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行動決定の原理 4 離婚、特に理由の曖昧な離婚と効果的な離婚予防 [家事]


1 離婚を社会病理の一つとして考える理由
2 不可解な離婚群 離婚は自由意思の熟慮によって行われているのではない場合が多いこと 
3 不可解な離婚の行動決定過程と二次の情動
4 離婚を考える前、日常の夫婦生活で考えて行動すべきこと 夫婦を単位とした生活は歴史的には始まったばかりであること 自立した人間とは
5 離婚予防とは何か 幸せになる方法として考える

1 離婚を社会病理の一つとして考える理由

これまで述べてきた犯罪や自殺が社会病理の一つであることには異論は無いと思います。ただ、離婚に関しては、離婚を社会病理に入れる人と、離婚はいれないで家庭内の児童虐待や配偶者加害を社会病理に入れる人と様々なようです。
離婚を社会病理に入れない人は、おそらく、①離婚したい人を無理やり結婚生活に拘束することの方が不合理だ。とか②離婚によって女性は自分を取り戻し、依存体質から脱却して自立して生きることができる。というような論拠を掲げる方が多いようです。また確かに、一方配偶者の人格を否定する行為を常習として行い、改善可能性が無いような場合等、離婚をすることが有益である場合もあるとは思います。

1)離婚は自由に認められるべきか

「離婚」は、人生の各局面におけるストレスポイントの調査である「ライフイベント調査」において、「配偶者の死」という出来事に次いで上位の精神的ダメージが生じる出来事だという結果が出ています。離婚という出来事は、深刻なダメージを与えたり、受けたりする出来事です。あまり簡単に考えるべきことではないように思います。
また、気に入らなくなったら離婚できるということであれば、それこそ相手を人間として尊重していないということではないでしょうか。離婚を積極的に評価する人たちは、「夫のDVからの防衛手段」として離婚を考えていることが多いようです。昨今の共同親権の議論でもそのような傾向が如実に表れています。しかし、離婚をしたいのは女性ばかりではありません。むしろ少し前までは、一方的な離婚は男性が女性に対して離婚を突き付ける方が多かったのです。今も夫ないし夫の親が妻を排除しようとして、一方的に離婚を工作する場合も少なくありません。女性が男性と離婚したい場合に理由として持ち出すのはDVです。逆に夫側が妻と離婚する場合に用いる手段は、妻を発達障害だとか人格障害だとかということにして子どもを夫の元に残したまま、妻を入院をさせたり、実家に引き取らせたりして、その後は妻を家に入れず、子どもに会わせず、親権を父親にしての離婚を強いられているのです。連れ去り離婚の手段は、妻の追い出しにそのまんま利用されているわけです。「離婚は一方配偶者からの解放だ」という評価によって、女性が苦しむことになっているのですが、その点は目をつぶるようです。私には納得できません。

そもそも夫婦の在り方において夫婦が一番に考えるべきことは、「子どもの将来」のはずです。日本以外の諸国は子どもの利益がきちんと考えられているかを裁判所などで審理をして、許可を得て離婚をするという厳格な手続きとなっています。
それには科学的根拠があります。統計的に、離婚後の子どもは、自己評価が低くなり、社会生活に適合することにハンディキャップを生じる傾向にあるという共通認識が背景にあります。日本では「子どもは家のもの」という考えが色濃くありました。でも、今よりはましな考え方かもしれません。現代は子どもの利益は大人の二の次になっていて、しばしば相手を苦しむために利用される存在になっています。これでは単なる自分の付属物であり、子どもの人権が無視されているのではないでしょうか。現在の離婚実務では、離婚を申し立てる方がどこまで子どもの利益を真剣に考えているか甚だ疑問であることが実に多いのです。確かに離婚によって必ず自己評価が低くなるわけではありません。子どもにも個性があります。しかし、親として、少しでも子どもの将来に悪い影響が生じる可能性があるとするなら、親の健全な感覚では、少しでもその悪い可能性を排除しようとするものではないでしょうか。

このような他者に深刻な影響を与える離婚にもかかわらず、現在の調停実務、裁判実務における離婚手続きでは、離婚したい理由が判然としていない事例が圧倒的に多いのです。もちろん不貞や虐待などと明確な理由がある場合もありますが、私や他の特に離婚に関して主義主張のない公平な目で見ている弁護士の多くは、「暴力による配偶者加害が原因となった事案はあまり経験が無い」とのことでした。

また、離婚を社会病理とは考えないもう一つの論拠である、離婚は女性の自立を促進するでしょうか。これは疑問です。離婚後も働く人の多くは離婚前から就労して収入がある人が多いと思います。結婚時働いていない人は、離婚をしても働かないケースは少なくありません。現代日本の場合は、女性であっても働かないことにはそれなりの理由がある場合が多く、離婚をすることによってその働けない理由が解消するという関係に無いことが圧倒的多数のようです。

結局、婚姻時働かなかった人は、離婚後も働かないで、実家の世話になったり、再婚相手の世話になったり、行政福祉の援助を受けて生活するようになることが多いようです。
むしろ、婚姻時は育児を分担していたために働いていた女性も、離婚後は一人での育児を理由に働くことをやめたという事例もありました。

離婚と自立の問題は後でもう少し考察します。

2 不可解な離婚群 離婚は自由意思の熟慮によって行われているのではない場合が多いこと 

「『離婚はあなたが決めたことです。』ということを離婚後に離婚を勧められた相手からそう言われた」と法務局の人権相談で訴える女性が少なくありません。行政や行政と一体に見えるNPO等の団体に相談して、強く離婚を勧められて、弁護士もあっせんしてもらって無事に離婚が成立した。しかし、離婚をするまでに時間がかかった上、離婚をしても言われたように収入が確保できず、生活は苦しくなる一方だ、離婚なんてしなければよかったと後悔している人が、離婚を強く勧めた行政やNPO等に抗議をした時に、担当者から言われる言葉が「離婚はあなたが決めたことです。」という言葉だそうです。これは、訴える人が違っても同じ言葉が言われているようです。おそらく、この種の抗議が多いために、その場合の回答マニュアルが整備されているのだろうと感じました。

私は、女性から強い決意の下での離婚の相談が寄せられた場合は、離婚後の生活のシミュレーションを先ず行うことを勧めます。自分の想定する収入、一か月の生活費、行政からの援助の項目と金額などをすべて調査するということです。制度がどうなっていようと、例えば元夫の養育費や婚姻費用分担の制度があろうと、元夫が抵抗すれば差押えまでしなければなりません。すぐにお金が入ってくるとは限らないのです。また、元夫の給料を差押えをしたことによって元夫が会社を退職しなければならない事態になる危険があります。夫の精神的ダメージも合わせて、元夫が会社を退職してしまい結局お金が支払われない等という事態を想定するべきです。離婚後の経済的問題は、特に子どもがいる場合ははっきりさせておかなければならないことだと思います。しかし、人権相談に訴え出てくる人たちは、そのようなアドバイスをもらえずに、「とにかく離婚」、「とにかく子どもを連れての別居」を強く勧められたのかもしれません。

離婚の実態として、全員が全員そうではないにしろ、離婚後の経済的基盤も検討しないで離婚の行動決定をする人たちが少なくないのです。つまり、離婚のデメリットを真正面から検討して対応策を講じないで離婚手続きに入ってしまう人たちが多いことを示しています。

また、離婚が裁判所の手続きになった場合でも、子どもと他方の親の関係が悪いということはあまりなく、母親が「父親の子どもに対する虐待」を主張する場合であっても子どもは父親を慕っているケースが多いのです。それは父親側の自己申告ではなく、母親からの報告で私たち弁護士は知りえる情報なのです。ましてや、実際は虐待のないケースがほとんどであり、虐待、あるいはそれに近いようなことがあっても、その子以外の兄弟姉妹は父親に会いたいと思っているケースが圧倒的多数です。それでも同居親は子どもを別居親に会わさないように全力を挙げて抵抗をし、裁判所が説得をしても会わせようとしないケースも少なくありません。実際、会わせないために、子どもに事実に反することを父親の悪口を伝えて、子どもに父親を嫌いにさせたということを裁判官の前で堂々と述べた母親もいました。離婚にあたって、デメリットとして考えなければならない「子どもの健全な成長に対する影響」を考えていないか、それが行動決定に全く影響を与えていない人が実に多いというのが実態です。

そして裁判所で主張される離婚理由は、どうして離婚をしたいのかが理解できない内容がほとんどです。「離婚の意思はかたい。元に戻る気はない」という言葉は判で押したようにどなたも言うのですが、こういう事実があったという主張がほとんどないのです。それでも事実関係の主張をすると、針小棒大であるとか,事実に反するという反論をすることができますし、それが事実とは違うという裏付けがあることも少なくありません。もしかしたら、このような反論をされることを回避するために、あえて具体的な理由を書いていないということがあるかもしれません。

結局、本人はどうして離婚をすることにしたか、十分な理由を示すことができないケースが圧倒的多数です。抽象的に「DVがあった」とか、「精神的に虐待された」とか、「積年の不満が爆発した」とかそういう抽象的な表現しか主張書面に出てこないのです。そんなもの実際に無くてもできる主張です。「それが通用するのかと、それでは離婚はできないのではないか」と感じる方も多いと思います。しかし家裁の実務では、離婚の意思がかたいことと、別居の事実という二つの要素で離婚を認容する傾向にあります。離婚が認容されるなら、下手に詳細な事実を主張して反論をされて、「理由が無いから離婚を認めない」という流れになることを回避するのは、仕方がないかもしれません。

ただ、結論としていえることは、離婚後の生活を吟味せず、どうして離婚をするかということを自覚できず、子どもに対する影響もあえて考えずに、「離婚をしたいから離婚をするのだ」という離婚が増えているということです。離婚の意思表示に至るための「分析」ではなく「感情」によって、離婚手続きに入るという行動決定をしているようです。もっと正確に言えば感情で離婚決定をして、後は弁護士や裁判所という万事心得ている人たちが確立した離婚手続きのレールに乗っていれば、離婚判決に到着できるというケースが多くなっているということです。

それを間接的に示す統計もあります。離婚件数自体は平成14,5年をピークにして右肩下がりに下がっています。それにもかかわらず、面会交流調停申立はその傾向とは逆に平成以降右肩上がりに増え続けています。各年の配偶者暴力相談の相談件数の50分の1の数字と面会交流調停申立件数とほぼ同じであり、増加傾向はぴったり符合しています。離婚件数が減ったのに、相手にとって理不尽な子どもとの切り離し事案が増えているために、子どもと会わせてほしいという訴えが増えているということです。
面会交流調停.png

3 不可解な離婚の行動決定過程と二次の情動

理由のはっきりしない妻の離婚の行動決定はどのような過程を経ているのでしょうか。はっきりしていることは、妻が夫を嫌悪し、恐怖さえ感じているということです。あたかも一次の情動、つまり、自分の身体生命を守るために離婚の行動決定をしたかのようです。

おそらく支援者も裁判所も、妻の身体生命を守るために離婚に踏み切ったと思っているのでしょう。しかし、私は違うことを考えています。「二次の情動による行動決定パターン」だということです。

今回意思決定や意識の勉強をしていて再発見したのですが、「カプグラ症候群」という疾患があるというのです。これは、「周囲の他者(通常、親しい関係にある人)が、本来の人物によく似た替え玉に置き換えられているという妄想的確信を持つ病態である。替え玉は本物そっくりだが、時に患者は本物とのわずかな「差異」(雰囲気や身体的特徴)を指摘する。すり替えられた対象は、動物や非生物であることもあり、自分自身を含む場合もある。配偶者、両親など自分が愛着を持つ人物が偽物であることが妄想の主題であ」るとのことです。

1960年代まではストレスが原因だという考えが主流でしたが、1970年代から脳の部分的損傷や機能不全が原因だという考え方が主流になってきたそうです、前は女性に多く見られるという報告がされていたようですが、現在では性差が無いとされているそうです。

カプグラ症候群と言えるまで極端ではないのですが、妻に程度の軽いカプグラ症候群が起きているような印象を夫側が持つことが多いです。これまでと同じように接してきて、これまでは何も問題が無く二人で幸せに過ごしていたのに、突如自分に対して被害的な発言が飛び出すようになったとか、わけがわからずに自分を拒否するようになったという印象を持つできごとが始まるようです。場合によってはそのような兆候が無く(気が付かず)、ある日仕事から帰宅したら、家がもぬけの殻で妻と子どもが行方不明になっていたという突然の別居となるというパターンも少なくありません。

きっかけがあって、妻がそうなっているのですが、夫は何がきっかけかわかりません。妻自身でさえきっかけはわかりませんし、自分が変わったという自覚も持てないようです。過去の夫との仲が良かった時代の楽しかった記憶、幸せだった記憶は消えてなくなっているような印象を受けます。

この変化の一番の理由は、妊娠出産によるものです。以下産後うつの関連の、私の過去記事を紹介します。

引用開始
2016年12月にバルセロナ自治大学の
オスカー・ヴィリャローヤ率いる研究チームが、
https://www.sankei.com/wired/news/161222/wir1612220002-n1.html
2018年2月5日に福井大学 子どものこころの発達研究センターが
https://www.jst.go.jp/pr/announce/20180205/index.html
それぞれ大変興味深い研究発表を行いました。

バルセロナの研究は、脳のある部分の大きさの変化をとらえ、
福井大学の研究は、脳の動きをとらえ
同じことを発見しています。

ざっくり要約すると
妊娠した後、あるいは赤ん坊を産んで育てている間に、妻の脳が変化をしているということです。
その結果、
妻は、赤ん坊の状態に対する共鳴力、共感力が強くなるのに対して、
大人に対しての共鳴力、共感力は弱くなる
ということになるようです。(以上引用終わり)

これが極端なケースでは、夫に過去に感じていた愛情や、夫のそばにいることによる安心感が湧き起こらなくなり、過去の愛情や安心感を思い出すための現在の感情が欠落していることから思い出すことができなくなるという表現が当てはまっているように感じます。

これまで、離婚裁判の手続きの中で産後うつという診断書は多くは出てこなかったのですが、内分泌疾患、頭部外傷、神経性障害(ICD10 F4)等の精神疾患の診断書が提出されることがありました。突然、夫に対して、過去の愛情や安心の記憶が欠落する要因になりうる疾患の診断名だと思います。

このような生理的変化によって、夫に対して過去の愛情や安心の記憶が欠落するということはありうるのではないでしょうか。そうして、愛情や安心の記憶の無い成人男性が、いつも自分の身近にいる、そして自分の行動に文句をつけるということであれば、恐怖を感じたり嫌悪感が大きくなるということになり、夫の些細な言動が、自分に対しての攻撃であると被害的に受け止めてしまうようになる、やがて自分の行為は全般的に夫は気に入らない、「自分が想定していない場面で夫の自分に対する攻撃が始まるかもしれない」という予期不安に支配されるようになるという流れが、突然に夫に対しての嫌悪感を感じる流れのようなのです。

この流れは夫が実際に暴力的な加害を妻にしている場合の妻の心理変化とほとんど重なるようです。暴力が典型的ですが、必ずしも暴力が無くても、要は「自分が理不尽な苦しみを受けて、約束事さえも踏みにじられる」という体験をした場合、妻は、夫に対する愛情を抱いていた記憶や、安心感が失われて、存在自体に恐怖と嫌悪を感じるようになる。同じ空間にして同じ空気を吸うことも嫌になり、街で夫に似た後姿を見るだけで体が硬直してしまうという報告を受けています。

これらの問題は一見すると自分の生命身体を守るための防御として離婚の行動決定が行われたようにも見えます。しかし私は、離婚の行動決定は二次の情動が基本であり、場合によってはいくつかの人間関係の組み合わせで行動決定がなされていると考えています。

先ず暴力から身を守っているのではないかということですが、暴力があったとしても頻繁に起きているわけではなく、また大きな暴力であることは少ないようです。暴力があっても次の瞬間に逃げるというわけではないようです。また、実際は暴力の有無にかかわらず幸せの記憶の喪失は起きるようです。

また、この点は妻側の代理人になる方に特に注意していただきたいのですが、暴力が痛いから離婚したいという短絡的な流れではないようなのです。暴力は、本来、敵に対して自分(たち)の身を守るために行う行為です。仲間から暴力を受けるということは、仲間は自分の身体生命という基本的価値を否定している、自分を怖がらせることを何とも思わないということを感じさせ、その結果二次の情動を強烈に高める、つまりその人間関係が安心できる人間関係ではないという感覚を強烈に与える出来事なのです。

だから、その人間関係が自分を大切にしていない、仲間として最低限度の配慮もない、むしろ敵とみなしているという感覚を持つことになれば、その人間関係の相手である夫は、自分の社会的存在を脅かす「敵」ということになってしまうわけです。

暴力が無くても、感じる主体である妻側が、妊娠後、出産後の安心できない状態変化を起こしていれば、夫の些細な言動も攻撃と感じるようになるでしょうし、夫側が例えば「離婚する」、「別れる」、「出ていけ」という言葉を発してしまうとそれだけで、「敵」という認識になってしまうようです。

二次の情動と一次の情動をどこまで区別する必要性があるのかわかりませんが、主としては二次の情動が活発化しており、一次の情動がそれを後押ししているということがリアルな捉え方だと考えた方が実務的には正解だと思います。

夫が敵であるとしか受け止められなくなった以上、離婚をするという行動決定に出てしまうことはある意味自然なことになってしまいます。

4 離婚を考える前、日常の夫婦生活で考えて行動すべきこと 夫婦を単位とした生活単位は歴史的に始まったばかりであること 「自立した人間」とは

離婚の裁判手続きで気になる妻側の主張があります。それは、妻側の不満や言い分を、「夫は妻の不満を察して、自分の行動を改善するべきだった。私はそれを待っていたが、夫はそれをしなかった。だから修復不能なのだ。」という言い回しが非常に多いということです。そしてその不満を同居中は口に出していないというのです。「言わなくても察しろ」ということを堂々と主張しています。

結構女性の自立を主張する代理人たちもこのような主張をしてくるので、不思議でたまりません。これでは、「女性は男性から守られるべきものであり、男性が全てを見越して女性を守らなければならない。女生はそのような男性の行動の一方的評価者なのだ。」と言っていることと同じだと思えるのですがどうでしょうか。

言葉にしなければわからないことはたくさんあります。自分に妻に対する攻撃的感情が無ければ、ますます自分の言動によって妻が苦しんでいることはわかりません。実現が困難な無理難題を要求しているということが一つです。それ以上に不思議だと思うのは、「女性は夫に依存する社会的立場にある」と言っているようなものではないかということです。男性次第で女性は幸せにもなるし、不幸せにもなる。こういう主張に思えてなりません。

そんな奇跡とも思えることを期待していないで、自分の言いたいことを言うべきです。子どもと大人の区別はそこにあるはずです。子どもは親に依存して成長しなくてはなりませんので、例えば乳児は泣くということですべての要求を通そうとしますが、それは止むを得ません。

しかし大人である以上、男女にかかわらず、自分の環境を快適にする行為を自分で行う必要があるわけです。その方が楽しいですし、黙って待っていてイライラするよりよほどストレスを感じないのではないでしょうか。女性は男性に意見を言ってはならないという価値観は極めてナンセンスで時代錯誤も甚だしいと私は思います。

この依存的傾向が強い人は、結婚時は夫に依存して、離婚をしたら実家や行政に依存しようとするようです。誰かに依存しなければ不安になるようですし、自分で責任を取ることを嫌がっているようにみえます。離婚の行動決定も相談機関に依存した結果ではないかと疑いたくなる場合もあります。このような場合は離婚後の生活苦をNPO等に訴えても「結婚はあなたが決めたことです。」と言われると人権問題だと感じる流れになることは自然だと思います。

現代社会の特徴について少しお話しします。
例えば戦前は、多くの家庭ではでどちらかの両親と同居する場合が多かったわけです。また、両親との同居が少ない都市部では、職場とか近所との人間関係の結びつきが強く、おせっかいな人も多かったわけで、子育てでも夫婦問題でも、夫婦だけで解決しないで、夫婦以外の人が首を突っ込んだり、相談に行ったりすることが通常の状態だったようです。また、夫に非があると思っても、「早く逃げなさい。離婚しなさい。」というアドバイスをすることはよほどのことが確認できない限り無くて、「私が言ってあげる」と夫に態度を改めるように意見を言いに来たということが多かったのではないでしょうか。

それに対して現代社会は、どちらかの両親と一緒に暮らしていることはまれであり、近所や職場の人間関係も極めて希薄になっているのではないでしょうか。相談する相手が行政やNPOしかないという状態なのだと思います。

だから夫婦の理想の在り方、あるべき付き合い方ということは自分たちで考えるしかありません。自分の行動の不具合は自覚しにくいということが実情です。二人で情報を提供しあって考える必要がどうしてもあるのです。

その際、どちらが良いとか悪いということは、考えてもメリットの無いことです。いずれにせよ夫婦の問題ですから、双方が協力してよい方向へ進まなければ解決しないことは当たり前です。どちらが悪いとか加害者、被害者では解決する方向を間違っているとしか思われません。双方がどのように行動を修正すれば楽しく安心して暮らせることができるのかという発想が出発点だと思います。

そのためには一緒にいる時間が長く無ければすべての信頼の土台が構築できないと私は思います。
基本は一緒にいる時間を長くとること、一緒にいる時間で生きるために必要なこと以外のこと、どうでもよいことを共有することがとても大切だと思います。

5 離婚予防とは何か 幸せになる方法として考える

結局離婚予防とは、離婚しなければそれでよいというわけではないということです。一緒にいてお互いが楽しく、安心して生活できるようにすることが結果として離婚予防になるということなのだと思います。

例えば職場で嫌なことがある場合、家族に当たり散らして雰囲気を悪くする場合があります。八つ当たりですから攻撃される方も不意打ちを食うという現象になることが多いです。「自分がどうして辛く当たられるかわからないため、不信感が増大します。他の人間関係での不具合があるということは予め情報提供をしておくとだいぶ不安が軽減されると思います。男性は、女性に助けを求めることになることだと感じて、相談しづらい気持ちになることはよく理解できます。でも八つ当たりするよりは相手にとってはよほどましなのです。

もう一つ男性目線で言えば、本当に「男性側の態度が変わらないのに女性側の感じ方が変わっただけだ」と言い切れるでしょうかということです。確かに先に述べた産後うつ等のエピソードによって敏感になっているということはあると思います。しかし、結婚前、出産前、出産後で、知らず知らずのうちに夫側が平気で乱暴な言葉遣いになったということはないでしょうか。今の言葉遣いのままでプロポーズまで貫き通したと言い切れる人はどれだけいるのでしょうか。プロポーズの前は、自分を失うほど大きな声で相手を怒鳴ったことは無いと思います。

やはり、男性も女性も、自分の行為で自分が生活する環境を良いものに変えていこうとすることが大人の自立なのだと思います。相手の状態を想像すること、相手の役に立とうとし(喜ばせようとし)、そして自分で快適な家族を作っていくという発想を意識することが大切だと思います。そもそも産後うつや疾患のために被害的に感じやすくなってしまうのだって女性に責任があるわけではありません。大切にしているというメッセージを意識的に相手に届けるということが、女性の被害意識を軽減させることにつながると考えるほかなさそうです。そしていつそのような気持ちの変化があるかわかりませんから、そのようなそぶりが無くても大切にしているということを態度や言葉ではっきり告げるということをそれなりの頻度で行うことが前向きな方法だと思います。

一度被害的な気持ちになると、過去の幸せの記憶を失うと言いました。どうすれば過去の記憶を取り戻してくれるのか、その時の自分が相手にした安心感を与え続けることによって、記憶を喚起する資料を与えなければ記憶は喚起できません。わかりやすく言うと、幸せの記憶を失ったとしても、新たな幸せの記憶を蓄積させていくという方向で解決するしかないのだと思います。

家族に安心してもらうこと、何があっても一緒にいるというメッセージを折に触れて示しあうことが幸せのカギだと思います。



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行動決定の原理 3 自殺の行動決定のメカニズムと有効な予防法 [自死(自殺)・不明死、葛藤]


1 はじめに
2 自殺は必ずしも熟慮の末に行うものではない
3 自殺の前に考えるべきだったこと
4 考えるべきことが考えられなくなるメカニズム
5 自殺という行動決定
6 持続する自殺の行動決定
7 効果的な自殺の予防

1 はじめに

自死とは不思議な現象です。「生きようとすること」が、人間に限らず生き物の共通項だと思われるところ、生きようとしなくなるどころか、直ちに生きるのをやめる行動をするということだからです。さっきまで生理的に問題なく生きていた人間一人の命が失われるのですから不思議という表現よりも、「何かしら怖い」という気持ちになることも多いかもしれません。当然拒否反応が出てきて、「自分は自殺の心配はないということ」を確認して安心したくなり、自死をした人あるいはその人の家族をことさら攻撃するネットの反応も見られるところです。

私は人間には、生命、身体の危険を示す事実を脳がキャッチすれば、無意識に(脳が勝手に)生命身体を守る行動をする本能があり、これを「一次の情動に基づく行動」だと言っていました。自死をした人には一次の情動が機能不全になっていたということになります。

しかし、最も生物として基本的な反応ができなくなるということはどういうことが起きているのでしょうか。

前回の記事の犯罪の行動原理の説明の際に、「社会などの人間関係の評価を落とさないようにする『二次の情動』の機能が働くなる事情があったために犯罪が起きる」という説明をしました。その二次の情動が働かなくなる要素として一次の情動が高まりすぎたことを一つの事情としてあげました。自分が生きるために他人を犠牲にする行為が正当防衛になるという文脈で言いました。

おそらく自死は、犯罪とは正反対に、二次の情動が強く働きすぎて一次の情動が働かなくなるという現象が起きているのではないかと考えています。今回は、結局このことを詳しく説明することになるのだと思います。

2 自殺は必ずしも熟慮の末に行うものではない

「自死」とか「自殺」とかいう言葉から受けるイメージとしては、自ら熟慮の末に死を選んで自死を決行したというイメージが生まれがちです。しかし、私が聴取した自死未遂者や自死を考えた人の話からすると、多くのケースでどうも違うような気がするのです。

確かに、「急に死ぬことを思い立って十分考えなしに危険な行為をしてしまい、結果として命が失われる。」という例ばかりではないのかもしれません。ある程度長期間にわたって自死を実行しようかしないかを思い悩んで心が揺れ動いた結果自死に至ったというケースももちろんあるわけです。

ただ、思い悩んではいたとして、あるいはためらっている時間が相当時間あったからと言って、分析的な熟慮をしていたのかというと、どうもそうではないようだという事情がありそうです。「悩んではいたけれど、苦しんでいたけれど考察はしていなかった」という現象がありうるのではないかということです。

ドライな言い方をすれば、生き続けるメリットと死ぬデメリットを比較考慮していないとか、死ぬことによるデメリットをリアルに予想して考えていないのではないかと感じるのです。

全く非論理的に、つまり感情的に、あるいは直感的に、死ぬしかないという結論を出し、死に至る危険な行為を実行していたということが、実態に合いそうです。自分が自死したら家族が苦しむということは頭ではわかっていても、家族が悲しむということを十分に考慮すること(家族が苦しむから自死をやめよう)はしていないようです(家族が苦しむことは大変申し訳ないし、かわいそうな思いをするけれど、自死をする)。遺書や生前の行動から考えると、自死をした人が家族を愛していないとか、家族を守ろうとしたくないとか、家族と不仲だとかそういうことではないことがほとんどであることは間違いありません。「そこまで十分に考えていない」というだけのことです。

結局は命の危険のある行為をすることには間違いないのですが、中には最後まで生きるか死ぬかを迷っていて、もしかしたらワンチャンス死なないで済むかもしれないと思っていたのではないかという方法が取られていたこともありました。

3 自殺の前に考えるべきだったこと

では、自死の前にドライに何を考えるべきなのでしょうか。
一番は、「自死の原因が、本当に自死をしなければ解決しないことなのか」ということだと思います。

自死の原因には様々あって、内科疾患や精神疾患によって、自分の行動にコントロールが効かなくて自死に至ったというケースもあります。確かにあります。しかし、一番に多いのは対人関係上の不具合がある場合だと言ってよいのだと思います。職場や学校での人間関係の不具合、あるいは夫婦(男女)、親子の問題、あるいは社会の中の孤立という問題などがあります。自分が大切にしていたり、最後のよりどころにしていたりした人間関係から、自分が否定評価されることは、人間として文字どおり耐えきれない絶望を感じるようです。

しかし、その不具合は解決できないことなのか、また、解決しなくてはいけないことなのかということを冷静に考える必要が本当はあります。

多くの事例では、解決できないわけではない、また解決しなくて別の方法をとる、あるいは自ら解決しようとすることをやめてこちらから見放すという選択肢も大いにありうることが、第三者からみればあるように感じることが少なからずあります。

但し、第三者から見ればそう思うのですが、人間の本能は、特定の人間関係を結んでいる人間から否定評価され仲間であることを否定されると、言いようもない危機を感じてしまい、何とか自分の立場を回復したいと志向させてしまうという特徴があります。これが「二次の情動」です。人間が言葉を作る前から群れを作ることができた原理がこの二次の情動をもつ心というシステムによると私は考えています。

4 考えるべきことが考えられなくなるメカニズム

1)情動と思考低下ないし停止

一次の情動でも二次の情動でも、情動が高まると物を考えることが困難になります。一次の情動(身体生命の危険を示す事実を脳がキャッチすると、危険から遠ざかろうとする心)が生物の基本ですが、典型パターンは①怖いものを脳がキャッチしたら②逃げるということを自動的に決定させて、③いち早く逃げはじめ、④わき目も降らずに全力で逃げることをして、⑤それ以外をしないということで、身体生命をより安全にすることができ、結果として人類も生き残ってきたということです。

だから情動が高まれば、思考力が低下ないし停止することは合理的だったことになります。このシステムが今も人間の脳に残存しているわけです。つまり考えさせなくする働きが生まれてしまっていることになります。一次の情動ではこれで良いのかもしれませんが、現代社会における二次の情動が発動するような対人関係的不具合が生じたら、冷静に考えて周到な対処をすることが合理的ですが、いかんせん進化の過程で獲得してきた本能的システムは、環境の変化に追いつくことができません。「環境と心のミスマッチ」の現象が起きているわけです。

思考力が減退すると、考えるべき要素が浮かんできません。考えることにとてつもないエネルギーが消費されていきます。できるだけエネルギー消費を抑えようと勝手に脳が省力化を図ります。そうすると、今見えていない将来の見通しなんてものは思い浮かびようがありませんし、思い描く将来像があってもそれに至る筋道を計画することなんてとてもできません。二者択一的に物事を考えることがせいぜいで折衷的な考えなどできなくなります。見通しを考えるというよりも「現状を悲観的に理解する」ようになります。こうやって悲観的にいることで、楽観的な見通しの下逃げることをやめて猛獣の餌食になることを回避してきたわけです。ただひたすら逃げるということはこういうことのようです。そうすると複雑な思考ができなくなります。他人の心を推測するということは難しくなります。

また、「この人間関係をそんなに大事にするべきなのか」というテーマ自体が浮かんできません。「いくつかの人間関係を横断的に比較して、例えば職場の人間関係を切り捨ててでも家族などを大事にすればよいのではないか」という考えも出てきません。思い悩んでいる人間関係それ自体を放り投げても、自分が生きる分には何の支障もないということも考え付かないわけです。

ただただ、自分は全世界から否定されていると感じるときのように絶望し、誰かに相談すれば簡単に解決するはずなのに、「どうせだめだろう」という姿勢になっていて、対策を立てることができなくなっているようです。

自分で自分を孤立に追い込んでいくという現象が見られます。相談するべき身内こそ、心配をかけたくない、あるいは弱い自分を見せたくないという感じでもあります。このため本人から大事されていた遺族ほど、どうして自死したのかわからないということになることはこういう理由があることです。

そして、「このまま苦しみ続けるか死ぬか」という悲観的な二者択一の選択肢が浮かび、「死ぬしかない。自分は死ぬべきである。」という結論から抜け出せなくなるようです。だから、本来は対人関係上の不具合を解消したいということにすぎない場合であっても、出口は死の危険のある行為を行うということになってしまうわけです。この現象をとらえて、「人間は希望が無くては生きていけない、絶望をしたら生きていけない」と表現をすることがありますが、現象としては間違っていないのだろうと思います。

結局、二次の情動が肥大化しすぎてしまい、基本的な身体生命の確保という一次の情動が機能しなくなっているというのが自死に至る際に起きていることなのだと思います。

また、特定の人間関係(例えば職場)について二次の情動が肥大化するために、別の人間関係(例えば家族)における二次の情動が働かなくなってしまうというパターンもあるということになりそうです。

5 自殺という行動決定

自殺の行動決定も、具体的な行動で考えなければ実行には映りません。具体的な行動とは、「いつ(今、これから)」、「どこで(ここで、思い当たる場所で)」、「どのような方法で」を具体的に定めた選択肢が出てきてから危険な行動に出るという筋道を通るはずです。厳密な意味で自由意思による制御の時間はなく、あるいは制御の選択肢(やっぱりやめた)が無くなり、脳によって勝手に自死が行動決定されているのだと思います。その危険な行為をその時に、その場所で行う以外の選択肢が無くなるまで追い詰められているわけです。

一度自死の行動決定がなされてしまうと、他者によって物理的に取り押さえなければ、止めることはできないのだろうと思います。実際に物理的に自死を取り押さえた例はよく出てきています。必ずしも死ぬことを確定的に考えていなくても、突発的に飛び降りれば死ぬ場所に飛び出すことがあり、あるいは飛び出そうとして、家族が物理的に止めるのです。そのような場合、例えば妻が掃き出しからベランダに飛び出そうとしたところを夫によって取り押さえらて自分の顔が床にあたったあたりから我に返るようです。しかも、その直前の自分の行為を覚えていないということも多く報告されています。離婚事件では、自分の命の危険がある行動決定を夫が止めたという客観的事実が、取り押さえられたことが夫からのDV(暴力によって床にたたきつけられた)だという記憶にすり替わっていることが何件か見られました。その際、何をきっかけにDVが起きたのか(実際はDVではないので)記憶はしていません。記憶が無いことが直ちに行動時に意識が無かったことを示すのかどうかはよくわかりません。後に記憶が欠落するということもありうるからです。しかし、瞬時に記憶が欠落したというよりも、無意識下の行動であったと考える方が自然であるような気がします。無意識下でも、死のうという意図が無くても、死ぬ危険のある行動をして命を無くすことがありうるということを示していると思います。

6 持続する自殺の行動決定

例えば死地を決めて、自動車等で死地に赴く場合等、自死を決意してから実際に命の危険な行為を起こすまでにある程度の時間が経過していた場合があります。そこから生還した人から話を聞いたことがあります。死地に赴く途中で、あるきっかけから、「今死ぬわけにはいかない」とふと思い立って、別行動をとり生還したそうです。残りの数名は自死によって亡くなっています。

途中で我に返るということはありうることですがむしろ例外のようです。その他の人は集団で自死をしたのですから、自死の意思があり、それが持続したと考えなければならないかもしれません。

ただ、この時もいつ自死の行動決定をしたのかという端緒に着目する必要があると思います。仮に、数人で死地に出発した時に行動決定があったとすると、その段階で自由意思が失われて、後は行動決定を覆すことをできなかったということになります。「やっぱりやめた」という意思の力を振り絞るには、その時点ではすでにエネルギーが消耗しすぎていたという可能性があります。うつ病がこの意思の力を振り絞るエネルギーの無くなる病気です。もっとも症状が重い時期では、意思を使うエネルギーが無いために食べ物を口に入れても咀嚼できないし、目の前にリモコンがあるのにテレビをつけることもできないという状態になると言います。一度開始した自死の行動決定を覆す意思を持つこともエネルギーが必要な状態だったのかもしれません。エネルギーが枯渇していると、一度自死を決定したことを覆すエネルギーが残されていないということがありうると思います。

逆に何度も自死を止められて、しばし落ち着いたために家族がトイレに行った隙をついて自死を決行したケースがあります。かなりうつ病が進行していてエネルギーが無い状態だったのですが、生き続けるという意思を持てない、苦しみに耐えるエネルギーが枯渇していたということかもしれません。

7 効果的な自殺の予防

1)精神疾患が原因の場合
重篤なうつ病や統合失調症などは、それらしい出来事が無くても自死をしてしまうことがありうるので、きちっと治療をすることが最優先となるでしょう。病気の症状として、些細なことが重大なことのように思えることもあるようです。うつ病などは病気の症状として合理的な思考ができなくなり、あたかも一次の情動が高まって思考力が停止しているのと同じ状態になりうる様です。また、病気の症状として、悲観的になり、絶望しやすくなるということがありそうです。

ただ、精神疾患の治療はなかなか難しく、ひとたびうつ病になってしまうと、10年以上、波はあるけれど症状が継続していて、発病前の状態に戻れないという人たちをたくさん見てきています。治療研究を世界中で取り組んでいただきたいと思う次第です。

2)対人関係が原因の場合

その人を大事に思う人間関係の人たち、例えば家族が、いち早く他の人間関係で苦しんでいて絶望をしているという状況を察することが近道であることは間違いありません。しかし、少し前に書いた通り、本人から大切に思われていた家族こそ、本人の自死リスクに気が付かないようにできています。

そうすると、自死のリスクに気が付いてから対処するというのはあまりにもゆったりと構え過ぎだということにならないでしょうか。常日頃、意識的に「自分たちはあなたといるととても楽しい」、「あなたを尊重して、大事に考えている」というメッセージを、折に触れて発信しあうということが解決方法になるはずです。そのような習慣が無いので、なかなか難しいことですが、現代社会においてはそのような意識的な明示の発信をすることが必要なのかもしれません。ただ、自死予防の対策としてそういうことをするということではありません。本来人間は、そのように仲間の不安を取り除きながら共同生活をする動物であるはずです。そして、そのような相手を安心させる意思の発信をすることは、結局この人間関係が安心できる人間関係だということを相互に強く意識づけることになると思います。つまり人間として、本当当たり前の幸せを作り出す行為なのだと考えて、ある意味エチケットとして行うという発想こそが必要なのだと思います。幸せになろうということにためらいは不要なのだと思います。自死予防ではなくても、幸せになるための行動を行い、結果として自死が減るという流れを意識するべきだと思います。

また、あらゆる人間関係において、他者を追い込まないことということを共通のルール、価値観にするべきだと思います。とくに継続的人間関係である、家族、学校、職場等は、人間の本能として、何らかの不具合があると二次の情動を使い切る可能性がありますので特に注意が必要です。人助けや世直しを標榜するボランティア的な組織程、自分こそが正義だと強く思う人がいて、正義を貫こうとする余り、仲間を致命的な状態になるまで攻撃し続けるというパターンがみられることがあります。

また、学校をやめたり職場をやめたりした場合、すぐに別の学校や職場に移ることが可能な仕組みを作ってほしいと思います。「辞めればよいのだ」ということをつい忘れがちになりますので、「いつでも辞めることができる」という意識を持つことが大事だと思います。「いつでも辞めることができる。辞めればよいのだ」という気持ちを持つことは、その人間関係での絶望を感じにくくなり、逆に人間関係が長持ちする場合も多くあります。

3)自殺のリスクのある人に対する第三者の相談や支援の方法論

①自死の行為を詳細に語らない
WHOの報道に関する要請でもありますが、自死の行為を詳細に報じないということは有効です。自死の行動決定は具体的な危険行為を思いつくことによって実行に移ります。他者の詳細な自死行動をインプットしてしまうと、具体的な自死行為が選択肢に現れてしまいます。タイミングによっては、とても自死をする理由が無いにもかかわらず、行動決定して行動してしまうということが大いにありそうなのです。マスコミはくれぐれも自重するべきですし、詳細な事実を開示した人に対して何らかのペナルティーを与えることも視野に入れてほしい程重要な話です。

②「死ぬな」という結論を押し付けることに良い効果は期待できない
 自死は意識的に自分で命を無くそうという意思決定をしていない場合がある可能性があります。その人たちに対して「死ぬな」とか、「死んだら家族が悲しむ」という結論をいくら言ったとしても、その人たちの苦痛を大きくするかもしれませんが、予防としての効果があるかどうかは甚だ疑問です。逆効果になるかもしれないということを理解してほしいです。

特に死んだら家族が悲しむということはわかっているようなのです。それでも、十分に認識ができない状態に陥っているのですから、結論だけ言っても何かが変わるとは思えません。

③帰属するべきコミュニティーに帰属させる
その悩みがどこから来るのか一緒に理由を考えて、安全なコミュニティーに返すということを基本とするべきだと思います。「孤立を解消する」ということが最も必要なことです。孤立と言っても客観的に全世界の中で一人ぼっちになっているわけではありません。特定の人間関係の中で疎外されているだけのことが多いのですが、間違いなく孤立感を感じているし、自分から孤立化に向かってしまっていることが多いのです。

支援者自身は、支援対象者とそれから先の生活を共同にするわけにはいきません。支援者にも家族がいるはずです。その人がともに生きる人間関係を理由なく破壊することが最もやってはならないことだと思います。安全なコミュニティーを探し出して、あるいは安全なコミュニティーを創りだして、そのコミュニティーに帰属させるという最終目標を持つことが必要だと思います。必ずしも共同生活にこだわる必要はありません。「自分のことを大事に思ってくれている仲間がいる。」という意識を持てることが真の目標なのだと思います。

中には、何でもかんでも、ストレスの原因は家族であるとしてしまう人たちが実際に存在します。ストレスの解決策は家族からの離脱以外ないと考えているようです。しかし家族という基本的なコミュニティーからの離脱を勧めることは、その人の家族を精神的に追い込むことにもなりかねません。コミュニティーに不具合があるならば、不具合を是正する働きかけをすることが第一選択肢になるべきだと思います。

④総じて、支援者がやってはいけないことは、対象者の自死リスクを高めることと対象者の近くにいる人を攻撃して新たな自死リスク者を生んだり、リスク者がコミュニティーに戻ることを妨害することなのだろうと思います。自分たちこそが、寛容な社会、失敗を許容し、再出発を見守ることを率先して実践することが必要だということは間違いのないことだと思います。

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