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会社に行こうとすると吐きたくなる貴方へ。「退職する」という選択肢がきちんと頭に入っていますか。その上で考えるべきこと。 [労災事件]



仕事柄、これまで過重労働やパワハラが原因で亡くなった方々の、亡くなる直前の様子を何件も調査をしてきました。自死で亡くなった多くの方が、生前、通勤をしようとすると吐き気を催したり、実際に毎朝のようにコンビニのトイレで吐いていたりということがわかっています。

現在、結構多くの方が、このような朝を過ごしていると聞きました。これはかなり危険な兆候です。あなたが対策を立てないままだと、うつ病になったり、自死を決行したりする危険があります。大変心配をしています。

もしかするとあなたは「自分は大丈夫だ。」と思われているかもしれません。しかし、うつ病になることも自死することも、あなたが理性で考えて選択することではないのです。あなたの意思とかかわりなく病気になるわけですし、実は死ぬというはっきりした決断を持たないまま自死は実行されるものだと考えた方が実践的だと思います。
だから、今あなたが大丈夫と思っているそのあなたではなくなる、別のあなたがあなたの身体生命を危険に陥れるのだということを考えてみてください。

職場が原因でのうつ病の重症度を表す指標があります。それは、「いざとなったらこんな会社辞めてやる。」と思えているかどうかというものです。退職すると考えているうちは良いのですが、うつ病や適応障害などの精神障害が発症してしまった後は、「退職する。」という選択肢が無くなるようなのです。健全な精神状態のときは、「苦しいから、苦しみ続けるよりは会社を退職する。」という選択肢があるのです。しかし、一度病気になってしまうと、「苦しみ続けることから解放されるためには、死ぬしかない。」という精神状態になる場合があるようです。

だから、わたしは、「退職する」という選択肢をきちんと持ち続けていますかとあなたに問いかけているのです。

人間はどうやら、精神的に弱ってしまうと、継続的に顔を合わせている他人に対して助けを求めてしまうという習性があるようなのです(詳しくは前回の記事なので省略)。その人が自分を苦しめているのに、その人から見放されたくなくなるようです。これが不健全な精神状態の本質ということなのでしょう。

現実は退職するという選択肢を持ちにくい環境だということはよくわかります。

家族がいれば退職できないという考えは当然だと思います。お子さんがいれば、将来的な教育費まで考えることもあるでしょう。仕事をやめれば、収入がなくなる。転職と言ってもそう転職口もないし、あっても今よりも条件がさらに悪くなるかもしれません。

逆説的な話ですが、それでも退職するという選択肢が無くなったあなたは真剣に退職と転職をシミュレーションする時期なのだと思います。
但し、本当に退職をするかどうかはまた別の話でよいのです。退職するという逃げ道があると自覚することで、心に余裕を持っていただきたいのです。そうすると見えてくることもあるわけです。

退職という選択肢を奪うのは、一つにはあなた自身やあなたの周囲の正義感です。「被害者であるあなたが会社を辞めて加害者である上司が会社に居続けるのは不合理だ」という声を聴くこともあります。
この発想は間違いです。正義と心中するなんて愚かなことです。

最も大事なことはあなたが生きているということです。

親の義務、夫の義務なんてものは、本来最低ラインがあるわけではありません。何円を家庭に入れなければならないというのは、そのご家庭の状況によって全く違います。仕事柄厳密な物言いをして申し訳ないのですが、仮に養育費をいくら払うという審判を受けたからと言って、払えないなら金額を減額をする手続きがありますし、減額しなければなりません。

なぜならばあなたが無理をすると、死んでしまう危険があるからです。お子さん方に消えない罪悪感を植え付けることが、あなたが親として回避するべきことです。つまり、親の義務の最低ラインがあるとすれば、生き続けること、正確に言えば生きようとすること、死ぬ危険を可能な限り排除することです。

自死を決行するときは、既に理性が効かない段階になっています。自分は死ななければならないのだと強固に思い込んでしまっている状態であることがほとんどです。そうならないようにするということが、今理性がある段階で準備することです。

具体的には、退職するという選択肢を持ち続けることです。

退職という選択肢を持った後で考えるべきことがあります。

それは
・ 自分自身の行動も、自分を苦しめる原因になっているかもしれない。
・ 自分のふるまいも修正する余地があるのではないか。
という考えをめぐらすことです。

人間の精神を決定的に破壊するのは、
「自分が悪くないのに、助けのない状態で苦しまされている。」
という絶望のようです。

うつ病の近づくと、二者択一的思考、悲観的思考が猛威を振るうようになりますから、その嫌な上司は敵であり、自分には味方がいないと感じるようになります。そして何をやってもうまくいかないという気持ちになってしまいます。

そうなる前に、自分の何かが間違っていたのかもしれないと考えることはとても有益なことです。

貴方を周囲から暖かく扱われない原因があなたの正義感であり、責任感であり真面目さであるならば、あなたは「自分が正しいはずなのに」という迷路から抜け出せなくなります。せっかく退職という選択肢をポケットに入れたならば、あとは、あなたの責任感、正義感、まじめさを捨ててみましょう。

最初は、上から目線で仕方がないと思います。「上司や経営陣は、自分のレベルまで到達していないから自分が正当に評価されない。」と思うということです。その後は徐々に、「人間関係を良好に保つことにも一つの価値があるし、これによらなければ恒常的な生産性の向上は不可能だ。」という考え方に変わっていくはずです。

つまり、あなたが先ず行うべきことは、周囲を許すという作業を行うということになるのかもしれません。

いずれにしても大切なことは、あなたが家族というものを大切にするならば、会社というのは取り換えのきく人間関係であり、そんな人間関係のためにあなたの正常な思考が破壊されるのは一番つまらないことだということをしっかり意識することです。

そういう人間関係であることを意識することによって、あるいはいつでもおさらばできる人間関係だということを意識することによって、上司そのものを上から見られるようにするという戦略です。
人間は継続的に時間を共に過ごし、報酬を分け合う人間関係は、唯一絶対の最上の忠誠を誓う人間関係だと無意識に勘違いする生き物だということをしっかり自覚しましょう。あなたを苦しめる会社は、そんな価値のない人間関係なのだと思います。

自由になって、自分を失うことを阻止しましょう。

関連したことを述べた過去の記事を参考までにあげておきます。ご興味とお時間があるときご参照してみてください。

相手に合わせて自分の行動を変えられない人は、自分が深刻に傷つく結果になりやすい。「自分が悪くなくても行動を変える」という発想が人生を快適にできるということについて考えてみた。特に夫婦問題における大人の発想とは。♯対人関係的危険。
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2022-05-27

あなたが組織・会社で浮いている理由は、まじめすぎる、責任感がありすぎるからかもしれないという、じゃあどうすればよいのという問題 
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2022-07-08


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自衛隊を憲法に明記する以上に自衛官の労苦に報いるために必要なことは自衛官の生活の保障だと思う [労災事件]



私にご依頼いただく方々の中で、自衛官の方、元自衛官の方、自衛官のご家族という人たちが割合としてかなり高いのです。自衛官のご遺族の代理人として国と裁判をやったということも一度ではありません。本当はいろいろな観点から自衛隊ということは論議しなくてはならないと思うのですが、「中途半端な身内意識」から議論をさせていただきたいと思います。

自民党の憲法改正の4つのポイントの第1に自衛隊の憲法への記載というものがあります。自衛官の労苦に報いるためだそうです。そういう目的であれば反対もできないかと思うのですが、「なんか違うのでないだろうか」という気持ちがあるのです。

まず、自衛隊が違憲だなどと主張する国民がどれくらいいるのかということです。おそらく圧倒的多数の国民は違憲だなどと思っていないのではないでしょうか。共産党ですら、「他国が攻め込んできたなら自衛隊とともに戦う。」ということを昔から言っているのだそうです。

本当に違憲だというならば、国家意思のもとに活用することはできません。例えば、刑事訴訟法上は保釈制度が定められています。保釈制度は違憲だというのならば保釈制度を直ちに廃止しろという主張になるはずです。「違憲=憲法違反」という評価は重みのある評価です。「違憲だけれど活用しよう」などという主張は法律論としては成り立たないことです。

つまり保守も革新も自衛隊は、「本当は自衛隊は違憲ではない。」ということで認識は共通しているのだから、いまさら憲法改正をしてまで憲法に明記することは必要がないと考えてしまうのです。「もしかすると、自民党が自衛隊は法的には違憲の疑いがあると考えているのかもしれません。」

また、自衛官に報いるという目的は尊いのですが、自衛官のご努力に報いるならば、もっと実のある報い方を行うべきです。

一つは、自衛官の賃金が安すぎるということです。国防ということで24時間体制で働いている割には、それに見合う給料になっていると言えるのか国民的な議論が必要でしょう。寝ずの番をしたり、深夜の演習や早朝の起床など、過酷な勤務状況です。国を守るという善意でもって働いていただいているということが実情ではないでしょうか。労働に見合う報酬を支払うことこそ、労苦に報いることのど真ん中だと私は思います。
しかしながら現在は、人事院勧告を反映して、賃金が年々減額されているようです。

二つは、定年が早すぎる割には、定年後の仕事に恵まれていないことです。自衛官は階級にはよるのでしょうけれど、大体が55歳定年です。私ならとっくに定年を迎えています。多くの国民は、自衛官は定年後にいろいろな職業が待っていると誤解していると思います。私は自衛官の遺族の代理人として公務災害の裁判を国相手に行ったのですが、被告であった日本という国家は、自衛官の定年後の収入統計を証拠で出してきて、自衛官の定年後は年齢別の平均的賃金を大きく下回ると主張してきました。国の主張立証によれば、定年後の収入は低く、それに対して対応がなされていないということでした。確かに共済制度は評価されるべきですが、働いて収入を得たいという気持ちをもっと尊重するべきではないでしょうか。

三つ目は、災害補償が辛すぎるということがあります。上で述べた公務災害は、再審査請求が長期間防衛相で放置されて、村井知事さんに防衛省まで行っていただいてようやく動き出したのですが公務災害ではないと認定されました。仙台地方裁判所でも理解不能な理屈で棄却され、ようやく仙台高等裁判所で公務災害であると認定されました。月間100時間残業の証拠を自衛隊で提出していながらのことなのでどうして不認定や棄却になったのか、法律論では説明ができません。被災から認定までに9年以上がかかりました。
このように労災補償がなかなか認められないという問題があります。外国に派兵された自衛官の自死がやたらと多いということが随分前に指摘されていましたが、これは公務災害だと認定され、遺族は正当な補償を受けたのでしょうか。

こういう実のあるところで、まさに労苦に報いるべきです。こういう肝心なところで報いていないのではないかという憤りが私にはあります。こんな私としては、憲法に自衛隊を明記しからといって、「それで報いになったと思わないでほしい。」という激しい感情があるわけです。そんな金のかからない対策ではなく、生身の人間が自衛官になることを躊躇しないような当たり前の報酬を出してから言ってほしいとそう思うわけです。

専門的な話をもう一つだけします。
それはメンタル問題です。自衛隊の中には、残念なことながらいじめがあることが報道されます。学校以外のいじめの判例を作ってきたのは自衛隊であるというくらい多くの事件があります。いじめがあるということは、それだけではなく、日常的にいたわりあうという風潮がないということなのです。

風潮がないと言うと語弊があるかもしれません。意識的に風潮を作らない限り、いじめが起きやすい職場環境だということが正確だと思います。

いじめがあったからと言って、いじめた自衛官が特殊だったとばかり考えたのであればいじめはなくなりませんし、実際続いているわけです。私は、過酷な労働環境や、平時であっても一人の怠慢が部隊全体や国民の命に直結するという高度な緊張感を維持し続けなければならないという職場環境に原因を求めなければ、対策が立てられないと思っています。もちろん様々な研究がなされているようですが、この研究を強力に推進する必要があると思っています。

日露戦争の際には、自衛隊ではなく帝国陸軍ですが、八甲田山で対策も立てないで行軍を行った結果、多くの犠牲者が出てしまいました。根性と愛国心だけでは国防はできないのです。メンタルの問題に焦点を合わせると、いじめの報道をみるにつけ、まさに八甲田山の行軍演習のような非科学的な労務管理がなされているのではないかという心配が大きくなります。

どのような事情が他人に対する尊重する気持ちや配慮する気持ちを奪うのか、どうすればそれが解消されるのかについて、予算をつぎ込んで研究を急ぐべきです。

憲法に自衛隊を明記することで、これらの予算が進むのでしょうか。それならば意味がなくもないのかもしれませんが、ハード面ばかりが注目されてそこにばかり予算がついている現状をみると、あまり明るい気持ちにはなれないのです。

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パワハラについての誤解  パワハラ国賠で勝利和解をした事案報告 じゃあパワハラとは。 [労災事件]

 

先日、町と県相手の国賠訴訟で、パワハラ被害者が勝利的和解を勝ち取りました。実質審理1年弱というスピード解決でした。とても学ぶべき論点が多く、こういう大事なポイントほど報道ではあまり取り上げられていませんでしたので、詳しく解説しようと思います。他人を使って事業をしている方、特に自治体などの公的団体の管理者にぜひお読みいただきたいと思います。

<事案>

中学校の先生が、職員室で同僚から一方的な暴行事件を受けて、比較的重篤な頸椎捻挫の傷害を負った。被害者の教諭は公務災害申請をしようとしていたが、学校長や教育長は、なんだかんだ言ってずるずる引き延ばした。公務災害を申請すると、暴力事件が県の教育委員会に知られることになることを恐れたためだ。発覚を恐れて、事件から2か月も学校事故報告書さえも作成しなかった。公務災害申請を断念させるための手口は、
・事件から2週間も放置。
・2週間後から1か月半にわたり、忙しい中学校教諭である被害者を頻繁に校長室などに呼び出し、のべ390分も公務災害申請の断念を迫った。
・断念を迫る「論法」は、「公務災害には該当しないかもしれない。」、「公務災害を申請して何がしたいの。私はわからない。」、「公になると子どもたちにも悪影響が出る。」、「暴力があったということはあなたにも悪いところがあったからだ。原因があって結果がある。」、「どっちもどっちだ。」、「お互い謝って終わりにするべきだ。」、「フィフティーフィフティーだから治療費の半分を支払って終わりにするべきだ。」
・異動願を書かせて学校、町の管内から追い出そうとした。
・公務災害申請を断念させるため、数度加害者を立ち会わせて公務災害申請を断念させようとした。居直る加害者を放置し、被害者ばかりを説得した。

主治医のカルテによると、当初、暴力に対する自然な反応だけだったが、校長の説得後半月あまりをして、不安の症状が出現し、1か月半には抑うつ状態と診断されるように、校長の説得期間に応じて症状が悪化していった。そして、ついに働けなくなり休職に入った。
その後も復帰したり休職したりという状態が続き、現在は長期休職中である。事故から10年以上を経て、損害賠償が認められたのが、先日の和解である。

裁判所が簡単に不法行為を認めた本件について、公務員の労災認定機関である地方公務員災害補償基金宮城県支部長は、この精神疾患を公務災害と認めなかった。異議申し立てをした同支部審査会でも、校長の行為は単なる自己保身であると認定しながら、それでも公務災害と認めなかった。2回目の異議申し立てをした本部審査会でようやく公務災害と認定された。事件から5年が経っていた。

<なぜ公務災害基金は当初認めなかったのか パワハラという言葉の問題>

裁判では実質審理1年弱で損害賠償の必要性が裁判所によって認められたという極めて明々白々の不法行為でした。それにもかかわらず、どうして公務災害と認定されるまで二度の異議申し立てと5年の年月が必要だったのでしょうか。じつは、これこそが、「パワーハラスメント」という言葉についての問題性を示していることなのです。

どういう問題かというと、
我々は、「パワーハラスメント」といわれると、どうしても、どこか暴力的な要素があるものだという先入観があるのだと思います。実際の暴力だけではなく、大声を出すとか、乱暴な言葉を使うとかというイメージです。あるいは、威圧による強制というイメージでしょうか。パワーハラスメントが行われていれば、目で見て耳で聞いてすぐにわかるはずだとなんとなく感じているかもしれません。

公務災害に該当するような上司のパワーハラスメントのサンプルも、身体的、精神的攻撃のほかは、「上司等による次のような精神的攻撃が執拗に行われた場合 ・人格や人間性を否定するような、業務上明らかに必要性がない又は業務の目的を大きく逸脱した精神的攻撃 ・必要以上に長時間にわたる厳しい叱責、他 の職員の面前における大声での威圧的な叱責など、態様や手段が社会通念に照らして 許容される範囲を超える精神的攻撃」
とされています。

本件では、大声を出されたわけでもありませんし、叱責を受けたわけでもありません。明らかに必要のない業務(教員一人に草むしりをさせるとか校門の拭き掃除を毎日やらせるとか)をさせられていたわけでもありません。もちろん暴力もありません。
あえていうならば、「人格や人間性を否定するような、業務上明らかに必要性がない又は業務の目的を大きく逸脱した精神的攻撃」ということなのだと思いますが、これに該当するということがよくわからないようなのです。(もっとも、実際の公務災害手続きの際は、このような言葉さえまだ整備されておらず、「執拗な嫌がらせ」というカテゴリーの該当性の問題になっていました。)

<現在の主流のパワハラは、暴力的な言動のないもの>

私は、本当に多いパワハラは本件と同じように、暴力的でも威圧的でもない上司の行為なのだと感じています。多くの人が職場が原因で悩んでいるのですが、「自分がパワハラを受けている」と理解していない人が圧倒的多数だと思います。この普通のパワーハラスメントこそ、防止しなければならないと思っています。

なぜならば、コンプライアンスを重視する圧倒的多数の企業では、さすがに暴力を伴うパワハラや、威圧的な強制パワハラ、意味のない仕事の押しつけパワハラ、長時間叱責パワハラは、行われなくなってきています。しかし、こういう典型的なわかりやすいパワハラではなくとも、人格や人間性は否定されるのです。そして、暴力などの場合と同様に被害者は精神的に傷ついて長期間精神的に病んだ状態になってしまいます。人生が台無しにされてしまうのです。もちろん抑圧された感覚は、生産性を低下させる大きな要因になります。

また、将来的に会社が莫大な損害賠償を支払うことになるパワハラを行っている上司は、
パワハラを行っている自覚がありません。
・暴力は振るっていない
・乱暴な言葉は使っていない
・無駄な叱責をしてはいない、必要な注意、指導をしているだけだ。
・部下を馬鹿にしているということもない。
だから私はパワハラをしてはいない。
こういう単純な図式で考えるため、会社で休職者や退職者が出続けている理由がわからないのです。

相談を受けた方も、マニュアルの該当性ばかりを考えていたのであれば、それがパワハラだと気が付かないかもしれません。パワハラが精神を害する理由を理解できていない人は、どうしてもこの行為はマニュアルのどこに該当するかという発想を立てて、見つけられないために該当しそうもないと簡単に結論付けてしまうかもしれません。

<パワハラ防止のために必要なこと>

どうすればよいのか。
答えは簡単ですが、そこから先が難しいかもしれません。

答えは、
何がその人の人間性や人格を否定することになるのか
ということに敏感に反応できればよいということです。

そして、いちいち自分のしていることは「人間性や人格を否定しているだろうか」と考えるよりも、そもそも人間性や人格を尊重する労務管理を心掛けるほうが、パワーハラスメント起きない職場にするためにはとても効率が良いです。従業員のモチベーションを高める方法での生産性を上げるほうが、ローコスト、ハイリターンになるわけです。

さて、人格や人間性を否定するということをもう少し具体的にお話ししなくてはならないと思います。この答えは対人関係学が常々指摘していることです。
つまり、会社という組織の中で、その人を尊重するということ、仲間として認める扱いをするということです。

<この事件で人格や人間性が否定されたと認定されたポイント>

最後に、冒頭の事案の中で、どの点が被害者の先生を尊重していないポイントなのか、どの点が仲間として認めていなかったのかということについてみていきましょう。

1 被害者として扱わない 
校長は、一方的暴力の被害者である先生を、被害者として扱っていません。暴力によってけがをしたのであれば、被害者は恐怖を感じるでしょうし、憤りを感じるでしょう。これに対して校長は、「あなたも悪い。」、「あなたも謝れ。」、「損害の半分は自分でもて。」というようなことを言いました。犯罪の被害者である先生は、人間として当然に仲間である校長や教育長からは、いたわられたり、同情されたりすることを無自覚に期待しています。ところが、そんないたわりはみじんも感じさせない仕打ちとなる言葉を発していたということになります。

これを読まれている方は、校長や教育長は特別ひどい人間だと思われるかもしれません。しかし、組織では、こういう対応をしてしまう管理者は多いのです。例えば部下同士のもめごとがあり、一人が一方的に他方を攻撃していたという事例で、他方は一人に対して反撃しないという事例があるとします。でも人間関係は悪くなっている。こういう時、管理職は、面倒な状態になることを嫌がり、何とか事態を鎮静化しようとします。しかし、理をもって解決することは実際は難しく、なるべく矢面に立たないで解決を実現したいと思うのでしょう。あろうことか、被害者に対して、加害者と話し合って解決しろと言い出すことが結構あります。なかなか立派な組織においても、こういうことは普通にみられます。一方的な言いがかりをつけてきた人とどうやって話し合えばよいのでしょう。こういうことは加害者が古参である場合によくみられることはご経験が誰しもあるでしょう。

2 あなたの人生より大事なものがあるという態度。

  校長や教育長は、事件から1か月半も公務災害手続きに協力しませんでした。公務災害認定を受けると、治療費が支給されるだけでなく、療養のための休職をした場合、休業補償を受けることができます。後遺症が残れば障害補償金が支給されます。公務災害が認定されないと、私病ということですから、治療費を自腹で払うことになりますし、休業をすると賃金が支給されず、退職をしなければならなくなることもあります。
公務災害申請は、被害者の将来設計、生活の保障、健康を確保するための最低限の手段になるわけです。
この公務災害の申請に協力しないということは、「あなたの将来設計、生活、健康より大事なものがあるから、そのためにそれらをあきらめろ。事件は無かったことにしろ。」ということに等しいわけです。
校長や教育長は、もっともらしい言葉をもっともらしい態度で言っていますが、支部審査会は、自己保身にすぎないと切り捨てました。たとえ、子どもたちの精神的安定のためだとしても、そのために先行きの人生に希望が無くなってもよいという態度を取られることは、やはり仲間として尊重しておらず、人間性や人格を否定するということになるわけです。ましてや、校長や教育長の保身のために、自分の人生を捨てろと言われたならば、自分が人間として軽く、価値のないものとして扱われていると思うことは当然だと思います。大変恐ろしいことです。教育長は、紛争が継続していれば「子どもたちがかわいそうだ」と言いました。教師であれば、教え子のことを第1に考えるということを計算しての卑怯な言葉だったと思います。自分の保身のために、このような教育者の良心を傷つけようとする行為を許すことができません。

3 校長、教育長という信頼をされるべき立場

  これらの、非人間的扱いが、日ごろから軽蔑している人間から行われたのであれば、それほどダメージは受けないと思います。
 ところが、教育長や校長という立場は、教育委員会や学校のトップです。どうしてもこの肩書の人間に対しては、まじめな性格の人間は、信頼を寄せてしまいます。つまり、公平公正に正義の観点から自分に接してくれるはずだという期待ですし、自分の立場を理解して自分にアドバイスをしているはずだという期待です。こういう期待をしている自分を自覚しているならば、期待をやめればよいだけなのですが、自覚していないので、知らないうちに傷ついてしまうのです。
 事例の先生も、校長がこういうことを言うのはおかしい。事実が伝わっていないのかもしれないという思いで、何度も事実を説明しています。しかし、校長には伝わっていないようで、別の日になればまた一から説明しなければならない状況でした。校長は議論をしていないのです。被害者の先生がどういおうと、結論を押し付けることしか頭に入っていませんでした。何度も同じことを、また初めから言わなければならないということは、たいへん疲れてしまいます。この疲れは、無力感に変化していくようです。
 事例の先生は、1か月余りの呼び出しによる説得活動の間、ずうっと校長や教育長に対して、期待を持ち続け、話せばわかってくれるという期待を持ち続けてしまいました。しかし、最後に、自分が何を話そうと、聞く耳を持っていないこと、自分は被害者なのに異動願を強要されて厄介払いをされそうになっていることを突然深く自覚しました。当然先生は校長に猛烈な抗議をしたのですが、すべてがわかり、つまり自分が尊重されておらず、人間性や人格を否定されていることを実感し、うつ状態になってしまいました。10年を経過しても回復しておらず、むしろ悪化傾向もみられるほどです。中学校教師にとって、校長と教育長が自分を人間扱いしないとなれば、絶望しかないのだろうと思います。

 事例の先生のつながりのある人が、報道を受けて町の教育委員会に事件のことを問い合わせたそうです。その人の話によると、教育委員会の地位のある人が問い合わせに答えて、「そもそも暴力事件の発端は被害者先生のミスにあった。」というようなことを答えたそうです。事務連絡上のミスは確かにありました。しかし、ミスがあったからと言って、職員室で暴力をふるうことが正当化されることではありません。そもそもより本質的なことは、教育長と校長が結託して事件をもみ消そうとしたことにあるわけです。教育委員会は、町の公金を多額に支出するはめになっていながら、まだ事件の本質を理解していないようです。ということは、今後も同様なことが起こり、多額な公金が支出される可能性があることを町民は覚悟する必要がありそうです。

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一日がかりで、隣県の高校生に過労死予防啓発授業(厚労省の事業)を行ってきました。授業の要点3つ [労災事件]



先日、隣県の山間部の高等学校に過労死予防の授業をして参りました。
新幹線とタクシーを乗り継いでいかなくてはならないところです。朝10時半過ぎの新幹線に乗って、夜6時半ころ駅に帰ってくるという強行軍ですが、お話は1時間です。それでも、過労死弁護団の弁護士は、この啓発授業は喜んで取り組んでいる事業です。

この授業は、学校側に費用の負担はありません。厚生労働省の事業で、国から費用が出ます。高校生がメインですが、大学や短期大学、専門学校でも、私の場合は中学生バージョンがありますので、中学校でも受け付けています。毎年入札があるようですが、これまではずっと(株)プロセスユニークという会社が委託を受けて窓口になっています。学校の先生が窓口になること、学校の施設内で、つまり学校(校長先生)の許可があることは必要です。最近は、就職や進学を控えた生徒さんたちに、過労死予防と労働条件の話をすると言うリクエストが多いようです。サークルやPTAが主体となっても学校の先生が窓口になり、生徒さんも参加していれば、国が費用負担を行うようです。
私にお声をかけていただければ、プロセスユニークにおつなぎします。

令和3年バージョンのお話しするポイントは3点です。
1 過労死は、発症するまで本人も家族も気が付かない病気の一群であるということ。
だから、「ああ、自分が少し悪くなってきたら、少し仕事量を抑えようか」というコントロールが効かない現象だということです。だから予防を徹底する、つまり過重労働を行わないという方法でしか防ぐことができないということが第1です。

2 過労死と認定される一群の疾患は、睡眠不足と関係しているということ。
だから過重労働の典型が長時間労働になっていること。また長時間労働とは具体的にどういうことかということをタイムスケジュールというか時間割を作って、法定労働時間と時間外労働時間を色分けして、週25時間時間外労働をすると、1か月100時間の時間外労働なんて簡単にできる等と言うことをお話しします。睡眠をとることがどんなに大切なことかを少し理屈をもっておはなしします。
 だから、過労死予防は長時間労働をしないこと。プラスして孤立しないことについても言及します。

3 3点目は、予防方法がわかっているのに、なぜ長時間労働をするかというお話をします。なぜ投げ出すことができないのかということをお話しするわけです。そして、本当の過労死予防の特効薬は、職場に仲間を作ること、お互いを助け合い、気遣いあうこと。そのためには、社会に出る前から仲間を作る訓練をすること
というお話をしています。

中学生バージョンも基本は変わらないのですが
仲間を作るということに力点が置かれます。いじめの予防も意識しているわけです。「いじめはだめだ、命を大切にしよう」ではなく、仲間を意識的に作るというプラスの方向を提起しています。

総じて、過労死を無くすとか、いじめをなくすということは、それ自体を目標にしても対策が言葉尻をとらえたものや、目についたこと、あるいは結果を押し付けるだけのものになりがちになります。むしろ具体的にどうするか、そして何を目標として生きていくか。つまり、仲間や家族と一緒に幸せになっていこうということ、その大目標の実現に向かえば、過労死やいじめが無くなっていっているはずだという理念をもってやっているというところです。

今お話しした通り、過労死は突然人が亡くなります。どんなに労災認定が取れても、損害賠償が勝訴になっても、亡くなった人は戻りません。予防しか方法がないのです。過労死弁護団は、できるだけ早く過労死という現象をこの世から失くして、弁護団を解散させることが悲願とされています。一日かけて1時間のお話をするということでも、本当にやりがいのあることなのです。
また、今回もそうですが、高校生の皆さんは、本当に熱心に聴いてくださるし、ポイントのところでは顔をあげてこちらを見て聞いてくださります。皆さんにとって有意義かどうかは計り知れませんが、私にとっては本当にありがたい事業となっていることは間違いありません。

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厚労省主催過労死防止シンポ青森で、お話してきました。過労死を止める方法として家族とともに幸せになるという価値観を導入すること [労災事件]


2021年11月24日、青森市で厚生労働省主催の過労死等防止対策推進シンポジウムが開催され、「過労死と家族」というテーマで基調講演を行いました。その内容について記録したいと思います。

当日は、雪が降っている寒い夜で、コロナ禍ということもあったのですが、大きな会場でコロナ対策の間隔をあけていたとはいえ、かなりの人数の方々が参加されていました。企画推進をされているプロセスユニークの方々、地元の青森県社会保障推進協議会の方々、労働基準局の方々など関係者のご努力と関心の高さに心より敬意を表します。
青森県は過労死防止に熱心で、大学や高校から、毎年のように呼ばれて、お話をしています。

さて、私は、呼んでいただき、お話をさせていただくと、感謝の気持ちでいっぱいになります。我々過労死弁護団は、この世から過労死を失くして弁護団を解散することが悲願なのです。どんなに労災認定がとれても、請求が認められる判決がもらえても、心に引っかかるものがあるのが過労死事件です。それは最初は、認定取れました、それも逆転で認定となりましたという報告をすると、私も興奮しているし、ご遺族も喜んでいただけるのです。でも、しばらくすると、亡くなった人は帰ってこない、あるいはうつ病の方は治らないということがあり、喜んでばかりもいられないという思いがあります。なんとしても、過労死は予防しなければならないという気持ちが強くなります。だから、予防のお話をさせていただくということは、本当にありがたいことなのです。

今回は、「過労死と家族」というテーマとしました。過労死予防とは何なのかこのことをご一緒に考えていただきたくて、私なりの回答を用意して臨みました。

先ずは過労死とは何かということについて説明をしなければなりません。その中で、過労死は、気が付かないうちに発症して亡くなってしまうということをお話ししました。心臓の血管、脳の血管が詰まったり、破裂したりして心臓や脳の活動が止まったり、精神疾患にかかり自死をとどめることができないという特徴をお話ししました。自動車のガソリンのメーターのように、自分の危険性がわかれば対応も取れるのですが、そうはいかない。私の担当した自死事件の統計を取ったことがあり、16件中14件が、当日、または前日就労していたということを紹介しました。突然死がやってくる。誰しもその日倒れるということがわかっていたら、仕事にはいかないでしょうけれど、それができないのが過労死だということが実感です。

過労死の民間労働者の死亡についての労災認定件数の推移をみました。但し、これだけが過労死ではないということも、説明しました。2か月前、公務員の事例ですが、再審査請求と言って、一度申請してだめで、異議申し立てをしてダメで、再度の異議申し立てをしてようやく認められた事案でした。最初の申請で断念してしまえば認められなかったわけです。これはいくつか理由があって、このケースでは、認定する側が、亡くなった方の仕事の内容がよくわからず、数字ばかりに着目していたということが理由の一つでした。このギャップを埋めるということが弁護士の仕事でもあると考えています。
認定件数は少なくなっています。過労死防止法の効果もあるのでしょうけれど、もっともっと減少させなければなりません。

そして過重労働の典型の長時間労働についてお話ししました。長時間労働は週40時間と定めた労働基準法の制限を超えた時間の合計で判断します。元々は週48時間でしたが、後に40時間に短縮されたこと、戦後直後に制定された法律ですがこのように労働時間を定めたのは「早死にしないため」と言う松岡三郎先生の教科書を引用してお話ししました。そして月間100時間の残業時間のサンプルを示し、案外簡単に100時間の残業が可能になるということを示しました。

長時間労働が過重労働となり、過労死に繋がるのは、睡眠不足を招くからであり、まとまって6時間から7時間の睡眠時間は必要だということを説明しました。

そうすると過労死を予防するためには、長時間労働をせずに睡眠時間を確保するということが鉄則になるはずです。しかし、それができない。会社からの実質的な残業の強制という事情も確かにありますが、労働者側の事情として、
責任感が強い
能力が高い
公的な仕事に価値観をおいてしまう
というものをあげさせていただきました。

過労死防止法制定にあたって、早期制定の地方議会決議が次々となされました。私の宮城県議会でも決議が全会一致で採択されました。
その中では、過労死は、社会的損失でもあるということが述べられています。社会にとって職場にとってとても有益な方が亡くなってしまうということに着目してこのような内容も入れられています。

私は、過労死や労災の事件を多く担当していますが、離婚事件や親子の事件も多く担当しています。そういうことからの持論ですが、家族という仲間の単位をもっと大事にして、強化する必要があると考えています。過労死予防も、この家族という価値観を広めることによって効果が上がるのではないかということが今回のお話のテーマでした。

第1に、家族のために死なないということです。
親を過労死で亡くしてしばらくすると子どもに異変が生じることを見てきました。母親が仕事が忙しく病気の手当てをしないために、急激に悪化して亡くなったケースでは、お子さんは自分の母親は自分よりも仕事をとったのだという観念にとらわれて、家庭内暴力が始まり不登校となってしまいました。父親が過労死して、母親の再婚相手が現れたころ、それまで何の問題もなかったお子さんが学校から呼び出されるようになってしまいました。父親が自死されて、表面的には普段と変わりのない生活をしていたのだけれど突然重篤なパニック障害が起きてしまい、学校を退学したお子さんもいます。
子どもはどうしても年齢が低いと自己中心的に物事を考えることしかできませんので、自分が良い子ではなかったからお父さんに会えないんだと考える傾向があるということも、東海林智さんの「15歳からの労働組合入門」の一節を紹介しました。このくだりは、どうしても涙で声が詰まってしまいます。

第2に、では死ななければ良いのかという問題があるということです。
長時間労働は、家族と過ごす時間が無くなるということです。父親でも母親でもどちらでも手料理を子どもに食べさせるということが、本来的には家族のコミュニケーションだと思うのですが、子どもがスーパーの総菜やインスタント食品を食べさせるということを悔やんでいる学校の先生たちの調査結果を紹介しました。
また、パワハラなど不条理な職場での扱いが、知らず知らずのうちに家庭に持ち込まれて、離婚原因になったり、子どもの自尊心低下につながるということを説明しました。そういった自分が大切にされていない時間を過ごしていると、本来大切にしなければならない家族も大切にできなくなるという怖さを説明しました。

ここでいう家族は人それぞれで良いと思います。必ずしも夫婦と子どもを単位としていなくても、一緒に住んでいなくても、あるいは亡くなっていても、あるいは血のつながりが無くても、ひとはそれぞれ、変えるべき人間関係が必要だと思っています。そういう人を大切にできなくなってしまうそれは怖いことだと思います。結局は、自分の帰るべき場所がなくなってしまう。それは紛れもなく不幸なのではないでしょうか。

先ほど挙げた責任感が強い、能力があるという過労死をするタイプの真面目な方たちは、仕事をセーブしろと言われても、あまり効果がないと思います。仕事の時間を削って、家族と一緒に過ごす時間を大切にするという新しい価値観を導入しなければ、どうしても仕事を優先してしまうということが実感です。

家族を大切にするという価値観は、これは国も提案しているところです。ズバリ働き方改革がこれだと思います。政策としては具体的に必要な介護と育児が強調されていますが、これは政策ですから当然です。その先の、家族を大切にするという価値観の導入を職場でも活かしていくということは、われわれ国民が国からバトンを受けて行うことではないでしょうか。

では、どういう風に職場で活かすかということです。私は、同僚、部下、上司にも家族がいるということを意識することが効果が上がるように思われます。人材なんて言葉があるように、とかく労働力の人間性が考慮されない風潮があると思われます。その人を人間として扱うということの一つに、家族を持っている人間なのだということを意識するということはとても大切なことだと思われます。
それから家族を大切にするように
同僚の心情にも共感できるような人間関係作りをし
弱い者をかばうという職場の気風を作り
批判ではなく提案する職場環境
相手の失敗を許すという許容性
意見が対立しても仲間であることには変わらないという考え
こういう職場づくりをすることで、パワハラがあっても、「今のはひどいよね。」の一言もでない人間関係を変える必要があると思います。過労自死が起きる現場は、パワハラを受けた人を心配している人がいないわけではないのですが、その一言がないという特徴があるように感じています。
つまり、職場は単なる人材が同一場所にいるという意味あいではなく、仲間でありチームプレイをする場であるという転換が求められていると思います。私は労務管理の観点からも、実はそういう職場転換が生産力をあげているという実例を見てきています。これが働き方改革だと思っています。

これは家族でも一緒です。家族から常に評価の対象となり、批判の対象となったら、子どもも大人も家に帰りたいとだんだん思わなくなると思います。そのままで家族なんだ。無理をしなくても良いのだという家族作りが子どもの自尊感情を高めて、夫婦の安定した関係を保つことができると思っています。

過労死予防とは何かということを冒頭申し上げました。
私は、それは、大真面目で大人たちが幸せとは何かということを考えることだと思います。その答えの一つとして、家族を安心させる家庭を作ることであると思います。そのためにも、長時間労働や不条理なパワハラなどの扱いを撲滅する必要性があると思います。そして、根幹は子どもたちの健全な成長です。


以上が私の1時間足らずのお話の内容でした。
お気遣いいただき、講演が終わって帰らせていただきました。シンポジウムが終わってからの帰路となると、終電が終わって帰れない可能性もありました。
てんぱるというわけでもなく異様な高揚感が残っていました。唯一開いていたキオスクで買ったハイボールの酔いが進むにつれて、涙が止まらなくなりました。自分でも驚くほど、泣くことを欲しているような感じでした。私の担当した過労死事件の記憶、ご遺族の様子の記憶が自然と湧きあがっていたようです。具体的な場面というわけではありません。私は、特に自死事件は、関係者のお話しを徹底的に聴取し、嫌がられることもあります。しかし、その人の人となり、そしてその人の会社の様子、ご家庭の様子などから、亡くなられた方の自死に追い込まれた心情に、理屈ではなく再体験するような感覚が沸き上がったとき、なぜその方が過労で自死したのかということをうまく説明できるようになり、その体験がリアルであればあるほど、良い結果となっています。おそらくその再体験の感覚、あるいはお子さん方の自分を守ろうとする悲鳴の感覚が、自覚はしていませんが講演中によみがえっていたのだと思います。泣き続けることによって、感情が整理されたのだと思います。泣くことも大切だし、そのためには少しばかり?のアルコールも必要なものだと感じた次第です。


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【公務災害認定報告】本部審査会による逆転認定 持ち帰り残業が残業時間として認められる基準が示された事案 [労災事件]



私が弁護士になって担当した、4回目の地方公務員災害補償基金審査会での逆転認定ということになります。

今回は、離島だった島の小学校の教頭先生が、心筋梗塞でお亡くなりになった事案です。教頭先生ということで、事情が分かる方は、忙しいお仕事だということをすぐにお分かりになると思います。こちらの先生は、教頭先生のお仕事だけでも忙しいのに、教科も受けもたれられていた上に、教育委員会の仕事もたくさん引き受けられていたという事案でした。
それにもかかわらず、宮城県支部長段階(裁判で言えば第一審みたいなもの)で公務災害とは認められず、支部審査会に審査請求(異議申立)をしても(裁判で言えば高等裁判所に控訴しても)認められず、本部の審査会(裁判所で言えば最高裁判所みたいなもの)に再審査請求をして、ようやく公務が原因で心筋梗塞になって亡くなったという事実が認められました。亡くなってから認定されるまで約5年が経過していました。

勤務地は、船でしか行くことができず、船の始発の7時前に船に乗り、夕方の7時前には船で島を離れなくてはなりませんでした。小学校の教頭先生は、膨大な仕事があるため、どうしても船のある時間に仕事が終わらず、自宅に仕事を持ち帰られなければならないので、家でも仕事をしていました。これが持ち帰り残業です。

この持ち帰り残業が、請求者の主張通り認められれば、過労死基準をかなり超える時間の残業時間となるので、公務災害であると認定されるはずです。しかし、自宅での仕事は、実際にどのくらいの時間働いていたかについての証明が難しいこと、勤務場所での労働ではなく、自宅での労働なので緊張感、ストレスが大きく違うので、過労死認定における労働時間だと言えるかという2点が問題になります。

主としてこの2点を理由に、支部審査会までは公務災害であることが否定されました。
本部審査会は、持ち帰り残業が、労働時間として過労死認定に考慮されるための基準を明確に示しました。

「職務が繁忙であり、自宅で作業せざるえ終えない諸事情が客観的に証明された場合については、例外的に、発症前に作成された具体的成果物の合理的評価に基づき付加的要因として評価される。」
となりますので、これを分解してみると
1)職務が繁忙であること
2)勤務場所ではなく、自宅で作業をしなければならない事情があること
3)具体的成果物を合理的に判断して労働時間を評価できること

ということになります。

1)繁忙については、当事者が忙しくて疲れるということを実感するのは良いとしても、「繁忙」であることを認定する人に伝えなければなりません。これはなかなか難しいことです。
 認定する人は教師等現場の仕事を分かっていない人が多いということがこれまでの経験から感じていたことでした。ともすると、「過労か否かを認定する立場の人は仕事内容を習熟しているはずだ。」、あるいは、「習熟しているべきだ。」と無意識に考えてしまいがちです。これは「違う」と考えて活動を行うべきだと思います。知らないことを非難しても公務災害認定はなされません。そのためにどうするか。
 先ず、通常の職務に伴う仕事の内容をきっちりと伝えることが必要です。幸い、友人に教頭先生がいて、みっちりとしつこいくらい話を聞くことができました。どういう仕事の内容があって、どれがどのように大変なのか。朝学校に来てから帰るまでどの時間帯にどのような仕事をするのか、年間を通すとどのような仕事をするのか。何をどう聞けば、認定者が理解できるようになるか意識しながら聴き取る必要があります。
 次に、その職場その職場でプラスアルファの仕事がありますから、そこは各職場の内容を知っている人から教えてもらわなければなりません。幸いにも皆さん大変に協力していただき、この点も成果が上がりました。実際にその職場に行って、実際に活動しておられた動線を自分も辿ってみました。
 そして、その次に、その人の特別事情も知らなければなりません。この教頭先生は、通常の教頭の先生以上に教育委員会の仕事を、しかも困難な頭を使わなければならない仕事をたくさん行われていました。この仕事を理解すること自体が一苦労でした。言葉で聞いただけでは全く分かりません。実際に現地に赴き、成果物、発表物を写真に収め、パンフレットを見て、ホームページも見て、ようやくおぼろげにわかりかけてきたというような段階でした。
 そうやって、ただでさえ忙しい教頭先生なのに、さらに膨大な仕事をしていらっしゃったということがわかりました。
 それを認定する方々に説明する必要があるわけです。自分が実際にこの資料で理解できたという資料を画像にして示すということも効果があったと思います。
 繁忙を伝えるというプレゼン技法も、だいぶ考え抜いたつもりでした。プレゼンの際の話す速度や資料の活用方法なども基本を押さえて行ったつもりです。
 期限内にやらなければならない仕事がこのようにあったのだということが、まず代理人のやるべきことということになります。

2)自宅で作業を行う必要性
 先ず大前提として、職場にいる時間で仕事が終わらないという事情を示さなければなりません。その上で、船の時間のため、職場を退出しなければならなかったと続くわけです。1)の活動が前提となるということが大切です。さらには、仕事には期限があるということも自宅作業の必要性の重要なポイントですから、これもきちんと証明する必要があります。

3)成果物などの証拠
 この点で、支部審査会などと対立しました。ポイントは、成果物の内容が相当時間を要する内容であり、その時間については上司の方々も認めていたのですが、支部審査会は成果物を形式的にとらえました。つまり、文書の最終更新日の時間によって残業時間を認めようというものでした。これだと、2日以上に分けて少しずつ作った文書は、最後の1日だけが労働時間と認められて、前日の途中作業は更新されて消去されていますから労働時間だと認められないという不合理があります。ここは、大問題です。成果物の更新記録だけではなく、パソコンの作業時間を示す資料などを分析し、作業していたことの立証を行いました。ここは、ご遺族の方が発見して立証に成功したところも大きく認定に貢献しています。本部審査会もこの点について興味を見せていただき、最終的にはパソコンの提出も求められました。調べていただいたということになります。
 しかし、それは最後の決め手ですが、その前提として、ご家族のご自宅での様子、特にルーティンの様子、上司の方の成果物の評価がなくしてはこの最終トライにはつながらなかったと思います。

 本件は、管理職ということで労働組合の組合員ではなく、組合に対して積極的に支援を要請した事案ではありませんでした。それでも、亡くなった先生を知る多くの方々に様々な協力をしていただきました。亡くなった先生のお人柄が偲ばれるとともに、多くの学校現場の方々の、この事例が過労死として認められないことはおかしいという義憤のようなものを感じました。お一人お一人に頭が下がる思いです。

感想
自身4度目の逆転認定ですが、何度でも認定通知が届いた瞬間の興奮が無くなることはありません。今回も逆転認定にならなければ行政裁判だと気を張り詰めていたということもあり、喜びはひとしおでした。しかし、労災事件の常なのですが、今回の亡くなられた先生は、私と同い年でした。あと何年かで定年退職を迎える歳でした。先生もご遺族も、いろいろな夢があったと思います。ご自身の趣味の活動に時間を使うとか、新しいことに挑戦しようとか、家族で旅行に行くとか、まさに当時の私と同じように色々なことを考えておられただろうと思うのです。認定がなされてご家族の生活のご心配が軽減されたことは大変喜ばしいことですが、何ともやりきれない思いも実は大きくあるわけです。
そのためなんとしても過労死予防こそ第1に取り組まなければならないことだと思い、何かの役に立てばと思いこのご報告記事を書いた次第です。

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聴覚障害者が健常者の中で働くということ 事情聴取メモ [労災事件]



ここ1年で、3件目の聴覚障害関連事件を担当していることになる。それぞれの事件でそれなりに情報を得ていたが、心理面に関する事件を担当することになったので、新たな情報が必要になり、情報の収集を行っている。ここまでの段階で入手した情報を整理する目的でこの文章を起こす。

<事実編>

1 聴覚障害は、障害を持つ人の間でも個人差が大きい障害である。全く聴覚機能が働かない、障害、大きな音なら聞こえる、高い音は聞こえるが低い音は聞こえずらい、その逆等バリエーションがあるようだ。聴覚障害者だからどうだということは、あまり通用しない。この人の聴覚障害はこういうものだから、こうするべきだという話になる。

2 補聴器によって音が聞こえるようになるけれど、直ちに言葉の意味を理解するわけではない。その声に意味があり、音に情報が載っているということを意識するためには、専門の訓練が必要になる。老眼になり、老眼鏡をかけるとまた見えてくるというわけにはいかない。

3 口元は、読唇術ができなくても、それを見ることによって情報を補完することができる場合がある。声が聞こえるような気になる場合もある。これはどうやら、聴覚障害がない人間も同様のことが起こるらしい。

4 角度によって、聞こえないという場合がある。「あれ、さっきこのくらいの距離で聞こえていたのに、今度は聞こえないなんておかしい。」ということは言えない。これから何かを話すのだろうなという気構えをしている場合は、声の意味をつかみやすい。知らないうちに話していれば、同じ距離、同じ音の大きさでも、声をとして把握できない場合がある。例えば、道を歩いていて前から自動車が来れば、クラクションを鳴らされて、ああ自分に対して警告しているということが理解しやすい。しかし、後ろから近付いてきた自動車からクラクションを鳴らされても、自分に対して警告がなされているということが気が付きにくい。

5 1対1の会話は、意味を把握しやすい。しかし、集団で話し合いをしている場合は、だれが話しているのか分からず、話について行きにくくなる。全体が見えない位置にいると特に把握が難しい。

<心理編>

6 聴覚の一番の機能は、危険を察知することにある。聴覚に限らず五感と呼ばれるものは、すべてそのような機能がある。機能を奪われてしまうと、危険が存在しないのに、不安や恐怖感情がわいてくる。例えば、光のささない真っ暗闇のトンネルに入れられた場合(資格を奪われた場合)。味覚や嗅覚を奪われて食料を摂る場合で、食べたこともないようなものを食べさせられる場合。

7 聴覚障害のある人で、呼んでもこちらを向くことができない人に対して、職場の中でかつては釣竿を常備して釣竿でその人をたたいてこちらを向かせるということや、紙くずを投げて注意を向かせるということがあった。聴覚障害というハンデキャップがあるため、劣悪な労働環境での就労を余儀なくされたという事情がある。現代(平成以降)においても、そのような無教養な職場があるということに関係者は驚き、怒った。消しゴムを投げて注意を喚起したのが自治体であったことにさらに驚きが広がった。

8 突然物が飛んでくるということは、脅威である。
消しゴムを投げる方は、消しゴムであるからぶつかっても怪我はしないだろうと考えることができる。また、投げる強さを加減しているから大事に至らないということも知っている。
聴覚に障害がなければ、飛んでくる音や気配などで、自分にどの程度危害があるものか消しゴムが到達する前にある程度はわかる。
しかし、聴覚に障害がある人は、消しゴムが飛んできて初めて消しゴムの存在に気が付く。突然自分に向って飛んできたものが、どの程度危険性があるかについては、消しゴムが自分にぶつかって下に転がり、それが消しゴムだと気が付くまでわからない。危険の存在及び程度がわからない場合、危険を避けるという意識は、危険を実際よりも大きなものであると感じて、危険回避の行動に出ようとする。例えば、物置で細長いものが自分の頭に触ったとすれば、蜘蛛の巣ではないかと感じて慌てて振りほどこうとする。実際はほつれた糸だとしても。あるいは山の中で、突然視界に蛇がいるように見えたが、それは太いロープの切れ端だった等。突然気が付いた異物は、危険なものだとして身構えるのが動物の本能である。
  こちらを向かせようと消しゴムをぶつけられること、あるいは目の前に消しゴムを投げられることは、それ自体が行為者の想像のつかない大きな危険を聴覚に障害がある人に感じさせる行為である。

9 突然消しゴムが自分に飛んでくるということは屈辱である。その1。
  突然消しゴムが自分にぶつけられたということは、その目的を理解できれば、自分に聴覚障害があるということを強烈に示されたことである。聴覚障害があるため、多少危険を感じるように扱っても構わないという態度を突き付けられたことでもある。

10 突然消しゴムが自分に飛んでくるということは屈辱である。その2。
  聴覚障害を理由に、こちらに注意を向けるために消しゴムを投げられるということは、多少危険な行為をしてぞんざいに扱っても構わないということは、自分が、安心感を奪われてもかまわないという態度であり、仲間の中で一段階低い立場の人間だということ、その理由は聴覚に障害があるということを強烈に伝える行動である。9番がどちらかと言えば、身体生命の危険を顧みられないということを強調しているが、10番は対人関係的危険を顧みられていないという意味合いがある。敢えて区別する必要はないかもしれないが、両面があるということを強調するために別項とした。ここに差別の本質がある。

11 これが行われたのが職場であれば、同僚の目もある。これは二通りに心理に働きかける。
一つは同僚の前で恥をかかせられたという思いである。同僚の前で、他者にはそのようなことがされないのに自分だけ他者とは違う扱いをされ、それは多少にかかわらず怖い思いをさせられたということである。そしてその原因が自分の障害にあるという態度を突き付けられたという心理的効果である。
  もう一つは、そのように自分が理不尽な目を受けているのに、だれも同僚が自分の心情をくみ取る行動を起こさないということである。消しゴムを飛ばした上司に抗議することはできないまでも、自分に対して「ひどいことをするね。」と言ってくれる人もいない。この現実を突き付けられることになる。

12 聴覚に障害がある者は、集団から疎外されやすい。仲間内で歓談をすることは、楽しいものである。つい話に夢中になってしまうこともある。しかし、聴覚に障害がある者は、次々に話し手が変わる歓談にはなかなかついていけない。聴覚障害に理解がある者も、つい話に夢中になると、聴覚に障害がある者が話からおいて行かれていることを忘れ、自分が話すことに集中してしまう。
  聴覚障害を持つ者は、集団の歓談が行われると、初めからその輪に加わらなくなることがある。コミュニケーションをあきらめてしまうのだ。自ら聴覚障害を持たない者との間に壁を作るように見えることがある。しかし、彼らにとっては、既に壁はできていた。配慮がなされないという経験を繰り返しし続けてきて、その都度自分は仲間に入れてもらえない、その理由は聴覚に障害があることだということを何度も学習してしまっている結果という側面はある。自分に聴覚障害があることをわかっているのに自分だけが仲間に入れてもらえないという意識になりやすい。または、そのような思いを味わって傷つきたくないという防衛的な行動という評価も可能である。

13 聴覚に障害を持つ人の中には、頑固だと表現される人がいる。聞える範囲の狭い情報しかなく、要求を実現することを選ぶかあきらめるかという極端な二者択一的な選択肢しか与えられていない可能性がある。あきらめることができない場合に、柔軟な方法をとるという選択肢がなく、原則を言い続けるという方法をとらざるを得ないということはありうる。

14 聴覚に障害がある者が、空気を読むということが苦手な場面を示すことは多い。私たちは同じ言葉を発していても、語調や声の強弱などで意味を補充している。場合によっては全く反対の意味を伝えているときもある。「嫌い」という言い方が典型的だろう。聴覚に障害があると、これらの微妙なニュアンスを獲得しがたいことがある。

15 同時に、長い問いかけや、抽象的問いかけは言葉で発せられてもなかなか意味をつかみづらいという傾向にある。具体的に、短く切って質問をすれば答えられる。また、文書で質問をすれば答えやすい。

16 聴覚に障害ある者が、聴覚に障害のないものだけのグループにいることが精神的にきつい。仲間がいるということで、疑心暗鬼も小さくなる。思い過ごしかもしれないという選択肢も出てくる。

<政策>

17 それでは、健常者の職場に聴覚に障害がある者を迎え入れることは困難なのか。
  それはそうではない。しっかり面談をして、その人が何が得意で、何が苦手であるかはっきり聴取しておくことが必要である。そして、それについては職場変わる場合や上司が変わる場合は、しっかりと引継ぎをする必要がある。また、歓談をする場合には、どのようなことが話し合われているか、逐一でなくても説明すれば足りる。大事なことは、仲間として尊重しているというメッセージを伝え続けることである。また、改善点について自由に話ができる環境を整えることである。
  障害者雇用は、単に障害者を雇用すれば足りるのではない。障害者が疎外を感じない職場環境を整えることも含んで必要とされているのである。

18 障害を理解するということは、現在の仕事技術の能力について理解するだけではない。疎外に対して過敏になっているかもしれないというところを含め、理解をする必要がある。
  これらは、特別な配慮のように感じるかもしれないが、通常の人間関係で本来求められる配慮と考えるべきであろう。

19 特に職場では、迅速な伝達、迅速な行動、合理的な行動が求められる風潮がある。ともすれば、障害があることが、このような迅速、合理的な行動を阻害するように感じられる場合がある。しかし、本来の人間関係は、配慮や尊重がもう一つの価値として重視されるべきである。現代の特に職場環境においては、目的至上主義的な風潮が前面に出てしまい、仲間を尊重するという風潮が切り捨てられているのかもしれない。
  職場に障害を持った方がいて、その方が仲間として尊重されていると感じる職場は、だれにとっても居心地の良い文字通りユニバーサルスタンダードを実現できる職場になるだろう。

20 障害がどのように障害になるかは、障害がない側の対応いかんによることも大きい。障害を持つ者の経験だけからは、何が改善されればよいかわからないことも多い。障害を持たない側だけの知識では何も生まれない。相手を責めたり、改善を求めるだけの議論ではなく、具体的な改善について価値を込めない話し合いが日常的にあることが望ましい。

21 直ちに、障害を持つ者に心地よい職場を実現することは、難易度が高いかもしれない。そうした場合は、職場の中ないし職場と提携した障害に理解のある相談員を設けるということも一つの解決方法である。

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「障害者差別を受けた場合の心の痛みと派生効果」 [労災事件]


1 心の痛みとは何か
    危険に対する防衛反応
  差別をされれば心が傷つく、心の痛みが発生するということは、自明の理であるとされているようだ。それは確かにそうだろう。しかし、自明の理とだけ言って、さらに分析的な検討がなされていないように感じられる。差別をされたことの無い人間には、差別をされた痛み、苦しみということを本当の意味で理解することは困難であるかもしれない。しかし、その痛み、苦しみを言葉にして明らかにすることによって、質的な感得が不能でも量的な把握が可能になるはずである。差別の解消や、人間に対する理解に貢献するはずであると考える。
「痛み」ということを理解するために、まず体の痛みということを考えるべきであろうと思う。体の痛みは、体の完全性を損ねて、神経に対する物理的ないし化学的な働きかけがあった場合に感じる。このメカニズムには意味があり、痛みがあることによってその痛みの原因になっている体の部分に身体の完全性を害している損傷があることを自覚することができる。痛みが激しい場合は、その体の部分を使わないようにして、損傷の拡大を防止する行動をとるだろう。例えば足首を捻挫して痛い場合は、歩かないようにして足を休ませ、回復を助けることができる。痛いと感じないで歩き続けてしまえば、筋肉や軟骨などの軟部組織の挫滅が拡大してしまう。痛いと感じることによって、行動修正をして、損傷を拡大することを回避することができるのである。また、痛みを感じる原因になった出来事を記憶することによって、将来的にそのような出来事が起こらないように行動を修正するようになるだろう。
  痛みとは、現在の状態や将来の行動を修正する契機となる。その目的は、致命的な損傷を回避するところにある。痛みを感じずに体を動かし続けることによって、損傷が拡大し、その結果回復不能になるかもしれない。つまり痛みは、身体生命の危険を自覚し、危険を回避するという機能を持っている。生物にとっての生きるための仕組みだと考える。
  心の痛みもまったく同様の機能があるとは考えられないだろうか。心の痛み、不安を感じることによって、行動を修正し、危険を回避するという機能があるということである。つまり、危険を感じていることを鮮明に自覚し、危険から回避するためのきっかけとなる、人間が生きるために必要な感覚であると考えてみたい。

2 差別によって心の痛みを起こさせる危険とは何か
    対人関係的危険
  身体生命の危険がない場合でも、心の痛みはある。身体生命の危険以外の危険を感じていることになる。それはどんな危険であろうか。
  私は、対人関係的危険という概念を提唱している。対人関係的危険とは、突き詰めて言えば人間が自分が所属する「仲間」から離脱させられ、孤立する危険であり、自分が仲間の中で尊重されていないという意識を持つときにそれは発動する。
このような意識が生まれる構造は以下のとおりである。人間は他者とのつながりの中に所属したいという根源的要求を持っているものであり、この要求が満たされない場合は心身に不具合を生じる(バウマイスター)。しかし、単に所属していればよいというものではなく、安定的に所属することを要求している。不安定な所属は、所属から離脱を余儀なくされるのではないかという心理的反応を引き起こしてしまい、心身の不具合が生じるようになる。この安定した所属であり続けることに危険を感じると不安になる。
  この対人関係の危険の意識、不安が、心の痛みのすべてだとは言わないが、その一つであることは間違いないだろう。
  人間が、どうやって誰かとつながっていたいという根源的な要求をもったかということは問題になるだろう。私は、このように集団の中に身を置こうとした人間の祖先だけが、言葉の無い時代にあっても集団をつくることができ、何事にも中途半端な人間であるにもかかわらず生き延びることができたのであろうと考えている。だから、その子孫である我々も個性によって程度の違いがありつつも、そのような要求を持っているはずだということになる。

3 対人関係的危険を意識するとき
  対人関係的危険を意識するときは、自分の人間関係の中から離脱を余儀なくされると感じる場合である。危険や不安を感じるということは主観的な問題なので、人間関係からの離脱の危険の客観的事実に基づくものではなく、あくまでも主観的な事情にもとづく。
  逆に、対人関係的危険を感じない場合は、自分がその人間関係の中で尊重されていると感じている場合である。
  尊重されていないという感覚は、仲間として認められていないと感じるときに発動する。人間が尊重されていると感じることは、仲間として認められ、仲間として扱われているときだということになる。

 1)したがって、はっきりと仲間として認めないということを告げられれば、当然対人関係的危険を感じる。「でていけ。」、「もう二度と顔を見せるな。」、「お前なんて仲間ではない。」と言われれば、対人関係的危険を感じることは当然であり、心が痛む。
   しかし、弁護士という仕事がら感じていることは、はっきりそう言われるよりも、それを示唆するような言動がある方が心の痛みは強くなるようである。おそらく、そうはっきり離別を宣言されれば、もうその人と自分は同じ仲間ではないと感じるのだろう。例えば、離婚を宣言された夫婦の一方、解雇を宣言された労働者などである。
   むしろ、夫として妻として失格だとか、給料泥棒と言われているときの方が、心が苦しく感じているような様子がある。このように感じるのは、通常離婚や解雇を言い渡される場合は、必ず前段階の予兆のような出来事があり、対人関係的な危険は既に感じており、危険から解放されたいという要求を含めた不安が発生しているのであろうと思われる。この時点で心の痛みは感じている。そして、離婚や解雇を言い渡されるときには、危険が現実化しているので、ある意味不安を感じなくても良い状態になる、つまり決着がつく状態なので、言い渡されると同時に同じ仲間ではなくなっているのかもしれない。独立の準備ができていたことになる。これに対して、事前に何の予兆もなく、突然別離の宣言がなされたり、別離が決行された場合は、心の準備がない分、心の痛みが甚大なものになるのだと思う。子どもの連れ去り、突然の事故による死別、身近な人の自死による心の痛み等はこのように大きな心の痛みとなる可能性がある。

 2)人間は、どこかの人間関係に所属したいという根源的要求がある。これはかなり厄介なものでもある。理性的に行動できれば、自分を冷たく扱う人間関係なんて、自分から離別して別の人間関係を形成することが合理的である。しかし、人間は所属の根源的要求があるため、今所属している人間関係にとどまりたいという志向を持ってしまうようである。
   夫婦、家族、職場、学校など、唯一絶対的な人間関係は現代では何一つない。それにもかかわらず、太古の昔に形成された人間の心は理性によってコントロールすることができないようだ。冷たい相手の反応で心を痛めてしまう。そして、決定的な離別の宣言を回避したいと思ってしまう。パワハラ職場、いじめの学校、配偶者暴力の家庭等、なぜそこから逃げないかと事情を知らない第三者は疑問を抱くようだが、それは人間というものはそういうものだということをまず理解するべきである。興味深いことに、心の痛みが蔓延化し、うつ的状態になるほどそのような人間の本能が支配するようになる傾向がある。

 3)「このままこの状態続けば、やがて離別、孤立に至るだろう。」という感覚こそが対人関係的危険である。
   どういう場合にこの対人関係的危険を感じるかについては、個性の違いが大きい。ちやほやされなければ不安を抱いてしまう人もいるだろう。逆にどんなに悪口を言われても、自分がやることをやっていれば不安を感じない人もいる。世の父親たちは、妻や娘に受け入れられなくても、働いて収入を家に入れることで不安を感じないようにしている。自分は家族の役に立っているという意識付けを自分で行うことによって、大丈夫だと言い聞かせているわけである。自分から進んで危険を感じることはないが、仲間の反応を見てからではないと危機感を感じない人もいる。逆に仲間の反応がなくても、自分で勝手に自分はここまで仲間のために貢献しなければいけないのにできなくなってしまったということで、自分勝手に不安になってしまう人もいる。失業した場合の男性がその典型である。あるいは、何か失敗してしまい、申し訳なく思うだけでなく、これで仲間から見捨てられると感じてしまう人もいるだろう。
   弁護士としての仕事柄、この危険意識が過敏になっていて、なんら危険を感じる必要性が無いのに危険を感じる人を見ている。または、そこまで大きな危険を感じなくても良いのではないかという反応をする人もいる。逆に、もっと危機感を感じなければならないのではないかと思う人もいる。個性の違いが反映していることは間違いないが、離別や孤立を恐れていることは多少の違いあっても、確実に感じているようだ。

 4)対人関係的危険を感じる事情も、人によって違うが、共通した事情もあるようだ。
   一つは、自分の行動が評価されないということだ。何かを一生懸命やって、かなりうまくいって、称賛されるはずであるのに、自分が期待されたような評価がなされないという時に心の痛みが大きくなる。逆に自分のやることをことごとく否定評価される場合も対人関係的危険を感じる。良かれと思ってやったことが否定評価されれば、なおさら心が痛むだろう。
   もう一つのパターンは、自分自体を評価されないということだ。自分のありのままにいることを、あるいは思い通りに行動することを極端に制限される場合にやはり対人関係的危険を感じるようだ。そういう場合は、自分がその仲間のままでいる資格がないと言われるように感じるのだろう。
   否定の態様、強度によって、危険意識の程度は変わってくるだろう。また、仲間の中で自分を否定する割合が圧倒的多数だった場合、仲間の中での主要メンバーから否定される場合は、危険意識が高くなるようだ。当然否定されている期間が継続すればするほど危険の意識は強くなっていく。

3 対人関係的危険を感じた場合に取る行動の原理
    適応
  対人関係的な不安が生じれば、危険の増幅回避のため、修正行動を起こす。他者に対してコメントを出そうとしたところ、その人が嫌がっている様子を見て、失敗したという自覚を持ち、不安を覚えたために、言おうとしていた言葉を言うのをやめるという具合である。自分が何らかの失敗をすれば、心の痛みを感じて、償ったり、言い訳をしたり、様々な修正活動を行う。社会的適応行動である。
  この適応行動の結果、自分の対人関係的危険が解消されれば、事なきを得る。危険の機能が果たされたわけだ。しかし、適応行動が失敗した場合はどうなるか。これは身体生命の危険の場合も起こりうる。捻挫をして歩くのをやめるという修正を行う。休養を取り回復すればよい。しかし、休養を取っても痛みが軽減することもなく、むしろ増強する場合もある。もはや自然治癒力では回復しない場合、不安が増大していく。他の修正行動を行い、何とかその不安から解放されようと努力する。有効な治療を受けられれば良いが治療を受けられない場合、例えば権威のある医師から、もはや足の機能は回復せず、痛みも軽減されることないと宣告されたら、それは絶望しかない。

4 適応不全と絶望
  対人関係的危険の場合も、身体生命の危険の場合と同じような経路をたどる。
  職場のパワハラや学校などでのいじめ、夫婦間トラブルなど、客観的には極めて理不尽な目にあっていても、人間は本能的に適応行動を起こしてしまう。加害者は初めからターゲットを仲間だとは見ていないので、どんな修正行動をしてもそれは効果がない。つまり、どんなに加害者の意に沿う行動を考えて、自分を殺してでも相手に歓心を持たれるような努力をしても、相手からはその行動さえも否定される。自分の修正行動がまずいから相手の歓心を買えないと思い、相手の要求が理不尽で不合理なのだということを思い当たることはない。第三者の観察と意見がなければそれはうまくいかない。しかし、既に自責の念、自罰感情が優勢であるため、第三者の貴重な勧告が受け入れられないことが多い。
  対人関係的危険を感じて、自分の行動を修正するのだが、相手の反応は悪い。そうするとますます対人関係的な危険を感じてゆく。仲間ならば、自分の非を認めて自分の行動を修正しようとすることを評価してくれるはずである。しかし、それをにべもなく否定するのであるから、いよいよ自分は仲間として見られていないと感じるのは当然である。そうすると、ますます危険から解放されたいという要求が高まり、肥大化していく。合理的な思考からはますます遠ざかっていく。意味のない行動を繰り返し、事態は悪化していく。
  どうやら、人間は体の痛みに耐えることができず気絶をするように、心の痛みにも耐える力は無尽蔵ではないようだ。心の痛みに耐えられなくなる場合はどうするか。最悪の場合は自死によって心の痛みから解放されることを志向してしまう。生きるための仕組みであるにもかかわらず、人間が自然界から用意された耐性を超えてしまうと、逆に自ら命を失うことを選択してしまう。
  自死に至らなくても、体は耐えられない痛みを回避する手段を断行する。一つは心の痛みを感じなくする方法である。これは心の痛みだけ感じなくすることができないために、すべての感情を失い、精神活動が全般的に低下していく。うつ病という防衛方法である。あるいは、心の痛みが非日常的で、日常と断絶が起きている事情があれば、心の痛みを起こさせる事情を病的に忘れさせるという方法をとる。思い出さないように無意識に自分の記憶にふたをする。しかし、ふいに対人関係的危険があることを思い出し、しかも不完全な形で思い出す。即ち、精神的恐慌の一歩手前の時点の感覚だけがよみがえってしまう。蓋をしても蓋の隙間から苦しみがにじみ出てくるようなものである。これがPTSDである。その他、心が無意識にその苦しみを合理化しようとして奇妙な解決方法をとることがある。例えば統合失調症と診断されている病態の少なくない部分が、このようなメカニズムで起きるのではないかと感じることがある。いずれにしても、精神が正常な状態であると苦しみ続けるのであれば、人間の防衛の仕組みによって、精神活動を歪ませることによって苦しみを感じにくくさせていることが考えられる。
  一時的に苦しみが遠のいたとしても、理不尽な苦しみ、特に出来事が発生する合理的な因果関係が把握できない理不尽な仕打ちを受けた場合は、またいつ同じ心を痛ませる出来事が発生するか予測がつかない。このために、些細なことでも苦しみの予兆ではないかと不安になる。不安症やパニック症などの認知の歪みや過敏な反応様式が残存することがある。

5 差別を受けたことの心の痛み
  それでは、差別を受けたときの心の痛みとは何かについて考えていく。
  差別は、それがどの人間関係で起きるかに関わらず、対人関係的な危険を感じさせる出来事である。差別は何事においても、自分たちが形成する共同体の中で、あなたは正規のメンバーではないという通告である。極めて大きな対人関係的危険を意識せざるを得ない。
  特に、その人が日常的に所属する人間関係において差別されることは、危険意識が高くなっていく。家庭、学校、職場などでの差別は、毎日繰り返され、終わりがないと意識されることだから、逃げ場を失うことになる。人間の本能として最も良好な関係を望む群れとして扱われる関係であるから、もっとも根源的な要求が否定されることになる。これは心の痛みを大きくする事情である。
  差別の最大の問題は、修正ができないことにある。差別を受けたときにも、無意識に、本能的に行動修正をしようと企図してしまう。しかし、例えば、性別や国籍を変えることができない。自分の生物的な両親を変えることはできない。障害者差別の場合は障害をなくすることができない。差別される事情を修正することができないにも関わらず、心は無意識に修正しようとしてしまう。そして修正できないことに絶望する。本当は、修正することが本質なのではなく、差別しないことが本質であるにもかかわらず、差別をされてしまうと自力ではそれにたどり着けない。
  そのため、自分自身で自分を否定してしまうようになる。自分が差別される事情を抱えているから悪いということで合理化をしようとしてしまう。どうやら人間は、理由がなく差別されるという考えこそが耐えられない苦しみ、絶望を感じるようだ。それよりもまだ、自分が悪いから苦しみを与えられると考えることによって、ぎりぎりの絶望を回避しようとする傾向がある(ハーマン)。
  いずれにしても、例えば障害者差別の場合に障害を解消することができないように、修正する方法がなく、絶望を抱きやすい。差別が日常的に行われること、毎日行動を共にする家族、職場、学校でそれが起きることは心の痛みが大きくなりやすい。差別の主体が、その場の体勢である場合も絶望を感じやすい。たとえ具体的な差別行為が一人で行われていたとしても、他の人間がそのことに抗議する等差別を是正しなければ、全体から自分だけが差別されているという意識を持つ。これがいじめの本質でもある。
  被害者にとって、差別が解消されて仲間として迎え入れられたというエピソードがない限り差別は続いている。たとえ加害者の意識として、差別行為をやめたという意識だとしても、従来の差別行為についての評価が変動しない限り、つまり差別は誤りであり、今後は二度としないということが表明されない限り、差別されているという意識は継続する。職場や学校では、自分が相変わらず無視をされていると考え続けるしかない。いったん差別行動がやんだとしても、差別されていること自体が終わりを告げていないのだから、またいつ激しい差別行動がなされるのか分からず、過敏に防衛意識が高まることになる。
  差別行動が継続された結果、心の痛みの苦しさに耐えきれなくなり、様々な精神病理を発症させることによって、苦しみを緩和させようという体の仕組みが発動してしまうことはむしろ自然なことだと思われる。

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過労死から自分を守るための現実的な手段 社会人になる前に伝えるべきこと [労災事件]




法で、過労死防止月間と定められた11月が終わりました。
各地で中学、高校、大学、専門学校など
厚生労働省の過労死防止啓発授業が開催されたことと思います。
私も東北中を駆け巡ってお話しをしてきました。
本当を言うと、もう一校今週あります。

この授業は、これから就職をするという生徒さん方に
就職をする前から過労死予防を行うということで
とても有意義なことだと思います。

講師によって話す内容は違いますし、
開催学校によって、1時間だったり2時間だったり
時間も違います。

比較的熱心に
最後まで話を聴いていただいており、
話しているこちらが充実する時間を過ごさせています。

さて、何をお話しするか。

色々な考え方があるでしょう。
過労死にまつわる法律の内容
働き方に関する法律の内容を
お話しすることがもしかしたらオーソドックスかもしれません。

問題は、その内容をお話ししたことで
実際に職場に出て上司や同僚に囲まれて生活する
その人たちの過労死予防につながらなくてはならない
ということです。

そもそもどれだけ法律の知識を持てばよいのでしょうか。
法律の知識を増やせば過労死は防ぐことができるのでしょうか。
法律の知識があって、雇い主に対して
「これは法律違反です」と抗議をすることは
実際に可能なのでしょうか。

一つに、そういうことを言って職場が改善されるのかということと
肝心なことは、そんなことを上司や経営者に向かって
いうことができるのかということです。
自分がパワハラを受けているということにさえ
なかなか気が付かないことが実態なのです。

さらには、法律の範囲ないの業務命令ならば
どんな酷い命令もあきらめて従わなければならないのか
ということもあります。
裁判で負けるなら、会社に従わなければならないのか
ということですね。

この考えは、私の独特な思考の結果というのではなく、
実は、「権利とは何か」という理解の問題が関わっています。
法哲学的というか、労働法制史的な理解の違いにあるわけです。

このあたりのことは、長くなるのでざっくり説明します。

元々労働者の権利というものはなかった。
現在権利として保障される行為のほとんどが犯罪だった。
失業することすら犯罪だった
労働組合を作ってストライキをするなんて重罪で
死刑も用意されていた国もある。
しかし、労働者は、自分たちの要求が、組合を作って戦うことが
人間として正当な要求、正当な行為だと信じていた
(正当性の意識、規範意識)
長年の労働者と使用者、国家との衝突を繰り返し
その長年の苦労の結果
国家から権利として保障されるにいたった
ということです。

だから、労働者に限らず、
権利とは、
人間として当然の扱いを受けるということであり、
法律に書かれていなくたって
自分たちにとってそれが人間としての扱いだという
その正当性の意識に根源を持つということなのです。
この人間観というか、正当性の意識が後退すれば
法律がどう規定していようと法律は守られません。
また、法律自体が後退していくこともあるわけです。

大事なことは法的知識ではなく
権利意識、もっと具体的に言えば人間観です。
ひらったくいうと自分を大切にする心、習慣でしょうか。


もちろん法律の話を全くしないわけではなく、
長時間労働とは何かということを
視覚的にプレゼンするわけです。

そして、長時間労働によって過労死する仕組みを
時間に合わせて説明するのですが、
そのポイントは、
「長時間労働をすると、睡眠時間が少なくなる
 睡眠時間が少なくなると、脳や心臓の血管が詰まったり、破裂したりする
 あるいは、睡眠時間が少なくなると精神的に不健康になる」
ということが最大のキモです。
仮にそれまで寝ている人がいても
ここだけは、起こしてでも聞いてもらいます。
(前半なので、寝ている人はいませんけれど)
そして、睡眠時間は細切れにとっても有効ではない
ということをレム睡眠のグラフを見せながら説明するわけです。

長時間労働と絡めて
過労死という言葉が生まれる以前の過労死について説明します。
過労死は戦前からあったわけです。
ただ、くも膜下出血とか心筋梗塞という名前ではなく
結核とか栄養失調による衰弱とかいう病名でした。

これらの病気と長時間労働とのかかわりについては国は意識していました。
当時、現在の厚生労働省の官僚として労働基準法の条文を作った
松岡三郎先生(後に明治大学教授、私の大学にも教えに来ていただいていて、
直接講義を受けたし、もちろん教科書も買いました。)
の教科書にも、一日8時間労働と定めたのは
(当時は週48時間労働)
「労働者が早死にをしないため」と明記されています。

さて、それでは法的知識以上に大切なことはなにでしょうか。
それは過労死の特徴からも導かれます。

過労死は、くも膜下出血にしても脳梗塞にしても
心筋梗塞にしても大動脈解離にしても
うつ病などの精神症状にしても
悪くなるまで自覚症状がないというところに特徴があります。
悪くなって初めて
ああ、そういう病気だったんだと気が付くのですが、
気が付いた時には遅いということが特徴です。

だから、過重労働をしない、長時間労働をしないということで
予防するしかないのです。
ところが、漫然と働いていると
自分が何時間労働しているかすらわからない。
家族とも、長時間労働で顔を会わせないから
家族が異変に気づくこともだいぶ遅れるという仕組みがあります。

ではどうするか

同僚との人間的なつながりがあることだと思います。
同僚ならば、誰がどのくらいきつい仕事をしているかわかります。
同僚ならば、顔色がおかしくなってきたことに気が付きます。
同僚と話すことができれば
パワハラを受けていることを指摘してもらえますから
自分がなぜ苦しいか気が付くことができます。

しかし、現在の職場では
同僚と、なかなかそういう人間的なつながりを作りにくいようです。
あからさまなパワハラを受けていても
関わりたくないという人間が多いために
パワハラを受けた労働者が、
上司の言うとおり自分が悪いのだろうか
という気持になってしまうのです。

私の担当した事件を振り返って、
せめて、パワハラを受けた人に
同僚が、「あれはひどいよね」と
こっそりでいいから言ってあげられれば
もっと救えた命があったのではないかと
ついそう思ってしまうのです。

会社の中で人間的なつながりを作る
ということが一番大切なことです。
これが後半のヤマです。

ここらからが対人関係学の見せ所ということになります。

人間的なつながりは会社に入ってから作ることは難しい
同期でもなければ、自分から作ることも難しいし、
同僚を出し抜かなければ評価されない成果主義の労務管理の中では
さらに難しいということになります。

だから、学校にいる今のうちに仲間づくりを勉強するということを
お話しするわけです。

人は一人で幸せになることはできない。
大切な人間関係の中で尊重されていることが必要だ。
尊重されるということは、
いつまでも仲間としていることができるという安心感であり、
それを一番感じる事情として
失敗や、不十分なところ等人間として当然持っているところを
責めない、笑わない、批判しない
助けられ、補われ
一緒に成長するものだと扱われることでしょう。

そういう環境に自分を置くためには、
自分が意識して仲間にそういう態度で接するということです。
それを生徒さん同士で
部活でも、卒業記念政策でも
あるいは受験勉強でも何でもよいですから
一緒にそういうチームを作ってみる。
そういう訓練をするということですね。

残り少ない学生生活の仲間を
そうやって扱ってみるということですかね。

そうやって、人と人とが分断されやすい現代社会の中で
意識的に人と人とのつながりを作っていく。

仲間がいれば多少法的知識がなくても
これはおかしいと思えるし、言葉に出すことができる。
誰かと知恵を出し合うことができる。
一人だと何もできないけれど、
労働基準監督署に行ってみようとか
過労死弁護団や労働弁護団に電話をしてみよう
(無料だから)
ということでもできるようになるわけです。

どうやら、人間としての誇りとか
正当性の意識というのは
一人ではなかなか生まれも育ちもしない場合があるようです。
同じ環境にいる仲間を守るという意識が
権利意識を持つためにはとても有効なのだと思うのです。
一人だとやはり人間は幸せになれない
ということは真実なのだろうと思います。

誰が何と言おうと自分は大切な存在なんだということ
自分を大切にするということは
仲間を大切にする中で実現するということ
こういうことをお話ししてくるということになります。

(ちょっと考え込んでいたことがありましたが
 書いていて吹っ切れました。
 そうか、対人関係学のルーツとして
 野村平爾先生の規範意識論があったのだということに
 気が付いたことを自己満足的に付け加えます。)

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【お知らせ】11月27日 福島、厚生労働省主催過労死等防止対策推進シンポジウム 普通の企業で過労自死が起こる仕組みと効果的な対策 [労災事件]

ついこの間と同じ記事ではなく、
今度は福島での厚生労働省シンポジウムのお知らせです。

概要は以下の通りなのですが、
私が基調報告をいたします。

参加お申し込みは以下のサイトから簡単にできます。
https://www.p-unique.co.jp/karoushiboushisympo/#area2-6

特徴的なことは、
私の担当した26件の実際の事例を分析した結果に基づいての報告であること
(個別事件の報告ではありません
 死亡事例16件、死亡に至らない精神疾患事例10件)
弁護士が担当したのですから、かなり詳細に事実関係を調査しています。

その上で、もともと確信犯的にパワーハラスメントをしなくても、
つまり普通の企業でも
パワハラが起きてしまい
従業員が精神的に傷つき、自死に至る
ということが起きてしまうというということを
説明しています。

どこにその原因があるかということを
あるいはどういう叱責が精神的に悪いのかということを
具体的な事例に基づいて説明しています。

過労自死を出した会社が悪い会社で
これから起こさなくしろ
という投げっぱなしなお話ではなく、
どうすれば、精神疾患事案を出さないようにできるのか
一緒に考えて、提案するお話です。

特に福島の企業の方は必見だと
手前みそですが思います。

実際の事件を担当した立場からの説明
パワハラ講習というのは
余りないようです。

このような話ができるのは何も私だけの力ではなく、
東北希望の会には、臨床心理士、産業カウンセラー
社会保険労務士等々
あらゆるジャンルの人たちがいて
大学の研究者の方々とも連携しているからこそ
できることです。

今回は私が代表してお話しするということなのです。

ごくごく骨の部分だけ以下に貼り付けます。



精神疾患事案26例の分析
  土井法律事務所(仙台)

本分析の前提 ------------------------------------------------------
確信犯的な使い捨て企業ではない。
   悪意を持って追い込んだわけではない。
   上司が特異な人格破綻者ではない。
つまり、
普通の企業において、
普通の上司が
労働者を精神的に追い込む可能性についての考察
----------------------------------------------------------------------------

対象事件の条件 =============================================
労災認定や公務災害認定で精神疾患を認定された事案、あるいは、
精神科の治療を受けるに至った事案、ないしは
企業が精神疾患に罹患したこと、業務が原因で罹患したことを認めた事案精神疾患事案だと思われても、これらの条件を満たさない例は除いた。

1企業から見た過労死、精神疾患事案
2 結果としての自死、精神疾患
 
3 事例にみられる叱責の内容
 ================ 
1)効果のない叱責
2)大声の叱責
3)矛盾する指示
4)不平等、不公正な取り扱い
5)理由のない決めつけでの叱責
6)遂行不可能な指示
7)不利益の示唆を含む叱責
================

4 不適切な叱責が行われる職場の条件
  =========================== 
  小さな事業場(10人未満)
  上司と部下が1対1でコミュニケーションをすることが多い
  上司と部下の力の差が大きい
  上司の会社内の立場が弱い
  異質な人がいる
  長時間労働
  上司の行動が経営者から把握されづらい
  ===========================
 5 被害者のサイドで見る
1)被災者の属性
   年齢には無関係
   責任感が強く投げ出さず、能力が高いため言われたことをできてしまう。
 素直なのでやれと言われたらやらなくてはならないと感じる。
  家族は、働き方に対して口出しをしない。どうしても働けということもない。やめてもいいよというケースがある。
2)孤立感
 3)不可能感
   不可能な業務指示、矛盾した業務指示
   自分が当該上司から尊重されるようになることの不可能感
6 考察
    わざと辛く当たって発奮させるというのは、よほど信頼関係(自分のことを尊重しているという確信)がない限り、言葉を額面通りとる。「発奮させるため」ということは、第三者が客観的な評価をすれば、つらく当たる「口実」だと思われても仕方がない。
    対象労働者の環境、諸条件、経験年数、知識と与えられた仕事量にてらして、「当該労働者の状況を推測する」ということが欠けている。やらなければならないという会社の事情が優先されて、無理が通ってしまう。
    上司が自分の能力のなさを叱責でごまかしている。あるいは、自分の能力のなさに気が付いていない。能力とは、人を動かすちから、効果的な指示、困難を受け止める度量、上司に対して穏便に筋を通すノウハウ
7 対策1 何に注意するか
  過剰叱責が起きやすい職場にあることの自覚
  <上司の方へ>
 <経営者の方へ>
8 対策2 心構えないし点検方法
  <部下は>
  孤立していないか。
  不可能を強いられていないか。
  自分と上司ないし経営者が一つのグループになって、部下が、グループに敵対する存在だと感じていないか。
自分(たち)の足を引っ張る存在、
自分(たち)に不利益を与える存在、
自分(たち)を苦しめる存在
   ⇒ これが成立すると、本能的に部下は「敵だ」という意識になってしまう危険があります。その結果、過酷な叱責、人格否定の言動が起きてしまうようです。
     かわいそうだからやめようというパターンが成立しなくなります。
当該部下を仲間として考えるように意識する必要が生まれます。

9 人間関係論(メイヨー)の修正骨子
  人間は、自分が尊重される集団を仲間であると認識する。
  人間は、仲間だと思う集団のために本能的に働こうとする。
  自分が尊重されていると思わせる労務管理は、生産性を高める。
参考文献
 A 「コンサルタントはこうして組織をぐちゃぐちゃにする
    申し訳ない、御社をつぶしたのは私です。」カレン・フェラン
   大和書房
  
B 「モラル・ハラスメントが人も会社もダメにする」
   マリー=フランス・イルゴイエンヌ 紀伊國屋書店
  
  AとBを整合させて考えると、亜流コンサルタントはGE「ぽい」手法を提案するが、生産性向上をあげる部分(=人を大切にする部分)を除いて提案しているということになる。経営者は、短期的な売り上げに過度にこだわりをもたされ、厳しいか厳しくないかということに労務管理手法の選択基準をおいていると判断した亜流コンサルタントが「ニーズ」に適合する手法を提案していると考えると整合する。

 C 「労働時間の経済分析」山本勲 黒田祥子 日本経済新聞出版社
 D 「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン みすず書房
   

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