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原作改変問題に見るこの国の公平公正や自由競争の現状 テレビ局が自分自身のためにも検証するべき内容とは [弁護士会 民主主義 人権]



テレビや映画の脚本が、原作と大きく異なることについて、改変それ自体の良しあしの評価とは少し異なった角度から考えてゆきます。

なぜ、原作を改変するのかというその理由について、業界内部からの問題提起が続々と上がってきています。それによるとどうやら、脚本家が原作を「自分の好みで好き勝手に原作を書き換えている」というわけではなさそうなのです。

私がなるほどと思った理由は、テレビドラマや映画の制作初期の段階で、先ずキャスティングが先に決まるようなのです。この時間帯のこういう期間、こういう年代をターゲットにするドラマを作ると、それに対して、それぞれの俳優の「実力」、所属の「実力」等に応じて、おおよその役柄を配点して、少なくとも出演の合意をとっておき、出演者のスケジュールを確保するということのようです。

なかには旧名称を持つ事務所と音楽番組のように、所属タレントを使うために企画を持ち込んでいくということもあったのかもしれません。

ところが、原作にそのような売り込み俳優の出番が無いとか、所属事務所が配役の原作の人物を所属俳優が演じることに難色を示すことが出てくるわけです。

そこでニーズが生まれるのが、脚本家による原作の改変だというのです。原作には登場しなかった登場人物を脚本による原作の改変で登場させるとか、はなはだしい場合には登場人物が男性なのに、女優を使うために原作を改変するということも、これらのニーズに応じる手っ取り早い方法だというのです。

件の脚本家の方は、このような制作側のニーズに合わせて器用に原作を改変させる「才能」があったということだったのでしょう。

「じゃあ、原作を使わないで、オリジナルの脚本を作ればよいではないか。」ということも考えられると思うのですが、それも理由があって、オリジナルの脚本を書けないというよりも、原作があった方が話題になる分視聴率が見込めるし、テレビ化すれば出版の側も売り上げが上がるという思惑もあるようなのです。

私はこの一連の理由には説得力があると思いました。この原作改変システムであれば、特定俳優の割り当てという制作の思惑は実現するわけです。

私は、原作の改変や原作では出ない登場人物をつくるとか、逆に割愛させるということについては、原作者の承諾があれば、それは理由のあることだと思っています。絵やアニメのようなメディアでできても、実写映像では表現しえないこともあるし、逆に実写映像だから表現できることもあると思います。また、一人の頭の中で作った進行に不自然な点があり、それが実写化されると矛盾として受け止められ、視聴者を混乱させるということもありうるからです。

このように、制作側の主観で構わないのですが、エンターテイメント性を高めるとか、作品の質を高めるとかというならば、ある程度原作から変わることもありうるだろうという風に考えています。こう考えるのも私が松本清張氏の影響を受けているということもあると思います。

しかし、観る側の満足度を高めるとか、作品の質を高めるとかそういうことではなくて、制作側やスポンサー、俳優の所属事務所の都合で原作を改変して行ったら、それは視聴者や作品の質という方向は二の次になっているということだから、観る側からすれば、つまらない方向への改変ということにしかならないでしょう。単にその「ごり押し俳優」のファンだけが喜ぶ、程度の低い番組になることは予想が付くことだと思います。一部のファンだけが見る番組は視聴率が低下していくことはあまりにも当然だと思います。

思えば、旧名称を持つ事務所の問題も、性加害問題だけでなく、そのようなテレビ局の事務所による私物化というところにも本質があったはずです。つまり、所属事務所とテレビ局の関係が旧名称を持つ事務所だけの問題ではなかったということです。考えれば当たり前です。

昨年から今年にかけてインターネットで話題になっている様々な問題は、このようにテレビ局の特定の人間との結びつきに関しての問題であると整理できそうです。
「特定のスタッフやキャストとの結びつきがどうして起きたのか」ということについて厳しく検証をしていくことが必要であると言えそうです。

単なる人間的結びつき、情実等の問題なのか
そこに利益供与があったのか
スポンサーの意向なのか
それが論点になるはずです。社会的非難をかわすことを目的とした検証ではなく、自社の生産性を高めるための検証でもあるのだから、真剣に取り組まなければならないことだと思うのです。

テレビ局が私企業であっても、報道部門もあるわけです。同じように報道の目的以上の私的な結びつき、個人的な利益、スポンサーの圧力等によって、報道するべき事柄を報道せず、報道内容を都合よく改変している可能性が否定できないということになり、貴重な電波をこのテレビ局に割り当てて本当に良いのかという公的事情が存在することになります。

あれはドラマ制作部門だけの問題だということは通らないと思います。音楽制作部門でも同様の問題があったのだから、報道部門だけは別だという理屈は通らないからです。少なくとも、そのように部門独自の問題だという構造を解き明かした検証は無いと思います。

もしかすると、テレビの衰退は、この日本という国の生産性の衰退を象徴しているのかもしれないという危機感を持っています。良いものを作るという製作者の誇りよりも、一部の担当者の感情や利益を満足させることが優先となるとか、良いスタッフに活躍の場を与えるよりも、個人的な都合に対応できる要領の良い人ばかり起用され、あるいは本当の実力とは関係のない人間関係の力学によって場を与えられている人ばかりが横行し、能力のある人たちが能力を発揮できないということがあるのではないか。このような状態だから、日本企業の生産性が高まらず、本当はもっと繫栄するはずの社会が停滞しているのではないかという危機感です。

これが現代日本のように複雑な人間関係であり、かつ、大量の人間と利害関係が生じている社会ではなく、100人前後のムラが人間の世界のすべてであれば、仲間を大切にして、仲間の利益を優先することは当然のことだと思います。

しかし現代日本では、誰かに利益を与えることが、誰かに損をさせることになってしまうということをもう少し意識しなくてはならないと思います。意識する際のツールが、「公平公正」という概念だと思います。仲間がいたとしても、公平公正な起用をしていくこと、良いものが流通するようなシステムによる資本主義的な自由競争原理を精巧に作り上げていくことが求められていると思われます。

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共同親権反対の某弁護士会の意見書に落胆した理由 結論についての落胆というより法律家の意見として成り立っているのかということについての私の考え [弁護士会 民主主義 人権]


共同親権反対の意見を単位弁護士会(都道府県の弁護士会)で上げるところがいくつかありました。共同親権のような微妙だと思われる問題について、単位弁護士会が単一の意見を上げることにも、弁護士会の役割、性質に照らして疑問もあります。

最大の問題だと思うことは、その意見の理由の構造についてです。これは少し説明が必要だと思います。

我々法律家は、法律を現実の人間関係に適用して、紛争を解決することを実践しています。法律の条文というものはご存じのとおりとても短い文章です。抽象的に定められていることが多いと言っても良いでしょう。その中で、一方の利益だけを考えているのではなく、双方の利益を考慮に入れて、法律ですから誰に対してでも適応され、しかし、個別事件で適切妥当な解決を図らなくてはなりません。法律家は、勉強をしているときも、実務についてもそのような法律の特質について叩き込まれているはずです。

だから共同親権というこれから法律を作る場合の議論にあたっても、様々な利益を考慮して、制度の実現によって得られる利益をなるべく確保しながら、その制度の弊害をなるべく小さくしていくように議論をしていくことが求められると思います。このような作業が法科学としての手法であり、法律家としての命であると私は思っています。

このような法科学の手法を使った意見表明をすることによって、弁護士会の意見が、意見を異にする人たちに対しても一目置かれて、無視できないものとして価値を承認されてきていたと私は思います。

いくつかの比較的大きな単位会で、共同親権について強く反対するという極端な意見が出されています。

例えばこれが、これから作る法律が一部の人にだけ利益が生まれる一方、多くの人に対して人権侵害に該当するということであれば、注意喚起と法律の制定を慎重に行う観点から意見を述べるということが理解できます。例えば、残業時間の割増賃金制度の撤廃などという法律を作るとしたら反対するということもまだわかります。その場合でも制度廃止の目的をよく検討して、その目的に合理性があるのか否か、そもそもその目的を掲げて法律の廃止をする必要があるか無いか等の議論をすることが普通です。そして、廃止の目的によって得られる利益と、廃止をしないことによって得られる利益を比較して、最終的な意見を述べるということがこれまでの弁護士会のあるべき意見提出だったと思います。

さて、離婚後の共同親権について、それらの弁護士会は立法の目的についてきちんと検討しているのでしょうか。最新の単位会から出た意見書を見ると、立法目的は、離婚後も父母が子どもの養育にかかわることが子どもの利益に合致するという「理念」があり、この理念によって離婚後の共同親権が導入される傾向があるという難解な一言で、目的の検討が終わっています。

先ず、今回の共同親権の目的について、きちんと検討していないということが指摘できると思います。
次に、離婚後の共同親権制度が「導入される傾向」とは何を言っているのでしょうか。どこの傾向なのでしょうか。確かに離婚後の共同親権制度は、令和2年の法務省の調査では、24か国を調査して離婚後の共同親権制度にしていない国は、トルコとインドだけだったそうです。世界の趨勢は、離婚後も共同親権制度をとっていることになります。もちろんG7等のいわゆる先進国と呼ばれている国や、中国や韓国などの隣国も離婚後も共同親権制度をとっています。この各国の制度が具体性のない理念で決められる傾向にあるというのでしょうか。そうであるならば、その具体性のない理念だけで制度導入がされているとする根拠こそ示すべきではないでしょうか。ところが何も示されていません。単なる決めつけで述べているだけにすぎないと受け取られても仕方が無いと私は思います。

この点については、立法化を検討している法務省が、具体的な離婚後の共同親権制度の立法目的を明示しないという行政府としての立法作業として不可解な態度をしていることにも原因があるように感じられているところです。

また、政府などの説明を報道する報道機関によって、具体的内容を割愛して「子どもの利益のために離婚後の共同親権は必要」という言葉しか出てこないので、我が国の立法論においても子どもの利益のためという抽象的議論をする傾向があるということなのでしょうか。そうすると「導入する傾向がある」という表現は間違いだということになります。きちんとした日本語の読み方をすれば、意見書が正しく記載されているとすれば、「海外では離婚後の共同親権を導入しているが、それは抽象的な理念から導入している」としか読めないことになりますが、本当にそうなのでしょうか。弁護士会の意見ですから、そこは責任をもって述べてもらわないといけないと思います。国際問題になりかねないことを述べていると思います。

弁護士たるもの、法律家であり、また、離婚事件が日常的な業務になっていることからも、海外であっという間に広がった共同親権制度の目的を調べ、あるいは離婚後の子どもの養育の実態をみて、離婚後の共同親権制度の目的や必要性についても検討をするべきだと思います。

先ず、離婚後も父母が子どもの養育にかかわることが子どもの利益に合致するという「理念」は、具体的な意味を持って存在します。これは、家庭裁判所の研究雑誌や子どもの権利の実現のために書かれた法律書籍などで、十分に記載されています。いろいろな調査があるのですが、アメイトという研究者が行った統計的研究によって、実父母の離婚を経験した子どもは、離婚を経験していない子どもと比べて、自己評価が低下するということが示されています。これはその他の研究でも裏付けられています。離婚後の共同親権制度に反対する論者で、これらの研究結果に対する科学的批判を私は見たことがありません。

子の親であれば、自分の子どもが将来自己評価の低い子どもになる危険があるなら、その危険を排除したいと思うのではないでしょうか。もし離婚後の共同親権制度が、そのために子どもにとって有効ならば、賛成の大きな力になるはずです。

真の問題は、離婚後の別居親の子どもとのかかわり方はいろいろあると思うのですが、共同親権という方法が必要かどうかという点にあるはずです。ここでは、世界の国々は、共同親権制度が必要だと判断したからこそ制度を導入したということだけを述べておきます。

さて、某弁護士会の意見書は、後は、離婚後の共同親権制度ができた場合の弊害についてだけが述べられています。いくつか考慮しなくてはならないうちの一方の利益だけを根拠に立法反対の意見を述べていることになります。これでは立法論ということについての説得力はなく、一方の問題の所在を述べただけの議論で終わっていることになります。また、その中でも、これも法務省の問題提起がいかに曖昧化を物語っているのですが、共同親権制度の具体的な提案の中身を明らかにしないで、単に離婚後の共同親権制度の是非を問うている問題提起になっていることに非常に問題があります。その結果、こういう悪い事態も想定できる、もし具体的にはこういう制度になればこういう悪い事態が想定されるという意見に終始してしまうわけです。物事全てにメリットデメリットがあることは当然です。また、離婚後の共同親権制度の在り方についてはJ.ワラスティン(ウォーラースタインと表記される場合も多いです)も警告を発しています。形式的な共同が、子どもの便宜を考慮されないで具体化されてしまうことで子どもの成長に負担が生じるということが指摘されています。

但し、法律家の議論であるならば、「離婚後の共同親権制度は子どもにとってこのような利益がある、しかし、先発国家の具体的な制度運用を見るとこのような弊害が生じているという実態がある。より子どもの利益にそった制度とするためにはこういうことを考慮して具体化するべきだ」という意見になるはずだと私は思っています。

反対意見であっても、「これこれの弊害が必然的に伴うために目的とした利益を考慮してもなお、制度化するべきではない。」というならば襟を正して意見を伺うという気持ちになるのです。しかし、実態は、先ずは反対だという結論をだして、その理由付けとして考えられる弊害を上げているように読めてしまうのです。だから大きく言えば論理学的用語でいうところの「感情論」になってしまっているとしか思えません。

ここで意見書の反対理由をメモ代わりに記載しておきます。
1 離婚を選択した夫婦は葛藤が強く、子の監護などについて話し合いをしなくてはならないと葛藤が高くなり、子への悪影響が生じる、また、葛藤が残っている夫婦の一方が、子に関する重大な決定について拒否権を発動して支配を試みる危険がある。また、裁判所の調整は裁判所の能力から困難がある。(この点の指摘は一理あって、子どもにとって本当に有害なのは、離婚や別居自体ではなく、離婚をした後でもまだ相手に対して葛藤が続いている場合だとされています。ただ、それは他方の親が子どもにかかわりが無い場合であってもという意味です。)
2 DVがある場合は単独親権となったとしても、裁判所がDVを見抜けず単独親権を主張できないケースが不適当だ。(裁判所でDVが無いと判断するのは、見抜けなかっただけでなく、DVの主張はあったけれど実際にはないケースももちろんありますけれど。)
3 どうやら共同監護になりそうなのがけしからんと言っているようです。表題だけ読めば、共同親権と共同監護は別物であるから共同監護を義務づけなければ共同親権でもよいと読んでしまいそうなのです。これは離婚後の共同親権制度に対する反対理由ではなく、共同監護制度に関する意見のようです。
4 共同親権になっても養育費が支払われる保証はない。(だから共同親権反対?)
5 立法によらずとも共同監護は可能(だから共同親権反対?)
3,4,5の理由は、仮想敵に対する反論のようなものなのかもしれません。

結局離婚後の共同親権制度に反対する理由は、共同親権になると、子どもの養育を理由に子と別居することになった親が子と同居する親に対して干渉をし、同居親の精神的安定を害するとともに、離婚後もDVが継続するからということに尽きているようです。そこに子どもたちの利益を最優先に考慮した形にはなっていないと私は感じます。

いくつかの利益を考慮して調整して立法するという態度ではなく、特殊の立場の人の利益だけを一方的に優先して考慮して反対意見を述べている形になっていると私は思います。反対意見を出すとしても、もう少し法律家らしい体裁の意見書を出すべきだったのではないかと落胆したわけです。

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G7男女参画会議についての違和感 前提論理や価値観は、女性の地位の向上や家族の生活の向上とは逆行するのではないかという疑問 [弁護士会 民主主義 人権]

栃木県日光市で開かれたG7男女共同参画・女性活躍担当相会合は、男女間賃金格差は複合的な要因があるとし、一つの要因として女性の職場での地位が低いということ、一つの要因として家事の負担が女性にしわ寄せされていることを述べ、家庭内の男女平等を目指すという一部報道がなされた。

一部報道というのは、この会議や日光声明についての内容のある報道を見つけられなかったからだ。翻訳が間に合わないためか、元々内容のある議論がなされていなかったのかどちらかではないかと思われる。

特定の価値観が所与の前提のような報道のされ方をしているが、こういう場合は大変危険な印象操作が行われている場合であることはこれまでも多く経験してきたことだ。少し上げ足という感もあるけれど、男女参画の本質があぶりだされるのではないかと思い、あえてコメントをしてみる。

1 そもそも女性の経済的自立ということは目標とするべきなのか。

  これは前提として、「多くの女性は経済的に自立していない」、「経済的に自立していなければ対等にはならない」という論理がある。そして、目指すべき方向として、女性の自立、地位の向上のためには女性も対等平等に働くことを是としている。そして、情報の受け手は、それが正しい命題だと疑問を持たないで受け止めている。

私は、ここにこそ疑問を持つべきであると思っている。家族の一人が賃労働等の就労をすることで、複数人の家族が幸せに生活できる社会ということこそ目指すべき方向なのだと考えている。家族の一人とは男性でも女性でもその家族で決めればよい。あるいは共稼ぎをすることにすることも含めて家族が決めればよい。

どちらが働くか、二人で働くかということには、各家庭に選択肢が持てるようにすることが目指すべき方向のはずだ。

ところがどうやらG7は、共稼ぎという方向を固定して方法論を検討していることになる。つまり、共稼ぎをしないと、望んだ生活ができない低賃金社会が固定されることを前提としているのではないかという疑念を持つべきだと思う。女性の経済的自立や社会的地位の向上という美しい言葉と、共稼ぎが必要な低賃金社会の固定は常にセットにあると警戒するべきだと感じる。

2 家事労働は平等になるのか、出産をするのは女性

現在の若者夫婦の多くは家事を分担している。専業主婦が減っているように感じられるが、専業主婦であっても夫は家事を分担していることが多い。共稼ぎの場合に、家事のほとんどを女性が行う家庭は私の担当する夫婦では聞かない。おそらくごく少数なのではないかと思う。

但し、公平に見て家事をほぼ平等で行っているとしても、一方の立場では相手の方が楽をしていると感じていることはよくあることだ。妻は夫は自分がやりたいことだけをやるといい、夫は半分以上自分がやっているということはよくあることだ。家事をどの程度シェアしているかについての客観的な指標を作ることは難しいようだ。

実際はかなりイーブンに近い形で家事をすることが多いように感じている。但し、最大の家事はやはり出産であり、これは女性にしかできない。出産というのは、妊娠から出産、そして新生児の育児と母体の回復まで含めてを言うと考えるべきである。

そうであれば、家事労働の負担は、出産がある以上、女性に多くの負担割合があるということは避けられない。

家事が女性にしわ寄せされるから女性の地位が向上しないというのであれば、女性の地位を向上させるためには出産をしないことが必要だということを言っていることと同じなのではないだろうか。

出産以外で、家事が女性にしわ寄せされているために女性の地位が向上しないというのであれば、どの程度のしわ寄せがなされていて、どの程度の労働時間の短縮を余儀なくされているのか、そのデータを報告するべきである。

データがなければ感想や印象で世界の政策が動かされていることになってしまう。また、その職場での地位が向上しないことは、その程度の労働時間の短縮によって正当化できることなのかよく考える必要がある。

不意の残業に対応しなくてはならないとか、恒常的な長時間労働をしなくては地位が向上しないというのでは、地位向上の美名のもと過重労働を放置していることになるのではないか警戒する必要がある。

3 「経済的自立が無ければ女性の地位が向上されない」という考えと「家事労働に価値を認めない」ということはむしろ親和するということ

日本の労働者階級は、戦前ころまでは農家が一番人口が多かったのだろうと思う。農家では共稼ぎが当たり前であった。都市部の比較的収入の高い職業で専業主婦となったのではないだろうか。

その当時であっても、外で稼がないから女性は地位が低いという扱いはなく、むしろ女性に対する配慮が道徳として浸透していた側面も確かにある。男性は家事育児に口出しをしないということで、女性の裁量を最大限尊重するべきだという風潮があった。

そうはいっても、女性の選挙権は認められておらず、行為能力も一部否定されていたことは間違いない。そういう意味で、女性からすれば差別的扱いをされたと感じることはもっともなことである。

しかしだからと言って、家庭の中で女性が馬鹿にされていたり、一段低い存在だと、男性が優越的な感覚になっていたかというと、実際はそうではないと思う。これは論証できない。自分の親戚筋やその近隣を見ていてそう思うとしか言いようがない。

現代社会の家事労働は、実は非常に価値の高い労働である。健康面一つとっても、環境問題や食材の安全性の問題など、知識と手間が要求される労働になる。教育も、学歴社会の中でいじめが無い子どもたちの世界を作ることにも保護者が協力しなければならないところが大きい。情報を取得して最善の方法を実行するためには知識と技術と労力が必要であり、家族単位でみた場合、そのリターンも大きい。だから現代日本こそ、専業主婦ないし専業主夫が家事を行う必要性が高いと私は考えている。

家事労働は尊敬に値する労働である。そこに価値を見出さない理由こそ、正直に言うと私にはわからない。家事労働の価値をきちんと認識する社会こそ目指す方向なのではないだろうか。外で働かないと輝けないとか、地位が向上しないという価値観こそ否定されるべきではないだろうか。

4 働けない事情は様々あるが、家事労働ならばできる人は多い 働くことに優先的な価値を認めることは障害者差別に親和する

働けない事情は様々ある。その中で、集団行動が苦手で職場で衝突してしまうという人たちが確かにいる。そういう人たちでも、家庭の中では尊重されて家事をこなすことができる人がいる。職場では効率が最優先であるため否定的に扱われるが、家庭では家族が良ければそれでよいのである。こういうパーソナリティの問題で働けないひとがいる。また、身体障害によって、会社などでは働けなくても、家事には対応できる人もいる。

私は身体障害の人の権利の実現する事件を担当することがあるが、障害を無くすことができないのだから、変わるべきは職場の価値観ではないかと常々感じている。

外で働くことに価値があり、外で働けないならば地位が向上は期待できないということを過度に強調することは、端的に障害者差別である。

ここまで書いてきて、私は自分の話が、揚げ足取りの批判のための批判だとは思えない。むしろ、G7の会議の方が、おそらく実際の人間の活動に影響を与えない方向の議論をしているという思いが強くなった。マスコミは、G7の話を深堀せずに、日光市の名産品などを紹介することが多いようだ。また、いくつかの前提とされている理論や価値観に対して疑問の声も、具体的な道筋の欠如も報道されないことに違和感が強い。

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良い悪いというヒステリックな感情論よりも、痴漢被害防止を優先させるべきだと思う 自衛措置を呼びかける警察を支持する理由 [弁護士会 民主主義 人権]



先日、地元紙に「痴漢啓発に無意識の偏見 警察『薄着は注意』、自衛を強調?」という記事が載った。しかも1面トップの記事だった。

わたしなりに記事を要約すると、「痴漢被害に遭うのは被害者が悪いのではなく、加害者が悪い。自衛を強調すると、痴漢に遭ったのは被害者が悪いからだと言っているようなものだ。また、鉄道警察の統計から夏は痴漢被害の件数が減っているので、薄着と痴漢は因果関係が無い。」というような内容である。

かなり概念の整理ができていなくて混乱している記事が一面になったものだなあと正直驚いた。また、ミスリードをして実害が生まれなければよいなと心配になった。

各命題を検討してみよう。
「痴漢被害は、加害者が悪いのであって被害者が悪いわけではない。」
この命題は全く正しい。強制わいせつ事件の弁護で、被害者の落ち度を主張する機会はめったにないだろう。良い悪いで言ったら、悪いのは犯罪者である。

「外では挑発的な服装をしないとか、夜間の独り歩きをしないことは、痴漢被害予防に効果がある。」
これも正しい。

路上での強制わいせつ事件は、夜間に行われやすい。犯人は女性にいくつかの幻想を持っていることが多く、相手が女性一人であれば力づくで思いを遂げることができると信じている節がある。周囲に歩行者がいるならば、強制わいせつ事件を起こすということはまれである。当たり前のことだ。

ここで、「夏に電車の痴漢被害が少ない」という統計について考えてみる。おそらく無意識に、「夏は女性は薄着になる。」、「夏に痴漢が少なくなるということは、薄着になっても痴漢は増えないでむしろ減る。」「だから痴漢と薄着は関係が無い。」という論理を組み立てているのだろう。

しかし、その論法が正しいのであれば、夏に痴漢が減るならば「女性が薄着になるほど痴漢被害は少なくなる」ということが論理的帰結になるはずであるが、さすがにそうは言わない。「薄着と痴漢は関係が無い」というのにとどめる。自分の論理に無理があることをうすうす自覚している可能性がある。即ち、夏に痴漢が減る理由をきちんと考える必要があるということである。一つの可能性として、学生、生徒の夏季休業期間になるため、車内の人口が減り目立つため痴漢がしにくくなるということと、被害者が混んだ電車に乗らなくなるということが関係しているのではないだろうか。

だれでも思いつく「論理」ではあるが、確証バイアスがかかると自分の結論に合わせて現象を解釈してしまうということの典型例ではないだろうか。

痴漢は公共交通機関内だけで起きるものではなく、深刻な被害は路上や自宅で起きる。深夜に偶然見かけた女性を何キロもつけてきて路上で襲ったという事件もあった。その時目についた女性が複数人いる場合は、服装はターゲットを絞る一つの要素になるようだ。

被害防止を優先するならば、できる限り自衛の措置を講じるべきであると私は思う。夜間の独り歩きをしないということが最も効果があることは間違いない。できるだけ夜間は外出しない。どうしても外出しなければならない場合は誰かに同行してもらうようにする。家族がバス停などまで迎えに行く等の方法を勧める必要は大きいと思う。

確かに、伝え方によって、被害者をさらに苦しめるということはあるだろう。しかし、そのために、自衛の策を提案しないということはやってはならないことだ。特に警察が自衛の呼びかけをしないことや、マスコミが薄着をした方が痴漢は減るというミスリードを誘うような伝え方をすることは大問題ではないかと思う。

どうも「ジェンダーの視点」という言葉が出てくると、「では私が悪いというのか」というヒステリックな主張が出てきやすいように感じている。今回の根本問題は痴漢被害防止にするべきではないのだろうか。

女性が痴漢被害に遭う危険を高めてまでジェンダーの視点を導入するべきだというならば、はっきりとそのように主張するべきである。

私が考える「ジェンダーの視点」からすると、どうして深夜に単独行動をしなくてはならないかということを考えるべきだということである。昭和60年に労働基準法が改悪されて、女性の深夜労働が違法ではなくなった。生活のために深夜に帰宅する女性が生まれ、当たり前のように深夜に帰宅する女性が増えた。これは雇用機会均等法と抱き合わせに改悪された。つまり、このような女性保護があるために女性は会社で出世ができないのだ、だから女性保護を廃止して女性の地位を向上させるというものだった。

平成、令和と進み、どれだけ女性保護の切り捨ての恩恵を受けている人がいるのだろうか。単に安い労働力を深夜帯も活用できるという主としてグローバル企業だけが喜んでいるのではないだろうか。

女性保護は女性の出世を妨げるものではなく、男性と対等に働くためのツールだったはずなのに女性も体力的事情が捨象されて、男性と同じ物差しで評価されるようになってしまったわけだ。

昨今、本末転倒で非論理的な主張があまりにも目に付くようになったような気がする。

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なぜマスコミはリベラルを批判できないのか、国や都の政権批判もできなくなった理由としての伝統的な構造 55年体制という予定調和 [弁護士会 民主主義 人権]


最近の出来事で、一昔前ならば一大キャンペーンをするような政治疑獄も、野党政党が絡んでいることを良いことに批判記事を報道しないテレビや新聞が、中立的な報道もなされないという現象を突き付けられて、若者やインターネットユーザーを中心としてマスコミに対しての不信感が広がっています。毎日新聞を筆頭として、朝日新聞、東京新聞というリベラル系と言われていた新聞に対して大きな批判が寄せられています。

批判の内容としては、公平な報道姿勢ではなく、ある事件をめぐって対立している当事者の一方がリベラル的な色合いがあるのですが、その一方の不都合なことを報道しないということが中心です。インターネット上は「報道しない自由」を行使しているという言葉が流行のようになっています。また、かつてそれらの新聞が政府与党の公金の不正使用疑惑を批判的に報道しているのに、この事件では自治体などの疑惑の報道を一切しないというダブルスタンダードも批判されています。中には、そのリベラルの色彩を持った一方の側を擁護し、他方を不当な妨害者の一味であるかのようなに新聞が印象操作をしているという批判もあります。

以前、自分が担当している事件の報道について記者と話をする機会があり、公平な報道がなされないことをその不公平な記事に加担した記者と話して色々教えてもらったことがあります。言い訳をするという反省する態度ではなく、「マスコミはそういうものなのですよ。」とでもいうような説明ぶりにいろいろ考えさせられるところがありました。

そのことをふと思い出しまして、「ああ、これがあの時言ってたことか」と思い当たりました。

その記者が言うには、報道は国家権力の問題点を広く知ってもらって、国民の議論に役に立たせなければならないという使命感があるそうです。特にリベラル系マスコミにはそういう使命感を持ってみんな入社するそうです。ただ、何をどう問題にして報道するかということについては、「批判の視点」というものが必要なのだそうです。やみくもに批判するわけにもいかず、読者にも共感してもらわなければならないということらしいのです。

このため、55年体制の続いていた時期までは不動の野党第1党である社会党の視点を借用して政府の問題点を報道をしていたというのです。社会党と同じことを言うわけにはいかないので、そこは新聞社の見解として整えてから主張していたのでしょう。当時国民の半分弱を占めていた革新派の強い需要にこたえやすい記事のトーンになっていたともいえるかもしれません。

そう考えていくと、55年体制は政党間の問題だけでなく、マスコミも含めた大きな体制であったようです。賛成勢力も否定勢力も織り込み済みの、一つの大きな枠の中に納まった形になっていたといえるのかもしれません。そうだとすると内部に対立を抱えた高度の秩序、体制が築かれていたことになります。基本となる体制があって、それに反発する人たちの受け皿もちゃんとあって、衝突しながらもそれなりに秩序を形成し、維持し続けていたということです。マスコミもそれに貢献していたということのようです。

ところが、昭和の後期から社会党が衰退をはじめ、自民党もまた力を失い始め、象徴的には社会党党首が首相となるという出来事が起き、色々な意味で55年体制は終了しました。困ったのはリベラル系新聞社だったと彼は言います。社会党政権下では、社会党の視点で社会党政権を批判しても新聞社の役割を果たせないですから、自民党の視点で現政権を批判することがリベラルだと考えたり、また自民党が政権を取ったらそれを批判しなくてはならないということになり、民主党が政権を取ればまた自民党の視点で民主党政権を批判するということが起こり、そんなことが続いている中で、特にリベラル系マスコミの「報道の視点
」が定まらなくなり、苦労しているとその記者は言っていました。

彼の話が本当だとすると、報道は是々非々とか論理で行うものではなく、政治対立の構図を反映した土台のあやふやな視点で行っていたということになってしまいます。

だから、かつてのリベラル系マスコミは、たまたま与党が長期政権を維持しているので、与党批判を展開することができていたのですが、その視点が定まらないのだと思います。本当は保守なのに野党ということで55年体制よろしくその政党をリベラルという枠にはめてその視点に立ってみたり、革新を標榜する少数政党の視点を取り入れたりしていますが、根本的にどの視点に立つかについては定まっておらず、その時その時でずれたり歪んだりしていると考えるとわかりやすいのではないでしょうか。

そうすると、本来は国政や都政批判の場面であるのに、人的つながりで、リベラルということにしている野党や革新少数派政党とつながりがあると、それだけで反射的に擁護してしまうという方向になることはわかりやすいのではないでしょうか。

これに対して、従来から保守派の新聞だと言われている新聞社は、昔から野党の視点など利用していませんからスタンスも変わりません。また、面白いことにタブロイド版という過激な政権批判を身上とする夕刊紙も彼らなりの是々非々の視点を貫いており、本件の問題について公平に扱っているようです。

但し、私は、リベラル的色彩があるから擁護するというのは、末端の記者レベルではその通りかもしれませんが、マスコミの上層部、意思決定機関ではそうではないのではないかという疑念を持っています。

つまり、今話題になっているのは東京都の委託事業にまつわる委託金の支出の是非なのですが、受託事業者がリベラルの色彩があるのでリベラル系が擁護しているように見えています。しかしこの事件の本質は、東京都や国がそのような支出をしている是非と、受託業者を選定した経緯、事業の企画そのものに対する疑惑であり、中心は東京都や国の問題なのです。これだけの公金を動かすのは野党の力ではなく、国や都という国家的規模の「意思」が動いているはずです。その意思主体の思惑と、リベラル的色彩のある受託業者たちが結託して(あるいは利用されて)まさに55年体制のような蜜月の深い闇があるのではないかという疑念なのです。

その記者の説明による55年体制の枠の中で果たしてきたマスコミの役割を考えると、深い闇を隠そうとすることはむしろ自然なことです。また、野党時代の自民党の視点で取材していた記者は人的つながりができるでしょうから、本質的批判ができなくなることも想定していなければならないと思います。

受託業者を擁護することは、出来事を事件化しないという効果を生みます。事件化をしなければ深い闇を暴かないことに直結します。これがリベラル系マスコミ上層部の思惑だとしても、今更特に驚きません。そして、リベラルに対する攻撃だという筋書きは、ポリシーをもって入社してきたリベラルマスコミの記者は反射的に受け入れてしまうことかもしれません。「リベラルの視点」どころか「組織の論理」で取材して記事にしている記者もいるくらいです。

ただ、現在事件は訴訟案件にまでなってしまいました。東京都の「論理」は、入り口で裁判所からはねられているようです。都知事は国の事業を実質的に委任されて行っているという趣旨の発言を繰り返ししています。それでも、実際に委託事業費の管理を行わなかったのは東京都の問題です。このままいけば、敗訴となり資金の返還義務が判決で命じられる流れになっています。知事や都の幹部にとって打撃になることはもちろんですが、受託業者を擁護して、実質東京都をかばったリベラル系マスコミにこそ大打撃になるはずです。

ただ、深い闇自体はこの裁判からは明らかにはならないでしょう。可能性があるとすれば、どうして東京都がずさんな委託をしたかということを東京都自ら暴露する場合ということになります。おそらく、それは無いと思います。

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【フェミニズム・家族解体主義についての誤解】 フェミニストは愛する夫がいることが少なくない。家族からの女性解放でいう「女性」とは、自分以外の女性をいうこと [弁護士会 民主主義 人権]

上野千鶴子氏が結婚をしていたということが週刊誌で報道されて話題になっています。話題の論調として、上野氏はフェミニストであり、夫婦という制度は女性を拘束する制度であり理解できないと言っていて、他人にも一人暮らしを勧めていたくせに、自分はそれに反する生活をしているということに対する批判が多いようです。

これ等の批判は誤解に基づくものだということを言いたい記事なのですが、決して上野氏を擁護しようという目的で書くものではありません。

先ず一人暮らしの勧めについては、私はこの人の代表的な功績だと思うのです。年配の人たちは、おひとりさまの勧めについては「なんにせよ人は他者と死別していく運命であり、やがて一人になっていくさだめがあるけれど、それも決して悪いものではない。」というメッセージだと受け止めていて、上野氏の話を聞くことで救われる人が一定数いるようです。社会貢献しているようです。自身が結婚することと矛盾はしないと私は思います。

ただ、少なくない読み手の中には、「現在独身の人は、結婚なんてしないで一人で暮らした方が良い」と言っていると受け止めていた人も多いようです。

むしろ問題は、「結婚という制度に反対していたはずなのに、自分は結婚していたではないか」というところにあるのだろうと思います。

ただ、そのように考える人は、フェミニズムの思想についての誤解があるようです。

実際のフェミニストの大家、業績を残した少なくない女性たちは、愛する夫がいることが多いのです。
入籍こそしていませんがボーボワールもサルトルというかけがえのないパートナーがいました。図らずも、結婚というのは、先ずお互いの気持ちで成立するものでありそのような人間の思考を社会が制度化したという順番であり、社会が女性に夫婦の関係を作ることを強制したものではないということを証明することになりました。また子育てをした多くの親たちは、子どもは生まれながらにしてそれぞれの性を内包して生まれてくるということを経験しているところだと思います。

今回は、あの日本の男女参画でいうところの「DVサイクル」を広めたレノア・E・ウォーカー氏と、1990年代にアメリカ司法で猛威を振るった作られた過去の記憶による身内からの性被害を思い出すということがあるかという記憶論争の一方の論客となったJ・L・ハーマン先生の例を紹介して考えたいと思います。

ウォーカー氏は、The Battered Woman(邦訳バタードウーマン 虐待される妻たち 金剛出版)の執筆者です。この著書の中で、「暴力サイクル」の理論を主張しています(理論のオリジナルは私にはよくわかりません)。つまり、夫による妻の虐待は、3つの期間を繰り返すというのです。第1期は夫の緊張が高まっていく時期、第2期は激しい虐待を行う時期、第3期は夫が妻に優しくなり、自分の暴力の悔恨を示し、愛情を注ぐ時期だというのです。そして第3期が続くと第1期となり緊張が高まり、やがて緊張が爆発して第2期が来るというサイクルを繰り返す、妻は第3期の幸せがあるために、第2期の虐待が行われても逃げようとしなくなってしまうというような理論です。

日本の男女参画や法務省関連の女性の権利の研究会では、この暴力サイクルを「DVサイクル」と言い直して定式化しています。「先ず不安を抱えている女性は夫から虐待を受けている。次に虐待を受けているはずの妻たちが夫から逃れようとしないのは、DVサイクルによって無力化しているからだ。第3に逃亡を手助けしないと女性は救われない。なぜならばDVを行う男性は今は収まっているかもしれないけれど、サイクル理論によって必ずまた暴力をふるう。その時は命が奪われるときかもしれない。」という主張を、産後うつや精神状態に影響を与える疾患や服薬の副作用等によって精神的不安定になっている女性に言って、子どもを連れて逃げ出すことを説得するわけです。

このウォーカー氏の理論を利用した日本の男女参画理論については既に詳細に批判しているところです。「DV」サイクルという学説などない。レノア・ウォーカーの暴力のサイクル理論とは似て非なるもの。 The Battered Woman ノート 3 各論 2 
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2019-12-12

この「バタードウーマン」の前書きで、著者は、亡くなった自分の夫の愛情が無ければこの著作は完成しなかったであろうと述べているのです。そして夫と男性の友人たちに対して感謝を述べるところから謝辞が始まっています。

また、この著書を普通に読めば、妻一般が夫から虐待されている等ということは言っていません。繰り返し虐待されていた妻の事例の分析がなされていることが誰でも読み取れます。また、日本の配偶者加害の事例にはこのサイクル理論が当てはまらないこともすでに私は述べています。日本の官製フェミニズムの理論は、アメリカの理論を機械的に輸入して構成されていることをわかりやすく示した事象であると思っています。

一例だけ挙げますと、欧米の家父長制度と日本の家制度は、目的も実態も次元も異なる概念ですが、安易に結び付けて論じる人間が多くいます。単に家ということばついていることと、原則として戸主は男性であることから、安易に関連付けてしまったのでしょう。また、家制度と夫婦と子供を中心とする家族制度を混同して論じている論者も少なくありません。日本の家族制度の知識が無いということと、そもそもの家父長制自体をよく理解していないことを示しています。

もう一人、ジュディス・L・ハーマン先生のTrauma AND Recovery(邦訳「心的外傷と回復」みすず書房)をあげます。

実はこの本は、私にとってとても大切な本です。節目節目で読み直して勉強している基本書の一つです。多くのことを学び続けています。それなので、ハーマン氏を先生と呼称しないわけにはいかないのです。

ハーマン先生はこの本によって、日本では賞賛されることが多いと思います。ところが、記憶論争ではとても悪名高い学者になってしまっています。アメリカでは、1980年代から90年代にかけて、成人に達した女性等が、10年前や20年前に家族などから自分が性的虐待をされた記憶がよみがえったとして刑事民事の訴訟を提起して、その主張が通って、父親らが裁判所から高額な賠償命令を出されたり、長期刑が執行されたりした時代がありました。これらの被害を主張した女性たちは、自己の不安をカウンセラーのカウンセリングを受けていて、カウンセリングを受けると10年以上前の記憶が突然よみがえり性的被害を「思い出し」、それらの人々の支援の下で法廷闘争に入るという経過をたどっていました。エリザベス・ロフタス先生らが、記憶というものの性質からそのように抑圧された記憶がよみがえるということがあり得ないことを論証して、1995年を境に、失われたせい虐待の記憶で裁判所が何らかの決定をすることがなくなったと言います。また、そのようなカウンセリング技法も実際上廃れてしまったようです。そのような記憶を「思い出した」女性たちは、精神状態が悪化してしまい、カウンセリングとしては逆効果になったことも原因のようです。

この時、記憶の真実性を否定するロフタス先生に対抗して論陣を張ったのがハーマン先生でした。記憶論争になった時点でハーマン先生に勝ち目がなかったのだと思うのですが、関与したカウンセラーのカウンセリングの実態をよく知らかなったのではないかと思います。複雑性PTSDの理論からは、記憶を自分で封印しようとする防衛機制が存在するということ、被害者の被害から目をそらさないことこそがカウンセリングの要諦だというようなことを主張させられてしまったのではないかと私は贔屓目に見てしまうのです。

いずれにしても不安を抱える女性は、家族の虐待が存在するという画一的、形式的なカウンセリング手法と、立ち直るためには裁判闘争が必要だとする手法は、日本の配偶者相談と重なってくるように感じてしまいます。

さて、この「心的外傷と回復」の冒頭の謝辞の中で、ハーマン先生が何よりも最初に感謝をするのは夫と家族だと述べているのです。

このように、日本のDV被害女性救済システムの理論的バックボーンになった学者たちの中で重要な役割を果たした著名な学者たちは、愛する夫がいて父親とも円満な関係を送っているごく普通の学者たちだということがわかります。

日本の業績を上げているジェンダー学者の女性たちの多くも夫や子供がいて家族とともに人生を歩んでいます。つまりフェミニズム=すべての家族制度の解体ではないのです。そういう理解は、正しくないということなのです。

どうして、いつの間に、フェミニズムというものは、「家族というのは女性を抑圧する社会システムであり、女性を家族から解放しなければならない。」という家族解体主義を含む理論だと誤解をする人たちが生まれてしまったのでしょうか。

ただ、実際にそのように機械的に主張するフェミニストたちもいらっしゃいます。上野氏もフェミニズムは多様性があってよいなどと言っているようです。フェミニストが結婚しても良いのか、結婚しないほうが一貫するのかなどということは、あまり表立った議論はなされていないようです。だれがどのような考え方をとろうと私はそのこと自体にはあまり関心はありません。しかしながら、日本の国家や地方自体の家族政策が、結果として、家族解体を推し進める政策になってはいないかという点について、危機的な意識を持っているということなのです。

多くの配偶者暴力相談の担当者たちも、夫や妻があり、家族を持っていることでしょう。それなのに、ろくに調べもしないで、妻を夫から逃がして行方をくらませることを主導的に手助けしているわけです。本件の問題は、自分に家族がいるのに、どうして他人の妻に対しては、「家族から逃げろ」ということができるのかということに関連していることだったのです。また、いくら多様性があるからと言って、「結婚制度は原則として女性を抑圧する社会システムだ」として自らも家族を作らない原則的主張者群と自らは夫のいるフェミニスト群は、どうやって折り合いをつけているのでしょうか。

これに対する回答は案外簡単なことかもしれません。一口に「女性」と言っているからわかりにくいだけであり、「女性」の概念には二つのカテゴリーがあると考えると誰でも理解できるようになります。即ち、家族を持つと家庭に支配されるタイプの「かわいそうな女性」と、生育過程においても恵まれた上に支配をしない夫を選ぶ能力のある女性の二種類の女性があるということになるでしょう。

夫がいて女性解放の作業を行う女性たちは、自分たちは自立できる能力のある女性であるから、「かわいそうな女性」を解放して差し上げるという考え方なのかもしれません。「あなたは悪くない。それは夫のDVだ。」というとき、「あなたは夫を選ぶ能力もなければ、夫に支配されないで対等な関係を形成する能力もない。私とは違うカテゴリーの女性だ。」と言っていることにならないでしょうか。その上で「だからあなたが解放されるためには、夫や家族から逃げなくてはならない。」という宣告をしていることと実は同じ意味なのではないかと感じているのです。

30年間の事件を担当したことを通じて、離婚調停や離婚訴訟になる事件でさえ、夫の暴力や精神的虐待に支配されていると感じられる事例はごく少数でした。実際は暴力や精神的虐待が無いにもかかわらず、行政や警察は、女性に子どもを連れて夫の元から去るように協力に「支援」をしたのです。それらの支援をした事例のうち、行政などが夫などから事情を聴いた事例は全くありませんでした。

私の実務経験からすれば、夫から事情も聴かないでDVの存在を決めつけて逃がしてあげなければならないほどかわいそうな女性は、むしろごく例外的な存在でした。それにもかかわらず、ろくに調べもしないで女性を夫から逃がし、子どもを父親に会えなくしている事例がほとんどだったということです。その中で夫が自死した例も多く、子どもたちが親を恨んだり軽蔑しながら大人になり、その過程の中で自分を見失う事例が少なくありませんでした。

精神的不安や焦燥感を抱える女性を、すべてかわいそうな女性だと決めつけて夫や父親を孤立させる形で家族を解体するという手法は、本来のフェミニストのオリジナルに近い理論からも単純に間違っているというべきです。せっかく日本のフェミニストの巨匠の結婚報道がありましたので、良い機会だと思いお話しさせていただきました。

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DV被害者支援に見る「被害者支援」の落とし穴 被害者女性だけを支援の対象にすることによって生まれる弊害 [弁護士会 民主主義 人権]




被害者支援ということは、だれも反対ができない気持ちになるでしょう。被害を受けた人が被害を回復することこそ正義だと反射的に感じてしまいます。今回の東京都の若年被害女性等支援事業の莫大な公金支出から疑問が再燃しました。この問題では、一般的な論調としては、「若年被害女性等支援事業は素晴らしいことで必要なことでこちらについては文句はない。ただ、公金の使い方が正当ではない。」という批判が主流になっていると思います。

しかし、なぜ「被害」女性だけを支援の対象とするのかということに、DV冤罪や家族再生に取り組む私としては疑問の目が向いてしまいます。

つまり、「被害があることと」、「支援が必要なこと」は決して同じではないはずです。私が問題とするのは、必ずしも被害があるとはいえないけれど支援が必要なのに、予め定められた「被害」の存在が無ければ、支援を受ける必要がある人も支援が受けられなくなる。実はこれが不合理なのではないかということです。

若年被害女性等支援事業で言えば、東京の歌舞伎町や渋谷の繁華街で若年女性への声がけをするのであれば、その若年女性が被害者であろうと、単なる親に対する過剰な反抗であろうと、ホストなどの風俗など浪費の結果であろうと、望まない性産業や反社会的勢力と結びつくことを避けるという意味では、すべて保護や支援をするする必要があるとは言えないでしょうか。その女性の背景を探っていけば、社会的風潮だったり、インターネットの影響だったり、友人関係だったり、何かしらの被害がある場合が多いと思われます。しかし東京都の用意した、あるいは委託事業者が用意した「被害」、「被害者」にあててはまらないということで支援を受けることができず、不幸に陥ることを見ないふりをすることにはならないのでしょうか。用語の「被害」が何を意味しているのか分かりませんが、被害者だけを保護するということは若年女性に限って言えば強い合理性は無いように思われます。同様に女性に限定することについても合理性がわかりません。

このような疑問を持つ理由が、DV被害者支援事業を見てきたところにあります。

これまでの実務経験での出来事を上げます。

一昔前は、DV被害者は、身体的暴力を受けたことを訴えることが必要でした。身体的暴力がないならば、法(国家、自治体)が家庭に介入することは避けようとしていたためです。身体的暴力がある場合は、家庭内にとどまる出来事とは言えないために国家や自治体が夫婦の問題に介入できるという理屈でした。また身体的暴力は、暴行罪や傷害罪という犯罪を構成するために、警察が介入するデメリットが最低限度にとどまるだろうという常識もありました。

実務では、暴力があったと主張をすれば、シェルターに入ることが認められて、様々な支援を受けられることができました。ところが、身体的暴力が無いから正直に無いというと、それらの支援は一切受けられませんでした。

しかし、長年夫婦として生活していた場合、身体的精神的暴力がなくとも、人間として尊重されないと感じたり、結局は人格を否定されていたと感じることによって、同居が精神的に耐えられなくなることがあります。一時的にであっても避難する必要がある場合は、実務的にその存在を見てきています。夫婦で合意をして女性が心身にダメージを受けることをしたが、男性が女性のダメージに無神経であったなど、DVということはできないけれど、一時でも夫と離れて暮らしたい、あるいは離婚をしたいということがあります。しかし、女性が一時的に一人で生活する場合でも、働いて生活費を得ようとしても女性の賃金は一般的に低く、働き続けていたとしても子育てなどの負担から賃金の高い責任のある地位に進出することができないなどの事情があり、自立が簡単な社会構造にはなっていません。シェルターというのは一時利用の避難所です。女性の社会的立場は共通で、経済的に一時的な分離ができないというならば、はっきりした暴力や虐待が無いとしても、支援が全く行われないということは不合理だと私は感じました。

コロナ助成金の時も弊害を感じました。コロナ助成金が全国民に支給され、住民票の世帯代表者に対して送金されました。しかし、離婚を控えるなどして当時夫と同居していない妻も多数いました。コロナ助成金は一人一人の生活に役立てるためのものですから、世帯でもらうものではなく各個人が受給するべきものです。単に行政効率の便宜上世帯代表者に送金されるだけのことでした。だから、別居の事実がはっきりしていて世帯代表者ではない別居者の意思が確認できれば、世帯代表者に送金しないで別居者個人に送金される手続きが取られるべきだと思いました。

しかし、この例外が認められたのが、DV被害女性だけでした。しかし、先に述べたように、別居をする事情は何もDVに限られません。身体的精神的DVが無ければ妻が人間として尊重されると言えるわけではありません。DV以外の事情があって別居していた世帯主ではない女性にはなかなか助成金が届かなかったようです。本当に助成金が必要な人にお金が届かなかったわけです。DV被害者だけが優遇されることに合理性はないと感じました。弁護士会などでもDV被害者に限って送金を別扱いにしろという決議が挙がりました。私は被害者限定はおかしいという意見を積極的に述べた。

このようなDV被害者限定の支援は、弊害をもたらすのです。被害があったというかどうかで、天と地の違いが生じる、つまり生活ができるかできないかという決定的な違いがあるならば、別居しても生活を成り立たせたいと言う人は、実際はDVが無くてもDVがあったと言おうとする傾向が生まれてしまうという弊害が生まれるわけです。また支援者の中には、些細なやり取りをもって、強引にDVがあったと主張させる人も生まれたことでしょう。

裁判でも同じでしょう。DVがあったと言えば裁判が有利になるなら、無理して針小棒大な説明をしてもDVがあったと主張するようになるかもしれません。DV被害だと言えば、裁判所も警戒して警備担当を配置したりします。厳重な警戒を行うことによって、無実の夫はDV加害者になっていくということを感じました。具体的事実を丹念に調査して、その事実と妻の心情の関係を丹念に考察もしないで、単にDVがあった、警察出動を求めたという主張が裁判書類に大量に出回ることになるわけです。わけのわからない警察出動の要請が多発することはこのような風潮、戦略が影響していると思われます。

何でもかんでもDVがあった、自分は被害者だと主張するようになるということです。

前回も述べたように、この被害者加害者の言葉の意味は、配偶者暴力を相談した妻のことを被害者と呼び、妻の夫等を加害者と呼ぶだけのことです(総務省事務連絡 平成25年10月18日付)。妻は相談にさえ行って、DV相談をしさえすれば、自治体から「被害者」と呼ばれるようになります。だから、DV相談をして、被害者と呼ばれて、裁判を有利にしたいと思うのはある意味自然のことかもしれません。

但し、一定の人たちにこのような被害者加害者二分法は都合の良いこともあります。被害者であれば逃がすという一本やりの方法論だけで対処ができるということです。「被害者」という言葉のマジックで、その行政の「支援」によって、被害者以外の子どもや夫が精神的なダメージを受けても「被害者支援のためだからやむを得ない。加害者が悪いから仕方がない。」と家庭崩壊をさせることを肯定する方向に誰も批判の目を向けなくなるという効果があるわけです。このような家庭崩壊一本やり、加害者に働きかけをしない、事情も聴かない、裏付けを取らないというのも被害者加害者二分法ならではのことだと思われます。

女性支援だからと言って、支援者は被害者だという決めつけは、家庭の中に被害を与えた加害者が存在しているという先入観を作り、敵対させ攻撃させあう形での家庭崩壊しか産まないと思います。快い家庭、安心して生活できる家庭を作るということを目標とした政策が実施されないのは、なぜなのか私たちは考える時期に来ていると思います。

DVというのは特殊な人間が相手を心理的圧迫することとは限らないのです。多くの夫たちは、自分は無関係だ他人事だと思っています。実は明日のあなたのことかもしれないのです。多くの人たちに関心を持っていただきたいと思います。

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若年被害女性等支援事業の本丸はDV被害女性支援事業だという須田慎一郎氏の発言の行方を見守る その二つの事業の奇妙なまでの共通性を考えてみる [弁護士会 民主主義 人権]



現在インターネット上では、東京都の若年被害女性等支援事業の公金支出が大問題となっています。しかし、この国のメディアも政治も、東京都の公金支出の問題を取り上げようとしません。かえって、このブログでそれぞれ記事にした通りに朝日や毎日は、個人の署名入り記事でつまり腰を引かせながら、事業を委託された一般社団法人擁護する記事を出して、肝心の東京都の財政支出について問題として取り上げることをタブー視しようとしている状態です。つまり、本来は東京都の公金支出の在り方の問題であるのに、「それを問題とすることは弱者攻撃である」という論調を作り出して、東京都が攻撃されることを防止する結果となる行動をしているということです。「Qアノン」もじった揶揄が大新聞でつかわれていますが、これは、朝日新聞や毎日新聞が擁護しようとしている対象が一般社団法人やNPO法人ではなく、その背後にある「なにか」だということを陰謀論だと警告して反射的に思考停止にしようとしているからだということに他ありません。そうでなければそのような他者の名誉を害するような表現をたとえ署名記事だとしても朝日新聞や毎日新聞が掲載するとは思えません。また、一団体が、次に述べる特権的な公金支出の対象と偶々なったということも常識的に考えてあり得ません。朝日新聞や毎日新聞は特定団体をかばおうとしているわけではないのです。

ジャーナリストの須田慎一郎氏だけがさらに発展し、そのマスコミなどがかばっている本体が、くだんの一般社団法人ではなく、被害女性支援事業、特にDV被害者支援事業が本丸であることに言及し調査を進める旨表明されています。大いに注目したいと思っています。

東京都の若年被害女性等支援事業の公金支出の問題の本質は、そもそも事業を委託して活動をする前から前渡しで年間数千万円に上る多額の支援金を受託事業者に交付して、その後領収書などの支出根拠の裏付けも調査せずに、未使用委託費の返還も求めないというところにあります。
通常の委託事業や補助事業では、このような扱いはなされていません。きちんとした事業計画を策定して、委託金の金額根拠を具体的に明らかにして費用が確定され、かつ、その費用が実際に支払われたことを領収書などで確定し、また実際にその事業が行われたことを報告書で提出して、初めて年度末に後払いでお金が交付されるということがほとんどだと思います。

東京都によると、このような例外的な委託支援事業の資金交付は、公法的契約だというのですが、国の方はこのような契約類型は聞いたことが無いと言っているようです。どうして、女性支援事業だけが公法的契約の締結対象となるのか、どこでそのような承認がなされたのか、そもそもそのような契約の対象とするべきなのか現在注目が集まっているわけです。

このような莫大な公金の前渡しが正当化されることについては、不可能ではないとしてもずいぶんハードルが高くなると思います。一つは、とても素晴らしい事業、必要不可欠の最優先事業であるから、活動をしやすいように前もって資金を渡す必要があるという必要性、有用性が認められることが前提となるでしょう。

「被害女性や若年被害女性の支援」という言葉を聞くと、誰しも反対できないような雰囲気が作られてしまいます。言葉のマジックです。私たちは、何をもって被害というか具体的な対象者の要件を実は知りません。また、どのような支援がなされているのかということについても何も知りません。それでも「被害者支援」と言うと何か崇高なもののように、脳が勝手に反射的に判断してしまうのです。本当にその支援を受けている人は被害を受けている人なのか
・ そもそも被害とはどういう被害なのか
・ どのような支援をしているのか
・ 本当に新たな不幸を回避するためにその支援は有効なのか

莫大な公金の支出にあたってこれらの要素については、支出をする東京都が把握していなければならないはずです。この点の報告が検証可能なほどになされていなければ、東京都が財政を支出することはできないはずです。また、ある程度情報が一般的に公開されて、都民や国民の事業承認がなされる必要があると思います。都民や国民の税金が支出されているからです。

これができていなかったというのが、令和5年1月4日に発表された東京都監査委員会の監査結果でした。

これができていない財政支出の危険性は以下のとおりです。
・ 活動報告書通りの事業がなされていなくてもわからない。
・ 被害者でない人間に対してサービスを提供していてもわからない。
・ 被害支援とは言えないことに多額の公金が支出されていてもわからない。
・ 公金が、委託の趣旨とは別の用途に使用されてもわからない。
簡単に思い浮かべるとこういう危険があると思います。

この種の公金支出問題の最初にあったのが、20世紀末期の市民オンブズマン活動です。地方自治体やそれぞれの機関において、接待費が認められていて、この接待費、つまり酒を飲んだということにして、実際は公金を支出しないで裏金としてためて、「何か」に使っていたということが大問題になりました。「官官接待」という言葉が大流行し、未だにパソコンに打ち込めば一発変換できる確立された日本語になっています。

ところが、官官接待の時はこぞって取り上げて自ら公文書開示まで行って記事にしたマスコミも、今回の東京都の公金支出問題は全く報道をせず、むしろインターネットで追及している姿勢を否定しようとさえしているのです。端的に言えば、マスコミはわずか20年くらいの間に様変わりしてしまったということになります。

ところで一般の方々であれば、被害者支援事業自体は素晴らしいのではないかと思われると思います。たとえ、その被害とは何なのかということをはっきり知らされなくてもそう思うと思います。いや知らされていないからこそそう思うのかもしれません。私はこの被害者という言葉に、弁護士としての仕事柄散々苦しめられてきた人を見ているからです。

それが須田慎一郎氏が本丸だと示唆されている、DV被害者保護事業に関することです。DV被害者保護事業についての問題点については、これまで「思い込みDV」をキーワードとして述べていますので、詳細は割愛します。簡単に言うと、DV被害者の中には相当の割合で、実際には暴力も受けていないし、精神的虐待というほど夫の行為が不適当だと評価もできない事案が多くあり、そのような事案でも子どもを連れて被害女性シェルターに逃げ込ませ、行方をくらませて、子どもを父親から引き離し、家庭崩壊とする危険があるということです。

実際にはDVがあろうとなかろうと「被害者」とされるのは、そもそもの制度設計に問題があるからです。なんと、ここで言う「被害者」とは、被害を受けた人のことではないというのです。また、「加害者」も被害者に加害行為をした人という意味ではないというのです。配偶者暴力を相談した妻のことを「被害者」と呼び、妻の夫等を「加害者」と呼んでしまうということが実態なのです。本当に被害があったのかどうかを調べることはしません。この日本語と異なる言葉の用法については総務省の事務連絡(平成25年10月18日付)で明示されています。

「被害者」と呼ぶことによって、実際に何があったのか知らなくても、支援措置が必要なことであるという印象を持ってしまいます。実際に行政窓口の担当者は、「加害者」とされた夫に対して敵対的な対応を行っていることが報告されています。全くDV等をしていない夫は、行政や警察からも敵対的な態度を取られ、犯罪者のように扱われて、全世界から孤立したような感覚をもってしまうことで、精神的に大打撃を受け、治療が必要な状態になってしまうことが多いのです。被害意識を持たされて、常に身構えている状態を作り出され、このような過剰に敏感な状態だから同居期間中も精神的虐待にあたるような行動をしたのだろうと言われてしまいますので、まさに踏んだり蹴ったりです。

支援の内容は、被害者である妻を夫から引き離してシェルターに入れ、その後も居場所を隠し、その上で離婚訴訟を提起することが中核です。少なくない事案で何の罪もない子どもたちは自分の親とも友達とも引きはされて、会うことができなくなります。被害女性支援であるから、それらはやむを得ない、正当であると人々の意識が作り上げられていくように感じます。「被害者支援」という言葉を聞くと、疑問を持つ力が奪われてしまう効果があるようです。

今回の東京都の若年被害女性等支援事業問題の感覚がデジャブーであるということはこういうことです。

一般のDV女性支援事業の公金支出の適否についてはまだ調査をしていないので、その点についてはわかりません。しかし、DV女性支援事業の中核は、夫の元から女性を引き離すというところにあります。夫にも話をして家族再生を目指そうというものではありません。引き離した先には何があるか、一定の割合で実家を頼れない、頼りにくいという事情のある女性がいて、それらの女性はシェルターに入ることになります。また、その後の生活の確立も必要になるでしょう。これを税金で行うとなれば、莫大な費用が掛かりますが、それらの事業は委託を受けた事業者が行い、その事業者に事業費用が支払われる仕組みがあるのかもしれません。おそらく須田さんが指摘しているのはこのことなのだと思います。しかし、そもそもの入り口、女性の悩みを問答用無用で家族分離につなげていく事業が、シェルターという女性保護施設の需要を人為的に高めているということは注目するべきだと思います。

また、DV女性支援事業についても、これほど長年行われているのですから、公聴会などにDV支援事業についての問題点に立ち会っている専門家が呼ばれてその弊害を是正する意見を述べる機会が作られても良いように思います。しかし、どうやら制度設計に呼ばれる審議委員や意見聴取者は、現状の制度を推進しようとしている人が中心なのではないでしょうか。この点についても若年被害女性支援事業の構造と酷似しているのかもしれません。

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共同親権に関する各弁護士会の意見についての疑問 死刑反対とのダブルスタンダード 法律家の意見となっているのか [弁護士会 民主主義 人権]



国が共同親権制度創設についての中途半端な提案をして、パブリックコメントを募集しているが、この動きに合わせた各地(都道府県)の弁護士会の会長名での意見が出されている。中には某国政政党の機関誌の見出しの表現そのままの意見を出す弁護士会もある。まず反対ありきの意見が反映され、賛成論へどれくらい配慮するかによって表現が違うだけのような印象もある。

とても不思議な問題としては、各弁護士会や日弁連が死刑廃止の意見を述べるときに、他国との比較を理由にする。つまり、「先進主要国の体制は死刑を廃止している。死刑が廃止されない日本は人権意識に遅れている。即刻死刑を廃止しよう。」という論法である。

共同親権制度についても比較法的な検討をするならば、「先進国に限らず世界の大勢は共同親権制度を取っている。共同親権制度を創設しない日本は、子どもの健全な成長に価値を置かないと評価されている。即刻共同親権制度を創設しよう」という論法になるはずだ。実際単独親権制度を強いている国は、世界的にはごく少数である(私の知る限り三か国しかない)。今回比較法的検討を加えないで共同親権に反対する弁護士会は、死刑廃止の意見の際、比較法的検討を述べないことになるはずである。そうでなければ、結局先ず何らかの賛成反対の結論が先にあって、後付けの理屈で、自分の結論に都合が良ければ比較法的な引用をするかしないか決めるということになってしまう。こんなことをしていたら、弁護士会の意見の理由なんてそんなものであり、法的な意見ではなく、一部の政治的意見が弁護士会を利用して述べられているだけということになって、弁護士会の意見に影響力は無くなるだろう。

次に法律家としての意見として情けないのは、制度の趣旨について全く理解がなされていないということだ。原則論があって、そして他の事情も考慮して原則論を修正するというのが一般的な法的な検討ということになる。法律という広く影響を持つ強力な規範は、必ずメリットがあればデメリットがある。先ず原則的な必要性について確認して、弊害をできるだけ除去するように修正をするという手法が法律家、特に実務法律家の手法であり、求められていることだ。共同親権の法案に対する意見で先ず必要なことは立法趣旨に対する見解を述べることである。ところが、共同親権制度の立法趣旨に言及がなされない。おそらく知らないのだろうと思われる。

これはどうして世界の大勢が共同親権制度を取っているかということと関連する。

世界的にみても、共同親権制度は自然に生まれるものではない。当初は単独親権制度であった国が多い。それを20世紀から21世紀にかけて共同親権制度へと変更したということが共同親権制度の歴史である。どうして、世界は単独親権制度から共同親権制度へ変更したのか。それは子どもの利益を図るという目的があったからである。

子どもの利益というものは、人類の歴史上国家制度に関しては後景に追いやられ続けた。家族に子どもの利益を図る行為をゆだね続け、家族のない子どもには一部の篤志家が世話をするという貧弱な対応だった。そもそも子どもの利益について研究自体がなされていなかった。

第二次世界大戦ころから、戦災孤児の研究が行われ、家族の中で成長することの意義が瞬く間に世界的に共有されるようになっていった。前後して発達心理学が整備されて生き、子どもの心理的成長も研究分野として世界中で取り組まれるようになった。その後、離婚という切り口から子どもの利益の研究が行われるようになり、逆説的に子ども成長における両親の関与の重要性が世界規模で研究されるようになった。そうして離婚後も子どもの双方の親が関与することが、子どもが自尊心をもって成長するために重要なことであることが世界的コンセンサスになっていった。但し、日本を除いてということらしい。日本以外は、子どもを一人の人間として認め、人格主体であり人権主体であるということを理解して、親から独立した子どもの利益として、両親から成長に関与される権利が確保されるべきであるという考え方を当然のものとして受け入れて、単独親権制度から共同親権制度へと次々と変更していった。共同親権制度は人道的な観点から創設されたものである。

このようなそもそもの議論をする弁護士会の意見書は見当たらない。ただ、弊害がある、DV事案や高葛藤事案がある場合、話し合いを強制されることになるから反対だということに尽きるようである。

物事には先に述べたようにメリットとデメリットが必ずある。デメリットがあるからとにかく反対というのでは法律家の意見にはならない、メリットを生かしながらデメリットを回避するということが法律家たるもの意見にならなければおかしいだろうと思う。

比較法的に考えるまでもなく、どの国でもDVはあり、離婚の場合には高葛藤になる。日本だけが特別DVが多いわけでもなければ、日本人だけが特に多く離婚の際に高葛藤になるわけでもない。日本だけが子どもを置き去りにして大人の感情の垂れ流しに「寄り添っている」ということは世界的に見て異常なまでに不道徳なことである。実際欧米からのこの点の日本批判はすさまじい。子どもの健全な成長のために大人はどうしたらよいかという観点から世界中の国は、理性によって共同親権制度に変えていったのである。このようなそもそもの原則論が論じられていなければ、弊害論に後付け的に飛びついて、反対することになるだろう。これが弁護士会の意見というのでは心底情けない。

何より情けないのは、弁護士会長の意見書が某政党の機関誌の見出しよろしく、共同親権制度は時期尚早であり、国民的議論が先行するべきだという表現になっている意見を述べている弁護士会があるということだ。何が情けないというと、弁護士は離婚手続きに関与し続けてきているわけだが、もちろん子どもがいて離婚をするという場面に立ち会ってきたわけだし、様々な事故や事件で片親が死亡したという事例にも立ち会ってきているはずだ。その中で傷ついたり、自信を失ったりしている子どもたちに無数に立ち会ってきたはずだ。少年事件にも立ち会ってきたはずだ。その子どもたちが、本当は両親と一緒に生活がしたいという切実な願いを持っていたり、その願いがかなわないことによって苦しい思いをしたり、間違った行動をしてしまったりという行動に立ち会い続けてきたのではないだろうか。また、家庭裁判所の研究資料や発達心理学や認知心理学の学問は一般にも公開されていて、子どもたちが健全に成長するためには何が必要かということについても弁護士であれば知ろうと思えばいつでも知ることができたはずだ。第二次大戦から何年が経過しているか。離婚後の子どもの調査結果が出てからも何十年も経過している。それらのデータや学問的到達にアクセスしようと思えばいくらでもアクセスできたし、事件において子どもの状態について見聞きしていればアクセスして子どもの問題の解決のためにどうしたらよいのか考える時間はたっぷりあったはずだ。それにもかかわらず自らアクセスもしないで、議論を作り出そうともしないで時期尚早などと言っているのであれば、これから何十年たっても時期が成熟するということはあり得ない。自らが、物を言えない子どもの代弁者となることをサボタージュして議論を起こさないにもかかわらず時期尚早とは何事だと言いたい。

世界人類は、大人の自分本位の感情を理性で抑制して一斉に共同親権制度に切り替わった。世界の中で時期に遅れているのはほぼ日本だけなのである。


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暇空茜氏の委託金不正「支給」疑惑の仕事は、本来東京都が行うべきことであり、都がやらないのなら都政野党やマスコミが行うことだということ なぜ女性支援事業だけが例外扱いをされるのか [弁護士会 民主主義 人権]


東京都の若年女性者等支援事業の巨大な委託金の支給について、暇空茜さんという一般男性がほぼ一人で、情報開示請求を行い監査請求を行い、行政訴訟まで提起するという。

疑惑の内容というのは、領主書などの裏付け資料が不十分であるにもかかわらず、請求通りの公金を支給しているということである。これが監査委員会で認定されたのは一団体だけであるが、他の3団体も同様かそれ以上の支給疑惑があるということで暇空さんが精力的に調査、追及を行っている。いわゆるネット上(ツイッター、ユーチューブ等)で広く問題視されているWPBC問題である。

一般的にインターネットの情報拡散は、先行情報発信者がいて、2番手の解説者がいて、3番手以降の拡散者がいて炎上するという現象が起きるようだ。この問題では、暇空さんという例外的に突出した情報収集者兼発信者がいて、ユーチューブの動画解説者が暇空さんの行動を説明して、さらに自分の興味関心に引き付けて拡散をする者がいるという構造のようだ。

オリジナルな情報源から2次、3次と派生的な発信になっていくほど、徐々に女性支援団体攻撃的要素が濃くなる傾向にあるようだが、これも心理的には無理がない話である。疑惑が真実だとすると、不正な利得を受けた者がいることになり、その利得が税金から支給された金銭だということになり、しかも、目的に合致した行動であるかどうかを不問に付して要領よく利得を受けていたということになれば、素朴な正義感が発動されるように人間ができているからだ。

本来東京都は徴収した税金を適正に管理する公法上の義務がある。暇空氏や監査委員会の指摘した疑惑については、自らがその事実を調査し、判断し、不正による東京都の損害の概要、不正支給が行われた原因を明らかにし、都民にも説明し、再発を防ぐ行動をしなければならない。小池都知事の選挙公約であった情報開示を今こそ実施するべき時である。それをしないのであれば、自分が都知事に就任する前の情報は開示するが、就任後の情報は開示しないということになってしまう。

この点について代表者のツイッターなどから見えてくる団体Cの言い分は、以下のとおりである。元々、自分たちが活動しやすいように従来通りに活動することが約束されて始めた委託事業のはずだった。それにもかかわらず東京都から会計について面倒くさい行動を要請されてやりづらくなっている。それを聞きつけた現在国会議員の当時の都議らがC代表者の要請に添うように東京都に働きかけを行った。その後は、団体Cは東京都に相談しながら活動を行っており、会計問題などについても東京都の承認を得て作成している。今更違法とか不当とか言われる筋合いはないというものである。

この点東京都監査委員会も令和5年1月4日発表の監査結果において、領収書の不存在や、非常識な支出が行われているという指摘をした。東京都が良いと言ったから問題が無いという次元の問題ではないことになっている。

通常の地方自治体の民間団体への委託事業は、このようなずさんな会計処理によって公金が支出されるということは無い。厚生労働省や内閣府の管轄の委託事業に末端で関与したことがあるが、領収書だけでなく報告書のたぐいもかなり厳しく指導されていた。私の知る限り、例外が女性支援事業ということになる。
・ 例外扱いされているのは女性支援事業だけなのかそれ以外にもあるのか
・ どうして女性支援事業が例外扱いされたのか
・ どのような例外扱いがなされていたのか
・ それを指令した根元がどこにあるのか
ということが、WPBC問題における疑惑である。

財政疑惑を徹底的に買い目するべき本来的な主人公は、税金の適正管理を公務としている東京都である。自ら都民から徴収した税金、国から受けた補助金を不正支出しないように管理をしなくてはならない。東京都は、来年度にこれまで主管だった保健福祉局の解散(分割?)を決めたらしい。疑惑追及の体制を構築するための妨害勢力の排除であると信じたい。同時に、この問題は一職員が独断でできる話ではないので、個人責任で終わらないようにしなければならない。これまで疑惑追及の事例の教訓を生かさなければならない。ただ、監査結果が出てからでも東京都の是正活動が見えてこない。

都が故意に行った不正支給であるならば、都政野党が事実調査を行って、改善を提起する役割を担っていたはずだ。しかしながら都政野党の動きも一部の自民党議員などの精力的な活動は見られるが、組織的な取り組みがなされているという印象は持てない。それよりも、国政野党の動きが全く見えてこない。財政問題を追及しないのであれば、野党としての存在意義が問われている。

政党間の結託があるというのであれば政治的な問題であるから、マスコミがこぞって取り上げて都政を批判するはずである。しかし、問題を取り上げたのは産経新聞くらいで、朝日、毎日は、一方の団体の言い分の垂れ流しに終始しており、都政問題としては取り上げていない。一時期にブームになった官官接待問題を取り上げたマスコミはもういない。

本来行うべき、東京都、都政野党、マスコミがこぞって疑惑を追及しない。監査結果が出たにもかかわらずだ。その手法は、素朴な正義感の不正利用だ。

正義感は利用される。

まず、情報拡散の2番手3番手を使って、団体Cに対する攻撃感情が起きる。団体Cの代表者の個性がこれを助長する。女性に対する攻撃に対する批判的感情が高まる。団体C擁護の動きを作る。問題を団体C問題に矮小化した上ですり替えて、東京都政の問題だという論点にたどりつかせないようにする。たどり着かないということはさすがに無理なので、時間を稼ぐということかもしれない。

最悪の事態は、旧援護局の忖度によって独走してしまったというシナリオである。

この問題について、意外な人物が擁護をしようとしている。一度パワハラで辞職したはずの関西の市長は、委託している団体は信用しているので領収書の開示を求めないというようなことを言ったらしい。市長が信用しているということで領収書を確認しなくても良いような狭い人間関係での財政支出がなされるのは、極端に人口が少ない地方自治体に限定される。市制を強いている自治体であれば、そのような曖昧な公金支出が許されてよいということにならないはずだ。そうでなければ、自分が信頼しているから手続きを省略させたという相変わらずの独善的なワンマン市制ということを宣言しているにすぎない。東京都の財政は全く次元の違う話である。委託団体に信頼があるから公金を支出するのであり、住民から預かった公金であるからきちんと管理を行うのである。

東京都の財政支出について批判的な視点を持たず、女性攻撃の問題に矮小化する団体は後年その役割を明らかにされるだろう。そのような役割を果たさないマスコミや野党は後年まで存在を継続できない恐れもあるように思える。

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