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悪人・加害者が安らぎを感じる必要性とその方法 気休めこそ現代人の幸せの形 [自死(自殺)・不明死、葛藤]



1 人間の脳の仕様と現代社会

対人関係学では、人間の脳や人間の感情の仕様は、同じ仲間と一つだけの群れを作って一生生活し、その群れも数十人から150人程度の人数という小さな人間関係で生活を想定してできており、このようなデフォルトの環境ではよりよく機能すると説明しています。この状態が感情のゼロポイント、当たり前の状態であり、脳の仕様からすると不安や焦りを感じにくい生存に適した環境ということになります。

ところが現代社会は、生まれてから死ぬまでを考えると気が遠くなるようなたくさんの数の群れ(人間関係)に人間は所属します。家族、学校、職場、地域、その各人間関係の中でも複数の人間関係の単位に細分化されています。一つの群れでは善とされたことも他の群れでは否定的な評価をされることもよくあることです(友達からは歓迎されたことでも家族からは叱られるとか。家族の機嫌を取ろうとして職場から否定評価されるとか。)。また、それぞれの群れの構成メンバーだけでも膨大な人数になりますし、通勤、通学や店舗での物の購入などの活動を含めるとさらに膨大な人数になります。さらに、インターネットなどの人間関係を合わせると、数えることができないほどの人数のかかわりがあることになります。また、各群れは入れ替えが可能であり、自分の立場も定まっていません。自分の代わりに他人に自分の位置がとってかわられることもあるわけです。そしてその位置によって、自分に対する報酬(物心それぞれ)の有無、程度が変わるということも特徴です。押しなべて人間関係は薄く、何か落ち度や不十分なことがあると、容赦のない批判、叱責、冷たい態度を受けてしまうことがあります。

デフォルトの人間関係では、人間関係が濃いために、他人と自分の区別がつかないほどで、仲間が苦しんでいれば自分も苦しく感じるために、他人であっても仲間の弱点は補い、失敗を起こさないように事前に援助を行い、結果として失敗をしたとしても、その人の能力を十分理解しているために、責めたり叱責したりするということは無かったと思います。また本人も、仲間に迷惑をかけないように全力を尽くし、仲間の役に立つことに喜びを感じますから、仲間から否定評価をされることもしなかったと思います。

現代社会の人間関係は、人間の脳とミスマッチを起こしています。このミスマッチが原因で、人間は、放っておくと、自分の立場を失うとか、自分が孤立していくとかという不安を感じ、焦りを抱くようになっているようです。現代社会は人間に不安や焦りを抱かせる要素に満ち溢れているということになります。

2 不安や焦りが続くことによる人間の反応 
  
不安や焦りを長期にわたって感じ続けることが、人間は耐えられないようにつくられているようです。元々不安や焦りが生じる合理性は、デフォルトの状態では、自分の行為に問題があり、仲間から否定評価されるのではないかという予想に対する反応であり、この感覚を自覚することによって、自分の行動を修正したり、自分の行動を停止したりするためのサイン、きっかけでした。ちょうどけがをすれば痛いと感じ、患部をかばって動きを停止したり、動きを修正したりすることと同じ原理だったわけです。

不安や焦りは、人間とっては軽く扱うことができません。軽く扱うことができれば、行動修正や停止のサインにならないからです。不安や焦りは、長く継続したり増大したりすることを予定しておらず、継続や増大に対して人間の脳は耐えることのできる構造にはそもそもなっていないのです。

このため、人間は無意識に、不安や焦りを解消しようとします。この解消を目指す方法は個性や体調、人間関係の状態によって千差万別ですが、大きく分ければ二種類の方向があります。

一つは怒りによる攻撃をすることによる解消です。

誰かを攻撃して、つまり誰かを怒りの対象とすることによって、自分の不安や焦りを感じにくくするという方向です。しかし、根本的な不安や焦りは解消されません。短期的な効果しかないため、怒りの行動を反復してしまう傾向にあります。また、攻撃も増強していく傾向になってしまいます。自分の攻撃も批判の対象となり、さらに不安や焦りが増強していくことも少なくありません。

もう一つは逃避です。

他者との関わりを絶つ方向での不安の解消ですが、やはり根本的な解決にはなりません。いよいよ解消方法が無いとなれば、自責の念を抱くようになります。明白に他者からの攻撃によって苦しんでいても、「自分が悪いから自分が苦しんでいるのだ」と思うようになるわけです。それでも自分がうまくやれば解決できたはずだという吐かない望みがあるだけ絶望を回避することができるというぎりぎりの防衛機制として知られています。

不合理な事態で苦しむときほど自責の念に逃げるしかなくなってしまいます。視界が狭い子どもたちも自責の念を抱きやすいのはこういう自分を守る仕組みなのです。

全く関係のない第三者の視点でものを見ると、この二つの方向性が妙にかみ合ってしまっていることが良くあります。

つまり、攻撃タイプの人が、逃避タイプの人の些細な失敗や不十分点に対して過酷な否定評価を行い、逃避タイプの人が不合理に自責の念の苦しみを増大させているという場面を多く見るのです。

攻撃される要因が本来ないと思われる場合においても、いわゆる難癖や八つ当たりのたぐいが見られ、それにもかかわらず、容赦のない攻撃が加えられるという場面です。人間関係が薄いため、自分の行動によって他者が苦しんでも、それほど重大なこととは考えないのかもしれません。

攻撃や怒りの根拠がある場合とない場合もあるし、ある場合でもあってもその攻撃の程度が原因に見合わない過剰な場合が多いような感覚を受けてしまいます。

難癖や八つ当たりは、第三者による被害者の擁護を名目として行われることも多いです。擁護を名目に被害者名義で過剰な怒りを振りまいている場合があります。その過剰な怒りによって立場を無くするのは第三者ではなく擁護を受ける人になってしまいます。この場合、攻撃対象者の落ち度や失敗を針小棒大に過剰に描き、擁護対象者の落ち度については過小評価したり隠ぺいしたりします。物事をデフォルメして、攻撃しやすいように持っていくことは報道などでもよくみられる図式です。

3 加害者が安らぐ必要性

だから、自分が悪いから自分が苦しんでいるということは、単なる錯覚や思い込みである可能性も高いのです。何かの過ちや失敗があったとしても、一人に原因があるわけではないということも多くあります。

さらには、失敗したのが本人であったとしても、体調面に問題があったとか、偶然的な要素が多いなど、本当に本人に責任があると言えるかという場合もあるし、八つ当たりや難癖のたぐいである可能性もあるわけです。

しかし、既に自責の念の袋小路に入っている人たちの中で、他者を攻撃して自分の不安や焦りを解消しようとしない逃避タイプの人たちは、おそらく「あなたは悪くない」と言われても空々しく聞こえるだけだと思われます。そもそも典型的な逃避タイプの人たちは他者に相談するということはめったになく、自分だけで苦しむことが傾向としてあるようです。

もし本当に自分の行動が原因で他者に損害を与えているならば、本来自分の行動を修正することこそ自分にとっても他人にとっても必要なことです。「本当に必要なことは何をするべきことなのか」と考えること第一です。

しかし、不安や焦りに苦しんでしまっている人たちは、既に防御の念、不安、焦りを解消したいという要求が強すぎるために、自由に落ち着いて考えることができなくなっています。連日猛暑が続いている真夏の日中、アスファルトの上を歩いているような感じが脳の状態です。ただ、結果的に不安や焦りから逃れたいと思っているだけという状態に陥っていることが少なくありません。

ちなみに反省をするとは
・ 自分の行動によって誰にどういう迷惑、損害を与えたか。その程度。
・ その行動を止められなかった原因
・ 今後そのような行動をしないための幅広い対策、生活態度
を考えることですが、到底考える力が残っておらず、ただ自分が悪いと苦しむだけです。

自分を守ろうとする気持ちが強すぎるために思考が働かないわけです。ですから、自分を守ることを放棄する、自分を捨てるという行動ができれば思考が復活するはずです。しかし、その境地に立つことは通常はとても難しいことです。哲学というよりも宗教的な修養が必要なのかもしれません。

自分を捨てることをしないで、思考を復活される方法があればよいわけです。これがあれば、不合理に悩み続けることをしないで、本人も周囲も現状よりましな状態になることができます。

その人が怒りの対象となるべき人であっても、あるいは不合理に苦しんでいる人であったとしても、どちらにしても思考を復活させることで自分と自分の周囲の人間たちの状態を改善することができます。逆に言えば、自分がただ苦しんでいれば自分が苦しみ続けるだけでなく他者に対して迷惑や損害を与え続けてしまうことになります。

4 加害者が安らぐ方法

結論として、その人が加害者であろうと、極悪人であろうと、悩み続けること、苦しみ続けることは、周囲にとってもメリットは何もありません。デメリットだけが産み出されていきます。

自責の念が出ている人、誰かを攻撃しようとしない人、本当に救われるべき人が救われるためには、加害者が救われる方法を考えなければ届かないということでもあります。

答えは、悩み続けること、苦しみ続けることを「しばし」やめることです。しかし、人間の脳は、悩むことや苦しむことを自発的にコントロールすることは苦手なようです。特に、デフォルトの人間の脳と現代社会の人間関係のミスマッチによって、不安や焦りが生まれることは、一時的なものではなく、逃れられない構造的に用意されている苦しみを抱かせる要素が存在しています。

だから迂回をする必要があるわけです。

脳の構造的に起因して苦しむのならば、脳の構造を利用して苦しまないようにするという方法もあるわけです。その方法は、人間の脳や感覚は、「複数のことを同時に処理することが苦手だ」という特質を利用するのです。何も考えなければ、その人の自然体は苦しみ続けるようになってしまっています。考えないということはできませんので、「別のこと」を考えるということをするということが解決方法です。考えるというよりも、別のことに集中するということです。苦しみを忘れることに集中するのではなく、全く別のことを行うということです。

日本語には、「気晴らし」、「気休め」という言葉があります。気晴らしや気休めを行うことで、一瞬でも別のことに夢中になり、苦しみを中断することによって、思考の余地が出てくるわけです。

わたしたちは軽い意味合いで気晴らしや気休めという言葉を使っていますが、私たちの先祖は、深い意味合いで言葉を残した可能性もあるのではないでしょうか。

気晴らしや気休めは、意識的に取り組むことが必要です。自分で自分の精神状態を調えるという意識的な取り組みなのです。結果としては自分だけでなく周囲にもプラスになることなので、特に大人としては積極的に取り組むべきだと思われます。

具体的に何をするかというと、他人に迷惑をかけないで夢中になれることであればなんでも良いのではないかと思います。漫画を読むとか食べ歩きをするということでもよいと思います。但し、現代社会が苦しみを抱かせる要素に満ち溢れているならば、とことん時間をかけて取り組むことができることが後々のことを考えれば都合が良いかもしれません。

思いつくままにいえば、音楽などの芸術活動、運動、何かの研究があげられるでしょう。芸術というと大げさなのですが、楽器演奏はとても適した気晴らしになるように思われます。研究と言っても大げさな構えでやることではなく、漫画家の系譜とか、調理方法とか、飽きずに続けられることであればなんでも良いと思います。いろいろな場所の散策、テーマを持った散策もよいでしょう。

辛いときに、何か打ち込むことがあるということが救いだと思います。

他人に迷惑をかける等やってはいけない気晴らしは、ギャンブル、酒、薬物、もちろん犯罪や自傷行為もそうです。なぜこれらをやっていけないかというと、単純な話、他人に迷惑をかける、自分をコントロールできなくなるので実際は気晴らしにならず、自己否定が増大し、不安や焦りが強くなるだけだからです。依存行動は、それをしているとき、自分の苦しみや不合理な思いが頭の中で反復されてよみがえるために、なかなか夢中になれないということもあります。この意味で、インターネットをする場合も、ゲームよりはユーチューブを見ていた方がましかもしれません。

思えば、現代社会は、ますます関わる人間が増えて行き、数が増えるほど関係が希薄になっていきます。すべての人に共感したり、すべての人を援助することは不可能です。対立している人双方の味方になることもとても難しいことです。希薄な関係の中でぞんざいな取り扱いをされ、攻撃をされれば、物理的に不安や焦りが生まれてしまうのが人間です。

不安や焦りが全くない状態を求めることは、理論的に間違いであり、望んでも仕方がないことだと割り切ることが有効かもしれません。望むだけ不幸になることなのかもしれません。

だから、悩みや苦しみを意識的に一時中断をすることこそが人間として求めるべきことなのかもしれないと思います。自分の気晴らしだけでなく、できれば自分の身近な家族を気晴らししてあげる行為ができれば、それが人間としての幸せの形の一つなのだと思います。

肝心なことは意識してそれを行うことということだと思います。

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