SSブログ

人を殺しても必ずしも死刑にならない理由、「目には目を」の本当の意味、死刑制度廃止の日弁連決議と反対派の「寄り添う」ということに対する疑問 [刑事事件]

人が殺されるということはすさまじい衝撃です。
その人の夢や希望や人間関係が絶たれるということもあります。
家族としても、いつもどおりり「行ってまいります」と行って出かけたのだから、
いつもどおり「ただいま」と帰ってくるものだと思っています。
そんな当たり前のことすらかなわなくなるわけです。

それだけではありません。
社会の中でも報道されることによって、
被害者の絶望に共鳴共感してしまい、
絶望の追体験をしてしまったり、

絶望の追体験を回避するために、
人が死ぬことに対する感じ方が磨滅していくという
人間性が喪失していくという被害もあります。
これが二次被害、三次被害の被害の連鎖を招くこともあります。
社会秩序の観点から、犯人を厳しく処罰するという必要性もあるかもしれません。

そうだとすると、犯人は死刑にしてもおかしくない
という感覚もあり得ることでしょう。

意外なことと思われるかもしれませんが、
日本弁護士連合会は、
これまで死刑制度の廃止を意見表明してきたことはありませんでした。
しかし、平成28年10月の人権大会において
初めて死刑制度廃止の意見を採択しました。

なぜ、人が死ぬという重大な結果がありながら、
死刑制度に反対するのでしょうか。

一つは、世界の国々において死刑がどんどん廃止されていること、
裁判は完璧ではなく、本当は罪を犯していないのに、
間違って犯人とされて、そのまま死刑を宣告されるという
冤罪がありえないとは言えないこと
実際に日本の刑事裁判で、何人か一度死刑が確定してから
再審で無罪となり釈放された人たちが存在します。

それから、殺人犯が、犯人だけの責任で凶悪犯罪を行ったわけではない
ということが、
実は多いという以上にほとんどだという事情があります。

本人の生い立ちや、その後の境遇などから、
普通に育つことができず、
自分は価値のない存在だと思いこまされていくうちに
人間の命に対しての価値を理解できない大人になっていく
ということが一般的に見られます。

その人自身やその人の家族、周囲の人間も原因を作っているのですが、
特に、社会とか国家とか大きなものの仕組みの中で
そのような人格が形成されてしまうということは
とても多いことです。

犯人に死刑を宣告する国家に責任がある場合
自分に責任があるくせに、犯人だけを非難するということは、
ムシが良すぎるということになるわけです。

ここは難しいところで、
それでも、被害者や遺族には何らの責任もないことが多くあります。

ただ、遺族の感情を優先して裁判が行われてしまうと
かなり過酷な判決が出る傾向となってしまいます。
殺人に対して必ず死刑ということになると、
かえって殺伐とした社会になり、秩序が乱れる
ということにもなります。

今から4000年近く前のハムラビ法典で、
よく、「目には目を歯には歯を」という条文が引用され、
「悪いことをしたら、同じような悪い罰を与えられる。」
という文脈で引用されています。

ところがこれは、本当は、
報復感情が強くなり、刑がどこまでも過酷になることを防ぐために、
被害の限度で罰を与えるべきだという制度なのです。

もっともハムラビ法典も、子が父親を打ったときは
この手を切り落とすとあるように
特定の国家秩序を促す条文もあります。

4000年以上前から、国家やそれに準じる組織ができた場合、
私的報復感情に任せるのではなく、
もっとひろい社会秩序の観点から、
一つには、被害者の報復感情を、国家というフィルターを通すことによって、
ソフティケートするという意味合いがあります。
また別の側面では国家の思惑によって刑の在り方が影響を受けていた
という意味合いもあるわけです。

こういう点、特に、冤罪が起こりうることだという
弁護士の実感から多くの弁護士は死刑廃止を主張していました。

しかし、弁護士の中でも
死刑の威嚇によって犯罪から遠ざける効果が期待できるとか
秩序形成に不可欠だというかという理由で
死刑制度の維持を主張していた人も少なくありませんでした。

このため、日弁連は直ちに死刑制度の廃止を主張せずに、
国民的議論が尽くされるまで死刑の執行を停止しよう
という主張にとどめてきました。

確かに今回の反対派の主張のように、
その状況に、特段の変更がないにもかかわらず、
今死刑制度の廃止を主張するということには
やや唐突であるという感じは否定できません。

上げること、上げる内容について、間違っているとは思いませんが、
死刑廃止の運動を日弁連が一丸となって行うという
運動論的観点からは、少しわからないこともあります。

但し、今回、死刑制度廃止に反対した論者の「論理」
にはもっと驚きました。

死刑制度廃止は犯罪被害者遺族感情に反するからというのです。
遺族に寄り添っていないというのです。

反対するなら反対するとしても、
それでは、真犯人ではないにもかかわらず有罪とされ
死刑を執行される人が出てくる可能性があることについて
どのように考えるのかを明らかにしなければ議論になりません。

ここが十分説明されなければ、
遺族が怒りの対象としている人物が真犯人ではない可能性があったとしても、
遺族の怒りを配慮して死刑を執行するべきだということにはならないのでしょうか。
 
 一番の疑問は、そもそもなぜ
「犯罪被害者遺族に寄り添うから死刑廃止を主張してはならない」
となるのかという点です。
そこでいう「寄り添う」とは一体何なんでしょう。

そもそもすべての犯罪被害者遺族が、
むき出しの報復感情を持っているわけではありません。
死刑など刑の制度と報復感情は別意にとらえている方々も多く、
そういう方々が実感としてはむしろ一般的でだと思います。
殺したいくらい憎いという気持ちは当然だと思いますが、
どうしても死刑にしないと気が済まないという方々は本当に多数派なのでしょうか。


もっとも、遺族の怒りを否定する必要はありません。
当然遺族の怒りに共感を示すことこそ必要だと思います。
ただ、第三者の弁護士として、
積極的に死刑にしたいと感情に基づいて動くことは話は別だと思います。
法律家である弁護士が、死刑執行をただ漫然と追随していることは、
本当に寄り添いになるとは思えないのです。

これは寄り添っているのではなく、複雑な人間の感情の
一側面だけをゆがんだ形で助長することにはなると思います。
寄り添いとは、果たして、
相手の表明された感情に無条件に追随することなのでしょうか。
どうして、「あなたが怒りを持つことは当然だ。」
ということにとどめてはだめなのでしょう。

むしろ、被害者としての感情を法律家である弁護士が
無条件に肯定していくことによって、
被害者が社会的に孤立していくことをも助長する危険もあると思います。
そうだとすれば、被害者はますます立ち直れなくなっていきます。
弁護士の寄り添いは遺族にとってもむしろ有害だということになる。

私の周囲にも、あらゆる死亡被害者遺族がいます。
きちんと遺族感情に共鳴共感を示すことによって、
法制度の限界を説明すればそれなりに理解を示してもらえています。
むしろ、事件の社会的背景を一緒に話し合うことによって、
より社会的な視点を持つことができ、
私の被害は私たちの被害であり、
私たちは私たちでなければできない社会的貢献がある
ということを自覚していただくことで、
生きる力を取り戻して怒られる姿を何人も目の当たりにしています。

そしてそれは、私が教えることではなく、
遺族が自ら考え、私が教わることが常のことなのです。
多くの被害者遺族の方々に接しているからこそ
私は、人間の回復力、生命力に感動することができているのです。

寄り添うということは、
できる限りその悲しみや絶望さえも共感し、
被害者の生に意味がある事、被害者の名誉を守るとともに、
遺族を正常なコミュニティーに復帰させる方向での力を
後押しすることだと思います。

そのためには、加害者を全面的に否定することではなく、
加害者を理解し、加害者を弁護する能力が
被害者のために必要だと考えています。 

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0