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人はなぜ争うか。仲間に対して怒りを抱く理由。対人関係学宣言。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]



対人関係学は、人間は本来、
群れに協調しようとする生き物であり、
群れから追放される不安を抱くと
自分の行動を修正するし、
群れの仲間のためならば
自分の命さえ提供することがあると説明する。

そうであれば、
なぜ、紛争が起きるのだろう。
戦争で人々が殺し合い、
夫婦が分かり合えずののしり合い、
いじめやパワーハラスメントが起きるのだろう。

対人関係学は、
あまりにも現実離れした理想論なのだろうか。

実は、対人関係学は、
もともと、人間の紛争が研究対象である。
どうして紛争が生じるのか、
どうすれば紛争を防ぐことができるのか
というところから考えが出発している。
そうして行き着いたのが、
人間の遺伝子的な協調性だった。

答えは最初に用意されていたのであり、
今回はそれにさかのぼる思考実験をしてみる。

1 紛争の理由としての脳の限界

  まず、そもそも、追放される危険を感じるところの
  仲間として認識できる人数が
  人間も、それほど多くない
  という理由がある。

  イギリスの心理学者ダンバーが提唱した
  ダンバー数という霊長類の理論がある。
  それぞれと安定した関係を維持できる個体数の認知的上限は、
脳の容量によってきまっていて、
  ホモサピエンスの上限値は、平均150人
  100人から230人というのだ。

  現代はグローバル社会である。
  世界中の何十億という人間が
  ともすれば運命共同体となる。
  
  しかし、人間の脳の発達は
  この状況に追い付いていない。

  おそらく、サピエンスが成立して
800万年ないし20万年の
  ほとんどの期間
  150人くらいの集団で行動していたので、
  実務的にはそれで十分だったということなのだろう。

  従って、その人数を超えると
  仲間として関係を築きたいという
  協調の志向自体が自然発生的にはなくなってしまうのだろう。
  
但し、共鳴力、共感力は、
  およそ人間のかたちをしていれば発生するから、
  仲間だと認識していなくとも
  助けようとする行動にでる。

2 防衛行動

  しかし、そうだとしても、
150人未満の職場や学校のクラス
  そもそも家庭の中においても紛争は生じる。
  確実に仲間であると思っているにもかかわらず、
  なぜ紛争が生じるのだろう。
  
  その理由が防衛行動にある。
  対人関係上の危機を感じた場合、
  自己の行動を修正する形で危機を乗り越えるが、
  修正のかたちは、大きく分ければ二通りある。
   相手が嫌がるだろう自分の行為をやめる(逃避型)
   相手を屈服させて行為を継続する(闘争型)
  である。
   
  本来は、逃避型が本能にかなっている。
  闘争型であれば、客観的には
  対人関係的危機が増大することの方が多いだろうから、
  対立遺伝子として定着する合理性がないからである。

  つまり、紛争の原因として
  防衛行為であるというだけでは
  何ら答えとは言えない。

  なぜ、闘争型という修正行動9*によって
  対人関係の危機を乗り越えようとするのか
  これこそが真の命題である。

  ここから先も、論理的考察であって
  歴史的な検討ではない。
  例えばうさぎの耳が長い理由は
  音によって敵の存在を感知し、
  いち早く闘争行動に出ることに適している
  という類の話である。

  人間が群れから追放される予感に対して
  不安を抱き、自己の行動を修正する理由は、
  自分を群れの中に帰属させ続けるためである。
  群れの各メンバーが、このような志向を持てば、
  群れから外されるメンバーは出てこないことになる。
  
  この結果、群れの頭数が確保される。

  他の動物に比べて
  逃走力も、闘争力も見劣りするヒトは、
  群れの頭数を確保することによって、
  生存競争の中で滅びることを免れていた。

  集団的な狩り、収穫、
  集団的な闘争(防衛)
  集団的な保温、
  そして集団的な子育てをすることが
  弱い人間には必要なことだった。

  言語を操るはるか以前の必要性なので、
  それは文字で記録されたのではなく
  遺伝子に記録されたのである。
  即ち、対人関係上の危機を感じる個体だけが
  子孫を残してゆき、
  やがてそれがヒト(ホモサピエンス)の
  種としての特質となったと考えている。

  そうだとすると
群れに帰属し続けていることが
  自分の利益であると無意識に感じているとすれば、
  それを否定して余りある行動原理が必要で
  それが紛争の理由だということになる。

  ただ、それは単純ではない。

  まず、第1に、群れと個体が対立する場面がある。

  最終的に、群れから追放されたり攻撃を受けるたりする時、
  ヒトも、動物である以上、
  自らの身体生命を守ろうと抵抗する。
  この抵抗をしているときの
  感情的表現が怒りである。
 
  これは人として成立するはるか以前から
  動物として成立するための前提条件であるから
  群れを作っても消えるということはない。
  群れに協調するヒトとしての遺伝子と
  群れと対立しても自分を守ろうとする
  動物としての遺伝子という
  場面によっては矛盾する遺伝子を
  ともに持っていることになる。

  攻撃は、客観的に存在しなくとも
  攻撃を受けている感覚があれば、
  自分を守ろうとして、
  逃げたり、闘ったりすることになる。

  そうだとすると、
  群れの誰かに攻撃する時の基本は、
  先ず、対人関係上の危険を感じていること
  次に、その危険は群れによってもたらされている
  という感覚をもっていることである。
  また、怒りを抱く条件として、
  相手と戦って勝てるという意識が必要だということになる。
  勝てるという意識がなくても、
  「ここで戦わなければ致命的な結果が生じるという」
  そういう意識がある場合も怒りを持つのかもしれない。
  
  怒りを抱いている場合、
  当人は、まだ望みを捨てているわけではない。

  第2に、自分が群れから尊重されていないという意識がある場合である。
  自分を追放しようとしている者が群れのメンバーで、
  そのメンバーから自分が尊重されているという実感がある場合、
  自分の不利益を宣告されても
  怒りを抱くということになりにくい場合がある。
  例えば「姥捨て山」の例等がそれであろう。

  
それとは逆に、自分がいわれのない攻撃を受けていると感じる場合や
  自分の行動に修正するべき客観的理由はないと
  主観的に考えている場合に怒りは生まれるのだろう。

  自分が尊重されているという経験が無かったり、
  自分の仲間が尊重されていないという経験が重なると
  およそ人間は尊重されるべきだという
  感覚を持てなくなる。

  自分が尊重され、他人も尊重されていると
  人間は尊重されるべきだという意識が生まれ、
  誰かが誰かを尊重しないということに
  強い抵抗感を覚えることになる。

  ここでいう尊重は、究極的には、
  対象者を群れの仲間として認め続ける
  ということである。
  蔑みや、心無い批判、嘲笑、
もちろん攻撃や無視などは、
  群れからの追放を予感させるため、
  対人関係的危険を感じさせる行為である。
  
  自分や仲間が尊重されていないと感じたならば、
  他人を尊重しようとする動機もなくなる。
  仲間に対する容赦ない攻撃ができるようになる。

  このような事態は悲劇である。
  自分が仲間として尊重されたいという動機から
  逆に仲間に対して攻撃し、
  攻撃された仲間が、自分は尊重されていないと
  対人関係上の危険を与えてしまうからである。

  仲間になりたい気持ちが
  仲間との関係を危殆に至らしめる皮肉である。

  実際の対人関係上の不具合のほとんどが
  このような悲劇であると感じている。

  要するに、仲間に対しての怒りを伴う攻撃は、
  自分が尊重されていないことに対する
  防衛行動であると説明できると思う。

3 打撃の錯誤 怒りを向けるべき相手の不合理性

  ここで注意しなければならないのは、
  怒りの原因が、必ずしも怒りの矛先にあるのではない
  そういうことが多いということである。

  ざっくばらんに言うと
  自分が何らかの病気になって、余命が長くないのではないかという不安や
生活上の不便と、
  社会的に、さげすまれていて、誰からも相手にされない不安と、
  いじめやパワーハラスメントと
  その不安の現れ方はみんな一緒だということだ。

  要するにストレスが生じる、即ち
  脈拍が増加し、血圧が高まり、体温が上昇する。
  血液は内臓から筋肉に流れる量が増加する。
  これを感情的に表現すれば不安ないし怒りである。

  自分のストレスがどこから来るのか、
  正確に把握することは実は困難である。
  不安の感情からさかのぼることができないからだ。
  
  だから、職場で自分が尊重されていないことから来る
  不安を抱えて帰宅して、
  子どもの些細ないたずらが、
  自分を馬鹿にしてやっているように感じてしまい、
  子どもを必要以上に叱ったり恐怖に陥れたりするが、
  それは、実は職場でのストレスを解消しようとしている場合がある。

  部下の失態を叱責しているつもりでも
  自分が自分の上司から叱責を受けていたことによるストレスのため、
  部下が、熱心に仕事をしていないのではないかという疑念が生じ、
  そこを叱責という形でぶつけているだけかもしれない。

  親が金銭的に恵まれていなくて、
  みすぼらしい格好で、世間に引け目を感じていて、
  無差別的に、自分が誰からも尊重されていないと感じ、
  子どもに対する愛情のかけ方を知らないことから
  子どもであるがゆえに起きる、失敗や不十分点を
  怒りをもって叱責し、暴力もふるっていると、
  子どもは、最初から他人と協調することや他人に親切にするという発想を持てない。

  そういう子どもは、友達との関係で思い通りにならないと、
  どうすれば自分の希望する、
  その子と仲良くすることができるのかわからない。
  このため、いつも自分の近くにいることを要求し、
  それがかなわない場合は、
  自分が馬鹿にされたと思い攻撃をする。
  自分が家庭で受けていることを再現する。

  いじめられた子どもは、
  感情のみならず学力や生きる意欲という点で
  十分に回復しきれないということが少なくない。

  謝罪の会を開けば解決というわけではない。
  それと気づかない無数のトラウマ的体験をする。

  進学や就職に問題が生じるかもしれない。
  不遇な思いをしていて、
  社会全体から自分は尊重されていない、
  自分はもっと能力があるはずなのに
  正当に評価されない
  という意識を持つかもしれない。

  かなり複雑な対人関係的危険を感じ続けているかもしれない。
  周囲に自分より弱い者を探すだろう。
  怒りの口実を探して、わけのわからない理屈をたてるだろう。
  無責任な媒体の影響を受けるかもしれない。

  無差別殺人が起こる要因になっているかもしれない。

  ここでまた注意。
  無差別殺人というのは、その通り、極めて例外的なこと。
  しかし、無差別殺人には至らないけれど、
  何らかの対人関係上の不具合が生じている可能性は極めて高いと思う。
  ぎすぎすした人間関係の中で、
  誰かが新たに傷ついているかもしれない。
  ちょっとした嫌がらせと無差別殺人は
  他人を尊重しないという軸で考えると
  程度の違いかもしれないし、
  程度の違いには偶然的な要素もあるかもしれないと
  そう思えないだろうか。

4 今考えていること

  世の中の現状は、例えば江戸時代に比べると
  かなり悲観的に考えなければならないだろう。
  
  子どもすらも、
  失敗が許されないという意識で
  日々学校に通ってはいないだろうか。
  普通にしていれば、普通に生き続けることが
  保障されていないと感じてはいないだろうか。

  当時は、どんなことがあっても村八分とはいえ、
  家事と葬式の時はコミュニティーの一員とされた。
  今は、それすらない。
  人間として尊重されているという意識をもって
  安らかに生きている人はどれだけいるだろうか。

  もしかしたら、これを読んでいる人たちの中には、
  自分が現状での勝ち組だから、それでよい
  と考えている人も多いのかもしれない。
  あるいは、その人の人生の長さから考えると
  それでよいと言えるのかもしれない。
  そういう価値観もあるだろう。

  しかし、
  大きな地球の歴史、生物の歴史から考えると
  我々人類が生き延びて、
  さらにはネアンデルタール人との
  生存競争にも勝てたのは、
  ホモサピエンスの結束の力だったのではないだろうか。

  それしか能のないホモサピエンスが
  結束力を失った時、
  種としての終わりが始まるときであろうと思う。

  群れの仲間を尊重することで生き延びてきた
  生存に適さないはずのホモサピエンスが、
  個体に価値の序列をつけ始めてしまうと、
  自然の驚異に粉砕されてしまうことになる
  そう思えてならない。

  対人関係学は経済学ではない
  どのような社会制度が妥当かという考察はしない。
  しかしどのような社会制度であったとしても、
  人間が尊重されていない状況を
  一つ一つ是正していくはるかな営みが
  今を起点として求められているような気持ちでいる。

  かつて、世界史には、天才的な神や仏が現れて
  同じような活動を行った。
  その時々の、人間の尊重の仕方を教えた。

  現代においてそのような世界史的な天才は
  育ちにくいと思われる。
  むしろ、我々名もない人間たちが
  できるだけ多く力を合わせて
  人間が尊重される方向へ
  具体的な行動を研究し、実践することが
  求められていると思う。

  人間の弱点、不十分点、失敗を
  それゆえに低価値評価をすることをやめよう。
  人間である、つながりがある
  それだけで仲間として迎え入れよう。

  冒頭、対人関係学は
  現実を無視した理想論に過ぎないのかと自問した。
  答えは否である。

  単なる理想論ではなく、
  現実を超越することを目指した極端な理想論であると
  ご理解いただければ幸いである。

  私はくじけるだろう。私の肉体は滅びるだろう。
  しかし、ホモサピエンスであることに誇りを抱く者達が
  私の考えが大筋において間違っていないことを証明してくれると信じる。

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