So-net無料ブログ作成
弁護士会 ブログトップ
前の10件 | -

なぜ、現代のフェミニストはグローバル企業の召使と呼ばれたのか。 [弁護士会]


これは、ナンシー・フレイザーの言い回しです。
彼女は、社会主義者のフェミニストだそうです。
もっともアメリカの社会主義者なので、
我々がイメージする東アジアの社会主義者とは少し違うようです。
アメリカの大統領選挙の民主党候補になりかけた
サンダースも社会主義者ということでした。

彼女は、第2次フェミニズム運動の理念から
現在の第3派フェミニストたちを批判しています。

第2次フェミニストの理念とは
女性の解放という理念と同時に
男性の価値観から女性の価値観に転換することによって
公正、平等、平和な社会を実現していくという理念があったというのです。

この考え方は前提として男性と女性の違いを承認したうえで
男性的価値観は、実力主義というか
争いで勝つこととか、利益を追求するとかにもとづくもので
そういう価値観が社会を無駄に生きづらくさせている
そうではなくて
女性的価値観は、協調的というか
人間が精神的に穏やかに生活するところにあり、
この価値観を社会に浸透させていこうと主張していました。

昭和の年代に労働法を研究というか勉強した男性は
この第2次フェミニズムに少なからず共感していて
労働組合幹部の女性の割合をもっと増やすことによって
もっと健全で建設的な労働運動の流れができてくるのではないか
という考えを持っていた人が多かったように思います。
沼田稲次郎先生は、航空関係の労働組合主催の講演で
「バターか大砲かと尋ねられたら女性はバターを選ぶ」
とおっしゃって、女性の労働運動に期待を寄せていました。

さて、ナンシー・フレイザーは、
昨今のフェミニズムは、家庭の中の女性解放は主張するが
この社会的変革の理念が欠落しているため
結果的にグローバル企業の召使になっているというのです。
どういうことでしょうか。

グローバル企業の望む人材はどういうものでしょうか
いくつか要素を上げてみましょう。
・安い人件費
・良質(生産性の高い)な労働力
・企業の都合で契約を終了できる労働者
・企業に従順で争いを好まない労働者

この要望に応えるように昭和の年代に法制化されたのは、
労働者派遣を合法化した法律です。
それまで職業安定法で禁止されていたことが合法化されたのです。
抱き合わせのように男女雇用機会均等法が作られ
労働基準法の女性保護規定のいくつかが撤廃されました。

着々とグローバル企業の要請が実現していっていたわけでした。

女性労働力はパート労働という形で
企業のニーズにぴったり当てはまりました。
終身雇用制は崩壊しつつあり
セットの年功賃金は成果主義賃金と姿を変えました。
企業が、その労働では成果が上がっていないと強弁すれば
賃金を上げなくて済む制度として使われることが目につきます。
さらに成績が上がらないことを理由として
解雇がしやすくなる制度になってしまっています。

これまでの正社員の中で割合の多かった男性労働者は
改革のたびにだるま落としのように下に落ちているようです。

さらにそのリストラした高賃金の男性労働者の座を
良質で低賃金の女性労働に置き換えることが
企業にとって利益であることは誰でも考え付くでしょう。

高学歴で、就労経験のある主婦を労働力としてイメージすることは
自然な流れだったと思います。

ところが専業主婦は、働くモチベーションがないため
働こうとしなかったわけです。
夫の収入で生活ができたし、
意識が高いため、家事、育児に時間をかけて吟味していて
働きに出るなんて時間はなかったでしょう。
家事に価値と達成感を感じていたということになります。

この専業主婦を働かせる方法は簡単です。
まず、夫の収入を低く抑える
さらに買いたいものを増やして収入を獲得する必要性を意識づける。
老後のために資金を蓄えることが必要だという意識も役に立つでしょう。
そうやって働かなければならないという意識を与えることです。

次に、家事の時間を短縮させる電化製品や
コンビニやスーパーでの安くて手の込んだ調理済み食品の提供
安価な家事代行サービスの提供も力になったでしょう。
そしてそのようなものを利用するとかつては「手抜き」といわれたのですが、
時短で合理的だという風潮があるとさらに後押しするでしょう。

何よりも、大切なことは自分のために働くという意識づけです。
そのためには家事労働は価値が低い仕事で
気が利いた人間は他人に頼むような仕事だという
意識づけです。

具体的には
3歳児神話は科学的根拠がないから子育ては施設に預けてもよいとか
母親は子どもの奴隷ではないとか
女性も企業で働いてこそ輝くとか
そういう社会的風潮はとても役に立っていると思います。

特にボランティアでも、PTAでも、近所の相互扶助でもなく
企業に働いてこそ輝きだという思考が
いつの間にか脳の中に侵入しているようで、
特に産前には資格を持って働いていた出産後の母親は
働かなくてはならないという焦りのようなものを感じるようです。
自分が子育てをすること自体に疑問を持たせ、
外で働いている夫はずるいという感覚を持つようです。
「自分だけが損をしている」
という気持ちを抱いてしまっている女性をたくさん見ます。

この意識の原因は誰かが植え付けているという単純な話ではなく、
素朴な感覚を持っているところに限定した言葉が与えられることによって
感覚がずらされて誘導されているように感じます。
だからその考えに逆らうことができなくなるみたいなのです。

その結果企業が求める労働力が続々と提供されています。
安価で、生産性が高い良質な労働力が、
必然的に途中採用という不利な採用のされ方をして
企業に不都合になったら安価に契約を打ち切れても
争わない従順な労働力です。
仕事を辞めたくないので、
理不尽な上司の命令も従おうとし、
できないのは自分が悪いと思ってくれるのです。
なんて理想的な労働力でしょう。

本来家事は、人間の再生産に重要な仕事です。
家庭の中で家事を専門に行う人間がいないと無理が出てきます。
誰かが収入を獲得するために家を出なければなりませんが、
誰かが家事に専念しなければどこかに無理が出る現代の家事です。

煩瑣な公共手続きだけでもうんざりします。
塩素や抗生物質から腸などの体内環境を守るためには
時間をかけてデトックスをする必要がありますが、
そもそも安全性の高い食材や衣類を探すのも時間がかかることでしょう。
これをしなければ、大人は長生きをしないだけですが、
子どもは、健全な成長がゆがめられてしまう可能性もあるようです。
教育の問題にしても、学校任せでは生活のこと学習のことも
本当は心もとないのではないでしょうか。
学校と保護者が協力してよい学習生活環境を作るということを
怠っているところにいじめや指導死の問題の背景があるように思われます。
地域の環境改善というかコミュニケーションを作ることも
意識的に時間をかけて作らないから
自分の頭の上に住んでいる人が誰なのかわからない
という事態も起きているはずです。
人間は自分だけで幸せになれないようにできていると思います。

もし働くために、子育てに時間をかけられないから
抗生物質や添加物の入った食べ物を与えているならば、
18世紀のイギリスの労働者階級で
子どもが泣き止まないので手間暇をかけられず
手っ取り早くジンを飲ませて泣き止ませたという逸話と
大差のない話に聞こえてきてしまいます。

本来、家族のうちの一人が働けば
充実した不測のない生活が送れることができればよいのです。
それができないのは、賃金が充実していないからです。
労働者に対する賃金が充実する労働市場になれば
不幸な人間が確実に減ると思います。

ところが、そのような社会的視点が欠落し、
女性の解放をもっぱら家庭の中に力点を置いてしまうと
本来共同して社会を前進させていくパートナーガ協力できず、
力になりません。

それどころか、
家庭から企業で働くことが女性の輝きだという
政府の主張を先取りするかのような主張をしているのは誰なのでしょう。
様々な女性枠というものを安易に享受しているわけですが、
これでは対等をはじめから放棄しているように感じられます。
結局上部に依存して、特別扱いしてもらっているからです。

DV問題がフェミニストの主戦場のようにも感じられますが、
解決方法は警察や行政という公権力に依存していています。
公権力が私人に介入する余地を拡大することを
問題の所在として懸念しているようには感じられません。
権力に依存する方法をとるから、権力の増大を問題視できないようです。

DVの問題にしても
程度の問題を考えずに
すべて夫から逃げるという方策が金太郎あめのように出されます。
結局夫に気が付いてほしい、
気が付かなければ逃げるというのでは、
人間が環境に働きかけて生きる動物である意味がなくなるでしょう。
ゲームのように夫から女性を隠し、
保護命令や調停申し立てをして離婚させれば援助は終わりです。
そのあとでこんなはずではなかったということを言えば
「離婚はあなたが決めたことです」で終わりです。
判で押した流れに従ったルーティン作業であり
根本的な幸せを獲得するという視点はありません。
定められたゴールを目指し余計なことは考えない。
なんて男性的な行動でしょう。

結局は協力し合うべき男女が
分断されて期待されています。
これを最も基盤的な社会である過程でやられてしまえば
建設的な社会変革は他人ごとになってしまいます。
変革されては困るほうにとって大変都合の良い話です。

決して「一人が働けば充実した生活ができる賃金を」
というスローガンは聞かれません。
せいぜい男女賃金格差の是正です。
これは着々と実現しつつあります。
男性賃金が低下すれば実現するからです。

なんてグローバル企業にとって都合がよいのでしょう。
自分たちが直接意見表明をしたり
国の機関に提言させなくても
勝手に自分たちに都合の良い社会構造を
ターゲット自身が作ってくれているわけです。
社会に対して向けられるべき不満を
家庭の中などの男性に対して向けているわけですから
しばらくは安泰でしょう。

昭和の終わりころ、女性の深夜労働の解禁を訴えた女性たちを見ながら、
女性にも平等に過労死を要求するのかという暗澹たる思いをしたことを覚えています。

労働法学者沼田稲次郎先生が
先ほどの女性の労働組合活動のテーマの集会で
面白いお話をされていました。

男性は職場で嫌な事不正なことをされても
寄り集まったところで酒飲んでくだ巻いて終わりだ。
女性は、みんなで話し合って不合理を是正させるために頑張る
そういう傾向にあるということでした。

私は素直にそういうものかもしれないなと勉強させていただいていました。
今もそうなのでしょうか。
女性がどんどんかつての男性並みに酒を飲んであきらめだした
ということはないのでしょうか。

男がもはやついていくことをやめた男性的な価値観を
延命させているのは女性の社会進出ということはないのでしょうか。
ジェンダーの主張は、私には、
男性の弊害がある価値観を是認し、大前提とした主張
そう思えてなりません。

これからは男性が女性の価値観を
歴史学として学ばなければならないのでしょう。
かつての女性の価値観をしっかりと身に着けて
人間らしい生活を求めていかなければならないようです。



nice!(0)  コメント(0) 

慰安婦の前史と後史から、河野談話の「強制性」の中身を終戦の日に考える 戦争という究極の人権侵害の構造 [弁護士会]

悲惨な内容が含まれます。閲覧注意でお願いします。

以下の文献のネタバレも含まれます。

森崎和江「からゆきさん」(朝日文庫)
山崎朋子「サンダカン八番娼館底辺女性史序章」(文春文庫)
乃南アサ「水曜日の凱歌」(新潮文庫)



あいちトリエンナーレの少女像撤去の話題から
からゆきさんのサンダカン八番娼館の話となったのが前回です。
今日で一連の勉強にとりあえず一区切りをつけようと思います。

今回クローズアップするのは、
「戦地での管理売春に強制連行があったか」
という問題です。
通常は「慰安婦は強制連行されたか」として議論されているようです。

ただ、この問題提起は、かなりおおざっぱで、
言葉の定義があいまいなために議論がかみ合っていません。
特に「強制」の意味ですね。
肯定派と否定派の双方があえてあいまいにしたまま
他説を批判している
そんな印象も受けてしまいます。

論点を分析的に検討すると、
① 朝鮮民族の女子が、
② 日本の軍隊の組織的行動によって
③ 平穏に生活しているところを銃剣などによって
強制的に連行されて
④ 東南アジアなど海を渡って日本人による管理売春をさせられていたか
ということになるでしょう。

このうち、①と④を否定することはできないということから出発します。
論点は、②、③の有無だということになります。

前にもお話したように私は河野談話を支持するので、
結論としては、②,③は否定するという結論ですが、
「強制性」は存在したということです。
これがどういう意味かを説明するのが本記事だということになります。

②、③が論点になってしまったのは、
吉田清治という人が、
きちんとした事実調査もしないで、
いわばノリで②,③の話をねつ造して手記を書き
それをメディアが真実として報道し、
国連までが事実として取り上げてしまった
という不幸な出来事があったからです。

吉田が自分の汚点を懺悔するという形式の手記なので、
自分に不利なことでうそをつかないだろうという思い込みと、
日本陸軍の悪いことはすべて真実だという先入観から、
真実であるとして疑わなかったということが
誤報の理由のようです。

日本の知識人の泣き所をついたものだったようです。

ところが
現在でも軍隊の組織的な銃剣での強制連行はなかった
ということを主張すると、
なぜか、慰安所も否定する主張だとみなされ(前述の①と④)
さらには「強制性」も否定していると決めつけられ
歴史修正主義者とかののしられることがあるようです。

だから、今回のような記事を書くと
(読む人がいればですが)
大いに批判をされることになると思うのですが、
あえて書く必要性があると判断しました。

一つ目のその理由は、
軍隊自らが軍事目的で強制連行したということになってしまうと
国家と結びついた管理売春の実態が隠されてしまうということがあります。
これを説明することが本記事の主要なテーマです。

二つ目の理由は、
議論が二者択一的になっていると状況が危ういということです。
私の4つの論点を見てお感じになっている方も多いと思いますが、
いわゆる従軍慰安婦の問題は二者択一的な問題ではなく、
実態を直視していかなければならない問題であり、
どちらにも属さない見方がありうるはずなのに、
自分の主張に少しでも反していれば
歴史修正主義とか自虐史観とか大雑把なレッテル張りをされて
非難しあうということです。
二者択一の議論に持ち込む最大のメリット(デメリット)は何でしょうか。
それは、分析的思考をさせないで
直観的思考でものを考えさせることができることです。
その時の思考ツールの一般的なものは、
組織の論理です。
自分が属する組織はこうだから、こういう結論を言うべきだろうな
という、科学に反した堕落した考え方です。
私は、こういう焦燥型の思考法、
つまりあまり深く考えないで感情的なやり取りをすることこそ
戦争につながるもろく危うい思考法だと考えます。

三つ目の理由もあります。
いわゆる慰安婦の問題で、
男女平等論者の記事を目にしました。
彼女は慰安所などの問題を
男性の性としての問題点があらわになったものだ
ということを本当に言っているんです。
深みも何もない研究室で座ったまま語れる内容ですし、
これでは、管理売春の背景にある貧困の問題や
国家と結びついた人権侵害の問題がまるっきり隠されてしまいます。
これほど権力にとって都合の良い議論はないでしょう。

性差により、行動が決定されるという差別的な主張でもあります。


さて、強制性の問題については、
太平洋戦争下の管理売春の問題だけを研究していたのでは
裏付けとなる文献がないということで終わってしまうでしょう。

しかし、前史と後史を見れば、おおよそ見当はつくことです。

前史というのは、
からゆきさんと呼ばれた日本人女性が
海外に売られていって
管理売春施設で売春をさせられたことですし、
後史は、
敗戦直後のアメリカ兵のための
日本に住む女性の管理売春施設のことです。
いわゆるパンパンと呼ばれた街娼のことではありません。

前史のからゆきさんの話は、
前回のサンダカン八番娼館の記事で
ある程度お話ししました。
島原天草という歴史的に冷遇され続けた土地で、
キリスト教の影響から新生児殺しをしなかったということもあって
全般的な貧困にあえぎ、餓死者や栄養不良による病死者が続出するため、
生きるために身売りをした
ということが典型的な事例のようです。

森崎和江「からゆきさん」(朝日文庫)では、
当時の新聞記事の調査に基づいて、
多くの事例が紹介されています。

貧困を背景とした人身売買がその本質だということは
動かせない事実のようです。
もっとも、人身売買と言っても
その実態は様々あって、
中には、年季奉公を終えて帰国したり、
管理売春を行う側に回ったり、
ということもありますが、
悲惨な末路を遂げた人たちも少なくないようです。

帰国して、一般人となっても、
売春をしていたことを隠さなくてはならなず
やがて精神を病む女性も多かったようです。

悲惨なのは、その子供たちのようです。
自分の親が管理売春施設で働いていたことで
強烈な負い目を感じ、
結婚相手にも知られないように
心を砕いて生きていく人たちもいたようです。

それらは他国の女性の話ではなく、日本人女性の話です。

明治政府は国際社会の批判を受け、
明治6年から国内の管理売春を表向き禁じたのですが、
実際は、管理売春は続いていました。
少女たちは人買いから騙されて連れていかれるのです。
これこれこういうことをするといっても理解できない年少の娘たちですから、
三食食べられる、白いご飯を食べることができると言われて
実家に仕送りしようと考えさせられて連れていかれたわけです。

表向き売春婦の輸出を禁止していたのですから、
堂々と渡航することができず、
物として、貨物船で密航させられることが多かったようです。

物としてお金でやり取りされていましたから、
物として扱われ、
貨物船の底で水も与えられず、餓死したりしたこともあったようです。

お金で買われたために、また前借金が支払われていたために
途中でやっぱりやめたということは許されませんでした。
暴力を振るわれて、意思を制圧されたこともあったようですが、
多くは、前借金を気にして実家に迷惑がかかるということで
あきらめた女性が多かったようです。

例外的に一切を拒否して帰国を許された事例もあったようですが、
極めてまれなケースだったはずです。

なぜこんなことが行われたか。
一つは、少女たちの貧困のために、
人間として生きられなくても
せめて動物として生存するためという
やむに已まれぬ事情があったのですが、

人買いが少女たちをだまして脅して連れてくるということをした理由は
単純にお金の問題だったと思います。
管理売春はそれだけもうかったようです。

人買いに対する報酬、渡航費などの実費
食費などの管理費等莫大な資本を投下しても
十分元が取れたようです。

最初は中国(清)に売られ、朝鮮に売られ、
徐々に、南方に進出していったようです。
ウラジオストックあたりにも売られていったようです。

日本人が対象となる人身売買が慰安所問題の前ににあったわけです。

現地について売春をさせられて
話が違うということで女性たちが警察に保護を求めることもあったようです。
しかし、管理者は事前に警察官を優遇していたようで、
日本人の警察は、日本人女性たちを相手にせず、保護を拒否したようです。
(からゆきさん 例えば169頁)

これが前史です。
しかも、当時の新聞などで報道された範囲の事実です。
報道できないことや
生存する体験者や目撃者がいない話は永遠に明らかにはならないでしょう。

(「からゆきさん」の編集を担当した人は吉田清二という人だとわかって、「うわっ」と思ったのですが、出版が1980年だということ、漢字が違うということ、出版社に勤めるような勤勉な生活はしていないらしいということから、件の吉田清治とは別人のようです。)

後史はどうかというと、
我々が入手しやすいのは小説「水曜日の凱歌」乃南アサ(新潮文庫)です。

玉音放送からさほど期間を置かず、
アメリカ兵向けの管理売春施設を作った日本人たちがいたようです。
主人公の母親は、この施設の幹部になっていくのですが、
施設にかかわり始めてからは、ないはずの物資、食料などが
豊富に身近にそろいだすのです。

施設がオープンしたのちは、
米軍の物資がふんだんに入ってくるのですが、
当初は、日本の軍隊の物資であることが示唆されています。
運営主体は民間人で、民間組織なのですが、
国家の中枢の人物の関与があったのではないかと
思わせる表現になっています。

そこに強制はないのですが、
美辞麗句で女性を集めてきて
逃げられない状態にして売春をさせるわけです。
人買いなども暗躍していたようです。
戦後直後の配給難という時代背景の中で
絶対的貧困の回避のために身を落とす構造は
からゆきさんとまったく同じです。

小説の中では、
自分の境遇を悟った女性が
自死をしたというエピソードも描かれています。

この小説が事実のもとに書かれているならば
という前提が必要なのですが、
一つの一貫した事実が浮かび上がってきます。

つまり、管理売春は、莫大な利益が出るということです。

からゆきさんは、外貨獲得の手段として有効だったので、
実質的に黙認されたという説があるのですが、
むしろ水曜日の凱歌のエピソードを見ると
それも本当なのかもしれないと思えてきます。

管理売春の歴史的始まりでは、おそらく、アンダーグラウンドの人たちが
非人道的な管理売春を始めたのでしょう。
人間を物として扱うことができるのは、
自分たちも人間として扱われていないと
常日頃感じていた人たちだと思われます。

一般社会から忌み嫌われていたわけですから、
一定地域のみで管理売春が行われていたはずです。

ところが江戸時代までの倫理観が崩壊し、
利益追求が、肯定的な価値を認められるようになると
アンダーグラウンドの人たちが経済力を身に着けていることから、
どんどん大きな組織になったり、
大きな組織、国家の中枢と癒着したりして、
経済的利益の確保を確実なものにしようとしていったでしょう。

利益が膨大になればなるほど、
国家権力の中枢の周辺まで手は伸びていったと考えることも
無理な考えではないようです。

現地の警察官を買収した構造が
まとまった規模に巨大化したというわけです。

からゆきさんという現象は第1次大戦で終わったと言われていますが、
公娼制度は続いていき、
軍の関与する慰安所での管理売春ということになるのですが、
軍が施設を公認して、徴兵した兵隊を
大量にその売春宿に公然と送り込めば、
莫大な利益が確実に上がるシステムができるわけです。

もうけるのは、売春をさせられた女子ではなく、
管理運営する者たちです。

私は、慰安所が作られた目的は
あくまでも利益追求ではないかという
疑念がこの夏に生まれてきました。
また、戦争とはこういうものだったのではないかという疑念です。

管理売春開設の言い訳としては
強姦などの防止と
性病の予防管理
ということがあげられます。

しかし、一部の女性の権利の活動家が言うような
男性は性欲の塊ではなく、
強姦という犯罪類型は性欲だけの問題から生まれるものではありません。
だから管理売春施設があるから強姦が無くなるという関係にはないと思います。
「慰安所は需要があったから開設した」というのは
権力者の言い訳に過ぎない可能性があると思います。
むしろ、利益を追求する人たちによって「需要が作られた」のではないか
という考え方もあるのではないかと考えるようになりました。

女性の権利の活動家が権力を擁護するというのはこういうことです。

また、別の人権活動家は、
性病予防のために、
現代日本においても売春を公認するべきだという主張をしています。
その意見に無批判に追随するリベラリストも多く存在します。
確かに明治以来、外圧によって性病検査行われるようになりました。
しかし、売春宿で働く女性の健康のために検査が行われたものではありません。
客が性病にり患しないため、そして性病が蔓延しないため
という目的で性病検査が行われるようになったのです。

管理売春はあくまでも女性を人間としてではなく
物として扱うものですから、
性病にり患した以上、廃棄されるだけのことなのです。

管理売春の主体はあくまでも民間ですし、
アウトローの組織です。
労働基準法も満足に守られない状況の中で、
いかに法律を厳格に作ったとしても
管理売春で管理される女性の権利が守られないことは
誰でも容易に想像がつくと思います。

そもそも好きで性風俗で働き始めたわけではないのです。
働いて生きていける制度をこそ作るべきだと思います。
人間を物としてみる制度を国が認めろという人権擁護活動家の存在は、
私から言わせれば矛盾であるとしか考えられません。

さて、以上が、日本人があるいは日本の機関が
日本人女性を管理売春の対象とした歴史です。

その中間の時期に、朝鮮民族の女性たちが
戦地の慰安所で売春をさせられていたわけです。
女性であるという要素に加えて
植民地の人間という要素が加わるのですから、
日本人女性と同等かそれ以上の不合理な扱いをされたことは
容易に想像がつくことだと思います。

日本人が警察に保護を求めた冷たくあしらわれた以上に
守るべき機関は、朝鮮民族の婦女子を冷たくあしらったことでしょう。
植民地の人間からすれば、銃剣で脅かされなくても
強制的に管理売春で働かされたと感じるのは当然のことだと思います。

私からすると
直接軍が強制連行しようと
軍の庇護のもと甘言や威嚇で意思を制圧して
外地の慰安所に連れて行こうと
女性の人権、人格、人間性をないものとして扱った事実は
変わらないと思います。

強制連行にこだわることや
強制ではないことにこだわることは
このような本質的な問題まで到達しない危険があるように思います。

大事なことは、戦争という状態が
集団的な人権侵害を犯しやすくすることということ、
それは必ずしも国家が人権侵害をするだけでなく、
しいたげられた人がさらに弱い人を攻撃するということが
当たり前のように行われることで、
それに国家が関与することによって
国家と結びついた一部の人たちの利益につながっているということのようです。

人権が金に換えられるわけです。

今日は令和最初の終戦の日です。
人権侵害の究極の形が戦争であるという意味について考え、
戦争が不要である状態を作り出すための方法に思いを巡らそうと思います。
二者択一的考え方が、実は危険な問題提起であり、
そのような焦燥型思考法を排除していくことが
重要な方法の一つであると思いついたところでありました。

nice!(1)  コメント(0) 

表現の不自由展の中止にみるこの国のリベラル文化人の弱点 [弁護士会]

愛知のトリエンナーレにおいて
開演三日目で少女像が撤去されたとのことである。

中止に追い込んだのは無数の抗議活動だった。

中には、京都アニメ事件を擬した脅迫行為もあったとのことだ。
これには、厳しい対応が必要であり、
今回の一連の問題で、もっとも非難されるべき行為である。

名古屋市長の抗議も議論の的になっている。

ただ、そのような犯罪にわたらない
あるいは有名人のパフォーマンスではない
その他の一般人の抗議活動があったために
表現の自由を守ろうという流れにはならず、
1日で中止が決まったということだと受け止めている。

現に文春オンラインのアンケート調査の結果では
74パーセントが少女像の設置に反対しているというのである。

ところが
このアンケートに見える我々一般国民の気分感情を捨象して
表現の自由の侵害だとか
芸術に対する干渉だとか
大雑把な議論ばかりが先行している。
中には検閲に該当する憲法違反だという
間違いだらけの憲法論も官僚経験者や法律家からでているようだ。
この点の解説は法学部学生で足りるので、割愛する。

一つだけ言うとしたら、
憲法がこう定めているからこうしなくてはならないというのは
国家権力や自治体に対する議論であって
一般国民に対してこの言いまわしを使うことは
上から目線で語られているという不快感を与えるだけでなく
国家権力と権利の関係を正しく理解していないということを示すものだ。

一連の言論活動にリベラル文化人と呼ばれる人たちの
弱点が象徴的に表れている。

一言で言えば、思い込みDV事案の一類型の
正しい夫の妻に対する心理的圧迫と同じことをしているのである。

つまり相手の感情を自己の行動原理に反映せず、
「こうするべきだ」
「こうすることが決まっている」
「こうしないのは常識に反する」という議論で
相手を心理的に圧迫するだけの行動になっているのだ。
意見の異なる人の意見を変えようということは
初めから考えていない無謀な結論の押し付けだ。

その中で、多数の国民はその他大勢という扱いをされて
取り残されてしまっている。

もしかすると、彼らの周り、彼らが大切にする友人には
同調者しか存在しないために、
多数の国民に心理的圧迫をかけていることには気が付いていない
ということもあるのかもしれない。

我々のような多数の一般国民から遊離しているために、
・表現活動が中止になったこと
・暴力的強迫もあったこと
・市長という自治体の首長の中止要請があったこと
だけを批判の対象として権力に対する攻撃に終始している。

21世紀になっても、令和になっても機動戦だ。

このような幼稚な議論を続けていたら
表現の自由は、国民の多数をもって
国によって制約される方向が支持されてゆきかねない。
韓国との民族的な交流による平和の推進も
どんどん後景に押しやられていくだろう。

この少女像は、
製作者の意図以上に、政治的に活用されてきた。
それだけ、この作品に力があったということだが、
この作品の活用の仕方によって、多数の日本国民は、
「現在の日本人」に対しての韓国人の怒りを表現したもの
という具合に受け止めている。

具体的な今生きている自分たち日本人を
国際社会の中で孤立させようとしているものと
受け止めているのである。

不快という生易しいものではなく
強い心理的圧迫を受けている。

名古屋市長らの言うような
過去の先祖に対する冒涜ではなく、
現代の私たちに対する攻撃意図を感じているのだ。

もっとも、これは、過去の日本が
隣国を併合したという暴挙に起因するものである。
この点を忘れるわけではない。

ただ、まじめな多数の国民と異なり、
要領の良いリベラル文化人は、
日本国に対する非難は、日本政府に対する問題であり、
自分たちも日本政府の被害者だと頭の中で翻訳して
それ程心理的圧迫を感じることがないのかもしれない。

ところがまじめな多数の日本国民は
日本国に対する非難は、それが政権の時々の政策に対する非難だとしても、
まさに自分に対する非難であり、自分が攻撃されている
と受け止めるものである。

つまり、
アメリカに少女像が置かれることは
自分や自分の家族が、いまだに他国の女性を性的な奴隷にしていると思われ
国際的に自分たちが孤立させられていくという不安になるし、

韓国の日本大使館の前に少女像が設置されると
韓国国民全体が、日本という国に対して
未来永劫攻撃を続けるだろうという圧迫感を感じるのである。

また、日本のマスコミも
そのような、攻撃意思をクローズアップして報道しているのではないか
という疑念も大きくなっている。

私は、本来少女像は、日本においても、
もっと尊重され、感情が共有されるべき作品であると考えている。
もともとは、日本攻撃だけの意図ではなく、
韓国政府や韓国社会に対する批判も重要な政策意図として
作品に込められているという。
(『朝鮮人「慰安婦」と植民地支配責任 Q&Aあなたの疑問に答えます』(御茶の水書房刊、135~139頁)より)

私は、この少女像は、
戦争が、単に武器によって人を殺すだけでなく、
公娼制度など人間の心と一生に深刻な影響を与えるもので、
特に力の弱い子どもや女性に犠牲を与えるということ、
戦争が終わってもその苦しみは続く
ということを象徴した作品であると受け止めている。

少女像という作品の使い方によって
批判を浴びさせて
排斥や攻撃の対象としてはいけないものだと思っている。
但し私の考えは製作者の考えとは異なるかもしれない。

これまでのこの作品の使われ方によって
あるいは使われ方の報道によって
冷静な受け止め方ができない状態になっている。

また、この作品に込められた一つの争点もある。
朝鮮民族の女性が
日本軍ないし日本政府によって強制的に従軍慰安婦にされたのか
という争点である。
少女像の作者もこれは強制的であったと主張している。

私は、日本国民として、現時点では政府見解を支持している。
つまり
「軍当局の要請を受けた慰安所の経営者が、斡旋業者に慰安婦の募集を依頼することが多かった、戦争の拡大とともに慰安婦の必要人数が高まり、業者らが甘言や脅迫等によって集めるケースが数多く、官憲等が直接これに荷担するケースもみられた」と報告されている。ただし、「軍ないし官憲などの公権力による強制連行」を示す資料はなかったが、総合的に判断した結果、一定の強制性があるとした
という河野談話や政府見解である。

この点については、客観的には一つの事実だとしても
立場によって受け止め方は異なるということを考えている。

連れて行った側と、連れて行かれた側
連れていかれて帰国して社会に受け入れられなかった側
ということで違いがあることが当然である。

双方の意見を排斥せずに尊重しあって
将来に向けた行動を一致するということにはならないかと考えるのは
加害国国民の勝手な論理なのだろうか。

もし、
国を消滅させられたという元被害国が、
元加害国の現在の動きが
かつての蛮行が繰り返される前夜と共通のものがあると感じて
その政策や主導者を批判する
ということならば理解は容易である。

一部でそのような主張があることも承知している。

しかし、どうやら、
日本と韓国の民族が融和することが
気に入らない人たちがいることも間違いないようである。
両民族は本来共通の利益が多いのに、
それを意図的に分断している動きを感じる。

この分断の手法は、
理解可能であるはずの主張だったものがいつの間にか
国民対国民の対立構造にすり替えられているのである。

我々一般国民の感情は
その都度律義にも揺れ動いている。

そのような状況を知っていながら、
敢えて大雑把な議論をすることによって
「すべて日本人が悪い論」によって
多数の国民の
韓国に対する不安感をあおっている結果になっている。
そう感じる。

多数国民と遊離したところで
多数国民の素朴な感情が捨象されて主張されることによって
多数国民の韓国に対する負の感情をあおっている
そういう結果が生じていると感じている。

現在、多くの日本人が
韓流ブームの中で韓国文化への理解を進めている。
単なる芸能人の追っかけだけでなく、
ハングンを学んでいる若い人たちが多い。
彼らは純粋に韓国国民に対して親近感と尊敬を抱いている。

仲間内擁護や権力批判に夢中になって
攻撃的な言動をすることによって、
多数の日本国民が韓国とかかわらうことをためらうようにさせ、
せっかく生まれつつある国民相互の
信頼関係や友好関係が、つまり平和の可能性が
後退させられていると感じている。

敢えて物議をかもすために少女像を設置したという発言は
とても残念でならない。

nice!(0)  コメント(0) 

【実証】目黒事件がわかりやすく教えてくれた、正義感と怒りがマスコミによって簡単に操作され、利用されている私たちの心の様相とその理由。支援者、研究者、そして法律家のために [弁護士会]

5歳の結愛さんが亡くなった事件は、新幹線殺人事件や米朝会談で、早くも下火になっているようです。まるで、この事件の報道は役割を終えたような印象さえあります。
しかし、この事件は、事件そのものよりも、その後のマスコミや私たちの反応の方にこそ、大きな問題があることを浮き彫りにしました。

<死亡後の時系列が報道されない。>

第1報直後、1社だけは報道したという記憶があるのですが、事件後の時系列の問題です。
結愛さんが亡くなったのが3月2日です。義父が結愛さんに2月にした暴行に対して傷害罪で逮捕されたのは翌日3月3日です。義父は既に傷害罪では起訴されていました。3か月以上を経て、6月6日に実母が保護責任者遺棄致死罪で逮捕され、義父も再逮捕されたと報道がありました。奇妙なことは、報道では、実母が何月何日に逮捕されたのかについて報じないことが多いということです。いつ、どこで、誰が、どのようにどうしたという基本の事実報道がないがしろにされています。これが第一の不思議です。

しかし、私たちは、5歳の子どもの死という結果が衝撃的だったことから、逮捕日時が報道されないことについてはあまり気にしません。私も、事件報道直後は、そんなことは興味も関心も持てませんでした。

事件報道は、警察とマスコミと事実上の協定があり、警察発表をほぼそのまま報道しなければならないようになっているそうです。独自に裏をとっても、警察発表に疑問を持たせる報道はできないことになっているようです。
今回の事件は、既に結愛さんが死亡直後に、父親が逮捕されているのですから、マスコミはその事実を知っていたはずです。しかし、どの社も独自の取材をして事実を報道することはありませんでした。
そうすると、義父の逮捕から3ヶ月何をしていたのかについて疑問に感じなければなりません。
なぜ母親は逮捕されなかったのか。言葉でいえば慎重に捜査を進めていたということなのですけれど、再逮捕まで3ヶ月も父親が勾留されたということについては疑問がないわけではありません。

<あまりにもタイミング良く公開された手紙画像の意味>

その後、続報というにドンピシャなタイミングで、例の手紙が画像で公表されます。これは、結愛さんの苦境をアッピールすることにうってつけであり、それだけ両親に対する憎悪があおられました。
しばらくは私も手紙を正視できなかったのですが、文章を読んでみると、子育てをした経験がある人ならだれでも疑問を感じることも読み取っていくわけです。この手紙について、もし結愛さんが文案を考えて、文字にしたとするならば、5歳という年齢に照らして考えると、相当学力の進んだお子さんということになるでしょう。字も大変しっかりしていますが、何よりも文章校正がしっかりしすぎています。本人が考えて書いたものではない可能性があります。おそらく実際は、親から言われたまま書いたのでしょう。それにしても立派な字を書かれています。
しかし我々は、報道の見出しだけを見て、結愛さんが何とか許してほしいと思ってその思いを文字にしたと思い込んでしまいます。こんな手紙を書かせた両親に対する増悪が嫌が負うにも大きくなりました。

警察はこの手紙を公表をしていますが、いつ、どういう機会に書かされたのかについては説明がなされていません。冷静に考えれば、少なくとも衰弱している状態での筆跡ではないと考えることが自然だと思います。ところが、「暴行」、「ネグレクト」、「衰弱」というキーワードが先行していますから、我々の頭の中では、結愛さんが衰弱しながら、それでも容赦のない虐待がなされ、最後の力を振り絞って必死に許しを請う5歳時の姿がイメージされてしまいます。おそらくこういう事実があったなんてことは誰も言っていないのでしょう。しかし、この手紙の画像を発表したほうは、我々がそう思うことを想定し、狙って行ったと考えるべきです。加害者に対する憎悪をあおっています。

また、本来であれば、このような画像を公表することについては、弁護士や法律関係者は批判をするべきです。画像だけ公開して、文書作成の経緯について公表しないことは、誤った事実認識を誘導することにもなります。しかし、この点をついたのは、私が見る限り、ルポライターの杉山春さんだけでした。

母親の逮捕と義父の再逮捕が、事件発覚から3ヶ月後ですから、警察の方は相当な準備ができたはずです。もっと早く母親を逮捕することもできたのではないでしょうか。証拠の散逸などを考えれば、もっと早く逮捕するべきだったかもしれません。

<衰弱死の原因と胸腺萎縮の関係で考えるべき二つのストーリー>

また、マスコミが報道しやすいように、その次のタイミングで、結愛さんの胸腺の萎縮ということを発表します。繰り返すことになりますが、警察は3カ月前から捜査をしているのです。順次証拠が発見されたわけではなく、証拠は大量に警察にあったのです。マスコミが一度に報道してしまうと、情報量が多すぎるので、報道しにくく、波状に情報を提出することによって、受け手の情報処理も容易になります。つまり、いっぺんに情報を出すより、逐次出していった方が、実母と義父に対する国民の増悪が強くなるという効果があるのです。

ここで、疑問がわいてもおかしくないと思うことがあります。結愛さんの死因です。最後は敗血症になることは、むしろ死亡の場合は少なくないので、敗血症という病名によっては、何があったかを判断する決め手にはなりません。

問題は、胸腺萎縮と衰弱の関係です。

マスコミ報道からは、食事を与えられないで衰弱した結果、衰弱死したようなイメージが与えられます。しかし、別の可能性もあるのです。虐待は前提としてあることは良いとしても、胸腺が異常に萎縮したことによって、免疫機能が低下し、何らかの感染症が発症し(敗血症は感染を基盤として発症する急性循環不全)、食事がとれなくなって衰弱死したのではないかということも考えられるのです。どちらにせよ虐待が原因だということならば、それほどの違いがないことになるのですが、イメージが違ってきます。胸腺萎縮が先行して状態が悪化したのならば、夫婦は結愛さんの状態が悪化しているけれど、どうしてよいかわからないし、自分たちが虐待したことが発覚してしまうだから、病院に行くなどの手当てをしないまま衰弱死に至ったということになります。この場合の衰弱は急激に進行するかもしれません。しかし、胸腺萎縮が原因で免疫不全になったのではないならば、つまり、死ぬまで虐待を繰り返し、どんどん衰弱しているにもかかわらず虐待をさらに続け、結果として死亡させた。その時胸腺が異常に委縮していたということになったという可能性もあります。これは極悪な対応と言われても仕方ありません。違いは、「体重が平均より12kg低かった理由が、食事を与えないという虐待行為が原因なのか、胸腺萎縮による栄養摂取の機能不全が原因なのか」にあります。ずいぶん様相が変わるようにも思えるのです。いずれにしても、加害者の供述と医学的知見とのセットで真実が判断されなければなりません。

 しかし、マスコミ報道からは、虐待の繰り返しにより食事を与えず、結果として死亡時の解剖で胸腺が委縮していたという方のストーリーを私たちのイメージに植え付ける結果となっています。

 なぜ、警察は3カ月も使って準備を行い、マスコミを通じて、憎悪をあおる工夫をしたのかということが疑問になります。一般の方々はそんな疑問を抱かなくてもよいのですが、弁護士ならば当然疑問視しなければならないはずです。ところがこの指摘をしているのは、私が知る範囲では、虐待のルポライター杉山春さんだけでした。
 ここで、警察に悪意や違法な意図があったということを言っているわけではないのです。ここは注意していただかないと話がややこしくなるばかりです。純粋な正義感に基づく憤りということも十分考えられるところです。それぞれが役割を果たさなければならないということが主題なのです。

ただ、この報道は、裁判に大きな影響を与えてしまうわけですから、そのような疑問をマスコミは当然持つはずなのですが、私からは何もマスコミの悩みが見えてきません。そして、法律家や福祉関係者(自称も含む)からも、そのような疑問が上がってこないように感じるのです。このこと自体は、人権の危機ということになります。

<児相非難の行き着く先は。マスコミの程度の問題>

マスコミは、国民の怒りをあおり、その怒りの矛先を実母と義父に向けることと同時に、児童相談所にも向けます。介入するか介入しないか、どのように介入するかということについては、色々な要素を考慮しなければなりません。介入することによってのデメリットもあるからです。そこには悩みがあるのです。しかし、マスコミは、香川と東京の児童相談所の介入によって救えたはずだという論調を強調します。
今冷静に考えるとすぐにわかると思うのですが、このようにあおられた怒りの矛先が児童相談所に向かうことは、児童相談所が当然配慮しなければならないデリケートな問題を配慮せずに、ひたすら強行に出る、警察と連携しながらでも強硬に行うという結論にしか至りません。問題の所在を全く無視した二者択一的思考が横行しているということは大きな恐怖です。
現在でも、理不尽な国や自治体の介入で、家族が壊されて、修復不能な状態になって泣いている人、自死をする人、健全な成長が阻害されている人たちがたくさんいます。これはこのような二者択一的な政策による犠牲者たちです。二者択一的思考によって、犠牲者を増やし、それは、今度は自分や自分の子どもが犠牲者になるかもしれないのです。
マスコミが、そのような自覚を持たないで報道しているとすれば、それは、大変危険な存在になっているといわざるを得ません。

<虐待の原因を考えないということ>

マスコミの論調で際立っていることは、虐待が起きる要因を考えていないことです。これが致命的なエラーだと感じます。
その上で憎悪をあおっていくのです。そうすると、処罰だ、権力の介入だということに行きつくことは理の必然でしょう。どのようにして虐待を減らすことができるかということを考えているつもりになっていると思いますが、実際には、起きている虐待をどう処罰するか、どう死なないようにするかということしか考えることができない枠組みがすでに作られていることに気が付きません。私たちの正義感が、怒りで誘導され、複雑な考え、一歩引いた考え、根本的な問題を考える力が奪われていることに気が付かないのです。
言うまでもありませんが、虐待死は氷山の一角です。死ななくても、安心できる家庭を経験しないで大人になってしまうことが許されていいわけではないのです。しかし、原因を考えないで怒りに任せて単純な思考をしてしまうと、強い者、国家権力や警察に解決をゆだねたくなるというエラーが起きます。最終的には大いに頼りにするべきなのですが、先ずは、虐待を起こさない、軽いうちに解消する方法こそ考えるべきです。これは前回の記事でくどくど述べましたので、繰り返しません。
今回は、エラーに焦点を絞りましょう。

それでも、意見に全面的に賛成するかどうかはともかく、原因論について考える意見が少しずつ表明されています。自民党の三原議員は、色々と父親とのつながりの薄い子どもたちの母親を孤立させないことの大切さを訴えていますし、国民党の玉木議員は児相依存の傾向はあるものの、児相を責める前に児相の職員を拡充しようと訴えています。最悪の事態からは、少しずつ上を向き始める動きも見えてきました。(6月23日追記;玉木氏は死は児相の増員は下ろさないものの、親権停止や養育費の義務化等ドンドン議論が表面化しているようです。むしろ自民党の三谷氏は面会交流に言及する外、フェイルセーフの観点から政策を自民党で議論していることを紹介されています。)先ずは歓迎しましょう。そして議論が起きることを期待します。

最悪の事態について、TBSのサンデーモーニングで引用されていた主張について、若干触れましょう。
紹介された方は、自称児童福祉の実践者だそうですが、エラーの塊のような主張をしています。
先ず、例の手紙が、子どもが虐待から逃れるために自分で考えて書いているという印象操作を利用して、先ず読み手の増悪をあおっています。何も冷静な考察もありません。
次に時系列をあげますが、死亡後の時系列はありません。目的が死亡を回避するための振り返りだからだろうと思います。
しかし、虐待の原因について、全く考察がありません。あくまでも死なないために児相はどうするべきだったかという観点からの考察になっています。
そうして、児童相談所の権限拡大、警察との情報共有、それだけにとどまらず、裁判所による親権停止の拡大まで言いだしています。それらの問題の所在であるデメリットについては一切言及がありません。まさに二者択一的思考の典型です。虐待についての原因考察がありませんので、虐待が起きてから死なないためにどうするかという発想となるしかないのです。徹底しているというべきでしょう。

われわれ、自死予防、いじめ予防、パワハラ予防にかかわる者は、対策を講じる場合、死ななければ良いという発想に陥りがちだということを自覚しています。しかし、死ななければ良いというマイナスからゼロを目指す方法によっては、有効な具体的対策が立てられないことも知っています。嫌なことを防ぐのではなく、良いことを増やす、ゼロの先のプラスを目指すということで、初めて効果ある対策が立てられるという基本姿勢を持っています。

彼が、どう言おうと、それは彼の意見なので、とやかく言うのではありません。問題は、このようなエラーだらけの意見を取り上げ、結局は警察や権力の意図を体現する意見を肯定的に紹介するマスコミの程度の問題、あるいは、それがマスコミ自身の意図だとすると、その危険性について訴えたいわけです。マスコミだけでなく、人権活動家を自称する人たちまでもが、無批判にこのような権力の意見を体現するような意見を拡散しています。責任を感じて猛省していただきたいということが本当の気持ちなのかもしれません。そして、せめて杉山春さんのルポルタージュでも読んで、少しは虐待の原因を考えていただきたいと思います。あなた方がまじめに考えなければ、誰が虐待を防ぐ提案をするのか厳しく考えていただきたいと思います。

nice!(1)  コメント(2) 

怒りの共感は広がりにくい。日本的政治言論の不可解な未熟さ。 [弁護士会]

八方美人の私が言うのも何なんですが、
というか、八方美人だからこそわかるということもあります。

私は、現内閣の法案には賛成したものや
立法過程に協力した法律もあるのですが、
法律家の立場から、
集団的自衛権の法制化には反対しました。
(周辺事態法で十分だというもの)

今回高度プロフェッショナル制度を含む
労働基準法改正にも反対しています。

高度プロフェッショナル制度の問題では、
国民の多数に対して、
自分たちにかかわるということについて
うまく伝わっていないという分析がなされて
ああ、そうなのかもしれないなという想いです。

ただ、昨今の政治の流れを見ていると、
例えば、公文書の問題の政治的責任について
結論ははっきりしているはずなのに
なかなか世論が動かないということが
客観的にはあると思います。

その要因の一つについて
無責任にもご指摘させていただきたいと思います。

結論として、
例えば現政権批判派の言動は、
怒りが強すぎて、
中間派の人たちに共感されないという以上に
中間派の人たちを現政権よりの行動に
駆り立てているということを感じました。

現政権側の言論についても同じです。

少し説明します。
フェイスブックで、よくわからないうちに
グループに入れられて、
豪雨のような記事のお知らせが来て辟易するのですが、
興味もあるし、有益な情報がある場合もあるにはあるので、
閲覧をすることがあります。

(入れられたグループに寄ると 私は、保守であり、
 リベラルであり、革新であるようです??)

特に現政権批判の批判は
「ひく」ものが多いです。
特定の人物写真をデジタル処理して
相手を辱めるものは一般の人は
特に面白くありません。

政治的主張をなぞらえるならまだ表現なのかもしれませんが、
単に人格を貶めるようなものは、いかがなものかと思います。

それからスレッドの主張はまだ良いとしても
コメントがひどすぎる。
死ねとか、言葉にすることもはばかられるような発言となっており
穏当な評価としても、中学生でももう少し気の利いたことを
発言するものも多いだろうと思われます。

そうして、グループ内でそれらの発言を咎める人がごく少数であり、
表現の仕方を批判すると逆に批判されたりします。

私から見ると
ああ、同じような感覚の人たちが
同じような感覚だということを確認しあっている
内部固めのための言論なのだなあと
感じるわけです。

大事なことは、
反対者(職業的な言論人ではなく素朴な現政権支持者)
を説得するどころか
中間層に対しても「うかつには近寄れない」
という雰囲気を充満させているところです。

「おかしいと思うべきだ」
「怒りを持つべきだ」
「反対しないものはおかしい。」
という主張であり、
これでは相手方を説得するという発想がそもそも存在しない
甘えの言論ではないかと思います。

反体制派が
多数になりえない根本的原因があるように思われます。
むしろ多数へのストッパーとしての機能を果たしていないか
純粋に検討するべきではないかと思います。

これに対して、現政権よりというか
もう少し極端な言論があり、
こちらも、なぜそんなにというくらい
怒りを持った主張をしているようです。

例えば、
パチンコの規制を言わないくせに
カジノ法案に反対することは一貫性が無い
というようなものもあります。

これなどは、特定の人に対する批判なのですが、
祖国をどうするかというまじめな議論ではありません。

日本においてこれ以上認可博打を増やすか減らすか
ということが論点なのですから、
誰がどういう背景でものを言っているか
ということについてはどうでもよいことだと思います。

結局、パチンコがあるのだからカジノがあってもよいじゃないか
という無責任な主張になるわけです。

但し、決定的な違いは、
これらの極端な議論は、
自陣に痛手にならないということです。
むしろ、議論自体が、不穏当なやりとりで
相手方の人間性を否定するものだという意識を振りまいて、
一般国民を議論から遠ざける効果があるからです。


議論が嫌なら当代の権力者が指示されるだけの話です。

機動戦から陣地戦に変わったといわれて
そろそろ100年が経過しようとしています。
しかし、日本の言論界は
相も変わらずに機動戦をしているようです。

なぜ、中間層を味方にできないか
まじめに考える必要があると思います。
半数近くの世論を獲得するのが頭打ち
という要因を真剣に検討する必要があると思います。

正しいことを言っているから指示されなければならない
ということは、夫婦喧嘩でよく聞く論理です。
俺が正しく、妻が間違っているのに
どうして妻は俺を恐れるようになったのだ
とかいつまんで言えばそういう事例が
他人事ではなくあふれています。

どうすれば自分が支持されるのか、
経済的利益ということもあるでしょう。
しかし、本当の決め手は
どちらが自分の仲間なのかということが
モチベーションになっていると思うのです。

ほとんど政治に関心がなければ
面白いテレビ番組の影響をただ受けるでしょう。
それすらなくても、
首相の顔と名前はわかるわけです。

野党の党首の顔はわかっても
名前まで正確には言えないという人も多いのです。

そうするとどちらが身近かと考えると
当然、現在の第1党の方が身近に感じることが自然なのです。

そして中間層は、どちらも敵だとは思いません。
どちらが仲間なのかということで投票をするわけです。

現政権に反対する勢力は初めからハンディキャップを持っているし
現政権は初めからアドバンテージを持っているのです。

この時、何も前提もなく怒りを表現し、
怒らない方がおかしい
という主張する者は、
明らかに自分の味方ではありません。
殺伐としている方には近づきたくありません。

人類は、人類の形をしたものに
つい、共鳴、共感をすることがあります。
悲しんでいる人や困っている人を助けてあげたいという気持ちになったり、
楽しんでいる人と一緒に楽しみたいという行動傾向は
2歳蔵になるとみられるようになります。

しかし、怒っている人
誰かを攻撃している人に対しては
それだけで一緒に怒ろうとすることはあまりありません。

よほど仲間意識の強い人の場合にだけ
怒りの理由を共鳴できる場合にだけ
怒りを共有すると考えるべきです。

逆に怒りを表明されてしまうと
関わり合いになりたくないという人が増えるようです。

怒りを表出したり宣伝するよりも
怒りを抑えて
怒りの理由、原因だけを
静かに表明、拡散するという手法が
指示を拡大するコツだと思います。

怒りは、二者択一的な行動(否定か肯定か)という思考になじみやすくなります。
複雑な思考を排斥するようになります。
一つ一つ積み重ねていく思考はできにくくなります。

党派的な行動をする人たちが、
意見が分かれても不思議がないところで、
類型的に、紛争当事者の一方を悪だと決めつけ
党派的に攻撃していることを目の当たりにすることがあります。

こういう人たちは、事情をよく吟味もせずに
怒りをもって悪と決めつけられた人を攻撃することができるようです。

あまり仲間にはなりたくありません。

冷静な第三者からみると
怒りのあるところには正しさはないという
印象が持たれやすくなります。

どんどんどんどん
内部固めだけをするようになり
内部も小さくなっていくことは自然の成り行きです。

怒りを表明したいだけなのか
国のために何かをしようとしているのか
吟味検討していただく時期になっているのではないでしょうか。

nice!(0)  コメント(0) 

裁判員裁判が厳罰化することには理由があるということ [弁護士会]


裁判員裁判が厳罰化するということは
弁護士の中では共通認識となっています。
それ以前の裁判官による裁判に比べて
一般の人たちが入る裁判員裁判は、
刑が重くなるだけでなく、
被告人の主張が排斥されることが多いというわけです。

学者の中には、
裁判官が裁判員を誘導しているのではないか
というご指摘もあるのですが、
直ぐ近くでやり取りをしている立場としては
裁判員の方々の率直かつ
共通の考えによって、
このような傾向となっているように思われます。

刑事裁判の厳罰化は、
裁判員裁判という制度にその理由があると考えるべきです。

裁判員裁判と裁判官による裁判の違いは
初めて刑事裁判にかかわった人たちが裁判をする
ということから来ています。

大きく言うと二つのことにあると思われます。

一つは、法的知識、法的理解、訓練があまりないこと
一つは、事件、特に損害を目の当たりにした経験があまりないこと
ということになります。

裁判員裁判を行う事件は重罪事件と決められています。
典型的な事件は殺人事件です。
殺人事件では、通常、
殺人の事実を示すために、死体の写真が証拠提出されます。
死因と思われる怪我の状態が写っているわけです。
色身を落としたり、写真を少なくしたり、
あまりショックを受けないような配慮はされますが、
死体は死体です。

人間は、生きている人間を見ることはあっても
なかなか死体を見るということはありません。
しかも、外傷のある死体の写真を見ることは
滅多にないことです。

言い知れない嫌な気持ちになります。

これは、対人関係学の立場からすると
無意識に死体に対して共鳴共感してしまうと考えます。

人間は、群れの構成員から学ぶという習性があります。
群れの誰かが喜んでいれば、それを理解し、
自分も利益にあずかるということですし、

群れの誰かが苦しんでいたり、悲しんでいたりすれば
それを理解してしまいます。
一つには、その人を助けようとする本能が発動することと
一つには、同じ苦しみを追わないようにする動機付けになる
ということです。

死体に共鳴、共感するということは、
既にどうしようもなくなった状態ということですから、
死の間際の壮絶な苦しみだったり
もはや助からないという絶望感に共鳴してしまうことになります。

自分ではそれを意識しているわけではなく、
ただ、体調的な嫌悪感から嘔吐やめまいを起こしたりすることがあります。

これは、人間の自然な反応だと言えるでしょう。

そうすると、このようなむごい事態について
何らかの決着をつけることを志向します。
これが許されることは断じて容認できません。
不安感、絶望感に近づけば近づくほど、
それを解決したいという無意識の心の動きが出てきます。

一つには、理解を拒否するパニック状態に陥る
一つには、無かったことにしたいという気持ち
一つには、誰かのせいにしたい
ということがごくごく自然な人間の反応です。

人が簡単に命を奪われるということを
なんとか否定したいというように
心が動いてしまうわけです。
その存在は、人間をたまらなく不安にします。
共鳴力、共感力を通じて
被害者の過去の死亡と自分の将来の危険が
結びついてしまうということです。

誰かのせいにしたいという心の動きに注目です。

これらの心の動きは、不安や危機意識に還元できること
不安や危機意識を解消したいという志向があること、
解消行動として闘争と逃亡があり、
危険を作るものに対して勝てるという意識があれば
闘争によって解消しようとする傾向があり、
闘争によって解消しようとしている心の状態が怒り
ということになります。

裁判員は、中には不安を持て余して
裁判を続けることが不可能な人も出てきます。
これは当然なことだと思います。

しかし多くは、自分が安全な立場にいるということを
相当程度理解しています。
不安解消行動は怒りになる傾向にあります。
また、加害者が一段低いところで
おとなしく座っていますから、
責任は目の前の人間だと思うことは
当然のことです。

勢い、被告人に怒りを覚え
被告人を厳しく処罰することで
不安を解消しようという傾向に
意識しなければなりやすいのです。

その結果、
その人を処罰する方向での考えが強くなり、
もともと正当防衛や緊急避難など
被告人に有利な制度が頭に入りにくくなる
ということになります。

むごい結果を起こした被告人を
「自分たち」とは別の存在なのだと意識することによって
被告人の苦しみやジレンマに対する共鳴、共感を
水から遮断した結果ということもあるでしょう。

被告人に有利な情状について
冷静に考えることはとても至難の業でしょう。

さて、これが裁判官であればどうでしょう。

裁判官は、一人で裁判をするまでは
原則10年のキャリアが必要になります。
それまでに死体の写真もある程度見るようになります。

はじめは誰でも裁判員と同じ反応となります。
しかし、徐々に、自分とは関係の無い出来事であることを
理解していきます。
悲惨な状況に馴れていくわけです。

嫌悪感や、絶望感、怒り
という心の原因となる不安感、危機意識は
感じにくくなるということが通常です。

そうすると、その結果である
嫌悪感、絶望感、怒りという感情的部分が後退し、
理性的な判断ができやすくなるという
環境が整備された形になるわけです。

昔は罪を犯した場合、
集団的に罰するということがあったようです。
一人の人に集団で石をぶつける姿が
聖書などに喪描かれています。

これは、一つは、神との誓いを破るという
とてつもない滞在を目の当たりにした
不安、危機意識があり
無抵抗の人間に対して
「勝てる」という意識から怒りの意識を持ちやすくなり、
順法精神がある自分とは、全く違う存在という
自分を安心させるメカニズムが発動するので、
意思が当たる人の苦しみや痛みに
共鳴共感するシステムを遮断して、
酷いことをやめるきっかけを失うからです。

しかし、後々自分の行動を思い返して、
人は後悔をするか、
他人を攻撃することに痛みを感じなくなるか
いずれにしても悪い結果となるので、
近代の裁判は
理性的にふるまえる立場の者が
訓練して理性的にふるまって行う
ということに改められたわけです。

日本の裁判員裁判制度は
そのような近代裁判の本質とは何かを
問うているのだと思います。

私は即刻制度を廃止するべきだと考えます。

nice!(0)  コメント(0) 

離婚事件弁護士が感じた議会制民主主義に対する勘違いと共謀罪成立過程 [弁護士会]

離婚事件を多く扱っていると、
自分のことを反省しながら考えることがあります。

最近の家庭では、
大人が、「わざと負けてあげる」
という美徳が無くなったように思うのです。

自分の小さい時を考えると、
父親がわざと相撲で負けてくれて、
「ようし、がんばるぞお」という
やる気が出たように思います。

今の大人たちは、
わが子に対してもムキになって
「負けまい」と本気になってかかっている
ということはないでしょうか。

どこから来るのかわからない自信、
なんとなかるんじゃないかという根拠のない楽観論は
人生の節々に必要だと思うのですが、
案外、そういう親子間の八百長相撲から
来ているということはないでしょうか。

夫婦においても同じです。

どうでもよいこと、つまり
家庭生活が快適に、楽しくなるような方向に
一切関係のない自分のこだわりを
相手に押し付けてしまう
ということが、
相互の理解を奪ってしまい、
無駄に家庭を暗く息苦しくしていることがあるようです。

「自分は」こうしたい、こういう風にするものだと思っていた。
「相手は」それをしない。
あたかも、それをしないことが人間として劣っているように
無駄な攻撃をしているようです。

こういうことがなぜ起きるのかというと、
第三者から見ればですが、
自分をそうやって守っている
という意識をビンビン感じてしまいます。

自分の発言を受け入れてもらえないことが
自分が否定されているという気持ちに直結して
自分を守ろうとして声が大きくなったり、
トーンが高くなったりしているように感じます。

例えば、カーテンの選び方ひとつをとっても、
例えば妻が選んだカーテンには、
良い面(デザイン、価格)もあれば悪い面(遮光)もあるのに、
悪いところだけ述べて否定する
という具合です。

「このカーテンどうお?」
「光を遮らないからだめ。」
という会社の決裁者みたいなことを言っていれば、
家庭というほかに逃げ場を作るべきではない空間においては
大変息苦しくなるに決まっているわけです。

「このカーテンどうお?」
「値段は手ごろだね。デザインはあなたに任せる。
 ただ、遮光性が弱いということが気になりはするね。」

という「問題の所在」を提起することによって、
「じゃあ、カーテンでなくて
 こちらの売り場に同じデザインのこれがあるからこっちにしようか?」
「ああ、いいねえ。」
となるわけです。

デザインという、なんともいえることを肯定されることは
二人の親近感を増大させるわけです。

効率を考えると
最初の妻の提案したカーテンを否定する
という結論だけ提示すればよいのでしょうが、
それは「家族」ではないと考えることはできないでしょうか。

まあ、そこは別の機会に。

こういう風に、結論を押し付け合うのではなく、
問題の所在を出し合って、
より良い方法を編み出していくということが
実生活ということなのだと思います。

離婚事件から学んだことです。

夫婦の中で無駄な対決姿勢が多いのは、
一つに、どうすれば、ケンカをしないで
相手の提案を修正することができるのかということを
学んでいないために知らない
ということが多いように思います。

もう一つ、防衛意識が高くなりすぎているということですが、
家庭内の防衛意識というよりも、
職場や学校などで、
「自分を守らなければ、自分は組織からはみ出してしまう」
という危機感での行動が、家庭でも続いているように感じます。

全面的に否定しないでよいところを評価してから
否定的部分を提示するという
「部分的承認の技法」とか
相手に修正を提案する時
価値的な表現を使わない
良い、悪い、正しい、間違っている
等という「価値を込めない技法」
等を意識的に使っていって
否定や提案によって
「自分が否定された」、「仲間として認められない」
という工夫が必要な気がします。

そういう職場や学校の風潮だけでなく、
やはり、国の手本であるべき
政治の世界の幼児性が
夫婦に反映しているという側面があるのではないか
ということが本記事のテーマです。


よく見る勘違いとしては、
民主主義=多数決
という技術的な問題に還元してしまっている議論です。

これが、大統領に強い権限を与えて
議会を形骸化したり、無くしたりする
ということであれば、
民主主義=多数決で、
選挙で投票を獲得した者の意見を
最優先するということになるのでしょう。

ところが、わが日本国の民主主義は、
「議会制」民主主義なのです。
確かに首相は議会が選任するのですが、
それで議会の役割が終わるわけではありません。

議会によって、
内閣の提案を否定したり、修正することが
予定されているわけです。

これが予定されていないけれど
選挙によって行政を選び
行政が多数意見として強力に国家を動かしていく
というのがファシズムです。

選挙という過程が存在しないのは
ボナパルティズムといいます。
ナポレオン式ということですね。

日本はこれらの独裁制度をとらず、
議会制民主主義をとっています。

全権を内閣に委ねているのではない
ということは異論が無いところでしょう。

また、議会制民主主義をとる以上、
内閣の決定だけで国家運営ができず、
摩擦が生じるという
効率性から見た場合のデメリットがあると思います。

そのデメリットを補うメリットがあるから
デメリットに目をつぶるわけです。

それは、内閣の提案した行政的な必要性を
様々な視点から検証して、
より良いものに高めていく
ということを期待したからなのだと考えるべきだと思います。

要するに、議会制民主主義は
〇か[×]かという二者択一的な議論を予定していない
ということだと思います。

そうして、相互に譲り合い、より良いものにするためには、
提案者も否定者も
メリットデメリットを提出しあい、
問題の所在を明確にして、
その点に対する見解を鮮明にすることが
不可欠のことなのです。

議会という開かれた決定過程は、
この問題の所在を透明にすることによって、
国民の判断を容易にして、
国民の代表である議員の
態度決定に影響を与えるという
もう一つの民主主義のメリットを呼び込みます。

従って、国会の重要法案の審議は、
本来、何事にも代えて、中継をし、
公平な解説が加えられなければなりません。

本来、反対、賛成の前に、
この問題の所在が明らかにされるべきで、
そうでないと、どの部分にメリットがあり
どの部分にデメリットがあるのか
全くわかりません。

理屈の上では反対もできないことになりますが、
国民の権利が制限される可能性があるということであれば、
賛成することができないということになってしまいます。

どんな法案も、予算も
メリットがあればデメリットがあります。
メリットだけを言う議論、デメリットだけを言う議論は
あまり信用するべきではないということになります。


共謀罪という重要法案であるにもかかわらず、
実質的に問題の所在を出し合う議論が求められ、
実質的な立法過程の透明度が要求される
委員会での議論が尽くされなかったということは
議会制民主主義の根幹を揺るがす
ということになることを
つくづく感じたわけです。

こういう国会の状況が
国民の夫婦問題などに暗い影を落としている
という感想を申し上げた次第です。

ところで、憲法違反の集団的自衛権が法定された理由 [弁護士会]

集団的自衛権という言葉、
今年はあまり聞こえてきませんが、
PKOは容赦なく始まりました。
法律は通っちゃったわけです。

どうして明らかな憲法違反の法律が通るのか、
刑法に矛盾するうえ大義名分のないカジノ法案が
成立しそうな状況で気になり始めました。

いろいろな問題点があるのですが、
現政権を批判してばかりでは次につながりません。
憲法秩序という国の秩序を維持する側としては、
自分たちの行動の修正を検討することによって
あすにつながると思っています。

<戦争法案というネーミング>

一つの切り口として
「戦争法案」というネーミングに
問題の所在があったと思います。

もちろん、戦争法案というネーミングは
戦争反対を主張する人たちをひきつけた功績もあると思います。
若者たちの政治参加を実現したワードだったかもしれません。

ところが、冷静に見ると、
実は戦争に賛成ではない人たちを
ひきつけることはできなかった要因があると思います。

理念的に抑止論や自衛のための戦争論を否定したとしても、
現実の日本の有権者の多数は、
中国や北朝鮮の軍事的脅威、あるいは、もっと漠然と
何も防衛手段を持たないことの不安を感じている
ということを認めなくてはなりません。

この絶対的多数派である素朴穏健派は、
「他国から攻め込まれたらどうする」
という問題提起には逆らえないという
心理的事情があります。

さらに、政権側は、
当時の防衛法である
周辺事態法の存在を意図的に隠し
「集団的自衛権を法制化しなければ
 他国やテロの餌食になる。」
というキャンペーンを張ったわけです。

これに対する正しい回答は、
「周辺事態法、日米安全保障条約の下
 自衛隊を主体として祖国を防衛する手段は
 すでに整備されている。」
というものだったのです。

「だから、それを超えて海外での戦争に加担する
 集団的自衛権は必要ない。」
という論理の流れであれば、
穏健的多数派も納得してくれていました。
あれ?集団的自衛権って何?
と疑問を持ってくれていたのです。

ところが、政治家たちは、
政府キャンペーンに対して
侵略はされないとか
自衛のための戦争などない侵略戦争の口実だ
というだけで、
素朴的穏健派とのコミュニケーションを
自ら断ち切ってしまったわけです。

集団的自衛権に反対すればよいのに、
戦争反対の主張を繰り返し、
まんまと政権のキャンペーン戦略に
はまってしまったのだと思います。


<こちらこそ体制派>

素朴的穏健派は、
安倍首相を支持するというより
現在の体制を維持しようという
群れの論理で動くわけです。

あの時、何も戦争反対の持論を
主張するべき政治的情勢ではなかったのです。
むしろ、歴代の自民党政府を支持する
という態度を鮮明にするべきだったともいます。
われらこそがトラディショナル日本政治だとして
安倍政権こそ、異端であると
錦の御旗を奪うような戦略が
必要だったのだと思います。

論点がずれていたわけです。
また、日本多数派である
素朴的穏健派を見ていなかったのだと思います。

<エリート意識による多数派否定>

正しいことを言っている人たちは、
言わない人を間違っている
あるいは劣っているという態度を示します。
当時、自民党に賛成するなんて、

「騙されている」
「民主主義が育っていない」
「民度が低い」
というような表現をしました。

一般人はそれを聞いて
鼻もちならないエリート意識で、
「自分たち」を馬鹿にしていると
感じないわけはないのです。

ちょっと考えればわかることです。

どうせ意見を押し付けられるなら
民間政党よりも
政府の立派な人たちの意見を聞いた方が
現状維持ができる、
だって、今までそれでやれてきたのだから
という意識に誘導されるでしょう。

これは、長年来言われ続けてきたことですが
一向に改まりませんでした。

<過激表現>

この絶対的多数派である素朴的穏健派の
行動原理は、
争いを嫌うということです。

相手の人格を攻撃することはもっとも嫌います。

「死ね」等と言う言葉がプラカードにかかれている以上
一緒にされたくないという気持ちが先行してしまいます。
ヒットラーの顔になぞらえだコラージュなど
もってのほかということになります。

商業用ポスターにさえ黒マジックでひげを書き足しても、
喜ぶ子どもは少数です。
別にファンではなくても不快に思うのです。

アメリカでだれが大統領になろうとも
日本では通用しない手法です。


<対立と統一から弁証法的運動への転換の必要性>

どちらが正しいかという対立構造の
対立軸を間違ったのは反対派の方でしたが、
間違った対立軸のままで、
対立感情だけがあおられていきました。

これによって、絶対多数派である
素朴的穏健派は引いて行ったわけです。


その一方で
無理な統一行動の中で、
理性的保守派も
戦争反対の声の中で、
自分たちの主張、
素朴的穏健派が受け入れる主張を
ひそめるようになってしまいました。

1+1が3にならず、
1.2くらいにとどまってしまった要因です。

全体的な流れの中で、
自分たちのやり方を貫きつつ、
どこの運動体を大きくするかという視点で、
戦略的に行動をするべきだったと思います。

理性的保守派が運動基盤を持たず
人が好過ぎたということがあだになったと思います。

そういう情勢であれば、
理性的保守派を、
自陣の体制を縮小してでも
テコ入れをするべきだという発想を
今後は持つべきだと思います。

意識的ではないけれど
党利党略を優先させてしまう本能に
逆らえなかったという視点を
持つべきだと思っています。

正しい、優越している、合理性がある
という意見の統一を試みる精神活動から
相手のニーズ、感情にあわせた主張を展開する
それぞれが、それぞれの持ち場に応じて
お互いを殺さないで活かしていくという
弁証法的行動療法や
オープンダイアローグという
心理療法が参考になると思います。




今沖縄県高江で起きていること 森住卓氏の写真に寄せて 機動隊の若者のメンタルと [弁護士会]

うかつでした。
ずうっと、インターネットでボーっと写真は見ていたのですが
辺野古の問題だろうと勘違いしていました。

「やんばるに生きる」で知られる沖縄県高江で
いまヘリパットの基地建設が強行されています。
ヘリパットは、オスプレイの離着訓練をするそうで、
騒音、低周波、墜落の不安など
人が生活できる環境ではなくなる可能性があります。
(柔らかく表現すれば)

このことに気づかされたのは、
フェイスブックに投稿された森住卓氏の写真でした。
プロの著名なカメラマンで、
http://www.morizumi-pj.com/
誰しも一度はその写真を見ていると思います。

この方の写真が、圧倒的でした。
160人の集落に終結した1000人の機動隊
外部からの侵入を阻止するかのような
道路を遮断する検問
人が人として扱われず、
排除の対象物とされている様子
その悔しさや切なさ、しかし希望を失わない目の光

異様な状況もさることながら、
森住氏の透徹した視点に感銘を受けます。
すさまじい状況の中で息づく
人間の心がしっかりと映し出されていました。

ぜひフェイスブックで検索してご覧いただければと思います。
http://blog.goo.ne.jp/mayumilehr/e/ce828b3e154d379bc84e0334472a6e63
(検索の仕方が良くわからないので、貼り付けがあったブログ)

上記ブログでは張り付けされていなかったのですが、
私は、機動隊の若者たちの表情に目が釘付けになっていました。

そこには、日本人の警察官が、日本人の無抵抗な住民たちを
力づくで排除しなければならない役職を遂行する
人間の目がありました。

いじめの講演や人権教室でよくお話をするのですが、
人間が尊重されていない出来事、
人間性が傷つけられている出来事を
目撃してしまうと
人間は、無意識、無自覚に
いやな気持になります。

これは人間が群れの一員として生きながらえるための
遺伝子上のシステムです。

自分も苦しくなるのです。
加害者も苦しくなるのです。

そして、それが繰り返されると
そのたびに苦しむことは、生きていくために有害であるため
これも、無意識、無自覚に反応として、
苦しまないようにする装置が働きます。

だんだん、人間を尊重する、大事にする
という意識を弱めていくわけです。

こうやって、共鳴、共感が起きてしまうことを防ぎます。
一言で言うと
自分の人間性をすり減らしていくわけです。

これは、他人を尊重しないということだけではすまないことに
注目するべきです。

およそ人間、自分を含めた人間一般を
大事にしなくなるという効果が出てしまいます。

するとどうなるでしょう。
自分を大切にしないと
好奇心で覚せい剤や危険ドラッグに手を出してみようとするわけです。
自分を大切にしている人は、自分を廃人にする危険に手を出しません。

犯罪行為をするようになります。
人間を大事にする人は
他人が苦しむことに抵抗があります。
人間を大切に考えている人は
自分を貶める犯罪行為をすることに抵抗があります。
その抵抗がなくなってしまうのです。

家族も大切にできなくなります。
なにか、外の規範を優先させたり
効率や利益を優先させたりして
相手の気持ちを尊重するということをしなくなります。
相手の顔をつぶすということに抵抗がなくなります。

最終的に孤立します。
それでも、普通は死ぬことが怖いから
自死には至りませんが、
人間は大切にされなければならない
という感覚が薄れる効果として、
命の重さを感じなくなるので、
死ぬことへの抵抗がだいぶ下がってしまいます。
自死に近づいていくわけです。

森住氏の写真は、
今まさに、人間性が傷つけられていっている
現在進行形の心の動きを
機動隊の警察官の目に見事に映し出しています。

排除されても、その力、輝きを失っていない
高江の住民の瞳とは好対照となっています。

あえて、機動隊の警察官に対する視点から
お話をさせていただきました。

日本人の警察官が、日本人の老人や子供を含む住民たちを
無抵抗の状態から排除する
大勢を取り囲んで排除するということが
厳然とした事実として行われています。

そのすべての人たちが傷ついているのです。
しかし、沖縄のマスコミ以外
ほとんど報道がなされていません。

スマホのアプリがそれほど報道価値があることなのでしょうか。
読者の興味、売り上げしか興味がないなら
戦後のカストリ雑誌と大差はないでしょう。

これは、実は沖縄だけでなく、
東北の宮城県の問題でもあります。

福島原発の放射能にまみれた
放射性廃棄物の最終処分場の建設地として
宮城県の山間部が候補地となっています。
住民たちは反対行動に立ちあがっていて
昨年度においては、国は調査を断念しました。

しかし、高江が前例となれば
今度は宮城県の山間部にも
東京や神奈川県の機動隊員が退去するかもしれません。

まさに他人ごとではないのです。

反対、賛成、いろいろあるかもしれません。
いろいろな要素を考慮しなければならないかもしれません。

しかし、その方法も含めて
公にさらして、
わかりやすく説明し、議論して決めていくべきです。

国の強権が、隠密裏に人権を侵害していくことを
前例としてはいけないと強く訴えます。

安全保障法制(押し付け法制)成立 されど歴史は前進した。さらなる高みを目指しましょう!憲法復活の日は、国民の手による本当の憲法成立の日 [弁護士会]

安全保障法案が成立しました。
しかし、字面が変わっただけで、
まだ、日本は何も失っていません。

むしろ、日本国民は
安全保障法案に対する戦いによって、
歴史的な成果を勝ち取ったと思うのです。

1 個人の確立による共闘の歴史的成立
2 政治的意思表明の経験
3 「アメリカ」と日本の関係の鮮明化
4 これからの行動の方向

1 個人の確立による共闘の歴史的成立
 何よりも、日本の市民が、
 自分の皮膚感覚で政治的な行動を行うようになった
 それが普通の人がやっていることだととらえられるようになった
 ということは画期的だと思います。

 組織に属しているから仕方なく
 半ば命令されて動くのではなく、
 それぞれが、自分の皮膚感覚で行動する
 という経験を直接間接体験しました。

 自分の意思で、行きたくて集会に行き、
 言いたいことがあるからシュプレヒコールをする
 中身にはいろいろ注文はありますが
 これまでの日本では多数派とは言えない活動だったと思います。

 その結果、創価学会員が公然と公明党を批判する
 という象徴的な出来事につながりました。

 これまで、引っ込み思案だった
 学者や元裁判官まで声をあげました。
 自民党OBや官僚OBも声をあげ
 現政権の誤りが際立ち、
 国民を励ましました。

 その成果の一つが野党共闘です。
 民主党と共産党が共闘すること自体驚きですが、
 維新の党と共産党が手をつないだのですから
 歴史は動いているのです。
 しかも、橋下、松井が
 その役割果たすべく、共闘分断工作をしたにもかかわらず
 国民の圧力によって、
 それぞれの党は譲歩し、共闘を解かなかったのです。
 「次の多数派」の受け皿ができつつあるわけです。
 小林節先生の、
 共産党を排除してはいけない
 共産党は少し我を押えなければいけない
 というスピーチが印象的でした。

 小林先生もそうですが、
 長谷部先生だって、
 安全保障法案の議論をするまでは、
 政権側の人間だという評価だったのですから、
 実に今回の出来事の象徴的な人物だと思います。

 私の周りでも終盤
 集団的自衛権そのものに疑問を持ち、
 法案反対を声に出す人たちが増えました。

 いつもの人たちがいつものように意思表明していたのではなく、
 これまで黙っていた人たちが、具体的に声を出すようになりました。
 原発問題にもないことでした。
 
 今、日本には北風が荒れ狂っているわけですが
 国民は共闘というマントを
 しっかりと握るようになったわけです。
 
2 政治的意思表明の経験
 
 自分の皮膚感覚を言葉にするということは、
 多方面に影響が出てくるでしょう。

 事なかれ主義、協調主義で成り立っていた
 職場、地域、学校などの対人関係で
 自分の気持ちを言葉にするようになるでしょう
 混乱も生じるかもしれません。

 やがて、これは対人関係の良好な発展に
 大きく寄与するでしょう。
 言葉の出し方を学んでいくことが必要となるでしょう。

 原発問題やTPP、教育問題や食糧問題、
 年金問題や財政問題
 あらゆる分野で声を上げた経験が
 活かされるようになるでしょう。

 日本は近代がないといわれています。
 市民革命を形成していないことが
 日本人気質に影響を与えているといわれています。
 メリットもデメリットもあったと思います。

 しかし、今回の安全保障法案反対の活動は
 日本の近代を獲得する
 大きな可能性を秘めていると思います。

 トップの誤りを是正して、
 協議して最善にたどり着くということが
 国の隅々で起こり始めるでしょう。
 
3 「アメリカ」と日本の関係の鮮明化

 今回の議論を通じて鮮明になってきたのは、
 日本と「アメリカ」の関係です。

 憲法に反する安全保障法案は
 日米安全保障条約には合致するわけです。
 日本には、憲法を頂点とする法体系と
 日弁安全保障条約、日米地位協定、安全保障法制と連なる
 憲法体系とは別個の統治の体系があることが
 国民の間にわかりやすい状態にさらされました。

 また、共産党が暴露したアメリカ国防省から
 集団的自衛権の法律はどうなったという催促話や
 所管大臣である防衛大臣や
 最高責任者である総理大臣が
 法案の必要性、文言の意味、射程範囲について
 まるで説明できないことから
 日本政府が策定した法律ではないことが明らかになり、
 案文自体が
 「アメリカ」から押し付けられたことがはっきりしてしまいました。

 安全保障法制の議論がなければ
 漠然としかわからなかったことが

 山本太郎議員の質問も役割を果たしたのですが、

 創元社の戦後再発見シリーズ双書
 堤未果氏の一連の著作等によって
 その全貌が明らかになりました。

 これらの書籍は売れているそうです。
 ますます売れていくと思いますし
 「戦争法案」反対というスローガンを叫ぶ人は
 ぜひ読んでほしいと思います。

 今回安全保障法案を推進した人たちは
 押しなべて憲法はアメリカに押し付けられたといっているようです。
 しかし、今回の議論によって、
 集団的自衛権こそ「アメリカ」によって押し付けられたものだ
 ということがわかりやすく鮮明になりました。

 今回の法案成立で
 憲法9条は停止してしまいました。
 「アメリカ」の押し付け法案によって停止してしまいました。

 しかし、だからこそ、
 この先、安全保障関連法を撤廃すれば
 憲法9条は復活します。
 そればかりではなく、
 「アメリカ」の圧力を跳ね返して
 日本国民が憲法9条を制定したということができるわけです。

 真実国民が憲法9条を制定したことになる
 それが安全保障関連法の廃止の日なのです。
 なんてすばらしい目標なのでしょう。

 「アメリカ」とは何かについては
 堤さんの一連の著作をぜひお読みください。

4 これからの行動の方向
 
 敗因を分析して対策を立てるのがセオリーですが、
 ちょっと待ってください。

 もともと、選挙結果からすると
 法案成立は常識的には当然の流れで
 一部の政党だけの反対と
 一定程度の棄権によって、法案は
 「夏までに成立する」はずでした

 それがここまで反対運動の広がりの中
 ここまで大きな行動に発展し、
 秋を迎えることができたのです。
 単純な敗北ではなく
 むしろ勝利の側面を大きく感じます。

 それにしても法律は成立してしまいました。
 原因は、はっきりしていますし
 これまで述べてきたとおりです。
 
 それは
 30%の現政権に消極的に賛成している人たちの
 半分をこちらの陣営に招き入れることです。

 単純な戦争反対ではこれはできません。
 安倍首相の個人攻撃は
 30%の人たちには逆攻撃なのです。
 また、おそらく正しくないでしょう。

 必要なことは
 国民の中に、分断、対立を持ち込ませないことです。
 
 保守と革新、右翼と左翼、
 安全保障法制や憲法破壊にとって
 何の意味もない区別です。

 私は、日の丸をもって
 デモや集会に参加するつもりです。

 決して欲張らず、
 安全保障法制成立の前に戻す
 ということ、
 国民が自ら憲法9条を復活制定させるという
 一致点以上のものを持ち込まない
 ということを最優先していただきたいと思います。

 分断者は、性懲りもなく現れるでしょう。
 自分の心の中にも表れるでしょう。

 政権を攻撃してダメージを与えるよりも
 多数を形成して与えるダメージの方が
 より破壊力が強いということを認識しましょう。

 そのためには、過去に一時点にしか妥当しなかった
 原理原則論を持ちだすのはやめましょう。
 
 他人と仲良くすることは案外骨の折れることかもしれません。
 しかし、
 今の日本の不具合の多くが
 この骨折りを回避しようとして起きているような気がしてなりません。
 努力の仕方を忘れてしまっているために起きているのかもしれません。

 案外、安全保障法制の一時的成立は
 日本社会に取ってとても良いことになるかもしれません。

 今、うつろな目をしている人たちが
 明日の敗北者であり、
 目の輝きを失わないものが
 明日の勝利者です。

 答えは、遅くない時期にでるでしょう。

 さあ、安全保障法制の一時的成立を踏み台にして
 もっと高いところを目指してゆきましょう。

前の10件 | - 弁護士会 ブログトップ