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やり過ぎ、やり抜きすぎ症候群 過重労働からの離脱 survivor研究 [労災事件]

過重労働からの離脱 survivor研究の中で
うつ病になりやすい人は、
限度を超えて、仕事をやり過ぎてしまう傾向がある
というお話をしたかと思います。

新たな surbvivor からの体験談を聞きながら
少し補充しようと思います。

やり過ぎるということはどういうことかというと
とにかく、自分の仕事は完璧に仕上げなければならない
という気持ちになりやすいようです。
その時は夢中ですから、
自分が完璧ではないとだめだと考えていることは
意識はしていないと思います。

例えば、報告書を出す場合でも
書式があれば、それを完全に埋めようとする。
例えば食品添加物の調査報告をするときも、
原材料を製造する工場に問い合わせをするのですが、
調べれば調べるほど外注が出てきて、
きりがないそうです。

実際のケースは取引先から無茶なオファーが来た
ということもあるのですが、
調べ切ることは不可能だと思っても
調べなければならないという強迫観念のようなものが出て、
調べ尽くそうとする。
調べられないので、苦悩するというパターンのようです。
(ほかの人は、ちょっと調べて
 できませんでしたと報告して一件落着)

書式がない報告書だと、
とにかく枚数が多い。
また、エクセルにしてもワードにしても
構成も整えて、視覚にも訴えようとする。
フォントを変えたりですね。

部数が多くなると、
製本テープで製本したりする。

プレゼンテーションも妙に凝っていて、
アニメーションなんかを入れたりする。
統計もきちんとグラフ化する。

(そうじゃない人は、
 手書きのラフスケッチや走り書きを
 平然とコピーして配ります。)

自分の仕事を部下などに分担させる場合
自分と同じクオリティを
経験不足の部下にも当然のように求める。
足りな分は足りないとはっきり言い、
修正を求める。

上司なんかは、
はじめは役に立つし
上への報告にも使えるので喜ぶのですが、
だんだん雲行きが怪しくなっていきます。

徐々に、やり過ぎ労働者ののクオリティを
上司にも求めているように、
それができないと馬鹿にしているように
上司はそう感じてきます。

腹の大きい上司であれば、
そんなこともないのですが、
不安を感じやすい上司、
自分が会社に貢献していないのではないかと思う上司、
自分ととってかわられるのではないかと思う上司
等は煙たく感じてくるわけです。

こういう上司が自分を守る方法が
パワハラです。
些細なことを突っついて完璧ではないことを知らせるだけで
相手が深く傷つくことを本能的にかぎ分けます。

また、腹の太い上司でも
報告書などの成果物を見ていると
実質的なところでも頑張りすぎているのに
形式的な整えでも頑張りすぎることを感じると
その苦しさというか、努力というか
そういうところに共鳴してしまい、
(「おお!良いね」という意味の共鳴ではない。)
作成の際の努力というか交感神経の亢進というか
そういうことを追体験して息苦しくなってしまうのです。

これが拒否反応です。

追体験の苦しさから逃れるために
なんとなく、やり過ぎ労働者を敬遠するようになり、
お茶を濁すような対応をするということになります。

きちんとやっているのに、
やり過ぎだという注意もはばかられるわけです。
上司もどうしていいかわからなくなります。

なんとなく、上司が冷たいなと
やり過ぎ、やり抜きすぎ症候群の労働者は感じるわけです。
でも、手を抜くことが悪だと感じていますから
どうしてよいかわからなくなります。

気の利いた上司や先輩がいれば、
例えば、社内の打ち合わせ資料はここまでやらず、
うちっぱなしでよいとか
外部の人へのプレゼンの場合はこうだとか
具体的に場合を分けて指導する人がいればよいのですが、
そうでない場合は、

あるときはやり過ぎだと言い
あるときは手を抜くなと言い
というように、
やりやり労働者からすれば
場当たり的な叱責が飛んでいる
としか感じられない状況が作られてしまうようです。

上司が覚悟を決めて
さじ加減を言葉にして説明するしかないように思われます。
そして、これはおおよその基準だから
厳密に考えなくてよいことも説明する必要がありそうです。

ところで、やり過ぎ、やり抜きすぎ症候群の労働者は
どうしてやり過ぎるのでしょう。

これまでのsurvivor は、
途中で手を抜くと、自分がだめになってしまう
という意識だからだと言っていました。

要するに完璧を目指す性格ということですね。


ところが新しいsurvivorは、
どうやら、自分に対しての会社内の評価が低いのではないか
だから徹底してやり抜く癖が付いたように振り返っていました。

どうやら、完璧にやり抜くことで
会社から評価を得ようとしているということのようです。

対人関係学は、
人間は、どこかに所属したいという理論を前提に、
自分が受け入れられているという安心感を感じたい
もう一段階突っ込むと
群れから外されたくないという
安心の保証がほしいという根源的要求がある
と説明します。

だから、逆に自分が尊重されていないと思うと
危機感を感じ、
それが続くと交感神経慢性亢進反応が起きる
という説明をしています。

群れの中で、役割を果たして評価されることが
自分の群れの中の立場を強化するので、
群れから外されない=安心できる
ということにつながるわけです。

やり抜き労働者は、
もしかしたら、自分が受け入れられることに自信をもつために、
完璧にしようとしている人も、パターンもあるのではないか
という疑いが生じてきました。

不安を解消したり、安心を得ようと
(但し、無意識、無自覚です)
頑張りすぎてしまうということがあるのではないか


頑張るメカニズムなのではないか
と疑いの目を持ち始めています。
頑張る労働者みんながみんなというわけではありませんが。

やり過ぎ労働者は
やりぬかないと自分がだめになる
という意識を持つ人が多いようです。

もしかすると、それは自分という存在を
他者との存在の中、対人関係の中で把握しており、
機敏に危機を感じてしまっているのではないか、
その不安を解消し、安心の喜びを得る手段として
頑張りすぎるということをしているのではないかと
ふと、新たなsurvivorから聞いた話を振り返って
感じました。

要するに、やり抜かないと
自分が他者から外されるのではないか
という不安が突き詰めてみた場合の真実ということです。

こういう人は、別に珍しくありません。
もしかすると、責任感ということも
そういうことなのかもしれません。

(ただ、責任感のもう一つの発生機序としては、
 仲間のために自分を犠牲にしようというモチベーションの観点からも
 考察する必要があると思っています。)





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