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なぜ宗教は、人種や民族の壁を越えて存在するのか、何時から存在するのか、不安解消行動としての原始宗教と対人関係学 [進化心理学、生理学、対人関係学]




進化生物学の学者さん方は面白いことを考えるもので、
・人種や民族、科学の到達度に関わらず、
なぜ宗教は普遍的に存在するのか
・いつから宗教は始まったのか
ということをテーマに考えを進めているようです。

この問題を考えていくうちに
宗教には、いろいろな利点があるからではないかと考え、
1)宇宙の体系的な説明が可能となる
2)人生を過ごしやすくする
3)規範(社会の約束事)を提起し社会秩序を維持する
4)共同体への参加意識を持たせる(同じ宗教を信仰する仲間)
という4点が人類にとって普遍の利益だというのです。

ここまでロビン・ダンバー先生の
「友達の数は何人?」(インターシフト)
を参考にしています。

私は、このほかに、
衛生問題とか、仕事上の便利さとか、生活の知恵とか
先人たちの経験や知恵を定着させて
人生を豊かにしている側面があると思っています。
メディアとしての機能を持つ宗教、信仰という側面ですね。

その他に、人類が宗教の存在を切実に必要とした理由として
「不安解消方法としての宗教」という側面があると思います。
これが、4つの利点と重なるのかどうかは自信がありませんが、
対人関係学的な説明ということで、お話ししたくなりました。

不安とは必ずしも死ぬことばかりではありません。

人間は好奇心が旺盛な生き物であり、
知りたいことがわからないと厄介なことになる
ということのお話しです。

漫才の春日三球照代師匠の名セリフで、
「地下鉄の電車はどこから入れたの?
それを考えてると一晩中寝られないの。」
というのがあります。

地下鉄に限らず、
一晩だけ寝られなくならよいのですが、
それ以上になるともっと深刻な話にもなりそうです。

この世界の果てはどうなっているのだろう
星はなぜ夜に輝くのだろう
人は死ぬとどうなるのだろう
誰が人間を作ったのだろう
世界の始まりと終わりはどういうものだろう。

そういう壮大な疑問もあるでしょうし、

どうして私はここでけがをしてしまったのだろう
どうして大切な友達が私から去って行ったのだろう、
私は何か悪いことをしたのだろうか等
身近なことまで考えればきりがないことが多くあります。

考えても答えが出なければ
もっと答えを知りたくなる。
答えが出ないと不安でたまらなくなる。
そう言った状態になるのでしょう。

本当に一つのテーマを段階を追って考えていけば良いのですが、
単に想像がつかないことを想像しようとして
考えるエネルギーを使い果たしてしまうと
自分がなくなってしまうほど脳が消耗してしまったりします。
これは大変危険なことです。

誰かがどこかでストップをかけなければ
もしかすると歴史的に多くの人間が
早死にしていったかもしれません。

もし宗教が、これが正解だと示すことができるのであれば、
ある程度の納得ができることでしょう。
特に考える方法がないのに考えることは無くなると思います。

ギリシャ神話にはイカロス(イーカロス)という人物が出てきます。
翼を作り空を飛びまわっていたようです。
ある日イカロスは、父の教えを破り
太陽に近づいたために翼のろうが解けて地上に墜落して亡くなります。

よくこれは人間の傲慢さを戒める話だと言われますが、
人間の力、特に脳の力を超えて考えすぎた者が、
人間の脳の限界を超えて考えすぎて自我消耗を起こした
という話のように思えるのです。

日本には和算という学問があります。
漢字の数字で微分積分等、自分で問題を出して答えを出していたようです。
とてつもなく素晴らしい問いと答えができた場合は、
絵馬に記載して神社に奉納していたようです。

おそらく脳の限界まで思考を深めることが通常なので、
素晴らしく高等な問いと答えができた場合は、
不吉なことという感情もあり、
神社で厄除けをしたという側面もあるのではないかとにらんでいます。

江戸時代に和算が庶民に広がったというのですから
人間はよほど頭を使うことが好きなのだと思います。

「わからないことはわからない」という代わりに
「神のみぞ知る」ということが言われたのでしょうが、
これは人類に必要なタームだったのでしょう。

では、何時くらいから宗教は起き始めたのでしょうか。

先ず、人間のこころが生まれた200万年前は
まだ宗教は生まれていなかったと思います。

人間のこころが成立したとされる200万年前は、
人間は身の丈に合わせた人数の他人と共同生活をしていたのであり、
生まれるから死ぬまで原則として知り合いの中で生活していました。

そう高度な原因結果の関係は考えず、
特に座禅を組まなくても
全ての人間がすべてを受け入れてきたのだと思います。
苦しみも痛みも空腹も、死も生も
すべて受け入れていたのだと思います。

時間もゆっくり過ぎていったのでしょう。
発明や発見も1万年単位で進んでいたと思われますので、
人一人の一生では、何も変わらない
という感覚だったと思います。

ところが、今から数万年位前から
人間が狩りをやめて定住をはじめたことによって、生産力も上がり、
村が作られていく中で、
150人(人間が同一性を把握できるおおよその人数、ダンバー数)
を超える規模の人間と交流を余儀なくされるようになりました。

とたんに時計が動き出します。

交流によって、あちこちの発明が
瞬時に(数年位で)入ってくるようになり、
応用することを考えていく中で
物事の仕組みについて考えるようになったのではないかと
想像をたくましくしています。

仲間は一つではなくなり、
人間同士の戦いが生まれ始めてきたのだと思います。
利害対立が生まれたのです。
これがパンドラの箱を開けた状態、
あるいは楽園からの追放というシーンが
リアリティをもって説明しているように感じます。

自分や自分の仲間を守る必要が生まれ、
あるがままを受け入れることができなくなりました。
それとともに知能が発達したということなのでしょう。

利害対立が生まれれば利害調整の知恵も生まれてくるでしょう。
紛争を避けるために、概念や物体を示す共通の言葉が生まれ
言葉の数が増えて行きます。

言葉を使うようになれば、
言葉をつかって考えるという作業が行われるようにもなります。

言葉が増えていき、
決め事が増えるとともにまた言葉が生まれて行きます。

人間関係が複雑になり、それに対応しなければなりませんので、
脳の活動も変化してきたのだと思います。

考えれば、もっと快適に生活できるという感覚が、
考える楽しさを人間に与えたのだと思います。

同時に、言葉によって、
当時は考えても仕方のないことまでも
考えるテーマとして設定されたために、
考える苦しさ、焦り、不安も感じるようになったのでしょう。

この時期あたりで原始宗教が生まれたのではないかなと
そう思っております。

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