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過労死の前に見られる 体が動かなくなる地蔵病 慢性的な短時間睡眠の持続が原因ではないのだろうか [閑話休題]



<事例1>
その人は亡くなってはいないのですが、過重労働(長時間労働、上司との人間関係の不具合)とストレスの一番高まっているときに、突然立ったまま動けなくなったと言います。仁王立ちの状況で、口も動かせなかったようです。どのくらいこれが続いたかわからないのですが、家族が心配してスプーンでかゆ上のものを口の中に入れたけれど、口が動かせないので、だらだら零れ落ちてきたそうです。意識はあり、本人はこの状態を記憶しています。この人は、自分の状態を地蔵のようになったと言っています。その後救急車を呼び、救急隊員の方々にマネキン人形を運ぶように担がれて救急車内に入ったところ徐々に体が動くようになったとのことでした。
自分で体を動かせないという症状と、マネキン人形のように運ばれたということから一定の硬直があったのでしょう。

<事例2>
こちらも生存事案です。慢性的な過重労働で、数か月にわたり月120時間を超える時間外労働をしていました。発症直前2か月くらいは布団に入ってもよく眠れなくなっていたようです。
その人は朝起きて仕事に行こうとしたときに布団の上で異変が起きました。体がグラグラしだして文字通り倒れてしまったとのことです。その後、やはり体を動かすことができず、トイレに行くことができず失禁してしまったそうです。少しして家族に抱えられて自動車に載せられて病院に行ったとのことで、事例1よりは硬直や麻痺の程度は軽かったようです。記憶があります。グラグラしだしたという表現はその通りだと思いますが、その時すでに体が動かずバランスを調えようとすることもできなかったということのようです。もしかしたら硬直も起きていたのかもしれません。

<事例3>
数か月後に自死された事案です。道を歩いていて、突然倒れて動けなくなり救急車が呼ばれたようですが、やはり救急車の中で体が動くようになったようです。亡くなってしまった後に事件を担当していたので、本人から話を聞くことができません。この人も長時間労働の上に、数か月間休みを取っていませんでした。

各事例とも30代男性です。診断名は事例1は最終的にうつ病でしたが、発達障害、人格障害、統合失調症などの病名もつけられました。日本を代表する大学の病院で発症前の様子を調査しないで心理テストだけでその診断がなされたこともあるようで、医学の素人からすると少し奇異な感じを受けました。

事例2は双極性障害ないし統合失調症、事例3は妄想性障害の診断名が付いています。

この他に身体が硬直して動けなくなるという体験は重いうつ病の方からも報告を受けています。

睡眠時間の不足は、必ずしも労働していたために睡眠時間が削られたということだけでなく、その短時間睡眠が何か月か続いていくと、そもそも常時交感神経が高ぶっている興奮状態となり、横になっても眠ることができないということも関与しているようです。

事例1の方は元々大手企業の昭和の猛烈社員をほうふつさせるやり手の方で、現在は大手企業で働いていますが、そこまで回復するまでには数年以上かかりました。

事例2の方も元々幻覚幻想は無く、私がであってきた統合失調症の方とは全く違う状態ですが、向精神薬を飲んでも平気だということは、やはり何らかの精神的な問題を抱えているのかもしれません。現在も睡眠サイクルが破綻しており、就業をすることができません。

事例3の方は自死されました。

他の体が硬直することを教えてくださった方も10年以上を経てもうつ病は治癒していませんが、10年後に復職がかない、時々調子が悪くなって休むのですが、仕事は続いています。

闘病中の事例2の方の状態が一番詳しくわかるのですが、睡眠サイクルが破綻しているというのは、薬を飲まなければ眠られないようなのですが、眠る時は18時間くらい眠ってしまったり、朝起きられないなどの症状があり、規則正しい生活ができないようです。その他は、身体も鍛えているようで、はたから見たら健康体にしか見えません。一番の問題は客観的には睡眠障害です。

それぞれの共通点は、発症前2か月から数か月短時間睡眠が慢性的に継続していたということです。

必ずしも長時間労働のために睡眠時間が圧迫されるというわけではなく、事例2の方が典型的ですが、特に他にストレスが無いけれど、1日4時間程度の睡眠を、定まらない時間帯に取っているうちに(明け方から昼くらいとか、深夜から数時間とか)、布団に入っても寝付けなくなってしまい、眠っても深い眠りを得られず、中途で目覚めてしまうという状態になったようです。このため、1日あたり1,2時間程度の極端な睡眠不足が継続していたことになります。

この他にも、上司とのやり取りが葛藤を高めて、布団に入っても昼間の悔しい気持ちや怖い気持ちがよみがえってきて眠りにつくことができず、やはり1日2,3時間あるいはもっと短い睡眠状態が続いた人もいました。
さらに別の方は職場のストレス以外に、家庭生活でストレスを抱えていて、いずれにしてもゆっくり眠ることができず短時間睡眠が続いていたという事情がありました。

共通することは、脳が眠る体制になっていない状態だったということだと思います。

そのような人間の生理に反する睡眠状態が続いたため、ますます眠る体制を作ることができなくなったのでしょう。それでも生理的には睡眠を要求するというか、眠ろうとしていたのだと思います。いよいよその矛盾が大きくなり、覚醒はしているのですが、脳の一部が眠ってしまったために体が動かなくなったということは考えられないでしょうか。

一種の金縛りの状態です。金縛りは睡眠から覚醒する際に体が動かなくなる状態ですが、不完全ながら意識もあります。逆に覚醒した後に脳が眠り込むことによって、身体が動かなくなるという状態が地蔵状態なのではないかと思っています。つまり、睡眠不足が続くとレム睡眠の状態が早く始まる傾向になるとしたら、その睡眠不足が極端に慢性化した場合、覚醒した後でレム睡眠の一部が始まってしまい、脳から運動神経への神経回路が遮断してしまうという状態になってしまうのではないかという、いわば妄想的な話なのです。この不完全なレム睡眠状態というのは、逆に意識が無く運動をしてしまうレム睡眠症候群というのがあるわけですが、その逆の状態ということになると思うのですが、どんなもんでしょうか。それにしても、身体が硬直する場合は倒れてしまうことが多いか、横たわっているときに硬直することが報告されているのですが、仁王立ちで立ち続けていることができたメカニズムはよくわからないところであります。

いずれにしても、地蔵状態が起きると、その要因を放置すると死に至る可能性があるということは言わなければならないと思います。特に睡眠不足についての研究の益々の発展を願ってやまない次第です。
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自死予防の観点からみた子の連れ去り別居がいかに残された夫の自死を誘発する構造 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

弁護士に対してレクチャーする機会があって、原稿を書かないと収拾がつかなくなるなと思い、書いていたらやはり収拾がつかなくなってしまいましたがせっかくだからブログに上げます。当事者が特定されないように事案は多少変えています。

一番の心配は国や自治体の自殺対策の新しい目玉の一つとして女性の自殺防止が掲げられたことです。
女性の支援というのは、これまでの流れからするとDV対策が強化されることになることは火を見るより明らかです。しかし、この効果は単に男性の自殺をこれまで以上に増やすだけだと思います。
自殺対策として男性の自殺を増進するような政策は何としてもやめるべきだと思い、その思いから長文になったということもあります。



二つのケースからひも解く子の連れ去りと自死
1 二つのケース
 1)離婚訴訟を修習した当事者の20年後の相談
   某区役所の法律相談で、支離滅裂な相談を受けた。60歳代男性。現在の仕事の不満なのかと思いきや、自分の苦境を次々と説明し、結局は20年前に自分は離婚されたがその理由が今もわからないというものだった。明らかな抑うつ状態で、話もまとまらない。そんな状態で予約をして当日相談会まで来られたことにむしろ驚く。
   実は、彼の離婚理由を私は知っていた。20年前の裁判修習で彼の離婚訴訟を修習し、和解期日も立ち会った事件だった。妻の言い分は、夫は家族をかえりみないで家庭でもワンマンであり、自分の仕事ばかり優先して、部下をしょっちゅう家に連れてきてその人たちの家事までさせる。等、自分たちは無視され続けたというものだった。
   夫は、それらの家族の協力のおかげで飛び切りの成果を上げて、一緒に喜んでいたため家族も主体的に自分の仕事に協力していると思っていた。和解の席上象徴的な出来事があった。家の家具をほとんど妻が財産分与で運び出すという和解条項案が示されていて、自分の代理人の説得もあり、おおむね合意をしていたはずだった。ところが、和解期日になって、リビングのテーブルだけは持って行かないでくれと夫は懇願した。おそらくそのテーブルを囲んで、彼は仕事の成果を家族に祝われ、一緒に喜んだ思いでさえもテーブルと一緒にもっていかないでくれと思ったのだろうと肩入れしてしまい一人で涙を流していた。
結局その人は、自分が離婚に至った理由についてその後も理解できていなかった。「どうして」というリフレインだけがいつまでも頭で鳴り続けていて、仕事にも身が入らず、かつての成果が上げられなくなり、結局は退職に追い込まれた。拾ってくれる人もいたが、そこでもうまくいかないため、かつての様子を知る者としては、見る影もなく廃人のような状態に見えた。
彼の行動は、彼自身の満足のためではなく、家族のために、家族が喜ぶと思って(誤解して)行ってきたという意識だったのであろう。
 2)子の連れ去り別居の当事者(連れ去られた方)の親睦会
   子を連れて妻が別居した人たちの親睦会を主宰していた。コロナの前まで仙台駅の居酒屋で年に8度くらいは開催していた。宮城県在住の常連者の外、東京都や神奈川在住常連もこのためだけに新幹線で往復していた。二次会を見込んでホテルを取る人たちもいた。南は沖縄から北は青森まで全国から集まってきたと言っても過言ではない。1例会に8人から10人くらいは集まっていた。女性も一人常連がいた。
   毎回新たなメンバーが加わるため、毎回自己紹介をしていた。つまり自分の事件をみんなに開示していた。それだけで一番大事な部分がそれぞれのメンバーに共有されていたのだと思う。だから、みんな支障のない限り参加したし、参加できない時はメールで近況を知らせてきたりしたのだと思う。
   つまり、一番肝心なことを共有していたのだろう。説明することがツラいこと、説明しても自分の周囲では理解されないことを、ここでは口にして説明しなくても参加者全員で共有できるということが、その人の実生活にはない安心感を得られたのだと思う。新幹線代を払ってもホテル代を払っても駆け付けたい集いだった。
   また、ネットの当事者団体と違って、妻、元妻の悪口を言わなくても良い(恨みなどは言うにしても)ということがまたさらに楽だったのだと思う。
   まとめると、当事者は
・ 実生活で関わる他人に理解してもらえない精神的辛さを抱えている
・ とにかく子どもと会えないこと、子どもの成長にかかわれないことが辛く、
・ なぜ妻は子どもを置いて自分から離れて行ったのかわからない
・ できることならば、子どもに定期的に面会できるくらい信頼関係を復活させたい
ということになるのだろう。ポイントは理解されない辛さとその辛さを理解してもらうことで大きな安堵感を抱くということになると思う。
2 当事者の精神的苦痛のポイント
  数々のライフイベントの調査によると、離婚は最高位の精神的打撃があると分析されている。離婚の中でもとくに連れ去り事案は精神的苦痛が大きく、私の知る範囲でも毎年のように自死の報告を受ける。当事者の話をもとにして感情や精神の動きを感じるポイントを挙げてみる。
1)ある日仕事から帰ったら妻と子どもが家におらず、荷物もなくなっていたことの衝撃。当初は、何らかの事件に巻き込まれたと思い、行方を探しまくる。心配、不安、焦りの感情が高まっている。
2)警察に連絡をすると、「居場所は言えないが元気にしている。こちらで保護している」等という返事がされるようだ。このあたりから、「自分はこれまでの人生をまっとうに生きていて、警察は自分の味方のはずだと思っていたが、どうやら警察は自分に対して好意を持っていない」ことに気が付き、自分が体制側の人間であるという自信が崩壊する。自分のこれまでの立場の安心感が通用しない状態にあることを知り、著しい戸惑い、恐怖を伴う心細さを感じる。
3)何をしても妻と連絡が付かないその他の事情から、どうやら自分から子どもを連れて妻が逃げたということを察する。先ず現実を受け入れられない。(朝目が覚めたら、妻が子どもを連れて出て行ったことが悪い夢で、元の同居生活をしていてほしいと何度も思う。自分が夫として、父親として、人間として否定の烙印を押されたような気持になる。仲間だと思っていた人間から、あなたは仲間ではないと突き付けられたことになり、自分の安住していた地盤が崩れるような頼りなさを感じる。
4)警察や行政が妻の自分からの別離に協力しているようで、自分としてはどうやっても子どもにさえ会えない、妻と話し合いもできない、暴力的、一方的に自分が不幸に陥れられて解決方法が無いという絶望感を抱く。
5)離婚調停などで離婚理由を見ても、多くのケースではほとんど何も書いていない。「精神的虐待をする」とか「暴力がある」とか書かれるが、夫はそれに心当たりがない。自分に理由がなく妻の何らかの都合で離婚を望んでいるのではないかと懐疑的になる。
6)離婚調停で提出された資料から、自分はDV加害者として区役所や警察から扱われていることを知り愕然とする。裁判所ですら、自分に対して攻撃的な言動をしたり、恐れているような態度をしているので、自分がこれまで軽蔑していた暴力団か何かのように扱われていると感じる。
7)裁判でも、乳幼児期に一緒にいた、あるいは別居後一緒にいるということで妻側が親権を取ってしまう。それでは仕事を一生懸命やっていたために親権が失われる、理不尽な別居が裁判所によって肯定されると感じ、信じられるものが何もないと感じる。
8)こちらに離婚理由はなく、結果として判決でも慰謝料も認められないのに、妻の離婚の意思が固く別居の事実を理由に離婚が認められる。さらに信じられるものが何もないと感じる。
  こちらの言い分を認めず、論理性もなく慰謝料が認められればこの失望、絶望感はさらに強くなる。
9)これまで一緒に生活していて、子どもとも仲良かったのに、子どもと会うことができない。会えたとしても、月1度数時間しか会えない。あいたい。誰も妻を説得してくれずに、自分に我慢を強いて、手紙の交流で我慢しろとまで言われる。改めて父親としても否定されたと感じる。理不尽な状態が社会から放置されているという強い孤独を感じる。また、それらが回復する方法が見つからないということで絶望を感じる。
10)子どもと会えないことはそれ自体がストレスであり、焦燥感を抱くポイントとなる。当事者外の弁護士や裁判所は、なかなかこの焦燥感に寄り添うことをしない。
3 絶望を抱かせる人たち 警察、行政とNPO、弁護士、裁判所
 1)警察
   生活安全課でいわゆるDV相談を受け付けている。一方当事者の妻の相談だけを受けて、あたかもその事実があったかのような認定をして支援措置をとる。支援措置は原則として身体的暴力が無ければできないことになっているが、その要件について必ずしも現場の警察官は熟知していないようだ。まるで支援措置を何件するというノルマのようなものがあるように感じられる。
支援措置の基本は身を隠すということである。シェルターに身を隠すことが通常である。但し、借り上げアパートなど、探せないところを用意していることが多い。妻に別居を執拗に勧める。別居を嫌がって抵抗した妻を2時間説得して別居させた例もある。そこでは統合失調症の妻の話だけで、「夫のDVは治らない。このままだと殺されてしまう、だから早く逃げろ。」と説得していた。後に妻が保護命令を申立、裁判所によって夫には暴力が無く妻の幻想であるという理由で申し立てが棄却された事案である。
   妻が荷物を取りに来るときに警察官2名が同行して、夫の目の前で部屋に上がり込んで荷物を取る妻をガードしていた事例がある。夫はうつ病発症。
   妻の行方を捜しに妻の実家に行こうとしたら、家の付近で警察官に連行されストーカー警告を受ける夫もいた。やはりうつ病発症。
妻の実家近くまで行ったら大勢の警察官に取り囲まれ警察署の取調室に連れていかれ、「今後暴力を振るわない」という誓約書を書け。書かないと返さないと言われたケースもある。この夫は機転が利き、今後『も』暴力を振るわないと誓約書を書いたようだ。断り書きのない誓約書は当然離婚訴訟でつかわれることだろう。中には、離婚後10年を経て、転居の手紙を書き、「お近くにおいでの際はお立ち寄りください」という文面によって、「義務なきことを強要した」と認定した警察署もある。
2)行政、NPO等
  DV相談の連絡票は、相談をしたものが「被害者」の欄に記載され、その相手を「加害者」の欄に記載することになっている。被害者加害者の意味は相談をした者その相手方であると総務省は各自治体に注意喚起をしている。しかし、自治体担当者は、実際には真正の加害者として夫を扱う。妻が連れ去ったのに夫の元に帰ってきた子どもの保険証を妻が持って行っているため区役所に相談に行ったところ、「あなたとは話す必要が無い。帰れ。」という対応を取られた。この担当者は、単に被害者の欄に妻があり、加害者の欄に夫の名が記載されていたという事実以上の具体的な事実を何ら把握していない。支援措置が取られたというだけで、その相手を虐待者のように扱って、正義感をぶつけ夫に精神的な打撃を与えることをいとわない。
  妻の話が疑わしくても、信じるようにという研修がなされている。「DV被害者は被害者であるから精神的に動揺しており整序立てて話せない。逆に夫は被害者でないから冷静に論理的に話すことができる。だから、夫の話を聞かないし、妻の話がつじつまが合わないところが多々あっても、疑わない。疑うことはDV被害者に寄り添っていない。」という教育である。相談担当者はまじめで正義感が強い人たちが多いため、我こそは被害者に寄り添う人間であるということを競っているようでさえある。相談機関から「被害者」、「加害者」の氏名が記載された相談票が警察に渡されて、逃亡等の支援措置が行われる。
  初めからDV相談というタイトルで相談を受けるということもあり、DVがあるものとして待ち構えている。本人からDVの相談が無くても、「DVに気づいていない哀れな人間が相談に来ている」という感覚である。何か妻の不安を聴くと「それは夫のDVだ。あなたは悪くない。」というキメ台詞がはかれる。「確証バイアス」の教科書みたいな認定である。例えば月収18万円の夫で、専業主婦の妻がいて、生活費は夫の口座から引き落とし、食料品生活雑貨は夫がお金を出していて、妻に月4万円を渡している場合でも、経済的DVという認定があった。
  夫は反論する機会もなく、妻子と会うことも連絡を取ることもできず、親権を侵害されている。これらの支援措置は、裁判所が関与しないで断行される。
  シェルターでは保護命令の申立用紙が渡されるほか、法テラスを使って弁護士を選任して離婚調停を申し立てることを勧められる。保護されているという意識があるため、それを断ることはなかなか難しい。
3)弁護士
  相手方弁護士は、既に既成事実となったDV被害者の代理人として加害者に通知を出す。具体的事実は何も書かずにDV、精神的虐待を理由に離婚調停を申し立てるといって、当然の権利だから婚姻費用を払えと命令口調と夫が受け取る文面を書く。極めて攻撃的な文章が多い。これは、DVという言葉に自分自身が負けているためである。DVという言葉だけしかないと、最悪のDVを想定し、夫は人格に障害があるだれかれ構わず粗暴なふるまいをする人間だと想定してしまうようだ。だから夫の粗暴な態度から自分を守ろうとして攻撃的態度をとって防御をしているということが真実であると思われる。
  弁護士の本能として依頼を受けた以上は離婚が確実に実現し、慰謝料もできるだけ高額になるように主張立証活動をしようとするようだ。針小棒大で、理屈に合わない主張をすることがみられる。逆にDVだ精神的虐待だという言葉は出すものの、具体的な夫の行為が記載されていない書面も多い。妻から事情聴取をしても、妻が離婚したい理由を良く把握、理解していないからだと思われる。あとからどんどん話が変わる、つまり虐待やDVのエピソードが増えていく事例も少なくない。具体的な事実を主張しなくても別居の事実と離婚の意思の方さで離婚を認めてきた裁判所の傾向が大きく寄与している。
  夫は離婚理由に納得できるわけはなく、敵意だけを理解して、反撃に出ることばかりを考えるようになる。中には弁護士という職業は立派な人であり、公平かつ論理的に事案を見て適切な対処をする人たちだと考えている当事者がいて、素朴な疑問をぶつけてくる。説明に苦慮することが多い。
4)まとめ
  一般市民は、警察、行政、NPO、裁判所、弁護士という職業は、公的な立場に立ち、事案を正しく分析し、公平に市民に接するものと信じている。それらの立場の人間が、自分の言い分を聞かないで、自分に対して否定評価をすることに、耐えられない恐怖を感じるようだ。心当たりがないにもかかわらず、自分が否定すべき行為をしたという公的裁きを受けているような、不安と焦燥感と絶望感を受けている。
4 子どもと会えないことによる心理的状態
  当事者が一様に声を上げることは子どもと生活できない辛さである。何しろ連れ去り別居の前までは、我が子を大切にして、我が子の喜ぶことを一生懸命考えて行動していた人たちである。妻が連れ去り別居をする父親の特徴点は、子煩悩であり子どもとのコミュニケーションを上手にとっている場合が多い。連れ去り別居の理由は、妻が子どもをめぐって夫に嫉妬し、家庭の中で自分だけが孤立するのではないかという不安が原因なのではないかと思うほどだ。
  子どもの写真、子どもと旅行に行った写真、近所の公園で遊んだ写真等、父親のスマートフォンは子どもと良好な関係にあったことの証拠で満ち溢れている。
  子どもと会えないことが、父親の精神的打撃を強めることは間違いない。その理由について述べる間でもないと思われているが、実は我々が意識していない現代社会の人間関係の状態という事情が強めているようだ。
  人間は群れに所属していたいという本能を持っている。この本能があったため、言葉のない時代に群れを形成して、外敵や飢えから身を守って人類を生きながらえることができた。数百年前には、このような本能を持っていない個体もいたかもしれないが、群れに入らないために肉食獣に襲われたり、エサを取りはぐれて死滅していったと思われる。
  群れに所属したいという本能は、一人でいることに不安や焦りを感じること、群れから追放されそうになったらやはり不安や焦りを感じること、群れに貢献できていると思うと安心をすること、群れに迷惑をかけると不安や焦りを感じるなど、感情が起きることで、群れを維持していく方向で作用していたものと思われる。ストックホルム症候群で知られる現象として、自分を人質にしている犯人にさえ仲間意識を感じてしまうのは、この群れに所属したいという本能、基盤的な要求があるからだと言われている。
  200万年くらい前であれば、この本能は人間にメリットばかりを与えていただろう。人間は数十名から200名弱の群れを形成して、およそ一心同体として配慮をしながら暮らしていたと考えられている。仲間は仲間を見捨てなかったし、仲間が苦しむことは自分が苦しむことと同じような感覚になってみんなで解決しようと考えたのだと思われる。仲間の中に帰れば、みんな無条件に安心したし、充たされた気持ちになっていた。
  ところが現代社会は違う。街ですれ違う人は見ず知らずの人で、自分が困っていても助けてくれる人はいないか少数の奇特な人であり、見て見ぬふりをされる場合が多い。職場に行っても、常に同僚と比較され、偶然の要素までも自分の査定評価の対象となってしまう。常に緊張して全力を出すことが当たり前で、それができないと群れから容赦なく追放されるか、いづらくなって自らフェイドアウトするしかない。一心同体とか仲間を見捨てない等はもちろん、一人一人に対して細やかな配慮がなされることは望むべくもない。
  現代人は、他者とかかわりながらも群れの中にいるという安心感を持てない状態になっているのではないだろうか。昭和の時代は、家庭をかえりみないで働いていても例えば職場において仲間の中にいるという安心感を抱くこともあったのかもしれない。現代では見られない仲間づくりということを、先輩から引き継いだ方法で習慣的に行っていたように思える。現代社会は職場で、ことさらに仲間づくりというものがやられているとは思えない。人間としてのつながりではなく、会社全体で仕事に関して切磋琢磨するという労務管理が行われていればまだ良い方ではないだろうか。
  解雇の不安、賃金カットの不安、低評価の不安と、職場という人間関係は安らぎが生まれる人間関係ではない。あからさまに取替可能な人間だとして扱われているのである。
  これに対して家族はどうだろうか。
  現代社会は核家族である。舅姑が機能していれば、夫ないし妻の行動提起や行動制限が期待できた。嫁姑問題ばかりがクローズアップされるが、本来は家族同士がいたわりあう方法を慣習の形で伝えられていたこともある。性格の一致している夫婦などいない。意見がなんとなく一致しない場合に、つい我が出てくることがある。典型的な問題は子育ての方法である。無意識に主導権争いのような対立が生じてしまい、それなりの緊張感が生まれる。
  それに対して、子どもとの関係は無条件で仲間である。子どもは手をかければ喜んでくれるし、なついてくれる。子どもからすると父親は絶対的な存在である。子どもが平穏に成長していくことに父親として貢献できることは多い。無条件に、群れに所属する要求を実感できるのは子どもとの関係である。安らぎ、充実感、自己効用感を抱くことは子どもとの関係が一番である。無自覚のまま、子どもが生きようとする基盤を支えてくれていることが多い。子どもとの関係を断ち切られることは、人間の所属の要求の最も充たされる人間関係を絶たれてしまうということである。人間の根源的な要求を充たす代わりの人間関係は存在しない。
5 子を連れての別居をされた者の心理状態
  人間には根源的な要求として所属の要求があるとの説を述べたのはバウマイスターの「The Need To Belong」という論文である。自殺予防の研究ではよく引用をされている論文である。そしてその中でよく引用されている部分が「この所属の要求を充たされない場合、人間は心身に不具合が生じる」と指摘している部分である。
  現実の子連れ別居を経験した当事者は、多くがうつ状態になる。自分のことなのに自分ではどうしようもないことに絶望感を抱くようだ。別離の理由がわからない場合は、自分の彼女に対する行為を振り返って、「あれが悪かったのか、これも悪かったのか。」と自分の否定するべき行為を際限なく自分に問いかけてしまう。やがて自分で自分自身を否定しだしていく。はたで見ていると極めて危険な状態に思える。
  そして、子どもに会うチャンスをどんなに可能性が低くても、つい期待してしまう。子どもに会うということは自分を取り戻すことでもあるようだ。しかし、それらのチャンスだと思う方法はことごとくダメになる。現実に妻が思い直して、元に戻るという事例が最近生まれて生きているが、ごく短期に変わることは無い。早くても数か月はかかる。2,3年かけて、子どもを含めた交際期間のような準備期間を経て復縁という例もあった。これらの成功例は、妻の子連れ別居に対しての夫側の言いたいことの一切を封印して、妻にこちらに対する安心感を持ってもらうように様々な具体的行動をとることによって可能となる。
  しかし、このような結果に向けた道筋が見えない場合は、つい、我が子という自分の人間としての根源的な要求を充たす存在を奪った相手という意識から敵対的な姿勢を示したり、制裁感情をあらわにしてしまい、自らが再生のチャンスをつぶしていることがほとんどだ。妻は何らかの理由で、本当に夫を怖がっていたり嫌悪したりしている。そのような敵対的行動をとられれば、「ほらやっぱり」という態度をとることは必然である。案外別居後の夫の対応が真実の離婚理由になることもある。家族再生の公式を知らない夫は、素朴な正義感に任せて、正義の実現を信じて正解と真逆なことを行う。その皮肉を知らないため、絶望する機会だけが増えていくということが実情である。
6 解決の方向
  一番の問題は、警察、役所、NPOなどが、あるいはそこに弁護士も入るかもしれないが、夫婦のトラブルの解決方法が離婚しかないことが最大の問題である。夫婦にはトラブルがつきものである。繰り返すが性格が一致する夫婦なんていない。どちらかが甘酸っぱい我慢をしているのである。時が過ぎればその我慢が屈辱に感じてしまう時期がやってくる。些細なことも気になって仕方が無くなってくる。これは当たり前のことである。
  また、その時機にどのような態度を相手にすればよいのか、そのノウハウが無い。嫁姑のように常時観察して小うるさく注意する人間も皆無である。また、最近の教育では、意識的な仲間づくりをするノウハウを覚える機会が無い。このため当たり前に生じる夫婦の衝突が致命的な問題になってしまうということが実感である。
  先ず社会が理性的に行うべきことは、現代社会において対等平等のパートナーの作り方のノウハウを普及啓発することが必要だと私は感じる。一番大切なことは、最も根源的な群れである夫婦が相互に安心感を与えてお互いが人間としての根源的要求である所属の要求を充たすことの必要性を理解することである。
  次に相談機関の方向性の第1選択肢を離婚ではなく、家族再生を原則とするべきである。DVや精神的虐待を理由とする離婚要求で、実際にDVや精神的虐待が認定されたケースは少ない。子の健全な成長の観点も視野に入れて、夫婦が円満に過ごすためのノウハウを伝授し、妻の相談であれば、夫に意見を述べる双方向の公平な回答をするべきであると考える。妻が現状に不満を抱くと必ず「それは夫のDVだ。あなたは悪くない。」という回答がなされるように感じる。それはどんな相談でも、DV相談として取り扱うという入り口から偏っているのではないかという懸念が、実務的経験からは払しょくしえない。
  それから妻が別居する場合でも、子どもとの交流を確保する場が必要だ。厳重な警戒でも何でも、とにかく面と向かって会える場を行政の責任で確保するべきである。
  支援措置は、それ以来子どもと一度も面会できないままになってしまう可能性のある親権侵害を断行する手続きである。裁判所の許可を得ないで警察の片側からの事情聴取で行うことは、世界標準で考えれば公的機関の人権侵害だと考える。日本では人権意識の高い政治家が少ないことが如実に反映されている。このような人権侵害となる支援措置は廃止するべきだ。あるいは裁判所の関与があることが最低条件になるだろう。
  離婚調停を申し立てる場合、その理由をできるだけ詳しく主張するべきだと思う。これは相手方の精神的負担を少し軽減するという効果もあるが、それによって離婚を受け入れ、迅速に事後トラブルなく離婚が成立する可能性も高まるという申立人の利益でもある。
  面会交流については、裁判所は積極的に条件整備をするべきだと思う。面会交流がこの利益になるということは、裁判所においては著名な事実である。ところが調停委員は、申立人と相手方の公平を理由に積極的に面会交流を働きかけないことが少なくない。公平よりも子の福祉を家庭裁判所は優先するべきであることは明白である。あとは、面会の方法など双方が安心できて、スムーズに面会が実現することにこそ裁判所の役割であると思う。
  夫側の代理人は、先ず、子連れ別居の理由について科学的に把握して当事者と情報を共有するべきだ。当然、医学、心理学などの基礎的な知識は不可欠である。
  夫側が再生を目指すのであれば、再生のノウハウを習得して臨機応変にアドバイスをして手続き活動を推進していくことが必要だ。無駄に敵対するような活動は、再生にとっては逆効果にしかならないことをきちんと提起しなくてはならない。
  とにかく、他人の家庭事情に口を出す場合は、双方の言い分をきちんと聴取することが鉄則である。また、事実上子どもに会えないという人間としての根本的な生きる利益を奪うような行為は裁判手続きによってこそ認められるべきだと思う。
  本件問題が広く議論されることを切に願う次第である。

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【ダイジェスト版】自分に降りかかった問題は、他人の方が解決しやすい理由 だれに協力を求めたらよいのか これまで「自分で泣き止んできたんだ」としても [進化心理学、生理学、対人関係学]



自分が今人生の岐路に立っているとか、自分の立場を失ってしまうのではないかとか今思い悩んでいる人は、誰かに相談した方が解決しやすいという当たり前のことを見失ってしまっているものです。

先ず、大きな悩みがあると人間はどのような感情を抱くかということを説明します。これは人間であれば基本は同じです。

<困難な課題がある時に湧き上がる人間の感情>
1)自分に危険が迫っている
2)この危険を排除しなければ自分は終わってしまう
3)自分を守りたい、守らなければならない

この感情の出どころは、例えばジャングルにいる場合に猛獣が近くにいる、猛獣に気づかれて襲われたら死んでしまうという感覚と基本的に同じです。しかし、現実の私たちの悩み、トラブルは、それによって死ぬようなこと、つまり身体生命の危険はあまりないのですが、あたかも身体生命の危険があるかのように不安、焦りという感情が生まれてしまうのです。

このような不安や恐れ、焦りという負の感情は、思考に影響を与えてしまうことが問題なのです。負の感情が施行に与える影響は以下のものです。

<負の感情による思考の変化>
A)思考をする力が弱くなる。
B)大雑把な思考しかできなくなる。
C)二者択一的な思考になりやすい。
D)悲観的な結論を出しやすい。
E)他人の感情などという目に見えないものについて推測ができなくなる。
F)細かい違いに気づかなくなる。

危険を感じると逃走モードになり、逃走モードになるとあえて思考力を弱めていく戦略を人間は取ったわけです。

危険察知 ⇒ 不安など負の感情 ⇒ 思考力の減退

というのは、きわめて合理的な人間の生存戦略だったということが言えると思います。このようなメカニズムのおかげで、猛獣から身を守り我々の先祖は生き残ることができて、我々が生まれることができたのです。

しかし、現代社会では、人間関係上の問題にすぎないのに、命の危険が起きているかのような感情を抱いて思考が低下することは、デメリットばかりが目立ちます。

例えば資格試験を受けるとき、この試験に落ちると自分が望む社会的立場を獲得できないという人間関係上の危険を感じるわけです。そうして不安や焦りがわいてきて大雑把な思考しかできなくなると試験に合格できない危険が高まってしまいます。
例えば仕事でミスをして上司から叱責されているとき、やはり命の危険を感じてひたすら逃げるためにあまり深く考えられないで言い訳をしてしまうと、さらに叱責される要素を作ってしまうわけです。
さらに他人に何か指摘をされたとしても、本当は善意で、仲間としてサポートしようと指摘をしたのに、自分の失敗、不十分点、欠点等を指摘されてしまうと、勝手に悲観的になり、自分が攻撃されたと思ってしまい、反撃してしまって相手から見放されるなんてこともよくあることです。

<第1の結論>
つまり人間関係のトラブルなんて、本当はトラブルではない場合もあり、悲観的思考によって勝手にトラブルがあると思い込んでいる場合があるということです。
また、同じようにそれほど大したトラブルではないのに、とても大きなトラブルであるから自分にとっては致命的であると思ってしまう傾向もあるわけです。

<第2の結論>
人間関係のトラブルの存在の錯覚と解決方法のミスを生むのは、誰が味方で誰が敵なのか判断が付かないことです。多くの人たちは味方として利用できる人を警戒したり、攻撃したり、遠ざかったりしています。

何よりも追い込まれている人は二者択一的な思考しかできなくなっていますから、解決方法も単純であることを望んでしまいます。これでは解決が難しくなるばかりです。

<第3の結論>
人間関係のトラブルを解決するにあたって、一番多い間違いは、損害を無かったことにしようとしてしまうことです。二者択一的な思考しかできなくなっているのでそういう「感情」になってしまって、つまり「思考」ができない状態になってしまいます。

<最終結論>
結局人間関係のトラブルで追い込まれている人は「思考」する力が減退しているために、「感情」で解決したいと思っているだけで、解決のための「思考」ができていません。

悩んでいるけれど、何がトラブルなのか、トラブルのうちの解決するべきところはどこなのか、切り捨てても良いところを切り捨てて大切な利益を守り抜く、そもそも一番守るべきものは何なのかということが見えなくなってしまうということなのです。

だから、自分以外の人間に協力してもらって解決をするべきなのです。

では、誰に協力をお願いするべきなのでしょうか。

第1に、あなたの利益を第一に考えてくれる人である必要があります。家族であるとか運命共同体の人であれば、あなたの問題を解決することは自分の問題として解決しようとしてくれるでしょう。

第2に、あなたと同化しすぎない人です。あなたの悩みに共鳴してしまって、自分のトラブルだという感情がわいてしまえば、他人に協力してもらう「うまみ」もなくなります。その人も思考力が減退してしまうからです。

理想を言えば、一段高みに立って、あなたがこのトラブルで致命的な損害を受けても、その損害は自分が引き受けるから心配するなというような人がいればとても心強いでしょう。

以下は技術的な細かい協力者の理想です。
・ あなたに、あなたが考えていることとは別の選択肢があるということをはっきりと提案できる人
・ あなたにあなたがこだわっている価値観を捨てることが可能であることを告げることができる人
・ 初めから選択肢を捨てるのではなく、それぞれのメリットデメリットを思いついて提案できる人
・ その行動をとることの見通し、成功する可能性を理由を挙げて説明できる人
・ あなたが一番大事だと思っていること(感情ではなく思考の結果)を尊重してくれる人(但し、それを捨てるべき時は捨てるべきと言える人)
・ 焦らないで、許される範囲で時間を一杯に使って解決することを提案できる人
・ 自分の考えに固執しない人 あなたの意見(感情ではなく思考の結果)の良いところを取り入れてくれる人

できれば、その人に協力をお願いしたのであれば、その人の提案をすべて受け入れろとは言いませんが、先ずその人の提案を落ち着いて考えてみるということが大切です。協力者を得て何とかなるという気持ちをもって、感情を鎮めて、思考を働かせることができれば80%以上、結局は解決しているわけです。

思い悩むことも人生にとっては有益なことになるのかもしれませんが、それ自体は合理的な解決に向けて有益なことではなく、デメリットだけが多いことだと言って差し支えないと思います。まずは信頼できる人間に相談をすることが理にかなっていることだという結論は間違いないと思います。

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自分に降りかかった問題は、他人の方が解決しやすい理由 だれに協力を求めたらよいのか これまで「自分で泣き止んできたんだ」としても [進化心理学、生理学、対人関係学]



今大きな悩みを抱えていない人ならば、そんなことぐらいわかっているよと思われることかもしれません。しかし、自分が今人生の岐路に立っているとか、自分の立場を失ってしまうのではないかとか今思い悩んでいる人は、案外その当たり前のことを見失ってしまうものです。

他人の力を借りることが有利だという理由には、例えば年長者が、その悩みについて既に体験しているとか、解決の知識やノウハウがあると言ったことも考えられます。しかし、自分のことを自分ひとりで解決することが困難であるのは、経験不足や知識不足などよりも大きな原因があります。

ここでは、言葉を区別して考えることがとても大切だと思います。区別するべきことは、不安や恐れ、焦りなど自然に湧き上がる「感情」と、理性を使って能動で気に論理を組み立てる「思考」ということです。通常だれでも理解していることですが、この違いを意識するだけで理解はより簡単になるはずです。

先ず、大きな悩みがあると人間はどのような感情を抱くかということを説明します。これはそれぞれの人間にとって基本は同じです。

<困難な課題がある時に湧き上がる人間の感情>
1)自分に危険が迫っている
2)この危険を排除しなければ自分は終わってしまう
3)自分を守りたい、守らなければならない

この感情の出どころは、例えばジャングルにいる場合に猛獣が近くにいる、猛獣に気づかれて襲われたら死んでしまうという感覚と基本的に同じです。現実の私たちの悩み、トラブルは、それによって死ぬようなこと、つまり身体生命の危険はあまりないのですが、あたかも身体生命の危険があるかのように不安、焦りという感情が生まれてしまうのです。

わたしたちが通常直面する問題や悩みは、人間関係の悩みです。人間関係の悩みとは、突き詰めれば、誰かとの関係が終わってしまう、自分の評価が致命的に下がってしまう、他人から一段階下に見られてしまうということです。人間関係の悩みがある場合と、身体生命の危険がある場合と、その悩み方、不安、焦りは同じ感覚であることに気が付くことは、解決の行動に出る場合に大変有益です。

このような不安や恐れ、焦りという負の感情は、思考に影響を与えてしまうことが問題なのです。

<負の感情による思考の変化>
A)思考をする力が弱くなる。
B)大雑把な思考しかできなくなる。
C)二者択一的な思考になりやすい。
D)悲観的な結論を出しやすい。
E)他人の感情などという目に見えないものについて推測ができなくなる。
F)細かい違いに気づかなくなる。

少し解説します。
先ほど述べたように、人間関係上の悩みであっても、感情は身体生命の危険と同じ感情になります。これは、群れを作る以前の人間の祖先としての動物にとっては、生き延びるために大切なメカニズムでした。つまり、熊などが近くにいるならば、生き延びるためには熊に見つかる前に逃げるしかないわけです。
 余計なことを考えないでひたすら逃げるという脳内モードにすることで、逃げるための筋肉の動きが緩やかになってしまうことを避けたのでしょう。走るのが遅い人は、余計なことを考えないで走るということが苦手なのではないでしょうか。何も考えないでひたすら逃げるということが人間の生存戦略だったわけです。

それでもわずかに、逃げ道の選択ができる程度に頭が働くのならば、少しは生存確率も高まると思います。その選択肢は右か左かという以上複雑なものは無かったのだと思います。二者択一ができれば十分であるし、それだって正しいかどうかはよくわからず、逃げ切ってみなければわからない。しかし、二者択一以上の思考が生まれてしまえば、ひたすら走ることの邪魔になるので、それ以上は考えないメカニズムが生まれたのでしょう。また、とにかく早く決断することが大事なことです。迷っているうちに熊が近づいてくるかもしれません。物事を単純化して、早く決断し、決断したら考えないでまたひたすら走り続けるということが生存戦略だったのだと思います。

悲観的な結論になりやすいことも生存戦略です。危険の相手がどの程度近くに迫っているか、あるいはすでに遠ざかったのか、よくわからないうちはとにかく逃げる。もしかしたら、まだ近くにいるかもしれないので、近くにいるかもしれないという根拠のない悲観的な思考の方が、根拠なくもう大丈夫だろうという楽観的な思考より安全な場所に逃げることができます。悲観的思考は明らかに生存可能性を高めます。

このように、逃走モードになると、あえて思考力を弱めていく戦略を人間は取ったわけです。思考力が弱くなっているため、他人の考え、他人の感情を推測する等という複雑な思考力は発揮できませんし、細部を観察するという時間をかけて意識的に集中するということができなくなることも理にかなっています。

つまり、危険察知 ⇒ 不安など負の感情 ⇒ 思考力の減退
というのは、きわめて合理的な人間の生存戦略だったということが言えると思います。このようなメカニズムのおかげで、我々の先祖は生き残ることができて、我々が生まれることができたのです。

思考力が減退したため、適切な逃走経路を選択できず、あるいは逃げなければ見つからないものを逃げてしまったので猛獣に気づかれて襲われたということはあったかもしれませんが、圧倒的多数はこのメカニズムのおかげで生き残ったのだと思います。自然のことですから完璧はありません。よりましな行動パターンの方が生き残るわけで、生き残った者が選択したパターンが遺伝子に組み込まれて我々に引き継がれたということになります。

その後人間の祖先は群れを作るようになり、群れに所属することによって外敵から身を守るという生存戦略をとるようになりました。これも理性というよりは感情を利用したものだったのでしょう。仲間から追放されるということは、熊に襲われることと同じように危険を感じ、同じようにひたすら追放されないようにしたのだと思います。追放それ自体というよりも、追放につながる群れの仲間の行動、つまり、仲間が自分を攻撃する、攻撃まであからさまにされなくても、自分だけ食料などの配分が少ないなどの差別がされる、自分の評価が下がるような失敗をして仲間に迷惑をかける、仲間の足を引っ張る等の仲間や自分の行動によって、命の危険が起こっているかのような負の感情が起きたのだと思います。

環境の変化によって、脳内システムと現実環境のミスマッチが起きてしまう事態になったわけです。
但し、このミスマッチは、群れの人数が200人弱のような少人数の時代はあまり表面化しなかったと思います。今回は詳しくのべません。ミスマッチが表面化してきたのは、これまでの話のスパンではなくてつい最近、農耕を始めて群れが大きくなった今から1万年くらい前からの話なのだと思います。

特に現代社会では、人間関係上の問題にすぎないのに、命の危険が起きているかのような感情を抱いて思考が低下することは、デメリットばかりが目立ちます。

例えば資格試験を受けるとき、この試験に落ちると自分が望む社会的立場を獲得できないという人間関係上の危険を感じるわけです。そうして不安や焦りがわいてきて大雑把な思考しかできなくなると試験に合格できない危険が高まってしまいます。
例えば仕事でミスをして上司から叱責されているとき、やはり命の危険を感じてひたすら逃げるためにあまり深く考えられないで言い訳をしてしまうと、さらに叱責される要素を作ってしまうわけです。

さらに他人に何か指摘をされたとしても、本当は善意で、仲間としてサポートしようと指摘をしたのに、自分の失敗、不十分点、欠点等を指摘されてしまうと、勝手に悲観的になり、自分が攻撃されたと思ってしまい、反撃してしまって相手から見放されるなんてこともよくあることです。

本当は違うのに攻撃されているという感情は、思考力の減退で相手に対してまずい対応をしてしまってさらに悪化する、また別の問題も引き起こしてしまうということが法律的紛争でもよく見られます。

<第1の結論>
つまり人間関係のトラブルなんて、本当はトラブルではない場合もあり、悲観的思考によって勝手にトラブルがあると思い込んでいる場合があるということです。
また、同じようにそれほど大したトラブルではないのに、とても大きなトラブルであるから自分にとっては致命的であると思ってしまう傾向もあるわけです。

半世紀以上人間をやっていると、人間関係のトラブルで命が無くなるとか、回復不可能な将来的損害があるということはほとんどないことがわかりますが、若いうちはもちろんそんなことはわかりませんでした。一言で言えば何とかなることは間違いないと思えるようになりました。さあどうやってこの致命的な問題を乗り越えるのかということが楽しみに見えてくることさえあります。

<第2の結論>
人間関係のトラブルの存在の錯覚と解決方法のミスを生むのは、誰が味方で誰が敵なのか判断が付かないことです。多くの人たちは味方として利用できる人を警戒したり、攻撃したり、遠ざかったりしています。そうして混乱している感情に乗じてあなたに損害を与えて自分の利益を得ようとする人の言いなりになるということが多いです。

何よりも追い込まれている人は二者択一的な思考しかできなくなっていますから、解決方法も単純であることを望んでしまいます。あなたに損害を与えて自分の利益を得ようとする人は、単純な解決方法で単純に解決できると提案してきます。不安や焦りがある人はつい、それで解決するのであればと他人の嘘、まあ嘘とは言わないでも解決しない方法に飛びついてしまう危険があります。

<第3の結論>
人間関係のトラブルを解決するにあたって、一番多い間違いは、損害を無かったことにしようとしてしまうことです。二者択一的な思考しかできなくなっているのでそういう「感情」になってしまって、つまり「思考」ができない状態になってしまいます。

本当は切り捨てても良いこともっても大事なもので失ってはいけないものだと思ってしまうわけです。それよりも切り捨てるものは切り捨てて、大きな利益を確保するということをしなければなかなか解決には至らないということが多くの場合でしょう。

二者択一的思考は、全部残すか全部失うかという判断を迫られていると錯覚させてしまいます。

<最終結論>
結局人間関係のトラブルで追い込まれている人は「思考」する力が減退しているために、「感情」で解決したいと思っているだけで、解決のための「思考」ができていません。

悩んでいるけれど、何がトラブルなのか、トラブルのうちの解決するべきところはどこなのか、切り捨てても良いところを切り捨てて大切な利益を守り抜く、そもそも一番守るべきものは何なのかということが見えなくなってしまうということなのです。

だから、自分以外の人間に協力してもらって解決をするべきなのです。

では、誰を協力者とするべきなのでしょうか。
最後に協力者の条件を挙げましょう。それぞれ一つ一つは当然のことだと思われるでしょうが、その条件を満たす人間はなかなかいないのかもしれません。

第1に、あなたの利益を第一に考えてくれる人である必要があります。家族であるとか運命共同体の人であれば、あなたの問題を解決することは自分の問題を解決することになるので、あなたを食い物にして自分の利益を得ようとはしないと思います。

第2に、あなたと同化しすぎない人です。あなたの悩みに共鳴してしまって、自分のトラブルだという感情がわいてしまえば、他人に協力してもらう「うまみ」もなくなります。その人も思考力が減退してしまうからです。

共鳴しすぎる人は協力者として不適当であるし、解決よりも共鳴を優先する人も大きなトラブルを解決する場合はあなたの足を引っ張るかもしれません。本当はそれを捨てて解決して大きな利益を得るべき時も、些細なこだわりを一緒に大事にしてしまい結局こじらせるだけだったという場合も多く見ています。

理想を言えば、一段高みに立って、あなたがこのトラブルで致命的な損害を受けても、その損害は自分が引き受けるから心配するなというような人がいればとても心強いでしょう。

以下は技術的な細かい協力者の理想です。
・ あなたに、あなたが考えていることとは別の選択肢があるということをはっきりと提案できる人
・ あなたにあなたがこだわっている価値観を捨てることが可能であることを告げることができる人
・ 初めから選択肢を捨てるのではなく、それぞれのメリットデメリットを思いついて提案できる人
・ その行動をとることの見通し、成功する可能性を理由を挙げて説明できる人
・ あなたが一番大事だと思っていること(感情ではなく思考の結果)を尊重してくれる人(但し、それを捨てるべき時は捨てるべきと言える人)
・ 焦らないで、許される範囲で時間を一杯に使って解決することを提案できる人
・ 自分の考えに固執しない人 あなたの意見(感情ではなく思考の結果)の良いところを取り入れてくれる人

できれば、その人に協力をお願いしたのであれば、その人の提案をすべて受け入れろとは言いませんが、先ずその人の提案を落ち着いて考えてみるということが大切です。感情的に反発することをしないということです。だから運命をゆだねることができる人が理想なのでしょうかね。何とかなるという気持ちをもって、感情を鎮めて、思考を働かせることができれば80%以上、結局は解決しているわけです。

弁護士をしていると、なんともならないという問題はあまりないことに気が付きます。確かに失うものが何もないというわけにはいかないことも多いのですが、結局は何とかなるということが圧倒的多数だと思いました。

思い悩むことも人生にとっては有益なことになるのかもしれませんが、それ自体は合理的な解決に向けて有益なことではなく、デメリットだけが多いことだと言って差し支えないと思います。まずは信頼できる人間に相談をすることが理にかなっていることだという結論は間違いないと思います。

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ユーチューバーがジャニーズ会見を批判する動画をアップする理由、尋問のプロの感じた会見の「技術的」成功とその成功が招いた想定しなかったデメリット [労務管理・労働環境]


先日、ジャニーズの4時間以上にわたる会見をユーチューブで倍速で観ました。そうしたら、その後私のユーチューブのホーム画面に、この会見を批判する動画が大量に並ぶ事態になっていて、その中のいくつかを観てしまいました。

この一連の流れは、弁護士としては、謝罪会見をする場合に気を付けなければならない事情の宝庫になっていて、どういうことをすれば聞き手はどう感じるかということもよくわかり、大変勉強になりました。その勉強の成果を還元するための記事でして、プロダクション批判の記事ではないつもりなので、初めにお断りいたします。

動画作成で生計を立てているユーチューバーの中には、純粋に動画再生数を稼いで収益を上げたいというある意味純粋な人と、特定の主義主張のセールスマンという形で、おそらくスポンサーをつけてやっている人と二種類いることがこの騒動ではっきりしてしまったということも今回の会見の副産物でした。今回分析するのは、前者の人たちです。

前者の人たちは、純粋に動画を多く再生してもらいたいということですし、一度着いた固定客を維持するというより、この会見をチャンスに新たな視聴者を増やそうという意欲が感じられる動画作成をしていました。

新たな視聴者が動画再生をするために、その不特定多数人のニーズに合わせた動画を作成しようという工夫が感じられました。

さらに、この動画がウケると思ったら、例え新たな情報が少なくても第2弾、第3弾の動画をアップすればまた見てくれるということもよくわかっていらっしゃる動画になっていました。視聴者が求めているのは、新たな情報よりも、自分が言いたくて言えないようなことをずばりと言ってもらい、自分の不満やフラストレーションを他の誰かに共感してもらいたいということのようなのです。

だから、ただ批判をすればよいというわけではないということが大切です。視聴者が言いたいこと、言ってほしいことをズバリ言う、しかもあくまでもこちらが「正義」であるという安心感を持っていられるという言葉や口調を選ぶというスタンスがとても大切なようです。

では、動画の視聴者は、あの会見で本当は何を言いたかったのでしょうか、どこに不満があったのでしょうか。これについては、動画作成者は必ずしも言葉で明らかにする必要はありません。それの説明を試みる私は動画作成をするわけではなく、今後仕事として行う謝罪会見が目的を達成できなくなることを避けるために、言葉に置き換えてみているわけです。

会見は4時間超に及ぶものであり、それなりに創業者を否定評価したものであり、今後被害者に補償をするということまで言及したし、4時間サンドバッグのように攻撃さらされれば、それなりに同情論も沸き上がり、騒動が鎮まるのではないかという見込みがあったと思います。批判に応えたぞという姿勢を示すことが会見企画者側の当初の目的だったはずです。

<企画者としての誤算だったと思われる依頼者の意思2点>

ただ、記者会見を企画した人物にとっては大きな誤算が当初からいくつかあったのだと思います。

 前社長が取締役を退任せず、代表取締さえも辞任しなかったということが第一の誤算です。社長の肩書をはずしたということは、法律的にはあまり意味のないことです。対外的にもあの人が代表取締役という会社のトップにいることは変わらないし、対内的にも実質的トップは変わらないということだけが伝わりました。小学生くらいであれば社長を辞めたということは大きなインパクトがあるかもしれませんが、大人はそうは思いません。

退任しなかったことは会見企画者としては誤算だったと思います。別に代表取締役をやめても困らないだろうという経済的面からの推測があったと思います。100%株主ですし、これまでの実績、人間関係があるのだから、会社に対する影響力が減少するわけではない。また、当面役員報酬が無くても困らないだろうから、第三者委員会の勧告に従って取締役を辞めると思って、それを会見の目玉にしよう、できるだろうと思っていたのではないでしょうか。ところが、肩書は外すけれど法的立場は変わらないということですから、企画者としては誤算ですし、一般視聴者はモヤモヤするわけです。

一時的にでも代表取締どころか取締役からも名前をはずすということになれば、身内のために仕事を奪われたという同情論が期待できたはずです。ところが代表取締役を辞めないということであれば、第三者委員会の指摘する同族企業を温存させるという印象はぬぐえません。さらに、100パーセント株主で今後も会社を支配しようとしているということに一般人の視線を誘導してしまうという副産物まで出てきた結果になりました。

もう一つ誤算だったのは、社名の変更を「検討しない」という回答をしてしまったことです。なぜ、「検討する」ということを言うことにできなかったのか、これも会見企画者としては誤算だったと思います。これでは、補償も今後のメディア露出や他の出演者への圧力防止措置も具体性が無く曖昧であることと対比して、社名を変えないという決意だけが、強固なものだという印象を与えてしまいます。当然企画者としては社名の変更を「検討する」とだけは言ってほしかったと思いますが、検討すらしないと言われたときは、代表取締役留任と合わせて、会見の効果がどうなるかを予想せざるを得なかったと思います。ホットな火種を作ってしまったことになります。また、この言いキリが、後に述べますよに、創業者に対する否定評価の話の説得力を空疎なものにしてしまいました。

<会見の技術と結果的なデメリット>

会見システムで、主催者側にとって一番工夫したと思ったシステムが、一人一つの質問に制限したことです。これは、追及はされたけれど、追及の効果は何もなく、結果として潔白という印象を作るということを結果のためには、とても考えられた工夫だったと思います。

一人一回の質問ならば、いくら時間を取って質問をだらだら続けても、核心に迫ることは初めからできません。不規則発言で突っ込めば、秩序を重んじる日本国居住者としては批判の矛先は質問者に向かいかねません。
事実、鋭い質問だなあと思う質問もいくつかあったのですが、そういう質問には答えないで別のことを話し始めて回答が終わり次の質問になっていたのですが、一人質問が一つなので、それ自体を追及することができなかったようです。

例えば社名変更についても、
「社名を変えるつもりはありません。」という答えが来たら
「検討さえしないのですか」という質問をしたり
「あなたさっき鬼畜の所業とか、史上最大の何とかとか言葉を尽くして否定評価したように言っていたけれど、社名を変えるほどの悪行ではないと思っているのですね。」という質問をしたかった人もいたのだと思うのですが、
二の矢三の矢を放つことができなかったため、結果としては話のすり替えであってもその部分を批判もできないばかりか、クローズアップすることもできず、結果として流してしまうことが可能になったのです。

例えば、「本人たちは努力しているからテレビに出ている」ということについても、
「それではジャニーズを辞めたらテレビに出られなくなるのは、やめたらこれまでの努力が遡って無になるということでしょうか」とか
「自社の芸能人以外の芸能人がテレビに出られないのは、努力が足りないということでしょうか。」とか
「視聴者の支持があるからテレビに出ているのではなく、テレビに出続けていて顔なじみになったから支持する視聴者が出てきたのではないか。(単純接触効果)」
というような大人なら誰でも気が付くことを言えなかったのだと思います。

そして中には某テレビ局の質問のように主催者を結果的にアシストするような質問がなされていれば、4時間なんてそれほど負担ではなく、結果として悪意のある質問はすべて退けられたという印象が残るはずでした。

一番気になったのは、ファンを理由にこれまでの企業活動を維持させてほしいということを述べたことです。それではスマップのファンやキンプリのファンをどれだけ会社は大切にしてきたのかというツッコミを当然多数の人が入れたがっていたことでしょう。

こんな片手間に書いていて私が思いつく突込みなんて、誰でも考え付くことなのです。一人一質問形式は、それをテレビ画面やスマホの画面で見ている者からすると、言葉では表さないまでも、消化不良や不満、不信が意識の中に蓄積されて行ったことは想像に難くありません。逆に、なんとなく会社を批判することが正義だという意識が大きくなっていったのだろうと思います。この社会心理をユーチューバーが見逃すわけがなかったということなのだと思います。

つまり、質問を結果的にはぐらかすことや、あからさまにその話はこれ以上言うなという指示がだされることは、本当は正しく質問にこたえることができるのに、質問の意味を理解しないで答えていないだけであっても、本当は回答者が混乱していて自分の意思を正しく伝えていないので制限していたという場合でも、視聴者からすれば、「何か隠しているのではないか」とか、「あの質問が核心をついているから答えてはまずいと判断したのだろう」とか、勘繰られてしまうということがわかりました。本人が職務に忠実にやるべきことをやっているという意識があったとしても、イメージは大変悪いものでした。これは私も覚えがあります。こういう風に見られていたのだなあということは大変勉強になりました。ひな壇に上がっていると案外そこまで気が付かないということがありそうです。

一人一門形式が機能するためには気を付けなければならないポイントだということがよくわかりました。ポイントを外してしまえば、せっかく時間無制限でサンドバッグになるという効果よりも、疑惑が膨らんでいくだけというデメリットもあると強く感じました。

その結果、社名は変更しない、所属タレントはこれまで通りテレビ露出をしていく、役員報酬は辞退しないという現状維持という結果の会社の希望だけが、図らずしも強調されてしまったという印象になり、視聴者はその不満やフラストレーションを強く持ち、このような不満やフラストレーションを持つ者は、そのネガティブな心情を誰かと共有したいという強いニーズが生まるという仕組みがよくわかりました。だから敏感なユーチューバーが早速動画をアップしたわけです。こんなフラストレーションはいつまでも続くわけではありませんから、動画アップはその日のうちにしなくてはなりません。

最後にひな壇の3人についての勝手な反省です。
前社長は、もっと発言を控えた方が良かったです。元々が中途半端な退任で印象が悪いのですから、話しても好感は持たれません。だとすれば「反論をしたくでもできないでじっと耐えている」という構図をせめて作るべきでした。また、タレントと違ってこれまでの露出が少ないのですから、一般視聴者が自然と感情移入されることはあまり期待できません。自を出してよいことは何もないということをもっとレクチャーするべきだったと思います。

いのはらしは、彼一人で会見したら、およそ会見の効果は上がらなかったと思います。前社長と新社長に対する世間の反発をうまく利用する結果となったためにある程度の評価がなされているのだろうと思います。

3人の一番の問題はすべて他人ごとの発言だったということです。これは会社としてはまるっきりの逆効果になっています。いかに「会見(3人)」に好印象を持つ人がいたとしても、「会社の今後」にとってはメリットよりデメリットが大きかったと思います。

会見の狙いが新出発を印象付けようとしたのだと思います。その線に沿って話を運んで、各人の役割を明確に配分していました。

新体制ということを華々しく打ち立てるためには、やはり過去と決別したという結果を印象付ける必要がありました。しかし、この決別を印象付けるためには、過去の否定評価と過ちを繰り返さないという具体的なプランを説明することが説得力があるのですが、過去の否定評価を言葉では行ったけれど、その過去と決別する部分が何ら具体的に見えなかった。自分は関係ない、自分以外の人間が悪く、自分は知りもしなかったということだけが強調された結果、既得権益を温存させたい思惑だけが際立ってしまい、この点をつけば視聴者は自分のフラストレーションを共有できたという満足感を持つだろうということを動画作成者は見逃さなかったということなのでしょう。

会社ですから会社を維持しようとすることは当然のことです。だからと言って既得権益を温存させたいということを語っては逆効果です。会社を維持させるためにどうするかという発想をもって戦略を考えて行動しなければならなかったはずです。会社の経営に努力賞はありません。

真面目な話、問題はテレビやCMスポンサーが日本の良識をどう作り上げていくかということなのだと思います。あの会見でよいと言って現状維持をするというのであれば、あの会見で良かったことになります。それとももっと、例えば音楽番組であれば、音楽の楽しさ、素晴らしさを伝えるような番組制作を行うように変わるのかということなのだと思います。

私はドキュメント的な音楽番組ができるとよいなと希望します。例えばスタジオミュージシャンのような確かな技術を持った人たちに、一時的なユニットを作ってもらう番組を作り、コンセプト設定の打ち合わせやリハーサルなんかもドキュメントタッチで撮影して、それほど大きくない数十人くらいが入るジャズバーを少し大きくしたような会場での演奏を番組で流す。それを会場にいる一人のようにバーボンのロックをオールドファッションドグラスですすりながら聞いているような錯覚が生じるような、そんな居心地の良い番組を見たいと思います。
そのミュージシャンのゆかりの楽曲を演奏しても良いし、スタンダードナンバーを演奏しても良いのではないでしょうか。

音楽を作る過程とできた音楽を両方楽しめることが魅力だと思いますし、この番組を見て音楽家を志したり趣味で音楽を始めてみようと考える人が出てきたらすてきだなと思います。

私はアイドルを否定するつもりはないのです。ライブパフォーマンスに耐えうる実力の備わったアイドルならば、観たいと思います。確かな基礎訓練があり、喜怒哀楽がしっかり表現できるならば見ごたえもあるわけです。ただ、音楽は、ジャズに限らず、その時その時の瞬間的な出来栄えの楽しさ、感動だと思うのです。MVを流すような取り上げ方はTVの仕事ではないでしょうね。感動があれば、低年齢の被写体であろうと、番組を流して時折熱心に観るということはすると思うのです。

テレビは、観る人の人生をいくらでも豊かなものにできる可能性を未だに持っていると思います。それを使わないことは大変もったいないことだと思います。

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精神障害者が無罪になる(場合のある)理由 リベット実験にも矛盾しない古典的刑法総論理論 [刑事事件]



重大な被害が生じた事件の裁判報道で、「被告人側が心神喪失を理由に無罪を主張している」という報道に接することがあると思います。「なんとなくそうかな?」と感じる人、「人が殺されているのに無罪とはおかしい」と感じる人、当然様々いらっしゃることと思います。

例えば、「その人間が明らかに人を殺そうとして、人が死ぬような行為をしたのに、精神障害だからといって釈放されるのはおかしい。」ということも自然な感覚かもしれません。

どうして精神障害を理由に無罪になるのかをまず説明していましょう。

刑法は、基本的には「わざと人を殺した」という場合だけ殺人罪として処罰します。その人の「不注意行為で人が死んだ場合」は、傷害致死罪、過失致死罪といって、一段低い刑罰になります。

考える手がかりがここにあります。わざと殺した場合に罪が重くなることは直感的に当たり前なのですが、その理論づけを昔の刑法学者たちは行っています。

その理由は、
「自分がこれからしようとすることが、人が死ぬことになる危険なことであるのに、やっぱりやめたと思いとどまらなかったこと」

をとらえて、傷害致死罪や過失致死罪とは類型的に異なった殺人罪として重い責任非難があるという理屈なのです。

逆に、不注意の場合は、思いとどまる要素が小さいので、責任非難が軽くなり、刑罰も軽くなるという関係にあります。

また、その人が殺したようにみえても、実際は思いとどまるきっかけも、不注意もなかったような場合は責任もありませんので無罪になります。グラウンドで野球の素振りの練習をしていたら、突然人が走ってきてバットにぶつかってしまったというようなケースがそういうケースでしょうか。

精神障害のうち、その程度が重く、心神喪失(自分のやっていることが自分で理解できない、あるいは、価値判断ができない事情がある場合)であったと判断されて無罪になるのも、この理屈で説明されます。

自分がこれから何をやるかさえもわからない精神状態の場合で偶然ともいえるように誰かが被害を受けたのであれば、自分がやることが人に迷惑をかけるので思いとどまるということを期待することができませんから、責任が無いという評価はまだ理解できると思います。

しかし、自分がこれからやることをわかっていて(例えば刃物で人体の危険な場所を刺すとか、頭を金づちで殴るとか)、それでも精神障害だからそれを思いとどまることが期待できないから無罪ということについては、それだけ聞くと納得できない人も多いと思います。

それはそうです。日常生活で、その人の意思で行動していて責任が無いというような具体的事案なんて、普通はあまりお目にかかれないからです。想像することも大変難しいと思います。長く弁護人を務めていると、そのような事案を担当することがあります。それほど多くはありません。

窃盗の事案で、睡眠薬とビールを飲んでわけがわからない状態になり、中古品販売店に自動車を運転して行って、自分の趣味の品物を陳列棚からカバンに入れて窃盗の現行犯で逮捕された事案がありました。それだけ聞くと自動車を運転できる程度に訳が分かっているし、本人が欲しがっている種類の品だったという程度の能力があったのだから、思いとどまる能力もあったはずだと思うことが健全な考え方かもしれません。

しかし、実際は、店員が注意しに来ても気にしないで、メモうつろで口も開いたままの異様な雰囲気でただ機械的に品物をカバンに詰めていたようでした。まさに映画に出てくるゾンビのような状態だったそうです。

この事案は、一度逮捕され勾留もされたのですが、裁判を受けることなく釈放されました。薬とアルコールのために、思いとどまることが期待できず、責任能力が無く、心神喪失状態だったと判断されたからです。

このように、その犯行をしようという意思がある(ようにみえるだけか)のに、責任非難が無い場合は実際にあります。心神喪失で無罪の主張をするケースはこういう極限的なケースを議論しているわけです。

このほかに精神障害で責任能力が否定される場面と言えば、程度の重い統合失調症のうちのある種の場合が考えられます。強い幻聴や幻覚で、その人を殺せと命じられているような錯覚をしてしまい、犯罪をしてしまう場合です。ただ、統合失調症の人の圧倒的多数の人は犯罪をしません。統合失調症が直ちに責任能力を否定される事情とはならず、その人の症状に照らして、思いとどまることが期待できたかどうかという具体的事情から責任能力は判断されます。




ところで、この「思いとどまることをしなかったことが責任の本質だ」という理論は、自由意思についての科学的な理論にも整合します。

ベンジャミン・リベットは、実験によって、人間の行動を起こす意思が起きる0.35秒前に脳はその活動を開始しているということを明らかにしました。2008年には別の人も同様の実験をして、0.35秒どころか最大7秒のタイムラグがあるという発表もなされました。つまり人間は自分の自由意思で行動しているのではなく、具体的行為を自由意思で決定する以前に脳が行動決定をしているということになります。認知学では、多くの学者が人間には自由意思はないと主張するようです。

そうすると自由意思がなく、すべて人間の行為が脳が勝手にやったことというのであれば、どの犯罪においても責任が問われなくなってしまいます。これでは、どんな犯罪をしてもそれはその人が自由意思で決めたことではないとして刑罰を受けなくて済み、社会不安が起きてしまうことでしょう。

しかし、刑法の責任論は、その問題を予め知っていたように都合よく理論化していました。

リベットも、0.35秒前に脳が勝手に起こし始めた行動だとしても、0.35秒後にその人の自由意思によって、その行動を思いとどまることができる。それがその人の人格を示しているというようなことを言っています。刑法の責任論は、まさに思いとどまらなかったことを非難しようとしているので、ぴったり一致しているのです。リベットの学説によれば、自由意思の働く範囲はごく狭い範囲だということになりますが、刑法理論はすかさずその狭い範囲に焦点を合わせて責任があると言っているわけです。しかもこの責任論は、リベットの研究のずうっと前に構築されている理論なのです。

あまり伝わらないかもしれませんが、私はすごいと思いました。説明が下手ですいません。


全てをまぜっかえすようなことを最後に言うわけですが、この刑法理論は、現在の刑法解釈ということで、元になる刑法が改正されれば、ほとんど意味のないものになってしまいます。例えば、わざとであろうと不注意であろうと偶然であろうと、結果として人が死んだのであれば殺人罪にするという立法も理屈の上ではあり得ないことではないのです。

10年以上前に裁判員裁判が始まり、量刑の点についても一般市民の感覚が判決に反映されるようになり、判決が厳罰化してきたということが実務感覚です。初めて生の殺人などの重大事件の証拠を目にすれば拒否反応が起きることは当たり前で、できるだけ重く処罰しようという感覚になることは当然のことです。厳罰化は裁判員裁判の実施と因果関係のあることだと私は思います。

ただ、国民が、厳罰化を望み、結果責任を望むようになり、法改正がなされればそのようになっていくこともありうるのです。運の悪い人が長期服役を余儀なくされるということも、それ以前と比較してそうだという話であり、それが直ちに間違っているという議論が成り立つのかよくわからないというべきだと思います。

現在に話を戻して、実際の裁判で「思いとどまることを期待できたかどうか」ということも、個別的な事情を判断しなくてはならず、実際のところは同じ程度ならば同じ量刑や、同じ責任能力の有無の判断がなされているのかについては、実際のところよくわかりません。なかなか比較しようのない問題だからです。

少なくとも、わざと心神喪失の状態になって恨みを晴らそうと思っても、おそらく無罪になることは無いだろうということだけは確かなことだと思います。

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再犯は、防止行動を行わないために起きる 犯罪をしないために必要なことは生活習慣の修正 万引きの事例をもとに考える [刑事事件]



犯罪のメカニズム、特に犯行を実行しようと思うメカニズムを考えると、犯行直前に「やっぱりやめた」と思いとどまることは実は難しいことだと感じられます。前回述べたリベットの研究結果、「人が自由意思で行動を決定する前に、脳は無意識に行動を決定して活動している」ということに照らしてもそう言えることだと思います。

例えば万引きを例にしてお話しします。いつ万引きをしようと考えるかについては人それぞれのようです。家を出て万引きをしに行こうと思う人もいれば、店の中に入った瞬間に万引きをしようと思う人、商品を見て万引きをしようと思う人それぞれです。万引きしに出かけようとする人は、多くは、商品を換金して生活費を稼ごうと言う人だったという記憶です。

不可解な、説明が難しい万引きは、店に入ってから、つまり万引きの直前に万引きをしようと考えたと言う人がほとんどです。

さらに万引き弁護を多く担当している私からすれば、意思決定をする前に万引きの態勢に入り、盗みきることに全力を挙げているような印象を受けることが多いのです。

だから万引きをしたひとに、どの時点で万引きを「やっぱりやめた」と思いとどまるべきかアドバイスをすることがとても難しいということが本音でした。

万引きをした人に、今後どうすれば万引きをしないで済むかという方法を考えてもらうと、多くの割合で、「一人で店に行かないこと」という答えが返ってきます。案外、ご本人なりに万引きのメカニズムを正しく認識して最善の策にたどり着いていたのだということを、リベットの研究結果を念頭に置くとそう理解できます。つまり、「万引きはしてはいけないからやらないよ」というような意識をもって日常を過ごしているのですが、店に入った途端、あるいは商品を見たとたん、自分の知らないうちにいわば万引きモードに入って万引きをしてしまっているということが、意識についての科学的研究からすれば正確なメカニズムなのかもしれません。

その場になって、「やっぱりやめた」と思いとどまることは、刑法理論としてはともかく、予防の方策としてはあまり期待できないことのようです。つまり、その場になると、「万引きを見つからないように完遂する」ということに意識が集中してしまい、「やっぱりやめよう」とか、「これをやると他人に迷惑がかかるかもしれない」とか、「自分の知り合いに知られたらみんなから相手にされなくなるとか」、「警察に捕まって裁判を受ける」ということは考えることの能力は、発揮しようがない状態になっているのだと思います。その結果、「後でそういうまずいことになるとは思わなかったのか」と尋ねると、「そこまで考えていなかった。」という回答が来ることになるわけです。

そこまで考えなかったということは、そこまで考える余力が無かったということなのでしょう。

だから、万引きは悪いことだと何万回繰り返してもあまり意味のないことだということがわかります。そんなことは百も承知だからです。人に知られたらとか警察に捕まるとかいうことも百も承知です。百も承知だけれど、それを考える余力が無い状態だから万引きを始めてしまうわけです。
万引きの刑事裁判での反省の多くが、このように考えても仕方がないことを考えて発言しています。これでは、万引きをやめることができません。万引きをやめるための行動をしていないので、また万引きをしてしまうと言っても良いでしょう。

では、どういうことが万引きをしない方法でそれをやるべき方法なのでしょうか。

わたしは従前、犯罪環境という言葉を提唱してきました。何らかの犯罪を行う人は、犯罪を行うような環境、特に人間関係を作ってしまっている。その環境から抜け出して、安心した生活を送ることで再犯を防止するべきだと考えています。これは変わりありません。むしろベンジャミン・リベットの意識についての実験結果からその理論が裏付けられたと思っています。

万引きをする人もいれば、絶対にしない人もいます。商品があって、誰からも見られていないと思っても万引きをしない人がほとんどです。

万引きのメカニズムが、商品を見て、万引きができそうだと感じて(これは知識が無いか錯覚で、通常の店舗、特に量販店では無数の監視カメラが設置してあり、死角がなくバックヤードでモニタリングをしています)、「この商品を黙って取ってお金を払わないで帰ってしまおう。」という選択肢が無意識のうちに現れ、無意識のうちに選択してしまい、そのための行動を開始してから万引きをしようという意識が生まれるようです。順番が、脳が決定してから万引きの意識になるということが正確なようです。万引きは例えばカバンに入れてしまえば終了ですから、やっぱりやめたと思いとどまる時間もないと言えそうです。

それでは万引きをしない人は、する人とどこが違うのでしょうか。
1)そもそも万引きしようという選択肢が無意識下でも出てこない。
2)選択肢が浮かんだとしても、行動に出る前に思いとどまる。
この二つが、結果的には異なるところです。

実務的には1)と2)はきっぱりと区別できるものではなく、あえて言えば、万引きをしようという選択肢が出てきても、それに基づいて行動を開始するような強い選択肢ではなく、一瞬で「やっぱりやめよう」というか、選択肢からすぐに脱落する程度の弱い選択肢だという表現がより近いかもしれません。

もう少しミクロ的に分析すると、万引きをしない人は、
「誰も監視していない無防備な状態で商品が置かれている、万引きできちゃうんじゃない。」という抽象的な選択肢にとどまり、
万引きをしてしまう人の例えば
「この商品をカバンに入れて見えなくしてしまえば、お金を払わないで帰ることができるのではないか」
という具体的な選択肢にはなっていないということなのかもしれません。

そういう意味で、厳密に考えれば、やはり具体的な万引きの選択肢が現れないという表現も間違っていないのかもしれません。

そうだとすれば、万引きの再犯をしないためには、万引きの具体的行為の選択肢を排除することが有効だということになると思います。

どういう場合に具体的選択肢が現れやすくなるのでしょうか。
一つには成功体験ということがあります。一度万引きに成功した体験は、具体的な万引き行為を記憶していますから、同じ行為をすればうまくいくということから無意識に選択肢に上りやすいことは理解できます。

一度でも成功すると、その後捕まっても捕まっても、具体的な行動が記憶にありますから、無意識のうちにその具体的行動の選択肢が表れて無意識に選択してしまうということはあります。一番怖いのは万引きしようとは思わないで、レジを通さないで商品を持って帰ってしまったことに気が付くと万引きを繰り返す原因になりかねないということでしょうか。

うっかり持って行ってしまうということはどうやらあることのようです。うっかりでも万引きであったとしても、勇気をもって店に行き代金を支払ってくることによって、成功体験を少しでも解消することをお勧めします。

先行行為の外に万引きの原因として経験上みられたものは、「孤立」です。万引き以外の犯罪類型でもたびたび出てくるのは孤立です。自分に何らかの問題が生じているけれど、家族など他者と自分が抱えている問題を共有できない状態の場合、犯罪行為を止められなくなることが多いように感じます。孤立と言っても一人きりという場合もあるのですが、二人とか、家族ごと社会から孤立している場合も犯罪を思いとどまらなく理由になるようです。犯罪者となっても、これ以上自分の評価が下がることは無いということなのでしょうか。思いとどまらなくなるというより、違法行為であろうが何であろうが、自分が生き残るために手段を択ばなくなるという感じです。

「孤立」とは、必ずしも誰から見ても「孤立」しているという場合だけでなく、自分が「孤立」していて助けのない状態だと感じていても、犯罪という選択肢が沸き起こるというか降りてくるというか、無意識に滑り込んでくるようです。つまり主観的に孤立していれば、犯罪の選択肢が出てきてしまうということなのだと思います。

孤立に心当たりがあれば、孤立を解消する方法を講じることが再犯防止ということになるはずです。実際に独り暮らしの高齢者の万引き事例で家族がもっと関わる時間を増やして再犯を防止した例や、逮捕された人に家族が暖かくかかわり孤立していないことを強く認識してもらうことによって再犯を防止した実例が豊富にあります。家族以外に居場所を見つけ、定期的にいつものメンバーの中で時間を過ごして再犯を防止した人もいます。

家族で万引きをした人が出た場合は、とにかく家族が運命共同体の仲間であり、決して見捨てないという態度を示し、いつものとおり接するということで、あるいは接触を強める(一緒にいる時間を増やす)ということで、孤立をしていないという認識を本人に持ってもらうことが再犯防止に有効だと思います。

孤立が解消されればある程度同時に解消されることですが、生活のリズムを調えるということも大事です。朝起きて夜に寝るということはとても大切なことです。

さらには、年少であれば学校に通い、ある程度年齢が上ならばとにかく就職して規則正しく美しい生活をすることが犯罪の選択肢を排除する方法のようです。但し、真面目過ぎる人はダブルワークをして働きすぎてしまい、その結果ストレスを強めたり、あるいは寝不足になったりして、余裕をもって思考ができない状態に陥ることがあります。やっていいことと悪いことの区別がつきにくくなり、犯罪という選択肢が忍び込んでくることがありますので、朝起きて夜寝るというバランスのとれた生活ができるような仕事のスタイルをするべきですし、孤立していない自分には仲間がいるのだと実感できる生活スタイルを作ることが大切だと思います。

真面目過ぎると思う人は、趣味を見つけて、何かに一心不乱に打ち込める時間を作ることをお勧めします。

心配事が法律問題であったり、人間関係であった場合は、できるだけ早く弁護士や適切な相談相手に相談して憂いを絶つということも不健全な選択肢を生まないためにはとても有効です。

弁護士から見ると、犯罪は、必ずしも特殊な人が行うものではないということ感覚があります。私自身も一つ間違えれば、犯罪を実行していたかもしれないという意識で弁護しています。大事なことは、自らを犯罪環境に置かないこと、犯罪環境にいるならば無理してでもその環境を変えることだと思います。

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離婚後の親権制度について、他国に恥じることのない議論のために 子どもの権利を最優先にした議論の枠組みをするべき [家事]


8月29日に法制審議会は、離婚後の共同親権制度などのたたき台を発表し、離婚後の親権制度についての法改正が目前という状況になっています。世界ではごく例外を除いて離婚後においても共同親権制度をとっています。日本だけは、国際的に異例の単独親権制度をとっていて、今回の改正においても共同親権が曖昧な形のまま法制化される懸念があるというのが、現在の立法にまつわる政治状況だと言えるでしょう。

この状況は、国際的に見てとても恥ずかしい状況です。なぜならば、世界では子どもが一人の人格主体であると認識されていて、大人は子どもの健全な成長に責任を持たなくてはならないという理由から、両親が離婚しても子どもは父親からも母親からも愛されて育つ権利主体であると法的にも位置付けて、共同親権制度に次々に変更していったという経緯があります。日本だけが、子どもの両親から愛されるという切実な権利に価値を置かず、子どもの権利とは別の次元で子どもの権利を制約し続けているのです。日本は権利を主張できない弱者の権利擁護を考えない国だと実際にも国際的に評価されています。結論も一択しかないと思うのですが、何よりも議論の過程を世界が注目していると思います。

前回の記事では、親権概念を確認し、
・ 親権は親が子どもを思う自然な情愛に基づいて親に親権をゆだねたということ、
・ 戦後の法改正で父親と母親の双方が平等に親権主体と定められたこと、
・ しかし実際には一方の親によって他方の親の親権が侵害されているのに回復する強力な制度が無いこと
・ 父親の親権が母親によって侵害される場合に、公権力やNPOが侵害に加担していること等を述べました。

今回の記事では、
1 立法についての議論がどのような道筋で行われるべきか
2 夫婦が離婚しても、両親から積極的に愛情を受けていることがどのように子どもの利益になるのか、
3 立法趣旨との関係で共同親権制度にする必要性はどこにあるかということを述べていきます。
今回も、実際に離婚事件その他の子どもの養育に関する事件を多く担当する法実務家として、私の実務経験をもとにお話をしていきます。

1 立法の議論のあるべき道筋

親権制度は、前回お話しした通り、世界的に近代以降では、子どもが健全に成長するために親が行うべき義務がその概念の中核になっている必要があります。「子どもが健全に成長をするためにどのような親権制度とするべきか」という議論から出発しなくてはなりません。

そしてこのような子どもの利益のためになる制度を作った結果、他の観点からの不具合が生じることもあるでしょう。法律というのは、このように一方向の利益だけで定めることはできず、それによる不具合をどのように修正するかということを考えて決められる定めにあります。

離婚後の共同親権反対論は、この出発点が欠落していると言わざるを得ません。共同親権反対論の論拠は、共同親権になるとDV被害女性の保護が不十分となるということが核心になっています。つまり、子どもの権利についての議論を欠落させて、女性の利益を元に論を立てているのです。これでは、世界に顔向けできない議論をしているということになります。

また、実務経験からすると、家裁の離婚手続きで、未成年者がいるケースのほとんどがDVの存在しない事案です。DVによる慰謝料が認められないケースは少なくありません。裁判所を通さない協議離婚の場合は、もっとDVが存在しないケースが多いと推測されます。協議離婚が成立しているということは、夫婦で離婚届けを作成しているということですから、妻が子どもを連れて夫から所在を隠しているというケースよりも、離婚届の受け渡しが行われているケースが圧倒的多数であり、つまり、DVからの逃亡が不要なケースが多いからです。

いったい、未成年者がいる離婚のケースのどの程度の割合がDVがあった案件だというのでしょう。また、DVがあったからという理由で一方の親か子どもの所在を隠す必要がある案件なのでしょう。DVの定義が曖昧であることも相まって、有効な統計資料はないはずです。離婚総数の内、DVがあるために離婚後も父親と母親の協議ができない割合はごくわずかであると思います。それにもかかわらず一律に共同親権が排除されるならば、大多数の両親が離婚した子どもたちは、自分の状況と異なる状況のために、一方の親から愛情を注がれる利益ないし権利を考慮されないという事態になりかねません。どうして子どもたちは我慢しなければならないのでしょうか。

また、共同親権反対論の論拠が、母親の権利を第一に考えて立論されているということは、子どもの権利よりも母親の利益を優先する価値観によって議論がなされているということになります。何よりも子どもの権利について議論が行われないのですから、母親の利益を優先という表現よりも、子どもの権利ないし利益を欠落させて親権の在り方が議論されていることになります。つまり、これでは、母親の利益さえ図られれば子どもの利益を考慮しなくてよいという態度に外なりません。つまり、子どもは一人の人格主体として保護されるのではなく、母親の利益に従って行動するべき母親の付属物という扱いがなされていることになります。子の連れ去りとはまさにこのような現象なのです。

封建制度のイデオロギーの残存的思考であるとともに、子どもは女性が育てるべきという看過しがたいジェンダーバイアスにとらわれた議論だというほかはありません。そこに統計や発達心理学などの科学的考察はなされていません。

議論のあるべき道筋とは、
先ずDVを脇において、夫婦の離婚後に子どもはどのように育てられるべきか、同居親と別居親がそれぞれどのようにかかわるかべきかということから離婚後の親権の在り方を議論するべきです。

次に、それで制度の骨格を定め、それにより生じる不都合をどのように最小限度にするかという議論に進むことになります。その際、DVとは何か、被害実態とはどのようなものが統計的には見られるのか、件数、割合はどの程度のものなのかという統計資料に基づいてどのような制度修正をするべきかを議論することになります。

私は、民法上の共同親権制度には、DVの問題をいれることは不可能だと思います。民法の文言にDV問題を配慮した文言をもうける立法事実が認められることは無いと思っています。特別法によってDV被害対策を、統計上の必要性が認められた時に必要に応じた立法をするべきだと考えています。

また、別居親のかかわりを「認めるか認めないか」という清算的議論ではなく、DVの被害が現実化しないようなかかわり方を検討し、物的施設や親子交流支援員を設置するなどの建設的な制度創設の提案がなされるべきであると考えています。あくまでも子どもの利益を中心に考えるべきだからです。

2 離婚後にも両親から愛情を注がれる子どもの利益

離婚を経験した子どもたちの発達上の問題は、統計上確立されています。即ち、自己評価が低くなり、アイデンティティの確立に問題が生じるということです。この統計結果を世界が認めたために、国際的にわずかの例外を除いて離婚後の共同親権制度が次々と生まれて行ったのです。

自己評価やアイデンティティの問題を少し説明します。

私が直接会った、他方の親と交流のない子どもたちは、この極端な形で苦しんでいました。中学や高校のあたり、自我が確立していく頃から、不登校、自傷行為、拒食過食を繰り返し、精神科病棟での入退院を繰り返すようになり、同居親に攻撃的になり、子どもとは言えない年齢になっても社会に出て行くこともできないような状態となりました。病院での様子を見ると、特に何か健康になるためのアプローチは見られず、ただ社会から隔離されているような印象も受けました。せいぜい興奮状態を薬によって鎮めているだけでした。

そういった状態の中、荒れる子どもを心配のあまり、別居親が同居親の助けを求めようとして、同居親の代理人を通じて離婚調停が申し立てられました。別居親と代理人の私は、離婚申立てが真意ではなく、子どものことで助けを求めているということを見抜き、面会交流を復活させました。その直後から子どもの精神症状は沈静化していき、社会に出る準備を始めていきました。自分の夢を自覚して、夢に向かって進むという意欲を持ち、現在夢を実現しつつあるという状態です。

別の例では、両親の別居後、荒れて徘徊を繰り返して児童相談所に保護されることが頻回にあった小学生がいました。別居親との交流を通じてそのような行為は無くなり落ち着きを取り戻しました。親子が久しぶりに対面した場面に立ち会いました。面会が終わるまで、子どもが満面の笑みを浮かべ嬉しそうに時間を過ごしていたことが印象的でした。

私が見た実例は、子どもの自己評価が低下した様をまざまざと見せつけられました。自己評価が低下している状態とは、自分は尊重されるべきだという観念を持てず、夢や意欲を持つこともできない状態になるようです。

また、近年では、離婚それ自体というよりも、離婚後も親が離婚相手に対して精神的葛藤を抱いていることが子どもにとって悪影響を与えるという整理の仕方もされているようです。子どもは同居親の承諾の元で別居親と交流できることで、この点も安心するのだと思います。別居親の面会にあたっては、私が同居親の葛藤を下げるチャンスとして子どもとの交流を活かすことが子どもの利益になるというアドバイスを常に別居親にしているのはこういう理由があるからです。

日本を除く諸外国は、このような科学的根拠があるということで、子どもを一人の人格者であり、親の付属物ではないとして、離婚後も共同親権制度にしたのです。日本で共同親権制度になっていないのは、日本の立法府だけが統計的に科学的に見出された子どもの権利を真正面から取り上げようとしていないからと思われても仕方がない状況なのです。アジアの隣国である韓国も中国もはるか昔に共同親権制度を整備しています。

ちなみに「選択的共同親権」ということもこのような共同親権制度が世界中に広まった今となっては恥ずかしい限りです。子どもが両方の親の愛情を確認できて健全に育つか、一方の親の愛情だけで甘んじなければならないのかを親が勝手に決めて良いという制度ですから、子どもは親の付属物として扱われて仕方が無いという制度です。政治的妥協の産物ででてきた概念ですが、制度趣旨を理解できない恥ずかしい提案になります。子どもの切実な利益を政治的駆け引きで決めてはだめだと私は声を大にして言いたいのです。

3 離婚後の共同親権制度を法律で決める必要性

現状での不合理として、離婚後親権者ではない親は、親権者でない以上に無権利になっています。例えば、子どもの養育状況が心配になったり、登校の様子を知りたくて学校に問い合わせても、「親権者ではないから個人情報の観点から教えられない。」あるいは、「親権者の同意が無いから教えられない。」という回答がなされることが少なくありません。

子どもが児童相談所に一時保護されても、親であるにもかかわらず親権が無いから一時保護の様子を教えられないとの回答がなされました。

経験上言えることは、教育機関、児相、役所と警察などの公的機関では、親権を持たない親は親であっても子どもの情報を教えないという扱いがなされているようです。実際は同居親と子どもの折り合いが悪く、中には同居親がヒステリックに子どもに対して行動を制限している場合でも、もう一人の親は情報を知らされないため子どもに対する有益な対応をとることが妨げられています。

もう一人の親に情報を与えて意見を出せるようにすると、親権者の親権が妨害されるとでもいうようです。ここでも子どもの権利よりも、親の権利が優先しているように思われます。

親権を持たない親が子どもと話すことで子どもが落ち着いていくこともよくあることなのですが、一切のかかわりを禁じているのが現在の児童相談所をはじめとする公的機関です。あたかも、親権を持たないもう一人の親は、子どもと敵対しているかのようです。これはかなり失礼な話だと感じています。

これは親権者が一人に定められなければならないため、現状の親権者の問題点をもう一人の親に知らせると、親権の変更などの手続きをするのではないかという恐れも背景にあるのかもしれません。

しかし、そもそも共同親権制度を作り、もう一人の親も親として子どもにかかわれるということになれば、親権はく奪に相当するような虐待が無いのであれば、多少の失敗があっても親権の移動はありません。だからお互いが、現状のシステムよりより冷静に子どもの成長について話し合う条件が生まれるのだと思います。

いずれにしても、両親が離婚しても親子は親子だということを行政は看過しています。親権という法的地位はともかく、親であることが公権力によって否定されているということは是正されるべきです。共同親権制度は子どものために必要な制度だと思います。

名称こそ共同「親権」ですが、実態は共同「責任」制度です。子どもへの関与が増えることの一番の効果は、両親の子どもへの愛情行使が期待できることです。

現在養育費が支払われないということで、公権力は養育費の強制徴収を検討しているようです。しかし、養育費が支払われない事情は千差万別です。養育費を支払いたくても支払えない事情がある親は少なくありません。それにもかかわらず、ある自治体は支払ない親の氏名を公示するというパワハラのような方法で養育費の強制徴収を検討したようです。これは子どもの利益ではなく、生活保護などの公的援助金の支出を抑制することしか考えていないことを示す事情です。養育費を払わなくても子どもにとっては親です。どこの子どもが自分の親の不十分点を名前をさらされて公にされたいと思うでしょうか。自分の親が養育費を払わない親として自治体から名前を公表されていたたまれない気持ちになることを想像できないのでしょうか。普通に考えれば、子どものための制度設計ではないことがすぐにわかると思います。

親は、子どもにかかわることで本能的に無理をする生き物です。十分な収入は無いけれど、自分にかけるお金を削って子どもにお金を使うということは、同居、別居にかかわりなく同じだと思います。親は子どもとかかわって子どもに親にしてもらうということが私の経験からも正しいと思います。逆に言うと、子どもから引き離された親が、子ども優先にお金だけ支払おうというモチベーションを高く維持できるわけはありません。私が最初に親子問題にかかわったのは養育費の打ち切りの相談でした。支払わなくなったり、予定した期間を支払い終えたけれど養育費が継続されないと困る事案の相談でした。新たに扶養調停を申し立てるしか法的手続きは用意されておらず、しかし時間も待ったなしという事案(大学の授業料の納付期間が迫っている等)がほとんどでした。案外簡単に解決しました。子どもがもう一人の親と交流を開始するという方法でした。同居親としても背に腹は代えられない事情があるので、実行していったところ、私の知る限りの事例で経済的問題が解決したものでした。

もし共同親権制度であれば、もっと親は子どもにかかわることができるの、子どものための行動をすることでしょう。初めから交流を続けて行けば、もっと子供は楽に自分の夢を追うことができるなど、人生の可能性が広がったことでしょう。

まだまだ、法律で共同親権制度にする必要性はあるのですが、長くなりましたので、そろそろ終わります。

いずれにしても、離婚した夫婦が、現状何も働きかけをせずに子育てを協力するということは現実的ではないと思います。しかし、法律で共同親権制度を定めることによって、当初は仕方なく協力関係を形成し、時間が立つことによって、離婚をしても子どものためには協力するものだという意識が形成されてゆき、子どもの利益につながってゆくはずです。

国家が子どもの利益のための制度をだいぶ遅くなりましたが、真面目に作っていくことが求められ、世界からも注目されていると思う次第です。


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親権の概念の再確認と離婚後の共同親権論争の真の問題の所在 [家事]

親権の概念と離婚後の共同親権論争の真の問題の所在

法制審議会が8月29日に離婚後の共同親権を含む家族法改正のたたき台を発表しました。離婚後の共同親権の是非を議論する前に、先ず親権概念をはっきりさせておいた方が良いと思いました。書いているうちに、筆が止まらなくなり、なぜ共同親権に反対するのかの理由まで考えてしまいました。このため大分長くなってしまいましたが、実務家としていつも感じていることを正直に書きました。
 
1 親権の内容
 
 親権という概念は各国にあり、実はいろいろな意味があるようです。文明国の親権という意味で「近代的な親権」というためには、親権の内容に子どもに教育を受けさせる義務を設けるなど、子どもが幸せになるように行動をする義務が含まれなければなりません。
例を挙げると、子どもを教育する義務、子どもを監護する義務、子どもの財産を適正に管理する義務などがあります。今、議論になっているのは懲戒権です。懲戒の内容はいろいろありますが、子どもが悪い行為をしたらその行為に否定的評価を与え、今後の改めるべき行動様式を指導することが共通内容でしょう。子どもが間違った道に進まないためには、私は親の懲戒権は必要だと思います。但し、親の気分によって子どもにつらく当たったり暴力をふるったりすることは、そもそも親権の中に規定されている「懲戒」ではありません。うまく言ってわからせることができる場合は懲戒という概念は不要かもしれませんが、子どもの意思をある程度制圧しても懲戒しなければならない場合、特に子ども自身の安全のために必要な場合が現実にはあると思います。

話を戻しますが、近代における親権の内容は、どちらかというと「権利」というより「義務」に近いのですが、子どもは親の親権(指導や教育)に服しなければならないという意味もあるため「子どもに対する権利」であると説明されています。ではいっそのこと権利という言葉を使わないで「親責任」という言葉を使うべきではないかという意見もあります。実際にそのような意味の言葉を使う国も外国にはあります。しかし、親権制限、親権喪失などの法律用語との整合等を考えなければならず、そう単純には決められないという指摘も有力です。

私は、親権には、親権に対する妨害を排除するという意味での自由権的側面もあると考えていますので、親権という言葉は残すべきだと思っています。親権妨害が損害賠償や妨害排除の対象となることは裁判所でも認められていることです。
 国家との関係では、最近は痛ましい虐待事例に居ても立っても居られない人たちが児童相談所の現状を苛烈に批判し、児童相談所の家庭への介入を強化し、警察との連携を主張する傾向が多くなってきました。そうすると、介入の弊害も懸念しなくてはなりません。本来虐待をしていない場合に親子分離がなされてしまうことも当然でてきます。過度な親子関係に対する公権力の介入を抑止する観点からも親権の自由権的側面を改めて強調するべきだと考えています。

2 親権を行使する主体

  親権を行使するのは親であるということは明治民法の時代から規定されています。ここで指摘しておかなければならないことは、明治民法は、封建的な「家」制度を維持するための制度となっており、親権制度も家父長的な観点から定められているという誤解があることです。
  家父長制という概念はヨーロッパの家族関係を知らなければその意味を正しく使用することはできません。法律を超えた文化的な考え方という根強いものです。この意味で日本の家族制度に家父長制という概念をストレートに当てはめることには無理があると私は考えています。
  もし明治民法が家父長制的な「家」制度の維持のための制度設計だとするならば、親権は「家」のトップである戸主にあると定められるはずです。ところが明治民法は先ず父が親権者であり、父が親権を行使しえない事情がある場合には母が親権者になると定めているのです。親権は、子どものための制度であるから、自然な情愛に基づいて親権を行使するべきであり、それは親がふさわしいという考え方が採用されて立法化されたものです。但し、父親が第一順位というところに男女差別があることは看過できません。しかし、これをもって欧米の家父長制と共通だと考えることには無理があるのです。

3 現代社会の婚姻時の共同親権という制度

戦後親子関係に関しては民法改正がされて、親権の主体は一人ではなく、父母双方であり、父母が共同して親権を行使することが定められました。

親である以上、男女の性別にかかわらず親権の主体とされるべきだということは、男女平等の価値観の元当然のことです。子どもに対する自然の情愛に委ねるという考え方は、父と母の双方が親権を有するということがよりよくなじむと思います。

明治民法では親権者は一人でしたが、二人が親権者となると、何らかの決定をしなくてはならない場合にはどうするかという問題が出ます。制度としては、どちらかに優先順位をつけるという形です。明治民法は性別で優先順位を決めましたし、理屈の上では二人の年齢によって決めるなど決め方はいろいろありうると思います。しかし、改正民法では、親権者二人に優劣を決めず、二人で相談して決めるということになっています。父親と母親とどちらにも優劣が無く、平等に話し合いで親権行使を決めるということが、日本国憲法体系かにある民法の考え方だということです。

4 現代日本の共同親権の実態

現代日本では、多くの親権侵害が存在しています。

1)一方の親が子どもを排他的に確保して他方の親の親権行使を侵害

いわゆる連れ去り事案が典型的です。つまり、例えば子どもの母親が、子どもの父親に知られないように子どもを連れて現在の居住地から離れて別居をする場合です。子どもがどこにいるかわからなくなりますので、他方の親は親権を行使することができません。明らかな親権侵害です。

このほかにも、例えば逆に父親が、母親が精神障害にり患しているとして入院させるなどして家から退去させ、母親が退院しても家に戻ることを妨害する事例が実際には多くあります。夫の母親が嫁を嫌っていて、家から追い出すという封建時代かと思わせる女性の被害が起きています。現実には少なくない母親も親権侵害を受けていています。それどころか子どもに会うことすらできない母親も少なくないのです。

また何らかの事情で、例えば母親が夫との関係で罪悪感を持っていることを利用して母親の子どもへの関与を排除してしまう事例も実際は多く相談が寄せられています。

親権侵害の事例は、子どもと一方の親を断絶させるもので、深刻な精神的打撃を受けます。とくに連れ去り事例では、一人残された父親が自死したり、廃人のようになったりするケースを私も多く見ています。


2)親権侵害に対する公権力の加担

一方の親による他方の親の親権侵害の事例の典型的な例は母親の子の連れ去りの事案です。この事案には公権力が加担している案件が実に多くあります。「DV被害者の保護」という名目です。しかし、実際には、身体的暴力や精神的虐待があったと認められるケースは例外的です。判決や和解でもDVは無かったこととして結論が出されることが多いということが実感です。

それにもかかわらず、地方自治体や警察、NPO法人は、ありもしないDVがあったとして父親の親権侵害に加担しているのです。
一方的な母親からの事情聴取だけで「それは夫のDVです。」と宣言し、子どもを連れて父親の知らないところに逃げることを勧め、そして夫から知られないように住処を与えて、生活保護を支給して逃亡生活を援助します。そして、裁判手続きを勧め、法テラスを通じて弁護士を依頼させて、保護命令申立や離婚申立てなどを行うことを容易にしています。

「DV被害者ならば逃がすのは当然ではないか」と、この時点で結論を出す人もいるかと思います。しかし、DVという概念は広範な概念で、DVというだけでは何が起きているのか皆目見当もつかないのです。離婚調停や裁判においても、DVの具体的中身が母親側から具体的に主張立証されることはほとんどありません。

事情聴取はすることになっているのですが、あまり具体的な話は聞いていないのではないでしょうか。また、その話の事実評価も行われていないようにも思われます。私が良く例に出す実際に会った話ですが、月4万円しか夫から渡されないという妻の訴えに対して相談所は「それは夫の経済的DVだ。」と即時に断定されたと専業主婦の妻が言っていました。

しかし、夫の賃金(手取り20万円を切る)が低いうえ、光熱寮などの生活経費や教育費は夫の銀行口座から引き落としになっている上、食材なども夫が全て出していた。つまり、妻の小遣いを何とか4万円捻出していたということが真実だったのです。低賃金の社会構造に原因があるにもかかわらず、夫のDVだと決めつけるところにDV相談が何なのかを象徴していると思います。

むしろ、誰にも相談できないところで深刻なDVは起きているということが実感です。量的には男女差が無いということも感じています。

母親の連れ去り事例における相談所(役所、警察、NPO他)の問題点を整理します。

・ 裁判手続きを経ないで父親の親権侵害行為が行われていること
つまり、父親には反論する権利が無く親権侵害が行われていること
・ 連れ去りに正当性が無いことが裁判で確定しても、親権が回復しない。また親権侵害による損害賠償を請求する方法が存在しないこと
・ 父親の人権侵害に重要な役割を果たしているのは、地方自治体やNPO法人などというつまり税金を使ってのこういであること

父親の親権侵害の観点からはこれらが主たる問題だと思いますが
子どもの健全に成長する権利からはまだまだ大きな問題があります。
突然住み慣れた家、仲良しの友達、学校、地域、何より父親と父親側の祖母やいとこなどの親戚から隔絶されてしまうのですから、子どもの精神的負担は大きく、チックや睡眠障害などの精神症状が出現する例が報告されています。

本来平等だと定めた父親と母親の親権ですが、実際は母親の親権が、税金を使って排他的に優先されているのが現実です。

5 離婚後の共同親権のあり方 現状から見えてくる本当の反対論者の問題の所在
 
8月29日の法制審議会の改正案のたたき台では、離婚後の共同親権が議論されています。しかし、離婚後に共同親権になったからといって、私はあまり楽観できないと思っています。なぜならば、現行法では、婚姻中は共同親権と定められています。ところが述べたように離婚前から別居親、特に父親の親権侵害が公権力によって行われているのです。母親の親権が回復する方法どころか、我が子と面会する強力な公的手段も存在しません。このような現状を見ると、離婚後に共同親権制度になろうと親権侵害が終わるという楽観的な観測を持つことは私にはできません。子どもに会えない母親が子どもに会えるようになるとは思われません。

ただ、面白いことに、そうだとすると現状で父親の親権侵害を支援している人たちは、離婚後に共同親権になったとしても同じようにDVを理由として親権侵害を継続すればよいのだから、熱心に反対する必要は無いわけです。ところが、これ等の人たちは熱心に離婚後の共同親権に反対しているのです。

これには理由があります。現状では、離婚をすれば単独親権となり、親権者でなくなった親は親権を失います。本来親権は、親子という自然な情愛に基づく関係で付与されるものです。夫婦が離婚したところで親子の情愛は続くのですから、離婚をしても親権が存続しても良かったはずです。単独親権と定めた理由は、離婚をしてしまえば他人に戻るのだから親権行使の方法を話し合うことは現実的ではないという考えが大きな理由でしょう。しかし、それは親権の順位をきめればすむことです。「親権行使の意見が分かれた場合は同居している親の考えを優先する。」という決め方だってできたはずです。法改正でこれをしなかったのは、封建制度の考え方が残存していたことによると私は思います。つまり、「離婚をすると一方は家(「家」制度の家ではなく、文字通りの家)から出て行くのだから、家とは無関係になる。子どもは家の所有だから家から出て行った場合には子どもに対しての権利を失うことは当然である。」という考え方です。子どもを一人の人格主体とは見ていなかったということです。これには時代的制約があるためにやむを得ない側面があります。日本を除く世界において子どもの権利を考えるようになったのは、第2次大戦後に始まり21世紀になって定着していったからです。日本だけはまだ子どもは母親の所有物だという考えが公権力にも残っていて、子育ては女がすることだという意識が疑問を持たれないで温存されています。看過しえないジェンダーバイアスであるとともに日本の人権意識の遅れが如実に出ている問題です。

話を戻しますと、離婚後は単独親権になっている現在の制度が連れ去り型の親権侵害では極めて有効な条件で、もしかしたら不可欠な条件なのだという認識が連れ去り推進論者にはあるのでしょう。

つまり、
行政の支援を受けて子連れ別居をする
⇒ 調停などを起こして離婚を申し立てる
⇒ DVの主張が認められなくても、現在の家裁実務では
  「別居の事実」と「離婚の堅い意思」があれば離婚判決を勝ち取れる
  加えて、連れ去り後子どもと同居している、乳幼児のころ母親の方が父親より子どもと一緒にいる時間が長いならば、裁判所は母親に親権を定める
⇒ 離婚が認められ自分が親権者となる
⇒ 父親が子どもに、子どもが父親に愛情があっても父親の親権が離婚と同時にはく奪される
⇒ 養育費は、強制執行の威嚇の下に支払いを確保できる
⇒ ひとり親家庭ということで手厚い行政の支援金が交付される
⇒ ゴールは父親を排除して子どもとの生活

という、今やルーティンともいえるような家裁実務により、連れ去りのゴールが設定されるといううまみが離婚後の単独親権にはあるわけです。(ただし、現実には生活は同居中より格段に厳しくなり、こんなはずではなかったと相談所に抗議をしても、相談所からは「離婚はあなたが決めたことですよ。」と判で押したような返事が来るだけである。という相談を人権擁護委員の多くが聞いている。)

ところが法改正されて、離婚後も共同親権となってしまい、離婚後の父親の子どもに対する関与が認められてしまうと、ゴールが見えなくなります。離婚後のバラ色の姿(空手形ですが)を吹き込むことができなくなることによって、連れ去り別居の意欲がそがれてしまうということに危機感を抱いているのだと思います。

これが離婚後の共同親権に反対する人たちの中核の問題の所在なのです。どうして、当事者でもない支援者が危機感を抱くのか。それは、バラ色のゴールが無ければ、離婚プランの相談をしようとさえしなくなるわけです。相談所のニーズが無くなってしまいます。連れ去りの支援を受けようとしなくなれば、相談や支援を行うNPO法人の存在意義がなくなり、予算が配分されなくなるということがおそらく最大の問題なのではないかと考えることはうがちすぎでしょうか。

もう一つありました。連れ去り事例が多くなって目につくようになったのは、DV加害者に対するセミナーです。妻がいなくなった夫で、もともと真面目な人、ややうつ状態になった人は、自分に原因があって妻がいなくなり、子どもが寂しい思いをしているのではないかと自責の念に駆られる人が多いです。このため、自分のどこが悪かったのだろうか、どう直していけば良いのだろうかと悩むようです。そういう人たちがたどり着くのが加害者セミナーです。独力でたどり着くだけでなく、「離婚調停などで本当に行動を改めるつもりなら、セミナーに通え」と言い渡されて通う人もいるようです。

この種のセミナーを主宰している人に連れ去り支援に加担している人がいます。もちろん離婚後の共同親権制度の創設にも反対しています。

セミナーは長期間行われます。受講するためにはかなり高額な受講料を払わなければなりません。受講経験者から話を聞くと、いろいろ新しい知識が付くので、目からうろこが落ちた思いにはなるようですが、率直に言って効果には疑問があります。そもそも加害者セミナーという名称がその内容を表しているのではないでしょうか。

職業的な共同親権反対論者は、他でも活動をされていますが、どの分野でも共通のスキームを持っているようです。即ち、行政からの委託料ないし補助金と、高額のセミナー開催です。また、特徴として、公金の流れが、民主主義の原理によって決定されないで、情報開示請求などが無い限り公にされないというところも共通であるようです。

公的な親権侵害の特徴は、国民が知らない間にいつの間にか制度が出来上がっていて、その制度で利益を得ている人たちが行っているということです。そして、その確信犯に、心情的に追随してしまう人、正義感が強すぎる人が、一部の被害実態(あるいはアメリカの被害実態)が日本においても普遍的な事態だと思い込んでしまう人が、良心的に指示してしまっているところにあると思います。

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