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負ける事件を引き受けることが、弁護士としての誇り。究極のマイノリティーを守ることが社会を守ること [事務所生活]

不合理な事件というものはあるものです。

国家機関もご多分に漏れず、
周囲から支持されない者、厳しく接しても非難されない場合
むちゃくちゃ厳しくなるようです。

過去においては、過激派や暴力団
ちょっと前ならオウム真理教でしょうか。

確かに、住居侵入といえば住居侵入でしょうが、
一般的な尾行に気が付いた信者が身を隠すために
近くにあったマンションの敷地に入った
それで住居侵入罪で逮捕です。

オウム真理教信者とはいえ、その人の危険性はわかりませんが、
確か実刑になったと思います。
住居侵入だけでです。

前科もなく住居侵入罪が適用されれば
しかもそれが報道されて国民が注目しているのであれば
弁護士はこぞって批判するべきだったんです。
今ならそう思います。

10年以上前、暴力団の組長が
理由にならない理由で逮捕勾留され
20日以上も警察に留置されました。
結局起訴もされないで釈放されました。
私は弁護士ました。
まだ、弁護料の未払いがあります。
この時は組事務所の関係で
身柄を拘束する必要性があったようです。

いずれにしても法律が目的外使用されているのです。
法律が緩められればそれが新しい法律のスタンダードになります。
結局はユーザーである一般国民が
緩い基準で捕まってしまうわけです。

気が付いたときには、法律は、そのように実務上
改ざんされているわけです。

はじめから法律を変えたり
運用を変えたりするわけではなく、
誰からも支持されない類型の人たちに対して
適用して、実績を作っているわけです。

「あれ?法律と違うよ。」といっても
ずうっとこうやって運用しているよと
言われてしまうわけです。

だから弁護士はそうならないように
刑事手続きを厳格に守ることによって
自分の依頼者を守るだけでなく、
法律を、社会全体を、明日の一般国民を守っている
という気持ちなのです。

誰からも支持されない者を冷遇する、過酷な取り扱いをする
これはいじめの構造と一緒です。
子どもたちからいじめがなくならないのは
人間の本質ではなく、
上からの指図に、抗議しない大人たちの影響です。

いま、このような社会的いじめの対象は、
虐待男です。
妻を暴力で虐待した
子どもを虐待した
ということで非難されることです。

先日、箸でつつこうとして耳の裏にあたって
かすり傷を負わせたということで
公務員の男性が逮捕され
実名報道されました。

これです。

弱いものを叩く。

この報道は多くの人たちが
どうしてこれを報道するのかなと
どうしてこんな事件で逮捕するのかなという疑問を持っていただきました。
心に違和感があったそうです。

報道機関も違和感はあったようです。
私が実際のやり取りをしたところ
何にも反論ができなくなりました。
それでも実名報道したわけです。

要するに、警察の逮捕報道は
警察の言いなりに報道しなければならない扱いになっているとのことでした。
世論操作です。
報道の独立なんて、はじめっから重視していません。

その結果、被害者児童の特定につながってしまったのです。
当たり前です。実名で報道した上、詳細な住所まで掲載したのです。
被害児童は、これまでの友達との関係を絶たざるを得なくなったのです。
報道は、子どもの人権をどのように配慮したというのでしょうか。

配偶者暴力は、実際に暴力がなされ
深刻な被害が起きている場合もあり、
私も担当したことがありますが、
自治体やボランティアや大勢の人たちで
被害者を支援しながら進めます。

被害者の処罰感情に任せて
加害者とされるものを制裁する
という方向や発想は
これまでありませんでした。

ところが、昨今のDV対策は様相がかなり違います。
妻が(夫の場合はない)暴力があったといえば
精神的暴力であろうと微細な暴力であろうと
妻を隠し、夫に保護命令などを出して
場合によっては刑事事件とし
離婚させてワンセットということが多くなりました。

要するに、人間関係を解決しようとか
被害を救済しようという実質的な目的ではないのです。
被害に対して、刑事処分なり、保護命令なり
離婚なりの実績を作るという
お役所的な統計が優先的に目的とされているのです。

保護命令事件や離婚事件でも

どんなに父親がそれは事実と違うと言い
友人や上司、家族が事実と違うと証言しても
母親の陳述を優先させてしまう実態があるようです。
無いことの陳述ですから詳細なことは決して言えません。
アリバイがあっても認められないことも報告されています。

私は今回の事件を引き受けました。
状況としてはかなり不利です。
しかし、勝ち負けじゃないのです。
ここで何もしないで追認してしまうことになると
若い裁判官たちが
そういうものだという
人の一生にかかわることが
ルーチンになってしまうという危惧があるからです。

もちろん勝とうとしてやっていますが、
それ以上に大切なことがあるということです。

虐待というと、被害者がなくなるようなひどい事例が念頭におかれます。
しかし、実態からすると虐待の事実すらないことが圧倒的です。
それでもどこからか情報を入手し虐待を語り
子どもに対する暴力を語り、
親に会いたい子どもをしかりつけ、
親の悪口を言わせて
子どもを無間地獄に引きずり込んでいる親も
枚挙にいとまがありません。

子どもたちは自己肯定感を持つことができなくなり、
引きこもり、拒食過食、
リストカット、精神病院の入退院、ということを多く見てきています。

家族の中に勝ち負けを持ち込む
国家的な正義を持ち込んだ結果
傷ついているのは、最も責任のない子どもたちなのです。

勝ち負けではなく、
何とかその問題の所在をアッピールしたい
現代の最大のマイノリティーである
虐待のレッテルを張られた人たちに寄り添うことが
社会を、一般国民を守ることだと
考えて頑張っています。

今回は、理不尽な思いをしている父親を念頭においてしまったので
冷静さを欠いております。
乱分をお詫び申し上げます。


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