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在日ロシア人をはじめとする旧ソ連圏の人たちの人権を守ろう。人権侵害は、正義感から始まることの典型例。人権擁護のための法律家の役割。少数者の人権保護という意味。 [弁護士会 民主主義 人権]

新聞報道によれば、世界中の国、特にゲルマン民族が多数派を占める国で、ロシア国民に対する差別や迫害が起きているそうです。ロシア国籍の人だけではなく、ロシア語を話す人たちや、東スラブ系の旧ソ連圏の人たちや店舗などが誹謗中傷を受けるなど攻撃をされているとのことです。

この今回の出来事は、人権の意味や人権侵害、弊害を伴う正義感情という人間の社会心理をわかりやすく説明できる出来事だと気が付きました。合わせて、人権に対する法律家の使命についても考えていることを書きましたので、是非お読みください。

「人権」の意味はわかりにくいかもしれません。しかし、その歴史を考えるとイメージしやすくなると思います。だいぶ昔の絶対王政の封建時代には、極端に言えば、国の財産や、国民の命などについて、すべてを国王が自由にできるという考えがあったとします。これに対して、どんなに国王の命令だとしても、人間としてそれを侵害されたら本人も人間として生まれてきた意味がないと感じるような行為や、周囲もそれはあまりにも酷いと感じる行為について、それを阻止しようとしたわけです。「それは人権を侵害する行為だから、いくら王様でもやってはいけないことだ。」という文脈で人権という言葉が使われるようになりました。

現代社会では王様はいません。民主主義の世の中になりました。最終的には多数決で国の行動の意思決定をするシステムができました。しかし、人間の社会は複雑ですから、ある行動が多数の国民を幸せにするとしても、同じ行動によって不利益を受ける国民が出てくることは常にあることです。多数派は少数者が不利益になることを決定することができることになります。

現代の民主主義社会では、多数派の意思決定によって、少数者が人間として生まれてきた意味が無いと感じることや、周囲がそれはあまりにも酷いと感じるようなことが起きる可能性があるわけです。これを防止するために、やはり「人権」という言葉が大きな意味を持っているわけです。

さて、ロシア人が迫害されているとのことです。一人一人のロシア人は、ロシアのウクライナ侵攻にかかわっていません。むしろ、ご自分たちが今いる国の人たちと協調して生活したいと考えているはずです。迫害する人たちは、自分が攻撃しているロシア人にウクライナ侵攻の責任があるとは思っていないでしょう。それでも迫害するわけです。なぜでしょう。

私は、迫害する人間の正義感だと言ってよいのだと思います。独立国家であるウクライナへの侵攻は不正義だということ、報道によればウクライナの罪もない国民が傷つけられて殺されている、財産を失くし、家族とも会えないで苦しい生活を強いられている。傷ついて虐げられている人を見れば、条件反射的に何とかしなくてはならないと考えるのが人間の自然な気持ちです。

・被害のひどさと、
・なんともできないもどかしさ、あせりと、
・自分は安全な場所にいるという環境的立場、
・自分の周囲のほかの人間も自分と同じ考えだという確信
という条件がそろえば、それは「正義感という怒り」が生まれやすくなります。

正義感という怒りは、思考力を鈍らせます。
・善と悪の二者択一的思考になじむようになります。
・悲観的考える傾向が出てきます。
・他者の気持ちを理解するという複雑な思考ができなくなります。
・自分の行為によってどのような効果が生まれるかという将来のことなど考えられなくなります。
・二者択一的な思考は、自分の行動を止める人間を悪だ、敵に味方をしているという考え方になってしまいます。
・怒りをぶつける相手が、死ぬか、反撃不能の状態になるまで怒りは持続します。
・相手が弱ってくると、かえって怒りが強くなっていくという特徴もあります。

その結果、自分の正義感を持て余して、正義感情を表現しようとしてたまらなくなり、ロシアに関連するものに対して攻撃をしようとするわけです。相手がウクライナ侵攻に責任があるかどうかなどという複雑なことは考えません。ロシア、あるいは、ロシアっぽいということだけで、「悪」と決めつける単純思考になるわけです。自分が攻撃している相手にダメージが加わっても、ウクライナの国民に対する共感の1万分の1も共感しようとしなくなるわけです。そして、周囲もその人に同調するならば、正義感の暴走は止められなくなってしまいます。

もし、ロシアの侵攻が、ウクライナを犠牲にしても、例えば経済的に、例えば軍事的に自分に利益が生まれるということでロシアにやらせた人がいれば、このような心理はとても都合よいものになるはずです。

他方で怒りは永続しないという特徴もあります。
怒りが覚めたときに、自分が行ったロシア人に対する人権侵害の意味を知ることになるでしょう。ある人はとても恥じ入り悔いるでしょうし、ある人は自己の行為を正当化するために、「ロシア人」は悪だという考えにいつまでも固執せざるを得なくなるでしょう。

ただ、自分がいくら正当化しようとしても、自分の周囲の人間たちは迫害をした人の迫害行為は覚えています。もしかしたら、自分の子どもからの軽蔑が近い将来に待っているかもしれません。

また、迫害を受けたロシア人の知り合い、友人を中心に、「これは酷いことだ。」というやりきれない思いが精神的ダメージとなりいつまでも残るかもしれません。

いずれにしても迫害があった周囲は荒むことでしょう。他者の人権が侵害されることは、自分たちの人間性も荒廃していくことなのです。他者の人権を守るということは、自分や自分の家族、自分の友人たちの人間性を守るということでもあると思います。人間とはそういう性質を持っていると思います。

ロシア人でも旧ソ連圏の人たちでも、人権として、およそ人間である以上守られなければならない一線があるということです。人権侵害防止は、文明国、近代国家としての必須のことです。

人権擁護がなかなか難しいのは、日本では少数者が極端に少数で、少数者自身に不利益の原因を求められやすいということが一つの原因だと思います。その心理の形成過程の中には、自分を安心させたいという気持ちや権威者に迎合したいという気持ちが間違いなくあると思います。そして、正義感情を共有しやすいため、怒りが表現されやすくなり、ひとたび怒りが共有されてしまうと、少数者に対する迫害が止められなくなるという危険が、怒りの性質から起きてしまいます。

特に日本においては、自然な感情からくる少数者への人権侵害が自覚されにくいことに注意するべきだと思います。誰が、人権侵害が行われていると気が付くべき人間かというと、それは人権を学んだ法律家を筆頭に挙げなければなりません。法律家までが、正義感情に任せて人権侵害に加担していたのでは、日本は人権侵害国家という野蛮な国になるでしょう。特に弁護士は、犯罪を行った人を弁護する唯一の資格者です。多数から非難される少数者を守ることが本来的な仕事です。弁護とはまさに人権擁護活動なのです。

現在の日本の人権課題として、正義感情からくる在日ロシア人に対する迫害、人権侵害を防止を大きく取り上げなければならないことは間違いないと思います。
日本の法律家や法律家団体は、ロシアに対する制裁決議などをあげている場合ではなく、迫害や差別を想定して、在日ロシア人や、旧ソ連の人たちの人権を擁護するために活動を開始することが使命だということが、私の考えなのです。

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【正義よりも命。特に子どもたちの命】「憲法9条を守る」ことよりも大事なこと 戦わずして勝つことが何よりも追及しなければならないことだということ [弁護士会 民主主義 人権]

 

憲法9条があろうとなかろうと、改正されようとされまいと
軍事力を持とうと持つまいと共通して考えなければならないことが
あると思います。

それは、戦わないで勝つことが最上であるということと
戦う以上、相手を知り己を知らなければ
自国が滅びる危険があるということです。
これは東アジア共通の、戦うにあたっての知恵だと思っています。

たとえ憲法9条の文言を温存したとしても
他国の争いをいいことに
一方当事国を挑発して、恨みを買い
戦争を仕掛けられるとか、軍事行動を起こされてしまっては
憲法9条が絵に描いた餅になってしまいます。

たとえそこそこの軍事力を持ったとしても
相手は一国とは限りません。
相手の軍事力がどの程度のものかということを知らず、
また、どの国がどのような利益に基づいて参戦してくるか
そういうシミュレーションもできないで
やみくもに軍備にお金を使ったとしても
ただただ危険な戦いになるでしょう。

また、国が勝つか負けるかということばかりを言う人がいますが、
「国」が勝っても、何十万、何百万人の人が死ぬわけです。
死んだ人にとっては、わけのわからない「国」が生き残っても
あまり意味のあることではありませんね。

大人が自分で、その愚かな戦いを選んで死ぬ分には仕方がないかもしれません。
しかし、そこで犠牲になるのは子どもたちや自分の意見を表明できない人たちも同じなのです。

私は、自分以上に自分の家族や友人たちが死ぬことが怖いです。

私の友人の自衛官たちが命を落とすことも恐ろしいです。

自分家族をの家族を愛し、隣人たちを愛するから
自分の町を愛するし、自分の国を愛するわけです。
私は愛国者です。

現代政治は科学的に行われなければなりません。
科学的というのは、今何を議論するべきかということを
一番に大切にすることです。

今他国で戦争が行われているときに議論することは
どうやって戦争を終わりにするかということのはずです。
それが唯一の正義の議論です。

また、日本が攻め込まれたらどうするかということではなく、
「日本が攻め込まれないようにするためにどうするか」
ということのはずです。

つまり「どう戦うか」ではなく
「どう戦わないか」ということを議論するべきです。
いかにして、子どもたちをはじめとする国民の命を守るか
犠牲者を作らないかということです。

犠牲者を生まないために、戦わないで勝つためにどうするか
そのために憲法9条を改正して軍事力を持つということも選択肢でしょうし、
現状を踏まえると憲法9条を維持して軍事力を持たないということも選択肢でしょう。
今日はどちらかを選ぶということを議論するつもりはありません。

それより大切なことは、
「戦わずして勝つ」ということを追及することこそが、
国の最大の責務であるということを確認することと

口では憲法9条を維持すると言いながら
戦わないで勝つことを追及せずに
攻め込まれたらどう戦うかということの議論は
侵略国の侵略を、指をくわえて見守ったあとに
敗戦処理をどのようにするかという議論であり、
国民の命をかえりみない欺瞞であるということを
考えていただきたいということでした。



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紛争を解決するため、被害予防のためにやってはいけないこと 調停、ADR 、そして国際紛争 [弁護士会 民主主義 人権]


わが国で被害予防の対策が成功した例の代表は、交通事故防止対策です。単に交通事故に重罰を科すだけで終わりにせず、どうして事故が起きるのか、どうすれば事故を防ぐことができるのかということを科学的に分析して、一つ一つ対応をしていました。

例えば、夜間の交通事故を分析して、歩道上の明かりを増設したり、横断歩道を増設したり、信号機の位置、角度を変更したりと、こまめに対応が行われます。例えば飲酒運転と事故が関連性があるとすると、飲酒運転禁止のキャンペーンを展開して私たちの気持ちを変化させるなどの対応を行い、事故を減らそうと絶えまぬ努力をしてきたわけです。こういう警察関係者や科学者、付近住民の科学的な努力、理性の力で交通事故、特に死亡事故を減らしてきたわけです。

加害者憎しで刑罰だけを強めていったら、こうは劇的に死亡事故件数は減らなかったでしょう。被害者や家族など関係者が、運転手の落ち度を憎むということは当然ですが、誰かが理性によって次の犠牲者を出さないという活動をしていたわけです。

裁判所で行われる調停や裁判外の話し合い機関であるADRによって紛争を解決する場合の、調停委員やあっせん委員にも、同じようなことを求められています。

調停委員やあっせん委員の、話し合いが始まる前にもっている情報は、通常とても貧弱なものです。私もそういう仕事もしていますが、話し合いが始まる最初は正直何が起きているのかよくわかりません。でもそれでよいのだと今は考えています。わからない状態で、双方の当事者の方から、いろいろなことをお伺いするわけです。そもそもその取引上の常識は何か、通常はどのように行われているのか、どういう想いで調停を申し立てられたのか、教えていただくという感じで始めていきます。法律効果を導く事情(要件事実と言います)だけでなく、調停申し立てに至った心持もうかがうことで、判決ではない解決の方法が見えてくるのです。

これに対して、事情がよくわからないくせに、情報を持っていないくせに、最初の話し合いの場で、既に一方の立場になっている調停委員にも出会ったことがあります。この時は当事者の代理人として調停に臨んだ時でした。そんなことをしたら、当然他方は激高して話し合いになりません。私は代理人の立場から調書代わりの準備書面や上申書、進行に関する意見書を同日か翌日に裁判所に提出して問題提起をするとともに証拠を残すことにしています。

このケースは父親が面会交流を求めた事件ですが、その調停委員は浅はかな本による知識で、面会の要求はDVの一態様だという決めつけをもって調停にあたったようです。女性保護の観点から父親に対して攻撃的な態度をしたようでした。その調停委員の態度は正義感に基づくものであるわけです。しかし、公平であるべき調停委員が一方的な攻撃をするのですから、許されることではありません。ちなみにこの事件は裁判官が毎回調停に出席し、無事定期的な面会交流が確立しました。

思い込みや決めつけで作られた正義感は、警戒をするべきなのかもしれません。

思い込みや決めつけをしないためには、まず、情報を丹念に収集することが必要です。一方の主張だけで感情を作り、それを当事者にぶつけてしまうことは、絶対にやってはいけないことです。

不利に扱われた当事者は態度を硬化します。裁判所でも自分が尊重されていないと感じてしまいます。そうすると自分を守らなければならないという意識を強くします。聞く耳を持たなくなることもあります。自分の主張に固執してしまい、一切譲らないという態度をとるようになってしまいます。話し合いの解決は困難になります。逆に、十分に事情を尋ねられて、いくつかの部分に共感を示されれば、例えば解決金額が多少不利になっても、解決を志向して行動することが期待されます。

公平が大切です。この場合、よくある誤解は、調停委員やあっせん委員は、どちらかの当事者に感情移入しないで、どちらとも距離を置いて対応しなければならない、それが公平だという誤解です。しかしこれをしていたのでは、話し合いでの解決は難しいと思います。

心理学の手法にもあるのですが、どちらにもえこひいきをする方が公平な扱いになりやすいということが正解です。それぞれ紛争があり、当事者同士で解決つかない場合は、それぞれに言い分があることが通常です。どちらにも「味方」になるのではなく、その言い分の理解できる部分に「共感を示す」ことがコツだと思います。「こういう状況の中では、私もそういう行動をとるでしょう。」、「こういうことがあれば誰でもそういう気持ちになると思います。」ということを、共感できる部分を探し出してでも共感を示すということを心掛けています。

たったこれだけのことで、信頼関係が生まれていきます。そして、双方にとって、最も不利益にならない方法を考えて、メリットとデメリットとともに提案することができます。当事者は、調停委員に騙されているわけではないという疑心暗鬼にならないで考えを始めることができますので、メリットとデメリットを素直に検討することができます。決めるのは当事者ですが、決めるための柔軟な思考を可能にしているということも言えるかもしれません。

暴行などの不法行為の調停もあります。責任は争わないとしても、賠償額に争いがある場合に話し合いになります。被害者は大変お気の毒な場合が多く、被害の様子に思いをはせることは致し方ありません。しかし、だからと言って、無制限に被害金額を加害者にねん出させようとしてしまうことは絶対にしてはいけないことです。適正に、早期に、円満に解決することを目標としなくてはなりません。場合によっては、自分の正義感をセーブする必要があります。現在の裁判例に照らして無理な要求の場合は、要求をする側に対して、それでは解決は難しいという見通しをはっきり示すことが必要になります。そうでなく、ただ被害者に同情的になり、被害者の利益に従って加害者を説得してしまうと、まず調停ではなくなるし、加害者は調停という手続きをやめて訴訟での解決を目指すようになります。それも当事者が決めることですが、とりあえず調停が申し立てられ、相手方も調停に応じているということを尊重しなくてはなりません。裁判になって解決が長引くことは申立人の人生にとって深刻な影響を与えることもありうることです。そこまで考えて調停をしなくてはなりません。安楽な正義感は人を傷つけ、被害者の被害を拡大しかねないのです。

調停委員はあくまでも第三者です。調停委員の感情を満足させることを優先にしては調停ではなくなります。当事者の方々の意思決定を第三者の立場から補助するというくらいの気持ちでいなければなりません。もちろん、多くの調停委員が心得ていることですが、正義感が強く過ぎてしまうと、決めつけや思い込みも発生してしまいます。

紛争の局面では、解決することと感情を表現することが矛盾することが出てきます。憎しみを抑えて解決ができず、解決は遠ざかっても憎しみの感情を表に出したいという場面はほとんどすべての案件で出てくることかもしれません。当事者の方が、選択によるデメリットを覚悟してどちらを選ぶかということを冷静に決めることは自由です。しかし、当事者でもない第三者が、正義感を優先してしまって解決を後退させることはしてはならないことです。素人の代理人、支援者がよくやる誤りだと言ってい良いでしょう。

感情を満足させるために当事者に不利益が起きることを第三者が選択するということは話し合いによる紛争解決の場面だけでなく、様々な場面で見られる現象です。例えば虐待の防止を言うとき、交通事故対策のようにどうして虐待が起きるのか、虐待を防止するためにはどうしたらよいのかということを冷静に考えることをしないで、虐待親を感情的に攻撃し、厳罰化や警察の導入拡大ばかりを進めていたら、次に虐待される子どもを守ることができなくなってしまいます。虐待防止の道筋を示せない感情的な対策は、むしろ有害である可能性もあるわけです。子どもが虐待によって命を落としてから、人生を台無しにされてから厳罰が課されても、当事者にとってはあまり意味がありません。第三者の正義感を満足させることを優先にしてしまうことは、大変恐ろしいことです。

そのような視点で国際紛争を見た場合、日本は、ロシアに対する制裁を敢行して紛争当事国の一つになってしまいました。この制裁決議に、れいわ新選組以外の革新政党もすべて賛成しました。特に組織の中で批判もないようです。ロシアに対する制裁は、正義感の表れとして行われるわけです。しかし、その制裁によってウクライナの一般国民、特に子どもたちはどのような恩恵を受けるのでしょうか。私にはその道筋が見えません。経済制裁によっては、紛争は終結しないし、一方当事者のリーダーたちは戦争を終結させる目的をもって経済政策をしてはいないようです。制裁はあくまでも制裁でしかありません。

ウクライナの子どもたちの一日も早い安心感の獲得と経済制裁はつながってはいないように思われます。このような紛争の一方に加担した日本が、停戦の交渉をつかさどることはできないでしょう。少なくともその資格はないわけです。正義感を抑制して、子どもたちに安全と安心を提供する方法を真剣に考えるべきだと私は思います。正義感情の放出はこれと矛盾することだと思えてなりません。また、日本の国会の状況は、第2次世界大戦前夜のようにすら感じられるのは、私だけでしょうか。

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【憲法9条はもはや空文?】ウクライナ問題でロシア非難決議に令和の議員だけが反対したことを受けて。 [弁護士会 民主主義 人権]

ウクライナ侵攻に対するロシア非難決議が
衆議院でれいわ新選組の3議員だけが反対して可決されました。

反対の理由は、正直よくわかりませんが、考えるきっかけになりました。

憲法9条との関係です。

憲法を改正しようとする勢力が、今回のような非難決議や経済制裁を行うということは
立場としては一貫していて矛盾がないのだろうと思います。

問題は、護憲だとか憲法9条を守れとか言っている勢力が
今回のような一方的な非難をすることに葛藤なかったのかなということです。

憲法9条を遵守する立場ならば
国際紛争を、対話による和平実現という愚直な努力で解決するという
方法論を選択することが自然の流れだと思うのです。
対話を呼びかける名誉ある地位に日本は立つべきだと主張するならば
一方的に非難をしたり、経済制裁を先行することは
対話の呼びかけの障害になるというデメリットがあるからです。

また、そういう9条ができた背景として
国が追い詰められることは戦争を起こす要因、戦争を拡大する要因になる
ということだとすれば
一方的非難や経済制裁は逆効果になると考えるのが
やはり自然の流れのような気がするのです。

論理必然的にそうなるかと問われると
余り自信はありませんが。
こういう問題の所在があるけれど賛成するというならば
その理由を護憲を自称する勢力は説明するべきだと思うのです。

護憲勢力が今回の一連の決議に賛成した理由として考えられるのは
世論が戦争反対、ロシアの蛮行を糾弾するべきだとなっていると判断し、
その前提として
西側から流されるニュースはすべて正しく、疑う要素がないと判断したからだと思います。
ここで決議に反対してしまえば
選挙戦にも影響をしてしまい組織にとって不利益が生じるからということ
なのだと思います。

憲法9条をがちがちに考えた場合
この決議が示す日本の状況は、もはや憲法9条の実態がなくなり
第二次世界大戦前夜の日本を見ているような気さえしてきます。

つまり、報道によって世論が誘導され
蛮行を絶対に許さないという強い感情が絶対正義として盛り上がり
我こそは、正義のガーディアンだと競って名乗りを上げている
そんな感じがするのです。

今回のウクライナ侵攻についても
どうやって、侵攻をやめさせ、これ以上犠牲者を出さないか
その方法論が論点とならず
勇ましい勧善懲悪の論調だけが新聞紙上においてさえ話題になっています。

ロシアがどうするかというより、日本がどうロシアを止めるか
という方法論がスルーされている気がしてなりません。

ただ、強硬な態度を示すことがだけがアプリオリに選択されているのではないでしょうか。

前回の記事で、満場一致パラドクスということを述べました。
もし、今回れいわが反対票を投ぜず、
満場一致で非難決議が可決されたら
今日の記事の発想には私自身ならなかったと思います。

れいわの反対の理由がいまいちよくわからないのですが、
反対の理由に共感が持てなくても
今回の国会による非難が満場一致の決議とはならなかったということから、
また別の角度から考えることができました。
価値のある反対投票だったと思います。

ふと、もし大戦前夜に日本に対して、どこかの国が
このまま戦争をしても勝ち目はないし、ますます孤立するよ
間に入ってあげるから和平をした方がいいよ
と言ってくれたら、どうなっていたのだろう
という幻想が一瞬頭をよぎりました。







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満場一致パラドクス 反対意見が提出されない集団はやがて消滅するというその理由 民主主義の優位性を保証するのは少数意見(へそまがり)の尊重であるということ(組織の意思決定時の満場一致における系統誤差の由来と様相に関する考察) [弁護士会 民主主義 人権]

YouTubeをみていて、「満場一致パラドクス」についての動画をみつけました。満場一致パラドクスとは、何かの課題が満場一致で決められる場合、反対意見がある場合に比べて、そこには誤りが存在する可能性が高くなるという理論です。(もっとも、定義を忠実になぞるだけの議論の余地のない課題は除きます。例えば、イチゴとミカンがあるところから、イチゴを持ってくるような場合は、満場一致でイチゴがこれだと思うわけですから、そういう場合は除くわけです。)

この世の中、答えが一つしかないということは少ないですから、理論的に反対説が現れても不思議ではない場合にまでいつも満場一致となることは、逆に、真実がその一致した結論だからではなく、別の事情によって満場一致になってしまっているのではないかと疑うべきだというのです。この別の事情を「系統誤差」という言い方をするようです。

YouTubeだけでなく、インターネットにおいて、結構満場一致パラドクスは紹介されているようです。統計学や認知心理学、犯罪捜査の観点からうまく説明されているようです。この記事は、集団的意思決定における満場一致パラドクスに絞って、どこに系統誤差が起こりやすいのかということを述べるとともに、民主主義の一番大事なことは多数決ではなく少数意見の尊重だという意味もお話ししていきます。



集団的意思決定は、私たちの身近で多くあることですし、人間が群れを作る以上どうしても必要なことです。身近では、家族で週末にどこに出かけるかというところから始まって、友人関係、会社、ボランティアなどの集まり、大きくなれば、自治体や国家、社会においても意思決定が行われます。そのすべてにおいて、満場一致やそれに準ずる賛成多数は、集団を発展させず、滅ぼしてしまう危険性をはらんでいます。

たとえば、大きな会社で、大規模な不正事件が時折起こります。詳しい報道を見てみると、ワンマン経営者が他の取締役の意見を出させないようにして、いわゆるイエスマンばかりが取締役となり、その結果不正を止める者がいなくなってしまったので不祥事を起こしたという報道は記憶に新しいと思います。夫婦や友人関係でも、リーダー的にふるまう人が、他者に意見を言わせないようにして、自分の意思でどんどんいろいろなことを決めているうちに、愛想をつかされてその人が排除されてしまい、夫婦は離婚し、友人関係は解消されるなんてこともよくあることです。満場一致ということは疑ってかかる方が良いのかもしれません。
特に組織の行動方針なんていうものは、どれが正解かはっきりした答えがないのが普通です。常に満場一致という組織はこの不自然さを組織自体が容認するようになっているわけですから、慎重に帰属や支持を検討するべきです。

この満場一致になる集団的傾向、集団心理となることは、私は「秩序を形成しようという人間の本能」に原因があると考えています。つまり、人間は集団の中に権威を作る生き物のようです。権威をもつ者は自分の立場を維持しようとして、自分の意見を通して秩序を形成しようとします。権威を持たないものは、無意識に権威に迎合して秩序を維持しようとします。スタンレー・ミルグラムは「服従」と言いましたが、対人関係学はこのような人間の群れを作る本能に由来するものであり、「迎合」という表現が適切だと述べました。

「Stanley Milgramの服従実験(アイヒマン実験)を再評価する 人は群れの論理に対して迎合する行動傾向がある」
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2019-01-05

集団的意思決定の場合において、不正確な満場一致になってしまう理由、系統誤差について、権威側と迎合側に分けて考えてみます。

わたしも10年以上前に所属する弁護士会の執行部の仕事をしていまして、1年間だけですが、権威側の立場にいたことがあります。執行部は様々な弁護士会としての意思決定をする必要がありました。日常的な意思決定は数人の執行部会で行います。少し重い意思決定は、毎月行われる代議員の議会みたいなところで行われ、予算や規約の変更など最重要の意思決定は年に1度行われる総会や臨時総会で行われます。執行部会議でも課題が多いということから毎週行わなければならなず、夜遅くなることが多かったと思います。そして、毎月の代議員会に議案を提出して議決をしてもらうわけです。満場一致とは言いませんが、スムーズに提案を承認してもらいたいという気持ちがあったことは間違いありません。
反対意見があっても、なるほどもっともだという意見であれば、提案を引っ込めることに何ら躊躇はありません。困るのは、どこをどう考えるとそういう反対意見が出てくるのだろうという意見が出され、議論が混乱するときに、イライラとしてしまいます。そういうことを言う人は大体決まっています。そして、議論になることが予想される議案ではなく、この提案はスムーズに議決されるだろうというところで、質問や意見が繰り出されるとイライラがますます大きくなっていきました。

と言っても、私はそれほど重要なポストではなかったので、時間がたつうちに、もしかして面白い意見なのではないかと思う余裕が出てきました。そうしてその人の話を意識的に聞いていると、こちらの気が付かない次元の話を思いつくという才能があり、それを言葉にするという行動力があることに気が付くようになりました。コミュニケーションがうまく取れなかったことがイライラの原因だったらしく、その代議員の言いたいことはこういう観点からの心配なのかといことを確認するようになり、コミュニケーションの阻害が解決して苦痛は無くなりました。むしろ、新たな観点から提案内容を修正して、すきのない提案にすることができるようになったり、運用面で配慮をするヒントとなるという、会としてはきめて有益な問題提起だったことに気が付くようになりました。権威に迎合しようとしない傾向にあるという変わり者としてのシンパシーもあり、重要な人物であるという認識に代わりました。

この些細な私の経験から考えると、権威者側から満場一致の系統誤差を作る要因としては、「効率性」というものがあげられると痛感しています。意思決定をして行動を進めるということが最優先になってしまうと、立ち止まることができなくなってしまいます。立ち止まって、もっと良い意思決定を追及することが必要な場面で、あるいはその意思決定は勇気をもって撤回することを考えるべき場面で、それができなくなってしまうのは権威側が効率性を求めすぎてしまって、迎合側の迎合を強く求めてしまうときなのではないかと考えております。

職場のパワハラにそのような面があることをよく目にしています。その効率性を部下に求めることは不可能であるにもかかわらず、「結果」を出すという効率性だけが勝ちになってしまい、無理を通そうと結果を押し付ける過程が生まれてしまい、方法論が省略されてしまう。それで、部下の人格や健康に配慮ができなくなってしまう。部下の反論は言い訳としか受け止められなくなってしまうわけです。

集団が、行動を目的とする場合は、どうしても行動を行わないで足踏みすることができません。何とか行動に移す、しかも効率的に行動に移すということは、集団の本能みたいなものですから、権威側が効率性を求めるということは常にありますし、そのために満場一致という迎合を求めてくることは常にあると考えて、そうなってしまって欠陥だらけの行動提起にならないように少数の意見こそを尊重するべきだということが一つの結論でしょう。

もう一つ、権威側の自己保身ということも、系統誤差を生み出す要因になるようです。権威側は、自分の権威を盤石にすることで集団秩序を形成しようとするので、自分を高めようとします。実質的にリーダーの能力や技術、度量なんかが高まれば、組織にとってもプラスになるでしょう。ところが、そのような実質を伴わないで権威だけを高めようとしてしまう、秩序維持という結論だけを求めてしまうと、本来集団行動をするための秩序作りが逆に集団自身を傷つけていくことになってしまいます。中規模の集団でよく見られます。

NPОのような規模で、カリスマ的魅力のある人が創業者的に組織を立ち上げて運用する場合を考えてみましょう。組織を作り始めて軌道に乗せるためには、少人数のカリスマ的行動力で組織を動かしていくことが有効であるようです。超人的な行動に依拠して組織は立ち上がるでしょう。個人の直感や努力、あるいは運のようなものが必要な時期です。そこに人が集まってくるわけです。創業時の迎合は、一方的服従というよりも、権威者であるリーダーを立てながらも自分の意見もどんどん行って、いい感じで少数者の意見も反映されながら組織は大きくなっていきます。

しかし、組織が大きくなってしまうと、一人の意見で組織のすべてを決定することは不可能となると同時に、外部からの信用や印象というものが、その人ひとりの行動だけで決まらなくなるのは当然です。組織が大きくなるということはそういうことです。内部でも、創業者リーダーに全面的に迎合する人もいるでしょうけれども、サブリーダーの行動に迎合(行動を支持)する人も出てくるわけです。そのような迎合の対象がいくつかって、それら相互に協力体制が作られていけば組織は軌道に乗るわけです。

但し、創業者的リーダーは、本能的に権威者であり続けたいと思うわけです。創業当初はそうでなければ軌道に乗らなかった組織ですから、その意識は悪い意識ではありません。むしろ必要な意識かもしれません。しかし、創業から安定期に向かうときに、その意識は組織の動きや発展を止めることになるわけです。独裁から集団へ軌道修正をすることがうまくいかなければ、どんなに立派な理念を掲げていても発展をすることはありません。個人の頑張りからシステムの確立に移行するべき時期なのですが、多くの組織で当初確立していたシステムが風化していき、むしろ個人の頑張りに依存していく逆行が起こることがよくあります。

このような権威による迎合の強制が特に起きやすい場合というのは、組織に対抗組織があり、対抗組織との緊張関係がある場合です。議論をしているだけであると対抗組織に飲み込まれてしまうという危機感があり、効率性をとことん重視しなくてはならないという発想が無意識に強化されて生きます。また、そのような組織変化に対応できないために、組織の発展や維持に陰りが見えてきた場合にも同様の誤りが起きやすいようです。
秩序を作るためには効果があった個人に対する権威付けが、時期的推移によって、秩序や集団の利益から離れて、個人自体の保身のためのものになっている。こういう場合、満場一致圧をかけようとしやすくなるわけです。

権威側からの満場一致圧、迎合圧が、効率性と自己保身というところにありました。逆に迎合側の要因で満場一致圧という系統誤差が生じる要因を見ていきます。

「迎合」ではなくて「支配」という言葉を使うことのデメリットは、満場一致圧や支配と服従の本質を見誤るところにあります。支配者の一方的な欲得によって、満場一致が生まれてしまうと考えてしまいがちになることが最大の間違いです。責任がどこにあるかという議論をわきに置けば、迎合者の迎合は、支配者の意図にそうものだけではなく、迎合者にとっても権威者にとっても、組織の秩序を形成するという共通の目的のもとに、両方の意識や行動によって生まれるということを見逃してしまいます。権威者は必ずしも自分のわがままや希望で権威者になれるのではありません。迎合者が迎合するから権威者としてふるまうし、ふるまおうという動機が生まれるし、実際に権威者としてふるまうことができるというところを見落としてはなりません。


わたしも年齢とともに変化を感じているのですが、若いころは特に権威に対する反発が強く、権威をやみくもに信じないという傾向がありました。普通に迎合をする人たちの行動や心情に共感できないでいました。少しずつ歳を重ねていく中で、権威に寄り添うことに、安心感や安楽な感じを抱くようになってきています。

人が迎合しようとする行動原理はここにあるのではないでしょうか。群れの秩序の中で、秩序を維持する方向で行動することによって、安心感や安楽感とでもいうような感覚を得ることができるということです。逆に権威に対して反対意見を述べ、権威に従わないということが、何か不安や焦燥感を掻き立てるという感覚ですね。この感覚こそが人間が群れを作るためのツール、感情モジュールの一つなのだろうと考えています。

人間は、そこに権威があれば、できるだけ迎合したいと思う生き物なのだと考えると理解が進むと思っています。ミルグラムは、服従実験で、この権威について、社会的権威ではないかと提案しています。例えば名の通った大学の教授であるから権威があるという形です。対人関係学は、その迎合する人が、「自分の群れ、仲間」と感じている中で、その群れの秩序を作ろうとすることが迎合の心理であると考えるので、社会的権威とは限らず、群れの中で自分の迎合する対象として認識しうる権威で足りると考えています。人が苦しんでいることを止めようとしない理由は、支配者に服従するからだというのがミルグラムの結論かもしれません。対人関係学では、群れの秩序を形成しているという安心感があるため、具体的な人間の苦痛よりも秩序維持が優先されてしまうということが結論です。そして、その秩序形成の的になっている権威とは、仲間内の権威で足りるということが恐ろしいところだということが結論です。

迎合側の満場一致圧は、権威である執行部、権威であるリーダーに迎合しようという本能的な思考傾向があるため、そもそも人間社会では起きやすいということです。群れを作り始めた何百年も前であればそれで足りていたのだと思います。現代は群れが競合するという環境の大きな変化があるため、この本能のままに動いていたら群れは消滅していくわけです。

満場一致の系統誤差が生じる原因を見てきましたが、最後に具体的に系統誤差が生まれるその方法を見ていきましょう。

権威側の事情として系統誤差が生じる場合は、リーダーによる反対意見者に対する攻撃です。自分に迎合しないメンバーに目を付け、些細な失敗や他のメンバーからの遊離を見つけた場合に、チャンスを逃さないように、攻撃するわけです。この時の特徴は、攻撃対象に反論の機会を与えないことです。一方的に攻撃することが鉄則です。公開の議論をしてはいけません。自分の取り巻きの中で、攻撃対象が組織を害するもの、組織にはふさわしくないものという認識を共有することで完成するわけです。これが組織内で行われるだけならばまだよいのですが、組織の外に向かって攻撃をあらわにしてしまうと、問題が大きくなってしまいます。取り巻きの迎合者はリーダーを批判しません。取り巻きの迎合者は、リーダーからの評価を維持するという自己保身が働いている場合があります。大体において、子どものいじめの原理もこのようなものです。攻撃対象者が自分を否定評価していると権威者が考えた場合、自分の地位がとってかわられるのではないかと権威者が恐れる場合、これがいじめの始まりの典型的な一つのパターンです。

原理的に言えば、権威側は、攻撃対象者を孤立させることで自己保身を図るわけです。攻撃対象者、少数意見を言いそうな相手に十分な情報を与えないで情報がないために陥った誤りを逆攻撃するとか、論点をすり替えた人格攻撃をするとか、迎合者たちに、秩序を壊す者だと刷り込むわけです。その人の反対意見の是非や価値について検討せずに、その人の反対意見に至る発想を批判したり、別の目的があるのではないかと決めつけて攻撃したりするわけです。迎合者たちも、秩序を乱すものだという、自己の無意識の利益に逆行する人間ですから、攻撃の材料を無意識に探しています。だから攻撃の提案があれば攻撃に加担することが止められなくなる事情も出てくることがあります。

創業者リーダーが交代するべき時期は、このリーダーの発言で分かります。有力なメンバーの悪口が増えてきたとき。特にその人の行動の誤りに対して人格的な批判を展開するとき。人を説得するべき時に、事情に応じた論理を展開できないで、決まり文句を言って逃げ込むようになったとき(初めてそれを聞く人にとって何を言っているわからない発言。コアな人間でしか理解できない用語を使って仲間意識を思い起こさせる。)。自分の経験、自分の努力を聞かれもしないのに滔々と話すようになったとき。役割と無関係な自分の良いところをアッピールし始めたとき。そして、高度な集団を作るためには、満場一致で選出されたときも本来は権威の的になるべきではないのかもしれません。民主主義のメリットを生かすという観点からは、有害な人物かもしれません。また、十分な根拠もなく少数意見を封殺するような権威者、反対意見がさも不道徳であるように、つまり組織、集団にふさわしくないということを感情的に述べる場合も権威者としてふさわしくなくなっているということになりそうです。自分でこのような行動をする場合もありますし、大きな組織になれば子飼いの取り巻きにこの役をやらせたりします。

迎合者側の事情としては、先に挙げたとおり、本能的行動から権威者の提案を尊重しようとしてしまう傾向をそもそも人間は持っているという事情があります。志をもって議員になっても、提案者の意見を尊重しようとしたり、自分たちのユニットの代表者の意見に追随したりする傾向にあるわけです。理性的な行動を心掛けなければ当然の行動となってしまいます。

迎合者が、権威に迎合することで本能的な要求を満足させてしまって、提案に対して考えないという形の迎合が、もしかするともっとも一般的な満場一致に向かう系統誤差なのかもしれません。本来、組織、集団の意思決定において意見を述べなくてはならない立場なのに、「よくわからないから提案者に賛成する。」という態度です。「権威者に任せていれば、大丈夫だろう。」という態度です。この迎合で、誰かが傷ついていたり、回復しがたい損害を受けていたりしているかもしれないということには、思いを寄せないわけです。

迎合する心理、秩序を形成しようとする心理は、人間が群れを作って生き延びるためには必要な心理だったと思います。特に、人間が数十人から200人程度の群れで一生を終えるという環境の中では、この心理があれば、言葉がなくても群れを作ることができたのかもしれません。しかし、現代社会では、一つの群れに帰属しなくても生きていけますし、複数の群れに所属しています。大事な人間関係はその人との人間関係ではなく、家族だという場合も本当はたくさんあるわけです。そのような環境の変化に、人間の感情は対応しきれないようです。夫婦、家族でさえも同じような問題起きて、解決が難しいという事情があります。パートナーに安心して生活してもらいたいために、何らかの権威をもって行動提起をしようすることがあるでしょう。しかし、その権威的な行動が、他者から見れば、威張っている、横暴だ、自己中心的だと評価されてしまうことも多くあるわけです。家庭の中で効率を二の次にして、メンバーの意見を引き出すということを意識するべきかもしれません。しかし、相談ばかりして頼りない、信頼できない、安心できないと言われることもあるようです。
家庭の中ですらこうですから、難しい世の中になっていると思います。ただ、今日の話をどこか頭の片隅おいていただければ、危機を敏感に察して修正をすることに役立つのではないかとおもって、書いた次第です。

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家族問題に警察の介入の余地を広げることに反対する。警察は家族紛争の調整機関ではない 紛争の断面だけが評価の対象となる。 [弁護士会 民主主義 人権]

警察を目の敵にしているわけではなく、職務として対応する場合、それぞれの職務内容にふさわしい発想で対応してしまう傾向になるということです。今進められている警察の家族への介入の拡大は家族と国家という観点からすると、デメリットが大きいという理由で反対するわけです。

現在、家族の問題に対して、警察の介入が拡大されようとしています。大きいところでは、夫婦問題と親子問題です。

夫婦問題というのは、いわゆるDV保護の強化ということで、これまでは身体的暴力があった場合にだけ警察が家庭に介入することが許されるという法律を、身体的暴力がなく精神的虐待があるだけでも警察介入を導入するという動きです。親子問題については、前回の記事で書いたとおり、虐待されている子どもがいる場合、警察が介入して子どもを保護するということです。

これだけ言えば、DVや虐待を警察が防止するのだから結構なことではないかと考えてしまうことは当然です。介入拡大を推進する人たちはここだけを強調します。そうして、法拡大の世論が形成されていけば、私のようにそれに反対する者は、批判の的になってしまいます。もっとも私の意見が広まればの話です。おそらく、リアルな予想としては一顧だにされないというところでしょうか。

<言葉のマジックの落とし穴>


この落とし穴のポイントは、言葉のマジックです。
例えば「DV」防止というと、具体的には何が起きているかもわからないのに、聞く者のイメージとしては、酔っぱらって毎日のように理由もなく妻を殴って妻の体中をあざだらけにする夫とか、会計が10円合わないだけで夜通し家中を探させる夫、些細な失敗で何時間も妻を正座をさせて説教する夫などが思い浮かぶことと思います。しかし、DVを理由として離婚調停が申し立てられますが、そのような典型的なDVというのは、まずお目にかかることはありません。私が弁護士になってから30年近くたちますが、そのような夫の身体的暴力があった事案は記憶にありません。身体的接触がある典型的なケースは、精神的に不安定な妻が、はだしのまま家を飛び出そうとしたのを心配してとどめようとして夫が身を挺して止める場合です。裁判などで妻がする主張は、どうして夫が妻を止めたのかということについては一切触れず、ぶつかって床に倒れたというところだけを主張してDVだというわけです。「どうして自分が床に倒れていたかわからない」ということを正直に書いている妻の書面もあります。どうも曖昧な記憶のまま、DVを主張していることが多いように感じます。
確かに間接的な暴力が存在することがあります。妻の言動に対して腹を立てて、ゴミ箱等をけるとかそういうことはこれまでの事例でありました。ところが、これが、裁判では、小さい子どもの近くにめがけてゴミ箱を投げつけてきたとして主張するのです。かというと、夫から殴られた事案でも、それがDVだとは認識できない女性も多くいます。その一度の暴力が徐々に夫婦間の緊張を高めて離婚に至るのですが、そのことを覚えていないというケースです。これは、私が控訴審で妻の代理人になり、暴力の影響について丹念に説明をして、1審敗訴事案がひっくり返ったことがありました。
つまり、DV事例には典型的な執拗な暴力という事例はほとんどなく、それがDVに当たるか否かよくわからないという事例と、実は精神的に深刻な影響が生じる暴力なのにDVの自覚がない事例、そして、離婚を有利に進めるための虚偽DVがあるのです。

これまで、身体的暴力という条件を課していたため、警察の過剰介入を制限する建前がありました。身体的暴力が夫婦間で行われた場合は、暴行罪や傷害罪に該当しますから、当然に刑法犯ですから、警察の介入が元も予定されています。刑法犯の被害者保護のバリエーションということで、犯罪として立件するだけではない柔軟な対応を可能とするという意味では、現行のDV法はある程度合理性のある規定でした。

<警察の行為の逸脱と思われる事例>

しかし、それでも私が相談を受けた警察の介入には、逸脱だと思われる事例も多くあります。
妻も暴力があると主張していない事例で、身体的暴力がある場合に限定された警察施設を利用させた被害防止交渉をさせて、夫が預かる合意があった子供を警察の圧力で妻に引き渡させた事例。精神的に不安定な妻が、包丁を持ち出して暴れていたので、夫が110番をしたら、警察は妻を保護し、子どもまで連れて行ってしまったので、半年ほど子どもが母親によって監禁されて、行方不明となり、ようやく子どもが自力で交番に逃げ込んで父親のもとに帰れた事例。やはり精神的に不安定で、二つの精神科をはしごして向精神薬を入手していた妻が、まったく虚偽の事実で相談にいったところ、警察官は「夫から殺されるから、早く逃げ出せ」と妻に申し向け、妻は驚いて警察官の説得に抵抗したところ、2時間説得して逃げ出させた事例。この事例では、妻は別居に際して限度枠いっぱいでカードキャッシングをしていました。どの事例も、裁判所で妻の主張は認められていません。DVは、警察以外では認められていないのです。
その他にも、離婚して何年かして、家族で住んでいた家を売却することになったのでその案内と転居先の案内の通知に、事務的に「お近くにおいでの際にはお立ち寄りください」と書いたら、ストーカー警告がなされた事例。突然、妻が子どもを連れて出て行ったので、妻の実家に行ってみたら、実家付近で警察官に取り囲まれて、警察署に連行され、「今後は妻に暴力を振るいません」という誓約書を書くまで返さないと言われた事例。この警察官に、現行のDV法を説明したところ、「DVとは身体的暴力だけではないのです。」と悪びれることもなく、法律を知らないことを自白していました。研修で教わったそうですが、自分の行動の根拠となる法律こそ研修を受けるべきだと思いました。やはり妻が子どもを連れて出て行ったので、親戚に相談しに行ったところ、妻の出ていった先が隣の町内という結構近いところだったということから、ストーカー規制法の警告を受けた事例。保護命令も出ていないのに、ストーカー警告がなされるという事例は多くあります。ストーカー警告の予告を出されるという自由な法執行もありました。

まとめますと、「警察は、女性が被害を訴えると事実を吟味せずに警察官の立場を生かして女性保護を図ろうとする。」ということになると思います。

この理由については、男女参画局として、女性保護案件数を増やすことが行政的な使命となっていることもさることながら、もっと本質的な理由があることを見逃してはいけません。

第1に、警察官は正義感が強く、被害者保護を第1に考えること
第2に、そもそも真実がどこにあるかは、捜査を開始してから探し出すという職業であり、ファーストアタックにおいては、被害防止が最優先となるため真実性の吟味は最小限にとどまる職務内容。
ということを重視するべきです。

<最初の接触が先入観を与えやすい職業であること>

警察官は、通報があって当事者に初めて接するわけですが、通常は被害を主張する妻とだけコンタクトを取ります。「夫が追いかけてきて暴力をふるう恐れがある。私の身の安全を確保してください。」というような感じです。夫婦喧嘩だろうということで取り合わないわけにはいきませんから、現場に行くわけです。一人で行くことは危険である可能性があるから複数人で行くわけですが、用心のために10名程度が現場に駆け付けることが多いようです。警察官も生身の人間ですから、自分の身を守るという意識は当然なければなりません。緊張と警戒をもって現場に到着するわけです。そこにわれらの夫が妻の言う通りやってくるわけです。夫は心配で、ともかくも無事を確認したくてやってくるわけです。日中の仕事で疲れて帰ったら、何も連絡もなく妻と幼い子どもが消えているからかなり動揺しています。動揺して、目が血走っている男を見て、警察官は緊張を高めるわけです。警察官に大勢で取り囲まれてそれでも暴力的抵抗をする人間はほとんどいませんから、大勢で取り囲むわけです。夫は、どうして警察が自分を取り囲むか理解できません。通常それはそうでしょう。まさか妻が自分が来るから危険が生じていると警察に通報しているとは思いません。取り囲まれても、家族の安否が心配なので、実家に行こうとするわけです。すると、警察官から夫を見た場合どういう風に映るでしょうか。「この男は、これだけ警察官に取り囲まれてもなお抵抗をしようとするのか。」と映り、警戒を強めます。また、妻や自分たちを守ろうという気持ちが起きます。身体生命に対する危機感です。身体生命に対する危機感が生じた場合に動物の行動は二者択一的になります。「逃げるか戦うか」です。言うまでもなく警察官には丸腰の男一人に対して逃げるという選択肢はありませんから、攻撃的アプローチが発動されてしまいます。その時の感情は「怒り」です。ただただ、夫を妻に近づけないという任務を怒りをもって遂行するだけの行動になるわけです。
こうしたファーストアタックの段階で、妻は守るべき弱い者、夫はこちらの身の安全を脅かす駆逐する対象となっているわけです。そうなれば、正義感はもっぱら被害を訴え、困っているか弱き妻を保護する方向で働き、夫に対してはDV男で妻から隔離する対象という方向で働く定めにあるわけです。警察がDV案件に公平中立でかかわるということは土台不可能なことです。
明らかに先入観を抱いて、その後の対応をするわけです。
被害防止交渉として、警察の会議室に夫を呼び寄せて、やってもいない暴行等について夫を説得すれば、説得される夫は委縮して従うしかありません。夫婦の話し合いではなく、実質的に、客観的に、警察の威力で夫を従わせようとしていることがリアルなものの見方でしょう。
その時になっても警察は、犯罪が認められない夫婦関係がどうしてこじれたかということについて、聞き出す知識も経験もありません。先入観が維持されれば、弱い女性を保護する、すなわち弱い女性の言い分を前提に行動するしかないのです。弱い者を守るという素朴すぎる正義感は、継続的な人間関係である夫婦の機微に適切に対応することは不可能です。ところが、警察という威力を背景に事が進んでいきます。夫婦間で夫が子どもを養育するという合意があったとしても、その場で子どもを妻に引き渡すという合意をさせられて、子どもを渡したきり会えなくなるということが実際に起きていることです。警察は、子どもは母親が育てるもの、母親が子どもを育てるといったならそれはかなえるべきだという素朴なジェンダーバイアスがかかった見方をするわけです。しかしその威力はすさまじく、波の一般人は抵抗することはできません。いったい何人の親が、警察を通じて子どもと会えなくなったことでしょう。
本来親の監護権については、当事者の合意が整わない場合、家庭裁判所の判断によらなくてはなりません。しかし、現行法下において、既に身体的暴力が認められない場合でも子どもは警察の素朴な感じ方によって母親に連れ去られているわけです。児童保護のケースもそうですが、子どもが親から強制的に分離される場合に、実質的に裁判所が関与しないのは日本だけではないでしょうか。国際的批判を浴びているところですが、あまり報道もなされません。この結果子どもが同居親から虐待を受けていたり、同居親の交際相手から虐待を受けていることこそ問題なのです。
裁判所は、両当事者に公平に、申立書と答弁書など両当事者の意見を聞いて、子どもの心理や行動科学精通した調査官が調査を行って子の監護について判断する建前を持っていますが、警察にはそのような建前すら初めから用意されていないのです。

<ある一断面だけで、夫婦関係を評価してしまうこと>

どうしても警察がこのような対応をしてしまうのは、経過のある夫婦の人間関係のある断面だけを見ているという理由もあります。それは被害を受けた妻を見ているというのは不正確で、被害を受けたように精神的にダメージを受けている妻だけを見ているということにあります。大人が一人、とても不安な様子を見せていて、精神的に消耗しているようだ。これには理由があるはずだ。誰かが、妻を子のようになるまで攻撃していたに違いない。DVがあったに違いない。原因がなければ結果はない。というこれまた素朴な感想のもと事実を決めつけてしまうようです。だから、統合失調症で包丁を持って暴れた妻の方を保護するわけですし、子どもがけがをしていれば、父親の児童虐待があったはずだということになるわけです。乳児の脳挫傷があればゆすぶられ症候群があったはずだという論理です。しかし、私が「思い込みDV」となずけたように、疾患によって、不安が増大し、収拾がつかなくなる情勢はとても多くいます。その不安や焦燥感について、何も根拠がないのに夫のDVがあると妻を説得する警察、役所の相談員は事欠きません。事実関係を吟味しないのです。少し常識的な考えで話を聞けば、不合理な事実関係があることは本来すぐにわかるのですが、素朴な正義感がそれを邪魔するわけです。

<警察庁自身の立場は私と同じであること>

このように、警察が家族の問題に介入すると、家族が崩壊する方向にしか進まなくなります。これは、警察官が横暴だというわけではなく、そういう職業だということなのです。むしろ、素朴な正義感が家族調整には邪魔なものだということなのでしょう。これは、私が警察官を低く評価していっていることではありません。警察自身が言っていることです。インターネットで検索できると思いますが、平成25年12月20日付、警察庁生活安全局長、警察庁長官官房長、警察庁刑事局長連名の通達において、身体的暴力があったときでなければ、警察が家族紛争に介入してはならないことについて、「精神的暴力や性的暴力は犯罪に該当しない行為を幅広く含むものであるため、警察がこれに実効ある措置をとることは困難であり、他方、警察による配偶者間の問題に対する過度の関与となり、その職務の範囲を超える恐れがあると考えられるためである。」と全く正しい認識を示しているのです。

さて、現在、国の方では、身体的暴力がない場合でも警察の関与を拡大しようとする動きがあるようです。これらの警察の能力の限界が変わる何らかの事情があるのでしょうか。ないとするならば、どうして拡大することのデメリットを防止するつもりなのでしょうか。


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懲戒権の廃止、体罰禁止に反対する。親権と懲戒権の本当の関係。そして国民が警戒しなければならない改正の本当のデメリット。 [弁護士会 民主主義 人権]

国の機関である法制審議会で、民法の懲戒権規定を削除し、体罰禁止規定を設けるという動きがあるそうです。私はこの動きに反対します。懲戒権の規定は残し、体罰を禁止するべきではないという意見です。

法改正の理由は、子を虐待した親が、「虐待ではなくしつけだ。」という言い訳をするから、懲戒権規定を削除し、体罰を明文で禁止ししなくてはならないというのだそうです。

これだけ聞けば、「虐待は禁止されるべきだ。虐待につながる体罰は禁止されるべきだ。虐待が減るなら懲戒権なんてわけのわからないものはいらない。」とつい反応してしまうことは当然かもしれません。法改正の動きに反対する私に対しては、「虐待を肯定するのか」という怒りの反応もあるかもしれません。反対することがはばかられるような空気もあると感じています。しかし、私のひねくれた感性は、この法改正の動きは誤った方向への大衆扇動ではないかと反射的に警戒心がわくのです。その心を少し分析していきます。

まず、「しつけのつもりだった」という虐待親の言い訳が、民法の懲戒権規定と何か関係があるかのか皆目見当がつかず、関係はないと考えるべきではないかと思うのです。子を虐待する親は、反射的に、感情に任せて攻撃しているのではないでしょうか。面白がって、虐待して動画をアップしているのではないでしょうか。少なくともこういう虐待を徹底してなくすべきです。乳児を虐待する動画をアップして笑っている人間が「しつけのつもりだった。」と言っても、無視をすればよいだけだと思います。

いったいどの虐待事例が、しつけのつもりで行ったのに虐待となったのか、審議会は説明するべきです。「虐待をするつもりではなく、しつけをするつもりだった」というたくさんある虐待親の言い訳のうちの、どの事案はその発言が真実だというのでしょうか。「ああ、そうだね、虐待するつもりではなかったのだよね。」という事実認定が行われなければ、「懲戒権があるから虐待を正当化してしまう」という理屈は出てきません。でもそんなこと考えて虐待する親なんていないと思います。そんな言い訳を肯定した上に立った法改正が行われるということになりますが、とても説得力はないと思います。少なくとも懲戒権を廃止することは、虐待防止以外の目的があることを隠しているのではないかと疑う必要性があると思います。

そもそも、懲戒規定が民法で親権者に認められているということについて、どれだけ多くの虐待をした親たちは知っていたのでしょうか。弁護士の私ですら、懲戒権という規定は実務にあまり出てこないということもあり、そんな規定があることすら忘れていました。虐待をした親が、「民法には懲戒権があるな。よし、これを行使することとしよう。少し厳しくなりすぎても懲戒権が規定されているから自分の行為は正当だ。」と考えているというのでしょうか。あまりにもばかばかしい妄想です。初めから懲戒権を敵視していて、虐待事例を都合よく使っているという印象しかありません。

私の、虐待は感情的に行われる、あるいはしつけとは無関係に行われるという第1の結論、虐待親は民法の懲戒権を意識して虐待をしているわけではないという第2の結論が正しければ、懲戒権規定を削除したところで、虐待は減らないということになります。特に、感情的な虐待や、SNSで動画をアップする虐待は懲戒権規定とは全くの無関係だから、そのような虐待の数は減らないでしょう。

さて、法制審議会が敵視する懲戒権は、どのような経緯で民法に定められたのでしょうか。どうして、親権者が懲戒権を有すると定められたのでしょうか。
日本には、明治以来3つの民法が制定されました。当初の民法を明治民法ということとしますが、この中では親の子に対する教育義務が定められています。この明治民法は、日本の風土になじまないということで、間もなく改正されます。改正された新しい民法を旧民法と言いましょう。そして戦後に改正がなされて現在の民法があるということになります。旧民法で、親権者を定め、親権の内容として、法定代理権、監護権、懲戒権を規定し、現在の民法が引き継ぎました。
大事なことは、旧民法において、親権の内容として、懲戒権を定めたのはどうしてかということをきちんと理解することです。

現在の無学な人たちは、旧民法は封建的な内容であり、親権とは親の子を支配する権利だと決めつける人が多いのです。はなはだしい間違いとして、戸主の権利だという人までいます。これは完全に間違っています。実に嘆かわしい。旧民法は、現代と異なり、政治家が作ったというよりも、法律家が意見を述べて作っていったという時代です。国会の議事録だけでなく、学会の議論の様子からも立法理由を知る手掛かりになります。

まず、親権をだれに帰属させるかということについて、一応議論はなされているようです。考えられるのは天皇(国家機関としての天皇)、戸主、親の3つの主体に親権を帰属させる可能性があったわけです。封建制度であれば、領主に親権を持たせるという可能性もあったわけですから、明治時代は天皇にという法的技術を使うということはあり得たのではないでしょうか。実際の議論では、天皇に親権を抽象的に与えて誰かが代理するという議論は全くなく、圧倒的多数は親に親権を与えるという考えでした。ここで旧民法が父親としたのは、女性に権利能力がないという規定だったために、母親が法定代理権を行使することが難しいという封建的男女差別があったからです。戸主に親権を与えるべきだという少数説がなかったわけではありません。ここで戸主ということを夫と誤解している人がいるのですが、戸主がトップに立つ「家」というのは、血縁を通じた何家族かまとまった家族のユニットでした。ユニットと言っても戸籍上まとまっているだけで、別々に住んでいたわけです。だから、旧民法下では、上京してきた夫婦に子どもが生まれても、なかなか戸主のいる親の実家の役所に届け出ることができず、実際の生まれた日から戸籍上の誕生日がだいぶ遅れた日になっているということが当たり前のようにありました。夫であっても戸主ではない男たちはたくさんいたわけです。ここ大事だと思います。それでも、戸主という概念を国が作りましたから、親権も戸主がもち、戸主の指導で親が行使するということは考えられたようです。それでも圧倒的多数の学者は、親が持つべきだと考えました。

多くの学者が親権者を親と定められるべきだと考えたのは、親権というものは、親が子を支配する権利ではなく、子どもを健全に成長させる親の義務という感覚だったようです。明治民法でさえ、教育義務を明記しています(ここは、父親と母親の双方に義務を課しています。)。子どもを健全に成長させるために必要な権能として、親権が認められたという流れになります。変な契約によって子どもが不利な債務を負わないためなどの法定代理権、子どもが健やかに育つために適切な住居を与えて、適切なかかわりをするという監護権、子どもが間違ったことを行って、生命身体の危険が発生することを防止したりや社会的に致命的な状態にならないように懲戒権が認められたということなのです。親権はこのような子どもの健全な成長を図るための権能ですから、自然な愛情を持つ親が親権を持つことが必要であり、親こそが最もよく親権を行使できるだろうという考えからでした。子どもがあったこともない戸主に親権を与えるのは理由がないということで、親が親権を有するということになりました。

これに対して、親権は親の支配権だと主張した学者がいないわけではありませんが、一人だけだったようです。どうして、そのような考えがあったのかについては興味があります。というのも、法律は、有象無象のあらゆることを解決する基準を簡潔な言葉で定めているわけです。無駄な条文は法律とならないわけです。子の支配権をだれが持つかを明らかにする必要がなければ支配権の定めを法律で定める必要はないはずです。支配権だと主張した学者は、それを明確に定める必要があると考えたのだということになります。そうだとすると、国でも戸主でもなく、親が子を支配するということを明確にするべきだという結論になることになります。そうだとすると、子どもからすれば支配されることになるのかもしれませんが、法的には、国家や戸主から親が独立して子どもにかかわることを正面から認めたという自由権的な発想だったのかもしれません。

明治の学者たちと同じく「親権とは親が子どもを健全に成長させるための権能だ」と考えた場合、おのずと懲戒権の内容は制限されます。
一つは、その懲戒権の行使で、子どもの身体生命の危険が発生する行為は、懲戒権の行使として認められないということになります。命が失われるような持続的な食事制限、暴力は子どもの健全な成長とは矛盾しますので認められません。手術をすれば命が助かるのに、それをさせないという場合も認められないでしょう。社会的に致命的な状態になるような、子の進学を理由なく許可をしない行為とか、職業訓練の妨害など収入を得る道を妨害する行為などが該当すると思われます。そして、実際に、現行法でも、こういうような行為は、裁判所でも同じように扱われて、親権の停止が決定されています。
乳幼児が泣き止まないということを懲戒しても健全な成長とは関係がないので、そのことを理由にした叱責や暴力も親権の行使でも、懲戒権の行使でもありません。

このような懲戒ではなく、子どもが間違った道に進むような場合や、命の危険のあるような行為をやめさせるための懲戒や体罰については、誰かがやらなければならないことだと私は思います。どういう場合にそれをやめさせるべきだと判断することはやはり親が一番ふさわしいと私は思います。

騙されて暴力団に加入を勧められて心が動いているという場合、一定期間通信手段や移動手段を奪い、家に拘束することは、懲戒ないし体罰に当たりかねませんが、私なら虐待だと言われてもそれをするでしょう。

実際にあったケースでは、自宅近所に沼があり、沼に落ちての死亡事故も多数あるために、沼に近づかないように言っていた。しかし、小学校低学年の男子の子が友達と遊んでいるうちに、うっかり沼に近づいて、そこで暗くなるまで遊んでいた。母親が探しに行ったらそこにいるのを発見しました。このため母親が、自宅で、自分も正座して、子どもも正座させて、腕を出させて、しっぺのような体罰を与えたという例がありました。この母親が外国人で、夫と離婚したシングルマザーで、地域から孤立していたということがありました。自分の国では、当たり前の懲戒なので、子どものために迷わず体罰をしました。そうしたところ、児童相談所がやってきて、子どもを保護するという事態になってしまったのです。

うまく子どもを説諭して、子どもに危険に近づかせないようにできればよいでしょう。しかし、それがうまくいく大人だけではないことは、自分を振り返ってもそう思います。まして、命の危険のある行為が行われた場合、驚いて、あるいは心配のあまり、頭が真っ白になってしまい、うまく言葉でいうことができない場合があると思います。懲戒や体罰をしないで済む親もいるでしょうけれど、そうしなければ命の危険を防ぐことができない親もいるのです。そんな親から懲戒や体罰を奪ったら、誰が子どもを命の危険から守るのでしょう。

子どももの方も同様です。沼に近づいたところで、あるいはちょっと足を入れたところで直ちに命の危険が生じることはありません。そのため、子どもは近づくこと、ちょっと水をいじることは「危険ではないと学習してしまう」のです。でも、足を滑られせたり、転んだり、勢いがついて沼の比較的奥の方に落ちてしまうと、何かに足がからまったり、心臓マヒを起こしたりして、死亡するわけです。でも安全学習しているので、危険だとは思わなくなっている。そうすると親から体罰を受けるから、大目玉を食らうから近づかないということも、年齢が低い場合は特に有効な命を守る手段となると思います。子どもを守ることはきれいごとではありません。
どこまでが許される懲戒か、どこまでが許される体罰かということは、線引きが難しいかもしれません。だからこそ、親にある程度の裁量を与え、各家庭で両親が話し合って決めるべきことだと思います。
世の中には、立派な親、立派な子どもばかりがいるわけではないのです。これは、親としての自分、子どもの頃の自分を振り返れば、強くそう思うのです。

親から懲戒権を奪い、体罰を禁止することを全国画一的に決めてしまうことが恐ろしいと私は思うのです。これでは、自由権的意味の親の子に対する支配権も奪われてしまう危険があるのではないでしょうか。つまり、国家によって、子どもが支配されてしまう危険があるということです。国家や自治体の気まぐれのようなその場の判断、偏見に満ちた先入観で、子どもを親から隔離してしまうということが、頻繁に起きる危険があるということです。

懲戒権を削除するという考えの人たちも、しつけを言い訳に虐待する人たちが民法の規定を正確に把握して、これを虐待の言い訳にしていると本気で考えているわけではないと思います。社会常識として「親が子どもをしつけるものだ」ということが、民法の懲戒権規定と何らかの関連があるというくらいの話だと思います。私はそれさえなく、民法の懲戒権は虐待の動機とはほとんど無関係だという立場です。この人たちの考えが仮に少しは的を射ているというならば、懲戒権を削除することによって、「親が子どもをしつけるものだ」という社会常識さえも否定しようと考えていることになり、それを狙っているということにはならないでしょうか。虐待をした親たちが、虐待の言い訳に「しつけ」を語ったばっかりに、親がしつけをすることさえも否定してしまう風潮を作る効果を期待しているように思えてなりません。私は、端的にすり替えであり、懲戒権を削除する理由としては成立していないと思います。
こういう人たちは、「子どもは親から独立した独自の権利主体である。」ということをよく言いますが、そのことと親から分離することは全く違います。子どもは発達する時期の人間であり、発達のためには適切な親のかかわりが不可欠です。親から独立させることが子どもの権利ではありません。親から引き離されないことが子どもの権利条約の内容なのです。

推進者たちの本音を以下のように考えると理解ができるのです。
つまり、今回の法改正は、もともと親による虐待そのものをダイレクトに減らすための削除ではないということです。児童相談所や警察が、家庭に入りやすくするための口実なのだということです。もっとも、児童相談所や警察が家庭に入って、虐待されている子どもを保護しやすくして、間接的に虐待を減らすということを狙っているのではないかということです。しかし、そうあからさまに言うと、リベラルを標榜する人たちからの反発が来る。このため、「児童虐待防止」ということを前面に掲げることによって反対することができない風潮を作ることができる。最近あった虐待事件を感情的な意味で大いに利用できる。そういう押し出しをしても嘘をついているわけではないということなのではないかと疑っているわけです。
しかし、警察や児童相談所という強い権限を持つ組織が家庭に入ると、そこには強い効果が生まれてしまいます。なるほど、虐待から命を救う案件も出てくるかもしれませんが、本来家庭に入るべきではない事案で公権力が家庭に入っていき、親子分離をして、子どもの将来に悪影響が及ぶ事例も必ず出てきます。

なぜ、公権力が介入しやすくなるかというと、警察の場合、刑事事件がないと捜査という形で市民生活に介入することができません。傷害が起これば、傷害罪や暴行罪ということで捜査介入できそうですが、そこに懲戒権の行使という「正当事由」が認められれば、実際は警察の捜査はやりにくくなります。児童相談所も、親権の行使と言われて声高に叫ばれると、子どもの保護はやりにくくなります。これに対して懲戒権規定が削除されると、刑事的な正当事由を言い出しにくくなり、体罰はすべて禁止ということになると、家庭に介入しやすくなる。こういう流れです。

しかし、実際に児童相談所が介入しないケースは、親からの反発を恐れてのことであり、法律を解釈しているわけではありません。また介入するケースは、親が孤立しているケースが多いように思います。親が外国人の場合、親が一人の場合、親が何らかの疾患を患っている場合、親が被災者の場合もありました。また、親が生活保護を受けている場合ということが圧倒的に多いような実感もあります。つまり、介入しても返り血を浴びにくいケースです。

実際の法改正の効果は、事実上親の反発が面倒な事例の介入を促進させることはしないでしょう。ますます、孤立している親から子どもを隔離するという事例が増えていくだけだと思います。最悪のケースは、抵抗する親を警察を使って拘束して、そのすきに子どもを保護するというケースです。保護の必要性があるケースならばよいのですが、そうでもないケースだからこそ親が抵抗するのだと考えた場合、冤罪保護事例は増加する危険があります。

現に、現在でもいわゆるDV法で、妻が夫の手を振り払って、夫の爪が肌に当たりけがをしたというケースでさえも、警察は立件するようになっています。警察の家庭への介入は加速度的に増えています。奇妙なことに、今回、懲戒権を廃止し、体罰を禁止しようと行動している人たちは、夫婦間でも同じような立場の人が多いように感じます。家庭の問題は警察の力で解決しようという立場です。

法律や政策には、完璧な政策、つまり、万人にメリットがあり、デメリットがないという政策はありません。だから、法律を議論する場合は、必ず両者を国民に提示して、国民がどちらを選択するかを決められる建前を作らなければなりません。日本は、政治過程や立法過程において、このメリットとデメリットが提示されないことが通常の状態になっています。いわゆる賛成か反対かだけで、賛成者は必要性や有効性ばかり声高に主張し、反対者はデメリットだけを強調するという形です。今回も法改正推進者は良いことばかりを言っているようです。
今回の改正は、家庭に中に児童相談所や警察が入ってきやすくするという効果が起きる場合は、そのデメリットを心配して法案を警戒することが、民主主義の発達している国のやり方です。二大政党制となっている国では、政権交代が容易に起こるという特徴から、一方が政権をとっている場合は、他方はリベラル的観点から反体制派として政権を批判します。そうして民主主義の土台である、「国家からの自由」を維持しようとするわけです。ところがわが国では、政権交代を目指している野党がほとんどないため、このようなリベラルの視点に立って、法案を警戒する政党が無いようです。どこからも法改正反対の意見は聞こえてきません。反体制という視点を民主主義の要素とみておらず、犯罪の一種だと野党自身が考えているということなのでしょう。民主主義や人権の観点では日本は後進国のようです。

我が国のリベラルを自称している人たちが、警察の家庭介入を、様々な場面で促進している始末です。デメリットがあることを決して明らかにはしません。実は日本の戦争も、米英の日本に対する不利益取り扱いばかりを強調し、戦争開始に反対できない素地を作って、論理を飛び越えて戦争開始の世論を形成していったという側面が色濃くあるわけです。今回も虐待防止を大義名分として、誰も反対できないような空気を作り、虐待防止との関連が良くわからない法改正がなされようとしています。戦争遂行と同じような国家意思の形成に誰も疑問を呈することができないような状況となっているように感じます。これは明らかな大衆扇動の一種です。

私は、今回の法改正のメリットが考えにくく、デメリットは確実にあると思いますので、懲戒権の削除にも、体罰の禁止条項の創設にも反対する次第です。




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埼玉医師殺人事件報道「母親の治療に不満」という見出し報道に対する疑問 1 死者の名誉 被害者に対する報道によるさらなる加害 [弁護士会 民主主義 人権]


令和4年1月27日にあった医師に対する殺人事件の報道に疑問を感じてモヤモヤしています。今日からはそのお話です。

報道では、30日日曜日あたりまでは、NHKニュースなどでも、「自分の母親に対する医師の治療に不満があったとみて警察は調べている。」等の表現を使っていました。
2月1日になって、共同通信配信の記事を各地の新聞紙は報じていますが、ようやく、細かい字の本文では「一方的に不満を募らせ犯行を計画した。」という表現になりました。
それでも、各地の新聞のデジタル配信では見出しは、「医師ら数人指名し呼び付け 治療に不満、以前から罵声」です。実際の紙面では、新聞によって違うのかどうかわかりませんが、インターネット配信では恐ろしいくらい同じ見出しとなっています。

どうなのでしょうか。

私は、最初、この事件が報道されたとき、被害者である亡くなられた医師に、「何らかの不誠実な対応があったために恨みを買ったのか」という印象をよぎらせてしまいました。しかし、すぐに、その医師が、若くして在宅医療を手掛けていることや患者さん方から厚く信頼されていることなど、様々な報道を目にしました。立派なことをやっている人だということを知って、黒い印象は自然に消えていきました。
その後、30日あたりには、26日に死亡した母親の弔問を医師に要求して丁寧に断ったことから犯行に及んだという報道が入るようになりました。それでも、テレビニュースでは、「治療に不満があったとみて捜査している」という表現を決まり文句として繰り返していたのです。ここで、報道に違和感があるということをはっきりと自覚するようになりました。これは意図的な表現なのだろうかとさえ疑うようになりました。
それらの「治療に不満」報道は、警察発表として報道されています。報道機関は、「自分たちが、犯人が医師の治療に不満を持っていたための犯行だと考えているわけではない。警察がそういう視点で捜査をしているという客観報道だ」と言わんばかりです。戦時中、「大本営発表」と言えば、大本営がこう発表しているという報道であるから、報道機関は真実性には責任を持たないというマスコミの姿勢を連想しました。
2月1日の時点では、犯人が、「以前にも医師に罵声を浴びせていた」、「一方的に不満を募らせた」という表現を報じているわけです。そうであれば、見出しも「医師ら数人指名し呼び付け 治療に不満、以前から罵声」ではなく、
「数人を指名し呼びつけ 医師らに以前から一方的な不満」とするべきなのではないでしょうか。相変わらず見出しは、説明なく「治療に不満」を繰り返していたのです。一斉連呼していたようなものです。細かい字では確かに一方的に不満を募らせていたと書いていますが、見出しは先入観を与えたり、印象を強めたりする役割があり、そのために見出しを付けているのですから、見出しがどういう印象を読み手に与えているかについて、配信元だけではなく、実際に配信した新聞社やテレビ局は責任を持つべきだと思います。
それとも、「治療に不満」という見出しでは、治療者に不満を招く原因があったように印象付けられることはなく、そう考えるのは私だけなのでしょうか。

このようなマスコミの表現に注目するようになったのは、昨年11月に中学生が同学年の生徒を刺殺したという事件で、マスコミは加害者が被害者によっていじめを受けていて、それが原因かのような印象を与える記事に接した時にもありました。
昨年12月の放火殺人事件の際もそうでした。トラブルがあったという報道が一方的になされました。
「マスコミの報道があまりにも被害者に配慮を欠きすぎるのではないか。被害者にもそれ相応の原因があるかのように聞こえる表現は改められないか。 大阪ビル火災事件の報道と中学生刺殺事件の報道に共通する問題」
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2021-12-20

今回マスコミが、あえて中立的表現を使ってきたのは、警察発表はそのまま報道するという不文律もさることながら、「加害者の人権」に配慮した可能性はあります。
今回の医師殺人事件では、「不満が難癖のような一方的なものなのか、不満を抱くことにある程度の正当性があるものなのかわからない。だったら、医師の行為に対して不満があったことは事実であるから、そう見出しを振ろう。」そのような考えがあったのかもしれません。
しかし、あくまでも見出しですから、それで私なんかは事件を知った気になるわけです。両方の可能性があるというならば、被害者である個人の名誉を害する危険のある表現をしなければよいわけです。動悸はわからないとして、わかった事実を記事にして、見出しにすればよいはずです。マスコミは、それをしませんでした。「治療に対する不満との関連性について捜査をしている。」ということは、ミスリードになる危険もあるし、報道しなくてもよかったことではないでしょうか。加害者の人権に配慮することによって、被害者の人権侵害の危険を発生させているというのでは明らかに本末転倒です。対立する一方に配慮することは他方を傷つける可能性があるということを、あまり理解していないのではないでしょうか。被害者やその家族は、加害者によって被害を受けた後に、マスコミによってさらなる被害を受けている危険があるわけです。

中学生の殺人事件や大阪の放火殺人事件は、マスコミではもうほとんど取り上げられていません。人々の記憶からも失われつつあるのかもしれません。最初の報道だけに接して、その後の詳細な報道を知らない人々の少なくない人たちは、中学生の事件はいじめの結果の事件だとか、大阪放火殺人の事件はトラブルから事件につながったと思っている可能性もあるわけです。ご遺族の苦しみだけが、いつまでも続いていく可能性があるのではないでしょうか。

真偽が不明であり、被害者をさらに追い打ちする可能性のあることは、警察が発表しても報道しないというルールを作るべきだと感じました。


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マスコミの報道があまりにも被害者に配慮を欠きすぎるのではないか。被害者にもそれ相応の原因があるかのように聞こえる表現は改められないか。 大阪ビル火災事件の報道と中学生刺殺事件の報道に共通する問題 [弁護士会 民主主義 人権]


大阪のクリニック火災事件で、お医者さんがお亡くなりになった
という報道に接しました。
その中で、警察は、放火事件であるとみていることが報道され
放火犯人とクリニックの間でトラブルがなかったか調べている
との報道がテレビなどで繰り返しなされました。

どうなんでしょうか。
私は、こういう表現を聞くと
亡くなったお医者さんという被害者にも何らかの原因があって
今回の事件になった、ということが示唆されているように
聞えてきてしまいます。

(もしかしたらそう聞えてしまうのは、私が特殊なのかもしれません。
その場合は謝りますし、以下は私の言いがかりということになるでしょう。)

多くの人が亡くなった事件ですから
警察があらゆる可能性を捜査することは当然です。
問題は、どうしてクリニックと加害者のトラブルの捜査
だけを報道するのかというところにあります。

このような被害者の落ち度報道は現在(事件後の月曜日)ではなされていない様子で
そのような報道が前になされたということも
インターネットでは調べにくいようになっているようです。
おそらく該当記事の全部ないしその部分が削除されているようです。

代わって、お医者さんのお人柄や業績が
丁寧に報道されるようになっています。

しかし、このトラブル報道にはもう一段階の問題点があるようです。

このお医者さんのお父さんが、
「お医者さんがトラブルを抱えていたということを言っていた。
それは警察にすべて言っている。」
という報道があり、これはまだ修正されていません。

しかし、NHKの詳細な報道によると
先ずマスコミの記者が、お医者さんのお父さんに
「何か犯人との間にトラブルがあったのではないか」
と尋ね、お父さんは
「相談は受けていたが、詳しい内容はわからない。」
というような回答をしたということが真実らしいのです。
その相談されたトラブルというのが、本件の犯人とのトラブルなのかどうかも
わからないとおっしゃっているようです。

つまり、お父さんが
自分の子どもであるお医者さんが「放火犯人とトラブルを抱えていた」
と言ったわけではないのです。

それにもかかわらず、マスコミは未だに
「父親によればトラブルがあった」と報道し続けているわけです。
あたかも父親によれば、「院長と犯人の間にトラブルがあった。」
と言っているように印象付けられる表現となってしまっています。

私がなぜここにこだわるかということなのです。

トラブルという言葉には様々な人間関係の不具合が含まれてしまいます。
どうしても人間関係の相互作用によって生じた不具合であり、
双方に何らかの問題があったように感じてしまうのです。

例えば、一方的な悪意がある犯罪の場合等は
トラブルという言い方はしないのではないでしょうか。
確かに元夫婦の間のストーカー事件などの場合は
トラブルがあったという報道のされ方はするかもしれませんが、
一方的に町で目をつけられてストーカー被害にあった
などという場合はトラブルがあったとは言わないと思います。

本件は確かに真相がまだ明らかになっていないのですが、
そうであれば、なおのこと
被害者の一人であるお医者さんに原因が無くて
一方的に事件に巻き込まれた可能性もある
ということなのだと思うのです。

そうだとすれば、一方的に被害にあってお亡くなりになった可能性があるのに
多くの方々がお亡くなりになった事件について
何らかの被害者の原因があるかのように示唆する報道をすることは
とても納得できないのです。

何もわからない段階で被害者に落ち度がある可能ような報道表現は慎むべきだろうと
そう思うのです。

これは11月に起こった中学生が腹を刺した事件の報道でも見られました。
未成年者の重大事件であるにもかかわらず
警察の断片的な捜査情報を意味ありげに報道し
あたかも加害生徒が、被害生徒からいじめを受けていたかのような
印象を与える報道表現がありました。

これ、子細に報道を読むと、
いじめと言っても深刻ないじめがあったわけではなく
広すぎる文科省の定義に照らしても
「いじめ」と言ってよいかわからないような出来事を言っているだけだ
ということがわかるのですが、

特に知識がない人が何か別の用事をしながらテレビなどを聞いていると
いじめられた報復に腹を刺した
というような印象を受けてしまっても仕方がないような報道だったと思います。
いじめという言葉を効果的に使っているように感じました。

この報道は亡くなった生徒さんのご遺族を深く傷つけたようです。
それは当然のことだし、報復報道をする段階で
ご遺族の心情を考えなければならなかったことだったと思います。

私は二つの報道表現には
共通する報道姿勢を感じるのです。

1つは、事件は、常に、一方的に起きるものではなく
被害者にも誘因があるはずだという姿勢、
1つは、被害者という絶対的善の裏の顔を「暴く」ことが
報道の仕事だという姿勢
1つは、面白ければ、その報道表現によって人が傷つくことに
配慮を示さない姿勢

もう1つが、警察との関係についてです。

どちらも警察発表を垂れ流していて
自分では何ら裏をとらない報道になっています。

マスコミの話では事件報道は
警察が正式に発表したからには報道しなくてはならない
という不文律があるとのことですが、
そうであれば、日本マスコミの伝統である
大本営発表が脈々と生きながらえているということになります。

そして、事件報道にすぐに興味がなくなってくる消費者に対して
誰かが傷つこうが、真実はどうであれ
警察発表の使える部分を使って
消費者が飛びつくような報道をしようとしているのではないか
という心配があります。

それは「一見正義のように見えて、実は不正の者を糾弾すること」が
消費者の飛びつくスタイルだとでも考えているようです。

中学生の事件ではそれが大成功で、
インターネットのコメント欄の閉鎖がなされるほどだったようです。

二番煎じが失敗しそうなのが
今回の放火事件です。

マスコミの初期報道は、
中学生事件と同じ構造をたどる姿勢が垣間見えました。
何も反省せず、同じ被害者攻撃を繰り返そうとしたように見えました。

しかし、インターネットでも、これに対する反応は鈍く、
むしろ警察や報道姿勢を激しく批判する真っ当な意見が
多く見られました。

そういう国民の反応を敏感に察したか
初期報道に対するマスコミ内部の自浄作用があったのかわかりませんが、
露骨なトラブルの存在の報道は影を潜めていますが
父親の発言は、マスコミが誘導した結果の要約にもかかわらず
父親の話のような報道が訂正されないまま掲載され続けています。

事情を分からないままの印象付け報道や
(トラブルがあるかどうかわからないのに、警察がトラブルがないか調べているという報道の類)
事情を分かっているにもかかわらず、印象的な部分の切り取り報道
(父親がトラブルがあったと言っていないのに、そういう風に言ったと要約する報道)
は、なにもこの二つの事件だけでなく、
私がかかわった案件の報道でも見られるところです。

そんなこと報道していない。
そういう印象受けるのところまでは感知しない。
誤解や悪意の読み方であり、マスコミには落ち度がない
と言っているかのような表現になっています。

「マスコミなんてこんなもんだ。」
というところを暴露することが
一番消費者が喜び、
マスコミを健全化するという意味では社会的意義のある
報道になるのではないでしょうか。

なぜ、中学生事件は、
警察の捜査情報を無批判に垂れ流したのか
報道をしなかったマスコミはあったのか。
その報道によって深く傷つく人たちがでるということを
考慮したのか、考慮しなかったのか
考慮したとすれば、どうして報道に踏み切ったのか。
加害者の一方的な話が、真実ではないかもしれないということは
報道を抑制するきっかけにはならなかったのか。

なぜ、トラブルという表現を使ったのか
父親の発言としてトラブルという言葉を使ったことに
問題があったとは思わなかったのか
そのような報道をしなかったマスコミはあったのか。

警察の情報としてトラブルを調べているという報道について
その派生効果を考えたマスコミはあったのか
どうしてその報道をやめることができなかったのか

その原因は
警察の情報を必ず報道しなければならないということなのか
その方がインパクトがあるということなのか

そういうことを検討して、
あるべき報道表現ということを
マスコミ自身が国民と一緒に考えていかなければ
いつか来た道に戻ることを国民は心配するべきでしょう。


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若い人がフェミニズムを嫌うという電通の調査に寄せて、 YOKO ONO ’I want my man to rest tonight’ [弁護士会 民主主義 人権]



先日、尊敬している若手女性弁護士の方が
フェイスブックで電通調査の記事を紹介されていました。
私は常々、この先生の着眼点の鋭さというか
紹介の気負いのなさというか
自分にはないものをお持ちだということで注目していたのですが、
いつものようにシェアしていたら、
先生の記事まで引用されていたことに何日か経って気づき
見ようによっては先生を批判しているようにも見えてしまいそうなので
慌てて削除した次第です。

という言い訳から今日は入るわけです。

その記事というのが電通の調査の記事で
若い人ほど「フェミニズム」が嫌いで
女性活躍政策も支持しない
という傾向があるということを紹介したものでした。

ちなみに、私がシェアしたときのコメントが
フェミニズムが嫌いなことと女性活躍を応援することは矛盾しない
というようなことだったと思います。

「フェミニズム」が好きか嫌いかという質問も
漠然としているためにどうかと思うわけです。

フェミニズムは時期によって
その主張内容や、活動方法が
全く別だからです。

ウィキペディアによると
女性参政権運動や社会主義に基づく女性の権利・地位向上、男女同権を求める運動を中心とした第一波フェミニズムに対して、文化・社会に深く根を張る意識や習慣による性差別と闘い、主に性別役割分業の廃絶、性と生殖における自己決定権などを主張した運動が第二波フェミニズムである[1]。
としています。
もっともこのウィキの記事は、どうやら第三波の考えによって第2次フェミニズムを解説している傾向が強く、第三波との共通点を強調しているように私は感じます。
もっとも第二波フェミニズムは、様々な思想的背景などから様々な主張がなされています。第二波とひとくくりにすることにも無理があるかもしれません。

現代のフェミニズムは第三波というそうです。

年配の人がフェミニズムに対する嫌悪感が少ないというのも
これはよくわかる。
私より上の世代は第二次フェミニズム運動と呼ばれる時代の
その時のフェミニストたちの主張や活動が念頭にあり
必ずしもすべてに賛同はしないとしても
共感できる部分が多くあったからだと思います。

私は、フェミニズムという言葉と最初に出会ったのは
オノヨーコさんです。
現代の三波の皆さんが彼女をどう評価しているのかわからないのですが、
彼女の主張するフェミニズムは、私はすんなり共感できるものでした。

そのヨーコとの最初の出会いは、敢えて邦題で紹介しますが、
「無限の大宇宙」というアルバムでした。
その中の、 ’I want my man to rest tonight’ という曲です。

是非、曲名と歌詞 で検索していただき
グーグル翻訳などで訳していただきたいのです。

実はこの時期ヨーコはジョンと別れて、失意の中にあり
新たな展開として豪華ミュージシャンが参加して
無限の大宇宙をレコーディングしたようです。

山口百恵がデビューしたころに、日本でリリースされました。
ジャケットはヨーコの横顔が大写しになっていて
今見ると何でもないのですが、
当時はひどく怖かった思い出があります。

女性上位という言葉もあった時代ですから
無限の大宇宙のジャケットは、何か怖いものの象徴でした。

その当時はさすがに小学生だったもので
ヨーコの曲を聴く機会もなかったのですが
少しして中学生になってませてきて、
何かの機会でこの歌詞を目にした時、
「ああ、救われる」という形で強く強く共感しました。
よく聞いた記憶があるのですが、海賊版にでも入っているのでしょうか。

歌詞の内容を少しだけ紹介すると

ヨーコが女性に向かって歌う歌なのですが、

あまり男性を厳しく責めないでよ
彼らも頑張っているんだから
彼らは男だからって言われて無理させられている
だから、私は、彼に今夜はゆっくりしてほしいと願っているの

みたいなところで間違いではないでしょう。

つまり、女性が女性らしさを強制されているということは
男性も男性らしさを強制されているということで
お互いが性的決めつけから解放されることで
世界は平和になる
といわれたような気になったということです。

ああ、そりゃあそうだよなあ。
と、もろ手を挙げて賛同したわけです。

その頃から、ふつふつと男らしさなんてやせ我慢みたいなものだ
というハードボイルドの哀れさを理解するようになったというか
紅白歌合戦では紅組を応援してよいんだという意識になっていったわけです。

でも、「男らしさ」を捨てることは繁殖期を過ぎるまでは難しいものです。

平和の問題も第二次フェミニズム運動は当たり前のように取り上げていました。
女性らしさとは、男性らしさと根が一つだということを見抜いていたからこそ
男性らしさが、戦争遂行など、他人と物理的に戦うための
思想統制的な道具だったのだということを主張していました。

そのときは理解できなかったのですが
男も髪を伸ばしてふらふらしているという
私の一つ前の時代のヒッピーの思想って
そういう主張もあったのかなと今では想像しています。

(それを理解できない当時の若者たちが
既存の価値観にやみくもに反発して
麻薬などに手を出していたのではないかと。

いずれにしても、大ざっぱとか極端というのはろくなことにならない。
反対勢力からのツッコミの提供になってしまう。)

前も真面目に言いましたが
男らしさ(ジェンダー)と「闘い」ということは
切り離せない問題だと思っています。

本来であれば、200万年前には人類は
この男らしさを、少なくとも人間相手には捨てていました。
人間はチンパンジーと別れて犬歯が極端に小さくなるころには
闘いを好まない動物種になっていたはずなのです。
せいぜい食料として動物を狩ることと
肉食動物から仲間を守ること
という意味合いでだけ戦う動物種だったということです。

また、心が成立したと言われる200万年前は
一生をかけて出会う人間はおそらく99パーセント仲間だったわけで、
戦う必要性もなかったようです。

ところが、農耕が始まり人間の個体識別能力を超えて
多くの人間と利害関係を有するようになって
自分達を守るために、自分たち以外の人間を攻撃できるようになってしまった。

しかし、道徳や宗教によって、それも地域の秩序が形成され始めれば
徐々に闘いも減るはずだったのですが、
さらに移動距離が長くなってしまったために、
本来利害対立しないはずの遠方の民と
無理やり利害対立の場面を作り出して戦いが始まってしまった。

帝国主義的侵略や帝国主義国家相互間の戦争
というように言うらしいですよ。

だから、日本でも
遠すぎて見たこともないような外国をさして
日本の生命線だとか、絶対死守だと言っても
戦おうって気には自然にはならないはずでした。

しかし、明治以降の勧善懲悪という男らしさの教育が起き
義を見てなさざるは勇なきなりなんてことで
チンパンジーと共通祖先の頃の男性の本能を無理やり呼び起こされて
なんだかわからない怒りを持たせられて死地に追いやられたのでしょう。

私は戦争遂行のイデオロギーで一番重要なことは
この怒りに火をつけるシステムだと思います。
過剰な正義感、無謀な責任感がその油になっているわけです。
単純な、戦いたくなる感情、怒りやすい感情を
戦前の政府はコツコツと培養していったわけです。

(でも現代も、この傾向は、やはり戦前と同じようにマスコミによって
 細々とかもしれませんが、脈々と栽培されていると私は思います。
 過剰な正義感、無謀な責任感、そして二項対立、怒りをあおる報道
 には最大限の警戒が必要だと思います。)

かまやつひろしの「我がよき友よ」(作詞吉田拓郎)で
「男らしいは優しいことだと言ってくれ」
と歌ったのはこういう思想的背景が何となくあったのでしょうね。
男らしさとは、戦うことではないということでしょうね。
そして、戦争のイデオロギーが残存し、行動成長に使われたという
男性労働者たちの意識的あるいは無意識の実感から、多くの強い共感を
なんとなく得たのだと思います。

第2次フェミニズムが男性からも支持を受けたのは
無駄に男女間の対立をあおらなかったからではないでしょうか。

フェミニスト達も、男性をジェンダーバイアス越しに見るのではなく、
男性も本性は同じ人間であり、
作られた男性像を押し付けられているだけだと
少し余裕をもって、堂々と上から男性を見ていた
ということが言えるのではないでしょうか。

案外それは、男性にとっても自然で心地よいものだったのかもしれません。

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