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「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」という発言は、むしろ女性を称賛する結果になるという理由。民主主義的な価値観に照らして考えよう。 [弁護士会 民主主義 人権]


要は、
会議に時間がかかって何が悪い
ということなんです。

確かに森氏の発言は、女性蔑視といるでしょう。
しかし、女性対男性の構図だけで見ていると
その先にある本質的な危険性が見えなくなってしまいます。

森氏の発言は、ある価値観を前提としています。
それは
会議は効率よく素早く終わるべきだ。
そのために理事は協力し合って発言を控えるべきだ
というものです。

しかし、これは、民主主義の価値観とは対立する価値観です。

民主主義を多数決と同義と考える方もいるようですが、
それは最終的意思決定過程です。
議論の過程では、
例えばなんらかの制度を作るという場面では
その制度のメリットを示して提案がなされますが、
様々な立場の発言者が、様々な立場からデメリットのあることを提示します。
(ここからが民主主義なのですが、)
できるだけメリットを発揮できるようにしながら
デメリットをできるだけ回避したり、軽減させたりしていく
こういう話合いが民主主義です。
(今の国会運営を民主主義のモデルとしてはいけません)

多様な立場の人が、それぞれの立場からの発言をし
話し合ってよい制度を作るということです。

これが民主主義的価値観だと私は思います。

だから民主主義的価値観の下で行われる会議は
時間がかかって当たり前ですし、
時間がかからないことは不自然だと思います。

この反対が独裁的というか、上意下達的方法論ということになるでしょう。
典型的には軍隊です。
差し迫った危険があるのに悠長に議論などをしている場合ではないので
このような意思決定過程が有効だということになると思います。

もちろん、純粋に民主主義的価値観と軍隊的価値観を貫く
ということも非現実的で
民主主義的価値観に立っても議論のための議論は回避するべきで
何らかの結果を出さなければならないため多数決が行われるわけです。

軍隊とは言っても、そもそもの戦略は合議で行ったりするわけです。

しかし、この軍隊的価値観が
日本では様々な組織に戦後も残存していて
結論を早く出すということに価値をおくことが多くあります。

企業戦略でも
短期的な売り上げ目標が強調されすぎると
軍隊的価値観が優先されていくことは
企業で働いている人なら実感されることでしょう。

現在ではこのような意図的にクリティカルな状況を作るという
労務管理は徐々に傍流になっているようです。

だから、女性理事が入ると時間がかかるということは
民主主義価値観からすると、(私に言わせると)
女性の理事は頑張っているなということがわかるのです。

そう言うと森氏のように考える人は
女性の発言は、会議を進める内容ではなく自己顕示欲だ
というのかもしれません。
しかし、そのようなルールを知らない人が理事に選任されるということは
考えにくいと思います。
単に、提案者の提案を前に進めないことに反発しているのではないか
と勘ぐってしまいます。
そもそもおよそ女性は主としてそのような発言をするというなら
それは全くの差別そのものでしょうね。

それに比べて、森氏の発言からは
男性理事の惨状が見えてくるではないですか。
理事という求められた役割から
提案を豊かなものにするための
自分の選出された母体の立場からの発言が
あまり見られないということを意味するように思えてなりません。

忖度するのに男性も女性もないのでしょうが
軍隊も男性が中心でしたから
男性は、もしかしたら権威に迎合してしまいやすい
軍隊的価値観になじみやすい性質がある人が多いのかもしれません。
上が提案したのだから、それに賛同するのが自分の役割
と空気を読みすぎているのかもしれません。

だとすれば
国民の税金を使って議論をするなら
バンバンと意見を出す女性理事をもっともっと増やすべきではないか
そう思えてくるわけです。

つまり、森氏の
「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」
と言われたならば
だから女性をもっと増やすべきだと言えば良いのだと思います。

それが、この発言は女性蔑視だと
それはそうかもしれませんが、それで批判が終わるのであれば
それは、会議は時間をかけないで行うべきものという
森氏の価値観と価値観を共有しているように思えてなりません。
軍隊的あるいは男性的価値観を無批判に踏襲して
あるべき価値観に照らして女性に価値が無いという発言だと
そういう批判に思えてならないのです。

これでは
男性は上の言うことに従う傾向にあるという
男性差別の価値観が発言の中にあるということを見逃し、
そもそも理事会が民主主義的な価値観に反する価値観を求めている
という問題の本質に切り込めないのではないか
という危惧を持ちました。

報道を受けた議論の流れは
それを如実に表していると思います。


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仙台市講師のいじめアンケート書換えは氷山の1角であるという意味。個人攻撃よりも取り上げるべきこと 日本の国家政策の一貫姿勢 [弁護士会 民主主義 人権]



仙台市の小学校で、子どもたちが記入するアンケート調査を
講師が書き換えていたということが全国ニュースになっています。

後追い記事は、この講師の教師がいかに乱暴な人間であったかということにとどまっています。
それがダメだとは言いませんが、もっと他に取り上げることがあるだろうと思います。

この講師は勝手に他人の書いたものを直接書き換えていた点が悪どいところですが
アンケートを操作するということは学校現場において悪びれもなく行われているようです。

アンケートは記名式で行われます。
アンケートを書いた児童を呼び出して、話を聞き、
「それはいじめではないよ」と説得して
本人に書き換えさせることは、学校や地域によっては常態化しているようです。

また、アンケート調査開始にあたって
いじめにあたる例と当たらない例を説明してからアンケート記入をさせる例もあるようです。

友達との喧嘩の場合はいじめではないよ
話をしていて、自分の意見が通らないこともいじめではないよ
うっかりあなたが来ないうちに出発しているだけならいじめじゃないよ。
言い合いになっても、すぐ仲直りをしたらいじめではないよ
とかです。
おそらくこれを読まれた方は、そりゃそうだろう、そんなものはいじめではないはずだから
問題ではない
と思われるでしょう。

しかし、いじめ防止対策推進法のいじめの定義は
児童等に対して、当該児童等が在籍する学校に在籍している等当該児童等と一定の人的関係にある他の児童等が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているものをいう。
ということになっています。

つまり、例えば同級生の行為であれば、本人が心身の苦痛を感じていれば
全ていじめになってしまうわけです。

だから、この定義を限定する事前のレクチャーは
全てアンケート内容の改竄と同じことになってしまいます。

この定義が問題であり、いじめ防止にどこまで役に立つか、
それ以上の弊害は無いのかという考えは健全ですし、
私もそう思います。
おそらく、学校現場でもそう思っていることでしょう。
また、いじめに該当すると、
学校はいじめ行為をした生徒を処分しなければなりません。
ますます、いじめの定義を限定したくなるのはよくわかります。

しかし、法律が定義をしている以上、
これと違う定義を表立って作り直すことはできません。
このため、各地で、あるいは各学校で、
独自の定義を作って、いじめ防止をしているのです。
いじめアンケートなんてこんなものです。

だからいじめアンケート改ざん問題が出たならば
こんな使えない定義をいつまで温存するのだということを
マスコミを含めて考えなければならないのではないでしょうか。

この改ざんをした講師という身分にも着目するべきです。
身分が安定していない非正規労働者の性質を持っているわけです。
そんな不安定な立場の人に教師をやらせていること
なぜ正規の先生を使わないのかということにも
目を向けるべきではないでしょうか。

それはともかく、
自分がいじめられたと思ったらいじめ
あとは処罰というのは、
実は日本の弱者保護の基本政策として一貫しています。

配偶者保護法も
一定の行政機関に相談したら、即「被害者」という実務です。
そして本当は加害を与えているかどうかわからない夫婦のもう1人が
「加害者」という名称で扱われるのです。
そして家族を断裂させていくしか政策がありません。

児童虐待も、全てではありませんが、
通報によって、児童を隔離して一定期間義務教育も受けさず
親に会わせず、高校を卒業したら勝手に生きていきなさい
ということが実態です。
子どもが親と家族を再生したいと強く訴えない限り
子どもが望んでいないからと言って会わせないのです。
子どもは自己責任を負わせられています。

そういう政策が、どの政党からも問題視されていません。
実態調査が必要だという声もないのが実情でしょう。

単純な正義感による怒りに国民を誘導するマスコミも
結果として一役買っているわけです。

マスコミはいじめがあったかどうかということにだけこだわるわけですが、
法律の定義のように漠然としたいじめに該当すると一度言えば
加害者探しと加害者糾弾という心地の良い正義感の発露に
貢献しようと煽り続けるわけです。
いじめの定義が漠然として広範囲だと知っていながら、
それを知らない国民に対して
いかにも、複数の生徒で1人の生徒を
執拗に繰り返し嫌がらせをした
という誤解を助長させて行きます。
いじめという言葉の感覚を利用しているわけです。

DVという言葉、虐待と言う言葉も
国民は勘違いを利用されています。
そして、正義感を行使する手段として
加害者を糾弾する。
これが基本パターンです。

これでは防止なんてできるわけがありません。

また、たびたび間違いを犯すのが人間ですから
間違いを学習して人間関係を再生することこそ
行われるべきことだと思うのですが、
そのような政策は一つもありません。

マスコミにも全くそのような視点はありません。
特にいじめは学校現場の問題ですが、
いじめの後の教育という視点がおよそありません。

要するに、国の政策は
何かことが起こり不幸になることを予防するということはしないで、
何かことを起こした者に不利益を課すだけの政策なのではないでしょうか。

その代わり、被害者に対して加害した者に
もれなく不利益を与えることが優先で、
そのためなら被害を与えていない者に不利益を与えても
まあ仕方がないかなという制度設計だと言わざるを得ません。
国民にあみをかける政策なのです。

あなたは、その網に
今のところ、かかっていないだけかもしれません。

ただ、どんな網が用意されているかについては
予め知っておくことが必要だと思います



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日弁連のDV法の保護拡大の意見書に反対する3法律的議論の枠組みがなく人権感覚に乏しいということ [弁護士会 民主主義 人権]

日本弁護士連合会は、2020年(令和2年)10月20日に、「配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護等に関する法律の改正を求める意見書」を発表しました。
https://www.nichibenren.or.jp/.../2020/opinion_201020.pdf


意見書の目玉は、表題の法律(以下「配偶者暴力防止法」と略します。)に、
「DVが社会における性差別に由来する力の格差の下で生じるという構造的 な問題であること」
を明記しろというものです。
この外、
警察の支援措置を身体的暴力に限定している現行法を改め、精神的暴力の場合にも拡大しろという意見
保護命令ももっと認められやすくするべきで、精神的暴力の事案も保護命令の対象としろという意見が出されています。

私は、この記事の前々回、そもそもDVは性差別に由来するということ自体が非科学的であり、同時に実務感覚にも反しているということを述べました。前回の記事では、現状のジェンダーバイアスがかかった法運用の弊害が益々増大するということも述べました。

 今回は、このような主張が、実は法律家に求められる理性を用いておらず、弁護士に求められる人権感覚も不十分に過ぎる主張であることについて述べたいと思います。

1 法律の要求されるバランスを無視した極端に偏った主張であること

法律は、抽象的な文言で全国民に対して規範を示すものです。そのためなかなか行き届かないことが出てくることは当然です。誰かを保護するために法律を制定しようとすると、別の誰かの権利を制限するかもしれないという効果がつきもののように出てきてしまいます。わかりやすい例で言えば、電車内の痴漢の防止法の検討をするとします。痴漢の真犯人がわからなくても、被害女性が自分の近くにあった手をつかんで、「この人に痴漢をされました。」と訴えれば、必ずその人を強制わいせつ罪で懲役刑に処さなければならないという極端な法律を制定しようとしたとします。一方で必ず刑務所に収監されるということになれば、電車内での痴漢行為は減るかもしれません。しかし、女性の勘違いや、女性の悪意で何もしていない人が刑務所に送られたとしたら、極めて深刻な被害が生まれてしまいます。このために、女性保護と冤罪被害の防止のバランスをとる必要がでてきます。特に犯罪の認定をして罰を与えるためには厳格な手続きを経なければなりません。無実の人が犯人として処罰されないようにするということは、法律の出発点でもあります。法律は女性保護を実現しようとする一方で、同時にその弊害を回避するための方策をとってバランスをとるのが法律だということになります。
法律家の人権感覚としては、無実の人に不利益を与えないようにすることが第一に考えられなければならないことがらなのです。

ところが現在の配偶者暴力防止法や関連法では、DVがない事案においても女性を保護する実務運用がなされてしまうことに歯止めをかけにくい構造になっています。この結果、DVがない事案においても男性が子どもに会えないとか、警察や行政から不当な扱いを受ける等の被害が多発しています。確信犯の女性が制度を目的外使用したということについても判決で指摘されることがありました。配偶者暴力防止法についてどのような問題があるかについては前回述べました。ここでは繰り返しません。問題は配偶者暴力防止法に弱点があることについて、弁護士の集まりである日本弁護士連合会が知らないということはあり得ません。家事事件を担当すればありふれて目にする問題だからです。
それにも関わらず、日弁連の今回の意見書は、女性保護という一方の問題の所在を強調してさらにその傾向を拡大しようとして、そのデメリット、不可分一帯の落ち度のない男性の保護を一切考慮しないという態度をとっていることになります。意見あるいは思想の違いの問題ではなく、一方の利益だけを追求して他方の不利益を考慮して、問題点に対する手当をしないということは、法律論の枠の中に入らないということを申し上げたいわけです。どこかの政治団体や思想集団が述べるならともかく、法律家である弁護士の団体がこのような法律の枠外の意見を出すということに落胆しているということなのです。

2 国家権力の私生活に対する介入に無防備であること

古典的な人権論というのは、国家による人権侵害を防止するということと同じ意味でした。現代社会では国家に比肩する大企業が現れたり、インターネットの問題が生じたりして、人権の問題が複雑化しています。しかし、人権問題の基本は、国家からの自由を確保するということには変わりありません。
ところが、日弁連の意見書は、女性保護を強調するあまり、この点の人権意識を無防備に欠如させています。身体的暴力だけでなく、精神的暴力についても警察の私生活への介入を要求しているのです。
現状の配偶者暴力防止法が、警察の介入を身体的暴力があった場合に限定した理由は、当の警察庁の平成25年12月20日付通達で自ら明らかにしています。それは、警察は犯罪に対する専門家であるが、夫婦の問題は必ずしもよくわからないので、警察が介入することが必ずしも適切な結果を保証するものではないこと、及び、あまりに広範囲に警察が私生活に介入すると過度の干渉になるということです。警察は、きちんと人権感覚を持っているようです。
警察が、現状の配偶者暴力防止法のもとでも、女性保護のバイアスがかかって、男性に対する不当な扱いをしているということはこれまで述べました。これまで、不当な不利益を与えないための訴訟や調停制度で身分関係やその状態を決めていたのに、警察権力が介入することで取り返しのつかない問題がこれからさらに拡大する危険があるわけです。
また、現在の香港の例を見てもわかりますが、これは日本国家ではないので全く同列には論じられませんが、いろいろな口実を持ち出して、民主派の人間たちを拘束し、拉致しています。仮に現在の内閣が自由を重んじていたとしても、政権交代がおこり組織優先の政治が行われてしまったら、反対派が配偶者暴力防止法容疑で拘束されてしまうということを考えなければなりません。民主主義国家はどんな政党のもとでも法律が国民の自由を守る武器にならなければなりません。過度な介入は、多くの人権侵害の温床になります。
おそらく「そうはいっても現実の女性の権利の侵害を守らなければならない。そのために警察権力が必要だ」という論調なのでしょう。もしそうならば、一方の利益だけを考慮する偏った議論であり、およそ法律の議論ではありません。
とても情けないことは、権利擁護を権力に依存しているということです。何度も繰り返しますが、これがNPOだとか、思想団体だとかの主張ならばそれも否定する話ではないと思います。問題は、人権課題に取り組むことが職業上の氏名である弁護士会がこのような感情的な議論をするところにあるわけです。人間関係の解決の引き出しが少なすぎるということです。弁護士会であれば、もっと世論形成を行うこと、どうしてDVが起きるのか、防止のためにはどうすればよいのかということを幅広い専門機関の連携の中で解決するという発想を持たなければならないはずです。それらの過程を全く踏まないで権力に依存するということは発想が貧しすぎるし、真の解決を考えていないと私は思います。

3 保護命令の件数を増やすことを自己目的化する主張

現状の保護命令は身体的暴力が存在し、将来的に生命身体に重大な危険があると認められるときに発動されます。命令を受けた者は、申立人やその家族に近づくことさえ許されません。一定の場合は自宅を長期間退去しなければなりません。実際に存在する命令では、自宅周囲を散歩することも禁じる命令まで出されています。著しく行動の自由が制約されますし、自宅からの退去を命令されれば財産権も制約されますので、重大な不利益を伴う命令です。これを精神的暴力の場合も行えという乱暴な議論をしているのが日弁連意見書です。
精神的虐待からの保護は確かに必要です。しかし、実務的に言って、どこまでが精神的虐待か市井の夫婦のいさかいかかなり曖昧なのです。特に精神的虐待を主張するこれまでの例からすると、私などからするとそれは国家が介入するほどの精神的虐待とは言えないのではないかという事例や、妻側の夫に対する精神的攻撃の方が精神的影響は大きいという事例でも主張されています。これまで実務経験からすると精神的暴力の内容はどこまでも拡大解釈される危険が払しょくできません。
どうして日弁連はこのような主張をするのでしょうか。その理由の一つとして、日弁連意見書は日本の保護命令の件数が特定の外国と比較して少なすぎるということをあげています。単純に数の問題を理由としているのです。しかし、保護命令の多い国と日本では、風土も違いますし、国民の意識も違います。DVの実態も違うはずです。それらの違いを考えずに単純に数の問題で論じることはできないはずです。その数の意味を論じずに、数だけで決めるということは、あたかも国の予算措置のようです。とにかく相談件数だけ増やして、相談件数が多いから予算をつけろという主張と重なります。
実際のこれまでの保護命令事件を見ると、身体生命の重大な危険がないばかりか暴力自体がないケースでも保護命令を申し立て、保護命令が出されたりしています。なぜ、裁判所が出した保護命令が事実にもとづかないと言えるかというと、それが抗告で取り消されたり、再度の保護命令を裁判所が申立人に申立てを取り下げさせたりしているからです。極めて弛緩した運用がなされているのです。
一つつけたしをしますと、保護命令が少ないということも権力に対する依存の弊害なのです。DVが危険であるのは、夫婦の一人が孤立化している場合が顕著です。誰にも相談できず、また、行動を改めるべき人間が相手ではなくて自分だと思い込まされている場合です。つまり、警察にも行政にもNPOにも相談できないケースが最も深刻なケースなのです。ところが、権力に依存する思想の前提が、被害を受けている場合は自分で援助を求めるべきだというところにあるわけです。だから、声なき声の掘り起こしをするという発想がなく、上げた声を全部救えという乱暴な議論に終始するわけです。これでは本当に保護、救済が必要な人が保護、救済されにくい制度になってしまいます。大事なことは裁判所や行政の権力行使を拡大することではなく、身近な虐待を虐待と感じて話し合いやめさせるという風土が先行させることです。そういうきちんとした前提事実を積み上げる努力をせず、要件を緩和していくばかりだから、目的外使用をもくろむ人間が使いやすくなるばかりだというわけです。国家に法律を変えろということは簡単ですが、法律が真に被害を受けている人を救済するためには前提事実を積み上げることが必要だということなのです。
私は、本当に微々たる力ですが、その前提事実を構築することを目標に、このブログを作成しています。

4 弁護士として求められる人権感覚に反する

それにしても、なぜ、男性が不当な不利益を受けることを何ら考慮することなく、女性保護の表面的な拡大ばかりを主張できるのでしょう。これまでの議論をまとめると、日弁連意見書は、「保護すべき女性がいる。この保護すべき女性を救済するために、多少の目的外使用や無実の男性が不利益を受けてもやむを得ない。だから法律のデメリットは手当てしない。」と考えているように思えてなりません。無実の男性の人権や子どもの健全な成長という人権を「多少」侵害しても、救えるべき女性が救えるならそれでよしとしているように感じるのです。
これは私の憶測なので真意はわかりませんが、もしそうならば大変恐ろしいことです。何かの正義のために犠牲をいとわない。これこそ戦争の理論だと思います。
また、そこで犠牲になる少数者の人権を擁護することこそ、本来弁護士こそがおこなうことなのです。そもそも弁護士は、刑事弁護をする職業だから弁護士と呼ばれるわけです。民事は代理人で、刑事が弁護人と呼ばれます。刑事事件の本質は冤罪を防ぐことだという考え方の人もいますが、私は罪を犯した人の人権、つまり人間として扱われることを実現することこそが刑事弁護の本質だと思っています。つまり、世界中の中で誰もが非難する犯人を、その犯人の弁護人だけは味方になり人間性を守るということが仕事のはずだと思っています。悪い人を悪いと非難することは誰にでもできます。通常の感覚通り行動すればよいだけです。そこで、理性を働かせ、どんな人であっても人間として扱われるべきだという姿勢をつらぬことが弁護士に求められていることだと思うのです。
初めから犠牲を容認した法律を制定するなんてことは、その少数者の人権擁護のための職業である弁護士の求められている要請を全く理解していない意見だと私は思います。

この日弁連意見書は、法律家としての議論の枠組みが踏まえられておらず、弁護士としての人権感覚も欠如しているという観点から、私は弁護士の一人として反対いたします。

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DV法の保護拡大の日弁連意見書に反対する2 現状のDV法のデメリットが増大すること  [弁護士会 民主主義 人権]


日本弁護士連合会は、2020年(令和2年)10月20日に、「配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護等に関する法律の改正を求める意見書」を発表しました。
https://www.nichibenren.or.jp/.../2020/opinion_201020.pdf


意見書の目玉は、表題の法律(以下「配偶者暴力防止法」と略します。)に、
「DVが社会における性差別に由来する力の格差の下で生じるという構造的 な問題であること」
を明記しろというものです。

 今回は、この主張のとおりに法律が改正された場合の弊害について述べたいと思います。

第1に、法律の内容を改変してしまうことです。
現行の配偶者暴力防止法は、法文上は、性差に関わらず、要件があれば法が適用される体裁になっています。つまり、形式的には女性の暴力があった場合に男性を保護することができる仕組みになっています。ところが、意見書では、「DVとは性差別に由来する」と決めつけており、それは女性差別だとしています。それを法文上に明記しろというのです。そうなってしまうと、この法律が保護するのは、性差別を受けている女性が被害者の場合だけだという宣言をすることになります。つまり女性の男性に対する暴力はこの法律の保護の対象ではなくなってしまいます。
これでは、この法律は、法の下の平等に反する違憲立法ということになるでしょう。なぜこのような主張を日弁連が行うのか理解ができません。

第2に、男性が保護されなくなることの合理性はない
意見書は、身体的な暴力だけではなく、精神的暴力に対する保護をもっと拡大するべきだと主張しています。精神的暴力について、もっぱら女性だけを保護する必要性が立法事実(法律を制定する必要性を支える現実にある事実)が存在しなければなりません。しかし、そのようなものはないと思われます。精神的な圧迫を相手に与えるのは女性から男性にも行われています。精神的な攻撃によって、精神を破綻したり自死に至ったりするケースで、被害者が男性の方が多いということが私の個人的な実感です。少なくとも女性の方が精神的暴力の被害者が多いという裏付けさえもないと思います。
ヒステリックに収入をあげろ、家計にもっと金を入れろと夫を追い詰めて精神を破綻させるケースや、男性を犯罪に追い込むケースがあります。あるいは夫がやめてくれと懇願しても水商売をやめないケース、不貞を行うケース、これによって男性が精神破綻をしたケースの代理人になったり相談を受けたりします。女性が心理的に過敏になってしまい、些細なことにヒステリックな対応をして、男性が怖くて家に帰れないというケース等様々なケースがあります。およそ弁護士であり、家事事件を担当しているならば、そのような例を全く知らないということはあり得ないと思います。ちくちく嫌味を繰り返したり、家庭の中で夫だけを孤立させるケースも精神的DVとなるはずです。職場の同僚がいるというだけで浮気を疑って、小遣いを減らしたり、始終ラインなどを送信して返信することを強要する等、様々な精神的DVが実際はあるのです。夫の言動が気に入らないと、見せしめのように夫の目の前で子どもを虐待する例も多くあります。
女性の精神的DV被害を保護するのに、これらの男性の被害を保護をしないでも良いという取り扱いの違いの理由が私にはわかりません。

第3に、この宣言によりますますジェンダーバイアスがかかるということです。
現在は、法文上こそ性差別がありませんが、実際はこの法律によって男性が保護されるケースは極めて少ないということが実情です。
男性には保護の必要がないということで、保護を拒否しているのが行政や警察などの多くの実務運用です。これも豊富な事例があります。統合失調症の疑いのある妻が包丁を持ち出して、自傷あるいは夫を傷つける危険があり、夫が110番したにもかかわらず、警察は妻を保護してしまい、一緒に子どもまで妻と一緒に保護し、夫に居所を隠してしまったのです。子どもは母親に拉致されてしまい、数か月後着の身着のままで交番に助けを求めてようやく父親の元に帰れたという事例がありました。子ども大人になった今もPTSDに苦しんでいるようです。また、妻が夫を威嚇するために車をたたいて傷つけて収拾がつかなくなったケースで夫が警察官出動を要請したら、逆に夫がDV「加害者」と認定され、妻子の居所を隠されてしまったという事案もあります。
現状でさえ、夫婦間で紛争があり、妻の精神状態が不安定であれば、夫が妻に加害をしており、妻は被害者であり、保護が必要なのだという扱いがなされているわけです。条文にDVは性差別に由来するみたいなことが書かれてしまえば、
女性保護を強調しすぎるということは、多くのケースで男性が敵視され、子どもの利益が顧みられないということが起きるものです。
肝心なことは、行政は、警察も含めて、男性を加害者認定する場合にも男性からは事情を聴かないという運用がなされていることです。女性が警察などに相談に行きさえすれば、直ちに男性は「加害者」と公文書に記載されます(総務省平成25年10月18日「DV等被害者支援における『加害者』の考え方について」)。
妻に連れ去られた子どもが父親である夫のもとに帰ってきた事例では、健康保険証を母親が持っていき連絡が取れないため、区役所に保険証がないことの相談をしたところ、区役所の職員は、夫に向かって「あなたとは話すことは何もない。」と怒鳴って、子どもが病院に行けないという事例もありました。ちなみにこの区役所の職員は、夫が何をやったのか全く分かっていません。DV加害者というレッテルだけで、暴力夫で、自己制御できずに暴れまわる怖い存在だと思ったのでしょう。「加害者」とされ続けることはこういう扱いを受けるということです。

4 虚偽DVがますます増加するということ
現状においても、DVの事実が調査されないまま相談をしただけでDVの認定がなされ、男性が「加害者」とされています。この結果、実際はDVが存在しないにもかかわらず、男性はDV加害者とされ、警察や行政が妻子を「保護」し、居所を隠し、夫は妻と子どもたちと連絡も取れなくなることが横行しています。夫は、わけのわからないうちに孤立化させられて、警察からは加害者として扱われるので社会からも孤立している感覚にさせられてしまいます。子どもにまったく会えないということは、在監者以上の苦しみを受けることになります。人間性を否定される感覚は極めて強いものがあり、精神的に追い詰められてしまいます。ほとんどすべての事例で、
そのような制度を悪用して、妻の側が自己の不貞を成就させるケースもあります。警察が妻の不貞を保護しているようなものです。確信犯的な悪用もあるのですが、妻の精神状態が不安定となり、夫とのコミュニケーションが様々な理由でうまくゆかなくなり、自分は夫との関係で安心できないという心理状態になり、DVを受けているのではないかという思い込みをしてしまう、いわゆる思い込みDVの事案も多くあります。現状の警察や行政実務あるいはNPO法人の相談活動においても、些細なよくある夫婦のすれ違いをもって「それは夫のDVだ。あなたは殺される。命を大切に考えて、子どもを連れて逃げなさい。」と言われて、それを真に受けて、子どもを連れて居所を隠したという事例があります。この経過は説得した公務員が作成した公文書の記録もあり、後の離婚訴訟で証拠として出されました。妻によると、自分は別居したくなかったのだけど公務員から強く説得されたので、別居したのだとのことで、その証拠でした。しかし、その妻は別居日に限度額いっぱいのキャッシングを夫名義の通帳で行いました。妻は保護命令も申立てましたが、この手続きはずいぶん時間がかかりました。ようやく、妻の言い分は全て妄想の産物だとして、保護命令は裁判所によって否定されました。妄想化、意図的な虚偽か判断が難しい事案ではありました。いずれにしても夫のDVはないのです。妻が統合失調症の診断名で、精神病院を内緒で掛け持ちしていたことも発覚しました。子どもは母親に隠されて、父親には面会できず、今どうして生活しているかわからない状態です。子どもは一時児童相談所に保護されたのですが、事情を説明して父親に引き渡すよう要請したにもかかわらず、統合失調症で被害妄想の強い母親に、何の連絡もなく引き渡されてしまったからです。
もう一つだけ例をあげます。女性は身体疾患を持病としてもち、その疾患は、精神状態にも影響を与え、焦燥感や抑うつ状態を伴う疾患でした。突如、夫が怖くなり、子どもを連れて別居しました。夫は長期にわたり養育費はもちろん、誕生月には妻や子どもにお祝いも送金する等、送金を続けました。ところが、子どもたちが学校を卒業した時も、証明書添付の写真が送られてきただけでした。この男性が、それまで家族で住んでいた家を出て新居に移るとき、元妻に居所を教えるための転居届を出しました。「お近くにお寄りの際は、お立ち寄りください。」と定型的な文章を添えたところ、元妻は動転してしまい、警察に被害届を出しました。警察署長はストーカー規制法上の付きまといと認定して、ストーカー警告を出しました。お立ち寄りくださいという言葉が、義務無き事を強要したというのです。現状でもこのような無茶苦茶なジェンダーバイアスがかかった運用がなされています。私が弁護士としてかかわったケースだけでもまだまだ事例が豊富にあるのです。
DVは性差別に由来する等ということを法文に掲げたら、どんな受難が待つことでしょう。落ち度のない人たちが塗炭の苦しみを味わうことが今より増大することは間違いないと思います。

結局、この法改正で、一番苦しむのは子どもたちです。妻が被害者になれば、夫は加害者になってしまいます。誰かに対する支援は、誰かに対するいわれなき攻撃であることがよくあります。子どもからすれば、母親が全面的に保護するべき存在だとすれば、父親と対峙しなければならなくなります。自分はそのような父親の血を受け継いだ人間であるということを突き付けられて育つわけです。自分は父親から愛情を注がれない存在だということで、苦しんでいる子どもたちの中には、拒食症やリストカットで精神科病棟の入退院を繰り返している子もいます。突然父親と会えなくなったというだけで、精神的に不安定になる子どもたちも大勢います。そういう子どもたちのことは何ら考慮されていない意見書だと思います。もちろん先ほど頼言っている夫の精神破綻の問題があります。家事事件と自死問題に取り組む弁護士の中では、離婚に起因する自死事例があることは常識的な話になっています。そればかりではありません。結局精神病院を2件掛け持ちしていた女性も、実際は別居したくなかったと自分が申し立てた離婚調停で主張しました。ストーカー警告が出された事例では、きちんと被害妄想の原因を治療していなかったばかりに離婚後も10年間も夫の影におびえ続けてきたわけです。子どもたちは、おびえる母親をかばう気持ちが強いですから、自分の父親に母親の精神状態の原因を求め、父親を憎むようになっていました。しかし、原因は、母親の身体疾患によく付随する症状なのです。人権擁護委員の人権相談では、行政やNPO法人からのアドバイスのとおり離婚したのに、生活が苦しくて、言われたとおりの慰謝料も財産分与ももらえない。どうしてくれるんだと抗議したら、「離婚はあなたが決めたことですよ。」と冷たく言われて相談にも乗ってくれなかった。という相談が寄せられています。
結局配偶者暴力防止法の支援では、だれも幸せにならないどころか、みんなが不幸になることが、異常なまでに多いのです。これが日本の政策として行われているわけです。
その上さらに、ジェンダーバイアスがかかった特殊なDVに関する見解が法文に掲げられたらどうなることでしょうか。とても恐ろしいと思います。
しかしながら日弁連はそのような意見書を出しているのです。

法律家の出す意見書の体をなしていないということについては次回お話をします。


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日弁連のDV法拡大の意見書に反対する1 カルト的なDVの本質が性差別だという決めつけは弁護士実務の感覚では受け入れらず、日弁連の意見として正当性が無い [弁護士会 民主主義 人権]


日本弁護士連合会は、2020年(令和2年)10月20日に、「配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護等に関する法律の改正を求める意見書」を発表しました。
https://www.nichibenren.or.jp/.../2020/opinion_201020.pdf


意見書の目玉は、表題の法律(以下「配偶者暴力防止法」と略します。)に、
「DVが社会における性差別に由来する力の格差の下で生じるという構造的 な問題であること」
を明記しろというものです。

この一文を読んだだけでは、何を言っているのか把握できませんので、その理由として書かれている文章を見てみます。

「DV防止法には,DVという問題が社会の性差別構造に由来する力の格差の下で生じる構造的な問題であるとの認識が明示されていない。」と批判した上で、「現代社会には,性別役割分担,就業・昇進・賃金差別など,根強い性差別が存在し,それが婚姻など親密な関係に反射して夫婦間に力の格差を生み,力を用いた支配を引き起こす。これがDVである。そして,家族関係において,多くの女性がDVによって支配され,無力化されることが,社会における性差別を下支えするという連鎖を起こしているのである。」と述べています。

これを読むとますますわからないことが増えていきます。
性別役割分担が根強い性差別の類型とされていますが、それは社会の、あるいは弁護士会のコンセンサスがあるのでしょうか。一部の人たちの意見なのではないでしょうか。もちろん不合理な性差別、特に雇用環境における性差別は確かに性差別であり、人権の問題だけでなく経済的問題からも早急に克服しなければならない課題であると思いますし、これまで繰り返しこのブログで述べているところです。しかし、この文書を読むとあらゆる性的役割分担が性差別とされているように読め、これはさすがに弁護士会のコンセンサスではないと思います。
そもそもそのような性差別が、婚姻など親密な関係に反射してということも、文学的な表現ですが、具体的に何を言っているのかがわかりません。これまでの日弁連の意見書では見られない文章となっています。
そして差別由来の夫婦間の力の格差という意味も分かりづらいのですが、この力の格差が力を用いた支配を引き起こすということについても、たとえ字数制限があったとしてもわかりやすく説明するべきだと思います。
性差別に由来する力の格差による、力による支配がDVだというのは、多様な夫婦の在り方の多様な問題点を、一面的、教条的に決めつけているものであり、少なくとも家事事件に携わる弁護士の実務的な感覚とは相いれないものだと私は思います。
さらに、多くの女性がDVによって支配されているという意味も分かりません。絶対数を言っているのか割合を言っているのか極めて曖昧な表現です。どのような裏付けがあるのか是非聞きたいところです。多い少ないという抽象的な表現を使い、実質的な議論、検証を回避するような表現は、これまで日弁連名義の文書では見られなかったと思います。
日弁連という弁護士全員強制加入の団体が、国などに向けて、立法に関する意見を述べる文章としては、あまりにも情緒的に過ぎ、検証可能性という科学的な考察でもなければ、実務感覚にもとづいた考察でもない、唐突な決めつけという印象がぬぐいされません。
これが何か特殊な思想団体の意見書であれば、それでとやかく言うつもりはありません。「そういう考え方もあるでしょう。」と知識を学べばよいのです。しかし、この意見書の主体は日本弁護士連合会です。読む人からすれば、弁護士の多くがこのような考えでいること、このような考え方の下で弁護士業務をしていると考えるでしょう。少なくとも、弁護士会にはこのような共通理解があると勘違いされることだと思います。これは大変困ったことです。

このような意見を出すことの弊害については、また後の機会で述べるとします。今回は、どのようにこの理由部分が実務感覚に反するということを述べます。つまり、弁護士がDVは性差別に由来すると決めつけて良いのかという問題です。
ここで注意が必要なことがあります。差別は、差別を受けている方はすぐに差別されていることに気が付きますが、差別をしている側は自分が差別をしていることに気が付かないことも多くあるということです。男女差別がないということを男性の私が軽々と断定することには、危険が伴うということです。私も注意しますが、お読みいただいている方もこのことを頭に入れてお読みいただければと思います。その上で検討してみましょう。

先に断りを入れておきます。「DV」という言葉は、世界的には通常は家庭内暴力のことを言います。ところが日本では、主として夫から妻に対する、身体的暴力及び精神的圧迫のことを広く言うようです。アメリカなど世界の多くの国々ではこのようなことは「配偶者加害」という言い方をするようです。但し、アメリカの研究者の間では、相手を支配することを目的とする行為を対象として考えられており、偶発的な行為は考慮から外すようです(ランディ・バンクラフトら「DVにさらされる子どもたち」の訳者の説明は参考になります。)。日弁連の意見書では、DVを「夫から妻に対する一切の身体的暴力及び精神的圧迫で、目的を問わない」という意味でつかわれているようなので、この記事でもこの意味でDVという言葉を使います。「配偶者加害」という言葉を使う場合は、「夫婦間の相手を支配することを目的とした身体的暴力及び精神虐待」という意味で使います。

さて、DVが性差別に由来するか否かということを統計的に明らかにすることは不可能でしょう。DVの形態も違えば、きっかけや原因も違います。ただ、配偶者加害の研究の嚆矢ともなっている二つの文献、「モラルハラスメント」マリー=フランス・イルゴイエンヌ、「バタードウーマン」レノア・E・ウォーカーも、配偶者加害の原因として、男性側のパーソナリティー障害を示唆しています。つまり、DVをする男性の特殊性に着目しているのです。またウォーカーは、広くDVを検討しているのではなく、主として配偶者加害の虐待事例を検討しています。配偶者加害による複雑性PTSDの提唱者であるフェミニストの医師ジュディス・L・ハーマンの「心的外傷と回復」においても、差別に由来する配偶者加害があるという指摘はあまりされていません。もっともこの文献は、そもそも女性が夫等から系統的な加害を受けていて、深刻な被害が生じているということを紹介することが主眼ですから、夫の加害に至る心理分析を主としてなされているわけではありません。差別由来の加害であることを否定しているとは断定はできないかもしれません。(但し、被害を受けた女性の救済に関して、女性に対する誤った先入観によって、十分な救済を受けられないという実態があるという指摘はなされています。)
少なくともDVが社会構造的な性差別に由来するという指摘はあまりありません。女性差別一般が社会構造に由来するという主張があることは承知しています。

さて問題は、アメリカやフランスではなく、日本の夫婦間における暴力や暴力に準じる精神的圧迫が、男性の女性に対する性差別に由来しているかということだと思います。

私も、すべてのDVが性差別に由来しないとは言いませんが、多くは上記の日弁連意見書に述べられているような性差別ではないところにDVの原因があると感じています。その根拠は家事事件の弁護士としての実務感覚です。

多くの弁護士は、離婚事件に関与しています。DVがあったと主張する事件類型である離婚事件や保護命令事件、面会交流事件なども多くの弁護士が代理人となって実務に従事しています。その中で、各事例について詳しく事実関係を拾い出し、分析し、相手方と事実関係の存否や程度を詰める作業を行っています。最終的には裁判官を説得して判決をえるとか、和解で事件の決着をつけるわけですが、そのためにもその事件のDVの実態について双方の当事者が納得できる分析をする必要性があるわけです。多くの弁護士はこのような経験を豊富にもっています。
多くの弁護士も共通ではないかと思うのですが、少なくとも私の実感としては、DV関連事件は、様々な形態があり、身体的暴力や精神的暴力の原因や対応もさまざまであるというものです。また、必ずしも男性から女性に対する加害だけではなく、身体的暴力も精神的暴力も女性から男性に対して行われることも少なくありません。精神的な圧迫という場合は、私の実感としては男女差が無いように感じます。
男性も女性も、相手が女性だから、男性だからという差別的意識から「暴力をふるってもよいのだ」、「暴力をふるうことは当然だ」という意識は感じられません。あくまでも暴力をふるうことは反規範的なことだという認識は概ね皆さんおもちです。暴力をふるう時の意識としては、「自分は他者に対して暴力をふるうことはしたくないが、相手が暴力をふるうことを余儀なくされるような言動をするから仕方なく暴力をふるうのだ。」という意識が一般的だと思います。
ただ、例外的に激しい虐待がある事案があることも事実です。ウォーカーやハーマンの事例に出てくる相手の人間性を無視した虐待です。この配偶者加害が進行中に関わった事案が少なく、事後的に被害者がPTSDや解離性障害の診断を受けて苦しみが継続して二次被害が生じた場合に関わることがいくつかあるだけです。このため加害者を十分に分析できた事案は少ないのですが、このような冷酷非情の事案の場合は、やはり素人ながら、自分の妻などに共感する力がない人格的な問題がある加害者であるという印象を受けます。
少なくとも、「女性は男性より劣っているから暴力で指導しなければならない。」という古典的な差別意識に基づいた配偶者加害は見聞したことはありません。そのような古典的な性差別にもとづいた配偶者加害は現代社会では、控えめに言っても相当数存在するとは言えないと思います。
性差別由来の暴力の正当性を意識した事案はないにしても、暴力や暴力に準ずる言動をする際に、「自分はその手段を使って相手を制圧することができる」という意識を持つことがほとんどでしょう。あるいは「こちらが暴力をふるっても相手は反撃的に暴力を振るわないだろう。」という安心感をもっているようです。男性から女性に対して暴力をふるう場合は、体力差がその安心感の理由になることがほとんどだと思います。あくまでも物理的な問題です。これに対して女性が男性に暴力をふるう場合は、「こちらがムキになって暴力をふるっても、相手は自分に対しては暴力を振るわないだろう。」という安心感が垣間見えます。奇妙なことに、相手に対する絶対的な信頼関係があるように感じます。
 それでは、やってはいけないはずの暴力をつい行ってしまう心理過程はどのようなものでしょうか。
 これは私の実務経験に基づく分析ですが、相手との関係維持の要求にもとづく反射的行動ということだと思います。関係を維持したいという強い要求が前提として存在するようです。そうして、相手の自分対する評価が下がるような言動があった場合や、相手の自分に対する低評価が起きそうな自分の行為や他人から自分に対する評価行為があった場合、無意識に相手と自分の関係が壊れる強烈な危機感を感じてしまい、その評価を無かったことにしようとするようです。合理的に説明することが不可能だと悟った場合に、できること、選択肢として浮かんだことを、自己抑制できない形で実行してしまう。これが多くのDV案件の共通の仕組みだと思います。これは男女に共通のメカニズムです。但し、体力差があることから、男性は暴力という手段に出やすいということです。精神的圧迫については男女差がないのも体格差がないからだということで説明が可能だと思います。
 もちろん圧倒的多数の男女は、いかに体格差があっても暴力は振るいません。本人の属性である、性格、育ってきた環境、それから相手方の行動という相互関係等様々な要素がかかわってくるわけで、性差別ということが少なくとも主たる要因ではないと感じています。

 さらに検討を進めると、なぜ暴力をふるってまで関係を維持しようとするのかということを考える必要があると思います。いくつか共通する原因があるようです。
 一つ目は、自分に対する自信がないということです。相手を夫婦という自分との関係につなぎとめておく自信がなく、方法も分からないということです。このため、相手の言動に過敏になってしまっているようです。本来聞き流せばよいことも聞き流すことができず、悪意のある言動ではないことを頭では理解しているのに些細な言葉に不安を掻き立てられるようです。そしてそれが不合理に思え、言い合いの中で感情が高ぶり、自己抑制が効かなくなり暴力に出てしまうということがあるようです。
 二つ目は、依存状態にあるということです。様々な事情から、今夫婦である相手から見捨てられれば自分は生きていけないという感覚を持っている状態、あるいは、相手と一緒にいることで過剰な安心感を持っているために相手から見放されることに過剰に敏感になっているという状態です。
 三つ目は、どうすれば円満に、穏便に、楽しい関係が維持されるかその方法がわからない。自分のどういう行動が相手を傷つけたり、圧迫したりするかわからないというパターンです。つい、相手を傷つけたり、精神的な圧力をかけたりしまい、相手から当然のごとく嫌悪の情を示される。そうすると、修復の方法がわからず、とにかく相手の自分に対する評価が間違っているという主張をしたいと思い、暴力を止めることができなくなってしまうというパターンです。
 一つ目の原因と二つ目の原因は表裏の関係にあり、これら三つの原因は入れ子(マトリューシカ)の関係にあり絡み合っているようです。

 結果として、関係を維持したいということは、自分から離れていくことを阻止したいからといいて過剰に相手に働きかけることです。だから、それをやられた方にすれば、まさか相手が自分に執着しているがために行っていることとは感じられるはずがなく、単に自分の自由や行動を制限しているという風にしか感じられませんから支配しようと感じているということも真実だと言わざるをえません。極端なケースでは、結局、DVをする方は、相手に自分にひれ伏してもらいたい、土下座をして謝ってもらいたいという意識が感じられることが多く、奴隷のような扱いをしようとしていると感じざるを得ないこともあります。
 しかし、客観的に見れば、そのような人格支配がそもそも出発点ではなく、あくまでも関係を維持したいということが出発点であり、その感情も依存的な切迫性のあるもので、例えてみれば赤ん坊が母親に執着するようなものだと考えるとわかりやすいと思います。赤ん坊は相手の感情を一切考えずに、自分の要求を泣きわめくということで通しても、かわいがられるだけです。しかし、大人になってしまうと、相手に対する殺傷能力を身に着けてしまいますので、このような駄々をこねて母親に対してするような要求を貫こうとすると、相手を心身共に傷つけてしまうということになるわけです。
 関係性に対する知識と安心感があれば、DVの多くは収まります。但し、相手の感情を理解できない特殊な精神構造の場合はなかなか困難なケースもあるようです。いずれにしてもDV解消の方法は、罪悪感を植え付けることをはじめとした本人の認知の改善ではなく、知識の習得と夫婦の行動パターンの学習という関係性の改善が必要だと思います。悪い方が変わるという狭い考え方ではなかなか改善しないのではないかと考えています。もっとも一方が改善を望まないという立場の場合も多く、この場合はなかなか改善されず、紛争が長期化するだけだと思います。
 
 もし妻は母親が赤ん坊を扱うように夫にも全人格的に奉仕しなければならないという考えがあるならば、性差別と言って言えないことはないでしょう。しかしそれは、どちらかと言えば男性の小児的な問題から発した依存心ととらえる方が、改善の方向も間違わないし、お互いが幸せになる確率が高くなるように思っています。また、これは女性がDVをふるう場合も同じであり、小児性のある女性が夫に対して母親のように自分を全面的に受け入れるべきだという観念からDVをふるうようです。やはり性差別ということは言えないと思います。
 少なくとも雇用形態などに由来する社会構造的な問題だとは言えないと思います。
 このような無理な決めつけは、対策の失敗にもつながりますし、国家行為の持つ弊害を軽減させることができず、人権侵害の可能性が高くなるという致命的な問題が生じます。この点については、あらためて述べたいと思います。

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「嘘」をつく人間はいくらでもいる それで人生を台無しにされた人間もいくらでもいる 自由と民主主義のために杉田水脈議員を擁護しなくてはならないのか [弁護士会 民主主義 人権]



杉田議員の辞職要求の署名が13万筆集められたそうです。
それを自民党に対して提出しようとして、受け取りを拒否された
という報道もなされました。

どうも私は人と感じ方が違うようで、
この動きには大変な不安を覚えています。

この動きの元になったのは杉田議員の言論です。
直接のきっかけになったのは
「女性はいくらでも嘘をつく」という発言です。
この発言をしたことは杉田議員も認めているようですから
発言自体は存在したのでしょう。

また、この発言だけで13万筆署名が集まったというよりも
新潮45に寄稿した文章や
伊藤詩織氏の事件をめぐる言動など
これまでの言動の蓄積が背景にあることは否定できないことでしょう。

しかし、これまで内閣の中枢にいる人物や
与党の役職を担う人物が失言をしても
13万筆の辞職要求署名は集まるということはあったでしょうか。
自由や民主主義、三権分立を否定する発言に
ここまでの抗議活動はあったでしょうか。

そして、今回の杉田発言が
それらの失言以上に非難されるべき言動だったのでしょうか。
この点を吟味する必要があると思いました。

報道によりますと、杉田氏の発言は、自民党内の会議の中で
性暴力被害者の相談事業について、民間委託ではなく警察が積極的に関与するよう主張。「女性はいくらでも嘘をつける。そういう方は多々いた」などと発言したとのことです。

確かに、「女性は男性と比較して嘘をつくことに抵抗は少ない
という属性を持っている」という発言であれば
これは人間の個性を無視して類型的に属性によって評価するもので
差別であると思われます。

しかし、性暴力の文脈で、
嘘をつく女性は多々いたということ
つまり女性の中にも嘘をつく女性はいくらでもいる
という発言ならば間違ってはいないと思います。

痴漢冤罪の例が典型的でしょう。
この事件類型は
男性が自分は痴漢をしていないという発言に対して
被害女性はうそをつかないという先入観から
無実の男性が痴漢扱いされて仕事を失い
家族も加害者家族とされてしまうという悲惨な出来事であり、
自死に追い込まれたケースもあったとおりです。

無実の人間が証拠もなく
嘘に追い詰められていき
孤立化させられ精神を破綻させられるのです。

夫婦間の問題でも女性の嘘(この意味は後で明らかにします)
が横行しているというのが実務感覚だと思います。

夫婦間においては暴力や暴言がなくとも
女性が追い詰められてしまうケースがあり
「適切な支援」が必要な事例は山ほどあります。

それにも関わらず、
夫からの暴力はないと言明してしまうと
相談機関はとても冷淡になり、
それはあなたのわがままだという扱いを受けた
という私の依頼者も複数いらっしゃいます。

だから、情に厚い相談機関は、
この女性は保護しようと思うと
どうしても暴力や暴言があったという方向に
誘導してしまうのかもしれません。

目の前の人を救おうとする気持ちが強く
それによって人生が台無しにされる人間たちが生まれてしまうことを
きちんと考えることができなくなるのです。

女性も支援を受けるためには
夫から何らかの暴力や暴言があったと
言わざるを得ない状態に誘導されているケースもあります。

夫婦間暴力に関する「女性の嘘」の多くはこうやってつくられている
というのが実感です。
それは民間の相談機関に限った話ではありません。

それでもひとたび嘘が発せられると
保護命令が虚偽の事実で裁判所から出されて
保護命令を背景として離婚手続きを有利にする
結果的にはこういう事態が相当数あるということが現実です。

そうして、DV夫とされた男性は
妻を失い、子どもを失い
自分が全否定された感覚となり
家族と関係の無いところの人間関係さえも
自分を排除しようとしていると過敏に受け止めるようになってしまうのです。

こういう男性群は、
不思議と仕事や趣味や社会活動に有能な人間が多いのですが、
喪失感によるダメージや
過敏反応による攻撃性のため
自分の力を発揮できなくなってしまいます。

社会的地位の高いとされる男性たちが
かなりの人数自死に至っています。

DV夫とされた男性には反論の機会も
是正する手段も与えられません。
不合理を是正しようと戦うと
妻の心理的圧迫を強くするうえ
解決手段がないという本当の不合理に沈んでいくしかありません。

だから、杉田水脈議員の言い方はともかく、
女性の暴力被害の真実性を吟味する必要がある
という主張ならば
少なくともそれは取り上げられて、十分検討する必要はある
ということになります。

言い方が悪かったから辞職しろという短絡的な
暴力的は行動は
議論するべき議論をさせない効果しかうまないでしょう。
未だにどのような文脈でこの発言出てきたか
詳細は明らかにされていません。

確かに、いま何を言っても否定される
という事態だと杉田議員自身は感じているでしょう
身内からリークがあったことにも恐怖を感じていると思います。
しかし、衆議院議員という立場ならば
正々堂々と、ご自分の主張を国民に伝達することに
粉骨砕身努力するべきだと思われます。

また、民主主義に価値をおく人間たちならば
きちんと公開での議論を主宰し
発言の機会を与えるべきだとも思います。

辞職署名というやり方は
言論活動を否定し、議論によって最良の方法を見出していくという
自由と民主主義を否定する行動になる可能性があると思います。

ニーメラーという牧師が
ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は共産主義者ではなかったから
社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった 私は社会民主主義者ではなかったから
彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は労働組合員ではなかったから
そして、彼らが私を攻撃したとき 私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった
という演説をしたとされています。
これは共産主義者を守ろうというところに主眼があるわけではありません。

自由と民主主義を守るためには
自分が不愉快に思う言論も守らなければならない
ということを言っていると思います。

これまでどう考えても言い訳の効かない政権与党の重鎮の発言で
辞職要求署名活動が起きなかったに
今回の辞職要求署名が集まったことには
我が国の自由と民主主義の状態の脆弱性が見えるように
私は感じます。

杉田議員の発言には
私の実務家としての立場からも批判するべき点があります。
仮に民間委託先ではなく警察権力が介入するべきだという発言が
それによって、女性の嘘から無実の男性を守ることができる
と考えているのならば
全く現実を分かっていない勉強不足です。

警察も、女性の発言が真実かどうかの
調査をしないことがほとんどだからです。
なぜか、
まずいわゆるDV法がそういう法律だからです。
女性が警察に相談をすれば、それだけで
要支援者、被害者とされ
支援措置が取られます。
夫から逃がすために子どもの連れ去りと
連れ去り先の隠匿を警察が支援してくれますし
役所も支援します。

つまり女性の発言が真実であるか否かは
初めから調査しない手続きだからです。
そして、総務省は、
夫が女性に加害を与えていなくても
「加害者」と呼ぶことにしているのです。

加害を与えていなくても
相談をして要支援者、被害者とされた女性の夫
という意味が加害者なのです。

実際に公文書の記録で残っているケースでも
統合失調の患者さんが夫の暴力があるという妄想に取りつかれて
警察に相談に回されたら
DVは一生治らない、命の危険があると言われて
2時間も説得されて別居したというケースがあります。

男性は言いがかりのような容疑で逮捕勾留され
職場の映像までテレビで全国放送されました。

幸い職場の上司にも理解していただき
多くの支援者が集まり
刑事事件も起訴猶予となり
保護命令申立も棄却されましたが
子どもとは会えないままです。

杉田議員のこれまでの言動からすると
民間相談機関の攻撃をしたかったのだろうということは理解できます。
本当の原因に敢えて蓋をして出先機関だけを攻撃しているような
印象を持ってしまいます。
もっと、全体の国民の正当な利益を擁護するという観点に立って
主張を展開していくことが必要だったと思います。

誰かを攻撃するということよりも
この場合では即時的には無実の人間に不利益を与えないということと
何よりも子どもの健全な成長という視点から
議論を再構築していただきたいと考えます。



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杉田水脈議員バッシングに見る日本民主主義の現状 感情が知らないうちに支配されている [弁護士会 民主主義 人権]

杉田議員が、自民党の会合の中で女性蔑視の発言をした
というリーク記事で、
野党は杉田議員の辞職を所属政党である自民党に要求しているとのことです。

閣僚とか政府与党役員の失言についての報道は、
第一報は文字だけの報道でも、通常裏付けがあって
続報では、失言を映像などで報道されることが多いと思います。
今回はこういう裏付けがまったく報道されません。

つまり信用性に疑問を持つべきなのです。
これを「報道各社が一斉に報道しているから信用性がある」
等と言って信用性を強調する動きがありますが
こういうことを言われるとますます疑わしくなります。

もともとは配信会社の取材です。
テレビ局や新聞は配信会社の情報を
自社のメディアで報道するのです。
独自取材をしているわけではありません。
通常、共同通信や時事通信のニュースは
各社が一斉配信をすることが多いのです。
それにも関わらず、あえて多くのマスコミが報じていると
いうのは胡散臭いというわけです。

それにも関わらず、蔑視だということで発言を許さないのならば、
また政党内部の発言を理由に辞職を求めるならば
それは前例になってしまうでしょう。

現在の野党が与党となって
自分の価値観に反する意見を述べたならば
議員辞職をさせるとするならば、

リークをしたことにして報道をさせて世論を高めて
いくらでも辞職をさせることもでてくるのではないかあるいは
そもそも立候補をさせないということだって
心配しなくてはならないのではないでしょうか。

杉田議員は、有権者の支持を集めて議員になっている
ということを軽視しては民主主義は成り立ちません。

中国共産党による香港支配の価値観と
極めて類似しているということになぜ気が付かないのでしょうか。

政治家の、党派内の発言が問題にされるべきではないという意味ではないことは
わざわざ断ることではないと思います。
あくまでも政治家の政治的発言の責任の取り方は
選挙によって解決されるべきことです。

そもそものリークが本当にあったとしたら
政党関係者か政府筋ということになるので
特定の意図をもってなされている可能性を考えるべきです。
あまりにも聞くに堪えないからというきれいごとのリークというのは考えにくいです。
もしこのような良心のリークがあるならば
もっともっとほかにもリークがあるのではないでしょうか。

その特定の意図とは
政策の推進です。
特定の政策に対して、反対をさせないために
スケープゴートを作り、
反対意見を出すことを封殺する手法というのは
かなりポピュラーな手法です。

そうして反対意見を出しにくい雰囲気を出して
意図した政策を実行するということです。

これは、何らかの事件があって犠牲者が生まれたときに
よく使われる手法です。

第2次世界大戦以前の開戦の機運を高めるときは
常套手段として使われました。

もし、このような特定の意図があるリークであれば
現在の杉田議員のバッシングは、
リークをした者の描いた図面通りの反応が起きている
ということになるでしょう。

こういう報道をすればこういう反応が起きるということは
日本の民主主義の状態を分かっていればだいたい想像がつくことなのかもしれません。
私たちの感情、特に怒りは
誰かに支配されているかもしれないということを考えなければなりません。
そもそも戦争はこうやって起きているわけですが、
戦争反対を叫ぶはずの人たちは、戦争を起こすイデオロギーに対しては
何ら関心が無いようです。

日本にはまだ民主主義が根付いてはいないようです。

学校教育の大問題だと思いますが、
民主主義は多数決と同義だと思っている国民が多いのではないでしょうか。
これは、日本の政治家たちにも大きな原因があります。

現代民主主義とは
真理というものは絶対的なものがなく、
立場が変わり、時間が代われば
価値観が代わったり、新しい真実が発見される
だから、多様な立場から多様な価値観を反映して
政策が決められるべきだというものです。

また、誤りというのも絶対的誤りはなく、
その中で組むべき真実というものもあり、
政策の具体的内容を修正する契機となる
政策をより豊かにするためのものと位置付けられるという
思想が民主主義なのです。

反対するか賛成するかという二者択一的な議論ではなく、
良いところを取り入れて悪いところを削除する
という当たり前のことを行うことが
民主主義なわけです。

だから言論の自由が保障されなければなりません。

現代日本の政治や言論界は
二者択一的な議論だけが行われ、
自分の反対者に対する尊敬が感じられません。

杉田議員の意見に賛成するか反対するか
という二者択一的な視点からだけ物を見ること自体が
民主主義を壊すことではないかと考えるのはこういう理由です。


女性が嘘をつくと杉田議員が言ったかどうかは不明ですが、
女性が事実と異なることを主張させられているということは
あまりにもありふれた真実です。

家族のある女性が、生きづらさを相談しに行くと
いつの間にか被害者、要支援者とされ、
その夫は、事実の有無にかかわらず「加害者」と呼ばれます。

総務省は、ここでいう「加害者」は日本語の加害者とは違うと
通達を出しているのです。
日本の国が、日本語と違う意味で言葉を使っているというのです。

平気でうそをつくのではなく
嘘をつくように国の政策によって追い込まれているのです。

リーク者が推進しようと意図した政策こそ
この政策の可能性が高いと思います。
常日頃杉田議員はこの政策に異を唱えていたようです。
それに対する反発もよく把握できたと思います。
リークさえすれば必ず反応が起きるということは
それほど難しくない予想だったと思います。

以下、総務省の変な日本語の正式文書を引用して終わります。

https://www.soumu.go.jp/main_content/000687389.pdf

事務連 絡
平成25年10月18日
各都道府県住民基本台帳担当課 様
(市町村担当課扱い)
総務省自治行政局住民制度課
DV等被害者支援措置における「加害者」の考え方について
「住民基本台帳の一部の写しの閲覧及び住民票の写し等の交付並びに戸籍の附票の写しの交付におけ
るドメスティック・バイオレンス、ストーカー行為等、児童虐待及びこれらに準ずる措置」(以下、「支援措置」という。)については、住民基本台帳法をはじめ、関係省令及び通知等に基づき、各市区町村において対応いただいております。
具体的には、住民基本台帳事務処理要領(昭和 42 年自治振第 150 号等自治省行政局長等から各都道府
県知事あて通知。以下、「事務処理要領」という。)、住民基本台帳事務における支援措置申出書(平成 24年 9 月 26 日総行住 89 号中別紙。以下、「申出書」という。)等により対応いただいておりますが、その中に「加害者」という記述があります。
この場合、特に申出書の「加害者」欄は、申出者が記載することとしており、その記載に当たっては、
疎明資料等を求めることとしていません。したがって、保護命令決定を受けるなど、被害者と「加害者」の立場が明確である場合もありますが、申出者と「加害者欄に記載された者」の間の訴訟が係争中であり確定していない事例なども含まれています。
これは、措置の必要性を判断するために事実関係の確定等を待つこととした場合、その間に申出者の
住所が探索されてしまう懸念もあることから、支援措置は、申出内容について、相談機関の意見なども
聞きながら、必要性を判断するスキームとしているものです。
一般的には、「他人に危害や損害を加える人」という意味で、「被害者」の対義語として「加害者」と
いう言葉が使われることがありますが、支援措置においては、上記のとおりこれと全て一致するもので
はありませんので、窓口における「加害者欄に記載された者」等へ対応する場合や事務処理要領第 6-10-サに基づき、庁内で必要な情報共有等を行う場合などはご留意ください。
貴都道府県内の市区町村に対しても、この旨周知くださるようお願いいたします。
なお、この事務連絡は、あくまでも支援措置における「加害者」の考え方について周知するものであ
り、これまでの事務処理の手順、支援措置の必要性の判断を変更する旨の助言ではないことを念のため
申し添えます。
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黒川東京高検検事長がマージャン賭博の文春砲で辞意とは、出来すぎているのではないかと思う理由【斜め下から深読みしてみる】 [弁護士会 民主主義 人権]



黒川氏の問題は、以下のような問題だと認識している。

検察庁法によると、検事長は63歳定年となっており
黒川氏は令和2年2月7日をもって退職となるはずだった。
ところが、閣議決定という荒業で
黒川氏の定年は8月7日まで半年間延長された。

どうして荒業かというと
検察庁法では、定年の延長が認められていないからだ。
国家公務員法では定年延長が認められるけれど
政府の従来の見解も、素直な法解釈においても
検察官の定年延長は認められないということだった。

法律解釈の定説からすると
黒川氏は違法にその地位にとどまっていることになる。
これを合法化するためには
検察庁法を改正して
検察官も内閣の判断で定年延長ができる
という形にしなければならない。

そのため、検察庁法の改正が国会に提起され
多くの反対意見によって
今国会の成立を政府が見送り、
秋の臨時国会まで待たなくてはならなくなった。

そうすると、黒川氏は
8月7日で定年に達してしまう。
黒川氏を検事総長にすることができない。
これを回避するためには二つの方法があった。
一つは、7月に再び閣議決定をして
黒川氏の定年の再延長をするという方法である。
しかし、これだと、ますます黒川氏のための
検察庁法の改正になってしまい
世論の反発が強くなり
秋の臨時国会の運営も難航するというデメリットがある。

もう一つは、
現検事総長を7月中に辞任してもらい
黒川氏を検事総長にしてしまうという荒業である。
そうすると、黒川氏の定年は65歳まで延長される。

問題は現検事総長が辞職しないことだ。
また辞職を強要することになると
問題が大きくなるうえ、
検察庁人事に対する露骨な政治介入が行われ、
検察庁という組織自体が空中分解しかねない。

なかなか黒川検事総長は実現に困難が伴う見通しとなる。

一方
黒川氏も法律家であり、しかも法の執行者たる検察官である。
法律上正当な根拠がないのに
検察官として給料をもらい、ボーナスまでもらうということに
忸怩たる思いがあったはずだ。

普通に考えれば
本人の法律家としての立場から
また検察庁という組織の人間としても
定年で辞めたいと思っていた可能性がある。

逆に考えて
黒川氏がどんなに政権の弱みを握っていたとしても
自分の定年を延長しろとごり押しできるほど
強い立場にいたということは考えられない。

黒川氏は定年退職したかったのに
それを許さない事情が何かあったと私は考える。
つまり、辞めさせてもらえなかったのではないかということである。

そのなかで
今回の文春砲の賭けマージャン疑惑
政治家との信頼関係を職業的に守る
マスコミ関係者とのマージャンだ。

黒川氏が辞めざるを得ない状況を作ることができた。
しかも暴露したのが文春砲
これはみんなにとって都合の良いことであったと思われる。

本当に麻雀が行われたのかについても
誰も検証することはできない。おそらくしないだろう。
麻雀が行われて金をかけないということは
いい歳をした人間であれば考え難い。
しかし、そのレートは不明である。

おそらく一緒にマージャンをしたメンツの名前は
永久に出てこないだろう。
産経と朝日が、荷を分かち合った格好になっている。
それで終わりだと思う。

それでも賭けマージャンが公になれば
辞職することができる。
点2でもデカピンでも賭けは賭けということになる。

おそらく懲戒処分にまではならないだろう。
そもそも法に従えば民間人であったはずの行為だということも
何らかの役に立つだろう。

私はどこまで非難に値するかについては
レートによるだろうと思っている。
(これについては、いろいろな考えがあるだろう。)
セクハラやパワハラ疑惑に比べれば
本人の今後に与えるダメージは最小限だったのではないか。

そう考えると
あまりにも鮮やかすぎる幕切れなのではないかと
そう考えてしまう。

そういえば黒川さんの真骨頂は
人間関係の調整ということだったはずだ。


もちろんうがった見方だとは思うのだけれど。


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なぜ、現代のフェミニストはグローバル企業の召使と呼ばれたのか。 [弁護士会 民主主義 人権]


これは、ナンシー・フレイザーの言い回しです。
彼女は、社会主義者のフェミニストだそうです。
もっともアメリカの社会主義者なので、
我々がイメージする東アジアの社会主義者とは少し違うようです。
アメリカの大統領選挙の民主党候補になりかけた
サンダースも社会主義者ということでした。

彼女は、第2次フェミニズム運動の理念から
現在の第3派フェミニストたちを批判しています。

第2次フェミニストの理念とは
女性の解放という理念と同時に
男性の価値観から女性の価値観に転換することによって
公正、平等、平和な社会を実現していくという理念があったというのです。

この考え方は前提として男性と女性の違いを承認したうえで
男性的価値観は、実力主義というか
争いで勝つこととか、利益を追求するとかにもとづくもので
そういう価値観が社会を無駄に生きづらくさせている
そうではなくて
女性的価値観は、協調的というか
人間が精神的に穏やかに生活するところにあり、
この価値観を社会に浸透させていこうと主張していました。

昭和の年代に労働法を研究というか勉強した男性は
この第2次フェミニズムに少なからず共感していて
労働組合幹部の女性の割合をもっと増やすことによって
もっと健全で建設的な労働運動の流れができてくるのではないか
という考えを持っていた人が多かったように思います。
沼田稲次郎先生は、航空関係の労働組合主催の講演で
「バターか大砲かと尋ねられたら女性はバターを選ぶ」
とおっしゃって、女性の労働運動に期待を寄せていました。

さて、ナンシー・フレイザーは、
昨今のフェミニズムは、家庭の中の女性解放は主張するが
この社会的変革の理念が欠落しているため
結果的にグローバル企業の召使になっているというのです。
どういうことでしょうか。

グローバル企業の望む人材はどういうものでしょうか
いくつか要素を上げてみましょう。
・安い人件費
・良質(生産性の高い)な労働力
・企業の都合で契約を終了できる労働者
・企業に従順で争いを好まない労働者

この要望に応えるように昭和の年代に法制化されたのは、
労働者派遣を合法化した法律です。
それまで職業安定法で禁止されていたことが合法化されたのです。
抱き合わせのように男女雇用機会均等法が作られ
労働基準法の女性保護規定のいくつかが撤廃されました。

着々とグローバル企業の要請が実現していっていたわけでした。

女性労働力はパート労働という形で
企業のニーズにぴったり当てはまりました。
終身雇用制は崩壊しつつあり
セットの年功賃金は成果主義賃金と姿を変えました。
企業が、その労働では成果が上がっていないと強弁すれば
賃金を上げなくて済む制度として使われることが目につきます。
さらに成績が上がらないことを理由として
解雇がしやすくなる制度になってしまっています。

これまでの正社員の中で割合の多かった男性労働者は
改革のたびにだるま落としのように下に落ちているようです。

さらにそのリストラした高賃金の男性労働者の座を
良質で低賃金の女性労働に置き換えることが
企業にとって利益であることは誰でも考え付くでしょう。

高学歴で、就労経験のある主婦を労働力としてイメージすることは
自然な流れだったと思います。

ところが専業主婦は、働くモチベーションがないため
働こうとしなかったわけです。
夫の収入で生活ができたし、
意識が高いため、家事、育児に時間をかけて吟味していて
働きに出るなんて時間はなかったでしょう。
家事に価値と達成感を感じていたということになります。

この専業主婦を働かせる方法は簡単です。
まず、夫の収入を低く抑える
さらに買いたいものを増やして収入を獲得する必要性を意識づける。
老後のために資金を蓄えることが必要だという意識も役に立つでしょう。
そうやって働かなければならないという意識を与えることです。

次に、家事の時間を短縮させる電化製品や
コンビニやスーパーでの安くて手の込んだ調理済み食品の提供
安価な家事代行サービスの提供も力になったでしょう。
そしてそのようなものを利用するとかつては「手抜き」といわれたのですが、
時短で合理的だという風潮があるとさらに後押しするでしょう。

何よりも、大切なことは自分のために働くという意識づけです。
そのためには家事労働は価値が低い仕事で
気が利いた人間は他人に頼むような仕事だという
意識づけです。

具体的には
3歳児神話は科学的根拠がないから子育ては施設に預けてもよいとか
母親は子どもの奴隷ではないとか
女性も企業で働いてこそ輝くとか
そういう社会的風潮はとても役に立っていると思います。

特にボランティアでも、PTAでも、近所の相互扶助でもなく
企業に働いてこそ輝きだという思考が
いつの間にか脳の中に侵入しているようで、
特に産前には資格を持って働いていた出産後の母親は
働かなくてはならないという焦りのようなものを感じるようです。
自分が子育てをすること自体に疑問を持たせ、
外で働いている夫はずるいという感覚を持つようです。
「自分だけが損をしている」
という気持ちを抱いてしまっている女性をたくさん見ます。

この意識の原因は誰かが植え付けているという単純な話ではなく、
素朴な感覚を持っているところに限定した言葉が与えられることによって
感覚がずらされて誘導されているように感じます。
だからその考えに逆らうことができなくなるみたいなのです。

その結果企業が求める労働力が続々と提供されています。
安価で、生産性が高い良質な労働力が、
必然的に途中採用という不利な採用のされ方をして
企業に不都合になったら安価に契約を打ち切れても
争わない従順な労働力です。
仕事を辞めたくないので、
理不尽な上司の命令も従おうとし、
できないのは自分が悪いと思ってくれるのです。
なんて理想的な労働力でしょう。

本来家事は、人間の再生産に重要な仕事です。
家庭の中で家事を専門に行う人間がいないと無理が出てきます。
誰かが収入を獲得するために家を出なければなりませんが、
誰かが家事に専念しなければどこかに無理が出る現代の家事です。

煩瑣な公共手続きだけでもうんざりします。
塩素や抗生物質から腸などの体内環境を守るためには
時間をかけてデトックスをする必要がありますが、
そもそも安全性の高い食材や衣類を探すのも時間がかかることでしょう。
これをしなければ、大人は長生きをしないだけですが、
子どもは、健全な成長がゆがめられてしまう可能性もあるようです。
教育の問題にしても、学校任せでは生活のこと学習のことも
本当は心もとないのではないでしょうか。
学校と保護者が協力してよい学習生活環境を作るということを
怠っているところにいじめや指導死の問題の背景があるように思われます。
地域の環境改善というかコミュニケーションを作ることも
意識的に時間をかけて作らないから
自分の頭の上に住んでいる人が誰なのかわからない
という事態も起きているはずです。
人間は自分だけで幸せになれないようにできていると思います。

もし働くために、子育てに時間をかけられないから
抗生物質や添加物の入った食べ物を与えているならば、
18世紀のイギリスの労働者階級で
子どもが泣き止まないので手間暇をかけられず
手っ取り早くジンを飲ませて泣き止ませたという逸話と
大差のない話に聞こえてきてしまいます。

本来、家族のうちの一人が働けば
充実した不測のない生活が送れることができればよいのです。
それができないのは、賃金が充実していないからです。
労働者に対する賃金が充実する労働市場になれば
不幸な人間が確実に減ると思います。

ところが、そのような社会的視点が欠落し、
女性の解放をもっぱら家庭の中に力点を置いてしまうと
本来共同して社会を前進させていくパートナーガ協力できず、
力になりません。

それどころか、
家庭から企業で働くことが女性の輝きだという
政府の主張を先取りするかのような主張をしているのは誰なのでしょう。
様々な女性枠というものを安易に享受しているわけですが、
これでは対等をはじめから放棄しているように感じられます。
結局上部に依存して、特別扱いしてもらっているからです。

DV問題がフェミニストの主戦場のようにも感じられますが、
解決方法は警察や行政という公権力に依存していています。
公権力が私人に介入する余地を拡大することを
問題の所在として懸念しているようには感じられません。
権力に依存する方法をとるから、権力の増大を問題視できないようです。

DVの問題にしても
程度の問題を考えずに
すべて夫から逃げるという方策が金太郎あめのように出されます。
結局夫に気が付いてほしい、
気が付かなければ逃げるというのでは、
人間が環境に働きかけて生きる動物である意味がなくなるでしょう。
ゲームのように夫から女性を隠し、
保護命令や調停申し立てをして離婚させれば援助は終わりです。
そのあとでこんなはずではなかったということを言えば
「離婚はあなたが決めたことです」で終わりです。
判で押した流れに従ったルーティン作業であり
根本的な幸せを獲得するという視点はありません。
定められたゴールを目指し余計なことは考えない。
なんて男性的な行動でしょう。

結局は協力し合うべき男女が
分断されて期待されています。
これを最も基盤的な社会である過程でやられてしまえば
建設的な社会変革は他人ごとになってしまいます。
変革されては困るほうにとって大変都合の良い話です。

決して「一人が働けば充実した生活ができる賃金を」
というスローガンは聞かれません。
せいぜい男女賃金格差の是正です。
これは着々と実現しつつあります。
男性賃金が低下すれば実現するからです。

なんてグローバル企業にとって都合がよいのでしょう。
自分たちが直接意見表明をしたり
国の機関に提言させなくても
勝手に自分たちに都合の良い社会構造を
ターゲット自身が作ってくれているわけです。
社会に対して向けられるべき不満を
家庭の中などの男性に対して向けているわけですから
しばらくは安泰でしょう。

昭和の終わりころ、女性の深夜労働の解禁を訴えた女性たちを見ながら、
女性にも平等に過労死を要求するのかという暗澹たる思いをしたことを覚えています。

労働法学者沼田稲次郎先生が
先ほどの女性の労働組合活動のテーマの集会で
面白いお話をされていました。

男性は職場で嫌な事不正なことをされても
寄り集まったところで酒飲んでくだ巻いて終わりだ。
女性は、みんなで話し合って不合理を是正させるために頑張る
そういう傾向にあるということでした。

私は素直にそういうものかもしれないなと勉強させていただいていました。
今もそうなのでしょうか。
女性がどんどんかつての男性並みに酒を飲んであきらめだした
ということはないのでしょうか。

男がもはやついていくことをやめた男性的な価値観を
延命させているのは女性の社会進出ということはないのでしょうか。
ジェンダーの主張は、私には、
男性の弊害がある価値観を是認し、大前提とした主張
そう思えてなりません。

これからは男性が女性の価値観を
歴史学として学ばなければならないのでしょう。
かつての女性の価値観をしっかりと身に着けて
人間らしい生活を求めていかなければならないようです。



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慰安婦の前史と後史から、河野談話の「強制性」の中身を終戦の日に考える 戦争という究極の人権侵害の構造 [弁護士会 民主主義 人権]

悲惨な内容が含まれます。閲覧注意でお願いします。

以下の文献のネタバレも含まれます。

森崎和江「からゆきさん」(朝日文庫)
山崎朋子「サンダカン八番娼館底辺女性史序章」(文春文庫)
乃南アサ「水曜日の凱歌」(新潮文庫)



あいちトリエンナーレの少女像撤去の話題から
からゆきさんのサンダカン八番娼館の話となったのが前回です。
今日で一連の勉強にとりあえず一区切りをつけようと思います。

今回クローズアップするのは、
「戦地での管理売春に強制連行があったか」
という問題です。
通常は「慰安婦は強制連行されたか」として議論されているようです。

ただ、この問題提起は、かなりおおざっぱで、
言葉の定義があいまいなために議論がかみ合っていません。
特に「強制」の意味ですね。
肯定派と否定派の双方があえてあいまいにしたまま
他説を批判している
そんな印象も受けてしまいます。

論点を分析的に検討すると、
① 朝鮮民族の女子が、
② 日本の軍隊の組織的行動によって
③ 平穏に生活しているところを銃剣などによって
強制的に連行されて
④ 東南アジアなど海を渡って日本人による管理売春をさせられていたか
ということになるでしょう。

このうち、①と④を否定することはできないということから出発します。
論点は、②、③の有無だということになります。

前にもお話したように私は河野談話を支持するので、
結論としては、②,③は否定するという結論ですが、
「強制性」は存在したということです。
これがどういう意味かを説明するのが本記事だということになります。

②、③が論点になってしまったのは、
吉田清治という人が、
きちんとした事実調査もしないで、
いわばノリで②,③の話をねつ造して手記を書き
それをメディアが真実として報道し、
国連までが事実として取り上げてしまった
という不幸な出来事があったからです。

吉田が自分の汚点を懺悔するという形式の手記なので、
自分に不利なことでうそをつかないだろうという思い込みと、
日本陸軍の悪いことはすべて真実だという先入観から、
真実であるとして疑わなかったということが
誤報の理由のようです。

日本の知識人の泣き所をついたものだったようです。

ところが
現在でも軍隊の組織的な銃剣での強制連行はなかった
ということを主張すると、
なぜか、慰安所も否定する主張だとみなされ(前述の①と④)
さらには「強制性」も否定していると決めつけられ
歴史修正主義者とかののしられることがあるようです。

だから、今回のような記事を書くと
(読む人がいればですが)
大いに批判をされることになると思うのですが、
あえて書く必要性があると判断しました。

一つ目のその理由は、
軍隊自らが軍事目的で強制連行したということになってしまうと
国家と結びついた管理売春の実態が隠されてしまうということがあります。
これを説明することが本記事の主要なテーマです。

二つ目の理由は、
議論が二者択一的になっていると状況が危ういということです。
私の4つの論点を見てお感じになっている方も多いと思いますが、
いわゆる従軍慰安婦の問題は二者択一的な問題ではなく、
実態を直視していかなければならない問題であり、
どちらにも属さない見方がありうるはずなのに、
自分の主張に少しでも反していれば
歴史修正主義とか自虐史観とか大雑把なレッテル張りをされて
非難しあうということです。
二者択一の議論に持ち込む最大のメリット(デメリット)は何でしょうか。
それは、分析的思考をさせないで
直観的思考でものを考えさせることができることです。
その時の思考ツールの一般的なものは、
組織の論理です。
自分が属する組織はこうだから、こういう結論を言うべきだろうな
という、科学に反した堕落した考え方です。
私は、こういう焦燥型の思考法、
つまりあまり深く考えないで感情的なやり取りをすることこそ
戦争につながるもろく危うい思考法だと考えます。

三つ目の理由もあります。
いわゆる慰安婦の問題で、
男女平等論者の記事を目にしました。
彼女は慰安所などの問題を
男性の性としての問題点があらわになったものだ
ということを本当に言っているんです。
深みも何もない研究室で座ったまま語れる内容ですし、
これでは、管理売春の背景にある貧困の問題や
国家と結びついた人権侵害の問題がまるっきり隠されてしまいます。
これほど権力にとって都合の良い議論はないでしょう。

性差により、行動が決定されるという差別的な主張でもあります。


さて、強制性の問題については、
太平洋戦争下の管理売春の問題だけを研究していたのでは
裏付けとなる文献がないということで終わってしまうでしょう。

しかし、前史と後史を見れば、おおよそ見当はつくことです。

前史というのは、
からゆきさんと呼ばれた日本人女性が
海外に売られていって
管理売春施設で売春をさせられたことですし、
後史は、
敗戦直後のアメリカ兵のための
日本に住む女性の管理売春施設のことです。
いわゆるパンパンと呼ばれた街娼のことではありません。

前史のからゆきさんの話は、
前回のサンダカン八番娼館の記事で
ある程度お話ししました。
島原天草という歴史的に冷遇され続けた土地で、
キリスト教の影響から新生児殺しをしなかったということもあって
全般的な貧困にあえぎ、餓死者や栄養不良による病死者が続出するため、
生きるために身売りをした
ということが典型的な事例のようです。

森崎和江「からゆきさん」(朝日文庫)では、
当時の新聞記事の調査に基づいて、
多くの事例が紹介されています。

貧困を背景とした人身売買がその本質だということは
動かせない事実のようです。
もっとも、人身売買と言っても
その実態は様々あって、
中には、年季奉公を終えて帰国したり、
管理売春を行う側に回ったり、
ということもありますが、
悲惨な末路を遂げた人たちも少なくないようです。

帰国して、一般人となっても、
売春をしていたことを隠さなくてはならなず
やがて精神を病む女性も多かったようです。

悲惨なのは、その子供たちのようです。
自分の親が管理売春施設で働いていたことで
強烈な負い目を感じ、
結婚相手にも知られないように
心を砕いて生きていく人たちもいたようです。

それらは他国の女性の話ではなく、日本人女性の話です。

明治政府は国際社会の批判を受け、
明治6年から国内の管理売春を表向き禁じたのですが、
実際は、管理売春は続いていました。
少女たちは人買いから騙されて連れていかれるのです。
これこれこういうことをするといっても理解できない年少の娘たちですから、
三食食べられる、白いご飯を食べることができると言われて
実家に仕送りしようと考えさせられて連れていかれたわけです。

表向き売春婦の輸出を禁止していたのですから、
堂々と渡航することができず、
物として、貨物船で密航させられることが多かったようです。

物としてお金でやり取りされていましたから、
物として扱われ、
貨物船の底で水も与えられず、餓死したりしたこともあったようです。

お金で買われたために、また前借金が支払われていたために
途中でやっぱりやめたということは許されませんでした。
暴力を振るわれて、意思を制圧されたこともあったようですが、
多くは、前借金を気にして実家に迷惑がかかるということで
あきらめた女性が多かったようです。

例外的に一切を拒否して帰国を許された事例もあったようですが、
極めてまれなケースだったはずです。

なぜこんなことが行われたか。
一つは、少女たちの貧困のために、
人間として生きられなくても
せめて動物として生存するためという
やむに已まれぬ事情があったのですが、

人買いが少女たちをだまして脅して連れてくるということをした理由は
単純にお金の問題だったと思います。
管理売春はそれだけもうかったようです。

人買いに対する報酬、渡航費などの実費
食費などの管理費等莫大な資本を投下しても
十分元が取れたようです。

最初は中国(清)に売られ、朝鮮に売られ、
徐々に、南方に進出していったようです。
ウラジオストックあたりにも売られていったようです。

日本人が対象となる人身売買が慰安所問題の前ににあったわけです。

現地について売春をさせられて
話が違うということで女性たちが警察に保護を求めることもあったようです。
しかし、管理者は事前に警察官を優遇していたようで、
日本人の警察は、日本人女性たちを相手にせず、保護を拒否したようです。
(からゆきさん 例えば169頁)

これが前史です。
しかも、当時の新聞などで報道された範囲の事実です。
報道できないことや
生存する体験者や目撃者がいない話は永遠に明らかにはならないでしょう。

(「からゆきさん」の編集を担当した人は吉田清二という人だとわかって、「うわっ」と思ったのですが、出版が1980年だということ、漢字が違うということ、出版社に勤めるような勤勉な生活はしていないらしいということから、件の吉田清治とは別人のようです。)

後史はどうかというと、
我々が入手しやすいのは小説「水曜日の凱歌」乃南アサ(新潮文庫)です。

玉音放送からさほど期間を置かず、
アメリカ兵向けの管理売春施設を作った日本人たちがいたようです。
主人公の母親は、この施設の幹部になっていくのですが、
施設にかかわり始めてからは、ないはずの物資、食料などが
豊富に身近にそろいだすのです。

施設がオープンしたのちは、
米軍の物資がふんだんに入ってくるのですが、
当初は、日本の軍隊の物資であることが示唆されています。
運営主体は民間人で、民間組織なのですが、
国家の中枢の人物の関与があったのではないかと
思わせる表現になっています。

そこに強制はないのですが、
美辞麗句で女性を集めてきて
逃げられない状態にして売春をさせるわけです。
人買いなども暗躍していたようです。
戦後直後の配給難という時代背景の中で
絶対的貧困の回避のために身を落とす構造は
からゆきさんとまったく同じです。

小説の中では、
自分の境遇を悟った女性が
自死をしたというエピソードも描かれています。

この小説が事実のもとに書かれているならば
という前提が必要なのですが、
一つの一貫した事実が浮かび上がってきます。

つまり、管理売春は、莫大な利益が出るということです。

からゆきさんは、外貨獲得の手段として有効だったので、
実質的に黙認されたという説があるのですが、
むしろ水曜日の凱歌のエピソードを見ると
それも本当なのかもしれないと思えてきます。

管理売春の歴史的始まりでは、おそらく、アンダーグラウンドの人たちが
非人道的な管理売春を始めたのでしょう。
人間を物として扱うことができるのは、
自分たちも人間として扱われていないと
常日頃感じていた人たちだと思われます。

一般社会から忌み嫌われていたわけですから、
一定地域のみで管理売春が行われていたはずです。

ところが江戸時代までの倫理観が崩壊し、
利益追求が、肯定的な価値を認められるようになると
アンダーグラウンドの人たちが経済力を身に着けていることから、
どんどん大きな組織になったり、
大きな組織、国家の中枢と癒着したりして、
経済的利益の確保を確実なものにしようとしていったでしょう。

利益が膨大になればなるほど、
国家権力の中枢の周辺まで手は伸びていったと考えることも
無理な考えではないようです。

現地の警察官を買収した構造が
まとまった規模に巨大化したというわけです。

からゆきさんという現象は第1次大戦で終わったと言われていますが、
公娼制度は続いていき、
軍の関与する慰安所での管理売春ということになるのですが、
軍が施設を公認して、徴兵した兵隊を
大量にその売春宿に公然と送り込めば、
莫大な利益が確実に上がるシステムができるわけです。

もうけるのは、売春をさせられた女子ではなく、
管理運営する者たちです。

私は、慰安所が作られた目的は
あくまでも利益追求ではないかという
疑念がこの夏に生まれてきました。
また、戦争とはこういうものだったのではないかという疑念です。

管理売春開設の言い訳としては
強姦などの防止と
性病の予防管理
ということがあげられます。

しかし、一部の女性の権利の活動家が言うような
男性は性欲の塊ではなく、
強姦という犯罪類型は性欲だけの問題から生まれるものではありません。
だから管理売春施設があるから強姦が無くなるという関係にはないと思います。
「慰安所は需要があったから開設した」というのは
権力者の言い訳に過ぎない可能性があると思います。
むしろ、利益を追求する人たちによって「需要が作られた」のではないか
という考え方もあるのではないかと考えるようになりました。

女性の権利の活動家が権力を擁護するというのはこういうことです。

また、別の人権活動家は、
性病予防のために、
現代日本においても売春を公認するべきだという主張をしています。
その意見に無批判に追随するリベラリストも多く存在します。
確かに明治以来、外圧によって性病検査行われるようになりました。
しかし、売春宿で働く女性の健康のために検査が行われたものではありません。
客が性病にり患しないため、そして性病が蔓延しないため
という目的で性病検査が行われるようになったのです。

管理売春はあくまでも女性を人間としてではなく
物として扱うものですから、
性病にり患した以上、廃棄されるだけのことなのです。

管理売春の主体はあくまでも民間ですし、
アウトローの組織です。
労働基準法も満足に守られない状況の中で、
いかに法律を厳格に作ったとしても
管理売春で管理される女性の権利が守られないことは
誰でも容易に想像がつくと思います。

そもそも好きで性風俗で働き始めたわけではないのです。
働いて生きていける制度をこそ作るべきだと思います。
人間を物としてみる制度を国が認めろという人権擁護活動家の存在は、
私から言わせれば矛盾であるとしか考えられません。

さて、以上が、日本人があるいは日本の機関が
日本人女性を管理売春の対象とした歴史です。

その中間の時期に、朝鮮民族の女性たちが
戦地の慰安所で売春をさせられていたわけです。
女性であるという要素に加えて
植民地の人間という要素が加わるのですから、
日本人女性と同等かそれ以上の不合理な扱いをされたことは
容易に想像がつくことだと思います。

日本人が警察に保護を求めた冷たくあしらわれた以上に
守るべき機関は、朝鮮民族の婦女子を冷たくあしらったことでしょう。
植民地の人間からすれば、銃剣で脅かされなくても
強制的に管理売春で働かされたと感じるのは当然のことだと思います。

私からすると
直接軍が強制連行しようと
軍の庇護のもと甘言や威嚇で意思を制圧して
外地の慰安所に連れて行こうと
女性の人権、人格、人間性をないものとして扱った事実は
変わらないと思います。

強制連行にこだわることや
強制ではないことにこだわることは
このような本質的な問題まで到達しない危険があるように思います。

大事なことは、戦争という状態が
集団的な人権侵害を犯しやすくすることということ、
それは必ずしも国家が人権侵害をするだけでなく、
しいたげられた人がさらに弱い人を攻撃するということが
当たり前のように行われることで、
それに国家が関与することによって
国家と結びついた一部の人たちの利益につながっているということのようです。

人権が金に換えられるわけです。

今日は令和最初の終戦の日です。
人権侵害の究極の形が戦争であるという意味について考え、
戦争が不要である状態を作り出すための方法に思いを巡らそうと思います。
二者択一的考え方が、実は危険な問題提起であり、
そのような焦燥型思考法を排除していくことが
重要な方法の一つであると思いついたところでありました。

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