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自殺の予兆なんてわからない。同居家族は自殺計画に気が付かないものであることの理由 [自死(自殺)・不明死、葛藤]



前にも書きましたが、大事なことなので、何度でも言おうと思います。

これまで多くの自死の案件を担当しましたが、家族が自死の前触れに気が付くということはほとんどありません。離れて暮らしている事案だけでなく、同居の事案でも同じです。悩んでいるとか、苦しんでいるということは気が付いていても、まさか自殺をするとは思わないで自死が起きることが、私が担当した事案は圧倒的多数でした。

それにもかかわらず、「どうして気が付かなかったのか」ということを言い出す人たちがいて、同居の家族が、家族を失って悲しんでいるのに、無抵抗の状態で責められる苦しさを味わっています。特に結婚をしている人が自死をすると、亡くなった人の実親が同居していた妻や夫を責めるという痛ましい事例はまだまだ繰り返されているようです。

自死という、その直前までは普通に生活していたのに、次に気が付いた時には亡くなっているということは家族、親族にとっては衝撃的なことです。信じたくないし信じられないということはよくわかります。つい、誰かに原因を求めて怒りをぶつけてしまいたくなるのも、ある意味自然な感情なのかもしれません。

でも、だからこそ同居家族は自殺の予兆なんて気がつかないということについて、せめて頭では理解して、自然すぎる感情を表に出さないということが大切なのだと思います。

理由はいくつかあります。また、その人によって様々な事情の変化があるということはお断りしておきます。

1 うつ状態の人はうつを隠すということ

第1の理由は、これまでも述べてきたことですし、北海道大学名誉教授の山下格(いたる)先生も著書でお書きになっているので、理由の筆頭にあげます。うつにも重症、軽症と、その中間の中等症があるとのことですが、重症以外の「大多数のうつ病患者は、自分のうつを隠す」というのです。だから主治医でさえもうつ症状による刹那的な判断をすることに気が付かず、自死をしたり、退職をしたり、離婚をしたことを報告されて唖然とするようです。

実際私の依頼者複数名からも話を聞いていますが、自分の大切な家族の前では、自分がうつで苦しんでいるということを知られたくなくて、わざとふざけて見せて明るく振舞うのだそうです。一人暮らしをしているとむしろ楽なのですが、両親のところに行くと、全力で明るく振舞うので、精神的エネルギーが消耗してしまい、翌日は寝込んで起き上がれないという人が多かったです。

うつに気が付かないことは、患者さんがその人のことを大切に思っているということなのです。重症になってしまえば、エネルギーが残されていませんので、隠すこともできないということになるのでしょう。

家族は、思い悩んでいることに気がついるからこそ、何らかの明るい兆しを見せれば、安心したくなるのも自然な感情だと思います。ごまかしているのではないか、演技をしているのではないかと思うことはとてもできることではありません。

ちなみに、うつのこのような傾向は、本人が自ら孤立化していく結果も招くように思われます。その人にとって家族は、相談する対象とか助けてもらう対象ではなく、自分が助けたり、かばったりする対象だという認識が感じ取れます。自死者は、このように責任感が強すぎたり、まじめすぎたりする人が多いことは間違いありません。家族に迷惑をかけないという気持ちが自ら孤立化を深めて自死に向かってしまうということかもしれないと考えています。

2 自殺は、問題解決の兆しの際に起きやすい

これは厚生労働省などの説明にもあります。自死というのはうつのボトムでは起きないで、少し回復傾向になった状態で起きやすいと言われています。重症時は自死をする行動力もなくなるという説明もされることがあります。

実際これまでの事例でも、パワハラ職場から離脱する段取りができた際、まもなくパワハラ上司が職場からいなくなるなどの時、あるいは過酷な仕事がまさに終わる時等「ああ、もう大丈夫だ。」と周囲が安心しているときに自死が起きていたことが少なくありません。

3 長時間労働の過労自殺の場合は、同居の家族と満足に顔を合わせない

長時間労働をはじめとする過重労働による自死の場合は、家族が寝ているときに家を出て、家族が眠ってから帰宅するということが当たり前のように繰り返されています。休日も遅くまで眠っていて、起きてもボヤっとした表情にしかなりません。家族は疲れているとは気が付いていても、うつになっているとか、自死の危険があるなどということはとても分かりません。顔を合わす時間が無いため気が付きようがないのです。

4 自殺の行動決定は直前に行われる。

希死念慮が継続していて、自死のリスクが著しく高い状態が継続するということは珍しくありません。しかし、子細に検討すると、そのハイリスクの中でも自死の行動決定がなされておらず、実際に「この場所で、この時間に、このような方法で自死を決行するという行動決定」は、自死の直前であっただろうという事例が多くあります。それまでもうつ病などで苦しんでいるため、ずうっと思い詰めて自死決行の機会を伺っていて実行するという例も無いわけではないと思いますが、同居者の不意を突いて自死を決行したという行動パターンはむしろ多いです。

この自死の行動決定について、現在詳細な説明を準備しています。

問題解決だけでなくて、当日ないし翌日、あるいは直後に、楽しい予定が入っていたということもよくあります。「あのイベントを予定していたのだからその日に死ぬはずがない。」ということは言えないようです。

また、真面目な人が多いですから、毎日の薬はきちんと飲んでいる場合もあります。「自死をする人は、死のうとしているのだから、死ぬことと矛盾する行動はしないはずだ」ということは成り立たないようです。

さらに、飛び降りなどの確定的な自死行動が起きる場合も多いのですが、それでも、危険な行動をとっていながら、なお、死なないかもしれないというチャンスを残して危険行動に出ているかのような自死行動も少なくないようです。もしかすると、自死の意思決定をする前に行動してしまっているというケースもあるかもしれません。「自死の意思」というのは極めて複雑で多様性があるということが実際のようです。

自死の行動決定は、抱えている解決方法や死んだ後のこと等を熟慮して意思決定をしているわけではないようです。考えているのではなく「自分は死ななくてはならない」という信念にも似たような観念にとらわれて、自死以外の選択肢を持てなくなるようです。そしてそれは、不意にそういう気持ちが表れて気持ちが支配されることがあるそうです。

自殺予防に熱心な人たちは、予防は可能だ、自殺のサインを見逃すなと言うのですが、これが善意で言っていることは理解できます。しかし、そんな簡単なものではなさそうだということが多くの事案を担当した私の結論です。
自殺のサインを見逃さないという考え方の弊害は二つあります。一つは、自死が起きた以上、それはサインを見逃したのだという、家族などに対する批判、あるいは家族の自責の念を招くという効果が起きてしまうことです。前提が非科学的であることを説明してきたつもりです。
もう一つの弊害は、結局自殺の際なんてないことが多いし、通常の家族などはわからないのですから、自殺のサインに注意を傾けるということは、それが無ければ心配しないということ等、予防の役に立たない可能性があるということだと思います。



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