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大人だって、「震災ごっこ」が必要なのではないか。言葉の力? [災害等]

避難所などで震災ごっこが流行っているということを
以前書きました。

専門家によると、
自分でコントロールできなかった大震災を
遊びで行動にすることによって、
コントロールできるものととらえ直す
そういう作用があるとのことで、
やらせておいた方がよいそうです。
なるほどそうなのかと
学んだ次第です。

じゃあ、大人の震災ごっこは必要ないのでしょうか。

昨日、地震予報っていうか、
テレビであの音楽が鳴り出しました。
幸い、仙台では目立った地震は来なかったのですが、
番組が中断され、アナウンサーが、
落ちて来る物に注意をしてください。
安全な場所に移動してください
とアナウンスしました。

家族で一番慌てたのは私でした。
震度3とか4程度の地震が来ても、
一番安全なのは家の中だといって、
大して慌てたりはしません。

しかしあの音楽とアナウンスは、
4.7とか、3.11の
あの上の歯と下の歯がガツンガツンいうような
衝撃の感覚がよみがえってしまいました。

逃げ出した後とか
余震の恐怖とかそういうことではなく、
震度6の衝撃そのものの恐怖です。

そうして、初めて、
自分自身の恐怖の記憶が
しっかりはびこっていることに
気がつきました。

現実の地震ならあの時と比べれば
大したことはありませんが、
予報になってしまうと
あの時が再現されると思ってしまうのでしょう。

大人も震災ごっこが、
もしかしたら必要なのかもしれません。

揺れていなくても、
揺れたよねと、地震の錯覚を訴える人たちも
耳にするようになりました。

腰骨の下というか、
仙骨の上の方というか
ルーズな座り方をすると、
なんか脈みたいに、脈かしら
どんどんと感じて
地震の時の揺れとそっくりな感覚があり、
それが錯覚の源となっている場合もありますが、
(私の場合)
少し、精神的に疲労が蓄積している人も
多いように思います。

でも、まさか、大人が震災ごっこをするわけにもいかないので、
何かそれに変わるものが必要なのではないでしょうか。
考えすぎでしょうか。

一つは、
恐怖を言葉にするということなのではないかと
考えています。

誰かに聞いてもらう。

それを家族でやるのが自然なのか、
ロールプレイングみたいに、
丸っきり関係の無いグループをつくり、
話してバイバイというのがよいかわかりませんが、
そういうことは、どうなんでしょう。

言葉にして、
客観的に評価できることによって、
現実以上、実際の体験以上の
恐怖の作られた記憶から脱却できる
ということはあるように思うのです。

もしかしたら、
記憶の中で、
現実に起きたデメリットではなく、
もしかしたらこうなったかもしれない、
もっと悪いことになったかもしれないという恐怖を
現実のものとして体験したような、
記憶のすり替えが起きているような気がするのです。

言葉にすることによって、
プラスマイナス両面見つめることによって、
始めて心の衡平を取り戻すということも
あるんじゃないかとは思うのですが。

どんなもんなんでしょうか。
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