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東日本大震災から1か月半後に発表した震災相談メンタルケアマニュアルを掲載します。 [災害等]

まだ、弁護士が役に立つ時期ではないと思います。
先ずは、メンタルに特化した解決方法ではなく、
生活の安全と確保が最優先される状況だと思います。
二つだけお話しします。

1 大地震という特別の出来事があったということは、
平時を前提とした仕事などの約束事はゼロになるということ。
つい、被災地以外の場所から、震災のマイナスを取り戻せと号令がかかり
多くの人たちが病んでいきました。

大地震が起きたのだからしかたがない
ということから出発してよいのだということ

業績を気にして無理を言う人には誰かが考えを改めさせていただきたいと思います。
無意識に平時を前提とした思考をしてしまう人が被災地の外に少なからずいました。

2 自治体の公務員の方々は不眠不休で仕事をしています。
誰しも経験の乏しいことですから不具合不手際があります。
ご自身も、ご家族も被災されているわけですから
配慮をしていただくとともに
少しでも休みを取って、睡眠をとって
長丁場を乗り切っていただきたいと思います。

ご自身の健康に問題がある場合は無理をしないでほしいと思います。

この辺りは上司の腕の見せ所です。


東日本大震災で、仙台弁護士会で作成したQ&Aをアップします。
これを作ったのは、震災から1か月半の頃でした。
主に被災地以外から相談に訪れた人たちを念頭に置いて作成しています。
何かの役に立てれば幸いです。

震災法律相談に関するメンタルケアQ&A初版2刷 仙台弁護士会自殺対策PT
~震災相談の際に気をつけること~

1.被災者の心理状況一般
Q 3.11の大震災から2か月近くが経過しましたが,避難場所で生活されている被災者の方々の心理状況はどのようなものでしょうか。

A1 話を聞いてもらうだけでいい,という時期は過ぎている人が増えている。先々の不安(収入,住居,ローン,相続等)が現実化し,何とかしなくてはならないと考え始めている。現実の問題に立ち向かおうとしている人には,単に結論をあいまいに先延ばしにする(例「しばらく支払を猶予してもらいなさい」)のではなく,メリットとデメリットを挙げて具体的な道筋を示すことが必要(猶予や金利減免を受けても支払できない場合は破産という手続きもある,など)。仮設住宅や新居に落ち着いたら具体的な行動に移れるよう,避難所で心の準備をしておくことが安堵感につながる。

A2 他方でライフラインすら復旧の見通しが立たず,がれきに囲まれ,先の見えない状況にいる人も依然としている。津波の被害が大きい地域では行方不明者も多く,1か月以上ずっとストレスにさらされ続けている。このような事態を我々は経験したことがない。
こういう人に対しては安易な励ましはせず,まずは話を聞くことが重要。相談担当者の勝手な解釈を加えず,相手の言葉をそのまま繰り返す:リフレクションが有効。(「大変なんですよ」と言われたらまず「大変なんですね」と忠実に再現するなど)。リフレクションすることで「聞いていますよ」という姿勢をまず示す。

2.避難所に入る際
Q 避難所に入所する際,どのようなこと(服装・態度など)に気をつければよいでしょうか。
A 避難所でスーツにネクタイは違和感あり。身構えてしまい本音を話せない。

Q 法律相談ブースで相談を待っているだけでなく,被災者のそばに行って,積極的に話しかけることは問題ないでしょうか。
A 「お困りのことはありませんか」「体の調子はどうですか」などと声を掛けるのは問題ない。避難所の外の状況に関心がある人は多く,外の様子を聞かれたらありのまま話せばよい。自分の体験を話すのも良い。被災体験を話したい人にはそのまま話してもらえばよい。話したくない人には深追いしない。

3.法律相談等で被災者からの相談を受ける際
Q 被災者とはじめて対面します。被災者と対面した際に,何に気をつけなければならないでしょうか。
A 言葉使いに注意すべき。支援者という立場や「上から目線」で話さないように。一緒に考えようという気持ちが大切。何か役にたてることはないか,力になれることはないか,という姿勢で臨むとよい。

Q 「何もかも嫌になった」「全く希望がもてないのでもう自殺したい」などと,希死念慮を打ち明けられた場合はどうしたらいいですか。
A 「自殺したい」との発言は,助けてほしいというメッセージ。何かしてほしいからそう言っている可能性がある。あわてて「死んではだめだ」と頭ごなしに否定すべきではない。死にたいのだという感情は否定することなく受け入れて,「なぜ自殺したいと思うのですか」「何が解決したら自殺せずに済みますか?」など、相談者がなぜ死にたいと言っているのかを尋ねてみる。先行きが見えるような具体的な制度(自己破産,生活保護,失業保険…)を説明し,具体的な手続きを取れるよう道筋をつけることが必要。このような対話すら受け入れることができない人の場合はメンタルケアチームにつなぐ。

Q 被災地の状況や相談内容によっては,弁護士自身が無力感や強いストレスに襲われることもあります。支援者自身のメンタルケアで気をつけるべきことはありますか。
A タフな消防隊員ですら凄惨な現場に臨場することが自らのトラウマとなる。「惨事ストレス」に対するケアが必要とされ実践されている。無理をせず,辛くなったら途中で撤退する勇気を持つ。避難所等に行くのであれば,心身ともに健全な状態で行かなければかえって迷惑をかける。法律相談で全てが解決するとは期待されておらず,次に繋げられれば充分であることを自覚しておく。相談担当者自身が耐えられないような話を聞いた場合は,相談担当者同士でその日の体験・気持ちを話すこと(デフュージング)や,管理者がいる場合は全体でのミーティングで話をさせる(デブリーフィング)というストレスマネジメントの手法がある。現場で実施し,ストレスを持ち帰らないことが重要。

Q 深刻な相談(家・仕事場が流失した,将来の見通しが全く立たないなど)を笑いながら話す相談者には,どのように接すればようでしょうか。
A 現状を見ないふりをしている人,自虐的になっている人,それぞれ違うはず。深刻さの度合いが尋常ではなく感情のバランスが崩れてしまっている可能性もある。笑いながら目は泣いていることもある。「もう笑うしかない」と前向きになっている人からは逆に元気をもらうことも。その場の雰囲気に応じてやんわり共感できればよい。

Q 相談担当者に怒りをぶつけてくる人がいるのですが。
A 震災から2か月近く経過し,天災を誰かのせいにしたくて他人に怒りをぶつけてくるのは正常な反応でありむしろ健全と考えるべき。相談担当者が非難されているわけではないので理性的に対応する。ただしいわれのない個人攻撃になれば率直にその点を指摘して相談担当者は自分を守る必要がある。

Q 親族が死亡している方からの相談,あるいは行方不明の方からの相談について,気を付けることは。
A 死亡の場合は無理にお悔やみの言葉をかけることはなく淡々と進めることもよいが相談者の気持ちを察して。行方不明の場合,法律相談に訪れたのは相談者も3月11日に死亡したとの推定を前提としていると思われる。ただし憶測はせず気持ちを聞いてみる。認定死亡の説明(認定時期の見込み等)や認定された後の相続手続きについて,具体的な次の入り口を示せばよい。
身内に行方不明者がいる場合,あらゆる避難所を訪ね歩き手段を尽くしているのが通常だが,最近では多くの遺体が身元確認できないまま火葬されているのが実情。安易に「ご遺体が見つかるといいですね」とは言わない方がよい。

Q 親族を亡くした未成年者(あるいは若年者)からの相談で,大人たちの相談と異なり,特に留意すべきことはありますか。
A 中学生以上であれば,大人と同様に接するべき。ただ社会経験が少なく気持ちは子どもであることは配慮して。

Q 相談者からの相談内容が的を得ず,わかりにくい場合,堰を切ったように止まらない場合,話をさえぎってしまうのは問題ないですか。また,相談内容が法律問題ではない場合,どのように対応すればよいでしょうか。
A 相談者が他にいない場合はできれば聞いてあげてほしい。時間の制約がある場合,「今のお話をちょっと整理させてください。」「~ということですよね」と一旦待ってもらってテーマを絞ることは問題ない。あまりに一方的に多くしゃべる場合はフラッシュバックの危険もあり,こちらの話を受け入れられないようであればメンタルケアチームの支援が必要。

Q 現状の法制度では相談者の希望に添った制度がない場合の相談に対して,どのように答えるのがよいでしょうか。
A 安易な気休めでなく,根拠に基づく正確な情報を伝えることが大事。ただし断定的な表現は避けて「現在の制度では難しいですね」などと伝えるべき。先延ばしにするにしても,具体的な時期(長めに見積もる)を伝えると安心する。次に繋げる場合は,具体的な相談先を示す。その場で全て解決できるわけはなく,割り切りが必要。

4.法律相談を終える際
Q 相談を終える際,「頑張ってください」「ありがとうございました」などと声をかけることは問題ありませんか。
A 具体的にやるべき目標がなく見通しがない人や,すでに十分すぎるほどがんばっている人にさらに「がんばれ」は逆効果の場合もある。「大変ななかよくお越しくださいました」といった感謝・敬意の気持ちを示すのはよい。「私たちに力になれることがあればまた相談してください」など一言添えるとよい。

5.その他
Q 相談者がいない待機中に,震災とは関係ない話をしたり,談笑することは問題ありませんか。ほかの地域の被災者の状況を話すのは問題ありませんか。
A 特に問題ないが,避難所の外の情報に敏感な人はいる。公共の場における一般的なマナーを守って。
居住性や食事の内容など,避難所によって実情が全く異なる。その避難所の「いいところ」を指摘すると,安心感を得られることもある。

Q その他のアドバイスなど。
A 被災者の支援からの帰りに日常に戻り気が緩んで支援者が事故にあうことはめずらしくないので注意。一般に避難所にアルコールは持ち込まないこととされているが,重い話を聞いた後はアルコールも控えるべき。

専門家へのアクセスについて
主要な避難所や各地域にメンタルケアチームが派遣され待機しているはず。
その当時知りえたアクセス方法を記載しました。




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事後的な緊急事態条項よりも、事前の備えの充実こそ、防災、減災、早期復興に必要なことだと思う。 緊急事態条項を目的とした憲法改正に対する疑問(不理解)の由来 [災害等]

自民党が憲法改正案の4つのポイントを発表しています。憲法改正に限らず国家政策は、必ずメリットがあればデメリットもあります。デメリットを指摘することは必ずしも政策に対する反対を意味するわけではなく、デメリットを少なくしてメリットを拡大させてほしいという期待の表れでもあるわけです。

その4項目の中でも緊急事態条項を理由に憲法改正をするということについて、今回は述べてみたいと思います。断っておきますが、私は、緊急事態宣言が、災害時の混乱を良いことに全体主義国家的な強権を握り国民を支配するという火事場泥棒的な目的があるとは考えておりません。自然災害は必ず復興します。復興後、全体主義的な活動は猛烈に批判されて、政治的には致命的な影響が出るので、そんなことはしないと思うからです。

また、他国の侵攻の危険を理由に有事だからといって全体主義国家的な政策をしても同様だと思います。

私が、緊急事態法の必要性をよく理解できていないということなんだろうと思います。それならばもっと勉強すればよいではないかとおっしゃるでしょうけれど、どうも勉強する気になれないということが本音です。

東日本大震災を経験して、あの混乱のさなか、国会が開かれたからと言って、あるいは内閣に強い権限が与えられたからと言って、何か良いことがあるのかイメージが付かないからです。あのときは、今はなき民主党内閣でした。国会も少しして開かれたと思います。法案を提出しても野党の何でも反対ばかりで、被災地の役に立たなかったという記憶があります。あの時民主党内閣の権限が強くして、自民党の反対を無効にすれば何か良いことがあったのでしょうか。やはりイメージがわいてきません。

大震災の経験からは、事後的な対応を準備するよりも、事前の準備を充実させることが防災や減災にとって不可欠だということが実感です。

まず、危険な場所に近づかないということが原則でしょうね。できれば危険を減少させるようなハード面対策が立てられれば有効でしょう。ソフト面とすれば避難経路の確立と、練習が有効です。どのような被害の場合、どのような対応を取るかというシミュレーションを確立していなければなりません。その場になってから考えたのでは、精神的に動揺してデメリットの多い行動をとってしまうものです。このことを東日本大震災から学ばなければなりません。事後的に損害賠償の責任を負った誰かの責任とばかりは言えないのです。

そして避難所の確保です。低体温症の防止という対策は各地で確立したのでしょうか。必要な物資の輸送ルートや輸送体制も必要です。交通網は道路も含めて遮断される可能性がありますから、上空からの輸送の充実が不可欠だと思います。

また、震災の規模が大きくなるほど避難所や仮設住宅の使用日数が増えるわけですから、プライバシーの確保や安心感の確保についてどのような準備が現在進んでいるのでしょうか。

震災後の就労の問題も現実的な問題です。被災者任せではなく、きちんと対策を立てることこそ必要な政策ではないでしょうか。

まだまだメンタルの問題など重要な対策が未整備ではないかと心配しているところです。

私の立場からは言わなければならないことがあります。それは震災対応をする公務員に十分な手当てをしなくてはならないということです。

国家公務員法、地方公務員法では、自然災害などの緊急事態には、避難誘導などの仕事が公務員の法的義務とされています。

今回も津波が来る沿岸部へ、公務員が避難誘導の仕事で車で行くことが命じられました。今にして思えば「死にに行け」ということに等しい任務ですが、当時は津波の規模を実感としてイメージすることができなかったのかもしれません。仙台市でも少なくとも2名の職員が津波の犠牲になりました。

死の危険のある公務の場合の災害には公務災害補償の一部が1.5倍になる法律があるのですが、地方公務員災害補償基金仙台市支部長、同仙台市支部審査会は、2名の公務員の死を特殊公務災害とは認めませんでした。

理由は、「当該公務員が善意でやったことだから」、「被災で亡くなったどうか目撃者がいないのでわからないから」というものでした。
詳細は
特殊公務災害 地方公務員災害補償基金審査会で、逆転認定の解説:弁護士の机の上:SSブログ (ss-blog.jp)
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2014-06-13

各地で同様の理由で特殊公務災害が当初は認められませんでした。南三陸町の防災庁舎で町民に避難誘導を呼び掛けていたために逃げ遅れた職員の方々にも同じように認めませんでした。理由は、どの支部でもコピペで記載されていました。各公務員が善意でやったことだから危険任務に従事したとは言えないという屁理屈でした。

これは、国会でも取り上げられ、内閣を動かし、ようやく改善されましたが、公務員に対する扱いは、公的にもこんなものでした。こんな扱いならば、命の危険のある仕事は拒否をした方が良いということになるでしょう。

最後はその政党の議員さんに大変お世話になったのですが、それ以前にはその政党の地方議員からは妨害活動をされ、私の意見書に難癖をつけられてあやうく手続きがとん挫するところでした。遺族のあきらめない気持ちに支えられ、ようやく不合理を改善できました。

ある町の公務員が、避難所の運営で文字通り血を吐く不眠不休の活動をされていましたが、元々身体が弱かったということで公務災害自体が認められないこともありましたが、これは支部審査会で逆転し、公務災害であるとであると認定されました。この事件では川人博先生の弁護団チームに参加させていただき、私もいくばくかの貢献ができたのではないかと思っています。

さらには、避難所での地方公務員の活動は、自分の家が被災しているにもかかわらず行わなければならないことでした。不安の持って行き場のない住民の容赦ない攻撃にも無防備にさらされ続けました。うつ病を発症し、離婚に追い込まれた公務員もいました。

それにもかかわらず、残業代が支払われない自治体もあり、働いた報酬を不当に払われない公務員が続出しました。事前に、働けなくなった被災者の対策を確立していなかったことで、現場で献身的に働いた公務員につけが回った格好になっています。

震災直後は、法律や権力はあまり役に立たなかったということが実感です。一般公務員や自衛官、消防署職員、警察官の献身的な活動、あるいは一般国民の善意の活動こそが具体的な力になりました。

緊急事態条項が必要かどうかを検討する以前に、このような東日本大震災の教訓を生かした事前の準備をきちんと充実したものになっているという実感がわかない限り、事後的な緊急事態条項の必要性を検討しようというモチベーションがわかないということが正直なところです。

以上の次第で、事後的な震災対策のための抽象的な緊急事態条項のための憲法改正に賛成しようとは思えないということです。

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平成23年3月11日から10年の報道の違和感と天皇陛下のお言葉 [災害等]

そもそも、東日本大震災は被害格差の大きな災害でした。

この被害格差という言葉には二つの意味があります。

一つは同じ震災にあった被災者とは言えども
その被害の内容にかなりの違いがあるということです。

海辺の住人と内陸部の住人からはじまって
マンションも高層階と低層階での被害の違いがあり、
身内が亡くなった人無事だった人
仮設住宅にに入った人、全壊の家に住み続けた人
半壊にとどまった人
ライフラインが早期に復旧した地域、しない地域
いくつかの被害格差がありました。

もう一つの「被害格差」の意味は
誰かと比べれば重い被害ではないけれど
被害自体は厳然としてあるのだということです。

ところが、「自分はまだましだ」
ということで、
苦しさや不安を口に出せない、態度に表せない人たちが
多数だったということなのです。
物資がなかったり、知人が亡くなったり
仕事がなくなったりしながら
外部から「頑張れがんばれ」と言われ続けてきて
頑張れない自分を責めてきた人たちが
たくさんいたということなのです。

NHK仙台放送局の津田喜章アナウンサー(石巻出身)が
辛いと言ってもいいんだ、心配と言ってもいいんだと
私たちの言葉で語りかけれてくれて
始めて涙した人たちは
かなりの人数に上ることと思います。
私もこの放送を偶然見てよく覚えています。

昨日の震災から10年を話題にしたテレビや新聞に
私だけでしょうか率直に言って違和感がありました。

まだ10年しかたっていないのに津波の映像が当たり前のように流れていました。

おそらく、身内を亡くした、行方不明になっているということは
わかりやすいのだと思います。
津波の映像を流すこともインパクトがあるから
視聴率も上がるのでしょう。

震災を風化させないという言葉をよく聞きますが、
誰がどのように風化させるのでしょうか。
むしろ昨日のテレビを見ていると
ライフラインの途絶、物不足、避難所、仮設住宅
放射能が怖いのに、行政が不安を否定したこと
避難
そこでの様々な人間の感情は
早くも風化させようとしているのではないか
ということさえ考えすぎてしまいました。

震災後の生活を知らない人が
そういうテレビ番組を組むことは
ある意味仕方がないことなのかもしれません。

そんなとき、天皇陛下のお言葉の報道に接することができました。
すんなりと受け入れられる内容でした。
先ずそのことに驚きました。
そして、どうして、そう感じるのだろうと考えました。

誰かに言ってもらいたいと無意識に思っていたことが
すべてお言葉の中にあったからだとしばらくして気が付きました。

その私なりに感じたことをこれまで述べてきました。

一部では、お言葉の量が長いなどという報道もありました。
私は、簡にして要を得ている完璧で美しいお言葉であると思います。

先代の両陛下についても
この記事で10年前に感謝を申し上げていました。
今上陛下皇后陛下についても
また感謝を申し上げることになりました。

とてもとても素直な気持ちになりました。
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コロナ警察、帰省警察の心理。過剰不安を否定してしまっては、解決から遠ざかる。 [災害等]

やめろと言われているのに夜中に飲み歩いて
自分がコロナに感染するだけでなく
感染を知らずに、他人に感染させるなんてことになると
誰が感染させたとかどこで感染が起きたか
ということが気になるのは致し方ないかもしれません。

一番は、その人の立ち寄ったところに立ち寄りたくない
という気持ちから行動を知りたい
ということはむしろ一般的かもしれません。

だんだんこれが高じてきてしまうと、
感染をしなくても
新幹線や飛行機を使って旅行するだけで、
非難の目が向けられて行って、

帰省をしただけで、
早く帰れなどのビラが投げ込まれるという
帰省警察なんていう行動も
報道されるようになってきました。

ここまで行くと
正義もだいぶ歪んでしまっていると
感じてしまうところです。
もっとも
元々私は正義というのは
他者を攻撃するための口実だと思っているのですが。

実は、これらの強迫神経症的な
決まりごとの順守圧力は
二つの共通の要因があります。

一つは、決めごとを守ることによって
安心を得ている人が
守らない人に対して脅威を感じるというパターン。

もう一つは、自分決めごとを守って不自由な思いをしているのに、
それを守らないで、一人だけ得をしている
つまり自分だけ真面目に守って馬鹿を見て損をしている
という意識です。

コロナはどうやって感染するか目に見えませんから
やみくもに怖がってしまう典型的なできごとです。

自分が感染するという恐怖だけではなく
自分の家族の高齢者や小さな子供が感染したらと思うと
それはこわいでしょう。
なんとか大丈夫だと安心したいのは人情です。

しかし、感染は見えない。

そこで、言われたことを守ることによって
安心感を得たいと思うわけです。
三密をさけ
うがい手洗いをする。
不要不急の外出はしない。

このためにしたいこともしない。
しかし、自分と家族を守るために我慢するわけです。

不自由感、拘束感が生まれますが
これがいつまで続くかわからないという閉塞感も生まれるわけです。

最初は、比較的科学的に
予防策をとっているわけです。
なるほどこういうことをすれば感染のリスクは下がるのねと。

ところが、次第に、いちいち理由を考えないで
ルーチンワークになっていくにつれて
元々の理由なんてどうでもよくなっていきます。
それをすることで感染をよける
儀式的な行動みたいな、おまじないみたいな感覚になるわけです。

理由があってやっていることが
やらないと災いが起きるかのような圧迫感を持つようになるわけです。

そうすると自分が不自由ながら決まり事を守っていても、
それを守らない人がいると

相手は好き勝手やって自由に行動しているので
「ずるい」
という感覚になるようです。

こちらが我慢しているのに自分だけ得をしてずるいという感覚が
倫理や道徳の始まりなのかもしれません。

しかし、実際は何も禁じられているわけではないから
法律やルールに反した行動をしているわけではありません。
コロナ警察の方々が
勝手に法律やルールを作っているということが実態でしょう。
それは、それを守ることによって自分を守る
という素朴なルール意識ということになります。

そのルールに依存すればするほど
逸脱者には厳しくなります。
自分が正義であり、
相手が反社会的な行動だということを
疑うきっかけは何もありません。

そうすると、
非難ビラの投げ込みなども
正義を分からせるためのごく正当な行為であり
親切な行為であるとすら感じているかもしれません。

心配なのです。

こういう場合の適切な対処方法は、
心配いらないことを教えてあげることでしょう。

鉄道を使わないできましたよとか
熱をこまめに測っていますよとか
きちんと手洗いをしていますよとか
だから心配しなくても大丈夫ですよ。
ということを教えてあげる。
外に出るとき(その人から見えるとき)は手袋をするとか。

ただ、理屈の上ではそうなのですが、
これを喧嘩腰にやってしまうと
また別のややこしい問題が出てきてしまいますので
注意が必要です。

帰省してだめなことはないのですが、
そうやって過剰に心配していることも事実なので、
一概に否定するよりは
心配をかけない方法を工夫する必要があるのではないかと
私は思います。

そのコロナ警察の人に
過剰な心配をするなということは無理であり、
過剰な心配をする方が悪いということも
なかなか言えないことではないかとも思うのです。

特に高齢で何らかの疾患を抱えている人は
みんな心配しているし
少しでも感染リスクを下げたいと思っていることは
過剰な心配だと言って非難することはできないと思います。

法律で禁止されたことをやっていない
という開き直りは、その後をややこしくします。


問題は、
自分が知らず知らずのうちに
コロナ警察になっていないかということです。

隣の家に帰省者がいたとしても
隣の家に近づかなければコロナは感染しないように
自分がルールだと思っていることを他者が破っても
それだけではコロナに感染しないという
科学的な知識をしっかり持つ
ということだと思います。


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仲間の一番弱者のために戦うという意識。第2波新型コロナウイルスに対する反応から見えてきたもの やみくもな不安から脱却して、合理的な予防をするために [災害等]



感染者数は、第1波の最高値を超えて過去最高の更新が続いています。
第1波の時には芸能人が亡くなったり、重症化したりと
やみくもに恐怖が先行していましたが、
第2波となり少し様変わりしてきたようです。
何をどのように心配して、どういう行動をとるべきか
だんだん見えてきたような気がします。

第2波の特徴は、
第1波のころの具体的な恐怖心
(自分も苦しんで死ぬかもしれない)が後退し、
数字が多くなってきたから抽象的に怖いとか
言葉のごまかしで、心配しなくていいとか、
あおりとまやかしに左右されやすくなっている
というところが強くなっているようです。

やみくもに不安になっていて、
些細な刺激で、自然に不安を感じてしまい、
根拠の有無を吟味しないで助けにすがろうとする
そう言う社会心理状態であるように感じます。

こういう場合第一にやるべきことは
言葉の意味を正確に理解することです。

言葉の誤用としては、
PCR陽性反応は感染者ではないという間違いです。

ウイルスなどの「感染」という言葉は、
ウイルスなどが体内に入り、体内で「増殖」することを言います。

どうやって感染、つまりウイルスの体内増殖を検査するかというと、
ウイルスの特徴を利用して検査をします。
ウイルスは細胞を持ちません。その意味で生物と言えないかもしれません。
いわばむき出しの遺伝子
みたいな状態で存在します。

生物である細胞は
細胞内のDNAという遺伝子を転写(コピー)したRNAを作り、
細胞分裂をして細胞を増やしていきます。

ウイルスによっても違うのですが
新型コロナウイルスはもともとはこのDNAしかありません。
増殖する場合は
人間の細胞を支配して、支配した細胞にRNAというコピーを作らせ、
増殖をするわけです。
これが感染です。

つまり体内に新型コロナウイルスのRNAが確認できれば
「新型コロナウイルスに感染した」ということになります。
これを検査するのがPCR検査です。
PCR検査ではRNAの有無を検査するそうです。

ですからPCR検査で陽性であれば
コロナウイルスが体内で増殖したのだから
「新型コロナウイルスに感染している」
ということになります。

ウイルスではなく、細菌の場合は事情が違うようです。
細菌の有無もPCR検査で調べますが、
細菌は、生物ですから細胞があり、
RNAもDNAも両方をもともと持っています。
RNAの存在を確認しても増殖と言えず
感染したとは言わない場合もあるかもしれません。
大事なことは細菌とウイルスは全く別物だということです。

さて、感染をしても症状が出ない場合もあることは
報道されているとおりです。
体内の異物追放能力等によって
症状が出ないでウイルスが体内から消滅する場合もあるのでしょう。

この場合は感染をしたけれど発症しなかったということになります。
発症とは症状が出現したことを言います。
発症しなければ重篤化することもないので、
重症化して死ぬこともありません。

しかし、感染をしている場合、
体内に増殖したウイルスがあるわけで、
それを唾などとともに他人につけて
他人を感染させる危険はあるわけです。

自分は発症しなかった場合でも
他人に感染させて、他人を発症させる危険はあるわけです。

このために、発症をしていなくとも
感染者を隔離して新たな感染を防ぐことが必要となります。
また、感染者はいつ発症してもおかしくないので
症状を管理して、重症化を防いだり
重症化したらすぐに手当てをして
最悪の事態を防ぐことが必要となります。

この意味でPCR検査は必要だと私は思うのです。

隔離して病状を管理するためには
病院やホテルなどの施設が必要となります。

感染者があまりに多すぎると、
どこも満杯となり、入る施設がなくなってしまいます。
自宅待機ということになると
外出をして新たな感染者を出したり、
気が付かないうちに重篤化していて
手遅れとなってしまう事態も招きかねません。

だからやはり感染者数の推移は見守る必要があると私は思います。

感染者の中での発症割合や重症化割合は下がっているようです。

ここにどのような原因があるのかはよくわかりません。

一方で、一定割合で発症者も重症者も出ていることも確かです。
特に代謝の落ちた高齢者や、特定の持病を抱えた人が
感染して発症をすれば重症化する危険を考えなくてはなりません。

また、第2波の新規感染者数は
8月に入ってからは伸び方の勢いが増してきて、
爆発的な増加をする可能性も示しています。
そうすると、自宅待機の割合が増加してしまい
野放しに近い状態が生まれるかもしれません。
今絶対数で少ない重症者が
爆発的に増える危険もあるわけです。

確かに一部の論者の言う通り
あまり心配しすぎて無駄な不安をあおるということは
デメリットが大きいのかもしれません。
しかし、何らかの別の目的で、無責任に
不安を持つなと言っているのだとしたら
取り返しのつかないことになるでしょう。

もしかすると健康な若者は
自分が感染して死亡するという意味での
心配をする必要はないのかもしれません。

ここで、我々は理性を働かせる必要があると思います。

自分が感染することを恐れるというよりも、
高齢者や持病のある方に感染させて、発症させない
という意識を持つことが
結局自分たちのメンタルにも有益なような気がします。

恐れて逃げるのではなく
誰かのために戦うという意識です。

コロナ弱者のために社会が防衛する
その防衛チームの一員であることを一人一人が自覚して
行動する。
社会(国)がそのための必要な費用を負担する
そうして、早期にコロナを克服して
経済活動を再生していく。

目先の経済活動を優先して
コロナが蔓延して収拾がつかなくなり
致命的な経済破綻を回避するという意識です。

こういう意識を持つことで、
自分を含めた日本社会の状態を見ることができ、
無駄な不安におびえることが亡くなるのだろうと思います。

第2波コロナから見えてきたことは
我々はつながっているということです。
名前も知らない人、顔も思い出せない人とも
感染する可能性があるということでは
共通の利益を持っている仲間です。

道ですれ違う人
交通機関に乗り合わせた人
店の中で出会う人
好むと好まざるとにかかわらず、
運命を共有する仲間だということを理解して
仲間の一番弱い人のために戦う
ということを意識して取り組めば
理性的に、有効に、合理的に
第2波コロナを乗り切りやすくなるのではないかと
感じたところでありました。

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授業再開、事業再開は、メンタルリスクと自死リスクが予想以上に高まる時 子どもだけでなく大人も気を付けるべき。簡単な対策。 [災害等]



これまで、長期休み明けの子どもの自死について何度か考えてきました。
整理します。

通常時も、学校などの人間関係の中で
生徒、教師、あるいは学習を通じての社会など
自分の居場所を危うくするストレスは日々起きていた。

全てをきれいに解決することは無理だから
ストレスを蓄積させることにはなるけれど
無理な目標を修正したり、課題を先延ばししたりしながら
何とかすり抜けてきた。

ところが、長期休みになると
ストレスや課題、他者からの評価から解放されるため
すり抜けてきた実績であるところの
「何とかなる」
という記憶が欠落してしまう。

そのため、課題やストレスの記憶だけがよみがえってしまい
解決不能な課題が待っているという誤解を与えさせて
久しぶりの人間関係にはいることが怖く、
逃げたいという意識が強くなる。

こういうことでした。

他者との関係が、時間的に空いてしまうことによって
その他者が自分に対して危害を加える場面だけが記憶に残り、
解決不能を意識してしまうということですね。

「記憶する」ということは、
過去の危険の発生するポイントや程度を意識して
将来の危険を回避することに主たる目的がある動物の仕組みです。
このため危険の部分だけの記憶が残りやすい
という理由があることでした。

「動物として生きる」ということは、
「危険を回避する行動をする」ということだという考えにもとづいています。

間隔があいてしまうと
その人間とのやり取りが
マイナス面ばかり思い出しておっくうになるということは
通常のあらゆる人間関係において起きうることです。

家族であっても、長期間交流がなければ
一緒に過ごした生活があれば当然ありうる
叱られたりけんかしたりという不愉快な記憶
そればかりが浮かんで来やすいわけです。

この記憶のメカニズムに加えて、新型コロナウイルスなどの災害は、
十分に心が癒えていないうちに日常に引き戻されるという事情がつきものです。

これをもう少し具体的に説明すると、
人間の心、興味関心というのは、
複数のことを同時に行うことに適していません。
例えば感染をしないように注意しようということになれば
感染予防に意識が集中しています。
感染予防のために仕事や学校が休みになっていればなおさらです。

数字の上で新たな感染者数が減少したからと言って
本当に感染の危険がないかなどということは
目に見えませんから安心を感じにくいわけです。

心は感染予防に向いている。
しかし、事業や授業が再開され、日常に戻らなくてはならない。
では感染予防はどうなるのか
自分の感染予防の意識が置き去りにされてしまう感じがします。
これは、ある程度災害にはつきものなのでやむを得ないことです。
なぜなら人間は
そう簡単に気持ちを切り替えることのできる動物ではありません。
気持ちの切り替えを待っていたら日常は戻りません。

自分の気持ちとは別に日常が始まりますので
自分の心配が否定されたという意識を持ちやすくなり
社会から自分が尊重されていないという意識が起きやすくなるのです。
置き去りにされた感覚が生まれてしまい、
孤立を感じる場合もでてきます。

大人でもそうですから
子どもが誰かに甘えたくなることはもっともです。

通常は、出勤や登校をしてしまいさえすれば
記憶は簡単によみがえりますから
少ししんどさは残るものの
また日常に復帰していけるのです。

ところが、出勤や登校をする前は、
大きすぎる課題やトラブルの予感だけが生じている場合があります。
特に、いじめやハラスメント、過大なノルマがある場合には、
どうしても出勤や登校ができない場合も出てくるでしょう。

この予防法があります。

できれば、事前に学校や会社に短時間だけ行ってみるということです。

誰もいませんので対人関係的困難は生まれません。
それほど抵抗なく行けるでしょう。

対人関係的困難は生まれませんが
この場所で何とかうまくやっていたということは
思い出すことができるようです。

それも記憶の仕組みと関連します。
記憶というのは、
過去の出来事の追体験です。
過去の出来事の時に起きた人間の脳と体の反応が
レプリカとして再現されることが思い出すということのようです。

危険の記憶は、
生きるために必要な仕組みですから
簡単によみがえるようにできているので
きっかけの必要がなく自然に思い出します。

安全の記憶はこうはいきません。
安全の記憶につながる記憶が薄れてしまっているからです。
おそらく高度な記憶なので保持が難しいのでしょう。
そうすると、安心の記憶をよみがえらせる補助が必要なわけです。

自分が過ごしていた教室や職場を見ると
それが記憶を喚起させる補助となり、
追体験の材料が整って
リアルな記憶がよみがえってくるわけです。

そうすると、あれほど何か悪いことが起きると心配していたけれど
それほど悪く考える必要がなかったということに思い当たったり
完璧ではないけれど何とかしていたという記憶がよみがえったりして
悲観的部分が薄れ、安心の記憶が強くなる
どうやらこういう仕組みのようです。

安心の記憶とは言葉による記憶ではなく
安心というイメージの記憶のようです。
だからいくら言葉で説得されても
怖いという意識が強い状態の場合は
なかなか安心感を持つことが難しいようです。

でもなんとやり抜いていたという場所をリアルに認識することで
やり抜いていた安心感のイメージもよみがえるようです。

なんとなくそれほど心配することもないか
ということを実感できれば大成功ではないでしょうか。

警備の関係で、部屋の中まで入れないとしても
玄関口まで、あるいは通学路、通勤路をたどる中で
記憶の補助が成立して、
不安が、軽くなればよいのです。

子どもだけでなく、大人も
一応ね
プレ登校、プレ出勤をしてみることをお勧めします。
実は私もやることがあるのです。

また、休み明けの日常は
大人も子どももしんどいのですから
後ろ向きの言葉や自分の心も
先ずは受け止めてから行動提起をしてあげてくださるよう
私からもお願いする次第です。


なお、それでもどうしても行きたくない場合があります。
原因がある場合もない場合もあるのですが、
パワハラやいじめにあっている場合で
本人がそれにはっきり気が付いていないけれど
とても平気でそこで過ごすことができないという事情がある場合
体がその場所に行くことをやめさせるように
動かなくさせる場合があります。

どうしても行きたくない場合は
心理の専門家や
いじめやパワハラを手掛けて予防活動をしている弁護士などに
相談に行ってください。
「行く必要はありません。やめてしまった方がよいです。」
と言われる場合もあります。

あなたを大切に考えていても
そう言えない場合もあります。

できればあなたを大切に考えている人と一緒に
相談に行ってください。

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コロナ差別が起きる理由 不安が大きいほど攻撃的になる構造 [災害等]

実感がない人も多数いると思いますが、
一部でコロナに関する差別行為が起きているようです。

医療従事者やその家族に対する攻撃
家族に看護師がいる場合、看護師をやめさせなければ
解雇するということがあったとの報道がありました。

また、コロナ感染者が県をまたいでの移動をしたことに対して
ネットで猛攻撃がなされているということもあるようです。

石を投げたり、家に落書きをしたりということになれば
犯罪です。

なぜ、このような差別行為がおきるのか
差別行為の原動力となる差別感情が生まれるのか
そのことについて説明し、
対処方法を考えてみたいと思います。

差別者の意識は、
「自分は、社会的に正しい行為をしている。
 社会道徳にもとづいて正義を実現している。」
ということが通常です。

もう少し具体的に言うと
「他人にコロナウイルスを感染させる行為をする人間から
 自分たちを守ることは正義の行いだ。」
となると思います。

ちょっと考えればわかることですが、
医療従事者だって、やりがいをもって張り切っている人ばかりではなく、
自分が感染するのではないか、家族に自分が感染させるのではないか
という具体的恐怖をもって職務を行っている人が多いはずです。

医療に携わるのをやめろということは
端的に医療崩壊につながるだけのことです。

差別者は、差別感情をあらわにすることに夢中で
自分の行為が将来的にどのような効果を生むか考えられていません。
また言われた方の感情も考えていません。
少しでも複雑なことになると、それを考えられないのです。
典型的な、高葛藤の持続による思考能力の低下が起きている状態です。

葛藤とは何かを乱暴に言えば、
「自分に何らかの危険が迫っているので、
 その危険から解放されて安全な状態にしたい」
という不安解消要求が起きているということです。
この不安を感じている時間が無くなり、
不安を解消する手段がない場合は
不安解消要求は高まっていき
思考能力の低下が起きていくわけです。

差別者は、何らかの危険が自分に迫っている
ということを感じているわけです。

その危険とは、もちろん
主としてコロナ感染の危険です。
コロナに感染して、自分や自分の家族が死ぬかもしれない
という危険を感じている上、
目に見えないウイルスのため
何時、どうやって感染するかわからない
だから、どうやって防げばよいかわからない
という焦燥感が持続した状態になってしまいます。

そうすると複雑な思考が停止し、
逃げろ逃げろとか
危険を攻撃してつぶせ
という感覚的行動が優位になっていくのです。
(これは人間が生きるための仕組みなので
起きること自体はやむを得ないところがあります。
問題は、それを理性でどうコントロールするか
ということが実践的な対策だと思います。)

逃げることは不可能だとするならば逃げるという選択肢は持てないので
危険を攻撃してつぶせという行動に出やすくなります。

この攻撃行動は、不合理な行動になることも少なくありません。
何を攻撃すれば効果的かなどという思考はありません。
勝てそうな相手を攻撃しようとする行動になることが多いのです。
いわゆる八つ当たりです。
虐待行為やハラスメント行為のほとんどがこの八つ当たりです。

勝てそうな相手とは、自分が反撃されないだろう相手です。
ネットは不安解消行動にはうってつけのツールになってしまいます。
また勝てそうな相手とは孤立している相手です。
集団で少数を攻撃する理由がここにあります。
そうして、現実には孤立していなくても
自分には賛同者がいるという意識
即ち、自分は社会の利益を代表しているという意識が
攻撃行動を後押ししてしまいます。

クレーマーの大多数は
このような社会代表の意識があるようです。

このような正義の意識は、葛藤が強く持続して起きているので、
そもそも正当な相手を攻撃することはありません。
勝てそうな、周囲も賛同してくれるような相手の攻撃になっているだけです。
差別という単純な論理で攻撃をするだけです。
この単純な論理であることから
同じような不安を持続させている人たちの賛同を呼びやすいのです。
「論理」ではなく、攻撃の「口実」と言う方が正確な表現かもしれません。

命とか、健康とか
特に家族や仲間の命、健康が口実になると
攻撃は激しさを増していきます。
正義に基づく攻撃の程度は
相手の違法、不道徳の度合いではなく
不安が大きければ大きくなるほど強くなるわけです。

また、自粛という行動制限がある場合
自分がそれを守っているのに
それを守らない人がいるというだけで
自分だけ損をしたような気持になり、
正義を掲げて攻撃をしたくなるという側面もあるようです。
この場合、自分が不自由な思いをする程度が大きいほど、
攻撃の程度が大きくなるようです。

戦時下の隣組の正義なんてこんなものではないかと思っています。

対応策として、既に行われていて感心するのは
医療従事者に対する感謝のキャンペーンです。

「差別をやめろ」と言ったところで、
差別者は自分は正義を実践しているという意識ですから
心に響きません。
心どころか耳まで入ってこないかもしれません。

差別をやめるのではなく
感謝をしようとする行動提起は
大変実践的だと思い、感心しています。

楽天の松井投手が、医療関係者にマスクを寄贈したというニュース等を
どんどん報道するべきだと思います。
差別やめろキャンペーンよりも感謝キャンペーンの方が
効果が上がるというのはこういう理屈です。

公共広告機構も素晴らしいと思います。

攻撃をしても不安は攻撃をしているその時だけ感じませんが、
ふと我に返ると、あるいは攻撃の同調者がいることを感じると
益々不安が強くなるという関係にありそうです。

攻撃よりも感謝
攻撃よりも協力
攻撃よりも受容
例えば家族をいたわるとか
同僚を気遣うとか
そちらの対人関係的な不安を軽減させることによって
自分が仲間に貢献することによって
不安を解消していくことが合理的なのだと思います。

簡単に言うとコロナ感染の生命身体の不安を
対人関係に不安がないから安心しようということにすり替えて
軽減させていくという作戦です。
これは仲間のために頑張ってしまうという
人間の性質を利用するものです。
結構いろいろなところで実践されている不安解消行動です。

軽減が一時的なものだとしても
対人関係の円満な記憶は
プラスの余韻を与えるものです。

良好な人間関係が形成されることによって
仲間に貢献しようという意識が生まれれば
不安はさらに減少していきます。

ややこしいのはカウンターという行為です。
差別者を攻撃するという行動です。
これ自体は差別された人を勇気づけるという側面もあるのですが、
問題を大きくする側面もあるので
なかなか難しい問題があります。

できる限り、感謝と協力と受容で
つまり差別者の不安をも承認しながら
(不安はわかるけど、それを言っちゃあおしまいよとか)
差別を解消することが実務的なのではないかと
コロナ差別に関してはそう思っています。

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震災の時に絆を強めた夫婦と離婚に至った夫婦の分かれ道 とにかく一番近くにいること [災害等]

東日本大震災の後離婚案件が増えました。
統計的なことはわからないのですが、
弁護士同士の会話の中で出た実感みたいなものです。
面会交流事件も増えましたが、
これは震災の前から増えだしていましたので
震災だけが原因ではありません。

震災後の離婚事件では
何かしら震災の影響がありました。

震災直後の離婚では、
夫が自宅におらず、別のところに行っていた
ということから一気に離婚の意思が固くなる
ということがありました。

例えば実家とか
例えば、被災した友人のところとか

つまり、交通機関の途絶で帰れなかったとか
公務員なので被災者の生活を支援していた
というのではないのに、
家にいなかったというものです。

それなりの事情はあるようなのですが、
一番困っている時
一番誰かが近くにいてほしい時に
いないというのは、やはり心が離れる原因になるようです。

この反対に
別居をしていた夫婦で、
妻の別居先に尋ねて行って
水や食料等を運んだ夫は
離婚は避けられませんでしたが
子どもとの面会というか交流が正常に行われるようになった。
という事例もあります。

それでもうまくいかなかった事例もあります。

コロナの不安は、長期戦になる可能性も強くあるでしょう。
せめて、家に帰ったときは
ほっとする時間になるようにしないと
離婚が増え
親に会えない子どもが増えてしまいます。

先ずは一緒にいること
(一緒に入れない場合は、電話やメールで連絡を取り合うこと)
そして、相手の否定評価と指図だけにならない会話をすること
つまり意味のない会話をすること(これは社会人は苦手なのだけど)
なお、衝突することはあるのですが、
問題はそれを引きずらないで
まあいいかと新しいページをめくること
ということになると思います。
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解消しようのない不安の解消方法 誰かのために行動すること コロナ疲れの影響を最小限にするために 東日本大震災の教訓 [災害等]


象徴的なのは、平成23年のプロ野球の開幕の際に
嶋基弘捕手がしたスピーチです。
「誰かのために戦うものは強い」

これは、被災地では感動をもって指示されたスピーチでした。

野球選手だけでなく
一般の地方公務員の方々も
自分や自分の家族の生活をなげうって
震災復興に不眠不休の活動をされていました。

でも、彼ら、彼女らも被災者でした。
住民からの気遣いの言葉があれば
号泣してしまうほどの悲惨な体験をしたり
小さな子どもを家族に預けて活動していました。

一般のお父さん、お母さんも
ライフラインの途絶の下で
今度いつ食料が入るかわからないため、
今ある食糧を子どもたちに優先に食べさせていたので、
だいたいは2,3kgはやせたでしょうか。

その直後、福島第1原子力発電所の爆発がありました。
放射能の恐怖は、目に見えないこともあって
言い知れぬ恐怖を覚え、
色々なことに敏感になりました。

まじめに考えれば
チェルノブイリとの比較で語られるほど
大惨事として、人体への影響の恐怖が沸き起こります。

被災地全体に閉塞感が生まれていきました。

それでも私たちがたくましく生き抜いたのは、
一時しのぎを大切に活用したことと
我が子のために頑張るという行動でした。

自分一人であれば、あれもこれも不安の材料となってしまい
正常ではいられなかったかもしれません。

自分を捨てて家族のために頑張るということは
不安や恐怖が感じにくくなったという体験をしました。
平成23年4月7日の大地震の時もそうでした。
二度目の大地震のために今度こそマンションが崩壊するのではないか
ということまで感じましたが
自分が盾になって家族のダメージを少しでも軽くしようとしたときは
自分の命が無くなるという恐怖は感じていませんでした。
瞬時にとてつもないハイ状態になっていました。

今回、コロナウイルスがどこまで拡散するのかわからない状況です。
季節的なのどの痛みや咳の症状が出ても
コロナではないか、コロナと疑われるのではないかなど
心配の種は尽きません。

今回は自分を捨てて家族を守るという
直接のシーンはないでしょう。
家族がコロナウイルスにり患したら家族も罹患するリスクが高くなります。

しかし、家族を安心させよう
一時的にでも家族を楽しませよう
あるいは、余計な不安を与えないようにニコニコしていよう等
家族のためにできることはたくさんありそうです。

特に人間は、不安を覚えると
それを解消したいという不安解消要求が起きて
不安解消行動に出ます。

不安解消行動が見つからないと
不安解消要求だけが大きくなり、
悲観的な考え方が増えたり、過敏になったりします。

逆に、余計な心配を与えず
家族を尊重している、
家族の不安を否定しないで受け止める
ということを行い、
少しでもニコニコして暮らせるよう奮闘することは
コロナ疲れを生まないために極めて有効だと思います。

できるだけ家族の感情などを受け入れて
そうだねと言えると良いと思います。

精神的には結構きついところもあると思いますが
これができるようになれば
コロナがなかった場合よりも
家族はあなたといることが楽になるでしょう。
そしてあなたのまねをするようになると思うのです。

コロナを利用して家族のきずなを深めようではありませんか。

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コロナ疲れから家族のメンタルを守る。一時しのぎが貴重な時間であることが東日本大震災の教訓 [災害等]

ついに非常事態宣言が出ました。
不安が募ることは仕方がないことです。

しかし、ただ不安を継続していると
それは自分や自分の周囲にダメージを与え続けるだけで
いわば二次災害とでもいうような
マイナススパイラルに陥ってしまいます。

不安になってもならなくても結果が同じならば、
一次不安を中断した方が得だということもありそうです。
強い不安が継続してしまうと
人間はものを考える力が著しく衰退してしまい
思わず不合理なことをしてしまう原因にもなりますので、
かえって危険になる場合もあります。

また、自分が不安に感じているとか、焦っているとかということは
自分では自覚できないということもあります。

これからお話しすることは
とりあえず試してみて損はないと思います。

状況が似ているところもあれば
違うところもあるのですが、
東日本大震災の時も
地震と津波の外に原発事故の放射能問題という
目に見えない恐怖、不安があり、
被災地には閉塞感がありました。
さらに加えて自粛ムードがそれに拍車をかけた側面があるのです。

例えば芸能人のイベントとか
例えばプロスポーツなどによって
一時的に不安を忘れたことが
とても心強く、
希望と意欲を与えてくれたと思っています。

一時しのぎは、とても大切なことだというのが
教訓でした。

さて、どうやって不安を一時中断するかということですが、
これは人間の脳の特性を利用するのです。

人間の脳は、同時に複数のことを考えられない
という特性があるようです。
「私は同時に考えることができる」という人の多くは
実は、時間差で細かく分断して考えているようです。

そうすると案外不安を一時忘れることは簡単で、
別のことに夢中になることで
脳から不安を感じる力を奪えば良いということになりそうです。

東日本大震災の原発事故の時と違うのは
みんなが集まって何かをすることができないということです。
いわゆる3密を避けてできることを
家族で行うということが良いと思います。

映画、DVDなんかはお勧めで
インターネット回線でも観る事ができます。
将棋やゲームなんかもよいでしょうね。
家族で何人かでそれをするということが有効だと思うのです。

料理やお茶会などもよいでしょう。

面白くなかったら、みんなでそれで笑いながらがっかりする。
というのも楽しい思い出になるでしょう。

一日中一緒にいるならばせめて2時間くらい
そういうみんなで何かをする時間を作ることで
結構不安を中断させることができると思います。

家族のために何かをする
家族の不安解消のために何かをする
これが大事です。

自分一人の場合は、不安に押しつぶされそうになっていても
家族の不安を一時的でも解消してあげたいと思うと
人間は強くなることができるようです。

どうやら人間は、
自分を守るときよりも、
仲間を守ろうとするときの方が
強くなっていることが多いようだということも
東日本大震災の教訓です。

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