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子の連れ去り事案で、相手方ないし相手方代理人と連絡が取れる場合にするべきこと、してはいけないこと [家事]



「ある日、妻が子どもを連れて家を出てしまっていて、どこに行ったか分からない」といういわゆる子の連れ去り案件は決して減ってはいない状態です。しかしながら、奇妙なことに残された夫側の代理人技術というものはあまり進化していないように感じられます。ただ、連れ去り側の代理人の行動がシステマティックに練られているっているような印象を受けます。

連れ去りがあっても、妻とラインがつながっていることもありますし、本人とは連絡が取れなくても妻側の代理人の受任通知が届くこともあります。ここが肝心です。ここで、純粋な本心で対応できれば良いのですが、それがなかなかできない。あたかもその弁護士が連れ去りをそそのかしたかのように攻撃的になってしまうことが、むしろ多いのではないでしょうか。

しかし、その結果は、当然妻の代理人の夫への態度を硬化させますし、代理人は聞かされた妻の思い込みのように夫は暴言や誹謗中傷を毎日のように妻にぶつけていたのだろうという偏った見方を固定化してしまいます。また、妻は、夫の怒りの対応を代理人から告げられると、やっぱり夫は怖い存在であり、嫌悪するべき存在だという思い込みが、真実だと確信してしまう効果しかありません。メリットは何もなくデメリットしかありません。

先ず、家族再生を目指すのか、きれいさっぱり離婚するのか、腹を決めなければなりません。以下は家族再生を目指すことを選択した場合になすべきことを述べます。

家族再生を目指すならば怒りを少し他所(よそ)に置いておく必要があります。

気持ちはわかりますから私から「怒るな」とは言いづらいので、しばし他所に置いておくという言い方をしました。連れ去りなんかしなければ、怒りが出てこないので本当はうまくいくのになあといつも残念に思っています。

他所に置くということは、
1 怒りの気持ちを相手や相手方代理人にみせないということ
2 怒りの発想でこれからするべきことを計画しないということ
です。

1 まずは無事を確認出来て安心したはずです。安心したということをしっかり伝えることが最優先です。つまり心配していたということを伝えるということです。しばしばこれが省略されてしまいます。怒りに変わっているから忘れているわけです。

  次に、連絡をいただいたことの感謝を伝えることです。感謝をしろと言っているのではなく、無事を伝えていただいたことに感謝を伝えるだけです。気持ちはどうでもよいのです。

  そして、心配していることを伝えましょう。経済的問題や健康問題、さらにはメンタル上の問題です。怠薬していないかとか、お金が無くて通院できないのではないか、子どもはそれまで環境から一方的に別の環境に置かれてしまっているので戸惑っていないか。などでしょうね。

 つまり、怒ることによって崩れそうな自分を支えているために、本当の気持ちが自分でも見えなくなっているわけです。だから、怒りを捨てることはできないとしても、怒りを他所において、「妻と子どもが突然いなくなって、どんな状態かまるで分らなかったのに、とりあえず妻の代理人から連絡があり妻が無事であることが確認できた場合、どういう風に行動することがあるべき行動か」ということを冷静に考えて、その考えに従って行動しなくてはならないということなのです。

 そうすると、突然の子連れ別居をしているということは、相当精神的に不安定になっていることは間違いありませんから、味方になる弁護士がいるということであれば、自分の妻子が世話になるのですから、感謝の言葉を伝えることが当たり前のことになるわけです。しつこいですが、本心は別で構わないのです。

 本人から連絡が来たら来たで、かなりの努力をして連絡をしてきているのですから感謝やねぎらいの言葉を発するということが大事です。

 本人は、色々な事情で夫と同居することに不安や不快、嫌悪を感じています。必ずしも夫に原因が無いことや主たる原因が別にあることがほとんどです。だから、家族再生を目指すのであれば、目標は一つです。「妻を安心させること」これに尽きます。不安がらせる行動を行わないで、安心させる言動を意識的に行うことです。

 そうすると、いなくなって当然心配するわけですから、先ずは心配していたということをはっきりと述べることが必要ですし、無事がわかれば安心したということをはっきり述べることが必要です。相手方代理人は、夫について妻から思い込みによる歪んだ情報しか得ていませんから、怒りではなく、「一番良い方法で」対処しようとしているという姿勢を示さなければなりません。

但し、連れ去り側のマニュアルでは、夫は狡猾に紳士を装うというものがありますから、直ちに連れ去り側の弁護士が安心することはありません。決して怒りを見せず、心配を言葉にし続けることが肝心になります。

2 怒りの発想で対応のプランを立てない

怒りは、自分が被害を受けた場合だけではなく、道理や道徳、法律や合理性に反する行動に対しても起きてしまいます。だから連れ去りで怒りが生まれるのは当然です。さらに、放っておくとうつ状態になってしまってとても苦しい状態になるけれど、怒りを持つことによって自分を保つことができるということを経験的に覚えてしまい、相手に対して無制限の怒りを抱いてしまう場合があります。

そうするとこれからどうしようということで、まず考えてしまうことは相手に対する制裁です。

だからと言って相手を襲うことを考える人はいません。警察や裁判所を通じて相手を制裁することをどうしても考えてしまいがちです。まじめな人、責任感が強い人ほど裁判所を通じて当たり前を実現したいという気持ちになります。場合によっては本人以上に家族がそういう考えになることも少なくないでしょうね。

その真面目さに従って、ネットで調べて、監護指定・子の引き渡しの審判を申し立てたり、仮処分を申し立てたりするのですが、私は今の家庭裁判所の実務ではメリットはなく、デメリットは確実にあるというのが感想です。(ただ、それでもやらなければならない場合がありますので、それはまたいつかの機会にお話します。)

メリットが無いというのは、それでまず裁判所がこちらに子どもを引き渡せという命令が通常は出ないということです。私は代理人として、一度どうしても必要であったため子の引き渡しの審判を申立てて、認められたことがありました。しかし、諸事情で控訴審の代理人に選任されなかったところ、控訴審で逆転敗訴になったようです。妻の「子どもに夫を面会させる」という空手形で判断が逆転したみたいです。当然妻は約束を実行しません。約束を実行する人か、裁判を有利にするための口から出まかせかもわからない人たちが高等裁判所の裁判官をやっているわけです。

デメリットというのは、子の連れ去りを裁判所がお墨付きを与えた形になること、妻側の夫に対しての敵対的姿勢を固定化すること、何よりも夫は安心できない存在だという気持ちも固定化してしまい、家族再生がさらに遠のくこと、そして弁護士費用が掛かることでしょうか。自分の妻に対する敵意も高まってしまうことも結局はデメリットだと思います。

怒りに基づく行動は、家族再生という目的と反対方向に向かう効果を生む行動を起こしやすいという弊害があるわけです。

私の依頼者ではありませんが、妻に対して報復をして子どもを取り返した夫は、それまで聞いたどんな人よりも妻に対しての憎しみと怒りを言葉にしていた人でしたが、妻に対しては全くそのようなそぶりを見せず、過剰なほどサービスまでして目的を実現していました。

ただ、なかなか怒りを制御することは難しいことです。どうしても人間である以上、自分を守りたくなることは本能的に仕方が無いと思います。その人が怒りを持ちやすいのではなく、怒りを持たされやすい環境に叩き落されたからだと思っています。

そういう場合は、自分で自分をコントロールするという無茶をしないで、代理人に窓口になってもらうということも選択肢とをしてお持ちになった方が良いと思います。

但し、怒り他所に置いていて家族再生を目指すという代理人活動がなかなかメジャーになりません。そもそも妻が子どもを連れて別居するのは、夫のDVが原因ではないかという思い込みを持った法律家があまりにも多すぎるような気がします。夫のDVが無くても子連れ別居はあるという認識を持てる弁護士もいるのですが、その多くが正義の弁護士が多く、戦う戦略をとることが多いようです。なかなか遠方の依頼者に紹介できる弁護士がいないということが目下の悩みです。


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保護命令手続きの合法性についての疑義 要件を満たさないのに命令が出される仕組みと弁護士を依頼することが困難である仕組み だから普通の夫に保護命令が出される可能性があるということ [家事]



保護命令申立ては、相手方弁護士がきちんと対応をすれば、取り下げになることが増えてきたように思います。つまり、相手方代理人の主張、立証を見て、裁判官が「この申し立ては認められる可能性はないので、取り下げた方が良い。」と申立人代理人を説得するのだと思います。はっきりと「取り下げを説得した」という裁判官もいました。

それでも、もし相手方が弁護士を依頼していなければ保護命令が通ってしまう可能性があるし、相手方が弁護士を依頼しずらい手続き上の問題があるということを述べてゆきます。

保護命令とは、「暴行または脅迫があった場合」で、かつ、「申立人の身体生命に重大な危害を受ける可能性がある」という二つの事情がある場合に、裁判所が相手方に対して、申立人や二人の子どもに接近をすることを禁じたり、今住んでいる家から退去することを命じたりする手続きです。これに違反すると、現在は1年以下の懲役または100万円以下の罰金ですが、5月に改正され2年以下の懲役または200万円以下の罰金が科されることになりました。全会一致で決められたというのですから、国会議員は法律の執行の現状について何も知らないで法改正をしているのだなあと改めてあきれるばかりです。

保護命令の効果は、接近禁止や退去をよぎなくされるだけではありません。離婚調停や離婚訴訟が圧倒的に不利になりますし、慰謝料の金額などにも影響を与えます。何よりも、子どもとの面会におおける高い壁になってしまいます。この影響は将来的にも及んでしまいかねません。不当な保護命令は、子どものためにも出させてはなりません。

1 本当は要件を満たさないのに保護命令が出されてしまう可能性がある手続き上の問題

保護命令申立書の用紙は、シェルターやNPO法人の事務所などに備え置いてあるそうです。通常は、代理人がいても本人がその用紙にアンケートの回答の要領で書き込んで、本人の名前で申し立てることが多いようです。書き方を指導する人がいることはわかるのですが、おそらく法律家ではないようです。なぜならば、一応のことは書かれているのですが、書いてあることが相互に矛盾していたり、明らかに過剰なことが書かれていたり、到底あり得ないだろうということがすぐにわかることが書かれているわけです。しかし、これは、弁護士であり、保護命令について研究しており、さらに保護命令が出されてしまうと致命的な被害を受ける相手方の立場で読むことができるからそのような申立書の問題点に気が付くのかもしれません。

保護命令の更新手続きで、保護命令を出した同じ裁判官が、今度は弁護士がついてきちんと対応をしたところ、相手方に取り下げするように強く説得したということがありました。この時、翌代理人に就いてくれたと裁判官からなぜか感謝されました。

相手方代理人弁護士が行うべきことは以下のとおりです。
1 申立人の主張する事実が真実か虚構か、過剰表現かを明確にすること、及び申立人の主張が曖昧であり印象操作にすぎないことの具体的な指摘
2 保護命令は保全処分ではなく、疎明では足りず証明が必要であること
3 保護命令を棄却した先例の提示と当該事件との共通点の指摘
4 重大な危害を受ける可能性が無いことの主張と事実に基づく立証
5 保護命令はひとたび出ると違反した場合は刑事罰が科されるということから、手続きにおいても憲法上の要請を充たすべきこと
6 申立書に描かれている家族の日常と、実際の日常の隔たりの具体的な証明活動
7 余力があれば合理的に考えられるところの保護命令が申し立てられた本当の理由ないし目的

これ等のやるべきことがたとえわかっていても、なかなか当事者の方は必要な反論反証をすることができません。一番の理由は法的知識が無いことではなく、「こんなありもしない虚構の主張で裁判所が保護命令という過酷な命令が出すことはあり得ない」という油断があるからです。

そして、実際、先ほどの保護命令更新の事件では、相手方弁護士から見れば穴だらけで要件をまるで満たさない初回の申立て(弁護士不在)が現実に通ってしまっていたわけです。

2 弁護士を依頼することが不可能な手続きの問題点。

なぜか保護命令手続きは裁判が火曜日か水曜日に行われることが多いようです。ところが、裁判所からの呼び出し状は、相手方の元に水曜日か木曜日に届きます。普通郵便で来るので気が付かないことが多いのです。そして慌てて、早ければ木曜日に弁護士を探し始めます。しかし、当然仕事もあるわけですから、急に休むこともできないで、後手後手になってしまいます。金曜日の夜に封筒を開けた場合は、もはや土、日になってしまい、引き受けてくれる弁護士を探すことができません。また、その時点で弁護士とコンタクトが取れたとしても、既に予定が入っていて翌週の裁判に同行できないことが多いですし、十分な反論書の作成(通常月曜日か火曜日までに反論書を出せという無理なことを裁判所は要求しています。)や反証計画を策定することはほぼ望み薄になってしまいます。

そうすると弁護士抜きで裁判所の呼び出しに臨んで、必要な地道な反論反証活動ができないまま保護命令が出されてしまうわけです。

こういった事情があるため、弁護士は保護命令の代理人の経験者は少ないようです。

しかし、考えてもみてください。それまで普通に家族として同居していて、例えばディズニーランドに出かけたりして過ごしている家族の中で、多少の衝突、夫婦喧嘩があったとしても、生命身体に重大な危害を受ける可能性がある事情なんてよほどのことが無ければありえないじゃないですか。それにもかかわらず、このような常識を持ち合わせていないのか、簡単に生命身体に重大な危害を受ける可能性があるとして保護命令は出されているのです。

いかに弁護士をつけさせないで、保護命令申立ての認容件数を増やそうかというなみなみならぬ立法者の思惑を感じざるを得ません。また、それを担当する裁判所の部署が、保全部で行われていることも大問題です。保護命令は保全手続きではありません。これも先ほどの生命身体に重大な危害を受ける可能性があるということが正式な証明がなされていなくても、保全手続きのように省略された簡易な証明で、証明されたことにしてしまう要因となっており、手続き上の重大な問題です。

こうやって、夫は、ありもしない事実を根拠に、刑罰の威嚇によって妻や子どもと会えなくなってしまい、汗水流して働いて住宅ローンを払っている我が家から数か月も立ち退かなければならなくなります。もちろんその間の住宅ローンや家賃も払わなければなりません。

先ほど述べたように今年5月の国会で保護命令の刑罰が重くなるなどの改正がなされました。政治家は何を考え、何を調査しているのかわかりません。全会一致ですからね。

おそらく保護命令の認容率が低いということが問題意識なのでしょう。認容率が低いのは保護命令の要件を満たさない、目的外の申立てが多いからだというのが、偽らざる実務家の感想です。妻によって挑発されて夫婦喧嘩をして、それを妻に録音されれば保護命令が出されてしまうというような暗黒な世の中にならないようにしなければならないでしょう。

つまり、夫婦喧嘩をしている多くの夫たちは保護命令が出される可能性があるということであり、自分に関係が無いと言う人はおそらく例外的ではないでしょうか。普通の夫に保護命令が出される可能性があるということです。

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裁判実務では、妻の不倫が原因の離婚であっても、結構親権者を母と定める判決が実際は多い [家事]


ちらっとインターネットの見出しを見て、法実務家の肩書がある人が、間違ったことを言っているようなので、訂正だけしようと思いました。

某芸能人女性が離婚するにあたって、裁判所を通さず協議で離婚をして、親権を母親が取得したことを受けて、裁判だったら不貞をした方が親権を得ることは無いというコメントがあったようですが、裁判実務上は違います。不貞をした母親が親権者と定められることはむしろ多いのではないでしょうか。

不貞相手との関係を継続中であっても母親が親権者になることも普通にあります。

これはそうあるべきだという意味の記事ではありません。裁判ではそのようなことが実際起きているという告発めいた記事なのかもしれません。

むしろ、裁判所の判決での離婚ではなく、協議離婚や調停離婚の方が、不貞下当事者は後ろめたさがあって、相手方の強硬な意見に押し切られて不貞を理由に親権をあきらめるということが起きやすいようです。

妻に不貞をされた夫は、妻に不貞をされた上に子どもを取られる形になり、悲惨な扱いを受けます。その上面会交流が拒否されて子どもにも会えないのであれば地獄のような生活となることは簡単に想像できると思います。

子どもの年齢にもよりますが、母性神話は女性のためにもそろそろ終わりにした方が良いと思います。根本には単独親権制度があり、離婚後の親権者が一人だけとなり、他の親は親にもかかわらず子どもとにかかわる権利が否定されるところに問題があると思います。



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リストカットのメカニズム 痛みを感じる仕組みと痛みを抑える仕組み [自死(自殺)・不明死、葛藤]



最近中学校の管理職と話をする機会があり、リストカットは目立ちたいから、関心を自分に引き寄せたいから行うという見解を持っていることに驚きました。それはその人の個人的見解ではなく、教師を対象とした研修会で教わったことだというのでさらに驚きました。

実際に人目を引くためにリストカットをするケースがあるのかどうかわからないが、私が担当したケースは、その人なりに精神的に辛いことがあり、居ても立っても居られない焦燥感というか、不快感というか、負の感情が押し寄せるときに(ディスフォリア)、自分を落ち着かせるために行っているケースばかりです。

仮に人目を引くためにリストカットをしたからと言って、自分に関心を持たせるためにそのような手段に出ること自体が要保護事態だとしなくてはならないと思います。しかし、研修会の結論は、図に乗るから相手にしないということだったらしいです。結論だけ言えば、この研修は生徒の成長や保護を目的とした研修ではなく、生徒を管理する対象としての学校管理の研修だったのでしょう。

このように、自傷行為が死ぬことが目的ではなく、「耐えられない心の痛みを和らげることをめざすものであり、多くの生存者は自傷行為を、逆説的であるが、自己保存行為の一つの形と考えている」という見解は20世紀のころから取り上げられていました。上記引用個所は1982年にアメリカで出版されたジュディス・L ハーマンの「心的外傷と回復」の1999年発行の日本版から引用したものです。

どうして、身体を傷つけると耐えられない心の痛みを和らげることができるかということについて簡単な説明を試みます。ここでのみそは、身体の痛みによって、心の痛みを和らげるという別異のはずの痛みが連動しているというところにあります。

そもそも痛みというのは、身体の痛みが基本です。これは人間に限らず動物の仕組みだと思います。

身体の痛みとは、例えば皮膚が切れたり(裂傷)、筋肉などが挫滅(打撲や捻挫)して当然起きるものではありません。その傷んだ末梢神経が、損傷を起こしたことを電気信号で脳に向けて発信し、脳が痛みを感じるということはご存じだと思います。この過程の中の末梢神経から脊髄に到達した箇所で痛みの信号が増幅されるなどの工夫が行われます。痛みを感じた脳は、痛みを修復させるために血管を通して様々な物質と損傷個所に運びます。その物質がさらに痛みを感じやすくして、さらに修復物質を損傷個所に運び修復作業をしやすくします。

しかし、それほどうまくはできておらず、修復物質を必要十分な程度に加減して運ぶことができません。放っておけば、どんどん痛みを感じる物質が集中してきて、痛みに耐えられなくなるようです。

そのため、脳の中で、痛みを感じた場合、修復物質を運ぶ働きが始まると同時に、痛みを抑制する物質を産み出して、不必要な痛みを感じなくするという働きが起きるそうです。

痛みを感じさせる目的は、身体の部分が傷んだ場合、身体を休ませて損傷個所が治癒しやすいように行動決定を促すところにあるようです。痛みを感じないというなら、損傷個所に気が付かずにそこに負荷をかけ続け、治癒不能なまでに身体の部分を破壊してしまい、致命的な事態を起こしやすく、簡単に絶滅してしまうことでしょう。

痛みを抑制する物質としては、ドーパミンが放出され、μ―オピオイド系というエンケファリンやエンドルフィンなど(麻薬のようなもの)が活性されて痛みが抑制されます。また、ノルアドレナリン、セロトニンなどのモノアミンと呼ばれる物質が脊髄の入り口の痛みを増幅させるシステムを抑制するようです。

ここで面白いのはドーパミンは、何か良いことがあったときに活発になり、喜びを感じさせる物質だということです。快によって痛みという不快を抑制しようとしているわけです。

また、モノアミンは、脳内で欠乏している状態がうつ病と呼ばれる状態でして、モノアミンの回収を抑える薬がうつ病の治療薬として活用されているということは頭に入れておいてください。

このように、痛みを感じるシステムが働くときは、痛みを抑えようとするシステムも発動しているということが今回のキモです。

さて、身体の痛みが発生した時に、身体の痛みを抑えるというのであれば、素直に、「ああなるほど」となるのですが、リストカットの場合、心の痛みを和らげるために体の痛みを起こすということが興味深いことです。もちろん本人は、そのような理屈を知っているわけではなく、なんとなくディスフォリアの状態になったときにリストカットなどの自傷行為をしたらディスフォリアが収まったという経験から、ディスフォリアの状態になると意識的にリストカットをするようになるようです。

どうして、身体の痛みを緩和するシステムが心の痛みにも通用するのかということが一番興味を引いた部分です。

先ず心の痛みとは何かということです。

身体の痛みを感じる目的が体の損傷に気が付いて身体を休ませるところにあるというのであれば、心の痛みの目的も心に何らかの不具合が発生したので心を休ませるためにあるのだと思います。家庭を省略して結論だけを言うと、心の痛みは、身体の損傷だけでなく、対人関係的な不具合が発生していて不具合を修正する必要があるという警告なのだと思います。

極端な例は、いじめやパワハラで、その対人関係を形成している仲間から追放されそうになっているということです。人間は群れの中に自分を置こうとする本能があるので、群れから否定評価されたり、肯定評価をされなかったり、攻撃されるなどの事情があれば、本能的に群れから追放されるという不安が生まれてしまい、群れにとどまろうとしてしまうと考えるとよく話がつながると思います。

本来であれば、不安や心の痛みを感じたら、自分の行動を修正して元の調査が取れた群れの中に戻ればよいはずなのです。しかし、どうしても自分の力では自分の群れの中に戻ることが不可能だと感じた場合、強い心の痛みが発生し、ディスフォリアの状態になってしまうのでしょう。あたかも今まさにライオンが襲ってきて食べられてしまいそうになっているような場合の脳の状態と同じになっているのだと思います。

つまり、本来は対人関係的な痛み、不具合を感じる感じ方は、身体生命の痛み、損傷を感じる感じ方と別の方法で良いはずなのですが、自然というか人間の進化の到達というかは、対人関係的な痛みの感じさせ方として、身体生命の痛みの感じ方を「流用」しているということなのだと思います。

この言い回しは私のオリジナルではなくて、アントニオ・ダマシオの「デカルトの誤り」の二次の情動は一次の情動の表象を借りて発言するという言い回しを借用しています。

身体の痛みを抑制するシステムを発動させると、身体生命の損傷が無いのに、心の痛みである対人関係的な不安や焦燥感も同じように抑制することができるということになります。

リストカットをする人たちは、確実に心の痛みを抱えており、さらにその痛みを解消する合理的方法が無いと絶望しているという共通点があるのではないでしょうか。体の痛みが無いにもかかわらず、強制的に体の痛みを抑制するシステムを作動させるために、自分の体を物理的に傷つけているということになります。

家族や教育者という子どもに対しての保護的な立場の人間がリストカットを等閑視することはしてはならないことであると思います。まずは、どこにその人の絶望があるのか、時間を取ってよく話を聞く必要があると思います。そしてできるならば自分はあなたを決して見捨てないというメッセージを発していただきたいと考えています。

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どうしてあの人が犯罪行為をしたのか。失敗をしないで理性的な活動をするためには、適切な睡眠時間と睡眠時刻が必要 [進化心理学、生理学、対人関係学]



そんな世間を騒がすほどの大きな事件でなくても、私たち弁護士が業務上関わる犯罪であっても、「え?どうしてあの人がそんなことを」と周囲が驚くことが少なくありません。本人は、いたって真面目な人間で、まっとうに生きているので、「魔が差した」としか言いようがないのです。しかし、犯罪には必ず理由があり、その理由を改善しないと再び犯行を行う危険が残るわけです。

実は、慢性的な睡眠不足が犯罪の背景にある場合が多いように感じています。

慢性的睡眠不足が、外国での原発事故の一つの要因とされています。失敗するはずのない失敗が起きた事故でしたが、その失敗が起きた原因が睡眠不足だったというのです。

私の業務上でも、自動車事故のケースに睡眠不足があったと思われるケースが多いです。夜勤明けに自動車を運転して帰る時に人をはねて死亡させてしまう事故がありました。人をはねる瞬間、眠っていた、つまり意識を失っていたので、見通しの良い道路で追突をしたのです。結果は大変深刻です。朝元気よく「行ってきます」と出て行った病気一つない主婦が、何の落ち度もなく歩いていて命を落としたのですから、ご遺族の無念さと悲しみは大きいものでした。

睡眠不足の場合、特に慢性的な睡眠不足の場合は、このように意識を失わなくてもミスをします。むしろ意識を失わないために、睡眠不足のために思考力が減退していても気が付かないまま、取り返しのつかない判断ミスをしてしまう危険があります。

過労死や過労自殺も睡眠不足が背景にあるため、睡眠不足の負の影響については意識的に観察をしています。その結果、睡眠不足は、思考力を奪うということが言えると思いました。

どのように思考力を奪うかというと、総論的に言えば、努力して考えるという行為ができにくくなるということかもしれません。具体的には

1 複雑な思考ができなくなる、複雑な思考とは細かい計算だけでなく、他人の気持ちや他人の立場を考えるということができにくくなります。
2 現在は目に見えない将来的な成り行きなども考えることができなくなるようです。
3 時間をかけてじっくり考えるということができなくなり、早く答えを出そうとします。
4 折衷的な考えなどの複雑な考えというか、自分の頭で考えなおすということができなくなり、あらかじめ用意された答えのどれかを選ぶという思考になりますし、イエスかノーかとか、表か裏かなど、はっきりした答えを好むようになります。あとは数字で成果がわかる方を優先してしまうようです。

この結果、奇妙に悲観的になりすべてがノーという決断になったり、奇妙に楽観的になってすべてがイケイケになったりということも起こりやすいです。まっとうにお金を稼いで目的果たすことができないと悲観的になる一方、あそこから持ってくればすぐに手に入るじゃないかという心理で、窃盗が起こされるということはよく見ています。

洗脳される場合は、意図的に睡眠不足にさせることが多いようですが、それは理にかなっていることになります。こちらの用意した「正解」に従ってしまう思考にさせるわけです。「なんだかわからないから、あなたの言う通りにしよう。それなら少し安心だ。」ということなのでしょう。

他人が意図的に洗脳する場合でなくても、「偶々その時に自分が考えていたこと」を実行してしまうことも睡眠不足の際にみられます。極端な事例を挙げると、ある商品のコレクターが事件を起こしました。ある睡眠薬とアルコールを同時に摂取し、その商品を盗もうとして逮捕された事件でした。自動車の運転をして目的地の店に到着することができ、欲しかった商品のコーナーにたどり着きました。しかし、店のものをお金を払わないで持ち出したら窃盗になるからやめようと思うことができなかったため、堂々と商品を持ち出そうとして逮捕されたのです。これは薬物の影響なのですが、結果的に薬物の影響で睡眠不足の極端な場合の思考能力が生まれてしまったのだと思います。

ここまで極端ではないものの、多くの事件で、睡眠不足が原因で、被害者の被害、被害に遭ったことでの精神的ダメージを考えることが無く、また自分も世間的に致命的に不利になるということを考えることができず、純粋に自分の欲望に従って行動し、結果的に物を盗む等の犯罪を実行するというパターンがあります。

人間が何か行動を起こそうとする時、色々な物差しでそれをしても良いのか、するべきではないのかを点検しているようです。

・ 欲望によって、何をしたいか決めるという物差し(お金が欲しいとか、何もしたくないとか)、
・ 他人の評価という物差し(これをすれば褒められるとか、これをしたら致命的に否定評価をされるとか)、
・ 道徳や法律に従うという物差し、
・ 仲間内のルールや宗教の教義などの比較的具体的な物差し、
・ 親、学校の先生、上司などの指図という物差しですね。

いつもほとんど無意識に、あるいは直感的に、それらの物差しをあて、メリット、デメリットを比較して行動を決定しているようです。

睡眠不足は、この物差しをマルチに当てはめることができなくなり、例えば欲望だけを極端に優先するようになって、他の物差しがイメージとしても出てこないという状態が生まれてしまうようです。軽い気持ちで人のものを取ったり、会社の財産を横領してしまうということが起きてしまいます。だから逮捕されても、どうして自分があんな馬鹿なことをしたのかと、悔やんでしまうのですが、理由がわからないということが起こりうるわけです。

どんなに犯罪から遠そうな温和な人でも、いくつかのアクシデントがあって、今までの生き方の修正を迫られたり、孤立が継続しているときに、眠れない日々が続いていると、つい、犯罪を実行してしまうということがどうやらあるようです。

睡眠不足は文字通り眠らないことによって起きるので誰でも起きる可能性があるのですが、睡眠不足以外にも、薬物(覚せい剤など)やアルコール等によっても起きることは仕事柄よく見ています。禁止薬物に手を出す時も睡眠不足が背景にあることも多いように感じます。

また、一定時間睡眠を確保していて睡眠不足ではないよという場合でも、よくよく聞くと昼夜逆転をしていたということもよく見られます。人間の体は細胞のレベルから体内時計があって、睡眠を効率よくとるためには夜に寝ることが必要なようです。具体的に何時から何時だということは難しいのですが、私がうかがった精神科医の話では夜の10時から2時の4時間を含む7時間だと言っていました。現代人はなかなか10時に就寝することは難しいと思いますが、11時には布団に入ることがベターのようです。そして、不足のない睡眠時間というのは個人差がありますが、成人の場合は睡眠リズムから考えて6時間半から7時間と言って間違いはないと思います。

また、最近の事例研究では、睡眠時間は必ずしも毎晩意識を失っている時間でなくても良いようです。体を横たえて、好ましいイメージを頭の中で作ってリラックスしていればよいようです。不安の種というものは誰しもあるわけで、そういうものはほっとけば頭を支配して、眠ることができなくなってしまいます。しかし人間はうまくできていて、同時に二つのことを考えられないという特質があります。意識的にリラックスできるイメージを作ることによって、心配事を考えなくするという方法論のようです。

睡眠不足によって、思考力が減退していることはなかなか自覚できません。逮捕されて生活リズムが整った後で、犯行時は今に比べるともうろうともやがかかったような思考状態だった、今は思考がクリアーになっていると気が付くといいます。睡眠不足の影響を自覚できないために、自分の行動をコントロールできないということになり、犯罪や致命的な仲たがい等取り返しのつかない行動をしてしまいます。

早寝早起きという生活リズムをいつも整えておくことは、犯罪予防の観点からも正しいということです。試験勉強や仕事という、やらなければならないこと以外の理由で、夜の10時を過ぎて活動することは意識的に避けるべきです。

なお勉強も、思考系の勉強はもちろんですが、暗記系の勉強も睡眠時間が大切です。実は記憶というのは眠っている間に整理され、整理されることによって定着されるということがわかってきています。また、暗記系は覚えこむことよりも、思い出す訓練をすることで記憶が定着していくというのが記憶学の近年の到達です。睡眠不足では、努力して考えるということができなくなりますので、思い出すということがなかなかできにくいようです。

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怒りは生活習慣病 小手先のルールよりも効果のある怒りの予防方法、生活習慣・環境の改善こそ [進化心理学、生理学、対人関係学]



「アンガーマネジメント」という言葉あります。この言葉があちこちで使われるということは、それだけ怒りで失敗したと感じる人が多いのだろうと思います。しかし、「アンガーマネジメント」で、怒りを抑えられるようになったという話はなかなか聞こえてきません。世俗的な(しかし受講料は決して安くない)アンガーマネジメント研修の二つの問題点を先ず指摘します。

1 怒ってから怒りを鎮めるという方法論は非科学的であるため実践できないこと

アンガーマネジメントの内容として多いのは「6秒ルール」です。「怒りを感じたら6秒待ってから行動する」ということなのです。これは科学的に考えると無理な話なのです。

なぜ無理かというと、「怒り」という感情は、自分が怒っていると気が付く少し前に既に始まっています。また、怒りと同時に攻撃行動も起きてしまっているのです。だから、「自分が怒っていると感じる ⇒ 6秒待つ ⇒ 怒りの行動の回避」という流れは、理屈上はあり得ません。「怒る+怒りの行動 ⇒ 自分が怒っていると認識する」という流れが本当だからです。行動に出てしまってからでも、怒りが静まればまだましかもしれませんが、怒りは一度大きくなるとなかなか静まりにくいという性質があります。

怒らないようにするためには、怒りを感じたその時どうするかではなく、怒らない体質を作るということで、常日頃の予防こそが実現可能な方法だと思います。
もっとも世俗的な研修でも6秒ルール一本で怒りを鎮めようとするものはあまり無いようです。

2 怒る人にばかり原因をもとめ、怒る人だけに対策をさせようとする

確かに怒りやすい状態になっている人はいますし、現代社会では多くなってきているようです。怒る人が怒らなければ問題が解決するという安直な考え方をする人たちは多いようです。「加害者教育」という考え方はその純粋形でしょうね。

怒るのは、怒る人だけに原因があり、怒る人だけが悪いのでしょうか。

怒る原因は、前回の記事でもお話ししましたが、自分に危険が迫っていると認識し、危険を破壊することで回避しようという行動です。このような危険を感じる原因としては、

対人関係的な危険が迫っている、つまり、意識的か無意識であるかを問わず、自分が仲間として扱われたい人から否定評価を受けるという危険を感じている場合に起きることが典型でしょう。

しかし、このような対人関係的危険の意識(不安)は、実際の怒りの対象の人間の行動がなくても、
・ 内科的あるいは婦人科的疾患によって引き起こされたり
・ 薬の副作用で起きたり
・ 妊娠、出産などのホルモンバランスの変化
・ あるいはいじめを受けたなどの過去の人間関係上の経験
・ 何らかの精神疾患
・ 人格的な問題
・ 他の人間関係での是正を求めにくい不合理な扱い
等々、様々な理由で、本当は危険が迫っていない場合にも、危険が迫っていると感じやすくなっていることから危険を感じ、怒りの行動をしやすい状態になっていることが本当です。

何らかの疾患があればきちんと治療を受け、薬が合わなければ変えてもらったり、普段の人間関係を円満にしたりすることこそ、怒りを起こさない根本的な対処方法です。また、この対策を効果的にするためには、一人で頑張っても難しく、周囲の協力があれば効果的に怒りを予防できます。不安を感じさせる行動を無くして、安心をさせる言動をかけてあげることによって不安を感じにくくできて、怒りに転嫁しにくい体質が生まれていきます。

環境を変えるという地道な生活習慣を身に着けることが大切です。問題はその環境の作り方です。

3 すべての人間関係が円満になるはずがないということを意識すること(あちこちに手を出さない)

怒る人を見ていると、多くの割合で、真面目過ぎる人が多いことに気が付きます。その人の怒りをその人の視点でみると、「それは怒っても仕方がないな」とつい思ってしまうことがあります。しかし、思い直してみると、「何もそこまで難く考えなくてもいいのではないか」とか、「そのような人にまでそんな期待をしていたらきりがないだろう」という感想を持つことに気が付きます。

怒りやすい人は、およそ人間であれば、すべての人が自分に配慮しなくてはならないとかという思いが強すぎるように感じます。逆に言うと、すべての人間関係で危険を認識してしまうということなのだと思います。これでは身が持ちません。

朝起きてから会社に着くまででも、とてつもない数の人間と顔を合わせます。店に入れば店員と言葉を交わすこともあるでしょう。それらすべての人に正義や配慮、あるいは合理性を求めていたのであれば、怒りも出るでしょうが、相手からの反発も出てしまいます。

「ご自分」は唯一一人ですが、通行中に触れ合う人やコンビニで対応してくれる人からすれば、「ご自分」は無関係なその他大勢の一人です。配慮を求めてもピンとこないことは仕方がないことかもしれません。

やるべきことは、自分が大切にするべき仲間の人間関係と、それ以外の人間関係を区別することです。

大切にするべき仲間以外に対しては、自分への配慮を求めることをやらないことです。自分を良くも悪くも無関係の存在として扱う人たちが存在することを自覚することが第一歩です。配慮をされなくても自分は攻撃を受けているわけではない、気にすることではないということを腹に落とすことです。

4 大切な仲間からは配慮されるように自分で仲間づくりをする

「自分が大切だと思う仲間」、つまり「いつまでも一緒にいたい仲間」が誰なのかをはっきりと自覚して、その仲間が自分に自発的に配慮するような人間関係を作ることが、怒りを抑える特効薬になると思います。

その仲間は家族であるべきです。子の連れ去り別居事件を多く担当していると、普段は意識することが少ないにしても、家族がかけがえのない存在であるということを知らされます。連れ去り別居をされた男性は、時には生きている目標を失い廃人のようになることもあり、職場なり社会的信用なり様々なものを失うこともあれば、自死に至ることも少なくありません。好きあって認め合って結婚した相手で、長い間一緒に生活する人間は、自分では自覚が無くてもかけがえのない仲間のようです。その仲間が自分に対して自発的に配慮をすることで、自分のベースキャンプを確かなものにすることが、怒りやすくならない特効薬になるということです。

ではどうやって、自発的に仲間から配慮される関係を作るかということに移ります。

最善の手はこちらが先ず仲間を安心させる行為をするということです。究極の安心感は、どんなことがあっても決して見捨てないということを示すことです。感謝する、謝罪する、労力に対して評価を表すということが基本です。また、仲間の失敗、不十分点、苦手なところを責めない、批判しない、嘲笑しないということも有効です。そうして、改善するべき点があれば一緒に考えるという態度をしめすということです。

それらをできるだけ言葉にすること。

それから情報伝達以外の会話を行うこと。相手の話にうなづいて、共感できるところ、肯定できるところを探し出してでも共感し肯定すること。「仲間の間に無駄話なし」ということを意識することです。

自分が努力することによって、相手も同じようにふるまおうという意識が出てきます。だから、自分が努力することで図に乗って尊大になる人とは仲間になってはいけません。しかし、人間はどこかそういうところがあるので、大抵のことは許すという作業が必要になるでしょう。多少の図に乗ることでいちいち「そうすべきではない」と怒っていたら本末転倒になるでしょう。

そうやって仲間に安心感を与えることで、居心地の良い人間関係を作る。これが王道だと思います。自分は家に帰ればかけがえのない仲間がいるということで心に余裕ができ、大抵のことは怒らないで乗り切ることができるようになると思います。また、仲間を大切にするという行動パターンは、仲間の外で自分に無理をさせることを予防することになります。

このプログラムを一人で行うことを念頭に書きましたが、仲間がみんなこの方向性を理解して、共通目標として行うことで、より効果的な仲間づくりができるということになります。大切なことは人間は失敗をするということです。それをとことん責めることをしないで許し、支えることで怒らないどころか、幸せな人間関係が形成されていくと考えています。

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怒りは原因に見合わないほどに大きく、激しくなることについて 「目には目を」のハムラビ法典が必要になった理由 [進化心理学、生理学、対人関係学]



ハムラビ法典は紀元前18世紀という途方もない昔に作られたものです。多くの方が、「目には目を」、「歯には歯を」という言葉を聞かれたことがあると思います。この意味として、「被害を受けたら報復をするべし」ということで理解をしている方も多いと思うのですが(実際そう使われている場面ばかりを私も見ていました。)、実際は目をつぶされたら加害者の目をつぶす程度で報復は抑えなければならないということを定めたものとされています。

法典ですから、社会の秩序を維持するために作られています。こういう同害報復定めることは、それなりの理由があったわけです。その理由というものは、人間は、報復をしようとすると、自分が受け互いに見合わないほど激しい報復をしてしまう生き物だ。だから規制をしなければ報復の報復はますます大きくなり、報復に対する報復が際限なく続いて社会が大混乱になるということから、被害と同程度までに報復は抑えなければならないというルールを作る必要があったということだと思います。

このように私的な報復にせよ、公的な刑罰の執行という形の報復にせよ、報復の強さについての制限については、現代の刑法典に脈々と受け継がれています。

報復が原因に見合わないほど大きくなる理由はいくつかあります。

それは、報復が怒りの感情に基づいた行動だからです。つまり、自分が受けた被害の範囲で怒るということではなく、一度怒りだせば、その怒りの程度などを考えることもしないし、少し怒り過ぎからしらと思い直すのも時間がかかるということです。怒りによる行動はコントロールしにくいという特質があります。だから、怒りの対象に向かって怒りをぶつけると、歯止めが利かなくなってしまうことが多いわけです。

事件報道などを見ていると、よく「そんな些細なことでそこまでするのか」という事件がありますが、それは「報復」という要素があるならば理解しうる話です。賛成するということではなく、そのようなこともありうるという理解ができるということです。

少し原理的な話をします。

怒りによる報復は、恐れによる逃走とメカニズムが共通しています。どちらも自分に降りかかった危険を解決するための本能的行動です。危険を認識した場合、通常の動物は危険から遠ざかる方法(逃げるということ)で、危険の実現を回避しようとします。この時に逃げる行動を後押しして、逃げることに集中させる情動が恐れということになります。余計なことを考えずに、他の選択肢を考えることなく、ひたすら逃げる行動を恐れが後押しするわけです。逃げることには都合の良い心理状態になります。

怒りも同じ危険の実現の回避を後押しします。怒りに後押しされる行動は攻撃です。危険の元を破壊することで危険の実現を回避しようとするわけです。怒りにまみれることで、同じように余計なことを考えずに、他の選択肢を考えることなく、ひたすら攻撃をします。この時の情動が怒りです。

怒りが報復の程度を間違えることはこのような原理で生まれてしまいます。むしろ被害の程度に関係なく攻撃をすることが怒りの原型ですから、怒りに任せた行動は歯止めが利かなくなってしまうということもよく理解できることです。

怒りが誤射しやすいということもこの原理から考えるとわかりやすいと思います。

怒りは、客観的に怒るべきか否かを考えた上で発動される情動ではなく、自分に危険が迫っていると自分が感じるだけで発動されます。だから
1 相手の自分に対する加害行為が無いのにあると思い込めば怒りの情動が沸き起こり相手に対する報復行動が起きることがある。

2 相手以外の他者から自分が攻撃をされていると感じることが重なると、自分は誰からも攻撃をされる危険があると思い込み、相手の些細な行動が自分を攻撃する行動だと感じやすくなり、その結果怒りの情動が起きやすくなってしまう。腫物に触るみたいなことでしょうね。八つ当たりもこの類型でしょうね。

3 不安をあおり、誰かの原因だと水を向けることで、その人が第三者に怒りを持ち、攻撃する事態を作ることが可能となります。


次に危険を認識した場合、どういう場合が怒りとなり、どういう場合が恐れとなるかについては以下のように考えられるのではないでしょうか。

動物の基本は、危険を感じたら逃げるという行動になる。
反撃を考える場合は
1)勝てると思う場合 戦えば勝てると思う場合は怒りがわいてくることが多いようです。

2)戦わなければならないと思う場合 典型的な現象はほ乳類などの母親が子どもを守る本能的行動です。子熊が可愛いので遊んでいたら、母熊は子どもが危険にあると認識して相手を攻撃するということが典型でしょうね。鳥類なども卵を守ろうとする行動がみられるようです。人間の場合は、ほ乳類として母親が子どもを守るほか、群れを作る動物として仲間を守ろうとする場合に怒りが発動されやすくなるようです。

さらに、自分だけで戦うのではなく、自分には味方や賛同者がいるということを確信している場合、自分は多勢だという場合も怒りによる攻撃に移りやすいようです。正義の怒りはこの類型に入るのでしょう。勝てると思いやすくなるし、戦わなければならないと思いやすくなるのでしょう。

弁護士として人間間のトラブルを見ていると、この怒りによって、人間関係の紛争が生じたり、大きくなったり、収拾がつかなくなったりということをよく見ています。第三者が人間関係の調整をする場合は、怒りという感情の出どこをよく考える必要があり、怒りの程度についても再構成をしてあげる必要があります。

特に、我々弁護士や支援者が注意しなければならないことがこの2)です。危険を認識している人を目にすると、無責任に元気にしたくなるのが人間の本能のようです。しかし、その支援によって、自分には味方がいるという意識を持たせてしまい、また正義の観点から戦わなければならないと思いやすくなり、怒りが生じやすくなったり、「恐れ」が「怒り」に転化してしまうことも生じます。

本当は危険がないのに、危険があるということを結果的に思い込ませてしまう場合もあるわけです。また、ひとたび怒りの行動をしてしまうと、その人の人生の基本となっていた人間関係が紛争状態となり、収拾がつかなくなってしまうということも実に多く見ています。

今から4千年近く前ハムラビ法典が作られ、人間の本能を理解した上で、本能のままに行動することによる弊害を回避する手段を確立していました。現代人はどうでしょうか。人間は必ずしも進歩しているわけではなさそうです。

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