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共感する優しさが、自分を苦しめる。片親疎外、親子依存による弊害の仕組み、面会交流の必要性。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

共感する力と片親疎外

これまで、人間の共感力(共感する力)について
感動を持って語ってきたわけです。
2歳にならない子供でさえ、大人の困っている顔と
笑っている顔を識別して、困っている顔の人を助け、
笑っている顔の人と一緒に楽しむということができるわけです。
他人の顔色を伺って、危険から身を遠ざけることができるわけです。
他の動物と比べて弱い動物である人間は、
こうして20万年と言われる歴史の中で、危険に接近し、
危険から利得を得て種を残してきたわけです。

 しかし、この共感力は、マイナスの効果を働かせることがあります。
例えば、映画などで残虐なシーンを見ると、
ついこの共感力が働いてしまい、
危険を感じてしまうということがあります。
ホラー映画を見たあと、暗がりが怖くなったりします。
いつも見慣れた場所なのに、安心感が持てなくなるわけです。
残虐なシーンは、例えば暴力シーンのように、
人が人を抵抗させない形で命の危険にさらすということは、
それが迫真であればあるほど、
自分を被害者に置き換えて見てしまいます。
しかし、そう迫真でなくても、例えば、人形の
腕や首が引きちぎられるシーンやその結果を見ても、
嫌悪感を抱くように、およそ人の形をしていれば、
共感力が発動してしまうということがありそうです。

 共感力の結果、嫌な気持ちになるだけならまだ良いのですが、
これが、自分や人間一般の価値を
低く捉え直してしまうような置換えが起きてしまうと、
他の状況と合わせて、自己尊重感の低下、他者の尊重、
共感力の低下が起きてしまい、
規範意識の低下や、様々な社会病理、
心理的症状の出現になる可能性が高まるわけです。

 そんなこと常識的にありえないだろうと考える人も大勢いるでしょう。
しかし、そこでは、このような共感力は、
理性的に、あるいは顕在意識的に起こすものではなく、
感覚的に、潜在意識的に起きてしまうものだということを看過しています。

 津波のシーンや、あらゆる虐待のシーン等で、
説得力を出すために、リアルな写真や動画を突然流すことがあります。
動物であっても、人間に近い形状のものであれば
共感力が発動されてしまいますし、
ペットなどはもう少し仲間としての情緒的な観点から
共感力が発動されてしまいます。
事前に、こういう映像が流れるという予告をして、
見ない自由を確保しなければ、
どんなに崇高な目的があったとしても、
それは、暴力にほかならないと考えています。
 
 最近のいじめも、実は、共感力の欠如ではなく、
この共感力から端を発しているパターンが多いです。
いじめのリーダーは、
不条理なことでターゲット(被害者)を攻撃するのですが、
一貫して自分が被害者だという感覚を持っています。
リーダーは、ターゲットの普通の行動で傷つき、
感情をあらわにします。
取り巻きは、リーダーの感情に共感してしまい、
自分となんの利害関係のないターゲットを攻撃し始めてしまいます。
ターゲットは、感情を表現することが苦手な場合が多く、
そもそも理不尽な事態に戸惑っているわけですから、
なかなか他者から感情移入をしてもらえません。
疎外が慢性化すると感情が抑圧されていきますので、
なおさら共感を得にくくなります。
子どもは未熟ですから、善悪の区別がつきにくく、
感情に振り回されやすいわけです。
だから、いじめられている人をかばう人は、
とてもインテリジェンスが高い人ということになります。

 片親疎外も、この共感力とは無縁ではないようです。
片親疎外とは、片親で子どもを育てる場合に、
親と子どもの境界のない癒着した状態が生じ、
子どもの思いを親の思い出支配し、
子どもを親の思いに服従させてしまう行為、
それによって生じる子どもの心理的、社会的病理現象のことを指します。
「DVにさらされる子どもたち」(バンクロフト他、金剛出版)の
「DV加害」の定義がズバリ当てはまる親の行為ということになります。
 これは、親の子どもに対する共感力の欠如から起きるわけですが、
子どもの同居親に対する共感力が、
子ども自身を苦しめているという痛ましい状態です。

 離婚をした親は、相手に対して感情が残らない
ということはないのでしょうが、
晴れ晴れして、子育てを行えれば良いのです。
親として、威厳をもって、子どもを育て、
子どもが子どもとして接することができれば、
子どもは健全に成長していくでしょう。
ところが、親が、喪失感が深くて、悲嘆に陥っていて、
あるいは、相手方への葛藤が強すぎて、
怒りが収まらなかったりすると、
子どもの前で親として振舞うことをやめてしまいます。
子どもに甘えるわけです。
子どもは、この親の強い感情に振り回され、
自分の個性を捨て、親を慰めたり、
親の行動を指導までしたりします。
時に別居親の悪口を率先して言ったり、
別居親との関係で同居親に忠誠を誓ったりして、
同居親を安心させようとします。
家の中のことを、打ちひしがれている親の代わりに行い、
弟や妹たちの面倒まで見始めます。
そうして、同居親が何を求めているのか、
常に同居親の心情を慮りながら生活するようになります。
そうすると、自分のしたいこと、自分の好み、自分の感情、
情動を基礎とした行動がなくなっていくわけです。
母親の情動で自分の意思を決定するのですから、
完全に支配されるわけです。

 生活を共にする同居親が、常に自分の周囲に存在していること、
母親の活動によって自分自身の生存が条件付けられていること、
生活の中に母親を批判し、逸脱行動を是正する契機がないことから、
異常なまでに共感力が強められているわけです。
母親の情動に対して、批判的な目をもつということが、
著しく困難な状態になっています。
 この結果、指摘される弊害としては、
年齢不相応に大人びた立ち居振る舞いをすること、
これによって友達関係の中で浮いた存在となること、
その結果いじめの対象となりやすいとのことです。
それから、自分の情動に突き動かされて行動をするという
人間として当然のことができなくなります。
知識を使う以上の価値判断ができなくなり、
社会との不調和となる行動を起こします。
あたかも前頭葉を鉄柱で貫かれたフィアネス・ゲージのようです。
極めて深刻な状態です。
繁殖期も遅くなります。いわゆる思春期後期で、
自分というものの存在がなくなり、
なにもかもが信じられなくなるようです。
自分の将来のことを希望的に考えられなくなり、
同居親に対する攻撃がすべての行動原理になることがあります。
社会の目、特に同年代の同性の目を
気にしすぎるようになることもしばしば見られます。
自分の価値を否定する行動に出るようです。
自分の生命、生きる意欲に反抗しているように、
引きこもり、摂食障害、自傷行為、自殺企図が行われることもでてきます。

 同居親にそんな気がないにもかかわらず、
起きてしまった事態は、極めて深刻であり、痛ましい事態です。
放置すれば、子どもの一生が台無しになってしまいます。

 これらのことが、一度起きてしまうと、
これまでの通常の医療や心理療法では
解決が困難になることが少なくありません。
入退院が繰り返されても、症状は改善されません。
従って、予防が肝心です。
予防策を立てることは比較的簡単ですが、
実行は必ずしも容易ではありません。
 要するに、
同居親との相互依存関係が強力になっているのですから、
その条件を遮断することが有効であるわけです。
同居親の立ち居振る舞いを批判するまでしなくとも、
別の価値観を提示するということです。
また、いざとなれば、そちらに移動することもできる
という心理的逃げ道が、
同居親の支配の条件を弱めることができるわけです。
また、子どもとして振る舞える時間があることは、
子どもにとって自分を取り戻す時間ですから、
貴重な時間なわけです。
同居親の情動を行動原理にせず、それが実現しなくても、
自分の欲望を子どもらしく表現することが貴重な体験となるわけです。
 
別居親との面会ができないのであれば、
誰か別居親に変わる逃げ道を作ってあげることです。
もし、別居親が生存しているのであれば、
面会交流を行うことです。
逃げ道がもう一方の親であれば、子どもにとっても自然であり、
余計な訓練も必要がありません。
 ところが、面会交流がなかなか容易なことではないわけです。
そもそも、面会交流が進まないような、
離婚後に高葛藤を抱えている親だからこそ、
片親疎外が起こりやすくなるわけです。
自然発生的な面会交流は期待できず、
外部から面会交流を促す必要があります。
また、同居親も安心して面会交流ができるような
システムを整備する必要があると考えています。
面会交流は、第1義的には、
子どもの健全な成長のために行われなくてはならないのです。

 問題は、既に、片親疎外の症状が出た後の問題です。
この場合でも、自己を否定しながらも、
自己を過剰に大事にするなど、本人の自尊感情がある場合は、
そこに回復の確信を持つべきです。
その場合にも、合理的な行動ができなくなっているので、
これを合理的な情動による行動という道筋を回復させる
という活動になるのではないかと考えています。

 対人関係学は、治療を行いません。
そのような働きかけは、医師、心理士に任せるべきです。
ただ、私たちのアプローチとしては、
同じ立場を克服した人と同じ空間にいることが有効であった
という経験を多数持っています。
その人の事情を紹介し、お話をしてもらいます。
言葉というより、同じ経験を乗り越えた人の実像を目の当たりにする
ということかもしれません。
自分も社会復帰しして良いのだという
ぼんやりとした希望を持つことができるそうです。
 もっともっと、事例が積み重ねられ、解決事例、
失敗事例が検討されるべきです。
本人の日々の不安は、解消されるべきです。

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