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積極的人権概念の必要性と試論 令和3年文化の日表彰記念 [弁護士会 民主主義 人権]



私は人権擁護活動に対して、令和3年11月3日付で宮城県から文化の日表彰を受けました。表彰に対して感謝の気持ちを表そうとこの文章の構想に入ったのですが、既に一年以上が経過してしまいました。あまり肩ひじ張らずに、人権啓発活動の中で感じたことをまとめてみるだけにすることとしました。

1 人権の具体的な積極的概念の必要性

人権啓発活動をする際に高いハードルを感じるのは、一般の方には「人権」という言葉の意味がわかりにくいということです。大学の法学部における人権という言葉の説明として、人が生まれながらに持つ権利とか、国家権力をしても奪えない固有の権利とか、あるいは、自由権や社会権があるとか、そういう性質的なこと、側面的なことは説明がなされています。しかし、肝心の何が人権で何が人権でないかということを考えるにあたっての道具となる定義というか、人権概念というものが曖昧で、少なくとも一般の方に向けて「一言で人権とは」ということができなくて困っています。

憲法上保障されている人権カタログを列挙して、これに類するものという説明の仕方はあると思いますが、一般の方向けのせいぜい1時間くらいのお話の中で、そのような説明をしていたら時間が足りません。啓発研修は人権の勉強会ではなく、相互の人権を尊重しあって、具体的な生活の場で人権が充足されるきっかけとするということが目的です。人権ということを法学部的に説明していったら、目的にそう肝心の話ができなくなります。

特に自治体での人権啓発の場は、「家庭の中の人権」とか、「職場(学校、医療、福祉)の中の人権」、「学校の中の人権」ということがテーマになるので、ダイレクトに私人間で相互に人権を尊重すること、その実践可能で具体的な方法を述べる必要もあります。

いっそのこと人権という概念によらずに、道徳とか優しさとか善とか別の概念を用いようかとも思うのです。しかし、それでは税金で構成される予算を執行する地方自治体という公的な機関の活動としてはやや問題があるようです。法の執行という特質を反映するためにはやはり人権啓発、人権の普及という活動という枠を維持する必要があります。また、人権ということで、家庭の中の人権を尊重するということから始まり、やがて様々な人間関係の中で、人権というツールを用いて、広く相互尊重をする社会を作るという理想もありますので、やはり人権という概念はどうしても必要だと思われます。

「世界中の人間には人権を守るという大きなコンセンサスがあります。人権ということはこれこれこういうことです。まず家庭の中の人権について考えてみましょう。そしてその人権尊重を家庭の外にも押し広げていきましょう。」と、わかりやすく言えばそういうことです。だからどうしても「人権」とは何かをわかりやすく説明する必要があるのです。

2 特に積極的な概念としての人権概念の確立の必要性

人権が確立していく歴史からすると、確かに特定の人間に対する攻撃、被害があり、それをさせないために人権という固有の権利を作り上げて、人権侵害を防止し、侵害された人権を回復させるという文脈で人権概念が構築されてきたと思います。つまり侵害されてからそれが人権だから今後は侵害されないようにしようという人権概念が確立されてきたのかもしれません。

おそらく、それぞれの個別の人権概念が確立した際には、その確立した時代の考え方があり、侵害された利益を人権として擁護しようということが、最終的には権利であり、その中でも人権として社会的に承認がなされ、高められやすい素地がその時代のその社会にはあったものと思います。

憲法の人権カタログは、そのようにして尊い犠牲や権利として尊重するという運動によって整備、充実されたのでしょう。

ところが現代社会では、様々な人間関係が形成され、人間関係相互の関係も複雑に影響しあっているという意味で、人間関係が複雑になってきていると言われています。また、特に私人間の関係では、ある時は弱者になる人たちもある時は強者となり、逆もまた真なりです。過去の時代において強者としてカテゴライズされていた人たちが、現在のある局面においては弱者になるということもよくあることです。

また、それぞれの行為を、人権侵害として評価して、負の評価に固定化することも帰って解決を妨げる結果となることも経験しています。

侵害の文脈でしか説明できない人権概念は、どうしても私人間の対立が激化していく方向に働いてしまうという弱点があるようです。特に家庭とか、職場、学校等、継続する人間関係の中での相互尊重というツールには不適格な場合も多いように感じています。人権侵害が一度でもあれば、程度や行為の意図等にかかわらず加害者と被害者として当事者を対立させるという手法は、加害者の排斥という結論になりやすいために継続的人間関係においては実務的ではないと思うのです。特に日常を継続的に共にする私人間においては、威嚇により侵害を止めるという手法よりも、理想、行動心身の実践の充実感や安らぎ、安心感によって相互尊重を進めていくべきことが多いように感じています。

侵害の文脈ではなく、目指すべき理想、実現するべき概念としてという意味で、積極的な人権概念の確立こそが、日常の生活の中で相互尊重をする暖かい人間関係を形成することためには、必要なことだと感じています。

そのような積極的な人権イメージが確立されれば、人権のイメージがもっと明るくなり、人権啓発に訪れる方々も明るく参加することができると思います。具体的なヒントを提起することで、人権尊重の活動をしてみようと研修会に参加した方々の人権擁護活動の実践の契機にもなると思われます。

3 啓発における積極的人権概念試論

人権擁護委員会のスローガンとして、相互の尊重という言葉があります。考えてみれば、人権の侵害が問題になる場面は人間関係の中での場面です。もっとも、この「人間関係」はさまざまであり、家庭や職場の同僚、学校の同級生等という私人間の人間関係もあれば、職場と労働者、生徒と学校という団体と個人という文脈もあります。また、自治体、国家、社会、あるいは地球規模という大きな人間関係もあります。そのいずれの人間関係でも人権問題は生じる可能性があるわけです。

そうすると、人権問題は人間関係の中で生じるということに着目できると思います。人権侵害は、人間関係の中で人間として尊重されないことであるという言い方が可能であると思われます。

次に、人間として尊重されるということはどういうことかという、その意味を明らかにする必要があるということになります。

おそらく、人間は、他の人間から人間関係の中で尊重されて生きていたいという本能的な要求を持っているということなのだろうと思います。対人関係学は、このことを主張しています。

要約すると、文明発祥以前から人間は群れを作って生活してきたために絶滅をまぬかれた。群れを作る原理は、心である。即ち、群れの中に所属していたいという根本要求がある。この要求は、裏を返せば、群れから外されそうになると不安を感じるということで、自分の行動を修正してでも群れにとどまろうと行動を起こす。
群れから外されそうになっていると感じる方法を一言で言えば、群れの仲間として認められていないということを感じ取ることによってである。群れの仲間として認められていないということは、群れの仲間であれば当然受けるべき態度を盗られないということである。
群れの仲間であれば当然受けるべき態度とは、かけがえのない仲間であり、いつまでも群れの仲間であり続けてほしいという態度である。健康を気遣われ、体面を気遣われ、痛い思い、苦しい思い、悲しい思い、寂しい思いをさせたくないという扱いを受けることである。
これに対して、気遣われないということは、積極的に群れの仲間がこのような負の感情を引き起こす行為を自分に対してすること、自分がこのような負の感情を抱いているのに、仲間によって放置されることということになる。(要約終わり)

今から2万年以上くらい前までは、群れの仲間も数十人から百数十人程度で、生まれてから死ぬまで基本的に同じ仲間とだけ生活していた運命共同体だったものですから、仲間と自分の区別がつかないほど群れは大切なものだったと思われます。このような人間の性質、心があったために、群れが強固に結束し、助け合うことができ、群れが存続し、文明を持たなくても人間は厳しい自然環境を生き残ることができたのだと思います。

問題は、人間の脳の進化はこの段階からあまり進んでいないことです。現代の人間は、特に都市部においては敵でも味方でもない人間にあふれています。一日で家から職場からあちこちに動き回って多くの人間と接触しています。インターネットを含めると到底把握しきれない人間と何らかのかかわりを持っている状態です。それにもかかわらず、考え方、つまり心は数十名の群れで一生過ごしているときとあまり変わらないのです。

だから、相手を仲間だと認識してしまうと、自分に対して気遣いを期待してしまい、気遣いがないとか相手から攻撃を受けてしまうと、不安や焦り、ときには恐怖を抱くようになってしまうわけです。

現代社会の人権カタログもこの原理から説明できるように思います。但し、人権カタログは、国家、社会との関係で問題になることがほとんどですし、心外の程度もある程度大きなものであることが必要だと思います。
そして、人権の侵害がある場合には、制裁や補償によって侵害の回復が求められることになります。

対人関係を小さくして、継続的な対人関係を念頭に置いて考えた場合、家族、友人、同僚等の場合、侵害がなければ良いというわけではないと思います。制裁や補償の対象にならなければ多少の侵害が許されるというわけではないと思います。また、侵害をしたという方が一方的に侵害をするというよりも、どちらかと言えば双方がそれぞれ将来に向けて行動を修正するということで解決するべき案件もあるのだろうと思います。

問題は、どの人間関係に起きていることなのか、どの程度の侵害があると言えるのかというところだと思います。

特に人間活動の基盤になるような人間関係においては、侵害を防止するよりも、広い意味での人権の充足が図られるように提案していくことが必要ではないかと思うのです。

「人間関係の中で、仲間として尊重されること」を人権ととらえることを提起いたします。特に身近な仲間の中では、人権が侵害されないといういわばマイナスの出来事を防止することを目指すのではなく、ゼロの先のプラスを目指すべく、つまり、お互いに意識して尊重しあうような人間関係を形成していくことを目指すことを提起することが人権啓発の手法としてふさわしいと考えております。

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虚偽DV政策の理不尽さをわかりやすく理解することができる草津町長の元町議の虚偽告訴罪及び名誉棄損罪の起訴に関する記者会見 [弁護士会 民主主義 人権]



令和4年11月11日、草津町長の記者会見がありました。女性の元草津町議が、議員在任中に、男性の町長から平日の午前10時に町長室で性的暴行を受けたということを電子書籍などで公表されたという出来事が発端です。時間的には前後するかもしれませんが、その後、この町議は議会で除名処分を受けましたが、県の裁定で復職し、リコールが起こり圧倒的多数で解職となり失職となりました。 この元町議を応援する勢力があり、温泉観光地である草津町に行かないようにしようというキャンペーンを展開したり、「セカンドレイプの町草津」等という批判を展開したようです。この元町議は外国人記者クラブにおいて記者会見を開き自分の主張を海外にも発信したようです。双方は告訴、告発をしあい、町長は嫌疑不十分で不起訴になりましたが、元町議は虚偽告訴罪と名誉棄損罪で10月31日起訴となりました。これを受けて町長が記者会見をしたということです。

ここで人物の関係をわかりやすく説明しています。即ち、登場人物としては、被害を受けた申告した人(元町議の女性)、加害者として申告された人(町長)、そして、被害者として申告した人を応援して加害者を攻撃した人(元町議の支援者)という三面構造です。

町長は記者会見の中で、「被害女性が自分が被害者だと言えば、被害者だと断定されて、相手が加害者だと決めつけられて攻撃を受ける」ということを訴えていました。これこそが、行政やNPO由来の虚偽DVの構造なのです。

総務省の用語でも、DVの相談を受けた妻などは、書類上「被害者」と記載されます。夫などは妻が相談をしただけで「加害者」と呼ばれます。総務省は、ここで言う加害者は、日本語の言う害を加えた者という意味ではないと通知を出していますが、それなら加害者という言葉を使うべきではないと思います。この言葉づかいや「研修」の効果が表れ、加害者と呼ばれるようになった夫などは、「あなたと話す必要はない」等と区役所で攻撃的な対応を受けるようになるわけです。

肝心なことは、被害女性が自分が被害者だと主張しただけで相手の男性が加害者として扱われるということなのです。

そして、何も事実認定がなされないまま加害者として扱われ、事実上の不利益を受けるという構造が理不尽なのです。

草津町の事件では、草津町長は何ら性犯罪で起訴もされていませんでした。それなのに、性犯罪の加害者として扱われました。著名な論客も実名で公刊物などで非難をしたそうですし、現地で集団での抗議活動なども行ったようです。元町議の主張が全くの事実無根であれば、町長はいわれのない攻撃にさらされ、家族も夫や父親が性犯罪の加害者だと言われているという強度なストレスフルの日々を送っていたことだと思います。重大な人格侵害であるだけでなく、町長に対する執務中の破廉恥行為があったということの主張ですから、政治的謀略にもなるでしょう。さらに著しい被害を被ったのは草津町民、草津観光業者の方々でしょう、レイプの町草津町、セカンドレイプの町草津町という喧伝は、謝罪しても謝罪しつくせない蛮行だと思います。

元町議の言うことが事実無根であれば、本人、ご家族、草津町と、決めつけによって極めて甚大な被害を理不尽に受けたということになりますね。

これと同じような構造による理不尽な被害を多くの夫たち、元夫たちが受けているのです。

先ほど述べたように、妻たちは行政や、警察、NPOなどで、生きづらさの相談をしています。莫大な予算が投入され、宣伝広告も充実し、相談件数は右肩上がりに増加しているようです。

しかし、相談に行く女性たちは、必ずしも夫の加害について相談に行くわけではありません。出産に伴う産後うつ、内分泌系の疾患や薬の副作用など体調の問題などで不安や焦燥感を抱いたり、職場での上司のパワハラや、取引先のクレーム対応などで精神を病んでいる場合もあります。ママ友との関係でストレスが蓄積しているケースもありました。主として、同情をされたいという精神状態に陥って、無条件の共感を示してほしいというところに多く場合共通性があるようです。

その中で警察、地方自治体やNPOの配偶者相談の回答者は、夫との不具合を聞き出して、些細な日常どこにでもあるようなすれ違いをとらえて「それは夫のDVだ」と断定し、DVは繰り返される、早く逃げないと命の危険があると根拠もないのに繰り返し妻を説得するようです。そして妻は被害者と呼ばれ、夫は加害者と呼ばれ、子どもを連れて家を出て、行方を知らせないで逃げ切りなさいと指導が入ります。最近でも、妻が夫の手を払いのけて自傷したことをとらえて死の危険のある暴力を受けたということで、夫が書類送検された事件があります。その負傷に至る経緯やその後の事情を丹念に説明して不起訴になりました。本当は妻の勤務先の問題で相談に行ったのに、夫のDVということで子どもを連れて逃げ出し、子どもは父親と同居できなくなり、面会もできない状態になっています。

この場合の三者構造は、被害を受けたと申告する人間が妻、加害者として申告されたのが夫、そして被害を受けたと申告した人を無条件に援助し、夫に加害行為をしているのが行政やNPOということになります。構造的に全く同じです。

さらに共通の問題としては、草津町の事件では、草津町自体がレイプの町、セカンドレイプの町ということでイメージがだいぶ悪くなりました。観光業者としてはだいぶ先行きに不安を覚えたことでしょう。町議の支援者は、事の真偽について何も判断が下されていないまま、町長を攻撃することに傾注し、町民の被害について考慮しなかったわけです。

もっとも、リコールで圧倒的多数の住民が解職を是としたということで、攻撃の理由があるという見解もあるかもしれません。住民の意見としては、朝の十時に町長室でわいせつ行為があったということは考えられないという素朴な判断と、当初の電子書籍で発表した段階ではレイプだと言っていたのに、告訴の際には強制わいせつ罪に変わるなどの主張の変遷があったことで、元町議が嘘を言っているという判断をされたような声を耳にしました。

いずれにしても草津町民も甚大な被害を受けたのですが、虚偽 DV事件でもとばっちりを受ける人間がいます。それが子どもです。子どもは警察や行政やNPOの指示では、連れて逃げろということになります。子どもは、これまでなじんでいた学校や幼稚園の友達や先生から離されるだけではなく、子どもの気持ちとしては今までなじんでいた家、自分の道具、近所の人や猫などからも突然引き離されて、自分がどうなってしまうのだろうというパニックになることもあるとのことです。

自分という存在を見失う危険が生じるということのようです。父親の悪口を言わないようにしようというお母さん方も少なくありませんが、母親だけでなく母親の親族は子どもの前でも父親に対する容赦ない非難をする場合が少なくないようです。

どうでしょうか。草津町事件と虚偽DVの共通点がこれほど多いということに、書いていて新たに気づいたこともあったので、今更ながら驚いています。

どうして、行政などが妻側の話だけを聞いて夫からの事情を聴取しないのに、連れ去りを指示したりして、夫を孤立させたり評判を貶めたりするのでしょうか。これも、今回の元町議を支援した人たちが真実性の検証を十分に行わないで草津町長が性暴力を行ったということ前提に攻撃をしたことと共通だと思われてなりません。つまり、「男というものは女性に対して暴行を加えるものだ」という極端なジェンダーバイアスに支配された男性観を持っているためだと思われます。

草津町町長に置かれては、草津町で行われているDV相談の実態をよく調査して、自分が陥れられた被害を、自分の名前で町民に行っていないかくれぐれも点検されるべきだと思う次第です。

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施設入所=親子分離の裁判所の承認の判断要素となっている児童相談所の一時保護下における心理分析は客観的な分析結果とはなりえず予備知識と先入観で分析結果が変わる危険について 施設入所という親子分離が増加した理由は世論が怒りを利用して誘導された結果ではないかということ [弁護士会 民主主義 人権]


断り書き:私は特定の児童相談所の複数のケースの調査報告書を対象としていますので、全国的に同じ調査をしているか否かは実際はわかりません。仕事上現れた問題を指摘して、同じ問題がある場合に備えて問題提起をするという趣旨です。なお、宮城県児童相談所のケースではありませんので、念のため申し添えます。

まず、これから述べることは、児童福祉法28条1項の、親から児童を分離して、児童養護施設入所または里親委託の措置をとることにあたってのお話です。これに対して一時保護というものは、児童の安全の確保や調査などの必要性がある場合に児童相談所所長が決めることができます。但し、親との分離期間は2か月を超えることができません。裁判所の関与を不要としているのですが、国際的な批判もあるところです。

施設入所または里親委託は、他の児童相談所では例外もあるようなのですが、私が関わっている事件では、高等学校を卒業するまで続き、その間親子の体面さえも無い場合もありそうです。私が代理人になって、児相ではなく委託を受けている児童養護施設と協力して断続的に面会を実施したケースがありました。親の方は、身に覚えのない出来事を理由に施設入所が決まったために児相に対して感情的な対応を抑制できない状態となっていたし、トラウマのような心理的症状も見せていました。このような特殊事情から親子の体面ができなかったという事情もあるかもしれません。児相ばかりに問題を押し付けても何ですが、子どもを取られた親ですから葛藤が高まって持続する人間も多いと思いますし、それは他の事例でもそうでした。いわば児童相談所は葛藤が高まった人に対応をする機関ということになると思いますが、ノウハウはまるでなく、かえって親と感情的にも同じ地平で対等に対立していた様相もありました。

但し、子どもが高校を卒業するまで親子が顔を会わせないという危険のある処遇であることは間違いありません。

一方親子の自然な感情交流は人間が成長するために有益なものであり、子の福祉の観点からは親子が一緒に生活することが望ましいということが確立された価値観です。子どもにとっても、自分の親に問題があり、子どもと一緒に暮らしてはいけないと公的に評価されたということをしれば、それは精神的に打撃をうけることも間違いないでしょう。親が自分に会いに来ないということから自分が親から見捨てられたと思う子、自分は親から愛される価値のない子と感じる子どもたちもいるようです。自己評価が低くなる危険は高いです。両親が別居した場合の子どもの心理を考えれば応用がきくはずです。

自分や両親の意思に反して離れて暮らすということは、子どもの健全な成長にとって害を与える危険があるということはしっかり認識しなくてはなりません。

このため児童福祉法28条は、
1 保護者が、その児童を虐待し、著しくその監護を怠り、その他保護者に監護させることが著しく当該児童の福祉を害する場合
2 家庭裁判所の承認があること
という二つの条件のある場合は、児童の健全な成長などと言っている場合ではないので、児童相談所所長の申し立てによって親から分離して施設入所や里親委託をさせることとしたわけです。

どういう場合に1の要件に該当するか判例を調べたのですが、目を覆いたくなるような虐待の場合が多いです。理由のない暴力や性暴力、命の危険のある傷害といった強烈な加害行為があり、それによって子どもが身体的に傷ついていたり、反応性の精神障害や、発達上の問題があるケース場合が典型的な事案でした。また、特徴として子どもが学校に通学させられないというような事情も多く見受けられました。

命が亡くなったら、成長も何もありませんし、親に健康問題があり、親として感情に基づいた行為ができない事情があるため、このまま親と生活していたら人格が歪んでしまい、生きる喜びなんて感じられないだろうな、そもそも虐待死しそうだというケースであり、親と分離するデメリットを大きく上回るメリットが明らかにあるというケースだと思います。

さらにそういうケースだということを児相が判断するのではなく家庭裁判所という別機関が判断するということがみそでした。

さあ、問題がここにあります。

家庭裁判所は児童相談所と別機関だということが売りの制度ですから、家庭裁判所が児童相談所の報告書などの矛盾点をきちんと見つけだし、児童相談所の意見はともかくとしてもそれを裏付けるものが証拠として提出されていないということになれば、きちんと児童相談所の申し立てを却下しなければなりません。

児童相談所の主張をやみくもに信頼してしまって、承認の審判を出すだけの税金の無駄遣い機関にならないことが制度の命です。

これに反して決裁印を押すだけの機関に転落する要素はたくさんあります。

子どもを取り上げられる親は、現在多いのは何らかの病気があり治療を受けている、生活保護を受けている、過去において何らかの不十分な養育があった事実がある等、事情のある親が多いからです。

さらに、施設入所の前に一時保護を受けているのですから、それなりの事情を現に抱えており、理想的な養育をしているわけではなく、「子どもの長期的な心理面を考慮しなければ」、施設や里親の方が快適な生活を送れるだろうと思われる事案であると一般的には見える事案ということもあります。

つい、子どもにとって別の生活を与えたいと思うかもしれません。

方や児童相談所は県や政令指定都市の公務員であり、児童福祉士や児童心理士という肩書を持った人間たちです。この人たちが子どものことを思って申請するならば、報告を疑わないで承認してしまったほうが間違いがないだろうと思ってしまうのは人間かもしれません。法の番人である裁判官でなければということです。

また、裁判官は、認知科学や発達心理学、行動心理学についてあまり勉強をしていないようです。この知識を補うのは家裁調査官なのですが、家裁調査官に調査命令を出すのは知識のない裁判官ですから、事なかれ主義のいわゆる役人根性の強い調査官だとすれば、裁判官の知識不足を陰で笑いこそすれ、知識を補充する提言をするということはしないのかもしれません。そうでない調査官はもちろんいます。今でも立派な調査官の方々の顔が浮かんできます。名前はあまりよく覚えていませんが。

なぜ、裁判官に知識が無いかといことがわかるかと言えば、裁判官は児童相談所の職員が行った心理テストについて、評価することをしないということに気が付いたからです。

心理テストとは、ロールシャッハテスト、STCテストに代表される検査です。これが客観的に施行される、物理実験のようなテストだと思っているようなのです。

この心理テストには苦い思い出があります。労災でうつ病になった依頼者が、大きな病院の精神科で心理士の心理テストの結果、境界性パーソナリティ障害とされ、精神科医からそのような診断名を付けられました。これも大きな理由として労災が認められなかったという事案がありました。今にして思うと、その病院は患者の苦しみを取り去るために治療をやり抜こうという真摯な姿勢が無いということを今なら論証する自信があるのですが、当時は知識が不足していました。ただ、その事案でも著名な精神科医の先生にご協力いただいたのですが、うまくゆきませんでした。

まず心理テストについてですが、誤解と非難を恐れずに言えば、科学的なテストではない言うべきテストです。この意味は、誰でも同じ検査をすれば同じ分析結果になるというものではないという、再現性が無いテストだということを意味します。

例えば、ロールシャッハテストは、1920年にロールシャッハという医師が作成したテストで、紙にインクを落として半分に折りそれを開いて左右対称の抽象的な図形を作り、施行者が質問をし、被験者が回答をするという形で進められ、被験者の発語や発語回数などから被験者の心理状態を分析するというなんとも頼りないテストなのです。そもそも再現性がありようのないテストです。
また、その発言、発言回数、言い方などから、施行者が結論付けた被験者の性格に至った道筋について文章で説明せよと言ってもできるものではありません。それは、同じ流派の人たちであれば、こういう場合はこういう結果だと判断しろと言う阿吽の呼吸が伝承されていますから、流派内の人、特に師匠と弟子の間では言葉による説明が可能ですが、一般に向けた説明は無理です。どうしてそういう結論になるか誰も納得しないでしょう。「裸の王様」のようなものです。

特徴としては施行者の主観が入り込む余地がとても高いということがあげられるでしょう。

STCテストは、私は、冬の寒い日は・・・・・だ。の・・で示した空白の部分に言葉を書き込んで文章を完成させるというテストです。児童相談所で行われる心理テストでは比較的多く3割近い児童相談所で実施されているようです。
しかし、この空白の補充も、同補充すればどういう性格だということが一義的に出てくるわけはありません。やはり施行者の主観の入り込む余地が大きいテストです。

これを入社テストなどで行うことを問題にしているわけではありません。いやなら受けなければよいですし、それで採用に失敗しても自業自得ですから他人が批判する話ではないでしょう。

問題は児童相談所がこれをやっているということです。
要するに親の養育に問題があり、その影響で性格に偏りがみられるとか、発達上の遅滞があるとか、そういう判断をしようとしているわけです。それで、親子は分離され、子どもは健全な成長を阻害されるリスクを背負わされるということです。

おそらく、大半の方は、心理テストというのは、どこかにそのテストを専門的に行う機関とか専門家がいて、先入観無くてストが実施され分析がなされていると思っているのではないでしょうか。

全く違います。子どもを担当している児童相談所の職員が行っているのです。場合によっては長年子どもを担当している職員、親とけんかをしている職員が行っています。つまり、予め子どもに対する情報がインプットされている人が行うのです。心理テストなんてしなくても、ある程度分析ができているはずですから、改めての心理テストはいわばセレモニーとか裁判所に対する権威付けで行っているわけです。子どもの親に対する偏見があったり、子どもの親から罵倒されたりという経験があれば、分析結果に影響が出ない保証はありません。

心理テストの報告書からこれが明らかになってしまうケースもありました。つまり心理テストを実施しているのですが、心理分析の結果を記載しないのです。心理テスト以前に知っていた情報を理由として結論を出している報告書ですから、心理テスト報告書ではないわけです。それでも裁判官は、そのことに気づかないことがあるようです。ロールシャッハテストとかSTCとかいうちんぷんかんぷんなテスト名を出されると、それは客観的に行われて客観的な結論が関数のように出てくるテストだと勘違いをしている人もいるようなのです。知らないのに知ろうとしないわけです。

しかし、こういう心理テストは家庭裁判所では結構出てくるのです。児相の問題もそうですし、離婚の際の親権者をどちらにするかとか、面会交流の際にも、主観的心理テストの結果を踏まえてどちらかとは会わせないとか、少年事件で少年の処遇を決めるときにも心理テストが出てくる場合もあります。裁判所が心理テストのメリットデメリット、注意点を把握できないでは、家庭裁判所の裁判官としてはどうなんだろうという疑問がわいてきます。

さらに心理テストには問題があります。
それは被験者である子どもが児相で一時保護されているという環境を考慮しない場合があるということです。心理テストで、何らかの性格的傾向、行動傾向などが見られたとしても、それが親との生活で形成されたものなのか、親と長時間会えなくて、学校にも通学できないという状況を反映したものなのかわからないということですし、ある程度の年齢になればこの心理テストの結果親と会えなくなるということがわかりますから、それを警戒したり不安に感じている結果なのか考察をされることが無いということです。
この問題は常にあるように感じています。仮に子どもに何らかの問題が認められたとしても、その原因は親ではなく児相にあると解釈できる子どもの反応というものが、強引に親由来の問題だと分析されているという問題です。

また、問題は実はそれにとどまりません。
心理テストを低年齢の子どもに実施することの問題点です。例えばロールシャッハテストですと、この図形が何に見えるかというような質問をして、回答の数、所要時間、表現等によって深層心理を分析するわけですが、子どもには豊富に語彙があるわけではありません。そもそも図柄は何にも見えないただのシミです。子どもは漫画のようにデフォルメした図を好むわけですから、はっきり意味が通じる図柄でないと理解できないという発達上の問題もあります。その回答は深層心理の問題ではなく、子どもの認識と表現の発達段階の限界の問題である可能性が高いのではないでしょうか。そもそも7歳の誕生日を迎えたばかりの子どもの深層心理とは何なんでしょう。およそ発達心理学の知見もないのではないかと勘繰りたくなるテストが行われています。他者との結びつきにおいても、小学校入学前は一緒に遊んでいるようにみえても、同じ場所にいてめいめいに遊んでいることが多いそうです。人間関係が深くないというのは、同年代の子どもと比較してなのか、大人と比較してなのかわかったものではありません。

STCテストだって、小学抗低学年では、まさに国語の試験問題みたいなものです。文章を埋めることは大変なのです。能力的に負担となれば、適当に切り抜けようとすることは自分がその年ならやることです。また、空間に整序立てて書くことも、きれいな字で書くことも年齢によっては難しいことです。ここから何らかの心理状態を結論付けるなんてことができるとは思えません。

これ等の心理テストは大人が被験者であることを前提としたテストだと私は思います。

そもそも子どもには無理なテスト行って、何らかの心理的傾向を導き出そうということ自体が無謀なことだと思います。また、実際は心理士は、苦労して心理分析をしないで、こういう回答が見られた等という回答結果だけを報告し、心理傾向について報告しないで、先入観や元々あった情報で心理テスト報告の結論部分を書いているかもしれません。これは報告書を読めば簡単にわかります。

おそらく裁判官の中には心理テストの報告書を読まない人もいるのでしょう。実際に多少の知識をもって読めば、かなりいい加減な報告書もあるかもしれません。

税金をもらって仕事をしている裁判官は批判されなければなりませんが、弁護士も批判されなければならないかもしれません。心理テスト報告書など読めば批判は簡単ですからきちんと読んで、論理学的な技術をもって真実を見極めて批判をしなくてはなりません。それをしないで裁判官を批判することは、職務放棄だと思います。

ただ、施設入所を申し立てられる親御さんには経済的事情を抱えた方も多く、弁護士を依頼する費用が出せない方も多く、誰が熱心に取り組む弁護士かという情報からも疎外されている人が多いです。そう言う人が狙われているという感すらするほどです。大変悩ましいところです。それにしても、問題意識が希薄な弁護士が多いということも事実かもしれません。

弁護士だけの問題ではなく、国民全体の問題だということを最後に述べたいと思います。

児童相談所所長の28条申立は、極端に増加しています。平成元年は14件しかありませんでした。平成7年くらいになると36件、平成10年の65件まで増加していったのですが、平成11年は97件、平成12年から15年は百数十件、そして平成16年から平成21年は200件前後、平成22年から平成29年は二百数十件から300件の間ということになっています。

そんなに審判例にみられる虐待件数が増えたのでしょうか。もしそうならば、社会構造的に親が子供を虐待するようになった要因を探さなければなりません。しかし私はそうではないのだろうと思っています。要するに申立のハードルが下がったということです。しゃにむに多少判例の事案に届いていないが申立をしようということが本当なのではないかとにらんでいます。

一つには虐待に対する世論の味方が厳しくなったこと。同時に虐待を放置して児童が死亡することに対する児童相談所に対する批判が多くなったことが理由だと思います。

怒りは、単一の問題の所在しか考えることができなくさせてしまいます。つまり、虐待死を無くすという価値観です。それ自体は間違っていません。虐待死があってはならないということは当然です。

しかし、虐待死を無くすためにどんどん親子分離をするべきだということになれば反対ですし、それは子どものための議論ではなく、第三者の気持ちを落ち着かせようとするために当該子どもの健全な成長を阻害する結果になることだと私は警鐘を鳴らさなければならないと思います。子どもにとって弊害があるから、厳しい要件が満たされない限り施設入所などを認めないというのが法律と判例の立場なのです。そのことが、弊害の知識もなければ考察する余裕もないような正義感によって原則が取り外されそうになっています。その結果、成長に深刻な影を落とす児童が増え、自分を否定されたと感じる親が多数生まれ、結果として親と子双方の自死が起きているのです。

単純極まりない正義感は本当に害悪です。ただ、それはどうやら作られた正義感、誘導された世論ではないかという疑いが払しょくできません。テレビや新聞の単純な正義感に火をつける報道スタイルが誘導している印象があります。要するにテレビや新聞も、視聴回数を伸ばそうとするユーチューバーと同じ論理で国民に働きかけているように思えてならないのです。


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児相による施設入所の手続きは問題が大きいのではないか 親の権利はどうなる。子どもの成長を本当に考えているのか [弁護士会 民主主義 人権]

例えば虐待などがあれば、児童福祉法で児相が一時保護するわけです。
親の元から児相の施設に連れていかれて、親とは面会もできないことが多いようです。

但し、一時保護は2か月が限度で、
それ以上子どもを返さない場合は
児童養護施設や里親に出す許可を家庭裁判所に申し立てる手続きをしなくてはなりません。

今回この手続きに最初から関与することになっていろいろなことがわかり驚いています。

まず、根本的問題としては、
親は子の手続きの当事者として認められていません。

あくまでも行政に、施設収容してよいよと言う裁判所のお墨付きを与える手続きのようです。
だから、児童相談所所長が申立人になるだけです。

つまり、親が子どもと暮らせないということの不利益について
親が裁判で防御するという制度は存在しないということになります。

これは良いのでしょうか?

親が子どもと暮らすことが権利とされていないという
馬鹿なことがあってよいのでしょうか。
でもこれが法律の建前ですし、
親どうしの子の引き離しにおいても裁判所の一貫した姿勢です。

それでも現在の運用は、この手続きの開始は、親に対して通知され
審判手続きに実質的には入れることになっています。
しかし、それは自分の権利を行使するのではなく、
保護手続きに対して意見を言うという立場にすぎません。

具体的には証拠が直ちに開示されません。

裁判の場合は証拠の謄本が送られてきます。

しかし、児童の施設入所の手続きでは
裁判所に見せてくださいとお願いをして
裁判官の許可が得られた場合のみ見ることやコピーをすることができるだけです。

そもそも、閲覧手続きを知らなければ見ることさえできないわけです。

証拠がわからなければ、何を反論してよいのかもわからないことが多いです。
親は、子どもを取り返す防御の手段を取れないまま
子どもと引き離されてしまう危険の大きい制度と言わざるを得ません。
それでも親は当事者とされていませんので良いのだという制度なのです。

お金を取り戻す場合は防御の方法が尽くされているのに
子どもを取り戻す場合は防御の方法がそれ以下の状態になっているのです。
お金も大事ですが
親にとって子どもはもっと大事です。
ところが日本という国の法律はお金は保障するが
子どもは我慢しろと言うのでしょうか。

また、夫婦間の保護命令手続きでも言ったことがあるのですが、
裁判始まるという告知から第1回裁判までの間に期間がとても短いです
10日もあればよい方です。
これはびっくりしました。

その中に当然土日がありますから、
例えば水曜日に告知の手紙が来て
木曜日に開封して金曜日どうしようかと思っていたら
もう月曜日になれば5日後に裁判が開かれてしまうということです。

それから弁護士を探して、弁護士に引き受けてもらって
弁護士が証拠をコピーしに行ったら
第1回裁判は、準備不足で終わってしまいます。

そうなることは当たり前です。

弁護士だって他に締め切りの仕事があるわけですから
なかなか充実した反論をすることなんてできません。


親が十分な防御ができないまま、イメージによって
施設収容の承認がなされるケースも相当するあってもおかしくない
というか、そういう稚拙を防ぐことができる制度にはなっていません。



ここまで読み進めた方にはいらっしゃらないと思いますが、
児相が手続きを取るというのだから
親にはそれ相応の理由があるのではないかと思われる方もいるでしょう。

ところが、どうやらそうでもないのです。

これまでの公にされた施設収容の審判例を見ると
かなりひどい親の虐待があって
生命の危険がある場合や
学校に通学させられずに社会的な立場を構築できない場合があって
なるほどそれが本当であれば子どもためだから仕方がないかと思うのですが、

どうも最近、そうでもない事案も増えているようです。

目をつけられて親子引き離しをされそうな要素は以下の通り

第1に、子育てで児相に相談をしてしまうケース
してしまうといったって、社会的に孤立している場合は
誰にも相談できませんから
本来は児相に相談することは正解のはずです。

どうしても体調が悪くて、でも子どもを預けるところが無いときに
児相に相談することも立派だと私は思います。
でも児相が関与して子どもを預かる場合は
一時保護という手続きが取られてしまいます。

何度も一時保護を繰り返したということは
本来、行政に必要な援助を頼むことで正しいと思いますが、
施設収容の理由とされる可能性があるようです。

気軽に児相に相談してはいけないと児相が主張している事案があるので注意が必要です。
子どものために何でも隠さないで相談してしまうと
それは親子引き離しの理由に使われるわけです。

つまり、虐待のケースを積極的に調査して歩くわけではなく
児相は、主に自分のところに相手から頼ってきた人を上方的に丸裸にして
子どもを引き離しているという言い方は意地が悪すぎるでしょうか。

第2に多いのは生活保護です。あるいは貧困です。

少し思い当たることがあるのですが、
子どもが手元にいると単身より生活保護手当てが増えますし、
子ども手当も支給しなくてはなりません。

保護をして子どもを返さなければ
生活保護を減額できるわ子ども手当は支給しないわということもできるのです。

政令指定都市は、都道府県とは別に児童相談所をもっていますが、
そういう場合、どうなんでしょうね。

第3に母子家庭です。
特に母子家庭だけど、子どもの父親ではない男性の陰がある場合

そして外国人、もちろん欧米の人は違います。

第4は精神疾患を抱えている親
精神疾患者は、身体疾患者と異質に見られます。
精神疾患と言っても色々程度が異なるのですが
どうも程度ではなく病名で判断されているのではないかとい心配があります。

たいていは生活保護を受けている母子家庭で、精神疾患を抱えている人です・

こう言う人から子どもを引き離すのですから
ますます親は精神的に深刻になるのです。

要するに、抵抗が起きないだろう弱い親、孤立している親が
ターゲットになりやすいです。


どうやって防ぐか
まず、掃除洗濯、調理をできる限り行うこと
特に通期に気を配ること。

貧困は、匂いで嗅ぎつけられます。
風呂も大事です。

次に子供がいたら保育所や学校にきちんと通わせること
これまでの審判例を見ると子どもが通学しない傾向が重視されています。

そうして、親こそが友達というか相談をできる人を身近に確保することです。
一人では太刀打ちできませんし、弁護士も探せません。

それから、何をあなたが一番大事にするか
もし、目を付けられる要素を持っている人が子どもと離れたくないというならば、
自分のことよりも子どものを第一に考えることが
子どもを連れ去られない最大のポイントになるかもしれません。

自分が嫌なことがあると子どもにあたるというのは論外ですが
家事をしなくなったり、不衛生にしたりというのでは
それは子どもにとってもよくありません。

誰か頼れる人を身近において子どもを一時的に預かってもらうことも
できればよいと思います。


さて、行政は無責任に離婚を進めて母子家庭を増やしています。
しかしそこで終わりです。
母子家庭に対して、特に子育てをすることの支援が圧倒的に貧弱です。

本来精神疾患を抱えた母親に対しても手厚い保護があって当たり前だと思います。

精神疾患は先天的なものではなく、元夫のDVの後遺症として残ることもかなり多いです。
別れさせれば済むという問題ではなく
その後に生活を支援しなくては、単なる家族破壊の策動にすぎません。

もし精神疾患があるならば、子どもを育てられなくて当たり前だというのは、
それは旧優生保護法の思想そのものだと私は思います。

日本という国は、言われなければ何も変えない国かもしれません。






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子の連れ去りは、警察、区役所をはじめとする役所が税金を使って不可欠な役割を果たしているということ 親権制度以上に深刻な問題がなぜ議論されないのか 連れ去りの本当の闇がなぜか語られない件 [弁護士会 民主主義 人権]


先日(令和4年6月26日)、フジテレビで共同親権についての議論が放送されました。櫻井よしこさんの言説は一部の隙も無くさえわたっていたといえるでしょう。しかし、それだけに伝えることの難しさを身にしみて感じました。つまり、子連れ別居の親子引き離しの闇はもっともっと深いと言いたいのです。これは、番組の論点とはずれるところです。ここまで言及してしまえば、肝心な情報提供もできなくなります。それはわかります。私が言いたいのは、共同親権になったところで、このような問題が放置されてしまうと日本の親子関係はさらに崩壊していくということです。

結論を言えば、連れ去り親子引き離しの最も重要な役割を果たしているのが国や地方自治体という役所だということです。ヒステリックな当事者の行為によってだけでは連れ去りは可能になりません。役所が連れ去りの不可欠の役割を果たしているという事実こそ国民に知らせなくてはならないことのはずです。なぜかこの点を強調する人が少ないということを指摘したいと思います。

<妻が相談する前から「被害者」と「加害者」が色分けされている>
例えば、日本という国は、DV相談を行った女性を「被害者」と公的文書で呼び、その相手を「加害者」と呼ぶのです。驚くべきことに、実際にDVが行われたかどうかということは問題にしていません。相談があっただけで裏付けの検討をせずに、相談者が被害者、相談者のパートナーが加害者と呼ばれるようになるのです。総務省の平成25年10月18日付の事務連絡文書で、日本語の加害者という意味で使ってはいないとはっきりと各自治体に説明されています。

この「加害者」という呼称は、警察署や区役所でも引き継がれて用いられます。

国がこの日本語と整合しない用語を何年たっても改めないということは、これは意図的な言葉遣いということだと評価されなくてはなりません。言葉が独り歩きをする流れを作っているのです。

<相談時>
あるケースでは、精神科クリニックを2件掛け持ちして、それぞれから統合失調症の薬の処方を重複して受けていた妻が、警察に夫のDVを相談に行きました。もしかしたら妻が言った暴力は実際にその妻が受けた暴力かもしれません。ただ、この妻は再婚をしていました。妻が受けた暴力は、当時の夫からではなく、10年も前の初婚の時の夫の行為でした。連れ去り当時の夫に暴力が無かったことは、裁判所で確定しています。妻の言葉は幻想による可能性があると裁判所によって正当に認定されたのです。

それでも警察は、妻の言葉だけで当時の夫が暴力をふるったということにしました。本当は暴力なんて振るわれていなかったのですから妻は、夫の元に帰ろうとするわけです。警察官は、夫の元に帰ろうとする妻を2時間かけて子を連れ去って逃げるように説得しました。「このまま一緒にいたら殺されることになる。」、「DVは一生治らない」と説得したとある報告書でその警察官は得意気に述べています。

その結果専業主婦だった妻は夫名義の預金を全部おろしたうえ、夫名義の借金までして、子どもを連れて出て行きました。その後子どもは父親に会えていません。経済的に夫の稼いだ結果である財産をすべて自由に使える立場の妻がDV被害者だという警察の認定は実にばかばかしいものです。ちなみに警察は、このような被害を夫から知らされても、妻を窃盗罪や横領罪で立件することをはしないとはっきりと夫に宣言しました。子どもからは引き離されるし、財産は一切保護されないし、夫は精神的恐慌に陥りました。

おそらく、役所にはDV保護の目標数値みたいなものがあって、DV保護をすることで評価が上がるということから、少しでもそれっぽいものをDVとして「保護」しようとする前のめりの体制ができているのでしょう。行政改革以来、行政は民間企業と同じような原理で行動するようになってしまっています。但し民間経済のように自由競争原理による売り上げの増加が目標ではなく、国民の税金で作られる予算をいかに自分の部署に多く配分を受けるかという目標を持たされているのかもしれません。

もちろんこのような行政の論理だけではなく、警察官になろうというくらいの人ですから正義感や、弱者保護の理念の旺盛な方々です。力弱い女性というジェンダーバイアスをかけられていて、女性が虐待されているという言葉が成立しそうだとなると、途端に正義感に火が付きやすいのでしょう。疑わしい点があったとしても、「ちょっとまてよ」という歯止めをかけることがなかなか難しいことには理由があります。私が言いたいのは、警察官に問題があるのではなく、このような職務上「正義」を求められている人たち、加害者と被害者に色分けしなくては職務が遂行しずらい職種にDVの有無の判断をさせる仕組みに問題があるということです。実際にはDVの有無を判断しないで行動をさせようとしているのです。

<夫が気が付いて行動をすると>

妻が突然子どもを連れて家を出て行くなんて、全く予想もしないことです。その日は突然起こります。誰もいない家に帰ってきた夫は、いつも通り妻の携帯に連絡を試みますが、誰も出ません。まず思いつくことは、妻は子どもを連れて実家に戻ったのではないかということです。夫は、妻子の安否もわからずに心配ですから、そこが他県であっても妻の実家に、仕事で疲れ切った体を奮い立たせていくわけです。そこで待っていることは、大勢の警察官に取り囲まれることです。実際に何人か数えた人はいませんが、あと少しで子どもに会えると思っていた矢先に、気が付くと何台かのパトカーに進路をふさがれて、わらわらと警察官が寄ってくるそうです。ものすごい人数に感じられるようです。

そのまま警察署に連れていかれることも多いようです。そこで、「二度と暴力を振るいません」という誓約書を書かさられた人、書かされそうになり「今後も」という文字を追加して書いた人様々です。これまで、いざとなったら自分の味方だと思っていて疑ったこともなかった警察が、自分を犯罪者扱いしていることを目の当たりにして、精神的にひどく動揺しない人はいないようです。私だって、こういう状況であれば暴力をふるってもいないのに暴力を振るわないという誓約書を書いてしまうと思います。

子どもの安否を確かめに必死になって他県まで行ったある人は警察官に呼び止められ、今度この辺を歩いたらストーカー警告を出すと脅かされました。ストーカー警告を警察署長から出されると言われて、平然としている人間はいません。それでも会いに行けば前科が付くわけです。公務員などは失職する事態まで考えなければなりません。

この実際のケースも暴力などはなく、公務員の夫が妻の浪費に対して注意しただけで妻が子どもを連れて家を出て行った事案でした。妻は、裁判所でも一貫して夫の自分に対しての暴力や虐待は主張しませんでした。浪費が裁判所にばれてしまうからでしょう。夫の子どもに対する虐待を離婚理由にしました。しかし、面会のたびに子どもは大はしゃぎしていますから、それも事実ではなかったことを子どもが教えてくれました。慰謝料の話は一切出ませんでした。このような事案でも警察官は、父親が子どもを心配して会いに来ることに対して、ストーカーだ、違法行為だと宣言して、子どもに会わせない行動をとったのです。どうして、子どもや夫の心配を犠牲にしてまで、この事例では自分勝手な妻の連れ去りを税金を使って保護しなくてはならないのでしょう。

この夫が公務員だったということもあり、また警察から犯罪者扱いを受けたということで、かなりのダメージを受けてしまい、精神的に妻子に会いに行こうとする気力がわかない状態になりました。うつになりかけていました。精神科治療で何とか持ちこたえることができました。仕事中の不注意も多くなり、この人もかなり大きなけがもしました。昨日まで楽しく一緒に暮らしていた子どもを連れ去られるということは、このような当たり前のダメージを受けることなのです。

元妻に、儀礼的な手紙を出しただけでストーカー警告を受けた事例もあります。転居届にあった「お近くにお越しの際は、ぜひお立ち寄りください。」という文面が「義務なき行為を強制した」というのです。

子どもが二人いて、別居に際して父親と母親で、合意によって兄弟を別々に育てていたにもかかわらず、警察が父親を説得して父親が育てていた子どもを強引に手放させたという事例もありました。このケースも妻は一貫して夫の暴力を主張しませんでした。それでも警察は、何が何でもDV保護事案にしたかったようです。

荷物を取りに妻が家に戻ったときに警察官2名が同行して家に入り、話もさせない事例もありました。自宅に警察官が入り込むということは、とてもショッキングなことのようです。

まだまだ事例はたくさんあります。妻は、役所などに相談に行くと、すぐに警察を呼ぶように指導されているようです。現行犯逮捕されるような事例はこれまでは一件も聞いていません。
日本においては、連れ去りを成立させている多くの事例で、警察官が連れ去りを誘導し、子どもとの引き離しを完成させている事例が実に多いのです。裁判所の関与もないままに、警察官が妻の望むままに、強制的に父親と子どもを引き離しているということなのです。

警察は、一方の保護法益を守るということにはとても優れた機関であり、なくてはならない機関です。しかし、一方を保護すると他方の利益が害されるという民事紛争に介入することは鍛えられていません。被害者加害者の用語は、警察が本来の被害者保護の意識で行動しやすくしていると思います。だから警察が、一方の言い分だけで他方の利益を害し、精神的ダメージを与えるということは、制度設計に問題が明らかにあるということです。

<連れ去り後の公務員による暴言マニュアル>

その前提として、役所などの配偶者暴力相談においても、何の裏付けもなく相談を受けて、相談票に被害者として相談者の氏名、加害者としてその夫の氏名が記載されたカードを作成し、それが役所を超えて流通するわけです。

あるケースでは、連れ去られた子どもが父親の元に帰ってきました。連れ去り時にその子どもの保険証を妻が持って行ってしまったので、病院を受診できずに困ってしまい区役所に相談に行きました。区役所には、この夫はDV「加害者」であるという内部連絡があったようです。役人は、健康保険証に妻の住所が記載されているために夫が妻を探そうとして保険証を取得しようと思ったのでしょう、役人はマニュアル通り「あなたと話すことは一切ない。」と決然と夫に対して言い放ちました。これを読んでいる方々は馬鹿なんじゃないかと思うでしょう。しかし、役所の職員ですからそれなりの学歴もあるわけです。そういうマニュアルに従ったのです。子どもの不利益は、単なる夫の口実だ、DVの手段だとしか思えないように洗脳されていたということです。この話を聞いた私は、本庁に怒鳴り込んで、子どもの健康はどうでもよいのかと猛抗議をしました。そもそもこのケースは、子どもが妻の居住先から帰ってきて、妻の居場所が妻の実家だということは先刻承知なわけです。住民票上の住所が知られても何も弊害はありません。そうしたところ、役所が妻を説得してくれて、保険証を夫に預けて事なきを得たということがありました。弁護士がいなかったら、子どもは自費でしか病院にかかれず、結局早期治療ができない深刻な事態も生まれたことでしょう。

このエピソードは、日本のDV保護政策を象徴していると思います。つまり、あるかないかわからない妻の被害に「寄り添い」、妻の利益を確保することだけを優先しているわけです。単に相談をした被害者の夫と言うだけで、夫は妻を殺しかねない凶暴な男だと思い込まされているのです。被害者である妻を守ろうという正義感と、凶暴な男に体を張って立ち向かわなくてはならないという恐怖で、役人も葛藤が高まり、子どもの福祉をリアルに考えるという冷静な思考が停止し合理的な行動ができなくなって、マニュアル通りの行動をなぞるしかできなくなっている。これが実態なのだと思います。

これが横行するのは、夫の言い分を行政も警察もどこも聞かず、妻の言い分だけで被害者と加害者に色分けをしているところに原因があることが明白です。また、日本の夫の大多数はどこかの国のようにすぐに妻を殺すという凶暴な夫だけだという馬鹿な洗脳に染まりきっているということです。この結果、事実に基づいた適切な行動をすることができず、常に最悪の事態に備えた行動を行って、あとから行動を怠った批判をかわすということが主目的だということです。

これまで多くの事実が積み重ねられてきましたが、妻が夫の暴力があるということを言わなくても、警察は身体的暴力が無ければできない「保護」やそれ以上のことをやってしまっているということも重大な問題です。組織があればノルマがあるということでしょうか。

行政や警察という対立する当事者の間に立って双方に目を向けて物事を判断することが職務ではない人にそのような判断をさせる(判断をさせない)ことが構造的に問題があるということなのです。

<「正義感」を持つ裁判官は任務を果たせないという矛盾>

しかし、そのように対立する当事者の間に入って物事を冷静に判断する職務であるはずの裁判所においても、妻の不安定な精神状態を肯定して、一方的な判断をすることがないとは言えないように感じているところです。

これが大きな闇のもう一つの闇というか、もう一段深い闇なのかもしれません。
裁判所の場合もやはり正義感が冷静さを奪っているということと、それまで夫の保護の下で暮らしていた女性が孤立に直面しているという弱者保護の観点から、冷静な見方ができなくなるのだと思います。

つまりここでも「加害者」という用語が予断を与えているわけです。どこまで行っても加害者と被害者です。

あるケースでは、夫の月収が6万円くらいだと認定した裁判所が、婚姻費用として夫に月額4万円の支払いを命じた例はその典型だと思います。月2万円でどうやって生活しろと言うのでしょうか。できないことを命じても誰も得をすることはありません。裁判官の正義感も、実際にはこういうものです。とてもリアルな人間の生活には興味関心があるようには思えません。私には無茶苦茶にしか思われません。これが裁判所の人権感覚なのでしょう。

肝心なことは、こうやって国家、公共団体丸抱えで子どもの連れ去りを行っているのが日本という国だということです。これらの事案の圧倒的多数は暴力のない事案です。

それどころか、多くの事案では、妻の不安やイライラが、主として夫には関係のないところで起きているということを現場からはどうしても伝えたいことです。

そしてその一番の被害者は、自分の血を分けた親の一人が、何も裏付けなく暴力人間だとして色分けされて、自分に会いに来なくなったと思い、何とかその寂しい気持ちを合理化しないと生きていけない子どもたちなのです。独りの親を寄ってたかって攻撃するという構図は、それはやがて子どもにとっては、自分が攻撃されたという記憶にすり替わる危険をもっと考えなければならないと思います。

嫌な話、聞いていて気が重い話かもしれません。話している方は怒りに任せて書いているので、そうでもないのです。それに、タイミングが悪ければどこのご家庭でも家族崩壊は起きる可能性があると思っています。私は常に自分のこととして考えています。もっともっと実態についての情報を提供していかなければならないと思っています。



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【男女共同参画白書批判】 結局安い労働力として女性労働を労働市場に投入する工夫が主目的であること 就業制限は賃金が低いことと男女賃金格差があることが主たる原因であり、扶養手当や配偶者控除が原因だというのは深刻な茶番であること [弁護士会 民主主義 人権]


2日前(令和4年6月14日)に政府は、令和4年版の男女共同参画白書を発表しました。情勢分析と政策の二部構成になっていて、かなり膨大なものです。政策も令和3年度の政策の振り返りと令和4年度の政策とに分かれています。その令和4年度の政策だけでも251頁から300頁とちょうど50頁もあります。この数字大切です。
各ページは2段組みで、左右40行ずつですから1頁約80行あるわけです。これが50頁です。

さて、男女賃金格差解消に関する政策はどのくらいの分量があると思われますか。

実は実質2行しか記載はありません。「男女間の賃金格差の解消」という項目があることはあるのですが(259頁)、その全記載が8行で、うち6行は「えるぼし」という政策の推進関連です。関係が無いとは言いませんが、せいぜい関係があるという程度の話です。後の2行だけが男女賃金格差解消プロパーの問題です。全文引用しましょう。「女性が多い職種における賃金の実態等につい て、調査分析を行う。」これだけです。実際にご覧いただくとよくわかります。これから賃金実態について調査を始めるのだというのです。しかもなぜか女性が多い職種に限定しての調査ということらしいです。この成果がどうなるのか来年の白書が楽しみです。

ちなみに令和3年度の政策実績は、全く令和4年の政策の中の6行と同じ文章が並べられていて、男女賃金格差プロパーの問題としては何ら取り組まれていないことが195頁に記載されている通りです。特筆するべきは、内閣府男女参画局は、令和3年度は男女賃金格差については何も取り組みをしていないということです。

これに対して「働く意欲を阻害しない政策」というものが掲げられ、「就労調整」をするのは家族手当や扶養控除があるからだということで、これらの制度の見直しを40行弱で熱く語っています。たった2行だけの記載の男女賃金格差解消と比較して熱の入れようの違いがよくわかるところです。

ここで「就労調整」というのは、夫婦共働き場合、妻が就労を一定金額以上の収入とならないに働くことを言います。所得税の対象とならないようにとか、扶養手当の対象から外れないようにということです。年収103万円の壁とか130万円の壁とか言われます。

この就労調整をするのはどうしてでしょうか。

妻が、パートに出てもラインをはみ出して働いてしまって、夫の扶養控除が出なくなってしまうと、かえって世帯としての収入が減ってしまうからです。つまり、3万円余計に稼いでしまったばかりに年間50万円損をするならば、ラインの中で働こうとするということです。

どうしてこういうことが起こるかというと、女性の賃金が男性に比べて著しく低いということに原因があるからです。扶養手当を受けられなくても、配偶者控除を受けられなくても、妻が普通に働けば家計として損をしないほどの収入があるならば働いた方が得だということになります。
ところが、男女の賃金格差のために、女性が男性並みの収入を得るためには、長時間労働をしなければならなくて、それでも得をしないというならば、その分家庭のことをするとか休むとかした方がよっぽど人生が豊かになるということなのです。

一口に賃金格差と言っても、職場内の男女同一労働同一賃金の問題と、女性の労働の価値が低く設定されているために男性並みの収入を得られる職種が少ないという二つの方向から考えていかなければならない問題です。

政府は「働きがい」という言葉を使って、扶養手当や配偶者控除を廃止しようとしているわけですが(読み方が違うならもっとわかりやすく記載してほしい)、それは、妻が働かなければ人並みの生活を送れないと感じている人たちにとっては、単なる家計収入の減少であり、もっと「働かざるを得ない状態になる」という心理的圧迫に過ぎないのではないでしょうか。これが平等とか公平の名において進められようとしているとしか感じられないのです。

一方で男女共同参画白書では、女性の労働は多様化しているということを言っているのですが、就業調整の場面では、夫の扶養控除、家族手当の範囲で働くという就労形態は、なぜか目の敵のように否定しようとしているのも不思議なことです。専業主婦、専業主夫という生き方を否定しているように感じられるのです。企業で働いてこそ女性が輝くのでしょうか。家族、家庭を大切に作り上げていくということは、賃収入よりも価値が低いことなのでしょうか。そんなことに国民的コンセンサスがあると言えるのでしょうか。

男女共同参画白書のすべてが悪いということを言うつもりはもちろんありません。セクハラの問題なども取り上げられていてなるほど女性が働きやすい職場や社会を作るための工夫も多く見られますし、統計的資料はかなり的を射た資料的価値の高い資料が掲げられていると思うのです。つまり女性が働きに出やすい社会、会社にしようとしていることは間違いないのです。

しかし、それだけなのです。

女性が自立した生活を行うという目的なら、なおさら賃金を高くする工夫が必要であり、シングルマザーこそ、手厚い扶養手当が支払われるべきであり、税控除が充実させなければならないはずなのに、そこが見えてこない。そして所得の再分配という言葉も使われるのですが、これもサラリーマン間の所得の再分配にとどまった意味でつかわれているにすぎません。経済学用語ではなく、単なるいいわけです。

結局、「女性をもっと企業で働かせよう」という目的の政策としか、私には感じられません。つまり、安い労働力のまま労働市場に投入しようという労働力流動化政策と、税控除のカットという増税と扶養手当カットという実質賃下げを同時に行う政策しか残らないのではないかという不安ばかりが増大する内容になっているのです。

一方で少子化対策なども言及しているようです。白書に資料として示された統計をみると、日本人は、他の国の人に比べると、結婚しないと子どもを作らないという傾向にあるとのことです。ところが、男女参画白書は、女性を安い賃金のままでより多く働かせようという政策で、女性が働かなくてはならない状態を作り出そうとしています。今言いました増税や実質的賃下げもそうですが、離婚してシングルマザーとなり、自分が働かなくてはならない状況を作るのもこういう目的のもとで系統的に行われているとすればよく理解できることです。こういう政策が進めば、結婚なんてしたくなくなる。結婚して家庭を持つことが現実的ではなくなる。ますます結婚しなくなるという流れになりやすいのではないでしょうか。結局少子化が加速していく亡国への道に向かっているように思えてくるのです。

白書は、また、家族構成というか、人間が誰とどのように生きるかということが、昭和の時代から変わったということをかなりの分量を取って力説しています。そしてこの部分をマスコミは盛んに報道しています。

しかし、結婚をしなくなったというのは、政治にも責任があるのではないでしょうか。結婚して共同生活を営み、子どもを産んで教育する自信のもてない人たちが増えただけなのではないでしょうか。「もはや昭和ではない。」という表現は、もはや昭和の家族形態を作ろうとはしないという国の宣言にしか聞こえません。私には日本崩壊に向かっているように感じられてなりません。

すべては、配偶者控除や扶養控除、扶養手当の廃止に向かった伏線であると考えるととても理解がしやすいはずです。

フェミニストの皆さんや、ジェンダー政策を掲げる団体の皆さんのこの男女共同参画白書への評価がとても気になるところです。
本当に女性の自立を目指す人たちなのか、安い労働力を労働市場に投入することに反対しない人たちなのか、とても良い指標に白書はなっていると思います。沈黙をする人たちは、当然後者の人たちです。男女の賃金格差解消という女性の自立を阻む最大の問題に関心が無いということを示していると考えるべきだと思います。

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在日ロシア人をはじめとする旧ソ連圏の人たちの人権を守ろう。人権侵害は、正義感から始まることの典型例。人権擁護のための法律家の役割。少数者の人権保護という意味。 [弁護士会 民主主義 人権]

新聞報道によれば、世界中の国、特にゲルマン民族が多数派を占める国で、ロシア国民に対する差別や迫害が起きているそうです。ロシア国籍の人だけではなく、ロシア語を話す人たちや、東スラブ系の旧ソ連圏の人たちや店舗などが誹謗中傷を受けるなど攻撃をされているとのことです。

この今回の出来事は、人権の意味や人権侵害、弊害を伴う正義感情という人間の社会心理をわかりやすく説明できる出来事だと気が付きました。合わせて、人権に対する法律家の使命についても考えていることを書きましたので、是非お読みください。

「人権」の意味はわかりにくいかもしれません。しかし、その歴史を考えるとイメージしやすくなると思います。だいぶ昔の絶対王政の封建時代には、極端に言えば、国の財産や、国民の命などについて、すべてを国王が自由にできるという考えがあったとします。これに対して、どんなに国王の命令だとしても、人間としてそれを侵害されたら本人も人間として生まれてきた意味がないと感じるような行為や、周囲もそれはあまりにも酷いと感じる行為について、それを阻止しようとしたわけです。「それは人権を侵害する行為だから、いくら王様でもやってはいけないことだ。」という文脈で人権という言葉が使われるようになりました。

現代社会では王様はいません。民主主義の世の中になりました。最終的には多数決で国の行動の意思決定をするシステムができました。しかし、人間の社会は複雑ですから、ある行動が多数の国民を幸せにするとしても、同じ行動によって不利益を受ける国民が出てくることは常にあることです。多数派は少数者が不利益になることを決定することができることになります。

現代の民主主義社会では、多数派の意思決定によって、少数者が人間として生まれてきた意味が無いと感じることや、周囲がそれはあまりにも酷いと感じるようなことが起きる可能性があるわけです。これを防止するために、やはり「人権」という言葉が大きな意味を持っているわけです。

さて、ロシア人が迫害されているとのことです。一人一人のロシア人は、ロシアのウクライナ侵攻にかかわっていません。むしろ、ご自分たちが今いる国の人たちと協調して生活したいと考えているはずです。迫害する人たちは、自分が攻撃しているロシア人にウクライナ侵攻の責任があるとは思っていないでしょう。それでも迫害するわけです。なぜでしょう。

私は、迫害する人間の正義感だと言ってよいのだと思います。独立国家であるウクライナへの侵攻は不正義だということ、報道によればウクライナの罪もない国民が傷つけられて殺されている、財産を失くし、家族とも会えないで苦しい生活を強いられている。傷ついて虐げられている人を見れば、条件反射的に何とかしなくてはならないと考えるのが人間の自然な気持ちです。

・被害のひどさと、
・なんともできないもどかしさ、あせりと、
・自分は安全な場所にいるという環境的立場、
・自分の周囲のほかの人間も自分と同じ考えだという確信
という条件がそろえば、それは「正義感という怒り」が生まれやすくなります。

正義感という怒りは、思考力を鈍らせます。
・善と悪の二者択一的思考になじむようになります。
・悲観的考える傾向が出てきます。
・他者の気持ちを理解するという複雑な思考ができなくなります。
・自分の行為によってどのような効果が生まれるかという将来のことなど考えられなくなります。
・二者択一的な思考は、自分の行動を止める人間を悪だ、敵に味方をしているという考え方になってしまいます。
・怒りをぶつける相手が、死ぬか、反撃不能の状態になるまで怒りは持続します。
・相手が弱ってくると、かえって怒りが強くなっていくという特徴もあります。

その結果、自分の正義感を持て余して、正義感情を表現しようとしてたまらなくなり、ロシアに関連するものに対して攻撃をしようとするわけです。相手がウクライナ侵攻に責任があるかどうかなどという複雑なことは考えません。ロシア、あるいは、ロシアっぽいということだけで、「悪」と決めつける単純思考になるわけです。自分が攻撃している相手にダメージが加わっても、ウクライナの国民に対する共感の1万分の1も共感しようとしなくなるわけです。そして、周囲もその人に同調するならば、正義感の暴走は止められなくなってしまいます。

もし、ロシアの侵攻が、ウクライナを犠牲にしても、例えば経済的に、例えば軍事的に自分に利益が生まれるということでロシアにやらせた人がいれば、このような心理はとても都合よいものになるはずです。

他方で怒りは永続しないという特徴もあります。
怒りが覚めたときに、自分が行ったロシア人に対する人権侵害の意味を知ることになるでしょう。ある人はとても恥じ入り悔いるでしょうし、ある人は自己の行為を正当化するために、「ロシア人」は悪だという考えにいつまでも固執せざるを得なくなるでしょう。

ただ、自分がいくら正当化しようとしても、自分の周囲の人間たちは迫害をした人の迫害行為は覚えています。もしかしたら、自分の子どもからの軽蔑が近い将来に待っているかもしれません。

また、迫害を受けたロシア人の知り合い、友人を中心に、「これは酷いことだ。」というやりきれない思いが精神的ダメージとなりいつまでも残るかもしれません。

いずれにしても迫害があった周囲は荒むことでしょう。他者の人権が侵害されることは、自分たちの人間性も荒廃していくことなのです。他者の人権を守るということは、自分や自分の家族、自分の友人たちの人間性を守るということでもあると思います。人間とはそういう性質を持っていると思います。

ロシア人でも旧ソ連圏の人たちでも、人権として、およそ人間である以上守られなければならない一線があるということです。人権侵害防止は、文明国、近代国家としての必須のことです。

人権擁護がなかなか難しいのは、日本では少数者が極端に少数で、少数者自身に不利益の原因を求められやすいということが一つの原因だと思います。その心理の形成過程の中には、自分を安心させたいという気持ちや権威者に迎合したいという気持ちが間違いなくあると思います。そして、正義感情を共有しやすいため、怒りが表現されやすくなり、ひとたび怒りが共有されてしまうと、少数者に対する迫害が止められなくなるという危険が、怒りの性質から起きてしまいます。

特に日本においては、自然な感情からくる少数者への人権侵害が自覚されにくいことに注意するべきだと思います。誰が、人権侵害が行われていると気が付くべき人間かというと、それは人権を学んだ法律家を筆頭に挙げなければなりません。法律家までが、正義感情に任せて人権侵害に加担していたのでは、日本は人権侵害国家という野蛮な国になるでしょう。特に弁護士は、犯罪を行った人を弁護する唯一の資格者です。多数から非難される少数者を守ることが本来的な仕事です。弁護とはまさに人権擁護活動なのです。

現在の日本の人権課題として、正義感情からくる在日ロシア人に対する迫害、人権侵害を防止を大きく取り上げなければならないことは間違いないと思います。
日本の法律家や法律家団体は、ロシアに対する制裁決議などをあげている場合ではなく、迫害や差別を想定して、在日ロシア人や、旧ソ連の人たちの人権を擁護するために活動を開始することが使命だということが、私の考えなのです。

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【正義よりも命。特に子どもたちの命】「憲法9条を守る」ことよりも大事なこと 戦わずして勝つことが何よりも追及しなければならないことだということ [弁護士会 民主主義 人権]

 

憲法9条があろうとなかろうと、改正されようとされまいと
軍事力を持とうと持つまいと共通して考えなければならないことが
あると思います。

それは、戦わないで勝つことが最上であるということと
戦う以上、相手を知り己を知らなければ
自国が滅びる危険があるということです。
これは東アジア共通の、戦うにあたっての知恵だと思っています。

たとえ憲法9条の文言を温存したとしても
他国の争いをいいことに
一方当事国を挑発して、恨みを買い
戦争を仕掛けられるとか、軍事行動を起こされてしまっては
憲法9条が絵に描いた餅になってしまいます。

たとえそこそこの軍事力を持ったとしても
相手は一国とは限りません。
相手の軍事力がどの程度のものかということを知らず、
また、どの国がどのような利益に基づいて参戦してくるか
そういうシミュレーションもできないで
やみくもに軍備にお金を使ったとしても
ただただ危険な戦いになるでしょう。

また、国が勝つか負けるかということばかりを言う人がいますが、
「国」が勝っても、何十万、何百万人の人が死ぬわけです。
死んだ人にとっては、わけのわからない「国」が生き残っても
あまり意味のあることではありませんね。

大人が自分で、その愚かな戦いを選んで死ぬ分には仕方がないかもしれません。
しかし、そこで犠牲になるのは子どもたちや自分の意見を表明できない人たちも同じなのです。

私は、自分以上に自分の家族や友人たちが死ぬことが怖いです。

私の友人の自衛官たちが命を落とすことも恐ろしいです。

自分家族をの家族を愛し、隣人たちを愛するから
自分の町を愛するし、自分の国を愛するわけです。
私は愛国者です。

現代政治は科学的に行われなければなりません。
科学的というのは、今何を議論するべきかということを
一番に大切にすることです。

今他国で戦争が行われているときに議論することは
どうやって戦争を終わりにするかということのはずです。
それが唯一の正義の議論です。

また、日本が攻め込まれたらどうするかということではなく、
「日本が攻め込まれないようにするためにどうするか」
ということのはずです。

つまり「どう戦うか」ではなく
「どう戦わないか」ということを議論するべきです。
いかにして、子どもたちをはじめとする国民の命を守るか
犠牲者を作らないかということです。

犠牲者を生まないために、戦わないで勝つためにどうするか
そのために憲法9条を改正して軍事力を持つということも選択肢でしょうし、
現状を踏まえると憲法9条を維持して軍事力を持たないということも選択肢でしょう。
今日はどちらかを選ぶということを議論するつもりはありません。

それより大切なことは、
「戦わずして勝つ」ということを追及することこそが、
国の最大の責務であるということを確認することと

口では憲法9条を維持すると言いながら
戦わないで勝つことを追及せずに
攻め込まれたらどう戦うかということの議論は
侵略国の侵略を、指をくわえて見守ったあとに
敗戦処理をどのようにするかという議論であり、
国民の命をかえりみない欺瞞であるということを
考えていただきたいということでした。



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紛争を解決するため、被害予防のためにやってはいけないこと 調停、ADR 、そして国際紛争 [弁護士会 民主主義 人権]


わが国で被害予防の対策が成功した例の代表は、交通事故防止対策です。単に交通事故に重罰を科すだけで終わりにせず、どうして事故が起きるのか、どうすれば事故を防ぐことができるのかということを科学的に分析して、一つ一つ対応をしていました。

例えば、夜間の交通事故を分析して、歩道上の明かりを増設したり、横断歩道を増設したり、信号機の位置、角度を変更したりと、こまめに対応が行われます。例えば飲酒運転と事故が関連性があるとすると、飲酒運転禁止のキャンペーンを展開して私たちの気持ちを変化させるなどの対応を行い、事故を減らそうと絶えまぬ努力をしてきたわけです。こういう警察関係者や科学者、付近住民の科学的な努力、理性の力で交通事故、特に死亡事故を減らしてきたわけです。

加害者憎しで刑罰だけを強めていったら、こうは劇的に死亡事故件数は減らなかったでしょう。被害者や家族など関係者が、運転手の落ち度を憎むということは当然ですが、誰かが理性によって次の犠牲者を出さないという活動をしていたわけです。

裁判所で行われる調停や裁判外の話し合い機関であるADRによって紛争を解決する場合の、調停委員やあっせん委員にも、同じようなことを求められています。

調停委員やあっせん委員の、話し合いが始まる前にもっている情報は、通常とても貧弱なものです。私もそういう仕事もしていますが、話し合いが始まる最初は正直何が起きているのかよくわかりません。でもそれでよいのだと今は考えています。わからない状態で、双方の当事者の方から、いろいろなことをお伺いするわけです。そもそもその取引上の常識は何か、通常はどのように行われているのか、どういう想いで調停を申し立てられたのか、教えていただくという感じで始めていきます。法律効果を導く事情(要件事実と言います)だけでなく、調停申し立てに至った心持もうかがうことで、判決ではない解決の方法が見えてくるのです。

これに対して、事情がよくわからないくせに、情報を持っていないくせに、最初の話し合いの場で、既に一方の立場になっている調停委員にも出会ったことがあります。この時は当事者の代理人として調停に臨んだ時でした。そんなことをしたら、当然他方は激高して話し合いになりません。私は代理人の立場から調書代わりの準備書面や上申書、進行に関する意見書を同日か翌日に裁判所に提出して問題提起をするとともに証拠を残すことにしています。

このケースは父親が面会交流を求めた事件ですが、その調停委員は浅はかな本による知識で、面会の要求はDVの一態様だという決めつけをもって調停にあたったようです。女性保護の観点から父親に対して攻撃的な態度をしたようでした。その調停委員の態度は正義感に基づくものであるわけです。しかし、公平であるべき調停委員が一方的な攻撃をするのですから、許されることではありません。ちなみにこの事件は裁判官が毎回調停に出席し、無事定期的な面会交流が確立しました。

思い込みや決めつけで作られた正義感は、警戒をするべきなのかもしれません。

思い込みや決めつけをしないためには、まず、情報を丹念に収集することが必要です。一方の主張だけで感情を作り、それを当事者にぶつけてしまうことは、絶対にやってはいけないことです。

不利に扱われた当事者は態度を硬化します。裁判所でも自分が尊重されていないと感じてしまいます。そうすると自分を守らなければならないという意識を強くします。聞く耳を持たなくなることもあります。自分の主張に固執してしまい、一切譲らないという態度をとるようになってしまいます。話し合いの解決は困難になります。逆に、十分に事情を尋ねられて、いくつかの部分に共感を示されれば、例えば解決金額が多少不利になっても、解決を志向して行動することが期待されます。

公平が大切です。この場合、よくある誤解は、調停委員やあっせん委員は、どちらかの当事者に感情移入しないで、どちらとも距離を置いて対応しなければならない、それが公平だという誤解です。しかしこれをしていたのでは、話し合いでの解決は難しいと思います。

心理学の手法にもあるのですが、どちらにもえこひいきをする方が公平な扱いになりやすいということが正解です。それぞれ紛争があり、当事者同士で解決つかない場合は、それぞれに言い分があることが通常です。どちらにも「味方」になるのではなく、その言い分の理解できる部分に「共感を示す」ことがコツだと思います。「こういう状況の中では、私もそういう行動をとるでしょう。」、「こういうことがあれば誰でもそういう気持ちになると思います。」ということを、共感できる部分を探し出してでも共感を示すということを心掛けています。

たったこれだけのことで、信頼関係が生まれていきます。そして、双方にとって、最も不利益にならない方法を考えて、メリットとデメリットとともに提案することができます。当事者は、調停委員に騙されているわけではないという疑心暗鬼にならないで考えを始めることができますので、メリットとデメリットを素直に検討することができます。決めるのは当事者ですが、決めるための柔軟な思考を可能にしているということも言えるかもしれません。

暴行などの不法行為の調停もあります。責任は争わないとしても、賠償額に争いがある場合に話し合いになります。被害者は大変お気の毒な場合が多く、被害の様子に思いをはせることは致し方ありません。しかし、だからと言って、無制限に被害金額を加害者にねん出させようとしてしまうことは絶対にしてはいけないことです。適正に、早期に、円満に解決することを目標としなくてはなりません。場合によっては、自分の正義感をセーブする必要があります。現在の裁判例に照らして無理な要求の場合は、要求をする側に対して、それでは解決は難しいという見通しをはっきり示すことが必要になります。そうでなく、ただ被害者に同情的になり、被害者の利益に従って加害者を説得してしまうと、まず調停ではなくなるし、加害者は調停という手続きをやめて訴訟での解決を目指すようになります。それも当事者が決めることですが、とりあえず調停が申し立てられ、相手方も調停に応じているということを尊重しなくてはなりません。裁判になって解決が長引くことは申立人の人生にとって深刻な影響を与えることもありうることです。そこまで考えて調停をしなくてはなりません。安楽な正義感は人を傷つけ、被害者の被害を拡大しかねないのです。

調停委員はあくまでも第三者です。調停委員の感情を満足させることを優先にしては調停ではなくなります。当事者の方々の意思決定を第三者の立場から補助するというくらいの気持ちでいなければなりません。もちろん、多くの調停委員が心得ていることですが、正義感が強く過ぎてしまうと、決めつけや思い込みも発生してしまいます。

紛争の局面では、解決することと感情を表現することが矛盾することが出てきます。憎しみを抑えて解決ができず、解決は遠ざかっても憎しみの感情を表に出したいという場面はほとんどすべての案件で出てくることかもしれません。当事者の方が、選択によるデメリットを覚悟してどちらを選ぶかということを冷静に決めることは自由です。しかし、当事者でもない第三者が、正義感を優先してしまって解決を後退させることはしてはならないことです。素人の代理人、支援者がよくやる誤りだと言ってい良いでしょう。

感情を満足させるために当事者に不利益が起きることを第三者が選択するということは話し合いによる紛争解決の場面だけでなく、様々な場面で見られる現象です。例えば虐待の防止を言うとき、交通事故対策のようにどうして虐待が起きるのか、虐待を防止するためにはどうしたらよいのかということを冷静に考えることをしないで、虐待親を感情的に攻撃し、厳罰化や警察の導入拡大ばかりを進めていたら、次に虐待される子どもを守ることができなくなってしまいます。虐待防止の道筋を示せない感情的な対策は、むしろ有害である可能性もあるわけです。子どもが虐待によって命を落としてから、人生を台無しにされてから厳罰が課されても、当事者にとってはあまり意味がありません。第三者の正義感を満足させることを優先にしてしまうことは、大変恐ろしいことです。

そのような視点で国際紛争を見た場合、日本は、ロシアに対する制裁を敢行して紛争当事国の一つになってしまいました。この制裁決議に、れいわ新選組以外の革新政党もすべて賛成しました。特に組織の中で批判もないようです。ロシアに対する制裁は、正義感の表れとして行われるわけです。しかし、その制裁によってウクライナの一般国民、特に子どもたちはどのような恩恵を受けるのでしょうか。私にはその道筋が見えません。経済制裁によっては、紛争は終結しないし、一方当事者のリーダーたちは戦争を終結させる目的をもって経済政策をしてはいないようです。制裁はあくまでも制裁でしかありません。

ウクライナの子どもたちの一日も早い安心感の獲得と経済制裁はつながってはいないように思われます。このような紛争の一方に加担した日本が、停戦の交渉をつかさどることはできないでしょう。少なくともその資格はないわけです。正義感を抑制して、子どもたちに安全と安心を提供する方法を真剣に考えるべきだと私は思います。正義感情の放出はこれと矛盾することだと思えてなりません。また、日本の国会の状況は、第2次世界大戦前夜のようにすら感じられるのは、私だけでしょうか。

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【憲法9条はもはや空文?】ウクライナ問題でロシア非難決議に令和の議員だけが反対したことを受けて。 [弁護士会 民主主義 人権]

ウクライナ侵攻に対するロシア非難決議が
衆議院でれいわ新選組の3議員だけが反対して可決されました。

反対の理由は、正直よくわかりませんが、考えるきっかけになりました。

憲法9条との関係です。

憲法を改正しようとする勢力が、今回のような非難決議や経済制裁を行うということは
立場としては一貫していて矛盾がないのだろうと思います。

問題は、護憲だとか憲法9条を守れとか言っている勢力が
今回のような一方的な非難をすることに葛藤なかったのかなということです。

憲法9条を遵守する立場ならば
国際紛争を、対話による和平実現という愚直な努力で解決するという
方法論を選択することが自然の流れだと思うのです。
対話を呼びかける名誉ある地位に日本は立つべきだと主張するならば
一方的に非難をしたり、経済制裁を先行することは
対話の呼びかけの障害になるというデメリットがあるからです。

また、そういう9条ができた背景として
国が追い詰められることは戦争を起こす要因、戦争を拡大する要因になる
ということだとすれば
一方的非難や経済制裁は逆効果になると考えるのが
やはり自然の流れのような気がするのです。

論理必然的にそうなるかと問われると
余り自信はありませんが。
こういう問題の所在があるけれど賛成するというならば
その理由を護憲を自称する勢力は説明するべきだと思うのです。

護憲勢力が今回の一連の決議に賛成した理由として考えられるのは
世論が戦争反対、ロシアの蛮行を糾弾するべきだとなっていると判断し、
その前提として
西側から流されるニュースはすべて正しく、疑う要素がないと判断したからだと思います。
ここで決議に反対してしまえば
選挙戦にも影響をしてしまい組織にとって不利益が生じるからということ
なのだと思います。

憲法9条をがちがちに考えた場合
この決議が示す日本の状況は、もはや憲法9条の実態がなくなり
第二次世界大戦前夜の日本を見ているような気さえしてきます。

つまり、報道によって世論が誘導され
蛮行を絶対に許さないという強い感情が絶対正義として盛り上がり
我こそは、正義のガーディアンだと競って名乗りを上げている
そんな感じがするのです。

今回のウクライナ侵攻についても
どうやって、侵攻をやめさせ、これ以上犠牲者を出さないか
その方法論が論点とならず
勇ましい勧善懲悪の論調だけが新聞紙上においてさえ話題になっています。

ロシアがどうするかというより、日本がどうロシアを止めるか
という方法論がスルーされている気がしてなりません。

ただ、強硬な態度を示すことがだけがアプリオリに選択されているのではないでしょうか。

前回の記事で、満場一致パラドクスということを述べました。
もし、今回れいわが反対票を投ぜず、
満場一致で非難決議が可決されたら
今日の記事の発想には私自身ならなかったと思います。

れいわの反対の理由がいまいちよくわからないのですが、
反対の理由に共感が持てなくても
今回の国会による非難が満場一致の決議とはならなかったということから、
また別の角度から考えることができました。
価値のある反対投票だったと思います。

ふと、もし大戦前夜に日本に対して、どこかの国が
このまま戦争をしても勝ち目はないし、ますます孤立するよ
間に入ってあげるから和平をした方がいいよ
と言ってくれたら、どうなっていたのだろう
という幻想が一瞬頭をよぎりました。







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