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実は民法(債権法)の大改正が進行しています。 [民事・消費者]

あまり、世間では取り上げられていないようですが、
法務省で、民法の根本的な改正作業が行われています。

民法は、私人間の経済的、家族的関係を定める根本法ですから、
そのうちの経済的根本法が、大きく変わろうとしているわけです。
もっと、本来取り上げられるべきなのです。

しかし、民法が難しすぎて、
その改正となると、とりあげようとしても、
なかなか取り上げられないというのが実情のようです。

民法が難しいのは、
書いてあることが分かりにくいということもありますが、
書いてある通りの意味ではないというか、
判例によって、
書いてあっても、無いものとして扱われたり、
書いてなくても、書いてある以上のことが
書いてあるものとして扱われたり、
別の場面に転用されたりと、
法律の条文だけ読んでもわからないことが多いからです。

このため、民法を知っているというためには、
条文だけでなく、
判例や学説も知らなければならないことになるわけです。

(書いててややこしいのですから、
これをお読みの方、申し訳ありません。)

だとしたら、
判例が変えたところを条文も改正すればいいじゃないかと
その限りにおいては、そうかもしれません。
本来そうすべきだったのかもしれません。
なぜ、改正されなかったのか。

おそらく、裁判所や弁護士など実務家が、
民法をそういうものだと受け入れてしまっていたからかもしれません。

国民が理解しやすい民法という視点はよわかったようです。

では、今回の改正は歓迎されるものなのか。
これは、まだわからないということが本音でしょう。
判例と条文の食い違いを正すだけならよいのですが、
どうも、それだけではない大きな改正がなされそうなのです。

それから、現在の立法慣行からすれば、
確実に改正する手順を踏んでいるのに、
難しいからと言って、国民に宣伝活動をしていない、
というところも、注目していなければならないところだと思います。

現在改正作業は、法務大臣が招集する法制審議会
というところで、検討作業が進められているところです。
この審議会に、日弁連からも委員を出しています。
この日弁連選出委員をバックアップするチームを
日弁連の中に作って、毎月検討会を行っています。
このバックアップチームは、各地の弁護士も参加しています。
仙台からもチームに参加している人がいて、
この人を仙台でもチームを作ってバックアップしています。

この検討作業が、次から次と膨大な量を検討しなければならず、
自由な論議をしている暇が無いというのが実情です。
不思議なことに、そうやって時間が無い中検討していると、
だんだん提案者の思考パターンとなってきて、
提案者の案に賛成するようになってくるものなのです。
一種の洗脳に近いかもしれません。

そして、国民どころか、
なかなか、弁護士会の会員にも
改正作業の実態を報告することが難しい
という感想が実感なのです。

この改正は、ちょっと怖い。
という感想をどうしてももってしまいます。

どうせ難解な記事になったので、もうひとつ。
怖さの原因です。

これまでの民法(条文、判例、学説を含めて)は、
ドイツ法の影響を強く受けていて、
体系が整備されているというところに特徴があります。

太い幹があって、具体的な条文、判例が、
幹から伸びる枝葉となっています。
だから、しっかり体系を理解していれば、
多少枝葉の形が変わっても、
容易に理解することができ、応用が利く面があります。
私たちの世代までは、概ねこのような法律学を学んできました。

これに対して、現在の改正作業を実質的にリードしている学説は、
どちらかというと、英米法的発想で、
体系よりも、個別ケースの処理を重視しているようで、
裁判の思考手順から見ると、
疑問符が付くようです。
最近の学説の有力傾向らしいです。

昔、英米法というと条文が無く、
判例の集積が法律になるということでしたが、
現在は、条文はあります。
ただ、ドイツ法と違って、
がちっとした体系にこだわらないので、
条文としてはあるけれど、
判例の集積がそのまま条文となっているので、
やはり、ケースの積み重ねという特徴は
残っているのではないかと思われます。
判例に機敏に対応するべきだという
改正論者の意見も、
現代英米法的と言えば、そうなのかもしれません。

そうすると、裁判所、特に司法研修の担当部署は、
法的安定性、即ち、誰が裁判官でも結論が変わらないシステムを
重視するので(この理由づけはうまく言えていません)、
こうした英米法的発想、思考パターンには、
抵抗を感じるようです。

アプローチの違いということかもしれませんが、
現代の多様化、複雑化した取引社会、人間関係からすると、
事例の集積的アプローチはキリが無いようにも
おもわれるのですが、どうなんでしょうか。

危惧とか、恐れとか、不安とか、そういうイメージ的なことを
多用するのは、
現在進められている民法改正が、
量が膨大すぎることとも原因として、
何が行われようとしているか全体像が見えない
というところにあるように思われます。

この問題、何ヶ月後かに、コメントが続けられるでしょうか。

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