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男女関係の成立(結婚)と破綻(離婚)の共通構造と、不安というキーワードと、精神的成熟と [家事]

今回の震災からは、
実に多くのことを考えさせられ、
勉強になっています。

結局、私の研究テーマ(ちょっと大げさか)は、
不安
ということにまつわるあれこれ
ということなんだなあと
おぼろげながらわかってきました。

もともとの柱の一つである
男女の別離(通常は離婚)というか
円満な夫婦生活に関しても、
「不安」をキーワードにすれば、
わかりやすいのかもしれません。

恋愛関係の成立と別離は、
構造的に似ているところがあります。

結婚と離婚は手続きが同じです。
二人が届け用紙に、あれこれ記入して、
別の2名の証人にも記入してもらい、
役職に提出する。

ただ、離婚のときは、
こどもがいれば、
親権者の指定をしなければならない
ということはあります。

実質的にも似ているところがあります。

一方当事者だけでは
なかなか成立しない。
相互作用で気持ちも定まって行くというところが
あるようです。

であって、相手を気にいって
何らかのアクションを起こす(無意識の場合もあり)
相手は、それを感じて嬉しくなって、
好感を抱き始め、リアクションを起こす(無意識の場合もあり)
相手のリアクションによって、
こちらの感情も高まり、
勇気づけられてさらにアクションをエスカレートする
そうして、恋愛が成立していく。

この場合、重要なことは、
(無意識の場合もあり)という部分は、
(勘違いの場合もあり)と置き換えられるということです。
それでも、結果オーライということが
実はよくあるのではないでしょうか。

どうも気持ちの別離も、
同じような行動様式を経るパターンが多いようなのです。

相手方が、どうも自分を嫌っているような、
興味関心の無いような行動をする。
(女性から男性に対して感じることが典型でしょうね。)

あるいは、興味関心があるなら、自分を大事に思っているなら
当然やるべき行動をしない。
(相手方が、無意識だったり、感じている本人の勘違いが多い)

このため、すねたり、イライラした行動をしてしまう。
相手方は、何だかわからないけれど、
自分が怒られているように感じる。

つい単純に反応し、
反発してしまう。

女性は、自分がうとまれているとさらに感じる。
攻撃の対象でしかないのかと感じる。
(勘違いの場合が多い)

友達や実家に相談すると、
それはひどい、そんな人とは別れた方がいいというアドバイスを受ける。
別居などドラスティックな行動に出てしまう。

しかし、この時点では
まだ、女性は、反応を見てみたいという気持ちも残っている。

しかし、男性側は、
ああ、出て行ってしまったんだという喪失感と、
何がどうなっているんだろうという困惑と、
一人でも生活ができるんだという惰性から、

別離に対して
諦めというか、受け入れというか、
精神的に疲れてしまうということで、
離婚が成立するというパターンをよく見ます。

この場合、
女性の不安は、言葉として相手方に伝えられる必要があり、
男性は、言葉にして心を伝えれば、
ある程度問題は収まるわけです。

日常的な夫婦喧嘩は、
これを代替する機能がある場合もあるようです。

女性の側(典型的なパターンで使っています)が
不安を言葉にできない場合、
無駄な不安が大きくなっていきます。

誰かに相談する場合、
男性を攻撃しながら相談するわけで、
(自分がないがしろにされているようだという相談は、
プライドが許しませんよね)
相談を受ける側は、
それはひどい男だ。別れてしまえと
無責任に賛同するわけです。

些細な借金だったり、
服装の乱れだったり、
特に落ち度がない場合ほど、
だらしないと総括して、相手を否定しようとする。
相手を否定することによって、
自分の存在を肯定しようと思えてならないのです。

このパターンが多いように感じます。

一つには、
女性が、誰かに庇護して欲しい、
誰かに庇護されることによってしか安心を得られないという
子供が親に求めるような
精神的未成熟が要因となることが多いようです。
言わなくてもわかってほしい、
言わなくても、自分を安心させる行動をしてほしい。

しかし一つには
男性側の未成熟もあるわけです。
自分が相手に対して思いやりの行動をする
ということを発想できない。
言葉をかけるという、単純で簡単なことができない。
自分が誰かを庇護するという発想の無い男も多く見られます。

しかし、しかし
そもそも、男性も女性も、
未成熟のうちに結婚するのですから、
結婚生活の中で成熟していくことは、
むしろ当たり前の自然の構造でしょう。

看過できないのは、
相談を受ける側の未成熟さです。

親、知人、
一緒になって、相手を攻撃して、
別離の方に誘導するだけ。

大所高所から、本人の勘違いという
選択肢の提起ができない。
男というものは、女というものはという
浪花節や人情落語みたいな話をする人がいない。

本当に解決されるべきは、
当初の不安であることに気づかない。

昔は、結構、近所の立派な人だったり、
親戚の偉い人だったり、
相談を受けて、
酸いも甘いも話をしたように、
物の本やなんかには書いてあります。

今、子供がかわいそうという
常識的なことを言う人も少なくなったように思います。

男女平等とか個人の尊重とか、
そういう抽象的な観念が、
常識的(旧来のということでしょうか)な、
あるいは、人情的な、
あるいは実体験に基づいた
思考を疎外しているような気さえすることがあります。

それで、結局
女性は自信を取り戻さず、
男性は何が何だか分からず、
こどもも含めて、みんなさびしい思いをしてしまうのです。

誰かに依存しなければ不安でしょうがない女性
家族の不安を受け止められない男性
その中で、心使いや思いやりのテクニックを磨こうとする子供。
なんかそんな現代的傾向があるように思われます。
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