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裁判の殺意と日常生活の殺意、殺そうと思わなくても殺意は成立する。 [刑事事件]

このブログ、あまり刑事事件が多くなく、
ははあ、この弁護士はあまり刑事事件をやらないのかな
と思っている方もいらっしゃるかもしれないのですが、
(そこまで、体系的に読まれる方はいないでしょうが)

実は、刑事弁護に関する本を出版したいと思っていて、
ネタばれになるといけないというか、
本で読んでほしいというスケベ心があったので、
あまり書かなかったということがあります。

現役副会長が書いた本ということで、
多少商品価値があったと思うのですが、
任期もあと4日となり、
出版が絶望的と判断し
少しずつ蔵出しすることにしました。

っていうか、
このブログ自体、
その原稿の延長みたいなもので始めたのですが。

では本題

裁判で、無罪を主張する場合、
殺人事件で、殺意を否定するということが多いようです。

典型的な場面は、
ナイフなどで腹を刺した場合。

<被告人の主張>
確かに、腹を立てて、かあっとなって刺した。
相手を傷つけようとしたことは否定しない。
しかし、
相手を殺そうとまでは思っていない。
相手を亡き者にしようとはしていない。
(そこまで考えて刺してはいない。
せいぜい苦しめてやろうという気持ちだった。)

<検察官の主張>
腹を刺すということはわかってやっている。
腹を刺すということは、
当然、その臓器もナイフで傷つける
血管も傷つける
出血多量や、敗血症などで
死亡する危険の高い行為である。
このことをわかってやっているのだから、
殺意はある。

日常生活では、被告人の主張のとおりだと思います。
特に、近親者や夫婦間での殺人事件で、
殺意といわれるとそれは違うということは多いでしょう。
ところが、刑法で言う殺意、裁判で言う殺意は、
検察官の主張が認められることになります。

刺した凶器や、刺した深さ、場所にもよりますが、
腹を刺せば、殺意が否定されるのは難しいということになります。

刑法で言う殺意、故意は、
自分の行為がどのような危険があるか
わかっているかどうかということになります。

相手を傷つけることが無い暴力の場合は、
暴行の故意があるということになり、

傷つけることはわかっているが、
死亡するほどでは無い暴力をした場合は、
障害の故意ということになり、

自分が人を殺す危険のある行為をしているとわかっていたら、
殺人の故意あり、殺意ありということになるわけです。

日常用語と違うといった方がわかりやすいと思います。

相手を死に至らしめようとする意欲の有無ではない
と説明されています。

考え方としては、
かっとして、首を刺した、胸を刺したとしても、
かっとしてやったのだから、
死亡までは考えなかった。
だから、殺意は無かった。
あるいは、かっとして高層マンションの屋上から突き飛ばした、
かっとしてやったのだから死亡まで考えなかった
という言い訳が利くのは、
問題だと考えるということになり、
結局、自分がどのような危険のある行為をしたかの
認識、認容があるか、わかってやっているかで、
殺意の有無を判断せざるを得ない
ということなのでしょう。

さて、
弁護士は、この殺意の意味をわかっているのですが、
自分の被告人が、日常生活の意味で、
殺そうと思っていなかったのに、殺人とされてしまった
と訴えられた場合どうするか。

被告人と一緒になって殺意を否定するのか、
それは認められないと相手にしないのか。

どちらが弁護人として正しいか選べと言われれば、
被告人と一緒になって殺意を否定することの方が正しい
というべきです。

相手にしないというのでは弁護ではないです。

本当は、裁判で言うところの殺意を
理解してもらうことが大事ですが、
なかなか理解されないことも多いわけです。

敢えて殺意を否認することで、
殺意は否定されなくとも、
情状として、殺す意欲のある殺意と違う
とアピールするべきだということになりそうです。


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