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自分に降りかかった問題は、他人の方が解決しやすい理由 だれに協力を求めたらよいのか これまで「自分で泣き止んできたんだ」としても [進化心理学、生理学、対人関係学]



今大きな悩みを抱えていない人ならば、そんなことぐらいわかっているよと思われることかもしれません。しかし、自分が今人生の岐路に立っているとか、自分の立場を失ってしまうのではないかとか今思い悩んでいる人は、案外その当たり前のことを見失ってしまうものです。

他人の力を借りることが有利だという理由には、例えば年長者が、その悩みについて既に体験しているとか、解決の知識やノウハウがあると言ったことも考えられます。しかし、自分のことを自分ひとりで解決することが困難であるのは、経験不足や知識不足などよりも大きな原因があります。

ここでは、言葉を区別して考えることがとても大切だと思います。区別するべきことは、不安や恐れ、焦りなど自然に湧き上がる「感情」と、理性を使って能動で気に論理を組み立てる「思考」ということです。通常だれでも理解していることですが、この違いを意識するだけで理解はより簡単になるはずです。

先ず、大きな悩みがあると人間はどのような感情を抱くかということを説明します。これはそれぞれの人間にとって基本は同じです。

<困難な課題がある時に湧き上がる人間の感情>
1)自分に危険が迫っている
2)この危険を排除しなければ自分は終わってしまう
3)自分を守りたい、守らなければならない

この感情の出どころは、例えばジャングルにいる場合に猛獣が近くにいる、猛獣に気づかれて襲われたら死んでしまうという感覚と基本的に同じです。現実の私たちの悩み、トラブルは、それによって死ぬようなこと、つまり身体生命の危険はあまりないのですが、あたかも身体生命の危険があるかのように不安、焦りという感情が生まれてしまうのです。

わたしたちが通常直面する問題や悩みは、人間関係の悩みです。人間関係の悩みとは、突き詰めれば、誰かとの関係が終わってしまう、自分の評価が致命的に下がってしまう、他人から一段階下に見られてしまうということです。人間関係の悩みがある場合と、身体生命の危険がある場合と、その悩み方、不安、焦りは同じ感覚であることに気が付くことは、解決の行動に出る場合に大変有益です。

このような不安や恐れ、焦りという負の感情は、思考に影響を与えてしまうことが問題なのです。

<負の感情による思考の変化>
A)思考をする力が弱くなる。
B)大雑把な思考しかできなくなる。
C)二者択一的な思考になりやすい。
D)悲観的な結論を出しやすい。
E)他人の感情などという目に見えないものについて推測ができなくなる。
F)細かい違いに気づかなくなる。

少し解説します。
先ほど述べたように、人間関係上の悩みであっても、感情は身体生命の危険と同じ感情になります。これは、群れを作る以前の人間の祖先としての動物にとっては、生き延びるために大切なメカニズムでした。つまり、熊などが近くにいるならば、生き延びるためには熊に見つかる前に逃げるしかないわけです。
 余計なことを考えないでひたすら逃げるという脳内モードにすることで、逃げるための筋肉の動きが緩やかになってしまうことを避けたのでしょう。走るのが遅い人は、余計なことを考えないで走るということが苦手なのではないでしょうか。何も考えないでひたすら逃げるということが人間の生存戦略だったわけです。

それでもわずかに、逃げ道の選択ができる程度に頭が働くのならば、少しは生存確率も高まると思います。その選択肢は右か左かという以上複雑なものは無かったのだと思います。二者択一ができれば十分であるし、それだって正しいかどうかはよくわからず、逃げ切ってみなければわからない。しかし、二者択一以上の思考が生まれてしまえば、ひたすら走ることの邪魔になるので、それ以上は考えないメカニズムが生まれたのでしょう。また、とにかく早く決断することが大事なことです。迷っているうちに熊が近づいてくるかもしれません。物事を単純化して、早く決断し、決断したら考えないでまたひたすら走り続けるということが生存戦略だったのだと思います。

悲観的な結論になりやすいことも生存戦略です。危険の相手がどの程度近くに迫っているか、あるいはすでに遠ざかったのか、よくわからないうちはとにかく逃げる。もしかしたら、まだ近くにいるかもしれないので、近くにいるかもしれないという根拠のない悲観的な思考の方が、根拠なくもう大丈夫だろうという楽観的な思考より安全な場所に逃げることができます。悲観的思考は明らかに生存可能性を高めます。

このように、逃走モードになると、あえて思考力を弱めていく戦略を人間は取ったわけです。思考力が弱くなっているため、他人の考え、他人の感情を推測する等という複雑な思考力は発揮できませんし、細部を観察するという時間をかけて意識的に集中するということができなくなることも理にかなっています。

つまり、危険察知 ⇒ 不安など負の感情 ⇒ 思考力の減退
というのは、きわめて合理的な人間の生存戦略だったということが言えると思います。このようなメカニズムのおかげで、我々の先祖は生き残ることができて、我々が生まれることができたのです。

思考力が減退したため、適切な逃走経路を選択できず、あるいは逃げなければ見つからないものを逃げてしまったので猛獣に気づかれて襲われたということはあったかもしれませんが、圧倒的多数はこのメカニズムのおかげで生き残ったのだと思います。自然のことですから完璧はありません。よりましな行動パターンの方が生き残るわけで、生き残った者が選択したパターンが遺伝子に組み込まれて我々に引き継がれたということになります。

その後人間の祖先は群れを作るようになり、群れに所属することによって外敵から身を守るという生存戦略をとるようになりました。これも理性というよりは感情を利用したものだったのでしょう。仲間から追放されるということは、熊に襲われることと同じように危険を感じ、同じようにひたすら追放されないようにしたのだと思います。追放それ自体というよりも、追放につながる群れの仲間の行動、つまり、仲間が自分を攻撃する、攻撃まであからさまにされなくても、自分だけ食料などの配分が少ないなどの差別がされる、自分の評価が下がるような失敗をして仲間に迷惑をかける、仲間の足を引っ張る等の仲間や自分の行動によって、命の危険が起こっているかのような負の感情が起きたのだと思います。

環境の変化によって、脳内システムと現実環境のミスマッチが起きてしまう事態になったわけです。
但し、このミスマッチは、群れの人数が200人弱のような少人数の時代はあまり表面化しなかったと思います。今回は詳しくのべません。ミスマッチが表面化してきたのは、これまでの話のスパンではなくてつい最近、農耕を始めて群れが大きくなった今から1万年くらい前からの話なのだと思います。

特に現代社会では、人間関係上の問題にすぎないのに、命の危険が起きているかのような感情を抱いて思考が低下することは、デメリットばかりが目立ちます。

例えば資格試験を受けるとき、この試験に落ちると自分が望む社会的立場を獲得できないという人間関係上の危険を感じるわけです。そうして不安や焦りがわいてきて大雑把な思考しかできなくなると試験に合格できない危険が高まってしまいます。
例えば仕事でミスをして上司から叱責されているとき、やはり命の危険を感じてひたすら逃げるためにあまり深く考えられないで言い訳をしてしまうと、さらに叱責される要素を作ってしまうわけです。

さらに他人に何か指摘をされたとしても、本当は善意で、仲間としてサポートしようと指摘をしたのに、自分の失敗、不十分点、欠点等を指摘されてしまうと、勝手に悲観的になり、自分が攻撃されたと思ってしまい、反撃してしまって相手から見放されるなんてこともよくあることです。

本当は違うのに攻撃されているという感情は、思考力の減退で相手に対してまずい対応をしてしまってさらに悪化する、また別の問題も引き起こしてしまうということが法律的紛争でもよく見られます。

<第1の結論>
つまり人間関係のトラブルなんて、本当はトラブルではない場合もあり、悲観的思考によって勝手にトラブルがあると思い込んでいる場合があるということです。
また、同じようにそれほど大したトラブルではないのに、とても大きなトラブルであるから自分にとっては致命的であると思ってしまう傾向もあるわけです。

半世紀以上人間をやっていると、人間関係のトラブルで命が無くなるとか、回復不可能な将来的損害があるということはほとんどないことがわかりますが、若いうちはもちろんそんなことはわかりませんでした。一言で言えば何とかなることは間違いないと思えるようになりました。さあどうやってこの致命的な問題を乗り越えるのかということが楽しみに見えてくることさえあります。

<第2の結論>
人間関係のトラブルの存在の錯覚と解決方法のミスを生むのは、誰が味方で誰が敵なのか判断が付かないことです。多くの人たちは味方として利用できる人を警戒したり、攻撃したり、遠ざかったりしています。そうして混乱している感情に乗じてあなたに損害を与えて自分の利益を得ようとする人の言いなりになるということが多いです。

何よりも追い込まれている人は二者択一的な思考しかできなくなっていますから、解決方法も単純であることを望んでしまいます。あなたに損害を与えて自分の利益を得ようとする人は、単純な解決方法で単純に解決できると提案してきます。不安や焦りがある人はつい、それで解決するのであればと他人の嘘、まあ嘘とは言わないでも解決しない方法に飛びついてしまう危険があります。

<第3の結論>
人間関係のトラブルを解決するにあたって、一番多い間違いは、損害を無かったことにしようとしてしまうことです。二者択一的な思考しかできなくなっているのでそういう「感情」になってしまって、つまり「思考」ができない状態になってしまいます。

本当は切り捨てても良いこともっても大事なもので失ってはいけないものだと思ってしまうわけです。それよりも切り捨てるものは切り捨てて、大きな利益を確保するということをしなければなかなか解決には至らないということが多くの場合でしょう。

二者択一的思考は、全部残すか全部失うかという判断を迫られていると錯覚させてしまいます。

<最終結論>
結局人間関係のトラブルで追い込まれている人は「思考」する力が減退しているために、「感情」で解決したいと思っているだけで、解決のための「思考」ができていません。

悩んでいるけれど、何がトラブルなのか、トラブルのうちの解決するべきところはどこなのか、切り捨てても良いところを切り捨てて大切な利益を守り抜く、そもそも一番守るべきものは何なのかということが見えなくなってしまうということなのです。

だから、自分以外の人間に協力してもらって解決をするべきなのです。

では、誰を協力者とするべきなのでしょうか。
最後に協力者の条件を挙げましょう。それぞれ一つ一つは当然のことだと思われるでしょうが、その条件を満たす人間はなかなかいないのかもしれません。

第1に、あなたの利益を第一に考えてくれる人である必要があります。家族であるとか運命共同体の人であれば、あなたの問題を解決することは自分の問題を解決することになるので、あなたを食い物にして自分の利益を得ようとはしないと思います。

第2に、あなたと同化しすぎない人です。あなたの悩みに共鳴してしまって、自分のトラブルだという感情がわいてしまえば、他人に協力してもらう「うまみ」もなくなります。その人も思考力が減退してしまうからです。

共鳴しすぎる人は協力者として不適当であるし、解決よりも共鳴を優先する人も大きなトラブルを解決する場合はあなたの足を引っ張るかもしれません。本当はそれを捨てて解決して大きな利益を得るべき時も、些細なこだわりを一緒に大事にしてしまい結局こじらせるだけだったという場合も多く見ています。

理想を言えば、一段高みに立って、あなたがこのトラブルで致命的な損害を受けても、その損害は自分が引き受けるから心配するなというような人がいればとても心強いでしょう。

以下は技術的な細かい協力者の理想です。
・ あなたに、あなたが考えていることとは別の選択肢があるということをはっきりと提案できる人
・ あなたにあなたがこだわっている価値観を捨てることが可能であることを告げることができる人
・ 初めから選択肢を捨てるのではなく、それぞれのメリットデメリットを思いついて提案できる人
・ その行動をとることの見通し、成功する可能性を理由を挙げて説明できる人
・ あなたが一番大事だと思っていること(感情ではなく思考の結果)を尊重してくれる人(但し、それを捨てるべき時は捨てるべきと言える人)
・ 焦らないで、許される範囲で時間を一杯に使って解決することを提案できる人
・ 自分の考えに固執しない人 あなたの意見(感情ではなく思考の結果)の良いところを取り入れてくれる人

できれば、その人に協力をお願いしたのであれば、その人の提案をすべて受け入れろとは言いませんが、先ずその人の提案を落ち着いて考えてみるということが大切です。感情的に反発することをしないということです。だから運命をゆだねることができる人が理想なのでしょうかね。何とかなるという気持ちをもって、感情を鎮めて、思考を働かせることができれば80%以上、結局は解決しているわけです。

弁護士をしていると、なんともならないという問題はあまりないことに気が付きます。確かに失うものが何もないというわけにはいかないことも多いのですが、結局は何とかなるということが圧倒的多数だと思いました。

思い悩むことも人生にとっては有益なことになるのかもしれませんが、それ自体は合理的な解決に向けて有益なことではなく、デメリットだけが多いことだと言って差し支えないと思います。まずは信頼できる人間に相談をすることが理にかなっていることだという結論は間違いないと思います。

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