SSブログ
弁護士会 民主主義 人権 ブログトップ
前の10件 | -

いじめ事案の子どもダメージは、主に教師の対応によって深くなる [弁護士会 民主主義 人権]



これまで、何件かいじめ不登校やいじめ自死の事件を児童生徒と保護者側の代理人と担当してきました。その範囲でみると、学校でのいじめ事案(法律用語のいじめの中でも激しい不祥事と言える事案に限定して取り上げて説明します)で、いじめを受けた児童生徒の精神的ダメージが大きくなるのは、いじめの内容以上に学校側の不適切な対応によるという実感があります。

実際に事案の不適切な内容を例示します。
我が子がいじめられていることによる保護者の切実な相談を相手にしないでいじめではないと強弁する。心配し過ぎなどという。
担任が休憩時間などわざと加害者側といつもべったりと過ごしている。
児童生徒がいじめを訴えてもかばってくれない。逃がしてもくれない。
重大な加害行為をしているのに、謝罪をさせて終わりにしようとする。謝罪によって、さらなる報復攻撃が起きます。
保護者の申し入れを、伝書鳩のようにホームルームで児童生徒に伝達するだけ。これによっても報復攻撃がおきます。
よくあるパターンです。

国は、児童生徒の自死を予防するために、児童生徒にSOSの出し方を教育するという方針を掲げていますが、笑えないブラックジョークです。全く若者の自死の実態を把握しないで政策を立案しているということがよくわかるエピソードです。いまだに若者の自死が減らないことには理由がありそうです。

子どもは無条件に大人を信用してしまいます。ましてや、先生と呼ばれる職業の人たちは、正義感があり、いじめをやめさせる能力があると純粋に信じ切っています。

それにもかかわらず、「自分には何もしてくれない。」ということから「自分は、当たり前の児童生徒とは思われていない。」という被害的意識が生まれてきて、「先生でさえ見放したのだから、今後生きていても誰も自分を助けてはくれないだろう。」と将来的に自分が救われることが無いという絶望につながっていくようです。

もっとも今のフローは、上記の言葉で意識をしているわけではありません。時間が経過しても自分の不安解消要求が受け入れられないという心理の持続によって、無意識に感じ取ってしまうということです。被害意識が増大していき、最後の砦と思われる先生からも見放されたということを時間をかけて体感していくうちに絶望が生まれるようです。

また、先生に言うとさらなる報復が来るということを学習すれば、先生にいじめの事実を伝えることもできなくなってしまいます。

絶対的孤立と手段が無いという絶望を感じることは当然だと思います。

ある小学校の事案ですが、日常的に一人の子が激しい暴行を受けていました。他の児童が、なんぼなんでもこれは危ないということで、教師を連れてきて、教師がいじめのシーンを目撃しました。その現場が先生のいた場所とどのくらい離れているかわかりませんが、かなり長い間暴行が続いていたことがわかるエピソードです。

教師は、十分調査もしないで、謝らせて終わりにしようとしていたようです。

これを感じ取った児童は謝罪を拒否しました。

ここで学校が行うべきことはどういうことだったのか。

先ず、認識としては、その加害児童が、元々乱暴者でだれかれ構わずに執拗に暴行をする児童であれば、今後の新たな被害を防止するために然るべき措置をとるのが学校の安全確保義務(仙台高等裁判所)ということになるでしょう。

その加害児童がだれかれ構わず暴力をふるう子どもではないとするならば、特定の子どもだけが攻撃されているといういじめを想定しなければなりません。そのような長時間暴行をふるい続けた理由は何か、理由が理解できない理由であれば(要するに理由のない暴力であれば)、そのような暴行が日常的に繰り返されていた可能性を探求しなくてはなりません。様々な調査が必要になります。

特別な指導をする必要性を検討しなくてはならないはずです。
長時間の暴行が、すれ違いざまのいざこざと同じように謝罪をして終わりにできるはずがないわけです。謝罪を受けるのも、被害者としてはとても怖いことです。また根本が解決されていなければ、謝罪をした後報復で新たないじめが起きる蓋然性もあると言わなければなりません。

その児童は、この後すぐ不登校になりました。

別の案件で自死企図した中学生もいじめのことを再三訴えて、せめて同じ教室で授業を受けたくない、保健室に活かせてほしいということを何度も担任などに訴えましたが、何もしてもらえませんでした。

いじめがあったのに学校側から放置されることが、いじめ以上に精神に深いダメージを与えて絶望に向かわせているということがほとんどではないでしょうか。

昭和の小学校教師のことを思い出しました。昭和の教師は、いじめのようなことがあると、「えこひいき」という教師にとって致命的な評判を受けることを厭わず、徹底的にいじめられている子どもをかばい続けました。子どもたちは教師のそのような姿を見て、いじめることはいけないことだという規範意識を育てられたものです。

今の教師の少なくとも何人か(多数でないことを祈るのみ)は、いじめを無かったことにしようとしているようです。管理職を含めてです。そうして保身をしているつもりですが、現代においてはすぐに手痛いしっぺ返しが襲うことになるはずです。そうなる前に、法律と教育倫理に基づいて真剣に調査をすることをお勧めする次第です。

自分たちの行動で被害児童の人生が台無しになることはもちろんですが、加害児童の指導を受ける権利も奪い将来に禍根を残すということを自覚されるべきだと思います。

nice!(1)  コメント(0) 

なぜ学校はいじめの事実を隠そうとするのか 当たり前の先の「ふてほど」を考える [弁護士会 民主主義 人権]


いじめと学校、教育委員会の件を担当していますが、さらに続けざまに2件、相談が来ています。いじめ関連は宣伝していないのですが、同種の事件って、続け様に担当することになるということは結構あるあるです。

いじめ防止対策推進法については、宮城県いじめ検証第三者委員だったこともあり、分厚い資料を使って叩きこまれましたし、同じ委員の研究者の方々と事例研究などもやって鍛えられました。これ、弁護士枠ではなくて、人権擁護委員枠で委員になったことが面白いところです。

その後いじめで亡くなった生徒さんのご両親が、私のご近所さんだったことから支援として関り、ある町の重大事態の第三者委員として活動し、先般ある事案で遺族側代理人となり、第三者委員会の立ち上げを教育委員会に働きかけた事案もありました。その時も同種事案がありましたが、そちらは信頼できる人に任せることにしました。この時も2件同時にいじめ被害者の家族(どちらも当時は生存事案)から相談を受けていました。

この秋から冬にかけても2件、ほぼ同時に相談が入りました。今代理人をしている第三者委員会設置事案よりも、相当悪質で、隠蔽の意図があからさまな事案で、いじめ防止対策推進法の知識云々前に、正義感や弱いものへの配慮という当たり前の感情が感じられない事案です。

どうして学校はいじめを隠すのでしょう。

「不祥事だから、保身のためにいじめを無かったことにしたい。」ということは当たり前だろうと思っている方もいらっしゃると思います。

変な話ですが、いじめは不祥事ではないこともあるのです。厳密に言うと、不祥事になるいじめと不祥事にはならないいじめがあります。それは法の定義するいじめの意味が、日常用語とは異なり、余りにも広すぎるからです。
法律の定義は
児童等に対して、当該児童等が在籍する学校に在籍している等当該児童等と一定の人的関係にある他の児童等が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているものをいう。
となっていて、簡単に言えば、

学校で誰かからされたことで、嫌な気持ちになればそれがいじめだ

ということです。

私も日弁連も定義が広範過ぎて弊害があるという考えですが、あえて擁護すると、いじめかどうかを厳密に区別してしまうと、「これはいじめとまではいわない」ということで放置してしまい、働きかけがなされないおそれがあるため、あえていじめを広くとらえて、何らかの関与をしていき、不登校や自死という重大事態を防止していこうという考えだということができると思います。

だから、法律のいじめに該当しても、我々がいじめと言われてイメージする悪質なものと、成長期の児童生徒が、十分に考えを巡らせない行為で誰かが傷ついてしまったという教育によって解決するべきいじめと二つあるのです。不祥事ともいえないいじめは、子どもたちの集団生活の中で存在することが当たり前で、だから教育が必要なわけです。

ところが、現在の学校は不祥事ともいえないいじめも隠そうとしてするようです。不祥事とは言えないいじめを隠すことは、悪質ないじめも勢いで隠そうとしてしまうのです。なぜ、不祥事ではないいじめも隠そうとするのか。

第1に、いじめ防止対策推進法をよく知らないということが一つです。法律も10年たって、その意義・目的や内容を忘れられているようです。「いじめ」という言葉のアレルギーに、まず学校がかかっているわけです。これでは、子どもたちの未熟さを理解して指導することはできません。

第2に、世論です。いじめ問題に関わる人ですら「いじめ」イコール不祥事になる悪質ないじめだと思っています。その人たちを重宝するマスコミは、不祥事でないいじめも不祥事だという論調で報道しているのです。いじめ認知件数が報告されるたびに、いじめが増えた減ったと深刻ぶって報道する新聞やテレビの大手マスコミは。このいじめ防止対策推進法に逆行し、いじめ防止対策を阻害している張本人だと思います。問題はそんなに単純ではないことだけは間違いありません。

いじめがある以上悪だ、学校や教育委員会や行政を糾弾しなくてはならないという勢いができてしまえば、学校がいじめを把握して、きちんと対応をしていくことができなくなるでしょう。いじめを隠そうとすることに一役買っているということになるし、現になっていると思います。

最近の流行語大賞は、「ふてほど」という不適切報道が取り上げられたように聞いています。いじめに関する報道も、人々の正義感をあおり、攻撃的な論調を掲げている報道が目に余ります。まさにふてほどの典型だと思えてなりません。

nice!(1)  コメント(0) 

弁護士はいじめ防止対策推進法を学習することが求められている。知らないではすませられない。 [弁護士会 民主主義 人権]



最近実務的上、気になることが何件かありました。
いじめで長期間不登校になった、あるいは自死を図った事案の場合の、法が予定している制度を知らない弁護士がいるようなのです。知らないなら相談を受けるべきではないのですが、知らないことを知らないなら対処がありません。

あたかも、労災(公務災害)申請制度を知らないで、労災の相談を受けるようなものです。

また、学校もある程度、法律を知っているようなのですが。その制度のあるべき運用について十分に知らないか、あるいは意図的に文部科学省の行政指針とは異なる運用をする管理者が増えてきているようです。

そうであるから、弁護士は、児童生徒の保護者から相談を受けた場合は、第1次的にいじめ重大事態であることを適切に評価して、学校設置者や学校に対して、法律によれば教育委員会への報告、重大事態に関する組織を設置しての調査(第三者委員会の調査)を行うことが適切に行われるように働きかける対応をしていかなければなりません。

第三者委員会について、文部科学省は、弁護士や精神科医、学識経験者、心理や福祉の専門家等の専門的知識及び経験を有し、当該いじめ事案の関係者と直接の人間関係又は特別の利害関係を有しない第三者の参加を図ることにより、当該調査の公平性、中立性を確保するように指導しています。

先ず、この第三者委員会によって調査を行うことが、学校という密室でいじめ被害に遭った可能性のある児童生徒、保護者にとって有効であるということを認識するべきです。

ところが、この実際の第三者委員会については、実務上以下の通り問題が見られます。

・ 児童生徒やその保護者に対して匿名で行われている。⇒ これでは、利害関係のある者が参加しているかどうかがわかりません。とても公平性・中立性の外観がはかられません。
・ 学校関係者が多すぎる。退職校長、スクールソーシャルワーカー、中にはPTAの役員が入っている調査組織もありました。⇒ これは学校にとって都合の悪い事実は認定しないという外観が作り出されてしまう。
・ 教育委員会への十分な報告がなされていない場合がある。⇒ 自己流で行う危険があります。
・ 児童生徒、保護者に対して事情聴取を行わないで、結論をまとめようとする。これは案外多いようです。⇒ これは文科省の指針とは全く反対の行動です。
・ 児童生徒、保護者に対して委員会開催さえも知らせない。⇒ 同じく。
・ 重大事態であると理屈をこねて認めない。⇒ 文科省の運用指針では自由な解釈の余地がなく細かく設定されていて、重大事態ではないとごまかすことができなくなっています。

こういう調査が行われれば、保護者は納得しません。法の知識がなくても、自分の子どもの案件が学校によって握りつぶされるという危機感を持つことは当然のことです。

先ず、相談を受けた弁護士は、このような法律や文科省の運用指針に反した学校、場合によっては教育委員会の運営を、文部科学省の運用指針をもとに是正させる行動をするべきだと私は思います。

誰に対してどのように働きかけるかという問題は、その時々の運用の在り方によって異なりますので、そこはいろいろなノウハウを交流させる必要があると思います。ここを具体的に研修することが大切です。

なんにせよ、いじめ重大事態の起きた場合のフローチャートをしっかり理解しておくことが大前提となります。そうでなければ法律の条文文言からは違法性が無いように見えてしまいますが、文科省の運用指針を知っていればそれから全く逸脱していることがはっきりします。知らなければ是正を求めようもありません。法律の条文だけを知っていても役に立たないわけです。

いじめ防止対策推進法も法施行から10年となりました。当時は最先端の議論、政策論が割と活発に議論されていましたが、現状、法の知識もない人たちが弁護士や学校関係者にも増えてきたようです。

しかし、法律を知らないということは弁護士の場合、言い訳にならないこともあります。また知らないことによって不利益を受けるのは、いじめられた児童生徒であり、その保護者の方々です。

学校や教育委員会の現状からすれば、弁護士や弁護士会に相談が来ることも増えることが予想されます。この機に各単位会で学習会を開いて、適切な事案対応をすること、制度が分からない場合は分からないから別の習熟した人に回すということができる状態にしておくことが求められていると思われます。

nice!(1)  コメント(0) 

大手メディア、政治家、法律家を疑うことを教えてくれた。兵庫県議会問題まとめ [弁護士会 民主主義 人権]



もういい加減にしないと業務にも影響が出てくるので、今回で最終とします。この問題は様々なことを勉強させていただいたということで、かなりエキサイティングな一週間でした。

1 満場一致のパラドクス
百条委員会が終わらず、むしろ、知事の疑惑が薄くなっていた段階で、議会は満場一致で辞職要求を知事に突きつけました。満場一致であれば嘘くさいということで、その典型例として将来まで語り継がれる好事例となることと思います。結局知事が辞職するべきかどうかというまともな判断をしていたのではなく、大手メディアが知事を叩いている、ここで知事に批判しなければ、目前に迫った衆議院選挙で票を落とすという保身的立場から、バスに乗り遅れまいと、もしかしたら根拠がなく、知事個人の尊厳も、兵庫県政の利益も考慮せずに、満場一致が生まれたということです。自民、立憲、緑の党の人たちだけでなく、維新や共産までも、結局は県民の利益ではなく自分の利益を優先したということが満場一致の理由だったわけです。

昨日も面白い動画を見ました。9月5日の100条委員会の終わった後の様子がアップされていました。そこで、今後どんな資料が必要かという議論がなされていました。維新の議員が、同日行われた元副知事が、3月12日の文書は不正の目的があると述べていたことから、その根拠となったメールを資料とするべきだと言いました。これは正当な意見です。ところが、他の議員や委員長らが、個人情報が含まれているからそれはだめだというのです。それでは、文書が公益通報に該当するかどうか吟味しないと言っているようなものですが、公益通報者保護法を理解されていないらしく、反対意見が多かったようです。提案した維新の議員が公益通報者保護法とはということを言い出すかと思ったのですが、こちらもご存じないのか、強く押さなかったということが印象的でした。

2 醜悪な大手メディア
大手メディアも、一読しておかしいなと思える3月12日の怪文書の内容を真実であるとして、一斉に知事叩きをしたのですから、満場一致のパラドクスはここでも正しかったわけです。何を思ってみんなでこういう姿勢を決めたのかはわかりませんが、人為的に大手メディアが歩調を合わせたと考えることが合理的だと思います。

特に朝日系列のローカル局は、選挙期間中の候補者の討論会であるにもかかわらず、局長さんのご遺族に配慮するという理由で立花候補を一人だけ生出演させませんでした。これまでさんざん知事のご家族に対する配慮のかけらもない攻撃をしておいて、「どの口が言う」という態度を露わにしました。

少なくとも記者クラブ、報道協定というものがあって、議会に不都合な報道をすると、それ以降取材を断られるということから、そうならないように言われるままに報道しなくてはならないようです。警察署の次長の記者レクでの発表も報道しなければならないというルールがあるようで、同じ理屈でその発表をしないわけにはいかないということを教えられたことがありました。

つまり、大手メディアは独自取材をしないですませるため、役所や警察の発表を無批判で掲載するしかないという実態をここでもあらわにしたわけです。結局官庁のスピーカーになっていて、大本営発表の時代に既に先祖返りしているわけです。だから記事を読んでも面白くないわけです。だから売れなくなるわけです。

但し、大手メディアをすべて疑うということは必要ないと思います。すべてのメディアが歩調を合わせたときは、報道の真実性ではなく報道機関の利益で横並びをしているという満場一致のパラドクスを疑うべきだということです。

ただ、「発信したもの」を疑うことは簡単ですが、満場一致で「発信しないもの」を掘り起こすことは難しいことです。例えば、昨年、極めて珍しく東京都に対する監査請求が認められた事案がありましたが、大手メディアはほとんど取り上げませんでした。取り上げる価値が無かったという判断だとすると、その監査請求人である暇空茜(ハンドルネーム)氏の、手続き的な書類送検を一斉に報じるという矛盾したことをやっています。これこそ報道価値の無いことのはずなのですが、わざわざパトカーの写真まで載せて配信した新聞社もあったほどでした。

3 ユーチューブ
今回の立花さんの戦略はユーチューブでの情報発信でした。立花さんは政治家ですが、時事問題を扱うユーチューブ発信者である、時事系ユーチューバーと呼ばれる人たちがいて、日ごろから時事問題、政治問題というより広い意味での時事問題を取り扱っています。情報内容はともかく、話口が面白くて、ついつい見てしまいます。講談師というのは、こういう役割だったのかなあというようなエンターテーメントを提供しています。

いろいろな人がいて暴露系ユーチューバーなんて人たちも、大手メディアが報道しないことを発信しています。

それらの人たちの話を全てうのみにする人はいないでしょうけれども、同じような話題を何人かが取り上げていますので、比較してみているうちにより確からしい、つまり裏付けを示してくれる方の話を深掘りすることができます。

一次情報を示すチャンネルは多く、自分でアクセスして確認することもできます。

ただ、多くのユーチューバーも、今回の兵庫県議会問題には、大手メディアに騙されていたようです。知事を攻撃する動画を上げていました。潔く誤りを認める訂正動画をアップするユーチューバーもいて、感心しました。大手メディアのこのありさまであると、ユーチューブは大きな意味を持つようになるでしょう。

ただ、マスメディアもユーチューブも多くの人に届けるために、事の真偽よりも、読者、視聴者の怒りの感情に火をつけるような「あおり」をすることは注意が必要です。ユーチューバーが大手メディアから学んだことなのだと思います。大手メディアが専門知識がありそうもない人をコメンテーターにする理由がここにあり、怒って見せることができる人であれば、無自覚のまま一緒に怒ってしまい、攻撃感情をあらわにして、もっと攻撃している様子を見たいと思わせてしまうのだと思います。人間は怒っている瞬間は苦しみや不安を忘れますから、無意識に怒りを求めてテレビやユーチューブを見てしまうようです。

私も気を付けたいと思います。

nice!(1)  コメント(0) 

せっかくだから百条委員会について勉強しよう 兵庫県議会問題⑤ [弁護士会 民主主義 人権]



兵庫県議会内に設置された文書問題調査特別委員会(百条委員会)が設置されています。それほどポピュラーな制度ではないので、これを機会に勉強してみたいと思います。

百条委員会は、地方自治法100条に規定されている委員会です。条文では、当該普通地方公共団体の事務(略)に関する調査を行うことができるとされています。この場合において、当該調査を行うため特に必要があると認めるときは、選挙人その他の関係人の出頭及び証言並びに記録の提出を請求することができると定めており、この請求に対して、回答を拒否した場合は6か月以下の禁固または10万円以下の罰金となるかなり強い制度です。また宣誓の上虚偽の証言をした場合などは3か月以上5年以下の懲役となるというこれまた強い効果があり、調査が強力に推進されています。ちなみに禁固と懲役はともに刑務所に収監される刑罰ですが、懲役は強制労働が科せられて、金庫は強制労働はないという違いがあります。

百条委員会という制度があるのは、国会議員に国政調査権があるように、条例制定や自治体監視などという議会活動の必要のある場合は、判断に必要な資料を収集しなくてはならないからだとされています。今回は、執行機関に対する議会の批判機能を十全に発揮するために百条委員会が設置されました。

Wikipediaで兵庫県庁内部告発文書問題 - Wikipediaというのがあり、ここから兵庫県議会の発信している資料にとぶことができ、職員アンケートの結果も見ることができます。結果と言っても数字だけ見てはよくわかりませんので、興味のある方はアンケート内容の記載を見ていただくとわかりやすいと思います。
3月12日の文書の概要も紹介されています。

さて、百条委員会は特別委員会として、議会が設置及びその内容を付託して設置されます。6月13日(県議会議事録速報版令和 6年 6月第367回定例会・速報版(第4日 6月13日))によると「令和6年3月12日付、元県民局長の文書に記載されている7項目の内容の審議に関する事項を」兵庫県議会は付託し、特別委員会の名称も「文書問題調査特別委員会(百条委員会)」とされました。

翌日開催された第1回会議でも、調査事項として、令和6年3月12日付け元県民局長の文書に記載されている7項目の内容の真偽 に関連する事項とされています。01 議事順序(正副互選)060614 HP報傍

このことは正当だと思います。
7項目について虚偽だとなれば、内部通報者の公務上の立場からして真実相当性が無いことも熟知していたと思われますので、公益通報ではなくなるということになります。7項目について真実であれば、当時の自治体首長の主張としての適切性について判断し行動しなければならなくなるからです。

で、結局アンケート結果061011-2からすると、まあ読んだ人の読み方もあるかもしれませんが、真実性を証明するものは何もなかったというべきでしょう。むしろ、正当性のあることだったのだという説明をする人が多いことに感心しました。パワハラがあったという人もいますが、自分が直接見聞きしたのではなく、噂話のたぐいであることがわかりやすいまとめになっています。

その時点で百条委員会は結果を公にして任務終了となるべきです。ところが、どうやら、公益通報者保護法との関連に調査対象が移ったのです。いささか疑問があります。百条委員会は議会の付託に基づいて活動するものであり、勝手に調査事項を変更することはできないのではないかと思うからです。

それにしても第1回で自らが確認した調査事項を何時変更したのでしょうか。

公益通報者保護制度に関しての説明は前回行ないました。確かに条文の表現は分かりにくいのですが、正確に勉強してから意見は言うべきだと思います。これは一種の労働者保護法ですから私の取り扱い分野ではありますが、かくいう私も改めて教科書を読みなおしました。

さて、3月12日の怪文書は公益目的もなく、真実相当性もないことが確定していると思われますので、そもそも公益通報として認められるものでもなく、この文書に関連して不利益取り扱いをされないという保護もないことは前回述べた通りです。これは早晩、百条委員会でもきちんと勉強して理解するところだろうと思います。

そうすると、また調査事項を変更して百条委員会を続けるのか、県議会は付託もしない調査を続けることにどのような態度をとるのか見ものです。

nice!(1)  コメント(0) 

【勝手に補足】公益通報者保護法の禁止事項に該当しないとされる根拠について 兵庫県議会問題④ [弁護士会 民主主義 人権]



動画を見ていて、公益通報者保護制度について「弁護士でも意見がわかれる。」という表現がありましたが、これは間違いです。公益通報者保護法の知識があって正確に説明する人と、法の知識が無くて、あるいは知識があるのに特定の結論に導きたいために、法の趣旨とか立法論で法違反を主張する人に分かれているだけです。法律ですし、解釈の必要のない部分なので、はっきり説明しておく必要があると思いました。

リハックという番組で、立花さんも間違ったことは言っていないのですが、生番組であり、かつ、法を間違っている人に対する感情が高まっていたのでわかりにくい部分もあったので、勝手に解説します。

公益通報者保護法の保護される行為の範囲は大きく言えば2種類に分かれます。
ひとつは、会社内の公益通報窓口と行政監督機関に対する公益通報の場合で、もう一つはその者に対し当該通報対象事実を通報することがその発生又はこれによる被害の拡大を防止するために必要であると認められる者に対する公益通報で、ここに報道機関が入る可能性があるということです。

いずれの場合でも保護の要件として、公益を図ることが目的であることが必要です。法律には、不正の利益を得る目的、他人に損害を加える目的その他の不正の目的でないことが要件だと記載されています。このような不正の目的がある場合はそもそも公益通報ではないということが定められています。

そして報道機関に対する通報は、公益通報であったとしても、
通報対象事実が生じ、又はまさに生じようとしていると信ずるに足りる相当の理由がある場合に限定して保護の対象にすると定められています。

ここが百条委員会などでも取り上げられている「真実相当性」と言われるポイントです。

そうだとすると、当初の3月12日に配布した怪文書は、百条委員会の元副知事の音声データが真実だとすると、局長さんは、知事の転覆を企てるクーデター計画を立てており、その実践方法まで計画していたというのです。そうだとすると、可能性がゼロではないとしても、目的が不正でないとは言えなくて、そもそも怪文書の流布は公益通報とは言えないと考えるのが妥当のような気がします。それにつけても、どのようなクーデター計画なのか、その手段として怪文書を流布したのかを確定するためには公用パソコンの検討が不可欠になると思います。

さらに、流布内容が結局悪意の噂話を集めて記載したというのですから(ここは3月12日に流布された怪文書の内容とその作成過程が明らかになっているのならば明確にすることが必要です)、そもそも真実相当性の要件が無いと言わざるを得ません。

いずれにしても、発信者を特定したり、事実関係を調査した上で懲戒処分に付することは、公益通報者保護制度の関係では違法にはならないというのが法律の規定です。

公益通報者保護法自体に、解雇理由があれば解雇をすることは妨げないとされていますし、懲戒事由があれば懲戒処分をすることは妨げないとされています。通報さえすれば処分がまぬかれるわけではありません。

しかし、法律に反しないからと言って、必ずしも懲戒処分が無効にならないというわけではありません。労働契約法に準じた、懲戒処分の合理性が無くてはなりません。即ち処分が、社会通念上合理的なものと是正される場合です。

しかし、結局百条委員会でも、3月12日配布の怪文書の内容の裏付けも、真実草堂性がある事情も見つからなかったのであれば、真実相当性もないし、そもそも不正な目的があれば、公益通報にもならない、また文書の内容によって複数人の名誉が侵害される内容であれば懲戒処分が無効になる理由が何もないということになります。

さらに議論は周辺に拡大していて、「懲戒処分の法的責任は無いとしても、公益通報者保護法の趣旨から考えると政治的責任、道義的責任が存在する。」とでもいうような議論も起こっているようです。

これはこれまでの議論の流れから成り立たない議論であることはお分かりであると思いますが、少し捕捉します。

真実だと信じるに足りない事実をあたかも真実だということで流布して、複数人の人格を侵害しているのに、またそれを真に受けた人から県政を批判されることによって県の行政行為が遅延してしまうと県民にも被害が出ます。そのような行為に対して懲戒処分ができないということは、企業秩序、県の行政秩序を維持しなくてはならない県幹部の責任が全うできないことになり著しく不合理です。

だから不正な行為から組織を守るために懲戒処分を行い、県行政の秩序を維持することはむしろ知事以下の県の幹部の責務なのです。

今回の問題は、3月12日の怪文書流布に公益目的が認められるか、真実相当性があるかという要件を満たすかという問題です。この議論の枠組みがきちんとできていないと、議論は成り立たなくなります。

なお、一旦公益通報とは認められない通報をおこなっても、後に公益通報窓口に通報してしまえば、遡って公益通報者として保護されるのではないかという議論も見かけられました。これも制度について知識と理解が無い議論です。

公益通報窓口への通報は、通報対象者に対しては、だれがどのような通報を行ったのかということについては秘密にされています。だから、公益通報をしたと言っても、それ以前の公益の無い通報との関連性は、懲戒処分の権限者にわかりません。原則として公益通報したことすらもわからないのです。

だから、後から公益通報窓口に通報したからと言って、当初の公益にならない通報に対する調査、懲戒処分を妨げる理由にはなりません。懲戒理由があれば懲戒処分をすることができるし、行政秩序の維持のためには懲戒処分を行う義務もあるのです。

また、経営者の名誉を侵害した者をその確定した事実で処分ができないことは不都合が生じてしまいます。例えば、出版社で政権批判の雑誌を出版している編集者で、別の編集長になりたい人が編集長を追い出すために、その編集長は奇行癖があり、編集方針と逆行して、他者の人権を侵害する行為をしている等という真実相当性のない怪文書を出して、自分を取り上げてくれる人を編集長にしようとした場合、懲戒手続きに入り、調査を行った上懲戒処分をすることは当然のことだと思います。それなのに、出版社の公益通報窓口にその人が通報すれば、懲戒処分をすることなく、そのような自分たちに敵対的で、攻撃をする人が処分もされずに出勤し続けることができるならば、攻撃対象となった人はかなり強烈なストレスを感じ続けなくてはならないし、業務にも支障が出てしまうことになるでしょう。そもそも懲戒処分権限者は、どのような通報があったか分からないのですから、やみくもに通報があった以上は追及できないということになってしまいかねません。これでは、公益通報者保護法の銘文にも反する事態になりますし、実際の不都合も生じることはご理解いただけると思います。

公益通報者保護制度は、懲戒処分対象行為をした人を、懲戒処分を制限する法律ではないということをよく理解して議論がなされることを望みます。



nice!(1)  コメント(0) 

兵庫県議会の辞職要求は、小学校くらいのいじめの一つの典型例に構造が酷似しているということ いじめは正義感によって凶悪化していくこと 兵庫県議会問題② [弁護士会 民主主義 人権]


いじめが行われているのに、教師がそれに対する初期対応を誤る典型的なパターンがあります。それは
① いじめのリーダーが、自分がターゲットの子どもからひどい目にあって苦しんでいることをアッピールする。
② リーダーの取り巻きや、リーダーのグループに入らせてもらいたい第三者の子どもが、リーダーに積極的に加担してターゲットの子どもを攻撃しだす。
③ 攻撃を正当化するために、いじめのターゲットになった子どもの欠点や間違いをことさら大きなものとして話し始める。もちろん嘘や針小棒大な非難も入ってくる。
④ 事情も知らないくせに、周囲も「それはターゲットひどいじゃないか。きちんと制裁を受けるべきだ
⑤ ターゲットの子どもを攻撃しなければ、自分もターゲットの子の仲間だと思われて攻撃されるから攻撃する。
という感じでいじめ(孤立化)が完成するわけです。教師は「理由が何であれ、人を孤立させることは尊厳を害することであり、どんなことがあってもクラスではそういうことをしてはならない。」という毅然とした態度に出ることで、いじめを防止することになります。しかし、大人の教師でありながら、③,④を真に受けて、時には⑤の心理も働き、いじめを止めないという行動が起きてしまいます。教師も誤った情報に基づく正義感を言い訳にするわけです。管理職や保護者にも、いじめがあったと認めないで、性格が合わないだけだと思う等ということで済まそうとする理由の背景には、こういう誤ったどっちもどっち論があることが多いと思われます。

ただ、いじめのリーダーも、ターゲットの子どもを孤立させようという意図までは無い場合もあります。ターゲットの子どもと仲良くしたいとか、取り巻きにもっとちやほやされたい、同情されたいという程度の予定しかないのに、取り巻きや取り巻き希望者が、ターゲットの子どもの「悪事」を吹聴してきつく当たって、リーダーも後戻りできなくなるような場合も実際はあるのです。

これらの行動は異常な行動というより、人間の本能が悪さをしているという側面があります。

ちやほやされたいので被害者を演じると、人間は一番弱い者を守ろうとしてしまいます。これはいろいろ考えての結論ではなく、本能的な行動なので、弱さをアッピールした方が有利になります。何かわからないけれど、自分が悪者になっていると戸惑う方には、味方が付きにくいということはこういう理由です。

さらには正義感がこれをひどい状態に持っていくわけです。被害者をかばい、不正義者を攻撃したくなるのも人間の本能です。誰からか意図的に思い込まされたとしても、一度正義だと思うと、考えの修正をすることはとても難しいことです。そして、正義の反対者に対しては「仲間」という意識が無くなり、敵だという認識が生まれてしまいます。攻撃によってターゲットが苦しんだり怖がったりしても、容赦のない攻撃が可能なのは、人間だと思っていないからです。歯止めがかからない理由は、自分は正義を行っているという心理を持っているからです。

今回の兵庫県議会問題になぞらえると、小学校のいじめよりは複雑なものでありますが、わかりやすくなります。
① 被害者としては、亡くなった局長さんですね。被害はパワハラを受けたとか、3か月の停職の懲戒処分を受けた等のことです。但し、局長さんが自分で被害をアッピールしたわけではなく、3月12日の外部に向けた文書を作成したのが、議員が主導だとすると、局長さんではなく、この議員とマスコミが被害アッピールをした可能性を考えなければならないと思います。
② 被害情報(真実はともかく)を拡散したのは、議会とテレビなどのマスコミになります。影のリーダーとその仲間たちにが意図した内容を知りえる人たちは、何か別の意図でやっているのですが、多くのマスコミの職員は正義感から思考停止になって、裏付けも取らないで不確かな情報を拡散したという構図はおなじみの構図です。正義感に燃えていると思考停止になってしまい、情報の吟味を行わないで、国民の正義感をあおることに注力することもよく見ていることです。さらに、観光協会のおねだりが無いという公式声明があっても修正が効かなくなるということも分かりやすいと思います。正義を追求するための行動なので、多少の過ちをもって正義の追及を緩めるわけにはいかないという本能的な行動にストップがかかりにくいわけです。
③ 局長さんが被害者であるということをアッピールするためには、局長さんが被害を受けていることをわかりやすく情報拡散する必要もあります。懲戒処分は格好の材料になりますし、公用パソコンであるにもかかわらず、取り上げられることが私的情報を無理やり開示させられたという被害になりますし、局長さんの被害をアッピールしたいのは局長さんではなく、局長さんを利用した人がいたとすれば、局長さんが自死で亡くなったことは、このような構図を作り出した人たちにとっては、目的をさらに達しやすくした出来事になったと思います。私は局長さんが亡くなった理由については、立花さんとは考えが違います。この点は後の機会で説明します。それを理解していただくためには、今日の説明は不可欠でした。
④ もしこういうテレビや新聞などが作り上げた「世論」があるとしたら、衆議院選挙もあったことから、政治家は、世論に逆らうことはまずいという意識が強くなることはありうることです。いじめの第三者参加が起こる構図にとても似通っています。その世論が根拠のあることに基づくのかどうかということを考える100条委員会で、パワハラが具体的に立証されない、おねだりも実際に存在した証拠が無い等という段階での満場一致の辞職要求は、衆議院選挙の直前ということがあって、判断するべき内容を判断せず、自分たちの利益を優先させた可能性があるかもしれないと考えることは、小学生のいじめの構造からすると必要のあることだと思われるわけです。

nice!(1)  コメント(0) 

二つの人権概念というアイデア 司法としての人権と普及啓発としての人権、ドナ・ヒックスの「Dignity」 [弁護士会 民主主義 人権]



急に講演依頼が舞い込み、いろいろな絡みから積極的に引き受けたのですが、実施が向こう10日間で3件続くことになりました。公的な機関で、人権のお話をしてきます。

私は14年前から宮城県の人権普及啓発の仕事をしています。最初に戸惑ったのは、人権の普及啓発の仕事の場合に想定する人権侵害は、国家機関からの侵害でもなく、裁判所によって権利回復をするというものでもありませんでした。

どういうことかというと、法律家は、人権や権利という概念を国家権力と関連付けて把握することが正解とされています。ところが、人権啓発は、例えば家庭の中の人権の充足を提唱するとか、私人相互が気遣いながら人権侵害を予防しようと呼びかけるなどの活動をしているわけです。明らかに司法的概念としての人権ではないというところに戸惑い、考え続けてきました。

割と理論的な悩みであり、実務的にはどうしても解決しなければならないという問題ではないかもしれません。

さて、そんなときに、ドナ・ヒックスの「DIGNITY」(幻冬舎)を読み、「これは使える」と思った次第です。何年か前に勝っておいて読まなかったのですが、出張の際に新幹線で読むものを探して読んでみました。

ドナ・ヒックスは、ハーバード大学の教授で心理学者です。国際紛争の当事者(イスラエル人とパレスチナ人とか、アイルランド人とイングランド人とか)の対話を間に入って成功させている実績のある方です。

彼女の主張は、人間には生まれながらにして尊厳を持っている。この尊厳が侵害された時、人間は戦うか逃げるかという反応をしてしまい、戦うことを選択すると紛争が起きてしまう。尊厳が尊重されることは紛争を予防するだけでなく、一度起きた紛争について、相手と自分が尊厳を侵害されたポイントを理解しあうことが解決の大きな一歩になるということをお話ししています。

国際紛争の際の相互理解がテーマとなっているのですが、この考え方は家庭や職場、生徒の間でも使える考え方です。もちろん対人関係学は、この尊厳の正体は、人間が群れで暮らす本能に根付いていることを主張しているのですが、ここは我を引っ込めて、ドナ・ヒックスを活用させていただくことがむしろ得策だと割り切ってお話を進めることにしています。

ドナ・ヒックスは、尊厳が充足されている10の要素を提案します。逆にこの10の要素のいずれかに問題があると尊厳が侵害されているというわけです。

この10の要素は、理論的というよりも、経験的に例示列挙されたものです。日本語と英語のハンディもあるのでしょう、重複しているのではないかと思うものや次元が違うのではないかと思われるものもあるように感じます。それでもある程度類型的に具体化されているために、尊厳状態のチェックが簡単にできるところが強みです。

ドナ・ヒックスの尊厳の概念を学んで思ったのですが、私が人権の普及啓発の場で訴えていたことは、他者の尊厳を守ろうということと言ってもそれほど違いはないようことに気が付きました。人権ではなく尊厳に置き換えて話すことが実務的です。しかし、人権の話を頼んだのに、人権という言葉出てこないというのも具合が悪いです。
尊厳の話が人権の話だということが分かりやすく説明する必要があると思いました。そこでふとひらめいたのです。人権概念は二つあると。

一つは、法学部で学ぶ人権で、裁判規範としての人権です。これまで憲法の教科書で説明されてきた人権と言えるでしょう。

もう一つは、他者の尊厳を侵害しないという意味での人権です。自治的にルール作りをするとか、他者の関係を構築する指針になる人権です。

両者の共通点は、
1 人間生まれながらにして持っているものということと、
2 それが侵害されると本人が精神的に傷つくとともに、それを見ている人も傷ついたり、不快な思いになったり、怒りを覚えたりすること。逆に充足されていれば本人が安心するし、周囲も嬉しい気持ちになる。

両者の相違点は、
1 裁判規範としての人権とはそれを国家権力が強制力を持って保障するものであり、ある程度概念や権利性が、歴史的に定められているものですが、行動指針としての人権は日常生活の中で無数に表れるものであり、侵害に対して国家権力が強制力を持って保障するものと、そこまでの国民の共通理解の無いものも含まれるというより広い概念であること。
2 尊厳も将来的には人権として保障される可能性があり、いわば潜在的な裁判規範としての人権ということも可能なのではないでしょうか。

裁判規範としての人権は、人権侵害の予防、人権侵害の差し止め、人権侵害の補償についての訴訟上の請求の根拠となるものです。

行動指針としての人権は、裁判規範としての人権よりも広い概念です。裁判規範としての人権だけが守られればよいという話しではないところで、例えば家庭などで、理解して気にかけて行動することで、人間関係を良好にして幸せな生活を送るためのツールになります。行政の啓発活動や、家庭、学校、あらゆる人間関係の中で相手の尊厳を大切にするという生活の中の人権ということが言えると思います。裁判をするまでも無いような些細なことも含まれるということになりそうです。

このような二つの人権概念を持つことのメリットは、判例の知識が無くても人権概念を説明し、実生活に役立てることができるということが一つ。人権概念を狭く考える必要のない人間関係の中で、より実際的な使い勝手を持つことができる。尊厳という概念を使うことでより理解しやすくなるということでしょうか。

例えば学校の中で、教師が児童生徒とどのようにかかわるか、病院や福祉事業場で職員と患者、利用者との関係をどう構築するか、家庭での円満な関係をどのように構築するかという問題で威力を発揮するようです。

nice!(1)  コメント(0) 

原作改変問題に見るこの国の公平公正や自由競争の現状 テレビ局が自分自身のためにも検証するべき内容とは [弁護士会 民主主義 人権]



テレビや映画の脚本が、原作と大きく異なることについて、改変それ自体の良しあしの評価とは少し異なった角度から考えてゆきます。

なぜ、原作を改変するのかというその理由について、業界内部からの問題提起が続々と上がってきています。それによるとどうやら、脚本家が原作を「自分の好みで好き勝手に原作を書き換えている」というわけではなさそうなのです。

私がなるほどと思った理由は、テレビドラマや映画の制作初期の段階で、先ずキャスティングが先に決まるようなのです。この時間帯のこういう期間、こういう年代をターゲットにするドラマを作ると、それに対して、それぞれの俳優の「実力」、所属の「実力」等に応じて、おおよその役柄を配点して、少なくとも出演の合意をとっておき、出演者のスケジュールを確保するということのようです。

なかには旧名称を持つ事務所と音楽番組のように、所属タレントを使うために企画を持ち込んでいくということもあったのかもしれません。

ところが、原作にそのような売り込み俳優の出番が無いとか、所属事務所が配役の原作の人物を所属俳優が演じることに難色を示すことが出てくるわけです。

そこでニーズが生まれるのが、脚本家による原作の改変だというのです。原作には登場しなかった登場人物を脚本による原作の改変で登場させるとか、はなはだしい場合には登場人物が男性なのに、女優を使うために原作を改変するということも、これらのニーズに応じる手っ取り早い方法だというのです。

件の脚本家の方は、このような制作側のニーズに合わせて器用に原作を改変させる「才能」があったということだったのでしょう。

「じゃあ、原作を使わないで、オリジナルの脚本を作ればよいではないか。」ということも考えられると思うのですが、それも理由があって、オリジナルの脚本を書けないというよりも、原作があった方が話題になる分視聴率が見込めるし、テレビ化すれば出版の側も売り上げが上がるという思惑もあるようなのです。

私はこの一連の理由には説得力があると思いました。この原作改変システムであれば、特定俳優の割り当てという制作の思惑は実現するわけです。

私は、原作の改変や原作では出ない登場人物をつくるとか、逆に割愛させるということについては、原作者の承諾があれば、それは理由のあることだと思っています。絵やアニメのようなメディアでできても、実写映像では表現しえないこともあるし、逆に実写映像だから表現できることもあると思います。また、一人の頭の中で作った進行に不自然な点があり、それが実写化されると矛盾として受け止められ、視聴者を混乱させるということもありうるからです。

このように、制作側の主観で構わないのですが、エンターテイメント性を高めるとか、作品の質を高めるとかというならば、ある程度原作から変わることもありうるだろうという風に考えています。こう考えるのも私が松本清張氏の影響を受けているということもあると思います。

しかし、観る側の満足度を高めるとか、作品の質を高めるとかそういうことではなくて、制作側やスポンサー、俳優の所属事務所の都合で原作を改変して行ったら、それは視聴者や作品の質という方向は二の次になっているということだから、観る側からすれば、つまらない方向への改変ということにしかならないでしょう。単にその「ごり押し俳優」のファンだけが喜ぶ、程度の低い番組になることは予想が付くことだと思います。一部のファンだけが見る番組は視聴率が低下していくことはあまりにも当然だと思います。

思えば、旧名称を持つ事務所の問題も、性加害問題だけでなく、そのようなテレビ局の事務所による私物化というところにも本質があったはずです。つまり、所属事務所とテレビ局の関係が旧名称を持つ事務所だけの問題ではなかったということです。考えれば当たり前です。

昨年から今年にかけてインターネットで話題になっている様々な問題は、このようにテレビ局の特定の人間との結びつきに関しての問題であると整理できそうです。
「特定のスタッフやキャストとの結びつきがどうして起きたのか」ということについて厳しく検証をしていくことが必要であると言えそうです。

単なる人間的結びつき、情実等の問題なのか
そこに利益供与があったのか
スポンサーの意向なのか
それが論点になるはずです。社会的非難をかわすことを目的とした検証ではなく、自社の生産性を高めるための検証でもあるのだから、真剣に取り組まなければならないことだと思うのです。

テレビ局が私企業であっても、報道部門もあるわけです。同じように報道の目的以上の私的な結びつき、個人的な利益、スポンサーの圧力等によって、報道するべき事柄を報道せず、報道内容を都合よく改変している可能性が否定できないということになり、貴重な電波をこのテレビ局に割り当てて本当に良いのかという公的事情が存在することになります。

あれはドラマ制作部門だけの問題だということは通らないと思います。音楽制作部門でも同様の問題があったのだから、報道部門だけは別だという理屈は通らないからです。少なくとも、そのように部門独自の問題だという構造を解き明かした検証は無いと思います。

もしかすると、テレビの衰退は、この日本という国の生産性の衰退を象徴しているのかもしれないという危機感を持っています。良いものを作るという製作者の誇りよりも、一部の担当者の感情や利益を満足させることが優先となるとか、良いスタッフに活躍の場を与えるよりも、個人的な都合に対応できる要領の良い人ばかり起用され、あるいは本当の実力とは関係のない人間関係の力学によって場を与えられている人ばかりが横行し、能力のある人たちが能力を発揮できないということがあるのではないか。このような状態だから、日本企業の生産性が高まらず、本当はもっと繫栄するはずの社会が停滞しているのではないかという危機感です。

これが現代日本のように複雑な人間関係であり、かつ、大量の人間と利害関係が生じている社会ではなく、100人前後のムラが人間の世界のすべてであれば、仲間を大切にして、仲間の利益を優先することは当然のことだと思います。

しかし現代日本では、誰かに利益を与えることが、誰かに損をさせることになってしまうということをもう少し意識しなくてはならないと思います。意識する際のツールが、「公平公正」という概念だと思います。仲間がいたとしても、公平公正な起用をしていくこと、良いものが流通するようなシステムによる資本主義的な自由競争原理を精巧に作り上げていくことが求められていると思われます。

nice!(0)  コメント(0) 

共同親権反対の某弁護士会の意見書に落胆した理由 結論についての落胆というより法律家の意見として成り立っているのかということについての私の考え [弁護士会 民主主義 人権]


共同親権反対の意見を単位弁護士会(都道府県の弁護士会)で上げるところがいくつかありました。共同親権のような微妙だと思われる問題について、単位弁護士会が単一の意見を上げることにも、弁護士会の役割、性質に照らして疑問もあります。

最大の問題だと思うことは、その意見の理由の構造についてです。これは少し説明が必要だと思います。

我々法律家は、法律を現実の人間関係に適用して、紛争を解決することを実践しています。法律の条文というものはご存じのとおりとても短い文章です。抽象的に定められていることが多いと言っても良いでしょう。その中で、一方の利益だけを考えているのではなく、双方の利益を考慮に入れて、法律ですから誰に対してでも適応され、しかし、個別事件で適切妥当な解決を図らなくてはなりません。法律家は、勉強をしているときも、実務についてもそのような法律の特質について叩き込まれているはずです。

だから共同親権というこれから法律を作る場合の議論にあたっても、様々な利益を考慮して、制度の実現によって得られる利益をなるべく確保しながら、その制度の弊害をなるべく小さくしていくように議論をしていくことが求められると思います。このような作業が法科学としての手法であり、法律家としての命であると私は思っています。

このような法科学の手法を使った意見表明をすることによって、弁護士会の意見が、意見を異にする人たちに対しても一目置かれて、無視できないものとして価値を承認されてきていたと私は思います。

いくつかの比較的大きな単位会で、共同親権について強く反対するという極端な意見が出されています。

例えばこれが、これから作る法律が一部の人にだけ利益が生まれる一方、多くの人に対して人権侵害に該当するということであれば、注意喚起と法律の制定を慎重に行う観点から意見を述べるということが理解できます。例えば、残業時間の割増賃金制度の撤廃などという法律を作るとしたら反対するということもまだわかります。その場合でも制度廃止の目的をよく検討して、その目的に合理性があるのか否か、そもそもその目的を掲げて法律の廃止をする必要があるか無いか等の議論をすることが普通です。そして、廃止の目的によって得られる利益と、廃止をしないことによって得られる利益を比較して、最終的な意見を述べるということがこれまでの弁護士会のあるべき意見提出だったと思います。

さて、離婚後の共同親権について、それらの弁護士会は立法の目的についてきちんと検討しているのでしょうか。最新の単位会から出た意見書を見ると、立法目的は、離婚後も父母が子どもの養育にかかわることが子どもの利益に合致するという「理念」があり、この理念によって離婚後の共同親権が導入される傾向があるという難解な一言で、目的の検討が終わっています。

先ず、今回の共同親権の目的について、きちんと検討していないということが指摘できると思います。
次に、離婚後の共同親権制度が「導入される傾向」とは何を言っているのでしょうか。どこの傾向なのでしょうか。確かに離婚後の共同親権制度は、令和2年の法務省の調査では、24か国を調査して離婚後の共同親権制度にしていない国は、トルコとインドだけだったそうです。世界の趨勢は、離婚後も共同親権制度をとっていることになります。もちろんG7等のいわゆる先進国と呼ばれている国や、中国や韓国などの隣国も離婚後も共同親権制度をとっています。この各国の制度が具体性のない理念で決められる傾向にあるというのでしょうか。そうであるならば、その具体性のない理念だけで制度導入がされているとする根拠こそ示すべきではないでしょうか。ところが何も示されていません。単なる決めつけで述べているだけにすぎないと受け取られても仕方が無いと私は思います。

この点については、立法化を検討している法務省が、具体的な離婚後の共同親権制度の立法目的を明示しないという行政府としての立法作業として不可解な態度をしていることにも原因があるように感じられているところです。

また、政府などの説明を報道する報道機関によって、具体的内容を割愛して「子どもの利益のために離婚後の共同親権は必要」という言葉しか出てこないので、我が国の立法論においても子どもの利益のためという抽象的議論をする傾向があるということなのでしょうか。そうすると「導入する傾向がある」という表現は間違いだということになります。きちんとした日本語の読み方をすれば、意見書が正しく記載されているとすれば、「海外では離婚後の共同親権を導入しているが、それは抽象的な理念から導入している」としか読めないことになりますが、本当にそうなのでしょうか。弁護士会の意見ですから、そこは責任をもって述べてもらわないといけないと思います。国際問題になりかねないことを述べていると思います。

弁護士たるもの、法律家であり、また、離婚事件が日常的な業務になっていることからも、海外であっという間に広がった共同親権制度の目的を調べ、あるいは離婚後の子どもの養育の実態をみて、離婚後の共同親権制度の目的や必要性についても検討をするべきだと思います。

先ず、離婚後も父母が子どもの養育にかかわることが子どもの利益に合致するという「理念」は、具体的な意味を持って存在します。これは、家庭裁判所の研究雑誌や子どもの権利の実現のために書かれた法律書籍などで、十分に記載されています。いろいろな調査があるのですが、アメイトという研究者が行った統計的研究によって、実父母の離婚を経験した子どもは、離婚を経験していない子どもと比べて、自己評価が低下するということが示されています。これはその他の研究でも裏付けられています。離婚後の共同親権制度に反対する論者で、これらの研究結果に対する科学的批判を私は見たことがありません。

子の親であれば、自分の子どもが将来自己評価の低い子どもになる危険があるなら、その危険を排除したいと思うのではないでしょうか。もし離婚後の共同親権制度が、そのために子どもにとって有効ならば、賛成の大きな力になるはずです。

真の問題は、離婚後の別居親の子どもとのかかわり方はいろいろあると思うのですが、共同親権という方法が必要かどうかという点にあるはずです。ここでは、世界の国々は、共同親権制度が必要だと判断したからこそ制度を導入したということだけを述べておきます。

さて、某弁護士会の意見書は、後は、離婚後の共同親権制度ができた場合の弊害についてだけが述べられています。いくつか考慮しなくてはならないうちの一方の利益だけを根拠に立法反対の意見を述べていることになります。これでは立法論ということについての説得力はなく、一方の問題の所在を述べただけの議論で終わっていることになります。また、その中でも、これも法務省の問題提起がいかに曖昧化を物語っているのですが、共同親権制度の具体的な提案の中身を明らかにしないで、単に離婚後の共同親権制度の是非を問うている問題提起になっていることに非常に問題があります。その結果、こういう悪い事態も想定できる、もし具体的にはこういう制度になればこういう悪い事態が想定されるという意見に終始してしまうわけです。物事全てにメリットデメリットがあることは当然です。また、離婚後の共同親権制度の在り方についてはJ.ワラスティン(ウォーラースタインと表記される場合も多いです)も警告を発しています。形式的な共同が、子どもの便宜を考慮されないで具体化されてしまうことで子どもの成長に負担が生じるということが指摘されています。

但し、法律家の議論であるならば、「離婚後の共同親権制度は子どもにとってこのような利益がある、しかし、先発国家の具体的な制度運用を見るとこのような弊害が生じているという実態がある。より子どもの利益にそった制度とするためにはこういうことを考慮して具体化するべきだ」という意見になるはずだと私は思っています。

反対意見であっても、「これこれの弊害が必然的に伴うために目的とした利益を考慮してもなお、制度化するべきではない。」というならば襟を正して意見を伺うという気持ちになるのです。しかし、実態は、先ずは反対だという結論をだして、その理由付けとして考えられる弊害を上げているように読めてしまうのです。だから大きく言えば論理学的用語でいうところの「感情論」になってしまっているとしか思えません。

ここで意見書の反対理由をメモ代わりに記載しておきます。
1 離婚を選択した夫婦は葛藤が強く、子の監護などについて話し合いをしなくてはならないと葛藤が高くなり、子への悪影響が生じる、また、葛藤が残っている夫婦の一方が、子に関する重大な決定について拒否権を発動して支配を試みる危険がある。また、裁判所の調整は裁判所の能力から困難がある。(この点の指摘は一理あって、子どもにとって本当に有害なのは、離婚や別居自体ではなく、離婚をした後でもまだ相手に対して葛藤が続いている場合だとされています。ただ、それは他方の親が子どもにかかわりが無い場合であってもという意味です。)
2 DVがある場合は単独親権となったとしても、裁判所がDVを見抜けず単独親権を主張できないケースが不適当だ。(裁判所でDVが無いと判断するのは、見抜けなかっただけでなく、DVの主張はあったけれど実際にはないケースももちろんありますけれど。)
3 どうやら共同監護になりそうなのがけしからんと言っているようです。表題だけ読めば、共同親権と共同監護は別物であるから共同監護を義務づけなければ共同親権でもよいと読んでしまいそうなのです。これは離婚後の共同親権制度に対する反対理由ではなく、共同監護制度に関する意見のようです。
4 共同親権になっても養育費が支払われる保証はない。(だから共同親権反対?)
5 立法によらずとも共同監護は可能(だから共同親権反対?)
3,4,5の理由は、仮想敵に対する反論のようなものなのかもしれません。

結局離婚後の共同親権制度に反対する理由は、共同親権になると、子どもの養育を理由に子と別居することになった親が子と同居する親に対して干渉をし、同居親の精神的安定を害するとともに、離婚後もDVが継続するからということに尽きているようです。そこに子どもたちの利益を最優先に考慮した形にはなっていないと私は感じます。

いくつかの利益を考慮して調整して立法するという態度ではなく、特殊の立場の人の利益だけを一方的に優先して考慮して反対意見を述べている形になっていると私は思います。反対意見を出すとしても、もう少し法律家らしい体裁の意見書を出すべきだったのではないかと落胆したわけです。

nice!(0)  コメント(0) 
前の10件 | - 弁護士会 民主主義 人権 ブログトップ