SSブログ

「自閉症の世界」の途中感想 自閉症者がこの世の中に不可欠な存在であるということ [自死(自殺)・不明死、葛藤]

講談社ブルーバックスの
「自閉症の世界」という本を読んでします。
https://www.amazon.co.jp/%E8%87%AA%E9%96%89%E7%97%87%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C-%E5%A4%9A%E6%A7%98%E6%80%A7%E3%81%AB%E6%BA%80%E3%81%A1%E3%81%9F%E5%86%85%E9%9D%A2%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F-%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3/dp/406502014X

弁護士が、医学関係の本を読むのは、
仕事に必要な場合がほとんどです。
あとは自分の健康に関してですね。

これまでも、精神的な分野では、
認知症の研究をしましたが
(研究といっても、当時は新書等一般向けの書物)
これは、認知症の家族を殺した人の
弁護活動をするためでした。

パーソナリティ障害の勉強もしましたが、
事件の相手方が、自分も私の依頼者もパーソナリティ障害だから
理解をしてほしいということで、
付箋のたくさんついた新書を渡してくれたことがきっかけでした。

事件が終わっても、
認知症やパーソナリティ障害の勉強をすることで、
じゃあ、そうではないとされるいわゆる普通の人間とは何か
という宿題が残されてゆきました。

これが対人関係学の基礎になっていることは間違いありません。

対人関係学は、当初は、
私以外の、いわゆる普通の人たちが、
群れに協調しようとする志向が強いということに着目して始まったように思います。

このブログの震災前の記事などを読むと
群れに「埋没」する志向を持った人たちという言い方をしており、
ちょっとひどい表現になっています。

これが東日本大震災の経験と
ジョイナーの「自殺の対人関係理論」
バウマイスターの「The need to belong」という論文
アントニオダマシオの「デカルトの誤り」
を張り合わせて、
対人関係学になったわけなのです。

そもそもは、(普通の)人間以外の立場に立って(普通の)人間を観察し、
人間とは何かということを考えていたことになるのかもしれません。

いま、スティーブ・シルバーマンの
「自閉症の世界」(講談社ブルーバックス)を読んでいるのですが
これを読んで、以上のことを思い出した次第です。

もう何年か前になりましたが、
ある小学生のいじめの事件に長期的にかかわったことがあります。
ご父兄のご意向で、法的ではない解決を模索していました。

この時に、子どもたちとも、間接的にではありますが
関わらせていただきました。

その中で、いじめとは別件で、
感情の制御が難しく、
誰彼構わず粗暴にして、
授業中も自分勝手なことをしてしまうお子さんがいらっしゃいました。

保護者会でも話題になったようです。
医学的立場というか、子どもの専門家という人も、
「目立ちたい子」ということで片付けようとしていたそうです。

しかし、被害を受けているお子さん方がかなり深刻な状態だということ
という点からも、
何とかしなければいけない段階に来ているということで
目立ちたいということで済ませるわけにはいかないだろう
という反発もありましたし、

子どもたちからの話を聞くと、
みんなの前で目立ちたいというよりは、
自分の思い通りにふるまおうとして、
それがみんなからどう思われるかについて気にしないために
結果として目立ってしまっているだけだ
という気持ちになっていたという、
一方でのその子に対する親近感?からも反発がありました。

その子は、むやみやたらに爆発していたわけではなく、
それなりに理由があって怒りのモードになっていたことは
子どもたちから事情を聴くとよく理解ができました。
(子どもは本当に公平にものを見ているようです。)
特に、私が一番尊敬していた子どもF君が、
彼との待ち合わせの約束にだいぶ遅れてしまって
一緒に遊ぶ約束が守られなかった
その結果その子が暴れたので、自分に原因がある
という話を自らみんなの前でしたことには感銘を覚えました。

自分を制御しない子を特別視する先生の前では暴走気味でしたが、
(「いや、その子に対してそこまですることないでしょう」
  というエピソードが確かにありました。
 先生も怖かったようです。)
彼を理解して普通に扱ってくれる先生の前では
比較的平穏に過ごせていたようです。
(但し、この先生も、いじめに関しては
 こちらの期待通りには進めていただけませんでした。
 「性格が会わない」のであって、
 いじめではないということで切り捨てられてしまいました。)

実際その子は、能力が高く、
頭脳コンテストみたいなところで優勝経験もあります。
実際は、手を出す子と出さない子と区別もしていたようです。
自分がほかの子に暴力をふるっているくせに、
いじめられていた子どもをかばうこともありました。

そういう場合でも、他人からどう思われるという意識がないことで
かばうことに全くの躊躇がなかったようです。

この子は、小学生のうちに、
粗暴な態様が影を潜めてゆき、
F君をはじめ、友達が仲間として扱ったことから、
その友達の言うことをよく聞いて、
自分を規律するようになっていきました。
友だちの忠告は素直に従うのです!

F君をはじめ、子どもたちってすごいと思ったエピソードです。

彼が自閉症の診断基準を満たしていたかどうかはわかりません。

彼を見たり、
私が弁護士会の役員であったときに、
会議で進行を遅らせる、
外の人とは一風変わった観点で発言する人を見ていて、
あるいは、特に高校時代の自分を思い出して
「自閉症の世界」に書かれている子どもたちの様子が
理解できるように思いました。

みんなが当たり前のように
お約束事だとしてふるまっていることが、
自分にはそのお約束事が見えてこないし、
それに従おうという気持ちも持てないのです。

どうしてみんな、自分と違うことが
正しいと思い、それに従うことができるのだろうか
不思議なのです。

あたかも、皆、これから乗る特別電車の切符を持っているのに、
自分だけが切符を持っていないみたいな感覚です。
みんながいつの間に切符を手にしたか不思議でたまりません。
何か自分がなすべきことをしていなかったのかという罪悪感さえ出てきます。

私も中学生までもそういうことがあったように思うのですが、
みんなもっと小さいときからの付き合いなので、
私を「そういうやつ」と思って当たり前に接していてくれていたのかもしれません。
私の周りには、F君みたいな人がたくさんいたのかもしれません。

考えてみれば、
不特定多数の人に向けてこんなブログを書いていること自体が、
協調志向のないことを端的に表しているのかもしれません。

他人の反応を気にしないでやりたいことをやる
犯罪や不道徳な行為でなければ、
それは自由なはずなのですが、
よくわからないお約束事があって、
ダメなこともある。

そのことに敏感な人と
そうでない人がいる。

これまでは、例えば、
前頭前野腹内側部の機能停止ないし低下で
いろいろな説明をしていたのですが、
自閉症の場合、どうやら違うようです。

ある程度は他人の感情がわかるのです。
可愛そうという気持ちもわくときはわきます。

また、将来的な派生問題を推測したり、
複雑な思考をすることもできます。

ただ、他人の反応がわかりながらも
それが自分の行動を制御するきっかけにならない
モチベーションとして成り立たない
ということだし、

その群れに協調しない志向に
程度や種類もあって
単純ではないからです。

この「自閉症の世界」を読んでいると、
そういうことに思いをはせることができます。

いわゆる普通の人が、本能的に気にすることに
一切興味がない分、
本当に考えたいことに集中することができます。

いわゆる普通の人が、
「そんなことできるわけないだろう」
と言って、着手しないことにも着手できるということがあります。

いわゆる普通の人が、
「それが正しいんだ」
ということも、納得できなければ
正しいという評価はしません。

頭で論理的に理解できないことに
賛成することもできないわけです。

こういってしまうと
いわゆる普通の人が劣っているように言っているようにも聞こえるかもしれませんが
そういうことではありません。

特定のリーダーを中心とした秩序を形成しようとしなければ
集団の力は発揮できないでしょう。

自分が理解しなくても、協調する志向が無ければ
国家も成り立たないでしょう。
国家の否定的側面が無くなったとしても
莫大な肯定的側面も否定するわけにはゆかないでしょう。

協調志向は人間が、群れを作り、
本能的限界を超えた人数の共同作業をするために
どうしても必要な能力なのです。

では、自閉症の人たちは能力が劣るのでしょうか。

そうではないということを最後に述べたいと思います。

初めから無理だよと思っていたら、
現代の科学は成り立たないということです。
シリコンバレーに象徴的な現代は、
いわゆる普通の人が無理だと考えていた
コンピューターやインターネットを
できる、作りたいと思った人たちがいて成り立ったわけです。

その前提となる電気や電話もそうなのでしょう。

空を飛ぶことだって、
いわゆる普通の人が、ばかばかしくて考えようともしなかったことを
真剣に考えていた人たちがいます。

即ち、科学の進歩には、
いわゆる普通の人ではない人たちが不可欠なのです。

これは、この分野でいわゆる普通の人と特殊能力の人を
橋渡しした人たちがいたということなのだと思います。

これが、例えば政治の世界であると、
そのお約束は理解ができないからダメだと思う
という人たちが発言権を持つことによって、
おきそうになった戦争を止められるかもしれません。

例えば、過労死職場やいじめなど
ダメなものはだめといえる雰囲気が作れるのかもしれません。

自閉症と診断された人や
自閉症ではないかと考えている人が、
適切な役割や発言権を持つ社会が
実はとても強い社会なのだと私は思います。

自閉症があると、
人間関係が苦痛になり、
通常の生活を送ることが困難になる場合があります。
そういう意味では「障害」の定義に含まれるのかもしれません。

しかし、本当に障害があるのは、
自閉症の人たちを尊重したり、発言に耳を傾けなかったり、
薬や環境で排斥しようとする社会の方ではないかと
この本を読んでいるとそう思いたくなってしまいました。

自閉症の人たちが過ごしやすい環境は、
いわゆる普通の人たちにとってなお過ごしやすい環境だという
可能性はないでしょうか。

普通に暮らすことのハードルが
人類史上最大になっているのが
現代社会なのかもしれません。

後半を読み進めたいと思います。






nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0