業をさぼっては申し訳ないという罪悪感を抱くということはありますよね。しかし、自分だけ授業に出てしまうと友達との関係で罪悪感を抱いてしまうこともあります。群れと群れの間で罪悪感を解消する方法が見つからないということは、結構あるわけです。子どもの学校の卒業を祝おうと約束していたのに、急な残業をしなくてはならなくなるとかということもあることでしょうね。

4 罪悪感から逃れようとする時の問題

罪悪感を抱きながら生きていく人もいるでしょう。まじめで責任感が強い人は罪悪感に無防備になっていて、何とか解消する方法があるはずだ、群れと群れとの板挟みを合理的に解決する方法があるはずだ、頑張ればできるはずだという姿勢に立つからこそ、苦しむわけです。

要領の良い人になると、理屈をつけて罪悪感を解消しようとしています。
学校の例で言えば、「自分で進学を希望した以上授業に出るのが本則であり、友達の約束自体が不道徳で守る必要がない。」と割り切る人、「学校での友人関係こそが財産になる。授業を一回くらいさぼったとしても、天秤にかければ自分にとって得になる。」と考える人。会社の例は、皆さんも良く直面している問題かもしれません。約束を破った家族に対して、「仕方がないじゃないか」と言って素通りしようとする人が多いかもしれません。

実際は、罪悪感に向き合い続けることができず、あえて罪悪感から目をそらさないためには、相当の意志の力が必要ではないでしょうか。無意識のうちに言い訳を作って罪悪感を抱かないようにしようとか、軽減しようとすることを、人間は自然に行っていることが多いです。自分を罪悪感で苦しませないための心理的なメカニズムが発動されているわけです。

<犯罪者の合理化>
自分を守るということを言い訳にして犯罪を実行する人たちがいます。実際にそのような経験を再三したことが多いのですが、「誰かに温情をかけると自分が壊滅的に苦しんでしまう。こう言う人は損をさせても良い、だから自分の犯罪は、違法だけど自分は気にしない。」ということを言う人もいました。一見するとパーソナリティに問題があって他人の苦しみを理解しないのではないかと思う人でも、きちんと罪悪感を抱いていて言い訳をしていたことになります。今気が付きました。

<親から分離された子どもの片親疎外>

児童相談所に保護された経験を持つ人から話を聞いたり、一方の親に連れ去られて久しぶりにもう一人の親と面会した子どもの様子を見たりしていると、親から引き離された子どもは、その親と一緒に生活しないことに罪悪感を抱いていることがわかります。

要領の悪いというか、まじめで責任感や正義感が強い子どもは、罪悪感をいつまでも引きずっていくようです。親から分離されて育った子どもは自尊心が低くなることが指摘されていますが、こういうところにも原因があるのではないでしょうか。育てた人がどんなに立派な素晴らしい人であったとしても、自尊心の低下が起こるには理由があるように感じました。

子どもは自分でもあまり罪悪感を自覚しておらず、その場その場では、周囲の人と協調していて楽しそうに行動しています。しかし、子どもたちを見ていると、やっぱり孤立感や罪悪感を抱いていたのだなと強く感じる瞬間があるのです。これは顕在化しないだけに対処が難しいのだと思います。

但し、そんな子どもでももう一人の親と会い、その親が満面の笑顔で迎える場合は子どもの罪悪感は一挙に氷解します。親にしがみついて大泣きして泣き止まない子、ずうっと何をしても楽しそうに笑顔を続ける子、年齢に応じた表現方法で、長年の懸案事項が一気に解決した安心感を爆発させる姿は、言葉にできません。

子どももそんなまじめというか要領が悪いというか、そういうタイプの子どもだけではなく、自分を防衛するための理屈を作る子どもたちもいます。一番多いのが、「会えない親が悪いから自分が被害を受けているのだ。その親は親として不適当な人間なのだ」というものです。子どもの性格によっては、どうしても必要な心のバランスのとり方のようです。自分の周囲の大人に対しても、その親と「会いたくない」というわけです。積極的に会いえない親の悪口を自分から言う理由もそういうところにあるのかもしれません。同居中に厳しいしつけをしていた親に対しては、特にそのような言い訳を自分にしている場合があるように思われます。言い訳がしやすいのだと思います。片親疎外(子どもが親のうちの一人に対して拒否的な行動をすること)が深刻になる原因には子どもの一緒に住んでいないという罪悪感もあるのかもしれません。

<その他>
罪悪感が高じてしまうと、罪悪感の原因になった問題を解決しようという合理的な解決を考える余裕がなくなります。とにかく罪悪感だけは何とか解消したいという逆転現象が起きてしまいます。特に人間関係と人間関係の間に入ってしまい、こちらを立てればあちらが立たぬという状態にある場合は、逆転現象が起きやすいようです。冷静に考えればどちらにも角を立てない方法があるのかもしれませんが、このようなジレンマに苦しむときは冷静な思考が起こりにくくなるようです。

こうなってしまうと直感的な行動になってしまいます。反撃されないほうに不利益を押し付けるということが出てきてしまいます。先ほどの会社と家族の約束を例にとりましょう。会社の上司には逆らえないとなると、会社の用事を優先することになるでしょう。家族に対しては罪悪感があるようです。罪悪感を消すことだけを考えてしまうので、家族から文句を言われる前に、「外で働いて苦労している」という恩着せがましいセリフを吐くことをしてしまいます。家族に約束を守れなかったことを丁寧に説明することをしないで、「文句を言うな」みたいなことを言ってしまいます。あれは、罪悪感を解消しようとするからこそ感情的な言葉遣いになるわけです。罪悪感の解消以外の、例えば家族の気持ちなんていのも考えられなくなるわけです。言われた家族の方は、約束は守られないし、なんだかわからないけれど怒られてしまうしで踏んだり蹴ったりになるわけです。

妻が友人と結構いい値段のランチに行くという場合、自分だけ贅沢して夫に申し訳ないと罪悪感が発動されてしまいます。妻はメンタル面や情報取得面の効用を説明して堂々と家計を使えばよいのですが、罪悪感から「こんな時々しかないランチごときに妻をびくびくさせないで済む稼ぎをしろ」等と余計なことを言ってしまうわけです。夫から何か言われることが嫌で先制攻撃をするという説明が一般的ですが、私は罪悪感が一役買っていると思うのです。

罪悪感を抱きやすい人は、良く言えばまじめな人、悪く言えば要領の悪い人です。でも、それだけ相手を大切に考えている人だということは確実に言える人です。その点が理解できれば、先制攻撃や八つ当たりにもう少し寛容になれると思うのです。しかし、罪悪感を抱いているということは自分でもなかなか自覚できないところが難しいポイントかもしれません。

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一方当事者に偏った朝日新聞編集 目的をもって作り出される左派右派対立構造へのすり替えに警戒しよう 暇空茜氏問題は公正な財政支出と情報開示という民主主義の根幹に関する問題である。 [弁護士会 民主主義 人権]


もはや一つの一般社団法人の問題ではなくなってしまった感のある女性被害者等支援事業会計問題。このブログでは、あまり他者の紛争の中に入っていきたくないのが本音ではある。しかし、次から次と勉強の要素が出てきて、また黙っているべきではない事態が生まれてしまう。

先日毎日新聞の署名記事を批判したばかりだが、今回は朝日新聞の署名入りコラムがでてしまった。毎日新聞の記事とは比較にならない偏向記事であり、事実に基づかない報道がなされていると感じたので、言及することとした。

おそらく若者は新聞というメディアに見切りをつけるだろうという危惧を抱いた。

こらむの要旨は、暇空茜氏が、ネット民を扇動して被害女性等支援をしている一般社団法人を攻撃しているということ、しかも攻撃がゲーム感覚で行っており、かつ、陰謀論による攻撃のようであるとしているのである。

確かに、一般社団法人代表の個人名を出す時に、「共産党と強いつながりのある」という枕詞をつけていた。これには問題があると思ってはいた。これでは、受け手が左翼的思想を持っていると自認している場合は、何らかの反発が生じる可能性が出てしまう。左翼的立場の人たちから反共産党や反左翼の人を扇動するものの言い方であったと言われても仕方がないかもしれない。

しかし、実際には、暇空氏は、一般社団法人の活動を妨害したり、驚異や不快感を与える活動をすることを厳に戒める発信をしていた。あたかも朝日新聞のコラムのような報道がなされていることを警戒していたかのようである。それはこの問題を知っている人たちはよく知っている有名な話である。違法、不当な行動をいさめていたのが暇空氏なのに、攻撃を扇動しているという朝日新聞のコラムは、前述の事情があったとしてもやはり事実に反する報道というべきであろう。

また、朝日新聞のコラムでも言及しているように、暇空氏が一般社団法人から訴えられたことに対抗する費用として6千万円を超えるカンパが集まり、一定の知識層も広く支持している。もし、空想の敵を想定してのゲーム感覚の攻撃をしていると思われればそれほど高額のカンパに現れる支持が集まるはずはない。

また、暇空氏の言うところの一般社団法人の背後に「なにかグループ」という集団がいることは、東京都監査委員会が指摘するようなずさんな会計処理があるにもかかわらず巨額の公金が一般社団法人にわたっているという事実からも十分推測できることである。2018年までは東京都は原則的な会計処理を求めていたのにも関わらず、それがその後崩れてしまったということから、何らかの圧力が都の会計原則を後退させて、東京都が極めて非常識な支出をしたという結果を事実として招いているのである。一番言いたいことは、暇空氏は既に特定の一般社団法人の批判にとどまっていないということである。公金支出の実態という問題に目を向けている。ところがこのタイミングで、毎日新聞や朝日新聞が、事態を矮小化する記事を連続して上げ始めたという流れを見る必要がある。

朝日新聞の最大の問題は、東京都監査委員会の監査結果の矮小化である。毎日新聞もこの矮小化をしている。監査結果の読み方については既に紹介した通りである。肝心なことは、監査請求が「請求が妥当ではない」という結論に至ったとしても、それは暇空氏側が不当性を立証しきれなかったということであり、一般社団法人側に不当がないことが証明されたわけではないということである。また、本来は都の公金支出の問題であるから、監査委員会が指摘するような領収書が存在しないような支出に対して、公金を支出することが不当な公金支出ではないのかということが監査委員会の判断から漏れているということが最大の問題であり、今後訴訟において論点になるであろうということである。

Colabo問題から前向きに考えるべきこと 1 東京都若年被害女性等支援事業の監査結果の読み方と今後の訴訟の行方
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2023-01-11

これを知らないでか、あるいは知っているのに意図的にか、朝日新聞のコラムでは過小評価がなされている。朝日新聞の編集はそれにもかかわらずこのコラムを掲載したことになる。

もう一言だけ付け加えると、一般社団法人擁護派の用語の理論の特徴として、当該一般社団法人は善行を積んでいるから攻撃をするなという論理が強調されていることである。「目的は手段を浄化する」というマキャベリズムがここでも繰り返されていることを指摘しておく。

朝日新聞コラムの一番の問題は、暇空氏を支持する側がアメリカのQアノンであり、彼らは民主主義派を攻撃しているという図式を作ろうとしていることである。会計の不適切処理や単純ミスとして不問に付すことができない請求自体は東京都監査委員会ですら認定しているのである。根拠のない陰謀論ではない。また、これほど会計がずさんでありながら、数千万円から億という税金が特定団体に支出されているということの理由、つまり通常の委託事業や補助事業と明らかに違う扱いがなされている理由を明らかにする必要はある。当該一般社団法人ではない誰かが関わっているならばそれを明らかにするということは民主主義の根幹の問題である。陰謀論とは全く違う。

確かに現在この問題を取り上げているのは、特定思想のないプロのユーチューバーの外は、保守的メディアが多いことは間違いない。しかし、これは保守系メディアが取り上げるというよりも、左派系メディアが取り上げないということの方が正確な表現であると感じる。もっとも非組織的で自由な左派系メディアというものがあるのかという問題がないわけではない。

冒頭の特定政党と関連付けての批判が行われてきたことや左派系メディアが取り上げないということを利用して、朝日新聞がコラムを掲載したように、今回の問題を左右対立構造の中の出来事に落とし込む動きがあることには注意しておく必要がある。私は毎日新聞と朝日新聞のコラムを読むことによって改めて理解したが、これが55年体制の茶番劇だったのであろうということである。

そこでのポイントは、人間は人間同士の紛争に巻き込まれたくないという素朴な感情を持っているということである。もちろん私のこの記事のように、理不尽な対立があれば参戦しようという意識をもつ者もいるが、それは多数派にはならない。55年体制という秩序は、紛争を激化させることによって、大多数の国民の政治参加を消極化してきたという役割があり、それはこのようにして作られてきたのだろうかという疑念が芽生え始めた。あわせてその際の左派系メディアの役割にも気づかされたような気がする。

まとめると
通常の補助事業や委託事業では、一円の単位までの会計処理の問題が自治体から指摘されて、すべての領収書の提出が求められるほど、会計原則には厳格である。それにもかかわらず、どうして本件一般社団法人ではそのような会計処理が求められずに公金が支出されたのかという問題が現に存在する。

そしてそのような都と一般社団法人の関係が明らかになると思われる都のメールが、暇空氏が開示請求した段階では黒塗りされて開示されることによって、その文書が存在していたことを示していたにもかかわらず、年が改まった段階では、1,2か月間の間で破棄したと都が言い出し、情報開示が拒否されたという問題もある。

今回の問題は左派勢力が長年にわたって追及していた地方自治体の会計に関する原則と情報開示という、行政行為の可視化、公平公正さの問題という民主主義の根幹に関する問題である。その情報開示や公金支出の在り方の実態解明を一般社団法人の善行を理由に妨害することを左派勢力が行うことは、自分たちの立場の否定に他ならない。

左派という言葉の定義の問題があるが、人権や平和、あるいは平等という憲法の大原則を行政効率や経済効率よりも優先させるという特徴があったのではないだろうか。それらの政治的姿勢よりも、組織の論理を優先させ主張をするのであれば、左派とは何なのか、左右対立という二項対立の図式の本質とは何なのか、我々は改めて考える必要がある。



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オールドタイプとニュータイプのメリットデメリット 弁護士と依頼者の関係で注意するべき「組織の論理」 政党候補者による若年者支援NPOに対する批判ツイートに大いに学ぶ [事務所生活]


1 政党候補者の若年者支援NPOに対する批判ツイート事件

  現在インターネット上では、若年女性支援の一般社団法人への公金支出が話題になっています。様々な人が様々な発言をしているようです。その中で、同じように若年者の支援をしているがNPO法人に対して、某政党の国政選挙立候補者が、以下のような批判ツイートをしました。
・ (無償での活動を強調しているが、)正当な報酬を否定することは問題だ。活動自体が疲弊してしまう。
・ 報酬ではなくて「ありがとう」が活動の原動力だというは典型的なブラック企業の宣伝と近い

この政党人の意見も確かにそうだと思う部分があって、ボランティアでできる分野と、ボランティアではできないためきちんと職業化して生活の基盤を確立して技能を制度的に高めるべき分野があるということは間違いないのです。これをはじめに指摘した人が、あの有名なナイチンゲールで、それまでボランティアだった戦時看護の職業化に貢献されたわけです。

ただ、このNPOについての情報を私があまり持っているわけではありませんが、代表の方は無報酬でするべきだと言ってはいないようです。無報酬でやらざるを得ない状態を問題視されているように思います。

そもそもこのNPOの活動は賞賛されるべき活動であり、突然第三者に否定されるべき活動ではないと思われます。SNSという誰にでも見ることができる形で批判をすること自体が普通に考えれば理由がわかりません。「典型的なブラック企業に近い」という言い方には強い抵抗があります。その政党人の方は、誰かからありがとうと言われることが活動の原動力にはならないのでしょうか。私はなります。確かにありがとうだけで報酬は払わないという企業があればそれはブラック(違法)企業でしょう。このNPOがそんなことをしているという裏付けは何もないように思われます。あまりにも唐突な論難だと感じました。

経済基盤の確立についてアドバイスするならば、友誼的な方法と表現でアドバイスをすることがあるべき姿だと思います。それが突如SNSで批判をした方が、国政政党の正式な国会議員候補者だというのですから、これを読んだ時の違和感は強烈なものでした。私だけでなく、なぜ一介のNPO法人に対して、国政政党の幹部が攻撃をするのかという疑問を多くの人が持ったことだと思います。

しかし、ここでは政党人に対する批判をすることが目的ではありません。ここでの目的は「組織の論理」の弊害について学ぶことです。格好の教材として使えると思いました。

この政党人は、批判を受けている一般社団法人を自分たちの仲間だと感じていたのでしょう。そしてその仲間をかばおうとしてツイートしてしまったと考えるとよく理解ができます。

その一般社団法人は、現在東京都の若年被害女性等支援事業を受託して、都と国から巨額の公的資金が投入されています、特に人件費にも大量の公金が支出されていることを理由の一つとして批判されていると感じていたのだと思います。だから、攻撃対象となったNPO法人が無報酬を述べていることが、一般社団法人を批判するために強調しているように感じたのでしょう。そのNPO法人は、政党人が守ろうとした一般社団法人ではない別の団体に対して抗議をしようとしていると再三言っていたのですが、政党人からすると自分たちの仲間の一般社団法人が攻撃されていると感じてしまったということになります。

なぜ、この政党人が一般社団法人を仲間だと感じたのかその理由はわかりません。

しかし、「人間はひとたび仲間だと思ってしまうと、仲間を助けたくなる性質がある」
というのが対人関係学の結論です。そうして、仲間を助けることだけに感情がフォーカスされてしまい、全体像を冷静に見ることができなくなり、無条件に仲間を守ろうとし、無条件に相手が敵だと感じてしまい、相手の人間性や人間関係、あるいは感情や人権など人間として他者に配慮しなければならないことを配慮できなくなり、その結果攻撃をしてしまうという問題行動をしてしまうわけです。これはその人の政治的な思想傾向に起因するのではなく、人間が組織を作る場合に伴う「組織の論理」の弊害なのです。

特にポイントとしては、対立当事者の一方に味方しようとすると、他方当事者は人間として配慮することができなくなるということです。   

また、ひとたび仲間だと思うと、仲間の方の落ち度、仲間が修正するべき点が目に入らなくなります。この政党人は住民監査請求の結果を見てもなお一般社団法人の会計上の問題を些細なミスにすぎないという趣旨の発言もしているのです。しかし、これはミスとは呼べません。ミスと呼んではだめなのです。「Colabo問題から前向きに考えるべきこと 1 東京都若年被害女性等支援事業の監査結果の読み方と今後の訴訟の行方」https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2023-01-11

ちなみにわたしは、一般社団法人と政権についての批判の基準にはダブルスタンダードがあっても良いと思っています。つまり政権ないし政治家(与野党問わず)に対してはより厳しい基準で批判するべきだと思います。そうでない場合はそれほど気日く批判しなくても良いのではないかと思ってはいます。しかし、今回東京都監査委員会が指摘した会計上の不適切処理は、やはり批判に値する重大な落ち度ですし、適切な会計処理をしないということは高額な予算を動かす組織としては致命的な問題で、是非とも修正しなければならないことだと思っています。

こういう思想的な深刻な問題を簡単なミスと強弁するのは過度に仲間を守ろうとしている意識になっていることを表しています。仲間のミスを無かったことにしようとするのが組織の論理です。それにしても法律を作る国会の議員になろうとしていた人が、あの監査結果を見てもなお単純なミスであると評価し、その認識を公のものにすることには深刻な問題があります。現物を読んでいないか、現物を読んでも自分の頭で考えず、組織の評価を覚えて繰り返しているだけなのだという可能性があります。読んで自分の頭で考えてそれでも単純ミスだというのであれば、法律を作る仕事には向いていないというほかはありません。しかし、これは思想の問題ではなく「組織の論理」だということを言いたいわけです。

そして組織の理論は、政党のように強固の組織だけではなく、仲間だと思った相手が攻撃されているときにも発動されるのだということが学ぶべきところである。学ぶべきポイント
・ 仲間が攻撃されているのではないかと過敏になる。
・ 頼まれないのに仲間を応援したくなる。
・ 対立当事者を敵とみなして、人格や社会的立場、その人の人間関係等人間としてするべき配慮ができなくなる。
・ 仲間の側の修正するべきポイントが見えなくなり、無謬論に立ちやすい
・ 二者択一的な思考であり、敵が勝つか味方が勝つかという発想になっている。
・ その場合の仲間は、組織的な仲間である必要はなく、心情的な仲間で足りる。

2 弁護士と依頼者との関係に引き直して考える

我々弁護士は、対立当事者の一方の代理人として仕事をします。強固な組織ではなく仲間だと思うと組織の論理が出現するとなると、弁護士の仕事上も組織の論理が出てくる可能性があり、特に注意をする必要があります。

私が弁護士になった30年くらい前と現在とを比較すると、弁護士の意識が随分変わってきています。

当時先輩方から言われたことは、弁護士は勝ち負けではなく、紛争をどう解決するか、いかに紛争を鎮めるかということを意識しながら代理人の活動をしなくてはならないということでした。つまり依頼者の言い分だけを無批判に取り上げてどこまでも対立を進めていくのではないということです(オールドタイプ)。

反対に昨今の風潮は、極端に言えばですが、まさに組織の論理で、依頼者の代理人は、対立当事者を敵とみて、依頼者の主張する利益を唯一の目標として活動をするのであり、あくまでも勝ちを追及して、対立当事者に対する配慮などは不要だという極端に言えばそういうタイプが台頭しているように感じます。(ニュータイプ)。

オールドタイプにもニュータイプにもメリットデメリットはあります。
<オールドタイプ>
メリット:依頼者の言葉にした要求にこだわって、依頼者が考えが付かないメリットデメリットを見過ごしてしまうことを防ぐことができる。例えば裁判では勝っても回収できないならば、より多く回収できる方法として和解という方法を選択することや、ここで損害賠償を支払うことによって紛争を終了して企業の悪評が高まらないように配慮できる。そもそも紛争を最終的に決着させて心休まる状態にし、依頼者の本来の生き方に専念できるようにする。和解による解決が多くなり、無駄な争いをしなくて済み、解決までの時間が短くなる等可能性が広がる。

デメリット 依頼者からすれば、弁護士が独自の見解を述べてきて、依頼者の希望を否定するので、自分の意見が尊重されない。否定や部分的修正を求められることで不満が残りやすい。
相手に譲歩する気持ちがないのに譲歩を迫られるので納得できない場合がある。

<ニュータイプ>
メリット:自分の意見を尊重してくれる。自分の自然にわかる範囲では自分を肯定してくれる。一生懸命やってもらっているということがわかる。
デメリット。オールドタイプのメリットの反対ということになるでしょうね。特に、最後まで敵対活動をすることによって、裁判が終わっても敵対感情が相互に残ってしまうということです。その結果自分にもあるいは第三者にも(子どもとか)に不利益(特にメンタル)が生じる可能性がある。というところでしょうか。

もちろん、オールドタイプで行くかニュータイプで行くかは、事案にもよりますし、最終的には依頼者の判断任せるということになります。弁護士はできないことをできないということはどちらでも必要です。

ニュータイプの場合特に注意しなければならないことが組織の論理です。

味方の落ち度を無かったことにする。あるいは過小評価してしまう。相手の利点を過小評価してしまう。
その結果最大の問題としては、
1 見通しを間違い、戦略を間違う危険があるということでしょうか。心理的問題があるということを自覚することで大分問題会費ができると思います。

2 対立当事者に対して弁護士倫理に反するような攻撃をしてしまう。弁護士の品位を害する行動、活動をして懲戒問題が生じてしまう可能性があるということにも注意が必要だと思います。

冒頭挙げた政党人は、国政選挙の候補者になるのだから、おそらく立派な人であろうと思います。その人でもあのようなツイートをするのです。組織、仲間意識というのは無条件に肯定されることではなく、弊害があることだということは頭に入れておいて損はないと思います。

つまり人間の思考は、人間と人間が対立しているときに介入することに適しておらず、猛獣に襲われた仲間を助けようとする感情がつい出てきてしまうということなのだと思います。

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なぜ女性への攻撃だけを大手新聞が問題にするのか。そのデメリットと真意についての考察 毎日新聞の署名記事に対する違和感 SNSのルールに関する議論こそ必要ではないのか [弁護士会 民主主義 人権]

2023年1月16日 記者の署名記事が毎日新聞に掲載されました。
「SNSでジェンダー問題発信 声上げる女性へやまぬ攻撃 ゆがむ日本」
という表題です。
尾辻かな子氏や吉野家専務発言の告発者の例を挙げて、「ジェンダーに関して女性が声を上げる時、過剰なバッシングを受ける事例も相次いでいる。」とまとめています。

SNSやそのまとめを見ている人にはすぐに違和感に気が付く記事です。しかし、多くの中高年以上の国民はSNSを使っている人は必ずしも多くはないでしょう。だから毎日新聞が書いているのだから正確な情報だろうと勘違いすると思います。

この記事が正確な情報か否か簡単に検証してみましょう。
先ず、この記事が何に対して憤っているのかを考えてみます。なぜなら二通りの解釈が可能だからです。

先ず、「誰かがSNSの投稿をして、それに対して脅迫罪や名誉棄損罪になるような違法な攻撃をすること」に対して憤っていると読んでみましょう。この主張はもっともな主張です。そうであるとしても、どうして女性に攻撃するときだけを女性以外を自認している人に対する攻撃と区別して憤らなければならないのかがわかりません。記事にもその理由は書いてありません。犯罪に該当するような攻撃は男性に対しても女性に対してもいさめるべきだと私は思います。

次に「女性がジェンダーに関して発信する時には、過激な攻撃が多い」という主張を述べているという解釈も可能だと思います。しかし、そうであれば、女性がジェンダーに対して発言した時の、他の発信と比較しての、攻撃を受けた事例の量や質を何らかの形で紹介するべきだと思います。必ずしも統計的な根拠を示せというわけではありません。しかし、事例2点だけを紹介しておよそ女性がジェンダーに関して発言すると過剰なバッシングを受けると結論付けることは明らかに過剰な主張です。

もっともこの記事が新聞記事ではなく、SNSの投稿であれば、そういう考えのある人もいるだろうなということでわざわざ取り上げることもありません。社会の実態を正確に伝える使命がある新聞で、名前の通った毎日新聞の記事であるから問題にするべきだと思うのです。

実際に男性が発信するジェンダーに関係のない話にも炎上はありますし、男性が発信するジェンダーに対する意見にも炎上があります。ジェンダーにかかわりなく、男女の性別にかかわりなく、犯罪やそれに準ずるような人格を否定する攻撃は行うべきではありません。本来あるべき主張はこういう主張だと私は思います。

この記事の違和感はまだあります。

尾辻さんの発信に対して「殺す」という攻撃に問題があるということは誰しも賛同されるでしょうし、発信した人間の多くも自分の表現に問題があったと自認していると思います。しかし、このような極端な犯罪的な攻撃に対しだけ批判しているのではなく、尾辻さんの意見に異を唱えた書き込みに対しても、どうやら記事は非難しているようなのです。尾辻さんの批判された元投稿は、「駅に女性のイラストのポスターが多数掲示されたことに対して、公共の場にもかかわらず女性を性的に扱うものだ」というご自分の感覚を発信したものです。これに対してそうは思わない人が「そうは思わない」ということを発信したことは、批判されることではないはずです。特に尾辻さんは国政政党の肩書を出して発信されています。この発言形式は重いですし、批判の対象となることを特に覚悟しなければなりません。国政政党の幹部としての発言に対して、その発言に対する意見や感覚の違いを発信することや、政治的な意味合いで批判をすることは私は表現の自由の根幹であると認識しています。

どうもこの記者とは表現活動についての意見が異なるようです。

また、「女性の発信したジェンダーに関する記事一般にネットは過剰に反応する」という表現も、それこそが過剰な表現です。このような表題をつけてしまい、かつ犯罪に該当する行為や人格を否定するような攻撃と、そこまではいかない批判を一緒くたにして「止まぬ攻撃」だとすると、日本のSNSでは、他者を批判する場合は、およそ犯罪まがいの攻撃や人格攻撃を行うという具合に読めてしまします。もちろん記事はそこまでは断定的に述べてはいませんが、「攻撃」という言葉を受け止める読者としては、その人それぞれの「攻撃」という言葉の平均的な攻撃が行われているという印象を持つ傾向が人間にはあるからです。これがまさに差別の温床になっているわけです。

以前に私がネット言論を研究して分析した結果としては、炎上の初期の先行する批判の書き込みは真摯であり的を射た批判がほとんどで、その後に過激な、人格を貶める批判が続くという傾向があるということでした。但し、「殺す」などの書き込みは一部であると思います。SNS全体が殺伐としたものであるかのような印象をこの記事は植え付ける危険があると思います。

この記事の全体的な問題は論理学でいうところの「早まった結論」が多投されているということです。インターネット上は「主語が大きすぎる」という決まり文句で分かりやすく批判されているところです。

「ジェンダー発言」に対して攻撃が来るとか
「物言う女性」に対して攻撃がなされるとか
そもそも攻撃が許されない攻撃であるとか
歪んでいるのが「日本」であるとか

娯楽メディアの記事やSNSの投稿であれば等閑視される範囲のことかもしれませんが、毎日新聞の署名記事としてはいかがなものかと思われます。

このような論調を行うことのデメリットを指摘しておきます。

例えば、元発信者が感覚的な発言をして、その人間が国政政党の幹部の政治家である場合でも、「それはあなただけの感覚です。」とか「だから落選するのです。」程度の発言が許されないとするというのであれば、およそ杉田水脈議員の作成した記事に対して批判ができなくなってしまうのではないでしょうか。杉田議員に対する人格攻撃などもあったわけですが、毎日新聞は杉田議員と意見の違いがあるとはいえ、インターネットなどの過激な批判について何らかの批判をしたのでしょうか。もし杉田議員に対する批判については言及が無くて、尾辻氏に対する批判だけを論難したとしたら、その場その場で意見を変える恣意的な論調の新聞だということにはならないでしょうか。また、毎日新聞は杉田議員に対するネット上の過激な形式での批判の誘因になるようなことは一切しなかったというのでしょうか。つまり読み手の感情に訴える批判はしなかったというのでしょうか。

意見の内容にかかわらず、言論に対しては同じルールで評価しなければ、結局は権力側の都合の良いようなルールが設定されてしまう危険があると思っています。自分と同じ意見だけを守って相手全体を攻撃するのでは、結局ご自分の守りたい意見を守れないことになると私は思います。

ネット炎上の先行議論には、意見が違っても学ぶべき点が多くありました。炎上になるようなジェンダー発言には共通の特徴があり、多くの人を否定する表現が使われています。ここを持って主語が大きいと批判されるところです。批判されるべき人でない人も批判されますし、発信内容も身もふたもない表現が使われ、多くの人が不快に感じる内容になっていることが多く、先行する批判はそこを批判しているということが、私の追っていた炎上事例ではほとんどでした。つまり批判の対象はジェンダー思想ではなく、発信者の表現の品位の問題だったということが私の感想的な結論です。

炎上の元発信者は、まるで自分が何らかの被害を受けてトラウマが生じている被害者のように、防衛意識が過敏な状態のような発言表現をしていて、批判をするべき対象を的確に限定せずに、おおざっぱに世の男性や社会全般が自分を攻撃しているかのような自分の感覚を読み手に与えていることと、本来他者の自由にゆだねられている領域(例えばオタク趣味)に対して感情的な否定的介入をしているような表現の発信がなされ、誰にも迷惑をかけずに平穏に生活している人を攻撃する発信がなされているという共通項があるように感じられました。特に他者に対して迷惑をかけていない人に対して、自分が気に入らないということでキモイというような人格否定のような子どもじみた発信をすることには適切な批判がなされるべきだと感じています。

今回の毎日新聞の記事は、あまりにも大雑把で偏った論調であると思う次第です。その他のこの記事のデメリットは以下の通りです。

・ 害ある行為をしていない他者に対して、自分がその行為に対して寛容になれない場合に、その他者の人格を貶める感情論を発信することが守られるべきジェンダー思想に基づく発言ないしフェミニズム思想に基づく発言だということになってしまう。
・ 毎日新聞は女性に対する批判を「攻撃」として歪んだ行為だと考えており、当初に発信した発信表現を問題にしないで批判は許されないという態度を示している
・ 紛争の一方に対する大雑把な支援をすることによって、対立当事者の感情を高めて紛争をあおる形になっている。
・ なによりも、炎上の元になった最初の発信についての吟味をしないで批判者ばかりを批判するということでは、SNSの発信についてのルール作りの冷静な議論をすることができないということが深刻なデメリットになると思います。

記事の着眼点として、気軽に発信できるSNSでの発信によって思わぬ攻撃を受けることができるという点は大いに共感できます。この視点は大切です。しかし、批判する者が悪いという姿勢ではSNSの使用についての成熟ははかられないと思います。SNSは行為としては気軽に発信できるのですが、公開設定をしている場合は、見ず知らずの膨大な人数に対して発信することになります。それによって他者を傷つけることも大いにあるわけです。公開のSNSの場合は、発信行為が気軽にできるからと言って、発信を気軽にしても良いわけではないということに気が付くべきです。

他者の害のない行為に対して、自分の感情をさも多数意見や公的に正しいと結論付けられた命題であるかのように発信して、その相手の人格的批判をする場合は、それを受け入れる人間に限定して発信するべきです。わざわざ批判対象の相手に発信するべきではありません。攻撃を傍観する人は攻撃者だと非難する人がいます。例えば自分がキモイ等と非難を受けた人間ではなくても、そういう理不尽な攻撃を見過ごさないということは人間の自然な感情です。そういう正義感を持った人たちにも発信しているということを自覚して発信するべきだと思います。

またそのような理不尽な攻撃が見られた場合であっても、批判する側は整然と批判をするべきであり、正義感を露わにして相手を人格攻撃してしまうことの無いようにくれぐれも注意しなければならないということをルールにするべきです。

誰が発信者であっても同じです。女性であろうと男性であろうと、ジェンダー思想があろうとなかろうとルールは共通のもの一つが設定されるべきであると考えます。

確かにSNSの使い方や発信やそれに対する批判に対しては、成熟しているとはいいがたい状況にあるように思われます。だからこそ、特定の立場だけを擁護して、基準をいくつか作るのではなく、世論で基準を合意形成していくということが必要だと思います。特定の批判を問題視することは、現代日本では国によって制裁を背景とした法律のルールを定めるという議論になる傾向にあると思います。そうではなくて、多くのユーザーによって議論をして、自主的なルールを構築することが成熟した言論活動につながると考えています。


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命の授業考 命を大切にしましょう、自分を大切にしましょうという授業ではあまり意味がないと思う理由 わしならばこう語る [進化心理学、生理学、対人関係学]



先日高等学校で命の授業をしてきました。
皆さん真面目に静かに聞いていただきましたし、多くの生徒さんがこちらを見て聞いていただきました。授業後の感想も的を射たお話をしていただき、授業を担当した側としては、その甲斐のあった素晴らしい時間でした。

さて、今年はもう一件他県の授業があるのですが、今回準備をしたりお話をしたりする過程で強く意識に上ってきたことがあるので、忘れないうちにまとめて次回につなげようと思って、記事にする次第です。

先ず、命の授業というと、命を大切にしましょうとか自分を大切にしましょうという形の授業が多いようです。出産の大変さとか、親の愛情とか、病気を抱えても精いっぱい生きた人の生きざま、そういうことを語っているようです。私はこのスタイルには前々から本能的な違和感がありました。今回この違和感の正体もわかったような気がします。

先ず、何のために命の授業をするかというところがあります。私は、通常以下の目的のもとで行われているように考えています。
・ 自死予防
・ いじめ予防
・ 薬物などの違法行為予防
・ 自傷行為の予防
こういうことだろうと思います。
これ等の目的を持った生徒への働きかけは必要だと思います。

しかし、こういう目的があった場合、「命を大切にしましょう」という呼びかけは効果が無いと思うのです。もちろんただ「命を大切にしましょう」と連呼しているわけではないことはわかります。しかし、命を大切にしなくてはならない理由を延々と述べることもまた、目的に到達するという意味では効果が無いと思います。

この種の話をする人は、前提として
1)自死やいじめなどの問題行動が起きる理由は、命の大切さを理解していないことにある。命の大切さを理解するとそれらの問題行動は起きにくくなる。
と考えているのだと思います。そして
2)命の大切さとは、出産の大変さや親の愛情によって説明ができることだったり、死にたくなくても死ななければならなかった人が精いっぱい生きる話をすることで、認識できることだ
というような考えを持っているからそういう話をするのでしょう。

しかし、
「問題行動を起こす生徒さんは命の大切さを知っていない」という前提は、間違っていると思います。自分を大切にするからこそ、自死をせざるを得ないまで追い詰められるのですし、社会に適応しようと一生懸命のあまりいじめをしたり、自傷行為や引きこもりをしているということこそが授業を受ける生徒さん方の意識なのではないかと思うのです。問題行動は生きようとしてもがいているもがき方だと私は仕事柄感じています。

2についての批判は、そんなことを言われても自分はこのような不遇な思いをしている、どうして人間である自分が大切にされないのだという意識を持つという逆効果になるというもので、多くの方々がお話ししている通りです。

つまり、命を大切にしましょうスタイルの命の授業は、自死やいじめや自傷行為をする危険を背負っている生徒さんに届かないということにはならないでしょうか。

さらに致命的な問題点があると思います。それは命は大切だということがわかっても、ではどうすればよいのか皆目見当がつかないということです。自死してはいけない、いじめをしてはいけない、自傷行為はいけないと言われても、それをする際には、自由意思で興味本位で一つ自死してみようとか、いじめてみようとかリストカットをしてみようとしているわけではないのです。気が付けばそれをやっているし、それをやっていることに気が付かないでやっていることが大半なのではないでしょうか。

では、命の授業では何を話せばよいのでしょうか。

命を大切にするための具体的な、実行可能な行動を提起することこそ必要なのだと思います。
自死をしない方法、いじめをしない方法、自傷行為をしない方法を提起することになるのですが、ここで発想を変える必要があると思います。

自死をする理由や条件は、人それぞれ異なります。すべての人が自死をしない方法をわずかな時間で語ることはできませんし、そもそもわかりません。自称行為をしない方法というのも、その生徒さんが置かれた環境が変わらないのに、自傷行為だけをしないということにあまり意味があるとは思えませんし、実効性もないと思います。いじめも単純に起きているわけではなく、それぞれの生徒さんの置かれた条件の中で、その生徒さんなりの論理があって行動をしているわけです。

自死をゼロにする、いじめをゼロにする、自傷行為をゼロにするということをいくら命じたところで、それは無くならないということを知らなければなりません。また、ゼロを目指すという目標設定が誤りであることに気が付く必要があります。

ゼロの先のプラスを目指さなければ、ゼロには到達しません。目標はもう少し高いところに設定するべきなのです。

目標は現状の生きづらさの原因を理解し、幸せな人生に向かって自分の環境を改善していくというところに持つべきだと私は考えます。

つまり、なぜ自死が起きるのか、なぜいじめが起きるのか、なぜ自傷行為をするのか、その原因をその人なりに考えないとならないということです。それらの問題行動をする主体が人間であることから、人間としてそれをせざるを得ない状態に追い込まれているという理解がどうしても必要だと思います。

詳しくは授業の中でお話しすることなので大事なことを省略して話せば、

一言で言って人間は、他者から尊重されて生きていきたいという本能を持っているということ。他者から尊重されていないことを感じると、自然と危機感を持ってしまうこと、危機感があれば自分を守るために怒りを覚えたり恐れを覚えたりして、反応をしてしまうということです。なぜならば人間だからです。

人間の能力からすると、ただちに世界中の人が世界中の人を尊重するということは望めないかもしれません。そうだとすると、自分の周囲に、自分が尊重されていて、安心できるという環境を構築することならばできることだと思います。

具体的には、家族であり、友人、あるいは同級生という仲間を作っていくということです。これが小学生までの子どもであれば、そうはいっても大人が作ってあげなければならないということになるかもしれません。しかし、大人になるということは、環境を他者に構築してもらうだけでは無く、自分から人間関係を作っていかなければならないということなのだと思います。つまり仲間づくりということなのです。

具体的に何に気を付けて仲間づくりをするか、どうやって仲間づくりをするか、なぜその第一歩が挨拶なのかというようなことを具体的に説明していく。これが人間として生きるという意味での命の授業だと私は思います。



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笑う門には福来る は真実であること 和解の際の依頼者への説得の最終兵器 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]



笑う門には福来るということわざがあります。わらうかどにはふくきたる。

赤い鳥の童話集にも同名(だったと思うのですが、記憶が曖昧です)の小説があり、赤い鳥の中でも一番かな、私の好きな作品です。

このことわざの意味ですが、一般的には、「家族がいがみ合って生活すると暗く不幸になる。努めて明るく振舞っていればおのずと幸せになる。」という教訓というか道徳というかそういうことになっていると思います。

先ず、「門」というのは、家族の住む家のことでしょうが、家族そのものでよいと思います。
次に、「笑う」ですが、これは文字通り笑うのではなく、朗らかに、明るく、前向きな気持ちでというような意味に解釈されています。
しかし、実は昨今の認知心理学の知見としては、文字通り笑うことでよいのだろうということになってきました。場合によっては心から笑う必要がなく、無理にでも笑顔を作るということでもよいのだということになりそうなのです。

どういうことかを説明します。これは聞いておいて損は無いと思いますよ。

先ず、人間は、嫌な感情、良い感情を問わず、感情が顔に出る生き物ですね。私たちは、自然に、悲しいから下を向くし、怖いから目を見開くし、安心するか微笑むというように、まず感情があって、その効果として表情が生まれると思うわけです。それはそれで正しいのです。表情と感情がこのように長年結びついて生きてきているわけです。

ところが、表情が固定してしまうことによって感情も続いてしまうということがあるそうなのです。あるいは、何かの拍子にうつむいて歩いていると、うつむくことと結びつく悲しい感情が自然と生まれてしまうこともあるそうなのです。逆もまた真なりというやつでしょうか。

もう少しリアルな例を考えてみますと、人間はふいに漠然とした不安感や焦燥感に襲われることがあります。特に理由がなくそういう感情になるという方が良いでしょうか。その場合、何かわからないけれど不安だということで不安な表情をしてしまうと、本当に不安になってしまい、何か不安の種を探してしまうようです。ポピュラーなことは、このままどんどん貧乏になっていくのではないかという不安です。あるいは、誰かとの人間関係がうまくいかなくなるのではないか。とかですね。確かにこれらの財政や人間関係は、いつどうなるかわかりません。それを不安だと思えば、いくらでも不安になってしまいます。でも人間はあまり悪い方に考えないで、なんとなくその日を暮らしているわけです。

例えばということでいえば、会社で上司から理不尽な叱責を受けた。自分が悪いわけではないのに責められた、なんてことがあるとずうっともやもやした気持ちになりますし、家に帰っても何となく過敏になって、家族の些細な言動によって立腹して八つ当たりなどをするということに、覚えのない方はいらっしゃらないのではないでしょうか。

福来るの反対の現象が家族の中で起きてしまいます。

理由のない不安やよそでの理不尽な思いを家庭に持ち込まなければ、つまり気持ちを切り替えれば、あなたを原因としては家族は嫌な思いをしません。あるいはかなり嫌な思いが減ることでしょう。

だけど、どうやって気持ちを切り替えるのか。これがなかなか難しいことだと思います。また、自分では自覚をしていないのに、家の外で不安を感じたり、悔しい気持ちを感じていたりしているとするとますます、気持ちの切り替えができていないことがありそうです。どうしたらよいでしょうか。

この難問を案外あっさり解決するのが、笑う門には福来るというやつらしいのです。

家に帰ったらニコニコする。「ああ自分は変えるべき家があることだよなあ」とニコニコの感情を無理やり作る必要はなく、口角を上げて頬の筋肉も挙げて瞼を下げ気味にすればよいのです。門をくぐるというか玄関の前で、必ずこのエクササイズを行うことを習慣にすればよいのではないでしょうか。やることはメンタルなことではなく、顔の筋肉を動かすことです。

この表情を維持しようと心がけると、些細なことはどうでもよくなります。また、些細なことに感謝をしたくなるようです。自分の感情も変わってしまうようです。人間というのは愛すべき生き物だという気がするのは私だけでしょうか。

そして、家族からしても、最初はにこにこしていて気持ち悪がられるかもしれませんが、こちらはにこにこしているから気持ち悪がられても平気です。そうすると、家族は、改めてあなたが家族に対して敵対的な気持ちがないということを実感するのだそうです。警戒して逆切れすることもなく、過敏になって悪くとらえるということもなくなれば穏やかな人間関係となります。家族も、こちらの飲みすぎなどもある程度これまで以上に寛容になってもらえるかもしれません。

そうやって自分も含めて家族全体が、家に帰ると安心できるという感情になることが、人間にとって「福」の意味なのだと思います。

先ず笑えということこそが真理なのです。

さらにそれが門、つまり家族の中で笑えということがどうしようもなく真理なのだと思います。一人で笑っていても顔の筋肉が付かれるだけです。

ここで言う家族とは、法律的な意味合いの家族ということではなく、おそらく人間関係全般において当てはまるのではないかとにらんでいます。

差しさわりのない範囲で行う必要はあると思います。法事の時ににこにこしているわけにはいきませんよね。

そういえば、例えば弁護士として依頼者と打ち合わせをしていて、和解案を承諾するかどうかなんて話をしていて、「いくら裁判所の書類で支払いが約束されても実際に払われなければ意味がありませんよ。」と言っても、当事者としてはそんな低い金額はあまりにも不合理ではないかと思うわけです。あまり真剣に弁護士が説得すると、そもそも和解という中途半端な解決には不満足な感情が必ず伴うものですが、その不満足の心持を弁護士に向けられてしまいますし、本人も納得できないまま法的手続きを終わらなければなりません。

最近、こういう場面でも意図的ににこにこしています。マスクをしているので、それほどあらわにならず目だけが笑っていてもわかられません。そうすると、弁護士側の感情も変わってくるのです。「そりゃあそうだよね。こんな不合理な目に遭って、これだけしか埋め合わせが無ければそれは不満だよね。」と先ず自然に共感することができます。この「そりゃあそうだよね」と言う一言をはさむことによって、依頼者も安心して合理的な(致命的な損をしない)解決をよりスムーズに選択されるようです。

大切なことは真実を力説することではなく、焦って結論を強引に持って行こうとする自分を自覚することだったんです。そのためには、冷静なメタ認知を可能としなければならないわけで、その方法が笑う門には福来る戦法だったということです。

もう少し早く気が付けばよかったなあと思っているわけです。

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Colabo問題から前向きに考えるべきこと 3 批判対象の相手の人格を否定しないことこそYouTube文化を守ること 挑発にならない有効な支援こそが必要であること [弁護士会 民主主義 人権]



私はたくさんのことをユーチューブから学んでいます。特に最近は楽器のこと、興味のある音楽のこと、美術その他とても重宝して勉強させていただいております。もし、時間を作って先生のもとに習いに行かなくてはならないなら、こんなにいろいろな楽器演奏の楽しみは得られなかったことでしょう。YouTube文化は、できるだけ発信者の意図通りに自由に運営していただきたいということが切実な願いです。

今回の若年女性等被害者支援事業についても、ツイッターをいちいち読むことが困難であるので、ユーチューブのまとめ動画は本当に便利でした。

ただ、逆にいろいろな心配も出てきました。

多少熱が入ることは仕方がないとしても、中には仁藤氏に対する批判が中傷、子どものいじめみたいになっているものがあることがとても心配です。他人を呼び捨てにすることも抵抗があるのですが、それを超えてののしりの連呼などはその前までは感心して聞いていても、結局ドン引きしてしまいます。

ここで批判派の人たちに改めて確認していただきたいことがあります。統計の先生の分析では、コラボに対する敵対発信が多くなったのが、11月29日の弁護団の記者会見がきっかけになっているとされていたことです。同じようにこれからこの問題を知ろうという人たちが、一部のコラボ批判者の無駄に過激な動画やツイッターを見たならば、弁護団の記者会見を見た私たちの反応のように、良くてかかわりを持たないようにしようとする、逆にコラボ擁護派になるという効果が出てきてしまうだろうということです。

どうやら動画の再生回数を伸ばしているチャンネルは、このことをよく心得ていて、最低限度の線を守って発信しているようです。一般視聴者としては、批判的な言動を見聞きしたいという要求の中にも、できる限り安心しながら情報を受けたいという要求がどうやらありそうです。

さらに、過激な表現によって、困ったことになることを警戒するべきだと思います。

第1に、仁藤さんに対しては、私はいまだに彼女に悪意はないのではないかと信じたい部分が強くあります。これがどういうことかというのが前回の記事です。たとえ悪意があったからとしても、インターネットでの非難は数が多くなり、それを読む批判対象者本人は、世界中が自分を攻撃しているというような感覚を持ちやすくなります。批判にあたっては最低限の線をきちんと引いて批判するべきことを整然と批判すればよいのだろうと思います。

第2に、いずれ出されるだろうコラボの言い分は「担当の都の職員の了承の下で行ったから不当ではない」という主張です。そうだとすると、今度は都の職員に対する攻撃がおこなわれ、特定の職員の個人的問題にすり替えてしまう「誰か」の陰謀もあるかもしれません。インターネットによる犠牲者を出さないことを考えて行動をしていく必要があります。インターネットによる犠牲者を出すことによって得をするのは、「何か」であり、「誰か」です。

第3に、これらの最低限のルールを実践することは「YouTubeに対する規制の口実」を作らせないということにも大きな意味があります。
ここで誰かがYouTubeのなんらかの犠牲となると潮目が変わってしまいます。恣意的な基準を外部から作って、曖昧な判断の元で特定の誰かにとって不利益になる表現活動が排除されることが心配です。ユーチューブ文化が生き残るために、ユーチューバーという職業が永続するためにも、発信者側でも友情をもって相互努力をする方が良いと思われます。

最後にこの批判をあおっている人たちについて一言苦言を述べたいと思います。
それは現状の自称「コラボ支援者」の一部の人たちです。

確かに、コラボ批判者の一部に、仁藤氏に対する無意味で過激というか、子どものいじめみたいな批判があることも確かです。しかし、暇空さんにカンパをする人々や、動画再生数を上げているユーチューバーは、大部分が合理性のある批判の視点で活動をしているように感じられます。

それにもかかわらず、擁護派は、「コラボの被害女性支援は正しい、必要がある。だから、批判は女性に対する攻撃だ。」という論理?がほとんどなのではないでしょうか。これはまずい。「目的は手段を浄化する。」というマキャベリズムは、かつて暴力革命を正当化する理論だということで、保守派が左翼はこのように考えているという攻撃をした論法でした。現在コラボを否定している人で支持を集めている人たちは、押しなべて(多少枕詞のように)被害女性支援は否定しないことを先ず表明しています。あくまでも数千万円から一億を超えるような資金を回しているのに、不適切な会計処理をしているということを問題にしているわけです。

この点を無視しての先ほどの論法ですから、「被害女性支援をしている人は会計処理を不適切にしてもかまわない」という主張として、受け手は受け止めざるを得ないのです。金額からすれば些細な処理ミスということはできません。

肝心な会計処理について何も擁護していないのですから、擁護になっていないともいえるでしょう。支援をしている外形をとっていながら、何ら本人のためになることをしていないということです。本人を紛争対立のるつぼに押しとどめていると客観的には見えてしまいます。

男女共同参画事業で、出てくるキーワードが「あなたは悪くない」です。まず最初に被害者認定をして、無責任に全面肯定をして、夫だったり、家族だったりを加害者認定をします。そして、家族から本人を分離させることが一つのスキームです。配偶者暴力相談が典型です。今回も仁藤さんに「あなたは悪くない。あなたは被害者だ。」というパターンの支援をしているのでしょう。しかし、それは仁藤さんに何らのエンパワーメントもしていないように思えてならないのです。被害者とされる人が本当に建設的に歩んでいくためにどうしたらよいかという肝心なことを考えず、事案の個別性を無視してマニュアルに沿った処理をしているわけです。

同じメンバーの方々が起こした事件が、草津町長のレイプでっち上げ事件でした。この時も虚偽のレイプ被害を書籍化してしまった女性町議を、「支援」ということで応援して、大騒ぎをして、女性町議を引くに引けない事態に追い込みました。現在女性元町議を支援する会は休止を宣言したそうです。

元町議の女性の話を吟味も何もしないで、本人談で被害者であるから加害者を攻撃するという形の支援がなされました。書籍では町長室でレイプされたと記載しているのに、刑事告訴では強制わいせつだと話が変わりました。共産党(男性)を含む町議会議員は、この元女性町議を除名処分としました。ところが県が除名取消という裁決をしてしまい(理由付けが曖昧だった)、町議は議員の資格を維持してしまいました。そこで町民がこの元町議をリコールして解職が圧倒的賛成で成立しました。そうしたら支援の人たちが草津町全体を「セカンドレイプの町」と宣伝する活動を行ってしまったのです。寄ってたかって女性を攻撃する街だということが理由だそうです。しかし、レイプ犯だと虚偽の出来事を書籍化するということはどれほど非道なことでしょうか。本人や町長を支持している人たち、何よりも町長の家族に対して深刻な精神的打撃を与えることです。その内容も極めて破廉恥です。結局告訴の段階でレイプは無かったということを元町議は認めた形になって、主張が二転三転したことを理由に、町民の方々はリコールに賛成したように伺いました。リコールする住民の気持ちは察するに余りあります。また、そのような町民の民意に対して「セカンドレイプ」の町という発信を公にすることは民意を馬鹿にしていることではないでしょうか。そもそもファーストレイプが無かったのですからセカンドレイプなんてありえません。
結局元町議は支援の結果引くに引けなくなりました。しかし、あらゆる法的救済は否定されました。町長は当然ながら不起訴となり、元女性町議だけが起訴されるという結果になりました。この段になって支援者は支援を休止したとのことでした。こういう支援者の人たちは、なぜか権力には弱く、解決のために権力に依存する傾向も顕著です。でも、非道な宣伝を行った支援者たちは誰も謝りません。町長に対しても、町民に対しても、無責任に躍らせた元女性町議に対してもです。むしろ自分が被害者であるかのような言辞をする人たちがいてあまりにも無責任だと思いました。

被害の真実性を吟味しないで、発言に寄りかかり、相手を加害者と認定して攻撃する。男女参画の論法が、コラボ問題でも引き続き行われているわけです。その効果は仁藤さんを擁護することにはつながらず、紛争を激化して仁藤さんを紛争の現場に押しとどめているだけだと私には感じられます。

攻撃される方が悪いか攻撃する方が悪いかという二者択一的な考えはさっさとやめるべきです。仁藤さんをこれ以上紛争の渦中に陥れないことを第一に考えるべきではないでしょうか。それこそが若年女性被害者の救済に直結することだと私は思います。

コラボ側の人たちにお願いしたいのは、結果として批判者を挑発することをやめていただきたいということです。今回の出来事は、図らずしも、批判を受ける人は受けるなりの理由があるということを世に知らしめる結果になったと思います。

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Colabo問題から前向きに考えるべきこと 2 不適切会計処理が認定されても悪びれない理由を善意で解釈することによって男女参画委託事業の問題が浮き彫りになってくること、 [弁護士会 民主主義 人権]


今回のコラボ問題で驚いたことは委託事業であるにもかかわらず、都が会計チェックをきちんと行わないで膨大な委託費を支出していたことです。私が関与していた委託支援事業や補助金事業では、きちんと会計処理をしていますし、活動実績をする場合でも実際に行ったという裏付けになる報告書を作成しています。あまりにもリアリティのない報告書はダメ出しが出るようです。もちろん領収書も一つ一つきちんと添付しています。これらの手続きがあまりにも面倒くさいので、補助金を受けるのをやめた団体もありました。

代表の仁藤さんも、2018年のツイッターで、支援事業になる前はこれまで通り活動できると聞いていたのに、いざ委託支援事業になってみたらあれやこれや会計処理を厳密に行わなくてはならず大変だというつぶやきをしていました、この気持ちはよくわかるのです。

ここからわかることは東京都も2018年ころまでは常識的な、他と変わらない通常通りの委託事業の手続きを要求していたことです。そして今回の監査結果からわかることは、その後この原則論が骨抜きになって運用されていたことが示されました。

上の仁藤さんのツイッターを理由に当時の当時の都議会議員などが仁藤氏の要望の趣旨に沿った働きかけを都に行っていたと、現参議院議員の方がユーチューブで説明していました。このユーチューブでの説明では、会計チェックに手心を加えるようにその議員が都の担当職員に働きかけたと解釈しかないように感じます。そうだとすれば、それは都の地方行政、地方財政を脆弱させる行為であり都議会議員としてはあるまじき行為をしたという評価になるでしょう。それでもこの現在は参議院議員の方はそのような深刻な自己反省をしているわけではなさそうなので、そういう働きかけではなかったのかもしれませんが、そうだとすれば正確にどのような働きかけをしたのか説明するべきではないかと思われるところです。

また、この方のユーチューブでは、2018年にコラボに協力していた時には、コラボは一党一派に偏った団体ではないから協力したということをおっしゃっていました。ところが、2022年の参議院選挙では、代表の仁藤さんが公然と共産党候補者等の投票を呼び掛けていたことを理由に、当時は知らなかったから協力したことは仕方が無かったことだというような説明をされていました。今回のネット上のコラボの話題は暇空茜という人物の努力の結果であることは間違いありませんが、しかし事実上「誰か」のガードが下がってストレートが連打されているような印象も持ちます。もしそうであるとすれば背景として同じような政治的な事情があるのかもしれません。

ただ、一都議会議員が働きかけたからと言って会計の大原則を骨抜きにするような行為を東京都が行うとは考えらえません。この現在参議院議員の方は、自分だけでなく他の都議も同様の働きかけをしたと言っていましたが、多数で押し寄せたとしても東京都職員はこのような無理難題から行政を守るのが仕事ですから担当者レベルで大原則をやめたとは考えられません。自分の責任問題につながります。誰しもトカゲのしっぽにはなりたくないわけです。

そうだとすると、東京都のトップなり、国とのパイプを持っているなりした「誰か」がいて、都議会議員の人たちの圧力を利用して、会計原則を骨抜きにするように都の幹部に指示を出し、都の職員もその指示には従わざるを得なかったということが真相だと考えるのが自然な話だと思うのです。ずさんなチェックは政治問題として実現してしまったわけです。この「誰か」は、現在強いつながりを指摘されている団体ではないと思うのです。都の行為の大原則を骨抜きにすることができる立場の「誰か」であるはずです。(暇空さんの指摘される「なにか」にそれほど強い力はあるように思われません。「なにか」と都の両方を動かすことができる「誰か」がいたというのは陰謀論でしょうか。)

都が自ら会計原則を曖昧にしたことをうかがわせるもう一つの補助線があります。
それが今回の住民監査請求についての一連のコラボ側の反応です。不適正会計処理を指摘されたり、本来委託費で賄ってはならない費用を委託費で請求している形になっているという重大な指摘を受けても、全く悪びれる様子もないことです。

この感情については、なんとなくわかる気がします。強がって主張しているわけではなく、主観的には自然な感情なのだと思います。つまり、「自分たちは、当初の約束通り自由に自分が思うように活動してきただけだ。その後(つぶやきによる会計原則の骨抜き後)も都の担当職員との打ち合わせ通り、指導を受けたとおりに会計処理を行ってきた。自分たちは隠し事をしないで都のお墨付きの活動をやってきた。」ということなのでしょう。それなのにどうして否定評価を受けなければならないか理解できないということならば、その気持ちは理解はできます。

私はおそらくこういう流れがあったのだと思います。多くのまじめなコラボ「会計」批判者も同じ論調だと思いますが、仁藤さんが初めから都の会計チェックをずさんなものにして不当な利益を得ようとしていたとは思っていません。東京都に監査請求をして数年ぶりに請求が通った暇空茜さんも現在ではコラボ叩きという意識はほとんどなくなっていると思います。もっと大きなものを見ているのだと感じられます。

仁藤さんのツイッターの愚痴を現実化して地方財政の大きな例外を作ることにした力は「誰」なのかということこそ目を向けるべきです。と言ってもそれが何なのかについては皆目見当が付きません。

ただ「誰か」の人たちの行為の目的の合理性というか正当性というかについては想像することができると思います。つまり女性の地位の問題について、国が何か政策をしなくてはならないのだけれど、何をしてよいのかわからない。それでも事業をしなくてはならない場合どうするか。有識者会議を立ち上げて、それらしい知識や経験のある人を集め、意見を聞いて、政策の正当性をアッピールして、その内容で実施するというパターンです。ただこういうパターンでも、有識者会議のメンバーには立場が異なる人がたくさん入り透明性が確保されます。また、有識者会議の参加者にそのまま委託を行うのではなく、公募を行い、入札によって業者が決まり、業者を通じて委託事業が行われます。この委託事業に有識者が協力することは通常のことです。

ところが、現状の国、国からの予算が付く地方自治体の一部の事業ではこの透明性や一般事務の専門性の仕組みが無く、審議会で政策を作って、予算規模について意見を述べて、そのメンバーのうちのどこかが高額で委託事業を受注するということがあります。

こういう場合、政治家は自分の頭で政策を考えないで、委託をした団体に丸投げをします。それも、与野党全会一致で法律まで作って事業を進めるのです。各事業の方法論はいくつもあるはずなのに、その団体の方法論だけに莫大な予算が付くという感じです。このことについては、以前にこのブログで話しているところです。「全会一致は疑えというパラドクス」は国会でも当てはまるようです。そしてどうやら、こういう全会一致の場合の野党は、全体の会議でその行動を運用するのではなく、一部の有力な幹部が性急に独断で全会一致に参加するように決定してしまうという裏もありそうです。そして、実際運用が始まれば、専門的な委託先団体が政策のイニシアチブをとり、国の役人の担当者は専門的な知識を持たないように新たな担当者が配置転換で頻繁に交代するような場合もあるようです。そうすると、完全に丸投げになり、必要な会計チェックも行われにくくなるのではないでしょうか。有識者会議に参加した団体が国や地方自治体から直接事業委託を受ける形式の事業は総点検する必要がありそうです。

コラボは、若年被害女性等支援事業で突出して実績があるため事業の目玉のような存在だったのでしょう。もしこのコラボが、「会計処理が面倒くさいから委託を受けない」と駄々をこねるいうことになると、事業そのものが無くなってしまうと「誰か」が感じたのだと思います。その「誰か」が「なにか」を通してコラボに委託事業から撤退させないように働きかけ、都にも会計チェックを現状程度に骨抜きにするように強い働きかけをしたのだと思います。コラボとしても、これこれこういう形でよいから委託を続けてくれと実際に東京都から言われて、OKが出されたと思ってその通りにしていたとすると矛盾が無いように思います。その一端を示したメールが情報開示で出なかったメールなのかもしれません。すべて都にオープンにやっているから違法も不当もないはずだという論理は実によく理解ができます。おそらくその「誰か」のお墨付きがあったために、絶対に問題が無いと思ったのは自然な流れだと思います。

このように正義感に燃えて、自信をもって事業を行っているとき、特にパイオニア的な事業を行っているときは、一般常識というものに目が向かなくなる傾向があるようです。
今回の監査結結果からも、コラボに公金を使っているという意識が希薄であることは十分伝わってきます。委託事業だけではない法人の会計などについての費用を委託事業の費目に挙げているのは、単なる事務処理上のミスではありえず、考え方の問題です。高額な食費、旅費を会計処理上公金で賄ったことにしたことは、もちろんそれなりの言い分があるわけですが、これが公になったならば反発を受けることは当然予想しておくべきだったと思います。

なぜ、こんな当たり前のことができずに、世間知らずの状態が放置されたのかということが問題です。この辺りは、仁藤さんを支える人の中に良識のある人がいてその人が仁藤さんにきちんと説明できなかったということを意味するのだと思います。そういう人間関係であったことが図らずしも、現在の状況から推測できるわけです。数千万円から億を超える収入を回す団体に、会計の専門事務職がいないということは致命的な問題ですが、誰も指摘しなかったのでしょう。

また、こういう会計の専門技術がない人たちの根拠となるのは、最大はお金を出す地方公共団体のお墨付きですが、もう一つのありがちな相手の影響があります。それは先輩組織の会計指導です。適切な会計処理を指導するのではなく、とれるものは多くとりなさいという指導がなされて、自分の不適切会計を教えてくる組織を目にしたことがあります。おそらく、ここで「なにか」が大いに影響を与えていたことは十分想定できるところです。

それにしても、「なにか」にも都にも影響力のある「誰か」が本当に誰で、どのような目的でコラボの離脱を恐れるほど被害女性等支援事業の実施に固執したのでしょうか。私は一つは外圧なのではないかとにらんでいます。日本の女性の立場の劣位に対するどこかからの批判があり、その批判をかわすために女性の地位向上の事業に莫大な予算を割いているという体裁を取り、予算を支出する実績というアリバイを作りたかった「誰か」がいるのではないかということです。

国は、男女賃金格差については手を付けなくなり、雇用機会均等政策もおざなりの状態です。そちらで動かない分、他の男女参画政策で予算を使わなければならなかったということなのではないかとにらんでいます。

以上のように考えると、仁藤さんも利用されていたのではないかという思いが私には残ってしまうのです。

男女参画事業の一つとして若年女性等被害者支援事業が行われているのだと思いますが、男女参画事業の目玉は配偶者暴力救済(DV救済)にあります。

最後にDV政策と本件の政策の共通項だけ指摘しておきます。
同じように女性だけを被害者として固定して、つまり男性を加害者として固定することを前提として政策が運用されている。
一方の話だけで被害者として他方を加害者として家族分離が行われる。
どのような支援、救済方法なのか、きちんと国民に知らされておらず、政策の被害者の声が圧殺されている。

特によくわからないのは、東京などの繁華街にたむろしていて、救済が必要な人は何も虐待の「被害者」に限らないし、女性に限らないはずなのです。

どうして被害を受けた人限定なのか、ここがよくわかりません。

DVの場合も、DVを受けないと支援をしてもらえない、だから些細なことでもDVに仕立ててしまうという問題点が生まれるように思っています。この辺りはまた別にお話ししようと思います。


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Colabo問題から前向きに考えるべきこと 1 東京都若年被害女性等支援事業の監査結果の読み方と今後の訴訟の行方 [弁護士会 民主主義 人権]



 1月4日に暇空茜氏の監査請求について、東京都監査委員会は監査結果を発表しました。東京都に対して是正措置が命じられるという衝撃的な内容でした。住民監査とは、地方自治法242条に定められている制度です。簡単に言うと、公金の使用に関して地方自治体に違法、不当があるかどうかを調査、判断し、違法、不当がある場合には是正命令が出されるという制度です。

 この監査請求はハードルが高く、めったなことでは請求が認められることはありません。実際に東京都では舛添知事の時代以降6年間にわたり監査請求が認められることがありませんでした。請求自体は毎年数件あったようです。

 ハードルが高い理由は、監査請求という制度の設計にあります。自治体が行政の支出について違法不正がないことを証明するのではなく、住民である請求人が、公金の使い方に「違法」、「不当」があることを示さなければならないことが第一のハードルです。何しろ、一般住民である請求人は公務の外にいますから違法や不当の証拠を持っていません。これという証拠がなく監査請求をした場合は、監査委員会は、「違法、不当の証拠がなく、請求は妥当ではない」と言って請求を拒否します。だからなかなか監査請求は通りません。地方自治体の財政に関する行為ですから、そもそもあからさまな違法不当な行為は行われません。もしあからさまな違法不当な行政行為があれば、監査請求がなされる前に自浄作用で正常に修正されていることが通常の事態でしょう。

しかし、ハードルを高くする必要性もあります。不当な監査請求が乱発されてしまえば、都の財政支出がストップしてしまい、地方行政がうまくいかなくなるからです。行政効率と合法妥当な行政行為という対立しかねない要請をうまく調整する必要もあるわけです。
 
今回の監査委員会は、東京都から独立した組織なのですが、メンバーを見ると、与党の都議会議員2名も入っています。都のトップである知事と同じ意見の人が、都の行政行為の監査を行うメンバーだということも少し心配がないわけではありませんね。

 こういう高いハードルがあるのですから、監査請求が通るということはめったにないことです。暇空さんの丹念な情報開示請求からの手続きの流れは、まさに法の趣旨に則った正当な監査請求であったことを強く物語っているというべきです。

 暇空さんの監査の理由が一部認められなかったのですが、暇空氏の主張が存在しないものだと監査委員が判断したという論理は成り立ちません。存在しなかったという判断をしたのではなく、要するに資料が不足して証明できなかったということにすぎません。監査委員会は、決め手となる証拠を新たに調査することなく、暇空さんの監査事項のいくつかは「相手の回答(表3)からすれば問題があるとはいえない」ということで、違法、不当とは認められないとしたにすぎません。

しかし、監査委員会の監査結果によると、その記載事項の裏付けについては会計原則に基づいた調査がなされていない(領収書が無いことが多いという指摘あり)というのですから、会計上は限りなく疑わしいということになってしまうと思います。だから監査委員会が監査請求のいくつかに妥当性が無いと判断しても、例えば裁判の判決のようにそのような事実が無かったということを認定したわけではないということは理解する必要があります。

一般の方は、監査と言うことなので、日々の会計書類や領収書などの裏付け書類を調査したうえで理由がないと監査委員会は判断したと思われることでしょう。しかし、今回の監査委員会の監査結果はその裏付け書類が無い不適切な会計書類をしていたというのだから、裏付け調査ができなかったということですから、単に相手の回答書が真実だとしたら請求根拠がないと言ったと読まざるを得ません。

回答書を見ただけでも不当な支出があるという結果が示されたことは大変深刻なことです。領収書を残さないという不適切な会計処理は、極めて深刻な指摘しています。

 但し、こういう住民監査制度の立て付けを理解した上でも、今回の監査結果は、割り切れない文章が続いています。別々の人がそれぞれの個所を起案したような違和感があります。端的に言えば領収書がない等の不適切な会計処理であるにもかかわらず不当な公金支出としない理由があるのかという疑問が生まれるわけです。

 これもいくつか理由が考えられます。
第1に、請求者(暇空さん)が「コラボの不正会計を監査しろと」言う体裁の請求をしたと読める節があることです。そもそも監査請求は「都の行政行為」に違法、不当があるので是正しろというものです。主語は「東京都が」にしなくてはならないわけです。これが今回の請求ではコラボが不当な会計処理をしているから監査しろというように読めてしまうために、「コラボの会計報告に対して東京都が支出したのであり、その会計報告に書類上問題が見当たらないために、東京都の行為には違法、不当が無い」という監査結果の論理にすることができた要因かもしれません。

第2に、それを監査委員会が積極的に利用したのではないかという疑念があります。もちろん監査委員会は、請求人の請求書の内容を通りやすいように修正してあげる義務はないでしょうから、それが問題とは言えないかもしれません。しかし、住民監査請求は、一般住民が行う請求です。住民監査請求が制度化された地方自治法の趣旨に照らせば、その趣旨に照らして必要な監査を行った上で、適切な会計処理をしない団体に多額の公金を支出した東京都の妥当性を監査するべきだったのではないかとも考えられます。個人的な主観、感想ということになりますが、あえてこれをしなかったことは、監査委員会が世の中の非難対象を東京都からコラボにすり替えているような印象を持ってしまいました。

 私の勘違いでなければ、本来東京都が監査されるべき内容は、「領収書などの裏付けのない会計報告に対して、予算通りの支出をすることに不当性は無いのか」という問題だと思うのです。特に支出金額が多額であることに比較してあまりにもチェック体制がずさんではないかということが論点であるような気がするのです。

 暇空茜さんは、監査請求に対して行政訴訟を行うということです。既に弁護士も確保しているということのようなので、委託支援事業の支出原則に照らした東京都の支出行為の問題に裁判所の判断が入ることになるのだと思われます。監査委員会はこうなることを避けるために、是正措置を命じた監査請求結果としたはずです。最初の原則論的な説明部分(違法不当が証明できていないとする部分)があったために、訴訟になってしまったという印象を持ってしまいました。

次の問題は(ブログ上は前の記事になりますが)、ではどうして委託支援事業に対してずさんな支出が行われ続けたのかという問題を考えてみます。

余計なことを言うと、今回も、請求者立証の原則をフルに生かして、請求棄却の結論にしようという動きがあったのではないかという懸念があります。監査結果の文章は途中までこういう流れのように感じます。しかし、これを問題なしとするのは会計原則上問題が大きくなります。特に弁明自体が不当会計であるとされたという、いわば民事法上の「自白」をしているにもかかわらず、請求棄却はあり得ません。会計の専門家、法律の専門家としては、それは自分自身のプロフェッショナルを否定することになり、できないでしょう。部分的に弁明自体が失当ということであれば、監査請求を通さざるを得ません。監査請求を通すならば、不適切な会計処理にも言及せざるを得ません。注目されることは、東京都が2月28日までに、会計資料を整理して裏付けを調査、発表し、必要な公金返還手続きをするということです。ここがどこまできちんとなされるかが焦点です。コラボ自身の弁明自体が不当と認められた点に限定して調査が行われる危険があります。注目するべきポイントはここだと思われます。


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