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行動決定の原理 3 自殺の行動決定のメカニズムと有効な予防法 [自死(自殺)・不明死、葛藤]


1 はじめに
2 自殺は必ずしも熟慮の末に行うものではない
3 自殺の前に考えるべきだったこと
4 考えるべきことが考えられなくなるメカニズム
5 自殺という行動決定
6 持続する自殺の行動決定
7 効果的な自殺の予防

1 はじめに

自死とは不思議な現象です。「生きようとすること」が、人間に限らず生き物の共通項だと思われるところ、生きようとしなくなるどころか、直ちに生きるのをやめる行動をするということだからです。さっきまで生理的に問題なく生きていた人間一人の命が失われるのですから不思議という表現よりも、「何かしら怖い」という気持ちになることも多いかもしれません。当然拒否反応が出てきて、「自分は自殺の心配はないということ」を確認して安心したくなり、自死をした人あるいはその人の家族をことさら攻撃するネットの反応も見られるところです。

私は人間には、生命、身体の危険を示す事実を脳がキャッチすれば、無意識に(脳が勝手に)生命身体を守る行動をする本能があり、これを「一次の情動に基づく行動」だと言っていました。自死をした人には一次の情動が機能不全になっていたということになります。

しかし、最も生物として基本的な反応ができなくなるということはどういうことが起きているのでしょうか。

前回の記事の犯罪の行動原理の説明の際に、「社会などの人間関係の評価を落とさないようにする『二次の情動』の機能が働くなる事情があったために犯罪が起きる」という説明をしました。その二次の情動が働かなくなる要素として一次の情動が高まりすぎたことを一つの事情としてあげました。自分が生きるために他人を犠牲にする行為が正当防衛になるという文脈で言いました。

おそらく自死は、犯罪とは正反対に、二次の情動が強く働きすぎて一次の情動が働かなくなるという現象が起きているのではないかと考えています。今回は、結局このことを詳しく説明することになるのだと思います。

2 自殺は必ずしも熟慮の末に行うものではない

「自死」とか「自殺」とかいう言葉から受けるイメージとしては、自ら熟慮の末に死を選んで自死を決行したというイメージが生まれがちです。しかし、私が聴取した自死未遂者や自死を考えた人の話からすると、多くのケースでどうも違うような気がするのです。

確かに、「急に死ぬことを思い立って十分考えなしに危険な行為をしてしまい、結果として命が失われる。」という例ばかりではないのかもしれません。ある程度長期間にわたって自死を実行しようかしないかを思い悩んで心が揺れ動いた結果自死に至ったというケースももちろんあるわけです。

ただ、思い悩んではいたとして、あるいはためらっている時間が相当時間あったからと言って、分析的な熟慮をしていたのかというと、どうもそうではないようだという事情がありそうです。「悩んではいたけれど、苦しんでいたけれど考察はしていなかった」という現象がありうるのではないかということです。

ドライな言い方をすれば、生き続けるメリットと死ぬデメリットを比較考慮していないとか、死ぬことによるデメリットをリアルに予想して考えていないのではないかと感じるのです。

全く非論理的に、つまり感情的に、あるいは直感的に、死ぬしかないという結論を出し、死に至る危険な行為を実行していたということが、実態に合いそうです。自分が自死したら家族が苦しむということは頭ではわかっていても、家族が悲しむということを十分に考慮すること(家族が苦しむから自死をやめよう)はしていないようです(家族が苦しむことは大変申し訳ないし、かわいそうな思いをするけれど、自死をする)。遺書や生前の行動から考えると、自死をした人が家族を愛していないとか、家族を守ろうとしたくないとか、家族と不仲だとかそういうことではないことがほとんどであることは間違いありません。「そこまで十分に考えていない」というだけのことです。

結局は命の危険のある行為をすることには間違いないのですが、中には最後まで生きるか死ぬかを迷っていて、もしかしたらワンチャンス死なないで済むかもしれないと思っていたのではないかという方法が取られていたこともありました。

3 自殺の前に考えるべきだったこと

では、自死の前にドライに何を考えるべきなのでしょうか。
一番は、「自死の原因が、本当に自死をしなければ解決しないことなのか」ということだと思います。

自死の原因には様々あって、内科疾患や精神疾患によって、自分の行動にコントロールが効かなくて自死に至ったというケースもあります。確かにあります。しかし、一番に多いのは対人関係上の不具合がある場合だと言ってよいのだと思います。職場や学校での人間関係の不具合、あるいは夫婦(男女)、親子の問題、あるいは社会の中の孤立という問題などがあります。自分が大切にしていたり、最後のよりどころにしていたりした人間関係から、自分が否定評価されることは、人間として文字どおり耐えきれない絶望を感じるようです。

しかし、その不具合は解決できないことなのか、また、解決しなくてはいけないことなのかということを冷静に考える必要が本当はあります。

多くの事例では、解決できないわけではない、また解決しなくて別の方法をとる、あるいは自ら解決しようとすることをやめてこちらから見放すという選択肢も大いにありうることが、第三者からみればあるように感じることが少なからずあります。

但し、第三者から見ればそう思うのですが、人間の本能は、特定の人間関係を結んでいる人間から否定評価され仲間であることを否定されると、言いようもない危機を感じてしまい、何とか自分の立場を回復したいと志向させてしまうという特徴があります。これが「二次の情動」です。人間が言葉を作る前から群れを作ることができた原理がこの二次の情動をもつ心というシステムによると私は考えています。

4 考えるべきことが考えられなくなるメカニズム

1)情動と思考低下ないし停止

一次の情動でも二次の情動でも、情動が高まると物を考えることが困難になります。一次の情動(身体生命の危険を示す事実を脳がキャッチすると、危険から遠ざかろうとする心)が生物の基本ですが、典型パターンは①怖いものを脳がキャッチしたら②逃げるということを自動的に決定させて、③いち早く逃げはじめ、④わき目も降らずに全力で逃げることをして、⑤それ以外をしないということで、身体生命をより安全にすることができ、結果として人類も生き残ってきたということです。

だから情動が高まれば、思考力が低下ないし停止することは合理的だったことになります。このシステムが今も人間の脳に残存しているわけです。つまり考えさせなくする働きが生まれてしまっていることになります。一次の情動ではこれで良いのかもしれませんが、現代社会における二次の情動が発動するような対人関係的不具合が生じたら、冷静に考えて周到な対処をすることが合理的ですが、いかんせん進化の過程で獲得してきた本能的システムは、環境の変化に追いつくことができません。「環境と心のミスマッチ」の現象が起きているわけです。

思考力が減退すると、考えるべき要素が浮かんできません。考えることにとてつもないエネルギーが消費されていきます。できるだけエネルギー消費を抑えようと勝手に脳が省力化を図ります。そうすると、今見えていない将来の見通しなんてものは思い浮かびようがありませんし、思い描く将来像があってもそれに至る筋道を計画することなんてとてもできません。二者択一的に物事を考えることがせいぜいで折衷的な考えなどできなくなります。見通しを考えるというよりも「現状を悲観的に理解する」ようになります。こうやって悲観的にいることで、楽観的な見通しの下逃げることをやめて猛獣の餌食になることを回避してきたわけです。ただひたすら逃げるということはこういうことのようです。そうすると複雑な思考ができなくなります。他人の心を推測するということは難しくなります。

また、「この人間関係をそんなに大事にするべきなのか」というテーマ自体が浮かんできません。「いくつかの人間関係を横断的に比較して、例えば職場の人間関係を切り捨ててでも家族などを大事にすればよいのではないか」という考えも出てきません。思い悩んでいる人間関係それ自体を放り投げても、自分が生きる分には何の支障もないということも考え付かないわけです。

ただただ、自分は全世界から否定されていると感じるときのように絶望し、誰かに相談すれば簡単に解決するはずなのに、「どうせだめだろう」という姿勢になっていて、対策を立てることができなくなっているようです。

自分で自分を孤立に追い込んでいくという現象が見られます。相談するべき身内こそ、心配をかけたくない、あるいは弱い自分を見せたくないという感じでもあります。このため本人から大事されていた遺族ほど、どうして自死したのかわからないということになることはこういう理由があることです。

そして、「このまま苦しみ続けるか死ぬか」という悲観的な二者択一の選択肢が浮かび、「死ぬしかない。自分は死ぬべきである。」という結論から抜け出せなくなるようです。だから、本来は対人関係上の不具合を解消したいということにすぎない場合であっても、出口は死の危険のある行為を行うということになってしまうわけです。この現象をとらえて、「人間は希望が無くては生きていけない、絶望をしたら生きていけない」と表現をすることがありますが、現象としては間違っていないのだろうと思います。

結局、二次の情動が肥大化しすぎてしまい、基本的な身体生命の確保という一次の情動が機能しなくなっているというのが自死に至る際に起きていることなのだと思います。

また、特定の人間関係(例えば職場)について二次の情動が肥大化するために、別の人間関係(例えば家族)における二次の情動が働かなくなってしまうというパターンもあるということになりそうです。

5 自殺という行動決定

自殺の行動決定も、具体的な行動で考えなければ実行には映りません。具体的な行動とは、「いつ(今、これから)」、「どこで(ここで、思い当たる場所で)」、「どのような方法で」を具体的に定めた選択肢が出てきてから危険な行動に出るという筋道を通るはずです。厳密な意味で自由意思による制御の時間はなく、あるいは制御の選択肢(やっぱりやめた)が無くなり、脳によって勝手に自死が行動決定されているのだと思います。その危険な行為をその時に、その場所で行う以外の選択肢が無くなるまで追い詰められているわけです。

一度自死の行動決定がなされてしまうと、他者によって物理的に取り押さえなければ、止めることはできないのだろうと思います。実際に物理的に自死を取り押さえた例はよく出てきています。必ずしも死ぬことを確定的に考えていなくても、突発的に飛び降りれば死ぬ場所に飛び出すことがあり、あるいは飛び出そうとして、家族が物理的に止めるのです。そのような場合、例えば妻が掃き出しからベランダに飛び出そうとしたところを夫によって取り押さえらて自分の顔が床にあたったあたりから我に返るようです。しかも、その直前の自分の行為を覚えていないということも多く報告されています。離婚事件では、自分の命の危険がある行動決定を夫が止めたという客観的事実が、取り押さえられたことが夫からのDV(暴力によって床にたたきつけられた)だという記憶にすり替わっていることが何件か見られました。その際、何をきっかけにDVが起きたのか(実際はDVではないので)記憶はしていません。記憶が無いことが直ちに行動時に意識が無かったことを示すのかどうかはよくわかりません。後に記憶が欠落するということもありうるからです。しかし、瞬時に記憶が欠落したというよりも、無意識下の行動であったと考える方が自然であるような気がします。無意識下でも、死のうという意図が無くても、死ぬ危険のある行動をして命を無くすことがありうるということを示していると思います。

6 持続する自殺の行動決定

例えば死地を決めて、自動車等で死地に赴く場合等、自死を決意してから実際に命の危険な行為を起こすまでにある程度の時間が経過していた場合があります。そこから生還した人から話を聞いたことがあります。死地に赴く途中で、あるきっかけから、「今死ぬわけにはいかない」とふと思い立って、別行動をとり生還したそうです。残りの数名は自死によって亡くなっています。

途中で我に返るということはありうることですがむしろ例外のようです。その他の人は集団で自死をしたのですから、自死の意思があり、それが持続したと考えなければならないかもしれません。

ただ、この時もいつ自死の行動決定をしたのかという端緒に着目する必要があると思います。仮に、数人で死地に出発した時に行動決定があったとすると、その段階で自由意思が失われて、後は行動決定を覆すことをできなかったということになります。「やっぱりやめた」という意思の力を振り絞るには、その時点ではすでにエネルギーが消耗しすぎていたという可能性があります。うつ病がこの意思の力を振り絞るエネルギーの無くなる病気です。もっとも症状が重い時期では、意思を使うエネルギーが無いために食べ物を口に入れても咀嚼できないし、目の前にリモコンがあるのにテレビをつけることもできないという状態になると言います。一度開始した自死の行動決定を覆す意思を持つこともエネルギーが必要な状態だったのかもしれません。エネルギーが枯渇していると、一度自死を決定したことを覆すエネルギーが残されていないということがありうると思います。

逆に何度も自死を止められて、しばし落ち着いたために家族がトイレに行った隙をついて自死を決行したケースがあります。かなりうつ病が進行していてエネルギーが無い状態だったのですが、生き続けるという意思を持てない、苦しみに耐えるエネルギーが枯渇していたということかもしれません。

7 効果的な自殺の予防

1)精神疾患が原因の場合
重篤なうつ病や統合失調症などは、それらしい出来事が無くても自死をしてしまうことがありうるので、きちっと治療をすることが最優先となるでしょう。病気の症状として、些細なことが重大なことのように思えることもあるようです。うつ病などは病気の症状として合理的な思考ができなくなり、あたかも一次の情動が高まって思考力が停止しているのと同じ状態になりうる様です。また、病気の症状として、悲観的になり、絶望しやすくなるということがありそうです。

ただ、精神疾患の治療はなかなか難しく、ひとたびうつ病になってしまうと、10年以上、波はあるけれど症状が継続していて、発病前の状態に戻れないという人たちをたくさん見てきています。治療研究を世界中で取り組んでいただきたいと思う次第です。

2)対人関係が原因の場合

その人を大事に思う人間関係の人たち、例えば家族が、いち早く他の人間関係で苦しんでいて絶望をしているという状況を察することが近道であることは間違いありません。しかし、少し前に書いた通り、本人から大切に思われていた家族こそ、本人の自死リスクに気が付かないようにできています。

そうすると、自死のリスクに気が付いてから対処するというのはあまりにもゆったりと構え過ぎだということにならないでしょうか。常日頃、意識的に「自分たちはあなたといるととても楽しい」、「あなたを尊重して、大事に考えている」というメッセージを、折に触れて発信しあうということが解決方法になるはずです。そのような習慣が無いので、なかなか難しいことですが、現代社会においてはそのような意識的な明示の発信をすることが必要なのかもしれません。ただ、自死予防の対策としてそういうことをするということではありません。本来人間は、そのように仲間の不安を取り除きながら共同生活をする動物であるはずです。そして、そのような相手を安心させる意思の発信をすることは、結局この人間関係が安心できる人間関係だということを相互に強く意識づけることになると思います。つまり人間として、本当当たり前の幸せを作り出す行為なのだと考えて、ある意味エチケットとして行うという発想こそが必要なのだと思います。幸せになろうということにためらいは不要なのだと思います。自死予防ではなくても、幸せになるための行動を行い、結果として自死が減るという流れを意識するべきだと思います。

また、あらゆる人間関係において、他者を追い込まないことということを共通のルール、価値観にするべきだと思います。とくに継続的人間関係である、家族、学校、職場等は、人間の本能として、何らかの不具合があると二次の情動を使い切る可能性がありますので特に注意が必要です。人助けや世直しを標榜するボランティア的な組織程、自分こそが正義だと強く思う人がいて、正義を貫こうとする余り、仲間を致命的な状態になるまで攻撃し続けるというパターンがみられることがあります。

また、学校をやめたり職場をやめたりした場合、すぐに別の学校や職場に移ることが可能な仕組みを作ってほしいと思います。「辞めればよいのだ」ということをつい忘れがちになりますので、「いつでも辞めることができる」という意識を持つことが大事だと思います。「いつでも辞めることができる。辞めればよいのだ」という気持ちを持つことは、その人間関係での絶望を感じにくくなり、逆に人間関係が長持ちする場合も多くあります。

3)自殺のリスクのある人に対する第三者の相談や支援の方法論

①自死の行為を詳細に語らない
WHOの報道に関する要請でもありますが、自死の行為を詳細に報じないということは有効です。自死の行動決定は具体的な危険行為を思いつくことによって実行に移ります。他者の詳細な自死行動をインプットしてしまうと、具体的な自死行為が選択肢に現れてしまいます。タイミングによっては、とても自死をする理由が無いにもかかわらず、行動決定して行動してしまうということが大いにありそうなのです。マスコミはくれぐれも自重するべきですし、詳細な事実を開示した人に対して何らかのペナルティーを与えることも視野に入れてほしい程重要な話です。

②「死ぬな」という結論を押し付けることに良い効果は期待できない
 自死は意識的に自分で命を無くそうという意思決定をしていない場合がある可能性があります。その人たちに対して「死ぬな」とか、「死んだら家族が悲しむ」という結論をいくら言ったとしても、その人たちの苦痛を大きくするかもしれませんが、予防としての効果があるかどうかは甚だ疑問です。逆効果になるかもしれないということを理解してほしいです。

特に死んだら家族が悲しむということはわかっているようなのです。それでも、十分に認識ができない状態に陥っているのですから、結論だけ言っても何かが変わるとは思えません。

③帰属するべきコミュニティーに帰属させる
その悩みがどこから来るのか一緒に理由を考えて、安全なコミュニティーに返すということを基本とするべきだと思います。「孤立を解消する」ということが最も必要なことです。孤立と言っても客観的に全世界の中で一人ぼっちになっているわけではありません。特定の人間関係の中で疎外されているだけのことが多いのですが、間違いなく孤立感を感じているし、自分から孤立化に向かってしまっていることが多いのです。

支援者自身は、支援対象者とそれから先の生活を共同にするわけにはいきません。支援者にも家族がいるはずです。その人がともに生きる人間関係を理由なく破壊することが最もやってはならないことだと思います。安全なコミュニティーを探し出して、あるいは安全なコミュニティーを創りだして、そのコミュニティーに帰属させるという最終目標を持つことが必要だと思います。必ずしも共同生活にこだわる必要はありません。「自分のことを大事に思ってくれている仲間がいる。」という意識を持てることが真の目標なのだと思います。

中には、何でもかんでも、ストレスの原因は家族であるとしてしまう人たちが実際に存在します。ストレスの解決策は家族からの離脱以外ないと考えているようです。しかし家族という基本的なコミュニティーからの離脱を勧めることは、その人の家族を精神的に追い込むことにもなりかねません。コミュニティーに不具合があるならば、不具合を是正する働きかけをすることが第一選択肢になるべきだと思います。

④総じて、支援者がやってはいけないことは、対象者の自死リスクを高めることと対象者の近くにいる人を攻撃して新たな自死リスク者を生んだり、リスク者がコミュニティーに戻ることを妨害することなのだろうと思います。自分たちこそが、寛容な社会、失敗を許容し、再出発を見守ることを率先して実践することが必要だということは間違いのないことだと思います。

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