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【原理論理編】男女の価値観が違うという意味と由来について 発想、価値観の違う相手は理解しようとしなければ理解できない。 [進化心理学、生理学、対人関係学]


男性と女性では価値観や発想が大きく異なることが多くあります。進化生物学的にその理由が説明されています。人間の心ができたとされる約200万年前の狩猟採取時代、人間は30人くらいの群れで生活しており、男性は10人弱くらいでイノシシなどを狩り、女性は子どもや老人の世話をしながら狩りに失敗した時に備えて食べられる植物を採取していたとされます。

このような進化生物学の知見に対して、フェミニストの一部が、「それでは女性は男性に太古から養われていたことになるので、この見解は世に出すな」という抗議が来たそうです。この抗議に現在の女性の生きにくさの根源があるように思われます。

これがどういうことかを説明していきます。

先ず、集団で狩りをする男性の意識について考えていきます。狩りをする以上、獲物をしとめなければなりません。獲物を逃がしてしまうと、動物性たんぱく質が取れず、エネルギーが不足して弱ってしまいます。もちろん動物は全力で逃げます。だから、男性は相手を弱らせて確実に仕留めるために、もっとも合理的な方法を選択することに価値を置く発想を持つようになります。仲間や獲物の立場は二の次です。また、合理的ではない勝手な行動をすると厳しく否定評価もされたことでしょう。

女性の方は、それほど厳しく何かをするわけではなく、年寄りが安心して過ごし、子どもたちが安心して過ごすことが使命ですから、相手の感情を大切にしようとします。相手の立場を傷つけることは群れが弱くなりますから、相手を大切にできない群れの構成員が多い場合は群れ全体が滅びてしまったことでしょう。

ただ、一部のフェミニストが言うように、だからと言って女性が男性に依存していたわけではありません。小動物を狩れなかった場合は女性が用意した植物食べる必要があったのです。また、世話をするものがいないため子どもや年寄りがいなくなれば、頭数が減るばかりではなく、構成員が先細りになり群れが死滅してしまうからです。

おそらく、女性が小動物の狩りに行かなかった理由は、流産を避けることにあり、女性が狩りをしない群れは子孫が多く生まれてきたので、徐々に女性が狩りをしない風習が生まれただけだと思います。もちろん植物採取チームにも肉食獣から襲われる危険はあります。女性たちは年寄りや子どもというハンディキャップを抱えながら勇敢にたたかったものと思われます。

このような役割分担ができたために、人類は餓死をせずに生き延びてきたわけです。男性の狩りも、女性の植物採取も人類が生き残るために必要不可欠であり、どちらが偉いとかそういうことはなく、食糧分配も平等であったと言われています。これは近年の狩猟採集民族の調査からも同様の結論だったようです。

結論として、男性はより合理性に価値を置き、女性はより感情、立場に価値を置くようになっていったことは優に推測できることだと思います。

現代社会は、生産性を重視していて、少なくとも働く人たちの一般的な価値観は意識をしなければ、合理性優位の価値観になりがちだと思われます。ただ、対人関係学的労務管理では、相手の立場、感情を満足させることによってモチベーションを高めて生産性を高めていくという戦略をとるので、ハイブリッドの考え方ということになるのですが、ここではこれ以上触れません。

第2波までのフェミニズムの傾向は、男性も人間の感情、協調の価値観を持つことによって、平和な社会を実現しようというものでした。第3波の価値観は、女性も合理性重視の価値観を持てるし、その能力は男性と差がないというもので、性差はすべて社会的なもので後付けの説明だと主張するのではないでしょうか。

つまり、最近のフェミニズムの価値観は、女性も合理性の価値観をもち、男性並みに働く能力がある。女性がもっと就労と昇進の機会を得て、働かせるべきだと、それが女性にとっても輝くことだと主張しているように思えてなりません。だから家族の中の女性の役割を主張することは、不当に女性を拘束し、男性に隷属化させているという主張に思えてなりません。

確かに、世の中を見れば、職場で活躍する女性は増えていますし、女性だから何かができない、男性より劣っているという考え方は間違っているということはその通りだと思います。

企業の中で、このような単一の価値観で行動をすることは、あるいは合理性があるかもしれません。
しかし、この考え方が、家庭にまで入ってきてしまって、夫婦や家族の仲間で合理性が最優先の価値観をもってしまい、収拾がつかなくなっているということが、離婚になりやすい原因、修復がしにくい原因となっていると常々感じています。

確かにそれぞれが思う最低限度の生活を維持することが家族では必要です。欲望の赴くままにお金を使ってしまってはこれができなくなりますから、最低限度の合理性は必要です。

しかし、合理性だけに価値を置いて行動してしまうと、毎日が緊張の連続となり、息が詰まり、どちらかが家に帰りたくなくなってしまいます。そして、合理性を徹底する相手方から、「合理的ではない」と責められてしまっては、顔を見るのも嫌になったり恐怖を感じたりもするでしょう。

そうしてどちらかが家族であることをやめてしまうわけです。また、別の夫婦では、相手が合理的にふるまわないからと言って、離脱する場合もあります。

合理性の価値観を持つことは間違いではありません。しかし、それが優先するあまり、協調の価値観や、立場や感情の尊重というもう一方の価値観が失われてしまうと、その人間関係は生きづらい人間関係で、長続きしないと思われます。

外で働くことや合理性が、無条件に優先される価値観だという主張は、人間関係を暖かいものにしよう、安心できる人間関係にしようという価値観を劣後させてしまいます。少なくともその調和が無ければどちらかが疲れてしまい、生きづらくなるわけです。

先ほど述べた200万年ほど前の男たちは、狩りの時の強い緊張感が、狩りの成功によって解放され、喜びと高揚感を持って女性たちの元に戻ってきたことでしょう。そこで自分が感謝されて、大事されるという協調の価値観で満たされたからではないかと思うのです。逆にそこでも女性たちから合理性の価値観での行動を強いられたら、男性たちは帰ることをやめて、人類はとっくに滅んでいたのではないかと想像してみる私でした。


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