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これまで担当してきた懲戒解雇無効事件からの教訓 労働者側と使用者側それぞれに向けて [労務管理・労働環境]



私は、労働事件において、特段の主義主張、思想信条がありませんで、労働者側代理人も使用者側代理人も担当しています。法に従って適切な解決に努めるだけです。

また、そうあるべきだと今は思います。両方の立場の代理人をするからこそ見えてくる事件の解決方法があるからです。私は調停委員として懲戒解雇事件にかかわることもあったので、ますます事件が立体的に見えてくるようになりました。

事件が立体的に見えると、どちらの立場で仕事をしていても、相手の背景事情が見えてきて対策が立てやすくなります。それぞれの側の法実務家として担当してきたことから気が付いた点がありますのでメモを残したいと思います。

<労働者側に向けて>
速やかな法的手続きが一番の武器です。

事件の背景を見抜いて、必要とあらば直ちに法的手続きに移行するべきです。懲戒解雇に理由がなく、職員も職場復帰を望んでいるならば、地位保全の仮処分を第一選択肢とするべきだと思います。そして申し立ては素早く行うこと。多少申立書の記載が稚拙でも、迅速さが命だと思います。労働者側の代理人として夢中になって申立書を書いて提出してから、労働契約法の条文を掲げていなかったことに気が付きましたけれど、特に問題が無く勝訴的な和解となりました。

とある保全事件で労働者側代理人として申し立てを行いました。懲戒解雇された翌日に打ち合わせをしてその翌日には申立をしていました。懲戒解雇された日に電話相談が来て、その電話で仮処分に必要な書類を告げて、翌日にもってきてもらいました。前の事件がパソコン上に残っていると書式を使いまわせるほか、必要な資料もわかりますから便利です。

労働者側代理人として大変なのは陳述書作成かもしれません。保全事件では陳述書が大切であると常々実感しています。陳述書を書くにあたっては、依頼者に経過表メモを作ってきてもらうことが大切です。健康保険証や給与明細書等にも必要な情報が明確に記載されていますので、手元にあるととても便利です。案外相手会社の資格証明を取るのが手間がかかることがありますが(1日を争う場合)、依頼者に法務局によって来てもらえるならとても便利です。私の場合は通勤路に法務局があるので朝一で登記簿謄本をとっても9時には事務所に到着できるので便利です。

労働者が使用者から理由を告げられて懲戒解雇を言い渡されたならば、躊躇せず懲戒解雇無効に基づく地位保全申立をするべきだと思います。勉強をしている人ほど、懲戒解雇から普通解雇に転換されたらどうしようと考えるのですが、理由を告げられて懲戒解雇だと言い渡されたらならば、実際は仮処分手続き中に普通解雇への転換はやりづらいということが実情です。「普通解雇に転換するなら転換してから普通解雇を主張しろ」という心構えでやっています。解雇予告手当も出さずに、懲戒解雇の理由をあげて解雇している以上言い訳ができない状態であることをついていくつもりでした。

この言い訳ができない状態にしていくためにも、間髪入れない申立てをすることが大切です。時間が過ぎていく中で、懲戒解雇をした会社も、離職票を作成する等様々な手続きがあります。その中で社会保険労務士の関与があれば、「これはまずい」と気が付く確率が上がり、弁護士に相談してもっともらしい理由をつけて普通解雇の手続きをしてしまうことがあります。普通解雇だと、解雇理由が無限に広がる場合があり、その一つ一つについて、事実に反するとか過大な低評価だと主張立証することは相当骨が折れます。それでもやり切って勝利和解をしなければなりませんが、膨大に手間暇がかかりしんどいです。この反証にもコツがあるのですが長くなるので省略します。

まとめますと、労働者側が行うことは、懲戒解雇がいかに唐突に行われたか、どうしてこの程度の理由で懲戒解雇となるのかということを、客観的事実と社会通念に照らしての論証によって、裁判官に認識してもらうかということになると思います。

逆に解雇されてから数か月たってから事を始めると、それ自体がハンディキャップになる場合があります。代理人としてもとてもしんどいです。いろいろな細かなことが曖昧になってしまいますが、不合理な解雇の場合は労働者側に有利な内容が曖昧になってしまいます。

付け加えると、雇用保険制度、税金などの知識も和解条項の作成などで必要なので最低限度の知識は身に着けておくべきです。

<使用者側に向けて>

一番大切なことは、解雇は慎重に行うべきだということです。特に懲戒解雇は慎重に行うべきです。解雇した側が結構大きな組織なのに、人事権者が特定の労働者と感情的に対立し、目の上のタンコブのように扱っていて、やめさせたがっているときに、つい、これはいけるのではないかと思って、理由をつけて懲戒解雇をしてしまう場合が多いように思います。

確かに上司から見ればその労働者が一人いるだけでやりにくいと感じるとか、自分の立場が他の労働者からも軽く見られるようになるのではないかと危機感を抱かせる人間はいるものです。どっちが経営者かわからず、資金繰りに苦労してなんとか会社を維持していることがバカらしくなる場合もあります。これは経営者の立場で考えることができればよくわかります。

ただそういう経営者の気持ちの問題はあるとして、裁判所から見れば、労働者はその会社で働くことによって生活が維持されているので、退職金の出ない懲戒解雇は人ひとりの人生が破壊されかねないとみられるのです。

懲戒解雇をしてやれやれと思っていると、裁判所の手続きを通じて懲戒解雇が無効になり、下手すると何年か働いてもいない労働者に賃金を支払い続けなければならないことになりかねないということです。

経営者からすれば懲戒解雇が有効になるハードルは思った以上に高いところにあります。

例えばやめさせたがっていた労働者が何か事を起こしたとなると、やめさせたいと思い続けてきた経営者にとってはそれが十分懲戒解雇の理由になる大きな出来事だと思ってしまうという現象があります。心理学では確証バイアスと呼ばれる心理効果です。

しかし、労働者側の代理人弁護士は、それがいかに理由のない懲戒解雇であるかということをいとも簡単に論証してくるものです。

人ひとりを解雇するというのであれば、裁判所の動向を知っている弁護士と相談して、くれぐれも慎重に進めていく必要があります。

無謀な懲戒解雇が行われるのは、代替わりなどで経営者が交代して、自分の地位が確立していないと新経営者本人が感じているときによく見られます。そして、周囲がイエスマンばかりで本当の意味で新経営者を支える能力のない場合ですね。その労働者がいるとやりづらいとか、不愉快な言動をするという経営者の心情に共感しすぎてしまい、解雇という手続きが可能か否かの観点から自分の頭で考えて経営者に意見を言えないという意味で能力が無いわけです。経営者に寄り添ってしまっている場合です。とある業界では、まさにこのタイミングで怪しげな経営コンサルタントが入り、次々と会社が倒産してしまった例が実際にあります。自分の立場に不安を感じているときは、それに付け込んで利益を得ようとする人間がいるということは頭の中に入れておくべきです。

次に解雇という選択肢が譲れないとしても、懲戒解雇は回避した方が賢明である場合がほとんどだと思います。
普通解雇を選択する場合でも、裁判所から正当な解雇理由があると判断できるように客観的な証拠をきちんと集めておく必要があります。特に新経営者不安型の解雇の場合は、解雇理由が曖昧で、噂話のたぐいまで根拠に引っ張り出してしまい、かえって理由のない解雇ではないかと裁判官から見られるような解雇があります。つけないほうがましな解雇理由が目につきます。会社側の陳述書の書きすぎをやめさせるのが代理人の役割かもしれません。(労働者側はわずかにのぞかせている無理筋を端的に指摘して無理を通そうとしているということを明確にする必要があります。)

そして、解雇を決断する場合、特に懲戒解雇を決定する場合は、法的に成り立つのかの見通しを専門家に判断してもらうことをお勧めします。その際、解雇という選択肢がとれない場合の、その労働者との付き合い方など労務管理上のアドバイスもできる弁護士であればなおよいと思います。

最後に、解雇を相手に告げるときにも、専門家に相談するべきです。くれぐれも、感情に任せてクビを宣告してはいけないということです。専門家に解雇理由の裏付けとなる資料を確認してもらい、解雇後に行うべきことも確認してから解雇通知も作成してもらい、会社代表者名(個人事業主名)で解雇通知をした方が無難でしょう。

せっかくいろいろと解雇のための手続きを進めても、わずかに法律上の要件を満たさないために不利になってしまうこともあるので手続きの確認をしていくことも大切です。

どのタイミングで専門家に相談するかについて時間系列に従って述べますと

1)懲戒解雇をしたい労働者がいる場合に懲戒解雇ができるか、どうすればできるか、普通解雇に転換した方が良いのか、そのためにはどのような準備が必要かの相談
2)懲戒解雇の手続きを始めるか否かの段階
3)解雇通告の際の相談

特に3)は、2)と独立して確認の意味を込めて相談をする必要があると、これまでの事例を見て思いました。

無理な懲戒解雇は無駄なお金が膨大にかかる危険があります。経営者本人も取り巻きも冷静に考えることが実際は難しく、それ故に判断ミスをする場合が多いということを述べてきました。その解決方法は、類似事例の経験が豊富で物事をはっきりと述べるずうずうしい弁護士の意見を聞くということに尽きると思います。

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なぜ妻は、婦人相談所で、夫から精神的虐待を受けていると言うのか 夫が悪い、妻が悪いという二項対立をアウフヘーベンして幸せな家族を作ろう 自分たちを大切にする方法 [家事]



1 思い込みDVのパターン

 ありもしない夫のDV、精神的虐待を妻が婦人相談所であると言ってしまう一つ目の理由は、思い込みDVのパターンです。
つまり、妻がもともと出来事が無くても不安や焦りを感じやすい体調になっている(パニック障害等の精神疾患、精神症状を起こす場合のある内科疾患、婦人科疾患、交通事故などの頭部外傷、お子さんに障害がある場合、住宅ローン、夫に内緒の借金や公共料金滞納、自分の過去)。
  ⇒ 不安や焦りを解消したい。⇒相談機関があるから相談してみる。
  ⇒ 夫に対する不満を話すよう誘導される(誰だって多少はある)
  ⇒ 「あなたは悪くない。それは夫のDVです。」
  ⇒ 夫からDVを受けています。

2 ミュンヒハウゼン症候群みたいな

 妻がありもしないのに、婦人相談所でDVや精神的虐待を受けているという二つ目のパターンは、誰かから要するにちやほやされたいという感情が病的にある場合ということです。

しかし、そういう要求が出現することはやむを得ない事情があるようにも感じます。
 これまでの人生において、姉妹、兄弟、あるいは親と比較して、自分だけが他者から肯定的な評価を受けず我慢していたとか、病気等が原因で仕事も家事もできず他者に貢献する機会がなかったことに後ろめたさを感じ続けてきたような場合(基本的にはまじめすぎる人なんだと思います)、夫の仕事の都合で見ず知らずの土地に来て地域の人と打ち解ける機会もなく孤立している場合という環境因子と、やはり本人の性格が合わさり、他人からちやほやされたいと思うようです。役所の公務員、警察、NPOの専門家然としている相談員、医師や教師などからちやほやされることに免疫のある人はいないでしょう。

⇒ 夫からDVを受けている。⇒ 大変だね。頑張っているね。あなたは悪くない。⇒ 実はもっとひどいことをされている。(離婚歴などがあり、過去にパートナーからひどい仕打ちを受けていてPTSD様の状態である場合は、過去の体験を現在の夫の行為として話し出すことが複数件でみられました。その時の様子についての説明から、結婚する前の時期の出来事だと判明。)
⇒ 早く夫から逃げなければ殺されてしまうよ。⇒ いやいやそこまででは・・・
⇒ 何を言っているの?命は大事だよ。子どもも殺されるかもよ。そんなひどい人なら一生治らないよ。
⇒ じゃ、じゃあ・・・

3 夫の正しさ

妻が婦人相談所から尋ねられて、精神的虐待やありもしない夫のDVを肯定してしまう場合に他の要因と合わさって、夫の過剰な正しさがある場合があります。
8月3日付のブログでも書いていますが、今回は妻の心理の側面から補足したいと思います。
人間は、群れの中にいたいという主としての本能がある一方、生物個体として自分の身を自分で守りたいという本能があるようです。両者は局面によっては矛盾するのですが、月と地球のように遠心力と引力が折り合っているのでしょう。

自分の身を自分で守れないと感じるとパニックになり、不安や焦燥感をいだくということは簡単に想像できると思います。真っ暗の中、どこかわからないところで目隠しをされて両手両足を縛られてしまうと、誰でもパニックになると思います。具体的危険が迫っていなくても、自分の身が危険さらされていると感じると思います。誰かが、あるいは動物が近づいてくるような足音が聞こえてきたりするかもしれません。金縛りのパターンも同じでしょうね。これをまず抑えておいてください。

夫の正しさが、妻を金縛り状態にするわけです。

「それをするな。」、「それはだめだ。」、「それはダサい。」、「常識に反する。」、「考えればわかるだろう。」、「やりなおせ。」、「謝れ。」

夫の言っていることは、場合によっては正しいことも多いのです。ただ、その正しさを貫くためには家の中でも常に緊張状態でいなければならず、安らぎなんて無いわけです。当初は結婚したほどですから、何とか夫から評価されたい、あるいは、夫から嫌われたくないと思って無意識に一生懸命やるわけですが、長続きしません。

徐々に自分が何をしても否定されるという意識になって行ってしまいます。何をするのも怖くなります。家のことなのに、自分で決めることができない状態になるわけです。あれこれ行動が制約されていくうちに、「自分で自分のことを決められない。」⇒「自分で自分のことを守ることができない。」という意識になり、
⇒「自分の行動は夫から支配されている。」と思うようになるようです。

そして、広範なダメ出しによって、自分は夫から見下されている、馬鹿にされている、対等の関係を築けない
⇒ 夫といると自分は安心できない。警戒し続けなくてはならない。
という感じになるようです。犬の嫌いな人が、大型犬と一緒にいるような落ち着きなさが日常になってしまうのでしょうね。

また、人間は成長過程によって、自己防衛を指向するようになります。つまり赤ん坊の時は、自分のことを自分で決めたいという個体はあまりいません。大人になっていくにつれて、自分のことを自分で決めたいという意識が強くなっていき、これを妨害する相手を敵視するようになるようです。結局、「何かあったら守ってもらいたい。でも日常は自分で決める。」というのが成体の人間なのでしょう。

また、夫の言い分が正しいとしても、それを発する自分の労力、それに対する否定的な感情を抱く相手の気持ち、その結果夫婦にしこりを残すという多くのデメリットを考えると、妻にやかましく言うことは結局のところ誤っているということになるかもしれません。ところが実家でのしつけの家庭や学校、職場での行動様式の静かな強要、常に神経を集中させる生活が身についてしまうと、他人である妻がいる空間でも、つい神経をとがらせてしまう行動様式を取ってしまうのかもしれません。その行為だけを見て評価をする場合は間違ってはいないのかもしれませんが、根本的な家族という人間関係を良好なものとするという観点では、端的に言うべきではない。費用対効果が見合わないということになります。

見て見ぬふりをする。まあいいかという心の中の処理をする。許す。寛容になる。相手に任せたことに男子たるもの口出ししない。こんな感じの生活が幸せを勝ち取る最善の手なのだと思うことが無難なのだと思います。

4 夫の幼さ

夫に身に覚えがないのに妻が精神的虐待を受けていると主張する4番目のパターンは、以下に述べる夫の幼さを妻が指摘して夫が感情的に反発するパターンです。
別居事例、離婚事例を見ていると、夫婦で共同生活を送る以上、一方は他方に「二人で生活している」という実感を持ってもらわなければならないと考えた方がよさそうです。意識的に実感を持ってもらう行為をするということです。

しかし、おそらく学生時代に両親と生活している感覚なのかもしれません。すぐに一人になろうとして自室にこもるとか、休日に妻を家に置いて頻繁に自分の趣味の活動に出かけてしまうとか、家事を頼まれていても忘れてしまうとか、自分のことはいろいろプランを立てるけれど夫婦共通のこととなると主体的に取り組まないとか、見たい番組ではないからと言って一緒にテレビを観ないとか、高額の趣味のものを内緒で買ってしまうとか、家のことでやらなければならないことなのにそれを妻から言い出すとなんだかんだ引き延ばして嫌々やっている感を出すとか、妻が料理をしても自分の趣味(と言ってもユーチューブ見ているとか)を優先して別々に食べることになってしまうとか。

そういう不満を最近家裁手続きの書類で読むことがあります。中には職場の過重労働やトラブルでうつ状態になり、一人の部屋に逃避している場合もあります。

それでも妻からすれば、結婚しているのに二人で行動しないでどうして自分が一人ぼっちにいつもさせられるのかという不満をもつのも理解できることです。新婚の内は別々の部屋なんて本来ない方が良いのかもしれません。

逆に妻の方がべたべたするのが嫌で、一緒に部屋にいるのは良いとしても、あれこれ詮索されることがうっとうしいというストレスが爆発したような事例もあります。

いずれにしても、男性も女性も、自分が相手から尊重されていないのではないかということを自分を軸に考えますから、相手が尊重していないわけではないとしても、感覚が違うと自分だったらこうしたいけれど相手がそうしないということだけで、たちまち不安になるということはやむを得ないところだと思います。

これを解決するためには、先ず、言葉で自分は相手を尊重している問うことを明確に伝えること、そしてお互いの生活上の希望を出し合うこと、相手が切実に一緒に行動したいというならば、やはり一緒に行動するように自分のスタイルを修正するべきだと思います。但し、自分のスタイルを相手に押し付けて、相手がそれに同意しないからと言って感情的になってしまうのもわがままであり、共同生活が難しくなるようです。

加減は難しく、時間がかかります。自分の信念や哲学、心情を捨てるということも時には必要になると思ってよいのではないでしょうか。ちなみに私もだいぶ独身時代大事にしていた心の部分を捨て去りました。大げさに言えば生き方を変えたところも結構あります。でも、歳をとった今となっては、なんであんなこだわりを持っていたのだろうと肯定的に捉えることの方が多いように思います。そのおかげでこのブログや対人関係学が結実したようなものです。結婚をすると選択した以上、ある程度家族を優先して生きていくということは不可避的な話なのだと思います。余計な話ですが、それだけ努力しても、なかなか相手には伝わらないことが唯一残念なことではあります。

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国の自殺対策予算が政治利用されるのではないかという懸念 自治体の弁護士委員の果たすべき役割について [自死(自殺)・不明死、葛藤]


1 現在の自殺対策

現在の日本の自殺対策として、
①各都道府県、市町村ごとに地域の特性に根差した自殺対策計画を策定し、
②成果の有無を評価して
③さらに効果的な自殺対策の計画を立てる
という政策がすすめられています。つまり、地域ごとにPDCAサイクルで自殺対策を進めていくということです。

ただ、それだと地域によって対策の質・量にばらつきが出るのではないかという懸念があって、自殺総合予防推進センターという民間団体に委託して、各地域のプロファイルを行い、計画や評価をチェックして対策の底上げを図るという構造になっています。

2 方法論自体に懸念されていたこと

この政策転換については、メリットを評価しつつも、懸念材料が指摘されていました。自殺は地域的特性によって起きるというより、日本共通の問題があるので国が中心に政策を進めなければ効果が期待できないのではないか、権限の狭く脆弱な自治体がメインになることは自殺対策が後退するのではないか。というものの外に特に以下のものがあげられました。
1)センターで管理をすることは底上げにはつながるかもしれないが、各地域特性を地域外の人たちで評価することは困難であり、結局地域の特性を生かす方向とは逆行するのではないか。自殺予防を目的とした統計ではないという意味で自殺予防政策の観点からの実態把握には極めて不十分な統計資料しかないのではないか。
2)地域計画の実行に対する評価を数字的に上げることは困難であり、各地域の現場の肌感などが現れないために、センターで評価することは質的にも難しく、かつ、量が多すぎてすべての自治体の丁寧な評価が可能とは思われない。
3)その結果見直しと言っても当初の理念から離れた者になるのではないか。つまりPDCAサイクルが機能しないのではないか。

4)センターが全てを指導するという立て付けは、結局各地方が独自に自分の頭で考えて、必要な政策を実施して、自ら評価するという思考や力量を奪ってしまわないかという懸念もありました。

3 実際の地域計画見直しから見えてくる懸念

現在、各地方自治体は、一斉に地域の自殺対策計画の見直しを行っています。地方色を出している自治体もあるにはあるのですが、「きちんとした自治体」ほど、抽象的な計画に終始しているような「印象」を受けます。

先ず、地域の実情からの根拠のない施策が入ってきています。即ち、自殺対策の重点施策として女性の自殺対策を追加しているのです。当然、女性特有の自殺対策は必要なのですが、令和4年以降は女性については減少に転じているので、時期を逃した政策になってしまっているという印象が否めません。まず全国で、なぜか女性の自殺対策に重点を置きましょうということが決められ、少し時間がたって地方に降りてきて、これに追随せざるを得ない状況が作られたという印象です。

次に、それでも特徴的なことは20歳代等の若年女性の自殺者数、自殺率が増大していることは確かです。だから、女性一般の自殺対策が重点ではなく、若年女性の自殺対策を重点化するならばわかるのです。

これは背景的に政治的な思惑がある、若年被害女性対策の東京都などの施策と共通性があるのですが、それは後述します。

その他には、東日本大震災の被災者対策ということが挙げられています。そしてその対策の内容が「復興を推進する」というものです。この表現は地元感がまるでありません。いかにも、東北は大震災があって対策が必要でしょう、対策には復興でしょうという、東京でテレビを観ながら震災を「知った」人たちの発想のように感じてなりません。大体、東日本大震災前がそんなに豊かで幸せな状態だったとも思われません。「復興」という一義的でもなければ具体性もないことで自殺対策と言われても何をしていいかわかりませんし、復興事業がすなわち自殺対策ではないので、「そうだそうだ」という気持ちにはなりません。

問題はミスリードです。しないよりましな政策なら予算がかかったってするべきなのだと思うのですが、しない方がましな政策はしてはならないからです。

私は真正面から自殺対策が行われているのではなく、何かの思惑が自殺対策の中に混入してきているような強い懸念を持ちました。その典型的な話が女性の自殺対策です。

4 ここでも女性支援対策

女性対策を重点化するとしたのは、全国レベルの話です。言葉の意味も具体化せず、そのデメリットも考慮しない勢力は、ジェンダーという言葉が出れば思考停止しをして賛成する人が多くなってしまっているからだと思います。

女性対策を重点化する統計上の根拠は極めて薄弱です。どうして自殺者や自殺率の高い男性対策をしてこなかったのに、女性対策が突如現れたのか、強烈な違和感があります。

根拠は以下のように示されることが多いようです。
1)産後うつの調査統計
出産後うつ病になりやすいことは21世紀になって科学的に証明されるようになりました。痛ましい自殺の報道や申請時に対する虐待の事件報道もなされています。保健所の訪問活動で、うつ病を示すエジンバラスケールが高値を示しているということが理由として挙げられていました。産後うつ対策はとても重要です。産後うつの核心はバルセロナ大学と富山大学がそれぞれ発表した結果から、夫に対して共感、共鳴ができなくなるというところにあります。私も離婚調停を担当していて、いわゆる子どもの連れ去り事案の多くが産後うつにり患していた事情が示されています。

あくまでもそれは産後うつ対策です。女性一般の対策を重点化することとは別です。

2)婦人相談所の相談内容
次に女性一般の対策の重点化の根拠として挙げられるのは、婦人相談の相談内容が、夫の暴力についてが一番多く、次に離婚の相談が多いということから、女性一般の対策の重点化の根拠としたいようです。但し、つじつまが合わないと気が付いている自治体は根拠として明示はしていません。

これも噴飯ものです。婦人相談所というのは、結局DV相談所です。女性の人権相談という抽象的な表題であっても、「こういう場合に相談に来てください」という例示はほとんどがDVについてです。あとは職場のセクハラですか。

つまり、夫のDVや離婚について相談しろと銘打って相談会を開けば、夫のDVや離婚についての相談が多いのは当たり前です。

また、思い込みDVの中で説明していますが、女性が不安や焦燥感を抱くのは、夫に限らず、産後うつ、婦人科疾患、内科疾患、パニック障害、子どもに障害があること(現在多いのは発達障害)、住宅ローン等様々です。しかし、その原因が自分では自覚できませんので、夫に対する不満という形で不安や焦燥感を表現することが多いのです。また、DV相談所と銘打って相談を受け付けているのですから、些細なことを取り出して夫のDVだという場合も本当に多いです。
月に3万円しかお金を渡されないのは経済的DVだと言われたというのですが、夫の賃金が手取りで20万円を切っていて、夫の口座から公共料金が全て引き落とされて、食費や生活費も夫が負担しているという場合に、子どもが小学校にあがったというのに、妻が専業主婦なのです。3万円は妻の小遣いで、夫の収入を考えると、頑張って渡していると評価するほかないのですが、DV相談所に言わせると経済的DVなのだそうです。一例ですが。

私はこのブログでもたびたび考察しているように、夫が全く悪くないということをいうつもりはありません。しかし、どうやって家庭を幸せな時間にあふれるように作り上げるかという情報が欠如していることも事実です。また、夫婦問題を相談すると行政でも弁護士でもカウンセリングでも離婚しか勧められず、円満な夫婦の作り方を情報提供する機関が全くないということも極めて奇妙なことだと思います。

結局行政もNPOも解決策として離婚です。しかし、離婚をしても夫の収入が上がるわけでもありませんから養育費を受取っていても、生活が婚姻時より楽になることは無く、苦しくなるばかりです。人権相談で、「婦人相談所の言う通り離婚したけれど幸せにはならない。と言ったら、相談所の人は、離婚はあなたが決めたことですよ。」というばかりだったという相談を多くの人権擁護員は電話で聞いています。

妻はその程度でよいでしょうが、罪のない子どもが突然今いる環境からも父親からも、学校からも引き離されて、自分の父親を悪人だと吹き込まれて、自己肯定感が低くなったら人生取り返しのつかないことになると私は思います。

こんなことで女性の自殺予防として、離婚を助長するような政策が行われてしまったら、みんな不幸になってしまいます。特に子どもを連れ去られた男性の自殺率が高いことは、本件にかかわる弁護士の共通認識です。自殺対策として自殺を増やすということが一番避けなければならないことだと私は思います。

自殺を予防し、多くの人が不幸にならず幸せを感じる政策とは、家族が幸せになる方法の啓発であると思います。このような視点の政策は自殺対策の中に出てきません。

3)コロナパンデミックと女性の自殺の増加

確かに令和2年と3年は女性の自殺者数が増加しました。しかし、それがコロナと関係があるかどうか、研究者の間でも関連がよくわからないようです。関連があると主張するのが、離婚を推進しようとしている一部のジェンダー主張論者たちです。強引に在宅ワークで家に夫がいるせいで自殺者が増えたということを何の統計もなく主張していました。しかし、一方で在宅ワークで夫婦のきずなが深まった、会話が増えたという統計があるのですが、確証バイアスが働いてそのような資料は目に入らないのだと思います。なぜかこの論調で新聞も無責任に特集を組んだりしていました。

コロナ禍で女性の自殺者が増えたということは、令和2年3年においては、相関関係があります。しかし統計学の極めて初歩の概念として、「相関関係と因果関係は異なる。」というものがあります。入門書には必ず書かれていると思います。

パンデミックになれば、パンデミックの影響を受けた様々な事象によって女性の自殺が増えるとは必ずしも言えません。

実際に国の児童の自殺対策をする審議会でも、このような統計学というか科学的立場を無視して、コロナ禍で子どもの自殺が増えるだろう、それは父親が家庭に居座るからだというような報告書を作成しているのです。前にこのブログに書いた通りです。
【緊急】文部科学省の令和3年の自死対策 コロナも令和2年の統計結果も関係ないまとめではないのか。つまり実効性に疑問を払しょくできない。
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2021-11-04


この例を考えると、統計的根拠もなく他に深刻な統計上の問題があるにもかかわらず、女性一般の自殺対策を重点化するという政策と抱き合わせてコロナパンデミックによる自殺対策を方針とするという流れは、自殺問題とはあまり関係なく、政治的に女性の支援をNPO法人に高額の費用で丸投げするという政策に誘導しようとしているのではないかという懸念が生まれるのです。子の連れ去りが格段に多くなったのも平成25年のDV相談にNPOが参入してからだと考えると、結局は特定のNPOに費用を流そうとしているのではないかということを警戒しなければならないのだと思います。

いずれにせよ、地域自殺対策計画は、予算を伴った政策です。なんとなく相関関係があるから対策を立てなければならないということではだめなことは誰でもわかることだと思います。因果関係がわからないと具体的な対策は立てられません。曖昧なまま政策を作らなければならないと言って科学的根拠も経験的根拠もなく立案してしまい、逆に、これが家族破壊政策に使われてしまったら、自殺予防とは逆行した政策になってしまいます。

日弁連は、平成21年から弁護士が自殺対策に積極的に関与しようという方針を打ち出し始めました。その要諦は、当時の莫大な自殺対策費用が、一部の利益のために使われてしまわないか監視をするということにありました。適正な予算を組むために、弁護士も政策に参画することが主たる目的でした。かなり政治的な話が始まりだったのです。

今まさに、その危険が現実化しているのかもしれません。
現在は、多くの弁護士が自治体の審議会委員に選任されています。役割を果たす時だと思います。

そして各自治体の担当者は、「きちんとした」自治体ほど国の政策に当然のように疑問を持っており、反論をしたいところなのです。でも自殺予防センターを怒らせてしまえば国の予算配分にも支障が生じます。だからこそ、民間の委員、弁護士委員が疑問や意見を積極的に述べるべきです。

それほど自殺プロパーの知識が無くても疑問を持ち、意見を言うことができます。つまり、変化をするポイントで、「その変化は統計的な裏付けがあるのか」、「主語がでかすぎないか」、「その変化の理由で、なぜその資料を挙げるのか」、「その理由は科学的な根拠があるのか」というところを質問し、自分の業務上の経験に基づいて、自分の経験上はむしろこうだという個人的な意見を述べることをすることで足りると思います。

肝心なことは、自治体の職員は敵ではないということ。多大な労力をかけて準備をしているが、国の制度の仕組みで、良心や能力を発揮できないことだ、あなたの代わりに私が話すという姿勢なのでしょうね。

付録
この懸念政策に貢献しているのは、無罪判決を勝ち取った元厚生労働省官僚のようです。あちこちで講演をして信者を増やしているようです。その要諦は何かというと、「困難女性はカウンセリングとか役所の相談とは敷居が高い。だから、格式張らない民間人が相談を担当することが最適である。」ということのようです。東京都の若年被害者支援事業で、莫大な予算が一般社団法人やNPO法人につけられて、有効な管理をせずに、税金の使途が極めて曖昧になっているといういわゆるWBPC問題で、法人の代表として活躍されている人だけあると思いました。このシステムを自殺対策として全国に広めたいのではないかという懸念が私の具体的懸念です。

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悪人・加害者が安らぎを感じる必要性とその方法 気休めこそ現代人の幸せの形 [自死(自殺)・不明死、葛藤]



1 人間の脳の仕様と現代社会

対人関係学では、人間の脳や人間の感情の仕様は、同じ仲間と一つだけの群れを作って一生生活し、その群れも数十人から150人程度の人数という小さな人間関係で生活を想定してできており、このようなデフォルトの環境ではよりよく機能すると説明しています。この状態が感情のゼロポイント、当たり前の状態であり、脳の仕様からすると不安や焦りを感じにくい生存に適した環境ということになります。

ところが現代社会は、生まれてから死ぬまでを考えると気が遠くなるようなたくさんの数の群れ(人間関係)に人間は所属します。家族、学校、職場、地域、その各人間関係の中でも複数の人間関係の単位に細分化されています。一つの群れでは善とされたことも他の群れでは否定的な評価をされることもよくあることです(友達からは歓迎されたことでも家族からは叱られるとか。家族の機嫌を取ろうとして職場から否定評価されるとか。)。また、それぞれの群れの構成メンバーだけでも膨大な人数になりますし、通勤、通学や店舗での物の購入などの活動を含めるとさらに膨大な人数になります。さらに、インターネットなどの人間関係を合わせると、数えることができないほどの人数のかかわりがあることになります。また、各群れは入れ替えが可能であり、自分の立場も定まっていません。自分の代わりに他人に自分の位置がとってかわられることもあるわけです。そしてその位置によって、自分に対する報酬(物心それぞれ)の有無、程度が変わるということも特徴です。押しなべて人間関係は薄く、何か落ち度や不十分なことがあると、容赦のない批判、叱責、冷たい態度を受けてしまうことがあります。

デフォルトの人間関係では、人間関係が濃いために、他人と自分の区別がつかないほどで、仲間が苦しんでいれば自分も苦しく感じるために、他人であっても仲間の弱点は補い、失敗を起こさないように事前に援助を行い、結果として失敗をしたとしても、その人の能力を十分理解しているために、責めたり叱責したりするということは無かったと思います。また本人も、仲間に迷惑をかけないように全力を尽くし、仲間の役に立つことに喜びを感じますから、仲間から否定評価をされることもしなかったと思います。

現代社会の人間関係は、人間の脳とミスマッチを起こしています。このミスマッチが原因で、人間は、放っておくと、自分の立場を失うとか、自分が孤立していくとかという不安を感じ、焦りを抱くようになっているようです。現代社会は人間に不安や焦りを抱かせる要素に満ち溢れているということになります。

2 不安や焦りが続くことによる人間の反応 
  
不安や焦りを長期にわたって感じ続けることが、人間は耐えられないようにつくられているようです。元々不安や焦りが生じる合理性は、デフォルトの状態では、自分の行為に問題があり、仲間から否定評価されるのではないかという予想に対する反応であり、この感覚を自覚することによって、自分の行動を修正したり、自分の行動を停止したりするためのサイン、きっかけでした。ちょうどけがをすれば痛いと感じ、患部をかばって動きを停止したり、動きを修正したりすることと同じ原理だったわけです。

不安や焦りは、人間とっては軽く扱うことができません。軽く扱うことができれば、行動修正や停止のサインにならないからです。不安や焦りは、長く継続したり増大したりすることを予定しておらず、継続や増大に対して人間の脳は耐えることのできる構造にはそもそもなっていないのです。

このため、人間は無意識に、不安や焦りを解消しようとします。この解消を目指す方法は個性や体調、人間関係の状態によって千差万別ですが、大きく分ければ二種類の方向があります。

一つは怒りによる攻撃をすることによる解消です。

誰かを攻撃して、つまり誰かを怒りの対象とすることによって、自分の不安や焦りを感じにくくするという方向です。しかし、根本的な不安や焦りは解消されません。短期的な効果しかないため、怒りの行動を反復してしまう傾向にあります。また、攻撃も増強していく傾向になってしまいます。自分の攻撃も批判の対象となり、さらに不安や焦りが増強していくことも少なくありません。

もう一つは逃避です。

他者との関わりを絶つ方向での不安の解消ですが、やはり根本的な解決にはなりません。いよいよ解消方法が無いとなれば、自責の念を抱くようになります。明白に他者からの攻撃によって苦しんでいても、「自分が悪いから自分が苦しんでいるのだ」と思うようになるわけです。それでも自分がうまくやれば解決できたはずだという吐かない望みがあるだけ絶望を回避することができるというぎりぎりの防衛機制として知られています。

不合理な事態で苦しむときほど自責の念に逃げるしかなくなってしまいます。視界が狭い子どもたちも自責の念を抱きやすいのはこういう自分を守る仕組みなのです。

全く関係のない第三者の視点でものを見ると、この二つの方向性が妙にかみ合ってしまっていることが良くあります。

つまり、攻撃タイプの人が、逃避タイプの人の些細な失敗や不十分点に対して過酷な否定評価を行い、逃避タイプの人が不合理に自責の念の苦しみを増大させているという場面を多く見るのです。

攻撃される要因が本来ないと思われる場合においても、いわゆる難癖や八つ当たりのたぐいが見られ、それにもかかわらず、容赦のない攻撃が加えられるという場面です。人間関係が薄いため、自分の行動によって他者が苦しんでも、それほど重大なこととは考えないのかもしれません。

攻撃や怒りの根拠がある場合とない場合もあるし、ある場合でもあってもその攻撃の程度が原因に見合わない過剰な場合が多いような感覚を受けてしまいます。

難癖や八つ当たりは、第三者による被害者の擁護を名目として行われることも多いです。擁護を名目に被害者名義で過剰な怒りを振りまいている場合があります。その過剰な怒りによって立場を無くするのは第三者ではなく擁護を受ける人になってしまいます。この場合、攻撃対象者の落ち度や失敗を針小棒大に過剰に描き、擁護対象者の落ち度については過小評価したり隠ぺいしたりします。物事をデフォルメして、攻撃しやすいように持っていくことは報道などでもよくみられる図式です。

3 加害者が安らぐ必要性

だから、自分が悪いから自分が苦しんでいるということは、単なる錯覚や思い込みである可能性も高いのです。何かの過ちや失敗があったとしても、一人に原因があるわけではないということも多くあります。

さらには、失敗したのが本人であったとしても、体調面に問題があったとか、偶然的な要素が多いなど、本当に本人に責任があると言えるかという場合もあるし、八つ当たりや難癖のたぐいである可能性もあるわけです。

しかし、既に自責の念の袋小路に入っている人たちの中で、他者を攻撃して自分の不安や焦りを解消しようとしない逃避タイプの人たちは、おそらく「あなたは悪くない」と言われても空々しく聞こえるだけだと思われます。そもそも典型的な逃避タイプの人たちは他者に相談するということはめったになく、自分だけで苦しむことが傾向としてあるようです。

もし本当に自分の行動が原因で他者に損害を与えているならば、本来自分の行動を修正することこそ自分にとっても他人にとっても必要なことです。「本当に必要なことは何をするべきことなのか」と考えること第一です。

しかし、不安や焦りに苦しんでしまっている人たちは、既に防御の念、不安、焦りを解消したいという要求が強すぎるために、自由に落ち着いて考えることができなくなっています。連日猛暑が続いている真夏の日中、アスファルトの上を歩いているような感じが脳の状態です。ただ、結果的に不安や焦りから逃れたいと思っているだけという状態に陥っていることが少なくありません。

ちなみに反省をするとは
・ 自分の行動によって誰にどういう迷惑、損害を与えたか。その程度。
・ その行動を止められなかった原因
・ 今後そのような行動をしないための幅広い対策、生活態度
を考えることですが、到底考える力が残っておらず、ただ自分が悪いと苦しむだけです。

自分を守ろうとする気持ちが強すぎるために思考が働かないわけです。ですから、自分を守ることを放棄する、自分を捨てるという行動ができれば思考が復活するはずです。しかし、その境地に立つことは通常はとても難しいことです。哲学というよりも宗教的な修養が必要なのかもしれません。

自分を捨てることをしないで、思考を復活される方法があればよいわけです。これがあれば、不合理に悩み続けることをしないで、本人も周囲も現状よりましな状態になることができます。

その人が怒りの対象となるべき人であっても、あるいは不合理に苦しんでいる人であったとしても、どちらにしても思考を復活させることで自分と自分の周囲の人間たちの状態を改善することができます。逆に言えば、自分がただ苦しんでいれば自分が苦しみ続けるだけでなく他者に対して迷惑や損害を与え続けてしまうことになります。

4 加害者が安らぐ方法

結論として、その人が加害者であろうと、極悪人であろうと、悩み続けること、苦しみ続けることは、周囲にとってもメリットは何もありません。デメリットだけが産み出されていきます。

自責の念が出ている人、誰かを攻撃しようとしない人、本当に救われるべき人が救われるためには、加害者が救われる方法を考えなければ届かないということでもあります。

答えは、悩み続けること、苦しみ続けることを「しばし」やめることです。しかし、人間の脳は、悩むことや苦しむことを自発的にコントロールすることは苦手なようです。特に、デフォルトの人間の脳と現代社会の人間関係のミスマッチによって、不安や焦りが生まれることは、一時的なものではなく、逃れられない構造的に用意されている苦しみを抱かせる要素が存在しています。

だから迂回をする必要があるわけです。

脳の構造的に起因して苦しむのならば、脳の構造を利用して苦しまないようにするという方法もあるわけです。その方法は、人間の脳や感覚は、「複数のことを同時に処理することが苦手だ」という特質を利用するのです。何も考えなければ、その人の自然体は苦しみ続けるようになってしまっています。考えないということはできませんので、「別のこと」を考えるということをするということが解決方法です。考えるというよりも、別のことに集中するということです。苦しみを忘れることに集中するのではなく、全く別のことを行うということです。

日本語には、「気晴らし」、「気休め」という言葉があります。気晴らしや気休めを行うことで、一瞬でも別のことに夢中になり、苦しみを中断することによって、思考の余地が出てくるわけです。

わたしたちは軽い意味合いで気晴らしや気休めという言葉を使っていますが、私たちの先祖は、深い意味合いで言葉を残した可能性もあるのではないでしょうか。

気晴らしや気休めは、意識的に取り組むことが必要です。自分で自分の精神状態を調えるという意識的な取り組みなのです。結果としては自分だけでなく周囲にもプラスになることなので、特に大人としては積極的に取り組むべきだと思われます。

具体的に何をするかというと、他人に迷惑をかけないで夢中になれることであればなんでも良いのではないかと思います。漫画を読むとか食べ歩きをするということでもよいと思います。但し、現代社会が苦しみを抱かせる要素に満ち溢れているならば、とことん時間をかけて取り組むことができることが後々のことを考えれば都合が良いかもしれません。

思いつくままにいえば、音楽などの芸術活動、運動、何かの研究があげられるでしょう。芸術というと大げさなのですが、楽器演奏はとても適した気晴らしになるように思われます。研究と言っても大げさな構えでやることではなく、漫画家の系譜とか、調理方法とか、飽きずに続けられることであればなんでも良いと思います。いろいろな場所の散策、テーマを持った散策もよいでしょう。

辛いときに、何か打ち込むことがあるということが救いだと思います。

他人に迷惑をかける等やってはいけない気晴らしは、ギャンブル、酒、薬物、もちろん犯罪や自傷行為もそうです。なぜこれらをやっていけないかというと、単純な話、他人に迷惑をかける、自分をコントロールできなくなるので実際は気晴らしにならず、自己否定が増大し、不安や焦りが強くなるだけだからです。依存行動は、それをしているとき、自分の苦しみや不合理な思いが頭の中で反復されてよみがえるために、なかなか夢中になれないということもあります。この意味で、インターネットをする場合も、ゲームよりはユーチューブを見ていた方がましかもしれません。

思えば、現代社会は、ますます関わる人間が増えて行き、数が増えるほど関係が希薄になっていきます。すべての人に共感したり、すべての人を援助することは不可能です。対立している人双方の味方になることもとても難しいことです。希薄な関係の中でぞんざいな取り扱いをされ、攻撃をされれば、物理的に不安や焦りが生まれてしまうのが人間です。

不安や焦りが全くない状態を求めることは、理論的に間違いであり、望んでも仕方がないことだと割り切ることが有効かもしれません。望むだけ不幸になることなのかもしれません。

だから、悩みや苦しみを意識的に一時中断をすることこそが人間として求めるべきことなのかもしれないと思います。自分の気晴らしだけでなく、できれば自分の身近な家族を気晴らししてあげる行為ができれば、それが人間としての幸せの形の一つなのだと思います。

肝心なことは意識してそれを行うことということだと思います。

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働くルールはなぜ必要か(中高生向け) 働き方改革は何を目指すべきか [労務管理・労働環境]


中学生向けに話をする必要に迫られて、例によって書きながら考えるわけです。
お題は「働くルールはなぜ必要か」。

先ず、働くルールということで、働き方に関する法律を見てみると、あらゆる方法で労働者保護を実現しようとしていることがわかります。労働基準法、労働安全衛生法、労働組合法、雇用保険法、労災保険法、最低賃金法等々。使用者だって保護されたいと思うのですが、それを目的とした法律はありません。ここで一言ずつ各法律の労働者保護の方法を説明しましょう。早口にならないように注意が必要でしょうね。

次に労働基準法の概要についてお話ししていきます。これ詳しく話すと長くなり、詰まんなくなりますから、資料を作成してそれを見てもらいながら概括的な構成を話すとはしても、理念と労働時間の定め方についてある程度詳しく話していこうと思います。

理念については、労働基準法を勉強した時は自然に頭に入ってきたのですが、労働条件を労使対等に決める(2条)なんて条文があって、現実にはどうかななどと考えていると理念にとどまるのかななんてことを不謹慎にも考えてしまいます。

賃金に関する男女平等(4条)や差別禁止(3条)も定められていて、これも勉強した時は「それはそうだな」と思っていたのですが、案外味わい深い条文であるように思えてきました。この条文の説明としては、労働者は「人間として扱われる権利がある」ということを言おうと思います。人間として扱われなければ、とても辛く、それだけで不幸になるということを法律を定めた戦後直後の国も考えていたのでしょう。このあたりも、死ななければよいという程度の法律ではないということがよくわかると思います。ちなみに5条は強制労働の禁止です。

理念をお話ししてから大事なところは労働時間についてです。あまり突っ込んだ解釈ではなく、なぜ労働時間を規制する必要があるかということを主としてお話ししていきます。

私が大学で労働基準法の講義を受けたのは松岡三郎先生でして、まさに労働基準法を官僚として作った方の一人なのです。私の大学は労働法の先生が多いのですが、わざわざ明治大学で教授をしていた松岡先生に労働基準法を講義するプログラムとしていただいたことはありがたいことでした。

労働時間の基本は週40時間、一日8時間を超えて働かせてはならないということです(32条)。36協定という例外がありますが、36協定もなく単純に違反をすると刑事罰の対象となるほど、厳しい規定となっています。なぜ、このような労働時間制限を国のルールとして定めたかについて、松岡先生は一言、「早死にさせないためだ」と説明されていました。

私が講義を受けたのは昭和の終わりであり、まだ過労死という言葉が普及してはいない時代です。ましてや、条文が作られた戦後直後に過労死という概念もありませんでした。それでも「働きすぎると早死にする。」ということは、国もそう考えていたということが興味深いです。

考えてみれば、実際に戦前でも過労死はありました。現在では、栄養状態が良くなり、医学も進歩していますから、くも膜下出血や心筋梗塞、あるいは自殺が過労死の原因の多い病名です。当時は、働く環境も悪く、栄養状態も悪いので、働きすぎで死ぬ病気は、結核や栄養失調だったわけです。「ああ野麦峠」や「女工哀史」の知識があれば、思い浮かぶ常識です。

それにもかかわらず、過重労働神話みたいなのがあって、「丁稚として修業して誰よりも早く起きて働く準備をはじめ、誰よりも遅くまで片付けや掃除をやって、ついに有名な職人になった、成功の秘訣はひたすら働くことだ」なんてことを言うバカもいるのです。何がバカかというと、そんなことは多くの丁稚たちがやっていた。でも多くの人たちは結核や栄養失調で亡くなってしまった。成功者はほんの一握りの人間だということを見落としているのでバカと言いました。

大体そういうことを言う人は、自分は勤勉に働かず、出世ばかりを目的に要領よく立ち振る舞ってそういうことを言う立場に上り詰めた人が多いのではないでしょうか。

時間があれば、過労死と労働時間の関係も説明したいのですが、ここは資料2でおおざっぱな認定基準を述べるしかできないと思います。

残業割増手当(37条)についても、松岡先生に言わせれば「早死にさせないためだ」とのことです。残業をさせると高くつくという意識を使用者に持たせて残業をさせないようにしたのだということでした。

そして有給休暇(39条)について説明をしたいと思っています。働いてもいないのに賃金を得ることができる制度があることは、とても興味深いことです。これわたしの司法試験の口述試験で上智大の山口先生から出題された論点でした。

過激派の人が違法闘争目的に有給申請をした場合に、使用者は有給休暇を認めて良いかという趣旨の問題でした。有給休暇は、目的の制限が無い休暇であるので、目的を聞くことはできない、何らかの理由で目的を知ったとしても、業務の運営に支障が出ないならば有給休暇を認めないことはできないと答えたのですが、山口先生は少し物足りない様子をされました。

後に恩師にその話をしたところ、使用者が有給休暇を認めるか否かの判断に公序良俗などの要素を考えなければならないとしたら、使用者に過度の負担、危険をかけることになるのではないかという意見をいただきました。30年たっても覚えているものですね。今は、とてもその回答のすばらしさを理解することができます。

まあ、そんな話は生徒さんにはしないのです。
有給休暇という目的制限なしの休みをとることができるという働くルールを労働基準法は持っているのだということを述べるわけです。そしてその理由としては、使用者の指揮命令に基づく組織的な労働をしていると、疎外が生まれる。だから人間性を回復するために労働現場から離脱することが認められているということが、教科書的な説明でしょうか。

労働基準法の人間観が垣間見られる味わい深い条文だと改めて思いました。私も労働者を雇用しているので、この有給休暇の消化をいかに促進するかということを考え実行をしています。複雑な気持ちで有休をとってもらうよう努力しているわけですが、休み明けにリフレッシュして働いてもらえるなら、考えようによっては安くついているのかもしれません。

そういった法律の外観をみたあとは、どうして労働者保護のルールが必要かということに移るわけですが、イデオロギー的な説明も可能なのですが、私はそのような説明には意味を感じないので、先ずは歴史的に保護のルールの無かったころの話をして、労働者が構造的には弱い立場であるということを教科書的にお話ししていこうと思っています。

そうして、労働者保護のルールを作ることの国家としてのメリット、必要性をお話しします。その中で、自分がその不幸な労働者ではなかったとしても、不幸な労働者を見ていると精神的に不安定になり、全体として殺伐とした社会になってしまうということを説明していきます。社会政策学で言われている、最良の刑事政策は社会政策であるということを、刑事弁護人の立場からもリアルに伝えられるでしょう。また、統計的に、完全失業率、自殺率、犯罪認知件数、離婚数、破産申立件数が連動しているということを平易に付け加えることができたら一緒に考える助けになるでしょう。

ミラーニューロンや防衛機制について、そんな言葉を一つも出さないでリアルな話ができると思います。

つまり人間はそういう動物だということが裏のテーマになります。

最後にわかっていながら、働かせすぎてしまう原因について、やはりイデオロギー抜きでの話をします。ここでは、企業体としても、一度に二方向のことを考えることが難しく、条件が重なるとますます働かせ方について配慮ができなくなるということをリアルに伝えていきます。これとは別にブラック企業への注意喚起は改めて必要かもしれません。

そして、実は労働者側も様々な理由から働くことにのめりこんでしまい、自分が働きすぎであることに気が付かず、家庭のことや自分の健康をかえりみないで働いてしまう要因があるということをお話しします。法律や通達のルールは、自分を守り家族を守るためのルールなのだということがキモになるでしょう。ここは、実際の過労死事件を多く担当し、どうしたら過労死しないで済んだのかを常に考えてきた結論のようなお話です。

ただ、だからと言って家族をないがしろに考えているわけではないということについては過労自死などの事例を挙げて伝えたいと思います。

なんのために働くか、人間は本当は何を考えて、何を大事にして行動するべきなのか。そもそも人間とは何なのか。これからもずうっと考えていただきたいと思います。

考えるためには、今身近にいる家族や同級生とどのようにかかわるかということを手掛かりにしてほしいということで、お話を終わる予定です。

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家庭では意識して要領の良さを追求しないことこそが要領の良いスタイルであること 家族は安心するために一緒に生活しているということ [家事]



先日、新幹線と在来線を乗り継いで離婚調停に代理人として出席してきました。離婚をするべきか、どうすればよかったか、これからどうするか等、調停委員の先生方も一緒になって考えるという理想的な家事調停が行われたと感じました。

さて、その事案も、真面目で責任感がありすぎる夫婦が、相手のことを思い、子どものことを気に掛けるあまり、無駄な衝突を繰り返しているという多くの離婚事件に共通の出来事があり、調停委員の先生を交えてその原因について検討し、対策を話し合いました。

常々私は、夫婦喧嘩の原因が、正義感、合理性を家庭の中に持ち込んで、厳密な公平を求めすぎるところにあるということを述べてきました。ここでは合理性の弊害がまな板の上に上がりました。

合理性というと少しわかりにくいのですが、要領の良さを相手に求めるというと少し思い当たることがあるのではないでしょうか。

例えば、洗濯物を干すときに乾かすためには洗濯物と洗濯物の間をあけなければならないとして相手が干した後で干しなおすとか、風呂掃除をしているときに洗剤をつけて1分そのままにしなければならないので、その間に夜間に水を入れてお湯を沸かし始めることができるのにボーっと風呂桶を見ているなとか、無駄を省けということを家族に言ってしまうということは無いでしょうか。

液体をこぼした時に新しいティッシュを使わないで広告紙を使えとか、落語の小言隠居みたいなことをつい言ってしまうことがあるようです。落語の世界ならばうるさい爺だと相手にしないしたたかな長屋の人たちの対応が笑いにかわります。しかし、言われた相手が、真面目で責任感があって、相手から愛想をつかされたくないと考えているとき悲劇が始まるようです。

言った者の言い分が正しいように感じますから、言われた方は反論できません。そうしなければいけないのだろうなと頭では考えてしまいます。相手から失望されたくないという無意識の願いは、自分が相手から否定されたという被害意識を感じやすくなっています。さらには、相手が疲れているから休ませてあげたいと思って、本来相手の当番の洗濯物を干すことを買って出たのに後から干しなおされたり、皿洗いを買って出たのに洗いなおされたりする場合、相手のことを思いやってやったことで喜ばれると思うのに逆に否定されるアクションを受けるわけですからカウンターとなり余計にダメージが大きくなるわけです。

このように要領の良さを追求した行為で、相手が不快になることは当たり前のことだと思います。相手方を不快にするデメリットを払ってまで追求しなくてはならない要領の良さというものはあるのでしょうか。洗濯物なんてよっぽど重ねなければそのうち乾くでしょうし、食器なんてなんなら食べる直前できれいにすれば足りることでしょう。どうしても気になるのであれば、相手に気が付かれないようにそっと治しておけばよいはずです。

どうしてそのように相手の気持ちを考えることをしないのでしょうか。

つまり、そこまで考えていなかった。

ということのようです。相手の気持ちを考えないで夢中になって合理性を追求しようとしてしまっているのでしょう。それでは、わずかなバイト料を得ようとして逮捕されるということまで考えていなかった闇バイトをすることや、視聴者数を増やそうとして損害賠償を受けることまで考えていなかった迷惑系動画を発信する人とあまり変わりないということは言いすぎでしょうか。

もう少し相手の気持ちを考えてみましょう。
要領の良い行動をするためには、常に物を考えて要領の悪い行動をしていないか、もっと要領の良い在り方があるのではないかと考えている必要があります。無意識でできるひと、考えることが楽しいという人は確かにいます。

しかし、相手は必ずしもそうではない。要領よくやる必要性を感じていなければ特に考えたりしません。家事や労働につかれている人は、そこまで余裕がなく、風呂掃除の洗剤を巻いてしばしば休息が必要な状態かもしれません。体調の問題もあるでしょう。また、一つ一つ完結させてから次の仕事をしたいと言う人もいると思います。

それにもかかわらず、一人の視点の要領の良さを押し付けられてしまうと、自分の視点では何をどう要領よくやればよいかわからなくなります。何をやっても要領が悪いと非難される危険もあるわけです。相手のやった行動を見て後付けで要領の良い方法に気が付くこともあるでしょう。

それにもかかわらず、いちいち非難されてしまうと、自分のやることすべてに自信が無くなり、相手が返ってくると何か言われるのではないかとびくびくして、常に相手の顔色を気にしている状態になる危険があるわけです。これだけでそういう気持ちにならないかもしれませんが、要領の良さの「指導の仕方」によっては、他の体調面の問題、他の人間関係での問題と相まって、家族であるはずの相手を嫌悪する要因の一つになりかねないようです。

では逆に合理性、要領の良さを犠牲にしてまで家族に気を使わなければならない理由があるのでしょうか。

あるというのが私の結論です。

そんなことに科学的裏付けは本来不要だと思うのですが、一つの考え方として読んでください。家庭では要領の良さを追求しないことが合理的だという理論的根拠です。

夜勤をされている方々には申し訳ないのですが、夜に寝て朝に起きて仕事に行って夕方ないし夜に帰ってくるという生活スタイルを前提にお話をします。

人間は、概日リズムというものが体内にあり、細胞レベルで、朝と夜を知る体内時計があるそうです。脳の仕組みも、明け方から夕方にかけては、活動する仕様になっていて、夕方から明け方にかけては休息をする仕様になっているそうです。活動する仕様というのは、交感神経が活性化し、緊張して集中し、諸活動をうまくこなすことに都合が良い状態になっているということです。これに対して、休息をする仕様というのは、昼間の緊張によって血管をはじめとして体の部分を酷使しているわけですから、休息をして心身のメンテナンスをする仕様になっているようです。

本来副交感神経が優位になって効果的に休息をする体の状態になっている時間帯に、緊張が連続して起きてしまうと、身体の様々な部分に不具合が起きてきてしまい、このような不自然な状態が極端に続くとメンテナンスができなくなり、過労死をしたり過労自死をしたりするわけです。

つまり、夕方から明け方にかけては、極力緊張をしない、させないということが長生きするためには要領が良いスタイルなのです。また、脳が休息モードになっていれば、細かい配慮などもできにくくなります。緊張をして要領の良さを追求すること自体が要領が悪いということになるでしょう。そうして、結果的にメンタルにおいて圧迫をし続けてしまうと相手はあなたと一緒にいることが苦痛になり、あなたという存在を嫌悪するようになってしまいます。

要領の良さを追求するだけでこのようなことになることはめったにないでしょう。妊娠・出産及びその後2年くらい、頭部外傷があった場合、ホルモン分泌異常やうつ病などの疾患がある場合、お子さんに障害がある場合、勤務先での人間関係の不具合、睡眠不足と相まって不安の原因を誰かに求めようとしてしまうようです。その時、休息を妨げて緊張を強制する相手が自分の唯一のストレッサーだと決めつけるということをよく見ています。

その結果別居になって二重に生活費がかかったり、財産分与で老後の計画が崩壊したりということは、洗濯物を干したり食器に汚れが遺ったりするよりもよほど要領の悪いことになってしまいます。

どうやら人間にとって家族とは、一日の活動を終えて同じ場所に帰ってくることによって自分も安心するし、相手も安心するという存在のようです。家族と合流することで安心を増幅して、心身の休息の効果を増大させるという役割があるようです。

本来の家族の役割は他の家族を安心させること、緊張から解放することにあると言えるのではないでしょうか。大いに安心してリラックスして休息して心身のメンテナンスを行い、明日の活動の体力、活力、集中力につながるのだと思います。

ところが、職場や学校などで、要領の良さや集中力を発揮しなくてはならないようにさせられてしまうと、ついそれがすべての人間関係で同じように行わなければならないと勘違いしてしまうのでしょう。余計なものを家庭の中につい持ち込んでしまうようです。

だから、家庭の中では細かいことは言わないし、相手の行動を否定する言動をしない。すべてを大目に見て家族でいることに安心してもらう。これを意識的に行う必要が現代日本では必要であるようです。

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