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「いじめ」の解消をどのように進めればよいのか  他者に対する貢献の喜びを教えること 現代版黄金律の構築の必要性4 [進化心理学、生理学、対人関係学]



「いじめ」という言葉は注意が必要です。世間一般で「いじめ」と言えば、一人の子どもを大勢が取り囲んで暴力をふるったり、嫌がらせをしたりという意味だと思います。ところがいじめ防止対策推進法では意味が全く異なります。「法で言ういじめ」は、同じ学校に通う児童生徒などから、心理的、物理的に影響が与えられる行為で、本人が苦痛を感じるものということであれば全部「いじめ」になります。

1対1の喧嘩でもいじめになりますし、先に手を出してきた方に対して反撃してもいじめになります。問題行動を起こした相手を注意することもいじめになりかねません。一緒に遊ぼうと言われて他の子と約束があるからダメだといってもいじめにあたるわけです。いじめの内容が広すぎるということには様々な弊害があるため日弁連も意見を上げているのですが、改正されたりはしていません。

但し広い定義には、メリットもあります。学校はいろいろ言い訳をしていじめはないと言いがちです。世間的な意味でいじめがありながら、「うちの学校ではいじめをする児童はいない」という教育者にあるまじき発言をする校長がいる学校も存在しています。こういう様々な理屈をつけていじめの対処をしないことを防止するために広い意味でいじめをとらえたということのようです。そしていじめを小さな芽のうちに一つ一つ丁寧になくしていくことによって、重大問題を引き起こさないようにしようという理想があったのだと思います。

しかし、こんな広範囲な意味をみんないじめとしておきながら、「法のいじめ」をしてはらならないとか、「法のいじめ」を早期に予防しようとか言っても、実情にそぐわないわけです。世間的な意味での過酷ないじめについてならば、してはならないとか早期に予防ということは適切な表現だと思います。しかし、法の定義する広範な意味のいじめは、必ずしもしてはらないとか早期に予防とかが適当ではないこともあります。法律は「二つのいじめの意味」を混在して規定した未整理な状態であると感じられます。

法の広いいじめは、相手の感情を基準としますので、現代版修正黄金律である
・ 相手のしてほしいことをしよう
・ 相手のしてほしくないことをしないようにしよう
という観点からは正しいとは思います。

しかし相手の感情を読むことはとても難しいことです。その上、悪意が無くても、偶然でも相手が嫌な気持ちになることをしてはならないとか、早期に予防しようとか言われても、現実問題何をしてよいのか現場ではわからないでしょう。
遊ぼうと言われたら遊ばなくてはならないとしてしまうと、先に約束した方に対するいじめになりかねません。子どもたちにこうすることが良いことだ、こうしてはならないというルール設定ができない状態と言わざるを得ません。法律がいじめを減少させるとは思えないというのが本音です。

学校も広いいじめの定義に従って指導するわけにはいかないと考えているようです。実質的にそれぞれの学校、それぞれの教師の独自のいじめの解釈で運用されているということが実情で、その結果、「うちの学校にはいじめをするような児童はない」という発言をする校長が出てきてしまうわけです。校長でありながらいじめ防止対策推進法を理解していないわけです。

またいじめを悪と決めつけるために、いじめをした児童生徒は加害者になってしまい、一方的に指導や処分の対象としか見られなくなる危険が出てきてしまいます。これではいじめの実態からもかけ離れてしまう場面も多くなるでしょう。とくに未熟で、何に気を付けて行動するか定まらない児童生徒という特性や、自分の近くの事情しか考慮できない発達上の限界があるという特性にそぐわない指導になるほかありません。

特に過酷ないじめを起こしてしまわないためには、初期のいじめ、からかい、いじりを程度が小さいうちにやめさせる必要がありますが、悪であると決めつけず、児童生徒の人格の向上のための良い機会だととらえて一緒に考える絶好の機会にするべきです。相手の気持ちを考える訓練と、相手の気持ちと他の事情をどう調整するかということを一つ一つ覚えていく貴重な機会です。自分の言動が相手を喜ばせたり安心させたりすることの喜びを感じてもらう方向で指導をするべきだと思います。

これができないまま、強い方が指導を受けたり、親の影響力が強い方が被害者として扱われたりしてしまうと、子どもたちはあまりにも早く世間の不条理を知ってしまうことになりかねません。

根本的には、相手の気持ちを考えないで行動してしまうことを、悪であり否定評価の対象とだけ考えることを止めるべきです。そのような行動をしてしまうことは、うっかりすると大人だってあるということは、前回の記事に記載した通りです。ましてや、自己中心的で、他者の気持ちに立って行動することが苦手な発達段階の子どもの行為を善と悪に塗り分けることは科学的ではありません。

こまめにどんな場合、何に気を付けて、どう気をつけて行動すればよいかという経験値を丁寧に教えていくことが一番大切なことだと思います。特に、自分の言動で相手に不愉快な思いをさせずに物事を解決したり、相手から感謝されたり、相手とさらに強いつながりができるということの喜びを教えていくということを主にしていくべきだと私は思います。これなくして学校教育は成り立たないはずです。

具体的には、担任教諭の指導力の強化であり、そのためには担任教諭の立場の強化が必要です。

学校の人間関係も人間関係である以上、秩序が必要です。また人間は無意識に秩序を求める動物のようです。児童生徒という若年者の場合は、抽象的な法律や道徳によって秩序を作ることはなおさら困難です。やはり担任がクラスの秩序を形成し、秩序者の権威によって、小さないじめの芽を丁寧に積んでいくことがいじめ撲滅の唯一の方法だと私は考えています。権威者として人間が秩序を形成しようとする性質を利用して、先ほど述べたように、他者の気持ちに配慮すること、他人が嫌がっていることをしないことで、お互いが安心して暮らせることがとても楽しいことを教えていくこと、やがてはそれが自分の身を守ることだということを教えることが初めてできるのだと考えています。



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