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G7男女参画会議についての違和感 前提論理や価値観は、女性の地位の向上や家族の生活の向上とは逆行するのではないかという疑問 [弁護士会 民主主義 人権]

栃木県日光市で開かれたG7男女共同参画・女性活躍担当相会合は、男女間賃金格差は複合的な要因があるとし、一つの要因として女性の職場での地位が低いということ、一つの要因として家事の負担が女性にしわ寄せされていることを述べ、家庭内の男女平等を目指すという一部報道がなされた。

一部報道というのは、この会議や日光声明についての内容のある報道を見つけられなかったからだ。翻訳が間に合わないためか、元々内容のある議論がなされていなかったのかどちらかではないかと思われる。

特定の価値観が所与の前提のような報道のされ方をしているが、こういう場合は大変危険な印象操作が行われている場合であることはこれまでも多く経験してきたことだ。少し上げ足という感もあるけれど、男女参画の本質があぶりだされるのではないかと思い、あえてコメントをしてみる。

1 そもそも女性の経済的自立ということは目標とするべきなのか。

  これは前提として、「多くの女性は経済的に自立していない」、「経済的に自立していなければ対等にはならない」という論理がある。そして、目指すべき方向として、女性の自立、地位の向上のためには女性も対等平等に働くことを是としている。そして、情報の受け手は、それが正しい命題だと疑問を持たないで受け止めている。

私は、ここにこそ疑問を持つべきであると思っている。家族の一人が賃労働等の就労をすることで、複数人の家族が幸せに生活できる社会ということこそ目指すべき方向なのだと考えている。家族の一人とは男性でも女性でもその家族で決めればよい。あるいは共稼ぎをすることにすることも含めて家族が決めればよい。

どちらが働くか、二人で働くかということには、各家庭に選択肢が持てるようにすることが目指すべき方向のはずだ。

ところがどうやらG7は、共稼ぎという方向を固定して方法論を検討していることになる。つまり、共稼ぎをしないと、望んだ生活ができない低賃金社会が固定されることを前提としているのではないかという疑念を持つべきだと思う。女性の経済的自立や社会的地位の向上という美しい言葉と、共稼ぎが必要な低賃金社会の固定は常にセットにあると警戒するべきだと感じる。

2 家事労働は平等になるのか、出産をするのは女性

現在の若者夫婦の多くは家事を分担している。専業主婦が減っているように感じられるが、専業主婦であっても夫は家事を分担していることが多い。共稼ぎの場合に、家事のほとんどを女性が行う家庭は私の担当する夫婦では聞かない。おそらくごく少数なのではないかと思う。

但し、公平に見て家事をほぼ平等で行っているとしても、一方の立場では相手の方が楽をしていると感じていることはよくあることだ。妻は夫は自分がやりたいことだけをやるといい、夫は半分以上自分がやっているということはよくあることだ。家事をどの程度シェアしているかについての客観的な指標を作ることは難しいようだ。

実際はかなりイーブンに近い形で家事をすることが多いように感じている。但し、最大の家事はやはり出産であり、これは女性にしかできない。出産というのは、妊娠から出産、そして新生児の育児と母体の回復まで含めてを言うと考えるべきである。

そうであれば、家事労働の負担は、出産がある以上、女性に多くの負担割合があるということは避けられない。

家事が女性にしわ寄せされるから女性の地位が向上しないというのであれば、女性の地位を向上させるためには出産をしないことが必要だということを言っていることと同じなのではないだろうか。

出産以外で、家事が女性にしわ寄せされているために女性の地位が向上しないというのであれば、どの程度のしわ寄せがなされていて、どの程度の労働時間の短縮を余儀なくされているのか、そのデータを報告するべきである。

データがなければ感想や印象で世界の政策が動かされていることになってしまう。また、その職場での地位が向上しないことは、その程度の労働時間の短縮によって正当化できることなのかよく考える必要がある。

不意の残業に対応しなくてはならないとか、恒常的な長時間労働をしなくては地位が向上しないというのでは、地位向上の美名のもと過重労働を放置していることになるのではないか警戒する必要がある。

3 「経済的自立が無ければ女性の地位が向上されない」という考えと「家事労働に価値を認めない」ということはむしろ親和するということ

日本の労働者階級は、戦前ころまでは農家が一番人口が多かったのだろうと思う。農家では共稼ぎが当たり前であった。都市部の比較的収入の高い職業で専業主婦となったのではないだろうか。

その当時であっても、外で稼がないから女性は地位が低いという扱いはなく、むしろ女性に対する配慮が道徳として浸透していた側面も確かにある。男性は家事育児に口出しをしないということで、女性の裁量を最大限尊重するべきだという風潮があった。

そうはいっても、女性の選挙権は認められておらず、行為能力も一部否定されていたことは間違いない。そういう意味で、女性からすれば差別的扱いをされたと感じることはもっともなことである。

しかしだからと言って、家庭の中で女性が馬鹿にされていたり、一段低い存在だと、男性が優越的な感覚になっていたかというと、実際はそうではないと思う。これは論証できない。自分の親戚筋やその近隣を見ていてそう思うとしか言いようがない。

現代社会の家事労働は、実は非常に価値の高い労働である。健康面一つとっても、環境問題や食材の安全性の問題など、知識と手間が要求される労働になる。教育も、学歴社会の中でいじめが無い子どもたちの世界を作ることにも保護者が協力しなければならないところが大きい。情報を取得して最善の方法を実行するためには知識と技術と労力が必要であり、家族単位でみた場合、そのリターンも大きい。だから現代日本こそ、専業主婦ないし専業主夫が家事を行う必要性が高いと私は考えている。

家事労働は尊敬に値する労働である。そこに価値を見出さない理由こそ、正直に言うと私にはわからない。家事労働の価値をきちんと認識する社会こそ目指す方向なのではないだろうか。外で働かないと輝けないとか、地位が向上しないという価値観こそ否定されるべきではないだろうか。

4 働けない事情は様々あるが、家事労働ならばできる人は多い 働くことに優先的な価値を認めることは障害者差別に親和する

働けない事情は様々ある。その中で、集団行動が苦手で職場で衝突してしまうという人たちが確かにいる。そういう人たちでも、家庭の中では尊重されて家事をこなすことができる人がいる。職場では効率が最優先であるため否定的に扱われるが、家庭では家族が良ければそれでよいのである。こういうパーソナリティの問題で働けないひとがいる。また、身体障害によって、会社などでは働けなくても、家事には対応できる人もいる。

私は身体障害の人の権利の実現する事件を担当することがあるが、障害を無くすことができないのだから、変わるべきは職場の価値観ではないかと常々感じている。

外で働くことに価値があり、外で働けないならば地位が向上は期待できないということを過度に強調することは、端的に障害者差別である。

ここまで書いてきて、私は自分の話が、揚げ足取りの批判のための批判だとは思えない。むしろ、G7の会議の方が、おそらく実際の人間の活動に影響を与えない方向の議論をしているという思いが強くなった。マスコミは、G7の話を深堀せずに、日光市の名産品などを紹介することが多いようだ。また、いくつかの前提とされている理論や価値観に対して疑問の声も、具体的な道筋の欠如も報道されないことに違和感が強い。

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良い悪いというヒステリックな感情論よりも、痴漢被害防止を優先させるべきだと思う 自衛措置を呼びかける警察を支持する理由 [弁護士会 民主主義 人権]



先日、地元紙に「痴漢啓発に無意識の偏見 警察『薄着は注意』、自衛を強調?」という記事が載った。しかも1面トップの記事だった。

わたしなりに記事を要約すると、「痴漢被害に遭うのは被害者が悪いのではなく、加害者が悪い。自衛を強調すると、痴漢に遭ったのは被害者が悪いからだと言っているようなものだ。また、鉄道警察の統計から夏は痴漢被害の件数が減っているので、薄着と痴漢は因果関係が無い。」というような内容である。

かなり概念の整理ができていなくて混乱している記事が一面になったものだなあと正直驚いた。また、ミスリードをして実害が生まれなければよいなと心配になった。

各命題を検討してみよう。
「痴漢被害は、加害者が悪いのであって被害者が悪いわけではない。」
この命題は全く正しい。強制わいせつ事件の弁護で、被害者の落ち度を主張する機会はめったにないだろう。良い悪いで言ったら、悪いのは犯罪者である。

「外では挑発的な服装をしないとか、夜間の独り歩きをしないことは、痴漢被害予防に効果がある。」
これも正しい。

路上での強制わいせつ事件は、夜間に行われやすい。犯人は女性にいくつかの幻想を持っていることが多く、相手が女性一人であれば力づくで思いを遂げることができると信じている節がある。周囲に歩行者がいるならば、強制わいせつ事件を起こすということはまれである。当たり前のことだ。

ここで、「夏に電車の痴漢被害が少ない」という統計について考えてみる。おそらく無意識に、「夏は女性は薄着になる。」、「夏に痴漢が少なくなるということは、薄着になっても痴漢は増えないでむしろ減る。」「だから痴漢と薄着は関係が無い。」という論理を組み立てているのだろう。

しかし、その論法が正しいのであれば、夏に痴漢が減るならば「女性が薄着になるほど痴漢被害は少なくなる」ということが論理的帰結になるはずであるが、さすがにそうは言わない。「薄着と痴漢は関係が無い」というのにとどめる。自分の論理に無理があることをうすうす自覚している可能性がある。即ち、夏に痴漢が減る理由をきちんと考える必要があるということである。一つの可能性として、学生、生徒の夏季休業期間になるため、車内の人口が減り目立つため痴漢がしにくくなるということと、被害者が混んだ電車に乗らなくなるということが関係しているのではないだろうか。

だれでも思いつく「論理」ではあるが、確証バイアスがかかると自分の結論に合わせて現象を解釈してしまうということの典型例ではないだろうか。

痴漢は公共交通機関内だけで起きるものではなく、深刻な被害は路上や自宅で起きる。深夜に偶然見かけた女性を何キロもつけてきて路上で襲ったという事件もあった。その時目についた女性が複数人いる場合は、服装はターゲットを絞る一つの要素になるようだ。

被害防止を優先するならば、できる限り自衛の措置を講じるべきであると私は思う。夜間の独り歩きをしないということが最も効果があることは間違いない。できるだけ夜間は外出しない。どうしても外出しなければならない場合は誰かに同行してもらうようにする。家族がバス停などまで迎えに行く等の方法を勧める必要は大きいと思う。

確かに、伝え方によって、被害者をさらに苦しめるということはあるだろう。しかし、そのために、自衛の策を提案しないということはやってはならないことだ。特に警察が自衛の呼びかけをしないことや、マスコミが薄着をした方が痴漢は減るというミスリードを誘うような伝え方をすることは大問題ではないかと思う。

どうも「ジェンダーの視点」という言葉が出てくると、「では私が悪いというのか」というヒステリックな主張が出てきやすいように感じている。今回の根本問題は痴漢被害防止にするべきではないのだろうか。

女性が痴漢被害に遭う危険を高めてまでジェンダーの視点を導入するべきだというならば、はっきりとそのように主張するべきである。

私が考える「ジェンダーの視点」からすると、どうして深夜に単独行動をしなくてはならないかということを考えるべきだということである。昭和60年に労働基準法が改悪されて、女性の深夜労働が違法ではなくなった。生活のために深夜に帰宅する女性が生まれ、当たり前のように深夜に帰宅する女性が増えた。これは雇用機会均等法と抱き合わせに改悪された。つまり、このような女性保護があるために女性は会社で出世ができないのだ、だから女性保護を廃止して女性の地位を向上させるというものだった。

平成、令和と進み、どれだけ女性保護の切り捨ての恩恵を受けている人がいるのだろうか。単に安い労働力を深夜帯も活用できるという主としてグローバル企業だけが喜んでいるのではないだろうか。

女性保護は女性の出世を妨げるものではなく、男性と対等に働くためのツールだったはずなのに女性も体力的事情が捨象されて、男性と同じ物差しで評価されるようになってしまったわけだ。

昨今、本末転倒で非論理的な主張があまりにも目に付くようになったような気がする。

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なぜマスコミはリベラルを批判できないのか、国や都の政権批判もできなくなった理由としての伝統的な構造 55年体制という予定調和 [弁護士会 民主主義 人権]


最近の出来事で、一昔前ならば一大キャンペーンをするような政治疑獄も、野党政党が絡んでいることを良いことに批判記事を報道しないテレビや新聞が、中立的な報道もなされないという現象を突き付けられて、若者やインターネットユーザーを中心としてマスコミに対しての不信感が広がっています。毎日新聞を筆頭として、朝日新聞、東京新聞というリベラル系と言われていた新聞に対して大きな批判が寄せられています。

批判の内容としては、公平な報道姿勢ではなく、ある事件をめぐって対立している当事者の一方がリベラル的な色合いがあるのですが、その一方の不都合なことを報道しないということが中心です。インターネット上は「報道しない自由」を行使しているという言葉が流行のようになっています。また、かつてそれらの新聞が政府与党の公金の不正使用疑惑を批判的に報道しているのに、この事件では自治体などの疑惑の報道を一切しないというダブルスタンダードも批判されています。中には、そのリベラルの色彩を持った一方の側を擁護し、他方を不当な妨害者の一味であるかのようなに新聞が印象操作をしているという批判もあります。

以前、自分が担当している事件の報道について記者と話をする機会があり、公平な報道がなされないことをその不公平な記事に加担した記者と話して色々教えてもらったことがあります。言い訳をするという反省する態度ではなく、「マスコミはそういうものなのですよ。」とでもいうような説明ぶりにいろいろ考えさせられるところがありました。

そのことをふと思い出しまして、「ああ、これがあの時言ってたことか」と思い当たりました。

その記者が言うには、報道は国家権力の問題点を広く知ってもらって、国民の議論に役に立たせなければならないという使命感があるそうです。特にリベラル系マスコミにはそういう使命感を持ってみんな入社するそうです。ただ、何をどう問題にして報道するかということについては、「批判の視点」というものが必要なのだそうです。やみくもに批判するわけにもいかず、読者にも共感してもらわなければならないということらしいのです。

このため、55年体制の続いていた時期までは不動の野党第1党である社会党の視点を借用して政府の問題点を報道をしていたというのです。社会党と同じことを言うわけにはいかないので、そこは新聞社の見解として整えてから主張していたのでしょう。当時国民の半分弱を占めていた革新派の強い需要にこたえやすい記事のトーンになっていたともいえるかもしれません。

そう考えていくと、55年体制は政党間の問題だけでなく、マスコミも含めた大きな体制であったようです。賛成勢力も否定勢力も織り込み済みの、一つの大きな枠の中に納まった形になっていたといえるのかもしれません。そうだとすると内部に対立を抱えた高度の秩序、体制が築かれていたことになります。基本となる体制があって、それに反発する人たちの受け皿もちゃんとあって、衝突しながらもそれなりに秩序を形成し、維持し続けていたということです。マスコミもそれに貢献していたということのようです。

ところが、昭和の後期から社会党が衰退をはじめ、自民党もまた力を失い始め、象徴的には社会党党首が首相となるという出来事が起き、色々な意味で55年体制は終了しました。困ったのはリベラル系新聞社だったと彼は言います。社会党政権下では、社会党の視点で社会党政権を批判しても新聞社の役割を果たせないですから、自民党の視点で現政権を批判することがリベラルだと考えたり、また自民党が政権を取ったらそれを批判しなくてはならないということになり、民主党が政権を取ればまた自民党の視点で民主党政権を批判するということが起こり、そんなことが続いている中で、特にリベラル系マスコミの「報道の視点
」が定まらなくなり、苦労しているとその記者は言っていました。

彼の話が本当だとすると、報道は是々非々とか論理で行うものではなく、政治対立の構図を反映した土台のあやふやな視点で行っていたということになってしまいます。

だから、かつてのリベラル系マスコミは、たまたま与党が長期政権を維持しているので、与党批判を展開することができていたのですが、その視点が定まらないのだと思います。本当は保守なのに野党ということで55年体制よろしくその政党をリベラルという枠にはめてその視点に立ってみたり、革新を標榜する少数政党の視点を取り入れたりしていますが、根本的にどの視点に立つかについては定まっておらず、その時その時でずれたり歪んだりしていると考えるとわかりやすいのではないでしょうか。

そうすると、本来は国政や都政批判の場面であるのに、人的つながりで、リベラルということにしている野党や革新少数派政党とつながりがあると、それだけで反射的に擁護してしまうという方向になることはわかりやすいのではないでしょうか。

これに対して、従来から保守派の新聞だと言われている新聞社は、昔から野党の視点など利用していませんからスタンスも変わりません。また、面白いことにタブロイド版という過激な政権批判を身上とする夕刊紙も彼らなりの是々非々の視点を貫いており、本件の問題について公平に扱っているようです。

但し、私は、リベラル的色彩があるから擁護するというのは、末端の記者レベルではその通りかもしれませんが、マスコミの上層部、意思決定機関ではそうではないのではないかという疑念を持っています。

つまり、今話題になっているのは東京都の委託事業にまつわる委託金の支出の是非なのですが、受託事業者がリベラルの色彩があるのでリベラル系が擁護しているように見えています。しかしこの事件の本質は、東京都や国がそのような支出をしている是非と、受託業者を選定した経緯、事業の企画そのものに対する疑惑であり、中心は東京都や国の問題なのです。これだけの公金を動かすのは野党の力ではなく、国や都という国家的規模の「意思」が動いているはずです。その意思主体の思惑と、リベラル的色彩のある受託業者たちが結託して(あるいは利用されて)まさに55年体制のような蜜月の深い闇があるのではないかという疑念なのです。

その記者の説明による55年体制の枠の中で果たしてきたマスコミの役割を考えると、深い闇を隠そうとすることはむしろ自然なことです。また、野党時代の自民党の視点で取材していた記者は人的つながりができるでしょうから、本質的批判ができなくなることも想定していなければならないと思います。

受託業者を擁護することは、出来事を事件化しないという効果を生みます。事件化をしなければ深い闇を暴かないことに直結します。これがリベラル系マスコミ上層部の思惑だとしても、今更特に驚きません。そして、リベラルに対する攻撃だという筋書きは、ポリシーをもって入社してきたリベラルマスコミの記者は反射的に受け入れてしまうことかもしれません。「リベラルの視点」どころか「組織の論理」で取材して記事にしている記者もいるくらいです。

ただ、現在事件は訴訟案件にまでなってしまいました。東京都の「論理」は、入り口で裁判所からはねられているようです。都知事は国の事業を実質的に委任されて行っているという趣旨の発言を繰り返ししています。それでも、実際に委託事業費の管理を行わなかったのは東京都の問題です。このままいけば、敗訴となり資金の返還義務が判決で命じられる流れになっています。知事や都の幹部にとって打撃になることはもちろんですが、受託業者を擁護して、実質東京都をかばったリベラル系マスコミにこそ大打撃になるはずです。

ただ、深い闇自体はこの裁判からは明らかにはならないでしょう。可能性があるとすれば、どうして東京都がずさんな委託をしたかということを東京都自ら暴露する場合ということになります。おそらく、それは無いと思います。

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【フェミニズム・家族解体主義についての誤解】 フェミニストは愛する夫がいることが少なくない。家族からの女性解放でいう「女性」とは、自分以外の女性をいうこと [弁護士会 民主主義 人権]

上野千鶴子氏が結婚をしていたということが週刊誌で報道されて話題になっています。話題の論調として、上野氏はフェミニストであり、夫婦という制度は女性を拘束する制度であり理解できないと言っていて、他人にも一人暮らしを勧めていたくせに、自分はそれに反する生活をしているということに対する批判が多いようです。

これ等の批判は誤解に基づくものだということを言いたい記事なのですが、決して上野氏を擁護しようという目的で書くものではありません。

先ず一人暮らしの勧めについては、私はこの人の代表的な功績だと思うのです。年配の人たちは、おひとりさまの勧めについては「なんにせよ人は他者と死別していく運命であり、やがて一人になっていくさだめがあるけれど、それも決して悪いものではない。」というメッセージだと受け止めていて、上野氏の話を聞くことで救われる人が一定数いるようです。社会貢献しているようです。自身が結婚することと矛盾はしないと私は思います。

ただ、少なくない読み手の中には、「現在独身の人は、結婚なんてしないで一人で暮らした方が良い」と言っていると受け止めていた人も多いようです。

むしろ問題は、「結婚という制度に反対していたはずなのに、自分は結婚していたではないか」というところにあるのだろうと思います。

ただ、そのように考える人は、フェミニズムの思想についての誤解があるようです。

実際のフェミニストの大家、業績を残した少なくない女性たちは、愛する夫がいることが多いのです。
入籍こそしていませんがボーボワールもサルトルというかけがえのないパートナーがいました。図らずも、結婚というのは、先ずお互いの気持ちで成立するものでありそのような人間の思考を社会が制度化したという順番であり、社会が女性に夫婦の関係を作ることを強制したものではないということを証明することになりました。また子育てをした多くの親たちは、子どもは生まれながらにしてそれぞれの性を内包して生まれてくるということを経験しているところだと思います。

今回は、あの日本の男女参画でいうところの「DVサイクル」を広めたレノア・E・ウォーカー氏と、1990年代にアメリカ司法で猛威を振るった作られた過去の記憶による身内からの性被害を思い出すということがあるかという記憶論争の一方の論客となったJ・L・ハーマン先生の例を紹介して考えたいと思います。

ウォーカー氏は、The Battered Woman(邦訳バタードウーマン 虐待される妻たち 金剛出版)の執筆者です。この著書の中で、「暴力サイクル」の理論を主張しています(理論のオリジナルは私にはよくわかりません)。つまり、夫による妻の虐待は、3つの期間を繰り返すというのです。第1期は夫の緊張が高まっていく時期、第2期は激しい虐待を行う時期、第3期は夫が妻に優しくなり、自分の暴力の悔恨を示し、愛情を注ぐ時期だというのです。そして第3期が続くと第1期となり緊張が高まり、やがて緊張が爆発して第2期が来るというサイクルを繰り返す、妻は第3期の幸せがあるために、第2期の虐待が行われても逃げようとしなくなってしまうというような理論です。

日本の男女参画や法務省関連の女性の権利の研究会では、この暴力サイクルを「DVサイクル」と言い直して定式化しています。「先ず不安を抱えている女性は夫から虐待を受けている。次に虐待を受けているはずの妻たちが夫から逃れようとしないのは、DVサイクルによって無力化しているからだ。第3に逃亡を手助けしないと女性は救われない。なぜならばDVを行う男性は今は収まっているかもしれないけれど、サイクル理論によって必ずまた暴力をふるう。その時は命が奪われるときかもしれない。」という主張を、産後うつや精神状態に影響を与える疾患や服薬の副作用等によって精神的不安定になっている女性に言って、子どもを連れて逃げ出すことを説得するわけです。

このウォーカー氏の理論を利用した日本の男女参画理論については既に詳細に批判しているところです。「DV」サイクルという学説などない。レノア・ウォーカーの暴力のサイクル理論とは似て非なるもの。 The Battered Woman ノート 3 各論 2 
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2019-12-12

この「バタードウーマン」の前書きで、著者は、亡くなった自分の夫の愛情が無ければこの著作は完成しなかったであろうと述べているのです。そして夫と男性の友人たちに対して感謝を述べるところから謝辞が始まっています。

また、この著書を普通に読めば、妻一般が夫から虐待されている等ということは言っていません。繰り返し虐待されていた妻の事例の分析がなされていることが誰でも読み取れます。また、日本の配偶者加害の事例にはこのサイクル理論が当てはまらないこともすでに私は述べています。日本の官製フェミニズムの理論は、アメリカの理論を機械的に輸入して構成されていることをわかりやすく示した事象であると思っています。

一例だけ挙げますと、欧米の家父長制度と日本の家制度は、目的も実態も次元も異なる概念ですが、安易に結び付けて論じる人間が多くいます。単に家ということばついていることと、原則として戸主は男性であることから、安易に関連付けてしまったのでしょう。また、家制度と夫婦と子供を中心とする家族制度を混同して論じている論者も少なくありません。日本の家族制度の知識が無いということと、そもそもの家父長制自体をよく理解していないことを示しています。

もう一人、ジュディス・L・ハーマン先生のTrauma AND Recovery(邦訳「心的外傷と回復」みすず書房)をあげます。

実はこの本は、私にとってとても大切な本です。節目節目で読み直して勉強している基本書の一つです。多くのことを学び続けています。それなので、ハーマン氏を先生と呼称しないわけにはいかないのです。

ハーマン先生はこの本によって、日本では賞賛されることが多いと思います。ところが、記憶論争ではとても悪名高い学者になってしまっています。アメリカでは、1980年代から90年代にかけて、成人に達した女性等が、10年前や20年前に家族などから自分が性的虐待をされた記憶がよみがえったとして刑事民事の訴訟を提起して、その主張が通って、父親らが裁判所から高額な賠償命令を出されたり、長期刑が執行されたりした時代がありました。これらの被害を主張した女性たちは、自己の不安をカウンセラーのカウンセリングを受けていて、カウンセリングを受けると10年以上前の記憶が突然よみがえり性的被害を「思い出し」、それらの人々の支援の下で法廷闘争に入るという経過をたどっていました。エリザベス・ロフタス先生らが、記憶というものの性質からそのように抑圧された記憶がよみがえるということがあり得ないことを論証して、1995年を境に、失われたせい虐待の記憶で裁判所が何らかの決定をすることがなくなったと言います。また、そのようなカウンセリング技法も実際上廃れてしまったようです。そのような記憶を「思い出した」女性たちは、精神状態が悪化してしまい、カウンセリングとしては逆効果になったことも原因のようです。

この時、記憶の真実性を否定するロフタス先生に対抗して論陣を張ったのがハーマン先生でした。記憶論争になった時点でハーマン先生に勝ち目がなかったのだと思うのですが、関与したカウンセラーのカウンセリングの実態をよく知らかなったのではないかと思います。複雑性PTSDの理論からは、記憶を自分で封印しようとする防衛機制が存在するということ、被害者の被害から目をそらさないことこそがカウンセリングの要諦だというようなことを主張させられてしまったのではないかと私は贔屓目に見てしまうのです。

いずれにしても不安を抱える女性は、家族の虐待が存在するという画一的、形式的なカウンセリング手法と、立ち直るためには裁判闘争が必要だとする手法は、日本の配偶者相談と重なってくるように感じてしまいます。

さて、この「心的外傷と回復」の冒頭の謝辞の中で、ハーマン先生が何よりも最初に感謝をするのは夫と家族だと述べているのです。

このように、日本のDV被害女性救済システムの理論的バックボーンになった学者たちの中で重要な役割を果たした著名な学者たちは、愛する夫がいて父親とも円満な関係を送っているごく普通の学者たちだということがわかります。

日本の業績を上げているジェンダー学者の女性たちの多くも夫や子供がいて家族とともに人生を歩んでいます。つまりフェミニズム=すべての家族制度の解体ではないのです。そういう理解は、正しくないということなのです。

どうして、いつの間に、フェミニズムというものは、「家族というのは女性を抑圧する社会システムであり、女性を家族から解放しなければならない。」という家族解体主義を含む理論だと誤解をする人たちが生まれてしまったのでしょうか。

ただ、実際にそのように機械的に主張するフェミニストたちもいらっしゃいます。上野氏もフェミニズムは多様性があってよいなどと言っているようです。フェミニストが結婚しても良いのか、結婚しないほうが一貫するのかなどということは、あまり表立った議論はなされていないようです。だれがどのような考え方をとろうと私はそのこと自体にはあまり関心はありません。しかしながら、日本の国家や地方自体の家族政策が、結果として、家族解体を推し進める政策になってはいないかという点について、危機的な意識を持っているということなのです。

多くの配偶者暴力相談の担当者たちも、夫や妻があり、家族を持っていることでしょう。それなのに、ろくに調べもしないで、妻を夫から逃がして行方をくらませることを主導的に手助けしているわけです。本件の問題は、自分に家族がいるのに、どうして他人の妻に対しては、「家族から逃げろ」ということができるのかということに関連していることだったのです。また、いくら多様性があるからと言って、「結婚制度は原則として女性を抑圧する社会システムだ」として自らも家族を作らない原則的主張者群と自らは夫のいるフェミニスト群は、どうやって折り合いをつけているのでしょうか。

これに対する回答は案外簡単なことかもしれません。一口に「女性」と言っているからわかりにくいだけであり、「女性」の概念には二つのカテゴリーがあると考えると誰でも理解できるようになります。即ち、家族を持つと家庭に支配されるタイプの「かわいそうな女性」と、生育過程においても恵まれた上に支配をしない夫を選ぶ能力のある女性の二種類の女性があるということになるでしょう。

夫がいて女性解放の作業を行う女性たちは、自分たちは自立できる能力のある女性であるから、「かわいそうな女性」を解放して差し上げるという考え方なのかもしれません。「あなたは悪くない。それは夫のDVだ。」というとき、「あなたは夫を選ぶ能力もなければ、夫に支配されないで対等な関係を形成する能力もない。私とは違うカテゴリーの女性だ。」と言っていることにならないでしょうか。その上で「だからあなたが解放されるためには、夫や家族から逃げなくてはならない。」という宣告をしていることと実は同じ意味なのではないかと感じているのです。

30年間の事件を担当したことを通じて、離婚調停や離婚訴訟になる事件でさえ、夫の暴力や精神的虐待に支配されていると感じられる事例はごく少数でした。実際は暴力や精神的虐待が無いにもかかわらず、行政や警察は、女性に子どもを連れて夫の元から去るように協力に「支援」をしたのです。それらの支援をした事例のうち、行政などが夫などから事情を聴いた事例は全くありませんでした。

私の実務経験からすれば、夫から事情も聴かないでDVの存在を決めつけて逃がしてあげなければならないほどかわいそうな女性は、むしろごく例外的な存在でした。それにもかかわらず、ろくに調べもしないで女性を夫から逃がし、子どもを父親に会えなくしている事例がほとんどだったということです。その中で夫が自死した例も多く、子どもたちが親を恨んだり軽蔑しながら大人になり、その過程の中で自分を見失う事例が少なくありませんでした。

精神的不安や焦燥感を抱える女性を、すべてかわいそうな女性だと決めつけて夫や父親を孤立させる形で家族を解体するという手法は、本来のフェミニストのオリジナルに近い理論からも単純に間違っているというべきです。せっかく日本のフェミニストの巨匠の結婚報道がありましたので、良い機会だと思いお話しさせていただきました。

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DV被害者支援に見る「被害者支援」の落とし穴 被害者女性だけを支援の対象にすることによって生まれる弊害 [弁護士会 民主主義 人権]




被害者支援ということは、だれも反対ができない気持ちになるでしょう。被害を受けた人が被害を回復することこそ正義だと反射的に感じてしまいます。今回の東京都の若年被害女性等支援事業の莫大な公金支出から疑問が再燃しました。この問題では、一般的な論調としては、「若年被害女性等支援事業は素晴らしいことで必要なことでこちらについては文句はない。ただ、公金の使い方が正当ではない。」という批判が主流になっていると思います。

しかし、なぜ「被害」女性だけを支援の対象とするのかということに、DV冤罪や家族再生に取り組む私としては疑問の目が向いてしまいます。

つまり、「被害があることと」、「支援が必要なこと」は決して同じではないはずです。私が問題とするのは、必ずしも被害があるとはいえないけれど支援が必要なのに、予め定められた「被害」の存在が無ければ、支援を受ける必要がある人も支援が受けられなくなる。実はこれが不合理なのではないかということです。

若年被害女性等支援事業で言えば、東京の歌舞伎町や渋谷の繁華街で若年女性への声がけをするのであれば、その若年女性が被害者であろうと、単なる親に対する過剰な反抗であろうと、ホストなどの風俗など浪費の結果であろうと、望まない性産業や反社会的勢力と結びつくことを避けるという意味では、すべて保護や支援をするする必要があるとは言えないでしょうか。その女性の背景を探っていけば、社会的風潮だったり、インターネットの影響だったり、友人関係だったり、何かしらの被害がある場合が多いと思われます。しかし東京都の用意した、あるいは委託事業者が用意した「被害」、「被害者」にあててはまらないということで支援を受けることができず、不幸に陥ることを見ないふりをすることにはならないのでしょうか。用語の「被害」が何を意味しているのか分かりませんが、被害者だけを保護するということは若年女性に限って言えば強い合理性は無いように思われます。同様に女性に限定することについても合理性がわかりません。

このような疑問を持つ理由が、DV被害者支援事業を見てきたところにあります。

これまでの実務経験での出来事を上げます。

一昔前は、DV被害者は、身体的暴力を受けたことを訴えることが必要でした。身体的暴力がないならば、法(国家、自治体)が家庭に介入することは避けようとしていたためです。身体的暴力がある場合は、家庭内にとどまる出来事とは言えないために国家や自治体が夫婦の問題に介入できるという理屈でした。また身体的暴力は、暴行罪や傷害罪という犯罪を構成するために、警察が介入するデメリットが最低限度にとどまるだろうという常識もありました。

実務では、暴力があったと主張をすれば、シェルターに入ることが認められて、様々な支援を受けられることができました。ところが、身体的暴力が無いから正直に無いというと、それらの支援は一切受けられませんでした。

しかし、長年夫婦として生活していた場合、身体的精神的暴力がなくとも、人間として尊重されないと感じたり、結局は人格を否定されていたと感じることによって、同居が精神的に耐えられなくなることがあります。一時的にであっても避難する必要がある場合は、実務的にその存在を見てきています。夫婦で合意をして女性が心身にダメージを受けることをしたが、男性が女性のダメージに無神経であったなど、DVということはできないけれど、一時でも夫と離れて暮らしたい、あるいは離婚をしたいということがあります。しかし、女性が一時的に一人で生活する場合でも、働いて生活費を得ようとしても女性の賃金は一般的に低く、働き続けていたとしても子育てなどの負担から賃金の高い責任のある地位に進出することができないなどの事情があり、自立が簡単な社会構造にはなっていません。シェルターというのは一時利用の避難所です。女性の社会的立場は共通で、経済的に一時的な分離ができないというならば、はっきりした暴力や虐待が無いとしても、支援が全く行われないということは不合理だと私は感じました。

コロナ助成金の時も弊害を感じました。コロナ助成金が全国民に支給され、住民票の世帯代表者に対して送金されました。しかし、離婚を控えるなどして当時夫と同居していない妻も多数いました。コロナ助成金は一人一人の生活に役立てるためのものですから、世帯でもらうものではなく各個人が受給するべきものです。単に行政効率の便宜上世帯代表者に送金されるだけのことでした。だから、別居の事実がはっきりしていて世帯代表者ではない別居者の意思が確認できれば、世帯代表者に送金しないで別居者個人に送金される手続きが取られるべきだと思いました。

しかし、この例外が認められたのが、DV被害女性だけでした。しかし、先に述べたように、別居をする事情は何もDVに限られません。身体的精神的DVが無ければ妻が人間として尊重されると言えるわけではありません。DV以外の事情があって別居していた世帯主ではない女性にはなかなか助成金が届かなかったようです。本当に助成金が必要な人にお金が届かなかったわけです。DV被害者だけが優遇されることに合理性はないと感じました。弁護士会などでもDV被害者に限って送金を別扱いにしろという決議が挙がりました。私は被害者限定はおかしいという意見を積極的に述べた。

このようなDV被害者限定の支援は、弊害をもたらすのです。被害があったというかどうかで、天と地の違いが生じる、つまり生活ができるかできないかという決定的な違いがあるならば、別居しても生活を成り立たせたいと言う人は、実際はDVが無くてもDVがあったと言おうとする傾向が生まれてしまうという弊害が生まれるわけです。また支援者の中には、些細なやり取りをもって、強引にDVがあったと主張させる人も生まれたことでしょう。

裁判でも同じでしょう。DVがあったと言えば裁判が有利になるなら、無理して針小棒大な説明をしてもDVがあったと主張するようになるかもしれません。DV被害だと言えば、裁判所も警戒して警備担当を配置したりします。厳重な警戒を行うことによって、無実の夫はDV加害者になっていくということを感じました。具体的事実を丹念に調査して、その事実と妻の心情の関係を丹念に考察もしないで、単にDVがあった、警察出動を求めたという主張が裁判書類に大量に出回ることになるわけです。わけのわからない警察出動の要請が多発することはこのような風潮、戦略が影響していると思われます。

何でもかんでもDVがあった、自分は被害者だと主張するようになるということです。

前回も述べたように、この被害者加害者の言葉の意味は、配偶者暴力を相談した妻のことを被害者と呼び、妻の夫等を加害者と呼ぶだけのことです(総務省事務連絡 平成25年10月18日付)。妻は相談にさえ行って、DV相談をしさえすれば、自治体から「被害者」と呼ばれるようになります。だから、DV相談をして、被害者と呼ばれて、裁判を有利にしたいと思うのはある意味自然のことかもしれません。

但し、一定の人たちにこのような被害者加害者二分法は都合の良いこともあります。被害者であれば逃がすという一本やりの方法論だけで対処ができるということです。「被害者」という言葉のマジックで、その行政の「支援」によって、被害者以外の子どもや夫が精神的なダメージを受けても「被害者支援のためだからやむを得ない。加害者が悪いから仕方がない。」と家庭崩壊をさせることを肯定する方向に誰も批判の目を向けなくなるという効果があるわけです。このような家庭崩壊一本やり、加害者に働きかけをしない、事情も聴かない、裏付けを取らないというのも被害者加害者二分法ならではのことだと思われます。

女性支援だからと言って、支援者は被害者だという決めつけは、家庭の中に被害を与えた加害者が存在しているという先入観を作り、敵対させ攻撃させあう形での家庭崩壊しか産まないと思います。快い家庭、安心して生活できる家庭を作るということを目標とした政策が実施されないのは、なぜなのか私たちは考える時期に来ていると思います。

DVというのは特殊な人間が相手を心理的圧迫することとは限らないのです。多くの夫たちは、自分は無関係だ他人事だと思っています。実は明日のあなたのことかもしれないのです。多くの人たちに関心を持っていただきたいと思います。

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若年被害女性等支援事業の本丸はDV被害女性支援事業だという須田慎一郎氏の発言の行方を見守る その二つの事業の奇妙なまでの共通性を考えてみる [弁護士会 民主主義 人権]



現在インターネット上では、東京都の若年被害女性等支援事業の公金支出が大問題となっています。しかし、この国のメディアも政治も、東京都の公金支出の問題を取り上げようとしません。かえって、このブログでそれぞれ記事にした通りに朝日や毎日は、個人の署名入り記事でつまり腰を引かせながら、事業を委託された一般社団法人擁護する記事を出して、肝心の東京都の財政支出について問題として取り上げることをタブー視しようとしている状態です。つまり、本来は東京都の公金支出の在り方の問題であるのに、「それを問題とすることは弱者攻撃である」という論調を作り出して、東京都が攻撃されることを防止する結果となる行動をしているということです。「Qアノン」もじった揶揄が大新聞でつかわれていますが、これは、朝日新聞や毎日新聞が擁護しようとしている対象が一般社団法人やNPO法人ではなく、その背後にある「なにか」だということを陰謀論だと警告して反射的に思考停止にしようとしているからだということに他ありません。そうでなければそのような他者の名誉を害するような表現をたとえ署名記事だとしても朝日新聞や毎日新聞が掲載するとは思えません。また、一団体が、次に述べる特権的な公金支出の対象と偶々なったということも常識的に考えてあり得ません。朝日新聞や毎日新聞は特定団体をかばおうとしているわけではないのです。

ジャーナリストの須田慎一郎氏だけがさらに発展し、そのマスコミなどがかばっている本体が、くだんの一般社団法人ではなく、被害女性支援事業、特にDV被害者支援事業が本丸であることに言及し調査を進める旨表明されています。大いに注目したいと思っています。

東京都の若年被害女性等支援事業の公金支出の問題の本質は、そもそも事業を委託して活動をする前から前渡しで年間数千万円に上る多額の支援金を受託事業者に交付して、その後領収書などの支出根拠の裏付けも調査せずに、未使用委託費の返還も求めないというところにあります。
通常の委託事業や補助事業では、このような扱いはなされていません。きちんとした事業計画を策定して、委託金の金額根拠を具体的に明らかにして費用が確定され、かつ、その費用が実際に支払われたことを領収書などで確定し、また実際にその事業が行われたことを報告書で提出して、初めて年度末に後払いでお金が交付されるということがほとんどだと思います。

東京都によると、このような例外的な委託支援事業の資金交付は、公法的契約だというのですが、国の方はこのような契約類型は聞いたことが無いと言っているようです。どうして、女性支援事業だけが公法的契約の締結対象となるのか、どこでそのような承認がなされたのか、そもそもそのような契約の対象とするべきなのか現在注目が集まっているわけです。

このような莫大な公金の前渡しが正当化されることについては、不可能ではないとしてもずいぶんハードルが高くなると思います。一つは、とても素晴らしい事業、必要不可欠の最優先事業であるから、活動をしやすいように前もって資金を渡す必要があるという必要性、有用性が認められることが前提となるでしょう。

「被害女性や若年被害女性の支援」という言葉を聞くと、誰しも反対できないような雰囲気が作られてしまいます。言葉のマジックです。私たちは、何をもって被害というか具体的な対象者の要件を実は知りません。また、どのような支援がなされているのかということについても何も知りません。それでも「被害者支援」と言うと何か崇高なもののように、脳が勝手に反射的に判断してしまうのです。本当にその支援を受けている人は被害を受けている人なのか
・ そもそも被害とはどういう被害なのか
・ どのような支援をしているのか
・ 本当に新たな不幸を回避するためにその支援は有効なのか

莫大な公金の支出にあたってこれらの要素については、支出をする東京都が把握していなければならないはずです。この点の報告が検証可能なほどになされていなければ、東京都が財政を支出することはできないはずです。また、ある程度情報が一般的に公開されて、都民や国民の事業承認がなされる必要があると思います。都民や国民の税金が支出されているからです。

これができていなかったというのが、令和5年1月4日に発表された東京都監査委員会の監査結果でした。

これができていない財政支出の危険性は以下のとおりです。
・ 活動報告書通りの事業がなされていなくてもわからない。
・ 被害者でない人間に対してサービスを提供していてもわからない。
・ 被害支援とは言えないことに多額の公金が支出されていてもわからない。
・ 公金が、委託の趣旨とは別の用途に使用されてもわからない。
簡単に思い浮かべるとこういう危険があると思います。

この種の公金支出問題の最初にあったのが、20世紀末期の市民オンブズマン活動です。地方自治体やそれぞれの機関において、接待費が認められていて、この接待費、つまり酒を飲んだということにして、実際は公金を支出しないで裏金としてためて、「何か」に使っていたということが大問題になりました。「官官接待」という言葉が大流行し、未だにパソコンに打ち込めば一発変換できる確立された日本語になっています。

ところが、官官接待の時はこぞって取り上げて自ら公文書開示まで行って記事にしたマスコミも、今回の東京都の公金支出問題は全く報道をせず、むしろインターネットで追及している姿勢を否定しようとさえしているのです。端的に言えば、マスコミはわずか20年くらいの間に様変わりしてしまったということになります。

ところで一般の方々であれば、被害者支援事業自体は素晴らしいのではないかと思われると思います。たとえ、その被害とは何なのかということをはっきり知らされなくてもそう思うと思います。いや知らされていないからこそそう思うのかもしれません。私はこの被害者という言葉に、弁護士としての仕事柄散々苦しめられてきた人を見ているからです。

それが須田慎一郎氏が本丸だと示唆されている、DV被害者保護事業に関することです。DV被害者保護事業についての問題点については、これまで「思い込みDV」をキーワードとして述べていますので、詳細は割愛します。簡単に言うと、DV被害者の中には相当の割合で、実際には暴力も受けていないし、精神的虐待というほど夫の行為が不適当だと評価もできない事案が多くあり、そのような事案でも子どもを連れて被害女性シェルターに逃げ込ませ、行方をくらませて、子どもを父親から引き離し、家庭崩壊とする危険があるということです。

実際にはDVがあろうとなかろうと「被害者」とされるのは、そもそもの制度設計に問題があるからです。なんと、ここで言う「被害者」とは、被害を受けた人のことではないというのです。また、「加害者」も被害者に加害行為をした人という意味ではないというのです。配偶者暴力を相談した妻のことを「被害者」と呼び、妻の夫等を「加害者」と呼んでしまうということが実態なのです。本当に被害があったのかどうかを調べることはしません。この日本語と異なる言葉の用法については総務省の事務連絡(平成25年10月18日付)で明示されています。

「被害者」と呼ぶことによって、実際に何があったのか知らなくても、支援措置が必要なことであるという印象を持ってしまいます。実際に行政窓口の担当者は、「加害者」とされた夫に対して敵対的な対応を行っていることが報告されています。全くDV等をしていない夫は、行政や警察からも敵対的な態度を取られ、犯罪者のように扱われて、全世界から孤立したような感覚をもってしまうことで、精神的に大打撃を受け、治療が必要な状態になってしまうことが多いのです。被害意識を持たされて、常に身構えている状態を作り出され、このような過剰に敏感な状態だから同居期間中も精神的虐待にあたるような行動をしたのだろうと言われてしまいますので、まさに踏んだり蹴ったりです。

支援の内容は、被害者である妻を夫から引き離してシェルターに入れ、その後も居場所を隠し、その上で離婚訴訟を提起することが中核です。少なくない事案で何の罪もない子どもたちは自分の親とも友達とも引きはされて、会うことができなくなります。被害女性支援であるから、それらはやむを得ない、正当であると人々の意識が作り上げられていくように感じます。「被害者支援」という言葉を聞くと、疑問を持つ力が奪われてしまう効果があるようです。

今回の東京都の若年被害女性等支援事業問題の感覚がデジャブーであるということはこういうことです。

一般のDV女性支援事業の公金支出の適否についてはまだ調査をしていないので、その点についてはわかりません。しかし、DV女性支援事業の中核は、夫の元から女性を引き離すというところにあります。夫にも話をして家族再生を目指そうというものではありません。引き離した先には何があるか、一定の割合で実家を頼れない、頼りにくいという事情のある女性がいて、それらの女性はシェルターに入ることになります。また、その後の生活の確立も必要になるでしょう。これを税金で行うとなれば、莫大な費用が掛かりますが、それらの事業は委託を受けた事業者が行い、その事業者に事業費用が支払われる仕組みがあるのかもしれません。おそらく須田さんが指摘しているのはこのことなのだと思います。しかし、そもそもの入り口、女性の悩みを問答用無用で家族分離につなげていく事業が、シェルターという女性保護施設の需要を人為的に高めているということは注目するべきだと思います。

また、DV女性支援事業についても、これほど長年行われているのですから、公聴会などにDV支援事業についての問題点に立ち会っている専門家が呼ばれてその弊害を是正する意見を述べる機会が作られても良いように思います。しかし、どうやら制度設計に呼ばれる審議委員や意見聴取者は、現状の制度を推進しようとしている人が中心なのではないでしょうか。この点についても若年被害女性支援事業の構造と酷似しているのかもしれません。

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共同親権に関する各弁護士会の意見についての疑問 死刑反対とのダブルスタンダード 法律家の意見となっているのか [弁護士会 民主主義 人権]



国が共同親権制度創設についての中途半端な提案をして、パブリックコメントを募集しているが、この動きに合わせた各地(都道府県)の弁護士会の会長名での意見が出されている。中には某国政政党の機関誌の見出しの表現そのままの意見を出す弁護士会もある。まず反対ありきの意見が反映され、賛成論へどれくらい配慮するかによって表現が違うだけのような印象もある。

とても不思議な問題としては、各弁護士会や日弁連が死刑廃止の意見を述べるときに、他国との比較を理由にする。つまり、「先進主要国の体制は死刑を廃止している。死刑が廃止されない日本は人権意識に遅れている。即刻死刑を廃止しよう。」という論法である。

共同親権制度についても比較法的な検討をするならば、「先進国に限らず世界の大勢は共同親権制度を取っている。共同親権制度を創設しない日本は、子どもの健全な成長に価値を置かないと評価されている。即刻共同親権制度を創設しよう」という論法になるはずだ。実際単独親権制度を強いている国は、世界的にはごく少数である(私の知る限り三か国しかない)。今回比較法的検討を加えないで共同親権に反対する弁護士会は、死刑廃止の意見の際、比較法的検討を述べないことになるはずである。そうでなければ、結局先ず何らかの賛成反対の結論が先にあって、後付けの理屈で、自分の結論に都合が良ければ比較法的な引用をするかしないか決めるということになってしまう。こんなことをしていたら、弁護士会の意見の理由なんてそんなものであり、法的な意見ではなく、一部の政治的意見が弁護士会を利用して述べられているだけということになって、弁護士会の意見に影響力は無くなるだろう。

次に法律家としての意見として情けないのは、制度の趣旨について全く理解がなされていないということだ。原則論があって、そして他の事情も考慮して原則論を修正するというのが一般的な法的な検討ということになる。法律という広く影響を持つ強力な規範は、必ずメリットがあればデメリットがある。先ず原則的な必要性について確認して、弊害をできるだけ除去するように修正をするという手法が法律家、特に実務法律家の手法であり、求められていることだ。共同親権の法案に対する意見で先ず必要なことは立法趣旨に対する見解を述べることである。ところが、共同親権制度の立法趣旨に言及がなされない。おそらく知らないのだろうと思われる。

これはどうして世界の大勢が共同親権制度を取っているかということと関連する。

世界的にみても、共同親権制度は自然に生まれるものではない。当初は単独親権制度であった国が多い。それを20世紀から21世紀にかけて共同親権制度へと変更したということが共同親権制度の歴史である。どうして、世界は単独親権制度から共同親権制度へ変更したのか。それは子どもの利益を図るという目的があったからである。

子どもの利益というものは、人類の歴史上国家制度に関しては後景に追いやられ続けた。家族に子どもの利益を図る行為をゆだね続け、家族のない子どもには一部の篤志家が世話をするという貧弱な対応だった。そもそも子どもの利益について研究自体がなされていなかった。

第二次世界大戦ころから、戦災孤児の研究が行われ、家族の中で成長することの意義が瞬く間に世界的に共有されるようになっていった。前後して発達心理学が整備されて生き、子どもの心理的成長も研究分野として世界中で取り組まれるようになった。その後、離婚という切り口から子どもの利益の研究が行われるようになり、逆説的に子ども成長における両親の関与の重要性が世界規模で研究されるようになった。そうして離婚後も子どもの双方の親が関与することが、子どもが自尊心をもって成長するために重要なことであることが世界的コンセンサスになっていった。但し、日本を除いてということらしい。日本以外は、子どもを一人の人間として認め、人格主体であり人権主体であるということを理解して、親から独立した子どもの利益として、両親から成長に関与される権利が確保されるべきであるという考え方を当然のものとして受け入れて、単独親権制度から共同親権制度へと次々と変更していった。共同親権制度は人道的な観点から創設されたものである。

このようなそもそもの議論をする弁護士会の意見書は見当たらない。ただ、弊害がある、DV事案や高葛藤事案がある場合、話し合いを強制されることになるから反対だということに尽きるようである。

物事には先に述べたようにメリットとデメリットが必ずある。デメリットがあるからとにかく反対というのでは法律家の意見にはならない、メリットを生かしながらデメリットを回避するということが法律家たるもの意見にならなければおかしいだろうと思う。

比較法的に考えるまでもなく、どの国でもDVはあり、離婚の場合には高葛藤になる。日本だけが特別DVが多いわけでもなければ、日本人だけが特に多く離婚の際に高葛藤になるわけでもない。日本だけが子どもを置き去りにして大人の感情の垂れ流しに「寄り添っている」ということは世界的に見て異常なまでに不道徳なことである。実際欧米からのこの点の日本批判はすさまじい。子どもの健全な成長のために大人はどうしたらよいかという観点から世界中の国は、理性によって共同親権制度に変えていったのである。このようなそもそもの原則論が論じられていなければ、弊害論に後付け的に飛びついて、反対することになるだろう。これが弁護士会の意見というのでは心底情けない。

何より情けないのは、弁護士会長の意見書が某政党の機関誌の見出しよろしく、共同親権制度は時期尚早であり、国民的議論が先行するべきだという表現になっている意見を述べている弁護士会があるということだ。何が情けないというと、弁護士は離婚手続きに関与し続けてきているわけだが、もちろん子どもがいて離婚をするという場面に立ち会ってきたわけだし、様々な事故や事件で片親が死亡したという事例にも立ち会ってきているはずだ。その中で傷ついたり、自信を失ったりしている子どもたちに無数に立ち会ってきたはずだ。少年事件にも立ち会ってきたはずだ。その子どもたちが、本当は両親と一緒に生活がしたいという切実な願いを持っていたり、その願いがかなわないことによって苦しい思いをしたり、間違った行動をしてしまったりという行動に立ち会い続けてきたのではないだろうか。また、家庭裁判所の研究資料や発達心理学や認知心理学の学問は一般にも公開されていて、子どもたちが健全に成長するためには何が必要かということについても弁護士であれば知ろうと思えばいつでも知ることができたはずだ。第二次大戦から何年が経過しているか。離婚後の子どもの調査結果が出てからも何十年も経過している。それらのデータや学問的到達にアクセスしようと思えばいくらでもアクセスできたし、事件において子どもの状態について見聞きしていればアクセスして子どもの問題の解決のためにどうしたらよいのか考える時間はたっぷりあったはずだ。それにもかかわらず自らアクセスもしないで、議論を作り出そうともしないで時期尚早などと言っているのであれば、これから何十年たっても時期が成熟するということはあり得ない。自らが、物を言えない子どもの代弁者となることをサボタージュして議論を起こさないにもかかわらず時期尚早とは何事だと言いたい。

世界人類は、大人の自分本位の感情を理性で抑制して一斉に共同親権制度に切り替わった。世界の中で時期に遅れているのはほぼ日本だけなのである。


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暇空茜氏の委託金不正「支給」疑惑の仕事は、本来東京都が行うべきことであり、都がやらないのなら都政野党やマスコミが行うことだということ なぜ女性支援事業だけが例外扱いをされるのか [弁護士会 民主主義 人権]


東京都の若年女性者等支援事業の巨大な委託金の支給について、暇空茜さんという一般男性がほぼ一人で、情報開示請求を行い監査請求を行い、行政訴訟まで提起するという。

疑惑の内容というのは、領主書などの裏付け資料が不十分であるにもかかわらず、請求通りの公金を支給しているということである。これが監査委員会で認定されたのは一団体だけであるが、他の3団体も同様かそれ以上の支給疑惑があるということで暇空さんが精力的に調査、追及を行っている。いわゆるネット上(ツイッター、ユーチューブ等)で広く問題視されているWPBC問題である。

一般的にインターネットの情報拡散は、先行情報発信者がいて、2番手の解説者がいて、3番手以降の拡散者がいて炎上するという現象が起きるようだ。この問題では、暇空さんという例外的に突出した情報収集者兼発信者がいて、ユーチューブの動画解説者が暇空さんの行動を説明して、さらに自分の興味関心に引き付けて拡散をする者がいるという構造のようだ。

オリジナルな情報源から2次、3次と派生的な発信になっていくほど、徐々に女性支援団体攻撃的要素が濃くなる傾向にあるようだが、これも心理的には無理がない話である。疑惑が真実だとすると、不正な利得を受けた者がいることになり、その利得が税金から支給された金銭だということになり、しかも、目的に合致した行動であるかどうかを不問に付して要領よく利得を受けていたということになれば、素朴な正義感が発動されるように人間ができているからだ。

本来東京都は徴収した税金を適正に管理する公法上の義務がある。暇空氏や監査委員会の指摘した疑惑については、自らがその事実を調査し、判断し、不正による東京都の損害の概要、不正支給が行われた原因を明らかにし、都民にも説明し、再発を防ぐ行動をしなければならない。小池都知事の選挙公約であった情報開示を今こそ実施するべき時である。それをしないのであれば、自分が都知事に就任する前の情報は開示するが、就任後の情報は開示しないということになってしまう。

この点について代表者のツイッターなどから見えてくる団体Cの言い分は、以下のとおりである。元々、自分たちが活動しやすいように従来通りに活動することが約束されて始めた委託事業のはずだった。それにもかかわらず東京都から会計について面倒くさい行動を要請されてやりづらくなっている。それを聞きつけた現在国会議員の当時の都議らがC代表者の要請に添うように東京都に働きかけを行った。その後は、団体Cは東京都に相談しながら活動を行っており、会計問題などについても東京都の承認を得て作成している。今更違法とか不当とか言われる筋合いはないというものである。

この点東京都監査委員会も令和5年1月4日発表の監査結果において、領収書の不存在や、非常識な支出が行われているという指摘をした。東京都が良いと言ったから問題が無いという次元の問題ではないことになっている。

通常の地方自治体の民間団体への委託事業は、このようなずさんな会計処理によって公金が支出されるということは無い。厚生労働省や内閣府の管轄の委託事業に末端で関与したことがあるが、領収書だけでなく報告書のたぐいもかなり厳しく指導されていた。私の知る限り、例外が女性支援事業ということになる。
・ 例外扱いされているのは女性支援事業だけなのかそれ以外にもあるのか
・ どうして女性支援事業が例外扱いされたのか
・ どのような例外扱いがなされていたのか
・ それを指令した根元がどこにあるのか
ということが、WPBC問題における疑惑である。

財政疑惑を徹底的に買い目するべき本来的な主人公は、税金の適正管理を公務としている東京都である。自ら都民から徴収した税金、国から受けた補助金を不正支出しないように管理をしなくてはならない。東京都は、来年度にこれまで主管だった保健福祉局の解散(分割?)を決めたらしい。疑惑追及の体制を構築するための妨害勢力の排除であると信じたい。同時に、この問題は一職員が独断でできる話ではないので、個人責任で終わらないようにしなければならない。これまで疑惑追及の事例の教訓を生かさなければならない。ただ、監査結果が出てからでも東京都の是正活動が見えてこない。

都が故意に行った不正支給であるならば、都政野党が事実調査を行って、改善を提起する役割を担っていたはずだ。しかしながら都政野党の動きも一部の自民党議員などの精力的な活動は見られるが、組織的な取り組みがなされているという印象は持てない。それよりも、国政野党の動きが全く見えてこない。財政問題を追及しないのであれば、野党としての存在意義が問われている。

政党間の結託があるというのであれば政治的な問題であるから、マスコミがこぞって取り上げて都政を批判するはずである。しかし、問題を取り上げたのは産経新聞くらいで、朝日、毎日は、一方の団体の言い分の垂れ流しに終始しており、都政問題としては取り上げていない。一時期にブームになった官官接待問題を取り上げたマスコミはもういない。

本来行うべき、東京都、都政野党、マスコミがこぞって疑惑を追及しない。監査結果が出たにもかかわらずだ。その手法は、素朴な正義感の不正利用だ。

正義感は利用される。

まず、情報拡散の2番手3番手を使って、団体Cに対する攻撃感情が起きる。団体Cの代表者の個性がこれを助長する。女性に対する攻撃に対する批判的感情が高まる。団体C擁護の動きを作る。問題を団体C問題に矮小化した上ですり替えて、東京都政の問題だという論点にたどりつかせないようにする。たどり着かないということはさすがに無理なので、時間を稼ぐということかもしれない。

最悪の事態は、旧援護局の忖度によって独走してしまったというシナリオである。

この問題について、意外な人物が擁護をしようとしている。一度パワハラで辞職したはずの関西の市長は、委託している団体は信用しているので領収書の開示を求めないというようなことを言ったらしい。市長が信用しているということで領収書を確認しなくても良いような狭い人間関係での財政支出がなされるのは、極端に人口が少ない地方自治体に限定される。市制を強いている自治体であれば、そのような曖昧な公金支出が許されてよいということにならないはずだ。そうでなければ、自分が信頼しているから手続きを省略させたという相変わらずの独善的なワンマン市制ということを宣言しているにすぎない。東京都の財政は全く次元の違う話である。委託団体に信頼があるから公金を支出するのであり、住民から預かった公金であるからきちんと管理を行うのである。

東京都の財政支出について批判的な視点を持たず、女性攻撃の問題に矮小化する団体は後年その役割を明らかにされるだろう。そのような役割を果たさないマスコミや野党は後年まで存在を継続できない恐れもあるように思える。

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一方当事者に偏った朝日新聞編集 目的をもって作り出される左派右派対立構造へのすり替えに警戒しよう 暇空茜氏問題は公正な財政支出と情報開示という民主主義の根幹に関する問題である。 [弁護士会 民主主義 人権]


もはや一つの一般社団法人の問題ではなくなってしまった感のある女性被害者等支援事業会計問題。このブログでは、あまり他者の紛争の中に入っていきたくないのが本音ではある。しかし、次から次と勉強の要素が出てきて、また黙っているべきではない事態が生まれてしまう。

先日毎日新聞の署名記事を批判したばかりだが、今回は朝日新聞の署名入りコラムがでてしまった。毎日新聞の記事とは比較にならない偏向記事であり、事実に基づかない報道がなされていると感じたので、言及することとした。

おそらく若者は新聞というメディアに見切りをつけるだろうという危惧を抱いた。

こらむの要旨は、暇空茜氏が、ネット民を扇動して被害女性等支援をしている一般社団法人を攻撃しているということ、しかも攻撃がゲーム感覚で行っており、かつ、陰謀論による攻撃のようであるとしているのである。

確かに、一般社団法人代表の個人名を出す時に、「共産党と強いつながりのある」という枕詞をつけていた。これには問題があると思ってはいた。これでは、受け手が左翼的思想を持っていると自認している場合は、何らかの反発が生じる可能性が出てしまう。左翼的立場の人たちから反共産党や反左翼の人を扇動するものの言い方であったと言われても仕方がないかもしれない。

しかし、実際には、暇空氏は、一般社団法人の活動を妨害したり、驚異や不快感を与える活動をすることを厳に戒める発信をしていた。あたかも朝日新聞のコラムのような報道がなされていることを警戒していたかのようである。それはこの問題を知っている人たちはよく知っている有名な話である。違法、不当な行動をいさめていたのが暇空氏なのに、攻撃を扇動しているという朝日新聞のコラムは、前述の事情があったとしてもやはり事実に反する報道というべきであろう。

また、朝日新聞のコラムでも言及しているように、暇空氏が一般社団法人から訴えられたことに対抗する費用として6千万円を超えるカンパが集まり、一定の知識層も広く支持している。もし、空想の敵を想定してのゲーム感覚の攻撃をしていると思われればそれほど高額のカンパに現れる支持が集まるはずはない。

また、暇空氏の言うところの一般社団法人の背後に「なにかグループ」という集団がいることは、東京都監査委員会が指摘するようなずさんな会計処理があるにもかかわらず巨額の公金が一般社団法人にわたっているという事実からも十分推測できることである。2018年までは東京都は原則的な会計処理を求めていたのにも関わらず、それがその後崩れてしまったということから、何らかの圧力が都の会計原則を後退させて、東京都が極めて非常識な支出をしたという結果を事実として招いているのである。一番言いたいことは、暇空氏は既に特定の一般社団法人の批判にとどまっていないということである。公金支出の実態という問題に目を向けている。ところがこのタイミングで、毎日新聞や朝日新聞が、事態を矮小化する記事を連続して上げ始めたという流れを見る必要がある。

朝日新聞の最大の問題は、東京都監査委員会の監査結果の矮小化である。毎日新聞もこの矮小化をしている。監査結果の読み方については既に紹介した通りである。肝心なことは、監査請求が「請求が妥当ではない」という結論に至ったとしても、それは暇空氏側が不当性を立証しきれなかったということであり、一般社団法人側に不当がないことが証明されたわけではないということである。また、本来は都の公金支出の問題であるから、監査委員会が指摘するような領収書が存在しないような支出に対して、公金を支出することが不当な公金支出ではないのかということが監査委員会の判断から漏れているということが最大の問題であり、今後訴訟において論点になるであろうということである。

Colabo問題から前向きに考えるべきこと 1 東京都若年被害女性等支援事業の監査結果の読み方と今後の訴訟の行方
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2023-01-11

これを知らないでか、あるいは知っているのに意図的にか、朝日新聞のコラムでは過小評価がなされている。朝日新聞の編集はそれにもかかわらずこのコラムを掲載したことになる。

もう一言だけ付け加えると、一般社団法人擁護派の用語の理論の特徴として、当該一般社団法人は善行を積んでいるから攻撃をするなという論理が強調されていることである。「目的は手段を浄化する」というマキャベリズムがここでも繰り返されていることを指摘しておく。

朝日新聞コラムの一番の問題は、暇空氏を支持する側がアメリカのQアノンであり、彼らは民主主義派を攻撃しているという図式を作ろうとしていることである。会計の不適切処理や単純ミスとして不問に付すことができない請求自体は東京都監査委員会ですら認定しているのである。根拠のない陰謀論ではない。また、これほど会計がずさんでありながら、数千万円から億という税金が特定団体に支出されているということの理由、つまり通常の委託事業や補助事業と明らかに違う扱いがなされている理由を明らかにする必要はある。当該一般社団法人ではない誰かが関わっているならばそれを明らかにするということは民主主義の根幹の問題である。陰謀論とは全く違う。

確かに現在この問題を取り上げているのは、特定思想のないプロのユーチューバーの外は、保守的メディアが多いことは間違いない。しかし、これは保守系メディアが取り上げるというよりも、左派系メディアが取り上げないということの方が正確な表現であると感じる。もっとも非組織的で自由な左派系メディアというものがあるのかという問題がないわけではない。

冒頭の特定政党と関連付けての批判が行われてきたことや左派系メディアが取り上げないということを利用して、朝日新聞がコラムを掲載したように、今回の問題を左右対立構造の中の出来事に落とし込む動きがあることには注意しておく必要がある。私は毎日新聞と朝日新聞のコラムを読むことによって改めて理解したが、これが55年体制の茶番劇だったのであろうということである。

そこでのポイントは、人間は人間同士の紛争に巻き込まれたくないという素朴な感情を持っているということである。もちろん私のこの記事のように、理不尽な対立があれば参戦しようという意識をもつ者もいるが、それは多数派にはならない。55年体制という秩序は、紛争を激化させることによって、大多数の国民の政治参加を消極化してきたという役割があり、それはこのようにして作られてきたのだろうかという疑念が芽生え始めた。あわせてその際の左派系メディアの役割にも気づかされたような気がする。

まとめると
通常の補助事業や委託事業では、一円の単位までの会計処理の問題が自治体から指摘されて、すべての領収書の提出が求められるほど、会計原則には厳格である。それにもかかわらず、どうして本件一般社団法人ではそのような会計処理が求められずに公金が支出されたのかという問題が現に存在する。

そしてそのような都と一般社団法人の関係が明らかになると思われる都のメールが、暇空氏が開示請求した段階では黒塗りされて開示されることによって、その文書が存在していたことを示していたにもかかわらず、年が改まった段階では、1,2か月間の間で破棄したと都が言い出し、情報開示が拒否されたという問題もある。

今回の問題は左派勢力が長年にわたって追及していた地方自治体の会計に関する原則と情報開示という、行政行為の可視化、公平公正さの問題という民主主義の根幹に関する問題である。その情報開示や公金支出の在り方の実態解明を一般社団法人の善行を理由に妨害することを左派勢力が行うことは、自分たちの立場の否定に他ならない。

左派という言葉の定義の問題があるが、人権や平和、あるいは平等という憲法の大原則を行政効率や経済効率よりも優先させるという特徴があったのではないだろうか。それらの政治的姿勢よりも、組織の論理を優先させ主張をするのであれば、左派とは何なのか、左右対立という二項対立の図式の本質とは何なのか、我々は改めて考える必要がある。



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なぜ女性への攻撃だけを大手新聞が問題にするのか。そのデメリットと真意についての考察 毎日新聞の署名記事に対する違和感 SNSのルールに関する議論こそ必要ではないのか [弁護士会 民主主義 人権]

2023年1月16日 記者の署名記事が毎日新聞に掲載されました。
「SNSでジェンダー問題発信 声上げる女性へやまぬ攻撃 ゆがむ日本」
という表題です。
尾辻かな子氏や吉野家専務発言の告発者の例を挙げて、「ジェンダーに関して女性が声を上げる時、過剰なバッシングを受ける事例も相次いでいる。」とまとめています。

SNSやそのまとめを見ている人にはすぐに違和感に気が付く記事です。しかし、多くの中高年以上の国民はSNSを使っている人は必ずしも多くはないでしょう。だから毎日新聞が書いているのだから正確な情報だろうと勘違いすると思います。

この記事が正確な情報か否か簡単に検証してみましょう。
先ず、この記事が何に対して憤っているのかを考えてみます。なぜなら二通りの解釈が可能だからです。

先ず、「誰かがSNSの投稿をして、それに対して脅迫罪や名誉棄損罪になるような違法な攻撃をすること」に対して憤っていると読んでみましょう。この主張はもっともな主張です。そうであるとしても、どうして女性に攻撃するときだけを女性以外を自認している人に対する攻撃と区別して憤らなければならないのかがわかりません。記事にもその理由は書いてありません。犯罪に該当するような攻撃は男性に対しても女性に対してもいさめるべきだと私は思います。

次に「女性がジェンダーに関して発信する時には、過激な攻撃が多い」という主張を述べているという解釈も可能だと思います。しかし、そうであれば、女性がジェンダーに対して発言した時の、他の発信と比較しての、攻撃を受けた事例の量や質を何らかの形で紹介するべきだと思います。必ずしも統計的な根拠を示せというわけではありません。しかし、事例2点だけを紹介しておよそ女性がジェンダーに関して発言すると過剰なバッシングを受けると結論付けることは明らかに過剰な主張です。

もっともこの記事が新聞記事ではなく、SNSの投稿であれば、そういう考えのある人もいるだろうなということでわざわざ取り上げることもありません。社会の実態を正確に伝える使命がある新聞で、名前の通った毎日新聞の記事であるから問題にするべきだと思うのです。

実際に男性が発信するジェンダーに関係のない話にも炎上はありますし、男性が発信するジェンダーに対する意見にも炎上があります。ジェンダーにかかわりなく、男女の性別にかかわりなく、犯罪やそれに準ずるような人格を否定する攻撃は行うべきではありません。本来あるべき主張はこういう主張だと私は思います。

この記事の違和感はまだあります。

尾辻さんの発信に対して「殺す」という攻撃に問題があるということは誰しも賛同されるでしょうし、発信した人間の多くも自分の表現に問題があったと自認していると思います。しかし、このような極端な犯罪的な攻撃に対しだけ批判しているのではなく、尾辻さんの意見に異を唱えた書き込みに対しても、どうやら記事は非難しているようなのです。尾辻さんの批判された元投稿は、「駅に女性のイラストのポスターが多数掲示されたことに対して、公共の場にもかかわらず女性を性的に扱うものだ」というご自分の感覚を発信したものです。これに対してそうは思わない人が「そうは思わない」ということを発信したことは、批判されることではないはずです。特に尾辻さんは国政政党の肩書を出して発信されています。この発言形式は重いですし、批判の対象となることを特に覚悟しなければなりません。国政政党の幹部としての発言に対して、その発言に対する意見や感覚の違いを発信することや、政治的な意味合いで批判をすることは私は表現の自由の根幹であると認識しています。

どうもこの記者とは表現活動についての意見が異なるようです。

また、「女性の発信したジェンダーに関する記事一般にネットは過剰に反応する」という表現も、それこそが過剰な表現です。このような表題をつけてしまい、かつ犯罪に該当する行為や人格を否定するような攻撃と、そこまではいかない批判を一緒くたにして「止まぬ攻撃」だとすると、日本のSNSでは、他者を批判する場合は、およそ犯罪まがいの攻撃や人格攻撃を行うという具合に読めてしまします。もちろん記事はそこまでは断定的に述べてはいませんが、「攻撃」という言葉を受け止める読者としては、その人それぞれの「攻撃」という言葉の平均的な攻撃が行われているという印象を持つ傾向が人間にはあるからです。これがまさに差別の温床になっているわけです。

以前に私がネット言論を研究して分析した結果としては、炎上の初期の先行する批判の書き込みは真摯であり的を射た批判がほとんどで、その後に過激な、人格を貶める批判が続くという傾向があるということでした。但し、「殺す」などの書き込みは一部であると思います。SNS全体が殺伐としたものであるかのような印象をこの記事は植え付ける危険があると思います。

この記事の全体的な問題は論理学でいうところの「早まった結論」が多投されているということです。インターネット上は「主語が大きすぎる」という決まり文句で分かりやすく批判されているところです。

「ジェンダー発言」に対して攻撃が来るとか
「物言う女性」に対して攻撃がなされるとか
そもそも攻撃が許されない攻撃であるとか
歪んでいるのが「日本」であるとか

娯楽メディアの記事やSNSの投稿であれば等閑視される範囲のことかもしれませんが、毎日新聞の署名記事としてはいかがなものかと思われます。

このような論調を行うことのデメリットを指摘しておきます。

例えば、元発信者が感覚的な発言をして、その人間が国政政党の幹部の政治家である場合でも、「それはあなただけの感覚です。」とか「だから落選するのです。」程度の発言が許されないとするというのであれば、およそ杉田水脈議員の作成した記事に対して批判ができなくなってしまうのではないでしょうか。杉田議員に対する人格攻撃などもあったわけですが、毎日新聞は杉田議員と意見の違いがあるとはいえ、インターネットなどの過激な批判について何らかの批判をしたのでしょうか。もし杉田議員に対する批判については言及が無くて、尾辻氏に対する批判だけを論難したとしたら、その場その場で意見を変える恣意的な論調の新聞だということにはならないでしょうか。また、毎日新聞は杉田議員に対するネット上の過激な形式での批判の誘因になるようなことは一切しなかったというのでしょうか。つまり読み手の感情に訴える批判はしなかったというのでしょうか。

意見の内容にかかわらず、言論に対しては同じルールで評価しなければ、結局は権力側の都合の良いようなルールが設定されてしまう危険があると思っています。自分と同じ意見だけを守って相手全体を攻撃するのでは、結局ご自分の守りたい意見を守れないことになると私は思います。

ネット炎上の先行議論には、意見が違っても学ぶべき点が多くありました。炎上になるようなジェンダー発言には共通の特徴があり、多くの人を否定する表現が使われています。ここを持って主語が大きいと批判されるところです。批判されるべき人でない人も批判されますし、発信内容も身もふたもない表現が使われ、多くの人が不快に感じる内容になっていることが多く、先行する批判はそこを批判しているということが、私の追っていた炎上事例ではほとんどでした。つまり批判の対象はジェンダー思想ではなく、発信者の表現の品位の問題だったということが私の感想的な結論です。

炎上の元発信者は、まるで自分が何らかの被害を受けてトラウマが生じている被害者のように、防衛意識が過敏な状態のような発言表現をしていて、批判をするべき対象を的確に限定せずに、おおざっぱに世の男性や社会全般が自分を攻撃しているかのような自分の感覚を読み手に与えていることと、本来他者の自由にゆだねられている領域(例えばオタク趣味)に対して感情的な否定的介入をしているような表現の発信がなされ、誰にも迷惑をかけずに平穏に生活している人を攻撃する発信がなされているという共通項があるように感じられました。特に他者に対して迷惑をかけていない人に対して、自分が気に入らないということでキモイというような人格否定のような子どもじみた発信をすることには適切な批判がなされるべきだと感じています。

今回の毎日新聞の記事は、あまりにも大雑把で偏った論調であると思う次第です。その他のこの記事のデメリットは以下の通りです。

・ 害ある行為をしていない他者に対して、自分がその行為に対して寛容になれない場合に、その他者の人格を貶める感情論を発信することが守られるべきジェンダー思想に基づく発言ないしフェミニズム思想に基づく発言だということになってしまう。
・ 毎日新聞は女性に対する批判を「攻撃」として歪んだ行為だと考えており、当初に発信した発信表現を問題にしないで批判は許されないという態度を示している
・ 紛争の一方に対する大雑把な支援をすることによって、対立当事者の感情を高めて紛争をあおる形になっている。
・ なによりも、炎上の元になった最初の発信についての吟味をしないで批判者ばかりを批判するということでは、SNSの発信についてのルール作りの冷静な議論をすることができないということが深刻なデメリットになると思います。

記事の着眼点として、気軽に発信できるSNSでの発信によって思わぬ攻撃を受けることができるという点は大いに共感できます。この視点は大切です。しかし、批判する者が悪いという姿勢ではSNSの使用についての成熟ははかられないと思います。SNSは行為としては気軽に発信できるのですが、公開設定をしている場合は、見ず知らずの膨大な人数に対して発信することになります。それによって他者を傷つけることも大いにあるわけです。公開のSNSの場合は、発信行為が気軽にできるからと言って、発信を気軽にしても良いわけではないということに気が付くべきです。

他者の害のない行為に対して、自分の感情をさも多数意見や公的に正しいと結論付けられた命題であるかのように発信して、その相手の人格的批判をする場合は、それを受け入れる人間に限定して発信するべきです。わざわざ批判対象の相手に発信するべきではありません。攻撃を傍観する人は攻撃者だと非難する人がいます。例えば自分がキモイ等と非難を受けた人間ではなくても、そういう理不尽な攻撃を見過ごさないということは人間の自然な感情です。そういう正義感を持った人たちにも発信しているということを自覚して発信するべきだと思います。

またそのような理不尽な攻撃が見られた場合であっても、批判する側は整然と批判をするべきであり、正義感を露わにして相手を人格攻撃してしまうことの無いようにくれぐれも注意しなければならないということをルールにするべきです。

誰が発信者であっても同じです。女性であろうと男性であろうと、ジェンダー思想があろうとなかろうとルールは共通のもの一つが設定されるべきであると考えます。

確かにSNSの使い方や発信やそれに対する批判に対しては、成熟しているとはいいがたい状況にあるように思われます。だからこそ、特定の立場だけを擁護して、基準をいくつか作るのではなく、世論で基準を合意形成していくということが必要だと思います。特定の批判を問題視することは、現代日本では国によって制裁を背景とした法律のルールを定めるという議論になる傾向にあると思います。そうではなくて、多くのユーザーによって議論をして、自主的なルールを構築することが成熟した言論活動につながると考えています。


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