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いわゆるツイフェミ現象に学ぶ、家族に嫌われない夫、父親の在り方 [家事]


男性の中には、家族のためにと思って、自分の人生をささげていると言う人が本当に多くいます。そして良かれと思って家族に対してあれやこれや口を出すのです。あくまでも良かれと思って発言しているわけです。
それなのに、何が悪いのかわからないまま、妻や娘、時には息子からも毛嫌いされていると感じるという悲哀を味わう男性も少なくないようです。自分が何かを話したばっかりに家族に無用な緊張感が走ったり、雰囲気が悪くなったりするという経験のある男性も多いことでしょう。極端なケースでは、わけのわからないうちに、妻が子どもを連れて家を出て行くなんてことも起こるわけです。

どうして家族から否定評価されるのかをあらかじめ知っておれば、孤立した老後を過ごさないで済むし、不意打ちで孤立するということもないと思うのです。何か格好の説明方法がないかと探していたところ、ツイフェミにまつわる議論が使えるなと目にとまりました。

ツイフェミという言葉があるということを先週末初めて知りました。ツイートをするフェミニストという意味らしいのですが、必ずしもフェミニストという体系的な考えを持った人のことではないらしいです。もちろん男性も女性もいらっしゃるようです。

論文での意見発表ではなく、時々の出来事をツイートされるのですが、女性の社会的地位の向上の観点から、不適当な他者の表現活動などを指摘されている方々がツイフェミさんと言われているようです。

ツイフェミという言葉は、肯定的なニュアンスというよりも、否定的ニュアンスで語られることが多いようです。それは理解できるような気もします。新しい秩序を形成しようという場合は、古い秩序との軋轢が必然的に生じますので、反発の反応が起きることも必然であると思います。

ツイードなどのSNSは鮮度ということがとても大切で、その時間を共有している相手に対して、その共有を前提として文字発信をするという特徴がありそうです。このため、事後的に見れば、難解な主張だったり、反発が大きくなることも、メディアの限界も手伝ってありそうです。そのような表現メディアの限界もおそらくあるのでしょう、一部のツイフェミさんのツイートが、色々批判を受けているようです。批判者から見れば以下のように批判されているということになるのではないでしょうか。

1)主語が大きい。「私は」と言うべきところを「女性は」と言ってみたり、「あの男性は」と特定するべきところを「男性は」と普遍化する言葉を送信してしまう。(批判として主語が大きいというのは気が利いていておかしい。感心する。)
2)相手の真意を確認しないで、自分なりに解釈して批判する。このため、批判される方は、何が何だかわからないけれど自分を否定してきていると感じる。
3)自分もできていないにもかかわらず、相手ができないと批判する。これを最近の方々はブーメラン現象と呼ぶらしいです。
4)批判の表現など態様が苛烈であり、容赦がない。
5)これを言うことで相手がどう思うかという配慮をせずに目的に合致すれば発言してしまう。

このような批判がなされているようです。

これは、主として中年以降の男性が家庭の中で批判されてきた内容と極めて酷似しているのです。

さらに、ツイフェミさんと呼ばれる方々(女性)の主張を見ると、ああなるほどなと理解できる部分があります。ツイフェミさんは男性を毛嫌いしている発言をする方が多く、また、え?こんなことでというくらい、性的表現に極めて敏感でそれに対して攻撃をされているようです。つまり、男性一般に対して安心感を持てないということが一つの特徴です。そして、性的だと感じることができる部分に関して過剰に性的であると感じてしまい、嫌悪や恐怖の対象になってしまう、つまり過敏になってしまう。そうして自分を守らなければならないという意識が強くなりすぎ、不安から解放されるために他者を攻撃するという方が多いのだろうと思われます。

中年以上の男性は、家族の女性や若年者に対して、このようなむやみな嫌悪感や恐怖感を抱かせやすくなるようです。皮肉なことに、その原因について検討するには、一部のツイフェミさんに対する批判がとても参考になるようです。

おそらくこれだけでは、中年男性はピンとくることもないと思われますので、少し解説します。

1)主語が大きい
中高年男性の主語は、「世間は」とか「常識では」とか、なになにすることが「当たり前だろう」等です。妻や子どもが、自分と意見が合わないような行動をすることに過敏に反応をしてしまい、それを修正してもらったり、やめてもらったりしたい場合に、「私はこう思う」という言い方をしないで、「そんなことをしていたら世間で通用しない」とか「社会から脱落してしまう。」という言い方をしてしまうようです。
言っていることには間違いがないとしても、価値観の違いがあれば、受け手は単に反発するだけです。また、「社会的に認められない」という言い方は、受け手からすると全否定をされているように感じるものです。また、このようなことは何等裏付けがなく、裏付けがないことをごまかすように全否定する表現ということで、受けるほうは不満ばかりが募っていくようです。

当然中高年男性としては、自分が社会の中でそのような経験をして苦しい思いをしてきたから、家族にはそのような辛い思いをさせたくないということが出発点なのです。それでも表現の仕方によって、相手を否定することがルーチンのように、親切心や配慮を捨象した形で伝わってしまうようです。

2)一方的な意見表明
中高年男性は、良かれと思って、しかもそれに自信を持っていますから、家族の相手のために、何としてもその行動をやめるとか、修正をしてほしいと思うわけです。しかし、そういう行動をするのも、通常はそれなりに理由があってのことなのです。自分の知らない事情でそういうことをやっているかもしれないのに、悪だと決めつけて否定しているように、相手からは感じられているということになかなか気が付きません。

だから、仮に中高年男性が言っていることが正しいとしても、事情を尋ねるという余裕なく結論を求めてしまうと、相手方は自分を否定されていると感じ、結果として自分が中高年男性から攻撃されていると受け止めてしまうことになるようです。

3)ブーメラン現象
まあ、その家族に意見を言っている段階では、既に自分ではそういうことはしていないとしても、過去においてそういうことをしていた場合には、言われた方からすれば、「自分だって同じことをしていたではないか。どうしてこちらにばっかり否定してくるのだ。」という気持ちになるでしょうね。理不尽な気持ちになるということです。
実際は中高年男性は良かれと思って言っているのだし、自分が失敗してきたからこそ家族には失敗してほしくないと思うのです。でもそうならば、そういうふうに言えば反発も少なく、説得力も増加するのですから、言い方を気にするということが大切です。
いずれにしても、どうやら中高年男性は、自分は批判を受けないということを前提として相手家族を批判しているところがあるのかもしれません。しかし、それでは、現代社会の家族の人間関係としては不適当なのでしょう。家族は、父親や夫が聖域であるとは考えていません。

4)批判が苛烈
  先ほど述べた「世間では通用しない」という言葉の表現の外に、大きな声を出す、眉間にしわを寄せて話す、言葉が乱暴になる等の場合は、家族としては付き合いにくい相手だという評価が下されるようです。中高年男性としては良かれと思って言うわけですから、熱を込めて言うため、そのよう相手からすれば恐怖を感じたり、自分を強く否定していると受け止めるようです。
  ツイフェミの方々はわかりませんが、中高年男性の家族に対する批判の場合、このような声だったり表情だったり、態度だったりが、相手に不快感、恐怖感を与えているということに思い至らない場合がとても多いようです。この結果、家族仲が比較的良好な段階までは、「どうしてお父さん怒っているの?」と言われて困惑することが多くなるわけです。「え?自分がいつ怒った?」と困惑し、「怒ってない!」とムキになって反論するときにははっきり怒ってしまっていますから、なんとも対処の方法がないということになります。いつしかそういうことも言われなくなり、単にいつも怒っている人間と諦められるようです。

相手家族からすれば、「どうしてそんなことで私に対して怒るのだ。」と感じて、自分と中高年男性は敵対関係にあるという意識に染まっていくようになるようです。

5)言われる方に配慮しない
正義を主張する場合、それはどうしても守られなければならないと考えてしまうので、自分の主張は当然であり、最優先して従わなければならないと考えてしまうものです。
「正しいことをいうときは、少しひかえめにするほうがいい」
というのは吉野弘の「祝婚歌」という詩の一節です。全くその通りなのでしょう。披露宴でスピーチを頼まれたら余計なことを言わずにこの詩を読んで、詩集をプレゼントするというのが一番良いと私は思います。

結局、家族も意思がある人間ですから、強制されることは本能的に嫌うわけです。本当にそれをしてほしい、それをしてほしくないという場合は、家族であるからこそ、あるいは切実に結果を実現したいからこそ、結果を押し付けるのではなく結果に誘導するという方法をとらなければならないようです。誘導する方法が思付かないときは、あきらめるか、控えめに言うことを心掛けた方が結局はうまくいくのだと思います。

自分が正しいと感じてしまうと、言えばわかるはずだという態度になってしまうようです。しかしそれは家族に対する甘えになってしまうようです。赤ん坊が要求を通そうとすると、それだけで赤ん坊の要求を実現しようと誘導されてしまいますが、中高年男性ではそうはいきません。単に、家族を支配しようとする独裁者に見られてしまうと考えていた方が無難なようです。

但し、嫌われようと、孤立しようと、言わなくてはならないときはあります。その時は、自分を犠牲にしても、それをするべきです。その結果自分が孤立したり、嫌悪されたりしても、自分が役割を放棄しなかったことに満足するべきなのでしょう。

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