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【緊急】現在政府が進めている生活保護水準の切り下げに反対する。取り返しのつかないことが起きる。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

1 生活保護受給がなぜ権利なのか 憲法は人間をどのように見ているか

生活保護制度は、生活が困窮した場合に、生活費や教育費、介護費や医療費などの費用を公費で負担する制度です。
日本の国は、自立自助が原則です。つまり、労働によって収入を得て、自分や家族の生活費を自分で得て支出するということです。しかし、何らかの事情で、働けない等の生活費を得ることができなくなる場合はあります。
これを憲法25条1項は、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」と定めて、権利であると宣言しています。これは、憲法の人間観を表していて興味深いものがあります。
先ず、「健康で」という言葉に着目してください。人間は、ただ、生存するだけでなく、人間としてのほこりをもって生存するものだとの考えが示されています。不衛生、不健康な環境の中で生活する人がいれば、国は救い出さなければならないという責任を負わせたわけです。もっとも、不衛生、不健康な環境にいた場合は、生命それ自体も脅かされるということもあるでしょう。
さらに、「文化的な」生活を送るのが人間だと考えていることが示されています。文化的というのは、その時代、その時代に応じたという意味もあります。文化というのは歴史的に進化するからです。鎌倉時代であれば、竪穴式住居のような家に住んでいても、文化的でありましたでしょうが、現在は、現在にふさわしい生活の程度が、「人間として生きる」という意味になるということです。
憲法は、13条で、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」として、人間は、尊重されて生きていくものだという考えを明確にしています。この「尊重」の具体的内容が、14条以下の人権のカタログだと考えることができるでしょう。憲法25条も人間として尊重されるという具体化です。
そうすると、憲法は、衛生的で健康的な環境で生活し、その時代の人としてふさわしい生活様式を送らなければならないという考えを示しているわけです。
その25条のさらなる具体化が生活保護法です。

2 なぜ、権利が必要なのか 尊重されないとどうなるか

 憲法は、人間として尊重されるためのカタログだということですが、どうして権利が保障されることが必要なのでしょうか。それは、きれいごとでは済まない切実な必要性があるからだと思います。
 人間は、攻撃力も逃げる力もない動物なので、群れを作って生き延びてきました。言葉の無い時代にも群れを作る仕組みがあったわけです。それは、群れの中にとどまりたいという意識であり、裏側から見た場合、群れから外されそうになると不安・危機意識を感じ、なんとか群れにとどまろうと行動をするという仕組みです。
 人間として尊重されない場合、仲間として扱われていない場合、群れから外されそうになっていると感じ、人間は言葉ができる前から続く不安・危機意識の感情が激しくなります。この不安や危機意識の感じ方は、生命身体に対する不安や危機意識を感じる方法で感じることは知られてきたところです。同じように血圧が上がり、脈拍が上がり、体温が上がり、血液が内臓から筋肉に向かうようになるという生理的変化、二者択一や悲観的な考えになるという脳の活動の変化が起きてしまいます。また、程度も強いようです。言葉の無い時代、この不安感、危機意識によって人間が生き延びてきたわけですから、かなり強い不安感、危機意識を感じることになります。
 権利は、人間を尊重する方法だとお話ししました。この権利が侵された状態ということになると、権利侵害をされた方は、人間として尊重されていない、社会の仲間と認められないという意識になるでしょう。強い不安、危機感を覚えてしまうことになります。自分が仲間として認められない、100年前の水準で生活していることを知られたくないし、屈辱に感じるでしょう。屈辱に感じるということこそが、自分が人間として認められていないと感じる一つの表現なのではないでしょうか。
 このような状態が続くと、そして、自分が人間として尊重される日がこないのではないかという絶望を感じると、人間は絶望を感じることを回避するシステムが作動してしまいます。一つは、感情を無くし、生きる意欲を失い、人間の中に入れなくなることや、生きるための活動である食事をしたり睡眠をとったりという活動が鈍くなります。もう一つは、感情を無くし廃人になることに失敗した人たちは、このまま死ぬまで辛い状況が続くのか死ぬかという極端な二者択一的思考に支配され、自死を考え、実行することが起きてきます。
 生活保護受給者の自殺率は、全国民の2倍になっています。自殺率とは、人口10万人当たりの自殺者数です。平成20年から22年までの生活保護受給者の自殺者数と自殺率は公表されています。
「生活保護受給者の自殺者数について 生活保護受給者の自殺者数について」厚生労働省社会・援護局保護課 http://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/2r9852000001ifbg-att/2r9852000001ifhr.pdf

これによると、全国民と生活保護受給者の自殺率の割合は以下のとおりです。
平成20年 25.3 54.8
平成21年 25.8 62.4
平成22年 24.9 55.7
どの年も、全国民の割合の倍以上の割合で生活保護受給者が自死しています。
 生活保護の水準が下がることで、衛生状態や食事の関係、寒暖への対応という生物的な意味からも命が失われる危険は増えるかもしれません。しかし、その生活保護の水準を下げるということは生活水準が下がるわけですから、仲間として認められていないという気持ちや人間として尊重されていないという気持ちがもっと低下する危険が生じます。また、これまで維持してきたコミュニティーに参加できなくなっていく危険もあります。
 生活保護水準の切り下げは、生活保護受給者の自死の危険を増加させることになります。そればかりではなく、感情を喪失したり、生きる意欲が失われていく危険が強くあるということになります。
 これ以上の生活保護の水準の切り下げは、日本という国家の体裁を保つためにもやめるべきです。

3 生活保護世帯以外にとっての生活保護の恩恵

 世界的な格言として、「社会政策は最良の刑事政策だ」という言葉があります。社会政策とは、国民の生活を破綻させない仕組みを作るなどして、生活を安定させる政策を言います。雇用と必要な賃金を確保して、労働による収入で生活を安定させる労働政策や、賃金の中からも保険料を支払い老齢や怪我、病気という収入が途絶えることに備えた社会保険等の社会保障、それから生活保護等の公的扶助の3点がその要素となります。貧困対策だけでなく、国民の生活の向上が視野におかれていることがポイントだと思います。
 さて、このような社会政策が後退して、貧困が国中にあふれると、刑事犯罪が増えて殺伐した世の中になる。だから、社会政策を実施することが犯罪を減少させる効果的手段だということが格言の意味です。
 この格言は、社会政策が充実する前の時代の状況や、交代した時の状況から経験論的に言われているものだと思います。しかし、これには、理由があることが最近知られてきています。
 経済的困窮は、生物的困窮だけでなく、社会的困窮を意識させるものであるということは先に述べました。そのベースにある人間の状態が、不安と危機意識を感じている状態です。そうすると、自分を守ろうという意識が強くなります。何かがあると、自分が攻撃されているという意識を持ちやすくなってしまいます。不遇な環境にある人が攻撃的になることは理由があります。
 さらに、自分が人間として尊重されていないという意識は、そもそも人間が尊重されなければいけないという意識を失わしめます。そうでなければ、自分が尊重されていないことと感情的な折り合いがつかなくなるからです。人間が尊重されていないということは、人間の命に価値を見出せなくなってしまいます。そうすると、自分が他人に苦しみや悲しみを与えることに躊躇する気持ちが少なくなってしまいます。犯罪とはこういうものです。また、自分が社会から尊重されていない、社会は自分を守ってくれないという意識は、自分を守ってくれる仲間を守ろうとします。自分を守るための自然な感情です。そうなってしまうと、法律という社会を守るルールを守ろうとしなくなり、暴力団や不良仲間という仲間のルールを法律や道徳に優先するようになります。これらの根底にある者は、危機意識に根差して歪んでしまった自己防衛の意識ということになります。自分の防衛ということですから、攻撃は強く、ルールを逸脱する傾向になってゆきます。
 このような意識は、刑事犯罪だけに向かうわけではありません。離婚や自己破産などの多重債務も起こりやすくなります。
 二者択一的思考は、自分の将来の予測や他人に対する配慮という複雑な思考を停止させます。自分や家族、子どもを大切にすることを深く考えずに、今起きている障害からの解放を志向してしまい離婚に至ったり、借金やクレジットの後の返済について深く考えずにお金を使い、不意の事故等の出費のために返済ができなくなることを予測することができなくなります。自死、犯罪認知件数、離婚、自己破産申立件数等は連動しています。
 自分が経済的困窮に陥らなくても、経済的困窮に陥った人を見たり、劣悪な環境にいる人を見ることによって、人間の感情は揺れ動いてしまいます。群れを作る人間の工夫は、共鳴力、共感力というちからもあります。そもそも、仲間から外されそうになっている可動かも、仲間の感情や思考を想像しなければできないことです。また、これによって仲間を作る利益を最大限に引き延ばすということもあります。仲間が苦しんでいるけがや食中毒などは、これだけ苦しいのだから自分はその怪我や食中毒をしないようにしようとか、仲間が食料を見つけて喜んでいる時は、一緒に食料を採取しようとするモチベーションになるわけです。また、苦しんでいる仲間を放置してしまうと、仲間が死んでしまい、群れの頭数が減っていってしまい、群れが成立しなくなるので、苦しんでいる仲間の苦しみを共感し、共鳴し、助けることによって群れを維持することができたということになります。今生きている私たちは、そういう群れを作ってきた人間たちの子孫だということになります。
 だから、自分の知り合いではなくても、経済的に困窮して生活が安定しない人たちが存在するということは、群れを作るための感情である不安や危機意識が自然にわいてきてしまいます。その不安や危機意識を感じなくするためには、人間というものが尊重されなければならない存在ではないという気持ちを持つ必要が出てきます。厳密に言うと、人間は完全に自分と他人を区別して感情を持つようにはできていません。自分だけよければよいやという思考は、しばしば勘定によって支持されないことは理由があるということになります。
 刑事犯罪や自死、離婚や自己破産申請は、生活保護受給者よりも受給していない人たちによっても起こされています。
 経済的困窮者を切り捨てずに、できる限り援助するということは、人間は尊重されるべきだという意識を育てることになると私は思います。社会が悪循環を停めて好循環に向かう有力かつ効果的な方法ではないかと考えています。
 特に現在の若者は、将来のことを考えると不安になり、プレッシャーになるようです。40年以上前の小学生だった私たちは、将来は何とかなるんじゃないかとあまり深く考えることはありませんでした。ところが、現在の小学生は正社員になることが目標とさせられています。アルバイト生活になると、将来年老いてから年金などが出ないという恐怖を植え付けられている子どもも少なくないようです。意味を正確に把握していないとしても、そのために良い学校に行く、そのために勉強や部活動を頑張ることを押し付けられている子どもが少なくありません。この心理的歪み、勝利の喜びではない敗北の恐怖に基づく行為強制が、いじめや子どもの自死につながっていると私は思います。
 生活保護の水準を切り下げることで、これまで述べてきたことは拡大していくでしょう。もはや生活保護受給者だけでなく、その影響は全国民に及んでいくでしょう。
 生活保護水準の切り下げは、国の威信をかけて阻止する必要があると主張します。取り返しのつかないことになる蓋然性があると思います。

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