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精神障害者が無罪になる(場合のある)理由 リベット実験にも矛盾しない古典的刑法総論理論 [刑事事件]



重大な被害が生じた事件の裁判報道で、「被告人側が心神喪失を理由に無罪を主張している」という報道に接することがあると思います。「なんとなくそうかな?」と感じる人、「人が殺されているのに無罪とはおかしい」と感じる人、当然様々いらっしゃることと思います。

例えば、「その人間が明らかに人を殺そうとして、人が死ぬような行為をしたのに、精神障害だからといって釈放されるのはおかしい。」ということも自然な感覚かもしれません。

どうして精神障害を理由に無罪になるのかをまず説明していましょう。

刑法は、基本的には「わざと人を殺した」という場合だけ殺人罪として処罰します。その人の「不注意行為で人が死んだ場合」は、傷害致死罪、過失致死罪といって、一段低い刑罰になります。

考える手がかりがここにあります。わざと殺した場合に罪が重くなることは直感的に当たり前なのですが、その理論づけを昔の刑法学者たちは行っています。

その理由は、
「自分がこれからしようとすることが、人が死ぬことになる危険なことであるのに、やっぱりやめたと思いとどまらなかったこと」

をとらえて、傷害致死罪や過失致死罪とは類型的に異なった殺人罪として重い責任非難があるという理屈なのです。

逆に、不注意の場合は、思いとどまる要素が小さいので、責任非難が軽くなり、刑罰も軽くなるという関係にあります。

また、その人が殺したようにみえても、実際は思いとどまるきっかけも、不注意もなかったような場合は責任もありませんので無罪になります。グラウンドで野球の素振りの練習をしていたら、突然人が走ってきてバットにぶつかってしまったというようなケースがそういうケースでしょうか。

精神障害のうち、その程度が重く、心神喪失(自分のやっていることが自分で理解できない、あるいは、価値判断ができない事情がある場合)であったと判断されて無罪になるのも、この理屈で説明されます。

自分がこれから何をやるかさえもわからない精神状態の場合で偶然ともいえるように誰かが被害を受けたのであれば、自分がやることが人に迷惑をかけるので思いとどまるということを期待することができませんから、責任が無いという評価はまだ理解できると思います。

しかし、自分がこれからやることをわかっていて(例えば刃物で人体の危険な場所を刺すとか、頭を金づちで殴るとか)、それでも精神障害だからそれを思いとどまることが期待できないから無罪ということについては、それだけ聞くと納得できない人も多いと思います。

それはそうです。日常生活で、その人の意思で行動していて責任が無いというような具体的事案なんて、普通はあまりお目にかかれないからです。想像することも大変難しいと思います。長く弁護人を務めていると、そのような事案を担当することがあります。それほど多くはありません。

窃盗の事案で、睡眠薬とビールを飲んでわけがわからない状態になり、中古品販売店に自動車を運転して行って、自分の趣味の品物を陳列棚からカバンに入れて窃盗の現行犯で逮捕された事案がありました。それだけ聞くと自動車を運転できる程度に訳が分かっているし、本人が欲しがっている種類の品だったという程度の能力があったのだから、思いとどまる能力もあったはずだと思うことが健全な考え方かもしれません。

しかし、実際は、店員が注意しに来ても気にしないで、メモうつろで口も開いたままの異様な雰囲気でただ機械的に品物をカバンに詰めていたようでした。まさに映画に出てくるゾンビのような状態だったそうです。

この事案は、一度逮捕され勾留もされたのですが、裁判を受けることなく釈放されました。薬とアルコールのために、思いとどまることが期待できず、責任能力が無く、心神喪失状態だったと判断されたからです。

このように、その犯行をしようという意思がある(ようにみえるだけか)のに、責任非難が無い場合は実際にあります。心神喪失で無罪の主張をするケースはこういう極限的なケースを議論しているわけです。

このほかに精神障害で責任能力が否定される場面と言えば、程度の重い統合失調症のうちのある種の場合が考えられます。強い幻聴や幻覚で、その人を殺せと命じられているような錯覚をしてしまい、犯罪をしてしまう場合です。ただ、統合失調症の人の圧倒的多数の人は犯罪をしません。統合失調症が直ちに責任能力を否定される事情とはならず、その人の症状に照らして、思いとどまることが期待できたかどうかという具体的事情から責任能力は判断されます。




ところで、この「思いとどまることをしなかったことが責任の本質だ」という理論は、自由意思についての科学的な理論にも整合します。

ベンジャミン・リベットは、実験によって、人間の行動を起こす意思が起きる0.35秒前に脳はその活動を開始しているということを明らかにしました。2008年には別の人も同様の実験をして、0.35秒どころか最大7秒のタイムラグがあるという発表もなされました。つまり人間は自分の自由意思で行動しているのではなく、具体的行為を自由意思で決定する以前に脳が行動決定をしているということになります。認知学では、多くの学者が人間には自由意思はないと主張するようです。

そうすると自由意思がなく、すべて人間の行為が脳が勝手にやったことというのであれば、どの犯罪においても責任が問われなくなってしまいます。これでは、どんな犯罪をしてもそれはその人が自由意思で決めたことではないとして刑罰を受けなくて済み、社会不安が起きてしまうことでしょう。

しかし、刑法の責任論は、その問題を予め知っていたように都合よく理論化していました。

リベットも、0.35秒前に脳が勝手に起こし始めた行動だとしても、0.35秒後にその人の自由意思によって、その行動を思いとどまることができる。それがその人の人格を示しているというようなことを言っています。刑法の責任論は、まさに思いとどまらなかったことを非難しようとしているので、ぴったり一致しているのです。リベットの学説によれば、自由意思の働く範囲はごく狭い範囲だということになりますが、刑法理論はすかさずその狭い範囲に焦点を合わせて責任があると言っているわけです。しかもこの責任論は、リベットの研究のずうっと前に構築されている理論なのです。

あまり伝わらないかもしれませんが、私はすごいと思いました。説明が下手ですいません。


全てをまぜっかえすようなことを最後に言うわけですが、この刑法理論は、現在の刑法解釈ということで、元になる刑法が改正されれば、ほとんど意味のないものになってしまいます。例えば、わざとであろうと不注意であろうと偶然であろうと、結果として人が死んだのであれば殺人罪にするという立法も理屈の上ではあり得ないことではないのです。

10年以上前に裁判員裁判が始まり、量刑の点についても一般市民の感覚が判決に反映されるようになり、判決が厳罰化してきたということが実務感覚です。初めて生の殺人などの重大事件の証拠を目にすれば拒否反応が起きることは当たり前で、できるだけ重く処罰しようという感覚になることは当然のことです。厳罰化は裁判員裁判の実施と因果関係のあることだと私は思います。

ただ、国民が、厳罰化を望み、結果責任を望むようになり、法改正がなされればそのようになっていくこともありうるのです。運の悪い人が長期服役を余儀なくされるということも、それ以前と比較してそうだという話であり、それが直ちに間違っているという議論が成り立つのかよくわからないというべきだと思います。

現在に話を戻して、実際の裁判で「思いとどまることを期待できたかどうか」ということも、個別的な事情を判断しなくてはならず、実際のところは同じ程度ならば同じ量刑や、同じ責任能力の有無の判断がなされているのかについては、実際のところよくわかりません。なかなか比較しようのない問題だからです。

少なくとも、わざと心神喪失の状態になって恨みを晴らそうと思っても、おそらく無罪になることは無いだろうということだけは確かなことだと思います。

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