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コロナ警察、帰省警察の心理。過剰不安を否定してしまっては、解決から遠ざかる。 [災害等]

やめろと言われているのに夜中に飲み歩いて
自分がコロナに感染するだけでなく
感染を知らずに、他人に感染させるなんてことになると
誰が感染させたとかどこで感染が起きたか
ということが気になるのは致し方ないかもしれません。

一番は、その人の立ち寄ったところに立ち寄りたくない
という気持ちから行動を知りたい
ということはむしろ一般的かもしれません。

だんだんこれが高じてきてしまうと、
感染をしなくても
新幹線や飛行機を使って旅行するだけで、
非難の目が向けられて行って、

帰省をしただけで、
早く帰れなどのビラが投げ込まれるという
帰省警察なんていう行動も
報道されるようになってきました。

ここまで行くと
正義もだいぶ歪んでしまっていると
感じてしまうところです。
もっとも
元々私は正義というのは
他者を攻撃するための口実だと思っているのですが。

実は、これらの強迫神経症的な
決まりごとの順守圧力は
二つの共通の要因があります。

一つは、決めごとを守ることによって
安心を得ている人が
守らない人に対して脅威を感じるというパターン。

もう一つは、自分決めごとを守って不自由な思いをしているのに、
それを守らないで、一人だけ得をしている
つまり自分だけ真面目に守って馬鹿を見て損をしている
という意識です。

コロナはどうやって感染するか目に見えませんから
やみくもに怖がってしまう典型的なできごとです。

自分が感染するという恐怖だけではなく
自分の家族の高齢者や小さな子供が感染したらと思うと
それはこわいでしょう。
なんとか大丈夫だと安心したいのは人情です。

しかし、感染は見えない。

そこで、言われたことを守ることによって
安心感を得たいと思うわけです。
三密をさけ
うがい手洗いをする。
不要不急の外出はしない。

このためにしたいこともしない。
しかし、自分と家族を守るために我慢するわけです。

不自由感、拘束感が生まれますが
これがいつまで続くかわからないという閉塞感も生まれるわけです。

最初は、比較的科学的に
予防策をとっているわけです。
なるほどこういうことをすれば感染のリスクは下がるのねと。

ところが、次第に、いちいち理由を考えないで
ルーチンワークになっていくにつれて
元々の理由なんてどうでもよくなっていきます。
それをすることで感染をよける
儀式的な行動みたいな、おまじないみたいな感覚になるわけです。

理由があってやっていることが
やらないと災いが起きるかのような圧迫感を持つようになるわけです。

そうすると自分が不自由ながら決まり事を守っていても、
それを守らない人がいると

相手は好き勝手やって自由に行動しているので
「ずるい」
という感覚になるようです。

こちらが我慢しているのに自分だけ得をしてずるいという感覚が
倫理や道徳の始まりなのかもしれません。

しかし、実際は何も禁じられているわけではないから
法律やルールに反した行動をしているわけではありません。
コロナ警察の方々が
勝手に法律やルールを作っているということが実態でしょう。
それは、それを守ることによって自分を守る
という素朴なルール意識ということになります。

そのルールに依存すればするほど
逸脱者には厳しくなります。
自分が正義であり、
相手が反社会的な行動だということを
疑うきっかけは何もありません。

そうすると、
非難ビラの投げ込みなども
正義を分からせるためのごく正当な行為であり
親切な行為であるとすら感じているかもしれません。

心配なのです。

こういう場合の適切な対処方法は、
心配いらないことを教えてあげることでしょう。

鉄道を使わないできましたよとか
熱をこまめに測っていますよとか
きちんと手洗いをしていますよとか
だから心配しなくても大丈夫ですよ。
ということを教えてあげる。
外に出るとき(その人から見えるとき)は手袋をするとか。

ただ、理屈の上ではそうなのですが、
これを喧嘩腰にやってしまうと
また別のややこしい問題が出てきてしまいますので
注意が必要です。

帰省してだめなことはないのですが、
そうやって過剰に心配していることも事実なので、
一概に否定するよりは
心配をかけない方法を工夫する必要があるのではないかと
私は思います。

そのコロナ警察の人に
過剰な心配をするなということは無理であり、
過剰な心配をする方が悪いということも
なかなか言えないことではないかとも思うのです。

特に高齢で何らかの疾患を抱えている人は
みんな心配しているし
少しでも感染リスクを下げたいと思っていることは
過剰な心配だと言って非難することはできないと思います。

法律で禁止されたことをやっていない
という開き直りは、その後をややこしくします。


問題は、
自分が知らず知らずのうちに
コロナ警察になっていないかということです。

隣の家に帰省者がいたとしても
隣の家に近づかなければコロナは感染しないように
自分がルールだと思っていることを他者が破っても
それだけではコロナに感染しないという
科学的な知識をしっかり持つ
ということだと思います。


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仲間の一番弱者のために戦うという意識。第2波新型コロナウイルスに対する反応から見えてきたもの やみくもな不安から脱却して、合理的な予防をするために [災害等]



感染者数は、第1波の最高値を超えて過去最高の更新が続いています。
第1波の時には芸能人が亡くなったり、重症化したりと
やみくもに恐怖が先行していましたが、
第2波となり少し様変わりしてきたようです。
何をどのように心配して、どういう行動をとるべきか
だんだん見えてきたような気がします。

第2波の特徴は、
第1波のころの具体的な恐怖心
(自分も苦しんで死ぬかもしれない)が後退し、
数字が多くなってきたから抽象的に怖いとか
言葉のごまかしで、心配しなくていいとか、
あおりとまやかしに左右されやすくなっている
というところが強くなっているようです。

やみくもに不安になっていて、
些細な刺激で、自然に不安を感じてしまい、
根拠の有無を吟味しないで助けにすがろうとする
そう言う社会心理状態であるように感じます。

こういう場合第一にやるべきことは
言葉の意味を正確に理解することです。

言葉の誤用としては、
PCR陽性反応は感染者ではないという間違いです。

ウイルスなどの「感染」という言葉は、
ウイルスなどが体内に入り、体内で「増殖」することを言います。

どうやって感染、つまりウイルスの体内増殖を検査するかというと、
ウイルスの特徴を利用して検査をします。
ウイルスは細胞を持ちません。その意味で生物と言えないかもしれません。
いわばむき出しの遺伝子
みたいな状態で存在します。

生物である細胞は
細胞内のDNAという遺伝子を転写(コピー)したRNAを作り、
細胞分裂をして細胞を増やしていきます。

ウイルスによっても違うのですが
新型コロナウイルスはもともとはこのDNAしかありません。
増殖する場合は
人間の細胞を支配して、支配した細胞にRNAというコピーを作らせ、
増殖をするわけです。
これが感染です。

つまり体内に新型コロナウイルスのRNAが確認できれば
「新型コロナウイルスに感染した」ということになります。
これを検査するのがPCR検査です。
PCR検査ではRNAの有無を検査するそうです。

ですからPCR検査で陽性であれば
コロナウイルスが体内で増殖したのだから
「新型コロナウイルスに感染している」
ということになります。

ウイルスではなく、細菌の場合は事情が違うようです。
細菌の有無もPCR検査で調べますが、
細菌は、生物ですから細胞があり、
RNAもDNAも両方をもともと持っています。
RNAの存在を確認しても増殖と言えず
感染したとは言わない場合もあるかもしれません。
大事なことは細菌とウイルスは全く別物だということです。

さて、感染をしても症状が出ない場合もあることは
報道されているとおりです。
体内の異物追放能力等によって
症状が出ないでウイルスが体内から消滅する場合もあるのでしょう。

この場合は感染をしたけれど発症しなかったということになります。
発症とは症状が出現したことを言います。
発症しなければ重篤化することもないので、
重症化して死ぬこともありません。

しかし、感染をしている場合、
体内に増殖したウイルスがあるわけで、
それを唾などとともに他人につけて
他人を感染させる危険はあるわけです。

自分は発症しなかった場合でも
他人に感染させて、他人を発症させる危険はあるわけです。

このために、発症をしていなくとも
感染者を隔離して新たな感染を防ぐことが必要となります。
また、感染者はいつ発症してもおかしくないので
症状を管理して、重症化を防いだり
重症化したらすぐに手当てをして
最悪の事態を防ぐことが必要となります。

この意味でPCR検査は必要だと私は思うのです。

隔離して病状を管理するためには
病院やホテルなどの施設が必要となります。

感染者があまりに多すぎると、
どこも満杯となり、入る施設がなくなってしまいます。
自宅待機ということになると
外出をして新たな感染者を出したり、
気が付かないうちに重篤化していて
手遅れとなってしまう事態も招きかねません。

だからやはり感染者数の推移は見守る必要があると私は思います。

感染者の中での発症割合や重症化割合は下がっているようです。

ここにどのような原因があるのかはよくわかりません。

一方で、一定割合で発症者も重症者も出ていることも確かです。
特に代謝の落ちた高齢者や、特定の持病を抱えた人が
感染して発症をすれば重症化する危険を考えなくてはなりません。

また、第2波の新規感染者数は
8月に入ってからは伸び方の勢いが増してきて、
爆発的な増加をする可能性も示しています。
そうすると、自宅待機の割合が増加してしまい
野放しに近い状態が生まれるかもしれません。
今絶対数で少ない重症者が
爆発的に増える危険もあるわけです。

確かに一部の論者の言う通り
あまり心配しすぎて無駄な不安をあおるということは
デメリットが大きいのかもしれません。
しかし、何らかの別の目的で、無責任に
不安を持つなと言っているのだとしたら
取り返しのつかないことになるでしょう。

もしかすると健康な若者は
自分が感染して死亡するという意味での
心配をする必要はないのかもしれません。

ここで、我々は理性を働かせる必要があると思います。

自分が感染することを恐れるというよりも、
高齢者や持病のある方に感染させて、発症させない
という意識を持つことが
結局自分たちのメンタルにも有益なような気がします。

恐れて逃げるのではなく
誰かのために戦うという意識です。

コロナ弱者のために社会が防衛する
その防衛チームの一員であることを一人一人が自覚して
行動する。
社会(国)がそのための必要な費用を負担する
そうして、早期にコロナを克服して
経済活動を再生していく。

目先の経済活動を優先して
コロナが蔓延して収拾がつかなくなり
致命的な経済破綻を回避するという意識です。

こういう意識を持つことで、
自分を含めた日本社会の状態を見ることができ、
無駄な不安におびえることが亡くなるのだろうと思います。

第2波コロナから見えてきたことは
我々はつながっているということです。
名前も知らない人、顔も思い出せない人とも
感染する可能性があるということでは
共通の利益を持っている仲間です。

道ですれ違う人
交通機関に乗り合わせた人
店の中で出会う人
好むと好まざるとにかかわらず、
運命を共有する仲間だということを理解して
仲間の一番弱い人のために戦う
ということを意識して取り組めば
理性的に、有効に、合理的に
第2波コロナを乗り切りやすくなるのではないかと
感じたところでありました。

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授業再開、事業再開は、メンタルリスクと自死リスクが予想以上に高まる時 子どもだけでなく大人も気を付けるべき。簡単な対策。 [災害等]



これまで、長期休み明けの子どもの自死について何度か考えてきました。
整理します。

通常時も、学校などの人間関係の中で
生徒、教師、あるいは学習を通じての社会など
自分の居場所を危うくするストレスは日々起きていた。

全てをきれいに解決することは無理だから
ストレスを蓄積させることにはなるけれど
無理な目標を修正したり、課題を先延ばししたりしながら
何とかすり抜けてきた。

ところが、長期休みになると
ストレスや課題、他者からの評価から解放されるため
すり抜けてきた実績であるところの
「何とかなる」
という記憶が欠落してしまう。

そのため、課題やストレスの記憶だけがよみがえってしまい
解決不能な課題が待っているという誤解を与えさせて
久しぶりの人間関係にはいることが怖く、
逃げたいという意識が強くなる。

こういうことでした。

他者との関係が、時間的に空いてしまうことによって
その他者が自分に対して危害を加える場面だけが記憶に残り、
解決不能を意識してしまうということですね。

「記憶する」ということは、
過去の危険の発生するポイントや程度を意識して
将来の危険を回避することに主たる目的がある動物の仕組みです。
このため危険の部分だけの記憶が残りやすい
という理由があることでした。

「動物として生きる」ということは、
「危険を回避する行動をする」ということだという考えにもとづいています。

間隔があいてしまうと
その人間とのやり取りが
マイナス面ばかり思い出しておっくうになるということは
通常のあらゆる人間関係において起きうることです。

家族であっても、長期間交流がなければ
一緒に過ごした生活があれば当然ありうる
叱られたりけんかしたりという不愉快な記憶
そればかりが浮かんで来やすいわけです。

この記憶のメカニズムに加えて、新型コロナウイルスなどの災害は、
十分に心が癒えていないうちに日常に引き戻されるという事情がつきものです。

これをもう少し具体的に説明すると、
人間の心、興味関心というのは、
複数のことを同時に行うことに適していません。
例えば感染をしないように注意しようということになれば
感染予防に意識が集中しています。
感染予防のために仕事や学校が休みになっていればなおさらです。

数字の上で新たな感染者数が減少したからと言って
本当に感染の危険がないかなどということは
目に見えませんから安心を感じにくいわけです。

心は感染予防に向いている。
しかし、事業や授業が再開され、日常に戻らなくてはならない。
では感染予防はどうなるのか
自分の感染予防の意識が置き去りにされてしまう感じがします。
これは、ある程度災害にはつきものなのでやむを得ないことです。
なぜなら人間は
そう簡単に気持ちを切り替えることのできる動物ではありません。
気持ちの切り替えを待っていたら日常は戻りません。

自分の気持ちとは別に日常が始まりますので
自分の心配が否定されたという意識を持ちやすくなり
社会から自分が尊重されていないという意識が起きやすくなるのです。
置き去りにされた感覚が生まれてしまい、
孤立を感じる場合もでてきます。

大人でもそうですから
子どもが誰かに甘えたくなることはもっともです。

通常は、出勤や登校をしてしまいさえすれば
記憶は簡単によみがえりますから
少ししんどさは残るものの
また日常に復帰していけるのです。

ところが、出勤や登校をする前は、
大きすぎる課題やトラブルの予感だけが生じている場合があります。
特に、いじめやハラスメント、過大なノルマがある場合には、
どうしても出勤や登校ができない場合も出てくるでしょう。

この予防法があります。

できれば、事前に学校や会社に短時間だけ行ってみるということです。

誰もいませんので対人関係的困難は生まれません。
それほど抵抗なく行けるでしょう。

対人関係的困難は生まれませんが
この場所で何とかうまくやっていたということは
思い出すことができるようです。

それも記憶の仕組みと関連します。
記憶というのは、
過去の出来事の追体験です。
過去の出来事の時に起きた人間の脳と体の反応が
レプリカとして再現されることが思い出すということのようです。

危険の記憶は、
生きるために必要な仕組みですから
簡単によみがえるようにできているので
きっかけの必要がなく自然に思い出します。

安全の記憶はこうはいきません。
安全の記憶につながる記憶が薄れてしまっているからです。
おそらく高度な記憶なので保持が難しいのでしょう。
そうすると、安心の記憶をよみがえらせる補助が必要なわけです。

自分が過ごしていた教室や職場を見ると
それが記憶を喚起させる補助となり、
追体験の材料が整って
リアルな記憶がよみがえってくるわけです。

そうすると、あれほど何か悪いことが起きると心配していたけれど
それほど悪く考える必要がなかったということに思い当たったり
完璧ではないけれど何とかしていたという記憶がよみがえったりして
悲観的部分が薄れ、安心の記憶が強くなる
どうやらこういう仕組みのようです。

安心の記憶とは言葉による記憶ではなく
安心というイメージの記憶のようです。
だからいくら言葉で説得されても
怖いという意識が強い状態の場合は
なかなか安心感を持つことが難しいようです。

でもなんとやり抜いていたという場所をリアルに認識することで
やり抜いていた安心感のイメージもよみがえるようです。

なんとなくそれほど心配することもないか
ということを実感できれば大成功ではないでしょうか。

警備の関係で、部屋の中まで入れないとしても
玄関口まで、あるいは通学路、通勤路をたどる中で
記憶の補助が成立して、
不安が、軽くなればよいのです。

子どもだけでなく、大人も
一応ね
プレ登校、プレ出勤をしてみることをお勧めします。
実は私もやることがあるのです。

また、休み明けの日常は
大人も子どももしんどいのですから
後ろ向きの言葉や自分の心も
先ずは受け止めてから行動提起をしてあげてくださるよう
私からもお願いする次第です。


なお、それでもどうしても行きたくない場合があります。
原因がある場合もない場合もあるのですが、
パワハラやいじめにあっている場合で
本人がそれにはっきり気が付いていないけれど
とても平気でそこで過ごすことができないという事情がある場合
体がその場所に行くことをやめさせるように
動かなくさせる場合があります。

どうしても行きたくない場合は
心理の専門家や
いじめやパワハラを手掛けて予防活動をしている弁護士などに
相談に行ってください。
「行く必要はありません。やめてしまった方がよいです。」
と言われる場合もあります。

あなたを大切に考えていても
そう言えない場合もあります。

できればあなたを大切に考えている人と一緒に
相談に行ってください。

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コロナ差別が起きる理由 不安が大きいほど攻撃的になる構造 [災害等]

実感がない人も多数いると思いますが、
一部でコロナに関する差別行為が起きているようです。

医療従事者やその家族に対する攻撃
家族に看護師がいる場合、看護師をやめさせなければ
解雇するということがあったとの報道がありました。

また、コロナ感染者が県をまたいでの移動をしたことに対して
ネットで猛攻撃がなされているということもあるようです。

石を投げたり、家に落書きをしたりということになれば
犯罪です。

なぜ、このような差別行為がおきるのか
差別行為の原動力となる差別感情が生まれるのか
そのことについて説明し、
対処方法を考えてみたいと思います。

差別者の意識は、
「自分は、社会的に正しい行為をしている。
 社会道徳にもとづいて正義を実現している。」
ということが通常です。

もう少し具体的に言うと
「他人にコロナウイルスを感染させる行為をする人間から
 自分たちを守ることは正義の行いだ。」
となると思います。

ちょっと考えればわかることですが、
医療従事者だって、やりがいをもって張り切っている人ばかりではなく、
自分が感染するのではないか、家族に自分が感染させるのではないか
という具体的恐怖をもって職務を行っている人が多いはずです。

医療に携わるのをやめろということは
端的に医療崩壊につながるだけのことです。

差別者は、差別感情をあらわにすることに夢中で
自分の行為が将来的にどのような効果を生むか考えられていません。
また言われた方の感情も考えていません。
少しでも複雑なことになると、それを考えられないのです。
典型的な、高葛藤の持続による思考能力の低下が起きている状態です。

葛藤とは何かを乱暴に言えば、
「自分に何らかの危険が迫っているので、
 その危険から解放されて安全な状態にしたい」
という不安解消要求が起きているということです。
この不安を感じている時間が無くなり、
不安を解消する手段がない場合は
不安解消要求は高まっていき
思考能力の低下が起きていくわけです。

差別者は、何らかの危険が自分に迫っている
ということを感じているわけです。

その危険とは、もちろん
主としてコロナ感染の危険です。
コロナに感染して、自分や自分の家族が死ぬかもしれない
という危険を感じている上、
目に見えないウイルスのため
何時、どうやって感染するかわからない
だから、どうやって防げばよいかわからない
という焦燥感が持続した状態になってしまいます。

そうすると複雑な思考が停止し、
逃げろ逃げろとか
危険を攻撃してつぶせ
という感覚的行動が優位になっていくのです。
(これは人間が生きるための仕組みなので
起きること自体はやむを得ないところがあります。
問題は、それを理性でどうコントロールするか
ということが実践的な対策だと思います。)

逃げることは不可能だとするならば逃げるという選択肢は持てないので
危険を攻撃してつぶせという行動に出やすくなります。

この攻撃行動は、不合理な行動になることも少なくありません。
何を攻撃すれば効果的かなどという思考はありません。
勝てそうな相手を攻撃しようとする行動になることが多いのです。
いわゆる八つ当たりです。
虐待行為やハラスメント行為のほとんどがこの八つ当たりです。

勝てそうな相手とは、自分が反撃されないだろう相手です。
ネットは不安解消行動にはうってつけのツールになってしまいます。
また勝てそうな相手とは孤立している相手です。
集団で少数を攻撃する理由がここにあります。
そうして、現実には孤立していなくても
自分には賛同者がいるという意識
即ち、自分は社会の利益を代表しているという意識が
攻撃行動を後押ししてしまいます。

クレーマーの大多数は
このような社会代表の意識があるようです。

このような正義の意識は、葛藤が強く持続して起きているので、
そもそも正当な相手を攻撃することはありません。
勝てそうな、周囲も賛同してくれるような相手の攻撃になっているだけです。
差別という単純な論理で攻撃をするだけです。
この単純な論理であることから
同じような不安を持続させている人たちの賛同を呼びやすいのです。
「論理」ではなく、攻撃の「口実」と言う方が正確な表現かもしれません。

命とか、健康とか
特に家族や仲間の命、健康が口実になると
攻撃は激しさを増していきます。
正義に基づく攻撃の程度は
相手の違法、不道徳の度合いではなく
不安が大きければ大きくなるほど強くなるわけです。

また、自粛という行動制限がある場合
自分がそれを守っているのに
それを守らない人がいるというだけで
自分だけ損をしたような気持になり、
正義を掲げて攻撃をしたくなるという側面もあるようです。
この場合、自分が不自由な思いをする程度が大きいほど、
攻撃の程度が大きくなるようです。

戦時下の隣組の正義なんてこんなものではないかと思っています。

対応策として、既に行われていて感心するのは
医療従事者に対する感謝のキャンペーンです。

「差別をやめろ」と言ったところで、
差別者は自分は正義を実践しているという意識ですから
心に響きません。
心どころか耳まで入ってこないかもしれません。

差別をやめるのではなく
感謝をしようとする行動提起は
大変実践的だと思い、感心しています。

楽天の松井投手が、医療関係者にマスクを寄贈したというニュース等を
どんどん報道するべきだと思います。
差別やめろキャンペーンよりも感謝キャンペーンの方が
効果が上がるというのはこういう理屈です。

公共広告機構も素晴らしいと思います。

攻撃をしても不安は攻撃をしているその時だけ感じませんが、
ふと我に返ると、あるいは攻撃の同調者がいることを感じると
益々不安が強くなるという関係にありそうです。

攻撃よりも感謝
攻撃よりも協力
攻撃よりも受容
例えば家族をいたわるとか
同僚を気遣うとか
そちらの対人関係的な不安を軽減させることによって
自分が仲間に貢献することによって
不安を解消していくことが合理的なのだと思います。

簡単に言うとコロナ感染の生命身体の不安を
対人関係に不安がないから安心しようということにすり替えて
軽減させていくという作戦です。
これは仲間のために頑張ってしまうという
人間の性質を利用するものです。
結構いろいろなところで実践されている不安解消行動です。

軽減が一時的なものだとしても
対人関係の円満な記憶は
プラスの余韻を与えるものです。

良好な人間関係が形成されることによって
仲間に貢献しようという意識が生まれれば
不安はさらに減少していきます。

ややこしいのはカウンターという行為です。
差別者を攻撃するという行動です。
これ自体は差別された人を勇気づけるという側面もあるのですが、
問題を大きくする側面もあるので
なかなか難しい問題があります。

できる限り、感謝と協力と受容で
つまり差別者の不安をも承認しながら
(不安はわかるけど、それを言っちゃあおしまいよとか)
差別を解消することが実務的なのではないかと
コロナ差別に関してはそう思っています。

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震災の時に絆を強めた夫婦と離婚に至った夫婦の分かれ道 とにかく一番近くにいること [災害等]

東日本大震災の後離婚案件が増えました。
統計的なことはわからないのですが、
弁護士同士の会話の中で出た実感みたいなものです。
面会交流事件も増えましたが、
これは震災の前から増えだしていましたので
震災だけが原因ではありません。

震災後の離婚事件では
何かしら震災の影響がありました。

震災直後の離婚では、
夫が自宅におらず、別のところに行っていた
ということから一気に離婚の意思が固くなる
ということがありました。

例えば実家とか
例えば、被災した友人のところとか

つまり、交通機関の途絶で帰れなかったとか
公務員なので被災者の生活を支援していた
というのではないのに、
家にいなかったというものです。

それなりの事情はあるようなのですが、
一番困っている時
一番誰かが近くにいてほしい時に
いないというのは、やはり心が離れる原因になるようです。

この反対に
別居をしていた夫婦で、
妻の別居先に尋ねて行って
水や食料等を運んだ夫は
離婚は避けられませんでしたが
子どもとの面会というか交流が正常に行われるようになった。
という事例もあります。

それでもうまくいかなかった事例もあります。

コロナの不安は、長期戦になる可能性も強くあるでしょう。
せめて、家に帰ったときは
ほっとする時間になるようにしないと
離婚が増え
親に会えない子どもが増えてしまいます。

先ずは一緒にいること
(一緒に入れない場合は、電話やメールで連絡を取り合うこと)
そして、相手の否定評価と指図だけにならない会話をすること
つまり意味のない会話をすること(これは社会人は苦手なのだけど)
なお、衝突することはあるのですが、
問題はそれを引きずらないで
まあいいかと新しいページをめくること
ということになると思います。
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解消しようのない不安の解消方法 誰かのために行動すること コロナ疲れの影響を最小限にするために 東日本大震災の教訓 [災害等]


象徴的なのは、平成23年のプロ野球の開幕の際に
嶋基弘捕手がしたスピーチです。
「誰かのために戦うものは強い」

これは、被災地では感動をもって指示されたスピーチでした。

野球選手だけでなく
一般の地方公務員の方々も
自分や自分の家族の生活をなげうって
震災復興に不眠不休の活動をされていました。

でも、彼ら、彼女らも被災者でした。
住民からの気遣いの言葉があれば
号泣してしまうほどの悲惨な体験をしたり
小さな子どもを家族に預けて活動していました。

一般のお父さん、お母さんも
ライフラインの途絶の下で
今度いつ食料が入るかわからないため、
今ある食糧を子どもたちに優先に食べさせていたので、
だいたいは2,3kgはやせたでしょうか。

その直後、福島第1原子力発電所の爆発がありました。
放射能の恐怖は、目に見えないこともあって
言い知れぬ恐怖を覚え、
色々なことに敏感になりました。

まじめに考えれば
チェルノブイリとの比較で語られるほど
大惨事として、人体への影響の恐怖が沸き起こります。

被災地全体に閉塞感が生まれていきました。

それでも私たちがたくましく生き抜いたのは、
一時しのぎを大切に活用したことと
我が子のために頑張るという行動でした。

自分一人であれば、あれもこれも不安の材料となってしまい
正常ではいられなかったかもしれません。

自分を捨てて家族のために頑張るということは
不安や恐怖が感じにくくなったという体験をしました。
平成23年4月7日の大地震の時もそうでした。
二度目の大地震のために今度こそマンションが崩壊するのではないか
ということまで感じましたが
自分が盾になって家族のダメージを少しでも軽くしようとしたときは
自分の命が無くなるという恐怖は感じていませんでした。
瞬時にとてつもないハイ状態になっていました。

今回、コロナウイルスがどこまで拡散するのかわからない状況です。
季節的なのどの痛みや咳の症状が出ても
コロナではないか、コロナと疑われるのではないかなど
心配の種は尽きません。

今回は自分を捨てて家族を守るという
直接のシーンはないでしょう。
家族がコロナウイルスにり患したら家族も罹患するリスクが高くなります。

しかし、家族を安心させよう
一時的にでも家族を楽しませよう
あるいは、余計な不安を与えないようにニコニコしていよう等
家族のためにできることはたくさんありそうです。

特に人間は、不安を覚えると
それを解消したいという不安解消要求が起きて
不安解消行動に出ます。

不安解消行動が見つからないと
不安解消要求だけが大きくなり、
悲観的な考え方が増えたり、過敏になったりします。

逆に、余計な心配を与えず
家族を尊重している、
家族の不安を否定しないで受け止める
ということを行い、
少しでもニコニコして暮らせるよう奮闘することは
コロナ疲れを生まないために極めて有効だと思います。

できるだけ家族の感情などを受け入れて
そうだねと言えると良いと思います。

精神的には結構きついところもあると思いますが
これができるようになれば
コロナがなかった場合よりも
家族はあなたといることが楽になるでしょう。
そしてあなたのまねをするようになると思うのです。

コロナを利用して家族のきずなを深めようではありませんか。

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コロナ疲れから家族のメンタルを守る。一時しのぎが貴重な時間であることが東日本大震災の教訓 [災害等]

ついに非常事態宣言が出ました。
不安が募ることは仕方がないことです。

しかし、ただ不安を継続していると
それは自分や自分の周囲にダメージを与え続けるだけで
いわば二次災害とでもいうような
マイナススパイラルに陥ってしまいます。

不安になってもならなくても結果が同じならば、
一次不安を中断した方が得だということもありそうです。
強い不安が継続してしまうと
人間はものを考える力が著しく衰退してしまい
思わず不合理なことをしてしまう原因にもなりますので、
かえって危険になる場合もあります。

また、自分が不安に感じているとか、焦っているとかということは
自分では自覚できないということもあります。

これからお話しすることは
とりあえず試してみて損はないと思います。

状況が似ているところもあれば
違うところもあるのですが、
東日本大震災の時も
地震と津波の外に原発事故の放射能問題という
目に見えない恐怖、不安があり、
被災地には閉塞感がありました。
さらに加えて自粛ムードがそれに拍車をかけた側面があるのです。

例えば芸能人のイベントとか
例えばプロスポーツなどによって
一時的に不安を忘れたことが
とても心強く、
希望と意欲を与えてくれたと思っています。

一時しのぎは、とても大切なことだというのが
教訓でした。

さて、どうやって不安を一時中断するかということですが、
これは人間の脳の特性を利用するのです。

人間の脳は、同時に複数のことを考えられない
という特性があるようです。
「私は同時に考えることができる」という人の多くは
実は、時間差で細かく分断して考えているようです。

そうすると案外不安を一時忘れることは簡単で、
別のことに夢中になることで
脳から不安を感じる力を奪えば良いということになりそうです。

東日本大震災の原発事故の時と違うのは
みんなが集まって何かをすることができないということです。
いわゆる3密を避けてできることを
家族で行うということが良いと思います。

映画、DVDなんかはお勧めで
インターネット回線でも観る事ができます。
将棋やゲームなんかもよいでしょうね。
家族で何人かでそれをするということが有効だと思うのです。

料理やお茶会などもよいでしょう。

面白くなかったら、みんなでそれで笑いながらがっかりする。
というのも楽しい思い出になるでしょう。

一日中一緒にいるならばせめて2時間くらい
そういうみんなで何かをする時間を作ることで
結構不安を中断させることができると思います。

家族のために何かをする
家族の不安解消のために何かをする
これが大事です。

自分一人の場合は、不安に押しつぶされそうになっていても
家族の不安を一時的でも解消してあげたいと思うと
人間は強くなることができるようです。

どうやら人間は、
自分を守るときよりも、
仲間を守ろうとするときの方が
強くなっていることが多いようだということも
東日本大震災の教訓です。

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新型コロナウイルスに乗じて家庭破壊が行われる。DVの原理と思い込みDV(虚偽、誇張DV)の原理は根は一つ。家庭を守り、子どもを守るためのやさしさモードのスイッチとは。 [災害等]



ついに国連の職員まで、外出自粛に伴うDV増加を言いだしました。
そのような統計的裏付けもなく、単なる思い込みの声明のようです。
そして、この女性保護名目の動きの行き着く先は、
多くの家庭を分離、崩壊させてしまだけのことになりかねません。
この場合の一番の被害者は親から引き離される子どもたちです。
私たちは自分の家庭を守り、
子どもたちが両親から愛される権利を守らなければなりません。

実は、DV相談の少なくない割合が、実際はDVがなかったり
程度が全然違ったりする思い込みDVのケースです。
確かに新型コロナウイルスをめぐる社会は
DVが起きやすくなりかねない条件があるのですが、
同時に思い込みDVの訴えが起こりやすい条件でもあるのです。

人間の日常の行動や感情は、必ずしも合理的ではなく、
罪のない相手を攻撃する結果になることを
なかなか防ぐことはできません。
しかし、DVや思い込みDVの起きやすくなる原理を理解すれば
対策を立てることができます。
一つの考えを述べさせていただきたいと思います。

1 DVの原理と新型コロナウイルス情勢

私の研究からすると、DVは、分離不安から起きます。
いつまでも相手と一緒にいたいのだけれど
相手から自分が低評価されているのではないかという不安が起き、
相手を引き留めておくために、
相手を否定し、自分のもとを離れたら外に行くところがない
ということを印象付けようとする場合、

そこまで考えなしに行うDVとしては、
自分に対する否定評価は間違っているという苛立ち、
あるいは自分の自信がないために無理やり相手を従わせようとする
相手が自分のもとを去らないことの確認が欲しい
ということから服従を求めてしまう
と言ったような分離不安が根元にあることが多いようです。

強がって、偉ぶっている人ほど自分に自信をもっていません。
自信がないから虚勢を張るわけです。
群を率いる雄ライオンなんかは
たてがみは立派ですが、
通常はボーっとしているではないですか。

つまり怒りや苛立ちは
合理的理由がある行動ではなく
不安を解消しようとする悪あがきであり、
通常は逆効果になるわけです。

このような分離不安は、
対人関係の不具合をきっかけにして起きることがありますが、
他の要因で何らかの不安を感じていると
不安を感じやすくなる状態になってしまっていることが多いようです。
過敏になっているため、通常は不安を感じないことに対しても
何か危険があるのではないかと不安になりやすいということです。

例えば、職場の近くで発砲事件があったとします。
犯人も捕まって平穏が戻ったはずなのですが、
夜遅く、仕事帰りに職場から出ようとした瞬間
花火が鳴ったりしたら、
いつもなら「大花火か見てみよう」なんて暢気に構えているのに
「また、発砲事件なのではないか」と
外に出ることが怖くなるということは想像できると思います。

他の不安によって、危険を感じやすくなって
ありもしない危険に対応しようと脳は身構えてしまうのです。

新型コロナウイルスも私たちに大きな不安を与えています。
感染して肺炎になると死ぬかもしれない
職場が閉鎖されて仕事がなくなるかもしれない
不況になって生活が困るかもしれない
あちこちに患者があふれて死者が急増するかもしれない
そもそも自分だけマスクが買えない

不安の種は、山ほどあります。

私たちは相当過敏になっているはずです。

人間は不安を覚えると、
不安を無くしたいという要求が自然にわいてきます。
そうして、不安の原因から逃げる行動をしたり、
不安の原因を除去すべく戦う行動をとったりして生き続けようとするわけです。
しかし、不安の原因が逃げても戦っても除去できない場合
不安を解消したいという要求だけが強くなっていきます。

そうすると、何でも良いから不安を解消したいということで、
誰かを攻撃してでも不安を解消してしまうようです。
八つ当たりとはこういうふうに生まれます。

怒りは、何らかの不安があり、
自分が勝てると思った相手に向かう性質があり、
不安の原因に向けられることはあまりないようです。

自分より弱いと思っている女性や子どもに怒りが向かう危険がある。
これが、DVが増える要因として考えなければならない理由です。
同じ原理は、女性から子どもの虐待の場合もいえるでしょう。
子どもから子どもへのいじめの原理も同じだと思います。

2 思い込みDVの原理と新型コロナウイルス

思い込みDVの原理は大筋同じです。
先ず、不安を感じる。
この場合の不安を感じる要因は、
男性の場合は、職場での不合理な扱いや社会的な不遇が多いのです。
誰かから尊重されていないと感じる不安です。

女性の場合も、職場や友人関係等での不合理な思いもあるのですが、
特に合理的な理由がなく
とにかく不安を感じるという病的ケースも一定割合あります。
自分の産んだ子どもに何らかの問題が発生した場合も
父親よりも不安が増大するよう場合もあります。

夫が理解できない理由で
不安を感じていることがあります。

不安の中身としては、
自分だけが損をしている
このまま何か悪いことが起きるのではないか
自分が尊重されず、自分の人生を歩めない
というようなことが多いように思われます。

この不安も
他の不安によって、過敏になってゆくようです。
新型コロナウイルスの社会現象では、
外出できない、先の見通しがつかないという
閉塞感、早く終わりにして欲しいという焦燥感が
他のわずかな刺激を過剰に感じる原因になっています。

具体的理由のない病的な不安の場合は
自分の不安がどこから来るのか
言葉で言い表せないことも苦しいことです。

何とか不安の原因を突き止め
不安を解消したいという要求はとても大きくなっているでしょう。

こういう時、夫の何気ない行動が
例えば、部屋にゴミが落ちていることを夫が見つけた様子とか
ご飯の味付けにリクエストがあったとか
そういう事務連絡的会話が
いちいち自分に対する非難のように感じてしまうことがあります。

収入が少なくて家に入れるお金が足りないだけなのに
収入を隠している経済的モラハラだとか
感じやすくなるようです。

そんなときに、つまり合理的理由がないのに過敏になっている時に、
日常的な夫の言動を
「それはモラハラです」とか、「それはDVです。」とか
権威のある他人から言われてしまったら、
不安解消の原因はこれだ、解消の方法は別離だ
と飛びついてしまう
不安解消救急を満たす具体的方法だと
と飛びついてしまいたくなるわけです。

言語化という魔力だと常々感じています。

そのような言葉のマジックで親が別居、離婚した場合、
子どもが一番かわいそうです。
子どもには何の罪がありません。
親の不安解消行動に突き合わせて良いということは全くありません。

3 ではどうするか、相手を尊重するとはどういうことか

お互いに、自分のせいではない相手が悪いということで、
現状を放置するのはあまりにも無責任です。

わずかの工夫で、不安を和らげることができます。

もし、新型コロナウイルスでこの世の終わりが来たら、
その中で一番幸せな人は
助け合って生き延びる家族の中で
自分の役割を果たしていると実感できる人だ
と結論だけ言っておきます。

やるべきこと
第1は新しい不安刺激を与えないこと  です。

家族同士が与える不安は分離不安です。
自分が一人ぼっちになってしまうという不安です。

一人ぼっちになる不安が起きる場合は
自分の行動を否定評価される
自分の失敗を責め立てられる
自分の性格や、出身等その人が自分で何ともできないものを
否定的に評価される。
性格を否定評価される。
努力を評価されない。
等です。

この逆をすることは案外簡単で
どんなことがあっても相手を否定しない
ということに尽きるということになります。

言葉で非難しないだけでなく、
表情や態度も
いいから、気にしないで
という状態にしなければならないことは当然です。

やるべきこと
第2は、ワンチームを意識する

家族はそれぞれが家の仕事を分担して役割を果たして成り立っています。
収入を入れる人
衣食住を整える人
世話を焼かせて役割意識を持たせてくれる子どもや年寄り
笑いや娯楽のリーダーシップを取る人

誰かのために役割を果たそうとする場合
誰からも非難されてはならないことが
家族のために行動することです。
大威張りで家族のための行動を起こしましょう。

一般的には自然の成り行きで役割分担をしています。
それぞれの部署で努力するばよいわけではなく、
相手の行動は家族全体のための行動なら
手が空けば自分も一緒にやるべきです。
リターンは自分たち家族にやってきます。

何か不具合があったからと言って
一度役割分担をした以上
その人を責めてはなりません。
家族全体が責任をとるべきことだと考えましょう。

八つ当たりをする場合は
このワンチームの意識が決定的に欠けている場合です。
家族の誰かから自分を守ろうとしているのですから
家族の中に対立構造を持ち込んでいるわけです。

家族の中で対立している場合ではないでしょう。

ワンチームで、つまり、ドンマイの声掛けとフォローです。
わざとらしく、照れないでやり抜きましょう。

やるべきこと
第3は、自分を捨てるということです。

実は以上3点のことは同じことを別の側面から言っています。
自分を守ろうとするから家族が敵に見えてしまう。
自分が家族のために捨て石になっても構わないというくらいになれば
家族から批判されても、ごめんなさいねと
謝ってみせることができるわけです。

そうすることで、「こんなこと言ったら怒るかしら」
とドキドキしていたのに怒られないとわかると
相手も安心して来るでしょう。

一国の首相でさえ、自分を捨てていらっしゃいます。
どこまで役にたつかわからずデメリットはたくさん指摘されている
布マスクを2枚配布するということをおっしゃり
国民の不安解消行動である怒りをご自分に集めようとしています。

家族の中に首相はいませんが
一人一人が自分を捨てて、
ワンチームの中で役割を果たすという意識で
この情勢は乗り切るべきだと思います。

そして、
不安を一瞬だけでも忘れる娯楽、笑いを提供する
心配をしていないそぶりを見せる
こういう高度な不安解消行動を提供することができるようになると思います。

もしかしたら、新型コロナウイルスの一番の危険とは
家族崩壊というとんでもない2次被害かもしれません。

これまで、思い込みDVだとか連れ去り問題だとか
ご自分には関係がないと感じていらっしゃる方が大半だったと思います。
しかし、新型コロナウイルスの社会情勢は
DV以上に、思い込みDVを多発させる危険があるように感じています。

家族を守って、子どもたちが親から愛される権利を守りましょう。





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八神純子さんを絶賛する!もっともっと活躍してほしい。前向きに世界を進めるために。 [災害等]



先日、宮城県の人権啓発セミナーで、
八神純子さんとトークセッションをしてきました。

八神純子さんはあの「みずいろの雨」の歌手の方です。
震災後に被災地の支援を続けていらっしゃるそうです。
今回も気仙沼(本吉)という、
仙台からとてつもない時間を要する場所での
講演会でした。

私は、このような企画を考える委員をしているのですが、
八神純子さんがいらっしゃることは
私たちの仕事とは関係なくはじめから決まっていました。
だから
どのように、八神さんにお話ししていただき、
どこに人権の問題をからめるかというのが今回の仕事でした。
(基本的には自由にお話しいただくことになりました。)

本当は企画をする仕事なのですが、
自分たちの方がギャラが安いし
誰かに細かく指示をするのが面倒だから
企画委員が自分でお話をしてしまうというのが
といういつものパターンなので、
今回はだいぶ違いました。

八神さんは前日にも
ガンの病院でコンサートをされたそうです。
広い待合室兼エントランスを利用したようです。
実は、今年の9月に、
この病院で知人を亡くしていたので、
知人を思い出して涙ぐんでしまいました。

音楽の好きだった人で
八神さんのCDも持っていました。
耳も目もあまり機能しなくなっていましたが、
八神さんがドレスを着て歌を歌うというだけで、
よく見えなくても、聞こえなくても
一時に苦しみ、痛み、不安から解放されたことでしょう。

闘病している本人だけでなく、
付き添っている家族にとっても
ほっとできる時間だったことでしょう。

こういうことで救われるということは
震災で経験しました。

ボランティアってすごい。
頭が下がる思いでした。

そして次の日、車で3時間かけて
こちらの会場にも来ていただいたわけです。
私だって来ただけでへたばっていたのですから
なおさらだったと思います。

会は大成功だったと思います。
先ず、八神さんのお話をいただき、
(お話の最後にアカペラで「スマイル」)
トークセッションをして、
最後は八神さんのミニコンサートでした。

お話の部は、自分の子育ての反省をお話され、
特にお母さん方に熱く共感されていました。
トークセッションでは、
ろくな打ち合わせをしなかったにもかかわらず、
無茶振りに対しても的確にコメントを出していただいて
大変ありがたかったです。

トークセッションの時間はあっという間でしたが、
私ともう一人の企画委員の先生のお話を
何とかちりばめて
子どもの人権についてもお話しできたと思います。

ミニコンサートでは、
幸い立派なグランドピアノがあったので、
弾き語りも披露していただきました。

最初は「みずいろの雨」
美しい高音は健在で迫力があります。
曲の順番に自信がないのですが、
震災の後に書かれた「翼」?
話の流れにもあうご自身のお子さんの高校卒業式の時の
「さくら証書」
あの「パープルタウン」

もう会場全体が感動で拍手が鳴りやまず、
アンコールは「Mr.ブルー」
私が聞きたかったのはこの曲だったので
感激しました。びっくりしました。
ピアノを弾きながらの歌声だったのですが
この曲が一番ドラマチックでした。
改めていい曲です。

八神さん、ほとんどボランティアでした。
多少謝礼があったとしても
八神さんに見合うものでは到底ありません。
なんせ自治体の運営ですから
八神さんにふさわしい扱いでもなかったと思います。
本当は大変失礼もあったと思います。

それなのに
スタッフと記念撮影まで応じていただいて、
ただただ、頭が下がりました。


帰りにドライブインで八神さんのCDを買って
聞きながら帰ったのですが、
夜の高速道路にぴったりでした。
いまさらながら、こんな良い曲だったんだと驚きました。
サウンドは私のドンピシャの世代ということもありますが、
歌詞がまた良いのです。
前向きで素晴らしい世界観です。

八神さんが楽曲を提供していた歌手(娘さんはkahoさん)の
とあるアルバムはよく聞いていました。
八神さんが曲を提供していたとわかり
またまた驚きました。

おそらくほとんどプロモートされていないのでしょう。
これだけ、ご活躍されているのに
ほとんど話題に上らなかったことの方が
驚きです。
いかんです。

Mr.ブルーは、現代のテーマ曲にふさわしい名曲です。
(同級生に話したら、彼は
「想い出のスクリーン」をあげていました。
なんか苦い後悔があるのでしょう。)

今度はコンサートに行きたいです。
舞台の上で歌う八神さん、お話している八神さんは
とってもチャーミングでした。
本当を言えば、なによりもその笑顔に参りましたので
これを書いているところであります。

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震災避難計画は、人間の不合理な行動を織り込んで策定するべき。避難時の記憶が曖昧であることは当然ということ。 [災害等]

東日本大震災から6年10ヶ月が経った。
正直まだ6年10か月だ。
ニュースで祈りをささげているひとをみると
自然に涙が出てくる。

できるだけ今後起こりうる大震災において
被害者を少なくするための提言をしていかなければならない。
気持ちを新たにした。

いま、地元紙は、一面で
小学校の避難誘導の検証をしている。
個人情報等の制約がある中、
できる限り客観的に検証しようという
その姿勢は伝わる。

しかし、
実際に取材をすればわかるであろう
学校が待機をした理由、
その後の選択した避難経路について、
具体的な話が報告されていないのではないか
という感想は多くの宮城県民は持つだろう。

ただ、住民と相談してということであれば、
その住民がどのような発言をして、
なぜその発言をしたか、
教員はどの程度その発言を信じたのか
行動動機にどの程度貢献したのか
それを検証しなければ
真実は見えないはずだ。

だから、勢い
人物が特定される学校教員の発言が
その信用性を超えて重大視され、
検証チームの意図がどこにあるかにかかわらず、
学校の責任追及となるように
印象付けられてしまう危険があるように思われる。

だから、その教員の発言が
他の住民などの発言と矛盾する
等ということが大見出となっているのだ。

しかし、人間は合理的に行動しない。
これが最近の科学のトレンドだ。
特に、避難時には不合理な行動をする。
後で考えれば不合理という意味だが。

そのメカニズムは再三このブログで述べている。

まさに命の危険があり逃げているという状況である。
交感神経が活性化され、
心臓は早く大きく打ち始める
血圧が上がり、脈拍が増加し、体温が上昇する。
内臓の動きが弱まり、
血液は筋肉へと流れていく。

もちろん脳の活動も変化する。
複雑な思考は停止する。
将来的なことを予測したり、
人の心をおしはかったり、
細かなことに気を使わなくなる。

すべては、逃げるための
人間の生きるための仕組みである。

血液が筋肉に流れるのは、
筋肉を動かして足を使って逃げるためである。

では、複雑な思考が停止するのはどうしてか
これも逃げきるための生きる仕組みである。

人間がチンパンジーの祖先から分かれて800万年
動物として成立してから
さらに気が遠くなる年月が流れている。
その中で適者生存の原則の元、
種として生きる仕組みが整ってきたわけだ。

おそらくそれらの期間
余計なことを考えずに
安全な場所にたどり着くことが
逃げきる確率が一番高かったのだろう。

二者択一的考え方とは
安全な場所にたどり着いたのか
まだ危険が継続しているのか
ということである。

さらに、
悲観的な考え方になり、
まだ安全ではないかも知れない
という思考こそが
逃げ切る確率を高めた

楽観的に何とかなるかもしれない
なんて思っていたら
簡単に食い殺されていただろう。

われわれはその子孫であり、
そのような遺伝子を受け継いでいる。
命の危険があると思ってしまえば、
あとは自動的に体が変化してしまうのである。

もう一つ、記憶が曖昧になるということも
交感神経が高まり過ぎた状況では起きる。

一つは、もともと視野が狭くなっているから
十分な情報を落ち着いて統合する機能は低下している。
記憶の前に、正しく認識していないのだ。

さらに、認識したとしても
それを意味づける機能は弱まっている。
また、過去の出来事と照合して対策を立てる
というようなことも低下している。

そうすると、断片的な知覚を感じているだけなので、
記憶として定着することはそもそも期待できないのである。

また、恐怖や悲観的な思考傾向のために
知覚自体がゆがめられている上、
記憶もゆがめられる。

これが、人間として当たり前の状態なのである。

状況を確実に把握し、
適確な行動を判断して行動に移る
ということができない脳の構造になっているのである。

私たちは東日本大震災を経験して、
海辺でもない地域でも
大地震の恐怖で、
不合理な行動をしたり
合理的な行動しなかったりしたことを記憶している。
自分はどの程度合理的な判断ができたのか、
自分はともかく家族の、子どもや年寄りの心配をしていた人ならば、
冷静な行動ができなかったことは
よくわかっているはずだ。

遺族でもない第三者が、
特定の個人などの責任を追及するということは
このような不合理な行動をとる人間の生理に反する
極めて過酷な行動を要求することになる。

まるで裁判所の事実認定だ。

不合理な行動をするのは当たり前だ。
だから、それを織り込んで、
なるべく考える要素を排除した
避難計画を策定することこそ
東日本大震災の教訓のはずだ。

特定の誰かが、
文字通り超人的な行動をしなかったことを責めてばかりいたのでは
教訓がまるで生かされないことになってしまう。
そのことが心配でならない。

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