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福岡5歳児餓死事件を題材に洗脳について考える 新たな犠牲者を出さないための方法を確立するために [進化心理学、生理学、対人関係学]


福岡県で、令和2年に起きた5歳児の餓死事件について、福岡地方裁判所は実母に懲役5年(控訴中)、知人女性に懲役15年という判決をだしました。

保護責任者遺棄致死罪という罪名でした。この犯罪は保護者という身分が無ければ犯罪は成立しません。保護者は実母ですから、このような犯罪の構造からすれば、主犯はあくまでも実母のはずで、知人女性は共犯者にすぎません。それでもこれだけ極端に処断刑が異なるのは、実質的には知人女性が主犯で、実母が共犯的な役割だったと判断していることになるのだと思います。

福岡地方裁判所の第2刑事部の判決を読んでみましょう。これは最高裁判所のサイトの判例検索で誰でも読むことができます。

なぜ主犯である実母が共犯者よりも刑が軽いのかという点では、判決5頁から理由が述べられています。
1 実母が知人女性の嘘に騙されて金を巻き上げられて、知人女性に依存しなければ食料も手に入らない状態だったこと
2 家族らとの人間関係も遮断されて相談いなかったする相手がいなかったこと
3 食事と睡眠が不足し、判断力が低下していたため知人女性に従わざるを得ない状況だったこと
4 自らの楽しみを優先させて子どもを放置したとは言えないこと
5 経済的にも搾取され、心理的にも支配されていたから強く非難できないこと
とされています。

私は証拠を見ていないので、判決の当否に言及できる立場ではありません。私が言いたいことは判決の当否ではありません。私が言いたいことは、二つです。第1に、ここまで極端ではないけれども、洗脳のメカニズムによって話を真に受けて、子どもに対して深刻な不利益を与えている親というのは意外と多いものだということ。第2に、洗脳のメカニズムを解明によって対策を講じて、同じような被害者を作らないということです。

この二つの問題は、今回の事件のようなケースだけでなく、日常の母子関係、夫婦問題、職場等の人間関係、もちろん宗教などのカルト的洗脳から家族を守る問題にも応用がきく問題だと思っています。

事件の事実関係については判決を基本として、これまでの新聞報道やテレビニュースで報道された内容で補っています。

事件報道については、知人女性の方がより注目され、知人女性が一方的に実母を支配していたとして非難する傾向にあり、知人女性の情報が豊富に提供されています。しかし、私が新たな犠牲児童を無くすために注目するべきだと考えるのは、実母の方です。確かに支配は一方的に行われるものですが、大人同士において支配を可能とする人間関係形成は一方的には行われえないと思っています。この支配、被支配の人間関係形成のメカニズムこそ解明するべきだと思っています。そして支配服従関係に入らないようにすることこそ最も大切なことだと思います。嘘をついて騙されたということで、そのような関係ができるものか疑問があるわけです。なぜ嘘をつかれてそれに従ったかということこそ大切だと思います。

また、支配を受けていたからと言って、実母が、どうしてわが子がやせ細っているにもかかわらず、「長期にわたって」食事を与えないということを「繰り返す」ことができたのかということも考えなければなりません。子どもの状態を見て、もはや限界であり、すべてを投げうって救急車を呼ばなかったのかということです。あるいは呼べなかったのかということです。

そのことを考えるためには、本来は実母の人となりを知らなければなりません。少なくとも、知人女性の洗脳が始まるまでに、何らかの身体疾患が無かったかということはぜひとも知りたいところです。

但し、一つだけ情報があります。知人女性と出会ったのは、平成28年とのことです。児童が5歳で亡くなったのは令和2年4月18日です。何月生まれかはわかりませんが、死亡前4年前で知り合ったのですから、児童は1歳くらいだったということになりましょう。全くの「可能性」の範囲を出てはいませんが、産後うつの状態にあった可能性があるということは言えると思います。

産後うつに限らず、いくつかの内科疾患にかかると、わけもなく常に心配ばかりしている状態になることがあります。特に産後うつの場合は、成人男性に対して安心感を持てなくなってしまい、夫に対しても警戒をするような状態、あるいは、信用ができない状態になることがあります。多くの離婚原因あるいは離婚の背景となっていると感じています。

この常に心配ばかりしている状態、安心でいない状態という、心の状態が問題なのです。洗脳がかかりやすい人は、何らかの心配をしている人で、何を心配しているか自分でもよくわからない人です。
但し、専門的な洗脳集団の場合は、このような心配を人為的に作り出して、その心配に乗じて行動を支配します。専門的な洗脳集団とは、カルト宗教を念頭に置かれると思いますが、それだけではなく職業的な詐欺も一種の洗脳の手口を使います。母親が子どもに対して、意図しているか否かはわかりませんが、洗脳の手法を使うことも見られます。

これまでの報道を見る限り、おそらくこの事件では、知人女性に専門的な知識や技術は無かったと思われます。専門的知識のない場合でも、今回の実母のようなターゲットが元々心配を感じすぎる傾向にあれば、洗脳が成立する可能性があります。

心配をする人は、心配したくて心配をしているわけではありません。むしろ、人一倍心配から解放されたい、安心したいという強い要求をもっています。また、本人だけの力ではなかなか心配を止めることができませんし、心配ばかりすることを責めることもできません。

わけもなく心配する人は、やがて他人から疎ましく思われることがあります。赤の他人のわけのわからない心配の面倒を見るということは負担にすぎますので、近づこうとしなくなってしまうわけです。あなたの心配を自分が心配を引き受けましょうと言う人は現代日本にはめったにいないわけです。これは必ずしも不誠実な態度ではありません。心配をしている人がいれば安心させたくなるということが前提となります。自分が安心させることができないから、ただ心配を聞くのがつらくなるということであれば、誠実な人だと思います。

もし無責任に、面白がって、ターゲットの心配に共感を示すふりをして、自分に任せれば何事も大丈夫という態度を示す人がいれば、心配が止まらない人からすればとても頼もしい人、頼りになる人という気持ちが芽生えることは想像できると思います。四面楚歌の中、味方になってくれる人というのは自分を助ける蜘蛛の糸のような存在でしょう。

残念なことに、産後うつの場合は特に、夫がその蜘蛛の糸にはなれないことが多いようです。産後うつの場合、夫がいくら家事をしても、妻はそれほど感謝する気持ちはわかない傾向にあることが多いです。夫から感謝や励ましの言葉があっても、なかなか肯定的感情がわかない、あるいは持続しません。言葉が右から左へ消え去ることが多いのです。しかし、それほど懇意ではないとしても年長の経産婦から共感を示されたり、不安を肯定されたりするとひと時安心し、報われた気持ちになることが多いようです。

今回の事件の知人女性が豪放磊落な人で、上手にターゲットである実母の心配に付き合うことができていたならば、ターゲットは知人女性と一緒にいることで安心感を得るという体験をしてしまったかもしれません。

さらに、ターゲットが人づきあいが下手でPTAなどで居場所が無い状態だったりして孤立を抱えていたのであれば、知人女性がターゲットのために居場所を作るとか、ターゲットが困っていることを助けるような出来事があれば、ターゲットはこの知人女性と一緒にいれば自分は安心だという学習を積み重ねていくようになったと思われます。次第に知人女性が地獄に落ちた蜘蛛の糸のように、あるいはトンネルの先の明かりのように、ターゲットからすれば見えてきたのかもしれません。

当初のターゲットの心配が、何も理由がなくて起きていた心配だとしても、知人女性がターゲットとの関係をどんなことがあっても断ち切らない、「私はあなたを決して見捨てない」というような態度をとれば、この人と一緒にいていつまでもこの安心感を抱き続けたいという気持ちになっていくようです。「自分の唯一の命綱」だというような依存心を形成してしまうようです。つまり不安の理由は人間関係、精神的問題、内科的問題など、様々な類型の理由から発生するのですが、そのどこかで強く安心できる事情があれば、不安を忘れることができ、その安心に飛びついてしまうということなのだと思います。

こうやって、理由不明の心配を知人女性との関係の結びつきを強くして消し去り安心しようとしてしまうと、ターゲットの心配は「この知人女性から見放されるのではないか」という心配にすり替わっていきます。何せ唯一の命綱なので、それが失われることを想像すると恐ろしくなるということは理解ができることではないでしょうか。

心配をしたくない、安心したいという気持ちは、かなり強い要求のようです。不安を解消するためなら、冷静に考えると考えられない不合理な行動を起こします。犯罪が起きる最初には、よく調べれば、この不安解消行動から始まっていることが多いです。自死も、不安解消のために命を落として不安を感じなくしたいということが衝動的に起きる類型も少なくありません。人間は、心配し続けることが苦手な動物のようです。このメカニズムはもっともっと注目され、研究されるべきだと思っています。

ところで、「それはそうかもしれないけれど、好き会って結婚した夫がいるではないか、子どもまでいたのに、そんな知人女性の口車に乗って離婚なんてできるものなのか」という疑問をお持ちの方もいらっしゃるでしょう。

これは、離婚事件に立ち会う職業としては、特に現代日本では、多く見られる離婚パターンだと感じています。実際第三者の「アドバイス」によって、夫が危険な人物だと思い込み、嫌悪、憎悪して離婚を申し立てる事案は決して少なくありません。その背景として、妻に理由のない心配があることも同じです。また、産後うつの場合は、出産後脳の活動形態に変化が起きてしまい、新生児に共感が向く結果成人男性に共感が向かなくなり、結果として自分が孤立していると感じるのではないかとされているところです。出産後、夫が従来の夫では安心できない同居人という最も警戒するべき対象となってしまいかねません。出産後は、ことさら妻を安心させる努力を具体的に行う必要があるということです。

もし、本件の実母が本当に洗脳されていたのであれば、夫が浮気をしたなどとウソをつかれなくても離婚をしたと思います。知人女性がターゲットを離婚をさせたがっているということがはっきりすれば、依存しきっている知人女性の意思を先取りするでしょう。判決が示した事実よれば、どう考えたって嘘だと思う夫の不貞の内容を告げられてターゲットが信じたと言っていますが、どうなのでしょうか。離婚をすることで知人女性との結びつきが強くなるというプラスの期待と、離婚をしないことで知人女性から見捨てられる不安が相まって離婚をしない選択肢が無くなったとしたならば、とても分かりやすいと思います。

ターゲットである実母は、知人女性の明らかな虚言によって、自分の実家とも疎遠になりました。どんなに洗脳されていても本当に真に受けたとは思えませんが、それを真に受けたというよりも、自分と知人女性との結びつきを強める事情として知人女性の意図を忖度して実家との連絡を絶ち切った可能性があると思います。夫と離婚した構造と全く一緒です。

このあたり知人女性は、かなり努力してターゲットの孤立化を画策しているのですが、その努力の結果によってすべて成功したと思ったのでその後かなり調子に乗って金の巻き上げなどにエスカレートしていったことは理解しやすいと思います。

初めから金を巻き上げようとしたというよりも、何でもかんでも言いなりになるのが面白いということと、実際に支払いに困っているなど、金を使う事情があったので、金も巻き上げようということになったというとかなりリアルに理解ができるような気がします。

ここで、知人女性は架空のボスという暴力団関係者の存在をにおわして騙しにかかっているということをしているようです。ターゲットはこのことにおびえてさらに知人女性の言うことを聞いたような認定がなされているのですが、やや違和感を覚えます。つまり、ターゲットがどこまで暴力団関係者が背後にいるということを信じたのかということについて疑問があるということです。

単純に言えば、ボスという第三者が直接こちらに働きかけるのであれば、知人女性が自分を見限ったということですから、もはや見捨てられる心配はしなくてよいことになってしまうからです。ボスがどんなに怖くても、知人女性が自分を見限らないという望みが無ければ洗脳が解けてしまいます。

ボスというのは知人女性の権威付けとして作用したというならば理解できます。そういう力のある人が知人女性の味方、スタッフにいるということで、知人女性がより頼りになると思い、信頼感、安心感が増したということならば、よくわかります。

既に、子どもに食事を与え無くなる以前に、ターゲットは知人女性に洗脳され切っていたということはその通りなのだろうと思います。大切なことは、そのような人間に、洗脳されないようにすることだということになろうかと思います。

洗脳され切った後では、その人との関係が途切れないことが最優先事項となってしまい、また空腹と睡眠不足によって、思考力が低下していますので、お題目を唱えるように、知人女性から見捨てられないことが最優先の行動原理になっていたと考えられます。言われることに抵抗することができなくなってしまうのです。

それでも、丸一日5歳の子にご飯を食べさせないということですら、空腹の顔をしているわが子であり、やせ細って標準体重の60パーセントになっている子供を見ても、なお10日間も食べさせないということが、どうやってできたのかについては疑問がなお残るところです。類似の事件もあることから、実際にあったことなのでしょう。もちろんわが子を見てかわいそうだなとは思ったことでしょう。そういう感情が、子どもに適切な栄養を与えるという行動、逃げ出すという行動にならなかったことに洗脳の空恐ろしさを感じるほかありません。

何としても、次の犠牲者を出してはなりません。

キーワードは、人の心配に向き合うということです。

先ず、産後うつかそれ以外の理由かわかりませんが、実母の心配、不安を家族が吸収するシステムを強化することです。

心配のシステムをよく研究して、それをどのように吸収して安心してもらうかということをもっともっと研究して対処方法を普及する必要があります。

一言で言えば家族強化です。この場合の家族は、最終的には両親と子どもという最小単位の家族ですが、その家族を強化するためには双方の実家を含めた安心できる人間関係を積極的に構築していく必要があると思います。家族からは決して見捨てられないという安心感を相互に持たせるのが家族なのだと私は思うようになってきました。

この家族同士のコミュニケーションに背を向ける家族(本件で言えば実母)がいたならば、拡大した家族が協力してこちらを向かせる必要があると思います。

はっきり具体的に言える理由が無いのに、離婚を考えているような場合は、実際に何らかの洗脳がなされている可能性があります。拡大された家族コミュニティーによって、離婚を申し出る人の心配を意識して聞き出して、どちらが悪いなどという話を抜きに、相手にも協力してもらい、安心ができる人間関係を形成する努力をするべきです。

ところが現代日本は、理由のない心配や産後うつによる成人男性不審について、励ましたり、窘めたりすることがありません。「離婚をしたくなったら、理屈ではなくそれまでよ。あとはどうしようもならない。」という割り切りの良い人間が当事者の周囲には実に多いです。これまでの日本では考えられない風潮が存在してしまっています。妻の両親など、第三者から見ればこれを良いことにさっさと離婚をさせて、自分の老後の面倒を見させようとしている場合もあります。

家族を強くするということがないと、今回の事件が防げないばかりか、過労死などの本人の自覚しないままの健康状態の悪化を防ぐことが難しいと私は思っています。

今回の実母の離婚理由は、あまりにもばかばかしいものであるため、たとえ洗脳を受けていたとしても、それその通り信じていたとは到底思えません。離婚したいのなら仕方が無いという割り切りすぎは間違いだという良い例だと思います。

また事後的ですが、一人が孤立したり、変な人物がまとわりついているような場合は、それに気が付く本人以外の人間の協力がどうしても必要です。本件では子どもは要保護対象者になっていたようですが、保護は実際なされませんでした。実家などからの保護の要請があれば結論は変わっていたかもしれません。そのためには子どもたちの現状を知りうる状態を作ることがどうしても必要です。

親権者ではなくなったとしても、父親の保護要請を児童相談所が聞き入れる制度を作るべきだと思います。この意味でも面会交流は定期的に実施されなければなりませんし、できるならば子どもといっしょに入浴ができるような宿泊付面会が望ましいと思います。

孤立と反対の行動を多く取り入れることが有効であることはよくお分かりになると思います。

現状の家族、特に夫婦をめぐる行政傾向は、この反対の行動、すなわち、家族を孤立化させている傾向にあるように思われてなりません。確かに行政が個別家庭に介入するには限界があると思います。だからこそ、子どもの健全な成長を政策として最優先し、子どもの関係者が子どもを見守ることができるような家族を中心としたコミュニティーを形成しやすいようにすることで、児童の虐待死を防ぐという発想の転換が急務だと考えています。


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形を変えて生き続ける優生保護思想、精神的不安定な女性に対する差別 母子分離よりも支援こそが必要なのではないか。平成元年から令和2年で40倍に増加する親子分離(児童福祉法28条)申立 [家事]



現在、各地で旧優生保護法によって不妊手術をされた人たちが国を相手取って裁判を起こしています。

旧名称優生保護法は、現在は母体保護法と名称が変更されています。旧優生保護法には統合失調症や躁うつ病をはじめとして障害のある方に同意なしに不妊手術ができる制度が盛り込まれていました。この制度は1996年まで存続していました。

優生思想というのは、人間を優秀な人間とそうではない人間と区分して優秀だと評価した人間の遺伝子だけを残すようにしようとするものです。否定的に評価した人の遺伝子を有する人間については、子孫を作らせないということです。
優生思想は、優秀だと評価された人間は人間らしく生きることが許され、劣等だと評価された人間は人間らしく生きることを否定されることだという言い方もできると思います。

旧優生保護法の不同意不妊手術については、否定的価値評価が確定していると言ってもよいでしょう。人権侵害であることを疑う声は聞こえてきません。裁判で負ける場合は古い話だからいまさら権利を主張できないという時効制度のためであるようです。

しかし、命にはかかわらないけれども、精神疾患があるとか精神不安定な人が、人間らしく生きることを否定されるということは続いているのではないかということを、弁護士をしていると感じることがあります。しかも、その人間否定をしているのが地方公共団体や裁判所であり、それが急激に拡大されており、今後もさらに拡大していくのではないかということについてお話しさせてください。

実の親から子どもを分離して、養護施設や里親に委託して育てさせるということが、児童相談所所長の申し立てと家庭裁判所の承認によって可能となる、児童福祉法28条(1項)申立というものがあります。
子どもが18歳になるまで(高校卒業まで)親子の面会すらできない場合も多く、諸事情によって親子が二度と会えなくなる危険もあります。少なくとも何年も親子として一緒に暮らせない状態が生まれます。

もちろん、親にとって、我が子と一緒に暮らせないどころか、会いたくても会えないということになるのですから、生きながら地獄を見るようなものです。実際に精神に異常をきたす事例もあります。

子どもにとっても、悪い影響が生まれます。なぜならならば、自分の親が
子どもを育てる能力が無い人間だ
子どもがこの親といたらだめになる
と、公的機関によって評価されたということにいずれ気が付くことになるからです。

そのような評価をされた子どもも一時はそんな親は自分とは違う人間だと、親を否定して合理化をするかもしれません。しかし、時期が来て自分とは何だろうと考え出す思春期後半ころからは、自分はそのように否定評価をされた親の子どもだというふうに受け止めてしまい、また自分は実の親を否定し軽蔑したのだと思い、混乱してしまう可能性があります。親が面会すらもあきらめてしまえば、自分は親から見放された人間だと思うかもしれません。いずれにしても、自己評価の低下等の発達上の負の問題が生じかねないことは間違いありません。

もちろん、そのような負の事情を考慮してもなお、親から子どもを離さなければならない場合もあります。親から虐待やネグレクトで命を奪われる可能性の高い場合や一生消えない屈辱感や疎外を受け続けているような場合は、放っておけば命が無くなるし、取り返しのつかない人格形成がなされてしまいますから、親子分離に伴う自己評価が低下するどころの問題でもなくなるでしょう。

だから子どもを親から隔離する制度が必要な場面ももちろんあるわけです。

問題はどちらにしても子どもに深刻な問題が生じる可能性があるために、施設入所などの是非は、くれぐれも慎重に判断するべきだということです。

実際にこれまでの判例からは、非道ともいえるような恐ろしい虐待事例、人間扱いをしていないというような事例に対して施設入所を承認した例も多くある一方、多少の虐待が認められ、親から引き離して施設入所した方が快適(今よりはまし)かもしれないという事例でも、引き離すことによって生じる子どもへのマイナス影響を考慮して承認をしなかった裁判例も少なくありません。

これまでの判例は、引き離すメリットとデメリット双方をきちんと悩んで決断してきたということがうかがわれるのです。ところが、近年これらが疑われる事情が統計上からもみえてきています。

司法統計によると、施設入所などの児童相談所長の申し立ては、平成元年は1年間に14件でした。年々徐々に増加して平成29年には288件になっているのです。平成30年には目黒事件が、平成31年には野田事件が起きています。申立件数も平成30年は379件、令和元年493件、令和2年481件と、平成元年の40倍に達しています。

ちなみにこの申立は、昭和30年は6件、昭和40年は9件、昭和50年は22件、昭和60年は36件でした。

申立件数ではなく、裁判所が1年間に何らかの形で事件を終局(認容、棄却、取り下げ等)した件数は以下の通りです。前年に申し立てられて、翌年終局すると、翌年のカウントになりますので、申立件数を超えて認容することがあり得ます。
平成元年は、終局10件、うち認容3件 認容率30% つまり7件は棄却ないし取り下げなどで褶曲したということです。
平成7年は、終局43件、認容18件 認容率42%
平成8年から平成17年の10年間は認容率が概ね7割を維持し、
平成17年の終局195件、認容141件と事件数の増加傾向が見られます。

平成18年 終局205件認容170件で、認容率83%
認容率80%越えは平成24年まで続き
平成24年 終局295件、認容244件 認容率83%となります。

その後は認容率が概ね70%台となりますが件数が増加します。
平成30年 終局347件 認容266件 認容率77%
平成31年 終局434件 認容338件 認容率78%
令和2年  終局531件 認容398件 認容率75%

どうしてこんなに右肩上がりで、親子引き離しの28条1項申立が増加し、認容件数も増加していったのでしょう。これだけの数の親子が地方自治体と裁判所によって分離させられており、さらに増加の傾向がみられるのです。

あくまでも感覚的なことなのですが、わたしには虐待事例が増えたというわけではないような気がしているのです。明白な虐待例、攻撃的虐待例として、目黒事件や野田事件があるにしても、平成元年から比べても40倍に増える理由も思い当たらないのです。

ここから先は、統計的な資料が無く、私の担当事件、相談事例等、私が知りえた事情から考えたいわば主観的な分析ですので、ご注意願います。

それではどういう理由で、児童相談所による親子分離の申立件数が増え、認容件数も増えて行ったのでしょうか。
私は、一つには、法律上の文言が変わらないのに、親の子に対する扱いについての評価が、ここ30年くらいで急激に変わったのではないかとにらんでいます。
つまり、それまでは子どもの福祉を著しく害するとは思えなかったことが、著しく害すると評価するように変わったということです。

・ 先ず、これまで以上に何らかの児童虐待対処政策をすることが必要であるという認識が確立し、それは親子分離であると直結して考えられている。またこれは行政サービスなので、多く行えば行うほど自治体が仕事をしている、児童虐待に取り組んでいるという評価を受けるようになっている。
・ このため、児童の福祉を害する危険があれば、法律の必要とする「著しく」害する危険が無いと判断されてきたケースであっても親子分離が可能であれば親子分離を行うべきだということになる。認容されない申立てをしても非難されるだけだから、認容されるようしなくてはならない。
・ その結果、子どもが親から分離されることのデメリットを考慮しなくなった。否定的側面ばかりをクローズアップしていく。
・ どんな事情でも、最悪の危険に結び付けて評価されるようになった。例えば、半日子育てを放棄してスマホを見ていても、数日間子どもに食事をさせないで餓死する危険があるネグレクトであると評価され、ネグレクトは命の危険があると短絡して評価する。

こういう大きな流れがあるように感じられるのです。
そして、最悪の危険に結び付けて考えられる典型が精神疾患であり、その精神疾患の危険な行動としてはネグレクトが使われるようです。

実際の相談例や担当例では、うつ病等による易疲労や意欲低下によって、部屋の片付けができない状態をとらえて、不衛生、栄養不足として、ネグレクトだから児童虐待だといわれたという事例が多いような気がしています。

これをお読みの方の中には、子どもが栄養面や衛生面でよくない状態にあるならば、施設などに預けた方が良いのではないかというご感想を持たれる方はいらっしゃると思います。

ただ、少し考えていただきたいのは、もしこれが精神疾患ではなく、難病や事故によって、身の回りのことが十分にできなくなったのだとすればどうでしょうか。それでも、子どもを親から分離して施設に預けるべきだという考えもありうるかもしれません。ただ一番重要な視点は、必ずしも施設に預けるか預けないかという二者択一ではないということです。例えば、親御さんの障害の程度によっては、介護サービスなどがあれば、親子分離までは必要が無いという場合もありうるのだと思うのです。子どもにとって親子分離は否定的影響が生じる可能性があるのにそれが考量されていないということは、子の福祉のための親子分離ではなく別の意図があることになってしまいます。

そもそも精神疾患というのは程度のある概念です。精神疾患の診断名が付けられても、会社に言って仕事をして家庭生活を営むことができる人から、放っておくと危険な状態になるからきちんと管理をしなければならない人等、その中間的な人々、実に様々です。また、本当の病気というよりは、出産後のホルモンバランスの変化によって、症状が一時的に講じている人もいます。
しかし、多少埃っぽい部屋だけどいるだけで病気になるほどではないという場合もネグレクト、精神障害として扱われるようです。

ひとたび精神疾患となれば、子どもを育てることができない
というわけでは決してありません。

 それにもかかわらず、立派な家事をしていない ⇒ ネグレクトがある。
⇒ ネグレクトは子どもの命が奪われる可能性がある。
⇒ ネグレクトをしている親は精神疾患の診断を受けたことがある。
⇒ 精神疾患者はネグレクトによって子どもの命を奪う危険がある。

こういう跳躍した発想をしているように思われるのです。

 もし同じことをしていても、同じ程度に家の片づけや掃除をしていなくても、その親に精神疾患の診断が無ければおよそ親子分離などが申し立てられる恐れはないでしょう。

 そうだとすると、親子分離をするべきだという理由の核心は、端的に「およそ精神疾患の人は、子育てができない。させるべきではない。」という差別があるのではないでしょうか。おそらくそういう流れの思考の人は、自分が障害者差別をしているという自覚は無いのだと思います。ただ、親子分離の件数を増やそうとしている人たちがいるとすれば、対象の親に精神障害との診断が下されたことがあると施設入所となりやすいとホッとしてしまう人も中に入るのではないでしょうか。

そして裁判所も、もっともらしい理由を挙げて施設入所を承認していながら、内実はその人に精神疾患があるということだけから、親に危険性があると無意識に判断しているということは無いでしょうか。

 もし、優生保護思想による不妊手術は人権侵害で違法だけれど、精神疾患がある人の子育てに不具合があるならば子どもは産んでもよいけれど、子育てはさせない、子どもとは会わせないというのであれば、それは端的に障害者差別だと思います。優生保護思想の否定とは一貫した考えではないと思います。産まないことも産んでから取り上げられることもどちらも生き地獄だと思うからです。また、子どもは親だけが育てるものではなく、社会が子育てに参加するものだという視点が欠落しています。どのような保護、援助をするかという議論より先に、子を取り上げてしまうということならば、それは人間らしく生きることよりも行政効率を優先しているに外なりません。

 最近お釈迦様のこの言葉を良く引用するのですが、倒れることは人間にはつきものであるから人間の評価を左右しない。倒れても起き上がることができるかどうかが人間の価値を示しているということです。
 差別をしてしまうことは、無知が原因で無意識の感覚であることが多いですからある程度は仕方がないことなのだと思います。しかし、差別だと指摘を受けたら、行為を修正するということができることが人間としての価値なのだと私は思います。

 施設入所の申し立ては、審判構造が複雑ということもあります。
・ また申し立てから審判開始までが短い期間であるために弁護士を探そうという発想すら持てなくて、準備もできないで自分ひとりで審判を受ける場合が多いようです。
・ このため、事案の問題よりも審判の仕方がわからなくて裁判所の承認が下りるケースも多いのではないでしょうか。
・ このように、申立がそのまま特に検討されもせずに認容されてしまう状態が続くと、裁判官や調査官にも申立は認容されるものだという発想を持ってしまう人たちも多くなるのかもしれません。
・ そうするといざ弁護士が正論を主張しようとしても、初めから申立ては認容するものだという意識となってしまい、論理性もなく調査結果と関連性もない事実を理由に認容される傾向が、弁護士が代理人になっても止めようがなくなるかもしれません。
それでも、認容率が70%代を推移しているということは、一種の行政裁判でありながら、極めて低い認容率だということになります。また、一時期80%だった認容率が下がったということは、無茶な申し立てに裁判所が気が付いたということで矛盾しないように思われます。

但し、一部の調査官が、自分の職務を全うするからこそ、低い認容率となっているのです。実態からすれば、まだまだ高すぎる認容率ではないかということが実務的感想です。

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不安の原因と不安の形の小まとめ その上でネットの匿名による攻撃が自分が有能であり権威に貢献できるということを示したいという心理に基づいているということ 不安シリーズ7 [進化心理学、生理学、対人関係学]



不安の発生原因については
大きく分けると3種類あって
A) 生命身体の危険の認識
B)人間関係の中の孤立の予期不安
C)生理的変化、病気、あるいは薬の副作用による脳の誤作動

ということになりましょう。AとBは、ある意味不安の合理的な発生です。何か自分に危険が迫ったことを認識することによって、不安という生理的変化が起きるわけです。

ところが、どうやら合理的理由がないのに、つまり何も危険がないのに不安を感じてしまうのが人間のようです。理由のないうつ病、内科疾患の合併症としての不安、薬の副作用としての不安、頭部外傷による不安をはじめとして、人間は理由がない不安に苦しむということが多く見かけられます。また、この「理由はわからないけれど、不安を感じていることが確実だ」という漠然とした不安というのが一番厄介で、問題行動を引き起こす原因となったりするようです。

不安になれば人間は不安を解消したくなりたくなり、不安を解消する行動をとろうとします。
身体生命の危険がある場合は、危険の場所から離れようとすることが基本です。

対人関係の孤立を予想した場合は、孤立の原因を修正することによって何とか孤立を回避するということが合理的な行動となるでしょう。

しかし漠然とした不安は、原因がわかりません。とりあえず、「対人関係の孤立の予期不安に対する解消行動」をとろうとすることが多いようです。

さて、ひとたび不安を感じてしまうと、人間の知能や心理状態がどのように変化するかのまとめですが、基本は、「自分が所属する対人関係の中に未来永劫とどまることができるという安心」が欲しくなるということです。
<対人関係永続性の保証要求>
・ 仲間として尊重してほしい=人間として肯定的評価してほしい
・ 仲間に貢献して自分の価値を認めてもらいたい=自分の存在感をアッピールしてしまう。
・ 権威者に迎合したい(自分が権威者《ボス猿》なら権威を維持したい)
<不安の一時停止の要求>
・ 誰かを攻撃することで、自分が不安を感じている時間を少しの間でも無くしたい
<思考力の低下>
他者の感情を読み解けなくなる1。被害者への同情、共感が無くなる
他者の感情を読み解けなくなる2。自分を利用する人間を信じてしまう。
他者の感情を読み解けなくなる3。言葉態度からしか感情を想像できない。
自分の行動の妥当性の検証ができなくなる。
現在の行動による将来への影響を考えられなくなる。
折衷的な思考ができず二者択一的な考えになる。
結果として悲観的に考えてしまう傾向になる。

こう考えると、ネット炎上というのは、不安を感じた人が夢中になって弱い人を攻撃していると考えるととてもよく理解できると思い当たりました。

ネット炎上について、私はこれまでは、怒りの論理、正義の論理で、
・ 攻撃感情は相手が致命的なダメージを受けるまで続いてしまう
・ 自分が反撃されないことが怒りを面に出して攻撃する感情が生まれる条件である。だから匿名の攻撃が過激になる。
・ 攻撃に伴う怒りの感情によって一時的に不安を感じにくくすることができる
という、いわば怒りとか正義の性質から説明をしていましたし、

しかしどうやら、さらに、別角度の不安の効果を理由にすると説明されやすいと思うのです。

相手が反論できない形でネット攻撃をする心理としては、
・ 自分が正義を実現する人間であることをアッピールしたい。
・ 効率よく、要領よく、的確に相手を攻撃しているということを積極的に評価してもらいたい。
・ だから、自分は、社会全体や秩序の権威者から評価される人間であるというアッピールをしたい
という心理が働いている可能性があるということです。

ネットの書き込む場を、攻撃コンテストの会場みたいに考えているのでしょう。だから攻撃対象に対して書き込んでいるというよりは、ギャラリーに対して自己アッピールを行っているということなのだろうと思います。

そして
頭の良い人だとか、論理明快な人だとか、称賛を浴びたいと考えると、色々な発言者の発言がどうしてそういうことをそういうふうに言うのかということを理解しやすいようです。おっと、このブログもそういうところがあるのかもしれません。(但し、このブログは、権威には背を向けてひねくれているというところはありますが。ある一定の読み手を想定して、その読み手から評価をされたいということかもしれません。その意味では、同じことかもしれません。)

さらには、権威付けということを意識するようになり、自分は権威に基づいて発言しているという意識が見えるようになっていきます。常識だったり、道徳だったり、あるいは宗教かもしれませんし、政治的な党派というようなものだったりもするのかもしれませんが、自分は秩序の側の人間なのだから立場が安泰だと言いたいようなことを付け加えて攻撃するようになるという特徴があるようです。その抽象的な社会の権威に対して、自分が有能なのだということを必死にアッピールしているようにも感じられる時があります。

例えばテレビ番組を契機にネット炎上が起これば、その時の番組の支配的な論調が権威となり、その権威に積極的に賛同しようというスタイルからの攻撃になると思います。つまり権威に迎合しているわけです。また、その「権威」なんて言うものは、一時的で背景的理由のない、ただの「その場のトレンド」というものかもしれません。それでもそれが権威だと感じたら、迎合したくなるのが人間の本能なのかもしれません。

自分が権威の側にいるという安心感によって、攻撃対象者が、自分が言ったことでどのような感情を抱くかということを想像しようともしなくなります。誰かが自分を賞賛してくれれば、攻撃はエスカレートしていくでしょう。誰かの口車に乗せられて攻撃がエスカレートするということも大いにあると思います。ネットという場が、そのような文字情報、デジタル情報だけで動くため、純粋形態のように攻撃が激化していくわけです。

もしかしたら、ネット炎上だけではなく、他者に対しての攻撃の全般は、自分をある意味守るために行われているのかもしれないと感じるようになりました。つまり、攻撃している自分を賞賛してほしい、その場の仲間の中で賞賛してほしい、攻撃することによって自分の居場所を確保したいというそういうことなのかもしれません。

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出る杭を叩く原因としての不安 一番(群れの権威)ではないと心休まらない人の不安 パワハラの対象となるのは優秀な社員であるという理由 不安シリーズ6 [進化心理学、生理学、対人関係学]



出る杭を打つということは、人間が集団化すると現代ではつきもののようにあるようです。
職場の上司と部下のパワハラについては今回詳しく述べます。ただ、それだけではなく、もっとお偉いさん、団体(会社)の幹部で、自分が一番でなければ気に入らないと言う人がいて、自分の座を脅かそうとする人間をつぶしにかかるという猿山のボス猿みたいな人をよく見かけると思います。上場企業にもあるように聞きますし、ボランティアや友人関係などでも見たことがある方は多いと思います。

ボス猿のような人は、団体の創業者である場合が多いです。その人を中心として人間関係(団体、友人関係等)ができたという人で、その人でなければできなかったことをやっていったというような実績もあります。何もしなければ引退まで盤石な地位を保てると誰しもが認めている人なのです。もちろん、周囲も攻撃を受ける被害者だって、その人にとって代わろうとする気はありません。

それなのに、攻撃を受けるターゲットが団体の活動に貢献し、成果を上げて、人望を集めていくとしまうと、途端にボス猿はターゲットへの攻撃を始めてしまいます。

この結果優秀な人材が何人も団体の外に流出していきます。団体には、ボス猿の取り巻きと団体の目的とは別に自分の目的を達成するために団体を利用しようという人だけが残ってしまい、団体はどんどん先細りしていくわけです。ボス猿がすべての価値観となってしまいますので、法律や道徳よりボス猿の機嫌が優先されて、不祥事を起こすストッパーが無くなってしまいます。

リアルな話をすれば、このようなボス猿行動を起こす人たちは引退間際の人たちに多いです。いわゆる晩節を汚すということです。人間遅くとも70歳を過ぎたら、自分がボス猿化していないか自己点検をして、できるなら道を譲ることを始めるべきです。後輩に任せる準備をするほかはありません。

色々な事件、人間関係の調整にかかわった経験を踏まえて考えてみると、そういうボス猿は、仲間内の評価が「自分が一番」でないと安心できないみたいなのです。自分にとって代わることができる人が現れると不安になるようです。団体が盤石になるということよりも、自分がちやほやされていることを優先しているのです。自分が一番ちやほやされていないと不安になるということです。

「団体」という言葉を「営業所」とか、「支店」とか、「研究所」等という言葉に変えれば、リアルなパワハラの問題になります。

周囲はそんなことに気が付きません。うっかり、例えばある営業所の営業マンが成績を上げて取引先にも評判が良いので、本社の役員なんかが営業所長に対して「彼はよくやっているね。この営業所もしばらくは安泰だね。」なんて言ってしまいます。そうするとボス猿はたちまちむくれてしまいます。

実例で多いのは、新人等が、自分ではなくターゲットを頼りにして、相談をしたり、助けを求めたりすることが気に入らないようです。新人は、単にボス猿にまで話をするほどの大ごとではないと考えますし、なんか怖くて聞けないということがリアルなところだと思います。しかし、ボス猿にしてみれば、自分よりもターゲットの方が頼りがいがある、信頼できると思われていると感じてしまい、それを理由として不安になるようです。

ただ、残酷な話ですが、時間とともにボス猿は、団体の中での価値も衰えてきています。ボス猿の知識や考え方は前時代的なものであったり、過去の成功体験を根拠なく押し付けているだけだったりする場合も多いので、リアルにもあまり信用されていないことも多いのです。また、敵味方構わず攻撃し、攻撃も強烈ですから、敬遠されてもいるわけです。ある時期からどんどん自分に求心力が無くなっていることをなんとなく実感するようです。なんとなく面白くないという気持ちも蓄積しているのでしょう。その不安の積み重なりがまとまってターゲットに爆発するのでしょう。

ボス猿は、例えばこの営業所は「自分がいなければ回らない」と考えています。自分あっての営業所だというわけです。実際、誰よりも地道な努力もしていたことも間違いのないことです。でも誰も自分を言葉でも態度でもほめてくれないと不満をもっているようなのです。自分を評価する言葉を発しないにもかかわらず、本社がターゲットを賞賛する。新人はターゲットに質問に行く。そうなってしまうと、なんで自分が評価されないのだ、なぜ自分の努力、労力が評価されないのだという思いが強くなってしまうようなのです。自分のこれまでの労力や成果をかすめ取られるような気持になっているかもしれません。

会社創業者のような立派な人であっても、人は明示の評価をされ続けたいとようです。

このような状況になるとボス猿が先ずすることは、ターゲットは、本当は自分以外の人間がするほど評価には値しない人間なんだと周囲に示したくなるようです。周囲のターゲットに対する評価を下げることに全力を尽くしてしまうようです。この行動は、ボス猿も、ターゲットの能力を認めているということが示されているのです。わかっているからこそ、ターゲットの「評判」を下げることによって、自分こそがナンバーワンだという評価を盤石にしたいように感じられます。

ボス猿にとって代わろうという気持ちが無くても、攻撃の対象となるのはこのような仕組みです。

具体例を挙げれば、ボス猿は、ターゲットの些細なミスをことさら周囲にアッピールする形であげつらい、自らターゲットを叱責をします。周囲にターゲットが無能だということをアッピールすることが目的ですから、ギャラリーの目に、耳に触れる形で叱責します。叱責する場を見聞きしている人がいるからこそ大上段に、あるいは下品に、なりふり構わず攻撃するのです。

説諭が目的ではないので、同じことを何回も繰り返して怒鳴っていても気にしません。攻撃をしている形を作りたいのです。周囲はそのような事情なんて理解できるわけがありません。ボス猿が怒っていることはわかるけれど、「どうしてそんなことでしつこく騒いでいるのだろう。」と素朴に感じます。周囲の反応は鈍いですし、ボス猿に共感を示す者もいません。こうなると、ボス猿はもっと周囲にアッピールしなければならないという行動に出るために、ますます攻撃を強めてしまうのです。

攻撃し続けるしかないので、
・ 同じことを繰り返す
・ 過去の失敗を何度も言う。一事が万事とかいうわけです。
・ ネタが尽きれば人格攻撃、中傷を行います。
・ 何らかの情報があれば家族の悪口を言う場合も出てきます。
・ 特徴的なことは、それが否定評価となる理由は言わないことです。理由も言わないで(根拠などありませんから)、ダメだ、最低だ、失望した、見込み違いだった、下品だ、新人以下だ、○○の資格なし、何年この仕事をやっているのだ等の評価だけを言う場合は、こういうボス猿行動かもしれません。

あとは、陰口です。ターゲットを評価している人に、こっそりとターゲットがその人を否定しているということを告げて、怒りをあおるのです。その人は、やはりボス猿を信頼していますし(ターゲットほどではないにしろ)、権威がありますから、ボス猿から言われれば信じてしまいます。ターゲットとしては、思わぬ人が自分を攻撃してくるので、精神的ダメージが大きくなりかねません。

ターゲットが自分の攻撃によってどのようなダメージを受けているかなんていうことにはボス猿は関心ありません。すべての関心事は自分の防衛です。

些細な落ち度を捕まえて攻撃をするわけですが、ターゲットに落ち度が無い場合はどうするのでしょうか。
落ち度を作り上げるということが見られます。
実際にあった例としては、これまで団体内部の慣行として許されていた経費の使い方に難癖をつけて、業務上横領だと警察沙汰にするぞと迫った事件もありました。驚いたターゲットは精神的に異常をきたし、行動がまとまらなくなり、家庭も崩壊したという事例がありました。結局は警察沙汰にはならなかったようです。単なるボス猿のターゲットつぶしではなかったのか、今にしてみればそれが真相なら不条理だけど、疑問は解消されます。

落ち度を作ると言えば、取引先からの理不尽なクレームを取り上げて、責任を取れという迫り方をした例もありました。ターゲットとしては、当然クレームから守ってくれると思っていたところ、逆にその理不尽な言動を理由に攻撃されるのですからたまりません。長期の精神疾患が続いています。

すべては、優秀な人材が自分に反旗を翻すという不安、自分が使用済みのティッシュペーパーのように捨てられるという不安からきているとすれば、理解できた事象だったのだと思います。

このような仕組みのパワハラが深刻な精神被害となるのは、自分がどうして攻撃を受けるか理解できないからだと思います。全くボス猿の頭の中だけの出来事ですから、ターゲットは気が付くことも予防することもできません。

パワハラの被害者は仕事ができる人が多いということは間違いのないことです。会社にとっても優秀な人材が、退職したり、仕事のやる気をなくしたり、休職しがちになるわけですから深刻な被害が生じます。もしかしたら日本経済のとんでもなく中枢の部分で、このような「一番でなければ不安」シンドロームが悪さをしているということはないでしょうか。

ボス猿の周囲がボス猿をたしなめるということはあまりありません。ボス猿は確かに実績がありますし、これまでは団体を引き上げてきた人です。特に団体幹部からの信頼は依然厚いものがあります。周囲はボス猿の自己保身のためにターゲットを攻撃しているというふうには思いもつかないことだと思います。たとえ、団体が公的な目的を持った公的な団体だとしても、周囲はなかなかボス猿の方の行動修正を促そうとはしません。案外公的団体の方が影響を受け続けるということがあるのかもしれません。保身のための忖度する相手を間違えるとか。

周囲はボス猿が怖いので自己保身のためにボス猿に働きかけをしないということももちろんありますが、団体秩序の維持を最優先にしているという事情もあるようです。つまり、こういうボス猿のいる団体は、ボス猿の号令で秩序が形成されています。ボス猿が団体の権威なのです。人間は、群れを作るために権威に従って群れの秩序を作りたいという本能があります。

正義に照らして仲間の人の評価をする人間などそれほどいません。こういう正義の人は、権威を重視する人たちと大部分重なるようです。

ボス猿に対しては、秩序を形成する権威であり続けてほしいと無意識に考えてしまっています。そうなると、「ボス猿が理不尽なことをしている。」とは無意識に思わないし、そういう思いが沸き上がることに蓋をしてしまうようなのです。その団体が社会正義を実現することを目的にしている団体であっても、構成員の心理としては、団体の目的の遂行よりも、まずは団体の秩序の維持、権威の保持が優先事項とされてしまうのが人間の本能のようです。

だから、正義感に燃えているはずの団体の構成員なのに、権威者の明らかな理不尽な行動を見て見ぬふりをするわけです。ボス猿の言い分は、裏付けが無くても、反論の機会が無くても、あるいはターゲットとその人の個人的な信頼関係があっても、周囲にまかり通ってしまうのです。ターゲットは目をつけられたというだけで、何の落ち度もないのですが、周囲の心理なんて、「面倒なことを起こしてくれた厄介者」に対しての視線をターゲットに投げてしまうのです。

何の落ち度もないターゲットが精神的に打撃を受けることは当然のことです。

では、どう言う人がボス猿になって、自己保身のために出る杭を打つのでしょうか。事件がらみで情報が入る場合があります。

多くは、それまでの人生経験から、自分の立場に自信が持てない事情があるようです。生い立ち、育った環境、特別な出来事から、自分をアッピールし続けないと、自分という存在が忘れ去られるとか、一人分の勘定に入れられなくて孤立した経験があるようです。客観的には孤立していないとしても、自分が求める人から受け入れられなかったという経験がある人もいます。

このような人にとって、他人は、「賞賛する人」と「攻撃する人」、そして「自分の取り巻きとして面倒を見てやる人」しかいないようです。近づいてくる人があなたを激烈にあなたを賞賛しても、あなたを賞賛する際に、誰かと比較してその誰かを否定した上であなたを賞賛しているかもしれません。むやみに称賛をする人は警戒するべきです。やがてあなたが、否定される側に分類される危険性が高いからです。それが嫌でもその団体に加盟したいのならば、割り切って第三の立場、すなわち僕、家来になるしかないでしょう。

我々は、自分の子どもたちや、あるいは仕事上の部下に対して、過敏な不安を招くような対応をしないように注意しなければならないようです。我々がボス猿を育成しないようにするべきでしょう。

何かをしなければ、仲間として評価をされなかったという体験は、その人を通常の状態であっても不安にするようです。何もしなくても、そばにいるだけでも、苦にされず、疎ましがられず、存在を承認されているという体験を積み重ねることが円満な人間形成には不可欠のようです。

今回は本人の不安が特定の誰かの攻撃に結び付くというケースを説明するとともに、不安の出どこが、過去の体験からくるということがありうるということを考えてみました。

ちなみに、自分がボス猿のターゲットになったならばどうするか。
第1に、ボス猿の近くから離れる。ここで、かなり精神的に追いやられているときは、「その団体を離れても、ボス猿の影響下から抜けられない。」と勘違いするものです。自分の居場所を最小限削ることで、実は簡単に離れることができるのです。冷静に相談に乗ってくれる第三者に相談することがおすすめです。

ボス猿はたくさんの人の人生を台無しにします。早く離れることが肝心です。ボス猿と決別した人たちの問題点ばかりを見て、ボス猿を無意識に擁護してしまうことがありますが、立派な人が離れたら自分も覚悟を決めるべきです。人生を台無しにされるよりはよほど良いです。

第2に、ボス猿に服従を誓う。クリンチ作戦です。この時精神的には優位に立って、ボス猿とその団体を利用しようというくらいの気構えが必要なようです。


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不安と被害妄想と攻撃行動 相談会でありえない隣人からの攻撃の相談を受けた場合 不安シリーズ5 [進化心理学、生理学、対人関係学]



相談活動をしていると、一定期間の間に必ず出くわす相談類型というものに、被害妄想らしい相談があります。

多くは隣の家の人間が自分を監視しているということから始まって、スパイをしている、自分の家人や客人に対してよからぬ働きかけをしている、自分の庭の植物を傷つけたり、物を盗んだりするという訴えをするのです。類似した相談では集合住宅の上階や下の階、あるいは隣の部屋で、夜ごと何かを作成していて、物音や匂いがするというものもあります。

(但し、相談会に一人でいらっしゃる人ですので、日常生活を滞りなく営んでいらっしゃいます。また、音とか匂いとか、あるいは体の痛み、または家具の異動などが実際にはあることで、このこと自体が妄想ではないようです。結果としてそのような事実があることについての理由として、妄想的なお話しされるということです。幻覚を見たり、幻聴を聞いたりというところはないし、幻覚に支配されて何らかの行動をしているわけでもありません。)

実際にそのような犯罪が行われている可能性が皆無ではありませんので、その現象についての相談者以外の第三者の反応を確認する等を行うことが大切です。それでもどうやらその人だけが感じていることであり、実際はそのような理由付けの部分の事実はないという結論になった場合は、「いつ頃から、そのような事情が起き始めたのか。そのころ、時同じくして何か相談者に変わったことは無かったか。」と尋ねることをするようにしています。

そうすると、多くの事例で、相談者自らが、ある一時点から強い不安が継続するようになったということを語りだします。多いのは身近な人の不慮の死などの不慮の精神的に大きな影響を与えかねない出来事や、自らの体調の変化という出来事のようです。不安を抱かせた出来事について、話を聞いて素直に話し始めたら、そのことに話題をずらして相談に乗ることが建設的だと思います。話に乗ってこなければ、原則的な法律相談を完遂するほかなく、証拠が必要であるということを説明するとともに、必要以上に監視カメラを設置することなく、何台かは取り外すようにというアドバイスをして私との相談は終了に向かいます。

このような事例は、相談会には来ないバリエーションもあって、直接相手を疑って警察に届けたり、町内に言いふらしたりして攻撃をするという場合もあるようです。私も弁護士になりたての頃、このような相談を受けて、車で一時間以上かかる山の中の集落に現場検証に行ったことがありました。ビデオテープも見ました。確かに何かが写っているのですが、不鮮明でもあり、犯人が良からぬことをして侵入していたとはとても証明できないものでした。

こういうとあからさまに変な人からの相談のように聞こえてしまいますが、実際の相談者は変な感じの人ではありません。また、この隣の家とのトラブル以外は、いたって問題行動の無い人です。自宅で普通に生活をしているわけで、通院しているわけでもありません。

そうして、いったん落ち着くと、あれほど長い間エキサイトしていたことが噓のように落ち着きを取り戻すのです。

しかし、この訴えを無視していると、妄想が膨らんでいってしまい、妄想性障害から統合失調症に発展しないとも限りません。また、仮想敵とされている人が実際いるわけで、その人はわけがわからないうちに攻撃されているわけですから関係が険悪になって、新たなトラブルの火種にもなりかねません。穏便に解決をするに越したことはありません。

この場合も背景に不安があると考えると、解決や解決に向けた方向性を作るヒントになるようです。考えてみれば、隣人が自分に損害を与えるかもしれないということは、逃げることができないことで、しかも一日も休みなく不安の種がすぐ近くにいるということで、大変苦しい状況であることが理解できるような気がします。

先ほどの話で、妄想が始まったときに何があったかを尋ねる場合も、「不安」というキーワードで話を聞くと、もしかしてこれが関連がある出来事なのではないかと気が付くことがあります。体調の変化では、例えば肝炎になってインターフェロンの治療を受けていた時期と重なると、薬の副作用のうつが出現していた可能性があると気が付くわけです。大事な身内がお亡くなりになったということも、こちら側が関連付けて理解しないとただ聞き流してしまいます。夫が単身赴任になった時期と重なった例もありました。

いずれにしても、不安が生じて不安と不安解消要求が持続しているにもかかわらず、不安を解決する方法が無いということになると、ますます不安解消要求が大きく強くなってしまいます。すると、ますます思考力の低下が強くなってしまいます。自分の防衛意識ばかりが過敏になってしまいます。思考力が低下して二者択一的判断ばかりになってしまい、悲観的なものの見方が過剰になると、自分の近くにいる人間は敵か味方かに色分けして考えてしまいがちになるようです。特に何かがあったわけではなくとも、話をしたこともない付き合いの悪い隣人は、味方ではないので敵だと考えてしまうようです。男性からも女性からも、男性は敵とみなされやすいようです。

また、運悪くその隣人も、当人から見たら不審を抱くような行動を結果としてしまっていることがあるようです。この失敗を目撃した本人は、自分の隣人に対する評価が裏付けられたと感じてしまうようです。ひとたび悪人であると認定されれば、その人が自分に悪さをするだろうと感じるのは自然な流れです。

こうなってしまうと、何か悪いことが些細なことでも起きると、その隣人に原因を求めてしまうようになってしまうようです。この原理も「わけのわからない被害」を受けていると考えているより、「隣人の悪意のある攻撃」を受けていると考えるほうが、つまり原因がわかる方が当人の不安の感じ方が低下するようです。原因の無い不利益は不安をあおるのですが、犯人はこの人というと幾分安心するという側面があります。もう一つの側面として、犯人に対して怒りを持つということが不安を感じにくくするという事情があるようです。

犯人はこの人と思うと「漠然とした不安」から、「対処の相手が確定した不安」になります。しかし、常に自分の家の隣に自分に攻撃をしてくる人間がいるという意識は、不安を慢性的に繰り返し高ぶらせていることになります。不安のストレス疲れということも大きくなっていくようです。不安から解消されたくても、隣に住んでいるのでゴールの無い不安であると感じるわけです。何にも代えがたく、不安を解消したくて躍起になるわけです。

ある時怒りを感じて何らかの攻撃をすると、不安を感じにくくなるということを学習してしまうという出来事があるようです。怒りと不安は、どうやら一緒に感じるということができないようで、怒っている間は不安を感じなくて済むようなのです。一度不安を感じなかった体験は、不安を怒りに転化する行動を繰り返しとるようになるようです。

但し、本来は、怒りは自分より弱い相手であり、怒りの行動をしても相手の反撃によって痛い目に合わない相手に対して起きる感情であることが原則のようです。但し、子どもなど、自分が守るべき仲間を守るために相手を攻撃する場合にも怒りという感情が出る場合があるようです。ちなみにインターネットで匿名で誰かを攻撃する場合には、怒りの抑制が効かないのはこういう怒りの特徴からきていると考えています。

さて、隣人を仮想敵にした場合、隣人からの反撃が怖いはずだと第三者である私は思うのですが、当人は攻撃をするのです。但し、直接隣の家に殴り込みに行くという形をとらずに、隣から目に見えるように監視カメラを何台も設置したり、町内に噂話を広める形で、直接反撃をしないで攻撃をすることが多いようです。行政相談もその一環だと思います。反撃を恐れないで怒りを発現しているわけです。だから怒ることができるのだと思います。

不安が小さいうちに不安を手当てすることが大切です。相談に乗る方は、間違っても、一緒になって隣人の攻撃をしてはなりません。本人の中で妄想が裏付けられてしまうからです。ますます本人は、不安が募っていくだけです。さりとて、誰でもできるように妄想を否定して切り捨ててしまうと、本人は自分が否定されたような気持になってしまいます。自分が具体的な被害を受けているという妄想と、その加害者が隣人であるという妄想と二種類の妄想を、無責任に承認してしまうと、妄想が現実になってしまいます。これは大変危険なことだと思います。

物が壊れるとか体が痛いとかいう確かに何らかの被害があることが多いです。しかし、その被害は別の原因で起きた被害である可能性があることがほとんどです。だから被害の存在を承認することは、リアルな範囲であればよろしいのだと思います。但し、その被害は確かにあるけれど、気にしなくてよい程度のもので、時間の経過として避けられないならばそのように言うべきです。

次に隣人の犯人説に対して真っ向から否定を断定するよりも、ここは否定的な態度をとりながらもあいまいにするのも一つの便法かもしれません。その上で、本当の不安の原因にコミットしていくことが最も有効だと思います。

その時に気にかけるべきことは、「孤立」と「離別不安」というキーワードを常に準備していることです。具体的に孤立を部分的に解消する方法を探したり、協力者を探したりすることが建設的だと思います。第1希望というのはかなえられないことが多いようです。第2希望、第3希望の実現を考えていくということになろうかと思われます。



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不安と高齢者の万引き 不可解な犯行動機の背景としての不安(孤立) 「ストレス解放のための万引き・むしゃくしゃしてやった万引き」とは突き詰めるとどういうことなのか 不安シリーズ4 [進化心理学、生理学、対人関係学]



万引きという犯罪類型が、実はその動機などについてなかなか解明しがたい類型であるということについて、このブログで何度も取り上げています。特に高齢者の万引きについては、不可解なものが多いので、情状弁護にも苦労します。もし、それなりに理由がはっきりして、対策が立てられて、対策の確実性がそれなりに証明されれば、何よりもご本人が二度と万引きをしないで済みますし、有利な量刑になるとか、再度の執行猶予がつくこともあるので、弁護士としても本当はやりがいのある分野なのです。一般的な予防にも役に立てることでしょう。

特にこれまで犯罪の経験がなく、普通に生活している人が行う犯罪ということもあり、社会復帰もしやすいのです。しかし、原因がはっきりせず、有効な対策が立てられない場合に、何度でも繰り返す犯罪という特徴もあり、懲役刑まで行き着くことになります。弁護士が果たすべき役割というものも本当は大きい犯罪類型だと私は思っています。

第1回の万引き事案こそ、十分に経験のある弁護士を探し出して、根本的解決を図らなくてはならないと私は思っています。

再犯防止の手立てを講じるという観点から高齢者の万引きを見ると、これほどやっかいなことはありません。

先ず、きちんと窃盗は悪いことだし、万引きも窃盗であるという自覚があります。
犯罪歴もなく、まっとうな暮らしをしていて、それなりに社会的役割を果たしている方々です。
その商品を万引きしなくてはならないほど経済的に圧迫されているわけでもありません。
多くは、まじめで、責任感が強く、そして働き者です。ある程度の年配の方でダブルワークをしていた人もいました。

では「なぜ万引きを止められなかったのか。」
ここがよくわかりません。ご自分でもよくわかりません。

これまでのこのブログで述べてきた研究の通り、孤立というワードが当てはまるケースはとても多いです。しかし、「孤立だとどうして万引きをするのか」については実際はよくわかりません。しかし、そのメカニズムがわからなくても、弁護士の仕事として、家族に頑張ってもらい、あるいは本人が考えを改めてもらい、孤立を解消する中で再度の万引きを行わないということをある程度成功してきました。再犯防止の対策としてはそれでよいようです。

ただ、孤立とは必ずしも言えない客観的人間関係の中で、一人で問題を抱え込んでいたという例もありました。何でもかんでも孤立に結び付ける必要はないのですが、「ある意味の孤立」を感じていたととらえて、家族のきずなをもっと強く感じてもらう方法をとりうまくいったという事例もありました。

その言葉が文字通りしっくりくるかどうか自信が無いのですが、そこに不安という概念、不安解消行動という原理を絡ませてみるとヒントになるかもしれないと思いました。

考えてみると、対人関係学の立場では、「孤立」と「不安」は同じことでした。つまり、「人間は群れを作って仲間の中で暮らしたいという根源的要求」を持っていて、これが満たされない場合、つまり「孤立している場合」と、「いずれ群れから離脱させられてしまうのではないかという不安」を感じる場合に、群れに入ろうとしたり、自分の行動を修正して群れにとどまろうとするということを提唱していたのでした。最初の群れを形成したい生き物だと言い始めたのは認知心理学者のバウ・マイスターです。

そうだとすれば、「孤立しているとき」も、「群れの仲間から低評価を受けて離脱の不安を感じているとき」も、根本は同じ不安を感じていて、不安を解消しようと強く願い、不安を解消する行動をとって不安を解消するという流れは同じであるはずです。そして、不安を解消する手段が無ければ、つまり孤立を解消する手段が無ければ、(それを感じ続けることが人間はできない、耐えられないのだから、)「それを感じないようにしようとする」ほかないわけです。誰か八つ当たりができる相手がいたら攻撃をすることによって、不安をしばしば感じなくするということができますが、そういう相手もいないから孤立や不安を感じるのでしょう。

また、不安や孤立を感じ続けると、「思考力が低下」してしまいます。複雑な思考ができなくなります。物事を二者択一的に考えたり、他人の気持ちに共感をできなくなったり、あるいは将来的な見通しを持ちにくくなったりするようです。今さえよければ、後先考えずに不安を感じにくくなれればそれでいいというような刹那的な考えでの行動をしたり、自分の行動を制御できなくなったりするという特徴が表れてきます。そして、合理的な解決ができないだろうという悲観的な考えが支配的になるようです。

この考えを二つに分けると、一つは不安や孤立を感じない状態を作りたいという志向性の問題と、もう一つは不安や孤立の持続による思考力の低下と分けられると思います。これまでどちらかというと後者を重視してものを考えていたような気がしますが、前者も影響を与えているのかもしれません。考えてみましょう。

考える補助線として、万引きをまさにしている状態では、完全に思考力は低下しています。不思議な話ですが、警備員などに見つからないようにしようという気持ちはあるのですが、表情や動作があからさまに不審で、顔にこれから万引きするよと書いているようなものであることが多いです(警察の捜査による証拠から)。当然見つかったらどうしようなんて先のことは考えていません。万引きをして換金して生活するという職業的な万引きはまた違うのですが、高齢者の万引きの場合は、初めて舞台に上がり満員のお客さんから見られている俳優のようにカーっと舞い上がった状態で、そのものを盗るということしか考えられなくなっているようです。そして、途中でやっぱりやめようというきっかけが入りにくい精神状態のようなのです。

そして、孤立や不安が持続しているからと言って、必ずしもしょっちゅう万引きをしているわけではありません。何かスイッチが入ってしまうと、静かな錯乱状態のような心理状態になって万引をしてしまうわけです。どこにそのスイッチがあるかということが一番知りたいことなのです。

そして、自分がやっていることが窃盗という悪いことであり、人に迷惑をかけることであり、発覚すると逮捕されて刑務所に入れられる可能性のある重大なことで、本来思いとどまらなければならないことだということがわかっていながら、それらの理解が犯罪を思いとどまるために役に立たなくなってしまうということなのです。

また、決して何らかの精神疾患があるわけではなく、普段は日常行動を自分でコントロールして平穏に暮らしている一般の人なのです。

背景として孤立や不安を解消する、これが原動力の一つになっていることは間違いないので、根本的な対策としてはこれがあることは間違いなさそうです。しかし、これ等の原動力があっても、万引きに踏み切る引き金がどこにあるのか。

もう一つの補助線としては、商品を見てとっさに万引きを思いつくというよりは、少し前の段階から万引きのことが頭に浮かんでいることが多いようだということです。一番早いケースでは、家を出るときに万引きをしようというアイデアがあったというケースでした。このケースは、万引きがすでに繰り返されていたケースで、それまではたまたま発覚しなかったケースのようです。

多くは店に入るころに万引きを漠然と考えていたということのようでした。

一つの可能性としては、一度、結果として万引きをしてしまったということの記憶が悪さをしている可能性があると思います。つまり、万引きなど考えもしないで普通に買い物をしたつもりだったのに、うっかり買い物かごにレジを通さない商品があったという場合です。故意が無くて商品を手にしたのですから、窃盗は成立しませんが、返しに行くにも万引きを疑われそうだと思い、そのまま返さないという体験をしたとします。ずぼらな人であれば、いつしかそれを忘れてしまうのですが、まじめで責任感が強い人であると、悪いことをした、不道徳なことをした、違法なことをしたということで、事後的であっても強い緊張感に襲われるようです。その時、慢性的な不安の原因である、家族が死ぬなり独立するなりしていて孤立である自分の不遇に対する孤立感、不安感を忘れてしまったという体験があり、元々の嫌な不安を解消したということを学習してしまう可能性がありそうです。不安解消行動は合理的な行動ではなく、これまで見てきたように、アルコールの過量摂取をしたり、冷静に考えた場合はとても信じることができない宗教を信じてしまったり、突拍子もない行動を行い、そして繰り返してしまうというところに特徴がありました。元々の不安を忘れることができたという学習は、同じことを繰り返す要因になるとしても不思議ではないように私は感じました。

もう一つは、仮想万引きです。もしここで私がこの商品を万引きしたらこっぴどく叱られるかもしれない、しかし見つからないで万引きできるかもしれないという奇妙な緊張感を感じたときに、これまでの背景的な不安、孤立感を忘れるという解放感を感じるという可能性があるように思います。

よく警察官が作成した事情聴取報告書には、ストレス解放のためとか、モヤモヤしている気分を晴らすために万引きをしたという表現が記載されています。私は、これは、マニュアル通りの表現なのだろうとにらんでいたのですが、もしかしたら万引き行為者の中には自分の深層心理を分析して比較的正しく表現していたのかもしれません。要するに背景としての孤立、不安という持続的かつ慢性的なストレスこそが、解消要求を募らせている対象であり、その背景的なストレスさえ解消できれば、その手段は何でもよいという心理になっているのであれば、ストレスを「万引きという犯罪を行っている緊張感」を持つことによって感じなくさせるということがありうるのかもしれないということです。要するにそれだけ、慢性的持続的に孤立感や不安が積もり積もっているということなのかもしれません。

「ゲーム感覚」という言葉もよくつかわれます。ゲーム感覚というと軽く聞こえてしまいますが、こういう問題だとすると結構闇が深い問題なのです。冷静に考えれば、その人は人生をかけてゲームをしているわけです。かなり、その人の人生が、その人の中で安っぽく、薄っぺらいものとして扱われているとは言えないでしょうか。

従って、万引きをする場合は、それが悪いことだということがわからなくなってやってしまうというのではなく、悪いことだ犯罪だやってはいけないことだとわかっていることだからこそその行為の時に強烈なストレス負荷がかかって、逆に背景的な孤立や不安を感じなくすることができるのだということになるのかもしれません。

本来、このタイプの万引きは、厳密に言うと自由意思で行っているわけではないとは思います。不安解消、孤立解消、慢性的持続的ストレス解消で、人間としてはそれを避けることを止めることができない事情があると思っています。しかし、店側には何の責任もないことです。犯罪が成立しないということは刑事政策的にはできないことです。だから、万引きは、初回に、必ず背景となる不安を突き止めて、合理的に背景つぶしをしなければなりません。本来的にまじめな人たちに、自分の行った万引き行為によって経済的にも精神的にも多大な損害を与える具体的な人間がいるということを理解してもらうことが必要なことなのです。

万引きの背景的な不安や孤立感、その他の持続的なストレス要因が解決されなければ、一度やってしまって不安解消を楽手してしまった以上万引きは繰り返されやすくなっています。万引きが繰り返される事情も、不安解消に伴う依存的な要因があると、この意味で言えると思います。くれぐれも、もう大丈夫だろうという安易な見通しを持たないことが何よりも大切です。

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不安とアルコール依存症 アルコール依存症には2種類あるということ 不安シリーズ3 [進化心理学、生理学、対人関係学]


酒飲みの立場から言わせてもらうと、アルコール依存症についての現代医学や心理学の考察は、少々雑ではないかと思っています。アルコール依存症の行動について、正義の観点から断罪する研究、断罪型研究結果に基づく鑑別方法が多く、患者本位の研究や治療が少ないような気がしているのです。実際にアルコールの絡む事件が多く、治療を受けている人ともかかわるのですが、「自分で治せ、治らなければ見捨てる。」という形の病院が多いように思われます。それは治療なのでしょうか。

という当事者的立場から入るのですが、先ず、昨日、居酒屋の前を歩いていたら、入りたくなるような「よさげな」店があったのですが、「酔いどころ」と書いてあったのです。これにものすごい違和感を覚えました。「俺は酔いたくて酒を飲んでいるのではない。」という思いが強いからです。飲み始めてしまうと、できれば、酔わないでずうっといつまでも飲んでいたいとさえ思っています。しかし、事件でかかわるアルコール依存症の人たちは、全く違う飲み方をしています。

酒飲みには二種類いると思っています。はたで見ている分には主に笑える酒飲み(A)と、他人事ながら引いてしまう酒飲み(B)です。

Aタイプの酒飲みとBタイプの酒飲みには、酒飲みとしては譲れない大きな違いがあります。

Aタイプの酒飲みは、口先から酒を飲みます。また、酒を口に入れてから息を吸います。
Bタイプの酒飲みはのどの方から酒を飲みますし、息をしないで空気を入れないで酒だけを飲みこみます。

つまり、Aタイプの酒飲みは、アルコールの香りや味を楽しみたくて酒を飲むわけです。できれば、だらだらと酒を飲み続けていたいと思いますので、酔っぱらいたくはないのです。味もわからなくなっては、飲んでいても感動がありません。
一件グルメのようなことをいっているわけですが、うまい酒が無ければ何でもよいのです。どんなありふれた酒でも混ぜ物があっても、それなりに味わって飲むわけです。こういう輩は、注射の際の消毒の脱脂綿をかいでいても幸せな気持ちになります。

Bタイプの酒飲みは、実際はアルコールは弱いし、アルコール刺激などもそれほど好きではないようです。できるだけ味がわからないように息をしないでのどの奥に流し込む飲み方をします。アルコールを味わいたいのではなくて酔いたいのです。だからちびちび酒を飲むなんてことをしないで、強い酒を一気に流しいれるのです。味なんてどうでも良いから、昔のBタイプの依存症の人たちは安くて大量に入っている2リットル以上のペットボトル(取っ手がついているやつ)の蒸留酒(甲類焼酎、ウイスキー等)を飲んでいました。今は、9%の500ml缶酎ハイが主流です。

どちらも依存になりうるし、酔っぱらえば結局問題行動を起こすので、飲まない人にとっては同じかもしれませんが、依存の機序は全く違うと思っています。

つまり、Aタイプの依存者は、酒の味やアルコールの匂いや味、もう少し言えば嗅覚や味覚及びアルコールの作用由来の触覚を通しての、中枢神経への刺激、脳の報酬系を刺激して快楽を求める形の依存症になるのだと思います。こちらが薬物依存症の王道の依存形式です。

Bタイプの依存者は、理由はともかく、先行して不安、ストレスを抱いているようです。不安を感じないためという主目的で、酔っぱらうことによって感覚と記憶の想起を遮断したいというような酔い方をするようです。元々酒が好きなわけではありませんので、早い段階で不安に対して別の解決方法を見つければ、アルコール依存症が深まることは無かったはずです。

AタイプとBタイプの治療方法は違うはずです。それにもかかわらずBタイプの患者に対しても治療等の処方がAタイプの依存患者に対する方法ばかりが選択されてしまうと、Bタイプの依存患者に対しては効果が無いということが多いのは当たり前のような気がします。この違いを見極めないで依存症とひとくくりにするところが大雑把と言いたいわけです。

急激に体を悪化させるのはもちろんBタイプです。但し、長年酒を飲み続けるのはAタイプの方なので、アルコール由来の認知症などはAタイプの方が多いかもしれません。

Aタイプの酒飲みは嫌なことがあったからそれを忘れるために酒を飲むという行動をしません。酒を飲んでも嫌なことを忘れることがあまりないからです。但し、酒を飲めば報酬系が刺激されてどうでもよくなるということはあります。
良いことがあったから、めでたいことがあったから酒を飲むみたいなことを言っていますが、酒を飲む自分に対する理由ではなく、周囲に非難されず大手を振って酒を飲むための環境づくり、すなわち言い訳ということが正確ではないでしょうか。

これに対してBタイプの依存症者は、まじめで良識的な自己や自己の行動に対する評価ができる人が多く、酒を飲むことに罪悪感を抱いているようです。人前で酒を飲もうとしないことが多いようです。家族にも隠れて酒を飲むことが多いようです。
家族に知られないための努力も細心の工夫をするようです。証拠を残さないようにコンビニエンスストアで大量のパック酒を買って、飲み終わった容器は逐一捨ててくるとか、秘密の場所を用意して飲むとかです。ストローで酒を飲むのもBタイプの人ですね。

つまみなんて用意しないのもBタイプの依存症です。つまみというのは、酒を飲みすぎて口が馬鹿になったところをリセットするためのもので、つまりは酒を味わうためにやるものです。昔のデパートのアイスクリームに添えられたウエハスのようなものです。Bタイプの人は、初めから味わうなんてことを考えていませんので、つまみをなめる余裕があれば酒を飲んでしまうわけです。酒だけを持ち込めば隠れて飲めるわけです。アルコールは肝臓で加水分解されて解毒されるのですから、水分や炭水化物を同時に摂取しないと毒が蓄積したり、肝臓に負担をかけるのは当然のことです。

Bタイプは最初は不安を感じなくする時間を作るために酒を飲んでいたのですが、依存症の怖いところは、徐々に、酒を飲んで酔っ払っていることが通常の状態だと自分自身が感じるようになってしまうところです。これは意識ではなく、無意識の心の状態です。酒を飲まない状態であることが、不安の理由になってしまうのです。

繰り返しますが、Bタイプのアルコール依存者は、社会通念とか道徳とかそういうことに照らして自分を評価することができます。酒ばかり飲んでいると、健康に悪いということももちろん自覚していますし、他人から見てだらしない人間であるとか、軽蔑するべき人間であるということをはっきり自覚しています。飲まないでいると強烈に理由なく不安が発生する上に、酒を飲むことによって自己評価が下がり、さらには社会的に低評価を受けることやっているということに基づく不安も合わせて発生するので、収拾がつかなくなってしまいます。酒をやめたいのに、意思による抑制ができないというのがBタイプなのです。ここがこの記事のキモなのです。自分の価値観、生き方よりも、不安の回避の方を優先するということなのです。

まだ黄昏時にコンビニで珍しい缶酎ハイを見つけて、路上で飲みながら帰るなんて芸当をするのはAタイプの酒飲みの方なのです。報酬系の刺激に基づく依存は、あまり罪悪感とか自己評価とかが出てこないようです。
いやAタイプの依存者の話はもうよいでしょう。それで、アルコール由来の脳疾患になったところで、あるいは肝硬変で死のうと、プラスマイナスを考えると幸せな人生だったとも思えます。問題はBタイプのアルコール依存者です。

9パーセント500mlの缶酎ハイを一本がーっと飲んで、がーっと眠れるならまだよいのでしょう。おそらく最初はそんな感じかそれより弱い感じ、350mlの缶ビールを飲めばぐっすり眠ってしまうと言っていた人が、実際はBタイプの依存症になっていくようです。薬物は耐性が生まれてしまうということが味噌です。350mlのビール(6%くらい)1本が2本になり、6%の缶酎ハイになり、やがて9%の缶酎ハイ500mlになるわけです。それも2本になり、4本になっていくようです。それだけ飲んでも、すぐには眠気も記憶喪失も起こらなくなり、不安な気持ちだけが残るようです。そうすると無意識にあるだけ飲んでしまうようです。必ずしも初めから4本飲もうとしているわけではなく、気が付けば4本開いていた。それでも足りないときに備えて、予備を買っておく。これも足りなかったらどうしようという不安を解消するための行動のようです。昔のBタイプのアルコール依存者はケースで酒を買っていたようです。

アルコール摂取の状況をとがめられて暴力的な行動をするとか、自分では恥ずかしくて酒を買いに行けなくなって家族に対して威圧的に酒を買いに行くように強制するのもBタイプの依存者にある傾向です。否定評価をされることがわかっているので、暴力的な態度で自分を防衛しているわけです。怒りが不安解消行動だということのわかりやすいサンプルです。

Bタイプのアルコール依存者には、依存するきっかけがある場合もあります。会社での人間関係の不具合、パワハラなどがきっかけになることもあるようです。
しかしながら、主婦のBタイプのアルコール依存(女性はBタイプが多いかもしれません。)に多いのが、何となく不安だ、何となく寂しいということもきっかけとしては多いようです。なんとなく料理酒を飲んでみたら、眠くなって眠ることができたという体験が、不安解消体験として学習されるのだと思います。なかなか女性の場合は、ペットボトルの酒を買いに行きにくいので、ワインなどのおしゃれなお酒を飲むアルコール依存者が多かったのは理由があることです。昨今は、スーパーマーケットやコンビニ、生協などに行けば冷蔵庫に展示されている商品の過半数の缶酎ハイが9パーセントというのは、この気恥ずかしさというストッパーが解除されてしまうという問題点もあると思います。

私はこのような9%中心の販売は大問題だと思っています。Aタイプの酒飲みは、9%の缶酎ハイなんて口に合わないから飲みません。アルコールの味わいではなく、単なるアルコール臭のぷんぷんする飲み物で、それに人工甘味料などが味付けされているおぞましいものだと感じています。40度以上のウイスキーやブランデーなどを、水も氷も入れないでありがたがって飲んで、飲み終わってもグラスに残った香りをかぎ続けるほどアルコールを求めているのに、9%のアルコール臭は別物のような感覚なのです。

だから、純粋に酔うための商品であり、依存性のある商品を大量において、しかも他の選択肢を大幅に削って売っているということは、依存性を作出して売り続けようとしているとうがった見方をされても仕方が無いと思うのです。それでも、一部の精神科医(松本俊彦先生)が警鐘を鳴らされているのは知っていますが、なぜか世論にならない。

こう考えると3%の酒や0.5%の缶酒が売られていますが、これも9%への入り口としてアルコール依存導入商品ではないかという疑いすら浮かんできました。

以前、牛丼屋のチェーン店の経営者が、生娘をしゃぶ漬けうんぬんという話をして批判を浴びました。覚せい剤も酒も、命にかかわり、社会生活に支障が出る依存性薬物であることには変わりがありません。また、0.5%、3%の酒を飲ませて、耐性を作って結局はアルコール依存症にするとすれば、牛丼のリピーターを作るということよりももっと社会的問題として議論されるべきだと私は思います。

500ml缶4本飲むというのは、アルコール換算で40度のウイスキー700mlのボトルの64%ほど飲んだ料と同じということになります。一度の飲酒機会でウイスキーの量を短時間で半分飲んでしまうということはなかなかできません。しかし、9%の缶酎ハイ4本ならば1時間もあれば飲めるかもしれません。

前日ウイスキーをボトルで半分以上飲んだら、翌日は飲みたくないということになると思うのですが、9%の缶酎ハイ4本は翌日も飲めるのではないでしょうか。アルコールメーカーと販売店であるスーパーマーケットやコンビニ、生協がこのように依存症者を作るような販売形態をしていることを批判する人があまりいないのように感じるのは私だけでしょうか。

Bタイプのアルコール依存者は、身体の影響と精神的な不安への対処という同時並行的な働きかけが必須であると私は考えています。アルコールをやめたところで不安が解消されなければ、また別な不道徳な行為、違法な行為、危険な行為に走る可能性が残されているからです。Bタイプの人間は、それらの行為が不道徳であるとか違法であるとか、危険な行為であるということはよくわかっています。本来それらの自覚が行為を思いとどまらせる役に立つはずなのですが、人一倍効果がある性格を持っている人たちなのですが、不安を解消したいという要求は、何にもまして強いということを忘れてはならないと思います。

不安というものが人間に悪さをする仕組を説明しやすい例だと思いました。




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不安と宗教、マインドコントロールが成功する仕組み(不安解消要求と迎合の心理) 信教の自由の外縁を画する。自由意思と特別法による取消権規定の創設 不安シリーズ2 [進化心理学、生理学、対人関係学]


特定の団体の行為がすべて公序良俗違反となるなどで民事的に違法無効、行政的規制の対象となるとするのは、その団体が宗教的言動をしながらその実が犯罪集団ないしは教団幹部の私的利益を目的としているとでも認定されない限り難しいことだと思います。

ただ、いくつかの個別の勧誘やグッズの販売、献金などにおいて、裁判例などでも違法を認定された事案があり、違法無効とするべき事案があることも事実のようです。ここで被害者救済だけを旗印にして一切を規制してしまうと、不当に信教の自由を害する事態が生じてしまいます。だから、どこまでが信教の自由の範囲で裁判所の判断が及ばないのか、どこからが裁判所が介入できるのか限界を画する必要があります。

この限界を考えるにあたって、自由意思、マインドコントロール、そして不安の3点の関係を理解することが大きなヒントになると思います。
私の家は典型的な日本型宗教観ですから、その日によって宗教が変わります。葬儀・埋葬、盆、彼岸は仏教ですし、正月や結婚式は神道ですし、クリスマスはキリスト教というわけです。だから、一つの宗教を正式に信仰するということはとても不思議なことでした。

高校時代、信仰を持った友人がいましたので、信仰を持つことが特別なことではないということがおぼろげながらに感じられました。

無責任な断定的な仮説ですが、宗教の本質は、人間に必然的ついて回る不安の解消にあると思っています。そしてそこに正当性というか存在意義もあると考えています。

色々な宗教は、その時代的制限、地域的条件がありますから、昨今の科学的知見から見れば、信じることがなかなか難しい個別部分もあると思います。しかし、時代的制限や地域的条件を取り払って、本質的な部分を再構成すれば、現代でも多くの日本人も無理なく信仰の対象となりうると思っています。

世界三大宗教が生まれたころの不安は、主として病気や死に対する不安だったのかもしれません。現代社会は、対人関係不安が慢性的、多発的に生まれています。また、生理的な不安としか言いようのない漠然とした不安も起きています。

シリーズ1で述べたように、人間は生まれながらにして不安とともに生きる動物であると考えています。そして、人間は不安を感じると、不安を解消したくなり、不安を解消しようとする行動をとります。不安の根本原因を探し当て、この原因を除去できれば不安が合理的に無くなります。しかし、例えば死の不安のように原因を除去することができない不安もあります。また、漠然とした不安をはじめとして、原因がどこにあるのかわからない不安や、不安であることをそれほど自覚できないけれど苦しんでいるということもあります。

合理的に解決する方法が無い不安の場合は、価値観を転換するとか、考えないようにするなどの方法で不安を回避するとか、何らかの感情的処理をして不安を感じにくくするという方法が取るほかはありません。

このように合理的な解決を図れない不安の回避の一つの方法として宗教があると思うのです。

但し、不安解消としての宗教には2種類あるようです。
1種類目は、修養による哲学的な人生観の到達によって、死の恐怖に打ち克つという方法です。
2種類目は、死んでも自分という実態は無くならない、つまり天国であったり来世であったり、「自分」というものが消えてなくなることなく遺るということをただひたすらに信じるという世俗的宗教観です。世俗的宗教観とは、厳しい修養などをせずに、宗教に人生のすべてをささげるわけではなく、日常生活を営みながら信仰を持つ場合という意味合いです。

大きな宗教は、前者をきちんと持っているとおもうので、その本質は現代でも通用すると、勉強をするたび感じています。ただ、時代的制限や場所的条件でどうしても後者も含まれてしまうようです。

いずれにしても、不安回避という効果をもつという意味では同じことかもしれません。

だから、その人の不安が強ければ強いほど、宗教に専心していくエネルギーは強くなるでしょう。そして、不安の根源を、世俗的な物の所有、世俗的な人間関係の存続などに執着することにあるという教えであれば、不安解消のために物を手放すし、人間関係を絶つわけです。このような物理的な側面、外形だけを見れば、どんな宗教にも一定の共通項として存在するようです。すべての物や世俗の人間関係を捨てて、修養を積み高い境地に向かうという要素は宗教にはつきもののようです。だから、全財産を宗教団体に寄贈するということや家族と関係を絶つということをもって、信教の自由を否定することは難しいと私は思っています。

純粋な宗教は、時の支配者から見れば、秩序を乱す存在であることは間違いがなく、その歴史において国家や社会から弾圧される経験を持つ理由となっています。但し、国家からすれば、その影響力の強い宗教の利用方法を獲得すれば、これほど支配の道具となり得るものもないわけですから、国家に利用されていくということも宗教の定めなのかもしれません。但し、国家に利用される段階では宗教の純粋性は論理的に失われているということにはなるでしょう。

では、違法な宗教的外観の行為と信教の自由の保障を受ける宗教行為の違いがどこにあるのでしょうか。わたしは、一人一人の契約などの意思表示や、金銭の支払いや贈与のような行為が、自由意思に基づいていると言える場合は信教の自由の保障の対象であり、自由意思に基づいていると評価できない場合は民事的な違法であり、取り消しうる行為にするべきだと考えています。自由意思という言葉が大きな問題となっていますが、もともと自由意思ではない契約は、無効とされています。ところが、その売買や贈与が自由意思ではなかったということはなかなか証明できないことです。

このため、マインドコントロールが行われた外観がある場合は、自由意思ではないとして、献金や代金の支払いを取り消すという特別法が作られればよいと考えているのです。

どのような場合にマインドコントロールが行われるか、マインドコントロールはどのように行われるか、そんなに簡単に行われるものか、どうして他人の言いなりに行動してしまうかということを説明していきましょう。実はそれほど難しいことではないのです。

特定の宗教団体に限らず、また宗教に限らず、マインドコントロールは起きるようです。マインドコントロールが解けてしまえば、どうしてあんな話を真に受けてしまったのだろうとか、あんな活動をして親を泣かせてしまったのだろうなどと同じ一人の人間でも価値観が全く異なった考えを持ってしまいます。

例えば、詐欺なども一種のマインドコントロールが利用されています。解けてしまえばどうしてそんなあり得ない話に乗ってお金を出してしまったのだろうということになります。

例えば、最近裁判が始まった事件では、誰かから思考を支配されてしまって、誰かの望む行動をしようとする余り、自分や自分の子どもでさえも継続して虐待をして死なせてしまうこともできてしまうようです。これもマインドコントロールによる行動であり、完全な自由意思による行動ではないと評価できる場合がありそうです。

マインドコントロールは案外簡単な方法でできてしまいます。

1 ターゲットの不安を強くすることです。

不安が強くなると、不安から逃れたいという要求も大きくなります。この要求が高まってしまうと、最終的には何でもいいから不安から解放されればよいという状態まで不安を高めます。不安から解放する方法にどんなものでも飛びついてしまいたくなるようです。

不安が高まってしまうと複雑な思考ができなくなります。逃げるか戦うかという二者択一的な単純な思考で物事を評価、決断してしまいます。必要な情報を丁寧に評価することもできなくなるし、問題設定自体がおかしいということも気が付かなくなります。また、早く「正解」なり「結論」にたどり着きたいという焦りも生じます。放っておくと悲観的な考えになり、ますます不安が高じてきます。

2 睡眠不足に陥らせます。

 人間は睡眠不足になると、複雑な思考がますますできなくなります。ケアレスミスも増えていくことはご経験がおありでしょう。

3 空腹の状態にとどめます。

空腹の状態の場合、自然と危機感が高まり、思考も単純化し、悲観的な思考になじみやすくなるようです。

4 権威者からの否定評価が行われます。

人間はシリーズ1で述べた不安という心によって群れを形成していたと述べました。これが変化したものとして、群れが強く、持続的なものであろうとすることから、群れの中に権威を作り、その権威に従おうとする修正があります。
迎合の心理と名付けました。こうやって群れの秩序を作るわけです。
「迎合の心理」 遺伝子に組み込まれたパワハラ、いじめ、ネットいじめ(特に木村花さんのことについて)、独裁・専制国家を成立させ、戦争遂行に不可欠となる私たちのこころの仕組み
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2022-04-21

権威者とは、特別の修養を積むとか、研鑽をするという必要はありません。周囲が、その人が権威者だとか、そのルールが正しいルールだという行動を示せば、案外単純にその人、その決まりに権威が生まれるようです。

まず社会と隔絶された空間を作ります。外部の人間が入ってこない建物で、外部の人間と電話などで連絡が取れない状況に起きます。そうすると人間は自然と近くにいる人間と仲間でありたいという気持ちになっていくようです。

ターゲットに何らかの行動や発言をさせ、権威者がそれらをことごとく否定していきます。周囲もそれに同調をすれば、ターゲットは急激に無力感に陥っていきます。同時に、不安も生じます。何とか集団、特に権威者に肯定されたいという要求が高まってしまいます。親に電話一本して状況を説明すれば、「早く帰っておいで」という一言で解けるようなバカげた否定がなされるのですが、不安、睡眠不足、空腹、社会からの隔絶と否定評価によって、ターゲットはこの仲間(マインドコントロール集団)から見放されたくない、肯定されて安心して仲間でい続けたいという気持ちに勝手になっていくのです。

そして具体的にやるべきことを指示します。
このやるべきことは、托鉢のような比較的複雑なこともありますが、体操のような体を動かすこともあるでしょうし、歌を歌わせたり、文章を読ませたりすることもあるでしょう。一心不乱に何かをやることによって、否定をされない状態を作るということなのかもしれません。こうして考える時間を奪っていくわけです。

そして、時期を見て、なんでもいいから理由をつけて、承認、肯定を存分に行います。肯定されることに飢えていたわけですから、これはターゲットにとって何物にも代えがたい救いになります。

結局、冬にストーブをガンガン炊いてアイスクリームを食べるとうまいと感じるようなそんな感じです。低めておいて高めるそれだけのことなのです。あるいは、物語の冒頭でいじめられていた少年が魔法の力で難事件を解決するというか。

こうやって、その権威者から褒められることで脳の報酬系を刺激してしまします。それだけで達成感、恍惚感を味わいやすくなってしまいます。権威者に褒められようとする行動傾向を作り出すのです。権威者に認められればこのような脳の快楽が発生するということを学習してしまうので、その快楽を再び味わおうとする力は強大なものです。抵抗することができないのは、この点です。これが依存です。脳への働きと依存行動は、麻薬と同じ原理です。

また不安があおられて作り出されていますから、権威者に肯定されることは不安を回避するための手段でもあります。権威者に肯定されれば不安を感じない状態を作ることができるという体験は、不安解消の具体的な方法を示されたということですから、飢えた者が水を飲むように権威者に肯定されようとして行くわけです。このようなモデルケースでマインドコントロールが行われれば、多くの人は加害者の思い通りに行動をしてしまうでしょう。権威者だけが本当の自分を理解していると思い込まされるということはこういうことです。不安回避も人間は抵抗できません。その上に報酬系の刺激があれば、この快楽を選択するしか方法は無くなると思います。

あとは、権威者が、自分で権威を壊すことなく、ターゲットに要求を行い、ターゲットを動かしてゆけばよいわけです。

不安をあおる論理や、不安を救済する論理なんでずさんなもので構いません。すべて善解するでしょうし、権威を疑うことは報酬を得られず、不安を高めますから自分を守るために行うことができなくなります。

だから、マインドコントロールは、ひとたびかかってしまうと、なかなか解けることができないわけです。権威を否定する親族などは、自分を攻撃する者という意識になっていますから、敵対的な考えに支配されてしまっています。理屈でマインドコントロールを解くということも、薬でマインドコントロールを解くということも難しいと私は思います。宗教団体以外の事例を見ていると、巻き戻しをしている例が多いと思います。ひたすら安心させること、決して責めないこと、自分こそがターゲットの仲間であり、自分はターゲットを決して見捨てないことを少しずつ実感してもらうことが行われているように感じています。

さて、マインドコントロールの元では、とにかく権威に迎合することが第一の行動原理になってしまっています。しかも、のどが渇けば水を飲むとか、熱い物に触ったら手を引っ込めるというような、動物的反射行為のように権威者に迎合しようとしています。そして権威者に肯定され、評価されることで、不安が解消し、脳の報酬系も刺激されます。

あたかも、麻薬中毒者に、全財産を出せば麻薬を打つとか、親と連絡を取らなければ麻薬を打つといわれて言いなりになっているようなものです。
このようなマインドコントロール下の行動や意思は、自由意思に基づくものではないと評価できると思います。但し、本当にマインドことロール下に完全に入っていたかということまで証明しなければならないと、救済は難しいということになると思います。

私は特別法を作って、以下のように立証責任を軽減するべきだと考えています。

場面としては、自由意思を奪った相手、その関連団体との間で法的効果を否定するということです。マインドコントロール下で無関係な第三者に対して被害を与えた行動について、第三者が被害を全部かぶるということは公平とは言えないだろうと思います。

前提として
A 虚偽の事実を述べるなど何らかの錯覚を起こさせて、不安を抱かせたり、不安を増大させたりした場合は、通常に詐欺を原因として取り消すことができる。
B 例えばそれが宗教団体を自称していても、宗教自体が、信者の心の安寧を計ることを目的としておらず、教祖や一部の幹部の利益を図ることを目的としている場合(それが証明された場合)は、宗教活動に伴う行動、意思表示は無効としてよいと思います。

そうではない場合でも以下の外形がある場合は、マインドコントロールのかかり具合を証明することなく、本人または3親等内の親族は行為を取り消すことができるとするべきではないかと考えています。但し、一つでもその外形があれば取り消されるというわけではなく、逆に全部その外形が無ければ取り消されないというわけでもないように考えてはいます。この辺りは決め方ですね。

1 宗教勧誘ないし宗教的行動、献金の誘因が目的ないし行為者側の想定があるにもかかわらず、宗教行為であることを隠してターゲットに働きかけて人的関係を形成すること
2 ターゲットがすでに有している不安以上に高度な不安を与える働きかけを行うこと
3 働きかけが、22時から6時30分までの間の睡眠を妨げたり、一日6時間の睡眠を妨げた上で形で行われた場合
4 働きかけが、宗教団体の施設、関連する施設で行われ、48時間以上、親族や友人との連絡を妨げて行われた場合
5 働きかけが、食事の自弁購入を妨げられた場合
6 働きかけにおいて、ターゲットの人格を傷つける行為、暴力などがある場合
7 働きかける場に宗教団体の関係者、及びターゲット群しかおらず、ターゲットが中立的人物と相談ができない状態にある場合
8 ターゲットに思考力が低下する薬物などを投与した場合

上記の時間とか要素の具体的内容については、これから議論が必要だと思いますが、マインドコントロールの成立に役に立つ行動をする場合、自由意思だという反論を封じるということが眼目です。

宗教に限らず、マインドコントロールの実態などを調査研究することによって、建設的な議論が行われることを期待します。様々な場面で役に立つ研究になると思われます。

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