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オールドタイプとニュータイプのメリットデメリット 弁護士と依頼者の関係で注意するべき「組織の論理」 政党候補者による若年者支援NPOに対する批判ツイートに大いに学ぶ [事務所生活]


1 政党候補者の若年者支援NPOに対する批判ツイート事件

  現在インターネット上では、若年女性支援の一般社団法人への公金支出が話題になっています。様々な人が様々な発言をしているようです。その中で、同じように若年者の支援をしているがNPO法人に対して、某政党の国政選挙立候補者が、以下のような批判ツイートをしました。
・ (無償での活動を強調しているが、)正当な報酬を否定することは問題だ。活動自体が疲弊してしまう。
・ 報酬ではなくて「ありがとう」が活動の原動力だというは典型的なブラック企業の宣伝と近い

この政党人の意見も確かにそうだと思う部分があって、ボランティアでできる分野と、ボランティアではできないためきちんと職業化して生活の基盤を確立して技能を制度的に高めるべき分野があるということは間違いないのです。これをはじめに指摘した人が、あの有名なナイチンゲールで、それまでボランティアだった戦時看護の職業化に貢献されたわけです。

ただ、このNPOについての情報を私があまり持っているわけではありませんが、代表の方は無報酬でするべきだと言ってはいないようです。無報酬でやらざるを得ない状態を問題視されているように思います。

そもそもこのNPOの活動は賞賛されるべき活動であり、突然第三者に否定されるべき活動ではないと思われます。SNSという誰にでも見ることができる形で批判をすること自体が普通に考えれば理由がわかりません。「典型的なブラック企業に近い」という言い方には強い抵抗があります。その政党人の方は、誰かからありがとうと言われることが活動の原動力にはならないのでしょうか。私はなります。確かにありがとうだけで報酬は払わないという企業があればそれはブラック(違法)企業でしょう。このNPOがそんなことをしているという裏付けは何もないように思われます。あまりにも唐突な論難だと感じました。

経済基盤の確立についてアドバイスするならば、友誼的な方法と表現でアドバイスをすることがあるべき姿だと思います。それが突如SNSで批判をした方が、国政政党の正式な国会議員候補者だというのですから、これを読んだ時の違和感は強烈なものでした。私だけでなく、なぜ一介のNPO法人に対して、国政政党の幹部が攻撃をするのかという疑問を多くの人が持ったことだと思います。

しかし、ここでは政党人に対する批判をすることが目的ではありません。ここでの目的は「組織の論理」の弊害について学ぶことです。格好の教材として使えると思いました。

この政党人は、批判を受けている一般社団法人を自分たちの仲間だと感じていたのでしょう。そしてその仲間をかばおうとしてツイートしてしまったと考えるとよく理解ができます。

その一般社団法人は、現在東京都の若年被害女性等支援事業を受託して、都と国から巨額の公的資金が投入されています、特に人件費にも大量の公金が支出されていることを理由の一つとして批判されていると感じていたのだと思います。だから、攻撃対象となったNPO法人が無報酬を述べていることが、一般社団法人を批判するために強調しているように感じたのでしょう。そのNPO法人は、政党人が守ろうとした一般社団法人ではない別の団体に対して抗議をしようとしていると再三言っていたのですが、政党人からすると自分たちの仲間の一般社団法人が攻撃されていると感じてしまったということになります。

なぜ、この政党人が一般社団法人を仲間だと感じたのかその理由はわかりません。

しかし、「人間はひとたび仲間だと思ってしまうと、仲間を助けたくなる性質がある」
というのが対人関係学の結論です。そうして、仲間を助けることだけに感情がフォーカスされてしまい、全体像を冷静に見ることができなくなり、無条件に仲間を守ろうとし、無条件に相手が敵だと感じてしまい、相手の人間性や人間関係、あるいは感情や人権など人間として他者に配慮しなければならないことを配慮できなくなり、その結果攻撃をしてしまうという問題行動をしてしまうわけです。これはその人の政治的な思想傾向に起因するのではなく、人間が組織を作る場合に伴う「組織の論理」の弊害なのです。

特にポイントとしては、対立当事者の一方に味方しようとすると、他方当事者は人間として配慮することができなくなるということです。   

また、ひとたび仲間だと思うと、仲間の方の落ち度、仲間が修正するべき点が目に入らなくなります。この政党人は住民監査請求の結果を見てもなお一般社団法人の会計上の問題を些細なミスにすぎないという趣旨の発言もしているのです。しかし、これはミスとは呼べません。ミスと呼んではだめなのです。「Colabo問題から前向きに考えるべきこと 1 東京都若年被害女性等支援事業の監査結果の読み方と今後の訴訟の行方」https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2023-01-11

ちなみにわたしは、一般社団法人と政権についての批判の基準にはダブルスタンダードがあっても良いと思っています。つまり政権ないし政治家(与野党問わず)に対してはより厳しい基準で批判するべきだと思います。そうでない場合はそれほど気日く批判しなくても良いのではないかと思ってはいます。しかし、今回東京都監査委員会が指摘した会計上の不適切処理は、やはり批判に値する重大な落ち度ですし、適切な会計処理をしないということは高額な予算を動かす組織としては致命的な問題で、是非とも修正しなければならないことだと思っています。

こういう思想的な深刻な問題を簡単なミスと強弁するのは過度に仲間を守ろうとしている意識になっていることを表しています。仲間のミスを無かったことにしようとするのが組織の論理です。それにしても法律を作る国会の議員になろうとしていた人が、あの監査結果を見てもなお単純なミスであると評価し、その認識を公のものにすることには深刻な問題があります。現物を読んでいないか、現物を読んでも自分の頭で考えず、組織の評価を覚えて繰り返しているだけなのだという可能性があります。読んで自分の頭で考えてそれでも単純ミスだというのであれば、法律を作る仕事には向いていないというほかはありません。しかし、これは思想の問題ではなく「組織の論理」だということを言いたいわけです。

そして組織の理論は、政党のように強固の組織だけではなく、仲間だと思った相手が攻撃されているときにも発動されるのだということが学ぶべきところである。学ぶべきポイント
・ 仲間が攻撃されているのではないかと過敏になる。
・ 頼まれないのに仲間を応援したくなる。
・ 対立当事者を敵とみなして、人格や社会的立場、その人の人間関係等人間としてするべき配慮ができなくなる。
・ 仲間の側の修正するべきポイントが見えなくなり、無謬論に立ちやすい
・ 二者択一的な思考であり、敵が勝つか味方が勝つかという発想になっている。
・ その場合の仲間は、組織的な仲間である必要はなく、心情的な仲間で足りる。

2 弁護士と依頼者との関係に引き直して考える

我々弁護士は、対立当事者の一方の代理人として仕事をします。強固な組織ではなく仲間だと思うと組織の論理が出現するとなると、弁護士の仕事上も組織の論理が出てくる可能性があり、特に注意をする必要があります。

私が弁護士になった30年くらい前と現在とを比較すると、弁護士の意識が随分変わってきています。

当時先輩方から言われたことは、弁護士は勝ち負けではなく、紛争をどう解決するか、いかに紛争を鎮めるかということを意識しながら代理人の活動をしなくてはならないということでした。つまり依頼者の言い分だけを無批判に取り上げてどこまでも対立を進めていくのではないということです(オールドタイプ)。

反対に昨今の風潮は、極端に言えばですが、まさに組織の論理で、依頼者の代理人は、対立当事者を敵とみて、依頼者の主張する利益を唯一の目標として活動をするのであり、あくまでも勝ちを追及して、対立当事者に対する配慮などは不要だという極端に言えばそういうタイプが台頭しているように感じます。(ニュータイプ)。

オールドタイプにもニュータイプにもメリットデメリットはあります。
<オールドタイプ>
メリット:依頼者の言葉にした要求にこだわって、依頼者が考えが付かないメリットデメリットを見過ごしてしまうことを防ぐことができる。例えば裁判では勝っても回収できないならば、より多く回収できる方法として和解という方法を選択することや、ここで損害賠償を支払うことによって紛争を終了して企業の悪評が高まらないように配慮できる。そもそも紛争を最終的に決着させて心休まる状態にし、依頼者の本来の生き方に専念できるようにする。和解による解決が多くなり、無駄な争いをしなくて済み、解決までの時間が短くなる等可能性が広がる。

デメリット 依頼者からすれば、弁護士が独自の見解を述べてきて、依頼者の希望を否定するので、自分の意見が尊重されない。否定や部分的修正を求められることで不満が残りやすい。
相手に譲歩する気持ちがないのに譲歩を迫られるので納得できない場合がある。

<ニュータイプ>
メリット:自分の意見を尊重してくれる。自分の自然にわかる範囲では自分を肯定してくれる。一生懸命やってもらっているということがわかる。
デメリット。オールドタイプのメリットの反対ということになるでしょうね。特に、最後まで敵対活動をすることによって、裁判が終わっても敵対感情が相互に残ってしまうということです。その結果自分にもあるいは第三者にも(子どもとか)に不利益(特にメンタル)が生じる可能性がある。というところでしょうか。

もちろん、オールドタイプで行くかニュータイプで行くかは、事案にもよりますし、最終的には依頼者の判断任せるということになります。弁護士はできないことをできないということはどちらでも必要です。

ニュータイプの場合特に注意しなければならないことが組織の論理です。

味方の落ち度を無かったことにする。あるいは過小評価してしまう。相手の利点を過小評価してしまう。
その結果最大の問題としては、
1 見通しを間違い、戦略を間違う危険があるということでしょうか。心理的問題があるということを自覚することで大分問題会費ができると思います。

2 対立当事者に対して弁護士倫理に反するような攻撃をしてしまう。弁護士の品位を害する行動、活動をして懲戒問題が生じてしまう可能性があるということにも注意が必要だと思います。

冒頭挙げた政党人は、国政選挙の候補者になるのだから、おそらく立派な人であろうと思います。その人でもあのようなツイートをするのです。組織、仲間意識というのは無条件に肯定されることではなく、弊害があることだということは頭に入れておいて損はないと思います。

つまり人間の思考は、人間と人間が対立しているときに介入することに適しておらず、猛獣に襲われた仲間を助けようとする感情がつい出てきてしまうということなのだと思います。

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それが「いつ起きたこと」だったか思い出せない理由と思い出させるテクニックの検討 [事務所生活]



<問題提起>
例えば職場のパワハラでうつ病にり患した人が損害賠償請求を起こすという場面を想定してください。うつ病になった人は、どのようにパワハラを受けたか、どのように叱責を受けたか、どのようなしぐさをされたのかということについては比較的覚えています。覚えているというよりは忘れられないという表現の方が正しいようです。しかし、何年からパワハラを受け始めたのかとか、同僚の前で暴行されたのは何年のことかというと思い出せない場合も多いのです。

これが、つい最近の出来事であれば、思い出せないということは無いのですが、数年前のことになると、何年のことかと質問されて、パッと何年ですと答えられるということは少ないのではないでしょう。

すぐには思い出せないとして、何年から何年の間だと言っていただければ、まだよいのです。そうではなくて、自信もないのに平成何年のことでした。なんて言われて、それを簡単に信じてしまうととんでもないことになります。例えば、パワハラ受け始めたのが平成28年のことです。なんて言ってしまって、そのように裁判書類にも書いてしまった後で、実は平成27年から精神科の治療を受けていた、しかも病名がうつ病だというのであれば、「現状のうつ病はパワハラ以前から始まっていたではないか」ということになってしまいます。実は平成26年からパワハラが始まっていたのに、言われてから年号を変えるというのでは全く信用性が無くなってしまうということもあります。

裁判の場合、きちんと言わなくてはならない事実の外に、その事実の前提となるような事実もあって、何年かということを間違うことは致命的になる場合もあります。

しかし、それが何年かということは、なかなか思い出すことは難しいようです。
今回は、どうして何年かということが思い出しにくいのか、答えにくいのか、あるいは間違いやすいのかということを考え、どうやって正確に思い出していただくかということを考えてみましょう。

<それが何年なのか思い出せない理由>

記憶していた出来事を思い出すという作業の特質からすると、何をされたかということは思い出しやすいのですが、それが何年だったのかということを思い出すことはそもそも難しいということのようです。

この点については、ちくま新書「記憶の正体」(高橋雅延)の勉強成果に基づいてお話しすることとします。以下の文中の数字はこの本の頁や章を指しています。

1)人間の記憶の想起には手掛かりが必要である(第6章)。

何かの出来事の記憶を思い出すためには手掛かりがあることが必要なのだそうです。殴られたこと、侮辱されたことということがトラウマになってしまうと、忘れられなくなってしまうために、思い出すという作業は不要になるでしょう。
あとは間違った記憶を排除して、出来事を正確に再現する作業が必要になるだけです。

何人かから暴言を受けるという場合、そこに誰がいたかということを思い出す場合、例えばその暴言を受けた場所に行くとその時のメンバーが誰であったか、記憶がよみがえりやすいということのようです。もっともその場所に行かなくても場所、例えば会議室の様子を思い出すとその時のメンバーの顔も思い出しやすくなるようです。逆に、PTSDに限らず、何らかのトラウマ体験に苦しむ人は、その時の絶望的な気持ちを連想させる場所に行くだけで、その時の苦しかった感情がよみがえってしまうようです。雨の日に性被害に遭った若い女性が、雨が降るだけで気持ちが落ち込んでしまうということを聞いたことがあります。

これに対して年数については、なかなか手掛かりということがありません。そもそも、出来事があったときに、今何年だということを意識してはいないと思うのです。確かに今何年だと問われれば、2022年だと簡単に出てくるのですが、何かをしているとき、あるいは何かをされたとき、今2022年だと意識しているということは無いと言えるのではないでしょうか。

出来事については、感情が伴います。悪い出来事ならば、悔しかったとか悲しかったとか、怒りに震えたなんてことがありますので、思い出すきっかけは豊富にあると思います。しかし、何年かという数字が感情に結び付くということが難しいということも思い出すきっかけが見つかりにくいことの一つの理由だと思います。

例えば、ディズニーランドに最後に行ったのが何年かということです。子どもと一緒にどんなアトラクションに乗ったということは覚えているのですが、それが何年のことだと聞かれても、すぐには返答不能です。

出来事と年数は直結しない、元々直結して記憶していないということも言えるのかもしれません。

2)思い出しやすい記憶は、何度も思い出している。

記憶の想起は、記憶力を鍛えるよりも記憶したことを引き出すこと早期の練習が効果的である(170~175頁)。
思い出すためには、反復して思い出す訓練をすることが必要である(166)

繰り返し思い出すことをしていると、思い出しやすくなるようです。忘れられないトラウマなんかは、繰り返し思い出しているわけですから、記憶は定着しやすいということになり、わかりやすいです。
しかしながら、それが何年のことかということについては、いちいち思い出すことは無いと思うのです。いやな出来事は反射的に思い出したとしても、思い出したくない、思い出した時に苦しい思いをするということであれば、意識的に正確にアウトラインを検証してみるなんてことはしないと思うのです。そうすると、それがいつのことかということは思い出す作業をしていないとなると、やはり何年かということについて思い出すことは難しいということになると思います。

3)西暦と元号の混乱

最近見られるのは西暦と元号が混乱していることです。平成28年は2016年なので、平成28年というべきところを平成26年と言ってしまうという単純ミスがよく見られます。また、そうやって西暦の下一桁に2を足していくという作業をしていると、元号の下一桁に2を足してしまってありえない年数をお話しする方もいらっしゃいます。
これは慎重に聴き取れば、間違いを回避することはそれほど難しくはありません。

<それが何年のことか思い出すための方法>

1)想起の基準、時間軸のランドマークを作り当てはめる
大きな出来事を基準として、その前なのか後なのかという聞き方をして思い出していただくということをします。

私は仙台の弁護士ですが、少し前までは、その出来事は東日本大震災の前か後かということを手掛かりにして思い出してもらうことが良くありました。震災によって、私たちの生活は大きく様変わりしました。そのことが震災の前か後かということは比較的思い出しやすかったようです。

そのエピソードが震災によって何らかの影響を受けていれば、「ああ、あの時ああしたのは震災によってこういう習慣が生じたためにやったのだから、震災の後であることは間違いない。」等と思い出してもらえたようです。

しかし、これも震災後10年近くたったころからはあまり役に立たなくなってきました。
ただ、時間軸のランドマークを作って、その前後という問いかけは有効になることが多いです。どのように時間軸を設定するかという工夫の問題が肝心だと思います。

2)関連する出来事の経過表を作る

年数を思い出すことにも有効ですが、人間関係の紛争を理解するためにも、出来事の時系列表を作るということはとても大切だと感じています。

何年何月のことについて、最初はあまり神経質にならず、主だったエピソードの先後関係を間違えないようにだけ神経を使ってもらい、古い順から並べてもらうということをまず作業として行ってもらうようにすることが多いです。

この作業は、弁護士が出来事を頭に入れ、原因や解決方法を考えるためにも必要ですが、当事者の方がご自分の頭の中を整理するためにもとても有効です。この時系列を整理しただけで、自分に対して自信を持ち、相手と対決してご自分で事件を解決してしまった人もいらっしゃいます。

3)客観的に年月日が特定できる資料によって精緻に仕上げていく

出来事の順番については、比較的思い出しやすいようです。出来事を前後関係順に並べていただき、思い出せる範囲で年数をいれて、少しラフな時系列表は結構誰でも作ることができています。そこからが弁護士の腕の見せ所ということになります。

ラフな時系列表の中で、それが何年のことなのか客観的に確定できる出来事があります。入籍の年月日、子どもが生まれた年月日は、覚えていることが多いです。比較的思い出すことが多い年月日だから、想起の作業の反復訓練をしているわけです。検証が必要な場合では戸籍謄本を見れば確実です。

同様に住民票には転居の年月日が記載されていますし、登記簿謄本には登記をした年月日だけでなく登記をする原因になった相続の年月日、例えば被相続人の死亡日が記載されています。

4)客観的な年月日を元に出来事の年数を推測していく
子ども生年月日を特定して出来事の時期を確定していくという作業はよくやります。特にお子さんが小さい時の記憶は、出来事と関連付けられることが多いようです。それはお子さんが小学校に入学した年のことだとか、幼稚園に入る前だけど生まれてはいたとか、幼稚園がたまたま休みだったので子どもを連れてそこにいたとかいう感じですね。また、どこに住んでいた時の話だったから、住民票を見てその年が特定できるということもありましたね。

記憶の想起の仕方は関連付けであることは間違いないようです。思い出すという作業は、何か別のことと関連付けるということかもしれません。

5)さらに精緻に

年月日を正しく特定するための関係する出来事を提案するためには、ある程度人生経験が必要だと思います。ここでいう人生経験は必ずしも年齢に比例してはいません。当たり前の人間であれば、生活するうえで当たり前にどんなことをするかということを知っていたり、自分には興味関心が無くても普通の人なら強く印象に残ることを知っていなければなりません。今サッカーのワールドカップが行われています。日本選手はベスト8にはなりませんでしたが、強豪国とPKまでもつれ込むという大健闘を見せてくれました。「え、知らなかった。」という浮世離れな感覚では、一般事件であっても支障が出るかもしれません。

当たり前の話でも、そういう意識をもって話を聞くことが大切ということなのでしょう。例えば、メインの出来事の前に軽い事故に遭っていたという情報をゲットすると、病院の記録によって、その事故の年月日がわかるかもしれません。簡単な方法としては、その病院に行ったのはそのけがの手当てをしたときだけだとなれば、診察券を見れば年月日がわかることがあります。さらに、パワハラを受けて胃が痛くなったので胃カメラの検査をしたということになれば、診療録(カルテ)が残っていれば、そのコピーをもらって胃カメラ検査をした日が確認できます。カルテに、「何か悪いものを食べた記憶はないが、上司からこっぴどく叱責されることが続いているので、神経性のものかもしれない」なんてことが記載されていれば、思い出す道具だけでなく、提出する証拠になる可能性も出てくるわけです。

6)終わりに 興味を持って聴くこと

年月の問題も記憶の想起の場合は、思い出すきっかけが無ければ思い出しにくいけれど、関連付けていくと結果的に正確な年を割り出すことができるということが共通していることが面白いところです。記憶についての勉強はとても役に立つように感じました。

ただ、人間の営みについて理解していなければ、せっかくの武器も素通りしてしまうという危険もあるのが年数の問題だと思いました。この素通りを回避するためには、その人と紛争相手の行動について、興味を持って聴くということが肝要なのだと思われます。

知識と興味によって、こういうことがあればこういうことをするのではないかというアンテナを大きく広げて正確な事情聴取ができるのだと思いました。

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苦しんでいる人に寄り添うカウンセリングが人間関係を破綻させるメカニズム。母親の味方をして父親を攻撃する子は、必ずしも父親を嫌いなわけではないこととの共通性と許されない相違。 [事務所生活]


私は、何年か前から、一部の精神科医や心理カウンセラー、それと何も考えないでマニュアル通り対応する一部の弁護士や行政などの支援者が、傾聴とか言って、精神的に苦しんでいる人の「言葉」を否定せずに、「寄り添い」とか言って、すべて駄々洩れのように肯定し、あろうことか、積極的に言語化して「こういうお気持ちですね。」などと念押しまでしていることに違和感を覚えてきました。本能的に言い知れぬ不快を感じていました。

また、そのような「寄り添い」が、壊れなくても良い人間関係を壊し、結局当事者を孤立させるなど、新たな不幸を招いていることもみてきました。

(夫婦間のケース)
典型的な話は夫婦間の話です。色々な理由で、妻なり夫なりは、夫婦でい続けることに自信が持てなくなることが多くあるようです。自分が嫌がられているのではないかと思うことがあるのが実際の人間のようです。その疑心暗鬼が体調や偶然の出来事が原因で病的になることもそれほど珍しくありません。そんな時、誰かに相談をして、「それは夫の(妻の)モラルハラスメントです。あなたが苦しいのは当然です。」等と言われれば、単なる疑心暗鬼が、自分が迫害を受けているという確信に変わり、仲良くし続けたかったはずの相手が、自分にとって害悪をもたらす「敵」に変わっていってしまいます。このようなケースの離婚は、最近多いです。こういうケースの場合に離婚を突き付けられた相手は、自分の何が悪いのか心当たりがありませんから、離婚自体を激しく争うわけです。また、二人の間の出来事が悪意に満ちて表現されて裁判所で主張されるわけですから、新たな憎しみがおこるわけです。裁判所は関係破綻のアリ地獄のような様相を見せます。

(親子間のケース)
親子関係が壊されるケースがありました。子どもも大きくなりかけた人が、精神的に悩んでいてカウンセリングを受けたところ、その相談者の母親の相談者に対する育て方が悪い、育て方が原因で相談者は苦しんでいるということになってしまって、相談者は母親を攻撃するようになってしまいました。相談者は、ある心理的に影響を与えた出来事をカウンセラーに隠していました。軽いミュンヒハウゼン症候群みたいなところがありました。その相談者が嘘をついたことでその相談者自身が不利益を受けることは仕方がないのですが、その相談者の母親は攻撃を受けてとても苦しむようになりました。その相談者の母親はこれまで働きながら家事をして一生懸命生きてきたのですが、その人の人生そのものが否定された結果になりました。

(いじめ被害者の家族)
いじめを受けたお子さんの親御さんについても同じようなことがありました。いじめの被害者は、実際よりも孤立していると感じやすくなっています。よく聞くと大抵のケースでは、いじめられている子を心配して、手を差し伸べる子がいるもので、その事実をいじめ被害者も認知しているのですが、手を差し伸べている、自分を心配しているというその子の心情を理解できない状態になります。支援者は、その子の歪んだ認知を肯定してしまい、被害者と家族を絶望させ、何らかの差別からいじめが始まったと思わせてしまい、破れかぶれの攻撃を仕掛けさせてしまいました。本来支持されるはずの被害者家族は、その行動によって地域から孤立してしまい、いじめによる被害のスパイラルが拡大してしまう要因を作ってしまいました。

(いじめを受けた本人のケース)
噂話を流されて、心理的に参ってしまった人のケースもありました。特定の人が相談者に対して、何度もやることなすこと揚げ足をとるようなSNSを発信していました。言われている被害者は、だんだん認知がゆがんでしまって、自分がこんなことを言うと自慢話をしていると言われてしまうとか、こういうことを言うと批判されてしまうという「被害者の心理」に陥っていました。その批判者の論理や価値観で物事を考えるようになってしまっていたのです。支援者は、その批判者の論理を前提として、発言や行動を控えようとしていた被害者の行動を支持してしまいました。しかし、それは、批判者の論理や感情が一般的な社会常識であり、従うべきことだという被害者の被害者の心理を増強させてしまいました。被害者の要求がそういうものでしたので、その被害者の要求の言葉に無条件に寄り添ったわけです。私は、行動を控えるということは一次的には賛同したものの、社会常識的に考えて、それが自慢と受け止める人はいない。悪意のある人でなければ自慢とは取らない。批判があったとしても正当ではないと思うと言いました。被害者の言葉を肯定し、承認するのではなく、批判者の論理、価値観を否定することが必要なことではないかと思いました。

もちろんカウンセリングが有効ではないということを言いたいのではありません。私自身、信頼しているカウンセリングチームや精神科医に対して、自分の依頼者を積極的に紹介し、精神的体力を整えて人間関係の紛争を解決するという手法をとっていますし、その方法論の第1人者であると自負もしています。

しかし、真面目で優しい、そして正義感が強い心理的支援者ほど、間違いを犯すことが多いように感じていることも言うべきだと思うようになりました。

ところで、このように人間関係に苦しんでいる人は、感じ方が「被害者の感じ方」になっていることが多いです。実際の困った事態以上に困って苦しんでいるのです。「被害者の感じ方」としては、
悲観的になる(どうせだめだろう。状況はますます悪くなる。)。
二者択一的になる(どちらが善でどちらが悪か。敵か味方か)。
原因を単純化して特定して責めたくなる(私を苦しめるのはどの人)。

カウンセリングは、このような感じ方の変化(認知の歪み)を見つけて、修正し、必要以上に悩まなくなるように、誘導するべきなのではないかと漠然と考えています。ただ、苦しんでいること自体は否定することはしてはらないということは素人の私にもなんとなくわかります。
もっとも私は弁護士ですので、認知の歪みを正すことを目的とした支援をするわけではありません。人間関係の不具合を是正する、あるいは緩和することが仕事の内容です。認知の歪みを積極的に見つけるということは二の次の話です。こういうアプローチにはメリットも多くあるようです。修正するべき人間関係がない、あるいはそれほど修正の必要性が高いとは思えないということを指摘することができるのは、そういう仕事の性質というアドバンテージがあるのかもしれません。テクニックというよりも、自分がこれまで歩んできた経験と合理的な第三者的思考を活かすというか、まさに人格対人格の切り結びの中で一番良い方法を考えていこうというアプローチというしかないのかもしれません。操作的テクニックがあるわけではないのだろうと思います。
また、状況によって被害者の心理が生まれることも理解することは大切です。本来そのように苦しまなくても良いのに苦しんでしまうことが人間の心理というか生理というか、ごく自然なことであることも説明することができます。
つまり、
「あなたが、苦しんでいることには理由がある。私があなたでも同じように苦しむでしょう。それはこういう人間の性質から苦しんでしまうし、実際より余計に苦しんでしまう。誰でもそうなる。実際の状況はこうである。そうすると、こういう戦略をとる必要はない。そういう戦略はデメリットが大きく、こういう新たな不利益を生みやすい。むしろ、実際の状況がこうなのだから、この人を味方に引き入れることができる。しかし、相手方の負担を考えると、ここまで協力してくれれば御の字で、これ以上初めから要求するべきではない。大事なことは着地点をどこにすることを目標として、現状よりどう改善するかだ。」
と、問題解決の方向に発想を切り替えることが可能となるわけです。

一部の支援者やカウンセラーは、どうしても、目の前の苦しんでいる人を助けたいと思われるのでしょう。苦しみを否定したくない、あるいは否定してはならないという縛られた発想から、その人の歪んだ認知にもとづく苦しみの原因についても否定しないという誤りを犯してしまう原因がここにあるようです。結局、この人たちは、苦しんでいる人がその人間関係の中でこれからも生活することをリアルに想定していないと批判するべきではないでしょうか。相談に来た自分の前で、苦しんでいる人の苦しみが軽くなったという報告を受けたいということになるように思われてならないことが最近特に多くあります。だから、アドバイスの結果、その人間関係にいることがその人の苦しみの原因だということになってしまい、乱暴にもその人間関係からの離脱が単純な結論になってしまうのかもしれません。人間関係の離脱を自己目的化したマニュアルもあるようです。まじめな支援者たちは、そのことに気が付いていないようです。そうして、今の苦しみから逃れたいと渇望している人が、藁をもすがる気持ちでその人間関係から離脱して、その結果生活が苦しくなって、相談員に相談をすると、その相談員は自分が責められていると感じて、その離脱は「あなたが決めたことです。」等と平然と言ってしまうことができるのだろうと思います。一時的に心が救われたらよいというわけではないと言いたい事例は残念ながら多いです。

よくあるケースですが、専業主婦の相談者から、私は毎月の家計を夫から2万円しか渡されていないという類型の相談がされることが良くあります。そうしてその相談の結果、経済的虐待だということが離婚の大きな理由として離婚訴訟が提起されることがあります。しかし、よく話を聞くと、夫の収入は手取りで20万円以下。光熱費や子どもの学費は口座引き落とし、食料品や雑費は毎週家族で買いに行き、これは夫が出している。結局その2万円は、妻の小遣いだったわけです。もちろん小遣いとしても少ないという不満は正当ですが、ある意味仕方がないということも言えるわけです。もちろん夫には小遣いはありません。どちらかというと、虐待されているわけではなく、精いっぱい尊重されていると私は思います。私ならば、相談を受けたとき、そこまで聞きます。最近の相談員は、簡単に相談者の相手を否定評価してしまいます。この事例等、完全にミスリードです。自分は小遣いもないのに妻には精いっぱいのお金を渡しているのですから、妻は愛されていると思いますよ。給与明細を見せないという不満も聞かれますが、それは妻をないがしろにしているというよりも、自分の収入の低さを気に病んで事実を見せたくないという気持ちではないかと自分の考えを伝えるわけです。どちらが正しいかはご本人が判断することですが、選択肢は本来たくさんあって当たり前のはずです。しかし、一部の相談員に相談に行くと、不思議なまでに選択肢は一つなのです。
但し、これは思想的なものとばかりは言えないようで、どちらかというと相談者の心に「寄り添う」ことを第一に行わなくてはならないというカウンセリング手法に問題があるように思えてきました。人格的な切り結びという、相談員にとってもかなりの精神的体力が必要な相談手法を省略して、マニュアルをなぞる相談手法は楽なのだと思います。でもそれって、相談者をある意味人間扱いしていないのではないかという恐怖を感じるところです。

さて、このように目の前の人の感情を緩和させることが唯一最大の目的で行動することを事件の過程でよく目にします。
別居や離婚をした母親の苦しみを緩和させるために、父親を攻撃する子ども(特に娘)の事例です。このメカニズムについては、既に長々と考えましたので、割愛します
調査官調査に対して子どもが別居親に「会いたくない」と言う理由
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2019-01-29

子どもは一緒に住んでいる母親が苦しんでいることを目撃すれば、母親の苦しみを軽くしてあげたいと思うわけです。母親の苦しみには自然と共感してしまい、自分も苦しくなるからです。そうして自分が父親を嫌っている、必要としていないということを言うと、母親の苦しみが軽減することを体験的に学習してしまっています。ありもしない父親の暴力があったということを言い出すと母親が安心することも学習しています。母親は病的に苦しんでいることが実に多く、不安症圏の診断名が付いていることも多くあります。実際は頭部外傷の後遺症であったり、婦人科疾患によるものであることも多くあります。子どもにとってそんなことはどうでも良いことです。一緒に住んでいる唯一の肉親が苦しんでいるのだから無条件に何とかしてあげたいと思うわけです。同居中の真実なんてどうでもよいわけです。
実際は見ていない(存在しないし、存在したとしてもその場にその子どもはいない)夫婦間暴力によって、PTSDの診断がついてしまうのも、あながち精神科医が適当なことをやっているというよりも、繰り返し母親から聞かせられた出来事や母親の精神的苦痛が刷り込まれて、自分の苦痛だと思ってしまっているという事情があるのかもしれません。
離婚調停などで、子どもは、調査官調査の中でとか、母親が書かせた子どもの陳述書などで父親を攻撃する言動をしているかもしれません。しかし、それは、母親を守ろうという意識が精いっぱいで、それ以上物を考えていないからです。それから、同居中の記憶が失われていたり、本当は、自分が悪く親から注意を受けている場面も、親が自分に暴言を吐いたというように記憶が変容しているからです。子どもはけなげに自分の母親を助けようとしているだけなのです。
これ冷静に考えると、同居中だって、夫婦喧嘩の時に母親が先に取り乱せば母親の味方をすることが多いように思うのですよね。父親は裏切られたと思うのですが、結局被害者アピールを見せる方に、子どもは味方するわけです。だから、

子どもに正当なジャッジを期待していけない

ということは、親として肝に銘じなければなりません。また、子どもは、父親に会うことが現実的になった場合、罪悪感に苦しみます。実際会ったときに、父親が「あの時悪口を言いやがったな」という気持ちになれば、顔に出て、面会はぎくしゃくします。そうではなく父親が「そんな事ちっとも気にしないよ。パパの代わりにお母さんをかばってありがとうね。」という意識で、いつも通り「やあ。」と言えば、子どもはすべてを許してもらったことを理解し、時間の流れを飛び越えて同居中と変わらない関係が瞬時に再現できるわけです。
(困ったことは、こういう子どもの気持ちを家裁の一部の調査官が理解していないことです。子どもの矛盾した言動が矛盾していることにも気が付かないし、別居親を否定するときに具体的なことを言わないこと、すべて調停や訴訟で出てきた同居親が主張した出来事しか言わないということに疑問を持ちません。母親の意識とは独立して子どもの意識があるはずだとか、子どもしか知りえない様子があるということを理解していない。つまり子どもが独立した人格を有する人間であることに思いが至っていないと感じます。子どもの発した言葉を言質を取ったように考察の根拠としています。)

子どもは母親と人格的な切り結びをすることは無理です。母親が子どもに依存すればするほど子どもも母親に奉仕しようとするし、喜びや悲しみという感情さえも依存しようとしてしまうようです。その関係にくさびを打つ可能性があるとすれば、それは父親の子どもに対する寛容の姿勢を示すこと。そこからしか物事は始まらないのだと思います。


いずれにしても、子どもが母親(場合によっては父親)をかばうことは、大目に見なければなりません。父親を攻撃しているわけではありませんから。しかし、中途半端な職業支援者が、クライアントを擁護するために、別の人を攻撃した場合は許されることではないと感じています。クライアントの気持ちを軽くすることはよいとしても、だからといってそのために別の誰かを傷つけて良いということにはなりません。そして、そういうクライアントしか人間として認めない手法の支援は、結局クライアント自身も苦しみから解放しない可能性が高いということからです。

自分の人格を総動員して、相談に乗る。こういう姿勢がない相談は、相談者にはわかられてしまうと思うのですが、どうなんでしょう。
ある相談員のおおもとの組織のあるマニュアルというものを見て、危機感が募ったものだからこんなことを考えてみました。

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コロナ不安に便乗して自説を通そうとする人たちにはくれぐれも注意が必要 [事務所生活]

ある日に受けた相談です。同僚が咳をするというのです。
コロナかもしれないのに仕事を休まないということを非難しているようでした。
また、このご時世に東京に遊びに行ったということで非難をしたいようです。
どうしてただ咳をしただけで怒るのか。呑み込めません。
このご時世に仙台から東京にわざわざ遊びに行くことはないだろうと思うことは分かるのですが、
わざわざ外部に相談するまでのことではないだろうと思うので、もう少し話を聞き出してみたところ、

もともとその同僚は、他人に厳しい人というか、乱暴な人というか、
みんながその人からいじめられているという感覚を持ち続けていた人のようなのでした。
いつか反撃をするという機会を待っていたようです。
はじめはコロナの問題での相談だったということでしたが、
少なくともコロナ感染という環境衛生だけの相談ではなかったわけです。
相談している人は、その咳をした人に対して
なんからの制裁をするという正義を実践しようという意識をもっていたようです。
このためご自分が少し過剰な反応をしているということに思い当たらないみたいでした。

気をつけなければならない事は、コロナの問題だからということで聞き分けの良い態度をとって、
心配することは当たり前だということでなんとなく流してしまっては対応を間違うということです。
「そうですよね、咳をされると心配ですよね。」とか、
「みんな我慢しているのだから、今東京へ行くのはいかがなものかと思いますよね。」
なんて回答をしてしまったら、その人は職場で、
「私が相談したところ、咳をするのは時節柄よろしくない。東京へ行ったならば検査をするべきだと回答された。」
なんて言われかねないわけです。
相談者に寄り添えば良いという考えでいたら、
とんでもない間違いを犯すところだったかもしれません。

一見コロナの問題だと思っても、実はコロナの問題は口実に過ぎない
ということがありうることは注意が必要でしょう。
そして、コロナの問題は、不安をもとに周囲の共感を作ってしまう
ということをしっかり認識しておく必要があるでしょう。
コロナを口実にいじめということが起こる危険性があるということです。
一見コロナの諸注意をしているように見えて、
特定の人だけが厳しく注意される類型のいじめが生まれるということです。

また、今回の相談のケースは、特定の人が恨みを買っていたケースで、
対応関係がわかりやすかったということがあったのかもしれません。
不特定多数の人に恨みを抱いているという特殊事情のある人である場合、
誰でもいいから、コロナの問題で非難を誰かに集中させるケースも出てくることでしょう。
不特定多数の人に恨みを抱くということは、それほど多くなくてもありうるのもご時世です。
さらには、恨みとまでは言わないでも、
社会に対する不満を持っている人達の不満とコロナの不安が共有されれば、
誰か攻撃しやすい人を攻撃してしまうということも想定しておかなければなりません。
コロナだからしょうがない、コロナを蔓延させる危険があるから辞めさせなければという意識は、
とことん注意が必要なのかも知れません。

もう一つ多いのが、
最近8月ころから、若年女子の自死が増えてきたという報道がされるのですが、
その理由でコロナをあげている報道があります。
7月までは自死の数が例年に比べて減少していたのが
8月ころから増加に転じたということを無視して
コロナが原因だと決めつけたところが考察が始まっていることが目につきます。
どうしてコロナと自死が結び付くかというと、
「コロナでステイホームになると、家庭内の葛藤が高まる。」
という検証されていないドグマが存在することが前提となってしまい、
家庭の問題で若い女性が自死を選ぶなどという
乱暴な議論が起きているようです。

だいたいは特定の意図を持った人が記事を書いており、
ステイホームはDVの温床だというようなことを
かなり早い時期から喧伝していたのです。

特定の意図を持った人が統計上の根拠もない憶測だけで
家庭の中への警察などの介入などの持論を
コロナを口実に持ち込むことが目につきます。

そもそも家庭が原因で若年女子(特に中高生)が増えている裏付けは
何もないのが今日現在の現状です。

コロナ、コロナ禍、コロナ不安は
様々なところで利用されているようですから、
しっかりと裏付けの有無を吟味する必要があると思います。

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【炎上に便乗】産後の女性をいたわることこそ日本文化の伝統 差別とは障壁を無いことにするところから始まることを学ぶ 女性の敵は「女性」 [事務所生活]


とある衆議院選挙に立候補をした経験のある方名義の
Twitterが炎上しているようです。
「産後うつは甘えだから、それを言い訳に家事育児を怠ったら怒鳴りつけてしつけろ」
という非常識なメッセージです。

これに対して反発が大きいもので炎上となったということですから
「産後うつ」という言葉がかなり普及してきたということで
我が国も健全化しつつあるなあと感じました。

こういう機会をとらえて産後うつという概念を
さらに広めるいいチャンスだと思いました。

産後うつは、大変怖い現象です。
広い意味での自死が起きたり
母子心中の原因にもなります。

また、離婚や別居の原因にもなると思われます。
そうならなくても不安や緊張が持続して色々な不具合が起きる可能性があります。
つまり、女性が不幸せになる原因となっているのです。

これまでもこのブログでしつこくお話してきました。

産後うつと母親による子どもの殺人と脳科学 床上げの意味、本当の効果
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2014-12-11

もっとまじめに考えなければならない産後クライシス 産後に見られる逆上、人格の変貌について
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2015-10-12


言いたいことは
産後うつ、産後クライシスは
気の持ちようではなく、脳の変化である。
気合を入れられたからと言って
無くなることはないということ

古来から日本では、産後うつという言葉はないにしろ
その現象を把握しており、
その手当て、母親に対する気遣いを
地方ごとに行っていた
これが日本の古来からの伝統であるということです。

健全な批判が多数起きることによって
産後うつの真実についての知識が広まることに
微力ながら貢献していこうと思います。



しかし、今回言いたいことはもっとあるのです。

先の立候補経験のある女性名義のツイッターで、その後
「『産後うつ』などと甘えたこといっているから男女平等は実現せず、性差別が横行することにまだ気付けないのでしょうか。」
というツイッターが更新されたことです。

これは日本がいつか来た道です。
1980年代に、雇用機会均等法を制定する露払いとして
それまで労働基準法上認められていた
女性の深夜勤の禁止と生理休暇の権利が廃止されました。

深夜勤の禁止や生理休暇が、女性の職場での地位向上の足かせになっている
という主張がされたのです。

この時も表だってそのような主張をさせられたのは女性たちでした。

女性保護を当該女性の保護に限局してとらえての主張だったのですが
本来は「母性」保護だったのです。
立派な国家政策でもありました。
母性を保護することによって、
これから生まれてくる子どもたちを保護する
という意味合いが強い規定だったのです。

生まれてくる子どもよりも
職場で対等に出世するということに価値をおいた主張だったわけです。

さて、法律ができてその後、女性たちが
男性と同様に正社員になり、出世していったか
男女の賃金格差が是正されたか
閣僚の半数近くが女性になっているかと言えば
そうではないことは現実を見てのとおりです。
今にして思うと、初めから男女賃金格差なんて
目指してはいなかったように感じます。

男女が同じ条件で競争しなければならない
というところにこそ不合理を感じるべきだったということに
今回のツイッターであらためて気が付くことができました。

実際は様々な男女の違いがあるにもかかわらず
それを無いことにして叱咤激励をするということは
(違いを乗り越えることができる個体はいるもので、
そういう人たちは良いとして)
圧倒的多数に対して
男性の作り上げた男性仕様のシステムの中で
現実に立ちはだかる壁に押しつぶされることを押し付けているだけです。

不合理を是正する、差別を解消するということは
この壁を取っ払って、対等な競争をするということです。
そうなると
対等な競争とは、助け合いということに意味が変わるはずなのです。

結局女性の真の解放は、
女性の心に安心感を与えて、女性の能力を発揮することであり、
そのためは、男女の違いを承認し、
女性にとって不合理な壁を取っ払うことが必要であり、
これなくしては女性は不合理な、不当な評価を受け続ける
ということにも気が付きました。

つまり、男女の違いを承認しなければ
女性は解放されないということです。

違いは違いであるだけです。
違いに優劣はない。
ここから始めませんか。

そしてもう一つ
男女の違いを認めずに
女性に対して男性仕様の評価に甘んずることを押し付けるのは
常に女性名義で主張が行われるということ
このことも心にとめておきたいと思います。

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「あなたも悪いところがある。」ということを言えない支援者は支援をやめるべきだという理由。但し、問題は言い方ということについて。 [事務所生活]



DV相談マニュアルなどには
「『あなたにも悪いことがある』と言ってはならない」
ということが記載されていることがあります。
これは大間違いです。それについてご説明します。

おそらく、なんでそういってはダメなのかわからない人が
マニュアルを作っているから
そんなマニュアルの言い回しで良いと思っているのでしょう。
また、それを形式的に真に受ける自称支援者がいることも確かです。

先ず、どのように言うことが相談者にとって有害なのかを説明しましょう。

一番の問題は、
相談者の話を長々聞いた後、
「あなたにも悪いことがあるから」
「我慢しなさい」とか
「気の持ち方ではないですか」
等と言って相談が終わってしまうことなのです。
これは確かにダメです。

ダメな理由1 
相談者もこんなことは言われなくてもわかっています。
自分にも悪いところはあるだろうと思わない人はいないので、
こんなこと聞くために相談に来る人もいません。

言わなくても良いことを言われた相談者にとって
長い時間、恥ずかしさも振り捨てて相談した「あの時間は何だったのだ」
という徒労感しか残りません。
他人に相談することは時間の無駄だということを
学習してしまうことになります。
誰にも相談しようとしなくなり
悩みを一人で抱えているうちに悩みが肥大化していってしまいます。

ダメな理由1は、解決の方法が全く示されていないということです。

ダメな理由2
わざわざ他人に相談に来ないわけにはいかない心理状態ですから、
苦しんでいることは間違いないのです。
先ずは共感を示すことが必要です。
それが相談対応の第1歩です。
最低限必要なことは
「共感をする」ことではなく「共感を示す」ことです。

間違いのない表現は
「あなたは苦しいのですね」と確認することです。

そうして次にどうしたらよいか一緒に考えるということになります。

ダメな理由2は、共感を示さないことです。

この二つがないのだから、およそ相談でも支援でもありません。

なぜこのパターン、「傾聴、共感を示す、一緒に考える」
ということができないかということを考えるべきです。

担当者に相談者の苦しみが伝わってきていないのです。
あるいは共感ができないのでしょう。
相談者を「気まま、ワガママ、子どもじみた自己中心的人間」
だと思っているのです。

そう思わせてしまう相談者の相談事は確かにあります。
しかし、それは話し方が下手なだけであり、
実際は深刻な事態の中で孤立していて苦しいのかもしれません。
先入観を捨てて話を聞いて、
色々疑問なところを尋ねてみることが必要です。

例えば、その人は、自分からは何も働きかけをしないで
家族からサービスを受けることが当たり前だ
というような感覚を持っているように見える場合があるわけです。
一緒に家庭を作っていくという感覚がないのではないかというわけです。

相談担当者は、極力相談者に否定的な態度を示さずに
人間関係の状態は相互作用で形作られると思うのだけれどと説明し
どうして相手を変えていこうとすることができないかということを
一緒に考えていくことが求められると思います。

また、どうして、自分は事態が改善されるのを待っていれば良い立場だと
考えるに至った起源を探ってみるということも大切なことです。
すると、自分の疑問が実は誤解に基づいていたということが
見えてくることがあります。

また、比較的多い原因の中で
誰かが善意ではあるけれど無責任な肯定を行ってしまっていて
自分の不満は正当であると思いこまされている場合もあります。
女性は受身であるから、
二人の関係は良くも悪くも男性次第であり
関係が悪いのは男性に責任があるから
女性はただ関係から離脱するものだという
ジェンダーバイアスのかかったアドバイスをする人が
今の世の中にも多くいるようです。

特に保守的だと自覚している相談担当者は
女性は男性に尽き従うものであり、
日々男性の提案に従うものだ
だから、男性が不十分であれば男性が悪い
女性から関係を作っていくための働きかけをする発想をもっても
女性にできるはずがない
というジェンダーバイアスの濃厚な相談回答をすることは
公的相談機関ではしてはいけないことです。

女性も家庭の主人公であり
自分たちのことにイニシアチブをとることを予定している
自分の思い通りの関係を作り上げていく
一個の独立した人格であるということを肝に命じましょう。
これこそが男女平等、男女参画の思想なのです。

このような積極的なアドバイスや問題解決の選択肢を提起するにあたって
必ず、相談者の改善するべき点について指摘しなければなりません。
それは必ずしも「悪い」という評価をされるべきことではなく、
あくまでも修正するべき点なのです。

あなたも「悪い」という言い方は、やはりだめな理由3なのかもしれません。

ここで相談担当者が気を付ける時は
修復可能な家族は修復するという観点から
相談者も「悪い」わけではないけれど修正するべきポイントがある
相手も「悪い」わけではないけれど修正するポイントがある
という言い方に徹底するべきことです。
これが人間の関係としては
当たり前の話なのだということを
相談者に対して説明するとともに
自分でも改めて自覚しなければなりません。

相談や支援とは
上から真実を教えるというものではありません。
あくまでも相談者に敬意を払いつつ
一緒に考えていくという作業なのです。

完璧な人間はいない
色々な人たちが不完全な人間に関わり合って
成長していくものだ
と思えば、人間みんなが尊敬できる存在だし
幸せになってもらいたい存在だと思えてくるものです。

それにも関わらずマニュアル通り
あなたも悪い(修正するべきところがある)
ということを言えないのでは
対等平等のアドバイスをすることができなくなります。

あまりいないかもしれないのですが
「あなたが悪い」と言えないからと言って
即物的に
でも相談者には困りごとがある。
先ず「あなたは悪くない」と言ってあげたい
そうすると「悪いのは相手だ」と言うべきなのかとして
他人の家庭を壊すだけの「支援」をする人も
いないわけではなさそうです。

また、本当に人間関係に悩んで
深刻な状態にある、絶望の淵にある人に対して
「あなたは悪くない」ということは
また、「あなたが悪いわけではない」と相談が終わることは
致命的な打撃を与えることがあります。

「悪くないのに自分は苦しい目にあわせられている」
という観念を持つことは解決不能感、絶対的孤立感を抱きやすくなり
危険な状態にさせます。

そもそもマニュアルなんてものがなければ相談に乗れない人に
深刻な相談を担当させることは
厳に慎むべきだということを最後に言っておきます。
人の相談はマニュアルで処理するものではありません。



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プロフェッショナルな弁護士とは、依頼者の敵を尊敬することができる弁護士ではないかと考えてみる [事務所生活]



1 プロフェッショナルとは

ここでいうプロフェッショナルという意味を話し出すと長くなるので
泣く泣く割愛します。

ただ
牧師が宗教的に人を導き幸せを運ぶ仕事であり
医師が人の病気やけがを治し幸せを運ぶ仕事であるように
弁護士は人々の紛争に介入し
法律その他のツールで紛争を解決するならば
やはり幸せを運ぶ仕事であるはずです。
それがプロフェッショナルの正確な意味だと思うのです。

依頼者の願いをかなえるために助力する
という仕事であるべきです。
それは依頼者を尊敬しなければ
様々な意味で困難になるはずです。

2 依頼者を尊敬しないことによる実務的な弊害

依頼者を人間として尊重しなければ
依頼者の言葉や
その時に置かれた状況への依頼者の反応に左右され、
後は依頼者がそう言ったからそうしたのだ
という言い訳ばかりが出てきてしまいます。

あるいは
通常はこういうケースはこう処理するのだという
人間の心とは関係の無いマニュアル的な処理をしてしまうでしょう。

家族関係や友人関係など
本来壊さなくてもよい関係にくさびを打つこともあるかもしれません。

むしろ弁護士が入ることで紛争を大きくしたり
長引かせたりして
逆に依頼者を苦しめたりするわけです。
これでは何のために高額な費用を支払って
弁護士に依頼したのかわからなくなります。

3 尊敬するという表現でよいのか 尊敬できない場合はどうするか

依頼者を「尊敬する」という表現に違和感を持つ方もいるかもしれません。
「敬意を表する」とか
「尊重する」という言葉の方が受け入れやすいかもしれません。
しかし、私はそれでは意味が伝わらないと思っています。
具体的にどうしたらよいかが見えてきません。
端的に尊敬するべきです。

極端な話をすれば弁護士の依頼者には
犯罪者もいるわけです。
もちろんその行為は尊敬できるものではありません。

第三者から見れば私利私欲に走って行動した結果
紛争になったのではないかと思われるケースもあるでしょう。

それらの行為も尊敬しなければならない
と言っているわけではありません。

問題は人間とは何かということにあるのかもしれません。

例えば犯罪はその人間の本質なのか
私利私欲に走ることがその人間の本質なのか
そういうことを考えればわかると思います。

思考を進めるための補助線としては
人間は誤りを起こすものだということです。
また、人間の感情や行動は、置かれた環境の影響を受けるということです。
ここでいう環境とは、経験や記憶という過去も含まれます。

人間の意思や人格など一貫しているものではないと思います。
かなりあやふやな便りのないものであると感じます。

その人間の弱点、その人の弱点をとやかく言わないで
人間性を信じること
それに応じた対応をすること
それが尊敬するということの意味することの一つなのではないか
と考えています。

人間を根本的に尊敬し
その人のために役に立とうという気持になると
なぜ誤りを起こしたか
なぜ自分の利益を追求しすぎたか
ということが初めて見えてきます。

紛争の解決の方法も見えてくるのだと思います。

私がお話ししているのは精神論ではなく
ある意味実務的な技術論である
ということがお分かりになってきたかと思います。

そうだとすると人間を「愛する」
と言う方が言葉としてはあっているように思われるかもしれませんが、
「尊敬する」の方が私には具体的な方法が見えるような気がするのです。

また、人間は様々な性格、人格が共存していることに価値がある
群としての強さが保障されるという理解も重要だと思います。
自分ができないことをできるということに
無条件に尊敬するべきだと思うのです。

4 依頼者の敵を尊敬するとは

依頼者が被害者で、敵が加害者であれば
依頼者が敵を憎むことは当然であり、
依頼者に相手を尊敬しなさいということには
さすがに無理のある場合が多いと思います。

但し、弁護士まで依頼者の心に寄り添って
敵を憎んでいたら
弁護士業務が不十分なものになると思うのです。

決して宗教的な意味合いのことを言おうとしているのではありません。
あくまでも依頼者の利益のための技術論です。

相手の行動が間違っているというなら
相手方の立場から、相手の立場に立って
何をどうするべきだったと主張することが
最も説得力があると思います。

依頼者側の立場だけで考えてしまうと
結局要求めいたことになってしまい
双方言いっぱなしになってしまうことは
良く経験しているところです。

双方の利益状況と感情を十分考察すること
その結果、なすべき主張も見えてくるし、
和解の譲歩を引き出す可能性も大きくなるし
和解の機運も作っていけるわけです。

裁判の流れや交渉を待っているのではなく
こちらがイニシアチブを取って事態をコントロールすることも
可能になるかもしれません。

こだわりのポイントが双方によってだいぶ違う場合は
本来和解のチャンスです
こちらはこの点はいくらでも譲歩できるけれど
ここは譲れない
でも相手はその譲歩を重大に感じるはずだ
ということで、
和解が成立することも実際はあるのです。

相手が悪い奴だとか憎むべき人間だととらえていると
せっかくのチャンスを見過ごしてしまいがちになると思うのです。

当事者は要求した結果が実現しないと
こちらだけが損をしていると思うことは当然です。
しかし、実際は相手もダメージを受けているものです。
相手の心情、状態を弁護士が分析して
一つの可能性としてアドバイスするということも
自分の依頼者を無駄な葛藤の中にとどめておかないですむ
一つの方法にもなります。

相手を尊敬することによって
少なくとも弁護士に損はありません。
依頼者にもメリットの方が大きい
特に紛争を鎮めるという観点からは
必須の対応だと思えているのです。

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人権は人間の権利ではないこと 人権という言葉は本当は適当ではなく、「人間としての当たり前」、あるいは「人間である権利」とするべきであること [事務所生活]

明日、某官庁の研修会で人権について語ってきます。
そこでは、人権は人間の権利だと説明して
わかりやすくお話しする予定だったのですが、

しかしこれはやはり不正確ではないかと
今日になって考えているのです。
権利というと、例えばお金を請求する権利や
サービスを受ける権利も権利で、
これは人権ではないと感覚的に思います。

普通の権利と人権としての権利と違うわけです。
しかし、同じ権利の権の字が使われているので、
普通の権利は、国によって実現するものという縛りがありますから、
どうしても人権とは、
国の認めたもの、六法に載っているもの、
裁判所が認めたもの
だから人権かそうではないかは知識が必要だと考えてしまう
その原因というか問題の所在があるように思われるのです。

いやここまで読む人もあまりいらっしゃらないほど
人権という言葉はかたすぎるのです。
もういいや移動しようと思っていることと思います。
賢明かもしれません。

しかし、英語などでは human rights
ですから、直訳すると人権なのです。

このライツが曲者で、
これを「権利」と訳したのは、何度か取り上げた西周なのでしょう。
しかし、このライツ、辞書で見ると
正義、筋道、正当等という語感があるということですから、
日本語的には、「理」という立派な言葉があったわけです。
だから、本来は、人権と訳さず、
「人理」という言葉を使えば良かったのです。
人権委員会ではなく、人理委員会
画数も少し減ります。

ただ、これもわかりにくいので、
正当というか、あるべき姿というか、当たり前
という言葉に置き換えて、
人権としては人間としての当たり前
と説明することが分かりやすくなるはずです。

例えば
「生まれながらの髪を黒く染めろ」という校則は
人権侵害だというよりも
人間としての当たり前を侵害している
という方が「ああそうだね」と
納得しやすいのではないでしょうか。

あるいは、
「それは人間性を害しているとまでは言えないと思うな」
と議論にはなるでしょう。

「人権侵害だ」、「・・・」、「人権侵害ではない」、「・・・」
というよりは
納得しながら議論できるとは思いませんか。

もう一つ、human rights なのですが、
これが rights of humanではないことに着目する
というのも一つの解決方法かもしれません。

つまり「人間の権利」という訳は間違いで、
「人間である権利」という訳が正当かもしれないということなのです。

そうするとですね、
生まれながらの髪の毛を黒く染めろといわれることは、
人間であることを否定された
いや人間であることまでは否定されていない
と議論になりますね。
つまり、人間としての当たり前がどこにあるか
という議論と同じになるように思うのです。

いずれにしてももやもやは残ります。
それは、「人間が人間として扱われること」
とはどういうことかという
一人一人の人間観に違いがあるからなのだと思います。

何が人間として扱われるべきことか
これは、人間として扱われていないという人の
話に耳を傾けて理解しようとしなければ
わからないことです。

権利が生まれる時は
当事者が声をあげて、それ多くの人が聞きいれる時だといわれるのは、
こう考えていくと論理的なのだと思いました。

お話しの予定のダイジェスト版は
対人関係学のページあります
http://www7b.biglobe.ne.jp/~interpersonal/moral.html
の中の
「差別を受けない権利 人権とは人間として当たり前の状態ということ 憲法14条」
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非難されている無罪の裁判官は実は正義漢 わかりやすいいじめのリアル構造 [事務所生活]

19歳の娘に同意なき性交を強要したとして
起訴された父親が無罪となり、
マスコミがこぞって無罪にした裁判官を非難しているようです。

SNSなんぞで裁判官批判をしている人たちもおおいようです。

一般の方々が疑問に思うのはもっともなのですが、
巨大マスコミも無条件で裁判官を批判し、
実名報道や直撃取材を面白おかしく行い、
識者としてそれに同調する人も出てきたということから、
この記事を書かざるを得ないと思いました。

先ず、無罪になったことについては、
致し方ないことです。
要するに子の父親を処罰する法律がなかった
ということです。

法律がなくても悪いから処罰しろ
というのが今のマスコミの論調になってしまいます。
しかし、特に刑事罰を科する時は
法律を厳格に考えなければなりません。

例えば、いわゆるDV法で保護命令という制度があります。
現在暴力を受けている配偶者が、
今後も身体生命に重大な危険を及ぼす暴力を受ける可能性がある場合は、
相手を自分に近づけさせない命令を出してもらう制度です。
この保護命令に反して近づいた場合は
6か月以下の懲役、100万円以下の罰金が課されます。

もし、悪いから罰せよということが裁判で通ったらどうなるでしょう。

典型的なケースとして、妻が会社の忘年会だからと自分の子が風邪をひいて寝込んでいるのに、夕方から出かけて行って、夫が会社を早退して子どもの看病をしていたのに、妻はなかなか帰ってこない。子どもの様子を知らせるラインを送っても返事もない。2時過ぎにようやく帰ってきて、玄関先でも誰かと電話をしている。夫は寝ないで看病していたので、怒り心頭に発して、玄関まで言って大声で怒鳴った。妻は、夫が邪魔で玄関に入れないので、夫を突き飛ばして中に入ったところ、酔っぱらってもいたのでよろけて床に膝をぶつけて、痣ができた。翌日夫が家に帰ってきたら妻は風邪の治りかけの子どもと一緒に身の回りのものをもって家を出て行って後だった。何日かして裁判所から、妻が保護命令を申し立てたと連絡が来た。それによると、妻は12月の寒空の中、夫から家から引きずり出されて、突き飛ばされて膝を打った。証拠の痣の写真と打撲の診断書がある。凍死の危険もあった。

これで、暴力を受けていて、命の重大な危険があるとして
保護命令が出され、
自宅近くを散歩することも禁止する。
そういうことが頻繁に起きることが許される事態に
なってしまいます。

色々論点がありますが、非道の父親の例では、
抗拒不能の要件が無いとという判決理由でした。
抗拒不能にした非道の父親の行為がなければならないと解することは
現在の法理論ではノーマルな法解釈なので、
無罪判決はありうる判断です。

ただ、この裁判官の真意はわかりませんが、
もしかしたら、法律がこの非道の父親を裁けないことに
憤りを感じてたと解釈できるのです。

では、ここからが本題です。

裁判官を批判する人たちは
どうして非道の父親の言語道断の行為を知っているのでしょう。
それは無罪判決に書いてあるからだと思います。
ここがポイントです。

無罪判決ならば、通常は、
抗拒不能だと認定したことを書けばよいのです。
ところが、
この判決では、父親の非道な行いが
赤裸々に詳細に記載されています。
確かに関連事実なので書いてはダメだというわけではないでしょうが、
書かなくてもよいことをあえて書いていた
というようにも感じられます。

刑事判決は公開の法廷で読み上げられますので
国民が判決の内容を知りうることになります。
裁判官の真意として考えられることの一つは、
この事件は無罪にするけれど
この男はここまでひどい男なのだということを
敢えて公にしようとした
と想像することができるのです。

実は、裁判官の怒りが感じられることなのです。

もう一つ、こんなに人倫に反する行為なのに
日本の法律ではこれを裁くことができない
ということを全国にアピールしたかったということも
考えられます。

裁判官を批判する人たちも
裁判官の書いた判決によって事態を把握したわけです。
裁判官の意図が私の言うようなものならば
裁判官の意図はある程度実現されたのではないでしょうか。

この非難されている裁判官は、
正義を実現しようとしていた可能性が高いと
私は思います。
裁判官として無罪判決を書き
人間として男を糾弾したのです。

一部では、性犯罪に甘い司法だという批判の一群の事件の中に
この判決を位置づける人たちもいますが、
明確に暴行や脅迫、地位を利用して薬物を飲ませて乱暴した
明確な行為者が不起訴になる事案とは全く異なるのです。

ここで、すべてを一緒くたにするマスコミや
マスコミに乗じてわれわれの正義感をあおるSNSが
何かを目的にわれわれの正義感を利用しているのではないかと
警戒することの必要性をわれわれに教えていると
思わなければなりません。

少なくとも裁判官を批判しているうちは
正当にこの人を裁く法律を作るか作らないか
という議論を妨げてしまうということはあるでしょう。

もう一つは、
法律を緩めて裁判所が
国民感情に依拠して
裁判所が自分勝手に国民を刑務所に送る道を開くことに
手を貸してしまうことにつながりかねないということです。

私たちの正義感が悪用されようとしている
ということに注意が必要だと思うのです。

そして、これは、いじめの構造そのものなのです。

誰かが、とてもかわいそうだという事情があります。
今回のケースでは娘さんです。
人間は、弱い者を守ろうとする本能があるとします。
また、その人の苦痛をそれぞれの人がそれぞれの人なりに
共感し、自分の苦痛として追体験をしています。

そうすると、娘を守ろうとする強い感情が起こります。
この強い感情は、一種の危機感です。
自分が安全な場所にいる場合は、
この危機感を解消しようとする行動は
怒りによる攻撃です。

本来怒りの先は、非道な父親か
非道な父親を裁く法律を作ってい無い国家に向けられるべきでしょう。

しかし、非道な父親は名前も分かりませんし、
無罪とされてしまった。
国家に問題があるとは気がついていない。
そうすると勢い、名前をさらされた裁判官に怒りが向かう。

こういう仕組みなのです。

本当は勇気をもって国民に対して告発した人に対して
ちょうどよい怒りの的になってしまい、
それをあおるマスコミやオピニオンリーダーがいるために
簡単に国民の正義感は
裁判官に対して怒りとなってしまうのです。

怒りはこのように、
本来向かうべきでない相手に向かわされるということが
よくあります。
戦争はこれを利用しなければ起こすことはできません。

憲法9条を守れとかいうならば信じられるとか
そういう単純な発想では理不尽な戦争が近づくばかりです。

この裁判官に対するいじめは誰がしているのでしょう。
この裁判官を叩いているマスコミやSNSをみた
法律関係者が沈黙を守ることもいじめだ
ということを言いたいのです。

法律関係者ならば誰しも
私が考えたことを考えているはずです。
そういう刑法解釈の訓練を受けているからです。

それでも沈黙を守っている。
敢えて裁判官をかばうことで
自分に攻撃を向けられることを嫌がっているのではないでしょうか。
それはよくわかります。

しかし、これほどの怒りの大合唱が
特定の一人に向かうことは
しかも理不尽に向かうことは
まぎれもないいじめですから、
誤解を解くべき人たちは誤解を解かなければならないと思います。

そうでなければいじめを見ている子どもたちと一緒だと思います。

発言を躊躇している自分の姿は
いじめを完成させる子どもたちの姿なのです。

私はいじめを無くしたいと考えているので、
自分にできることをしてみました。


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依頼者とコミュニケーションが取れない理由 カウンセリングの人間観と弁護士業務 [事務所生活]

私は、いつもは、
他の弁護士と共同しないで
一人で事件を担当します。

しかし、まれに
一人の被疑者と時間差で面会したり、
事務的な作業で同じ依頼者と
複数の弁護士で打ち合わせをすることがあります。

自分以外の弁護士が、
依頼者とどのように接しているかを知る貴重な機会です。

中には、被告人を軽蔑するような態度をとったり、
相談に来た人を説教したりして、
上から目線の弁護士がいることに
驚いたりします。

依頼者とコミュニケーションが取れないとか
依頼者が理解できないと
悩みを持つ人は大変良心的だということになります。
もしかすると
多くの弁護士は、そもそも
コミュニケーションを取ろうとか
理解しようとか
そんなことが必要だとも考えていないかもしれないからです。

人間ですから、
もちろん、理解しずらい相性の悪い人
という人がいてもおかしくありません。

また、弁護士のスタイルというのは
千差万別であるところが力でもあると思うので、
一概に良い悪いという二者択一的判断にはなじまないとも思います。

ただ、悩む弁護士の方に、
一つの解決方法のヒントをお話ししたいと思います。

私が何か特別なヒューマニズムの持ち主とか
人一倍謙虚な性格だ
というわけではありません。

いくつか理由のあるうちの一つは、
知識です。
人間とは何かという人間観についての「知識」なのです。

私がこれを学んだのは
平木典子先生の朝日選書「カウンセリングの話 増補」です。

司法試験に合格して、
法律以外の勉強に飢えていた時、
真っ先に購入して読んだ本です。

現在、3回目の読み直しをしているところです。

その都度ほとんど覚えておらず、新鮮な気持ちで読めるのですが、
ぼんやり覚えていたのが、
カウンセリングの前提としての人間観の記述でした。

P19 マクレーガーのXY理論
マクレーガーは人間信頼論にたちます。

人間信頼論とは
人間は本性的に働くことが好きであり、
遊びや休息と労働は同じものである。
人間はそもそも、成長したり創造したり働いたりする意欲が備わっている存在で、
その意欲が自然に発揮できるような状況に人間を置くことが大切だと考える。
という風に考えるそうです。

マクレガーの師匠がマズローという人で、

P21 マズローの人間観
人間は生まれながらにして
より成長しよう
自分の持てるものを最高に発揮しようと
動機付けを持つ存在である
という人間観を持ち、

欲求の五段階説というものを唱えています。

⑤ 自己実現の要求 可能性の実現、使命の達成
④ 承認の要求   人から尊敬されたい、自尊心を持ちたい。   
③ 所属と愛の欲求 集団に所属したい。友情を分かち合いたい。
② 安全の欲求   保護されたい。雨風をしのぎたい
① 生理的欲求   性欲。飢え、渇きを満たしたい。


①が満たされて②の要求が出てきて、
①と②が満たされて③の要求が出てくる
というのです。

但し、対人関係学では、この関係は
そのような段階を踏むものではなく、
また、大きく、身体生命の要求と対人関係的要求は
次元を異にするもので併存するものだと考えるので、

身体生命の安全とは        
動物としての欲求        
生理的な欲求、食欲、
性欲、睡眠欲、その他、     
身体生命の危険を回避する欲求  

対人関係的な安全                
人間としての要求                
集団に尊重されて帰属したい
尊敬される、自己実現などは手段的な要求
自尊心、友情は結果的な要求

ということになり、
自分の身体の安全を顧みずに
対人関係的要求に基づく行為に出ることがある
と説明するのです。

違いはあるのですが、
マズローの五段階欲求の
概念がある意味前提となったり論だということに
気が付きました。

それはさておき、
弁護士業務にとっての一番大事な人間観は
ロジャースのものです。

P36
ロジャーズ 来談者中心療法
従来行われてきたカウンセリングは、
指示的なカウンセリングではないか。
つまり、カウンセラーが中心で、
「ああせよ」「こうせよ」と指示する傾向の強いカウンセリングではないかと批判し、
自分のカウンセリングは非指示的―後に来談者中心に改められる━で、
クライエントの成長の力を信じ、
その力と決断力を中心に進めるカウンセリングであると主張したのである。

クライエントというのは、
実は問題の所在を知っているものだということに気づいた。
あれこれアドバイスはしていたが、
カウンセラーが考えているよりもはるかに深い問題を、
クライエントは知っていたのだ。

クライエントは本来問題を知っているのだ。
しかも問題をどう解決し、
どのように生きていこうかということを真剣に考え、
自分の中ではぐくんでいるのは、実はクライエント本人何度だ。

P40
カウンセラーは、
クライエントが本来持っている力を発揮できない障害や負担を
取り除く援助をする。

カウンセラーとクライエントは人間として同等のところにいる。

カウンセリングの援助は、
どちらかというとともに歩むという考え方が基本になる。
知識や技術を一方的に押し付けるのではなく、
むしろ相手の力の方を頼りにしながら、
一緒に歩んでいく存在なのである。

1年くらい前に、
人を支援する方法ということをこのブログに書いて、
さも自分が発見したように述べていましたが、
ロジャースの編み出した療法として
確立していた物でありました。

但し、私は、この論述を忘れていたのであり、
オープンダイアローグの手法の根幹がここにあると
そういう分析から考えついたと思っていたのですが、
やはり、記憶の基本的なとこに
覚えていたからこそ分析できたのでしょう。

少し結論めいたことを言って終わりましょう。

①これらの人間の根底にあることは、
人間はよりよく生きられればよりよくいきたいと
そういう方向性を持った動物であるということ。

②犯罪や破産や離婚等の社会的病理は、
よりよく生きられない何らかの障壁があったということであること。
即ち必ず理由があるということ。

③弁護士や、その他の支援をする人たちの任務は
その障壁を取り除く手伝いをすること
そのための専門的な知識と技術を用いるのだということ

④その障壁は、通常語られない
弁護士の予備知識には入っていない
従って、クライアント本人が
それに気が付いて、克服する方法を見出し、
克服する作業を行わなければならないこと、

⑤つまり弁護士は、
クライアントにあれこれ指図をして
あるいはクライアントから離れて仕事をするのではなく、
クライアントと
人間的な意味である生きる意欲を回復するために
共同作業をする仲間のプロなのだ
ということです。

間違っても、
「犯罪をするような人」の属性があるわけではなく、
犯罪に至る本人以外の環境などの理由がある
ということだと思います。

属性で犯罪するのであれば
有効な弁護はできないと確信しています。

弁護士は偉そうにしていたので、
仲間になることはできません。
それでは、クライアントの潜在能力が発揮できません。

例えばその人を弁護するという仕事であれば、
その人から学ばなければ、
出発点に立つこともできないわけです。

さて、
そもそも根幹である
「人間は生まれながらにして
 より成長しよう
 自分の持てるものを最高に発揮しようと
 動機付けを持つ存在である」
ということが正しいのかどうか
きれいごとではないか
という疑問が残っている方もいらっしゃるでしょう。

これは、対人関係学的に言えば
疑いを持つほどの話でもない
ということになります。

つまり、
①動物である以上、個体は「生きようとする」
②人間である以上、個体は、「群れから尊重されながら生きようとする」
つまり、「群れから排除されないように生きようとする」
ということですね。
そして、
③群れにとどまるためには、
群れに必要とされるために
自分がより成長して群れからより尊重されなければならない
より自分の持てる力を発揮しようとする。
これは当たり前だということになります。

即ち、人間が成長や高度の能力を身につけようとする存在だということは
きれい事というよりは
どちらかという強迫観念に近いもの
であるとする方が近いと思います。

これがゆきすぎて無理をする環境となると
過労死が起こるわけです。

カウンセリングの人間観から
対人関係学の人間観を説明しました。




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