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私は、パワハラ相談でこういうことを行っています。 [労災事件]

 

<パワハラ被害者の方は何度か相談に来る>
私の事務所に相談に来るリピーターの方で多いのがパワハラ相談です。実際は、私が「それはパワハラになる」ということを上司に教示して提案して解決したり、すでに退職したりということで、パワハラは終わっているのです。それでも、自分に何が起こっていたのかということを確認したい(そして、安心したい)ということで、何度か面談をご希望されていらっしゃいます。料金も法律相談料に準じてお支払いされてゆきます。そして徐々に、いらっしゃる頻度が少なくなり、いらっしゃらなくなるという経過をだどることがほとんどです。

<パワハラ被害の心理面の症状の原因>
前回の記事を参考にしていただきたいのですが、パワハラ症状で、心に現れる症状として、自責の念や自己肯定感の喪失というものが現れることが多いです。パワハラを受けているときに、上司から、「お前は無能だ」、「こんなこともできないのか」、「そのくらいのこと考えられないでは社会人失格だ」、「人間としてなっていない。」等と言われることを真に受けてしまい、本当にそう思ってしまうということらしいのです。

パワハラの本当に怖いところ、うつ病やPTSDになる原因は、ひどいことを言われて悔しい思いをすることではなく、自分がだめな人間だと思い込んでしまうところにあるようなのです。

<非常識な上司の評価を真に受けて悩む被害者>
ところが、これも前回の記事で詳しく述べたように、社会常識的に評価すると、大方の人間が、上司が無茶なことや常識はずれのことを言っているに過ぎなくて、「どうしてそんなつまらないことを言われて真に受けてしまうのだろう」と不思議に思うわけです。

しかし、パワハラの被害者は、「言われてもいないことでもやらなかったのは自分に問題がある。私が思いつかなかったことは私に問題があるからだ」と思い込んでしまうのです。また、パワハラで傷つく方は「上司から意味の分からない指示を出されて聞き返したりすると『お前は人間としておかしい』」という失礼なことを上司から言われても怒るのではなく、自分は発達障害ではないかと思い悩み、心理テストを受けに行ってしまうのです。

<パワハラ相談で私がお話しすること>

パワハラの被害者が私のところにいらっしゃるときは、皆さん損害賠償やコンプライアンスへの相談申立てや、労災申請などが漠然と念頭に置かれています。ただ、パワハラと言っても実際は程度の違いがあったり、症状も程度の違いがあったり千差万別です。パワハラだから何をするということが決まっているわけではありません。ご本人と話し合って、一番ふさわしい方法を選択しているということが実情です。

その選択の資料にするために、何が起きたのか、時系列に添ってお話ししていただくことは不可欠です。ご本人の体調次第ではありますが、時系列のメモを作っていただくことも多いです。ただ、これは苦しいことを思い出す作業なので、無理に一人お作業をさせることは慎重になる必要があります。

メモは不完全で構いません。抽象的な表現でも構いません。ただ、順番だけを気にしていただきます。そして、面談で、順番に添って一つ一つのエピソードを伺ってゆきます。

そして、そのエピソードについて私が解説をしてゆきます。ここで肝心なことは、「あなたは悪くない」というアバウトな気休めを言っても何も意味が無いということです。

前回の記事でお話ししましたが、私の考えるパワハラの3要素は1)不可能を強いる、2)評価を下げる(これは様々な意味があります)、3)孤立させるというものです。

それから人間は群れの権威に迎合をする本能があること等から、パワハラ上司の言葉がまともなことを言っているように思えてきて、それを実現しなければならないように思い込んでしまうようになるということを説明していきます。

迎合しようとするのだけど、上司からは否定されるということは、ある意味不可能を強いられることであり、かなり精神が傷つくことです。この傷つきは人間の本能に起因することなのです。

次に、あるいは前後して、本来上司は「そういう場合どのように業務指示をするべきか」ということを労務管理とコーチングの視点から私が評価をしていきます。どの点が業務指示として成り立っていないか、稚拙なのか、通常の人間は部下としてその言葉でどういう風に判断するのかということを説明していきます。その結果不可能を強いることになるし、評価が下げられる不安が大きくなるので、ますます上司に従おうとしてしまうということを説明してゆきます。

ただ、部下としての本人の弱点もきちんと取り上げてゆきます。大体は、経験年数が低い、言葉を文字通り受け止めてしまう、真面目過ぎる、責任感が強すぎるということになることが多いようです。

つまり、善か悪か白か黒かという二者択一的な説明をするのではなく、相手の修正するべき点とこちらの修正すべき点をしっかりと説明するということです。

大体パワハラをしなければ業務指示ができない上司は、上司としての評価が下がりますが、心理分析を加えると、例えば子どもっぽい(ダダッタコというか)とか、「相手の気持ちを考えることができない人」だとか、余裕のない人という評価が妥当することが多いです。

こういう立派でもない人の話を真に受けていた、その通りにしようとしなければならないと思い込んでいた、馬鹿な考えを抱いてしまっていたということをしっかりと自覚していただきます。

なかなか一回だけで洗脳が解けるということはありません。1回目は、頭では自分の考え(自己低評価、自責の念等)がばかばかしいことだということは理解されるようです。これだけで苦痛はだいぶ緩和されるようです。しかし、十分腹に落ちるためには何回かの面談が必要なようです。少しずつ安心感を蓄積されていく感じです。

<精神科医、カウンセラーとの関係>

私のところに何度かいらっしゃる方は、精神科にも通院しているし、臨床心理士からカウンセリングも受けている(但し、精神科医と心理士は連携が取れている)方がほとんどです。私と面談していることも、医師や臨床心理士に伝えるようお願いしています。また、私が紹介する医師や臨床心理士にお世話になっている方も多いです。

ご本人から心理士や精神科医の施療の内容を教えていただくのですが、アプローチが全く違うことに気づかされています。心理士や精神科医は本人の問題として本人に働きかけて、本人の状態を改善するように働きかけるようです。私は本人の改善を目標とはしません。それは医師や心理士の領域のことだと思っています。そうではなく、本人を取り巻く人間関係の状態が、本来どうあるべきか、何が欠けていたのか、今後はどのように修正されるべきかということを本人と一緒に考えるという、人間関係の状態について考えるということをやっているわけです。

あくまでも、将来的に起こす法的手続きに向けた準備ということは間違いないです。但し、状態が良くならないために損害賠償や労働災害申請をするよりも、症状が消える方がより価値が高いということもアドバイスします。そして過去を何らかの形で清算する作業が不要となり、私へのご依頼が無くなっても、むしろそれが私の一番の収穫であると嬉しい限りです。

<料金と付き添い人歓迎のこと>
料金は相談方法と料金のページを参照していただければと思います。結局は所要時間によって料金が高くなってしまいますので、時系列メモを作っていただくことで料金がかさばらないし、私としてはお話もしやすいのでウインウインの関係になります。

また、若い人であればご両親と一緒に、そうでない場合はご兄弟やご友人、配偶者と一緒にお話をされる場合もいらっしゃいます。特に最初は、誰か信頼できる方と一緒においでいただいた方が良いと私も思います。

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労災実務上の疑問 パワハラ環境で頑張って長期間仕事を続けた挙句力尽きてうつ病を発症した方が労災になりにくいというのは不合理ではないか [労災事件]



医学の問題ではないのです。賠償学というか労災実務の問題です。

メンタルの労災の場合、労災(公務災害)認定がなされるためには、原則として
1 発症前6か月間にストレスフルの出来事があること
2 その出来事がそれ一つだけで一定水準を超えた強度があること
が必要とされています。

1の結果、1年前におきた水準を超えた出来事や、出来事や3年前から続く出来事があっても、労災にはならないことが多いのです。どういう理屈かというと、そのストレスの原因が半年以上続いているのに精神疾患を発症しないならば、それは精神疾患を発症させるような強いストレッサーではないというのです。

2の結果、それ自体が水準を超えた出来事ではないとしても、執拗に繰り返されても、なかなか労災認定されないということも起きてしまいます。例えば、部署全体の中で、その人以外はみんな打ち解けて気軽に話しているのに、その人にだけはよそよそしく他人行儀な扱いをして、ときどき嫌味が言われるというような場合も精神的に病んでも労災にはなりにくいのです。

でも、「ハラスメント」という言葉は、「小さな攻撃を執拗に繰り返すこと」という意味なのです。そして、実際に職場の問題で精神的に大きなダメージを受けるのは、このようにそれ一つ一つは水準を超えない仲間外れ等の継続ではないでしょうか。パワーハラスメントという言葉は形容矛盾があります。本来ただの犯罪、侮辱罪、名誉棄損、脅迫罪、恐喝罪、場合によれば暴行傷害罪で、ハラスメントとは言わないものです。この結果、日本の労災実務では、正確な意味でのハラスメントは労災認定の対象外となりかねない事態となっています。

さて、1の問題に戻りましょう。

聴覚障害のある方で、上司から再三にわたり、聞こえないことを言い訳にするなというような扱いを受け続けました。その結果うつ病を発症したのですが、うつ病のためにすぐに労災申請をすることができず、発症から数年後にようやく災害申請をしました。時間が経過していたことと、日常業務においてパワハラの記録や録音を録ってなかったため、いつどういうことを言われたか、どういう扱いを受けたかという詳細ははっきりしなくなっていました。でも、その上司は、自分が何回かそういうことを言ったし、そういう扱いをした、また聴覚障害のことを知らなかったためまじめに仕事をしていないだけだと思って気合を入れた(強く叱責した)ということを認めているのです。

敵意とハラスメントの存在自体は認めていることになります。

ところが、裁判所は、その上司と同じ職場にいたのが4年間であること、いつどういうことを言われたか証拠がないために、4年という長い期間の中で起きたと扱うしかない。だからそれほど頻繁に障害を理由に注意をしたわけではないということで、うつ病になるほどの強い水準のある嫌がらせとは言えないと認定してしまいました。

事件から10年以上を経て裁判になったのですが、私は聴覚障害の方と時間をかけてじっくり話し込んで、直接ではないけれど客観的な状況証拠があるということで、それは8カ月の中で起きたことだと証明したつもりでしたが、その信ぴょう性については言及されないまま否定だけがされました。

しかし、4年間そういうことが続いたとしたら「どうなのよ」ということを考えてみました。

4年間、本当は聴覚障害のために本当に聞こえなかったし、聞こえなかったことにさえも気が付かなかったのに、やる気がないと思われて叱責され続けたのです。

これはかなりきついことではないでしょうか。

本人は、どうして自分が叱責されるのかわからないために、自分の脳に欠陥があるのではないかと思い、MRI検査を受けに行ったり、知能検査まで受けていたようです。検査の結果は何も問題はありませんでした。彼は聴覚に障害があっただけでした。そもそも自分が悪いから上司から叱責されるというのは「自責の念」であり、うつ病の症状ととらえるべきだったのかもしれません。とにかく叱責から逃れるために方法を模索して、万策尽きて自分が悪いからだということで自分を納得させようとしていたわけです。自分が悪いということで、「原因はある。理由なく叱責されているわけではない。だから解決方法があるのだ。」ということを無意識に感じようとして、絶望から自分を守ろうとするようです。これは、幼児にもよく見られる防衛機制です。

そこまで追い込まれたことには間違いないと思うのです。また、「自責の念」も叱責に対する対応、防衛機制として起きているのですから、ストレッサーは上司の叱責であったことも間違いないと思います。また、上司は、引継ぎを受けていないので労働者の障害がどういうものかわからない。聞こえないふりをしていると思ったし、真面目に仕事をやっていないと思って注意したというのです。それでも、叱責の程度が頻繁とは認められないということで労災とは認められなかったのです。

私はこの上司の無知による叱責は、被害者に聴覚障害があることによって仕事がうまくできなかったことを叱責したのですから、本人にとって初めから不可能であることを否定評価したということになると考えています。知らなかったとはいえ、本人からすれば差別を受けていたという感情を持っていることになります。自分のできないことをできなかったために他の人間がいる職場の中で叱責されたという本人の視点が重要です。

また、この裁判は、上司に対して損害賠償を請求した裁判ではありません。仕事が原因でうつ病になったということから労働災害であると認定してほしいという裁判です。責任があるとすれば、障害者だとわかっていながら雇用した会社なのに、障害者が差別的な対応とられないための措置、障害の内容、程度についての共通理解を図るということを行わなかったということが一番の問題です。

私は差別をうけること自体が水準を超えた強度のあるストレスを受けたということになると思うのですが、裁判所は数年間で数度、馬鹿とか卑怯者とか、一度教えたことを理解しないのはまじめに仕事に取り組んでいないからだとか、(聞こえないために仕方がないのに)同じ間違いを繰り返すことは馬鹿と言われても仕方がない等と言われても、それほど水準を超えた強度のあるストレッサーにはならないというのです。

要するに裁判所や認定機関は、ストレッサーというのは一回限りの音に聞こえるもの、目に見えるものということでしか把握していないということです。しかし、音に聞こえる叱責や目に見える行動、表情だけがハラスメントではないということは働いている誰もが知っていることだと思います。

自分だけがしょっちゅう叱責されている。自分が何かすると嫌な顔をされる、舌打ちをされる。あるいは自分だけが存在に扱われて、職場のお荷物のように扱われるということ、仲間の輪に混ざらしてもらえないということが、とてもつらいことであることは多くの人たちが経験しているでしょう。

職場だけでなく、家庭であったり、学校であったり、地域であったり、ママ友であったり、色々なところで孤立している人がいるはずです。
そのことで精神的に大きなダメージが加わるということを真正面から認めなければ、現代日本はだめになるとさえ私は感じています。

しかし、この聴覚障害の方だけではなく、多くの叱責されている方は、自分が不合理に叱責されているということに最初は気が付きません。自分がパワハラを受けているということに気が付かないのです。同じように自分がDVを受けているとか、自分がいじめを受けているということに気が付きません。本能的に、人間は、人間関係から追放されないようにしようとしてしまうようです。このため理由がわからない攻撃を受けると、自分が悪いからではないかと自分の行動を修正しようとします。

パワハラを受けていることに気が付かない期間は、ただ苦しいだけです。そして何とか受け入れられるようにしようと努力をして希望を持ち続けていますから、何とか持ちこたえているようです。しかし、前回の記事でも述べたように、ある日ある時、自分が自分では解決できないことで責められているということに気が付き、持ちこたえることができなくなり精神疾患を発症するようです。

気が付いた時から、遡って、今まで受けていたことは業務上必要な指導ではなくて、単なる自分に対する攻撃だと、世界の色が変わってしまうそうです。一気に解決する方法がないことに気が付いて絶望に落ちるということらしいです。

だから気が付く前と気が付いた後では、上司がしている行為は代わりません。気が付く前の長い期間に強靭な精神力で持ちこたえた人は労災認定がされません。半年で持ちこたえることができなくなった人だけが労災認定される。

こんな不合理が現実に起きていると私は訴えたいのです。

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うつ病、PTSDの治癒期間は、特に安心している環境から攻撃を受けた形の心因反応は、難治性になり治療が長期に及ぶはずだという感想 [労災事件]



私の依頼者には、長期間うつ病やPTSDの症状が継続している方が多くいらっしゃいます。

私の依頼者の方々は、広い意味での人間関係の中で傷ついたわけですが、このことで裁判をしていると、相手方から、治療期間が長くなりすぎている、本人の弱さが治療期間の長引く原因であり、相手方の責任を減額するべきだという主張がなされて再度傷つくことになることが通常です。

ものの本には、うつ病の治療期間は2,3年で完治するとか大雑把なことを言うお医者さんもいて、これが論拠とされています。よくよく読めば、薬が効果が上がるうつ病の場合は2,3年と書いてあるのですが、どんな場合が薬が効果があり、どんな場合が薬が効果がないかまでは説明されていません。

うつ病の患者さんたちは、できることなら早く病気から解放されたいと願っているわけです。それなのに、標準よりも治るのが長くかかりすぎるなんて言われてしまうと、「本当に病気なのか」、「自分が弱いから病気でいたいのではないのか」等と言われているように感じて再び傷つくわけです。

うつ病やPTSDにり患して治療が長くかかっている、10年以上かかっている場合は、共通点があるような気がします。

先ず、自然発生的なうつ病ではなく、何らかの原因があること
次に、一言で言えば、安心している状態に対してカウンターのような攻撃を受けたこと。
もう一つ言えば、それらの結果、日常が安心でき環境ではなくなってしまったことです。

強盗事件によって、5年以上部屋のカーテンを開けることができず、10年以上働くこともできなかったPTSDの患者さんがいます。
この方は、深夜帯に退勤となる仕事をしていたのですが、いつものように退勤しようと従業員出入り口から鍵を開けて外に出たところ凶器を持った強盗に襲われて、身体を拘束されて相当時間殺される恐怖を味わい続けました。

いつものように仕事を終えて家に帰ろうとしていたところ、いつもとは違う強盗に突然つかまれたという出来事がPTSDを難治にしたと感じられます。つまり自宅にいても、扉がありますし、扉が開いていても見えない場所があるわけです。見えない場所に何か悪い者がいるのではないかという警戒心を常に持ち続けていたのでしょう。カーテンを開けられなかったのも、カーテンを開けたら何変わるものが見えてしまうという警戒心を病的に感じてしまっていたということになります。

そうやって、自宅にいても安心することができなくなったことは、強盗によって命の危険を感じさせられたというだけでなく、通常は安心して警戒しないで過ごす場所で強盗に襲われたということから、自宅でさえも安心することができなくなってしまったということなのだろうと思います。

どこでも安心できず、あの時の不意を襲われて命が危ない状態になったという体験が自宅でもよみがえりやすいことが症状が治まりにくい原因だったのではないかとわかりやすい事例だと思います。

おそらくこういう日常を過ごしていたところで危険が起きると、危険を覚悟していて危険が生じた場合以上に強烈なダメージを受けるのではないでしょうか。

営業職で、外回りが多かったけれど、上司の罵倒が激しく恐怖を感じていた。GPSを車か何かに設置されていたらしく、「今どこにいるだろう」というメールや電話が頻繁に来た。深夜1時の業務連絡のメールにもすぐに返事をしないと不安でたまらなくなりうつ病を発症。7年後リモートワーク中心の仕事に再就職するが、対人関係的に過敏な症状が残存。

この会社はそれまでは比較的、無理を言わない会社だったのですが、東日本大震災で、数か月売り上げが上がらず、その期間の穴埋めをするという無理を通そうとした上、代わったばかりの上司が中途採用で自分の立場を安定させるために成果を上げさせようとしてさらに無理を通そうとしたようです。

命の危険はなかったのですが、自分が安心して勤めていた会社から、突如上司が後退したとたんに人格を否定されるような罵倒を受け、夜昼なく、自宅でもどこでもメールが来る、どこにいても監視されているということで、ほっと一息が付ける場所が無くなってしまいました。自宅ですら安心できる場所ではなくなってうつ病となったと考えやすい事案で、自宅が安心できる場所ではないことから治療が長引いたということもわかりやすいように思われます。結局この方は引っ越しされてから再就職が可能となりました。

次の事案は職場で暴行事件を受けてひどいむち打ち症となり苦しんでいるところに、上司が暴行事件が公になって管理職である自分の評価が下がることを恐れたことと、さらにその上司からの指示もあり、事件を握りつぶそうとしました。警察に通報することや労働災害の申請をすることを断念させようと1か月も説得を続けました。その理屈もあたかも、職場全体の利益から事件化することを避けるべきだとか、暴行を受けたあなたも悪いなど、暴行事件はどうなったというような内容でした。上司の上司からも説得を受けるようにもなりました。

被害者は説得していた上司は、全体のことを考えた上で、自分の利益も考えてことを大きくするなという体で話していたのですが、ある時被害者は結局上司たちの自己保身で言っていて、自分のこと等を考えていないということに気が付き、気が付いた途端に症状が重篤化してしまいました。信じていて、尊敬もしていた上司に裏切られたということが

職場内トラブルをめぐり、上司から事態の隠ぺいを執拗に働きかけられる。説得活動のため仕事に時間が当てられなくなる。いろいろ考えてアドバイスを受けていたと思っていたが、やはり隠蔽だと気が付いて発症。職場復帰を何度かするのですが、そのたびに暴行を受けた現場や上司から説得された部屋の前を通らなくてはならず、嫌な気持ちがぶり返してしまいました。11年たってようやく復職が継続していますが、復職にはいろいろなその後の状況が良い方に働いたという運もありました。

以上の3例はすべて労災認定されて、治りきらないということで症状固定となっています。

3例とも症状も異なれば、うつ病とPTSDという診断名も異なるのですが、先ほど述べた3つの特徴が良くあてはまる共通項もあります。

現在うつ病は、それが遺伝的なものであれ、原因不明のものであれ、薬物や外傷によるものであれ、今回のストレスによるものであれ、すべてうつ病という一つの診断名になっています。それがどの程度合理的なのか医学的なことはわかりかねますが、原因によっては治療方法が異なる、つまりストレスが原因のものは薬が効きにくいという話も聞きます。心因性のものは別個の病気と考えた方が良いということは無いのでしょうか。

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長時間労働の弊害を孤立という観点から考えてみる。うつ症状が出やすい労働形態とは。 [労災事件]



長時間労働は、心臓疾患、脳疾患、精神疾患が労働と関係があるか否かを考えるにあたっての重大な要素として、労災、公務災害実務では扱われています。長時間労働をすると必然的に睡眠時間が短くなります。睡眠時間が短いことは心臓疾患や脳疾患に統計的に影響力が認められています。精神疾患においても、専門家会議などで長時間労働と精神疾患発症は関係があるという結論になっています。だから、長時間労働の有無が重要な要素になるわけです。

これまで長時間労働の弊害は、睡眠時間の短さにつながるという観点から主として論じられてきました(上記の通り)。精神疾患との関係も、睡眠時間が短くなれば、情動の安定を図るためのレム睡眠が出現しにくくなり、不安や焦燥感が出現しやすくなる、このため精神疾患が発症するという結びつけが可能だったと思います(実際はここまで原理的な議論は無い)。

私は、長時間労働と「孤立」が結び付き、その延長線上にうつ、メンタル不調の発生を考えるべきではないかと考えるようになりました。

こう考えるようになったきっかけ二つあります。一つは独居老人の認知症の進行です。もう一つはコロナ禍のメンタル不調の問題です。どちらも、統計的ないし学問的に裏付けられているものではないのが残念です。どちらかというと、その中にいた実感というようなものです。

簡単に言いますと、一人暮らしをしている老人で、日常的に誰かと話をしていない、あるいは他人との会話が少ない老人は、認知症が進行しやすいということを実感させる出来事がありました。一般にも、「頭は使わないとボケやすくなる」とか、「手先を動かさないとボケる」と言われているようです。これも、孤立との関係で説明できると思います。手先を無目的に動かすということは人間はできないようですから、実際は何か目的をもって動かす者であると思います。例えば何か組み立てをするために工具を動かすとか、一緒に楽しむためにマージャンのパイを積むとかです。なんかの成果を誰かと共有するからこそ頭を使うし、手を動かすのではないでしょうか。自分が快適に生活するために手先を動かすということもあるのでしょうが、やはり自分以外外の誰かの評価があれば、より張り合いになると思うのです。動物を飼うということでもよいのでしょうが、根本的には人間関係の中で尊重されていたい、仲間から頼りにされていたいという意識がある場合により例えば手先を動かす等の行動をするのだと思うようになったのです。

だから、一人だけで生活していると、徐々に、生きるための必要に応じた最低限の活動しかしなくなるのではないかと危機感を持つようになりました。そうしているうちに精神活動が徐々に低下していって、全般的に精神活動が静止に向かっていくような感覚を持ちました。全く他人ごとではありません。

もう一つはコロナ禍で、他者とのコミュニケーションができない大学1年生などに「コロナうつ」みたいな状態が見られているようです。これは事例の報告を受けただけであまり突っ込んでは理解していないのですけれど、おそらく、パソコンを通じてのコミュニケーションだけだと、自分が仲間の中で尊重されているという実感が得られないために、本来そのような仲間としての実感を得たいという要求があるけれどもそれが実現しないことから、不安や焦燥感が生まれるのではないかと考えています。

つまり、人間は、誰かとのつながりの中でより活性化して生きる活動ができるようにそもそも作られており、つながりが実感できず安心できないと不安や焦燥感を覚えてしまい、それ持続していくと精神活動の意欲が少しずつ低下していくということなのではないかと仮説を立てられるのではないかということです。

ここで長時間労働を考えてみた場合、たとえ家族がいて空間的には家族と一緒に暮らしていたとしても、このような人間のつながりを実感できなくなる原因になるのではないかと考えてみたのです。それどころか、今あるつながりを長時間労働が原因で逆につながりを壊す方向での活動をしてしまうという要素があるのではないかということを提案したいのです。

家族と同居している人であったとしても、朝早く家を出て夜遅く家に帰ってくる場合は、一日中家族と会話をしないということがありうることです。特に子どもが小さい場合は妻もくたくたになって寝ていることが多いですから、妻とさえも会話ができません。何日も寝顔しか見ていないということもありそうです。

労働者本人もつかれていますから、妻から何か相談事を持ち掛けられても親身になって感情を共有することもできません。ついつい外で働いている自分に配慮をしてくれと、ついつい「あなたは働いていないだろう」というそぶりをしてしまうこともあるわけです。これは相手を馬鹿にしたりしているのではなく、外で働いている自分に配慮してほしいという感情が主であると私は思います。

1週間に休日が1日でもあればよいのですが、長時間労働になるほど、その休日を自分の睡眠にあてなくてはならないでしょう。また、昼頃起きてきてホームセンターやスーパーマーケットに買い出しに行くとかせいぜいそんな感じで1週間が終わってしまいます。家のことをやろうやろうと思って着手できないまま時が過ぎていくのかもしれません。

給料を家に入れるときも、通帳を預けておいて家族がキャッシュカードで引き落とすところも多いのかもしれません。

長時間労働が続くと睡眠不足になりますが、睡眠不足になると自分が攻撃されているのではないかとい過覚醒状態(過敏な状態)になってしまいます。またいろいろなことが面倒になるのですが、結局は考えることが一番しんどくなり、それぞれが結論を言い合うような殺伐とした環境となるでしょう。家族が物価高に対して愚痴を言っても自分の稼ぎが悪いというように、何か自分が責められているような感じとなります。会社でも、何か不具合が生じると会社から否定評価されているのではないかという危機感を覚えるようになります。イライラするようになれば、せっかくの家族との会話の時間に八つ当たりするような言葉遣いになりやすくなるようです。

そうしていくうちにだんだん家庭の中で精神的に孤立していくかもしれません。積み残した自分の家事を思い役割感が未消化のまま蓄積されていくかもしれません。徐々に居場所がなくなっていく可能性が出てきてしまいます。

家庭の中にいるからこそ味わうような孤立感を強く感じるようになるのも危険なことです。家族なんて持たないで一人暮らしでいて、実家に帰れば親兄弟が迎えてくれるという幻想を持ちながら一人で暮らしているほうがまだ希望が持てるかもしれません。

単身赴任の場合も同じように、家族の中にいる自分という実感が生まれにくいかもしれません。見知らぬ土地での一人暮らしは、知り合いもいないことから他者と触れ合う機会が少なくなるでしょう。何か趣味でも持たない限り、徹底的な孤立を味わうかもしれません。

こうして孤立状態が継続すると、悲観的な考えも優位に立ちますが、やがて精神活動をしようとする意欲がなくなってしまう可能性があるのではないでしょうか。頑張れなくなるわけです。

長時間労働、単身赴任、不規則労働(交代制勤務)、長時間拘束労働などでも同じような孤立感を抱くようになる危険があると思います。人間工学というのか、心理学的な問題から働き方を考える必要性がありますし、労働災害の発生を予防する必要性があると思います。人間らしい労働というのは、適度に休憩を持ち、適度に睡眠をするだけでは足りず、適度に他者とのかかわりの中で安心して暮らすことが必要なのだと思います。この点をもって提案していくような研究を期待しているところです。



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会社に行こうとすると吐きたくなる貴方へ。「退職する」という選択肢がきちんと頭に入っていますか。その上で考えるべきこと。 [労災事件]



仕事柄、これまで過重労働やパワハラが原因で亡くなった方々の、亡くなる直前の様子を何件も調査をしてきました。自死で亡くなった多くの方が、生前、通勤をしようとすると吐き気を催したり、実際に毎朝のようにコンビニのトイレで吐いていたりということがわかっています。

現在、結構多くの方が、このような朝を過ごしていると聞きました。これはかなり危険な兆候です。あなたが対策を立てないままだと、うつ病になったり、自死を決行したりする危険があります。大変心配をしています。

もしかするとあなたは「自分は大丈夫だ。」と思われているかもしれません。しかし、うつ病になることも自死することも、あなたが理性で考えて選択することではないのです。あなたの意思とかかわりなく病気になるわけですし、実は死ぬというはっきりした決断を持たないまま自死は実行されるものだと考えた方が実践的だと思います。
だから、今あなたが大丈夫と思っているそのあなたではなくなる、別のあなたがあなたの身体生命を危険に陥れるのだということを考えてみてください。

職場が原因でのうつ病の重症度を表す指標があります。それは、「いざとなったらこんな会社辞めてやる。」と思えているかどうかというものです。退職すると考えているうちは良いのですが、うつ病や適応障害などの精神障害が発症してしまった後は、「退職する。」という選択肢が無くなるようなのです。健全な精神状態のときは、「苦しいから、苦しみ続けるよりは会社を退職する。」という選択肢があるのです。しかし、一度病気になってしまうと、「苦しみ続けることから解放されるためには、死ぬしかない。」という精神状態になる場合があるようです。

だから、わたしは、「退職する」という選択肢をきちんと持ち続けていますかとあなたに問いかけているのです。

人間はどうやら、精神的に弱ってしまうと、継続的に顔を合わせている他人に対して助けを求めてしまうという習性があるようなのです(詳しくは前回の記事なので省略)。その人が自分を苦しめているのに、その人から見放されたくなくなるようです。これが不健全な精神状態の本質ということなのでしょう。

現実は退職するという選択肢を持ちにくい環境だということはよくわかります。

家族がいれば退職できないという考えは当然だと思います。お子さんがいれば、将来的な教育費まで考えることもあるでしょう。仕事をやめれば、収入がなくなる。転職と言ってもそう転職口もないし、あっても今よりも条件がさらに悪くなるかもしれません。

逆説的な話ですが、それでも退職するという選択肢が無くなったあなたは真剣に退職と転職をシミュレーションする時期なのだと思います。
但し、本当に退職をするかどうかはまた別の話でよいのです。退職するという逃げ道があると自覚することで、心に余裕を持っていただきたいのです。そうすると見えてくることもあるわけです。

退職という選択肢を奪うのは、一つにはあなた自身やあなたの周囲の正義感です。「被害者であるあなたが会社を辞めて加害者である上司が会社に居続けるのは不合理だ」という声を聴くこともあります。
この発想は間違いです。正義と心中するなんて愚かなことです。

最も大事なことはあなたが生きているということです。

親の義務、夫の義務なんてものは、本来最低ラインがあるわけではありません。何円を家庭に入れなければならないというのは、そのご家庭の状況によって全く違います。仕事柄厳密な物言いをして申し訳ないのですが、仮に養育費をいくら払うという審判を受けたからと言って、払えないなら金額を減額をする手続きがありますし、減額しなければなりません。

なぜならばあなたが無理をすると、死んでしまう危険があるからです。お子さん方に消えない罪悪感を植え付けることが、あなたが親として回避するべきことです。つまり、親の義務の最低ラインがあるとすれば、生き続けること、正確に言えば生きようとすること、死ぬ危険を可能な限り排除することです。

自死を決行するときは、既に理性が効かない段階になっています。自分は死ななければならないのだと強固に思い込んでしまっている状態であることがほとんどです。そうならないようにするということが、今理性がある段階で準備することです。

具体的には、退職するという選択肢を持ち続けることです。

退職という選択肢を持った後で考えるべきことがあります。

それは
・ 自分自身の行動も、自分を苦しめる原因になっているかもしれない。
・ 自分のふるまいも修正する余地があるのではないか。
という考えをめぐらすことです。

人間の精神を決定的に破壊するのは、
「自分が悪くないのに、助けのない状態で苦しまされている。」
という絶望のようです。

うつ病の近づくと、二者択一的思考、悲観的思考が猛威を振るうようになりますから、その嫌な上司は敵であり、自分には味方がいないと感じるようになります。そして何をやってもうまくいかないという気持ちになってしまいます。

そうなる前に、自分の何かが間違っていたのかもしれないと考えることはとても有益なことです。

貴方を周囲から暖かく扱われない原因があなたの正義感であり、責任感であり真面目さであるならば、あなたは「自分が正しいはずなのに」という迷路から抜け出せなくなります。せっかく退職という選択肢をポケットに入れたならば、あとは、あなたの責任感、正義感、まじめさを捨ててみましょう。

最初は、上から目線で仕方がないと思います。「上司や経営陣は、自分のレベルまで到達していないから自分が正当に評価されない。」と思うということです。その後は徐々に、「人間関係を良好に保つことにも一つの価値があるし、これによらなければ恒常的な生産性の向上は不可能だ。」という考え方に変わっていくはずです。

つまり、あなたが先ず行うべきことは、周囲を許すという作業を行うということになるのかもしれません。

いずれにしても大切なことは、あなたが家族というものを大切にするならば、会社というのは取り換えのきく人間関係であり、そんな人間関係のためにあなたの正常な思考が破壊されるのは一番つまらないことだということをしっかり意識することです。

そういう人間関係であることを意識することによって、あるいはいつでもおさらばできる人間関係だということを意識することによって、上司そのものを上から見られるようにするという戦略です。
人間は継続的に時間を共に過ごし、報酬を分け合う人間関係は、唯一絶対の最上の忠誠を誓う人間関係だと無意識に勘違いする生き物だということをしっかり自覚しましょう。あなたを苦しめる会社は、そんな価値のない人間関係なのだと思います。

自由になって、自分を失うことを阻止しましょう。

関連したことを述べた過去の記事を参考までにあげておきます。ご興味とお時間があるときご参照してみてください。

相手に合わせて自分の行動を変えられない人は、自分が深刻に傷つく結果になりやすい。「自分が悪くなくても行動を変える」という発想が人生を快適にできるということについて考えてみた。特に夫婦問題における大人の発想とは。♯対人関係的危険。
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2022-05-27

あなたが組織・会社で浮いている理由は、まじめすぎる、責任感がありすぎるからかもしれないという、じゃあどうすればよいのという問題 
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自衛隊を憲法に明記する以上に自衛官の労苦に報いるために必要なことは自衛官の生活の保障だと思う [労災事件]



私にご依頼いただく方々の中で、自衛官の方、元自衛官の方、自衛官のご家族という人たちが割合としてかなり高いのです。自衛官のご遺族の代理人として国と裁判をやったということも一度ではありません。本当はいろいろな観点から自衛隊ということは論議しなくてはならないと思うのですが、「中途半端な身内意識」から議論をさせていただきたいと思います。

自民党の憲法改正の4つのポイントの第1に自衛隊の憲法への記載というものがあります。自衛官の労苦に報いるためだそうです。そういう目的であれば反対もできないかと思うのですが、「なんか違うのでないだろうか」という気持ちがあるのです。

まず、自衛隊が違憲だなどと主張する国民がどれくらいいるのかということです。おそらく圧倒的多数の国民は違憲だなどと思っていないのではないでしょうか。共産党ですら、「他国が攻め込んできたなら自衛隊とともに戦う。」ということを昔から言っているのだそうです。

本当に違憲だというならば、国家意思のもとに活用することはできません。例えば、刑事訴訟法上は保釈制度が定められています。保釈制度は違憲だというのならば保釈制度を直ちに廃止しろという主張になるはずです。「違憲=憲法違反」という評価は重みのある評価です。「違憲だけれど活用しよう」などという主張は法律論としては成り立たないことです。

つまり保守も革新も自衛隊は、「本当は自衛隊は違憲ではない。」ということで認識は共通しているのだから、いまさら憲法改正をしてまで憲法に明記することは必要がないと考えてしまうのです。「もしかすると、自民党が自衛隊は法的には違憲の疑いがあると考えているのかもしれません。」

また、自衛官に報いるという目的は尊いのですが、自衛官のご努力に報いるならば、もっと実のある報い方を行うべきです。

一つは、自衛官の賃金が安すぎるということです。国防ということで24時間体制で働いている割には、それに見合う給料になっていると言えるのか国民的な議論が必要でしょう。寝ずの番をしたり、深夜の演習や早朝の起床など、過酷な勤務状況です。国を守るという善意でもって働いていただいているということが実情ではないでしょうか。労働に見合う報酬を支払うことこそ、労苦に報いることのど真ん中だと私は思います。
しかしながら現在は、人事院勧告を反映して、賃金が年々減額されているようです。

二つは、定年が早すぎる割には、定年後の仕事に恵まれていないことです。自衛官は階級にはよるのでしょうけれど、大体が55歳定年です。私ならとっくに定年を迎えています。多くの国民は、自衛官は定年後にいろいろな職業が待っていると誤解していると思います。私は自衛官の遺族の代理人として公務災害の裁判を国相手に行ったのですが、被告であった日本という国家は、自衛官の定年後の収入統計を証拠で出してきて、自衛官の定年後は年齢別の平均的賃金を大きく下回ると主張してきました。国の主張立証によれば、定年後の収入は低く、それに対して対応がなされていないということでした。確かに共済制度は評価されるべきですが、働いて収入を得たいという気持ちをもっと尊重するべきではないでしょうか。

三つ目は、災害補償が辛すぎるということがあります。上で述べた公務災害は、再審査請求が長期間防衛相で放置されて、村井知事さんに防衛省まで行っていただいてようやく動き出したのですが公務災害ではないと認定されました。仙台地方裁判所でも理解不能な理屈で棄却され、ようやく仙台高等裁判所で公務災害であると認定されました。月間100時間残業の証拠を自衛隊で提出していながらのことなのでどうして不認定や棄却になったのか、法律論では説明ができません。被災から認定までに9年以上がかかりました。
このように労災補償がなかなか認められないという問題があります。外国に派兵された自衛官の自死がやたらと多いということが随分前に指摘されていましたが、これは公務災害だと認定され、遺族は正当な補償を受けたのでしょうか。

こういう実のあるところで、まさに労苦に報いるべきです。こういう肝心なところで報いていないのではないかという憤りが私にはあります。こんな私としては、憲法に自衛隊を明記しからといって、「それで報いになったと思わないでほしい。」という激しい感情があるわけです。そんな金のかからない対策ではなく、生身の人間が自衛官になることを躊躇しないような当たり前の報酬を出してから言ってほしいとそう思うわけです。

専門的な話をもう一つだけします。
それはメンタル問題です。自衛隊の中には、残念なことながらいじめがあることが報道されます。学校以外のいじめの判例を作ってきたのは自衛隊であるというくらい多くの事件があります。いじめがあるということは、それだけではなく、日常的にいたわりあうという風潮がないということなのです。

風潮がないと言うと語弊があるかもしれません。意識的に風潮を作らない限り、いじめが起きやすい職場環境だということが正確だと思います。

いじめがあったからと言って、いじめた自衛官が特殊だったとばかり考えたのであればいじめはなくなりませんし、実際続いているわけです。私は、過酷な労働環境や、平時であっても一人の怠慢が部隊全体や国民の命に直結するという高度な緊張感を維持し続けなければならないという職場環境に原因を求めなければ、対策が立てられないと思っています。もちろん様々な研究がなされているようですが、この研究を強力に推進する必要があると思っています。

日露戦争の際には、自衛隊ではなく帝国陸軍ですが、八甲田山で対策も立てないで行軍を行った結果、多くの犠牲者が出てしまいました。根性と愛国心だけでは国防はできないのです。メンタルの問題に焦点を合わせると、いじめの報道をみるにつけ、まさに八甲田山の行軍演習のような非科学的な労務管理がなされているのではないかという心配が大きくなります。

どのような事情が他人に対する尊重する気持ちや配慮する気持ちを奪うのか、どうすればそれが解消されるのかについて、予算をつぎ込んで研究を急ぐべきです。

憲法に自衛隊を明記することで、これらの予算が進むのでしょうか。それならば意味がなくもないのかもしれませんが、ハード面ばかりが注目されてそこにばかり予算がついている現状をみると、あまり明るい気持ちにはなれないのです。

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パワハラについての誤解  パワハラ国賠で勝利和解をした事案報告 じゃあパワハラとは。 [労災事件]

 

先日、町と県相手の国賠訴訟で、パワハラ被害者が勝利的和解を勝ち取りました。実質審理1年弱というスピード解決でした。とても学ぶべき論点が多く、こういう大事なポイントほど報道ではあまり取り上げられていませんでしたので、詳しく解説しようと思います。他人を使って事業をしている方、特に自治体などの公的団体の管理者にぜひお読みいただきたいと思います。

<事案>

中学校の先生が、職員室で同僚から一方的な暴行事件を受けて、比較的重篤な頸椎捻挫の傷害を負った。被害者の教諭は公務災害申請をしようとしていたが、学校長や教育長は、なんだかんだ言ってずるずる引き延ばした。公務災害を申請すると、暴力事件が県の教育委員会に知られることになることを恐れたためだ。発覚を恐れて、事件から2か月も学校事故報告書さえも作成しなかった。公務災害申請を断念させるための手口は、
・事件から2週間も放置。
・2週間後から1か月半にわたり、忙しい中学校教諭である被害者を頻繁に校長室などに呼び出し、のべ390分も公務災害申請の断念を迫った。
・断念を迫る「論法」は、「公務災害には該当しないかもしれない。」、「公務災害を申請して何がしたいの。私はわからない。」、「公になると子どもたちにも悪影響が出る。」、「暴力があったということはあなたにも悪いところがあったからだ。原因があって結果がある。」、「どっちもどっちだ。」、「お互い謝って終わりにするべきだ。」、「フィフティーフィフティーだから治療費の半分を支払って終わりにするべきだ。」
・異動願を書かせて学校、町の管内から追い出そうとした。
・公務災害申請を断念させるため、数度加害者を立ち会わせて公務災害申請を断念させようとした。居直る加害者を放置し、被害者ばかりを説得した。

主治医のカルテによると、当初、暴力に対する自然な反応だけだったが、校長の説得後半月あまりをして、不安の症状が出現し、1か月半には抑うつ状態と診断されるように、校長の説得期間に応じて症状が悪化していった。そして、ついに働けなくなり休職に入った。
その後も復帰したり休職したりという状態が続き、現在は長期休職中である。事故から10年以上を経て、損害賠償が認められたのが、先日の和解である。

裁判所が簡単に不法行為を認めた本件について、公務員の労災認定機関である地方公務員災害補償基金宮城県支部長は、この精神疾患を公務災害と認めなかった。異議申し立てをした同支部審査会でも、校長の行為は単なる自己保身であると認定しながら、それでも公務災害と認めなかった。2回目の異議申し立てをした本部審査会でようやく公務災害と認定された。事件から5年が経っていた。

<なぜ公務災害基金は当初認めなかったのか パワハラという言葉の問題>

裁判では実質審理1年弱で損害賠償の必要性が裁判所によって認められたという極めて明々白々の不法行為でした。それにもかかわらず、どうして公務災害と認定されるまで二度の異議申し立てと5年の年月が必要だったのでしょうか。じつは、これこそが、「パワーハラスメント」という言葉についての問題性を示していることなのです。

どういう問題かというと、
我々は、「パワーハラスメント」といわれると、どうしても、どこか暴力的な要素があるものだという先入観があるのだと思います。実際の暴力だけではなく、大声を出すとか、乱暴な言葉を使うとかというイメージです。あるいは、威圧による強制というイメージでしょうか。パワーハラスメントが行われていれば、目で見て耳で聞いてすぐにわかるはずだとなんとなく感じているかもしれません。

公務災害に該当するような上司のパワーハラスメントのサンプルも、身体的、精神的攻撃のほかは、「上司等による次のような精神的攻撃が執拗に行われた場合 ・人格や人間性を否定するような、業務上明らかに必要性がない又は業務の目的を大きく逸脱した精神的攻撃 ・必要以上に長時間にわたる厳しい叱責、他 の職員の面前における大声での威圧的な叱責など、態様や手段が社会通念に照らして 許容される範囲を超える精神的攻撃」
とされています。

本件では、大声を出されたわけでもありませんし、叱責を受けたわけでもありません。明らかに必要のない業務(教員一人に草むしりをさせるとか校門の拭き掃除を毎日やらせるとか)をさせられていたわけでもありません。もちろん暴力もありません。
あえていうならば、「人格や人間性を否定するような、業務上明らかに必要性がない又は業務の目的を大きく逸脱した精神的攻撃」ということなのだと思いますが、これに該当するということがよくわからないようなのです。(もっとも、実際の公務災害手続きの際は、このような言葉さえまだ整備されておらず、「執拗な嫌がらせ」というカテゴリーの該当性の問題になっていました。)

<現在の主流のパワハラは、暴力的な言動のないもの>

私は、本当に多いパワハラは本件と同じように、暴力的でも威圧的でもない上司の行為なのだと感じています。多くの人が職場が原因で悩んでいるのですが、「自分がパワハラを受けている」と理解していない人が圧倒的多数だと思います。この普通のパワーハラスメントこそ、防止しなければならないと思っています。

なぜならば、コンプライアンスを重視する圧倒的多数の企業では、さすがに暴力を伴うパワハラや、威圧的な強制パワハラ、意味のない仕事の押しつけパワハラ、長時間叱責パワハラは、行われなくなってきています。しかし、こういう典型的なわかりやすいパワハラではなくとも、人格や人間性は否定されるのです。そして、暴力などの場合と同様に被害者は精神的に傷ついて長期間精神的に病んだ状態になってしまいます。人生が台無しにされてしまうのです。もちろん抑圧された感覚は、生産性を低下させる大きな要因になります。

また、将来的に会社が莫大な損害賠償を支払うことになるパワハラを行っている上司は、
パワハラを行っている自覚がありません。
・暴力は振るっていない
・乱暴な言葉は使っていない
・無駄な叱責をしてはいない、必要な注意、指導をしているだけだ。
・部下を馬鹿にしているということもない。
だから私はパワハラをしてはいない。
こういう単純な図式で考えるため、会社で休職者や退職者が出続けている理由がわからないのです。

相談を受けた方も、マニュアルの該当性ばかりを考えていたのであれば、それがパワハラだと気が付かないかもしれません。パワハラが精神を害する理由を理解できていない人は、どうしてもこの行為はマニュアルのどこに該当するかという発想を立てて、見つけられないために該当しそうもないと簡単に結論付けてしまうかもしれません。

<パワハラ防止のために必要なこと>

どうすればよいのか。
答えは簡単ですが、そこから先が難しいかもしれません。

答えは、
何がその人の人間性や人格を否定することになるのか
ということに敏感に反応できればよいということです。

そして、いちいち自分のしていることは「人間性や人格を否定しているだろうか」と考えるよりも、そもそも人間性や人格を尊重する労務管理を心掛けるほうが、パワーハラスメント起きない職場にするためにはとても効率が良いです。従業員のモチベーションを高める方法での生産性を上げるほうが、ローコスト、ハイリターンになるわけです。

さて、人格や人間性を否定するということをもう少し具体的にお話ししなくてはならないと思います。この答えは対人関係学が常々指摘していることです。
つまり、会社という組織の中で、その人を尊重するということ、仲間として認める扱いをするということです。

<この事件で人格や人間性が否定されたと認定されたポイント>

最後に、冒頭の事案の中で、どの点が被害者の先生を尊重していないポイントなのか、どの点が仲間として認めていなかったのかということについてみていきましょう。

1 被害者として扱わない 
校長は、一方的暴力の被害者である先生を、被害者として扱っていません。暴力によってけがをしたのであれば、被害者は恐怖を感じるでしょうし、憤りを感じるでしょう。これに対して校長は、「あなたも悪い。」、「あなたも謝れ。」、「損害の半分は自分でもて。」というようなことを言いました。犯罪の被害者である先生は、人間として当然に仲間である校長や教育長からは、いたわられたり、同情されたりすることを無自覚に期待しています。ところが、そんないたわりはみじんも感じさせない仕打ちとなる言葉を発していたということになります。

これを読まれている方は、校長や教育長は特別ひどい人間だと思われるかもしれません。しかし、組織では、こういう対応をしてしまう管理者は多いのです。例えば部下同士のもめごとがあり、一人が一方的に他方を攻撃していたという事例で、他方は一人に対して反撃しないという事例があるとします。でも人間関係は悪くなっている。こういう時、管理職は、面倒な状態になることを嫌がり、何とか事態を鎮静化しようとします。しかし、理をもって解決することは実際は難しく、なるべく矢面に立たないで解決を実現したいと思うのでしょう。あろうことか、被害者に対して、加害者と話し合って解決しろと言い出すことが結構あります。なかなか立派な組織においても、こういうことは普通にみられます。一方的な言いがかりをつけてきた人とどうやって話し合えばよいのでしょう。こういうことは加害者が古参である場合によくみられることはご経験が誰しもあるでしょう。

2 あなたの人生より大事なものがあるという態度。

  校長や教育長は、事件から1か月半も公務災害手続きに協力しませんでした。公務災害認定を受けると、治療費が支給されるだけでなく、療養のための休職をした場合、休業補償を受けることができます。後遺症が残れば障害補償金が支給されます。公務災害が認定されないと、私病ということですから、治療費を自腹で払うことになりますし、休業をすると賃金が支給されず、退職をしなければならなくなることもあります。
公務災害申請は、被害者の将来設計、生活の保障、健康を確保するための最低限の手段になるわけです。
この公務災害の申請に協力しないということは、「あなたの将来設計、生活、健康より大事なものがあるから、そのためにそれらをあきらめろ。事件は無かったことにしろ。」ということに等しいわけです。
校長や教育長は、もっともらしい言葉をもっともらしい態度で言っていますが、支部審査会は、自己保身にすぎないと切り捨てました。たとえ、子どもたちの精神的安定のためだとしても、そのために先行きの人生に希望が無くなってもよいという態度を取られることは、やはり仲間として尊重しておらず、人間性や人格を否定するということになるわけです。ましてや、校長や教育長の保身のために、自分の人生を捨てろと言われたならば、自分が人間として軽く、価値のないものとして扱われていると思うことは当然だと思います。大変恐ろしいことです。教育長は、紛争が継続していれば「子どもたちがかわいそうだ」と言いました。教師であれば、教え子のことを第1に考えるということを計算しての卑怯な言葉だったと思います。自分の保身のために、このような教育者の良心を傷つけようとする行為を許すことができません。

3 校長、教育長という信頼をされるべき立場

  これらの、非人間的扱いが、日ごろから軽蔑している人間から行われたのであれば、それほどダメージは受けないと思います。
 ところが、教育長や校長という立場は、教育委員会や学校のトップです。どうしてもこの肩書の人間に対しては、まじめな性格の人間は、信頼を寄せてしまいます。つまり、公平公正に正義の観点から自分に接してくれるはずだという期待ですし、自分の立場を理解して自分にアドバイスをしているはずだという期待です。こういう期待をしている自分を自覚しているならば、期待をやめればよいだけなのですが、自覚していないので、知らないうちに傷ついてしまうのです。
 事例の先生も、校長がこういうことを言うのはおかしい。事実が伝わっていないのかもしれないという思いで、何度も事実を説明しています。しかし、校長には伝わっていないようで、別の日になればまた一から説明しなければならない状況でした。校長は議論をしていないのです。被害者の先生がどういおうと、結論を押し付けることしか頭に入っていませんでした。何度も同じことを、また初めから言わなければならないということは、たいへん疲れてしまいます。この疲れは、無力感に変化していくようです。
 事例の先生は、1か月余りの呼び出しによる説得活動の間、ずうっと校長や教育長に対して、期待を持ち続け、話せばわかってくれるという期待を持ち続けてしまいました。しかし、最後に、自分が何を話そうと、聞く耳を持っていないこと、自分は被害者なのに異動願を強要されて厄介払いをされそうになっていることを突然深く自覚しました。当然先生は校長に猛烈な抗議をしたのですが、すべてがわかり、つまり自分が尊重されておらず、人間性や人格を否定されていることを実感し、うつ状態になってしまいました。10年を経過しても回復しておらず、むしろ悪化傾向もみられるほどです。中学校教師にとって、校長と教育長が自分を人間扱いしないとなれば、絶望しかないのだろうと思います。

 事例の先生のつながりのある人が、報道を受けて町の教育委員会に事件のことを問い合わせたそうです。その人の話によると、教育委員会の地位のある人が問い合わせに答えて、「そもそも暴力事件の発端は被害者先生のミスにあった。」というようなことを答えたそうです。事務連絡上のミスは確かにありました。しかし、ミスがあったからと言って、職員室で暴力をふるうことが正当化されることではありません。そもそもより本質的なことは、教育長と校長が結託して事件をもみ消そうとしたことにあるわけです。教育委員会は、町の公金を多額に支出するはめになっていながら、まだ事件の本質を理解していないようです。ということは、今後も同様なことが起こり、多額な公金が支出される可能性があることを町民は覚悟する必要がありそうです。

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一日がかりで、隣県の高校生に過労死予防啓発授業(厚労省の事業)を行ってきました。授業の要点3つ [労災事件]



先日、隣県の山間部の高等学校に過労死予防の授業をして参りました。
新幹線とタクシーを乗り継いでいかなくてはならないところです。朝10時半過ぎの新幹線に乗って、夜6時半ころ駅に帰ってくるという強行軍ですが、お話は1時間です。それでも、過労死弁護団の弁護士は、この啓発授業は喜んで取り組んでいる事業です。

この授業は、学校側に費用の負担はありません。厚生労働省の事業で、国から費用が出ます。高校生がメインですが、大学や短期大学、専門学校でも、私の場合は中学生バージョンがありますので、中学校でも受け付けています。毎年入札があるようですが、これまではずっと(株)プロセスユニークという会社が委託を受けて窓口になっています。学校の先生が窓口になること、学校の施設内で、つまり学校(校長先生)の許可があることは必要です。最近は、就職や進学を控えた生徒さんたちに、過労死予防と労働条件の話をすると言うリクエストが多いようです。サークルやPTAが主体となっても学校の先生が窓口になり、生徒さんも参加していれば、国が費用負担を行うようです。
私にお声をかけていただければ、プロセスユニークにおつなぎします。

令和3年バージョンのお話しするポイントは3点です。
1 過労死は、発症するまで本人も家族も気が付かない病気の一群であるということ。
だから、「ああ、自分が少し悪くなってきたら、少し仕事量を抑えようか」というコントロールが効かない現象だということです。だから予防を徹底する、つまり過重労働を行わないという方法でしか防ぐことができないということが第1です。

2 過労死と認定される一群の疾患は、睡眠不足と関係しているということ。
だから過重労働の典型が長時間労働になっていること。また長時間労働とは具体的にどういうことかということをタイムスケジュールというか時間割を作って、法定労働時間と時間外労働時間を色分けして、週25時間時間外労働をすると、1か月100時間の時間外労働なんて簡単にできる等と言うことをお話しします。睡眠をとることがどんなに大切なことかを少し理屈をもっておはなしします。
 だから、過労死予防は長時間労働をしないこと。プラスして孤立しないことについても言及します。

3 3点目は、予防方法がわかっているのに、なぜ長時間労働をするかというお話をします。なぜ投げ出すことができないのかということをお話しするわけです。そして、本当の過労死予防の特効薬は、職場に仲間を作ること、お互いを助け合い、気遣いあうこと。そのためには、社会に出る前から仲間を作る訓練をすること
というお話をしています。

中学生バージョンも基本は変わらないのですが
仲間を作るということに力点が置かれます。いじめの予防も意識しているわけです。「いじめはだめだ、命を大切にしよう」ではなく、仲間を意識的に作るというプラスの方向を提起しています。

総じて、過労死を無くすとか、いじめをなくすということは、それ自体を目標にしても対策が言葉尻をとらえたものや、目についたこと、あるいは結果を押し付けるだけのものになりがちになります。むしろ具体的にどうするか、そして何を目標として生きていくか。つまり、仲間や家族と一緒に幸せになっていこうということ、その大目標の実現に向かえば、過労死やいじめが無くなっていっているはずだという理念をもってやっているというところです。

今お話しした通り、過労死は突然人が亡くなります。どんなに労災認定が取れても、損害賠償が勝訴になっても、亡くなった人は戻りません。予防しか方法がないのです。過労死弁護団は、できるだけ早く過労死という現象をこの世から失くして、弁護団を解散させることが悲願とされています。一日かけて1時間のお話をするということでも、本当にやりがいのあることなのです。
また、今回もそうですが、高校生の皆さんは、本当に熱心に聴いてくださるし、ポイントのところでは顔をあげてこちらを見て聞いてくださります。皆さんにとって有意義かどうかは計り知れませんが、私にとっては本当にありがたい事業となっていることは間違いありません。

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厚労省主催過労死防止シンポ青森で、お話してきました。過労死を止める方法として家族とともに幸せになるという価値観を導入すること [労災事件]


2021年11月24日、青森市で厚生労働省主催の過労死等防止対策推進シンポジウムが開催され、「過労死と家族」というテーマで基調講演を行いました。その内容について記録したいと思います。

当日は、雪が降っている寒い夜で、コロナ禍ということもあったのですが、大きな会場でコロナ対策の間隔をあけていたとはいえ、かなりの人数の方々が参加されていました。企画推進をされているプロセスユニークの方々、地元の青森県社会保障推進協議会の方々、労働基準局の方々など関係者のご努力と関心の高さに心より敬意を表します。
青森県は過労死防止に熱心で、大学や高校から、毎年のように呼ばれて、お話をしています。

さて、私は、呼んでいただき、お話をさせていただくと、感謝の気持ちでいっぱいになります。我々過労死弁護団は、この世から過労死を失くして弁護団を解散することが悲願なのです。どんなに労災認定がとれても、請求が認められる判決がもらえても、心に引っかかるものがあるのが過労死事件です。それは最初は、認定取れました、それも逆転で認定となりましたという報告をすると、私も興奮しているし、ご遺族も喜んでいただけるのです。でも、しばらくすると、亡くなった人は帰ってこない、あるいはうつ病の方は治らないということがあり、喜んでばかりもいられないという思いがあります。なんとしても、過労死は予防しなければならないという気持ちが強くなります。だから、予防のお話をさせていただくということは、本当にありがたいことなのです。

今回は、「過労死と家族」というテーマとしました。過労死予防とは何なのかこのことをご一緒に考えていただきたくて、私なりの回答を用意して臨みました。

先ずは過労死とは何かということについて説明をしなければなりません。その中で、過労死は、気が付かないうちに発症して亡くなってしまうということをお話ししました。心臓の血管、脳の血管が詰まったり、破裂したりして心臓や脳の活動が止まったり、精神疾患にかかり自死をとどめることができないという特徴をお話ししました。自動車のガソリンのメーターのように、自分の危険性がわかれば対応も取れるのですが、そうはいかない。私の担当した自死事件の統計を取ったことがあり、16件中14件が、当日、または前日就労していたということを紹介しました。突然死がやってくる。誰しもその日倒れるということがわかっていたら、仕事にはいかないでしょうけれど、それができないのが過労死だということが実感です。

過労死の民間労働者の死亡についての労災認定件数の推移をみました。但し、これだけが過労死ではないということも、説明しました。2か月前、公務員の事例ですが、再審査請求と言って、一度申請してだめで、異議申し立てをしてダメで、再度の異議申し立てをしてようやく認められた事案でした。最初の申請で断念してしまえば認められなかったわけです。これはいくつか理由があって、このケースでは、認定する側が、亡くなった方の仕事の内容がよくわからず、数字ばかりに着目していたということが理由の一つでした。このギャップを埋めるということが弁護士の仕事でもあると考えています。
認定件数は少なくなっています。過労死防止法の効果もあるのでしょうけれど、もっともっと減少させなければなりません。

そして過重労働の典型の長時間労働についてお話ししました。長時間労働は週40時間と定めた労働基準法の制限を超えた時間の合計で判断します。元々は週48時間でしたが、後に40時間に短縮されたこと、戦後直後に制定された法律ですがこのように労働時間を定めたのは「早死にしないため」と言う松岡三郎先生の教科書を引用してお話ししました。そして月間100時間の残業時間のサンプルを示し、案外簡単に100時間の残業が可能になるということを示しました。

長時間労働が過重労働となり、過労死に繋がるのは、睡眠不足を招くからであり、まとまって6時間から7時間の睡眠時間は必要だということを説明しました。

そうすると過労死を予防するためには、長時間労働をせずに睡眠時間を確保するということが鉄則になるはずです。しかし、それができない。会社からの実質的な残業の強制という事情も確かにありますが、労働者側の事情として、
責任感が強い
能力が高い
公的な仕事に価値観をおいてしまう
というものをあげさせていただきました。

過労死防止法制定にあたって、早期制定の地方議会決議が次々となされました。私の宮城県議会でも決議が全会一致で採択されました。
その中では、過労死は、社会的損失でもあるということが述べられています。社会にとって職場にとってとても有益な方が亡くなってしまうということに着目してこのような内容も入れられています。

私は、過労死や労災の事件を多く担当していますが、離婚事件や親子の事件も多く担当しています。そういうことからの持論ですが、家族という仲間の単位をもっと大事にして、強化する必要があると考えています。過労死予防も、この家族という価値観を広めることによって効果が上がるのではないかということが今回のお話のテーマでした。

第1に、家族のために死なないということです。
親を過労死で亡くしてしばらくすると子どもに異変が生じることを見てきました。母親が仕事が忙しく病気の手当てをしないために、急激に悪化して亡くなったケースでは、お子さんは自分の母親は自分よりも仕事をとったのだという観念にとらわれて、家庭内暴力が始まり不登校となってしまいました。父親が過労死して、母親の再婚相手が現れたころ、それまで何の問題もなかったお子さんが学校から呼び出されるようになってしまいました。父親が自死されて、表面的には普段と変わりのない生活をしていたのだけれど突然重篤なパニック障害が起きてしまい、学校を退学したお子さんもいます。
子どもはどうしても年齢が低いと自己中心的に物事を考えることしかできませんので、自分が良い子ではなかったからお父さんに会えないんだと考える傾向があるということも、東海林智さんの「15歳からの労働組合入門」の一節を紹介しました。このくだりは、どうしても涙で声が詰まってしまいます。

第2に、では死ななければ良いのかという問題があるということです。
長時間労働は、家族と過ごす時間が無くなるということです。父親でも母親でもどちらでも手料理を子どもに食べさせるということが、本来的には家族のコミュニケーションだと思うのですが、子どもがスーパーの総菜やインスタント食品を食べさせるということを悔やんでいる学校の先生たちの調査結果を紹介しました。
また、パワハラなど不条理な職場での扱いが、知らず知らずのうちに家庭に持ち込まれて、離婚原因になったり、子どもの自尊心低下につながるということを説明しました。そういった自分が大切にされていない時間を過ごしていると、本来大切にしなければならない家族も大切にできなくなるという怖さを説明しました。

ここでいう家族は人それぞれで良いと思います。必ずしも夫婦と子どもを単位としていなくても、一緒に住んでいなくても、あるいは亡くなっていても、あるいは血のつながりが無くても、ひとはそれぞれ、変えるべき人間関係が必要だと思っています。そういう人を大切にできなくなってしまうそれは怖いことだと思います。結局は、自分の帰るべき場所がなくなってしまう。それは紛れもなく不幸なのではないでしょうか。

先ほど挙げた責任感が強い、能力があるという過労死をするタイプの真面目な方たちは、仕事をセーブしろと言われても、あまり効果がないと思います。仕事の時間を削って、家族と一緒に過ごす時間を大切にするという新しい価値観を導入しなければ、どうしても仕事を優先してしまうということが実感です。

家族を大切にするという価値観は、これは国も提案しているところです。ズバリ働き方改革がこれだと思います。政策としては具体的に必要な介護と育児が強調されていますが、これは政策ですから当然です。その先の、家族を大切にするという価値観の導入を職場でも活かしていくということは、われわれ国民が国からバトンを受けて行うことではないでしょうか。

では、どういう風に職場で活かすかということです。私は、同僚、部下、上司にも家族がいるということを意識することが効果が上がるように思われます。人材なんて言葉があるように、とかく労働力の人間性が考慮されない風潮があると思われます。その人を人間として扱うということの一つに、家族を持っている人間なのだということを意識するということはとても大切なことだと思われます。
それから家族を大切にするように
同僚の心情にも共感できるような人間関係作りをし
弱い者をかばうという職場の気風を作り
批判ではなく提案する職場環境
相手の失敗を許すという許容性
意見が対立しても仲間であることには変わらないという考え
こういう職場づくりをすることで、パワハラがあっても、「今のはひどいよね。」の一言もでない人間関係を変える必要があると思います。過労自死が起きる現場は、パワハラを受けた人を心配している人がいないわけではないのですが、その一言がないという特徴があるように感じています。
つまり、職場は単なる人材が同一場所にいるという意味あいではなく、仲間でありチームプレイをする場であるという転換が求められていると思います。私は労務管理の観点からも、実はそういう職場転換が生産力をあげているという実例を見てきています。これが働き方改革だと思っています。

これは家族でも一緒です。家族から常に評価の対象となり、批判の対象となったら、子どもも大人も家に帰りたいとだんだん思わなくなると思います。そのままで家族なんだ。無理をしなくても良いのだという家族作りが子どもの自尊感情を高めて、夫婦の安定した関係を保つことができると思っています。

過労死予防とは何かということを冒頭申し上げました。
私は、それは、大真面目で大人たちが幸せとは何かということを考えることだと思います。その答えの一つとして、家族を安心させる家庭を作ることであると思います。そのためにも、長時間労働や不条理なパワハラなどの扱いを撲滅する必要性があると思います。そして、根幹は子どもたちの健全な成長です。


以上が私の1時間足らずのお話の内容でした。
お気遣いいただき、講演が終わって帰らせていただきました。シンポジウムが終わってからの帰路となると、終電が終わって帰れない可能性もありました。
てんぱるというわけでもなく異様な高揚感が残っていました。唯一開いていたキオスクで買ったハイボールの酔いが進むにつれて、涙が止まらなくなりました。自分でも驚くほど、泣くことを欲しているような感じでした。私の担当した過労死事件の記憶、ご遺族の様子の記憶が自然と湧きあがっていたようです。具体的な場面というわけではありません。私は、特に自死事件は、関係者のお話しを徹底的に聴取し、嫌がられることもあります。しかし、その人の人となり、そしてその人の会社の様子、ご家庭の様子などから、亡くなられた方の自死に追い込まれた心情に、理屈ではなく再体験するような感覚が沸き上がったとき、なぜその方が過労で自死したのかということをうまく説明できるようになり、その体験がリアルであればあるほど、良い結果となっています。おそらくその再体験の感覚、あるいはお子さん方の自分を守ろうとする悲鳴の感覚が、自覚はしていませんが講演中によみがえっていたのだと思います。泣き続けることによって、感情が整理されたのだと思います。泣くことも大切だし、そのためには少しばかり?のアルコールも必要なものだと感じた次第です。


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【公務災害認定報告】本部審査会による逆転認定 持ち帰り残業が残業時間として認められる基準が示された事案 [労災事件]



私が弁護士になって担当した、4回目の地方公務員災害補償基金審査会での逆転認定ということになります。

今回は、離島だった島の小学校の教頭先生が、心筋梗塞でお亡くなりになった事案です。教頭先生ということで、事情が分かる方は、忙しいお仕事だということをすぐにお分かりになると思います。こちらの先生は、教頭先生のお仕事だけでも忙しいのに、教科も受けもたれられていた上に、教育委員会の仕事もたくさん引き受けられていたという事案でした。
それにもかかわらず、宮城県支部長段階(裁判で言えば第一審みたいなもの)で公務災害とは認められず、支部審査会に審査請求(異議申立)をしても(裁判で言えば高等裁判所に控訴しても)認められず、本部の審査会(裁判所で言えば最高裁判所みたいなもの)に再審査請求をして、ようやく公務が原因で心筋梗塞になって亡くなったという事実が認められました。亡くなってから認定されるまで約5年が経過していました。

勤務地は、船でしか行くことができず、船の始発の7時前に船に乗り、夕方の7時前には船で島を離れなくてはなりませんでした。小学校の教頭先生は、膨大な仕事があるため、どうしても船のある時間に仕事が終わらず、自宅に仕事を持ち帰られなければならないので、家でも仕事をしていました。これが持ち帰り残業です。

この持ち帰り残業が、請求者の主張通り認められれば、過労死基準をかなり超える時間の残業時間となるので、公務災害であると認定されるはずです。しかし、自宅での仕事は、実際にどのくらいの時間働いていたかについての証明が難しいこと、勤務場所での労働ではなく、自宅での労働なので緊張感、ストレスが大きく違うので、過労死認定における労働時間だと言えるかという2点が問題になります。

主としてこの2点を理由に、支部審査会までは公務災害であることが否定されました。
本部審査会は、持ち帰り残業が、労働時間として過労死認定に考慮されるための基準を明確に示しました。

「職務が繁忙であり、自宅で作業せざるえ終えない諸事情が客観的に証明された場合については、例外的に、発症前に作成された具体的成果物の合理的評価に基づき付加的要因として評価される。」
となりますので、これを分解してみると
1)職務が繁忙であること
2)勤務場所ではなく、自宅で作業をしなければならない事情があること
3)具体的成果物を合理的に判断して労働時間を評価できること

ということになります。

1)繁忙については、当事者が忙しくて疲れるということを実感するのは良いとしても、「繁忙」であることを認定する人に伝えなければなりません。これはなかなか難しいことです。
 認定する人は教師等現場の仕事を分かっていない人が多いということがこれまでの経験から感じていたことでした。ともすると、「過労か否かを認定する立場の人は仕事内容を習熟しているはずだ。」、あるいは、「習熟しているべきだ。」と無意識に考えてしまいがちです。これは「違う」と考えて活動を行うべきだと思います。知らないことを非難しても公務災害認定はなされません。そのためにどうするか。
 先ず、通常の職務に伴う仕事の内容をきっちりと伝えることが必要です。幸い、友人に教頭先生がいて、みっちりとしつこいくらい話を聞くことができました。どういう仕事の内容があって、どれがどのように大変なのか。朝学校に来てから帰るまでどの時間帯にどのような仕事をするのか、年間を通すとどのような仕事をするのか。何をどう聞けば、認定者が理解できるようになるか意識しながら聴き取る必要があります。
 次に、その職場その職場でプラスアルファの仕事がありますから、そこは各職場の内容を知っている人から教えてもらわなければなりません。幸いにも皆さん大変に協力していただき、この点も成果が上がりました。実際にその職場に行って、実際に活動しておられた動線を自分も辿ってみました。
 そして、その次に、その人の特別事情も知らなければなりません。この教頭先生は、通常の教頭の先生以上に教育委員会の仕事を、しかも困難な頭を使わなければならない仕事をたくさん行われていました。この仕事を理解すること自体が一苦労でした。言葉で聞いただけでは全く分かりません。実際に現地に赴き、成果物、発表物を写真に収め、パンフレットを見て、ホームページも見て、ようやくおぼろげにわかりかけてきたというような段階でした。
 そうやって、ただでさえ忙しい教頭先生なのに、さらに膨大な仕事をしていらっしゃったということがわかりました。
 それを認定する方々に説明する必要があるわけです。自分が実際にこの資料で理解できたという資料を画像にして示すということも効果があったと思います。
 繁忙を伝えるというプレゼン技法も、だいぶ考え抜いたつもりでした。プレゼンの際の話す速度や資料の活用方法なども基本を押さえて行ったつもりです。
 期限内にやらなければならない仕事がこのようにあったのだということが、まず代理人のやるべきことということになります。

2)自宅で作業を行う必要性
 先ず大前提として、職場にいる時間で仕事が終わらないという事情を示さなければなりません。その上で、船の時間のため、職場を退出しなければならなかったと続くわけです。1)の活動が前提となるということが大切です。さらには、仕事には期限があるということも自宅作業の必要性の重要なポイントですから、これもきちんと証明する必要があります。

3)成果物などの証拠
 この点で、支部審査会などと対立しました。ポイントは、成果物の内容が相当時間を要する内容であり、その時間については上司の方々も認めていたのですが、支部審査会は成果物を形式的にとらえました。つまり、文書の最終更新日の時間によって残業時間を認めようというものでした。これだと、2日以上に分けて少しずつ作った文書は、最後の1日だけが労働時間と認められて、前日の途中作業は更新されて消去されていますから労働時間だと認められないという不合理があります。ここは、大問題です。成果物の更新記録だけではなく、パソコンの作業時間を示す資料などを分析し、作業していたことの立証を行いました。ここは、ご遺族の方が発見して立証に成功したところも大きく認定に貢献しています。本部審査会もこの点について興味を見せていただき、最終的にはパソコンの提出も求められました。調べていただいたということになります。
 しかし、それは最後の決め手ですが、その前提として、ご家族のご自宅での様子、特にルーティンの様子、上司の方の成果物の評価がなくしてはこの最終トライにはつながらなかったと思います。

 本件は、管理職ということで労働組合の組合員ではなく、組合に対して積極的に支援を要請した事案ではありませんでした。それでも、亡くなった先生を知る多くの方々に様々な協力をしていただきました。亡くなった先生のお人柄が偲ばれるとともに、多くの学校現場の方々の、この事例が過労死として認められないことはおかしいという義憤のようなものを感じました。お一人お一人に頭が下がる思いです。

感想
自身4度目の逆転認定ですが、何度でも認定通知が届いた瞬間の興奮が無くなることはありません。今回も逆転認定にならなければ行政裁判だと気を張り詰めていたということもあり、喜びはひとしおでした。しかし、労災事件の常なのですが、今回の亡くなられた先生は、私と同い年でした。あと何年かで定年退職を迎える歳でした。先生もご遺族も、いろいろな夢があったと思います。ご自身の趣味の活動に時間を使うとか、新しいことに挑戦しようとか、家族で旅行に行くとか、まさに当時の私と同じように色々なことを考えておられただろうと思うのです。認定がなされてご家族の生活のご心配が軽減されたことは大変喜ばしいことですが、何ともやりきれない思いも実は大きくあるわけです。
そのためなんとしても過労死予防こそ第1に取り組まなければならないことだと思い、何かの役に立てばと思いこのご報告記事を書いた次第です。

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