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【骨抜きにならない共同親権制度を創設する運動において留意するべきこと(後編)】被害者の心理 [弁護士会 民主主義 人権]



<被害者の心理がどのように失敗に結び付くか>

自分もある方面で渦中にいるので、自分の心理状態と心理反応を分析して、被害者の心理とその弊害を考えてみました。

1)前提として、人間の思考や言動は必ずしも理性的でも合理的でもない

弁護士をしているとつくづく感じるのですが、人は大事なところでもあっても、よく考えて行動しているわけではないということです。一般の方々は、どんな時も、冷静に後々のことを考えて大事な場面で意思決定をしていると勘違いされていますが、どちらかと言えば人間の意思決定はそうではない、何となく直感的に行われていることが多いようです。
例えば対立している人のどちらかに味方をしなければならない場合でも、「双方の言い分を吟味して論理的にこちらが分のあることを言っている」なんて言うことでどちらに味方するかなんて考えていません。大体は、どちらと付き合いが長いか、どちらがその場の人間関係の秩序を維持することに役立つと感じるか、どちらの顔や服装が好ましいか、あるいはどちらが負けているか、どちらが勝っているか、その年齢、かわいそうなのはどちらか、自分が反撃されないためにはどうするかなどという、こういうことでどうするか決めているようです。これは人間一般の傾向で、考える労力を省いて、直感的に意思決定をして省エネする傾向にあると言われています。
自分が被害者ともなれば、自分を守ろうとする意識がどうしても出てきてしまいます。この場合はさらにじっくり考えることは至難の業です。いち早くなるべく簡便に、自分に降りかかった危険を跳ね飛ばそうとしてしまいます。多かれ少なかれ人間はそのような傾向があるわけです。生きるための仕組みということになります。
それでは、どうしようもないかというとそうでもないようです。最近のノーベル賞受賞者や心理学の賞の受賞者は、まさにこういう研究をしている人が多いのです。人間のこのような傾向を分析し、それにどう対処するかというテーマです。つまり、人間がどういう風に間違いをする傾向にあるかを予め知っていれば、間違いの場面に直面していると気が付きやすくなる。そのときに直感的思考ではなく、分析的思考をするように意識づけることによって、その場面で間違いをする確立を低下させようという考え方です。また、他者がどのように思考を省略するかということをつかんでいれば、ではどうやってアッピールすればよいかという戦略も組み立てられるわけです。ノーベル賞を取った心理学者はノーベル経済学賞を受賞しています。
一番大事なことは、被害当事者の方は、自分には間違った行動、利敵行動をする可能性があるのだということを自覚することです。それはあなたの能力や人格の問題ではなく、被害者だから無意識に自ら損を招いているということなのだということなのです。


2)被害者が陥る心理状態

わかりやすく説明するために、ある日ある時突然子どもを連れ去られて、様々な手段を使われて子どもと会えないという連れ去り被害を受けた被害者の心理を中心に考えていきましょう。
以下の心理になることは当然だと思います。
・何が起きたのかわからない。
・事実を受け入れられない。なかったことにしたい。
・相手が出て行った理由がわからない。
・事態を飲み込めないうちは、相手と子どもの安否が心配になる。

ごくごく初期はこのような混乱が多いでしょう。少し落ち着くと次の感情も出てくると思います。
・相手が自分を否定的に考えていることはわかるが、具体的にはどういう考えか、どういう理由なのかわからない。
・相手が自分について、誰にどのようなことを言っているかわからない。
・相手に対してもやもやした怒り、不気味さ、気持ち悪さがわいてくる。
・自分について自信が無くなりやる気が起きなくなる。
・自分の未来がことごとく今回のことで妨害され、障害を受け、何をやってもうまくいかないかもしれない等と考えてしまう。自分のこれまで積み上げてきた実績が、こんなことで終わりを迎えるのかという考えがよぎる。

さらに警察や行政や司法が絡んでくるとさらに複雑になると思われます。
・誰が味方で誰が敵なのか見当がつかない。誰が手伝ったのかわからない。
・理不尽なことを誰も是正してくれないのはどうしてなのか。自分は大きなものから否定されているのかもしれない。
・自分を守らなければならないほど危険な状態だとはわかるが、どうやって自分を守ればよいのかわからない。解決の方法が見えてこない。

一言で言えば、連れ去りの被害者は不条理を実感しているのだといえるでしょう。しかし、被害者は、自分が不条理な目にあっているということさえ自覚できないことがあります。何が起きたかわからないままに苦しみ続けることもあります。自分のわからないところで、「自分のこと」が勝手に進められているということ、自分を守らなければならないのに守る方法が無いということは、人間の精神を激しく攻撃します。この激しさを考えれば、心理的に正常でいるということはあり得ないことは当事者ではなくともよくわかると思います。

3)被害者の第三者に対する感情・要求

不条理にさらされた人がどのように考えるか。
・不条理は是正されるべきだし、早急に是正されるはずだ。
・第三者、特に公平な人、人間関係の秩序を維持する役割の人たちは自分の味方になるはずだ。裁判官、弁護士、警察官、公務員等々。
・事情を説明すれば、誰しも自分の味方になってくれるはずだ。
・自分の被害は誰でも共感されるはずだし、親身になってもらって当然だ。
・誰かが自分を助けてくれるはずだ

人間は危険にさらされると、仲間に助けてもらうことをつい期待してしまう生き物のようです。自分を殺そうとする人間に対しても多くの人が命乞いをするのは当然のことです。
文明発祥以前、人間は仲間と助け合って厳しい生存競争を生き抜いてきたわけです。それが現代においても遺伝子に残存してしまっているようです。このシステムは人間の敵が人間以外の例えば猛獣である場合は、とても良く機能します。仲間の人間よりも猛獣を助けようとする行動をとるということはおよそ考えられません。自分の命を顧みずに仲間は猛獣から仲間を助けようとしたでしょう(袋叩き反撃仮説)。しかし、現代社会は、人間の敵の多くは人間です。人間と人間との対立に苦しむわけです。そしてその対立を見ている第三者もいることが特徴です。その人たちは、文明以前のように、どちらが敵でどちらが味方なのかを判断したがるようです。これを本能的に一瞬で決めてしまいます。そして、仲間でない方は敵だとしてしまいます。つまり仲間でない方は猛獣を扱うみたいな扱いをされる危険が生まれてしまいます。その判断こそ、非論理的に思考省略的に決定してしまうのです。自分が期待するほど、第三者は自分を味方してくれないことを経験するわけです。そして、関係のない第三者が自分を攻撃していることを知ることになります。もちろんわけがわかりません。
このような状態に陥った場合の人間の心理として、私は以下のような発想、行動傾向を良く目撃しています。自分でもつい最近体験しています。

・他者、特に秩序を守るべき人物に対する要求度が高くなる。(その人の事情を考慮しなくなる。)
・自分の期待に応えてくれない人に対してじれったい思いが強くなる。(同)
・自分の感情を聞いてくれる人に対して、怒りをぶちまけてしまう。(同)
・何か自分に不利な事態が、他者によって維持固定されるのではないかと疑うようになる。何かをしなくてはいけないという焦りが生まれる。
・他者が話をしていても、自分にとって悪い結論を言おうとしているのではないかと思い、つい話を先取りして、話が終わらないうちから反論を始めてしまう。(実際はその予感は当たることが多いが、話を遮ること自体が相手を怒らせる)
・自分が置かれている理不尽さですべての人は価値判断をするべきだと思う。つまり、期待している人も自分の敵を一緒に攻撃しないことはおかしいと感じてしまう。
・自分の思い通りにならないことは、誰かの自分への攻撃意思の表れなのではないかと悲観的に考える。

4)第三者の心理
  当然のことながら、第三者は、被害者の心理なんてわかりません。このことに被害者は気が付きませんし、だから自分の行動をどのように修正するべきかという発想はなかなか持てないのです。
 ⅰ)敵対する第三者
   先に述べたように、敵対する第三者は、あなたが悪だから、あなたに反対だから敵対するわけではありません。実際に対立する二人うちの、どちらの言い分が正しいか吟味しているわけではないのです。ただ、あなたと対立する人物を擁護しようとしているだけなのです。あなたと対立する人を擁護しようとして、反射的にあなたを攻撃する結果になっているだけです。つまり、こういう人は、「1人が落ち込んでいるのだから誰か落ち込ませた犯人がいる」という二項対立的な観点に立っていつのです。思考省略型の発想の典型ですね。そうして目の前のかわいそうな人を助けるということで、その人が仲間だと思うわけです。そうすると、その人にかわいそうな思いをさせている人があなただと思い、あなたは敵だという発想になってしまうわけです。敵には容赦しないわけですから、その人の相手であるあなたを攻撃してしまっているだけです。そこでいうかわいそうという判断も、性別が自分と一緒とか、年齢が低いとか、救いを求めている顔をしているとか類型的に弱い立場の人を助けようという反射的に決めているだけです。その人が本当に助けられるべき人なのかを吟味しているわけではありません。そうして、敵と味方を自分の頭の中で分けてしまうと、あとは思考停止です。多くの人間の思考省略型の意思決定はこういう風に行われています。対立者が猛獣であり、倒すべき存在ということに自動的に思考が成立してしまいます。
  こういう場合、猛獣扱いをされた方は、事実を証明していくことが有効ではあります。しかし、一度敵味方が区別されてしまうと、味方の言い分を疑うことを差し控える気持ちが生まれてしまいますし、何とか敵の反論の落ち度を探そうという意識になってしまいます。通常では有効性のある証明もなかなかそれを受け入れようとしなくなるということが起きます。話が通じなくなるのはこういうメカニズムです。これは頭に入れておいていただきたいと思います。また、元々、自分がどこで、どのように攻撃されているのかわからないので、反論しようがないということも重大な問題です。
 ⅱ)仲間だと思える第三者
  仲間のように見える第三者でも、被害者の要求するほど支援してくれるということはありません。被害者は他者に対して過大な要求を持ってしまうから、そのフィルターで仲間に見える第三者を評価してしまいます。
  しかし、通常第三者は完全な仲間にはなりません。利害関係が一致する第三者はこの世にいないからです。利害が一致している部分では仲間ですが、利害が異なる点では仲間であることを要求できません。全部同じ境遇の仲間は一人もいないと考えるべきでしょう。
  それでもこの第三者なりに被害者を支援しようとしているわけですが、あまり要求が過大になってしまうと、第三者は正論を突き付けられている、正義感情を刺激させられているという受動的な意識が強くなり、被害者を持て余すようになります。特にその第三者が、被害者をかばって、その人としては大変危険を冒して行動しているのに、被害者が「どうしてもっと自分を助けようとしてくれないのだ」というような態度、言動を第三に向けると途端に不愉快な気持ちになるでしょう。通常被害者は、その第三者が自分のためにどのようなことをしてくれているのかわかりません。さらなる援助をリクエストしてしまいます。第三者は、被害者が何を知っていて何を知らないかということをあまり認識していませんから、必要な情報を提供しようという意識は薄いかもしれません。これは、その第三者に問題があるというよりも、第三者とはそういうものだと頭に入れることが実践的には役に立つことだと思われます。
  第三者は、紛争に巻き込まれることを嫌がります。そのように考えることは誠実な人柄だと本来は評価するべきです。何が起きたのか、第三者はわからないですから被害者に一方的に加担しようとしないならば、むしろ本来信用するべき第三者なのです。
  また、第三者は、被害者が自分で解決することを望む傾向があります。なるべく自分の労力を省エネしたいわけです。これは人間の思考パターンとして普遍的なものです。たとえ、被害者が一方的に被害を受けていたとしても、できれば加害者と話合って解決しろということを言うこともありますし、自分以外の仲間を増やして加害者と対決するように提案することもあります。第三者は、被害者の心細い気持ち、そもそも自分が孤立している理由がわからないといおう理不尽な気持ちまでなかなか配慮することはできません。第三者は、自分だけが対立する二人の間に入って、やらなくても良い仕事をさせられているのに、ただ感情的になって解決に向かって何もしていないように見える被害者に、イライラしているのかもしれません。
  しかし、なすすべなく一方的な被害を受けている被害者に解決能力はないということが多くの場合当てはまるように感じます。
  このような第三者の心理は、人類普遍的なもので、よほど何らかの事情で肩入れをしていない以上は、そういうように感じるものだということを頭に入れておくことが大切です。そうでなければ、知らないうちに孤立していく危険があります。
 ⅲ)純然たる傍観者
  何も理解しようとしない傍観者という人たちが圧倒的多数なわけです。こういう人たちは、とにかく紛争に巻き込まれることを嫌います。それはそうだと思います。紛争が好きだからといって首を突っ込みたがる人はそれほどいないでしょう。
  純然たる傍観者は、怒りの感情を本能的に拒否する傾向にあります。人が怒っていることをみることを嫌がるわけです。怒りの感情を目撃すると、どうして怒っているのだろうかと懇切丁寧に理由を紐解く人もそれほどいないことはお分かりだと思います。
  怒りのとばっちりを食うとか、八つ当たりを受けるとか、自分も激しい感情を持たされるのではないかということが億劫に感じるのだと思います。また、現在の自分の置かれている状況から、他人の話で心を動かす余裕はないと考えやすいのかもしれません。案外人間は消極的な意味での平和主義者なのかもしれません。自分にはモチベーションがないのに、何かをしなくてはいけないということも、近づくことを拒否する理由になると思います。
 ⅳ)人間はキャッチ―な言葉に弱い
  わかりやすい言葉に弱いということも、人間の特徴かもしれません。これは特に対立する第三者、純然たる傍観者に強くなるように思われます。
  例えば「DV」という言葉出れば、自分が想定しうる最悪のDVが起きていたのだというイメージを作ってしまいます。本当は、嫌みが多いとか、ダメ出しが多いだけという話というか、そう感じてモラハラだ、DVだと言っているのかもしれません。しかし、第三者はDVという言葉を聞くだけで、土下座させて1時間説教するとか、何かあるとすぐに平手打ちするとか、人格を否定しつくすような脅迫が続くとかそういうことが起きている、あるいは主張しているなどというように勝手にイメージが作られていきます。 
これと似たような言葉が、「いじめ」、「虐待」、「パワハラ」、「モラハラ」等です。具体的には何もわからないのに、悪い方向でのイメージが勝手に膨らんでいくわけです。DVがあったと主張するだけで、本当にあったとして話が始まってしまいます。しかも激烈なDVがあったというイメージになります。実際、それを聞いた第三者は、その人が大変恐ろしい人間だというイメージが育っていきます。その人から自分を守らなければならないという防衛意識が強くなります。つまり怖いのです。怖いときに最近の人間は、マニュアルに頼ろうとします。その時点では、第三者から見ると、被害者は名前を持った一人の人格主体ではなく、1人の「DV加害者」になります。誰彼構わず文句を言って、気に食わないとクレーマーのように執拗に第三者自身が攻撃を受けると、つい想定をしているものです。なんとあなたは警戒されているのです。あなたから自分を守るという意識が、第三者のイメージの中であなたをさらにモンスターに育ててしまいます。
5)結果としての被害者の孤立
  見てきたように、被害者は、理不尽な状態から脱却したい、支援者は自分を十分に支援しつくすべきだ、第三者も自分に共感するべきだと思ってしまいます。これに対して通常の第三者は、そこまでは付き合いきれないという気持ちにあり、その間にギャップがあります。
  これは被害者と被害者の支援者に常にあることのような気がしてきました。精神的に衝撃的なダメージが残る被害を受けた場合は特にそういうギャップがあるようです。もちろん、人によって程度はだいぶ違うのですが、そういう火種は常にあると思います。そもそも支援者は、被害者を支援するだけでなく、他の仕事もありますし、他の人間関係でも時間を使わなくてはなりません。すべての時間と労力を被害者に捧げることは不可能です。
  被害者はそういう温度差を感じ取り、ますます苛立ちや自分が尊重されていないという思いが強くなります。

  その結果、以下のような現象が起きがちになります。
・本来、ニュートラルの立場にある人や、どちらかというと自分の味方である人の、些細な落ち度が目につく、自分に対する共感度が足りないと感じやすくなる。
・相手の気持ちを考えにくい状態なので、もっとあれをやれ、これをやれと指図をしてしまいます。自分の不安に任せたかなり細かい指示をしてしまいます。
・事態が進展しなかったり悪化したりすると、支援者を責めたりすることも怒ったりします。
・支援者は、これだけいろいろ手を尽くしているのに、あまり本質的ではないことで労力を使わされたリ、顔をつぶされたり、時間をとられたりすると、だんだん被害者が怖くなったり、不愉快になったりします。もちろんパフォーマンスは下がります。瞬間的なものであっても、支援の気持ちが失われることがあります。
 ・これが続いていくと、どうして自分が攻撃されながらこの人のために行動しなければならないかわからなくなっていきます。
 ・結局支援を打ち切ることになるわけです。
 被害者が支援者を攻撃しているわけではないのに、支援者は攻撃されているという意識を持ち、自分を守るためにその場から離脱しようとするわけです。

 
 ここまで極端な例ではないけれど、被害者の感情がさらに亢進してしまうと、以下のような印象を他者に与えています。
・単に相手に便宜を与えているだけの人(自分を攻撃しているわけではない)に対して、限りの無い恨みを抱く。自分の味方ではない人は自分の敵だと感じてしまう。
・自分の利益を図るために、周到に計画を立てて計画に従った行動ができないし、計画も立てられない。感情的な、反射的な言動が増える。
・自分だけが苦しんでおり、敗者となっている。他者、特に相手は、勝者であり自分と反対の立場であるから、楽しく勝ち誇って過ごしていると感じるようになる。
・相手は自分に対して、現時点でも、さらに攻撃しようと思っているし、貶めようと思っているはずだと確信している
 ・些細な出来事に対しても、自分が不利益を与えられるのではないかと思い、攻撃をすることをためらわない。第三者から見るとけんかっ早く、誰彼構わず攻撃するとみられていきます。

もしかすると被害者が感じているように、加害者が高笑いしていることもないわけではないでしょうが、実際は加害者も苦しんでおびえていることの方が多いように感じます。
いつも被害者の自己防衛的発想と言動、他者に対する攻撃的言動を見せられると、心が苦しくなっていきます。勢い、なるべく関わらないようにしようと思うわけです。
無駄な鉄砲を多く撃つようになります。例えば共同親権に反対する人に対して意見を言えば良いのに、あたかもDV支援者がDVがあったと決めつけるときのように、この人たちは共同親権に反対するに決まっていると決めつけて攻撃してしまう。あるいは、仲間として協働することをこちらから拒否する。

第三者は、すべての善悪、価値観、正義を、親子の断絶と交流という一つの物差しだけで二つに分けようとはしていません。

そこまでこの問題に肩入れはしません。それでも、意見を聞かれたら共同親権に賛成だというかもしれない人も多くいるわけです。実際に世の中は、完璧な支援者もいないと言いましたが、完ぺきな敵対者も多くはないのです。それにもかかわらず、共同親権反対者が、例えばAさんの主張に賛成しているという一事をもって、こちらの仲間ではなく、敵の仲間だと決めつけてしまう傾向があるようです。働きかければ味方になってくれるはずの人を自分から遠ざけてしまうということがよく見られます。味方でなければ敵だと考えやすいのは被害者の方かもしれません。そればかりではなく、反対者が別の論点で持ち上げたというだけで、そのAさんを攻撃することもあるのです。味方に鉄砲を撃っているわけです。これでは、比較的全面的に支援する人だけが仲間であり、そうでない人はみんな的だという扱いになってしまいます。そうして、自分の賛成者の中だけで共同親権推進の意見を交流させるだけになってしまう結果となるわけです。これでは、世論形成は永遠にできないでしょう。
さらに、一般の人たちに対して、極めて致命的な印象を与えてしまいます。つまり、このようにむやみに人を攻撃する人とは一緒に住めるはずがない。という印象操作です。多くの被害者は、被害前は円満な性格をしている人が多いようなので、被害が影響をしていると感じているのですが、一般の方はそこまで考えることはありません。今見ている事実に基づいて判断するしかありません。
結局、第三者から見ると反対論者の言う通り、子どもを連れ去られた被害者と自称している人たちは、元々攻撃的で、家族についてもいちいち細かい揚げ足をとっていて、相手の気持ちを考えずに自分の主張ばかりをしている人だという印象を与えてしまう危険があるわけです。その結果、連れ去れたということはDVがあったということだよねという確信を持ってしまいかねません。これでは、反対論者の言う通り、離婚の多くがDVが原因だという誤った認識を裏書きしてしまうことになります。
これが痛恨の利敵行為です。
こういうことを繰り返していたのでは、共同親権の世論形成ができないどころではありません。共同親権は危険な制度だということを宣伝しているようなものです。共同親権制度を阻害する一番の問題は、むしろ少数の反対論者ではなく、反対論者の挑発に生真面目にのってしまう「被害者の心理」なのかもしれません。

だから、やるべきことは、前編の結論と同じです。共同親権、共同養育が子どもの利益であるということを淡々と語っていくことです。これを分かりやすく表現する。あなたを支援しない人も、子どもの心細い姿はイメージしやすいのです。まさに我々がやりたいことは、このような子どもに自信をもって人生を渡って行ってもらうことです。子ども視線で、子どもの利益のために行っているということをアッピールすることが鉄則です。
運動の中で「子どもはお父さんともお母さんとも暮らしたい。」というアピールを見ることがありますが、とても素晴らしいと思います。
共同親権がいかに子どもにとって利益なのかということを淡々と説得していくことが極めて有効です。子ども目線の主張こそが最優先でなされるべきだと思います。
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【骨抜きにならない共同親権制度を創設する運動において留意するべきこと(前編)】 反対者の「論理」を踏まえた、私の考える「何を主張するべきか」。 [弁護士会 民主主義 人権]


<共同親権制度は、ほぼ外圧頼みという現状なので、選択的共同親権制度という骨抜きに着地させられる危険性が高いこと 当事者の奮闘が求められているという客観的な状態であること>

現在、法務省において離婚後の共同親権制度が議論されています。国の制度ですから世論の支持が必要になります。過労死等防止法の制定の際は、過労死防止に表立って反対する人はいませんでした。県議会や市議会でも全会派一致で制定を促進する決議があげられました。遺族の方々を中心として、少数派にならないように、多数派になることを意識して運動をされていました。政権与党(安倍総裁の自民党)の分厚い支持、法案推進の方針を勝ち取り、法律は制定されました。
ところが、共同親権制度創設には、少数者ですが表立った根強い反対派がいます。また、「単独親権をやめて共同親権にする」ということには、「過労死防止」という誰でも賛同されやすいものと違って、多くの国民にとってわかりにくいスローガンです。
共同親権制定には外圧がありますから、言葉の上では「共同親権」という言葉が入る制度ができるとは思います。実践的な問題は、言葉では「共同親権」とはつくけれども、例えば「選択的共同親権」制度ということで骨抜きの制度が作られてしまう危険をどう克服するかというところにあると思います。
選択的共同親権制度とは、夫婦の双方が合意すれば共同親権になるけれど、一方が拒否すればこれまで通りの単独親権制度とするという方法です。これでは、現状とそれほど変わりはないでしょう。様々な政治家のこれまでの発言からすると、「落としどころ」として、選択的共同親権制度が、数年前から検討されていたのではないかと感じる事情がたくさん見られます。これでは、一方的な連れ去り別居をして、子どもの監護を排他的に継続し、離婚をして親権を取得し、そのまま子どもを他方の親と遮断するという行動が、親権制度が変わっても維持されてしまうことでしょう。制度創設は、なかなか難しいことですから、今のタイミングで選択的共同親権制度となってしまったらその後に修正することは当面難しいと覚悟をする必要があると思います。
今、親権制度について知識があり、子どものための制度であるということを知っている人はどれだけいるでしょうか。かなり絶望的だと思います。共同親権制度を主張するべきである常日頃子どもの権利を主張している人たちの推進の主張も知りません。私が不案内なだけかもしれませんが、子どもの権利を一番無視する連れ去りや単独親権について何も言わないことが不思議でなりません。当たり前の、世界レベルの共同親権制度とするためには、結局当事者の方々の頑張りがとても重要だということになります。
私ごときが、運動論をお話しすることはいささか出しゃばりすぎかもしれません。しかし、当事者の方々のそばで運動を見ている者として、また自分も別の分野で同じような立場に苦しんでいるということから、色々見えることがありました。また自分の図々しい性格からも、これは私でなければ言えないことだなあと思いました。変な使命感からこの記事を書くことにしました。

<世論形成のためにという視点が必須 反対派の弱点>

先ず、情勢分析をすることが大切です。先に述べました通り、法案成立の推進力は今は外圧が中心です。これは強力な推進力です。ところが国内の反対派の力が大きくなれば、こちらに配慮して国は何とか外圧をかわそうとすると思います。その場合は、翻訳しにくい日本語を屈指して選択的共同親権とするという方法をとるでしょう。だから、今は反対派との切り結びが重要にはなると思います。ただ、ここでいう「切り結び」というのは、どちらが世論の多数を獲得するかということです。この観点からの一番の誤った行動は反対派を直接攻撃すること、例えば論破しつくそうとすることです。(論破しようとするほど、多数が離れていく仕組みについては後編で。)
先に、反対派とどう切り結ぶか、直接対決するような場面ではどのようなことを心掛けることが戦略上有効かということについての私の考えをお話しします。
共同親権制度の目的は、子どもの利益の推進です。ご案内の通り諸外国では離婚は自由ではなく、裁判所などの関与を経て、子どもの養育方針を確立させて初めて離婚が認められるという法制度をとっています。子どもの利益を度外視して離婚は認められないのです。日本だけが、世界の常識とは異なり、大人が自分たちで勝手に離婚ができるという制度となっています。他国と比べて日本ではまだ子どもの権利、子どもの利益ということの検討が圧倒的に遅れているということが言えます。だから、外国は、日本に共同親権制度を作ることは人権問題だから、圧力をかけても内政干渉ではないという考えをとっています。
では、共同親権反対派は、どのような理由で反対するのでしょうか。子どもの利益になることならば、反対する理由はないはずです。実は反対派は、私から言わせてもらうと、争点となっている離婚後の子どもの利益という観点では何も考えていない、少なくとも争点については主張が無いといってよいでしょう。あくまでも、母親という大人の利益を理由に反対していると私には感じられます。「DV夫」から女性を解放するためには、離婚後も子どもについてDV夫と話をしなくてはならなくなる共同親権制度は創設してはならないという意見が主たる理由ではないでしょうか。
つまり、反対派の最大の弱点は、子どもの利益を促進するための制度を作ろうという時に、それは大人の利益にならないから反対だというところにあります。正面切った議論を回避しているわけです。
こちらとしては、大人の利益も考えましょうというおおらかな態度で良いわけです。共同親権としたうえで、例外的なDVの問題は例外的な対応をして女性を苦しめないようにしましょうということで良いわけです。但し、子どものためには、それでも一緒に暮らしていない親との交流が有益であるとされているので、その例外措置をどのようなものにするかについては細やかな制度設計が必要だということになります。
ところが、反対派は子どもの利益をどうはかるかということについて、定見はないようです。制度には必ずメリットデメリットが両方ありますから、デメリットを述べることはよいのですが、それではメリットがないことをどう手当てするかということを述べるべきですが述べません。極めて無責任な態度だと批判されなければなりません。まさに争点そらしで、かみ合わない議論を敢えてしているということになります。意見表明できない子どもの利益を無視しているわけです。「子どもの利益をどう図るか」という問いに対して答えないのですから、「ご飯食べた」という質問に対して「ご飯は食べていない」(パンを食べたから)というご飯論法と本質的には変わらないと思います。
さらに反対派はDV夫からの解放を言うのですが、離婚の原因の多くは、実際はDVと言えるようなことではありません。圧倒的多数の子どもたちは、親がDVをしているわけではないのに一人の親とは会わせてもらえないのです。親が家から追放されていることも日本には多く残っています。通常家から追い出されて子どもが会えなくなるのは母親です。単独親権を残存させることは、子どもと一方の親を断絶させることにつながっています。それにもかかわらず、圧倒的少数の事例であるDV離婚のために、それ以外の大多数の子どもが親に会えない、親を慕うことができないという親子の断絶の中で成長することを余儀なくされているわけです。反対派、この悲劇を継続させる結果になるということが、私からすれば大きな弱点だと思うのです。離婚するほど嫌だとしても、子どものために我慢してもらうしかないと思います。もっとも野放しにするわけではなく、主として行政が、話し合いの場の設定など安心して協議ができる人的物的支援をする必要があると思います。このシステムは、本来離婚前から活用できるようにして、離婚自体を減らすことが本当の子どもの支援だと思っています。支援がとてもできないような、面会が重度の損害をもたらすような、そんな激しいDVがあった離婚というのは、極めて少数であるということが私の実務家としての実感です。
大事なことは、大人の利益をいうことはよい。けれど、制度の目的である子どもの利益をどのように考えるかにこたえるべきだということなのです。ここを言えない反対派の論拠が貧弱であるということが反対派の最大の弱点です。どこの国でも共同親権制度を創設するにあたって、子どもの利益とDV被害をどのように調整するかということが十分議論をされています。その論議の結果、どこの国も共同親権制度を創設しているのです。DV被害はどこの国でも共同親権制度の問題の所在とはなっていますが、制度を創設しない理由にはなっていないのです。
さて、ではどうするか。反対派を批判すれば、共同親権制度が推進されるかというと、これは必ずしもそうではありません。ここが大事なところです。批判はそれがどんなに正当なものであっても、第三者は正当な批判を支持するとは限りません。むしろ批判すればするほど、第三者は引いていきます。ここが大事です。
誰かが誰かを批判することは、第三者からすれば、それを見聞きすることは抵抗があるものです。むしろすんなり共感できにくくなります。感情を交えないで純粋に議論を進めようとしても、第三者は意見の対立自体に不穏な空気を感じて引いてしまいます。ましてや、被害者ともなれば、感情を交えないで議論をすることは、自分ではできているつもりでいても、客観的にはできていません。感情が勝るのは当然ですし、感情が勝ると反射的に相手の弱点をこれでもかと突きたくなるのも自然なことです。
相手の批判に重点を置かないことが大切です。あくまでも共同親権制度は、子どもの利益のために必要なことだということを、一般の人に向けて静かに語っていくことです。そして世論を少しでも共同親権は必要かなという方向に誘導して、外圧に結び付ける。これしかないと思います。
そのためには、ひとまず感情は棚上げして、共同親権と子どもの利益について勉強しなくてはなりません。

以下、後編に続きます。




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誤解だらけの親権制度 封建制度の残存物として排斥するのがいかに浅はかであるかについて [弁護士会 民主主義 人権]

親権というと、親が子を思い通りにする権利というニュアンスがある等という浅はかな意見があります。また、家制度を前提として戸主の子どもに対する支配権だという勘違いもあります。
現代社会において、明治民法(1898年)は知識を持つ必要性は乏しいです。わからないならば言及しなければ良いのですが、思い込みで発言する人たちがいるので困ったものです。

1)親権者は戸主ではなく父

先ず、親権者は、戸主ではなく父です。戸主と父を同一に考える人がいますが、これは戦前の「家」制度を知らない人です。我々古い弁護士は、実務上の必要から戦前の戸籍を取得した経験があります。その古い戸籍謄本をみればわかるのですが、戦前の「家」は、夫婦と子どもを単位としたものではなく、もっと広い親族を中心として成立していたものです。姪や甥、あるいは父や母なんかも普通に一つの戸籍に入っており、その中の代表が戸主となります。
明治民法の成立過程でも親権者が誰かということが争点となりました。結局対外的な代表は戸主であるが、体内的な責任者は必ずしも戸主ではなく、家族内のことである親権者は父親と定められたのです。ここは、男女差別が背景にあったものとして時代の限界として留意する必要があります。もっとも、明治民法の前の旧民法では、子どもの養育義務は父母双方にあると定めていました。

2)親権の内容は支配権ではないことは学会、社会の常識だった

確かに支配権だと主張する学者は穂積八束という先生が一人いたようです。かなり高名な先生ではありますが、1人説だったということです。誰も賛同しなかったということです。その他すべての学者は支配権であることを否定しています。法律家も日本国民の常識も、親が子どもを支配することが正当であるということは、感覚的にも存在しなかったことになると思います。
親権の内容として中心的にとらえられていたのは、明治の時代から、子を監護養育する義務です。学説でも、親が子どもに対して監護養育する義務を負っているという解釈が一般的でありました。これが明治民法における親権の本質です。この本質を果たすために、つまり親が子どもを守り育てる必要があるから、この住所を決める権利や懲戒権を親が行使することを国が認めたというのが親権制度なのです。こういう解釈が明治の法学です。どうやら「封建制度」という言葉が出てくると、何でもかんでも悪いことだと思い、その中の最悪の事態が起きているという言葉のもつ効果があるようです。つまり、印象と思い込みだけで話をしていることとなります。明治民法の民法は、親の子どもを支配する権利ではなく、子どもの監護養育のために必要な権限が規定されたということが法解釈的には常識です。
子どもが、国や戸主に勝手に連れ去られていたならば、親は子どもを守ることができません。子どもをどこに住ませるかということは、親の権利にする必要がありました。子どもが自由に法律行為をしてしまうと、思わぬ損をすることが多いので、子どもに代わって法律行為を行う権限も子の監護養育に必要なことです。懲戒も、当時の考え方は現在と同じではありませんが、「ほめ育て」等という言葉の無い時代ですから、子どもが間違った道に足を踏み入れないために必要な親の義務だとされていました。だから、懲戒権と言っても、親が子どもの人格を無視して、子の養育と関係のない八つ当たりなどをする権利ではなかったのです。現在と違って、当時の日本にはそれが当たり前のこととして受け入れられていたことになります。
おそらく、戦後教育の中で、戦前の教育を全面的に否定するという作業が行われたため、戦前の教育や社会制度というものが暗黒の歴史のように私たちは受け止めるようになってしまったものと思われます。確かに戦争や他国の侵略という恥ずべき歴史はありますが、人間の生活の営みは戦前から戦後にかけて確実に継続しているのです。それにもかかわらず、歴史を二項対立の観点から見るような態度は極めて非科学的で感情的な態度だと思います。戦前が全面否定されることはとても残念なことですが、私はそれより明治政府によって江戸時代以前の日本が全面否定されて、日本人が自分たちの過去を知識として持てないことのほうがより残念です。とにかく間違ったことは言わないでおいてほしいというのが私の願いです。

3)親権の自由権的な機能

では、どうして、家制度がありながら戸主ではなく親が親権を行使すると定めたのでしょうか。これも明治民法制定の際に論争がありました。大方が一致していた理由は、子どもの監護養育は親の自然な情愛にもとづいて行われるべきだということです。戸主は伯父さんだったり、大伯父さんだったりして、一緒に暮らしていない人がいる場合が多いのですが、そういう法律的な立場の人間にゆだねるのではなく、親子の情愛にもとづくべきだということが戸主ではなく父親が親権を取得する大きな理由でした。
日本の法律はよく指摘されるように儒教の影響を受けています。その根底にある思想は、これもよく誤解されます。誤解というのは、人間は親に孝行し、さらにその上の天皇、国家に忠実であれということが儒教の本質だと、これまたあまりにも通俗的な決めつけをする人たちがいます。わからないなら言及するなと思うのですが、とにかく戦前を否定することが善だということをヒステリックに唱える人は多いものです。論語の本質とは、違います。論語は国の指導者となりたかった孔子があちこちで語った話を孟子がまとめたものとされています。道徳という庶民が守るべきものをつづったものではなく、国家とはどうあるべきか、政治とはどうあるべきかということを語ったものです。その中で、孔子は、国家の目的は、家族など自然な情愛で集まり生活している人が幸せに生活するためにあるのであり、家庭の中では国家秩序より家庭の情愛を優先させるべきだということと、国の政治は親子兄弟の情愛を国中に広めていくことだと述べています(論語:子路第13の18等)。
「親は子のために隠す、夫は妻のために正義を我慢する。論語に学ぼう。他人の家庭に土足で常識や法律を持ち込まないでほしい。必要なことは家族を尊重するということ。」
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2015-05-11

実際に日本の現行刑法は、この考えに基づいて、親族間の犯罪を必ずしも罰しないという制度がありますし、家族が犯人の場合かくまうことも罰しない場合を認めています。法律を勉強してきたものはよくわかっているはずです。
論語の見解では、国の秩序を守るために家族を国に売るような行為は否定されているのです。だから、国も、勝手に子どもを親から引き離すことができない。子どものことはその親が決めるということが親権だということになります。それだから徴兵制は、特に未成年者の徴兵は論語に反する政策だと私は思います。
明治民法下の学者の議論は、あまりこの自由権的側面を強調してはいませんでしたが、常識的なものとして議論の前提にあったようです。

4)まとめ

明治民法の条文、及び学者の議論の様子を勉強しても、当時、学者も国も、親権が親の子を支配する権限という議論はあったにしても相手にされなかったということがわかりました。むしろ親の子どもに対する監護養育義務が中心に親権がとらえられていたようです。監護養育として親権行使をしなければならないということで、親権の及ぶ限界が画されていました。社会の常識もそれを支持していたと思われます。
確かに現代社会は、家族が孤立化してしまい、家庭の中のことが閉じた世界になっています。また、明治時代には考えられなかった日常のストレスの持続というものもあります。日本人の親子についての常識が戦前と比べて歪んだことを示す事件も大きく報道されているところです。家のメンバーや近所の人たちが個人の家庭に入り込む余地が著しく無くなったため、行政がそれに代わって介入するということも選択肢としては持たなければならないのかもしれません。
しかし、誤った知識、思い込みの考えだけで、制度や概念が否定されてしまったところに、あるべき新しい制度の構築は難しいのではないでしょうか。無駄な観点からの制度の提案がなされる危険があります。また、誤った知識、思い込みの考えでは、何をなすべきかの優先順位も見当はずれになるだろうということも危惧しているところであります。

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【共同親権を推進したい方々に】敵を見誤らないこと。家庭を壊そうとしている本体(家族解体主義)をきちんと見極めよう。女性やフェミニストを攻撃することは家族解体主義者の思うつぼ 共同親権制度が骨抜きになる原因だということ [弁護士会 民主主義 人権]



今回の主張はシンプルです。
共同親権の妨害をしているのは、妨害をする必要のある人です。
その人たちやその人を支援している人を批判すればよいのに、
ちょっと遠い人ばかりを批判していたのでは、
いつまでたっても本丸を落とせないどころか
外堀も埋められませんよということです。

妨害する必要がある人は二つのタイプに分かれます。

1つは家族解体主義思想を持っている人たちです。
それが家族解体主義であることを深く考えないで
それに何となく追随している「良心的」な人と「組織的」な人
物言わない子どもの利益まで頭の回らない人。

もう1つは、女性を安い労働力として
無理やり労働市場に登場させたい人というか企業でしょうね。

どちらの方たちも自分たちの立場を強調こそしませんが
隠してもいません。
よく読めばどういう人脈の下、どういう使命を受けて発言しているか
すぐにわかります。
何となく追随する人は、良く考えて行動せず
素朴すぎる正義感を利用されていることに気が付きません。

女性の利益やフェミニズムを何でもかんでも攻撃すると
結果的には、二つの立場の人の思うつぼです。

家族解体主義については、前にお話ししました。

家族解体主義という思想 なぜリベラルがそれを受け入れるのか 共同親権制度に反対する人々
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2021-03-22

要約すると
「家族」という制度自体が
女性に母親とか妻とかという役割を押し付ける制度であり、
女性を縛り付ける制度だから
家族から女性を解放するということが正義だという
尋常ではない考え方だと私は理解しています。

しかし、家族が、夫婦と子どもを中心としたユニットになったのは
戦後の話ですし、
電気の無い時代に、筋肉量が多い男性が力仕事をして
女性は、調理、洗濯、炊事をしていたことも
あるいは出産をして授乳することも
女性は被害的に認識するべきことなのでしょうか。

それではどうやって人間が子孫を残して来ればよかったのでしょうか。
ちなみに日本において嫁入り婚が一般的になったのは
鎌倉時代以降だと言われています。
それまでは、女性が男性の家に嫁ぐということは
一般的ではないとされています。

誰が家族解体主義者かということについては
家族解体主義を批判する人を
「家族擁護主義者」と批判しますからわかりやすいです。

ちなみに家族解体主義を唱える人たちは
国の審議会のメンバーだったり、参考人聴取をされたりしていますが、
どうやらかなり貧しい理由のようです。

昭和の後半に男女差別撤廃条約が締結されるなどして、外圧が起こり
国が男女差別の解消の政策を行わなければならない状況になりました。
そこで、雇用機会均等法や男女参画局を作ったわけですが、
国は何をどうやってよいか自信がなかったわけです。
そこで、男女平等運動を声高にやっている人を政策過程に参画させて
政策の立案を行い、権威付け、正当化をねらっていたようです。

この人たちはフェミニストというわけではなく、家族解体主義者ですから
職場における男女不平等の解消は
あまり関心を持っていらっしゃらなくて、
勢い国の男女参画の雇用分野は開店休業中になり
家庭の中での女性の「解放」だけがゆがんだ形で進められた
というわけです。

政府としても、雇用の男女差別の解消にそれほど熱心ではなかったので
お互いを利用した形になったというのはうがちすぎでしょうか。

いずれにしてもDVという曖昧な概念をツールにして
女性を家庭から「解放」しよういうのが本音ですから
何がDVなのかということは厳密に定めないことや
DVが真実か虚偽か、思い込みかも
それほど気にならないのはこういうわけです。

真実を吟味することなく、弁解の機会を与えることなく
相談をすれば被害者、被害者の夫は加害者という
国が乱暴な用語を使った根源もここにあります。

家族解体という目標からすれば
女性が家庭から出ればそれでよいわけです。
あくまでも「女性の解放」ですから
男性は加害者の一部ですし、子どもは女性の付属物なのでしょう。
利益は考慮されていません。

私は、少なくとも江戸時代以前の日本では
男女の区別はあったけれど、
その区別でどちらが優位かということは
あまり意識されていなかったという考えです。
優位性が認識されるようになったのは
男性をおだてて戦争に駆り出すために
国家権力が意図的に作った政策的なものだ
という考えです。
これらはこの一つ前の記事で述べています。

私は、共同親権、共同養育は、
子どもにとって利益であるばかりではなく
特に女性を子育てに縛り付けないという
女性の解放の制度でもあると考えています。

どちらが育てるかという問題提起がナンセンスです。
双方が子育てに共同参画するべきでしょう。

「子どもは女性が育てるもの」という考え方こそが
ジェンダーバイアスがかかった考え方だと思います。
兵士は子育てしませんからね。

女性が社会の中で孤立して
子どもをなげうって仕事をしなければならない
という状況に追い込むことこそストップするべきです。

ここが共同親権か単独親権を維持するかの
根本的な分かれ道だと思います。

それなのに、女性に対して敵対心をあからさまにして
女性やフェミニスト攻撃ばかりしていると
やっぱり、夫婦間紛争がある場合の夫は攻撃的な人間であり
こういう人と一緒に子育てをしなければならない共同親権制度は、
敵対的な男性の攻撃に女性さらすための制度だと
共同親権反対派の論拠を裏付けるだけの言動になってしまっています。

さらに大問題なのは、本来ニュートラルな圧倒的多数の国民も
誰彼構わず攻撃を行う人たちに
反発するというか、ひいてしまって
共同親権が世論とならないという最大のデメリットが生まれる
ということです。

女性であることに苦痛を感じていた人が
その差別を作ったわけでもないのに
恩恵を受けていただろう男性を不公正の観点から攻撃することは
心理学的に理解できるということは前回言いました。

女性から、女性の権利を口実に
不合理な目にあった男性が
それによって恩恵を受けるかもしれない女性一般に
敵対的な感情を持つ心理は全く同じだと思います。

しかしその感情は、圧倒的多数の一般国民には理解されません。
単なる「攻撃的な人」つまり一緒にいたくない人としか映りません。

考えてもみてください
家族解体主義者の最大のツールが曖昧な概念のDVです。
攻撃的な夫から妻を逃がさなければならない
というキャンペーンです。
この状況で感情的な言動をすることは
このキャンペーンに乗っかっていることになります。

共同親権は、離婚してもなお、
夫が妻を攻撃するための制度だという
家族解体主義者の主張を
裏付けをしているということになります。

家族解体主義以外のフェミニズムには積極的に賛同しても良いのです。
私はフェミニズムの観点から共同親権を主張することにしています。
特にジェンダーフリー論者からは叱られるかもしれませんが
男性は女性に優しくするのは、レディーファーストとかは
人間のあるべき姿だと思っています。
(思い込みDV対策として人類が育んできた有効な対策だった
と思うことで間違いはないと思います。)

批判するべきなのはフェミニズムという思想ではなく
家族解体主義という思想なのだということが腹に落ちない限り
共同親権制度の先行きはかなり怪しいということになるでしょう。

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現在に残存する戦争遂行イデオロギーとしての作られたジェンダー [弁護士会 民主主義 人権]



女性が女性であるがゆえに社会的に差別されているという側面は、私はあると思います。つまり、女性という「くくり」で見られて、不合理な扱いを受け、当然受けるべき利益を受けないという差別は確かに残存していると思います。
差別は、人類古来のものではなく、日本においても最近のものだと思っています。性別による区別は昔からありました。国民のごく一部を占める支配層では、厳然とした区別があったようです。政治を行う男性と行わない女性、戦を行う男性と行わない女性という具合です。もっとも奈良時代には執務は男性が行っていたものの女性も政治に参加していたような記録もあるようです。国民の圧倒的多数を占める農業においては、それほど性別での役割分担はなかったのではないでしょうか。家事においては女性が従事した率は高いでしょうけれど、電化製品が普及するまで、調理、掃除、洗濯は、時間がかかる重労働だったので、女性がそれらの行為を担当する割合が多いとしても、男女のどちらに価値が多くあるかという意識はなかったはずです。筋肉量が相対的に男性の方が多いので、より筋肉を使う農作業を男性が多く担当し、反射的に女性が家事を行うということは当たり前であり、みんなが納得した分担だったと思われます。

女性が女性であることで、差別、即ち、低評価を受けることになった時期は、明治政府樹立後であると仮定するとわかりやすいと思います。この時代以降、一部の職域だけでなく、全体的に男性であることの価値が付与されていきました。つまり、男は兵隊として使えるという価値です。
明治政府は富国強兵政策に大きくかじを取り、次々と戦争を行ってきました。1894年日中戦争、1904年日露戦争、1914年第一次世界大戦と10年おきに大きな戦争をしていました。その後日中戦争が1937年に始まりました。ちなみに明治元年が1968年、大正元年は1912年、昭和元年は1926年です。
これらの戦争遂行中、戦争反対の声は大きくは叫ばれずに、国民の支持のもとに戦争は遂行されました。日露戦争などは、講和条約の戦利品が少ないと言って日比谷焼き討ち事件が起きるほど、戦争による経済的利益を獲得することが国是となっていたようです。挙国一致体制を敷いて戦争遂行をしていたのだから、現代からすれば驚きです。第1次大戦までは、戦争にも牧歌的な面もあったとはいえ人を殺すのが戦争ですから、自然な感情としての戦争反対論が起きても良かったはずです。これがなぜ起きなかったかその理由を考えなければならないはずです。
私は、その答えとしては、明治政府が国民の価値観を戦争勝利一色に誘導する工夫を周到に、そして地道に行っていたからだと考えるのです。その方法が、子どものころからの教育だと思います。但し、学校教育ばかりではなく、文学や音楽などを通じた情操教育、文化の普及が大きな効果をもたらしていたのではないかと思うようになりました。
こういう戦争イデオロギーの論点でよく出されるのは、国家至上主義とか天皇制イデオロギー、軍国主義教育ということなのですが、私は、少し違う角度を考えています。もっと、国民一人一人の感情のベースになる部分に働きかけていたのではないかということです。あからさまな軍国主義イデオロギーを政府などが喧伝したところで、国民にそれを受け入れる素地が無ければ反発も起こるでしょう。軍国主義教育に対して国民が反発してしまえば、政府が瓦解して体制が変わってしまうわけです。昭和初期の国民の中でも、年配の人たちは軍国主義イデオロギーに反発していた人や馬鹿にしていた人もある程度いたようですが、それはそれとして戦争に消極的には賛成していたことになるようです。積極的に反対できなかった理由は、政府の締め付けや第二次世界大戦前夜の相互監視という強硬な事情もあったのですが、若年層を中心とした戦争が道徳的に正しい、あるいは必要悪、やむを得ない行動という根本的な価値観が確立されてしまっていたという事情があると思うのです。
この根本的な価値観を形成するキーワードが、「男は男らしく、女は女らしく」をはじめとして、「勧善懲悪」、「立身出世」であろうと考えています。明治政府以前はなかった。つくられた「日本人のこころ」を創作しだしたということになると思われます。
「男は男らしく、女は女らしく」に焦点を当て考えてみましょう。
当時の戦争戦略に照らした戦争遂行イデオロギーで意味があるのは、男は男らしくというところです。その「男らしい」の意味を考えてみましょう。
・いざとなったら命を懸けて戦うこと
・わがままを言わず自分の利益、感情よりも組織を優先すること、
・理屈を言わず寡黙に行動すること、
・上に立つ人を尊敬し、命令に従うこと、
・不言実行として言い訳を言わずやるべきことをやること、
こんな感じでしょうか。
要するに、自分の頭で考えないで上官の命令に従い、危険な行動でも国のために喜んで自発的に行うこと、当時の戦争の形態からするとこれが理想的な兵隊像になっていることはすぐにお分かりのことでしょう。
女は女らしくというのは、女性としての理想像があったというよりも、男はこうあってはならないという例示という副産物だと思います。男は女々しいことをするな、考えるなという対比の中で出てきた概念なのでしょう。要するに、兵隊でふさわしくない行動パターン思考パターンを「女々しい」ということで表したのでしょう。だから、男性の同性愛者に怒りを感じるようになるのは、国家政策が浸透した段階では必然的なことだったと思います。
戦前は姦通罪という犯罪がありましたが、戦後は廃止されました。これは夫のある女性が浮気をすることを罰するものです。どうして、女性を罰するのかというと、男性は兵隊として海外に行くわけですが、その間日本に残した妻が浮気をするのではないかと思うと闘いに集中できない。だから不安を少しでも解消するために、妻の不貞を犯罪にして社会が監視し、国家が刑罰を与えるということにしたのです。世界共通で姦通罪は徴兵制とセットで設けられる犯罪類型です。富国強兵のための法律ということになります。結果としては男女差別ですが、男女差別の結果ばかりが言われていて、その根幹が戦争遂行イデオロギーだということはそれほど指摘されていないように感じます。
このように考えると、男女の区別は自然に存在していたけれど、区別に価値が込められたのは、明治以降の、戦争遂行のための国家政策の結果だと思われてきます。要するに、兵隊さんになる男性は偉いから命を懸けて戦いましょうということです。男は闘うのは当たり前、外国の無理難題から日本を守らなければならない。そのためには、命をなげうってでも日本を守らなければならない。こういう流れる思考方法が幼いころから身につけさせられていたのでしょう。おだてあげられて戦地という危険な場所で人殺しをさせられていたというわけです。
男らしさ、女らしさという概念は国家によって作られたものであり、それ以前に価値観は込められていなかったという事情を示す証拠としては「方言」があります。特に東北地方の方言には、相手を呼ぶ際に、女性が男性を呼ぶ場合と男性が女性を呼ぶ場合の区別はありません。東北地方で言えば「おめ」ですね。共通です。言葉は、国の権力の中枢から等距離で広まっていくものだそうです。かつては京都が国の中心でしたから京都から同心円状に言葉が分布されていたようです。離れていればいるほど、言葉の伝わりが遅く、政権の影響も遅くなるということらしいです。明治時代の首都は東京都ですから、東京から離れるほど、言葉の流行から取り残されていくわけです。これは、富国強兵イデオロギー政策、つまり男女差別や男は男らしく及び女は女らしく、が先ず首都から始まったこと、あるいは地方に行くほど影響力が薄くなっていったということを表しているのではないでしょうか。男は男らしくということは、首都から始まり、地方に行くにつれて広まり方が弱まったということです。こう考えると日本国の世論が戦争を支持していたという場合も、例えば東北地方の農民の声がどこまで反映されていたか疑わしいわけです。戦争遂行イデオロギーを浸透させていく場合も、まず首都を固めることから始まったのでしょう。国の中心部の意見が容易に国民の世論とされてしまい、日本を動かしていたのかもしれません。
この男の子を文字通り兵隊予備軍として持ち上げる戦争遂行イデオロギーをどうやって普及したかということは、大変興味深いところですが、詳細はまたの機会に譲ります。ただ、ここでは、先ほど述べた通り明治以来一貫した文字、文章、歌によって普及していき、大正期あたりまでは、心の奥底に働きかけていくという戦略をとっていたということです。教科書、童話、童謡で、男は男らしく、女は女らしくという土壌を耕していたということです。そこで言われていることが当たり前のように感じられるようになっていったのでしょう。男らしくありたい、男らしくとはどういうことかということで、兵隊になるということが受け入れられやすくなったのだと思います。少なくとも、人の殺し合いである戦争なのに、男らしい行為ということで、自然にあるべきの戦争を嫌がるという意識が生まれにくくなったと思います。そうして、昭和のあからさまな戦争遂行イデオロギーにもいつの間にか従う素地が生まれたのでしょう。
童話で言えば、明治政府は、桃太郎、かちかち山、一寸法師等、話の原形は江戸時代以前にさかのぼるものの、原型にあった残虐な描写を割愛して誰しも受け入れられる表現に改めて、どのご家庭でも読み聞かせできる内容にして普及をしました。悪い者、弱い者を苦しめる者は必ず処罰されなければならない。この処罰をする男子は英雄視されなければならない。英雄視されるため、反撃については問題視されない。このような悪い敵を懲らしめることによって立身出世が叶う。勧善懲悪、立身出世、そしてその主体は男子であるという共通項があります。この考えが浸透すれば、残虐な描写はアクセスを妨げるために削除したほうが良いわけです。
もちろんこれに対して文化的に対抗した勢力もありました。それが「赤い鳥」創刊です。良質で、リアリズムにあふれた童話、童謡、絵が盛り込まれた鈴木三重吉を中心とした雑誌です。1918年に創刊されました。男らしくとか勧善懲悪とか、立身出世をテーマにせず、人間関係の再生、寛容、思いやりなどがテーマになっています。およそ兵隊の育成には向かない話ばかりです。その芸術家たちは、明治政府の戦争遂行イデオロギーの普及にあまり影響されない教育環境を得られたという条件を持っていたのかもしれません。「赤い鳥」は鈴木三重吉の死によって1936年に廃刊になります。第2次世界大戦が翌年から始まることと関係があるようにも思われます。

さて、現代に残る男らしさは、批判らしき批判も受けないで世間一般に肯定的に残存しているように感じます。
・いざとなったら命を懸けて戦うこと、
・わがままを言わず自分の利益、感情よりも組織を優先すること、
・理屈を言わず寡黙に行動すること、
・上に立つ人を尊敬し、命令に従うこと、
・不言実行として言い訳を言わずやるべきことをやること、
最もこの男らしさが幅を利かせているのは労働現場なのだろうと思います。企業戦士やブラック企業にとっては都合の良い兵隊像ということには変わらないわけです。しかし、あまりにも労働環境が劣悪になり、賃金水準も世界レベルに達せず、将来に向けた条件改善も見込まれませんので、徐々に男らしさのメリットがないことに気が付いていくことでしょう。
収入に男女格差をつけて、男性の方が女性より価値が高いということも、明治政府のイデオロギー政策の残存物としてみる必要がありそうです。現代の非正規雇用世帯では、賃金格差は不合理さがあらわになっています。それでも、賃金の男女差別は、不自然なほど是正が求められていないように感じます。

男性であることに価値があるということはそれほど普遍的なものではないことを示す資料もあります。近年、女性の若者が、自己の性的役割を受け入れがたくなっているとのアンケート結果があるそうです。それはそうだと思います。繁殖以外は、男女の区別の合理性がほとんどなくなっているからです。家事は電化によって著しく時間が短縮されました。労働も、電化やIT化によって、男女の区別の必要性が著しく小さくなっています。しかも、社会全体が、筋肉に負担のかかる労働に対して不当だと思えるほど価値を認め無くなっています。もはや、男性と女性とを生物的特徴以外で差別はもちろん、区別する理由さえ薄れていると思います。差別感は、自然発生的に存在したものでないならば、差別を助長するエネルギーが外部から注入されないと消滅していくものです。社会構造の変化の影響もありますが、元々、男女の間に価値の違いがあるとは考えないという方が自然的な考え方なのだということを表していると思われます。

女性差別をなくすことは合理的なことであると思います。ではどうやって差別をなくしていくか。この場合、一般男性を攻撃することはあまり意味のあることではありません。一般男性は、明治以降、戦争に駆り出されて、戦争が終わっても企業戦士ともてはやされて過重労働に従事させられていました。男らしさを求められた結果だともいえると思います。あるいは、身についた男らしさという価値観に抵抗する術がなかったという評価もできるのではないでしょうか。
女性の中には、女性であるがゆえに不合理な扱いを受けたり、利益を害されたりしてきたのですから、反射的に不合理な利益を享受していたはずの男性を「不公正」な存在として攻撃したくなるという感情は、心理学的には理解できます。しかし、それは単に自分の感情を満足させることであり、女性差別の解消の方向をむいてはいません。そのような誤りが起きる決定的な原因が、男女差別というものを人間社会の自然な社会感情、自然発生的な文化だと誤解しているところにあると思います。区別は自然なものだとしても、差別は誰かが、特定の目的をもって作ったものだと私は思います。私の考えが正しいとしたら、女性差別が自然な感情であるという考えは、差別解消に向かわないばかりではなく、国民を対立させて利得を得ることを容認することになると思われます。結局国民の間で差別があることによって利益を受けている人たちが喜ぶばかりではないでしょうか。最も利益を受けている人は、女性であるというだけで低賃金の支払いという恩恵を受け、いつでも雇用を打ち切ることができることを利用して利益を受けている企業だと思います。これからも何十年か、女性は、ミスリードを誘発する活動家によって、戦わないこと、逃げることを、押し付けられていくのだろうと思えてなりません。いずれ解消されるとしても、差別が温存される要因を作っている場合もあるように感じられます。


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家族解体主義という思想 なぜリベラルがそれを受け入れるのか 共同親権制度に反対する人々 [弁護士会 民主主義 人権]


あなたが同調し賛同している主張が
実は、家族解体主義思想にもとづくものであると私が言ったら
もしかしたら、あなたは、
私のことを頭がおかしい人間だ、
あるいは極端な保守的家族主義者だと
このページを閉じてしまい
二度と私の話を聞かなくなるかもしれません。

なるべくそうならないように話を進める必要性は認識しているのですが、
とりあえず、一度、話をまとめる必要性も感じているため
このお話を強行せざるを得ないという心持になっています。

1 家族解体主義者の主張

私が気が付いた家族解体主義について説明させていただきます。
彼女らは、必ずしも
ご自分たちが現状の家族制度を解体しようとしていることを
隠しているわけではありません。
よく読めば、はっきりそのようなことを述べています。


「家族解体主義」とは、
およそ家族という制度は、
女性に対して母や妻という役割を強制するものであり、
女性を解放するためには家族という制度を解体する必要がある
という考え方です。

これに対して、家庭での女性の役割を見直して
家庭の中で対等な人間関係を作る新しい家族制度を構築する
という提案もあります。
しかし、この主張に対して家族解体主義者たちは、
現実不可能な幻想であると切り捨てます。

人間関係は、家族だけでなく、
職場、学校、地域、趣味のサークル等多種多様にあり、
それぞれの人間関係で、
固定的な女性の役割を押し付けられていると思うのですが、
家族制度を最重要の解体目標としているようです。

「正義とは女性を家族から離脱させること」という大前提があります。
このため、
その離脱が不合理であっても、離脱は正義だということになります。
例えば、
妻が夫と離婚したい理由に合理的理由がなくても
家族制度解体に向かうのであればそれでよいわけです。
たとえ不貞を成就するために、DV保護制度を悪用しても
家族制度解体に向かえばそれでよいわけです。
そこで男性が不合理な事態に苦しんだとしても、
歴史上女性は男性たちによって不当に苦しめられてきたわけですから
現代の男性が不合理な思いをしても気にも留めないのです。
女性解放のためには気にしていられないということになります。

一度握ったDV保護制度はどんどん拡張していくわけです。
DVの概念は無限に拡張していきます。
家族の中に女性がいること自体が
彼女らにとっては、男性によるDVなのですから当然のことです。
どんどん警察を家族の中に入れて
家族を解体しようとするわけです。

現代の家族解体論者の最重要課題が家族の解体ですから
その他の人間関係とは喧嘩せず、うまく利用するのも特徴です。
一番は国家や自治体です。
国家とは、総理府(男女参画局)、裁判所、総務省等で
自治体としては、自治体職員特に子ども関連の部局である
児童相談所、学校等です。
そして警察です。

職場や雇用環境、昇進の問題では
おざなりに女性差別反対を口にしますが
具体的な対策の主張はあまりしません。
標的を家族に絞るという戦略は奏功しているようです。

2 アメリカにおける家族解体主義ムーブメント

このような家族解体主義的ムーブメントは、
アメリカでも
1980年から95年にかけて巻き起こりました。
主に成人に達した女性たちが
幼少時代に、父親、兄弟、叔父などから性的な虐待を受けていた
という記憶をよみがえらせ
家族に対する刑事告訴、民事賠償訴訟を提起し、
当初はアメリカの司法は、この記憶が正しいものだとして
父親を刑務所に収監し、巨額の賠償命令を相次いで出したのです。

この訴訟は、概ね、女性たちが不安を抱いてカウンセリングを受けたところ、
催眠療法によって「失われた記憶」を「よみがえらせ」て
司法手続きを起こしていてたという特徴がありました。

このようなカウンセラーは急進的なフェミニストがほとんどでした。

これに対してエリザベス・ロフタスが、
人間は、どこかに正確な記憶が保存されていて
10年以上たって、正確な記憶を想起することができるということは
人間の記憶の仕組みに反している
ということを科学的に主張し、
それが受け入れられ、広まって、
1995年以降はこのような「よみがえった記憶」を正しいものとしては
司法判断が行われなくなりました。
また、このような記憶回復療法は現在では行われなくなったそうです。

「記憶」がよみがえった人たちの多くが、
記憶がよみがえったのちに精神的に治療が必要な重篤な状態に陥るなどの
重大な副作用も生したという事情もあるのでしょう。

「抑圧された記憶の神話」E・F・ロフタス外 ラディカルフェミニスト J・Lハーマンを裏から学ぶ。治療者と弁護士のアプローチの違いと弊害について
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2020-12-02

日本の家族解体主義者は
このアメリカの家族解体主義の敗北が
科学的理由および具体的な患者の精神の悪化という事実に理由があるのではなく、
アメリカの家族擁護主義者の攻撃による政治的なものだと主張しています。

そうだから
カウンセラーが虚偽記憶を誘導して作り上げたということについては
形式的には批判するという枕詞を述べながら
(本来虚偽の記憶が)どのように想起されるかということを検討し
正しい記憶がよみがえったという扱いにすり替わってしまっています。

記憶のメカニズムに反するという批判の核心を
理解していないことがよくわかる一貫しない論旨となっています。

また、家族解体主義者の主張が科学的ではないことを端的に表しています。

そして、自分たちの主張に反対する科学者たちを
「家族擁護主義者」と呼んでいることも印象的です。
この主張があったからこそ
家族解体主義という思想を共有する人たちがいることに
私が確信を持てた理由でもあります。

3 家族解体主義者たちの現在の課題 共同親権の阻止

現在、離婚後の共同親権化が秒読みの段階に入っています。
しかし、これに対して
解体論者を中心として強力な反対運動も起きています。

家族解体主義者の一人は、
共同親権制度に先立つ親子断絶防止法の動きにいち早く反応して
こんなものができてしまうと、
「私たち」が作り上げてきた20年間の成果が失われてしまう
ということを言っていました。

共同親権制度は、他国との関係があるので実現すると思いますが
反対論の陣営によって、どのくらい骨抜きになるかということが
実務的な課題となるわけです。

一昔前の面会交流調停のように
会いたい、会わせたくないという感情論的な切り結びだけでは
骨抜きにされる危険が大いにあるといわざるを得ません。

家族解体論者の面々は非科学的ですが
バカではないので、
戦略や味方作りは見習うべき程巧です。

このため家族解体主義ではない人も
共同親権に反対を掲げているのが現状です。

そのために例外的なDVの存在を理由に共同親権の原則を骨抜きにしようと
主張しています。

問題はここにあります。

4 なぜ家族解体主義が受け入れられるのか リベラルの弱点

家族解体主義者は、
国家政策の形成過程に入り込んでおり、
審議委員などを担当しています。

このため、知名度もあり発言力が強く、
彼女らの主張は大手メディアでもたびたび追随的に取り上げられています。

つまり保守層にも食い込んでいるわけです。
無批判に食い込ませた保守層には責任があります。

その他にリベラルにも賛同者が多くいます。

もっともリベラルの人たちは、
家族解体主義に賛成しているわけではありません。
それどころか、彼女らが家族解体主義者であるという認識も
持てていないのかもしれません。

おそらくそういうリベラルの人たちからすると
私の主張は極めて保守的な政治色が強い主張だと
反感を覚えていることと思われます。

私が家族解体主義者だと主張している人たちを
擁護しようという正義感を発揮しようとしているかもしれません。

家族解体主義の人たちは、通常家族解体主義を前面に出しません。
急進的なフェミニストとしての発言を前面に出しています。
繰り返しますけれど彼女らは頭は良いので、
自らの影響力を減退するような活動には慎重です。

フェミニストの外観というのは、
女性の解放を第一に主張を組み立てるということですし、
女性の置かれている差別的な実情を報告し、
抜本的な社会改革を主張するという外観です。

しかし、これまでお話ししました通り
自分たちが利用する政府批判や
現実に女性を差別している雇用問題については
おざなりな主張に終始しています。

そもそも政府の男女参画局は
雇用機会均等を大きな柱としてスタートしていますが
雇用機会均等は開店休業状態で
もっぱら家庭の中の問題だけの活動になっています。

家族解体主義者たちは、それでよいのです。

しかし、おざなりとはいえ
リベラルな主張を一応しますので
リベラルの人たちは、
主張を同じくする人だという仲間意識を持っているようです。

特に党派的なリベラルな人たちは
自分たちが少数意見者だという意識が強いですから、
人間を、自分たちと、反対者、つまり敵と味方と
二分法によって区別をします。

そしてひとたび仲間だと認識した相手に対しては
批判的にみることをやめてしまいます。
仲間の主張は自分たちの主張だと
気が付かないうちにどっぷり取り込まれています。

逆にひとたび敵だと烙印を押した人に対しては
とことん攻撃をします。
決して冷静に話し合って、修正すべき点の修正を求める
という態度ではありません。
揚げ足取りと人格攻撃という
ネットいじめやネットいじめのような
感情論による批判の集中砲火をするわけです。
その対象者を擁護することが怖くてできなくなるわけです。

これは現実を組織(人間関係)というフィルターを通してしかみれず
自分の頭でものを考えるということを放棄してしまうという
組織や集団、特定の人間関係に依存している考え方の特徴を示しています。
面倒なことは考えないという人間の思考パターンの一つです。
スタンリーミルグラムが服従の心理と言い
私が迎合の心理といった人間に備わった心理です。

このように家族解体主義者は
周到に自分たちのシンパや保護者を形成していますから
決して侮ることはできません。
しつこいですが頭の良い人たちです。
力もあります。

では、どうすることもできないのでしょうか。

そうでもないのではないかと考えています。

彼女らの最大の弱点の一つは
唯一の主張が家族解体主義なのだけれど
家族解体主義を前面に出すことができない
ということなのだろうと思います。

これがために、
本当は家族の中における男性のすべてDVなのですが、
極端なDV事例や、本当はDVとは関係の無い男性の暴力性を強調して
論を進めなければならないという弱点と

統計的な裏付けのほとんどが
確認手段がないような引用方法だということ
科学的な論拠を省略するという様々な弱点があります。

また、党派的なリベラルは
極めて微小な力しかありませんから
保守、体制側の理解を正していく
という手法が有効なのではないかとも思われます。



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業者による政治家や官僚の接待の利益、思惑とは何か。接待を断られる業者と接待をうけてもらう業者と何が違うのか。「国民に疑惑を持たれない接待」はないということの意味。 [弁護士会 民主主義 人権]

東北新社やNTT等が大臣や官僚を接待したことが明らかになりました。
これに対して、大臣たちは、
「国民に疑惑を持たれるような接待は受けていない。」
と答弁していますね。

ここで使っている「疑惑」の意味がよくわからないので
なんとなく悪いことをしていながら逃げ切っているような
そんな印象ばかり受けてしまいます。

7万円もする酒食を平気で飲み食いする神経も不思議ですが、
どうして業者は、そのような費用をかけて接待をするのでしょうか。
企業ですから、何か企業の利益につながらないと
経費として支出することができないはずです。

ここでは、その場で賄賂などを渡すということは除外して考えます。
賄賂を渡さなくても接待をする利益があるということをお話しします。
但し、高額の接待がわいろにならない理由は
いろいろ考えるほど私にはよくわからなくなります。

まあ、わいろを渡す、つまり、企業に良いように
本来するべきでない公務をさせるために
お金や品物を渡すということをしますと
接待を受ける側も、収賄罪や受託収賄罪をとして罰せられますから
通常このようなあからさまなやり取りはありません。

逆に言うとどんなに高額な金品を提供されたとしても
刑務所に行くことになるというのでは割に合わないのですから
そのようなぎらついた接待を受けるということはしないでしょう。
あからさま要求をされないという安心感がなければ
接待は受けられないということがまずあるわけです。

それでは、具体的な不正公務の要求を掲げないにもかかわらずにする接待は
大臣や官僚にどのようなことをしたいのでしょうか。
それで何か企業の利益になるのでしょうか。

先ず、接待の中身ですが
必ずしも政治家や官僚に利益を与えることを主目的にはしていないのです。
私の感覚では、一か月分の家族の食費以上の
飲食代金やお土産なのですが、
おそらく彼らの感覚では、社交辞令の範囲内なのでしょう。
政治家や官僚は、高級な食事をしたいと
それほど渇望しているわけではないと思います。

但し、この感覚の鈍さだけを問題にしていたのでは
接待の、国民にとっての本当の問題点が見えてこなくなります。
マスコミや一部野党が、ここで批判が終わっているとすると
問題の本質に切り込んでないことになりますし、
問題の本質を国民から隠ぺいすることになってしまいます。

ここを間違えて考えている企業は
おそらく接待に応じてもらえていないはずです。
ここを間違えている企業とは
ひたすらお金を出して、珍しいもの、おいしいものを
提供しようとするでしょうし、
大臣や官僚にやってほしい便宜を、
誰が聞いても分かるようにお願いしようとしてしまっていると思います。

そんなことをしていたら
二度と接待には応じてもらえなくなっているはずです。

では接待をする一番の理由は何かというと

「顔なじみになる」ということなのです。

もう少し具体的に言えば
企業の活動分野に関わる政治家や官僚と
できるだけ多くの時間を一緒に過ごすということなのです。

できるだけ長く面談時間をとってもらうためには、
できるだけ楽しい面会時間にするように工夫しなければなりません。
そのための料理であり、雰囲気であり
そのための高額の費用だという順番になります。

政治の話はできるだけせずに
当たり障りはないけれど
とても楽しい話題を用意するということになるでしょう。
(大臣や官僚にとって楽しければよいのですから
それほど難しくはないでしょう。
かなり、一人一人の経歴や趣味などを調べ上げているようです。)

しかし、その場が楽しかったで接待が終わるとするならば
本当に自分の企業にとって有益なことを
大臣や官僚がやってくれるのか
なんとも頼りない話のように私たちは感じます。

そんな曖昧なことに高額の費用を使えるのか
という疑問がわくのは当然ですが、
これが、日本の伝統的な接待です。

ここに科学の目を入れたのが認知心理学です。
「単純接触効果」という理論です。

つまりこのような接待によって十分企業にとっての利益が上がるし、
それ以上踏み込んだお願いをすることは逆効果になる
ということなのです。

政治家や官僚にとっての政策形成過程は
統計や文書といった抽象的な資料にあふれています。
つまり、その政策で救わなければいけないような
国民の具体的な苦しみを目の当たりにしているわけではありません。
そちらに予算をとるために削られた予算で苦しむような
国民の顔は政策形成過程に出てこないわけです。

客観的に科学的にあるいは統計的な資料に基づいて
政策が立案されていくということになるわけです。
本来そこに、感情や同情が入るということはないはずです。
そうやって、個々の人間の感情に左右されず
国全体の利益を考えて政策を進めるというところに
客観的な政策形成の良さもあるのかもしれません。

しかし、本来感情が入らないはずの政策形成過程に
入ってはならない感情が入ったどうなるでしょう。

統計や理論に基づいて、あるいは法律に基づいて
淡々と政策を組み立てていくときに、ふと
「これ、厳格に仕組みを作ったら
あの企業はそういう対応ができていないから
企業の仕組みを土台から変えなくてはならなくて
対応が大変になるだろうな。」
とか、考えたら
そして、
「そこまで政策を徹底しなくてもよいのではないの」
と修正する余地があるとしたならば
政策を修正してしまうということにならないでしょうか。

それを言い出したとしても
他の人もみんな接待を受けていて
あの企業のあの担当者の立場がなくなってしまうな
なんてことをちらりと考えてしまったら
「ここまで厳格に仕組みをつくるより
 例外規定を設けますか」
と提案しても、
なかなかそれに反対しずらいわけです。
なんせほかの人たちも接待受けているわけですから。
正義感を持つ人も中に入るのでしょうけれど
既に飲んで食べてしまっていますから
なかったことにはならないわけです。
お金を返せばよいというのは政治家だけに通用する話なのでしょう。

「もう少しこの政策は先延ばししましょうか」
ということも簡単に想像することができますね。

単純接触効果というのは
長く一緒にいる人に仲間意識を持ってしまう
という人間共通の心理を言います。

他の哺乳類などは、
匂いによって仲間と仲間ではない個体と
厳格に区別をすることが多いようです。
自分の血縁があるものには共通の匂いがあるようで、
血縁を匂いで感じ取って
仲間という感覚を形成していくようです。

ところが人間は進化の過程で
嗅覚が衰えて、視覚が発達していしたから
血縁などということは本当はよくわからず
いつも見慣れている人が仲間だと感じるようです。

このおかげで、血縁を基準としない仲間を
作ることができたのだと思います。
他の動物に比べて著しく出産が大変な人間が
仲間を作るためには必要な心理だったのでしょう。

そうして、人間はひとたび仲間だと思うと
自分と仲間の関係を大事にしてしまいます。
仲間を傷つけることはしたくないし
仲間のピンチは助けたいと思うわけです。
仲間に喜んでもらうとうれしいということもそうですね。

仲間の表情、感情を気にしてしまうということも起こるでしょう。

接待がしょっちゅう行われなくても
一度楽しい時間を共有すれば
他の会合、勉強会などで顔を合わせれば
特別な感情がわいてきて、挨拶などをするわけです。

接待の効果は、その日限りではなく
接待はなくとも、顔を合わせて話を交わせば
じわじわと強くなっていくわけです。
偶然ゴルフ場や飲食店でご一緒すれば
さらに強くなるわけです。

このためには、接待担当者は、当たり障りのないように見える人
相手の感情を荒げない人
そして感情が豊かな人が最適なわけです。
ここでいう感情豊かというのは気分変調が激しいということではなく、
楽しいときは楽しい表情をして
困ったときは困った表情をするということです。
感情豊かな人は、他者が感情移入しやすいというところに特徴があります。
感情移入する相手は仲間だと思いやすくなります。

ただの会社名、東北新社、NTTという名前よりも
一緒に飲み食いしたその会社の担当者の
笑顔や自分にしてくれた配慮を思い浮かべてしまうと
無味乾燥な政策形成過程においても
その人の感情を考えてしまうとは思わないでしょうか。

仲間であれば見殺しにするということはできない
そんな感覚になるようです。
特に自分がちょっと制作過程をいじることによって
簡単にそれができるという場合ですね。

接待とはこのように
人間の特性を利用した活動だということになります。
そして案外これが企業にとって効果的なので
現代においても接待は続いているのでしょう。

しかし、だからと言って、
接待が許されるかと言えばそれは違うわけです。

一番に考えなければならないのは
大臣や官僚に接待できない人の利益が相対的に害されるということです。

国民全体の利益の観点からこうした方が良いということに
具体的な企業の利益の観点からの修正が入ると
国民全体の利益が後退してしまうわけです。

国民全体の利益と
一緒に時間を過ごしている顔なじみの人の利益
どちらかを天秤にかけている場合、
どうしても、笑顔や配慮や不安などの感情を想定できるのは
具体的に一緒にいる時間の長い人でしょう。

国民全体という人間は想定しにくいので
感情は動きにくいわけです。

もちろん、もっと具体的には
継続して接待をしている企業からはじかれた新規企業の
利益はなかなか考慮されません。

接待をしていない人たちが
相対的に不利になるということです。

政策には必ずメリットデメリットがあります。
一つの立場のメリットがあれば
それでデメリット受ける人たちがたくさんいるわけです。
特定の企業にメリットがあれば
他の企業や国全体にデメリットが大きくなる
ということはほとんど必然ではないでしょうか。

ところが、大臣や官僚は、
接待を受けても偏った判断はしない
と思っているのかもしれません。

もっとも、それを意識的に行ってしまえば
接待が贈賄になりますから
否定はしなければならないのでしょう。

また、単純接触効果は
人間の本能によるものなので
自分ではなかなか意識することは難しいのです。

エリート官僚は、自分の理性に絶対の信頼をおかず
理性がゆがめられる事情の一切を排除する人たちでなければ
ならないと思われます。

接待が繰り返されていく度にその感覚がずぶずぶになっていくのでしょう。

私は、こういう事例を見て
「国民から疑惑を受けるような接待は応じていない」
というような答弁をする大臣を見てしまうと
主食と有料サービスとお土産を伴う接待は
一切禁止しなければならないのだろうと思えて来てしまいます。

疑惑を受けない接待はあり得ないし
利益のない接待を企業が行うということもあり得ないからです。

具体的にその企業の利益に関わる政策を立案しているという情報を
企業にリークした上で、
その企業から接待を受ける場合は、
それは収賄罪に準じた公務の公正性及びそれに対する国民の信頼を
害する行為であると思う次第です。

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「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」という発言は、むしろ女性を称賛する結果になるという理由。民主主義的な価値観に照らして考えよう。 [弁護士会 民主主義 人権]


要は、
会議に時間がかかって何が悪い
ということなんです。

確かに森氏の発言は、女性蔑視といるでしょう。
しかし、女性対男性の構図だけで見ていると
その先にある本質的な危険性が見えなくなってしまいます。

森氏の発言は、ある価値観を前提としています。
それは
会議は効率よく素早く終わるべきだ。
そのために理事は協力し合って発言を控えるべきだ
というものです。

しかし、これは、民主主義の価値観とは対立する価値観です。

民主主義を多数決と同義と考える方もいるようですが、
それは最終的意思決定過程です。
議論の過程では、
例えばなんらかの制度を作るという場面では
その制度のメリットを示して提案がなされますが、
様々な立場の発言者が、様々な立場からデメリットのあることを提示します。
(ここからが民主主義なのですが、)
できるだけメリットを発揮できるようにしながら
デメリットをできるだけ回避したり、軽減させたりしていく
こういう話合いが民主主義です。
(今の国会運営を民主主義のモデルとしてはいけません)

多様な立場の人が、それぞれの立場からの発言をし
話し合ってよい制度を作るということです。

これが民主主義的価値観だと私は思います。

だから民主主義的価値観の下で行われる会議は
時間がかかって当たり前ですし、
時間がかからないことは不自然だと思います。

この反対が独裁的というか、上意下達的方法論ということになるでしょう。
典型的には軍隊です。
差し迫った危険があるのに悠長に議論などをしている場合ではないので
このような意思決定過程が有効だということになると思います。

もちろん、純粋に民主主義的価値観と軍隊的価値観を貫く
ということも非現実的で
民主主義的価値観に立っても議論のための議論は回避するべきで
何らかの結果を出さなければならないため多数決が行われるわけです。

軍隊とは言っても、そもそもの戦略は合議で行ったりするわけです。

しかし、この軍隊的価値観が
日本では様々な組織に戦後も残存していて
結論を早く出すということに価値をおくことが多くあります。

企業戦略でも
短期的な売り上げ目標が強調されすぎると
軍隊的価値観が優先されていくことは
企業で働いている人なら実感されることでしょう。

現在ではこのような意図的にクリティカルな状況を作るという
労務管理は徐々に傍流になっているようです。

だから、女性理事が入ると時間がかかるということは
民主主義価値観からすると、(私に言わせると)
女性の理事は頑張っているなということがわかるのです。

そう言うと森氏のように考える人は
女性の発言は、会議を進める内容ではなく自己顕示欲だ
というのかもしれません。
しかし、そのようなルールを知らない人が理事に選任されるということは
考えにくいと思います。
単に、提案者の提案を前に進めないことに反発しているのではないか
と勘ぐってしまいます。
そもそもおよそ女性は主としてそのような発言をするというなら
それは全くの差別そのものでしょうね。

それに比べて、森氏の発言からは
男性理事の惨状が見えてくるではないですか。
理事という求められた役割から
提案を豊かなものにするための
自分の選出された母体の立場からの発言が
あまり見られないということを意味するように思えてなりません。

忖度するのに男性も女性もないのでしょうが
軍隊も男性が中心でしたから
男性は、もしかしたら権威に迎合してしまいやすい
軍隊的価値観になじみやすい性質がある人が多いのかもしれません。
上が提案したのだから、それに賛同するのが自分の役割
と空気を読みすぎているのかもしれません。

だとすれば
国民の税金を使って議論をするなら
バンバンと意見を出す女性理事をもっともっと増やすべきではないか
そう思えてくるわけです。

つまり、森氏の
「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」
と言われたならば
だから女性をもっと増やすべきだと言えば良いのだと思います。

それが、この発言は女性蔑視だと
それはそうかもしれませんが、それで批判が終わるのであれば
それは、会議は時間をかけないで行うべきものという
森氏の価値観と価値観を共有しているように思えてなりません。
軍隊的あるいは男性的価値観を無批判に踏襲して
あるべき価値観に照らして女性に価値が無いという発言だと
そういう批判に思えてならないのです。

これでは
男性は上の言うことに従う傾向にあるという
男性差別の価値観が発言の中にあるということを見逃し、
そもそも理事会が民主主義的な価値観に反する価値観を求めている
という問題の本質に切り込めないのではないか
という危惧を持ちました。

報道を受けた議論の流れは
それを如実に表していると思います。


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仙台市講師のいじめアンケート書換えは氷山の1角であるという意味。個人攻撃よりも取り上げるべきこと 日本の国家政策の一貫姿勢 [弁護士会 民主主義 人権]



仙台市の小学校で、子どもたちが記入するアンケート調査を
講師が書き換えていたということが全国ニュースになっています。

後追い記事は、この講師の教師がいかに乱暴な人間であったかということにとどまっています。
それがダメだとは言いませんが、もっと他に取り上げることがあるだろうと思います。

この講師は勝手に他人の書いたものを直接書き換えていた点が悪どいところですが
アンケートを操作するということは学校現場において悪びれもなく行われているようです。

アンケートは記名式で行われます。
アンケートを書いた児童を呼び出して、話を聞き、
「それはいじめではないよ」と説得して
本人に書き換えさせることは、学校や地域によっては常態化しているようです。

また、アンケート調査開始にあたって
いじめにあたる例と当たらない例を説明してからアンケート記入をさせる例もあるようです。

友達との喧嘩の場合はいじめではないよ
話をしていて、自分の意見が通らないこともいじめではないよ
うっかりあなたが来ないうちに出発しているだけならいじめじゃないよ。
言い合いになっても、すぐ仲直りをしたらいじめではないよ
とかです。
おそらくこれを読まれた方は、そりゃそうだろう、そんなものはいじめではないはずだから
問題ではない
と思われるでしょう。

しかし、いじめ防止対策推進法のいじめの定義は
児童等に対して、当該児童等が在籍する学校に在籍している等当該児童等と一定の人的関係にある他の児童等が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているものをいう。
ということになっています。

つまり、例えば同級生の行為であれば、本人が心身の苦痛を感じていれば
全ていじめになってしまうわけです。

だから、この定義を限定する事前のレクチャーは
全てアンケート内容の改竄と同じことになってしまいます。

この定義が問題であり、いじめ防止にどこまで役に立つか、
それ以上の弊害は無いのかという考えは健全ですし、
私もそう思います。
おそらく、学校現場でもそう思っていることでしょう。
また、いじめに該当すると、
学校はいじめ行為をした生徒を処分しなければなりません。
ますます、いじめの定義を限定したくなるのはよくわかります。

しかし、法律が定義をしている以上、
これと違う定義を表立って作り直すことはできません。
このため、各地で、あるいは各学校で、
独自の定義を作って、いじめ防止をしているのです。
いじめアンケートなんてこんなものです。

だからいじめアンケート改ざん問題が出たならば
こんな使えない定義をいつまで温存するのだということを
マスコミを含めて考えなければならないのではないでしょうか。

この改ざんをした講師という身分にも着目するべきです。
身分が安定していない非正規労働者の性質を持っているわけです。
そんな不安定な立場の人に教師をやらせていること
なぜ正規の先生を使わないのかということにも
目を向けるべきではないでしょうか。

それはともかく、
自分がいじめられたと思ったらいじめ
あとは処罰というのは、
実は日本の弱者保護の基本政策として一貫しています。

配偶者保護法も
一定の行政機関に相談したら、即「被害者」という実務です。
そして本当は加害を与えているかどうかわからない夫婦のもう1人が
「加害者」という名称で扱われるのです。
そして家族を断裂させていくしか政策がありません。

児童虐待も、全てではありませんが、
通報によって、児童を隔離して一定期間義務教育も受けさず
親に会わせず、高校を卒業したら勝手に生きていきなさい
ということが実態です。
子どもが親と家族を再生したいと強く訴えない限り
子どもが望んでいないからと言って会わせないのです。
子どもは自己責任を負わせられています。

そういう政策が、どの政党からも問題視されていません。
実態調査が必要だという声もないのが実情でしょう。

単純な正義感による怒りに国民を誘導するマスコミも
結果として一役買っているわけです。

マスコミはいじめがあったかどうかということにだけこだわるわけですが、
法律の定義のように漠然としたいじめに該当すると一度言えば
加害者探しと加害者糾弾という心地の良い正義感の発露に
貢献しようと煽り続けるわけです。
いじめの定義が漠然として広範囲だと知っていながら、
それを知らない国民に対して
いかにも、複数の生徒で1人の生徒を
執拗に繰り返し嫌がらせをした
という誤解を助長させて行きます。
いじめという言葉の感覚を利用しているわけです。

DVという言葉、虐待と言う言葉も
国民は勘違いを利用されています。
そして、正義感を行使する手段として
加害者を糾弾する。
これが基本パターンです。

これでは防止なんてできるわけがありません。

また、たびたび間違いを犯すのが人間ですから
間違いを学習して人間関係を再生することこそ
行われるべきことだと思うのですが、
そのような政策は一つもありません。

マスコミにも全くそのような視点はありません。
特にいじめは学校現場の問題ですが、
いじめの後の教育という視点がおよそありません。

要するに、国の政策は
何かことが起こり不幸になることを予防するということはしないで、
何かことを起こした者に不利益を課すだけの政策なのではないでしょうか。

その代わり、被害者に対して加害した者に
もれなく不利益を与えることが優先で、
そのためなら被害を与えていない者に不利益を与えても
まあ仕方がないかなという制度設計だと言わざるを得ません。
国民にあみをかける政策なのです。

あなたは、その網に
今のところ、かかっていないだけかもしれません。

ただ、どんな網が用意されているかについては
予め知っておくことが必要だと思います



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日弁連のDV法の保護拡大の意見書に反対する3法律的議論の枠組みがなく人権感覚に乏しいということ [弁護士会 民主主義 人権]

日本弁護士連合会は、2020年(令和2年)10月20日に、「配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護等に関する法律の改正を求める意見書」を発表しました。
https://www.nichibenren.or.jp/.../2020/opinion_201020.pdf


意見書の目玉は、表題の法律(以下「配偶者暴力防止法」と略します。)に、
「DVが社会における性差別に由来する力の格差の下で生じるという構造的 な問題であること」
を明記しろというものです。
この外、
警察の支援措置を身体的暴力に限定している現行法を改め、精神的暴力の場合にも拡大しろという意見
保護命令ももっと認められやすくするべきで、精神的暴力の事案も保護命令の対象としろという意見が出されています。

私は、この記事の前々回、そもそもDVは性差別に由来するということ自体が非科学的であり、同時に実務感覚にも反しているということを述べました。前回の記事では、現状のジェンダーバイアスがかかった法運用の弊害が益々増大するということも述べました。

 今回は、このような主張が、実は法律家に求められる理性を用いておらず、弁護士に求められる人権感覚も不十分に過ぎる主張であることについて述べたいと思います。

1 法律の要求されるバランスを無視した極端に偏った主張であること

法律は、抽象的な文言で全国民に対して規範を示すものです。そのためなかなか行き届かないことが出てくることは当然です。誰かを保護するために法律を制定しようとすると、別の誰かの権利を制限するかもしれないという効果がつきもののように出てきてしまいます。わかりやすい例で言えば、電車内の痴漢の防止法の検討をするとします。痴漢の真犯人がわからなくても、被害女性が自分の近くにあった手をつかんで、「この人に痴漢をされました。」と訴えれば、必ずその人を強制わいせつ罪で懲役刑に処さなければならないという極端な法律を制定しようとしたとします。一方で必ず刑務所に収監されるということになれば、電車内での痴漢行為は減るかもしれません。しかし、女性の勘違いや、女性の悪意で何もしていない人が刑務所に送られたとしたら、極めて深刻な被害が生まれてしまいます。このために、女性保護と冤罪被害の防止のバランスをとる必要がでてきます。特に犯罪の認定をして罰を与えるためには厳格な手続きを経なければなりません。無実の人が犯人として処罰されないようにするということは、法律の出発点でもあります。法律は女性保護を実現しようとする一方で、同時にその弊害を回避するための方策をとってバランスをとるのが法律だということになります。
法律家の人権感覚としては、無実の人に不利益を与えないようにすることが第一に考えられなければならないことがらなのです。

ところが現在の配偶者暴力防止法や関連法では、DVがない事案においても女性を保護する実務運用がなされてしまうことに歯止めをかけにくい構造になっています。この結果、DVがない事案においても男性が子どもに会えないとか、警察や行政から不当な扱いを受ける等の被害が多発しています。確信犯の女性が制度を目的外使用したということについても判決で指摘されることがありました。配偶者暴力防止法についてどのような問題があるかについては前回述べました。ここでは繰り返しません。問題は配偶者暴力防止法に弱点があることについて、弁護士の集まりである日本弁護士連合会が知らないということはあり得ません。家事事件を担当すればありふれて目にする問題だからです。
それにも関わらず、日弁連の今回の意見書は、女性保護という一方の問題の所在を強調してさらにその傾向を拡大しようとして、そのデメリット、不可分一帯の落ち度のない男性の保護を一切考慮しないという態度をとっていることになります。意見あるいは思想の違いの問題ではなく、一方の利益だけを追求して他方の不利益を考慮して、問題点に対する手当をしないということは、法律論の枠の中に入らないということを申し上げたいわけです。どこかの政治団体や思想集団が述べるならともかく、法律家である弁護士の団体がこのような法律の枠外の意見を出すということに落胆しているということなのです。

2 国家権力の私生活に対する介入に無防備であること

古典的な人権論というのは、国家による人権侵害を防止するということと同じ意味でした。現代社会では国家に比肩する大企業が現れたり、インターネットの問題が生じたりして、人権の問題が複雑化しています。しかし、人権問題の基本は、国家からの自由を確保するということには変わりありません。
ところが、日弁連の意見書は、女性保護を強調するあまり、この点の人権意識を無防備に欠如させています。身体的暴力だけでなく、精神的暴力についても警察の私生活への介入を要求しているのです。
現状の配偶者暴力防止法が、警察の介入を身体的暴力があった場合に限定した理由は、当の警察庁の平成25年12月20日付通達で自ら明らかにしています。それは、警察は犯罪に対する専門家であるが、夫婦の問題は必ずしもよくわからないので、警察が介入することが必ずしも適切な結果を保証するものではないこと、及び、あまりに広範囲に警察が私生活に介入すると過度の干渉になるということです。警察は、きちんと人権感覚を持っているようです。
警察が、現状の配偶者暴力防止法のもとでも、女性保護のバイアスがかかって、男性に対する不当な扱いをしているということはこれまで述べました。これまで、不当な不利益を与えないための訴訟や調停制度で身分関係やその状態を決めていたのに、警察権力が介入することで取り返しのつかない問題がこれからさらに拡大する危険があるわけです。
また、現在の香港の例を見てもわかりますが、これは日本国家ではないので全く同列には論じられませんが、いろいろな口実を持ち出して、民主派の人間たちを拘束し、拉致しています。仮に現在の内閣が自由を重んじていたとしても、政権交代がおこり組織優先の政治が行われてしまったら、反対派が配偶者暴力防止法容疑で拘束されてしまうということを考えなければなりません。民主主義国家はどんな政党のもとでも法律が国民の自由を守る武器にならなければなりません。過度な介入は、多くの人権侵害の温床になります。
おそらく「そうはいっても現実の女性の権利の侵害を守らなければならない。そのために警察権力が必要だ」という論調なのでしょう。もしそうならば、一方の利益だけを考慮する偏った議論であり、およそ法律の議論ではありません。
とても情けないことは、権利擁護を権力に依存しているということです。何度も繰り返しますが、これがNPOだとか、思想団体だとかの主張ならばそれも否定する話ではないと思います。問題は、人権課題に取り組むことが職業上の氏名である弁護士会がこのような感情的な議論をするところにあるわけです。人間関係の解決の引き出しが少なすぎるということです。弁護士会であれば、もっと世論形成を行うこと、どうしてDVが起きるのか、防止のためにはどうすればよいのかということを幅広い専門機関の連携の中で解決するという発想を持たなければならないはずです。それらの過程を全く踏まないで権力に依存するということは発想が貧しすぎるし、真の解決を考えていないと私は思います。

3 保護命令の件数を増やすことを自己目的化する主張

現状の保護命令は身体的暴力が存在し、将来的に生命身体に重大な危険があると認められるときに発動されます。命令を受けた者は、申立人やその家族に近づくことさえ許されません。一定の場合は自宅を長期間退去しなければなりません。実際に存在する命令では、自宅周囲を散歩することも禁じる命令まで出されています。著しく行動の自由が制約されますし、自宅からの退去を命令されれば財産権も制約されますので、重大な不利益を伴う命令です。これを精神的暴力の場合も行えという乱暴な議論をしているのが日弁連意見書です。
精神的虐待からの保護は確かに必要です。しかし、実務的に言って、どこまでが精神的虐待か市井の夫婦のいさかいかかなり曖昧なのです。特に精神的虐待を主張するこれまでの例からすると、私などからするとそれは国家が介入するほどの精神的虐待とは言えないのではないかという事例や、妻側の夫に対する精神的攻撃の方が精神的影響は大きいという事例でも主張されています。これまで実務経験からすると精神的暴力の内容はどこまでも拡大解釈される危険が払しょくできません。
どうして日弁連はこのような主張をするのでしょうか。その理由の一つとして、日弁連意見書は日本の保護命令の件数が特定の外国と比較して少なすぎるということをあげています。単純に数の問題を理由としているのです。しかし、保護命令の多い国と日本では、風土も違いますし、国民の意識も違います。DVの実態も違うはずです。それらの違いを考えずに単純に数の問題で論じることはできないはずです。その数の意味を論じずに、数だけで決めるということは、あたかも国の予算措置のようです。とにかく相談件数だけ増やして、相談件数が多いから予算をつけろという主張と重なります。
実際のこれまでの保護命令事件を見ると、身体生命の重大な危険がないばかりか暴力自体がないケースでも保護命令を申し立て、保護命令が出されたりしています。なぜ、裁判所が出した保護命令が事実にもとづかないと言えるかというと、それが抗告で取り消されたり、再度の保護命令を裁判所が申立人に申立てを取り下げさせたりしているからです。極めて弛緩した運用がなされているのです。
一つつけたしをしますと、保護命令が少ないということも権力に対する依存の弊害なのです。DVが危険であるのは、夫婦の一人が孤立化している場合が顕著です。誰にも相談できず、また、行動を改めるべき人間が相手ではなくて自分だと思い込まされている場合です。つまり、警察にも行政にもNPOにも相談できないケースが最も深刻なケースなのです。ところが、権力に依存する思想の前提が、被害を受けている場合は自分で援助を求めるべきだというところにあるわけです。だから、声なき声の掘り起こしをするという発想がなく、上げた声を全部救えという乱暴な議論に終始するわけです。これでは本当に保護、救済が必要な人が保護、救済されにくい制度になってしまいます。大事なことは裁判所や行政の権力行使を拡大することではなく、身近な虐待を虐待と感じて話し合いやめさせるという風土が先行させることです。そういうきちんとした前提事実を積み上げる努力をせず、要件を緩和していくばかりだから、目的外使用をもくろむ人間が使いやすくなるばかりだというわけです。国家に法律を変えろということは簡単ですが、法律が真に被害を受けている人を救済するためには前提事実を積み上げることが必要だということなのです。
私は、本当に微々たる力ですが、その前提事実を構築することを目標に、このブログを作成しています。

4 弁護士として求められる人権感覚に反する

それにしても、なぜ、男性が不当な不利益を受けることを何ら考慮することなく、女性保護の表面的な拡大ばかりを主張できるのでしょう。これまでの議論をまとめると、日弁連意見書は、「保護すべき女性がいる。この保護すべき女性を救済するために、多少の目的外使用や無実の男性が不利益を受けてもやむを得ない。だから法律のデメリットは手当てしない。」と考えているように思えてなりません。無実の男性の人権や子どもの健全な成長という人権を「多少」侵害しても、救えるべき女性が救えるならそれでよしとしているように感じるのです。
これは私の憶測なので真意はわかりませんが、もしそうならば大変恐ろしいことです。何かの正義のために犠牲をいとわない。これこそ戦争の理論だと思います。
また、そこで犠牲になる少数者の人権を擁護することこそ、本来弁護士こそがおこなうことなのです。そもそも弁護士は、刑事弁護をする職業だから弁護士と呼ばれるわけです。民事は代理人で、刑事が弁護人と呼ばれます。刑事事件の本質は冤罪を防ぐことだという考え方の人もいますが、私は罪を犯した人の人権、つまり人間として扱われることを実現することこそが刑事弁護の本質だと思っています。つまり、世界中の中で誰もが非難する犯人を、その犯人の弁護人だけは味方になり人間性を守るということが仕事のはずだと思っています。悪い人を悪いと非難することは誰にでもできます。通常の感覚通り行動すればよいだけです。そこで、理性を働かせ、どんな人であっても人間として扱われるべきだという姿勢をつらぬことが弁護士に求められていることだと思うのです。
初めから犠牲を容認した法律を制定するなんてことは、その少数者の人権擁護のための職業である弁護士の求められている要請を全く理解していない意見だと私は思います。

この日弁連意見書は、法律家としての議論の枠組みが踏まえられておらず、弁護士としての人権感覚も欠如しているという観点から、私は弁護士の一人として反対いたします。

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