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パーソナリティ障害、アスベルガー障害と、ヒトという群れを作る生物、ヒト社会の現状 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

パーソナリティ障害やアスベルガー障害の本を読んでいると、

特にこれら障害を持った人たちが、文学や哲学、政治、発明
等で歴史を塗り替える役割をしている(幻冬舎新書 岡田尊司著)
(光文社新書磯部潮著では、人格障害)と聞かされると、

だんだん、誰にとって「障害」なのか、
観察者、視点によって、評価が多様化して行くのではないかと
感じてしまう。

視点が、本人、家族、知人、他人で変わり、
さらに、個体としての障害としての観察から、
群れで行動するヒトに対する観察に変えてみると、
この「障害」こそが、むしろ
群れの要請から必然的に発生するのではないかと思われてしまう。


人間は群れで共生するという特徴をもった生物であるから、
群れの中で共生したいと志向する本能があると思われる。

よく言われる食欲、睡眠欲、性欲と同列の
群れの中で共生したいという欲求があると思われる。
便宜上「共生欲」といわせていただく。

共生欲の典型的現れ方は、
社会的ルール、暗黙の了解を順守し、尊重し、
社会の中で突出することを避け、
集団に埋没することを志向する。
自分の身近な人の気分感情を察する。

食欲と睡眠欲は、個体の維持をつかさどる欲求であるが、
性欲と共生欲は、どちらかというと、
種の維持であったり、群れの存続の条件となると思われる。
もっとも、個体を維持するために群れの共生を選択したヒトとしては、
共生欲があっての個体の維持という側面もある。

この共生欲の集団への埋没志向は、
個体によって強さが異なり、
パーソナリティ障害やアスベルガー障害では、
この共生欲がうまく働かないという
特徴があることになる。

ただ、個体によっても異なるが、
その個体の時期によっても異なるとみている。
ヒトの繁殖期である思春期から青年期にかけて、
つがいを作る時期は、
埋没志向は一時的に後退すると考える。
パートナーを獲得するために、
個性を発揮しようと志向する時期である。

ヒトが、面白く、美しく、切ないのは、
やみくもに埋没しよう、個性を没しようとするのではなく、
繁殖期以外でも
個性を発揮したいという気持ちを持ちつつ
共生を志向するということろである。

ちょうど、月と地球との関係のように
引力と遠心力がつりあいをとりながら
慣性により回り続けているような関係で、
共生の志向と
個性を発揮して群れから突出したいという思考が
釣り合いをとっている。

だから、共生を志向しない突出者は、
いじめという形で、あるいは障害という評価で、
極端な排撃を受ける要因となるのではないだろうか。

しかし、どうも共生を志向しない個体は、
突然変異というよりも、
群れの中に、一定割合必ず存在し、
群れの維持のために不可欠な存在であり、
群れの維持のために役割を果たしていると
前掲書を読み進めていくとその感を強めてしまう。

例えば、文学や芸術、演芸で、
大衆の心をつかむ作品を産出する人たちは、
集団の中に埋没できない人たちである。
表現行為をすること自体が、埋没志向とは逆の志向である。

太宰治、ヘッセ、尾崎豊、ジョージルーカス等が挙げられているが、
天才と言われている人たちに共通の志向であろう。
身近な集団に対する共感性、感情の共有がもてなくても
ヒトという集団からは、受け入れられる。
突出したい、個性を持ちたいと思いつつ埋没を志向する
圧倒的多数の個体にとっては、
自分の突出願望を、あるいは自己矛盾というストレスを
これらの「障害」を持った人たちの
実際に突出した個体の産出した作品に接することで
満足させている。
これによって、大部分の個体が、バランスを維持し続けることができ、
結果として群れを維持している。

あるいは、エジソンやビルゲイツ、スティーブジョブズのように、
集団の中の不満を、
便利さという手段を提供することにって、
満足感を与え、群れを維持しているという評価はできないか。
生産手段等の変化により生まれた社会的不満に対する対応というか。

ショーペンハウエル等哲学者も然りである。

もっとわかりやすく言えば、
カリスマ的政治家や宗教家である。
ヒットラー、スターリンという、歴史上の悪役も、
当時は、その集団から絶大に指示されている。
大衆の不満を吸い上げて、形にしている。
宗教もしかりである。

ジョンレノンが、「GOD」で
God is a concept, by which we measure our pain
とうたったけれど、神はともかくとして
種としてのヒトの不満、苦しみが「宗教家」を産み出すという意味では、
全く、この意味で正しいと思われる。

となりにいる人の気持ちを察したり、共感できなくとも
大きな群れとしてのヒトの気持ち、要求に適合する作品、
行動を産み出すことができるわけである。

大多数の集団の中の個体にあっても
特に、繁殖期で、個性の突出志向が強まる時期においては、
なくてはならない存在となることがある。

そうだとすると、
パーソナリティ障害やアスベルガー障害は、
どのような時代においても、
個体と群れの矛盾を抱えるヒトの中に、
社会が要請する存在として不可欠な存在であり、
群れが存在を要求していると言えるのではないだろうか。

象徴的にいえば、光の部分では女王アリや女王蜂のような存在
あるいは、ごく少数のオスということになる。

(影の部分については、
真摯な考察と表現の検討を要する上に、
私の職業と密接に関わるので、
価値の彼岸で考察することが困難なので、言及できない。)

注目したいのは、要求する社会、群れの方である。

前掲の著者は、パーソナリティ障害やアスベルガー障害は
急増しているとしている。

私のクダラナイ仮説からすると
この急増は社会が要求していることになる。
要求という言葉が適切でなければ、
社会が生み出しているのである。

医学的には、個体の素因に環境が働きかけるのだろうが、
繁殖される側というよりも繁殖する側である
親の感じる社会的ストレスの増加、
群れの総体としての社会的不満の増加が、
群れとしてのバランスを欠くレベルに達している
のではないかという危惧をもつ。

これは、人類普遍の問題ではなく、
極めて現代的な問題である。

おそらく自殺の急増とも密接に関わっていると思われる。

最低でも国家レベルで、
群れの維持について、
最優先に取り組む必要が生じている

というのが、
私の読書感想文の結論
ということになりましょうか。




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