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サイコパスと弁護士活動(刑事責任能力、愛着障害とは異なること、夫婦問題) [故事、ことわざ、熟語対人関係学]


サイコパスに関する本を読んだのでメモ代わりに雑感を述べます。

<刑事弁護とサイコパスという言葉>

サイコパスという言葉は、弁護士活動においてほとんど使ったことがありません。定義もはっきりしないように思われます。いろいろな人がいろいろな意味内容を含めて説明しているからです。一番使いそうな弁護士の活動分野では、刑事弁護を想定されるかもしれません。

「被告人はサイコパスだから犯罪をしないように自分を制御できなかったから、刑事責任能力がなく無罪である。」
という主張をするかという問題です。
しかし、実際はそのような主張はされていないと思います。

刑事責任能力が無いので無罪とは論理必然的なものではなく、その時々の刑事政策の考え方、決め方の問題です。現代の日本の刑事責任能力とは、「自分のこれからしようとしている行為が犯罪に該当しそうだと思ったら、『犯罪になるのでやっぱりやめる』というパターンを期待している。」というものです。このため、やっぱりやめたとおよそ期待できない心理的、生物的事情があれば、期待に反して行動したという非難ができないため刑事罰を課す根拠が無いとして無罪とするわけです。

あまり考えにくい話ですが、幼児の犯罪とか夢遊病の際の犯罪とかが典型場面です。2歳児が包丁投げたらたまたま人に刺さって大けがをしたとか、薬の影響で夢遊病の状態になってしまい、その時いた部屋にあった他人ものを手あたりしだいカバンに詰めてしまい、たまま財布もそれに入れて出てきてしまったというような場合が具体的事例でしょう。

では、「他者に対しての共感力が無いために、人を殺すことを止めることが期待できないから非難できない」と言えるでしょうか。これは言えないというのが現在の日本の刑事政策的考え方です。他人の苦しみに共感ができないからといって、人を殺すような行動(腹を刺すとか、致命的な毒を飲ませるとか)をしないことが期待できないとは言えないと考えるからです。

先天的に共感力を持っていないとしても、「どういうことをすれば犯罪になる」と理解することを社会的に期待されていて、理解できるはずだとされているわけです。そして「犯罪になるとわかればそれをやめる」ということも期待されているというわけです。

ただ、事案の本質を社会や被告人本人に理解してもらおうとして、弁護人があえて「責任能力が無いから無罪だ」と主張する場面はありそうです。この場合でもサイコパスという言葉は使いません。医学用語ではなく定義が不明だということが一番の理由でしょう。反社会性パーソナリティ障害という言い方をするとか、共感力の先天的欠損という言い方がなされると思います。さらには、単にそのような先天的な問題ないし生物的問題を指摘することにとどめないで、そのような問題を背負って生きてきて、犯罪に至るまでの生育の過程において、問題点を是正するような教育を受けられなかったというような、本人だけの責任ではないというような事細かな事情を説明することになると思います。

サイコパスとまでは言えないにしても、常習的に犯罪を実行してしまう人には、確かに被害者に対する共感力が(特に犯行時には)極めて不十分であるパターンが多いというのは実感としてあります。その場合でも、弁護人は、こうあるべきだということを押し付けるのではなく、どうして自分が刑事罰を受けなければならないのか、刑事罰の対象となる行為をすることがどこに原因があったのか、今後具体的にどうしていけばよいのかを一緒に考えることになります。共感する能力が極めて不十分である場合、抽象的な心構えの対策を立てても実行することができません。その人の今後に役に立ちませんし、判決でも効果がありません。具体的に、犯罪をしにくくなるような生活を考えていくということが有効だと思います。

これまでこの人はサイコパスではないかと感じた人はいました。しかし、刑事司法の歴史に残るような重大だというほどの凶悪事件を担当することがなかったためか、色々な事情を考えると、「共感力がなかったわけではない」という結論に行きつきます。サイコパスによる犯罪とは極めて例外的なものではないかということが実感です。ただ、例外的であっても、犯罪予防や受刑者の再犯防止の観点からサイコパスの研究をすることは意義のあることなのでしょう。

<愛着障害とサイコパス>

ボウルビーとエインズワースの理論である愛着障害は、「サイコパスの原因が幼少期に十分な愛着を受けて成長するという経験が無かったから」ということを説明した理論ではありません。サイコパスの原因が生育環境にあるということを言うつもりもなかったことと思います。

そうではなくて、幼少期と言っても生まれてから2歳くらいまでの間に、十分に自分を支持してくれる「特定の人間」から手をかけて世話をされた経験が無いと、対人関係一般に自信が持てなくなり、新たに出会う他者との適切な位置関係を構築することができなくなるという理論だと私は理解しています。

他者との適切な距離感が理解できないということには二つのパターンがあるようです。一つは、他者に自分との関係を継続してほしいあまり、あまりにもその他者に近づきすぎ、その他者に尽くしてしまう、べたべたとした対応を取ってしまうということで、例えば弁護士と依頼人という関係が作れず、必要以上に親密になろうとしてしまうというパターンです。もう一つは、人間全般を信じることができずに、他人とは隙あれば自分に害をもたらそうとする存在であるということで、近づこうものならばやみくもに危険を感じて自分を守るために攻撃をしてしまうというパターンです。近づきすぎるパターンと近づかないパターンということになり、適切な距離を保てないということになります。

他者を仲間だとは思いませんので、他者が苦しんでいる状態を見ても反応を示さないこともあるわけです。そうするとサイコパスのように見えるのかもしれません。

実はこのような愛着障害の、近づくと敵意を見せるというパターンは人間だけではなく、ほ乳類全般に見られるようです。もっとも野生の動物の中では、敵意を見せることが当たり前なのでその関係はわかりません。人間のそばにいる動物も、親や親のように自分を育てる存在からネグレクトをされていると、やはり情緒が安定せずに人間にも攻撃的になるそうです。

この話は友人の獣医師から直接聞いた話です。ただ、動物の場合はこの攻撃性は改善が可能であるようです。もっとも、昼夜問わず手をかけてお世話をし続けるという時間と手間暇をかけることが必須になるそうです。彼は、犬や猫の殺処分を避けるために、攻撃性を消失させて、飼い主を探しているようです。

心理学者からはボウルビーは、フロイト学派であり、フロイト的な考え方をしているという決めつけがあるようです。特に彼の初期の学説にはそのような傾向もあったようです。しかし、ボウルビーの愛着(アタッチメント)理論は、抑圧された精神リビドーがどうのこうのというのではなく、動物行動学を背景として理論化されています。第2次世界大戦に施設収容された大量の戦災孤児の観察という事実から出発した理論なのです。愛着というのは抽象的な心ではなく、特定の人に支持的に触れられること(アタッチメント)だとしているのも、行動学的なアプローチを表していると思います。

その後、愛着理論は、現実に、児童養護施設だけではなく、長期入院の病院等、世界中の子どもの施設の在り方に、第二次大戦後に急速に影響を与えてゆきました。

サイコパスという視点から愛着理論を読み直してみると、共感という生理的反応は、およそ人間全般に対して起きる反応ではなく、仲間だと思える人間に対して発動する反応ではないかと考えられそうです。少なくとも自分の敵ではない人間、自分を攻撃する人間以外の人間に発動するということなのでしょう。愛着障害を抱えた人間は、他人を仲間だと思えないだけでなく、積極的に他人は敵だ、自分に害をなす存在だと自然と思ってしまう苦しい状態を生きていらっしゃるのかもしれないと感じました。

このような生育環境がその人の後の生き方に影響を与えることを考えると、親の子育てに問題があるからと言って、安易に子どもを親から引き離して施設収容することには慎重になる必要があるということになりそうです。私の知っている児童養護施設の職員の人たちは、児童相談所よりもよほど親身に子どもたちの幸せを考えているまじめで献身的な人たちです。しかし、職員も集団であるし、子どもたちも集団であるので、年齢によっては特定の愛着の対象がないというところに、問題が生まれるということが生じる危険があるわけです。最近安易な、必要性の裏付けが無いと思われる児童相談所などによる引き離しの相談を受けることがあるので、心配なところです。

<夫婦問題とサイコパス>

先ほどの愛着障害の理論を理解すると、夫婦喧嘩はまた別の角度から理解ができるようになるかもしれません。対立している夫婦は、相互に、相手をサイコパスだとののしることがあります。

ここでの訴えは、自分の気持ちを夫は、妻は、わかってくれない。自分はこんなに苦しんでいるのに助けてくれないということなのですが、事件に現れた例では、その始まりにおいては男女で少しニュアンスが違うようです。女性に多いのは、わかってくれない、助けてくれない、優しくしてくれないというニュアンスです。味方になってくれないというものでしょうか、男性に多いのは、自分をこれだけ苦しめて平気でいることが恐ろしいというものです。自分に敵対することで安心できないという感じでしょうか。いずれにしても初期にはそのような違いがありますが、だんだん似たような主張になっていくような気がします。

先ほどの愛着障害の考え方をスライドしていくと、女性は相手に積極的な味方であることを求めていて、それがかなわないと恐ろしい相手だと感じやすいようです。男性は、自分が攻撃されることによって恐ろしさを感じるようです。

いずれにしても、この人は自分の味方とは思えないとか、自分に対して攻撃する存在であるとかという感覚の原因は、その行為自体の程度によるものではなく、相手に対する期待の高さを反映している部分が大きいような気がします。

大きな傾向としてということで述べますが、順番から言うと、先ず妻の方が自分の要求する優しさを夫に求めるのですが、同性に対してと同じ行為を夫に求めてしまうようです。それが通常の男性は、一般的に単に苦手とするところなのです。愛情が無いから、仲間として見ていないから積極的に妻を安心させる行為をしないのではなく、そのする必要性をあまり認識していないので、あるいはすることが気恥ずかしくてできないからしないだけなのです。これについて、妻は当然受けるべき優しさを夫は示さないので不安になり、不満の感情をあからさまに示したり、試し行動をしたりして夫からすると自分が妻から攻撃されているような印象を与える行為になってしまうわけです。妻の不満感情や試し行動に対して夫が真に受けて反撃に出てしまうと、どんどん泥沼にはまっていくということが深刻な夫婦喧嘩の始まりのポピュラーなパターンのような気がします。

このことを頭に入れて生活することによって離婚はだいぶ減るのではないかと思っています。つまり、対人関係の条件の中で、実際はサイコパスではないのに相手の行動を悪くとらえてしまうために、相手がサイコパスに見えるということがあるということでよいのだと思います。

総じてサイコパスという概念自体は弁護士の活動にあまり出てこない概念なのです。ただ、その考え方を勉強することによって解決することも出てくるかもしれません。無駄な勉強にはならないというべきかもしれません。


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