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中学生人権教室40分バージョン 人間って何だろう [事務所生活]

中学校人権教室 40分バージョン

みなさんこんにちは。私は人権擁護委員をしております。職業は弁護士です。20年以上弁護士をしておりますが、今日は人権の話ではあるのですが、法律は出てきません。むしろ、20年以上弁護士をやっていて、人間同士の紛争にかかわらせていただいていて、法律以上に大事なことがあるなと感じていますので、そのことをお話させていただきたいと思います。

怒らないで考えていただきたいのですが、
地球上の動物で、攻撃力が強いといったらどんな動物でしょうか。ライオンや熊の爪や牙は攻撃力ありますよね。鷹なんかも食物連鎖の最上位にいるとしたら攻撃力が強いと考えられるかもしれません。
では、防御能力の高い動物といったら、どんな動物でしょうか。馬とか走るのが早い動物も逃走能力が高いですし、象やカバのように分厚い皮膚や体重なんてのも防御力が高いですね。敏捷性というのも防御能力が高いと言えそうですね。

ところで、人間は、どうなんでしょう。今でこそ文明の力があり、地球上の主人公のようにふるまっていますが、文明がない時代、牙やや爪、腕力はないわけです。逃げ足ったってライオンや虎にかないませんね。熊だって走るの早いですから。絶滅していてもおかしくないですね。繁殖力だって、10月10日もかかるのに、数年は走ることもままならないというのですから有利ではないわけです。どうやって生き延びてきたのでしょう。
このグラフを見ていただきたいのですが、人類の祖先がチンパンジーの祖先と別れたのが700万年以上前、ホモ属が成立して200万年、ここにはありませんがホモサピエンスが成立してからも20万年ということです。チンパンジーも700万年前からはそれなりに進化していますが、人間もおそらく進化しているのでしょう。あるいは、身体的には退化しているのでしょうから何とも言えませんが、攻撃力や防御力はそれほど変わりはないのだと思います。
それにもかかわらず、生き延びてきたということは理由があると思うんですね。

一つの理由として、群れを作るということがあると思います。ある程度の体格がありますね。中型といえるんじゃないでしょうか。また、ある程度は攻撃力がありますよね。もっとも1対1では到底猛獣にはかなわないですけれど。そうすると、これが20体、30体あれば、なかなかライオンといえどもクマといえども手出ししにくいということはあったと思います。襲う方だって、楽に戦える相手からまず襲うでしょうからね。これも自然界の鉄則ですね。この絵のように固まると不気味ですよね。その割に、あまりうまそうでもありません。

群れを作るといいますが、どうやって、群れを作ったのでしょう。20万年前なんて、文字どころか言葉もない時代ですからね。どこかのグループがたまたま群れを作ったって世界に広まる前に、滅亡してもおかしくないはずです。それは、遺伝子的な仕組みがあったと考えられないでしょうか。

群れを作る仕組みが遺伝子にあったわけです。
何か、自分勝手な行動をとっていると、群れの他の構成員からひんしゅくを買う。攻撃されたこともあったかもしれません。だんだんと何万年を経てですね、群れの他の構成員の空気を読んで、自分の行動を修正して、同じ構成員から攻撃を受けない仕組みが備わっていったのだと思います。ありゃ、こりゃまずいぞと。そうして周囲にあわせたり、発言を撤回したり、詫びを入れたり、ルールを守ったりということですね。但し、何をすれば悪いかということは、本能的というよりも、生まれてから学習して身につくことも大きいと言われています。ただ、周囲に調和しようという気持ちは、もともと遺伝子上に引き継がれていっていると思います。

不安を感じて群れにとどまろうと行動を修正するわけですが、どんな時に不安を感じるのでしょうか。自分が失敗して仲間に迷惑をかけたということもあるでしょう。それだけでなく、仲間の自分に対する言動からも不安を感じると思います。自分だけ分け前がもらえない、情報が隠される。自分の努力を評価されない。話しかけてもくれないし、何か言おうとすると黙ってろといわれる。乱暴にされたり、嫌がることをあえてされるということでも不安やもやもやした嫌な気持ちになりますよね。突き詰めて考えれば、群れの構成員として尊重されていない事情を感じた場合とまとめられるかもしれません。

さて、不安とは何でしょう。実は、脳科学的には、不安とストレスは結構類似品です。
不安になると、血圧が上昇し脈拍が増加し、体温も上昇します。内臓に流れている血流が筋肉に多く流れるようになります。また、落ち着かなくなります。これは、逃げたり戦ったりするために体を動かしやすくする仕組みです。動物、まあ哺乳類におおむね共通の生理的変化ということになります。動物の場合は、身体生命の危険を感じたときに限定されていますが、人間は身体生命の危険を感じた場合だけでなく、対人関係上尊重されていない、追放されてしまうのではないかという場合にも不安を感じるという仕組みがあるということになります。精神科の学者は、これは古代の古い反応の残存だと指摘される方もいらっしゃいますが、私は、人間が群れを作るための仕組みなんだと思います。もっとも、テストで失敗しても、忘れ物をしても不安が起きますが、走って逃げたり相手と戦う必要はありませんので、自分の行動を修正するきっかけ以上にメリットはあまりないようです。

群れを作る仕組みの2つ目には、弱い者を守ろうとするという本能があるということです。
もし、強い者が、自分だけ食料を確保したり、快適な環境を独占してしまったらどうなるでしょう。700万年それをやっているうちに、弱い者からどんどん死滅していって、グループが少数になってしまいます。どんなに洞窟に隠れても掘り出して猛獣の餌食になったでしょう。頭数を守らなければなりません。そうすると、自分を守るためには、群れの弱い者を守って群れ全体を弱めないことが必要だったと思います。人間は、誰でも、むしろ弱い者ほど大事にしなければならないということはきれいごとではなく、人類が生き残るためのギリギリの必要条件だったということになり、それが今にも受け継がれていると思います。

 その一つが、可愛いという感情です。みなさんの年代だと同かわかりませんが、私くらいの年代になると赤ん坊のコマーシャルを見ているだけでうれしくなってしまうんです。あの犬がライオンの被り物をしているコマーシャルは不覚にも涙さえも出てきてしまいます。可愛いというのは、弱い者を守ろうとする人間の高度な感情だと思います。

ところで、みなさんの年代という言い方をしましたが、中学生はどういう年代でしょうか。
小学校までは、自分は家族の一員ということで安心できたわけです。まあ、概ねね。ところが、中学生くらい、いわゆる思春期ということになると、そういう家族の一員ということから、社会の一員という意識が芽生えてきます。巣立ちの準備というか、結婚相手を見つける準備みたいなものです。動物行動学的に言えば繁殖をするための心理的変化ということになります。
家庭という絶対的帰属主体から、勝手に心が離れていくので、大変不安が多くなります。自分の将来をリアルに考えるようになります。ともすれば、自分を守りたいという意識が強すぎて、自分より弱い者を見つけて安心したいという高等な人間にあるまじき感情を持つことが多くなる時期であります。
中二病とかいろいろ勝手に言われる時期でありますが、確かにイライラしたり、空想に入ったりするのですが、こういう不安が怒りというか攻撃的感情を育ててしまいます。ここでみなさんに思い出していただきたいのですが、自分に向けられた怒りは八つ当たりではないかと考えたことはありませんか。80%くらいは、怒る相手に対する怒りではなく、自分のイライラを解消したいから怒っているとそういう感じです。反撃が怖いから弱い者に怒りが向かうわけです。弱い者とは、多数対少数で弱い者を作る場合もあります。立場が弱い者に、反撃しにくい内容で攻撃する場合もあります。まあこれがいじめですね。およそ、人間らしからぬ野蛮な行為であることは今までの説明でよく理解できると思います。群れを大事にして生き延びてきた人間のすることではありません。

攻撃を受ける者は、八つ当たりで攻撃を受けているわけですから、危機意識、不安だけはどんどん大きくなります。自分は安全ではないということが毎日の生活だということになります。しかし、自分では修正しようがありません。そうなると絶望ということになります。生きるための意欲を失っていき、朝起きるとか食事をとるとか、喜びや悲しみを感じるとか生きるための活動をどんどん停止していきます。一度いじめの案件を半年くらいかかわったことがあり、最終的には、虐めていた子から自発的な謝罪もあったので、やったーと喜んでいたのですが、何年後かにいじめとも言えないような出来事があったとき、いじめられていた子はまたあの時のようにいじめが始まるのではないかという気持ちになったということがありました。逃げようのない攻撃を受けて、毎日が針の筵だということは人間にとってとても大きな打撃を受けるということがつくづくわかりました。

ところで、いじめで侵害を受ける人は被害者だけではありません。人間が、自分ならなおさらですが、他人が人間として大事にされていない場面を見ると嫌な気持ちになりますね。残酷だと拒否反応を示すわけです。ところが、人間が大事にされていないことを見続け居ると、だんだん感覚がマヒしていきます。ちょうど、臭いなと思っても、だんだん慣れていって臭いという感覚がマヒしていくことと同じです。そうすると、無意識のうちに、人間は大事にされなければならないという感覚がマヒしていきます。人類を生き延びることをさせてきた観念が薄くなってしまいます。そうすると、自分を含めて人間は大事にされなければならないということが思えなくなり、自分を大事にできなくなっていってしまうのです。

自分を大事にできなくなるとどうなるでしょう。
自分を大事にするなら、わざわざ肺をおかしくして、呼吸を苦しくするタバコを吸うなんて馬鹿なことをしようと思わないわけです。酒もそうですよね。あれは、自分大事にできなくなっている現象です。まあ、お酒ばかりは飲み方にもよるんでしょうけど。また、自分を大事にしないことが進んでしまうと、事情が重なると、覚せい剤や危険ドラッグに手を出してしまたり、万引きという窃盗が詐欺、強盗になったり、無謀な買い物をしたり、ギャンブルに手を出したり、離婚原因になるようなことを行ったりということは仕事がらみてきました。みんな、ある日あるときぐれるということではなく、自分を大切にできない環境にだんだん慣れていってしまって犯罪になってしまうのです。この究極の自分を大切しない行為が自殺ということになります。

だから、いじめを止めることは、被害者を助けるだけではないんです。いじめを見ている人はもちろん、いじめをしている人にとっても、いじめを止めることは助けであり、救いなんです。これを大人が言っても、なかなかいじめは収まらないこともありますが、友達同士でもうやめようぜということが特効薬になることは観てきています。
大人はどうしても、いじめをするような子、いじめを傍観する子ということで決めつけをしてしまいがちです。でも友だち同士なら、決めつけではなく、友達だから心配していっているんだということになりますし、友達を失わないために自分の行動を修正することもできます。いじめをしていると、自分がいじめられたことや、そういう扱いを受けてきたことを思い出して、嫌な気持ちになりながらいじめをしているわけですから、やめるきっかけがあれば一抜けたと言いたい人は多いということは良くお分かりだと思います。おせっかいくらいがちょうどいいと思うんです。なんて、一番大事な自分を守るためにもなるんですから。おせっかいをしましょうよと言いたいです。
私は、子どもだけが勉強するのではなく、人間は死ぬまで勉強だと思います。それは、人間として成長し続けることだと思います。自分を大切にすることは、人間が生きる仕組みとして、仲間を尊重することということになります。弱いところ、間違いを責めない、笑わない、仲間から外さない。助け合って補いことだと思います。この尊重しあう人間関係の中にいることが人権が尊重されている状態だと思っています。

最後に、もしお話し合いをするのであれば、友達との関係で、寂しさ、苦しさ、怒りを感じたときは、人類的観点に立つとどういう時か話し合ってみるとよいと思います。自分は楽しくても、相手が嫌に思うということが出てくると思います。
また、自分が仲間として尊重されていないと感じる場合を話し合ってみましょう。人間が大切に扱われていないと感じるときはどんな時かということも良いと思います。また、誰かを守りたい、助けたいと思う場合についても話し合うと発見があるかもしれません。

いじめをやめようとか命を大切にしようとは私は申しません。それはマイナスではなく0にしようということのように思うからです。そんな低いレベルのことではなく、仲間を尊重しようとすること、助け合い、補い合ってみようという人間らしい目標、0の先のプラスに目標を設定すれば、いじめなんてとっくになくなっていると思います。そういう学校生活を作っていけば、ああこの学校の生徒でよかったなと、この学校に通えて幸せだなと大きなプラスが実現できるのではないでしょうか。


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