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いじめ防止対策推進法の不十分点 自死予防は一つの命を救うために99パーセント以上の無駄を行うことに特徴があるのかもしれない [自死(自殺)・不明死、葛藤]

いじめ防止対策推進法の不十分点 自死予防は一つの命を救うために99パーセント以上の無駄を行うことに特徴があるのかもしれない

そんなの法律の目的ではないよと言われてしまえば
そうなんですか、それでは新たな法律が必要ですね
というしかないのですが、

いじめ防止対策推進法を読んでいると
二つの不十分点があることを痛感します。

一つは、児童生徒が、生き生きとした充実した学校生活を送ることが目的とされていないこと
もう一つは、いじめを受けた子どもたちへの対応が構築されていないことです。

いじめ防止対策推進法の目的は、いじめ防止なのでしょうが、
何のためにいじめを防止するかと言えば、
確かに一つには法律の言うとおり子どもの尊厳を守るため
だということができると思います。

しかし、この法律が作られた背景を考えると
いじめによって児童生徒の自死を防ぐ
という目的があるのが当然だと思うのですが、
法律を見ても通達やガイドラインを見ても
具体的な方法が提示されていないようなのです。

たまたまそういう仕事をしているのでわかっているのですが、
いじめを受けて重大な被害を受けた子どもたちは
いじめが終わったり、加害者が処分を受ければ
それで終わりというわけにはいきません。

不登校が解消されず、実力に応じた進学ができないだけでなく、
家から出られなくなり、
親等には暴力的対応をして収拾がつかなくなり、
精神科病棟への意に反する入院をさせられたり、
(統合失調症や行動障害の診断名があっても、
 いじめがあったこと自体は確認できる)
社会に復帰することができなくなる子どもたちが
確実にいるのです。

子どもどうしの何気ない人間関係によって
一生を他者と交わることなく過ごすという
極めて重大な事態になっていることが
少なくなくあります。

そんな子どもたちにとって
加害者がどんな指導を受けたなんてことは
あまり意味のないことかもしれません。

いじめがなくなっても
法律の目的とする尊厳の回復にはなっていないのです。
いじめが終わればそれでよいというものではないのです。

本当の被害者である子ども目線の法律になっていない
と感じる理由です。

子どもの救済については、何も定められていません。

また、自傷行為や自死企図等が起きた場合は
調査を行うということですが、
調査には時間がかかりますし、
重大事態等のハードルが高く、
(実際は、国の通達が守られればそれほど高くはないのですが、
 仙台市の事例のように国の通達に真っ向から反する解釈に
 固執する教育委員会もあるようです。)

特に被害児童の救済が放置されたまま
時間ばかりが過ぎてしまうことにもなりかねません。

子どもの尊厳を守る目的であれば
いじめをやめさせて終わりではなく、
最後まで、子どもの尊厳を取り戻すところまで
対策を構築しなければならないはずです。

加害者処罰が大声で求められているようですが、
もっと肝心の被害児童の救済の対策こそ立てるべきです。

どうやら、現代の日本の学校現場では、
自死リスクが高まった児童生徒に対するノウハウの構築と普及が
放置されたままになっているようです。

激しいリストカットをしている子どもがいても
リストカットでは死なないと思っているのか、
放置されているようです。

自傷行為は、その時死ななくても
その後確実に死に接近していく行為です。

これらの子どもたちに対しては、
正式な指導は、「専門家につなぐ」
ということしかないようです。

その学校がつなぐべき専門家は、
どのような職業で、具体的には誰なのか
どこにまず電話をするのか。
家庭との連携をどうするか
メリットデメリットをどう説明して判断してもらうか
専門家につなぐ前に応急措置をする必要があるのかないのか
現場では全くわからないようです。

現実に自死の危険のある生徒に対して
何もできないし、しないということに結果としてなってしまっています。

これらの自死リスクの高い子どもに対して
学校が何らかの手当てをする必要がなく、
家庭の問題だ
という考え方もあるかもしれません。

病院への対応などが必要ですから
家庭の意向を無視して行うことも難しいでしょう。
結論としては、それも間違っていないのかもしれません。

また、学校の先生方はいろいろやることがあって忙しく、
子どもの異変に気が付かなければならないというのは
精神的な負担でありストレスが大きいとてもできない
ということも実際にはあるのかもしれません。

ただ、それでよいのでしょうか。

子どもを育てる時に各ご家庭で自死リスクを勉強する
学校は無関係だと割り切ることが
教育現場としてあってもよいのでしょうか。

教育とは人格の向上を目的としたものであって、
知識を習得させる学習塾とは異なります。
命の危険がある子どもを放置して
心配にもならない人たちが
子どもたちの人格の向上に寄与できるのでしょうか。
それこそ絵空事のような気がします。

ただ現状を放置して
やれという結果を命じるだけであれば
それは確かに教師に負担をかけるだけです。
効果も上がらないことでしょう。

そもそも自死対策は、
本来しなくてもよい、無駄 をちゅうちょなく行うものかもしれません。
本当は死ぬ気がないリストカットでも
徐々に死に近づいていると考えれば
今のうちに解決しなければならないでしょう。

心配しているというメッセージだけでも
その子どもの生活に潤いが生まれるかもしれません。
みんなが自分を心配しているということですね。

そうやって心配して声掛けしている中で
誰にも言えなかったけれど、切実に悩んでいた
という事例があるかもしれません。

99%以上は、緊急性が無いことでも
それが一人だけでも命を救ったというのであれば、
やっててよかったと思うし、
やり続けなければならないことのように思うのです。

このようなことを学校現場に言うと
おそらく相手にされないでしょう。
実情と会わないと言われるでしょう。

子どもの命を守るという観点からすると
学校は機能不全に陥っているのではないでしょうか。
まず、できるように環境を変えることが急務かもしれません。

どうやら自死対策は
合理性や効率ということを考えては
出来ないことなのかもしれません。


毎日顔を会わせる大人として、
子どもたちを心配する態度を表すことができないというならば
それをできるようにしなくてはならないということのはずです。

学校で自死リスクについてのノウハウを蓄積し、
家庭と連携を取って自死を予防する
子どもたちの自死予防にはとても効果的であるはずなのです。

日本だけが若者の死亡原因の第1位が自死という事態になっています。
子どもの数が減っているのに自死は増えています。
何とかしなければならないはずです。

子どもたちは日本の将来を背負うのであり、
国にとっては宝として扱うべきでしょう。

いじめか否か、重大事案か否かにかかわらず
みんなで予防をしていく環境を作るべきだと
思うのです。

そして、根本的には、
教育という人格向上の一環として、
子どもたちが活き活きと学校生活を送ることを目標にするべきであり
それによって効果が上がることだと思います。
ゼロの先のプラスを目指すべきであり、
いじめゼロとか自死ゼロばかり目指し
ゼロになればよいという発想では
なかなか解決することが難しいのだと思います。


私たちは、国民として
学校を非難するより先に
学校に何を求めるのか
意思表示をするべきなのでしょう。

私は、学校は、若者の自死予防のベース基地になるべきだと思います。

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一つの困難が解決した時こそ、自死(自殺)の危険性が高まる時 自死予防のためには「人間としてのあたりまえ」を壊さないことしかないのではないか。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]


自死が起きたときに、
なぜ?せっかくこの問題が解決したのに?
と思うことが多くあります。

例えば、派遣労働者で無理難題を押し付けられていて
友人たちの勧めで仕事をやめようと決意したのにというときや
大きなイベントの実務的な責任者になっていて、
そのイベントがようやく終了したときとか、
せっかく悩んでいたことがそれなりに解決したというのに、
その人が自死してしまったという事件を何件か経験したことがあります。

むしろ、そういうときこそ
自死をする危険が高まっているということを
心得ておくことが必要だということになります。

よくよくその事情を調べてみると
どうやら理由があることだということになりそうです。


一つは、うつ病の場合についてよく言われていることは、
最も落ち込んでいるときには、
自死をする気力もなくなっているので
自死が起きにくいということです。

2次関数のグラフ、Uの字のグラフですが、
これを思い浮かべてください。
一番下の底の時よりも、
底の手前の部分やそこから少し右に進んで上向きな状態で
自死が起きやすいというものです。
これもそうかもしれません。


次に、過労死などの事例では、
それまで、言われたこと、やらなくてはならないことばかりを
無我夢中でただ言われた通り行っていたのですが、
例えば仕事をやめるという決意をしたときとか、
イベントが終わりもうその仕事はやらなくてもよいのだと思うときとかに、
自分で自分の行動を決めるという行動パターンになりますが、
そうすると受動的に苦しんでいるより、
積極的に苦しみから解放される手段をとろう
という気持ちのパターンが生まれてしまう
ということがあるように感じます。


また、自死する人は責任感が強い
このため、いやな仕事でもきちんとこなそうとするし、
最後までやり遂げようとしてしまう。
だから仕事が続いているときは自死しようなんて考えない。
それが一段落ついたために、
それまでしたくてもできなかったこと
つまり自死することができる
という気持ちにさせてしまうのかもしれません。

もちろん実際にはほかにもやるべきことがあるのですが、
冷静に全体像を見渡せる精神的な余裕がないために、
一つ終わったということが自死の引き金になるのかもしれません。


私が裁判で主張した論理としては、
解決したのに解決していないことで、
無限に苦しみが続くという絶望を感じたというものです。

その人は、色々な仕事を同時にこなさなければならないという
仕事上の特色をもっていた学校の先生でした。
これはどの先生も同じですが、
特にその先生はいろいろな分野で責任者のような仕事をしていました。

その上、全国行事の事務責任者をしていました。
それ自体が時間を取られ、様々なやるべきことがあった仕事でした。
その全国行事が終了した直後に自死をしたわけです。

全国行事が終了して肩の荷を下ろしたのと同時に、
また翌日から日常の過重労働を行わなければならない
結局、過重労働から解放されないと思うと、
こんなに努力したのにもかかわらず、
何も変わらないという気持ちになると思うのです。

やってもやっても、解放されない
無限の苦しみが待っていると感じ、
絶望が起きても不思議ではないように思いました。

本当はイベントが終わるまでだと思って無理して仕事をしていて
それが終わったのだから
少しだけそれまでより仕事が軽減されるのですが
これまでと同じ過重労働が続いて、退職まで変わらない
と考えてしまうということがあるのでしょう。
これは地獄だったと思います。


実は問題が解決していなかったということもあるでしょう。
派遣先でパワハラを受けていた労働者が
友人の勧めで会社を辞めることにした
これでもうパワハラを受けなくて済むということで
本人も喜んでいたし、友達も安心していた。
けれども、どうやら本人は、自分が辞めることで
派遣元の会社に迷惑がかかる、仕事を打ち切られてしまう
そういう心配をしていたようです。
夢遊病者のように会社からでていき自死をしたようです。


その人が自死しそうだとわかれば、
その人のそばにいることが一番です。
具体的に死にそうになったら止めるというのではなく、
自分を心配している人、気遣う人がそばにいるということを
皮膚感覚で感じてもらい、その事実を脳に刷り込んで、
自死しようという気持ちを起こさせないことです。

ところがこれがなかなか難しい。

別に家庭があるために、その人につきっきりになれないとか 、
危険は分かるけれど遠い所に住んでいるとか

誰がどのように危険に対処するのか難しい場合が多くあるようです。

ただ、黙って近くにいた方が良いのですが、
余計な励ましをして逆効果になったり、
その人の絶望を持て余してイライラして叱責してしまったり
実際はなかなか難しいようです。

むしろ、手紙とか、写真とか
その人がいつでも自分が支持されていることを意識できる方法を
考えた方が良い場合もありそうです。



それより、そのように今にも死にそうな危険があるということが
なかなかわからないことが一番の困りごとです。

自死するような責任感の強い人は、
自分の仲間、家族とか友人の前では、
苦しんでいることを見せないことが多いからです。

ニコニコ笑って、楽しそうにしていた
ということをよく聞きますが、
無理をしていることが多いようです。

その人が苦しんでいるようには見えなかったということと
苦しんでいなかったということはまるっきり別物だ
ということになります。

だから自死を防ぐことが難しいのです。

自死予防の政策にあたっては
その人の感情を推し量ることはできない
そう割り切るべきだと私は考えています。

その人が取り巻かれている客観的状況が
人間としてのあたりまえの状態になっていない
ということを重視するべきだと思います。

働いている人だったら
一週間に一度は会社とはまるっきり関係のない時間を過ごす
これができないことをおかしいと感じなければならないでしょう。

毎晩深夜にならないと帰宅しない
これは人間としてのあたりまえではないとしましょう。
そういう感覚がなくなっているかもしれませんが、
そうだとしても理性で、
家族と夕飯を一緒に食べられないことはおかしいと
歯止めをかけなければなりません。

会社での叱責が、ずいぶん刺激になってしまい
帰宅してもそれを引きずっていたり
翌日や翌々日に持ち越すこともおかしいと感じましょう。

子どもたちも
例えばリストカットがあったら人間としてのあたりまえではないのです。
なにから逃れたいと思っているのか必ず解決しなければなりません。
目立とうとか、関心を引こうということだとしても
それは人間としてのあたりまえではありません。
なぜそういう行動をとってしまうのか
必ず大人が解決しなければなりません。
目立とうと思うのは悪いことではありませんが、
自分を傷つけて目立とうとしたり、
自分の物、立場を傷つけて目立とうとすることは
人間としてのあたりまではないのです。
あきれている場合ではありません。

誰かをいじるとか、からかうということも、
どうやら人間としてのあたりまえではないようです。
やくざの世界ならともかく、
人格を向上させる学校でそれが行われてはなりません。
本人は嫌がることができないものだと心がけましょう。
笑ってやり過ごさなければ負けだと思っているということで良いようです。

一人の子をみんなで攻撃することも異常です。
その子が間違っていたとしても
逃げ場がない状態にすることは大変危険なことですし、
もうやめようよという子がいないなら、
子どもが子どもを裁くようなことはやめさせましょう。


遅刻をしたり無断欠席をしたり、早退したりする場合は
理由が納得できるまで尋ねましょう。
子どもが奇妙なことをした場合は必ず解決しましょう。

校則だから守れという低次元の話ではなく、
あなたが心配だからというモチベーションを持ちましょう

怖がらないで、面倒くさがらないで
子どもと向き合いましょう。

子どものために向き合いましょう。

どうやら今の日本にかけていることは
そういうことのような気がしています。
あたりまえでないことに慣れてしまっているようです。

子どもや部下を大事に思うということよりも
自分の保身のために迷惑がっている大人ばかりのようです。

人間がぞんざいに扱われていることに
慣れてしまっているようです。

若者が尊敬され、尊重される社会ではなくなっているようです。
しあわせということばが
あまり人々の口に上がらなくなったように感じます。
結婚式くらいでしか聞かないような気がします。

ノルマや指図ではなく、
人間が幸せになるために行動する
そういうモチベーションが
当たり前ではなくなっているのではないでしょうか。

人間が群れを作る能力を失い始めているようです。
どんなに文明が発達していても、
それでは、人間の足場は崩れ落ちてしまうでしょう。

本気で人間を取り戻すことを
今からでも始めるべきです。

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小学生、中学生が自死する理由 中高年の自死の原因と子どもの自死の原因の違い [自死(自殺)・不明死、葛藤]

自死の原因を考える場面がある。
事件の解決のために
あるいは自死予防のために
原因の考察は不可欠である。

子どもの自死に関して
原因が思い当たらない場合は、
中高年の自死との違いを意識する必要があるかもしれない。

自死が未来に対する絶望から起きるという側面では、
中高年も子どもも共通であると思う。

人間は
なんかの危険を感じ、何らかの不安を感じた場合、
危険を解消したいという気持が生まれ
危険を解消する行動をとって解決する。
これが生きるメカニズムである。

ところが、解消する行動が見つからない場合
危険を解消したいという気持だけが大きくなってゆく。
それが大きくなりすぎて
危険が解消できるのならば何でもよいという優先順位になり、
本来生きるためのメカニズムだったのが、
危険を解消できるならば死んでも良い
という逆転現象が起きてしまい、
自死に至ると考えている。

中高年の自死の原因と子どもの自死の原因は
ともに未来に対する絶望、
危険解消のための行動が存在しないと感じることなのだけれど、

おそらく、中高年以上と子どもでは、
「未来」や「絶望」のニュアンスが異なるのだろう。

中高年は
自分が過去に築いてきた現在の立場が崩壊することに絶望する
これまで努力や運や挫折の繰り返しの中で
ようやく築いた人間関係や社会的評価、
家族との関係や、仕事の上司や同僚部下との関係
友人たちとの関係が
自分や他人の行為のために
否定されて、なかったことにされる
これまでの長い時間が否定される
いまさら一からやり直すことができない
こういう絶望の感じ方をすることが多い。

子どもたちは、
これからの自分の将来に対して希望を持つことができない
そういう絶望の仕方をするようだ。

中高年は、過去とつながる現在に絶望し、
子どもは、未来とつながる現在に絶望するようだ。

子どもたちにとって
数年後のことでさえ、自分の未来は曖昧模糊としている。
大人は思い出せるだろうか。
小学生が中学生になるとき、
中学生が高校生になるとき、
高校生が数年後大学生や就職するとき
自分のその時を確実に予想できる子どもは少なかったと思う。

つまらないことに不安になっていたはずだ。
それは今思えばつまらないことでも
当時は、取るに足りないことだということが分からない。

進学や就職は新しい人間関係が形成されるイベントである。
自分はすんなりその場の住人になれるだろうか
一人ぼっちになっていくのではないか
という不安は
あたらしい社会に出る喜びとセットで忍び込んでいたはずだ。

だから子どもにとって中学進学、高校進学は、
ただでさえ不安になるエピソードである。
しかし、もう一方の期待も生まれる。
これまでの自分を一区切りつけて
あたらしい人間関係が形成できるのではないかという期待である。
これが裏切られることは深刻な問題となってしまう。

子どもは常にそれまでの幼稚な自分から成長する過程にある。
それまでのなじんでいたはずの自分のポジションが
成長につれて納得がゆかない、不満だと思うようになる。
例えばそれまでは、からかい等親愛を示す行動も
成長の過程の中で苦痛に感じ、いじめに感じるようになることがある。

からかう側の人間も
それまで相手に脅威を感じることなく
自分よりも弱い立場の者だという扱いをしていたかもしれないが、
相手が成長することによって脅威を感じ、
それまでの親愛の気持ちに
よこしまな気持ちが混じってくることもある。
しかしそこに悪意があるわけではない。

進学、新しい社会は、
そのような自分の立場をリセットするチャンスとして
希望を抱くことが多い。

あたらしい人間関係に飛び込む不安と同時に
自分にふさわしい人間関係を築くチャンスでもあるととらえる。

ところが、
あたらしい人間関係が作られるはずが、
古い人間関係、からかわれ、いじられる人間関係などの
自分がなくしたい人間関係が
そのまま新しい人間関係の中でも維持されるとしたら
子どもは自分の未来をどす黒いものに感じるだろう。

あたらしく知り合う人間たちも
自分をさげすみ、軽蔑し
一人前の仲間として扱わない
そういう人間が自分の周囲で増えるということを予想することは
大変つらいことだ。

そして多くの子どもたちは、
次のステップの自分を予想することで精いっぱいだ。
小学生は、自分が中学生になることをある程度予想するかもしれないが
高校生の自分を予想することはなかなか難しい。

中学生は、高校生になる自分をある程度予想できるだろうが
大学生や就職した自分を想像することはなかなか難しい。

もし「次のステップ」が
自分にとって馬鹿にされて過ごすものだと予想した場合、
「次の次のステップ」で挽回できるはずだ
と予想することは至難の業だろう。

だから、小学を卒業しても、中学を卒業しても
自分の立場が改善されず、もっとひどいものになるだろうという予想は、
自分の一生が、ひどいものであって
死ぬまで改善されないものだというように受け止めてしまう
そういうことが考えられないだろうか。

我々中高年にとっての将来は短い
たとえ辛い未来が待っていたとしても
やがて自然に終わるし、
辛さのかわし方、ずるさもある程度身に着けている。

しかし子どもの未来は永い。
辛い未来は、本人にとって果てしなく感じるだろう。
予想もつかない辛い人生を
子どもはかわす方法など知らない。
辛い未来予想を真正面から受け止めてしまう。
あまりにも無防備だ。

大人は、子どもの未来を守るのが一番の仕事なのだろう。
子どもの自死予防は、このように
子どもが成長していくもの、新しい人間関係を築いていくものとして
子どもをもっと把握し直さなければならないようだ。

ちょうど幼稚園のころ、
子どもの未熟な発音がかわいいからといって放置せずに
発音の是正を指導するように、
小学校、中学校の子どもの未熟な人間関係を
今それでうまくいっているからと放置せず、
「将来に向けての現在」という観点から
人間関係の指導をしなければならないのだろう。

子どもたちはもっと尊敬され、尊重なければならない。
おそらくそれが今、一番欠けていることなのだろう。
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命の授業と聞くと怒りをもって反発する理由 真の命の授業とは [自死(自殺)・不明死、葛藤]

命の尊さを教えることが大切だと
イジメや自死の予防の文脈で無邪気に主張する大人たちがいる。
そんな主張を聞くと不安や焦燥にかられる
これでは、自死やいじめは減らない。

命の尊さを誰に理解させようとするのだろうか。

自死を考えている子どもだろうか
そうだとしたら自死がどうして起きるのか
ということをまるで考えていないことになる。

自死は二つの側面で考える必要がある。
一つは、現在の困難な状況から逃れたいのだけれど
逃れられない事情があって
逃れたいという気持ちばかりが大きくなるものだから、
今の状況から逃れられたいあまり、逃れることを
命を維持することよりも優先したくなることから起きる。
それだけ追い込まれているということだ。

もう一つの側面は、
死ぬのはだれでも怖い
しかし、自分が尊重されないことが続き、
自傷行為や自死未遂を起こしながら
死ぬことの怖さに慣れていってしまうということだ。
これが客観的に追い込まれているということだ。

どちらの側面も無意識に、無自覚に
心のほうが変化していく。
自分ではその変化に気が付かない。

自分が命を大切にできなくなっていることに気が付かないから
命を大切にしましょうということを聞いても
「それはそうですね」ということにしかならない。

また、本気で自死をしそうな人に
命の大切さ、尊さを教えることが有効だというのならば、
自死する人は命を大切に考えない人だということになってしまう。
自死する人はこういうこともわからない人だという考えのように
思えてしまう。
これは差別と偏見を植えつける有害な考え方だ。

自死は追い詰められた末の、他の手段を思い浮かばなくなってしまう
そうやって起きる
追い込む環境によって、だれしも自由意思を奪われるのだ。
誰だってその環境におとしいれられれば
自死をしてしまうのが人間だと考えるべきだ

命を大切にしない人というレッテル張りをする人たち一人一人に
私は話を聞きたいと思う。

「いいや、いじめをする人に対して、命の大切さを教えるのだ」
という反応も来るかもしれない。
それこそおかしいと思う。

では、いじめをした人たちは、
イジメられた子の命をなくそうと思ったのだろうか
もしかしたら死ぬかもしれないけれどまあいいやと思って
いろいろな行動をしたということになる。
だから命は大切だというのだろうからだ。

それも違うだろう。
誰も殺そうと思ってやってはいない。

もう一つ致命的な誤解があるように思える。
自死につながるいじめというのが
強烈な暴力や辱めの行為が明確にあるという誤解だ。

自死は、何か強烈な行為があったことによって
起きるとは限らない。
小さな攻撃を執拗に繰り返した結果として、
例えば口をきかないとか
その人だけを非公式な集まりに呼ばないとか
そういうことが継続して
もはや仲間として尊重されることはないという絶望を受けても
人は自死をする。
こういう人たちは強烈のエピソードがないから
自死といじめの因果関係は確認できなかった
ということをいうような人たちだ。

多くの自死の危険のある環境を
平気で放置する人たちなのだろう。

命の授業と聞くと
特に生命誕生とか、命の価値とかいう話を聞くと
いじめ対策は
いじめで死にさえしなければよいんだという根性が
透けて見えるような気がしてならない。

その結果、
どんなに苦しんでも、どんなにつらくても
どんなに怖くても、どんなに悔しくても
とりあえず死ぬな、命は大切だ
苦しみ続けても、辛い状態が続いても
怖さが消えなくても、悔しい状態が続いても
命があればそれでよしという冷たい考えに思えて仕方がない。
追い込まれている人頼りの自死対策は
もはや対策とは言わないだろう。

それは無茶な話だ
それでは自死は防げない。

そもそも
いじめがなければそれでよいのか
死ななければそれでよいのか

もしそうだとすれば、
いじめはなくならない
自死はなくならない。

管理の立場から責任を追及されたくないということが主眼で
生徒の幸せはどこかに置き忘れられているのだろう。

命の授業なんて百害あって一利なしだ。

どうして命の授業なんてことを思いついたか
自死のメカニズムも
イジメのメカニズムも考えず、
つまり原因を考えて対策を立てるのではなく、
イジメによる自死をなくすという結果だけを求めたという
安直な発想だろう。

それによって、傷つく人が生まれ、
守ることができた人を
守る行動をしないで無駄なことをしなければならない。。
これでは時間がもったいない。

自死予防、いじめ予防のための授業ならば、
本当に教えるべきは、
生物としての命ではなく
人間としての命についてだ。

命があるのは、
家畜だってゴキブリだって同じだからだ。

人間が生きるということは何か
人間とは何か
それを大人が自分なりに教えるということが
人間としての命の授業だろう。

人間はひとりで生きられない
集団で生きなければ生きることができない
共存の形を教えるのが人間としての命の授業だ。
それが対人関係学だ。

人間が尊重されるべきだということ
人間の尊重の仕方
大切な人を安心させる方法
こういうことをこそ教えるべきだと思う

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「拡大自殺」論批判 「死にたければ一人で」論争がどちらに転んでも世の中を悪くするしかない理由と理由 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

登戸の事件を受けて
「死にたければ一人で死ね」という
SNSでの書き込みをすることの是非が議論されている。

是ということを臆面もなく主張することについての違和感と
非とする論者の隠れたすさまじい差別意識を説明することが
本拙稿の目的である。

1 「死にたければ一人で」の隠された前提

「死にたければ一人で死ねば」
無意識の前提がある。それは、
・犯人は、一人で死にたいのに、それが嫌だから(怖いから)
誰かを巻き添えにしたいのだから「死にたいなら一人で死ねば」
・犯人は、どうせ死ぬのだから、死ぬ前に
ひとはな咲かせようと、目立とうと多数を襲撃した
・犯人は自分で死のうとしているが、死ぬにあたって
自分に冷たくした社会に復讐しようとしている
だから死にたければ一人で死ねば
ということが隠されていると思う。

無意識の前提が怖いのは、修正が利かないことと
問題の所在が隠されてしまうことで、
刺激的な、印象的な言葉だけが取りざたされてしまうことだと思う。

これらの前提自体が、まず本当にそうなのか
議論されなければならないはずだ。

2 無差別襲撃に対する理解。

一人で死にたくない論、目立とう論、復讐論
全て見当はずれの可能性が高い。
犯人が死亡しているので、真実はわからない。
おそらく犯人自身にも説明ができないだろう。

無差別襲撃の心理、追い込まれるとはどういうことかは
最近(5月30日)述べたので詳しくは繰り返さない。
「無差別襲撃事件の予防のために2 むしろ我々が登戸事件のような無差別襲撃をしない理由から考える。国家予算を投じて予防のための調査研究をしてほしい。」 https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2019-05-30

要点は、追い詰められた事情としては
絶対的孤立
家族、職場、地域その他あらゆる人間関係に仲間として帰属していない
絶望
将来にわたり、どこかの人間関係に帰属することが不可能だという認識
であり、これが起きてしまうと
人間の命に価値観を一切持てなくなり、
他人の命も、自分の命も大切なものだという感覚がなくなり、

人間だからと言って、命を奪うことに
心理的抵抗がなくなる。それをしない理由がないという状態になる。

だから、復讐心がなくてもかかわりのない他者を殺すことができるし、
自分に対する他者の評価を気にしない状態なので、
目立ちたいとも思わなくなっている。
さらには、一人で死ぬことに特に抵抗がないので、
他人を巻き込むことが自分にとって価値があるわけでもない。

おそらく、「たくさんの人間を殺すことができそうだ」
と思ったから襲撃した
とそういうことなのだと思う。

3 一人で死ねば論の幼稚性

友人同士などで、登戸事件のニュース記事を見て
死にたかったら一人で死ねばいいということを話すことについて
とやかく言うつもりはない。
情において十分理解できることである。

しかし、それがメディアに取り上げられる場合は、
不特定多数の第三者に伝わり、
差し障るヒトにも当然伝わるのだから、
デメリットを考えて話すべきことは当然だ。

自分の発言がメディアに取り上げられることを知っていながら、
「言いたいから言った」
というのは、いい大人が言うことではない。
感情を垂れ流すことを恥じないなら芸は成立しないだろう。

4 「一人で死ね」自粛論は、自死の差別を助長する

しかし、より多くの人を深刻に傷つけるのは
むしろ、「一人で死ね」の自粛を呼びかける側だ。
その結論ではなく、その結論に至る過程に大きな問題がある。

こちらも隠された前提、無自覚の前提を持っている。
言い出した藤田氏の提起を超えているようだ。

問題点を際立たせる表現をすると、
「引きこもりの人たちは、自死の危険が高く
かつ、無差別襲撃をしかねない」という前提を置き、
だから、一人で死ねということを言って
無差別襲撃に駆り立てるようなことを言ってはならない
としているのである。

藤田氏の提案にも違和感があったが、
その後に続く一部の論者の主張には嫌悪感も生まれた。

引きこもっている人たちのほとんどは 自死をしないし殺人もしない

自死する人の99%以上は殺人をしない

それにも関わらず、
引きこもりの人や自死する人、自死リスクのある人を
無差別殺人者の予備軍みたいに扱っている
という印象を受けた。
すさまじい偏見だと言わなければならない。

このような論者の共通項があった、
「拡大自殺」という書籍を引用しているのだ。
ネット上での「拡大自殺」は、
それがどうしたという内容のない議論だったので、
その危険性について私も気が付かなった。

しかし、尊敬する江川紹子氏まで
引用していることに危機感を抱いて読んでみた。
その結果、
私の感覚の正しさが裏付けられたと思う。

5 「拡大自殺」の内容

第1章 大量殺人と拡大自殺
私は読むに堪えられなかった。
決めつけと罵倒に終始していると感じたからだ。
やまゆり園事件を中心に紹介している。
事件の確定囚を自己愛性パーソナリティー障害だと決めつけ、
事件、行為について罵倒することは理解できるが、
犯人の「人格」を想像と決めつけで論難している。
そもそも自己愛性パーソナリティー障害だとする
診断上の根拠を示していない。
筆者は精神科医なのであるが、
他者を精神科医として病気だと主張する態度として
このように日常の実務が行われているならば
震撼させられる。

第2章 自爆テロと自殺願望
これは、淡々と専門家のルポを紹介している章で、
それなりに興味深かった。

第3章 警察による自殺
特にコメントはない。

第4章 親子心中
なぜか、圧倒的に事例の少ない父子心中を
週刊誌の記事をもとにして冒頭に掲げ
憶測を交えて論じたうえで
統計的に圧倒的に多い母子心中の話が展開されている。
同一化、利己的というキーワードが出るが、
私には、理解が容易ではなかった。

第5章 介護心中
事例が豊富に紹介されており興味深かった。

終章 拡大自殺の根底に潜む病理
ここの差別の理論的根拠が展開されていた。
第1章よりも読むに堪えない記述であった。

6 拡大自殺論のフロイト派の展開が差別の根源

筆者は、
「自殺願望を抱いている人がなぜ他の誰かを道づれに無理心中を図るのか」
という問題提起を立てる。
これは重大な誤りを含んでいる。
言葉だけを見ると、
「自殺願望を抱く人は、他の誰かを道連れに無理心中を図るものだ」
という隠された前提があることになるからだ。

私のこの文章を読んでいる方々の多くは、
私があげあしをとっているだけだと感じられるだろう。
しかし、そのあとの展開は、
私の指摘が正しいことが明らかになる。

ともかく、
自殺願望を抱く人のほとんどは他者を道連れにしようとしない
殺人をする人の大部分は自死しない
ということが真実である。

それにも関わらず、このような問題提起をするということは、
何も考えていないで書いているか
答えがあらかじめ用意されているための前振りにすぎないか
どちらかである。

この本では後者であった。

この後の展開ではフロイトを引用して
うつ病の患者の苦悩は
「サディズム的意向と憎悪の意向との自己満足」であり、
自殺願望とは、他者への攻撃衝動の反転したもので、
自己懲罰という回り道をとおって、
もとの対象に複数する
と述べる。

筆者は現役の精神科医であり、うつ病の治療も多く手掛けているだろう。
このような理論にのっとってうつ病患者と接し、
治療をしているということになるのだろうか。

この論理の進め方の最大の疑問は、
なぜ、この論理が正しいと考えるのかについて
何ら根拠が示されていないということである。
私には、「フロイトが言ったから正しい」としか伝わらない。
あたかも聖書に書いてあることと違うからといって
地動説を否定したようなものではないだろうか。

さらに筆者はM.ベネゼックを引用し、
「他の誰かを殺そうとする意図なしに、
自殺することはあり得ない」とまで述べ、
畳みかけて「自殺は復讐である」という図式を
無批判、根拠なしに繰り返す。

W.ブロンベルグを引用し、
他殺か自殺かは、復讐という動機の強弱にある
とまで言ってのけている。

これが現役の精神科医の文章である。

フロイトについては、私は
他の認知心理学者よりは大いに評価している。
当時、
無意識を発見したこと、
精神病理には、患者の体験が影響を与えていること
それを発見したことは
全ての認知科学に多大な功績があると思う。
対人関係学ですら
フロイトがいなかったら成立していなかったと思う。

しかし、現在では、日本以外では、
脳科学や精神医学の発展によって、
実務的影響は限定的なものになっている。

フロイトが言っているから正しいという論理は
日本以外では通用するものではない。

正直言って
フロイト派の自死に関するメカニズム理論であれば、
対人関係学の理論の方が
悠に正確で実務的であると
確信している。
対人関係学の自死に関するページ
http://www7b.biglobe.ne.jp/~interpersonal/suicide.html

7 無差別襲撃をする人と自死者の違い

特に「拡大自殺」を引用しながら
「死にたいなら一人で死ね」というなという論者は、
自死者や、自死リスクを抱えている人間は、
無差別殺傷者の予備軍であるという主張になる。

だから、「一人で死ね」というメッセージが伝わると
無差別殺人を起こすという警告をしているのである。
 
この背景として、自殺をするようなものは
自分とは別種類の人間であり、
自分はそのような型の人間の外にいて
その人間を支援する尊い存在だという
強烈な差別意識が感じられる。

先ほど引用した私の5月30日のブログで述べた肝心なことは、
無差別事件を起こすものと
ほとんどの自死事案には大きな違いがあるということである。

無差別事件の加害者は、
あらゆる対人関係の中で孤立していて、
完全に回復については絶望し、
既に人間として生きる意欲をなくしているということだ。

これに対してほとんどの自死者は、
例えば家族を
それは現在の家族が多いが、過去の家族、未来の家族を
大切に、大切にされていたという記憶がある
例えば、友人、例えば行きずりの人でも
大切にしている対人関係があるということである。

この差は質的に全く異なる。決定的に異なる。

8 何が足りないのか。当事者の発言をくみ上げること。

どうしてこのような鼻持ちならない攻撃が横行するのか。
自分の頭で考えていないで雰囲気でものを考えているから
というのが一つある。

もう一つは、
誰かを支援するという第三者的な視点が
最大の問題であることに気が付かなければならない。

これを是正するためには当事者の発言に依拠することである。

自死未遂者の意見、
自死リスク者の意見、
そして自死遺族の意見が反映されなければならない。

これがない限りは、
自死対策は、
差別と偏見を拡大し、
自死予防とは逆行するばかりである。

このことが分かりやすく示されたことに
今回の論争の意味があったのかもしれない。

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いじめを傍観する子どもと大人の心理学 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

平成31年4月19日4月19日(金曜日)
18時45分~20時 アエル28階研修室で
テーマ「学校問題について語り合う」
~いじめ・不登校・教育~
のお話会があるとのことです。
参加費無料、事前予約不要ということなので、
勉強しに行ってこようと思います。

メインスピーカーはスクールカウンセラーもされていて、
直接子どもたちと接している方とのことです。
これは、多業種自死予防ネットワーク
みやぎの萩ネットワークが主催です。

さて、今回は、おとなしくお話を聞いて
自分の見聞を広めるということが目的です。
しかし、良い機会なので、
いじめの問題について、
傍観者の心理についてまとめてみようと思いました。

この記事は
最後にほのぼのすることが書かれているわけではありません。
最後まで不快な思いをするかもしれません。
冒頭申し上げておきます。


1 いじめの傍観者は、秩序と協調性を重んじるタイプの人間

いじめを傍観する人間について、
いじめの加害者と同じように、
冷酷で、自己本位の人間ではないかと
考えている人もいるかもしれません。

例えていうならば、
ナチスドイツのユダヤ人大量殺人を実行した
アイヒマンもそのように考えられていました。

ところが1963年、ハンナ・アーレントの
「イェルサレムのアイヒマン」では、
アイヒマンは机に座って自分の仕事をこなすだけの
凡庸な人間だと研究結果を発表しています。

この主張に対しては、かなり多くの批判が集中しましたが、
スタンレー・ミルグラムは
いわゆるアイヒマン実験(服従実験)によって、
人間が、他者を傷つけることができることを証明しました。

「Stanley Milgramの服従実験(アイヒマン実験)を再評価する 人は群れの論理に対して迎合する行動傾向がある」
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2019-01-05

この実験結果を私なりに大雑把にまとめると以下のとおりになると思います。

1)人間は、自分の属する人間関係において、
  秩序を保ち、秩序に協調しようとする。
2)その過程で、自分の行為によって他者が苦しんでいても
  秩序の形成主体の意向に従い、
  他者を苦しめることを止めない。
3)但し、その場合、他者を苦しめることに葛藤を抱くが、
  種々の合理化をして行為を継続する。
4)但し、自分の行為によって他者が苦しんでいることが
  生々しく感じ取れる場合には、
  秩序に反発することもある。

私は、この観点からいじめの傍観者の心理を
考えてみることにします。

もう少し、上記の結果を現実に即してかみ砕きます。

A いじめる側の権威に服従してしまう。

本当は、不合理な理由でのいじめであるとか、
多数派が一人などを孤立させていて
やってはいけないことが客観的に起きているのに、
そのような評価をしないようにします。

つまり、いじめではなく、当事者間のトラブルだ
と無意識に事態を再構成してしまいます。
そして、トラブル、ケンカは秩序を乱すものであるから、
自分はなるべく関わらないようにしようという意識を作る
ということではないかと思うのです。

いじめる側といじめられる側は、
当然いじめる側が多数派となりますから、
傍観者たちは、
いじめる側を擁護する心理を作り出します。
擁護までしなくても、
批判したり、否定しにくくなります。
いじめる側が秩序を形成しているからです。

B いじめられる側への共感に蓋をする

人間は、苦しんでいる人を見ると自分も苦しんでしまいます。
2歳くらいからこのような共感の能力を発揮してしまうようです。
いくら、対等のけんかが起きているだけだとごまかしても、
実際に苦しんでいたり、無表情になったりしている
いじめられている側の心情を感じないわけはありません。

自分の苦しみを解消したいという要求は
生きていくための要求ですからここでも発動されます。

いじめられる側への共感を止める方法を
無意識に発動して自分を守るわけです。

一つは、いじめられている人間は、
自分の仲間ではなく異質な存在だという合理化です。
いじめられる人の何らかの特徴は、合理化の道具にされます。
それに全く合理性はありません。
自分に言い聞かせるためのおまじないみたいなものでしょう。

それが進んでいくと、
いじめられる側の落ち度、欠点、不十分点を探し始めます。
いじめが正当化されていくわけです。
正義の行動をしているということを自分に思いこませていくわけです。
だいたいの「正義」という言葉はこのように使われます。

「正義を脱ぎ捨て人にやさしくなろう。」
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2019-02-18

ひとたび正義という言葉が表に出ると
いじめは過酷になって行く傾向があるようです。

このようにいじめられる子に対する共感発動を
必死で思いとどめます。
保身という意味合いもあるのでしょうが、
予防の観点からは、
それは人間の権威に対する迎合の本能だと
把握しておく必要があると思います。

いじめられている子が
苦しむ表情をみせたり、泣いたりすると
さらにいじめが激しくなるのも
共感を止めるためのメカニズムです。

C 変わり者を排除する学校

このようないじめに対する傍観が
最近増えているとしたら、
それは、変わり者の否定や
学級委員制度の廃止と教師の無色化が
原因だと思います。

ここでいう変わり者とは、
秩序を重んずることなく、
協調性に価値をおかない者です。

子どもたちを管理する観点からは
教師の言うことを聞かず、勝手なことをして
教室の秩序を乱す者なのですが
それだけに、
秩序を形成する権威に迎合せず、
自分がおかしいと感じたことをおかしいと主張したわけです。

おかしいと言われると、
確かにおかしいと目が覚めるわけですから、
いじめを阻止する行動が多数派になって行きます。
少なくともいじめに協力する人間は減るわけです。

これが、人類史における変わり者の役割でした。
ところが、現代社会、学校教育は
この変わり者を抹殺しようとしています。
障害だ、病気だと決めつけて、
投薬したり隔離してまで、変わり者を排除しようとしている
そんなふうに感じることがあります。

秩序と協調性をヒステリックに重んじる風潮ができるわけです。

学級委員という係がなくなったということも驚きです。
学級委員は役目柄、
「それはやめろよ」というのですから、
秩序や協調性を気にする必要はないし、
級友もそういう役目をしているということで尊重しますし、
級友が迎合する的の権威になりうるわけです。

こうやって、子どもたちが人間関係秩序を学んでいったのですが、
なぜか無くなっています。

このため、迎合する対象を喪失して子どもたちは
本来教師に迎合の対象をもって行くことが
予定されていたのでしょう。
しかし、教師も、
自ら権威を否定したり、
権威を発揮することを放棄している状況が
あちこちで見られるようです。

結局、秩序と協調性を重んじる児童生徒は、
少し突出した行動をとる子ども
感情が豊かな子ども
体力的に優位な子どもに
権威を求めて協調しようとしてしまうのではないでしょうか。
そうだとしたら、これもいじめを傍観する原因になります。

D いじめられる子の心理

いじめられている被害者は、
当然自分をかばってくれるはずだ
不合理や残酷な仕打ちを是正してくれるはずだと思っていますから、
加害者と平等に扱われることは
絶望を感じてしまいます。

自分がいじめられることで、自分が悪いわけではないのに
傍観者から、不快な思いを与えた張本人は自分だと
言われているような感覚になります。

こうやっていじめの被害者は孤立していきます。
その孤立こそが、被害者のメンタリティーを
決定的に傷つけてゆくわけです。


2 単純接触効果、プライマリー効果

さらに、人間は、これまで付き合いが長く強い者が
味方であるという感覚を持ってしまう動物のようです。
私は、この原因の一つとして、
長く付き合ったり、強い結びつきがある相手は
その心情が理解しやすいため
共感を抱きやすいということがあると思っています。

いじめている側との付き合いが長かったり
一緒に行動して喜怒哀楽を共にしていれば、
なんとなくそちらに味方をしたくなるものです。

ひっそりと目立たない子であったり、
内気で感情を表に出せない子が
いじめられる対象になることには原因があるわけです。
それから、友達と深くかかわることが苦手な子も
同じ原因で、共感を持たれにくいということがあります。

元々長く付き合っていた子が
誰かをいじめていても、
それはトラブルに過ぎず、
対等なケンカなのだろうと思いこみを持ちやすくなります。

いじめられる子の恐怖や屈辱よりも
いじめている方のいら立ちや怒りに
つい共感してしまうということが起こりやすくなるのでしょう。

3 少しだけ解決の展望

私は、正義や秩序の過度の強調をやめ、
可愛そうだからやめる
という行動原理を子どもたちに
優先するべき選択肢として与えることが必要だと思います。

また、クラスならクラスを一つの群れとして行動する
そういう習慣づけをする指導を行うことも有効だと思います。
仲間を守るということの体験を意図的にさせる指導も必要でしょう。


4 組織の論理、大人のいじめ

さて、ここまでお読みになって、
正義感の強い方の中には、
こんなまだるっこしい検討に何の意味があるのだ
傍観するなんて卑怯者であり、加害者と同等だと
そう感じている方もいらっしゃるかもしれません。
自分たちの時代ではそのような傍観はしなかった
という方もいらっしゃるでしょう。

しかし、大人の世界でもいじめがあり、
それは、主義主張にかかわらず、
相手を異質のものとして排斥していることで
起きることが多くあります。

大人の世界でもいじめがあって
コツコツと努力していた人たちが
些細なことで全面否定され、
それまでの生き方を変えざるを得ないことがありました。

つい最近もいくつかそのような事例を目にしてしまいました。

加害者は自分なりの大義名分をもって攻撃し
周囲の人たちも、それを注意したりやめさせたりしません。
加害者も周囲の人たちも、
日頃立派なご主張をされている方々です。

と書き出すと、
多くの人たちは、通常不快になります。
子どもの話だと、あまりリアルに苦しみを感じなくても、
(共感しずらい)
大人の話だと、リアルすぎて苦しくなるわけです。
(苦しみを想像しやすい)

当たり前の話ですが
巻き込まれなくてよい争いに巻き込まれたくないのです。
これが権威に迎合する最大の理由なのでしょう。

ちなみに先の大人の例を続けますと、
排除の論理は、
その人と主義主張が違うからではなく、
その人が自分の人間関係の仲間ではないからということでした。

同じ仲間ではないということで
異質性を際立たせて、
苦しみや絶望への共感に蓋をしているのでしょう。

自分の同じグループの人たちの感情や権威に迎合し、
攻撃の理屈を無理やり肯定しているのかもしれません。
この組織の論理がさらに強くなると、
組織外の人間の感情への共感を
自然と遮断できるようになるのかもしれません。

特に目的を持った組織は、
目的遂行が大義名分となり、
人間に対する共感がおろそかになる危険があります。

それは特に注意しないとそうなってしまう
いじめの傍観者の問題を考えながら、
これは、いじめは子どもの問題ではなく
大人たちの生き方の問題が子どもに反映しているのだと
考える必要があるということを改めて感じました。

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日本の自殺対策は道半ば うつ病対策から環境改善総合政策への移行と対人関係学 [自死(自殺)・不明死、葛藤]



日本の自死対策のトップとも言うべき方の
お話を聞く機会がありました。
印象的なことは、
これまでの自死対策は、うつ病対策だったが、
現在の対策は、環境改善に移行してきた
というお話でした。

私は、弁護士の立場から
業務や付随活動で自死を扱ってきた経験から
あるべき自死対策は環境改善だと
言い続けてきました
これがようやく受け入れられたと感じ感激した次第です。

しかし、実際の自治体や国などの自死対策の現状を見ると、
うつ病対策から環境改善への移行は
道半ばであると思います。
自分自身についても、
多かれ少なかれそういう発想に立ち切れていない
ということを折に触れて痛感します。

ここで誤解を避けるための説明が必要でしょう。
うつ病対策を止めるべきだと言っているわけではないことです。
うつ病が改善されれば自死に至らないということもあることです。

問題なのは、これまでは、うつ病対策に重点を置きすぎてきた
ということです。
これには理由があります。

うつ病が自死を招く可能性があるということは
医学的に承認されてきたことです。
うつ病以外の要因については、曖昧模糊としていました。
このために自死対策が医学的に承認されたうつ病対策になっていた
という側面があると思います。

また諸外国の自死対策において
うつ病対策がとられていたという事情もあります。

しかし、うつ病対策に偏重している国よりも
環境改善政策を織り交ぜた北欧などの国の方が
自死者の数、率の減少がみられた
という事情もでてきました。

また、内因性のうつ病以外でも
多重債務による自死、過重労働による自死、いじめ自死
等によって、
外部的事情と自死という因果関係も
社会的に認知をされ始めました。

WHOも自死は防ぐことのできる死であるとし、
社会的要因も強調するようになった。
国も自死は、追いつめられた末の死だとの認識を示すに至りました。

このような背景事情からもうつ病対策偏重から
環境改善を含んだ総合政策に移行してきたわけです。

さらに
うつ病対策偏重には
重大な限界があったことも指摘しなければなりません。

うつ病対策が、うつ病者に対して、
治療を充実させ、社会復帰の諸施策を講じていく、
その結果、生きる意欲を取り戻すという一連の政策ならば、
極めて重要であり、現代においても必要な政策です。

しかし、従来の自死対策は、これとは異なっています。
うつ病者を「気づき」(発見し)、精神科医療につなぐ
そのためのゲートキーパー養成事業に
という図式化された政策を行ってきていました。

ところが、うつ病者を見つけることは
実際には困難なことです。
北海道大学名誉教授の山下格先生の
精神医学ハンドブックでは、
重症うつ病者を除くうつ病者の圧倒的多数は
うつ病を隠すと指摘されていますし、

実際に私が接しているうつ状態の人たちも
よくお話してくれているところです。

相手に心配をかけたくないという気持ちが
自分のうつを隠すということを
自然に起こしてしまうようです。

このため、医者も気が付かず、
順調に治療をしていたつもりが
突然の自死を招いてしまうことがあると
山下先生は注意喚起をされています。

実際は自死のサインなどなく、
あったとしても事前に把握できるものではありません。
それにもかかわらず、
うつ病を見逃した、自死のサインを見逃したと
そういう発想になりやすく
自死者を防ぐ役には立たないにもかかわらず、
自死者の周囲に自責の念を植え付けるだけの
理論になってしまっていたのが実情でした。

また、精神科につなぐのは良いとしても
つないだ後の対策もなく
医師任せになっていたという問題点も指摘しなければなりません。

主訴ごとに(不安だ、眠れない、焦ってしまう等々)
重大な副作用を持つ薬の種類が増えていくという
多剤処方の問題の改善や
居場所のない、引きこもるしかない社会の状況の改善についても
必要性すら浸透されていないのが現場でしょう。

ひとたびうつ病になると
風邪のように短期間で治癒することは多いわけではなく、
長期間社会復帰できない状態が続くことも少なくありません。

うつ病対策に偏重していたにもかかわらず、
うつ病対策自体が結果として十分なものではなかったのです。

そうして、
多重債務や過重労働、いじめなど
うつ状態に陥らせ、判断力を奪う要因をそのままにして
うつ状態になってから対策を立てるということに
批判が起きていたことは自然のことでした。

国は、このことに気がついて、
現在各自治体に
「事業の棚卸し」というユニークな名称の指示を出しています。

これまでうつ病対策とは思われなかった事業に
自死対策の効果があるということを指摘し、
各自治体に事業の自死対策との関連付けという
再評価を求めました。

しかし、各自治体では、
従来の自殺対策=うつ病対策
という図式が浸透しすぎていて、
国がサンプルとしてあげた事業だけが、
その理由も理解されないまま
自死対策関連事業とされているという側面も否めません。

これもうつ病対策偏重の弊害でしょう。


うつ病対策から環境改善を含む総合政策にかわるということは
自死の理解に対する変化も必要となります。

それは、一言で言えば
「自死をする人は、自死になじむ特別な個性のある人
ではなくて、
誰でも同じ環境に立たされれば、
自死をする危険がある。」
という人間観にたつことです。

こういう考えになかなか立つことは難しいようです。
原因として、
臨床医学にしても、臨床心理学にしても
「個別のクライアントの治療」という観点の学問であり、
「当人の症状をどのように改善するか」
という発想になりがちである。
原因をクライアントの中に探す宿命を負っているように感じます。

端的に言えば、ある医学雑誌で、
会社に適応できないのは
労働者側に精神的成熟が足りないからだ
という決めつけで、論を進めている記事がありました。

それは、会社という社会制度は適切に運用されていて、
その場になじめないのは
なじめない側に原因がある
という発想のように感じました。

うつ病偏重の政策の根本的由来もここにあると思うべきです。
だから症状が出現することを待って
症状の改善という政策に疑問を抱かなかったと考えられるでしょう。

臨床医学から公衆衛生的発想に
切り替えが必要なのだと思います。

人間の普遍性にもっともっと着目するべきなのです。
そのような人間観に立った研究が
特に日本では遅れていると感じます。

環境によって、病気ではない人が病気になり
あるいは極端な視野狭窄や自由意思を奪われ
自死に追い込まれています。
この事態を防止する実務的研究が必要です。

どうしても、「こころ」の問題が絡みますから、
話が哲学的隘路にはまり込んでしまう傾向があります。
そうではなく、
自死防止、視野狭窄防止の範囲で
人間を理解すればよいのです。
それ以上の複雑な部分も認めつつ、
快適に、幸せに暮らすことができればよい範囲で
研究すればよいという実務的な学問です。

その範囲では、人間はそれほど大差がない
そう思います。

私は対人関係学という考えを提唱してきました。

簡単にいうと、

人間は、群れの中で尊重されて生活したい
という本能的要求がある。(所属の根源的要求)

群れの中で尊重されない事情があると
生命身体の危機感と同様の生理的変化をともう
危機感を感じる(対人関係的危険)

危険を感じると危険を解消したい要求が出現する
これに基づいて、
恐怖を伴う逃走
怒りを伴う闘争(攻撃)
という危険解消行動を行う。

対人関係的危険についても群れにとどまる志向をしてしまう。

しかし、群れの中で尊重される方法がないと認識すると
危険解消要求は極限まで高まってしまう。

現在人間は複数の群れ(家族、職場、学校他)に所属しますが
すべての群れでこのような反応を無意識にしてしまいます。
だから、例えば家庭に問題がなくても
学校でいじめを受けていれば、
危険解消要求が極限まで高まってしまうことも
よく観られることです。

危険解消要求が昂じると
複雑な思考ができにくくなり、
将来的因果関係、他人の気持ちという思考能力が低下し、
折衷的な志向ができなくなる二者択一的な思考に陥り

生存要求よりも危機解消要求が強まってしまう、
現在の危機感を解消することが何よりも最優先事項となり、
自死、離婚、退学、犯罪、いじめ、虐待などの
行動に出ることを制御できなくなる

従って、最も重要なことは
対人関係的危険を起こさないようにすること
適切に解消すること、
ということになります。

ただ、現在の段階では、
何が対人関係的危険を感じさせることなのか
ということを
共通認識にしていくことこそが
求められているように思われます。

知らず知らずのうちに
対人関係的危険を起こさせていることが
余りにも多いようです。

もし、この対人関係学の概念が正しいとすればということになるでしょうが、
どうやって、このことを多くの人に理解していただけるようになるのでしょう。
とりあえず、
あきらめないで頑張っていこうと思います。

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自死に誘導する言葉に注意。苦しみを抱えたら苦しいと表現できることこそ必要。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

苦しい時は苦しいと言える仲間がいることこそ大切です。

地獄の苦しみを抱いて朗らかに生きているように見えても
それは無理してそうみせているのです。

仲間がいないのなら、適切な人とつながることができます。
例えば、みやぎの萩ネット―ワークという組織もありますが
http://miyaginohaginetwork.blog.fc2.com/
今日は別の問題をお話させてください。

ネットで最近鼻につく「名言」というのが出回っています。

「世の中には人には言えない苦しみや地獄を抱えた人もいる。
 それでもニコニコ朗らかに生きる強い人がいる。」

地獄を抱えた人が朗らかに生きているわけではありません。
無理してそうみせているのです。
なぜそんなことをするか
まじめで責任感が強く、人との和を大事にしすぎるからです。

例えば家族とか、友人とか
大切にしているから、
自分の置かれている状況を伝えて苦しませたくない。
そう無意識に行動しているだけです。

決してマネをしてはなりません。

朗らかに生きているふりをすることは
大変労力を使うそうです。

親と離れて暮らしている地獄を抱えている人が、
親の元に尋ねて行かなければならず行くときは、
親の前では、「何事もない」と言い
わざとはしゃいで見せたりするようです。

でも、親の家から帰ると
わざとはしゃいだことによって
ぐったりとして、2,3日寝込むと言います。


はしゃいでいるからと言って朗らかに生きているわけではないのです。

色々な人がいろいろなことを言うのは良いですが、
それが人類普遍の正しいことだと押し付けることは
大変危険なことです。

もともと他人に相談できない人が、
益々、誰にも相談できないようになり、
孤立していくことが大変心配です。

人の生き死にかかわることです。
私の考えでは、こういう無責任な言葉は極めて有害な
人を死に追いやる言葉だ
と警鐘を鳴らす必要を大いに感じています。

悪意のある言葉ではないことは重々分かっています。
しかし、だからこそ危険なのです。

地獄のように苦しいときに
朗らかにすることは誤りで
大変危険なことです。

苦しいときには苦しいと
辛いときには辛いと
いうことこそが理性的な行動です。

それを受け止めてくれる人を
粘り強く探しましょう。



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仲の良い家族関係は自死から守る事情になると同時に、自死を促進してしまう事情にもなる。知らない人が自死者の家族を非難することが犯罪的な理由。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]




自死が起きると、
特に子どもが自死すると
ネットなどの書き込みに訳知り顔で
親が放置していたのだろう等と書き込みをする人がいる。

「自死の理由は一つではない」とか言って
親子関係にも問題があったはずだなどということは
余りにも愚かしく、自分の無知をさらすだけだ。
自死のメカニズムが複雑なことを説明しないで、
「自死の理由は複数ある」と断言することは
このような危険性がある。

一口に自死の理由と言っても
自死を考えるまで追い込まれた理由と
そこから自死の考えを無くすために機能しなかった理由では
意味合いがまるっきり違う。
説明を抜きに自死の理由は複数あるなんて言う説明は、
その人を追い込んだ理由を薄めてしまう。

自死の原因を家族に求める安直な人たちは、おそらく、
「自死する場合は、その直前に
これから自死しますよというなんらかのサインが出ていて
家族ならそれに気が付くはずなのに
それを見逃したから自死を止められなかった。」
なんて馬鹿なことを考えているのだろう。

だから、自死のサインを見逃さないように
何がそのサインなのかわかるように一生懸命勉強するのだろう。
こんなことに血眼をあげているから
自死予防を困難にさせる原因になっている。

自死のサインなんて死んでからしかわからない。
それもこじつけのような話であることが多い。

自分は関係がないのに、しかも自死について知らないのに
自死遺族を非難するのは実は理由がある。
自分を守るためだ。

自死の事実があったことを知ると、
大抵の人は事の大きさ、深刻さを精神的に持て余してしまう。
病気で死ぬことはある程度納得することができる。
しかし、病気でもないのに死んでしまうことは
それは誰しも脅威である。

脅威、危険を感じてしまうと、人間は、
とにかく自分や自分の家族に自死が起きないようにという
防衛意識を無意識のうちに抱いてしまう。

自死のメカニズムや、その人の具体的な悩みなんてものは
残された人はなかなかわからない。
説明してもすぐには理解できない。
そうなると、同じことが自分や家族に起きないということを
どうにか納得して安心したくなる。
誰かに落ち度があることを声に出して言い聞かせて
自分はそうではないと安心しようとしている行為のようだ。

遺族を苦しめて、
自分が安心したいという行為なわけだ。

そうでなければ
自分がその人を自死に追い込んだと自覚している者が
別に原因があると他者を責めて、
自分が責められないようにして
ムキになっているかどっちかのことが多いようだ。

親子関係については、
自殺対策の専門家の方々でも
誤解をしている向きがあるように感じてならない。

現在専門家が自殺対策を考える場合、
「自死の「保護因子」を増やし、強化し、
自死への「危険因子」を減らす」
という一件もっともな考え方が示されることが多い。
医学的用語がまだまだ頻繁に用いられている。
あたかもがんの保護因子を増やし危険因子を減らす
という文脈のごとしである。

この二者択一的な考え方の最大の問題点は
評価を誤りやすく
逆方向の働きかけをしてしまう危険がある
ということだ。

ある局面においては保護因子になるが
ある局面においては危険因子になるものがある。

だから局面を間違えると、
支援者たちが自死を促進させてしまっていることがありうる。
例えば良好な親子関係である。

つまり、仲の良い親子関係は
自死を防ぐ場合もあるが
自死を後押ししてしまう場合もある。

どちらかというと自死を後押しすることが多い
と感じる。

逆に、仲の悪い人間の顔(例えば姑)を思い出して
自分が死んだらあいつを喜ばせるということに気が付き、
自死を思いとどまったという例もある。
本当に直前、ギリギリのところで命拾いをした実例である。

なぜ、仲の良い家族の存在が
自死を後押ししてしまうか。

おさらいとして自死のメカニズムを確認する。

主として対人関係の危険となる事情を認識
  ↓
危険と感じ、不安が募る
  ↓
不安を解消したいという要求が生まれる
  ↓
不安解消するための行動を行う
  ↓
不安解消をする行動が見つからない
  → 絶望感、孤立感
  ↓
不安解消要求の著しい肥大化
  ↓
不安さえ解消できれば死んでも良い
  ↓
死ぬことが「希望」となる
  ↓
自分は死ななければならない

という過程をたどる。

不安を解消する行動を探すとき
家族に相談ができれば
確かに自死を実行することが少なくなるだろう。

しかし、追い込まれた人は
家族に相談することができない。

原因はいくつもある。

1 家族に心配をかけたくない
2 追いつめられたものの心理としての孤立感が
  他者へ頼る発想を奪う
  (追いつめられると、自ら孤立していってしまう。)
3 同様に相談しても無駄だという悲観的な思考を産む
4 自分受けている辱めを家族に伝えることが
  家族に申し訳がない。
  自分が情けない人間であることが
  家族に申し訳ない。
5 家族から励まされることを想像してしまうと
  とても耐えられない
6 家族に、これまで通り普通に接してもらえなくなる

もともとそれほど仲の良くない家族関係であれば、
「自分が今苦しんでいるのはお前のせいだ」
と責任転嫁することができる。
自罰意識をそらすことができることは大きい。

仲の良い家族の場合
こういう責任転嫁の言葉を吐くことによって
家族を傷つけることを恐れてしまう。
もともとそういう発想にはならない。

家族が大切だからこそ
自分が苦しんでいることが重荷になって行く。


その他にも苦しんでいることを
家族が気が付かない理由はいっぱいある
長時間労働や単身赴任で
そもそも家族と顔を会わせない。

家族の元にいる時は安心しているので、
不安な様子を見せない。
不安な様子があっても務めて家族の前では
平気なそぶりをしたり、笑い顔を作ったりする。

これはとてつもなく精神的エネルギーが必要で
家族の前でごまかすと
その後の大半は寝て過ごしたくなるくらい
消耗しきっているとのことだ。

当然、きちんと考えることも
正当に評価することもできなくなり、
こらえる力も無くなり
自死が促進されていく要因になる。

しかし、まだ訳知り顔でいう人が出てくるだろう

「家族の仲が良いならば
学校や職場で嫌なことがあっても
家に逃げ込めばよいのだから
転校や退職をすればよいのだから
死のうとはしないのではないか」

これを説明するのが対人関係学の理論だが、
結論だけを述べるにとどめる。

現代の人間はいくつかの集団に所属して生活している
家族、学校、職場、職場の中でも派閥、その他
それらの集団は、相対的なものであって
本来は離脱することが可能な人間関係である。
しかし、人間の脳の理解力は
それを正しく認識することができず、
一つの相対的な集団からの離脱の危険があると
本能的に離脱を回避しようという
要求(意思)を持ってしまい、
回避のための行動を探してしまう。
こういう動物なのだということである。

簡単に退学すればいい、転校すればよいというけれど
実際にそれを検討したり決意するという精神活動は
人間が最も苦手としているのである。
追い込まれれば追い込まれるほどしがみついてしまう。
人間はそういう生き物であるようだ。

もう一言いうと、
認知心理学の定説だが、
人間の心はおよそ200万年前にできた。
この時の人間は生まれてから死ぬまで
一つの群れで生活していた。

人間の心はこの時からそれほど進化していないのに
環境が複数の群れで生活するよう劇的に変化してしまった。
人間の心、脳と環境のミスマッチが起きているので苦しい
ということになる。

このように自死予防は
実はとても難しい。
合理的に考えれば自死は防げるのだが、
合理的に考えることができない状況に追い込まれるから
自死が起きてしまう。

この理解をしないで、追い込まれている人に対して、
家族の優しい圧力
良好な人間関係力を浴びせて
自我消耗させてしまうことは
文字通り致命的な誤りになる。


自分にとって精神的に負担な出来事が起きても
深く考えることなくそれを誰かのせいにするということは
とにかくやめた方がよい。

自死者の遺書を見ると
自死者がいかに家族を大切に考えていたかがよくわかる
そして家族の具体的な状況を
事細かに知っていることが分かる。
子どもの学校行事や部活動の大会など
事細かく心配している。

しかし合理的な思考ができない状態になっているので、
「だから生き抜こう」
という結論にはならない。

自死遺族の大部分は良好な人間関係であった家族を自死で亡くしている。
自死をなかったことにしたいという不可能を願っている
自死を受け止めることのできない第三者から攻撃を受ければ
絶対的な孤立が訪れてしまう。
考えもなく遺族に責任を求める言動は
極めて危険なことであることは
落ち着いて考えてみれば当たり前のことだと
理解していただけることだと思われる。



文中で自死のサインを探すことでは
自死を防ぐことはできないと述べています。
ではどうするかということですが、
自死が、ほぼ無意識の領域で決意されることからも、
本人の苦しさを基準に考えてはならないということを
提案しているところです。

ややメンタルの弱い人を基準に、
その人の置かれている状況を客観的に判断し、
不可能を強いられている
孤立感が起きる可能性のある状態だ
と第三者が判断したら、
その環境からその人を離脱させる
環境を改善するか、集団から文字通り脱退させる
そして、安全な集団に一時避難をさせる
安全な集団もどのようにその人に接するか
きっちりレクチャーされた集団で、
外部の人間が随時修正ができる状態
にして、回復を待つ
大雑把に言えばそういう政策に重点を置くべきだ
と考えています。

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「死にたい」という人にどのように働きかけるか 死にたい「くらい」辛い事情の探し方 [自死(自殺)・不明死、葛藤]


前回、死にたいという人にがんばれと言ってはいけない
ということを書いたところ
「ではどう言えばいいのだ」というお問い合わせが来ました。

なるほどごもっともです。
めったに、他人に死にたいとは言わないものですが、
もし言われたらどうしよう
励ましてはいけないしとなれば、
いったいどうすればよいのか。
黙っているわけにもいかないし
と思われるでしょう。

わからない時は、黙って聞くということも正解です。
理解しようとする気持ちを示すことになるからです。

寄り添い、共感するということが第一なのですが、
それは相手の苦しみを部分的にであれ引き受けることになるので、
大変苦しい思いをすることになります。
心中になることがあるのは絶望を共有してしまうからです。
無理をすることは避けるべきです。
「カウンセラーやなにがしかの専門家につなぐ」
という選択肢も「あり」だと思います。

実際、あなたに死にたいと言っている人は
助けてほしいという気持を無自覚ですが持っているようです。
でも、あなたが自分を助けてほしいということではなく、
「誰でもいいから助けてほしい」ということなので、
誰かにつなぐということは間違っているわけではありません。

しかし、そのお話を、あなたが
聴かなければならない立場である場合があるでしょう。

何をどう聞くかということから始めて
聞いてどうするかということを
少しお話してみます。

まず、死にたいと言うお話を聞く場合
時間を用意することが大切です。
目安として2時間くらいを確保しましょう。
確保できない場合は、
予めリミットを告げて、改めていつお話を聞く
ということをはっきり示しましょう。

話はとりとめがなくなることがほとんどです。
プロは、とにかく話を聞き続けるのですが、
私は、時系列に沿ってお話しして頂くようお願いします。
そして、聞きながら時系列表を作ります。

例えば離婚が絡むのであれば、
結婚した日、出会いの方法を
まず聞いてお話して頂きます。

職場の辛いことであれば、
いつ入社をしましたかということから始めます。

時系列は、細かい日付が大切なのではなく
エピソードの前後関係が大切です。
前後関係さえ間違えなければ
「いつ頃」ということが分かればよいです。
もちろん、話していくうちに
前後関係が入れ替わることもありますが、
それは良いことの場合が多いです。

相談者の頭の中が整理されてきた証拠です。
時系列は最終的に確認できれば良いです。

さて、お話をしてもらうということも一つの目的ですが、
こちらとしては、死にたいくらい辛い事情がどこにあるか
ということを知りたいわけです。

おさらいですが死にたい気持ちは
以下のような流れで出てくるようです。

対人関係上の問題
  ↓
危険の認識=不安
  ↓
不安解決要求
  ↓
不安解決行動

ということがノーマルな課題克服法ですが
不安解決方法が見つからない場合
不安解決要求が大きくなってしまいます。
あまりにも大きくなりすぎて
不安解決がなされればそれがすべてだという意識になり
究極的には死んで不安を感じなくしたい
という本末転倒な結論を抱いてしまうのが自死の原理です。

こちらとしては
結論としては死ぬことを否定したいわけです。

聞く側は、早くこの結論、「死んではいけない」
という結論に飛びつきたいものです。

このため、やみくもに、
相手の発言や考えを否定したくなります
ここに最大の注意を払う必要があります。

相手は思考能力にはそれほど問題がないことが多いです。
考えることができないわけではない。
しかし、本末転倒の考えに陥るのは、
十分な考えなしに、ある前提を作って
思考を出発させてしまうところにあります。

どこに問題があるのかは実はなかなか難しいものです。

それにもかかわらずやみくもに否定してしまうと
話している方は
「自分の話を聞くつもりがない」と感じたり、
「自分を馬鹿にしている」、「自分を否定している」
と感じてしまうわけです。

話を聞くほうの自分は
死にたいという人の結論を否定したいから
つい、やみくもに否定してしまう傾向にあるということを
しっかり自覚して、自分を制御し、
じっくり話を聞くことは
意識しなければできないことかもしれません。

また話すほうは、
細部にも手抜きができませんので
回りくどくなったり
遠回りすることがあります。
覚悟して付き合う必要があります。

しかし、遠回りのような気がする場合は
ある程度聞いたら
時系列に戻してもよいでしょう。
その時は、「先ほどの話ですが」
という質問をすることが有効でした。

さて聞くポイントは
当初の問題点、不安を感じた事情と
どうしてそれが解決不能なのか
その人がどのように孤立しているか
その人は何を大事にしているのか(こだわっているのか)
というところにあります。

・解決不能のポイント

・孤立

・本人のこだわり

この3要素を考えることになります。

「解決不能」とは
その人にとって解決不能であるということです。
自分なら解決できるということより、
なるほどその人は解決できないだろうな
と思えればよいわけです。

「孤立」は、
天涯孤独である必要はありません
特定の集団で孤立していれば足ります。
また、本人の言葉から
本人は、実は孤立していなくて
援助を申し出る人がいることに気が付くことが多いです。
本人が孤立を感じている
ということが分かれば孤立していると評価するべきです。

最後の「こだわり」なのですが、
このこだわりは
一般の人ならば大事にしないこだわりもあるのですが、
一般的にはそれを大事にすることが非難されないこともあります。

仕事を一生懸命行うとか
子どもを大事にするとか
通常の程度であればこだわることを肯定できることもあります。
そうです、程度の問題に着目することになります。

これらの要素が存在すれば
「死にたいくらい辛い」となるわけです。

その3要素の存在が理解できれば
「なるほどそれはつらいよね」
「あなたの状況なら誰だってつらいだろうね」
という、辛さについての共感を示すことになります。

ここまでが一区切りということになります。

繰り返しますが、
貴方が専門家でなければ、
専門家につなぐことをお勧めします。
できれば、専門家のところに
一緒に行ってあげるということが望ましいとは思います。

では解決編です。
あくまでも、専門家向けのお話になります。

ここまでお話を聞ければ
辛さのもとになった事情が理解できていると思います。

もし、何がもとになっているのわからず、
病的に全般的に不安になっている場合は
精神疾患にり患してしまっている場合があります。
これはあまり多くありませんが、確かにそういう場合があります。

職場のことが原因で不安になっているようなことを言っていても
心配の仕方が支離滅裂で、
例えば、
自分が会計を担当していて、
営業担当の上司からマスキングテープ200円を買った日付を
実際よりちょっと後で帳簿につけてほしいと言われ
それをしたとします。
確かに不正ですし、会社から処分されることを心配するのは良いのですが、
「東京地検特捜部が捜査にくる」
「自分は刑務所から出られなくなる」
などということを本気で心配して
気が付けば口にしているということは
異常だと考える選択肢を持つべきです。
これは治療適応だと思います。
そして急ぐべきです。

できれば、カウンセリングができる精神科医がベストでしょう。
2時間くらい話を聞いてくれる精神科医です。

しかし、何かわからないが
「顔の左側から危険が来る」
ということをしきりに述べるという人がいて話を聞いたら、
会社で突然、頭がおかしくなった人間がいて、
前触なく、突然顔を殴られたという出来事があったというのです。
その頭がおかしくなった同僚が左の席に座っていた
というように、なにがしかの理由がある場合もあるので、
記憶のメカニズムを説明したら
当の本人が納得したということもありました。
統合失調症と診断されて
入院して強い薬を処方され
強い副作用が出たことによって
障碍者だと認定されていた人でした。

次に、困った事情がそれなりに理解できる場合、
そうして困った事情とそれによって3要素が結び付けられる場合です。

おおもとの理由は、大体一つです。
一つの事情に端を発していることが多いです。

(但し、3要素に至る事情は複数あります。)

例えば、学校のいじめとか
上司の横暴とかパワハラとか
夫婦の問題とか
子どもの問題とか、
自分の体調ということもあるでしょう。
(不治の病にり患した。大きな手術を控えているなど)

但し、おおもとが修正要素となるとは限りません。
おおもとの人間関係をそのままにして
考え方を修正するということ
こだわりを修正する場合もありうるわけです。

「死にたい」という人の何が間違っていることが多いかというと

解決不能だと思うこと
孤立していると感じること
こだわり続けること

この3点です。

こだわりがあるから解決しない
こだわりがあるから孤立する
ということもあります。

まず、それぞれの専門家が判断するべきなのですが
本当に解決不能なのかということを吟味する必要があるでしょう。

そのためにはなぜ解決不能なのかを考える必要があります。

一人では解決できない。援助が必要だ。
自分本位のものの見方をしている
本来解決しなくて良いことだ
解決の方向が硬直している
解決とするレベルが高すぎる

追い詰められた人の意思決定がゆがんでいるというのは
分析的な思考によって決定される意思ではなく
直感で導かれる意思決定パターンの領域のようです。

もともと人間の意思決定は2種類あり
分析的思考をし、ち密にメリットデメリットを評価したり、
派生問題を考えたりして決める場合と
直感で決める場合とあるようです。

驚くほど多くのことを直感で決めているようです。
そのことを特段意識さえしないようです。
どちらの足から歩き出すかというようなことから始まって、
誰が味方で信頼できて
誰が敵で警戒したほうが良いとか
自分の進路や思想選択すら
結局は直感で決めていることが多いようです。

経済活動ですら分析的思考では決めておらず
不合理な意思決定過程を経ることが多いということを発見したことを理由に
最近のノーベル経済学賞を心理学者が受賞しているくらいです。

これには合理性があって
あらゆることが分析的思考によらなければならないとなると
行動が遅れてしまうということや
脳が消耗してしまうというデメリットがあるので
直感的に意思決定をして
エネルギーを節約しているらしいのです。
そうして、直感的判断で
たいていはうまくいくわけです。

どうやら、「死にたい」と言える人は
分析的な思考のゆがみよりも
このような直観的な意思決定に
歪みが強く表れているようです。

分析的思考ができるものだから
自分は頭はしっかりしていると思うわけです。
また、直感的思考は無意識に行われていることが多いので、
自分の「無意識の思考」のゆがみに気が付かないということも
ごく当たり前のことだということになります。

孤立にしても
「自分には味方がいない」という敵味方の判断は
まさに直感的に行うもののようで、
その人が、他人からいろいろと働きかけられていることを認識していながら
味方であると判断できないだけのことが実に多くあります。

「ここまでいかないと味方だと思えない」
という頑固な判断は、こうして生まれるようです。
また、追い詰められれば悲観的なものの見方にもなっているわけです。
例えば、
官僚や財界の地位のある人が
一度刑事処分を受けてしまうと
すべての見方がなくなり自分は社会復帰できないと
自死リスクが高まりますが、
そこまで復帰のハードルを上げる必要がない
という考えもありうるわけです。

一度過ちを犯した人は
その人でなければできない社会貢献がたくさんありますし、
どん底から這い上がるところを
家族に見せてあげるということができるわけです。

また、危険な職場から離脱して
新たな職場を求めるということも
同様に、検討事項になりにくい
ということもあり得ます。

解決のためには現状維持の要求を捨てなければならない場合が多いようです。

これに対しては、
まず、一時的にダウンサイジングをする
ビバークするという考え方を提案することが有効です。

今後レベルを落とすということは衝撃ですが、
少しずつ鳴らしていく一方で
将来に向けての再帰以上の目標を持つ
というアイデアは
第三者が提案しなければ自然には生まれないでしょう。

こだわりを捨て去る必要はなく
形を変える、一事留保する
という提案をするわけです。

人間関係について
最近、研鑽を受けもせず、深く考えもせず
まるっきり共感もしない人が介入して
かえって人を追い込む現象が多発しています。

確かに、その集団にいることが
危険性が強く、デメリットしかない
という場合は集団からの離脱が最終手段なのですが、

追い込まれた人の思考は
死んで楽になりたいという極端な場合でなくても
夫婦の困難な問題から逃げるために離婚を選択したり、
退職したり、退学したりということが行われます。
これはうつ病の症状として
従来から言われていることですが、
「不安解消要求が強くなりすぎた結果だ」と
統一した説明が可能となったわけです。

さて、
このようなゆがんだ不安解消要求を追認して
安易に離婚させることによって、
離婚をした後で、
「こんなはずではなかった。今とても苦しい。
 しかし、そのことを離婚を進めた機関に言うと
 離婚を選択したのはあなたですよ。
 こちらは責任がありません。」
といわれるという人権相談が多く寄せられています。

夫婦問題の多くは
適切な介入によって
関係が改善することが多くあります。

(問題は適切な介入をする人が少なすぎる
不適切な介入をする機関が多すぎるということにあるのですが)

安易に不安解消要求を追認することは
結局自死を追認することになるのと程度の違いしかない
と厳しく批判されなければなりません。
つまり問題の先送りです。

さらに困ったことは、
対人関係の悩みの中で
不安解消要求を追認することは
その人のパートナーを攻撃することになります。

例えば
妻が漠然とした不安がある
マニュアルで夫の精神的虐待がないかどうかしつこく尋ねる
市井の夫婦であれば必ずあるような夫婦喧嘩をもって
それは精神的虐待だ、モラルハラスメントだと決めつける
貴方は殺される危険があるから子供を連れて逃げろ
というパターンがあるとします。

子どもを連れて逃げられた夫は
呆然として、わけがわからないうちに
行政や警察からも目をつけられて
社会的に孤立してしまう
裁判所も自分の味方をしてくれない
絶対的な孤立と解決不能感が強力に置きますから
自死リスクがかなり増大していきます。

自死に至らなくても
追い込まれたことによる認知のゆがみが強くなり、
敵と味方の区別がつかなくなり
味方を攻撃する現象が起きやすくなるわけです。

どうしても困った人を見ると味方になってあげたくて
その人さえ守ることができれば
その他の人が傷つくことに気が回らなくなったり、
それほど罪のない人を敵視したりしてしまいます。

もともとの奥さんの不安を解消できないばかりか
新たに夫の自死リスクを高めるという
深刻な弊害を生んでいます。

死にたいという人に対する支援は
その人そのものを支援するだけでなく、
その人が所属する集団を支援、修正していくことだと
考えを改める必要が高いと考えています。

個人に対する治療ではないのです。

そうして、一番のその人の所属する集団は家族です。

家族の在り方に問題があるならば
修正を提案することが
真面目な支援だということになります。

私は弁護士ですが、
弁護士は人間の対立の中で
紛争を解決する専門家のはずです。

人間関係の修正という視点を
比較的持ちやすい職業のはずです。

また、今までお話ししてきたように
精神医学の観点、カウンセリングの観点
問題解決に当たってはケースワークの知識など
いろいろな専門家が集団的討論をし、
メリットデメリットを明らかにしたうえで
本人に意思決定をしてもらう

これが死にたいという人に対する
本当の支援なのだと思うのです。

私が生きているうちに
どこまで近づくのか
あまり楽観的にはなれないところです。


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