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暴力がなぜだめなのか考え、暴力がない場合でも離婚が生まれる原因を割り出し、逆に家庭が幸せになる方法を考える。子どもの連れ去りを防ぐためにできること。 [進化心理学、生理学、対人関係学]



1 暴力を受けた場合の効果。
 ①体が痛くなる。
 ②さらに暴力が加えられるのではないかという恐れを抱くことからこのまま暴力が終わらないで続くのではないかということで最悪の場合は死の恐怖を感じることがある。
 ③暴力が収まった後も、また暴力を受けるのではないかという恐れが出る。
 ④自分の主張、行動が、暴力によって阻止された不自由さから怖さを感じる。自分の安全をコントロールできない苦しさを感じる。
 ⑤自分自身の存在が力づくで否定されたということからの屈辱感を受ける。
  弁護士ですから傷害事件の弁護をすることもあれば、被害者の代理人になることもあります。一言で暴力被害と言いますけれど、様々な損害が生じていることを実感することが多くあります。
  暴力の加害者と被害者の関係も、行きずりの関係の場合もあるし、夫婦や親子という継続的な関係の場合もあり、その関係性によっても影響は変わってきます。例えば、路上で性犯罪の被害を受けた女性は、抵抗して性的には事なきを得たとしても強烈な恐怖感情が持続する場合が多くあります。その際、「犯人が自分を知っていて、自分がつけ狙われて襲われたのだろう」と感じると、また襲われるのではないかという恐怖が上乗せされていきます。「どこの誰だかは分からないけれど、路上で見つけて追ってきたのです。」というと、幾分安心されるということがありました。
  暴力の被害というと、暴力を受けたことの無い人は①だけを念頭に置くようです。いつ終わるか分からない暴力を受け続けると、②の恐怖が生まれていくことが通常です。暴力を今受けている人が物事を悪い方向で考えていくのは理由のあることです。暴力を受けていると、自分の身を守らなければならないという危険に対する反応が発動されます。わずかな時間差ですが、この反応は、危険を意識、実感するよりも先に発動されているそうです。意識をする前から、脳の信号が副腎に到達し、副腎皮質ホルモンを分泌させ、様々な反応を起こします。そのほかに、脳の働き方も変えてしまいます。すべてが基本的には走って危険から逃げることを効果的にするための変化と考えるとわかりやすいと思います。早く確実に逃げ切るための変化です。脳の思考の変化の代表例は、危険がいつまでも追ってくるような意識が生まれます。確実に逃げ切るため、危険の有無があやふやな段階で逃げることを止めないために、まだ危険が終わらないのではないかと思うことは有効です。これを言葉でいうと、悲観的思考傾向になるということです。そのため、一度危険反応が起きてしまうと、さらなる危険が生まれるのではないかという恐怖が大きくなります。それがさらに危険反応を増強してゆき、パニック発作が起きたり、失神してしまったりすることにつながるわけです。これは暴力行為者の意図とは関係ありません。暴力行為者が、単発の暴力を意図していても、暴力を受ける側はそうは思わないのです。暴力を受けるものは、時として。現実の被害に見合わない過剰反応を起こすことになります。これは確実に逃げる仕組みからは当然のことだということになると思います。
  ③も基本的には暴力という危険に対する反応です。記憶というものは、危険の存在や仕組みを覚えていて、その後に危険に力よらないというためのものだと考えるとわかりやすいと思います。一度感じた危険は,それが解消されない限り、危険の記憶として残ります。どうして暴力を受けたのかということがはっきりしていれば、その誘因行為をしないということで対処ができて、ある程度安心することができます。
しかし、暴力がどうして起きたのか分からない場合は、対処の方法が分からないために、やみくもに自分を守ろうとしてしまいます。このため一見不合理な危険反応が生じる場合があります。ある例ですが、職場で仕事をしていて、右隣の席に座っている人から突然思い切り殴られた人がいます。殴った方は精神的に問題があった人だったようです。周囲はその人を取り押さえることに夢中で、殴られた人の介抱をする人がいなかったようです。殴られたこと、理由がないこと、介抱されなかったことの3要素があったことが重要だと思います。この殴られた人は、自分の右側から災いが来るという恐怖を常に感じるようになり、また口に出して言うようになったため、統合失調症の診断を受け、強い薬の副作用の結果廃人然となり、身体障碍者手帳をもらうようになりました。実は統合失調症のように理由のない不安ではなく、理由のある不安だということを分かった別の医者が強い薬をやめたところ、廃人然とした症状は消失してしまいました。暴力を受けた者にとって理由のわからない暴力は人間の精神に深刻な影響を与えるようです。正直、他人なんて本当は信用できないわけです。ところが、理由なく暴力を受けることはないという暗黙のルールを信じて、見ず知らずの人と近くにいても人間は不安にならないようです。この暗黙のルールがはっきりと反故にされてしまうのですから、それは、人間の中にいること自体に不安が生まれることは当然なのだろうと思います。小学や中学でいじめにあった子どもが、不合理な反応をして統合失調症などの病名をつけられ、精神科病棟に多数入院しているという現実があります。
  ④は、根源的には「逃げることができない」という意識です。現実の暴力があるのだけど、暴力によって行動の自由を奪われる。②の恐怖とはまた別に、行動の自由を奪われること自体による苦しさがあるようです。人間は、他の動物と同様、自分のことは自分で決めたいという本能もあるようです。自分の行動の自由を奪われるということは、それ自体で強烈な苦しさや不安を感じてしまうようです。
  ⑤は、案外見落とされることが多くあります。暴力自体が卑劣で許しがたい場合等、人間は暴力を受けた者の被害の中身を十分に検討することができなくなるようです。実は暴力の影響で一番問題があるのはここだと私は思っています。要するに痛いから傷つくのではなく、暴力行為者が暴力を受けた者に対して、「暴力を受けても良い人間だ」という評価をしたこと、人間として認められていないという意思表示だと受け止めて屈辱を感じているという点です。
暴力は通常暴力を受けた者の行動との関係で起きています。暴力を受けた者が暴力行為者に対して行った言動を否定するため、例えば暴力を受けた者が暴力行為者に対して「そんなことだから出世しないで、給料も低いんだ。」とか、「こんなこともできないなんて役立たず」等の言葉を発したときに、逆上して暴力に及ぶということが典型的でしょう。それから、暴力を受けた者が大事なお金を遊びにつかってしまったり、子どもの不利益になることをしても平気でいたりという行動面に対する暴力行為者の制裁などということも多くあると思います。その原因になった暴力を受けた者の言動が、道徳的に非難されようとあるいは違法であろうと、暴力を受けてその言動を阻止されるということは、暴力を受けた者にとって自分自身の行動を阻止された、行動の自由を奪われたという感覚だけが残ってしまいます。これ自体が恐怖と屈辱の混じったネガティブな感情を起こさせます。
暴力行為者が自分にとって近しい人間であればあるほど、この人間として認められていないという屈辱感、疎外感を感じます。また、暴力を受けている現場に他の人間がいる場合、自分に対する否定評価が自分の関係者に知れ渡りますから、それもまた屈辱なわけです。そしてそのギャラリーが自分を助けてくれないということも、大きな弊害を生みます。
  数年前に、大阪の高校生のバスケット部のキャプテンが顧問から暴力を受けて自死をしたという事件がありました。このケースも、暴力によって痛いということよりも、自分が暴力を受けても仕方がないような仲間として認められていないということと、それを周囲に知られてしまったということからくる心の痛みのほうが大きかったのではないかと思うのです。そのこととの関連で将来に対するなんらかの絶望を感じたのではないでしょうか。
2 例えば夫婦間暴力の場合(主として夫から妻への暴力)
 1)暴力の程度が軽い場合
   暴力の程度によりますが、痛いという感覚は当然あるでしょう。ただ、それほど痛くなくこつんと叩くということがあるかもしれません。その場合、②の暴力がやまないのではないかと思う恐怖や、③の暴力の再発に対する恐れは起きにくいかもしれません。抵抗力を奪われない程度であれば④の不自由感もないかもしれません。
   しかし、⑤の屈辱は感じる場合が多いようです。男性と女性の間には体力差、筋肉量の差、あるいは軽い暴力に対する経験の差があり、男性からすればとるに足らない暴力であっても、暴力を受けた方からすれば自分が尊重されていないという気持ちが強くこみあげてくるということはあるようです。体は痛くないけれどとても不愉快だということです。
   また、この差は、暴力の軽重の評価にも関わってきます。男性からすると軽い暴力であっても、女性からすると怖いと感じることがあり、評価のギャップは生まれやすいようです。特に暴力をする方は、どの程度の力を入れてどこをたたくかなどという暴力の質量を事前に知っているわけですから、自分の行為の結果を軽く考える傾向にあります。しかし暴力を受ける方は相手の頭の中なんてわかりませんから、より重い暴力が振るわれると身構えることは仕方がありません。これも危険に対する反応なのでより悪く予想して、逃げることを確実にするための動物の反応だということになります。暴力を受けた者と暴力行為者との間で暴力の軽重については評価が分かれることは自然なのです。
 2)暴力の程度が重い場合
   暴力の程度が重い場合、あるいは暴力を受けた方が重い暴力だと認識した場合は、暴力を受けた者の側からすれば同じですから一緒に論じます。いずれの場合でも反応のもとになる危険が大きくなるわけですから、反応もまた大きくなり、過剰反応も起きやすくなります。
   先ず、①の体の痛みが重くなります。そうすると、暴力行為者の方はワンアクションの暴力だと、つまり一回殴っただけ、一回蹴っただけと思っても、暴力を受けた方はこれが続くのではないかと思ってしまうこと、あるいは一度止んでもまた同じような強い暴力が起こるのではないかという②と③の効果が起きやすくなります。
   ある女性は、夫から暴力を受けたのは2回でした。いずれも頭部を殴られたもので、眼球の周囲が腫れあがる傷害を負いました。一時的に視力の低下も起きたようです。当の女性すら意識しなかったのですが、体が夫の再度の暴力を怖がり、徐々に夫を刺激しないように、夫に逆らわないようにと行動を制御するようになり、緊張状態が持続していったのです。またいつ暴力を受けるか分からないという身構える状態が無意識のまま続いていたようです。
   この二度の殴打も女性の発言がきっかけだったようですが、おそらく夫は発言を誤解して殴打に及んだようです。女性からすると、夫を攻撃するような発言をしていないという意識なので、なぜその時夫が自分に敵意を抱いて暴力に及んだのか全く理解できませんでした。突然目の付近を殴られたという記憶しかありません。このため、女性は夫の前で発言することそのものが怖くなっていきました。自分で自分の行動を決められない。夫の顔色を窺う癖がついて行きました。こうなると、夫が近くにいること自体が苦しくなります。だんだんと言葉を発しなくても、突然殴られるのではないかという気持ちになっていきました。しかし、女性はなぜ自分が苦しいかわかりませんでした。うつ病と診断されて、長期の療養が必要となりました。数年後離婚訴訟となりましたが、女性本人が自覚していないので、暴力と療養の関係が主張されませんでした。後に私が代理人となり、話を聴き取る中で暴力とうつ病の関係に気付き、詳細な陳述書を作成することができました。女性は暴力の効果④の行動の自由を暴力後も奪われたという意識が続けていたわけです。
   また、自分が妻として尊重されていないという⑤の意識も同時に起こり、継続したようです。体の痛みは消えても、暴力の再発の恐れと尊重されないという心の痛みは継続したようです。夫と自分が仲間だという意識も消失していきました。やがては、夫と自分は同じ仲間の関係にないのだから、自分の行動の自由を奪う敵対関係にあるという意識が育っていったようです。これでは、近くにいることに安心できないことはもちろん、夫が一緒にいると何か悪いことが起こされるのではないかという、不安を招く存在であり続けることになります。それでもそのメカニズムは分からず、ただ自分は苦しいんだということだけが自覚されていたようです。やがて女性はノイローゼとなり、医師からはうつ病であり、そのストレスの原因は夫であるから夫から離れて暮らすことを勧められるようになりました。
   夫に言いようのない嫌悪と不安を感じる原因が過去の暴力にあるという事情は、なかなか自覚することが実際は難しいようです。それでも、自分が尊重されていないということは感じます。不安や不快を感じていることは分かっています。その原因になるものは何なのかがズバッと言い当てることができない。それでも離婚したいほど嫌悪を感じています。その際、このような女性に就いた代理人は、そのことが理解されないために、しばしば取るに足らないことを離婚理由として掲げます。離婚したい原因として女性があげる原因としての事実は、暴力からだいぶ経過した後の嫌悪感が完成した時期の出来事しか思い浮かばないからです。また、事実を誇張して主張することも多くあります。女性側の代理人が、女性が説明した出来事で離婚したいと考えることは納得できないし、それでは裁判で離婚が認められるとは思わないから無意識か意識的かはともかく、なるほどこれならば離婚したいですねと裁判官に思わせる程度に誇張した表現にするわけです。
これでは、言われた夫は、事実に思い当たることがないのですから、言いがかりをつけられ、自分という人間を実際とは異なり悪い人間だと言われていると感じるのですから、当然反論したくなります。嘘をつかれていると思っていますから感情も高ぶってしまいます。売り言葉に買い言葉みたいな論争に発展してしまうわけです。これでは離婚紛争が長期化し、双方の葛藤が無駄に高まるだけです。本来、女性の主張する離婚原因が納得できないならば、代理人としては意識下の苦しみを引き出すために丹念に質問をし、時間経過を意識しながら、十分に事情聴取をする必要があると思います。暴力及びその影響と真正面から向き合うためには、それなりの洞察力と時間をかけて聴取することが必要なのです。
   実際は過去の1度や2度の暴力による④および⑤の効果が女性を不快、不安、嫌悪の状態にさせていることがあるかもしれないのです。
3 暴力がないけれど暴力の効果が生じる場合(主として夫から妻への行為)
  先ず、暴力がないのだから①の体の痛みは除外します。②、③の暴力の永続  化不安と暴力の再発もしばらく置いておきます。
  しかしながら、暴力がなくても、妻が夫との関係で自分の行動の自由が奪われると感じる④の効果や、⑤の自分尊重されていないという効果が生まれることがあります。
  先ず、行動の自由が奪われると感じてしまう効果がある場合を考えましょう。
強い口調で威圧的に何かを命令する場合、逆に行為を禁じる場合がそれにあたることはわかりやすいと思います。また、強い口調ではないけれど、懲罰を示唆するような場合も行動の自由を奪われることになります。家に入れるお金を減額するとか、家から出さないとか、電話代を止めるとか、妻の夫以外の人間関係を遮断する効果を持つ行為が典型でしょう。その意味では子どもの前で恥をかかせたり、実家に報告するぞという脅かしはこの類型に入ると思います。
理詰めで命じたり禁止したりする場合もあります。「そんなことをすることは堕落している」とか、「不道徳だ」とか、「頭の悪い人間がすることだ」、「育ちの良くない人間の行動だ」とか、そういう言葉を受けてしまい、反論ができず、結果として行動の自由が奪われるという場合です。
  厄介なことに、人間の思考は、合理的にはできていません。例えば、夫が妻に禁じたことが極端な話をすれば、法律に反する行為を禁じる場合でもあるいは道徳的に間違っていることを禁じる場合でも、つまり夫の言い分が正当であっても、禁止という結論を押し付けられていると感じる場合は、押し付けられた方は行動の自由が奪われているという拘束されているという感覚を持つということです。どんな場合でも暴力はだめだという立場をとる場合は当然ですが、その原因となったことに妻に非があると多くの人が認める場合でも、身体的自由を奪われた拘束感は持ってしまいます。「自分が悪いのだからそれをやらないことは当たり前だ、言われていないことは自由にやれるから大丈夫だ」というように、都合よく、合理的な反応になることはありません。フィクションの世界でしょう。
  ポイントは、意に反する結果の押し付けということが暴力と共通する要素だということです。
  いずれの場合も、自分の行動の自由を奪われたという拘束感が生まれ、これが持続していくと不快感、不安感、嫌悪感、極端には恐怖感まで生まれてくるようです。
  次に仲間として尊重されないこと。前の行動の自由が制限されたこととよく似ています。仲間として尊重されないということの典型は、失敗、不十分点、苦手な点、欠点などを責められたり、嘲笑されたり、批判されたりすることです。これらのネガティブポイントは、多くの場合、日常的な行動、ルーティーンの中で起きているために、修正することがかなり難しいことです。あるいは、もって生まれた能力の問題があり、修正ができません。これらの批判等は、行為に対しての批判ではなく、言われた方は自分の人格に対して否定しているという気持ちになっていくのはこういうことです。もちろん、過去の出来事、親の悪口、人種や出生等、本人の力ではどうしようもないことでネガティブな評価をすることは人格そのものに対する否定になります。
  仲間として扱われていないという意識は、やがて安心できない人間がそばにいるという意識に固められていきます。そして、行動の自由が制限されているという意識とあいまって、夫に対して、継続的な危険反応が起き始めます。ちょうど重い暴力が振るわれた結果と同じような、悲観的な傾向が大きくなってゆき、どうせ自分の行動は否定されるとか自分は馬鹿にされていて、追い出されそうになっているという危機感が生まれ、持続し、膨らんでいくようです。
4 妻の夫に対する慢性的な敵対意識のまとめ
  離婚原因として主張される妻の夫に対する慢性的な敵対意識、嫌悪感、恐怖感は、結局、夫によって自分の行動が制限されているという意識と自分が仲間として認められていないという意識から、夫が近くにいることで安心できないという危険反応が生まれてくるところからきているようです。
  重要なことは、
1)妻は夫が危険なところがあると認識する。
2)危険に対する過剰反応が起きる
3)過剰反応の結果、夫は自分の行動を制限する存在だと感じる
4)過剰反応の結果、夫は自分をますます否定し続けるだろうと感じる。
5)夫の存在自体で、自分の行動や人格が否定されていると感じる。
6)夫の存在自体が安心できず、さらなる危険を意識させる。
ということです。暴力があれば、この連鎖反応は速やかに確立していくということになりますが、暴力がなくても慢性的に持続的に反応が進んでいくということになります。
  暴力がない場合でも、教科書的に言えば、妻は暴力があったときと同じように夫に対する膨れ上がった嫌悪感、恐怖感を持っています。
話を聴き取る能力はないけれど、困っている人を助けたいという意欲だけは大盛な、知識のない人たちは、これは暴力があったに違いない。暴力がなくても精神的虐待があったに違いないという先入観を持つことになります。その先入観にもとづいて根掘り葉掘り聞きだすなかで、それらしい言葉が出てくれば、「それは暴力です」と飛びついてしまうわけです。そうでない人は、なんだかわからないけれど嫌がっているから夫が何かしてきたに違いないということで、マニュアルに従った主張を始めてしまうわけです。
  実際の事例では、夫がペットの犬用のハサミをもって犬の毛を刈ろうとしたけれど道具が一つ足りずに、妻に比較的大声でどこにあるかを聞いたという出来事があったということが真実ですが、裁判の書類では、夫がハサミをもって自分を負いまわしたということに変わっていました。夫に弁護士が入らなかった事例で裁判官はこれが生命身体に重要な恐れがある暴力だとして保護命令を出しました。夫は、家の近所を散歩することさえ罰則付きで制限されてしまい、重いうつ病にかかりました。
  このような事実にもとづかない主張がだされれば、言われた方はまさかあの時のことで保護命令が出るとは思いませんし、妻が本当に離婚したいのだと感じることもできません。時間が経過して妻が復縁するつもりがないということを感じ始めても、納得することができませんので、感情が落ち着くことはありません。夫と妻双方にとって良い解決とは程遠い裁判になるわけです。
5 追い込まれる妻側の事情(危険に対する過剰反応が理由なく生まれる)
  今見た、1)から6)の連鎖反応が、夫の暴力がない場合でも起きるということは良いと思いますが、実は夫の行為がなくても起きることがあります。厳密にいえば夫の行為がないということは共同生活する場合はあり得ません。行き違いなどがあり、何らかの不快な行動があることがむしろ通常です。しかし、繁殖期などは、愛情によって根拠のない信頼関係にありますから、それらの行為が気にならないというだけなのかもしれません。いずれにしても、第三者から見ても夫になんの責められることがないとしても、過剰反応が起きることがあります。
  これは、えん罪DVともいえる事例の多くで見られますし、これから述べる理由のいくつかが重なって起きることが少なくありません。
  ①精神に影響を与える疾患
    これはうつ病や不安障害などの精神疾患が代表的なものです。認知の歪みが生じていて、理由もなく過剰反応状態になっており、悲観的、自悪的に物事を考えていきます。
    甲状腺ホルモンの分泌異常がある場合にも、このような過剰反応状態がみられる場合があります。なかなか研究者たちは、実生活上の不具合について調査研究をしないようです。
    婦人科系の疾患PMや更年期障害も過剰反応を起こす場合が見られます。
    また、肝炎の治療薬のインターフェロンやステロイドなども過剰反応を見せる場合があるそうです。
    認知がゆがむということはどういうことかということで、それをわかりやすく示す実例があります。偶然録音されていた会話がありました。その中で、妻は夫に対して、「どうせあなたは私が嘘をついたと言いたいのでしょう。」と発言していました。夫は妻が何を言っているのか理解できなかったために特に何も返事をしませんでした。しかし、裁判で提出された書類には、「あの時夫から自分が嘘つき呼ばわりされた。」と記載されていました。嘘をついているのではなく、「言われるかもしれない」という恐れが、過剰反応で「言われた」という記憶に置き換わっているのだと思います。
  ②子どもの障害
    母親は、子どもに発達上の障害がある場合、自分の責任だというように考えやすいようです。誰からも責められなくても自分で考えてしまうようです。ですから、それらしいことを言ってしまうとますます過剰反応を起こすようになるでしょう。
    障害の内容は、身体の障害でも精神的な障害でもどちらでも起きるようです。
  ③夫を好きすぎる現象
    夫に対して恋愛の感情が強すぎたり、依存傾向が強すぎたり、夫婦とか家族という人間関係をあまりに強く大事に考えすぎたりすると、悲観的傾向が表れることがあり、些細なことにも危険を感じるようになるようです。自分が望んだ二人の関係でないことに不満を持ち出しますので、夫は深刻です。
    記憶が改変されやすいのもこのタイプでしょう。自分が書いた日記の意味が分からなくなり、夫の反応や行動に満足しなかったという記載をもって虐待だと感じるようになるようです。
    そうして、夫との関係にいたずらに悲観的になってしまい、夫の行動のすべてが自分を否定する表現だととらえていくようになっていきます。自滅の感が強くあります。それでも、意欲のある支援者は、夫からの虐待があったと決めつけて調停や裁判で主張します。もちろん事実にもとづかない主張ですから、夫も感情的になりながらも、事実をもって反論していきます。弁護士がきちんと入ってこの活動をすれば、裁判所からも妻の主張を疑われてきます。これは当然のことです。やがて妻は全方面から信頼されていないということを感じ始めてしまいます。かなり追い込まれて危険な状態になります。
    初期の段階で、暴力があり虐待があり離婚原因があるという無理な筋立てをしなければこんなことにもならず、無理な筋立てをしたことによる最愛の夫からの反撃も受けなかったのですが、意欲のあり能力のない支援者によって追い込まれていったという側面もあるわけです。
  ④自分の失敗
    夫が言わなくても、自分が失敗を犯したことを自覚している場合も、過剰反応が起きることがあります。子どものころ何か失敗をして明るみだしたくなくて、些細なことにも過剰に反応したというご経験はないでしょうか。
    これもよくあるのは、お金の使い方を間違うことです。夫から渡されていた生活費を別の何かで使ってしまい、家賃や光熱費を滞納していて、電気を止められるなど発覚寸前であった場合、クレジットカードを使いこんでしまった場合、子ども学校の人間関係等の不具合が生じて、孤立した場合、自分が浮気をした場合等自分の失敗で過剰反応が起きて離婚を申し立てたり、子どもを連れて行方をくらましたりということは多いです。
    それでも、結果として妻は夫を嫌悪し、恐怖を抱いていることには変わりないのですから、支援者たちの多くは、夫の精神的虐待があったということを主張します。言われた方が感情的になることは当然です。
6 実際の連れ去り別居や離婚申立てが起きるときと「支援者」の役割
  おそらくこれまで述べた事情の出来事が複合的に作用して、妻側からの夫への慢性的な危険意識が生まれていることがほとんどだと思います。
  何らかの精神的状態の変化や育児や人付き合いなどでの困難な事情があることにより、不安を感じやすく、過剰反応を起こしやすくなっているときに、妻の些細な行動に対して夫が過剰に反応し、結果的に妻を理詰めて問い詰めたり、いささか強制的に行動を指図したり、という不自由感を与えたという事情はあったのだと思います。その際、妻は自分が仲間として尊重されていないという感覚を持ち始めたのかもしれません。夫からすれば些細なことだからつまり、それまではそういうことを言っても特に気にしていなかったのだから、今回もそれほどダメージはないだろうと考えてしまいます。しかし、妻は過剰な反応を見せるのです。夫はなぜ妻がいきり立っているのかが分からない。喧嘩をしたくないから徐々に距離を取ろうとしてしまいます。妻はますます孤立したと感じてしまい、反応も過剰になり、これ以上やっていくのは無理だという感覚を持ってしまいます。
  おそらくこういうことは、人間が一夫一婦制の婚姻形態をとり始めたころからあったのだと思います。しかし、それを修復する人たちがいたのだと思います。二人をよく知っていて、どちらにも遠慮なく意見することができる人が近くにいたわけです。そうすると、妻の認知の歪みがある場合は、妻に「それは思い違いではないかい」と意見をして、妻を励ましたのでしょう。そうして夫に対しても、夫が暴力をふるったらこっぴどく叱ったり、夫の暴力がない場合でも「あなたが悪くないとしてもあなたのたった一人の奥さんなのだから、かわいそうだという気持ちにならなくては駄目だよ」と説教の一つもしたりしたのだと思います。
  多少の昔ながらの言い回しというのが受け継がれていたとは思いますが、二人をよく知っている人であるため、事実と違う言い分を取り上げて紛争を大きくする方向での介入はあまりなかったはずです。なぜならば、妻側にも肩入れするし、夫も良くしているし、何よりも夫婦げんかで傷つく子どもたちのおびえた顔もよく見ている人が相談に乗っているからです。
  ところが現代日本では、妻の過剰反応を、マニュアル通りに夫のDVだという「支援者」が大手を振って歩いています。目の前の妻の苦悩しか見えておらず、夫の表情や子どもたちの様子などは見えていません。妻には仲間意識を持てますが、夫や子どもたちに仲間意識を持てと言ってもなかなか難しいことは人間の心理からすればそうなるでしょう。だから支援者は、夫や子供たちの事情を考慮することなく、夫が原因で苦しんでいるのだということを躊躇なく、心のおもむくままに行うのでしょう。
  その結果、妻の過剰反応は、過剰ではなく正しい反応であり、本当はもっと警戒しなければならないくらいだということになってしまいます。妻の夫に対する不快感、嫌悪感、恐怖感は固定され、増幅されてしまいます。そもそも漠然と不安を感じているだけで、その不安を夫に相談さえしていた妻も、支援者によって自分の不安は夫が原因だと不安の原因をも固定化されているということが実態です。
  そうして、夫に居場所を知られないように子どもを連れて別居することが命を守るために必要だとして、連れ去りが決行されます。実際の事例で、警察官が妻に子どもの連れ去りを説得した報告書を読んだことがあります。夫の言動は精神的虐待、DVだということを言い、DVは治らないと言い、やがて命の危険が生じている、一刻も早く子どもを連れて家を出なさいということを2時間にわたって話したというのです。もちろん妻は、暴力を受けていませんから、いったん子どもの誕生日のお祝いを家族で行ってから逃げることを考えたいなどというわけです。それに対して、そんなことよりも命が大切だという「あおり」をしていくさまが、本人の手によって詳細に記載されていました。
  そうやって、妻は子どもを連れて行方をくらまします。こうなってしまうと、妻は夫が近くにいませんから、わずかに残った仲間意識は全く失われ、徐々に恐怖感と嫌悪感が増大していきます。泥仕合のような裁判が延々と続くわけです。もう、夫も、二人の間の子どもも、やり直すというチャンスは残されていません。
7 ではどうすればよいのか。
  今まで見てきた通り、暴力があった場合は、それが一度だけのことであろうと、妻が身体生命の危険を感じる場合があり、それによって不快、嫌悪、恐怖のスパイラルに陥る可能性があるわけです。
  さらに、暴力がない場合でも、妻側の事情があり、また「支援者」が蔓延している状況もありますので、自分が気が付かないうちに子どもの連れ去りの準備が進められている可能性があります。自分は何も攻撃していないから、妻が子どもを連れて行方をくらますということがありえないと考えている人が多いと思います。実際に連れ去られた人たちもそう思っていました。
  そうならないために、いくつか考えてみました。
 1)自分の行動を点検する。
   先ず暴力を振るわない。これは鉄則です。仕方のない暴力というのが夫婦の中であったとしても、記憶が変容します。一方的な暴力という記憶に変わることは理解できると思います。
   次に、行動を制限しない。案外、夫が妻に言う指図や禁止は、どうでもよいことを言っていることが多いものです。そうでなければ、言っても仕方がないことです。それを言うメリットがないことがほとんどだと自覚しましょう。結婚して共同生活をするということは、あなたの生活の大部分が妻という他人の事情で決まるという割り切りが必要です。結婚する場合の多くが繁殖期ですから、それでも良いと思って結婚するわけですが、繁殖期を過ぎるといまさらながら不合理に感じてくる人が結構います。家族を放っておいて、好き勝手なことをしているなあと感じる人は結構いらっしゃいます。
   相手の欠点、弱点、不十分点、失敗を責めない、笑わない、批判しない。
   これらのことが頭に入ってもうっかりするのは3つのパターンです。
   1は、自分を守るときです。妻の行為によって自分に災いが生じるとき、他人の自分評価が下がるような気がするときです。あるいは、妻から馬鹿にされたことに対する反撃として行われます。
   2は、直接自分には被害がないが、妻の行為が自分の価値観に反しているとき、合理性が無い時、要領が悪い時、特に正義感情に反しているとき。
   3は、妻の行動が子どもの利益に反する場合。
   おそらく、普通の人は、暴力はだめだとは思うけれど、この3つのパターンで強く妻に言うことは当然なのではないか、これができないならば自分の人格が崩壊する、妻に従属することになると疑問を飛び越えて私に怒りを覚える方もいらっしゃることだと思います。それはよくわかります。私もそうでした。
   しかし、現実の紛争をみていると、ここが勘所であるということは間違いないと思います。そうして紛争解決機関では必ずしも合理的な解決はなされません。ある調停では、子どもと会えなくなって面会交流調停を申し立てたところ、調停委員から「どうして子どもに会いたいの?」という質問が調停の冒頭に父親に対してなされました。とんでもない話です。妻側が嘘でもDVという言葉を出すと、裁判所はアウエイです。夫の行動に合わせて職員がインカムをつけて見張りに入ることもありました。暴力の無い事案です。それを命じた裁判官が判決を書くわけですよ。また、確立された判例に乗っ取らないで審判をされても、確立されたルールがわからない高等裁判所に即時抗告をしても覆ることはないどころか、書面審査で門前払いをされることもあります。夫は自分が悪いことをしたという記憶がなくても、裁判では負ける可能性があるということは肝に銘じておいてください。
   小言を言わない、ガミガミしない、大声をあげない。相手を追い詰めない等、ほんのちょっとのことです。妻の失敗についても、許せることについては積極的に許すという態度を示すことで、信頼関係もきずなも強くなることでしょう。許さなくても、問題は解決しないことがほとんどです。結局許すことになるなら、感謝されながら許した方が得だと思います。
 2)妻の様子を気遣う
   妻が自分で過剰な反応を見せる事情を紹介しました。これは、夫には責任がないことかもしれませんが、「自分(妻)の失敗」を除いて妻にも責任がありません。ところが、夫は自分が責められるものですから、まず反発が先に立ってしまいます。しかし、妻の体調面などに異変が生じている可能性があるわけです。風邪をひいたときのように、健康面を気遣うことが正解なのです。
   優しい言葉をかける、花などを買う、してほしい希望を聞く、妻の家庭内の役割を引き受ける等、妻が夫から尊重されているという実感を持ってもらうことは、妻だけでなく、自分や子どもたちにもメリットしかありません。人間は仲間にやさしくするために生まれてきたのだと考えて、気遣うということを具体的に行動に移すことを学習しましょう。
 3)敵意を消す。
   特に繁殖期が過ぎてからは気にかけておいた方がよいのですが、ぶっきらぼうな人だとしても、感謝と謝罪とあいさつは言葉にしてこまめに言うべきです。なぜ挨拶するかということですが、これはどうやら相手に敵意がないよということを示すためのもののようです。感謝と謝罪も、基本的には同じ役割をすることばのようです。
   過剰反応をする妻は、自分が尊重されていないのではないかという不安を抱くわけです。それが自分が攻撃されているかのような感覚に育ってしまうということでした。逆に、積極的に挨拶を言われたり、感謝や謝罪が口に出されて、自分に敵意がないことが示されると、この攻撃されている感覚が薄れて、安心感を獲得していくようです。
   ここで、自分もそうしているけれど、妻から煙たがられるという人は、自分の表情をよく鏡で見るべきです。うっかり眉を寄せて、いかにもいやそうな顔をしているということがあるようです。ここが落とし穴です。本人は相手の行動に嫌悪してその表情をしているわけではなく、単に対処に困っている正直な表情をしているだけかもしれません。私の場合がそうでした。しかし、相手が過剰反応中や過剰反応一歩前の場合になると、自分に対して嫌悪感を抱いているからそういう表情をするのだと悪く受け取るもののようです。思春期はこういうことに敏感です。思春期のお子さんがいたら、自分の表情が嫌そうにしているか聞いてみると良いと思います。
8 自分だけが努力しなければならないのか
  ここまで読んでいただいて感謝します。「言っていることはわかるけれど、自分だけが努力しなくてはならない、自分だけが日々緊張しているということは何とも不合理だ。自分だけが損をしている。」との感想を多くいただきます。
  まじめで責任感の強い人がこういう感想をお話しされることが多いようです。おそらく私がやった方が良いということを100パーセントやり切ろうと思われているのだと思います。それでは、家庭の中で常に緊張をし続けなければなりませんので、それは不可能です。
  私は、3割くらい達成すればよいのではないかと思います。要するに過剰反応を起こさず、自分が尊重されていないと感じさせなければ良いのです。多くの失敗はありながら、それに気が付いて妻のことを思って自分の行動を修正するという姿を見たら、自分は尊重されていると思うのではないでしょうか。それには3割くらいが達成されることは必要だけど、8割9割ではなくても良いのではないかと考えています。今まで0だったら、2割でも、だいぶ変わったと思われるのではないでしょうか。
  それからおそらく、あなただけが努力をするということにはならないのではないかと期待をしています。人間は、自分がされてうれしいことは相手にもしたくなる動物のようです。道徳とはこうやって獲得されていくものです。相手を尊重したいのだけれど、どうしたらよいのか分からない。その具体的方法をあなたが示すことによって、まねをしてくれるようになることが期待できると思うのです。
  先ず子どもたちはまねを始めるのではないでしょうか。きちんとマネできたらほめてください。ますます立派な人間になっていくことでしょう。
  そして、家族で食卓を囲むとき、何となく笑顔の場合が増えれば、それは幸せというものではないでしょうか。子どもや奥さんが自分の失敗を相談したり、自分の欠点を助けてほしいということを言えるようになったりすれば、自分が家庭の中で役割を果たしていると実感できるのではないでしょうか。それは生きがいというものではないでしょうか。
  私は、これまで述べてきたことは、人間らしい行動することに尽きるのではないかと思うのです。言葉や文明ができる前から人間がやってきたことだと思うのです。ところが文明ができて、敵か味方かわからない人間と多く接するようになり、人間らしい行動とは何かが分からなくなってきているのだと思います。学校や職場で仲間として扱われない経験がそれに輪をかけて人間らしさを奪う事情になっていると思います。仲間に対してふさわしい行動とは何かと考えなければ実行できなくなっているのだと思います。でも、家事育児を協同する家族だけは、仲間でなければならないと思っています。特に子どもは、仲間として扱われないと健全な成長ができなくなってしまうようです。
  私が今回お話ししてきたことは、人間らしさを取り戻そうという呼びかけなのかもしれません。人間らしさを取り戻すために行動するご家庭は、人間らしい幸せが実感できる家庭になると確信しています。

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