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14歳未満の子供が処罰されない理由 想像力の無い作家に対する評価 [刑事事件]

14歳未満だから刑罰の対象とはならない
だから人を殺した

14歳未満の少年を罰しないとした定めた刑法は
犯罪を誘引する。

凶悪な犯罪を犯した者が、
何くわぬ顔をして社会に復帰して
何事も無く、生活を続けていくことが許せない。

子供と言っても知能が高く狡猾で、
大人と区別する必要はない。

刑法を改正して年齢を引き下げるべきだ。

なんてことが小説に書いてあると、
結構好きな作品のある作家が書いていると特に、
がっかりするわけです。

なぜ、犯罪を行った方に対して興味を持たないのか、
そんな通り一遍の思考で、どうして作家になれるのか、
不思議に思えてくるわけです。

まあいいや。

先ず、なぜ、14歳未満が罰せられないのか。
というのは、なぜ罰せられるのか、刑事責任とは何かですが、
一般的に責任能力とは、以下のように考えられています。

自分がしていること、これからしようとしていることが、
刑法等に定められている犯罪行為、
例えば殺人、窃盗、傷害等
をしようとしていることを自覚した場合、
やってはいけないことだという気持ちになって、
思いとどまることを期待される。
ところが、この期待に反してあえて実行したところに、
その人に対する非難のよりどころがあるというのです。

だから、自分がやっていることを自覚しても、
思いとどまることを期待できないような場合、
(重度の精神的疾病があるとか)
非難することができないので、刑罰の対象とできないわけです。

逆に言うと、このような非難のできない程度に
期待可能性が無いと言わなければならないので、
ちょっと酒飲んで、気が大きくなっていた程度では、
責任能力なしとは言えないわけです。

では、子供の場合どうか。
幼稚園児が、たまたま手にした包丁を
人に向かって投げてしまった場合、
警察が幼稚園児を逮捕して、勾留して、
裁判を行って刑務所にということが不適当であることは、
感覚的にも理解できるところだと思います。
(最も傷ついた方の親なら許せませんが)

未成年と言っても大学生あたりが
盗みをして、刑事責任なしというのは、
逆におかしいことになるのでしょう。

問題は、線を引くか、線を引くとしたらどこで引くか
ということで、
これは国家政策ということになります。

線をひかなければ、
境界線近くの年齢の事件は、
いちいち責任能力の有無を調べなければなりません。
こんなものフィクションの要素が入るわけですから、
厳密な話ではなく、厳密に考えない利点もあるわけです。

それをあえて厳密に判断すると、時間がかかってしまいます。
事件はどんどん滞留して、大変なことになるでしょう。
もちろん、その地域によって責任能力が違うなんてことも起きだして、
収拾がつかないということになります。
民事事件に結構こういう判例があり、逆転現象なども指摘されています。

そこで、線を引く、
刑法は1907年という100年以上前にできとります。
当時、13歳と14歳の間に線を引いたわけです。

なぜそこに線を引いたか。
あまり追及しても意味がありません。
フィクションが入っているわけですから。

しかし、当時の子供は、今よりもずうっと大人びている気がします。
今の大人は、当時より子供じみているというか。
(まあ、見てきたわけではありませんが)
今、責任能力の年齢を引き下げるということは、
人間の成長度合いとは関係の無い議論ということになり、
それだけで的外れであることは、お分かりだと思います。

要するに、国民の処罰感情が昂じているだけなのです。
子供のやっていることを大人と同じ扱いにしないという
国家的な意識、寛容性が、
弱まったという表現も間違いではないでしょう。

何食わぬ顔で社会復帰するとか、
子供はずる賢く子供を演じているのに
どうして処罰できないのかということです。

少年事件をやっていると、誰しも思うのでしょうが、
実際に少年に反省の気持ちを持ってもらい、
職場などを見つけてきても、
結局少年院へ行けとの審判が出ることも多いのです。
やったこととの関係では、やむを得ないかなとあとで思うのですが、
その時は、正直がっかりします。

少年は反省すると、勉強がしたくなり、学校に行きたくなります。
しかし、施設収容となり、何年かブランクがあると、
実際上は進学は難しくなります。
現在の世の中で、これは大きなハンディキャップになります。
仕事を世話してもらいたいという人は、結構いらっしゃいますが、
弁護士は無力です。
世間の見る目、近所の見る目は厳しいです。
見ず知らずの遠く離れた人たちが、
その少年の氏名や顔写真を知るということに
あまり合理的な意味は見出せません。

親が引越しをしたとしても、
いつか知られてしまうという気持ちから
逃れることはなかなか難しいということは、
作家でなくても簡単に想像できると思うのですがねえ。

こうなってしまうと苦しいでしょう。

捕まる前ならいいと思うのです。
捕まってしまえば、逃亡をやめることができるのですから。

捕まった後なら、
知られてしまうという心配に終わりはないのです。

まして、親を殺したというのは、
今後、自分が親になることがあれば、
無防備な赤ん坊が成長して行くところを目の当たりに見たら、
自分のした非道がはっきり理解できるわけですから、
その時、新たな苦しみが始まるわけです。

少しずる賢い少年なら、
終わらない苦しみこそ、
ある程度わかるわけです。
やりません。
まじめにコツコツ学校へ行きます。

刑法で14歳未満は罰せられないからといって
犯罪をしてみようなんて子供は、
全く賢くありません。
精神的にも不健康です。

もうひとつ言ってしまえば、
それは、大人が作ったいいわけだろうということです。
子供のオリジナルないいわけとは思いにくいのです。
犯罪を行ったことには理由があります。
その理由を大人が見つけられなかったものと思われます。

被害者が感情的になることは当然でしょう。
私もどちらかといえば処罰感情は強い方です。

しかし、第三者、国家が処罰感情が強くなっているということは、
警戒しなければならないと思うのです。
アディクションとして精神科の治療対象となるサディズムの
国家的現象ではないかと感じることがあるのです。

誰かが意図的に、怒りを作り出し、
怒りの矛先を誘導している。
その意図に乗って、便宜をはかられた作品が
この世に出て、宣伝費用をかけられてもらっているというのは、
想像力がたくましすぎるでしょうか。

作家になろうかしらん。



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