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人間は幸福でなければならない。しあわせになるために始めること。 [進化心理学、生理学、対人関係学]

1 対人関係学における「しあわせ」

対人関係学は、突き詰めるとしあわせになるための学問です。
しかし「具体的にしあわせとは何ですか。」という問題は、
あまり突き詰めて考えられてこなかったような気がします。

対人関係学においての「しあわせ」とは、
「自分の対人関係の中で尊重されて存在していること」
「尊重されて存在すること」とは
「排除される心配を感じないこと」です。

整理すると
「自分の対人関係の中で安心して過ごす事」
ということになります。

もちろん、これだけがしあわせとは言うつもりはありません。
人によっていろいろなしあわせがあるでしょう。

対人関係学には、目的があります。
人間関係にある人たちどうしが支え合い、
生きるための意欲を維持するための学問です。

支え合いに必要な限度で
しあわせを考えればよいということになります。
多少おせっかいな要素もあるのですが、
それ以外をしあわせではないというわけではなく
支えるためのツールということになります。

2 なぜそれを「しあわせ」と呼ぶか

生理学的に見た場合
人間という生物は、安心して帰ることのできる場所に帰ると
交感神経が鎮まります。
血圧が低下し、脈拍が低下し、
内臓の近辺に血液が充実している等
こういう状態です。
つまり安らぎ、穏やかさを感じている状態です。

対人関係学では、これがしあわせと呼ぶのです。
しあわせを感じるような人間関係を構築することが目標となります。
人間関係とはあらゆるものがありますが、
先ずは、家庭、学校、職場等の身近なものから考えます。

安心の逆を考えてみましょう。

常に戦闘態勢でいなければならない家庭、学校、職場にいたら
どうなってしまうでしょう。

虐待が絶えない家庭、いじめや指導死の学校
パワハラやセクハラ、過労死の職場
隙を見せると誰かから攻撃されて
不利益なことが起きてしまう
自分を否定されてしまう。

このような対人関係では
逆に交感神経ばかりが活性化してしまいます。

この不安を解消したいという意識ばかりが強くなり、
八つ当たりのような新たな攻撃が始まったり
人間関係の解消、離婚、転校、引きこもり、退職、犯罪
そして自死が起きてしまいます。

人間は不幸が続くことに適応できないようです。
幸福でいなければ生きる意欲を無くしていくようです。
不幸が、自分の新たな不幸を作り、
自分の周囲の不幸を招き、
雪だるま式に不幸が拡大していくわけです。

実際に交感神経が鎮まらなければ
心筋梗塞や脳卒中になるばかりではなく
精神的な問題も発生してしまいます。

また
疑心暗鬼や嫉妬心ばかりが横行し
自分の利益を確保するために相手を傷つけてもかまわない
ということが起きてしまいます。
さらに不幸が拡大再生産されてしまいます。

どうやら、不幸の始まりは誤解やエラーによって起きている
ことも多いようなのです。

すべての利益に優先して
しあわせになることを目指す
そういう発想があってもよいのではないかと思います。

人間はしあわせでないと
自分が益々不幸になっていくだけでなく、
他人をも不幸にしてしまう可能性が生まれる。
人間はしあわせでなければならないようにできているようです。

3 しあわせはそれほど大それたことではない

対人関係学が目指すしあわせは、
例えば1年間、ひと時も途絶えることなく
続くことを目標にしているわけではありません。

しあわせを感じる時間を増やしていくということです。
不幸を感じる時間を減らすということです。

不幸は、対人関係学的な不幸だけではなく、
不治の病に陥ること
生きている以上死ぬことを避けられない事、
事故による傷害や死亡、
あるいは犯罪に巻き込まれるなどの不幸もあります。
戦争の犠牲になることも将来ないとも限らない
環境問題もそうですから、不安の種は尽きません。

自分たちができる自分たちのしあわせの実現
対人関係的なしあわせ
その時間を増やすという発想は絵空事ではありません。

東日本大震災は、私たちに
「一時しのぎ」の重要性を教えてくれました。
生きていることがやっとのような
何もないときに
芸能人やスポーツ選手、キャラクターが被災地に来て、
他愛もないアトラクションを行うだけで
あるいは天皇皇后両陛下が被災地を訪問されただけで、
しあわせな気持ちになり、
生きる意欲を取り戻した
という経験をしています。

私たちの日常の不幸には、
このような効果的な一時しのぎの方たちは
訪れてはくれません。

しかし、私たち自身が
自分の群れの在り方を改善することができるなら、
一時しのぎが、飛び飛びであっても
継続することが期待できます。
不幸があっても、
しあわせがあれば、
生まれてきてよかったと思いながら
多くの時間を過ごせることになります。

これが対人関係学の目的です。

先ずは、避けられる不幸を避けることが
しあわせになる第1歩です。

4 自分から不幸になるということについて

ところで
弁護士をしていてよく目につく不幸は、
自分の仲間を攻撃してしまうことで起きるパターンです。

<基本形>
Aさんが、八つ当たりかなんかで
Bさんを攻撃したとします。
Bさんは、Aさんが自分を不幸にする行動していると
危険意識を持ちます。
AさんとBさんが属する仲間(家族とか友人関係等)から、
Aさんは自分を排除しようとしていると
Bさんは感じるわけです。

その結果、
ある場合は、Bさんはその攻撃で傷つき苦しみます。
ある場合は、Bさんは自分を守るために反撃します。

攻撃したAさんも、
相手Bさんが苦しんでいるところを見てしあわせにはなりません。
Bさんが苦しんでいることを見ても、怒っているところを見ても
Aさんは、Bさんの状態をみて、
今度は自分が攻撃されるだろうと考えてしまうわけです。

あるいはBさんが苦しんでいるのを見て
一緒に苦しくなってしまうことも多くあります。
同じ対人関係の中では
争っていること自体で、交感神経が活性化されます。

つまりいずれにしてもBさんを攻撃しても
Aさんの不安は消えないのです
その結果双方の怒りが持続してしまうことが多くあります。

<応用というより現実に多い型>

Aさんは、通常は、Bさんが自分を嫌っている
自分との関係を終わりにしたいと思っているかもしれないという
漠然とした誤解に基づいてBさん攻撃します。

実際はAさんの対人関係的危機感は実在しない事実に基づくこと
で始まることが多いようです。

BさんがAさんを攻撃したという事実は存在しないにもかかわらず、
それでもAさんが攻撃をしてしまうと
AさんがBさんを攻撃したという事実は実在しています。
Bさんは、理由なく攻撃してくるのだから自分が嫌いなのだろうと
対人関係的危機感を抱くのは当然です。

Bさんは、Aさんに対して不信感を持つでしょうし
反撃をするかもしれません。
そうして、実際にAさんから離れていくわけです。

自分の誤解で、自分が不幸になる
こういうことが対人関係紛争の大きな一類型です。

実際はBさんも、多かれ少なかれ
Aさんに対する対人関係的危険意識を持っていたり、
知らず知らずのうちに、
Aさんの対人関係的危険意識をあおるような行為をしてしまっている
ということがあります。

自分と他人の関係に絶対的な自信を持っている人は少なく、
多かれ少なかれ対人関係には不安に基づく疑心暗鬼がつきものです。
自信を見せびらかせて歩いているような人も
実は自信のなさを隠そうと必死になっているという場合も
少なくありません。

実は、このような不安があるからこそ
相手に配慮して生きていたわけで、
人間が群れを作って生き延びてきた原理だというのも
対人関係学の一つの結論です。

人間は古来(200万年くらい前から)、
相手の不安を気遣い、
相手に対人関係的危険意識を持たせないように工夫して生きてきました。

現代社会には、これを妨害するような事情がたくさんあります。
それはおいおい説明するとしましょう。

5 自分から不幸にならないために

自分が、意識的に
相手を尊重することを行動で示すということです。

先ほども言いましたが、
人間には対人関係的な不安がありますから、
自分から相手を尊重することは
なかなか難しいものです。
相手が自分に好意を寄せてくれるならば
こちらも親切な行動をする
ということは比較的簡単です。

分かりやすく極端に言えば、
自分をこれから捨てようとしているかもしれない相手を
気遣って、支えてあげる行動をするということは、
無駄な努力をすることになるかもしれない
惨めなことかもしれない
と思ってしまうかもしれません。


誰しも、自分は損をしたくないと思うのかもしれません。
自分の大事な人よりも得をしたいと思うわけがないのに、
無意識にそういう行動をしているのかもしれません。

しかし支え合いを始める時は、
誰かが最初にそれをしなければなりません。
疑心暗鬼のままでは、
お互い歩み寄ることができません。

どうやら自分を大事にしすぎると
最初の気遣いができないという関係にあるようです。

それならば
自分を大事にしない事が良いのかもしれません。
自分を棄てるという意識が必要な場合もあるかもしれません。
相手のためにそれをしてあげるという意識は、
それ自体、本当はしあわせになることなのですが、
現代社会ではここが難しいようです。

しあわせを感じにくい人は、
これができないようです。

自分を大事にしすぎるあまり
仲間から疎ましがられ、
結局は孤立してしまうのです。

自分を守ろうとして自分を孤立させる
こういう悲劇を弁護士はよく見ています。

ここでいう自分を大事にするとは、
自分の体を大事にするというよりも、
自分の信念、こだわり
あるいは体面を守るということが多いと思います。

これが余裕のない状態で展開されると
自分が正しいと思うルールを
仲間に守らせる。
守らない仲間を攻撃するということに
自分で意識しないでもそうなっています。

自分を守るため、
仲間ではない人の意見を聞いて、
それを形式的に仲間に適用して
結果として本当の仲間を攻撃してしまうということも
よく見られます。

自分を守ろうとするために
自分から孤立に向かっていく人たちがたくさんいます。

6 しあわせの切符は、相手の感情を尊重し、共感するということ

相手のために自分を棄てるのは良いとして
どうすればよいのか
ということになりますよね。

簡単に言えば、相手の気持ちを優先する
相手の不幸を防止する
つまり、相手に
自分はあなたを突き放すことは決してしない
という安心感を与えることです。

相手を肯定すること、相手の感情肯定すること
肯定できる部分を探し出してでも肯定することです。

それができないことならば
「やろうとしているのだけれどできない
ごめんね」と投げかければよいわけです。

基本は、相手の嫌がることをしない
相手の顔をつぶすことはしない。
から始まって、
相手のしてほしいことをする。
相手に賛成できるところを探し出して賛成する。
ということになります。

そのためには、
相手の気持ちに敏感にならなければなりません。
嫌がっていることに気が付かないとか
やってほしいことに気が付かないということがだめなわけです。

どうしてそのようなエラーをするかというと
多くは自分を守るためという発想です。

例えば、
自分の良いところを評価してもらいたくて、
アッピールをしてしまいます。
例えば、楽器を弾いて見せたり、
料理をして見せたりということをするわけです。

おそらく、それをすることによって
母親等から褒められた経験があり、
母親と同じように自分を称賛してもらいたいのでしょう。

しかし
それをみた相手は
自分ができないことができることをこれ見よがしに強調された
馬鹿にされたと受け止める場合もあります。

例えば、
友人関係を大切にするあまり、
しょっちゅう自分の友達を家に呼ぶ
しかし、相手はあまり社交的ではなく、
他人が家に出入りすることは実は嫌だ

あるいは、家を空けて友達の集まりに行ってしまう。

あなたは、友達づきあいは健全であり
何も悪いことはしていないので、
自分は悪くないと思っても、
相手は寂しがっているかもしれません。

自分が間違っていない、正しいということが
相手の感情に気づかなくさせているということがあるようです。

自分を大事にするあまり
相手の感情に注意を払うことができない
注意を払う余裕がないというより、
注意を払う発想がないという感じです。

今、あなたが不幸だと感じているならば
特に
自分は何も悪いことをしていないと感じている場合、
先ず、自分を棄てることから始めることがよいかもしれません。
自分を勘定の外において、
あなたが一番自分に寄り添ってもらいたい人のことを
どうやって大事にするか
何をしたら喜んでくれるのか

そして恥ずかしがらずに
相手のためにそれをしているということも
はっきり伝わるように行動をしてみる

自分を棄てることによって
しあわせを逃がさないで手繰り寄せる
ということがあるようです。

あなたが大切に思っている人が
あなたと一緒でよかったと思う時間が増えることが
結果としてしあわせを招くし
しあわせを長続きさせることになるのだと思います。

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