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男性的価値観と女性的価値観の違いを直視して、家庭の中のことは妻に従うべきであるという根拠 [進化心理学、生理学、対人関係学]




男性的価値観と女性的価値観は、異なります。
なぜ、そう言うのかというと、
弁護士として離婚事件に立ち会うと、
家族の不幸の原因は一つではないとしても、
夫が気が付かないで男性的価値観で妻の行動を評価し
無邪気にダメ出しや指図をしているうちに、
妻は、気づまりになったり萎縮するようになったりして、
一緒にいることが苦痛となり、
嫌悪や憎悪が高まって後戻りできなくなってしまったのではないか
ということをよく目にするからです。

女生と男性は価値観、行動基準が違うとしっかり認識することが第一歩で
どちらにも一長一短があるのだからどちらが正しいわけではなく、
うまく使い分けるべきだということで、
家庭では女性の価値観、行動基準に合わせた方がうまくゆく
ということを言いたいために男女は違うのだと断言することとします。

男性的価値観とは、会話の中によく現れています。
一度言葉にした以上、なかったことにしないこと
前に言ったことと矛盾することを言ってはいけないこと、
論理的な流れに従って話をすること
テーマに沿ってかみ合う形で議論を進めること
感情は、後回しにすること。

効率よく目的遂行に役に立つということに価値をおいて
そのために有効なやり方だということだと思います。
学校や職場等で鍛えられる議論の進め方ということになります。

これに対して女性は、
相手や自分の感情を大切にすることを優先します。
その場が円満な状態になることを大切にするわけです。
相手の過去の言動には寛容な姿勢を示します。
あえて白黒をつけないということもあるかもしれません。

(けんかをしている場合は別ですからね)

この男女の違いには理由があります。
人間のこころが成立したとされる200万年前の
男女のそれぞれの役割遂行に都合がよくできているのです。

当時人間は樹の上の生活から平地に降りてきて
数十人から150人の群れに所属して
生まれてから死ぬまで一つの群れで生活していました
主に男性が小動物を追い詰める猟を行い、
主として女性は、子育てをしながら、
食べられる植物を採取して男性の帰りを待っていたようです。

ジェンダーフリーという考えをしている人の中には、
「このような考えはけしからん」と抗議をする人たちもいるようです。
女性は、人間が成立した時から
男性に従属していたものになってしまうので認められないというのです。

私から言わせれば、こういう一部の人は
ご自分が男性的価値観に従属してしまっていることに
気が付かないだけだと思います。

それともいうのも
狩りを終えた男性が群れに帰還した場合、
男女は全く平等で、
獲得した食料も全員で平等に分けたようです。

現代社会のように、
一人一人が独立した人格であるというよりも
群全体が一つの動物という扱いをしていたようで、
他人と自分の区別もあまりなかったのではないかと想像しています。

動物性たんぱく質を獲得することも
脳に栄養を与えることで大切なことですが、
子育てをしなければ群が消滅します。
動物性たんぱく質を摂れない場合に備えて
植物を採取しなければ飢え死にしてしまいます。
だから、植物採取も命を維持するために大事な作業です。
どちらが価値があるかなんてことは全く考えなかったと思います。

また、平等に栄養がいきわたらないと
弱い個体から死んでいきますので、
平等に食料を分け合うことも絶対条件だったようです。

仲間に栄養を行き渡らすために、それを喜びとして
狩りという危険な重労働を行ったのだと思います。

自分だけ楽をするとか
自分だけ多くとるという発想の無い時代でした。

ではなぜ女性が狩りをしなかったのか、
それは二足歩行の問題があると思います。
人類が二足歩行を確立したために
骨盤の位置が地上から高い所に上がってしまいました。
こういう事情もあって、流産がしやすくなったのです。

女性が狩りに参加して走り回っている群れは
赤ん坊ができにくい
女性が狩りに参加しない群れは赤ん坊が生まれやすい
ということになれば
女性は狩りに参加してはいけないという結論が
掟(おきて)となって守らせようとするわけです。
掟なんて悠長なことを言っている場合でもなく、
群に赤ん坊が生まれてこなければ
群が死滅してしまうので、
女性に狩りをさせない群だけが生き残ってきたというわけです。

また、赤ん坊は母乳を飲むしか生きるすべがないので、
乳児期は女性による育児は必須でした。

だから、自然と女性は狩りをしなくなったのだと思います。

徐々に、男女の役割分担ができてきたのでしょう。
当然植物採取チームの中には
狩りで傷ついて走れなくなった男性もいたわけです。

狩りチームは小動物をしとめるという
絶対的な目的があります。
できるだけ無駄のない動きをして
失敗を極力避けて
確実に小動物をしとめることに
価値をおいて言ったことは簡単に想像できます。

矛盾する行動をとることは
仲間を混乱させてしまい
小動物を取り逃がしてしまうでしょう。
わき目も降らず、狩りという目的に直線距離で進む
そういうコミュニケーションの方法が
あるべき姿だという考えがしみついて行ったと思われます。
途中で気が変わったということが許されるはずもありません。

これに対して子育て・植物採取チームは、
小動物を狩る場合のような
差し迫った目的に向かっての共同行動はありません。
むしろ子育てという行動を共同で行うためには、
仲間を脱落させてはならないということに
主眼があったはずです。
常に相手の気持ちを考えて
相手を一人ぼっちにしない、
寂しい思いをさせない等
相互の感情を優先させる価値観がしみついて言ったと思います。

誰かが矛盾する行動をとっても
途中で気が変わっても、
狩りチームほどそれによって何かを犠牲にするということがありません。
それ程目くじらを立てる話ではないという
価値観を共有するようになったのでしょう。
このように実害がないことに寛容になり、
みんなが機嫌よく一緒にいることが一番
という価値観が生まれたかもしれません。

そうやって人間の脳やこころが形作られていったのでしょう。

そうでないパターンの思考をする人間たちの群れは、
狩りチームは小動物を狩れないし、
植物採取チームは仲間割れをしてしまうことになります。
そうして群が消滅した
というパターンも多かったと思います。

私の言う男性的価値観、思考パターン、コミュニケーション術は、
厳しい環境の中で、
失敗が許されない状態の中で確実的に目的を達成するためには
合理的なパターンなのです。
ところが、相手の感情を重視しないため
群を調和させ、維持していくということにかけては
あまり向いていないパターンなのだと思います。

家族でなにかやる
例えば、子どもをプロ野球選手にするために一致団結する
という目的があったとすれば
それは男性的コミュニケーションが役に立つかもしれません。
しかし、子どもをプロ野球選手にすることはできても
家族の一体性、存続、幸せが犠牲になる危険性に対しては
無防備にさらされているのかもしれません。

通常の家庭では、
家族で命を懸けて何か一つのことをするということはないのだから
家族の幸せを第一に考えてよいのではないかと思います。

そうすると、男性的な思考パターンは
無駄な緊張を強いるだけというデメリットがクローズアップされてくるのです。
例えば、
「明日、海辺の町に行ってお寿司を食べようね」って
妻が言ったので夫である自分がその気になっているのだから
今さら「海はなんとなく寒そうだから温泉に行きたい」
なんてことを言うなと怒ってみたり、

妻が本を買いたいというから本屋も入っている大型店舗にきたのに
妻が入り口近くにある小物屋で商品の物色に夢中になってしまい
本屋に行く時間が無くなってしまうので、
小物屋に時間をとることは不合理だと怒ることもないわけです。

気持ちが変わればそれに合わせればよいわけです。
本なんか買えなくとも、妻がニコニコしていればそれでよい
という考えを男はなかなか持てない。

つい無駄な合理性、無駄な論理整合性が
むくむくとこみあげてきてしまうわけです。

でも、200万年前も
男性たちは狩りの時は厳しく緊張をして狩りをしていても
獲物をしとめ誇らしげに帰宅してしまえば
おそらく、妻や母等女性チームの論理に
従って暮らしていたのではないかと思うのです。

男性的な価値観は
現代社会においては、
極めて限定的な場面にしか有用ではなく
多くの場面ではデメリットの方が大きいと
そういう考えもあるわけです。

乱暴に言えばそれが第2次フェミニスト運動です。
男性的な価値観から女性的な価値観に社会的転換を行い、
平和で公正な社会を実現するという主張がなされました。

昭和後期に労働法を学んだ者たちは、
多かれ少なかれこの考えの影響を受けています。

先ほど述べた、進化生物学を否定した一部の第三波フェミニストたちは
男性的価値観、女性的価値観という違いがあること自体を否定するのでしょう。
しかし私には、それは結局
いびつで硬直な男性的価値観を唯一の価値観としてしまう
という危険性をはらんだ考えではないかと心配しています。

それはともかく、社会的にも
最近は多様な価値観を尊重するという言い回しが増えているのですが、
先ず、目的達成のための合理性の追求という
男性的価値観の存在を前提として
考えが進められているように思えてなりません。
社会の中では依然として男性的価値観が世の中を動かして、
弱者保護は、余裕がある場合の付録のように扱われていると感じられることがあります。
今いる人たちが、無条件に機嫌よく生活するということの価値観が
それ程顧みられているようには思われません。

特に男性は
合理性、論理整合性というものに絶対的価値をおくという姿勢を
長年に渡って思考に刷り込まれていていますので、
家庭の中にも合理性、論理整合性優先の姿勢を
持ち込んでしまっているというように感じてなりません。

自分がいま男性的価値観にたっているということを
自覚することはなかなか難しい。
私自身もそう感じています。

「あ、これは男性的価値観が出てしまったからやめよう」
なんて色分けをすることはなかなか難しいのです。
そんな分別をするよりも
とりあえず、家庭を大事にするためには、
少なくとも家庭の中でのことに関しては
妻や娘、母にイニシアチブを預ける
ということを心掛けることがよいのではないかと考えています。

誰かの気持ちを考えることを優先にすることを学ぶべきだと思います。
突然の気が変わるということは人間だからあるわけですから
気分は悪くなっても、怒らない。
下調べなどの準備が役に立たなくなっても、
そのことで文句を言うデメリットを考えれば、
言わないに越したことはないようです。

苦労は苦労で感謝されるし、
臨機応変にこちらのリクエストに応えてくれる
という方が、夫の価値が上がるようです。

この視点は女性にもてるためにはどうすればよいか
という世俗的な役にたつばかりではなく、
ビジネスシーンにおいても
寛容なビジネスマン
臨機応変なビジネスマン
という称号をとるための近道にもなるわけです。

私は、もっと女性的価値観が
社会にも職場にも意識的に取り入れられるべきだと思っています。

「必殺仕事人」の中村主水は、
外では、非情の刃傷沙汰を繰り広げながらも
家では、嫁と姑に頭が上がらないという役どころなのですが
案外こういうことを理解した上で
自然にふるまっている達人なのかもしれないと
今思いついたので、これでこの文を終わりにしたいと思います。

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