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つい虐待をしてしまう親御さんへ。虐待をしないことよりも虐待をしてしまった後のフォローならば頑張れるかもしれませんよ。 [家事]



1 ついしてしまう虐待。その後のフォローとは。
2 もしかして、親御さんはまじめすぎるのではないですか。
3 もしかして、親御さんが追い込まれているのではないですか。
4 もしかして、親御さんは体調が悪いのではないですか。
5 虐待されたお子さんの気持ちの動き
6 子どものために大勢の人の世話になろう。借りを作って豊かな人間生活を送ろう。

1 ついしてしまう虐待。その後のフォローとは。
 
親だって人間ですから、お子さんに対してだって
自分の素の部分が出てしまうことがあるのはみんな同じです。

つい大声で注意してしまったり、
言葉の内容がきつすぎたり
時には手が出てしまったり、
あるいはどうしても必要な世話ができなかったり
多少なりとも親ならば覚えがある方が多いと思います。

やってしまった後で後悔するのですよね。
その時の子どもの表情が
信じられないという表情で、恐怖の表情でこちらを見たり、
泣き出して収拾がつかなくなったり
悲しい顔をして黙り込んだり、
それを見ると、忘れられなくなり、
ああ、自分は悪い親だなと思うわけです。

虐待してはいけない、してはいけないと思うと
逆にそれがプレッシャーになって
余裕がなくなってきたりします。

発想を変えてみるということがあると思うのです。

ある程度虐待には目をつぶってもらうとして、
大事なことはそのあとのフォローだと考えてみてはどうでしょうか。
もっとも、命を奪ってしまったり、
一生消せない傷を負わせてしまってはこのお話も通用しません。

考えてみれば、
昔から子どもはぞんざいに扱われることが多くありました。
それでも健全に成長していました。
今とそのころと違うのは、
昔は誰かがフォローをしたということです。
例えば母親が感情に任せて手を出したとしても
おばあさんが、
「お母さんはあなたが大事だから、心を鬼にしていってくれたんだよ」
とか
一緒に住んでいるおじいさんが
「あとで一緒に謝ってあげるから心配しなくていいよ」
等と飴などくれながらフォローがあったものです。

お母さんもお父さんも他の家族の目があるから
自分をある程度はコントロールできていた
ということもあったと思います。

父親が子どもを叱った後で
母親がとりなすというパターンも多いでしょうか。

あるいは別の人がとりなさなくても
感情に任せて叱った後で、はっと気が付いて
「お父さんはお前が憎くて怒ったわけではない。
 このことは大切なことだからどうしてもわかってほしかったのだ」
等と都合の良いことをずうずうしく言って
子どものフォローなのか自分のフォローなのかわからないようなことを
言ったものです。
それでも子どもは救われたと思います。

フォローとは
自分の行動が子どものために行ったことだという説明と
(多少嘘でも構わない)
自分は子どもを憎いと思っていない、愛している
どんなに失敗しても親として見捨てることはない
というメッセージを伝えることです。

子どもの年齢によってはハグも有効でしょうし、
気持ちを切り替えて一緒に何かをするということも良いでしょう。
要するに
お子さんが自分は嫌われていない
自分は厄介者にされていない
自分は見放されることはない
という感じさせることがフォローなのでしょう。

お父さんはあなたを大切に思っているよ
お母さんはあなたが嫌いではないよと
虐待した後は必ず言いましょう。
それから虐待しないときでもいつでも
是非至近距離で、声の風が伝わるところで
時々は声に出してお話ししましょう。

時々は子どもに思いっきり甘えさせましょう。

つい手が出てしまったり、ついきついことを言うのをやめられなくても
フォローをすることはできることです。
できるだけ間髪開けずにフォローしましょう。
できれば、虐待する前でもフォローしましょう。

2 もしかして、親御さんはまじめすぎるのではないですか。

虐待をする親御さんをむしろ心配している年配の私たちがいます。
もしかしてこういう方々が多いのではないかということです。

第1は、まじめで責任感がありすぎるのではないかということです。
お子さんの些細な失敗や不十分点も
今のうちに直しておかなければならないと思って
100パーセントできるまで追及してしまうとか。

お子さんの道徳に反したことに絶対に言い訳をさせない、
親は間違ったことを許さないという態度をとらなくてはならない
と思い込んでいらっしゃるとか

大きな声を出したり、手を出したりしたあとで
自分が許せなくなり、フォローができない
フォローなんて図々しいと思ってしまう。

正直すぎるわけです。
でもそれでは、だれも幸せになりません。

子どものためならずうずうしくて良いのではないでしょうか。
あなたが潔癖でいる事より
お子さんの気持ちを優先するべきだと私は思います。

まじめすぎる人は
二度と虐待はしないと誓ってしまいます。
誓ってしまうと
ご自分が失敗してしまうと自分が許せないですし
一度手を出したりすると
自分は虐待しなくては生きていけないんだと
わけのわからない発想に陥って、くよくよしてしまいます。

自分の失敗や風十分点こそ許しましょう。
自分に甘くすることが虐待を少なくする出発点かもしれません。

自分を甘くすることによって
子どもはもっと甘くしていいんだということがわかるようになると思います。

いいじゃないですか
たまには子どものずる休みに付き合って一緒に昼寝するのも
子どもにとっては一生の思い出になるかもしれませんよ。

3 もしかすると親御さんが追い詰められているのではないですか。

もっと心配なのは、
親御さんが、会社ですとか、家族ですとかから追い詰められていたり、
あるいはお金がなくて困っているとか
解決不能の問題に直面していて
自分を守れないと感じている場合です。

こういう場合は、一時的に頭がおかしくなっていますから、
子どもの何気ない仕草でも
子どもが自分を馬鹿にしているのではないか
と感じやすくなっています。

子どもを疑ってしまうときは
何か感謝ができることを探しましょう。
あるぼろぼろの時、
自分が夜風がしのげる家で眠ることができる
ということを感謝してみたのです。
そうしたら、いろいろなことを感謝できるようになり、
笑ってみることもできたのです。
もっともそれを誰かが見ていたら
おそらく不気味に感じたと思います。

親だって失敗してよいのだと思います。
失敗から立ち直る姿を子どもに見せられたら
子どもにとってかけがえのない財産になるでしょう。

失敗しないことを見せるよりも
失敗を跳ね返すことを見せる方がより実践的なしつけです。
必ず失敗することはあるのですから。

それができるのは親のあなただけです。

子どものために頑張るというのは、
失敗を無かったことにすることだけではない
と私は思います。
フォローというよりリカバリーですかね。

誰かに助けてもらえば良いのです。
助けてくれそうな人がいなければ
片っ端から相談して助けてくれる人を探せばよいのです。


4 もしかして親御さんは体調が悪いのではないでしょうか

気が付かないうちにお体を悪くされて
どうしても朝起き上がることができない
どうしても立ち続けることができない
ご飯を作ることすら集中力が続かない
ということはあることです。

それでも、やるからには
一つ一つ手作りで、一つ一つの栄養を十分に
なんてことを固く考えていると
結局何もできません。

小学校の中学年くらいまでは
炭水化物中心の食事で構わないと栄養士の先生の本に書いていました。
ごはんとか、パンですね。
パン買っておくとか、場合によってはお弁当を買っておくとか
時にはカップのラーメンを買っておくとか
どうしてもできないときは
勘弁してもらうしかないと思います。
何もしないことよりずうっとましです。

なまじゴミ箱なんか使わない。
大きなごみ回収袋を用意して
片っ端から入れていく方が実行的なときはあります。

元気になってからまとめてお世話するしかないと思います。
困ったときはお互い様です。
最後にお話ししますが、
子どものために、誰かの世話を受けることも検討してください。
それだけは、あなたが他人の世話になることが嫌でも我慢してください。
だけど、世話になりやすい人って必ずいますから
情報を入手しましょう。
片っ端から探してみましょう。

弁護士という仕事柄
罪を犯した人と話をするのですが、
いろんな人に支えられて今いることを思い知らされた
借りを作り、みんなに感謝しながら生きている方が
一人で頑張って生きるよりも
よほど豊かな人生を送ることができる
他人にも優しくなれるという言葉が印象的でした。

5 虐待されたお子さんの気持ちの動き

虐待の内容によって違うところはあると思うのですが、
虐待を受けた子どもの心をのぞいてみましょう。

人間に限らず動物は、生きていたいと思うものです。
馬は草を食んで、肉食獣が来たら群れで逃げたいと思うでしょう
ライオンは、力を強くして走って獲物にとびかかろうとするでしょう。
生きていくために動物はいろいろな戦略を立てて生き延びてきました。

言葉の無い時代から
人間は仲間を作るという戦略で生き延びてきました。
仲間から外されると不安になるので
自分の行動を改めても仲間に入れていてほしい
と、だれも何も教えなくてもそういう気持ちになります。
そういう仕組みで仲間を作ってきたわけです。

一言で言えば
仲間から外されそうになると不安でいっぱいになる
ということが仲間を作って生き延びる方法だったわけです。
そう言う不安にならない人間たちは生き延びることができず
不安になれる個体だけが子孫を残していったとも言えるでしょう。

子どもは特に仲間にしがみつこうとします。
自分では何もできない、生きていけないので
仲間に強烈に依存しています。
子どもは依存の天才です。

ところが虐待をされるということ
叩かれたり暴力を受けること
人格を否定する暴言を受けること
食事や排せつなどの世話をされない放置
殺伐とした家庭環境におかれること
等を受けている子どもたちは
自分が仲間として扱われていないということを感じて
たまらなく不安になるわけです。

馬で言えば足を折られそうになっている場合の不安ですし、
ライオンで言えば、牙を全部おられるときの不安
と同じということです。
つまり、自分を守ることができなくなる
という現実を突きつけられるわけです。

ここから先はお子さんの個性によって変わってくるようです。

あるタイプのお子さんは
親が自分の仲間になってくれないなら
およそ誰も人間というものは自分に利益を与えてくれない
誰でも人間を見たら攻撃者だと思い遠ざかり
近づいてくるものに敵意を示す
という具合になっていきます。
これは人間だけでなく哺乳類全般の傾向らしいです。

もう一つのタイプは、人間特有なのですが、
自分が仲間扱いされないならば
仲間扱いされるまでこびへつらうというタイプです。
なんとか機嫌を損ねないよう常に細心の注意で相手を観察し、
何か間違った行動をしてもひたすら隠したり
自虐的な行動をとる
誰にでもすぐになつこうとしてうっとうしがられる
適正な距離を保つことができず
悪い大人の食い物になるパターンもこのタイプです。

ずいぶん前に母と祖母からの虐待で亡くなった10歳の女の子は、
亡くなる半年前、小学校での2分の1成人式で
「お母さん大好き」という作品を残していました。

多くの虐待を受けた子どもたちは
自分の親を嫌いになるとか、親の元を去るという選択肢を
初めから本能的に与えられていないのです。

そのようなお子さんたちが
今自分が受けている理不尽な対応をどのように考えるのでしょうか。

殴られたくない、疑われたくない、タバコの火を押し付けられたくない
ご飯を食べたい、大事にしてもらいたい
仲間外れにされたくない
でもそれをしてくれない。

自分が悪くないのにそういう目にあっている
そう正しく理解してしまうとどうなるでしょうか。
待っているのは今の苦しい状況から逃れる方法はないという悟り
つまり絶望です。

人間は絶望を感じることに耐えられません。
絶望を感じてしまうと命も大切に思えなくなるようです。
このため、
無意識に絶望を回避する思考をしているようです。

子どもたちであれば
自分が悪いからこういう目にあうのだ
自分がもっと良い子であれば
もっと楽な生活が送れる。

それは、子どもにとって絶望に陥らないための
ぎりぎりの生きるための知恵だと言われています。

理不尽な目にあえば会うほど
自分は悪い人間だと自分に言い聞かせて大人になっていくわけです。
自分に自信がなく、幸せになれるということも信じません。
どうして生きてきてしまったのかなんてことを考えるようです。

ですから、
虐待の最大の問題は子どもの心に与える影響です。
暴力暴言、ネグレクトだけが虐待ではない
暴力暴言、ネグレクトがなくても
虐待をしているかもしれないのです。

6 子どものために大勢の人の世話になろう。借りを作って豊かな人間生活を送ろう。

人間はサルやクマなんかとは違う種類の動物です。
母親だけが子育てをするわけではありませんし、
両親だけが子育てをするという仕様にはなっていません。

多くの大人たちによって子育てをしてきました。
それができない現代社会は
人間という動物種にとっては異常な時代なのです。

子どものためにたくさんの人に借りを作りましょう。
不自由な思いをしても、感謝ができるということは
人間として生きるということだと思うのです。

どうしても人間は絶望を回避するために
自分が悪いからうまくいかない
という風に思いがちです。
本当にそうでしょうか。

私は、
子育てに関しての社会的なハンディキャップを放置している現代社会は
人間社会になり切れていない未成熟社会だと感じています。
子育ては親の責任かもしれませんが、
子どもに自己責任を負わせるわけにはいかないじゃないですか。

親を中心としてみんなで子どもを育てるシステムが
あまりにも貧弱なだけではないかと考えているのです。
社会というシステムの整備の
優先順位を間違っていると思います。

安心して誰かを頼れるシステムがないということは
本当に問題です。
子育ての相談をしたら
子どもを取り上げられてしまうということでは
誰にも相談ができなくなってしまいます。

不利益を受けるのはいつも子どもです。

子どもの利益を第一に
しかも科学的に考えたシステムの構築が
最優先事項だと思います。

「きちんと子育てをさせろ」
社会に向かって要求することが
人間らしい要求であると私は思います。

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