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人間だけが涙を流すことについて、勝手に感想文 「『こころ』はどうやって壊れるのか」ダイセロス1  [進化心理学、生理学、対人関係学]



久しぶりに本屋に立ち寄ったところ、「『こころ』はどうやって壊れるのか 最新『光遺伝学』と人間の脳の物語」 カール・ダイセロス著という本を見つけてしまい、衝動買いをして読みました。少しずつ考えながら読もうとしたのですが、途中から続きが気になって、一気に読んでしまいました。著者は精神科医で脳科学者です。この本も、精神医学と脳科学の両方のごく基礎的なことがわからないとかなり難しいないようになっています。少しもったいないです。

一番時間をかけて考えながら読んだのが「第1章 涙の貯蔵庫」で、今回の記事でこの章を読んだ感想を書くのですが、そのあとの章はノートは取っていましたが一気読みをしたので、自分の感想や疑問を書き留めることもあまりしなかったため、お話しできるのは今回の第1章だけかもしれません。

<1章の内容メモ>

哺乳類の中でも人間だけが涙を流す。情動的な涙は類人猿の近縁類でも確認できない(36)。とのことで、第1章ではこのことについて考察しています。先ず、交通事故で妊娠中の妻を亡くしてうつ病になった患者が、「自分はなぜ泣けないのかわからない。」と話すエピソードを中心にお話が展開していきます。

本の中では、涙を流すことの機能について述べられています。涙を流すことは、他者の共感を得られやすく、助けたいという気持ちを呼び起こすということが述べられています(36)。

涙は意識的に制御できないという指摘もしています(59)。

また、涙と不安が関係しているということを述べていて、うれし涙でも不安が存在するように感じると言っています(62)。

大事なことだと思うのは、涙を流す時は希望を持っているときであり、すべての希望が立たれたときは涙は流れないという言い方もしています(64)。

<私の感想ないし疑問>

1 涙を流すことと泣くことの違い
  
著者は、泣く行為の象徴的な涙を流すことに着目して論述しています。涙の本来的機能である眼球の保護のための脳内神経構造が、進化の過程で共感の獲得に寄与する機能も果たしたのかもしれないという感じです。

しかし、他者が共感する対象は、流す涙ではないのではないかという疑問があります。むしろ、表情筋を使って顔の表情が崩れるというか、いわゆる泣き顔という表情や泣き声に対して共感が集まるのではないかという疑問です。

表情筋が動くことによって、涙腺を刺激して涙が流れることが順番ではないかという疑問なのです。ただ、泣き顔をしていなくても涙が流れるということもあるので、なかなか簡単ではありません。

もっと大事なことは、涙が流れる脳内の神経の仕組みではなく、共感の対象です。人は泣く人がいると、放っておけなくなるということです。

2 人間の年齢に応じた泣くということ 成人と依存と

なぜか言及がなかったのですが、泣くという行為が一番必要な年齢は赤ん坊のころです。赤ん坊は泣くという行動をして、親などに自分に要求があることを告げて、自分の要求をかなえてもらいます。自立して生きることができませんので、100%親などの他者に依存して生存を確保しているわけです。

良くできていると思うのは、親は自分のニーズではなく他者である赤ん坊の要求をかなえることが少なくともそれほど嫌なことでもないし、一つ一つはそれほど困難な要求でもありません。いろいろな親がいるとは思いますが、それなりに積極的に他者である赤ん坊のニーズをかなえようとします。

赤ん坊は他者に依存すればよいことを本能的に知っているわけです。

A)人間は、自分でできないことを他者にやってもらおうとする志向と
B)他者が困っていると自分が代わって行ってあげようとする志向がある
ということになると思います。

このA的思考は、年齢が低ければ低い程強く、かつ自然に起きています。人間が成長するにつれて、依存的傾向が否定評価されるようになり、自分で行動しよう、自分で解決しなければならない、あるいは自分のことは自分で解決したというように変化していきます。

但し、必ずしもすべて自分で解決できることばかりではなく、集団的に解決をする場面が残されており、他者の助けを求めてしまうことがある、ということになるのでしょう。

大人の方も、困っている人を助けようという傾向はいつまでも続きますが、どちらかというとより弱い者、より困っている者を助けようとする傾向があるかもしれません。

これ等はオリジナルな人間の志向です。人間が進化の過程で獲得した行動傾向ですが、時期的に見て、ほぼ単一の群れで生まれてから死ぬまで生活し、その群れの人数も150人程度までという少人数だった時の志向です。現代のように、膨大な数の人間とかかわりを持ち、複数の群れに帰属しなければならない複雑な人間関係は前提とされません。このため、オリジナルの人間の志向は、自分や自分の仲間の損につながり、必ずしも肯定的な評価がなされず、試行が隠れてしまうことが多くなります(心と環境のミスマッチ)。

泣くということ、泣いて誰かの助けを求めること、泣いている誰かを助けようとするのは、オリジナルの人間の志向によりよく適合するものです。人間が群れを作って生活していくにとても都合の良い仕組みです。

それにしても赤ん坊と母親の関係では、赤ん坊が必ずしも独立していない、特に哺乳類では同様の関係がみられるはずです。しかし、ほ乳類の中でも人間に最も近い類人猿種でも、子どもが泣いて親に自分の要求を伝えてかなえてもらおうという行動は少ないようです。

これはいくつか理由があります。
一つは、集団で暮らす類人猿でも、個体の結びつきは原則として母親とその子どもの関係に限定されるようです。母親が死んでいるという特殊なケースを除いては、母親以外の成体が子どもの世話をすることは無いそうです。そして子どもは、エサの獲得以外は、ほぼ自力でできることが多いようです。自力で母親にしがみついたり、自力で歩きだしたりできるということです。即ち幼体と言っても、母親以外には依存しようとしておらず、依存の内容も人類よりもずっと少なく、母親以外は幼体の世話をしないということから、泣くという行動をしなくても生活に不便はないと言ってよいということらしいのです。泣いても仕方がないと言っても良いのかもしれません。

人間の場合は、直立歩行をするため出産に困難が伴う上、脳が異様に発達しているため頭がい骨が大きすぎることも出産に苦労する理由となり、自分では何もできない超未熟児の状態で生まれてきてしまうようです。このため依存度が高くならざるを得ません。また、群れの結びつきが強く、母親以外の成体も子どもに関わろうとするようで、子どもも他の類人猿とは異なり、母親以外の大人のマネをして学習することができるようです。チンパンジーやニホンザルと比べても、群れ同士のかかわりが密であるということが特徴的だそうです。母親だけで子どもを守れずに群れ全体で弱い者を守らざるを得なかった人間の身体的特徴を反映しているのでしょう。

このような進化を遂げたのは概ね言葉のない時代です。言葉もないのに、群れ同士の結びつきが強くなければならないし、母親以外にも助けを求める必要があったということから、人間の赤ん坊は泣くことを覚え、人間の成体は自分の子どもでなくとも助けてあげたくなるという志向を持ったのでしょう。

逆に言うと、こういう志向が無ければ、人間は群れを作れず、既に種として死滅していたのだと思います。

3 泣けない理由

泣くという行為が人間が他者に対して自分を助けてほしいという反応だとすると、泣いても仕方が無いときは泣くことができなくなるのは合点がいきます。赤ん坊より少し年齢が高くなる幼児であっても、自分が迷子になったときには、泣くよりも先に恐怖を感じてパニックになることがあります。誰かが優しい声をかけることによって泣き出すということはよく見られることです。助けを求めたかったのに、それができる状態ではないと感じてしまっていて助けを求められなかったけれど、助けが現れたところで泣いて援助を求めるという時間差の援助希求なのかもしれません。自分が助かるかもしれないという希望が生まれたから泣くということも一面の真理なのかもしれません。

本に出てきた妻を交通事故で無くした男性が泣けなかった理由は、妻の死を救えずに妻が死んでいくことをすぐ近くで見ていることしかできなかったことから、妻の命が失われてしまったことを強く覚知したため、救われようがないということを強く認識していたためだと思います。

その意味で、泣くときに希望があるという著者の指摘はとても正しいと思います。うつ病患者の人たちに尋ねてみても、うつ病の症状が強いときは泣くことができない、泣かないという答えでした。うつ病者は症状として希望が持てない状態になっているのかもしれません。

泣くという行為は、援助をしてくれる人間がいるかもしれないという覚知と、自分の苦境が解決するかもしれないという展望を持っていることが必要なのかもしれません。

4 一人の時に流す大人の涙

著者は繰り返し述べていますが、大人が一人でいるときでも、涙を流すことがあるということが不思議なところです。何かを思い出して泣くとか、本を読んで泣くとか映画を見て泣くということもあります。こういう涙を流す時には、誰かの助けを求めているわけではありません。この結果、あまり表情筋を動かして泣いている状態を知らしめているというよりは、静かに涙を流すというイメージが強いかもしれません。しかし、表情筋は大きく活動しているということが実情です。

本や映画による涙は、主人公に共感している涙ですから、主人公が泣いて助けを求めているとか、絶望から希望が生まれたとかいうことが起これば理屈通りの援助希求行為です。感動の涙ということはこういうことだと思います。しかし、何かを思い出して泣くということは、理論から逸脱する現象なのでしょうか。あるいは、迷子の赤ん坊のように時間差の援助希求行為なのでしょうか。

人間は自分を攻撃する者に対しても、援助を求めてしまう動物です。しかし、そこで援助を求めてしまうと、自分の非を認めるからとか、屈辱的であるため、あるいはかえって危険になるからと覚知すると援助を求める反応ができない場合があります。また、自分が泣いて援助を求めることで、仲間の誰かを危険な状態にしてしまう場合もあるでしょう。だから泣かないでなんとかその場を切り抜けるわけです。その孤立無援状態から解放されて、一人の部屋に変えるなど、もう自分を守らなくても良いという状態になったときに、本当は援助を求めたかったというように、その場にはいませんが、誰か仮想の味方を想定して泣くのかもしれないと考えています。もしかすると、安心しきれない群れが存在するという心と環境のミスマッチの一つなのかもしれません。この論点は改めて考えてみるのも面白そうです。

同様にうれし涙ということも、実際は難しい説明が必要な気がします。緊張状態が突然緩和することの影響があるような気がします。笑いと構造が似ているような気がします。「怒り」と「恐れ」のように共通の出発点を持っている可能性がありそうです。

5 泣こうとして泣いているわけではないということ

実は私は、先ほどらい、気を付けた表現をして、覚知とか志向とか言葉を選んでいたのですが、泣くということは、実際は意思に基づいて泣いているわけではないと考えています。

つまり、「自分には要求事項がある、自分ではそれはできない、誰かの支援が必要だ、支援をもらうために泣こう」と思考をしているわけではないということです。赤ん坊を見ればあまり説明の必要もないかもしれません。物を考える前にすでに泣いているということなのだと思います。意思よりも先に泣くという行為が脳の中で決定され、始まっているため、意思によって泣くことを制御しにくいのだと思います。泣かないためには脳の泣く行為の発動条件を成就しないような設定をするか、泣き出したことを知覚した場合に直ちに意思によって制御しているかどちらかでしょう。大人になると泣かなくなるのは、どちらかというと脳内の泣くという行為の発動条件を成就しなくなるということのような気がします。



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