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不幸な生い立ちと死刑の関係 もしアタッチメント障害による家族依存症であったら。 [刑事事件]


宮城の死刑判決を受けた少年が控訴をするという
報道がありました。

ところで、不幸な生い立ちが刑罰に
どのように影響を与えるのでしょうか。

不幸な生い立ちで気の毒だから、
刑罰くらいまけてあげようか
というのではないのです。もちろん。

人格形成責任については前に言及しましたので、
発達心理学及び、脳科学の観点から考察してみます。
まあ、人格形成責任の裏付けともいえますが。

戦後の精神科医でボウビルと言う人がいて、
戦災孤児の施設をめぐり、ある特徴に気がつきました。
表面的には、とても愛そうが良かったり、
話ができるのに、
内面的な付き合いができず、
心を許すことができない
そんなタイプの子供たちが
極めて多いということです。

これは、母親との愛着行動に問題がある場合、
人間関係の形成に問題が生じるという
アタッチメントの理論ということで、
WHo等も理論として取り入れて、
その後の施設方針のみならず、
産婦人科や小児科の理論も左右した
大きな思想水脈となっています。

子供は母親の体温を感じ、
鼓動を聞き、
自分に触れる手の優しさを感じ、
自信を深め、情緒が発達してゆく
というのです。

脳科学の観点からも、
乳幼児期に、
母親から、育児放棄や虐待を受けた子供は、
脳の一部の発達が遅れ、
ストレスに弱い脳になったり、
脳の活動が鈍く、
長期的視野に立って物事を考えることが
苦手になったりするということが証明されています。

伝統的な発達心理学からも、
例えば、歩きだすことによって、
母親から離れ出す。
それは子供にとって大冒険です。
未知とのふれあいです。
あまりにもストレスが大きいので、
母親の姿が見えなくなるたびに、
急いで母親のもとに帰り、
また、歩きだしては
母親を感じて安心する。

このように、自分には帰るべき母親がいて、
それはいついかなる時も
帰る場所として存在しているという安心感が、
子供の行動半径を広げていくと
説明されます。

困難に立ち向かう時に、
長期的視野に立って、
課題を克服して結論を導き出す構造というわけです。

死刑判決を受けた少年については、
ワイドショーも見ていないので、
ニュース番組程度の知識しかないのですが、
犯行の動機が、
交際女性を、自分から引き離そうとしたので
殺害を決意したというような報道があったように思います。

この時、
「家族依存症」新潮文庫
という本を思い出しました。
いつも面白い本を紹介してくださる方が
紹介してくださった本です。

もしかしたら、
少年は女性に対して依存していたのではないか
という気持ちになりました。

仮に少年が、
不幸な生い立ちで、
乳幼児期に、アタッチメントの観点で問題があり、
自分が帰るべき場所が無かったとしたら。

人間関係が、自分に安らぎを与えるものではなく、
むしろ、職場でも学校でも緊張だけが与えられたとしたら、
ボウビルの観察した少年たちのように、
常に緊張して、しそんじないようにということだけが
うまく立ち回るということだけが、
人間関係のテーマだったかもしれません。

こういうこの場合、
何かで注意されることは、
自分の存立基盤を否定されることと
同じように受け止めることがあり、
些細な注意も、
ひどく気づ付いて、自尊心を喪失して行く
誰かを攻撃しないと自分が無くなってしまう
という体験をしていたかもしれません。

自分より弱いものを見つけて攻撃することで、
自分がぎりぎり確保されるという生活を
送っていたかも知れません、

そんな時、少女と知り合い交際を始めているわけです。
少女をいつも身近に感じていたいという気持ちは
人一倍だったかもしれません。

ただ、少年は、どうやって少女をつなぎとめればいいのか
わからなかったと思います。
優しくされた経験がなければ、
どうすればやさしくすることになるのかわかりません。

人から喜ばされたことがなければ、
無償の真心を提供されたことがなければ、
どうしたら相手を喜ばされるかわかりません。

人の善意についても、下心を警戒しなければ
足をすくわれる生活をしていたかも知れません。

そうして、もしかしたら少年は、
満たされないアタッチメントの対象を
少女に求めていたのかもしれません。

しかしそれに応えることは、
少女としては、まず不可能でしょう。

当然、問題行動のある男性との交際は、
家族だったら止めさせるわけです。
これはもっともです。

ところが少年は、
自分の何が悪いのかわからない。
自分が基準ですから。
ただ、理不尽に自分と少女を引き離す人がいる。

この少女と引き離されることは、
少年にとって母親から引き離されることと
等しいわけです。
私の仮想の少年ですけれど。
そうだとすると、
思考は、発達心理上は乳幼児だけれど、
体力は大人といういびつな人間となってしまいます。

なんとしてでも、
少女から引き離されるまいという
幼児のいやいやが苛烈な形で展開された
というのがこの事件の一つの側面かもしれない

と家族依存症の影響を受けている私としては、
とっさに想像してしまったわけです。

もし、私の想像が当たっている部分があるのであれば、
少年の更生は可能です。
自分の不幸な生い立ちの影響を理解し、
人との接し方を学んでいくことによって、
社会適応することは不可能ではないはずです。

アタッチメント障害、不幸な生い立ちは、
乳幼児であった少年の責任ではありません。

もちろん遺族が死刑を望むことはもっともで、
当たり前のことだと思います。

ただ、国の行う刑罰は、
応報の観点からのみ行われるわけではありません。
ここは譲れません。

本件事件は少年だけの責任ではなくなり、
全人格と生命を否定される
死刑という判決は見直されなければならない
ということになると思うのです。
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